HACK_橘玲        1  「たっちやん、グリーンーデイ知つてる? アメリ カのバングーロックバンド」  沈没男が、いつものようになれなれしい口調で話 しかけてきた。あたりはマリファナの甘い匂いが 漂っている。  ジョイント用の大麻を指でほぐし、茎や種を取り 除きながら、「こんな伝説があるんだよ」と話をつ づけた。「ボーカルのビリーとベースのマイクはカ リフォルニアの小学校のときからのダチで、二人と もメタルやパンクに夢中になって、十七歳のときレ コード会社にデモテープを持ち込んだんだ。そした ら、二〇〇マイル離れた田舎の小屋でオーディショ ンするから、デビューしたければそこに来いってい われたんだって。二〇〇マイルつて三二〇キロだろ。 東京から名古屋の距離だぜ。ぜったい嫌がらせなん だけど、その話を信じて二人はギターをもって小屋 に行ったんだ」  テーブルに置いたペーパーの上に大麻を均等に広 げ、器用に巻いてジョイントをつくった。古いジッ ポーのライターで火をつけると、深々と吸い込んで 煙を空に吐き出した。  「そしたら小屋には鍵がかかってて、おまけに雨も 降っていた。それでもビリーとマイクは鍵をぶち壊 してなかに入り、音が出せるように近所から発電機 を盗んできた。照明がないから、そのあたりにいる ガキを匸一人集めて、ロウソクをもたせて待ってい た。そこにレコード会社の社長が現われて、演奏を 気に入って契約できたんだって」  ジョイントを樹生に差し出しながら、「これって ほんとだと思う?」と訊いた。四十代後半で、長く 伸ばした髪をバンダナでまとめ、中途半端な口髭を 生やしている。東南アジアの日本人によく見かける が、その目的は中国人や韓国人に間違えられないよ うにすることだ。  九月に入ってもバンコクは雨季で、一日中重い雲 が垂れ込め、夕方にははげしいスコールが来た。雨 は一時間ほどで上がったが湿度は高く、すこし動く だけで汗が噴き出してくる。それでも、カオサンの 外れにあるビルの屋上につくられたテラスにはわず かに風が感じられた。  タイでは二〇二二年に大麻が実質的に解禁され、 バンコクには緑の大麻の葉をあしらった看板を掲げ た店が雨後の筍のように現われた。公共の場での喫 煙は禁止されているので、カフェを併設していると ころもある。このビルの一階にある大麻ショップは、 ルーフトップのカフェを売りにしていた。とはいえ、 ボロいビルの屋上に手すりをつけ、安物のテーブル とパイプ椅子を適当に並べただけだが。  奥のテーブルでは、ストーンになった白人の男が 半目を開けて灰色の空をにらんでいた。隣のビルに 入っているタイ料理屋の厨房から、パクチーとココ ナッツ油の混じった匂いが流れてくる。  樹生は手元の大麻を見せて、「自分のがあるから」 と断った。それから、「そのバンド、上手いんです か?」と訊いた。  「たっちやん、マジで知らないの?」沈没男がわざ とらしく驚いた声をあげた。「九〇年代にものすご い人気があったバンドだよ。アメリカン・パンクつ ていわれてるけど、ヤンキーとかが好きな不良ポッ プスだね。セックスーピストルズがパンクだと思っ てる人間からしたら笑っちやうけど、それでも才能 があることは間違いない」  「だったらこういうのはどうですか?」しばらく考 えて、樹生はこたえた。「デモを聴いたレコード会 社の社長はすぐに契約を決めたけど、売り出すには 伝説が必要だと思った」  「じやあ、ぜんぶウソつてこと?」  「そうともいえません」といった。「相手はデ ビューしたいと必死な高校生で、そのためならどん なことだってするでしよ。そこで、あらかじめオー ディジョンに使う小屋を調べておいて、そこに来る ように誘った。そうじゃなければ、忙しい社長がわ ざわざ三〇〇キロ以上も離れた田舎まで行くわけな いですよ。それに、これなら二人はだまされただけ だから、あとから真相がわかっても、炎上騒動にな るどころか同情されて、かえって人気が上がるかも しれない」  「なるほどねえ」沈没男が感心したようにいった。 「たっちゃん、推理小説の探偵みたいだね」  樹生はしばらくスマホをいじっていたが、「それ 都市伝説じゃないんですか?」と、英語版のウィキ ペディアを日本語に翻訳した画面を見せた。「その 話、日本語のサイトにはたしかに載ってますけど、 英語のサイトにはどこにも出てません」  沈没男はスマホの画面にちらっと目をやると、 「えっ、そうなんだ」と興味なさそうにいった。  大声で話しながら、白人の若者四人組が入ってき た。テーブルにそれぞれが買った大麻を広げ、あれ これ品評しあっている。ストーンになった男は、ま だ身動きひとつしない。  樹生はスマホで時間を確かめてから、自分のジョ イントを巻きはじめた。THCよりもCBDが多め のインディカを主体としたハイブリッドで、ハイに なりたいわけではないときにちょうどいい。  「ルフィが逮捕されてから、カンボジアも大変なん だって」沈没男が唐突に話を変えた。「炭治郎から 相談されてるんだ」  「炭治郎?」  「カンボジアのグループのトップだよ。あいつらみ んな、自分が好きなマンガやアニメのギャラの名前 をつけてるんだ」  「ルフィ」を名乗る男がフィリピンの人管施設の収 容所から指示を出し、闇バイトを使って高齢者の住 む一戸建てを襲わせたとして、日本に強制送還され た。ルフィは仲間だちとタイを拠点に特殊詐欺を行 なっていたが、取り締まりがきびしくなってフィリ ピンに移り、匸一億円で購大した廃ホテルに六〇人 のかけ子を住み込ませて特殊詐欺を行なっていたと される。  フィリピン当局にホテルが摘発されると、日本へ の強制送還を免れるために数億円の賄賂を使って、 自分たちが犯人となる刑事事件をでっちあげて収容 所に大っだ。収容所ではエアコン付きの「VIP ルーム」と呼ばれる個室で生活し、和牛を取り寄せ て焼肉パーティを開いていたという。釈放に必要な 賄賂やスペインに逃走する資金集めのために、手っ 取り早く大金を稼ごうとして強盗の指示を出しはじ めたらしい。  同じ頃にカンボジアのビーチリゾート、シアヌー クヴィルに移ったグループもいたが、リゾートホテ ルに半ば監禁されていた日本人が大使館に助けを求 め、一九人が逮捕された。  「先月、日本で稼いだカネをカンボジアに持ち込も うとしたら、大管で見つかって没収されたんだって、 三〇〇〇万円。おまけに運び屋は拘束されて日本に 強制送還。どんどん商売がやりにくくなってるん だ」  「ふうん、そうなんですね」沈没男のライターで ジョイントに火をつけた。  「それで、炭治郎からビットコインを使ったマネロ ンの方法はないのかって訊かれてさ」沈没男は肺に 溜めた煙を吐き出した。「たっちやん、そういうの 詳しいだろ。うまくいったらコンサル料、はずむっ て」  煙を吸い込むとしばらく目を閉じて、樹生はその まま息を止めた。ゆっくりと煙を吐くと、「銀行囗 座と、クリプトの交換所か取引所の口座がいりま す」と説明した。交換所は業者がクリプトを買い 取ったり、販売したりする。取引所は公開株式の証 券取引所と同じで、投資家同上のクリプトの売買を マッチングさせる。  「日本国内の業者に口座をつくるときは本人確認が 必要で、二〇二〇年からは、顧客の取引内容や損益 を税務署に報告することが義務づけられました。海 外の業者のなかにはコンプラの甘いところもあるけ ど、国内の銀行から多額の海外送金をしようとする とマネロン規制で引っかかります」  「めんどくさそうだな」沈没男がいった。「なんか うまいやり方はないの」  「そうですねえ」樹生はわざとらしく間を置いた。 「たとえばビットコインをもってて、それを日本で 現金にしたい奴がいるとするでしよ。でも交換所で 換金して銀行に送ると、その取引が所轄の税務署に 報告されて、利益に対して税金がかかる。だったら、 そいつに現金を渡して、代わりにビットコインを 売ってもらえばいい」  「よくわからないな。もうちょっとわかりやすく説 明してくれない?」  樹生はズボンの尻ポケットから手帳を取り出すと、 胸ポケットに挿していたボールペンを使って簡単な 図を描いた。  「太郎がリンゴをもってて、花子はミカンをもって る。でも、太郎はぽんとはミカンが食べたくて、花 子はリンゴがほしい。いまの話は、ようするにこれ と同じです」  「なるほど。太郎が炭治郎で、リンゴが詐欺で稼い だ現金ってわけね。だとすれば、ビットコインはミ カンで、あとは花子を見つければいいってわけか」  男の子と女の子の下手なイラストを見ながら、沈 没男が軽薄に笑った。「この取引でいくら儲かる の?」  「いまの日本の税法だとクリプトの利益は雑所得扱 いで、交換所を使うと花子は最大で五五パーセント の税金を払わなきやいけない。それを考えれば、二 割の手数料だって喜んで払う奴はいるんじやないで すか」  匸億で二〇〇〇万の儲けか。たっちやんと俺で1 000万ずつだね」呆けたような笑いを浮かべてい るが、目はぎらぎらと輝いている。「それで、花子 のあてはあるの?」  「そんなのわかりませんよ」樹生はいった。「探し てみないと」  「じやあ、さっそく始めてよ。俺は炭治郎に話しと くからさ」  そういって、沈没男はこちらに拳を向けた。樹生 か自分の拳を合わせると、「俺たち、最高のバデイ だね」と満足そうに笑った。  それから、タニヤにあるカラオケ店に新しい女の 子が入っだとか、日本人御用達の出会い系喫茶テー メーカフエは最近は女の質が落ちたとかのどうでも いい話にしばらくつき合って、樹生は「用事がある から、これで」と席を立った。「俺はもうちょっと ここでラリつとくわ」という沈没男を残してエレ ベーターで一階に下り、大麻ショップで荷物を受け 取ってビルを出た。  夕方のカオサン通りは、アメリカやヨーロッパ、 オーストラリアなどからやってくる白人のバック ハッカーで賑わっていた。空港から着いたばかりら しい、巨大なリュックを背負ったグループとすれち がった。ウクライナやロシアの徴兵から逃れてきた のだろうか、最近はスラブ系の言葉を耳にすること も多くなった。  派手なネオンのクラブから、Kホップのカールス グループB」ACKPINKの曲が大音量で流れている。 このグループに所属するタイ出身の」ISAが世界的 な大スターになり、上流階級((イツ)ではなく 。ローソ”と呼ばれる庶民階級(ローソサエティ)出 身という成功神話によって、いまでは国王より大き な影響力をもつようになった。  レストランの呼び込みや、ハイになって道の貞ん 中で飛び跳ねている男たちを避けて車道を渡ると、 王室寺院ワットーチャナソンクラームの脇の道を川 に向かって歩いた。この地区も観光客向けのゲスト ハウスやカフェが並んでいるが、カオサンよりも落 ち着いた雰囲気なので、年配の白人や家族連れの姿 が多い。  すこしずつ、世界が遠ざかっていった。現実感が 一枚ずつ剥がれ落ち、アルゴリズムでつくられた数 学的な世界が露出する。  カフェから流れてくるホップミュージックのすべ ての音の粒が際立ち、物質化して、音符の一つひと つがてのひらで踊っていた。  ピザ屋、タイ料理屋、土産物屋などを抜けると、 一〇分ほどでチャオプラヤー川の船着き場に着いた。 一六パーツでチケットを買い、手すりにもたれて川 面を眺めながら最終の船を待つ。昼間は泥色をした 水が、蛍光灯の明かりを反射し黄金色に輝いて目に 痛いほどだ。  エクスプレスボートの席は六割ほど埋まっており、 そのほとんどが地元の人間たった。タイは配車アプ リのGrabで簡単に車を呼べるので、いまどきの観 光客はこんな乗り物は使わない。  硬い椅子に座ると、GrapheneOSをインストール したPixelのスマホを取り出し、暗吁メッセージン グアプリのSignalを立ち上げた。  サードパーティによって改変されたスマホのOS はカスロム(カスタム匹O…t)と呼ばれるがヽその なかでもA乱roidのOSのソースコードを書き換え た(が呑QgOyは、アプリ単位でネットワークアク セス権限を設定し、バックグラウンドでのデータ送 信を無効化できるなどセキュリティ機能が強化され ていて、(J呂巴eやMetaのようなプラットフォー マーがユーザーのデータを勝手に収集するのが気に 入らないハッカーに愛用されている。  沈没男との会話を要約して、エンドツーエンドで 暗吁化されたメッセージで送信する。音声データは PGP(Pretty Go乱Privacy)で暗吁化したうえで、 SFTPクライアントでファイル転送し、サーバー にアップロードしたあと端末から消去した。いつも の手順を終えると、スマホをロックしてポケットに 戻し、ボートの窓にもたれて外を眺めた。  ライトアップされたワットーアルンベ唹が寺)が、 夕闇のなかから浮かび上がってきた。高層ビルの最 上階で赤く点滅する航空障害灯が目にまぶしい。 ボートのエンジン音が腹に響いて、全身が揺さぶら れるようだ。  すべてが「いま」と「ここ」に収斂し、世界はさ らに遠ざかっていった。未来もなければ、過去もな い。ただ存在するだけ。  周囲の人間から生命が失われていく。まるでゲー ムの世界に放り込まれたようだ。  アルゴリズムで動くキャラクターは、ゲームでは シムと呼ばれている。いつ頃からだろうか、自分以 外の人間がシムだと感じられるようになっだのは。 つい最近のことかもしれないし、子どもの頃からそ う思っていたのかもしれない。  誰もいないこの世界に、たった一人で包まれてい る。  樹生は深い安堵感のなかにいた。この感覚を再現 するために、ジョイントの種類と量、タイミングを 厳密に決めているのだ。  ヤワラー(チャイナタウン)の船着き場で降りて、 乾物屋が並ぶさびれた商店街を歩くと、やがてけた たましいクラクションが聞こえてくる。そこが中華 街の大通りで、早朝と深夜以外はいつも渋滞してい る。通りに沿ってホテルやレストラン、家族経営の 雑貨店が並んでいるが、そのなかでも目立つのは金 行すなわち金の販売店だ。どの店も派手なつくりで、 世の中に金を買う人間がこんなにいるのかといつも 不思議になる。  そんな街の象徴が、全重量五・五トンの金で鋳造 された黄金仏を祭ったワットートライミット(黄金 仏寺院)だ。  その寺の裏手の路地をすこし入っだ先に、一階が 店舗、二階と三階が住居になっている古ぼけた ショップハウスがある。家族でやっている中華料理 屋の脇の階段を、踊り場に積まれた段ボールを避け ながら上ると、樹生は三階の突き当りの部屋のドア を開けた。エアコンを切っていたため、むっとした 熱気が襲ってくる。  窓際に破れかけたマットレスのベッド。骨董品の ような机と椅子。壊れたテレビ。鍋はもちろん皿一 枚ないキッチン。トイレと一緒になったシャワーだ けのバスルーム。床にはバックパックがひとつと、 洗濯物を入れた袋が置いてある。  タイのいいところは、アパートを借りるのがもの すごく簡単なことだ。この程度の物件なら、身分証 明書なしで、賃料の三ヵ月分をキャッシュで払えば 外国人にも喜んで貸してくれる。ただし契約は一年 で、そのあとは値上げを要求されたり、出て行けと いわれても断ることはできない。最近はバンコクも 地価が上かっており、こんなアパートでも家賃は月 五万円程度する。  冷房をいちばん強力にして、飯を食いに行くこと にした。下の中華料理屋で、すっかり馴染みになっ たおばさんに炒飯と野菜炒めを頼んだ。スマホを見 ると、Signalに返事が来ていた。それをスクリーン ショットに撮ってサーバーにアップロードし、メッ セージを削除した。ニュースサイトを覗くと、日本 では大谷翔平がフイフテイーフイフテイ(50本塁打 50盗塁)を達成したことが大きなニュースになって いた。  飯を食べ終わって部屋に戻ると、スマホを充電 ケーブルにつないだ。麻のシャツを脱いで洗濯袋に 突っ込み、バックパックから新しいシャツを出して 素肌に羽織った。クーラーを消し、玄関に置かれた フルフェイスのヘルメットをつかむと、スマホをそ のままにして、大麻ショップで受け取った包みだけ をもって部屋を出た。  このアパートが気に入っだのは、隣のビルと渡り 廊下でつなかっていることだ。その裏に駐車場があ り、カワサキのオフロードバイクが置いてある。ど こに行っても渋滞に巻き込まれるバンコクでは、排 気量の大きなバイクは使いものにならない。車と車 の狭い隙間を抜けていくのは、岩や段差を乗り越え るのと同じで、軽快さがすべてなのだ。  バイクのサイドバッグに荷物を入れると、ヘル メットをかぶってエンジンをふかし、通りに出た。 真夜中を除けば一日中渋滞しているラーマ四世通り を車列をかき分けながらルンビニー公園まで走り、 ウイッタユ通りを北に折れる。マリファナの効果が まだ残っているのか、スピードを上げると宙を飛ん でいるように感じる。  公園の脇を抜けてラーマー世通りとぶつかる手前 に、ホテルを併設した高層のコンドミニアムがある。 片手を上げて駐車場の警備員に挨拶し、地下駐車場 にバイクを駐めた。高級コンドミニアムにオフロー ドバイクで乗りつける住人などほかにいないので、 警備員は緑の車体が見えるとゲートを開けてくれる ようになった。  ヘルメットを脱ぎ、サイドバッグを外して、レジ デンスに通じる扉の電子錠を開けた。エレベーター にキーをかざすと、自分の部屋のある隴にしか行け ないようになっている。四七階で止まり、照明を落 とした廊下を端まで歩いて部屋のドアを開けた。  寒いほど冷房を利かせた部屋に、むせるような蘭 の匂いが充満していた。タイではメーバーンと呼ば れるハウスキーピングの女性が週に一回、活けてく れるのだ。  最初は、テーブルの花瓶にジャスミンの花を飾っ てくれた。お礼のつもりで二〇〇パーツ置いておく と、次の週は本数が倍になっだので、そのぶんチッ プも増やした。そんなことを繰り返すうちに、どう やって手に入れたのか、立派な花瓶を部屋に持ち込 んで、コチョウランやパフィオベディラムなどさま ざまな蘭が飾られるようになったのだ。  タイ語で「気づかいは不要だ」と書いたこともあ るが、それでもやめないので、いまはあきらめてい る。忘れないように、財布から1000パーツ札を 五枚取り出すと、花瓶の隣に置いた。  リビングはI〇〇平米ほどあり、きれいに磨かれ たフローリングの床に牛革のソファとガラステーブ ル、大型テレビが備えつけられている。部屋は三方 がグラスウォールで、空に浮かんでいるようだ。サ イアムの高層ビル群と、その手前の王室競馬場をI 望できる。  リビングの隣がキッチンで、ベッドルームがふだ つと書斎がひとつ。ヤワラーのアパートと同じくら いの広さのウォークインクローゼット。バスルーム は大理石で、ジャグジーが据えつけられている。  このコンドミニアムは一年ほど前にエアビー (と莎呂)で見つけて二週間ほど泊まつだのだが、シ ンガポール人のオーナーに気に大られたらしく(た ぶんメーバーンがほめてくれたのだろう)、相場の半額 にするからずっと借りてくれないかといわれた。ど うせ年間の半分も埋まらないからだろうが、悪い話 ではないので、バンコクにいるときはここを使うこ とにした。とはいえ、一人ではムダに広すぎるのだ が。  キッチンに行って、電気ポットに水を入れて湯を 沸かし、ティーポットとカップに熱湯を注いだ。軟 水のミネラルウォーターを入れた鍋をIHコンロに セットし、大型冷蔵庫から牛乳を取り出す。  鍋の水が沸騰すると火を止め、アールグレイの茶 葉を入れてしばらく蒸らす。茶葉が開いた頃に牛乳 を加え、弱火にかけて沸騰直前に火を止め、ふたを してさらに五分ほど蒸らした。ティーストレイナー で茶葉をこしながら温めておいたティーポットに移 し、リビングルームに運んだ。  カップにミルクティーを注ぎ、ほんのすこし黒糖 を加えて、スプーンでゆっくりかきまぜた。サイド バッグの包みからクッキーを取り出し、包装を開け て皿に置いた。  ミルクティーをひと囗飲むと、書斎の金庫から通 信専用のノートパソコンをもってきた。プライバ シーと匿名性を保護するぴ汾というOSをインス トールしていて、ハードディスクを使用せず、メモ リで動作するためシャットダウン時にすべてのデー 夕が自動的に消去され、履歴も残らない。コンドミ ニアムの無線LANを使わず、併設するショッピン グセンターの公衆Wi-Fiからアクセスしたほうが匿 名性が高まるが、べつに犯罪者というわけではない ので、VPN(仮想専用線)とTor(トーア)ですま せている。  ミルクティーを飲み、クッキーをかじりながら、 Torのブラウザを起動する。フィンガープリンティ ング(ウェブサイトがユーザーのブラウザやOSを識別 する仕組み)を防ぐためにJavaScriptを制限したう えで、ダークウェブの最近のニュースをチェックし た。  Torはオニオンルーティングという技術で通信を 匿名化しており、専用のブラウザを使わない と.onionドメインのサイトにアクセスできない。 もともとは独裁政権下で民主化運動をするグループ のために開発されたが、犯罪者などが利用しはじめ てダークウェブと呼ばれるようになった。VPNは インターネット上に仮想的な専用回線を構築して データを暗吁化し、盗聴や中問者攻撃を防ぐ技術だ。  性的暴行で逮捕された大物ラッパーがセックス パーティを主催していて、セレブたちがいかがわし い行為をする動画を売りに出したが、それがリアル かフェイクかで物議をかもしていた。  スイスのセキュリティ企業が、アメリカの連邦議 員のスタッフのうち、五人に一人の個人情報がパッ キングによりダークウェブに流出していると警告し ていた。勤務先のメールアドレスを出会い系サイト やアダルトサイトに使っていたのが原囚という。  サードパーティのアプリの脆弱性を利用したハッ カーが、銀行や保険会社など大手企業の社員の個人 情報を盗み、ハッキングサイトに投稿した。データ には名前、メールアドレス、電話番吁、役職、それ 以外の個人情報が含まれている。  ダークウェブのフォーラムにinstagramのユー ザー情報四億八九〇〇万件が投稿された。データに はユーザー名、フルネーム、メールアドレス、経歴、 フォロワー数とフォロー数、位置情報などが含まれ ている。  イングランドとウェールズの刑務所のレイアウト に関する機密情報がダークウェブに流出した。英国 司法省は、これらの情報が麻薬や武器の持ち込み、 脱獄などに使われるおそれがあるとして、刑務所の 安全を確保する措置を講じたI。いつものことで、 とくに目新しい話はなかった。  この部屋は喫煙も電子タバコも禁止されているの で、カオサンに行くときはいつもの大麻ショップで ついでにクッキーを買うことにしていた。バターに 大麻成分を加えて焼いたもので、店によって含有量 にかなりのちがいがあり、この店のものはかなり強 力だ。  大麻はカンナビノイドと呼ばれる化学物質を含む 自然界でほぼ唯一の植物で、THC(テトラヒドロ カンナビノール)の含有量が多いサティバと、CB D(カンナビジオール)の多いインディカがある。陶 酔・覚醒効果があり、いわゆる「ハイになる」のは THCで、鎮静効果のあるCBDは医療用にも使わ れる。サティバとインディカをかけ合わせたのが八 イブリッドで、大麻の合法化、非犯罪化か進む北米 やヨーロッパで業者が商品開発競争を繰り広げてい る。  大麻が人間の脳に強く影響するのは、脳内で同じ 化学物質エンドカンナビノイドをつくっているから だ。エンドカンナビノイドは脳内モルヒネとも呼ば れる内囚性オピオイド、エンドルフィンによく似て いるが、阿片由来のヘロインやモルヒネのようなオ ピオイドに比べて依存性や副作用がほとんどない。  エンドカンナビノイドのひとつがアナンダミドで、 この名前はサンスクリット語の至福を意味する「ア ナンダ」に由来する。仏教の修行や瞑想で至福の境 地に至るのは、脳科学的にはこの神経伝達物質で説 明できる。  THCは扁桃体の受容体に結合し、不安や恐怖を 生み出す記憶領域の活動を抑制するとともに、新し い刺激に対して敏感にする。CBDは鎮静作用に よって、身体の痛みだけでなくこころの痛みも軽減 してくれる。この効果でイヤな記憶が薄れ、色彩や 音があざやかに感じられる。  現在の大麻は、品種改良によって薬理成分の含有 量が大幅に増えている。一九八五年頃、大麻のTH C濃度は四パーセント以下だったが、それがいまは 二〇パーセントを超え、そのぶん効果も強烈になっ ている。  ミルクティーを飲みながらクッキーを一枚食べ終 わると、梱包を先にやってしまうことにした。  カオサンの店で買っだのは、THCの含有量が もっとも多い、愛好家のあいたで「モンスター」と 呼ばれているハイブリッドの大麻だ。いちど試した ことがあるが、数回吸っただけでたちまちストーン になり、それから六時問以上、椅子から動くことが できなかった。  梱包用のポリクロス紙でIキロの大麻を包み、 ボールペンで便箋に英語で走り書きして一緒に入れ た。   HALへ ちゃんと届くといいけど   テレサーテンは「別れの予感」が好き                TATSU  プリントアウトしておいた宛先を貼って、それを もういちど梱包した。こんどの宛先はアユタヤにあ る食品会社で、封筒に1000パーツ札を四枚入れ る。  タイは大麻を合法化したが、国外への持ち出しや 郵送を認めていない。それでも抜け道はあり、アユ タヤの会社は自社の食品に混ぜて海外に送っている らしい。  梱包作業が終わったあたりで、ようやく意識が変 性を始めた。大型テレビの電源を入れると、英語の ニュースをやっていた。深刻そうな顔をしたキヤス ターがウクライナとガザの戦争についてしゃべって いるが、それがなんの話なのか理解するのに時間が かかる。ノートパソコンをテレビにつないで YouTubeを映した。  沈没男の話を思い出して、グリーンーデイを検索 してみた。  "American Idiot (アメリカの愚か者ごという曲が最 初に出てきたので、それを選択する。派手な入れ墨 をした三人組が、テレビに洗脳されるなと歌ってい た。不思議に思って調べてみると、9∴11同時多発 テロのあと、アメリカがイラクに侵攻した二〇年前 の曲たった。いまでは誰もテレビに洗脳されたりし ない。洗脳しているのはSNSのインフルエンサー だ。  面白い曲だったが、この夜の雰囲気には合わない ので、音声を消してフィラデルフィアのストリート の映像を流した。  フィラデルフィアはペンシルベニア州最大の都市 で、一七七六年にアメリカ建国の父たちがこの地で 独立宣言を採択した。北はニューヨーク、南はワシ ントンDCを越えてアパラチア山脈に至り、西は ピッツバーグとクリーブランド、東はカジノで知ら れるアトランディックシティを結ぶ交通の要衝で、 近年はドラッグの集積地として知られるようになっ た。  炭鉱の閉鎖で貧困に陥ったアパラチアの自人労働 者たちが、一九九〇年代に鎮痛薬オキシコンチン 玉成分オキシコドン)を乱用しはじめた。それが社 会問題になって医師が処方箋を出さなくなると、依 存症者たちがヘロインを求めてフィラデルフィアに 集まるようになった。  オキシコドンはオピオイドの一種で、モルヒネや ヘロインと同じくケシから採取されるアルカロイド の合成加工物だが、処方薬として広く使われていた。 フェンタニルはそれをさらに強力にしたもので、完 全な化学合成でつくられ、その効果はモルヒネのI 〇〇倍以上、ヘロインの四〇~五〇倍ともいわれる。 近年はメキシコの麻薬カルテルが中国からフェンタ ニルの前駆体を密輸し、それを加工・製造した安価 なドラッグがアメリカに持ち込まれている。  フィラデルフィアのケンジントン地区は、鉄道の 高架下で雨露をしのぐことができるため、オピオイ ド依存症になったホームレスのたまり場になった。 安価なドラッグを求めて通りを徘徊する様子を地元 のYouTuberが撮影し、その動画が大量にアップさ れたことで、「ソンビタウン」としていまや観光名 所になっている。  テレビ画面には、シヤッターの閉まった商店街を 夢遊病者か亡霊のように行き来するジヤンキーたち が映し出されている。中腰で頭を下げたまま動けな くなっていたり、手足を制御できず、踊るような奇 妙な歩き方をしている者もいる。ほとんどが白人で、 二十代や三十代の若者も多い。高齢者がいないのは、 みんな死んでしまうからだ。女性は三割程度だろう か、明らかに妊娠している者もいる。  ホームレスのなかには、安物のドラッグすら買え ない者もいる。そこでケンジントンでは、動物用の 薬をフェンタニルに混ぜたものが出回るようになっ た。  「トランク」と呼ばれるザラジンは馬や牛に使われ る鎮静剤で、安価に入手できるため、ヘロインや フェンタニルの希釈剤として使われるようになった。 これが「ソンビドラッグ」と呼ばれるのは、血圧と 心拍数を大幅に低下させて仮死状態にするだけでな く、皮膚を壊死させる副作用があるからだ。依存症 者は顔や身体にかさぶたができ、最悪の場合、手足 を切断しなくてはならない。  カルフェンタニルはフェンタニルと同じ合成オピ オイドだが、大型動物に使われる鎮静剤だ。その効 果はモルヒネの一万倍、フェンタニルのI〇〇倍と され、劇薬指定されている。二〇〇二年にチェチェ ンの分離独立を求めるイスラーム原理主義の武装組 織がモスクワの劇場を占拠し、多数の人質をとっだ とき、ロシアの特殊部隊はカルフェンタニルのエア ロゾルを建物内に散布した。これによってテロリス トは無力化されたが、人質のうち匸一〇人以上が呼 吸停止で死亡したとされる。  動物用の麻酔薬エトルフインは象やキリンの安楽 死に使用されている。あまりに強力すぎて人間には 使えないとされていたが、ケンジントンではエトル フインとフェンタニルの合成麻薬も出回っていると いう。  画面には、トランクの副作用とわかる、皮膚がた だれたジャンキーが通りのいたるところで意識を 失っている様子が映し出されていた。顔にいくつも かさぶたのある、腕や胸に入れ墨をした三十代の女 性がインタビューにこたえて、児童施設に子どもを 奪われてケンジントンに流れ着いたが、ドラッグか ら足を洗って、来月には子どもを迎えに行くつもり だと語る字幕が流れた。おそらく一年後には生きて いないだろうが。  処方薬オキシコンチンが大規模な薬害を引き起こ したとき、被害者やその家族は製薬メーカーを提訴 し、創業一族の責任を追及した。これによってメー カーは破綻し、依存性の高い鎮痛薬は市場から消え た。この話が皮肉なのは、それによって依存症者た ちが、オキシコンチンの代わりになる非合法薬物を 求めるようになったことだ。  公衆衛生の専門家たちは、オキシコンチンをあの まま処方しつづけたほうが被害がすくなかったこと を知っているが、そうなるとこれまでの「正義の戦 い」を否定してしまうので囗をつぐんでいる。その 結果、アメリカではフェンタニルをはじめとする闇 市場の危険なドラッグによって、オキシコンチンの 薬害をはるかに上回る犠牲者が生まれているのだ。  樹生は軽いトリップ状態で、生ける亡霊たちの姿 をしばらく眺めていた。それに飽きると、音声を 切ったまま、YouTubeのいつもの画面に切り替え た。  二〇〇六年の歌謡番組で、デビューしたばかりの アイドルがぎこちなく歌っていた。黒のTシャツに 黒のショートパンツ、スタッズペルトにニーハイ ブーツ。左腕にFuck^と描かれた黒の太いリスト バンド。  咲桜。一九九〇年三月生まれだからこのとき十六 歳。  彼女はこの街にいる。  「たっちやん、何年生まれたったっけ?」沈没男が なれなれしく訊いた。  昼前にヤワラーのアパートに戻ると、スマホの 1 elegramにメッセージが来ていた。昨日の件で大 事な話があるから、飯を食いながら話そうと、マー ブンクロンセンターのフードコートに呼び出された のだ。  MBKとして知られるマーブンクロンセンターは 高架鉄道BTSのサイアム駅とナショナルスタジア ム駅のあいたにある大型ショッピングセンターで、 巨大な売り場に食品からファッション、雑貨、ゲー ムなどの小さな店が詰め込まれ、映画館やレストラ ン街、メイドカフエまである。バンコクでは高級ブ ランドが人つだ無機質なショッピングセンターが 次々とつくられているが、ここは上野や浅草を思わ せる下町感があり、いつ来ても地元の若者たちで賑 わっている。  フードコートは六階にあり、キャッシャーで現金 をプリペイドカードに換え、好きな料理を注文する。 タイ料理だけでなく、インド料理、ベトナム料理、 ベジタリアン向けの料理などさまざまな店が揃って いて、樹生はガパオライス(バジル炒めご飯)とヤ ムウンセン(春雨サラダ)を選んだ。  「生まれた年? 一九九四年」とこたえると、パッ タイ(タイ風焼きそば)のエビをつまみながらまず そうにコーラを飲んでいた沈没男が、「だったら コールドプレイ?」と訊いた。  「え?」  「若い頃、夢中になったバンドだよ。レツチリは ちょっと古いか」  「レツチリ?」  「レツドーホットーチリーペッパーズだよ。興味な い?」  「あんまりよく知らなくて」スプーンで目玉焼きを 崩しながら、こたえた。  「そうなんだ」沈没男は下品な音をたてて麺をすす ると、「コールドプレイの四人は、みんなエリート なんだよ」といった。  「ボーカルのグリスはパブリックスクールを出たお 坊ちゃんで、チャーチルの遠い親戚だっていわれて る。ロンドンの名門大学で知り合った三人も、天文 学や建築学、人類学を専攻した優等生なんだって。 スゴイよな」  「そうなんですね」こんどは樹生か生返事をした。  「レディオヘッドは知ってるだろ」沈没男はかまわ ず話をつづけた。「あのバンドのメンバー五人はイ ギリスのパブリックスクールで知り合って、ベーシ ストはケンブリッジ大学を卒業して、その弟のギタ リストはオックスフォードの大学を中退してるん だ」  それから上目づかいで、「たっちやんも高学歴で いいよなあ」といった。  「そんなことないですよ。海外では誰も知らない私 立大学だし」  「でも、物理学で大学院まで行ったんだろ」  「物理っていっても理論じやなくて応用だし。それ に、修上なんて就職したくない学生のモラトリアム です」  「やっぱり俺はニルヴアーナだな」沈没男はいきな り話を変えた。「メンバーのなかに大卒なんてI人 もいない。ボーカルのカートーコペインは自動車修 理工とウエイトレスの息子で、親が離婚したあとは 父親のトレーラーハウスで育ち、学校では友だちが いなかったんだ。バンドを組んで大成功したのに、 二十七歳でショットガンで頭をぶち抜いて自殺し た」  樹生は唐辛子をよけながら春雨サラダを囗に運ん だ。細かく刻まれた赤唐辛子や青唐辛子を見分ける のもだいぶうまくなった。  「九〇年代のロックで俺が許せるのは、あとはオア シスくらいだな。あの兄弟はマンチェスターの労働 者階級に生まれて、アル中の父親から暴力を受けて 育つたんだ。お坊ちゃんのエリートに、ほんものの ロックなんてできるわけないんだよ。そう思わな い?」沈没男は、しつこく訊いてきた。  「ロック、詳しくないから」  「じゃあヒップホップ? そんな感じじゃないなあ。 だったらJホップ? 椎名林檎とか」  「そっちもあんまり……」  「わかった!・」いきなり大声を出した。「アニソン だろ。たっちゃん、ちょっとおたくっぽいとこある からなあ」  苦笑してやりすごすと、「ところで話って?」と 話題を変えた。  「そうそう。炭治郎なんだけどさあ」半分ほど残っ たパッタイの皿をテーブルの脇に押しやって、沈没 男は身を乗り出した。「昨日あれからテレグラムで チャットしたんだよ」  樹生はスマホの録音をオンにして、テーブルに伏 せて置いた。  「日本で稼いだカネをビットコインに換えるやつ、 ぜひやりたいって」油でぎとぎとした口元をぬぐっ た。「とりあえず1000万でやってみて、うまく いったらどんどん金額を増やす。俺らの取り分は二 割で話つけたから」と下卑た笑いを浮かべた。  「昨日の話だと、まずはこの交換で税金が安くなる 花子が二割の手数料を払うんだろ。そのビットコイ ンを炭治郎に送ると、さらに二割が入ってくる。と いうことは、儲けはぜんぶで四〇〇万。俺が二〇〇 万で、たっちやんが二〇〇万。公平だろ。で、花子 は見つかった?」  「昨日いわれたばかりで、まだなにもしてません」  「ダメだなあ、急がないと。炭治郎、気が短いんだ よ。早く返事しないと、俺がシメられちやうよ」  ぬるくなったコーラを一気に飲み干すと、沈没男 は大きなげっぷをした。先月、MBKに誘われたと きはタイスキの店で豪勢に和牛を注文していた。そ れがフードコートに変わったということは、カネに 困っているのだろう。  「とりあえず三日以内に経過報告してよ」  「そんなに期待しないでください。あてなんてほん とにないですから」  「そんなんじやダメだろ」沈没男の目が据わった。 「大事な話をしてるんだから、もうちょっと真剣に 聞いてくれよ」  樹生かあいまいにうなずくと、沈没男が顔を寄せ て臭い息を吐いた。「たっちやんは俺に大きな借り があるんだから、それを忘れないようにしてくれよ な」  MBKを出てサイアム駅まで歩き、BTSに乗っ てサラデーン駅で降りると、空は厚い雲に覆われ、 遠くで雷の音が聞こえた。最初は歩くつもりだった が、途中で降られると嫌なので、観光客相手のトウ クトウクをつかまえた。指定されたのはスコータイ ホテルのロビーにあるカフェだ。  この由緒あるブティックホテルは蓮(ロータス) をテーマにしていて、大通りに面した入口からのア プローチには蓮を浮かべた水路がつくられている。 庭園のなかに三角屋根のタイ様式の建物が配置され、 メインロビーには巨大な花瓶に蓮の花が飾られてい た。伝統衣装を着た女性が、琴に似たかたちをした 打楽器を演奏している。  カフェの入口にも蓮の花が活けられ、奥の壁には 寺院の門を模したレプリカが据えられている。中央 のテーブルにアフタヌーンティーの焼き菓子が並べ られ、すべてが強いロータスのアロマに包まれてい た。  奥の席に案内されると、入口が見える側に座って スマホの時計を確認した。窓の外には長方形の池が ある。  約束の時間の五分前。店内には商談中らしい三人 がいるだけだ。所在なくテーブルに置かれたメ ニューを眺めているうちに、すこしずつ緊張してき た。  突然、空気が変わったように感じた。  彼女が入ってきた。生成りの麻のワイドパンツに ボルドーのサンダル。黒のホルダーネックのブラウ ス。ディオールの大きなサングラスを片手で外して ウェイターと親し気に話すと、こちらを見た。  すこし髪が伸びたものの、印象はまったく変わっ ていない。かすかに笑みを浮かべながら樹生のテー ブルにやってくると、「待たせちやったかな」と いった。  「いや、来たばかりです」といって立ち上がろうと すると、「そのままでいいよ」と正面の席に座り、 隣の椅子に大きめのトートバッグを置いた。  「わたしは咲桜」まっすぐな視線でいった。  「あの、樹生といいます。お役に立てるといいんで すが」と挨拶した。  「もう頼んだの?」咲桜はその言葉を無視して、 テーブルの上のメニューをこちらに向けた。「ここ はロータスティーが有名なの」  強い目線にどぎまぎしながら、「じやあスコータ イーティーで」と、メニューのいちばん上に載って いるのを頼んだ。さりげなくスマホの録音をオンに して、テーブルに伏せる。  「わたしはミントにしようかな」といって、優雅な 仕草でウェイターを呼ぶと、なめらかな英語で注文 した。それからもういちど樹生を見ると、「なんか、 ぜんぜんイメージとちがう」と笑った。  「なにが、ですか?」  「ハッカーつて、パーカーのフードかぶって、無精 髭を生やして、牛乳瓶の底みたいな眼鏡かけ て……」それから、すこし身体を引いて樹生を眺め た。「思ったよりずっと若いし、さっぱりしてるし」  「ありがとうございます」  咲桜はまだ、こちらを見ていた。まるで奇妙な生 き物を観察するかのように。  頬がほてってきたのがわかる。慌ててナプキンで 額の汗をぬぐっだ。  ロータスティーが運ばれてくると、咲桜は自分の カップをテーブルの端に寄せた。爪には上品なコー ラルピンクのマニキュア。右手の薬指にシンプルな ダイヤの指輪。腕には黒いシルクのアームカバーを している。  咲桜は隣に置いたバッグからノートパソコンを取 り出し、テーブルの上に置いた。  「メールで伝えたのがこれ。パスワードがわからな くなっちやつたの。直せる?」  日本製の15インチで、確認したとおりUSBの ポートがついている。念のため、ハッキング用の ツールを搭載したKali 」inuxのノートパソコンを もってきたが、それを使うまでもなく、標準的なオ フラインリセットで問題なさそうだ。  樹生は「やってみます」といってノートパソコン を受け取り、ズボンのポケットからWindows用の インストールメディアが入っだusBフラッシュド ライブを取り出して接続した。  電源を入れBIosのセットアップメニューを表 示させると、起動順位をusBドライブ優先に変更 する。フート後、コマンドプロンプトを呼び出して ドライブを確認し、レジストリを編集するためにコ ンソールモードでWi乱Owsのシステムをマウント した。「y匹ヨぼ(管理者)」の権限を手に入れれば、 あとは管理者のパスワードを初期化するだけだ。  作業にかかった時間はI〇分ほどで、その間、咲 桜がずっと自分の顔を見つめているのを意識してい た。  Wi乱Owsを再起動して、パスワードをブランク にしたままログインした。画面を咲桜に向けて「新 しいパスワードを設定してください」といった。  咲桜は小さな声で、「すごい」と叫んだ。「まるで 魔法みたい」  「そんなことないですよ。こんなの、ネットを検索 すればいくらでもやり方が出てきます」樹生はいっ た。「大事なデータの入っだ会社のパソコンで、社 員がパスワードの再設定に失敗してログインできな くなることってあるでしよ。そんなときのために、 管理者がパスワードを修復できるようにしてあるん です」  咲桜はログインしたパソコンをすこしいじったあ と、バッグから外付けのハードディスクドライブと USBケーブルを取り出した。 「データ、これに転送してもらえる?」 「いいですよ。どのファイルです?」 「ぜんぶ」あっさりといった。  ノートパソコンのハードディスクをチェックした。 「三〇〇ギガ以上あるから、一時間くらいかかりま すよ」  「いいよ」と咲桜はいった。「そのあいた、樹生く んとお話できるし」  「えっ?」  「わたしのこと、知ってるよね」と笑った。「だか ら、次はあなたのことが知りたいの」  大きな雷が鳴って、土砂降りのスコールがやって きた。  ファイルの転送が始まると、「ちょっと飲もうか」 と咲桜はいってウェイターを呼んだ。窓ガラスの向 こうでは滝のような雨が降っている。  「蒸し暑いから、自がいいよね。イタリアのDOC Gがあるんだ。それでいい?」  樹生か返事をする前にワインのボトルとグラスを ふたつ頼み、「なにか食べる?」と訊いた。  昼食をすませてきたとこたえると、「わたしは ちょっとお腹がすいたかなあ」といってメニューを 眺め、カリフラワーのローストとブッラータを注文 した。  それから外に目をやり、じっと雨を見つめた。池 に落ちたブーゲンビリアの花が、はげしい雨滴に 踊っている。  「このままぜんぶ流れちやえばいいのに」とつぶや いた。  「なにがですか?」と訊き返したが、それにはこた えず、頬杖をついたまま、放心したように外を眺め ている。  ウェイターがワイングラスをセットし、ボトルの コルクを抜いて、うやうやしくワインを注いだ。  樹生かテイスティングにうなずくと、それが合図 でもあるかのように、咲桜の顔に生気が戻った。グ ラスを軽くもちあげ「乾杯しよ」と笑った。  グラスを合わせたあと、「樹生くん、誕生日は?」 と訊いた。  戸惑っていると、咲桜がいった。「今日はわたし が質問して、樹生くんがこたえる。樹生くんはわた しのことを知ってるけど、わたしが樹生くんのこと をなにも知らないのは、不公平だから」  匸九九四年一月匸一日です」とこたえた。  「早生まれなのね、わたしと同じ」うれしそうに咲 桜がいった。「わたしは一九九〇年三月五日」  知っていた。  「出身は」  「東京です。世田谷」  「そうなの、都会っ子なのね」と笑った。「わたし は静岡県富上宮市」  それも知っていた。  「学校はどこ?」  「え1と、大学は……」  「ううん、幼稚園から教えて」  「その頃は親が共働きで、近所の保育園に通ったか ら、名前まで覚えてなくて」  「じやあ、小学校からでいいよ」  公立の小学校と、中高一貫の私立学校、都内の私 立大学と大学院の名前をこたえた。  「学者さんなのね」驚いたような声をあげた。「わ たしも東京の私立の高校。堀越」  もちろん、知っていた。  それから、タイにやってくるまでのことを訊かれ た。  「わたし、ちょっと特殊な世界にいたから、世の中 のことあまりよくわからないの」咲桜はいった。 「だから、できるだけ詳しく説明して」  「高一のときに、ビットコインを知ったんです」戸 惑いながら、樹生は話しはじめた。「World of Warcraft(ワールドーオブーウォークラフト)つていう オンライングームにはまって、学校ではぜんぜん友 だちができなくて。そしたら、チャット仲間のあい たで新しいデジタルのお金が話題になったんです」  「ビットコインつてなにか、わたしにも理解できる ように説明して」  運ばれてきた水牛のチーズとカリフラワーを優雅 な手つきでとり分けると、樹生の前に置いた。  「え1と、ビットコインはブロックチエーンつてい う帳簿でつくられた、ネットワーク上だけで流通す るお金です」  「それじゃぜんぜんわからないよ」咲桜が笑った。  しばらく考えて、樹生は次のように説明した。  「ぼくが咲桜さんにI〇〇円払うとしますよね。そ のとき、百円玉を直接、手渡してもいいし、ぼくの 帳簿からI〇〇円引いて、咲桜さんの帳簿にI〇〇 円足しても同じです」  「わたしの預金通帳の残高がI〇〇円増えたわけ ね」  「ええ。ぼくたちはふつう、お札や硬貨など現金の 取引が先にあって、そのやり取りを帳簿に記録する んだと思ってますよね。でも、現金なしでもお金の 取引ができるんだから、この常識は間違っている。 まず先に帳簿があって、細かなやり取りをいちいち 帳簿に書くのが面倒だから、それを簡便化するため に現金が使われるんです。だとしたら、取引を自動 的に記録してくれる完璧な帳簿があれば、物理的な お金はいらなくなる」  「ブロックチェーンが、その完璧な帳簿というわ け?」  「正確には、改竄はほぼ不可能で、それがあまりに 特殊なケースなので、ぶ九璧”と見なしてかまわな い、ということになりますけど。テレビがなぜ映る のかを知らなくても問題ないように、ブロック チェーンの帳簿の仕組みを理解することもあまり意 味がありません。その帳簿が暗吁学的に信頼できる とわかっていれば、クリプトをお金として使うこと ができます」  「クリプト?」  「日本では。仮想通貨” つて呼んでますが、あれは 間違いです」言葉につい力が入っだ。「ブロック チェーンからつくられるお金は暗号すなわちクリプ トグラフがもとになっているので、。クリプト″と 呼ばれます。ビットコインもクリプトの一種で、訳 語としては。暗号資産”のほうがまだマシです」  咲桜の目が輝いていた。樹生の話に強い興味を もっているのがわかる。  「クリプトの取引は、匿名でできるの?」  「それは半分正しくて、半分間違ってます」樹生は こたえた。「ブロックチェーンは公開されているか ら、どのような取引が行なわれたかは世界中の誰で も見ることができます。もちろん、ウォレットの中 身も」  「ウォレットつて?」  「クリプトを管理する電子的な財布だと考えてくだ さい。その財布にはそれぞれ名前、すなわち二七文 字から三四文字の英数字を組み合わせたアドレスが あります」  「その財布の中身まで公開されてるつてこと?」  「ウォレットは匿名でつくれますが、アドレスがわ かれば、なにをいつどこにどれだけ送つたか、ある いは受け取ったかを知ることができます。そこから 簡単にクリプトの残高を計算できますが、それだけ ではウォレットの所有者が誰なのか、必ずしもわか るわけではない」  「それ、スイスの銀行の匿名口座みたいなものね。 口座番吁だけで、名義人はわからない」  咲桜の勘のよさに驚いた。たしかにウォレットの アドレスは、銀行の匿名口座に似ているといえなく もない。  「でも、匿名口座の持ち主が誰かは銀行が把握して ますよね。これが中央集権型のシステムで、特定の 組織や人物がすべてを管理しています」樹生は説明 した。「それに対してブロックチェーンは分散型の システムで、管理者はいません」  「管理者がいないのに、なぜ管理できるの?」  「人間の管理者は、間違えたり、不正を働いたりす るでしよ。ブロックチェーンの場合、正確にはアル ゴリズムが管理してるんです。いったん指示が出さ れれば、第三者が途中で変えることはできず、必ず 実行される。だから信用できるんです」  「ふ1ん、そうなんだ」咲桜は感心したようにうな ずくと、「だったら匿名の取引と、匿名じゃない取 引はどこがちがうの?」と訊いた。  「それは、サイバー空間とリアル世界が接続されて いるかどうかです」と樹生はこたえた。  オンラインで仕事を請け負って、その報酬がビッ トコインで支払われた場合、リアルの世界は介在し ないので、この取引は匿名で行なうことができる。 だがピザの注文をビットコインですれば、ピザ店は 受け渡しのときにウォレットの所有者を特定できる (すくなくとも外見を知ることができる)。ネット ショップも同じで、商品を送らせるにはリアル世界 の住所と名前が必要になる。  現金をクリプトに換えるときは、銀行口座から暗 吁資産の交換所に送金し、そこから自分のウォレッ トにクリプトを送る(実際には管理が面倒なので、多 くのユーザーが交換所にクリプトを預けている)。クリ プトを現金にするときはこの逆で、交換所でドルや 円に換え、それを銀行口座に送金する。  リアル世界の現金をサイバー空間のクリプトとつ なぐには、銀行と交換所というふたつの中央集権的 な組織を経由しなければならない。交換所のなかに は口座開設時に本人確認を要求しないところもある が、銀行の場合はそうはいかない。ブロックチェー ンの流れを追って銀行口座に辿り着けば、クリプト の所有者が特定されてしまうのだ。  「だったらなぜ、ビットコインが犯罪に利用される の?」  理論的にできることと、実際にできることは別だ からだと説明した。  「犯罪者がビットコインをドルに換えて、海外の金 融機関の口座に送金したとしますよね。すると捜査 機関は、国際的な取り決めに従って、相手の国の捜 査機関に資金の流れを調査するよう依頼する。当然、 この手続きには時間がかかるから、犯罪者はその間 に、別の金融機関に送金したり、もういちどクリプ トに換えて別のウォレットに送ってしまうかもしれ ない。そんなことを繰り返しているうちに、履歴を 追えなくなってしまうんです」  「面自いのね」咲桜はそういうと、腕を伸ばして樹 生の指先に触れた。「こんど、詳しく聞かせて」  樹生は高校二年のとき、ハッカーたちが集まる匿 名掲示板の情報で、渋谷にビットコインの交換所が できたことを知った。一万ビットコインがピザ二枚 と交換されていた頃のことだ。学校が終わったあと、 制服のまま宮益坂を上ったところにあるビルの前ま で見に行くと、髪を後ろに長く伸ばした太った白人 の男がiPhoneで大声で話しながら出てきた。男は 大股で青山通りまで歩き、タクシーを止めて乗り込 んだ。あとから、それが日本ではじめてのビットコ インの交換所「マウントコックス」のCEOマル クーカルプレスだと知った。  それから、小遣いとバイト代ですこしずつビット コインを買うようになった。二〇一三年に地中海東 部の島キプロスが経済危機に陥り、EUからの支援 の条件としてI〇万ユーロ超の預金に九・九ハーセ ントの課税が導入されると報じられると、国家が監 督・管理する銀行制度への不信が広がり、ビットコ インの価格は大きく上がった。  樹生の保有する資産は時価で五〇〇万円を超えた が、その直後にマウントコックスが取引を一時停止、 翌年二月には払い戻しも全面的に停止して、裁判所 に民事再生法の適用を申請した。カルプレスは、 ハッカーの攻撃を受けて大量のビットコインが流出 したのだと釈明した。これで樹生の資産はI〇分の 一に減り、最初のクリプト体験は苦いものになった。  ダークウェブを知ったのもやはり高校時代で、 。闇のアマゾン”。ドラッグのイーペイ”と呼ばれる、 「シルクロード」というサイトが英語の匿名掲示板 で話題になっていた。ビットコインとTorを組み合 わせたEコマースのサイトを独力で構築したのは口 スーウルブリヒトというアメリカの若者で、市場の 取引に国家が介入することを拒絶するリバタリアニ ズム(自由原理主義)の思想的実践たった。  高校生の樹生は、「中央集権的な管理者のいない 分散型の社会をつくる」というリバタリアンの思想 信条を、テクノロジーを使って現実のものにできる ことに衝撃を受けた。さすがにドラッグを買う度胸 はなく、シルクロードのロゴが入っだTシャツを ビットコインで買って日本に送ってもらった。  ウルブリヒトは二〇一三年一〇月に逮捕され、終 身刑二回に、さらに仮釈放なしの禁錮四〇年が加え られるというきびしい判決が下された。これに対し てアメリカ国内で、思想への処罰としてあまりに重 すぎるとの反発が広がり、ウルブリヒトの釈放を求 めるサイトがつくられ、俳優のキアヌーリーブスな どが賛同した。樹生も請願書に署名し、わずかだが 寄付もした。ウルブリヒトは孤独な高校時代のヒー ローであり、憧れだった。  樹生か本格的にパッキングを始めたのは大学生に なってからで、ダークウェブのハッカーコミュニ ティに入り浸り、エクスプロイトプログラムを使っ て大学のサーバーに侵入し、自分やクラスメイトの 成績を覗き見たりした。osやソフトウェアのバグ (脆弱性)を報告すると報奨金がもらえることを 知ってからは、それで小遣い稼ぎをして、取引が始 まったばかりのイーサ(ETH)を買うようになっ た。  Ethereuヨ(イーサリアム)は樹生と同世代のヴィ タリックーブテリンというプログラマーが二十代で 始めたプロジェクトで、ブロックチェーンを使って 管理者のいない分散型のワールドコンピュータをつ くることを目指していた。そのために使われる通貨 がETHだ。二〇一五年にIETH=五〇〇円前後 たったイーサは二〇一七年のNFT(Non-Fungible Token :非代替性トークン)ブームで二〇万円ちかく まで上がったが、バブルが崩壊すると一万円台まで 暴落した。  大学四年になってもやりたいことが見つからず、 言い訳のように大学院に進むことにした。理系は院 卒のほうが就職に有利だといわれていたから、親は 喜んで学費を出してくれた。院では量子コンピュー タを研究したいと思っだのだが、研究費のない私大 ではCPUに量子的な振る舞いを真似させる擬似量 子コンピュータしかできず落胆した。修上論文は、 ブロックチェーンの信頼を担保するプルーフーオ ブーワークの計算を量子コンピュータを使って効率 化する可能性について書いた。  修上で大学院を出ると、サイバーセキュリティの 会社に就職した。待遇は悪くなかったものの自由に ハッキングができるわけではなく、入社三年目に新 型コロナの感染が拡大すると、リモートワークでほ ぼ一年間、なにもせずに給料だけもらった。貯金の 残高は増えたが、子どもだましのような退屈な作業 ばかりで絶望的な気分になった。  予想外だったのは、世界中で膨大な死者を出した 感染症によってクリプトの価格が大きく上がったこ とだ。ビットコインは六〇〇万円の大台に乗り、 イーサも五〇万円まで上昇した。  大学生のとき、香港に旅行したついでに銀行口座 をつくった。樹生はその口座から海外の交換所に送 金し、ビットコインやイーサに換えると、それを コールドウォレットに保管していた。  クリプトのウォレットには二種類あり、ネットに 接続されているのが「ホット」、ネットから隔離さ れたものを「コールド」という。コールドウォレッ トにクリプトを保管しておくと、送金のたびにネッ トワークにつないでホットウォレットに移動しなけ ればならず手間がかかるが、ハッキングからデータ を守ることができる。  思いがけない額の資産を手にすると、利益の半分 以上を税金に取られることがバカバカしくなった。 日本の税法では暗吁資産は金融商品と見なされない ため、値上がりしたクリプトを現金化したときだけ でなく、ビットコインをイーサなどほかの通貨とト レードしたときや、NFTのようなクリプト以外の 資産と交換したときも、日本円に換算して利益が出 れば確定申告で所得税を払い、損失が出てもほかの 所得と損益通算できず、翌年以降に損失を繰り越す ことも認められていない。その最高税率は、国税・ 地方税合わせて五五パーセントだ。  なんの合理性も整合性もない理不尽な制度は、国 家は市場の取引に介入すべきでないと考えるリバタ リアンにとって、とうてい受け入れがたいものだっ た。そこで樹生は、会社を辞めて海外に移住するこ とにした。  香港とシンガポールは賃料が高いので、いろいろ 調べて見つけたのがマレーシアのラブアン島たった。 ブルネイに近いボルネオ島沖の小さな島で、一一世 紀から洋上交易の拠点として栄えた。第二次世界大 戦中は日本軍に占領されて前田島と呼ばれ、一九九 ○年にマレーシア政府がオフショア金融センター、 つまりタツクスヘイヴン(租税回避地)に指定した。  マレーシアの最大の魅力は、個人の居住者の場合、 国外所得が暫定的に非課税になっていることだ。当 初は二〇二六年までだったが、その後、二〇三六年 までの延長が決まった。  マレーシアでもっとも取得しやすいのが、コロナ 禍を受けて二〇二二年一〇月に始まったリモート ワーカー用のデジタルノマドビザたった。条件はI T・デジタル系の専門職で年収二万四〇〇〇ドル以 上。フリーランスの場合は契約期間や報酬が記載さ れている契約書が必要になるが、知り合いの会社に 頼むと二つ返事でつくってくれた。あとは銀行口座 の取引明細、確定申告書、給与明細、卒業証明書、 無犯罪証明書などがあればいい。いちばん手間取っ だのは親の説得だが、シンガポールのスタートアツ プに参加するといって強引に説き伏せた。  国外所得が非課税になる恩恵を受けるだけなら居 住地はマレーシア国内のどこでもいいが、ラブアン が気に入ったのは英語が通じることと、金融機関用 にネットのインフラが整備されていることだ。その うえ、ラブアンで法人を設立すれば就労ビザを取得 することもできる。デジタルノマドビザでは最長で も二年間しか滞在できないので、いずれ検討するこ とにした。  二〇二二年にマレーシアに移住してから、国内に あるクリプトを海外の交換所でドルに換えて香港の 銀行に送った。非居住者になれば日本国への納税義 務もなくなるが、仮に税務当局から否認されても、 民法の時効は刑法とはちがい海外にいても停止する ことはないと解されるので、最長七年で納税義務は 消滅する。  しばらくはいろいろな手続きで忙しかったが、そ れらが一段落すると狭い島ではやることがなくなり、 タイがデジタルノマドビザを始めると知ってバンコ クにも家を借りることにした。とりあえず観光ビザ で入国し、今年七月に五年間有効なビザを取得した が、タイでは二〇二四年一月以降、国外所得を国内 に持ち込んだ時点で課税されることになっだので、 支払いには海外のクレジットカードを使うことにし ているI。  問われるままに、樹生はおおよそこんなことを話 した。その間、咲桜はずっと真剣な表情で話を聞い ていた。  「すごいのね」感嘆したような声をあげた。「わた しだったら、二十代でぜったいそんなことできな かった」  いつのまにか雨は止み、ライトアップされた建物 が水滴で光っている。  「たいしたことじやないですよ」そういってから、 もうすこし正直にこたえたほうがいいと思った。 「子どもの頃から、ほかのみんなと同じことができ なかったんです」  気まずくなるほど長いあいた、咲桜は樹生を見つ めていた。その瞳は、茶色というよりも灰色に近 かった。  「わたしたち、似てるかも」と咲桜はいった。  四七階の部屋。音のない動画を見ながら、咲桜と の会話を思い出していた。強いスコールのあとで、 夜景がまぶしいほど輝いている。   ログインできるようにしたノートパソコンのデー タをハードディスクに転送し終えると、咲桜はカル ティエの時計をちらっと見て、「そろそろ戻らな きや」とため息をついた。「次、いつ会えるかな」  戸惑っていると、咲桜がいった。「次はわたしが 質問にこたえるから。なんでも訊いていいよ」  スマホを取り出してLINEを交換した。  「わからないことがあったら、相談していい?」  もちろん、とこたえた。 「よかった、樹生くんに会えて」小さく笑った。  咲桜はスマホのショートメッセージで、ドライ バーにホテルの前まで来るよう伝えた。  「送ろうか? わたしが住んでるのスクンビットだ けど」  方向がちがうし、雨で渋滞しているだろうから、 メトロで帰ると遠慮した。  ホテルの前で黒のベンツのワンボックスカーに乗 り込む咲桜を見送って、ルンビニー駅まで歩いて地 下鉄に乗った。ワットーマンコン駅で降りてアパー トに着いたときは、午後六時を回っていた。三時間 ちかくも咲桜と話をしていたことになる。  マットレスの固いベッドに腰かけると、Signalを 立ち上げメッセージを送った。音声データは共有の サーバーではなく、個人用のサーバーにアップロー ドしてから消去した。スマホから五匸一ギガのメモ リーカードを取り出し、ポケットに入れると、バッ クパックに入れてある新しいSDカードと交換した。  一階の中華料理屋でワンタンメンを食べ、スマホ をアパートの充電ケーブルにつなぎ、フルフェイス のヘルメットをもって駐車場に向かった。  夜一〇時。天空に浮かんだような部屋は静寂に支 配され、樹生は世界から孤絶していた。いつものよ うにミルクティーを淹れたあと、ポケットのSD カードをノートパソコンに挿入する。咲桜のパソコ ンのデータをハードディスクに移しているあいた、 スマートフォンのテザリングによるWi-Fi接続で ファイルを転送していたのだ。  ファイルを開いて中身をざっとチェックした。精 密機器の設計図がいくつか。業務用の大量のメール。 日本の機械メーカーの関連会社に所属するタイ人の 技術者が、仕事で使っていたもののようだ。いずれ にせよ、咲桜のパソコンでないことは間違いない。  大麻入りのクッキーをかじりながら、データをい くつかに分割して圧縮し、サーバーにアップロード した。ファイルの解析は自分の仕事ではない。その うち結果が伝えられるだろう。  Wi乱OwsのノートパソコンでLINEを開くと、 咲桜からメッセージが届いていた。   今日は楽しかったよ   来週、時間ある?   ご飯、食べに行こう  いつでもいいですと、返信した。 すぐに既読がついて、メッセージが送られてきた。  じやあ月曜の夜  場所は決めて  樹生くんがいつも行つてるようなお店がいい  安いタイ料理屋ですよ  楽しみ晉 メーラーを開くと、HALから暗吁化されたメー ルが届いていた。秘密鍵で復吁する。  「荷物、受け取ったよ。ありがとう」とある。先月 送った小包が、ようやく届いたらしい。代金をビッ トコインで樹生のウォレットに送ったことと、新し い注文が記されていた。  HALとは、コロナ禍の時期にハッカーコミュニ ティで知り合った。チャットで他愛もない会話をし ているとき、いきなり「君、日本人?」と訊かれた。  「なんで?」と訊くと、「英語が日本人ぽいから」 という返事たった。VPNを使ってサーバーを迂回 しているのに、IPアドレスを見られたにちがいな いと思った。HALはコミュニティの伝説的な存在 で、人間離れしたパッキングの技術をもっていると されていた。その名前はもちろん、映画『2001 年宇宙の旅』に出てくる人工知能HAL9000か らとられている。  一瞬、緊張したが、そのあとのHALの問いは意 表をつくものだった。  「テレサーテンの歌は、日本人が聴くと、ネイティ ブじやないってわかるの?」  樹生はそもそも、テレサーテンを知らなかった。 調べてみると一九五三年に生まれた台湾の歌手で、 中華圈で郵麗君として有名になったあと、二十一歳 のときに演歌歌手として日本で知られるようになっ た。そのときの芸名がテレサーテンだ。一九七四年 から次々とヒットを飛ばしたが、八七年に香港に移 住してからは歌手活動をほとんど休止し、八九年に は香港で行なわれた民主化要求デモに参加した。そ の後、パリに移り住むが持病の喘息が悪化し、九五 年五月八日に静養のため訪れていたタイーチェンマ イのホテルで気管支喘息の発作を起こし急死した。 享年四十二。  「YouTubeで聴いてみるよ」とこたえると、シー タレットチャットのアドレスが送られてきた。  なぜこんなことを知りたがるのか不思議だったが、 HALはあらゆることに興味をもつことがわかった。 たまたまそのときはまっていたのが日本の昭和歌謡 で、ネット上の音源を片っ端から収集していたらし い。  HALのようなハッカーにとっては、あらゆる情 報は公開されるべきで、それを隠蔽しようとする者 がパッキングの対象になる。だが、日本人がテレ サーテンの歌を日本語としてどう聴くかは、検索し ても出てこなかった。だから、チャットで日本人を 探していたのだ。  何曲か聴いて、「歌はものすごくうまいし、歌詞 も明瞭だけど、それでも日本語のネイティブでない ことはすぐわかる。でも、それが逆に魅力になって いる」とこたえた。「どちらかというと中国語の歌 が好き。とくに「yu£ liang dai biao wo de xin(月亮代 表我的心‥月は何でも知っている)」」とつけ加えた。  その後もHALからは、樹生か生まれる前の歌謡 曲についての質問が来た。「アンールイスの歌はど うか?」と訊かれたので、これもYouTubeではじ めて聴いて、「完璧な日本語。まったく違和感がな い。ただ、日本人にしては英語の発音がうますぎ る」とこたえた。外国人や、外国ルーツの歌手が歌 う昭和歌謡に関心があるようだ。  HALの正体はまったくわからないが、「「グッ ドーバイーマイーラブ」は、一九七〇年代の日本の 歌にしては、女が男に従属してないのがいい」と書 いてきたときは、もしかしたら女なのか、と思った。  樹生か東南アジアに移住することを伝え、タイが マリファナを解禁すると、「こっちに送ってくれな い?」といって、HALは大麻ショップ、銘柄、郵 送方法を指定してきた。最近はダークウェブの業者 のなかにも、信用できない者が増えてきたのだとい  送り先はイスラエルのエルサレム郊外。ユダヤ人 であることは、なんとなくわかっていた。「こっち はヘンテコな帽子をかぶり、カールした髭を伸ばし た、頭のおかしな奴らに囲まれてるんだよ」と愚 痴っていたし、ハマスによるテロがあってからは、 「今日も一日中地下室」と書いていたからだ。  郵送先の住所を(joogle Mapで調べてみると、大 規模な軍事基地の隣にあるなんの変哲もない雑居ビ ルたった。そこには住んでいないだろうが、なんら かの方法で荷物を受け取らなければならない以上、 実際の住所もそれほど遠くないだろう。  脳は進化が生み出したシミュレーションマシンで、 「もしこうなったら……」「あのときもしこうしてい たら……」という日辷可尸・」のアルゴリズムを四 六時中走らせている。樹生はそれを止めたくなった とき、マリファナを吸うようになった。たとえ短い あいたでも、不安が薄らいで深い安堵感に包まれる。  HALの場合、このシミュレーションがあまりに 高速で、強力な大麻のちからによってそれを無理矢 理減速しないと、焼き切れてしまうのかもしれない。 昭和歌謡を饒舌に論じながらハッキングし、樹生か 離れると別の相手とまっだくちがう話題でチャット を始め、ログを見るとほとんど寝ていない。HAL の驚異的な活動量は人間というより、AIに近かっ た。  昨日、新しい荷物を送ったという文面を書くと、 HALの公開鍵で暗号化して、匿名メールのアカウ ントから送信した。そろそろ大麻が効いてきて、世 界がすこしずつ遠のいていくのがわかる。  ぎこちない笑みを浮かべて、十六歳の咲桜が司会 者の質問に生真面目にこたえていた。音声は消して いるが、そのときなにをいったのか、一言一句すべ て覚えていた。  この番組を見だのは小学校六年のときだった。樹 生は確信した。  自分と同じ人間をはじめて見つけた。  スクンビットのナーナーにある大麻カフェにはけ だるい音楽が流れていた。この一帯は夜になると ゴーゴーバーのネオンで埋め尽くされるが、夕方五 時過ぎは女たちの姿もまばらだ。  「マリファナのBGMとしては最高だよな」ジョイ ントを巻きながら沈没男がいった。「シューゲイ ザーつていって、トリップのときの感覚を再現した サイケデリックロックなんだ」  フ靴を見つめる奴(Shoegazer)^のこと?」ガラス テーブルの上に置かれたコーヒーに手を伸ばしなが ら、樹生は訊いた。「音楽のジャンルとしては妙な 名前ですね」  「ギターの音をこんなふうに歪ませるには、足元の エフェクターをずっと踏んでなきやいけないだろ。 それで、いつも靴ばっかり見てるように思われたん だ」沈没男は自慢気に説明した。「ギタリストの ボーカルが歌詞を覚えられなくて、演奏中、床に 貼った歌詞をずっと見てたって都市伝説みたいなの もあるけど」  「そうなんだ。なんてバンドですか?」  「Slowwves(スロウベス)つていうタイの三人組。 いまけっこう流行ってて、あちこちの大麻カフェで かかってる。すげえよな、いつのまにかタイの ミュージシャンもこんな最先端の音楽をやるように なって」  ささやくような女性のボーカルは、たしかに懐か しい夢の世界に誘い込むようだった。沈没男が差し 出すジョイントを「このあと約束があるから」と 断って、樹生はSpotifyでバンドを検索した。  「イラクに行ったことがあるっていう奴がいてさ あ」深々と吸った大麻を天井に向けて吐き出すと、 沈没男が話を変えた。「そんなの無理に決まって るっていったら、パスポートのスタンプ見せられた んだ。たしかにイラクに入国して、四日問滞在して から出国してた」  「それ、いつ頃ですか?」  「二〇〇七年か八年かなあ。いちばんヤバい時期だ ろ」  「ああ、それならぼくも引っかかりましたよ」樹生 は苦笑した。「入国したのはイラクでもタルト人自 治区ですよ」  「タルト?」  9∴11同時多発テロヘの報復で、米ブッシュ政権 は二〇〇三年にイラクに侵攻し、たちまちのうちに フセイン政権を打倒した。その後、アメリカの占領 政策は少数派のスンニ派と多数派のシーア派の対立 で混乱するが、これまで弾圧されてきた北部のタル ト民族がそれを利用して独立に向けて動き出し、自 治政府を樹立して出入国管理も独自で行なうように なった。隣国シリアでイスラーム原理主義の武装組 織IS(イスラム国)が台頭してはげしい戦闘にな る二〇一四年までは、クルディスタン地区はイラク のなかでも例外的に治安がよく、中心都市のアル ビールにはアメリカ領事館とアメリカ企業のイラク 拠点が置かれ、招待状さえあれば誰でも入国できた。  「その頃、イラクの銀行に口座をつくるのが流行っ てたらしいんです」  「銀行口座? イラクに?」沈没男が怪訝な表情を 浮かべた。   一九九〇年にフセインがクウェートに侵攻すると、 クウェートのディナールが暴落した。ところがアメ リカが多国籍軍をつくってクウェートを解放すると、 通貨の価値はたちまちもとに戻った。その一方で、 それまで三ドル以上で米ドルと交換されていたイラ クのディナールは、フセインが戦費調達のため紙幣 を大量に印刷したことで、その価値がIドル=三〇 〇〇ディナールと一万分の一以下になってしまった。  「でもイラクには膨大な石油が眠ってるでしよ。だ からアメリカがイラクを統治して経済が回復すれば、 ディナールの価値も大きく上がるにちがいないって いう経済評論家が現われたんです」  「なるほどねえ」沈没男はマリファナの煙を吐き出 した。「通貨の価値が一万倍になるとすると、一〇 万円分のディナールを先回りして買っておけば、 え1と、一〇億円ってわけか」  こうしてタルト人自治区の銀行が招待状を発行し、 アメリカを中心に世界中から投資家を呼び込んで銀 行口座をつくらせるビジネスが始まった。投資家は ドルから両替したディナールを銀行に預けることも、 紙幣を受け取って国外に持ち出すこともできた。そ うしたディナール紙幣は、ウェブサイトで高値で販 売された。  日本人のディープなバックハッカーのあいたでも、 銀行の招待状を取得してアルビールからイラクに入 国する方法がちょっとした話題になった。二〇〇四 年にヨルダンからバグダッドに向かった日本人青年 がテロ組織に拉致され、殺害される事件が起きたが、 それ以降にイラクを訪れたと自慢するのはほぼ全員 がタルト人自治区への入国だ。  「そんな裏技があったのか」沈没男は感心したよう にいった。「で、ディナールはどうなっだの?」  樹生はスマホでレートを調べた。  匸ディナールは○・○○○七六ドル。いちばん安 かったときが○・○○○三ドルだとすると、二倍く らいには上かってますね」  「ふん」と鼻で笑った。「一万倍になると思って 買った奴らは、紙屑みたいな札束を抱えて大損し たってわけか」  「ほら」とスマホ画面を見せた。「日本のサイトで もディナール紙幣を売ってます」  「ほんとだ」覗き込んでから、「これって、どのく らいぼってるの?」と訊かれた。  匸○○○ディナールがIドルだとすると……」樹 生は計算した。「一万ディナール札が一五〇〇円、 それを二〇〇〇円弱で売ってるわけだから、手数料 は三割から五割って感じかな」  「このサイト、ジンバブエの紙幣も売ってるじや ん」スマホをいじりながら、沈没男が大きな声をあ げた。「ヴィクトリアの滝に行ったとき、一〇〇兆 ジンバブエドル紙幣、売りつけられたことあるよ。 たしか五〇ドルだったかなあ。バカバカしいと断つ たんだけど、それが三万円で売られてるのか。あの とき、仕入れときやよかったなあ」  ソファの背にもたれると、天井に向けて器用にマ リフアナの煙の輪をつくった。  「炭治郎がさあ」沈没男がいった。「ブツの受け渡 し方法を考えろっていってるんだけど、なんかいい アイデアない?」  「ブツつて?」  「日本で稼いだカネをビットコインに両替するじや ん。そのまま置いといてもしかたないから、ミャン マーの組織と話をつけて、大量に仕入れることにし たんだって。あそこ、内戦で混乱してるだろ」  煙を吸い込むと、しばらく目を閉じた。「ヘロイ ン、覚醒剤、エクスタシー、なんでも揃ってて、貨 物に紛れ込ませて日本に持ち込むのも問題ないん だって。ただ、それを客のところに届ける手段で 困ってるみたい」  「ゆうパックで送ればいいんじやないですか? い ちいち中身、調べたりしないでしよ」  「だめだめ」と手を振った。「顧客は1000人以 上もいるんだよ。あちこちの郵便局から発送したと しても、いずれあやしまれるよ。それに、客のほう も自宅に送られるのはイヤがるんだ」  「だったら、闇バイト雇って、もっていかせるの は?」  「それが最近、バイト代上がってるんだって」顔の 前でまた右手をひらひらさせた。「闇バイトに申し 込む奴らって、犯罪だってわかったうえで、できる だけ手っ取り早く稼ぎたいって思ってるだろ。覚醒 剤受け取って、電車乗り継いで客が指定した場所ま で行って、それがおとり捜査かもしれないのに、最 低時給にいくらか足したくらいじや誰もやらないよ。 それに、安いカネで請け負う奴は、大金を受け取っ たとたんに持ち逃げしようとするから、雇うほうも 警戒するんだ」  沈没男は、「ダークウェブで調べてみたんだ」と 話をつづけた。「そしたら、公園の樹の下に埋めて おいて、その場所の地図をテレグラムで送るとかの、 役に立だないアドバイスばっかり。そんなこと日本 の公園でやったら、たちまち通報されるよ」  「ドラッグのラストワンマイル問題?」  「そうそう。たっちやん、うまいこというねえ」  「こんなのどうかなあ」ちょっと考えてからいった。 「駅にあるコインロッカーつて、最近はSuicaとか のICカードをキーとして使うでしよ。でも対応す るICカードをもってない外国人客なんかのために、 現金も使えるようになってるんですよ。タッチパネ ルで現金支払いを選ぶと、暗証番吁が書かれたレ シートが出てくる。その暗証番吁を知っていれば、 誰でもロッカーを開けることができる」  「なるほどね。ブツをロッカーに入れたらレシート を撮影して、それを客に送ればいいのか」大麻が効 いてきたのか、ただでさえゆるい顔がさらにニヤつ いている。「これでまた炭治郎に貸しができた。 たっちやん、いつも助かるよ」  沈没男と別れてからBTSのナーナー駅まで歩き、 サイアム駅でスクンビット線からシーロム線に乗り 換えた。Signalを立ち上げて沈没男との会話をメモ して送信し、音声データをサーバーにアップする。  サパーンタークシン駅で降りてサトーンの船着き 場まで歩いた。すこし早いが、リバーボートでター ティアンの船着き場まで行く。ワットーポー(涅槃 寺)に沿ってしばらく歩き、路地に入ると、その突 き当りにチャオプラヤー川に面した洒落たレストラ ンがあった。  テラス席に案内され、待っているあいたに、あた りは夕闇に包まれた。観光客を乗せた船が次々と川 を上っていく。  「うわあ、素敵なお店」七時ちょうどに現われた咲 桜が大きな声をあげた。対岸のワットーアルンが黄 金色にライトアップされている。  「この席、めったに取れないんですけど、電話した らたまたまキャンセルが出ていてラッキーでした」 そういって、暁の寺が正面に見える席を勧めた。  鮮やかなパープルのベアトップのロングワンピー ス。シルバーのペディキュアをした素足にアンクル ストラップのサンダル。大きな黒のセリーヌのサン グラスと貝殻にダイヤをあしらったイヤリング。そ してシルクのアームカバー。  「わたし、バンコクに五年ちかく住んでるのに、夕 イ料理のレストランつてほとんど知らないの」  「ここはイサーンつていうタイの東北地方の料理な んです。ラオス料理に似ていて、インディカ米じゃ なくてもち米が主食で、ちょっと辛いです」メ ニューを渡しながら、苦手なものはないか訊いた。  「なんでも食べられるよ。わたし、食い意地が張っ てるから」メニューを開き、店の由来が英語とタイ 語で書かれているページを見て、「このおばあちゃ んの家庭料理なんだ。きれいなひとね」といった。  「飲み物は?」  「どうしようかなあ」とメニューをめくり、「モ ヒートあるんだ」といって、「じやあ、カラマン シーのモヒート」といった。カラマンシーは東南ア ジアで広く栽培されている柑橘類だ。「食べ物は樹 生くんに任せる」  ウェイターを呼んで、モヒートとシンパービール に、前菜の盛り合わせ、スパイシーサラダ、マッ シュルームのスープ、カニのレッドカレー、もち米 を頼んだ。  飲み物が来るまで、咲桜は頬杖をついて、ワッ トーアルンを背景に川を上り下りするボートを見て いた。  乾杯のあと、「今日はわたしがこたえる番ね」と 咲桜がいった。「なんでも訊いていいよ」  「あの、バンコクに来た理由を教えてもらえます か?」  「知ってると思うけど、わたし、日本にいられなく なったでしよ」天気の話でもするようにいった。 「そしたらバンコクに誘ってくれるひとがいて、外 国なんて撮影でしか行ったことなかったから、どう しようか迷ったんだけど、コロナになったでしよ。 それで、このままこの国に監禁されたら殺されちや うと思って、入国規制が始まる前に飛行機に飛び 乗っだの」  「殺されちやう?」  「うん。殺害予告みたいのがたくさん来たから」モ ヒートにちょっと囗をつけた。「死ぬことはどうで もいいの。でも、いくらなんでもこんなのイヤだっ て思っだの」  運ばれてきた前菜に「かわいい!・」と声をあげる と、「これなに?」と英語でひとつずつウェイター に訊ねた。「タイ語、ぜんぜん覚えられなくてダメ ね」  「ぼくも二年前にマレーシアに家を借りたんですけ ど、ずっと英語です」とこたえた。  咲桜は豚肉、ピーナッツ、ローストしたココナッ ツを葉っぱで包んだ前菜を囗に運ぶと、「美味しい」 と微笑んだ。「コロナのときはバンコクにいて、建 物から一歩も出られなくて、スーパーで日本の食材 を買ってきてもらって自分で料理したんだけど、た まにタイ料理のケータリングも頼んだの。でも、カ レーと焼きそばばっかり。こんな料理、はじめて」  樹生はもち米のクラッカーを手に取ると、豚ひき 肉のソースにディップして食べた。「これもウマい ですよ。辛いですけど」  咲桜七手を伸ばしてライスクラッカーをひと囗食 べ、「ほんとだ」と顔をしかめた。  「こっちで面倒見てくれるひとがいて、彼の会社で 秘書と家政婦みたいなことしてるの」咲桜は話をつ づけた。「ご飯つくってたのも、彼が日本食しか食 べないから。日本から食材が届かなくて、大変たっ た」  それから、「勘違いしないで」と笑った。「ずいぶ ん年も離れていて、そういう関係じやないから」  顔色を読まれたのかと思って、「すみません」と 謝った。  「バンコクにいるのに、どこにも行ったことがない の」咲桜は自然に話題を変えた。「樹生くんはマ レーシアとタイだけ?」  学生時代はバックハッカーだったので、東南アジ アはすべての国を旅行したことがあるとこたえた。  「ミャンマーも?」  「軍のクーデターが起きたのが二〇二一年二月で、 その前は東京の大使館でビザを出してもらえば簡単 に入国できたんです。ミャンマー国内もとくに規制 はなくて、ヤンゴンだけじゃなく、バガンやマンダ レーにも行きました。ただ、クレジットカードはほ とんど使えないから、米ドル紙幣をもってないと困 りますけど」  「いいなあ。東南アジア以外は?」  北米、中南米、中国、インド、ヨーロッパなど、 たいていのところは行ったことがあるとこたえた。 「でも中東は一部の国だけだし、アフリカは北と南、 西は行きましだけど、東アフリカと中央アフリカは 治安が悪くて」  「すごいのね」というと、「音楽、なにが好き?」 と訊いた。  「えっ?」  「なんか、またわたしが質問する番になっちゃった けど、相性を知るときにはまず音楽の話をするで しよ」と笑った。「樹生くんがバッハで、わたしが ハードコアーパンクだったら、きっとうまくいかな いし」  しばらく考えて、「フィーバー」とこたえた。「マ ドンナの曲」  咲桜が吹き出した。「なんでマドンナなの?」  「いや、演奏はマドンナじゃなくて、ボサノバー ヴアージョンなんですけど。ちょっと思い出があっ て」  大学三年のときにイランからアゼルバイジャン、 ジョージア、アルメニアを回る旅をした。ペルシア 帝国の首都で、アッバース一世が建設したモスクで 知られる古都イスフアハンを歩いているとき、中庭 にテーブルと椅子を並べたおしゃれなカフェを見つ けた。  店をやっているのは若い女性二人で、中庭を囲む 平屋は工房になっていて、地元のアーティストたち が作品を制作しているのだと説明された。ちょうど 日没時で、西の空か貞っ赤に染まっていた。びっく りするほど美味しいミルクティーが白磁のポットで 出された。乾いた風が心地よかった。  「その店でずっと流れていたのが、ボサノバ風の 「フィーバー」だったんです」  ミルクティーを飲み終わると、工房を見学しない かと誘われた。そこでは二十代半ばとおぼしき痩せ た若者が、樹生にはよくわからない現代アート風の 絵を描いていた。  日本から観光に来たと自己紹介すると、「ようこ そ、クソみたいな国へ」と男はいった。「この国は すべてクソだ。宗教もクソ、政治もクソ、なにもか もクソ。なんでこんなところに来るのか、気が知れ ないね」  男は、ニューヨークの画廊に認められてこの国か ら抜け出すのが夢だと語った。恋人同上なのだろう、 それを隣で、微笑みながら店の女性が聞いていた。 二人には、すくなくとも夢があった。  テーブルに戻っても、まだ「フィーバー」が流れ ていた……。  「その曲、聴ける?」咲桜がハンドバッグから Bluetoothのイヤホンを取り出した。  スマホとイヤホンを接続し、Spotifyで曲を検索 した。咲桜がイヤホンをひとつ、樹生に渡した。  再生ボタンを押す。目を閉じて音楽を聴いていた。  「たしかに、イランの風を感じるかも」咲桜がいっ た。「夢を追いかける二人の若者も」  そのまま二人して、ゆったりとしたボサノバに身 を任せていた。  レッドカレーと、小さな寵に入っだカオニャオと 呼ばれるもち米が運ばれてきた。モヒートとビール を飲み終わると、自ワインのサングリアをピッ チャーで頼んだ。  「これ、どうやって食べるの?」と訊かれたので、 指をボウルの水で洗ったあと、丸く固めてカレーや スープにディップするやり方を教えた。  咲桜は真剣な表情でもち米を固め、カレーに浸け て食べた。  「はじめてのことばかり。すごく楽しい」  「こんなんでよければ、いつでも案内しますよ」  「ぽんと?」咲桜が笑った。「わたし、すごいわが ままだよ」  「喜んで」  それからしばらく、他愛のない話をした。咲桜は ジヤスティンービーバーが好きなのだが、ずっとい えなかったと話した。  「ちょっととがったイメージで売り出したでしよ。 だから、テクノとかトランスとかにしなさいってい われて」何人かのミュージシャンの名前をあげたが、 樹生は一人もわからなかった。  「あと好きなのは、ホイットニー・ヒューストンと マライアーキャリー」  「なんで?」  「歌が下手なのに、うまそうなふりをして歌うのっ て、すごい罪悪感があるの」と咲桜はいった。「ホ イットニーとマライアには神から授かった才能があ るでしよ。歌手って、ほんとうはああいうひとがや るものなの。ホイットニーは、最期は悲惨だったけ ど」  「テレサーテンも同じだ」樹生はいった。「最近、 ときどき聴いてるんです」  咲桜がまた吹き出した。「ぜんぜん音楽の趣味が わからないよ」  ネットで知り合ったハッカーから、昭和歌謡につ いてあれこれ訊ねられているのだと説明した。  「樹生くん、パソコンやスマホに詳しいもんね」咲 桜が探るような目で、こちらを見た。「ひとつ訊い てもいい?」  「なんですか?」  「スマホを家に忘れてきちやったとするでしよ。で もそのなかに、いまどうしても必要なデータがある。 そんなとき、遠隔でスマホを操作して、データを取 り出す方法はあるの?」  「それはぜんぜん難しくないですよ」とこたえた。 「自分のスマホに外からアクセスできるように設定 しておけばいいだけですから。リモートワークで、 会社のパソコンにアクセスするのと同じです」  「iPhoneでもできる?」  「写真やファイルなどのデータは自動的にiCloud にアップされるから、そこにログインしてデータを ダウンロードするのがいちばん簡単です」  「その方法が使えなかったら?」  「その場合はiPhoneを遠隔で操作することになり ますが、新しいヴァージョンはセキュリティがきび しいので、ふつうの手段では難しいと思います。古 いOSならなんとかなるかもしれませんが」  「古いって?」  「iOS15より前なら」樹生がこたえると、咲桜はそ れを自分のスマホにメモした。  「ハッキングつてどういうことか、わたしにもわか るように説明して」  「そんなこと、考えたこともないから」と樹生は苦 笑いした。「え1と、たとえば窓もなくて、入口が ひとつしかない家に住んでるとするでしよ。これな ら、その入口にしっかり鍵をかけておけば、誰かが こっそり侵入してくる心配はない」  「でも、なんか監獄みたいね」  「そうなんです。セキュリティがしっかりした家は、 ぜんぜん楽しくない」樹生はいった。「それで、い ろんなひとに来てもらいたいとするでしよ。すると、 みんなに合鍵を渡したり、誰でも人つて来れる共用 スペースをつくったりしなきやいけない。景色がよ く見えるように窓をつけたり、庭に出るための裏口 や、外から二階に上がる階段をつけたりすれば便利 ですが、そうするとどうしてもセキュリティのレベ ルが下かってしまう」  「安心して暮らそうと思うと、使い勝手が悪い。み んなに楽しんでもらおうとすると、誰が人つて来る かわからない」  「そのとおりです」とうなずいた。「ネットワーク システムを設計するエンジニアは、このトレードオ フを解消して安全と利便性を両立させようと四苦八 苦してるんですけど、プログラムはどんどん複雑に なっていて、どうしても鍵がかかっていなかったり、 外れやすくなっているドアができてしまう。ハッキ ングつていうのは、そういうドアを誰よりも先に見 つけるゲームなんです」  「それでどうするの?」と咲桜は訊いた。  「ホワイトハッカーは、このドアを直したほうがい いよと教えてあげる。ブラックハッカーは、そのド アから侵入してお金を盗んだりする」  「樹生くんはどっち?」  「ぼくはどっちでもないですよ」慌てて首を振った。 「ハッカーとしてたいした技術があるわけでもない し、たんにこの世界がどんなふうになっているか興 味があるだけです」  「なんで?」  「ルールがわからないと攻略できないから」  「攻略?」咲桜が笑った。  「え1と、小学校の頃に、なんで大人がこれをやれ、 あれをするなっていうのか、みんながなぜそれに従 うのか、わからなくなっちやったんです匸一。肖葉を選 びながら、こたえた。「でも、一人だけちがったこ とをしてるといじめられるでしよ。だから、これは ゲームなんだと思うようにしたんです。ゲームなら、 ルールがわかれば攻略できる。そうすれば、この世 界でなんとか生きていけるって」  咲桜が、色の薄い瞳でじっと見つめていた。まる で吸い込まれるようだ。  「写貞撮ろう」と、唐突にいわれた。  戸惑う樹生を隣の椅子に座らせると、咲桜は店員 を呼んでスマホを渡した。ライトアップしたワッ トーアルンを背景に、店員がスマホのカメラを構え ると、ごく自然に樹生の身体に腕を回した。  「ぼくのスマホでも撮っていいですか」と訊くと、 「もちろん」と笑った。  カメラを起動して店員に渡し、もういちど並んで 座った。咲桜は細い身体を樹生に押しつけ、頬が触 れるほど顔を寄せた。  食事が終わって樹生か財布を取り出そうとすると、 「いいの」と咲桜が手で制して、クレジットカード で精算した。「会社のカードで、自由に使ってい いっていわれているから」  それから、「わたし、マリファナやってみたいの」 といった。「これまで自由な人生なんてなかったか ら、いろいろ体験したいの」  樹生はスマホを取り出し、配車アプリで車を呼ん だ。「ほんとうはリバーボートで行きたいんですけ ど、この時間はもう終わってるから。ここからカオ サンなら、そんなに渋滞することもないでしょう」  バンコクのソイ(小道)は行き止まりになってい ることが多く、どの車も幹線道路に入ろうとするの で、通勤時間や雨のときは渋滞にはまって身動きが とれなくなる。BTS、メトロ、リバーボートを組 み合わせるか、バイクで移動するのがいちばんだと 話した。  「樹生くん、バイク乗ってるんだ」咲桜がいった。 「こんどわたしを後ろに乗せて。それもやったこと ないの」  一〇分ほどで、レストランの前に車が来た。  夜九時を回って、カオサン通りは白人のバック パッカーたちであふれていた。道の両側に果物や ジュース、安物の服や時計、その他よくわからない ものを売る露店が並び、レストランからは大音量で 古い洋楽が流れ、マッサージ店の呼び込みの女の子 たちが看板をもってミニスカートで立っている。  「こんなところがバンコクにあるんだ。ぜんぜん知 らなかった」咲桜は驚きの声をあげた。  どこからか大麻の甘い匂いが漂ってくる。カフェ の奥が安宿になっていて、そこに泊まって仲間を探 し、次の目的地を目指すのだと説明した。  「目的地に着いたら別れて、そこの安宿で新しい仲 間を探して、そうやって世界中を旅しているうちに、 むかしの知り合いと出会う。そういうゲームなんで す」  「それもゲーム?」咲桜が驚いたように目を見開い た。  「すみません。いろんなことをゲームとして理解す る癖がついてて」樹生は慌てていった。  「謝らなくていいよ」咲桜が樹生の右腕に腕を回し、 「この世界はゲームなのかあ」とつぶやいた。  巨大な大麻の葉をかたどったネオンのあるビルに 案内した。入口に「最大の大麻複合施設」の看板。 地下一階のフロアに複数の大麻ショップを集め、共 用スペースでは購人したジョイントを試すことがで きる。それ以外にも、大麻成分を使ったサプリメン トや化粧品など、さまざまな商品が並べられている。   樹生はざっとフロアを案内したあと、「大麻の 葉っぱを紙に巻いて、煙草みたいにして吸うやり方 と、電子タバコのようにVAPE(ベイプ)つてい う吸引器で蒸気を吸うやり方があるんです。はじめ てなら、VAPEのほうが咽喉に負担がないと思い ますが」と説明した。  「『トゥルー・ロマンス』つていう映画で、ブレイ クしたばかりのブラッドーピットがソファにもたれ てマリファナを吸うシーンがあるの。わたし、ああ いうのがやってみたいの」と咲桜はこたえた。  樹生は空いている店を選ぶと、若い店員に「ビギ ナー向けのある? THCが強くないやつ」と訊い た。店員は、軽めの大麻を紙に巻いて、クラッチと 呼ばれる吸い囗をつけたジョイントを薦めた。  その五本セットと大麻クッキーを一袋買い、百円 ライターを借りた。「ちょっと試してみましょう」 と、共用スペースのテーブルに案内する。袋から ジョイントを取り出し、火をつけて煙を吸った。  「できるだけ長く、煙を肺にとどめておくのがポイ ントなんです。それだけ早く効果が出ますから」と 説明して、咲桜に渡した。  咲桜は目を閉じて煙を吸い込み、たちまちはげし くむせた。  「無理することないですよ」樹生はいった。「最初 はすこしずつやってみてください。だんだん慣れて きますから」  「これで幻覚とか見るようになるの?」顔をしかめ、 軽くせき込みながら訊いた。  「それはLSDのような幻覚剤です。大麻にそんな 効果はないです。感覚が鋭くなったり、不安感が 減って幸せな気分になったりすることが多いです」  「なんで不安がなくなるの?」  「ぼくたちはいつも、未来のことを心配したり、過 去のことを後悔したりしてますよね」  「あのときこうしたらよかったのに、とか、こんな ヒドいことが起きるにちがいない、とか?」  「ええ。でも大麻成分には、それを止める効果があ るみたいなんです」  「それって、仏教でいう煩悩から解放されるみたい なもの?」  「宗教のこと、よく知らなくて。詳しいんです か?」と訊いた。  「ううん、なにかで読んだだけ」咲桜はすこし慌て たように見えた。  吸いかけのジョイントを受け取ると、灰皿に押し つけ、火を消して袋にしまった。  「今日はこれくらいにしておきましよう。あと、 クッキーは喫煙とちかって、胃から吸収されて脳に 到達するまで時間がかかるから、最初は半分に割っ たものを食べて、一時間くらい様子を見てください。 店によって大麻成分の含有量に差があって、動けな くなることもありますから」  「そうなったら、どうすればいいの?」  「半日くらい寝てれば、ぜんぶ抜けます。リラック スできる格好で、ベッドのそばで試したほうがいい です」ジョイントとクッキーの袋を咲桜に渡した。 「あとは、ホラー映画を観たり、残酷な写真や映像 を目にしたりしないよう気をつけてください。感覚 が増幅されるので、楽しいものや幸せなものは、そ の気分がより強くなります。逆に不気味なものや怖 いものは、バッドトリップの原因になります」  「樹生くんはいつもなにをしてるの?」  「えつ……」と言葉につまつだ。「子どもの頃の幸 せな記憶を思い出したりとか」とごまかした。  「幸せな記憶かあ」咲桜はため息をついた。「わた しにはないかなあ」  そのあとの沈黙が怖くて、スマホを取り出して配 車アプリを起動した。「そろそろ行きましようか。 家まで送りますよ」  「わたし、まだ帰らない」咲桜はそういって立ち上 がると、樹生の手を取った。  午後一一時を過ぎても、バンヤンツリーの六一階 にあるルーフトップバーは白人や地元の若者たちで 混み合っていた。冷えた自ワインを飲みながらしば らくバーカウンターにいると、ウェイターがテーブ ルが空いたと案内してくれた。  「夜景がいつもよりきれいに見える」咲桜が小さく 声をあげた。「これ、マリファナの効果?」  「そうかもしれませんね」樹生はいった。「あと、 世界がいまとここに収斂していくような感じ、しま せんか」  「どうかなあ」と首を傾げた。「ちょっとしたとき に、むかしのイヤな思い出がよみかえってくるんだ けど、いまはそういうのないかも」  それから、「樹生くんと一緒だからかもしれない けど」と笑った。  高層ビルの上に大きな満月が輝いていた。夜に なっても湿った風が肌にまとわりつくが、いまはそ れが心地いい。  「ほかのホテルにもルーフトップバーはあるけど、 アクリル板や強化ガラスで囲ったりしてるでしよ。 ここが好きなのは、その気になれば飛び降りられる こと」咲桜は優雅な手つきでワイングラスを唇に もっていくと、中空へと延びた狭い板の上でインス タ用の写貞を撮っている若い女性のグループに目を やった。「もしわたしが、マリファナのせいで空を 飛べると思って、あそこからジャンプしようとした ら、どうする?」  「大丈夫です。その前に止めますから」と笑ってこ たえた。  「だったら安心ね」といったあと、「ねえ、樹生く んの得意なことってなに?」と話題が変わった。  「得意なことですか?」しばらく考えて、こたえた。 「意味のない数字や記号を覚えられることかなあ」  「それってなにかの役に立つの?」不思議そうに訊 いた。  「なんの役にも立だないですよ。ただ、メモを取る 手間が省けるだけで」  咲桜がI〇桁ほどの数字を囗にした。樹生はそれ を復唱した。  次はアルファベットを混ぜて二〇桁ほどになった。 それも復唱したあと、「合ってますか?」と訊いた。  「そんなの、わたしが覚えてないよ」と咲桜が笑っ た。「でもすごい。どうやるの?」  「脳は短期記憶をワーキングメモリーというところ に保存するんですけど、容量にきびしい制約があっ て、いちどに覚えられるのは最大でも七つくらいな んです。でも数字や記吁を五つごとに分割すれば、 三〇桁くらいまでは記憶できる。電話番吁をハイフ ンで分割して覚えるのと同じです」  「それって、訓練すればわたしでもできる?」  「誰でもできますよ。ネットで調べれば、記憶力を 強化するトレーニング法がたくさん出てきます」樹 生はいった。「でもぼくは、特別な訓練をしたわけ じゃなくて、子どもの頃に気がついたらできるよう になってたって感じですけど」  「数字や記吁以外も、同じように覚えていられる の?」と咲桜が訊いた。  「いや、そんなことはないです。日本史や世界史の テストでも正解できるのは年吁だけで、成績はあま りよくなかったです」と笑った。「あと、その代償 かはわからないけど、他人の顔や名前を覚えるのは すごく苦手です。知らないひとから親し気に話しか けられて、なんとか話を合わせようとするのは しよっちゅうでした」  「だったら、わたしのこともすぐに忘れちゃうかも ね」と咲桜がいった。  「そんなことないです」強く否定した。「今日のこ とは一生忘れません」  だがこの言葉も誤解を与えかねないことに、すぐ に気づいた。  「あの、そういう意味じゃないんです」と言葉を足 した。  咲桜が怪訝な顔で樹生を見た。  「今日のことがぼくにとって特別なのは、たんにみ んなが知ってる有名人と会えたからじゃないんで す」姿勢を正すと、樹生はいった。「ホテルで会っ たとき、「わたしのこと、知ってるよね」つていっ たでしよ。あの事件のことだと思うんですけど、ぼ くが咲桜さんのことを知っだのは、もっとずっと前 なんです」  「テレビとか、たまに出てたから」  「そういうのでもなくて……」思い切っていった。 「ファンだったんです。小学校六年生のときから」  咲桜は両手を囗に当てて、「ほんとに」と小さく 叫んだ。「もしかして、会ったことある?」  「渋谷のタワーレコードのサイン会。一時間並んで、 握手してもらいました」  「コンサートは?」  「有明、代々木、横浜、いろいろ行きました。世田 谷も」  「世田谷って、区民会館? あの日、台風で電車止 まってたでしよ」  「家が世田谷だから、嵐のなか二時間くらい歩きま した」  「お客さん、五、六〇人くらいしかいなかったよね え」と笑った。  「でも、いろんなこと話してくれて、楽しかったで す」  「どうしよう。あんまりびっくりして、涙出てき ちゃった」  咲桜はそのまま、囗を押さえて細かく肩を震わせ ていた。「ごめんなさい」といって、バッグから取 り出したハンカチで涙をぬぐっだ。  「こんなこといきなりいって、迷惑でしたか?」  「そうじゃない」と大きく首を振った。「日本人が 相手だと、「このひとはわたしのこと、どこまで 知ってるんだろう」とか、「どう思ってるんだろ う?」とか、いろいろ考えなくちやいけないの。そ れで疲れ果てちやうんだけど、樹生くんには安心し てなんでも話していいのね」  咲桜のことは、もっと知っていた。ブログはすべ て読んで、データをサーバーに落とした。画像や動 画もすべて集めたが、そのことは黙っていた。  「わたしの家、子どもの頃ものすごく貧乏だった の」咲桜はウェイターを呼ぶと、自分と樹生のワイ ンを追加で頼んだ。「そしたら中学三年のとき、誰 かがネットに載せた写真を見たといって、芸能プロ の社長だという男が訪ねてきた。ぜったいに詐欺で、 風俗店で働かされるか、外国に売り飛ばされるかだ と思っだけど、それでもよかった。将来になんの希 望もなかったから」  咲桜が貧困の母子家庭で育ち、母親の負担を減ら すために東京に出てきたという話は、事件のあとで 報じられた。  「そしたら、その社長は本気でわたしを売り出そう としてたの。でも雰囲気が暗いし、しゃべりもかわ いくないからアイドルは無理で、アーティスト路線 でいこうってなって、なんでもいいからって詞を書 かされた。そしたら、有名なバンドのギタリストが それに曲をつけてくれて、どういうわけかアニメ番 組のエンディングテーマになって、そこそこヒット した」  咲桜のことを知ったのも、その番組を見ていたか らだった。解釈によっては恋人を追って自殺するよ うにも思える詞で、なんでこんな曲がテレビで流れ るのか興味をもったのがきっかけだった。  「それからはテレビ局を回って、雑誌やネットのイ ンタビューを受けて、コンサートやって……。でも わたし、バラエティー番組のひな壇でお笑いタレン トとギャグ飛ばしあったりできないし、かといって 歌だってうまくないし、詞の才能があるわけでもな い。アニメ番組が大ヒットしたから、そのときの ファンがついてきてくれてるだけだってことはわ かってた。けっきよく行き詰まって、ドラマや映画 に出るようになっだけど、演技の訓練なんて受けた ことないから、学芸会と一緒。プロの俳優さんに申 し訳ないと思っていた頃に、あの男に会った。そう いうこと」  話し終えると、グラスに残っていたワインを一気 に飲んだ。夜景を見て、「さっきみたいに、きらき らしなくなっちやった」といった。「やっぱり、い いことはつづかないのね」  雑誌のグラビアで咲桜の写真を見て、最初に惹き つけられたのは薄い色をした瞳たった。カラコンだ と思ったが、インタビューで本人が生まれつきだと こたえていた。ファンのあいたでは、その瞳で見つ められると魔法にかかったようになるといわれてい た。いまは髪をセミロングに伸ばしているが、当時 は茶髪のショートで、エヴァングリオンの綾波レイ に瓜二つだと評判になった。そして、デビューの頃 からずっとつけている左腕のリストバンド。リスト カットの痕を隠しているのだと噂されていた。  「樹生くん、さっきこの世界はゲームだっていった でしよ。わたしはずっと、この世界に信じられるも のなんかなにひとつないって思っていたの」  それこそが、咲桜が繰り返し詞に書いていたもの だった。そして、中学生時代の樹生のような、世界 からはじき出されたと感じていた若者を、男女関係 なく強烈に惹きつけた。  咲桜が、吸い込まれるような瞳でこちらを見てい た。  「わたしたちはみんな、ウソをつきながら生きてる でしよ。それは、ほんとうの自分をさらすのが怖い から。そんなことをしたら、たちまちみんなが襲い かかってきて、食い殺されてしまうって知っている から」  さひしげに微笑んだ。「わたしの人生も、すべて ウソ。咲桜なんて、誰も読めないような芸名をつけ られて。わたしの名前、康子っていうの。古臭いで しよ」  それから、「あなたも同じよね」といった。「樹 生って名前、ウソなんでしよ」  午前一時過ぎ、タニヤのカラオケ店の二階にある 従業員用の控室にいた。隣にはキムーソニョンとい う名の二十代後半くらいの男が座っていた。自の長 袖シャツの上からも、分厚い胸板と筋肉の張った上 腕がわかる。咲桜はソニョンを、「仕事を手伝って くれてる会社のひと」と紹介したが、出会ってから ひと言もしやべらず、表情も動かさないので、なに を考えているのかまったくわからない。  バンヤンツリーを出ると、車寄せでベンツのワン ボックスカーが待っていた。咲桜から「最後にひと つ、お願いがあるの」といわれ、このカラオケ店に 連れてこられたのだ。  「ちょっと待ってて」と席を外した咲桜が、iPhone を片手に戻ってきた。「これを遠隔操作できるよう にしてほしいの」  「ロックされてたら無理ですよ」というと、咲桜は 「それは大丈夫」とアクティブになった画面を見せ た。まだ指紋認証が使われていたiPhone SEで、持 ち主は睡眠薬を混ぜた酒でも飲まされて眠っている のだろう。それなら、スマホに指を押し当てるだけ でロックを解除できる。  樹生は一瞬、躊躇したが、「パソコンとケーブル ありますか?」と訊いた。ソニョンが黙って立ち上 がり、自分のバッグからMacBook Airを出した。日 本語がわかるようだ。  ノートパソコンを立ち上げ、USBケーブルでス マホと接続したあと、カラオケ店のWi-Fiにつない で脱獄用のプログラムをダウンロードした。Apple はiPhoneにインストールできるアプリをきびしく 制限している。公式ストア以外のアプリを使いたい 場合は、自分でOSの設定を変えなくてはならない。 これを「ジェイルブレイク(脱獄)」という。  {Oyのヴアージョンが15であることを確認し、プ ログラムを実行する。iPhoneの画面にアプリが表 示されたら脱獄の成功で、公式以外のアプリをイン ストールできるようになる。  次は自分のサーバーにアクセスし、アーカイヴか らスパイウェアをダウンロードした。HALがダー クウェブにアップしたもので、脱獄したiPhoneを 遠隔で操作できる。  作業が終わると、「ここにパスワードを入力して ください」とMacBookを咲桜に向けた。「これでス マホの中身はすべて見られるし、自由に操作できる ようになります。ただし、デバイスを再起動される と使えなくなってしまいますが」  「ありがとう」と咲桜はいった。「ほんとに魔法使 いだ」  スマホをソニョンに預け、「家まで送っていくか ら」と、咲桜は樹生をベンツに乗せた。ヤワラーの アパートの前で車を止めると、「こんなところに住 んでるのね」と驚いた。  「安アパートだけど、快適ですよ」とこたえた。 二階の中華料理屋もウマいし」  車を降りると、咲桜が階段の入口までついてきた。  「今日、いろんなこと体験できてすごく楽しかっ た」と咲桜がいった。「ほんとにありがとう」  「ぼくのほうこそ、一生忘れられない思い出になり ました」  咲桜は、「それってちょっと大袈裟」と笑った。 なにかいいたげに樹生を見つめていたが、「おやす み」といって車に向かった。  咲桜と別れて部屋に入り、スマホを充電ケーブル につないでSignalを立ち上げ、簡単に今日の報告 をした。今夜はずいぶん飲んだので、9啓で車を 呼び、裏の駐車場をピックアップポイントに指定し た。スマホを棚の上に置き、洗濯物の袋をもってア パートを出た。  午前三時。地上四七階の部屋のソファで、ハッキ ング用のノートパソコンを立ち上げた。タニヤのカ ラオケ店でiPhoneにスパイウェアを埋め込んだと き、バックドアを仕込んでおいた。そこから侵入し て、メールとLINEのやり取りを見る。1 elegram やSignalのような暗号メッセージングアプリは 使っていないらしい。メールも平文のままだ。  スマホの所有者は平山信一。日本の精密機器メー カーの技術者で、バンコクにある関連会社に出向し ている。遠心力釣り合い試験機や耐食性の圧力計・ 圧力センサー、大型の非破壊検査装置などをドバイ の企業に輸出する商談が進んでいるが、それについ て本社の法務部と頻繁にやり取りしていた。  これらの検査機器は商業用だが、核兵器の開発に も転用できるとして、日本では輸出規制の対象に なっていた。それに対して本社の判断は、タイの会 社には出資と技術支援をしているだけで、なにをど こに売るのかに囗を出すことはできない、というも のだった。この取引で日本のメーカーには、多額の ライセンス料が支払われることになっていた。  平山は、ドバイの企業を経由して、イランや、そ の先の非合法な国や組織に機器が転売されるのを危 惧していた。LINEでは日本にいる同僚に、タイ 人の技術者がノートパソコンを紛失したことについ ての不安を訴えていた。「この取引はヤバい気がす る」と繰り返す平山に対して、同僚は自分からもコ ンプライアンスの部署に話してみると返事をしてい た。  それ以外には、日本で待っている妻と二人の幼い 子どもの家族写真、タイ人のホステスとプーケット のリゾートにいる写真などがあった。それらのデー 夕をすべてダウンロードすると、共有のサーバーに アップした。  しばらくして、Signalに着信があった。榊原は短 く。GJ(グッドジョブごと送ってきた。  榊原昭彦と会っだのは1ヵ月ほど前たった。  メールでいきなり、「シンガポールの日本大使館 に出向している検察官です」と自己紹介されたら、 誰だって詐欺だと思うだろう。そこで榊原は、「ご 自身で大使館の連絡先を調べて、電話で呼び出して ください。明日なら一日中いますから」と書いてき た。ネットで検索すると、一〇年ほど前に起きた事 件に関係して、同姓同名の検察官のことに触れたい くつかの記事が見つかった。  翌日、大使館の番号に電話をかけた。受付の女性 が「いま本人を呼び出しますから、すこしお待ちく ださい」といい、思ったよりも軽い調子の男が応対 に出た。来週、ちょうどバンコクに行く用事がある から、会って話ができないかという。「あなたに とっても、悪い話じやないですから」と榊原はいっ た。  指定されたのは、マンダリンーオリェンタルホテ ルのオーサーズーラウンジたった。サマセットー モームやジョゼフーコンラッドなどの作家が執筆し たとされる古いカフェを、自を基調とした洒落たラ ウンジに改装し、いまは有閑マダム御用達になって いる。待ち合わせの夕方五時には、アフタヌーン ティー目当ての客はほとんど帰っており、書斎に近 い隅の席にスーツ姿の男が座っていた。  四十代半ばとおぼしき男は、大きな笑みを浮かべ て手を上げた。榊原は、「お目にかかれてよかった です」といって席を勧めた。「本名じゃなくて樹生 さんつて呼んだほうがいいんですよね。思ったより お若くて驚きました」  テーブルには、シャンパンのグラスが置かれてい た。「なににします?」と渡されたメニューにはア ルコール類は載っていなかったので、バーからもっ てこさせたのだろう。「ここはジャスミンティーが 有名ですよ」といわれたが、「コーヒー、ホットで」 とこたえた。  榊原はウェイターを呼んで注文を伝えると、内ポ ケットの名刺入れから在シンガポール日本国大使館 二等書記官の名刺を取り出した。  「バンコクの日本大使館に顔を出した帰りだから、 こんな格好ですよ」と、自分のスーツを見て顔をし かめた。「このあと、大使の晩飯につき合わなきや いけないんです。ぽんとはイタリアのブランドが好 きなんですけど、大使よりいい服着てると嫌味をい われるから」  コーヒーが運ばれてくると、榊原はシャンパンの グラスに囗をつけ、ちらっと時計を見た。「時間も ないから、さっさとすませちやいましよう」  ひとつ離れたテーブルに白人の老夫婦。部屋の向 こう側に中国人のグループ。夕方のカフェにいるの はそれだけだ。  「この男、ご存じでしよ」榊原はカバンから紙を取 り出し、テーブルの上に置いた。五十がらみのアジ ア系の太った男が写っている。  「見覚えないです」といったあと、名前を見て気づ いた。男はシンガポール人で、数力月前にコンドミ ニアムのオーナーから、知り合いが困ってるから助 けてやってくれないかと相談された。パソコンがラ ンサムウェアに感染し、身代金を払っても解除キー が送られてこず、大事なデータが暗吁化されたまま なのだという。  調べてみると、そのランサムウェアはすでにホワ イトハッカーによってクラックされ、その対処法が 公開されていた。そこで、暗吁を解除するプログラ ムを送ってやり、謝礼としていくばくかのビットコ インを受け取った。それだけの関係だと説明した。  「ほかになにも聞いてませんか?」  「いいえ」とこたえた。「どこの誰なのかも知りま せん。興味ないですし」  「それがですね」と、榊原は困った顔をした。「そ の修復されたデータというのが、犯罪に関係するも のだったんですよ」  「犯罪?」  「ええ。はっきりいうと、小児性愛の膨大なコレク ションだったんです」紙をカバンにしまった。「二 週間ほど前にシンガポールの警察に逮捕されたんで すが、そしたら、関係する人物としてあなたのこと を話したらしいんです」  「ファイルは暗吁化されていたんだから、データが なんなのかわかるはずありませんよ」樹生はいった。 「受け取った金額だって、せいぜい二〇万円程度で す」  「それはわかってます。樹生さんを疑ってるわけ じやありませんから」榊原は、慌てていった。「だ だ、シンガポールの警察から照会が来た以上、対応 しないといけないんです」  「どうすればいいんですか?」  「彼が小児性犯罪者だと知らなかったことを、証明 できますか?」  「そんな証明、できるわけないじやないですか」樹 生は抗議した。「仮にぼくがその犯罪にかかわって いたとしたら、そのことを証明するのが警察の仕事 でしょう」  「たしかにおっしゃるとおりです」あっさりと榊原 は認めた。「でも、こうやって照会が来たというこ とは、向こうが樹生さんのことを疑っているという ことなんです。彼がコレクションを集めるのを、 ハッカーとして手伝ったとか」  「バカバカしい」樹生はいった。「その男とやり取 りしたのは三回だけ。メールも残してあるから、必 要なら提出します」  「いや、そこまでしなくても大丈夫です」榊原は片 手を振った。「いまのお話で、樹生さんが信用でき る方だとわかりましたから。シンガポール警察の幹 部に知り合いがいるんで、私からそのように説明し ておきます」  榊原は椅子の背もたれに身体を預け、ゆっくりと シャンパンを飲むと、樹生を見た。  「この件はこれで終わりですが、じつはもうひとつ 確認しないといけないことがあるんです」といった。 「樹生さん、日本を出国するときに納税の手続き、 してませんよね」  二〇一五年の税制改正によって、国外に転出する ことで日本国の非居住者になり、なおかつ一億円相 当以上の資産を保有している場合、その資産の含み 益に所得税が課税されることになったと榊原は説明 した。  「それは知ってます」樹生は強い囗調でいった。 「でも課税対象は有価証券等で、日本の法律では暗 号資産は有価証券には該当しないので、対象外じや ないですか」  「ええ、そうです」榊原はこれもあっさり認めた。 「だから、暗号資産でひと儲けした若者たちが、法 律が改正されて課税対象になる前に、日本国の非居 住者になろうとして、東南アジアやドバイに移住し てるわけです」  「だったら、なにが問題なんです?」  「樹生さん、暗号資産の一部を換金して、香港の銀 行に送ってますよね」榊原はいった。「いまでは共 通報告基準(CRS)によって、各国の税務当局が、 非居住者の金融口座の情報を交換しています。これ には香港も加盟していて、樹生さんは香港の非居住 者になるから、口座の残高や資産情報が日本の国税 庁に送られてくるわけです」  そのことも知っていたが、海外の口座を含めても、 出国時の金融資産が一億円を超えることはないし、 そのあとの取引は非居住者としてのものだ。  「そこなんですよ、話が難しくなるのは」榊原は 困ったような顔をした。「なにをもって日本国の非 居住者とするかは、かなりのグレイソーンがあるん です。企業の海外駐在員なら、飛行機が飛び立った ときから非居住者です。外国人と結婚して、海外に 住むのも同じです。でも、ぜんぶがこういうわかり やすいケースばかりじゃない。海外のビザを取得し て、現地に家を借りていても、実質的に日本に住ん でいたら、非居住者とは見なされません」  「ぼくが日本の居住者たというんですか?」  「いえ、そんなことはありません」榊原は大仰に手 を振った。「いまは、樹生さんが日本の非居住者で あることは間違いありません。問題は、それがいつ からか、ということなんです」  榊原はスーツの内ポケットから手帳を取り出すと、 やけに時間をかけてページをめくった。  「樹生さん、マレーシアのビザを取得してからビッ トコインを換金して、香港の銀行に送金してますよ ね。そのときの価格がIビットコイン七〇〇万円か ら八〇〇万円。樹生さんが購入したのはずいぶん前 だから、かなりの利益が出ているはずです。これが、 所得税の対象になるかもしれないんです」  「でも、会社を辞めて日本の住民票も移してますよ。 非居住者なら納税義務はないはずです」  「たしかに、樹生さんが会社をお辞めになったのは 二一年です。でもそのあと、日本とマレーシアをし ばらく行き来されてますよね。税務当局は、その間 は日本の居住者だと判断するかもしれない。そうな ると、加算税を含めてかなりの税金を払わなきやい けなくなります」  「詭弁ですよ」半ばあきれながら、樹生はいった。 「そんな理屈が許されるなら、税務署はどんな難癖 でもつけられるってことじやないですか」  「まさにそのとおりです」榊原はこたえた。「グレ イソーンでは、税務当局と納税者がお互いの理屈を 主張し合うことになる。つまり、難癖をつけ合うわ けです」  「ぼくが税務調査の対象になっているってことです か?」  「そんなことありません。ただ、そうなる可能性が あることをご忠告しているだけです」手帳をしまっ て、樹生を見た。「もちろん、税務当局の判断に不 服があれば、納税者には国税不服審判所に訴えたり、 訴訟を起こす権利があります。しかしそうなると結 論が出るまで五年くらいはかかるでしょうから、弁 護士費用もかさむし、証人として出廷するために日 本に戻ったりしなければなりません」  それから、軽い笑みを浮かべた。  「でも安心してください。このことは、税務当局は まだなにも知りません。私か報告しないかぎりは」  「脅してるんですか?」  「それは心外です。樹生くんを脅すなんてつもりは、 これっぽっちもありませんよ」いつのまにか、呼び 方が「樹生くん」に変わった。「これは話の前振り というか、キャッチボールの肩慣らしみたいなもの です」  樹生はしばらく黙ったまま、なれなれしい男の軽 薄な笑みを見つめていた。それから、訊いた。「ぼ くになにをさせようとしてるんですか?」  「さすがに話が早い」こんどは大きな笑みを浮かべ た。「お金を取り戻してもらいたいんですよ」  「いくら?」  「五〇〇億円」  「どこから?」  「北朝鮮」笑顔のまま、榊原はいった。  経済制裁によって国家財政が破綻した北朝鮮は、 スイス製の超精密印刷機を購入して、一九九〇年代 に大規模なI〇〇ドル紙幣の偽造を始めた。偽造防 止の新札が登場したことでこの闇ビジネスが行き詰 まると、外貨獲得の手段は独裁国家や犯罪組織への 武器の輸出とパッキングになり、数千人規模のサイ バー軍を養成したとされる。  もつとも有名なハッカー集団がラザルス (にSI)で、二〇一四年には、金正恩が殺される コメディ映画を制作したハリウッドのソニー・ピク チャーズエンタテインメントのサーバーに侵入し、 未公開の映像や何万通もの個人メールを流出させた。 次いで二〇一六年には、バングラデシュの中央銀行 のプリンタからサーバーに侵入し、一〇億ドルを詐 取しようとした。ニューヨーク連邦準備銀行が機転 をきかせて送金を中止したものの、主権国家の中央 銀行から八一〇〇万ドルが奪われた。  同じ一六年、シャドー・ブローカーズを名乗る ハッカー集団がアメリカの情報機関NsA(National Security Agency :国家安全保障局)が保有していた極 秘のハッキングツール「エターナルブルー」をダー クウェブに公開した。そのなかにWindowsの脆弱 性を攻撃するエクスプロイトがあり、北朝鮮のハッ カー集団がそれを使って「wannaury(ワナクライ)」 というランサムウェアを開発し、世界中の二〇万台 を超えるコンピュータに感染させ、ビットコインを 要求した。この攻撃は、大学を中退した二十二歳の イギリス人ハッカーが、攻撃から数時間後にキルス イッチ(強制停止スイッチ)を見つけ出したことで阻 止されたが、そうでなければ数百万台が感染したは ずだった。  そして二〇二四年五月、ラザルスの一部門「ト レーダートレイター」が過去最大規模の攻撃に成功 した。標的は日本の暗号資産交換所で、ウォレット 管理システムへのアクセス権をもつ外部業者の従業 員のコンピュータをハッキングし、そこからサー バーに侵入して、秘密鍵の管理のずさんさを突いて 暗吁資産を流出させた。  「問題は、ラザルスがそのビットコインをどうやっ て現金化するかです」榊原はこれまでの経緯をざっ と説明すると、話をつづけた。「ブロックチェーン は公開されていて、盗んだビットコインを簡単に現 金に交換できるわけじゃない。世界中の情報機関と 物好きなハッカーたちが追っていますから、そのま までは使い道のないただのデータです。北朝鮮の ハッカーたちは、なんとかしてそれをロンダリング して、必要なものを購入できるようにしなければな らない」  「必要なもの?」  「北朝鮮の軍人がロシアに連れていかれて、ウクラ イナのドローンで殺されてるじやないですか。でも 規律がとれているのは北朝鮮軍のごく一部で、それ 以外は給料どころか食料の配給もなく、自分たちで 畑を耕したり、周辺の住民の畑から強奪したりして 食いつないでるんです。武器も朝鮮戦争時代の骨董 品みたいなものばかりで、戦争になったらまったく 使いものにならない。だからこそ、金正恩はミサイ ルと核に固執するんですよ。それ以外に、自分を 守ってくれるものがないと知っているから」  「そうすると、ビットコインでそのための原料や機 械を買うんですか?」  「そんなの無理ですよ」榊原が笑った。「核兵器を つくりたいって暗号資産をもっていっても、受け 取ってくれる者はいません。これは、ババ抜きみた いなものなんですよ」  「ババ抜き?」  「不正な暗号資産をもつ者は、それをなんとかして 誰かに押しつけて、米ドルなどの現金に換えたい。 それを押しつけられた者も同じで、どこかの誰かを 見つけてきて換金しなくてはならない。このくだら ないゲームが延々とつづくわけです」  榊原の話を聞き終わったあとに、樹生はなぜ自分 が選ばれたのか訊ねた。  「推薦してくれたひとがいるんです」榊原はいった。 「樹生くん、ハッカーコミュニティでちょっとした 有名人じやないですか」  それはなにかの問違いだとこたえた。自分より優 秀なハッカーはいくらでもいるし、有名になるよう なことをした覚えもない。  「それは謙遜ですよね。いろんなところで樹生くん の名前を聞きますから」  「ぼくがその話を引き受けるって、なぜ思うんです か?」と訊いた。  「退屈だからですよ」榊原はこたえた。  「退屈?」  「日本政府も罪なことをするもんですよね」わざと らしく眉をひそめた。「暗号資産を株や債券と同じ 扱いにすれば、利益に二〇パーセントの税金を払っ て、あとは自由に使える。でもいまは最大で五五 パーセントの税が課せられるから、税金を払うのが 惜しくなって、君みたいに日本の住所をなくして海 外に移住する若者が増えている。たしかにこれで税 を逃れられるから、国家のシステムをパックしたつ もりかもしれないけれど、いきなり海外で暮らしは じめても、現地の言葉もしやべれないし、知り合い や友人もいなくて、いずれすることがなくなる。 けっきよく、あやしげな日本人同上でつるむか、女 を買うか、ギャンブルかドラッグにはまるか、ある いはその全部か、そんな人生を送るしかない」  それから、樹生の顔をじっと見た。  「君だって、そろそろそのことに気づいてるんで しよ」  その翌日、日本大使館の隣にあるリッツーカール トンホテルのロビーでもういちど榊原と落ち合った。 いくつか確かめておきたいことがあったからだ。広 い窓からはルンビニー公園を一望できる。  「どんなことでもこたえますよ」と、榊原は例の軽 い調子でいった。  「ハッキングは犯罪ですよね」樹生は、もっとも知 りたいことを最初に訊いた。「それを堂々とやって いいということですか?」  「犯罪を認めるなんてことはできませんよ。これで も私は検察官ですから」榊原はいった。「でも、ど この国だって同じですが、外国人同上がなにをして たって、現地の司法当局は興味をもちません」  「それは、相手が日本人ならなにをしてもいいって ことですか」  「物理的な危害を加えるのはダメですよ」と笑った。 「あと、証拠が残ることも」 「それ以外なら?」  もういちど笑った。 「その約束を、どうやって証明するんですか」  「樹生くんが引き受けてくれれば、私たちは運命共 同体です」榊原がいった。「国家は、その気になれ ばなんでもできます。海外にいる市民のパスポート を没収することも、脱税で税務調査することも、適 当な理由をつけて逮捕して刑務所に送ることも。で も、君だってその気になれば逆襲できるでしよ。ど うせこの会話も、昨日の話もすべて録音してるはず だし、いざとなったらそれをメディアに送りつけた り、ネットに公開することだってできる。もちろん こっちは否定しますが、検察にとっても、私個人に とっても大きな失態です」  「日本国からスパイのライセンスを受け取った、と 理解していいんですか」  榊原は困った顔をした。そして、「間接的には、 そういうことですかね」と認めた。「あらかじめ決 められたルールの範囲内なら、樹生くんがなにをし ても、こっちはどうにもできないわけですから」  「面白そうなゲームですね」と樹生かいうと、榊原 は「でも、成果はちゃんと出してもらいますよ」と 念を押した。  それから、いくつかの約束事を決めた。連絡には、 ロシアの情報機関に管理されていると噂される 1 elegramではなく、言論の自由を守ることを使命 とする電子フロンティア財団が強く推奨し、民主活 動家たちの通信を独裁国家から保護するために使わ れている暗号メッセージングアプリSignalを使う。 メッセージは一日で消えるように設定し、データは 共有のサーバーにアップして、重要な連絡は暗号化 したメールで行なう。  「あと、スマホの位置情報を確認できるようにした いんですけど」榊原がいった。「イヤかもしれない けど、親だって子どもが迷子にならないようにする でしよ。日本国には、日本国民を守る義務がありま すから」  「ぼくが危険な目に遭うってことですか?」  「いや、念のためですよ」といって、榊原は自分の スマホを見せた。  樹生はわざとらしいため息をつくと、ズボンのポ ケットからスマホを取り出した。追跡用のアプリを インストールし、榊原のスマホとベアリングする。  「で、とりあえずなにをすればいいんですか」と訊 いた。  「情報屋に会ってもらいます」榊原はいった。「藤 木っていうんですけど」  「どんなひとです?」  「藤木ですか? 東南アジアによくいるじやないで すか。バックパッカーくずれで、安宿で沈没してる あいたにどんどん年をとって、日本に帰ることもで きなくなったダメ男です」  「沈没男、ですか?」  「はは。うまいこというね」と声を出して笑った。 「その沈没男が、君を不思議の国に案内してくれま すよ」  このあやしげな話を引き受けたのは、スパイごっ このためではなかった。沈没男を通じて樹生か接触 する相手は、黒木誠一郎という日本人たった。黒木 はもとは日本のヤクザ組織の幹部で、トラブルを起 こしてタイに流れついたという。  その黒木には、日本人の秘書がついていると榊原 はいった。  「それが、咲桜っていう芸名で活動してた元アイド ルなんですよ。ほら、何年か前に不倫騒動で大騒ぎ を起こした」それから、面白いジョークを思いつい たかのように笑った。「ヤクザとアイドル、最高の 組み合わせですよね」  樹生は驚きの表情を隠すことができなかったが、 この軽薄な男がそれに気づいたのか、どこまで知っ ているのかは読み取れなかった。  それから二週間ほどして、カオサンのマリファナ カフェで沈没男に会った。しばらくして、黒木の秘 書を名乗る女性から、アクセスできなくなったノー トパソコンを修理してほしいという依頼のメールが 届いた。  いつのまにかソファでうたた寝していた。目覚め ると、HALからメールが届いていた。秘密鍵で解 錠し、文面を読む。 わずか一行の素っ気ないメッセージだった。  監視されてるみたいだよ       4 「たっちやん、ネサラゲサラつて知ってる?」咲桜 とワットーアルンが見えるレストランに行った一週 間後、トンローの居酒屋で沈没男がハイボールをち びちびと飲んでいた。このあたりのコンドミニアム は日本企業の駐在員ばかりで、それを当て込んで日 本風の居酒屋やカラオケ、マッサージ店などが集 まっている。「夏の都知事選で、ちょっと話題に なったみたいじやん」  タイはアジアではじめて大麻を合法化したが、マ リファナ以外の薬物の刑罰はきわめて重く、わずか 三五ミリグラムのメタンフェタミン(覚醒剤)を持 ち込もうとした女性が二五年の刑期を言い渡されて 人権問題になったこともある。タイの刑務所に収監 されている女性の八〇パーセント以上が薬物関連の 犯罪で、タイは世界で六番目に刑務所人口の多い国 だ。  敬虔な仏教国であるタイはアルコール規制もきび しく、酒類を販売できるのは午前一一時から午後二 時と、午後五時から午前○時までで、総選挙の投票 日には前日の午後六時から二四時間、酒類の販売が 禁止される。もちろん例外はあって、ホテルのバー はこの規制の対象外だし、この店も個室なら午後二 時を過ぎても酒を出している。  「NEsARAとGEsARAのこと? それって 陰謀論ですよ」甘すぎる油揚げの載ったうどんをす すりながら、樹生はこたえた。  「だから、どういう陰謀論か教えてよ。。一寸の陰 謀論にも五分の真実”つていうでしよ」  くだらないジョークにため息をつき、NEsAR Aは「国家経済安全保障および回復法(National Economic Security a乱Recovery Act)」の略で、一九九〇 年代にシステム理論の博上号をもつエンジニアの ハーヴェイーフランシスーバーナードが提唱した経 済改革案だと説明した。バーナードは所得税を廃止 して消費税に置き換え、住宅ローンの複利を単利に 変え、通貨は金と銀の複本位制にすべきだとして、 一〇〇〇部のパンフレットを自費で印刷して連邦議 員に送ったが、なんの反応も得られなかった。そこ で二〇〇〇年に、この提案をネットで公開した。  「それがなぜ陰謀論になるかを理解するには、オメ ガトラスト(oヨega Trust)から始めなくちやいけな いんです」タイ人の若い店員にアイスコーヒーを頼 むと、樹生は説明をつづけた。  一九九四年、イリノイ州に住むクライドーフッド という退職した電気技師でビリヤード場の支配人が、 五〇倍の配当がもらえる。オフショア投資プログラ ム”を宣伝しはじめた。これがオメガトラストで、 ヨーロッパの。優良紙幣”に投資するプライムバン クにI〇〇ドル投資すると、二五〇日後に五〇〇〇 ドルの配当がもらえ、その利益は「ロールプログラ ム」で最大三回まで投資でき、参加者は合計七六万 五〇〇〇ドルを受け取ることができる。  一〇〇ドルの投資で億万長者になれるという話に 興奮した者たちがアメリカ中からオメガトラストに カネを送り、二〇〇〇年にフットが詐欺で逮捕され たときには、一万人以上から匸一〇〇万ドルから二 ○○○万ドルを集めていたとされる。  「バレバレの詐欺じやん。なんでそんなのに引っか かるの?」沈没男が訊いた。  「フットは、自分が『フォーチュン』誌の選ぶ五〇 〇人の投資銀行家の一人で、この五〇〇大は神から 与えられた。人生を変えることのできる金融商品” にアクセスできる地上の選ばれし者だと説得したん です。神の軍隊におけるJ巫咼司令官”としての地 位を授けられたんだって」  「くだらねえ」沈没男は鼻で笑った。「バカはいつ もそんなのにだまされるんだ。で、それがネサラゲ サラとどうつながるの?」  「もちろんその資金は一銭も投資には回されず、 フットと取り巻きたちが使いこんでたんですけど、 だまされた人間のなかには、それを認めない者がい た。その一人がシヤイニー・グッドウィンという 。スピ系”の女で、"Dove of Oneness(ワンネスの 鳰ごのユーザー名で、オメガトラストの「ロール オーバー」を妨害しようとする「タークーアジェン ダ」があって、英雄「自騎上」がそれと戦っている という「極秘情報のドロップ」を匿名フォーラムに 投稿するようになったんです」  「ちょっと待ってよ。それってQアノンと同じじや ん」沈没男が声をあげた。「トランプは小児性犯罪 者の世界的な組織と戦ってるんだけど、ディープス テイト(闇の政府)がそれを妨害してるっていうの が、Qのドロップ(投稿)だろ」  「Qアノンの陰謀論は、ようするにこの話の焼き直 しなんですよ」樹生は食べ終えた丼をテーブルの脇 に寄せ、シロップとミルクの入っだ甘ったるいアイ スコーヒーをひと囗飲んだ。「その。ワンネスの鳰” ことグッドウィンが、二〇〇〇年のどこかでバー ナードがネットに公開したNESARAを発見した んです」  二〇〇一年九月一一日に同時多発テロが起きると、 グッドウインは、NESARA法案は二〇〇〇年三 月にクリントン政権が秘密会議で可決したが、その 内容が非常に危険なので厳重に秘匿されていたのだ といいはじめた。ジョージーブッシュはそれを妨害 するために、テロを装って世界貿易センタービルに あるIMFの国際銀行コンピュータセンターを破壊 した。そこでは数兆ドルの富を生み出す「繁栄基 金」が管理されており、グッドウインによれば、イ ラク戦争もNESARAから注意をそらすための ブッシュ政権の陰謀だ。  グッドウィンはその後、NESARAにすべての 個人債務を帳消しにする徳政令や内国歳入庁(米税 務当局)の廃止を加え、さらには「ネサラ大統領と 副大統領」が指名され、金を基軸にした新しい銀行 システムが誕生し、国際平和宣言が打ち出されるこ とになると唱えた。グッドウィンだけがNESAR Aの極秘情報にアクセスでき、この預言を信じて 「recovery(回復)」ならぬ「reformation(再編)」に 参加した少数の者は数兆ドルの富を得ることになる。  こうしてNationalからGlobalに拡張されたのが 「GEsARA(Global Economic Security a乱 Reformati目胃匸叫界経済安全保障および再編法)」だ。  グッドウィンは議会や裁判所にNEsARA法案 を実施するよう請願する運動を組織し、ワシントン Dcの大通りに「今こそNEsARAを!・」という 広告掲示板が登場した。それが世界に広かって、オ ランダのパークにある国際司法裁判所の前で支持者 たちがデモをしてチラシを配った。「こうして徳政 令と莫大な富の分配を約束する「ネサラゲサラ(N EsARA/GEsARA)」が、賞味期限の切れか かったQアノンに代わって人気の陰謀論になって、 それがいよいよ極東の国にまで広かってきたってわ けです」樹生はいった。「最近では、GESARA のGlobalをJapanに変えた「JESARA(ジェサ ラ)」つていう陰謀論も生まれてるみたいです」と つけ加えた。  「そのグッドウインつて女はどうなっだの?」樹生 の説明を聞いた沈没男がいった。  「二〇一〇年に死んだんですけど、信者はそれも陰 謀だと信じていて、宇宙的存在と一体化したとか いってます」  「なるほどねえ。教祖が死んでるんなら、誰が日本 支部をやってもいいわけか。しかし、そんなの日本 で流行るかなあ」  沈没男は天井を見つめた。この話が金儲けに使え るか考えたのだろうが、あきらめたのか話題を変え た。  「たっちやん、このあいた黒木のとこの女とデート しただろ」  「えっ?」 一瞬、言葉につまっだ。  「あのスキャンダル女、目立つからさあ。カオサン を一緒に歩いたりすれば、日本人のあいたですぐに 噂が広まるんだよ」  ちょっとした仕事を頼まれているのだとこたえた。  「黒木、ヤバいよ」沈没男がいった。「広域暴力団 の幹部だったんだけど、二〇年くらい前に香港で派 手な銃撃戦を起こして、それで組を破門になってバ ンコクに逃げてきたんだ。日系企業の汚れ仕事みた いなのでシノいでたらしいけど、そのあと急に羽振 りがよくなった。だけど、いったいなにでカネを稼 いでるのかわからないんだ」  ソファにもたれて小さなゲップをすると、話をつ づけた。  「特殊詐欺とか、日本人相手のドラッグとかのビジ ネスしてるんなら、俺のネットワークに引っかから ないわけないんだけど、誰に訊いても知らないし。 それに、ヘンな噂が流れてるし」  「噂?」  「何人か死んでるんだよね」と、樹生を見た。「い まのところタイ人が二人。それも裏社会の人間じゃ なくて、大使館に出入りしているような奴。あと、 この事件を調べてたタイのジャーナリストも先月か ら行方不明になってる」  「それに黒木が関係してる?」  「それはわからない。でも、たっちゃんに黒木を紹 介したの俺だろ。だから責任感じちやってさ」空に なったハイボールのグラスの水をからからと鳴らし て、わざとらしく問を置いた。「まさか、咲桜と くっつくなんて思わなかったよ」  沈没男の皮肉に気づかないふりをして、死んだ夕 イ大がどこの大使館とつなかっていたのか訊いた。  二人は韓国大使館、もう一人は日本大使館」沈没 男はこたえた。「ようするに被害者は、こっちで雇 われたタイ人の情報屋だったってこと」  黒木誠一郎のオフィスは、アソークのソイ19から 狭い路地に大っだ突き当りにあった。六階建てで、 「内yno抖H{}」のプレートが入口に埋め込まれてい るから自社ビルらしい。五階と六階は住居になって いるようだ。  受付で面会の約束があることを告げると、若い夕 イ人の男がロビーまで迎えに来て、四階の広い会議 室に通された。隣の部屋ではI〇大ほどの男たちが コンピュータに向かっていた。二十代くらいで、ほ とんどが中国系のタイ人のようだった。会社案内に よれば、事業は貿易と投資になっている。  五分ほど待っていると、「呼びつけちやってごめ んね」と咲桜が入ってきた。黒のパンツスーツで、 髪をまとめている。「コーヒーでいい?」と訊かれ たのでうなずくと、内線で注文した。  樹生の正面の椅子を二つ動かして脇に寄せると、 その隣に腰かけてテーブルにスマホを置いた。「樹 生くんの話をしたら、黒木が興味をもったみたい」  「思ったよりもちやんとした会社で驚きました」と、 素直な感想をいった。  「社員は二〇人くらい。年商は五〇億ちょっと。 マージンビジネスだから利益はたいしたことないけ ど」と、ビジネスライクなこたえが返ってきた。  テーブルの上のスマホが振動した。咲桜は画面に 目をやると、「黒木を連れてくるからちょっと待っ てて」と席を立った。  しばらくすると、電動モーターの音がして、車椅 子に乗った男が入ってきた。咲桜と、タニヤのカラ オケ店で会ったキムーソニョンも一緒だ。ソニョン は黙ってテーブルの端に座った。咲桜は、黒木の車 椅子を樹生の正面にセットした。  ちょうどコーヒーが運ばれてきた。咲桜がキャビ ネットからアルマニャックの瓶をもってきて、慣れ た手つきで黒木のコーヒーに注いだ。スプーンで軽 くかきまぜ、飲みやすいように黒木の囗の前まで ソーサーをもっていった。  黒木は皺だらけの手でカップをつかむと、薄い唇 でブランデー入りのコーヒーを飲み、ソーサーに戻 した。咲桜はそれをテーブルの上に置き、車椅子の 背にかかっていたブランケットを取ると、黒木の膝 の上に載せた。  六十代なかばだろうか。髪の毛は自くなり、頬は こけているが、眼光は鋭かった。  「このあいだは面倒な仕事を頼んだ。手際がいいと、 咲桜がほめていた」しわがれた声で、黒木がいった。 胸のポケットからマルボロを取り出し、囗にくわえ た。咲桜がすかさずポケットからライターを取り出 して火をつけ、キャビネットから灰皿をもってきた。  黒木がじっと見つめていた。それから、「いくつ だ?」と訊いた。  「今年で三十になりました」とこたえた。  「お前のような奴に、会ったことがある。二〇年以 上も前だ」黒木はいった。「俺から五億盗んで、そ いつのせいでこんな身体になった」と、車椅子を叩 いた。  沈黙がつづいたので、「そのひとはどうなったん ですか?」と訊いてみた。  「さあな。女と暮らすといってカナダに行った」興 味なさそうにこたえた。「それからI〇年ほどして、 いきなり連絡してきた。ヘッジファンドを運用して いて、世界金融危機で逆張りをして儲かったが、カ ネを使うあてもないので借りを返すといって、この 会社にI〇億投資した。それを元手に、貿易会社を 始めたってわけだ」それから、「秋生っていう奴だ」 とつけ加えた。  その男と自分のどこが似ているのか知りたいと 思ったが、黙っていることにした。  「咲桜から聞いた話だが」黒木は煙を吐き出すと、 本題に入っだ。「協力してやってもいい。詳しく話 してみろ」  タニヤのカラオケ店でスマホにスパイウェアを埋 め込んだあと、特殊詐欺の元締めの炭治郎が、日本 で稼いだカネをロンダリングするために、現金と ビットコインを交換する相手を探していることを咲 桜に話したのだ。  「いくらだ?」  「最初は1000万円くらい。それがうまくいった ら、一億かI〇億か、それは相手次第」  「どうやってやる?」  ビットコインをエスクローという供託口座に預け るのだと説明した。炭治郎がその供託口座に現金を 送ると、それを合図に、自動的に指定の口座にビッ トコインの送金指示が出される。ブロックチェーン がつくられて取引が確定するまでI〇分ほどかかる ので、その時点では現金は供託口座にとどまったま まだ。炭治郎のウォレットにビットコインが記帳さ れると、それをトリガーにして黒木が指定した銀行 口座への送金が実施される。すべての手続きはアル ゴリズムが行ない、取引が成立しなければ、現金も ビットコインももとの場所に戻される。  「そのアルゴリズムはお前がつくるのか?」  樹生はうなずいた。「スマートコントラクトとい います。いったんアルゴリズムが動き出すと、その 後の変更はいっさいできません」  「殺猪盤って知ってるか? 中国マフィアの隠語 だ」黒木が訊いた。「英語だと*pig butchering(ピッ グーブッチャリングブという)  首を振った。  「ブタを屠るときは、その前に太らせておかなきや ならない。投資詐欺で大金をせしめるときは、約束 どおりの配当を払って相手を信用させ、最後に大金 をだまし取る。いまの話は、殺猪盤そのものだな。 アルゴリズムはお前がつくるんだから、最初はうま く取引が進むように見せかけて、お互いが金額を引 き上げたときを見計らって、カネもビットコインも 奪ってしまえばいい。これで、一生遊んで暮らせる ようになる」  「そんなことしたらどうなるのか、賢くなくったっ てわかりますよ」樹生はいった。「だからこそ今日、 ここにやってきたんです」  黒木は面白そうに樹生を見ていたが、「その案は 却下だ」といった。「そのカネは銀行口座に入れる んじやなく、現金で受け取る必要があるんだ」  樹生はしばらく考えて、別の案を出した。  「そうなると、物理的に接触する必要がありますね。 炭治郎のグループが現金を駅のロッカーに入れて暗 証番吁を送る。それをあなたの部下が回収し、確認 してからビットコインを送金する」  「向こうは、カネだけ持ち逃げするんじやないかと 疑うだろう」  「ロッカーを開けたら、その場でI〇分待機するの はどうですか? そうすれば相手はウォレットへの 入金を確認できる」  「そんなお花畑みたいな話、誰が信じる」黒木は鼻 で笑った。「だったら直接会って、現金とビットコ インを交換すればいいじやないか」  たしかにそうだ、と認めた。  「話は決まったな」と黒木がいった。「お前が日本 に行け」  「えっ……」樹生は慌てた。「取引に同席しろって ことですか」  「同席するんじやなくて、お前が一人でやるんだ。 紙幣カウンターを用意させておく。金額を確認して、 そのあと相手のウォレットにビットコインを送れば 一件落着だ」  その案にはふたつ問題があるとこたえた。ひとつ は、ビットコインを送金したあと、相手がカネを強 奪しようとすること。もうひとつは、取引が警察に バレて現場を押さえられること。  「相手が裏切った場合、ぼくは生命がないかもしれ ない。特殊詐欺は刑が重くなっているから、逮捕さ れたら実刑は免れないでしょう」  「最初のケースは考えなくていい」黒木はいった。 「殺猪盤を考えてみろ。お前はまだじゆうぶんに 太ってない豚だ。最初の取引で炭治郎が裏切る理由 はない。やるとしたら、もっとデカいカネが動くと きだ。警察については、お前が自分で解決しろ。 ぜったいにバレない受け渡し方法を考えて、相手に 教えてやればいい」  「なぜ、ぼくなんですか? ほかにやらせる人間は いくらでもいるでしょう」  「この会社で雇っているのはほとんどがタイ人だ。 あとは香港人、シンガポール人、北朝鮮人」といっ て、テーブルの端に座っているソニョンに目をやっ た。「俺は日本には戻れない。咲桜は目立ちすぎる。 お前にちょうどいい仕事だ。報酬もはずむ」  考えさせてもらえないか、とこたえた。正直、黒 木の意図を読みかねた。  「タイに呼んでから、ずっと俺の世話ばかりさせて きた」黒木は隣に座っている咲桜を見た。「五年間、 国外はもちろんバンコクから出たことすらない」  それから樹生に目をやると、口角をわずかに上げ た。  「お前が、こいつを外の世界に連れ出してやってく れ」  「すごいじやないですか。こんなに調子よく話が展 開するとは思いませんでしたよ」榊原がうれしそう にいった。チャオプラヤー川に面したフォーシーズ ンズのテラス。最高級ホテルのなかではカジュアル なタイ料理とグリルの店で、平日の午後三時過ぎは 遅い昼食を食べる宿泊客が何組かいるだけだ。  黒木の提案を伝えると、榊原は三日後にシンガ ポールからバンコクにやってきた。プラグのブルー のポロシャツに自のチノパン、ダッチのホースビッ トローファーという格好で、シャンパンペースのト ロピカルカクテルを傾ける姿はリゾート気分そのも のだ。樹生は前回と同じで、ホットコーヒーを頼ん だ。  「私かはじめて東南アジアを旅行したのは大学生の ときで、その頃は高級ホテルのラウンジには白人と 日本人しかいなかったんですよ」榊原はあたりを見 同した。  このあたりはかつては庶民の住宅が並んでおり、 スクンビットに向かう途中にはバンコク最大のスラ ム、クロントウーイがある。そんなところに、オフ シーズンでも一泊一〇万円を超えるホテルがつくら れた。広い敷地は周囲から隔絶され、まるで要塞の ようだ。  「それがいまでは、どこに行っても中国人、韓国人、 台湾人、シンガポール人ばかりで、日本人は高齢の 観光客をたまに見かけるくらい。国が落ちぶれるっ てどういうことなのか、思い知らされますよ」  チャオプラヤー川のリバーボートにはオレンジ、 イェロー、グリーン、レッドの四つのラインがあり、 それぞれの色の旗をなびかせている。それに加えて 観光客向けの船や、貸切のボートもあり、この時間 は多くの船が行き交っている。  「黒木さんの話を引き受けても問題ないってことで すか?」ウェイターがうやうやしくコーヒーを運ん でくると、樹生は単刀直入に訊いた。  「問題なんて、なにもないですよ」榊原は例によっ て、軽い調子でこたえた。「この話は、私から捜査 本部に伝えておきます。樹生くんには、国家の後ろ 盾がある。黒木のいうとおり、一〇〇〇万程度のは した金で炭治郎が裏切る理由なんてありませんが、 万が一に備えて厳重な警備をつけます。これなら、 誘拐されてもすぐに救出できますよ」  「日本の警察がそんなに優秀だとは思えないんで、 あんまり安心できません」  榊原はその皮肉を笑顔でやりすごすと、「サイ バー警察は別ですよ。民間登用で、四〇年も組織に しがみつくしかない公務員とはちがいますから」と いった。「それに、日本でももうすこししたら、 ミャンマーの犯罪基地が大きな問題になるはずです。 警視庁にとっては、ここで成果をあげれば日本だけ でなく世界の司法当局に注目されるチャンスですか ら、樹生くんには王侯貴族なみの待遇が約束されて ます。危険なんてあるわけないですよ」  電話やSNSを使った特殊詐欺は中国国内でも巨 大な犯罪産業に成長した。二〇一〇年代になって中 国当局が摘発に乗り出したところ、犯罪集団は雲南 省に隣接するミャンマーのシャン州北部に。詐欺団 地”をつくり、本土から勧誘・誘拐してきた中国人 にネット詐欺を強要するようになった。この地区に は漢族の自治区があり、中国語でビジネスができて 都合がよかったのだ。  「中国はITを使って効果的な監視社会をつくりあ げたんです。私たちのような司法の人間からすると うらやましいかぎりですが、あまりに成功しすぎた んですね」榊原は笑った。「あの国では飛行機はも ちろん、高速鉄道に乗るのにもIDを提示しなくて はならない。すべての国民には信用コードというI Dがつけられていて、迷惑行為や違法行為をすると 飛行機にも列車にも乗れなくなる」  中国の社会信用システムは、地方政府などが行政 機関を通じて入手した市民情報を統合して格付けを 行なっている。これが「信用中国」で、格付けが下 かって「失信被執行人リスト」に登録されると、さ まざまな公的サービスの利用が制限される。  「そうはいっても、どんな社会にも周辺で生きてい くしかない人間がいるでしよ。でも中国は、いきな り除菌された衛生社会になって、そういう人間の居 場所がなくなった。そうして国境の外に押し出され た者たちが、東南アジアの華僑などと結びついて、 大規模な国際犯罪組織をつくりあげたってわけで す」榊原はそう説明した。  シャン州を拠点とする特殊詐欺の被害が国内で広 がると、中国当局は詐欺団地を壊滅させるためミャ ンマーに対して圧力を加えた。自治区を支配してい た漢族の四大ファミリーは、拉致した中国人を他の 地域に移送することで圧力をかわそうとした。  二〇二三年一〇月二〇日、この移送作業中に中国 人の一部が逃亡をはかっだ。組織に侵入していた中 国警察の覆面捜査官が逃亡者を守ろうとしたことで ファミリーと銃撃戦になり、中国人と捜査官の合わ せて数十人が死亡する事態になったとされる。  その一週間後の二七日、クーデターで政権を奪取 したミャンマー国軍に対して漢族の武装勢力が反旗 を翻した。中国政府の暗黙の了解のもと、国軍の基 地九〇ヵ所を占領し、ミャンマーと中国の貿易の八 割を占めていた交易ルートを遮断するとともに、詐 欺団地に拘束されていた中国人を解放し、首謀者ら を中国当局に引き渡したのだ。ミャンマーを泥沼の 内戦に引きずり込むきっかけをつくったこの事件は 匸○二七作戦」と呼ばれている。  「ところがその後、中国マフィアは拠点を中国当局 の手が届かないタイとの国境にあるミャンマー側の 町に移したんです」榊原は説明をつづけた。「タイ のメーソットから狭い川を挟んだところに、カレン 州のミャワディつていう国境の町がある。習近平の 一帯一路構想でミャンマーにも大規模な投資が行な われることになると、それに目をつけたマカオの裏 社会の連中がミャワディの周辺にカジノを建設しは じめたんです。ところが新型コロナの蔓延でカジノ が干上かって、そこはオンラインカジノの拠点に なってしまった。国軍のクーデターでミャンマーの 投資環境が悪化すると、格安で投げ売りされた園区 (工業団地)を犯罪組織が買い上げて、そこを巨大な 詐欺団地につくりかえた。その施設を世界中の詐欺 グループに貸し出し、前代未聞のインターナショナ ルな犯罪者の巣窟になったってわけです」  KK園区や泰昌園区と呼ばれる工業団地には、中 国人を中心に一万人以上が拘束され、特殊詐欺のか け子をやらされている。東南アジア各国だけでなく、 ケニアやエチオピア、ウガンダ、ブルンジなど失業 率の高いアフリカの国から高給を約束して大卒の若 者をおびき出し、ロマンス詐欺の要員にしてもいる。 売春や人身売買、臓器の売買が行なわれているとの 薗一。肖もある。  日本の特殊詐欺グループは、タイのパタヤ、フィ リピンのクラーク、カンボジアのシアヌークヴィル などを拠点にしていたが、近年はどの国も取り締ま りを強化し、ビジネスをつづけられなくなって、内 戦で権力の空白が生まれたミャンマーの国境地帯に 引き寄せられていった。すくなくともI〇〇人以上 の日本人が、詐欺グループで働かされているらしい。  「ところがこの詐欺団地を欧米のメディアが取り上 げるようになって、さすがに放置できなくなってき たんです。いまは中国を中心に二〇力国以上が集 まって、タイ警察とともにミャンマー側に圧力をか けています。KK園区を支配しているのは反政府組 織から寝返って国軍についた「カレン国境警備隊 (BGF)」で、その南にある泰昌園区は少数民族の 武装組織「民主カレン慈善軍(DKBA)」が実効支 配していて、とにかく複雑なんですが、どちらも国 際社会から責任を追及されると豹変して、いまでは 「被害者を救出する」つて正義の味方みたいなこと をいってますよ」  「そこに、特殊詐欺の元締めである炭治郎がいるん ですか?」  「いやいや、それはないでしょう」榊原は片手を 振った。「ミヤワデイは、カジノ以外はなにもない 田舎ですよ。大金を稼いたって、そんなところじゃ 使い道がない、バンコクか、あるいはマニラで楽し くやってるんじゃないですか」  「すでに目星はついている?」  「派手に遊んでいる日本人はリストアップしてます。 東南アジアではけっこう目立ちますからね。でも、 決定的な証拠がない」榊原はからかうような微笑を 浮かべた。「この難事件を、樹生くんの活躍で解決 しようってわけです」  そこに日本人の若い女性四人が大きな声で話しな がら入ってきて、すこし離れたテーブルに座った。 「昨日の葉っぱ、けっこう飛んだよねえ」などと無 邪気にいっている。  榊原は女たちにちらっと視線を向けると、軽く肩 をすくめた。  「バンコクの日本大使館に出入りしていたタイ人の 情報屋が殺されたって話を聞いたんですけど」樹生 は話を変えた。「それって、黒木さんが関係してる んですか?」  「こういう言い方すると、都合の悪いことをごまか しているって思われるでしょうけど、よくわからな いんですよねえ」榊原はウェイターを呼び止めると、 空になったグラスを指さしてドライマティーニを頼 んだ。「樹生くんとは運命共同体だから組織の内情 を話しますが、日本には警察の公安と検察の公安が あるんです」  「警察と検察?」  「ええ。映画やテレビドラマによく出てくるのは警 視庁公安部で、外事課が外国のスパイの摘発や国際 テロ対策を担当しています。二〇二一年には、北朝 鮮担当として公安部外事第三課が独立しました。警 察の隠語では公安は公の漢字から。ハム”と呼ばれ、 外事は。ソト”ですから、外事三課は。ハムのソト サン”です。それに対して公安検察は、警察から送 検されてきた公安事件を扱うくらいにしか思われて ませんが、公安調査庁を傘下にもつれっきとした情 報機関なんです」  榊原の説明では、日本には大きく分けて四つの情 報機関がある。もっとも規模が大きいのは警察庁警 備局や警視庁公安部などの警察の公安で、それ以外 に公安調査庁を所管する検察の公安、自衛隊の防諜 部隊を統合した情報保全隊、内閣情報調査室がある。  「このうち防衛省・自衛隊は軍事的な攻撃を防ぐの が目的で、内閣情報調査室は新聞の切り抜きみたい なことしかしていないので、それなりに住み分けて るんですが、警察の公安と公調(公安調査庁)の仕 事はもろに重なるので、いろいろ大変なんですよ」 榊原は軽く嘆息した。  公安調査庁は、創設時こそ裁判官出身の弁護上が トップに就いたが、二代目以降の長官はほぼ検察出 身者で独占されている。国内を担当する第一部長は 警察庁からの出向者の指定席で、第二部長は生え抜 きと検事が交代で就くことになっている。第二部は 外国担当で、北朝鮮や中国、ロシアなどの諜報機関 や海外のテロ組織の動向を調査・分析しており、警 視庁の公安部外事課とはことあるごとに衝突してい る。だから公安調査庁では、第二部の情報は警察庁 に筒抜けになる第一部にはぜったいに伝えないとい  「ということは、バンコクの日本大使館でタイ人の 情報屋を使っていたのは、警察庁から出向してきた 公安の人間ということですか」樹生にも、ようやく 話が見えてきた。  「そういうことです」榊原がうなずいた。「なにか あっても検察官の私か問い合わせることはできない し、訊いたとしても教えてはくれません。なんでも 縦割りでタコツボという、日本の組織のダメなとこ ろですよ」  「だったらなぜ、こんどの件で警視庁が協力してく れるんですか?」  「それは、敵の敵は味方だからですよ」榊原が笑っ た。「警察のなかでも、公安とそれ以外の部署はお 互いに憎みあってるんです。公安を出し抜けると匂 わせるだけで、喜んでエサに食いついてきます」  「それで、日本側ではあくまでも特殊詐欺の捜査の  一環ということになってるわけですね。でもあなた  のほんとうの狙いはラザルスがハッキングした五〇  〇億円相当のクリプトで、そのためには黒木さんの  会社と北朝鮮の関係を調べる必要がある」  「さすがに樹生くんは飲み込みが早い」榊原はマ ティーニのグラスをもつと、乾杯の仕草をした。 「安倍政権以降、警察庁警備局の人間が国家安全保 障局で大きな顔をするようになって、法務省や検察 庁の幹部は巻き返しに必死なんです。それに公安が 出てくると、ありもしない罪をでっちあげて無実の 人間を逮捕したり、余計なことばかりする。だから、 こうして頼んでるんです」  「でもこの話、あなたにとって都合がよすぎるん じやないですか」樹生はいった。「リスクを負うの はぼくだけでしよ」  「そんなの当たり前ですよ」榊原はあっさり認めた。 「私は公務員ですよ。樹生くんとちかって大きなリ スクが取れるわけがない。だから、冒険のお手伝い をしようと申し出てるんですよ」  「冒険?」  「そう」榊原はさわやかな笑みを浮かべた。「樹生 くんがいちばん求めているもの」  反論しようと思ったが、うまく言葉が出てこな かった。  「それに、往復の飛行機代とホテル代を機密費から 支給しますよ。エコノミークラスとビジネスホテル ですけど」と榊原はいった。  いつものようにヤワラーの中華料理店で夕食をす ませ、位置情報を把握されているスマホをアパート の部屋に置いて、バイクでコンドミニアムに移動し た。四七階の窓の外には、重い雲が垂れこめていた。 雨が降ってきたのかビルの明かりが滲んでいる。金 庫から通信用のノートパソコンを取り出すと、ソ ファに腰を下ろしてHALをチャットに誘った。  しばらくするとHALがチャットルームに入って きた。   TATSU一「監視されてる」つてどういうこ         と?     HAL一リストに載ってるんだ   TATSU一どこの?     HAL一NSA  NSA(国家安全保障局)はアメリカの情報機関 で、その活動は長く秘密にされてきたが、二〇一三 年に職員だったエドワードースノーデンが大規模な 盗聴とインターネットの監視を告発したことで世界 的に知られることになった。二〇〇七年から運用を 開始したPRISM(プリズム)は、{}oogle' Apple' Facebookなどのプラットフォーマーのサイトに バックドアを仕掛け、ユーザーの電子メールや文書、 写真、通話などを秘密裏に記録していたと報じられ た。  樹生は、世界最強の情報機関であるNSAのサー バーにHALがアクセスできるらしいことに驚いた。     HAL一でも、気にしなくていいよ。N         SAはちょつとしたことでも監視         対象にするから。なんか心当たり         ある?   TATSU一じつは、ないわけじゃない  特殊詐欺集団のマネーロングリングの話を簡単に 伝えた。もちろん、日本の司法当局に協力している ことは伏せて。     HAL一詐欺かあ。FB-ならともかく、         NSAはそんなのに興味もたない         なあ。国家がらみの事件とか、そ         ういうのじゃないと   TATSU一北朝鮮の(ツカーが、日本の交         換所から三億ドル以上のクリプト         を盗んだ事件があっただろ。それ         ならどう?   HAL匸フザルスにかかわってるの? TATSU一まだよくわからないんだ。でも、       もしかしたら巻き込まれたかもし       れない   HAL一いいなあ、面白そうで TATSU一べつに面白くないよ   HAL一こつちなんて、建物から出るこ       とすらできないんだよ。退屈で気       が狂いそうだ TATSU一たまには旅行でもすればいい       じやん     HAL一タイはどう?   TATSUてバンコクは大都会。大麻は吸い         放題。六月からI〇月は雨季で毎         日スコールが降る。それが終わる         と乾季で、けっこう快適。三月に         入ると強烈に暑くなる     HAL一行ってみたいなあ。でも、とう         ぶんは無理だよ  その理由を訊こうとしたが、思い直した。HAL にはいまの場所を動けない事情があるのかもしれな い。身体的な障害を抱えているのか、あるいは政府 に拘束されているか。     HAL一いつものやつ、また送ってくれ         る? あれが最高だよ   TATSU一いいけど、あんまりやりすぎな         いほうがいいんじゃないの     HAL一ありがとう。そんなこといって         くれるの、君だけだよ   TATSU一監視の件、なにかわかったら教         えてくれる?     HAL一もちろん。そっちも面白いこと         があったら教えて。とにかく毎日         が退屈なんだ  早朝六時にバンコクの北にあるドンムアン国際空 港で待ち合わせた。咲桜はベージュのマキシ丈のフ レアスカートにシャネルのTシャツ、ピンクのカー ディガン、大きなフレームの黒のサングラスをして いた。マレーシアのラブアン島に借りた家に戻るつ いでに、誘ってみたのだ。「うれしい。ぜったい行 く!・」と、すぐにLINEの返事が来た。  バンコクからクアラルンプールまでは空路で二時 間ほどだが、日本人の乗客も多いのでビジネスクラ スにした。そこからラブアンまでは格安航空で二時 間半だ。  マレーシアは二〇二三年匸一月から空港での入国 管理にデジタル入国カードを導入した。いちど登録 しておくと、次回以降は自動化ゲートが利用できる ようになる。デジタル入国カードの登録はかなり面 倒なので、搭乗までの時間を利用して咲桜に教えた。  タイとマレーシアは一時間の時差があり、クアラ ルンプール国際空港で入国手続きをして、国内便に 乗り換えてラブアン空港に着いたときには午後三時 を同っていた。到着ロビーにはスターバックスとマ クドナルドしかない。タクシーに乗ればI〇分ほど で中心部のヴィクトリアに着く。  ラブアンは八丈島よりひと回り大きい島で、もと もとはビーチ以外なにもない田舎だった。それを一 九九〇年にオフショア金融センターにしたことで、 東南アジアを中心に金融機関や事業会社が事務所を 置くようになった。  ヴィクトリアの町はフェリーターミナルのまわり に小さな商店街があり、そこにホテルが集まってい る。西側に運動場と博物館があって、その先に大き なショッピングセンターがつくられた。金融機関が 入るオフィスビルはその裏手にある。  樹生は、市の中心部から五分ほど歩いた四階建て の瀟洒なアパートの最上階を借りていた。八〇平米 ほどのゆったりとした間取りで、リビングとベッド ルームがふたつ。そのうちのひとつをサーバールー ムにしている。  マレーシアでも二〇二三年にスターリンクが利用 可能になっだので、屋上にアンテナを設置した。停 電はほとんどないが、無停電電源装置(UPS)で  六時間はもつようにしてある。その部屋だけは、  ずっとエアコンをつけたままだ。  換気のために窓を開け、「サーバーを更新するか ら、ちょっと待っててください。そのあと、なにか 食べに行きましよう」と咲桜に声をかけた。  「ちっちゃな町なのね」スマホのマップを見ながら 咲桜がいった。「なにがあるの?」  「美味しい中華料理屋。あとはバーが何軒か」  「それだけ?」と笑った。  「タイと同じで、マレーシアも都会はクアラルン プールだけ。あとはどこも同じような田舎です」  イーサネットケーブルでノートパソコンをサー バーラックのスイッチボードに接続すると、ソフト ウェアを新しいヴアージョンにアップデートする。 三台のサーバーを、稼働状態を維持したまま一台ず つ順番に更新していくので時間がかかる。  手順書に従って対象ノートをクラスター構成から 一時的に切り離し、新しいノートを追加していく。 すべてのノートをアップデートすると、ドメインと 管理者権限を設定し、ワークロードに必要なモ ジュールやスクリプトをインストールした。  二時間ほどで作業がひととおり終わっだので、咲 桜と連れ立って市内まで歩いた。マレーシアのいい ところは、治安がよく夜でも出歩けることだ。イス ラーム社会なので華人が経営する店か外国人の泊ま るホテルでしかアルコールが飲めないが、。国際金 融センター”のラブアンは金融マン向けのバーが何 軒か営業している。  咲桜を案内した中華料理店はテーブルがI〇卓ほ どで、外見は貧相だが料理は本格的たった。店主の 娘は樹生を見ると「あら、ひさしぶり」と英語で声 をかけ、「いつも一人だったのに、ようやく彼女が できたのね」と笑った。  鮮度のいいガルーパが入ったというので、蒸しも のにしてもらうことにした。前菜と活きエビの紹興 酒漬けを頼み、ビールで乾杯した。咲桜は店内を見 回し、サングラスを外した。  「バンコクつて、どこでも日本人がいるでしよ。と くにスクンビットは」クラゲの酢の物をつまみなが ら、小さくため息をついた。「いきなり声をかけて きたりっていうのは、さすがにないんだけど、それ でも指を差されたりするのはしよっちゅう。気にし すぎかもしれないけど、けっきよくほとんどあのビ ルにいるようになって、出かけるときはいつも車。 このあいた、一緒にカオサンを歩いたでしよ。楽し かったなあ。ああいうこと、いっぱいしたいの」  咲桜が日本社会を騒がせてからもう五年もたって いるが、連日、ワイドショーで放送され、ネット ニュースに大量の記事がアップされたので、顔を覚 えている日本人がたくさんいるのだろう。  「むかしと印象が変わらないってこともあるんじや ないですか」といった。三十代半ばになっても、華 やかな雰囲気はそのままたった。  「そのほうが、仕事に便利なこともあるしね」と肩 をすくめた。  黒木が、日本人の顧客との接待に使っているのだ と理解した。元芸能人と話ができれば、喜ぶ者もい るのだろう。  「ここ、ボルネオに近いんでしよ」咲桜が話を変え た。  ボルネオはマレーシアの呼称で、南の三分の二の インドネシア領はカリマンタンと呼ばれる。マレー シア側でいちばん大きな都市がコタキナバルだ。  「ジャングルとかある?」  「つていうか、島のほとんどが熱帯雨林です。東の サンダカンの近くにはオランウータンの保護区が あって、二泊三日のツアーに参加したことがありま す」  「野生のオランウータンー・」咲桜の顔が輝いた。 「会えるの?」  「そのときはすごく運がよくて、母親と子ども二頭 の群れがすぐ近くまで来たんです。ガイドも、こん なことはめったにないって驚いてました」  「いいなあ。わたしも行ってみたい」  「でも、ヒルを覚悟しないとダメです」  「ヒル?」  「森にはものすごい数のヒルがいて、大型動物の体 温を感知するとどこからでも入ってこようとするん です。ズボンの裾を靴下でとめたり、首にスカーフ を巻いたりするんですけど、糸みたいに細いからす べて防ぐのは無理なんです。それで、部屋に戻って 裸になると、あちこちに血を吸ってふくらんだヒル が張りついている」  「うわっ」と顔をしかめた。「それ、どうするの?」  「たらふく血を吸ったヒルは、簡単にはがせるんで す。ホテルの案内には。森への献血” つて書いて あったから、そのまま庭に放しました」  「なんか怖そう。でも、ちょっとやってみたいか な」  そんな話をしていると、特大のガルーパが運ばれ てきた。南の海でとれるハタ科の白身魚だ。「すご い!・」といって、咲桜はバッグからスマホを取り出 して写真を撮った。その場で店主の娘が、先割れス プーンを使って器用に骨を外してくれる。  「大学一年のとき、はじめて香港に行ってびっくり したのは、中華料理店の前に生け簀があって、エビ やカニ、アワビだけじゃなく、大きな魚まで泳いで いたことなんです」ガルーパをとりわけながら、樹 生はいった。「日本の中華料理って、高級な店でも、 アワビとかフカヒレみたいな乾物しか出てこないで しよ。なんか、これまでだまされてたような気がし て」  「そういわれれば、わたしも干しアワビの姿煮と北 京タックばかり食べてた」と笑った。「東京にいた 頃はいろんなお店に連れていってもらっだけど、ど こでなにを食べたかなんて、ぜんぜん覚えてない」  「ぼくなんか、日本の中華の思い出はラーメンと炒 飯、餃子だけです」  エビの殼を器用に剥きながら、「日本のラーメン、 美味しいよね」と咲桜はいった。「わたし、生きも ののかたちをしたものが食べられるようになっだの、 最近なの。いまでもお刺身はちょっと苦手かな」  「すみません。注文する前に訊いておけばよかった ですね」  「気にしないで。なんでも体験したいから」といっ たあと、「これまででいちばん美味しかったものっ てなに?」と咲桜は訊いた。  「料理じゃなくていいなら」と、しばらく考えて樹 生はこたえた。「ミャンマーのバガンに、仏教建築 の遺跡群を見に行ったんです。そこはとてつもなく 広くて、気温は四〇度を超えていて、一時間くらい 歩いたら意識がもうろうとしてきたのでホテルに戻 ろうと思ったら、観光客向けの小さなレストランを 見つけたんです。咽喉がからからに渇いていたので、 空いてるテーブルに座ってビールを頼みました。ど うせ生ぬるい瓶ビールが出てくるんだろうと思って いたら、店員は冷凍庫から擽ったジョッキを取り出 して、それに生ビールを注いでくれたんです。日本 ならぜったい飲まないような地元のビールなんです けど、そのときはこんなに美味しいものがあるのか と思いました」  咲桜は樹生の話を熱心に聞いていた。それから、 「わたしもはっきり覚えてるよ。オムライス」と いった。「子どもの頃、ちょっと変わった育てられ 方してて、ふつうのご飯、食べたことなかったの。  一日三食、お粥と根菜を煮たものばっかり。それが 五歳のとき、はじめてレストランに連れていっても らっだの。メニューを見せられてもどうしたらいい かわからなくて黙っていたら、オムライスを頼んで くれた」  「美味しかった?」  「もちろん。びっくりした」とうなずいた。「でも、 ちょっと怖かった」  「なんで?」  「楽しいことや、うれしいことをするのは罪だって 教えられてたから」  部屋に戻ると電気ポットで湯を沸かし、ハーブ ティーを淹れた。咲桜はシャワーを浴びて、バス ルームでドライヤーを使っている。  ピンクのリネンのカフタンワンピースの上にカー ディガンを羽織った咲桜が、テーブルの向かいに腰 かけた。化粧を落とした素顔だが、それも魅力的 たった。  カモミールのお茶をひと囗飲んでから部屋を見同 して、「きれいにしてるのね」と咲桜はいった。  「荷物がなにもないだけです」と笑った。「今夜は ベッドルームを使ってください。ぼくはもうちょっ と作業して、ソファで寝ますから」  それから、テーブルの上の小さな箱を咲桜の前に 置いた。  「なに?」  「さっき、バガンでビールを飲んだ話をしたでしよ。 そのあと、ペットボトルの水を買いに雑貨屋に寄っ たんです。そしたら店主から、これを薦められまし た」  咲桜が箱を開けた。綿に包まれた赤い石が出てき た。  「ミャンマーはルビーの産地なんです。これはバガ ンの近くで搦り出された石で、その作業を監督して いる店主の甥が、めったにないきれいなピジョンブ ラッドだって、もってきたんだそうです。「鳰の血」 の色はルビーのなかでも最高級品で、うさんくさい とは思ったんですが、人生最高のビールの記念に三 〇〇ドルで買ったんです。さっき、そのことを思い 出して探したら出てきました。ぼくがもっててもし かたないから、よかったら使ってください」  「ありがとう」咲桜は花のような笑みを浮かべると、 石を右手の薬指に当てた。「指輪にはちょっと大き いから、ペンダントにする」  「ルビーの宝石言葉、知ってる?」と訊かれた。樹 生は首を振った。  「燃えるような恋。焼けつくような嫉妬」と咲桜は いった。  翌朝は早めに起きて荷物をまとめ、近所のカフェ で簡単な朝食をすませると、スーツケースを引き ずってフェリーターミナルまで歩いた。ラブアンか らはボルネオ島の各地に船が出ていて、ブルネイに 行くこともできる。  ブルネイはボルネオのサバ州の一部だったが、石 油や天然ガスが発見されたことで、第二次世界大戦 後はマレーシアに併合されずにイギリスの自治領に なり、一九八四年に独立した。イスラームの君主で あるスルターンが統治する立憲君主国で、豊富な資 源を輸出して国はうるおい、個人に対する所得税・ 住民税はない。マレーシアがラブアンを金融特区に したのは、ブルネイからの投資を期待したからでも ある。  フェリーのチケットを買ってから出航までの時間 に、近くの免税店にワインを買いに行った。ブルネ イは敬虔なイスラーム国なので、ホテルのレストラ ンを含めて飲酒できる店はないが、外国人がホテル の部屋で飲むのは自由だ。大量に買い込むと密売を 疑われるが、数本なら税関もまったく興味をもたな い。  フェリーはI〇〇人も乗ればいっぱいになるよう な古い船で、一時間半ほどでブルネイのムアラー ターミナルに着いた。スマホの電子登録カードを人 国管理官に見せ、パスポートにスタンプを押しても らう。ターミナル周辺はなにもないので、あらかじ めホテルに頼んでタクシーを呼んでおいた。  スルターンが贅を尽くして建設したホテルは、プ ライベートビーチ、ラグーン、五つのプールにゴル フコース、映画館まで備えていた。広大な敷地内は カートで移動し、ホテル棟のほかに湖に面したヴィ ラもある。  昼前に着いたのでロビーラウンジでナシゴレン (マレーシア風炒飯)と牛テールスープのランチを食 べていると、早めに部屋が用意できたと案内があっ た。海に面したスイートは匸一〇平米の広さで、 ベッドルームのほかに広いリビングとダイニングが あった。  ラブアンで買ってきた自ワインを冷蔵庫に入れ、 赤ワインをふたつのマグボトルに移した。水着に着 替え、マグボトルをもってプールに向かう。咲桜は、 コバルトブルーのラインが入っだスポーツタイプの 黒のワンピースの上にTシャツを着ていた。水着に なっても、左腕のリストバンドは外さなかった。  海に面したメインプールは子連れの客で混んでい たので、建物の裏手にあるプールに行くと、こちら は貸切たった。咲桜はスイミングキャップにゴーグ ルをつけ、きれいなクロールで四〇メートルはある プールを往復した。  「インストラクターつけて、習ったことがあるの。 映画の撮影で、泳がなくちやいけなくて」といった。 巨大な水槽のなかで、人魚に扮してバレエを踊る女 の役たった。  泳ぎ疲れると、日陰のデッキチェアにタオルを敷 いて横になった。プールの管理人が、グラスに入っ だ水とおしぼりをもってきた。気温は三〇度を超え て蒸し暑いが、ときどき風が通って気持ちいい。マ グボトルのキャップを開け、「ぽんとはいけないん だけど、誰も気にしないし」と乾杯した。  しばらく目を閉じて風を感じていた。咲桜は、 バッグから文庫本を取り出した。  「なに?」と訊いた。  「『悪霊』ドストエフスキー」  「そんなの読むんだ」  「うん。はじめて読んだのはI〇年くらい前だけど、 別の翻訳でも読んでみたくなって」  文庫本を胸の上に置いて、樹生を見た。「わたし、 スタヴローギンが好き。とても深いところで、残酷 なくらい壊れているから」といった。それから、 「樹生くんはなに読んでるの?」とKi乱leを覗き込 んだ。  「バックハッカー小説」とこたえた。「オーストラ リアの犯罪者がインドに逃亡して、冒険するんで す」  「それじゃぜんぜんわからないよ」と咲桜が笑った。 「もうちょっと説明して」  「え1と、主人公はアナキストで、メルボルンの大 学で学生運動のリーダーをしてたんだけど、革命に 挫折して、おまけに離婚して娘の親権を奪われちゃ うんです。それで絶望してヘロインにはまって、ド ラッグを手に入れるために銀行強盗をするように なって、警察に追われて偽造パスポートでインドの ムンバイに逃亡する。そしたら気のいいガイドと仲 良くなって、ムンバイのスラムで暮らすようになっ て、それからアフガニスタン人のマフィアの一員に なって、運命の女と出会うんです」  「もっとわからない」と声をあげて笑った。「でも 面白そう。こんど読んでみる。なんて本?」  「『シヤンタラム』」とこたえた。それから、「本は よく読むんですか?」と訊いた。  「うん」とうなずいた。「ちがう世界に連れて行っ てくれるから」  すこし問を置いて、つけ足した。  「わたし、この世界に合ってないの。だから、いつ も別の場所を探してる」  その夜は、六つあるレストランのうちアジア料理 の店に行った。メインはイカンーバカールというイ ンドネシア風の焼き魚と、カッテージチーズとトマ トソースのカレー。日本人の家族連れがいて、妻が こちらを何度も見ては夫に話しかけていたが、咲桜 は気にしていないようだった。  部屋に戻ると、冷えた自ワインをグラスに注いで バルコニーの椅子に座った。外灯に照らされた椰子 の樹の向こうに暗い海が揺れている。空は雲に覆わ れ、月も星も見えない。  咲桜はグラスを手に、片膝を立てて外の景色を眺 めながら、「わたし、ときどき怖くなることがある の」といった。  「なにが?」  「ひとはみんな、自分を世界の中心だと思ってるで しよ。でもそれって、神ってことだよね。そうなる と、この地球には八〇億の神がいて、同じだけの宇 宙があることになる」  「八〇億の神かあ。ちょっと想像できないな」  「樹生くんは怖くならないの? 別の宇宙に生きて るのに、友だちになったり、つき合ったりすること が」  「八〇億もの人間が暮らしてるんだから、そのなか の誰かと出会って、親しくなるって偶然ですよね」 とこたえた。「こうして咲桜さんと話してるのだっ て、ぼくにとっては奇跡なんです。だったら、それ が誤解や勘違いでもかまわない」  「咲桜って呼び捨てにして」といわれた。「そのほ うがしっくりくるから」  「じやあ、ぼくのことも呼び捨てで」  「それはちょっとおかしいかなあ」と笑った。「樹 生くんつて呼びかけるほうが好き」  それからしばらく、二人で海を眺めていた。  「ねえ、なにか旅の話をして」咲桜がいった。「わ たしの知らない世界のこと」  しばらく考えて、「学生時代、マレーシアをバッ クパック旅行したんです」と話しはじめた。「クア ラルンプールからバスに乗ったんですけど、行先を 間違えて、延々と椰子の樹がつづいて、どこなのか わからないところで降ろされた。せっかくだから ちょっと歩いてみようと思ったんですけど、いきな り土砂降りの雨が降ってきた」  しかたがないので、バス停の近くの樹の下で、び しよ濡れになりながら立っていた。そうしたらパト カーが近づいてきて、運転席から顔を出した警官に、 身振りで助手席に乗れといわれた。  「そのまま警察署に連れていかれて、留置場に放り 込まれるかと思ったら、着いたのはその警官の自宅 だったんです」  そこには妻と小学生の長男、高校に通っている姉 がいた。家族は最初、父親が見知らぬ外国人を連れ てきたことに驚いていたが、事情を聞くと大きな声 で笑いだした。妻が奥から夫の下着、シャツ、ズボ ンをもってきて、とにかく着替えろという。姉が学 校で習った片言の英語で、「雨はとうぶん止まない から、一緒に晩ご飯を食べましよう」といった。  ココナッツミルクを入れて野菜と煮込んだチキン カレーは、素朴だけれどびっくりするほど美味し かった。空心菜の炒め物と、ロバッと呼ばれるマ レーシア風の揚げ春巻き。黒糖を包んだ餅にココ ナッツをまぶしたデザートまで出てきた。  食事が終わると、ちょうど雨が上がった。警官が 立ち上がっだのでバス停まで送ってくれるのかと 思ったら、「あなたに見せたいものがあります」と 姉がいって、三人で出かけることになった。  パトカーでI〇分ほど走ると川にぶつかって、そ こに小さな船着き場があった。ボートが三、四艘浮 かんでいた。警官が小屋に船頭を呼びに行き、姉と 二人で乗るよういわれた。  しばらく川を下ると、前方がぼんやり明るくなっ てきた。  「雨が上がったあと、たくさんホタルが見られま す」と姉が説明した。「わたしたちは、クリスマス ツリーと呼んでます」  ボートが川に沿って大きく曲がると、樹生は思わ ず息を飲んだ。川沿いのマングローブの樹に数万匹、 あるいはそれ以上のホタルがとまって、いっせいに 明滅しているのだ。  「ホタルのオスが同期して光るのは、シンクロニシ ティつていうんです」樹生は咲桜に説明した。「オ スはメスを呼び寄せるために光るんですけど、同じ 樹に集まればメスが見つけやすい。でも、いったい どうやって光を同期させているのか、まだわからな いんです」  船頭はエンジンを止め、船は流れに任せて幻想的 な光のなかをゆっくりと下っていった。  「でもそのうち、不思議なことに気づいたんです」 樹生は咲桜にいった。「ホタルたちが集まる樹から、 ときどき、一匹だけ飛び立つホタルがいる。そのホ タルは仲間のいない樹にとまって、自分だけで光り はじめるんです。でも、そんなのムダですよね。隣 の樹は、文字どおり光り輝いてるんだから」  「誰にも見つけてもらえないのね」咲桜はいった。 「でも、なんでそんなことするの?」  「ぼくもずっと不思議だったんですけど、今日の昼、 ようやくわかったんです」樹生はこたえた。「その ホタルは、この世界に合わなかったんですよ」  咲桜が、驚いたような顔をした。  「そのホタルを見て、自分もこんな生き方をした いって思ったんです」樹生は話をつづけた。「群れ に同調するんじやなく、誰からも気づかれなくても、 ほら、こっちのほうが幸せになれるよって、たった 一人で呼びかけつづけるような」  咲桜はしばらく、樹生を見つめていた。それから 立ち上がると、樹生の唇に自分の唇を重ねた。   ペッドのなかの咲桜の身体は彫像のように冷たく、 火のように熱かった。はげしく樹生を求めると、何 度も声をあげた。絶頂を迎えるとき、わずかに涙を 流した。  抱きあったまま、眠った。ふと目覚めると、咲桜 がじっと見つめていた。  「眠れないの?」と訊いた。  「わたし、あんまり寝ないの」といった。「それに、 今日はうれしいことがたくさんあって、興奮してる から」  かたちのいい乳房のあいたに、顔を埋めた。咲桜 は樹生の頭を抱くと、「わたし、中学のときに、こ の世界は自分を受け入れてくれないんだってわかっ だの」といった。「それでいろいろ考えたんだけど、 やっぱり生きてちやいけないんだって結論になっだ の」  咲桜は上半身を起こすと、左腕のリストバンドを 下ろした。肘の下から手首にかけて、ケロイド状の 太い線が走っていた。  樹生はその肉塊に、思わず唇を押しつけた。  次の日はホテルの車で王宮のあるバンダルスリブ ガワンに行き、豪華なモスクを見学したあと、ボー トに乗ってブルネイ川の水上集落をめぐっだ。その 翌日はテンブロン国立公園にボートで渡り、ジヤン グルのなかにつくられたキヤノピーウォークを歩い た。地上四三メートルの鉄塔を五つ連結して、熱帯 雨林を上から一望できるようにした空中回廊だ。咲 桜は子どものようにはしやぎ、叫んだ。  帰りはブルネイ国際空港から直接、バンコクに 戻った。スワンナプーム国際空港でタクシーに乗り、 スクンビットで咲桜を降ろしてから、ヤワラーのア パートに行くことにした。  高速を降りると、いつもの渋滞に巻き込まれた。  「なにもかも楽しかった。ありがとう」と咲桜が いった。  「礼をいうのはぼくのほうです」とこたえた。「こ んな素敵な旅ができるなんて思いませんでした」  咲桜が樹生の膝の上にてのひらを置いた。  「日本に行くことにしたって、黒木から聞いたの」 オフィスのある路地を曲がったところで、樹生を見 た。「ひとつ、お願いがあるんだけど」  「なんですか」と訊いた。 「お母さんを探してほしいの」 「えっ?」思わず声をあげた。 「べつに、お母さんに会って話をしてくれとか、そ ういうんじやないの」咲桜が言葉を継いだ。「生き てるか、死んでるか、知りたいの」 一ごy】″】に yG‘’ U冂  「ぽんとサイアク。あの男のなにもかもに虫唾が走 るの」隣のテーブルの女が、大きな声をあげた。そ の言葉に、同じテーブルの三人の女が全力でうなず いている。  二年ぶりの帰国。ここ数日は例年より暖かいとい うが、常夏の国から来ると寒さが身に染みる。  新宿南口の駅ビルにある洒落たカフェに入り、案 内された席に座った瞬間から、隣の女の愚痴が聞こ えてきて後悔した。トイレの使い方、歯の磨き方、 服の畳み方にいたるまで、三十前後の女はあらゆる ことで夫の態度に文句をつけていた。  平日午後三時過ぎのカフェで時間をつぶしている のだから、働いてもいないし、子どももいないのだ ろう。同居する男がそんなに嫌いなら、仕事を見つ けてさっさと離婚すればいいと思うのだが、友人だ ちは女の一方的な愚痴を真剣な表情で聞き、代わる 代わる同情の言葉をかけている。  不思議なのは、自分の私生活を周囲に聞こえるよ うな声で話すことに、なんの躊躇いもないことだっ た。おそらくこの女にとって、世界は半径一メート ルの範囲で閉じており、隣のテーブルにいる男ぱた んなる背景か、それ以下の存在なのだろう。  「なかでも最悪なのはスポーツ新聞。といっても、 紙の新聞じゃなくてスマホのサブスクで、休みの日 は朝からずっとそれを見てるの。こっちは朝ご飯つ くってあげてるのに、美味しいも不味いもひと言も なし。どっかに出かけてはしいんだけど、ずっと家 にいるから、わたしだけ遊びに行くわけにもいかな いでしよ。まるで拷問」  樹生はため息をつくと、テーブルの上のノートパ ソコンを閉じた。メールの返事を書こうと思っだの だが、こんな話を延々と隣でされていると、とても そんな気にならない。  スマホを開くと、LINEで咲桜が「東京はど う?」と訊いていた。ガラス窓から西新宿の高層ビ ル街を撮って、その写真を送った。  コーヒーを半分ほど残し、ノートパソコンを リュックにしまうと、伝票を手に席を立った。隣の 席の女の一人が、ちらっとこちらを見た。自分たち がどう思われているかはわかっているらしい。  日本に帰ってきたと実感するのは、日本語の無意 味な会話が耳に入ってきたときだ。もちろん世界中 で無数のどうでもいい会話が交わされているのだろ うが、東南アジアでは現地の言葉は理解できないし、 英語もネイティブスピーカーではないから、意識し て聞かないかぎり日常会話はBGMと同じだ。  バンコクから成田への航空便のビジネスクラスで は、斜め前に座っていた女が、通路を挟んだ席の知 人にずっと中国語で話しかけていた。女は疲れて眠 るまで三時間以上、一方的に話しつづけ、目が覚め てから到着までの二時間もずっとしゃべっていたが、 うるさいとは思ったものの苦痛には感じなかった。 だが日本だと、聞きたくもない会話の内容まで頭に 侵入してきて、ときに気分が悪くなる。  渋谷で働いていたときは、テイクアウトのコー ヒーを買って公園のベンチで飲むことが多かった。 ひさしぶりの街歩きに疲れて、つい快適そうなカ フェに入っだ自分の失策を呪った。  匸一月の西日が高層ビルを照らしていた。すこし 早いが、歌舞伎町に向かうことにした。  「樹生さんに、セキュリティ対策をちゃんとやらな きやダメだって、さんざんいわれたでしよ。最初は そんな必要があるのか半信半疑だったんですが、い まはほんとに感謝してます」  パソコンが置かれたテーブルに椅子が四脚、隅に 大型金庫が置かれた狭い事務室で葛城と向かい合っ ていた。ドアは開け放たれていて、ホールスタッフ の男たちが開店前の準備をしているのが見える。席 数が五〇ほどの中箱のキヤバクラで、葛城はその経 営者だ。年は四十代半ば、ブランドもののスーツに 金のロレックス、髪の毛をオールバックにしている が、どことなく愛嬌がある。  「この業界でもここ二、三年、ハッカーに侵入され て顧客情報が流出したり、データベースを暗号化さ れて身代金を要求されたり、さんざんですよ。風俗 業者が警察に被害を届けられるわけがないと、足元 を見られてるんでしよう。なかには面白半分に女の 子の顔写真や個人情報をネットにさらす奴もいて、 親や勤務先に身バレして大騒動になったところもあ ります」  会社を辞めてから、フリーでプログラムの仕事を いくつか引き受けた。そのひとつが創業したばかり のゲーム会社で、ベンチャーファンドがまとまった 資金を出したとたんにつぶれたのだが、仕事の報酬 はかろうじて受け取れた。そこの二十代の社長がこ のキャバクラに通っていた縁で、葛城から店のシス テムをつくってくれないかと頼まれたのだ。  素人が店のパソコンで顧客や従業員のデータペー スを管理していると、いずれハッカーの標的になる。 利用料金を払ってSalesforceのようなグラウトの顧 客管理システムと契約し、データベースには葛城と、 店の経理をやっている妻だけがアクセスできるよう にしておいたほうがいいと、樹生はそのときに説明 した。そのアドバイスに従ったことで、葛城はトラ ブルを免れていた。  「ここでちょっと作業させてもらいます」というと、 樹生は事務室のパソコンからグラウトのデータペー スにアクセスした。  葛城は、「じやあ、よろしくお願いします」と ホールに向かった。「今日はシャンパンタワーが 入ってて、ちょっとばたばたしてまして」  日本に帰ることになったとき、ふと思いついて葛 城にメールした。すると、システムのカスタマイズ をしてもらえないかと頼まれたのだ。  葛城の要望は、顧客が支払った金額と、担当する 女性の売上を日次、週次、月次、年次でランキング してグラフで表示できるようにすることだった。I P制限を外してリモートで作業することもできたが、 ひさしぶりに話がしたいといわれたこともあり、店 に寄ることにしたのだ。  SOQLで簡単なクエリを書き、ダッシュボード ビルダーでバーグラフを作成し、葛城の要望に沿っ てビジュアルを組み立てていく。作業は一時間ほど で終わり、デモを見せて操作の仕方を教えた。  「いやあ、まさに私か望んでいたとおりのものです よ」葛城は喜んだ。「樹生さんは、やっぱり一流で すねえ」  自分はグラウトサービスにあらかじめ備わってい る機能をいじっただけだから、たいしたことはして いないとこたえた。  葛城はロレックスに目をやると、「せっかく日本 に帰ってこられたのだから、今日は夕食をご一緒に と思ったんですけど、店を抜けられなくなってし まって」と困った顔をした。  「気をつかわないでください」といい終わる前に、 葛城は大声でホールスタッフを呼び、「今日、誰が 出勤してるの?」と訊いた。黒のスーツを着た若い 男が何人かの女の名前をいうと、「アリサ来てる の? ちょうどいいや。呼んできて」と命じた。  「私の代わりに女の子をつけますよ。大学生で、難 しい話もできますから、退屈させません」  「そんなことしなくていいです」と席を立とうとす ると、「まあまあ、遠慮しないで」と止められた。 そこに、「お疲れさまで1す」と若い女が人つてき た。バーバリーのチェックのミニスカートにキヤメ ルのハイネックセーター、すらりとした足に黒の口 ングブーツを履いて、モデルのようだ。  「この方、店のシステムをつくってくれたプログラ マーの樹生さん。すごくお世話になっているから、 ご飯につき合ってもらえるかな」葛城がアリサに訊 いた。「もう二年以上海外で暮らしていて、ひさし ぶりの日本なんだ」  「このあいた社長が話してたひと?」アリサは上目 づかいで樹生を見ると、葛城に向かって「それって、 会社もちってことですか」と無邪気に訊いた。「予 算制限なしで」 「いいよ。領収書もらってきて」 「やった11・」アリサが大きな声をあげた。「超 ラッキー。ジヤケット取ってきますから、ちょっと 待っててください」  「いい子でしよ」アリサが出ていくと、葛城がいっ た。「フルタイムで働けばうちのナンバーワンに だってなれますが、いまは学校があるんで週一か週 二です。今日が出勤日でこっちも超ラッキーです よ」  苦笑いすると、「今回のお礼はこれまでと同じア カウントにビットコインで送ればいいですか」と訊 かれた。  そうしてくれと伝えると、「これもお礼をいわな いといけませんね。樹生さんに教えられて、仮想通 貨にちょっとだけ投資するようになったんです。そ したらいきなり上がったでしよ。けっこう儲けさせ てもらいました」と葛城はいった。  それから小声になって、「利益の出たビットコイ ンを、税務署に知られずに裏金に換える方法ってな いですかねえ」と樹生を見た。「交換所で換金する と、税務署に調書が送られるんでしよ」  裏金をもっていて、それを暗号資産に換えたい者 を探してスワップすればいい、という話をした。  「なるほどねえ」葛城は感心したように声をあげた。 「そんな方法があるんですね。で、そういう相手は すぐに見つかるんですか」  「知り合いに訊いてみたらどうですか。ベンチャー 系の経営者なら、手元の現金を隠したいってことも あるでしょう」とこたえた。  そこに「お待たせしました1」といってアリサが 戻ってきた。革のコートを着て、セリーヌのミニ バッグを右腕にかけている。セミロングの髪はニッ トの帽子に収めていた。  葛城に礼をいうと、アリサに連れられて夜の新宿 に出た。  「食べたいものとか、あります?」寒さに首をすく めながら、アリサが訊いた。「わたし、けっこうグ ルメなんで、いろんなとこ紹介できますよ」  「歌舞伎町に新しくできた高層ビルのなかに、地方 のいろんな料理を集めた屋台街みたいなのがあるで しよ。タイでも話題になっていて、テレビのニュー スで見たんだ」  「え1?」アリサが不満そうに頬をふくらませた。 「どんな高級店でもOKつていわれてるんですよ。 タクシー拾って、西麻布の懐石の店とかいいかなっ て思ってたのに」  それから、「まあ、いいか」と笑顔になった。 「行ってみたいところが、いちばんですよね。わた しもはじめてだし」と歩き出した。  ホストクラブの看板があふれる通りを抜けて歌舞 伎町の中心まで来ると、ゴジラのオブジェがある映 画館に通じる道の両脇にコスプレのような格好をし たミニスカート姿の女の子たちがずらりと並んでい た。みんな両手に手書きのボードをもっている。  「あの娘たちは?」と訊くと、「コンカフェ」とア リサはこたえた。  「コンセプトカフェの略で、風営法に引っかからな いように営業している風俗の店。キヤバクラだと、 十八歳以上じゃないと雇ってくれないでしよ。高校 生でもコンカフェなら働けるから、学校が終わると ここで呼び込みやって、お客さんを店に連れていく と歩合でお金がもらえるの」  キヤバクラでは客の隣に女性が座るが、コンカ フェの従業員は喫茶店のウエイトレスと同じなので、 客との会話は禁じられている。それでも話をすると きは、フロアに片膝をつく決まりになっているのだ と説明された。  「男版のコンカフエもあって、メンコンつていうの。 ホストクラブも最近はいろいろうるさくて、客も十 八歳以上じゃないと入店させてもらえない。それで、 高校生の女の子たちがコンカフエでお金を稼いで、 それをメンコンの推しに使ってるってわけ。そうい う子たちが、成人するとキヤバ嬢や風俗嬢、ホスト になる。よくできたエコシステムですよね」  歌舞伎町に新しくできたビルに挟まれた広場は、 柵で囲われていた。行き場所のない若者たちがここ にたむろするようになり、「トー横キッス」と呼ば れて社会問題になったため、閉鎖されたのだという。  その広場の横を抜け、階段脇のエスカレーターを 上がると、いきなり大音量のクラブミュージックが 響いてきた。中央にDJブースが置かれ、そこでミ ニライブが行なわれている。金曜の夜で、フロアは すごい活気だ。  「へえ、こんなふうになってるんだ」アリサは北海 道から沖縄まで、地域別に分かれた店に目をやると、 「出身、どこです?」と訊いた。  東京、とこたえると、「故郷の味って感じじやな いですねえ」と笑った。「じやあ、九州でいいです か。わたし、福岡出身なんで」  店はほぼ満席で、奥にかろうじてテーブルがひと つ空いていた。客の三分の二は外国人だろうか。そ こに仕事帰りのスーツ姿が交じっている。  案内してくれた店員に、生ビールとレモンサワー を頼んだ。アリサはメニューを手に取ると、苦手な ものはないか確認して、「頼んじやっていいですか」 と訊いた。樹生かうなずくと、「すみませ1ん!・」 と大きな声で店員を呼び、メニューをめくりながら、 枝豆、からし蓮根、焼き明太子、鉄鍋餃子、水炊き などを次々と頼んでいく。  店員がオーダーを確認したあと、アリサは樹生を 見て、「わたし、仕切らないと気がすまないタイプ なんです」と笑った。  生ビールとレモンサワーで乾杯したあと、アリサ は「樹生さんのこと、なんて呼ぼうかなあ。たっ ちやんでいいですか? わたしのことは呼び捨てに してください」といった。  どこで暮らしているのか、なぜ海外に行こうと 思ったのか、それまでなにをしていたのかなど、細 かなことまでアリサは知りたがった。ひととおりこ たえたあと、「こんどは君のことを教えてよ」とい うと、「え1.わたしなんてぜんぜんふつうで、面 自くないですよ」と両手を振った。  「公務員のお父さんと、専業主婦のお母さんに育て られて、高校生の弟が一人。大学で上京したんだけ ど、親の仕送りだけだときびしいじやないですか。 それで、手っ取り早くお金を稼ぐにはどうするか考 えて、そうしたら同じような地方出身の友だちがい まの店を紹介してくれて、雇ってもらったんです」  アリサは、有名私立大学の二年生たった。文学部 で心理学を専攻しているという。  風俗の店で働くことに、不安はなかったのか訊い た。  「メチヤクチヤ緊張したに決まってるじやないです かあ」と、アリサは大きな声をあげた。「だけど、 共学でも文学部だと女が八割くらいだから、ファッ ションでランクづけされるんです。お金がないと、 カーストの最下層で四年問、耐えるしかない。そん なのぜったいイヤだと思って、覚悟決めたんです」 という。  それから、キヤバクラのシステムを説明された。 客から指名され、ドリンクやボトルを注文させると、 それに応じて歩合がもらえる。  「最初は時給二五〇〇円だったんですけど、わたし、 この仕事に向いてるみたいで、けっこう指名される ことが多くなったんです。歩合に変えると売上の四 割がもらえるから、月三〇〇万円の売上なら匸一〇 万円。わたしの場合、出勤日がすくないからその半 分くらいだけど」  店内の男たちが、ちらちらとアリサを見ているの がわかった。美人というわけではないが、表情がゆ たかで、それがくるくると変わる。客から好かれる のがわかる気がした。  「あの、ちょっと相談にのってもらっていいです か?」手際よく料理をとりわけながら、アリサが いった。「来年就活なんですけど、会社員やってけ る気がぜんぜんしなくて。新卒の月給って、二五万 とか、せいぜい三〇万じやないですか。でも、キヤ バの仕事をフルタイムですれば、月一〇〇万くらい は楽勝だと思うんですよね。だったらなんで、OL やらなきやいけないのかって」  自分は三年しか会社勤めがつづかなかった、とこ たえた。  「そうですよねえ」アリサは小さくため息をついた。 「就職したら、毎日九時とかに出社して、昼になっ たらみんなでお弁当広げて、社内の噂話とかするん でしよ。考えただけで鳥肌が立つ」  やりたいことはないのか、訊いた。  「それがわかれば、悩んだりしませんよ1」と頬を ふくらませた。「わたし、そこそこ勉強できたから、 学校でも先生からちやほやされたんですけど、これ なら誰にも負けないって自信があるものなんてない んです。たっちやんみたいに、スペシャルなものが あるひとがうらやましい」  それは買い被りで、なにも特別なものなどないと こたえた。  「そんなことないですよ」と、大きく首を振った。 「うちの社長、女の子は営業トークでべたぼめする んですけど、男はめったにほめないんです。でも、 たっちやんのことは、あんな頭のいい奴は見たこと ないっていってましたよ。それでわたし、いちど 会ってみたいと思ってたんです。だから、今日はす ごいラッキー」  野菜や鶏肉が運ばれてくると、アリサはてきぱき と鍋の準備をした。  「やりたいこともないのに、分不相応にお金をもら えるって、よくないと思うんですよね」鍋に具材を 入れ、あくを取りながら、独り言のようにいった。 「わたしのお父さん、県庁の公務員で、月給は手取 りだと月四〇万円ちょっと。そのなかから、毎月一 〇万仕送りしてもらってるんです。もういらないっ ていおうと思ったこともあるけど、そうするとよけ い心配させるじやないですか。このあいた実家に 帰ったとき、お父さんより自分の収入が多いってわ かって、ちょっと複雑で……」 「ぼくもビットコインが急騰したとき、同じような ことを思ったよ」  「でしょう」我が意を得たりという表情で、アリサ がうなずいた。「お金って、いったいなんだろうっ て、わからなくなっちやって。うちの店にも、月に 二、三〇〇万稼いでるPJがいるんです。あっ、P Jつて「パパ活女子」のこと。なんでそんなにお金 が必要かというと、推しのホストに貢ぐため。本人 も、そんなの空しいってわかってるんだけど、やめ られない」  樹生のグラスが空くと、アリサは店員を呼び止め て、「次、どうします?」と訊いた。自ワインのグ ラスを頼むと、「じやあ、わたしも同じで」といっ た。  アリサによれば、最近の女の子のあいたでは、推 している男でステイタスが決まるのだという。  「恋人が推しみたいになってる子もいるけど、そう いうのはダサいんです。資本主義のシステムのなか で勝ち上かっていくのがカッコいいというか」  「資本主義?」よく意味がわからなかった。  「ホストクラブつて、資本主義の純化したかたちだ なあって思うんです」アリサは説明した。「客は毎 月使う金額でランキングされて、一〇万円以下は細 客で、特別扱いされるのは月一〇〇万円以上使う太 客。そのステイタスを維持できるのは、ほとんどが 風俗の子なんだけど、最近はパパ活でおじさんから 何千万円も引っ張ったり、配信で下着姿をさらして 投げ銭で稼ぐ子も現われて、どんどん過激になって きてる」  樹生は風俗店に行ったことがなかったから、アリ サの話はすべて興味深かった。  「あと、最近人気なのはAVに出て外国のお金持ち から稼ぐこと」  タイをはじめとして東南アジアでも売春産業はさ かんだが、裸やセックスを見せるアダルトビデオは、 アジアでは日本にしかなかった。男は自分に似た人 種の女を好むので、アジアの男たちは白人のヌード を見てもあまり興奮できない。インターネットでア ダルト動画が配信されるようになると、日本のAV 嬢が中国をはじめアジア各国で大人気になった。  「最近は、日本人より外国人のほうがお金もってる でしよ。香港やシンガポール、台湾のひとや、渋谷 や六本木のタワマンを現金で買うような中国のひ と」アリサがいった。「そういうお金持ちがAVを 見て、「いくらでも出す」と指名してくるの。香港 とかに二週間くらい行って荒稼ぎする子もいるし」  仲介業者が入ることもあるが、そういう女の子は みんなSNSをやっているので、ダイレクトメッ セージで金額を提示して誘われることもあるのだと いう。  アリサは、親や家族のことを考えると、とうてい そんなことはできないといった。「キヤバや風俗で 身バレしないで働いてるのは、わたしみたいに、就 職して働くつもりの女子大生が多いんです。そうい うしぼりがなくなったら、みんなコスパのいいほう を選びますよね」  たしかに資本主義だと感心した。  「こんなこと、はじめて会ったひとに話すようなこ とじやないんだけど、わたしもホストに貢いだこと あるんです」鍋をつつきながら、アリサが話し出し た。「今年の夏、することもないから、フルタイム で働いたんです。そしたら一五〇万くらいもらって、 店の子に連れてってもらったホストクラブで知り 合った男の子にシャンパンタワーしてあげたんで す」  ピンクのビーズやアクセサリーで飾られたスマホ をバッグから取り出すと、「見ます?」といって、 画面を樹生に向けた。フリルのシャツを着て微笑む、 王子さまのような若い男が写っていた。  「この写真、だいぶ盛ってますけど、それでも素敵 でしよ。こんな男の子からお姫さまみたいに扱われ たら、きっと楽しいだろうなって」  「それで、どうだった?」  「夢みたいだった。あんな素敵な瞬間、これまでも、 これからもないってくらい」アリサはいった。「で も、夢から覚めるのも早かった」  樹生か怪訝な顔をすると、アリサはLINEの画 面を見せた。男から、大量のメッセージが送られて きていた。「愛してる」「君のことがいちばんだよ」 という言葉のあいたに、「月末までにI〇〇万」と か、「いくらならつくれる?」というようなカネの 無心が混ざっていた。  「最初に彼と出会ってたら、この言葉を信じてソー プとかで働くようになったかもしれない」アリサは いった。「でも、キヤバの仕事してるでしよ。そう すると、どんな言葉にもお金がついてくるのがわか るの。ああ、そういうルールなのかと思ったら、ど こか冷めてきちやって」  「ルール?」樹生は訊いた。  「うん。ゲームのルール。キヤバもホストも、決め られたルールのなかでお金を稼いでいれば、悪いこ としてるなんて思わない。世の中だって同じで しよ」  気がつくと、二時間ちかくアリサと話していた。 店員を呼んでカードで支払うと、樹生はもらった領 収書をアリサに渡した。  「やっぱ、ここにして正解でしたね」とアリサが いった。  「なぜ?」と訊くと、「お洒落な店で、風俗やホス 卜の話なんてできないでしよ」と笑った。  ビルを出ると、「ちょっと行きたいところがある んです」とアリサが歩き出した。タワーに入ってい るホテルの駐車場を右に折れて歌舞伎町の交番まで 行き、その角を曲かって大久保病院に沿って歩くと、 柵に囲われた殺風景な公園がある。その公園と病院 のあいたに、女が何人か立っているのが見えた。ほ とんどが一人でスマホを見ているが、知り合い同上 で話をしているグループもある。  「あれはみんな、立ちんぼ」と、アリサがいった。 「男が声をかけると、一緒にホテルに行って、一万 五〇〇〇円でセックスするの」  樹生の腕に、アリサが腕をからませた。「離れて 歩くと、立ちんぼと客だと思われるから」  腕を組んで女たちの前を歩いた。「若い子は高校 生。ソープとかで雇ってもらえないから、手っ取り 早く稼ごうとここに立つの。あとは、時間どおりに 出勤できないとか、ほかの女の子との人間関係がわ ずらわしいとかで、風俗で働けない子たち。ここに 立ってれば、一晩で五万円くらいにはなるから」  道の反対側には、連れ立って話をしている若い男 たちが何組かいた。  「あれは、立ちんぼの品評会みたいなことをしてる だけで、声をかける勇気もないへたれの男」と説明 した。  昼は暖かかったが、この時間になれば気温はI〇 度を下回っている。それでも、胸元が大きく開いた セーター姿で路上に立つ女がいる。  「身体を売ったお金は、ぜんぶホストに巻き上げら れる。稼ぎが足りないって、ここで立ちんぼさせた ホストが何人もつかまってる」  突き当りを曲かって歌舞伎町に戻る道には、外国 人の女に交じって、男が何人か立っていた。「この あたりにいるのは男の立ちんぼ。ちゃんと場所を住 み分けてるの」  一周してビルの前に戻る途中で、大きなスーツ ケースを引きずっている若い女性とすれちがった。  「あれは家出して、生活用品をすべてもって今夜の 宿を探してる子。十八歳を過ぎてればスカウトに拾 われて風俗店を紹介されるけど、それより若いと誰 も助けてくれなくて、身体を売ってなんとかするし かない。おかしいよね」  アリサがスマホを取り出したので、LINEを交 換した。  財布から一万円札を三枚取り出し、「今日のお礼」 と渡した。アリサはちょっと驚いた顔をしたが、 「ありがとう」と受け取り、無造作にバッグのなか に放り込んだ。  「つき合わせちやってごめんね」別れ際にアリサが いった。「あそこ、女一人だと歩けないから、とき どきお客さんと見に行くの」  「なぜ?」と訊いた。  「この世界の現実を、自分に思い知らせるため」と アリサはこたえた。  アリサと別れて、西武新宿線の新宿駅から大久保 方面に歩いた。職安通りを渡って路地に入ると、低 層のアパートがごちゃごちゃと集まっている。これ から出勤するのだろう、歌舞伎町に向かう風俗嬢や ホストとすれちがった。  白人の女が二人、道路に座って、缶ビールを飲み ながら話をしていた。彼女たちに目だけで挨拶して、 ポケットから電子キーを取り出してなかに入っだ。 このあたりには、連れ込み旅館や古いアパートを改 装して、外国人向けの民泊にしているところがいく つもある。  樹生か借りたのもそのひとつで、玄関の隣が共用 のキッチンとリビングルーム、二階と三階が個室に なっていた。テーブルのまわりに集まっていた若者 たちが樹生を見て「おかえり」といった。初日に全 員と知り合ったが、みんな一人旅で、香港大、オー ストラリア大、インドネシア大、ブラジル大だ。ド アの前でビールを飲んでいた二人はフランス人のレ ズビアンで、この輪に入りたくなかったのだろう。 昨日までは北京から来た中国人のカップルが泊まっ ていて、香港人の若者とのあいたに張り詰めたもの があったが、今日はなごやかな雰囲気だ。  軽く手を振って、そのまま三階の個室に向かった。 ワンルームでトイレはついているが、シャワーは共 用だ。スマホにアリサからLINEが届いていた。 こういうまめなところが、年上の男たちに好かれる のだろう。今日の礼が書いてあったが、既読にした まま返信しなかった。  アリサは、自分は平凡な家庭で育つたといったが、 樹生の家はそれに輪をかけて平凡たった。父親は銀 行員で、世田谷の家は母親の実家の敷地に建てた。 下の子どもの育児休業の期間が終わると、さっさと 仕事を辞めて専業主婦になった母は、樹生と五つ年 下の妹にすべての愛情を注いだ。父の転勤はいつも 単身赴任で、母子家庭のようなものだったが、生活 にはなんの不足もなかった。  バンコクから成田に着くと、冬物の洋服を取りに 世田谷の実家に寄った。すると、今日はみんなで食 事をするのだと、父母と、就職して家を出た妹だけ でなく、妹の許婚だという青年が樹生を待っていた。 妹は大学を出て商社に就職したが、そこで知り合っ たのだという。その若者から「おにいさん」と呼ば れて、樹生は戸惑った。  食卓には、母が三日前から準備したという和食が 並べられた。だが樹生は、矢継ぎ早に浴びせられる 質問にこたえるのがせいいっぱいで、なにを食べた のかもよく思い出せなかった。東南アジアでなんの 仕事をしているのか、ちゃんと食事をしているのか、 つき合っている相手はいるのか、さらには健康診断 を受けているのかまで、母はこの二年間、ずっと溜 め込んできた疑問をすべてぶつけるつもりのよう だった。最初はそのまま実家に泊まる予定だったが、 こんなことが毎日ではたまらないと思い、その日の 夜にエアビーで空き部屋を探したのだ。  翌朝、スーツケースに冬物を詰め込んで家を出よ うとすると、「駅まで送る」と妹がついてきた。  樹生か大学生になってから妹と話すことはなくな り、商社でどんな仕事をしているのかもよく知らな かった。自分とちかって会社勤めに適応しているら しい妹は、二十代のうちに結婚して子どもがほしい のだけど、仕事も充実しているから、どうしたらい いか悩んでいるといった。  改札の前で、「お母さんにあまり心配かけないで」 と妹はいった。  「わかってるよ」とこたえると、「わかってなんか ない」と、いつになく強い調子でいわれた。  「お母さんは、わたしのことなんか、なんの興味も ないの。頭のなかにあるのは、ずっとお兄ちゃんの ことだけ。わたし、小学校の頃から気づいてた」  樹生か戸惑っていると、「お母さんを幸せにでき るのは、世界でお兄ちゃんだけなの」と、妹は話を つづけた。「わたしがどんなに頑張っても、なんの 役にも立だない。だから、こうやってお願いしてる の」  民泊の狭いベッドの上で、その言葉の意味を考え た。それから、咲桜のことを思った。母親と二人で 貧しい暮らしをしていたが、その母親もいまは生き ているのか、死んでいるのかわからないという。  咲桜にメールしようと思ったが、なにをどう書い ていいのか思いつかず、けっきよくあきらめた。  その夜、ノートパソコンを開くとHALからメッ セージが届いていた。   東京にいるんでしよ   監視に気をつけたほうがいいよ  なぜ日本に戻っていることを知っているのか。誰 が自分を監視しているのか。  チャットに誘おうかと思ったが、説明しないとい うことは、詳しいことを教えるつもりがないのだと 思って、「わかったよ」とだけ返信した。  JR新橋駅の日比谷口を出ると、古い機関車が置 かれた広場がある。そこを通り抜け、サラリーマン 相手の居酒屋が集まる繁華街をすこし歩いたところ に、指定された雑居ビルはあった。監視カメラで チェックしていたらしく、ネームプレートの出てい ない四階でエレベーターのドアが開くと、スーツを 着た若い男が待っていた。  「わざわざご足労いただいてすみません」と、男は 樹生をウェイティングルームに案内した。そこでス マホやノートパソコンなどの電子機器を預け、金属 探知機で全身を調べられたあと、靴を脱いでスリッ パに履き替えるよういわれた。  男はいくつか並んだドアのひとつをIDカードで 解錠し、樹生をなかに案内した。窓のない三畳ほど の狭いスペースに机と椅子が置かれていた。樹生に 座るよう勧めると、「規則で飲み物を出せないこと になってるんです」と申し訳なさそうにいった。年 齢は二十代後半だろうか、襟足を刈り上げた短めの 髪に、メタルフレームの眼鏡をかけている。  樹生の正面に座った男は、「佐藤です」と自己紹 介したあと、「どうせ偽名だと思ってるんでしよう けど」と笑った。「でも本名です。公務員は、偽名 を使えないんです。子どもの頃から、クラスに二、 三人は同じ苗字がいました」  インターネットを利用した犯罪が急速に広がるな か、警視庁は二〇一一年に生活安全部のサイバー犯 罪対策室をサイバー犯罪対策課に格上げし、警察庁 は二〇二二年にサイバー警察局とサイバー特別捜査 隊を発足させた。だが警察職員にIT関連の資格を 取らせるだけではとうてい間に合わず、民間企業で サイバーセキュリティの実務経験を積んだ人材を 「任期付職員」として積極的に募集している。  「樹生さんも同業の会社にお勤めだったからご存じ かもしれませんが、これはなかなかよく考えられた 制度なんです」と、佐藤は説明した。「警察官は、 最初は交番勤務の巡査から始めて、一歩ずつ出世の 階段を上がっていきます。国家試験に合格したキャ リアのエリートでもスタートは警部補ですが、私は いきなり警部なんです。それまでぱたんなる平社員 で、雑用ばかり押しつけられていたのに」  佐藤は、この業界では定評のある大手企業の名前 をあげた。  「警察っていうのは、年功序列・終身雇用のJTC (ジヤパニーズートラディショナルーカンパニー)の権 化みたいな組織で、出世するにはいろんな部署をま んべんなく体験しないといけないんです。警視庁も これまで、財務や化学・薬学などの専門知識をもつ 人材を「特別捜査官」として民間から採用したこと があるんですけど、昇進するためには警察学校に入 学したり、警察署に勤務したりしなければならない。 でも、せっかく大学院を出だのに、交番勤務なんて やってられないでしよ。けっきよく、ほとんどが数 年で辞めてしまう。そこで考え出されたのが「任期 付職員」なんです」  任期付職員は、二年の任期が更新されない代わり に、いきなり警部として幹部級の待遇を受ける。こ れによって民間企業との給与格差を縮めるとともに、 「どうせすぐに辞めていくんだから」と、警察内部 の不満を抑えることもできて一石二鳥というわけだ。  「警部扱いっていっても、私の年齢だと年収五〇〇 万いかないんで、収入ダウンなんですけど、みんな 上気は高いですよ。といっても、社会の安全を守る という崇高な志だけじやないですけど。このポスト、 いまはキャリアアップで注目されてるんです」  二〇二四年二月、警察庁サイバー警察局は、世界 的に猛威をふるうランサムウェア」ockBitの暗号化 された被害データを復号するツールを開発し、ユー ロポールに提供したと発表した。  「すごいですよね」佐藤は自分のスマホを取り出す と、警察庁のプレスリリースを樹生に見せた。「私 とは別のチームですけど、退官したら民間企業から 引く手あまたで、年収三〇〇〇万はかたいですよ」  バンコクを出発する前、日本での捜査を任される ことになったと、佐藤から連絡が来た。メールには 「事情は検事さんから聞いています」と書いてあっ たから、榊原が樹生のことを伝えたのだろう。  「この部屋は盗聴対策が徹底されているので、本音 で話させてもらいます」佐藤は、スマホを裏返しに してテーブルに置いた。「私だちとしては、今回の 取引を利用して、特殊詐欺のグループを壊滅させた いと思っています」  炭治郎のことか、と訊いた。  佐藤はうなずいて、「特殊詐欺だけじゃなく強盗 殺人までするようになって、日本社会の不安は高 まっています。匿名・流動型犯罪グループ、通称 「トクリュウ」つていうんですけど、その捜査のた めに今年の春、各都道府県警を連携させた「特殊詐 欺連合捜査班」が発足しました」英語の通称はTA IT(タイト)で、Telecom scam Allianced Investigation Teamの略だという。  「警視庁でも、組織犯罪対策部だけでなく刑事部か らも捜査員が駆り出されてます。私たちの仕事はそ の支援ですが、海外にいるグループのトップを逮捕 できれば、新聞の一面に載る大きな成果です」  「新聞?」樹生は訊き返した。「ネットじゃなく て?」  「警察ではいまでも、自分たちの功績を、全国紙の どの面に何行書いてあるかで測ってるんですよ」佐 藤は笑った。「事件が一面で報じられれば、甲子園 で優勝したみたいな騒ぎです」  「それで三〇〇〇万プレイヤー確定?」  「私だけじゃなく、チーム全員が」もういちど笑っ た。「日本の警察制度のパッキングですよ」  「で、ぼくはなにをすればいいんですか?」  「さすがに話が早い」佐藤はテーブルの上に置かれ た紙の朿から一枚取ると、ボールペンで簡単な図を 描いた。  「炭治郎たちは、国内で稼いだ現金をビットコイン に換えて国外に持ち出そうとしている。でも暗号資 産のままでは使い道がないので、どこかでドルに換 えようとするはずです。そうなると、使われるのは カンボジアの金融機関でしょう」  ポルーポトによる独裁とジェノサイドで荒廃した カンボジアは一九九〇年代になってようやく復興へ の道を歩みはじめたが、自国通貨リェルを発行・管 理する中央銀行の制度が整わず、国内市場では米ド ルが流通した。同じような新興国はほかにもあるが、 通常は経済が発展するとともに自国通貨に移行して いく。ところがカンボジアは現在でも米ドルとリェ ルの二重経済で、金融機関の窓口はもちろんATM でもごくふつうに米ドルの入出金ができる。中央銀 行の総裁は四十代の女性で、ブロックチェーンを 使ったデジタル通貨決済システム「Bakong(バコ ン)」を導入してリェルの普及を図っているが、現 在も国内で流通する通貨の九割は米ドルだ。不動産 などの取引にも使われるため、窓口でスーツケース に入りきらないくらいのI〇〇ドル札を受け取って もあやしまれることはない。  「詐欺グループはカンボジアで活動していたのだか ら、複数の銀行口座をもっているはずです」佐藤は ボールペンの先で、*Camb亀ia^ *Bank^と書かれ た枠を叩いた。「特殊詐欺が国際問題になって、カ ンボジアの当局も最近は摘発に積極的になっていま す。ビットコインの流れを追って口座を特定できれ ば、詐欺グループの資金を凍結できる。多額の米ド ルを引き出そうとするのは幹部か、あるいは炭治郎 本人でしょうから、その情報が手に入れば逮捕でき る」  「でも、交換するのは1000万ですよ。そんなは した金のために、トップがわざわざ危ない橋を渡り ますかね?」樹生は疑問を囗にした。  「われわれは二度目の取引があると考えています」 樹生の問いに佐藤がこたえた。「炭治郎は、国外に 持ち出したい多額の現金を抱えている。だったら、 一度目の取引がうまくいけば、樹生さんがいるあい たに二度目をもちかけるはずです。それも、かなり の金額で」  「最初の取引で、送金先のウォレットのアドレスが わかりますよね。だったら、そこから辿っていけば いいんじやないですか。いまはブロックチェーンの 追跡用ソフトもあるし、そのための調査会社に依頼 することもできる」  「そうなんですけど、追跡に失敗することもありま すよね」  「ミキシングとか、プライバシーコインを使われ て?」  ミキシングは複数のユーザーの取引を混ぜ合わせ ることで取引の追跡を困難にする手法で、プライバ シーコインはクリプトの一種だが、送金者の署名を 他のユーザーの署名と混ぜ合わせたり、ゼロ知識証 明という技術を使って、取引の正当性を証明するI 方で、取引の内容に関する情報を公開しないように している。  「それもありますけど、ご存じのように、海外の交 換所や取引所を経由したときに、そこで追跡できな くなる可能性がいちばん高いです」佐藤はいった。 「司法機関からの開示請求を無視するところもある し、仮に要請に応じたとしても、判断が下されるま でに時間がかかる。そういうところを三つくらい経 由されたら、交渉してるあいたにさっさと現金を引 き出されちやいますよ」  「まあ、そうでしようね。で、どうするんです?」 樹生は訊いた。  「日本側の代理人のスマホにポリスウェアを埋め込 んでほしいんです」  「ポリスウェア?」  「スパイウェアのことですよ」佐藤が笑った。「警 察がスパイの道具を使うわけにはいかないので、言 い換えてるんです」  「どうやって?」  「詐欺グループの日本側の幹部にSMSを送って、 ゼロデイーゼロクリツクのエクスプロイトを埋め込 むんです」  情報セキュリティ業界では、プログラムやアプリ の脆弱性が発見されたにもかかわらず、それへの対 処法が公開されない期間を「ゼロデイ」と呼ぶ。ほ とんどのハッキングは、修正プログラムが配布され たのにパッチを当てていないサーバーやルーターを 狙うが、ゼロデイ攻撃はそもそも脅威を認識できて いないのだから、対処のしようがない。  ホワイトハッカーは脆弱性を発見すると、それを マーケットに売りに出す。購入するのは仲介業者で、 Microsoft' Google' Appleなどのベンダーに転売す ることもあるが、重大なバグはNSAのような国家 の情報機関が高額で買い取っている。二〇一七年に NsAから「エターナルブルー」が流出したことで、 この機関が膨大なゼロデイのコレクションをもって いることが明らかになった。  メールでウイルスを感染させるには、添付したプ ログラムや画像などのリッチテキストをユーザーに クリックさせる必要があるが、ゼロクリックのエク スプロイトの場合、sMsでテキストを受信するだ けでも感染する。イスラエルのテクノロジー企業N soが開発した「regasus(ペガサス)」が有名で、 各国の情報機関に販売された。人権団体アムネス ティーインターナショナルのサイバーセキュリティ 部門が内部告発でその実態を把握し、二〇一八年に イスタンブールのサウジアラビア総領事館で反体制 派ジャーナリストが殺害された事件で使われたこと が報じられると、国際的なスキャンダルになった。  二〇二四年九月、レバノンを拠点とするイスラー ム原理主義のシーア派武装組織ヒズボラのメンバー が使用するポケベルが次々と爆発し、子どもを含む 九人が死亡し、二八〇〇大あまりが負傷した。ヒズ ボラがスマホの使用を禁じていたのは、イスラエル の諜報機関によってゼロデイーゼロクリツクのエク スプロイトを埋め込まれ、乗っ取られることに気づ いたからだ。その代わりメンバー間の連絡にポケベ ルを使うようになっだのだが、イスラエルの諜報機 関はそれを逆に利用して、ヒズボラが海外企業に発 注したポケベルに爆発物を仕掛けたのだ。  「ゼロデイーゼロクリツクをもってるんですか?」 樹生は驚いた。サイバー兵器のなかでもっとも強力 で、最高度の軍事機密だからだ。  「正確には、型落ちですけど」佐藤がいった。 「フアイブーアイズつてご存じですか。アメリカ、 イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーラ ンドの英語圈五力国の情報機関の情報共有制度で、 日本はずっとそれに入れてもらいたくて、安倍政権 のときに特定秘密保護法をつくって、ようやく準メ ンバー扱いにしてもらえたんです。それで、ゼロデ イーゼロクリックのエクスプロイトのうち、NSA がもう使わなくなったものを同してもらえるように なった。政治家や政府機関の重要人物は対応済みで すが、それ以外は一般人だろうが、犯罪組織だろう が、ターゲットにされたら防ぐことはできません」  「そのサイバー兵器を、ぼくに預けるということで すか」  「だから、わざわざここに来てもらったんです」佐 藤は身を乗り出した。「内部でもかなりの議論があ りました。でも、詐欺グループとコンタクトできる のは樹生さんだけなのだから、それ以外の手段はな いと説得したんです」  樹生は、佐藤の提案をしばらく考えた。  「この取引で手に入れたビットコインを米ドルに換 えて引き出そうとしたら、銀行口座が凍結されたと しましよう。そうなると、真っ先に疑われるのはぼ くですよね」  「それは問題ないです」あっさりと佐藤がいった。 「ひとたび組織のメンバーのスマホに侵入できれば、 そこから芋づる式に幹部全員のスマホを乗っ取れま す。あとはテレグラムのメッセージを操作して、内 部に裏切り者がいるように仕立て上げればいいんで す。どうせお互い、いつ裏切るかしか考えていない ような連中なんだから」  「あなたがぼくを罠にはめないという保証は?」  「それは、樹生さんが私たちを裏切らない保証がな いのと同じですよ」と笑った。  「ぼくが、そのエクスプロイトを悪用するってこと ですか」  「ええ、そんなことになったら何人もの首が飛びま す。私の将来もメチヤクチヤです」  「だったらなぜ、そんなリスキーな提案をぼくにす るんです?」  「これは相互確証破壊なんですよ」佐藤がいった。 「英語でいうと、Mutually Assured Destructionで、略 称はMAD(狂気)です。冷戦時代につくられた理 論で、ソ連とアメリカのどちらかが相手を核攻撃す ると、ミサイルが着弾するまでに報復が行なわれる から、けっきよくはどちらの国も滅びるしかない。 だったら、そんなバカなことはしないから平和がつ づくはずだ、というわけです。ゲーム理論的にはそ の正しさが証明されてますが、直観的にはとうてい 受け入れられないので、核兵器廃絶派からはずいぶ ん批判されました。それでもちやんと、戦後八〇年、 核戦争は起きずに私たちは平和と繁栄を享受できて います」  その言葉の意味を考えてから、訊いた。「あなた にとっての確証破壊は、なんですか?」  「樹生さん、素敵なご家族をおもちですよね。銀行 で支店長まで出世したお父さま。世田谷の地主の娘 のお母さま。一流大学を出て商社にお勤めの美人の 妹さん。こんど、ご結婚されるそうじやないです か」  佐藤は笑みを浮かべたが、目は笑っていなかった。  「脅してるんですか?」  「とんでもない」大袈裟に首を振った。「樹生さん がルールを守ってプレイするかぎり、私たちにはな にもできません。なんといっても、いつでも好きな ときに私たちを確証破壊できるんですから」  それから、樹生の目をじっと見つめた。「でも、 あなたを信用するいちばんの理由は、このゲームを 完璧に理解できるほど賢いことを知っているからで す」  佐藤との話し合いが終わって、ノートパソコンに エクスプロイトをインストールして建物を出たとき には、午後三時を回っていた。樹生はスマホを取り 出し、すこし遅れそうだと連絡を入れた。  新橋から銀座線に乗って表参道で降り、冬の弱い 日差しを浴びながら渋谷に向かってすこし歩くと、 音楽事務所の看板が見えた。建物に入るとき、なに げなく後ろを振り返ると、すこし離れてグレイの コートを着た男が立っていた。地下鉄にも、同じよ うなコートを着た、背格好の似た男がいたような気 がするが、自信はなかった。  神宮の杜を見下ろす大きな窓のある受付の壁には、 樹生の知らないミュージシャンのポスターがいたる ところに貼ってあった。内線で用件を告げると、若 い女性が「お待ちしていました」となかに案内して くれた。  土橋晃一郎はそろそろ七十歳になろうかというの に、ゴルフ焼けした浅黒い顔は血色もよく、シル バーグレイの長髪をポニーテールにしていた。真冬 なのに半袖のポロシャツで、上腕は樹生よりも発達 している。  「メールもらって、驚きましたよ」社長室のソファ に案内しながら、土橋は驚くほど若々しい声でいっ た。「あの娘とは、もう縁が切れたと思ってました から」  「ご迷惑でしたか?」と訊いた。  「いやいや、逆ですよ。ずっと気にしてたんだけど、 こちらから連絡するのもはばかられて」といってか ら、「もうちがう世界に行ったんですから、過去を 思い出させるようなことをしても」とつけ加えた。  土橋はバックバンドのドラマーだったが、三十代 で音楽事務所を興し、Jホップの人気バンドをいく つも育ててきた。いまは半ば引退した身で、この事 務所にも週にI、二回顔を出すだけだという。  「私らの頃とちかって、いまはぜんぶネットとSN Sです。若いスタッフがいったいなにをやってるの か、さっぱりわかりません」と笑った。  コーヒーが運ばれてくると、土橋はドアを閉める ように伝え、軽く咳払いした。「あの娘が元気にし てるとわかって、うれしかったです。今日は、年寄 りの思い出話につき合ってもらえますか」  それを聞くためにここに来たのだ、とこたえた。  「では遠慮なく」土橋はそういって笑うと、コー ヒーをひと囗飲んでから話しはじめた。「二〇〇〇 年代に大きなヒットがいくつも出て、かなりのお金 が入ってきたんです。それまで経営がけっこう苦し くて、ようやくひと息つけたところで、せっかくだ からなにか面白いことをしようとミックと話したん です」  ミックというのは、土橋がプロデュースして、い まや世界的に有名になったバンドのギタリストの愛 称だ。  「ずっとロックばかりやってきたけど、その頃、 モーニング娘。の全盛期で、だったら俺たちもアイ ドルやってみようかって話になって。そしたらミッ クが、オーディションしても、子どもの頃から芸能 界を目指してるようなのが集まってくるだけだから 面白くないって言い出した。それで、たまたま見つ けた女の子をスターにするのはどうかって、盛り上 がったんです」  その頃、土橋は偶然、中学三年生たった咲桜の写 真をネットで見たのだという。  「いまほどプライバシーにうるさくなかったから、 かわいい娘がいるって、誰かが載せたんじやなかっ たかな。そのときの暗い表情が印象に残ってて、こ んな娘どうってミックに見せたら、いいねって。最 近の若い娘は、みんな貼りつけたみたいな笑顔ばっ かりだから。最初は、そんなノリで始まったんで す」  その写真に本名は書かれていなかったが、撮影場 所と制服で簡単に学校が特定できた。事務所のス タッフに写真をもたせて聞き込みをさせたら、すぐ に身元がわかった。地元では美少女として有名だっ たのだ。  「それで、菓子折りもって横須賀に行ったんです」 土橋は話をつづけた。「そしたら、ボロボロのア パートに母親と二人で住んでるじやないですか。驚 いたのは、こっちか話してる途中で、「わたし、お 金が必要だからなんでもやります」つていったこと です。もっと驚いたのは、「でもわたしのことを 知ったら、きっと無理だとあきらめますよ」つてい われたことです」  土橋は母親に断って、横須賀中央の駅前のファミ レスで、咲桜と二人で話をすることにした。  「あの娘は、自分の出自を淡々と説明しました。腰 が抜けるほど驚きましたよ」  咲桜は一九九〇年に、静岡県富上宮市にある宗教 団体のコミューンで生まれた。母親の元子は看護師 をしていたが、出家したあとに知り合った男とのあ いたに子どもを身ごもっだ。その五年後、教団は東 京の地下鉄に毒ガスをまくテロ事件を起こした。  父親は国立大学の大学院で化学の博上課程にいる ときに入信し、毒ガスの製造にかかわっだとして、 懲役二三年の刑に処せられた。母親の元子も逮捕さ れ、五歳になったばかりの咲桜は近くの児童相談所 で保護されたあと、横須賀の母方の家に引き取られ た。そこには病気がちの祖母が一人で暮らしていた。  母親は裁判にかけられることなく半年ほどで釈放 され、三人で生活するようになったが、中学に入る 前に祖母が死亡した。それからは安アパートに移っ て、母親のパート仕事でその日その日を生き延びる ような暮らしをしてきたのだという。  「祖母はもとは関西のどこかに住んでいて、なにが あったか知らないけど、そこにいられなくなって、 あちこちを転々としたあげくに横須賀に流れ着いた。 その頃には母親の元子は出家してたから、地元では 事件との関係は誰も知らなかった」土橋はそういう と、「もちろん警察関係者はわかってるから、いつ かは表に出ると思っていました」とつけ足した。  咲桜が宗教団体で生まれたという噂は事件後に ネットでさかんに流されたが、それ以外は樹生の知 らないことばかりたった。  「ファミレスの席に座ったとき、あの娘が最初、な んといったかわかりますか?」土橋は樹生の顔を見 た。「身体を売ればいいんですか、つて訊かれたん ですよ」  その話は咲桜からも聞いていた。  「そういう娘なのかと思うじやないですか。そした ら、男とつき合ったことも、手を握ったこともな いっていう。左腕の傷もそのとき見せられました。 正直、こんなのは重すぎると思いましたよ」  土橋は東京に戻ると、六本木のバーにミツクを呼 び出した。  「この話はなかったことにしようっていったら、 ミツクが、それじやあ後味が悪いって言い出したん です。自分たちの都合で、不幸な女の子に一方的に 期待をもたせて、誤解させて悪かったのひと言で捨 てるみたいだって。たしかにそのとおりなんですけ ど」  土橋は、むかしを懐かしむように目を細めた。 「まだ青臭かったし、成功に酔ってたってことも あったんでしょう。カネなら燃やすほどありました から」  それで、咲桜の高校入学に合わせて中野にマン ションを借り、一人暮らしをしながら高校に通わせ ることにした。  「母親の元子はスピ系っていうんですか、ちょっと 変わった女性で、半分向こうの世界に行っちやって たんです」土橋は話をつづけた。「部屋の壁にはヘ ンな絵が貼ってあって、それに向かってお経を唱え ているし。一緒に東京に連れてきたら、近所で噂に なるに決まってる。それで、母親と別れて暮らすの でもいいかと訊いたら、お母さんがちゃんと生きて いけるならかまわないっていう。母親と引き離すの はかわいそうだと思ったんですが、本人が淡々とし ているので、横須賀に小ぎれいな部屋を借りて、う ちの会社の社員扱いにして、毎月二〇万かそこら払 うことにしたんです。あの事件で、もう看護師の仕 事はできなくなっていたから」  土橋は「ちょっと失礼」というと、部屋の奥にあ る棚まで歩き、「思い出話は、飲まないとできませ んよ」といって、マッカランのボトルを手にした。 匸緒にどうですか?」と訊かれたので首を振ると、 ドアを開け、「グラス一個と水」と叫んだ。慣れて いるのだろう、女性社員がロックアイスを入れたグ ラスとマドラーをもってきた。  「歌のレッスンに通わせたんですが、正直、うまく なかったです」土橋はウイスキーグラスになみなみ とマッカランを注いだ。「それで、なんでもいいか ら詞を書いてみろっていったんです。そしたら翌日、 あれをもってきた」  目を閉じて、音をたててウイスキーをすすった。 「場所は青山の音楽スタジオ。そこにちょうどミッ クもいて、読んだとたんにスゲエつてなって。ギ ターもってこさせて、その場で曲をつけたんです」  土橋は、「あれは奇跡だったなあ」と懐かしそう にいった。「まさに、音楽の神が降りてきたって感 じで」  その曲を土橋がテレビ局に売り込んでアニメ番組 のエンディングに使われ、かなりのヒットになった。 業界からも高く評価されて、その年の新人賞にもノ ミネートされた。  「うちの事務所はずっと、テレビには出ない、賞も いらないって路線でやってきたから、最初はどうで もよかったんです。でもやっぱり、取らせてやりた かったなあ。どうやって運動すればいいか、誰に袖 の下を渡せばいいか、そういう業界のしきたりを まったく知らなかった私の責任なんですけど」  その後、咲桜は三枚のアルバムを制作し、いくつ かのヒット曲が出たが、徐々に売上は下降線を辿っ ていった。  「アイドルのつくり方をわかってなかったんですよ。 曲がよければ売れるだろうって感じだったから」土 橋はいった。「でもいま思うと、個性が強すぎたん です。熱狂的なファンはつくけど、それが横に広 かっていかない。かといって、玄人筋には歌唱力が 物足りない。二十歳を過ぎる頃には行き詰まってき た。それで、役者に転身させようと知り合いの事務 所に預かってもらって、テレビドラマや映画に出す ようになったんです」  自分も何本か観たが、どれも印象的な演技だった と樹生はいった。  「そうでしょう」土橋はうれしそうにうなずいた。 「あんな雰囲気のある女優は、めったにいませんよ。 触ると粉々に砕けそうなほどもろいんだけど、でも 強くてしたたか。世界に向かって呪いの言葉を吐い ているようで、必死になって愛を求めている」  咲桜の演技を見て、海外からオファーが来ていた のだと、土橋は有名なハリウッド映画の監督の名を あげた。  「そうしたら、あの男に会った。それですべて、だ いなしです」  二十八歳のとき、咲桜は人気俳優と映画で共演し た。男の妻も芸能人で、二人のあいたには三歳にな る女の子と、生まれたばかりの男の子がいた。妻は 朝の連続ドラマで人気を愽し、「日本でもっとも愛 されている女優」といわれていた。  「まったく手のかからない娘だったんです。という か、この娘には欲望がないんじやないかと思ってた くらいですから」  咲桜をはじめて事務所に連れて来たとき、中学生 なら甘いものが好きだろうとブランドもののアイス クリームを出したら「これをほんとうに食べていい んですか」と訊かれた。不思議に思った土橋が、な ぜそんなことをいうのか問うと、「うれしいとか、 楽しいとか、そういう気持ちをもっちやいけないと 教えられてきたから」と咲桜はこたえたという。  「最初は恋愛禁止にしてたんですが、二十代にもな れば、どうしたってそういう関係ができるじやない ですか。とくにこの業界には、女に手の早い男ばか り集まってるし。でも咲桜は、それまで浮いた噂ひ とつなかったんです。それ以前に、仲のいい女友だ ちすらいなかったんじやないのかな。台本を完璧に 覚えて時間どおり現場に来て、監督の無茶な要求に も弱音ひとつ吐かない。だから、私たちがあの娘に 甘えてたのかもしれない」  土橋はそういうと、一気にウイスキーをあおった。  咲桜は、その男に溺れた。路上でのディープキス や、あられもない姿で車内で抱かれ、午前三時に場 末のラブホテルから一緒に出てくるところを週刊誌 にすっぱ抜かれて、映画の公開が延期になった。  その一週間後、俳優の妻が自宅で手首を切って死 んでいるのが発見された。女の子は無事だったが、 まだ赤ん坊の男の子を道連れにして。  当然のことながら、このスキャンダルに日本中が 騒然となった。  週刊誌があることないこと書き立て、それをテレ ビのワイドショーが増幅させ、ネットには咲桜に対 する誹謗中傷があふれた。そんななか、咲桜と教団 の関係を匂わせる情報がSNSで広がり、それをワ イドショーが取り上げて、収拾のつかない大混乱に なった。やがて、横浜の埠頭に停泊していたクルー ズ船で正体不明の疫病が発生した。  「所属タレントのスキャンダルなんて経験したこと がなかったから、どうしたらいいかわからなくて。 そしたら芸能プロの知り合いから、伝染病でもうす ぐ日本から出国できなくなるから、いまのうちに海 外に逃がしたほうがいいって黒木という男を紹介さ れたんです。それを咲桜に話したら、行くっていう から、最低限の荷物だけもたせて成田に送っていき ました。タイが入国規制をはじめる前日です」  空になったグラスにウイスキーを注ぎながら、 「あの娘を捨てたみたいで、いまでもやましい気持 ちがあるんです」と土橋はいった。  「咲桜さんはすごく感謝してますよ」と土橋に伝え た。「あのまま日本にいたら、殺されてたって」  「たしかに、それくらいヒドかったからなあ。「テ ロリストの娘」とか、「教祖に帰依してる」とか。 教団にいたのは五歳までだっていうのに」大きなた め息をついた。「最初に戻って、もうちょっとやり ようがあったんじやないかと思うんですよ。たとえ ば、あの母娘に一億くらい渡して、これで幸せに暮 らしなさいって伝えるとか」  「土橋さんは、誠実に頑張られたと思いますよ」と いった。「それに、咲桜さんの多くのファンに夢を 与えたし」  「そういってもらえると、うれしいです」と笑った。 それから真剣な表情になると、「母親を探してるん ですか」と訊いた。  咲桜からそう頼まれているとこたえた。  「じつは夫、つまり咲桜の父親が、二〇一八年に満 期で刑務所から出所してるんです。誠治っていうん ですが」と土橋はいった。「それで、妻たった元子 とまた一緒になった。横須賀のマンションを引き 払ってからどうなったかは、私らも知りません。咲 桜が男にはまっだのと同じ頃です」  「父親が戻ってきたんですか?」咲桜からはなにも 聞いていなかったから、樹生は驚いた。  「ええ。マスコミもそこまでは調べられなかったみ たいですが」土橋はいった。「もしわかったら、教 団との関係を書き立てられて、もっと大きな騒ぎに なっていたでしょう」  「引っ越し先の手掛かりはないんですか?」  「それがさっぱり」といって立ち上がると、土橋は 机の引き出しからメモ用紙を取り出し、スマホに登 録した電話番号を書き写して樹生の前に置いた。  「連絡もらってから、不動産業者など、心当たりを 調べてみたんです。でも、引っ越し先は誰にもいっ てないみたいで。そうなると住民票を取り寄せるは かないですから、うちの弁護上を紹介します。事情 は私から話してありますから、相談してみてくださ い」  礼をいったあと、「ひとつだけ、わからないこと があるんです」と樹生はいった。「どうして咲桜さ んの面倒を、そこまでして見ようとしたんですか。 しょせん赤の他人なのに」  「ああ」といったあと、土橋はしばらく黙った。  「私、子どもを一人亡くしてるんですよ。死産なん ですけど」と話しはじめた。「二度目の妻とのあい たにできた子どもで、女の子でした。それが一九九 〇年のことなんです」  「咲桜さんと同じ?」  「ええ」土橋はうなずいた。「どこかで、あの子が もし生きていたら、こんなふうになってたのかなあ、 と思うところがあって」  二杯目のウイスキーもほとんど空になっていた。  樹生は土橋に礼をいって、席を立った。  ビルを出ると、グレイのコートの男がI〇メート ルほど離れたところに立っていた。  その日の夜、新大久保の部屋から咲桜にLINE を送り、土橋に会ったことを伝えた。すると、折り 返し電話がかかってきた。  「お父さん、元気たった?」咲桜が訊いた。土橋の ことをそう呼んでいたらしい。  「ゴルフ焼けして、十歳は若く見えた」樹生がこた えた。「いいひとだね」  「わたしを暗闇から救い出してくれたひと。どれほ ど感謝しても足りない。でも、わたしが裏切った」  「そんなことない。咲桜のことすごく気づかってた よ」  土橋が、この世に生を受けられなかった女の子と、 咲桜を重ねていたことを話した。そのことを知らな かったらしく、「そうなんだ」とつぶやいたあと、 咲桜はしばらく沈黙した。  「こんな娘じゃ、きっとがっかりさせちゃったね」  なんといっていいかわからず、話を変えた。  「明日、土橋さんに紹介された弁護上のところに 行って、相談することにしたんだ。それで、委任状 を送ってはしいんだけど」と、弁護上の名前を伝え た。「書式はネットを検索すれば、いくらでも見つ かるから」  すぐにやる、と咲桜はこたえた。  「樹生くんと会えなくて、さびしい」といわれた。 「どんどん暗い穴が大きくなっていくみたい」  一週間くらいでバンコクに戻ると伝えた。「それ までには、お母さんのこともできるだけ調べておく から」  「ありがとう」  樹生は、ずっと気になっていたことを確認するこ とにした。「お母さんがどんなことになっていても、 正直に報告したほうがいい?」  「うん、そうして」と咲桜がいった。「わたし、真 実が知りたいの」  ノートパソコンを立ち上げて、暗号メールでHA Lに、何者かに尾行されていることを伝えた。  五分ほどで、返事が来た。  「すくなくともNSAは関係ないよ。尾行なんてや らないし。CIAつていうのも考えづらいから、口 シアか中国の諜報機関かも。相手が何者なのか、調 べてみる必要があるね」と書いてあった。  パソコンをログオフしてから、土橋の話を思い出 した。  咲桜が二十八歳のとき、宗教団体の毒ガステロに 関与した父親が出所して、横須賀のマンションで母 親と暮らすようになったという。六年前のことだか ら、その父親もまだ生きて日本にいるはずだ。  だとしたらなぜ、咲桜は父親のことをいわなかっ たのだろうか。  電話では、咲桜に訊くことができなかった。そこ には、触れてはならないなにかがあるように思えた。        6》  土橋に紹介された弁護上の逢沢は、首相官邸の斜 向かいにあるホテルのオフィスフロアに事務所を構 えていた。ホームページを見ると、弁護上は逢沢を 筆頭に三人で、スタッフが五人ほどいる。場所柄、 政治家のトラブル処理などを主に手掛けているよう だった。  逢沢は五十歳前後で、大学在学中に法曹資格を取 得し、その後、ニューヨークのロースクールに留学 してアメリカの弁護上資格ももっていた。  「土橋さんにはお世話になっています」自己紹介の あと、逢沢は自い歯を見せて笑った。ゴルフ仲間な のだろう、やはりきれいに日焼けしていた。「ミッ クのバンドのファンで、それでおつき合いさせてい ただくようになったんです」  咲桜とも面識があるのか、訊いた。  「パーティで二、三回、お話ししました。賢くて魅 力的な女性だったなあ」打ち合わせ用の個室に案内 しながら、逢沢がいった。「彼女に会っだのは、そ のあとは例の騒動のとき。どうするか相談されて」  冷蔵庫を開けてペットボトルの水と麦茶を取り出 し、「こんなんでいいですか?」とテーブルの上に 置いた。  「情けない話なんですが、法律家にはどうしようも できなかったんですよ」ミネラルウォーターのふた を開けて、囗に含んだ。「不倫も奥さんが幼子を道 連れにして自殺したのも事実なんだから、報道する なとはいえない。教団の隠れ信者だとか、事実無根 のものもたくさんありましたが、それでメディアを 訴えたら火に油を注ぐようなものです。それで、し ばらく隠れてるしかないんじやないかといったら、 土橋さんがタイの話を見つけてきたんです」  逢沢は、机の上に置いてあった封筒を樹生の前に すべらせた。「調査会社に戸籍と住民票を依頼して おいたら、今日の朝届きました。ほんとうは咲桜さ んの委任状が必要なんですが」  スマホを取り出して委任状のPDFを見せると、 「じやあ、ここに送ってもらえますか」と名刺を渡 された。そこに書かれたメールアドレスにファイル を転送し、逢沢はそれをプリントアウトして分厚い ファイルに加えた。  「事件のときの報道をまとめてあるんです。これは その一部で、とくにヒドいやつ。咲桜さんにその気 はないでしょうが、民事なら二〇年は訴訟を起こせ ますから」  戸籍を確認した。母親の元子の旧姓は萩谷で、一 九九〇年三月に和岡誠治と結婚し、同じ月に長女の 康子が生まれている。出産に合わせて入籍したよう だ。出生地は教団の本部があった静岡県富上宮市。 母親の出身は三重県、父親は千葉県だが、本籍も教 団本部に移されていた。  戸籍附票によると、元子は中部地方を転々とした あと、二十四歳のときに住所を富上宮にしている。 一九九六年に横須賀の母の家に移って誠治と離婚し 旧姓に戻したのは、娘の小学校進学のためだろう。  二〇〇一年、咲桜が十一歳のときに祖母が死んで 米軍基地に近いアパートに引っ越し、その四年後、 咲桜の高校入学に合わせて、元子は横須賀中央駅近 くに土橋が借りたマンションに転居した。土橋の話 によると父の誠治が出所してからそこで一緒に暮ら すようになり、しばらくしてその部屋を引き払った ようだが、その後の記載はない。父親の誠治の住所 はずっと富上宮のままだ。  「和岡誠治は模範囚たったようですが、事件が事件 なので仮釈放が認められず、二三年の刑期を務めて 二〇一八年六月に出所しました。二人は離婚してい ますが、娘のために苗字を変えるのが目的で、関係 はつづいていたのでしょう。刑務所を出ても行くと ころがなく、元子を訪ねたようです。そのあと誠治 は、元受刑者の社会復帰を支援する団体の紹介で、 清掃の仕事をしていたようです」  逢沢はメモを見ながら、調査の概略を説明した。  「マンションの住人にも聞き込みしたんですが、い まは近所づき合いなんてないから、男が出入りする ようになっだのをかろうじて覚えている者がいたく らいです。誠治はもちろん、元子と親しかった住人 も見つけられませんでした」  部屋を出て行っだのはいつか、訊いた。  「賃貸契約は一九年六月に終了しています。元子と 誠治は一年ほどあのマンションで暮らし、それから 二人でどこかに移ったことになります」  土橋の話では、咲桜が妻子ある俳優とつき合いは じめたのは誠治が出所した頃だ。妻が出産直後であ ることを知ったうえでの不倫だったことが、バッシ ングの格好の材料になった。  「父親が戻ってきたあと、咲桜が会いに行った形跡 はありますか?」  「それはわかりません。父親は彼女が五歳のときに 逮捕されて、それからずっと刑務所なのだから、記 憶はほとんど残ってないんじやないですか」  「横須賀のマンションを引き払って、誠治の実家に 戻ったということは?」  「それはないです」逢沢は即答した。「自慢の息子 たったようですが、事件の半年ほどあと、誠治の父 母が一緒に自宅で死んでいるのが見つかりました。 一酸化炭素中毒で、事故として処理されましたが、 たぶん自殺でしょう」  「そんなことがあったなんて知りませんでした」と いうと、「都合の悪いことは報道されないんですよ」 と逢沢は皮肉っぽく笑った。  「それ以外に、なにか手掛かりになりそうなこと は?」  「行政書類でわかるのは、これくらいですかねえ」 ファイルをまとめると、ちらっと時計を見た。「も うすこし調査会社に調べさせますから、なにかわ かったらご連絡します」  費用はどのように払えばいいか訊くと、「土橋さ んからもうじゆうぶんにいただいてます」と逢沢は いった。「咲桜さんが母親に会いたいのなら、どん なことをしてでも見つけてほしいって」  午後六時に新宿区役所の並びにある喫茶店の前に 立っていた。見知らぬ女から、いきなり「なに ぼ1つとしてるの」といわれた。  ツインテールにした金髪にネコの耳のようなリボ ンをつけ、長いつけまつげに瞳を大きく見せるカラ コンをしている。毛皮のコートの下は胸元を強調し たピンクのミニドレス。高さがI〇センチはあるラ メの入っだハイヒールを履いていた。  しばらく見つめて、ようやくアリサだと気づいた。  「ぜんぜんちがうから、わからなかった」というと、 「たっちやんが、こういう格好で来いっていったん でしよ」と頬をふくらませた。「今日、学校休んで 六時間もかけて準備したんだよ」  その喫茶店は同伴の待ち合わせで使われていて、 風俗嬢のメイクをしたアリサを連れて入っても、客 も店員もまったく興味を示さなかった。入口が見え る側にアリサを座らせて、コーヒーとメロンソーダ を注文した。  「ストロー、開けて」飲み物が運ばれてくると、長 いネイルチップをデコパーツで飾った指を見せてア リサがいった。「慣れてる子は器用にやるんだけど、 わたしふだん、こんなのしないから」  「それ、ぜんぶ自前?」ストローをメロンソーダの グラスに挿した。「ど派手なファッションのことだ けど」  「そんなわけないじやん」アリサが大きな声をあげ た。「昨日の夜、いきなりLINE送ってきたから、 朝からあちこち同って揃えたの。コートとドレスは 店の子から借りて、あとは渋谷まで買いに行った」  「悪かった。そんなに大変だと思わなかった」  「悪かったじやないでしよ。こういうときは、あり がとうっていうんだよ」と頬をふくらませた。  「ありがとう」と樹生かいうと、いきなり笑顔に なった。  「わたしの勘、当たるんだ」  「なにが?」  「最初に会ったときから、ぜったい秘密があるって 思ったんだ」  「秘密なんてないよ」  「ウソばっかり」また頬がふくれた。「ふつうのひ とが、尾行されたりするわけないじやん」  最後のほうは、小声でいった。  「もう見つけちやった」樹生に顔を寄せると、囁く ようにアリサはいった。「いま入ってきた男。二十 四、五かなあ。安物の紺のスーツ着て、一〇〇〇円 カットみたいな髪型して、五つ先のテーブルに座っ た。わたしと目が合うと、慌てて横を向いて、また こっちを見る。バレバレじやん」  樹生はポケットからチップを取り出し、テーブル の上に置いた。アリサはそれを慎重につまむと、 「こんなに小さいの?」と驚いた。  いまはどんどん性能が上がってるからそれでじゆ うぶんだ、と説明した。  「ほかに、新しく入ってきた客はいない?」  「いまのところ、あのいけてない男だけ」アリサが こたえた。  「あとI〇分くらい様子を見よう」樹生はいった。 「なんか話してよ」  「なにを?」  「大学のこととか。ずっと理系だったから、大学で 女の子がなにしてるのか、ぜんぜん知らないんだ」  「面白いこと、あるかなあ」アリサが首を傾げた。 「まず、ファッションでグループが分かれるの。 ジャージみたいの着て、教室のいちばん前でノート 取つてるような子とは、話合わないでしよ。あとは、 推しのアイドルのことしか頭にない子とか、同じ大 学の誰がイケメンだとかで盛り上がってる子も無理。 だから、自分のタイプを外見で示さないといけない の」  「アリサはどういうタイプ?」  「わたし? バカでかわいい女」と即答した。 「男つて、自分より強かったり、賢かったりする女 を怖がるでしよ。連れて歩いて、ほかの男がうらや ましがるような女が、いちばんモテるの。だから、 そういう女を演じてるのがいちばん楽」  アリサは長いまつげをしばたたかせた。たしかに、 彼女を連れて街を歩けば誰もが振り返るにちがいな い。  「そうしてると、同じようにバカでかわいい女を演 じてる子と友だちになるの。たいていはギャラ飲み かパパ活で稼いでるけど、わたしはやらないことに してる」  「ギャラ飲み?」  「ギャラを払って、港区女子と飲むこと。べつに港 区に住んでるわけじゃないんだけど、お金持ちのお 嬢さまってふりをすると、喜ぶ男がたくさんいるの。 SNSで検索するといっぱい出てくるよ」  「なんでやらないの? そのほうが、中抜きがなく て儲かりそうじゃない」  「そうなんだけど、トラブルになったとき、いまな ら店があいたに入ってくれるでしよ。ストーカーと かされたら最悪。わたしは経験ないけど、パパ活で 一〇〇〇万くらい貢がせたら、恨まれて殺されそう になったって、いまの店で働くようになった子もい るよ」  「けっこう大変なんだ」  「身体張ってる仕事だからね」アリサは軽くため息 をついた。「楽して稼げる仕事なんて、ないよ」  そんな話をしばらくしたあと、「そろそろいい?」 と訊いた。アリサはうなずいて、ピンクのアクセサ リーで飾られたスマホをテーブルの上に置いた。  「鳴らして」  教えられた番号にかけると、いきなり『アナと雪 の女王』のテーマが大音量で鳴り出した。店の客た ちが、なにごとかとこちらを振り向く。  アリサはスマホを手に取って応答ボタンをスライ ドさせると、「もしもし。え11・ やまちゃん。ひ さしぶり」と大きな声を出した。「最近、ぜんぜん 電話くれなくて、さびしかったあ。いまなにしてる の、お仕事?」  樹生に目配せし、ヴィトンのバッグをもって立ち 上がると、大声で会話するふりをしながら出口に向 かった。  「出張? 北陸にいるの? 寒そう。いつ東京に 戻ってくる?」そんなことをいいながら、若い男の 横を通り過ぎようとした。  そのとき、高いヒールが床に引っかかって、アリ サは「きやあ!・」という大声をあげてよろけた。 バッグがテーブルにぶつかり、水の入っだコップが ひっくり返って、男のズボンにこぼれた。  「イヤだあ、どうしよう」かがみこんだアリサが、 店員を大声で呼んで、おしぼりをもってくるよう頼 んだ。  「ごめんね。濡れちやったね」といいながら、男の 股間をおしぼりでこする。男はどうしたらいいかわ からず、硬直している。  「知らないひとに水かけちやっだの1」と、スマホ に向かって叫んだ。「なんでって、そんなのいま説 明できないよ。いったん切るね。こっちから電話す るから」  騒動が収まるのを見計らって、樹生は伝票とアリ サの毛皮のコートをもって席を立った。男に「大丈 夫ですか? すみません」と声をかけると、もごも ごとなにかいった。  「出ようか」といって、コートを羽織らせた。  「びっくりしちやったあ」と、アリサが甘えた声を 出した。それから男に向かって、「ぽんと、ごめん ねえ」と謝った。  店を出ると、「ばっちり」とアリサが手でOK マークをつくった。「スーツのポケットに放り込ん どいたから」  そのままアリサと葛城の店に行った。まだ夜七時 前で、店内は閑散としていた。女の子たちがいっせ いに、「アリサ、今日は気合人ってるね!・」と驚き の声をあげた。「たっちやんと同伴? よかったね」  葛城はいなかったが、アリサが電話すると、奥の 事務室を使っていいという。リュックからノートパ ソコンを取り出し、モバイルWi-Fiルーターでネッ トに接続した。地図ソフトに発信機の位置情報を表 示させる。  しばらくしてアリサが入ってきた。「どう?」と 訊く。  「さすがにあの騒ぎのあとで尾行をつづけるのはあ きらめたらしくて、新宿三丁目から地下鉄に乗った よ。どこから出てくるか見てるんだ」とこたえた。  「あっ、動き出した」樹生の背後からパソコンの画 面を覗き込んでいたアリサが叫んだ。「霞ヶ関で降 りて、皇居に向かって歩いてるね。ここになにがあ るの?」  「手前が警察庁、その隣が警視庁」とこたえた。 「どっちのビルに入るか知りたいんだ」  位置情報は警察庁のビルを通り過ぎ、桜田門にあ る警視庁本部庁舎で止まった。  「たっちやんつて、もしかして犯罪者?」アリサが 素っ頓狂な声をあげた。  「どうだろう?」冗談めかしてこたえた。  アリサが樹生の隣に座った。「べつにいいや、犯 罪者でも」  「えっ?」  「たっちやんなら、犯罪者でも許す」それから、 「警察だってわかってたの?」と訊いた。  「八割くらい」とこたえた。  いまはスマホの位置情報を追跡したり、発信機を 車に取りつけるのも簡単だ。それなのに、わざわざ 人間に尾行させるなんて効率の悪いことをするのは、 お役所仕事以外には考えられない。知りたいのは、 どの役所がやっているかだ。   ポケットから財布を取り出し、一万円札を五枚、 テーブルの上に置いた。  「今日はお疲れさま。すごい演技力でびっくりした よ」  アリサは一瞬、手を伸ばしかけて、「やっぱりい らない」といった。  「なんで?」  「なんか退屈なの」と眉を寄せた。「青山のワン ルームマンションに住んで、女子大生やって、好き なファッションに身を包んで、ミシュランの三つ星 の店とかに連れてってもらって。あと、芸能人のい るホテルのスイートルームのパーティとか。女の子 が憧れるものをすべて手に入れたはずなのに」  ピンクのネイルチップを、しばらくもてあそんで いた。  「昨日の夜、LINEくれたでしよ。なんで、わた しだっだの?」アリサが訊いた。  ほかに知ってる女の子がいなかったから、と正直 にこたえた。  「ふつう、こんなことやらないよ」  「断られると思ってた」  「うそつき」アリサが笑った。「わたしが引き受け るって、わかってたくせに」  それから、「すごいわくわくしたの。昨日の夜と か、ほとんど寝れなかった」といった。「お金、受 け取ると、その思い出が消えちやう気がする」と、 一万円札をこちらに押し返した。  「わかったよ」樹生は、札を財布に戻した。  「LINEで遊びの予定決めて、友だちのインスタ にいいね押してコメントつけて、YouTubeの動画 を倍速で見てると一日が終わってく。ときどき、な にやってるんだろうって思うの」アリサがいった。 「でも今日、すごい楽しかった」  「無理なこと頼んで悪いと思っだけど、ほっとした よ」と、もういちど礼をいった。  「帰る?」  「うん」とこたえて、ノートパソコンをリュックに しまった。  「じやあ、外まで送る」と、アリサも席を立った。  午後八時を同って、新宿の街は飲みに繰り出した 仕事帰りのサラリーマンであふれていた。その人波 を、これから出勤する風俗嬢やホストたちがかき分 けていく。   別れ際に、「ねえ」と呼び止められた。   振り返ると、「わたし、役に立った?」とアリサ が訊いた。  「もちろん。助かったよ」  アリサは、ごく自然に樹生を抱き寄せた。  「たったらごほうびに、こんどデートに誘って」耳 元でそう囁いた。  アリサと別れて新大久保の部屋に戻り、今日の情 報を整理した。  樹生を尾行していた男は午後一一時過ぎに警視庁 を出て、日比谷まで歩いて千代田線に乗り、北千住 で降りた。駅から徒歩一〇分ほどのところにあるマ ンションに住んでいるようだ。  サイバー捜査官の佐藤が、樹生を尾行させている とは考えられなかった。だとしたらあの男は、公安 の人間にちがいない。  このことを佐藤に知らせようかと思ったが、面倒 なことは榊原に任せることにした。男のマンション の住所を調べてSignalで送った。  それが終わると、弁護上の逢沢から受け取った書 類を封筒から取り出し、ベッドの上に並べた。ノー トパソコンでExcelを開き、事件当時の報道と照合 しながら、簡単な年表をつくった。  萩谷元子は一九六五年に三重県で生まれ、地元の 看護学校を出て看護師になった。数力月で住所が変 わっているのは、勤務先の病院を移ったからだろう。 ひとつのところで長く働くことができなかったのか もしれない。  元子の両親は小学校のときに離婚し、その後は母 子家庭で暮らしていたようだ。母親すなわち咲桜に とっての祖母は関西方面を転々としたあと、一九八 八年に横須賀に住所を移していた。その頃、元子が 出家しているが、関係があるかはわからない。  咲桜の父親の和岡誠治は元子よりも二つ年上で、 一九六三年に千葉県に生まれ、国立大学の理学部時 代に入信し、化学の博上課程にいた八七年に出家し ている。事件後にメディアでさかんに報じられた、 教団の「エリート信者」の典型だ。逢沢が指摘した とおり、誠治の両親は事件の半年後に死亡していた。  元子と誠治は教団で出会い、九〇年に康子、すな わち咲桜が生まれた。毒ガスを製造していた教団の 「厚生省」の幹部である誠治については、生い立ち から出家まで大量の報道がなされたが、子どもにつ いての記事は見つからなかった。元子は看護師とし て教団の附属病院に所属しており、誠治をかくまっ たとして、犯人隠匿の疑いで逮捕されたが起訴はさ れず、半年ほどで拘置所を出ている。五歳になった ばかりの咲桜は県内の児童相談所に預けられたあと、 祖母に引き取られた。  事件後、教団について書かれた記事があふれたが、 それらによると信者同上の恋愛はきびしく禁じられ ていたという。だが実際には、施設の捜索によって 数十人の幼い子どもが保護されており、子連れで入 信したケースだけでなく、教団内で生まれた子もい たらしい。  その当時のニュース映像がいくつかネットに残っ ていた。まだ幼い子どもたちがテレビカメラに向 かって「悪魔が来た’・」「地獄に落ちるぞ’・」など と叫んでいる。顔にはモザイクがかかっていて、そ のなかに咲桜がいるかはわからなかった。子どもた ちは食事を手づかみで食べ、教祖の教えを信じてい て、ヘリコプターの音に「毒ガスだ!・」と叫ぶのだ と取材した記者が語っていた。  拘置所を出た元子は誠治と離婚し、横須賀の母の 家で娘と暮らすようになる。二〇〇一年に祖母が死 亡すると、家を出なければならなくなったのか、母 娘はどぶ板通り近くのアパートに引っ越した。土橋 によれば、恐ろしく貧相な建物だったという。咲桜 は地元の公立中学に通い、同級生が撮った制服姿の 写真がネットで話題になって、それが土橋の目にと まった。  父の誠治は二〇一八年に刑務所を満期で出所し、 その足で元子を訪ね、ふたたび一緒に暮らすように なった。母親が収監中も面会に行くなどして、関係 がつづいていたのかもしれない。その翌年、なぜか 土橋が用意したマンションを引き払い、その後は住 民登録をしていない。  樹生はサーバーのフォトライブラリーから、中学 生の咲桜の写真を検索した。これまで数えきれない ほど見たが、それでも胸苦しさを感じさせた。薄い 色の瞳をした制服姿の少女が、じっとこちらを見つ めている。  この写真を知ったのは咲桜がアイドルとしてデ ビューしたときで、樹生は小学校六年生たった。そ のときの衝撃を、いまでもありありと思い出すこと ができる。  自分よりすこし年上のこの少女は、「なぜあなた は生きているの」と問いかけていた。樹生はずっと、 その答えを探していた。  新宿西口のホテルのラウンジで、無一郎と名乗る 男と向かいあっていた。金色に染めた髪を五分刈り にして、ペルルッティのライダースジャケットの下 は黒のタートルネックにゴールドの太いブレスレッ ト。耳と唇にピアス、時計はバテックフィリップの コンプリケイテッドーウォッチで、年は二十代後半 だろうか。  無一郎はスマホから目を上げると、「三〇分くら いかかりますかねえ」と樹生に訊いた。この業界に 本名を名乗る者はいない。誰もがマンガやアニメの キャラクターから好きな名前を使っている。  「そんなにかからないと思うよ。計数機で1000 枚数えるだけだし」と、樹生はこたえた。  「そうっすね」というと、無一郎はまたスマホをい じりはじめた。  通路に面した席で、エレベーターから降りてきた 者がすぐにわかる。無一郎は、炭治郎が率いる詐欺 グループの日本側のとりまとめ役たった。樹生か決 めた段取りのとおり、無一郎は三人の部下を連れて、 ビットコインと交換する1000万円をもってこの ホテルに来た。それに対して黒木は、現金の確認に 二人の男と紙幣カウンターを手配した。  ホテルの会議室を借りて五人の男たちが紙幣を数 えるあいた、樹生と無一郎はロビー階のラウンジで 待つことにしていた。これなら警察が会議室に踏み 込んでも、自分たちは関係ないと言い逃れることが できる。もちろんこれは無一郎への説明で、この取 引はサイバー警察も承知していて、何人かの私服刑 事が張り込んでいるはずだった。  「なんか、いろいろ面倒くさいんすよね、最近」テ キストを打ち終わった無一郎がため息をついた。 「またベトナム人の口座が使えなくなったんすよ」  「ベトナム大?」  少子高齢化で人口が減りつづける日本は、外国人 労働者なしでは社会も経済も回らなくなった。この ところ増えているのはベトナムからの技能実習生で、 最長五年で帰国することになっている。実習生が給 与を受け取るためには日本の銀行に口座を開設しな ければならないが、帰国後は不要になる。そこでブ ローカーがその口座を買い取って、特殊詐欺のグ ループに売りさばいているのだという。  「その手口がバレて、あやしい口座は問答無用で凍 結されるんすよ」  技能実習生の口座なら、毎月一回、雇用主から給 与が振り込まれ、何回かに分けてATMで現金が引 き出される。それが突然、何人もの日本人の個人名 義で不定期な入金が行なわれれば、アルゴリズムで 異常を検出するのは難しくない。特殊詐欺が大きな 社会問題になって、犯罪の道具にされているという 風評が立つのを警戒した金融機関側か、きびしい対 応をするようになったのだという。  無一郎はポケットから無造作にI〇枚ほどのクレ ジットカードを出して、テーブルに置いた。  「これもベトナム人の囗座でつくったんすけど、半 分以上は使えなくなってます。この商売、どんどん やりにくくなってるんすよ」  現金をビットコインに換えようとするのも、銀行 口座を使ったマネーロンダリングができなくなった からなのだろう。  「ワールドコインつてあるじやないすか。あれ、信 用できるんすかね」スマホをいじっていた無一郎が 突然、いった。  ワールドコインは∩g5tHを開発した○罵コとの サムーアルトマンが共同創業したプロジェクトで、 今後、AIがもたらすであろう無尽蔵の富を原資に、 世界中の八〇億人にベーシックインカムを提供する ことを目指している。そのために考案された暗号資 産がワールドコインで、○&(オーブ)と呼ばれる 専用端末で虹彩を認証するとID(ミO色日)が発 行され、毎月一回、配当が受け取れる。現在は月額 一〇〇〇円程度だが、将来的には、配当だけで誰も が働かずに暮らしていけるのだとされる。  国家を介さずにベーシックインカムを配布すると きの最大の問題は、戸籍やパスポート、運転免許証 など、国家が管理するデータペースで本人確認がで きず、なりすましやポットによる不正請求を防げな いことだ。そこでワールドコインでは、虹彩認証用 の端末を世界中に設置し、IDを取得した者がポッ トではなく「人間」であることの証明としている。 固有の虹彩に対して固有のIDが紐づけられるため、 国家の介入を排して本人確認ができるのだ。  端末の○きは日本でも設置が増えていて、新宿 だけでも四ヵ所ほどある。スマホにアプリをダウン ロードして虹彩を登録すれば、あとは毎月、配当を 受け取るためにアプリを開くだけでいい。樹生はこ のプロジェクトが始まった二〇二三年にバンコクで 虹彩認証していた。  そんな説明をして、樹生は自分のスマホのアプリ を見せた。  二年半やって三万円って、ずいぶんしよぼいす ね」と無一郎はいった。「でも、詐欺じやないって ことっすよね」  自分が特殊詐欺で稼いでいるのだから、なにかの 皮肉かと思ったが、いたって真面目な質問のようだ。  「毎月、道に落ちてるお金を拾うと考えると、悪く ないかもしれないっすね。ビットコインみたいに、 爆上がりする可能性だってあるわけでしよ」  それからスマホで検索し、「この近くに○莎ある じやないすか。このあと行ってこようかなあ」と いった。  そのとき、エレベーターから五人の男が降りてき た。三人は無一郎と同じくラフな格好で、紙袋をも つ二人は黒のスーツ姿だ。若い男が通路から無一郎 に「終わりました」と声をかけ、坊主頭のスーツの 男が樹生に「受け取りました」といった。  樹生はノートパソコンを起動すると、ウォレット のIDをタイプして無一郎に見せた。  「これでOKつす。メモとか見ないんすか?」と訊 かれたので、「数字や記号を覚えておけるんだ」と こたえた。  「それ、便利っすね」  一〇〇〇万円分のビットコインを送金した。着金 までにI〇分ほどかかるはずだ。  無一郎は、退屈そうに大きく伸びをした。「今回 は遊びみたいなもんすね」  「うまくいったら二回目があるって聞いたんだけ ど」樹生はいった。  「そうみたいすね。オレも詳しいこと、知らないっ すけど」と無一郎。  「だったら、電話番号を交換しとかない? ぼくは あと一週間しか日本にいないし、東京を離れる予定 もあるから、急にいわれても対応できるかわからな い。そんなとき、いちいちテキストをやり取りする の、かったるいでしよ」  無一郎はしばらく考えていたが、「たしかにそ うっすね」といった。  「電話番号教えて。確認のSMSを送るよ」  伝えられた番号にSMSを送信してすぐに、テー ブルの上のスマホが震えた。  「電話番号登録しときます」とスマホを手に取った 無一郎は、「ちょうどビットコイン七入金されまし た」と樹生に目をやった。「楽勝つすね」  「お疲れさま」樹生は伝票を手に取り、「これは こっちで払っとくよ」といった。  「すんませんね」無一郎は通路にいる仲間たちに目 配せして、店を出た。  精算をすませると、黒木の部下の坊主頭の男が 待っていて、ぶっきらぼうに紙袋を差し出した。  「なに?」と訊いた。  「あんたに渡すようにいわれてますから」  「そんなの聞いてないよ」樹生は慌てた。「それに、 受け取ったってどうしたらいいかわからないし」  坊主頭の目からは、なんの感情も読み取れなかっ た。一〇〇〇万円の入っだ紙袋はまだ、樹生の胸元 に押しつけられている。  ここで議論してもしかたないらしい。わざとらし くため息をついて、紙袋を受け取った。男たちは、 「じやあ、私らはこれで」と短い挨拶をすると出口 に向かった。  LINEで咲桜に、この金はどうすればいいのか、 メッセージを送った。返事がないのでバンコクまで 電話してみたが、出る気配はない。  平日昼の新宿でひったくりに遭うとも思えないが、 なんとなく気持ち悪いので、ホテルの前でタクシー を拾い、新大久保の部屋に戻った。スーツケースか ら衣類を取り出して代わりに紙袋を押し込み、鍵を かけてベッドの下に入れた。  ようやく咲桜から返信が届いた。「そのまましば らく預かっておいて」とあるだけだ。「それじやあ こっちか困る」と文句をいおうと思ったが、バカバ カしくなってやめた。無一郎も黒木も、この取引に かかわっだ人間はみな、一〇〇〇万円程度のカネは どうでもいいと思っているのだ。  その日の夜は出かける気にはなれず、近くの韓国 料理屋でビビンバとコムタンスープをテイクアウト して部屋で食べた。  Signalを立ち上げ、サイバー捜査官の佐藤に、ポ リスウェアを無一郎のスマホに埋め込んだことを伝 えた。ついでに榊原にも今日のことを報告したが、 一〇〇〇万円を預かったことは伏せておいた。しば らくして、「了解。ハムの件は気にしなくていい」 という短い返事が榊原から来た。今回の捜査は警察 庁幹部の了解も得ているから、警視庁の公安部が勝 手なことをする心配はないということのようだった。  榊原も佐藤も、公安の監視とは無関係のようだ。 だとしたらいったい誰が、自分の帰国を伝えたのだ ろうか。  ひととおり作業が終わると、やることがなくなっ た。無一郎のスマホを覗いてみようかとも思ったが、 さして興味があるわけでもなく、それは佐藤の仕事 だと思ってやめた。  ノートパソコンをリュックにしまうと、ベッドサ イドのテーブルに置いてあったKi乱leで『悪霊』 のつづきを読みはじめた。大地主のワルワーラ夫人 の一人息子である二コライ・スタヴローギンが、常 軌を逸した放蕩三昧の噂とともに故郷に戻ってきた。 この長い小説の主人公は二十五、六歳の絵に描いた ような美青年で、「それでいて、どこか人に嫌悪感 を抱かせるところがある」と描写されていた。  翌朝、札束の入っだスーツケースを引きずって新 大久保駅まで歩き、コインロッカーに預けた。預か り期間は三日間となっていた。  山手線で品川まで行き、京浜急行に乗り換えて五 〇分ほどで横須賀中央駅に着いた。なんのあてもな いが、咲桜が育った街を見ておきたいと思ったのだ。  駅前にロータリーはなく、駅ビルのまわりは古い 商店街のままたった。和菓子の店や、履物の店の看 板が見える。  地方都市のわりには若者や子連れの姿が多い。米 軍基地から来たのだろう、駅前のカフェではヒスパ ニック系のアメリカ人たちがジョークを飛ばしあっ て笑っていた。  土橋が咲桜の母親のために用意したのは、駅から 歩いて五分ほどの、なんの変哲もない五階建てのマ ンションだった。ドアはオートロックで、なかに入 ることはできない。郵便受けにチラシが溜まってい るわけでもないので、いまは別の誰かが住んでいる のだろう。  いったん駅に戻ると、タクシーに乗って運転手に 住所を告げた。咲桜の祖母が住んでいた家は中心部 から五、六キロ離れた高台にあった。  タクシーが止まっだのは墓地の入口たった。「こ の先みたいですね」運転手はGPSの地図を見なが ら、細い路地を指さした。  車を降りて、スマホのナビを頼りに歩き出した。 枯れた雑草が積み重なった道をしばらく歩くと、墓 地の外れの一角に平屋の住宅が何軒か集まっている のが見えた。近づくと、放置されてからかなりたっ ているらしく、どの家も荒れ果てていた。咲桜の祖 母が死んだのは二〇年以上前で、その頃から誰も住 んでいないようだ。  消えかけた表札を頼りに調べると、かろうじて 「萩谷」の文字が読み取れ、咲桜たちが住んでいた のはいちばん奥の家だとわかった。玄関には鍵がか かり、雨戸が閉まっていたが、何枚かは下のほうか ら腐りはじめていた。  手袋をはめて何度か引っ張ると、雨戸が割れて外 れた。ガラス戸を開け、マスクをしてなかに入っだ。  猫の額ほどの土地に建てられた、おそろしく狭い 家たった。スマホのライトに照らされたのは六畳の 部屋の黴だらけの壁紙で、その奥が三畳の部屋と布 団をしまう押入れ。あとは小さな台所に和式のトイ レと浴室。それだけだ。  窓の外は墓地で、桜の樹が葉を落とす冬にかろう じて日の光が入る。三畳の部屋は山に面していて、 窓の外はむき出しの崖だ。天井から白熱電球かぶら 下かっていた。  広いほうの部屋に、和箪笥がひとつ置かれたまま になっていた。開けると、年配の女ものの服が何着 か入っていた。  引き出しをすべて調べてみたが、見つかっだのは ボロボロになった服だけだった。それ以外は引っ越 しのときにすべてもって出たらしく、なにも残って いなかった。  ふと思いついて、箪笥を動かしてみた。スマホの ライトで照らすと、裏になにか落ちている。手を伸 ばして拾うと、写真のようだ。  変色し消えかけていたが、そこに三人の女が写っ ていることがかろうじてわかった。  咲桜によく似た三十歳前後の女が、母の元子なの だろう。その隣にいる疲れた顔をした女が祖母にち がいない。二人の前に、ランドセルを背負った女の 子が立っている。背景に学校らしき建物が写ってい るので、小学校の入学記念に誰かに撮ってもらった もののようだ。  奇妙な写真たった。三人とも、怒ったような表情 でカメラをにらんでいるのだ。まるで、この世の重 荷をすべて背負っているかのように。樹生はリュッ クからハンカチを取り出し、写真を慎重に包んだ。  朽ちかけた家を出ると、墓地の樹々の合い問から わずかに青空が見えた。もと来た道を戻ってバス停 まで歩くことにした。その途中に小学校があった。 教団の施設を出て祖母に引き取られた咲桜は、この 道を毎日、通ったのだろう。  墓地の外れまで来ると、急に視界が開けた。タク シーを降りたときは気づかなかったが、冬の日差し を受けて東京湾がきらきらと輝いていた。  祖母を亡くして墓地の隣の家を出た母娘は、米軍 基地に近い一角にアパートを借りて、そこで暮らし はじめた。  戦前は日本海軍の軍港で、戦後は米軍に接収され た横須賀には、どぶ板通りと呼ばれる基地の兵隊向 けの歓楽街があった。もともとはどぶ川が流れてい たが、それに鉄板のふたをしたことからこの名がつ いたらしい。  ベトナム戦争の頃は米兵向けのバーがひしめいて いたが、いまはスカジャンと呼ばれる背中に派手な 刺繍をほどこしたジャンパーを売る店や、ビールと ハンバーガーを出す店が並んでいる。  休日には近隣からの観光客で賑わうらしいが、平 日の午後のどぶ板通りは閑散としていた。そこを通 り抜けて鉄道の高架をくぐり、路地に入ると、狭い 土地に木造のアパートがいくつも押し込められてい た。駐車場に軽自動車が何台か駐まつていて、その 奥にあるひときわ古い二階建ての建物が、咲桜と母 親の元子が引っ越したアパートだった。  205号室は二階のいちばん端の部屋で、郵便受 けにはチラシがあふれていた。入居者がいるのは半 分ほどのようだった。錆びた鉄の階段を上かって部 屋の前まで行ってみたが、鍵はしまっていた。  アパートの構造からすると、なかは六畳一間に キッチンとトイレという感じだろうか。音楽業界で 成功して羽振りがよかった頃の土橋がここを訪ねて、 驚いたのも無理はない。  階段を下りる途中で、中年の女と鉢合わせした。 手にスーパーの買い物袋をもっている。  訝し気に樹生を見た。こんなところを訪ねて来る 者などほとんどいないのだろう。  「萩谷さんと娘さんがここに住んでいたと思うんで すけど」正直に話をすることにした。  女の顔はますますこわばった。  「萩谷さんを探しているんです。咲桜さんに頼まれ て」  「やすこちゃん?」女はいった。当時、咲桜は本名 の康子で呼ばれていたのだろう。  スマホを取り出し、暁の寺をバックに撮った写真 を女に見せた。  「ぽんと、やすこちゃんだ!・」女が大声をあげた。 「元気にしてるの?」  「ええ。いまはタイのバンコクで暮らしてます。私 がたまたま日本に帰ることになっだので、お母さん のことを調べてほしいっていわれて」  「そうなの。それはご苦労さま」写真を見て、女は すっかり信用したようだった。「でも、二〇年も前 のことだから、なんにもわからないわ。悪いけど」  せっかく来だのだから、むかしの話を聞かせても らえないかと頼んだ。女はしばらく考えて、「いい わよ」と商店街にある喫茶店を指定した。  アンティークの調度品を並べた、昭和の面影を残 す店たった。花柄のソファ席で待っていると、二〇 分ほどで女が入ってきた。最初はずいぶん老けて見 えたが、化粧を直してくると、四十代後半のようだ。 咲桜が土橋に連れられて東京に移った頃は、三十前 後だっただろうか。  女はメニューを見ると、「ケーキ、頼んでもい い?」と訊いた。もちろんとこたえると、イチゴの ショートケーキとカフェオレを注文した。  「咲桜さんがデビューしたときは、驚かれたでしよ う」と、水を向けてみた。  「そうなのよお」女はすぐに話に乗ってきた。 「引っ越しの挨拶もせずにいなくなったから、どう したのか心配してたら、突然テレビで歌ってるじゃ ない。びっくりしたなんてものじゃないわよ」  「いつ、気づいたんですか?」  「Mステ。タモリが司会している音楽番組。それを 見てたら突然、やすこちゃんが出てきて、腰が抜け そうになったのよお。萩谷さんたちがいなくなって、 一年後くらい」  「すぐにわかりました?」  「当たり前よお。この近所じゃ、美人の母娘で評判 だったから」  「元子さんは、なんの仕事をしてたんですか?」  「えっ」女は一瞬、言葉につまっだ。「それは、わ たしの口からはいえないわよ。ひとさまの悪口にな るから」  「生活は、かなり苦しかったんですよね」質問のし かたを変えた。  「それが不思議なのよ。かなりの稼ぎがあったはず なんだけど」  そういうと、女は「しまった」という顔をした。 黙ったまま、次の言葉を待っていた。  「ここ、米軍基地の街でしよ。だから、むかしから そういう店がたくさんあっだの。いまは日本人相手 に変わっだけど、萩谷さんみたいな美人なら、 ちょっと年いってても、働き囗はいくらでもある の」  しゃべりたい誘惑には勝てなかったようだ。  「どんなお店だったんですか?」  「ヘンなところじゃないのよ」女は慌てていった。 「お客さんにお酒を飲ませて、お話するとか、そう いう店」  「それでも、かなりの収入になりますよね」  「月三〇万円くらい」女はこたえた。「でも、ぜん ぶ使っちゃったみたいなの」  「なにに?」  「それがねえ」と小声になった。「ジャージを着た 男がときどき訪ねてきて、お金を渡してたみたいな の。変だなと思ってたら、いろいろいわれるように なったでしよ。宗教のこととか……」  それから、不都合なことを囗にしたのに気づいた のか話を変えた。  「やすこちゃん、レコード大賞の新人賞にノミネー 卜されたでしよ。わたし、応援してたの。ちゃら ちゃらしたアイドルより、あんなに苦労してきた娘 が報われるべきだと思うから」  樹生か同意すると、女はさらに調子に乗って、 「だいたいあの事件だって、やすこちゃんが被害者 なのよ」といった。  「被害者?」  「そうよ」女は力強くうなずいた。「いくら旦那に 不倫されたからって、赤ちゃんを道連れにして、嫌 がらせみたいに自殺するなんてふつうじゃないで しよ。あの女、「わたし誰からも愛されてます」つ て自慢してるみたいで、最初からイヤな感じだって 思ってたの。やすこちゃんこそ、メンヘラの地雷女 に引っかかって人生をメチヤクチヤにされた被害者 よ」  樹生か「たしかにそうかもしれません」とうなず くと、女は「あんな目に遭ったんだから、やすこ ちゃんはもっと報われるべきだわ」と自分の左胸を 触った。「テレビで腕にサポーターした姿を見るた びに、胸が痛んだの。あの日のことを思い出し ちゃって」  「あの日のこと?」  女はまた黙った。それから、「萩谷さんがお店の お客さんともめたの」といった。「ストーカーつて いうの? 駐車場の前で帰りを待ち伏せて、「なん で俺とつき合わないんだ」つて大声をあげて。わた し、警察呼んだほうがいいって、いったんだけど、 萩谷さんが警察はイヤだっていうから。そしたらと うとう、部屋まで押しかけてきちやったの」  その日は店の定休日で、咲桜も夕方には中学校か ら戻っていた。そこへ男が訪ねてきて、玄関口では げしい言い合いになった。「俺と一緒になれば、 もっといい暮らしをさせてやるのに、なんでこんな ボロ家で暮らしてるんだ」と怒鳴ったらしい。  「わたし、出て行って仲裁しようって思っだの。で も、ヘンなことでこっちかからまれたらイヤで しよ」女はいった。「そしたらいきなり、ドンつて いう大きな音がして、慌てて廊下に飛び出しだの」  女が見だのは、男に押し倒されて、仰向けになっ て倒れている元子たった。男の目は血走っていて、 「これだけいってもわからないなら、思い知らせて やる」と叫んだ。手にナイフをもっていた。  「なにしてるの!・」と女が叫んだのと、男がナイフ を頭上にかざしたのは同時たった。  「そしたら、やすこちゃんが男の前に立つだの。そ れも、黙って」  男が振り下ろしたナイフを、咲桜が左腕で受け止 めたのだと、女はいった。まったく声をあげず、血 が噴き出しているのに、じっと男を見ていた。そし て、気を失った。  女が悲鳴をあげ、なにごとかと近所のひとたちが 集まってきた。男はその場で取り押さえられ、警察 と救急車が呼ばれた。  「だから、やすこちゃんが左腕の傷を隠しているの を見るたびに、かわいそうで泣けてきちゃうのよ」  女はイチゴのショートケーキを完食し、大量の砂 糖をいれたカフェオレを飲み干し、好きなだけしゃ べってすっかり満足したようだった。  女と別れて喫茶店を出たあと、横須賀中央駅にか かる歩道橋の手すりにもたれて街を眺めた。冬の日 は斜めに傾き、長い影を落としていた。駅前の高層 マンションはまだなかっただろうが、中学生たった 咲桜も、この景色を何度も見たにちがいない。  女の話からすると、事件が起きたのは咲桜が中学 二年生のときだった。咲桜は土橋に、左腕の傷は自 分でつけたものだと説明していた。嘘をついたのは、 母親の仕事や男とのトラブルを隠すためだったのだ ろう。  改札に向かって歩いている途中で、スマホに着信 があった。  「ようやく手掛かりを見つけましたよ」弁護上の逢 沢がいった。「調査費用に糸目はつけないって発破 をかけて、横須賀の運送屋をすべて当たらせたんで す」  引っ越しをする場合、大手業者に依頼しても、 けっきよくは地元の業者が引き受けることになる。 調査会社は市内の業者を一軒一軒回って、弁護上か らの依頼状を見せて、咲桜の母親がマンションを退 去した前後の記録を調べたのだという。  「そしたら、萩谷元子からの発注が見つかったんで す。たいした荷物はなかったようですが、青森県に 運ばれていました」  「青森?」  「そこに、教団から分かれたグループがつくったコ ミューンがあるんです。元子と誠治は横須賀のマン ションを引き払ったあと、二人でそこに移ったよう です」逢沢は、津軽半島に近い町の名前を告げた。  「それで、いまは?」  「それがわからないんですよねえ」逢沢は軽いため 息をついた。「青森の調査会社から報告が来たんで すが、信者たちは農地を耕して自給自足のような生 活をしていて、ほとんど敷地から出てこないので、 誰がいるかはもちろん、何人で暮らしているのかす ら調べようがないそうです。公安調査庁の監視下に ある団体ですから」  「公安調査庁、ですか?」  「ええ。あの教団に関係する組織は、無差別大量殺 人を起こす危険性があるとして、団体規制法の観察 処分になっていますから」  逢沢は、ひきつづき調べてみるといった。礼を いって電話を切った。  新宿の駅ビルでプラスチックのフォトフレームを 買い、コンビニのマルチコピー機で、墓地の隣の家 で見つけた写真をスキャンしてデータをスマホに 送った。夕食をすませ、新大久保の部屋に戻っだの は午後八時前たった。逢沢の話を咲桜に伝えるのは、 詳しいことがわかってからにすることにした。  咲桜の家族写真をフォトフレームに収め、ベッド サイドのテーブルに置いた。それからノートパソコ ンを立ち上げて、榊原に暗号化したメールを送った。  服のままベッドに横たわると、ランドセルを背 負った六歳の咲桜が、じっとこちらを見つめていた。  そのとき、1 elegramに着信があった。無一郎か らだった。  「今週、一〇本いけますか?」と書いてあった。  ここ数日は穏やかな天気がつづいていたものの、 その日は一転して真冬の寒さたった。昼の日比谷公 園は、いつもなら弁当を食べにくる会社員や公務員 で賑わうのだろうが、今日は閑散としていた。  音楽堂と図書館に挟まれた小路のベンチで、薄い ベージユのコートを着た若い男が寒そうに身を縮め ていた。  「樹生です」と挨拶すると、男は「お疲れさまで す」と立ち上がり、右手に抱えていた封筒を差し出 した。  「榊原さんと仕事されてるんですか?」と訊いた。  「私は超下っ端で、たんなる使い走りです」男は小 さく笑った。「でも、憧れてるんです」  「榊原さんに?」  「ええ。いまでは若手のエースですよ。敵も多いで すけど」  「そうでしようねえ」というと、こんどは笑い声を あげた。  「うちの社は、いまも昭和の論理で動いてるんです。 ぼくらのような若手は、榊原さんみたいなニュータ イプに、これからの検察を引っぱっていってほしい と思ってます」  「ニュータイプ、ですか?」  「あんなひと、いないですよ」男は目を輝かせた。 「頭が切れて仕事もできる。だいたい、発想がちが います。それなのに、えらそうにしないし、面倒見 がいい」  「面倒見がいいとは知らなかった」  樹生かそういうと、男は「そのうちわかります よ」と笑った。  若い検察官と別れたあと、そのままベンチに座っ て封筒から書類を出した。「公安調査庁」と「取扱 注意」の印が捺してある書類のコピーだった。青森 のコミューンを地元の警察と協力して監視し、立入 検査したときの資料で、そこで暮らす信者たちの名 前が一覧になっている。  弁護上の逢沢は、教団の分派がつくったコミュー ンが公安調査庁の監視下にあるといった。だとした ら、自分で調べるよりも榊原に頼んだほうが早いと 思いついてメールしたのだ。  そうしたら今日の朝、ここで書類を受け取れとい うメッセージが送られてきた。面倒見がいいかどう かはわからないが、仕事が早いのは間違いない。  リストに載っているのは七〇~八〇人で、コ ミューンに参加した順に並べられているようだった。 最初に、和岡誠治の名前を見つけた。備考欄に「59 歳 懲役23年 2018年出所」とある。誠治はI 九六三年生まれだから、二年ほど前の資料のようだ。  そのまま名前を追っていくと、すこし下に萩谷元 子の名前があった。備考欄の年齢は「53歳」。その 隣に「死亡」と書かれていた。  「寒いですねえ」と声をかけられて、目を上げた。 サイバー捜査官の佐藤がコートの襟をかき合わせて 立っていた。  昨日の夜、1 elegramのメッセージを受け取った あと、無一郎に電話をかけた。  匸○本って、一〇億のこと?」樹生は単刀直入に 訊いた。  「そうっすね」と、無一郎はこたえた。  「いくらなんでも大きすぎるよ。向こうに説明しな きやいけないから、事情を教えてよ」  「炭治郎さん、大変みたいなんすよ」無一郎は他人 事のようにいった。「それで、できるだけ早く、 こっちにあるカネを動かしたいって」  「それだったら、オンラインカジノを使えばいいん じやないの。一億くらい溶かす奴いくらでもいるん だから、何件かに分けて業者に振り込んで、キック バック渡して、戻してもらいなよ」  オンラインカジノの業者は、顧客が賭け金を振り 込むための銀行口座が凍結されないように、資金を 細かく移動するマネーロングリングのシステムをつ くっている。それを利用すると、ギャンブルで一億 円損したことにして、手数料一〇〇〇万円を支払っ て、海外の銀行口座に九〇〇〇万円分の米ドルを振 り込ませるようなサービスが受けられる。  「それ、むかしやったことあるんすよ」無一郎は小 さく笑った。「そしたらばっくれられて、丸損です。 だから、もう二度とやらないって。こないだみたい に、直接会って物々交換するのがいちばん確実だっ てことになったみたいです」  「あんまり気乗りしないなあ」樹生はいった。  無一郎の側は、樹生かビットコインを送金するの を目の前で確認するのだから、たしかになんのリス クもない。だが樹生にとっては、ビットコインを 送ったあとに現金を強奪されるかもしれない。これ では公平な取引とはいえない。  「そうっすかねえ」無一郎は納得しないようだった。 「そっちだって、ヤバい組織にケツモチさせてる じやないすか。オレらがカネを奪おうとしたら、新 宿のど真ん中で殺し合いっすよ。市民を巻き添えに したら、何十年も懲役くらって出てこれないかもし れない。一〇億ぽっちじゃぜんぜん割に合わないっ すよ」  この取引を受けるかどうか、黒木に話はしてみる とこたえた。  「自分も、これが終わったら高飛びするつもりです。 逮捕状、打たれそうなんすよ」無一郎がいった。 「だから、樹生さんから現ナマ奪ったとしても使い 道がないって、ついでに伝えといてください」  無一郎との電話が終わると、咲桜に暗号化した メールを送った。  しばらくして、LINEでメッセージが送られて きた。「手数料10%。9億分のコインと交換」と あった。それを無一郎に伝えると、こちらは 1 elegramで「それでいいっすよ」と送ってきた。  そのやり取りを、榊原と佐藤に送った。すると佐 藤から、直接会って話し合いたいといわれたので、 三〇分ずらして同じ場所に来てもらうことにしたの だ。  「あれからずいぶん議論したんですが、この件、進 めてください」佐藤は急いでいるのか、早口で用件 を切り出した。  「いいんですか? 詐欺で稼いだI〇億が海外に流 出しますよ」樹生は訊いた。  「思っていたより金額が大きいですが、それが最初 からの狙いですから。これなら炭治郎は、自分で現 金化しようとプノンペンの銀行に現われるでしょ う」  いくつか段取りを相談したあと、日程が決まった らすぐに教えてくれといわれ、樹生は「なぜそんな ことをする必要があるんですか?」と訊き返した。  佐藤が、意味がわからないという顔をした。  「もう無一郎のスマホを乗っ取ってるんでしょ。 だったら、わざわざ知らせる必要はないじやないで すか」と言い直した。  「直接、やり取りするのは樹生さんですからね。確 認みたいなものですよ」と佐藤はこたえた。「それ に、別の端末から連絡してくるかもしれないし」  「無一郎、そのまま出国するようなこといってまし たよ」  「それがいちばん問題になったんです」佐藤が眉を 寄せた。「特殊詐欺グループの幹部を海外逃亡させ るわけにはいきませんが、空港で逮捕するのはあま りに露骨で、炭治郎を警戒させることになってしま う。そこで、いったん出国させたあとで、適当な時 期に逮捕状を出してパスポートを没収し、現地の警 察に拘束を依頼することになりました」  「無一郎を先に逮捕したら、炭治郎に辿り着く線が 消えてしまうんじやないですか」  「それは問題ありません」佐藤は素っ気なくいった。 「彼の端末を起点に、ほかの幹部のスマホにもポリ スウェアを埋め込みました。これが終わったら、あ いつはもう用済みです」  佐藤の後ろ姿を見ながら、民間登用のこの若い警 察官は、自分のこともいずれ同じように捨て去るの だろうと思った。  日比谷公園を抜けて地下鉄の駅まで歩き、近くの スターバックスに入っだ。凍えた身体を濃いエスプ レッソで温めながら、公安調査庁の報告書を取り出 した。最初に考えたのは、このことを咲桜にどう伝 えようかということだった。  メールやLINEで書くようなことではないが、 バンコクに戻ってから話すのでは時間がたちすぎる。 だったら電話で説明するのか。  そんなことを考えながら書類を見ていると、なに かがおかしいと気づいた。  咲桜の母親である元子は、報告書によれば五十三 歳で死亡したことになっている。元子は一九六五年 生まれだから、二〇一八年のことになる。戸籍には 記載されていないから、死亡届は出されていない。  ノートパソコンを起動して、印圧でつくった年 表を確認した。間違いない。元子が誠治と横須賀の マンションを引き払っだのは、二〇一九年たった。  生きている人間が、書類上では死んだことになっ ている。  樹生は榊原への報告と一緒にその疑問を書いて、 調べてくれないかと頼んだ。  土橋の事務所に着いたのは、夕方六時前たった。 「誘ってすみません。ちょっと早いけど飲みに行き ませんか?」といわれ、タクシーを拾って西麻布に 向かった。  時間が早いせいか、古いバーにはほかに客はいな かった。薄暗い店内にずらりとウイスキーのボトル が並び、初老のバーテンダーがグラスを磨いていた。  土橋は常連らしく、バーテンダーに片手をあげて 挨拶すると、奥のカウンターに座り「いつもの」と いった。「どうします?」と訊かれて、「バーボンな にがあります?」とバーテンダーに問うと、五、六 種類の銘柄を早囗でいわれた。どれひとつ知らな かったので最後のをロックで頼んだ。  グラスを軽く合わせたあと、「まさか教団に戻っ ているとは思いませんでした」と土橋はいった。 「ああいうのは、いったんマインドコントロールさ れると、抜けられなくなるんですかねえ」  逢沢から話を聞いたようだ。  「青森の調査会社に調べに行かせたんです」と、土 橋は話をつづけた。「広い農地の奥に小屋みたいな のを建てて、そこで集団で暮らしてるんだそうです。 たまに街に買い物に来ることはあるようですが、ほ とんどの信者は敷地からまったく出ないので、咲桜 の母親がいるかどうかもわからないといわれました。 スーパーの前で張り込んで、信者が来たらつかまえ て訊いてみろっていったんですが……」  「そんなことできるんですか?」  「高齢化して、老人しかいない街だそうです。みん な知り合いで、よそ者はすぐにわかります。でも、 いきなり質問してもこたえてはくれんでしよう」  「地元のひとたちとの交流は?」樹生は訊いた。  「最初は反対運動かあったようですが、運動するに しても人囗自体がすくないですからねえ。実際に信 者たちがやってくると、みんなおとなしいじやない ですか。農場でつくったものを街で配ったりしてる うちに、なんとなく話をするようになって、いまで は祖父母とちょっと風変わりな孫みたいな感じに なってるらしいです。警察も、住民と揉め事を起こ さないかぎり、放っておくしかないし」  その教団はテロ事件後に生まれたいくつかの分派 のひとつで、団体規制法の対象として観察処分に なっているが、報告書の提出を求めたり、立入検査 を行なう以上のことはできないのだという。  公安調査庁から信者の名簿を入手したことと、元 子が死亡したと記載されていることは伏せておいた。  「元子さんが、教団との関係をつづけていたことは ご存じだったんですか?」  「横須賀のファミレスであの娘と話をしたといった でしよ。そのとき咲桜は、私のことを売春の斡旋業 者かなにかだと思ってたんです。それで、ちゃんと した音楽事務所だと説明したんですが、あの娘は、 当時あんなに売れていたミツクのバンドのことを知 らなかった」  土橋の話に納得した咲桜は、それでも「無理だと 思う」といった。  「そのとき、母親が水商売をしていて、そのカネを 教団に渡していることも聞きました。でもなんてい うんですかね、勢いってあるじやないですか。あの 頃は天下取ったような気になっていたから、障害が あればあるほど盛り上がったんです」土橋はウイス キーを囗に含むと、過去の思い出に浸っているのか、 しばらく目を閉じていた。  「マライアーキヤリーだって、極貧の家庭で母親か ら虐待されたり、売春宿に売られそうになったりし ながら、あれほどの大スターになったじゃないです か。「なんの苦労もなく大切に育てられてきたかわ いい女の子が、アイドルになりました」みたいなの じゃない、ほんものをつくるんだって、思い上がっ てたんですよ」  しばしの沈黙のあと、「いや、これもウソですね」 と土橋はいった。  「正直いうと、生まれ育ちが悲惨であるほど、売り になるって計算もあったんです。アーティスト系な ら、過去に傷があったほうが話をつくりやすいです から」  そのあと、「咲桜はしょせん、アイドル路線は無 理だったんです。左腕をつねに隠してるアイドルな んて、シヤレにもなりませんよ」とつけ加えた。  「じつは、横須賀に行ってみたんです。そうしたら、 アパートで咲桜さんの隣に住んでいた女のひとと偶 然出会って……」  女から聞いた話を土橋に伝えた。  「それは知りませんでした。あの傷は、自分でつけ たといっていたから」しばし絶句した。「たしかに、 それにしては傷が深すぎると思ったんですよ。自傷 行為って、ふつうは死なない程度に切るじやないで すか」  母親をかばっていたのだと思う、といった。  「よく似た母娘でしたからね。どちらもほとんど感 情を見せないけど、なんていうか、魂と魂でつな がってる、みたいに感じたことがありましたから」  「魂でつなかっている?」  「テレパシーみたいで、不思議に思ったことがある んですよ」土橋がいった。「たとえば、私かお母さ んになにか訊くとするでしよ。でも、黙っている。 そうすると咲桜が、代わりにこたえるんです。それ があまりに自然で、ちょっと不気味に感じるくら い」  「教団との関係について、母親と話しました?」と 訊いた。  「マンションに引っ越させたとき、今後、教団とは いっさい手を切るように伝えました。オートロック だから、訪ねてきてもインターホンに出なければい いって」土橋はこたえた。「そのときも母親は黙っ ていて、そうしたら咲桜が「お母さんはもう、あの ひとたちとは会いません」といったんです。「直接、 返事が聞きたい」といって、はじめて「わかりまし た」という言葉が返ってきました」  「その後、約束は守られていたと?」  「そう思ってたんですけどねえ」とため息をついた。 「元夫が戻ってきたでしよ。それでまた、つながり ができたんでしようね」  「彼女は父親に会ったんですか?」樹生は、いちば ん訊きたかった質問をした。  「それがわからないんですよ」土橋はため息をつい た。「その頃はもう、休日になにをするかまで管理 してませんでしたから。あの男と不倫してたことも、 週刊誌にすっぱ抜かれるまでぜんぜん気がつかなく て」  刑務所に二三年収監されていた父親が、母親のと ころに戻ってきた。それとほぼ同じ頃、咲桜は妻子 ある俳優とつき合いはじめた。それからしばらくし て、咲桜の両親は横須賀のマンションを出て、青森 の教団施設に移っている。その間になにがあったの かは謎のままだ。  「私のところに来たとき、あの娘は野菜しか食べな かったんですよ」しばらく沈黙がつづいたあと、土 橋は別の話を始めた。「教団は殺生を禁じてたで しよ。だから母親は、自分だけでなく娘にも肉や魚 をいっさい食べさせなかったんです。いまでいう ヴィーガン(完全菜食主義者)ですよ」  土橋がゆっくりとモルトウイスキーを飲むあいた、 樹生は話のつづきを待っていた。  「でもそんなんじゃ、とてもステージに立つなんて 無理でしよ。賢い娘だから、ちゃんと話したら、ど んなものでも食べられるようになるっていったんで す。それで、いろんな店に連れていきました」  「生きもののかたちをしたものが苦手だったけど、 いまは食べられるようになったって、いってまし た」  「苦手なんてもんじゃないですよ」土橋が笑った。  「寿司屋では顔面蒼白になってなにも手をつけられ  なかったし、レアのステーキにナイフを入れたとき  は口元を押さえてトイレに駆け込みました。あの娘  にとって、あれは一種の修行だったんじやないかと  思うんです」  「修行、ですか?」樹生は訊いた。  「ええ。気味の悪いものを無理矢理食べさせられる わけですから」  「でも、最近はいろんなものを美味しく食べられる ようになったって……」  「演技なんじやないかと思うんですよね」土橋は小 さくため息をついた。「あの娘は相手の気持ちにも のすごく敏感だから、美味しそうに食べると私か喜 ぶってことを知って、一生懸命演じてたんじやない かって」  咲桜との何回かの食事を思い出した。いつもとて も楽しそうで、それを見て樹生は幸福な気持ちに なった。あれも演技だったのだろうか。  「生まれてくることができなかった娘が、咲桜と同 い年だという話をしたでしよ」土橋はカウンターの 奥に並んだウイスキーのボトルを眺めながら、独り 言のようにいった。「実の娘を食事に誘うような気  持ちだったんですよ。だから、フレンチ、イタリア  ン、中華、懐石まで、東京中の有名店を片っ端から  連れ歩きました。そうするとIヵ月くらいで、どん  な店でもごく自然に振る舞うようになったんです。  それが自分の子どもの成長を見るようで、とてもう  れしかったんですが……」  気づまりになるほど長い沈黙があった。  「いま思うと、残酷なことをしてたんですね」  「残酷?」  「不幸な女の子を助けてるっていう自己満足だった んですよ」自嘲気味にいった。「あの娘は、私に頼 らなくては生きていけなかった。だから、私か望む ような人間になろうと必死たった」  「土橋さんと出会えて、咲桜さんは幸運だったと思 いますよ」樹生は思わず反論した。「すくなくとも 横須賀のあのアパートで、母親と二人で極貧の暮ら しをしているよりは」  「あの娘がバンコクに行ってから、ずっと気になっ ていたけど、連絡を取らなかったっていったで しよ」樹生の言葉には触れず、土橋は話をつづけた。 「ほんとうは怖かったんです」  「怖かった?」  「ええ。私のわがままというか、執着があの娘を振 り回したんです」土橋はグラスに残ったウイスキー を飲み干した。「そのことで、とても美しいものを この手で壊してしまったんじやないかって」  それから小一時間、思い出話につき合って、「私 はもうちょっと飲んでいきます」という土橋を残し て店を出だのは八時過ぎたった。西麻布から六本木 に向かう通りは賑わいを増していた。行き交うひと たちの半分は外国人のようだった。  Signalに着信があった。榊原からで、スマホの番 号が指定されていた。  寒風を避けるためにビルの陰に入り、電話をかけ た。二度目のコールで榊原が出た。  「咲桜の母親ですが、たぶん謎が解けましたよ」  「えっ」思わず声をあげた。「どういうことです?」  「詳しい報告が来たんで、ちょっと調べてみたんで す。そうしたら、元子と同じ年齢の女の信者がいた んです。江森っていうんですけど。この女、病気か 事故で死んだんじゃないかと思うんですよね」  「別の女が死んでる?」  「教団にはときどき、公安調査庁の検査が入るじゃ ないですか。そのとき、提出していた名簿と照合さ れるから、死んだことを隠すために年格好の似た替 え玉を用意する必要があった。それで元子と差し替 えたと考えると、いろいろつじつまが合うんです。 公調は、役所に死亡届を出してるかどうかなんて関 心ありませんから」  「なんでそう思うんです?」  榊原は短く笑った。「江森という女、地元の病院 に入院してるんですよ。末期がんで、あまり長くな いみたいです。自分で訪ねてみたらどうです?」と 病院の名前を伝えられた。  「わかりました。ありがとうございます」と礼を いった。  「樹生くんも、これでようやく理解できたんじやな いですか」榊原はからかうような口調になった。  「なんのことです?」  「こんなこと、民間の調査会社にいくらお金積ん だって、調べられないでしよ。でも司法機関には強 制力があるから、教団に信者の名簿を提出させて、 実態を調査することができる」  たしかにそのとおりだった。  「君みたいなハッカーは、国家は鈍重だとバカにし ているでしよ。たしかにそうなんですけど」と快活 に笑った。「でも国家には大きな力があります。 だったら、それを利用すればいいんですよ」  「利用する?」  「国家を道具として使い倒せってことです」  榊原はそういうと、電話を切った。  「今回は一時間はかかりますねえ」と、うんざりし た口調で無一郎がいった。二度目の取引も新宿西口 の同じホテルを使った。  「高速計数機をI〇台レンタルしたから、そんなか からないと思うよ」樹生はスマホの画面を示した。 「このホームページの性能評価だと二〇〇枚を数え るのに一台あたり一五秒。一億だと一万円札が一万 枚だから、これを五〇回繰り返して匸一分三〇秒。 準備や片づけ、インターバルタイムを入れても、三 〇分ちょっとで終わるんじやないかな」  無一郎はスマホを覗き込むと、「へえ、ずいぶん 速いっすねえ」といった。「それなら予定より前に 成田に着けます」  どこに行くのか、訊いた。  「秘密なんすけどねえ」としぶったあと、「とりあ えずマニラ」とこたえた。  「だったら次は東南アジアで会うことになるかもし れないね」というと、無一郎からは「樹生さんバン コクでしよ。女遊びはできるけど、カジノないじゃ ないすか。オレ、べつに大麻でラリつたりしたいわ けじゃないんで」というこたえが返ってきた。  しばらくスマホをいじっていた無一郎が目を上げ、 「この商売、そろそろ限界なんすよ」と唐突にいっ た。  「国際的な詐欺ビジネスは、いまは中国のマフイア がぜんぶ仕切ってるんすよ。オレらは家賃払って場 所を借りて、商売してるだけ。でも取り締まりがど んどんきびしくなって、タイやフィリピンはもうダ メ。カンボジアのシアヌークヴィルもつぶされて、 いまじやゴーストタウンつす。残ってるのはラオス とミャンマーなんすけど、ラオスのゴールデントラ イアングルは中国の不動産開発会社が仕切ってるか ら、中国共産党の命令ひとつでいつ閉鎖されてもお かしくない。そうなるとタイとミャンマーの国境だ けなんすけど、それもいつまでもつか」  「これまでずいぶん稼いだんだろうから、あとはの んびり暮らせばいいんじやないの」  「そうしたいんすけどねえ」無一郎は大きく伸びを した。「オレらみたいな中堅は、そんなに実入りい いわけじゃないんすよ。何年か、女抱いて、カジノ で遊んで暮らすくらいのカネはありますけど」  それから、「なんかいい商売のネタ、ないすか?」 と訊かれた。  そんなのを知っていたら、苦労しないとこたえた。  「でも、樹生さんが使ってるの、デカい組織じゃな いすか」  「使ってるんじゃなくて、使われてるだけだよ」  「そうなんすか」無一郎は疑うような目で見た。 「オレには、樹生さんがぜんぶ仕切ってるように見 えますけどね」  そんな話をしているうちに、エレベーターから スーツケースをもっだ男たちの一団が降りてきた。 このあいたと同じ黒のスーツの坊主頭が、通路から 「確認しました」と短く声をかけた。  樹生はI〇パーセントの手数料を差し引いた九億 円を今日のビットコインのレートで割り、その結果 を無一郎に見せた。無一郎も同じ操作を自分のスマ ホの電卓で行なって結果を照合し、「いいすよ」と いった。  この取引のためにつくったホットウォレットに移 しておいたビットコインを、相手のウォレットに送 金した。それが終わると、あとは待つだけだ。  黒木の配下の男たちがエレベーター脇のスペース にスーツケースをまとめ、そのそばで無一郎の部下 たちが所在なげにスマホをいじっている。  無一郎は神経質そうに指でテーブルを叩いていた が、やがて「着金したっす」といった。  坊主頭の男に合図を送ると、「私ら、先に地下の 駐車場に行ってますから」と、スーツケースととも にエレベーターに乗り込んだ。  「こないだはコーヒー代おごってもらったから、今 回はこっちで払いますよ」無一郎は、通路で待機す る部下を呼んで伝票を手渡した。  ノートパソコンをリュックにしまい、駐車場に下 りるエレベーターに向かった。  「さすがにI〇本だと、緊張するっすね」別れ際に 無一郎から声をかけられた。「殺し合いにならずに、 よかったです」  本気なのか冗談なのか、判断がつかなかった。  指定された場所に行くと、すでにスーツケースは 自のハッチバックに積み込まれていた。  坊主頭の男にひと声かけて帰ろうとすると、車の キーを押しつけられた。  「はあ?」  「あんたがこの車を運転するんだ。場所はナビが指 示する」  「そんなこと聞いてないよ」と抗議したが、あいか わらず表情ひとつ変えない。  樹生はため息をつくと、目の前で揺れているキー を手に取った。   スーツケースはラゲッジスペースにすべて入らず、 後部座席にも積まれていた。「その代わりこっちに も条件がある。出発する前にこれを開けてみてよ」 と、そのひとつを指さした。「新聞紙を運ばされた んじや、たまらないから」  坊主頭はにやりと笑うと、部下に命じて後部座席 のスーツケースを取り出し、解錠した。一万円札の 人つだジッパー付きのポリ袋が詰め込まれていた。 樹生はそのひとつを開けると、中身を調べた。  それが終わると、ラゲッジスペースの最下段にあ るスーツケースを指さした。坊主頭はやれやれとい うように首を振ると、部下に命じてスーツケースを すべて降ろさせた。そのなかにも現金が人つている ことを確認したあと、スーツケースを積み直して ハッチバックのドアを閉めた。  運転席に座ってエンジンをかける。ナビを立ち上 げると目的地が表示された。練馬インターチェンジ から関越自動車道に乗り、高崎インターを下りたと ころにある駐車場らしい。なにもなければ一時間半 ほどの距離だ。  ひさしぶりの運転なので、慎重に車を発進させた。 出口で駐車料金を払い、バックミラーを覗くと、坊 主頭たちが乗った黒のセダンがあとをついてくるの がわかった。  自分が無一郎だったら、詐欺で儲けたI〇億円の 所在を警察に通報することを考えるだろう。ビット コインを受領した以上、樹生に渡したカネがどうな ろうと関係ない。指名手配されそうだといっていた が、うまくすれば警察と裏で交渉できるかもしれな い。黒木もそれに気づいているから、樹生を逮捕さ れたときの生け贄として組織に差し出したのだ。  赤信号で後ろを振り返り、積み上げられたスーツ ケースを見た。そもそもこれはサイバー警察のおと り捜査なのだから、無一郎が警察に通報しても佐藤 がうまく処理するだろう。それより問題なのは、無 一郎が半グレのような連中にこの情報を流し、カネ を強奪しようとすることだ。  黒木の手下たちの目的は、現金を確実に相手に渡 すことで、樹生の生命を守ることではない。公安七 尾行をつけているはずだが、なにが起きても介入し ようとはしないだろう。そうなると佐藤たちの護衛 を頼るしかないが、どこまで信頼できるか見当がつ かなかった。  練馬インターからI〇キロほどのところにある最 初のパーキングエリアで車を駐め、あたりの様子を 窺いながら、自販機でホットコーヒーを買った。隣 のセダンでは、坊主頭が退屈そうにスマホをいじっ ていた。その後ろに駐められた自のカローラは、サ イバー警察が手配した樹生の護衛だろうか。公安の 尾行は、どの車かわからなかった。  平日の高速はすいていて、制限速度を守って運転 しても、高崎インターにはパーキングエリアから一 時間ほどで着いた。夕方五時を回って、あたりはす でに暗くなっている。  指定された駐車場は、高速の出口からI〇分ほど 走った畑のなかにあった。いわれたとおりライトを 二回点滅させると、奥に駐まっていたバンが三回、 短くライトを点灯させた。  バンの前に車を止め、エンジンは切らないままに しておいた。助手席から降りてきた男が、樹生の側 の窓を三回、二回、三回と叩いた。これが合図で、 ハッチバックを開ける。運転手を含めて三人の男が バンから降りてきて、スーツケースを降ろしはじめ た。  樹生は外に出て、後部座席のドアを開けた。バン の助手席にいた男はリーダーらしく、黙って作業を 見ていた。黒の地味なコートを着て、すり切れた革 靴を履いている。四十代か、あるいは五十代だろう か。眼窩がくぼみ、頬がこけている。  隣に立つと、男はハイライトを取り出して囗にく わえ、ちらっと樹生を見た。手を振って「いらな い」と伝える。男は百円ライターで火をつけ、深々 と吸って、自い息とともに煙を吐いた。  樹生はあたりを見同した。無人駐車場で監視カメ ラが取りつけられている。この映像はあとで公安が 回収して分析するのだろうが、男は気にしていない ようだった。  スーツケースをバンに積み終わると、男は煙草を もみ消し、なにもいわずに助手席に戻った。  樹生はバックで車を反転させ、出口に向かった。 駐車場からすこし離れたところにライトを消した車 が三台、駐まっていた。自分たちの仕事が終わった からか、坊主頭の乗ったセダンは見当たらなかった。  スマホをスタンドに立て、関越道を東京方面に 戻った。スマホの位置情報はそのまま北に向かって いる。パーキングエリアに車を駐めたとき、後部座 席に積んだスーツケースの車輪の奥に小型発信機を 埋め込んでおいたのだ。  ナビを頼りに代々木駅に近い指定の場所に車を戻 したときは、午後八時を回っていた。スマホの位置 情報は長岡の手前たった。スマートキーを置いたま ま外に出ると、咲桜に「取引終了」とLINEした。  電車で新大久保駅に戻り、コインロッカーから1 000万円の入っだスーツケースを取り出し、別の ロッカーに預け直した。近くのコンビニで適当に夕 食を買って民泊の部屋に戻ったときは、位置情報は 新潟港の近くで停止していた。ストリートビューで 見ると、なんの変哲もない雑居ビルのようだ。  その画面をスクリーンショットに撮り、ベッドに 腰かけて今日の報告をまとめていると、咲桜から着 信があった。黒木が話をしたいという。  「ご苦労だったな」電話を代わると、黒木はぶっき らぼうにいった。「これでお前の仕事は終わりだ」  「預かっている1000万、どうすればいいです か?」と訊いた。「手元に置いておくと、落ち着か ないんですが」  「あのカネにもう用はない。ビットコインに戻して おいてくれ」  「どうやって?」  「そんなの自分で考えろ」と、黒木は電話を切った。  粉雪が舞っていた。  いつのまにか世間はクリスマスモードになってい たが、東北のさびれた街にはそんな気配はどこにも 感じられなかった。東京駅から新幹線に乗り、新青 森駅でレンタカーを借りた。榊原から教えられた病 院は津軽半島の根元にあり、鉄道が通ってはいたも のの本数がすくなく、車を使ったほうが確実そう だった。  江森という女の身内ということにして病院に電話 してみると、受付の女は質問ひとつせず、「面会は 予約制です」といった。そこでいちばん早い予約を 入れたのだ。  病院は古く、巨大だった。駐車場に車を駐め、寒 さ対策で二重になったドアを抜けると、広い待合室 と受付があった。待合室は長いあいた使われていな いらしく、椅子の背が破れたまま放置されている。 診療科の案内もなく、外来診療をほとんど行なわず、 入院患者だけを受け入れているらしい。  受付には事務服を着た初老の女が座っていた。名 前をいうと紙の予約表を取り出し、「三階の六号室 です」と、なまりのあるイントネーションで病室を 教えてくれた。予約表を見ると、この広い病院で面 会は樹生一人のようだった。  ぎしぎしと音のするエレベーターで三階に上がっ た。ナースステーションでは、中年の看護師が所在 なげにスマホをいじっていた。江森の名前を告げる と、黙って廊下の奥を指さした。  病室の扉は開け放されており、それぞれの部屋に 四台のベッドが左右に置かれていた。カーテンが引 かれていないベッドに寝ているのは高齢者ばかりで、 さまざまな管につながれて眠っているようだった。  薄暗い廊下のずっと先まで、同じような病室が並 んでいる。病院は五階建てなので、満室なら四〇〇 人ちかい患者が入院しているはずだが、奇妙なこと にひとの気配がなかった。まだ午後三時過ぎだとい うのに、医者はもちろん看護師や病院スタッフの姿 もほとんど見ない。  六号室に入り、ベッドの端にかけられた名前をひ とつずつ確認していく。江森のベッドは右側の窓際 にあった。  痩せた初老の女が寝ていた。腕から延びる点滴の 管と、胃のあたりに直接つながる管が見えた。  やつれていたが、咲桜によく似ていた。写真で見 た萩谷元子にちがいなかった。  「萩谷さん」と声をかけてみた。「康子さんに頼ま れて、会いに来ました」  目を閉じたまま、なんの反応もなかった。  腕に軽く触ってみた。筋肉はほとんど落ちて、骨 に皮がへばりついているようだ。やはりなんの反応 もない。  咲桜に報告するために、スマホを取り出して写真 を撮った。それから動画モードにして、肩や頬に そっと触れた。  しばらく眺めていたが、軽い息をして、ときどき 瞼がわずかに痙攣するだけだ。枕元にティッシュの 箱とタオルが置かれ、粗末な花瓶に水仙が一輪、活 けてあった。  ナースステーションに戻ると、まだスマホをい じっている看護師に、「江森さん、ずっとあんな感 じなんですか」と訊いた。  「あんなって?」看護師はぞんざいに訊き返した。  「いまは眠っているようなんですが、話はできるん でしょうか」  「そういうことは、先生に訊いていただかないと」  担当の医師と話がしたいというと、大きなため息 とともに内線電話を取り、「面会の方がお会いした いそうです」と伝えた。「わかりました」と受話器 を置き、二階の院長室に行ってください」と告げ ると、すぐにスマホに視線を戻した。  院長室は一階の奥の、中庭に面したところにあっ た。ノックをしてドアを開ける。白衣を着た六十過 ぎの男が、ソファにだらしなく座って、大型テレビ で競馬中継を見ていた。  「いらっしやい」男はろれつの回らない口調でいっ た。テーブルには焼酎の瓶とグラスが置かれている。  「院長さんですか?」と訊くと、男は吹き出した。  「私ぱたんなる非常勤ですよ。院長はほとんど来な いから、ここを使わせてもらってるんです」自分の 前のソファを指さして、「お座りなさい」といった。  テレビ画面を隠さないように、ソファの端に座っ た。  「どの患者さんでしたっけ?」と訊かれ、江森の名 を告げる。  医者は大儀そうに立ち上がり、院長のデスクに置 かれた古いパソコンの前に座ってキーを叩いた。  「ああ、この方ね。せっかく面会に来られたのに、 話をするのはちょっと難しいかなあ」そういうと、 「ひっひっ」と奇妙な笑い声をあげた。「まあ、ここ に入院してる患者さんは、みんな同じなんですけど。 だから、手間がかからないんです」  樹生か怪訝な顔をすると、「この病院は、意識が あろうがなかろうが、患者さんに長く生きていても らうための施設なんです」と医者は説明した。「厚 労省の方針で、いまは長期入院はほとんど儲からな くなった。でも、家では病人の世話ができないって ご家族もいるでしよ。そこで自治体に頼まれて、そ うした患者さんを受け入れてるんですけど、コスト を最小限にしないとやっていけない。それで、医師 も看護師もほとんどいないってわけです」  よたよたと歩いてソファに座ると、「そんなにま でして、なんで患者を生かしているのかって顔して ますよね」と医者はいった。  「年一五〇万円ほどの年金をもらってる親御さんが いて、息子や娘の家庭がその年金を頼りに生計を立 てていたとしましよう」酒臭い息を樹生に吹きかけ た。「日本国には高額療養費制度という素晴らしい 仕組みがあって、どれほど医療費がかかっても、七 十歳以上なら自己負担は1ヵ月に一万五〇〇〇円か せいぜい二万五〇〇〇円です。そうすると、どんな ことをしてでも親を生かしておいてほしいと病院に ねじ込んでくるわけです」  医者はここで、わざとらしく間を置いた。  「そういう家庭っていうのは、どこかおかしいんで す。病院が断ると、暴れたり、脅したり、医療過誤 で裁判を起こすと騒いだりする。それで、この病院 が地域のためにそういう面倒を引き受けてるってわ けです」  医者はグラスに焼酎を注ぎ、ストレートであおっ た。  「家族から見捨てられ、年金を受け取るためにだけ 生かされている患者は、丸太のように転がってるか ら。年金丸太”つて呼ばれてます」医者はまた  「ひっひっ」と笑った。「自宅で死亡した場合は、そ  のまま放置して死亡届を出さない家族もいます。こ  れは死んだのに年金を受け取ってるから。年金ソン  ビ″」  「江森さんも年金受給者なんですか?」  「いや、彼女は生活保護です」  「生活保護?」  「生活保護受給者は医療費が無料なんです。どんな に医療費がかかっても、本人負担はゼロです」  医者は親指と人差し指でゼロのマークをつくった。  「そうはいっても、日本の生活保護受給率はI・六 パーセントで、欧米に比べてもたいへん低い。受給 資格があるのに生活保護を受けていないひとが七、 八割いるとされてます。江森さんは運がよかったの か、のっぴきならない事情があったのか、生活保護 を認められた。それで、この病院で受け入れてるん です。あんまりやりすぎると自治体から苦情が来る んですけど、人間の生命は平等なんだから、勝手に 死ねと放っておくわけにはいかないでしよ」  「江森さん、どんな具合なんですか?」  「末期がん」医者はいった。「脳にも転移してるか ら、意識が戻る見込みはありません。いまは点滴と 胃ろうで生きてますが、もって半年といったところ でしょう」  医者は濁った眼で樹生を見たが、やがて視線はテ レビ画面に移った。馬券を買ったレースが始まるら しい。それ以上、話をする気はなさそうだったので、 樹生は礼をいって席を立った。  病室にあった水仙の花が気になっていた。窓口で 事務の女に、「江森さんに面会の方が来てるんです か」と訊いた。  「ええ、旦那さんが」と女はいった。「週に三日、 律儀な方で」  次の面会はいつか、訊いた。  「火木土だから明後日。午前一〇時にお見えです」 予約表を見て、女がいった。  翌日の月曜は吹雪だった。隣のコンビニに買い物 に行く以外は、町に一軒しかないビジネスホテルの 狭い部屋で過ごした。  教団の信者が生活保護を申請して認められるとも 思えないから、江森はもともと受給者で、その後、 教団のコミューンに加わったのだろう。ところが二 〇一八年に、なんらかの理由で死亡したらしい。  だが教団はそれを届けず、江森の遺体を教団の敷 地内に埋めて生活保護費を不正に受給していた。も ちろんそんなことをいつまでもつづけることはでき ないが、そこに江森と同い年の元子がやってきた。 そこで、元子と江森を入れ替えることを思いついた のだろう。  これなら、公安調査庁の検査を受けても提出した 名簿と実際の人数が合う。元子の死亡届を出さな かっだのは、医師による死亡診断書が発行されな かったからというよりも、近親者が戸籍を取り寄せ たときに、矛盾に気づかれるのを避けるためではな いか。元子の死亡時期を江森の実際の死亡日と合わ せたのは、遺体を検分されたときのための用心だ。  江森の生活保護受給は、公安調査庁の報告書に記 載されていたのだろう。それを見て榊原は、このト リックに気づいた。だから樹生に、「自分の目で確 かめてみればいい」といったのだ。  スマホで撮影した元子の写真と動画はサーバーに 保存してある。咲桜にどのように説明するかは、父 親に会ってから決めることにした。  前日とはうって変わって朝から青空が広かってい たが、道路は半ば雪で埋まっていた。天気予報が積 雪を警告していたため、スタッドレスタイヤを履い た四輪駆動のSUVを借りたのは正解たったようだ。  病院の駐車場には九時四〇分頃着いた。職員のも のらしい車が数台、駐まっている。  一〇時すこし前にタイヤチェーンをつけた軽ト ラックが駐車場に入ってきて、病院の入口近くに止 まった。運転席からジャージを着た痩せた男が降り、 肩をすぼめ、長靴の足元を気にしながら玄関に向 かった。樹生は、軽トラックの隣に車を移動した。  小一時間待っていると、玄関に男の姿が見えた。 樹生は車から降りて、運転席のドアを開けようとす る男に声をかけた。  「和岡誠治さんですよね」  男は、きよとんとした顔で樹生を見た。  咲桜と一緒に写したスマホの写真を見せた。  「康子さんに頼まれて、元子さんを探していたんで す。すこしだけ話をさせてもらえませんか」  誠治はなにもいわず、スマホの写真を食い入るよ うに見つめていた。  SUVの助手席のドアを開けて、「なかで話しま せんか」といった。肩を軽く押すと、誠治は素直に 乗り込んだ。  運転席に座り、「それとも、どこかの店に行きま すか? このあたり、よく知らないんですけど」と 訊いた。  誠治は、「教団の人間がいると、イヤな顔をする ひともいるので」といったあと、「その先のスー パーなら自販機があります」とつけ足した。  スーパーの駐車場まで車を移動し、自販機でホッ トコーヒーと温かい日本茶のペットボトルを買った。 日本茶を差し出すと、誠治はそれを両手で受け取り、 凍えた手をしばらく温めてから、キャップを開けて ゆっくり飲んだ。  六十代前半の誠治は、髪は自く頭頂部が薄くなっ ていた。額に深い皺が刻まれている。  「あの娘は元気にしてるんでしようか?」ぼそっと 訊いた。  「はい。お母さんのことを気にしています」  「そうですか」といったきり、沈黙に戻った。  「元子さんのお見舞いに通われてるんですよね」樹 生は話を変えた。  「あの病院、なんにもしてくれなくて」こんどは強 い口調でいった。「患者の褥瘡とか、ひどいもんで す。痛いというと、強力な鎮痛薬で眠らせる。文句 をいえば、向精神薬で黙らせる。暴れたら即拘束で す。だから、最期まできれいな身体で逝かせてやろ うと思って」  「病気がわかっだのは、いつですか?」  「刑期を終えて、横須賀で暮らすようになってか ら」また平板な口調に戻った。「調子悪そうだった から、無理矢理病院に連れていったら、もう手の施 しようがないって」  「それで、教団に戻ることにした」  誠治はうなずいた。 「名前、ちがいますよね」といった。 「はい」誠治が不安そうに樹生の顔を見た。 「あなたが思いついたんですか?」 「教団から指示されたんです」しばらく躊躇してい たが、誠治が話しはじめた。「生活保護を受けてる 信者が死んだから、身代わりになってくれないかっ て。それなら元子を入院させることもできるし」  病院で会った医師の態度を思い出した。入院患者 の医療費を請求できさえすればいいのだから、最低 限の書類が揃っていれば本人確認などする気はない のだろう。  「それで、横須賀のマンションを引き払うことにし た?」  「もうすぐ公安調査庁の検査が入るから、できるだ け早く移住してくれっていわれて、慌てて引っ越し たんです」  それから、「このこと、病院に話すんですか?」 と樹生に訊いた。  誰がどのような名前で入院していようが、自分に は関係ないことだとこたえた。  「病気のこと、咲桜さんには知らせたんですか?」  誠治は首を振った。「娘に迷惑かけたくないって いうから。でも勘のいい子だから、たぶん気づいて ると思います」  咲桜が最後に母親に会ったときには、すでに病気 の徴候が出ていたのだろう。だから樹生に、生きて いるか、死んでいるか、調べてほしいといったのだ。  しばらく考えたが、いちばん知りたいことを訊く ことにした。  「咲桜さんは、横須賀のマンションに来たんです か?」  誠治は黙って、雪に埋もれた駐車場を見ていた。 不安になるくらい長い沈黙のあと、「いちど」とこ たえた。  「そのとき、どんな話を?」  深いため息をついた。「あなたのような方には、 うまく説明できないんです」  できるだけ理解するよう、努力すると伝えた。  さらに長い沈黙のあと、「私は、人間でなくなる ために教団に入っだんです」と誠治がいった。  「人間でなくなる?」  「はい。生きている苦しみから逃れるには、きびし い修行をして、人間であることを捨て去らなくては ならないんです。その先に解脱、すなわち苦からの 解放が訪れる」  樹生はその言葉の意味を考えていた。そして訊い た。「その捨て去ったもののなかには、子どもに対 する愛情も含まれるんですか?」  誠治は苦しそうに顔を歪めた。  「ご存じのように、私はあの教団で化学兵器の製造 を手掛けていました」といった。「もちろん、なん の罪もないひとたちの生命を奪うなど、とんでもな く恐ろしいことだとわかっていました。でもその命 令を断れなかっだのは、康子がいたからです」  「娘を人質に取られていた?」  「教祖の命令で、多くの信者が秘密裏に殺されてい ました。遺体は硫酸の桶に入れて溶かされると、信 者はみんな噂していました。本来は信者同上の恋愛 は厳禁で、私たちも懲罰の対象でした。それを免れ ていたのは、私に利用価値があったからです」  「教祖の指示を断れば、あなただけでなく、妻や娘 も殺されていた」  「教団はそういうところでした」誠治はうなずいた。 「裁判でも、弁護上はそう主張しました。裁判官も 酌量の余地を認めて、二三年の刑になりました。本 来なら、私も死刑になっていたかもしれないのに」  それから、「死ぬのが怖かったんです」と誠治は いった。「修行の目的は、死の恐怖を乗り越えるこ とです。現世の幸福や生への執着よりも自らの霊性 を進化させることを目指していたわけですから。で もいま考えると、多くのひとの生命を奪う化学兵器 を開発したのは、教団に殺されたくなかったからで、 自分へのウソを隠すのに娘の存在は都合がよかった。 子どもを守るためにしかたなくやっているんだと正 当化できますから」  そこで言葉を切って、ペットボトルの日本茶を飲 んだ。  「裁判だって同じです。私は死刑になるのが怖かっ た。だから、娘のことを利用して刑を軽くしても らったんです」  「咲桜さんぱたんなる道具たった、ということです か?」  誠治は黙った。それから、「人間でなくなった者 は、どうすればいいんでしようね」と訊いた。  最初は、その意味がわからなかった。それから、 先ほどからの違和感に気づいた。  「これまでのお話で、あなたが咲桜さんを守ろうと したことはわかりました。だったら、元子さんほど うなんですか?」樹生は訊いた。「あなたはなにを 捨て去ったんでしょうか」  誠治の顔が石のように固まった。それから、「元 子への愛情は、ないです」と絞り出すようにいった。 「あの頃の教団は、二十代の男と女が共同生活して いて、多くの信者が隠れて肉体関係をもっていまし た。私も元子から迫られて、欲望を抑えることがで きなかった。でもそれぱたんなる性欲です。子ども ができて籍を入れたのも、結婚したかったわけでは なくて、教団からそうするよう指示されたからで す」  そのことは元子も知っていると、誠治はいった。 「愛情なんてものは、修行の邪魔だったんです。わ かっていただけないでしょうが、ふつうとはちがう 世界だったんです」  「それにもかかわらず、元子さんは指名手配された あなたを匿って、刑務所に入ってからもずっと支え つづけたんですよね」  「ええ。元子が私に執着したんです」誠治はいった。  「執着?」  「逮捕されたあと、両親が自殺して私はすべての支 えを失いました。すると元子は、私か自分を頼る以 外に生きていけなくなったことに気づいたんです。 それで、私に執着し、支配しようとした」  生活費を削って教団に金銭を渡していたのも、誠 治が出所したあと、二人で教団に戻ることを考えて いたからだという。  「何度も、私のことなど忘れて、娘のためにお金を 使ってほしいと頼みました。でも、刑務所にいては なにもできませんでした。元子にとっては、あの事 件でようやく私を自分のものにすることができたん です」  「咲桜さんが芸能界でデビューしたことは?」  「元子から聞きました。私の存在は、ぜったいに知 られてはならないと思いました」  「それにもかかわらず、出所してすぐに横須賀のマ ンションで元子さんと暮らしはじめましたよね」  「ほかに行くところがなかったし」  「それだけですか?」と訊いた。  誠治は、ぎょっとしたように樹生を見た。  「失礼ですけど、つじつまが合わないんですよね」 樹生はいった。「あなたには前科があるけれど、出 所したときはまだ五十代なんだし、一人でやってい くくらいはなんとでもできたでしょう。それにもか かわらず、なんの愛情もない元子さんと一緒に暮ら すことにした。そうしなければならない理由があっ たんじやないですか」  これまででもっとも長い沈黙が流れた。  「あの母娘は、とてもいびつな関係だったんです」 誠治は、先ほどよりも苦しそうに顔を歪めた。「元 子も努力したんだと思います。でも、娘の愛情に応 えることができなかった。そもそも教団では、子ど もは親から引き離されて、別の施設で養育されてい ました。自分の子どもに触れたことすらないのに、 どうすれば愛することができるのか、わかるはずは ありません」  そこで誠治はまた沈黙した。  「教団の子どもたちは、ゴボウやニンジン、レンコ ンなどの根菜を煮たものばかり食べさせられていま した。殺生は禁じられているので、ネズミが走り回 り、ゴキブリがうようよいる台所でつくられた、半 分腐ったような食事です。それが終わると、朝から 晩まで読経をして、戒律を犯せば死んだあとに地獄 に落ちると徹底的に教え込まれるんです。そんな子 どものほうたって、いきなり俗世に戻されて、「お 母さんを愛しなさい」といわれても、困惑するだけ でしょう」  目を閉じて、大きく息を吐いた。  「残酷なのは、それにもかかわらず、元子と康子が とてもよく似ていたことです」誠治は独り言のよう につぶやいた。「似ているという以上に、二人の魂 はほとんど重なり合っていた。でもただひとつ、母 親からの愛情だけが欠けていた」  樹生はなにもいえずに、次の言葉を待っていた。  「あの母娘は苦しんでいた。だから、横須賀で元子 と暮らすことにしたんです。でも私には、なにもで きなかった。もう人間ではなくなっているから」  「そんなことないと思いますよ」思わず樹生はいっ た。「人間だからこそ、週に三日、欠かさずお見舞 いに来てるんじやないですか」  「罪滅ぼしです」誠治はこたえた。「私のような者 は、罰を受けて当たり前なんです」  これ以上、追いつめるのは酷だと思った。だが樹 生には、どうしても訊ねなくてはならないことが あった。  「あなたは咲桜に、なんていったんですか?」  水のような沈黙のあとで、誠治はこたえた。「私 はただ、あの娘を解放してあげたかった。それで、 もう私のことは忘れなさいっていいました。自分の 人生を生きていいんだって」  「そうしたら?」  「泣きました。まるで子どものように、泣きじゃく りました」  そういうと誠治は、長く深いため息をついた。  病院の駐車場まで誠治を送ると、そのまま新青森 駅まで運転して車を返し、いちばん早い新幹線で東 京に戻った。新大久保の部屋に戻ったときは夜一 一 時を同っていた。  日本でやるべきことは終わった。航空会社の予約 サイトを調べると、明後日のバンコク便のビジネス クラスに空きがあったので予約した。  青森のことを土橋に伝えれば、咲桜の母親をもっ とよい病院に移すことはできるだろう。だがそのこ とになんの意味があるのか、樹生にはわからなかっ た。  詳細は伝えず、榊原に簡単な礼を書いた。HAL から大麻の注文が来ていたので、バンコクに戻った ら手配すると返信した。  誠治は咲桜を捨てたのではなく、救おうとしたの だと思った。それがどれほど不器用であっても。  だがそのことを、咲桜にどのように説明したらい いのかわからなかった。誠治と元子の関係も、咲桜 と父親や母親とのつながりも、自分には想像すらで きないもののように思えた。  部屋の小さな窓を開けると、寒風が吹き込んでき た。高層ビルの明かりが、暗い闇に飲み込まれて いった。  「こんなに簡単に裏金ができるなんて、魔法みたい ですねえ」その翌日の夕方、机の上に積まれたI〇 ○○万円の札束を前に葛城はご機嫌たった。  「今回はたまたまです。いつもってわけじやないで すから」  葛城のビットコインがウォレットに着金するのを 待ちながら、樹生はいった。税金を払わずにクリプ トを現金化したい葛城を利用して、黒木から預かっ たカネをビットコインに戻すことにしたのだ。  「トランプが大統領になって、ビットコインまた上 がりますかねえ」葛城が訊いた。  「そんなのわかりませんよ。暗号コミュニティのな かには、ビットコインはデジタルゴールドだから、 将来的にはゴールドと同じだけの資産総額になると いう予想もありますが」  「それだといくらになるんです?」  「ビットコインは最大枚数がニー○○万枚と決まっ てますから、ゴールドの市場規模を八兆三〇〇〇億 ドルとするとIビットコインが四〇万ドル、六〇〇 〇万円くらいですかね」  「そうすると、いまは一五〇〇万だから四倍になる わけか。売らずにもっておけばよかったかなあ」  「次に投資するときはビットコインETFを使った らいいんじやないですか。わざわざクリプトで保有 するより」  「なんですか、それ?」  「ETFは上場投資信託のことで、株のように株式 市場で売買される投資信託です。アメリカではビッ トコインのETFが上場されていて、米株を扱って いる日本のネット証券で購入できます。これだと証 券口座で保有できて管理しやすいし、譲渡益の税率 は国内株と同じで約二〇パーセントだから、総合課 税の最高税率五五パーセントよりずっと安くすみま す。それだけ払えば利益を表のカネとして受け取れ るから、堂々と好きなことに使えますよ」  「なるほど、そんな方法もあるんですね。いつも勉 強になります」葛城はそういうと、さっそくスマホ でビットコインETFを検索した。  「たくさんありますけど、どれを選べばいいんです か?」  「売買高がもっとも大きいブラックロックのETF でいいと思いますよ」  投資情報サイトでテイッカー「IBIT」を表示 させ、葛城に見せた。「いまの価格は五ハドルくら いですね」  そのとき、ウォレットに着金通知があった。  「ちょっと待ってください」と断って、ノートパソ コンから黒木の会社のアカウントにビットコインを 転送した。今回のためにつくった捨てウォレットは、 これで用済みだ。  「明日、バンコクに戻るんですよね。うらやましい なあ、あっちはあったかくて」と葛城がいった。 「私なんて、コロナの前にパタヤで遊んだことがあ るだけですよ」  「いつでも来てください。バンコクはずいぶん変 わったから、面白そうなところを案内します」  そんな話をしていると、「おはようございま1す」 とアリサが入ってきた。ピンクベージュのミドル丈 のダウンの下にオフホワイトのセーターとボルドー のツイードのミニスカート、黒革のロングブーツで メイクも抑えめだ。  「おっ、今日は女子大生してるじやないか」葛城が 大袈裟に驚いたふりをした。  「当たり前でしよ。たっちやんとデートなんだか ら」見慣れているのか、机の上の札朿にはなんの関 心もないようだ。「社長こそ、もうちょっと身だし なみに気をつかわないと、女の子にモテないですよ。 自分では若いと思っていても、けっこうなおじさん なんだから」  「このじやじや馬に教えてやってくださいよ」葛城 は樹生を見て、わざとらしくため息をついた。「世 の中、そんなに甘くないって」  「社長、それパワハラですよ」アリサは頬をふくら ませた。「この世界が残酷だってことくらい、わた し知ってます」  新大久保駅と大久保駅に挟まれた狭い一角にある ネパール料理店にいた。アリサは物珍しそうにメ ニューをめくり、「すご1い、知らない料理ばっか り」とはしゃいた声を出した。  「日本にもネパール人がやってる店はたくさんある けど、インドカレーの店ばかりなんだ。でもネパー ルだって同じで、カトマンズだけじゃなく、ヒマラ ヤ登山の起点になるポカラでも観光客相手のカレー の店が並んでいるだけだった。トレッキングのとき に出してもらった地元の料理が、まさか日本で食べ られるとは思わなかった」  「たっちゃん、エベレストに登ったことあるの?」 メニューから目を上げて、アリサが訊いた。  「さすがに頂上は無理だよ。でも、標高五三〇〇 メートルのベースキャンプまでは登った」  「それって富上山よりずっと高いじやん。大丈夫な の」  匸○日かけて、すこしずつ高地に順応させていく から、ぜんぜん平気だよ。おじいさんやおばあさん も参加してたし」  ネパール人の店員が注文を取りにきたので、ネ パールビールとスープモモ、チョイラ、スタディ、 アチャール、パニプリを頼んだ。スープモモはネ パール風の水餃子、チョイラは茹でたマトンやチキ ンをマスタードオイルで和えたもの、スタディは羊 の干し肉を使ったおつまみ、アチャールはネパール 風の漬物だ。  隣のテーブルでは、Tシャツを着たネパール人の 若い男が、シーシャ(水タバコ)をスーツ姿の中年 の日本人に勧めていた。中年男は旅館やホテルに外 国人スタッフを斡旋する仕事をしているらしく、 「日本語能力試験のN3か、それが無理ならN4で もいいですから、どんどん送ってください。どこも 人手不足で、なんとかならないかって催促がすごい んですよ」と、ネパール人の男に繰り返し頼んでい た。  反対側のテーブルでは、若い女性が恋バナに夢中 になっていた。二人とも日本人だと思っていたら、 そのうちの一人がスタッフを呼び止め、ネパール語 で追加注文したので驚いた。  「これ、どうやって食べるの?」アリサは、運ばれ てきたパニプリの皿を見て不思議そうに訊いた。小 さなボール形のクラッカーで、そこに穴を開けて ジャガイモやスパイスを練り込んだ具を詰め込み、 スープにひたして食べるのだと教えた。  アリサは真剣な表情でパニプリをつくり、囗に放 り込むと、「うん、美味しい」といった。  「ネパールに行っだの、いつ?」アリサが訊いた。  「大学を卒業した翌年だから、二〇一七年かな。そ の二年前に大きな地震があって、カトマンズではお 寺などが倒壊して大きな被害があったんだけど、か なり復旧が進んでた」  二人旅?」  「うん、いつも。そのほうが気楽だから」料理をと りわけながら、樹生がこたえた。  「さびしくないの?」  「ゲストハウスで旅の仲間を見つけて、次の目的地 まで一緒に行ったりするから、そういうときは一人 のほうがいいんだよ。連れがいると、仲間に入れて もらえないし」  「ふ1ん」といったあと、「たっちやん、恋人いた の?」とアリサがいきなり訊いた。  「えっ」と絶句したあと、「なんで?」と訊き返し た。  「たっちやんの話に女の子が出てこないから」  「高校までは男子校で、通学の電車でいつも一緒に なるかわいい子がいたけど、三年間声をかけられな かった。大学は理系で、クラスには女の子は二人し かいなかった。出会い系アプリはまだほとんど使わ れてなくて、その代わり合コンはしよっちゅうだっ た。つき合った子もいたんだけど、長続きしなかっ た」  「どうして?」  「話が合わなかったから」とこたえた。「その頃は コンピュータとゲームに夢中で、テクノロジーが世 界を変えるみたいなことをしゃべってたからだと思 う」  「たっちゃんの話、けっこう面白いのに、見る目な いね」といったあと、「ネパールでどんな思い出が ある?」と、アリサは話題を変えた。  樹生はちょっと考えて、「カトマンズで、耳の聞 こえないひとたちがやってるカフェに行ったことが あるよ」といった。  たまたま見つけたお洒落なカフェに入ると、笑顔 で迎えたスタッフがテーブルに案内してくれた。席 に着いてから、なにかがちかっていると感じた。店 内に静寂が満ちているのだ。  最初はBGMが流れていないせいだと思った。そ れから、店員がひと言もしやべらないことに気づい た。それで店の説明書きを読んで、そこが聴覚障害 者だけで運営されていることを知ったのだ。 「それで、どうやって注文するの?」 「テーブルに紙とペンが置いてあるから問題ないよ。 でもその店の客を観察していて、面白いことに気づ いたんだ」樹生は話をつづけた。「ぼくもそうだけ ど、中国人も台湾人も、漢字文化圏の人間はみんな、 文字を書いて伝えようとする。でもスペイン語とか を話していた客は、とくに女性に多いんだけど、言 葉が通じないとわかっても、身振り手振りでなんと か伝えようとするんだ」  樹生はスマホの写真を検索すると、「こんなとこ ろ」とカフェの写真を見せた。  「素敵」アリサが驚きの声をあげた。「青山とかの 店といわれても、わからないよ」  それから樹生か旅の話をし、アリサが大学のこと や、最近の流行を教えた。ビールが空くと、マトカ チヤンを頼んだ。自い色をしたネパールのどぶろく で、思いのほかあっさりした飲み囗だ。  「わたし、まだ一人で旅行したことないの。なんか 不安で」  樹生か、ナイル川を下りながら古代エジプトの遺 跡を巡った話をしたあとに、アリサがいった。  「観光地なら危険なことなんてないよ。とくに東南 アジアは」樹生はいった。「プーケットやバリなら、 プール付きの豪華なヴィラにも泊まれるし」  「そんなとこ、女の子一人で行かないでしよ」アリ サが怒ったようにいった。「こういうときは、一緒 に行こうって誘うんだよ、ふつうは」  「えっ?」  樹生か困惑した顔をすると、「冗談だよ」と笑っ た。「たっちやんに好きなひとがいることくらい、 すぐわかったし」  「なんで?」と訊いた。  「みんな、誘ってくるから」アリサはいった。「ミ シュランの三つ星レストラン、会員限定の秘密のお 店、六本木のホテルのスイート、あと沖縄やハワイ、 パリやニューヨークの旅行にも誘われたことある。 奥さんや子どもがいても関係なし。たっちやんくら いだよ。ずっと無視して、いきなり風俗嬢の格好し ろってLINEしてくるの」  「悪かったよ」  「困らせた?」からかうような目で、樹生を見た。 「でも、気にすることないよ。わたし、執着する夕 イプじやないから。有効期限は三ヵ月」  「有効期限?」  「うん。三ヵ月たったら、たっちゃんのことはきれ いに忘れる」  「ぼくは今日のこと、ずっと覚えてるよ」樹生は いった。「すごく楽しかったし、それに、なんてい うか、救われたような気がしたんだ」  「救われた?」不思議そうに訊いた。  「ふつうの女の子と、ふつうの話ができたから」と こたえた。  「わたし、ぜんぜんふつうじゃない。キヤバ嬢だ よ」アリサは笑った。それから樹生の顔を覗き込む と、「なんかあった?」と訊いた。 「たいしたことじゃないよ」といった。「ぼくはふ つうの家庭に生まれて、ふつうに育って、大学院ま で行って就職して、会社を辞めちゃっだけど、海外 をふらふらしながら自由に暮らしてる。これまでそ れが当たり前で、疑問に感じたこともなかった。で も、この世界にはそうじゃない人生があるんだって ことを思い知らされたんだ。だけど、あまりにもか け離れていてうまく理解できないし、それをどうい うふうに話していいかもわからない」  アリサは黙って、樹生を見つめていた。  店を出ると、樹生か泊まっている部屋を見たいと いうアリサを連れて、大久保通りを歩いた。  「近くにこんなとこがあるの、知らなかった」韓国 料理店の看板が並ぶ通りを見て、アリサが驚きの声 をあげた。  玄関を開けると、リビングルームで宿泊者たちが 宴会をやっていた。樹生とアリサを見て、いっせい に「こんばんは」と声をかけてくる。「チェンくん が大久保に中華食材の買い出しに行って、本場の中 華料理をつくってくれたんだ。君たちもどう? ウ マいよ」と、広州から来た若者を指さした。  「ごめん。もう食べてきたんだ」といって、テーブ ルの間の狭い隙間を通り抜けた。  「いつもあんな感じなの?」階段を上りながらアリ サが訊いた。  「まあね。それで盛り上がったら、一緒に富上山に 登ったり、九州や北海道に行ったりするんだ」  「楽しそう」といったあと、ドアから部屋を覗いて 絶句した。  「たっちやん、こんなとこに二週間もいたの?」  「なんで? けっこう快適だよ。食べるとこも近く にたくさんあるし」  「もっといいホテルに泊まれるくらいのお金、ある んでしよ」  「なんでそんなことするの? 電気消して寝ちやえ ば、広いとか狭いとか関係ないよ」  アリサは樹生をまじまじと見て、「ぽんとヘンな 奴」といった。  それから、靖国通りまで送っていった。横断歩道 の手前で、「ここでいい」とアリサはいった。「お店、 すぐそこだし」  歩行者用の信号が青に変わるのを待っていた。  「さっき、有効期限は三ヵ月って話したでしよ」前 を向いたまま、アリサはいった。  「うん」  「それが過ぎたら、もうたっちやんのことを思い出 すことはない」それからこちらを向いて、樹生の胸 にそっと手を触れた。「でも、そのあいたにもしわ たしが必要になったら、連絡して。世界のどこにい ても、会いに行くから」  信号が変わった。アリサは振り返ることもなく通 りを渡り、雑踏のなかに消えていった。  しばらく、その場に立っていた。  昨日から数えきれないほど繰り返している想念が、 また戻ってきた。  音楽事務所の社長である土橋と最初に会ったとき、 咲桜が俳優の男と不倫を始めたのと、父親の出所が 同じ頃だといわれた。そのことがずっと気になって いたのだが、青森でようやく、土橋がなにをいおう としたのかわかった。  咲桜の父親の誠治と、不倫相手の俳優はよく似て いた。        8  バンコクのスワンナプーム国際空港で入国審査を 待つあいたに、タイで使っているスマホにSIM カードを差し、電源を入れた。スーツケースを引き ずりながら長いエスカレーターを降りて一階の駐車 場に行く。9啓のアプリを起動して配車を依頼し、 タクシー乗り場を抜けてピックアップポイントに向 かった。  いきなり、四、五人の男たちに囲まれた。声をあ げようとすると鳩尾に重いパンチをくらい、そのま ま車に連れ込まれた。ナイフをのど元に押し当てら れ、片言の英語で「騒ぐな」といわれた。  助手席にリーダーらしき男が乗り込み、樹生は二 人の男に挟まれて後部座席の真ん中に座らされた。  助手席の男がタイ語でなにか命じると、車が動き 出した。派手なポロシャツを着て、筋肉質の上腕か ら龍の入れ墨が覗いていた。  男はスマホに向かって話しかけ、振り向いて日本 語の翻訳表示を樹生に見せた。   指示された場所までお前を連れていくだけだ  男はもういちど同じことを繰り返した。   おとなしくしていれば、なにもしない  それから男は座席を後ろに倒し、両足をダッシュ ボードの上に乗せてスマホの動画を眺めはじめた。 質問にこたえるつもりはないようだ。  車は空港から高速に乗ると、バンコクへは行かず、 9号線をアユタヤ方面に北に向かった。樹生は、ズ ボンのポケットのスマホを確認した。  榊原には、今日バンコクに戻ると告げてあった。 もし位置情報を見ていれば、トラブルに巻き込まれ たことに気づくはずだ。いまはその可能性に賭ける しかない。  車はそこから五時問ほど走り、西に折れた。もう 日はほとんど暮れていたが、標識に英語で。K泥 ざグとあるのがかろうじて見えた。メーソットは ミャンマーとの国境の町だ。  奥深い山に囲まれた道路を一時間半ほど走ると、 街の明かりが見えてきた。市街を抜けたところに小 さな空港があった。そこからさらに進むと出入国管 理の建物が見えた。車はその手前で脇道に折れて、 掘っ立て小屋の前で止まった。  助手席の男が樹生のリュックを肩にかけて車から 降り、大きく伸びをした。それから、後部座席の樹 生に降りて来いと手招きした。  そこは家畜小屋として使われていたらしく、土の 床が木枠で囲われ、窓はなかった。リーダーの男は 樹生を床に座らせ、途中のコンビニで買ってきた菓 子パンを放り投げた。トイレは裏庭で、男が二人つ いてきた。戻るとビニール紐で後ろ手にしばられた。 運転手は車を駐めに行ったようだ。   ここで午前1時まで待つ  リーダーの男は、樹生にスマホを見せた。  もうやることはないのだろう。男たちは柱に身体 を預けると、それぞれのスマホをいじりはじめた。 この先に幅の狭い川があり、それを渡るとミャン マー側のミャワディだ。国境を越えてしまえば、榊 原が気づいたとしてもなにもできないだろう。  手を動かしてみたが、きつく縛られていてほどけ そうにない。ズボンのポケットでスマホが振動した。 先ほどから定期的に着信がある。誰かが連絡を取ろ うとしているようだった。  そのまま時間が過ぎていった。リーダーの男が立 ち上がると、スマホで誰かと話しはじめた。  電話が終わると樹生のリュックをもち、身振りで 立つよう命じた。  男たちに引きずられるようにして、暗闇のなか狭 い道を歩いた。スマホのライトで道を照らしている。 崩れかけた土の階段を上かって土手の上に出ると、 川と小さな船着き場が見えた。古いボートが一艘、 泊まっている。  そのとき、背後に気配を感じた。樹生の左腕をつ かんでいた男が、いきなり吹っ飛んだ。右側の男は、 「ぐえっ」といううめき声とともに、身体をふたつ 折りにして地面に崩れ落ちた。  リーダーの男が振り返り、ナイフを振りかざした。 黒い影が素早く男の後ろに回り込むと、腕を取って 首を絞めた。男ははげしく抵抗したが、一〇秒ほど で動かなくなった。  黒い影が樹生に近づき、「大丈夫か?」と日本語 で訊いた。黒木の会社にいたキムーソニョンたった。  「なんでここに?」という問いを無視して、ソニョ ンはビニール紐をほどき、「行くぞ」と低い声で いった。  「ちょっと待って」というと、樹生はリーダーの男 に近づいた。「死んでる?」  「いや、気を失っているだけだ」とソニョンがこた えた。  「だったら考えがある」  樹生はリュックからノートパソコンとケーブルを 取り出した。男のスマホは指紋認証でロック解除で きたので、ノートパソコンとつないだ。  「なにをしてる?」  「スパイウェアを埋め込む。これで誰が命じたかわ かる」とこたえた。  監禁されていた家畜小屋からすこし離れたところ に、黒木の会社のワンボックスカーが駐めてあった。 助手席に座ると、樹生はソニョンに「ありがとう」 と礼をいった。  ソニョンは無言で車を出した。  「日本語、話すんだ」樹生はいった。  こたえはなかった。  「どうしてぼくの居場所がわかっだの?」  「車に発信機をつけた」こんどはぶっきらぼうに いった。 「どこで?」 「空港」 「なんで空港にいたの?」 「お前を見張るように、黒木からいわれた」  ソニョンは、これ以上くだらないことを訊くなと いう目で樹生を見た。  スマホを見ると、咲桜と榊原から繰り返し着信が あった。  咲桜にLINEで、「ソニョンに助けてもらった。 これからバンコクに戻る」と送った。すぐに既読が ついて、「よかった」と返信が来た。午前四時前だ が、ずっと起きて連絡を待っていたようだ。  榊原にも「拉致されそうになっだけど、無事」と 送った。  「位置情報がバンコクに向かってるから大丈夫だろ うと思っだけど、ほっとしました」と、こちらもす ぐに返事が来た。「戻ってきたのがスマホだけだと、 シャレにならないです」  スマホを膝の上に置くと、窓の外を眺めた。世界 はまだ暗闇に包まれ、ときどき街灯の明かりがぼん やりとあたりを照らしているだけだ。  日本を出てから二〇時間ちかく起きているが、 まったく眠気はなかった。逆にますます目が冴えて きた。  それは奇妙な感じだった。ミャンマーに連れてい かれれば、拷問にかけられ、誰にも気づかれること なく死んでいたかもしれない。そんな経験をしたに もかかわらず、樹生はこれまでにない高揚感に包ま れていた。  リュックからノートパソコンを取り出すと、スマ ホのテザリングでネットにつないで、リーダーのス マホを表示させた。  「あの男、意識が戻ったみたいだ。テレグラムで メッセージを送っている」  タイ語のやり取りを自動翻訳にかけた。  「人質に逃げられた、と報告してる」そういってか らソニョンを見た。「でも変なんだ。それに対する 返事が、。この仕事はもういい”だって。どういう ことだろう?」  「そんな下っ端のスマホを乗っ取ったって、なんの 意味もないだろう」ソニョンがいった。  「このエクスプロイトは、メッセージを送った相手 のスマホを乗っ取っていけるんだ」樹生はノートパ ソコンのキーを何回か叩いた。「これで会話の相手 のスマホを支配下に置いた。こうやって芋づる式に 辿っていけば、いちばん上の奴に辿り着ける」  「そんなことができるのか?」ソニョンが驚いた声 をあげた。  「ゼロデイーゼロクリツクつていう特殊なプログラ ムなんだ。たいがいの国の政府機関はプロテクトし てるだろうけど、タイの犯罪組織じゃ防ぎようがな いよ」  ソニョンは小さく口笛を吹いた。  バンコクに戻ったときは午前八時を過ぎていた。 途中でソニョンが連絡を入れたのだろう、黒木の会 社の前で咲桜が待っていた。  車から降りたとたん、咲桜が胸に飛び込んできた。  「ただいま」樹生はそういうと、涙が伝う咲桜の頬 をつかみ、口づけした。  その勢いに、「どうしたの?」と咲桜が驚いた。  「よくわからないんだけど、生まれてはじめて、生 きてるって感じがするんだ」とこたえた。  咲桜は一瞬、戸惑った顔をした。そしてこんどは、 自分から樹生の唇をはげしく求めた。 り冫戸祠` タイ 2月        (リ  「八方ふさがりつてこのことだよ」と沈没男がぼや いた。「せっかくティールが成立したのに、炭治郎 がカンボジア警察に逮捕されて、けっきよく一銭に もならないなんて」  「それはこっちの科白ですよ」樹生はビアチャーン の瓶に囗をつけて飲んだ。タイのビールはシンパー、 レオ、チャーンが三大銘柄で、それぞれビアシン、 ビアレオ、ビアチャーンと呼ばれている。  「炭治郎の残党から連絡ないんですか?」と樹生か 訊くと、「ミャンマーとの国境に移ったみたいだけ ど、そいつらと交渉したってムダだよ。約束のカネ を払ってくれっていったって、無視されるか、お前 らのせいでこうなったって脅されるのがオチだ」と、 沈没男は大きなため息をついた。  コロナ後に再開されたパッポン通りのナイトマー ケット。屋台街の一部にテーブルと椅子が並べられ、 レストランからタイ料理と飲み物が運ばれてくる。  午後九時を同って街の賑わいは増していた。パッ ポンはベトナム戦争のときにアメリカ軍兵上の慰安 のためにつくられた歓楽街で、二〇〇メートルほど の通りにゴーゴーバーが密集している。  タイは法律で売春が禁止されているが、客が店に バーフアインという連れ出し料を払って、近くのホ テルで「自由恋愛」するのは勝手だ。店で飲むビー ルや女性におごるドリンクが1000パーツ、バー フアインが1000パーツ、女性に払うチップは セックス一回のショートで三〇〇〇パーツ、朝まで のロングで六〇〇〇パーツがだいたいの相場だ。新 宿の路上に立っている若い女は一万五〇〇〇円で身 体を売っているというから、いまや日本もバンコク も変わらない。  ナイトマーケットがあるのはパッポンーワンと呼 ばれる通りで、ゴーゴーバーの呼び込みが白人の高 齢の夫婦に熱心に声をかけていた。ゴーゴーバーは ショーという扱いなので、カップルでも入ることが できるし、レズビアンとおぼしき女性客もいる。並 行するパッポンーツーの通りには白人向けのパブが 並び、客を探す女たちやニューハーフが集まってく る。派手な仮装をしているのはドラアグクイーンの 店だ。パッポンの二本の通りの隣が日本人駐在員向 けのカラオケ店が集まるタニヤで、こちらもどこか らこんなに集まってきたのかというくらい女たちで あふれている。  沈没男は、一〇〇〇万円の交換手数料として二割、 二〇〇万円相当を受け取ることで炭治郎と話をつけ た。実際にマネーロンダリングしたのはI〇億円だ から、その程度の報酬は炭治郎にとっても安いもの だったのだろう。だが成功報酬の振り込みが行なわ れる前日に、炭治郎はプノンペンの銀行で口座から 多額の米ドルを引き出そうとして拘束され、いまは 日本への引き渡しが協議されている。口座には日本 円で数十億円相当の資金があり、それも差し押さえ られて、日本国内でも大きく報道された。  「売れない俳優を拉致してどうするつもりなんだ よ」ゴーゴーバーの前に立つ下着姿の女たちを眺め ていた沈没男が、吐き捨てるようにいった。  「俳優って?」と訊くと、「たっちやん、知らない の?」と驚かれた。  今年一月はじめ、三十一歳の中国の俳優、王星は SNSでタイでの映画撮影の仕事を紹介され、バン コクに渡航した。ところが撮影の話はすべてウソで、 王星は空港からメーソットの対岸にあるミャンマー の町ミャワディに連れていかれ、園区にある中国の 犯罪組織の詐欺拠点に監禁されてしまう。王星の ガールフレンドがSNSで救助を呼びかけ、中国の 著名俳優やインフルエンサーらが次々と支援のメッ セージを投稿したことで、中国政府やタイ政府も無 視できない騒動に発展した。  その数日後、ミャワディを支配するカレン国境警 備隊(BGF)が王星を救出し、タイ側に引き渡し た。髪を剃られて坊主頭になった王星のインタ ビューを中国のメディアが大きく報じ、それがネッ トに流れると、東南アジアの治安に対する中国国内 の不安が高まった。そのため、観光業で大きな収入 を得ているカンボジアも、詐欺ビジネスの一掃を約 束せざるを得なくなったのだという。炭治郎が拘束 されたのは、この事件の一週間後たった。  「でもなんで、俳優を拉致するんですか?」と樹生 は訊いた。  「中国マフィアの最近の収入源は、オンラインカジ ノなんだ」沈没男はビアシンを一気にあおると、 苦々し気に顔をしかめた。「あちこちのサイトにカ ジノの広告を出してカモを引っ掛けるとき、ほんも のの俳優を使えばウケるとでも思ったんだろ」  王星はバンコクのスワンナプーム国際空港に到着 後、制作会社が用意した車で撮影開始のセレモニー に向かうことになっていたが、そのまま国境に連れ ていかれ、メーソットから船でモエイ川を渡ったと いう。そのルートはIヵ月ほど前に樹生か体験した のとまったく同じだったが、もちろんそのことは 黙っていた。  「映画が大ヒットしたあたりで、そろそろヤバいっ て気づくはずだろ。あいつら、限度つてものを知ら ないんだ」沈没男はわざとらしいため息をついた。  二〇二三年八月に、中国で『孤注一擲(一発勝 負)』という映画が公開された。英語タイトルは 『フ「OMore Betsjで、中国人のプログラマーと ファッションモデルが東南アジアの「詐欺工場」に 拉致される。オンラインカジノで破滅するエリート 青年の悲劇などを織り交ぜ、ネット詐欺の実態をリ アルに描いたことで、中国国内で大きな評判を呼ん だ。タイ、カンボジア、ミャンマーの政府は、この 映画が自国を舞台に悪評を流したと強く反発してい る。  「俺も観てみたんだけどさ、よくできてるよ」沈没 男はNetflixの紹介動画をスマホで検索した。「大き な詐欺が成功すると花火が上がる場面があるんだけ ど、あれ実際にやってるんだ。詐欺の拠点は工業団 地を改築した園区で、その近くには売春の店やカジ ノ、高級中華の店まであって、大金を稼いだ奴は豪 遊できるんだ」  「行ったことあるんですか?」と訊くと、沈没男は 大袈裟に首を振った。「そんなヤバいとこ、ごめん だね。俺はここで、ハッパやって、女抱いて、まっ たり生きていければいいだけだからさ」  ミャンマー政府は二〇一八年一〇月から、日本人 と韓国人を対象に観光目的のビザなし渡航を開始し、 国際空港だけでなく、タイとの国境ゲートのある ミャワディ、タチレク、コタウン、ティキも対象に なった。その後、内戦が勃発したためにこの措置は 停止されたが、それまでにタイから陸路でミャン マーとの国境を越えた日本人のバックハッカーもか なりいるらしい。  「ミャワディに行った奴の話を聞いたことがあるん だ。カジノにいるのはあやしげな中国人ばっかりで、 中国語が話せないとなにも面白くないって。けっ きよく、東南アジアの闇ビジネスを仕切ってるのは 華僑と中国人なんだ」  それから、大きな伸びをした。  「なんとかしてカネつくんないとなあ。そろそろ尻 に火がつきそうなんだ」探るような目で、樹生を見 た。  「新宿で、炭治郎の手下と会って1000万をビッ トコインと交換しただろ。受け取ったカネ、どうし たの?」  「黒木さんが手配したヤクザがもっていきました よ」とこたえた。  「そうなんだ」と落胆したあと、重ねて訊かれた。 「炭治郎の手下、無一郎とかいうんだっけ。そいつ とは連絡取れてるの?」  「日本で指名手配になりそうだから、フィリピンに 高飛びするっていってました。スマホの番号を交換 したけど、もう不通になってます」  「じやあ、いまどこにいるかわからないんだ」  スマホの電話帳に登録した番号を沈没男に見せた。 「自分でかけてみますか?」  「いいよ」と首を振った。それから、「たっちやん に頼みがあるんだ」といった。  「なんです?」  「こうなったら、黒木と交渉するしかないよ。あい つ今回の取引でけっこう儲けたんだろ。トクリュウ のマネーロングリングに手を貸した証拠があるって 脅すのはどうよ」  「それを実際にやったのは、黒木さんじゃなくてぼ くですよ。そんなの交渉の材料になるわけないで す」  「だったら、黒木を説得してカネを出させるうまい 方法を考えてよ」  そういうと、沈没男はものほしげな目でゴーゴー バーの女たちを眺めた。背中に大きな蝶のタトゥー をした女がそれに気づいて、こちらに手を振った。 沈没男の視線は、その女に吸いついたようになった。  「黒木さんは、ヤクザの大きな組織を好きなように 使えるんですよ」樹生は話を戻した。  「それは日本での話だろ。ここじゃ車椅子に乗った、 ただの身障者じゃないか」沈没男は我に返ったよう にいうと、樹生の背中を叩いた。それで励ましてい るつもりらしい。  「明日、呼ばれてるから話してみます」しかたなく、 樹生はこたえた。  「頼むよ。たっちやんだけが頼みの綱なんだ」沈没 男はわざとらしく両手を合わせた。  翌日の午後、黒木の会社を訪れた。通されたのは 会議室ではなく、最上階の社長室たった。奥にもい くつか部屋があり、そこが自宅になっているよう だった。  黒木はソファに座るよう樹生を促すと、電動の車 椅子をテーブルの前に動かした。短いスカートをは いた若いタイ人の秘書が樹生の前にコーヒーとミネ ラルウォーターを置き、ひざまずいて黒木にブラン デーのグラスを渡した。黒木と会うのは、ミヤワ ディに拉致されそうになって以来はじめてだった。  秘書が合掌して部屋を出るまで、黒木はグラスを いじっていた。それからブランデーを口に含むと、 樹生を見た。  「お前が訊きたいことはわかっている」黒木は口角 をわずかに上げた。「なぜ、空港で襲われることを 知っていたのか、だろ」  樹生は素直にうなずいた。「いろいろ考えたんで すが、謎のままです」  「ベトナム戦争は知ってるだろ」黒木はいった。 「すべてはそこから始まった」  アメリカがベトナムの内戦に本格的に介入したの が一九六四年、ベトコンに敗北して撤退したのが七 五年。その一一年間、タイはアメリカの軍事拠点に なり、パタヤに海軍基地、その南のウタパオに空軍 基地が置かれた。バンコクにも軍事関連の施設がつ くられ、パッポンにはCIAの支局があった。CI Aはタイの裏社会とつながり、表には出せない政治 工作とビジネスを行なった。  「戦争が終わったあと、それまで甘い汁を吸ってき た情報機関の人間のなかには、そのままタイに残る 奴らがいた」黒木は説明した。「タイの裏社会は、 タイ人や華僑のグループと、旧米軍関係者が複雑に 絡み合うようになった。そんななかで、一種の紳上 協定が成立した」  「紳上協定、ですか?」  「この国はいまでも人間の生命が安いが、当時は もっと安かった」黒木はテーブルから煙草を取ると、 囗にくわえて火をつけた。「誰かをこの世から消し たければ、五〇〇〇円払って殺し屋を雇えばいい。 外国人なら高くなるが、それでも三万円程度で引き 受ける奴はいくらでもいた。この国にいる外国人が クスリや女でもめたり、ビジネスで地元の組織と対 立することはいくらだってある。だがアメリカ人が 次々と殺されるようなことになれば国際問題になる し、そのとばっちりは裏社会全体がかぶることにな る」  そこで、外国人の誘拐・殺害の依頼を地元の組織 が受けたときは、CIAの残党がつくったネット ワークにその情報を流すようになった。それに対し て異議を申し立てる者がいると、その依頼は中止さ れる。誰もなにもいわなければ、そのまま実行され るのだという。  「タイ大はおとなしそうに見えるが、ここは面子の 社会だ。ヤクザと同じで、面子をつぶされたのにな にもしないと、一生バカにされて生きていくしかな い。日系企業では、それを知らずに日本からやって きた上司が、従業員の前でタイ人の部下を怒鳴りつ けたりする。するとその部下は、面子をつぶされた と感じて、地元のヤクザに日本人上司の殺害を依頼 する」黒木はおかしそうに笑った。「そんなことが あちこちで起きている。そのたびに日本人が殺され たら大問題になるから、裏社会のなかで握りつぶし てるんだ」  「だったら、ぼくの誘拐依頼も裏のネットワークに 報告されたんですか?」樹生は訊いた。  「お前の生命の値段は五〇万円ほどだった」黒木は にやりと笑った。「仕事を請け負った組織に話をつ けて、倍のI〇〇万円で買い戻した」  「ソニョンが空港にいたのは?」  「組織と交渉を始めたのは飛行機が着く直前だった から、念のため空港に行かせた」  樹生は成田空港で咲桜に、これからバンコク便に 搭乗するとLINEを送った。ソニョンはスワンナ ブーム国際空港で樹生のあとをつけ、男たちに拉致 されたとき、車に近づいて発信機を取りつけたのだ。  「誰が命じたかわかったんですか?」  「それはお互いに教えないことになっている」黒木 はいった。「真実を知ると、話がどんどんややこし くなる。だから、向こうは依頼者の名前をいわない し、こちらも仕事を中止させる理由を伝えない。た んなるビジネスなんだから、カネを払えばそれで終 わりだ」  「なぜ、ぼくを救ってくれたんですか?」  「お前にまだ、利用価値があるからに決まってるだ ろ」黒木は、バカなことを訊くなという顔をした。  その言葉の意味をしばらく考えてから、「なにを すればいいんですか?」と訊いた。  黒木はその質問にはこたえず、目をわずかに閉じ てグラスを傾けた。  「俺がお前の年の頃は、毎日が生きるか死ぬかだっ た」と、別の話を始めた。「まだ日本がこんなに落 ちぶれる前の時代だ」  黒木の所属していた組が、地元の組織と抗争に なった。何人かの下っ端が死んだあと、黒木の組の 幹部が愛人宅から出たところを射殺された。  黒木には、抗争相手の組に梁という義兄弟がいた。 梁は二十五歳でみゆきという幼馴染の女と結婚し、 あんずという女の子が生まれた。黒木が梁の自宅を 訪れて、食卓を囲むこともあったという。  「ヤクザの世界では、相手にやられたら、こっちも 同等以上の報復をしないと面子が立だない。上部団 体から圧力をかけられて、組長は俺に結果を出せと 命じた。それで俺は、みゆきとあんずをさらって、 梁に組を裏切るようにいった」  黒木はそこで言葉を切ると、しばらく虚空を眺め ていた。「どういうわけか最近、そのときのことを 思い出すんだ。もう四〇年ちかくも前の話なのに」  樹生は黙って次の言葉を待っていた。  二人で組事務所にやってきた梁は、この場で自分 の頭を撃ち抜くといってチャカをこめかみに押し当 てた。自分の生命と引き換えに、女房と子どもを助 けてくれっていうんだ。そしたらみゆきは、自分が 死ぬから夫と子どもを助けてくれと泣き叫んだ」  黒木は感情のない目で樹生を見ていたが、「バカ バカしいだろ」といった。「梁が死ねばたしかに女 と子どもに利用価値はなくなるが、みゆきは生まれ たばかりの赤ん坊を抱えて、頼る人間もいないまま 道端に放り出される。みゆきが死ぬのはもっと理屈 に合わない。子どもを使って梁を脅すだけだから、 ただの無駄死にだ」  そこで言葉が途切れた。しばらくして、黒木は話 しはじめた。  「俺は、誰でもいいから幹部の居場所を教えればい いだけだと梁を説得した。最後には納得して、若頭 がいるクラブの名前をいった。ピットマンをそこに 張り込ませて、外に出てきたところをボディガード もろとも射殺した」  また長い沈黙があった。  「それで?」と促した。  「裏切ったことはすぐにバレて、梁は組の連中にな ぶり殺しにされた。俺は功績が認められて、組のナ ンバーツーになった」  短くなった煙草を灰皿に押しつけ、「お前が梁 だったらどうする?」と唐突に訊いた。  その場の状況を想像しようとしたが、うまくいか なかった。  「組を裏切って妻子の生命を救ったあと、あなたと 交渉してまとまったカネをもらい、家族と海外に逃 げる」ようやくそうこたえた。  「あいつにそんな選択肢はなかった」黒木は笑った。 「在日の、それも北朝鮮籍だとパスポートをつくる のも難しい。たとえもっていても、ビザなしで入国 できる国はほとんどない」  「国内のどこかに身を隠すのは?」  「すぐに見つけ出されて、家族もろとも殺される」  樹生はさらに考えたが、こたえは見つからなかっ た。その代わり「なんでそんなことをぼくに訊くん ですか?」といった。  「若頭が殺されたことを知ったあと、梁は「みゆき と娘をよろしくお願いします」と俺に頭を下げて、 組に戻っていった。殺されるのがわかっているのに。 俺は、なぜそんなことをするのか不思議たった。ふ つうは、生き延びようともっとあがくんじやないの か」  グラスの琥珀色の液体に視線を落としたまま、黒 木は言葉を探しているようだった。  「それで、これはなにかの呪いなんじやないかと 思った」  「呪い?」  「目の前で、女と赤ん坊が泣き叫んでいる。だった ら、俺はどうすればいい?」独り言のようにつぶや いた。「けっきょく、梁のむかしの知り合いを名 乗ってカネを送ることにした。みゆきは再婚せずに 一人で娘を育てた。あんずは大学を出て大手企業に 就職し、いまは結婚して子どもも二人いるらしい」  それから、「しょせんあぶく銭だ」と黒木は笑っ た。  この話にどのような意味があるのか、わからな かった。「梁さんが断ったら、どうするつもりだっ たんですか」と訊いてみた。  「あいつの目の前で、みゆきとあんずを始末しただ ろう」黒木はいった。  「あなたにそんなことができたとは思えません」  「それがヤクザだ。相手の組の幹部を殺らなければ、 俺が殺されていた」  樹生はしばらく考えて、「だったら、梁さんはあ なたを救ってくれたんですね」といった。  「俺を救った?」怪訝な顔で樹生を見た。  「あなたには、なんの罪もない女性と幼い子どもを 殺すなんてことはできない。もしできたとしても、 そのことで一生苦しむことになる。梁さんは自分を 犠牲にして、妻と子ども、そしてあなたを救済した んだと思います」  黒木は皮肉な笑みを浮かべた。「俺にそんな情け があると思っているのか?」  「そうじゃなければ、なぜむかしのことを思い出し て、ぼくに話すんですか?」と訊き返した。  「俺はただ知りたかった」黒木はいった。「あいつ が俺に、どんな呪いをかけたのか」  「それが、ぼくを生かしておくことにした理由です か?」  黒木は表情のない目で樹生を見つめていた。長い 沈黙のあと、「いずれ連絡する。せいぜいいまを楽 しむことだ」といった。  「黒木、元気たった?」キッチンから顔を覗かせて、 咲桜が訊いた。  「いつもどおりだったよ」樹生はそうこたえたあと、 「愛についての話をした」とつけ加えた。  「なにそれ? あのひとと?」と声に出して笑った。 エプロンで手を拭くと、樹生に囗づけをした。  タイのギャングに拉致され、ソニョンに助けられ たあと、ウイッタユ通りにあるコンドミニアムの四 七階で咲桜と暮らすようになった。  部屋は熱帯の花の強烈な芳香に満たされていたが、 それでもキッチンで魚を焼いているのがわかった。 ダイニングテーブルには煮物などが並べられている。  ほとんどの日本食の材料はプロムポンにあるフジ スーパーで揃うが、そこは「駐妻」と呼ばれる日本 からの駐在員の妻のたまり場になっている。咲桜は 目立ちすぎるので、メイドにメモを渡して買いに行 かせている。  日本では高級魚とされているハタは、タイでは安 く手に入る。アジに似たアクタウオや、なまずの一 種のパンガシウスのような日本では見ない魚のほか、 サバや太刀魚なども獲れる。ただし脂がすくなくパ サパサしている魚が多いので、塩焼きよりも油を 使って料理したほうが美味しい。  冬でも湿度は高く、窓の外に広がる夕方の景色は どことなく滲んで見えた。樹生は冷蔵庫からシャン パンの瓶を取り出し、「今夜はこれを開けよう」と いった。  「なにかいいことがあっだの?」咲桜が訊いた。  「ロス・ウルブリヒトが恩赦されたんだ」  「ウルブリヒトつて、樹生くんの高校時代のヒー ローだったっけ? 闇サイトでドラッグを扱ってつ かまった」  「うん。逮捕されたのは二〇一三年で二十九歳だっ たから、一一年ちょっと刑務所にいて四十歳になっ た」  二〇二四年のアメリカ大統領選でクリプト業界の 億万長者たちがトランプを支援し、その見返りにウ ルブリヒトの恩赦を求めた。トランプは、闇サイト のシルクロードを運営した罪に対して、仮釈放のな い終身刑は重すぎるとして、大統領就任直後にその 約束を果たした。  シャンパンのコルクを抜いてグラスに注ぐと、ひ とつを咲桜に渡し、「トレッド≒ハイレーツーロ バートに」といって乾杯した。「どういう意味?」 と訊かれたので、アメリカではカルト的な人気があ る『プリンセスーブライド』というコメディ映画の 登場人物で、ウルブリヒトがサイトの管理者として その名前を使ったのだと説明した。  「すべての船乗りから恐れられている海賊なんだけ ど、その正体は誰も知らない。そして、匿名のまま 名前だけが引き継がれていくんだ」  咲桜は樹生の話を興味深そうに聞いていたが、 「やっぱりよくわからない」と笑った。「でも、その ひとのお父さんやお母さんはすごく喜んだでしよう ね。この世界の誰かがすこしでも幸福になったなら、 それだけでうれしい」といった。  だし巻き卵とほうれん草のおひたし、豚肉と長芋 の煮物、レンコンとニンジンのきんぴら、豆腐とわ かめのみそ汁、そしてカマスの干物がきれいに焼か れていた。  樹生かカマスをひと囗食べると、「どう?」と咲 桜が訊いた。  「すごく美味しい。ここがバンコクだなんて信じら れないよ」  トンローの卸売業者が日本から魚を空輸して、オ ンラインで販売している。値段は高いが、伊豆七島 のキンメダイ、大分のサバ、兵庫産の真鯛などもあ る。みそ汁もだし巻き卵も、凝っているわけではな いが、どれも上品な味たった。  「料理、得意だったの?」  「ううん」咲桜は首を振った。「こっちに来るまで、 やったこともなかった。黒木につくらなくちやいけ なくなって、ぜんぶYouTubeで覚えたの」  「すぐにこれだけ上達するってすごいよ」  「理科の実験と同じだから」咲桜はいった。「学校 でいちばん好きな授業だったの」  シャンパンのグラスを置くと、自分でもカマスを 囗に運んだ。  「味が濃いとか、甘すぎるとかいわれたら、それを 覚えておいて、次から塩や砂糖の量を調整するの。 魚を焼くときは、グリルの火力によって、どのくら いの時間できれいに焼き目がつくかを実験する」そ れから、「わたし、ちょっと変わった育ち方してる から、美味しいとか不味いとか、よくわからない の」と笑った。  「はじめてタイ料理店に行ったとき、美味しいって いったよね」  「うん。ここで美味しいっていうと、このひとは喜 ぶだろうなってことはわかるの」  「メニューを見てワインを選ぶのは? ウェイター とのやり取りが慣れてて、すごいなって思ったん だ」  「相手に合わせて、ワインに詳しいひとたったら、 うんちくを披露できるようにする。ワインのことを なにも知らなかったら、恥ずかしい思いをしないよ うにしてるだけ」  「いまでも罪悪感がある?」と訊いた。「美味しい ものを食べたとき」  中学三年生の咲桜は、土橋からアイスクリームを 勧められて、「これをほんとうに食べていいんです か」と訊いた。なぜそんなことをいうのかと困惑す る土橋に、「うれしいとか、楽しいとか、そういう 気持ちをもっちやいけないと教えられてきたから」 とこたえたという。  咲桜は驚いたように樹生を見て、「むかしほど じやないけど」といった。  「そうなんだ」ちょっとがっかりした。「じやあ、 ぼくとご飯を食べても楽しくない?」  「なんで?」不思議そうに訊かれた。「わたしいま、 すごく幸せ」  「美味しいって思わないのに?」  「そんなことになんの意味があるの? 味なんてど うせすぐに忘れちやうのに」  「たしかにそうだね」といって、樹生はカマスを囗 に運んだ。  食事が終わると、ハーブティーを淹れた。ヤワ ラーにあるオーガニックティーの専門店から取り寄 せたもので、レモングラスにバタフライピーで青い 色をつけている。日本ではチョウマメと呼ばれ、鮮 やかな青い花が食品の着色料に使われてきた。レモ ンを入れるとピンク色に変わるのも人気だ。  「ニンさん、お花の選び方上手ね」真っ青なハーブ ティーの入っだ耐熱ガラスのコップを樹生の前に置 くと、咲桜はいった。レモングラスの柑橘系の豊潤 な香りがする。  ニンさんというのはメーバーン(メイド)のこと だが、咲桜に教えられるまで樹生は名前すら知らな かった。最近では蘭やブーゲンビリア、プルメリア だけでなく、名前も知らないさまざまな熱帯の花が 活けられるようになった。  タイのメイドは住み込みが基本で、たいていの家 にはメイドのための部屋が用意されているが、咲桜 と暮らすようになってからも、週に三回、掃除と洗 濯に来てもらうだけにしていた。それまでは鍵を預 けていて、顔を合わせる機会もほとんどなかった。  咲桜はここに移ってくると、スマホの翻訳機能を 使ってすぐにニンさんと仲良くなった。北部出身で、 三十四歳で、子どもが三人いることまで知っていた。  「ニンさんからいろいろ教えてもらって、樹生くん のことちょっと見直しだの」ハーブティーのグラス を置くと、おかしそうに笑った。  「なにが?」と訊いた。  「この国に住む日本人の男って、必ずこっちの女の ひとを愛人にするでしよ。しかも、こんなすごいと こに住んでたら、選び放題じゃない」咲桜は部屋を 囲む夜景に目をやった。「ニンさんも、ずっとそう 思ってたんだって。それで、はじめてここでわたし と会ったとき、驚くと同時に、ものすごくうれし かったんだって」  「うれしかった?」  「樹生くんが、おかしなひとじゃなかったから」と 笑った。「こんな部屋に一人で暮らしてるなんて、 重い病気にちがいないって思ってたんだって」 「頭の?」 「そうはいわなかったけど」と、こんどは大きな声 で笑った。「でも、考えたらヘンな話よね。愛人を つくらないと男と認めてもらえないなんて」  タイは強固な階級社会で、バンコクと地方の経済 格差は大きい。上流階級を構成するのは国王を頂点 とする王族と、官僚や軍のタイ人エリート。それと 共生するのが華僑の富裕層だが、首相になった客家 系のタクシンーシナワットのようにタイに同化して 成功する者も多い。  中間層は、バンコクの会社で働く大卒のホワイト カラー。最下層は小学校しか出ていないような地方 出身者で、女はメイドか風俗業、男は肉体労働か闇 商売をしている。この三つの階層は交わることはな く、地方の貧しい若者が都会に出て成功するという 話は、タイではマンガの題材にすらならない。  一九七〇年代や八〇年代は地方から女の子たちが バンコクに出稼ぎに来て、身体を売って稼いだカネ を家族に送るのが当たり前たった。ベトナム戦争が 終わると、アメリカの軍人の代わりにやってきたの が日本のビジネスマンで、タニヤには日本人向けの カラオケ店が集まり、高級住宅地のスクンビットに は駐在員御用達の風俗店ができた。日本の経済力に 陰りが出ると、これらの店は中国人や韓国人も利用 するようになった。日本と同様、タイも少子化か進 んでいるが、いまではミャンマーやカンボジア、ラ オスなど周辺の国からやって来る若い女性がバンコ クの風俗業を支えている。  バブル期はもちろん現在でも、バンコクの駐在員 のもっとも重要な仕事のひとつは接待で、日本から 視察に来る親会社や取引先の男たちを風俗店に案内 し、女を斡旋した。当然、その駐在員も現地の女を 囲うようになる。  それなのになぜ、女遊びをしないのかと咲桜は訊 いた。「たんなる好奇心なんだけど」  沈没男は樹生か風俗店に行ったことがないと知る と、先輩風を吹かせてあちこち連れ同した。  バンコクの風俗街は、パッポンやタニヤのある シーロム地区と、第二次世界大戦後の都市開発で急 速に発展したスクンビット地区に大きく分かれてい る。スクンビットにはゴーゴーバーが集まる大型施 設ナーナープラザや、ソイーカウボーイというゴー ゴーバー通りがある。この地名は、「カウボーイ」 というあだ名のアフリカ系アメリカ人が一九七〇年 代に始めた米兵向けの店に由来するらしい。これら の風俗店は外国人専用で、タイ人の男が利用するこ とはない。  アソーク駅に近いテーメーカフエは日本人駐在員 のための出会い系喫茶で、ビルの地下一階にある店 には片言の日本語を話す女たちが集まっている。店 は客から飲食料金を受け取るだけで、あとは自由恋 愛。立食が基本で、気に大った女の子がいれば声を かけて、ホテルや自宅のあるコンドミニアムに連れ ていく。  「金魚鉢」と呼ばれる大型のマッサージパーラーで は女の子たちがひな壇に並び、それを男たちがガラ ス越しに眺める。VIPルームもあり、そこでは ファッション雑誌のモデルが小遣い稼ぎをしている のだと説明された。こうした店には外国人だけでな く、タイ人の富裕層もやってくる。それ以外にも、 繁華街では性的なサービスをするマッサージ店がさ かんに呼び込みをしていて、どれほどの数があるか 見当もつかない。  春を売る女性たちを短期間に何百人も見せられて、 樹生は逆に興味を失ってしまった。その娘だちと セックスする自分をうまく想像できないのだ。  「たぶん、ゲームの難易度が低すぎるんじやないか と思うんだ」  「難易度?」咲桜が目を丸くした。  「うん。ゲームつて、難しすぎても簡単すぎても、 やる気がなくなるでしよ。売春って、女の子が要求 するお金を払えば誰でもセックスが買えるゲームだ し」  「ふ1ん、そんなふうに考えるんだ」皮肉ではなく、 ほんとうに感心したように咲桜がいった。「いつか らそう思うようになっだの?」  「え1と、ぼくは子どもの頃から、まわりの子たち が話していることとか、夢中になっていることが、 うまく理解できなかったんだ」いきなりセックスの 話題になって、しどろもどろになった。「とくに女 の子は、自分とはぜんぜんちがっているのが不思議 たった。そうすると……」  「女の子のこころを分解して、謎を解き明かしたく なった?」といわれた。「ハッカーとしては、お金 で既製品のセックスを買うだけじゃ満足できない」  「そういう意味じゃないんだけど……」思わぬ突っ 込みに戸惑った。  「女なんて、しょせん穴と袋だしね」と咲桜がいっ た。「そして男は、若い女の穴と袋に強烈に惹きつ けられるようにプログラムされている。これが、売 春が人類最古の職業といわれる理由でしよ。あくま でもわたしの観察だけど」  そういわれて、完全に言葉につまっだ。  「まあいいか。これ以上いじめるとかわいそうだ し」と、咲桜が笑い声をあげた。「樹生くんはじゆ うぶんまともだよ。えらそうなこといって、陰でこ そこそ女を買ってる男だちよりずっと」  部屋の照明を落として、ソファに座って咲桜の細 い肩を抱いていた。低い雲が高層ビルの明かりを反 射している。咲桜は樹生の肩にもたれ、目を閉じて いた。  その身体の重さを感じながら、不思議な気がした。  小学校六年生のときから二〇年ちかく憧れていた 女性が隣にいて、どうやら愛されているらしい。そ れとも、すべては夢なのだろうか。  バンコクの空港で拉致されたことで、あれこれ悩 まずに、咲桜に母親の元子の入院と、父親の誠治に 会ったことを伝えることができた。咲桜はなにもい わずに話を聞いていて、最後に「そうなんだ」と小 さくつぶやいた。  元子はもう長くないだろうから、いちど日本に 帰ったらどうかと勧めた。そうすれば誠治と会うこ ともできるだろう。  「いいの」と咲桜はいった。「日本を出るとき、す べてを捨てたから」  樹生か「でも……」といおうとすると、「わたし はただ、どうしているのか知りたかっただけ」と強 い口調でさえぎられた。「わたしとあのひとたちは、 別の軌道を回る彗星みたいなものなの。もう二度と 交わることはない」  そんな会話のあとで、「樹生くんと一緒に暮らし たいの」といわれたのだ。  「今日、黒木と愛の話をしたっていったでしよ」咲 桜が独り言のようにつぶやいた。「どんな話だった の?」  黒木から聞いたことを、かいつまんで説明した。  「そんなことがあったんだ。はじめて知った」咲桜 はいった。「わたしにはなにも教えてくれないから」  「どうしてぼくに、むかしのことを話したんだろ う」  「それは、樹生くんが似てるからよ。黒木と」  「似てる?」  「わたし、最初に会ったときから感じてた。うまく いえないけど、世の中に対する距離の取り方とか。 だから、樹生くんだったらどうするのか、知りたい んだと思う」  「黒木さんつて、どういうひとなの?」  「わたしにとってはとても楽な相手」咲桜はこたえ た。「黒木はわたしという人間になんの興味もなく て、ただ指示するだけ。わたしはそれに従っていれ ばいいから、それですごく救われたの」  「救われた?」  「ずっとそうだったの」樹生の肩にもたれたまま、 咲桜はいった。「映画の仕事が好きだったのは、監 督のいうとおりにすればいいだけだから。でも、ほ んとうはそれだとダメで、監督の予想を裏切るよう な演技ができないと一流にはなれない。だから、い つまでだっても大根役者たった」  「咲桜の出た映画、すごく感動したよ」  「世界の底が抜ける感じ、わかる?」樹生の言葉を 無視して、咲桜は訊いた。「それまで信じていたこ とが、ぜんぶなくなっちやうの。わたしは五歳のと きに、それを経験した。そうなると自分がどこに 立っているのか不安になって、いつも支えてくれる ものを探そうとする。黒木はそれを与えてくれたの。 だから、すごく感謝している」  なんといっていいかわからず、咲桜の身体を強く 抱いた。  「樹生くんにも感謝してるの」咲桜は言葉をつづけ た。「こうやって、二人で夜空に浮かんでるのが好 き」  「ぼくもだよ」樹生はこたえた。  遠くで稲妻が光った。季節外れのスコールになり そうだった。  明け方まで降りつづいた雨はようやく止んだが、 空には重たい雲が垂れこめていた。中華街で春節の フェスティバルが行なわれると知って、咲桜を連れ て昼過ぎに出かけた。水たまりの残る通りにはまだ 雨の匂いが感じられた。  タイでも新暦の正月は休日だが、盛大に祝うのは 華人にとっては旧正月、タイ人にとっては四月のソ ンクラーンで、一年でもっとも暑い時期に行なわれ ることから水かけ祭りと呼ばれる。  チャイナタウンは赤い提灯で埋め尽くされた歩行 者天国になっていた。両側に露店がぎっしり並んで いる。アパートに寄ると、一階の中華料理店の女主 人が目敏く見つけて、春巻きと餃子を買わされた。  アパートの階段に座って、アイスティーを飲みな がらそれを食べた。咲桜が突然、「海が見たい」と いった。「樹生くんのバイクに乗って」  「バイタク、乗ったことある?」と訊くと、「うう ん」と首を振った。  バイタクはバイクタクシーのことで、二人乗りで 目的地まで連れて行ってくれる。タイ人は短い距離 でも炎天下を歩くのを嫌うので、渋滞が悪化する一 方のバンコクでは日常的に使われている。  スマホのマップで近くのバイクショップを探し、 咲桜のヘルメットを買いに行った。  カワサキのオフロードバイクを置いている駐車場 で、咲桜にタンデム(二人乗り走行)の方法を教え た。  「オフロードバイクは二人乗りに向いてないんだけ ど、リヤシートにまたかってしっかりぼくの腰につ かまってればいいから。それと、カーブを曲がると きに車体が傾くから、ぼくと同じ体勢で身体を倒し てはしいんだ。怖くて無意識に反対側に身体を起こ そうとすると、バランスが崩れちやうから」  そういうと、咲桜は「わかった」とうなずいた。  最初のうちは渋滞でも無理な追い越しはせず、 カーブもゆっくり曲がった。ためしにすこしバイク を傾けてみると、咲桜は身体のちからを抜いて、ご く自然に樹生の動きに合わせた。  信号で止まると、「もっとスピード出していいよ」 と耳元で叫んだ。「すごい楽しい」  ラーマ四世通りの渋滞を抜け、南に向かう高速に 乗った。チャオプラヤー川を渡って東に折れ、ワッ トーバーンピンという寺の手前で3号線に入る頃に は、咲桜は片手を腰から離してもバランスをとれる ようになっていた。  チャイナタウンから一時間ちょっとで海辺の公園 に着いた。駐車場にバイクを駐めているときから、 鳥たちの鳴き声が聞こえてきた。ここはカモメの越 冬地で、この時期には数千羽が集まってくる。  タイラント湾に向かって桟橋が延びていて、その 上空を無数のカモメが舞っていた。観光客が餌を投 げると、そこにいっせいに群かってくる。ヒッチ コックの映画『鳥』を思わせる光景だ。  咲桜が「わたしもやってみたい」というので、二 〇パーツで餌を買った。てのひらに餌を載せて差し 出しただけで、カモメたちが殺到してくる。咲桜は まわりの観光客と一緒に、大きな声をあげて笑った。  ここは夕日もきれいだというが、あいかわらず空 は重い雲で覆われたままなので、日が落ちる前にバ ンコクに戻ることにした。バイクを駐めてヘルメッ トをアパートの部屋に戻し、爆竹の音がするほうに 歩き出す。  旧正月の夜のヤワラーは、ライトアップされた提 灯で赤く染まっていた。獅子舞の行列にひとびとが 集まり、ほとんど前に進むこともできない。チャイ ナドレス姿の若い女性も多く、華やかな雰囲気だ。  あちこちの屋台に寄って揚げ餅や肉まん、デザー トなどを立ち食いしたあと、Grabで車を呼んでコ ンドミニアムに戻った。シャワーを浴びた咲桜は、 「すごい楽しかっだけど、すごい疲れた」といって 一〇時過ぎにベッドルームに向かった。  ノートパソコンを起動してメッセージを確認した。 HALからマリファナの注文。沈没男からなんの根 拠もない儲け話。サイバー捜査官の佐藤が「樹生さ んのおかげで大きな成果をあげることができまし た」というメッセージを送ってきていたので、「お 役に立ててよかったです」と返信した。  榊原から、なんの説明もなくタイの英字新聞のU RLが送られてきた。クリックすると、「日本人ビ ジネスマン、交通事故で死亡」という記事と、事故 現場の写真が表示された。タイの新聞・雑誌は事故 や犯罪の生々しい死体写真を載せることで有名だが、 最近はグロテスクな写真や動画が避けられるように なったらしく、写っているのは大型トラックに後ろ から追突されて形の変わったトヨタのセダンだった。  「シンイチーヒラヤマ」という犠牲者の名前をどこ かで見たような気がしたので調べてみると、タニヤ のカラオケ店でスマホをパックした日本人駐在員が 平山信一たった。日本の本社に、精密機器が不正に 輸出されようとしていると不安を訴えていた。記事 によると、渋滞で停止した平山の車に居眠り運転の トラックが突っ込んだということだった。  榊原が、バンコクに出張する予定があるのでひさ しぶりに会いたいといってきた。「いつでもいいで す」と返事をした。  歯を磨き、寝間着に着替え、ベッドルームのドア をそっと開けた。ダブルベッドの端で、咲桜が小さ な寝息をたてていた。  それを見ながら、いつもの不安がまた押し寄せて きた。  樹生は日本で黒木のために仕事をしたが、報酬の 話はなかった。もちろん樹生としては、生命を救っ てもらっだのだから、自分からカネの話を持ち出す つもりはなかった。  だが黒木がなにもいわないのは、すでに別のかた ちで報酬が支払われたからではないのか。  夕方五時過ぎにマンダリンーオリェンタルのバン ブーバーに着くと、榊原は優雅にシャンパングラス を傾けていた。長いカウンターの向こうにはウイス キーのボトルが並び、鏡張りの天井でファンがゆっ くりと回っている。黒い大理石のテーブルのまわり に置かれた椅子は店名のとおり竹製で、まだ時間が 早いからか、ほかに客はいない。  「バイクのヘルメットをもって登場ですか。あいか わらずユニークですね」榊原はわざとらしい驚きの 声をあげると、樹生に隣の席を勧めた。「ここは夜 になるとジャズのライブが始まって、けっこう混む んですよ。この時間がいちばんゆっくりできます」  ヘルメットを床に置こうとすると、フロアスタッ フが走り寄ってきて丁重にラックに収めた。  榊原はメニューを開いて樹生に見せた。「バンコ クには次々と新しいホテルができて、どこのバーも つくりだけは立派なんですけど、なんか物足りない んですよね。ここはバーテンダーもサービスも一流 で、カクテルもウマいですよ」  樹生かメニューにざっと目を走らせていると、 「そういえばコンラッドのバーには行ったことがな いなあ。あそこはどうです?」と榊原が訊いた。  自分にはバーめぐりの趣味はないとこたえて、レ モネードを頼んだ。榊原はバーテンダーにレモネー ドとマッカランの18年をロックで注文した。  ふだんはシンガポールを拠点にする榊原と最後に 会っだのは日本に帰国する前だから、ニカ月ぶりに なる。樹生は、公安調査庁の内部資料を取り寄せて くれたことへの礼をいった。  「たいしたことじやないですよ」榊原は例によって、 さわやかすぎる笑みを浮かべた。「あれだけ活躍し てくれたんだから、この程度で喜んでもらえるなら 安いもんです。サイバー捜査官の佐藤くんからも、 くれぐれもよろしくと言付かってます」  異なる役所の内部文書がそんなに簡単に手に入る のか、樹生は疑問たった。  「霞が関はいがみあってますけど、狭い世界でみん なつなかってますからね」と説明された。「行政に おける権力というのは、どこを押せばなにが出てく るかを知ってることなんですよ」  榊原は、シャンパンをチェイサーにスコッチのオ ンザロックを飲みはじめた。グラスに入っだ四角い 水に店の刻印が入っている。  「それにしても、あのときは焦りましたよ」話は、 樹生か空港で拉致されたときのことに移った。 「こっちはシンガポールじやないですか。スマホの 位置情報でなにかよくないことが起きてるのがわ かって、日本人保護の緊急事態だとバンコクの日本 大使館を説得して、タイ警察に協力を依頼したんで す。そうしたら車はどんどんミャンマーとの国境に 向かっていって、そうなると国軍の管轄だとなって、 ぜんぜん話が進まなくて」  「あのままミャンマー側に連れていかれたら、どう なってたんですか?」と訊いた。  カレン州のミャワディでは反政府組織「カレン民 族同盟(KNU)」と、そこから分かれて国軍側に ついた「カレン国境警備隊(BGF)」が争ってい るが、現在はBGFが支配しているため、ミャン マー大使館を通じて政府に日本人の保護を要請する ことになるという。  「ミャンマーでは日本はまだ影響力があるから、優 先的に扱ってもらえるでしょうが、それでも数力月 はかかるでしょうねえ。黒木のところのソニョンく んが救出してくれてよかったです」  「黒木さんとはどういう関係なんですか?」樹生は、 ずっと疑問に思っていたことを訊いた。  「要監視対象ですよ」あっさりと榊原はこたえた。 「黒木の会社は北朝鮮とビジネスしている。それも、 かなり手広く」  アメリカから「テロ支援国家」の指定を受けた北 朝鮮の外交は制約されているものの、東南アジアで はシンガポール、インドネシア、カンボジア、ラオ ス、ベトナム、ミャンマーおよびタイに北朝鮮の大 使館が置かれている。  かつてはマレーシアが北朝鮮の工作員の拠点とさ れたが、二〇一七年二月にクアラルンプール国際空 港で金正恩朝鮮労働党総書記の兄、金正男が暗殺さ れたことで外交関係が悪化し、クアラルンプールの 北朝鮮大使館は閉鎖された。とはいえ、東南アジア はASEAN経済共同体として市場統合を目指して おり、北朝鮮は他の国に拠点を移してもこれまでど おりの裏ビジネスをつづけることができた。  「以前は在日朝鮮人の大きなコミュニティがある日 本が北朝鮮の活動拠点だったんですが、第一次安倍 政権で制裁が大幅に強化されたことで、海外工作の 舞台が東南アジアに移ったんです。それでもまだ、 日本国内には多くの工作員が残っていますが」榊原 はいった。  「新潟に運ばれたI〇億もその資金ですか?」  「新潟港と北朝鮮の元山のあいだを、万景峰号とい う貨物船が行き来してましたからね。二〇〇六年の ミサイル発射実験の制裁で、この船を含む北朝鮮の すべての船舶が人港禁止になったんですが、いまで も当時の貿易会社が営業をつづけてるんです。あの 工作資金の行先は、そんな会社のひとつです」  「そこまでわかってるのに、なぜ差し押さえないん ですか?」  「公判が維持できないからですよ」榊原は肩をすく めた。「北朝鮮側は、特殊詐欺で得たカネだとは知 らなかったと主張するでしょうが、こちらにはそれ を覆す証拠がない。そのカネが違法な工作に使われ ることを証明しようとすると、裁判で公安の情報を 開示するしかない。そんなことができるわけないか ら、放っておくしかないんです」  日本国内で核開発やミサイル開発に必要な機械・ 部品を調達しようとするなら阻止しなければならな いが、一〇億円程度ならたんなる活動資金で、それ を差し押さえてもなんの意味もないのだと榊原は説 明した。  「日本は金融規制も整備されて、マネーロンダリン グが難しくなった。それに対して東南アジアは、シ ンガポールのような国際金融センターから、カンボ ジアやラオス、ミャンマーのように法律の整備から 始めなければならない国まである。北朝鮮の情報機 関にとってはやりたい放題です」  北朝鮮大使館の主な任務は外貨と必要な物資の獲 得で、それぞれの国に派遣された工作員は貿易会社 などを装って武器や薬物などの違法な取引を行ない、 その収益が金正恩体制の維持に使われている。黒木 の会社もそのひとつで、ロシアやアラブ首長国連邦 などを経由して、輸出が禁止されている精密機器を 北朝鮮に売っているのだという。  「なぜ黒木さんは、北朝鮮の組織にカネを渡したん ですか?」  「北朝鮮との闇貿易であげた利益のバックリベート でしようね」  「じやあ、ぼくを助けてくれたソニョンも……」  「もちろん北朝鮮の工作員です。最前線の人民警備 隊で部隊長になり、諜報組織・国家安全保衛部の対 外情報局に配属されたエリートですよ。北朝鮮は海 外にいる工作員の亡命を警戒していますから、家 族・親族や思想信条を徹底的に調べられます。彼は 若くして朝鮮労働党への入党を認められた、熱烈な 愛国者とされています」  「されている、とは?」  「賢い人間ほど、あの国を愛するのは難しいですか らね」榊原は皮肉な笑みを浮かべた。「いまのとこ ろ、日本のメーカーが技術供与しているタイの精密 機器メーカーの製品を北朝鮮に輸出するのが任務で す」  「それも意図的に放置してるんですね」樹生はいっ た。  「諜報の仕事は複雑なんですよ」冗談を囗にするよ うに笑った。「知っているのに知らないふりをして いれば、相手の動向を逐一把握できる。ところが摘 発してしまうと、別の工作拠点をつくろうとするか ら、なにもわからなくなる」  「組織としては成果を報告しないといけないから、 違法行為を見逃したほうがいい」  「そういわれると身も蓋もないんですけどねえ」と、 困った顔をした。「半分は真実、半分は正当な理由 があるっていうところでしょうか。タイのメーカー がつくっている製品は、たしかに輸出規制リストに 入ってるんですが、このリスト自体がアメリカやE Uの都合でどんどんつけ足されていったものだから、 北朝鮮側に渡ったとしてもたいしたことはないもの も含まれてるんです。世界中から市販品を買い集め て中距離弾道ミサイル(IRBM)や大陸間弾道ミ サイル(ICBM)を開発した国なんだから、ここ で摘発しても同じような機械をどこかから仕入れる だけです。だったら、なにをしているか把握できて いたほうがマシです」  「そのメーカーに出向している日本人が交通事故で 死んだでしよ」榊原が送ってきたニュースについて 訊いた。  その話をすると、「やっかいなことになってるん ですよ」と榊原は顔を歪めた。「タニヤのカラオケ でホステスと遊んでればなにごともなく帰国できた のに、親会社に不審な取引を通報したばかりにあん な目に遭って。日本には奥さんと小さな子どももい るというのに」  「事故じやないんですか?」  軽いため息をつくと、榊原はスマホを取り出して 樹生に見せた。高速道路のカメラで撮影したと思わ れる画像の粗い写真たった。  「衝突寸前のトラックの映像なんですが、ちょっと 疑問があるんです」そういって、画面をスワイプし て事故で死亡したタイ人の運転手の写真を表示させ た。細部はわからないものの、運転席の人間とは明 らかに別人たった。  「この画像を拡大して調べると、フロントガラスに 内側からひびが大っていることがわかるんです」榊 原が説明をつづけた。「トラックを運転しているこ の男は、ものすごい力でタイ人の運転手の頭部をフ ロントガラスに叩きつけて殺害した。このひびは、 そのときできたものだと考えるとつじつまが合いま す。その後、死体を隣に乗せてトラックを運転し、 日本人駐在員の車に衝突させたあと、死体を運転席 に移動させて、事故で死んだように見せかけた」  「タイの警察はそのことを知ってるんですか?」  「この画像はタイ側から提供されたものですが、気 づいているかどうかはわかりません。もっとも、他 殺の疑いがあるとしてもなにもしないでしょうけ ど」  「なぜです?」  「ただの事故なら、書類一枚で終わるでしょ」榊原 は、なんでそんなわかりきったことを訊くのかとい う顔をした。「ところが外国人の殺害となると、捜 査に人手をかけなきやいけなくなるし、相手国の大 使館への説明も必要になる。外国人が一人死んだく らいで、なんでそんな面倒なことやらなきやいけな いのかと思うのは、日本の警察だって同じです」  樹生はもういちど、トラックの運転席の写真を見 せてもらった。はっきりとは判別できないものの、 顔つきや輪郭はソニョンに似ていた。  「日本側から、このことを伝えて事件にすることは ないんですか?」  「それを話し合うためにバンコクに来たんです。な んの罪もない日本人が死んでるんですから」榊原は こたえた。「でも公安からタイの大使館に出向して いる書記官が強硬に反対して、この写真はなかった ことになりました。北朝鮮の諜報機関を剌激したく なかったのでしょう」  「そんなものをなぜ、ぼくに見せてくれたんです か?」  「樹生くんには、このことを知っておく権利がある からですよ」  「権利?」よく意味がわからなかった。  「ええ。自分がどういうゲームに放り込まれたかわ からないまま、右往左往させられるのはイヤで しょ」  榊原と別れると、ヤワラーのアパートにスマホを 置かずに、カワサキのオフロードバイクでマンダリ ンからそのままコンドミニアムに戻った。  榊原が話題にしたコンラッドホテルは、コンドミ ニアムと同じ区画にあった。あの気障な検察官は、 コンラッドホテルのバーについて訊くことで、この 隠れ家を知っていることをそれとなく伝えたのだ。  だったら、面倒な儀式をこれ以上つづける理由は ない。  玄関を開けると、「おかえりなさい」と咲桜が迎 えてくれた。ダイニングテーブルの上には、煮物や 和え物などが並べられている。花瓶に飾られた蘭と ジャスミンの強烈な匂い。今夜の夕食はカレイの煮 つけたという。  冷えたシャブリを開け、食事の前に乾杯する。咲 桜はこの部屋からほとんど出ようとせず、樹生か外 でなにをしているのかも訊かない。最近は、ネット で東南アジアの観光地を調べている。カンボジアの アンコールワットのほかに、バリ島のウブドやジャ ワ島のボロブドゥール、ラオスのルアンパバンなど、 古い仏教遺跡に興味があるようだ。  バックハッカー時代にたいていのところは訪れた ので、そこでどんな体験をしたか話しているうちに 時間がたっていった。咲桜は、樹生のどんなささい な話も楽しそうに聞いた。自分は芸能界以外知らず、 旅の体験がないのがくやしいといった。  食事を終えると二人で洗い物をして、食器を片づ けた。明日はメイドが来る日だといっだのだが、汚 れた皿をそのままにしておくのがイヤなのだという。  そのあと部屋の電気を落としてソファに座り、 シヤブリを飲みながら高層ビルの夜景を眺めた。薄 くかかった雲の向こうに滲んだ満月が見える。咲桜 は樹生の肩に頭を預けたまま目を閉じていた。  こんなときは、ずっとこの暮らしがつづくような 気がした。咲桜と海外を旅して過ごす時間は、どれ ほど楽しいだろう。  そしてすぐに、例の不安が襲ってくる。  彼女はたんに、黒木から貸し出されているだけで はないだろうか。  「おやすみ」と咲桜が囗づけして、ベッドルームに 向かった。樹生は書斎の金庫からノートパソコンを 取り出し、今日聞いた話を整理してみることにした。  榊原の説明によると、北朝鮮はいまや世界最大の 「武器商人」になっていた。  アフリカのなかには、内戦で混乱していたり、隣 国からの侵略を受けている国がいくつもある。こう した国や反政府勢力は、天然資源や金、ダイヤモン ドなどを売ったカネで北朝鮮製の安価な武器を手に 入れている。  中東ではアメリカがイスラエルを支援し、イラン と対立している。イスラエル政府は、イランがイス ラーム原理主義の武装組織に武器を提供していると の非難を繰り返していた。そんななか、ハマスやヒ ズボラが戦闘でイラン製の武器を使えばさらなる経 済制裁の口実を与えることになる。そのためイラン は北朝鮮から大量に武器を購入し、それを反イスラ エルの組織に流していた。  スカッドは旧ソ連が開発した弾道ミサイルで、一 九七〇年代に東欧諸国だけでなく、中東やアフリカ にも多数配備された。八〇年代にソ連はスカッドを 新型ミサイルへと切り替え、ソ連崩壊にともなう混 乱で技術も廃れた。そのため現在、スカッドを配備 している国が修理・補修を依頼できるのは北朝鮮だ けになった。  兵器を輸出する手法も巧妙になっている。弾道ミ サイルを貨物船に載せれば、アメリカなどの情報機 関に捕捉・摘発されてしまう。そこでシリアのアサ ド政権から発注を受けたときは、ミサイルの原材料 や部品、工作機械だけでなく、技術陣も送り込んで 現地生産したとされる。これだと、途中で貨物検査 をしても非合法貨物と判別するのは困難だ。  二〇二二年にロシアがウクライナに侵攻すると北 朝鮮はロシアに急接近し、二四年一〇月には兵員不 足に苦しむロシアに対し、一万人以上の兵上を派遣 した。その見返りとして、北朝鮮はロシアから核開 発やミサイル開発に必要な技術・情報を提供された。  それに加えて近年、北朝鮮はハッカー集団を養成 し、サイバー攻撃によって多額の暗号資産を不正取 得するようになった。この事態を放置しておくと北 朝鮮の軍事開発はますます高度化し、日本の安全保 障への重大な脅威になる。  「二〇〇六年七月の弾道ミサイル発射を受けて、国 連安保理で北朝鮮に対する最初の制裁が決議された んです。それから二〇一七年匸一月までに、計一一 回の決議が採択されました。皮肉なのは、制裁すれ ばするほど核実験やミサイルの技術が向上している ことです」マンダリンーオリェンタルのバーで、榊 原は苦々し気にいった。  どれだけきびしい制裁を加えても、それが実行さ れなければ意味がない。そこで○九年に、常任理事 国五力国に日本、韓国、シンガポールを加えた「専 門家パネル」を発足させ、制裁措置が適切に履行さ れているかを監視することになった。  この専門家パネルは、二四年四月にロシアの拒否 権によって任期延長が否決された。その後、日本政 府はアメリカやEUと協力して、新たな監視の枠組 みをつくろうとしている。そのためにも、北朝鮮が 海外で行なっている非合法な工作を摘発し、国際社 会を説得する材料が必要なのだ。  「最近はウクライナとガザのニュースばかりで、北 朝鮮問題への関心は薄れているのが現実です。さら にトランプ政権は、二六年の中間選挙に向けた実績 づくりのため、金正恩とのごアイール”を試みるか もしれない」と説明された。だからこそインパクト のある成果をあげなければならず、榊原はそのプロ ジェクトの一員としてシンガポールに送られたのだ という。  ラザルスなどの北朝鮮のハッカー集団は数兆円規 模の暗号資産を保有している可能性がある。榊原の チームは、タイとの国境にあるミャンマー側の園区 に北朝鮮の施設があると考えていた。  園区はもともと一帯一路の事業のため中国企業が 開発し、それが詐欺集団に乗つ取られた工業団地だ から、中国の裏社会とつながりがある北朝鮮の諜報 機関が利用するには都合がいい。巨大なカジノを運 営するためにタイ側から安定した電力が供給されて いるし、ネット詐欺に必要な高速のインターネット 回線も整備されている。コールドウォレットの保管 場所として最適なのだ。  クリプトの保有形態には、ホットウォレットと コールドウォレットがある。  ホットウォレットはインターネットに接続されて おり、スマホやブラウザ、交換所・取引所のアプリ を使っていつでも送金できる。その一方で、不正口 グインなどのハッキングで資金が窃取されるトラブ ルが頻発している。  コールドウォレットはインターネットから切り離 された状態で秘密鍵を保管する方法で、一般にはU SBデバイスのような電子機器が使われる。クリプ トを送金するには、このUSBデバイスをコン ピュータに接続し、インターネット経由でホット ウォレットに移す必要がある。  コールドウォレットのメリットは資産をハッキン グから保護できることで、デメリットは取引を完了 するまでに時間がかかることだ。そのため、多額の 資金はコールドウォレットで保管し、日常的に使う 分だけをホットウォレットに移しておくという使い 方がされる。  だが、ラザルスがどこにバックドアが仕掛けられ ているかわからない市販のハードウェアを使うとは 思えなかった。自分たちで部品レベルからサーバー を独自に構築し、そこに世界中からだまし取ったク リフトを保管しているのではないか。  インターネットの接続も安定せず、アメリカの情 報機関などからの監視もきびしい北朝鮮国内にコー ルドウォレットを置いていても意味がない。その一 方で、海外では情報の統制が難しくなる。北朝鮮で は、警察を管轄する社会安全省が市民を監視し、そ の警察を軍が監視し、軍を諜報機関が監視し、諜報 機関を党本部が監視しないと、いつ誰が裏切るかわ からないのだ。  そう考えれば、ミャンマーの無政府地帯の施設に サーバーを設置し、北朝鮮の特殊部隊に守らせるの は理にかなっていた。  「問題は、どうやって暗号資産を奪い返すかなんで す。ハリウッド映画みたいに特殊部隊を送り込んで、 悪党たちを制圧すればハッピーエンド、というわけ にはいかないですし」と榊原はいった。  ウォレットにはクリプトの秘密鍵が格納されてい て、パスワードで保護されている。コールドウォ レットからホットウォレットに資金を動かすときは、 「マルチシグ」といって、複数の関係者の署名すな わち秘密鍵を必要とするよう設定されているはずだ。 さまざまな障壁を突破しなければ、ラザルスの資金 にアクセスできないのだ。  佐藤たちサイバー警察の調査で、黒木から炭治郎 の組織に送られたビットコインが、元はラザルスの 資金であることまではわかった。  もちろん、ラザルスは自分のウォレットから直接、 黒木のところに送金するようなことはせず、匿名性 を強化したプライバシーコインに換えたり、複数の 交換所や取引所を経由したりしていた。だがいくつ かの取引所はNSAのような情報機関にハッキング されており、資金の流れを追うことができたという。  「黒木が送金したウォレットから辿って、ラザルス がメインで使っているホットウォレットのIDを突 き止めたんです。それだけでも樹生くんの大きな功 績ですよ」と榊原はいった。「いまはそのウォレッ トのブロックチェーンを解析しているところです」  キムーソニョンは北朝鮮の工作員で、黒木と闇貿 易を行なう北朝鮮の諜報組織をつなぐ役割をしてい たという。  ソニョンとはあの事件以来、連絡がつかなかった。 咲桜に教えられた番号に電話しても出ようとせず、 SMSを送っても返信がない。交通事故に偽装して 日本人駐在員を殺害したのがソニョンだとしたら、 いまなにを考え、なにをしようとしているのだろう か。  時計を見ると午前一時を同っていた。三時間ちか くもあれこれ考えていたことになる。  ノートパソコンをシャットダウンする前に、スパ イウェアのプログラムを起動した。ミャンマーとの 国境で、樹生を拉致した男のスマホに埋め込み、そ れを起点に関係者のスマホを乗っ取っていったが、 メッセージはすべてタイ語でいちいち翻訳にかけな ければならず、なかなか先に進まなかったのだ。  命令系統を辿ってようやく組織の幹部らしき男の スマートフォンをハッキングしたものの、チャット 履歴は削除されていて過去のデータを見ることはで きなかった。  だが今日は、1 elegramでつたない英語のやり取 りが交わされていた。  Funky Guyなる人物が、仕事の前金として五万 パーツ、二〇万円ほどを支払っだのに、一方的に中 止しだのだから、全額返金しろと執拗に求めていた。 それに対して幹部は、こうしたことが起きる可能性 があることはあらかじめ説明したのだから、前金を 返す理由はないと突き放していた。  恂目尽C々のスマホ画面を表示させた。それは日 本人のもので、LINEのトークは風俗嬢とのやり 取りと、高利貸しからの催促で埋め尽くされていた。  写真フォルダを開いた。ゴーゴーバーやマッサー ジパーラーで買った女たちの写真が大量に保存され ていた。順に見ていくと、ホテルの部屋で二人で自 撮りした写真が出てきた。  ニヤついた顔をした沈没男が、こちらに向かって Vサインをしていた。        0        1  「助かるよお。たっちやん、神だね」と沈没男が いった。  チャオプラヤー川の向こう岸にある下町トンブ リーのラーメン屋で、牛ヒレの串焼きをつまみにビ アシンを飲みながら、つけ麺ができあがるのを待っ ていた。沈没男は、樹生か渡したI〇〇ドル札一〇 枚を畳んで、ウェストバッグから出した古い革財布 に収めた。  「黒木が気前よくカネを払ってくれるなんて、思っ てもいなかったよ。たっちやん、すごい交渉力だ ね」  「そんなことないですよ。ダメモトで頼んでみただ けです」とこたえた。  あらためて沈没男を眺めた。年齢は四十代後半か、 もしかしたら五十歳を過ぎているかもしれない。し ばらく床屋に行っていないのだろう、額の上の髪が 薄くなっていて、そのまわりが不格好に伸びている。 中国人や韓国人に間違われないための似合わない口 髭。顎にも無精髭が伸びている。  「バンコク、何年になるんでしたっけ?」と樹生は 訊いた。  「日本を出だのが二十一のときでしよ。しばらくプ ノンペンにいたりしたから、なんだかんだで二〇年 かなあ。マニラにも一年ほど住んだけど、あそこは 合わなくて。ああそうだ、チェンマイでも三年ちか く暮らした」  沈没男のような日本人の男が東南アジアに来る目 的は、若い女を安く買うことだ。そのために、相手 は貧しければ貧しいほどいい。カンボジアのポルー ポト政権が崩壊して一九九一年に和平協定が結ばれ ると、援助関係者と一緒に真っ先にやってきたのが 買春目的の外国人たった。当時のカンボジアは現金 収入がほとんどなかったので、親たちはプノンペン の風俗業者に娘を売り、売春で稼いだカネを送らせ て、なんとか生計の道を立てたのだ。  だがカンボジアではフィリピンやタイのような風 俗産業は育たず、置屋と呼ばれるバラックのような 施設が寄せ集まった一帯ができただけだった。それ が摘発されるようになって、男たちもカンボジアを 離れた。ASEAN内はビザなしで行き来できるた め、繁栄するバンコクに女たちが集まってきたこと もある。  だがいまや、バンコクの一等地にある高級コンド ミニアムの価格は日本円で一億円を超え、六本木や 青山とさして変わらない。かつては「貧しい国」と バカにしていたのに、いまではバンコクの中開層は、 女目当てに長期滞在する日本人よりずっとゆたかに なった。だからといっていまさら日本に帰っても 雇ってくれるところはなく、裏社会の仕事で日銭を 稼ぎながら、なんとかこの国にしがみつくしかない のだ。  「たっちやんはさあ、高学歴なんだから、まともに 働いたほうがいいよ」ようやく運ばれてきたつけ麺 のスープに薬味を入れながら、沈没男がいった。 「こんなしようもない国でくすぶっててもしかたな いって、俺も最近思うんだ」  「なんか計画あるんですか?」  太麺をスープに入れてすすると、沈没男は「意外 といけるじやん」といった。樹生もひと囗食べてみ た。豚骨スープは濃厚さに欠けるように感じたが、 それでも美味しかった。このところの日本食ブーム で、バンコクのラーメン店のレベルは急速に上かっ ている。  「それが、どデカいヤマがあるんだ」髭にまとわり ついたスープを手の甲でぬぐっだ。「話聞いたら、 たっちゃん、腰が抜けるよ」  「なんですか? 気になります」  「どうしようかなあ」と、思わせぶりに笑った。 「でも、黒木から受け取ったカネをちゃんと折半し てくれたから、ヒントくらいは教えてやるよ」  下品な音をたてて麺をすすると、沈没男はいった。 「タイとの国境を越えたミャンマー側に、ミャワ デイつて町があるだろ。そこに北朝鮮の秘密基地が あって、コンピュータにものすごい額のビットコイ ンが隠されてるんだ」  「えっ?」樹生は思わず声をあげた。  「な、驚いただろ」沈没男は自慢気に笑った。「極 秘情報だぜ。たっちやんだから話したんだ」  「その話、どこから仕人れたんですか」  「そんなの教えられるわけないだろ」と手を振った。 「でも確かな筋だよ。ほぼ間違いない」  先日、榊原からも同じ話を聞いた。どうやらミヤ ワデイにある北朝鮮の施設と、そこに眠る大金の噂 は、すでにあちこちに広まっているらしい。  「で、どうするつもりですか?」と訊いてみた。  「それをいま、考えてるんだ」沈没男は、わかり きっだことをいうな、という顔をした。「計画が固 まったら、たっちやんの力を借りたいと思ってるん だ。コンピュータに詳しいだろ。北朝鮮のコン ピュータをハッキングして、ビットコインを盗み出 すことはできない?」  「そんなの無理ですよ。ネットワークのアドレスす らわからないのに。それに、インターネットから切 り離されてるだろうから、外部からの侵入は無理で す」  どういうことか訊かれたので、多額のクリプトを 保管するウォレットは、必要なとき以外はネット ワークに接続されないのだと説明した。  「ふ1ん、そうなんだ」沈没男は髪の毛をかきむ しった。「ということは、誰かがその施設に潜り込 んで、コンピュータをネットにつながないといけな いってこと?」  「それが最低限の条件。コンピュータを起動したり、 ウォレットにアクセスするときにも秘密鍵で何重に も保護されてるだろうから、それも突破しなくちや いけない。どんな凄腕のハッカーだって簡単にはで きませんよ」  「だとしたら、まずはその施設の場所を見つけ出す ことだな。そしたら、俺とたっちやんでそこに忍び 込んで、たっちやんがコンピュータをパックすれば いいじやないか」沈没男は、勝手に妄想をふくらま せた。「それでこのくそったれの人生も一発逆転だ よ。たっちやん、何百億も手に入ったら何に使 う?」  「そんなの想像もできません」と笑った。  沈没男の手がわずかに震えていた。マリファナだ けでなく、こちらでヤーバーと呼ばれる、覚醒剤に カフェインを加えた薬物の依存症だろう。スマホの チャット履歴から、オンラインカジノにはまって現 地の高利貸しから借りたカネを返せず、追いつめら れていることも調べた。  樹生を空港で拉致するよう依頼したのがこの男だ とわかって、どうするか考えた。  樹生か知りたかったのは、沈没男がなぜ帰国の航 空便を知っていたかだ。空港で拉致するためには、 すくなくともタイに戻る日を特定し、空港で待ち伏 せしなくてはならない。だが樹生は、沈没男にはそ のことを話していなかった。  樹生かバンコク便を予約したのは搭乗の二日前で、 便名を知らせたのは咲桜と榊原だけだった。それに もかかわらず沈没男は、なんらかの手段でそれを突 き止め、空港での拉致を計画した。その依頼が裏社 会の情報網に流されて、黒木が空港到着の直前に気 づいた。  だとしたら、仕組んだのは何者なのか。  日本での取引の証拠を消すために、北朝鮮の諜報 組織が動いたのだろうか。しかしそうなると、北朝 鮮の諜報員であるソニョンが樹生を救出したことと つじつまが合わなくなる。  それを調べるために、何食わぬ顔で沈没男とのつ き合いをつづけ、日本での仕事の取り分として10 00ドルを渡すことにした。すくなくとも、沈没男 が樹生を疑っている様子はなかった。なにかの手違 いで計画が中止になって、樹生がなにも知らずに空 港からバンコクに戻ってきたと思っているのだろう。  「なんか、徳川の埋蔵金みたいな話ですね。あるい はM資金とか」樹生はいった。  「M資金って?」  第二次世界大戦後に日本を占領したGHQ(連合 国軍総司令部)は、貴金属や宝石、隠匿物資などを 大量に接収した。その巨額資金が戦後も秘密裏に運 用されているというのがM資金で、GHQ経済科学 局長ウィリアムーマーカットの頭文字から取られた ともいわれる。この資金を管理しているとするフィ クサーらが資金繰りに苦しむ企業経営者などに融資 をもちかけ、全日空や東急電鉄などの大企業も被害 に遭った。  「またお得意の陰謀論? そんな都市伝説と一緒に するなよ」沈没男はぶぜんとした顔をした。  「だったら、もっと詳しい情報を調べてくださいよ。 そうじゃないと、なにもできません」  「そんなことわかってる」といったあと、「いま思 いついたんだけどさあ」とニヤついた顔をした。 「ミヤワデイには炭治郎のグループの残党がまだ 残ってるはずだろ。だったらそいつらを使って、北 朝鮮の施設を襲わせるんだ。そのあと、俺とたっ ちゃんでビットコインをいただくっていうのはどう よ」  「それがうまくいったとして、協力してくれた人間 たちはどうするんです?」  「そうだなあ」沈没男はニヤニヤした顔のままこた えた。「みんなまとめて消しちやうか」  沈没男と別れ、高架鉄道から地下鉄に乗り換えて チャイナタウンに向かった。アパートのドアを開け ると、むっとした熱気が襲ってくる。  エアコンのスイッチを入れると、背後でなにかが 動く気配がした。  「やっと帰ってきたのか。蒸し風呂みたいな部屋で 待だされて、うんざりした」  振り向くと、キムーソニョンが立っていた。バス ルームのドアが開いている。樹生か歩いてくるのを 窓から確認して、身を隠したらしい。  「そんなことしなくても、連絡してくれればよかっ たのに」樹生はいった。「ずっと探してたんだ。あ のときの礼をちゃんと伝えてなかったし」  「妙な正義感で日本大使館に駆け込まれたらやっか いだからな」ソニョンは素っ気なくいった。「タニ ヤのカラオケでiPhoneをハッキングしただろ。そ の持ち主の日本人が死んだ」  樹生はうなずいた。  「ほかになにを知ってる?」  「高速道路のカメラに、追突したトラックを別の人 間が運転している映像が残っていた。日本大使館は それに気づいているけど、事件にするつもりはない。 タイの警察当局も、たとえ知っていたとしても、外 国人の殺人事件は捜査が面倒だから握りつぶすはず だ。不幸な交通事故ということで処理されて、みん なが喜ぶ」  ソニョンは、「ふん」と鼻で笑った。「あの男は、 こっちでタイ人のホステスと暮らしていた。そのこ とを女房にバラすと脅したら、パニックになって、 すべてを日本の本社に報告すると言い出した。なん で日本人は、会社がなにもかも面倒見てくれると 思ってるんだ? バカじゃないのか」  「黒木さんに指示されたの?」  「俺はあいつの手下じゃない。俺が黒木を儲けさせ てやってるんだ」  「北朝鮮との闇貿易?」  「正当なビジネスだ」ソニョンはいった。「タイの 日系メーカーは、黒木の貿易会社を使って中東のダ ミー会社に自分のところの製品を言い値で売る。ダ ミー会社はそれにマージンを加えて、さらに北朝鮮 に売る。黒木のところはダブルで儲かって、すべて うまく回ってたんだ」  「殺された男は、それに気づいた」  「自分にはなんの関係もないのに、なんでそんなこ とに首を突っ込もうと思うんだ」と突き放すように いった。「そんなヒマがあるなら、タニヤのカラオ ケかナーナーのクラブで女を買ってりやいいじやな いか」  「なぜ、そのことをぼくに教えるの?」  「お前にちょっとした頼みがあるんだ」  冷房がようやく利いてきたので、樹生は「たった ら座って話そうよ」と部屋の隅に置いた椅子を指さ した。自分の椅子はライティングデスクからもって きた。  「ミヤワディに北朝鮮の施設があるんだ」ソニョン は、背もたれの壊れかけた木の椅子に腰かけた。  「そこにラザルスのクリプトを保管したコンピュー タが置かれてるんだろ」樹生か話をつづけた。「そ の話はもう聞き飽きたよ」  「どういうことだ?」ソニョンが驚いた顔をした。  トンブリーでつけ麺を食べながら、同じ話を聞い たばかりだと教えた。「カオサンで沈没してる情報 屋ですら知ってるんだから、もういろんなところに 広まってるよ」  「そいつ、なんていってた?」  「ミヤワデイにいる日本人の半グレをだまして、そ の施設を襲わせる」  「バカか」と吐き捨てるようにいった。「北朝鮮の 特殊部隊が完全武装で警備してるんだぞ。一瞬で皆 殺しにされるだけだ」  「場所はわかってるの?」  「いや」と首を振った。「最高機密だ」  「コンピュータのIPアドレスは?」  やはり首を振った。 「だったら、どうしようもないよ」 「だからここに来たんだ」じっと樹生の目を見た。 「車のなかで、相手のスマホを次々と乗っ取ってい けるスパイウェアの話をしただろ。あれを俺に使わ せろ」  しばらく考えてから、訊いた。「どういう計画?」  「俺なら、ラザルスの連絡員のスマホにスパイウェ アを埋め込むことができる。そこから辿っていけば、 いずれミヤワディの施設を管理している奴を見つけ られる」  「それでどうするの?」  ソニョンは虚を突かれたような顔をした。それか ら「決まってるだろ。カネを奪うんだ」といった。  「北朝鮮にいる君の家族が責任を取らされるだろ」  「親父は失脚した。いまは自宅に軟禁されている。 妹夫婦は党から尋問を受けていて、おそらく家族で 教化所(刑務所)に送られ、そこで死ぬ」ソニョン は顔を歪めた。「妹とその子どもだけはブローカー にカネを払って脱北させるつもりだ。両親と義理の 弟はあきらめるしかない」  「そんなのかわいそうだよ」  「お前のような甘ったれた日本人になにがわかる」 声を荒らげた。「俺はあの狂った国から抜け出すた めに、これまで生き延びてきたんだ」  ソニョンの唇がわずかに震えているのに気づいた。  「いずれ党から、俺のところにも召喚状が来るだろ う。残された時間はほとんどない」  樹生は「わかったよ」というと、ノートパソコン を入れたリュツクに手を伸ばした。「君には生命を 救ってもらったんだ。これくらいの報酬を要求する 権利はある」  「いいのか?」ソニョンが驚いたようにいった。  「これはアメリカの軍事機密だけど、日本の情報機 関と共有して警察の使用まで許可してるんだから、 もうすぐバグが公開されるのは間違いない。そうな れば次のアップデートでパッチが当てられて、使い ものにならなくなる。君に渡したところで、たいし たちがいはないよ」  ケーブルでソニョンのノートパソコンと接続する と、プログラムを転送した。  「これはゼロデイーゼロクリックだから、SMSで メッセージを送るだけで、クリックさせなくても、 相手のスマホを乗っ取ることができるんだ」  「なんでそんなことができる?」  「SMSのメッセージを受け取ると、本文の一部が 自動的に表示されるだろ。これはアプリがバックグ ラウンドでメッセージを読み込んで処理してるんだ。 ゼロクリックのエクスプロイトは、そのプログラム のバグを使ってマルウェアを埋め込む。そのバグが ゼロデイ、すなわち公開されていないものだったら、 防ぎようがない」  ソニョンは「すげえな」とつぶやいた。  「それにしても日本語うまいね。日本に住んでたこ とあるの?」と訊いた。  「いや、タイに来るまで北朝鮮から出たことはな い」  「じやあ、どこで勉強したの?」  「工作員向けの語学訓練所があるんだ。そこに元在 日朝鮮人の教師がいて、徹底的に教え込まれた。日 本のなまっちょろい映画やドラマ、アニメなどもイ ヤになるほど見せられた。一定期間内に決められた 水準に達しないと最前線に戻されるから、こっちも 必死だ」  「最前線?」  「韓国と接する38度線が北朝鮮の前線で、そこを守 るのが軍のもっとも重要な任務だ。北朝鮮と韓国は まだ戦争中だからな」  一九五〇年に北朝鮮の奇襲攻撃から始まった朝鮮 戦争は、アメリカや中国の参戦で膠着状態に陥り、 五三年七月に板門店で休戦協定が結ばれたものの、 現在に至っても和平条約は締結できていない。  「日本に行ったことはないが、母親の姉が日本で暮 らしていて、娘を連れて一時帰国したときに会った ことがある。俺が十歳で、従姉は大学生たった。大 阪で暮らしていて、ブラウスやコートも、アクセサ リーも、靴やバッグもこれまで見たことのないもの ばかりで驚いた。伯母は日本に帰化して、娘にあん ずという妙な名前をつけた。いまでは結婚して、子 どももいるらしい」  「あんず?」その名前をどこで聞いたのか思い出そ うとした。「伯母さんの名前は?」  「ソヒつていうが、みゆきという通名を名乗ってい た」ソニョンは、なぜそんなことを訊く、という顔 で樹生を見た。  黒木がみゆきの夫を死に追いやり、その後、母娘 にカネを送っていたことをソニョンは知らないよう だった。  部屋を出るとき、「そういえば咲桜は元気なのか」 とソニョンは訊いた。  「最近は旅行の計画を立てるのに夢中だよ。これま での人生を取り戻すんだって」  「人生を取り戻す?」と訊き返した。「そんなこと が可能なのか」  なんとこたえていいかわからなかった。  「俺の国は、頭のおかしい独裁者に洗脳された頭の おかしい国民しかいないテロ国家だと思われている。 世界のどこに行っても、北朝鮮人とわかると自い目 で見られて、追い払われるか、都合よく利用しよう とする奴ばかりだ。咲桜はそんな俺でも、一人の人 間として扱ってくれた」  ソニョンはあらためて樹生を見ると、「大切にし てやれ」といった。  「ありがとう」とこたえた。  これで貸し借りはなくなり、すべて終わりのはず だった。  その日の夜は、咲桜を外食に誘った。世界中から 富裕層が集まるバンコクでは、最近はミシュランの 星を獲得するレストランも増えてきた。とはいえ、 タイ料理ではじめての三つ星レストランはまったく 予約が取れず、インド料理をペースにしたガストロ ノミーの店はこのあいた訪れたので、シーロムにあ る一つ星のタイ料理店を選んだ。テーブル席もある が、人気は厨房での調理を見ることができるカウン ター席だ。  メニューは二ヵ月ごとに変わり、この日のスター ターは揚げ春巻き、イサーン風のソーセージなど伝 統的なタイ料理をアレンジしたもので、メインはブ ラックタイガー(ウシェビ)のパイナップルソース 煮、マナガツオのスープ、カエルの足の炒め物、ア ヒル肉のカレーなどだった。  食事時間は二時間で、スタートは午後五時半と八 時に決められていた。八時スタートだと食べ終わる のがI〇時を過ぎるので、五時半の回を予約してそ の日の昼食を抜くことにした。平日だが満席で、客 は白人と中国人が半々くらいだ。  オーナーシェフは、タイ北部の農家に生まれ、有 名レストランで修業したあと、二〇一七年にこの店 をオープンし、二四年にミシュランの星を獲得した。 生まれ故郷だけでなく、タイ南部やシャン族のよう な少数民族の料理も含め、この国のさまざまな食材 を使った斬新な料理が高く評価されたのだという。  調理が始まる前に見せられた野菜や魚介類は、こ れまで見たことのないものばかりだった。一品ずつ スタッフが料理の内容と食べ方を説明してくれ、咲 桜は達者な英語で質問した。  最初はシャンパンで乾杯し、スターターは自ワイ ン、メインは赤ワインをグラスで頼んだ。  厨房では若いスタッフ五、六人がきびきびと料理 をしていた。  スープ、肉料理、魚料理、カレーを食べ終え、デ ザートのシャーベットとフルーツゼリーが出る頃に は八時ちかくになっていた。  「とてもぜんぶ食べられないって思っだけど、完食 しちやった。カエルの足って、最初は腰が引けたけ どぜんぜん平気たった」と咲桜はいった。「樹生く んのおかげで、美味しいものを美味しいって感じら れるようになってきたみたい」  「よかった。屋台のパッタイのほうが好きっていわ れたら、どうしようと思ってた」  「屋台のご飯とはぜんぜん別だよ」と笑った。「は じめて連れてってもらったときは、こんなに美味し いのに、こんなに安くていいのって衝撃だったけ ど」  「屋台の揚げ物は油が古いから避けるけど、炒め物 やふっかけ飯のようなファストフードは、外国人向 けのマイルドなタイ料理よりずっとウマいんだ。で も、屋台じやせっかくのデートの雰囲気が出ないか ら」  「わたし、それでもぜんぜんいいよ」咲桜はそうい うと、華やかに笑った。  食後のハーブティーを飲みながら、「そういえば 今日、ソニョンに会ったよ」と話した。  「そうなの」と驚いた顔をした。「最近、会社にも 顔出してないみたい」  「黒木さんからなにか聞いてる?」  「ううん」と首を振った。「なんの連絡もない」  「ソニョン、咲桜に感謝してたよ。自分を人間とし て扱ってくれたって」  「なんのこと? なにもしてないよ」  北朝鮮に生まれた者が、海外でどんな目で見られ るかという話をした。  「そんなこといったら、わたしたって同じ」と笑っ た。「テロを起こしたカルト教団の施設で生まれて、 信者の母親に育てられ、スキャンダルを起こした女。 土橋のお父さんから、ぜんぶ聞いたんでしよ」  「ソニョンから、甘ったれた日本人っていわれた」 その話には触れずに、カップを置いて咲桜を見た。 「たしかにそのとおりで、子どもの頃から自分はこ の世界でうまくやっていけないと感じてたけど、苦 労らしい苦労をしたこともないんだ。だからときど き、咲桜のことをちゃんと理解できないんじゃない かって不安になる」  「ほかのひとを理解することなんて、できるのかな あ」  「みんな、別々の宇宙に住んでるから?」  「教団にいる頃は、自分は世界に包まれてるんだっ て感じてたの。でも小学校に行くと、同じクラスの 子たちがなにを考えているのか、ぜんぜんわからな かった。それで、自分だけがちがう宇宙にいるん だって思うようになったんだけど、よく考えるとそ れっておかしいよね。それで、すべてのひとが自分 の宇宙をもってるんだって気づいたの」  「ぼくも?」  「もちろん」と笑った。「樹生くんは、とても幸福 な宇宙」  「恵まれた家に生まれて、甘やかされて育つたか ら? そしていまは、目的もなく生きている」  「素敵なことじゃない」そういってから、しばらく 言葉を探していた。「誰だって、傷ついたりしない ほうがいい。もし傷ついたら、愛するひとに守って もらったほうがいい。でもこの世界には、傷ついた ままたった一人で耐えているひとがたくさんいるん だと思う」  自分は咲桜を守れるのだろうか。訊いてみたかっ たが、怖くてその問いを囗にすることができなかっ た。  食べすぎて疲れたと咲桜がいうので、Grabで車 を呼んでコンドミニアムに戻った。樹生かミルク ティーを淹れ、部屋の明かりを落としてソファにも たれた。  「今日はほんとうにありがとう。とても楽しかっ た」咲桜はいつものように、樹生の肩に頭を乗せた。  「あんなことでいいなら、これから何回でもできる よ。バンコクにはどんどん新しいレストランがオー プンしてるし」  「そんなに食べたら、お相撲さんみたいになっちや うよ」と笑った。「樹生くんに嫌われそう」 「そんなことないよ」といった。「太った咲桜も見 てみたい」  「いじわる」と軽くわき腹をつつかれた。  しばらく二人で夜の景色を眺めていた。  「最近、Kindleでなにか読んでるよね」咲桜がいっ た。  「うん。『悪霊』を読みはじめたんだ。まだようや く半分で、放蕩息子が故郷に帰ってきて、いろんな 事件を起こして、決闘騒ぎになったところ。相手は 狙っだのに三発外して、スタヴローギンは三発とも わざと外した」  「そこまででいいから、感想知りたいな」咲桜が頭 を起こして樹生を見た。  「え1と、一九世紀末のロシアつてシリコンバレー みたいなとこだなと思った」  樹生かそうこたえると、咲桜は吹き出した。「な にそれ、どういうことか教えて」  「あの小説の登場人物はみんな、ぼくたちと同世代 で、これから社会が大きく変わると思ってるでしよ。 そのうちの何人かは、自分の力で新しい世界をつく れるはずだと信じている」   ロシアでは一八六一年に皇帝アレクサンドルニ世 が農奴解放令を発し、貴族が領地と農奴を所有する 古い時代がようやく終わった。この近代化政策は口 シア社会に大きな混乱を引き起こし、一八六六年四 月には没落貴族出身の青年が日課の散歩をすませた 皇帝をピストルで狙い、翌六七年六月にはパリ訪問 中の皇帝の馬車が、ロシアからの分離独立を求める ポーランド人の男によって銃撃される暗殺未遂事件 が起きた。  さらに六九年には、「世界革命同盟」という架空 の組織のロシア代表部を名乗った二十二歳の革命家 ネチャーエフが、秘密組織のメンバーの一人たった 大学生を密告者として射殺する内ゲバ事件が起きた。 この凄惨な出来事に衝撃を受けたドストエフスキー は、七一年から文芸誌で『悪霊』の連載をはじめ、 海外に逃れたネチャーエフが逮捕されたあとの七三 年に単行本として出版された。  「スタヴローギンの分身の一人にキリーロフつてい るでしよ。人間はいずれ神になるんだって信じて る」そういいながら、樹生はKi乱leで検索した。 「ここなんて、シンギュラリティで人間は不死を手 に入れるという、最近のトランスヒューマニストが いってることとまったく同じだよ」  「人間は神になり、物理的に変化する。世界も変化 し、事業も、思想も、すべての感覚も変化する。ど う思います、そうなれば、人間も物理的に変化する でしょう?」  キリーロフの言葉を読み上げたあと、シンギュラ リテイは「技術的特異点」のことで、コンピュータ の性能が指数関数的に向上して、ついには脳と一体 化するのだと説明した。「そうなると人間は神にち かい存在、すなわちホモーデウスになる。そんな未 来を一五〇年も前に予言してるなんて、すごいよ」  「スタヴローギンつて、この世界に間違って迷い込 んだ神だと思うの」樹生の話を興味深そうに聞いて いた咲桜がいった。「神は傷つかないでしよ。だか ら、どんなに近くからピストルで撃っても、弾が当 たらないの」  「でもその神は、とても深いところで、残酷なくら い壊れてるんでしよ」樹生は、ブルネイのホテルの プールサイドで聞いた咲桜の言葉を思い出した。  「うん。でもよく考えたら、神は完璧なはずでしよ。 だとしたら、壊れているのはこの世界のほうかもし れないよね」  樹生はしばらくその言葉の意味を考えていたが、 「でもぼくたちは、そんな世界で生きていかなく ちやいけない」とこたえた。  「そういえば、わたしも好きな科白があるの」唐突 に咲桜がいった。「リザヴェータつて女性が出てく るでしよ。ものすごく美しいんだけど、スタヴロー ギンの愛を得られなくて苦しんでいる。そのりIザ が、こんなことをいうの」  「ひとつの人生が終わって、別の人生がはじまる、 それから別の人生も終わって、三つ目の人生がはじ まる、いつまでもつづいていくのね。すべての端っ こがハサミで切られていくみたいに」  「これを読んだとき、わたしのことだって思った」 と軽いため息をついた。  「それ、暗記してるの?」  「気に入っだところは、ごく自然に覚えてるの」咲 桜はそういってから、「ぜったいこの小説が気に入 ると思う」と樹生を見た。  「なんで?」と訊いた。  「秘密」といって、咲桜は笑った。  そのとき、いまなら話せると思った。  咲桜に顔を向けると、「お母さんのことなんだけ ど」といった。「やっぱりいちど……」  「わたしのお母さん、弱いひとだったの」咲桜はそ の言葉をさえぎった。「いつもなにかに頼っていて、 それがなくなると壊れちやうの」  自い人形のような顔からは、なんの感情も読み取 れなかった。  「最初は教団の教祖。テロ事件があってからはあの ひと」それが誠治を指すことはわかった。咲桜がは じめて父親について語ったことに驚いた。  「水商売をして、稼いだお金のほとんどを教団にお 布施して、それをほめてもらいたくて拘置所に面会 に行く。判決が確定してからは、毎週のように長い 手紙を書いて、返事が来るのを待って、一日に何回 も郵便受けを覗くの。まるで初恋に浮かれる少女の ように。そうやって、あのひとを支配しようとして いたの」  「知ってる」というと、咲桜は驚いたように樹生を 見た。  青森の病院で会ったときに、同じ話を誠治から聞 いたと説明した。  「そうなのね」咲桜はいった。「あのひと、元気 たった?」  「うん。とくに悪いところはなさそうたった。週に 三日、欠かさず病院にお見舞いに行ってるし。お母 さんのことをとても大切にしてる」  「でも、愛情はない」咲桜はいった。「その話も、 あのひとから聞いたんでしよ」  「それは、自分の愛情に気づいてないだけだよ。咲 桜のことも、とても気にしていた」  「ウソ」と冷たくいわれた。「あのひとはわたしを 捨てた」  樹生はなにもいえなかった。  「最近、ときどき考えるの」咲桜はそういって、左 腕のリストバンドを外した。「この傷のことも知っ てるんでしよ」  横須賀のアパートを訪ねたとき、隣に住んでいた 女性と出会って、近くの喫茶店で事件のことを聞い たと話した。  「どうしてこの腕を出したんだろう?」咲桜は頭を 上げると、樹生を見た。「あの頃、このまま生きて てもしかたないって思ってたの。こんな人生に意味 はない、というか、わたしには生きている価値がな いって」  長い沈黙がつづいた。  「あのとき、殺されてればよかった。そうすれば、 あの女のひとも、赤ちゃんも、生きていられたの に」  咲桜の頬を涙が伝った。樹生は、細かく震える身 体を強く抱きしめた。  それ以外になにもできない自分を呪った。  その日の深夜、HALからメッセージが届いた。   そろそろ面白いことが起きるよ、ドバイで   いよいよゲームが始まりそう   楽しみだね  翌朝、咲桜はこれまでと同じ時間に起きて、なに ごともなかったように朝食の準備を始めた。楽しそ うに歌を囗ずさんでいる。  しばらくして、そのメロディが咲桜のヒツト曲の ひとつだと気づいた。  樹生を見ると、「おはよう」と笑った。「今日、 ちょっと出かけたいんだけどいい?」  「もちろん」とこたえたあと、「どこへ?」と訊い た。  「お買い物」  「珍しいね」  「うん。次のデートのとき、お洒落な格好したい し」  今日の朝食はトーストにサラダ、スクランブル エッグ、フルーツだった。  東南アジアのフルーツではマンゴーやマンゴスチ ンがよく知られているが、収穫時期にはまだ早い。  一月だとローズアップル、タマリンド、グアバなど が旬になる。タマリンドはドライフルーツにするこ とが多いが、そのまま食べても独特の甘酸っぱい風 味がある。ローズアップルはリンゴとナシを合わせ たような食感で、グアバはジュースやジャムにする ほか、生で食べるとイチゴやモモのような風味があ る。  食事が終わり、いつものように二人で食器を洗う と、咲桜はラフな服に着替えて「行ってきます」と 出ていった。  一人になると、ダイニングテーブルに座ってノー トパソコンの電源を入れた。  沈没男のスマホにログインし、メッセージを調べ ると、樹生か渡したカネはオンラインカジノですべ てすってしまったらしく、知り合いに片っ端からカ ネの無心をしていた。もちろん誰からも相手にされ ず、返信のほとんどは貸したカネを返せというもの だった。  昨日の夜、HALから送られたメッセージを読み 返した。ドバイから始まる「ゲーム」とはいったい なんだろう?  そんなことを考えていると、榊原から電話がほし いというメッセージが届いた。シンガポールの日本 大使館に電話すると、すぐに榊原が出た。  「驚くようなことが起きたんです。まだ報道発表さ れてないですが、ラザルスがまたやったんですよ。 こんどは一五億ドル」  二五億?」思わず声をあげた。日本円に換算する と二〇〇〇億円を超える。「狙われたのは?」  「ドバイにある暗号資産取引所です。混乱を怖れて ドバイ当局が発表を止めているので、報道されるの は来週以降になりそうですが」  これが、HALが伝えてきた「面白いこと」なの か。  榊原の説明によれば、ハッカーはソーシャルエン ジニアリングによって暗号資産取引所のセキュリ ティ担当者の端末にマルウェアを仕込み、そこに保 存されていたAWS(アマソンーウェブーサービス) の認証情報を入手してホットウォレットの管理サー バーに侵人した。そのうえで、コールドウォレット からホットウォレットに資金を移す際に、送金先を 別のウォレットに変更するコードを潜り込ませ、取 引所が保有していたイーサリアムを流出させたのだ。  「佐藤くんたちサイバー警察がその暗号資産の経路 を追ったところ、このあいたと同じウォレットに集 められたことがわかりました」  榊原がいっているのは、ラザルスのアカウントの ことだ。ミヤワデイに隠されているらしい北朝鮮の コンピュータには、日本の取引所から詐取した五〇 〇億円だけではなく、すくなくとも合わせて二五〇 〇億円を超える暗号資産が保管されていることにな る。  この途方もないカネがなにを引き起こすのか、樹 生には想像もできなかった。  「もうちょっと強気で交渉できないかなあ。この情 報はすごい価値があるんだから」沈没男はそういい ながら、パックーペットートートというアヒルのく ちばしの唐揚げをビアレオで流し込んだ。  樹生か呼び出されたのはBTSの戦勝記念塔駅に 近いランナム通りにあるイサーン料理の店たった。 ここはもともとタイ東北部のイサーンからバンコク に出てきた労働者がつくった街で、周辺に大学があ ることから学生向けの安アパートが集まっていた。 二〇二〇年に閉店したバンコク伊勢丹にも近く、交 通の便がいいわりに家賃が安いことから、懐具合の きびしい現地雇いの日本人が多く住んでいた。  沈没男はカオサンの近くに2ベッドルームのア パートを借りていたが、そこを追い出されてここに 移ったらしい。とはいえ、二〇一〇年にスワンナ プーム国際空港とバンコクを結ぶエアポートーレー ルーリンクが開通し、その始発駅が隣のパヤータイ になったことで、この一帯も再開発が進んで高級コ ンドミニアムが次々と建てられている。それでもま だ、本場のイサーン料理を食べさせる店が何軒か 残っていた。  「北朝鮮の秘密基地についての極秘情報なんだよ」 沈没男は先ほどからの話を繰り返した。「これで大 金が手に入るんだ。黒木ならI〇〇万や二〇〇万、 すぐに出すはずだろ」  沈没男はこのネタをあちこちに売り込んだが、誰 からも相手にされないので、樹生を通じて黒木と交 渉することにしたらしい。  「確かな話かどうかもわからないのに、そんなもの にカネを払うはずないですよ。なにか説得材料がな いと。誰から聞いたんです?」  樹生は朝食を食べたばかりだったので、甘ったる いアイスコーヒーを頼んだ。 「それは……」沈没男は言葉につまっだ。「秘密だ よ」  「だったら交渉のしようがないです。自分で黒木さ んと話してみたらどうですか」  「いや、それはまずいよ」慌てていった。「あいつ とはちょっと因縁があるんだ。俺の名前は出すなっ ていっただろ」  黒木から借りたカネを返さず、縁を切られたとい う話は咲桜から聞いていた。  「だったら、その情報を買い取りますよ。そのほう が話が早いでしよ」樹生はそういうと、ジーンズの ポケットから封筒を取り出し、一〇〇ドル札五枚を 見せた。  「そんな安く売るわけないだろ。ひとの足元見るよ うなマネするなよ」  「そんなこといわれたって、雲をつかむような話に これ以上出せません」  沈没男の目が泳いだ。考えているようだが、なに も思いつかないらしい。  「もし高く売れたら、ちゃんと分け前は払います」 といって、五〇〇ドルを金属製のテーブルの上に置 いた。沈没男の視線がそのカネに吸いつけられるの がわかる。  この男は、タイ人の高利貸しから多額の借金をし ていた。今日中にいくらか返済できないと、身体の 一部を切り落とすと脅されているのだ。  「しかたないなあ」沈没男がわざとらしいため息を ついた。ウエストバッグからしわくちやの紙を取り 出し、「これ」といって差し出した。眼鏡をかけた 若い男のぼけた顔写真の横にハングルが殴り書きさ れていた。  「誰?」  「コンピュータを管理してるエンジニアとかいって たな」  樹生かその紙を受け取ると、沈没男はすかさず テーブルの上の現金に手を伸ばし、ウェストバッグ に入れた。これで今日の返済がなんとかなったとし ても、三日後には次の期限がやってくる。  「たっちやんさあ、いくらか貸してくれないかなあ。 ぽんとにきびしいんだよ」アヒルのくちばしをきれ いに食べ尽くしたあと、沈没男がすがるような目で いった。  「ぼくもあんまりもってなくて」といって財布の中 身を見せ、一枚だけあった1000パーツ札を渡し た。  「恩に着るよ」と、沈没男が大袈裟に手を合わせた。  「じやあ黒木さんに、いくらで買ってくれるか訊い てみます」と、リュックの内ポケットに紙をしまっ て席を立った。  「たっちやん」沈没男が座ったまま呼びかけた。  振り向くと、「つけあがるのもいいかげんにしろ よ」と低い声でいわれた。「俺のこと、バカにして るんだろ」  驚いて沈没男を見つめた。  「あの女とうまいことやってるみだいじやないか」 顔が醜く歪んでいた。「俺に隠れておいしい思いし やかって。このままですむと思うなよ」  沈没男と別れたあと、スクンビット線からシーロ ム線に乗り換えてサラデーン駅で降り、徒歩でルン ビニー公園に向かった。公園入口からすぐのところ にラーマ六世王像があり、その先に緑に囲まれた池 が見える。ここはミズオオトカゲの生息地として知 られていて、大型の個体は体長ニメートルに達する。  バンコクには屋外で運動できる場所がほとんどな いので、午前中はお揃いのスポーツウェアを着たラ ンナーたちがこの公園に集まってくる。だが日差し が強くなるこの時間は、木陰を散歩する地元のひと がいるくらいだ。  池のほとりに木のベンチがあり、そこにソニョン が座っていた。樹生は隣に腰をおろすと、駅の売店 で買ってきたペットボトルの水を一本渡した。  一月のバンコクでも昼の気温は三〇度を超えるが、 乾季で雨はほとんど降らず、木陰は快適だ。ソニョ ンは黙ってペットボトルを受け取ると、キャップを 開けて水を飲んだ。  「役に立つかどうかわからないけど」沈没男から渡 された紙をリュックから取り出して、ソニョンに見 せた。画像はその前にスマホで撮影し、サーバーに アップしておいた。  「これはなんだ?」  「ミヤワデイにある北朝鮮の基地に関係しているら しい。ラザルスのエンジニアかもしれない」  「どうやって手に入れた」  「五〇〇ドルで買った」沈没男との会話をソニョン にかいつまんで説明した。  「そいつ、信用できるのか」  「人間としてはまったく信用できないけど情報屋だ からね。なにかの役には立つかもしれない」  ソニョンは顔写真をしばらく眺めていたが、四つ に折りたたんでハーフパンツのポケットに入れた。  「だったら、こっちの情報も共有しておく」ペンチ に置かれたスマホを手に取ると、「テレグラムに 送った」とソニョンはいった。確認すると三二桁の 二進数たった。  「これは?」  「ラザルスのサーバーのIPアドレスだ」ソニョン はいった。「ただし、ほとんどネットには接続され ない。施設の場所も突き止めた」  どうやって手に入れたのか訊こうとして、どうせ こたえないだろうと思ってやめた。樹生か渡したス パイウェアを使ったにちがいない。  「これをすこし調べてみるよ」といって立ち上がろ うとすると、「まだ話がある」と引き留められた。  「なに?」  ソニョンはしばらく躊躇していた。そして、「俺 がどんな人間なのか、お前に教えなきやいけない」 といった。  「そんなの気にすることないよ。ぼくがどんな人間 か、君になにも話してないんだし」と樹生は笑った。  「お前が誰であろうと、俺にはどうでもいい」ソ ニョンがぶっきらぼうにこたえた。  樹生はその意味を考えた。「君が誰なのかは、ぼ くにとって大事なことなの?」  「たぶんな」と、ソニョンはいった。「俺にはよく わからない」  「だったら、誰にいわれたの?」  ソニョンは、はじめて樹生を正面から見た。そし て、「咲桜だ」とこたえた。  「咲桜?」  「ああ。お前にちゃんと話さなくちゃいけないとい われた」  キムーソニョンは樹生と同じ一九九四年一月に北 朝鮮の平安南道中和郡に生まれた。父は空軍のパイ ロットで、咸鏡南道咸興にある空軍基地に異動にな り、そこで恵まれた子ども時代を過ごし、三歳下の 妹が生まれた。  ソニョンは成績優秀で、親の出身成分(北朝鮮に おける階級)もよかったため、人民学校では少年団 長に、高等中学校では金日成社会主義青年同盟の役 員を務め、卒業後は38度線に配置される特殊部隊・ 朝鮮人民警備隊(民警)に志願した。父親は飛行大 学への進学を勧め、強く反対したが、愛国青年は最 前線を守るべきだと信じていたのだ。  民警での実績があれば、除隊後は優先的に望む大 学に進学できる。家族に民警の経験者がいれば、教 化所に送られるような違法行為を一回は見逃しても らえる恩恵もあった。だがソニョンがそこで体験し だのは、想像を超える地獄だった。  新兵を鍛える民警訓練所では、首領様(当時は金 正日)を称える革命の歌を大声で歌いながら炎天下 をI〇キロ走らされ、隊列訓練では三時間以上も、 足の高さを四〇センチに保ちながら調歩行進する。 夜は学習会の「総和(総括)」で、訓練中、歌声が 小さかったのは首領様への忠誠心が足りないからだ と殴打され、「反省」のために独房に放り込まれた。 それを怖れて声が嗄れるまで大声を張り上げ、しま いには咽喉が切れて血痰が出た。  だがそれはまだ訓練の初歩で、次は訓練所の前に ある「死の高地」に一日一五回、自分のマットを担 いで走らされ、マットを緩衝材にしてI〇メートル 以上の高さから飛び降りた。八〇メートルの塔から ロープで滑り降りたり、落下防止ギアのような安全 対策なしに切り立った崖を登るなどの過酷な訓練も あった。  どの訓練でも、いちど間違えると何度も殴られて 「気合」を入れられ、血まみれで訓練場を走らされ た。鉄棒や平行棒ができなければ、降りられないよ うに両手を縛りつけられ、二時間以上も放置された。  「敵哨所攻撃」は、実弾を支給された現役特殊部隊 が守る哨所に向かって、重機関銃を撃ちながら障害 物を乗り越えて前進する訓練だ。当然、死者も出る が「訓練中の事故」として処理された。地図ももた ずに真夜中の山中に放り出され、何日もさまよった あげく、自力で帰還するゲリラ訓練もあった。戻っ てこられない者は「事故」として家族に通知されて 終わりだ。  格闘、ナイフの投擲、爆破、一人で五人を相手に する対決、重火器や対空機関銃の取り扱いなど、あ らゆる訓練が常軌を逸したレベルで行なわれた。北 朝鮮軍の近接格闘術は撃術と呼ばれ、競技ではなく 相手の殺害を目的としている。こうして「戦闘機 械」がつくられていく。  「最悪なのは、ガス克服訓練だ」ソニョンは淡々と 話をつづけた。北朝鮮は大量に製造できる塩素やマ スタードガスだけでなく、サリンやVXガスまで、 肥料工場や化学薬品工場でつくらせており、韓国も 自分たちに毒ガス攻撃を仕掛けてくると信じていた。 そのため、防空壕に微量の毒ガスを撒いたあと、新 兵をガスマスクなしで放り込み、「耐性」をつけよ うとしたのだ。  「俺は気を失って、担架に乗せられて運び出された。 顔が真っ赤になって表皮がただれ、しまいには顔全 体の皮膚がすべて剥けた」  韓国と北朝鮮の事実上の国境である38度線には幅 四キロの非武装地帯が設けられ、韓国が南側、北朝 鮮が北側を管理することになっている。韓国からの 「侵略」を確信している北朝鮮は、幅ニキロの非武 装地帯を要塞に変えてしまった。  休戦ラインからIキロの範囲は全区画が無人の地 雷原で、三〇種以上の最新式の地雷が埋められてい る。その手前には五〇メートルごとに潜伏壕が設け られ、それぞれの壕には常時三名の完全武装の兵上 が潜み、夜間は敵味方関係なく不審者をその場で射 殺するよう命じられていた。  潜伏壕と地雷原のあいたには16線と呼ばれる鉄柵 線と、一万ボルト、六〇〇〇ボルト、三〇〇〇ボル ト、二〇〇〇ボルトの四つの高圧線が敷設されてい る。北朝鮮は深刻な電力不足だが、非武装地帯への 電力は最優先で供給されていた。  「その頃は食料危機で、俺たちはみな腹をすかせて いた。近くの野菜畑ではトウモロコシ、ジャガイモ、 コメ、サツマイモ、唐辛子やナスなどを育てていた が、そのまわりには飢えた何千人もの兵上がいる。 農民たちは収穫物をほとんど奪われ、栄養失調で気 かぶれた父親が、犬と間違えて自分の娘を食べてし まうという事件も起きた」  野菜畑のなかには軍が管理しているものもあり、 そこを別の部隊が襲撃して銃撃戦になることもあっ た。地獄の訓練を生き延びた最前線の兵士たちは、 敵から祖国を守るのではなく、自分たちの国の軍隊 から野菜畑を守っていたのだ。  「お前は、人間が炭になるのを見たことがある か?」とソニョンは訊いた。  人間のいない非武装地帯は野生動物の天国になっ た。韓国側からまるまると太ったキジが飛んでくる こともあれば、シカやイノシシを見ることもあった。 そんな動物が高圧線に触れて、あちこちに転かって いた。完全に燃え尽きて焼け跡だけが残っているも のもあれば、そのまま食べられるくらいにこんがり 焼けたものもある。  高圧線に動物がかかると上官に報告し、指示に 従って電源を切って回収する。だがこれでは、獲物 はすべて幹部たちがもっていってしまう。そこで兵 士たちは、長い枯れ木に紐をかけ、投げ縄のように して動物の頭や足にかけて引きずり下ろそうとした。  新兵のなかには、ひもじさのあまり、目の前に転 かっている肉に手を伸ばそうとした者もいた。「そ うすると、ジジッというイヤな音がして、真っ青な 火花が飛び散るんだ。その瞬間、背中から火花が吹 き上がり、全身が火だるまになる。あの光景はいま でも夢に出てくる」  何度も死にかけながら、最前線での地獄の日々を 奇跡的に生き延びたソニョンは、金正日政治軍事大 学でハッキングや暗殺技術など工作員としての徹底 した訓練を受けた。その後、対外工作を行なう朝鮮 労働党の第35号室に配属され、東南アジアに送られ たのだ。  「バンコクに来て、北朝鮮で教えられていたことが すべてウソだったと知った。誰もが。自由”とやら を謳歌して、好き勝手に生きている。まるで地面の 底が抜けたような気がした」  同じ言葉を、咲桜からも聞いたことを思い出した。  「それから俺は、与えられた任務を必死にこなしな がら、あの狂った国から逃げ出すことだけを考えて いた」  樹生は、目の前にいる自分と同い年の男を見つめ た。その男は、樹生には想像もできない経験をして、 それでも同じ世界を生きていた。  「お父さんが失脚して、軟禁されてるっていったよ ね。ソニョンはどうなるの」  「帰国命令がもうすぐ出る。黒木のところに送り込 む後釜も決まった」  「いつ?」 「二日後か、三日後」 「それで、どうなるの?」 「北朝鮮に戻れば、両親や妹と一緒に教化所に送ら れる。俺は、そんな運命を受け入れるつもりはない。 だから、あのカネを手に入れる」  「わかったよ」樹生はいった。「で、ぼくになにが できるか教えてよ」  ソニョンは工作員のスマホを乗っ取り、ミヤワ デイにある施設の場所を突き止め、サーバーのIP アドレスを手に入れた。  「俺が施設に潜入して、サーバーをネットにつなげ たとする。それでパックできるか?」  「そんなの無理だよ」樹生は即答した。「ラザルス のコールドウォレットは、厳重なセキュリティで守 られているはずだ。それに、どんなハッキングでも マルチシグを突破できない」  「マルチシグ?」  「複数の権限のあるユーザーが秘密鍵をもっていて、 その署名がないとウォレットにアクセスできない仕 組みだよ。ふつうは三人のうち二人の秘密鍵が必要 で、これは2d3.全員の署名が必要なら3d3で、 5d5というのも考えられる。これだと、五人全員 の秘密鍵を集めないといけないから、もし可能でも かなりの時間がかかる」  「そんな余裕はない」とソニョンはいった。  「だったら、さっきの写真の男に賭けるしかない よ」しばらく考えて、樹生はいった。「もしその男 がミヤワデイの施設のエンジニアなら、管理者権限 でサーバーにログインできるはずだ。そうすれば、 マルチシグを迂同してウォレットにアクセスでき る」  「俺にはそんな技術はない。お前にはできるの か?」  「ぼくだってプロのハッカーじやないから、そんな の無理だよ。たとえサーバーに侵入できたとしても、 ラザルスのセキュリティを短時間で突破できるハッ カーなんてほとんどいない。悪いけど」  「何人かはいるんだろ」ソニョンはそれでも粘った。 「だったら、そいつを探すしかない」  樹生は、「ぼくが知っているのは一人だけだよ」 といった。HALなら、管理者権限でサーバーに侵 入すれば数分でクラックできるかもしれない。  「そいつはそんなにすごいのか?」  二〇一五年匸一月、カリフォルニアで一四人が殺 害された銃乱射事件が起き、容疑者が所持していた iPhoneが押収された。FBIは犯罪の動機や背後 関係を知るために冫名ざにiPhoneのロック解除を 要請し、連邦地裁がFBIへの協力を命じた。  Appleはこれを不服として強硬な法廷闘争を準備 したが、翌年三月、第三者がロック解除に成功した として司法省が訴訟を取り下げた。それまで iPhoneのセキュリティを破るのは不可能とされて いたから、このニュースはハッカーのあいだを駆け 巡った。   FBIはその詳細を公表していないが、ブラウザ の脆弱性を利用してメインプロセッサを掌握し、パ スワードの入力が既定回数に達するとデータが消去 される設定を解除したらしい。これで無制限にパス ワードを入力できるようになり、iPhoneのロック 解除に成功したのだ。  「そのあと、このハッカーは子どもらしいという噂 が流れたんだ。それも七、八歳くらいの」  「お前が知っているのはそいつなのか?」  「確証はないけど。もしそうなら、いまは十七、八 歳だ」  「だったら依頼してみてくれ。成功報酬はいくらで も払う」  自分はカオサンの店で買った大麻を送っているだ けだと説明した。だがその一方で、HALはこの話 に乗るかもしれないとも思った。すくなくとも、ラ ザルスに興味をもっていることは間違いない。  「わかった。このIPアドレスを伝えてみるよ」と、 樹生はこたえた。  ソニョンは小石を拾うと、草むらから顔を覗かせ たミズオオトカゲに向かってつまらなそうに投げた。 それから、「頼む。お前だけが頼りだ」といった。  ルンビニー公園を東側に抜けると、コンドミニア ムまで歩いて五分くらいだ。その途中で、榊原から メッセージが届いていることに気づいた。  木陰を見つけて、シンガポールの日本大使館に電 話した。  「こんなこと、いまさらいうのもどうかと思ったん ですけど」電話がつながると、榊原はいった。「こ の話、もう終わりにしませんか?」  どういうことか、訊いた。  「危険な領域に近づきすぎてる気がするんですよ。 私は外交官として、日本国民の安全を守る義務があ るし」  「危険って、なんですか?」  「いや、それは……」榊原は口ごもった。「このま まだと、誰かが不幸になるんじやないかと思って」  「で、どうしろと」  「冒険はもうじゅうぶんでしよう」  去年の夏に会ったとき、樹生かこの仕事を引き受 ける理由は退屈だからだと榊原はいった。それがい ま、「もうふつうの生活に戻りませんか」といって いる。  そのときはじめて、ふつうの生活がうまく想像で きなくなっていることに気づいた。自分は、抜け出 せないなにかの深みにはまり込んでしまったのだろ うか。  「これから先は、樹生くんが決めることです」榊原 は話をつづけた。「でも、どんなときもスマホの位 置情報をオンにしておいてください。できるだけの ことはしますから」  「お気づかいありがとうございます」とこたえて、 電話を切った。  コンドミニアムに戻ると、咲桜はまだ帰っていな かった。  ハッキング用のノートパソコンを起動し、vPN に接続していることを確認して、ソニョンから教え られたIPアドレスをポートスキャンにかけた。シ ステムポートと、暗号通貨ノートが使うビットコイ ンの8333、イーサリアムの30303ポートを 調べたが、vHost is down. All scanned ports are白tered or closed.(ホストはダウンしている。スキャンされた ポートはすべて、フィルターされているか閉じられてい るごという無機質なメッセージが表示されるだけ だ。  このIPアドレスは、現時点ではネットワークに 接続されていないようだった。樹生はtjゴ目で簡 単なプログラムを書き、特定のポートに反応がある とビーフ音が鳴るようにした。  それから、HALに暗号化したメールを送った。   このIPアドレスを調べてみてよ   面白いかもしれないから  (ioogle Mapを開いて、ソニョンから教えられた 施設の場所をチェックした。ミヤワデイの北三キロ ほどのところでタイとの国境のモエイ川が大きく蛇 行していて、そこに巨大なカジノがあった。航空写 真を拡大すると、そのカジノに隣接して倉庫のよう な建物が十数棟並んでいる。その園区の一角に小さ な建物があった。どうやらそこがラザルスの施設ら しかった。  サーバーにアクセスして画像ファイルを開き、沈 没男から渡された顔写真を表示させた。年は三十歳 前後か、あるいはもっと若いかもしれない。殴り書 きされたハングルは名前で、イージョンヒョクと読 めた。  汚いプリントアウトを渡されたことで、どれほど 沈没男のスマホを調べても情報源の手掛かりが見つ からなかった理由がわかった。別の端末があるのだ。  その端末はハッキング対策で用途が制限されてお り、沈没男は自分のスマホにデータを送ることがで きなかった。だから、プリンタで印刷したのだろう。  そう考えると、いかにもあやしげなこの情報にも 信憑性があるかもしれないと思えてきた。しかし、 これをどこから手に入れたのか。  沈没男のスマホにアクセスした。今日渡した五〇 〇ドルは高利貸しへの返済にあてることにしだらし く、受け渡しの場所をLINEしていた。これでま たI文無しに戻り、すぐに連絡してくるはずだ。も はやたかる相手は、樹生しか残っていないのだから。  いつのまにか夕方になっていた。咲桜が戻ってき たのは午後六時を過ぎていた。買い物に出かけたは ずだが、ショッピングバッグを抱えているわけでは なかった。  疲れた顔をしていたので、夕食はデリバリーにす ることにした。アプリでタイ料理のレストランを選 び、トムヤムクン(エビ人りトムヤムスープ)、ヤム ムーマナーオ(蒸し豚のライム和え)、パックブンー フアイデーン(空心葉炒め)、グリーンカレーなどを 適当に頼んだ。  料理が来るまで、ビールを飲みながら待つことに した。咲桜は自分の部屋に戻って、Tシャツとカ ジュアルなワイドパンツに着替えてきた。  乾杯のあとで、「今日はどこに行ったの?」と訊 いた。  「ショッピングモール。エムクオーティエ」  「プロムポンの? あそこ日本人の奥様の御用達で しよ」  「えっ?」 一瞬、言葉につまっだ。「そんなにいな かったよ。わたしが気づかなかっただけかもしれな いけど」  それから、「樹生くんはなにをしてたの?」と話 題を変えた。  「例の情報屋から呼び出されたんだ。ランナム通り のイサーン料理屋」  「美味しかった?」  「アイスコーヒーを飲んだだけ」樹生はこたえた。 「それから、ルンビニー公園でソニョンに会った」  「そうなの」意外ではなさそうたった。  「自分のことをぼくに話すように、ソニョンにいっ たんだってね」  「うん」  「なんで?」と訊いた。  「それが、正しいことだと思ったから」  そのとき、ドアホンが鳴ってデリバリーが届いた。 料理をダイニングテーブルに並べているうちに旅の 話になった。   咲桜は、南米のアンデスに行ってみたいといった。  標高三四〇〇メートルにつくられたインカ帝国の首  都クスコ、「空中都市」マチユピチユ、ペルーとボ リビアの国境にあるチチカカ湖、標高三七〇〇メー トルの高地に広がるウユニ塩湖。雨季には真っ自な 塩の大地を雨水が満たし、鏡のようになる。  樹生の説明を、咲桜は楽しそうに聞いていた。 「行ってみたいなあ」と何度もいった。  そんな咲桜を見ながら、だんだんと不安が増して きた。  咲桜はいつにも増して陽気たった。なにもかもが 演技に思えた。  後片づけをすると、部屋の明かりを落として、並 んでソファに座った。今夜は重い雲が垂れこめて、 近くの高層ビルのシルエットが見えるだけだ。  「ずっと訊きたいと思ってたんだけど」咲桜が話し かけた。「わたしのこと、理解したいっていってた よね」  「うん」  「だったら、わたしのスマホを乗っ取ればいいじや ない。そうしたら秘密がすべてわかる」  「そんなの考えたこともないよ」驚いて咲桜を見た。  「なんで? 簡単にできるんでしよ」  「自分のスマホを覗き見るような男を尊敬でき る?」と訊いた。 「ううん。軽蔑する」 「ぼくは咲桜に軽蔑されたくないんだ」  咲桜は声を出して笑った。それから、「正しく 育った男の子なのね」といって樹生の頬にキスをし た。  午後一一時過ぎ。ソファに座ってぼんやりと高層 ビルの夜景を眺めていた。「今日は疲れたから」と いって、咲桜は先に寝室に向かった。  咲桜の質問に、樹生は嘘をついた。咲桜のスマホ をパックすることは真っ先に考えた。  咲桜はいつの日か、自分の前から消えてしまうと いう予感があった。樹生はずっとそれを怖れていた が、それよりも咲桜に軽蔑されることのほうがはる かに耐えがたかったのだ。  そのとき、指定していたIPアドレスにつなかっ たことを教えるビーフ音が鳴っだ。  ノートパソコンのハッキングソフトを立ち上げ、 ポートスキャナで開いているポートを調べ、OSの フィンガープリントを解析した。ポート8333が 開いたから、ビットコインをコールドウォレットか らホットウォレットに移したようだ。  接続は三分ほどで切れた。わかっだのは最新のセ キュリティパッチが適用された安定版のリナックス OSを使っていることくらいだった。レスポンスは 整然としていて、どのポートにも目立った脆弱性は 見つからなかったし、そんなものがあるのかもわか らなかった。  通常のハッキングは古いOSやブラウザ、ルー ターの脆弱性を利用して侵入するが、ラザルスがそ のような抜け穴を放置しているとは思えなかった。 だがNSAのような情報機関は、まだ知られていな いバグを大量に収集している。それを利用したゼロ デイのエクスプロイトを使えば、ネットワークに接 続したどのようなコンピュータにも侵入可能だ。  それを知っているからこそ、コールドとホットの ウォレットのあいたでクリプトをやり取りする短い 時間しかポートを開かないのだ。  五分ほどして、HALがチャットに誘ってきた。     HAL一セキュリティ対策すごいけど、         どこのコールドウォレット?   TATSU匸フザルス。たぶんだけど     HAL一すげえ。見つけたんだ TATSU一侵入できる?   HAL一これじゃ無理 TATSU一ゼロデイのマルウェアでも?   HAL一もっと長い時間、ネットにつな       がってないと。すくなくとも15分 TATSU一そのあとは?   HAL一侵入してみないと、どういうト       ラップが仕掛けられているかわか       らない TATSU一1回の侵入で終わらせられる?   HAL一そっちが面倒なファイアウォー         ルを外してくれれば   TATSU一わかった     HAL一なんかわくわくしてきた、ひさ         しぶりに  その翌日、咲桜は行先を告げずに朝から出かけた。 戻ってきたのは午後二時を回っていた。  「ごめんね、お腹すいたでしよ。すぐになんかつく るね」という。  キッチンで手早く蕎麦を茹で、冷凍のとろろを解 凍し、残り物の総菜をダイニングテーブルに並べて いく。  肉じゃがをつまみながら、「今日はどこに行っだ の?」と訊いた。  「サイアムパラゴンのショッピングモール」  「あそこ、ものすごく広いでしよ」  「うん。歩き疲れた」  ルイーヴィトンやプラグなどのブランドが並ぶ高 級ショッピングモールだが、買い物をしてきた様子 はなかった。  「このとろろ、美味しいよね」咲桜がさりげなく話 題を変えた。  「たしかに。冷凍とは思えないよ」蕎麦つゆにとろ ろを入れ、蕎麦をひと囗食べた。  「冷凍だからだよ」咲桜は笑った。「いまはどんど ん技術が上かって、煮物なんかも生野菜からつくる より、冷凍野菜を使ったほうが美味しいんたって。 YouTube情報だけど」  「そうなんだ」樹生はとろろ蕎麦をすすった。「夕 イにいながらこんな和食を食べられたら、日本に帰 ろうなんて思わないよね」   コンドミニアムの部屋は、濃厚な蘭の香りに満た されていた。東京の郊外にアパートを借りて、咲桜 と蕎麦を食べる未来を想像した。  昼食のあと、「泳ぎに行かない?」と咲桜がいっ た。「もうちょっと日が落ちてから」  「いいね」ノートパソコンから目を上げて、樹生は いった。「四時くらい?」  「うん」咲桜がうなずいた。「それまでちょっと ベッドで横になってていい? なんだか疲れちやっ た」  部屋の西日がまぶしくなった頃、水着に着替えて 屋上のプールに行った。平日の夕方で、ほかに誰も いなかった。  管理人からバスタオルとペットボトルの水を受け 取り、日陰になっているデッキチェアにタオルを敷 いた。流行のインフィニティプールで、水面がその まま空に吸い込まれていくように見える。  「ちょっと泳いでくる」スイミングキャップとゴー グルをつけ、咲桜がプールに向かった。それを追っ て水に入ると、思いのほか冷たかった。  咲桜がきれいなクロールのフォームで泳ぎはじめ たので、あとを追った。樹生も水泳は得意だったが、 追いつくどころか離される一方たった。  三往復したところで、疲れてプールから上がった。 咲桜はさらに二往復して、「気持ちよかったあ」と 笑いながら戻ってきた。  デッキチェアに座って、高層ビルの間に落ちてい く太陽を眺めていた。乾季の二月は湿度も低く、風 も心地いい。  「幸せ」そういって咲桜がこちらを見た。「ずっと こんな時間がつづくといいんだけど」 「うん」樹生はうなずいた。  それからしばらく、無言のまま風を感じていた。 「ねえ」咲桜が声をかけた。 「なに?」  「今日、ソニョンに会っだの」  「どこで?」身を起こして、咲桜を見た。  「黒木の会社」赤く染まった空を見つめながら、咲 桜がいった。「ソニョン、樹生くんに話があるって」  午後八時、黒木の会社の応接室にいた。正面には 黒のシャツに黒のパンツ姿のソニョンが座っている。  「わざわざ悪いな」ソニョンがいった。「どこで誰 に監視されてるかわからないから、ここがいちばん 安全なんだ」  「どうせすぐに呼ばれると思ってた」樹生はいった。 「公園よりここのほうが涼しくていいよ」  「なぜ来たのかわかってるのか?」  樹生は首を振った。「君のゲームだ。できること があれば協力するよ」  「ゲーム?」ソニョンは大きな声で笑った。「甘っ たれたお坊ちゃんは、なんでもゲームにするんだ な」  「君にとっては?」  「北朝鮮大使館から帰国命令が届いた。明日の午後、 北京便に乗らなくちゃならない」  樹生はしばらく考えたが、「で、なにをすればい い?」と訊いた。  ソニョンは、沈没男から渡された写真の男を特定 した。イージョンヒョクというラザルスのエンジニ アで、スパイウェアを使ってスマホに侵入すること にも成功したという。  「ウォレットは、朝鮮労働党の最高幹部を含む五人 の署名がないとネットワークに接続できないように なっている。サーバーは物理的にネットから遮断さ れていて、署名が揃ったあとにケーブルをつなぐ」  これは樹生か予想したとおりだ。  ノートパソコンを起動すると、ソニョンはエンジ ニアのスマホの画面を樹生に見せた。  「位置情報は?」  ノートパソコン上でスマホの(joogle Mapを起動 し、現在地を表示させた。  「同じ場所だ」とソニョンはいった。「このエンジ ニアは、コールドウォレットのサーバーが置かれた 施設に常駐している」  スマホのメッセージはすべてハングルだった。  「工作員同上のやり取りは、秘密鍵でログインする オープンソースのチャットシステムで行なわれ、 メッセージは暗号化されていて二四時間で消去され る。だがこのエンジニアは、すべてのメッセージを 自分のパソコンに保存している。身を守るためには 当然のことだ」ソニョンは説明した。  「そのパソコンはラザルスのサーバーに接続して る?」  「いや」ソニョンは首を振った。「署名用に登録さ れた端末以外、どのようなハードウェアも接続でき ないようになっている」  「それなら、外からパックするしかなさそうだね」 樹生はソニョンのノートパソコンを引き寄せると、 エンジニアのスマートフォンの中身をチェックした。  「環境構築のメモに秘密鍵があった。サーバーのも のかもしれない」  秘密鍵は専用のセキュリティデバイスに格納しな ければならないが、それだとアクセスするのに時間 がかかる。このエンジニアは作業時間を短縮するた めに、スマートフォンに秘密鍵を置いていた。  「ここから攻略の糸口が見つかるかもしれない」  「どういうことだ?」ソニョンが訊いた。  「ぼくがこのエンジニアだとするよね。君が話した ように、ちょっとしたミスや、自分にはどうしよう もない権力闘争でいつ殺されるかわからない。だと したら、なにかあったときのために保険をかけたい と思うにちがいない」  「保険?」  「たとえば、コールドウォレットのコンピュータに あらかじめバックドアを仕込んでおいて、クリック ひとつですべてのデータを暗号化するとか。でもそ れだけじゃ不安だから、クリプトを自分のウォレッ トに送金できるようにもしておくはずだ。すくなく ともぼくがそのエンジニアなら、ぜったいそうする ね」  「それを利用して、ラザルスのカネを奪うことはで きるのか?」  「それは実際に、コンピュータにアクセスしてみな いとわからないよ。でもぼくの予想が正しければ、 ラザルスのサーバーをパックするんじやなくて、こ のエンジニアのパソコンを管理下に置けばいい。 そっちのほうがずっと簡単だ」樹生はいった。「そ れでも、誰かが建物に侵入して、サーバーのケーブ ルをつながないといけないけど」  「俺にとってはこれが最後のチャンスだ」ソニョン は強い視線で樹生を見た。「カネがあれば妹と甥っ 子を脱北させ、すべてをやり直すことができる。俺 は、そのためならどんなことだってする」  「もう計画を決めてるんだろ」樹生は目の前にいる こわばった表情の男にいった。「だったら、そろそ ろそれを話してよ」  ソニョンによれば、ミャワディの園区は詐欺の拠 点として有名になりすぎて国際問題になり、ミャン マー軍が撤去の方針を決めた。中国マフィアの幹部 たちはすでに逃亡し、園区内の建物に大規模な捜索 が行なわれた。詐欺ビジネスに従事していた者たち は全員が拘束され、順次、タイ側に送られることに なっていた。その結果、ラザルスの建物以外、いま は無人になっているという。  「それなら、コールドウォレットもほかの場所に移 されたんじやないの?」樹生は訊いた。そんな不安 定なところに、大量のクリプトを置いておく理由は ない。コールドウォレットは、USBデバイスひと つでどこにでももっていけるのだ。  「北朝鮮製のデバイスは人管で引っかかって没収さ れるおそれがある。だからといって、市販のデバイ スを使うわけにもいかない。どこにバックドアが仕 掛けられてるかわからないじやないか」ソニョンは 笑った。「あいつらもミャワディを離れるつもりだ。 しかし、準備に時間がかかる」  ウォレットを移転するには、サーバーからハード ディスクを取り外して、安全な場所に置いた別の サーバーに接続しないといけない。そのうえ、北朝 鮮の特殊部隊を受け入れるようなところが簡単に見 つかるとも思えない。北朝鮮はミャンマー軍と同時 に反政府勢力とも交渉しているが、まだ移転先を決 められないのだという。  「いまなら警備も手薄だ。サーバーを移されたらも うチャンスはない。それに、俺には時間がない」  「そこまではわかった」樹生はいった。「で、どう するの?」  「成功する可能性がある作戦は、ひとつしかない」 ソニョンは身を乗り出した。「俺が施設に侵入し、 お前がサーバーをネットワークに接続して、HAL がそれをパックするんだ」  「ぼくが君と一緒に、ミヤワデイに行く?」樹生は 驚いた。「その施設の警備はどうなってるの?」  「完全武装した北朝鮮の特殊部隊がコンピュータを 守ってるっていったよな」  「そんなの死にに行くのと同じだろ。悪いけど断る よ」  匸緒に行くのは俺とお前の二人じゃない」ソニョ ンがいった。「咲桜もだ」  樹生は絶句した。  「エンジニアのスマホに、サーバーを起動する生体 認証のプログラムがあるのを見つけた」ソニョンは かまわず説明をつづけた。「ダークウェブで調べた らちょうどいいツールがあったから、そのデータを 書き換えた。新しい虹彩情報がないと、サーバーは 起動できない」  イヤな予感がした。「誰のデータ?」  「今日の朝、咲桜が自分の虹彩をスキャンしに来た。 それを認証用のデータに差し替えたから、あいつら はいまごろ大騒ぎだ」ソニョンはノートパソコンの 画面を見せた。エンジニアのグループチャットに大 量のメッセージが飛び交っているのがわかった。  「あとは施設に押し入って、咲桜の虹彩認証でサー バーを起動する。それからネットワークにつないで、 お前の友だちのハッカーが残りのセキュリティを無 効化する。これでラザルスのカネは俺のものだ」  その計画をひととおり考えてみた。そしていった。 「うまくいくとはとても思えない。あきらめたほう がいいよ。三人とも死ぬだけだ」  「いっただろ。お前にはゲームでも、俺はこれにす べてを賭けてるんだ」  「咲桜はそれを知ってる?」  「当たり前だ。俺は咲桜をだましたりしない。すべ て正直に話した」  なにがどうなっているのか、わからなかった。ま るで巨大な渦に飲み込まれていくようだ。  「それから、お前にもうひとつ伝えておくことがあ る」ソニョンはノートパソコンの画面を見せた。 「あいつらはまだ、差し替えられたのが咲桜の虹彩 データだとは知らない。だが俺がここでエンター キーを押せば、エンジニアのグループチャットの全 員にそのことが送信される。サーバーを起動するに は生きたまま連れてこなくてはならないから、その 瞬間に咲桜はすべての北朝鮮の工作員に狙われるこ とになる」  ラザルスのサーバーをパックするには、HALの 技術が必要だ。HALを巻き込むためには、樹生か ミャワデイに行かなくてはならない。だからこそソ ニョンは、咲桜を利用することにしたのだ。  「いくらなんでもヒドいよ!・」樹生はソニョンを怒 鳴りつけた。  「だからいっただろ。俺はどんなことだってする」 それから、どこか哀しい目で樹生を見た。「俺には お前の助けが必要だ。施設に侵入したあとは、悠長 にコンピュータをいじってる余裕なんてないから、 技術的なことはお前に任せるしかない。そのハッ カーとの連絡も、お前にしかできない」  樹生か反論しようとしたとき、ドアが開いて黒木 と咲桜が大ってきた。咲桜は黒のビジネススーツを 着ていた。樹生を見ても表情ひとつ変えず、黒木の 車椅子をテーブルの中央にセットし、ブランデーを グラスに注ぎ、灰皿と一緒に置いた。  「話は終わったのか?」煙草に火をつけ、深く煙を 吐くと、黒木はソニョンに訊いた。ソニョンは黙っ てうなずいた。  「こんなのおかしいよ」樹生はうめいた。「なんで こいつらのいいなりになってるんだよ。自分がした ことがわかってるの? 死ぬかもしれないんだよ」 と咲桜に叫んだ。  「わたし、ソニョンと一緒に行くことに決めたの」 咲桜が冷静にいった。「樹生くんは、こんなことに かかわらないほうがいいよ。きっぱり断って、この 建物から出て行って、わたしのことは忘れて」  「そんな……」唇をかんだ。  「こいつは自分で決めたんだ」黒木は視線を咲桜か ら樹生に移した。「次はお前が決めろ」  「なんでこんなことをする?」  「カネのためだ」黒木はこたえた。  「そんな大金、あなたには使い道がないだろ。この 建物から一歩も出ないくせに」  「ほかにいいたいことはないのか?」黒木は冷たく 笑った。  「傷ついた人間を自分のそばに置いて、もてあそぶ ことがそんなに楽しいのか?」樹生は声を荒らげた。 「日本で生きていけなくなった咲桜を引き取ったの も、みゆきという女の甥だと知ってソニョンを雇っ たのも、咲桜を使ってぼくを支配しようとしたのも、 すべてあなたのいう「選択」を知りたいからなんだ ろ」  「どういうことだ?」ソニョンが驚いたように囗を 挟んだ。  黒木がみゆきの夫を死に追いやり、みゆきと娘に カネを送っていたことを教えた。  「美談だと思ったぼくがバカだったよ。あなたが やってることは、右往左往する愚かな人間を見て面 自がってるだけじやないか」  黒木は右手を上げて、「演説はそこまでだ」と いった。「お前の立派な話は聞いてやった。たしか に俺は、お前の選択を知りたい。で、どうするん だ?」  「ぼくが断ったらどうなるんですか?」  「お前は解放される。ソニョンと咲桜はミヤワデイ に行く」黒木がいった。  「咲桜が断ったら?」  「こいつはもう決めたといっただろ」  「ほんとにそれでいいの?」樹生は懇願した。「こ んなバカバカしいことやめて、これまでのように二 人で幸せに暮らしていこうよ」  咲桜は無表情に樹生を見ていたが、「わたしが自 分で決めたことだから」といった。「樹生くんは 断って。そして生きて」  「そんな……」  「そろそろ時間だ」黒木がいった。「うじうじ悩ん でる奴をいつまでも待つほど、ひまじやないんだ」  「わかったよ」黒木を見ていった。「ソニョンと咲 桜と一緒に行くよ」  そのとき、咲桜の表情が青ざめたように見えた。  「これがお前の選択ということでいいんだな」黒木 が念を押した。  樹生がこたえた。「ああ。ぼくが決めたことだ」  一人の部屋。深夜○時過ぎ。蘭の花の匂いが鼻に つく。  ソファに座ってぼんやりと高層ビルの夜景を眺め ていた。  HALからメッセージが届いた。 データありがと ラザルスのエンジニアのコンピュータに侵入し たよ これで準備OKだ       い1111  翌日、カオサンの大麻ショップの屋上にいた。五 ヵ月ほど前にここで沈没男とマリファナを吸ったと きは、アメリカのパンクバンドがどうとかの他愛な い話をした。  今日の沈没男は目が据わっていて、最初から言葉 に棘があった。  「ずっとお前のことが気に食わなかったんだ。高学 歴を鼻にかけやかって。あちこちの風俗店を紹介し てやっだのに、女一人抱こうとしない。それなのに 落ちぶれて年くった元アイドルを女にして、そんな に楽しいか?」  いらいらとした仕草でジョイントに火をつけると、 樹生に向けて煙を吐き出した。  「そもそもあの女と知り合ったのだって、俺が黒木 を紹介してやったからじやないか。それなのに礼の ひとつもない。そういう態度が傲慢でふざけてて、 頭にくるんだよ」  樹生は黙って沈没男の呪詛の言葉を聞いていたが、 それが終わると「で、いくら必要?」と訊いた。  「とりあえず一万ドル、それもいますぐ」  「そんなカネ、用意できるわけないよ」  「なにタメ囗きいてるんだよ」沈没男の顔が紅潮し た。「秘密をすべてバラしてやるからな」  「秘密?」と訊いた。  「ああ、日本でなにをやったのか、ぜんぶわかって るんだ。炭治郎のカネをI〇億もマネーロンダリン グしただけじゃなく、それを北朝鮮の秘密組織に渡 したらしいじゃないか。俺が密告したらお前は逮捕 されて刑務所行きだ」  沈没男は顔を歪めた。笑ったつもりらしい。「お 前みたいなふざけた野郎には、似合いの末路だ」  「そんなの、どこにも証拠なんてないよ」  「なんでそんなことわかる? 俺をなめるなよ」顔 がさらに歪んだ。「こっちはお前の本名も、実家も ぜんぶ知ってるんだ。それをぜんぶバラしてやろう か」  「どこからその話を聞いたの?」  「お前に関係ないだろ、そんなこと」吐き捨てるよ うにいった。  「公安でしよ」樹生かいうと、沈没男の顔に一瞬、 動揺が走った。  「なんでだよ?」  「東京で、公安の尾行がついていることに気づいた。 その理由をずっと考えてたんだけど、ようやくわ かったんだ。ぼくが帰国する予定を伝えたでしよ」  公安は特殊詐欺などには興味をもたないだろうが、 黒木の会社が北朝鮮との貿易を仲介していることを 知っていた。そこで、樹生の行動を監視することに したのだ。  「タイに戻る航空便を知ったのも、公安からの情報 ですよね。それでバンコクのヤクザ組織に依頼して、 空港でぼくを拉致しようとした」  沈没男は公安とのやり取りから、日本での取引が 当初の1000万ではなく、ずっと大きいことに感 づいた。そこで樹生を拉致してなにがあったか白状 させ、炭治郎と黒木からカネをせしめようとしたの だろう。これなら、借金にさらに借金を重ねて手付 金の五万パーツを用意した理由もわかる。  「関係ねえだろ。そっちこそ証拠があるのか?」図 星を指されて、沈没男が突っかかってきた。  「利用されてるんですよ、公安に」樹生はいった。  「なんだって」と唾を飛ばした。「俺があいつらを 利用してるんだ」  黒木の仕事をするようになった樹生を沈没男が頻 繁に呼び出し、近況を知ろうとしたのも公安の指示 にちがいない。  「あの北朝鮮の若い男の写真だって、公安からの情 報ですよね」樹生は顔にかかった唾をぬぐっだ。公 安はおそらく、北朝鮮の諜報組織に潜り込ませてい る二重スパイからラザルスのエンジニアに関する情 報を入手したのだろう。だがそれ以上の詳細がわか らないため、情報屋を使って調べようとしたのだ。  「で、カネはどうするんだよ」これ以上の議論は無 駄だと思ったのか、沈没男が話を蒸し返した。  樹生の前には、日本がゆたかだった時代の幻想に しがみつき、「貧乏な東南アジア」をバカにしてい る哀れな日本人がいた。いまやタイ人のほうが自分 よりゆたかになったことを認められないのだ。  それは、中国にGDPで大きく引き離され、国民 のゆたかさを示す一人あたりGDPでも、香港やシ ンガポールはもちろん、台湾や韓国にも抜かれて 「アジアでは一番」という自尊感情を踏みにじられ、 排外主義になぐさめを見出す日本社会の戯画のよう でもあった。  「お断りします」樹生はいった。「自分の借金は、 自分で返しなよ」  沈没男は、タイの高利貸しから脅されてどうしよ うもなくなっていた。今日中に返済しないと腎臓を 売ることになる。  立ち上がろうとする樹生を、「ふざけるなよ」と 沈没男が怒鳴った。「あっさり帰れると思ってん じやねえよ」  沈没男はあたりを見回した。いつもは一階の ショップで買ってきた大麻を試す白人の若者ばかり なのに、今日は入れ墨をしたタイ人が七、八人、フ ロアの端に固まってこちらを見ている。  「俺の借金は、お前が代わりに払うことになってる んだよ」沈没男が毒々しく笑った。「好きなだけ痛 めつけていいって伝えてあるから、せいぜい楽しむ んだな」  樹生はもういちど腰を下ろすと、沈没男を見た。 匸銭も払わずに、そんな与太話でこの男たちを動 かせると思ってるんですか?」  「どういうことだよ」沈没男の顔から笑いが消えた。  タイの裏社会には、現地のヤクザ組織と外国のマ フィアが共存する仕組みがあって、日本人に対する 犯罪依頼もネットワークを通じて情報が流されるの だと教えた。「空港での拉致と同じく、今回のこと も黒木さんのところに実行していいかと問い合わせ が来た」  「そんな……」脅えたようにあたりを見回した。  「それで、黒木さんがその依頼を買い取った。ここ にいる男たちは、彼に雇われてるんだ」  「なんのために……」  「そこまでは聞いてないよ。お前らの好きなように していい、とかじやないかな」  「なあ、たっちやん。俺たちこれまで仲良くやって きたじやないか」いきなり口調が変わった。「なん とか黒木に頼んでくれよ。どんなことでもするっ て」  「自分で電話すればいいよ。番号、知ってるで しよ」  「頼むよお」泣きそうな顔でいった。「これまでい ろんなことを教えてやっただろ。ウマい飯屋とか、 ロックの歴史とか」  「楽しかったよ。ありがとう」そういうと、リュッ クをつかんで出口に向かった。エレベーターの前に 「temporarily closed(一時閉鎖)」の札がかかり、黒の Tシャツを着た男が立っていた。男は樹生を見ると 軽く頭を下げ、下りのボタンを押した。  「助けてくれよお」沈没男が叫んだ。もちろん、そ の声はどこにも届かない。  「終わったのか?」  大麻ショップのあるビルを出て、カオサンの突き 当りにあるタナオ通りに止めたセダンの助手席のド アを開けると、ソニョンが訊いた。  「ああ、あまり気分がよくないけどね」とこたえた。 後部座席に座った咲桜が、無表情に街を眺めていた。  「じやあ、行くぞ」といって、ソニョンが車を発進 させた。  いつもの渋滞を抜け、戦勝記念塔の先で高速に乗 り、アユタヤ方面に向かった。去年の匸一月に男た ちに連れていかれたのと同じルートを辿ることにな る。  ナコーンサワンの小さなショッピングセンターで 休憩をとっだ。ここでピン川とナーン川が合流して、 バンコクに向かうチャオプラヤー川に変わる。  トイレをすませて車に戻ろうとすると、咲桜に呼 び止められた。  「どうして来だの?」と訊かれた。「ここで誰かに 頼んで、長距離バスのターミナルまで連れてっても らって、バンコクに戻ってよ」  「咲桜は行くんでしよ」  硬い表情でうなずいた。 「咲桜こそ、こんなことになんの関係もないだろ。 一緒に帰ろうよ」 「それはできないの」といわれた。 「だったら、ぼくも一緒に行くよ」 「だから、なんで?」 「後悔したくないからだよ」とこたえた。「これで 咲桜になにかあったら、ぼくはこのあと、ずっとそ のことばかり考えて生きていくことになる。そんな 人生はイヤだよ」  咲桜は深いため息をついた。そして、車に向かっ て歩き出した。  1号線からミャンマーに向かうD一号線に入る頃に は日は傾いていた。咲桜は疲れたのか、後部座席で 横になって眠っていた。  「咲桜は不思議な女だな」これまで黙っていたソ ニョンが、唐突に話しかけてきた。  樹生か黙っていると、そのまま話しつづけた。  「俺が黒木の会社に出入りするようになった頃、夜 中に一人で残って北朝鮮からの連絡を待っていたら、 咲桜が現われて、「お腹すいてるでしよ」といって うどんをつくってくれた。「日本風だけど」といっ て、唐辛子も一緒にもってきた。あれ、なんていう んだっけ。甘いはんぺんみたいなのが載ったやつ」  「それは油揚げ。きつねうどんつていうよ」  「なんできつねなんだ」  「きつねは油揚げが好きだと思われてるからじゃな い?」  「そのときはじめて食べた。ものすごくウマかった。 世の中にこんなウマいものがあるのかと思った」  「咲桜の料理はなんでも美味しいからね」  「俺が夢中で食べ終わると、咲桜は日本茶をもって きて、俺の前に座った。それから、「血の匂いがす る」といった」  「血の匂い?」樹生は訊いた。  「俺はこれまで、たくさんの人間が血を流して死ん でいくのを見てきた。その血が俺の身体にこひりつ いているのかと思った」ソニョンはそこで、言葉を 探すように黙った。「そしたら咲桜は、「あなたのこ ころはいつも血を流してるのね」といったんだ」  樹生は、その場面を想像した。  「俺は驚いて咲桜を見た。否定しようと思ったが、 うまくいえなかった」ソニョンは小さなため息をつ いた。「咲桜は無言のまま、俺を見ていた。そして、 「あなたは誰?」と訊かれた」  こんどは大きく息を吐いた。  「咲桜の瞳は不思議だな。あの目でじっと見つめら れると、こころの底までさらけ出したような気に なってくる。知らないうちに、俺は自分のことを話 していた。これまで誰にも知られたくないと思って いたのに」  「うん」  「そのうち、頬が濡れていることに気づいた。俺は 泣いていたんだ」ソニョンは樹生に目をやった。 「そしたら咲桜は立ち上かって、後ろから俺を抱い てくれた。そのまま俺は泣きつづけた」  前方に視線を戻した。  「だから、俺は咲桜を守らなければならない」と、 ソニョンはいった。  樹生はその言葉の意味を考えていた。さまざまな 疑問が湧いたが、それは囗にしないでおくことにし た。  「黒木が、みゆきの面倒を見ていたといっただろ。 梁っていう在日のヤクザの妻で、俺にとっては伯母 にあたる」ソニョンは話を変えた。「そのことを 知っていて、黒木は俺を雇うことにしたのか?」  日本では、北朝鮮に関係する人間を公安が徹底的 に監視している。みゆきと娘のあんずは北朝鮮にい る親や親戚を訪ねたというから、それで監視リスト に載ったのだろう。黒木は、沈没男を通じて公安の 情報を手に入れることができたはずだとこたえた。  「黒木は、自分が興味をもっだ人間の選択を知りた いんだろ」ソニョンがいった。「お前は選択した。 咲桜も選択した。俺はなにを選択したんだろうな」  樹生はその問いにこたえることができなかった。  「俺の人生に選択なんて贅沢なものはなかった。生 き延びることがすべてだった。こんなことにお前を 巻き込んですまなかった」  「このままだと、君は北朝鮮に送られるんだろ」樹 生は訊いた。  「帰国命令を無視したから、もう逃亡者だ。発見さ れれば、その場で殺される」  「ぼくが君だったら、その運命から逃れるためにど んなことだってする。そこにたまたまぼくがいただ けだ。恨んでないよ」  ソニョンは驚いた顔で樹生を見た。そして、小さ く笑った。「お前、あんがいいい奴だな」  12号線を三〇キロほど進んだところで脇道に入り、 空き地に車を止めた。  「この先に軍の検問所がある。車内を調べられると 面倒だから、ここに車を置いて山を越える」とソ ニョンがいった。  車を降りると、三人はミリタリーショップで買っ てきた迷彩柄のジャケットとパンツに着替え、ブー ツを履いた。ソニョンがトランクから大きなリュッ クを引っ張り出して背負い、「もうすぐ暗くなる。 すぐに出発するぞ」と命じた。「足を踏み外すと転 落するから、俺のあとを正確についてこい」  タイの森ははじめてだったが、三〇メートルはあ ろうかという高い樹が密生し、日の光がほとんど 入ってこないため、下生えの植物があまりなく、乾 季で土が固いこともあって思いのほか歩きやすかっ た。それでもソニョンがナタでツルを払わなければ 先に進めないところもあった。咲桜が何度か足を滑 らせ、最後尾の樹生か支えた。  民警時代に山中でのゲリラ戦の訓練を受けたソ ニョンは、ほとんどコンパスも見ずに地形だけで進 行方向を決めた。二時間ほど歩き、車道に出たとき にはすでに日は落ちていた。  「お前たちはここで待ってろ。俺は近くの村で車を 調達してくる」ソニョンはそういうと、リュックか ら取り出した暗視ゴーグルをつけた。  咲桜と二人で暗闇のなかに取り残された。月はな く、スマホのライトは使うなといわれていたので、 すぐ隣にいるはずの咲桜の顔さえわからない。「こ こまで来たら、もう戻れないね」といったが、なん の返事もなかった。  三〇分ほどして、車のヘッドライトが近づいてき た。咲桜の手を引いて森に隠れた。  古いピックアップトラックが止まって、ソニョン が降りてきた。リュックを荷台に積んで出発した。  一時間ほどで、国境の町メーソットに着いた。モ エイ川に架かる橋の手前に税関と検問所が置かれて いる。その手前で脇道に入ると、小さな商店が並ぶ 通りを抜けて、農家の前に車を止めた。  「ここは……」樹生はつぶやいた。  「あそこが、お前が監禁されていた家畜小屋だ」ソ ニョンが農家の隣にある崩れそうな建物を指さした。 「その先の堤防を越えると船着き場がある。そこか らボートで川を渡る」  午後九時を過ぎて、あたりにひとの気配はなく なった。暗視ゴーグルで周囲を確認し、ソニョンは 「行くぞ」といった。   一〇分ほど歩くと、モエイ川の土手に出た。その 下に小さな船着き場があり、古いボートが三艘泊 まっている。  「どうする?」と訊くと、「あそこにいる奴らを片 づけて、ボートを奪う」とソニョンがいった。  「それはダメだよ。罪のないひとを傷つけるのは ルール違反だ」  ソニョンを制し、リュックからノートパソコンを 取り出した。「ぼくに考えがある」  パソコンを起動して、ハッキングしたスマホの データを検索した。  「これが、ぼくを空港で誘拐した男のスマホだ」樹 生は説明した。「そしてこれが、男が連絡していた 船頭の電話番号。ここからSMSを送って呼び出し てみるよ」  樹生は「いますぐ川を渡りたい。一万パーツでど うだ。迎えに来てくれ」という文章を自動翻訳で夕 イ語にして送信した。  しばらくすると、船着き場から一人の男が出てき た。あたりを慎重に見回したあと、こちらに向かっ て歩きはじめた。ロンジーという巻きスカートをは いているから、ミャンマー人なのだろう。  男が近づくと、ライトを点灯したスマホを振った。 船頭は、迷彩服を着た樹生と咲桜を見て驚いた顔を した。茂みに隠れていたソニョンが男の後ろに立っ た。  船頭が声をあげる前に、一〇〇〇パーツ札一〇枚 を目の前に差し出した。ノートパソコンに地図を表 示させ、三キロほど上流にあるカジノを指さした。 それから、スマホの翻訳で「ここに行きたい」と表 示させ、札束をふたつに分けて片方を男の手に握ら せた。  五〇〇〇パーツは日本円で二万円ちょっとだが、 このあたりでは月収に匹敵するだろう。男は自分の 手のなかの札束を見て、それから樹生の手のなかに ある残りの札束に視線が吸いつけられた。脅えては いたものの、この機会を逃してはならないことも理 解したようだ。  船頭がうなずくと、ソニョンが「俺が一緒に行っ て船をもってくる。お前たちはそこから土手を下り て、河原で待て」と命じた。  一〇分ほどでボートが近づいてきた。船頭がエン ジンを切って、船は浅瀬に乗り上げた。ソニョンが 咲桜を片手で引っ張り上げ、樹生かつづいた。船頭 はいったん降りて船を押し、浅瀬を離れるときに器 用に飛び乗った。  大きく蛇行する川をしばらく上ると、カジノの巨 大なシルエットが見えてきた。かつては不夜城だっ たのだろうが、このところの混乱でタイ側からの電 力を止められており、自家発電でかろうじて一部の 設備を動かしているようだった。カジノの専用船着 き場を利用する者もいなくなったらしく、船は一艘 も泊まっていなかった。  船が着くと、残りのカネを船頭に渡した。  ソニョンが、「このまま帰せば国軍に通報するだ ろう。ここで始末する」と耳元で囁いた。  「だから、それはダメだといっただろ」  樹生はスマホを取り出すと、「ここで待っていて くれ。もとの場所まで送ってくれたら二万パーツ払 う」という文章を翻訳して男に見せた。  船頭は満面の笑みを浮かべ、両手を合わせるタイ 式の感謝の仕草を何度も繰り返した。  「ぼくたちのことを通報したら、四ヵ月分の収入を どぶに捨てることになる。ぼくは彼が合理的なほう に賭けるよ」  ソニョンは「ふん」と鼻を鳴らすと、咲桜の手を 引いて船を降りた。  船着き場の階段を上がるとカジノの裏口に出た。 タイに近く4Gの圏内で、通信には問題なさそう たった。  樹生はリュックを下ろすと、「ここでセットする」 と二人にいった。  小型カメラを装着した眼鏡を取り出し、Bluetooth でスマホと連動させ、ビデオ通話の設定をした。  HALから、「つなかったよ」というメッセージ が届いた。「動かしてみて」  眼鏡をかけてあたりを見同した。次にイヤホンを 耳に差し、Bluetoothでつないだ。  「聞こえる?」  「ばっちりだよ」機械音に変えた声でHALがいっ た。「君と話すのははじめてだね。楽しみだよ」  樹生は「よろしく」と返事をした。  気がつくと、ソニョンと咲桜がなにか言い争って いるようだった。それからソニョンがノートパソコ ンを取り出した。  「あれがソニョンと咲桜なんだね。実物が動いてい ると臨場感があるよ」HALがいった。  作業が終わったらしく、ソニョンがノートパソコ ンをしまい、樹生のところにやってきた。  「準備はできたのか?」 「うん。咲桜となにを話してたの?」 「お前には関係のないことだ」といわれた。  カジノからIキロほど南に下ったところに園区が あった。正門に監視塔があり、三メートルはある高 いコンクリート塀に囲まれている。塀の上にはI〇 メートルおきに監視カメラが据えつけられており、 有刺鉄線は内側を向いていた。外部からの侵入を警 戒するのではなく、強制収容所と同じで、なかの人 間が逃げないようにしているのだ。電力などのイン フラを共有するためだろう、ラザルスの施設はこの 園区のI角につくられていた。  かつてはこの敷地内で中国人を中心に、一〇〇〇 人以上がオンライン詐欺に従事させられていた。そ のなかにはだまされて連れてこられた者もいれば、 自分から望んでやってきた者もいただろう。だが一 月中旬以降、中国政府が圧力を強めたことでタイと ミャンマーは国際的な詐欺グループを放置しておく ことができなくなった。  ソニョンがいったとおり、三日前にミャンマー軍 による大規模な捜索があって、詐欺に関係する者た ちは片っ端から拘束されていた。そのため監視塔は もちろん正門にも警備員はおらず、園区全体が半ば 放棄されていた。ラザルスの施設は詐欺とは無関係 なため捜索の対象にはならなかったが、自家発電で は限界があるため、他の場所に移転する準備を進め ているはずだった。  園区への侵入は拍子抜けするほど簡単だった。ソ ニョンはリュックから取り出したロープを正面ゲー トの鉄扉の上部に器用に引っかけ、あっというまに 登るとワイヤーカッターで有刺鉄線を切断した。 ロープを放って向こう側に下り、内側から通用門の ドアを開けた。  敷地は広大で、同じような三階建ての建物がI〇 棟以上並んでいる。バスケットコートが三面、いち どにI〇〇人は入れそうな大きな食堂、病院や薬局 の看板を掲げた建物もあった。ラザルスが使ってい るのは、中心部から離れた施設だった。  暗視ゴーグルをつけて先導していたソニョンが 「止まれ」と指示した。衛星写真ではわからなかっ たが、ラザルスの施設の周囲にだけ高さニメートル ほどの鉄条網が張り巡らされていた。  「園区の警備がなくなっだので、慌ててこれをつ くったんだろう。あいつらの考えそうなことだ」ソ ニョンはそういうと、草を引き抜いて鉄条網に放っ た。ジジッというイヤな音がして、草が一瞬で消え た。  二万ボルトちかい電流が流れている。触れれば人 間の身体も炭になる」  「どうする?」  「電線を切れば警報が鳴るようになっているだろう。 この下をくぐるしかない」  リュックから小型のスコップを取り出し、電線の 手前の土を掘りはじめた。  「そんなことができるの?」  「部隊の仲間を餓死から救うために何度もやった。 生命を賭けて数切れの肉片を手に入れるんだ。そう やって生き延びてきた」  電線の下まで掘ると、ソニョンはアーミージャ ケットとミリタリーパンツを脱ぎ、下着のまま匍匐 の姿勢になって向こう側を掘りはじめた。一〇分ほ どで、人間がI人くぐり抜けられる通路ができた。 ソニョンは両肘を使って器用に前進し、鉄条網の向 こう側に出た。リュックとジャケットを受け渡した。  「服にすこし触れただけでも発火する。お前らも服 を脱げ。最初は咲桜からだ」  咲桜はなんの躊躇もなくブラジャーとショーツだ けになると、自分の持ち物をソニョンに渡し、腹ば いになって電線の下に頭を入れた。  「ぜったいに身体を浮かせるな。腹を地面につけた まま、肘と足首だけで前進するんだ。ゆっくりでい い」  身体が半分ほど入ると、「両手を伸ばせ」とソ ニョンがいった。「これから引っぱるから、力を抜 け」  咲桜を慎重に引っぱり出すと、「こんどはお前だ」 と樹生を見た。リュックと服、ブーツを穴に入れて 向こう側に渡す。それから腹ばいになり、頭を電線 の下に入れた。そのとたん、電磁波の圧力を感じた。 人間が背中から火を噴いて炭になる話を思い出した。 恐怖で身体が硬直した。  「しっかりして」咲桜が低い声でいった。  気を取り直して、肘だけ使って前進した。  「よし。腕を伸ばせ」ソニョンがいった。「腹を地 面から浮かせるな」  すこしずつ引きずられた。それを五、六同繰り返 し、ようやく身体が穴から抜けた。四つん這いに なって息を整えていると、咲桜が黙って樹生を抱き しめた。  服を着てブーツを履いたあと、HALに「感度は どう?」と訊いた。  「大丈夫。みんな生きててよかったね」機械音が いった。「スパイ映画よりリアルで興奮するよ」  施設の一階は窓のない壁で、一ヵ所しかない扉は 電子錠たった。黒のパネルに赤いLEDが点滅して いて、鍵穴はない。  「エンジニアのスマホを乗っ取っただろ。そのデー タをこっちに送ってくれる?」樹生はソニョンに いった。「スマホでこの電子錠を解錠できると思う んだ」  ソニョンからノートパソコンにデータが送られて きた。そこからNFC(近距離無線通信)用の認証 プロファイルを抽出して、バイナリデータを自分の スマホに転送する。認証アプリを再起動し、書き換 えたプロファイルを読み込むと、スマホ画面に 「フ「冖∩回乱y」の文字が表示された。  樹生かスマホを電子錠にかざすと、パネルのLE Dが赤から黄色に変わり、次いで緑が点滅してドア が開いた。  「TATSUすごいよ」HALが機械音でいった。 「さすがだね」  建物のなかは真っ暗たった。暗視ゴーグルをつけ たソニョンが、「どうする?」と訊いた。  「施設全体のセキュリティを管理する部屋があるは ずだ。まずはそこを押さえる」とこたえた。  「俺が探す。お前たちはここにいろ」ソニョンが いった。  しばらくして戻ってきたソニョンが、「明かりが 漏れている部屋がひとつある。なかに人間の気配も する」といった。  暗闇でなにも見えないので、ソニョンが咲桜を、 咲桜が樹生を引っぱって進んだ。  その部屋のドアはよくあるテンキー錠で施錠され ていた。暗視ゴーグルをつけたままソニョンはポ ケットからドライバーを取り出し、カバーを外すと シリンダーを露出させた。電池の消耗などでテン キーが反応しなくなったとき、ここに鍵を差し込ん で強制解錠できるようになっている。  ソニョンはスコープで鍵穴のなかを調べ、「これ ならピッキングでいけるな」といって、ピンセット のようなもので鍵穴を固定し、ドライバーを突っ込 んで何度か動かした。三〇秒ほどで鍵穴が横に動い て解錠した。  「俺が飛び込んでなかの人間を制圧する」そういっ て、リュックから小型の拳銃を取り出して樹生に差 し出した。  「こんなの触ったことないよ」小声でいった。  「誰でも使えるグロック17だ」ソニョンがスライド を引いた。「これで弾が装填された。あとはトリ ガーを思いきり引けばいい。それで安全装置が外れ て銃弾が発射される」  ソニョンは拳銃を樹生に渡すと、「俺になにか あったら、お前が咲桜を守れ」といった。  ゆっくりとドアノブを回すと、ドアを押し開けて ソニョンがなかに飛び込んだ。短いうめき声がして、 すぐに静かになった。「終わった。人ってこい」と いうソニョンの声がした。  管理室の床に中年の男が転かっていた。「こいつ 一人だけだった。銃を使わずにすんだ」ソニョンが いった。  男は失神しているらしく、浅く息をしていた。 「しばっておきなよ」と樹生はいった。 「始末すればいいんだよ」ソニョンが言い返した。 「ミャンマー人だろ。雇われてるだけだよ」  ソニョンは「めんどくせえな」と愚痴ると、 リュックからテープを出し、男の目と囗を覆い、手 首と足首を手際よくテープで巻いたうえで柱にしば りつけた。  その間、樹生は施設を管理するコンピュータを チェックした。サーバーのハッキング対策は徹底し ていても、建物のセキュリティはラザルスの管轄外 らしく、ミャンマー人の警備員は管理者権限でログ インしていた。樹生はルーターのファイアウォール を解除して、IPアドレスをHALに伝えた。  「ログインしたよ」すぐにHALから返事が来た。 「この建物のセキュリティシステムは制圧した」  モニターの画面が施設の概略図に変わった。ごく ふつうのオフィスの配置で、一階が事務室、二階に 従業員の居室が並び、三階は食堂や会議室になって いるようだった。だが一階の奥に、ほかとは厳重に 隔離された一角がある。廊下には三重の扉があり、 その奥に小さな部屋があった。ここがサーバールー ムにちがいない。裏側に電力変換ステーションがあ り、サーバー用の冷却ファンが置かれている。  「建物のなかは電波が弱いから、Wi-Fiに切り替え て」HALがいった。「バックアップ用のスターリ ンクのWi-Fiを解放したから」  ソニョンと咲桜にそのことを伝えて、全員のスマ ホを無線LANにつないだ。  「オーケー。あとはサーバールームに侵入して、コ ンピュータを起動してネットワークにつなぐだけだ よ」HALがいった。  ソニョンが、「この扉は開けられるのか?」とモ ニターを指さした。  それをHALに伝えると、「合図してくれればい つでも」とこたえた。  いちいちあいたに入るのは面倒なので、ソニョン と咲桜にもBluetoothのイヤホンとマイクを渡し、 HALと直接会話できるようにした。  「やあソニョン。やあ咲桜。話ができて光栄だよ」 HALが英語でいった。「ぼくたちはチームだ。一 緒にこのゲームを楽しもう」  ソニョンが「ゲームじやねえんだよ」と日本語で 毒づいた。  そのまま部屋を出ようとするソニョンを、樹生か 呼び止めた。  「もしすべてがうまくいったら、どのウォレットに クリプトを送金するのか、先に聞いておきたいんだ けど」  「これが俺のウォレットだ」ソニョンはスマホに記 録されたIDを見せた。樹生はそれをカメラで撮っ た。  部屋を出ると、管理室のテンキーをソニョンがリ セットした。「これで鍵を破壊しないとドアは開け られない。なにが起きたかすぐには把握できないだ ろうから、時間が稼げる」  HALが全員のスマホに施設のマップと現在位置 を表示させた。ソニョンが暗視ゴーグルをつけ、 「音をたてずについてこい」といった。  一階には誰もいないらしく、最初の扉まではなん なく到達できた。  「いよいよこれからだね」HALがうれしそうに いった。  「なかがどうなってるかわかるか?」  「勤務シフトを手に入れたよ」HALがこたえた。 「サーバールームを守る特殊部隊は二四人。第一の 扉と第二の扉の後ろに二人ずつ、第三の扉の後ろに は五人いて、サーバールームには三人の兵上が常駐 している。残りの匸一人は建物の二階の部屋で就寝 中で、警報が鳴ってから装備をつけ、サーバールー ムに到着するまでに二〇分かかる」  「サーバーをパックするまでに何分必要だ?」  「ネットワークにつないでポートを開けてくれれば、  一〇分で乗っ取れるよ」  HALの返事を聞いてソニョンはしばらく考えて いたが、「だったら短期決戦だ。一気に決着をつけ る」といった。  「サーバールームから廊下を通って建物から出るま でにすくなくとも五分はかかる。それまでに特殊部 隊の兵上と遭遇したら、生き残るチャンスはない よ」樹生は反対した。「もっと成功確率の高い方法 を考えるべきだよ」  「あと三〇分で交代の時間だ。そのとき管理室を確 認するのが手順になってるよ」HALがいった。  「だったら決まりだ」ソニョンが銃にサイレンサー をつけた。「お前たちそこで伏せてろ」  銃を構えてドアの前に立つと、ソニョンがHAL に「開けろ」といった。  ドアの上部のランプが点滅してスライドした。廊 下は薄暗い蛍光灯で照らされていた。兵上が二人、 きよとんとした顔でこちらを見た。  プシユツという音が二度すると、兵上の額に穴が 開いて血が噴き出した。悲鳴をあげそうになった咲 桜が、自分の囗を押さえた。  「第一ステージクリアだね」HALがいった。三人 がなかに入るとドアが閉まった。  ソニョンは死んだ兵上の自動小銃を拾うと、弾倉 をアーミージヤケットのポケットにありったけ詰め 込み、二番目のドアに向かった。  ドアの向こうの兵上は、椅子に座って居眠りして いた。ソニョンが音をたてずに近づき、二人を射殺 した。  「第ニステージも楽勝だね」HALがいった。「で も次は五人いるよ」  ソニョンは床に伏せて自動小銃を構え、「開けろ」 といった。ドアがスライドすると、その隙間に弾丸 を撃ち込んだ。タッタッタツという軽快な音が三秒 ほどつづいた。ドアがすべて開くと、五人の兵上が 血まみれで床に倒れていた。  「第三ステージクリア。で、次はどうする?」HA Lが訊いた。  廊下の奥にあるサーバールームのドアは閉まった ままたった。そこには三人の兵上がいるが、彼らの 任務はコンピュータを守ることなので、部屋から出 ることを禁じられているのだろう。外の騒ぎを報告 したあと、ドアの向こうで銃を構えて待ち受けてい るにちがいない。  ソニョンはドアの陰まで移動すると、暗視ゴーグ ルをつけた。  「ドアが開くと、あいつらは乱射してくる。跳弾を 避けるため、できるだけ離れていろ」と、ソニョン が樹生と咲桜に命じた。「いったんなかに入ってし まえば、サーバーがあるから、安易に発砲できなく なる」  それからHALに、「このドアを開けたら照明を 落としてくれ」といった。  「オーケー」  ランプが点滅して、ドアがスライドした。すさま じい銃撃音がして、廊下の壁が砕け散った。  その瞬間、すべてが暗闇に包まれた。銃撃が一瞬 止まった。ソニョンがサーバールームに滑り込んだ のが気配でわかった。  短い銃声が三回して、「電源を入れろ」というソ ニョンの指示が聞こえた。「入ってこい」  サーバールームに足を踏み入れると、空調の冷気 が顔に当たった。壁際にラックマウントされた不揃 いなサーバーが並び、青いLEDライトが点滅して いる。三人の兵上の死体が転かっている床にはケー ブルが絡まり、ほこりが薄く積もっていた。  サーバーの前に、Tシャツに短パン姿で、眼鏡を かけた若い男が呆然と突っ立っていた。写真に写っ ていたエンジニアだ。認証システムを復旧させるた めに徹夜で作業していたらしく、頬がげっそりこけ ている。  ソニョンが男と朝鮮語で短い言葉を交わした。 「なんだって?」と訊いた。 「助けてくれ、どんなことでもするといってる」ソ ニョンがこたえた。  「君がイージョンヒョク?」樹生は英語で訊いた。  驚いたような顔をしたあと、うなずいた。  「ぼくたちと一緒に来る?」  エンジニアはもういちどうなずき、「ほかに選択 肢はないよ」と英語で弱々しくこたえた。  「だったらこいつをログイン画面にしてくれ」  樹生はカメラが埋め込まれたサーバーを指さした。  エンジニアはキーボードに向かい、震える手で キーを叩いた。画面に認証用プロンプトが表示され た。咲桜がカメラに目を近づけると、レンズが赤く 光り、虹彩スキャンが始まった。  数秒後、モニターの緑のチェックマークが点滅し、 ウォレットの管理インターフェイスが現われた。ク リプトの残高やトランザクションの履歴が表示され ている。  「君だったんだね」と、エンジニアが咲桜にいった。  樹生はサーバーの背面に回り、ネットワークケー ブルを壁の端子につないだ。セキュリティのコン ソールでファイアウォール設定を開き、すべての ポートを開放した。  「オーケー。エンジニアのコンピュータを経由して、 バックドアからサーバーに侵入したよ」イヤホンに HALの機械音声が響いた。  「これでHALがマルチシグを突破するのを待つだ けだ。咲桜の役割は終わったから、先に逃がした い」樹生はソニョンにノートパソコンの画面を見せ た。「表の電流はHALが切った。ドアはここから 操作できるから、咲桜が通り抜けたあとに閉める」  「いいだろう。船着き場で待ってろ」ソニョンは いった。  「わたし、ここに残る」咲桜が言い返した。  「なんで……」樹生の言葉を制して、咲桜がいった。  「そのために、ここまで来たんだから」  じりじりと時間が過ぎた。  「マルチシグは迂回しだけど、特定のウォレットに しか送金できない設定になってる。それもパックし なきやいけないから、もうちよつとかかる」HAL から報告が人つだ。  「どれくらい?」  「二分」  樹生はキーボードの前で待機した。ソニョンは額 に流れる汗もぬぐわず、モニターを見つめていた。  「オーケー。セキュリティを解除したよ」   モニターの画面に送金フォームが現われた。樹生  はキーボードを叩いてアドレスを入力し、ウォレッ  トにあるクリプトをすべてそこに送金する指示を出  した。トランザクションがキューに入り、ブロック  チェーンへのブロードキャストが始まった。  振り向くと、ソニョンが銃を向けていた。目が血 走っている。  「なにをした」  「君のウォレットに送ったよ」とこたえた。  「うそをつくな」ソニョンが怒鳴った。「そんなわ けはない」  樹生はモニターの画面をソニョンに見せた。 「さっき、君のアドレスを教えてくれたよね。いち ど見た数字は覚えておけるんだ」  ソニョンはウォレットのIDを確認した。「いく ら入ってる?」  「まだイーサだけだけど、一億ドルくらい。ぜんぶ 君のものだよ」  ソニョンが銃を下ろした。「すまなかった」  「ぼくは咲桜のためにここに来た。君にとっては大 切なカネでも、ぼくにはなんの意味もない」樹生は いった。「それより、ここから早く抜け出さなきや」  そのとき、低い爆発音がして建物が揺れた。  「くそ」ソニョンが毒づいた。「もう来やがっだ」  「最初のドアが爆破された」HALがいった。  「どうすればいい?」と訊いた。  「廊下の奥に非常階段があって、そこから二階に行 けるよ」  「上の階は行き止まりじやないか」  「そこにいれば確実に殺される。わずかでも生存確 率を上げるべきだよ」とHALはいった。  二度目の爆発音がした。奴らがやってくる。  「上に行く」そう叫んで咲桜の手を取った。エンジ ニアがそれにつづいた。  非常階段に通じるドアを開けたとき、ソニョンが 「お前たちは先に行け」と命じた。「俺はここであい つらを食い止める。できるだけ敵の数を減らしてお かなきやいけない」  そのとき爆発音がして、ドアが壊れた。ソニョン が自動小銃を構えた。特殊部隊の姿が一瞬見えた。 防毒マスクをしていた。  「毒ガスだ!・」と樹生は叫んだ。  その瞬間、紫色の煙がソニョンを包んだ。咽喉を かきむしって倒れたソニョンに銃弾が撃ち込まれた。  悲鳴をあげる咲桜を押してドアを閉め、階段を駆 け上がった。二階にはドアが五つ並んでいた。  「ソニョン、ゲームオーバーか。残念たったね」H ALがいった。「君たちは、窓のある部屋を探して」  順番にドアを開けていった。三つ目の部屋に窓が あったが、人間が通れる大きさではなかった。  「いよいよ切羽詰まったね」HALの機械音声は楽 し気たった。「ここで最後のゲームをしよう」  「なんのことだ?」  「メールを送ったよ。その指示に従えば、君たちを 助けてあげる」  ノートパソコンを開き、暗号化されたメールを見 た。ウォレットのアドレスが並んでいる。  「これは……」樹生はうめいた。  「君の全財産だよ」HALはいった。「それをいち ばん下のウォレットにすべて送って」  質問している余裕はなかった。樹生はラブアンの サーバーにアクセスすると、記憶している秘密鍵を 打ち込み、クリプトの送金指示を出した。  「さすがにTATSUはスマートだね」HALが 笑った。「ぼくを信じなければ、君たちはここで確 実に死ぬ。信じれば、すくなくとも生き延びるチヤ ンスはある。君はゲームのルールを完璧に理解して いるよ」  「どうすればいい?」と訊いた。  「窓の下にいて。あとは着金を確認するだけ。君た ちにとって運がいいことに、今日はマイニングがそ んなに混んでないから、あと五、六分待てばいいだ けだ」  そのとき、ドアを蹴破って特殊部隊の兵士たちが 押し入ってきた。  エンジニアが両手を上げて、朝鮮語でなにごとか 叫びながら兵士のほうに向かった。銃声とともに痩 せた身体が吹き飛び、壁に叩きつけられた。  兵士たちの銃が樹生に向けられた。これで終わり だと覚悟したとき、動きが止まった。咲桜が腕を広 げて、樹生の前に立っていた。  「銃をわたしに向けて」咲桜がいった。  「なんで……」  「早くして!・」  いわれたままに、ソニョンから渡されたグロック 17を咲桜のこめかみに押し当てた。  「ソニョンに頼んで、メッセージを送らせたの」咲 桜がいった。「あの兵士たちはまだ、わたしを生き たまま捕らえるように命令されている」  「なんだって」樹生は絶句した。  エンジニアのスマホを乗っ取ったソニョンは、グ ループチャットの登録者に、サーバーのロックを解 除する虹彩情報は咲桜のものだと知らせる送信設定 をしていた。咲桜はそれを実行させたのだ。  混乱のなかで、兵士たちはどうすればいいか判断 できないようだった。無線で上司と相談を始めた。  咲桜の腰に手を同して、窓のところまで下がった。  通話を終えた兵上が、ウエストバッグから筒形の ものを取り出した。 「あれは?」咲桜が訊いた。 「たぶん催涙ガスだ。ぼくたちの動きが止まったと ころを、襲ってくるつもりだ」  兵士たちは、徐々に間合いを詰めてきた。  「あれが爆発したら、わたしを殺して」咲桜が冷静 にいった。  「そんなこと、できるわけないよ」  「わたし、樹生くんより先に死にたいの」  そのとき、「おめでとう。着金したよ」とHAL の機械音声が聞こえた。兵上がキャップを外して、 煙が噴き出す筒を投げた。  樹生は床に咲桜を押し倒すと、上から覆いかぶ さった。  その瞬間、真昼のような強烈な明かりで部屋が照 らされた。兵士たちが驚いたように窓を見た。  すさまじい爆発音とともに、兵士たちが吹き飛ん だ。もうもうとした煙が収まると、廊下の壁に巨大 な穴が開いていた。  催涙ガスにむせながら、「なにが起きたの?」と 咲桜が訊いた。  「HALがミャンマー軍のドローンを乗っ取って、 ミサイルを撃ち込んだ」樹生はそういうと、カメラ のついた眼鏡を床に捨て、ブーツで踏みつぶした。 「これがHALのゲームだったんだ」  咲桜と園区を出たときは、すでに東の空か自みは じめていた。船着き場で待っていたミャンマー人の 船頭は、二人の姿を見つけると満面の笑みで手を 振った。  血だらけのジャケットにさすがにぎよっとした顔 をしたが、なにもいわずエンジンをかけた。  ソニョンから預かったクロック17は、途中で川に 捨てた。HALからスマホに「(‘Q∃n Complete(ゲームーコンプリート)」のメッセージが 送られてきたが、アカウントごと削除した。  対岸に着くと、樹生は「ありがとう」といって、 もっていたパーツ札をすべて船頭に渡した。  土手を越えてメーソットの町に向かう頃には、太 陽はすっかり昇っていた。空は真っ青に晴れ、鳥た ちがさかんに鳴いている。  農家の空き地に、黒のベンツのワンボックスカー が駐まっていた。車椅子の黒木が、その前で二人を 待っていた。  「ご苦労だったな」黒木は咲桜に声をかけた。  「どういうことなんですか?」樹生は黒木の前に 立った。  「いっただろ」黒木は笑った。「俺はお前たちの選 択を知りたかった。だから、その結果を見に来たん だ」  「ソニョンは死んだ。ぼくたちを守ろうとして」樹 生はいった。「それで満足ですか?」  「あいつの運命たった。それだけのことだ」サング ラスを外して樹生を見た。年老いた男の顔がそこに あった。「お前は生きて戻ってきた。それでなんの 文句がある」  合図をするとスライドドアが開いた。一緒にいた 部下が車椅子のまま黒木をベンツに運んだ。  運転手が助手席のドアを開けた。  咲桜は樹生の身体を一瞬、強く抱くと、黙って助 手席に乗り込んだ。そのとき、咲桜がピジョンブ ラッドのルビーのペンダントを握りしめていること に気づいた。  砂塵を上げて、ペンツが遠ざかっていった。  樹生はその場に立ちすくんだまま、別れ際の咲桜 の感触を思い出していた。  咲桜の細い肩が震えていた。表情を変えずに泣く ことができることを、樹生ははじめて知った。       エピローグ  その翌月にミャンマーで大きな地震があった。そ の震動は、地震がないといわれていたバンコクにま で伝わり、建設中の高層ビルが倒壊して作業員らI ○○人ちかくが死亡したほか、高層コンドミニアム の屋上プールから大量の水がこぼれ落ちる動画が ネットにアップされた。  樹生はその動画を、香港の重慶大厦の二階にある インド料理屋で見ていた。そこは、短いあいた咲桜 と暮らしたコンドミニアムだった。  サグパニールというほうれん草カレーとナン、 ビールで簡単な昼食をすませると、店員に「美味し かったよ」と声をかけて店を出た。ここには北イン ド、南インド、パキスタン、バングラデシュ、ネ パールなどさまざまな地域のレストランがある。  重慶大厦は五棟のビルからなる築六〇年以上の集 合住宅で、一階にはテイクアウトのカレー店や果物 店に交じって、両替商や時計、スマホ、電子機器、 SIMカードなどを売る小さな店が集まっている。 それぞれの建物の上階はゲストハウスで、かつては 欧米のバックハッカーに愛用されていたが、いまは 商品の買いつけにアフリカや南アジアからやってく る商人たちの定宿だ。個室以外に相部屋のドミト リーもあり、物価が高騰した香港でも一泊二〇〇〇 円くらいで泊まれる。  一階の店で夜食用にチキンのビリヤニとシークカ バブ、ペットボトルの水を買い、海沿いのプロム ナードまで歩いた。ヴィクトリアーハーバーに面し た鉄製の手すりには香港映画のスターたちの手形の プレートが埋め込まれていて、アベニュー・オブー スターズと名づけられている。そこから紅礁に向 かってすこし歩くと、ブルースーリーの銅像がある。  湿度は高いが、空はきれいに晴れていた。樹生は 日陰に腰かけると、ペットボトルのキャップを開け て水を囗に含み、香港島の高層ビル街を眺めた。  あの事件のあと、シンガポールを訪れた。大使館 に出向している検事の榊原が指定したのは、ここと よく似たマリーナペイのプロムナードだった。夕方 六時過ぎで、金融街を背景に西の空かわずかに赤味 を帯びはじめていた。  「シンガポールは狭いですからね。誰に見られてる かわかりませんよ」  バンコクではいつも高級ホテルのラウンジかカ フェだったのに、珍しいですねというと、榊原は言 い訳をするようにこたえた。  ウッドデッキに並んで腰を下ろすと、榊原は「そ こで買ってきたんです」とペットボトルの水を差し 出した。日が落ちると近くのオフィスから、ジョギ ングをするシンガポール人たちが集まってくる。  「あのときはお世話になりました」と礼をいった。  「いやあ、さすがにびっくりしましたよ。タイの警 察から、血だらけになった日本人を保護したと連絡 が来たときは」  「あなたしか頼れるひとが思いつかなかったので」 と謝った。  「いやいや、そんなのどうでもいいですよ。日本国 民の海外での安全を守るのが外交官の仕事ですか ら」   メーソットでタイの警察当局に拘束された樹生は バンコクに送られ、取り調べを受けたが、榊原が夕 イの日本大使館に手を回し、ミャンマー側に連れ去 られた被害者ということで釈放されたのだ。  「ぼくがソニョンとミャワデイに行くこと、知って たんでしよ」樹生はスマホの位置情報をオンにして いた。  「ええ、心配してましたよ」  「わざわざアドバイスしたのに、と思った?」  榊原は笑顔で首を振った。「私がなにをいっても、 無駄だとわかってましたから」  樹生は、ずっと疑問に思っていたことを訊いた。  「HALなんですか?」  「なんのことです?」当惑した表情を浮かべた。  「最初から不思議だったんです。ドロップアウトし た日本人なんて、東南アジアには掃いて捨てるほど いる。そのなかでなぜ、情報機関の人間が、ありき たりのスキルしかないぼくに近づいてきたのか」樹 生はいった。「それでやっと気づいたんです。あな たがぼくに興味をもっだのは、ぼくがHALとメッ セージのやり取りをしていたからじやないかって」  「そういわれると、どうこたえていいか困っちやう んですけど……」  「HALこそが、あなたが探し求めている王冠だっ たんでしよ」樹生はさらにいった。「ぼくはたんに、 その王冠を手に入れるための道具でしかなかった」  榊原はしばらく樹生を見つめていたが、「ここか らは私の独り言として聞いてもらえますか」といっ た。  一〇年ほど前から、HALは情報機関のあいたで 伝説的な存在になっていた。わかっているのは、小 学生のときにiPhoneのセキュリティを破って以降、 イスラエルの情報機関の保護下にあることと、五年 ほど前にNSAのパッキングに成功し、膨大なゼロ デイのコレクションを入手したことだった。これに よってHALは、ネットワークにつなかっている世 界中のあらゆるコンピュータに侵入できるオールマ イティの力を手にすることになった。  NSAは当初、HALを犯罪者として訴追しよう としたが、イスラエル政府が仲介に入り、テロリス トの情報を提供するのと引き換えに罪に問わないこ とにした。こうしてアメリカだけでなく、ロシア、 中国など世界中のすべての情報機関が、HALと接 触して利用したいと考えるようになった。  「HALは樹生くんにタイから大麻を送らせてたで しよ」榊原はいった。「そこまでHALと親しく なった人間は、ほかにいないんですよ」  「だったら、ぼくに関心をもっているのは……」  「CIA、ロシアのGRU、イギリスのM16、中 国の国家安全部。気づいてないだけで、ずっと君は これらの機関に監視されてたんですよ」  「公安も?」と訊いた。  「あのひとたちは、なんにでも首を突っ込みたがり ますからね」榊原は笑った。「それで、なんとかし て彼らに先んじて君と接触したいと思っていたとき に、シンガポールで小児性犯罪者が逮捕された。そ の容疑者が君の名前を出したという話を警察関係者 の知り合いから聞いたので、ちょうどいいきっかけ ができたと会いに行ったわけです」  「ぼくを黒木とつなげたのは、ラザルスの資金が ミャワディの施設に隠されていることを知っていた からですか」  「いやいや、そんなことないです」と手を振った。 「黒木の会社が北朝鮮との貿易で儲けていることは わかっていましたから、そこからなにか手掛かりが つかめればと期待しただけです。樹生くんが動けば、 HALがついてくるわけですから」  「その黒木も、日本の情報機関とつながってるんで しよ」  「そんなの当然ですよ」あっさり認めた。「黒木は 日本では広域暴力団の幹部だった男ですよ。そんな 前科持ちが、なぜ海外で好き勝手なことができると 思ってるんですか? 北朝鮮の情報を取るために公 安が泳がせてるんですよ」  「ぼくはいいように利用されただけだったんです ね」  「最初はね」榊原はこれも認めた。「東南アジアに 赴任してから、君みたいな日本人をたくさん見てき て、正直、うんざりしてたんです。たまたま運がよ かっただけで、一生遊んで暮らせるカネを手に入れ た。社会のことにも、国家のことにもなんの興味も なく、自分さえ楽しければいいって考えてるって」  反論しようとしたが、言葉が見つからなかった。  「でも樹生くんは、私か思ってたよりずっと頑張り ましたよ。そして、すくなくとも自分の生き方に誠 実たった。誤解してたことを謝らなくちやならない のは私のほうです」  「ぼくは誠実なんかじやないですよ」樹生はいった。 「だから、咲桜だってぼくから去っていったんです」  榊原は驚いた顔をした。「君はまだわからないん ですか?」  「なにがです?」  「咲桜さんは君を守ろうとして、銃の前に身を投げ 出したじやないですか」  「なぜそれを知ってるんですか?」そう訊いたあと、 すぐに気づいた。「あの動画を見てたんですね」  「それが仕事ですから」榊原は困った顔をした。 「私以外にも、世界中の情報機関の人間が見たと思 いますよ」  樹生は、なんといっていいかわからなかった。  「でも、それでよかったんですよ」と、はげますよ うにいわれた。「HALが流した動画によって、ラ ザルスの資金がソニョンくんのウォレットに送られ、 樹生くんは無関係だという動かぬ証拠ができた。そ うじゃなければ、いまごろのんびりシンガポールで 私と話なんてしてられません」  「もしソニョンが生きて戻ってきたら、どうするつ もりだったんですか」  「アメリカはどこの国にも特殊部隊を送り込めます が、日本はそんなことできませんからね。でもタイ 軍と交渉して、メーソットに特殊部隊を配備しても らったんです。ソニョンくんが戻ってくればその場 で拘束して、ラザルスの資金を詐欺の被害者に返還 したあと、日本とタイで分け合うことになってまし た」  「せっかくの計画もムダになりましたね」  「そうでもないです」榊原は、樹生の皮肉にはまっ たく気づかないようだった。「ソニョンくんが死ん でウォレットの秘密鍵は失われ、ラザルスの資金は 封印された。これだけでも核とミサイルの脅威にさ らされている我が国にとっては大きな成果です。あ とは量子コンピュータでウォレットの秘密鍵が解け るようになるのを気長に待ちますよ」  いつのまにか日はすっかり落ちて、マリーナペイ を囲む高層ビルが灰色の空を照らしていた。榊原は、 「知り合いにちょっと挨拶してきます」と立ち上 がった。  榊原が親し気に声をかけだのは、遊歩道を散歩し ていた髪の長い痩せた男たった。その隣には、ベ ビーカーを押す小柄な女がいた。女は足が悪いらし く、わずかに右足を引きずっていた。  榊原は女とハグを交わすと、樹生のほうを指さし てなにかいった。女は一瞬、驚いたような顔をした が、それが満面の笑みに変わった。榊原はベビー カーの赤ん坊を抱き上げて頬ずりし、男としばらく 話をすると、樹生のところに走って戻ってきた。  「幸せそうですね」というと、「ええ。うらやまし いです」と榊原は笑った。それから、「ちょっと歩 きましようか」と樹生を誘った。  「さっき、咲桜が去った理由をぼくはわかっていな いっていいましたよね」  「ええ」榊原はうなずいた。「ミッションが終わっ たあとは、君とこんなふうに話をしちやいけないん ですよ。でも、樹生くんのこれからのためにも、誤 解を解いておいたほうがいいと思っだので」  「誤解?」樹生は訊き返した。  「君とはじめて会った頃、ラザルスが日本の取引所 から五〇〇億円を奪った。それが四ヵ月もしないう ちに二五〇〇億円以上になった。これはとてつもな い金額です」  榊原は立ち止まると、樹生を見た。  「でも君は、ゆたかな国で恵まれて生きてきたから、 その意味がわかっていない」  「二五〇〇億が大金だということくらいわかりま す」  「それを手に入れるために、どれだけの人間が生命 を賭けるかということも?」  ソニョンからも同じことをいわれたのを思い出し た。  「ほかにも、たくさんいるつてことですか?」樹生 は訊いた。  「当然でしょう」  ようやく、気づいた。「ぼくは、罠に落ちたんで すね」  榊原はうなずいた。「君はHALとつなかってい る。ラザルスのサーバーをパックするには、HAL を使うしかない。ソニョンくんがいなくても、別の 人間が、あるいは別の組織が、もっと残酷なしかた で君をミャワディに連れて行ったでしょう。そして おそらく、君はそこで死んでいた」  「咲桜は、そのことを知っていた?」  「私はそう思いますけどね。だから、君と一緒に ミャンマーに行くことにした」  「ぼくの前から去っだのは?」  「樹生くんを解放してあげたんじやないですか」  「解放? どういう意味です?」  「咲桜さんがラザルスの資金の流出に関与したこと を、北朝鮮の情報機関は知っている。これからなに が起きるかわからない。君はそれでも、彼女を守れ ますか?」  「そんな……」  「黒木なら、それができる。彼女は、君の重荷にな りたくなかったんだと思います」  樹生はしばらく、その場に立ち尽くしていた。  「黒木は、ぼくの選択を知りたいといった。でもぼ くの運命は決まっていて、選択なんてできなかっ た」  「ようやくわかったんですね」榊原は、さわやかす ぎる笑みを浮かべた。それから、樹生の肩を軽く叩 いた。  「咲桜さんが、君と死ぬことを選択したんですよ」  マリーナペイーサンズのレーザーショーが始まっ た。坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」のメロ ディに乗って、七色の光線が夜空を彩った。  樹生は、歩き去る榊原をぼんやりと眺めていた。  香港のアベニュー・オブースターズでビールの酔 いを醒ましたあと、ビリヤニとシークカバブの入っ だビニール袋をもって、尖沙岨の裏通りを歩いた。 このあたりは中国からの観光客であふれていたが、 コロナで半分ちかくが店を閉じ、中国の景気悪化の 影響を受けてその後も回復できないままだ。  どこかの店から、テレサーテンの「月は何でも 知っている」が流れてきた。HALと知り合っだの は、台湾に生まれ、日本と中華圈で大きな人気を集 めたこの早逝の歌手がきっかけだった。  榊原と話してから、さまざまな出来事をひとつず つ振り返ってみた。  樹生はコンドミニアムのオーナーから、ランサム ウェアでハードディスクを暗号化された男のことで 相談を受けた。その男は小児性愛者で、大量の写真 を収めたデータを回復しようとしたが、身代金を 払っても暗号を解除するキーが送られてこなかった という。  この出来事を知った榊原が樹生に接触し、咲桜と 出会うことになった。すべてのきっかけとなったこ の男に、ランサムウェアを送りつけたのは誰なの か?  HALはゼロデイのバグを使って、世界中のコン ピュータをパックできた。大麻の購入を頼む前に、 樹生のことを徹底的に調べたにちがいない。ラブア ンのサーバーに侵入したHALは、そこで咲桜の写 真や動画のコレクションを見つけた。その咲桜がバ ンコクにいることがわかって、二人を会わせようと 考えたとしたら……。  樹生か渡したスパイウェアでラザルスのエンジニ アのスマホに侵入したソニョンは、咲桜の虹彩デー タをサーバーの生体認証情報と差し替えた。そのプ ログラムはダークウェブで手に入れたというが、樹 生かいくら探しても見つけることができなかった。  仮にプログラムを手に入れたとしても、北朝鮮の 大学でパッキングの訓練を受けただけのソニョンに、 それを使いこなすだけの技術はないだろう。だとし たらソニョンの役割は咲桜の虹彩情報をアップロー ドするだけで、それ以外のことはすべてHALが やっだのではないか。  樹生にはひとつの疑問があった。ラザルスのサー バーに侵入し、セキュリティをすべて解除したとき、 HALはコールドウォレットのクリプトをすべて自 分のウォレットに送ることができた。それなのにな ぜ、ソニョンのウォレットに送らせたのか。  榊原は、二五〇〇億円はとてつもない金額だと いった。たしかにそのとおりだが、この世界には、 そのカネをどうでもいいと思っている人間もいる。 HALにとっては、クリプトを自分のものにするよ りも、「ゲーム」のつづきを見ることのほうが重要 だったのだ。  なぜそんなことをするのか。樹生は、そのこたえ をずっと前から知っていた。  -退屈だから。  重慶大厦を通り過ぎて、ペニンシュラホテルに向 かった。アフタヌーンティーの時間で、中二階の桟 敷席ではジャズトリオがクラシックなナンバーを演 奏していた。それを横目で見ながらエレベーターに 乗り、樹生は二六階のボタンを押した。  スイートルームからは、香港島の金融街とヴィク トリアピークが一望できた。  重慶大厦で買ってきたビリヤニとシークカバブを ダイニングテーブルに置くと、冷蔵庫からシヤブリ を出して栓を抜いた。  ワインをグラスに注ぎ、それをもって窓の前に 立った。  つくづく人生は皮肉だと思った。  HALのゲームによって、樹生は銀行口座に移し ておいたわずかな金額を除いて、すべての資産を 失った。とはいえ、それで困窮したわけではなかっ た。  サイバー捜査官の佐藤からは、自分の後任になら ないかという誘いを受けた。その佐藤は、ポリス ウェアを樹生に渡すかどうか警察内で議論したとき、 「なにかあったら自分が責任を取る」と榊原が保証 したという話をした。「検察のホープからそこまで 信頼されるなんて、うらやましいです」といわれた。  正直、任期付きの公務員になるのも悪くないと 思った。すくなくとも日本に戻れば、母親は喜ぶだ ろう。  ところが、奇妙なことが起きた。  高校生のとき、渋谷にあったマウントコックスで ビットコインを買った。この交換所はハッカーの攻 撃を受けて資金を流出させ、五〇〇万円ほどあった 樹生の資産はI〇分の一になってしまった。  その後、破産で凍結された資金を取り戻すための 長い裁判が東京地裁で始まった。債権者であるマウ ントコックスの利用者への資産の弁済が始まっだの は、二〇二四年七月からだった。  あまりにも長すぎる裁判のあいたに、ビットコイ ンの価格は1000倍になった。樹生かもっていた 五〇万円は、いまや五億円相当の価値があった。裁 判で資金が保全されていなかったら、一〇年も売ら ずに保有しつづけることなどできなかっただろう。  こうして樹生の生活は、もとに戻った。  ぼんやりと考え事をしているうちに、いつのまに か窓の外は暗くなっていた。香港島の高層ビル群に 明かりが灯り、宝石のように輝いている。  シヤブリを冷蔵庫にしまい、ダイニングテーブル に座って、半分ほど残ったピノーノワールのボトル からワインを注いだ。ノートパソコンを開いて、赤 ワインを飲みながら重慶大厦で買ってきたビリヤニ を食べはじめた。  榊原に、状況を問い合わせるメールを書いた。韓 国の国家情報院に依頼して、教化所に送られたソ ニョンの妹とその子どもを脱北させようと考えてい た。兄の最期を伝えたいと思ったのだ。教化所から 出して国境を越えさせることができるかはわからな かったが、そのためなら費用はいくらかかってもか まわないと伝えていた。  それが終わると、日本に電話をかけた。二度目の コールで土橋が出た。  「メールを読んで驚きました。そんなことになって いたとは」自分はもう引退したといいながら、七十 歳ちかい音楽プロデューサーは、この時間七会社で 仕事をしているらしかった。  ずいぶん悩んだすえに、咲桜の父親の誠治と青森 で会ったことを土橋に伝えた。誠治があれほどまで して元子を生かしているのは、いつの日か娘が母親 に会いに来るときのためではないかと思ったからだ。  「明日にでも、青森の病院に行ってこようと思いま す」土橋はいった。「そのうえでバンコクに飛んで、 咲桜を説得するつもりです。もし断られたら、誠治 をバンコクに連れて行って、咲桜と会わせます」  誠治には前科があり、公安調査庁がテロリスト指 定する団体に所属しているのだから、パスポートの 取得は無理だと思うと説明した。  「弁護上の逢沢さんからも、同じことをいわれまし た」土橋はこたえた。「でも、これまで政治家の無 理な頼みをいろいろ聞いてやりましたからね。そろ そろ借りを返してもらわないと」  そういって土橋は、大臣経験者を含む何人かの大 物政治家の名前をあげた。  面倒なことを頼んで申し訳ないと謝った。  「そんなことないですよ」土橋は笑った。「樹生さ んに感謝しなくちやいけないのは、私のほうです」  どういう意味かわからず、戸惑った。  「世間的には、私は成功者です」土橋はいった。 「でもこの年になると、自分には誰かの役に立つよ うなことはもうできないんじやないかと思うように なるんです。でも樹生さんは、こんな老人にもうい ちど生きる目的を与えてくれた。これが、私の最後 の大仕事だと思っています」  「ほんとうは自分がやらないといけないんですが、 もう彼女とは会えないので……」  「そうなんですか」土橋はなにかを察したのか、そ れ以上は訊こうとしなかった。「だったら、樹生さ んもこれから新しい人生の船出ですね」  経過はメールで伝えてほしいと頼んで、電話を 切った。  食事を終えると、食べ残した分は冷蔵庫にしまっ た。  ノートパソコンをもって、ソファに座った。ス ピーカーの電源を入れ、マドンナの「フィーバー」 のボサノバーヴァージョンを再生した。チャオプラ ヤー川に面したレストランで、咲桜にこの曲の話を した。  ソファの端に投げ捨ててあったKi乱leに手を伸 ばした。ずっと読みかけのままにしておいたドスト エフスキーの長い小説を、ようやく昨日読み終えた。  咲桜は、樹生か『悪霊』を気に入るはずだといっ た。  スタヴローギンは、恐るべき退屈を紛らわせるた めに触れるものすべてを破壊していく。神なのか悪 魔なのか判然としないその所業は、HALを思わせ た。それとも咲桜は、樹生のなかにも同じ退屈が巣 くっていることを見抜いていたのだろうか。  咲桜が諳んじたリザヴェータの言葉を検索した。  「ひとつの人生が終わって、別の人生がはじまる、 それから別の人生も終わって、三つ目の人生がはじ まる、いつまでもつづいていくのね。すべての端っ こがハサミで切られていくみたいに」  最初に聞いたとき、横須賀での母子家庭の貧しい 暮らしからアイドルになり、スキャンダルによって バンコクで暮らすようになったことをいっているの だと思った。だがリザヴェータの人生はいつまでも つづくことなく、最後は無残な死を迎える。だとし たら咲桜は、あのとき死に場所を探していたのだろ うか。  そしていつものように、どれだけ考えても自分に は解けない謎だとあきらめた。  バンコクで暮らした短い日々のなかでも、たしか に咲桜の魂に触れたと思えた瞬間があった。だがそ れも、ただの幻想だったのかもしれない。  明日は、アリサが香港に遊びに来ることになって いた。どこを案内するか、考えておかなくてはなら ない。とりあえず、ヴィクトリアピークの山頂にあ るレストランを予約した。  しばらく観光情報を見ていたが、いつのまにか データフォルダを検索していた。  左腕にFuck^と描かれた黒のリストバンドをし て、十六歳の咲桜が歌っていた。  暁の寺を背景に二人で撮った写真と、横須賀の廃 屋で見つけた小学校入学のときの咲桜の写真を並べ て表示させた。  どうしようもないほど強烈な懐かしさに包まれた。  だが、忘れなければならないのだろう。そうでな ければ、この抜け殼のような日々に閉じ込められて しまうように思えた。  世界はHACKされるのを待っているバグだらけ のシステムだ。  だがそこには、どれほど望んでも触れることがで きないものがある。