目次    はじめに人の暮らしのアルゴリズム 11 1 最適停止「見る」のをやめるタイミング 23     秘書問題/三七パーセントはどこから?/恋人にジャンプ/よいものを見     逃さないI完全情報/売却のタイミング/駐車のタイミング/やめる夕     イミング/人生は停止問題に満ちている 2 探索と活用最も新しいものと最もすばらしいもの 61     探索と活用/残り時間を見極める/勝てばキープ/ギッティンズ指数/後     悔と楽観/オンラインのバンディット/臨床試験を試験する/世界は変わ     る/探索と……/……活用 3 ソート秩序を生み出す 109     ソートの悦び/ソートの苦しみ/ビッグo−最悪の事態の尺度/二乗時     間−バプルソートと挿入ソート/二乗時間の壁を破るI分けて征服/     比較を超えてトト対数時間を出し抜く/ソートは検索の事前対策/ソート     とスポーツ/あえて非効率にIノイズと頑健性/戦いの末にI力関係の     序列/戦いではなくレースを 4 キャッシュ さっさと忘れよう 154     メモリー階層/追い出しと千里眼/図書館を裏返す/近所のグラウト/家庭     内のキャッシュ/整 理と山積み/忘却曲線/経験の暴虐 5 スケジューリング最初のものを最初に 191     時間の使い方が学問となる/納期を守る/仕事を片づける/問題を選ぶ/優     先度逆転と先行制約/行く手を阻むもの/すべてを捨てるI割り込みと不     確実性/割り込みはタダではないIコンテキストスィッチ/スラッシング     /割り込み軽減 6 ベイズの法則未来を予想する 234     ベイズ牧師と後ろ向き推論/ラプラスの法則/ベイズの法則と事前信念/コ     ペルニクス原理/ベイズとコペルニクスの邂逅/現実世界の事前確率と……     /……その予想ルール/スモールデータと直感/予想が予想者について明か     すこと/複製技術時代の事前確率 7 オーバーフィッティング過ぎたるは及ばざるがごとし 271     複雑性に対する申し立て/データの偶像崇拝/オーバーフィッティングはい     たるところに/オーバーフィッティングを見つけ出すIクロス確認/オー     バーフィッティングと闘うにはI複雑さにペナルティーを与える/ヒュー     リスティックの利点/過去の璽み/思考を抑えるべきとき 8 緩和法大目に見よう 305     最適化の難しさ/困難さを定義する/ただ緩和せよ/数えきれないほどたく     さんのグレーの色鯛−連続緩和/ペナルティーを受け入れるIラグラン     ジュ緩和/緩和法の習得 9 ランダム性偶然に任せるべきとき 329     サンプリング/乱択アルゴリズム/サンプリング礼讃/エラーのトレードオ     フ/山、谷、わな/極大値を脱する/焼きなまし法/ランダム性、進化、創     造性 10 ネットワーキングどうつながるか 370     パケット交換/確認応答/指数バックオフー寛容のアルゴリズム/流れ制     御と渋滞回避/あいづちI言語における流れ制御/バッファーブロートー     ー遅延が問題だ/遅れるよりはやらないほうがまし 11 ゲーム理論他者の心 414     再帰/均衡の達成/支配戦略、よかれ悪しかれ/共有地の悲劇/メカニズム     デザインーゲームのやり方を変える/進化によるメカニズムデザイン/情     報カスヶ−ドーバブルの悲劇的な合理性/汝自身のために計算せよ   結 論 計算の負担を軽くする 462   謝辞473   訳者あとがき 479   解説/小島寛之 485 アルゴリズム思考術  問題解決の最強ツール     はじめに     人の暮らしのアルゴリズム  サンフランシスコでアパートを探しているとしよう。おそらくアメリカで部屋探しが最も 大変な町だ。IT産業が活況に沸く一方で、厳しい都市計画法によって新規の建築が制限さ れているせいで、サンフランシスコはニューヨークと並ぶほど住宅価格の高い都市となり、 ニューヨークよりも競争が激しくなったと多くの人は感じている。新規の住宅物件が出たか と思うとほんの数分で成約済みとなり、オープン(ウスには見学者が押し寄せる。いち早く 家主のもとへ馳せ参じて保証金を握らせることのできた者が部屋の鍵を勝ち取るというヶI スも少なくない。  市場がこれほど厳しいと。理屈のうえで「合理的な消費者」に特徴的な行動であるはずの 事実確認や熟慮などしている暇はほとんどない。ショ″ピンクセンターやネ″卜通販での買 い物なら決断を下す前に複数の選択肢を比べることもできるが、サンフランシスコで住まい 探しをする場合には、ほかの部屋はいっさい見ないで目の前の物件にするか、それとも次の 物件に賭けて今のはあきらめるか、即座に決断を迫られる。  話を単純化するために、市場に出ているなかで最良のアパートに入居できる可能性の最大 化だけを求めていることにしよう。よい物件を「見たのに逃してしまう」こと、そして「見 る機会をもたない」こと、こんな二つのもったいない状況を掛け値なしの最小限に抑えたい。 ところがすぐさまジレンマに直面する。判断基準がないのに、どうしたらアパートが本当に 最良かどうかわかるのだろう。アパートをたくさん見ない限り(そして見送らない限り)、 判断基準は定められないのではないか。集めた情報か多ければ多いほど、最良の物件に出会 ったときにそれが最良だとわかる可能性か高くなるはずだ。もっとも、逃したあとで気づく 可能性も高くなるが。  では、どうすればよいのか。情報を集めるという行為そのものが結果に悪影響を与えてし まう場合に、どうしたら適切な情報にもとづく判断かできるのだろう。これはきわめて困難 な状況で、パラドックスに限りなく近いと言える。  この種の問題にぶつかったとき、たいていの人は直感的に、「見る」ことと「跳ぶ」こと を秤にかける必要があるというようなことを口にするだろう。つまり、判断基準を定めるの に十分な数のアパートを見たうえで、その基準を満たすものならよしとするということだ。 実際、このように秤にかけるという考え方は正論そのものだ。もっとも、どこで線を引くべ きかと問われたら、ほとんどの人は自信をもって答えることができない。しかし、安心して よい。答えはあるのだ。  三七ハーセント。  最良の物件に入居できる可能性を最大にしたければ、部屋探しに充てる時間の三七パーセ ント(一ヵ月かけるつもhソなら最初の一一日間)までは結論を出さずにただ物件を見て回る。 小切手帳は家に置いておき、判断基準を定めることに専念する。しかし三七パーセント以降 は、それまでに見たどの物件よりもよい部屋に出会ったらすぐさま保証金を払って契約する のだ。これは「見る」と「跳ぶ」を直感的に満足のいく形で折りあわせた答えであるばかり でなく、最適であることが証明可能な解となる。  そう言えるのは、部屋探しは数学で「最適停止」問題と呼ばれるタイプの問題だからだ。 先ほどの三七パーセントルールは、この種の問題を解くための一連の単純な手順(コンピュ ーター科学者は「アルゴリズム」と呼ぶ)を規定している。じつは部屋探し以外にも、日常 生活の中で最適停止問題が出現する場面はたくさんある。一つずつ順番に現れる選択肢を選 び取るか見送るかというパターンは、いくらか形を変えながら暮らしの中でしょっちゅう生 じている。駐車スペースに車を停めるまでに、同じ区画を何回ぐるぐると回るか。リスクの 高いベンチャービジネスを売却するタイミングを計りながら、どこまで幸運に頼り続けるか。 家や車を売るときに、もっと条件のよい買い手が現れるのを待つのはいつ切り上げるべきか。  もっと悩ましい事柄に関しても、同様の問題に直面することがある。交際相手を選ぶとき だ。二股をかけるつもりがないなら、最適停止の考え方は答えを出す手だてとなる。  シンプルなアルゴリズムは部屋探しにとどまらず。日常生活において最適停止の問題に直 面するあらゆる状況で答えを与えてくれる。日々、人は最適停止が絡む問題と闘っていて  (もっとも、詩人は駐車に伴う苦労よりも恋愛のもたらす試練に多くのインクを費やしてき たに違いないが)、場合によってはそのためにかなりの苦痛を味わっている。しかし、苦し む必要などない。少なくとも数学的には、それらはみな解決可能な問題なのだ。  日常生活の中で、アパートや駐車スペースや交際相手を決めるのに迷う人たちを目にする のはめずらしくないか、彼らはみなすでに答えの出ている問題をわざわざ解いているような ものだ。彼らに必要なのはセラピストではない。アルゴリズムが必要なのだ。セラピストに 助けを求めても、早まらず手遅れにもならないように、適切で快適なバランスをとるように と言われるだけだ。  一  アルゴリズムは三七パーセント E‘           る。           ◆  誰もが直面する問題もある。われわれの生が有限な空間と時間の中で営まれているという 事実から、直接的に生じる問題だ。一日のあいだに。あるいはI〇年のあいだに、何をすべ きで何をしないでおくべきか。どの程度の無秩序なら受け入れるべきで、どの程度の秩序な ら過剰なのか。最も充実した人生を送るには、     とお気に入りの経験とのあいだ ど 力ノ `      ヵ  これらは人間だけの問題と思われるかもしれないが、じつはそうではない。半世紀以上前 から。コンピューター科学者はこうした日常のジレンマに相当する問題に取り組み、多くを 解決してきた。負荷を最小限にして最短の時間でユーザーの要求すべてに応じるには、プロ セッサーの「注意」をどう配分すべきか。異なるタスクの切り替えはどんなタイミングで行 なうべきで、そもそもタスクはいくつ実行すべきか。限られたメモリー資源を活用するには、 どんな方法がベストか。データをさらに集めるべきか、それとも既存のデータだけを使って 作業すべきか。今日こそ行動すべきかと一日レベルでタイミングを見極めるのさえ人間には 難しいが、われわれを取り巻くコンピューターはミリ秒レベルでやすやすと判断を下してい る。コンピューターが判断を下す際の方法から、われわれが学べることはたくさんある。  大の暮らしにアルゴリズムを役立てようというのは、妙な組み合わせと腮小訛悟Jも沁峨 ない。多くの大にとって「アルゴリズム」という言葉は、ビ″グデータ、大きな政府、巨大 企業といった得体の知れない巨大な力を想起させるからだ。これらは現代社会のインフラと なりつつあるが、人の営みに対しては実用的な知恵や指針を与えてくれそうにない。しかし じつは、アルゴリズムというのは問題解決に用いられる有限な一連の手順にすぎず。コンピ ューターよりもはるかに広い範囲で用いられる。そしてはるかに昔から存在する。機械で使 われるようになるよりもずっと前から、人間はこれを使ってきたのだ。  「アルゴリズム」という言葉は、九世紀に計算の記述方法に関する書物を著した古代ペルシ アの数学者、アルnフワーリズミーの名に由来する(彼の著作『アルnジャブルーワル日ム カーバラ』の「アル日ジャブル」が転じて英語で「代数学」を意味するalgebraとなった)。 ただし、これまでに知られている最古の数学的アルゴリズムは、アルHフワーリズミーの著 作よりも早く生まれている。バグダ″ドの近くでシュメール語の刻まれた四〇〇〇年前の粘 土板が発見されたのだが、そこには長除法(割り算の筆算)のやり方が記されていた。  しかし、アルゴリズムを使うのは数学だけではない。レシピを見てパンを焼くのは、アル ゴリズムに従うということだ。編み図を見てセーターを編むときにも、あるいは石の縁を鋭 利にしようと鹿角の先端をぴったり同じ場所に何度も打ちつける(すぐれた石器をつくるの に大事な工程だ)ときにも、やはりアルゴリズムに従っている。石器時代から、アルゴリズ ムは人類のテクノロジーの一部をなしてきたというわけだ。           ◆  本書では。人が日々直面する困難に対してよりよい解決策を模索するという「人間のアル ゴリズム設計」の概念を探っていく。日常生活にコンピューター科学の視点を応用すること により、さまざまな規模で多様な成果がもたらされてきた。最も身近なところでは、個々の 問題を解決するのに役立つ現実的で具体的なアイディアが得られる。最適停止を理解すれば、  「見る」べきときと「跳ぶ」べきときがわかる。探索と活用のトレードオフからは、未知の 物事への挑戦とお気に入りの物事の享受との配分バランスを見出す方法がわかる。ソート理 論は、オフィスの整理をどうすべきか(そしてそもそも整理すべきか)を教えてくれる。ク ロゼ″卜の収納方法が知りたければ、キャッシュ理論が役に立つ。スケジューリング理論か 理解できれば、時間の上手な使い方がわかる。  その次のレベルとして、コンピューター科学はこれらの各領域で作用するもっと重要な原 理を理解するための語彙を与えてくれる。カールーセーガンの言葉を借りれば、「科学は一 つの知識体系である以上に、考え方そのものである」(『サイェンスーアドペンチヤI』中村保男 訳、新潮選書より引用)のだ。厳密な数値解析や容易な答えが期待できないほど現実の生活が 混沌としている場合でも、これらの問題のもっと単純なバージョンで鍛えられた直感や概念 を使うことで、重要な事柄を理解して前へ進む方法が手に入る。  もっと視野を広げれば、コンピューター科学の視点から物事を見ることによって、人間の 心の本質、合理性の意味、そして「われわれはいかに生きるべきか」という人類最古の問い について理解を深めることかできる。環境から課された問題が基本的に計算で解ける問題で ある場合、それを解く手段として認知作用を検討すれば、人間の合理性に対するわれわれの 見方が一変する可能性もある。  コンピューターの内部の働きを調べれば、物事の考え方や決め方、あるいは信じるべきも のやとるべき行動が明らかになるのではないか。こんな見方は、多くの人にとってきわめて 還元主義的であるばかりでなく的外れだと思われてしまうかもしれない。コンピューター科 学が考え方やふるまい方について何かを教えてくれるとしても、われわれはそれに耳を傾け たいと思うだろうか。SFに登場する人工知能やロボ″卜を見ても、それらのあり方はわれ われの誰一人として自らの生として生きたがらないもののように感じられる。  その理由の一端は、われわれがコンピューターというものを温かみのない機械的で決定論 的なシステムととらえている点にある。厳然たる演繹的な論理を用い、膨大な選択肢をすべ て列挙したうえで決定を下し、どれほどの時間と困難が伴おうともまさに正しい答えを出す Iコンピューターとはそんな機械だと思われているのだ。実際、コンピューターを最初に 思いついた人物が頭に描いていたのはそのようなものだった。その人物、アランーチューリ ングは、計算機による計算という概念を定義するのに、延々と続く計算で必要とされる手順 を慎重にこなしてまぎれもなく正しい答えを出す数学者のたとえを用いていた。  そんなわけで、現代のコンピューターが難問を与えられたときにはこれとは違うふるまい をすると言ったら、驚かれるかもしれない。もちろん、単純な算術は現代のコンピューター にとって格別に手ごわいものではない。現在のコンピューター科学における最大の難題は、 大との対話、破損したファイルの修復、囲碁の勝負といったタスク、つまり規則が明確でな かったり、必要な情報の一部が欠けていたり、正解を見つけるのに天文学的な数の可能性を 検討することが求められたりするような問題だ。最も困難なタイプの問題を解決しようと研 究者が考案したアルゴリズムでは、コンピューターがその強大な計算力に過度に依存しなく なっている。現実世界のタスクに立ち向かうには、計算力にものを言わせるのではなく、偶 然を受け入れ、時間と精度をトレードオフし、近似を用いることが必要となる。  コンピューターが現実世界の問題にうまく対処できるようになるにつれて、人の生活に応 用できるアルゴリズムを生み出すだけでなく、人間の認知そのものを比較するためのよりよ い基準も与えてくれるようになる。一〇年か二〇年ほど前から、行動経済学が人間について ずいぶん奇妙な物語を語ってきた。われわれがじつは不合理で間違いを犯してばかりの存在 であり、それは風変わりで欠陥だらけの「脳」という(Iドウェアによるところが大きい、 ということが明らかにされてきたのだ。このように人間をおとしめるような話がだんだんと 広まってきたが、いまだ活発な議論の的である問題も残っている。たとえば視覚や言語や因 果的推論といったさまざまな認知タスクにおいて、何百万ドルもするスーパーコンピュータ ーよりも四歳児のほうが依然としてすぐれているのはなぜなのか、といった問題だ。  日常的な問題への解決策としてコンピューター科学が示す答えから読み取れるのはしかし、 人の心についてのまったく違う物語だ。現実生活は、ごく単純に言えば手ごわい問題だらけ である。人の犯す間違いが明らかにするのは、大の脳の不完全さというより、むしろ問題自 体の難しさであることが少なくない。目の前にある問題の基本構造やその解の性質を把握し、 アルゴリズムによって世界について考えることは、大間がじつはどれほどすぐれた存在かを 知り、人間の犯すミスをもっとよく理解する助けとなる。  実際、人間はコンピューター科学者が研究している問題のなかでもとりわけ難しい問題に 絶えず直面している。不確実性、時間の制約、情報の欠損、世界の急激な変化に対処しなが ら、決定を下す必要にしぱしば迫られる。最先端のコンピューター科学をもってしても、効 率的で誤ることのないアルゴリズムが見つかっていないような問題にぶっかることもある。 一部の状況については、そのようなアルゴリズムがそもそも存在しない可能性もあると思わ れる。  しかし、完璧なアルゴリズムが見つかっていない場合でも、このうえもなく手ごわい現実 世界の問題に挑む幾多のコンピューター科学者の闘いから、さまざまな知見がもたらされて きた。苦心の末に得られたそれらの教えは、合理性に関するわれわれの直感とかみ合わず、 世界を整然とした数式で表そうと尽力する数学者の提示する厳密な規定からもかけ離れてい る。それらの教えによれば、すべての選択肢を常に検討する必要はないらしい。さらには、 常に最良と思われる結果を目指す必要はないとか、ときには混乱を引き起こせとか、フ″ト ワークを軽くしろとか、仕事を放置しろとか、考えすぎずに直感を信じろとか、リラ″クス しろとか、コインを投げろとか、許しつつも忘れるなとか、自分に正直であれなどという。  ともあれ、コンピューター科学の教えに従って生きることは、さほど悪いこととは思えな い。たいていのアドバイスとは違って、コンピューター科学の教えには証拠による裏づけが あるのだ。           ◆  コンピューター用のアルゴリズムの設計は、当初、数学と工学という二つの学問分野のは ざまに存在する奇妙な(イブリッドだった。同様に人間用のアルゴリズムの設計も。もとも と基盤となる学問分野をもたないテーマだ。今日のアルゴリズム設計は、コンピューター科 学や数学や工学を利用するだけでなく、その親戚である統計学やオペレーションズリサーチ といった分野からも恩恵を受けている。機械のために設計されたアルゴリズムが人間の心と どう結びつくかを考える際には、認知科学、心理学、経済学などにも目を向ける必要がある。  本書の著者二人は、そうした学問分野の垣根を越えた領域に精通している。ブライアンは コンピューター科学と哲学を勉強してから大学院で英語学を修め、この三分野の交わる部分 でキャリアを築いてきた。トムは心理学と統計学を学んだのちにカリフ″ルニア大学バーク リー校の教授となり、ここで人間の認知とコンピューターの演算処理との関係について思索 をめぐらすことにほとんどの時間を費やしている。だが、人間用のよりよいアルゴリズムの 設計に関係するすべての分野を一人で網羅する専門家には誰もなれない。そこで生活の指針 となるアルゴリズムを目指す探索の一環として、著者らは過去五〇年間で特によく知られて いるアルゴリズムのいくつかを考案した大だちから話を聞いた。世界卜″プクラスの頭脳の 持ち主に、彼らの研究が自身の生活に臨む姿勢にI結婚相手探しから靴下の整理に至るま で、さまざまな場面でIどう影響しているかと質問した。  次の章から、コンピューターと人の心がともに遭遇する格別に手ごわい難題をめぐる旅が 始まる。有限の空間、有限の時間、限られた注意、未知の未知数、不完全な情報、予測不可 能な未来にどう対峙するか。どうすれば堂々と自信をもってそれらに対峙できるかIほか の大もみな同じことを目指している社会の中で。本書を通じて、これらの問題の基本的な数 学的構造について理解し、その構造を最大限に利用できるようにコンピューターがどう設計 されているか(われわれの想像に反する場合もある)を知ることになる。また、心の働きや、 同じ制約に対処しながら同じ問題に立ち向かう際に心とコンピューターがとる。互いに異な るが密接に関係する方法についても理解していく。最終的に得られるのは、身近な問題に役 立つ具体的な解決策だけでなく、きわめて卑近な人間のジレンマの背後にも存在する精妙な 構造を見抜く新たな方法だけでもなく、また、互いに強く結びついた存在として吻叺閙はド ンピューター   ー   。だけでもない。もっと深遠なものか手に入る。身のまわり の   語るための新たなボキャブラリー、そして      t い ’    丶    丶 知る機会が費   ’l 1 最適停止    「見る」のをやめるタイミング  キリスト教徒はみな結婚式の招待状の冒頭で、自分たちの結婚が神の特別な思し召しに  よるものだと厳粛に断言するか、哲学者たる私はこの点についてもっと詳細に論じたい                             Iヨ(ネスーケプラー  ほかのだれよりもマーティンさんかお好きなら、そして、いままであんな好ましい人と  つき合ったことかないとお考えになるのなら、どうしてためらうことなどいりましょ  う?(『エマ』阿部知二訳、中公文庫より引用)                           −ジェーンーオースティン 大学のカウンセラーのあいだで「ターキー・ドロップ」 (感謝祭の別れ)と呼ばれている、 ごくありふれた現象がある。高校時代からつきあっていたカ″プルが別々の大学に入り、最 初の年の感謝祭に帰省すると、四日後に大学へ戻るときには別れているというのだ。  本書の著者の一人であるブライアンも大学一年生のときにこの不安にさいなまれ、大学カ ウンセラーのもとを訪れた。高校時代のガールフレンドは州をいくつも隔てた別の大学に進 んだので、二人はその距離に苦しんでいた。さらに「自分たちはどのくらいよい関係なの か」という。もっと奇妙でもっと哲学的な問いとも闘っていた。二人とも、その答えを出す 基準となるようなほかの交際経験などなかった。ブライアンのカウンセラーはこのカとフル が典型的な大学一年生のジレンマに陥っていることを見て取り、驚くほど突き放したアドバ イスを与えた。「データを集めなさい」。  二股をかけることなく交際相手を次々に替えていこうとすれば、根本的な問題にいつか必 ず直面する。自分にとって最高の相手がどんな人かわかるほど、たくさんの人に会ってきた だろうか。データ収集に励み続けた結果、まさにその相手を逃すことになったらどうする? 心の中で究極の堂々めぐりが起きているようなものだ。  すでに見たとおり、この堂々めぐりや不安に駆られた新入生の叫びは、数学者が「最適停 止」問題と呼ぶものであり、じつは答えがあると考えられる。その答えとはコニ七パーセン ト」だ。  もちろん、その答えがつかめるかどうかは、恋愛について置く想定しだいなのだが。   秘書問題  最適停止問題では常に、重大なジレンマはどの選択肢を「選択」すべきかではなく、いく つの選択肢を「検討」すべきかという点にある。このタイプの問題は、交際相手や部屋を探 す人だけでなく、車のドライバーや住宅の所有者、強盗など、さまざまな人に関係する。  三七パーセントルールは、最適停止のパズルとして最も有名な「秘書問題」と呼ばれる問 題から生まれた。状況設定は、先ほど見たアパート探しのジレンマとよく似ている。秘書の 求人に応募してきた人たちを面接しているとしよう。面接官か目指すのは、応募者のなかで 最も優秀な人材が採用できる可能性を最大にすることである。各応募者に点数をつけるのは 難しくとも、応募者を気に入ったかどうかは簡単にわかるものだ(数学者なら、応募者どう しの相対的な順位を表す「序数」はわかっても、なんらかの一般的な尺度による量的評価を 表す「基数」まではわからないものだ、という言い方をするかもしれない)。面接官はラン ダムな順番で、一人ずつ面接していく。面接した応募者を採用したいと思ったら、いつでも 好きなときに採用を決めてよい。面接官が選んだ応募者は辞退しないことになっており、そ こで選考は終了する。ただしいったん不採用とした応募者をあとから採用することはできな   *本書ではアルゴリズム名の初出時にゴチ″ク体を用いる。 い。  秘書問題が最初に活字で記されたのは(「秘書」という言葉は登場しないが)、《サイェン ティフィックーアメリカソ》誌の一九六〇年二月号だったと一般に考えられている。娯楽数 学を扱ったマーティンーガードナーの人気コラムでパズルがいくつか紹介されたうちの一つ だった。だが、この問題の起源は驚くほど謎に満ちている。私たち自身の調査は、初めのう ちは憶測の域を出なかった。しかし調査はやがて思いがけず探偵のごとく体を張った任務と なり、スタンフォード大学まで車を走らせてガードナーの資料保管庫を訪ね。二〇世紀の中 ごろに彼がやりとりした手紙の入った箱をいくつもひっくり返すに至った。手紙を読むのは 電話を立ち聞きするようなものだ。聞こえるのは一方の声だけなので、相手の言葉は推測す るしかない。どうやらガードナーも五〇年ほど前に秘書問題の起源を解明しようとしたらし いが、私たちが見られるのはその探索に対する返信だけだった。手紙を読み進めるにつれて、 話はどんどん錯綜してわけがわからなくなった。  (Iヴァード大学の数学者フレデリックーモステラーは、一九五五年に同僚のアンドリュ ー・グリーソンから秘書問題の話を聞いた記憶があり、グリーソソも別の誰かから聞いたら しい。アルバータ大学のレオーモーザーは、ボーイング社のR・E・ギャスケルが記した  「ちょっとしたメモ」に秘書問題のことか書かれていたという手紙をよこし、さらにギャス ケル自身は同僚から聞いた話だと言っていたそうだ。ラトガース大学のロジャー・ビンガム は一九五五年にデューク大学の数学者のJ・ショーンフィールドから初めて秘書問題のこと を聞き、「彼はミシガン大学の誰かから聞いたと言っていたように思います」と手紙に記し ていた。  その「ミシガン大学の誰か」というのかメリルーフラ″ドという人物であることはほぼ間 違いない。数学界以外ではおよそ無名だが、コンピューター科学に彼がおよぼした影響を避 けて通ることはほとんど不可能だ。巡回セールスマン問題(本書の第8章で詳しく論じる) を世に広め、囚人のジレンマ(第11章で扱う)を考案し、さらには「ソフトウェア」という 用語の生みの親ではないかとも目されている。一九五八年に三七パーセントルールを初めて 発見したと認められているのもフラ″ドであり、彼自身は一九四九年からこの問題について 考えていたと主張している。ただし彼は先行した何人かの数学者の名も挙げていた。  どこから出てきたにせよ、秘書問題はほとんど理想的と言ってもよい数学パズルであると 見なされるようになったと言えば十分だろう。説明するのは簡単だが解くのはとんでもなく 大変で、答えは簡潔だがその示唆することは興味深い。そのためこの問題は口づてに広まっ て、一九五〇年代の数学界をあっというまに席巻した。そして一九六〇年にガードナーが書 いたコラムのおかげで、一般の人さえこの問題に心を奪われるようになった。一九八〇年代 までに秘書問題とそのバリエーションについてはじつに多くの分析がなされ、そうした分析 は秘書問題自体のサブフィールドとして論文で扱われるに至った。  登場する秘書については。文化によって本来の様式に人類学的なひねりが加わっているの を見るとなかなかおもしろい。チェスはそのイメージから中世のヨーロで(で生まれたと思 われがちだが、じつは八世紀のインドに起源かある。一五世紀に強引な「ヨーロッパ化」が なされ、君主がキングとなり、大臣かクィーンとなり、象がビショップに変わった。同様に、 最適停止問題にもさまざまなバリエーションかあり、いずれも当時の重大な関心事を反映し ている。一九世紀には、宝くじといった奇をてらったものや、求愛してくる男性を選ぶ女性 が登場した。二〇世紀の初期には、自動車旅行でホテルを探すドライバーや、女性を選ぶ男 性求愛者が描かれていた。男性優位の時代でオフィスに事務処理が山積した二〇世紀中盤に は、女性アシスタントを選ぶ男性上司が登場した。「秘書問題」という名称でこの問題を初 めて明確に呼んだのは一九六四年の論文であり、やがてこの呼び方が定着した。   三七八−セントはどこから?  秘書探しが失敗に終わるとすれば。それは切り上げるのか早すぎたか遅すぎたかのどちら かである。早まってしまった場合、最も優秀な応募者には出会わないままだ。遅すぎた場合 には、もっと優秀な人材がいるのではないかと、いもしない応募者が現れるのを待ち続ける ことになる。戦略を最適なものとするには、あたかも慎重さと軽率さとのあいだで綱渡りを するように、両方のあいだで適切なバランスを見出すことが明らかに必要である。  最も優秀な応募者を見つけようとしていて、一番以外は要らないと思っているなら、今ま でに面接をしたなかで最良ではない応募者を採用することなど考えてはならない。それはは っきりしている。しかし、今までで最良の応募者が現れたとしても、それだけでは採用を決 めるのに十分ではない。当たり前だが、たとえば最初に面接する応募者は必ずそれまでで最 良となるからだ。もっと広く考えると、面接を進めていくにつれて「今までで最良」の応募 者に遭遇する確率は当然下がっていく。たとえば二人めの応募者が今までで最良となる確率 は半々だが、五人めでは五分のI、六人めでは六分のI……となる。その結果、秘書探しを 続けていくと、「今までで最良」の応募者が現れたときに受ける印象がしだいに強くなる  (やはり当然ながら、そのような応募者はそれまでのどの応募者よりもすぐれている)。た だし、その頻度はだんだん下がっていく。  最初に出会った「今までで最良」の応募者(要するに最初の応募者)を採用するのか早計 なのはわかりきっている。応募者がI〇〇人いる場合、一人めよりも優秀だからという理由 で二人めの「今までで最良」の応募者を採用するのもやはり急ぎすぎだろう。では、どうす ればよいのか。  直感的には、いくつかの戦略が考えられる。たとえば、それまでの誰よりもすぐれた応募 者に出会うのが三回めになったら採用する。四回めでもいい。あるいは、ぱっとしない応募 者ばかりの「不振」がしばらく続いたあとで「今までで最良」の応募者が現れたらその人に 決めるという手もある。  しかし実際のところ、これらの比較的妥当と思われる戦略はいずれも最善策にはならない。 最適解は「見てから跳べ」ルール「訳注」ook before you leap〔石橋を叩いて渡る〕ということわざ を踏まえている)というものなのだ。「見る」 (選択肢を探ってデータを集める)作業にかけ る時間をあらかじめ決めておき、そのあいだはどんなによさそうな応募者が現れても決して 採用しない。所定の時間が過ぎたら、「跳ぶ」段階に入る。これ以降は、「見る」段階で会 った最高の応募者よりすぐれた人材が現れたら、ただちに採用を決定する。  この「見てから跳べ」ルールかどのようにして出てくるのかを理解したければ、応募者が ごく少数の場合に秘書問題がどう展開するか考えるとよい。応募者が一人だけなら話は早い。 この応募者を採用するだけだ。二人の場合には、どうあがこうとも成功の確率は半々だ。一 人め(五割の確率で最良の応募者である)を採用してもいいし、一人めを却下すればおのず と二人め(こちらが最良である確率气該割)を採用することになる。  応募者を三人にしてみょう。話は俄然おもしろくなる。ランダムに選ぶなら、最良の応募 者を採用できる確率は三分の一、つまり三三パーセントだ。応募者が二人の場合には、偶然 の確率を上回る結果は出せない。三人ではどうか? じつは偶然にまさることができる。た だし、すべては二人めの応募者をどうするかにかかっている。一人めの面接時には。情報が ない。今までで最良というだけだ。三人めの面接では、あとがない。今までの応募者はすべ て落としてしまったので、最後に残った応募者を採用するしかないのだ。しかし二人めを面 接するときには、両方の要素か少しずつ入ってくる。一人めと比べてどうかがわかっている 一方で、採否を選ぶ余地もある。一人めより優秀なら採用し、優秀でなければ断ることにし たらどうなるか。応募者が三人の場合、 じつはこれが考えうる最良の戦略なの だ。意外に思われるだろうか、この方 法を使えば応募者が二人のときと同じ くちょうど五〇パーセントの確率で最 良の応募者を採用することができる。  応募者が四人のケースで同様のシナ リオをすべて調べてみると。やはり二 人めの応募者の段階から「跳ぶ」態勢 に入るべきであることがわかる。五人 の場合には、三人めより前で跳んでは ならない。  応募者数を増やしていくと、「見 る」段階と「跳ぶ」段階の境界線を引 くべき時点が応募者全体の三七ハーセ ソトで落ち着く。ここから三七パーセ ントルールが出てくる。最初の三七八 Iセントまでは誰も選ばずにただ見て、 三七ハーセy卜以降はそれまでに面接したどの応募者よりも優秀な人材が現れたところです かさず跳ぶべきなのだ。  じつはこの最適戦略に従うと、最良の応募者を採用できる確率か最終的に三七パーセント となる。この戦略自体と成功の確率がぴったり同じ数字になるというのは、この問題の示す 興味深い数学的対称性の一つである。表Iは、さまざまな応募者数における秘書問題の最適 戦略を示す。応募者が増えるにつれて、「見る」から「跳ぶ」に切り替えるべきタイミング と同じく、成功率も三七パーセントに近づいていくのがわかる。  しかし、可能な限り最良の戦略を用いても失敗率が六三パーセントという厳然たる事実を 見過ごすわけにはいかない。秘書問題では最適な行動をとっても、半分以上は失敗に終わり、 応募者のなかで最良の人材を採用することができないのだ。恋愛を「唯一無二の相手」に出 会うことと考える大にとって、これは耳をふさぎたくなる話だ。それでも悪いことばかりで はない。直感的には、応募者が増えれば最良の人材を選び出す可能性は着実に下がっていく はずだと思われるかもしれない。たとえば応募者からランダムに一人を選ぶとすると、応募 者がI〇〇大なら成功する確率はIパーセントだが、一〇〇万人いたら成功率は○・○○○ 一パーセントとなる、と。ところが驚くべきことに、秘書問題では確率が変わらない。最適 な時点で「見る」のをやめれば、一〇〇人の応募者から最良の人材を選び出せる確率は三七 ハーセントである。そして信じがたいかもしれないか、応募者がI〇〇万人いてもやはり成 功率は三七パーセントなのだ。つまり、応募者が多ければ多いほど、最適アルゴリズムを知 つていることの価値が高くなる。最良の人材を見つけられない可能性のほうか高いのは確か だが、膨大な選択肢を前にしたときには、その数がどれほど多くても、最適停止が最良の防 御策となる。   恋人にジャンプ    *この戦略では、最良の応募者を落としてしまうリスクが三三パーセント、面接に至らないリスクか    一六パーセントとなる。詳しく説明すると、応募者が三人の場合、1‐2‐3、113‐2、2‐―    ‐3、2‐3‐―、3‐1‐2、3‐211という六通りの順番が考えられる。一人めの面接をした   あとで、これより優秀な応募者が現れたらただちに採用するという方法では、六通りのうち三つ(2    ‐I‐3、2‐3‐―、3‐―‐2)で最良の応募者を採用することができ、残りの三つでは失敗に   終わる。手遅れのパターンか二つ(1‐2t3、1‐3‐2)と早計のパターンが一つ(3‐2‐   1)である。   **実際には三七パーセントよりわずかに手前。正確に言うと、応募者を「見る」割合として数学的   に最適なのは、―/gである。このgというのは、複利計算で使う数学的定数g、すなわち二・七一八   二八……である。もっとも、小数点以下第二一位までgを知らなくても大丈夫だ。三五パーセントか   ら四〇パーセントのあいだなら、最高に迫る成功率か得られる。数学的な詳細については、原注(別途   ダウンロードされたい。URLは巻末四九三ページに)を参照。   男女間の性欲の強さは、あらゆる時代をつうじてほとんど一定であり。代数の用語でい   えばそれは既知数と考えてよいだろう(『人口論』斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫より引用)。                                −トマスーマルサス   私はファーストキスを捧げた相手と結婚しました。子どもたちにこの話をすると、不気   味そうな顔をしますが。                               −バーバラーブッシュ  マイケルートリックはカーネギー・メロン大学でオペレーションズリサーチの教授になる 前の大学院生時代、恋人を求めていた。「この問題は研究済みだと気づいた。秘書問題と同 じではないか! 空いたポストかあって、候補者に一人ずつ順番に会って、目指すのはその なかからポストに最適な人を選ぶことなのだから」。そこで彼は計算してみた。生涯で出会 う女性の人数はわからないが、三七ハーセントルールには一定の柔軟性がある。候補者の人 数だけでなく、探索する時間にも適用できるのだ。一八歳から四〇歳までを探索期間とする と、二六・一歳になったら「見る」から「跳ぶ」に切hソ替えるべきということになる。折し もトリックはまさにその年齢だった。そこで、かつてつきあったどの女性よりもすばらしい 女性を見つけたとき、とるべき行動は明らかだった。そう、跳んだのだ。「彼女か。完璧” かどうかはわからなかった(このモデルの想定では、僕がそれを判断することはできないの で)。しかし、このアルゴリズムの手順に関して条件を満たしているのは間違いなかった。 だからプロポーズした」と彼は記している。  「ところが、断られてしまった」。  少なくとも一七世紀以来、数学者たちは恋愛に苦しめられてきた。伝説的な天文学者のヨ (ネスーケプラーは、惑星が楕円軌道を描くという事実の発見者として、あるいはガリレオ やニュートンを巻き込んで宇宙における人類の位置に関する認識を覆した「コペルニクス 革命」の立役者として、今では最もよく知られているだろう。しかしケプラーにも現世的な 悩みがあった。一六一一年に最初の妻を亡くすと再婚相手を探し始めたが、その困難な探求 は長く続き、交際した女性は全部でII人にのぼった。最初の四人のうちでは四人めの女性 が最も気に入った(「背か高くて丈夫そうな体格だったので」)が、探索をやめなかった。  「彼女に決めかけたところで新たな女性が現れ。愛情と理性が五人めの女性にせよと私に迫 った。私への恋慕、しとやかな貞節、堅実な経済観念、勤勉さ、そして継子となる子らに示 す愛情によって、彼女は私の心をとらえたのだった」とケプラーは書き残している。  「それでも、私は探索を続けた」。  友人や親戚から次々に女性を紹介され、自分でも探し続けたが、気が乗らなかった。五人 めの女性が頭から離れなかったのである。全部で一一人と交際した末に、彼はもう探すのを やめようと決めた。「レーゲンスブルクへの旅支度をしている最中に五人めの女性を訪ね、 思いのだけを伝えると、向こうも受け入れてくれた」。ケプラーとズザンナーロイごアイン ガーは結婚し、ケプラーが最初の結婚でもうけた五人の子に加えて、新たに六人の子に恵ま れた。伝記によれば、ケプラーはそれからずっと、ごく穏やかで喜びに満ちた家庭生活を送 ったらしい。  ケプラーとトリックは、配偶者探しにおいて秘書問題では単純化のために切り捨てられて しまう現実を。互いに逆の形で実体験した。古典的な秘書問題では採用された候補者は必ず ポストを受け入れることになっているので、トリックが経験したような拒絶は起こらない。 また、いったん見送った候補者を「呼び戻す」ことはできないので、ケプラーのやり方はこ れに反している。  秘書問題が最初に紹介されてからの数十年間、このシナリオのバリエーションがいろいろ と研究され、さまざまな条件のもとで最適停止のための戦略が解明されている。たとえば拒 絶の可能性については、単純明快な数学的解決策がある。早くから頻繁にアタ″クするのだ。 たとえば断られる確率が半々の場合、三七パーセントルールを導き出したのと同様の数理解 析によれば、探索をちょうど四分の一まで終えたらアタ″クを開始する。断られたら次に現 れる「今までで最良」の相手にアタ″クを続け、OKがもらえるのを待つ。この方法なら、 最終的に成功する(最良の候補者にアタ″クして受け入れてもらえる)確率も二五パーセン トとなるはずだ。このシナリオではそもそも基準を確立するのが一般に難しいうえに拒絶と いう障害も加わるのだから、二五パーセントというのはそんなに惡くないのではないだろう か。  ケプラーは、自らを探索の続行へと走らせた「不安と疑い深さ」を悔やんだ。「ほかのさ まざまな望みを満たすのは無理だと気づく以外に、私の落ち着かぬ心か運命を甘受できる方 法はほかになかったのだろうか」と、親しい女友だちに手紙でこぼしている。これについて はまたしても、最適停止理論がいくらかの慰めを与えてくれる。不安と疑い深さというのは 道徳的もしくは精神的な退廃の表れではなく、じつは敗者復活のチャンスが存在しうるシナ リオにおいては最良の戦略の一部となるのだ。一度見送った候補者を呼び戻せる場合、最適 アルゴリズムは例の「見てから跳べ」ルールをひとひねりしたものとなる。様子見の期間を 長くして。挽回の計画を加えるのだ。  たとえば、すぐさまアタックすれば確実に受け入れてもらえるが、あとからアタ″クした 場合には二分の一の確率で拒否されるとしよう。この場合、数学的には、候補者の六一パー セントに会うまでは様子見を続け。残りが三九パーセントを切ってから「今までで最良」の 人がいたらそこで決断を下すぺきだ。ケプラーのようにすべての可能性を検討してもまだ相 手が見つからない場合には、前に見送つたなかで最良の相手に戻る。この再挑戦を許すシナ リオでもやはり戦略と結果のあいだに対称性が見られ、最良の相手が手に入る確率は六一パ ーセントとなる。  ケプラーの場合、現実と古典的な秘書問題との違いが(″ピーエンドにつながった。じつ はトリ″クの場合にも。古典的な秘書問題にはない現実のひねりがうまく作用した。ふられ たあと、彼は学位を取得してドイツで就職した。そこで「バーに入り、美女と恋に落ち、三 週間後には一緒に暮らし始め、。しばらく″アメリカで暮らしてみないかと誘った」。相手 は応じ、六年後に二人は結婚したのだった。   よいものを見逃さないI完全情報  古典的な秘書問題では、適切なタイミングで採用を申し出れば必ず了承され、一度きりの タイミングを逸したら決して了承してもらえないと想定している。しかし本書で検討した最 初のバリエーションではこの想定に変更を加えて、拒絶や呼び戻しを可能にした。これらの バリエーションでも最良のアプローチはオリジナルと変わらず、しばらくは様子見をして、 ある時点で決断の態勢に入るのがベストだ。  しかし秘書問題の想定のなかには、これらよりさらに基本的だが問い直したほうがよさそ うな点がある。秘書問題においては、候補者間の比較以外に候補者についての情報がないと いう想定だ。よい候補者やよくない候補者とはどんなものかについて、客観的な認識がなく、 事前の知識もない。そのうえ二人の候補者を比較する場合には。ただ優劣がわかるだけで、 優劣の度合いについてはわからない。だからこそ。期待や基準を調整しているあいだに優秀 な候補者が早々と現れてしまったら見送ってしまうおそれがあるのを承知のうえで、「見 る」段階が不可欠とされているわけだ。数学者はこのタイプの、従来言われる最適停止問題 を「無情報ゲーム」と呼ぶ。  この設定は、たいていのアパート探しやパートナー探し、さらには秘書探しの実態から間 違いなくかけ離れている。この設定とは違って、なんらかの客観的な基準かあるとしよう。 たとえば、すべての秘書かタイピングの検定試験を受験し、その結果かSAT(大学進学適性 試験)やGRE(大学院進学適性試験)やLSAT(ロースクール進学適性試験)のようにパーセン ト順位(訳注全体の分布において下位から何パーセントに位置するかを示す数値)のスコアとして出 ているとする。つまり、タイピング試験の全受験者のなかで応募者かどこに位置するのか、 スコアを見ればわかる。五一パーセント順位なら平均をわずかに上回り、七五ハーセソト順 位なら受験者全体の四分の三よりも優秀、といった具合だ。  応募者の集団か人口全体を代表し、いかなる点でも偏りや自己選択が生じないと仮定しよ う。さらに、応募者について重要なのはタイピングのスピードだけと考える。この場合、数 学で「完全情報」と呼ばれるものが得られ、状況が一変する。「基準を定めるのに経験の蓄 積は要らない。有益な選択が即座にできる場合もある」という言葉が、一九六六年にこの問 題を取り上げた独創的な論文に記されている。言い換えれば、最初に現れたのが九五パーセ ント順位の応募者だった場合、評価する側にはそれがただちにわかるので、自信をもってそ の場で採用を決めることができる。言うまでもなく、これは応募者のなかに九六パーセント 順位以上の者がいるとは考えないということを前提としている。  ここで問題が生じる。ポストに最適な人材の採用を目指すなら、もっと優秀な応募者がこ れから現れる可能性を考慮することがやはり必要だ。しかし完全情報があるのなら。その可 能性を直接的に計算するのに必要なものはすべてそろえられる。たとえば、次の応募者が九 六パーセント順位以上である確率は常に二〇分の一となるはずだ。そこで、選考をやめるか どうかは残りの応募者の人数だけで決められる。完全情報があれば、跳ぶ前に見る必要がな いのだ。代わりに闇値ルールを使って、一定のパーセント順位より上の応募者が現れたらた だちに採用するというやり方もできる。閾値を設定するのに初めのほうの候補者たちを検討 する必要はない。しかし、応募者があとどのくらい残っているかについてはきちんと把握し なくてはならない。  計算してみれば、応募者がたくさん残っている場合には、非常に優秀な応募者が現れても さらに優秀な応募者が見つかることを期待して見送るべきだが、残りの選択肢が少なくなっ てきたら、平均を上回ってさえいればとにかく採用する態勢に入るべきだということかわか る。つまるところ、選択肢が少なければ基準を下げよという、心が躍るとは言えないがおな じみのメ″セージだ。また逆に、海にいる魚か多ければ基準を上げよとも言える。いずれに しても大事なのは、基準をどのくらい上げ下げすべきかは計算すればわかるということだ。  このシナリオで数字を特定するのに最も簡単な方法は、結末からさかのぼって考えるとい うやり方だ。言うまでもなく。もうあとがないという場合には、最後の応募者を採るしかな い。しかし最後から二人めの応募者を検討する場合には、この応募者が五〇パーセント順位 より上かという点が問題となる。答えがイエスなら、その応募者を採用する。ノーなら、次 の応募者が五〇パーセント順位より上である 確率は当然ながら半々なので、最後の応募者 に賭けるべきだ。同様に、最後から三人めに ついては六九パーセント順位より上、最後か ら四人めなら七ハハーセント順位より上…… という条件を満たしていれば、その応募者を 採用する。残りの応募者が多ければ多いほど、 この基準を上げることかできる。選択肢が完 全に尽きるまでは、絶対に平均を下回る者を 採用してはならない(応募者全体のなかで最 良の人材を見つけることだけを目指している ので、今までで最良でない者を採るのも絶対 にだめだ)。  このような秘書問題の完全情報バージョン では、最良の応募者を採用できる確率は五八 ハーセソトとなる。確実とはとうてい言えな いが、無情報ゲームの三七パーセントルール で成功率が三七パーセントだったのと比べれ ば、かなり高い数字だ。応募者の人数がどれほど多くなっても、事実がすべて手元にあれば 半々以上の確率で目的が達成できる。  このように、完全情報のゲームからは意外でいくらか不思議な結果が得られる。恋愛と比 丶 丶 丶    丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 べれば、金鉱を探し当てるほうがはるかに成功の見込みか高いのだ。つかみどころのない情 動反応(すなわち「恋愛」)を追い求めている大には、経験と比較基準が必要かもしれない。 それよりも、収入のパーセント順位といった客観的な基準で相手を判断している人のほうが、 利用できる情報がはるかに多い。  もちろん、資産総額やタイピングのスピードだけを評価基準とすべき理由はない。集団内 で候補者の占める相対的な位置について完全情報を与えてくれるならどんな基準でも、「見 てから跳べ」ルールから閾値ルールへと解決策を変えてくれるので、集団内で最良の候補者 を選び出せる確率が飛躍的に上がるはずだ。  秘書問題については、たとえば恋人(または秘書)を探す際にぶつかる現実世界の実情に もっと沿わせるといった目的で、ほかの想定を変更したバリエーションがたくさんある。し かし最適停止が与えてくれる教えを活かせる場は、恋愛や大材採用にとどまらない。選択肢 か順番に一つずつしか現れない状況で最良の選択を目指すという状況は、住宅の売却、駐車 場探し、あるいは賭け事などの引き際の見定めなどの基本的な枠組みでもある。そしていず れもある程度はすでに答えが見つかっている問題である。   売却のタイミング  古典的な秘書問題から二つの点を変更すると、舞台はにわかに恋愛から不動産売買へと変 わる。前に最適停止問題の一例としてアパート探しのプロセスを取り上げたが、住宅の所有 をめぐっても最適停止の事例には事欠かない。  たとえば家を売却するとしよう。数軒の不動産業者に相談してから、自宅を売りに出す。 ペンキは塗り直したし、庭の手入れもした。あとは買い手が現れるのを待つばかりだ。ふつ うは買い手からオファーされるたびに、応じるか断るか決めなくてはならない。だか、断る ことにはコストが伴う。次のオファーが来るまであと一週分(または1ヵ月分)のローンを 支払わなくてはならないし。待つたからといって確実にもっとよいオフ″Iが来るわけでも ない。  住宅の売却は、完全情報ゲームと似ている。買い手のオファーは客観的な金額で提示され るので、オファーの優劣だけでなく優劣の度合いまでわかる。そのうえ市場全般の状況につ いての情報もあるので、期待できるオファーの範囲について少なくともおよその予想をする ことは可能だ(ここから、先ほどのタイピング試験の例と同じく、各オファーについて「パ ーセント順位」の情報か得られる)。しかし秘書問題と違うのは、最良のオファーを確保す ることが目標ではないという点である。大事なのは売却プロセス全体で最大の金銭を得るこ となのだ。待っているあいだにも金銭的なコス トがかかるなら、今日のうちによいオファーを 受け入れるほうが、数カ月後にもう少しだけよ いオファーを受け入れるよりも得策だろう。  市場の情報があれば、閾値を定めるために様 子見をする必要かない。すぐさま閾値を定めて、 それに届かないものはすべて無視し、閾値を超 えた最初の選択肢を選べばよい。確かに、ある 時期までに売却しなければ貯蓄が尽きてしまう とか、一定数のオファーしかもらうつもりがな くてそれ以降には関心がないという場合には、 その限界が近づいたら基準を下げるべきだ(買 い手が「積極的」な売り手を好むのには理由が ある)。しかし、そうした切羽詰まった事情が ない場合には、待機戦術の費用便益分析だけに 注意を向ければよい。  ここではごく単純なケースを分析しよう。オ ファーされる価格の範囲がはっきりわかってい て、その範囲内ではどのオファーも等しい確率で生じるというケースだ。オファー(または 自分の貯蓄)が尽きることを心配しなくてよいなら、もっと有利な取引を待つことによって 生じる可能性のある損得だけを考えればよい。目の前のオファーを断った場合、この先にも っとよいオファーが来る可能性はあるのか。あるとすればどのくらいよいオファーなのか。 待つためのコストを払ってもおつりがくるほどなのか。じヴはこの計算はかなり単純で、い くらなら待機を停止すべきかを表す明確な関数を、オファーを待つ際のコストの関数として 与えてくれる。  この数学的な答えでは、売ろうとしているのが何百万ドルもする豪邸かおんぼろのあばら 家かは考慮されない。考慮されるのは、来る可能性のあるオファーの最高額と最低額の差だ けだ。具体的な数字を入れると、このアルゴリズムがかなりの明瞭な指針を与えてくれる仕 組みがわかる。たとえば、期待されるオファー金額の範囲が四〇万ドルから五〇万ドルだと しよう。まず、待機のコストがわずかなら、ほぼ無限に選り好みして大丈夫だ。次のオファ ーを待つためのコストがほんのIドルですむ場合、しばらく待って、四九万九五五ニドル七 九セント出すという買い手が現れてくれれば、ほぼ最大の利益が得られる。一方、待機のコ ストがオファー一件につき二〇〇〇ドルかかるならば、四八万ドルでも手を打つべきだ。市 場が低調で、待機のコストがオファー一件あたり一万ドルかかる場合には、四五万五二七九 ドルを上回るオファーが来たら手を打つ。そして待機のコストが期待オファー範囲の半分  (今の例では五万ドル)以上になるなら、次のオファーを待ってもなんらメリ″卜はない。 オファーが舞い込んだらすぐさま話をまとめるのかベストだ。困窮した者に選り好みは禁物 なのだ。  この問題で大事なのは、閾値が探索のコストのみで決まるということだ。次によいオファ ーが来る確率(および探索のコスト)はまったく変化しないので、運や不運は関係がなく、 探索の続行に伴って停止価格を下げるべき理由はない。探索を始める前に基準を定めたら、 あとはひたすらそれに従うだけだ。  最適化の専門家であるウィスコンシンーマディソン大学のローラーアルパートーマクレイ は、自分の家を売却するときに最適停止問題の知識か役に立った。「最初に高額のオファー が来ました」と彼女は語る。「でも、コストがとても大きかったのです。先方は、私たちが 予定していたよhソも1ヵ月早く家を明け渡すことを望んでいたので。次にまたそこそこのオ ファーが来ました……が、私たちはこれぞと思えるオファーが来るまで粘りました」。多く の売り手にとって、好条件のオファーを一つか二つ断るというのは気が狂いそうな話だ。断 った直後にそれ以上のオファーが来なければなおさらだ。しかしマクレイは動じず、冷静さ を保った。「本当にとてもきつかったでしょうね卜数学が味方をしてくれるということを 知らなかったら」。  オファーが一つずつ来て、次のオファーの探索や待機にはコストがかかるというあらゆる 状況において、この方針は使える。つまり、家の売却以外にもさまざまなケースでこの方針 は大きな意味をもつ。たとえば経済学者はこのアルゴリズムを使って、職探しをモデル化し ている。失業者がいるのに求人の空きか埋まらないという、ほかの見方ではパラド″クスと 思われる事実も、これでうまく説明できる。  じつはここで挙げた二つの最適停止問題のバリエーションにはもう一つ、さらに思いがけ ない性質かある。先に見たとおり、ヶフラーの配偶者探しでは見送ったチャンスを「呼び戻 す」ことができた点が重要だった。しかし住宅の売却や職探しでは、一度断ったオファーを 再検討することが可能だとしても、そしてそのオファーがまだ確実に有効だとしても、決し て戻るべきではない。過去に閾値を超えていなかったものか、今になって超えているという ことはないはずだ。探索を続けるために払ったコストは取り戻せない。妥協せず、あとから あれこれ考えるのはやめる。そして、振り返ってはいけない。   駐車のタイミング   私が思うに、大学の運営上の三大問題は、学生にとってのセ″クス、同窓生にとっての   運動部、教職員にとっての駐車です。           −カリフォルニア大学学長(一九五八〜六七年)クラーク・カー  車もまた、最適停止問題が頻発し、振り返ることが一般に得策でない範疇に属する。ドラ イバーは秘書問題を扱った初期の文献に登場しているし、絶えず前に進んでいかなくてはな らないという制約ゆえに、運転中に下される決断はほとんどが停止問題となる。レストラン やトイレを探すときもそうだし、都会のドライバーにとっては駐車スペース探しが何よりも 切実な停止問題だ。駐車のあれこれについて話を聞きたければ、《ロサンゼルスータイム ズ》紙が「駐車界のスーパースター」と評したカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCL A)の都市計画栄誉教授、ドナルドーシャウプの右に出る者はいない。私たちは彼を訪ねる ために、北カリフォルニアから車で南へ向かった。想定外の交通状況に遭遇しても大丈夫な ように、時間にはたっぷり余裕を見ておくとシャウプに約束した。「。想定外の交通状況” を見越して予定を立てるとおっしゃいますが、むしろ想定される交通状況を見越して予定を 立てるべきだと思いますよ」と先方は応じた。シャウプはおそらく著書『無料駐車の高コス ト』で最もよく知られ。人が車で目的地へ向かうときに直面する現実をめぐる議論と理解を 推し進めるのに大きく貢献している。  ドライバーとはまさに同情すべき存在だ。シャウプがモデル化したとおり、理想の駐車ス ペースというのは。規定の駐車料金、駐車場所から最終目的地まで歩く時間と労力、スペー スを探すのにかかる時間(場所や時間帯などによって大きく異なる)、ガソリンの消費量の あいだで細かなバランスが最適化される場所だ。同乗者がいれば駐車料金は分担できるが、 探索時間や徒歩の負担は分担できないので、同乗者の人数によってバランスが変わる。同時 に、駐車スペースの供給が最も多い地域はまた需要も最も多いかもしれないということを考 える必要がある。周囲を走るほかのドライバーをこちらが出し抜こうとする一方で、向こう もこちらを出し抜こうとするという点で、駐車にはゲーム理論的な要素かあるとも言える。 といっても、駐車をめぐる問題の多くは「使用率」という一つの数字に落とし込むことがで きる。使用率とは、すべての駐車スペースのうち使用されているスペースの割合を表す。使 用率が低ければ、よい駐車場所が簡単に見つけられる。使用率が高ければ、どんな駐車場所 もなかなか確保できない。  シャウプによれば、駐車にまつわる悩みの多くは、きわめて高い使用率につながるやり方 を自治体か採用している結果だという。特定の場所で駐車料金が安すぎれば(あるいは考え るのも恐ろしいことだが。完全にタダだったら)、ちょっと離れたところに車を停めて歩く よりもそこに駐車したいという強い動機か生じる。そして誰もがそこに駐車しようとするが、 たいていはすでにスペースがいっぱいになっているので、結局は駐車場所を探して時間を浪 費し、化石燃料を燃やすことになる。  シャウプの考えた解決策では、需要に応じて料金の変更が可能なデジタル式のパーキング メーターを設置し(これはすでにサンフランシスコの中心部で採用されている)、目標とす る使用率を念頭に毆いて料金を設定する。シャウプは使用率を八五ハーセント前後にすべき だと言うが、これはたいていの大都市で路肩のI〇〇パーセント近くが車で埋まっている実   *ゲーム理論の計算の危険性について、詳しくは第11章で扱う。 態と比べてずいぶん低い数字だ。使用率か九〇ハーセントから九五パーセントに上がると、 駐車している車は五ハーセント増えるだけなのに、空いたスペースを探すのにかかる時間は 二倍になる、とシャウプは指摘している。  駐車とは最適停止問題だということに気づけば、駐車戦略に対して使用率が与える主たる 影響がはっきりする。道路を走行中、ドライバーは空いたスペースが目に入るたびに決断を 迫られる。ここに停めるか、それとも運に任せてもう少し目的地のそばまで行ってみるか。  無限に続く道路を走っているとしよう。この道路には等間隔で駐車スペースが設けられて いて、ドライバーは最終目的地まで歩く距離を最短に抑えることを目指す。この場合、答え は「見てから跳ぺ」ルールである。最適停止したいドライバーは、目的地から一定の距離に 入るまでは空いたスペースがあってもすべてやり過ごし、一定の範囲内に入ったら最初に見 つけたスペースに駐車する。「見る」から「跳ぶ」に切り替えるべき地点は。使用されてい る可能性の高いスペースの割合、すなわち使用率によって決まる。表2に、代表的な使用率 におけるこの距離を示す。  この無限に続く道路の駐車スペース使用率が大都市並みの九九パーセントで。空いたスペ ースがIパーセントしかない場合には、目的地からおよそ七〇スペースに相当する距離(四 〇〇メートル以上)に入って最初に見つけたスペースに停めるべきだ。しかしシャウプの主 張を採用して使用率を八五パーセントまで下げることができれば、目的地から半ブロ″クの 距離に入るまでは必死に探さなくてよい。  もっとも、完璧な直線で無限に続く道路 を走るというのは、現実にはほぼありえな い。それゆえほかの最適停止問題と同様、 研究者はこの基本シナリオに加えるさまざ まな変更を検討してきた。たとえば、U夕 Iンしてよいケースや、目的地に近づくに つれて利用可能な駐車スペースが減ってい くケース、あるいは同じ目的地へ向かうド ライバーどうしが競合するケースなどの最 適駐車戦略を研究している。しかし問題の パラメーターが正確にはどんなものであれ、 空いたスペースか多ければ確実に対処が容 易となる。このことから自治体当局は、駐 車というのは資源(駐車スペース)を確保 してその利用(使用率)を最大化するとい った単純なものではないということに気づ くべきだろう。駐車とはプロセス(最適停 止問題)でもあり。注意力、時間、燃料を 消費し。大気汚染や交通渋滞を引き起こす。この問題全体に対処できなければ。適正な政策 とは言えない。そして意外に思われるかもしれないが、とても都合のよいブロ″クに空きス ペースが見つかることこそ、じつは駐車政策が正しく機能していることを示すしるしと考え られるのである。  私たちはシャウプに、車の多いロサンゼルスでUCLAへの通勤を自身の研究によって最 適化できているのかと尋ねた。世界随一の駐車問題専門家ともなれば、ひょっとして秘密兵 器のようなものをおもちでは?  やはりもっていた。「自転車で通勤しています」。   やめるタイミング  ー九九七年、《フォーブス》誌はボリスーベレソフスキーをロシアで一番の富豪と認定し た。保有する総資産はおよそ三〇億ドルだった。そのわずかI〇年前には、彼はソ連科学ア カデミーからもらう給料で生活する数学者だった。しかし研究を通じて築いた業界の人脈を 利用して、ソヴィエトの自動車メーカー〈アフトワズ〉と外国の自動車メーカーとの提携を 仲介する会社を設立し、それによって巨額の資産を手にした。その後、ベレソフスキーの会 社はアフトワズ車を扱う大手ディーラーとなhソ、分割払い方式の採用によってルーブルの( イパーインフレから恩恵を受けた。彼はこの企業提携から得た資金でアフトワズ自体の所有 権の一部を買い取り、それから放送局のORTテレビ、さらには石油会社のシブネフチも買 収した。新興財閥の一角に食い込んだベレソフスキーは政治にも関与するようになり、一九 九六年にはボリスーエリツィンの大統領再選を支援し、一九九九年にはエリツィンの後継者 となるウラジーミループーチンの大統領選挙も支援した。  しかし、ベレソフスキーの運もここまでだった。プーチンの当選後まもなく、ベレソフス キーは大統領の権限を拡大することになる憲法改正案に公然と異議を唱えた。プーチン批判 を堂々と続けたため、両者の関係はこじれた。二〇〇〇年一〇月、ベレソフスキーからの批 判について質問されたプーチンはこう答えた。「一度しか使えないが使えば致命傷を与えら れる棍棒か準備できているけれども、まだそれを使っていないという状況だ。……怒りが限 界を超えたら、われわれは躊躇しない」。翌月、ベレソフスキーはロシアを永久に離れてイ ギリスに亡命し、そこでプーチン政権への批判を続けた。  ベレソフスキーはロシアを去るタイミングをどうやって決めたのか。「勝っているうちに やめろ」ということわざについて数学的に考える方法でもあるのだろうか。確かに彼ならば、 この問題について考察したかもしれない。というのは、何年も前に数学者として手がけてい たテーマがまさに最適停止だったからだ。彼は秘書問題だけを扱った最初の(そして今のと ころ唯一の)書籍を執筆している。  勝っているうちにやめるという問題についてはいくつかのスタイルが分析されているが、 おそらくベレソフスキーのケースに最もぴったりなのは(ロシアのオリガルヒには申し訳な いが) 「泥棒問題」と呼ばれるものだ。この問題では、泥棒が繰り返し盗みを働く機会を与 えられる。盗みに成功するたびに稼ぎが手に入り、逃げきれる可能性は常にある。しかし現 場を押さえられたら逮捕され、蓄えた財産をすべて失ってしまう。稼ぎの期待値を最大にす るには、どんなアルゴリズムに従えばよいだろう。  強盗映画の制作者を困らせてしまうかもしれないが、この問題には答えがある。老いて引 退した元泥棒を引っ張り出して最後の仕事をさせようと強盗団が画策しているとき、老練の 泥棒に必要なのは計算だけだ。そのうえ、答えにはあまり意外性がない。逃げきれる確率を 捕まる確率で割った数にほぼ等しい回数に達したら、足を洗うべきである。腕利きの泥棒が いつも九〇パーセントの確率で逃げおおせる(逆にすべてを失う確率がI〇パーセント)と すれば、九〇÷一〇で九回やったところでやめるのだ。成功する確率が半々・しかない下手な 素人の場合はどうか。初めてのときにはどうせ失うものなどないが、そのまま調子に乗るの はやめたほうがいい。  ベレソフスキーは最適停止の専門家だったにもかかわらず、彼自身の物語は悲劇的な結末 を迎える。二〇一三年三月、バークシャーにある自宅のバスルームで、ドアが口″クされ首 にひもが巻かれた状態で死んでいるのを護衛係が発見した。検視の結果、公式見解として自 殺と判断された。ロシア国内の敵を相手とした派手な訴訟が続き、資産の多くを失ったため に首を吊ったということだった。彼はもっと早くやめるべきだったのかもしれない。数千万 ドルを稼いだあたりでやめておき、政治にはかかわらないほうかよかったのではないだろう か。しかし残念ながら、そんなやり方は彼の流儀に反する。数学者仲間のレオニードーボグ スラフスキーは、自分とベレソフスキーが若手研究者だったころの思い出話をしたことかあ る。水上スキーをしようとモスクワ近郊の湖に行ったのだが、使うはずのボートが故障して しまった。デイヴィ″ドーホフマンは著書『オリガルヒ』でその日のことをこんなふうに描 写している。   友人たちは湖岸でたき火をしたが。ボグスラフスキーとベレソフスキーはモーターを修   理しようと船着場へ向かった。……一一一時間かけて、二人はモーターを分解して再び組み   立てた。それでもモーターは動かなかった。仲間のパーティーはほとんど終わってしま   ったが、ペレソフスキーはやめるわけにはいかないと言った。「僕たちはいろいろやっ   てみた」とボグスラフスキーは語る。ベレソフスキーは絶対にあきらめようとしなかっ   た。  意外なことに、絶対にやめないという戦略も最適停止の文献に登場する。これまで多様な 例を紹介してきたあとでは意外かもしれないが、逐次的意思決定問題のなかには最適停止の 規則が存在しないものもあるのだ。単純な例として「三倍かゼロか」というゲームがある。 一ドルが手元にあり、次のようなゲームを好きなだけプレイしてよいとしよう。そのゲーム とは、手持ちの資金をすべて賭けると、五〇パーセントの確率でその金額が三倍になって返 ってくるが、五〇パーセントの確率で全額を失うというものだ。このゲームは何回プレイす るのがよいだろう。単純なゲームだが、この問題には最適停止ルールが存在しない。プレイ するたびに、平均利得は少しずつ上がっていく。最初にIドルを賭けると、三ドルもらえる 確率が五割、すべて失う確率も五割なので、一回めで手にする金額の期待値はI・五〇ドル となる。初回で幸運に恵まれたなら、勝ち取った三ドルが次の回には九ドルになるか、ある いは○ドルになるかという二つの可能性があり、このときに得られる金額は平均で四・五ド ルとなる。この計算から考えれば、果てしなく賭けを続けるべきである。しかしこの戦略に 従うと、いつかはすべてを失うときが来る。解かずに敬して遠ざけたほうがよい問題という のもあるのだ。   人生は停止問題に満ちている   この世で生きるのはI度きりだと思う。だから、どんな善行をするにしても、誰に対し   てどんな親切をするにしても、今やらせてほしい。先送りしたり放置したりさせないで   ほしい。この道を再び通ることはないのだから。        −スティーヴンーグルレ(訳注 フランス生まれのアメリカのクエーカー教徒)   午後を有効に使うこと。持って帰れるものじゃないんだから……(()アインカー・クリーク   のほとりで』金坂留美子・くぼたのぞみ訳。めるくまIるより引川)。                               −アニー・ディラード  ここまで、暮らしの中で人が停止問題に直面する具体的なケースを見てきた。日々、われ われのほとんどかなんらかの形でこの種の問題にぶつかるのは間違いない。登場するのは秘 書かもしれないし、あるいは結婚相手かアパートかもしれないが、いずれにしても人生は最 適停止問題だらけだ。そこでぜひとも知りたいのは、われわれが卜進化や教育や直感によ って卜実際に最良の戦略に従っているのかということである。  一見したところ、答えはノーである。一〇件あまりの研究で同じ結果が出ている。もっと よい選択肢に出会わぬまま、早々と探索をやめてしまう傾向があるらしい。この研究結果に ついて掘り下げるべく、私たちはカリフォルニア大学リヴァーサイド校のアムノンーラパポ ートに話を聞いた。彼は四〇年以上にわたって実験室で最適停止の突験を手がけている。  一九九〇年代、ラパポートはダリルーシールと共同で、古典的な秘書問題を最も忠実にな ぞった実験を行なった。この実験では、被験者は応募者を四〇人または八〇人に設定した秘 書問題に何度も取り組まされた。全体として最良の応募者を選べる割合は約三一パーセント とかなり良好で、最適戦略の三七パーセントとさほど変わらなかった。ほとんどの被験者は  「見てから跳べ」ルールに合致したふるまいを見せたが、全体の五分の四で跳ぶのが早すぎ た。  ラパポートは、実生活で最適停止問題の答えを出す際にはこれを念頭に匱いていると話し てくれた。たとえばアパートを探すときには、さっさと決めてしまいたいという衝動と闘う そうだ。「私はもともとひどくせっかちで、最初に見つけたアパートに決めてしまいたくな るのですか、なんとか気持ちを抑えようと努めるのです!」。  しかしこのように焦る気持ちか生じるということから、古典的な秘書問題には織り込まれ ていない要素が浮かび上がる。時間の役割である。秘書を探しているあいだずっと、秘書の いない状態が続くのだ。しかも、面接に時間を取られて本来の仕事が片づかない。  こうしたコストに着目すると、実験室で秘書問題を与えられた被験者かさっさと探索をや める理由が説明できるかもしれない。シールとラパポートは、たとえば応募者一人の面接に かかるコストが、最良の秘書を見つける価値のIパーセントに相当すると考えられる場合、 最適戦略は二人の実験で被験者が実際に「見る」から「跳ぶ」に切り替えたタイミングと完 璧に合致することを明らかにした。  不思議なのは、シールとラパポートの実験では探索のコストが設定されていなかったにも かかわらず、被験者があたかもコストが存在するかのようにふるまったのはなぜかというこ とだ。  それは、人には時間のコストというものが常に存在するからだ。これは実験の設計によっ て生じるのではなく、人の生活に伴うものである。  ゆえに探索に「内在」する時間コストは、最適停止モデルにおいて通常は考慮されないと はいえ、人の意思決定か往々にしてモデルの示す答えから逸脱する理由の説明となるかもし れない。最適停止の研究をしているニールービアデンは、「探索をしばらく続けると、われ われ人間はたいてい飽きてくる。飽きるのは不合理な現象ではないが、厳密にモデル化する のは難しい」と述ぺている。  それでも、このせいで最適停止問題の重要性か減じるわけではない。むしろもっと重要な 意味をもつようになる。なぜなら、時間の流れがすべての意思決定を最適停止へと変えるか らだ。  「最適停止の理論が扱うのは、特定の行動をとるべきタイミングをいかにして見極めるかと いう問題である」と、最適停止に関する最も信頼できる教科書の冒頭に記されている。人間 のありようを記述した言葉として、これほど簡にして要を得たものはほかになかなか思いつ かない。われわれは株を売買するのに適切なタイミングを判断する。それは確かだ。しかし それだけでなく、特別なときのためにとっておいたワインを開けたり、人の話をさえぎった り、誰かにキスしたりするのにふさわしい瞬間についても判断する。  こう考えると、秘書問題の根底にある基本的だが最も現実離れしていると感じられる想定。 すなわち厳密に逐次的であくまでも一方向にしか進まないという設定は、まさに時間の本質 であることがわかる。ということは、最適停止問題で明確に設けられる前提は、生きること に伴う暗黙の前提なのだ。だからこそ、われわれはまだ見ぬ可能性にもとづいて判断するこ とを迫られ、最適なふるまいをしていても高い確率で失敗することを受け入れざるをえない。 手放した選択肢は戻ってこない。似たような選択肢に出会うことはあるかもしれないが。ま ったく同じものに再会することはない。躊躇、すなわち行動をとらないことは、行動をとっ た場合と同じく、あとで取り消すことができない。一方通行の道路を進むドライバーにとっ て、まわりの空間は、じつはわれわれ三次元空間の住人にとっての第四次元、すなわち時間 に等しい。なぜなら、道は決められた向きに、ただ一度しか通れないからだ。  われわれは、合理的な意思決定とはすべての選択肢を徹底的に調べ上げて入念に比較した うえで最良の選択肢を選ぶことだと信じ込んでいる。しかし実際には、時計(または心臓) か音を立てて動いているとき、意思決定(あるいは思考全般)のさまざまな側而のなかで、 やめるタイミングほど重要なものはほとんどない。  2 探索と活用    最も新しいものと最もすばらしいもの  おなかが鳴った。お気に入りのイタリア料理店に行くか、それともこのあいだオープンし たばかりのタイ料理店にするか。親しい友人を連れていこうか、それとも親しくなりたい新 しい知り合いを誘ってみょうか。考えるのが面倒になって、家で何か食べることにするかも しれない。うまくいくとわかっているレシピでつくるか、インターネットで新しいレシピを 探すか。いや、ピザを頼むのはどうだろう。注文は「いつもの」でいいか、それとも何か特 別なメニューがあるか訊いてみようか。食事にありつく前に、もうすっかりくたくただ。レ コードを聴くか、映画を見るか、本を読むかIそしてどの作品にするかIを考えるのは、 もはや気の休まることとは思えない。  日々、われわれは「新しいものを試すか、いつものお気に入りにするか」というごく限ら れた次元で異なる選択肢を前にして、絶えず決断を迫られる。新規と伝統、最も新しいもの と最もすばらしいもの、冒険するかお気に入りを楽しむかI人生はこれらのあいだのバラ ンスだと、感覚的には理解できる。しかしアパート探しでぶつかる「見るか跳ぶか」のジレ ンマと同様、「どんなバランスをとるべきか」という問いには答えか出ていない。  一九七四年に刊行された名著『禅とオートバイ修理技術』(五十嵐美克訳、(ヤカワ文庫)で、 著者のロバートーパーシグは会話を始めるときの「何か変わったことはないか?」という言 葉を批判している。この問いが「それをひたすら追い求めたとしても、結局行き着くところ は果てしのない些事の連続であり、明日の障害でしかない」というのだ。そして「何がベス トか?」 (以上、五十嵐訳)と問うほうがはるかにょいと述べている。  しかし、現実はそんなに単純ではない。お気に入りのなかでも特に「ベスト」となってい る歌やレストランも、最初は自分にとってただ「新しい」ものにすぎなかったということを 思い出せば、未知の「ベスト」がどこかにあるかもしれないということに気づかされる。そ して、「新しい」ものというのは少なくともいくらかは注意を向けるに値するということに も思い至る。  古くからの格言にもこうした対立が登場するか、解決には至っていない。「新たな友をつ くれ ただし古き友を大切にせよ/新たな友は銀 古き友は金なのだから」とか「これほど 豊かですばらしい人生はない/しかし友がもう一人加わるくらいの余地はある」という言葉 は十分に正しい。その響きには非の打ちどころがない。しかし充実した人生という最高の合 金をつくるための「金」と「銀」の配合については、役立つことを何も教えてくれない。  コンピューター科学者は、五〇年以上も前からこのバランスを見つける試みを続けている。 そしてこの問題に「探索と活用のトレードオフ」という名前までつけている。   探索と活用  英語の「explorej(探索)とI exploit J (活用)という語には、一方は苦心して見つけ出す こと、他方はやすやすと利用すること、という正反対のニュアンスがある。しかしコンピュ ーター科学者にとっては、これらの語の意味ははるかに具体的でニュートラルだ。単純に言 うと、探索とは情報を「集める」ことであり、活用とは既知のよい結果を得るために手元の 情報を「使う」ことだ。  生きるためには探索が欠かせない。それはすんなり理解できる。だが、生きるためには活 用も欠かせないということも忘れてはいけない。それどころかコンピューター科学の定義に 従えば、活用はわれわれが人生で最高の瞬間と考えるものの多くに見て取れる。休暇に家族 が集まるのは活用である。愛書家が熱いコーヒーの入ったカtフとお気に入りの本を用意し て読書用の椅子に腰を落ち着けるのも、バンドが熱狂的なフアンたちの前で大ヒ″卜曲を演 奏するのも、あるいは夫婦が「二人の大切な歌」に合わせて踊りながら時の試練に耐えてき たのも、やはり活用である。  さらに言えば、探索は苦しみの種にもなりうる。  たとえば音楽のすばらしい点の一つは、絶えず新しい曲が生み出されていることだ。とこ ろが音楽ジャーナリストにとっては、絶えず新しい曲が生み出されるのが音楽の厄介な点で もある。音楽ジャーナリストであれば、探索のアンテナをいっぱいに広げて、常に新しい音 楽ばかりを聴くことになる。音楽フ″ンなら音楽ジャーナリズムの世界で働くのは楽園で過 ごすようなものと想像するかもしれないが、いつも新しいものを探索していなくてはならな いとなれば、自分の耳で選りすぐった果実を楽しむことなどできず、地獄の苦しみを味わう ことになる。音楽情報サイト《ピッチフォーク》の編集長を務めたスコ″トープラジェソホ ーフほど強くこの苦しみを実感した人はなかなかいない。彼は音楽評論家の生活について。  「仕事をしていても、瑕を見つけては自分の聴きたいものを聴こうとするものですよね」と 語っている。質の定かでない未聴の曲に翻弄されるのをやめて、好きな曲ばかり聴きたいと いう願いは切実を極め、仕事を放り出してまでザースミスを聴きたくなってもそうできない ようにと、・IPOdには新しい曲しか入れていなかったそうだ。ジャーナリストというのは、 ほかの人たちが活用できるように探索をしてやる殉教者のようなものだ。  コンピューター科学において、探索と活用のせめぎあいが最も明確に現れるのは「多腕バ ンディット問題」と呼ばれるシナリオである。この妙な名前は、カジノのスロ″トマシンを 指す「一本腕の強 盗」という俗称に由来する。さまざまなスロ″トマシンがずらりと並ん だカジノに足を踏み入れたとしよう。当たる確率はマシンによって異なる。もちろん問題は、 その確率をあらかじめ教えてもらえないことだ。最も当たりのよい(スロ″トマシンマニア なら「ルーズな」と言う)マシンがどれで、金をぼったくられるのはどのマシンか、実際に プレイしてみるまではまったくわからない。  言うまでもなく、客が求めるのは手にする賞金の総額を最大にすることだ。そのためには、 いくつかのマシンのアームを引き(探索)、そのなかで最もよさそうなマシンを選ぶ(活 用)必要があるのは間違いない。  この問題の微妙な点を理解するために、マシンが二台しかないことにしよう。一台では全 部で一五回プレイしたうちの九回は当たり、六回は外れとなった。もう一台では二回だけプ レイし、当たりと外れが一回ずつだった。どちらのマシンがよさそうだろうか。  単純に当たりの回数をプレイした回数で割れば、マシンの「期待値」が得られ、この方法 では一台めのほうが明らかにまさっている。一台めでは九勝六敗だったので期待値が六〇パ ーセントとなるのに対し、二台めは一勝一敗なので期待値は五〇ハーセントにとどまる。し かし、話はそんなに簡単ではない。二回しかプレイしていないのでは、決して十分とは言え ない。つまり、二台めが本当はどのくらいよいのかについてはまだ何とも言えない気がする。  言ってみれば、レストランやアルバムを選ぶのは、実生活というカジノでどのアームを引 くか決めるという問題だ。しかし探索と活用のトレードオフを理解することは、食べる場所 や聴く音楽について下す決断を改善する方法となるだけではない。われわれが年齢とともに 目標をどう変えるべきか、あるいは最良のものを選ぼうとすることが必ずしも最も合理的な 行動方針ではないのはなぜか、といった問題に関する根本的な洞察も与えてくれる。そして じつは、よりによってウェブデザインと臨床試験という、ふつうは同じ文の中で触れられる ことのない二つのトピ″クの核心にも、このトレードオフが存在する。  人は往々にして個々の意思決定を切り離して扱い、常に期待値の最も高い結果を見つける ことに意識を向けがちである。しかし意思決定というのは一つひとつが独立していることは ほとんどなく、期待値が知れれば万事めでたし、というわけでもない。次の決定だけを考え ているのではなく、今後同じ選択肢について下すすべての決定について考えているならば。 探索と活用のトレードオフはそのプロセスに対してきわめて重大な意味をもつ。この点につ いて、数学者のピーター・ホイ″トルはパンティ″卜問題が「あらゆる人間の行動にはっき りと表れる葛藤を本質的な形で体現する」と記している。  では、二本のアームのうちどちらを引くべきか。これは意地悪な問いだ。というのは、そ の答えは本書でまだ取り上げていない事柄に完全に依存するからだ。じつは、カジノにどの くらい滞在するつもりかか問題となる。   残り時間を見極める 「今を生きろ」。一九八九年の映画『いまを生きる』のとりわけ心に残るシーンで、ロビン ーウィリアムズが生徒に呼びかける。「今を生きろ、君たち。自分の力で特別な人生を生き るんだ」。  じつに含蓄のある教えだ。しかし、いささか自己矛盾しているとも言える。今を生きるこ とと人生を生きることは、まったく別の行為ではないか。「食え、飲め、楽しめ。明日には 死ぬ身なのだから」という格言があるが、その逆も必要かもしれない。「新しい外国語か楽 器を習い始め、見知らぬ人とちょっとした会話をせよ。人生は長く、長い年月のあいだには どんな楽しみが花開くかわからないのだから」。お気に入りの行動と新たな行動を秤にかけ る場合、それらを実行する時間がどのくらい残っているかという点が何よりも重要となる。  「私は住んでいた町を離れるときよりも新しい町に引っ越したときのほうが、新しいレスト ランを試すことが多いですね」と、データ科学者でブロガーのクリスースタチオは言う。彼 は仕事とプライベートの両方で、探索と活用のトレードオフに向きあった経験か豊富だ。  「このごろはたいてい行きつけのレストランに行っています。近々ニューヨークを離れるこ とになっているので。二年ほど前にインドのプネーで暮らし始めたときには、気に入りそう にない店でも手あたりしだいに試してみたものです。しかしプネーを離れる日が近づくと、 新しい店を試すのではなく、なじみの店を訪ねて回ったのです。……もう少しいい店を見つ けたとしても、そこにはあとI.二回しか行かれないのですから、冒険するにはおよばない でしょう」。  新しいものを試す場合、探索して新たなお気に入りを見つけることの価値は時間とともに 下がる一方だという厳然たる事実がある。せっかく気に入るものが見つかっても、それを椹 能する機会が残り少なくなっていくからだ。町を離れる最後の夜に魅惑的なカフェに出会っ ても、もう再び訪れることはない。  裏を返せば、活用の価値は時間とともに上がる一方だとも言える。現時点で知っている最 もすてきなカフェは、当然なから先月までに知っていた最もすてきなカフェに少なくとも匹 敵はするはずだ(先月以降に新たに見つけたのなら。前から知っていたカフェよりもすてき かもしれない)。だから得た知識をあとで活用する時間がありそうな場合には探索し、活用 すべき状況になったら活用するのかよい。残り時間かどのくらいあるかによって戦略が決ま る。  おもしろいことに。このように残り時間によって戦略が決まることから、逆に戦略を観察 すれば残り時間を推測することもできる。たとえば(リウッドを見てみよう。一九八一年に 興行収入で卜とフテソに入った映画のうち、シリーズものの続篇は二作だけだった。一九九 一年にはこれが三作。二〇〇一年には五作、二〇一一年には八作に達した。それだけでなく 二〇一一年には、大手映画製作会社の公開した映画のなかでシリーズものの占める割合が過 去最高を記録した。そして二〇匸一年になると、この記録はすぐに破られた。さらにその翌 年にも再び破られることになった。二〇匸一年匸一月、ジャーナリストのニックーアレソは あきらかにうんざりしたようすで翌年を予想した。    『X‐MEN』の六作めに加えて。『ワイルドースピード6』、『ダイー『Iド5』、    『最終絶叫計画5』、『パラノーマルーアクティビティ5』が公開されることになるだ   ろう。『アイアンマン3』や『バングオーバーV一3』、それに『ザーマペ″ツ』、『スマ   ーフ』、『G・I・ショー』、『バッドサンタ』の統篇も登場するに違いない。  製作会社にしてみれば、シリーズものには固定ファンが約束されている。つまり金のなる 木。ドル箱、金鉱というわけだ。このような安全策だらけの状況は、スタチオが町を離れる ときと同じ「短期主義」の姿勢の表れである。シリーズものは完全な新作よりもとりあえず ヒットする可能性が高い。しかしこんなやり方ばかりしていては、将来の人気シリーズか生 まれなくなってしまう。こうしたシリーズものの氾濫は、嘆かわしい(評論家は問違いなく そう思っている)だけでなく、いくらか痛ましくもある。ほぼ完全に活用だけを狙う段階に 入ったことによって、映画産業が時代の終焉に近づいているということをほのめかしている ようにも感じられるのだ。  (リウッドの経済情勢を調べてみると、この直感が裏づけられる。最大手クラスの製作会 社の収益は二〇〇七年から二〇一一年にかけて四〇ハーセント減り、鑑賞券の売り上げも過 去一〇年のうち七年で減っている。《エコノミスト》誌によれば、「コストの増大と収入の 下落のはざまで、大手製作会社はヒ″卜すると思われる映画をもっとつくろうとしてきた。 それはたいてい、続篇、前篇、あるいは知名度の高いキャラクターが登場する作品となる」。 要するに、カジノから追い出される前に。わかっているなかで最良のマシンのアームを引い ているのだ。   勝てばキープ  多腕パンティ″卜問題に対処する方法をはっきhソと教えてくれる最適アルゴリズムを見つ けるのは、信じがたいくらい難しいということがわかっている。実際、ピーター・ホイット ルによれば、第二次世界大戦中にこの問題の解決を目指す取り組みが「連合軍の分析担当官 の体力と気力をひどく奪ったので……究極の知的妨害行為の手段として、この問題をドイツ 国内に投下したらどうかという声まで上がっていた」らしい。  解決への第一歩が踏み出されたのは、第二次世界大戦後のことである。コロンビア大学の 数学者(Iバートーロビンズが、完璧ではないがかなり確実性の高い、単純な戦略が存在す ることを示したのだ。  ロビンズは、スロ″トマシンか二台というケースだけを検討し、「勝てばキープ、負けれ ばスイッチ」アルゴリズムという解を提案した。一方のマシンをランダムに選び、勝ちが続 く限り同じアームを引き続ける。いったん負けたら、今度はもう一方のマシンに切り替える。 この単純な戦略は完全な答えには程遠いが、ロビンズはこれがただの偶然に頼るよりは確実 によい結果を出すということを一九五二年に証明した。  ロビンズに続き、「勝てばキープ」の原理をさらに検討した論文が次々に発表された。マ シンをすでに決めていてそのマシンが勝ったばかりなら、そのマシンの推定価値は高まるし かないはずだから、いっそう積極的にそのマシンのアームを再び引くぺきだということは、 直感的に理解できる。そして実際、さまざまな条件において「勝てばキープ」は探索と活用 のバランスをとる最適戦略の一要素となる。  だが、「負ければスイッチ」は話が違う。負けるたびに別のマシンに切り替えるというの は、ずいぶんせっかちなやり方だ。同じレストランにI〇〇回行って、毎回すばらしい料理 が出てくるか考えてみればよい。一回満足できなかったからといって、その店がだめだと決 めつけてよいものだろうか。せっかくのよい選択肢を、完璧でなかったからといって過度に 厳しく退けるべきでない。  もっと重要なのは、「勝てばキープ、負ければスイッチ」では最適化を行なうべき期間が いつ終わるのかがまったく考慮されないことだ。お気に入りのレストランで最後に食べた料 理が満足のいくものでなかった場合、このアルゴリズムでは常に次は別の店へ行くべきとさ れる。たとえこの町で過ごす最後の夜であろうとも、それは変わらない。  それでも、多腕パンティ″卜問題にいち早く取り組んだロビンズの研究を皮切りに多数の 論文が発表されるようになり、研究者たちはそれから数年間で大きな前進を遂げた。ランド 研究所の数学者リチャードーベルマンは、選択肢と機会が全部でいくつあるかがあらかじめ 正確にわかっている場合の厳密解を突き止めた。完全情報の秘書問題のときと同様、ベルマ ンは基本的に結果からさかのぽって後ろ向きに考えるという手を使った。アームを最後に引 いたところを想像することから始めて、先行する決定から起こりうるすべての結果を踏まえ たならどのスロ″トマシンを選ぶべきかと考えたのだ。この答えが出たら、今度は最後から 二番めの機会について考えて、さらに一つずつ前へさかのぼり、スタートにたどhソ着くまで これを繰り返す。  ベルマンの方法で得られる答えは鉄壁だが、カジノに長く滞在して選択肢がたくさんある 場合には、めまいのするようなIあるいは実行不可能なI量の作業が必要となるかもし れない。そのうえ当然ながら。起こりうる未来をすべて計算できるとしても、プレイする機 会が何回あるか(さらには選択肢がいくつあるか)は必ずしも正確にわかるわけではない。 これらの理由から、多腕パンティ″卜問題は実質的に未解決のままとなっている。ホイ″ト ルの言葉を借りれば、「すぐさま古典となり、難攻不落の代名詞となった」のだった。   ギッティンズ指数  といっても数学ではよくあるとおり、特殊は普遍へ至る入り口である。一九七〇年代、ユ ニリーバ社はジョソーギごアインズという若い数学者に、自社の医薬品を使った臨床試験の 一部を最適化するのに力を貸してほしいと依頼した。しかし、結果として彼らが手にしたの は意外にも、一世代にわたって未解決のままだった数学の難題に対する答えだった。  現在はオ″クスフォード大学で統計学教授を務めるギごアインズは、ユニリーバから与え られた問題について熟考した。数種類の化合物がある場合。特定の病気に効く可能性の高い ものを突き止めるにはどんな方法が最も迅速か。ギごアインズはこの問題を可能な限り最も 普遍的な形式にしようと試みた。調べるべき選択肢が複数あって、各選択肢で利得の生じる 確率が異なり、それらのあいだで一定量の労力(または費用か時間)を配分しなくてはなら ない。言うまでもなく、これは多腕パンティ″卜問題のバリエーションだ。  営利を求める製薬会社も、またこの会社の製品を使う医師も、探索と活用のトレードオフ が突きつけてくる相容れない要求に絶えず直面する。企業としては創薬に研究開発費を投資 したいが、収益性の高い現行製品の好調な売れ行きも確保したい。医師は既存の治療薬のな かで最高のものを処方して患者に必要な治療を受けさせたいが、さらにすぐれた治療薬につ ながる可能性のある実験的研究を促進したいとも願う。  明らかにどちらのケースでも、どのように時間枠を設定すべきかはあまり定かでない。あ る面では、製薬会社と医師はどちらも不確定な未来に関心をもっている。本来、企業という のは永久に存続することを望むはずだし、医療の面では画期的な新薬によってまだ生まれて さえいない将来の人が助かる可能性もある。それにもかかわらず、現在のほうが重視される。 今日治癒した患者のほうが、今から一週間後や一年後に治癒する患者よりも価値が高いと見 なされるし、収益についても確実に同じ見方がされる。このように未来よりも現在に価値が あるとする考え方を経済学者は「割引」と呼ぶ。  それまでの研究者と違って、ギごアインズはこの考え方を用いて多腕パンティ″卜問題に 取り組んだ。いつ終わるか決まっている期間においてではなく、無限だが割引の生じる未来 において、利得を最大化することを目標とした。  われわれは実生活の中でこのような割引を経験している。一〇日間の休暇でどこかの町を 訪れている人は、レストランを選ぶときに残りの滞在日数を念頭に毆いているはずだ。一方、 その町に居住している人にとっては、そんなレストラン選びにあまり意味はない。むしろ、 未来へ進むほど利得の価値が下がると考えるかもしれない。つまり、明日の食事よりも今夜 の食事のほうが大事で、一年後の食事よりは明日の食事のほうが大事だが、どのくらい大事 かはその人なりの「割引関数」によって変わってくる。ギごアインズは、利得のもつ価値が 幾何級数的に下がっていくと想定した。これはつまり、レストランで食事をする場合、ある 日の食事の価値は前回その店で食事をしたときの価値を一定の割合で割り引いていったもの になるということだ。たとえば、バスにはねられる確率が毎日一パーセントだと思っている 人は、明日のディナーには今日のディナーと比べて九九パーセントの価値しかないと考える。 これは、明日にはディナーが食べられないかもしれないからだ。  この幾何級数的割引の想定を用いて、ギごアインズは「少なくともかなりすぐれた近似」 と思われる戦略について考えた。多腕バンディットのアームを一本ずつ別々に考えて、それ ぞれの価値を割り出そうとしたのだ。この際に彼は、なかなか気の利いた仕掛けを思いつい た。買収である。  テレビの人気ゲーム番組《ディールーオアーノー・ティール》では、二六個のブリーフケ ースにIセントからI〇〇万ドルまでの賞金が入っていて、出場者はそのうちの一つを選ぶ。 ゲームの途中で銀行家と称する謎の人物かときどき電話をかけてきて、出場者の選んだブリ ーフケースを開けないのなら金を与えるといって、そのつど異なる金額を提示する。確実に もらえる金がいくらなら、ブリーフケースに入っている金額不明の賞金を放棄するのか。決 めるのは出場者だ。  ギごアインズは(《ディールーオアーノー・ティール》の放送開始より何年も前のことだ が)、多腕パンティ″卜問題がこれと変わらないことに気づいた。事前に情報かまったく、 あるいはほとんど得られないどんなスロ″トマシンにも、次にもう一度プレイした場合に勝 つ確率がこのくらいならもうプレイをやめてよいと思える、そんな率が存在する。この率  (ギごアインズは「動的配分指数」と呼んだか、今ではギッティンズ指数と呼ばれている) から、ここでとるべき明白な戦略がわかる。この指数が最も高いマシンで常にプレイするの  実際、この指数戦略はただのすぐれた近似解ではないことか判明した。この戦略なら、利 得が幾何級数的に割引されていく多腕パンティ。卜問題は完全に解決できる。探索と活用の   *本節をおおまかにまとめるとIギごアインズ指数か高いうちに稼げ。 あいだのバランス問題も解消し、両者を考慮に 入れた一つの数値を最大化するという、もっと 単純なタスクとなる。ギごアインズはこの偉業 を得意がったりしない。「フェルマーの最終定 理にはまるでおよびませんよ」と言って、楽し そうに笑う。だかギごアインズのこの定理は、 探索と活用のジレンマに関するいくつもの重大 な問題を片づけたのだ。  特定のスロ″トマシンについて、過去の記録 とプレイヤー側の割引率を踏まえてギごアイン ズ指数を実際に計算するのは、やはりなかなか ややこしい。それでも特定の想定一式について ギごアインズ指数が特定できれば、同じ形式の あらゆる問題に対してその指数を使うことがで きる。大事なのは、この指数がマシンごとに別 個に計算されるので、マシンの台数さえ関係な いということだ。  表3に、九回までの勝ちと負けにおけるギ″ ティンズ指数を示す。ここでは次にプレイするときの利得は今の利得の九〇パーセントに等 しいと想定している。これらの値を使うと、身のまわりのさまざまな多腕パンティ″卜問題 を解くことができる。たとえばこれらの想定のもとでは、過去の実績が九勝六敗(期待値は 六〇パーセント)のスロ″トマシンよりも一勝一敗(期待値は五〇パーセント)のマシンを 選ぶべきである。表で該当する欄を見ると、情報の少ない一勝一敗のマシンは指数が〇・六 三四六であるのに対し、過去のプレイ回数の多い九勝六敗のマシンの指数は〇・六三〇〇に すぎないことかわかる。これで答えは出た。今回は運を試し、探索するのだ。  表のギごアインズ指数の値を見ると、ほかにも興味深い点がいくつかある。まず、「勝て ばキープ」の原理が作用していることがわかる。どの行でも、左から右へ行くにつれて指数 は必ず大きくなっていく。よって、あるアームで今までずっと勝っていて、今回引いたらま た勝つたという場合には、(表を右へたどって)さらにまた同じアームを引くほうが理にか なうというものだ。二つめの点として、「負ければスイッチ」に従ったらまずい場面もある ことがわかる。最初に九連勝したあとで一回負けると、指数は〇・八六九五になる。それで も表中のほとんどの数値と比べれば大きいので、おそらく少なくともあと一回は同じアーム に賭けるべきだろう。  しかしこの表で最も興味深いのは、最上行の左端の欄かもしれない。○勝○敗、つまりま ったく情報がない場合、アームの期待値は〇・五〇〇〇だが、ギッティンズ指数は〇・七〇 二九となっている。まったく試したことのないマシンのほうが。一〇回中七回当たりを出す ことがわかっているマシンよりも魅力的とい うことだ。表をここから対角線にたどってい くと、一勝一敗の場合は指数が〇・六三四六、 二勝二敗なら〇・六〇一〇……となっている。 五割の勝率が続けば、指数は最終的に〇・五 〇〇〇に近づいていく。そのマシンがじつは なんら特別なものでないことが実際の成績か ら明らかとなり、さらなる探索を促す「ボー ナス」はいずれ奪い取られる。だが、この○ ・五〇〇〇への接近がとてもゆるやかに進む 一方で、探索のボーナスは強力に作用する。 実際、一回めで負けて○勝一敗となっても、 ギごアインズ指数が五〇パーセントを上回っ ている点は注目に値する。  未来に対する割引率を変えると探索と活用 のトレードオフも変わるということもわかる。 表4には前の表とまったく同じ情報を記載し ているが、次回の利得は今回の九〇ハーセン 卜ではなく九九パーセントの価値があると想定している。未来には現在とほぼ同じ価値があ ると考えると、確実なものを選ぶよりも偶然に賭ける価値はさらに高くなる。この場合、ま ったく試していない○勝○敗のマシンは、八六・九九ハーセントの確率で当たりが保証され ているに等しいのだ。  このように、探索で得た成果を活用する機会がある場合、ギごアインズ指数は未知のもの を選ぶべきとする厳密で明確な根拠となる。「隣の芝は青い」という古いことわざがあるが、 数学はその理由を教えてくれる。既知のものと未知のものとで違いはないと予想されている 場合、あるいは未知のもののほうが不利かもしれないと思われている場合でも、未知のもの のほうが有利な可能性があるのだ。試されていないルーキーは、実力が拮抗していると思わ れるベテランよりも価値が高い(少なくともシーズン開幕直後は)が、それはルーキーにつ いての情報のほうが少ないからにほかならない。探索にはそれ自体の価値がある。というの は、新しいものを試せば最良のものを見つけ出す可能性が上がるからだ。そして現在ばかり を見据えるのではなく未来にも目を向ければ、新しいものを選びたくなる。  このようにギごアインズ指数は、多腕パンティ″卜問題に対して驚くほど単純明快な答え を与えてくれる。しかし、だからといってこの問題についての話がここで終わるわけではな く、日常生活で遭遇する探索と活用のトレードオフがすべてこれで決着できるわけでもない。 たとえばギごアイソズ指数が最適となるのは、ある一定の強固な想定のもとにおいてのみで ある。ギごアインズ指数は将来の利得に対する幾何級数的割引にもとづいており、各プレイ の価値が直前のプレイから一定の割合で下がると想定している。しかし行動経済学や心理学 のさまざまな実験によって、現実の人間はそんな想定をしないということが示されている。 それに、選択肢の切り替えに伴ってコストか生じるなら、ギごアインズ戦略はもはや最適で もない(隣の芝はいくらか青く見えるかもしれないが、垣根を乗り越えていくほどではない。 ましてや新たにローンを組むことなどありえない)。もっと重大かもしれない問題は、ギ″ ティンズ指数がすぐに計算できるものではないという点だ。ギごアインズ指数の表を持ち歩 いていればレストランの選択を最適化することはできるが、そんな手間暇をかけるまでもな いかもしれない(「ちょっと待って。決めてあげるから。あの店は三五回のうち二九回おい しかったけど、こっちの店でおいしかったのは一六回中匸二回だな。ということはギごアイ ンズ指数は……。あれ? みんなはどこに行った?」)。  ギごアインズ指数が考案されて以来、この問題ゆえにコンピューター科学者や統計学者は 多腕パンティ″卜を扱うのにもっと単純で柔軟な戦略を探し出してきた。それらの晩略は、 さまざまな状況において最適なギごアインズ指数を算出するよりも人間(および機械)にと って利用しやすいが、効果はギごアインズ指数に匹敵する。それらはまた、どちらの可能性 に賭けるかを決める際に人間が抱く最大の不安の一つにも対処してくれる。   後悔と楽観   後悔も少しはしたが、あえて言うほどではない。                              −プランターシナトラ   私自身は楽観主義者です。そうでないことを選んでも、大してものの役に立だない。                           −ウィンストソーチャーチル  ギッティンズ指数がややこしすぎるなら、あるいは幾何級数的割引がなじまない状況にい るのなら、別の手がある。「後悔」に着目するのだ。何を食べるか、誰と過ごすか、どの町 に住むかを決めようとするとき、後悔したくないという気持ちが大きく立ちはだかる。よい 選択肢がいくつかあるなかで選択を誤ったら、そのせいで自分を責めることになりやすい。 この種の後悔は、やり損ねたこと、つまり試さなかった選択肢が原因であることか多い。経 営学者のチェスター・バーナードは、こんな忘れがたい言葉を記している。「やってみれば、 失敗しても何か少しは得るところがあるが、やってみもしないのは、やればあったかもしれ ない測りしれない可能性を失うだけだ」。  後悔するのはいやだという思いはまた、やる気に火をつける力も強い。ジェフーベソスは アマソ町の創業を決意する前、ニューヨークの投資会社D・E・ショウで安定した高給のポ ストに就いていた。シアトルでオとフイソ書店を始めるというのは思いきった転身だったの ヽ  で、上司(D・E・ショウ)からはよく考えるようにと忠告された。ベソスはこう述懐して  いる。    自分で見出した枠組みのおかげで、信じがたいくらい決断が容易になりました。私はこ    の枠組みを「後悔最小化の枠組み」と名づけましたIこんなものに名前をつけるのは    オタクだけでしょうね。それで私は八〇歳になった自分を想像して、「オーヶI。今、    私は自分の人生を振り返っているところだ。後悔の数が最小限になっていればいいのだ    が」と言えたらよいと思いました。八〇歳の自分がこの試みを悔やむことはないと確信    できました。イyターネ″卜というものが真に重要なものになると感じていましたから、    これにかかわろうとしたことを悔やみはしまいと思いました。失敗しても後悔しません    が、挑戦しなかったら後悔するとわかっていました。来る日も来る日も後悔にさいなま    れるとわかっていたのです。だからそう考えたとき、驚くほどたやすく決断できたので    す。   コンピューター科学は、後悔のない人生を与えることはできない。しかしベソスが求めて  いたような、後悔が最小の人生なら与えてくれるかもしれない。   後悔とは、自分が実際にしたことと、あとから考えてベストだったと思われることを比較  した結果である。多腕パンティ″卜では、バーナードのいう「やれ1  式カ じれ卮にいに測 りしれない可能性」がじつは正確に測ることカ   ’    l   膊1呎1後悔 とは、特定の戦略に従って実際に得た利得の総量と、常に最良のアームを引くことによって 得られたはずの理論上の利得の総量との差なのだ(それがどのアームか最初からわかってい たらよかったのだが)。さまざまな戦略についてこの数字を計算すれば、後悔が最小となる 戦略を突き止めることかできる。  「勝てばキープ、負ければスイッチ」を扱った初期の研究からおよそ三〇年経った一九八五 年、(Iバートーロビンズは多腕パンティ″卜問題で二度めの成功を狙った。彼はコロンビ ア大学で同僚の数学者レイーツェリョンと共同で、後悔に関するいくつかの重要な点を証明 することに成功した。まず、自分が全知の存在ではないとすると、たとえ可能な限り最良の 戦略を選んでも、後悔の総量は時間とともにおそらく増え続ける。というのは、最良の戦略 といえども常に完璧というわけではないからだ。第二に、最良の戦略を選ぶと、それ以外の 戦略を選んだ場合よりも後悔の増大するペースは遅くなる。そのうえ、よい戦略を用いれば、 後悔の蓄積するペースは時間とともに低下していく。これは、問題についての情報が増え、 よりよい選択ができるようになるからである。第三に最も具体的な点として、ここでも自分 が全知ではないと考えると、可能な限り最小の後悔とは、アームを引くたびに対数的な割合 で増大する後悔である。  後悔か対数的に増大するというのは、たとえば最初のI〇回とそれに続く九〇回とで間違 いを犯す回数が同じで、最初の一年間と続く九年間とでも間違いを犯す回数が同じ(さらに 最初のI〇年間と続く九〇年間でも同様)ということである。これはいくらかの心の支えと なる。というのは、ふつうに考えたらいつか後悔をまったくしなくなるということは現実的 に期待できないか、後悔最小化のアルゴリズムに従えば、年を追うごとに前の年より新たな 後悔の減ることが期待できるのだ。  レイとロビンズを皮切りに、この数十年間に研究者は後悔の最小化を保証してくれるアル ゴリズムの探索に乗り出している。見つかったアルゴリズムのうち最も支持を得ているのは 信頼上限(UCB〔ア″バー・コンフィデンスーバウンド〕)アルゴリズムと呼ばれるものである。  データをグラフで図示する場合にはしばしば、特定のデータ点を上下にまたぐ「エラーバ ー」と呼ばれる線が記される。これは測定の不確実性を示し、測定値が実際にとりうる「確 からしい」値の範囲を表す。この範囲は「信頼区間」と呼ばれ、対象に関するデータが増え ると評価の精度が上がることを反映して信頼区間は縮小する(たとえば期待値が同じであっ ても、二回のうち一回当たったスロ″トマシンはI〇回のうち五回当たったマシンよりも信 頼区間が広いはずだ)。信頼上限アルゴリズムに従えば、多腕パンティ″卜問題では信頼区 間の上端が最も高い選択肢を選べというきわめて単純な方針が得られる。  したがってギごアインズ指数と同様に、信頼上限アルゴリズムでも多腕パンティ″卜の各 アームに一つずつ数字を割り当てる。この数字は、今までに得られた情報にもとづいて、そ のアームか合理的にとりうる最大の値に設定される。つまり信頼上限アルゴリズムでは、今 までに最良の結果を出したアームがどれかは考慮せず、これから最良の結果を出せると合理 的に考えられるアームを選ぶ。たとえば今までに訪れたことのないレストランは、すばらし い店かもしれない。一、二回ほど行って、料理をいくつか食べたとしても、その店が行きつ けの店よりもすぐれているという可能性を否定するのに十分な情報は得られないかもしれな い。ギごアインズ指数と同じく、信頼上限の値も常に期待値を上回るか、特定の選択肢につ いての経験が増えるにつれて、上回る幅は縮小していく(ぱっとしないレビューが何百件も 寄せられているレストラソがすばらしい店であることは期待できないが、ぱっとしないレビ ューが一件だけのレストランにはすばらしい店である可能性が残っている)。信頼上限アル ゴリズムによる「おすすめ」は、ギごアインズ指数と同じようなものになるだろう。しかし 信頼上限のほうがはるかに計算か簡単で、幾何級数的割引を想定する必要もない。  「不確実性に立ち向かう楽観主義」と称される原理を実装することで、信頼上限アルゴリズ ムは楽観主義とは完璧に合理的なものだということを示す。今までに得られた証拠をもとに。 ある選択肢が最良の場合どのくらいよいものとなりうるかに着目することにより、このアル ゴリズムは情報の少ないさまざまな選択肢を底上げする。その結果、意思決定プロセスに探 索の要素がおのずと加わり、どの選択肢も大成功をもたらす可能性をもつことから、新たな 選択肢に対して積極的に向かっていくようになる。同じ原理を、未知なる領域の価値を高め ることによって周囲の空間を探索する「楽観ロボ″卜」の製作にあたる、MITのレスリー ・ケルプリングらも用いている。この原理が人の生活にも役立つことは間違いない。  信頼上限アルゴリズムがよい結果を出しうる、ということは、「疑わしきは罰せず」とい う原則の正当性を示すきちんとした根拠がある、ということになる。このアルゴリズムのア ドバfスに従って、新しい人に会うときや新しいことに挑戦するときには大いに期待すべき だ。これから経験することか最良ではないという証拠がない限り、最良の結果を想定すべき なのだ。長い目で見れば、楽観主義は後悔に対する最善の防止策となる。   オンラインのバンディツト  ニ○○七年、グーグルでプロダクトマネージャーを務めていたダンーシロカーは休暇を取 ってシカゴに行き、当時は上院議員だったバラクーオバマの大統領選挙戦に加わった。「二 ユーメディア分析」チームの責任者として、陣営の設けた派手な赤色の「献金」ボタンを押 させるために、グーグルがウェブでやっているある方式を導入した。すると、まさに驚くべ き結果か出た。彼の仕事がもたらした直接の結果として、五七〇〇万ドルの献金が上積みさ れたのだ。  ボタンに何をしたのか。  A/Bテストをしたのだ。  A/Bテストとは次のようなものである。ある会社がウェブページの原案としていくつか のバージョンを作成する。色や画像を変えたり、ニュース記事の見出しを変えたり、あるい は画面上のアイテムの配置を変えてみたり、といったバリエーションをもたせるのだ。それ からサイトを訪れるユーザーをランダムに割り振って、これらのさまざまなページを閲覧さ せる。通常、人数は均等にする。あるユーザーには赤いボタンを表示し。別のユーザーには 青いボタンを表示する。あるユーザーには「献金」と記したボタンを見せて、別のユーザー には「寄付」と記したボタンを見せる。そして関係する測定項目(クリ″ク率やユーザー一 人あたりの平均額)を観察する。一定期間の経過後、統計学的に有意な効果が観察されたら、 通常はより多くの成果を上げた「有効な」バージョンに固定するか、またはそれを次の実験 で比較基準として用いる。  オバマの献金サイトの場合、シロカーのA/Bテストで重大な事実が明らかになった。サ イトを初めて訪れるユーザーに対しては、「献金してプレゼントをもらう」と記したボタン が最も有効で、プレゼントの送付コストを考慮してもその優位性は変わらなかった。ニュー スレターを長く購読しているが過去に献金したことのないユーザーに対しては、「献金をお 願いします」が最も効いた。罪悪感に訴えかけたのだろうか。過去に献金したことのあるユ ーザーに対しては、再び献金してもらう効果が最も高かったのは「寄付」と書かれたボタン だった。過去に「献金」している人でも「寄付」ならいつでもさらに出してくれるというこ とかもしれない。選挙戦チームが驚いたのは、どのケースでも、チームが考えたどんな写真 や動画よりもオパマー家のシンプルな白黒写真がよい結果を出したことだった。こうした 個々の最適化すべてがもたらした正味の影響は莫大だった。  過去一〇年間にほぼどんな形であれイソターネ″卜を使った人は、誰かの探索・活用問題 に取り込まれている。企業は自社に最大の収益をもたらしてくれるものを見つけたい一方で、 同時にその収益を可能な限り最大限に活かしたいと考える。つまり ’と    う。アマ ゾンやグーグルといった巨大(イテク企業は二〇〇〇年ごろからユーザーに対してA/Bテ ストの実施を始め、それ以来、インターネ″卜は世界最大の対照実験の場となっている。こ れらの企業は何を探索し、何を活用しているのか。端的に言えば、その答えは「あなた」だ。 マウスを操作させ、財布を開かせてくれるものなら、ありとあらゆる要素が狙われている。  企業は自社のサイトのナビゲーション、ダイレクトメールの件名や送信のタイミングにつ いてA/Bテストを行ない、ときには実際の商品の機能や価格でもこのテストを行なう。  「標準的」なグーグルの検索アルゴリズムやアマゾンの購入手順の代わりに、今や計り知れ ぬほど微妙な、表立っては触れられないバリエーションが存在する(グーグルが二〇〇九年 にツールバーの一つで青色を四一の色調に変えてテストしたことはよく知られている)。同 じサイトを訪れた二人のユーザーかまったく同じ経験をする可能性がほぼないと言ってもい いほどなのだ。  フェイスブック社でデータグループマネージャーをかつて務めたデータ科学者のジェフー (マーバッカーは、《ブルームバーダービジネスウィーク》誌でこう語っている。「僕たち の世代で一番頭のいい人が、どうしたらユーザーに広告をクリ″クさせられるかと知恵を絞 っているんです」。この言葉はミレニアム世代の「吠える」と考えるべきだ。「僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを」「」吠える」一。ギンズバーグ詩集』諏訪優 訳、思潮社より引用)という不朽の詩句を生んだのかビート世代の詩人、ギンズバーグの「吠 える」だったように。(マーバ″カーはこの状況を「不愉快極まりない」と思っている。し かし誰がどう思おうとも、ウェブは過去のマーケ″ターが想像もしなかったような実験を、 クリ″クの実験科学という形で実現している。  二〇〇八年の大統領選挙でオバマがどうなったかは、もちろん誰もが知るところだ。だが、 オバマ陣営の分析責任者、ダンーシロカーのその後についてはどうか。大統領の就任式が終 わると、シロカーは西海岸のカリフォルニアに戻り、グーグルで同僚だったピートークーメ ンとともに、ウェブサイトの最適化を行なうオプティマイズリーという会社を創業した。二 〇匸一年の大統領選挙戦までに。オバマの再選を目指す陣営と、共和党から戦いを挑むヽ`丶 ッ           丶 丶 トーロムニー陣営の両方がこの会社のクライアントとなっていた。  A/Bテストが実験的に導入されてからI〇年ほどのあいだに、この手法はもはや秘密兵 器ではなくなった。今ではインターネット上のビジネスや政治のやり方にしっかりと埋め込 まれ、ほぼ当たり前と受け止められている。今度ブラウザーを開いたら、画面上の色、画像、 言葉、それにもしかしたら価格さえもIそして確実に広告も卜探索・活用アルゴリズム にもとづいたもので、ユーザーのクリ″クを狙っていると思って間違いない。この多腕バン ディット問題では、ユーザーはギャンブラーではない。大当たりなのだ。  A/Bテストのプロセス自体は、時間とともに精緻化が進んできた。最も標準的な設定で は、ユーザーを二つの選択肢に均等に分け、一定の時間にわたってテストしたうえで成績の よかったほうを採用するが、これは問題を解決するのに必ずしも最良のアルゴリズムではな いかもしれない。というのは、テスト中にはユーザーの半分か劣った選択肢をあてがわれる ことになるからだ。これより有効な方法が見つかったら、非常に大きな成果が得られる可能 性がある。グーグルの年間収入はおよそ五〇〇億ドルだが、現在のところ、その九〇パーセ ント以上が有料広告によるものだ。また、オンライン通販は年間数千億ドルに達している。 つまり、探索・活用アルゴリズムは経済とテクノロジーの両面でインターネットのかなりの 部分を動かしているということだ。どのアルゴリズムを使うのかベストかについては活発な 議論が続いており、考えうるあらゆるビジネスのシナリオにおいて探索と活用のバランスを とる最適な方法をめぐって、統計学者、技術者、ブロガーらが果てしない応酬を繰り広げて いる。  探索・活用問題に対するさまざまな処方箋を明快に区別して論じるのは、どうしようもな く難しいと思われるかもしれない。しかしじつは、この区別はきわめて重要である。しかも 闘いの場は大統領選挙やインターネ″卜経済だけでない。  人の命にかかおる場合もあるのだ。   臨床試験を試験する   一九三二年から七二年にかけて、アラバマ州メイコソ郡で梅毒にかかった数百人のアフリ カ系アメリカ人男性が、医師による治療を受けぬまま故意に放置された。これはアメリカ公 衆衛生局による四〇年におよぶ「タスキーギ梅毒研究」という実験の一環だった。一九六六 年、公衆衛生局職員のピーター・バクスタンがこれに異議を申し立てた。そして一九六八年 にも再び異議を申し立てた。しかしアメリカ政府かようやく実験を中止させたのは、彼がこ の話をマスコミに暴露してからだった。彼の話は一九七二年七月二五日付の《ワシントソー スター》紙に掲載され、翌日には《ニューヨークータイムズ》紙の一面に載った。  国民の怒りの声と、それを受けた連邦議会公聴会に続き、医療倫理の原則と基準を明文化 する取り組みが始まった。メリーランド州の閑静なベルモンド会議場で委員会が開かれ、そ の成果として一九七九年に「ヘルモント報告書」が発表された。報告書は。メイコソ郡タス キーギ市で行なわれたこの実験卜患者に対する医療従事者の責務からのまぎれもなく不適 切で言語道断な逸脱−が二度と繰り返されないための、医学実験の倫理的なやり方に対す る基盤を示している。しかし同時にここには、ほかの多くのケースで境界線を明確に定める ことの難しさも指摘されている。  「ヒポクラテスの誓いにある『害をなすなかれ』という文言は、長らく医療倫理の根本原則 となってきた」と慵晧書は指摘する。「【生理学者の】クロードーベルナールはこれを医学 の研究分野にまで敷衍して、ほかの人にどのような利益がもたらされるにせよ。人を傷つけ ることがあってはならないと述べた。しかし害を避けるにはそもそも害をもたらす要因を知 る必要があり、その情報を得る過程で、害をもたらすリスクに人をさらすおそれがある」。  このようにベルモンド報告書は、自らのもつ最良の情報にもとづいて行動することと、情 報をさらに増やすこととのあいだに対立が存在することを認めてはいるが、問題の解決には 至っていない。同報告書では、情報の収集は非常に高い価値をもたらす可能性があるので、 通常の医療倫理の一部は棚上げにされることもありうるとまで、明確に述べられている。新 しい薬や治療法の臨床試験においては、害が生じるリスクを最小限に抑える手だてはとるに しても、一部の患者に対してはそのリスクがしばしば不可避となる、というのだ。   善行原則(訳注医療倫理四原則の一つ)が常に明白そのものというわけではない。たとえ   ぱ、参加した子どもに直接的な利益がただちに与えられる見込みがないのに最小限以上   のリスクをもたらす【小児疾患に関する】研究には、倫理的に難しい問題が残る。その   ような研究は容認できないと言う者もいれば、そのような制約を設ければ将来の子ども   たちに大きな利益を約束する多くの研究を排除することになると指摘する者もいる。す   べての困難な事例と同様、この問題においても、善行原則のあてはまるさまざまな主張   が互いに対立し、難しい選択を余儀なくするかもしれない。  ベルモンド報告書が発表されてからの数十年間に生じた基本的な疑問の一つは、臨床試験 の標準的な実施方法が患者へのリスクを本当に抑制するのかということである。通常の臨床 試験では、患者が複数の群に分けられ、試験期間にわたって群ごとに異なる治療を受ける  (試験期間の終了前に試験か中止されることもあるが、それはまれな例である)。ここで目 指すのは、試験そのものにおいて各患者に最良の治療を施すことではなく、複数の治療法を 比較してどれがすぐれているかという問いを決着させることだ。このようにして試験期間中 に一定割合の参加者にある経験をさせて、最終的に経験の優劣を明らかにするという点で、 臨床試験の仕組みはウェブサイトのA/Bテストとそっくりである。ただし医師はA/Bテ ストをする企業と同様に試験の最中にも選択肢の優劣に関する情報をいくらか入手できるの だから、この情報を利用すれば。試験後の将来の患者だけでなく試験に参加している患者に ついても結果を改善できる可能性がある。  ウェブサイトの最適なデザインを特定する実験で懸かっているのは巨額の金だが、最適な 治療法を見出す実験である臨床試験で得られる結果は生死に直結する。そして、現在の臨床 試験は方法論が間違っていると考える医師や統計学者が増えている。治療法の選択は多腕パ ンティ″卜問題として扱うべきであり、試験の途中であってもよりよい治療を患者に受けさ せる努力をすぺきと考えているのだ。  一九六九年、ニューヨーク州立大学の生物統計学者のマーヴィンーゼレン(訳注 のちに( Iヴァード大学に移った。故人)は「適応的」な臨床試験の実施を提案した。彼の出したアイデ ィアの一つが、ランダム化した「勝ち残り」のアルゴリズムだった。「勝てばキープ、負け ればスイッチ」のバリエーションで、ある治療法か成功すれば次にそれか使われる確率を上 げ、失敗したら使われる確率を下げていくというやり方である。セレンの方式では、まず、 試験対象とする二つの治療選択肢のそれぞれを表すポールを一つずつ帽子に入れる。帽子か らランダムにボールを一つ取って、最初の患者の治療法を決める(このあとボールは帽子の 中に戻す)。この治療法が成功したら、こちらの治療法を表すボールを帽子に一つ追加する。 ボールは全部で三つとなり、そのうち二つは成功した治療法を表すものだ。選んだ治療法が 失敗したら、もう一方の治療法を表すボールを一つ帽子に入れる。これでもう一方の治療法 が選ばれる確率が上がる。  セレンのアルゴリズムか初めて実際の臨床試験で使われたのは、それから一六年後、体外 式膜型人工肺治療(ECMO)という、幼児の呼吸不全に対する斬新な治療法に関する試験 が行なわれたときだった。ECMOはミシガン大学のロバートーバートレ″卜が一九七〇年 代に開発したもので、肺へ向かう血液を体外に取り出し、機械で酸素を付加してから心臓に 戻す。これは大胆な方法で、治療自体に起因するリスク(塞栓形成の可能性など)もあるが、 ほかに打つ手かない状況では一つの選択肢となった。一九七五年、カリフォルニア州オレン ジ郡で、人工呼吸装置でも十分に酸素が供給できない新生女児の命をECMOか救った。そ の後、この患者はすでに四〇歳の誕生日を過ぎ。結婚して子どももいる。しかし当初はEC MOの技術と手術はきわめて実験的なものと考えられており、成人を対象とした初期の研究 では従来の治療法と比べて利点が見られなかった。  一九八二年から八四年にかけて、バートレットとミシガン大学の同僚らは、呼吸不全をき たした新生児を対象とする研究を行なった。チームは「有用性は証明されていないが命を救 う可能性のある治療法を行なわないという倫理的な問題」に挑みたいと明言し、「単に従来 の無作為割付法に従うためだけに、命を救える治療法を一部の患者に実施しないことには否 定的」だった。そこで彼らはセレンのアルゴリズムを採用した。その結果、患児一人が「標 準的」な治療法に割り付けられて死亡し、実験的なECMOに割り付けられた一一人は全員 が生存した。正規の研究の終了後、一九八四年四月から一一月にかけてECMO治療の基準 を満たす患児一〇人を対象としてさらに研究が続けられた。八人がECMOを受けて全員が 生存したのに対し、標準治療を行なった二人はともに死亡した。  しかしこれらのめざましい数字は。ミシガン大学でのECMO試験の終了直後から議論を 巻き起こした。臨床試験で標準治療をこれほど少数の患者にしか行なわないというのは標準 的な試験方法から著しく逸脱しており、手術自体もきわめて侵襲性が高く潜在的に危険を 伴う。この論文の発表を受けて、(Iヴァード大学公衆衛生学部の生物統計学教授ジムーウ ェアは同僚の医師らとともにデータを慎重に検討し、「さらに研究が行なわれない限り、E CMOのルーチン使用の正当性を認めることはできない」と結論した。そして新たな臨床試 験を計画した。パードレ″卜らと同じく情報の収集と有効な患者治療とのバランスを見出す 試みはしていたが、試験の方法は前の試験ほどラディカルではなかった。あらかじめ定めて おいた死者数にどちらかの群が達するまで、ECMOか標準治療のいずれかに患者をランダ ムに割り付ける。それ以降は効果の高い治療法に全患者を切り替えるという計画だった。  ウェアの試験の第一段階では、標準治療を受けた患児一〇大のうち四人が死亡し、ECM Oを受けた患児九人は全員が生存した。四人が死亡したという結果は第二段階へ移行するの に十分であhソ、この第二段階では二〇人の患児全員がECMOを受け、一九人が生存した。 ウェアらはECMO使用の正当性を確信し、「これ以上の無作為割付を擁護するのは倫理的 に難しい」と結論した。  しかし、ウェアの試験より早く同じ結論に達し、声高に主張している者がすでにいた。そ の一人が、多腕パンティ″卜の世界的権威である統計学者、ドンーベリーだった。《統計科 学》誌でウェアの試験を報告する論文に添えられた論評において、ペリーは「ウェアの試験 のように非ECMO治療に患者を無作為割付するのは倫理に反する。……私の考えでは、ウ ェアの試験は実施すべきでなかった」と述べている。  しかし。ウェアの試験も医学界全体を納得させたわけではなかった。一九九〇年代、イギ リスで二〇〇大近い患児を対象として、ECMOに関する新たな試験が行なわれた。今回の 試験では適応的アルゴリズムを使わず、患児をランダムに二つの対等な群に割り付けるとい う従来の方法が採用された。試験の実施者らは、ECMOの有用性には「利用できるエビデ ンスの解釈にばらつきかあるので議論の余地かある」と述べて試験を正当化した。その結果、 イギリスでの試験で見られた両治療法の差は、アメリカで行なわれた二つの試験ほど顕著で はなかった。それでもこの試験結果は「ECMOを支持する方針をとれば死亡リスクが抑制 できるという先行する予備的知見と合致する」と結論された。この知見を得るためにかかっ たコストは? 「標準治療」群のほうがECMO治療群よりも二四人多く患児か死亡したこ とだ。  適応的な方法を用いた臨床試験の結果がなかなか受け入れられなかったことは、理解しが たいと感じられるかもしれない。だが。二〇世紀の初頭に統計学が出現したことによって、 医学がどうなったか考えてみればよい。新しい治療法が生まれるたびにその場しのぎのやり 方で医師らが互いを納得させるしかなかった分野から、エビデンスの説得力の有無について 明確な指針の存在する分野へと変わったことを思い出してほしい。広く受け入れられた標準 的な統計学にもとづくやり方を変更すれば、少なくとも一時的にこのバランスが乱れること もありうる。       ‘  ECMOをめぐる識論のあと、ドンーベリーはミネソタ大学の統計学科からヒューストン のMDアンダーソンがんセンターに移り。多腕パンティ″卜の研究を通じて構築した方法を 用いてさまざまながん治療法の臨床試験を設計している。依然としてランダム化臨床試験に 対して強硬な批判を続けているか、そのような姿勢をとっているのは彼だけではない。近年、 彼が支持を求めて闘ってきた考え方がようやく主流になりつつある。二〇一〇年と二〇一五 年には、食品医薬品局(FDA)が医薬品と医療機器の「適応的デザイン」臨床試験に関す る「指針」文書の草案を発表した。FDAは長らく自分たちの信頼する選択肢に固執してき たが、このような文書を発表したことから察するに、いよいよ別の方法の探索をする気にな つだのかもしれない。   世界は変わる  多腕パンティ″卜についていったん理解すると、身のまわりのいたるところでこのバンデ ィットの存在に気づくようになる。ある決定を下した場合、その結果として、たいていあと で別の決定を下すのに利用できる情報がもたらされるものだ。だから最適停止のときと同様、 人が一般にこのタイプの問題をどれほどうまく解決するのかを知りたくなるのは当然である。 この問いについては、心理学者や行動経済学者が実験を行なって広範に調べている。  人は概して探索に重きを置きすぎる傾向があるらしい。最良のものよりも新しいものを過 度に高く評価しがちなのだ。一九六六年、エイモスートヴェルスキーとウォードーエドワー ズはこの現象を簡単に実証する実験を行なって発表した。ライトが二つ設置された箱を被験 者に見せて、それぞれのライトが全試行回数のうち一定の(ただし未知の)割合だけ点灯す ると伝える。それからどちらのライトが点灯するかを観察するか、または観察せずに点灯す ると思われるライトに賭けるか、いずれかの選択肢を実行する機会を合計一〇〇〇回与える  (もっと古典的なバンディット問題の設定とは違って、この実験では同時に賭けと観察の両 方となる「プレイ」をすることができない。被験者は最後まで自分の賭けが当たったかどう か知らされない)。これは純然たる「探索」対「活用」の問題であり、情報収集とその活用 か主導権をめぐって真っ向からぶつかりあっている。たいていの被験者は、しばらく観察し てから最良と思われる結果に賭けるという手堅い戦略を用いた。ただし一様に、本来必要な 時間よhソもかなり長い時間を観察に充てていた。その時間というのはどのくらい余分だった のか。ある実験では、一方のライトを全体の六〇パーセント、もう一方を四〇ハーセントで 点灯するという、格別に目立つわけではなく、きわめてわかりにくくもない程度の頻度差を もたせた。この場合、被験者は平均で観察を五〇五回行ない、残りの四九五回で賭けをした。 しかし数学的には、観察を三八回したところで賭けを始めるべきなのだ。こうすれば、金が 手に入るチャンスが九六二回残る。  別の実験でも同じような結論か出た。一九九〇年代、ペンシルヴェニア大学ウォートン校 の研究者であるロバートーマイヤーとシーヨンは、当たりの確率がわかっている選択肢一つ と確率が不明な選択肢一つという合計二つの選択肢から一つを被験者に選ばせる実験を行な った。具体的に言うと、長く営業していて定時運航率がわかっている航空会社と、定時運航 率がまだわからない新しい航空会社のいずれかを選ばせる、という実験である。一定期間に わたって定時に到着する回数を最大にするという目標を与えられた場合、古い航空会社のほ うが明らかにまさっているわけではない限り、まずは新しい航空会社だけを利用するのが数 学的に最適な戦略だ。よく知られている航空会社のほうがすぐれていることが明らかになっ たら1つまり新しい航空会社のギごアインズ指数が、なじみのある航空会社の定時到着率 を下回ったらIさっさとおなじみの航空会社に切り替えて、決して新しい航空会社に戻っ てはならない(この設定では、新しい航空会社を利用するのをやめたらそちらに関する情報 はもう得られないので、名誉挽回のチャンスはない)。しかしこの実験では、被験者が新し い航空会社を利用したほうがよいときには十分に利用せず、利用しないほうがよいときに利 用する傾向か見られた。また、新しい航空会社にきっぱりと見切りをつけず、しばしば選択 肢のあいだを行き来し続けた。特に、どちらの航空会社も定時に運航していないときにその 傾向が見られた。これらの結果はすべて、過剰探索の傾向と合致する。  心理学者のマークースタイヴァーズ、マイケルーリー、EHJ・ヴァーヘソマーケルスは 四本腕パンティ″卜の実験を行ない、四台のスロ″トマシンからプレイしたいマシンを一五 回続けて被験者に選ばせた。それから被験者の用いたと思われる戦略を分類した。その結果 から、被験者の三〇パーセントは最適戦略に最も近く、四七パーセントは「勝てばキープ、 負ければスイッチ」に最も近く、ニニパーセントは新しいマシンと今までで最良のマシンと のあいだをランダムに行き来したようだった。これもやはり過剰探索の傾向と合致する。と いうのは、「勝てばキープ、負ければスイッチ」やランダムな選択では、本来は活用だけを すべきゲームの終盤に、最良でない選択肢を試すことになるからだ。  つまりわれわれは秘書選びでは早まってしまいがちだが、航空会社選びでは探索をやめる のが遅すぎる傾向があるらしい。しかし秘書がいなければコストがかかるのと同じく、特定 の航空会社を早まって選んでしまった場合にもコストが生じる。状況が変わるかもしれない からだ。  標準的な多腕パンティ″卜問題では、各アームで当たりの確率はずっと変わらないことに なっている。だが、航空会社やレストランなど、人が何度も選択を迫られる場では、確率は 必ずしも不変ではない。各アームの当たりの確率が時間とともに変動するなら(これは「非 定常パンティ″卜」と呼ばれる)、問題ははるかに難しくなる(非常に難しく、完全に解く ための手に負えるアルゴリズムが存在しないほどで、そのようなアルゴリズムはこの先もず っと出現しないと考えられている)。なぜそんなに難しいのかと言えば、その原因の一つは、 もはや。しばらく探索してから活用する”だけではすまないという点にある。世界が変動す る可能性のある場合、探索を続行するほうか正しい選択となるかもしれないのだ。何年か前 に行ってがっかりさせられたレストランも。経営者が替わった可能性があるから、また行っ てみるのも悪くないかもしれない。  ヘンリー・デイヴィ″ドーソローはよく知られた随筆「ウォーキング」において、住まい の近くを歩くのが大好きで、周囲のようすに決して飽きたりせず、マサチューセ″ツの風景 の中で常に新しいものや驚くべきものを見つけられるということに思いをめぐらせている。  「事実、半径一〇マイルの円内、つまり午後のウォーキングの範囲内で目にすることのでき る風景と、人生七〇年とのあいだにはある種の調和が存在する。どちらもけっしてなじみす ぎることはない」 (『ウ″Iキング』大西直樹訳、春風社より引用)。  移り変わる世界で暮らすには、自分の中にもいくらかの移り変わりが必要だ。物事が変化 し続ける限り、探索を完全にやめてはならない。  とはいえ、標準的な多腕パンティ″卜問題に合わせたアルゴリズム的手法は、変化する世 界でも役に立つ。ギごアインズ指数や信頼上限といった戦略からは、合理的に有効な近似解 や経験則が得られる。特に、時間が経過しても利得が大きく変動しない場合には有用だ。今 の時代、世界の利得の多くはほぼ確実に、かつてないほど落ち着いている。ある週に食べご ろだったイチゴ畑の果実は翌週になれば腐っているかもしれないが、アンディーウォーホル の言葉を借りれば「コークはコーク」 (『ぼくの哲学』落石八月月訳、新潮社より引用)だ。われ われの直感は絶えず変化する世界に合うように進化してきたが、そんな直感か工業標準化の 時代に必ずしも役に立つとは限らない。  おそらく最も大事なのは、最適解のあるさまざまな多腕パンティ″卜問題について考える と、アルゴリズムが得られるだけでなく洞察ももたらされるということだ。探索と活用のバ ランス、残り時間の重要性、○勝○敗の選択肢の価値の高さ、後悔の最小化など、古典的な バンディット問題から生まれた概念を表す語彙は、目の前に現れる個々の問題だけでなく人 の生涯全体について理解する新たな方法も与えてくれる。  実験室での実験から明らかになる知見もあるが、人が遭遇するきわめて重要な問題の多く は時間的にあまりにも長期にわたるので、実験室では調べきれない。身のまわりの世界の構 造を知り、持続的な社会的関係を築くことは、生涯にわたって続くタスクだ。ということは、 生涯というスパンで序盤の探索と終盤の活用が一般的にどんなパターンを示すのかを知ると 役に立つ。  人間には、発達心理学者なら誰でも解明し説明したいと願う、興味深い特徴がある。生き るのに十分な能力と自立性を獲得するのに何年もかかることである。カリブーやガゼルなら 生まれた日にも捕食動物から逃れる力が必要だが、人間は歩き始めるまでに一年以上かかる。 カリフォルニア大学バークリー校の発達心理学教授で『O歳児の「脳力」はここまで伸び る』 (榊原洋一監修、峯浦厚子訳、PHP研究所)を執筆したアリソンーゴプニ″クは、人間が自 立までにこれほど長くかかる理由をこう説明している。「成長の過程で探索と活用のトレー ドオフの解決法を習得するためです」。すでに見たとおり、多腕パンディットをプレイする ためのすぐれたアルゴリズムでは、早いうちに探索をたくさんして、得た情報をあとで活用 する傾向がある。しかしゴプニックは「このパターンには、探索段階にいるあいだはよい利 得が得られないという欠点があります」と指摘する。だから幼児期が存在するのだ。「幼児 期には可能性の探索だけすればよく。利得の心配をする必要はないのです。利得のことは、 ママやパパやおばあちゃんやベビーシ″ターが面倒を見てくれますから」。  生涯にわたるアルゴリズムにおいて、子どもはやがて終わる探索段階にいるだけだと考え ると、未就学児の親はいくらか慰められるかもしれない(きわめて探索好きな未就学の娘か 二人いるトム〔訳注本書の著者の一人〕は、娘たちが後悔の最小となるアルゴリズムに従って くれることを願っている)。しかしこの考え方からは、子どもの合理性に関する新たな洞察 ももたらされる。ゴプユ″クによれば、「人が子どもをどうとらえてきたか、その歴史を見 てみると、一般に子どもというのはさまざまな点で認知能力が不十分だと言われてきました。 情報の活用能力という点では、まるで無能に見えるからです。靴紐が結べず。長期的な計画 もろくに立てられず、注意力を集中するのも苦手です。子どもはこのたぐいのことが本当に だめなのです」。しかし、ボタンをランダムに押したり、新しいおもちゃに夢中になったり、 ある対象から別の対象へとすばやく興味を移すのは、子どもかとても得意なことである。そ して探索の時期にいるのなら、まさにそういうことをやるべきだろう。赤ん坊か家にあるも のを片っ端から口に入れるのは、カジノでせっせとすべてのアームを引くのと同じことなの だ。  もっと一般的に言えば、合理性に関するわれわれの直感は、探索ではなく活用によって情 報を得ていることかとても多い。意思決定について語る場合には、一つの決定から生じる直 接的な報酬だけに目を向けるのがふつうだ。決定を下すときにいつもそれが最後の決定であ るかのように考えるなら、確かに活用だけが意味をなす。しかし一生のあいだにはたくさん の決定を下すはずだ。それらの決定に関して、とりわけ人生の序盤には、探索卜最良のも のよりも新しいもの、安全なものよりおもしろいもの、熟慮されたものよりもランダムなも のIを重視するほうがじつは合理的ではないか。  子どもの気まぐれと思われるものが、じつは大人が気づいているよりも賢明な判断という こともあるかもしれない。   読書をしてきた大なら知っている岐路に私も到達した。この世で与えられた時間に限り   があるなかで、新しい本をもっと読むべきか、あるいはあのむなしい消費−むなしい   というのは終わりがないからだIをやめて、かつて最も強烈な楽しみを与えてくれた   本を読み返すべきか。                             −リディアーデイヴィス  幼児の対極には高齢者がいる。探索と活用のジレンマという観点から加齢をとらえると。 われわれの生活が時間の経過とともにどう変わると考えるべきかについて驚くべき洞察も得 られる。  スタンフォード大学の心理学教授ローラーカーステンセンは、加齢をめぐる先入観に異議 を申し立てることにキャリアを費やしている。特に、年齢とともに人の社会的関係がどのよ うに変わるのか、そしてそれはなぜかについて研究してきた。基本的なパターンははっきり している。人の社会的ネットワークのサイズ(すなわちかかわっている社会的関係の数)は ほぼ例外なく、時間とともに縮小していくのだ。しかしカーステンセンの研究は、この現象 に対してわれわれがもつべき見方を変えた。  従来の説明では、高齢者の社会的ネ″トワークが縮小するのは、加齢に伴って生活の質か 低下することの表れの一つにすぎないとされる。つまり、社会的関係に貢献する能力の低下、 身体の衰弱、社会からの全般的な離脱の結果と見なされる。しかしカーステンセンは、高齢 者がじつは自らの意思で社会的関係を減らしているのだと主張してきた。彼女の言葉を借り れば、この縮小は「社会的および情動的な利得を最大化して社会的および情動的なリスクを 最小化するために、自らの社会的ネットワークを戦略的かつ適応的に培っていく、生涯にわ たる選択プロセスの結果」なのだ。  カーステンセンの研究グループは、年齢とともに社会的ネットワークが縮小するのは、主 として末梢的な関係を「切り捨て」て。親しい友人や家族からなる中核的な関係に気持ちを 集中するからだということを見出した。このプロセスはどうやら意図的な選択らしい。人生 の終わりに近づくと、大は最も意味のある人間関係に集中したくなるのだ。  カーステンセンと同僚のバーバラーフレドリクソンはこの仮説を検証する実験を行ない、 被験者に対し、三〇分を一緒に過ごすとしたら、身近な家族、最近読んだ本の著者、関心を 共有していると思われる新しい知り合いのうち誰がよいか尋ねた。高齢の被験者は家族を選 び、若い被験者は本の著者に会うことや新しい知り合いとの仲を深めることにも同程度の熱 意を示した。しかし自分が国内の遠くへ引っ越すところだとしたらどうかと質問すると大き な変化が見られ、若い被験者も家族を選んだ。別の実験で、カーステンセンらは設定を逆に しても同じ結果が得られることを見出した。医学の飛躍的な進歩によって寿命が二〇年延び たならどうかと尋ねると、高齢の被験者の選ぶ答えは若い被験者と同様のものとなったのだ。 つまり、人間関係に関する選択で見られたこれらの違いは年齢そのものによるのではなく、 自分が下す決定について残り時間がどれだけあるかという認識と関係しているのだ。  残hソ時間に対する意識というのは、まさに探索と活用のジレンマに関するコンピューター 科学か示唆することである。われわれは若者か気まぐれだと決めつける。そして高齢者とい うのは融通が利かないものだと決めつける。じつのところ、どちらもそれぞれの残り時間に 対して完璧にふさわしくふるまっているのだ。社会的ネ″トワークを最も意味のある人間関 係へと意図的に絞っていくのは、そうした関係を堪能できる残り時間か少ないことへの合理 的な対応である。  高齢期は活用の時期だと理解すると。老化に伴う典型的な現象のいくつかを新たな視点で とらえることかできる。たとえば大学に入るときは、初めて会う人たちでいっぱいの新たな 社会的環境が楽しみでわくわくするのがふつうだ。それに対して高齢者介護施設に入るとき には、初めて会う人たちでいっぱいの新たな社会的環境を思うとつらい気持ちになるのでは ないか。この違いをもたらす要因の一つは、探索と活用からなるひとつながりの時間的枠組 の中でそれぞれの立っている位置が違うことだ。  探索と活用のトレードオフからは、年長者がくれるアドバイスをどう受け止めるべきかを 学ぶこともできる。祖父がよいレストランを教えてくれたら、聞く耳をもつべきだ。何十年 にもわたる探索の末に得た貴重な情報なのだから。ただし祖父が毎日午後五時になると必ず 同じレストランで食事をしているというのなら、気兼ねなくほかの店を探索すべきだ。もっ とも、よその店が祖父の行きつけの店にまさる可能性は低いが。  晩年とは、何十年もかけて集めてきた情報を活用する機会である。おそらくそう考えるこ とで得られる最も深遠な洞察は、人生は時間とともによくなるはずだということだ。探索者 は情報と引き換えに楽しみを手放す。すでに見たとおり、ギごアインズ指数や信頼上限アル ゴリズムは、情報の少ない選択肢の魅力を期待値以上に高める。というのは、うれしい驚き は何倍もの利得となりうるからだ。しかしこれは同時に、ほとんどの場合に探索が必然的に 期待外れに終わるということでもある。気持ちの多くをお気に入りのものに注げば、生活の 質が高まるはずだ。そして実際そうなるらしい。カーステンセンの研究によれば、年配の人 のほうが一般に自分の社会的ネットワークに満足していて。気持ちの面で若い大よりも高い 充足度を報告することが多い。  そんなわけで、日暮れ近くのレストランの常連となって、生涯にわたる探索の果実を味わ う日が訪れるのも大いに楽しみだ。  3 ソート    秩序を生み出す   探している語が「a」で始まるなら、本表の最初を調べよ。「v」で始まるなら、最後   のほうを調べよ。「ca」で始まるなら「c」の最初を調べ、「cu」で始まるなら    「c」の最後のほうを調べよ。ほかの語についてもすべて同様にせよ。            −ロバートーコードリー『アルファベ″卜表』 (一六〇四年)  ダエー・ヒリスはシソキングマシンズ社を創業する前、そしてあの有名な並列スーパーコ ンピューター〈コネクションマシン〉を発明する前、MITの学生として学生寮で暮らして いた。あるとき彼は、ルームメイトの靴下に愕然とした。  多くの大学生とは違って、ヒリスが愕然としたのはルームメイトの不潔さではない。ルー ムメイトが靴下を洗濯しないことに驚いたのではない。いや、洗濯はしていた。問題はその あとだった。  ルームメイトは、洗濯済みの靴下を洗濯かごから一つ取り出す。次にもう一つ適当に取り 出す。最初のと合わなければ、かごに戻す。こんなふうにして最初のとペアになる靴下が出 てくるまで、一つずつ出しては戻すという作業を続けるのだった。  かごに入っている靴下かI〇組だけでも、このやり方では一組めか完成するまでに靴下を 平均一九回取り出す必要があり、二組めを完成させるにはさらに一七回取り出さなくてはな らない。すべてのペアをそろえるには、かごから平均一一〇回取り出すことになりそうだ。  コンピューター科学者の卵としては、別の部屋への移動を願い出ずにいられなかった。  靴下をそろえるにはどうするべきかという話になると、今やコンピューター科学者は驚く ほど饒舌になる。二〇一三年にプログラミングのウェブサイト〈スタックーオーパーフロ ー〉に投稿された靴下問題をめぐっては、一万二〇〇〇語ほどの議論が交わされた。  「靴下には参ったよ!」と、伝説的な暗号研究者でチューリング賞を受賞したコンピュータ ー科学者のロンーリヴェストは、訪ねていった私たちがこの話題を持ち出したときに打ち明 けた。  このとき彼はサンダルを履いていた。   ソートの悦び  ソート(整列)こそ、コンピューターがこなす仕事の神髄だ。多くの点で、ソートがコン ピューターを生み出したといっても過言ではない。  一九世紀の終盤、アメリカの人口はI〇年で三〇パーセントのペースで増加しており、国 勢調査の「調査項目」は一八七〇年にはわずか五個だったが一八八〇年には二〇〇個を上回 った。一八八〇年の国勢調査は集計に八年かかった。一八九〇年に次の国勢調査が始まる直 前にぎりぎりで完了したわけだ。当時、「いらだたしい集計用紙と格闘する職員か……視力 や正気を失わなかった」のは奇跡だと記した者もいる。この事業そのものが、自らの重みに 耐えかねて今にも崩壊しそうだった。何か手を打たねばならない。  鉄道切符に穴をあける方式からヒントを得て、発明家の(Iマンーホレリスは〈ホレリス マシン〉という機械を使うシステムを考案した。厚紙のカードに穴を開けて情報を記録し、 それを計数してソートするのだ。ホレリスは一八八九年にこれで特許を取り、一八九〇年の 国勢調査で政府がこのホレリスマシンを採用した。それまでに誰も見たことのない装置だっ た。ある者は畏敬の念に満ちたようすでこう記している。「この装置はまるで神の水車のご とく正確に作動するが、速度は神の水車を凌駕する」。一方で、この発明品には限られた用 途しかないと考える者もいた。「政府以外にこれを使う者はいないので、発明者が大儲けす ることはないだろう」。ホレリスはこの言葉の書かれた新聞記事を切り抜いてとっておいた が、その予想が完全に当たることはなかった。彼の会社は一九一一年にほかの数社と合併し、 コンピューティングータビュレーティングーレコーディングーカンパニーとなった。数年後 には改称し、インターナショナルービジネスーマシーンズ、つまりIBMとなった。  それからI〇〇年間、ソートはコンピューターの開発を牽引し続けた。「プログラム内 蔵」式コンピューター用に書かれた最初のコードは、効率的なソートをするためのものだっ た。IBMの専用カードソート装置よりもコンピューターのほうがソート能力にすぐれてい たことから、アメリカ政府は汎用装置への莫大な投資の正当性を認めた。一九六〇年代まで に、ある調査では世界中のコンピューター計算資源の四分の一以上がソートに費やされてい ると推定された。そして言うまでもなく、ほぼあらゆるタイプの情報を扱う際にソートは不 可欠である。最大値や最小値を見つけるにしても。頻度が最高や最低のものを探すにしても、 集計や索引づくりをするにしても、重複データにプラグを立てるにしても、あるいは単に自 分のほしいデータを探すにしても、たいていの場合、まずは目に見えないところでソートが 行なわれる。  しかしソートはこれだけにとどまらず、さらにさまざまなところで実行されている。ソー トの主たる目的の一つは、人間の目に利用しやすい形で物事を提示することである。つまり、 ソートは人が情報を経験する際にも重要な役割を果たすのだ。ソートされたリストはいたる ところに存在するので、「水とは何ぞや?」と問う魚がまれなように、その存在を認識する には意識的な努力が必要なほどである。そして意識すれば、それはありとあらゆる場所で見 つかるのだ。  メールの受信ボ″クスでは。メールが何千通も入っていることもあるが、受信日時でソー 卜された上位五〇通ほどが表示されるのがふつうだ。ロコミサイトの〈イェルプ〉でレスト ランを検索すれば、所在地や評価に従ってソートされた数百軒のうち、卜″プのI〇軒ほど が表示される。ブログを見れば、日付順にソートされた記事一覧の一部が載っている。フェ イスブックのニュースフィード、ツイッターのストリーム、レディットのホームページは、 いずれもなんらかの独自の方法でソートしたリストとなっている。グーグルやピンクなどは  「検索エンジン」と呼ばれるか、この呼び方は適切ではない。正しくはソートエンジンなの だ。世界中の情報にアクセスする手段としてグーグルがこれほどの優位を保っていられるの は、数億にのぼるウェブページに含まれる文字を検出できるからというよりも(一九九〇年 代のライバルたちも、たいていこれは十分にうまくできた)、ウェブページを巧みにソート して最も意味のあるI〇のウェブページだけを表示するからだ。  ソートされた膨大なリストから切り取られた上位というのは、多くの点で普遍的なユーザ ーインターフェースとなっている。  コンピューター科学は、これらの事例すべてで人目につかずに起きていることを理解する 方法をわれわれに与え、ひいてはわれわれが整理でお手上げ状態のときに助けとなるアイデ ィアを与えてくれるかもしれない。日々、われわれは請求書や新聞や本や靴下などの整理に おそらく思いのほか時間を取られている。その一方で、無秩序の害悪(および価値)を定量 化すると、じつは整理などすべきでないケースも明らかになる。  さらに、調べ始めてみると、ソートすべき対象は情報だけでないことがわかってくる。人 も対象となるのだ。順位決定のコンピューター科学が最も思いがけず役立つのは、スタジア ムやボクシング場かもしれない。だからソートについていくらか理解すると、人間どうしが たまにしかけんかをせずに共存できる仕組みも説明できる可能性がある。つまりソートは。 社会の本質についての驚くべき手がかりを与えてくれる。われわれが生み出す、もっと大き く重要な秩序の理解へと導いてくれるのだ。   ソートの苦しみ  「生産単位あたりのコストを下げるには、業務の規模を拡大するのが常道である」。J・C ・ホスゲンは、ソートについて初めて書かれた一九五五年の科学論文でそう述べている。こ れは経営学を専攻する学生なら誰でも知っている「規模の経済」だ。しかしソートに関して は、規模は破滅へのレシピだ。むしろソートに関しては、規模か大きくなると「ソートの単 位コストは下がるのではなく上がる」。物事をまとめて処理すれば割安になるという通常の 感覚に反して、ソートにおいては規模の拡大は著しい「規模の不経済」を伴う。一般に、 二人分の食事をつくる手間は一人分の食事をつくるときと大差ない。そして、一人分の食事 を二度つくるよりは確実に手間が少ない。しかしソートとなると。たとえば本がI〇〇冊入 った書棚一つの整理には、五〇冊の本が入った書棚二つを整理するよりも時間がかかる。整 理すべき本が二倍あれば、一冊あたりの行き先候補の数も二倍になるからだ。処理すべき対 象が増えれば増えるほど、作業はいっそう大変になる。  規模は負担となる。これがソート理論において何よりも根本的な第一の洞察である。  それならば、ソートの苦労や手間を最小化できるかどうかは、ソートすべき対象の数を最 小化することにかかっている、と考えたくなる。そしてそれは正しい。靴下のソートに伴う 計算の難しさを軽減する最良の策は、洗濯をもっとこまめにすることだ。たとえば今までの 三倍の頻度で洗濯すれば、ソートのコストが九分の一に削減できる。実際、ヒリスのルーム メイトか彼独自のやり方を続けるとしても、洗濯の間隔を一四日から一三日に短縮すれば、 それだけで靴下をかごから取り出す回数が二八回減らせるはずだ(逆に間隔を一日延ばすだ けで、取り出す回数は三〇回増える)。  このことからもわかるように、二週間というどうということのない期間でも、ソートの規 模は手に負えないほどになってしまいかねない。ところがコンピューターは定常的に一回の 処理で何百万ものアイテムをソートしなくてはならない。そのためには、映画『ジョーズ』 のセリフを借りれば「もっと大きな船が必要だ」。そしてもっとよいアルゴリズムも。  だが、どのようにソートすべきか、どの方法がベストかという問いに答える前に、明らか にしておくべきことかある。スコアのつけ方だ。   ビッグ○−最悪の事態の尺度 『ギネス世界記録』では、トランプー組のソートの記録保持者はチェコのマジシャン、ズデ ュエクーブラダーチとされている。二〇〇八年五月一五日、ブラダーチは五二枚のトランプ をわずか三六・一六秒でソートした。いったいどうやったのか。どんなソート方法でこの夕 イトルを獲得したのか。その答えがわかったらソート理論に興味深い光が当たるだろうが、 ブラダーチはコメントを拒否した。  ブラダーチの技とそれを巧みにこなす腕前には感心するしかないが、じつは私たちでも彼 の記録を破ることが不可能ではない。それはI〇〇パーセント断言できる。それどころか、 二度と破られることのない記録が樹立できると自信をもって断言できる。記録保持者のタイ トルを目指して、およそ八〇六五八一七五一七〇九四三八七八五七一六六〇六三六八五六四 〇三七六六九七五二八九五〇五四四〇八八三二七七八二四〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇回挑戦 するだけだ。この八〇〇〇不可思議(訳注 不可思識は数の単位で、一不可思議n一×一〇の六四 乗)を少し超えた数は五二の階乗であり、数学記号では「認一」と書く。これは五二枚のト ランプー組を並べたときに起こりうるパターンの数である。だいたいこの数と同じ回数だけ 試行すれば、最初にシャ″フルしたトランプが偶然の力で完全にソートされる瞬間がいずれ 訪れる。こうなったら、クリスチャン&グリフィスという本書の執筆チームの名をゼロ分ゼ ロ秒というなかなかのタイムとともに『ギネス世界記録』に堂々と載せることができる。  とはいうものの、私たちが挑戦しても志なかば、完璧な記録が樹立されるよりも先に 宇宙が熱力学的死を迎えるのはほぼ確実だ。それでもこの試みを通して、記録保持者とコン ピューター科学者とのあいだに存在する最大の根本的な違いが明らかになる。ギネス社にい るまともな人たちは、最良の結果(およびビール)だけを気にかける。もちろん、彼らに非 はほとんどない。スポーツで記録に残るのは常に、最高の成績だけだ。しかしコンピュータ ー科学者は最良の結果にはほとんど関心をもたず、むしろブラダーチのような人がソートに 要する平均時間を知りたがるかもしれない。ブラダーチに八〇〇〇不可思議通りのパターン をすべてソートさせるか、あるいはほどほどのアイテム数のソートをさせて、全試行の平均 記録を知りたがるのではないだろうか(コンピューター科学者がこの種の実験をやらせても らえない理由がこれでおわかりだろう)。  そのうえ、コンピューター科学者は最悪のソート時間も知りたがるはずだ。最悪解析をす ると、確実な保証ができるようになる。重要なプロセスか遅れることなく完了し、期限に間 に合わないということがなくなるのだ。そこで本章の残りIそして実際には本書の残りす べてIでは、特に明記しない限りはアルゴリズムの最悪のパフ″Iマンスだけを論じてい   *ブラダーチの記録はこれだけではない。これとほぼ同じタイムで、水中で自分の手にかけられた三   つの手錠を外すこともできる。  コンピューター科学は、アルゴリズムの最悪シナリオを評価することを特に目的とした  「ビッグO記法」という簡略な記述方法を生み出した。ビ″グO記法には、その設計上、厳 密ではないという固有の特徴がある。つまりアルゴリズムのパフォーマンスを分や秒で表す のではなく、問題のサイズとプログラムの実行時間とのあいだで成り立つ関係の種類を論じ る方法なのだ。ピ″グO記法は意図的に詳細を切り捨てるので、そこで浮かび上がるのは、 問題をさまざまな広いくくりに分類するための枠組みである。  ”人の客を招いて食事会を閧くとしよう。客を迎えるために家を掃除するのに必要な時問 は、客の人数にまったく左右されない。これは最も楽観的なタイプの問題で、「ビッグーオ ー・I」と呼ばれ、書くときには「Q{})」と表記する。「定数時間」と呼ぶこともある。 注目すべき点として、ビ″グO記法では掃除にかかる実際の時間はいっさい考慮しない。常 に一定で、客の人数にまったく影響されないからだ。客か一人でも、一〇大でも、一〇〇大 でも、とにかく何人でも、すぺき仕事は変わらない。  テーブル全体にローストビーフを配るのにかかる時間は「ビッグーオー・η」であり、  「Q(a)」と表記する。これは「線形時間」とも呼ばれ、客の数が二倍になれば料理を全員 に出すまでの時間も二倍になる。この場合も、ビ″グO記法はそれぞれの客に出される料理 の皿数や、料理のおかわりがあるかはいっさい考慮しない。どちらの所要時間も、やはり客 の数に対して線形的に決まるからだ。「客の数」対「所要時間」のグラフを描けば直線にな る。さらにビ″グO記法においては、線形時間の要素が一つでもあれば、定数時間の要素は すべて存在しないのと同じ扱いを受ける。つまり、ただローストビーフを全員に一度ずつ行 き渡らせるか、それとも三ヵ月かけて食堂を改修したうえでローストビーフを全員に一度ず つ行き渡らせるかというのは、コンピューター科学者にとっては実質的に等価なのだ。そん なのはおかしいと感じるなら、コンピューターが扱う値黠は容易に数千、数百万、数十億に もなりうるということを思い出してほしい。要するにコンピューター科学者はとてつもなく 大規模な食事会を考えているのだ。何百万人という客を迎える場合、ローストビーフを全員 に出す手間と比べれば家の改修などなんでもない。  客が到着し、全員が互いを(グして挨拶するとなったらどうだろう。最初の客がホストを (グする。二番めの客は二回(グする。三番めの客は三回(グする。全部で(グは何回され ることになるのだろう。これは「ビッグーオー・〃の二乗」で、「Q(气)」と表記され。  「二乗時間」とも呼ばれる。ここでもやはり、sと時間との関係のおおまかな輪郭しか考慮 しない。一人が二回(グする場合のO (2M2)というものは存在せず、(グの回数プラス料理 を出す所要時間を表すQ(气十n)や、(グの回数プラス家の掃除を表すQ{气十})も存在し ない。いずれも二乗時間なので、Q(气)ですべてカバーできる。  ここからもっと大変なことになっていく。「指数時間」Q(S)というのがあり、客が一人 増えるごとにホストの仕事が二倍に増える。さらに大変なのが「階乗時間」Q(a一)と呼ば れるもので、これは本当に困難を極めるので、コンピューター科学者はジョークとして(ト ランプー組が正しい順番になるまでシャッフルする話をしていたときのように)か、本当に            心から論じたいと思うときにしか、このタイプの問題について語ら 眄 丿      叭 四       m   二乗時間−バプルソートと挿入ソート     時間     時 I            乗 J        に  二〇〇七年にオバマ上院議員がグーグルを訪れたときヽcEoの 雛        圓 エリックーシュヽヽヽツトはふざけて就職面接のような質疑応答を始め べ        m た。「一〇〇万個の三ニビット整数を整列するのに最適な方法 ぼ        形 は?」と問うと、オバマは動揺したようすもなく、苦笑いを浮かベ ベ        J て答えた。「バブルソートはだめだと思います」。グーグルのエン 。 〜  匹ジュアたちは歓声を上げた。「バブルソートにはぐっときだ」と。          澗 一人があとで述懐している。          時          数  オバマがバブルソートを避けたのは正しい。このアルゴリズムは u        ( いわば、コンピューター科学を専攻する学生かトレーニングのため J        図 に使う、サソドバ″グのようなものだと言っていい。シンプルで、 四          直感的に理解できるが。効率がすこぶる悪いのだ。 取   時間       未整理のまま本棚に入っている本をアルファペット順に並べ替え たいとしよう。本棚を端から見ていき、たとえばウォレス(Wallace)のあとにピンチョン  (Pynchon)来ているような順番の狂ったペアを見つけたら入れ替える、というのか自然 なやり方だろう。ピンチョンをウ″レスの前に入れてさらに探索を続け、棚の最後にたどり 着くたびにまた最初に戻るということを繰り返す。順番の狂ったペアが見つからずに端から 端まで進めるようになったら、そこで作業は完了だ。  これがバブルソートである。バブルソートは二乗時間を要する。順番の狂った本がg冊あ って、棚を一巡するたびに一冊につき最大でIポジションだけ動かせる(小さな問題を見つ けて小さな修復を施す)。したがって、棚全体が完全に逆の順番になっているという最悪の 場合には、少なくとも一冊は黠ポジション動かす必要がある。 0」つまり黠冊の本を最大で〃回 動かさなくてはならないので、最悪の場合にはQ(气)となる。これはひどい話ではない。 先ほどの。ソートできるまでシャッフルを続ける”のがQ(a一)だったのと比べれば、はる かにましだ(コンピューター科学による裏づけが必要な人のために参考まで)。とはいえ、 とかく数式の二乗項はすぐさまとんでもない値を取りがちだ。たとえば五段の書棚を整理す るときには、一段の場合の五倍ではなく二五倍の時間がかかる。   *実際に、パブルソートの平均実行時間がこれよりましになることはない。本は本来あるべき位置か   ら平均で〃/2ポジション離れているからだ。コンピューター科学者は封冊の本をη/2回見るので、   最悪の場合にはやはりc(气)となる。  別の作戦を使ってもいい。棚から本をすべて出して、一冊ずつ戻すのだ。一冊めを棚の中 央に置いて、二冊めをI冊めと比べて右か左に入れる。三冊めを取り、棚に並んだ本を左か ら右へと見て、入れるべき正しい位置を見つける。これを繰り返すうちに、やがてすべての 本が棚の上で正しい順番で並ぶ。これで作業は完了だ。  コンピューター科学者は、このやり方を挿入ソートというもっともな名前で呼ぶ。ありか たいことに、これはほぼ確実にバブルソートよりもさらに直感的に理解しやすく、評判もそ んなに悪くない。ただし残念なことに、じつはバブルソートより著しく速いというわけで はない。すべての本を一回ずつ挿入しなくてはならず、挿入するたびに正しい位置を見つけ るために平均で棚の本の半数ほどを見る必要がある。挿入ソートは実際にバブルソートより いくらか速いが、やってみるとわかるとおり、やはり二乗時間の範疇には違いない。本棚一 段より多くのものをソートするというのは、やはり相当に手ごわいのだ。   二乗時間の壁を破るI分けて征服  二つの完全にまともなやり方が、とてもではないがつきあいきれない二乗時間に陥るのを 見てきた。そこで当然のこととして、これより速いソートが可能なのかという疑問が浮かん でくる。  この問いは生産性の問題のように感じられる。しかしコンピューター科学者に言わせれば、 じつはむしろ形而上学に近い。つまり、光の速さ、タイムトラベル、超伝導体、熱力学的エ ントロピーについて考えるのと同じなのだ。宇宙の根源的な法則と限界にはどんなものかあ るか。何が可能か。何が許されているか。こんなふうにしてコ叫り心‐ター科学者は素粒子 物理学者や宇宙論学者とまったく同様に、神の描いた設計図を垣間見ている。秩序をもたら すのに必要な最小努力とはどんなものか。  (客が押し寄せる前に家を掃除するように)客が何人であろうと同じ時間で招待客リストを ソートできる定数時間のソートQ{})を見つけることはできるのか。犯冊の本の並んだ書棚 がソートされていることをただ確認する作業さえ、定数時間で実行することはできない。な ぜなら犯冊すべてを調べる必要があるからだ。だから定数時間で本をソートすることなどと うてい無理と思われる。  食卓に料理を行き渡らせるのと同程度の効率で、ソートすべきアイテムが二倍になれば作 業も二倍になるだけという、線形時間のソートOin)はどうだろう。今までの例から考える と、線形時間でもどうやら厳しそうだ。バブルソートと挿入ソートのどちらにしても呎と なるのは、s冊の本を動かす必要があり、各移動で必要な作業の量も封に対応するからだ。 本犯冊×移動封回をただの封にするにはどうしたらよいのだろう。バブルソートで実行時間 がQ(气)となるのは、刀冊の本をそれぞれ最大で封ポジション移動させるためだった。挿 入ソートでは、犯冊の本すべてをほかの最大g冊の本と比べて正しい位置に挿入することか ら、実行時間はやはり二乗時間となった。線形時間のソートでは、ほかの本の冊数とは無関 係に、定数時間でそれぞれの本を処理することになる。そんなことが可能とは考えにくい。  そこで、二乗時間よりはスピーディーだが、おそらく線形時間ほどではないということか わかる。われわれに到達可能な点は、線形時間と二乗時問のあいだのどこかにあるのだろう。 では、線形と二乗のあいだ、gと〃×ηのあいだにアルゴリズムはないのだろうか。  じつはある。しかも、目に映っているのに見過ごされていた。  前にも述べたが、情報処理は一九世紀のアメリカ国勢調査から始まった。(Iマンーホレ リスが開発してのちにIBMが引き継いだ、物理的なパンチカードソート装置が使われた。 一九三六年、IBMは別個にソートした二つのカードの山を一つに併合できる「照合機」と いう装置の製造を始めた。二つの山がそれぞれソートされている限り。二つをまとめて一つ の山にする手順は驚くほど簡単で、かかる時間は線形時間だった。二つの山のI枚めを比べ て、数の小さいほうを新たにつくっている山に移し、すべてのカードが終わるまで同じ手順 を繰り返すだけだ。  プログラム内蔵式コンピューターの威力を証明するためにジョンーフォンーノイマンが一 九四五年に書いたプログラムでは、照合というアイディアか見事な究極の結論へと行き着い ていた。二枚のカードをソートするのはたやすい。数の小さいほうを上に重ねるだけだ。カ ード二枚の山が二つあって、それぞれの山がソート済みなら。照合によって四枚を一つのソ。 Iトされた山にするのは難しくない。この手順を何度か繰り返すと、山はしだいに大きくな り、それぞれの山はすでにソートされた状態になっている。ほどなくして、完全にソートさ れた一つの山かできあがる。最後の劇的な併合によって、リプルシャ″フル(訳注 トランプ の組を二つに分けてそれぞれ両手に持ち。パラパラはじくようにカードを重ね合わせていく混ぜ方)によ く似た動きを見せながら秩序かもたらされ、望みどおりの結果に至る。  このやり方か今ではマージソートと呼ばれている。これはコンピューター科学において伝 説的なアルゴリズムの一つだ。一九九七年に発表された論文には「コンピューティングの歴 史においてソートが重要なのと同じくらい、マージソートはソートの歴史において重要であ る」と書かれていた。  マージソートの威力は、これが線形時間と二乗時間の中間の計算最で実行できることに由 来する。具体的には、「線形対数」時間と呼ばれるOKn log n)である。照合を終えるたび にソートされた山の枚数が二倍になるので、黠枚のカードを完全にソートするには、2を累 乗して黠に等しくなるのに要するのと同じ回数の照合か必要となる。この回数がまさに、2 を底とする対数なのだ。二回の照合で最大四枚のカードをソートすることができ、もう一回 照合するなら最大八枚、さらにもう一回照合するなら最大一六枚のソートができる。マージ ソートの「分けて征服」アプローチをきっかけとして、すぐさまほかの線形対数時間のソー トアルゴリズムが統々と生まれた。線形対数時間の計算量が二乗時問の計算量に比べてたか だか一歩の改良にしか見えないとしたら、それははなはだ過小な評価である。たとえば岡勢 調査レベルのアイテム数をソートする場合、データを二九回調べるか三億回調べるかという 違いになる。産業界の大規模なソート問題でこの方法が好まれるのも当然と言える。  マージソートは家庭内の小規模なソート問題にも実用できる。この方法かこれほど広く使 われている理由の一つは、並列処理が容易な点にある。本棚の整理についてまだ戦略が決ま らないなら。マージソートをすることにして、ピザを一枚注文しておいて友人を何人か呼べ ばよい。本を全員均等に割り当てて、担当の山をソートしてもらう。それから二人組になっ てそれぞれの山をまとめてもらう。山が二つになるまでこの手順を繰り返し、最後にこの二 つの山をまとめながら書棚に並べる。ただし、ピザで本を汚さないように注意すること。   比較を超えて卜亠″数時間を出し抜く  ワシントン州プレストンの近くにある地味な工業団地には、何の変哲もない灰色の建物が たくさん建っている。その一つに入っているのが、二〇一一年と二〇一三年の全米図書館ソ ート選手権の優勝者だ。仕切りで区切られた長いベルトコンベアが毎分一六七冊、一日八万 五〇〇〇冊の本を運ぶ。バーコード読み取り機を通った本は自動的に選り分けられ、下向き に開く扉から九六個の運搬箱のいずれかに落下する。  プレストンソートセンターは、本のソート施設として世界卜乙フクラスの規模と効率を誇 る。ここを運営しているキング郡ライブラリーシステムは、同等の設備をもつニューヨーク 公立図書館と健全な競争を展開しており、四年にわたって接戦を繰り広げ、全米ナンバーワ ンのタイトルは両者のあいだを行き来している。「今年、うちがキング郡ライブラリーに負 けるですって?」と、ニューヨークのソート施設〈ブ″クオプス〉の副責任者を務めるサル バトーレーマガディーソか二〇一四年の対決の前に言った。「ありえませんね」。  理論家の目から見ても、プレストンソートセンターには格別に印象的な点がある。そこの システムを通る本はQ(x)、すなわち線形時間でソートされるのだ。  大事なのは、マージソートで達成される線形対数時間U in log n)は、まさにわれわれが 期待しうる最良のものだという点である。”個のアイテムを一連のペア比較によって完全に ソートしたい場合、Q(a)aa)回より少ない比較では完了できないことが証明されている。 これは宇宙の基本法則であり、そのことは疑う余地がない。  だが厳密に言って、ソートについての議論がここで打ち止めになるわけではない。という のは、一組のものを完全にソートする必要がない場合もあるし、アイテムどうしでペア比較 をせずにソートできるときもあるからだ。この二つの原理を合わせると、線形対数時間より も迅速におおまかで実用的なソートが可能になる。このことはバケットソートと呼ばれるア ルゴリズムで見事に証明されており、プレストンソートセンターはその完璧な実例となって 廴る  バケットソートでは、アイテムをグループ化して互いにソートされた多数のカテゴリーに 分けるが、カテゴリー内のソートについては考えない。それはあとですればよい(コソピュ Iター科学において「バケット」という用語は未ソートのデータの集まりを指すだけだが、 現実世界でのきわめて有効なバケットソートのなかには、キング郡ライブラリーシステムの ように、まさに名が体を表すケースもある)。このソートのポイントは、黠個のアイテムを 揖個のバケットにグループ化したい場合にはその作業がOinm)という時間で完了する点に ある。時問はアイテム数にバケ″卜の個数を掛けた数に単純に比例するということだ。アイ テム数に対してバケ″卜の個数が比較的少なければ、ビッグO記法では丸められて線形時間 のQ(a)となる。  実際に線形対数時間の壁を破るのに大事なのは、ソートしようとしているアイテムの分布 を知ることだ。バケ″卜が適切に選べていないと、ソートしてもほぼ意味がない。たとえば すべての本か最終的に同じバケ″卜に入るなら、まったく無意味である。一方。バケットを うまく選べば、アイテムをおよそ同じサイズのグループに分けることかできる。ソートにお いて「規模は負担」という基本的な性質を考えれば、このようなグループ分けは完全なソー トへ向かう大きな一歩である。本をアルファベ″卜順に並べるのではなく配送先の分館ごと にソートする作業を行なうプレストンソートセンターでは、バケットの選択は貸出データに よって決まる。貸出冊数は図書館によって異なるので、バケットを二つ、場合によっては三 つ、割り当てられる館もあるかもしれない。  ソート装置で利用されているのと同様の知識は、人力でソート作業をする場合にも役立つ。 ソートのエキスパートが働いている現場を見せてもらおうと、私たちはカリフォルニア大学 バークリー校のドウ図書館とモフィ″卜図書館へ向かった。両図書館で秩序を保つべき書架 の全長は八四キロメートルもあり、作業はすべて人の手で行なわれている。図書館に返却さ れた本はまず、議会図書館分類法による請求番号の記された棚か並ぶバ″クヤードに運ばれ る。たとえばいくつかの棚に、返却されたばかりの請求番号PS3000からPS9999 までの本がごちや混ぜに入っている。アシスタントの学生が。図書館の書架に戻せるように 最大一五〇冊を正しい順番に並べてカードに載せる。アシスタントはソートの基本的な研修 を受けているが、仕事をするうちにそれぞれ独自のやり方を編み出していく。少し経験を積 むと、カードいっぱいの一五〇冊をソートするのに四〇分もかからなくなる。その経験にお いては、期待すべきものを知るということが大きな部分を占める。  バークリーで化学を専攻する学部生でソート係のスターでもあるジョーダンーホーは、P S3000〜PS9999の棚に入った大量の本をさばきながら、彼のやり方を説明してく れた。   経験的に、3500番台が多いということがわかっています。そこでまずは3500番   より下の本を探しておおまかに並べます。これが終わったら、今度はもっときちんと並   べます。3500番より下の本を片づけたら3500番台をやりますが、この3500   番から3599番までは数が多いので、3500番台でIグループにします。数が多け   ればさらに細かく分けて、3510番台、3520番台、3530番台とすることもあ   ります。  ジョーダンは二五冊前後をカードに載せたら、挿入ソートを使って最終的な順番に並べる ことを目指している。彼の入念に考え抜かれた戦略は、まさにそれを達成するための正しい やり方だIすなわちバタ″トソートである。さまざまな請求番号の本がそれぞれどのくら いあるかという確かな情報にもとづく予想によって、どんなバケットを使うべきか彼にはわ かっている。   ソートは検索の事前対策  これらのソートアルゴリズムをすべて知っていれば、今度書棚の本をアルファベ″卜順に 並べるときに役立つはずだ。オバマ大統領と同じく、バブルソートはよくないということが わかるだろう。図書館の人間も機械も認めているとおり、この場合に有効な戦略はまずバケ ットソートで。山が十分に小さくなったら挿入ソートが適切となる。あるいはマージソート のピザパーティーをするのもよい。  しかし実際にこのプロセスの実行を手伝ってほしいとコンピューター科学者に頼んだら、 そもそもソートする必要があるのかと真っ先に訊かれるはずだ。  コンピューター科学というのはつまるところトレードオフだ、と学部生は教わる。本書で も、「見る」と「跳ぶ」や「探索」と「活用」のあいだのバランスを扱ったところで、すで にこの点は見てきた。そしてとりわけ重大なトレードオフの一つが「ソート」と「検索」の あいだに生じる。基本原理としては、対象のソートに労力を注ぐことは、あとで検索に労力 を費やさねばならないことに備える、先制攻撃にほかならない。細かいバランスをどうすべ きかはその場の具体的なパラメーターによって決まるが、ソートというのは将来の検索を助 ける場合のみ価値がある。そう考えると、驚くべきことが明らかになる。  無秩序は必ずしも悪くない。  検索するあてのまったくないものをソートするのは完璧な無駄であり、まったくソートさ れていないものを検索するのは非効率でしかない。  もちろん問題は、将来の使い方をどうやってあらかじめ見極めるか、である。  ソートのメリ″卜を何よりもはっきりと見せつけるのは、グーグルなどのインターネ″卜 検索エンジンだろう。グーグルかユーザーの入力した検索フレーズを受け取って〇・五秒と 経たぬうちにインターネット全体を探索できると考えると、信じがたい気がする。いや、さ すがにそれは無理だ。そもそも、その必要がない。グーグルとしては、(a)将来に手持ち のデータが検索され、(b)検索は一度だけでなく何度も行なわれ、(c)データのソート に要する時間は検索に要する時間よりも「価値か低い」と見なされるということをほぽ確信 している(この場合、結果が必要となる前にあらかじめソートを行なうのは機械で、検索す るのは時間に大きな価値を置くユーザーだ)。これらすべての要因を考え合わせると、事前 に膨大なソートを行なったほうがよい、という結論になる。そしてグーグルや同類の検索エ ンジンは実際にそうしている。  では、個人の本棚はアルファペ″卜順に整理すべきなのか。たいていの一般家庭の本棚で は、並べ替えに価値か認められる条件はほとんど成り立だない。特定の本を探し回ることは きわめてまれである。未ソートの対象を検索するのに伴うコストはかなり小さい。だいたい どのあたりにあるかわかっていれば、どんな本もすぐに見つけられる。ソートされた本棚で は本を見つけるのに二秒かかり、未ソートの書棚ではI〇秒かかるとしても、その差が決定 的に状況を左右することはほぼありえない。あとで数秒の時間を短縮するためにあらかじめ 何時間もかけて準備しておくほど、緊急に特定の本を必要とする事態はめったに起こらない のだ。さらに言えば、検索は目ですばやくできるが、手でソートするのは時間がかかる。  結論は明らかだ。本棚の整理に必要な時間とエネルギーは、すべての本を検索するのに要 するそれより大きい。  整理できていない本棚のことで日々頭がいっぱいという人はそんなにいないかもしれない が、メールの受信ボ″クスが頭痛の種という人はかなりいるだろう。しかし、ここでも検索 がソートをやすやすと打ち負かす。電子的なメ″セージを手動でフォルダーに振り分けるの にかかる時間は、物理的な世界で紙の書類を整理するのとほとんど変わらない。一方、検索 するにはメールのほうが紙の手紙よりもはるかに効率がよい。検索のコストが下がれば、そ れに伴ってソートの価値も下がる。  スティーヴーホイッテカーはメールの処理法に関する世界有数の専門家だ。IBMのリサ ーチサイエンティストであり、カリフ″ルニア大学サンタクルーズ校の教授も務めるホイ″ テカーは、二〇年近く前から人が個人情報を管理する方法を研究している(多くの人かまだ メールを使用さえしていなかった一九九六年に「メールの過負荷」に関する論文を執筆し た)。二〇一一年にはメールユーザーの検索とソートの習慣に関する研究を指揮し、「メー ルの整理は時間の無駄か」という論文を発表した。ネタバレになってしまうが、その論文の 結論は力強い「イエス」だった。「実験で得られた結果ですが、経験にも裏づけられていま す」とホイごアカーは指摘する。「このたぐいの整理に関する間題について質問すると、皆 さん決まってメールの整理を話題にしますが、これはいわば人生の一部の浪費なのです」。  無秩序の害と秩序の害が定量化可能であり、それらに伴うコストは「時間」という共通の 通貨で計れる。コンピューター科学はそう教えてくれる。何かを整理せずに放置するのはだ らしないと思われるかもしれない。将来の自分に責任を押しつけて、今の自分が先払いを拒 否したコストに利息をつけて払わせるのに等しいと思われるのではないだろうか。しかし、 話はそんなに単純ではない。ときとして、無秩序には容易な選択よりも大きな価値かある。 それこそ最適な選択なのだ。   ソートとスポーツ  検索とソートのトレードオフから。しばしば無秩序はそのまま放置したほうが効率的であ ることがうかがわれる。とはいえ、人がソートをするのは時間の節約だけが目的とは限らな い。最終的な秩序を生み出すこと自体が目的とされる場合もある。それが最も如実に表れる 場所は、運動競技場をおいてほかにない。  一八八三年、チャールズーラトウィ″ジードジソンは、イギリスのテニスの置かれた状況 に対して多大なる疑念を抱いた。彼はこう述べている。   少し前のことだが、たまたまテニス大会を観戦していた私は、ある選手の嘆きを聞いた。   トーナメントの早い段階で負けた(そのため入賞する可能性を完全に失った)うえに。   自分よりかなり実力が劣るとわかっている選手が二位になるのを目の当たりにする屈辱   を味わわされたというのだ。そこで私は現行の順位決定方法について考え始めた。  ふつうの観客なら、そんな「嘆き」はただの負け惜しみくらいにしか思わないかもしれな い。しかし、ドジソンはただならぬ共感をもってそれを聞いた。オ″クスフ″Iドの数学講 師だった彼は、選手の嘆きによって、競技大会の本質を探る深遠な研究に踏み出した。  ドジソンは、オックスフォードの数学講師だけをやっていたわけではない。じつのところ、 数学者だったことを知っている人のほうかまれだ。今ではぶイスーキャロル”として最も よく知られている。『不思議の国のアリス』をはじめとする一九世紀文学の数々の名作を執 筆したときのペンネームだ。ドジソンは自身の数学と文学の才能を融合させて。あまり知ら れていない著作も発表している。その一つか「テュス大会I順位の正しい決め方および現 行方式の誤りを示す証拠」という論文だった。  ドジソンの不満の矛先は、勝ち残り(シングルーエリミネーショソ)トーナメント方式と いう仕組みに向けられた。選手が対戦し、一度負けたらただちに大会から敗退となる。しか し決勝戦で優勝者に敗れた選手が真の二番手とは限らず、優勝者と戦って敗れた選手なら誰 でもじつは全選手のなかで二番めに強い可能性がある、とドジソンは強く主張した。皮肉な のは、オリンピックでは三位決定戦を実施するわけで、勝ち残り方式では三位を決めるのに 十分な情報が得られないということをどうやらわれわれは認めているらしい、ということだ。 しかし実際には、勝ち残り方式では二位を決めるのに十分な情報も得られない。それどころ か、優勝者以外については何もわからないのだ。ドジソンはこう記している。「現行の順位 決定方式は、一位を除いてまったく無意味である」。要するに、銀メダルは嘘ということだ。  彼はさらにこう書いている。「数学的事実として、二番めに強い選手が実力に見合った順 位となる確率は三一分の一六にすぎない。実力で上位の四選手が適正な順位となる確率は非 常に低く、実際にそうなる確率は一対匸一なのだ」。  ドジソンのペンの力をもってしても、テニス界を動かすことはほとんどできなかったらし い。彼が考えた解決策は、三回負けたら敗退となるトリプルーエリミネーションートーナメ ント方式をややこしくひねったやり方で、自分を破った選手が負けたらその段階で敗退とす るものだったが、支持を得ることはできなかった。ともあれ、彼の解決策が扱いにくいもの だったにせよ、この問題に対する彼の批判はまさに的を射ていた(しかし残念ながら、勝ち 残りトーナメント方式の大会では今でも二位が表彰されている)。  だが、ドジソンのロジ″クにはもっと深い洞察も見て取れる。われわれ人間がソートする のは、自分のもつデータや所有物だけではない。われわれ自身をソートすることもあるのだ。  ワールドカップ、オリンピ″ク、NCAA(全米大学体育協会)、NFL(アメリカプロフ″ト ボールリーグ)、NHL(アメリカプロアイスホ″ヶIリーグ)、NBA(全米バスヶ″トボール協会). MLB(野球のタジャーリーグ)は、いずれも暗黙のうちにソートの手順を実行している。シ ーズン戦、はしごトーナメント、プレイオフは、順位序列を決めるアルゴリズムである。  スポーツでおなじみのアルゴリズムの一つが総当たり戦方式である。″個のチームが自分 以外の黠マイナスーチームすべてと対戦する。最も包括的なやり方と言えるが、ひどく手間 がかかる。すべてのチームを互いに対戦させるのは、夕食会ですべての客が互いに(グを交 わすのに等しく、あの恐るべき二乗時間Q(气)となってしまう。   *ボクシングでノックアウトされた直後の選手か再び戦うのは医学的に危険と思われる場合など、選   手二人に銅メダルが与えられることもまれにある。  はしごトーナメント方式は、バドミントン、スカッシュ、ラケットボールなどでよく用い られる。選手が一列の序列に並べられて、各選手は自分のすぐ上の選手に直接挑戦すること ができ、下の選手が勝てば順位か入れ替わる。はしごトーナメソト方式はスポーツ界のバブ ルソートであり、それゆえ順位を確定するには二乗時間のQ(气)回の試合が必要となる。  だが、おそらく最も広く用いられているのは、ブラケ″トトーナメント方式だろう。この 方式は、三月の熱狂と呼ばれるあの有名なNCAAパスケ″トボールのトーナメントなどで 採用されている。マーチーマ″ドネスは、「六四校ラウンド」から始まり、「三二校ラウン ド」、「スイートーシックスティーソ」、「エリートーエイト」、「ファイナルーフォー」 へ と進み、最後が決勝戦となる。ラウンドごとにチーム数が半分に絞られていく。つまりこれ は、おなじみの対数時間ではないだろうか。未ソートのチームのペアから始めて照合を繰り 返していくという点で、この方式は実質的にマージソートだ。  すでに見たとおり、マージソートには線形対数時間、すなわちQ(n log n)の時間がかか る。したがって、全部で六四チームが参加する場合には、はしごトーナメント方式や総当た り方式では六三ラウンド(二〇一六試合)も要するのに対し、ブラケ″トトーナメント方式 なら六ラウンド(一九二試合)ほどで優勝チームが決まる。この差は大きい。アルゴリズム 設計のおかげだ。  マーチーマッドネスは六ラウンドで決着する。それは悪くなさそうだ。だが、ちょっと待 った! 一九二試合? マーチーマ″ドネスは六三試合で終わるではないか。  じつは。マーチーマ″ドネスは完璧なマージソートではない。六四チームすべての順位か 完全に決まるわけではないのだ。各チームの正しい順位を決定するには、二位を決めるのに あと数試合、三位を決めるにもまた数試合……という具合にもっと試合をする必要があり、 全部で線形対数的な試合数をこなすことになる。しかしマーチーマッドネスではそうせず、 ドジソソが不服を訴えたテニス大会と同様に、敗退したチームはソートしない勝ち残りトー ナメント方式を用いている。この方式のメリ″卜は、線形時間で完了する点にある。一試合 ごとに確実にIチームが敗退していくので、最後にIチームを残すにはgマイナスー試合だ けすればよい。つまり線形時間だ。逆に欠点は何かと言えば、一位以外の順位が正確にわか らないことだ。  皮肉にも、勝ち残り方式ではどんな工夫もじつはまったく要らない。とりあえず六三試合 を行ないさえすれば、無傷のチャンピオンがIチームだけ残る。たとえば、「王者」チーム に対して挑戦者が次々に戦いを挑む。王者チームを負かしたチームか新たな王者となり、挑 戦を受けていく。しかし、この方式では同時に複数の試合をすることができないので、別個 に六三のラウンドが必要という欠点がある。また、一つのチームが六三試合も続けて戦わさ れる可能性もある。疲労を考慮すると、これは理想的なやり方ではないかもしれない。  第1章で紹介したマイケルートリ″クが生まれたのはドジソンよりゆうにI〇〇年以上あ とだが、ニー世紀に入ってスポーツに対するドジソンの数学的な姿勢を誰よりも強く受け継 いでいるのはトリ″クだろう。本書ではすでに最適停止を扱ったところでトリックに登場し てもらったが、恋人探しに三七パーセントルールを適用して失敗に終わってからの数十年間 で、彼は夫となり、オペレーションズリサーチの教授となり、さらに今では野球のメジャー リーグの試合や、ビ″グーテyやACCといったNCAAの大会のために日程を管理する中 心的立場となって、コンピューター科学を駆使して年間の試合計画を作成している。  トリックの指摘によれば、スポーツのリーグが重視するのはなるべく迅速かつ能率的に順 位を決定することではない。日程表を見れば、シーズンを通じて盛り上がりが保たれるよう に考慮されていることが、はっきりとわかる。ソート理論でこれが関心事となることはまず な廴   たとえばメジャーリーグでは、早く地区優勝チームが決まるのを見たいと思う人がたく   さんいます。地区内の試合編成を無視すれば、開幕からまもないうちに優勝チームが決   まることもあるかもしれません。しかしわれわれが実際にするのは、シーズン終了間際   の五週間に地区内の全チームが互いに対戦するように日程を組むことです。なぜそうす   るかと言えば、早く地区優勝レースか決着することは重要ではないからです。シーズン   最後の五週間に少なくとも六試合は、順位の近い敵と対戦させるのです。そうすること   によって。日程やシーズンに対する関心が高まります。こうすれば、不確実性の解消が   先延ばしされるからです。  さらに言えば、もちろんスポーツは必ずしも厳密に試合数を最小限に抑えるように設計さ れているわけではない。これを覚えておかないと、スポーツの日程作成のもついくつかの側 面はコンピューター科学者にとって不可解に思われるだろう。トリ″クは二四三〇試合で構 成される野球のレギごフーシーズンについて、こんなふうに述べている。「完全なソートを したいなら、比較はn log n回するのが正しいということはわかっています。これならすべ ての順位が決められます。しかし優勝チームだけ決まればいいのだとしたら、それだけのた めに气回も試合をする必要はないでしょう?」。言い換えれば、線形対数時間で完全なソー トができ、”回よりも少ない試合で勝ち残り方式による無敗のチャンピオンを決めることが できるとわかっているのに、なぜQ(呎)試合の完全な総当たり戦を行なってからさらに数 試合を行なうのか。それは。試合数を減らすとじつはメジャーリーグの利益にはならないか らだ。コンピューター科学においては、不必要な比較は常に「悪」であり、時問と労力の無 駄と見なされる。しかし、スポーツではまったく事情か違う。なにしろ多くの点で、試合そ のものか大事なのだから。   あえて非効率にIノイズと頑健性  スポーツをアルゴリズムという観点から見る眼を鍛える方法としておそらくさらに重要な のは、銀メダルの価値がどこまで信用できるかを問うよりもまず、金メダルの価値かどこま で信用できるのかを問うことだろう。  マイケルートリックはある種のスポーツにおいて、「たとえば野球では、チームの実力と はほぼ無関係に、一つのチームは全試合の三〇パーセントでは負けて全試合の三〇ハーセン トでは勝つものなのです」と言う。このことから、勝ち残り方式では厄介な問題が生じる。 たとえばNCAAのバスケ″トボールで、対戦する強いほうのチームが七割の確率で勝つと する。大会で優勝するには六試合連続で勝つ必要かある場合、最強のチームでも優勝する確 率は〇・七〇の六乗、すなわち匸一パーセントにも満たない。言い方を変えれば、NCAA で真の最強チームが優勝できるのはI〇年に一度だけということになる。  種目によっては、試合の結果に七〇ハーセソトの信頼を置くことすら、最終スコアを過剰 に信頼していることになるかもしれない。カリフォルニア大学サンディエゴ校の物理学者ト ムーマーフィーは、数理モデルの手法をサ″カーに適用した。そしてサ″カーはスコアの数 字が小さいので、試合結果はたいていのファンが信じたがっているよりもずっと偶然に近い と結論した。「スコアが三対二なら、勝利チームのほうが本当に強い確率は八分の五にすぎ ない……。個人的には、この程度の差ではさほどすごいとは思えない。六対一で圧勝しても、 その勝利が統計学的な偶然である可能性は七ハーセント残っている」。  コンピューター科学者は、この現象を「ノイズ」と呼ぶ。本書でここまでに取り上げたソ ートアルゴリズムは、いずれも優劣の判断を決して誤らない、欠陥がなく完璧で確実な比較 を想定していた。「ノイズのある比較」を許容すると、コンピューター科学でとりわけあが められているアルゴリズムのいくつかが消え去り、逆にひどく評判の悪いいくつかのアルゴ リズムが復活する。  ニューメキシコ大学のコンピューター科学教授デイヴーアクリーは、コンピューター科学 と「人工生命」が交差する領域で研究に携わっている。コンピューターは生物学から学べる ことがある、というのが持論だ。そもそも、生物の生きる世界はコンピューターか前提とし ているレベルに近い信頼性をもつプロセスをほとんどもたず、いわゆる「頑健性」を指向し て土台から築き上げられている。アルゴリズムにおいても頑健性の価値をそろそろ認めるべ きではないか、とアタリーは訴えるのだ。  というわけで、プログラミングに関する権威ある大著『The Art of Computer Program- mingj (Donald E. Knuth著、有澤誠・和田英一監訳、アスキードワンゴ)が「バブルソートは明らか に望ましい特徴はもたない」 (fThe Art of Computer ProgrammingJより引用)と大胆にも言いき っているにもかかわらず、アタリーらの研究ではバブルソートのようなアルゴリズムにも存 在すべき場所がないわけではないことが示唆されている。対象を一度にIポジションずつし か動かせないという非効率性こそがノイズに対する高い頑健性をもたらし、比較のたびに対 象が大きく移動する可能性のあるマージソートなどのもっと高速なアルゴリズムよりもはる かに頑健なソートが実現できる。逆に、マージソートはその効率性ゆえに脆弱となる。マー ジソートで初期にエラーが生じた場合、勝ち残り方式の一回戦で不覚にも敗退するようなも ので、優勝を期待して応援している人の期待が打ち砕かれるだけでなく、チームの順位が全 体の下半分で確定してしまう。一方、はしごトーナメント方式ではバブルソートと同じく、 たまたま一試合を取りこぼしても順位が一つ下がるだけですむ。  しかし実際には、ノイズのある比較に対して最も有効なアルゴリズムはパブルソートでは ない。この場合に最も有効なのは、比較数え上げソートというアルゴリズムである。このア ルゴリズムでは、すべてのアイテムを互いに比較して、それぞれがほかのアイテム何個にま さっているかを数える。この数字がそのまま順位として使える。比較数え上げソートはすべ てのペアを比較するので、バブルソートと同じく二乗時間のアルゴリズムである。したがっ て、従来のコンピューター科学の応用においてはあまり人気がないが、エラーへの許容性が きわめて高い。  このアルゴリズムの仕組みには聞き覚えかあるはずだ。比較数え上げソートは、総当たり 方式とまったく同じなのだ。つまり、同じ地区の全チームと対戦し、勝敗の記録によって順 位を決めるという点で、スポーツチームのレギごフーシーズンとよく似ている。  これまでに知られているソートアルゴリズム(二乗時間に限らず)のなかでこの比較数え 上げソートが最も頑健であるという事実は、スポーツファンにとって特別な意味をもつはず だ。自分の応援するチームがプレイオフに進出できなくても嘆く必要はない、と教えてくれ るのだ。マージソートで決まるプレイオフ進出は偶然に左右されるか、比較数え上げソート で決まるレギごフーシーズソの順位は偶然の結果ではない。優勝決定戦という方式は頑健で はないか、地区内の順位決定プロセスはまさにこれ以上ありえないほど頑健だ。言い方を変 えてみよう。応援しているチームがプレイオフで早々と敗退してしまったら、それは運が悪 かったということだ。一方、プレイオフに進出できなかったなら、それは実力のせいだ。ス ポーツバーで失意のファンどうしの慰めあいはできるかもしれないか、コンピューター科学 者からはいっさい同情してもらえないだろう。   戦いの末にI力関係の序列  これまでに見てきたすべての例で、ソートのプロセスは常に卜てフダウンで押しつけられ ていた。図書館員が本を棚に並べるにしても、NCAAが試合の対戦相手や日程を決めるに   *興味深いことに、NCAAのマーチーマ″ドネスは、このアルゴリズムにつきものの欠点を軽減す   る意図をもって設計されている。すでに述べたとおり、勝ち残り方式最大の問題点と思われがちなの   が、優勝チームと最初に対戦して負けたチームがじつは全体で二番めに強いチームであっても(未ソ   ートの)下位半分に入ってしまうというシナリオだ。しかし、NCAAはランキングが上位のチーム   どうしが早い段階で対戦しないようシード方式を採用することで、この問題を回避している。マーチ    ・マッドネスの歴史において、第一六シードのチームが第一シードのチームを破ったことはI度もな    いことから、少なくともきわめて極端なケースについてはシード方式を信頼してよさそうである。 してもそうだ。しかし、一対一の比較が自発的にしか起こらないとしたらどうだろう。ボト ムアップで有機的にソートが生じるとしたら、どんなことになるだろう。  オンラインポーカーと似たものになるかもしれない。  たいていのスポーツがなんらかの統括機構の支配を受けるのに対し、ポーカーはこのI〇 年間で爆発的に人気が高まったにもかかわらず、無秩序な面を残している。注目度の高い大 会では出場者の順位を明確にする(そしてその順位に応じて報酬が支払われる)こともある が、依然としてポーカーの大半は二人以上のプレイヤーが自ら同意したうえで、オンライン 上で手番ごとに本物の金を賭ける「キャッシュゲーム」としてプレイされている。  そんなキャ″シュゲームーポーカー界を知りつくしている人物と言えば、世界卜″プクラ スのプレイヤーであるアイザ″クー(クストンにまさる者はなかなかいない。たいていのス ポーツでは実力を最大限に発揮すれば十分で、自分の技1:に対する自意識は低ければ低いほ どよい。ところがパクストンに言わせれば、「ある意味で、プロのポーカープレイヤーにと って最も大事なスキルというのは、自分の力量を正しく評価できることなのです。真に世界 最強のプレイヤーでない限り、自分より強い相手との対戦を続けていたら、ほぼ確実に破産 してしまいますから」。  パクストンはへ″ズアップーノーリミットのスペシャリストだ。「へ″ズアとフ」という のは一対一で対戦するポーカーで、「ノーリミット」はまさにその名のとおり賭け金が最も 高く、プレイヤーが支払いに耐えられる限りはいくらでも賭けられる。多数のプレイヤーが 参加するポーカーのキヤ″シュゲームでは、弱いプレイヤー(金持ちの素人など)が一人い て、同じテーブルを囲むプロたちに金をむしり取られるというケースが少なくない。この場 合、プロは自分たちのなかで誰が強いかについてはあまり気にしない。しかし。へ″ズア″ プの世界は事情が違う。「どちらが強いか、プレイヤーどうしで見方が違っているはずです I負けを承知でプレイしているのでない限り」。  では、見解が明確に一致し、誰も自分より強い相手と戦おうとしない場合にはどうなるの か。プレイヤーたちがひたすら椅子取りゲームをするような状況になる。たいていの場合、 オンラインのポーカーサイトでは提供されるテーブルの数に限りがある。「ですから、五〇 ドルかI〇〇ドルくらいのブラインド(訳注 カードか配られる前に払う賭け金)でへ″ズア″プ ーノーリミットのプレイをしたければ、それができるテーブルかI〇個しかなかったりしま す。そこで、今のところ最強だというコンセンサスのあるプレイヤーー〇人だけが……プレ イしようという相手が現れるのを待ちかまえることになります」とパクストンは言う。もっ と強いプレイヤーか現れて、どこかのテーブルに着いたら? 賭け金を献上するつもりがな ければ、待っていたプレイヤーはさっさと退散する。  「サルが二匹いるとしましょう」と言うのはクリストフーノイマンだ。「一匹はゆったりと 座って餌を食べています。そこに別のサルかやって来たら、先にいたサルは立ち去るでしょ う」。  ノイマンはポーカーの比喩を語っているのではない。彼はヌーシャテル大学の行動生物学 者で、マカクの集団における支配関係を研究している。先ほど彼が語った状況は「転位」と 呼ばれる。  転位が起きるのは、動物が序列に関する自らの知識にもとづき、対決しても意味がないと 判断したときである。多くの動物社会では、資源や機会、すなわち食料、交尾相手、好まし い居場所などが乏しいので、誰が何をもらうかをなんらかの方法で決めなくてはならない。 あらかじめ序列を定めておくほうが、交尾のチャンスやよい草地が出現するたびに殴りあう よりも穏便に事が運ぶ。生き物が鉤爪やくちばしを互いに向けあっているのを目撃すると、 われわれはたじろぐかもしれないが、生物学者は動物界の序列というのは暴力を回避するた めの暴力だと考えているのが常だ。  どこかで聞いたような話ではないだろうか。そう、これは検索とソートのトレードオフだ。  序列の決定は、基本的に計算で答えを出せる問題に対するマ″チョな解決策である。だか ら、農場でニワトリどうしのけんかを防ぐためにくちばしの尖端を取り除く「断嘴」という のは、人間としてはよかれと思ってやっていることがじつは逆効果となる。けんかという権 威によって序列を決めることかできず、そのためニワトリたちがいかなる序列決定の手順も 実行するのがはるかに難しくなってしまうのだ。そして多くの場合、集団内の敵対が逆に激 化する。  動物の行動をコンピューター科学的な観点からとらえると、いくつかのことか見えてくる。 たとえば、群れが大きくなるにつれて、各個体の遭遇する敵対的対立の回数が著しくI 少なくとも対数的に、場合によっては二次関数的にI増える。実際、雌鶏の「敵対行動」 を調べた研究で「群れが大きくなるにつれて一羽あたりの攻撃的行為の回数も増える」こと が判明している。つまりソート理論から、倫理的配慮をもって家畜を飼育するには、群れの サイズを制限する必要かあるということかわかる(野生のニワトリはI〇羽から二〇羽ほど の群れで行動する。これは商業用養鶏場で飼育される数よりもはるかに少ない)。研究では また、群れに新たな個体が加わらない限り、数週間で攻撃性は消失するらしいということも 明らかとなり、群れが自ら序列を定めているという見方が裏づけられた。  自然界で分権的な、すなわち分散型のソートについて考える際に鍵となるのは、支配の序 列か究極的には情報の序列だという事実である、とウィスコンシン大学マディソン校で複雑 性・集合並列計算センターの共同責任者を務めるジェシカーフラ″クは言う。フラ″クによ ると、こうした分散型ソートシステムには計算に伴って重大な負担が生じる。たとえばマカ クの群れで起きるけんかの回数は、すべてのマカクが序列について詳細な(そして共通の) 理解を抱いている限りは最小限に抑えられるが、この理解がないと暴力が起きる。  リーダーが現在の序列をどれほどきちんと把握できているかが問題だとすれば、推測力や 記憶力のすぐれた動物のほうが対決は少ないはずだと、考えたくなる。そして。人間こそ最 適な効率的ソートに最も近い位置にいると思われるかもしれない。パクストンはポーカーの 世界について「私はへ″ズア″プーノーリミ″卜でやるホールデム(訳注 ポーカーのゲームの 一つ)のプレイヤーとして世界の頂点に立つ一人です。頭の中には。私から見て世界の卜″ プニ○人ほどのかなり明確なランキングが入っています。ほかの卜″ププレイヤーの頭にも、 それぞれ同じようなランキングがあるはずです。そのランキングは互いにかなり重なってい るのではないかと思います」と語っている。キャッシュゲームが行なわれるのは、このラン キングに違いがある場合だけだろう。   戦いではなくレースを  集団か自らをソートしようとする際に生じる二つの問題点を見てきた。集団が大きくなる につれて、対決は少なくとも線形対数的に増えて、すべてのメンバーの生活か闘争的になる。 また、全員の地位が絶えず変動するなかで、ライバルどうしは互いにほかの全員の地位を常 に把握していなくてはならない。それを怠ると、本来なら不要なはずの戦いをするはめにな る。この戦いによって、身体だけでなく精神にも負担か生じる。  しかし、必ずしもこんなやり方をする必要はない。コストを払わずに秩序を形成する方法 は存在する。  たとえば、一試合の時間内で何万人という出場者をもれなく順位づけできる競技がある  (これに対し、一万人か出場する総当たり方式の大会では、一億回の試合が必要となる)。 ただし、試合に要する時間は最もスローな出場者によって決まる。そう、マラソンである。 こう考えると。ある重大な事実が見えてくる。レースというのは根本的に戦いとは違うとい らノことだ。  ボクサーとスキー選手。あるいはフェンシング選手とランナーの違いを考えてみよう。オ リンピ″クのボクシングに出場する選手が表彰台に上がるには、脳震盪を起こす危険をQ Uog n)回、ふつうは四回から六回ほどくぐり抜ける。出場者が増えれば、全選手の健康を 危険にさらすことになる。一方、スケルトン、スキーのジャンプ、スノーボードの(Iフパ イプに出場する選手は、出場者数にかかわらず、重力との賭けを一定の回数だけこなせばよ い。フェンシングの選手が対戦相手に身をゆだねるのはCHlog n)回だが、マラソン選手は レースを一度だけ走り抜けばよい。成績を評価する単純な数値尺度があれば、順位を特定す る定数時間のアルゴリズムが得られる。  このように「序数」 (順位だけを表す)から「基数」 (対象を評価する定量的尺度を直接 的に定める)へ移行すれば、ベアごとの比較を行なわなくてもおのずと集団をソートできる。 したがって、一対一の直接対決を必要としない序列の決定が可能となる。〈フォーチュン5 00〉企業ランキングは、ある種の企業序列を生み出すという点でまさにその一例である。 アメリカで最も価値の高い企業を特定するために、アナリストはマイクロソフトとゼネラル モーターズを比べてからゼネラルモーターズをシェブロンと比較し、それからシェブロンを ウォルマートと比較して……というやり方で企業精査をする必要などない。このように一見 するとリンゴ対オレンジの比較(企業向けソフトウェアの導入件数と石油の先物取引件数を 比べることなどできるだろうか?)のようなものが、「金額」を媒介とすることによってリ ンゴ対リンゴの比較となる。比較基準(それかどんなものであれ)かあれば、ソートをスケ ールアーフする際に生じる計算の問題が解決できる。  たとえばシリコンヴァレーでは、企業間ミーティングに関する格言がある。「金のあると ころへ行け。金は向こうから来ない」。ベンダーは起業家を詣で、起業家はベンチャー投資 家を詣で、ベンチャー投資家は有限責任パートナーを詣でる。個人がこの序列の原理に憤慨 するのは勝手だが、その裁定に異議を申し立てることはできない。そのため一対一のやりと りは、地位をめぐる攻防を最小限に抑えたものとなる。一般に二人の人間が相対すれば、交 渉するまでもなく、どちらがどちらにどの程度の敬意を示すべきかはわかる。自分の詣でる べき相手がわからない者はいない。  同様に、海上の優先通行権は建前としてきわめて細かい慣習に支配されることになってい るか、実際にはどちらの船がどちらの船に針路を譲るかは「総トン数の法則」というたった 一つの単純明快な原則で決まる。ごく単純に言えば、小さいほうの船か道を譲るのだ。動物 のなかにも、同じように明確な序列をもつものがいる。ノイマンは「たとえば魚を見てくだ さい。体の大きいほうが優先されます。じつに単純な話です」と述べている。そしてじつに 単純なこのルールに従って、魚たちは円満に過ごしている。ニワトリやサルと違って、魚は 血を流すことなく秩序を保っているのだ。  大規模な人間社会を実現させている要因について考える場合、農業、金属、機械といった テクノロジーに目を向けるのは簡単だ。しかし、定量化可能な尺度で地位を見定めるという 文化的な慣行も同じくらい重要かもしれない。もちろん、基準が金である必要はない。たと えば「年長者を敬え」というような決まりも、互いの立場を特定する際に共通の定量的基準 となる。人間どうしのみならず、国と国とのあいだでも同じ原理が働く。国内総生産(G20 などの外交サミ″卜で招待国リストの基準となる)のような基準は、不完全で粗雑な尺度だ と指摘されることが多い。しかしなんらかの基準かあれば、国の格づけをめぐる問題は。少 なくとも線形対数的な数の対決と決着を要するものから、単一の基準ですべてを順位づけす るものへと変わる。国家間の地位紛争がしばしば戦争という形をとることを考えると、この 解決策は時間の節約になるだけでなく命を救うことにもなる。  線形対数的な数の戦いも、小規模な集団では役に立つかもしれない。実際、自然界ではそ うなっている。だが、一対一の比較によって地位が決まる世界では、そこで行き交うのが言 葉であれ砲弾であれ、社会か成長すればたちまち対決の規模は手に負えないほど拡大してい く。何十億という人々が同じ空間を共有している産業時代の規模で物事を動かしていくには、 その先へと跳ぶことが求められる。序数から基数への飛躍が必要なのだ。  われわれは日々の生存競争をひどく嘆くが、それは「戦い」ではなく「競走」だ。この事 実こそ、われわれ人間をサルやニワトリから、そしてネズミからも、隔てる重要な鍵なのだ。  4 キャッシュ    さっさと忘れよう   われわれの知力を実際に使用するに当たって、忘却は記憶と同様に大切な機能である    (『心理学』今田寛訳、岩波文庫より引用)。                            −ウィリアムージェイムズ  困ったことがある。クロゼ″卜にものが収まりきらず、靴もシャツも下着も床にあふれ出 ている。「そろそろ整理しないと」と思う。ここで考えるべきことは二つだ。  まず、何をとっておくか。そして、どこに置くか。ありかたいことに、この二つの問題に ついて考えることを生業としている人たちからなる小さな業界があり、その人たちは嬉々と してアドバイスをくれる。  何をとっておくかについては、マーサースチュワートは自分にいくつかの質問をしろと言 う。「いつからある? まだ使える? 同じものをもっていない? 最後に使ったのはい つ?」。とっておくものをどこに置くかについては、「同じ種類のものはまとめること」と 言い、彼女の同業者たちも同じ意見だ。フラソシーヌージェイは『捨てる残す譲る』(弓場 隆訳、ディスカヴァー・卜。エンティワン)の中で「スカート、ズボン、ドレス、コートもそれぞ れひとまとめにしてください」と言い、「アメリカで一番整理整頓の得意な男」を自称する アンドリュー・メレンは「アイテムは品目別に分類すること。スラックスは全部一緒、シャ ツも全部一緒、そしてコートやその他のアイテムも同様に。それぞれの品目のなかで、さら に色とスタイルで分類する。長袖か半袖か、あるいは襟ぐりの形などによって」と言う。作 業にはソート問題がつきものとはいえ、このアドバイスはなかなかよさそうだ。確かに、全 員が同じことを言っていると思われる。  ただし、収納についてひたすら考えをめぐらす専門家からなる業界はこれだけではない。 もっと大きい業界があり、そこの専門家たちにはまた独自の考えがある。  クロゼ″卜が突きつけてくる問題は、コンピューターがメモリーを管理する際にぶつかる 問題とよく似ている。限られたスペースで、費用と時間をともに節約することを目指す。コ ンピューターが誕生して以来ずっと、コンピューター科学者は何を保存しどう保管するかと いう二つの問題と格闘してきた。その数十年におよぶ取り組みの結果を踏まえると、マーサ ースチュワートは捨てるべきものに関する四センテンスのアドバイスで、じつはいくつかの 互いに相容れない提案をしていることがわかる。そしてそのなかに、ほかと比べてとりわけ 重要な、一つの提案があるのだ。  メモリー管理のコンピューター科学によって、クロゼ″卜(およびオフィス)内でものを どう配置すぺきかも明らかにできる。一見したところ、コンピューターはマーサースチュワ ートの「同じ種類のものはまとめること」という教えを守っているように思われる。オペレ ーティングシステムはユーザーに対し、同じ種類のファイルを同じフォルダーにまとめて、 内容に応じて細分化する階層を構築せよと促す。だか、机をきちんと整頓している学者がじ つはときとして頭の中にカオスを秘めているのと同じく、一見整然としたコンピューターの ファイルシステムも、入れ子になったフォルダーといううわべの下で、データがじつは高度 に操作されたカオスとなって保存されているのだ。  ここでは「キャッシュ」と呼ばれる処理が行なわれている。  キャ″シュはメモリーの構造においてきわめて重要な役割を果たし、ミリメートルレベル のプロセッサーチップのレイアウトから世界規模のインターネ″卜の地勢に至るまで、すべ てを根底で支えている。キャ″シュについて考えると、人間の生活に存在する多様な格納シ ステムや記憶装置に対する新たな視点か得られるI機械だけでなく、クロゼ″卜やオフィ スや図書館、それに頭脳までもカバーするような。   メモリー階層   とても鋭い知性の持ち主だが、ほとんど記憶のない女がいた。……仕事をするのに必要   なだけのことも覚えていて、しかもよく働いた(『ほとんど記憶のない女』岸本佐知子訳、自   水Uフックスより引用)。                              Iリディアーデイヴィス  ニ○○八年ごろから、新しいコンピューターを買おうとする人は誰もか記憶装置を選ぶ際 に、ある特定の難問にぶつかるようになった。「容量」と「速度」のあいだでトレードオフ が必要なのだ。コンピューター業界では今、(Iドディスクドライブ(HDD)からソリ″ ドステートドライブ(SSD)への移行が進んでいる。同じ値段なら、HDDのほうが容量 は大幅に確保できるか、処理速度はSSDかはるかにまさる。今ではたいていのユーザーが そのことを知っている。あるいはコンピューターの購入を検討し始めればすぐに気づく。  しかし、マシン自体の内部でこのトレードオフがさまざまなレベルで行なわれているとい うことは、一般のユーザーに知られていないかもしれない。じつはこれこそがコンピューテ ィングの基本原理の一つと見なされているほどなのだ。  一九四六年、プリンストン高等研究所で働くアーサー・パークス、(Iマンーゴールドス タイン、ジョンーフォンーノイマンは、電気「記憶機関」と名づけた装置の設計案を作成し た。理想的な世界ではこの装置はもちろん無限容量の超高速保存が可能だが、現実にはそれ は不可能である、と彼らは記した(今でも不可能だ)。代わりに三人は、次善の策と思われ るものを提案した。それは「メモリーを階層状にして、各層は直前の層よりも容量は大きい かアクセス速度は遅くなる」というものだった。小容量で高速なものから大容1:で低速のも のまでさまざまなタイプのメモリーをうまくピラミ″ド状に積み重ねることによって、双方 のいいとこ取りができるかもしれない。  メモリー階層の根底にある基本的な考え方は、図書館を利用したことのある人なら容易に 理解できるはずだ。レポートのテーマについて調べ物をしていて、何度も参照する必要の生 じそうな本が何冊かあるとしよう。そのつど図書館へ行くよりも、必要な本を借り出して自 宅の机に匱いておくほうが簡単に調べられるのは言うまでもない。  コンピューティングにおいて、この「メモリー階層」という考え方がようやくただの理論 でなくなったのは、一九六二年にイングランドのマンチェスターで〈アトラス〉という名の スーパーコンピューターが開発されたときだった。メインメモリーは大容量のドラム型の部 品で、これが蓄音機のシリンダーのように回転して情報を読み書きする。しかしアトラスに はもう一つ、もっと小容量で高速の、極のある磁石でできた「作業」メモリーも搭載されて いた。データをドラムから磁石に読み出すと、そこでは処理が容易にできる。その結果をド ラムに再び轡き込む。  アトラスの開発からまもなく、ケンブリッジ大学の数学者モーリスーウィルクスは、この 小容量で高速のメモリーはデータを処理してからもとの場所に戻すための場として便利なだ けではないことに気づいた。これを使えば、あとで同様の要求が生じることを予想して。再 び必要となりそうな情報を意図的に保持し、マシンの動作を飛躍的にスピードアtフさせる ことができるのだ。必要な情報か作業メモリーに残っていれば、ドラムから改めて読み出さ ずにすむ。ウィルクスの言葉を借りれば、この小容量のメモリーは「低速なメインメモリー から読み出したワードを自動的に蓄積し、あとで必要となったときに再びメインメモリーに アクセスする手間をかけずにその情報が利用できるように保持する」のだ。  もちろん大事なのは、ユーザーの求める情報がなるべく速く見つけられるように、この小 容量で高速の貴重なメモリーを管理することだ。また図書館の比喩で説明しよう。必要な本 をすべて一度に図書館から持ち帰り、その週のあいだは自宅でレポートが書けるなら、図書 館の蔵書すべてが自宅の机で利用できるようになっているのとほとんど変わらない。図書館 に足を運ぶ回数が増えれば増えるほど作業のペースが下がり、自宅の机は役に立たなくなる。  ウィルクスの出したアイディアは、一九六〇年代のうちにIBMの360/85スーパー コンピューターに実装され、そのときに「キャッシュ」と呼ばれるようになった。それから というもの、キャ″シュはコンピューター科学のあらゆる場に姿を現すようになった。頻繁 に参照する情報を手元に保持するという方法は非常に有効で、演算処理のあらゆる面で利用 されている。プロセ″サーにも、(Iドドライブにも、オペレーティングシステムにも、ウ ェブブラウザーにも、キャ″シュが搭載されている。ブラウザーにコンテンツを伝送するサ ーバーにも、やはりキャ″シュがある。掃除ロボ″卜に乗った猫の動画を瞬時に何度も再生 できるのはそのおかげだ。しかし、話がいささか先走ってしまった。  過去五〇年あまりにわたる歴史において描かれてきたコンピューター像と言えば、毎年指 数関数的な成長を遂げる、というものだった。その一つの側面を具体的に示しているのが、 インテルのゴードソームーアか一九七五年に発表した「ムーアの法則」による予測である。 これは、CPUのトランジスターの個数は二年ごとに倍増するという予測で、正確だったこ とで知られている。しかし、メモリーの処理性能はこれほどのベースで進歩しなかった。こ のことは、処理時間に対してタモリーヘのアクセスコストも指数関数的に増大しているとい うことを意味する。たとえばレポートを書くスピードが速ければ速いほど、図書館に行くた びに生じる生産性の損失が大きくなる。あるいは、ある工場で生産速度は毎年二倍ずつ上が っているのに、海外から納入される部品の数が変わらなければ、工場の遊んでいる時間が二 倍になるようなものだ。ムーアの法則が発表されてからしばらくは、この法則があったとこ ろで、無駄に高速化して時間をもてあますプロセ″サーができるのが関の山だと思われてい た。一九九〇年代に入ると、これは「メモリーの壁」と呼ばれるようになった。  この壁を回避するためにコンピューター科学が生み出した最良の防御策は、メモリー階層 を精巧化していくことだ。キャ″シュにキャ″シュを設け、さらにそのキャ″シュにもキャ ッシュを設ける。最近の一般ユーザー用のノートパソコン、タブレ。卜端末、スマートフォ ンではおよそ六レベルのメモリー階層が採用され、メモリーをうまく管理することがコンピ ューター科学にとってこれまでになく重要となっている。  では、キヤ″シュ (あるいはクロゼ″卜でもいい)について真っ先に浮かぶ疑問から話を 始めよう。いっぱいになってしまったらどうすればよいのか、という問題である。   追い出しと千里眼   どんどんつめこんでいけば、新しいことをひとつ覚えるたびに古いことをひとつ忘れる   というときが、必ずやってくる。だから、無用の知識はどんどん忘れて、有用な知識の   じゃまにならないようにすることが、きわめて重要なんだよ(『緋色の研究』アーサー・コ   ナンードイル著、日暮雅道訳、光文社文庫より引用)。                             −シャーロックーホームズ  保存したいものがあるのにもうキャ″シュが満杯という場合には、どうしても空きをつく らなくてはならない。コンピューター科学では、そのような空きをつくる作業を「キャッシ ュ置換」または「キャ″シュエビクション(追い出し)」と呼ぶ。ウィルクスは「【キャッシ ュは】メインメモリーと比べるとほんのわずかな容量しかないので、無限にワードを保存す ることはできない。そこで、漸次上書きしていくためのアルゴリズムをシステムに組み込ま ねばならない」と記している。この種のアルゴリズムは「置換ポリシー」または「エビクシ ョンポリシー」、あるいは単純に「キャッシュアルゴリズム」と呼ばれる。  すでに紹介したとおり、IBMは一九六〇年代にキャ″シュシステムの開発で先導的な役 割を果たした。当然ながら、IBMは草創期のキャ″シュアルゴリズムの研究が行なわれた 拠点でもあり、おそらくそのなかでも最も重要な研究はラースロー・。レー・ベラーディに よるものだ。一九二八年に(ンガリーで生まれたベラーディは、母国で機械工学を学んだあ と、一九五六年に(ンガリー革命か起きると「下着の替え一式と卒業論文」を入れたかばん だけを携えてドイツに逃れた。ドイツから今度はフランスに移り、一九六一年には妻と「幼 い息子、そしてポケ″卜に1000ドルだけ」を道連れにアメリカへ渡った。IBMでキャ ッシュエビクションの研究を始めたころには、とっておくべきものと捨て去るべきものを見 極める鋭敏な感覚が身についていたに違いない。  ベラーディが一九六六年に発表したキャ″シュアルゴリズムに関する論文は、その後の一 五年間でコンピューター科学において最も引用回数の多い論文となった。そこで説明されて いるとおり、キャ″シュ管理が目指すのは、ユーザーの探している情報がキャ″シュに見つ からないのでもっと低速のメインメモリーを探すしかないという「ページフォールド」また は「キャッシュミス」と呼ばれる状況の発生回数を抑えることだ。キャ″シュエピクション ポリシーとして最適なのは1おおむね当然ながら、とベラーディは書いているIキャ″ シュがいっぱいになったら、次に必要となるときが最も遠いと思われるアイテムから捨てて いくというやり方である。  もちろん、次にいつ必要となるかを正確に知るのは、口で言うほどたやすくない。  先を見通して最適なポリシーを実行するとされる仮想的な全知の予見アルゴリズムは、今 日ではベラーディに敬意を表してベラーデイのアルゴリズムと呼ばれている。ペラーディの アルゴリズムは、コンピューター科学者が「千里眼」のアルゴリズムと呼ぶものの一例であ る。つまり、未来のデータから情報を得るアルゴリズムだ。突拍子もない話に聞こえるかも しれないが、実際には必ずしもそうではない。あるシステムが将来に予想される事柄を把握 していると思われる事例は実際に存在する。とはいえふつうは千里眼を手に入れるのはやは り容易ではなく、ソフトウェア技術者はベラーディのアルゴリズムを実装しようとすれば  「実行困難」にぶつかることをジョークにする。そんなわけで問題は、現在から離れられな いがゆえに未来については憶測するしかない身で、なるべく千里眼に近いアルゴリズムをい かにして見つけるかということになる。  キャッシュに新しいデータを加えて古いデータをランダムに上書きするランダムエビクシ ョンという手がある。キャ″シュ理論の初期に生まれためざましい成果の一つとして、この アプローチは完璧には程遠いとはいえ、そんなに悪くない。とにかくキャッシュを搭載すれ ば、どう管理しようともシステムの効率は確実に上がる。使用頻度の高いアイテムはすぐに キャッシュの手前付近に位置するようになる。また、もう一つのシンプルな戦略として、先 入れ先出し法というのもある。キャ″シュに入ってからの時間が最も長いアイテムを廃棄ま たは上書きするというやり方だ(マーサースチュワートの「いつからある?」という問いと 重なる)。もう一つ、最長未使用時間法という方法もあり、これは最後に使ってからの時間 が最も長いアイテムを廃棄するというものである(スチュワートの「最後に使ったのはい つ?」にあたる)。  スチュワートのこの二つの問いか互いに大きく異なる方針を体現しているのもさりなから、 これらの方針のなかに明らかにほかよりもうまくいくものかあるのだ。ベラーディが突き止 めたのは、ランダムエビクション、先入れ先出し法、そして最長未使用時開法のバリエーシ ョンをさまざまなシナリオのもとで比較した結果、最長未使用時開法なら一貫して千里眼に 最も近い結果が出せる、ということだった。最長未使用時開法の原理が作用するのは、コン ピューター科学者が「時間的局所性」と呼ぶ性質のおかげである。プログラムか特定の情報 を一度要求したならば、近い将来に再び同じ要求をする可能性か高い。この状況を時間的局 所性という。時間的局所性はコンピューターが問題を解決する方法(たとえば関連した読み 書きが連続して急速に行なわれるループの実行)から生じることもあるが、人が問題を解決 するときにも時間的局所性は見られる。コンピューターで作業をするユーザーか、メール、 ウェブプラウザー、ワープロを切り替えながら使用しているとしよう。この場合、これらの 一つに最近アクセスしたという事実が手がかりとなって、ユーザーが再び同じ機能にアクセ スする可能性が高いと判断される一方で、すべての条件が同等ならば、最後に使ってから最 も長い時間の経過したプログラムはおそらくこの先もしばらく使われないと判断される。  じつは、この原理はコンピューターがユーザーに示すインターフェイスでもひそかに使わ れている。コンピューター画面上に開いたウィンドウには。プログラムの重なりあう順番を 決めるためのシミュレートされた深度を表す「Zオーダー」という仕組みがある。これに従 って、最後に使われてから最も時間の経ったプログラムは一番奥に回される。ファイアフォ ックスの元クリエイティブリーダー。エイサーラスキンによれば「最近のブラウザー(コン ピューター)を使う時間の多くは、書類のデジタル的な置き換え整理作業に費やされる」。 この「シャッフル」はウィンドウズやMacOSでタスクを切り替える際のインターフェイ スにも反映されている。「Alt」十「Tab」か「Command」十「Tab」のキー を押せば、最後に使用した時期の近いものから順にアプリケーションが画面上に並べて表示 される。  エビクションポリシーに関する文献は、想像を超えるほど深いところまで網羅し、最終使 用時期に加えて使用頻度まで考慮するアルゴリズムや、最終アクセスではなく最後から二番 めのアクセス時期を追跡するアルゴリズムなども扱われている。しかし、画期的なキャ″シ ュ方式はたくさんあり、それらのなかには条件しだいで最長未使用時開法に勝てるものもあ るが、コンピューター科学者から圧倒的に支持されているのは最長未使用時問法そのもの  (および少しだけ変更したもの)であり、随所で多様な用途にさまざまな規模で用いられて いる。最長未使用時間法は、ユーザーが次に必要とするものはおそらく最後に必要としたの と同じものであり、その次に必要とするものはおそらく最後から二番めに必要としたものと 同じだということを教えてくれる。あるいは、必要となる可能性が最も低いのは、最後に使 ってから最も長い時間の経ったものだということも。  ほかの考え方をすべき正当な理由がない限り、過去の鏡像こそ未来への最良の指針となる らしい。千里眼に最も近いのは、歴史は繰り返すIただし向きを反転してIと見なす考 え方なのだ。   図書館を裏返す  カリフォルニア大学バークリー校には、ガードナー・スタ″クスという地下の図書館があ る。鍵のかかった扉と「関係者以外立入り禁止」と大書された掲示で図書館利用者を完全に シャットアウトした奥まった場所にあるのは、カリフォルニア大学図書館システムの至宝の 一つだ。コーマックーマッカーシー、トマスーピソチョソ、エリザベスービショップ、J・ D・サリンジャー。アナイスーニン、スーザンーソンタグ。ジュノーディアス、マイケル・ シェイボン。アニー・ブルー、マークーストラソド、フィリップ・K・ディック。ウィリア ムーカーロスーウィリアムズ、チャックーパラニューク、トニーモリスソ。デニスージョン ソン、ジュリアーナースパー、ジョリー・グレアム、デイヴィヅドーセダリス。シルヴィア ・プラス、デイヴィッドーマメット、デイヴィッドーフォスター・ウォレス、ニールーゲイ マソ……。至宝と言っても、これは図書館の稀覯本コレクションではない。キャ″シュであ る。  すでに述べたとおり、図書館は個人のデスクスペースと合わせて利用すれば、自然に生じ たメモリー階層の一例となる。それだけでなく、さまざまなコーナーや保管施設を備えた図 書館自体が、多数のレベルからなるメモリー階層のすぐれた例と言える。それに伴い、図書 館ではさまざまなキヤ″シュ問題も生じる。図書館の限られた開架スペースにどの本を置く か、どの本を書庫に保管するか、そして遠隔地にある倉庫にどの本を送るか、決めなくては ならない。倉庫へ送る本の選別方法は図書館によって異なるが、たいていはなんらかの最長 未使用時開法を使う。「たとえばメインースタックスの場合、匸一年間で一度でも利用され ているかどうかで決まります」と、カリフォルニア大学バークリー校の各図書館で選別作業 を監督するエリザペスーデュピュイは言う。  匸一年間も手つかずの本とは対極に位置するのが、前章で紹介した図書館の「分別」エリ アだ。ここでは返却された本を完全にソートして轡架に戻す。しかし皮肉なことに、せっせ と本を棚に戻すアシスタントたちは、じつは秩序を乱しているとも言えるのだ。  というのは、時間的局所性が成り立っているのなら、分別用の棚にこそ、館内で最も重要 な本が集まっているはずだからだ。最後に利用されてからの時間が最も短いということは、 つまり利用者が求めている可能性の最も高い本だ。のべ何キロメートルもある書架でほぼ確 実に最も需要が高く最も見る価値のある棚が人目から隠されて、職務に打ち込むスタ″フの 手で絶えずそこから本が運び去られるというのは、犯罪行為に近いのではないか。  一方、同大バークリー校の学部生が利用するモフィ″卜図書館で最も目につき利用しやす い棚の置かれたラウンジには、新着図書か展示されている。図書館で最近読まれた本ではな く最近加わった本を優遇しているという点で、これは先入れ先出しキャ″シュの一例と言え る。  コンピューター科学者たちがこれまでに行なった検証のほとんどで、抜群の成績を残して いるのは最長未使用時間アルゴリズムだ。このことを踏まえて、図書館を裏返すというシン プルな提案をしたい。新着図書は奥に置いて、必要な人が見つけられるようにする。そして 返却されたばかりの本をラウンジに置けば、すぐにまた見てもらえる。  人間は社会的な生き物である。だから学生は仲間の読書習慣を知れば、おそらく関心をか き立てられるだろう。大学は学生に「必読書」を指定して本を読ませようとするが、この新 しいやり方ならもっと有機的で自由な読書のあり方へとキャンパスか後押しされるに違いな い。つまり、共通の知的基盤の確立か促進されるのだ。この場合、キャンパスで読まれてい る本がどんなものであれ、ほかの学生がそれらの本に遭遇する可能性がきわめて高くなる。 こうして生まれるのは、必読書プログラムを草の根的でボトムアップ型の仕組みに変えたも のだ。  このようなシステムは、社会的によい影響をもたらすだけでない。最後に返却された本は 次にまた借り出される可能性が最も高いので、このシステムは効率の点でもすぐれている。 人気の本がときによって書庫にあったりラウンジにあったりすることに、学生がとまどう可 能性は確かにある。しかし、返却されたばかりで棚に戻されるのを待っている本は、いずれ にしても書庫にないのだ。本は学生の手の届かない場所で、棚に戻るまでの時間を過ごすし かない。代わりに返却された本をラウンジに展示すれば、学生にとっては本が棚に戻るまで のブランクを完全になくすことができる。図書館員は本をわざわざ書庫に戻さずにすむし、 学生は本をまた取り出すために書庫に入る手間が省ける。これこそまさに、キャ″シュ本来 の役割なのだ。   近所のグラウト    「じつは、わしらはこの国の地図をつくったのだ。縮尺一分の一の地図をな!」    「そんな地図を使うことってあるんですか?」と私は尋ねた。    「まだ広げたことがない。晨家のやつらが反対したのだ。国全体が地図で覆われて、日   が当たらなくなると言ってな。だから今のところ、国そのものを地図の代わりに使って   いる。これでもまあ役に立つ」とマイン・ヘルが答える。                                −ルイスーキャロル  インターネットはゆるやかにつなかったフラ″卜で独立したネ″トワークと思われがちだ。 しかし、実態はまるで違う。現在のところ、イソターネ″卜上のトラフィ″クのうち四分の 一は一つの会社が扱っているが、その会社はメディアの注目を集めることをほぼ完全に回避 している。その会社とはマサチューセ″ツ州に本社を置くアカマイで、アカマイはキャ″シ ュ関連の事業に携わっている。  インターネットとは、現実の地理を超越した非物質的で抽象的なものとも思われている。 データが「グラウト」に存在すると言われるが、このグラウト(雲)という言い方からは拡 散した遠い場所が暗示される。しかし、そのイメージも間違っている。インターネ″卜とい うのは、じつは物理的なケーブルの束と金属製のラックでできているのだ。そして想像され ているよりもずっと密接に現実の地理と結びついている。  コンピューターの(Iドウェアを設計する技術者は、極小規模で地形を考える。情報を伝 送するワイヤの長さを抑えるために、高速のメモリーはプロセッサーの近くに置くのかふつ うだ。今日のプロセ″サーの周期はギガヘルツを単位としている。つまりナノ秒以下で動作 するということだ。ちなみに、数ナノ秒というのは光が数センチメートル進むのにかかる時 間である。したがって、コンピューターの内部部品の配置は非常に重要となる。これよりは るかに大きな規模で同じ原理をあてはめると、現実の地理がウェブの機能にとってきわめて 大きな意味をもつことがわかる。ケーブルが数センチではなく数千キロにおよぶこともある のだ。  物理的、地理的にユーザーにより近い場所でウェブページのコンテンツのキャッシュが用 意できれば、コンテンツをもっと速く届けられる。現在、インターネット上のトラフィック の多くは、人気ウェブサイトのコピーを保持するコンピューターを世界中に配備した「コy テンツ配信ネ″トワーク」 (CDN)で処理されている。このおかげで、ユーザーは大陸を 隔てたオリジナルのサーバーまで長距離のアクセスをせずに。近場のコンピューターから利 用したいぺ1ジのデータを入手することができる。  こうしたCDNで最大規模のものを運営しているのがアカマイだ。コンテンツのプロバイ ダーは料金を払って自社のウェブサイトを「アカマイズ」することで。パフォーマンスの向 上を狙う。たとえばオーストラリアのユーザーがBBCの動画をストリーム視聴する場合は おそらく、シドニーに設置されたアカマイのローカルサーバーにアクセスすればよく、デー タの転送要求がロンドンまで送られることは決してない。そんなことをする必要がないのだ。 アカマイのチーフアーキテクトのスティーヴソールーディンは、「わが社の信条−そして わが社の中核をなす事実−それは、距離が重要ということです」と言う。  すでに述べたとおり、ある種のメモリーは処理速度は速いが記憶単位あたりのアクセスコ ストが高くつくので、速度とコストの両面ともベストとなるように「メモリー階層」か構築 されている。しかし有意義なキャッシュというのは、じつはさまざまに組み合わされたメモ リー装置に限ったものではない。処理速度ではなく距離の近さが希少な資源である場合にも、 やはりキャ″シュは役に立つ。  需要の高いファイルは使用場所の近くに保存すべきという基本的な考え方は、純然たる物 理的な場にも応用できる。たとえばアマゾンの巨大な商品発送センターでは、図書館やデパ −卜などとは違って、人間に理解しやすい在庫配置が採用されていないことが多い。スタ″ フは指示されているとおり、商品が入荷したら倉庫内のどこでもいいから置ける場所に匱い てIバッテリーが鉛筆削り器、紙おむつ、バーベキュー用グリル、ギター独習用DVDと 並んでいたりするIバーコードを使って中央データペースに各商品の位置を登録する。し かしこのわざと無秩序にしているかのような保管システムにも、目に見える例外が一つある。 需要の高い商品は、ほかの商品よりもすばやくアクセスできる別のエリアに匱かれているの だ。ここはアマゾンのキャ″シュということになる。  最近になって、アマゾンはこのやり方をさらに一歩進めたイノベーションで特許を取得し た。それは「予想出荷」に関する特許で、マスコミはあたかも顧客が注文さえしないうちに アマゾンがなんらかの方法で商品を送りつけることができるかのように報じた。IT企業は どこもそうだが、アマソソもそんなベラーディの千里眼のような予知能力が手に入ったら大 喜びに違いない。しかし、さすがにそれは無理だ。次善の策として、アマゾンはキャ″シュ に目をつけた。正確に言うと、アマゾンの取得した特許というのは、特定の地域で人気の高 まっている商品をその地域の宅配センターに送る方式に関するものだ。要するに、自前のC DNで物理的な商品を運ぶようなものである。こうしておけば、客が注文した瞬間にはもう 商品はすぐ近くまで来ている。個人の購買行動を予想するのは難しいが、数千人の購買行動 を予測するとなれば大数の法則が働く。特定の日にバークリーで再生紙トイレットペーパー を注文する人が誰かしらいる。その「誰か」が注文したときには、すでに輸送ルートの残り わずかというところで商品か待機している。  ある地域で人気の高いものがその地域に由来する場合には、さらに興味深いグラウトの地 理が出現する。二〇一一年、映画評論家のマイカーマーティーズはネ″トフリ″クスのデー タから各州で他州と比べて極端に人気のある映画を特定し、州ごとに「州民のお気に入り」 を示すアメリカ地図を作成した。その結果、視聴者は自分の住む地域が舞台となった映画を 圧倒的に好むことが判明した。ワシントン州民は、シアトルを舞台とした『シングルス』を 好み、ルイジアナ州民はニューオーリンズか舞台の『ビッグーイージー』を見ている。ロサ ンゼルス市民は『LAストーリー/恋が降る街』、アラスカ州民は『ブレイヴィングーアラ スカ』、モンタナ州民は『モソタナースカイ』がお気に入hソだ。映画一本分のHD動画ファ イルはデータ量か莫大なので、ローカルキャッシュの恩恵は計り知れない。『LAストーリ ー』のファイルを登場人物の暮らすIそしてなんといってもファンの暮らすIロサンゼ ルスに置いておくようにネ″トフリ″クスが手配しているのは間違いない。   家庭内のキャッシュ   *理由は不明だが、メイン州では『マイーブライベートーアイダホ』の人気が最も高い。  キャッシュはコンピューターの内部でデジタル情報を整理するための手法として生まれた が、人の環境に存在する物理的な対象の整理にも使えることは明らかだ。スタンフォード大 学の学長で、先駆的なコンピューターアーキテクトとして現代のキャ″シュシステムの開発 に一役買ったジョンーヘネシーを私たちが取材したとき、その話題になると彼はたちどころ にその結びつきを理解した。   キャッシュは非常にわかりやすいものです。われわれは四六時中それをやっていますか   ら。私が入手する情報の量は膨大で……あるものは今まさに使っていて、あるものは机   の上に置いてあり、またあるものは整理済みでいずれ大学の保管庫に収納しますが、そ   こに入れてしまうと必要なときに探し出すのに一日つぶれてしまいます。それでも身の   まわりを整理するために、われわれは常にこの方法を用いています。  これらの問題がよく似ていることから、コンピューター科学で得られた解決策を意識的に 家庭で応用できる可能性が考えられる。  一つめとして、とっておくものと捨てるものを決めるとき、最長未使用時開法は先入れ先 出し法よりもはるかにすぐれた原則となるかもしれない。大学時代から着ているTシャツで も、まだときどき着ているなら必ずしも捨てなくてもよい。だが、久しく穿いていないチェ ック柄のズボンはどうだろう。リサイクルショ″プにもっていけば、誰かが大喜びで買うか もしれない。  二つめとして。便利な配置を考えよう。ものはふだん使う場所に最も近いキヤ″シュに置 くこと。家庭の整理整頓を扱った本にこのアドバイスがはっきりと書かれていることはめっ たにないか、実在の人が自分にとってうまくいっている方法を語る際にはたいていこのやり 方が出てくる。「ランニングや運動に使う用具は箱に入れて、玄関にあるコート用クローゼ ットの床に置いてある」と、ジュリー・モーゲンスターンの『ワーキングーウーマンのため の超整理法』 (中小路佳代子訳、角川書店)に登場する人が話している。「玄関の近くにあるの は便利だ」 (以上、中小路訳)という。  もう少し極端な例が、ウィリアムージョーンズの『一度見つけたら二度となくさない』に 出ている。   ある女医が、自分はこんなところにものを置いておくのだと話してくれた。「子どもだ   ちには変人だと思われていますが、あとでまた必要になると思われる場所にものを置く   のです。ちょっとおかしな場所であっても」。そのやり方の例として、彼女は電気掃除   機のフィルターパックの予備をリビングルームのソファの後ろに置いておくという。リ   ピンクルームのソファの後ろに? そんな妙なところに冫・・φ・一●4じつは掃除機を使うのは、   リビングルームのカーペ″卜を掃除するときがふつうだ。……フィルターパ″クがいっ   ぱいになって交換が必要となるのは、たいていリビングルームなのだ。だからそこに置   いておく。  三つめに考えられるのは(クロゼ″卜の整理指南書に登場するのはまだ先になりそうだ が)、複数レベルからなるメモリー階層の応用だ。キャ″シュを用意するのはそれだけで効 率的だが、小容量で高速なものから大容量で低速なものへと複数レベルのキャ″シュがあれ ばなお都合がよい。収納については、クロゼ″卜がキャ″シュの一つのレベルであり、地下 室も一つのレベルで、レンタルロッカーもまた一つのレベルとなる(言うまでもなく、これ らはアクセス速度の高い順となっている。よって、あるレベルから次のレベルに移すものを 決める際には、最長未使用時間の原理に従うべきである)。しかし、クロゼ″卜よりもさら に小型ですばやくアクセスできて手近なレベルのキャ″シュを一つ加えれば、もっとスピー ドアップできるかもしれない。  トム(本吉の著者の一人)の妻は基本的にきわめて寛容な女性だが、脱いだ服をべ″ドのそ ばで山にしておくことだけは許さない。これがじつは非常に効率的なキャッシュのやり方な のだとトムが訴えても、聞く耳をもたない。幸運にも、私たちはコンピューター科学者たち との対話から、この問題の解決策も知ることができた。カリフォルニア大学サンディエゴ校 で認知の視点から検索エンジンの研究をしているリ″クーブリューは、(ンガーラックを使 えばよいと教えてくれた。近ごろあまり見かけなくなったが。(ンガーラ″クは着衣一式用 のクロゼ″卜のようなもので、ジャケ″卜、ネクタイ、ズボンが掛けられる複合型(ンガー であり、家庭内でのキャ″シュのニーズを満たすのにうってつけの(Iドウェアである。こ の一件から、コンピューター科学者は時間の節約だけでなく結婚生活も助けてくれるという ことがおわかりいただけただろうか。   整理と山積み  とっておくものとその収納場所が決まったら、最後の関門は整理だ。どんなものをクロゼ ″卜にしまうか、そしてクロゼ″卜はどこに置くべきかについてはすでに述べたが、クロゼ ″卜の中はどう整理したらよいのだろう。  家庭内の整理についてこれまで見てきたアドバイスに一貫しているのは、「同じ種類のも の」はまとめるという考えだ。しかし野口悠紀雄はおそらく誰よりも堂々とこの教えを無視 する。「声を大にして言いたいのですが、私の整理法で最も根幹となる原則は、書類を内容 によって分類しないということです」と彼は言う。野口は東京大学などに勤めた経済学者で、 仕事やプライベートで物事をうまく処理するのに「超」役立つ方法を説く本をシリーズで出 している。『「超」説得法』、『グラウト「超」仕事法』、『「超」勉強法』といったタイトル のなかで、今の話に最も関係があるのは『「超」整理法』だ。  経済学者としてキャリアを築き始めたころ、野口は手紙、データ、原稿といった情報に絶 えず翻弄され、それらの整理に毎日かなりの時間が奪われていることに気づいた。そこで、 よい方法はないかと考えた。そして、書類ごとにタイトルと日付を記した封筒を用意してそ こに入れ、すべての封筒を大きな箱一つに収めるという単純な方法を編み出した。書類のし まい場所を考えなくてよいので、時間が節約できた。しかし、この方法では整理にはならな かった。やがて一九九〇年代の初めごろ、画期的なアイディアが浮かんだ。封筒を常に箱の 左端に入れていくのだ。こうして「超」ファイリングシステムが生まれた。  左端挿入ルールは、新しい封筒だけでなく古い封筒についても守らなくてはいけない、と 野口は説明する。封筒を取り出して中身を使ったあと、箱に戻すときには必ず左端に入れる。 封筒を探すときにも、必ず左端から探し始める。こうしておけば、使った時期が最も新しい 封筒は最短の時間で見つけられる。  野口によると、この方法を始めたのは、封筒をいちいちもとの位置に戻すよりも左端に入 れるほうが簡単だったからだ。しかしだんだんと、ただ簡単なだけでなく驚くほど効率的で もあると感じるようになった。  野口式ファイリングシステムを用いれば、使ったものを片づけるときに間違いなく時間か 節約できる。ただし、必要な封筒を見つけるのによい方法かという疑問は残る。ほかの効率 性の権威たちは同類のものはまとめよと説いているが、野口のやり方は明らかにその教えに 反している。英語で「整理された」を意味する「organized Jという単語の起源も複数の器 官(oa自)がまとまってできた身体を想起させる。身体ではまさに「同類のものはひとま とめ」で細胞が組織され、形態や機能の似たものがまとまって配置されている。  しかしコンピューター科学は、効率性の達人が与えてくれることのほとんどない、「保 証」というものを与えてくれる。  当時の野口は知らなかったが。彼の書類整理法は最長未使用時間の原理を発展させたもの と言える。最長未使用時開法では、キヤ″シュに新しいアイテムを加えるときには最も古い アイテムを捨てることになっているか、新しいアイテムをどこに置くかは決まっていない。 この問いへの答えは、一九七〇年代から八〇年代にコンピューター科学者らが行なった一連 の研究から得られる。彼らはこの問題を「自己組織化リスト」と呼び、問題の設定は書類整 理をめぐる野口のジレンマとほぼそっくりだ。複数のアイテムが一列に並んでいて、そのな かから特定のアイテムをしょっちゅう探し出さなくてはならないとしよう。探索自体は直線 的で、アイテムを端から一つずつ調べていく必要がある。しかし、探していたものが見つか ったら、列のどこに戻してもかまわないとする。この場合、検索の効率を最大限に上げるに はどこに戻せばよいだろう。  一九八五年、ダユエルースリーターとロバートータージャンの発表した論文が、自己組織 化リストの問題を決着させた。二人はリストを整理するさまざまな方法について、要求に対 して起こりうるすべての結果を考慮して(これはコンピューター科学の典型的なやり方であ る)、最悪の場合のパフォーマンスを検証した。検索は先頭から始まるので、直感的には探 索される可能性の最も高いアイテムが先頭にあるように並べればよいと思われる。では、探 索される可能性の高いアイテムとはどれか。ここでまた例の千里眼がほしくなる。「あらか じめその順番がわかっていれば、全体を探索するのにかかる時間か最短となるようにデータ 構造を最適化することかできます」と、プリンストンとシリコンヴァレーを行き来するター ジャンは言う。「これはオフラインの最適アルゴリズムです。神のアルゴリズムと言っても いいし、天のアルゴリズムと言ってもいい。もちろん未来のことは誰にもわかりません。だ から問題は、未来かわからないなら、この天上の最適アルゴリズムにどれほど近づくことが できるか、となります」。スリーターとタージャンの成果から、千里眼に対して「驚くべき ことに、一定の条件内できわめて単純な自己調節スキームが生じる」ことが明らかとなった。 わかりやすく言うと、最長未使用時間の原理に従ってただアイテムを常にリストの先頭に戻 せば、探索にかかる時間全体は、未来がわかっている場合の二倍以上には決してならないは ずということだ。こんな保証ができるアルゴリズムはほかにない。  野口式ファイリングシステムか最長未使用時間の原理の応用例だと気づくと、これが単に 効率的というだけではないことがわかる。じつは「最適」なのだ。  スリーターとタージャンの成果からは、役に立つ方法がもう一つ得られる。野口式ファイ リングシステムを横倒しにしてみよう。じつに単純な話だが、封筒の並んだ箱を横に倒せば 封筒の積み重なった山になる。書類の山を調べるときには上から下(見ていき、取り出した 書類を戻すときにはもとの位置ではなく一番上に載せるのがふつうだ。  つまり、自己組織化リストの数学は画期的な見方を教えてくれる。机の上にうずたかく積 み上がった書類の山は、罪悪感をかき立てるよどんだカオスなどではなく、じつはこのうえ もなく巧みに設計された効率的な構造だと言える。他人の目には無秩序に見える山か、実際 は自己組織化する山なのだ。未来のことはわからないのだから、書類を戻す場所は山の頂上 かベストだ。前章では、時間をかけてあらゆるものをソートするよりも、まったくソートし ないでおくほうが効率的なケースについて考えた。しかし今ここで、整理が不要だとするま ったく別の理由が見つかった。  すでに整理できていたのだ。   忘却曲線  記憶を語るうえで、最も身近な「記憶装置」を忘れてはいけない。言うまでもなく、それ は人間の脳である。この数十年間、コンピューター科学の影響を受けて、心理学者のあいだ   *コンピューターで電子ドキュメントを山積み状態にして表示することもできる。コンピューターの   ファイル参照インタ亅フェイスは、初期設定ではアルファペ″卜順にフォルダーが並んでいる。しか   し最長米使用時間法の威力を考えると、この順番をやめて「名前」順ではなく「最後に開いた」順で   ファイルを表示するほうがよいと思われる。探しているファイルはほぼ確実に一番Eかその近くにあ で記憶のとらえ方に革命的な変化が起きている。  人間の記憶に関する科学的研究は、一八七九年にベルリン大学のヘルマンーエビング(ウ スという若い心理学者が始めたとされている。彼は人間の記憶の働きを解明したいと思い、 自然科学と同じく数学的な厳密さをもって心を研究することが可能であると示そうとした。 そこで彼は自ら実験台となって実験を始めた。  来る日も来る日も、エビング(ウスは意味のない音節のリストの暗記に取り組んだ。それ から過去のリストをどのくらい覚えているか自分でテストした。これを一年間やり続けて、 その結果として人間の記憶の研究における最も根幹的な成果の数々を生み出した。たとえば、 同じリストを何度も繰り返すと記憶に残る期間が長くなることや、時間の経過とともに正確 に思い出せるアイテムの個数が減っていくことなどを証明した。彼の研究結果から、経時的 な記憶の消失を表すグラフが得られた。これが現在では心理学者のあいだで「忘却曲線」と 呼ばれている。  エビング(ウスの研究によって、人間の記憶に関する定最的な研究の信憑性か確立された か、逆に謎も生まれた。なぜこのような曲線になるのか。この曲線が意味するのは、人間の 記憶がすぐれているということなのか、それともお粗末だということなのか。この曲線の奥 にはどんな事実が隠れているのか。心理学者はこれらの疑問に動かされて、一〇〇年以上に わたって考察や研究を続けている。  一九八七年、カーネギー・メロン大学の心理学者でコンピューター科学者のジョンーアン ダーソンは、大学図書館の情報検索システムに関する文献を読んでいた。人間の記憶の研究 で得られた知見を情報検索システムの設計に活かす方法について論文を書くつもりだった。 あるいはそう思っていた。ところが逆のことが起きた。心の研究で欠けているヒースが情報 科学から得られることに気づいたのだ。  アンダーソンはこう述べている。「長らく、自分の説も含めて人問の記憶に関する従来の 学説には何かが欠けていると思っていた。基本的に。どの説も記憶を最適化されていない恣 意的な構造物ととらえていた。……私は以前から、記憶の基本プロセスというのはかなり適 応的で、もしかしたら最適化もされているのではないかと思っていた。しかし、そう主張す るための枠組みを見出すことができなかった。情報検索に関するコンピューター科学の文献 を読んでいたとき、目の前にその枠組みがあるのに気づいた」。  忘却とは単に心のスペースが足りなくなることと考えるのがふつうだ。人間の記憶に関す るアンダーソンによる新しい説明の中核には、問題が容量ではなく整理の仕方によるものだ という見方がある。彼の説によると、心の記憶容1:は基本的に無限だが。検索に使える時間 には限りかある。アンダーソンは図書館をどこまでも長く伸びる、たった一段の書架にたと えた。野口式ファイリングシステムを米国議会図書館の規模に拡大したと考えればよい。書 架には本を好きなだけ置けるが、手前に近い本のほうが速く見つけられる。  そうだとすると、人間の記憶力を高めるための鍵は、コンピューターキヤ″シュの性能を 高めるための鍵と同じものとなる。それはすなわち、将来に要求される可能性が最も高いア イテムを予想することだ。  千里眼は別として、人間の世界でそのような 予想をするのに最良の方法は、世界自体に関す る理解を必要とする。アンダーソンはラエルー スクーラーと共同で、エビング(ウスと同じよ うな実験を人間の心ではなく人間社会を対象と して行なった。世界自体か「忘却」する際にI −時間とともに出来事や話題が消え去っていく 際に1見られる特徴的なパターンとはどんな ものか、という単純明快な問いを立てたのだ。 アンダーソンとスクーラーは、《ニューヨーク ータイムズ》紙の見出し、子どもに話しかけて いる親の声の録音、アンダーソン自身のメール 受信ボ″クスという、三種類の人為環境を分析 した。その結果、どの環境においても特定の単 語が再び出現する確率が最も高いのはその単語 が使われた直後であり、その確率は時間の経過 とともに下がっていくことが判明した。  つまり、現実そのものがエビング(ウスの忘却曲線とよく似た統計学的構造をもっている のだ。  この事実から、注目すべきことが示唆される。心から記憶か消えていくときのパターンが、 周區で事物か消えていくときのパターンとそっくりならば、エピング(ウスの忘却曲線に関 する非常にわかりやすい説明が存在するかもしれない。脳は世界と完璧に同調していて、必 要とされる可能性が最も高い記憶を利用可能にしていると考えられるのだ。  時間に着目してキ十″シュについて考えると、記憶には不可避なトレードオフがあり、あ る種のゼロサム性か伴うということがわかる。図書館の蔵書をすべて自宅の机に置いておく ことはできず、店の商品をすべて店頭の目立つ場所に陳列することはできず、すべての見出 しを一面のトーフに掲載することはできず、すべての書類を山の頂上に載せることはできな い。同様に、あらゆる事実や人の顔や名前を記憶の一番手前に保存することはできない。  「人間の記憶は最適化からは程遠いと思い込んでいる大がたくさんいる」とアンダーソンと スクーラーは指摘する。「そういう大は、記憶がうまく働かずにがっかりさせられることが しょっちゅうあると訴える。しかしこうした否定的な見方をしてしまうのは、莫大な記憶の 集積の管理という、人間の記憶以前のタスクを理解できていないからだ。膨大なデータペー スの管理を担うあらゆるシステムにおいて、検索の失敗は避けられない。無限個のアイテム ヘのアクセスを維持するのは、コストがかかりすぎるのだ」。  この知見から、人間の記憶についての新たな事実が明らかになった。これらのトレードオ フが本当に不可避で、脳が周囲の世界に対してどうやら最適に同調しているのなら、年齢と ともに訪れる不可避な「認知機能低下」と見なされる現象も、じつは別のものかもしれない のだ。   経験の暴虐   大著は大迷惑。       −カリマコス(紀元前三〇五〜二四〇年、アレキサンドリアの図書館長)   ブラックボックスから飛行機をまるごとっくったらどうか。                             −スティーヴンーライト  コンピューターではキャ″シュを連ねたメモリー階層が必要とされるが、これはもっぱら、 極端に高価な(Iドウェアだけでメモリーをまるごとつくるわけにはいかないという理由に よる。たとえば現在使われているコンピューターに搭載されている最速のキャ″シュにはS RAMが使われているが、これはソリ″ドステートドライブ(SSD)で使われているフラ ッシュメモリーと比べてIバイトあたりの価格が1000倍くらいする。とはいえ、キャ″ シュを使う理由はそれだけではない。可能な限hソ最速のメモリーだけを使って特注のマシン をつくるとしても、じつはやはりキヤ″シュが必要なのだ。  ジョンーヘネシーに言わせれば、速度を損なうにはサイズだけで十分である。   サイズを大きくすれば、おのずと速度が遅くなりますね? 都市が大きくなれば、A地   点からB地点まで移動するのにかかる時間が長くなります。図書館が大きくなれば、本   を探すのにかかる時間が長くなります。机の上に積み上げた書類の山が大きくなれば、   必要な書類を見つけ出すのにたくさん時間がかかります。そうでしょう? じつは、こ   の問題の解決策となるのがキヤ″シュなのです。……たとえば今、プロセ″サーを買い   に行けば、レベルーとレベル2のキヤ″シュをチtフに搭載したものか手に入るでしょ   う。チップ一つにキヤ″シュが二つですよ! そうしているのは、プロセ″サーのサイ   クルレートについていくには、第一レベルのキヤ″シュはサイズに制限があるからです。  当然なから、メモリーの容量が大きいほど、そこで情報を検索して取り出すのに時間がか かる。  本書を執筆しているブライアンとトムはまだ三〇代だが、人の名前などが「のどまで出か かっている」が出てこないせいで会話が滞ってしまうという状況を、すでにしょっちゅう 経験している。ブライアンがI〇歳のころ、同じ学校の友だちは二〇大あまりいた。それか ら二〇年後、携帯電話に連絡先が入っている相手は数百人、フェイスブ″クでつながってい る相手は数千人いる。これまでに四つの町で暮らしてきて、それぞれに友人、知人、同僚の コミュニティーがある。トムは研究者として今までに数百人と共同研究を行ない、数千人の 学生を教えてきた(本書の執筆でもI〇〇人ほどと会い、一〇〇〇件ほどの文献を引いてい る)。もちろん、このような広がりは社会的な関係に限られるわけではない。標準的な二歳 児か単語を二〇〇語ほど知っているのに対し、標準的な成人が知っているのは三万語だ。エ ピソード記憶について言えば、一年ごとに三〇万分ほどの覚醒している時間が経験の蓄積に 加わる。  こう考えると、私たち二人がIあるいはほかの誰でもIまともな精神を保っていられ るのは奇跡としか言いようがない。記憶力の低下など驚くに値しない。これほど大量のデー タが蓄積していくなかで、心か機能を保ち応答を続けていられるという事実こそ驚くに値す る。  記憶の根本的な問題がじつは容量ではなく整理の仕方にあるのなら、加齢が知的能力に与 える影響についての考え方を改めるべきかもしれない。テュービングン大学のマイケルーラ ムスカーが率いる心理学者と言語学者のチームか最近行なった研究で、「認知機能低下」と 呼ばれる現象(すなわち検索の遅延とエラー)は検索プロセスの速度や質の低下によるもの ではなく、(少なくとも部分的には)対処すべき情報の1:がどんどん増えていくことから生 じる不可避な結果なのかもしれないということが示された。加齢によってほかにどんな問題 が生じるにしても、脳は年齢を重ねるにつれて管理すべき記憶の量が増えていくので、まさ に一日ごとに難しくなっていく計算問題を解かされるに等しい。若者かさっさと答えを出し たら、高齢者は「おまえはまだ何も知らないからなI・」と言ってそのすばやさをけなしても いいというわけだ。  ラムスカーのチームは、余分な情報か人間の記憶に与える影響について、言語に焦点を当 てて立証した。チームは一連のシミュレーションによって、単語や名前、さらには文字につ いても、たくさん知るほど認識するのか難しくなるということを示した。どれほどすぐれた 整理のスキームがあっても。検索すべき対象が多ければおのずと所要時間が長くなる。これ は忘却のせいではない。記憶が増えたせいだ。人間はいわばアーカイブになっていくのだ。  記憶にとって避けがたい計算上の要求を理解すれば、認知に対する加齢の影響を受け入れ る助けとなるはずだ、とラムスカーは言う。「高齢者にできる最も重要で明白なことは、心 とは自然の生み出した情報処理装置なのだという見方を理解するように努めることでしょう。 歳をとると思いどおりにいかないと感じられることがありますが(人の名前がなかなか思い 出せないとか1・)、それはわれわれが取捨選択を迫られるものの量が増えたせいであって・: …必ずしも知力の低下の徴候というわけではありません」。彼によれば、「現時点で衰退と 呼ばれているものの多くは。じつは学習なのです」。  キャッシュの概念を使うと、記憶に起きていることが理解しやすくなる。「頭の中が真っ 白になる」という言い方があるが、この場合、正しくは「キャ″シュミス」というべきだ。 頭の中の情報を検索するときに極端な遅延が生じることがあるが、そうなったら、頭の中の 手前側に必要な記憶を置いていることかふだんはどれほど役立っているのかに思いをめぐら せよう。  そんなわけで、歳をとり、こうした遅延がときおり起きるようになっても、気に病む必要 はない。遅延の長さは経験の豊かさの指標でもあるのだ。思い出すのに苦労するのは、知識 が豊富であることの証と言える。遅延がめったに起きないなら、それは記憶の整理がうまく できていることの証である。つまり、最も大切なものを最も手近な場所にしまっているとい らノこ冫』だ。  5 スケジューリング    最初のものを最初に   日々をどう過ごすかということは、いうまでもなく、人生をどう過ごすかということだ   (『本を書く』柳沢由実子訳。パピルスより引用)。                              Iアニー・ディラード   「スケジューリング理論の本を書いたらどうか」と私は言った。……「そんなに時間は   かからないはずだ!」。本の執筆というのは戦争と似て、しばしば重大な計算違いを伴   うものだ。一五年経つたか、『スケジューリング』はまだ完成していない。                             −ユージーンーローラー  月曜日の朝。スケジュール表はまだ真っ白だが、やるべき仕事はリストにずらりと並んで いる。ほかの仕事か終わってからでないと着手できないものもあれば(食器洗い機の中身を まず出さないと、次の食器は入れられない)、一定の時刻までは始められないものもある  (火曜日の夜より前にゴミを道路に出したら、近所の人から苦情が来る)。期限がはっきり 決まっているものもあれば、いつやってもいいというものもあり、多くはその中間で流動的 だ。急ぎだが重要ではないものがある一方で、重要だが急ぎではないものもある。「われわ れが何者かは、何を繰り返し行なうかで決まる」というアリストテレスの格言が頭に浮かぶ のではないだろうか卜床をモとフで掃除するにしても、家族と多くの時間を過ごすにして も、期限ぎhソぎりに税務申告を処理するにしても、フランス語を勉強するにしても。  何を、いつ、どんな順番で片づけるか。日々の暮らしはその答えを待っている。  われわれは日常的に行なう事柄の順番を決めるなんらかの方法をいつもなんとか見つけて いるが、一般にどちらかというとそれが苦手だ。だからこそ、タイムマネジメントを指南す る本がベストセラーリストにいつも入っているのだ。しかし残念ながら、それらの本に書か れている教えは往々にして首尾一貫せず矛盾している。『ストレスフリーの整理術』(デビ ッドーアレン著、田口元監訳、二見書房)は、二分以内で終わる仕事を思いついたら、それがど んなものであってもただちに処理せよという教えを説いている。この本のライバルにあたる ベストセラーの『カエルを食べてしまえ!』(ブライアンートレーシー著、門田美鈴訳、ダイヤモ ンド社)では、最も手ごわい仕事から始めて、だんだんと簡単なものへ進むべしとアドバイ スする。『戦略的グズ克服術』(ネイル・A・フ″オーレ著、菅靖彦訳。河出晝房新社)は、われ われの多くが実際にやっている順番とは逆に、人づきあいとレジャーの予定をまず立てて、 空いた時間に仕事を入れることを提案する。「アメリカの心理学の父」と称されるウィリア ムージェイムズは「未完の仕事をいつまでも引きずるほど疲労を催すことはない」と主張し たが、フランクーパートノイは『すべては「先送り」でうまくいく』 (上原裕美子訳、ダイヤ モンド社)で、わざと仕事をすぐに始めないほうがよいと訴えている。  大御所たちにはそれぞれのやり方があり、誰の言葉に耳を傾ければよいのか判断するのは なかなか難しい。   時間の使い方が学問となる  タイムマネジメントは人類が誕生したときからずっと悩みの毬だったと思われるが、スケ ジューリングの科学が生まれた舞台は産業革命時代の機械工場だった。一八七四年、裕福な 弁護士を父にもつフレデリ″クーテイラーは、(Iヴァード大学への入学許可を辞退して、 フィラデルフィアでエンタープライズー(イドローリ″クーワークス社の見習い機械工とし て働き始めた。四年間の見習い期間を終えた彼は、ミ″ドヴェイルースティールーワークス 社に移り、旋盤工から職工長に、さらには技師長へと昇進した。この過程で、彼は自分の監 督する機械(および作業員)の時間があまり有効に使われていないと感じるようになり、  「科学的管理法」と自ら名づけた学問を築き上げた。  テイラーは計画室を創設してその中央に掲示板を設け、全員が見られるように工場の予定 表を張り出した。掲示板には工場にある機械すべての名を記し、それぞれの機械で実行中の 作業とその機械が空くのを待っている作業をすべて表示した。このやり方を発展させたのが、 テイラーの同僚のヘンリー・ガントだった。彼は一九一〇年代にガントチャートを考案して、 フーヴァーダムや州間(イウェイシステムなど、二〇世紀を代表する大規模建設プロジェク トの多くで計画を助けることとなった。それから一世紀が過ぎたが、ガントチャートは今で もアマゾン、イケア、スペースXといった企業でプロジェクトマネージャーのオフィスの壁 やパソコンの画面を飾っている。  テイラーとガントはスケジューリングを学問の対象とし、視覚的および概念的な形態を与 えた。しかし、どのスケジュールがベストか判定するという根本的な問題を解決するには至 らなかった。この問題か解決可能だという最初の兆しが見られたのは、それから数十年後の ことだった。一九五四年にランド研究所の数学者、セルマー・ジョンソンが論文を発表した のだ。  ジョンソンが扱ったのは製本の工程だった。製本所では、一台の機械で印刷してから別の 機械で製本を行なう必要がある。だが、このように機械二台で構成される設定について考え るなら、はるかに身近なところにごくありふれた例がある。洗濯がまさにそれだ。衣類を洗 濯する場合、洗濯機で洗ってから乾燥機で乾燥させるという順番は変えられない。洗濯物の 量が違えば、それぞれの機械でかかる時間も違ってくる。汚れがひどければ洗う時間は余分 にかかるかもしれないが、乾燥はふつうの時間で完了する。量が多ければ乾燥にかかる時間 は長くなるが、洗う時間は通常と変わらない。では、同じ日に複数回の洗濯をする場合、ど うするのがベストか、とジョンソンは考えた。  彼の出した答えは、所要時間か最も短い工程、すなわち洗濯または乾燥が最短の時間で完 了する一回分の洗濯物をまず特定することだった。洗濯の所要時間か短いなら、その洗濯物 を最初に片づける計画を立てる。乾燥時間が短いならば、その洗濯物は最後に回す。残りの 洗濯物についても同じ手順を繰り返し、スケジュールの両端から中央へと並べていく。  ジョンソンの考えたアルゴリズムが有効なのは、各回の洗濯物をどんな順番で処理しても、 最初は洗濯機が稼働中で乾燥機か使われていない時間が生じ、最後には乾燥機が動いている が洗濯機は動いていない時間が生じるからだということは容易に理解できる。最短時間で洗 濯が完了する回を最初にもってきて、乾燥時間が最短の回を最後に置くことによって、洗濯 機と乾燥機か同時に稼働している時間を最大にすることができる。こうすれば、すべての洗 濯物の処理にかかる時間全体を文句なしの最小値に抑えられる。ジョンソンの分析から。  。洗濯時間が最短なものから始めて、最短で乾燥できるもので終わる”という、スケジュー リングにおける最初の最適アルゴリズムが得られた。  ジョンソンの論文は、その直接の応用以外に、もっと重大な点を二つ明らかにした。一つ はスケジューリングがアルゴリズムで表現できるということ、そしてもう一つはスケジュー リングに最適解が存在するということだ。この研究をきっかけとして。考えうる限りあらゆ る台数と種類の機械を備えたさまざまな架空の工場で使える戦略を探索した研究が大量に発 表されるようになった。  本書では、それらの研究のなかでごく小さな領域に焦点を当てていく。製本や洗濯とは違 って、たった一つの機械のスケジュールを扱う領域である。というのは、最も重大なスケジ ューリング問題に登場するのは「自分」という機械一つだけだからだ。   納期を守る  機械一台のスケジュールでは、最初からいきなり問題らしきものにぶつかる。製本を扱っ たジョンソンの研究は、二台の機械が作業をすべて完了するのに要する時間全体を最短にす ることを目指していた。しかし単一機械のスケジューリングでは、与えられたタスクをすべ てこなすには、どんなスケジュールを立てても完了までにかかる時間全体は変わらない。つ まり、順番はどうでもよいのだ。  大前提だが呑み込みにくい点なので、繰り返して言おう。機械が一台だけで、タスクをす べて片づけるつもりなら、どんな順番で作業を進めても全体の所要時間は変わらない。  そこで、まだ何も始めていないというのに、単一機械スケジューリングに関する第一の教 えがもう出てきた。目標を明確にせよということだ。評価基準がわからなければ、どんなス ケジュールがよいのかもわからない。これはコンピューター科学のテーマと共通している。 計画を立てるには、まずは測定基準を決めなくてはならないのだ。そしてじつはここでどん な基準を選ぶかによって、どのスケジューリング方式が最適かという判断がもろに影響され る。  ジョンソンが製本をテーマとした研究を発表するとすぐに、単一機械スケジューリングに 関する論文が発表されるようになり、検討に値しそうな評価基準がいくつか提示された。そ してそれぞれの基準について、単純で最適な戦略が見つかった。  たとえば当然ながら仕事には納期かあるのがふつうで、作業の遅れは納期遅れにつながる。 そこで、最も遅れている作業の納期遅れ時間を工程全体の「最大納期遅れ時間」と考えるこ とができる。これは経営者が勤務評定の際に重視する点(あるいは小売業やサービス業に卜 ここでは先の。「最も遅れた」作業”が。「最も長く待だされた」顧客”になるIの現場で 顧客が重視する点)かもしれない。  最大納期遅れ時間を最短にしたいなら、納期が最も近い作業から着手して、それから納期 が遅いものへと順番に処理していくのが最良の戦略となる。この戦略は最早納期優先と呼ば れ、じつにもっともだと思われる(たとえばサービス業では実質的に、来店する客の「納 期」は客が店に足を踏み入れた瞬間であり。店側は入店した順番に従って客に対応すること になる)。しかし、この戦略には思いがけない側面がある。たとえば、各作業が完了するま でにかかる時間はまったくどうでもいい。計画には影響しないので、知る必要さえない。大 事なのは納期だけだ。  仕事を片づけるのに最早納期優先をすでに実践しているという人もいるかもしれない。そ の場合、これか賢明な戦略であることを示すために、わざわざコンピューター科学を引き合 いに出すまでもないだろう。しかし、これが最適戦略だということに気づいているだろうか。 正確に言うと、「最大納期遅れ時間を短縮する」という基準だけを目指している場合には、 この戦略か最適となる。しかし目指すものが違えば、別の戦略のほうが適切かもしれない。  一例として、冷蔵庫について考えてみょう。最近は地域支援農業に契約している人が多い。 一週間か二週間に一度、契約者のもとに新鮮な農作物が大量に届けられる。詰め合わせられ ている野菜や果物は日もちか異なるので、傷みそうな順番に従って最早納期優先で食べてい くのがまずは妥当だろう。ただし、話はこれで終わりではない。最早納期優先は、最大納期 遅れ時間を短縮するのに最適な戦略だ。つまり、いずれ食べなくてはならない最もひどく傷 んだ食材の傷みの度合いを最小限にすることができる。しかし、これは食べ物に対する基準 として最も食欲をそそるものではないかもしれない。  代わりに、傷む食材の個数の最小化を目指すという手もある。この場合、ムーアのアルゴ リズムという戦略を使えば最良の計画が立てられる。このアルゴリズムを用いる場合、まず は最早納期優先の場合と同様に、日もちの悪いものから一度に一つずつ食べる計画を立てる。 しかし消費ペースが間に合いそうにないとわかったらすぐに計画を中断し、予定していた食 事を見直して、最も大きな食材(すなわち消費するのに最も日数のかかりそうなもの) 一つ を廃棄する。たとえば、食べきるのに五、六回かかりそうなスイカを捨てる。そうすれば、 あとのすべての食材に手をつける時期が大幅に繰り上げられる。その後もこのパターンを続 け、日もち。によって食べる順番を決めて、間に合わなくなったら計画済みの食材のなかで最 大のものを捨てる。こうして残った食材を腐らせずに日もちの順番で食べきることができれ ば、計画は完遂できたと考えてよい。  ムーアのアルゴリズムは、廃棄せざるをえない食材の個数を最小限に抑えることかできる。 もちろん、その食材を堆肥にしたり、地域のフードバンクに寄付したり、近所の人に分けて もよい。しかし、民間企業や官庁ではプロジェクトをさっさと放棄することはできないので、 納期に遅れたプロジェクトの件数(遅れの度合いではない)が最も重大な懸念となる。この ような場合に遅れた仕事をどう処理するかについては、ムーアのアルゴリズムは関知しない。 スケジュールの主たる部分から取り残された仕事は、順番など気にせず最後にやればよい。 すでに遅れてしまったのだから、順番はもうどうでもいい。   仕事を片づける   其の脆きは胖けしめ易く、其の徴なるは散じ易し(『老子』小川環樹訳、中公文庫より引用)。                                     −老子  納期が何よりも大事というわけではなく、なるべくたくさんの仕事をなるべく早く終わら せればよいという場合もある。しかしこの一見単純な希望を明確なスケジューリングの基準 に置き換えるのは、じつはそんなに簡単ではない。  部外者の視点に立つというのが一つのやり方だ。すでに指摘したとおり、単一機械スケジ ューリングでは、作業をすべて完了するのにかかる時間はどうしても変えられない。しかし 各作業にそれぞれ完了を待つ客がいるとしたら、客側の待ち時間全体を最小化する方法はあ る。月曜日の朝、予定表には所要日数が四日のプロジェクトーつと一日のプロジェクトーつ か載っているとしよう。木曜日の午後(四日経過)に大きいほうのプロジェクトを完了させ、 それから小さいほうのプロジェクトを金曜日の午後(五日経過)に完了させれば、客の待ち 時間は四日プラス五日で合計九日となる。しかし着手する順番を入れ替えて、小さいほうを 月曜日、大きいほうを金曜日に終わらせれば、クライアントの待ち時間は一日プラス五日の 六日ですむ。仕事をする側にとってはどちらの順番でも一週間びっしり働くことに変わりは ないが、順番を変えることで客の待ち時間はトータルで三日短縮できる。スケジューリング 理論の研究者はこの基準を「合計所要時間」と呼ぶ。  合計所要時間の最小化から、処理時間順というごく単純な最適アルゴリズムが導き出され る。これは、常に可能な限り最短で終わる仕事を先にせよというものである。  すべての仕事が急ぎではない場合でも、処理時間順を使えばとにかく仕事が片づく(『ス トレスフリーの整理術』〔訳注原題Getting Things Doneは「物事を片づける」という意味〕には二 分以内で終わる仕事はすべてただちに実行せよという教えかあったか、これか処理時間順と 相性がよいのは当然かもしれない)。この場合も仕事を完了させるのにかかる時間は変わら ないが、処理時間順は未完の仕事の件数を可能な限り最もすばやく減らすことによって、気 持ちを楽にしてくれる。合計所要時間という基準を別の言い方で表現することもできる。や るべき仕事を並べた「やることリスト」の短縮を最重視する方法とも言えるのだ。未完の仕 事の一つひとつが頭痛の種だとしたら、最も簡単な仕事をさっさと片づければいくらか気分 か晴れるかもしれない。  もちろん、未完の仕事がすべて同じ価値をもつわけではない。怒っている客に急いで「火 を消す」メールを送るよりも先に、いくらか時間がかかるにしてもまずはキ″チンのコンロ の「火を消す」べきだろう。スケジューリングにおいては、こうした重要度の違いを「重 み」という変数でとらえる。「やることリスト」を処理していく場合、これはまさに文字ど おりの「重み」と感じられるかもしれない。というのは、仕事が一つ片づくたびに、肩の荷 が下りていくからだ。仕事の所要時間はその荷か肩にのしかかっている時間の長さを表すの で、「重みづけ」した所要時間(各仕事の所要時間に重みを掛けた積)の合計が短縮できれ ば、予定全体をこなしていく際のストレスの総量が軽減できる。  この目標に対する最適戦略は、処理時間順にちょっと手を加えたものとなる。各仕事の重 みを完了までに見込まれる所要時間で割り、これによって得られた単位時間あたhソの重要度  (。重さ”の比喩つながりで「密度」と呼んでもいい)が高いものから低いものへという順 番で仕事を片づけていく。日々の仕事の一つひとつについて重要度を特定するのは難しいか もしれないか、それでもこの戦略からは便利な目安か得られる。重要度か二倍以上の場合の み、二倍以上の時間がかかる仕事を優先させるのだ。  ビジネスの場では、「重み」はそれぞれの仕事がもたらす収益にたやすく置き換えられる だろう。したがって、報酬を時間で割るという考え方は、仕事ごとに時給を定めることに相 当する(コンサルタントやフリーランスで働く人は、すでにこれを実地で行なっているかも しれない。個々のプロジェクトの報酬を単純に所要時間で割って、時給の高い順に仕事を引 き受けて、というやり方だ)。おもしろいことに、この重みづけ戦略は動物の餌探し行動に 関する研究でも紹介されている。ただし、報酬はドルやセントではなく木の実や果実だ。餌 から得られるエネルギーの体内貯蔵率を最大化するには、餌の獲得と摂食に要する時間に対 して餌から得られる熱量の比の高い食物から順番に食べるべきだし、動物たちはどうやら実 際にそうしているらしい。  同じ原則を収入ではなく借金にあてはめると、「なだれ式返済」と呼ばれる戦略か得られ る。この借金削減戦略では、債務の件数や金額はまったく考慮せず、利率が最も高い借金一 件だけに返済資金を注ぎ込む。単位時間あたりの重要度に従って仕事を片づける戦略を、あ たかも鏡に映したようなものと言えよう。そしてこの戦略は、借金の負担全体を可能な限り 最もすばやく軽減してくれるはずだ。   一方、借金の金額よりも件数を減らしたいのならIたとえば利率の差よりも、大量の請 求書や取り立ての電話との闘いのほうが大問題だと思うならI重みづけのない「とにかく 片づける」方針の処理時間順に戻って、金額の少ない借金から順に返済していくことになる。 債務削減の世界では、このやり方は「雪だるま式返済」と呼ばれる。現実に借金の件数と金 額のどちらを優先的に減らすべきかをめぐっては、一般のマスコミでも経済学界でも活発な 議論か続いている。   問題を選ぶ  単一機械スケジューリングについて論じ始めたときの話に戻ろう。「時計が一つあれば時 刻がわかる。時計が二つあるとどちらが正しい時刻か迷いが生じる」と言われる。コンピュ ーター科学は単一機械スケジューリングで利用できるさまざまな基準に対する最適アルゴリ ズムを与えてくれるが、基準を選ぶのは使う人自身だ。多くの場合、どの問題を解決するか も自分で決めることができる。  このことから、タイムマネジメントにおける典型的な弊害である「先送り」について考え 直すラディカルな方法が得られる。一般に、先送りは不適切なアルゴリズムだと思われてい                          丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 る。しかし、じつはその逆だとしたらどうだろう。取り組むべきでない問題を避ける最適な 解決策だとしたらどうか。  『Xファイル』のあるエピソードで、主役のモルダーが身動きのできぬまま強迫神経症的な 吸血鬼に襲われかけたとき、一袋のヒマワリの種を床にまいて身を守ろうとする。ばらまか れた粒を見ると集めずにいられない習性をもつ吸血鬼は、かがんで種を一つずつ拾い始める。 やがて助けが現れ、モルダーは餌食となる危機を脱する。コンピューター科学者なら、これ を「ピングアタ″ク」とか「サービス妨害」攻撃と呼ぶだろう。システムに大量の些末な仕 事を与えると、重要な事柄がカオスの中で埋没してしまうのだ。  先送りというと一般に怠惰や回避行動が連想されるが、なるべく迅速に仕事を片づけよう と真剣かつ熱心に努力する人(またはコンピューターや吸血鬼)にも同様にたやすく先送り は起きる。たとえば二〇一四年にペンシルヴェニア州立大学のデイヴィ″ドーローゼンバウ ムが中心となって行なわれた研究では、重たいバケツを二つ用意して。被験者に好きなほう を廊下の突き当たりまで運ばせた。バケツの一つは被験者のすぐそばに置き、もう一つは廊 下を途中まで進んだところに置いておく。すると、研究チームにとって意外な結果が出た。 被験者はすぐさま自分の近くにあるバケツを持ち上げて、指示された場所まで運んでいった のだ。途中でもう一つのバケツを通り過ぎることになるか、こちらを選んでいれば運ぶ距離 はもっと少しですんだはずだ。「この一見不合理な選択は、。目先取り”の傾向を反映して いる。目先取りとはわれわれが考案した用語であり、身体的負担が余分にかかるとしても手 近な目標の達成に飛びつくことを表す」と研究チームは記している。細かな雑用に手を出す ばかりで大きなプロジェクトへの着手を先送りする行為も「手近な目標の達成に飛びつくこ と」と見なせる。つまり、先送りする者は念頭にある未完の仕事の件数をなるべく早く減ら そうと(最適な方法で1・)行動しているとも言える。これが仕事を片づけるのにまずい戦略 だというわけではない。戦略はすばらしいが、基準が間違っている。  コンピューターを使う場合には、スケジューリングの基準についての意識や意図に関して さらに危険が生じる。ユーザーインターフェースがひそかに(あるいはさほどひそかでな く)ユーザーに基準を押しつけてくる可能性があるのだ。たとえば現代のスマートフォンユ ーザーは、アプリのアイコンに「バッジ」がついているのをしょっちゅう目にする。この赤 地に白抜きのせわしなげな数字は、そのアプリかユーザーに完了させたがっているタスクの 件数を表す。たとえばメールの受信ボ″クスに表示される未読メッセージ数は、件数だけを 伝えることによって、どのメールも重みには差がないものとして扱う。この場合、重みづけ していない処理時間順アルゴリズムをこの問題に適用して、すぐに処理できるメールから先 に片づけて面倒なメールは後回しにするというやり方でバッジの数字をなるべく早く小さく したとしても、責められるいわれがあるだろうか。  基準に従って生き、基準に従って死ぬ。もしも本当にすべてのタスクが等しい重みをもつ なら、まさにすべてを一つの基準で処理していけばいい。しかし些事の奴隷になりたくなけ れば、それなりの方策か必要だ。そのためにはまず、解決しようとしている単一機械の問題 が本当に解決すべき問題なのかどうか確かめる必要がある(アプリのバ″ジの場合、そうし たバ″ジに真の優先順位を示させることはできないし、目の前の数字を最適な方法で減らし たいという衝動に打ち勝つこともできないというなら、あとはただバ″ジの表示をオフにす るしかない)。  単に仕事を片づけるのではなく、重みの大きい仕事を片づけることトト常に今できるなか で最も重要度の高い仕事を片づけることIだけを目指し続けるというのは、先送りを確実 に治せる処方箋のように感じられる。しかしじつは、これでも十分とは言えない。コンピュ ータースヶジューリングの専門家からなるチームが、・想像のおよぶ限り最もドラマティ″ク な形でこの教訓を示されることになったI火星の表面で、全世界が見守るなかで。   優先度逆転と先行制約  一九九七年の夏、人類は勝利の美酒に酔おうとしていた。火星の表面を探査機か初めて走 行していた。一億五〇〇〇万ドルを投じて開発されたマーズーパスファイソダーは、時速二 万六〇〇〇キロメートルで宇宙の虚空を進み、五億キロメートルの旅路を経て、宇宙グレー ドのエアバ″グを使って、赤い岩で覆われた火星の表面に着陸した。  ところが、なかなか任務を開始しない。  地上では、ジエ″卜推進研究所(JPL)の技術者たちが不安と困惑に陥っていた。パス ファインダーは最優先のタスク(データを「情報バス」に出し入れすること)をなぜか放置 し、重要度が中くらいのタスクで時間をやり過ごしている。何がどうなっているのか。パス ファインダーはこんなに頭が悪かったのか。  不意にパスファインダーは、自分が情報バスを許容不可能な長時間にわたって放置してい たことに気づいた。ほかによい手立てがなかったので、コンピューター・システムを再起動 させた。おかげで、これまでに終わっていた作業も大部分が無駄となってしまった。一日ほ ど経つと、また同じことが起きた。  JPLのチームは懸命に対応し、最終的にこの行動を再現して診断することに成功した。 原因はスケジューリングの分野で「優先度逆転」と呼ばれる典型的な障害だった。優先度逆 転が起きると。優先度の低いタスクがなんらかの作業のためにシステムのリソースを占拠す る(データベースへのアクセスを占拠する、といったことだ)が、途中でタイマーに遮られ。 作業が中断してシステムのスケジューラーが起動する。スケジューラーは優先度の高いタス クを設定するが、データベースが占拠されているのでこのタスクを実行することができない。 そこでスケジューラーは優先度リストを下へたどり、代わりに優先度が中くらいでブロック されていないタスクをいろいろ実行する。高優先度のタスク(ブロックされている)やその ブロックの元凶となっている低優先度のタスク(中優先度のタスクすべてより下に並んでい る)には手を出さない。この悪夢のようなシナリオにおいて、システムにとって優政度が最 も高いタスクはいつ終わるとも知れない長時間にわたって放置されることもありうる。  JPLの技術者らはパスファイソダーの問題が優先度逆転によるものであることを突き止 めると修正プログラムを作成し、新たなコードを数億キロ離れたパスファインダーに向けて 送信した。太陽系を突っきって届けられた解決策とはどんなものだったのか。それは優先度 継承というものだった。低優先度のタスクが高優先度のリソースをブロ″クしていることが 判明した場合、ただちにブロ″クされているものの優先度を「継承」して、低優先度だった タスクの優先度を一時的にシステム上で最高とする。  コメディアンのミ″チーヘドバーグのネタにこんなものかある。「カジノにいたときのこ とだ。考えごとをしていたら、男か近づいてきて言うんだ。『どいてくれ、非常口をふさい でいる』つて。こいつは火事が起きても庵が逃げないと思っているのか」。この警備員の言 い分が優先度逆転だ。そしてヘドバーグの反論か優先度継承にあたる。避難する客たちの前 でヘドバーグが非常口にゆったりともたれて逃げ道をふさげば、命を守るために避難すると いう高優先度の行為よりも、のんびりくつろぐという低優先度の行為を優先させることにな る。しかし彼が客たちの優先度を継承すれば、そうはならない。そして非常口に殺到する客 たちは、自らの優先事項をすぐさま他人に継承させることができる。「そのままでは焼け死 んでしまう。脚が動かないわけでもないのに、非常口に突っ立っているやつがいるか」とヘ ドバーグはオチをつける。  この話から得られる教訓は、仕事を片づけたいという思いだけではスケジューリングの落 とし穴を避けるのに万全ではなく、また、重要度の高い仕事から片づけたいという思いだけ でもやはり足りないということだ。自分にできるなかで最も重要度の高い仕事を選び抜いて 取り組むという方針は、いちずに近視眼的な姿勢で臨むと、ほかの人からは先送りと思われ る結果につながりかねない。自動車のタイヤが空回りするように、すぐさま前に進みたいと いう熱意そのものが人を立ち往生させてしまう。「最も大事な事柄を、最もどうでもいい事 柄に翻弄させてはならない」と、ゲーテが言ったとされる。賢者の教えのようにも聞こえる が、ときには大間違いとなる。最もどうでもいい事柄か片づかない限り、最も大事な事柄に 着手できないこともある。このような場合は、どうでもいい事柄を、それに妨げられている 大事な事柄とまったく等しい重要度をもつものとして扱うしかない。  別のタスクが完了しないと着手できないタスクがあるという状況を。スケジューリング理 論の研究者は「先行制約」と呼ぶ。オペレーションズリサーチ専門家のローラーアルバート ・マクレイ(訳注現在はローラーアルバートと名乗っている)にとって、この原理をしっかり覚 えていたことが自身の家庭で一度ならず助けとなった。「これがわかると本当に役に立つの です。もちろん三人の子育てをしていれば、スケジュールすべきことはたくさんあります。 ……出かけるには、その前に子どもに朝食を食べさせなくてはいけないし、そのためにはス   *なんとも皮肉な話だが、パスファインダーのソフトウェアチームを率いたグレンーリーヴズは、こ   の不具合の原因か「期限プレッシャー」と、開発段階でこの問題を解消することか「低優先度」と見   なされていたという事実にあったとした。つまり。根本原因が問題自体を反映していたとも言える。 プーンを渡してやらなければなりません。ごく単純なことに気が回らず、そのせいですべて が遅れてしまうこともあります。スケジューリングのアルゴリズムについては、それがどん なものか知り、それを働かせ続けるだけでも、びっくりするほど役に立ちます。私はそうや って日々の用事をこなしているのです」。  一九七八年、スケジューリング研究者のヤソーカレルーレンストラは、バークリーで友人 シーンの引っ越しを手伝った際に、同じ原理を使うことができた。「緊急を要する作業を始 める前に別の作業を終わらせなくてはいけなかったのに、シーンはそれを先送りしていまし た」と、レンストラはその日のことを語る。借りたワゴン車を返さなくてはいけないが、あ る道具を返却するのにワゴン車が必要で、アパート内の何かを修理するのにその道具が必要 だった。アパートの修理は緊急を要するものとは思われなかった(ゆえに先送りされてい た)が。ワゴン車はすぐに返さなくてはいけない。「アパートの修理をもっと急を要するも のと考えなくてはいけないんだと私は友人に説明しました」とレソストラは言う。彼はスケ ジューリング理論界の中心的存在だから、友人にこうアドバイスするのにふさわしい立場だ った。しかしこの話のオチは、じつに愉快な皮肉だ。このエピソードは先行制約によって生 じた優先度逆転のお手本のような例である。だが友人。シーン″の正体は、二〇世紀で最も 偉大な先行制約専門家と呼んでも過言ではない、ユージーンーローラーだったのだ。   行く手を阻むもの  一連のタスクを最も効率的に完了する方法を考えながら生涯の多くを過ごしたことを考え ると、ローラーかそのキャリアにたどり着くまでに歩んだ道のりは不思議なほど遠回りだっ た。彼はフロリダ州立大学で数学を学んでから、一九五四年に(Iヴァード大学の大学院で 研究を始めたが、博士課程を修了せずに退学した。ロースクール、陸軍、そして(彼の研究 テーマにぴったりな)機械工場での勤務を経て、一九五八年に(Iヴァードに戻って博士号 を取得し、ミシガン大学に就職した。一九六九年に研究休暇でバークリーを訪れた彼は、か のヴェトナム戦争抗議デモで逮捕された。翌年。バークリーの教授陣に加わり、コンピュー ター科学科の「社会的良心」という評判を得た。一九九四年に彼が死去すると、計算機学会 はローラーの名を冠した賞を創設し、われわれ人間にとってコンピューター科学のもつ可能 性を明らかにした人を表彰するようになった。  ローラーが初めて行なった先行制約に関する研究で、先行制約に対処するのはかなり容易 だということが示唆された。たとえば、複数のタスクがある場合に最大納期遅れ時間を最小 化する最早納期優先アルゴリズムについて考えよう。タスクに先行制約がある場合、話はや やこしくなる。特定のタスクが終わらないと着手できないタスクかあるなら、納期の近い順 に片づければいいというわけにはいかない。しかし一九六八年にローラーは、最後からさか のぼる形でスケジュールを作成すれば問題はないということを証明した。ほかのタスクより 先に終わらせる必要のないタスクだけに着目し、そのなかで期限が最も遅いタスクをスケジ ュールの最後にもっていく。同様にして、残りの(まだスケジュールに入っていない)タス クのうち、先に終わらせる必要がないという条件を満たすものだけについて、同じ手順を繰 り返していけばよい。  しかし先行制約についてさらに詳しく調べていったローラーは、‐興味深いことに気づいた。 前に見たとおり、「やることリスト」からなるべく早くたくさんの項目を消したいなら、最 適な方法は処理時間順アルゴリズムだ。一方、先行制約を受けるタスクがある場合には、そ れに合わせて処理時間順アルゴリズムに手を加えるための、簡単な方法やわかりやすい方法 はない。初歩的なスケジューリング問題のように思われたが、ローラーもほかの研究者も誰 一人として解決するのに有効な方法を見つけるのは無理なようだった。  実際のところ、思っていたよりもはるかに厳しかった。ローラー自身、この問題はほとん どのコンピューター科学者の考えでは効率的な解法のない「手に負えない問題」と呼ばれる クラスに属するということを、まもなく発見することとなった。スケジューリング理論が遭 遇した最初の障害と思われたものは、じつは越えがたいレンガの壁だった。  最適停止理論が役に立だない「三倍かゼロか」というゲームを紹介した際に見たとおり、 言葉で明確に表現できる問題すべてに答えがあるわけではない。スケジューリングにおいて は、タスクと制約からなる集合には必ずなんらかの最良スケジュールがあるはずなのは間違 いない。ということは、スケジューリング問題は本質的に解決不可能ではない。しかし。妥 当な時間内に最適スケジュールを見つけられる単純なアルゴリズムは存在しないということ なのかもしれない。  このことからローラーやレンストラといった研究者たちは、ある問いに心を奪われた。ス ケジューリング問題のうち、「手に負えない」問題はどのくらいあるのか。製本工程を扱っ たセルマー・ジョンソンの論文でスケジューリング理論が動きだしてから二〇年後、個々の 解の探索だったものが、以前よりもずっと大がかりで野心的な探求になろうとしていた。ス ケジューリング理論という分野全体を把握しようとする試みが始まっていたのだ。  研究者たちが発見したのは、スケジューリング問題に変更を加えると、その変更がどれほ ど小さくても、手に負える問題と手に負えない問題とのあいだを隔てる細く不規則な境界線 の反対側へと、問題の属する領域がしばしば変わるということだった。たとえばムーアのア ルゴリズムはすべてのタスクが同じ価値をもつ場合に納期遅れのタスク(あるいは傷んだ果 物)の個数を最小限に抑えることができるが、タスク間で重要度が異なる場合には問題が手 に負えなくなり、最適スケジュールを容易に与えてくれるアルゴリズムは存在しない。同様 に、一定の時刻まで一部のタスクヘの着手を待たねばならない場合、そうでなければ効率的 な解法のあるスケジューリング問題のほぼすべてが手に負えない問題となる。ゴミ収集日の 前夜までゴミを家の外に出してはいけないという規則は条例としては妥当かもしれないが。   *「手に負えない問題」については、第8章で詳しく論じる。 個人の予定表をたちまち手に負えないものにしてしまうだろう。  スケジューリング理論の限界を示す境界線を特定する試みは、今もまだ続いている。最近 の調査で、全問題のおよそ七ハーセソトはその正体が依然として不明な、スケジューリング の世界における未開の地であることが判明した。しかし理解できている九三パーセントにつ いても、状況はかんばしくない。効率的に解ける問題は全体の九パーセントだけで、残りの 八四パーセントは手に負えない問題であることが証明されているのだ。言い換えるなら、ス ケジューリング問題のほとんどは容易な解決を受け入れない。自分個人の予定表を完璧に管 理するのがどうしようもなく大変だと感じられるなら、それは実際にそれが大変な作業だか らかもしれない。それでも、これまでに論じてきたアルゴリズムはそうした手ごわい問題に 取り組むための足がかりとなることも多い。完璧な解決はできないにしても、少なくとも期 待か裏切られることはないだろう。   すぺてを捨てるI割り込みと不確実性   二〇年前に木を植えておくのが一番よかった。その次によいのは今だ。                                   −ことわざ  ここまで、スケジューリングを難しくする要因だけを考えてきた。しかし、簡単にしてく れるひねりも存在する。やりかけのタスクを中断して、別のタスクに移るという手があるの だ。この「割り込み」という性質によって、状況が激変する。  最大納期遅れ時間の最小化(コーヒーショ″プで客に対応するとき)と完了時間の合計の 最小化(「やることリスト」の項目を急いで減らすとき)は、どちらも特定の時点まで着手 できないタスクがある場合には、境界線を越えて。手に負えない問題の領域に行ってしまう。 しかし割り込みを認めれば、有効解のある問題となって、境界線の向こうから戻ってくる。 どちらのケースでも、最早納期優先(前者のケース)や処理時間順(後者のケース)という 典型的な戦略にごく簡単な修正を加えれば、これらは最良の戦略であり続ける。あるタスク の開始時刻になったら、そのタスクと現在実行中のタスクを比較する。最早納期優先に従っ ていて、新しいタスクのほうが今やっているタスクよりも納期が早いなら、新しいほうに乗 り換える。前からやっていたタスクのほうが納期が早ければ、そのまま続ける。また、処理 時間順に従っていて、新しいタスクのほうが今やっているタスクより短時間で完了するなら、 前からのタスクは中断して、新しいほうを先に片づける。前からのタスクのほうが短時間で   *といっても。実態はこの数字が与える印象ほどひどいわけではない。複数の機械を用いるスヶジュ   ーリング問題も含まれており、このタイプの問題は個人の予定表の管理というより従業員の集団を管   理するようなものなのだ。 終わるなら、そちらを続ける。  順調な週には、工場でこれから数日間にすべきことがすべてわかっているかもしれない。 しかしたいていの人は、少なくとも部分的には行き当たりばったりで行動しているのかふつ うだ。たとえば特定のプロジェクトにいつ着手できるか(○○さんから××に関する明確な 回答はいつもらえるのか?)さえわからないこともある。急に電話やメールが入って、計画 に加えるぺき新たなタスクが飛び込んできても不思議ではない。  しかし、タスクがいつ始まるかがわからなくても、最早納期優先や処理時間順はやはり最 適戦略であり、不確実性の立ちはだかる前で(平均すれば)可能な限り最善の成果を保証す ることができる。思いもよらない瞬間に仕事がデスクに舞い込んできたら、最大納期遅れ時 間を最小化する最適戦略は、やはり最早納期優先の割り込みバージョントに今やっている仕 事より納期の早い仕事が生じたら新しいほうの仕事に移り、逆なら新しい仕事は放置するI −である。同様に。完了時間の合計を最小化したければ、処理時間順の割り込みバージョン ト今やっているタスクを完了させるまでの残り時間と新しいタスクを完了させるまでにか かる時間を比較するIがやはり最適となる。  実際、処理時間順の重みづけバージョンは、不確実性に対する最良の汎用スケジューリン グ戦略のかなり有力な候補である。これはタイムマネジメントへの簡単な処方箋を与えてく れる。新しい仕事が生じるたびに、その重要度を完了までの所要時間で割ればよいのだ。こ の数が今やっているタスクよりも大きければ、新しい仕事に移る。今やっているタスクのほ うが大きければ、今のタスクを続行する。このアルゴリズムは、一種類の問題だけでなくさ まざまな問題に対して最適戦略になるという点で、スケジュール理論において万能鍵やアー ミーナイフに最も近いものと言える。ある特定の仮定のもとでは、このアルゴリズムを用い れば、重みづけした完了時間の合計の最小化(これは当然期待されるだろう)だけでなく、 納期遅れの仕事の重みの合計や、それらの仕事の重みづけした納期遅れ時間の合計の最小化 も可能だ。  おもしろいことに、これらのほかの基準すべての最適化は、開始時間と所要時間が事前に わかっている場合には手に負えない問題となる。そこで、スケジューリングにおける不確実 性の影響を考えると、直感的には受け入れがたい事実が明らかになる。千里眼かむしろマイ ナス要因となる場合かあるのだ。完璧な予知力かあっても、完璧なスケジュールを特定する のは現実として不可能かもしれない。対照的に、自分で考えて、仕事が生じるのに合わせて 対応すると、未来をのぞき込んだかのような完璧なスケジュールはさすがに得られないが、 可能な限り最良のスケジュールのほうがはるかにたやすく計算できる。これはいくらか慰め となる。ビジネス関連の著書をもつプログラマーのジェイソンーフリードは、「完璧な計画 ができあがらない限り、前へ進めないと感じている人はいないだろうか。そんな人は。計 画”を。推測”に置き換えて、気楽に構えればよい」と書いている。スケジューリング理論 はその裏づけとなる。  未来が見通せないとき、必要なのは予定表ではない。「やることリスト」があればよいの だ。   割り込みはタダではないIコンテキストスイッチ   急げば急ぐほど/ますます遅れてしまう       Iカリフォルニア州ブーンヴィルで見かけたニードルポイント刺繍の文字   プログラマーがしゃべらないのは、邪魔されると困るからだ。……ほかの人(あるいは   人の代わりとなる電話やブザーや呼び鈴)と同調すれば、思考の流れを途切れさせるこ   とにしかならない。中断とはある種のバグである。思考の流れから離れてはならない。                               Iエレンーウルマン  そんなこんなで、スケジューリング理論の語ってくれる話はそれなりに勇気を与えてくれ る。さまざまなスケジューリング問題に対して、解決するための単純な最適アルゴリズムが 存在し、それらの問題は人が日々の暮らしで遭遇する状況とよく似ている。しかしいざ本当 に現実世界で単一機械スケジューリングを実行しようとすると、話はややこしくなる。  第一に、人間もコンピューターのオペレーティングシステムも奇妙な問題に直面する。ス ケジューリングを行なっている機械とスケジューリングされている機械が同一なのだ。この ことから、「やることリスト」の整理がまさにそのリストに記載されることになり、それ自 体に優先度決定とスケジューリングの必要か生じる。  第二に、割り込みはタダではない。タスクを切り替えるIコンピューター科学では「コ ンテキストスイッチ」と呼ぶIたびに、コストの支払いが生じるのだ。コンピューターの プロセッサーが特定のプログラムに向けていた注意をよそへ向け直す場合、いくらかの不可 避な負荷か必ず生じる。今いる場所をきちんとブ″クマークして、もとのプログラムに関係 するすべての情報を保存しておかなくてはいけない。それから、次にどのプログラムを実行 するか決める。そのうえで次のプログラムに関係する情報をすべて呼び出し、コード内にそ の場所を見つけて作業に取りかかる。  この切り替え作業は「実質的な仕事」ではない。つまり、着手したり中断したりしている さまざまなプログラムの状態が、この作業によって実際に進展するわけではない。この切り 替え作業は仕事を実行するための「周辺業務」であり、コンテキストスイ″チをするたびに 時間が浪費される。  人においても、コンテキストスイ″チには確実にコストが伴う。書類を机に置いたり机か ら取り上げたりするときや、コンピューター上で文書を閉じたり開いたりするとき、部屋に 入ったのに用事が思い出せないとき、あるいは「さっきはどこまでやったのだったかな?」 とか「何を言おうとしていたのだっけ?」と口に出して言うとき、そのコストが突感される。 心理学者はタスクの切り替えによる影響として遅れやミスなどが起こりうることを示してい るが、たとえばその遅れの規模はマイクロ秒レベルではなく分レベルだ。この数字から考え ると、一時間に数回以上邪魔された人は仕事がまったくはかどらなくなるおそれがある。  本書の著者である私たち自身も、プログラミングと執筆はどちらもシステム全体の状態を 常に念頭に匱くことが必要であり、それゆえコンテキストスイ″チには膨大なコストか伴う ことに気づいている。ソフトウェアを作成している友人は、自分の場合は一日一六時間働け ば一日八時間働く場合と比べて生産性が二倍以上になるので、一般的な勤務時間は自分のワ ークフローに合わないと言っている。また、本書共著者の一人であるブライアンは、執筆を 鍛冶仕事のようなものと思っている。鍛冶屋は時間をかけて金属を熱し、それからでないと 金属を打ち延べることができないからだ。彼は執筆の仕事をする場合には、九〇分未満のブ ロックに分割するのはほとんど無駄だと感じている。仕事を開始してから三〇分間は「どこ までやったのだっけ?」という巨大なブロ″クを頭に積み込むだけでほぼ終わってしまうの だ。ピ″ツバーグ大学のスケジューリング専門家、カーターブルーズにも同じ経験がある。  「一時間以上時間がとれないなら、雑用を片づけるだけにします。やるべきことをきちんと 把握するだけで最初の三五分が過ぎてしまって、残りの時間ではそれが実行できないかもし れませんから」。  ラドヤードーキプリングが一九一〇年に発表した有名な詩「もしもI」はタイムマネジ メントをめぐる力強い訴えで結ばれている。「この無慈悲な一分間を/六〇秒間の長距離走 で満たすことができたなら……」。  それができたら、どれほど助かるだろう。現実には、帳簿の処理やタスク管理といった 周辺業務に時間がとられてしまう。これはスケジューリングにおける基本的なトレードオフ の一つだ。そして取り組む仕事が多ければ、それだけ周辺業務も多くなる。この悪夢のよう な状況が極限に達すると、「スラッシング」と呼ばれる現象が起きる。   スラッシング   ゲイジーザ″カーバーグ君、こちらにちゃんと注意を向けていますか?   サッカーパーク‥いくらかは卜最低限には。                       I映画『ソーシャルーネ″トワーク』  コンピューターは「スレッディング」というプロセスによってマルチタスクを行なう。こ れはいくつものボールを使ったジャグリングのようなものと思えばいい。ジャグラーが一度 に投げられるボールは一つだけだが空中には投げ上げられたポールが三個あるという場面と 同じように、CPUが一度に処理できるプログラムは一つだけだが。複数のプログラムをす ばやく(一万分の一秒レベルで)切り替えることによって、動画の再生、ウェブの閲覧、メ Iルの受信通知といったタスクがすべて同時に行なわれているように見える。  一九六〇年代、コンピューター科学者はタスク間やユーザー間でコンピュLターのリソー スを配分するプロセスを自動化する方法について考え始めた。期待に満ちた時代だったI と、今ではコンピューターのマルチタスキングの第一人者となったピーター・デュングは言 う。当時。彼はMITの博士課程で研究していた。期待に満ちていたが、不確実性にも満ち ていた。「たくさんの仕事があって、そのなかには拡張すべきものもあれば縮小すべきもの もあり、互いに影響しあって「メモリー」などいろいろなものを奪い取ろうとしているとき に、メインメモリーをどう配分するか。……y」れらの相互作用齔どう管理したらよいのか。 誰にもまったくわかりませんでした」。  研究者が自分たちのしていることをまだよく理解していなかったのだから、研究か困難に ぶつかったのも当然だ。なかでも特に注目を集めた問題が一つあった。デュングの説明によ ると、特定の条件のもとで「複数のプログラムを同時に実行しているところへさらに仕事を 追加すると」顕著な問題が「出現し、ある段階で臨界閾値を突破します。この閾値がどこな のかを正確に予想することはできませんが、到達すればわかります。ここで突然、システム が死んだようになるのです」。  ここでまた、ジャグラーのイメージを頭に浮かべてほしい。空中のボールが一個だけのと きは、そのボールが空中にあるあいだにジャグラーがほかのポールも投げ上げるのに十分な 時間的余裕がある。しかし、手に負える限界より一つ余分にポールを投げようとしたらどう なるか。そのボールだけでなく、すべてのボールが落ちてしまう。まさに文字どおり、シス テム全体かダウンするのだ。デエングによれば「プログラムが一つ増えただけで、サービス が完全に破綻する。……きちんと機能している状況とすべてがダメになっている状況とは明 らかに別物なので、なかなか納得しがたい。直感的には当然、混雑したメインメモリーに新 たなプログラムか追加されると、サービスは徐々に低下しそうなものだからだ」。しかし、 実際に起きるのは破 局である。ジャグラーが手に負える限界を超えたらどうなるかは理解 できるが、機械の場合はどうなるのか。  ここで、スケジューリング理論とキャ″ジンク理論が交差する。キャ″シュの目的とは、 必要なアイテムの「ワーキングセット」をすばやくアクセスできる状態にしておくことであ る。コンピューターが使用している最中の情報を。低速の(Iドディスクではなく高速のメ モリーに匱いておく、というのがその一つの方法となる。しかし、あるタスクでメモリーに 収まりきらないほど大量の情報を扱う必要が生じたら、本来の仕事をするよりもメモリーの 情報を出し入れするのに多くの時間がとられることになるかもしれない。さらに、タスクを 切り替えると、新たにアクティブとなったタスクがワーキングセ″卜のスペースを確保する ために、ほかのワーキングセ″卜の一部をメモリーから追い出すかもしれない。次のタスク を再びアクティブにするときには、そのタスクのワーキングセ″卜の一部を(Iドディスク からメモリーに呼び出す必要があり、やはりほかのワーキングセ″卜が追い出される。こん なふうにタスクどうしがスペースを奪いあうという問題は、プロセッサーとメモリーのあい だにキャッシュの階層があるシステムではさらに厄介な状況をもたらす可能性もある。リナ ックスーオペレーティングシステムのスケジューラー開発責任者の一人、ペーテルーゼイル ストラは、「キャッシュは現在実行中の仕事のために稼働しているので、コンテキストスイ ッチを行なうと、すべてのキャ″シュがほぼ無効になります。これは痛手です」と言う。極 端な場合、あるプログラムが実行に必要なアイテムをメモリーに呼び出したとたんに、別の プログラムに上書きされて追い出されてしまう、という事態もありうる。   これがスラッシングだ。システムが全力で稼働しているのに何もなし遂げられない状況を そう呼ぶ。デュングが最初にこの現象を解明したのはメモリー管理の場においてだったが、 今ではシステムがメタワークで完全に占拠されて停止する状況のほとんどを表す用語として。 コンピューター科学者は「スラッシング」を使っている。コンピューターがスラ″ジンクを 起こすと、動作は徐々に停止するのではなく、断崖から転げ落ちるように一瞬で停止する。  「実質的な仕事」がほぼゼロまで下がり、この状況を脱するのはほとんど不可能になる。   スラッシングは人間の状態としても非常にわかりやすい。自分のすべき仕事をすべてメモ するためにすべての作業を中止したいのに、その時間がとれない。こういう状況に覚えかあ る人は、スラ″ジンクの経験者だ。その原因もコンピューターの場合とよく似ている。すべ てのタスクが限られた認知資源を引き出そうとするために、スラ″ジンクが起きるのだ。や るべき仕事をすべて覚えておくことだけに注意力がすべて使われてしまったらIあるいは すべてのタスクに優先順位をつけるだけでタスクを実行するための時間がすべて終わってし まったらIまたは思考を行動に移す前に思考の連鎖がしょっちゅう中断されたらIパニ ックに陥るか、あるいは過剰な活動がもたらした麻痺状態に陥ったかのようになる。これが スラッシングであり、コンピューターにとっては知りすぎるほどなじみの状況だ。  スラッシングに陥ったシステムと格闘したことがある人はIそして自分がスラ″ジンク に陥ったことのある人はIそこから脱するためのコンピューター科学に関心があるかもし れない。一九六〇年代にこのテーマで書かれた記念碑的な論文において、著者のデエングは 一オンスの予防策がIポンド(一六オンス)の治療法に値すると述べている。最も簡単なのは、 ただメモリーを増やすことだ。たとえば実行中のプログラムすべてのワーキングセ″卜を同 時にメモリーに収容し、コンテキストスイ″チにかかる時間を短縮するのに十分なRAMを 用意する。しかし、スラッシングを予防するためのアドバイスは、スラッシyグの渦中にあ る人には役立たない。そのうえ、人間のもつ注意力の容量には限りかある。  スラッシングを事前に回避するには、ノーと言う方法を学ぶという手もある。たとえばデ ュングは、新たなプログラムのワーキングセ″卜を受け入れるのに十分なメモリーの空きが ない場合には、システムはプログラムの追加をただ拒否すべきと主張している。これによっ てマシンのスラ″ジンクを防ぐことができるし、多忙を極める人にとってはこれが賢明なア ドバイスとなる。しかしこれも、すでに仕事を背負い込みすぎている人、あるいは仕事を引 き受けない限り押し寄せる要求を黙らせることのできない人にとっては、ないものねだりと 思われるかもしれない。  このような場合、今以上にがんばることは明らかに不可能だ。しかし、ほかにも手はある。 考えすぎないことだ。メモリーについて考えるのに加えて、コンテキストスイ″チに伴うメ タワークのとりわけ大きな発生源は、次にする仕事を選択するという行為そのものだ。これ も本来の仕事の実行を滞らせることがある。黠件のメ″セージでメールの受信ボ″クスが あふれている場合、ソート理論によれば、次に返信すべき最も重要なメ″セージを特定する ために全体を何度も調べると、黠件のメ″セージ×〃回のチエ″クでQ(气)回の操作が必 要となる。つまり、通常の三倍のメ。セージが受信ボ″クスに入っているのに気づいたなら、 最悪の場合。処理するのにかかる時間は通常の九倍だ。さらに、それらのメールをチエ″ク するには、返信する前にすべてのメ″セージを次々に頭に出し入れする必要がある。これで は記憶力がスラッシングを起こすのは確実だ。  スラッシング状態では、ほぼ何も進めることができない。よって、何もしないよりは順番 が不適切でもとにかくタスクを処理するほうがましだ。最も重要なメールに真っ先に返信し たければ全体像を把握する必要かあるが、その作業のほうか返信すること自体より時間かか かるかもしれない。それならば、最も重要なメールにこだわるよりも、ランダムな順番で返 信するか、あるいは画面に現れた順番で返信することによって、二乗時間の泥沼を回避すべ きではないだろうか。リナックスのコアチームもそう考えて、数年前にスケジューラーを変 更した。新しいスケジューラーは、プロセスの優先度を計算する際の「賢さ」では従来のも のに劣るが、計算にかかる時間の短縮でそれを埋めあわせてなお余りあるものとなった。  それでもなお優先度に従いたいというなら、生産性を取り戻すために打てるもっと興味深 い手がある。   割り込み軽減  リアルタイムのスケジューリングがこれほど複雑でおもしろいものとなる理由の一つは、 これが基本的に、必ずしも両立可能ではない二つの原理のあいだで繰り広げられる駆け引き だという点にある。この二つの原理は「応答性」と「スループット」と呼ばれる。応答性と は。応答のすばやさ”であり、スループットとは。遂行できる仕事の総量”を表す。オフィ スで働いたことのある大なら、この二つの基準のあいだに生じるせめぎあいがすぐに理解で きるはずだ。電話に出ることだけを仕事としている大がいるのも、このことが一つの理由で ある。ほかの大がスループットを確保できるように、応答性を受け持っているのだ。  人の暮らしもやはりコンピューターと同様で、応答性とスループットのトレードオフを自 分でこなさなくてはならないときにはなかなか大変だ。うまく切り抜けるのに最良の戦略は、 逆説的な話だが、スローダウンすることかもしれない。  オペレーティングシステムのスケジューラーは一般に、すべてのプログラムが少なくとも いくらかは作動することが保証される「周期」を定め、システムは各プログラムにその時間 の「一部」を割り当てる。実行されるプログラムか増えると、システムから割り当てられる 時間が短くなり、周期ごとにコンテキストスイ″チの生じる回数が増え、スループットを犠 牲にして応答性が保たれる。しかしそのまま放置すると、周期ごとに各プロセスに少なくと もいくらかの注意が向けられることを保証するというこの方針がカタストロフにつながhソか ねない。十分に多数のプログラムか作動している場合、一つのタスクに割り当てられる時間 は短くなり、システムがコンテキストスイ″チにその割り当て時間をすべて費やしてしまい、 すぐに次のタスクのコンテキストスイ″チが始まることになるかもしれない。  こうなる原因は、応答性の保証が難しいことだ。そこで最近のオペレーティングシステム では、割hソ当て時間に下限を設け、時間をそれより細かく分割することは拒否するようにし ている(たとえばリナックスではこの下限をおよそ〇・七五ミリ秒としているが、人の場合 には現実的には数分以上とする必要があるかもしれない)。さらに新たなプロセスが加わっ てこの下限を守れなくなると、「時間」か延長される。つまり、各プロセスの待ち時間は長 くなるが、配分される時間は少なくともなんらかの仕事をするのに十分な作動時間は確保さ れるということだ。  一つのタスクにかけるべき時間の下限が決まれば、応答性だけに時間がとられてスループ ットにまったく手が回らないという事態を防ぐ助けとなる。コンテキストスイ″チにかかる 時間よりもこの下限時間か長ければ。システムがコンテキストスイ″チだけに終始するとい う状況に陥ることはありえない。この原理は、人の生活へのアドバイスにも容易に変換でき る。キッチンタイマーをセットして、時間が来るまで一つの作業だけに専念する「タイムボ クシング法」や「ポモドーロタイマー法」などの方法は、この考えを具現化したものと言え る。  しかし、どんな配分を目指せばよいのだろう。メールチエ″クのように反復的なタスクの 実行間にどのくらいの時間を置くべきかという問題に対しては、スループットの観点から答 えを出すのが簡単だ。可能な限り長く、というのがその答えである。しかしこれですべてが うまくいくわけではない。スループットを上げれば、応答性が下がってしまうのだ。  コンピューターにとって、定期的にチエ″クしなくてはならない厄介な中断をもたらす存 在は、メールではない。ユーザーだ。数分間や数時間もマウスを動かさなかったのに、再び 勁かすとなると画面上のポインターがただちに勁きだすことを期待する。つまり、コンピュ ーターはユーザーのようすを探るためだけに多大な労力を費やしているのだ。マウスとキー ボードをチエ″クする頻度を上げれば、入力があったときにすばやく反応できるが、コンテ キストスイ″チを余分にする必要が生じる。そこで、コンピューターのオペレーティングシ ステムが特定のタスクに注力できる時問を決める際には、単純なルールに従う。ユーザーの 目に過敏とも鈍重とも映らない範囲で、なるべく長時間とすればよい。  われわれ人間がちょっとした用事で外出するときには、「留守と感じないくらいすぐに戻 るから」などと言うことがある。コンピューターは、コンテキストスイッチをして計算を始 めても、ユーザーがそれに気づかぬうちにユーザーのもとへ戻らなくてはならない。そのた めのちょうどよい案配を探るべく、オペレーティングシステムのプログラマーは心理学に手 がかりを求めている。正確には何ミリ秒の遅延が生じたときに人間の脳か遅れや揺らぎを感 知するのか特定しようと、精神物理学の論文を調べたりしている。それより頻繁にユーザー に注意を向けるのは意味かないからだ。  こうした取り組みのおかげで、オペレーティングシステムが適正に作動しているときには、 ユーザーはコンピューターがどれほどがんばっているか意識さえしない。プロセ″サーが全 力で働いているときでも、ユーザーはマウスを操作して画面上でポインターをなめらかに動 き回らせることができる。このなめらかさによってスループ″卜がいくらか犠牲になってい るが、それはシステムエンジニアが承知のうえで行なった設計上のトレードオフだ。システ ムはユーザーとのやりとりをせずになるべく多くの時間を過ごし、それからぎりぎりのタイ ミングでマウスの動作に戻る。  この原理もやはり人の暮らしに応用できる。これか教えてくれるのは、応答性を許容可能 な最低限より下げることなく、なるべく長く一つのタスクを続けるように努めるべきという ことだ。自分がどのくらいの応答性を維持すべきか判断し、仕事を片づけたいなら応答性が そのレベルを上回らないようにする。  自分がコンテキストスイ″チを頻繁にしているのは、短時間で終わる雑多なタスクにかか わっているからだと思うなら、コンピューター科学から「割り込みをまとめる」という考え 方を借用することもできる。たとえばクレジットカードの請求書が毎月五通届くことになっ ている場合、届くたびに支払いをしてはいけない。五通めまでそろったところで、まとめて 処理するのだ。到着から三一日未満に支払期限が設定されているのでない限り、たとえば毎 月一日を「請求書支払日」と定めて、この日が来たら、三週間前に届いたものも三時間前に 届いたものも机の上にある請求書はすべてまとめて処理すればいい。同様に、二四時間以内 に返信する必要のあるメールか来ない人なら、メールをチエ″クするのは一日に一度だけで よいはずだ。コンピューターもこれと似たことをやっている。さまざまなサブコソポーネン トによるばらばらでまとまりのない割り込みに対処するためにコンテキストスイ″チをした りはせず、一定の間隔を置いてすべてをチエ″クするのだ。  ときおり、コンピューター科学者は自分自身が生活の中で割り込みのまとめを実践してい ないのに気づくことがある。グーグルのリサーチディレクター、ピーター・ノーヴィグはこ んなことを言っている。「今日、私は一日に三回も用事で町に行くはめになりました。『や れやれ、アルゴリズムの中にバグが一行まぎれ込んでいたんだな。用事ができるたびに一つ ずつ順番に片づけないで、もう少し待つか、用事を。やることリスト”に加えればよかっ   *コンピューターのほうではユーザーに何かしてほしければいつでもエラーメッセージやカーソルの   動きを支配するダイアログボ″クスをぶしつけに表示するのが常であることを考えると。こうしたコ   ンピューターのふるまいは二枚舌的と言える。ユーザーインターフェースはユーザーに対しては、C   PUならキレてしまいかねない注意喚起のしかたをするのだ。 た』と言ってしまいました」。  人間レベルでは、郵便システムがその配達サイクルの結果として割り込みのまとめをタダ でやってくれる。郵便物は一日にI回しか配達されないので、ほんの数分でも集配に遅れた ら相手に届くまでに二四時間余分にかかる、ということは確かにある。しかし、コンテキス トスイッチのコストを考えると、この状況の好ましさが見えてくるはずだ。請求書や手紙に 割り込まれるのは、最大でも一日に一回だけなのだ。さらに、二四時間サイクルの郵便のリ ズムは受取人に最低限の応答性しか要求しない。受け取った手紙に返事を出すのが五分後で あろうと五時間後であろうと、まったく差は生じない。  大学では、研究室の開室時間帯を決めておくというのが、学生による割り込みをまとめる 一つの手段となる。会社では、職場で嫌われている週例会議という儀式も、割り込みをまと めるという面からとらえればよい点も見えてくる。欠点があるにせよ。定期的に予定される 会議は、自然発生的な割り込みと予定外のコンテキストスイ″チに対する最良の防御となる。  コンテキストスイ″チの少ないライフスタイルというものに守護聖人か存在するとすれば、 それはあの伝説的なプログラマー、ドナルドークヌースだろう。「私は一度にひとつのこと しかやらない。コンピュータ科学者が言うバ″チ処理だ。ほかに取り得る方法として、スワ ップイン、スワップアウトというやり方がある。しかし、私はスワップイン、スワップアウ トはやらない」 (『コンピュータの時代を開いた天才たち』デュスーシャシャ&キャシー・ラゼール著、 竹内郁雄監訳、鈴木良尚訳、日経BP社より引用)と彼は言う。冗談を言っているのではない。二 ○一四年一月一日、彼は「二〇一四年のTeXチューンアップ」に乗り出し、それまでの六 年間に彼のTeX組版ソフトウェアについて報告されたバグをすべて修正した。報告書は  コー○二一年のTeXチューンア″プをお楽しみに!」という愉快な言葉で結ばれていた。 また、彼は一九九〇年からメールアドレスをもたずに過ごしている。「あらゆる情報を手中 に収めてすべてを把握するために暮らしている大にとっては、メールはすばらしいものだ。 しかし、私は違う。私はあらゆることの根底を探るために生きている。私のやっていること は、長時間の探究と中断されることのない集中を必要とするのだ」。彼は郵便物を三ヵ月に 一度チェ″クして、フア″クスを見るのは半年に一度だけだ。  しかし、ライフスタイルの設計原理として割り込みのまとめをもっと取り入れようと、ク ヌースのような極端に走る必要はない。郵便システムはほぼ期せずしてそれを与えてくれる。 それ以外の点については、自分で仕組むか、あるいは要求する必要がある。さまざまなアラ ーム音を発する装置には「おやすみ」モードがついているから、一日のあいだにこのモード のオンとオフを手動で切り替えてもよい。しかし、それではあまりにも芸がない。ユーザー の側から、割り込みのまとめに関する明示的なオプションが提供される設定を要求してもい いかもしれない。つまり、装置の内部で行なわれているのと同じことを人のタイムスケール で実行するのだ。たとえば着信通知はI〇分に一度だけにして、そのときにすぺての情報を 教えてもらおう。  6 ベイズの法則    未来を予想する   人間のあらゆる知識は、不確実で、不精密で、部分的である(『人間の知識』鎮目恭夫訳    〔『パートランドーラッセル著作集10』みすず書房所収〕より引用)。                           −パートランドーラッセル   明日も日は昇る。きっと。                           Iアニー(映画『アニー』)  一九六九年、J・リチャードーゴット三世はプリンストン大学の博士課程で宇宙物理学の 研究を始める前にヨーロで(を旅行し、八年前に建造されたベルリンの壁を訪れた。冷戦を まざまざと象徴する壁から落ちる影の中に立ち、この壁による東西ドイツの分断はいつまで 続くのだろうかと考え始めた。  この種の予想は。一見するとばかげている。地政学を予想するのは不可能だということを 別にしても、この問いは数学的に見て愚行の極みだ。というのは、これがたった一つのデー タ点から予想しようとする試みだからだ。  しかし、ちょっと見ただけでは愚かしく思われるかもしれないが、われわれは必要に駆ら れてこの手の予想をしょっちゅうしている。異国の町でバス停にたどり着いたとき、ほかの 旅行者が自分はすでにここで七分間待っていると教えてくれたとしよう。この場合、次のバ スはいつ来るだろうか。待つ意味はあるか。その場合、どのくらい待ったらあきらめるべき  あるいは、友人が異性と交際を始めてからIヵ月が過ぎ、アドバイスを求めてきたとしよ う。近々身内の結婚式があるのだが、交際相手を招待するのは早すぎるだろうかという相談 だ。二人の交際は順調なスタートを切っているが、どのくらい先のことまで計画を立ててよ いものだろうか。  グーグルのリサーチディレクター。ピーター・ノーヴィグが行なった有名なプレゼンテー ションに「データの不合理な有効性」というのがあり、彼は「取るに足りないデータ点を無 数に集めたら理解に至ることが可能になる」と力説している。コンピューターがそうした無 数のデータ点を選り分けて、人間の目には見えないパターンを見つけ出してくれる「ビッグ データの時代」にわれわれは生きている。メディアはしきりにそう訴える。しかし人の日常 生活に最も密接にかかおる問題は、しばしばその対極にある。われわれの日常は「スモール データ」で満ちている。実際、ベルリンの壁の前に立ったゴ″卜と同様に、われわれは手に 入る最小限のデータから、すなわちたった一回の観察から、推測するしかないことが少なく ない。  では、実際にどうやっているのか。そして、どうするべきか。  物語は一八世紀のイングランドで幕を開ける。舞台は当時の数学の精鋭たちにとって(聖 職者でさえも)抗いがたい研究分野、賭け事だ。   ベイズ牧師と後ろ向き推論   したがって、論議によって我々が過去の経験に信を置き、それを将来の判断の基準とす   るように束縛されるとするならば、これらの論議はただ蓋然的……であるに違いない    (『人問知性の研究・情念論』渡部皎明訳、晢書房より引用)。                            −デイヴィッドーヒューム  今から二五〇年以上前、イングランドの美しい温泉保養地タンブリ″ジウェルズに暮らす 長老派牧師のトマスーベイズは、スモールデータからの予想という問題について熱心に考え ていた。  新たに実施されるので情報のない宝くじの券をI〇枚買って、そのうち五枚が当たったな ら、このくじの当選率は比較的容易に推定できると思われる。一〇分の五、すなわち五〇八 Iセントだ。しかし一枚だけ買って、それが当たったとしたらどうだろう。当選率は一分の 一、つまりI〇〇パーセントだと本気で思うだろうか。それはあまりにも楽観的と感じられ る。違うだろうか。楽観的すぎるとしたら、どれほど楽観的すぎるのか。実際の当選率はど のくらいと考えるべきなのか。  皮肉なことに、不確実性下における推論の歴史にきわめて大きな影響を与えた人物にして は、ベイズ自身の経歴には不明な点が多い。生まれたのは一七〇一年か、もしかしたら一七 〇二年で、出生地はイングランドの(Iトフォードジャーか、あるいはロンドンかもしれな い。一七四六年、四七年、四八年、四九年のいずれかの年に数学全体で指折りの大きな影響 をもたらした論文を執筆したが、公表しないまま別の研究に進んだ。  これらの二つの出来事のあいだに。さらにもう少し不確実な点がある。牧師の息子だった ペイズはエディンバラ大学で神学を学び、父と同じく聖職に就いた。神学だけでなく数学に も関心があり、一七三六年にはニュートンが新たに提唱した「微積分」をジョージーバーク リー主教が攻撃したのに対し、微積分を強く擁護する書物を著した。これによって、一七四 二年に「幾何学と数学および哲学のあらゆる学識に精通した……紳士」という推薦の言葉と ともに王立協会会員に選ばれた。  一七六一年に彼が没すると。友人のリチャードープライスがベイズの遺族から幀まれて、 残された数学関係の書き物を見直すことになった。発表すべきものがないか調べるためであ る。調査したプライスは、ある小論にとりわけ興奮を覚えた。プライスの言葉を借りれば  「すばらしく価値かあり、いつまでもとっておくに値する」ものだった。この小論は、まさ に今ここで論じている宝くじ問題と同じタイプの問題を扱っていた。   くじの仕組みや「当たり」と「外れ」の割合について何も知らない人が、抽選会にやっ   て来たとしよう。さらに、彼はそれまでに出た「外れ」と「当たり」の数を聞いて、両   者の割合を推測しなくてはならないとする。この状況で、彼は合理的にどのような結論   が下せるか。  ベイズが決定的に慧眼だったのは。目の前で引かれた当たりと外れの券の枚数を使って最 初の券全体の割合を考えるというやり方が、基本的に後ろ向きの推論だと見抜いたことだっ た。もとの割合を突き止めるには、まず仮説から前向きの推論をする必要があると彼は主張 した。つまり、さまざまなシナリオについて、そのシナリオが正しかった場合に特定の券を 引いていた確率がどのくらいか、まずは突き止めなくてはならない。この確率は現代の統計 学では「尤度」と呼ばれるもので、問題を解くのに必要な情報を与えてくれる。  たとえば券を三枚買って、すべて当たったとしよう。すべての券が当たりという太っ腹な くじなら、三枚買えば当然三枚とも当たりになるはずで、このシナリオでは当たる確率がI ○○パーセントということになる。また、券全体で当たりが半分だけなら、三枚貿って三枚 当たりという結果は1/2×―/2×―/2、すなわち八回に一回起きると考えられる。さ らに、一〇〇〇枚につき一枚しか当たりが出ないなら、三枚すべてが当たりという結果は信 じがたいほど起こりにくいはずで、1/1000×1/1000×1/1000、すなわち 一〇億回に一回ということになる。  したかって、三枚とも当たりだった場合には、券全体の半分が当たりである可能性よりも すべてが当たりである可能性のほうが高いと判断すべきであり、一〇〇〇枚に一枚だけが当 たりである可能性よりは半分が当たりである可能性のほうが高いと判断すべきである、とベ イズは主張した。そのくらいはもともと直感的にわかっていたかもしれないが、ベイズの口 ジックを使えばその直感を数値化することができる。すべての条件が対等なら、券の半数が 当たりである可能性よりもすべてが当たりである可能性のほうがちょうど八倍高いと考える べきだ。なぜなら、このシナリオで引いた券が当たりである可能性かちょうど八倍高いから だ(「一〇〇パーセント」対「八分のI」)。同様に、当たりの券が1000枚中一枚だけで ある可能性と比べて半数が当たhソである可能性はちょうど一億二五〇〇万倍高い。この数字 は八分の一とI〇億分の一を比べれば出てくる。  これがベイズの主張の核心だ。仮定した過去から前向きに推論することにより、後ろ向き に推論して最も可能性の高いものを特定するための足場が得られる。  これは巧妙で画期的なアプローチだったが、くじ問題に完全な答えを与えることはできな かった。プライスはベイズの成果を王立協会に報告する際に。くじを一枚だけ買ってそれが 当たったら、くじ全体の少なくとも半数は当たりである可能性が七五パーセントだというこ とを証明することができた。しかし確率の確率を考えようとすると、いささか頭か混乱する かもしれない。さらに「そこまではまあいい。しかし、実際に当たる確率はどのくらいだと 思うか」と誰かに責め立てられたら何と答えればよいのか。やはりわからない。  この問い、すなわち起こりうるさまざまな仮説をすべてまとめて一つの明確な期待値を出 すにはどうしたらよいのかという問いに対して、ほんの数年後に答えが発見された。答えを 見つけたのはフランスの数学者、ピエールHシモソーラプラスだった。   ラプラスの法則  ラプラスは一七四九年にノルマンディーで生まれた。父親は息子を聖職者にしようと考え て、カトリックの学校に入学させた。ラプラスはカーン大学に進んで神学の勉強を続けたが。 霊的なものと科学的なものの両方にバランスよく生涯を捧げたベイズと違い、ラプラスは最 終的に聖職を完全に捨てて数学を選んだ。  一七七四年、ラプラスはペイズの先行研究についてはまったく知らず、「事象の原因の確 率について」という野心的な論文を発表した。この論文でラプラスは、観察された結果から 信じるに足る原因へと後ろ向きに推論するにはどうしたらよいかという問題にようやく答え を出した。  すでに見たとおり、ペイズは仮説間の相対的確率を比較する方法を発見していた。しかし、 くじについては、仮説はまさに無限に存在する。考えうるすべての当たりの割合かそれぞれ 一つの仮説となるのだ。かつての論争の的であり、ベイズが有力な擁護者となった数学であ る微積分を用いて、ラプラスはこの膨大な仮説を一つの推定にまとめることが可能であると 証明することに成功した。しかもその推定は、驚くほど簡潔だった。くじについて事前の情 報がまったくない場合、一回めで当たりが出たら、くじ全体で当たりの割合はちょうど三分 の二だと期待すべきである、と彼は示した。くじを三枚買ってすべて当たりだったら、期待 される当たりの割合はちょうど五分の四となる。試行黠回で当たりが9枚だったとすると、 期待される割合はシンプルに「当たりの枚数十I」を「試行回数+2」で割った{S十}七 (a十`)となる。  驚くほど簡単に確率か推定できるこの方法をラプラスの法則と呼び、過去の結果にもとづ いて事象の起きる確率を評価する必要のあるどんな状況でもこれは容易に適用できる。何か をI〇回試行して五回成功した場合、ラプラスの法則によれば全体として成功する確率は一 二分の六、つまり五〇パーセントと推定される。これは直感に合う。一度だけ試行して成功 した場合には、ラプラスの法則による推定は三分の二となり、これは毎回成功すると考える よりも合理的であり、なおかつプライスの指針(。五〇パーセント以上の確率で成功する確 率か七五パーセント″という、ややこしい推定の仕方をする)よりも扱いやすい。  ラプラスはさらに、自身の統計学的手法を当時のさまざまな問題に幅広く適用し。たとえ ば生まれてくる赤ん坊が本当に同じ確率で男女に分かれるのか検討した(実際には男児のほ うが女児よりも若干多く生まれるということをほぼ確実に証明した)。彼は『確率の哲学的 試論』(内井惣七訳、岩波文庫)という本も執筆した。これはおそらく一般向けに書かれた最 初の確率の本であり、今もなお格別にすぐれている。この本は彼の理論を説明するとともに、 法律、自然科学、日常生活にそれを応用する方法も考察している。  ラプラスの法則は、現実世界でスモールデータと向きあう際の最初のシンプルな指針を教 えてくれる。ほんの数回(場合によっては一回)しか観察していなくても、この指針は実用 的な基準となる。バスが遅れている確率は? 自分のソフトボールチームが勝つ確率は? それが知hソたければ、過去にその事象が起きた回数に一を足し、その事象が起こりえた機会 の回数に二を足した数で割ればよい。ラプラスの法則のよいところは、データ点が一つだけ でも数百万個でも、等しくよい答えを出してくれるという点だ。明日も日は昇ると信じるリ トルーアニーの考えは正当である。この法則はそう教えてくれる。今までに地球は太陽が昇 るのをおよそ一兆六〇〇〇億日も続けて見てきたのだから、次の「試行」でまた太陽が昇る 確率は限りなくI〇〇パーセントに近い。   ベイズの法則と事前信念   これらの想定はすべて無矛盾であり思念しうる。ではなぜ、我々は他と同じく無矛盾あ   るいは思念しうる想定の一つを選択すべきなのだろうか(『人間知性の研究・情念論』渡部峻   明訳、晢書房より引用)。                             −デイヴィッドーヒューム  ラプラスはこれとはまた別に、ベイズの説の修正も行なっている。ほかの仮説よりも正し い可能性が高い仮説をどう扱うかという、のちに決定的な重要性をもつと見なされることに なる問題に関するものである。たとえば、購入した人の九九パーセントが当たりとなるくじ か存在する可能性はゼロではないが、一パーセントの人しか当たらないくじのほうが実在す る可能性は高いと感じられるはずだ。推定にはこの考え方を反映させるべきであろう。  話を具体的にするために、友人が種類の異なる二枚のコインを見せてきたとする。一枚は 表と裏の出る確率が五〇パーセントずつの、ふつうで「フェア」なコインである。もう一枚 は両面とも表になっている。友人が二枚のコインを同じ袋に入れてから、ランダムに一枚だ け取り出す。そのコインを投げると。表が出た。友人が取り出しだのはどちらのコイyだっ たと思われるか。  後ろ向きに推定するベイズのやり方なら、すぐさまこの問いを決着させることができる。 フェアなコインで表が出る確率は五〇ハーセソトだが、両面が表のコインならI〇〇パーセ ントの確率で表か出る。そこで、友人の取り出しだのが両面とも表のコインだった確率はフ ヱアなコインだった確率に対して五〇ハーセソト分のI〇〇パーセント、すなわちきっかり 二倍だと自信をもって言える。  今度はちょっとひねりを加えてみよう。友人がフェアなコイン九枚と両面が表のコイン一 枚を見せてから全部を同じ袋に入れ、ランダムに一枚だけ取り出して投げる。すると表か出 た。今回はどう考えたらよいだろう。これはフェアなコインなのか、それとも両面か表のコ インなのか。  ラプラスの研究ではこのパターンについても考察していて、答えはやはり感心してしまう ほどシンプルだ。前回と同じく、フェアなコインで表が出る確率は両面か表のコインのちょ うど半分だ。しかし今回は、袋から取り出したのがフェアなコインである確率が、両面か表 のコインと比べて九倍となる。この二つの確率に着目して、掛け算すればよい。友人の手に 載っているのかフェアなコインである確率は、両面が表のコインである確率のちょうど四・ 五倍だ。  このように事前にもった考えと目の前にある証拠を結びつけてその関係を記述する数式が、 ベイズの法則と呼ばれるようになった。これを広める役割を実質的に担ったのはラプラスだ ったのだから、皮肉な命名だ。事前の信念と観察された証拠をどう結びつけるかという問題 に対して、このルールは驚くほど簡単な答えを与えてくれる。ただ両者の確率を掛けあわせ るだけだ。  この数式を成り立たせるには、事前になんらかの信念をもっていることが不可欠だという 点に注目したい。友人かやって来て、「この袋からコインを一枚取って投げたら表が出た。 これかフェアなコインである可能性はどのくらいだと思う?」とだけ言ったなら、袋に入っ ているのがどんなコインなのか少なくともいくらかは情報かない限り、まったく答えられな いはずだ(確率が二つわからなければ掛けあわせることはできない)。コイン投げの前に  「袋の中」に入っていたものに関する情報−データを見る前に各仮説が真であった可能性 −を「事前確率」と呼ぶ。ベイズの法則では、あてずっぽうでもよいからとにかくなんら かの事前確率が常に必要とされる。両面が表のコインは何枚あるのか。そのようなコインは どのくらい容易に入手できるのか。そもそも、友人は人をかつぐのがどのくらい好きなのか。  ペイズの法則では事前確率の使用が必須である。かつてこの事実は問題視され、バイアス がかかっているとか非科学的であるとさえ考えられたこともある。しかし実際には、心が実 質的な白紙状態でまったく未知の状況に遭遇することはめったにない。この点については、 すぐに再び検討する。  一方、事前確率についてなんらかの推定ができる場合には、ピ″グデータであれ、もっと 一般的なスモールデータであれ、多様な予想問題にベイズの法則を適用することができる。 くじで当たる確率やコイン投げで表の出る確率を計算するのは手始めにすぎない。ベイズと ラプラスの考案した方法は、不確実性が存在して使えるデータがいくらかある場合には必ず 助けとなる。これこそまさに、未来を予想しようとするときに直面する状況なのだ。   コペルニクス原理   予想するのは難しい。とりわけ未来の予想は。                             Iデンマークのことわざ  ベルリンの壁に到着したJ・リチャードーゴ″卜は、ごく単純な問いを自分に投げかけた。 私はどこにいるのかと問うたのだ。自分がここに来だのは、この建造物の寿命全体のどの時 点かという意味である。これは四〇〇年前に天文学者二コラウスーコベルニクスを悩ませた  「われわれはどこにいるのか。宇宙の中で地球はどこにあるのか」という空間に関する問い の時間版とも言える。のちにコペルニクスは、地球か宇宙の回転の中心ではないし、じつは いかなる特別な場所でもないと考えて、革命的なパラダイムシフトを起こした。ゴ″卜は時 間についてコペルニクスと同じように考えてみることにした。  彼は自分がベルリンの壁に対面した瞬間が特別なものではなく、壁の寿命全体において等 しい確率でどの瞬間でもありうると仮定した。そして、等しい確率でどの瞬間でもありうる のなら、自分がここに来た瞬間は平均すると壁の寿命のちょうど中央にあたるはずだと考え た(中央より前である可能性か五〇パーセント、あとである可能性が五〇パーセントなの で)。一般化して言えば、いかなる現象に関しても、ほかに情報がない限り、われわれはそ れが生じている期間のちょうど真ん中に自分がいると考えてよいということだ。ある物事の 起きている期間のちょうど真ん中に自分が到着していると仮定すれば、その物事がこの先ど                           丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 のくらい続くかについての最良の推測が明白になる。今までに続いてきたのとまったく同じ 時間である。ゴ″卜がベルリンの壁の前に立つだのは建造から八年後だったので、それから 八年後まで存続すると考えるのが最良の推測だった(実際には二〇年後まで存続した)。  この単純明快な推論をゴ″卜はコペルニクス原理と命名した。この推論から、あらゆるテ ーマの予想に使えるシンプルなアルゴリズムか得られる。事前の期待がまったくない場合に これを使えば、ベルリンの壁の終焉だけでなく、持続時間の長短を間わずあらゆる現象の終 わりが予想できる。コペルニクス原理によれば、アメリカ合衆国は国家として二二五五年ご ろまで存続し、グーグル社は二〇三二年あたりまでもちこたえ、本章の初めに登場した友人 が1ヵ月前に始めた交際はおそらくあと1ヵ月ほどで終わると予想される(友人にはまだ例 の結婚式の招待状に返事を出さないように言ったほうがよいかもしれない)。同様に考える と、最近の《ニューヨーカー》誌の表紙に、おなじみのアプリアイコンが縦横に整列した六   *ここには明らかに皮肉がある。時間については、自分がここに着いたのがなんら特別な時点でない   と仮定すると、結局のところ自分をまさに中心に毆いて考えることになる。 インチ画面のスマートフォンを持つ男性か描かれて「二五二五年」というキャプションが添 えられていたが、これは真に受けないほうがよいとも言える。疑ったほうがよい。今出回っ ているスマートフォンは誕生してからようやくI〇年経つたくらいなので、コペルニクス原 理に従えば二〇二五年ごろには姿を消している可能性が高い。まして五〇〇年後に存在して いることなどありえない。二五二五年にニューヨークのような町が存在していたら、それだ けでもちょっとした驚きだ。  もっと現実的な話をしよう。ある工事現場で雇ってもらおうかと考えていて、そこに「労 災事故ゼロ七日間連続達成」という看板が出ている場合、ごく短期の仕事を予定しているの でない限り、応募は見送るべきかもしれない。市の交通システムで、次のバスがいつ到着す るかリアルタイムで表示するという、きわめて便利だが費用のかさむ方式を導入するには予 算が足りない場合、コペルニクス原理はそれより著しく簡単で安価な方法があるのではな いかと教えてくれる。じつは、前のバスがバス停に到着してからの経過時間を表示するだけ で、次のバスがいつ来るかについて大きな手がかりが得られるのだ。  だが、コペルニクス原理は正しいのだろうか。ゴ″卜が《ネイチャー》誌にこの推論を発 表すると、批判的な手紙が編集部に殺到した。もっと身近な例にこのルールをあてはめれば、 その理由も容易に納得できる。九〇歳の人に出会ったら、コペルニクス原理によればこの老 人が一八〇歳まで生きると予想される。一方、六歳児はわずか匸一歳で早くも死を迎えるこ とになる。  コペルニクス原理が場合によって成り立ったり成り立たなかったりする理由を理解するに は、再びベイズに目を向ける必要がある。コペルニクス原理は一見すると単純に思われるか、 じつはベイズの法則の一例なのだ。   ベイズとコペルニクスの邂逅  ベルリンの壁の寿命といった未来を予想する場合、検討すべき仮説は目の前で起肌ている 現象かとりうるすべての持続時間である。一週間続くか、一ヵ月か、一年か、それともI〇 年か。すでに見たとおり、ベイズの法則を用いるには、これらの時間それぞれの事前確率を まず特定する必要がある。そしてじつは、コペルニクス原理というのは「無情報事前確率」 と呼ばれるものを使ってベイズの法則を適用することによって出てくるものなのだ。  無情報事前確率というのは、慣れないうちは矛盾した表現と感じられるかもしれない。ベ イズの法則では常に事前の期待と信念を明確にすることが求められるのに、そうした情報が まったくないなどとどうして言えるのか。宝くじの場合には、情報がないことの「埋め合わ せ」として、「一様事前分布」というものが想定できよう。一様事前分布とは、当たりくじ の割合がすべて同じ確率で生じるとする考え方である。ベルリンの壁の場合、無情報事前確 率は、予想しようとしている持続時間について何も情報がないということを意味する。壁は 五分後に崩壊するかもしれないし、五〇〇〇年存続するかもしれないが、両者の確率は等し いということだ。  すでに見たとおり。この無情報事前確率を除けば、ベイズの法則を適用できるデータとし ては、。ベルリンの壁の前に立ったのは、これか建てられてから八年めである”という事実 しかない。したがって、壁の寿命が八年に届かないと予想した仮説は目の前の状況をまった く説明できないので、すべてただちに否定できる(同様に、コインの両面が表だとする予想 も、一度裏が出たら否定できる)。八年より長いとした予想はすべて可能性の領域内にある が、壁がI〇〇万年存続するなら、壁の存在が始まってこれほどすぐに壁の前に立てたのは 大きな偶然ということになるだろう。したがって、極端に長い寿命を否定することはできな いが、そのような寿命が実現する可能性もほぼありえない。  ベイズの法則がこれらの確率卜より可能性が高く、予想の平均を押し下げる短y時間も、 また逆に可能性は低いかゼロではなく、予想の平均を押し上げる長い時間もIをすべて合 わせると、コペルニクス原理が出現する。ある事柄がどのくらい持統するか予想したいのだ が、ほかに情報がまったくないという場合、今までに存続してきたのとちょうど同じ時間だ けこれからも存続すると考えるのが、可能な限り最良の推測となる。  じつは、コペルニクス原理のようなものを提案したのはゴ″卜が初めてというわけでもな かった。二〇世紀の中ごろ、ベイズ統計学者の(ロルドージェフリーズが、ある町で路面電 車の通し番号一つだけから町を走る路面電車の総数を推定する方法を研究し、同様の答えを 思いついた。自分の見た通し番号を二倍にすればよいのだ。それよりもさらに早く、第二次 世界大戦中にも同様の問題が生じていた。連合国軍がドイツの製造している戦車の台数を推 定しようとしたときのことだ。捕獲した戦車の通し番号にもとづく純然たる数学的推定によ れば、ドイツかIヵ月に二四六台を製造していると推測された。一方、広旄囲におよぶ(そ してリスクの高い)空中偵察から得られた推定ではもっと多く、一四〇〇台ほどとされた。 終戦後、正解は二四五台だったことがドイツの記録から明らかとなった。  コペルニクス原理というのがベイズの法則に無情報事前確率を用いたものにすぎないとい うことに気づくと、その有効性に関する多くの疑問に答えることができる。どんな時間尺度 か適切かすらわからぬまま一九六九年にベルリンの壁を眺めたときのように、何の情報もな い場合には、コペルニクス原理は妥当と思われる。一方、扱われているテーマについてなん らかの情報がある場合には、コペルニクス原理は完全に間違っていると感じられる。九〇歳 の人が一八〇歳まで生きるという予想が不合理に思われるのは、人間の寿命についてすでに   *これはまさにラプラスの法則が最も単純な形で行なうことである。くじ券のIパーセントやI〇八   Iセントが当たりである確率は五〇ハーセントやI〇〇パーセントか当たりである確率とまったく同   じだと考える。{ミ十})`(ヽ’十`)の式は、パワーボール(訳注 アーリカの数字選択式宝くじ)で券を一枚買   ってそれか外れだった場合にもう一枚買えば当たる確率が三分の一になると示唆される点で、黽」純す   ぎると思われるかもしれない。しかしそれは、何の情報ももたずに買うときの確率を忠実に反映した   結果なのである。 多くの情報をもち、もっと適切な予想か可能な状態で問題と向きあうからにほかならない。 ベイズの法則に持ち込む事前情報が多ければ、それだけ有用な予想が得られるのだ。   現実世界の事前確率とel●・ゆ・  おおざっば  大雑把に言って、世界には二種類のものが存在する。なんらかの「自然」な値に向かう  (あるいはそのまわりに集まる)ものと、そうならないものという二種類だ。  人の寿命は間違いなく前者に属し、「正規」分布と呼ばれる分布におよそ従う。この分布 は、ドイツの数学者カールーフリードリヒーガウスにちなんで「ガウス」分布と呼ばれたり、 その特徴的な形状から「鐘型曲線」と呼ばれたりすることもある。この曲線を使うと、大の 寿命の特徴がうまく表せる。たとえばアメリカ大男性の平均寿命は約七六歳で。寿命の分布 はこれを中心とする左右対称形の曲線を描き、中央から左右に向かってかなり急激な下りカ ーブとなる。正規分布は単一の固有な尺度をもつ傾向がある。つまり、年齢が一桁のうちに 訪れる死は悲劇で、三桁になってからの死は並外れた偉業と受け止められるのだ。ほかにも 自然界には正規分布するものがたくさんあり、人の身長、体重、血圧や、都市の最高気温、 果樹園で採れる果実の直径などが正規分布する。  しかし、世の中には正規分布しているとはとうてい思えないものもたくさんある。たとえ ばアメリカでは町の平均人口は八二二六人だが、人口別に町の個数を表すグラフを描いたら、 鐘型曲線とは似ても似つかないものができるはずだ。人口か八二二六人を上回る町よりも、 下回る町のほうがはるかにたくさんあるだろう。一方、平均より大きな町の人口は、平均を はるかに上回っているはずだ。この種のパターンは、典型的な「ペキ分布」である。また、 とりうる値かさまざまなスケールにまたがっているという特徴かあるので、「スケールフリ ー分布」とも呼ばれる。町の人口は、数十人、数百人、数千人、数万人、数十万人、数百万 人のいずれもありうるので、「正規」な町とはどのくらいの大きさであるべきかについて一 つの値を特定することができないのだ。  町の人口と同様の基本的性質をもつさまざまな日常的現象か、ベキ分布を示す。つまり大 多数は平均を下回り、少数の巨大なものだけが平均を上回るのだ。ドルで四桁からI〇桁の 範囲にまたがる映画の興行収入もその一例だ。たいていの映画はあまり儲からないか、『夕 イタニック』のような映画がときおり現れて、超弩級の収入を記録する。  これだけでなく、金銭は一般にベキ法則だらけの領域だ。人の財産と所得は、どちらもベ キ分布という性質をもっている。たとえばアメリカ人の平均年間所得は五万五六ハハドルだ が、所得はおおむねベキ分布に従うので、やはり所得が平均を上回る大よりも下回る人のほ うがはるかに多い。そして所得が平均を上回る大は、グラフからはみ出てしまうほど平均か ら隔たっている。したがって、アメリカの人口の三分の二は所得が平均に届かない一方で、 上位一パーセントの大は平均のI〇倍近い所得があり、上位てパーセントのさらに上位一八 ‐セントはそのI〇倍の所得かある。  「金持ちはさらに金持ちになる」という嘆きがしばしば聞かれ、実際に「優先的選択」とい うプロセスはベキ分布を生み出すきわめて確実な方法の一つだ。すでに人気の高いウェブサ イトほど、よそからリンクが張られやすい。オンラインで多くのフォロワーをもつ有名人ほ ど、新たなファンがつきやすい。評判のよい企業ほど、新たな顧客が集まりやすい。大きな 都市ほど、新たな住民を引きつけやすい。いずれのケースでも、結果としてベキ分布が生じ るだろう。  ベイズの法則は、限られた根拠にもとづいて予想する場合、すぐれた事前確率をもつほど 大事なことはほかになかなかないと教えてくれる。つまり。根拠の出どころと思われる分布 を把握することである。このように、すぐれた予想は、正規分布を相手にしているときとペ キ分布を相手にしているときを見分けるすぐれた直感をもつことから始まる。じつのところ、 ベイズの法則はどちらについても単純だが互いに大きく異なる予想の経験則を与えてくれる。   ……その予想ルール   君はよい意味で「今のままでずっといられる」と言ったのか。                                −ベンーラーナー  コペルニクス原理を取り上げた際、無情報事前確率にベイズの法則を適用すると、対象の 寿命は常に現在の年齢のちょうど二倍と予想されることが確かめられた。じつのところ無情 報事前確率は非常に多様なスケールをとる可能性があり(数カ月でなくなる壁もあれば、何 千年も存続する壁もある)、ペキ分布を示す。ベイズの法則によれば、ペキ分布の場合に適 切な予想戦略は常に乗法ルールである。これまでに観察された数値になんらかの一定の因数 を掛けるのだ。無情報事前確率については、この因数は二となる。ここからコペルニクス原 理か出てくる。ほかのベキ分布の場合には、掛ける数は対象とする分布によって決まる。た とえば映画の興行収入なら、この数は約一・四である。したがって、ある映画の興行収入が これまでのところ六〇〇万ドルだと聞いたら、最終的な興行収入はおよそ八四〇万ドルにな ると推測できる。これまでの金額か九〇〇〇万ドルなら、最終的には一億二六〇〇万ドルに 達すると考えられる。  この乗法ルールは、ベキ分布では記述される現象の自然なスケールが特定されないという 事実から直接的に生じる結果である。それゆえ、予想に必要なスケールを教えてくれるのは、 たとえばベルリンの壁が八年前からそこにあるという事実のような。手元にあるただ一つの データ点だけである。このデータ点の値が大きければ、おそらく扱っているスケールも大き いし、またその逆の関係も成り立つ。ある映画が今までに六〇〇万ドルの興行収入を上げた という情報がある場合、それが公開からわずか一時間でその金額に達した大ヒ″卜作という こともありうるが、最終的に数百万ドルしか稼げない映画、という可能性のほうがずっと高 い。  一方、事前確率が正規分布をとる場合にベイズの法則を適用すると、まったく異なった指 針が得られる。つまり、乗法ルールの代わりに平均ルールか得られるのだ。これは分布の  「自然」な平均−単一の明確なスケールーをガイドとして使うというルールだ。たとえ ば平均寿命に達していない大については、単純に平均を予想する。平均寿命に近づき、さら にそれを過ぎたら、あと数年生きると予想する。このルールに従うと、九〇歳の大は九四歳 まで生き、六歳児は七七歳まで生きるという妥当な予想が得られる(六歳児か人口全体の平 均寿命である七六歳よりも少し長生きすると予想されるのは。すでに幼児期を通過したから である。この六歳児は分布の左端にはいないのだ)。  映画の上映時間も大の寿命と同様、正規分布に従う。ほとんどはI〇〇分付近に集中し、 それより長いものと短いものか分布の両側で下降線を描く。しかし。人の活動が常にこれほ どきれいな分布を示すわけではない。詩人のディーソーヤングは、節番号のついた詩の朗読 を聴いていて、読み手が第四節の始まりを告げると必ず気が重くなると語ったことかある。 節が三つを超えると先か見通せなくなり、これから延々と詩を聴かされる覚悟を決める必要 があるという。ヤングの落胆は、じつは完璧にベイズの法則に従っている。詩を分析すると、 映画の上映時間のような正規分布ではなくベキ分布に近い分布となっていることがわかる。 ほとんどの詩は短いが、一部の詩は超大作なのだ。だから詩の朗読を聴くときは、座り心地 のよい座席を確保しなくてはいけない。正規分布するものが長く続きすぎていると思われる 場合には、もうすぐ終わると考えてよい。しかしベキ分布するものが長く続いている場合に は、それが長ければ長いほど、さらに長く続くと予想できる。  実生活で遭遇する物事には。これらの両極端のあいだにじつは第三のカテゴリーがある。 しばらく続いているという根拠だけでは、もうすぐ終わるかどうか予想できないものだ。世 の中にはひたすら不変なものもある。その種の現象を研究したデンマークの数学者、アグナ ー・クラルプーアーランは、互いに独立な事象の生じる間隔の分布を公式化して、アーラン 分布と呼ばれる関数をつくった。この曲線の形状は正規分布ともベキ分布(訳注 ロングテー ルやファットテールと呼ばれる。図6参照)とも異なり、鳥の翼のような形をしている。上昇して なだらかな山を描いたあと、尾はベキ分布よりも急激だが正規分布よりはゆるやかに下降す るのだ。二〇世紀の初めにコペン(Iゲン電話会社で働いていたアーランは、この分布を利 用して電話ネ″トワークで通話と通話のあいだに予想される空き時間をモデル化した。それ 以来、アーラン分布は都市計画者や建築設計者が自動車や歩行者の通行をモデル化したり、 ネ″トワーク技術者がイソターネット用のインフラを設計したりするのにも利用されている。 自然界にも、事象が完全に互いから独立していて、発生間隔がアーラン曲線を描く領域はた くさんある。その一例が放射性崩壊であり、ガイガーカウンターが次に反応を示すまでの間 隔の予想はアーラン分布で完璧にモデル化される。アーラン分布は、議員の在職期間など、 ある種の人間活動を記述するのにもかなり有効である。  アーラン分布からは、第三の予想ルールが得られる。常に物事はあと一定時間だけ続くと 予想せよという加法ルールだ。「あと五分!………「そして五分後」あと五分I・」という言葉 の繰り返しは、あとどのくらいで家や職場を出られるのか、あるいは仕事の完了まで何分か かるのか、といった場面でしばしば聞かれるが、これは現実的な見積もりをする能力の欠如 を表しているように感じられるかもしれない。ともあれ、アーラン分布するものを相手にす る場合には、この言葉の繰り返しは正しいものとなる。  カジノのトランプゲームの愛好家が、もう帰りましょうと言う妻に向かって、あと一回ブ ラックジャックを当てたら(その確率はおよそ二〇分のI)今日は終わりにすると言う場合、 彼は「あと二〇回くらいだ!」と本気で予想しているのかもしれない。ツキのないまま二〇 回のプレイが終わり、妻が戻ってきて、今度はいつまで待たせるつもりなのと言うと、夫は 先ほどと同じ答えを繰り返す。「あと二〇回くらいだ1・」。この不屈のトランプ愛好家は、 あたかも短期的な記憶喪失を起こしたかのように聞こえる。しかしじつは、彼の予想は全面 的に正しいのだ。実際、過去の結果や現在の状態がどうであれ常に同じ予想をもたらす分布 は、統計学者のあいだで「無記憶性」の分布と呼ばれている。  これらの大きく異なる三種類の最適予想、すなわち乗法、平均、加法の各ルールは、ベイ ズの法則をそれぞれベキ分布、正規分布、アーラン分布に適用した直接的な結果である。こ れらの予想が得られるプロセスを考えると、この三つの分布からは特定の事象に対してどの くらい驚くべきかについても異なる目安が得られる。  ベキ分布では、あるものが長く続いていれば、それに従ってこれからも長く続くと予想さ れる。そのためベキ分布の事象は、生じるまでの時間が長ければ長いほど驚くべきものであ り、その事象が起きる直前にその驚きは最大となる。国や企業や組織は時間とともに確固た る存在となっていくものなので、破綻すれば必ず驚きをもたらす。  正規分布では、事象は平均に達するものと期待されるので、早く起きれば意外に感じられ るが、遅く起きた場合には意外に感じられない。むしろそのときには起きるのが遅すぎたと 感じられるので、起きるまでの時間が長ければ長いほど、起きて当然と感じられる。  アーラソ分布では、当然ながら事象はいつ起きても意外性にまったく差はない。どんな状 況も、どれほど長く続いてきたかにかかわらず、終わる可能性は常に等しい。政治家がいつ も次の選挙のことを考えているのも道理というわけだ。  賭け事にも、これと似た定常状態の期待という特徴がある。たとえばルーレットの勝ち負 けが正規分布に従うなら、平均ルールがあてはまるだろう。このルールによれば、しばらく 負けが続いたらそろそろ当たりか来るはずで、おそらくその次にはまた負けか続くと考えら れる(その場合、次に勝つまで続けて、それで終わりにするのが理にかなっているだろう)。 一方、勝敗がベキ分布に従うならば乗法ルールがあてはまり、一度勝てば次々に勝ちが続く が、負けが長く続いているなら負けはさらに続くはずだ(このシナリオでは、一度勝ったら プレイをしばらく続けるべきだが、負けが続いたらやめるのか正しい)。だが、無記憶性の 分布に対しては手の打ちようがない。加法ルールによれば、勝つ見込みは今も一時間前も変 わらず、一時間後にもやはり変わらない。何も変化しない。がんばり続ければ最後には報わ れるというわけではなく、損切りすべき分岐点も存在しない。ケニー・ロジャースの「ザー ギャンブラー」という楽曲は「潮時を知れ/引き際を知れ」という歌詞で有名だが、無記憶 性の分布が相手では、やめるのにぴったりなタイミングなどない。ギャンブルの中毒性がこ れでいくらか説明できるかもしれない。  どんな分布を相手にしているかがわかれば、その情報はとても役に立つ。(Iヴァード大 学の生物学者として多数の著作で科学の啓蒙に努めたスティーヴンージェイーグールドは、 自分ががんにかかっていると知らされたとき、すぐさま関係する医学文献を読み始めた。そ して、なぜ医師がそれに反対したのか悟った。彼と同じ種類のがんにかかった患者は、発見 から八ヵ月以内に半数が死亡していたのだ。  しかし「八ヵ月」という統計量一つだけでは、生存者の分布については何もわからない。 これが正規分布なら、平均ルールによって余命がかなりはっきりと予想できるだろう。余命 はおよそ八ヵ月だ。しかしベキ分布なら、尾が右側へ長く延びていくので、状況はまるで違 ってくる。乗法ルールによって、長く生存すればするほどさらに長く生存できるという根拠 が増えていく。さらに文献を読んだグールドは、「分布は強い右歪性で、長いしっぽは(ど んなに小さくても)メジアンの指す八ヵ月よりも長く何年も先まで伸びていた」ことを発見 し、「小さなしっぽから私が除外される理由も見つからなかったので、私は安堵のため息を ついた」 (『がんばれカミナリ屯』贋野喜幸・石橋百枝・松本文雄訳、早川書房より引用)。グールドは 結局、がんと診断されてから二〇年も生き続けた。   スモールデータと直感  乗法、平均、加法という三つの予想ルールは、日々遭遇するさまざまな状況に適用できる。 それらの状況において、大はおおむね適切な予想ルールを非常にうまく使っている。本書の 著者の一人であるトムは、大学院生時代にMITのジョシューテネソバウムと共同で、被験 者にさまざまな身近な数量を予想してもらう実験を行なった。人の寿命、映画の興行収入、 アメリカの下院議員の在職期間などについて。各項目につき一つの情報だけ(寿命では現在 の年齢、映画では今までの興行収入、議員では今までの在職年数)をもとにして予想させた。 それから項目ごとに、被験者の予想と、現実世界の実際のデータにベイズの法則を適用して 出した予想を比較した。  その結果、被験者の予想はベイズの法則による予想にきわめて近かった。被験者は直感的 に、現実世界でベキ分布や正規分布、あるいはアーラン分布という異なる分布に従う数量に ついてそれぞれ異なるタイプの予想をしたのだ。つまり、乗法ルール、平均ルール、加法ル ールがどんな状況で必要とされるかについてはもともと知らないか、あるいは意識的に思い 出すことはないにしても、日常生活の中でそれらの分布が出現するさまざまなケースとそれ らの分布か示すさまざまなパターンをひそかに反映して、日常的に予想がなされる傾向があ ると言える。  ベイズの法則についてわかっていることを踏まえると。大がこのようにとてもうまく予想 できるということから、予想をする際の仕組みを理解する助けとなるきわめて重要な事実が        丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶    丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 見えてくる。スモールデータとは、変装したビ″グデータなのだ。ほんの数回(またはたっ た一回)の観察からすぐれた予想がしばしば可能なのは、大が豊かな事前確率をもっている からだ。気づいているかどうかは別として、われわれの頭の中には、映画の興行収入や上映 期間、詩の長さ、議員の在職期間、そして言うまでもなく人の寿命について、驚くほど正確 な事前確率が収められているらしい。それらは大が意識的に集める必要はなく。周囲の世界 から自然に吸収される。  おおむね人の直感はベイズの法則による予想にかなり近いらしい。この事実から、人の予 想をもとにしてさまざまな事前分布を突き止める「リバースエンジュアリング」が可能にな る。信頼できる現実世界のデータを入手するのが難しいような分布についても、それは可能 である。たとえば、カスタマーサービスに電話をかけて待たされるというのは、人の経験に おいて残念ながらよくある出来事である。しかし、(リウッド映画の興行収入のデータが公 表されることはあっても、カスタマーサービスの待ち時間のデータが公表されることはない。 それでも、人の予想が自分の経験による情報にもとづいているのならば、ペイズの法則を使 って人の期待を探ることにより、世界に関する間接的な調査を行なうことができる。トムと ジョシュが実験の被験者にたった一つのデータ点から電話の待ち時間を予想させたところ、 被験者が乗法ルールを使っていたことを示す結果か得られた。大が予想する待ち時間は、本 人がそれまでに待だされた時間の一と三分の一倍にあたる。これはつまり、事前確率として ペキ分布を想定しているということだ。ベキ分布ではデータのとりうる範囲が非常に広いが。  。超弩級”の待ち時間にはならないことを祈ろう。過去一〇年間、認知科学者はこのような アプローチによって、視覚から言語に至るまで幅広い領域で、人の考える事前分布を同定す ることかできるようになってきた。  ただし、大事な条件が一つある。よい事前確率がなければ、よい予想はできないのだ。た とえばトムとジョシュの実験では、被験者の予想が一様にベイズの法則とは異なった項目か 一つあった。古代エジプト王の統治期間についての予想である(じつは、これはアーラソ分 布となる)。直感で答えられるほど日常的に触れることのないテーマなので、当然ながらう まく予想できなかった。よい予想にはよい事前確率が必要なのだ。  このことから、重要なことがいろいろとわかる。われわれの判断力は期待を裏切り、期待 は経験を裏切る。未来についての予想から、われわれの暮らす世界、そしてわれわれ自身の 過去について、多くのことが明らかとなる。   予想が予想者について明かすこと  一九七〇年代の初めにウォルター● 丶`丶 シェルがあの有名な「マシュマロテスト」を行なっ たとき、彼が知ろうとしていたのは、満足を先送りする能力が年齢とともにどう発達するか だった。スタンプ″Iド大学のキャンパス内にある保育所で、三歳から五歳の子どもの意志 力をテストした。子どもたちにマシュマロなどのおいしい菓子を一つ見せて、実験をしてい る大人がしばらく部屋からいなくなると伝える。菓子をすぐに食べたければ食べてもよいが、 大人が戻ってくるまで待てたら菓子が二個もらえると予告する。  一部の子どもは我慢できず、菓子をすぐに食べた。一部の子どもは実験者が戻ってくるま で一五分ほど待ち続け、約束どおりに菓子を二個もらった。しかし、おそらく最も興味深い のは中間の集団だった。つまり、しばらく待ったがやがて誘惑に負けて、菓子を食べた子ど もたちだ。  必死に誘惑と闘い、果敢に苦しんだが、結局は降参してマシュマロをもう一つもらい損ね た子どもの事例は、ある種の不合理性を示唆するものと解釈されている。どうせ降参するな ら、すぐに降参して苦しみを回避したほうがよいのではないか。しかし、子どもが自分の置 かれた状況をどうとらえているかによって、話は変わってくる。ペンシルヴェニア大学のシ ョー・マグワイアとショー・ケイブルは、もしも実験者が戻ってくるまでの時間がベキ分布 に支配されていて、不在時間が長くなるほどこれからもさらに長く待たされるのなら、ある 段階で損切りするのは完璧に理にかなう、と指摘している。  つまり誘惑に抗う能力というのは、少なくとも部分的には意志力というより期待の問題な のかもしれない。あと少し待てば大人が戻ってくる(正規分布のように)と予想したなら。 我慢できるはずだ。平均ルールによれば、今までつらい思いで待ったのなら、とにかくがん ばって待ち続けるべきと言える。今にも戻ってくるはずなのだから。だか、大人がいつ戻っ てくるのかを予想する時間尺度がまったくわからない場合(ベキ分布と重なる)には、苦し い闘いとなる。乗法ルールによれば、すでに長く待ったとしても、それはこれから続く待ち 時間のほんの短い一部にすぎないと考えられる。  最初のマシュマロテストから数十年後、ウォルター● 冫丶 シェルは共同研究者らとともにこ のテーマに戻り、かつて実験に参加した子どもだちかどんな人生を送っているか追跡調査し た。驚いたことに、待ち続けて菓子を二個もらった子どもは青年期に入ってほかの子どもよ りも人生に成功していることが判明した。SAT(進学適性試験)の点数といった定量的な基 準で測っても、やはりそうだった。マシュマロテストか意志力を試すものなら、この結果は 自制の習得か人生に与えうる影響を表す強固な証拠となる。一方、この実験が意志力よりも 期待を試すものならば、実験結果はそれとは別の、おそらくもっと胸の痛む事実を伝えるこ とになる。  最近になって、マシュマロテストにおいて過去の経験が行動にどう影響しうるかをロチェ スター大学の研究チームが調べた。マシュマロの話がまったく出ていない段階で、実験に参 加した子どもに工作を始めさせた。実験者はぱっとしない材料を子どもに渡して、すぐにも つとよい材料を持って戻ってくると約束する。じつは、子どもたちはひそかに二つのグルー プに分けられている。一方のグループでは、実験者は約束どおりにもっとよい材料を持って 戻ってくる。もう一方のグループでは、実験者は約束を破り。手ぶらで戻ってきてただ謝る だけである。  工作が終わると、子どもたちは標準的なマシュマロテストに進む。ここでは実験者のこと が信用できないと知った子どものほうが、実験者が戻ってくる前にマシュマロを食べてしま い、もう一つもらえるチャンスを手放す傾向が強かった。  マシュマロテストをパスできず、のちの人生でも成功しないというのは、意志力の欠如と は無関係なのかもしれない。大人は信頼できないと思わされた結果とも考えられる。大人は 約束を守らず、一度いなくなったらいつ戻ってくるかわからないと思わされてしまった結果 だ。自制を学ぶことは大事だが、信頼できる大人が絶えずそばにいる環境で育つことも同じ く大切なのだ。   複製技術時代の事前確率   それは、きょうの朝刊に書いてあることが本当であることを確認するために、おなじ朝   刊を何部も買うようなものだ(『哲学探究』丘沢静也訳、岩波書店より引用)。                      −ルートヴィヒーヴィトゲンシュタイy   読み物には細心の注意を払う。なぜならそれは彼が書くものだから。習得するものに細   心の注意を払う。なぜならそれは彼の知識になるものだから(『本を書く』柳沢由実子訳、   パピルスより引用)。                               −アニー・ディラード  ペイズの法則が教えてくれるように、よい予想をするのに最良の方法は、予想しようとし ている事柄について正確な情報を得ることだ。人の寿命はうまく予想できるのに、古代エジ プト王の統治期間について推定せよと言われてもうまくできないのは、そういうわけだ。  ペイズの法則をうまく使いこなせるということは、世界を正しい割合で表現できること、 すなわち適切に調整されたよい事前確率をもっていることを意味する。人間やその他の動物 においては、概してこれが自然に起こる。一般に、驚くべきことが起これぱわれわれは驚く はずだし、そのようなことが起こらなければ驚かない。客観的に見て正しくないバイアスを 蓄積している場合でも、そのバイアスはわれわれの住む世界のある特定の部分を反映すると いう役割はそれなりに果たすのがふつうだ。たとえば、砂漠で暮らす大は世界全体に存在す る砂の量を過大に見積もるかもしれないし、極地圏で生活する大は世界の雪の量を過大に見 積もるかもしれないか、どちらの大も自分の生活環境にはぴったり合った見方をしている。  だが、種か言語を獲得するとJすぺてが崩れ始める。われわれが語るのは自らの経験だけ ではない。主に関心をかき立てる物事について話し、それは往々にしてめずらしい事柄だ。 当然と言ってもいいだろうが、事象は常にその事象に固有の頻度で経験される。ところが、 言語にはこれかまったくあてはまらない。ヘビに咬まれたことのある大や、雷に打たれたこ とのある大は、死ぬまでその話ばかり何度も語ることが多くなるだろう。そのたぐいの話は 強烈な印象を残すので、聞いた大が別の場で語ることもあるはずだ。  こうして、他者とのコミュニケーションと、世界に関する正確な事前確率の維持とのあい だに、奇妙な応酬が生じる。大が自分にとって関心のある事柄について話したり、相手が関 心をもつと思われる話を聞かせたりすると。経験に関するデータがゆがめられる。それによ って、適切な事前分布を保つのが難しくなる。さらに、活字メディア、ニュース番組、ソー シャルメディアなど、言葉を機械の力で拡散することを可能にする革新的技術の発達ととも に、事前分布の維持はますます困難になる一方である。  墜落した飛行機と衝突事故を起こした自動車を今までにそれぞれ何回くらい見たことがあ るか考えてみよう。だいたい同じくらいということも十分にありうる。ただし、事故車の多 くは路上ですぐ近くから見だのに対し、飛行機はおそらく別の大陸で墜落したものの映像が インターネットかテレビで送られてきたものだろう。たとえばアメリカでは、二〇〇〇年以 降に旅客機の墜落事故で命を失った人の数は、カーネギーホールを半分満たすにも足りない。 これに対し。アメリカ国内で二〇〇〇年以降に自動車事故で死亡した人の数は、ワイオミン グ州の全人口を上回る。  単純に言えば、メディアによる事象の取り上げ方は、現実世界で実際に起きる頻度に対応 していない。社会学者のバリー・グラスナーの指摘によれば、アメリカでは一九九〇年代の あいだに殺人事件の発生率が二〇パーセント下がったか、同じ期間にアメリカのニュース番 組で銃による暴力事件が扱われた回数は六〇〇ハーセソト増加した。  ベイズの法則を直感的にうまく使えるようになりたければI適切な予想ルールをいちい ち考えなくても自然によい予想ができるようになりたければI頭の中の事前確率を守る必 要がある。いささか納得しがたいが、そのためにはニュース番組を見ないほうがよいのかも しれない。  7 オーバーフィッティング    過ぎたるは及ばざるがごとし  チャールズーダーウィンは、いとこのエマーウエ″ジウ″ドにプロポーズすべきか、心を 決めようとしていた。そこで鉛筆と紙を取り出して、結婚によって生じうるあらゆる結果を 比較検討した。結婚のメリ″卜として、子ども、伴侶、「音楽と女性のおしゃべりのもたら す心地よさ」を書き込んだ。デメリ″卜としては、「多大な時間の喪失」、好きなところへ 出かける自由の欠如、親戚を訪ねる負担、子育てに伴う支出と不安、「妻がロンドンを好ま ないかもしれない」という懸念、書籍代が減ることを記した。メリ″卜の欄とデメリットの 欄を比較した結果、かろうじて勝負がつき、ダーウィンは紙の下部に「結婚卜結婚卜結 婚。Q.E.D.」と走り書きした。そして数学で証明が終わったことを表す「Quod erat demonstranduヨ」をさらに自分の言葉で言い直した。「結婚する必要あり。証明終わり」。  こうしたメリ″卜とデメリ″卜のリストは、ダーウィンの時代にはすでに長く使われてき たアルゴリズムであり、その一世紀前にはベンジャミソーフランクリンもこれを擁護してい た。「われわれを迷わせる不確実性」に打ち勝つ方法として、フランクリンはこう記してい る。   私のやり方はこうだ。紙に縦線を一本引いて二つの欄に分け、一方の上部に「メリッ   ト」、もう一方の上部に「デメリット」と書く。それから三、四日かけて検討しながら   さまざまな項目を書き込み、さまざまなタイミングで頭に浮かんでくるいろいろな賛成   理由と反対理由を簡潔に記す。すべてを一覧できるようにしたら、それぞれの重みを推   定する。重みが対等と思われるものが左右に一つずつ見つかったら、その二つを抹消す   る。賛成理由一つと反対理由二つの重みがつりあっている場合には、その三つを抹消す   る。反対理由二つと賛成理由三つがつりあうと判断したら、その五つを抹消する。この   手順を続けていくと、最終的にどちらが優勢かわかる。さらに一日か二日ほど考えて、   どちらの側にも重要な理由が新たに加わらなければ、そこで結果に従って決断に至る。  フランクリンはこれを計算のようなものと考えてさえいた。「この種の等式、すなわち道 徳的代数学とか思慮の代数学とでも呼ぶべきものには、大きな利点かあることに気づきまし た」と彼は手紙に記している。  こと思考が必要な事柄については、考える量が多ければ多いほどよいと思われがちである。 メリットとデメリットをたくさん挙げたほうが適切な判断を下すことができ、株価について 関係する要因をたくさん見つけたほうが正確な予想ができ。時間をたくさんかけたほうがす ぐれたレポートか書けると思われやすい。フランクリンのやり方の根底には、確かにそうい う前提がある。この意味で、ダーウィンが結婚に対して「代数学的」にアプローチしたのは、 明らかに行き過ぎではあっても著しく、なんなら。立派”と言ってもよいほど、合理的な ことかもしれない。  しかし、仮にフランクリンやダーウィンが機械学習研究(コンピューターに学習させて、 経験にもとづいて適正な判断ができるようにする方法を研究する学問分野)の時代に生きて いたなら、道徳的代数学が根底から揺らぐのを目撃することになっただろう。どれほど懸命 に考えるべきか、どれほど多くの要素を検討すべきかという問題が、統計学者や機械学習研 究者のあいだで「オーバーフィッティング」と呼ばれる難題の中核に存在する。この問題を 掘り下げるとわかるとおり、考える量を意図的に少なくするほうか、物事はうまくいくこと もあるのだ。オーバーフィごアイングについて知っておくと、市場。食卓、スポーツジムに 対してIそして教会の祭壇に対してもIとるべき姿勢が変わってくる。   複雑性に対する申し立て   あなたにできることはすべて私のほうがうまくできる。何でもあなたよりうまくできる。       −映画『アニーよ銃をとれ』  決定とは、すべてある種の予想である。まだ 試していないものがどのくらい気に入るか、あ るトレントかどこへ向かっているのか、先に歩 んだ人の少ない(または多い)道がどんな結果 につながるのか。そして大事なのは、予想には 必ず、既知の事柄と未知の事柄という二つの別 個の事柄について考える作業が伴うということ だ。つまり予想というのは、今までの経験を説 明するとともに推測しようとしている未来の経 験について何かを教えてくれる、そんな理論を 形成する試みなのだ。すぐれた理論はもちろん、 どちらの恩恵ももたらしてくれる。しかし予想 と名のつくものならピンからキリまで、この二 役を果たさなくてはならないのが実際だ。この 事実から、ある駆け引きか不可避となる。  この駆け引きの一例として、ダーウィンが見 たら重要と思ったかもしれないデータセ″卜を見てみょう。 結婚後一〇年間における生活満足度だ(図8)。ドイツで行 なわれた最近の研究で得られたデータである。この研究か ら数値を採って、グラフ上に各点をプロ″卜した。次にな すべきは、これらの点にフィ″卜してさらに将来へと延び ていく線を表す式を見つけ出し、一〇年め以降についての 予想をすることだ。  考えられる一つの式では、婚姻年数という一次の項を使 って生活満足度を予想する。この式から、グラフ上に一本 の直線を引くことかできる。また、「時間」と「時間の二 乗」を用いた二次多項式も考えられる。この式からは下に 凸の放物線が描かれ、時間と幸福度とのもっと複雑かもし れない関係をとらえることかできる。式を拡張してさらに 多くの次数(時間の三乗など)を取り入れたら、曲線はさ らに多くの変曲点をもち、ますます「曲がりくねった」柔 軟なものになっていくだろう。九次の式にたどり着くころ には、非常に複雑な関係をとらえることかできるようにな る。  数学的に言えば、二次多項式モデルは一次多項式モデルに含まれていた情報をすべて取り 込んだうえで、使える次数を上げたものである。同様に、九次多項式モデルでは二次多項式 モデルで使われた情報すべてに加えてさらに別の情報も利用するが、この情報はかなり大量 となる可能性もある。この理屈に従えば、九次多項式モデルは常に九種類のモデルのうちで 最良の予想を与えてくれるはずだと思われる。  だか、話はそんなに単純ではない。  これらのモデルをデータに適用した結果を図9に示す。一次多項式モデルは、当然ながら 実際のデータ点の多くは外しているものの、至福の新婚期が過ぎたらあとは下降していくと いう基本的な傾向はとらえている。しかしこの直線的な予想からは、下降が果てしなく続い て最終的には無限の不幸に至ることが予見される。そのような軌跡には、どこか実態にそぐ わないところが感じられる。二次多項式モデルのほうが実際のデータにフィ″卜し、一次多 項式モデルとは違って曲線を描いていることから、結婚直後に見られる生活満足度の低下が 時間とともにおおむね平坦に近づいていくという長期の予想が得られる。九次多項式モデル は、グラフ上のデータ点をもれなく通過する。調査で得られたすべてのデータにほぼ完璧に フィットしているということだ。  そうだとすると、九次多項式モデルが最良のモデルであると思われる。しかし、研究でカ バーしなかった時期についての予想を見てみると。このモデルが実際にどれほど役立つのか と疑問が生じるかもしれない。教会の祭壇では不幸のどん底にいて、結婚式から数カ月間は 満足度がめくるめく急上昇を示したかと思うと、今度は激しく上下に揺さぶられるジエ″ト コースターのような展開となhソ、一〇年めに入ると一気に急落する。これとは対照的に、二 次多項式モデルで予想される平坦化は、結婚と幸福度について心理学者や経済学者が言って いることに最も合致する予想である(ちなみにこの学者たちは、平坦化が結婚そのものへの 不満ではなく常態への回帰を反映しているにすぎないと考えている。つまり本来の生活満足 度に戻るだけということである)。  そこでこんな教訓が得られる。モデルに取り入れる次数を高くするほうが、すでにもって いるデータによくフィ″卜するというのは、当然ながらまさしく真実である。しかし手元の データによくフィットするということが。必ずしもよい予想につながるとは限らない。  確かに、単純すぎるモデル(たとえば一次多項式で得られる直線)では、データの基本的 なパターンがとらえられない可能性かある。真実が曲線を描くなら、直線でそれを正しく表 現することはできない。一方。ここで登場した九次多項式モデルのように複雑すぎるモデル は、たまたま観察した特定のデータ点から過剰に影響を受ける。その結果、特定のデータセ ″卜にぴったり合うようにできているという理由により、そのようなモデルから得られる解 は非常に変動の大きなものとなる。対象者を替えて調査を繰り返した場合に同じ基本パター ンについて変動が少なければ、一次や二次の多項式モデルはおおむね安定を保つだろう。と ころが九次多項式モデルは調査ごとに激しく揺れ勁く(図10)。これを統計学では「オーバー フィごアインダ」と呼ぶ。  次数の高い複雑なモデルのほうが常にすぐれているわけではない。このことは、機械学習 をめぐるきわめて深遠な真実の一つだ。次数を上げると得られるものが減ってしまうという ことだけが問題なのではない。複雑なモデルのほうか単純なモデルより適切な予想かできる のだが、その煩雑さに見合うほどではない、という話ではない。じつは、複雑なモデルが予 想の質を著しく下げてしまうこともあるのだ。   データの偶像崇拝  対象を完璧に代表する標本から引き出され、誤りがまったくなく、評価対象を正確に表す データがふんだんにある場合には、利用可能なモデルのなかで最も複雑なものを使うのがま さしく最良のアプローチだろう。しかし、これらの条件が一つでも欠けている場合にモデル をデータに完璧にフィ″卜させようとすると、オーバーフィごアイングのリスクが生じる。  言い換えるなら、ノイズや測定ミスを相手にしているとき(たいていの場合はそうだ)に はいつでも、オーバーフィッティングが危険をもたらす。データの収集方法や報告方法に誤 りか存在することがあるし、人の幸福度など、定義するだけでも難しく、測定するのはなお さら難しい現象を調べていることもある。利用可能なモデルのなかで最も複雑なものは、そ の柔軟性のおかげでデータの示すどんなパターンにもフィ″卜することができるが、これは つまり、そうしたパターンかノイズの中に生じた幻影にすぎなくてもフィ″卜してしまうと いうことだ。  歴史を通じて、宗教的な文書は信徒に対して偶像崇拝への戒めを説いている。無形の神的 存在の代わりに、それを表象する彫像、絵画、遺品といった有形の品を崇拝してはならない と教えているのだ。たとえば「モーセの十戒」の第一の戒律では、「刻んだ像……天にある もの……の、どんな形」 (「出エジプト記」二〇章四節。『聖書「口語」』日本聖書協会より引用)にも ひれ伏してはならないとされる。「列王記」では、神の命令でつくられた青銅のヘビが神自 身の代わりに崇拝され香をたかれるようになる(神は快く思わない)。基本的に、オーバー フィッティングはデータに対する偶像崇拝のようなものであり、真に重要なものではなく単 に測定可能なものに注目する結果として起きる。  手元のデータと求める予想とのあいだに生じるこうしたギャップは、ほぼいたるところに 存在する。重大な決断を下すときには、自分にとって現時点で重要な事柄について考えるこ とによって、あとで満足をもたらすであろうことを推測するしかない((Iヴァード大学の ダユエルーギルバートの言葉を借りれば、未来の自己はしばしば「高い金をかけて入れた夕 トゥーをまた高い金をかけて消されてしまう」 〔『明日の幸せを科学する』熊谷淳子訳、〔ヤカワ文 庫より引用〕)。株式市場の予想をする場合には、将来の株価ではなく過去の株価と関係した 情報しか見られない。日々のちょっとした行動についても同じことが言える。メールを書く ときには、自分の読み方をもとにして相手の読み方を予想する。世論調査と同様に、日常生 活で遭遇するデータにも必ずノイズがあり、せいぜい真に関心のある事柄の代替基準にしか ならない。  結果として、考慮する事柄を増やし。それらをモデル化するのに努力を費やせば費やすほ ど、不適切なものを最適化の対象とするという誤りを犯すおそれがある。根底に存在する大 きな力の代わりに、データという青銅のヘピに祈りを捧げるのに等しいのだ。   オーバーフィッティングはいたるところに  オーバーフィッティングという現象を知ると、いたるところでそれか目につくようになる。  たとえば、味覚の皮肉がこれで説明できる。進化論の立場から言えば、味蕾の機能とは有 害なものを食べないようにすることのはずなのに、体に悪いとされる食べ物が往々にしてこ のうえもなく美味に感じられるのはなぜなのか。  その答えは。味は食べ物が体によいかどうか知るための代替基準となるからである。脂肪、 糖分、塩分は重要な栄養素であり、過去数十万年間はこれらを含む食べ物をおいしいと感じ ることが生命を維持する食事を確保するための妥当な基準だった。  ところか手に入る食べ物を加工できるようになると、この関係が崩れた。体によい量を超 えた脂肪や糖分を食べ物に加えて、しかも昔から人の食事を構成してきた野菜や穀類や肉と 取り合わせずに、脂肪や糖分がたっぷりの食べ物ばかhソ食べることが今では可能だ。つまり、 味覚をオーバーフィ″卜させることができるのだ。食べ物を加工する技術が進歩すれば(そ して生活様式が祖先から隔たっていけば)、それに伴って味覚は基準として不完全になって いく。こうして人の営みが災禍となり、食べたいものが食べるべきものと必ずしも一致して いなくても、とにかく食べたいものが食べられるという危険な状態へと至った。  だから、気をつけなくてはいけない。糖分をたっぷり摂って蓄えた余分な体重を落とそう とスポーツジムに行ったら、健 康についてオーバーフィ″卜する危険を冒すかもしれない。 体脂肪率が低いとか筋肉量が多いといった目に見える健康のしるしは測定しやすく、心臓病 などの病気にかかるリスクの抑制と関連している。だが、完璧な代替基準ではない。健康の 指標をオーバーフィ″卜して、体脂肪率を下げようと極端な食事制限に走ったり、筋肉を増 やそうとステロイド剤を服用したりすれば、見た目には健康的になれるかもしれない。しか しそれはあくまでもうわべの話だ。  スポーツでもオーバーフィッティングが見られる。たとえば本書の著者のトムはI〇代の ころから断続的にフェンシングをやっている。フェンシング(fencing)という競技はもと もと、決闘のときに身を守る(defence)方法の指導を目的としていた。フェンシングとい う名前はここからきている。現代のフェンシングで使う剣は、かつてそのような対決の訓練 をするのに使われていたものと似ている(エペについてはとりわけそう言える。五〇年ほど 前までは、エペを使った正式な決闘がまだ行なわれていた)。しかし剣の先端のボタンで突 きを判定する電子審判装置が導入されると、この競技の性質か変わった。そして本物の決闘 ではあまり役に立たない技が、競技では決定的に重要なスキルとなった。現代のフェンシン グ選手か使う剣はしなやかで、ボタンが反応して得点が加算されるのに十分な強さで対戦相 手をかすめるように、ボタンを相手に「打ちつける」ことができる。そのせいで、剣で切り つけたり突いたりするというより、細い金属製の輹で相手を打っているように見えることが ある。スポーツとしてのおもしろさは変わらないが、選手が得点のコツに合わせて戦術をオ ーバーフィットさせれば、現実世界の剣士がもつべき技を教え込むという目的には役立だな くなっていく。  しかし、オーバーフィッティングがどこよりも強力で厄介なのはビジネスの世界だろう。 スティーヴージョブズはこう言っている。「インセンティブという仕組みは有効です。だか ら、人に何かをさせるためにどんなインセンティブを与えるかについては、よく考えなくて はいけません。さまざまなインセンティブの仕組みから、予想を超えたありとあらゆる結果 が生じるのですから」。新興インキュベーター企業のYコンビネーターのサムーオルトマン 会長も、ジョブズと同様の発言をしている。「CEOが何かを評価すると決めたら、それが どんなものであっても会社はそれを実現しようとする。まさにそれか現実なのです」。  実際、なんらかの不本意な影響をもたらさないインセンティブや評価基準をひねり出すの は想像を絶するほど難しい。一九五〇年代、コーネル大学で経営学教授の職にあったV・F ・リッジウェイは、多数のそうした「パフォーマンス評価による機能障害的な結果」をまと めた。ある就職斡旋会社では、スタ″フは面談の実施回数によって評価されていた。そのせ いで、スタ″フはなるべく短時間で面談を終わらせたがり、クライアントの就職を実際に助 けることにはあまり時間をかけなくなってしまった。ある連邦法執行機関では、捜査官に月 間ノルマを与えると、月末には緊急性の高い事件には手を出さず、簡単な事件を選ぶことか 判明した。ある工場では、生産量の評価を重視したところ、監督者たちが設備の保守や修繕 をないかしろにするようになり、その後の大事故につながった。こうした問題を、単に管理 目標の不達成として片づけるわけにはいかない。むしろその逆だ。じつは不適切な事柄か巧 妙かつ容赦なく最適化されているのだ。  ニー世紀に入り、リアルタイム分析への移行が進むと、評価基準に伴う危険性はいっそう 強まった。グーグルでデジタルマーケティングの旗振り役を務めるアヴィナシューカウシク は、ウェブサイトのユーザーになるべく多数の広告を見せようとすれば当然、サイトに広告 を詰め込むことになるといって注意を促す。「【閲覧一〇〇〇件あたりのコスト】ペースで 料金が支払われる場合、あらゆるページに可能な限り最もたくさんの広告を掲載して、その サイトで可能な限り最もたくさんのページをユーザーに閲覧させる方法を考え出すことがイ ンセンティブとなる……。そんなインセンティブのもとでは、大事な存在である顧客が重視 されなくなり、本来は第二の存在であるはずの広告主に重きが置かれることになる」。短期 的にはいくらか収益が上がるかもしれないが、広告だらけの記事や、表示に時間のかかる複 数ページのスライドショー、ユーザーのクリックを誘導する刺激的な見出しは、長期的には ユーザーを遠ざけてしまうだろう。「真の友人なら、閲覧件数の測定などさせない。絶対 に」とカウシクは結論する。  モデルと現実との差が、まさに生死を分けることもある。たとえば軍隊や警察では、攻撃 に対処する技能を体に覚え込ませるには反復的で機械的な訓練が重要な手段だと考えられて いる。完全に反射的なものになるまで、特定の動作と方策を訓練することが狙いだ。しかし ここにオーバーフィごアイングか忍び込むと、悲惨な結果に至るおそれかある。たとえば警 察官が銃撃戦の最中に、使用済みの薬莢をわざわざポケ″卜にしまうことがある。射撃訓練 場にいるのなら、これはよいマナーだ。陸軍特殊部隊での勤務経験があり、現在はウェスト ポイント陸軍士官学校で心理学教授を務めるデイヴーグロスマンは、こう書いている。「実 際の銃撃戦か終わったあと。入れた憶えはまるでないのに、空薬莢がポケットに入っている のに気づいて仰天する警察官はおおぜいいた。また、亡くなった警官が手に空薬莢を持って いたという例も少なからずある。身体にしみついた節約法を実行している最中に亡くなった わけだ」 (『「戦争」の心理学』安原和見訳、二見轡房より引用)。FBIも、撃った弾丸が標的のど こに当たったか、あるいは危機が解消したかにかかわらず、訓練のときと同じように二発撃 ったら銃をホルスターに戻すという動作を捜査員が反射的に行なっていることが判明したの を受けて、訓練方法の変更を余儀なくされた。警察や軍隊では、こうした不適切な行動は  「訓練の瘢痕」と呼ばれる。こうした「瘢痕」か物語るのは、われわれの万一の備えさえも オーバーフィットされうる、という事実にほかならない。とりわけ唖然とさせられるケース として、警察官が何も考えずに襲撃者の手から銃を奪い取ると、やはり何も考えずにそれを 襲撃者にすぐさま返したという事例もある。訓練のときに教官を相手に何度も繰り返したと おりの動作だった。   オーバーフィッティングを見つけ出すIクロス確認  オーバーフィッティングは、まずは利用可能なデータに完璧に合致する見解として現れる ので、なかなか気づきにくいと思われるかもしれない。真にすぐれたモデルとオーバーフィ ットしたモデルをどうしたら区別できるのだろうか。教育の場で、学習内容に対して本当に すぐれた能力をもつ学生たちのクラスと、「試験対策を教え込まれた」だけのクラスを見分 けるにはどうすればよいのか。ビジネスの世界で、本物のスター社員と、会社で重視される 成績指標や上司の意向に自分の仕事を抜け目なくオーバーフィットさせただけの社員を、ど うしたら区別できるのか。  これらのシナリオを詳細に調べるのは、大変ではあるが不可能ではない。機械学習の研究 により、オーバーフィごアイングを検出する具体的な戦略がいくつか生み出されている。な かでもとりわけ重要な戦略の一つがクロス確認である。  単純に言うと、クロス確認とは、与えられたデータにモデルがどのくらいよくフィ″卜す るかだけでなく、未知のデータにどのくらい適合するかという「汎化性能」も評価すること である。逆説的だが、このとき使用データを減らす場合もある。先ほど見た婚姻期間と幸福 度の例では、たとえばランダムに二個のデータ点を「除外」して、残りの八個だけにモデル をフィ″卜させてもよい。それから二個の点をテスト用に使い、すでにフィ″卜させた八個 の「訓練」用の点以外の点について各モデルの汎化性能を評価する。除外した二個の点は、 炭鉱のカナリアと同じ働きをする。複雑なモデルが訓練用の八個の点はとらえられてもテス ト用の二個の点から大きく逸脱していたら、オーバーフィごアイングが起きているのはほぼ 確実だ。  利用できるデータ点の一部を除外する以外に、別の評価形式で得られたデータをまるごと 使ってモデルをテストするのも有効だ。すでに見たとおり、代替基準(栄養分の代替として の味覚、捜査官の勤務態度の代替としての解決事件数など)もオーバーフィごアイングにつ ながることがある。その場合、使用している主たるパフ″Iマンス基準を別の使用可能な基 準に対してクロス確認する必要がある。  たとえば学校では、共通テストを利用すればさまざまなメリ″卜かある。たとえば明らか に規模の経済による効果が得られ、数千人規模で安く迅速に評価ができる。しかしそのよう なテストに加えて、学校では作文や口頭試験といった別の評価法により、生徒のごく一部  (一クラスあたり一人、またはI〇〇大につき一人など)をランダムに評価することもでき る(この方法でテストするのはほんの数人だけになるはずなので、この副次的評価方法の規 模か適正かどうかは大きな問題ではない)。共通テストではすぐにフィードバ″クが得られ る。コンピューター化した小テストを毎週実施して、クラスの達成度をほぼリアルタイムで グラフ化したりできる。これに対し、副次的評価のデータ点はむしろクロス確認の役に立つ。 共通テストで評価しようとしている知識を生徒か本当に習得できているのか、それとも単に テストで得点するのがうまくなっただけなのか、確かめることができるのだ。ある学校で共 通テストの点数が上がったのに「共通テスト以外の」評価の成績が下がったなら、「試験対 策の指導」が入り込んで生徒のスキルがテストの方法そのものにオーバーフィ″卜し始めて いることを示す明確なサインとして、学校の管理者はその警告を受け止めるべきだ。  クロス確認は、訓練そのものに由来する習慣を叩き込むことなく、適切な反射を部下に身 に着けさせたいと考える法執行機関や軍の関係者にも役立つヒントとなるだろう。作文や口 頭試験で共通テストの妥当性をクロス確認できるのと同様に、未知の「クロス訓練」評価を ときおり実施して。反応時間や射撃精度か未知のタスクに汎化できているか調べることかで きる。汎化できていなければ、訓練方法を見直すべきだということが強く示唆されるわけだ。 現実の戦闘に対して兵士を真に備えさせることのできるものはないかもしれないが、この種 の訓練は少なくとも「訓練の瘢痕」か生じやすい領域についてあらかじめ注意を喚起してく れるかもしれない。   オーバーフィッティングと闘うには卜一複雑さにペナルティーを与える   単純に説明できないなら、それは自分が十分によく理解できていないからだ。                                   −出所不明  オーバーフィッティングか頭をもたげるパターンをいくつか見てきた。また、オーバーフ ィッティングの発見方法や測定方法も見てきた。しかし、これを緩和するには実際にどうし たらよいのだろうか。  統計学的に見れば、オーバーフィッティングは観察した実際のデータに対して感度が高す ぎることから生じる症状である。ということは。単純な解決策がある。すぐれたフィ″卜を 見出したいという願望と、そのために使うモデルの複雑さとのバランスをとることだ。  競合する複数のモデルから一つを選ぶ方法として、「オッカムの剃刀」という原則がある。 これは、すべての条件が対等なら、考えうる限り最も単純な仮説がおそらく正しいとする教 えである。もちろんすべてが完璧に等しいということはめったにないので、数学的な文脈で オッカムの剃刀のような原則をどう適用すべきかはなかなか容易にはわからない。ロシアの 数学者のアンドレイーチホノフは一九六〇年代にこの問題に取り組み、一つの答えを提唱し た。よhソ複雑な解を不利にする項、すなわちペナルティーを計算に加えるという方法だ。複 雑さに対するペナルティーを導入したら、複雑なモデルはその複雑さの正当性を明らかにす るために、データを説明する際に単によりよい仕事をするのではなく著しくよい仕事をする ことが必要となる。コンピューター科学者は、モデルの複雑さにペナルティーを与えるとい うこの方針を正則化と呼ぶ。  では、複雑さに対するペナルティーとはどのようなものなのか。一九九六年、生物統計学 者のロバートーティブシラニかLassoというアルゴリズムを発見した。このアルゴリズ ムでは、モデルに含まれる各項の重みの合計をペナルティーとして用いる。各項の重みに対 してこのように縮小する圧力を加えることにより、ラ″ソは可能な限り多くの重みを完全に ゼロとする。そして、結果に対して大きな影響を与える項だけを方程式に残す。このように して、たとえばオーバーフィットされた九次多項式モデルを、特に重要な項を少しだけもつ、 もっと単純で頑健な式に変えることか可能になる。  ラ″ソのような手法は、今では機械学習の分野のいたるところで用いられているが、複雑 さにペナルティーを与えるという原理は自然界でも見られる。時間、記憶力、エネルギー、 注意力には限界があるので、生物はほぼ自動的に単純さへ向かう圧力を受ける。たとえば代 謝の負担が生物の複雑さを抑えるブレーキの役割を果たし、過度に精巧な機構には熱量のペ ナルティーを科す。人間の脳が一日の総摂取熱量のおよそ五分の一を消費するという事実は、 人間の知的能力がわれわれに与えてくれる進化上の利点の証拠となる。脳の貢献は、この大   *数学に関心のある人のために言うと、これは変数の係数の絶対値を合計したものである。 量の燃料消費を埋めあわせてなお余りがあるに違いない。一方、進化論的に言って、仮に脳 が現状よりはるかに複雑だったら、おそらく十分な利益が得られないだろうということも推 測できる。人間は必要な程度には頭でっかちだが、無駄に脳を肥大させたわけではないのだ。  似たようなプロセスが神経レベルでも作用すると考えられている。コンピューター科学で は、脳をべ1スとした「人エユユーラルネ″トワーク」と呼ばれるソフトウェアモデルに任 意の複雑な機能を学習させることができる。このモデルは、先ほどの九次多項式モデルより もさらに柔軟である。しかしまさにこの柔軟性ゆえに、オーバーフィごアイングを起こしや すいという問題が知られている。現実の生体ニューラルネ″トワークは、パフォーマンスと それを維持するためのコストとのトレードオフか必要なので、この問題の一部を回避する。 たとえば神経科学者の指摘によれば、いかなる瞬間においても脳は発火するニューロンの数 を最小限にしようと努め、ラ″ソと同様に複雑さを抑える圧力を加えているということだ。  言語においても、ラ″ソが自然に生じる。長く話す労力と、聞き手の注意力に対する負担 という形で、複雑さにペナルティーが与えられるのだ。事業計画はエレベーター内で話か終 わる程度に圧縮される。処世訓は、十分に簡潔で記憶に残りやすければ格言として定着する。 記憶する必要のあることはすべて、記憶に固有のラ″ソを通過しなくてはならない。   ヒューリスティックの利点  経済学者の(リー・マーコウィ″ツは、現代ポートフォリオ理論を構築した業績で一九九 〇年にノーベル経済学賞を受賞した。彼の画期的な「平均分散分析によるポートフ″リオ最 適化」理論は、投資を多様なファンドやアセ″卜に最適に配分して、一定レベルのリスクに おいてリターンを最大化する方法を示した。いよいよ自分の老後資金を投資するときには、 マーコウィ″ツはその仕事に誰よりも完璧にふさわしい人物だったはずだ。では、彼はどん な決断を下したのだろう。   私はアセ″トクラスの共分散の実績を計算して、効率的な境界線を引くべきだった。し   かし、株式市場か大きく高騰して自分がそこに加わっていなかった場合の失意、あるい   は市場が大きく下落して自分がすっかり巻き込まれた場合の落胆が頭に浮かんだ。私は   将来の後悔を最小限に抑えたかった。そこで、証券と株式に資金を半分ずつ分けた。  なぜ彼はこんなことをする気になったのか。この、ノーベル賞受賞者がどんな投資戦略を とったかという話は、人間の不合理性を示す一例となるかもしれない。現実生活の複雑さに 直面し、合理的なモデルを放楽して単純なヒューリスティック(訳注必ずしも正解は得られな いが、手っ取り早く一定レベルの解答に達する手段のこと)に従ったのだ。しかし、単純なヒューリ スティックがじつは合理的な解決策となりうるのは、現実生活が複雑だからにほかならない。  ポートフォリオ管理については、市場に関する手持ちの情報か強く信頼できない限hソ、そ の情報は完全に無視するほうがよいかもしれないということがわかっている。マーコウィ″ ツの最適ポートフォリオ配分スキームを適用するには、さまざまな投資の統計学的性質につ いて適切に推定する必要がある。この推定に誤りがあれば、資産の配分が大きく変わり、リ スクが高まる可能性かある。対照的に、株式と証券に資金を均等に分けるなら、どんなデー タを観察していようとも配分にはまったく影響か生じない。この戦略は、それらの投資タイ プが過去に示したパフォーマンスに自らをフィ″卜させようとさえしない。だからオーバー フィットすることもありえない。  もちろん、半々の配分が必ずしも複雑さに対する最良の策というわけではないが、それな りの価値はある。複数の投資の集合について平均と分散の期待値かわかっている場合には、 平均分散モデルにおけるポートフォリオ最適化を使えばよい。最適アルゴリズムには最適と 呼ばれるだけの理由がある。しかしすべての推定が正確である可能性が低く、モデルにおい てそれらの信頼できない数値に大きな重みか置かれる場合には、意思決定プロセスに警報か 発せられる。そこで正則化の出番となる。  マーコウィ″ツの老後資金などの例からアイディアを得て、心理学者のゲルトーギーゲレ ンツァーとヘンリー・ブライトンは、現実世界で用いられる意思決定の近道が、多くのケー スでまさに適切な判断に至る思考となると主張している。「加える処理が少ないと精度が下 がるという見方が世間では広く支持されているが、ヒューリスティ″ク研究によれば、情報 や計算や時間が少ないほうがじつは精度が上がることがわかる」と彼らは記している。より 少ない因子とより少ない計算を用いてより単純な答えに達することを好むヒューリスティ″ クは、まさにこの「少ないほうが有効」という効果をもたらす。  しかし、モデルの根本的な複雑さにペナルティーを与えることだけか、オーバーフィごア イングを緩和する方法ではない。新たに入ってくるデータにモデルが適応する速度を調節す ることによって、そのモデルを単純化する方向へ軽く後押しするという手もある。これによ ってオーバーフィッティングの研究は、われわれの歴史に光を投げかける導き手となる。社 会として、そして種としての人間の歴史を浮かび上がらせてくれるのだ。   過去の重み   当然ながら、生きているラ″卜は、いかなる食べ物にも命を奪われたことがない。               −サミュエルーレヴスキーおよびエルヴィンーペダルフ                        「新規食物の摂取経験と疾患との関係」  アメリカの豆乳市場は、一九九〇年代中盤から二〇一三年にかけて四倍以上に成長した。 しかし報道によると、二〇一三年の終わりには豆乳はすでにブームを過ぎ、アーモンドミル クに大きく引き離された二位に甘んじているようだった。飲食物市場リサーチャーのラリー ・フィンケルが《ブルームバーダービジネスウィーク》誌に語ったところによると、「今は ナッツがトレントで、大豆はどちらかという古めかしい健康食品といった印象です」。豆乳 を普及させたことで知られるシルク社(いかにもそれらしい社名だ)は二〇匸二年の終盤に、 同社のアーモンドミルク製品が前四半期だけで五〇ハーセソト以上の成長を達成したと報告 した。一方、別の飲料のニュースとしては、ココナ″ツウォーターの主要ブランドであるビ タココから、二〇一四年には同ブランドの売り上げが二〇一一年の二倍となり、二〇〇四年 と比べると三〇〇倍という驚異的な成長を記録したことが報告された。《ニューヨークータ イムズ》は「ココナッツウォーターは、。なんとなく知っている”商品という段階で立ち止 まることなく、目に入らない存在から否が応でも目につく存在へと一気にジャンプしたよう である」と伝えた。一方、ケール市場は二〇一三年の一年間だけで四〇パーセント成長した。 その前年にケールを最も大1:に購入したのはピザ(ツトだった。ピザ(″卜ではケールをサ ラダバーで使っていたが、飾りとしてである。  人の生活において最も基本的な領域、たとえば体の中に何を入れるべきかという問いなど は、短命な流行になぜか支配されやすいらしい。この手の流行が世間を席巻するのを可能に する要因の一つは、われわれの文化の変化するスピードである。今では情報がかつてない速 度で社会を流れ、世界的な供給網のおかげで消費者は購買習慣をいっせいにすばやく変える ことができる(そしてマーケティングがそれをあおる)。たとえば香辛料のスターアニスか 体によいということがある特定の研究で示されると、一週間も経たぬうちにあちこちのブロ グで取り上げられ、それから一週間はテレビで扱われ、半年後にはほとんどのスーパーマー ケットに匱かれ、スターアニスのレシピ本が続々と刊行されるようになる。このせわしない スピードにはありかたい面もあるが、厄介な部分もある。  対照的に、生物(人間も含む)の進化に目を向けると、興味深いことに気づかされる。変 化はゆるやかに起きるのだ。つまり、現在の生物のもつ性質は現在の環境のみによって形成 されるのではなく、過去の歴史もその形成に関与している。たとえばわれわれの神経系が妙 にクロスした配線になっている(体の左側は脳の右側に支配され、体の右側は脳の左側に支 配される)のは、脊椎動物か経てきた進化の歴史を反映している。この現象は「交差」と呼 ばれ、進化の途上で初期の脊椎動物の胴体か頭部に対して一八〇度の角度でねじれたときに 起きたと考えられている。ザリガニやミミズといった無脊椎勁物の神経索は体の「腹」側を 通っているのに対し、脊椎勁物の神経索は脊椎に沿っている。  人間の耳も交差の一例だ。機能という点で見ると、耳は槌骨、砧骨、鐙骨という三つの骨 で音波を増幅して電気信号に変換するためのシステムである。この増幅システムはうまくで きているが、その仕組みの特徴は過去の制約と大いに関係している。爬虫類の耳には骨が一 つしかないが、顎には哺乳類のもたない骨がいくつかある。どうやらこれらの顎の骨が哺乳 類の耳で転用されたらしい。われわれの耳の解剖学的な形態と配置は、聴覚の問題がいかに 解決されたかにとどまらず、少なくともそれと同程度に進化の歴史を反映してもいる。  オーバーフィッティングという概念は、こうした進化の残した荷物のもつ利点に対する新 たな見方を与えてくれる。交差した神経線維と転用された顎骨は最善の配置ではないと思わ れるかもしれないが、われわれは環境的ニッチのあらゆる変化に対して進化が生物を完全に 最適化してくれることを必ずしも求めるわけではない。完璧に最適化したら、環境がさらに 変化した場合に極端に影響を受けやすくなってしまう↓なくともわれわれは、このこと くらいは理解してしかるべきだ。一方、既存の材料を利用するしかないことから、有益な制 約とでも呼ぶべきものが課される。生体構造に急激な変化が起こりにくいので、オーバーフ ィッティングも起こりにくくなるのだ。一つの種において、過去の歴史による制約は既知の 現在に対して完璧に適応する妨げになるが、未知の未来に対する頑健性を保持する助けにも なる。  同様の見方は、人間社会で生じるめまぐるしい流行に抗う助けにもなるかもしれない。文 化においては、進化における制約と同じ役割を果たすのか伝統である。いくらかの保守主義、 すなわち過去の歴史を尊重するいくらかのバイアスは、盛衰を繰り返す流行のサイクルによ る影響を緩和することができる。もちろん、最新のデータを無視すべきというわけではない。 時流に歩み寄ることは大事だが、必ずしもそれに乗る必要はない。  機械学習の分野で、ゆるやかな動きのメリ″卜が最も明確に現れるのは、早期打ち切りと いう正則化においてである。本章の冒頭でドイツの結婚調査データを取り上げたとき、最良 にフィットさせた一次、二次、九次の多項式モデルの検討だけを行なった。しかし多くの場 合、与えられたデータに対してモデルが最大限にフィ″卜するようにパラメーターを調整す る作業は、それ自体が一つのプロセスである。このプロセスを早期に打ち切って、複雑にな りすぎる時間をモデルに与えなかったらどうなるのか。やはり一見すると半端で不完全に思 われるものか、それ自体で重要な戦略として浮上するかもしれない。  たとえば多くの予想アルゴリズムは、いきなり多項式モデルに走らず、最も重要な項一つ を探索することから出発する。この第一の項が見つかってから、モデルに加えるぺき二番め に重要な項を探索し、それからさらに次の項を……という手順を踏む。したがってそれらの モデルは、オーバーフィごアイングの入り込む隙か生じる前に、ただプロセスを早々と打ち 切ることによって過度な複雑化を回避できる。これと似たアプローチで予想を計算する場合 には、一度に検討するデータ点を一つだけにして、新たなデータ点を追加する前にはそのデ ータ点を説明できるようにモデルを調整する。ここでも、モデルの複雑さはゆるやかに増す だけなので、早期にプロセスを打ち切ればオーバーフィッティングを避ける助けとなる。  このように時間の経過が複雑さの増大につながる状況は、人のさまざまな行動にも見られ る。決断を下すのに長い時間をかければそれだけよい決断ができるとは限らない。その一方 で。検討する因子、仮説、メリットとデメリットが多くなるのは確実で、それゆえオーバー フィッティングのリスクも増大する。  本書の著者トムは、教授になったときにまさしくこれを経験した。着任して最初の学期に 初めてのクラスを担当するにあたって、完璧な講義をしようと膨大な時間を準備に費やした。 講義一時間につき、準備にI〇時間もかけたのだ。二学期めには別のクラスの担当となった が。前学期ほど時間をかけることができなかったので、ひどい講義になってしまうのではな いかと心配した。ところか不思議なことか起きた。学生は二学期めのクラスに満足したのだ。 それどころか、前学期よりも評判がよかった。つまり、一学期めには大事な点をこと細かに 説明しようとあれほど時間をかけたが、学生は混乱するばかりだった。そして二学期めの講 義では、そうした細かい点には触れなかった。学生の基準ではなく自分自身の好みや判断を 基準として使っていたことが根本的な問題だったと、トムはやがて気づいた。代替基準は近 似としてはそれなりに役立つか、オーバーフィ″卜するほどの価値はない。すべてのスライ ドを「完璧に」仕上げようと必死にがんばって時間をかけたことが逆効果となった理由が、 これで納得できた。  さまざまなタイプの機械学習のタスクにおける正則化の効果から、思考や行動をわざと抑 えるほうがよりよい決定が下せる場合もあるということがわかる。最初に思いついた因子か 最も重要と思われるなら、ある段階以降は問題について考え続けることは時間と労力の無駄 になるばかりか、劣った答えに至ることになるだろう。早期打ち切りは、推論から離れるた めの理にかなった主張をするうえで足場となり、思考している人が思考をやめるための土台 となる。しかしこのことを実用的なアドバイスに変えるには、もう一つの問いに答える必要 がある。考えるのをいつやめるべきか、という問いだ。   思考を抑えるぺきとき  オーバーフィッティングにかかおるすべての問題と同様、早期打ち切hソのタイミングは、 測定できる事柄と真に重要な事柄とのギヤこフによって決まる。事実がすべてわかっている なら、誤差や不確実性がまったく存在せず、自分にとって重要な事柄をじかに評価できるの で、早々と打ち切る必要はない。時間をかけてじっくり考えるべきだ。複雑さと手間にはそ れなりの意味がある。  しかし、こんな状況が実際に起きることはまずない。不確実性が高く、データが限られて いる場合には、是が非でも早期に打ち切るべきだ。自分の仕事が誰にどのような方法で評価 されるかはっきりわからない場合、自分(またはほかの人)独自の基準で完璧と思われるも のを目指して仕事を完璧に仕上げようと余分に時間を費やすのは無駄だ。不確実性が高けれ ば高いほど、測定できる事柄と真に重要な事柄との開きは大きくなるので、オーバーフィッ ティングにいっそう注意する必要が生じる。つまり単純性を重視して。早期に打ち切るべき なのだ。  情報がまったくない場合には、最も単純な計画がベストだろう。見通しがはっきりせず、 データにノイズが多い場合には、太い筆で絵を描くように、おおまかな流れを考えるのがベ ストだ。これがただの比喩でないこともある。実業家のジェイソンーフリードとデイヴィ″ ドー(イネマイヤー・(ンソンは、ブレイソストーミングを推し進める必要性が高いときほ ど太いペンを使うという。線の太さによる巧妙な単純化の一例と言える。   何かのデザインを始めるときには、ボールペンではなく、太いシャーピーマーカーを使   ってアイディアのあらましを書き留めます。それはなぜか。ボールペンでは線が細すぎ   るからです。それにくっきりしすぎています。陰影を完璧に仕上げなくてはとか、点線   と破線のどちらを使うかとか、まだ気にしなくていいことか気になってきます。そして、   まだフォーカスすべきでないものにフォーカスしてしまうのです。    シャーピーマーカーを使えば、深く掘り下げることができます。形や線や枠だけを描   くことかできます。それでいい。始めのうちは、全体像だけを考えればよいのです。  マギル大学のヘンリーI 丶`丶 ンツバーグはこう語っている。「大事なものが測れず、それを 出発点にできないという前提から始めたら、どうなるでしょうか。測定の代わりに、かなり こわいものを使わざるをえないのです。判断と呼ばれるものを」。  早期打ち切りで重要なのは、合理的にふるまうか直感に頼るかの二者択一という問題では ない場合もある点だ。直感に頼ることが合理的な解決策となることもある。決定が複雑で。 不安定で、不確実であればあるほど、直感に頼ることが合理的なアプローチとなる。  ダーウィンに話を戻すと、プ・ロポーズするかどうかという問題は、リストに挙げたメリ″ 卜とデメリットのうち最初のいくつかを見るだけで決着できたかもしれない。その先まで見 ると、決断に伴う時間と不安が増大し、必ずしも答えを出す助けにはならなかっただろう  (むしろおそらく決断の妨げになったはずだ)。どうやら決め手となったのは。「働きバチ のようにひたすら働くだけで一生を終えると考えるのは耐えがたい」という思いだったらし い。子どもと伴侶、つまり彼が真っ先に挙げたものこそ、最終的に結婚へと彼を動かした要 素だった。書籍代うんぬんというのはただのポーズだ。  しかし。あれこれ考えすぎだとダーウィンを手厳しく批判する前に、日記のあのページを もうI度見てほしい。複写されたこのページを見ると、おもしろいことがわかる。ダーウィ ンはフランクリンとは違って、何日間もかけてさまざまな熟慮をこねくり回してはいない。 人生を変える決断に向きあったときの真剣さとはうらはらに、日記への書き込みかページの 下端にたどり着いたところで、すぐさま答えを出している。このページに合わせて正則化を していたのだ。これはむしろ。早期打ち切りやラ″ソと言うべきものだろう。ページに書き きれなかったものは決定に関与させていないのだ。  結婚の決意を固めると、ダーウィンはすぐさま時期について盛大に思い悩んだ。「いつ? すぐか、しばらく待つか」と、新たにつくったメリ″卜とデメリ″卜のリストの上辺に記し、 幸福、支出、「体裁の悪さ」、熱気球旅行やウェールズ旅行をしたいという長年の夢など、 さまざまな事柄を検討した。しかしページの下端に達したときには、「どうでもいい。運に 任せよう」と決めていた。その結果として、数カ月後にはエマーウェッジウッドにプロポー ズして、満ち足りた夫婦の関係と幸福な家庭生活への第一歩を踏み出したのだった。  8 緩和法     大目に見よう  二〇一〇年、メーガンーベローズは昼間にはプリンストン大学の博士課程で化学工学の研 究にいそしみ、夜には結婚式の計画を立てていた。特定の性質をもつ分子をつくるにはタン パク鎖のどこにアミノ酸を挿入すればよいのか、その位置を見つけることが研究の中心だっ た(「二つのタンパク質分子の結合エネルギーを最大にすると、生体機能に対するペプチド 阻害剤が設計できるので、病気の進行を妨げることもできるのです」)。結婚式については、 席次の問題で悩んでいた。  大学時代の友人九人を招待しているので、ちょっとした同窓会のようになるに違いない。 しかしテーブルはI〇大掛けなので、あと一人は誰にするか。この問題にベローズは頭を抱 えていた。さらに困ったことに、親族を一一人呼ぶことになっている。栄えある親族席から 一人だけ外さなくてはならないが、どう説明したらよいだろう。それに幼なじみやベビーシ ッター、両親の同僚など、招待客のなかに知り合いがI大もいない大についてはどうすれば よいのか。  この問題は、実験室で取り組んでいるタンパク質の問題に負けず劣らず手ごわい気がした。 やがて、ある考えが頭に浮かんだ。実際に、実験室で取り組んでいる問題と同じことなのだ。 ある晩、席次表を眺めていると「博士論文で扱うアミノ酸とタンパク質の問題と、結婚式の 招待客とのあいだには、一対一の対応があることに気づきました」。ベローズは婚約者から 紙を一枚もらうと、方程式を走り書きした。アミノ酸か招待客となり、結合エネルギーは客 どうしの関係、分子の最隣接相互作用と呼ばれる作用は文字どおりに最も隣接した客どうし の相互作用となった。こうして彼女は自分の研究で使っているアルゴリズムを利用して、結 婚式の問題を解決することができた。  ベローズは招待客全員の関係の度合いを数字で表す方法を編み出した。二人の客か互いに 知り合いでなければその関係を○点とし、知り合いなら一点とする。夫婦なら五〇点だ(新 婦の妹には特別に、同じテーブルに着きたいすべての人にI〇点をつけさせた)。それから ベローズはいくつかの制約を定めた。一つのテーブルに着席できる最大人数と、各テーブル が達するべき最低スコアを決めて、見知らぬ人ばかりが「寄せ集め」られた居心地の悪いテ ーブルが一つもできないようにした。また、席次づくりの目標を。同じテーブルに着く客ど うしの関係スコアを最大にすること”と明確に定めた。  招待客は全部でI〇七人、テーブルは一一個で、テーブル一つにはI〇人まで着席できる。 ということは、およそ「一一のI〇七乗」通りの席次が考えられる。これは一二一桁の数字 となり、二〇〇〇億グーゴル(一グーゴルはI〇のI〇〇乗)を超える。この数字と比べれば、 観測可能な宇宙全体に存在する原子の個数(たった八〇桁)などかすんでしまう。ある土曜 日の夕方、ベローズは実験室のコンピューターにこの作業を仕掛けて帰宅した。月曜日の朝 に来てみると、作業はまだ続いていた。ベローズはその時点までにコンピューターが見つけ た最良の席次を取り出すと、同じコンピューターで今度はタンパク質び設計を再開した。  実験室に設置された高性能のコンピュータークラスターでプログラムを三六時間も走らせ たにもかかわらず、考えうる席次のうちで調べられたのはほんのわずかだった。この順列に おいて、スコアが最高となる真の最適解にはたどり着けない可能性が高い。それでもベロー ズは、コンピューターの出した結果に満足していた。「忘れかけていたつながりが見つかり ましたから」と彼女は言う。ウェディングプランナーなら考えもしないような、型にはまら ず楽しい席次の可能性をコンピューターが示してくれたのだ。たとえば、両親を親族席に座 らせず、何年も会っていなかった古い友人たちと同じテーブルに回すという案が出てきた。 コンピューターが提嗤%た最終的な席次は大成功だったと誰もが認めた。もっとも、新婦の 毋は自分の気持ちに抗えず、ちょっとした入れ替えを行なったが。  プリンストン大学の一実験室に匱かれたコンピューターの計算能力すべてをもってしても 完璧な席次が特定できなかったというのは、驚くべきことと思われるかもしれない。本書で これまでに扱ってきたほとんどの領域で、単純なアルゴリズムを使えば確実に最適解を得る ことができた。しかしコンピューター科学者はこの数十年間で、コンピューターをどれほど 高速化してどれほど巧妙にプログラムしようとも、完璧な解に到達することが基本的に不可 能な一群の問題が存在するのを知った。実際、一見手に負えない難題を前にしたときに、果 てしなく撓み続けるべきではなくギブアとフすべきでもなく、これから見るようなまったく 別のやり方を試みるべきだということを、コンピューター科学者は誰よりもよく理解してい る。   最適化の難しさ  南北戦争によってアメリカの指導者となる前、奴隷解放宣言を書き上げる前、そしてゲテ ィスバーグ演説を行なう前、エイブラ(ムーリンカーンはイリノイ州スプリングフィールド で地方回りの巡回弁護士として働いており、一六年間にわたり毎年二回、第八巡回裁判区を 回っていた。巡回弁護士とは、その名のとおり巡回する弁護士で、彼は何週問もかけて数百 キロを馬で移動しながら、一四郡の町を巡回して裁判の審理にあたった。巡回するルートを 決めるのは、当然ながら難しかった。行くべき町をすべて網羅し、移動距離をなるべく短く して、同じ町に二度行くのを避けるには、どうしたらよいのか。  これは数学やコンピューター科学の分野で「条件つき最適化」問題と呼ばれるものである。 一定のルールとスコア計算法のもとで、複数の変数を配置する最良の方法を特定することが 求められる。実際、これは最適化問題のなかで最もよく知られている。一九世紀にこの問題 の研究が行なわれていたなら、「巡回弁護士問題」という名前が定着したかもしれない。二 I世紀になってから登場したなら、「配送ドローン問題」とでも呼ばれただろうか。しかし 秘書問題と同じく二〇世紀半ばに出現したので、間違いなくあの時代を象徴する存在から  「巡回セールスマン問題」と名づけられ、これか標準的な名称となっている。  ルート設定の問題に数学者が注目するようになったのは一九三〇年代に入ってからだった が、一度火がつくと関心はすさまじい勢いで燃え上がった。数学者のカールーメンガーは一 九三〇年に「郵便配達人問題」について語り。すべての可能性をひたすら一つずつ試すより も簡単な答えは見つかっていないと述べた。(スラー・ホイ″トニーが一九三四年にプリン ストン大学での講演でこの問題を提起すると、数学者仲間のメリルーフラ″ド(秘書問題の 最初の解を広めた人物として第1章に登場したことを覚えているだろうか)の頭にそれがし っかりと刻み込まれた。一九四〇年代にフラ″ドはカリフォルニアに移り、この問題をラン ド研究所の同僚たちに広めた。そして一九四九年、この問題の今ではすっかり定着した名称 が、数学者ジュリアーロビンソンの論文に初めて活字で登場した。この問題が数学界を席巻 するにつれて、「悪名」も轟いた。当時、一流の数学者たちがこぞって夢中になったが、誰 も真の前進を遂げられそうになかった。  巡回セールスマン問題において、大事なのはコンピューター(または数学者)が最短ルー トを見つけられるかという点ではない。理屈のうえでは、可能なルートを一つ残らず考えて、 それらの距離を測るだけでよい。問題は、町の数か増えるにつれて、それらを結ぶ可能なル ートの数が爆発的に増える点にある。ルートというのは町の順番にほかならないので、すべ てのルートを力ずくで調べるにはあの恐るべきQ(a一)、すなわち「階乗時間」がかかる。ト ランプー組を空中にばらまいて、正しい順番で並ぶまでカードのソートを繰り返す作業の計 算版と言える。  問題は、もっと効率よく解ける見込みはあるのか、である。  数十年におよぶ研究も、巡回セールスマン問題を手なずけることはほとんどできなかった。 たとえば一九五六年にフラ″ドは、最初の出会いから二〇年以上が経っても「この問題にう まく片をつけるには、まだ使われておらず今までとはまったく違ったアプローチか必要かも しれないという可能性がとても高いと思われる。実際、この問題を扱う一般的な方法という ものは存在しないかもしれず、不可能という答えにも価値があるだろう」と述べている。そ れからさらにI〇年が過ぎても、厳しい気配はいっそう厳しさを増すばかりだった。「私の 推測では、巡回セールスマン問題を解くすぐれたアルゴリズムは存在しない」とジヤ″クー エドモンズは記した。  これらの言葉は正しい予言だった。   困難さを定義する  一九六〇年代の中ごろ、アメリカ国立標準技術研究所にいたエドモンズは、IBMのアラ ンーコブ(ムと共同で、問題か現実的に解決可能かどうかを決定する要因について実効性の ある定義を考案した。彼らの主張は、今では「コブ「ムHエドモンズのテーゼ」と呼ばれて いる。それによると、アルゴリズムが「多項式時間」、すなわちQ(气)、Q旡)、またはガの なんらかの累乗の時間で実行できるなら、「効率的」と見なすべきとされる。そして、効率 的なアルゴリズムを用いて解決する方法がわかっている問題は「手に負える」問題と見なさ れる。これに対し、多項式時間で解決できる方法がわからないものは「手に負えない」問題 とされる。そしてよほどスケールの小さい問題でない限り、手に負えない問題はどれほど高 性能なコンピューターでも答えを出すことができない。  このことが、コンピューター科学の中核を占める知見だと言ってよいだろう。問題の困難    *ソート問題では()(气)がひどく忌まわしい存在と思われたことを考えると、ここでそれを「効率    的」と呼ぶのはおかしいのではと感じられるかもしれない。しかし実際のところ、Q(呪)のように貶    がごく小さくても、指数時間はa‘。のような多項式と比べると(比べる相手の底か大きくても)、短時    間でとんでもなく巨大になる。いずれかの時点で、指数時間は必ず多項式時間を追い越す。それゆえ。    数十個以上のアイテムをソートするなら、〜’など呪と比べれば何でもないように思えてくる。コブ(    ムとエドモンズの研究以来、「多項式」 (〃の累乗)と「指数」 (ある数のs乗)との隔たりが、こ    の分野における事突上の境界線となっている。 さは定量化できる。そして一部の問題はとにかく。:…困難なのだ。  では、巡回セールスマン問題はどうなのか。おもしろいことに、じつはまだよくわかって いない。一九七二年、カリフォルニア大学バークリー校のリチャードーカープは巡回セール スマン問題についての証明を行ない、この問題が効率的に解決可能かどうかまだ明確に証明 されていない、境界線上で議論の続いている問題群と関係していることを示した。しかしこ れまでのところ、それらの問題のいずれについても効率的な解法は見つかっておらず(つま り実質的に手に負えない問題ということになる)、ほとんどのコンピューター科学者はこの 先も効率的な解法が見つかることはないと考えている。そこで、一九五〇年代にフラ″ドが 考えた巡回セールスマン問題の「不可能という答え」か最終的な到達地となりそうだ。さら に、これ以外の最適化問題(政治戦略から公衆衛生、防火対策に至るまでさまざまなテーマ に関係する)もその多くは、やはり手に負えない問題である。  しかしこの種の問題に取り組むコンピューター科学者にとっては、この結論をもって話が 終わるわけではない。むしろ戦闘準備の号令がかかったようなものだ。ある問題か手に負え ないと判断されたからといって。黙って引き下がるわけにはいかない。スケジューリング問 題専門家のヤンーカレルーレンストラは「問題が難しくても、考えるのをやめていいわけで はありません。ステータスが違うだけなのです。敵は手ごわいですが、それでも闘わなくて はいけません」と語っている。この種の問題こそ、この分野で誰にとっても導きとなる非常 に価値の高い指針が解明された場である。つまり、最適解に手が届かない問題にはどうアプ ローチするのか最良か、どのように緩和すべきか、教えてくれる場なのだ。   ただ緩和せよ   完璧は善の敵である。                                 −ヴォルテール  リラックスしなさいと誰かから言われたとしたら、それはおそらくこちらか物事を必要以 上に深刻に考えて、気が立っているからだろう。コンピューター科学者たちが手ごわい難題 に立ち向かうときには、『緩  和法入門』や『離散的緩  和法』といった本を回し読み して、「緩和」を目指す。といっても、本人がリラ″タスするのではなく、問題を緩和させ るのだ。  コンピューター科学におけるごく単純な緩和法として、制約緩和と呼ばれるものがある。 この緩和法では、問題から制約の一部を取り除き、解決したい問題を解き始める。いくらか 前進したところで、取り除いていた制約を問題に戻す。つまり、問題を一時的に扱いやすく して、あとで本来の問題に戻すというやり方をするのだ。  たとえば巡回セースルマン問題を緩和したければ、セールスマンが同じ町を二度以上訪れ てもよいことにして、来た道を引き返すときには費用がかからないことにする。このように ルールをゆるめたうえで最短ルートを探すと、「最小全域木」というものか得られる(最小 全域木とは、すべての町を少なくとも一つの別の町と結ぶのに必要な最短行程と考えてもよ い。リンカーンの巡回裁判区について、巡回セールスマンの最短ルートと最小全域木を図11 に示す)。コンピューターでこの緩和した問題を解くには、じつはほとんど時間がかからな い。最小全域木が必ずしももとの問題の解につながるわけではないが、それでもかなり有用 であることは確かだ。たとえば自由に後戻りできる全域木が、すべてのルールに縛られる実 際の解より長くなることは絶対にないはずだ。したがって、緩和した問題といういわば幻想 を実際の問題の下限として使うことができる。計算の結果、特定の町の集合について全域木 の距離がI〇〇マイルだとわかったら、巡回セールスマンの行程は確実にそれ以上だと考え られる。一一〇マイルのルートか見つかったなら、それが最良の解と比ぺて最大でI〇パー セント長いだけだと確信できる。こうして、真の解がわからなくても、真の解にどのくらい 近いかは知ることができる。  さらによいことに、巡回セールスマン問題では、最小全域木が実際に真の解を探索するの に最良の出発点の一つとなる。このような方法により、考えられる限り最大級の巡回セール スマン問題の一つI地球上のすべての町を訪れる最短ルートを特定すること1も(未知 の)最適解から○・○五ハーセントの範囲内で解くことができている。  。アルゴリズムという本来の形式で制約緩和が行なわれる実際のプロセスとかかわったこと のある人″と言えば、そんな人はめったにいるものではない。しかしその基本的なメ″セー ジならば、人生の突きつけてくる問いについて大きな夢を抱いたことのある人ならたいてい 聞き覚えのあるものだ。「恐れがなければどうするか」という問いは、カウンセラーのオフ ィスで見たり、モチベーションセミナーで聞いたりするたぐいの言葉だ。「失敗する可能性 かゼロならどうするか」という問いもある。また、仕事やキャリアについての問いを考える 場合には「宝くじに当たったらどうするか」と考えたり、転職を検討しているなら「どの仕 事も給料が同じならどうするか」と考えたりする。こんなふうに想像をめぐらせる行為の背 後には、まさに制約緩和的な考えがある。手に負えない問題を手に負える問題に変えて、理 想の世界で前進した結果を現実世界に戻す。目の前にある問題が解決不可能なら、それをも っと簡単にしたバージョンを解く。そしてその解がもとの完全バージョンを解く出発点か指 針とならないか確かめる。こうすれば、うまく手がかりが得られるかもしれない。  緩和では、完璧な解に至る確実な近道を提示することはできない。しかしコンピューター 科学は、緩和に伴って時間と解の質とのあいだに生じるトレードオフを定量化することもで きる。多くの場合、その比率は顕著で、簡単にわかる。たとえば、完璧な解と比べて少なく とも半分はすぐれている答えを出せばよしとするならば。一〇〇〇兆分の一の時間で出せた りする。このことから、単純だが深遠なメ″セージが読み取れる。完璧な解に十分に近い答 えでよいというのなら、現実に存在するきわめて困難な問題も一部は適切な方法で手なずけ られるということだ。  最小全域木や「宝くじに当たったらどうするか」の例のように、制約を一時的に取り除く のが、緩和のアルゴリズムのなかで最も単純なものである。しかし、最適化研究で頻繁に出 現する、もっと微妙なタイプの緩和法か二つある。それらの緩和法は、都市計画から疾病対 策、スポーツ選手の競争心の育成など、現実世界のさまざまな領域に直接影響するような、 この分野で最も重要で手に負えない問題の一部を解決するのに役立つことかわかっている。   数えきれないほどたくさんのグレーの色調−連続緩和  メーガンーペローズが最良の席次を追究したのと同じく、巡回セールスマン問題は「離散 最適化」と呼ばれるタイプの最適化問題である。これはすなわち、解と解のあいだになめら かな連続性がないということだ。セールスマンの行先はいずれかの町しかありえず、招待客 か着席するのはいずれかのテーブルしかありえない。中間のグレーゾーンは存在しないのだ。  このような離散最適化問題は、いたるところで見受けられる。たとえば都市計画では、消 防車が一定の時間内に、たとえば五分以内にどの家にも駆けつけられるように配置すること を目指す。数学的に言えば、配備された場所から五分以内にどの家にも到着できるよう、各 消防車にすべての家を「被覆」させる。しかし、すべての家がカバーできるように配備する 場合の消防車の最低数を特定するのは難しい。「「消防や救急の」業務全体で、この被覆モ デルは採用されるようになったばかりですが、すばらしいです。便利でわかりやすいモデル です」と、ウィスコンシン大学マディソン校のローラーアルバートーマクレイは言う。しか し、消防車はある特定の場所にあるかないかのいずれかなので、最低数を求めるには離散最 適化が不可欠だ。マクレイによれば、「ここで多くの問題は計算するのが困難になります。 分配できないものはたくさんありますから」。  離散最適化の問題は、人づきあいの場でも出現する。友人や知人すべてを招いてパーティ ーを開きたいが、多数の招待状を送るのに必要な封筒や切手の料金をすべて払うのはいやだ としよう。そこで、人脈の豊富な何人かの友人だけに招待状を送って、「私たちの共通の知 り合いをみな連れてきてほしい」と頼むという手がある。この場合、理想として知りたいの は、こちらの交友関係に属する人をすべて知っている集団を構成できる、最小人数の友人を 集めたサブグループである。これがわかれば。封筒の使用枚数を最小限に抑えなから、すべ ての友人と知人を出席させることができるはずだ。確かに、切手代をほんの何ドルか節約す るためにこんな計算をするのはたいそうなことと思われるかもしれないが、政治運動の統括 者や企業のマーケティング担当者が自分たちのメ″セージを最も効率的に広めるために解答 を模索しているのが、まさにこのタイプの問題だ。また、社会を伝染病から守るために、人 口集団のうち最低で何人に、そして誰に、ワクチンを接種すべきかを考える際に、疫学者が 検討する問題もこのタイプに属する。  すでに見たとおり、離散最適化では自然数しか扱えず、消防署の駐車場に消防車を一台、 二台、三台と停めておくことはできるが、二・五台とかπ台は無理である。このせいで、離 散最適化問題は解決するのが難しい。実際、消防車問題もパーティー招待状問題も手に負え ない問題で、一般的な効率的解法が存在しない。しかしじつは、これらの問題の連続バージ ョンなら分数や小数を解にすることができ、有効な戦略がいろいろと存在する。離散最適化 問題と格闘する研究者は、それらの戦略に羨望のまなざしを向けるかもしれない。しかし。 彼らにもほかに手がないわけではない。離散最適化問題を緩和して連続最適化問題に変え、 どうなるか確かめることもできるのだ。  招待状問題では、離散最適化を緩和して連続最適化にすれば、ある人には招待状を四分の 一通送り、別の人には三分の二通送るというような答えが出る可能性がある。しかし、これ はいったいどういう意味なのか。これがもとの問題に対する答えになりえないことは明らか だが、最小全域木と同様、出発点を与えてくれるのは確かだ。緩和解が手元にあれぼ、答え の分数を変換して現実に戻す方法が決められる。たとえば、必要に応じて単純に端数を丸め、 緩和シナリオで「〇・五通」以上の招待状を受け取る人すべてに招待状を送ることにしても よい。あるいは分数を確率と解釈し、たとえば緩和解では消防車を〇・五台配備することに なる場所についてはコイン投げで決めることにして、コインの表が出た場合のみ実際に消防 車一台を配備するというやり方も考えられる。いずれのやり方でも、分数を自然数に戻すこ とによって、もとの離散問題の文脈で意味をなす解か得られるはずだ。  どんな緩和法でもそうだが、もとの問題のままで考えうるすべての答えをしらみつぶしに 調べたら到達したかもしれない真の最良の解と比べて、緩和で得た解がどれほどすぐれてい るかを確かめることが最後のステップとなる。招待状問題については、連続緩和で端数を丸 める方法を用いると、解は容易に計算できるが、これは真の最良の解と比べてもかなりいい 線まで行っている。パーティーに来てほしい人にはもれなく米てもらえることが数学的に保 証される一方で、力ずくで得た最良の解と比べて、出すべき招待状の枚数は最大でも二倍以 内に収まる。同様に消防車問題では、確率を用いた連続緩和によって、最良の答えからさほ ど離れない範囲内で迅速に答えを得ることかできる。  連続緩和は問題解決の特効薬というわけではない。真の最適解を得る効率的な方法にはな らず、ただ最適解の近似が得られるだけだ。それでも、招待状や予防接種の必要数が最適解 の二倍以下ですむならば、最適化されていない別の方法と比べてはるかにすぐれている。   ペナルティーを受け入れるIラグランジユ緩和   ヴィツィーニー不可解だI・   イニゴーモントイヤーいつもその言葉ばっかり言ってる。意味がわかってないんじゃな   いか?                   I映画『プリソセスーブライドーストーリー』  本書の著者の一人であるブライアンは子ども時代のある日、どうしてこんなにやらなきゃ いけないことだらけなのかと母親に文句を言っていた。宿題もあるし。家の手伝いもあるし ……。「厳密に言うと、あなたはやらなくてはいけないわけではないわ」と母親は応じた。  「先生から言われたことをやらなくてはいけないわけではないし、私かあなたに言うことだ ってやらなくてはいけないわけではない。法律だって守らなくてはいけないわけではない。 ただね、どんなことにも結果があるの。その結果を引き受けるつもりがあるかどうかは、あ なたしだいよ」。  ブライアン少年は心を揺さぶられた。そのメ″セージは強烈で、道理、責任、道徳的判断 に対する意識を目覚めさせた。しかも、それだけではなかった。ラグランジュ緩和と呼ばれ る強力な計算方法でもあったのだ。ラグランジュ緩和の根底にある考え方は単純だ。最適化 問題には、ルールとスコア計算という二つの要素かある。ラグランジュ緩和では、問題の制 約の一部を選び、それをスコア計算システムに加工する。つまり、「不可能」な事柄を「高 くつく」ものに引き下ろすのだ(たとえば結婚式の席次の最適化では、各テーブルにはI〇 人までしか着席できないという制約を緩和して、窮屈さというペナルティーを与えたうえで 定員超過を許容する)。最適化問題の制約が「ちゃんとやれ! さもないと……」と脅しを かけると、ラグランジュ緩和が「さもないと?」と応える。制約の境界線の外側に手を加え ることができればIたとえほんの少しでも、そして大きなコストが伴うとしてもI最初 は手に負えなかった問題が手に負えるようになる。  ラグランジュ緩和は、コンピューター科学において巡回セールスマン問題などの困難な問 題に関する理論的文献の大きな部分を占めている。また、さまざまな現実の用途においても 重要なツールとなっている。たとえば、第3章で触れたカーネギー・メロン大学のマイケル ートリックを思い出そう。彼は野球のメジャーリーグやNCAAのいろいろな大会の日程作 成を管理する責任者だが、本書ではまだ彼のやり方に触れていなかった。各年度の日程作成 は巨大な離散最適化問題であり、コンピューターが力ずくで解こうとしてもまるでお話にな らないくらい複雑を極める。そこでトリ″クとスポーツースケジューリングーグループ社の 同僚たちは、ラグランジュ緩和を使って仕事を処理する。テレビをつけたときやスタジアム で席に座ったときには、思い出してほしい卜人丿夜この競技場でこれらのチームが対戦して いるのは……じつは必ずしも最適な組み合わせではないということを。それでも最適に近い ものではある。これはマイケルートリ″クだけでなく、一八世紀のフランスの数学者、ジョ ゼフHルイーラグランジュのおかげでもある。  スポーツのIシーズン分の日程作成において、先ほど説明した連続緩和が必ずしも仕事を 容易にしてくれるわけではない、とトリ″クは考えている。「試合数が分数になってしまっ たら、何の役にも立ちませんからね」。パーティーの招待状や消防車だったら、必要に応じ て分数はいつでも丸めることができる。しかしスポーツでは、試合に参加するチームの数、 試合の総数、各チームがほかのチームと対戦する回数が一定の整数でなくてはならないとい う制約はあまりにも強力だ。「その方向で緩和することはできないのです。モデルの基礎と なる【離散的な】部分はとにかく守らなくてはなりません」。  それでも、この問題の厳然たる複雑さに対処するために、何か手を打つ必要がある。そこ で「リーグが守りたがっている制約の一部を緩和するように、われわれがリーグ側に働きか けなくてはなりません」とトリ″クは説明する。スポーツのシーズン日程を作成する際にか かわってくる制約の数は膨大で、そのなかにはリーグの基本的な仕組みから生じる条件にと どまらず、競技に特有の要求や懸念など、さまざまな事柄か含まれる。ホームとアウェーの 試合が入れ替わるように、シーズンの後半は前半のパターンを反転させて繰り返せばよいと するりIグがある。その一方で、そうしたやり方を好まず、それでもなお全チームの対戦が 一巡するまでは同じチームと二度めの対戦をしてはならないと要求するリーグもある。ライ バル関係が最もよく知られているチームの対決をシーズンの最終試合で実現させることにこ だわるリーグもある。また、ほかのイベントが行なわれるために特定の日に本拠地で試合が できないチームもある。NCAAバスケ″トボールの場合、トリ″クは試合を放映するテレ ビネットワークから出される制約も考慮しなくてはならない。テレビ局は「Aクラスの試 合」や「Bクラスの試合」になると思われる試合、つまり最も視聴率が取れそうな試合(た とえばデューク大学対ノースカロライナ大学の試合は常にAクラスだ)を一年前に決めてい る。そして毎週、AクラスとBクラスの試合を一つずつ放映することを希望する。その一方 で、視聴者が分散しないように、Aクラスの試合を二つ同時に放映することは絶対に避ける。  こうした要求のもとでは、それらの困難な制約の一部を緩和しない限り、スポーツの日程 を作成することはしばしば不可能である。トリ″クは当然ながらそのことに気づいている。   スポーツの日程表を持って弊社に初めて来る人は、たいていこんなことを言います。・:   …「われわれは絶対にXはしないしyもしない」と。私たちか日程表を見て。「しかし   去年はXを二回、yを三回していますね」と言うと、相手は「まあ、確かにそうだな。   それは例外だ」と言ったりします。それからさらに前の年を調べると……。自分では絶   対にしていないと思っていても実際にはしていることがたいてい見つかります。野球関   係者は、ヤンキースとメ″ツが同時にホームで試合をすることは絶対にないと思い込ん   でいますが、それは間違いです。大きな間違いです。同じ日にホームで試合をすること   が一年間に三回から六回ほどあるのです。しかしシーズン全体でホームゲームは各チー   ムでそれぞれ八一試合あって、ヤンキースとメ″ツのホームゲームが同じ日に重なるの   は比較的まれなので、忘れてしまうのです。  ときには巧妙な外交手腕も必要だが、無理な条件の一部をペナルティーに引き下げて、  「ありえない」事柄を「望ましくない」事柄へとゆるめるラグランジュ緩和を用いれば、前 に進めるようになる。到達できない完璧な答えを求めて果てしない時間を費やす代わりにラ グランジュ緩和を使えば、「どのくらい近くまで行かれるか」といった問いについて考える ことができる、とトリックは言う。そしてその答えは、「誰もが満足できる程度には近くま で行かれる」となる。リーグも大学もテレビ局も満足し、この先も毎年、マーチーマッドネ スの熱狂を盛り上げてくれる答えが得られるというわけだ。   緩和法の習得  計算問題にはさまざまな形態があるが、最も一般的なのは最適化問題トゴールでもあり ルールでもあるIだと言ってよいだろう。AかBかといった明確な選択肢のみで中間をも たない離散最適化問題は、そのなかでも最も典型的な問題である。そしてコンピューター科 学の突きつける結論は、がっかりするほど身も蓋もないものだ。離散最適化問題の多くは、 本当に困難なのだ。この分野でトップクラスの才能をもつ者たちが、完璧な答えに至る容易 な道を見つけようと試みても、ことごとく失敗に終わっている。そしてそのような道を探索 するよりも、そんな道は存在しないと証明することに力を注ぐようになってきた。  このことからわれわれは、少なくともいくらかの慰めが得られるはずだ。ひねくれて厄介 で克服不可能と思われる問題に取り組んでいるのなら、答えが出ないのが正しいのかもしれ ない。コンピューターがあっても必ずしも助けにはならないだろう。  少なくとも、緩和を習得できない限りは。  問題を緩和する方法はいろいろあり、そのなかで特に重要な三つについてはすでに見てき た。一つめの「制約緩和」では、制約の一部を完全に取り除き、ゆるくした問題で前進した うえで本来の問題に戻る。二つめの「連統緩和」では、離散選択または二値選択を連続選択 に変える。アイスティーとレモネードのどちらを注文するか決める場合、まずは両者か半々 に混ざった「アーノルドーパーマー」ブレンド(訳注 プロゴルフ″−のアーノルドーパーマーが ゴルフ場でこの飲み物をよくオーダーしていたことからこう呼ばれる)を想像し、それから望みの配 合にもっていく。三つめの「ラグランジュ緩和」は、不可能な事柄をただのペナルティーに 変えて、ルールをブレンドする(またはルールを破ってその結果を受け入れる)方法を教え てくれる。たとえばロックバンドがライブで限られた時間に演奏する曲目を決める場合、直 面するのはコンピューター科学者が「ナップサ″ク問題」と呼ぶ問題、つまりサイズや重要 度の異なるさまざまなアイテムが寄せ集められたなかから限られた容量に詰め込めるだけの ものを選び出すパズルである。最も厳密な形式のナてフサ″ク問題は手に負えないことで知 られているが、だからといって、型にはまらない口″クスターがやる気を失う必要はない。 いくつかの著名な例で証明されているとおり、町の定めた夜間外出禁止時間を少し破って演 奏してそれに伴う罰金を払うほうが、決められた時間内にライブを収めるよりもよいことだ ってある。それどころか、規則違反を犯さなくても、それを想像するだけで見えてくるもの もある。  イギリスの保守系コラムニストのクリストファー・ブ″カーは、「無意識のうちに楽観的 思考に動かされて一連の行動に乗り出すとき、しばらくはすべてがうまくいくように感じら れるかもしれない」が、「その幻想が現実と折りあうことは決してありえない」ので。  「夢」から「フラストレーション」、「悪夢」、「爆発」へと進む多段階の破局と呼ぶべきも のに必ず行き着くと書いている。コンピューター科学は、これよりも格段に明るい展望を描 いてみせる。そしてやはり緩和は最適化の方法として、完全に楽観的思考によって意識的に 動かされている。このことが違いを生み出す一因かもしれない。  緩和にはさまざまなメリットがある。その一つとして。真の解がどんなものでありうるか、 その限界を示してくれる。カレンダーに予定を詰め込もうとしている場合、仮に魔法の力で 町の端から端へ瞬間移動できるとすれば、一時間の会議が一日に最大で八つ入れられること が即座にわかるはずだ。そのような限界は、完全な問題に取り組む前に期待を設定するのに 役立つかもしれない。二つめのメリ″卜として、じつのところ緩和は現実と折りあえるよう にできている。そしてこのことにより、別の方向から解に限界を与えてくれる。連続緩和に よって、ワクチンを分数回だけ接種せよということになったら、〇・五回以上の接種が割り 振られたすべての人に接種すればよい。こうすれば、完璧な世界と比べて必要なワクチン接 種が最悪でも二倍以内に収まる解が容易に計算できる。これならわれわれにも受け入れられ るのではないだろうか。  障害にぶつかるたびにいつも完璧な答えを求めて延々と時間を費やすのもやぶさかではな いという人以外は、困難な問題に遭遇したら無駄骨を折る代わりにその問題のもっと簡単な バージョンを考えて、まずはそれから手をつけるべきである。適切に用いれば、このやり方 はただの楽観的思考や幻想や無為な夢想ではない。前進するための最良の方法の一つなのだ。  9 ランダム性    偶然に任せるぺきとき   正直に言って、長年この分野で研究してきた私にとって、これほど多くのアルゴリズム   問題でランダム性が有効であることはまさに謎です。効率的で有効なのは確かですが、   そのような働きをする理由や仕組みは。まったくもって謎なのです。                               −マイケルーラビン  ランダム性というのは理性の対極のように感じられる。問題との格闘をあきらめたときに 使う最後の手段のようだ。しかしじつは、まるで違う。コンピューター科学において、ラン ダム性は思いのほか重要な役割をもち、しかもその重要性は高まる一方だ。このことから、 偶然を利用することは、最も困難なたぐいの問題に取り組む際に周到で効果的な手段となり うることがわかる。それどころか、ほかに有効な手がない場合の唯一の手段ということもあ る。  コンピューターは標準的な「決定論的」アルゴリズムを使い、いつも完全に同じパターン で手順を実行していくと一般に思われているが、乱択アルゴリズムではランダムに発生させ た数字を使って問題を解決する。難しい問題に対しては、あらゆる既知の決定論的アルゴリ ズムよりも乱択アルゴリズムのほうが迅速にすぐれた近似解を出せる場合もあることか、最 近のコンピューター科学の研究によって明らかになっている。乱択アルゴリズムを使えば必 ず最適解が得られるというわけではないが、決定論的アルゴリズムか必死に答えを探してい るのを尻目に、何回か戦略的にコインを投げるだけで、決定論的アルゴリズムよりもはるか に短い時間で驚くほど最適解に近い解に到達することができる。  ある種の問題では最良の決定論的アプローチよりも乱択アプローチのほうがうまくいく。 この事実には重大な意味がある。完全に論理的に答えを導くのではなく偶然に頼ることが、 問題に対する最良の解法となることもあるのだ。  とはいえ、ランダム性が役に立つ場合もあるということを理解するだけでは不十分だ。ど んなときに、どんな方法で。どの程度まで、偶然に頼るべきかについても知る必要かある。 コンピューター科学の最近の歴史がいくらか答えを教えてくれる。ただし、物語の幕開けは 二世紀ほど昔にさかのぼる。   サンプリング  一七七七年、ビュフォン伯ジョルジュHルイールクレールが興味深い確率論的解析の結果 を発表した。罫線の引かれた紙に針を落とした場合、針が罫線と交わる確率はどのくらいか と彼は問題を提起した。そして、針の長さが罫線の間隔より短い場合には、答えは針の長さを 罫線の間隔で割って2/πを掛けたものになるということを明らかにした。ビュフォン伯と しては、この式を導き出しただけで十分だった。しかし一八匸一年にピエールnシモソーラ プラス(第6章の主要人物の一人)が、ビュフォン伯の成果には別の意味もあると言い出し た。針を紙の上に落とすだけでπの値か推定できるというのだ。  ラプラスの主張は。深遠な普遍的真理をついていた。複雑な量について知りたいことがあ る場合、一部を「サンプリング」 (抽出)すればその値が推定できるということだ。これは まさに、ペイズの法則に関する彼の研究が助けてくれるタイプの計算である。実際、何人か がラプラスの説に従って、提案されたとおりの実験を行ない、この実際的な方法でπの値が 推定できるIもっとも、あまり効率的ではないがIことを確かめた。  罫線の入った紙に数千本の針をばらまくのは(人によっては)おもしろい暇つぶしだが、 サンプリングを実用的な方法にするには計算機の発達が必要だった。昔は数学者や物理学者 がランダム性を用いて問題を解こうとするなら、自分の手でせっせと計算するしかなかった。 だから正確な結果を出すのに十分な標本を用意するのは難しかった。しかしコンピューター がI特に第二次世界大戦中にロスアラモス研究所で開発されたコンピューターがI状況 を一変させた。  スタニスワフーズタソ″・ウラムは、原子爆弾の開発に貢献した数学者である。ポーラン ド出身の彼は、一九三九年にアメリカへ渡り、一九四三年にマン(″タン計画に加わった。 その後しばらく大学に戻ったが、一九四六年にはロスアラモスに復帰して熱核兵器の設計に 携わった。しかし彼は病を患っていた。脳炎で脳の緊急手術を受けており、療養中には数学 の能力が取り戻せるかと不安にさいなまれた。  回復期には、トランプでよく遊んだ。ソリティア(クロンダイクともいう)をすることか 多かった。ソリティアをする人なら知っているとおり、シヤ。フルの仕方によっては絶対に 勝てないゲームになることがある。そこでウラムはプレイしながら当然の疑問を抱いた。シ ャッフルによって勝利の可能なゲームとなる確率はどのくらいなのか。  ソリティアのようなゲームでは、確率空間を推論で進もうとすると、ほぼたちどころに立 ち往生する。一枚めのカードをめくるときには、ゲームの展開には五二通りの可能性がある。 二枚めになると、それぞれの一枚めに対して五一通りの可能性がある。つまり、プレイを始 めてさえいないのに、すでに数千通りの可能性が目の前で待ち構えているのだ。F・スコ″ トーフィッツジェラルドは「知性が一流かどうかは、頭の中で二つの対立する考えを同時に 保持しながらなお頭の機能を保てるかどうかで確かめられる」と書いている。そのとおりか もしれない。だが、人間でもそれ以外の存在でも、第一級の知性をもってしても、頭の中に 八〇〇〇不可思議(八×一〇の六七乗)通りのカードの順番を保持しながら、なお頭の機能を いくらかでも保つのは無理だろう。  ウラムはこのような詳細な組み合わせ計算を試みて断念したあと、別の方法に踏み出した。 これは見事なほどに単純な方法だった。ただゲームをするだけなのだ。   成功する場合の確率を計算する考えをつかむにあたって、すべての可能な組み合わせを   計算するより、むしろ、その推移を実験して、どんな割合で成功するかということにだ   け注目する方が、はるかに実際的であることに気づいたのである。すべての場合にわた   って計算するときは、その回数は指数関数的に増大し、ごく初等的な場合を除いてそれ   を見積る術がない。これは、知的には驚くべきことである。よくよくまじめに考えてみ   れば、これは、合理的、伝統的思考の限界を暗ににおわせている。複雑極まりない問題   *おもしろいことに、偶然の一致をはるかに上回る高精度でπを推定した実験もあったらしい。この   ことから、それらの実験は都合のいい時点で故意に切り上げられたか、あるいは突験そのものが捏造   だった可能性がうかがわれる。たとえば一九〇一年には、イタリアの数学者マリオーラ″ツァリーニ   が三四〇八回の試行の結果?r=355/113 = 3.1415929と推定したとされている(本当のπの値を小数点   以下第七位まで記すと3.1415927)°しかし針が罫線と交差した回数が一回違うだけでも、推定値の精   度はかなり下かってしまう(3.1398か3.1433)。このことから、ラッツァリーユの報告は信憑性が低い   と思われる。この結果が妥当な突験から得られた可能性の低いことはベイズの法則を使って確認でき   るのだが、このことを知ったら、ラプラスは意を強くしたことだろう。   では、実際的な標本抽出の方が、すべての可能な連鎖を調べるよりもすぐれているので   ある(『数学のスーパースターたちIウラムの自伝的回想』ウラム著、志村利雄訳、東京図轡より引   用)。  「すべての可能な連鎖を調べるよりもすぐれている」という言葉が、必ずしも徹底的な分析 よりもサンプリングのほうが正確な答えを出せるという意味ではない点に注意したい。サン プルを真にランダムなものにしてランダムなサンプルの数を増やせば。エラーを軽減するこ とはできる。それでも、サンプリングの過程でなんらかのエラーが起きるのは避けられない だろう。彼が言いたいのは、サンプリングはほかの方法では答えか出ないときになんらかの 答えを出してくれるという点で、徹底的な分析よりもすぐれているということだ。  分析ではうまくいかないときにサンプリングならうまくいくことがあるというウラムの発 見は、ロスアラモスでぶつかる難しい核物理学の問題を解決する際にもきわめて重要な意味 をもった。核反応とはある種の分岐過程であり。ソリティアのときと同じように可能性かど んどん増えていく。一つの粒子が二つに分裂し、それぞれが別の粒子に衝突して分裂を引き 起こすといった具合に枝分かれしていく。無数の粒子が相互作用をしていくなかで、この過 程から特定の結果が生じる確率を正確に計算するのは難しく、不可能の域に達する。しかし、 それぞれの相互作用かトランプを一枚めくるのと同じことだと考えてシミュレートすれば。 別の方法で確率を推定することが可能になる。  ウラムはジョンーフォンーノイマンとともにこの考え方をさらに発展させ、同じくマン( ″タン計画に参加していた物理学者の二コラスーメトロポリスとともに。ロスアラモスのコ ンピューターを使ってこの方法の実行に取hソ組んだ。メトロポリスは、徹底的な確率計算の 代わりに単純なシミュレーションを用いるというこの方法をモンテカルロ法と名づけた。同 じように偶然の気まぐれに頼る場であるモナコのカジノーデーモンテカルロにちなんだ命名 である。ロスアラモスのチームはこの方法を使って、核物理学の主要な問題をいくつか解く ことかできた。現在では、モンテカルロ法は科学計算を支える礎石の一つとなっている。  素粒子の相互作用やソリティアで勝つ確率を計算するような問題の多くは、それ自体がも ともと確率論的なので、モンテカルロ法のような乱択アプローチで解くのはかなり理にかな っている。しかしランダム性の威力についての最も驚くべき発見は、一見すると偶然などま ったく関与しないと思われる状況でもランダム性が利用できるということかもしれない。厳 然とイエスかノー、あるいは真か偽のいずれかしか答えがなく、確率など関与しない問題の 答えを知りたい場合でも、サイコロを何回か振ることが解につながる場合もあるのだ。   乱択アルゴリズム  コンピューター科学においてランダム性が驚くほど広範に利用できることを最初に示した のは、マイケルーラビンだった。一九三一年にドイツのブレスラウ(第二次世界大戦の終結 とともにポーランドのヴロツワフとなった)で生まれたラビンは、古くから続くラビの家系 の子どもだった。父は息子をラビにすると決めていたが、一九三五年に一家でドイツを脱し てパレスティナに移ると、その地で数学の美しさに魅せられたラビンは父の敷いた道から離 れた。そしてヘブライ大学に入学してまもないうちにアランーチューリングの研究を知り、 アメリカに移住してプリンストン大学の博士課程に入学した。ラビンはその後、コンピュー タり斜学界でノーベル賞に匹敵するチューリング賞を受賞することになる。理論計算機科学 を敷衍して、計算機が一つの選択肢しか与えられないのではなく複数の道をたどれる「非決 定論的」な事例も扱えるようにしたというのか受賞理由である。ラビソは一九七五年の研究 休暇中、探求すべき新たな研究の方向性を求めてMITを訪れた。  探していたものは、あらゆる問題のうちでとりわけ古くからある問題の中に見つかった。 素数の見つけ方である。  素数を見つけるアルゴリズムは、少なくとも古代ギリシヤ時代までさかのぼる。当時の数 学者は「エラトステネスのふるい」と呼ばれる単純な方法を用いていた。この方法では、g より小さい素数をすべて見つけるために、まずIからgまでのすべての数字を順番に書く。 そして2以外の2の倍数をすべて抹消する(4、4、$ク現砌……)。それから、抹消さ れずに残っているなかで次に小さい数字(今の例では3)について、当該の数字は除き、そ の倍数をすべて抹消する(4、―、恂呎邯……)。この手順を繰り返すと、最後に素数か残 る。  数千年のあいだ、数学のなかで素数の研究は、G・H・パーティーの言葉を借りれば「明 らかに最も無益な領域の一つ」と思われていた。しかし二〇世紀になると、素数研究はにわ かに実用性の世界へ躍り出て、暗号技術やオビフインセキュリティーの分野で根幹をなす存 在となった。素数どうしを掛けあわせるのに比べれば、じつは数字を素因数に分解するほう がはるかに難しい。たとえば1000桁くらいの十分に大きな素数の場合、掛け算は一秒の 何分の一かでできるが、因数分解には誇張でなく数百万年かかることもありうる。つまりこ れは「一方向性関数」と呼ばれるものである。たとえば現代の暗号化では、送り手と受け手 しか知らない秘密の素数を掛けあわせて、安心して堂々と送信できる巨大な合成数を生成す る。盗み見た誰かが積を因数分解しようとしても、無意味なほど果てしなく長い時間がかか るのだ。このように、オンライン上で行なわれるほとんどの安全な通信は、それが商取引で あれ、バンキングであれ、メールであれ、素数探しから始まる。  このように素数か暗号化に利用されるようになったおかげで、素数の発見と確認のアルゴ リズムがにわかにとてつもなく重要となった。エラトステネスのふるいは有効ではあるか効 率が悪い。特定の数が素数かどうか、つまり「素数性」を調べたい場合、ふるい戦略を使う なら、その数を平方根まですべての素数で割っていく必要がある。六桁の数が素数かどうか を調べるには、一〇〇〇より小さい一六八個の素数すべてでその数を割ってみる必要がある が、これはそんなに大変ではない。しかし匸一桁になると、一〇〇万より小さい七万八四九 八個の素数で割り算しなくてはならず、その計算はたちまち手に負えなくなる。現代の暗号 技術で使われる素数は数百桁もあるから、解読するのはあきらめたほうがいい。  ラピンはMITで、カリフォルニア大学バークリー校のコンピューター科学科を卒業して まもないゲイリー・ミラーと出会った。ミラーは博士論文において、興味深く有望で、はる かに高速な素数判定アルゴリズムを作成していたが、小さな問題が一つあった。常に正しく 機能するわけではなかったのだ。  ミラーは一組の等式(gとXという二つの数で表現される)を見つけていた。犯が素数な らばXにどんな値を入れても常に成り立つというものだ。等式が成り立たないXの値が一つ でもあれば、黠が素数である可能性はなくなる。この場合、Xは素数性を否定する「証拠」 と呼ばれる。しかし問題は、偽陽性か生じることだ。Sが素数でないのに、等式が成り立っ てしまうことがあるのだ。この問題のせいで、ミラーの方法は中途半端なままになりそうだ った。  コンピューター科学の世界というのはふつうは決定論的なものだが、今はここから一歩外 へ出ることか大事かもしれない、とラビンは気づいた。数黠かじつは非素数の場合、Xのと りうる値のうち偽陽性の判定を下してSを素数と判断するものはどのくらいあるのか。ラビ ンが示したところによると、その答えは四分の一にすぎない。したがって、Iフーの等式が 正しいなら、ランダムな値Xに対して、黠が実際には素数でない可能性はわずか四分の一と なる。そして、新たにランダムな値Xを選んでミラーの等式で調べるたびに、黠が素数のよ うに見えるだけで実際には素数でない確率はさらに四分の一倍に下がっていく。このことは とても重要だ。この手順をI〇回繰り返せば、偽陽性の確率は四のI〇乗分の一となる。つ まりI〇〇万分の一より低い確率だ。それでも確信できないときは? さらに五回確かめれ ば、一〇億分のIまで確率は下がる。  同じくMITのコンピューター科学者であるボーンープラ″卜が、ある冬の夜にラビンの アルゴリズムを実行して結果を入手し始めた。そのころラピンは、自宅に友人を招いてユダ ヤ教の(ヌカーを祝うパーティーを閧いていた。ラビンは真夜中ごろに電話がかかってきた ときのことをこんなふうに語っている。   マイケル、こちらはホーンだ。あの実験の出力が出はじめたので、鉛筆と紙を持ってき   て書き留めてくれ。彼が言うには、593 £素数だ。`8より小さい全素数♪の積を   」gで示す。kχ338+821と`xsQ十認`は双子素数……だ。これは当時の双子素数の   最大記録だった。これを聞いて私は髪の毛が逆立った。信じられないほど素晴らしい結   *平方根より先は調べなくてよい。なぜなら。ある数がその平方根より大きい因数をもつなら、当然   のこととして平方根より小さい対応する因数をもつ必要かあるが、それはすでに見つかっているはず   だからだ。たとえばI〇〇の囚数を求める場合、一〇より大きい因数には必ずI〇より小さい因数が   ペアとして存在する。二〇は五とペアになり、二五は四とペアになり・・・・:といった具合である。   果だった。本当にすごいことだった(『コンピュータの時代を開いた天才たち』デエスーシャシ   ャ&キャシー・ラゼール著、竹内郁雄監訳、鈴木良尚訳、日経BP社より引用)。  この方法が今ではミラー竺フビン素数判定法と呼ばれ、これを使うと任意の精度で巨大な 数でも素数であるかどうかすばやく判定できる。  ここで、「である」とはどういう意味かという哲学的な問題が気になってくるかもしれな い。われわれは数学が確実性を備えた領域であることにすっかり慣れきっているので、数か  「おそらく素数」だとか「ほぼ確実に素数」だとか言われると抵抗を覚える。どのくらい確 実なら十分に確実と言えるのか。実際には、イソターネ″卜接続や電子商取引を暗号化する 現代の暗号化システムは、偽陽性率がI〇〇万分の一〇億分のI〇億分の一未満となるよう に調整されている。これは小数で表せば頭にゼロが二四個並ぶ数であり、地球上に存在する 砂粒の総数と同じ回数だけ判定を行なった場合に誤って素数と判定される回数が一回未満と いうことである。ミラーリラビンの判定法をわずか四〇回適用すれば、この水準に到達でき る。完全な確信に至ることは決してないというのは本当だが、ものすごくすばやく、ものす ごく近くまでたどり着くことはできる。  ミラーHラビン素数判定法という名前は聞いたことがないかもしれないが、ノートパソコ ンやタブレット端末、携帯電話ではこれが大活躍している。発見されてから数十年か経った が、今でも幅広い領域で素数を見つけて確認するのに使われる標準的な方法である。オンラ インでクレジットカードを使えば必ず、見えないところでこの判定法が実行されているし、 無線や有線で安全に通信するためにもたいていこれが実行されている。  ミラーとラビソの研究から数十年間、決定論的なやり方で絶対確実に素数判定のできる効 率的なアルゴリズムが存在するかどうかはわからなかった。二〇〇二年にはインドエ科大学 のマニンドラーアグラワル、ニラジューカヤル、ナイティンーサクセナがそのようなアルゴ リズムを発見したが、ミラー日ラビン素数判定法のような乱択アルゴリズムのほうがはるか に高速なので、今でもこちらか実用されている。  効率的な解に至る手段が依然としてランダム性以外に見つかっていないという問題も存在 する。数学における興味深い例の一つとして「多項式等価性判定」と呼ばれるものがある。 N`冫}i‘十`9十∝と{吩十})×(`十`)×(t十`)のような二つの多項式かある場合、この二 つがじつは同じ関数かどうかを確かめる(すべての掛け算をしてから答えを比較することに よって)には、信じがたいほど時間がかかる可能性がある。変数の個数が増えればなおさら だ。  ここでもやはりランダム性が、前へ進む手段を与えてくれる。ランダムなXをいくつか生 成し、それを人力するだけだ。二つの式が等価でない場合、ランダムに生成したいくつかの 入力に対して同じ答えが出たならそれはすごい偶然だろう。別のランダムな入力に対しても   **双子素数とは、五と七のようにどちらも繁数である連続した二つの奇数をいう。 また同じ答えが出たなら、もっと途方もない偶然だ。さらにランダムな入力を行なって、合 計三回続けて同じ答えか出たなら、さらにとてつもない偶然だ。多項式の等価性を効率的に 判定する既知の決定論的アルゴリズムは存在しないので、複数回の確認ですぐに「ほぼ確 実」とわかるこの乱択アルゴリズムは。われわれが使える唯一の実用的な方法となっている。   サンプリング礼讃  多項式等価性判定から、内なる仕組みの解明を目指すよりも、ランダムな値をチエ″クす る(調べたい二つの式からサンプリングする)ことに労力を費やすほうがよい場合もあると いうことがわかる。このことはある程度までそれなりに納得のいく事柄のように感じられる。 何だかわからない装置を二つ渡されて、それらが種類の異なる装置なのか、それとも同じ装 置を二個つくったものなのかと訊かれたら、ほとんどの人は装置をこじ開けて内部の配線を 調べたりせず、まずはボタンを適当に押してみるのではないだろうか。テレビで麻薬王がい くつかの包みを適当にナイフで切り開いただけですべての品質が確かめられたと思っている 場面を見ても、われわれは別に驚いたりしない。  しかし、われわれがランダム性に頼らないIが、頼るべきかもしれないIヶIスもあ る。  二〇世紀で最も重要な政治哲学者は(Iヴァード大学のジョンーロールズだったと言って よいだろう。彼は自分の専門分野で一見対立している二つの主要な概念を調和させるという 壮大な仕事を自らに課した。「自由」と「平等」をどう両立させるかという問題だ。より自 由な社会とより平等な社会とでは、どちらのほうがより「正義」にかなっているだろう。そ もそも自由と平等は必ずしも互いに排他的なものだろうか。ロールスはこれらの問いに向き あう方法を提示し、それを「無知のヴェール」と呼んだ。自分がこの世に生まれ出ようとし ているところだが、どんな立場で生まれるのかはわからない恚想像せよ。と彼は言う。性別 がわからず、裕福か貧しいかもわからず、生まれる場所が都会か田舎かもわからず、病気か 健康かもわからない。自分の立場を知る前に、自分がどんな社会で暮らすか決めなくてはな らないとする。この場合、どんな社会を選ぶだろうか。無知のヴェールの奥から社会のさま ざまな仕組みを検分することによって、われわれは理想的な社会とはどんなものかについて 一致した見方にもっと容易に至れるはずだ、とロールスは主張する。  しかしロールスの思考実験では、そんなヴェールの奥から社会を理解するのに伴う計算コ ストか考慮されていない。この架空のシナリオで、必要な情報をどうしたらすべて頭の中に 保持できるというのか。正義や公平をめぐる壮大な問いはしばらくわきに置いて、ロールス のやり方を医療保険の規則改定案にあてはめてみよう。たとえば、アメリカ中西部でのちに 町役場の書記官になる人物として生まれる確率を考える。これに中西部のさまざまな自治体 の公務員が利用できるさまざまな医療プランの分布を掛ける。さらにたとえば脛骨を骨折す る確率を示す実際のデータを掛ける。今度は存在しうる保険プランの分布を考慮して、中西 部の病院で脛骨骨折の標準的な処置を受けた場合の標準的な治療費を掛ける。そして……。 このくらいにしておこう。保険改定案は国にとって「よい」のか、それとも「悪い」のか。 こんなやり方では、一人の脛のけがについてさえ評価できそうにない。ましてや数億人の命 についてなどとうてい無理だ。  ロールスの哲学を批判する者たちは、無知のヴェールの奥で手に入れる情報をどのように 利用すべきかについて延々と議論をしている。幸福の平均値、幸福の中央値、幸福の総量、 あるいはそれ以外の何かを最大化すべきなのか。これらのアプローチはいずれも破滅的なデ ィストピアに至る可能性をもつことがよく知られている。たとえば作家のアーシごフ・K・ ルーグィンが描いた架空の理想郷オメラスには繁栄と調和があふれているが、一人の子ども だけが悲惨な窮状での暮らしを強要される。批判者たちの主張はもっともだが、ロールスは ヴェールの奥で入手した情報をどう扱うべきかという問いには答えず、意図的に批判をかわ している。しかし、そもそも情報をどうやって集めるかという問題のほうがおそらく重大だ ろう。  その答えはコンピューター科学が出してくれるかもしれない。MITのスコ″トーアーロ ンソンは、コンピューター科学者が今までのところ哲学にあまり影響を与えていないのか不 思議だと述べている。その理由の一つは、彼らが「哲学の概念の蓄積にコンピューター科学 者が加えることのできるものをきちんと伝えていない」ことにあるのではないかとアーロン ソンは見ている。   何かが計算可能だとわかると、その計算にI〇秒かかるか二〇秒かかるかは哲学者では   なく明らかに技術者の問題になると思われるかもしれない。しかし、一〇秒かI〇のI   〇乗のI〇乗秒かという話になれば。結論はこれほど明白ではなくなるだろう。実際、   複雑性理論においては、考慮する量的ギャップが通常きわめて大きいので、そのギャ″   プが同時に質的ギャtフでもあると考えなくてはならない。たとえば、四〇〇ページの   本一冊を読む場合と、この世に存在しうる四〇〇ページの本をすべて読む場合の違いや、   一〇〇〇桁の数を一つ書くのと、その数まで数えていくことの違いを考えてみればよい。  コンピューター科学は、脛のけかのような事柄に対して社会がどう対応するか、その対応 すべてを評価する際の複雑さを明確に表現する手段を与えてくれる。そしてありかたいこと に、その複雑さに対処するためのツールも与えてくれる。サンプリングを利用するモンテカ ルローアルゴリズムは、ツールボ″クスのなかでもとりわけ有用な道具の一つである。  たとえば国の医療改革という複雑すぎて容易に理解できない巨大な装置の意義を理解させ ようとする場合、政治家は一般に二つのものを国民に与える。選りすぐった個人のエピソー ドと、集計して要約した統計データである。もちろん個人のエピソードは強烈で鮮明な印象 を与えるが、全体を代表するわけではない。どれほど的を射たものであれ的外れなものであ れ、およそ法律と名のつくものは一部の人を優遇し、一部の人を冷遇する。だから、入念に 選び出された物語は全体像をつかむうえでなんの指針にもならない。反対に、集計した統計 データは包括的だが薄っぺらだ。国全体で平均保険料が下がったことかわかるとしても、そ のことがもっと個別的なレベルでどんな影響をもたらすのかはわからない。ほとんどの国民 が恩恵にあずかる一方で、オメラスと同じように大学生やアラスカ州民や妊婦といった特定 の集団だけがひどい窮状に置かれるかもしれない。統計は物語の一部を語ることしかできず、 その根底にある個別性を隠してしまう。自分に必要なのはどの統計かすらわからない場合も 少なくない。  包括的な統計も、政治家のお気に入りの物語も、数千ぺ1ジにおよぶ法案を理解するうえ で真の指針とはできない。そこでモンテカルロ法を熟知したコンピューター科学者なら、別 の方法を提案するだろう。サンプリングである。複雑すぎてそのままでは手に負えないもの を理解する方法として、ランダムサンプル(無作為標本)の詳細な検討はきわめて有効な手段 となる。質的に手に負えない問題を扱う場合、つまりソリティアや核分裂、素数判定や公共 政策といった、そのままでは消化できないような厄介で複雑な問題を扱う場合には、サンプ リングは困難をくぐり抜けるための、きわめて単純だが格別にすぐれた方法となる。  このアプローチが機能している実例を、ケニアとウガンダで極度の貧困生活を送る人に無 条件で援助金を届ける〈ギプダイレクトリー〉という慈善団体で見ることができる。この団 体は、さまざまなレベルで、その変わった’冫ショソのみならず自らのプロセスに求める透 明性や説明責任といったレベルにおいても、従来の慈善活動のあり方を見直す活動を通じて 注目を集めている。従来の手法のなかで、ギブダイレクトリーが異議を申し立てている最も 新しいターゲ″卜は成功談である。  「ギブダイレクトリーのウェブサイトやブログやフェイスブックページを頻繁にチェ″クし ている人は。これらにあまり登場しないものがあるのに気づいているかもしれません。お金 を受け取った人の記事や写真です」と。プログラムアシスタントのレベ″カーラングは書い ている。よその慈善団体が紹介するような印象的な話が嘘だというわけではない。ただ。成 功を誇示するために意図的に選ばれたものだという事実そのものが、そこからいかほどの情 報か得られるのかを疑わしくしてしまうのだ。そこでギブダイレクトリーは、このような従 来のやり方にも工夫を加えることにした。  毎週水曜日になると、ギブダイレクトリーのチームは援助金を受け取った人を一人ランダ ムに選んで、現地担当者を面談に向かわせる。そしてどんな話が聞けたとしても、担当者の メモをそのまま公開する。たとえば初回には、もらった援助金で自宅にトタン屋根をつけた メアリーという女性が選ばれた。   *ここで私たちが、サイトに掲載されている最初の話を意図的に引用している点に注目してほしい。   つまり、すべての話を読んだうえで選んだわけではないということだ。そんなことをしたら、ここで   の目的に反してしまう。   彼女は自宅を改良することができた。トタン屋根をつけることができた。ソファセ″卜   を購入して自宅に置くこともできた。以前は雨が降るたびに雨漏りで家じゅうのものか   ずぶ濡れになっていたか、そんな生活が変わった。受け取った金で家にトタン屋根をつ   けて改良することかできたのだ。  「このような方法をとることで、私だちかお伝えするあらゆるタイプの情報を皆様に信頼し ていただけることを期待しています。さらにほかの団体に対しても、今までよりも厳しい目 を向けていただければと思います」とランクは記している。   エラーのトレードオフ   咄嗟に思いついたことは、特に、文学において、えらい仕事を仕遂げた人を構成する性   質、シェイクスピアが多量にもっていた性質−私が消極能力という性質のことです。   この消極能力というのは、人が、事実や理性などをいらだたしく追求しないで、不確定、   神秘、疑惑の状態にとどまっていられるときを言うのです(『キーツ書簡集』佐藤清訳、岩   波文庫より引用〔旧字体は新字体に変更した〕)。                                 −ジョンーキーツ   絶対に確かなことは存在しないけれども、人間の生活にとって十分なだけ確かなことは   存在する(『自由論』斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫より引用)。                           −ジョンースチュアート一 ゛丶 ル  しばしばコンピューター科学では。トレードオフの取hソ決めが問題となる。たとえば第3 章でソートを扱ったときには、あらかじめソートに費やす時間とあとで検索に費やす時間と のトレードオフに着目した。第4章のキャ″シュのところでは、時間を節約するために余分 なスペースを使う(キャ″シュのためのキャ″シュのためのキャ″シュ)というトレードオ フについて探った。  コンピューター科学で最もおなじみのトレードオフの根本には時間と空間があるが、乱択 アルゴリズムに関する最近の研究では、それ以外に「確実性」という変数も考慮すべきであ ることが示されている。(Iヴァード大学のマイケルーミッツェンマチャーによれば、「わ れわれが目指すのは、時間と空間を節約することと引き換えに、エラー確率という第三の次 元のトレードオフを可能にしてくれるものは何かを探し出すこと」である。不確実性に手を 伸ばすためのこのトレードオフについて、よく挙げる例は何かと尋ねられると、彼は即座に 答える。「私のスライドにしょっちゅう登場する言葉があります。その言葉が現れたらその たびに一杯飲む罰ゲームが必要だと同僚に言われましたよ。ブルームフィルターのことは聞 いたことがありますか?」。  ミッツェンマチャーの話はこうだIブルームフィルターの根底にある考えを理解するた めに、グーグルのような検索エンジンがウェブ全体を巡回してすべての可能なURLを登録 するところを考えよう。ウェブは一兆個をゆうに超えるURLで構成され、URLの文字数 は平均で約七七字である。検索エンジンがURLを見て、そのぺ1ジが登録済みかどうか、 どうしたら確かめられるだろう。仮に今までに訪れたすべてのURLを載せたリストを保管 すれば膨大なスペースが必要だし、このリストを何度も検索するとなると(それが完璧にソ ートされていたとしても)悪夢のような作業になりかねない。実際、病気より治療のほうが 大変ということも大いにありうる。つまり同じページを二度登録していないか毎回確かめる のは、たまに同じページを二度登録してしまうよりも時間がかかるかもしれないのだ。  しかし、URLか自分にとって初めて出会ったものかどうかをほぼ確信したいだけならど うだろう。ここでブルームフィルターの出番だ。発明者のバートン・H・ブルームにちなん で名づけられたブルームフィルターは、ラビソHミラー素数判定法とよく似た働きをする。 基本的に、それか新しいページであることを請けあう「証拠」を探す一組の等式にURLを 入力するのだ(「黠は素数ではない」と判定する代わりに、これらの等式は「私は今までに 黠を見たことがない」ことを明らかにする)。一〜ニパーセントのエラー率が許容できるな ら、ブルームフィルターのようなメモリー使用量の少ない確率論的データ構造で結果を保存 することによって、時間と空間が大幅に節約できる。そのようなフィルターが役立つ場は、 検索エンジンにとどまらない。ブルームフィルターは、既知の悪意あるウェブサイトのリス トにURLを照合する目的で、最近のさまざまなウェブブラウザーにも搭載されている。ま た、ビ″トコインのような暗号通貨においても重要な役割を担っている。  ミッツェンマチャーは「エラーのトレードオフ空間という考え方がありますが、問題は人 がこれをコンピューティングと結びつけないことではないでしょうか。一般にコンピュータ ーというのは答えを与えてくれるものだと思われています。ですからアルゴリズムの授業で  『答えが一つ出るはずですが、正解ではないかもしれません』と言われるとIそう言われ た学生は目からうろこが落ちた気分になる、と私は思いたい。自分がふだんの生活の中でど れほどそういうことをやっていて、それを受け入れているか、皆さん気づいていないようで すね」。   山、谷、わな   川は曲がりくねりながら流れる 考えることができないから。                    −リチャードーケニー(訳注 アメリカの詩人)  ランダム性は、NCAAバスケ″トボールの日程作成や巡回セールスマンの最短ルートの 特定などの離散最適化問題を解く際に、強力な武器となることがわかっている。前章ではこ の種の問題を都合のよい規模に縮小させるのに緩和が大きな役割を果たせるということを確 かめたが、ランダム性の戦術的な利用はほぼ確実に、それよりさらに重要な手法となってい る。  一〇都市を訪れる世界旅行を計画しているとしよう。巡回セールスマン問題を地で行くわ けだ。スタートとゴールはサンフランシスコとし、シアトル、ロサンゼルス、ニューヨーク、 ブエノスアイレス、ロンドン、アムステルダム、コペン(Iゲン、イスタンブール、デリー、 京都を訪れる。行程の総距離はあまり気にならないとしても、旅費はなるべく抑えたいだろ う。ここでまず注目すべき点は、一〇都市と聞いてもそんなに多いと感じないかもしれない か、可能なルートはI〇の階乗、つまり三五〇万通り以上あるということだ。そうだとする と、順列をすべて調べて一番安いルートを探すのは決して現実的なやり方ではない。もっと 手際よく事を運ぶ必要かある。  手始めに、サンフランシスコから最も安いフライトを選び(シアトル行きということにし よう)、そこから残りの都市へ最も安く行かれるフライトを探す(ロサンゼルス行きとする)。 さらにそこから一番安いフライトを探し(今度はニューヨーク行きだ)、という具合にI〇 番めの都市にたどり着くまで同じ手順を繰り返し、そこからサンフランシスコに戻ってくる。 これは「貪欲アルゴリズム」と呼ばれるものの一例だ。「近視眼的アルゴリズム」と考える こともできる。各段階で、利用できるなかで最良のものを近視眼的に選ぶやり方だ。第5章 で見たとおり、スケジューリング理論では貪欲アルゴリズム(たとえば常に所要時間が最短 の仕事を選び、その先には目を向けず、計画も立てないというやり方)だけで問題が解ける 場合もある。しかし今やっているような巡回セールスマン問題については、貪欲アルゴリズ ムで得られる解はおそらくひどくはないだろうが、最良には程遠いものである可能性が高い。  もととなる旅程が作成できたら、都市の順番を少し変えてどこかよくなるところがないか 確かめることによって、いくつかの別案をテストすることかできる。最初にシアトルへ行き、 それからロサンゼルスに行くつもりだったなら、この二都市の順番を入れ替えて、ロサンゼ ルスを訪れてからシアトルに行くという順番にしてもよい。最初にどんな旅程にしたとして も、一一ヵ所でこのような二都市の入れ替えができる。それらをすべて試したうえで、旅費 が最も節約できるものを選ぶ。こうして新たな旅程が手に入り、この旅程でまた新たに入れ 替えをすることができる。この場合もやはり、局所的な改善を目指す。このアルゴリズムは 山登り法と呼ばれる。こう呼ばれるのは、すぐれた解や劣った解の混在する空間を山と谷か らなる地形のようなものととらえて、探索者はこれらの解を探索しながら最も高い山頂を目 指すと考えられるからである。  やがて、すべての順列のなかで最もよい解が見つかるだろう。隣りあうどの訪問地を入れ 替えても、これ以上のルートはもはや見つからないという段階に達する。ここまで来たら、 山登りは完了だ。しかし、ありうる旅程のなかで最良のものが見つかったと断言してよいだ ろうか。残念ながら、答えはノーである。  「極大値」と呼ばれるものを見つけただけで、 すべての可能性のなかで最大の値を見つけた わけではないかもしれない。山登りの際に目 にする地 形は、霧でかすんでいる。まわ りの地面がすべて自分から見て下り斜面にな っているので、自分が山頂に立っていること はわかる。しかし次の谷の向こうでは、もっ と高い山か雲に隠れてそびえているかもしれ ない。  ロブスターがわな(訳注 かごでできたわなの 外枠から内部の奥に向かってすぼまるじょうご型の 進入路が設置されている)にかかったところを 想像しよう。あわれなロブスターは、かごか ら脱出するには一度かごの奥に進まなければ ならないということに気づいていない。この わなは針金でできた極大値にほかならない。 命を奪う極大値だ。  旅行を計画する場合、幸いにも極大値はこれほど危険ではない。しかし同じ性質をもって いるのは間違いない。少し手直ししてもそれ以上よくならない解が見つかったとしても。全 体の最大値をまだ見過ごしている可能性がある。真に最良の旅程を手に入れるには、たとえ ば大陸の順番を変えるとか、東回りをやめて西回りにするなどの、抜本的な見直しが必要か もしれない。もっとよい解を探し続けるなら、一時的に解の質を下げる必要もあるかもしれ ない。そしてランダム性かそのための戦略をI正確に言うといくつかの戦略を1与えて くれる。   極大値を脱する  一つの方法は、「ジッター」 (揺さぶり)というものを使って山登り法の補強を図るとい うやり方だ。行き詰まったと感じたら、少し揺さぶhソをかけてみる。いくっかのちょっとし たランダムな変化を起こして(悪い方向への変化であっても)、それから山登りに戻る。そ して先ほどより高い山頂にたどり着いていないか確かめる。  別のアプローチとして、極大値に達してしまったら、すでに出ている解を完全に放棄して、 このランダムな新しい出発点から改めて山登りをスタートするという手もある。このアルゴ リズムには「ランダム再出発山登り法」という、言いえて妙な名前がついている。もっと派 手に「ショットガン山登り法」と呼ぶこともある。この戦略は。一つの問題に多数の極大値 か存在する場合にきわめて有効であることがわかっている。たとえばコンピューター科学者 は、暗号を解読するときにこのアプローチを使う。というのは、初めはうまくいきそうなの に結局は行き詰まってしまう暗号解読のプロセスというのもある意味極大値で。そこに至る 出発点というのも数多くあるからだ。暗号解読においては、まともな文にいくらか近いよう に見える文字の連なりができたとしても、必ずしも正しい方向へ向かっているとは限らない。 したがって、よさそうに思われた最初の方向にこだわりすぎず、一からやり直すのがベスト なときもある。  さらに別の方法もある。行き詰まったときにいきなりランダム性を全面展開するのではな く、決定を下すたびにランダム性を少しずつ使うというやり方だ。これはモンテカルロ法を 発明したのと同じロスアラモスのチームか考案したもので、メトロポリスーアルゴリズムと 呼ばれる。メトロポリスーアルゴリズムは山登り法と同様、解に対してさまざまな細かい変 更を試みるが、重大な違いか一つある。どの段階においても、よい変更のみならず悪い変更 も受け入れる方針で臨むのだ。  これを旅行計画問題に適用するとしよう。先ほどと同様、各都市の順番を動かすことによ って解の案に変更を加えることを目指す。ランダムに生成した変更を移動ルートに加えてみ て、それが改善につながったなら必ずそれを受け入れ、そこからさらに変更を続けていく。 しかし、変更を加えると解の質が少し下がりそうという場合でも、ともかくそれを受け入れ る余地は残しておく(ただし、変更の質が悪ければ悪いほど。受け入れる可能性は低くな る)。こうすれば、極大値にあまり長くとらわれることはなくなるだろう。やがて、費用が かさむにしても別の近い解を試し、新たなよりよい計画を作成する方向へ進めるかもしれな い。  ジッターを投入するにせよ、ランダム再出発を用いるにせよ、あるいはときには質の低下 も受け入れるにせよ、ランダム性は極大値を避けるのにものすごく役立つ。偶然とは、手ご わい最適化問題に対処するのに実行可能な方法であるばかりではない。多くの場合、必要不 可欠なのだ。それでも疑問はいくつか残る。ランダム性をどのくらい利用すべきか。どんな ときに利用すべきか。そしてIメトロポリスーアルゴリズムのような戦略では旅程がかな り際限なく変更できることを考えるとI旅行計画の作成が完了したかどうか、どうしたら わかるのか。最適化の問題に取り組む研究者にとって、これらの問いに対する驚くほど決定 的な答えが、まったく別の領域からもたらされることとなった。   焼きなまし法  一九七〇年代の終盤から八〇年代の初めにかけて、スコットーカークパトリックは自分の ことをコンピューター科学者ではなく物理学者だと思っていた。特に関心があったのは統計 物理学だった。統計物理学では、特定の自然現象を説明する一つの方法としてランダム性を 使う。たとえば、加熱や冷却によって物質の状態を変える「焼きなまし」の物理学などがこ れにあたる。おそらく焼きなましの示す最も興味深い性質は、物質を冷却する速度によって その最終的な構造か大きく影響される傾向があるということだろう。カークパトリ″クはこ んなふうに説明している。   溶融した材料から慎重な焼きなましによって一つの結晶を育てるには、まず材料を融か   す。それから徐々に温度を下げ、凝固点付近で長い時間をかける。これを行なわずに材   料が平衡状態を脱することができるようにしてしまうと。欠陥の多い結晶か生成される   か、あるいは結晶秩序をもたないガラス状の物質が生じかねない。  当時、カークパトリックはIBMに勤めていた。IBMの抱えていたきわめて重大で、と らえがたく、うやうやしく扱われていた問題の一つは、IBMの製造するチ″プに回路を配 置する方法だった。この問題は厄介で手に負えなかった。検討すべき考えうる解決策はきわ めて多様で、ややこしい制約もいくつかあった。たとえば一般に部品どうしは近くにまとめ て配置するほうがよいが、近づけすぎるとワイヤを通すスペースがなくなってしまう。何か を移動させるときには必ず、新たな仮想の配置ですべてのワイヤをどう通すか計算し直さな くてはならない。  このプロセスの当時の責任者は、IBMの謎めいた名人タイプの人物だった。カークパト リックによれば、「チップに回路を詰め込むのがIBMで一番うまい男で……自分のやって いることを説明するとなると、これ以上ないくらい不可解な言い方をしていました。あまり 人に教えたがらなかったのです」。  カークパトリックの友人で同じくIBMで働いていたダンージェラ″卜がこの問題に興味 をもち、すぐにカークパトリ″クを仲間に引き込んだ。そしてカークパトリ″クの頭に、あ るひらめきが浮かんだ。「【物理系を】調べるときには、まず加熱して、それから冷却し、 あとは自己組織化するのに任せるというやり方をしていました。そういう下地があったので、 制御しようとしている各々の自由度を、あたかもそれが小さな原子やスピンなどであるかの ように考えて、あらゆるタイプの最適化問題を扱うのはこのうえなく自然だと感じられまし た」。  一般に「温度」と呼ばれているものは、物理学においてはじつは速度である。つまり、分 子スケールでのランダム運動なのだ。このことは、山登りアルゴリズムにプラスすることで 場合によってはよりよい解から劣った解への後退をもたらす、ランダムなジ″ターとぴった り重なる、とカークパトリ″クは考えた。実際、メトロポリスーアルゴリズム自体がもとも とは物理系(この場合は核爆発)におけるランダムな挙動をモデル化するために設計された のだった。では、最適化問題を焼きなましのように扱って。いったん「加熱」してから徐々 に「冷却」したらどうなるのか。カークパトリックは考えをめぐらせ始めた。  先ほどのI〇都市旅行問題を例にとると、金額は考慮せずにすべての可能な解から最初の 旅程を完全にランダムに選ぶことで「高温」からスタートできる。それから都市の順番の変 更を検討するときにはサイコロを振って、探索をゆるやかに「冷却」していくことかできる。 金額が抑えられるパターンを選ぶのは常に理にかなっているが、たとえばサイコロで二以上 の目が出たら、高くつくほうを選ぶことにする。しばらくしたら、今度はサイコロで三以上 の目が出た場合のみ金額の高いほうへ変更することにして、冷却を進める。それからこの目 を四以上、五以上としていく。やがてサイコロで六が出たときだけ高額のパターンを選ぶよ うにすると、たいていは山登りをしていくことになる。最後には山登りだけをすることにし て、次の極大値に到達したところで探索を終了する。  この焼きなまし法と呼ばれるアプローチは、物理学を問題解決に取り入れる興味深い方法 のように思われた。だが、実際に有効なのだろうか。初めのうち、保守的な最適化研究者の あいだでは、このアプローチがいささか比喩的に過ぎると受け止められた。「こんなふうに 温度を使った突拍子もないやり方が、このアナロジーにもとづくやり方が、現実的なものだ と、数学者たちを納得させることができませんでした。数学者というのは、直感をいっさい 信じないように教え込まれていますから」とカークパトリ″クは語っている。  それでも、このアナロジーにもとづくアプローチへの疑念はすぐに消え去った。IBMで は、カークパトリックとジェラットの考案した焼きなまし法というアルゴリズムのおかげで、 例の名人よりもすぐれたチ″プのレイアウトができるようになった。彼らは自分たちの考え た秘密兵器について沈黙を守って自分たちも謎めいた名人になるという道は選ばず、自分た ちの考えた方法を論文に書いて《サイエンス》誌に発表し、ほかの大たちに公開した。それ からのほんの数十年のあいだに、この論文はなんと三万二〇〇〇回も引用されることとなっ た。今日でも焼きなまし法は、最適化問題へのアプローチとしてこの分野で知られているも ののなかでも、とりわけ有望視され続けている。   ランダム性、進化。創造性  一九四三年のある日、サルバドールールリアはノーベル賞につながる発見を自分かしよう としているとは知る由もなかった。本人としては、ダンスパーティーに行くつもりだった。 ムッソリーニの支配するイタリアにセファルディ系ユダヤ人の家族を残してアメリカに渡っ てきたばかりのルリアは、細菌がウイルスに対する免疫を形成する仕組みを研究していた。 しかしこのときばかりは、研究のことをすっかり忘れていた。インディアナ大学の近くにあ るカントリークラブで教員の親睦会に参加していたのだ。  ルリアは一人の同僚がスロットマシンに興じるのを眺めていた。   私は自分では賭けず、負けるに決まっている彼をからかっていた。突然ジャックポット    (大あたり)をあてて、十セント玉で約三ドル分を儲けると、彼は勝ちほこった目で私   をチラとながめて立ちさった。ちょうどそのとき、私はスロ″トマシンの実際の働き方   を考えはじめていた。そうしているうちに、スロ″トマシンとバクテリアの突然変異と   は互いに通じあうところがある、ということがおぽろげにわかりかけてきた(『分子生物   学への道』サルバドール・E・ルリア著、石館康平・石館三枝子訳、晶文社より引用)。  一九四〇年代、ウイルスに対する細菌の耐性(さらには抗生物質に対する耐性も)が生じ る理由や仕組みはまだよくわかっていなかった。耐性というのは、細菌の体内でウイルスへ の反応として生じるのか、それとも単に、やむことのない突然変異のなかでときおり偶然に 生じるのか。いずれにしても。決定的な答えを出してくれそうな実験を考えるのは無理だと 思われていた。そんなときにルリアはスロットマシンを見て、あることを思いついた。さま ざまな系統の細菌を数世代にわたって培養し。それから最後の世代をウイルスに曝露したら、 根本的に異なる二つの現象のいずれかが起きるに違いない。耐性がウイルスへの反応である なら、系統を問わずどの細菌培養からもほぼ同量の耐性菌が出現するはずだ。一方、耐性が 偶然の突然変異から生じるのなら、ちょうどスロ″トマシソの賞金のように、耐性菌の出現 量にははるかに大きなばらつきが見られるだろう。つまり、ほとんどの系統の細菌は耐性を まったく示さないが、一部の系統には突然変異によって耐性を獲得した「子孫」がわずかに 見られるだろう。そしてまれに、しかるべき突然変異が「系統樹」上の数世代前で起きた場 合には、大当たりが出るはずだ。その系統の「子孫」すべてが耐性菌になるということだ。 ルリアは急いで会場を抜け出すと、実験に取りかかった。  そわそわしながら何日か待つと、ルリアは実験室に戻って細菌のコロニーを観察した。ジ ャックポットだI  ルリアの発見は、偶然のもつ力を示すものだった。無計画でランダムな突然変異からウイ ルスへの耐性か生み出される仕組みが明らかになった。しかしこの発見自体もまた、少なく とも部分的には偶然の力のおかげだった。彼はしかるべきときにしかるべき場所にいた。ス ロットマシンを眺めていたことによって、新たなアイディアが生まれたのだ。発見の物語に は、しばしばこれと似た瞬間が描かれる。ニュートンのリンゴ(この話の真偽のほどは疑わ しいか)、アルキメデスが湯船で叫んだ「エウレカー」、放置されてペニシリウム属のカビを 増殖させたシャーレなどがその例だ。実際、この手の現象はかなりよくあることなので、そ れを表す言葉も生まれている。一七五四年、ホレスーウォルポール(訳注 イギリスの政治家・ 作家)が『セレソディップの三人の王子』 (邦訳は『セレンディピティ物語』エリザベスージャ、、ス ンーホッジス著、よしだみどり訳、藤原書店など)という子ども向けの冒険物語にちなんで「セレ ンディピティ」という言葉をつくり出したのだ(セレンディップはスリランカの昔の名前)。 物語に登場する王子たちは「偶然と自らの賢さによって、探求しているものを必ず見つけ出 していた」。  このようなランダム性の二重の役割(生物学で重要な役割を果たし、発見においても重要 な役割を果たしている)は。人間の創造性を説明したいと考える心理学者の目をたびたび引 きつけてきた。そうした最初期の心理学者の一人がウィリアムージェイムズだ。一八八〇年、 (Iヴァード大学の心理学助教授に任命されてまもなく、代表作の『心理学原理』を刊行す るI〇年前にあたる時期に、彼は《アトランティ″ターマンスリー》誌に「偉大なる人間、 偉大なる思考、および環境」という記事を寄稿した。その冒頭には彼の論点が掲げられてい る。   私の知る限りこれまで気づかれることのなかった驚くべき類似が、人類の社会的進化と   知的発達に関する事実と、ダーウィン氏が述べたような動物的進化に関する事実とのあ   いだに成立している。  ジェイムズがこれを書いたころは、「動物的進化」という概念はまだ新しかった。『種の 起源』(邦訳は渡辺政隆訳、光文社など)が一八五九年に刊行され、著者のダーウィンもまだ存 命だった。ジェイムズは進化という考え方が人間社会のさまざまな部分にどうあてはまるか を論じ、記事の終盤では思考の進化に言及している。   進化する新たな概念、感情、活動傾向は、過度に不安定な人間の脳の機能的活動におい   て自然に発生するランダムな像、空想、偶然の産物としてまずは生み出される。外部環   境はこれらをただ是認または否認し、採択または拒絶し、保持または破壊する。つまり   選択するのであるにれと類似した微細な偶発事象によって、形態上および社会上の   変異を選択するのと同じように。  このように、ジェイムズはランダム性を創造性の中核ととらえていた。そして最も創造的 な人のなかでランダム性は大きく成長するのだ、と考えていた。そのような人のいる場では、  「われわれは突如として思念の沸き立つ大釜に投げ込まれる。そこではすべてのものがあき れるほど活発に音を立てて動き回っている。瞬時に関係が結ばれ、解かれる。ここには日々 の退屈な営みなどなく、意外性だけが唯一の法のように思われる」と彼は記している(激し い入れ替わりを熱にたとえるという、温度の比喩にもとづく「焼きなまし」的な発想がここ にも見られる点に注目したい)。  現代においてジェイムズの説を具体化したものが、ジェイムズからI〇〇年後の時代を生 きた心理学者、ドナルドーキャンペルの著作に見られる。一九六〇年、キャンベルは「他の 知的過程において起きるのと同様の、創造的思考における盲目的変異と選択的保持」という 論文を発表した。彼はジェイムズと同じく、論文の冒頭に中心的な論点を提示した。「盲目 的変異と選択的保持の過程は、あらゆる帰納的達成にとって、あらゆる知識の真の増大にと って、そして環境に対するシステムの適応度のあらゆる向上にとって、基本となるものであ る」。そしてやはりジェイムズと同様に、キャンベルも進化に着想し、新たな思考がランダ ムに生み出され、そして明敏な人間の精神がそれらの思考のなかで最良のものを保持した結 果として、創造的革新をとらえていた。キャンベルはほかの自然科学者や数学者か自らの発 見の根底にあるプロセスについて述べた言葉をふんだんに引用して、自身の主張を擁護した。 一九世紀の物理学者で哲学者のエルンストーマ″(とアンリーポアンカレは、キャンベルと 同様の見解を示したようである。マ″(は「ニュートン、モーツァルト、リヒャルトーワー グナーなどは、思考、旋律、和声が降り注いでくるので、自分はただそれらのなかから適切 なものを保持するだけだと言っているが、その言葉がこれで説明できる」とさえ断言してい る。  創造性を刺激しようとする場合、なんらかの連想かおのずと浮かぶ単語などのランダムな 要素を提示するという方法がよくとられる。たとえば音楽家のブライアンーイーノとデザイ ナーのペーター・シュミ″卜は、創作にまつわる問題の解決を目的とする〈オブリークース トラテジーズ〉というカードのセ″卜を制作した。カードを一枚引くと、プロジェクトに対 するランダムな展望が新たに得られる(カードを引くのが面倒なら、代わりにカードを引い てくれるアプリをダウンロードすることもできる)。このようなカードをつくった理由を説 明するイーノの言葉には、明らかに極大値からの脱出という考え方と重なるところがある。   何かの渦中にいれば、忘れるはずのないことを忘れてしまいます。スタジオを出てから。    「なんであれをやり忘れたんだろう」と思ったりします。このカードは、人を枠組みか   ら放り出して、コンテクストを少し壊す手段なのです。これによって、スタジオで一つ   の楽曲だけに集中するバンドではなく、現実の世界で生きてほかのいろいろなことも意   識する人間となれるのです。  ランダムに揺さぶられ、枠組みから投げ出され、広い視野に目を向けることは、局所的に よいだけかもしれないものを放棄して、全体の中で最適かもしれないものの探求に戻る一つ の方法となる。  ブライアンーイーノでなくても、自分の生活にランダムな刺激をいくらか加えることはで きる。たとえばウィキペディアには、「おまかせ表示」というリンクがある。本書の著者の トムは数年前からこれをブラウザーの起動ページに設定して、新しいウィンドウを開くたび にランダムに選ばれたウィキペディアの記事を見ている。このおかげで目のさめるような発 見に至ったことはまだないが、あまり知られていない事柄(チリ軍で使用されているナイフ の種類など)に関する知識が豊富になり、それによって人生が豊かになったと感じている  (たとえば、ポルトガル語には「存在せず、おそらく存在しえないものを求める。漠然とし た尽きせぬ願望」を意味する単語かあるということを知った。これは今のところ検索エンジ ンでは解決できない問題である)。興味深いおまけの効果として、トムは今ではウィキペデ ィアでどんなテーマがカバーされているかだけでなく、ランダム性とは実際どんな姿をとる のかについても、以前よりも理解を深めている。たとえば自分の知っている人や場所の記事 など、自分となんらかのつながりがあると感じられるページが、驚くほど高い頻度で出現す る(あるときテストしてみたら、再読み込みを二回しただけで「一九六二〜六五年のウェス タンオーストラリア州上院議員」か出てきた。ウェスタンオーストラリア州はトムの育った 場所だ)。これらの結果が実際にランダムに生成されているということがわかると、生活の ほかの場面でも「偶然の一致」をもっと正当にとらえられるようになる可能性かある。  実世界に目を向けると、たとえば地域支援農業(CSA)の農園に登録して農産物の箱詰 めを毎週届けてもらうことによって、自宅で食べる野菜の種類をランダム化することができ る。前に見たとおり、CSAに入るとスケジューリング問題が生じる可能性はあるが、ふだ ん買わないような野菜や果物を届けてもらうのは、レシピのローテーションで極大値から脱 するのにうってつけの方法だ。月ごとに本やワインやチョコレートが送られてくる会に入る のも、それ以外の方法では出会わなかったかもしれない知や酒や食の可能性に触れる一つの 方法だ。  コイン投げですべてを決めるのはトラブルのもとではないか。特に上司や友人、家族との あいだでまずいことか起きたりしないか。そう思って不安を覚える人もいるかもしれない。 確かに、暮らしの中でランダム性に頼ってばかりでは、必ずしも成功には至らないかもしれ ない。一九七一年に刊行されてカルト的な支持を受けているルーターライン(Iト(本名は ジョージーコッククロフト)の傑作小説『ダイスマン』(南清訳、二見書房)は、この問題へ の戒めの物語として読むことができる。語り手の男は物事を決めるときに、自分で判断する 代わりにサイコロを振ることにした。すると、たいていの人がおそらく避けたいと思うよう な状況にすぐさま陥る。  しかし、これはなまじいくらかの知識をもつとそれがかえって仇になるという一例にすぎ ないかもしれない。ダイスマンがコンピューター科学をもっとよく理解していれば、なんら かの指針が得られただろう。まずは山登り法に従えば、ときには不適切な考えにもとづいて 行動してしまう習慣の持ち主でも、常によい考えにもとづいて行動できるはずだ。第二に、 メトロポリスーアルゴリズムに従えば、不適切な考えに従ってしまう可能性は、その考えの 不適切さに反比例するはずである。第三に、焼きなまし法を知っていれば、ランダムな状態 からスタートして、急速に冷却することで完全なランダム状態から脱し、時間の経過ととも にランダム性への依存を減らしていき、凝固点に近づくときに最も時間をかけるというやり 方ができる。自らを鍛えるのだI比喩でなく文字どおりに。  『ダイスマン』の著者も、この最後の点を理解していないわけではない。コ″ククロフト自 身、どうやら彼の作品の主人公と同じように「サイコロ投げ」に頼っていた時期があったら しい。地中海で家族とともに帆船に乗り、ゆったりしたブラウン運動のような放浪生活を送 っていたのだ。しかしあるとき、焼きなましの工程が完了し、ニューヨーク州北部の湖畔で 心地よく極大値に落ち着いた。八〇代に入った彼は、今もそこで満ち足りた日々を過ごして いる。「どこかで幸せになれたなら、それ以上を追い求めるのは愚か者のすることです」と 彼は《ガーディアン》紙に語った。  10 ネットワーキング     どうつながるか    「接統」という言葉には、幅広い意味がある。二者間をつなぐ物理的もしくは論理的な   経路を指すこともあれば、その経路を移動する流れを指すこともある。経路の設定に伴   う行為を指すこともあると考えられるし、経路の有無を問わず二者間以上の関係を指す   こともある。                        Iヴィントーサーフ、ボブーカーン   ただ結びつけることさえすれば……(『『ワーズーエンド』吉田健一訳、集英社より引用)。                             −E・M・フォースター  長距離電信は、思わせぶりな言葉とともに始まった。一八四四年五月二四日、アメリカ連 邦最高裁判所の裁判官室に立ったサミュエル・F・B・モールスから、ボルティモアにいる 助手のアルフレ″ドーヴェイルに、旧約聖書の「これは神のなせる業なり」という一節が送 られたのだ。新たな通信手段か生まれると、われわれが真っ先に知りたがるのはそれかどの ようにして始まったかであり、その誕生の物語から未来を占おうとせずにいられない。  一八七六年三月一〇日にアレクサンダー・グラ(ムーベルが助手にかけた史上初の電話の 第一声は、それ自体がちょっとした矛盾をはらんでいた。「ワトソンくん、こっちに来てく れ。君の顔が見たい」。この言葉は、物理的な距離が克服できたことと克服できていないこ とを同時に表している。  携帯電話は自慢話とともに始まった。一九七三年四月三日、ニューヨークの六番街でマン (ツタンの通行人たちがあっけにとられて見つめるなかで、モトローラのマーティンークー パーは歩きなから自分のライバルにあたるAT&Tのジョエルーエングルに電話で話してい た。「ジョエル、携帯電話からかけているんだ。本物の携帯電話だよ。手で持てるポータブ ルな本物の携帯電話だ」 (「向こうが何と答えたか、正確には覚えていません。しかし、し ばらく完全に黙り込んでいました。悔しくて歯ぎしりしているのではないかと思いました」 とクーパーは語っている)。  一九九二年匸一月三日には、歓声とともに携帯メールが始まった。セマ‘・グループーテレ コムズのニールーパプワースが、ボーダフォンのリチャードージャーヴィスに早めの「メリ ー・クリスマス」のメ″セージを送った。  インターネットの始まりは、いかにもと言うべきか、それまでの通信手段のときと比べて はるかに地味で、不運続きだった。一九六九年一〇月二九日、UCLAのチャーリー・クラ インがスタンフォード研究所(訳注現在のSRIインターナシーナル)のビルーデュヴァルにA RPANET経由でコンピューターからコンピューターへの第一号となるメ″セージを送信 した。「loginjというメッセージだった。というか、そうなるはずだった。ところか受信 側の機械が故障してしまい、{}O」(いやはや)しか受信できなかった。  いやはやIクラインは期せずして、まさに行く末を予言するかのごとき不吉な言葉を送 ってしまったのだった。  人間どうしのつながりの基礎となるのは「プロトコル」である。つまり、握手や挨拶から エチケ″卜、礼儀作法、そして社会規範全般に至る、手順や期待に関する共通の慣習である。 機械の接統もこれと変わらない。プロトコルとは、ユーザーが同じ基盤でうまくやっていく ための方法である。実際、プロトコルという言葉は、ギリシヤ語で文字どおりには「最初の にかわ」を意味するprotokollon hi由来する。これは書物や巻物の巻頭にのり付けされた紙 を指していた。  対人関係においては、これらのプロトコルは微妙だが絶えざる不安のもととなる。何日か 前にメ″セージを送った場合、相手に届いていないのではないかと思い始めるのはいつごろ だろうか。正午に電話で話す約束だったのに、もう匸一時を五分過ぎているとしたら、双方 が相手からの電話を待っているのだろうか。どこかおかしい。こちらが聞き違えたのか、そ れとも向こうが聞き違えたのか。いったいどちらなのだろう。  電信からメールまで、通信技術のほとんどはこうしたありかちな対人トラブルの経験を新 たに生み出すばかりだった。しかしインターネットの誕生とともに、コンピューターはそう したトラブルのもととなるだけでなく、トラブルをこうむる側にもなった。対話を行なう存 在となったのだ。それに伴って、コンピューターは自らのコミュニケーションにかかおる問 題を解決する責任も果たさなければならなくなった。そうした機械間の問題およびその解決 策は、人間どうしの問題に似ていると同時に、それを照らし出す光を投げかけもする。   パケット交換  今、われわれが「インターネット」と思っているものは、じつは多数のプロトコルの集合 体である。しかしそのなかで中心的な(それゆえおおむねインターネ″卜と同義とされるこ とも多い)のは、伝送制御プロトコル(TCP)と呼ばれるものだ。これは「インターネッ トワーク」 (彼らはこう呼ぼうと思っていた)の言語に関する提案を出したヴィントン・  。ヴィソト″・サーブとロバート・。ポブ乙カーンによる一九七三年の講演と一九七四年の 論文から生まれた。  当初、TCPは電話回線を使っていたが、電話というより郵便の進化したものと考えるほ うが適切である。電話では「回線交換」という仕組みを使う。発信者と受信者をつなぐチヤ ンネルか開き、これによって通話が続いているあいだずっと両者間に双方向で一定の帯域幅 が供給される。回線交換は人間どうしのやりとりにおいては大いに有用だが、早くも一九六 〇年代には、この仕組みが機械間のコミュニケーションでは役に立ちそうにないということ が明らかとなっていた。  UCLAのレナードークラインロ″クはこう語っている。   コンピューターが対話するとき、その対話は私が今しゃべっているのとは違う形で行な   われるということを私は理解していました。つまり、絶え間なく話し続けることがない   のです。ひとしきりしゃべると、しばらく黙り込みます。少し経つと急にまた動きだし   て、ひとしきりしゃべります。しゃべっている時間がほとんどないものに通信回線を占   有させる余裕はありませんが、コンピューターがしゃべりたくなったときにはすぐさま   接続が必要になります。ですから、絶えず話せるように設計されている電話回線ネ″ト   ワーク、すなわち回線交換ネットワークを使うわけにはいかず、別の方法が必要だった   のです。  一方、電話会社はプロトコルを根本から変えるという話にあまり前向きではないようだっ た。回線交換を手放すなど狂気の沙汰だと思われていた。ネ″トワーキング研究者のヴァン ージェイコブソソが言うには「まったく受け入れがたい話」だった。クライソロ″クは電信 業界と対決したときのことをこんなふうに語る。   当時最大のネ″トワークだったAT&Tに出向き、高品質のデータ通信を提供してほし   いと申し入れました。向こうの返事は、いったい何の話ですか、でした。アメリカは一   つの銅山みたいなもので、電話線が張りめぐらされているのだから。それを使えばいい   と言うのです。いえいえ、おわかりになっていないようですね、と私は応じました。電   話だと通話を始めるのに三五秒かかり、最低でも三分単位で課金されますが、私が送り   たいデータはI〇〇ミリ秒で送れてしまうのですよ! 私かこう言うと、「もういいか   ら、あきらめなさい」と言われました。それで私はあきらめて、ほかの人たちと一緒に   やつらをこてんぱんにやっつける技術を開発しました。  この回線交換をやっつけた技術が、のちにパケット交換と呼ばれるようになった。パケッ ト交換ネットワークでは、一つの接続に一つのチャンネルを占有させるのではなく、発信者 と受信者がそれぞれのメ″セージを「パケット」と呼ばれる小さな断片に分割し、共有のデ ータの流れに合流させる。はがきが光速で運ばれるようなものと考えればよい。  このようなネ″トワークでは、「接続と呼ばれるものは、二つの終末点のあいだで合意に よって成立する幻想です」と、ア″プルのネ″トワーキング専門家。スチ’アートーチェシ ャーは説明する。「インターネットには接続というものが存在しません。インターネットに 接続か存在すると言うのは、アメリカの郵便サービスに接統が存在すると言うようなもので す。誰かに手紙を出したら、手紙はみなばらばらに運ばれていきます。返事が行き来してあ る程度の継続性をもつやhソとりをしたりはするかもしれませんが、郵便サービスとしてはそ んな事情を関知する必要はありません。……ただ手紙を配達するだけです」。  帯域幅の効率的な使用だけが。一九六〇年代にパケ″卜交換の研究を推し進めた思惑では ない。核戦争もまたそうした思惑だった。ランド研究所のポールーバランは、ネ″トワーク の頑健性の問題を解決しようとしていた。軍の通信ネ″トワークが核攻撃によって大規模に 失われても、通信が途絶えないようにすることを目指していたのだ。そして一九五〇年代に 開発された迷路探索アルゴリズムからヒントを得て、ネ″トワークが著しく変化している さなかでも、あるいは壊滅状態に陥っても、すべての情報がばらばらに目的地まで到達でき る設計を構想した。  回線交換やその方式で生じる安定した占有接続に伴う、第二のデメリ″卜がここにあった。 つまり、接続が安定しているということは、通話がいったん途切れたら途切れたままになる、 ということでもある。回線交換は、頑健性を実現するのに十分な柔軟性や適応性に欠けてい たのだ。この点でも。パケット交換は時代の要請に応じることができた。回線交換ネットワ ークでは、リンクが一つでも遮断されれば通話かできなくなる。ということは。ネットワー クが大きくなるにつれて信頼性が指数関数的に低下する。これに対してパケ″卜交換では、 ネ″トワークが拡大して経路が増えるのはむしろ歓迎すべきことである。データの流れるル Iトかそれだけ増えるので。ネットワークの規模の拡大とともに信頼性が指数関数的に向上 するのだ。  しかしヴァンージェイコブソンによれば、パケット交換が考案されてもなお、電話会社は 心を動かさなかった。「電話会社の人間はみな声を張り上げて、そんなのはネ″トワークで はないと言ったのです。わが社のネットワークを利用するコソ泥のようなやり方だとか。わ が社の回線を利用してわが社の整備した経路で情報を送るのかとか、回線に余分な負荷をた くさんかければ回線の利用効率か下がって。しまうとか、いろいろ言われました」。しかしパ ケット交換の観点から見ると、電話線は目的を達成するための手段にすぎない。発信者も受 信者も、パケ″卜がどのようにして送られるかは別に気にしない。さまざまな媒体がいくっ あろうともそれを意識することなく稼働できるというのが、パケット交換の大きな長所と言 えるだろう。一九六〇年代の終盤から七〇年代の序盤にARPANETなどの初期のネ″ト ワークがこのコンセプトの実行可能性を証明すると、さまざまなタイプのネットワークが全 国各地で統々と誕生し、銅でできた電話回線のみならず人工衛星や電波も利用してパケ″卜 交換をするようになった。二〇〇一年には、ノルウェーのベルゲンでコンピューター科学者 のグループが「鳥類キャリア」を使って短時間だがパケ″卜交換ネットワークを実行した  (訳注 エイプリルフールのジョークとして一九九〇年に発表された「鳥類キャリアによるIPデータグラ ムの伝送規格」を実装する実験か、やはりジ’‐クとして行なわれた)。パケヅトを紙に書いて(卜の 脚に結びつけたのだ。  もちろん、パケ″卜交換にも問題がないわけではなかった。第一に、人間にしても機械に しても、あらゆるプロトコルか早々にぶつかる問題の一つは。ごく単純に言うと、メ″セー ジが届いているかどうかはどうしたらわかるのかということである。   確認応答   一〇〇ハーセント信頼できる伝送はない。                        −ヴィントーサーフ、ボブーカーン  「これは神のなせる業なり」という一節は、アメリカで送られた長距離電信メ″セージの第  一号だっただけではない。じつは第二号も祠じ言葉だった。アルフレ″ドーヴェイルか受信 したことを確証するために、連邦最高裁判所の裁判官室で待つモールスのもとへこの言葉を 送り返したのだった。  ヴェイルの返信によって、モールスは、そして彼を取り巻く議員たちも、モールスの送っ たメ″セージが受信されたことを確認できた。もちろん、どんな言葉が選ばれるのかヴェイ ルが事前に知らなかったならの話であるが。しかし、ヴェイルは自分の送った受信確認のメ ッセージが相手に届いたかどうかをどうしたら確認できるだろう。  コンピューター科学者は、これを「ビザンチン将軍問題」と呼んでいる。二人の将軍がい て、共通の敞がいる谷の両側で敵を攻撃するための調整を試みているとしよう。完璧にタイ ミングを合わせなければ成功しない。単独での攻撃は自殺行為だ。さらに厄介なことに、相 手にメ″セージを伝えるには、敵のいる場所を越えて相手のもとへ行き、手渡ししなくては ならない。つまり、メ″セージが届かない可能性もあるということだ。  たとえば一方の将軍か攻撃の開始時刻を提案するメ″セージを送るか、相手も動いている と確信できない限りは突撃したくない。もう一方の将軍のもとにメ″セ1ジが届き、将軍は 受け取ったという返事を出す。しかしこちらからの返事が相手に届いたということがわから ない限り(届かなければ向こうは動かないので)、攻撃を始めたくない。初めの将軍か返信 を受け取る。しかし受け取ったことを相手が知っているということが確かめられるまでは出 陣したくない。この論理の連鎖をたどるにはメ″セージを無限にやりとりする必要があるが、 そんなことが現実的でないのは自明だ。コミュニケーションというのは、実際のやりとりに よってのみ成立して意味をもつものであり、理屈のうえでは永久に成立しえないのだ。  たいていの場合、コミュニケーショソがとれなくともこれほど破滅的な結果がもたらされ ることはめったになく、確実性がこれほど切実に必要とされることもほとんどない。TCP では失敗しても命が奪われることはなく、ふつうはただ再伝送すればよいので、「スリーウ ェイー「ンドシェイク」 (三段階の握手)と呼ばれる動作でセッションを開始すれば十分と考 えられている。来訪者が挨拶をし、サーバーがそれを確認して挨拶を返し、来訪者がそれを 確認する。サーバーがこの三つめのメ″セージを受け取ったらそれ以上の確認作業は不要で、 すぐに行動が開始される。しかしこの最初の接続が成立しても、そのあとで伝送されるパケ ットか運ばれる途中で破損したり行方不明になったり、あるいは目的地に届いたときに不具 合だったりするリスクが残っている。郵便の場合、小包が届いたことは受領証の返送で確認 できる。オンラインでは、パケットが届いたことは確認応答パケ″卜によって確認される。 このパケットは、ネ″トワークが機能するうえできわめて重要な働きをする。  確認応答は、単純な仕組みだがうまくできている。スリーウェイー(ンドシェイクの舞台 裏で、双方の機械が相手に通し番号を与える。これ以降に送られるすべてのパケ″卜につけ る通し番号は、小切手帳の小切手のように一つずつ増えていくことが了解されている。たと えばこちらのコンピューターがウェブサーバーとのコンタクトを開始する場合、サーバーに たとえば100という番号を送る。サーバーから返送される確認応答パケ″卜には、サーバ ー側のパケ″卜の開始番号(5000としよう)が記されていて、「101番の受信可能」 と伝える。するとこちらのコンピューターから101番の確認応答パケ″卜が送られて。  「5001番の受信可能」と伝える(この二つの通し番号は互いに完全に独立していて、そ れぞれの最初の番号はランダムに選ばれるのが一般的だ)。  この仕組みは、パケットが行方不明になった場合にその時点を特定するのに便利な方法と なる。サーバーが101番を待っているのに102番が届いたら、「101番の受信可能」 という確認応答パケ″卜を送る。次に103番が届いたら、もう一度「101番の受信可 能」と伝える。この冗長な確認応答パケットが三回続いたら、101番がただ遅れているだ けでなく消えてしまって取り戻せないということをこちらのコンピューターに伝える合図と なり、それを受けてコンピューターが101番を再送する。ここでサーバー(102番と1 03番のパケ″卜を保持している)は「104番の受信可能」という確認応答パケ″卜を送 って、パケットの連続か回復したことを伝える。  この確認応答が、じつはネ″トワーク上のトラフィックをかなり増やしてしまうことがあ る。われわれは大きなファイルの伝送というのは一方向のプロセスだと思っているか、じつ は受信者からも数百個の「制御メッセージ」が送信者に送られているのだ。二〇一四年の後 半に出された報告書によると、ピーク時間帯の上り(訳注 ユーザーからサーバーへの通信方向。 いわゆる「アとフする」、「ア″ブロード」にあたる)のインターネ″トトラフィ″クのうちおよそ 一〇パーセントはネ″トフリ″クスによるものだった。この種のサービスはほぼ全面的に下 り方向でデータをユーザーに送っていると思われがちだが、じつは動画の送信に伴って莫大 な確認応答パケ″卜が生じるのだ。  人間の世界でも同様に、メ″セージがきちんと届いているかという不安が会話の中に満ち ている。話し手は半ば無意識に「でしょ?」という言葉を文の終わりにいちいちつけたりす る。聞き手の側も、絶えずうなずいたり、「うん」、「そうそう」、「わかった」、「了解」。  「なるほど」などと口にしたりせずにいられない。われわれは顔を合わせているときでもこ うするが、電話では通話がまだ続いているということを知る方法がこれらの言葉しかないと いうこともある。今世紀に入って最も成果を上げた携帯電話会社の広告で、ネットワーク技 術者が「聞こえますか?」という品質管理のフレーズを何度も繰り返しているのも。あなが ち不思議ではない。  こうしたやりとりの最中に何か不具合が起きた場合、ユーザーはしばしば状況のわからぬ まま置き去りにされる。ソフトウェア専門ブロガーのタイラー・トリードは、こんなことを 書いている。   分散型のシステムでは、われわれはメ″セージが届いたという確認応答を待つことによ   って、メッセージの送達を確認しようとする。しかしどんなものにも不具合は起こりう   る。メッセージが消えてしまったのではないか。確認応答が消えたのではないか。受信   者側がクラッシュしたのではないか。それとも遅れているだけなのか。ネットワークの   速度か遅いのか。あるいはこちらか遅いのか。  ビザンチンの将軍たちに突きつけられたのは、「コミュニケーションの設計上の問題では なく、コミュニケーション自体が不可能という答えである」とトリートは指摘する。  ヴィントーサーフによれば、初期のネ″トワーク研究は「信頼できる基礎的なネ″トワー クを構築することが可能だという前提で」築かれていた。一方、「インターネットは、どん なネットワークも必ずしも信頼できるわけではなく、接続を回復するには端末間の再伝送か 必要だということを前提としていた」。  皮肉なことに、これに対する数少ない例外の一つか大の声の伝送である。インターネ″卜 ではたいていTCPを利用するが、スカイプのようなリアルタイムの音声通信では一般にT CPを使わない。ネ″トワーキング研究の初期に研究者が発見したとおり、信頼できる頑健 なプロトコル(確認応答と消えたパケ″卜の再伝送を用いる)を使って人の声を伝送するの は負荷が高すぎる。代わりに人間が自分で頑健性を確保する。サーブの説明によれば、「声 の場合、パケ″卜が消えてしまったら、自分で『もう一度言ってもらえますか。聞こえなか ったので』と言えばいい」。  そう考えると、背景雑音を自動的に軽減する電話サービスはユーザーにとってひどく不親 切だ。背景雑音は電話がつながっていることを伝える絶えざるしるしであり、音が何も聞こ えなくなったなら相手が意図的にそうしたということがわかる。ところか背景雑音がないと、 ユーザーは電話か切れた可能性に絶えず直面し、切れていないということを相手に絶えず伝 えなくてはならない。これもあらゆるパケット交換プロトコルにつきものの不安であり、そ れだけでなく、手紙にせよ携帯メールにせよオンラインデートで相手のことを探るやりとり にせよ、非同期的な相互発信を用いるあらゆる通信手段につきものの不安である。どのメ。 セージもやりとりの最後という可能性があり、返事をするのに時間がかかっているだけなの か、それともとっくにやりとりが終おっているのかわからないということも少なくない。  では、信頼できない大には、あるいは信頼できないコンピューターには、どう対処すれば よいのだろう。  まず考えるべきことは、無応答の時間がどれだけ続いたら不具合と見なすべきかである。 これはネットワークの性質によっていくらか変わってくる。電話ならほんの数秒で不安にな るが、メールなら数日、郵便なら数週間は待てるだろう。発信者と受信者との往復にかかる 時間が長いほど、無応答が意味をもつまでの時間も長くなる。そして、発信者か。おかし yと気づくまでにネ″トワーク上に送り出される情報の量も多くなる可能性がある。ネ″ トワーキングにおいては、確認応答の時間的流れに対するユーザーの期待を適切に調節する ことが、システムを適正に機能させるためにきわめて重要である。  次に考えるべきことは言うまでもなく、不具合に気づいたらユーザーはどう対処すべきか という問題だ。   指数バックオフー寛容のアルゴリズム   世界で最も翻訳しにくい単語は。コンゴ民主共和国の南東部で使われているチルバ語の    「llungajであることがわかりました。……y」の言葉は、「どんなひどい仕打ちも一度   めは喜んで許し、二度めは我慢するが、三度めには決して許さない人」を表します。                                −BBCニュース   一度めで成功しなければ、/もう一度挑戦せよ。  今日われわれは、有線通信が容易にできるときでも自分のデバイスに無線通信をさせたが る。たとえばキーボードやマウスは、ほんのI〇センチくらいしか離れていないコンピュー ターとワイヤレスでつながっている。しかし無線ネ″トワークが誕生したのは、ワイヤが使 えない場所で必要に駆られてのことだった。その場所とは(ワイだ。一九六〇年代の終わり ごろから七〇年代の初頭にかけて。ホノルルにある(ワイ大学のノーマンーエイブラムソン は、数百キロにまたがって四つの島に分散する大学の七つのキャンパスと多数の研究施設を 結びつけようとしていた。電話システムではなく無線でパケット交換を行ない、発信機と受 信機の連なったゆるい鎖で島どうしをつなぐというアイディアが頭に浮かんだ。このシステ ムはのちにALOHAネットと呼ばれるようになった。  ALOHAネットかクリアすべき最大の障害は干渉だった。二つの基地から同時にメ″セ ージが送信されることがあり、そのようなときには期せずして双方の信号が互いを妨害して しまう(これはもちろん人間の会話でもよく起きる)。両方の基地がすぐにメ″セージを再 送信すると、果てしなく続く干渉から永久に抜け出せなくなるリスクが生じる。ALOHA ネットのプロトコルが競合する信号に対し、互いにスペースを与えて道を譲りあう方法を教 える必要があるのは明らかだった。  ここで発信者がまずすべきことは「対称性を破る」ことだ。歩道を歩く人なら誰でも知っ ているとおり、向こうから近づいてきた歩行者をよけようと右に動いたら相手も同じ方向へ 動き、今度は二人とも同時に反対方向へ動くということを繰り返していては、何も解決しな い。これと似たパターンで、会話をしている二人が同時に話しだそうとして口をつぐみ、互 いに相手の話を促すジェスチャーをし、また同時に話しだすことがある。交差点で二台の車 が互いに進路を譲りあって停車したかと思うと、二台同時に発進しようとすることもある。 こんな場合、ランダム性の利用がとても重要となる。それどころか、ランダム性が利用でき なければネットワーキングは成り立だないだろう。  単純な解決策の一つは、両方の基地にコイン投げをさせることだ。表が出たら再送信し、 裏だったら順番を一回待ってから再送信する。これなら確実に、一方はまもなく競合するこ となく発信できる。発信元が二つだけなら、このやり方で十分にうまくいく。しかし同時に 三つの信号が発信されたらどうなるか。あるいは四つだったら? ネ″トワークがすぐにパ ケットを一つでも伝送できる確率は四分の一になるはずだ(そのあとも三つの基地が競合し 続け、そうこうするうちにさらに別の競合する信号も現れるかもしれない)。競合相手がさ らに増えていくと。ネ″トワークのスループ″卜は崖から落ちるように一気に下がるおそれ がある。一九七〇年に出されたALOHAネ″卜に関する報告書には、チャンネルの平均使 用率がわずか一八・六ハーセントを超えると「チャンネルは不安定になる…・:そして再送信 の平均回数が無限に増える」と書かれていた。これは由々しき問題だ。  では、どうすればよいのか。これを回避できるシステムをつくる方法はあるのか。  突破口は、連続して失敗したあとの平均待機時間を延ばすという手だった。具体的には、 再送信を試みるまでの最長待機時間を二倍にしていくのだ。最初に失敗したら、発信者はラ ンダムに一回か二回待ってから再送信する。二度めも失敗したら、一回から四回までのいず れかだけ待ってから再試行する。三回続けて失敗したら、今度は一回から八回のあいだのい ずれかだけ待つ。このエレガントなやり方では、ネ″トワークは競合する信号がいくつにな っても対応できる可能性がある。最大待機回数(二回、四回、八回、一六回……)が指数的 に増えていくので、この方法は指数バックオフと呼ばれるようになった。  指数バックオフは、一九七一年に稼働を開始したALOHAネ″卜の成功に大きく貢献し た。そして一九八〇年代にはTCPとなり、インターネ″卜に不可欠な要素となった。それ から数十年経った今でも、その重要性は変わらない。大きな影響をもたらしたある論文は、  「競合する通信の数が不明で不可知で絶えず変動し、構造が不明なネットワークに埋め込ま れた伝送終端にとって、有効性か期待できるスキームは一つしかない。指数バックオフであ る」と述べている。  さらに言えば、このアルゴリズムには。トラブル修復にもっと威力を発揮して有益な効果 をもたらす別の用途がある。指数バ″クオフは衝突を回避するだけでなく、ネットワークで 故障や不信頼性が生じた場合のほとんどに対処するデフォルトの方法となっている。たとえ ばコンピューターがアクセスしようとしているウェブサイトがダウンしているらしいとき、 コンピューターは指数バ″クオフを使って一秒後に再びアクセスを試み、それから数秒後に また試み、といった具合に試行を続ける。これは誰にとってもよい方法だ。ダウンしたホス トサーバーがオンラインに復帰したとたんにリクエストが殺到することか避けられるし、ダ ウンしているサイトにユーザーのマシンが無駄にアクセスしようとするのも防げる。それで いて、ユーザーのマシンに対してアクセスの完全な断念を強制(または許容)するわけでも ないのがおもしろいところだ。  指数バ″クオフは、ネ″トワークのセキュリティーでも重要な役割を果たす。アカウント ヘのログイン時に連続してパスワードを間違えたら、口″クアウト期間を指数的に延長する という形で罰を与えるのだ。アカウントに侵入しようとする(″カーが幸運を引き当てるま でパスワードの候補を次々に試す「辞書攻撃」という手を使うことがあるが、指数パックオ フはこれも阻止できる。さらに、解決できる問題はほかにもある。アカウントの真の保有者 がどんなに忘れっぽくても、一定の口″クアウト期間が過ぎればいつかはアクセスできるの だ。  人間社会では、一定の回数だけチャンスを続けて与え、それ以降はまったく与えないとい うやり方をすることか多い。三振したらアウトというわけだ。寛容、慈悲、忍耐が求められ るほぼすべての状況で、このパターンか通常は支配的である。しかし端的に言って、このや り方は間違っているかもしれない。  私たちの友人が最近、つきあいの約束を守らないという迷惑な癖のある幼なじみのことを 考えあぐねていた。どうしたらよいのか。もううんざりだと言って完全に絶交するのは一方 的で厳しすぎる気がするが、このままいつも振り回されてばかりというのは甘すぎるし、こ れからも果てしない失意と時間の浪費から逃れられない。そこで出した答えが、誘いの頻度 に対する指数バックオフだ。約束を破られたら、まずは一週間後に次の計画を立て直す。そ の次は二週間後、四週間後、八週間後としていく。「再送信」の頻度はゼロに向かっていく か、完全に縁を切らなくていい。  別の友人は、薬物中毒の経験がある身内に住まいや経済的支援を与えるべきか悩んでいた。 立ち直ってくれるのではないかという望みを捨てることは耐えがたく、永久に見放すのかと 考えると、それも忍びない。しかし家に迎え入れたら、彼のために服を買い、食事をつくり、 銀行口座を再開設し、毎朝車で職場に送っていくといった負担がすべて自分に降りかかって くる。それを引き受ける気にもなれなかった。いつか不意にお金をすべてもって姿を消した かと思うと。何週間か経ったころにまた連絡してきて、許しを請い、戻りたいと言ってくる のではないか。無理難題を、あるいは答えの出しようのない残酷な選択を突きつけられた気 がした。  このようなケースでは、指数バ″クオフは魔法の万能薬というわけではないが、前へ進む 一つの道にはなる。たとえば家庭のルールを破ったら罰として禁酒期間を科し、その長さを 指数的に延ばしていくことにすれば、ルール違反を繰り返させない抑止力が働く。家に戻り たがっている身内は自分が本気だということをいっそう熱心に証明するようになるだろうし、 受け入れる側の家族を同じことの繰り返しによる絶え間ないストレスから守ることにもなる だろう。家族にとっては、もうその身内のことはあきらめたとか、救いようかないなどと言 わなくてすむ点が、もしかしたら最も重要かもしれない。こうすれば。有限の忍耐と無限の 慈悲をもつことができる。突き放すか耐えるかと思い悩む必要もなくなるかもしれない。  じつはこのI〇年間で、地域の薬物犯罪者見守り活動に対する司法制度の姿勢に静かな変 革が起こり始めている。この変革の先頭に立っているのが、HOPEという試験的なプログ ラムである。このプログラムではALOHAネ″卜と同じく指数バックオフの原則を採用し ている。そしてなんと偶然にも、ALOHAネ″卜が生まれたのと同じホノルルで始まった のだった。  裁判官のスティーヴンーアルムは、(ワイの第一巡回裁判所で就任の宜誓をしてすぐに、 注目すべきパターンに気づいた。保護観察対象者は保護観察の条件を何度も破るが、巡回裁 判所の裁判官は決まって自身の判断に従って、注意をするだけであとは放っておく。ところ がある段階で、おそらく違反が十数回を超えたあたりで、裁判官はにわかに厳しい姿勢をと り、数年間の実刑判決を言い渡す。アルムは「人の行動を変えようとするにはなんておかし なやり方なのかと思いました」と言う。そこでアルムはほぼ正反対のやり方をすることにし たのだ。保護観察審問は開かれるまで時間がかかり、不確かな主観的意見が求められ、とき には極端な厳罰が科されるが、HOPEでは保護観察審問の代わりにあらかじめ決まってい て即座に下せる罰を採用している。最初は一日の拘留から始まって、それ以降は問題を起こ すたびに拘留期間か延びていく。司法省による五年間の調査で、HOPEの保護観察対象者 はほかの保護観察対象者と比べて、新たに別の犯罪で逮捕されたり保護観察処分が取り消さ れたりする割合が半分であることが報告された。そして薬物を使用する割合も七ニハーセy 卜低かった。一七州か(ワイのあとに続き、独自にアレンジしたHOPEを発足させている。   流れ制御と渋滞回避  コンピューターネ″トワーキングにおける初期の取り組みは、信頼性の低いリンクで信頼 性の高い伝送を確立することに重点を置いていた。この取り組みは非常にうまくいったが、 その結果としてすぐに次の課題か生じた。過剰な負荷のかかったネ″トワークが壊滅的な破 綻を回避できるようにすることだ。データをA地点からB地点に送る際の問題をTCPで解 決したとたん、今度は渋滞という問題が出現した。  一九八六年、最も重大な「早期警戒警報」が、ローレンスーパーグリー研究所(LBL) とカリフォルニア大学バークリー校(UCB)を結ぶ回線で発せられた。両者間の距離はフ ットボール場の長辺ほどだった(UCBでは、実際にその場所がフ″トボール場で占められ ていた)。あるとき、その回線の帯域幅が通常の三万二〇〇〇ビ″卜/秒から不意にわずか 四〇ビット/秒に低下した。被害を受けたLBLのヴァンージェイコブソソとUCBのマイ ケルーカレルズは、「帯域幅が急に1000分の一に低下したことに興味をもち、これほど の品質低下か起きた原因の調査に乗り出した」。  一方、国内各地のネットワーキンググループから、同様の事例が起きたという話が伝わっ てきた。ジェイコブソンは基礎をなすコードを調べ始めた。「プロトコルに不備があるのだ ろうか」と彼は考えた。「もっと小規模のテストではちゃんと機能していたのに、いきなり だめになるとは」。  回線交換とパケット交換の大きな違いの一つは、渋滞への対応の仕方である。回線交換で は、システムがチャンネルへのリクエストを承認するか、または応じられない場合にはリク エストを完全に拒否する。ピーク時間帯に電話をかけようとして、「特別な通信音」ととも に「回線が混雑しています」というメ″セージを聞かされたことのある人がいるかもしれな いが、それはこの回線交換のやり方が原因である。  パケ″卜交換はまったく違うやり方をする。電話システムは混雑し、メールシステムは低 速になる。ある瞬間にネ″トワーク上に発信者がどのくらいいるか、あるいはネ″トワーク がどれほど混雑しているか、ネットワークの側から発信者にはっきり知らせても意味かない し、渋滞の程度は常に変動している。そこで発信者と受信者は通信するだけでなく、メタ通 信もする必要がある。つまり、データをどのくらいの速度で伝送すべきかを把握する必要か あるのだ。さまざまなパケットの流れ(明らかな管理や調整はされていない)は、互いを邪 魔してはならず、なおかつ新たにスペースか空いたらただちにそれを利用しなくてはならな い。  ジェイコブソンとカレルズの調査の結果、流れの制御と渋滞回避のアルゴリズムが修正さ れた。これはTCPが誕生してから四〇年間で最大級の変更だった。  現在TCPの渋滞制御の中核に位置するのは、加法的増加・乗法的減少というアルゴリズ ムである。まずはこのアルゴリズムを作動させずに、新たな接続が積極的に伝送速度を上げ る。一つめのパケ″卜がうまく受信されたらパケ″卜をさらに二つ伝送し、これもうまく届 いたら今度は一度に四つ伝送する、といった具合に送るパケットを増やしていく。しかしい ずれかのパケットの確認応答が発進者側に戻ってこなければ、ただちに加法的増加・乗法的 減少アルゴリズムがあとを引き継ぐ。このアルゴリズムのもとでは、一度に複数のパケット を伝送してそれがすべて受信されたとしても、伝送するパケットの個数を二倍にするのでは なく、一つだけ増やす。パケ″卜が行方不明になったら、伝送速度を半分に下げる(加法的 増加・乗法的減少という名称はこれらの手順に由来する)。加法的増加・乗法的減少アルゴ リズムとは要するに、「もう少し、もう少し、もう少し、ちょっと待て、多すぎる、思いき り減らして、よし、もう少し、もう少し……」というようなやり方なのだ。こうして、「T CPののこぎり波形」と呼ばれる特徴的な帯域幅の波形が生じる。これは安定した上昇にと きおり急激な下降がはさまる波形である。  このように非対称的で急激な下降をなぜ生じさせるのか。ジェイコブソンとカレルズの説 明によれば、加法的増加・乗法的減少アルゴリズムが最初に作動するのは。接続が始まって 最初の積極的な上昇局面において初めてパヶ″卜の消失が生じたときである。この最初の局 面ではパヶ″卜の一斉伝送が成功するたびに伝送速度が二倍になるので、何か問題か生じた らすぐに速度を半分に下げるのは申し分なく正しい。伝送が回復し、再び不調をきたし始め たら、それはなんらかの新しい接続かネットワークの利用をめぐって競合していることが原 因である可能性が高い。この状況を最も控えめに評価しても卜すなわち、ネ″トワークを 使用しているのは自分一人だったのに、あとから別のユーザーか現れてネ″トワーク上の資 源を半分取ってしまったと想定しても卜やはり速度の半減に至る。ここでは控えめな姿勢 か不可欠である。ネ″トワークを安定させるには、負荷が過剰となる速度以上の速さでユー ザーを退かせる必要がある。同じ理由で、単純な加法的増加はすべてのものの安定化を助け、 過負荷と回復が繰り返される高速のサイクルに陥るのを防ぐ。  加法と乗法のこのように厳密な区別を自然界で見かけることなどなさそうだが、じつは安 全に逃げきれる限りなるべく多くを自分のものにすることが重要となるさまざまな局面で、 このTCPののこぎり波形に類似したものが見受けられる。  たとえばスタンフォード大学の生態学者デボラーゴードンとコンピューター科学者のバラ ジープラバカーは二〇匸一年の共同研究で、人間より何百万年も先にアリが流れ制御アルゴ リズムを考え出していたらしいという思いがけない事実を発見した。コンピューターネ″ト ワークと同様、アリのコロニーも「流れ」を制御する際に配分の問題にぶつかる。餌探しの 旅に出たアリが無事に帰還する割合に大きく影響する可能性のあるさまざまな条件のもとで、 アリの流れをどう制御するかという問題だ。さらにインターネ″卜上のコンピューターと同 様、アリも意思決定してくれる中心的存在をもたずに、ゴードソのいう「階層なき制御」を 生み出すことによって、この問題を解決しなくてはならない。じつはアリの解決策も、ネ″ トワークで用いられるものと似ている。餌探しに成功したアリはほかのアリたちも餌探しに 出かけるように促す一方で、餌探しが首尾よくいかずに戻ってきたアリは餌探し行動を抑え ることになるという、フィードバ″クのサイクルを用いるのだ。  TCPの流れ制御を思わせる特徴的なのこぎり波形を示す動物行動は、アリだけに見られ るわけではない。人間の出した生ゴミを狙うリスや(卜は、少しずつゴミに近づき、ときど き一気に後退して、それからまたじhソじりと前に進む。人のコミュニケーションも、コミュ ニケーションを担うプロトコルそのものを反映していると考えられる。タールに返信すれば 相手からの返信を促すことになるし、返信しなければ流れは止まる。  もっと視野を広げると、不確実で変動する条件のもとで限られた資源を分配しようとする 実生活のさまざまな場で、加法的増加・乗法的減少アルゴリズムは対処方法を教えてくれる。  一九六〇年代に教育学教授のローレンス・J・ピーターは、「すべての人は昇進を重ね、 おのおのの無能レベルに到達する」(『ピーターの法則』渡辺伸也訳、ダイヤモンド社より引用)と いう辛辣な「ピーターの法則」を発表した。階層的組織では、仕事をうまくこなす人間には その報いとして昇進が与えられるが、その新しい仕事には今までよりも複雑な課題や難しい 課題が伴うかもしれない。従業員が昇進を重ねた末に仕事がうまくこなせない地位に達した ら、出世の道はそこで行き止まりとなり、あとは退職するまでその身分のままだ。そうだと すれば、やがて組織全体か仕事をうまくこなせない人間で埋めつくされるのは当然だ。ピー ターの法則の不吉なロジックはそう語る。ピーターがこの法則を発表する五〇年ほど前の一 九一〇年、スペインの哲学者ホセーオルテガーイーガセ″卜も同じ見解を述べていた。「す べての公僕は今の地位からすぐ下の地位に降格すべきである。なぜなら彼らは能力のおよば ない地位まで昇進したのだから」。  出世しない従業員を解雇するという単純なやり方で、ピーターの法則の状態を改善しよう と試みた組織もある。一流法律事務所のクラヴァスースウェインーアンドームーアが考案し たクラヴァス方式では、ほぼ新卒者のみを採用して最下級の地位に就かせ、それからは昇進 させるか解雇するかのいずれかを何年も続ける。一九八〇年には、アメリカ軍が「国防人事 管理法」で同様の「昇進か解雇か」という方針を採用した。イギリス軍でも「人員調整」と 呼ばれる方針を採用して激しい議論を招いている。  ピーターの法則か指摘するような組織の停滞と「昇進か解雇か」方式の容赦ない厳しさと の中間にあたる別の方法はないのだろうか。加法的増加・乗法的減少アルゴリズムは、まさ にそんな方法だ。というのは、このアルゴリズムは変動の激しい環境での要求に対処するこ とを明確な目的として作成されているからである。コンピューターネ″トワークはそれ自体 の最大伝送容量に加えてクライアントの伝送速度も管理しなくてはならないが、これは予想 外の変動を示すことがある。ビジネスの場でも、企業が事業に費やせる資金には限りがあり、 社員や業者の処理可能な仕事の量にも限界があり、負える責任にもやはり限界がある。すべ ての人のニーズ、能力、協力関係は常に流動的である。  TCPののこぎり波形から得られる教えは、変動して予想のつかない環境では、失敗とい う結果に直面するまでは、とりあえず物事をそのまま推し進めることがじつは、資源を最大 限に利用する最善の(または唯一の)方法となる場合もあるということだ。大事なのは、失 敗への対応を的確かつ柔軟に行なうことである。加法的増加・乗法的減少アルゴリズムのも とでは、不調に陥っていない接続はすべて加速され続け、不調に陥ったら速度を半分に下げ て、すぐにまた加速を再開する。現在の企業がもつ経営方針の規範にはたいてい反するだろ うが、全社員の階級を毎年必ず一つ上げるか、そうでなければ一気に大きく降格させるかの いずれかの処遇を実施するというやり方も考えられる。  ローレンス・J・ピーターが考えたとおり、ひそかに組織をむしばむピーターの法則が企 業内で生じるのは、【階層生活の第一戒卜階層構造を守れ】という主義がはびこっている からだ。対照的にTCPは、柔軟性の価値を教えてくれる。企業は「平坦」な階層構造と  「背の高い」階層構造について語ることはあるが、ダイナミックな階層構造についても考え たらよいのではないだろうか。加法的増加・乗法的減少システムのもとでは、誰も過剰な負 担に長く苦しむことがなく、昇進できなかったといって長く恨みを抱くこともない。どちら も一時的で頻繁にとられる調整策であり、すべてが絶えず変動しているにもかかわらず、シ ステム全体は平衡に近い状態を維持できる。なめらかなキャリアの道筋ではなく、キャリア の波形についてわれわれが語る日もいつか訪れるかもしれない。   あいづちI言語における流れ制御  ネットワーキングの流れ制御を調べてみると、上りの確認応答パケ″卜は伝送を確認して 応答するだけでなく、ペースや調子といったやりとり全体の輪郭を形づくっていることがわ かる。このことから、コミュニケーションにおけるフィードバックの重要性が思い出され、 また明らかになる。すでに見たとおり、TCPでは一方向の伝送は存在しない。絶え間ない フィードバックがなければ、発信者はほぼ瞬時にスローダウンすることになる。  興味深いことに、ネ″トワーキングの分野でフィードバックに重要な役割があるという認 識が高まったのと同じころ、言語学界でこれとそっくりな展開か起きていた。二〇世紀の半 ば、言語学界ではノームーチョムスキーの学説が支配的だった。彼はまるですべてのコミュ ニケーションが文字で書かれるかのごとく、最も完璧で理想的な状態の言語、すなわち完璧 に流 暢で文法的に正しく完結した文を考察した。しかし一九六〇年代から七〇年代にかけ て、話し言葉のもつ現実的な面への関心が高まり、話者交替、会話の中断、そして絶えず聞 き手の反応に合わせながらすばやく文や物語を生成する行為を支配するプロセスがいかに精 巧で細やかなものかが明らかにされた。その結果、一見すると一方向のコミュニケーション と思われるものもじつは協調的行為であるとする見方が生まれた。言語学者のヴィクター・ イングヴェは一九七〇年にこんなことを書いている。「実際、発話の番になった人と相手は 同時に話すことと聞くことの両方を行なう。これはバックチャンネル(あいづち)と呼ばれ るものが存在するからで、発話者は発話の順番を手放すことなく、このチャンネルから。は い”とか。なるほど”といった短いメ″セージを受け取る」。  人間の「あいづち」を調べることにより、言語学にまったく新しい地平が開かれ、コミュ ニケーションの力学、具体的には聞き手の役割の全面的な再評価が促された。そのよい実例 を示す研究として、ヴィクトリア大学のジャネットーバヴェラスの率いるチームが、話し手 に自らの体験を語らせ、それを聞いている人の注意をそらしたらどうなるか調べた。ただし 調べたのは聞き手の理解度ではなく、話し手の語りがどうなるかである。その結果、フィー ドバックが乏しくなると語りか崩壊することがわかった。   語り手か危機一髪の話をしている最中に聞き手の注意をそらすと、語り手は……全体に   うまく話せなくなり、特にドラマティ″クな結末となるはずの部分がうまく話せなかっ   た。結末は唐突であるかまとまりが悪く、あるいは同じ結末をぐるぐると何度も語った。   説明するまでもない危機一髪の脱出劇をわざわざ説明して、自分の話を正当化すること   も多かった。  話している相手が視線を宙にさまよわせていたり、あるいは電話の相手が気乗りのしない ようすだったりして、こちらの話し方かつまらないせいだろうかと思った経験は誰にでもあ る。しかしじつは原因と結果がしばしば逆であることか、今では明らかになっている。聞き 方がよくないと、話がぶち壊されてしまうのだ。  あいづちの詳細な機能と意味の解明は、相変わらず活発な研究分野となっている。たとえ ば二〇一四年、カリフォルニア大学サンタクルーズ校のジャクソンートリンズとジーンーフ ォックスーツリーが示しだのは、発話にはさみ込まれる「なるほど」、「うん」、「へえ」。  「おや」といった目立たない言葉が、明確で的を射た役割を果たしているということだった。 話し手から聞き手への情報の流れを、速度と詳細さの両面で調節しているのだ。実際、こう した言葉はTCPにおける確認応答パケ″卜に負けず劣らず重要な役割を果たす。トリンズ によれば、「じつのところ、人によって上手か下手かの差はあるにしても、。下手な話し 手”の責任の一端は聞き手にあるのかもしれません」。こう気づいたことによって、講義を するとき(もちろんこの研究結果に関する講義も含めて)のプレ″ジャーがいくらかやわら ぐという思いがけない副産物も得られた。「講義であいづちの話をするときはいつも、こち らの話に対して聞き手がどんなあいづちを打ってくれるかによって、こちらの言うことが変 わると言うのです。ですから私かおもしろい話をできるかどうかは皆さんしだいですよと言 ってやります」と彼は冗談を言う。   バッフアーブロートー遅延が問題だ   有効なアクティブキュー管理機構の開発は、キューの原因と意味に関する誤解に妨げら   れてきた。                −キャスリーンーニコラス、ヴァンージェイコブソン  ニ〇一〇年の夏、多くの親たちと同じく、ジムーゲティスは自宅のW・11F・Iネ″トワー クの速度が遅いといって子どもだちからしょっちゅう不満をぶつけられていた。しかし多 くの親たちと違って、ゲティスはヒューレットーパ″カード、アルカテルールーセント、ワ ールドーワイドーウェブーコンソーシアム、イソターネ。卜技術タスクフォースで働いた経 験がある。一九九九年にエディターとして携わったHTTPの仕様は今も使われている。そ んなわけで、たいていのITマニアの父親ならちょっと調べてみる問題を、ゲティスも調べ てみることにした。  ゲティスはのちに。部屋いっぱいのグーグルのエンジニアたちにこのときのことを語った。 ネットワーキング関連の専門用語を駆使していても、彼の切実で明白な思いははっきりと伝 わった。   私は自宅にあった古いχコンソーシアムのアーカイブをI〇ミリ秒長のパス経由でMI   Tにコピーというかrsyncしていtした。……ファイルをコピーしているあいだ、   スモークピンクの遅延は平均で一秒を軽く超えていて、パケ″トロスもひどいことにな   っていました。……ワイヤジャークで調べてみると、じつにおかしなふるまいをするバ   ーストが起きていました。……予想していたTCP「のこぎり波形」とはまったく違う   ようでした。まったくとんでもないことでした。  ふつうの言葉で言えば、要するにとても奇妙なことが起きていたということだ。よく言わ れるとおり、「科学の世界で耳にする最も詢の躍る言葉、新たな発見の前触れとなる言葉は、  。わかった!”ではなく。これは妙だ”である」。  ゲティスが最初に考えたのは、ケーブルモデムに問題があるのではないかということだっ た。家族はインターネ″卜がおかしいと言っていたが、どうやら自宅の壁のコンセントで交 通渋滞が起きているようだった。ボストンに送るつもりのパケ″卜が途中で立ち往生してい るのではなく、家の中で立ち往生していた。  しかし調べれば調べるほど、ゲティスは心配になった。自分の家のルーターやモデムだけ でなく、あらゆる家庭のルーターやモデムで同じ問題が起きていた。そして問題はネ″トワ ーク機器のみならず、コンピューターそのもの、つまりデスクト″プパソコンやノートパソ コン、タブレット端末、スマートフォンにも存在し、リナックスやウィンドウズやOSX にも織り込まれていた。エンドユーザーの(Iドウェアだけの問題でもなかった。インター ネットのインフラ自体に影響していたのだ。ゲティスはコムキャスト。ペライソン、シスコ、 グーグルの主要関係者(ヴァンージェイコブソンとヴィントーサーフもいた)と何度も昼食 をともにし、ゆっくりとパズルのヒースをつなぎ始めた。  問題はいたるところに存在した。そしてその問題とはバ″ファーブロート(バッファーによ る遅延)だった。  基本的にバ″ファーとは、殺到した仕事を処理するための行列のようなものである。ドー ナッツ店に二人の客がほぼ同時に入ってきた場合、店員がすぐさま両方には対応できないか らといって、客の一人にいったん店を出てあとでまた来てくださいと言うのはまずい。客は もちろん納得しないし、店の上司も納得しないはずだ。こんなやり方では、ほぽ確実に店員 の労働力が十分に利用できず無駄になる。一方、客に並んで待ってもらえば、店が対応する 客の平均人数は最大値に近づく。そうなるのが望ましい。  しかしこのやり方では、資源は有効に活用できるが、遅延という現実的なコストが伴う。 本書の著者トムがバークリーで開かれたシソコーデーマヨの祭りに娘を連れていったとき、 娘がどうしてもチョコバナナクレープを食べたいと言うので、二人は列に並んで順番を待っ た。二〇分後、ようやく列の先頭にたどり着いて注文した。しかし代金を支払ってからクレ ープを実際に受け取るまで、さらに四〇分も待たされた(ジムーゲティスと同じく、トムも たちまち家族からさんざん不満をぶつけられた)。クレープの注文を受けるのはクレープを つくるほど時間がかからないので、注文するために並ぶのは問題の最初の部分にすぎない。 とはいえ、少なくとも目に見える。だから客は自分たちの置かれた状況かわかる。もっと長 い二つめの列は目に見えない。だからこの場合、クレープ店が客の列をある段階で打ち切っ て、しばらく注文を休みますという看板でも出していれば、誰もがはるかに喜ぶ結果となっ ただろう。客を断るほうが誰にとっても都合かよいI待つ客の列は短くなるし、断られた 客は別の店に行けばよい。クレープ店の売り上げにはIセントの損失も生じない。なぜなら 客がどれほど長く待とうとも、一日につくれるクレープの個数は決まっていて、それよりた くさん売ることはできないからだ。  これこそまさに、ジムーゲティスが自宅のケーブルモデムで観察していた問題だ。ファイ ルをア″ブロードしていたので、コンピューターはモデムに処理できる最大限の上りパケッ トを送っていた。モデムは実際の容量をはるかに超えたパケ″卜を処理しているふりをして、 仕事を拒否することなく莫大なキューをため込んでいた。そこでゲティスがこれと同時にウ ェブサイトを見るとかメールをチェ″クするなどで何かをダウンロードしようとすれば、確 認応答パケ″卜はア″ブロードを待つファイルの後ろで詰まってしまい、家から出るために モデムのところで行列に並んで待だなくてはならない。ゲティスからの確認応答パケ″卜が いつまで経ってもウェブやメールのサーバーに戻らなければ、サーバーは下りの接続速度を 落として徐行運転に入る。  これは会話の中でいつもI〇秒か二〇秒遅れて「なるほど」というようなものだ。話し手 は聞き手が理解できていないのだと思って話す速度を極端に下げる。すると聞き手はもう何 もできなくなる。  ネットワークのバッファーが満杯になると、一般にテールドロップと呼ばれる処理が行な われる。これは、バッファーが満杯になった時点よりあとで到着したパケ″卜をすべて拒絶 して実質的に廃棄するというやり方を指す、身も蓋もない言い方だ(クレープ店で客の列か 長くなりすぎたら新しい客を断るというのは、人間の世界におけるテールドロップと言え る)。先ほどはパケット交換を郵便にたとえたか、同じく郵便の比喩を使って、郵便配達員 がその日の朝にトラ″クに積み込めなかった荷物をすべて捨ててしまうとすれば、それはい ささか奇異に思われるかもしれない。しかし、そのように「廃棄されたパケ″卜(dropped packet) Jが出てくるからこそ、認識されていないパケ″卜の存在が感知され、加法的増加・ 乗法的減少アルゴリズムに帯域幅を半分に縮小させる、というプロセスが進むのである。パ ケ″卜の廃棄が、インターネットの重要なフィードバ″クメカニズムとなっているのだ。大 きくなりすぎたバ″ファーは、厨房がどれほど人手不足でもかまわず注文をすべて受けるレ ストランや、送り出すまでにどれだけ時間がかかろうとも入ってくるパケットをすべて受け 入れるモデムと同じようなもので、この減速が適切に生じるのを妨げてしまう。  基本的に、バ″ファーは遅延(ネ″トワーキングの分野では「レイテンシー」と呼ばれ る)を用いてスループ″卜を最大化する。つまり流れが遅いときには、状況が改善するまで パケット(または店の客)を待たせるのだ。一方、常に満杯な状態で作動するバ″ファーは、 ネットワークの世界でも人間の世界でも最悪の事態を引き起こす。さんざん待たせたあげく に、何も与えないのだ。仕事が殺到した場合、少なくとも仕事かやって来るのと平均して同 じ速度で処理できるならすばらしい。しかし平均処理量を超える仕事がなだれ込んできたら、 どんなバ″ファーも奇跡を起こすことはできない。そしてバ″ファーが増大すればするほど、 助けを求める前に遅れか拡大してしまう。扱う相手がパケ″卜であれ客であれ、バ″ファー に関する基本原理の一つは、ルーチン的に中身をI掃しなければきちんと作動しないという ことだ。  何十年ものあいだ、コンピューターのメモリーはとても高価だったので、不要な記憶容量 をたっぷり搭載したモデムなどつくるべき理由かなかった。そのため、モデムが自らの処理 能力を超えた大きなキューをため込むことは単純にありえなかった。しかしあるとき、コン ピューター業界で規模の経済によってメモリーのコストが大幅に下がると、モデムメーカー は製品に数ギガバイトのRAMを搭載するようになった。というのは、当時はそれが実質的 に利用可能な最小容量のRAMだったからである。その結果、モデムにも、ルーターにも、 ノートパソコンにも、スマートフォンにも、そしてインターネットのバ″クボーンそのもの にも、あらゆるデバイスで処理能力を何千倍も上回るバ″ファーが生じるようになった。や がてジムーゲティスのような人たちが。これをなんとかせよと警鐘を鳴らし始めたのだった。   遅れるよりはやらないほうがまし   自分にとって最も基本的な問題を一人の人間と考えてみよW{l‐″yづ令一・・・ある人に好かれている   が、自分はその人を好きじゃない。昔ならそういう状況は気まずかった。何か話をしな   いわけにはいかなくて、居心地が悪かった。ところが今はどうだろう。ある人に好かれ   ているが、自分はそいつを好きじゃない。だったら忙しいふりをするだけだ……いつま   でもずっと。                               −アジズーアンサリ   今やるほうが、まったくやらないよりもよい。   ただし、まったくやらないほうが、今すぐやるよりましなことも少なくない。                           −『ゼンーオブーパイソン』                 (訳注 コンピュータープログラム「パイソン」の基本原則集)  歌手のケイティー・ペリーには、出身地であるカリフォルニア州の人口よりもI〇七パー セント多いツイ″ターのフォロワーがいる。二〇一六年の初めの時点で最も多くのフォロワ ーをもつ彼女は、八匸一〇万人のファンからフォローされている。ファンの九九パーセント が彼女にメ″セージをまったく送らず、特に熱心なIパーセントのフ″ソも年に一度しかメ ッセージを送らないとしても、一日に二二二五通のメ。セージが届く計算になる。毎日二二 二五通だ。  受け取った順番に従って、ペリーがすべてのメ″セージに返信するとしよう。毎日一〇〇 通に返信できるとしても、ファンか返事を受け取るまでの時間はすぐに数十年単位となる。 ほとんどのファンは。一〇年後か二〇年後に確実に返事が来るよりも、低い確率でもすぐに 返事が来るほうがうれしいはずだ。  コンサート会場から出てきたペリーをめがけて、サインや言葉を求めるファンが押し寄せ るときには、この問題が起こらないことに注目してほしい。ペリーはただ自分にできること をして前に進む。ファンのかなわぬ願いはそのまま消えるだけだ。身体はそれ自体で流れ制 御の役割を果たす。われわれは同時に複数の場所に存在することができない。人の多いパー ティー会場では、われわれが加わる会話は全体の五パーセントに満たず、それ以外の会話に ついてあとで読んだり聞いたりすることはできない。網膜に届かなかった光子を待ち行列に 入れておいて。あとで見ることはできない。現実の生活では、パケ″卜が失われたらほぼ完 全にそれきりなのだ。  英語の「drop the ball」というイディオムは、その人物が怠惰か慢心か失念のせいで「へ まをする」という意味で、ほぼ確実に軽蔑を込めて使われる。しかし過剰な負担のもとで仕 事を片づけなくてはならないときには、周到にボールを落とすことが大切だ。  現代のコミュニケーションに対する批判として最もよく耳にするのは、われわれが「常に つながっている」という指摘だ。しかし真の問題は、われわれが常につなかっていることで はない。つながっていないことか問題なのだ。常にバ″ファーされていることが問題なので あり、その違いはとてつもなく大きい。  何もかもインターネットで調べなくてはいけないとか、読める本はすべて読まなくてはい けない、見られる番組はすべて見なくてはいけないという感覚は、バッファーブロートであ る。好きな連続テレビ番組の一話を見逃したら、一時間後、一日後、あるいはI〇年後でも とにかく見ずにいられない。旅行から帰れば、山のような業務連絡が待っている。昔なら、 玄関のドアを叩いて返事がなければそれで終わりだった。ところが今では、すべてが列をな すかのようにして主の帰りを待っている。  いやはや。Eメールはテールドロップを克服できるように意図的に設計されている。発明 したレイートムリンソソはこう話している。   そのころ、メ″セージを残すのに本当によい方法というのはありませんでした。電話は   ある程度は役に立ちましたが、相手側に人かいなければ電話を受けてもらえません。話   したい相手がいなければ、アシスタントか伝言サービスか、その手のものに頼ることに   なります。メ″セージを残すには、この仕組みをくぐり抜けるしかありませんでした。   そんなわけで、コンピューターにメ″セージを残せるというアイディアに誰もが飛びつ   いたのです。  言い換えれば、発信者を決して拒絶しないシステムをわれわれは求め、よかれ悪しかれそ れを手に入れた。現にこの一五年間で、回線交換からパケ″卜交換への移行は社会のいたる ところで進展してきた。かつて、われわれは通話相手とのあいだで回線を占有することを要 求した。それが今では、相手にパケ″卜を送って確認応答パケ″卜が返ってくるのを期待し て待つ。すぐに対応できない場合、以前は拒絶していたが、今は先送りするのだ。  「アイドル状態の不在」に対する不満がいろいろなところに書かれているが、平均スループ ットをピークスループ″卜のレベルまで引き上げるというこの働きこそ、皮肉にもバ″ファ ーの第一の役割である。アイドル状態を避けるのがバ″ファーの仕事なのだ。われわれは路 上で、旅先で、トイレで、真夜中に、メールをチエ″クする。飽きることなくチエ″クし続 ける。これはうたい文句どおりにバ″ファーが働くことによる痛しかゆしの結果なのである。  休暇中にメール自動応答システムから送られる返信は、送信者に待ち時間を覚悟するよう にと明確に伝える。テールドロ″プを覚悟するように伝えると、もっとよいかもしれない。 送信者に平均より長い待ち時間を警告するのではなく、受信するすべてのメールをただ拒否 していると告げるのだ。このやり方は休暇中に限る必要はない。たとえば、受信ボックス内 のメールがI〇〇通に達したら受信したメールをすべて自動的に拒否するようにメールプロ グラムを設定するという手が考えられる。このやり方で請求書などを扱っては問題があるが、 遊びの誘いなどに対してはこれでかまわない。  「満杯」の受信ボ。クスや「満杯」のボイスメールに遭遇するという状況を考えるというこ と自体が時代遅れで。二〇世紀終盤からニー世紀初頭にかけての時代へのまぎれもない後退 だ。しかし、ほぼ無限の保存容量をもつ最新の携帯電話やコンピューターを互いに接続する ネットワークにおいて、データの流れが高速で激しくなったときにパケ″卜が意図的に廃棄 されるのなら、テールドロ″プを記憶スペースの限界に伴う嘆かわしい結果ではなく、それ 自体で目的をもった戦略と見なすべき理由があるかもしれない。  ネ″トワークのバ″ファーブロートについて言えば、現在流布している話は複雑ではある が喜ぶべきものである。(Iドウェアとオペレーティングシステムのメーカーがネットワー クのキューを根本から変えようと、大がかりな取り組みに臨んでいる。TCPの新たなバ″ クチャンネルに関する提案もある。これは長年のあいだ手つかずだった変更で、「明示的輻 輳通知(ECN)」と呼ばれる。イソターネ″卜をバ″ファーブロートから完全に解放する には、これらの変更をすべて実行したうえで何年も地道に取り組む必要があるだろう。「手 ごわい長期戦になります」とゲティスは言う。  しかし、バッファーブロート問題が解決したあとの未来については、楽しみなことがたく さんある。バ″ファーには遅延がつきものなので、ほとんどの対話型プロセスにおいてバ″ ファーは望ましくない。たとえばスカイプで話をするときには、相手が三秒前に言った言葉 の明瞭な録音を聞かされるよりも、ときおり雑音の混じる信号をすぐに聞くほうが一般に好 まれる。オンライングームをプレイするときには、五〇ミリ秒の遅延さえ殺るか殺られるか を分ける要因となる。実際、ゲームは遅延にとても敏感なので、主要なゲームの大会では必 ず対戦者が直接対面して競技している。プレイヤーは飛行機で会場に集まり、一つの部屋の 中で完結しているネ″トワークを使って対戦する。同期していることが重要な意味をもつあ らゆる分野でほぽ同じことが言える。「友人と一緒に音楽を演奏しようとすると。都市部に いても、一〇ミリ秒の遅延が気になるのです」とゲティスは指摘する。彼が思い描いている のは、さまざまな新しいアプリケーションやビジネスか現れて、遅延の少ない対話から生ま れる可能性を利用することである。「この経験全体から一般論を引き出すとすれば、エンジ ニアは時間を第一級のオブジェクトとして扱うべきだということです」。  アップルのスチュアートーチェシャーも、そろそろ遅延をネ″トワークェンジニアにとっ ての最優先事項とすべきだという考えに同意する。「高速」インターネ″卜接続を宣伝する 企業は帯域幅の大きさばかりを取り上げて遅延の少なさには触れないが、彼はこのことに愕 然としているという。彼はたとえとして、ボーイング737型機もボーイング747型機も 時速八〇〇キロメートル前後で航行するが、737型機は乗客の定員が匸一〇人であるのに 対して747型機の定員はその三倍だと指摘する。このことから「ボーイング747型機は 737型機より三倍。速い”と言えるだろうか。もちろんそれは違う」とチェシャーは強く 主張する。容量が重要でないこともある。大きなファイルを送信するなら、確かに帯域幅は 重要だ(大量の貨物を輸送する場合、コンテナ船を使って一回で運ぶほうが、747型機で 何千回も運ぶより都合がよいだろう)。しかし人間どうしのやりとりでは、応答時間が短い ほうかしばしばはるかに大事で、真に必要なのはもっとたくさんのコンコルド機だ。そして 実際、遅延の短縮は現在のネットワーキング研究において最前線の一つとなっている。遅延 の短縮によってどんなことか実現するのかを知るのはおもしろいだろう。  一方、ほかにも闘うべき相手が存在する。ビデオ通話で話していると、ディスプレイの中 でゲティスがしばしこちらから目をそらし、画面の外にいる誰かと話をする。「また調子が 悪いのか? 今は話し中だから、終わったら見てあげるよ。もうすぐだからIそうか、五 ギガヘルツのチャンネルは大丈夫だけど二・四ギガヘルツがだめなんだね? 例のたちの悪 いバグだ。ルーターを再起動してあげるよ」。そろそろ切り上げて、ゲティスを家族に返し たほうがよさそうだ。まだかまだかと待っている家族に。  11 ゲーム理論    他者の心   人間は高貴で高潔であり、なかには非常に賢明な人もいると信じている点で、私は楽観   主義者です。……しかし集団としての人間についてはもう少し悲観的な見方をしていま   す。                             −スティーヴージョブズ  ある投資家が別の投資家に株を売る。売るほうは株が値下がりすると確信しているが、買 うほうは値上がりすると確信している。あなたの考えを私は知っていると思うが、あなたが 私の考えをどんなものと思っているかについてはわからない。経済バブルが崩壊する。恋人 になるかもしれない人がプレゼントをくれたが。「友だち以上の関係になりたい」という意 味なのか「友だち以上の関係になりたくない」という意味なのかわからない。テーブルを囲 んで食事をしているグループが、誰が誰になぜごちそうすべきかをめぐって言い争う。人助 けをしようとした人が不本意にも相手を怒らせてしまう。一生懸命にクールなふるまいをし ている人が嘲笑される。集団から離れようとしている人が、驚いたことに自分が集団の先頭 に立っているのに気づく。「愛してるよ」とカップルの一人か言うと、相手は「私も」と言 う。そしてどちらも相手の真意に思いをめぐらす。  コンピューター科学なら、こういう状況に対して何と言うだろう。  子どもは物語のプロットについて、「人間」対「自然」、「人間」対「自我」、「人間」対  「人間」、「人間」対「社会」といった対立を描くカテゴリーのいずれかに属するものと考 えなさいと教わる。本書ではこれまでのところ、最初の二つに属する事例を主に考えてきた。 つまりここまでコンピューター科学か導き手となって教えてくれたのは、世界の基本構造か われわれ自身の限られた情報処理能力から生じる問題に対処する方法だった。最適停止問題 は、時間が不可逆で取り消し不可能であることから生じる。探索と活用のジレンマは、時間 が有限であることから生じる。緩和と乱択は、旅程の計画や予防接種の実施といった問題に つきものの複雑さに対処するための、重要で不可欠な戦略として用いられる。  本章ではこれまでとは違う部分に焦点を当てて、あとの二つ、すなわち「人間」対「人 間」、「人間」対「社会」のカテゴリーについて考える。実際には、われわれが互いに引き 起こす問題だ。この領域では、数学の一分野で「ゲーム理論」と呼ばれるものが最良の指針 となってくれる。ゲーム理論は、まずはその本来の形で二〇世紀に多大な影響をもたらした。 この二〇年ほどのあいだに、ゲーム理論とコンピューター科学が掛けあわされて、「アルゴ リズム的ゲーム理論」という分野が生まれた。そしてこれがすでにニー世紀に対して影響を 与え始めている。                    。   再 帰   賢者なら、自分の盃に毒を入れる。与えられた盃に手を出すのは大ばか者だけだとわか   っているから。そして私は大ばか者ではない。だから。あんたの前のワインを飲むわけ   にはいかない。だか、私が大ばか者ではないということをあんたは知っていたはず。そ   れを見越していたに違いない。だから、私は自分の前のワインを飲むわけにはいかない。                   −映画『プリンセスーブライドーストーリー』  二〇世紀で最も大きな影響をおよぼした経済学者はジョンーメイナードーケインズだと言 って間違いないだろう。そのケインズかかつて、「成功する投資とは。他者の読みを読むこ とである」と述べている。株か六〇ドルで売却される場合、買い手はあとでそれか七〇ドル で売れると思っているに違いない。そのときの買い手はあとで八〇ドルで売れると思ってい て、そのときの買い手はあとで九〇ドルで売れると思っていて、そのときの買い手はあとで 一〇〇ドルで売れると思っているに違いない。このように、株価というのは自分がその株に どれだけの価値があると思っているかではなく、ほかの大がその株にどれだけの価値がある と思っていると思われるかなのだ。実際には、それでもまだ十分ではない。価値と人気の決 定的な違いについて、ケインズはこう述べている。   あるいは喩えを少し換えてみると、玄人筋の投資は新聞紙上の焚人コンテスト。参加者   はI〇〇枚の写真の中から最も美しい顔かたちの六人を選び出すことを要求され、参加   者全員の平均的な選好に最も近い選択をした大に賞品が与えられるという趣向のコンテ   ストになぞらえてみることもできよう。このようなコンテストでは、それぞれの参加者   は自分がいちばん美しいと思う顔を選ぶのではなく、他の参加者の心を最も捉えそうだ   と思われる顔を選ばなければならない。全員が問題を同じ観点から見ているのである。   ここでは、判断のかぎりを尽くして本当に最も美しい顔を選ぶということは問題ではな   いし、平均的な意見が最も美しいと本当に考えている顔を選ぶことさえ問題ではない。   われわれは、自分たちの知力を挙げて平均的意見が平均的意見だと見なしているものを   予測するという。三次の次元まで到達している。中には、四次、五次、そしてもっと高   次の次元を実践している者もいる、と私は信じている(『屈用、利子および貨幣の一般理磴   間宮陽介訳、岩波文庫より引用』。  コンピューター科学は、いわゆる「停止問題」におけるこの種の推論の根本的な限界を明 らかにする。アランーチューリングが一九三六年に証明したとおり、コンピュータープログ ラムは別のプログラムか果てしなく永久に計算を続ける可能性があるかどうかを明らかにす ることが絶対にできないIそのプログラムの動作をシミュレートしてそれ自体が暴走する リスクを冒さない限り(したがって、プログラマーは自分のソフトウェアがフリーズするか どうかを確かめる自動化されたツールを手に入れることは決してないだろう)。これはコン ピューター科学全体のなかで根幹的な成果の一つであり、多数の証明がこれに支えられてい る。単純に言えば、機械であろうと心であろうと、システムかそれ自体と同程度に複雑なも のの働きをシミュレートすれば必ず、およそ当然ながら資源か完全に限界に達する。コンピ ューター科学者は、このようにいわば鏡の部屋に入って心が別の心をシミュレートしてさら にその心を別の心がシミュレートしているような、潜在的に果てしない道すじを「再帰」と 呼ぶ。  「ポーカーでは、大事なのは自分の手札ではない」と、映画『007 カジノーロワイヤ ル』でジェームズーボンドが言う。「相手を読むことが大事なんだ」。じつのところ本当に 大事なのは、理屈のうえでは無限に続く再帰である。自分の手札はこうで、相手の手札はこ うだと思われる。相手はこちらの手札がこうだと思っていると思われ、相手の手札はこうだ とこちらが思っていると相手か思っている手札はこうで……。「ゲーム理論の用語として使 われているかは知りませんか、ポーカーのプレイヤーはこれを。レベリング”と呼びます」 と世界卜″プクラスのポーカープレイヤー、ダソースミスが言う。「レベルーは。私は知っ ている”です。レベル2は。私が知っているということをあなたは知っている”で、レベル 3は。私か知っているということをあなたが知っているということを私は知っている”とな ります。。ああ、ここでプラフするのはひどくまずいが、ここでブラフするのがまずいと相 手か知っているなら、コール(訳注相手と同額を賭けること)されることはないから、ここで ブラフするのはうまい手だ”というような場面が訪れることがあります。そういうことが起 きるのです」。  (イレベルのポーカーで格別に忘れがたいブラフといえば、トムードワンがサミー・ジョ ージとの対決でやってのけた場面が挙げられる。テキサスーホールデム(訳注 ポーカーのゲ ームの一種)の対戦で、ドワンはこのゲームで最悪の手札である「2‐7」に四七万九五〇 〇ドルを賭けて、自分の手札がそれだと相手のジョージに告げた。「2‐7のはずがない だろ」とジョージが応じた。「ありえない」。ジョージはカードを置いてゲームから降りた。 そしてドワンはIそう、本当に2‐7だったI賭け金を自分のものにした。  ポーカーでは、再帰は危険なゲームだ。相手よりも読みか一歩浅くてひどい目に遭うのは もちろん避けたい。しかし、深読みしすぎるのも避けなくてはいけない。「相手よhソーレベ   *実際、これは現代のすべてのコンピューターの起源である。のちにチューリングーマシンと呼ばれ   るようになった装匯を使って、チューリングがコンピューターによる演算を正式に定義したのは、停   止問題がきっかけだった。 ルだけ上でプレイすべしというルールがあります」と、プロのポーカープレイヤー、ヴァネ ッサーラソは語る。「相手より上に行きすぎると、実際には相手がもっていない情報をもっ ていると誤解してしまいますIそしてこちらのふるまいから相手に読み取らせたい情報を 相手か読み取れなくなります」。ポーカーのプロは、巧妙に相手をわなにかけて複雑な再帰 に引き込みながら、じつは心理戦などとはまったく無縁な定石どおりのプレイをすることも ある。これは相手をおびき寄せて「レベリングの一人相撲」をさせる手として知られている。  (相手を実りのない再帰に誘い込む手は、ほかのゲームでも有効な戦略となる。「人間」対  「機械」のチェスの歴史で有数の鮮烈で奇妙で興味深いエピソードか、二〇〇八年に生まれ た。対局したのは、アメリカのグランドマスターであるヒカルーナカムラと、卜とフレベル のコンピュータープログラムのリプカである。すべての手を指すのに両者の持ち時間はそれ ぞれわずか三分で、これを超えたら自動的に敗戦が決まるというルールか採用され、間違い なくコンピューターのほうが有利と思われた。一秒間に数百万の手を検討でき、腕を動かさ ずに駒を動かせるのだから、それも当然だ。しかしナカムラはすぐさまゲームを停滞させ、 限界の速さで駒を動かしながら無意味で反復的な動きを続けた。その間、コンピューターは 実在しない勝利のパターンをむなしく探し、ナカムラが繰り出しそうなすべての手を粘り強 く予想しようとして、貴重な時間を無駄に費やしていた。ナカムラのほうは、ただ盤上で指 の運動をしていただけだった。コンピューターか持ち時間をほぼ使い尽くし、時間切れで負 けないように無駄な抵抗を始めると、ナカムラはついに陣地を開いて突撃を開始した)  ポーカーのプロはどうやって再帰の危険性から逃れるのだろうか。じつはゲーム理論を利 用している。「ときには相手を踏み台にするような「レベリングの」プレイをすべきときも ありますが、多くの場合、下手なプレイというのはじつは的外れな雑音に耳を傾けてしまっ た結果なのです」とダンースミスが説明する。「たいていの場合、理論の理解から始めるこ とに力を注ぎます。……いつもまずはナ″シュを把握するか、あるいは把握しようとします」。  さて、ナ″シュとはいったい何だろう。   均衡の達成    おまえはルールを知ってる 俺も……    俺たちはゲームのやり方を知ってる だから始めよう                               Iリッターアストリー  ゲーム理論は、協力と競争をめぐるシナリオを信じがたいほど広範にカバーしているが、 この分野の出発点となったのは、抜け目のないポーカーのゲームに似たシナリオだった。二 人のプレイヤーが対戦し、一方の利得が他方の損失となるというシナリオである。このタイ プのゲームを分析する数学者は、「均衡」と呼ばれる状態を成り立たせる条件の特定を目指 す。二人のプレイヤーがそれぞれ相手のプレイを踏まえたうえで、自分のプレイの変更を望 まない状況をもたらす一連の戦略を均衡と呼ぶ。こう呼ばれるのはこれが安定した状態だか らで、それぞれのプレイヤーがさらに熟考を重ねても決定が変わることがないのだ。こちら は相手の戦略を考えたうえで自分の戦略に満足し、相手もこちらの戦略を考えたうえで自分 の戦略に満足している。  たとえばじやんけんで均衡を目指すなら、おそらくおもしろくもなんともないが、三種類 の手の形を完全にランダムに、全体の回数のおよそ三分の一ずつ選ぶことになる。この均衡 が安定であるのは、双方のプレイヤーがこのコ二分の一ずつ」戦略をいったん採用したら、 それに従い続けるより有利な戦略はどちらのプレイヤーにとっても存在しないからだ(グー を多くしてみたら、相手はすぐに気づいて、パーを多く出すようになる。するとこちらはチ ョキを多く出すようになり・一画画・・やがて二人とも再びコ二分の一ずつ」の均衡に落ち着く)。  ゲーム理論において大きな影響をもたらした成果の一つとして、数学者のジョンーナ″シ ュは一九五一年に、プレイヤーが二人のゲームでは均衡が少なくとも一つは必ず存在すると いうことを証明した。彼はのちにこの重大な発見によって、一九九四年のノーベル経済学賞 を受賞することになる(そしてナ″シュの生涯を描いた本と映画『ビューティブルーマイン ド』が発表されるに至る)。今では、このような均衡はしばしば「ナ″シュ均衡」と呼ばれ る。この「ナッシュ」こそ、ダンースミスが常に把握しようとしているものだ。  一見すると、プレイヤーが二人のゲームでは常にナ″シュ均衡が存在するという事実は、 ポーカーをはじめとするさまざまなおなじみのゲームの特徴である「鏡の部屋」的な再帰か ら、プレイヤーをいくらか解放してくれるように思われるだろう。自分か再帰というウサギ の穴を落下していると感じたときには、敵の心を読むのをやめて均衡を探し、合理的なプレ イを想定して最良の戦略へまっしぐらに進むことのできる選択肢が必ずある。じやんけんで は、出す手をランダムに選ぶのが長期的には最強の戦略だとわかっているなら、相手の表情 を探って次に出される手を読み取ろうとしても意味がないかもしれない。  もっと一般的には、ナ″シュ均衡を用いれば、ルールやインセンティブをどのように取り 合わせた条件下でも安定した長期的な結果が予想できる。そのため、経済政策や社会政策全 般の予想と策定において、ナ″シュ均衡は貴重なツールとなる。ノーベル賞を受賞した経済 学者のロジャー・マイヤーソンによれば。ナッシュ均衡は「経済学や社会科学に根本的で広 範な影響をもたらしている。生物学におけるDNAの二重らせん構造の発見に匹敵するほど の影響を」。  しかし、コンピューター科学がこの話をややこしくしている。おおまかに言うと、数学の 研究対象は「真理」であり、コンピューター科学の研究対象は「計算量」である。すでに見 たとおり、こと「手に負えない問題」に関する限りは、解が存在するだけでは十分とは言え ない。  ゲーム理論においては、均衡が存在するとわかっていても、その均衡がどんなものかがわ かっているとは限らない。どうしたら均衡が達成できるかもわからない。カリフ。ルニア大 学バークリー校のコンピューター科学者クリストスーパパディミトリウは、ゲーム理論は  「行為者のとる均衡行動を予想するか、均衡状態に到達する過程−これこそコンピュータ ー科学者にとって最大の関心事であろうにIについては関知しないのか常である」と述べ ている。スタンフォード大学のティムーラフガーデンも同様に、均衡が必ず存在するとした ナッシュの証明に不満を示している。「なるほど。しかし、われわれはコンピューター科学 者ですよね? われわれに使えるものがほしい。存在すると言うだけではなく、どうしたら 見つけられるか教えてほしい」。こうして本来のゲーム理論という分野から、アルゴリズム 的ゲーム理論が生まれた。つまり、理想的なゲームの戦略を理論的に扱う研究から、機械  (および人間)がゲームの戦略を考え出す方法を扱う研究へと変わったのだ。  結局のところ、ナ″シュ均衡にあまり多くの疑問を抱きすぎると、すぐさま計算をめぐる 泥沼に陥ってしまう。二〇世紀の終わりまでに、ゲームに複数の均衡が存在するのか、プレ イヤーになんらかの利得を与える均衡が一つ存在するのか、特定の行動を必要とする均衡が 一つ存在するのかといった問いに答えを出すのは、手に負えない問題であることが証明され た。その後、二〇〇五年から二〇〇八年にかけてパパディミトリウと共同研究者らは、ナッ シュ均衡を見出すだけでも手に負えない問題であるということを証明した。  じゃんけんのように単純なゲームなら、一目でわかる均衡が存在するかもしれない。しか し現実世界の複雑なゲームでは、参加者が必ずしもゲームの均衡を見出したり達成したりで きるわけではないことか今では明らかとなっている。これはつまり、ゲームの設計者が均衡 を利用してプレイヤーの行動を予想することが必ずしも可能ではないということだ。この厳 然たる結果から派生して、重大な問題が生じる。ナッシュ均衡は、経済理論において市場の ふるまいをモデル化して予想する方法としてあがめられてきたが、そんな扱いがじつは妥当 ではないかもしれないのだ。パパディミトリウの説明によれば、「均衡という概念が効率的 に計算できないなら、合理的行為者の行動に関する予想としての信頼性の多くか失われる」。 MITのスコ″トーアーロンソンも同じ考えだ。「私の見解としては、ナ″シュ均衡が存在 するという公理か(たとえば)自由市場と政府の介入との拮抗に関する議論と関係があると 見なされるなら、その均衡を見出すことか[手に負えない]という公理もまた関係かあると 見なすべきである」。ナッシュ均衡のもたらす予想能力は、その均衡をプレイヤーが実際に 見出せる場合のみ意味をもつ。eベイの元リサーチディレクター、カマルージャインの言葉 を借りれば、「ノートパソコンに発見できないなら、市場にも発見できない」。   支配戦略、よかれ悪しかれ  均衡が達成できても、その均衡が安定していればよいというわけではない。矛盾している と思われるかもしれないが、どのプレイヤーも戦略を変更する意思をもたないという均衡戦 略が、プレイヤーにとって必ずしも最良の結果をもたらすとは限らない。それを何よりもわ かりやすく示してくれるのが、ゲーム理論において最も有名で、挑発的で、多くの議論を招 いてきたプレイヤー二人のゲーム、「囚人のジレンマ」だ。  囚人のジレンマは以下のように展開する。銀行強盗をはたらいたあと、自分と共犯者が逮 捕され、別々の独房に入れられているとしよう。共犯者どうしで「協力」する(黙秘を続け る)か、それとも相方を裏切って警察に売ることによって信頼関係を「放棄」するか、どち らかを選ばなくてはならない。二人が互いに協力して黙秘を続ければ、有罪の判決を下すに は証拠が不十分なので二人とも無罪放免となり、奪った金が山分けできることかわかってい る。五〇万ドルずつもらえるとしておこう。しかし一人が裏切って相方のことを密告し、も う一人が沈黙を守れば、密告者は釈放されてI〇〇万ドルを独り占めできる。沈黙を守った ほうは単独犯として有罪判決を下され、一〇年の刑を受ける。双方が相手のことを密告した 場合には二人とも有罪となり、それぞれ五年の刑を受ける。  問題はここだ。相方がどんな行動に出ようとも、自分は裏切るほうか常に得策なのである。  相方がこちらを裏切った場合、こちらも相方を裏切れば刑期は五年ですむ。一人で刑期を すべて(一〇年)負うのではなく、分けあう(五年になる)からだ。相方が黙秘を貫いた場 合、こちらが相方を裏切ればI〇〇万ドルがすべて自分のものになる。山分けしなくてよい のだ。いずれにしても、相方がどう決断しようとも、こちらとしては協力するよりも裏切る ほうが必ず得策となる。裏切らなければ。相方かどう出ようともこちらは必ず不利になる。  実際このように、裏切りは均衡戦略であるばかりでなく、「支配戦略」と呼ばれるものに なる。支配戦略は相手がとりうるすべての戦略に対して最良の対応となり、再帰を完全に回 避できる。相手の頭に入り込んで考えを読む必要すらないのだ。支配戦略は絶大な威力をも つ。  しかし、ここでパラドックスが生じる。誰もか合理的な判断を下して支配戦略に従ったら、 二人とも五年の刑期に服することになる。これは自由な生活と一人五〇万ドルという大金と 比べれば、どちらにとってもひどく見劣りがする。なぜこんなことになってしまうのか。  古典的なゲーム理論の主要な知見としては、次のような見方がある。プレイヤー全員がそ れぞれ自分の利益となるように合理的に行動している場合、均衡はプレイヤーにとって真に 最良の結果ではないかもしれない、ということだ。  アルゴリズム的ゲーム理論は、コンピューター科学の原理に従ってこの知見を取り上げて 定量化し、「無秩序の代償」という基準を生み出している。この基準は、協力した場合(と るべき行動が中央で設計または調整される)と競合した場合(各参加者がばらばらに自分の 得る利得の最大化を目指す)とで期待される利得の比率を算出することで得られる(訳注 要するに、社会的均衡がどれだけ〔非〕効率的なものかを数量化したもの)。囚人のジレンマのような ゲームでは、この値にはほぼ限界がない。手に入れられる金額を増やして刑期を延ばせば、 生じうる結果どうしの差を随意に広げることができる。支配戦略が変わらなくても、やはり この差は広げられる。協力しない場合にプレイヤーたちがどれほど痛い思いをするかについ ては限界がない。しかし、アルゴリズム的ゲーム理論の研究者なら気づくとおり、無秩序の 代償がこれと比べてはるかに痛みを伴わないゲームもある。  たとえば、交 通を考えよう。毎日渋滞の中を自動車通勤している人でもよいし、インタ ーネット上でTCPのパケットをシヤ″フルするルーターでもよい。システム上のすべての 要素は、単にそれぞれにとって最も容易なものを求めているだけだ。ドライバーはとにかく 最も速いルートを選びたいし、ルーターはとにかく最小限の負担で自分の引き受けたパケ″ 卜を処理したい。しかしどちらのケースでも、容易なものを求めるというやり方では、重要 な経路を過密にして、渋滞を引き起こし、結局はすべてに害を与えるおそれかある。といっ ても、その害とはどの程度のものなのだろう。意外にも、ティムーラフガーデンとコーネル 大学のエヴアータルドスは二〇〇二年に「利己的な経路選択」法をとった場合に支払わねば ならない無秩序の代償はわずか三分の四であることを証明した。つまり、無秩序状態は完璧 なトップダウン型の調整と比べて三三パーセントしか劣らないということだ。  ラフガーデンとタルドスの研究は、物理的な交通を扱う都市計画に対しても、あるいはネ ″トワークのインフラに対しても、重大な意味をもつ。利己的な経路選択をしても無秩序の 代償が小さいという事実によって、個々のパケ″卜の経路選択を管理する中央権力がなくて もインターネットがきちんと機能している理由などが説明できるかもしれない。仮にそうし た中央管理が可能であっても、インターネ″卜の機能か著しく改善されることはない、と いうことにはなるだろう。  人間社会の交通については、無秩序の代償が小さいことは諸刃の剣となる。中央集権的な 制御が行なわれていなくても、通勤時の車の流れはせいぜい三三ハーセント悪くなるだけで あり、これは喜ぶべきことだ。一方、ネットワーク化された自動運転車が未来の車のユート ピアを実現してくれることを望んでいる人は、現在の利己的で非協調的なドライバーがすで に最適な状態にかなり近いと聞かされたらがっかりしてしまうかもしれない。自動運転車が 交通事故を減らしてくれるはずで、もっと狭い車間距離での運転も可能になるかもしれない という話は本当で、そうなれば交通のスピードアとフが期待できる。しかし渋滞という観点 から見ると。無秩序状態は完璧に制御された状態と比べて三分の四しか状況が悪化していな いというのであれば、完璧に制御された自動車通勤が実現しても、現在と比べて渋滞は四分 の三までしか緩和されないということになろう。これはジェイムズーブラソチーキャベルの 小説に出てくる有名な一節にちょっと似ている。「楽観主義者は、われわれの暮らす世界は 存在しうるあらゆる世界のうちで最良だと訴える。悲観主義者は、それが真実であることを 恐れる」。渋滞という問題は。個々のドライバー(人間であれコンピューターであれ)が利 己的な方法または協調的な方法でばらばらに判断を下すよりも、計画者が全体的な需要にも とづいて解決するほうが必ずうまく解決できるだろう。  無秩序の代償を定量化することによって、この分野では分散型システムのメリ″卜とデメ リットを評価するための具体的で厳密な方法が得られた。このことは。人がゲームのプレイ に関与している(自覚の有無は問わず)あらゆる領域に広範な影響をおよぼしうる。無秩序 の代償か小さいということは、よかれ悪しかれ、システムに特に手を加えなくても、慎重に 管理された場合とだいたい同程度に良好な状態を保てるということを意味する。これに対し、 無秩序の代償が大きい場合には、うまく調整すれば状態が改善される可能性があると考えら れる。ただし、なんらかの介入がなければ惨事を招くことになるという意味でもある。囚人 のジレンマは明らかに後者のタイプだ。そして残念ながら、世界が取り組まなくてはならな い格別に重要なゲームもやはり多くは後者である。   共有地の悲劇  一九六八年、生態学者のギャレットー(Iディンはプレイヤーか二人の囚人のジレンマに 着目し、一つの農村の全住民を取り込めるほど規模を拡大したらどうなるかと想像した。バ ーディンは論文の読者に対し、牧草の生えた「共有地」を頭に描くよう求めた。住民はみな 家畜にここで草を食べさせてよいが、草には限りがある。理屈のうえでは、どの住民もよそ の家畜の食べる草がなくならないように、自分の家畜の数を抑えるべきである。しかし現実 には、それより少し多くの家畜に草を食べさせれば飼い主か得をする一方で、害はほんのわ ずかで特に重大な影響もなさそうだ。ところが、適切な量よりも少し多く共有地を利用する というやり方をすべての住民がとったら、恐るべき均衡が生じる。草地は完全に荒廃し、も う誰の家畜もここで草は食べられない。  バーディンはこれを「共有地の悲劇」と名づけた。これは経済学者、政治科学者、環境保 護活動家が環境汚染や気候変動といった大規模な生態系の危機を展望する際の主要なレンズ の一つとなっている。「子どものころ、有鉛ガソリンというものがありました」と、カーネ ギー・メロン大学のコンピューター科学者でゲーム理論研究者のアヴリムーブルームは言う。  「有鉛のほうがI〇セントほど安いのですが。環境を汚染します。……ほかのみんなも使っ ているのだから、自分の車でも有鉛ガソリンを使ったところで、自分への「健康面での」影 響がどれほど悪化するでしょうか。大して変わりません。これは囚人のジレンマです」。企 業や国のレベルでも同じことか言える。最近の新聞に、この問題を簡潔に言い表した見出し が載っていた。「気候の安定化には化石燃料の大半を地中にとどめておくことが必要―し かし誰の分を?」。企業は(そしてある程度は国も)ライバルよりも少し好き勝手にふるま うほうが、競争するうえで有利になる。しかし全員が好き勝手にふるまったら、地球は荒廃 し、何もかもが無駄になってしまう。この荒廃に関与した誰の手も、経済的なメリ″卜をつ かむことはできないのだ。  このタイプのゲームのロジックはいたるところに蔓延しているので、それが暴走している ことはわざわざ悪い例を探さなくても見て取れる。清廉な良心をもっていても、恐るべき均 衡にたやすく陥ってしまうことがある。どのような場合に? 身近なところで、自分の会社 の休暇規則を見てみればよい。アメリカは世界卜こフクラスの長時間労働国だ。《エコノミ スト》誌は「アメリカほど労働の価値か高く、余暇の価値が低く見なされている国はほかに ない」と指摘している。雇用主に休暇の保障を義務づける法律はほとんどなく、たとえ休暇 制度があっても従業員はそれを利用しない。最近の調査では、平均的な労働者は認められて いる休暇日数の半分しか使わず、驚くべきことに労働者の一五パーセントは休暇をまったく 取っていないことが判明した。  現時点で。サンフランシスコのベイェリア(本書の著者二人の居住地)では、休暇規則に ついての思いきったパラダイムシフトによって、このひどい状態を改善する取り組みが進め られている。しかし、その意図は善意に満ちているものの、悲惨な結果に至るのは確実だ。 前提は十分に良心的と思われる。各従業員に決まった日数の休暇を与える方法では、誰も上 限を超えないように人事管理部が無駄に時間を費やすことになる。だからそんなやり方では なく、従業員の自主性に任せたらどうなのか。上限を設けずに、ただ休暇を認めたらどうな のか。この件に関する事例報告では、これまでのところさまざまな結果が混在している。し かしゲーム理論の観点から見ると、この自由なやり方は悪夢のようなものだ。ふつうに考え れば、どの従業員もなるべくたくさん休暇を取りたかる。しかし、ほかの従業員よりもまじ めで積極的で熱心だ(つまり昇進に値する)と思われるために、ほかの従業員よりも休暇日 数をほんの少しだけ抑えたいとも考える。誰もがほかの従業員を見て基準を探り、それをほ んの少し下回る日数だけ休暇を取るようになるだろう。このゲームのナ″シュ均衡はゼロ日 である。ソフトウェア会社トラヴィスCIのCEO、マティアスーマイヤーは「社員は一番 たくさん休んでいるやつと思われたくないので、休暇の取得を躊躇するだろう。結局、最低 日数を競うレースになる」と記している。  これはまさに共有地の悲劇そのものだ。同様の悪影響は企業内だけでなく、企業間でも生 じる。小さな町で商店を営む店主が二人いるとしよう。週に七日営業するか、それとも日曜 日は友人や家族とくつろぐことにして週に六日だけ営業するかは自分で決められる。二人と も週に一日休むなら。今までどおりに客が維持できて、ストレスは少しですむ。しかし一人 が週に七日営業することにしたら、今までより多くの客がそちらに流れる。つまり、もう一 方の店から客を奪い、そちらの店主の生計を脅かすことになる。このケースでもやはり、両 者が毎日店を開けることがナ″シュ均衡となる。  アメリカでは二〇一四年の休暇シーズンに、まさにこの問題が炎上した。毎年恒例の感謝 祭明けの買い物ラッシュで先んじようとするライバル店に市場シェアを奪われまいと、小売 店が続々と屈服してあさましい均衡へ向かったのだ。「各店がこれまでになく早い時間に営 業を開始しようとしている」とオとフインニュースの《インターナショナルービジネスータ イムズ》が報じた。メイシーズは開店時刻を前年より二時間繰り上げ。ターゲットも同じく 二時間繰り上げた。Kマートは感謝祭の日の朝六時に開店し、それから四二時間にわたって 営業を続けた。  自分がそのような状況、すなわち二人の囚人のジレンマや多数が関与する共有地の悲劇に プレイヤーとして参加しているのに気づいた場合、どうしたらよいだろう。ある意味では、 どうしようもない。そうした悪しき均衡がもつ安定性そのもの、つまり均衡をもたらす要素 自体が、本当に耐えがたいものとなる。支配戦略を内側から変えることはほぼ不可能だ。だ からといって、悪しき均衡が是正できないわけではない。解決策は外部からもたらされるの だ。   メカニズムデザインーゲームのやり方を変える   うまくやったやつを憎むな ゲームを憎め。                                  IアイスーT   ファミリーに歯向かう者の肩をもつなI二度と。                           −映画『ゴッドファーザー』  囚人のジレンマは長らく。人間の協力の本質をめぐる議論や論争の中心となってきた。し かしユニヴァーシティー・カレッジーロソドンのゲーム理論研究者、ケンービンモアはそう した議論の少なくとも一部は的外れだと考えている。「囚人のジレンマが人間の協力の本質 を捉えていると考えるのは明らかに誤りである。そうではなく、囚人のジレンマは、協力が 生じにくいように設定された状況を表現しているのだ」 (『ゲーム理論』海野道郎・金澤悠介訳、 岩波書店より引用)と彼は主張している。  ゲームのルールのせいで悪い戦略を選ばざるをえない場合には、戦略の変更を目指すべき ではないかもしれない。むしろゲーム自体の変更を目指すべきだろう。  この考え方から、ゲーム理論の中の「メカニズムデザイン」と呼ばれる分野が出てくる。 ゲーム理論は一定のルールのもとでどんな行動が出現するかを問うが、メカニズムデザイン  (「逆ゲーム理論」とも呼ばれる)は逆方向に働き、「どんなルールなら、相手がこちらの 望む行動をしてくれるか」を問う。ゲーム理論で明らかになった事実−均衡戦略は各プレ イヤーにとって合理的であってもすべてのプレイヤーにとって悪いものとなることもあると いう事実などIが直感的に受け入れがたいとすれば、メカニズムデザインが明かす事実は それ以上に納得しがたい。  再び囚人のジレンマをやってみよう。銀行強盗をはたらいた自分と共犯者か、それぞれ独 房に入れられている。ただし先ほどと比べて重大な違いがある。ゴ″ドファーザーが登場す るのだ。自分と共犯者は犯罪組織の構成員で、密告者は海に沈めるという掟をボスは明言し   *ピンモアはさらに別の見解も述ぺている。囚人のジレンマのようなゲームは、一見すると、イマヌ   エルーカントの提唱した「定言命法」 (ほかのすべての人に望むのと同じように自分もふるまえとい   う命令)が理性で成り立っているとしたカント自身の主張を打ち消すように思われると記しているの   だ。この定言命法は、均衡戦略よりも囚人のジレンマにおいてよい結果をもたらすが、その結果が安   定したものではないという事実を逃れることはできない。 ている。このようにゲームの利得を変更すると、行動の選択肢か制限されるという影響が生 じる。しかし皮肉にも、どちらの囚人にとっても満足な結末を迎える可能性がはるかに高く なる。裏切りは前ほど魅力的ではなくなる(婉曲な言い方をしてみた)ので、二人の囚人は 互いに協力する気になり。その結果として二人とも堂々と財産を五〇万ドル増やして監獄を あとにするだろう。もちろん、そこからボスに渡す上納金がいくらか引かれることにはなる が。  ここで釈然としない強力な要素というのは、命を奪われるとか取り分か減るなど、あらゆ る結果が前より悪くなる可能性もあるのに、均衡に変化を起こすことで双方がもっとよい結 果を手に入れられるということだ。  小さな町の商店主の場合、日曜日は休みにしようという口約束はあてにならない。どちら かがもっと金を必要とするようになったら、ただちに約束を反故にするだろう。すると相手 も客を奪われまいとして、日曜日に店を開けることになる。こうなるとどちらも疲弊するば かりで、競いあってもいっこうにメリ″卜かないという、最悪の結果しか得られない悪しき 均衡に戻ってしまう。しかし、たとえば日曜日に一方の店が得た売り上げ金は他方の店に渡 すことと定めた法的拘束力のある契約書にサインすれば、双方が自分の思いのままにふるま うことができるかもしれない。満足できない均衡をさらに悪化させることによって、新たに もっとよい均衡を生み出すこともできるのだ。  一方、均衡を変えずにゲームの利得を変えると、望んでいるよりはるかに小さな効果しか 得られないのかふつうだ。ウェブサービス提供会社エバーノートのCEO、フィルーリービ ンは、全社員を対象として休暇を取得したら1000ドル支給するという方針を打ち出して 話題を呼んだ。休暇を取得する社員を増やすには妥当な方法のように聞こえるが、ゲーム理 論の観点から見るとじつは方向を誤っている。たとえば。囚人のジレンマで取りざたする金 額を増やすのは的外れだ。金額を変えても、亜〃しき均衡はまったく変わらない。一〇〇万ド ルを盗んだ犯人が二人ともつかまるなら、一〇〇〇万ドルを盗んでも同じことだ。休暇か魅 力的でないという点が問題なわけではない。問題は、誰もが同僚より少しだけ休暇を短くし たいと思う点にある。その結果、このゲームには休暇をまったく取らないという均衡しか存 在しなくなるのだ。一〇〇〇ドルもらえるというのは悪い話ではないが、ゲームの原理は変 わらない。なるべくたくさん休暇を取りながら。ほかの社員よりも少しやる気があると認め てもらって、数千ドルよりも価値のある昇給や昇進を狙おうというのだ。  では、リービンは社員一人が一回休暇を取るたびに、一万ドルを支給しなくてはいけない のか。そんなことはない。メカニズムデザインによれば、リービンが社員を満足させるには 飴ではなくムチを使えばよい。一セントたりとも使わずに、均衡を改善する方法があるのだ。 たとえば、最低限の休暇の取得を義務化すればよい。レースを変えることができなくても、 ゴールは変えられる。CEOであれ、全関係者を拘束する契約書であれ。絞首刑をちらつか せて黙秘の掟を守らせるボスであれ、メカニズムデザインは計画者の必要性を強力に訴える。  スポーツリーグのコミ″ショナーもこの種の計画者である。NBAでまともな試合が行な われず、各チームはシーズンの開幕から終了までのいつでも、たとえば日曜日の午前三時と かクリスマスの正午でも試合かできるとしたら、どれほどみじめな見世物となるか想像して ほしい。げっそりして顔色の悪い選手たちが極度の睡眠不足に陥り、刺激剤でなんとか目を こじ開けているが意識はほぼ飛んでいるという光景を目にすることになるだろう。まるで戦 場のようだ。一方、冷酷で非情な投資家かマイクロ秒単位で売買を行なう「眠らない街」の ウォールストリートでさえ、毎日午後四時には戦闘を休止する。ライバルから悪質な待ち伏 せ攻撃を受けて睡眠不足の均衡に陥ることがないように、毎晩それなりの時間にブローカー を眠らせるためだ。この点で、株式市場は戦争というよりスポーツに近い。  このロジ″クを拡大すると、政府の役割に関する説得力のある主張か生じる。実際、多く の政府では最低限の休暇a取得や店の営業時間の制限を義務づける法律を定めている。アメ リカは先進国のなかで有給休暇を国として義務づけていない数少ない国の一つだが、マサチ ューセッツ、メイン、ロードアイランドでは、州の法律によって感謝祭シーズンの店の営業 が禁止されている。  このような法律はしばしば植民地時代に端を発していて、もともとは宗教的な意味合いを もっていたものが多い。実際、宗教自体もこの種のゲームの仕組みを変更するきわめて直接 的な手段となる。特に「安息日を守れ」といった宗教的戒律は、全能の神から課されたにせ よ、もっと身近な宗教コミュニティーのメンバーから課されるにせよ、商店主が直面する問 題を手際よく解決してくれる。これ以外にも、殺人、姦通、盗みなどの反社会的行動に対す る禁止令に神の力を加えることも、社会集団の中で暮らすことに伴うゲーム理論的な問題の 一部を解決する手段となる。神はこの点で政府よりもさらに効果がある。というのは、その 全知全能によって、悪しきふるまいをすれば恐ろしい結果が待っているということがきわめ て強力に保証されるからだ。どんなゴ″ドファーザーも、父なる神にはかなわない。  宗教は、コンピューター科学者がほとんど触れない話題らしい。実際、まさにそのことを テーマとした『コンピュータ科学者がめったに語らないこと』(ドナルド・E・クフース著、滝 沢徼・牧野祐子・富澤昇訳、エスアイピー・アクセス)という本も出ている。しかし宗教によって 課されるような行動への制約は、人のもつ選択肢を減らすことによって、ある種の意思決定 における計算の難しさを軽減してくれる。そのうえ、よりよい結果ももたらしてくれること がある。   進化によるメカニズムデザイン   人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中に   は他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にす   る快さ以外に何も得るものがなくとも、その大たちの幸福を自分にとってなくてはなら   ないと感じさせる。      −アダムースミス『道徳感情論』(村井章子・北川知子訳、日経BP社より引用)   心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている。     −ブレーズーパスカル 『パンセ』 (前田陽一・由木康訳、中公クラシ″クスより引用)  カリフォルニア州のセコイア林は、地球上で有数の古く堂々たる生物群だ。しかしゲーム 理論の立場から言うと、悲劇的な存在でもある。樹高がとても高いのは、われこそほかの木 より高くなろうと背伸びを続けているからにほかならない。その結果、ほかの木の陰に入る ことによる害よりも、高くなりすぎることによる害のほうが大きくなってしまった。リチャ ードードーキンスはこう記している。   林冠はちょうどなだらかな起伏をもつ草原で、ただ支柱の上に乗っかっているだけの、   空中牧場だと考えることができる。林冠は草原とほとんど同じくらいの割合で太陽エネ   ルギーを集める。しかし、エネルギーのかなりの部分が支柱にそのまま投入されること   で「浪費」される。支柱は「牧場」を空中高くに持ち上げる以外には何も有益な仕事を   しておらず、牧場では、地面に平らなままおかれていた場合―この場合にかかるコス   トははるかに低いIにできるのと、ぴったり同じだけの光子を捕捉して手に入れる    (『進化の存在証明』垂水雄二訳、早川書房より引用)。  この林が停戦協定を結ぶことができれば、生態系は樹高を伸ばす軍拡競争に光合成の恩恵 を浪費することなく、存分に享受できるはずだ。しかしすでに見たとおり、この種のシナリ オで望ましい結果というのは、ゲームの外に権力者がいて、ゲームの利得を卜こフダウンで 変えられるという状況でのみ得られる場合が多い。それなら自然界では、個体間でよい均衡 を確立することは不可能だと思われるかもしれない。  その一方で、特定のゲームで協力か本当によりよい結果につながるのなら、協調性の高い 種が進化のうえで優勢となるはずだ。しかしその場合、個体レベルではなく集団レベルでの み協力が合理的であるとしたら、その協力はどこから生じるのか。個体の力では完全にはコ ントロールできない何かから生じるのかもしれない。それはたとえば「感情」のようなもの だろうか。  一見すると無関係と思われる二つのシナリオを考えよう。(―)男性が電気掃除機を購入 したが、ほんの数週間で故障したので、一〇分かけてネ″卜上で悪意に満ちたレビューを書 く。(2)コンビニエンスストアで買い物をしていた女性が、高齢男性から財布とドアの鍵 を盗んだ人に気づいた。女性は泥棒を組み伏せて、財布を奪い返す。  二人めの主人公は明らかに勇敢で、最初の主人公はただ憤っているだけだが、二つのシ ナリオには共通点がある。パターンはまったく違うにしても、どちらも意図せぬ無私無欲に 動かされているのだ。不満を抱く男性は、掃除機を交換してもらおうとか返金してもらおう としているわけではない。きわめて間接的な仕返しをしているのであり、そこから(合理的 なゲーム理論的な意味で)得られるものは、レビューを書いたという邪な満足感を除いて ほとんど何もない。コンビニエンスストアの勇敢な女性は、自ら多大なコストを払って私的 制裁を加えている。赤の他人の四〇ドルかそこらを取り返すために、けがをするか場合によ っては命を失うかもしれない危険を冒しているのだ。被害者の力になりたいというなら、病 院に搬送されるリスクなど冒さずに、自分の財布から二〇ドル札を二枚出して渡すだけでも よいではないか。この意味で。二人の主人公のふるまいは不合理である。その一方で、二人 の行動は社会の役に立っている。スリをはたらこうとしたらかえって痛い目に遭い、劣悪な 品質の製品を販売する企業には悪評が立つような世界こそ、誰もが住みたがる世界のはずだ。  損失に憤慨して時間を無駄に費やしたり、ましてや四〇ドルのために歯を失ったりするの を避け、自分にとって最大の利益となるように客観的で考え抜かれた決定を常に下せるよう になれば、個人のレベルでより豊かな暮らしが送れるだろう。しかし、先ほどの主人公たち のように挑戦的な姿勢が頻繁に見られる社会では、そのようなふるまいのおかげですぺての 人がより豊かな暮らしを送ることができる。  では、外部の権力者が存在しない状況で、この主人公たちに何か起きて、利己的な均衡を 破るに至ったのか。一つは怒りである。いいかげんな会社のせいであれ、卑劣なコソ泥のせ いであれ、怒りは合理性を打ち負かす。今の例では、ふつうならゲームの外にいる権力者か 引き受けたであろうことを、進化の手がやってのけたのかもしれない。  自然界には、自分以外の種にいわば乗っ取られて、その種の目的の達成に寄与する個体の 例がいくらでもある。たとえば寄生虫の槍形吸虫(Dicrocoelium dendriticum)は、アリをわ ざと草の葉先まで登らせてヒツジに食べさせる。ヒツジは槍形吸虫のお気に入りの宿主なの だ。同様に、やはhソ寄生虫であるトキソプラズマ原虫(T oxoplasma gondii)は、ネズミにネ コを恐れる気持ちを永久に失わさせて、同様の結果を得る。  掃除機の故障に立腹して仕返しをした男性と、コンビニエンスストアで泥棒と格闘した女 性のどちらにとっても、感情とはわれわれ自身の種がしばし個人を支配することによって生 じるものである。「道徳性とは、個人における畜群本能なのである」(『愉しい学問』森一郎訳、 講談社学術文庫より引用)とニーチェは書いている。少し言い換えるなら、感情とはヒトとい う種におけるメカニズムデザインだと言ってもよいかもしれない。感情は意思とは無関係に 生じるというまさにその理由により、感情は外部からの強制を必要としない契約を可能にす る。誰かが復讐しようとする場合、その者にとって有利な結果となることはなかなかないが、 自分が他人に利用されたことに対して「不合理」な激しさで反応する者は、まさに同じ理由 で正当な扱いを受ける可能性か高くなる。コーネル大学の経済学者ロバートーフランクの言 葉を借りれば、「自分の物を盗まれれば非合理的に反応する人間だと思われていれば、実際 に非合理に対応する必要はなくなる。非合理的な人からは盗むのが馬鹿らしいからである。 この場合には、物質的な自己利益のみに導かれて行動するよりも、非合理的な性格を持って いるほうが、かえって良い結果を生むことになる」 (『オデ。ゼウスの鎖』山岸俊男監訳、大坪庸 介他訳、サイエンス社より引用)。  (文明化された現代人には復讐の代わりに適法契約や法の支配があると思う読者もいるかも しれないが。訴訟や起訴をした場合、物質的な意味で被害者か取り戻すことを期待しうるも のよりも労力や苦痛のほうがしばしば大きいということを思い出してほしい。成熟した社会 において、訴訟は報復の代わりではなく、自滅の手段となってしまうのだ)  怒りだけでなく、同情や罪悪感、それに愛情についても同じことか言える。  おかしな話だと思われるかもしれないが、囚人のジレンマは結婚についてもいろいろなこ とを教えてくれる。第1章で秘書問題などの最適停止問題を扱ったとき、デートとアパート 探しというのは、将来に手にするかもしれないがまだ視野にない選択肢に自分の未来を託さ なくてはならない事例だと見なした。しかし恋愛と住まいのどちらにおいても、最適停止の 決定を下したあともさらに新たな選択肢が出現し続ける。それなら逃げ出してしまってはど うか。もちろん、相手(配偶者であれ大家であれ)も逃げ出す準備ができているとわかれば、 そうした合意を価値のあるものとする長期的な投資(ともに子をもうけるとか、せっせと荷 物を運び込むこと)の多くが回避されるだろう。  どちらの場合も、このコミ″トメント問題と呼ばれる事態は、少なくとも部分的には契約 で対処できる。しかしゲーム理論によれば、デートについては法律による意図的な絆は愛情 そのものによる無意識的な絆ほど夫婦関係の持続に関係しないということが示唆される。口 バートーフランクはこう述べている。「後になって都合か悪くなって関係を解消されてしま うのではないかという不安は、そもそも人々を結びつけているのが合理的判断でないなら、 たいていは消えてしまう」(『オデッセウスの鎖』より引用)。彼は次のように語る。   そう、人は自分が重視する客観的な性質を求めます。誰もが、親切で頭がよくておもし   ろくて健康で、できれば外見も魅力的で収入が高ければなおよいなどと、相手に望む性   質をたくさん心に抱いています。でも、それらか大事なのは最初のうちだけです。……   十分な時間をともに過ごせば、一緒にいたいという気持ちにさせてくれるのは、こうし   た条件ではありません。大事なのはその人がその人であるという事実です。これこそ大   事なことで、じつのところ契約など要らないのです。客観的にはもっと条件のいい選択   肢があるにしても、ずっと離れずに一緒にいたいと思わせてくれる気持ちが必要なので   す。  別の言い方をすれば、愛情とは組織犯罪みたいなもの、ということだ。愛情は結婚という ゲームの仕組みに手を加えて、双方にとって最良の結果となるように均衡を変える。  劇作家のジョージーバーナードーショーは、結婚について「囚人が幸福なら、なぜ牢に閉 じこめる? 幸福でないのなら、なぜ幸福であるようなふりをする?」 (『人と超人』喜志哲雄 訳〔『バーナードーシ。一名作集』白水社所収〕より引用)と書いている。ゲーム理論はこの問いに 対して意味深な答えを出す。幸福こそが二人をつないで離さない牢なのだ。  恋愛についてゲーム理論的に論じると、明らかになる点がもう一つある。結婚とは、共犯 者の選択が許された囚人のジレンマだということである。これはささいな違いと思われるか もしれないか。じつは参加しているゲームの仕組みに大きく影響する可能性がある。なんら かの理由で、共犯者は自分がそばにいてやらないとつらくてたまらないI一〇〇万ドルも らってもその気持ちは癒せないIということがわかっていれば、共犯者に裏切られて監獄 でぼろぼろになる心配はぐっと少なくなる。  こんなわけで、愛情に関する合理的な議論には二つの要素がある。愛慕の念があれば、パ ートナーの意図を再帰的に深読みする必要がない。それに加えて、利得か変わることによっ て、じつは全体としてよりよい結果も可能になる。さらに、あれこれ考えないで本能的に恋 に落ちた相手なら、より魅力的なパートナーとなる。つらい処遇に耐えることができ、愛す る相手と運命をともにする覚悟があるということは、信頼できる共犯者になれる性質にほか ならない。   情報カスケードーバブルの悲劇的な合理性   自分か多数派側に入っているのに気づいたら。立ち止まって思案すべきだ。                              −マークートウェイン  他者の行動に注意を払うことが有益だと言える一つの理由は、そうすれば世界について他 者がもつ情報を自分の情報に加えることができる点にある。人気のあるレストランはおそら くよい店だろう。コンサートホールに客が半分しか入っていなければ、おそらくそれはよく ない兆候だ。話している相手が不意にこちらからは見えない何かに視線を移したなら、自分 もそちらに振り向くのはたぶん悪くないだろう。  一方、他者から学ぶことが常に著しく合理的だとは思えない。流行やフア″ションは、 世界に関する客観的な根本的真理とは無関係に、ただ他者の行動を模倣した結果にすぎない。 さらに問題なのは、他者の行動が有用な指針になるという思い込みによって、大勢に従って 経済の破綻を引き起こす結果に至る場合もあるということだ。ほかの誰もが不動産に投資し ているのなら、自分も住宅を購入したほうがよさそうな気がする。なにしろ価格か上昇を続 けているのだ。どこか間違っているだろうか。  二〇〇七年から○九年にかけて起きたサブプライム住宅ローン危機の興味深い点は、巻き 込まれた人が一様に、当たり前のことをしただけなのに不当な被害を受けたと感じていたら しいことだ。住宅は絶対に安全な投資だと信じて育ち、住宅価格が急騰しているにもかかわ らず(あるいは急騰しているがゆえに)周囲の人たちがこぞって住宅を購入するのを見たア メリカ人は、その住宅価格がついに急落し始めるとひどい打撃を受けた。一方、銀行は今ま でと同じ仕事をしただけなのに不当に批判されていると感じた。客に機会を提供し、それに 乗るかどうかはちゃんと客に決めさせていた。突如として市場が崩壊したあと、常に誰もか 誰かを批判せずにいられなかった。ここでゲーム理論が思いがけない見方をもたらす。今回 の危機のような破局は、誰も悪いことをしていなくても起こりうるということだ。  金融バブルの仕組みをきちんと理解するには、まずはオークションについて理解すること から始めよう。オークションは経済の中では二″チな一角にすぎないと思われるIサザビ ーズやクリスティーズで競りにかけられるI〇〇万ドルの油絵とか、eベイに出品されるビ ーニーベイビーズなどのお宝が頭に浮かぶIかもしれないが、じつは経済においてかなり 大きな部分を動かしているのだ。たとえばグーグルは収益の九〇パーセント以上を広告の売 り上げから得ていて、その広告はすべてオークションで売買されている。一方、政府は電信 用電波の帯域使用権(携帯電話の伝送周波数帯域など)の売却をオークションで行ない、数 百億ドル規模の収益を得る。実際、住宅や書籍やチューリ。プなど、多様な商品の世界市場 の多くでさまざまな方式のオークションが行なわれている。  オークションの方式でごく単純なものとして、「封印第一価格オークション」がある。こ れは各参加者が入札額を秘密にしておき、その金額がいくらであっても最高額で入札した人 が勝つという方式だ。しかしアルゴリズム的ゲーム理論の観点から見ると、この方式には大 きな問題がある。正確に言えば複数の問題だ。第一に、勝者の入札額がいつも高すぎるので はないかと感じられる。ある物件について競争相手は二五ドルの価値があると思い、自分は 一〇ドルの価値があると思い、二人とも思ったとおりの評価額(二五ドルとI〇ドル)で入 札した場合。競争相手はじつはI〇ドルよりほんの少し高いだけの金額で入手できたはずの ものを二五ドルで買うことになる。この問題から第二の問題が生じる。過剰に支払うことな く適切な入札を行なうためには、ほかの参加者の真の評価を予想し、それに合わせて自分の 入札額を「控えめ」にする必要がある。これだけでも十分に厄介な話だが、ほかの参加者も 思ったとおりの評価額で入札せず。こちらの金額を予想して自分の入札額をやはり控えめに する。また再帰の国に足を踏み入れてしまった。  別の基本的なオークションの方式として「ダッチオークション」または「競り下げ式オー クション」と呼ばれる方法がある。この方式では、価格を徐々に下げていき。買い手がつい たらそこで終了となる。「ダッチ」 (オランダの)という名称は、オランダで毎日開かれる世 界最大の花のオークションであるアールスメール花市場に由来する。しかし、ダッチオーク ションは意外に広く用いられている。店で売れ残った商品を値下げしたり、市場で受け入れ られると思われる上限の家賃を家主がアパートにつけたりするのも、ダ″チオークションの 基本的な性質を備えたやり方だ。売り手はまず強気の姿勢をとり、それから買い手が見つか るまで価格を少しずつ下げていく。買い手は自分の考えている範囲の上限付近の金額を払え ば(評価額が二五ドルなら、二五ドル近くまで下がってきたところで入札の態勢に入る)勝 てる可能性か高くなるので、複雑な戦略にもとづいて入札額を控えめにしたくなる。この点 で、ダッチオークションは第一価格オークションと似ている。二五ドルで買うか、それとも 我慢してもっと下がるのを待つか。一ドル節約するごとに、すべてを手に入れ損ねるリスク が高まっていく。  ダッチ式または競り下げ式の逆にあたるのが「イングリッシュオークション」または「競 り上げ式オークション」と呼ばれるやり方で、オークションの形式としてはこれか最もよく 知られている。イングリ″シュオークショソでは、入札者が降りて最後の一人となるまで、 次々に入札価格を上げていく。これはわれわれが求めるのに近いものを与えてくれそうだ。 この方式では、相手か物件を二五ドルと評価し、こちらがI〇ドルと評価した場合、相手は 二五ドルまで値を上げずにすみ、戦略によってウサギの穴に落ちていくこともなく、一〇ド ルを少しだけ上回る価格で落札できる。  しかしダッチ式もイングリッシュ式も、封印入札と比べれば複雑さがIレベル上回る。各 入札者が私的情報をもっているだけでなく、入札行動の流れを見て取ることもできる(ダ″ チ式では、入札がなければそれはほかの入札者の評価額が現在の価格水準とは異なるという 意味なので、入札の有無が情報を伝えることになる)。状況によっては、このように私的情 報と周知の情報の混在が有害となることもある。  オークションの物件について、入礼者たちは自らのつけた評価額が適正かどうか自信がな いと想定しよう。オークションにかけられているのは、ある海域で石油を掘削する権利とす る。ゲーム理論研究者のケンービンモアは「その区域に埋蔵されている石油の量は誰にとっ ても等しい。しかし、石油の埋蔵量に対する買い手の推定値は、彼らが行う地質調査の結果 によって違ってくる。このような地質調査は高額なだけでなく、恐ろしくあてにならないも のである」(『ゲーム理論』海野道郎・金澤悠介訳、岩波潛店より引用)と指摘している。このよう な場合、競争相手の入札をよく観察して、自分のもつ乏しい私的情報を周知の情報で補強す るのは当然と思われる。  しかしこの周知の情報が期待には程遠く、まるで役に立たないということもあるかもしれ ない。ほかの入札者の考えを真に知ることはできず、わかるのは彼らの行動だけだ。しかも こちらの行動が相手の行動に影響されているのと同じく、相手の行動もこちらの行動を踏ま えているという可能性も十分にある。「ほかのみんな」か何の問題もなさそうにふるまって いるからと、一団となって崖の向こうへ落ちていくという状況は容易に想像できる。各自か じつは不安を覚えつつも、集団内の誰もが自信をもっているように見えるので自分も不安を 表には出さないようにする。というときにはこうなりやすい。  共有地の悲劇の場合と同様、この失敗は必ずしも参加者のせいとは限らない。スシルービ クチャンダユ。デイヴィッドーヒルシごフイファー、イヴォーウェルチという三人の経済学 者は、一定の状況のもとでは、完璧に合理的で完璧に適切な行動をとっている人の集団が、 それにもかかわらずほぼ無限の誤情報の餌食になってしまう場合があるということを証明す る論文を発表し、大きな反響を呼んだ。今ではこの現象は「情報カスケード」と呼ばれてい る。  石油掘削権のシナリオを続けて、ある海域の掘削権の入札にI〇社が参加する可能性があ るとしよう。一社の地質調査では、その海域には石油が大量に埋蔵されているという結果が 出ている。別の一社の調査でははっきりした結論が得られず、残る八社の調査ではこの地域 の石油埋蔵量は貧弱だと判断された。しかし当然ながら各社は互いにライバルなので、調査 結果を共有することはなく、ただ互いの行動を観察するしかない。入札が始まると、有望な 調査結果をもつ会社か最初に高額の入札額を提示する。二番めの会社は、一社めが高値を提 示したことで自社のあいまいな調査結果を楽観的にとらえる機運となり、さらに高い金額で 入札する。三番めの会社の調査結果は消極的だったが、よその二社が別個に行なった調査で はそこが金脈だという結果が出たらしいと考えて、自社の調査を信頼するのをやめて、新た に高値を提示する。四番めの会社も調査結果はぱっとしなかったか、先の三社が一様に高い 評価をしているようなので、自社の調査結果を無視したいという意向をさらに強く抱く。そ こで四社めも入札する。こうして「コンセンサス」が現実から乖離していき、情報カスケー ドが生じる。  不合理な行動をとった会社は一つもない。それなのに、最終的には悲惨な結果に至った。 ヒルシごフイファーはこう語っている。「誰かが自分自身の情報シグナルを無視して、ただ やみくもに先行者についていこうと決めると、非常に重大な影響が生じます。この人の行動 が、それよりあとで意思決定する誰にとっても情報として役立だなくなるのです。周知の情 報の蓄積はもはや増えることがなく、周知の情報をもつことによる恩恵は……なくなってし まいます」。  現実世界で情報カスケードが支配的になり、入札者が物件の価値を評価するのに他者の行 動以外にほとんど手がかりがないという場合にはどんなことが起きるのか。それか知りたけ れば、ピーター・A・ローレンスによる発達生物学の教科書『『エの発生』を見るとよい。 この本は二〇一一年四月の時点で、アマゾンのサードパーティー・マーケ″トプレイスで二 三六九万八六五五ドル九三セント(プラス送料三ドル九九セント)の値段がついていた。い ったいなぜ、どんな経緯で、この(評価が高いことは間違いない)本に二三〇〇万ドル以上 もの売り値がついたのだろうか。じつは、二人の売り手がそれぞれ相手の売り値に対して一 定の比率となるように、アルゴリズムを使って値段を設定していたのだ。一方は常に競争相 手のつけた値段の〇・九九八三〇倍となるようにして、他方は自動的に相手の値段のI・二 七〇五九倍となるようにした。どちらもこれで決まる金額に限界を設けようとは考えなかっ たらしい。その結果、プロセスが完全に暴走してしまったのだった。  二〇一〇年五月六日に株式市場で発生して謎と議論を巻き起こした「瞬間暴落」でも、 同様のメカニズムが作用していた可能性がある。ほんの数分のうちに、一見ランダムな企業 数社のS&P500株価が一株一〇万ドル以上に急騰し、別の数社の株価が急落した。一株 ○・○一ドルまで値を下げたものもあった。一兆ドル近くか一瞬にして消えた。生放送でこ れを報じたCNBCのジムークレイマーは、唖然としたようすでこう語った。「こんなこと は…・:ありえません。この株価は本物ではありません。ですから、そうですね、プロクター を買いましょうI プロクター・アンドーギャンブルは大丈夫です。四半期の報告はまずま ずでしたから。これにしましょう。……つまりですね、これはとんでもなIいえ、これは よいチャンスです」。クレイマーは自分のもつ私的情報が周知の情報に反しているというこ とを信じようとしない。彼は市場が(このケースでは)四〇ドル以下と評価しているらしい 株を四九ドルで買うのにやぶさかでない、世界で唯一の人物と思われる。それでも彼は気に しない。四半期報告書を見たので、自分のもつ情報に自信があるのだ。  投資家は大きく二つに分かれると言われる。企業の基礎的な価値と思われるデータにもと づいて取引する「ファンダメンタル」投資家と、市場の変動にもとづいて取引する「テクニ カル」投資家の二陣営である。アルゴリズムを用いた高速取引の登場によって、両陣営のバ ランスが崩れた。そして現実世界の商品価値を無視して教科書に何千万ドルもの値段をつけ たり優良株にIセントの値をつけたりするのも平気なコンピューターか、市場の不合理性を 悪化させているという不満がしばしば聞かれるようになった。しかし、この手の批判はコン ピューターに向けられるのかふつうだが、人間も同様の行動をとることがある。何度も起き ている投資バブルがその証拠だ。繰り返しになるが、しばしば問題はプレイヤーではなくゲ ームそのものにある。  情報カスケードは、バブルだけでなく、もっと広範に流行や群衆行動についても合理的な 見方を与えてくれる。不合理性、悪意、不正がなくても市場が容易に急騰と急落を起こす仕 組みがこれで説明できる。ここから教訓がいくつか得られる。まず、周知の情報が私的情報 を超えていると思われる場合には用心すること。つまり、人の行動の理由よりも行動そのも のについての情報か多く、自分の判断を事実に合致させるのをおいてもコンセンサスに合致 させたくなる場合には注意か必要だ。もっぱら他人が道すじを定めてくれるのをあてにして いる場合。向こうも同じようにこちらをあてにしているかもしれない。二つめの教訓として、 行動と考えは違うということを忘れてはならない。情報カスケードか発生する状況の一つは、 他者の行動から他者の考えを間違って解釈した場合である。特に、自分自身の疑念を抑えつ けることには慎重でなくてはならない。疑念を抑えつけるなら、事が進んでいるさなかであ っても、なんとかしてその疑念をほかの大に伝えることはしたほうがいい。そうしないと、 本心では気が進まないのに、積極的に行動していると誤解されかねない。最後の教訓は、囚 人のジレンマから学んだとおり、どうしようもなくひどいルールをもつゲームもあるという ことを覚えておけというものだ。ゲームに参加してしまってからでは手遅れかもしれないが、 情報カスケードの理論はそんなゲームをあらかじめ避ける助けとなるかもしれない。  他人にどう思われようとも正しいと思うことを常に実行するタイプの大には、残念な話を しなくてはならない。そういうタイプの大は、集団に従う大よりも間違いを犯すことがおそ らく多いのだ。しかし、うれしい話もある。自分の信念を守っていれば対外的にポジティブ な効果が生じ、その人の行動からほかの大が正しい推測をしてくれるのだ。このような大が 集団全体を惨事から守る日がいつか訪れるかもしれない。   汝自身のために計算せよ(訳注「「ムレy卜」中の名ゼリフのもじり)  コンピューター科学をゲーム理論に応用することによって、戦略の考案を強いられること はわれわれが他者と競う際に払う代償の一部−しばしば大きな一部1であることが明ら かになった。再帰がかかわってくる場合の厄介さからわかるとおり、この代償か最も大きく なるのは相手の心を読まなくてはならないときである。ここで、アルゴリズム的ゲーム理論 はメカニズムデザインについて考え直す一つの方法を与えてくれる。ゲームの結果だけでな く、プレイヤーに課される計算作業も考慮に入れるのだ。  たとえば一見無害なオークショソの仕組みが、過度の深読み、払いすぎ、カスケードの暴 走など、さまざまな問題にぶつかる可能性があるということを見てきた。しかしそのような 状況も、まったく手の施しようがないというわけではない。実際、バターの塊に熱いナイ フを走らせるように、再帰に伴う精神的負担を振り払ってくれるオークションの方式が一つ ある。ヴィックリー・オークションと呼ばれるものだ。  ノーベル賞を受賞した経済学者のウィリアムーヴィ″グリーの名を冠したヴィ″グリー・ オークションは、第一価格オークションと同じく「封印入札」方式で行なわれる。参加者は 非公開で値段を一つ書くだけで、最も高い値をつけた入札者が落札できる。しかしヴィック リー・オークションでは、落札者は自分の書いた入札額を払うのではなく、二番めに高い値 をつけた入札者の金額を払う。つまり、相手か二五ドル、自分がI〇ドルで入札していたら、 落札するのは相手だが。価格はこちらの書いた金額となり、一〇ドルだけ払えばよいのだ。  ゲーム理論研究者から見ると、ヴィックリー・オークションには多数の魅力的な性質が備 わっている。特にアルゴリズム的ゲーム理論を研究する者にとっては、とりわけ際立った特 徴が一つある。参加者は正直であることが奨励されるという点だ。実際、自分の考える「真 の価値」、つまり評価額ちょうどで入札するのか最良の戦略となる。自分の思う真の価値よ り高い金額で入札したら、自分の思う価値よりも高い値段で買うことになるかもしれないの で、明らかに不合理である。自分の思う真の価値より低い金額で入札する(つまり控えめに 入札する)と、無駄に負けるおそれかある。落札できた場合には自分がどれほど高い値をつ けていようとも二番め忸咼い金額を払うだけでよいのだから、低い値をつけたところで出費 の節約にはならないのだ。この性質ゆえに、ヴィ。グリー・オークションはメカニズムデザ イナーだちから「耐戦略性」戦略とか単に「正直」戦略と言われている。ヴィ″グリー・オ ークションでは、まさに「正直は最良の策」なのだ。  さらにすばらしいことに、ほかの入札者が正直かどうかにかかわらず、正直は常に最良の 策となる。囚人のジレンマでは、裏切りが「支配」戦略となることを確かめた。共犯者が裏 切りと協力のどちらを選ぶかにかかわらず、こちらとしては裏切るのが最善の策なのだ。と ころがヴィ″グリー・オークションでは、「正直」が支配戦略となる。これはメカニズムデ ザイナーにとってまさに聖杯である。策を弄したり相手の考えを深読みしたりする必要がな いのだ。  ヴィックリー・オークションでは第一価格オークションと比べて売り手の払う金額がいく らか多くなると思われるかもしれないか、必ずしもそうとは限らない。第一価格オークショ ンでは、どの入札者も払い過ぎを避けるために入札額を控えめにしている。一方、第二価格 が採用されるヴィ″グリー・オークションではその必要がない。オークション自体か入札者 に代わって金額を最適に調節すると言ってもよい。実際、「収入同値定理」と呼ばれるゲー ム理論の定理によって、第一価格オークションでは時間の経過とともに落札価格の期待値が ヴィックリー・オークションを行なった場合とまったく同じ値に近づいていくことか証明さ れている。つまりヴィ″グリー・オークションの均衡においては、どの入札者も戦略を画策 したりせず、第一価格オークションのときと同じ入札者が同じ価格で落札することになる。 ティムーラフガーデンがスタンフォード大学で指導している学生に言った言葉を借りれば、 ヴィックリー・オークションは「すごい」のだ。  ヘブライ大学のアルゴリズム的ゲーム理論研究者のノアムーニサンは、このすごさにユー トピア的なものを感じている。「嘘をついても何の得にもならないという社会の掟があれば、 人はあまり嘘をつかなくなるでしょう? それが基本的な考え方です。これは私見ですが、 一般には人が嘘をつかなくなることなどありえないと思えるがゆえに、ヴィ″クリーはすば らしい、そう思いませんか? 特にオークションのような場では、もちろん払う金額は少な いほうかありかたいわけですが、いったいどうするのがよいのでしょう。ここでヴィックリ ーがその答えを教えてくれるのです。本当にすばらしいと思います」。  じつは、正直が最善という教えはオークションにとどまらない。「顕示原理」と呼ばれる 画期的な発見において、ノーベル賞受賞者のロジャー・マイヤーソンは、戦略的に真実を隠 すことが必要とされるどんなゲームも、単純な正直さ以外に何も必要としないゲームに変換 できることを証明した。そのころマイヤーソソの同僚だったポール● 冫丶 ルグロムはこう語っ ている。「さまざまな面から見てみると、ある面ではとにかくショッキングで驚くべきもの か、別の面では取るに足りないものだということを示す結果の一つです。じつにすばらしい。 とにかくすごい。自分の見ているものは自分に見ることのできる最良のものの一つだという ことが確信できるのです」。  一見しただけだと、顕沛原理は納得しがたいと思われるかもしれない。しかしその証明は、 じつはとてもすっきりと腑に落ちる。代理人か弁護士が自分の代わりにゲームをしてくれる としよう。こちらの利益を代表してくれると信頼しているなら、自分の希望を正確に伝えて、 あとは戦略的な入札額調節や再帰的な戦略策定を任せてしまえばよい。ヴィックリー・オー クションでは、ゲーム自体かこの役割を果たす。顕示原理はこの考えをただ拡張しただけだ。 この原理によれば、代理人にしてほしい行動がゲームのルール自体に組み込まれているなら、 真実を伝えた代理人が本人の代わりに参加できるゲームはすべて「正直は最良の策」タイプ のゲームとなるはずだ。ニサンの言葉を借りれば。「要するに、こちらの意に反した最適化 をクライアントにしてほしくなければ、こちらがクライアントのために最適化をすべきだと いうことです。証明はそれに尽きます。……もともと最適化してくれるアルゴリズムが設計 されているなら、手の出しようがありません」。  この二〇年間、アルゴリズム的ゲーム理論は幅広い実際的な用途に多大な貢献をしてきた。 インターネット上のパケットの経路選択について理解するのを助け、(目に見えないにして も)貴重な公共財を配分する連邦通信委員会電波帯域オークションのやり方を改善し、医学 生と病院とを結びつけるマ″チンクアルゴリズムを拡充するなど、幅広く役立っている。と はいえ、おそちくこれらははるかに大きな変革の端緒にすぎない。「まだ上っ面をなでてい るだけです」とニサンは言う。「理論のレベルに限っても、アルゴリズム的ゲーム理論につ いては理解が始まったばかりです。今の時点で理論的には完全に理解できていることが人間 にうまく応用できるようになるまでには、たぶんあと一世代ほどかかるでしょう。一世代で す。それよりかかることはないと思いますが、一世代はかかるのです」。  フランスの実存主義哲学者シャンHポールーサルトルは「地獄とは他人のことだ」(『出口 なし』伊吹武彦訳〔『筑摩世界文学大系89サルトル』筑摩轡房所収〕より引用)という有名な言葉を残し ている。他人か本質的に悪意に満ちているとか不愉快だとかいう意味ではなく、他人はこち らの思考や信念をややこしくするという意味である。   自分のことを考えるとき。自分のことを知ろうとするとき……われわれは他人がすでに   抱いている自分に関する知識を使います。他人がもっていて、われわれが自分について   判断できるようにと与えてくれた手段を使って、自分を判断します。私が自分について   語れば、そこには必ずほかの誰かの判断が入ってきます。心のうちで何かを感じれば、   そこには必ずほかの誰かの判断が入ってきます。……だからといって、人が他人と関係   をもてないというわけではまったくありません。われわれ一人ひとりにとってあらゆる   他人のもつきわめて大きな重要性を明らかにしてくれるだけです。  本章で見てきたことから考えて、われわれはサルトルの言葉を書き直してみてもよいかも しれない。他者との交わりが悪夢である必要はない。もっとも、不適切なゲームをしていれ ば確かに悪夢になるかもしれないが。ケインズか看破したとおり、人気とは複雑で扱いにく く、反射を繰り返す鏡の部屋のようなものだ。しかし、見る者の目に宿る美は、そんなもの とは違う。他者の方策に応じて期待や予想や深読みや方針変更をする必要のない戦略を用い ることは、再帰という難題を解く一つの方法である。その戦略は単に容易であるだけでなく、 それこそが最適戦略という場合もある。  戦略を変更してもだめなときには、ゲームのやり方を変えてみればよい。それが無理でも、 少なくともプレイするゲームの選択をいくらかコントロールすることはできる。昔ながらの 警句をもじって言えば、地獄への道は、手に負えない再帰。悪い均衡、情報カスケードで舗 装されている(訳注 「地獄への道は、思うだけでなされなかった善行で舗装されている」という警句が ある)。正直が支配戦略となるゲームを探そう。そして、自分に正直であれ。     結 論     計算の負担を軽くする   人間に関する重要な事柄には社会的な性質があり、機械によって現在の厳しい知的作業   から解放されれば、人類はうまく共生する方法を学ぶ時間と動機をようやく手に入れら   れる。私は心からそう信じている。                               −メリルーフラッド  空間と時間の制約を受けるあらゆるダイナミ″クなシステムは、根本的で不可避ないくつ もの問題に直面する。これらの問題は計算を必要とするもので、それゆえコンピューターが ツールとなるだけでなく味方となってくれる。このことから、三つのシンプルな教えが得ら れる。  第一に、コンピューター科学者や数学者か見出したすぐれたアルゴリズム的アプローチを 人間の問題にそのまま応用できるケースがある。「三七パーセントルール」、あふれたキャ ツシュに対処するための「最長未使用時開法」、探索のガイドとしての「信頼上限アルゴリ ズム」は、すべてこの例だ。  第二に。自分の使っているのが最適アルゴリズムだとわかっていれば、求めていた結果が 得られなくても慰めとなるはずだ。三七ハーセソトルールを使えば、六三パーセントの割合 で失敗する。キヤ″シュを最長未使用時開法で管理しても、探しているものが必ず見つかる とは限らない。実際、どちらのアルゴリズムも「千里眼」ではない。探索と活用のトレード オフに対して信頼上限アルゴリズムを使ったからといって、後悔が避けられるわけではない。 暮らしを送っていくなかで、そうした後悔の蓄積するペースがどんどん下がっていくだけだ。 最良の戦略でも、悪い結果をもたらすことがある。だからこそ、コンピューター科学者は  「プロセス」と「結果」の区別に注意を払うのだ。可能な限り最良のプロセスに従ったなら、 最善を尽くしたわけだから、思いどおりの結果が得られなくても自分を責めるべきでない。  結果が出れば目立つIそして、われわれの暮らす世界はそれによって変わるIので、 われわれはそれに目を奪われやすい。しかし、われわれにはプロセスを制御する力がある。 パートランドーラッセルは「客観的な正しさを判断する際には、蓋然性を考慮すべきと思わ れる。……客観的に正しい行ないは、おそらく最も幸運をもたらすものとなるだろう。私は これを最も賢明な行ないと定義したい」と述べている。われわれは幸運を期待してもよい。 しかし、賢明であるように努めるべきだ。これは一種の計算ストイシズムと言えよう。  そして三つめは、単純な解を許す問題と許さない問題とのあいだに明確な線を引くことが できるという教えだ。手に負えないシナリオで行き詰まってしまったら、実行可能な解を見 つけるのにヒューリスティック、近似、ランダム性の戦略的利用が助けとなることを思い出 そう。本書の著者らかコンピューター科学者たちから話を聞くなかで、何度も遭遇したテー マが一つある。「十分によい」は本当に十分によい場合もあるということだ。さらに、複雑 性を認識していれば、問題を選ぶ助けになる。自分の遭遇する状況を選べるなら、手に負え る状況を選ぶべきだ。  さらに、われわれは自分が取り組む問題だけを選ぶのではない。都市の設計にせよ、人に 質問をする方法にせよ、他者に任せる問題も選ぶ。このことから、コンピューター科学から 他者への配慮につながる思いがけない橋か生まれるI「計算の負担軽減」と呼ばれる原理 として。           ◆  本書のために取材の計画を立てたとき、著者二人はあるパラド″クスを目の当たりにした。 インタビューを申し込む場合、「来週の都合のよいとき」と言うより「来週の火曜日のPS T(太平洋標準時)で午後一時から二時」と提案するほうが、承諾してもらえる確率が概して 高かった。初めのうちは妙な話だと感じた。人はペンギンハ〇〇〇羽の命を救うよりも一羽 の命を救うためのほうが平均するとたくさんの金を寄付するとか、テロを含むあらゆる原因 で死ぬことよりもテロで死ぬことを恐れているということを示した有名な研究のようだと思 つた。インタビューについては、まったく制約のない問題よりも制約のある問題(その制約 がどこから生じたか定かでないとしても)を受け取るほうが好まれるらしい。インタビュー の相手にとっては、自分の制約にもとづいてよりよい選択肢を計算するよケも、こちらの希 望や制約に合わせるほうがどうやら簡単だったらしい。コンピューター科学者ならこの話を 聞いて、「検証」と「検索」では計算最が違うからねと、心得顔でうなずくのではないだろ うか。その違いというのは、すばらしい曲を聴いてそのすばらしさかわかることと、即興で すばらしい曲をつくることとの違いと同じくらい大きい。  おかしな話に聞こえるかもしれないが。コンピューター科学においては、計算とは悪いも のだということが暗黙の原則となっている。すぐれたアルゴリズムの根底には必ず、思考の 労力を最小限に抑えよという命令がある。われわれは他者と交わるとき。相手に計算の必要 な問題を与える。明確な依頼や要求だけでなく、こちらの意図や信念や好みを解釈してみろ という暗黙の挑戦も与えるのだ。したがって当然なから、その種の問題を計算によって理解 すると、人問の相互交流の本質が明らかになる。われわれは、根底にある計算の問題を容易 にしてくれる言葉で問題を提示することによって、他者に対して「計算の負担軽減」を与え ることができる。これが大事なのは、多くの問題はIすでに見たとおり、人間関係にかか おる問題は特に卜本質的にどうしようもなく困難だからだ。  ごくありふれたシナリオで考えてみよう。友人どうしのグループか集まって、どこで夕食 を食べるか決めようとしている。全員がなんらかの希望(強いものではないかもしれない が)をもっているのは明らかだ。しかし、誰も自分の希望をはっきりと口にしたがらない。 そこで推測やあいまいなヒントによって、この人間関係の危険を円満に乗りきる。  全員が満足できる決定に至ることもあるかもしれない。しかしじつは、このやり方は不首 尾に終わりやすい。大学を卒業した夏に、本書の著者のブライアンは友人二人とスペイン旅 行に出かけた。旅程については現地で移動しながら相談した。途中で、あらかじめ調べて予 定に入れていた闘牛を見に行く時間がないことかわかった。「残念だったな」 「次がある さ」といったやりとりをしかけた段になって、じつは三人とも闘牛はもともと見たいと思っ ていなかったことかにわかに判明した。それぞれが仲間と同じと思われる程度の熱意をけな げにも装い、それによって仲間がけなげに装ったのと同程度の熱意を演じていただけだった。  同様に、「うん、都合はつけられるよ」とか「今夜は何をしたい?」といった一見無害な 言葉にも。熟考を要求する計算がひそんでいる。うわべは相手を思いやっているかのように 聞こえるが、じつは十分に警戒すべき点が二つある。第一に、認知の責任転嫁が行なわれて いる。「問題がある。君が片づけてくれ」ということだ。もう一つ、希望を表明しないこと によって、その希望をシミュレートしたり想像したりする負担をほかの人に押しつけること になる。前に見たとおり、他者の心のシミュレーションは、心(または機械)が直面する計 算問題のなかで最大級の難題の一つだ。  そのような状況では、計算の負担軽減と一般的なエチケ″卜は一致しない。礼儀として希 望を言わずにいると、仲間は希望を推測するために計算の必要な問題を解かされることにな る。反対に、礼儀正しく希望を主張すれば(「個人的には○○がいいと思う。君は?」)、グ ループを決定に向けて押し進めることに伴う認知的負荷を処理する助けとなる。  あるいは、他者に与える選択肢を増やすのではなく減らしてもよい。たとえばレストラン をI〇軒から選ぶのではなく、二。三軒から選んでもらうようにする。グループの各メンバ ーに最も気の進まない選択肢を外してもらえば、作業は誰にとってももっと容易になる。誰 かをランチに誘う場合、または会議のスケジュールを決める場合、受け入れるか断るかを選 ぶだけの具体的な案を一つか二つ提示するのは、よい出発点となる。  これらの行動は必ずしも「礼儀にかなう」わけではないが、いずれも人間関係における計 算に伴うコストを大幅に引き下げることができる。           ◆  計算の負担軽減は、行動の原理となるだけではない。デザインの原理にもなる。  二〇〇三年、ウォータールー大学のコンピューター科学者ジェフリー・シャリ″卜は。ア メリカ国内で新たな硬貨を一種類流通させるとしたら、おつりを渡すときに必要な硬貨の平 均枚数を最小化するのに最も有効なのは額面いくらの硬貨かという問題について研究した。 愉快なことに、答えは一ハセント硬貨だった。ただしシャリ″卜は計算が煩雑になることを 考えて、この硬貨について政策提言をするのは控えた。  現状のおつりの支払い方法はごく単純だ。まずはおつりの金額を超えない範囲で最大枚数 の二五セント硬貨を出し、それから最大枚数のI〇セント硬貨を出し、それからさらに額面 の小さな硬貨へと進んでいく。たとえば五四セy卜のおつりを渡す場合には、まず二五セン ト硬貨二枚、それからIセント硬貨四枚となる。仮に一ハセント硬貨か導入されたら、この 単純なアルゴリズムか最適でなくなってしまう。五四セントのおつりを出すのに最良のパタ ーンは一ハセント硬貨三枚で、二五セント硬貨の出番はない。実際、シャリットはこのよう なややこしい額面設定はおつりの支払いを「少なくとも巡回セールスマン問題と同じくらい 難しく」してしまうと述べている。これはレジ係にとって大きな負担となる。計算しやすさ を考慮に入れると、アメリカの通貨制度にはニセント硬貨か三セント硬貨を導入するのか最 も有効であることをシャリ″卜は発見した。一ハセント硬貨ほどおもしろくはないが、効果 はほぼ同程度であり、計算の負担軽減という点ではこちらのほうか確実にまさっている。  さらに大事なのは、デザインのちょっとした変更によって、ユーザーに課される認知的問 題が大きく変えられるという点だ。たとえば建築設計者や都市計画者は、われわれの環境を どう設計するか決めることができる。ということは、われわれが解決しなくてはいけない計 算問題の構造も変えることができるのだ。  スタジアムやショ″ピンクセンターにあるような、何本ものレーンからなる広い駐車場に ついて考えてみよう。目的地に向かってあるレーンを進み、空いたスペースを見つけたが、 先へ行けばもっとよい駐車スペースがあると(楽観的に)考えて進み続けることにする。し かし結局そんな幸運に恵まれないまま目的地に到着してしまったので、今度は近くの別のレ −ンで目的地から遠ざかる方向へ進んでいく。ある程度走って空いたスペースが見つかった ら、そこでよいか、それとも遠すぎるのでまた別のレーンで探すか、判断しなくてはならな い。  この問題については、アルゴリズム的な視点がドライバーだけでなく建築設計者にも役立 つ。このような駐車場でぶつかる手ごわくてややこしい意思決定問題を、目的地から遠ざか る一本のレーンと対比させてみよう。レーンが一本しかない場合、最初の空きスペースに駐 車するだけだ。ゲーム理論も分析も「見てから跳べ」ルールも要らない。このように設計さ れた駐車場は実際に存在し、地上レベルから一本のらせん状の通路を上がっていくようにな っている。計算の負担はゼロであり、ただ車を進めていって空いたスペースがあればそこに 停めるだけだ。ほかにどんな長所や短所がこのタイプの設計にあろうとも、ドライバーの認 知的負荷が少ないということは断言できる。つまり計算の負担が軽いのだ。  デザインの主たる目的の一つは、人を無用な対立や摩擦や精神的負担から守ることである べきだ(これは単に抽象的な問題ではない。たとえばショッピングセンターでの駐車がスト レスとなるなら、買い物客はあまりそこで買い物をしなくなり、客足が遠のくかもしれな い)。都市計画者と建築設計者は、さまざまな駐車場の設計において限られた空間や資材や 資金といった資源がどう使われるかを日々検討している。しかし、駐車場を利用する人が計 算に費やす労力に対して、駐車場の設計がどんな負担を与えるかを考慮することはほとんど ない。日々の生活を支えるアルゴリズム(今の例では最適停止)を理解すれば、ドライバー が特定のシナリオにおいて最良の判断を下せるだけでなく、何よりも設計者がドライバーに 強いている問題についてもっと配慮できるようにもなるだろう。  計算の負担の軽いデザインが用いられているケースはほかにもたくさんある。たとえば、 レストランで客を着席させるときの方法について考えてみよう。客を待たせておいて、テー ブルか空いたら先に来た客から案内するという「先着順」方式を採用する店がある。その一 方で、客の名前を聞いて、バーで飲み物を飲みながら待ってもらい、テーブルの準備ができ たら客に知らせるという店もある。希少な共有資源の管理に対するこれらのアプローチの違 いは、コンピューター科学における「スピン」と「ブロ″ク」の区別とよく似ている。ある 処理スレッドで要求されたリソースが準備できない場合、コンピューターはそのスレ″ドを  「スピン」 (「もう準備はできたか?」という問いを絶えず繰り返しながらリソースをチェ ックし続ける)させるか、「ブロック」 (そのスレ″ドを中断して別の作業をし、リソース が空いたらもとのスレ″ドを再開する)するかのいずれかの方法をとることができる。コン ピューター科学者にとって、これは現実的なトレードオフである。スピンに伴う時間損失と コンテキストスイッチに伴う時間損失を比較するのだ。しかしレストランでは、トレードオ フの対象となる資源かすべて店のものというわけではない。「スピン」方式のほうが空いた テーブルを早く埋めることができるが、空転するCPUは、退屈しながらいらいらと待ださ れる客の気持ちに相当する。  これと似た例として、バス停で遭遇する計算問題を考えよう。次のバスが「一〇分後に到 着します」と教えてくれるリアルタイムのディスプレイがあれば、待つかどうか一度決める だけですむ。少し時間が経つごとに、依然としてバスが来ないことを一連の根拠として推測 し、何度も判断を繰り返す必要はないのだ。そのうえ、バスが来るまでI〇分間ずっと道路 を注視している(つまりスピンしている)必要もなくなる(次のバスの到着時刻を予想する のに必要な施策を計画していない町については、ベイズ推論を用いれば最後にバスが出発し た時刻を知るだけでもそれが代替手段として役立つということを本書で確かめた)。こうし た計算の負担軽減につながるささやかな行為から、乗客は運賃の助成に劣らない恩恵を受け る。言うなれば、認知的な助成である。           ◆  ほかの人の負担を軽減できるなら、自分の負担も軽減できるはずだ。計算の負担軽減とい う点では、本書で取り上げてきたすべてのアルゴリズムやアイディアがその助けとなるだろ う。しかしそれだけでなく、もっと寛容にもなれるはずだ。  合理的な意思決定の方法として直感的に納得のいく標準的なやり方は、利用できるすべて の選択肢を入念に検討し、そのなかで最良のものを選ぶことだ。ちょっと考えると、コンピ ューターはまさにこのアプローチの典型で、完璧な答えが出るまでひたすら複雑な計算を続 けていくように思われる。しかし本書で見てきたとおり、それはコンピューターがする仕事 についての時代遅れな見方にすぎない。そんなやり方は、簡単な問題だけに許されるぜいた くなのだ。難しい問題を扱う場合には、最短の時間で最も合理的な答えを出せる方法こそ最 良のアルゴリズムであり、この場合にはすべての要素をじっくり検討したりすべての計算を 完遂したりすることは決してない。現実の生活は、そんなことでは片づけられないくらい複 雑なのだ。  本書で取り上げたほとんどの領域で、現実世界の要素をたくさん取り入れるほど、完璧な 答えを見つけるのに理不尽なくらい時間がかかる状況に陥りやすいということを確認してき たI仕事の採用面接で応募者に関する情報か不完全な場合にせよ、変動する世界に対処し ながら探索と活用のジレンマを解決しようとする場合にせよ、あるいは仕事を片づけようと しているときに一部の作業がほかの作業に依存する場合にせよ。そして実際、人はほぼ絶え 間なく、コンピューター科学で困難なケースと見なされる状況に向きあっている。このよう なときに有効なアルゴリズムがあれば、推測を行ない。より単純な解決策を優先し、エラー のコストと遅延のコストのトレードオフを行ない、賭けに出ることができる。  これらは合理的なやり方か使えないときの妥協策ではない。まさに合理的なやり方なのだ。