でアリエリnl熊谷淳子訳 f懇どおりに f合理 経済学が明かす 妬たがそれを選ぶわ隷」   はじめに   一度のけががいかにわたしを不合理へと導き。         ここで紹介する研究へといざなったか  よく言われるのだが、どうやらわたしは、人とはちがったふうに世界を見ているらしい。おか げで、これまでの二〇年ばかりの研究者人生では、日々の決断に影響をおよぼしているものがほ んとうはなんなのか(わたしたちが、ときにぜったいの自信を持ってこれが影響しているにちが いないと思っているものではない)を探るのをずいぶん楽しんだ。  ダイエットするぞと心に誓ったはずなのに、デザートを載せたカードが近づいてくると決意が どこかへいってしまうのはなぜだろう。  べつに必要なものでもなかったのに、気づいたら目の色を変えて買いあさっていたりするのは なぜだろう。  一セントのアスピリンを飲んでも治らなかったのに、五〇セントのアスピリンだと頭痛がうそ のように消えてしまうのはなぜだろう。  モーセの十戒を思いだすように言われると、そう言われなかった人たちより正直になりやすい  (少なくとも直後は)のはなぜだろう。それに、職場の倫理規定が実際に不正を減らすのはなぜ だろう。  本書を読みおえるころには、こうした疑問だけでなく、あなた個人の生活や、仕事や、世界観 にかかわるさまざまな疑問への答えが見つかっていることだろう。たとえば、先ほどのアスピリ ンの問題ひとつとってみても、その答えを知ることは、自分の薬をどう選ぶかだけでなく、わた したちの社会が直面している重大な問題のひとつ、健康保険の費用と効果の問題にもかかわりが ある。十戒が不正の抑制にどんな影響を与えるかを理解すれば、第二のエンロン事件を防ぐ助け になるかもしれない。また、衝動的にどか食いしたくなる仕組みを知ることは、人生のなかで衝 動的にくだしてしまうあらゆる決断―まさかのときのために貯蓄することがなぜこうもむずか しいのかも含めてIにもかかわってくる。  この本を通じてのわたしの目標は、自分やまわりの人たちを動かしているものがなんなのかを 根本から見つめなおす手助けをすることだ。さまざまな科学的実験や研究成果、逸話などを紹介 することが(興味を持ってもらえるものが多いはずだ)、よい道しるべになるのではないかと思 う。ある種の失敗がいかに秩序立っているかIわたしたちがいかに何度も同じ失敗を繰り返す かIがわかるようになれば、そのうちの一部は、どうすれば防げるかが見えてくるだろう。  これから、食事、買い物、恋愛、お金、物事の先延ばし、ビール、正直さなど、人生のいろい ろな面について調べた、実用的で好奇心をそそるおもしろい(ときにぞくぞくする)研究を紹介 する。だがその前に、わたしがいささか型破りなものの見方をするようになった原点であり、し たがってこの本の原点でもあるできごとについて話しておくべきだと思う。悲劇的なことに、わ たしがこの世界にはいったのは、何年も前の、愉快でもなんでもない事故がきっかけだった。  何も起こらなければ、一八歳のイスラエルの若者にとってごくふつうだったはずのある金曜日 の午後のことだ。一瞬のうちにすべてが取り返しのつかないほど大きく変わってしまった。夜間 に戦場を照らすためにかつて使われていたマグネシウム光が炸裂し、わたしは全身の七〇パーセ ントに三度のやけどを負った。  それから三年のあいだ、わたしは全身を包帯に覆われたまま病院ですごした。その後も、ごく たまに人前に出るような場合は、ぴったりした人工のスーツとマスクに身を包んで、できの悪い スパイターマンのような格好をしなければならなかった。友人や家族と同じ毎日をすごすことが できなくなり、社会から半分切りはなされたように感じた。そのため、以前は自分にとってあた りまえだった日々の行動を、第三者のように外から観察するようになった。まるでべつの文化か ら(あるいは、べつの惑星から)来たよそ者のように、自分やほかの人のさまざまな行動につい て、なぜそうするのかを考えはじめた。たとえば、なぜわたしには好きになる女の子とそうでな い女の子がいるのか。なぜわたしの毎日のスケジュールは、わたしではなく医師に都合よく組ま れているのか。なぜわたしはロッククライミングが好きで、歴史の勉強は嫌いなのか。なぜわた しはまわりの人がわたしをどう思うか、こんなに気にするのか。そして何より、人生の何か人を その気にさせ、その行動をとらせるのかと考えた。  事故のあと、病院で何年かすごすあいだに、さまざまな種類の痛みをたっぷり経験した。そし て、治療や手術のあいまに痛みについて考える時間もたっぷりあった。入院当初の毎日の苦痛は、 ほぼ「入浴」につきた。この処置では。消毒液にひたされ、包帯をはずされ、死んだ皮膚をこす り落とされる。皮膚がちゃんとあれば、消毒液は少ししみるだけだし、包帯もたいていはすんな りはずせる。しかし、重症のやけどを負ったわたしのように、皮膚があるかないかという状態だ と、消毒液は耐えがたいほどしみるし、包帯は肉にくっついて、それをはずす(というより、む しり取ることが多い)のは、ことばでは言いあらわせないほどの激痛をともなう。  やけど病棟に入院してまだまもないころから、わたしは毎日の入浴を担当している看護師に積 極的に話しかけるようにした。治療するときにどんなやり方をするのか知りたかった。看護師た ちは包帯をつかむと、きまってすばやくI気にはぎとった。短めの急激な痛みがくる。これを一 時間ばかり繰り返して、すべての包帯をはずす。はずしおえると、体じゅうに軟膏を塗り、新し い包帯をする。そして、翌日にまた同じ作業の繰り返しとなる。  すぐにわかったのだが、看護師たちは包帯を勢いよく引っぱって鋭い急激な痛みにするほうが、 ゆっくり引きはがすよりも(患者にとって)好ましいという持論を打ちたてていた。ゆっくりは がすと、痛みはそれほど激しくないが、処置の時間を長引かせることになるため、全体としてつ らく感じるだろうというわけだ。また、看護師たちは、包帯をはずす順序卜体のもっとも痛い ところからはじめてあまり痛くないところに向かうか、あまり痛くないところからはじめてもっ とも激しく痛むところに向かうかIに差はないと判断していた。  包帯をはずすときの痛みを実際に体験した者として、わたしは看護師たちの持論(科学的に調 べたものではない)に賛成できなかった。そのうえ、看護師たちの理論には、まったく配慮でき ていない点もあった。処置を控えた患者が感じる恐怖や、時間とともに急激に変化する痛みに対 処するむずかしさ、痛みがいつはじまり、いつやわらぐのか予測できないこと、痛みはだんだん 治まりますよという元気づけの効果などが考慮されていなかった。しかし、どうしようもない立 場にいたわたしは、自分が受ける処置のやり方についてどうすることもできなかった。  長期の退院ができるようになると(その後も五年のあいだは、手術や処置のためにときどき病 院へもどらなければならなかった)、わたしはすぐにテルアビブ大学で学びはじめた。その最初 の学期にとった授業が、研究というものに対するわたしの考えをすっかり変え、その後の人生を ほとんど決めてしまった。(ナンーフレンク教授による大脳生理学の授業だ。脳の働きについて の興味をそそられる講義内容に加えて、わたしがいちばん感銘を受けたのは、疑問や異説に対す るフレンク教授の姿勢だった。わたしは何度も授業中に手をあげ、教授の研究室に立ちよっては、 授業で説明された実験結果はこうも解釈できるのではないかと提案した。すると教授は、わたし の仮説もたしかにひとつの可能性だ(見込みは低いが、それでも可能性は可能性だ)と答えて、 その説と従来の説のちがいを示せるような実験を考えてごらんとけしかけた。  そのような実験を考えつくのはたしかに簡単ではなかった。だが、科学は実験の積みかさねで あり、これにたずさわる人はだれでも(たとえわたしのような新入生でも)、仮説を検証する実 験方法を見つけることができるなら新説を打ちたてられるのだという考えは、新たな世界を開い てくれた。あるとき、わたしはフレンク教授の研究室へ行って、てんかんのある症状が出る理由 を説明する仮説と、それをラットでたしかめる方法を提案した。  フレンク教授が案を気に入ってくれたので、それからの三か月間、わたしは五〇匹ほどのラッ トの脊髄に手術でカテーテルを挿入し、そこからさまざまな物質を与えててんかん発作を起こさ せたり、緩和させたりすることになった。このやり方の現実的な問題は、やけどのけがのせいで 手が思うように動かないため、ラットの手術がむずかしいことだった。さいわい、親友のロンー ワイズバーグが(熱烈な菜食主義者で動物愛好家にもかかわらず)、何度か週末にいっしょに研 究室に来て、手術を手伝ってくれた。真の友情をためすテストがあるとすれば、これはそのひと つだろう。  結局、わたしの仮説はまちがっていることがわかった。しかし、わたしの熱意が消えることは なかった。なんといっても、自分の仮説についてなにがしか知ることができたのだし、たとえ仮 説がまちがっていたにしろ、それをしっかり確認できたのはよかった。わたしはずっと、ものご との働きや人間の行動についてたくさんの疑問を抱いていた。だから、なんでも興味を持ったこ とをたしかめる手段と機会を科学が与えてくれると気づいたことで、人間の行動を研究する道に はまっていった。  この新しい手段を得たわたしは、まず、人が痛みをどのように経験するかという問題に取りく んだ。当然ながら、入浴治療のように、患者に長いあいだ痛みを与えるにちがいない状況にもっ とも関心があった。そのような痛みからくる全体的な苦痛を減らすことは可能だろうか? それ からの数年間、わたしは自分や友人や志願者を対象に、熱や冷水や圧迫や大音量などによって引 きおこされる肉体的な苦痛、さらには株式市場でお金を失うという心理的な苦痛を使って研究室 で実験をおこない、その答えを探った。  研究を終えたときには、やけど病棟の看護師が患者の痛みを最小にする正しい方法論を持って いないことがはっきりした。みんな親切でやさしかったし(まあ、ひとり例外もいたか)、消毒 液にひたしたり、包帯をはずしたりという経験は豊富だったが、それでも考えちがいをしていた。 たっぷり経験を積んでいるはずなのに、これほどまちかってしまうのはどういうわけだろう。わ たしはこの看護師たちを個人的に知っていたから、悪意や愚かさや怠慢のせいでないことはよく わかっていた。そうではなく、特有の先入観が邪魔をして、患者の痛みを正しく認識できないの だろうと思った。どうやらこの先入観は、豊富な経験をもってしても変えることができないらし い。  そんなわけで、ある朝、研究の成果をたずさえて、うきうきしながらやけど病棟にもどった。 ほかの患者の包帯をはずす処置に役立てるかもしれない。わたしは、看護師や医師に、消毒液の なかで包帯をはずすような処置をするときは、強い力で短い時間でするより、もっと弱い力で長 い時間をかけてするほうが痛みが少ないことが研究でわかったと話した。つまり、包帯を勢いよ くはぎとるのではなく、ゆっくり引きはがしていれば、わたしもあれほど苦しまずにすんだ、と いうことだ。  この結論を聞いて看謾師たちは心底驚いていたが、わたしのほうも、エテイという仲のよかっ た看護師のことばに同じくらい驚かされた。エテイは、自分たちが痛みについての理解に欠けて いたことや、やり方を変えるべきかもしれないことを認めて、さらにこうつづけた。入浴治療で 引きおこされる痛みを議論するときは、痛みに絶叫する患者を前にして看護師が経験する心理的 な苦痛も考慮する必要がある。勢いよく包帯をはぎとるのも、ほんとうは看護師自身の苦痛を軽 くするためだと考えれば(たしかに看謾師たちはよくつらそうにしていた)、もっと納得がいく のではないか、というのだ。それでも、最後には処置のやり方を変えたほうがいいということで 意見が一致し、実際に何人かの看護師はわたしの提案どおりに処置するようにもなった。  わたしの提案で包帯はがしの方法が(わたしの知るかぎり)もっと大々的に変わることはなか ったが、このできごとは特別な印象となって心に残った。経験豊富な看護師たちが、これほど患 者を気にかけているにもかかわらず、患者にとっての現実を取りちがえてしまうのだとしたら、 ほかの人も同じように自分の行動の結果を取りちがえたり、そのせいで、繰り返し判断を誤った りするのではないか。そう考えて、痛みの研究から視野を広げ、経験を積んでもそこから学ぶこ となく失敗を繰り返してしまう状況について研究しようと決めたのだ。  というわけで、わたしたちがみんなどんなふうに不合理かを追求しようというのがこの本の目 的だ。この問題を扱えるようにしてくれる学問分野は、「行動経済学」、あるいは「判断・意思 決定科学」という。  行動経済学はわりあい新しい分野で、心理学と経済学の両方の面を持っている。わたしも行動 経済学を応用して、退職後に備えての貯蓄が思うようにできないことや、性的に興奮していると 頭がしっかり働かないことなど、あらゆる行動を研究してきた。といっても、わたしが理解した かったのは、行動だけではない。その行動の背後にある、あなたやわたしやほかのみんなの意思 決定という営みを理解しようと努めてきた。先をつづける前に、行動経済学とはなんなのか、ふ つうの経済学とどうちがうのかを簡単に説明しておこう。まず、シェークスピアの一節からはじ めたい。   人間とはなんとすぱらしい傑作かI・ その崇高な理性‐・ 限りのない能力! 形と動きのな   んと的確でみごとなことか! その行動は天使のごとく、理解力は神のごとく¶・ この世の   美しさそのもの、まさに生き物の鑑。                           ―「「ムレット」第二幕第二場  人間性を優れたものととらえる見方は、経済学者も、政策立案者も、専門職でない人も、どこ にでもいるふつうの人も共通に抱いているが、それがこの引用に反映されている。もちろん、こ の見方はだいたいにおいて正しい。わたしたちの心と体は驚くべきことをなしとげる。遠くから ボールが投げられたのが見えれば、その軌道と衝撃を瞬時に計算し、体や手を動かしてボールを 捕ることができる。小さいうちはとくに、簡単に新しい言語を学ぶこともできる。チェスを習得 することもできる。何千もの顔を混同することなく見わけることもできる。音楽、文学、科学技 術、芸術を生みだすこともできる。あげていけぼきりがない。  人間の心を高く評価しているのはシェークスピアだけではない。もっと言えば、わたしたちは みんな、自分のことをシェークスピアが言ったとおりの人間だと考えている(そのくせ、隣人、 夫や妻、上司のこととなると、かならずしもこの基準にかなっているとは言えないと気づいてい る)。科学の領域では、わたしたちが完璧な理性を持っているというこの仮定が、経済学にはい りこんでいる。経済学では、まさにこの「合理性」とよばれる基本概念が経済理論や予測や提案 の基盤になっている。  このように考えると、人間の合理性を信じるかぎり、わたしたちはだれもが経済学者だ。わた しはなにも、だれでも複雑なゲーム理論のモデルを直観的につくりあげたり、顕示選好の公理な どというものをさらりと理解したりできると言っているのではない。そうではなく、経済学が基 盤にしている人間性についての基本的な考えをわたしたちがみんなが持っているということだ。 本書では、「合理的な」経済モデルと言った場合、経済学者の大半とわたしたちの多くが信じて いる人間性についての基本的な仮定を指す。つまり、わたしたちが自分について正しい決断をく だせるという、単純で説得力のある考え方のことだ。  人間の能力に畏怖の念を感じるのはたしかにもっともなことだが、人間の能力を心から感嘆す ることと、人間の理性が完璧だと仮定することのあいだには、大きなちがいがある。じつをいう と、この本は、人間の不合理性、つまり、わたしたちがどれほど完璧とはほど遠いのかについて 書いている。どこが理想とちがっているのか認識することは、自分自身をほんとうに理解するた めの探求に必要だし、実用面でも大いに役立つ可能性があると思う。不合理性を理解することは、 毎日の行動と決断に役立ち、わたしたちを取りまく状況や、そこで示される選択肢がどのように つくられているかを理解するうえでも重要になる。  もうひとつ、わたしの考えでは、わたしたちは不合理なだけでなく、「予想どおりに不合理」 だ。つまり、不合理性はいつも同じように起こり、何度も繰り返される。消費者であれ、実業家 であれ、政策立案者であれ、わたしたちがいかに予想どおりに不合理かを知ることは、よりよい 決断をしたり。生活を改善したりするための出発点になる。  このことは、ふつうの経済学と行動経済学とのあいだでわたしをひどく悩ませる(シェークス ピアなら。それが問題だ・と言ったかもしれない)。ふつうの経済学では、わたしたちはみんな 合理的なため、日々の生活で直面するすべての選択肢について価値を計算し、最善の行動をとっ ていると予想する。もし、まちがいを犯して、なにか不合理なことをしてしまったら? そんな ときも、ふつうの経済学は答えを用意している。「市場原理の力」が降りかかり、わたしたちを ただちに正しい合理的な道に押しもどすのだ。この仮定のもと、アダムースミス以後、何世代も の経済学者たちは、課税から健康保険制度、商品やサービスの価格設定にいたるまで、さまざま なものに結論を与えてきた。  ところが、本書でこれから見ていくように、わたしたちはふつうの経済理論が想定するより、 はるかに合理性を欠いている。そのうえ、わたしたちの不合理な行動はでたらめでも無分別でも ない。規則性があって、何度も繰り返してしまうため、予想もできる。だとすれば、ふつうの経 済学を修正し、未検証の心理学という状態(理由づけや、内省や、何より重要な実験による精査 という検証をしていないことが多い)から抜けだすのが賢明ではないだろうか。これこそまさに、 行動経済学という新しい分野であり、その小さな一端を担う本書の目指すところだ。  これから読んでもらう各章は、長年にわたってすばらしい研究仲間とおこなってきた実験にも とづいている(この優秀な共同研究者の面々を巻末で簡単に紹介している)。なぜ実験なのか?・ 人生は複雑で、複数の力が同時にわたしたちに影響をおよぼしている。この複雑さのために、そ れぞれの力がわたしたちの行動をどう左右しているか正確に見きわめるのはむずかしい。社会科 学では、実験は顕微鏡やストロボのようなものだ。人間の行動のペースを遅らせてできごとをコ マ送りで見られるようにし、それぞれの力を切りわけて、ひとつひとつ念入りに細かいところま で調べることができる。実験によって、わたしたちを動かしているものがなんなのか、じかに確 実に検証できる。  もうひとつ、実験について強調しておきたいことがある。どんな実験も、その実験の条件にだ けあてはまる教訓しか得られないのなら、実験の価値もかぎられたものになってしまう。そうで はなく、実験は一般的な原理をあきらかにし、わたしたちがどのように考え、どのように判断を くだすのかI実験という状況にかぎらず、そこから推測して、人生のいろいろな状況において どうなのかIを見きわめる手がかりになるものと考えてもらえたらと思う。  そのため、どの章でも、実験から得られた結果を一歩進めてべつの状況にあてはめ、生活や仕 事や政策にどうかかわりうるかという例を示した。もちろん、この例はほんの一部にすぎない。  ここから(そして社会科学一般から)真の価値を引きだすには、実験であきらかになった人間 の行動の原理が自分の人生にどうかかわるか、読者であるあなた自身が少し考えてみる必要があ る。そこで、一章読みおえるごとに立ちどまって自問することを提案したい。実験であきらかに なった原理で、あなたの人生がよくなったり悪くなったりするだろうか。そして、もっと重要な 問いはこれだ。人間性について新たに理解したことで、何かちがったやり方ができるだろうか。 そこに、本物の冒険が待っている。  それでは、はじめよう。   1章   相対性の真相   なぜあらゆるものはIそうであってはならないものまでI相対的なのか 〈エコノミスト〉の三択  ある日、インターネットでブラウジングしていたら(もちろん仕事のためだ。断じて暇つぶし ではない)、《エコノミスト》誌のウェブサイトに次ページのような広告があった。  わたしは上から順に見ていった。ひとつめの、ウェブ版の年間購読が五九ドルというのは、ま ずまず手ごろだ。ふたつめの、印刷版の年間購読が匸一五ドルというのも、少し高めではあるも のの、まあこんなところだろう。  ところが、三つめは、印刷版とウェブ版の年間購読が匸一五ドルと書いてある。わたしはいま 一度読み返してから、上のふたつの選択肢に目をもどした。印刷版だけを購読するのと、印刷版 とウェブ版の両方を購読するのが同じ値段なら、だれが印刷版だけにしておこうと思うだろう?・ もちろん、印刷版だけの購読料が誤植という可能性もある。だが、それより、〈エコノミスト》 のロンドン事務所にいる利口な人 たちが(たしかに利口だ。それに、 イギリス人っぽい茶目っ気もある)、 わたしを巧みに操ろうとしたので はないかと思えてならない。たぶ ん、わたしにウェブ版だけの購読 を選ばせずに(インターネットで この広告を見ているくらいだから、 わたしが選ぶのはこれだとあちら は予想したはずだ)、もっと高いウ ェブ版と印刷版のセット購読を選 ばせたかったにちがいない。  それにしても、どんな手を使っ てわたしを操ったのか。おそらく。 《エコノミスト》 のマーケティン グの達人たちは(名門校のネクタ イにブレザーといういでたちが目 に浮かぶ)、人間の行動について重要なことを知っていたのだろう。人間は、ものごとを絶対的 な基準で決めることはまずない。ものごとにどれだけの価値があるかを教えてくれる体内計など は備わっていないのだ。ほかのものとの相対的な優劣に着目して、そこから価値を判断する(た とえば、六気筒の車にどれだけの価値があるかわからなくても、四気筒モデルより高いだろうこ とは想像できる)。  今回の《エコノミスト》の場合、五九ドルのウェブ版が、一二五ドルの印刷版に比べて得なの かどうかはわからないとしても、匸一五ドルで印刷版とウェブ版をセット購読するほうが、匸一 五ドルで印刷版だけを単独購読するより得なのははっきりわかる。得どころか、同時購読ならウ ェブ版の購読が無料になると考えてもいい。「だんな、セットがお買い得ですよ1・ ぜひこの機 会にどうぞ!」こんな呼び声がテムズ川沿いから聞こえてきそうだ。正直に言うと、もしこのと き《エコノミスト》を購読する気があったら、たぶんわたしは、セット購読を選んでいた(その 後、おおぜいの実験協力者にこの三タイプの購読方法を見せて選んでもらったところ、大多数が ウェブ版と印刷版のセット購読を好んだ)。  これはどういうわけだろう。まずは、基本的なことを押さえておこう。大半の人は、自分の求 めているものが何かわからずにいて、状況とからめて見たときにはじめてそれがなんなのかを知 る。たとえば、自分がどんな競技用自転車を欲しいのか、ツールードーフランスの優勝者がある モデルに乗ってギアを切りかえている姿を見てはじめてわかる。自分がどんなスピーカーを欲し いのか、いま持っているものより音のいいスピーカーを聞いてはじめてわかる。自分がどんな生 き方をしたいのかさえ、親戚なり友人なりの生き方がまさに自分のとるべき道だと思えてはじめ てわかる。すべてが相対的、そこが肝心だ。わたしたちは、暗闇のなかで飛行機を着陸させるパ イロットと同じで、車輪を接地できる場所まで誘導してくれる滑走路の両側の明かりが必要なの だ。  《エコノミスト》の場合、ウェブ版と印刷版のどちらを選ぶかは、少し考えないと決められない。 考えるのはやっかいだし、わずらわしいときもある。そこで、《エコノミスト〉のマーケティン グ担当者は、わたしたちが頭を悩まさなくてすむようにしてくれたわけだ。印刷版だけの購読と 比べたとたん、印刷版とウェブ版のセット購読は、あきらかにまさって見える。  相対性の重要さを理解しているのは《エコノミスト》の天才たちだけではない。テレビ販売員 のサムがいい例だ。サムは、どのテレビを並べて展示するか決めるとき、よくある同じようなだ ましのわざを使う。    パナソニックの36インチ(六九〇ドル)    東芝の42インチ(八五〇ドル)    フィリップスの50インチ(一四八〇ドル)  あなたならどのテレビを選ぶだろう。サムは、お客にとって、異なる選択肢の価値を見積もる のがやっかいなことを承知している(六九〇ドルのパナソニックと、一四八〇ドルのフィリップ スのどっちが得かなど、いったいだれが熟知しているだろう?)。だがサムは、それだけでなく、 選択肢が三つあると、たいていの人が真ん中を選ぶことも心得ている(飛行機を滑走路の左右の 明かりのあいだに着陸させるようなものだ)。では、サムはどのテレビを中間の値段に設定した だろう? はい、ご名答。いちばん売りたいテレビだ。  もちろん、抜け目がないのはサムだけではない。先ごろ、《ニューヨークータイムズ》紙に飲 食店経営コンサルタントのグレッグーラップの記事が載った。ラップは、メニューの価格設定を 考えて報酬を得ている。たとえば、去年に比べて今年は仔羊肉がどれだけ売れるか、仔羊肉と組 みあわせるならカボチャとリゾットのどちらがいいか、メインの料理を三九ドルから四一ドルに 値上げすると注文数が減るかどうかといったことに詳しい。  ラップがこれまでの経験から学んだのは、値の張るメイン料理をメニューに載せると、たとえ それを注文する人がいなくても、レストラン全体の収入が増えるということだ。なぜだろう? たいていの人は、メニューのなかでいちばん高い料理は注文しなくても、つぎに高い料理なら注 文するからだ。そのため、値段の高い料理をひとつ載せておくことで、二番めに高い料理を注文 するようお客をいざなうことができる(そして、二番めに高い料理からより高い利鞘を確保でき るよう調整しておくこともできる)。 おとり選択肢  ではいよいよ、《エコノミスト》が使った巧妙な早わざをじっくり見ていこう。  知ってのとおり、選択肢はつぎの三つだ。   山 ウェブ版だけの購読(五九ドル)   闔 印刷版だけの購読(匸一五ドル)   印 印刷版とウェブ版のセット購読(匸一五ドル)  これをマサチューセッツエ科大学(MIT)スローン経営大学院の院生一〇〇人に選ばせたと ころ、つぎのような結果だった。   山 ウェブ版だけの購読(五九ドル)Iヱ(人   闔 印刷版だけの購読(匸一五ドル)−○人   闥 印刷版とウェブ版のセット購読(匸一五ドル)−八四人  ここまでのところ、MITのMBA学生たちはなかなか優秀だ。印刷版とウェブ版のセットの ほうが印刷版だけより得だと全員 が気づいている。しかし、もし印 刷版だけという選択肢(ここから は、もっともな理由もあって。  「おとり」と呼ぶことにする) の せいで、判断が影響されていると したらどうだろう。つまり、選択 肢からおとりをはずして、下のよ うな広告にしたらどうなるだろ  はたして学生たちは、前と同じ 判断(ウェブ版単独が一六人、セ ットが八四人)をするだろうか。  もちろんそうに決まっている。 なにしろ、はずした選択肢は、も ともとだれも選ばなかったものだ。 ちがうだろうか?  ところが、だ。五九ドルのウェブ版単独を選んだ学生は、なんと前のヱ(人から六八人に増え たのだ。そして、匸一五ドルのセットを選んだ学生は、八四人から三二人に減った。  学生たちはいったいなぜ考えを変えたのだろう。あきらかに合理的な理由ではない。八四人が 印刷版とウェブ版のセットを選んだ(そして、一六人がウェブ版単独を選んだ)のは、たんにお とりがあったせいにすぎない。おとりがないと選び方も変わり、セットが三二人、ウェブ版単独 が六八人になる。  これは不合理、それも、予想どおりの不合理だ。なぜかって? よくぞきいてくれた。  では、ひと目でわかる相対性の実例を次ページに示そう。  見てのとおり、中央の濃い円ふたつは、どう考えても同じ大きさとは思えない。大きい円に囲 まれているほうは小さく、小さい円に囲まれているほうは大きいように感じる。もちろん、中央 の濃い円はどちらも同じ大きさなのだが、まわりにあるものによってこれだけちがって見えてし まヽつO  これが、わたしたちの頭脳の配線とそっくりでさえなければ、たんなるおもしろい現象ですま されるかもしれない。だが、実際にわたしたちは、身のまわりのものを常にほかのものとの関係 でとらえている。そうせずにはいられないのだ。これは、物理的なものIトースターや、自転   *本書では、ふたつの条件にちがいがあると言った場合、両者に統計学的な有意差があることを指すものとする。出典とな    った学術論文や参考文献の一覧を巻末に載せたので、興味のある読者は参照してほしい。 車や、犬や、レストランの料理や、結婚相手−だ けに言えることではない。休暇や、教育の選択肢と いった経験にも、感情や態度、ものの見方のような 形のないものにも言える。  わたしたちはいつも、仕事と仕事、休暇と休暇、 恋人と恋人、ワインとワインを比べている。相対性 の話でわたしがいつも思いだすのは、映画〈クロコ ダイルーダンディー〉 のワンシーンだ。われらがヒ ーロー、ポールーホーガンが、街のならず者に飛び だしナイフを向けられる。「そんなもんがナイフだ って?」ホーガンはあきれかえった口ぶりで言って、 ブーツの後ろから巨大なボウイナイフを引っぱり出 す。そして、「こういうのをナイフつて言うんだ」 と、いたずらっぽくにやっと笑うのだ。  「相対性」で選択する  相対性は(相対的に)理解しやすい。しかし、相 対性には、絶えずわたしたちの足をすくう要素がひとつある。わたしたちはものごとをなんでも 比べたがるが、それだけなく、比べやすいものだけを一所懸命に比べて、比べにくいものは無視 する傾向がある。  ちょっとややこしいかもしれないので、例をあげよう。たとえば、はじめての町で家を買うと する。不動産業者が見せてくれた三つの物件は、どれもなかなかよさそうだ。ひとつは現代風の 建物、あとのふたつはコロニアル様式の建物だ。三つとも価格はほぽ同じで、どれも同じくらい 気に入った。唯一のちがいは、片方のコロニアル様式(「おとり」)だけ屋根を新しくする必要が あり、それにかかる余計な出費を相殺するために所有者がすでに数千ドル値引きしていることだ。  あなたなら、どの家を選ぶだろう?  現代風は選ばず、屋根の修理が必要なコロニアル様式も選ばないのではないだろうか。なぜだ ろう? 理屈はこうだ(理屈というには不合理なのだが)。わたしたちは比較をもとにしてもの ごとを決める。この三つの物件の場合、現代風の家のことはよくわからない(これと比べられる 物件がほかにない)ため、現代風の家は頭の隅に追いやってしまう。しかし、コロニアル様式の ほうは、一方の物件がもう一方よりいいことがはっきりしている。屋根のちゃんとした家のほう が屋根の壊れた家よりいい。こうして、屋根のちゃんとしたコロニアル様式がいちばんいいとい う結論に達し、現代風も屋根の修理が必要なコロニアル様式も断って、これに決めるというわけ  相対性のしくみをさらに理解するために、上の図を見てみよ  右の図には、ふたつの選択肢があり、それぞれちがう特性で 優れている。選択肢Aは特性―(仮に品質としよう)で優れて いて、選択肢Bは特性2(仮に美観とする)で優れている。こ のふたつの選択肢はどう見ても大きく異なっていて、どちらか を選ぶのは簡単ではない。では、ここにべつの選択肢、″’を加 えたらどうなるだろう(左図参照)。この選択肢は明らかに選 択肢Aより劣っているが、同時にAとよく似ていて、比較を簡 単にしてくれる。そのうえ、Aが″’より優れているだけでなく、 Bより優れているような気にもさせてくれる。  つまり、おとりであるだを加えることで、Aとの単純な相対 比較ができるようになり、おかげで、Aが、″`に対してだけで なく、ひいては全体のなかでも優れているように見えることに なる。そのため’ <を選択肢に含めると、たとえだれもそれを 選ぱなくても、人々が最終的にAを選ぶ確率が高くなる。  この選択のしかたに覚えはないだろうか。《エコノミスト》 の売りこみを思いだしてもらいたい。あそこのマーケティング担当者は、ウェブ版と印刷版のど ちらにするかわたしたちが決められないことを知っていた。そして、選択肢をあの三つにすれば、 印刷版とウェブ版のセットを選ぶだろうと踏んだのだ。  もうひとつ、おとり効果の例を見てみよう。新婚旅行にヨーロッパへ行く計画を立てていると する。どこかロマンチックな都市に滞在しようということになり、あとはあなたの好きなふたつ の都市、ローマかパリのどちらかを選ぶだけだ。旅行代理店の担当者は、それぞれの都市につい て、航空運賃、ホテルの宿泊、観光、朝食無料サービス込みのパッケージツアーを提示した。あ なたはどちらを選ぶだろう。  たいていの人にとって、ローマでの一週間とパリでの一週間のどちらかを選ぶのは、そうたや すいことではない。ローマにはコロッセオがあるし、パリにはルーブルがある。どちらもロマン チックな雰囲気だし、おいしいものを食べたり、すてきな店で買い物したりできる。簡単に決め られるわけがない。だがここで、第三の選択肢を出されたらどうだろう。第三の選択肢は、朝食 無料サービスのないローマ、つまりぼIマ、またの名はおとりだ。  この三つ(パリ、ローマ、ぼIマ)で考えると、朝食無料サービス付きのローマは朝食無料サ ービス付きのパリと同じくらい魅力的だけれどヽ劣った選択肢である朝食無料サービスなしのぼ Iマは格下だとすぐに気づくはずだ。あきらかに劣った選択肢(ぼIマ)と比較することで、朝 食無料サービス付きのローマがより引きたつ。もっと言うと、ぼIマのおかげで、朝食無料サー ビス付きのローマがぐんとよく見えて、比較がむずかしかったはずの朝食無料サービス付きのパ リよりいいとさえ思えてしまう。 おとり効果の実験  一度おとり効果の働きがわかると、この秘密工作員が、わたしたちの思っている以上にさまざ まな決断の場面にかかわっているのが目につくようになる。デートする相手や、究極的には結婚 する相手を決めるときでさえ、おとり効果が決断の助けになっている。これについて検討した実 験を紹介しよう。  ある寒い日、わたしはMITの構内をあわただしく行きかう学生たちに声をかけて、研究のた めに写真を撮らせてくれないかと頼んだ。いやそうな顔をする学生もいたし、急いで行ってしま う学生もいたが、ほとんどの学生は喜んで承知してくれた。まもなく、デジタルカメラのメモリ ーカードは笑顔の学生の写真でいっぱいになり、わたしは研究室にもどって六〇人(女性三〇人、 男性三〇人)分の写真をプリントした。  翌週、わたしは学部生二五人に変わった頼みごとをした。容貌を基準に男性の写真三〇枚、女 性の写真三〇枚をそれぞれペアにする(男性と男性、女性と女性を組みあわせる)よう頼んだの だ。つまり、MITのブラッドーピットとジョージークルーニーをペアにし、ウデイーアレンと ダニー・デビート(失礼、ウデイ、ダニー)をペアにしてもらったわけだ。できあがった三〇ぺ アのうち、容貌の釣りあいがよく取れていると多くの学生が賛同した六ペア(女性三ペア、男性 三ペア)を選びだした。  つぎにわたしは、フランケンシュタイン博士さながらに、この匸一の顔に特別な処理を施す作 業にとりかかった。パソコンでフォトショップを使って写真に少し手を加え、それぞれの顔につ いて、わずかに、しかしはっきりわかるくらい不細工なバージョンをつくった。鼻をごくわずか に動かすだけで、全体の均整が崩れる。さらに、ほかのツールを使って、片目を大きくしたり、 髪を薄くしたり、にきび跡を加えたりした。  映画さながらに稲光が研究室を照らしだすことも、荒野で猟犬がほえたてることもなかったが、 この日は科学にもってこいの日だった。写真の加工がすべて終わるころには、MIT版のいかし たジョージークルーニー(A)と、MIT版のいかしたブラッドーピット(B)、そして、少し たれ目で鼻柱が太いジョージークルーニー(‘`、おとり)と、均整の崩れたブラッドーピット  (g、おとり)ができていた。容貌がいまひとつのペアについても同じ処理をした。いつものい びつな笑顔をしたMIT版ウディーアレン(A)と、目の位置がずれたウディーアレン(だ)、 それに、MIT版ダニー・デビート(B)と、それを不細工にしたダニー・デビート(F)がで きた。  こうして、匸一枚の写真それぞれについて、通常のものと、それより劣る(。付きの)おとり がそろった(この研究で用いたふたつの条件の例を次ページの図に示した)。  ここからが実験の中心部分だ。わたしはすべての写真を持って学生会館に乗りこんだ。つぎつ ぎに学生に近づいていって研究への協力を頼み、同意してくれたら、三枚の写真を並べた用紙  (図のようなもの)をわたす。通常の写真(A)、おとりの写真(<)、別人の通常の写真(B) を並べた用紙もあれば、通常の写真(B)、おとりの写真(h)、別人の通常の写真(A)を並べ た用紙もある。  たとえば、通常のクルーニー(A)、おとりのクルーニー(″’)、通常のブラピ(B)の三枚が セットになったものや、通常のブラピ(B)、おとりのブラピ(m)、通常のクルーニー(A)の 三枚がセットになったものがあるわけだ。学生の好みによって、男性と女性のどちらかの写真を 並べた用紙をわたし、三人のなかからデートの相手を選ぶならだれがいいか、九をつけてもらっ た。かなり時間がかかったが、最終的に、六〇〇枚の用紙を配ることができた。  どんな狙いでこんなことをしたのか。ひずんだ顔の写真(だ、E)があることで、実験協力者 たちがこの顔によく似た、ひずんでいない写真を選ぶかどうかを見きわめたいという単純な理由 からだ。はたして、少し不細工なジョージークルーニー(だ)のせいで、実験協力者は完璧なブ ラッドーピットより、完璧なジョージークルーニーのほうを選ぶだろうか。  もちろん、わたしの実験には、ブラッドーピットの写真もジョージークルーニーの写真も出て   *この図では、MITの学生ではなく、コンピューター合成した顏を用いた。もちろん、実際に手わたした用紙には、アル    ファベットはっけていない。 こない。写真Aも写真Bもごくふつうの学生たちだ。だが、思いだしてみよう。屋根の修理が必 要なコロニアル様式の物件があったせいで、現代風の物件より、完璧なコロニアル様式のほうを 選びそうにならなかっただろうか。それも、ただたんに、おとりのコロニアル様式が通常のコロ ニアル様式と比較できたからだ。《エコノミスト》の広告でも、匸一五ドルの印刷版だけという 選択肢があったせいで、匸一五ドルの印刷版とウェブ版のセット購読を選ぶ大が多かったでは ないか・これと同じで、完璧でない顔(″`、または、r)があると、このおとりが比較の基準 の役割を果たすため、その顔の完璧なほう(A、または、B)が選ばれやすくならないだろう か。  結果はそのとおりだった。通常の写真、同じ人の劣ったバージョン、別人の通常の写真を並べ た用紙をわたすと、実験協力者たちは、別人の写真より、「通常の」写真の大−ひずんだ顔に 似ているけれど、あきらかにそれより整った顔の大−がいいと答えた。接戦でもなんでもなく、 七五パーセントの確率で通常の写真が選ばれたのだ。  おとり効果についてもう少し説明するために、パン焼き機の話をしたい。ウィリアムズーソノ マ社がはじめて家庭用「ブレッドベーカリー」を売りだしたとき(二七五ドルだった)、ほとん どの消費者は無関心だった。え、家庭用パン焼き機? 何それ? いいの? 悪いの? 家庭用 パン焼き機なんている? それより、隣に置いてあるおしゃれなコーヒーメーカーを買ったほう がいいんじゃない? ちっとも売れないのに業を煮やしたパン焼き機の製造業者は、マーケティ ング調査会社に相談し、こんな解決策を提案された。新モデルのパン焼き機を売りだすこと。し かも最初のパン焼き機より大型で、値段はI・五倍のモデルにする。  すると、売り上げが膨らみはじめた(たくさんのパンも)。ただし、売れたのは大型のパン焼 き機ではない。なぜだろう? 消費者が二種類のパン焼き機から選べるようになったからだ。一 方のほうが見るからに大きく、はるかに高価なため、これまでのように比べようのないまま判断 しなくてすむ。「まあ、パン焼き機のことはよくわからないけど、もし買うとしたら、小さくて 安いほうかな」というわけだ。このときから、パン焼き機は飛ぶように売れだした。  パン焼き機の話はこのへんにして、つぎは、まったくちがった状況のおとり効果を見てみよう。 もしあなたが独身で、魅力的なデート相手の候補を一度のイベントでできるだけおおぜいつかま えたいとしたらどうだろう。わたしなら、身体的な特徴がだいたいあなたと同じで(肌の色合い、 体つき、目鼻だちが似ていて)、あなたより少しだけ魅力的でない友人(ぢなた)を連れていく よう助言する。  なぜなら、あなたが魅了したい人たちは、まわりに比較できるものがないとあなたを評価する のに苦労するからだ。ところが、もし、おとりの友人である「ざなた」と比較すれば、おとりと 比べてだけでなく、もっと広く、まわりにいる人たちと比べても、あなたがすてきに見えるはず だ。不合理に思えるかもしれないが(絶対にそうなると確約できるわけでもないが)、あなたに 集まる視線が増える可能性は高い。もちろん外見だけのことではない。会話に長けた人がもてそ うな独身パーティーなら、軽快でウィットに富んだあなたの話しぶりにかなわないような友人を 選ぶことだ。比較のおかげで、あなたがいっそう魅力的に映る。  ところで、この秘密を知ってしまったからには覚悟してもらいたい。今後、容姿があなたと似 たり寄ったりだけれど少しだけ整っている同性が、夜遊びにつきあってくれと言ってきたら、連 れとして誘われたのか、たんなるおとりとして呼ばれたのか、悩むことになるだろう。 給料と相対性  相対性は人生における決断を助けてくれる。けれども、わたしたちをとんでもなく惨めな気持 ちにさせることもある。なぜだろう? 嫉妬やひがみは、自分と他人の境遇を比べるところから 生じるからだ。  モーセの十戒で、。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろぱなど、隣人のものを一切欲しがって はならない゛(「聖書新共同訳」)と戒めたのも、それなりの理由があったわけだ。わたしたちが 生まれつき比較するようにできていることを考えると、十戒のなかでもこの戒めに従うのがいち ばんむずかしいかもしれない。  現代生活は、この弱点をさらに浮き彫りにする。たとえば、数年前の話だが、あるとき大手の 投資会社の経営幹部のひとりと会談した。いろいろ話しているうちに、その人は、このあいだひ とりの社員が給料のことで文句を言いにきてねと語りだした。 「わが社に来て何年だね」と、幹部は若い社員に尋ねたそうだ。 「三年になります。大学を出てすぐ入社しました」 「では入社したとき、三年後の年俸はどのくらいだと考えていたのかね?」 「一〇万ドルは欲しいと思っていました」  幹部は社員の顔をまじまじとながめた。 「だが、きみのいまの年俸は三〇万ドル近いじゃないか。それで何か不服なのかね」 「ええ、ただ……」若い社員は口ごもった。「デスクが近い同僚ふたりが、働きぶりはぽくとた いして変わらないのに、三一万ドルもらっているんです」  幹部は首を横に振った。  この話の皮肉なところは、一九九二年に、アメリカの証券規制当局が各企業に経営幹部の報酬 と役得をこと細かに開示するようはじめて義務づけたことだ。報酬が公開されれば、理事会も幹 部に法外な給料や手当を出しづらくなるだろうとの狙いがあった。これまでどんな規制も法律も 株主の圧力も抑えられなかった幹部の給与増加がこれで止まるのではと期待された。たしかに増 加を食いとめる必要があった。一九七六年、平均的な最高経営責任者の給与は、平均的な従業員 の三六倍だった。それが一九九三年には、一三一倍にもなっていたのだ。  ところがどうだろう。幹部の報酬が一般に公表されるようになると、マスコミが定期的に最高 経営責任者の報酬ランキング特集を組むようになった。公になったことで幹部の報酬が抑えられ るどころか、アメリカの最高経営責任者たちは自分の収入をよその最高経営責任者の収入と比べ るようになり、その結果、幹部の報酬はうなぎのぼりに上昇した。この傾向を助長したのは報酬 コンサルティング会社で(投資家のウォーレンーバフェットに、。少しあげて、もう少しあげて、 よしそこだ・という辛辣なあだ名をつけられた)、顧客である最高経営責任者たちに、法外な給 与を要求するよう助言した。そしてどうなったか。いまや、平均的な最高経営責任者の給与は、 平均的な従業員の三六九倍、報酬を開示する以前の三倍の額になっている。  このことを踏まえながら、わたしは会談した幹部に思いきって尋ねてみた。  「社員の給与データペースの情報が会社じゅうに知れわたったら、どうなると思われますか?」  幹部はぎょつとした顔でわたしを見つめた。  「わが社はたいていのことなら克服できるでしょう。インサイダー取引も、財政上の不祥事も乗 りこえられるはずです。ですが、もし全員が全員の給与を知ってしまったら、それこそ大惨事で しょうね。いちばんの高給取り以外は、みんな自分の給料が安すぎると感じると思います。退職 してほかの勤め先をさがしかねません」  おかしな話ではないか。給料の多さと幸福感とのあいだに、わたしたちが思っているほど強い 関連がない(というより、むしろ関連は弱い)ことは、これまで繰り返し立証されている。研究 によれば、「もっとも幸福な」人々が住んでいるのは、個人所得がもっとも高い国ではないこと もわかっている。それなのに、わたしたちは、より高い給料を求めてやまない。そのほとんどは たんなる嫉妬のせいだ。二〇世紀のジャーナリストにして、風刺家、社会評論家、皮肉屋、自由 思想家だったH・L・メンケンは言った。いわく、給料に対する男の満足度は、(読者のみなさ ん、覚悟はよろしいか?)妻の姉妹の夫より多く稼いでいるかどうかで決まる。なぜ、妻の姉妹 の夫なのだろう? それは、この比較ならぱっと目につくし、手っとり早くできるからだ(思う に、メンケンの妻は、自分の姉妹の夫がどれだけ稼いでいるかをメンケンにきっちり報告してい たのだろう)。  最高経営責任者のべらぽうな報酬は、社会に悪影響をおよぽしている。だれかがとんでもない 報酬を手にするたびに、よその最高経営責任者たちは不面目を恥じるどころか、自分はそれ以上 の報酬を要求しようという気になる。《ニューヨークータイムズ》紙の見出しによれば、。ウェ ブの世界はいまや金持ちが大金持ちに嫉妬する時代・だ。  べつの記事には、がんの研究でいつかノーベル賞を取りたいと夢見て(Iバード大を卒業した 医師の話が書かれていた。ノーベル賞を取ることが彼の目標だった。夢だった。ところが数年後、 医療で身を立てている自分より、ウォール街の会社で医療投資の顧問をやっている何人かの同僚 のほうが多く稼いでいることに気づいた。それまでは自分の収入に満足していたのに、友人たち からヨットや別荘の話を聞いて、急に自分がひどく貧乏に思えてしまう。それで、べつの出世コ   *あなたが既婚者でないなら、この事実を知った以上、人生の伴侶を探すときにはこの点を考慮することをお勧めする。結    婚するなら、営利活動が不得手な人と結婚した兄弟姉妹のいる相手を見つけることだ。 Iスーウォール街コースを選んだという。二〇年めの同窓会のころには、医療で身を立ててい る大半の同級生のI〇倍は稼ぐようになっていた。同窓会の会場の中央で飲み物を手にしている 彼の姿が目に浮かぶ。まるで、「小さい円」に囲まれた「大きい円」だ。ノーベル賞は受賞しな かったが、彼はその夢を捨てて、ウォール街の給料を、「貧乏」な思いをしなくてすむ道を選ん だ。平均年収一六万ドルの家庭医療専門医が不足しているのも無理からぬ話だ。 七ドルの相対的な価値  この相対性の問題をなんとかできないだろうか。  ありがたいことに、わたしたちは自分を囲む「円」の大きさを自力で調節できる場合がある。 小さい円が集まっているほうに移動すれば、相対的な幸福感は大きくなる。同窓会に出席したと き、真ん中で飲み物を手にして高給を自慢している「大きい円」がいたら、あえてそこから離れ て、だれかほかの人と話す。新しい家を買うつもりなら、見にいく物件をふるいにかけて、分不 相応な物件ははずしておく。新車を買うなら、手ごろな価格のモデルだけを検討する、といった ぐあいだ。  あるいは、狭くなっている視野を広げる方法もある。ふたりのすばらしい研究者、エイモスー トベルスキーとダニエル・カーネマンがおこなった研究を例にして説明しよう。きょうじゅうに すませたい用事がふたつあるとする。ひとつは新しい万年筆を買うこと、もうひとつは職場に着 ていくスーツを買うことだ。事務用品店で二五ドルのいい万年筆が見つかった。買おうと思った けれど、一五分行った先のべつの店でセールをやっていて、同じ万年筆が一ハドルで買えること をふと思いだした。あなたならどうするだろう。七ドル節約するために、一五分かけてべつの店 に行くだろうか? このジレンマに立たされると、ほとんど人は七ドルのためにべつの店まで行 くと答える。  つぎはふたつめの用事だ。職場用のスーツを選ぶ。四五五ドルするグレーの縦縞の高級スーツ を買うことに決めたが、そのときほかの客があなたに耳うちした。ほんの一五分先のべつの店で、 まったく同じスーツを四四ハドルで売りだしているという。あなたなら今度も一五分かけてべつ の店に行くだろうか? この場合、ほとんどの人が行かないと答える。  これはどういうことだろう。あなたの一五分は、はたして七ドルの価値があるのかないのか。 もちろん七ドルは七ドルだ。どんな数え方をしてもそれは変わらない。ここで自問すべき問いは、 べつの店まで行くことと、そのために一五分余計にかかることが、それによって節約できる七ド ルに値するかどうかだ。七ドルの節約になる品物の値段が、一〇ドルか一万ドルかは関係ない。  ここが相対性の問題点だ。わたしたちは、相対的な目で自分の判断を見て、手にはいる選択肢 と近場で比較する。特価の万年筆の相対的な割安感を定価の万年筆と比べると、対比が大きいた   *もちろん、医師が抱える悩みは収入だけでない。診療報酬明細書、煩雑な手続き、医療過誤訴訟の恐怖などの問題もっい    てまわる。 めに、余計な時間を割いてでも七ドル節約するべきだと感じる。ところが特価のスーツの場合、 相対的な割安感がごく小さいため、七ドル余計に払うほうを選ぶ。  五〇〇〇ドルの仕出し料理に二〇〇ドルするスープを簡単に追加注文する人が、一ドルの濃縮 スープ缶詰めを買うときに二五セントのクーポンをわざわざ用意するのもこれと同じ理由だ。同 じように、わたしたちは、二万五〇〇〇ドルで手に入れた新車のシートを本革張りにグレードア ップするのに三〇〇〇ドル支払うのは平気なのに、本革張りのソファーを新しく買うのに同じ金 額を支払うのはためらう(車のなかにいるより、家でソファーにすわっている時間のほうが長い とわかっていてもだ)。しかし、もっと広い視野に立って考えれば、車のシートをグレードアッ プするつもりの三〇〇〇ドルで何ができるか、しっかり見きわめることも可能になる。ひょっと して、本や服や休暇のために使ったほうが賢明ではないだろうか? こんなふうに視野を広げて 考えるのは容易ではない。ものごとを相対的に判断するのが自然な思考法だからだ。あなたなら できるだろうか。わたしはそれができる人物を知っている。  それは、ホットオアノットーコム(Hotornot.coヨ)という格づけ出会いサイトの共同創設者 ジェームズーホンだ(わたしは先ごろ、ジェームズと共同経営者のジムーヤング、さらにレナー ドーリー、ジョージーローウェンスタインとともに、他人の「魅力」を評価するとき本人の「魅 力」がどのような影響をおよぽすかを検討する研究プロジェクトに取りくんだ)。  当然、ジェームズは大金を稼いでいる。そして、まわりにはそれ以上の大金持ちがぞろぞろい る。親友のひとりはペイパル(PayPal)の創始者で、何千万ドルもの財産を持っているくらい だ。しかしジェームズは、自分の人生と比較するまわりの円を大きくするのではなく、小さくす る方法を心得ている。ジェームズはまず、ポルシェのボクスターを売って、かわりにトヨタのプ リウスを買った。  ジェームズは《ニユーヨークータイムズ》紙にこう語っている。  。ボクスターの生活を送りたいとは思いません。だって、ボクスターを手に入れたら、つぎは9 11に乗りたくなりますからね。その911を持っている人たちが何に乗りたがっていると思い ホ`す? フェラーリですよ゛。  これは、わたしたちみんなが活用できる教訓だ。人は持てば持つほどいっそう欲しくなる。唯 一の解決策は、相対性の連鎖を断つことだ。   2`早     ごびゅう   需要と供給の誤謬   なぜ真珠の値段は1そしてあらゆるものの値段はI定まつていないのか 黒真珠を高級にした男  第二次世界大戦が勃発したとき、イタリアのダイヤモンド商ジェームズーアセールは、ヨーロ ッパからキューバへ避難した。アセールはこの新天地で新たな生活の糧を得た。アメリカ軍が防 水腕時計を欲しがり、スイスにつてのあったアセールがその需要を満たしたのだ。  大戦が終わるとアメリカ政府との商取引も消滅し、アセールの手もとには何千ものスイス時計 が残った。もちろん、日本人は腕時計を欲しがっていたが、お金を持っていなかった。しかし、 真珠の養殖に成功していた日本には、無数の真珠があった。やがてアセールは、スイスの腕時計 と日本の真珠を物々交換する方法を息子に教えこんだ。この商売は成功し、その後まもなく、息 子のサルバドールーアセールは「真珠王」と呼ばれるまでになった。  一九七三年のある日のこと、真珠王はフランスのサントロペに自分のヨットを停泊させていた。 そこへ、若い元気なフランス人、シャンHクロードーブルイエが隣のヨットから乗りこんできた。 ブルイエは貨物空輸事業を売却し、その収益でフランス領ポリネシアに珊瑚島を買ったばかりだ った。タヒチ出身の若い妻と自分だけの青い珊瑚礁の楽園だ。  ブルイエは、珊瑚島の紺碧の海にはクロチョウガイがごろごろしていて、その殼のなかからす ごいものが出てくると説明した。黒真珠だ。  そのころタヒチの黒真珠は販路がまったくなく、需要もほとんどなかったが、ブルイエは、い っしょに事業をはじめようとアセールを説得した。ふたりは手を組み、黒真珠を採って、世界じ ゅうに売りさばくことになった。当初、アセールの売りこみはうまくいかなかった。当時の黒真 珠は、色も形も鉄砲の弾のようで、アセールはひとつの注文も取れないままポリネシアにもどら なければならなかった。アセールはこのとき、黒真珠の商売を完全にやめてしまうか、価格をさ げてディスカウント店で売ることもできた。あるいは、何粒かの白真珠とセットにして売りつけ る方法もあった。しかしそうはせずに、一年辛抱して、もっと品質の高い真珠ができるのを待っ た。そして、それを持って旧友である伝説の宝石商、(リー・ウィンストンを訪ねた。ウィンス トンは、ニューヨークの五番街にある店舗のショーウィンドウに黒真珠を飾って、法外に高い値 札をつけることを承知した。一方でアセールは、豪華なグラビア雑誌に全面広告を出した。タヒ チ産の黒真珠のネックレスが、ダイヤモンドとルビーとエメラルドをあしらったブローチといっ しよに、堂々と光り輝いている写真だ。  ほんの少し前まで、ポリネシアの海中でロープに連なったクロチョウガイがひっそり育ててい た真珠が、あっというまに、ニューヨークでも指折りの裕福なセレブたちのすらりとした首にさ げられて、マン(ツタンを闊歩するようになった。アセールは、価値のはっきりしなかったもの を、とんでもない高級品に変えてしまった。マークートウェインがかつてトムーソーヤーについ て書いたことばを借りれば、。トムは人間の行動の偉大なる法則を発見した。人に何かを欲しが らせるには、それが簡単には手にはいらないようにすればいい・。 価格を「刷りこむ」  真珠王はいったいどんな手を使ったのか。どうやって上流社会の人たちをタヒチの黒真珠の熱 烈な支持者にし、惜しげもなくお金を出させたのだろう。この問いに答えるには、(イイロガン の赤ちゃんの話をしなくてはならない。  数十年前、動物学者のコンラートーローレンツは、卵からかえったばかりのガンのひなが、は じめて遭遇する動く物体(ふつうは母鳥)に愛着を持つことを発見した。ある実験中に、卵から かえって最初にローレンツを目にしたひなが、成長するまで忠実にローレンツを追いつづけたこ とが発見のきっかけだった。ローレンツは身をもって、ガンのひながまわりの手近なものをもと に最初の決断をすること、さらに、一度決めたことは貫きとおすことを示すことになったわけだ。 ローレンツはこの自然現象を「刷りこみ」と呼んだ。  では、人間の脳もガンのひなと同じような配線になっているのだろうか。第一印象や最初の決 断は、わたしたちにも刷りこまれるのだろうか。もしそうなら、刷りこみはわたしたちの生活に どんなふうに表われるのだろう。たとえば新製品に遭遇すると、目の前にある最初の価格をすん なり受けいれてしまうものだろうか。もっと言えば、その価格(学術用語ではアンカーという) には、今後もその製品に同じだけ支払う気にさせるような長期的な影響があるのだろうか。  どうやら、ガンにあてはまることは人間にもあてはまるようだ。アンカー(畷によるアンカ リング(係留)も例外ではない。たとえばアセールは、滑りだしから黒真珠を世界最高級の宝石 として「アンカリング」した。おかげで、以後ずっと黒真珠にはその価格がついてまわることに なった。これと同じで、わたしたちは新製品をある価格で買うと、その価格にアンカリングされ る。では、いったいどんな仕組みが働いているのだろう。なぜわたしたちはアンカーを受けいれ るのだろうか。  想像してもらいたい。わたしがあなたに社会保障番号の下二桁を尋ねたとする(ちなみに、わ たしのは79だ)。その後、一九九八年のコートーデュ・ローヌというワインにその金額(わたし なら七九ドル)を出すかどうか尋ねたら、下二桁の数字を囗にしたというだけで、ワインに支払 ってもいいと思う値段が影響されるだろうか? 何をくだらないことをと思うだろう。では、数 年前に、MITのMBA学生たちの身に起こったことをお話ししよう。 恣意の一貫性  「さて、ここにジヤブレ社のコートーデューローヌーパラレルがある」MITスローン経営大学 院のドレーゼンープレレク教授は、手にしたワインの瓶をほれぽれとながめながら言った。「一 九九八年ものだ」  教授の前には、マーケティングリサーチの授業を受講している五五人の学生がすわっている。 この日わたしは、ドレーゼンとジョージーローウェンスタイン(カーネギーメロン大学の教授) とともに、この未来のマーケティング専門家たちに一風変わった依頼をしようとしていた。まず 学生たちに社会保障番号の下二桁を書いてもらってから、先ほどのワインをはじめ、いろいろな 品物について、その金額を出すかどうか尋ねる。その後、実際にそれぞれの品物を入札形式で競 り落としてもらおうというのだ。  何を証明したかったのか。わたしたちは、「恣意の一貫性」と名づけたものの存在を示そうと していた。恣意の一貫性の基本的な概念は、たとえ最初の価格(アセールの真珠の価格など)が  「恣意」的でも、それがいったんわたしたちの意識に定着すると、現在の価格ばかりか、未来の 価格まで決定づけられる(したがって「一貫性」がある)というものだ。はたして、自分の社会 保障番号を思いうかべるだけで、なんらかのアンカーが作られるものだろうか。そして、その最 初のアンカーは長期的な影響力を持っているのだろうか。その点を調べるのが目的だった。  「ワインのことはよく知らないという人もいるかもしれないな」ドレーゼンは話をつづけた。 「これは、〈ワインースベクテーター》誌で八六点を獲得したワインだ。イチゴとモカとブラッ クチョコレートの香りがする。ほどよい力強さのあるバランスの取れたミディアムーボディの赤 ワインだ。すばらしくおいしい」  ドレーゼンはべつのワインを手にして学生に見せた。こちらはジャブレ社のエルミタージュー ラーシャペル一九九六年で、《ワインーアドボケート》誌では九二点の高評価を得ている。 「さて、この一九九〇年以降で最高のラーシャペルは」ドレーゼンが独特な調子で説明をはじめ ると、学生たちは物珍しそうに顔をあげた。「わずか八一〇〇ケースしかつくられなかった逸品  こんなふうにして、ドレーゼンはあと四つの品物を紹介した。コー‘ドレスのトラックボール  (ロジクール社のトラックマンーマーブルFX)、コードレスのキーボードとマウス(ロジクー ル社のアイタッチ)、デザイン関係の本(キャサリン・フィッシェルの「パーフェクトーパッケ ージ」)、ノイ(ウスのベルギーチョコレート五〇〇グラムの詰めあわせだ。  ドレーゼンは、この六つの品目を並べたプリントを配って、学生に指示した。 「それでは、各自、プリントのいちばん上に、自分の社会保障番号の下二桁を書いてくれ。つぎ に、その数字を金額としてそれぞれの品目のすぐ横に書きそえてもらいたい。たとえば、下二桁 の数字が23なら、二三ドルと記入するんだ。  それが終わったら、それぞれの品物をその値段で買ってもいいかどうかを「イエス」か「ノ I」かでプリントに記入してくれ」  学生が六品目すべてについて「イエス」か「ノー」か答 えたあと、ドレーゼンはさらに、それぞれの品物に支払っ てもいい最高金額(入札額)を書きいれさせた。入札額を 書きおえた用紙を集めてもらい、わたしがノートパソコン で集計して、落札者を発表した。それぞれの品物について 最高額を入札した学生が教壇に出てきてお金を払い、品物 を受けとった。  学生たちはこの演習に喜んで取りくんでくれたが、社会 保障番号の下二桁を書いたことが最終的な入札額に影響を 与えたと思うかと尋ねると、ありえないとあっさり一蹴さ れた。  わたしは研究室にもどってデータを分析した。はたして 社会保障番号の数字はアンカーの働きをしたのか。なんと 驚いたことに、そのとおりだった。下二桁の数字が大きい  (80〜99) 学生の入札額は高く、下二桁の数字が小さい  (―〜20)学生の入札額は低かった。たとえば、コードレ スのキーボー’ドの入札額は、下二桁が上位二〇ハー・セントの学生が平均五六ドル、下位二〇パー セントの学生が平均一六ドルだった。最終的には、社会保障番号の下二桁の数字が上位二〇パー セントの学生は、社会保障番号の下二桁の数字が下位二〇パーセントの学生より、ニヱ(上二四 六ハーセント高い額を入札したことがわかった(前ページの表参照)。  ここで、社会保障番号の下二桁の数字が大きい人はこう思っているちがいない。「じゃあわた しは、生まれてこのかた、すべてにお金を払いすぎていたのだろうか」いや、それはちがう。こ の実験で社会保障番号がアンカーになったのは、わたしたちがそう仕向けたからにすぎない。社 会保障番号ではなく、現在の気温や業者の希望小売価格を使っても同じことだ。それどころか、 どんな質問でもアンカーをつくりだせただろう。これは合理的だろうか。もちろんそうは思えな い。だが、これがわたしたちなのだ。そろってガンのひなというわけだ。   *最高額の入札者が支払ったのは、本人の入札額ではなく、二番めに高い入札額だ。これをセカンドブライスーオークショ    ンという。ウィリアムービクリーは、この種のオークションによって、それぞれが支払ってもいいと思う最高額を入札す    ることがみんなの利益につながるという状況がつくりだされることを示して、ノーベル経済学賞を受賞した。ちなみに、    イーベイ(QF忿のオークション方式のおおまかな論理もこれだ。   ↑相関係数とは、ふたつの変数の動きがどれだけ関連しているかを示す統計学的な指標をいう。相関係数の範囲はマイナス    ーから1で、Oの場合、一方の変数の値の変化がもう一方の変数の値の変化となんの関連もないことを意味する。   拿MIT経営幹部教育プログラムに参加した経営幹部や管理者を対象に同じような実験をおこなったが、このときも、社会    保障番号によってチョコレートや本などに支払ってもいいという金額が影響されるという同様の結果を得た。  このデータにはもうひとつ興味深い点がある。こうした品物に支払ってもいいという金額(支 払い意思額)は恣意的なものだが、そこには論理的で首尾一貫した部分があるのだ。関連のある 品物をペアにして考えると(二種類のワイン、二種類のコンピューター周辺機器のニペア)、相 対価格は驚くほど論理的だ。全員がトラックボールよりキーボードに多くお金を出すと答え、同 じく、一九九八年のコートーデューローヌより一九九六年のエルミタージュに多く出すと答えて いる。ここで重要なのは、ひとつの品物について出してもいい金額が決まると、同じカテゴリー のべつの品物にいくら出すかも、最初の価格(アンカー)との比較で判断されるということだ。  これこそわたしたちが「恣意の一貫性」と名づけたものだ。最初の価格はほとんど「恣意」的 で、でたらめな質問に対する答えにも影響されうる。しかし、いったんその価格が自分のなかで 定まると、ある品物にいくら出すかだけでなく、関連のある品物にどれだけ出すかまで方向づけ られてしまう(これが一貫性を生む)。  ここで、いまの話についてもうひとつ重要な説明をしておかなければならない。わたしたちは 実生活で価格にさいなまれている。車にも芝刈り機にもコーヒーメーカーにも業者の希望小売価 格がついている。不動産業者はその地域の住宅価格について長広舌をふるう。だが、値札そのも のがアンカーとはかぎらない。値札の価格は、わたしたちが商品やサービスをその価格で買おう と思ったとき、はじめてアンカーになる。刷りこみが起こるのはこのときだ。そのときから、あ る幅の価格を受けいれながらも、まるでゴムひもで引きもどされるように、いつも原点であるア ンカーにもどって参照することになる。こうして、最初のアンカーはそのときの買い物だけでな く、その後もたくさんの買い物の判断に影響をおよぼす。  たとえば、57インチの(イビジョン液晶テレビが三〇〇〇ドルで売りだされているのを見かけ たとする。値札はアンカーではない。しかし、この値段で買おうと決めた(あるいは、購入を真 剣に考えた)とたん、今後はこの決断が液晶テレビのアンカーとなる。これが地面に打ちこまれ た杭となって、これから先ずっとIべつのテレビを買うにしても、庭でバーベキューをしてい てふとテレビが話題にのぼるにしてもIあらゆる(イビジョン液晶テレビは、この価格との比 較で判断される。  アンカリングは、どんな買い物にも影響をおよぽす。たとえば、ユーリーシモンソーン(ペン シルベニア大学の助教)とジョージーローウェンスタインは、はじめての市町村に引っ越す場合、 たいていの人はそれまで住んでいた市町村で支払った住宅価格をアンカーにしたままであること を示した。この研究によると、相場が安い都市(たとえば、テキサス州のラボック)から、ほど ほどの都市(たとえば、ペンシルベニア州のピッツバーグ)に引っ越した人は、新しい相場に合 わせて支出を増やすことはしない。それどころか、たとえこれまでより小さい家や、住み心地の 悪い家に家族を住まわせることになるとしても、それまでの相場で払っていたのと同じような金   *この結果は、財産や税金などの経済的な理由からではない。 額しか出さない。同じように、もっと物価の高い都市から引っ越してきた人は、新しい住宅事情 にも以前と同じだけの大金をつぎこむ。たとえばロサンゼルスからピッツバーグへ引っ越すと、 たいていの人はペンシルベニア州に着いてもたいして支出を切りつめず、ロサンゼルスで払って いたのと同じような金額を出す。  どうやらわたしたちは、それまでの住宅価格相場に慣れてしまっていて、なかなか切りかえら れないようだ。そこから抜けだす唯一の方法は、新天地ではすぐに家を買わず、一年ほど借家暮 らしをすることだ。そうすれば新しい環境にもなじんで、やがて地域の相場にふさわしい買い物 ができるようになる。 アンカリングを実験する  このように、わたしたちは最初の価格に自分をアンカリングしてしまうわけだが、ある価格の アンカーから、べつのアンカーにつぎつぎ乗りかえて(ころころ変えて、と言ってもいい)、支 払い意思額を絶えず変えるのだろうか。それとも、最初に遭遇したアンカーが長いあいだ多くの 決断に影響を与えつづけるのだろうか。この答えを見つけるために、またべつの実験をすること にした。実験協力者を古いアンカーから新しいアンカーに引きつけようというのだ。  この実験に協力してもらったのは、学部生と院生、それと大学に新入社員の勧誘に来た投資銀 行業者だ。はじめに、実験協力者に三種類の音を聞いてもらい、それぞれの音のあとに、もしな んらかの報酬が出るなら(これが価格のアンカーになる)同じ音をもうI度聞いてもかまわない かどうか尋ねた。三種類の音のひとつは三〇〇〇ヘルツの高音で、これを三〇秒間流す。この音 はだれかが金切り声で叫んでいるように聞こえる。ふたつめは全周波数の成分を含む雑音(ホワ イトノイズ)で、これも三〇秒間つづく。放送を受信していないテレビから聞こえてくる音に似 ている。三つめは、三〇秒のあいだ音高が高くなったり低くなったりを繰り返す音だ(銀行業者 の人たちがどんな実験につきあわされるのか正確に理解していたかどうかはわからないが、投資 銀行の業務の話をするのに比べたら、実験用の不快な音もそれほど不快ではなかったかもしれな じ  実験に音を使ったのは、不快な音の市場というのがこの世に存在しないからだ(そのため、実 験協力者はこの三種類の音の価値を考えるときも、市場価格を参考にできない)。また、不快な 音をとくに選んだのは、このような音を好む人がひとりもいないためだ(クラシック音楽を使う と、人によって好む度合いがちかってしまう)。なぜこの三種類かというと、何百もの音をつく ってみてわたし自身が選んだのだが、個人的にこの三つが同じくらい不快な音に感じたからだ。  まず、実験協力者を実験室のコンピューター画面の前にすわらせ、両耳にヘッドホンをつけて もらった。  室内が静かになったところで、最初のグループの画面にこんな指示を出した。「いまから、ヘ ッドホンを通じて不愉快な音を流します。あなたがその音をどのくらい不快に感じるかを調べた いと思います。音を流した直後に仮定の質問をするので、もしI〇セントの報酬が支払われると したら、同じ経験を繰り返す意思があるかどうか答えてください」第二のグループにも同じ指示 を出したが、提示した報酬はI〇セントではなく九〇セントだ。  はたして価格のアンカーによってちがいが出るだろうか。わたしたちは答えを得るために音を 流した。まずは耳ざわりなキーという三〇〇〇ヘルツの音を三〇秒間だ。実験協力者のなかには、 顔をしかめたり目を白黒させたりする人もいた。  この金切り声を聞かせたあと、仮定の選択という形にしたアンカリング用の質問をした。「も し現金(第一グループならI〇セント、第ニグループなら九〇セント)が支払われるとしたら、 同じ経験を繰り返す意思がありますか?」実験協力者がアンカリング用の質問に答えると、コン ピューター画面には、最低いくらもらえるなら同じ音をもう一度聞いてもいいかという質問が現 われる。今度の質問は仮定ではなく現実のものだ。答える金額によって、その音を実際にもう一 度聞くかどうか、そして報酬を手にするかどうかが決まる。  実験協力者は、金額を入力すると、すぐに結果を知らされる。入力した額が十分安かった場合、 その音を「勝ちとり」、もう一度聞くという(不愉快な)機会と報酬を手にする。金額が高すぎ た場合、音を聞くことはなく、その分の報酬もない。  なんのためにこんな実験をしたかというと、こちらが提示した最初の価格(一〇セントか九〇 セント)がアンカーになるかどうかを調べるためだ。結果は、たしかにアンカーになっていた。 最初にI〇セントで音を聞くかどうかという仮定の決断を迫られた人たちのほうがはるかに安い 報酬でもう一度聞いてもいいと答え(平均三三セント)、最初に九〇セントで音を聞くかどうか という仮定の決断を迫られた人たちは、同じ不快な経験をするのにその二倍以上の報酬を求めた  (平均七三セント)。これが最初に提示した価格のもたらしたちがいだ。  しかし、ここまでは研究のほんの第一段階にすぎない。わたしたちはさらに、このアンカーが 未来の決断にどれだけの影響力を持つかを調べたかった。このアンカーを捨てて、べつのアンカ ーに乗りかえる機会を実験協力者に与えたらどうなるだろう。新しいアンカーにくらがえするだ ろうか。ガンのひなで言えば、最初の刷りこみのあと、池を泳いでいる途中で出くわしたべつの 親鳥に忠誠心を移したりするか、という話だ。ガンのひなの場合、あくまで最初の親鳥に忠実な ことはご存じだろう。だが人間の場合はどうなのか? 実験のつぎのふたつの段階がこの疑問に 答えてくれるはずだ。  実験の第二段階では、先ほどのI〇セントのグループと九〇セントのグループの両方に、ザー   *実験協力者が不快な音を聞く報酬として答える額がたしかに最低額であることを保証するために、「BDM(Becker-    DeGroot-Marschak)法」を用いた。これはオークションのような方法で、それぞれの実験協力者は、無作為に価格を表    示するコンピューターを相手に競争入札する。 というホワイトノイズを三〇秒間聞かせた。その後、「もし五〇セントが支払われるとしたら、 同じ経験を繰り返す意思がありますか?」と質問し、コンピューターの「イエス」か「ノー」の ボタンを押してもらった。  つぎに、「では、報酬をいくらもらえば承知できるか、その金額を教えてください」と質問し た。実験協力者が最低金額を入力し、コンピューターがしかるべき仕事をすると、要求した金額 によって、実験協力者はもう一度音を聞いて報酬を受けとったり、そうでなかったりした。入力 された金額を比較したところ、一〇セントのグループは、九〇セントのグループよりはるかに低 い金額を要求したことがわかった。つまり、どちらのグループも、焦点であるアンカリング用の 質問(もし五〇セントが支払われるとしたら、同じ経験を繰り返す意思がありますか?)に答え ることで、同じように五〇セントを提示されたにもかかわらず、不快な音というカテゴリーの最 初のアンカー(一〇セント、または九〇セント)が優勢だったことになる。  なぜだろう。ひょっとすると、一〇セントグループの人は、こんなふうに考えたのかもしれな い。「さっきはあのいやな音を安い報酬で聞いたが、今度の音だってあれとたいしてちがわない ぞ。さっきの音に安値をつけたのだから、今度の音も同じくらいの報酬でなら聞いてもいいか」 九〇セントグループの人も似たような理屈で考えただろうが、出発点がちがったために、終着点 もちがった。このグループの人はこんなふうに思ったことだろう。「さっきはあのいやな音を高 い報酬で聞いたが、今度の音だってあれとたいしてちがわないぞ。さっきの音に高値をつけたの だから、今度の音も同じくらいの報酬でなら聞いてもいいか」まさしく、最初のアンカーの効果 は残っていた。これは、アンカーが現在の価格にも未来の価格にも影響をおよぼすことを示して いる。  この実験にはもうひとつ、第三段階がある。今度は、音高が高くなったり低くなったりを繰り 返す音を三〇秒間聞かせた。一〇セントグループには、「もし九〇セントが支払われるとしたら、 同じ経験を繰り返す意思がありますか?」と尋ね、九〇セントグループには、「もしI〇セント が支払われるとしたら、同じ経験を繰り返す意思がありますか?」と尋ねた。アンカーを入れか えることで、もっかのアンカーと最初のアンカーのどちらの影響がより大きいかを調べるわけだ。  今度も、実験協力者にはまずイエスかノーかを答えてもらい、その後、実際に求める報酬額を 尋ねた。「報酬がいくらならもう一度この音を聞いてもいいか、その金額を教えてください」こ の時点で、実験協力者にはアンカーの履歴が三つある。実験の最初に遭遇したアンカー(一〇セ ントか、九〇セント)、二番めのアンカー(五〇セント)、最新のアンカー(九〇セントか、一〇 セント)だ。音を聞く報酬として要求した金額にもっとも影響を与えたのはどのアンカーだろう。  今度も実験協力者はこう自問したようだ。「最初の音は×セントで聞いたし、二番めの音も× セントで聞いたのだから、今度の音だってもちろん×セントでいいさ」そして、そのとおりに行 動した。最初にI〇セントのアンカーに遭遇した人たちは、アンカーとして九〇セントが提示さ れたあとも、低い報酬を受けいれた。一方、最初に九〇セントのアンカーに遭遇した人たちは、 その後にちがうアンカーが提示されてもはるかに高い報酬を要求しつづけた。  この実験でわかったことは、最初の決断がその後の決断にのちのちまで余韻を残すということ だ。第一印象は重要だ。初期のDVDプレーヤーがいまよりずっと高価だったことを覚えている  (そして、それに比べれば、現在の価格など破格の安さだと感じる)場合にも、かつてはガソリ ンがIガロンあたりIドルだったことを覚えている(そして、ガソリンスタンドに行くたびにつ らい思いをする)場合にも言える。いずれの場合も、どこかで偶然に(あるいはそれほど偶然で なく)遭遇し、判断に影響を与えたアンカーが、最初の決断のずっとあとまで離れずに残ってい る。 自分自身に群れつどう  人間もガンのひなと同じように行動するとわかった以上、最初の決断がどのような過程を経て 長期の習慣に変わるのかを理解することが重要になる。この過程を具体的に説明するために、つ ぎの例を考えてみたい。レストランの前を通ったら、ふたりの人が席が空くのを待って外に並ん でいたとする。あなたは心のなかで、「これはいいレストランにちがいない。人が並んで待って いるくらいだもの」と考え、ふたりの後ろに並ぶ。そこへまた人がやってくる。その人も行列を 見ると、「すばらしいレストランにちがいない」と考えて列の後ろに並ぶ。ほかの人たちも同じ ように列に加わっていく。このような行動を(Iディング((Iドーーは「群集」の意味)という。 他人が前にとった行動をもとにものごとの善し悪しを判断して、それにならって行動するときに 起こる。  しかし、(Iディングには、わたしたちが「自己「Iディング」と呼んでいるべつの種類のも のがある。これは、自分が前にとった行動をもとにものごとの善し悪しを判断するときに起こる。 要するに、一度レストランの行列の先頭になってしまえば、その後の経験でも自分の後ろに並ぶ ようになるということだ。わかりにくいと思うので、少し説明しよう。  はじめてスターバックスに行ったときのことを思いだしてもらいたい。おそらく数年前のこと だろう。ある午後、眠気に襲われたあなたは、仕事に取りかかるためのエネルギーを補給する液 体がどうしても欲しくなる。通りがかったスターバックスの窓から店内をのぞいて、はいってみ ることにした。コーヒーはぎょっとするほど高かった。何年も飲みつけているダンキンドーナツ のコーヒーとは比べものにならない値段だ。それでも、もう店内にはいってしまったことだし、 こんなに値の張るコーヒーの味にも興味があったので、ものはためしと、小さいサイズのコーヒ ーを注文する。そして、その味と効果を存分に堪能して店をあとにする。  翌週、あなたはまたスターバックスの前を通りかかる。立ち寄ろうか? 理想的な意思決定を するには、コーヒーの品質(スターバックス対ダンキンドーナツ)、ふたつのコーヒーの価格、 そしてもちろん、もう数ブロック歩いてダンキンドーナツまで行く手間(または価値)を考慮す べきだろう。ただし、これは複雑な計算になる。そこで、簡単な決定法に頼る。「前にもスター バックスにはいって、気持ちよくコーヒーを楽しんだのだから、これはわたしにとっていい決断 にちがいない」というわけで、店にはいってまた小さいサイズのコーヒーを注文する。  こうすることで、あなたは自分自身の後ろに並んで、行列の二番めの人になったわけだ。数日 後にまたスターバックスの前を通ったときには、過去に自分がくだした決断をはっきり覚えてい て、今度もそれに従って行動する。あなたは自分自身の後ろに並んで、列の三番めの人になる。 何週間かたつうちに、繰り返し店に通いつめ、そのたびに自分が好きでそうしているのだという 思いが強まっていく。こうして、いつのまにかスターバックスでコーヒーを買うのが習慣になっ ている。  ところが話はここで終わらない。コーヒーに高いお金を出すことに慣れ、新しい消費曲線にみ ずからを押しあげたいま、あなたはほかの変化にももっと寛容になっている。ひょっとすると、 ニドルニ○セントの小サイズから、三ドル五〇セントの中サイズや、四ドルー五セントの大 サイズにレベルアップするかもしれない。この価格帯がいつのまにあたりまえになったのかはわ からなくても、もっと大きいサイズのそれなりの値段のコーヒーに格上げするのは、わりあい論 理的に思える。スターバックスのほかのメニュー(たとえば、カフェアメリカーノ、カフェミス ト、マキアート、フラペチーノなど)に横すべりするのも論理的に思えてくる。  もしここでちょっと立ちどまって考えれば、ダンキンドーナツの安いコーヒーや、さらには職 場の無料コーヒーを飲むかわりに、ほんとうにスターバックスのコーヒーにこれだけの出費をし つづけるべきなのだろうかといぶかる気持ちもわくだろう。だが、もうあなたはこんなことをあ れこれ考慮したりしない。過去に何度も同じ決断をしてきたのだから、これこそ自分の望むお金 の使い道だと思いこんでいる。あなたは自分自身に群れつどって((Iディング行動)、スター バックスでの最初の経験の後ろに並び、群集の一部になったのだ。 スターバックスの成功  しかし、この話にはおかしなところがある。アンカリングが最初の決断にもとづいているとい うなら、そもそもスターバックスはどうやって最初の決断になりえたのだろう。わたしたちがそ れ以前にダンキンドーナツの値段にアンカリングされていたのなら、どんな仕組みでアンカーが スターバックスに移ったのだろう。ここからがほんとうにおもしろい話になる。  現在のスターバックスを興した(ワードーシュルツは、サルバドールーアセールと同様に直観 力のある実業家だった。価格ではなく雰囲気の点で、スターバックスをほかのコーヒーショップ とは一線を画する店にすることに力を注いだ。そのために、当初からヨーロッパのコーヒー(ウ スのような雰囲気を醸しだすよう構想を練った。  初期の店は、炒りたての豆の香り(しかもダンキンドーナツより高品質の豆の香り)が立ちこ めていた。しゃれたコーヒープレスを売り、陳列ケースにはアーモンドクロワッサンやらビスコ ッティやらラズベリーとカスタードのペストリーやらの見栄えのする軽食を並べた。ダンキンド ーナツには、スモール、ミディアム、ラージのコーヒーしかなかったが、スターバックスでは、 ショート、トール、グランデ、ペンティのサイズがあり、カフェアメリカーノ、カフェミスト、 マキアート、フラペチーノなどの高貴な名前の飲み物を売った。つまり、入店の経験がほかとは ちがったものになるように、できることをすべてやった。ほかとはかけ離れた経験にすることで、 わたしたちがダンキンドーナツの価格をアンカーに使わずに、かわりにスターバックスが用意し た新しいアンカーをすんなり受けいれるように全力をつくしたのだ。これがスターバックスの成 功におおいに貢献している。 マイナスをプラスに変える  ジョージもドレーゼンもわたしも恣意の一貫性の実験結果に色めきだち、この考えをもう一歩 進めてみることにした。今度の実験にはまたちがったひねりを加えた。  『トムーソーヤーの冒険』の有名なエピソードを覚えているだろうか。ポリーおぱさんに塀のペ ンキ塗りを言いつけられたトムが、それを利用して友だちを丸めこもうとしたあのエピソードだ。 ご存じのとおり、トムはいかにも楽しそうにペンキを塗って、この仕事がおもしろくてたまらな いふりをする。そしてこう友だちに話す。「これが雑用だって? 塀を塗るなんて、おれたち子 どもがそう毎日やらせてもらえることじゃないだろう?」この新しい「情報」を得たトムの友だ ちは、塀塗りのおもしろさを発見する。まもなく、友だちは塀塗りをさせてもらうためにトムに お金を払いはじめ、それだけでなく、この作業をほんとうに楽しむようになる。双方に有利な結 果というものがあるなら、これはまさにその一例だ。  わたしたちの観点からすると、トムはマイナスの事態をプラスの事態に一変させたと言える。 報酬を求められそうな状況を一変させ、人々(トムの友だち)が遊びに参加しようと逆にお金を 払う状況にした。これと同じことがやれないだろうか? わたしたちはためしてみることにした。  学生はさぞ驚いただろうが、ある日わたしは、経営心理学の講義の冒頭に詩を朗読した。ウォ ルドーホイットマンの詩集「草の葉」の「今ぽくを引きとめる君が誰であろうと」の一部だ。   今ぼくを引きとめる君が誰であろうと、   一つのことを欠いてはいっさいが徒労となろう、   君がこれ以上ぽくに言い寄らぬうちにとっくり言って聞かせておくが、   ぼくは君の想像とは大違い、似ても似つかぬしろものだ。   ぽくの弟子になりたがっている者は誰だ、   ぽくの愛情欲しさに公然と名乗り出てくる者は誰だ。   道は危険で、結果も不確か、もしかしたら破滅にさえなりかねぬ、   それに余事はいっさい捨てねばならぬ、ただぽくだけが君の唯一無二の規範になってやれる、   それでも君の見習い期間は長く、苦しく、   君の過去の人生観、君のまわりの世間へのすべての順応はきれいさっぱり捨てねばなるまい、   だからもうこれ以上苦しむことにならぬうち、    さあぼくを放したまえ、ぽくの肩から手をはずし、   ぼくを置いて好きなところへ旅立ちたまえ。                    (「草の葉(上)」より引用。〔全3巻〕酒本雅之訳、岩波文庫)  わたしは本を閉じ、学生たちに伝えた。金曜日の晩、わたしはウォルドーホイットマンの「草 の葉」から三つの詩を朗読する。短い詩、中くらいの詩、長い詩を一篇ずつ読む予定でいる。狭 い会場だから、参加者を決めるためにオークションをすることにした。ここまで話してから、席 を確保するための入札額を書いてもらう用紙を配った。だが、入札の前に、学生たちにひとつ質 問をした。  半数の学生には、仮定の話として、一〇分間の朗読にI〇ドル払う意志があるかどうかを尋ね て、答えを杳いてもらった。あとの半数には、仮定の話として、わたしがI〇ドル払ったらI〇 分間の朗読を聴いてもいいかどうかを尋ねた。  もちろん、これがアンカーの役目を果たす。ここでいよいよ、朗読会の参加権に入札してもら った。はたして最初のアンカーは入札額に影響を与えただろうか。  答えの前に、ふたつ考慮してもらいたいことがある。第一に、わたしが詩を朗読する技術は一 流でもなんでもない。一〇分間朗読して人さまにお金をもらおうなどというのはおこがましいに もほどがあるというものだ。第二に、半数の学生には朗読会に参加するためにお金を出すかと尋 ねたが、学生たちはそのように入札しなけれぱならなかったわけではない。立場を逆転させて、 こちらに支払いを要求することもできた。  では、いよいよ結果を発表しよう。ダラララララ……(ドラムの音)。仮定の質問で、わたし にI〇ドル払うかどうか答えた学生たちは、なんと実際に参加権にお金を出す気になっていた。 平均して、短い詩に約一ドル、中くらいの詩に約ニドル、長い詩に三ドル余り支払うと申しでた  (これなら、大学に勤めなくても生計が立つかもしれない)。  だが、一〇ドル払うのではなく、わたしからI〇ドル受けとるとアンカリングされた学生はど うだろう。予想どおりかもしれないが、学生たちは支払いを求めた。平均して、短い詩を聴くの にIドル三〇セント、中くらいの詩を聴くのにニドル七〇セント、長い詩をがまんするのに四ド ルハ〇セントを要求した。  とすれば、ちょうどトムーソーヤーのように、わたしはどちらにも解釈できる状況をつくりだ し(もしわたしの詩の朗読を聴く機会があれば、いかにどっちつかずの状況かあなたも実感する にちがいない)、それを恣意的に喜ばしい経験やつらい経験にすることができたわけだ。どちら のグループの学生も、わたしの詩の朗読がお金を払ってでも聴く価値のあるレベルなのか、お金 をもらえるなら聴いてやってもいいレベルなのかわからなかった(学生たちはそれが喜ばしいこ となのか、つらいことなのかわからなかった)。ところが、わたしにお金を払うべきか、あるい は自分が受けとるべきかという第一印象がいったん形成されると、さいは投げられアンカーが定 まる。さらに、最初の決断がなされると、その後は、論理的かつ一貫性があるように思える形で ほかの決断もなされるようになる。学生たちは、わたしの朗読を聴くのがいい経験か悪い経験か わかっていなかったが、最初にどう決断をくだしたにせよ、その決断をのちの決断の指針として、 三つの詩の朗読について一貫性のある反応のパターンを示した。  もちろん、マークートウェインは同じ結論に達していた。、トムがもしこの本の作者のように 偉大な賢い哲学者だったら、仕事というのは人がやらなければならないことであり、遊びという のは人がやらなくてもいいことであると理解したことだろう。〈中略〉イギリスには、夏になる と四頭立ての客馬車で毎日三〇キロも四〇キロも移動する金持ちがいる。ひどくお金がかかって、 金持ちにしかできないことだからだ。もしこれに賃金を払うと言われたら、金持ちの特権だった ものが仕事に変わってしまい、だれもこんなことをしなくなるだろう‰ 最初の決断は一時かぎりのものではない  このように考えることで何か見えてくるだろう。ひとつには、ささいなものから重大なものま で、わたしたちの選択にアンカリングが関係していることがわかる。わたしたちは、さまざまな ことをすべきか否か決断する。ビッグマックを買うか、タバコを吸うか、赤信号を無視するか、 休暇をパタゴニアで過ごすか、チャイコフスキーを聴くか、博士論文に打ちこむか、結婚するか、 子どもをもうけるか、郊外に住むか、共和党に投票するか。経済理論によれば、こうした決断は 基本的な価値観−好きか嫌いかIにもとづいてなされる。  だが、これまで紹介した人生に関する実験からはどんな教訓が得られただろう。まさかこれほ ど注意深く築いてきた人生が、ほとんど恣意の一貫性の産物にすぎないのだろうか。過去のどこ かで恣意的な決断をし(ガンのひながローレンツを里親にしたように)、以来ずっと、最初の決 断が賢明だったと思いこんで、それを基盤に人生を築いているのだろうか。わたしたちは、そん なふうにして職業や結婚相手や服装や髪型を選ぶものなのか。そもそも最初の決断は賢明だった のか。それとも、偶然に遭遇した第一印象が勝手気ままにふるまった部分があるのか。  デカルトは、コギトーエルゴースムー。我思う、ゆえに我あり・と言った。しかし、人間と いうものが、最初に何も知らずにたまたまとった行動の総体でしかないとしたらどうだろう。   *この鋭い指摘については、社会規範と市場規範の章(4章)でふたたびとりあげる。  こうした問いは難問かもしれないが、個人の人生について言えば、不合理な行動は改善できる。 まず、みずからの弱点を自覚するところからはじめればいい。たとえば、最新型の携帯電話(三 〇〇万画素、八倍ズームのデジタルカメラ付きの機種)なり、いつもの四ドルのグルメコーヒー なりを買おうと思っているとする。この習慣に疑問を持つところからはじめてはどうだろう。こ の習慣はどんなふうにはじまったのか。つぎに、この習慣からどれだけの満足を得られるか自問 してみる。思っていたのと同じだけの満足が得られるだろうか。少し節約して、残ったお金を何 かべつのことに使ったほうがよくないだろうか。もっと言えば、何をするにつけても、自分が繰 り返ししている行動に疑問を持つよう訓練すべきだ。携帯電話なら、最新型よりひとつ前の機種 にして出費を抑え、浮いたお金をほかのことにまわしてはどうだろう。コーヒーなら、きょうは どのブレンドにしようかと考えるかわりに、そもそも高価なコーヒーを毎日飲む習慣をつづけて いていいのかと自問すべきだ。  また、これから先、長いあいだ同じ決断をしつづけそうなことがら(服装、食べ物など)につ いて最初の決断をくだすときも特別な注意が必要だ。そのような場面に出くわしても、これは一 回かぎりの決断であって、たいした結果を招くことはないと思うかもしれない。だが実際は、最 初の決断の持つ力は、その後何年にもわたって未来の決断に影響を与えるほど長くあとを引くこ ともある。これだけの効力をもつのだから、最初の決断はきわめて重要であり、十分な注意を払 うべきだ。  ソクラテスは、吟味されない人生は生きる価値がないと言った。わたしたちもそろそろ、自分 の人生における刷りこみやアンカーをよくよく検討していいころだ。その刷りこみやアンカーが かつてはまったく合理的だったとしても、いまも合理的とはかぎらない。ひとたび普の選択を考 えなおせぱ、新しい決断に、そして新しい一日の新しいチャンスに気持ちを向けられるようにな る。 需要と供給の力  しかし、アンカーやガンのひなの話には、消費者の選好だけでなくもっと大きい意味合いがあ る。伝統的な経済学では、製品の市場価格はふたつの要素の均衡で決まると考える。ふたつの要 素とは、各価格における生産量(供給)と、購買力のある人たちの各価格における購買意欲(需 要)である。このふたつの力が交わる価格が、市場での価格を決める。  明快な概念ではあるが、ふたつの力が独立したものであり、このふたつの作用で市場価格が決 まるという仮定に大きく依存している。本章で紹介した実験は(恣意の一貫性そのものの基本概 念も)、すべてこの仮定に疑問を呈している。第一に、ふつうの経済学の枠組みによると、消費 者の支払い意思は、市場価格を決定するふたつのデータのうちのひとつだ(これが需要)。とこ   *わたしは何も、毎日一杯の(あるいは数杯の)うまいコーヒーにお金を使うことが悪い決断だと主張したいわけではない。    ここで言わんとしているのは、自分の決断に疑問を持つべきだということだ。 ろが、わたしたちの実験が示すように、消費者が支払ってもいいと考える金額は簡単に操作され てしまう。つまり、消費者はさまざまな品物や経験に対する選好や支払い意思額を自分の思いど おりには制御できていない。  第二に、ふつうの経済学の枠組みでは、供給と需要の力が互いに独立していると仮定するが、 本章で紹介した種類のアンカリングの操作は、実際にはふたつが互いに依存していることを示し ている。実世界でのアンカリングは、業者の希望小売価格、広告価格、マーケティング、製品の 市場投入などからつくられるものであり、これはすべて供給側の変数だ。消費者の支払い意思が 市場価格を左右しているのではなく、因果関係がやや逆転して、市場価格そのものが消費者の支 払い意思を左右しているように見える。これは、需要が供給と完全に切りはなされた力ではない ことを意味する。 需要におけるアンカリング効果  しかも話はここで終わらない。恣意の一貫性の枠組み内では、わたしたちが市場で見かける需 要と供給の関係(たとえば、安売りのときにヨーグルトを多めに買うなど)は、選好ではなく記 憶にもとづいている。具体的に説明しよう。現在あなたが消費している牛乳とワインの量を思い うかべてもらいたい。さてここで、明日から新しく二種類の税が導入されるとする。ひとつはワ インの値段を五〇パーセント引きさげ、もうひとつは牛乳の値段をI〇〇パーセント引きあげる ことになる。何が起こるだろうか。値段の変化は消費に影響を与え、多くの人々は前より少し陽 気になり、前より少しカルシウム不足になって歩きまわるようになるにちがいない。だが、こん な場合はどうだろう。新しい税金が、これまでのワインと牛乳の値段を忘れる誘発性健忘症とセ ットで導入されたら? 値段は先ほどと同じように変化しても、ワインと牛乳にこれまでいくら 払っていたか覚えていないとしたらどうなるだろう。  人々がそれまでの値段を覚えていて値段があがったことに気づけば、値段の変化は需要に大き な影響を与えることだろう。一方、過去の値段を覚えていなければ、値段の変化はたとえ需要に 影響を与えるにしてもごくわずかだろう。過去の値段をまったく覚えていなければ、牛乳やワイ ンの消費量は、まるで値段の変化などなかったかのように、基本的には変わらないはずだ。値段 の変化に対してわたしたちが示す感応度は、真の選好や需要の度合いの反映などではなく、過去 に支払った金額の記憶と、過去の決断との一貫性を維持したいという願望によるところが大きい のかもしれない。  政府がある囗ガソリンの値段を倍増させる税を課そうと決めた場合にも同じ基本原則があては まる。従来の経済理論によれば需要が減るはずだ。だが、そうだろうか。なるほど、はじめのう ちは新しい値段を自分のアンカーと比べ、新しい値段にめんくらって、ガソリンの消費を節約し たり、人によっては(イブリッド車に乗りかえたりするだろう。しかし、長い目で見ると、消費 者が新しい値段と新しいアンカーに再順応しさえすれば(ナイキのシューズや水のペットボトル など、どんなものの値段にも順応してきたように)、新しい値段でのガソリン消費量は、税が課 される以前のレベルに近づくだろう。さらに、スターバックスの例のように、値段の変化ととも に、新しい規格のガソリンや新しい種類の燃料(トウモロコシ由来のエタノール燃料など)のよ うなほかの変化も導入されれば、再順応にかかる時間は短縮されるかもしれない。  わたしはけっして、ガソリンの値段を倍にしても消費者の需要に影響はないと言いたいわけで はない。だが長期的に見れば、需要への影響は、価格上昇に対する短期的な市場の反応をただ観 察して得られる予想よりはるかに小さいはずだ。 自由市場とアンカリング  恣意の一貫性がもつべつの意味合いは、自由市場や自由貿易の利点とされるものと関係がある。 自由市場の基本概念は、わたし以上にあなたが価値を見いだしている何かIたとえばソファー ーをわたしが持っているとき、それを売買することが互いの利益になるというものだ。つまり、 売買の双方の利益は、市場に参与するすべての人が自分の所有物の価値と売買で手に入れたい品 物の価値を把握しているという仮定に支えられていることになる。  しかし、実験で見たように、わたしたちの選択がたまたま遭遇した最初のアンカーに影響され ることが少なくないとすれば、わたしたちのする選択も売買も、その品物から実際に得られる満 足や効用を正しく反映しているとはかぎらない。言いかえると、個々の品物から得られる満足度 をかならずしも反映しない決断を市場でおこなっている場合が多い。もし自分の満足度を正確に は計れず、かわりに恣意的なアンカーにたびたび従ってしまうのなら、売買のチャンスがあるか らといって、より幸せになるとは言いきれなくなる。たとえば、最初のよくないアンカーのため に、ほんとうは多くの満足を与えてくれる(が、残念ながら最初のアンカーが低い)ものを、そ れほど満足を与えてくれない(が、何か偶発的な事情のせいで最初のアンカーが高かった)もの と誤って交換してしまうかもしれない。もしアンカーや、アンカーの記憶−選好ではないI がわたしたちの行動を決めるのなら、個人の幸せ(効用)を最大にする鍵として売買や交換を歓 迎する意味があるだろうか。  では、どうすればいいのか。最適な市場価格を設定する役目を市場の需要と供給という力には 任せられず、自由市場の仕組みが効用を最大にする助けになりそうにないなら、ほかの場所を探 すしかないのかもしれない。保健、医療、水、電気、教育といった社会に不可欠なものの場合は とくにそうだ。市場の力と自由市場がいつも市場をうまく調節できるわけではないという前提を 受けいれるなら、政府(願わくば分別のある思慮深い政府)がもっと大きな役割を果たして、た とえ自由企業体制を制限することになっても市場活動を部分的に調節するべきだと考える人たち の仲間入りをすることになるかもしれない。たしかに人間がほんとうに合理的なら、需要と供給 にもとづいた摩擦のない自由市場は理想だ。とはいえ、わたしたちは合理的ではなく非合理的な のだから、政策もこの重要な要素を考慮すべきではないだろうか。   3章   ゼロコストのコスト   なぜ何も払わないのに払いすぎになるのか 無料−・の力  普段コーヒーは飲まないし、コーヒーをいれる器具さえないのに、コーヒー豆の無料I・クーポ ンに思わず飛びついたという経験はないだろうか。食べすぎて胃が痛くなりはじめているのに、 食べ放題のビュッフェで無料−・の料理を何度もおかわりした経験は? あるいは、役に立たない 無料1・の品々がどんどんたまってはいないだろうか。ラジオ局の宣伝用Tシャツ、バレンタイン デーのチョコにおまけでついてきたクマのぬいぐるみ、保険会社が毎年送ってくるカレンダーな  無料で何かが手にはいるといい気分になることはだれでも知っている。じつは、値段ゼロは単 なる価格ではない。ゼロは感情のホットボタン、つまり引き金であり、不合理な興奮の源なのだ。 あなたなら、五〇セントのものが二〇セントに値下げされていたら買うだろうか? かもしれな い・五〇セントのものがニセントに値下げされていたら買う? かもしれない。では、五〇セン トのものがゼロに値下げされていたら飛びつく? もちろん1。  ゼロコストの何かこれほどわたしたちを引きつけるのだろう。どうして無料‐・でこんなに幸せ な気分になれるのだろう。それでいて、無料!のせいで厄介なことになる場合もある。まったく 買うつもりのなかったものが、無料¶・になったとたん、びっくりするほど魅力的になるからだ。 たとえば、イベントで配っている無料の鉛筆やキーホルダーやメモ帳をどっさりもらって、苦労 して家まで持ち帰ったあげく、大半を捨ててしまったということはないだろうか。無料のアイス クリームをひとつもらうためだけに、長時間(あまりにも長時間)行列に並んだことは? ある いは、ふたつも買うつもりはなかったのに、三つめを無料でもらいたいがために、同じものをふ たつ買ったことは? ゼロの歴史  ゼロの歴史は長い。ゼロの概念を発明したのはバビロニア人だ。古代ギリシヤ人たちは、高尚 なことぱでゼロについて議論した(どうして何かが何もないことがありえるのか?)。古代イン ドの学者ピンガラは、ゼロと数字の1を組みあわせて二進数をつくった。マヤ人もローマ人も記 数法にゼロを使っていた。しかし、ゼロがほんとうに居場所を見つけたのは、西暦四九八年ごろ、 インドの天文学者アリヤバータが、ある朝ベッドから起きあがって叫んだときだ。「スタナム・ スタナムーダシヤーグナム」−「値がI〇倍で位から位へ」とでも訳せるだろう。このとき十 進法の位取り記数法の概念が生まれた。あとはとんとん拍子だ。ゼロはアラブ世界に広がって繁 栄をきわめると、イベリア半島を通ってヨーロッパに達し(スペインのムーア人のおかげだ)、 イタリア大に少し手を加えられた。ゼロはやがて、大西洋を横断して新世界に伝わり、ついには シリコンバレーと呼ばれる場所で(数字のIとともに)山ほどの仕事にありつくことになった。  ゼロの小史を語るのはこのくらいにしておこう。しかし、お金にあてはめたときのゼロの概念 となると、これほどはっきりとは知られていない。歴史さえあるかどうか怪しいものだ。それで も、無料−・には重要な意味合いがある。これは値下げやマーケティングの話だけでなく、無料1・ をどう使えば自分や社会の利益につながる決断に役立つかという話にもかかわってくる。  もし無料1・がウィルスや素粒子だったら、電子顕微鏡でレンズの下の物体をじっくり調べたり、 いろいろな化合物で染色して性質をあきらかにしたり、何かしらの方法で薄くスライスして内部 構造を探ったりするだろう。しかし、行動経済学ではもっとちがう道具を使う。人間の行動のペ ースを遅らせて、ひとコマずつ順を追って調べられるようにする道具だ。もう察しはついている ことと思うが、その方法は「実験」と呼ばれている。  「無料!」の力をチョコレートで示す  わたしはある実験で、クリスティーナーシヤンパニア(MITの博士課程の院生)、ニーナ・ メイザー(トロント大学の助教)とともに、チョコレートの商売をはじめた。まあ、それらしき ものということだ。わたしたちは、大きな公共の建物へ行ってテーブルを出し、リンツのトリュ フと(Iシーのキスの二種類のチョコレートを用意した。テーブルの上には、「おひとりさま、 ひとつまで」と杳いた大きな張り紙を掲げた。お客がそばまで来れば、二種類のチョコレートと その値段が目にはいる。  チョコレート通ではない読者のために説明しておくと、リンツというのは、高級カカオをヱ( ○年間ブレンドしつづけているスイスの会社のチョコレートだ。トリュフはとくに評判がよく、 とろけるようにまろやかで、思わず手を伸ばさずにはいられない。まとめ買いすると、一個あた り三〇セントほどになる。一方、(Iシーのキスチョコは小粒のおいしいチョコレートだが、率 直に言うと、どこにでもあるごく普通のチョコレートだ。(Iシーでは一日に八〇〇〇万個のキ スチョコレートを製造している。ペンシルベニア州の(Iシーでは、なんと街灯さえおなじみの (Iシーのキスチョコの形をしている。  さて、「お客」がぞくぞくとテーブルに集まってきて、どうなったか。リンツのトリュフを一 五セント、キスチョコをIセントに設定したときは、予想どおり、お客はいかにも合理的に行動 した。みんな、キスチョコとトリュフの値段と品質を比較してから、どちらかを選んだ。およそ 七三パーセントがトリュフを買い、二七パーセントがキスチョコを買った。  ここでいよいよ、無料1・によって状況がどう変わるか調べることにした。今度はリンツのトリ ユフを一四セント、(Iシーのキスチョコを無料で提供した。はたしてちがいは出るだろうか? 出るに決まっている? しょせんどちらのチョコレートもIセントずつ安くなっただけなのに?  いやはや、無料!がどれはどのちがいを生んだことか。つつましい(Iシーのキスチョコは一 躍大人気になった。ほぼ六九パーセントのお客が(前は二七パーセントだった)、無料―・のキス チョコを選び、格安でリンツのトリュフを手に入れる機会を棒に振った。リンツのトリュフのほ うは人気ががた落ちし、こちらを選んだお客は七三パーセントから三一パーセントに減った。  いったい何が起きたのだろう。はじめに言っておくが、無料−・の品物を手に入れるのが理にか なっている場合も多い。たとえば、デパートのワゴンに無料のスポーツ靴下が積まれていたら、 つかめるだけつかんだところで何も損になることはない。重大な問題が生じるのは、無料!のた めに、無料の品物とそうでない品物の板ばさみになるときだ。この葛藤に陥ると、無料1・のせい でまずい決断をしてしまう。たとえば、白靴下を買いにスポーツ店へ行くとする。欲しいのはか かとが二重になっていて、つま先に補強のある靴下だ。ところが、一五分後に店から出てきたあ なたは、買うつもりだった靴下ではなく、もっと安い靴下を手にしている。気に入ったわけでは ないが(かかとが二重でもなくつま先の補強もない)、二足組みで二足めが無料!だったからだ。 これは、無料−・につられて、いいほうの買い物を放棄し、自分の欲しかったものとはちがうもの   *値段は、お客がテーブルに近づいてはじめて見えるようにした。異なる条件で異なる種類の人をひきっけていないことを    保障することで、自己選択というバイアスを避けるためだ。 を選んでしまった例だ。  これを再現するために、チョコレートの実験では、キスチョコかトリュフのどちらかひとつし か選べないとお客に伝えた。二種類のスポーツ靴下からひとつを選ぶのと同じ、二者択一の決断 だ。無料1・のキスチョコに対するお客の反応をこれほど劇的にしたのは、この二者択一である。 どちらのチョコレートも同じ金額だけ値下げした。ふたつの相対的な価格差は変化していないし、 それぞれから得られるだろう満足度も変わっていない。  とすれば、ふつうの経済理論(単純な費用便益分析)では、この値下げによってお客の行動に 変化は起きないはずだ。はじめは、およそ二七パーセントがキスチョコを選び、七三パーセント がトリュフを選んでいだ。値下げ後も相対的には何も変わっていないのだから、値下げしてもお 客の反応はまったく同じはずだ。もし経済学者が通りがかったら、杖を振りまわしながら従来の 経済理論を擁護して、状況のすべてが同じなのだから、お客は同じ選好の差によってトリュフを 選ぶはずだと言うにちがいない。  ところがどうだろう。人々はテーブルに押しよせ、われ先にと人を押しのけて(Iシーのキス チョコをつかみとった。それも事前に理路整然たる費用便益分析をしたからではなく、たんにキ スチョコが無料1・だったからだ。わたしたち人間というのは、なんと奇妙な(しかし予想どおり の)生き物なのだろう。  ちなみに、この結論はほかの実験にも同じようにあてはまった。そのひとつは、(Iシーのキ スチョコの値段をニセント、一セント、○セントと変え、同じようにトリュフの値段を二七セン ト、二六セント、二五セントと変えておこなった実験だ。この実験では、キスチョコをニセント からIセントに値下げし、トリュフを二七セントから二六セントに値下げした場合も、それぞれ の買い手の割合にちがいが出るか調べたが、ちがいは見られなかった。しかし、キスチョコを値 下げして無料にしたとたん、やはり劇的な反応が見られた。お客は圧倒的にキスチョコを欲しが ったのだ。  わたしたちは、実験にかたよりがあったのではないかと考えた。お客たちはバッグやリュック から小銭を出すのがめんどうだったのかもしれないし、お金を持ちあわせていなかったかもしれ ないからだ。このような場合、無料サービスは実質以上に魅力的に見えてしまうだろう。この可 能性を検討するため、わたしたちはMITの学生食堂でべつの実験をおこなった。この実験では、 学生食堂で通常やっているプロモーション販売のように、レジの脇にチョコレートを陳列しても らった。学生は、チョコレートが欲しければ昼食の買い物に追加して、レジを通るときいっしよ   *合理的な消費者がこのような場合にどう決断するかについての詳細は、本章の付録を参照。 に代金を支払えばいい。はたして結果はどうだったのか。学生は、それでも無料!の選択肢に殺 到した。 無料−・のほんとうの魅力  無料I・の何がこんなにも心をそそるのだろう。自分がほんとうに求めているものではなくても、 無料!となると不合理にも飛びつきたくなるのはなぜなのか。  わたしの考える答えはこうだ。たいていの商取引にはよい面と悪い面があるが、何かが無料−・ になると、わたしたちは悪い面を忘れさり、無料−・であることに感動して、提供されているもの を実際よりずっと価値あるものと思ってしまう。なぜだろう。それは、人間が失うことを本質的 に恐れるからではないかと思う。無料−・のほんとうの魅力は、恐れと結びついている。無料−・の ものを選べば、目に見えて何かを失うという心配はない(なにしろ無料なのだ)。ところが、無 料でないものを選ぶと、まずい選択をしたかもしれないという危険性がどうしても残る。だから、 どちらにするかと言われれば、無料のほうを選ぶ。  そのため、価格設定の世界ではゼロはたんなる価格とはみなされない。たしかに、一〇セント の差が需要に大きなちがいを生むこともある(何百万バレルもの石油を売っているとすれば重要 な問題だ)。しかし、無料‐・の感動にうち勝てるものは何もない。値段ゼロの効果は、単独で独 自のカテゴリーをつくっている。  なるほど、「ただで何かを買う」というのは少し矛盾した表現だ。しかし、この粘着力の強い 無料‐・のせいで、わたしたちがいかにちょくちょく罠にはまり、いらないものを買ってしまうか、 具体例をあげよう。  わたしは最近、大手の電気メーカーの新聞広告で、新しい(イビジョンDVDプレーヤーを買 えば、無料!のDVDソフトが七本もらえるというのを目にした。さて、第一に、わたしはいま すぐ(イビジョンDVDプレーヤーが必要だろうか。たぶん不要だ。もし必要だとしても、もっ と安くなるまで待つほうが賢明だろう。この手の製品は少しすれば安くなるものだ。きょう六〇 〇ドルした(イビジョンDVDプレーヤーが、あすにはもう二〇〇ドルになっている。第二に、 この特別サービスの裏にはDVDメーカーの明確な思惑がある。このメーカーの(イビジョンD VD方式は、ほかの多くのメーカーが後押ししているブルーレイ方式と熾烈な競争をしている。 現在はブルーレイが優勢だし、いずれは市場を制することになるだろう。DVDがやがては廃れ るかもしれない(ビデオのベーダ方式のように)としたら、無料−・のDVDソフトにいくら払っ たことになるだろう。以上のふたつが、無料I・の呪縛に陥らないための合理的な考え方だ。ああ、 それにしても、この無料1・DVDはなんと魅力的なのだろう。 交換が無料だとしたら?  何かが無料!で手にはいるのは、値段を話題にするかぎり、まちがいなく人を引きつける。し かし、値段が無料なのではなく、交換が無料だとしたらどうだろう。わたしたちは、無料の品物 につられるように、品物を無料で手に入れることにもつられやすいのだろうか。(ロウインを間 近に控えた数年前のある日、わたしはこの疑問を探る実験を思いついた。今回は家にこもったま までも答えが得られる実験だ。  (ロウインの夕方、スパイターマンの格好をした九歳のジョーイが、大きな黄色い袋を持って、 我が家の玄関先の階段をのぽってきた。母親もつきそっていて、だれかがかみそりを仕込んだリ ンゴを息子にわたしたりしないように見守っていた(話はそれるが、かみそりの仕込まれたリン ゴが実際に(ロウインでばらまかれたことはない。ただの都市伝説だ)。ただし母親は、ジョー イが自分ひとりで(ロウインのお菓子ねだりをしている気分になれるように、歩道で待っている。  「いたずらかお菓子か」という伝統にのっとったせりふを聞いたあと、わたしはジョーイに右手 を出すように言った。ジョーイの手のひらに(Iシーのキスチョコを三粒載せたあと、手を出し たままにしてもらって、こうつづけた。「よかったら、ここにある二本のスニッカーズのチョコ バーのうち、一本をあげよう」わたしは、小さいスニッカーズと大きいスニッカーズを見せなが ら言った。「もし、きみの手のひらに載っている(Iシーのキスチョコを一個くれるなら、小さ いほうのスニッカーズと交換するよ。もしキスチョコを二個くれるなら、大きいほうのスニッカ ーズと交換だ」  子どもが巨大なクモの格好をしているからといって、まぬけとはかぎらない。小さいスニッカ Iズはだいたい三〇グラム、大きいスニッカーズは六〇グラムだ。ジョーイは、わたしにキスチ ョコをひとつ(約四・五グラム)余計にわたしさえすれば、スニッカーズを三〇グラム分多くも らえることになる。数学に強い大人でもこの取引には頭を悩ましたかもしれないが、九歳の男の 子にとっては簡単な計算だった。大きいスニッカーズのほうを選べば、投資の六倍以上の利益  (チョコレートの正味重量にして)になる。一瞬にしてジョーイはわたしにキスチョコを二個わ たし、六〇グラムのスニッカーズを受けとって自分の袋に入れた。  瞬時にこの決断をしたのはジョーイだけではない。わたしが同じ取引を持ちかけた子どもたち は、ひとりを除いて全員がキスチョコニ個と交換に大きいスニッカーズを受けとった。  つぎに通りをやってきたのはソーイだった。白いドレスのお姫さまの格好をして、片手には魔 法の杖を、反対の手には(ロウインかぽちゃのバケツを持っている。ソーイの妹は父親に抱かれ て気持よさそうに眠っていたが、なんともかわいらしいウサギの格好だった。三人で玄関先まで やってくると、ソーイが「いたずらかお菓子かI・」と高いかわいい声をあげた。正直に言うと、 昔はときどき、「いたずらI・」といじわるな答えをしたものだ。たいていの子どもは、「お菓 子」以外の答えが返ってくるとは思いもしないらしく、キッネにつままれたような顔で棒立ちに なった。  今回は答えにお菓子をわたした。(Iシーのキスチョコ三個だ。だが、じつはいたずらのほう もこっそり用意していた。わたしはソーイに取引を持ちかけた。キスチョコー個と交換に大きい スニッカーズを受けとるのと、キスチョコと交換ではなく、無料−・で小さいスニッカーズを受け とるのと、どちらがいいか尋ねた。  ちょっと合理的な計算をすれば(それができることはジョーイが十分に証明してくれた)、小 さいスニッカーズのことはあきらめて、一個余分にキスチョコをわたし、それと引き換えに大き いスニッカーズをもらうのがいちばんの得策だとわかる。グラムで比較するなら、一個余分にキ スチョコを手放して、小さいスニッカーズ(三〇グラム)ではなく大きいスニッカーズ(六〇グ ラム)を手に入れるほうがはるかにいい。この理屈は、どちらのスニッカーズをもらうにも代償 が必要だったジョーイやほかの子どもたちにとっては単純明快だった。では、ソーイはどうした か。子どもの利発な頭で、この合理的な選択をしただろうか。それとも、小さいスニッカーズが 無料−・だったために、合理的な正答に気づけなかっただろうか。  おそらくもう予想しているだろう。そのとおり、ソーイも、同じ条件を出されたほかの子ども たちも、無料‐・のために分別をなくしてしまった。およそ七割の子どもが得な取引を放棄して、 無料1・だというだけで、それほど得でないほうの取引を選んだ。  わたしや、共同研究者のクリスティーナやニーナが、子どもにばかり意地悪していると思われ てもいけないので弁解しておくと、わたしたちはもっと大きい子どもたち、MITの学生会館に いた学生たちでも同じ実験をした。結果は、(ロウィンで見られたパターンとそっくりだった。 ゼロコストの誘引作用が金融取引だけにかぎらないのはたしかだ。それが品物であれお金であれ、 わたしたちは無料−・の引力にどうしても抵抗できないのだ。 無料−・が起こす不合理さ  なになに、自分なら無料!を制御できる気がする?  よろしい。では問題を出そう。無料でI〇ドル分のアマゾンギフト券を受けとるのと、七ドル 出して二〇ドル分のアマゾンギフト券を受けとるのではどちらがいいだろう。ぜひ即答を。あな たならどちらを選ぶ?  もし無料!のほうに飛びついたとすれば、わたしたちが以前ボストンのショッピングモールで 調査した人たちの大半と同じだ。だがよく見てもらいたい。二〇ドルのギフト券を七ドルで手に 入れれば、一三ドルのもうけになる。一〇ドルのギフト券を無料で手に入れる(一〇ドルもうけ る)より得なのはあきらかだ。不合理な行動がとられているのがおわかりだろうか。  実際に無料1・が行動にどう影響するかを示す話を紹介しよう。数年前、アマゾン(Amazon. com)は一定額以上の注文をすると無料配送になるサービスをはじめた。たとえば、一六ドル九   *わたしたちは、一ドル出してI〇ドル分のアマゾンギフト券をもらうか、ハドル出して二〇ドル分のアマゾンギフト券を    もらうかという実験もした。この場合、ほとんどの実験協力者が二〇ドル分のギフト券に飛びついた。 五セントの本を一冊買うと、三ドル九五セントの配送料がかかる。ところが、もう一冊本を買っ て合計が三一ドル九〇セントだと、配送料が無料1・になる。  人によっては(わたし自身の経験談でもあるのだが)、二冊めはべつに欲しい本ではないのに、 無料I・配送があまりに魅力的で、これを得たいがために追加の本の代金を払うのをいとわない。 アマゾン側はこのサービスをはじめたことにとても満足したが、ただ一か所、フランスだけは売 り上げがまったく伸びなかった。フランスの消費者は、ほかの国の人たちより合理的なのだろう か? それはない。そうではなく、フランスの消費者はよそとはちがう取り決めに反応していた ことがわかった。  こういうことだ。フランス支社は、一定額以上の注文で配送料を無料−・にするのではなく、一 フランにしたのだ。たったIフランーニ○円程度だ。無料1・と大してちがわないように思える が、これが大ちがいだった。現に、アマゾンがフランスでの販売促進に無料配送を加えたところ、 ほかの国と同じように売り上げが劇的に伸びた。つまり、配送料一フランー破格の値段だI はフランス人にほとんど無視されたが、無料!配送は熱狂的な反響を呼んだわけだ。  アメリカオンライン(AOL)も、数年前に時間従量制から月額固定制(毎月一九ドル九五セ ントで何時間でも利用できる)に切りかえたとき、似たような経験をした。AOLは、新しい料 金体系に移行するにあたり、需要が少し伸びると見込んでそれに対応できるよう準備した。結果、 どうなったか。AOLへの接続数は、ひと晩で一四万から二三万六〇〇〇に増え、平均接続時間 も倍増した。けっこうなことだと思うかもしれないが、そうではなかった。利用者は回線の混雑 で接続できなくなり、まもなくAOLはほかのプロバイダーから回線を借りなければならなくな った(貸す側は吹雪のときの雪かきシャベル並みの高値でAOLに回線容量を売って大喜びだっ た)。当時のAOL社長ボブーピットマンが見落としていたのは、AOLの利用者が、食べ放題 のビュッフェにいる腹ぺこの人のように無料!の誘惑に反応するという点だった。 無料‐・の経済効果  つまり、ふたつの品物からひとつを選ぶとき、わたしたちは無料のほうに過剰に反応してしま うことが少なくない。毎月五ドルの手数料がかかる当座預金口座より、無料1・の口座(特典はな し)を選ぶのではないだろうか。しかし、五ドルの口座に無料のトラベラーズチェックやら無料 のオンライン送金やらもろもろの特典がついていて、無料!の口座にはついていないとすれば、 全体として見ると結局は無料−・の口座のほうが五ドルの口座より高くっくかもしれない。同じよ うに、契約料はいらないが金利や手数料がとんでもなくかかる住宅ローンを選んだり、無料のお まけがついているというだけで欲しくもない品物を買ったりする。  わたしが最近この手の経験をしたのは車に関してだ。数年前、新車を買うことになったとき、 絶対にミニバンにすべきだということは自分でもわかっていた。それだけでなく、ホンダのミニ バンについて徹底的に研究し、すっかり詳しくなってもいた。ところが、その後、向こう三年間 のオイル交換が無料‐・という心に訴えるサービスのついたアウディが目にとまった。これにどう あらがえというのか。  正直に言うと、このアウディは赤いスポーツカータイプだったため、ふたりの幼い子どものい る、分別も責任もある父親としては抵抗がないわけでもなかった。無料のオイル交換がわたしの 考えを完全に変えさせたとは言わないが、合理的な見地からして、わたしに与えた影響は弁解で きないほど大きかったと言わざるをえない。無料のオイル交換は、無料−・というだけで、わたし にとって食らいつくに足る魅力となった。  わたしはこのアウディーと無料!のオイルーを買った(二、三か月後、高速道路を走って いるときにトランスミッションが壊れたが、それはべつの話だ)。もちろん、少し頭を冷やして 考えていれば、もっと合理的な計算ができたかもしれない。わたしの一年間の走行距離はおよそ 一万一〇〇〇キロメートルだ。オイル交換は一万五〇〇〇キロメートル走るごとに一回必要で、 一回七五ドルほどかかる。とすれば、三年間で約一五〇ドル、節約できるのは車の購入価格の約 〇・五パーセントだ。決断の根拠としてはいい理由とは言えない。しかも、これだけではすまな かった。現在、うちのアウディは、アクションフィギュア、ベビーカー、自転車など、もろもろ の子ども用品が天井までつまっている状態だ。ああ、ミニバンが欲しい。  ゼロの概念は、時間にもあてはまる。言うなれば、ある活動に費やした時間は、ほかの活動か ら奪われた時間だ。だから、無料−・でアイスクリームを試食するために四五分間並んだり、わず かな払いもどしのために三〇分かけて長い書類に記入したりすれば、その時間にやらなかったこ とというのが存在する。  わたしが気に入っている身近な例は、美術館の入場無料の日だ。美術館の入場料はたいていそ れほど高くないのに、値段ゼロのときに美術への欲求を満たすほうがはるかにわたしの心をくす ぐる。もちろん、この欲求はわたしだけのものではない。入場無料の日になると美術館は混雑す る。長い行列ができ、ほとんど何も見られないうえ、館内でも食堂でも人ごみをかきわけて移動 するのは嫌なものだ。無料1・のとき美術館に行くのがそもそものまちがいだって? もちろんわ かっている。だが、それでも行ってしまうのだ。  ゼロは食料の購入にも影響をおよぽしかねない。食品メーカーは、あらゆる種類の情報を容器 に表示することになっている。わたしたちにカロリーや脂質や食物繊維などについて知らせなけ ればならない。わたしたちは、値段ゼロに引きつけられるのと同じように、カロリーゼロや、ト ランス脂肪酸ゼロや、炭水化物ゼロにも引きつけられるのだろうか。もし同じ一般原則があては まるのなら、ペプシも「一キロカロリー」と表示するより「カロリーゼロ」と表示するほうがよ く売れるだろう。  酒場で何人かの友人と楽しく会話しているとする。ある銘柄のビールはノーカロリー、べつの 銘柄のビールは三キロカロリーだ。どちらの銘柄のほうがほんとうに軽いビールを飲んでいる気 になるだろうか。ふたつのビールのちがいはごくわずかだが、カロリーゼロのビールのほうが、 健康にいいことをしている気分を高めてくれる。おかげで気分がよくなりすぎて、フライトポテ トをひと皿注文してしまうかもしれないが。 無料−・の力を生かす  というわけで、あなたは二〇円の手数料のままで(フランスのアマゾンの配送料のように)現 状を維持することもできるし、何かを無料‐・で提供して人々の殺到を起こすこともできる。なん と強力な概念だろう。値段ゼロは単なる値引きではない。ゼロはまったくべつの価格だ。ニセン トとIセントのちがいは小さいが、一セントとゼロのちがいは莫大だ。  もしあなたが商売をしていて、この点を理解しているなら、たいしたことができる。お客をお おぜい集めたい? 何かを無料−・にしよう。商品をもっと売りたい? 買い物の一部を無料1・に しよう。  同じように、無料!を利用して社会政策を推進することもできる。人々に電気自動車を運転さ せたい? 登録や車検の手数料を安くするのではなく、手数料をなくしてしまって、無料‐・をつ くりだそう。あるいは、公衆衛生に関心があるなら、重い病気への進行を防ぐ方法として早期発 見に重点をおくことだ。人々に適正な行動−定期的な結腸鏡検査や、マンモグラフィー、コレ ステロールのチェック、糖尿病のチェックなどIをさせたい? 自己負担金をさげて検査費用 を安くするのではなく、重要な検査は無料−・にしよう。  思うに、ほとんどの政策参謀は、無料1・が手持ちのエースだということに気づいていない。ま して、その切り札をどう使うかなど考えてもいない。予算削減が叫ばれる昨今、何かを無料!に するのはたしかに直観に反している。しかし、ちょっと立ちどまって考えると、無料1・は絶大な 力を持ちうるし、それを利用するのはとても意味があるものに思える。 」  付 録 一  まず、ふつうの経済理論の理屈がこの状況にどうあてはまるか説明しよう。ふたつのチ )ヨコレートからひとつだけ選べる場合、それぞれのチョコレートの絶対的な価値ではなく、 に相対的な価値−何を得て何を放棄することになるかIを検討する必要がある。第一段 」階として、合理的な消費者は、ふたつのチョコレートの相対的な純便益(味覚の期待値か・。 ・。ら費用を引いた値)を計算し、どちらのチョコレートの純便益が大きいかにもとづいて決 y・断をくだす。リンツのトリュフが一五セントで、(IシーのキスチョコがIセントならど  うだろう。合理的な消費者は、トリュフとキスチョコから得られるだろう満足度を予想し’・   (仮に、トリュフの満足度が五〇、キスチョコの満足度が五とする)、一五セントまたは一 一。セントを支払うことからくるだろう不満度(仮に、トリュフの不満度が一五、キスチョコ の不満度が一とする)を差し引く。すると、トリュフの予想総満足度は三五(五〇マイナー  スー五)、キスチョコの予想総満足度は四(五マイナスー)になる。トリュフのほうが三一 ポイント高いため、選ぶのは簡単だ。文句なくトリュフに軍配があがる。 } どちらのチョコレートも同じだけ値下げしたら(トリュフー四セント、キスチョコ無 料)どうなるか。それでも同じ理屈が成りたつ。チョコレートの味は変わらないのだから、= 11合理的な消費者は、トリュフの満足度が五〇、キスチョコの満足度が五と予想する。変化一 1 1するのは不満度だ。この場合、合理的な消費者はどちらのチョコレートについても不満度・ 〈をさげるだろう。値段がIセントずつ(それとともに不満度もIずつ)さがったからだ。・  ここが重要だ。どちらのチョコレートも同じだけ値下げしたのだから、相対的な差は変わ  らない。今度はトリュフの予想総満足度は三六(五〇マイナスー四)、キスチョコの予想総 ‥ 満足度は五(五マイナス○)になる。トリュフのほうが三一ポイント高いため、やはり選 ・ ぶのは簡単なはずだ。文句なくトリュフに軍配があがる。 作用する力が合理的な費用便益分析の力だけなら、選択のパターンはこうなるはずだ。 わたしたちの実験結果がこれとはかけ離れていることから、何かべつなことが起きていて、 値段ゼロがわたしたちの決断に独特な役割を果たしているのはあきらかだ。   4章   社会規範のコスト   なぜ楽しみでやっていたことが、報酬をもらったとたん楽しくなくなるのか 感謝祭のできごと  あなたは義理の母親の家で感謝祭のごちそうを食べている。テーブルには特別に用意された豪 華な料理がいっぱいに並んでいる。七面鳥はこんがり焼け、手づくりの詰め物はまさにあなた好 みの味だ。子どもたちもはしやいでいる。サツマイモの料理にマシュマロが散らしてあるからだ。 妻もうれしそうだ。デザートには妻の好物の手づくりパンプキンパイが用意されている。  昼にはじめたパーティーは午後遅くまでつづいた。あなたはベルトを緩め、グラスのワインを 口にする。そして、テーブルの向こうにいる義母を敬愛のまなざしで見つめながら、おもむろに 立ちあがって財布を取りだす。「お義母さん、この日のためにあなたが注いでくださった愛情に、 いくらお支払いすればいいでしょう」あなたは真摯に言う。一同が静まりかえるなか、あなたは 手にしたお札を振ってつづける。「三〇〇ドルくらいでしょうか。いやいや、四〇〇ドルはお支 払いしないと」  ノーマンーロックウェルが描きそうな感謝祭のひとコマとはとても言えない。ワインのグラス が落ち、義母が顔を真っ赤にして立ちあがる。義妹が恐ろしいけんまくであなたをにらみつけ、 姪がわっと泣きだす。どうやら来年の感謝祭は、テレビの前でひとり冷凍ディナーを食べて祝う ことになりそうだ。 ふたつの規範がつくる世界  これはどういうことだろう。お金を払うという申し出が、なぜパーティーをこんなにもだいな しにしてしまうのか。何年も前にマーガレット’クラーク、ジャドソンーミルズ、アランーフィ スクが指摘したように、それはわたしたちがふたつの異なる世界−社会規範が優勢な世界と、 市場規範が規則をつくる世界−に同時に生きているからだ。社会規範には、友だち同士の頼み ごとが含まれる。ソファーを運ぶから手伝ってくれない? タイヤ交換をするから手伝ってくれ ない? 社会規範は、わたしたちの社交性や共同体の必要性と切っても切れない関係にある。た いていほのぼのとしている。即座にお返しをする必要はない。あなたが隣人のソファーを運ぶの を手伝ったとしても、ただちに隣人がやってきてあなたのソファーを運ばなければいけないわけ ではない。ちょうど他人のためにドアをあけるようなものだ。どちらもいい気分になり、すぐに お返しをする必要ない。  ふたつめの世界、市場規範に支配された世界はまったくちがう。ほのぼのとしたものは何もな い。賃金、価格、賃貸料、利息、費用便益など、やりとりはシビアだ。このような市場のかかわ りあいがかならずしも悪いとか卑劣だというわけではない。市場規範には、独立独歩、独創性、 個人主義も含まれるが、対等な利益や迅速な支払いという意味合いもある。市場規範のなかにい るときは、支払った分に見合うものが手にはいる。そういうものだ。  社会規範と市場規範をべつべつの路線に隔てておけば、人生はかなり順調にいく。たとえばセ ックスを例にとると、社会的な状況では無料で手にはいり、(理想としては)愛情に満ちていて 心の糧になる。一方、売買されるセックスもある。これは要求しだいで手にはいり、お金がかか る。いかにも単純明快だ。家に帰ってきて五〇ドルで寝てくれという夫(妻)はいないし、永遠 の愛を望む売春婦もいない。  社会規範と市場規範が衝突するとたちまち問題が起こる。今度もセックスを例にしよう。ある 男が女の人を誘って食事と映画に行き、デート代を払った。ふたりは二度めのデートをし、この ときも男がすべて払った。三度めのデートでも、男は食事や娯楽にかかった費用を出した。男は この時点で、せめて玄関での情熱的なキスくらいしたいものだと思った。男の財布は危険なほど 薄くなっていたが、もっと危険なのは男の頭のなかで起こっていることだった。男は社会規範  (交際)と市場規範(セックスにかかる費用)の折りあいをつけるのに苦労しはじめた。四度め のデートのとき、男は何げない調子でこの恋愛にどれだけお金がかかっているか口にした。これ でとうとう一線を超えてしまった。逸脱だ。相手は男をけだものと呼び、怒って去っていった。 社会規範と市場規範を混同してはいけないIとくにこの場合、混同すれば女性を売春婦呼ばわ りしていることになるIことを男は知っておくべきだった。それと、ウデイーアレンの不滅の ことばも覚えておくべきだっただろう。、いちばん高いセックスは、無料のセックスだ‰ お金が絡まない方が熱心?  数年前、わたしはジェームズーヘイマン(セントートーマス大学の助教)とともに、社会規範 と市場規範の効果を研究することにした。冒頭の感謝祭のできごとを再現できればよかったのだ が、実験協力者の家族関係に与えかねない悪影響を考慮して、もう少し平凡なものを選んだ。平 凡というより、探せるかぎりできるだけ退屈な課題を選んだ(社会科学には、非常に退屈な課題 を使う伝統がある)。  この実験では、コンピューターの画面の左側に円が表示され、右側に四角が表示される。マウ スを使って、円を四角までドラッグする課題だ。四角までドラッグすると、画面から円が消えて、 最初の位置にまた新しい円か現われる。実験協力者にできるだけ多くの円をドラッグするように 言い、五分間で円をいくつドラッグできるかを測定した。その数で労働産出量−実験協力者が 課題に費やした労力−を測った。  この実験が社会的交換と市場的交換の解明にどう役立つのか。実験協力者の一部はこの短い実 験に参加して五ドルを受けとった。実験協力者が実験室にはいってきた時点でお金をわたし、五 分後にコンピューターが課題の終わりを告げたら帰っていいと伝えた。労力に対してお金が支払 われるため、わたしたちは実験協力者がこの状況に市場規範を適用し、それに沿って行動するだ ろうと予想した。  つぎのグループにも基本的には同じ指示と課題を与えたが、報酬ははるかに少なくした(ひと つの実験では五〇セント、べつの実験ではI〇セントだった)。この場合も、実験協力者は市場 規範を適用し、それに沿って行動するだろうと予想した。  最後に、三番めのグループには、社会的な頼みごととして課題を提示した。このグループの実 験協力者には何も具体的な見返りをわたさず、お金の話もしなかった。力を貸してくれないかと 頼んだだけだ。わたしたちは実験協力者がこの状況に社会規範を適用し、それに沿って行動する だろうと予想した。  それぞれのグループはどれだけ熱心に課題をこなしただろう。市場規範の特性と一致するよう に、五ドル受けとった人たちは平均一五九個の円をドラッグし、五〇セント受けとった人たちは 平均一〇一個の円をドラッグした。予想どおり、金額が高いほど実験協力者のやる気が高まり、 より熱心に取りくんだわけだ(約五〇パーセント増)。  お金の絡まない条件ではどうだろう。三番めのグループの人たちは、少額を受けとった人たち よりさらに働きが少なかっただろうか。それとも、お金が介在しないため、状況に社会規範を適 用させて、逆に熱心に取りくんだだろうか。結果、三番めのグループは平均一六八個の円をドラ ッグした。五〇セント受けとった人たちよりはるかに多く、五ドル受けとった人たちよりわずか に多い。つまり、実験協力者たちは、全能の金力(まあ、五〇セントだが)のためより、お金の 絡まない社会規範のもとで熱心に働いたと言える。  こうなることは当然予想すべきだったのかもしれない。人々がお金のためより信条のために熱 心に働くことを示す例はたくさんある。たとえば、数年前、全米退職者協会は複数の弁護士に声 をかけ、一時間あたり三〇ドル程度の低価格で、困窮している退職者の相談に乗ってくれないか と依頼した。弁護士たちは断った。しかし、その後、全米退職者協会のプログラム貴任者はすば らしいアイデアを思いついた。困窮している退職者の相談に無報酬で乗ってくれないかと依頼し たのだ。すると、圧倒的多数の弁護士が引きうけると答えた。  どういうことだろう。○ドルのほうが三〇ドルより魅力的だなどということがありうるだろう か。じつは、お金の話が出たとき、弁護士たちは市場規範を適用したため、市場での収入に比べ てこの提示金額では足りないと考えた。ところが、お金の話抜きで頼まれると、社会規範を適用 し、進んで自分の時間を割く気になった。三〇ドルもらってするボランティアと考えてもよかっ たはずなのに、なぜ三〇ドルでは承知しなかったのだろう。考えのなかにいったん市場規範がは いりこむと、社会規範が消えてしまうからだ。  コロンビア大学の経済学教授ナフムーシヘルマンは身をもってこれを体験した。日本で剣道を 学んでいたとき、シヘルマンの先生は生徒たちから稽古代を集めなかった。それでは申しわけな いと、ある日生徒たちは、先生の時間と労力に対して謝礼を支払いたいと申しでた。先生は竹刀 を置くと、自分の稽古代は高すぎてあなたたちでは払えないだろうと穏やかに答えたそうだ。 お金Sプレゼント  とすれば、先ほどの実験で五〇セントを受けとった人は当然、「これはいい。研究者の手助け もできるし、おまけにお金も稼げる」とは考えなかっただろうし、そう考えて報酬なしの人たち より熱心に働くこともなかったはずだ。市場規範に気持ちを切りかえて、五〇セントは少なすぎ ると判断し、気乗りしないまま作業したのだろう。つまり、市場規範が実験室にはいりこんで、 社会規範が押しだされたわけだ。  では、お金のかわりにプレゼントをわたしたらどうだろう。感謝祭のディナーにおいしいワイ ンの一本でも持っていけば、義理の母親も受けとってくれるにちがいない。あるいは、友人の新 築祝いにプレゼント(たとえば環境に優しい植物)を贈るのはどうだろう。プレゼントという交 換方法は、社会的交換の規範内に収まるのだろうか。そのようなプレゼントをもらっただけで、 実験協力者は社会規範からはずれて、市場規範に切りかえるだろうか。それとも、報酬としてプ レゼントをもらっても社会規範の世界にとどまるだろうか。  プレゼントが社会規範と市場規範のあいだのどのあたりに落ちつくのか調べるため、わたしと ジェームズは新しい実験をすることにした。今回は、コンピューター画面で円をドラッグしても らってお金を払うかわりに、プレゼントをわたした。五〇セントの報酬をスニッカーズのチョコ バー(約五〇セント相当)に、五ドルの報酬をゴディバのチョコレートひと箱(約五ドル相当) に差しかえた。  実験協力者には、実験室に来てプレゼントを受けとったあと、思うように作業してもらった。 その結果、三つの実験グループは、いずれも同じだけ熱心に課題に取りくんだことがわかった。 小さいスニッカーズをもらったか(このグループがドラッグした円は平均一六二個)、ゴディバ のチョコレートをもらったか(同じく平均一六九個)、何ももらわなかったか(同じく平均一六 八個)は無関係だった。そこで結論。ちょっとしたプレゼントで気分を害する人はいない。たと えたいしたものでなくても、それによって社会的交換の世界にとどまることができ、市場規範に 近づかずにすむからだ。 プレゼントの値段を囗にしただけで  では、ふたつの規範の合図を混同したらどうなるだろう。市場規範と社会規範を混ぜあわせる と何か起きるのか。言いかえると、「五〇セントのスニッカーズ」や「五ドルのゴディバチョコ レート」をわたしたら、実験協力者はどうふるまうのだろう。「五〇セントのスニッカーズ」で、  「スニッカーズ」と同じくらい熱心に働くだろうか。それとも、「五〇セント」のときのように、 作業に身がはいらなくなるだろうか。あるいは、その中間のどこかだろうか。つぎにそれをたし かめる実験をした。  その結果、「五〇セントのスニッカーズ」をもらっても、実験協力者のやる気は高まらないこ とがわかった。実験協力者が課題に費やした労力は、五〇セントが支払われたときと同じだった。 値段をあかしたプレゼントに対する反応は、現金に対して示された反応とまったく変わらず、こ のプレゼントはもはや社会規範を呼びおこさなかった。値段の話が出た時点で、プレゼントは市 場規範の領域へ移ってしまったのだ。  ところで、その後わたしたちは、通りすがりの人にトラックからソファーをおろすのを手伝っ てくれないかと依頼する再現実験をおこなった。結果はやはり同じだった。人々は無料でなら喜 んで働くし、相応の賃金が出ても喜んで働く。ところが、ほんの少額支払うと申しでると、その まま立ちさってしまう。このソファーの実験ではプレゼントも効果があった。プレゼントをわた すと、たとえたいしたものでなくても十分に人々を手伝う気にさせられる。だが、そのプレゼン トがいくらしたか囗にしたとたん、相手はあなたが「市場規範」と言うまもないほどすばやく背 を向けるだろう。 デート相手には金額を告げるな  こうした結果から、市場規範が台頭するには、お金のことを口にするだけで(お金のやりとり がまったくなくても)十分なことがわかる。しかし、市場規範はもちろん労力のみの問題ではな い。独立独歩、自助、個人主義をはじめ、さまざまな行動にもかかわっている。お金について考 えるだけで、こうした行動にちがいがでるものだろうか。キャスリーンーヴォーズ(ミネソタ大 学の准敦授)、二コールーミード(フロリダ州立大学の院生)、ミランダーグッド(ブリティッシ ュコロンビア大学の院生)は、一連のすばらしい実験をおこなってこの仮定を検討した。  この実験では、実験協力者に「乱文構成課題」をおこなわせた。ばらばらの単語を並べかえて 文を完成させる課題だ。ひとつのグループには中立の文(「外は寒いですね」など)を構成する 課題を与え、もうひとつのグループにはお金が絡む文や言いまわし(「給料が高い」など)を構 成する課題を与えた。この方法でお金のことを考えるだけで、実験協力者の行動が変化するだろ うか。  ひとつの実験では、乱文構成課題のあと、実験協力者に難解なパズル(匸一片の板を並べて正 方形にする)を課した。実験者は、助けが必要ならいつでも声をかけるようにと言いのこして部 屋を出ていく。より早く助けを求めたのは、お金のことを暗にほのめかす「給料」の文に取りく んだ人たちだろうか、天気などの話題を扱った「中立」の文に取りくんだ人たちだろうか。事前 に「給料」の文に取りくんでいた人たちは、およそ五分半パズルと悪戦苦闘してから助けを求め   *これはフライミンクと呼ばれる一般的な手法で、乱文を構成する課題は、実験協力者に直接指示することなく、特定の話    題について考えさせるのに使われる。 た。一方、事前に「中立」の文に取りくんでいた人たちは、三分ほどで助けを求めた。つまり、  「給料」グループの人たちは、お金のことを考えたために独立独歩の傾向が強まり、助けを求め たがらなかったと考えられる。  また、このグループの人たちは他者を助けることにもあまり積極的ではなかった。お金のこと を考えた実験協力者は、実験者のデータ入力を手伝ったり、とまどった様子のほかの実験協力者 を助けたり、箱いっぱいの鉛筆を「うっかり」ばらまいてしまった「見知らぬ人」 (実は実験 者)に手を貸したりするのに消極的だった。  総体的に、「給料」グループの実験協力者は市場規範の特徴を多く示した。利己的で独立独歩 の傾向が強いうえ、ひとりきりですごしたがり、チームワークより個人の労力が必要な課題を選 びがちだった。また、すわる場所を選ばせると、共同作業をすることになっている人からできる だけ遠い席を選んだ。わたしたちはお金について考えるだけで、ほとんどの経済学者が予想する とおりの行動をとるようになり、日々の生活に見られるような社会的動物らしいふるまいをしな くなる。  以上のことから、わたしは最終的にこう考えるにいたった。デート相手とレストランに行った ら、料理の値段はけっして口にしてはいけない。たしかに、メニューには値段がはっきり書いて ある。それに、たしかに、レストランの格を示して相手を感心させるまたとない機会かもしれな い。しかし、値段のことをくどくど言えば、ふたりの関係は社会規範から市場規範に変化してし まうだろう。たしかに、デートの相手は、この食事のためにあなたがいくら費やしているか気づ かないかもしれない。たしかに、義理の母親は、あなたが六〇ドルするスペシャルリザーブのメ ルローをプレゼントしたのに、一〇ドルのブレンドワインをもらったとしか思わないかもしれな い。だがこれは、人間関係を特別な領域に維持して、市場規範から遠ざけておくために支払わな ければならない金額なのだ。 社会規範から逸脱してしまったあと  というわけで、わたしたちはふたつの世界に住んでいる。一方は社会的交換の特徴をもち、も う一方は市場的交換の特徴をもつ。わたしたちは、この二種類の人間関係にそれぞれちがった規 範を適用する。また、これまで見てきたように、社会的交換に市場規範を導入すると、社会規範 を逸脱し、人間関係を損ねることになる。一度この失敗を犯すと、社会的な関係を修復するのは むずかしい。楽しい感謝祭のディナーに謝礼を払うと申しでたが最後、義母は何年ものあいだそ のできごとを根にもつだろう。もし、恋人になるかもしれない相手に、さっさと本題にはいって、 デート代を割り勘にして、ベッドに直行しようと提案すれば、おそらくその恋は永遠に壊れてし まうだろう。  わたしのよき友人、ウリーニージー(カリフォルニア大学サンディエゴ校の教授)とアルドー ルスティキーニ(ミネソタ大学の教授)は、社会規範から市場規範への切りかえの長期的な影響 を非常にうまい方法で調べた。  ふたりは数年前、イスラエルの託児所で、子どもの迎えに遅れてくる親に罰金を科すのが有効 かどうかを調査した。そして、罰金はうまく機能しないばかりか、長期的に見ると悪影響が出る と結論づけた。なぜだろう。罰金が導入される以前、先生と親は社会的な取り決めのもと、遅刻 に社会規範をあてはめていた。そのため、親たちはときどき時間に遅れると後ろめたい気持ちに なり、その罪悪感から、今後は時間どおりに迎えにこようという気になった(イスラエルでは、 罪の意識が人を説きふせるのに有効なようだ)。ところが、罰金を科したことで、託児所は意図 せずに社会規範を市場規範に切りかえてしまった。遅刻した分をお金で支払うことになると、親 たちは状況を市場規範でとらえるようになった。つまり、罰金を科されているのだから、遅刻す るもしないも決めるのは自分とばかりに、親たちはちょくちょく迎えの時間に遅れるようになっ た。言うまでもなく、これは託児所側の思惑とはちがっていた。  しかし、ほんとうの話はここからはじまる。もっとも興味深いのは、数週間後に託児所が罰金 制度を廃止してどうなったかだ。託児所は社会規範にもどった。だが、親たちも社会規範にもど っただろうか。はたして親たちの罪悪感は復活したのか。いやいや。罰金はなくなったのに、親 たちの行動は変わらず、迎えの時間に遅れつづけた。むしろ、罰金がなくなってから、子どもの 迎えに遅刻する回数がわずかだが増えてしまった(社会規範も罰金もなくなったのだから無理も ない)。  この実験は悲しい事実を物語っている。社会規範が市場規範と衝突すると、社会規範が長いあ いだどこかへ消えてしまうのだ。社会的な人間関係はそう簡単には修復できない。バラの花も一 度ピークが過ぎてしまうともうもどせないように、社会規範は一度でも市場規範に負けると、ま ずもどってこない。 ふたつの世界に住むわたしたち  社会的な世界と市場的な世界の両方に住んでいることが、わたしたちの個人生活にさまざまな 影響をおよぼしている。わたしたちは折にふれて、人に頼んで物を動かすのを手伝ってもらった り、二、三時間子どもをあずかってもらったり、留守中に郵便物を取りこんでもらったりしなけ ればならないときがある。友人や隣人を手伝う気にさせるいちばんの方法はなんだろう。現金が いいだろうか? プレゼントはどうだろう? それとも何もわたさないほうがいい? きっとあ なたにも経験があるだろう。この社交ダンスは簡単には答えが出ない。とくに、人間関係を市場 的交換の領域に押しやってしまう危険性があるときはむずかしい。  いくつか答えを示そう。大きな家具をひとつ、あるいは箱を何個か運ぶだけなら、友人に手を 貸してくれと頼んでも問題ない。しかし、いくつもの箱や家具を運ぶ場合、友人にただ頼むのは 問題がある。とくに、すぐわきで引っ越し業者がお金をもらって同じ作業をしている場合はいた だけない。友人は、自分がいいように利用されていると感じだすかもしれない。同じように、た またま弁護士をしている隣人に、休暇で留守にするあいだ郵便物を取りこんでおいてくれと頼む のは問題ない。しかし、それと同じだけの時間を割いて無料で賃貸借契約書を作成してくれと頼 むのは問題だ。 ふた股はかけられない  社会規範と市場規範の微妙なバランスは、ビジネスの世界にも見られる。ここ二、三〇年、各 企業は社会的な企業として売りこもうと努力している。自分たちのことを家族か、少なくとも同 じ通りに住んでいる友人だと思ってもらいたがっている。。ステートファームはあなたのよき隣 人のように頼りにしていただけます・という保険会社のキャッチフレーズがいい例だろう。ホー‘ ムデポの。きっとやれます、わたしたちがお手伝いします・というやわらかい口調の勧誘もそう だ。  顧客を社会的に扱いだしたのがだれだとしても、これはたいしたアイデアだ。顧客と企業が家 族なら、企業はいろいろ得をする。顧客がよせる信頼は最高になる。あなたの請求書をまちがえ たり、あなたの保険料率をちょっと引きあげたりといった小さな違反行為も許容される。もちろ ん家族関係には浮き沈みもあるが、全体としてはなかなかいいものだ。  だが、わたしにはひとつ不可解なことがある。企業は、社会的な関係−あるいは、少なくと も社会的な関係の印象卜をつくりだそうと、マーケティングや広告に何十億ドルもつぎこんで はいるか、社会的な関係の本質。とくにその危険性を理解していないように思えてならない。  たとえば、顧客の小切手が不わたりになったらどうだろう。市場規範にもとづいた関係なら、 銀行は罰金を請求し、顧客はなけなしの金で罰金を払う。ビジネスはビジネスだ。罰金はしゃく にさわるがしかたがない。しかし、社会的な関係となると、多額の罰金−銀行支店長からの親 しい電話や、自動的な罰金免除でなくIは、互いの関係の致命傷になるばかりか、まさに裏切 り行為に値する。顧客は腹を立てる。怒って銀行を飛びだし、このとんでもない銀行について友 人に何時間も文句をまくしたてるだろう。社会的交換として築いた関係なのだから、それも無理 はない。銀行がどれだけクッキーやスローガンや友情の証となる記念品を差しだしても、ひとた び社会的交換を逸脱すれば、顧客は市場的交換にもどってしまう。それくらいあっけないものだ。  結論? あなたが企業なら、ふた股はかけられないと肝に銘じるよう助言する。あるときは顧 客を家族のように扱い、一瞬後には、そのほうが便利だからとか利益があがるからという理由で、 顧客を非個人として、さらには厄介者や競争相手であるかのように扱うわけにはいかない。社会 的な関係とはそういうものではない。それでも社会的な関係を望むならそうすればいい。ただし、 どんな状況のときもその関係を維持しなけれぱならないことをお忘れなく。  反対に、ときには断固たる態度でI追加サービスには割り増し料金を請求し、顧客を行儀よ くさせるには速やかにけんつくを食らわしてI臨まなければならないこともあると考えている なら、はじめから、あいまいな好感度で選ばれる会社にするためにお金を無駄にしないほうがい いだろう。顧客に提案する企業の価値はシンプルにして、自分たちが何を提供し、見返りに何を 期待しているのかをはっきり打ちだすことだ。どんな社会規範も社会的な期待も提示しないのだ から、それを逸脱することもありえない。しょせん、これはビジネスだと割りきるべきだ。 社会規範が高める忠誠心  企業は、社員との関係にも社会規範を確立しようとしている。だが昔からそうだったわけでは ない。かつてアメリカの労働は、むしろ産業と市場規範重視の交換だった。当時は、労働といえ ばきっちり九時から五時までのタイムレコーダー式に考えられることが多かった。四〇時間仕事 をし、金曜日に給料をもらう。時間給なので、従業員は自分がいつ雇い主のために働いて、いつ 働いていないか、正確に把握していた。工場の終業のサイレンが響けば(あるいは会社の終業の 合図が鳴れば)、業務は終わる。明快な市場的交換であり、どちらの側にとってもこれで十分う まくいっていた。  今日の企業は、社会的交換をつくりだすことに利点を見いだしている。今日の市場では、わた したちは無形のものをつくる担い手だからだ。産業機械としてより創造性が重視される。仕事と 余暇の区分もあいまいになっている。職場を経営する側は、車で帰宅しているときもシャワーを 浴びているときも、わたしたちにいつも仕事のことを考えさせておこうとする。職場と家庭のあ いだの隔たりをなくすために、ノートパソコンや携帯電話やスマートフォンを支給する。  さらに、九時から五時という労働時間をあいまいにする傾向が多くの企業に見られ、時給制か ら月給制に移行している。このような週七日二四時間という労働環境では、社会規範がおおいに 役立つ。社会規範によって、従業員は熱心で勤勉になり、順応力も意識も高まる傾向がある。雇 い主に対する従業員の忠誠心が薄れていることが多い市場では、社会規範は従業員に忠誠心を抱 かせ、やる気を起こさせる効果的な方法のひとつだ。  オープンソースのソフトウェアは社会規範の可能性を示している。リナックス(に三巴など の共同プロジェクトの場合、オンラインの掲示板にプログラムの不具合の報告をすれば、すぐに だれかが(ときにはおおぜいが)あなたの要望にこたえて、自分の余暇を使ってソフトウェアを 修正してくれる。あなたはこの水準のサービスに見合う代金を払えるだろうか。おそらく払える だろう。しかし、もし同じ力量を持った人たちを個人的に雇おうと思ったら、法外なお金がかか る。ただし、こうしたコミュニティーの人たちは、社会全体のために喜んで自分の時間を割いて いる(そこから、わたしたちが友人の部屋の塗りかえを手伝ったときに得るのと同じ社会的便益 を得ている)。ここから何を学んでビジネスの世界に応用できるだろうか。オープンソースのソ フトウェアには、行動を強く動機づける社会的な報酬が存在する。そして、会社の生活でなかな か利用されないもののひとつは、社会的な報酬や名声を奨励することだ。 従業員にわたすのは、プレゼントS特別賞与  企業は、従業員に対するときも顧客に対するときと同じくらい、相手が態度で示す長期的な献 身を把握しなければならない。従業員が重要な締め切りにまにあわせるために(家族との約束を キャンセルしてでも)もっと熱心に働くと約束したり、従業具にいまから飛行機に乗って会議に 出席してくれといきなり頼んだりした場合、何か同じような見返りをわたすべきだ。従業員が病 気のとき支援するとか、不景気で解雇してもおかしくない状況でも仕事をつづけられるようにす るといった類のものだ。  従業員とのあいだに社会規範をつくりだして成功している企業もあるが、最近では短期利益や 外部委託や厳しい経費削減に執着するあまり、すべてが崩壊の危機にさらされている。社会的交 換においては、何かまずいことが起きても、相手方がそばにいて、自分を守り助けてくれると人 人は信じている。契約書に明記されているわけではないが、必要なときにはお互いに面倒を見た り手を貸したりするのが一般的な義務だ。  この場合も企業はふた股をかけることはできない。とくにわたしが心配しているのは、近年の 福利厚生の削減−育児手当、年金、フレックスタイム制、トレーニング室、社員食堂、家族の ための野外パーティーなどの縮小−によって社会的交換が犠牲になっている可能性が高く、従 業員の生産性に影響が出るのではないかということだ。とくに、国民健康保険制度のないアメリ カでは、医療給付の削減や変更によって、雇い主と従業員の社会的関係の大半が市場的関係に一 変するのではないかと危惧している。  企業が社会規範の利点を生かしたいなら、社会規範をもっとうまく育てる必要がある。なかで も医療給付、とくに総合的な医療保障は、企業側が社会的交換の立場を表明する最良の方法だ。 これに対して、多くの企業がやっていることは? 保険プランに高い控除免責金額を求め、それ と同時に社会規範の利点の幅を狭めてしまっている。端的に言うと、企業は従業員との社会的な 取り決めをじわじわと切りくずしながら、市場規範に入れかえるような行為をしている。企業が 従業員を社会規範から市場規範の領域に追いやっているのだから、従業員がもっといい誘いを受 けてよそへ行ってしまっても責めることなどできるだろうか。「企業への忠誠心」ということぱ があるが、「企業」と「忠誠心」が相いれないものになったのも当然と言える。  また、企業は従業員が社会規範と市場規範にどう反応するか意識的に考えることもできる。従 業員に1000ドル相当のプレゼントを贈るべきだろうか、一〇〇〇ドルの特別賞与を現金でわ たすべきだろうか。どちらがいいだろう。従業員に尋ねれば、大多数がプレゼントより現金を好 む可能性が高い。しかし、ときどき誤解されているが、プレゼントにはそれなりの価値がある。 プレゼントは雇い主と従業員の社会的関係をあと押しし、それによってすべての人に長期的な利 益をもたらす。こう考えてみよう。より熱心に働き、より忠誠心を示し、自分の仕事により強い 愛着を持ちそうなのは、一〇〇〇ドルを現金でもらう従業員だろうか、一〇〇〇ドルのプレゼン 卜をもらう従業員だろうか。  もちろん、プレゼントは象徴的な意思表示だ。それに、なるほど給料のためでなくプレゼント のために働こうという人はいない。もっと言えば、ただで働こうという人などいない。しかし、 グーグル(Google)のように、社員にさまざまな特典(無料のグルメランチなどもある)を与え ている企業を見ると、企業と従業員の関係の社会的な面を強調することで、いかに友好ムードが 盛りあがるかがわかる。社会規範(いっしょに何かをつくりあげる興奮など)のほうが市場規範  (昇進ごとにだんだん増えていく給料など)より強い企業(とくに新興企業)が、人々からどれ ほど多くの働きを引きだしているかはまさに驚きだ。  企業が社会規範で考えはじめれぱ、社会規範が忠誠心を育てることに気づくだろう。さらに重 要なことに、社会規範は人々を奮起させる。柔軟で、意識が高く、進んで仕事に取りかかるとい う、企業が今日必要としている従業員になろうと努力する気にさせる。それが社会的関係のもた らすものだ。 お金じゃ愛は買えない  職場における社会規範の問題は、もっといろいろ考えるべきだ。アメリカの生産力はますます 労働者の能力と努力に依存するようになっている。これは、わたしたちアメリカ人がビジネスを 社会規範から市場規範の領域に追いやっているということだろうか。アメリカの労働者は忠誠や 信頼という社会的価値ではなく、お金で考えるようになっているのだろうか。長い目で見た場合、 これは創造性や献身という点でこの国の生産力にどう影響するのだろう。さらに、政府と国民の あいだで交わされる「社会的な取り決め」はどうだろう。これもやはり危険にさらされているの だろうか。  ある程度なら、わたしたちはみんな答えを知っている。たとえば、給料だけでは命をかける動 機にはならない。警察官、消防士、兵士は、給料に殉じるわけではない。命や体を張るのは、社 会規範−職業への誇りや義務感匚卜のためだ。マイアミにいるわたしの友人は、以前、近海パ トロールに行く米国税関員に同行したそうだ。税関員はアサルトーライフルを携行していて、逃 げようとする麻薬密輸船の船体にまちがいなく穴をあけられそうだ。だが、実際に穴をあけたこ とがあるかという問いに、税関員はまさかと答えた。いま政府からもらっている給料のために命 を投げだすつもりはないという。税関員がないないで話したところによると、そもそも麻薬密売 人とのあいだには暗黙の合意があるそうだ。密売人が発砲しないかぎり、連邦職員も発砲しない。 おそらく、アメリカの「麻薬との戦い」の最前線で銃撃戦がおこなわれたという話をまったくで はないにしても、めったに聞かないのはそのためだろう。  どうすればこの状況を変えられるだろう。まず、税関員が命がけで働く気になるくらい、連邦 の給料をよくするという手がある。しかし、それはいくらだろう。典型的な麻薬密輸業者がバ( マからマイアミまで船を疾走させて手に入れるのと同額の報酬だろうか。べつの手は、社会規範 を高めて、税関員の任務は基本給以上の価値があり、社会機構を安定させるだけでなく、子ども たちをあらゆる種類の危険から救う職業として人々に敬われている(警察官や消防士が敬われる ように)と本人たちが感じられるようにすることだ。もちろん、これには人を鼓舞する指導者が 必要だが、達成は可能だ。  同じ考えが教育の世界にどう応用できるか考えてみよう。わたしは最近、公敦育における意欲 刺激と説明責任に関する連邦委員会に参加した。社会規範と市場規範のこの側面は、今後わたし が探求したいと考えている課題のひとつである。委員会の任務は、「落ちこぼれゼロ」政策の見 なおしと、生徒、教師、学校管理者、親の意欲を高める方法を見つける手助けをすることだ。  これまでの感触では、共通試験や能力給によって教育が社会規範から市場規範へ押しやられて しまう可能性が高いように思う。すでにアメリカは、生徒ひとりにつき、どの西洋社会より多く のお金を注ぎこんでいる。ここへきて金額をさらに増やすのは賢明だろうか。試験についても同 じような検討が必要だ。すでに頻繁に試験をおこなっているのだから、これ以上増やしても教育 の質が向上する見込みは少ない。  わたしは、社会規範の領域に答えがあるのではないかと考えている。これまでの実験から学ん だように、現金ではある程度のことしかできない。社会規範こそ長い目で見たときにちがいを生 む力だ。教師や親や子どもの関心を試験の点数や給料や競争に向けさせるかわりに、教育の目的 や任務や誇りの感覚を吹きこむほうがいいかもしれない。そのためには市場規範の道を進むわけ にはいかない。しばらく前にビートルズが「キャントーバイーミー・ラブ(お金じゃ愛は買えな い)」と高らかに歌ったが、これは学問への愛にもあてはまる。向学心はお金では買えない。た めせば消してしまうかもしれない。  では、どうすれば教育制度を改善できるのか。おそらく、まずは学校のカリキュラムを考えな おし、社会全体が気にかけている社会的な目標(貧困や犯罪の撲滅、人権の向上など)、科学技 術的な目標(省エネの増進、宇宙開発、ナノテクノロジーなど)、医学的な目標(がん、糖尿病、 肥満の治療など)とのつながりをもっとはっきりわかるようにすべきだろう。そうすれば、生徒 も教師も親も教育により大きな意味を見いだし、もっと熱心で意欲的になるかもしれない。また、 教育することが目標であるという点を忘れることなく、生徒が学校ですごした時間数と生徒が受 けた教育の質を混同するのはやめるべきだ。子どもはさまざまなこと(たとえば野球)に夢中に なる。生徒が野球選手について知っているのと同じくらい、ノーベル賞受賞者についても知りた いと思うようしむけるのが、社会としてのわたしたちの課題だ。教育に対する社会の情熱を燃え あがらせるのが簡単だと言うつもりはないが、もし成功すればその意義は計りしれない。 お金のない社会  結局のところ、お金はたいていの場合もっとも高価な方法だ。社会規範は安あがりなだけでな く、より効果的な場合が多い。  では、お金のいいところは? 大昔には、お金によって取引が簡単になった。市場へ行くとき カモをかついで行ったり、カモのどの部分がレタス一個と同等かを考えたりしなくてすむように なったわけだ。現代ではさらなる利点があり、お金を専門に扱ったり、借りたり蓄えたりできる。  しかしそれだけでなく、お金はひとり歩きをしはじめた。これまで見てきたように、お金は人 のふれあいのもっともいいところを抜きとってしまう場合がある。ならば、お金など必要だろう か? もちろん必要だ。だが、生活のなかに、お金がないほうがある意味ではうまくいくという 側面はないだろうか。  これは斬新な考え方で、なかなか想像できないかもしれない。しかし、わたしは数年前に少し だけ経験することができた。その年、かつてロックバンドのグレイトフルーデッドに歌詞を提供 していたジョンーベリー・バーロウから、あるイベントに参加しないかと電話で誘いを受けた。 お金のない社会をつくりだすというイベントで、蓋をあけてみると、わたしにとってとても有意 義な体験であり興味深い予行演習でもあった。とにかく、バーロウは、バーニングマンというそ のイベントにぜひいっしよに行こう、行けばまるで家に帰ったような気になるからとわたしを誘 った。バーニングマンというのは、毎年ネバダ州のブラックロック砂漠で一週間にわたって開催 される自己表現と独立独歩のイベントで、いつも四万人以上の大たちが参加する。バーニングマ ンは、一九八六年にサンフランシスコのベーカー・ビーチではじまった。仲間うちでニメートル 半ほどの木製の人形と少し小さい木製の犬をつくることになり、実際につくりあげて、最終的に 燃やしたのがはじまりだった。以来、燃やす人形はどんどん大きくなり、参加する人数もずいぶ ん増えた。いまや最大級のアートーフェスティバルに数えられるようになり、この一時的な共同 体の試みはつづいている。  バーニングマンには驚くべき点がいろいろあるが、とくにすごいと思ったことのひとつは、こ のイベントが市場規範を排除していることだ。バーニングマンではお金が使えない。開催地全体 が、プレゼント交換経済で動いている。みんなだれかに贈り物をする。もらった人がいずれ自分  (あるいはべつのだれか)に何かを贈り返すだろうという共通理解があってのことだ。そんなわ けで、料理ができる人は食事をつくる。臨床心理士は無料でカウンセリングをする。マッサージ 師は目の前の台に横たわった人にマッサージを施す。水を持っている人はシャワーを提供する。 飲み物や手づくりアクセサリーをふるまう人もいれば、抱擁をしてまわる人もいる(わたしは、 MITの工作室でつくったパズルをプレゼントにした。だいたいはみんな喜んでパズルに挑戦し てくれたようだ)。  はじめはひどく奇妙な感じがしたが、そのうち自分がバーニングマンの規範にすっかりなじん でいるのがわかった。それどころか、意外にもバーニングマンは、わたしの経験したなかでもっ とも懐が深く社交的で思いやりのある空間だった。バーニングマンでまる一年、五二週のあい だうまくやっていけるかどうかは自信がない。だがこの経験のおかげで、市場規範が少なめで社 会規範が多めの生活のほうが、気持ちよく有意義に充実感をもって楽しく暮らせると確信できた。  答えは、社会をバーニングマンのように再生することではなく、社会規範がわたしたちの評価 をはるかに超える大きな役割を社会に対して果たせるのだと心にとめておくことだと思う。ここ 数十年のあいだに市場規範がIより高い給料、より多くの収入、より多くの消費を強調してI −わたしたちの生活を少しずつ支配しはじめていることを考えれば、ある程度なら昔の社会規範 にもどってもそれほど悪くなさそうだという気になるかもしれない。もしかすると、それによっ てわたしたちの生活に古きよき礼儀がもどってくるかもしれない。   5章   性的興奮の影響   なぜ情熱はわたしたちが思っている以上に熱いのか 性的刺激が意思決定にどんな影響を与えるか  二〇代の男子学生に、無防備なセックスをしようとしたことがあるかと尋ねれば、すぐに怖い 病気や妊娠の危険性についてこと細かに語りだすだろう。冷静な状況にあるときI宿題をした り授業を聴いたりしているときIぶたれるプレーともうひとり男を交えての三人プレーならど ちらがいいかと尋ねれば、顔をしかめて「そんなことするものか」と答えるだろう。そして、こ う思いながらあなたにけげんな目を向けるにちがいない。こんな質問をするなんて、いったいこ いつはどこの変質者だ?  二〇〇一年、わたしはカリフォルニア大学バークレー校に一年間滞在した。その折、友人にし てわたしの学問の英雄である長年の共同研究者ジョージーローウェンスタインとともに、何人か の優秀な学生に研究への協力を求めた。情熱的な状態になったとき自分の態度がどう変化するか を、合理的で知的な人間がどの程度まで予測できるか調べるためだ。現実に即した研究にするに は、感情が高まっている真っただ中の反応を測定する必要がある。実験協力者を怒らせたり、空 腹にさせたり、悔しがらせたり、いらいらさせたりする手もあったが、どうせなら実験協力者に 快い感情をもってもらおうと考えた。  そこで、性的に興奮している状態での意思決定について研究することにした。べつにわたした ちにいやらしい趣味があるからではなく、性的興奮が行動にどんな衝撃を与えるか理解すること で、一〇代の妊娠や、HIV、エイズの拡散といった、とりわけむずかしい社会問題に取りくむ 助けになるかもしれないと考えたからだ。どこを向いても性的な刺激があふれているにもかかわ らず、それが自分の決断にどんな影響を与えるか、わたしたちはほとんど理解していない。  自分が特定の感情の状態にあるときの行動について予測できるかどうか調べることが目的だっ たため、実験協力者にとってなじみのある感情を選ぶ必要があった。となれば決めるのは簡単だ。 二〇代の男子学生にとって見当がつきやすく、なじみのあることといえば、規則正しく訪れる性 的興奮だ。  気さくで勉強熱心な生物学専攻のバークレーの学生ロイは、汗だくだが、まだ最後までいって いない。暗い寮の部屋のシングルベッドで体を起こして、右手ですばやくマスターベーションを している。ロイの左側には、サランラップを巻いたノートパソコンを操作できる片手用のキーパ ッドがある。巨乳の女性がさまざまに官能的なポーズをとっているヌード写真をあれこれ見てい くうちに、心臓の高鳴りはますます激しくなる。  興奮が高まるにつれ、ロイはコンピューター画面の「興奮計」の目盛りをあげる。真っ赤な  「高」のレベルに達したとき、画面に質問が現われる。  「嫌いな人とのセックスを楽しめますか?」  ロイは左手を動かし、「いいえ」から「はい」までのどのあたりに位置するかを回答する。つ ぎの質問が現われる。  「女性がセックスに応じてくれる可能性を高めるためなら、こっそりドラッグを飲ませますか ?」  ロイがふたたび答えを選ぶと、新しい質問が現われる。  「いつもコンドームを使いますか?」  バークレー市は二極に分化した場所だ。一九六〇年代の反体制暴動の地であり、ペイェリアの 人々は中道左派として知られるこの都市を「バークレー人民共和国」と揶揄する。しかし、バー クレー校の広大なキャンパスは、意外なほど体制に順応した一流の学生を引きっけている。二〇 ○四年の新入生調査では、自分をリベラルと考えていたのは回答者の五一二一パーセントにすぎ なかった。三分の一以上(三六パーセント)が自分を中道派ととらえ、匸一パーセントが自分は 保守的だと回答した。バークレーに行ってみて、意外にもほとんどの学生はべつだん無軌道でも 反抗的でもなく、危険も冒したがらないことがわかった。  わたしたちは、構内のスプロール広場のまわりに広告を張りだした。「実験協力者を求む。異 性愛者の一八歳以上の男子。意思決定と性的興奮に関する研究のため」広告には、一回の実験に 約一時間かかること、一回につきI〇ドルの謝礼が出ること、性的に興奮する題材が含まれる可 能性があることを注意として書きそえた。応募に興味がある場合は、研究助手のマイクにEメー ルで連絡してもらう。  この研究では男だけを対象にすることにした。セックスに関しては、女より男のほうが配線が ずっと単純だからだ(ジョージとも、男女両方の研究助手たちともかなり議論したすえに、たど りついた結論だ)。《プレイボーイ》 一冊と暗い部屋があれば、たいてい大きな成果をあげられ る。  もうひとつの気がかりは、MITスローン経営大学院(当時わたしはここの専任教員をしてい た)の承認を受けなければならないということで、これがなかなかの試練だった。学長のリチャ ードーシュマレンシーは、研究をはじめる許可を出すにあたって、大半が女性の委員会を組織し てプロジェクトを審査した。委員会では複数の懸案事項が出された。研究のせいで、抑圧されて いた実験協力者の性的虐待の記憶が蘇ったらどうするのか。実験協力者がセックス中毒を自覚 するきっかけになったらどうするのか。こうした質問は不当に思えた。いまどきどの学生も、コ ンピューターとインターネット接続さえあれば、このうえなく露骨なポルノを簡単に手に入れら れるからだ。  経営大学院はこのプロジェクトに当惑していたが、わたしは運よくMITのメディアラボにも 勤務していた。メディアラボの所長ウォルター・ベンダーは喜んでプロジェクトを承認してくれ、 おかげで実験に踏みだすことができた。しかし、スローン経営大学院でのこの経験から、たとえ 性科学の先駆者キンゼーの報告からすでに半世紀がすぎていても、そして、セックスがいかに重 要なものであっても、いまだに研究課題としてはタブー視されているI少なくとも一部の研究 施設ではIことを痛感した。 さめているとき、興奮しているとき  ともかく広告はうまくいった。さすがは男子学生だ。あっというまに、実験協力の機会を待つ 元気な学生の長いリストが手にはいった。ロイもそのひとりだ。  ロイは、二五人の実験協力者のほとんどを代表する典型例と言える。サンフランシスコで生ま れ育ち、教養があって知的で親切で、まさに未来の娘婿にと母親が望むようなタイプだ。ピアノ でショパンのエチュードを弾き、好きなことはテクノ音楽に合わせて踊ること。高校時代の成績 はオールAで、バレーボールの高校代表チームのキャプテンもしていた。自由論者に賛同し、よ く共和党に投票する。親しみやすく人あたりがいい若者で、つきあって一年になる恋人がいる。 将来は医学部に進む予定で、好物はぴりっとする巻きずしのカリフォルニアロールと、カフェー インテルメッツォのサラダだ。  ロイは、カフェーストラーダでわたしたちの研究助手のマイクと待ちあわせた。このコーヒー ショップは、フェルマーの最終定理の解についてのアイデアをはじめとする、多くの研究者の思 考を抽出してきたバークレーのテラス式コーヒー沸かしだ。マイクはほっそりした長身で、髪は 短く、一見芸術家っぽく、愛嬌のある笑顔を見せる。  マイクとロイは握手を交わして席についた。「ロイ、このたびは広告に応募してくれてありが とう」マイクはそう言うと、何枚か用紙を取りだしてテーブルに置いた。「まずは同意書の内容 を確認しよう」  マイクは、同意書のしきたりどおりの要件を声に出して読みあげた。これは意思決定と性的興 奮に関する研究である。実験への協力は自由意志によるものとする。データは機密扱いとする。 実験協力者は、実験協力者の権利保護を預かる委員会と連絡をとる権利がある、などだ。  ロイはいちいちうなずいた。これほど好ましい実験協力者は見つからないだろう。  「実験はいつやめてもいい」マイクはこう締めくくった。「ひととおりわかってもらえたかな」  「はい」ロイは答え、ペンを取って同意書にサインした。マイクとロイはもう一度握手をした。  「よかったよ」マイクはリュックサックから布のケースを取りだした。「じゃあ、これからのこ とを説明しよう」そして、ケースからアップルのアイブック(SOO巴コンピューターを出して、 開いてみせた。ふつうのキーボードのほかに、色とりどりのキーが匸一個並んだキーパッドがつ いている。  「特別仕様のコンピューターだ。回答するときは、このキーパッドだけを使ってくれ」マイクは 色のついたキーパッドに手を置いた。「認証コードをわたすよ。コードを入力すると実験がはじ まる。実験中はいくつも質問が出てくるから、「いいえ」から「はい」までのどのあたりに位置 するかを回答してもらいたい。質問に書かれている行為が気に入るだろうと思ったら「はい」、 気に入らないだろうと思ったら「いいえ」と答えてくれ。ただし、どの質問にも、自分が性的に 興奮していたらどう行動し、どんな行為を気に入るかを予想して答えることを忘れないで」  ロイがうなずくと、マイクは話をつづけた。  「まず自分のベッドにすわって、ベッドの左側に置いた椅子にコンピューターを設置する。画面 がしっかり見えて、ベッドから手の届く位置だ。キーパッドは、使いやすいように自分の脇に置 く。そして、自分のほかにだれもいないことを確認する」  ロイの目がきらりと光った。  「実験が終わったらEメールで知らせてくれ。また落ちあって、謝礼のI〇ドルをわたすよ」  マイクは、質問の内容については何も話さなかった。実験がはじまると、ロイはまず、自分が 性的に興奮していると想像するようコンピューターに指示され、すべての質問に、性的に興奮し ているときならこうだろうと思う回答をするよう求められた。最初の質問群は、性的嗜好を尋ね るものだった。たとえばこんな質問だ。女性の靴に性欲をかきたてられると思いますか。五〇歳 の女性に性的にひかれる自分を想像できますか。極度に太った人とのセックスを楽しむと思いま すか。嫌いな人とのセックスを楽しめると思いますか。ひもで縛られたり、だれかを縛ったりす るのを楽しむと思いますか。「キスだけ」では不満になると思いますか。  つぎの質問群は、ロイにデートレイプのような不道徳な行為をする可能性について尋ねるもの だった。女性がセックスに応じてくれる可能性を高めるためなら、愛していると言いますか。デ ートの相手がセックスに応じてくれる可能性を高めるためなら、もっと飲むように勧めますか。 デートの相手に「いや」と断られたあとも、なんとかセックスをしようとしますか。  三つめの質問群は、ロイが無防備なセックスにつながる行為をする可能性について尋ねた。コ ンドームは性的快感を減らすと思いますか。新しいセックスの相手がどんなセックス歴をもって いるかわからなければ、かならずコンドームを使いますか。コンドームを取りにいっているあい だに相手の気持ちが変わるかもしれないと思っても、コンドームを使いますか。  数日後、「さめた」合理的な状態ですべての質問に回答したロイは、ふたたびマイクに会った。 「なかなかおもしろい質問だったよ」ロイはコメントした。 「そうだろう?」マイクは落ちつき払って答えた。「キンゼーだってぼくらにはかなわないさ。 ところで、この研究にはべつの実験もあってね。もう一度協力する気はあるかい?」  ロイは少し笑って肩をすくめ、うなずいた。  マイクは何枚かの書類をロイにさしだした。「また同じ同意書にサインを頼みたいんだが、今 度はほんの少しちがうことをやってもらうことになる。ほとんど前回の実験と同じだが、今回は 刺激的な写真を見ながらマスターベーションをして、興奮状態になってもらいたい。性的に高度 に興奮して、ただし、射精にはいたらない状態だ。まあ、もしいたってしまっても、コンピュー ターは防護してあるから大丈夫」  マイクは、アップルのアイブックを引っぱりだした。今回は、キーボードも画面も薄いサラン ラップで覆われている。  ロイが渋い顔をした。「コンピューターが妊娠するとは知らなかったよ」  「それはないけどね」マイクは笑い声をあげた。「こいつは不妊手術を受けてるし。ただ、清潔 にしておきたいからね」  マイクはロイに、コンピューターに保存された官能的な写真を見ながら、ちょうどいい興奮状 態にもっていくよう説明した。ロイは、その状態で前と同じ質問に回答することになる。   *わたしたちが尋ねた全質問の一覧を本章の付録に載せた。 情熱はわたしたちを変える  三か月のあいだ、バークレーの優秀な学部生たちが、複数の実験にいろいろな順番で協力した。 冷静なさめた状態のときの実験では、もし性的に興奮していたらどんな性的・道徳的判断をする かを予想してもらった。性的に興奮した熱い状態のときの実験でも同じように判断を予想しても らったが、この場合、学生は実際に激情のただ中にいるため、その状態での自分の嗜好がもっと よく認識できたはずだ。研究が完了してみると、結論は一貫していて、あきらかだったI圧倒 されるほど、恐ろしいほどあきらかだった。  どの場合も、聡明な若い実験協力者たちは、性的に興奮しているときと「さめた」状態のとき とで、大きくちがう回答をした。性的嗜好に関する一九の質問を見ると、ロイたち実験協力者が 性的に興奮しているときは、さまざまなやや変わった性行為をしたくなるだろうという予想が冷 静なときのほぽ二倍(七ニパーセント増)になっていた。たとえば、動物との接触を楽しむとい う考えは、興奮していると、冷静なときの二倍以上も魅力的に映る。不道徳な行為をする傾向に 関する五つの質問を見ると、不道徳な行為に走るだろうという予想が、興奮しているときは冷静 なときの二倍以上(一三六パーセント増)だった。同じように、コンドームの使用に関する質問 では、コンドームの重要性についての注意を何年にもわたって叩きこまれているにもかかわらず、 興奮状態のときは冷静な状態のときより二五パーセントも多くコンドームなしで突っ走ると予想 した。いずれの場合も、実験協力者たちは、性的興奮が性的嗜好、道徳性、安全なセックスへの 取りくみにおよぽす影響を予測できていなかった。  以上の結果は、ロイたち実験協力者たちが「超自我」主導の冷静で合理的な状態のときは女性 を尊重することを示している。わたしたちが尋ねた変わった性行為にとくに魅力を感じることも なく、道徳を優位に置き、自分は必ずコンドームを使うはずだと思っていた。そして、自分自身 のことも、自分の嗜好も、自分がどの程度の行為をしうるかということも把握できていると考え ていた。しかし、実験協力者たちは自分の反応を完全に甘く見ていたことがわかった。  結果の数字をどんなふうに見ても、実験協力者が甚だしく過小予想しているのはあきらかだ。 どの項目でも、性的に興奮していない状態では、自分が興奮したらどんなふうになってしまうの か理解していないことが浮き彫りになった。予防、防備、用心、道徳性は、レーダー画面から完 全に消えうせる。実験協力者は、情熱が自分をどこまで変えるのか、どうしても予測できなかっ たのだ。 だれもがジキルとバイト  ある朝、起きぬけに鏡を見たら、だれかI人間ではない何か異質のものIがあなたの体を 乗っとっていたとする。前より醜いし、背が縮んでいるし、毛深くなっている。薄い唇、大きな   *この結果は、性的興奮と、それが人挌におよぽす影響にもっとも端的にあてはまる。しかし、これ以外の感情(怒り、飢    え、興奮、嫉妬など)も同じように作用し、自分をまるで他人のように感じさせると考えていいだろう。 前歯、不潔な爪、のっぺりした顔。爬虫類の冷たいふたつの目があなたを見つめ返している。何 かをめちゃくちゃに壊したくなり、だれかをレイプしたくなる。自分が自分ではない。化け物  この悪夢のような夢にうなされて、一八八五年の秋の明け方、ロバートールイスースティーブ ンソンはベッドのなかで叫び声をあげた。そして妻に起こされると、ただちに小説の執筆にとり かかった。みずから。怪奇ものの傑作・と呼んだこの『ジキル博士とバイト氏』のなかで、ステ ィーブンソンは、。人間はほんとうはひとつの存在ではなく、ふたつである・と書いている。こ の作品はたちどころに成功を収めたが、それも当然だった。ビクトリア朝の人々は想像力をかき たてられ、温厚な科学者ジキル博士に象徴される抑圧的な礼儀と、残忍なバイト氏に具現された 抑えがたい情熱との相反する二面性に魅了された。ジキル博士は自分を制御するすべなら心得て いると考えていた。しかし、バイト氏に変わったときを見てみるといい。  これは想像力に富んだ恐ろしい物語だが、とくに目新しいわけではない。ソポクレスの「オイ ディプス王」やシェークスピアの『マクベス』のずっと前から、内なる善と悪の戦いは神話や宗 教や文学の題材だった。フロイトの用語で言うと、わたしたちはそれぞれ、暗い自己であるイド、 すなわち超自我から支配権を奪いとれる野獣を住まわせている。だから、感じのいい親切な隣人 が、運転中にキレてセミトレーラーに車をぶつけたり、一〇代の若者が銃をつかんで友だちを撃 ったり、聖職者が少年をレイプしたり、といったことが起こる。ほかの点ではまともなこの人た ちは、自分のことならわかっていると思いこんでいる。ところが、激情の真っただ中にいると、 なんらかの内なるスイッチがはいってすべてが一変する。  バークレーでの実験は、だれもがジキルとバイトだというような、よくある話だけではなく、 もっと新しいことをあきらかにした。わたしたちはみんな、いかに「いい」人であろうと、情熱 が自分の行動におよぽす影響を甘く見ている。わたしたちの実験の協力者は、すべてにおいて判 断を誤った。もっとも聡明で合理的な人でも、情熱のただ中では、自分が思っている自分とは完 全にすっぱりと切りはなされてしまうようだ。しかも、ただ自分について誤った予想をするとい うだけでなく、その誤りの程度が甚だしい。  今回の研究によると、ロイはほとんどいつも思慮があり、礼儀正しく、理性的で、親切で、信 頼できる。前頭葉がしっかり機能していて、自分の行動もコントロールできている。ところが、 性的に興奮した状態になり、爬虫類の脳が取ってかわると、自分で自分だと見わけられないほど 豹変してしまう。  ロイは興奮した状態で自分がどう行動するかわかっているつもりでいるが、その判断力はかぎ られたものだ。性的誘因が高まるにつれて、大胆な行動をとる可能性があることをほんとうには 理解しきれていない。性的に満足するためなら、性感染症や望まない妊娠の危険を冒しかねない。 情熱に浮かされたら、感情のせいで善と悪の境界がぼやけてしまいかねない。それどころか、口 イはほんとうの自分がいかにどんな点でも荒っぽくなってしまうか、まったく見当がついていな い。ある状態のときに、べつの状態になった自分の行動を予測しようとすると、判断を誤ってし まうからだ。  さらに、今回の研究を見るかぎり、異なる感情の状態にある自分を理解する能力の欠如は、経 験によって解決できる問題ではないようだ。この実験に協力してくれたバークレーの学生に負け ないくらい性的に興奮した状態ですごしても、やはり誤った判断をしてしまうということだ。性 的興奮ならよく知っているし、じかに経験しているし、きわめて人間らしく、ごくあたりまえの ことだ。それなのにわたしたちは、性的興奮がいかに超自我を完全に無視するか、感情がどのよ うにわたしたちの行動を支配するかを甘く見てしまう。 興奮から身を守るには  では、知りつくしていると思っていたのにじつはよく知らない感情の領域で、不合理な自己が 活発になると、何か起こるのだろう。自分をほんとうには理解できないとしても、自分やほかの 人が正気を失ったI怒りや飢えや恐怖や性的興奮でわれを忘れたIときにどう行動するか、 なんとか予想できないものだろうか。何か打つ手はないのか。  この答えは重要だ。というのも、この答えは、自分がバイト氏に変わるかもしれない状況に用 心しておかなければならないことを意味するからだ。上司におおっぴらに批判されたら、憎悪を こめたEメールでやり返したくなるかもしれない。しかし、そのメールは「草稿」フォルダーに 二、三日入れておいたほうがよくはないだろうか。髪をなびかせながらスポーツカーを試乗して すっかり心を奪われたときも、そこでひと呼吸おいて、購入の契約書にサインする前に、ミニバ ンを買おうという配偶者と話しあったほうがよくはないだろうか。  ほかにも自分から身を守る方法について例をあげてみよう。 ○安全なセックス  親やI〇代の若者の多くは、冷静で合理的なジキル博士の状態では、性の自制−俗に「きっ ぱりノーと言おう」で知られるIを誓うだけで、性感染症や望まない妊娠を十分に防げると信 じがちだ。「きっぱりノーと言おう」の支持者は、感情が沸点に達したときでもこの穏健な考え がまかりとおると思いこんで、コンドームを持ち歩く理由などないと言う。しかし、わたしたち の研究が示すように、わたしたちはみんな、激情のただ中で「きっぱりノーと言おう」から迷い もなく「イェスー・」に切りかわる危険をはらんでいる。そして、そのときもしコンドームがなけ れば、危険であろうとイエスと言う可能性が高い。  ここから何がわかるだろう。まず、コンドームの普及が欠かせない。冷静な状態で、コンドー ムを持ち歩くかどうか決めてはいけない。万一に備えて、かならず携帯すべきだ。つぎに、ある 感情の状態のとき自分がどう反応するかを理解しないかぎり、自分に起こる変化を予測すること はできない。おそらくこの問題は、一〇代の若者にとってはより深刻だろう。性教育は、生殖器 官の生理学や生物学より、性的興奮にともなう感情にどう対処するかという点にもっと焦点をあ てるべきだ。三つめに、たとえコンドームを持ち歩いても、たとえ性的興奮による感情の炎を漠 然と理解しても、それでも不十分かもしれないことを認めなければならない。  一〇代の若者が自分の感情をもてあましてしまうような状況は、たくさんあるにちがいない。 一〇代の若者にまちがいなくセックスを避けさせたいなら、もっといい方法は、情熱の炎に引き よせられるほど近づかないうちに、そこから立ちさるよう若者に教えることだ。この助言に従う のは簡単ではないかもしれないが、今回の研究結果によれば、誘惑に引っかかってしまってから より、誘惑が生じる前のほうが若者にとっては戦いやすい。つまり、はなから誘惑を避けるほう が、誘惑にうち勝つより簡単ということだ。  たしかにこれは、誘惑にかられたとき、早くセックスから逃げだすようI〇代の若者をせき立 てる「きっぱりノーと言おう」キャンペーンによく似ている。だが、両者のちがいは、「きっぱ りノーと言おう」は意思で激情を止められると想定しているのに対して、わたしたちの研究はそ の想定が誤りだと示していることだ。一〇代のセックスの是非を論じるのは棚あげにするとして、 若者がセックスや性感染症や望まない妊娠を避けられるよう手を貸したいなら、ふたつの方法し かないことははっきりしている。まだどんな誘惑もない段階で、抵抗できない状況に陥る前にノ ーと言う方法を教えるか、そうでなければ、激情のただ中でイエスと言ったあと、その結果に対 処できるような心構えをさせておく(たとえばコンドームを持ち歩かせる)かだ。ひとつたしか なことがある。正気を失いかけているとき、どうセックスに対処するかを若い人たちに教えない かぎり、彼らを欺くことになるばかりか、自分自身をも欺くことになる。何を教えるにしても、 落ちついて冷静なときと、ホルモンが暴れに暴れまくっているときでは、ちがう反応をしてしま うのだということを理解させる必要がある(そしてもちろん、わたしたちの行動にも同じことが 言える)。 ○安全運転  同じように、一〇代の若者には(ほかの人たちにも)感情が煮えたぎっているときに運転しな いよう教えなければならない。あれほど多くの一〇代の若者が自分の車や親の車をぶつけるのは、 たんに経験不足とホルモンのせいだけではない。車にぎゅうぎゅう詰めの友だちが陽気に笑い、 CDプレーヤーがアドレナリンを注入するような音量でがなりたて、運転手の片手がフライトポ テトやガールフレンドのひざに伸びているのも大きな原因だ。こんな状況でだれが危険のことな ど考えるだろう。おそらくだれも考えない。近年の研究によると、一〇代の若者がひとりで運転 しているときに事故にあう確率は、大人より四〇パーセント高い。ところが、車にもうひとりI 〇代の若者が乗っていると、この値は二倍に跳ねあがる。三人めの若者がいれば、さらに倍増す る。  これに対応するには、一〇代の若者が冷静な状態のときどう行動しようと思っていたか(ある いは親がどう行動してもらいたがっていたか)を覚えていて、熱くなっているときもそのガイド ラインに従うだろうという前提に頼らない措置が必要だ。若者の行動を阻止する予防装置を車に 組みこむというのはどうだろう。たとえば、カーナビと携帯電話を組みあわせたオンスター  (○nStar)のシステムを改良して、冷静なときに若者と親がいっしょに設定できるようにした 装置を車に装備する。(イウェーで時速一〇〇キロを超えたり、住宅地区で時速六〇キロを超え たりしたら、ただではすまなくするわけだ。制限速度を超えたり、常軌を逸した進路変更をした りすると、ラジオが2パックのラップから、シューマンの第二交響曲に切りかわる(これならた いていの若者がスピードを落とすだろう)。あるいはラジオのかわりに、真冬にエアコンを最大 にしたり、真夏にヒーターをつけたり、自動的に母親に電話をかけたりしてもいい(友だちが同 乗しているなら、確実にスピードを落とす手段になる)。このように効果のあるむくいをただち に受けることになると心にとめていれば、運転手も同乗している友だちも、そろそろバイト氏に どいてもらって、ジキル博士に運転してもらったほうがよさそうだと気づくことだろう。  これはまったくありえない話ではない。すでに現代の車には、燃料噴射装置、エアコンシステ ム、音響システムなどを制御するコンピューターがたくさん搭載されている。オンスターを装備 した車は、もう無線ネットワークに接続されている。今日の科学技術があれば、車が自動的に母 親に電話をかけるのも簡単なことだ。 ○人生のよりよい決断  はじめての出産の場合、分娩中はどんな種類の鎮痛剤も使いたくないと、妊婦が事前に医者に 相談することは珍しくない。冷静な状態でくだす決断はすばらしいが、この決断は、出産にとも なう痛み(育児の難題は言うまでもなく)がどれほどのものか想像できないときのものだ。使わ ないとは言ったものの、やはり硬膜外麻酔で無痛分娩にしておけばよかったと後悔する人もいる かもしれない。  これを知っていたので、スミ(わたしの最愛の妻)とわたしは、最初の子どもアミットの出産 を控えたある日、硬膜外麻酔を使うかどうか決める前に、白分たちの根性をためしてみることに した。そのために、スミは氷を入れたバケツに両手を二分間浸し(このときの痛みが出産の痛み と同じだと断言する助産婦の助言に従ったのだ)、そのあいだわたしは、呼吸法をリードした。 わたしたちは、スミがこの痛みに耐えられないようなら、実際の出産のときは鎮痛剤を希望した ほうがいいだろうと考えていた。氷のバケツに両手を二分間浸したあと、スミは硬膜外麻酔の魅 力をはっきり理解した。出産中、スミがそれまで夫に感じていたすべての愛情は、決定的な瞬問 に硬膜外麻酔を投与してくれた麻酔科医に移っていた(ふたりめのネタの出産のときは、病院に 着いて二分後に生まれてしまったので、結局スミは、鎮痛剤なしの出産を経験することになっ た)。  ある感情の状態のとき、べつの感情の状態を考えるのはむずかしい。いつもそうできるとはか ぎらないし、スミが学んだように、痛みがともなうこともある。しかし、十分な情報を得たうえ で決断するには、経験の反対側にいるときの感情の状態をなんとかして経験し、理解しなければ ならない。人生における重要な決断をするには、この隔たりを埋める方法を身につけることが不 可欠だ。  わたしたちは、よその町に引っ越すとき、そこに住んでいる知り合いにどんなふうか尋ねもせ ずに引っ越すことはあまりないし、映画でさえ、批評も読まずに観にいこうと決めることは少な い。それなのに、自分自身の両面について知るための努力をほとんどしていないのはおかしくな いだろうか。これを理解できなければ人生のさまざまな側面で何度も失敗を繰り返すことになる かもしれないというのに、なぜこの問題を心理学の講義のためにとっておくようなことをするの だろう。わたしたちは、自分の両面について掘りさげてみる必要がある。冷静な状態と熱くなっ た状態を理解し、冷静なときと熱くなっているときの隔たりがわたしたちの生活にどう役立ち、 わたしたちをどう堕落させるか見きわめなければならない。  わたしたちの実験から何かわかるだろう。もしかしたら、人間の行動モデルを考えなおす必要 があるかもしれない。おそらく、完全に統合された人間などというものは存在しない。というよ り、わたしたちは複数の自己の寄せ集めなのかもしれない。たしかに、自分のジキル博士にバイ ト氏の強さを十分わからせるためにできることはほとんどないかもしれない。しかし、激しい感 情におそわれたときには誤った決断をしてしまいがちだと自覚するだけでも、「バイト」の自分 についての知識をなんらかの形で日々の活動に生かす助けになるのではないだろうか。  「バイト」の自分をもっと行儀よくふるまわせるにはどうしたらいいのだろう。6章ではその話 をしよう。 匸      付 録 ‐1 一     実験で尋ねた全質問の一覧、および回答の平均値とパーセント差。質問は、左端(O) ・。 ・ の「いいえ」から中央(50)の「かもしれない」、右端(100)の「はい」まで連続する視覚  的アナログ尺度で提示した。   6章   先延ばしの問題と自制心   なぜ自分のしたいことを自分にさせることができないのか 先延ばしとの戦い  大きな家、大きな車、大きなプラズマテレビが占めるアメリカらしい風景に、新たな大きい現 象が起こっている。大恐慌以来、最大の個人貯蓄率の低下だ。  二五年前は、二絎台の貯蓄率が標準だった。つい一九九四年まではそれでも貯蓄率は五パーセ ント近くを保っていた。ところが、二〇〇六年にはゼロ以下に落ち、貯蓄率はマイナスーパーセ ントになった。アメリカ人は貯蓄しないばかりか、稼ぎ以上に浪費しているということだ。ヨー ロッパ人はもっとうまくやっていて、貯蓄率は平均二〇パーセントだ。中国人は五〇パーセント も貯蓄している。いったいアメリカはどうなっているのだろう。  ひとつの答えは、アメリカ人が過激な消費者主義に屈したことではないかと思う。たとえば、 いまのように、なんでも持っていなければ気がすまないという風潮がなかった時代に建てられた 家に行って、物置の大きさを測ってみるといい。マサチューセッツ州ケンブリッジにあるわが家 は一八九〇年代の建物だが、物置と名のつくものは何もない。一九四〇年代の家なら、人がひと りやっと立っていられる程度の物置がある。一九七〇年代の物置はもう少し大きくなり、おそら く、フォンデュ鍋、ハトラックのテープを入れた箱、ディスコドレス何着かがはいるくらいの大 きさだった。ところが、いまの物置はもう種類がちがう。「ウォークインクローゼット」は、文 字どおりなかに歩いてはいることができ、さらに奥までかなり距離がある物置だ。しかも、どれ だけ奥が深かろうと、アメリカ人はドアまでいっぱいに物を詰めこむすべを知っている。  べつの答えI問題のもう半分−は、近年の信用販売の急増だ。いまやアメリカの平均的な 家族は、クレジットカードを六枚持っている(二〇〇五年だけを見ても、アメリカ人はクレジッ トカードの勧誘ダイレクトメールを六〇億通も受けとっている)。恐ろしいことに、平均的な家 族のカード負債額はおよそ九〇〇〇ドルにのぽり、七割の家族が食費や光熱費や衣服費といった 基本的な生活費をクレジットカードの借金でまかなっている。  とすれば、アメリカ人も、世界のほかの国々や昔のアメリカのように、貯蓄をはじめるのが賢 明ではないだろうか。いくらかのお金をブタの貯金箱行きにして、お金がたまるまで買いたい物 を先延ばしにするのが利口ではないだろうか。そうすべきだとわかっているのに、なぜわたした ちは給料の一部を貯金することができないのだろう。なぜ新しい買い物をがまんできないのだろ う。なぜ古きよき自制心を働かせることができないのだろう。  地獄への道は善意で敷きつめられている、ということばがある。それがどういうことかは、た いていの人が承知している。定年後のために貯蓄しようと誓いを立てるが、そのお金を旅行に使 ってしまう。ダイエットしようと心に誓うが、デザートの誘惑に身をゆだねてしまう。定期的に コレステロヽ――・ルをチェックしてもらおうと誓うが、検査の予約をキャンセルしてしまう。  つかのまの衝動によって長期目標からはずれてしまったとき、わたしたちはどれくらいの損失 をこうむるのだろう。検査の予約をすっぽかしたり、運動をしなかったりすることで、健康はど れくらい悪影響を受けるだろう。もっとお金をためて消費は抑えるという誓いを忘れると、財産 はどれくらい減るだろう。わたしたちはなぜ先延ばしとの戦いにこうもしょっちゅう敗れてしま うのだろう。 レポートの締め切り  5章では、感情がいかにわたしたちをとらえて、世界をちがった目で見せるかを説明した。先 延ばしも根っこに同じ種類の問題がある。お金をためようと誓うとき、わたしたちは冷静な状態 にある。運動をして食事にも注意しようと誓うのも、やはり冷静な状態のときだ。しかし、その あと熱い感情の溶岩流が押しよせてくる。お金をためると誓ったやさきに、どうしても欲しい新 しい車やマウンテンバイクや靴が目にはいる。規則正しく運動しようと計画したやさきに、一日 じゅうテレビの前ですわっている理由が見つかる。ダイエットはどうしたかって? とりあえず わたしは、そのチョコレートケーキをひと切れ食べて、明日から本気ではじめることにする。当 座の満足のために長期目標をあきらめること、それが先延ばしだ。  大学教授であるわたしにとって、先延ばしはしょっちゅう目にすることだ。新学期がはじまる たびに、学生は大胆な誓いを立てる。読書課題を遅れずにこなし、レポートを遅れずに提出し、 だいたいにおいて上位の成績を維持しようと誓う。そして、わたしは毎学期、学生が誘惑にから れてデートをしたり、学生会館で友人とつるんだり、山にスキー旅行に行ったりしているうちに、 課題がどんどん遅れていくのを見ている。最後には学生に感心させられることになるのだが、そ れは学生が時間に几帳面だからではなく、遅れたわけを説明するために、つくり話や言いわけや 家族の不幸をでっちあげる創造性を持ちあわせているからだ(なぜ家族の不幸は、学期末の最後 の二週間によく起きるのだろう)。  わたしは、MITで数年間教えたあと、同僚のクラウスーペルテンブロック(フランスとシン ガポールにキャンパスを持つ経営大学院インシアードの教授)とともに、いくつかの研究をする ことにした。この問題の原因を探り、ひょっとしたら人間共通のこの弱点を解決する方法を示せ るかもしれない。今回のモルモットは、わたしの消費者行動のクラスを受講するすばらしい学生 たちだ。  初回の授業の朝、席に腰を落ちつけた学生たちは、期待(そしてまちがいなく、課題で上位の 成績を維持しようという誓い)に胸を膨らませて、講義の概要をまとめたシラバスを読みあげる わたしに耳を傾けていた。匸一週間の学期中、レポートを三回提出してもらう、とわたしは説明 した。三つのレポートの出来が最終的な成績を大きく左右する。  「レポートの締め切りはいつですか」後ろのほうの学生が手を振って質問した。わたしはにっこ り笑って、「学期が終わる前ならいつでもかまわない。きみたちしだいだ」と答えた。学生たち はぽかんと囗をあけてわたしを見た。  「こういうことだ。今週中に、それぞれのレポートの締め切りをいつにするか決意表明してもら う。いったん締め切りを決めたら変更はできない。提出が遅れたレポートは、一日遅れるごとに 成績をIパーセントさげるというペナルティーを科す。もちろん締め切り前に提出する場合はな んのペナルティーもないが、どのレポートも学期の終わりにまとめて読むつもりだから、成績と いう意味では早く提出しても得になることはないはずだ」  言いかえれば、ボールは学生の側のコートにあるということだ。学生たちにりっぱに試合をす る自制心はあるだろうか。  「ですが、アリェリー教授」ガウラフが声をあげた。チャーミングなインド訛りの英語を話す頭 のいい修士学生だ。「いまの指示と動機づけだと、できるだけ締め切りを遅くするのが理にかな っていることになりませんか?」 「それでもかまわないよ。それが理にかなっていると思うなら、ぜひそうしてくれ」  さて、以上のような条件のとき、あなたならどうするだろう。   わたしは、レポートーを第口週に提出すると約束します。   わたしは、レポート2を第一目一週に提出すると約束します。   わたしは、レポート3を第口週に提出すると約束します。  学生はどんな締め切りを選んだだろうか。完全に合理的な学生なら、ガウラフの助言に従って、 すべての締め切りを講義の最終週にするだろう。レポートを早めに提出してもペナルティーはな いのだし、わざわざ危険を冒して必要以上に早い締め切りを選ぶことはない。締め切りを学期末 まで遅らせるのは、もし学生が完全に合理的なら、いちばんいい決断だろう。だが、学生が合理 的でなかったらどうだろう。誘惑に弱く、先延ばししがちの学生だったら? けっして合理的で なく、それを自覚している学生なら、締め切りを利用してむりやり自分の行動を改める手もある。 締め切りを早い時期に設定して、早いうちから課題に取りくみはじめなければならない状況にす ればいい。  では、わたしの学生はどうしたか? 学生たちは、わたしが紹介したスケジュール管理ツール を使って、学期全体に散らばるように間隔をあけてレポート提出の時期を設定した。これはけっ こうだ。ここから、学生たちが先延ばしの問題を自覚していること、そして、ちょうどいい機会 を与えられれば自制心を働かそうとすることがわかる。だが本題は、このツールが学生の成績を あげるのに実際に役立つたかどうかという点だ。それを調べるには、同じ実験を少し変形させて ほかのクラスでもおこなってみて、異なる条件(クラス)でのレポートの出来を比較する必要が あった。 先延ばしの問題を自覚すれば克服もできる  ガウラフたちのクラスの学生がそれぞれ自分の締め切りを決めたので、わたしはほかのふたつ のクラスに行って、大幅にちがう条件を提示した。ふたつめのクラスでは、学期中はなんの締め 切りもないと話した。学生は学期の最後の講義までにレポートを提出すればいい。早めに提出し てもいいが、もちろんそれで成績があがることはない。学生たちは喜んだはずだ。なにしろ、完 全な柔軟性と選択の自由を与えられたのだ。それだけでなく、このクラスの学生は、学期途中の 締め切りにまにあわなくてペナルティーを科せられる危険もいちばん低いことになる。  三つめのクラスは、独断的な扱いとでも言うべき待遇を受けた。わたしは、一二つのレポートに 一二つの締め切りを設け、それぞれ第四週、第八週、第二一週に提出するよう指示した。これは進 撃命令であり、学生には選択の余地も柔軟性も残されなかった。  この三つのクラスのなかで、最終成績がいちばんよかったのはどのクラスだろう。ある程度の 柔軟性があったガウラフたちのクラスだろうか。それとも、学期末に締め切りがひとつあるだけ で、完全な柔軟性があったふたつめのクラスだろうか。あるいは、上から締め切りを強制され、 まったく柔軟性のなかった三つめのクラスだろうか。そして成績がいちばん悪かったのはどのク ラスだろう。  学期が終わったあと、このクラスの教育助手だったホセーシルバ(彼自身、先延ばしの専門家 であり、現在はカリフォルニア大学バークレー校の助教)が学生にレポートを返却した。これで ようやく、三種類の締め切り条件での成績が比較できる。最終締め切り以外、何も締め切りを設 定しなかったクラスは、成績がいちばん悪かった。自分で三つの締め切りを選べた(が、まにあ わなければペナルティーがあった)ガウラフたちのクラスは、三つのレポートと最終成績という 点では中間だった。  この結果から何かわかるだろう。第一に、学生はたしかに先延ばしする(大ニュースだ)。第 二に、自由を厳しく制限する(等間隔に配置した締め切りを上から強制する)のが先延ばしにい ちぱん効果がある。だが、最大の新発見は、学生に締め切りをあらかじめ決意表明できるように するツールを与えるだけで、いい成績を取る助けになるということだ。  この発見は、たいていの学生が自分の先延ばしの問題をわかっていて、機会を与えられればそ の問題に取りくむ行動を起こし、それなりの成績向上を果たすことを示している。しかし、みず から課した締め切りの条件では、独断的な(外から課された)締め切りの条件ほど成績が良くな かったのはなぜだろう。わたしの感触では、すべての人が自分の先延ばしの傾向を理解している わけではなく、また、先延ばしの傾向を自覚している人でも、問題を完全に理解しているわけで はないからだ。そう、人間は自分に締め切りを課すことがあるが、それが最高の成果を得られる 締め切りとはかぎらない。  ガウラフたちのクラスの学生が設定した締め切りを見ると、まさにこれがあてはまる。クラス の大多数の学生は、十分な間隔をあけて締め切りを配置していたが(そして、独断的な条件の学 生と変わらないくらいの好成績をあげたが)、一部の学生は締め切りの間隔をあまりあけず、数 人の学生はまったくあけていなかった。締め切りの間隔を十分にあけなかった学生がクラスの平 均点をさげた。適切な間隔をあけた締め切りI学期の早いうちからむりやりレポートに取りく ませるような締め切りIがなければ、たいていはあわてて書いたお粗末なレポート(一日遅れ るごとにIパーセント差し引くペナルティーなしでも)ができあがる。  興味深いことに、この結果によると、ほとんどすべての大が先延ばしの問題を抱えているにも かかわらず、自分の弱点を自覚し、認めている人のほうが事前の決意表明に利用できる道具を使 いやすく、そうすることで自力で問題を克服できるというわけだ。 決意表明で、なりたい自分になる  以上は学生を対象におこなった実験の結果だ。では、これが日々の生活にどうかかわるのだろ う。非常に深いかかわりがあるとわたしは考えている。誘惑と戦い、自制心を少しずつ身につけ ていくのは人間の共通の目標であり、それを果たせずに繰り返し挫折するのは多くの苦悩の種に なっている。まわりを見わたすと、正しいことをしようとがんばっている人たちが目にはいる。 ずらりと並んだデザートの誘惑から逃れてみせると心に誓うダイエット中の人、消費を抑えて貯 蓄を増やそうと誓いを立てる家族。自制との戦いはまわりにあふれている。本でも雑誌でも目に するし、ラジオやテレビの電波は自己改善や自助のメッセージにむせかえっている。  そのくせ、こうした放送での言及や出版界の注目にもかかわらず、わたしたちは学生と同じ苦 境−何度も何度も長期目標を達成できないで終わるIに繰り返し陥ってしまう。なぜだろう。 事前の決意表明をしないかぎり、いつまでも誘惑に引っかかってしまうからだ。  何か対策はないだろうか。先ほどの実験から導きだされるもっともわかりやすい結論は、高圧 的な「外からの声」が命令をくだせば、ほとんどの人が気をつけの姿勢になるということだ。な にしろ、最高の成績を収めたのは、わたしが締め切りを設定した学生たちIわたしが「親」の ように命令した学生たちだ。もちろん、いくら効果があるとはいえ、がみがみと命令するのがふ さわしくなかったり、好ましくなかったりする場合もある。よい妥協案はないだろうか。最善の 策は、人々に望ましい行動の道筋をあらかじめ決意表明する機会を与えることではないかと思う。 この方法は独断的な扱いほど効果的ではないかもしれないが、正しい方向に押しだす助けにはな る(おそらく、事前に決意表明をする練習をさせ、自分で締め切りを設定する経験をつませれば、 もっと助けになるだろう)。  結論?・ わたしたちは、そのときの満足とあとからの満足にかかわる自制心の問題を抱えてい る。それはまちがいない。しかし、わたしたちが直面するどの問題にも潜在的な自制の仕組みが ある。給料から貯金できないなら、会社の自動積み立て制度を利用してもいい。ひとりで規則正 しい運動をつづける気になれないなら、友人といっしよに運動する約束を取りつけてもいい。こ のように事前に決意表明するためのツールは存在し、自分がなりたい自分になるのを助けてくれ る場合がある。  事前の決意表明という仕組みで解決できる可能性のある先延ばしの問題はほかにもあるだろう か。医療と消費者負債について考えてみよう。 ○医療  予防医療のほうが、現在の治療による医療より、個人にとっても社会にとっても費用対効果が 大きいことはだれでも知っている。予防とは、問題が起こる前に定期的に健康診断を受けること を意味する。しかし、結腸内視鏡検査やマンモグラフィーを受けるのはつらいものだ。コレステ ロールの検査でさえ、血液の採取が必要なため、けっして楽しいものではない。そのため、長期 的な健康と長生きの決め手はこうした検査を受けることなのに、一時しのぎに先延ばし、先延ば しを繰り返す。  しかし、すべての人が決まった時期に健康診断を受けるよう義務づけられたらどうなるか想像 できるだろうか。早期に発見できれば、どれだけ多くの深刻な健康上の問題を未然に食いとめら れるか考えてみてもらいたい。どれだけの医療費が削減でき、その過程でどれだけの不幸を取り のぞくことができるだろう。  ならば、この問題をどう解決すればいいだろう。なるほど、独断的な解決法に頼る手もある。 国家(オーウェルの「一九八四年」式の)が定期的な健康診断を命令する。この方法は、わたし の学生ではうまくいき、締め切りを与えられた学生たちは好成績をあげた。社会においても、健 康警察がバンでやってきて、先延ばし者をコレステロールーコントロール省に引ったてていき、 血液検査を受けさせれば、まちがいなく全員がもっと健康になるはずだ。  これは極端に思えるかもしれないが、べつの形の命令−社会がわたしたち自身のためにと強 いているものはどうだろう。わたしたちは、交通規則を無視して道路を横断したり、シートベル トを締め忘れたりすると違反切符を切られる。また、二〇年前はだれひとりとして、アメリカじ ゅうのほとんどの公共の建物やレストランやバーで喫煙が禁止されるなどとは思っていなかった が、現在はそうなっているIおまけに、タバコに火をつけると多額の罰金を取られる。さらに、 最近はトランス脂肪酸に対する反対運動もある。はたして、心臓の血管を詰まらせるフライトポ テトを人々から取りあげるべきだろうか。  わたしたちは、自虐行為を抑制する規則を強く支持することもあれば、個人の自由というもの に同じくらい強い感情を持つこともある。どちらにしても、これは両立しえないものだ。  しかし、強制的な健康診断が大衆に受けいれられないとしても、ガウラフたちのクラスに提示 した自発的な締め切り(個人の選択の余地はあるが、先延ばしにペナルティーが科される締め切 り)のような、中間の立場ならどうだろう。これこそ、独裁主義と、今日の予防保健で手にはい りすぎるもの卜失敗まで含めた完全な自由―との完璧な折衷案かもしれない。  主治医からコレステロールの検査を受けるよう言われたとしよう。これは、血液検査の前夜に 食事を控え、翌朝は朝食ぬきで検査施設まで運転し、混雑した待合室で何時間とも思える時間を すごしたあげく、ようやく看護師が呼びにきてあなたの腕に針を刺すということだ。そう考えて、 あなたはすぐにでも先延ばしをはじめる。だが、もし主治医から前もって検査のための保証金一 〇〇ドルを請求され、予約した時間にきちんと検査を受けに行ったら返金されるとしたらどうだ ろう。ちゃんと検査を受けにいく可能性が高まらないだろうか。  では、検査のための保証金一〇〇ドルを払う方法もあるけれどどうしたいかと主治医にきかれ たらどうだろう。あなたなら、みずから課すこの挑戦を受けいれるだろうか。受けいれるとした ら、保証金を出すことで検査を受けにいく可能性が高まるだろうか。検査がもっと複雑なもの、 たとえば結腸内視鏡検査ならどうだろう。予約時間に行けば返金される二〇〇ドルの保証金を前 もって払って、決意表明するだろうか。もしそうなら、あなたは、ガウラフたちのクラスにわた しが提示した条件1学生が自分の決断に責任を負うたしかな動機となった条件−を再現した ことになる。  ほかに医療における先延ばしを打ち負かす方法はあるだろうか。医療処置や歯科処置の大半を 新たに組みあわせてパックにすることで、見通しよく簡単に実施できるようになるとしたらどう だろう。このアイデアがよくわかる具体例を示そう。  数年前、フォードーモーター・カンパニーは、定期点検整備のために車の所有者を販売店に呼 びもどす最善策を見つけようと苦労していた。問題は、標準的なフォードの車には点検が必要な 部品が一万八〇〇〇ほどあるのに、都合の悪いことに、点検の必要な時期がすべて同じというわ けではないことだった(フォードのエンジニアのひとりは、ある車軸ボルトについてきっちり五 七九七キロメートルごとに点検する必要があると考えていた)。しかも、問題はこれだけではな い。フォードには二〇を超える車種があり、さらに年ごとにも型があるため、それをすべて点検 するとなると、あれこれ考えることさえ不可能に近かった。車の所有者もサービスフロントも、 どの点検が必要か、分厚い手引書をめくって決めるしかなかった。  そのうち、フォードはホンダの販売店でおこなっているあることに気づいた。ホンダの車も一 万八〇〇〇ほどの部品をフォードの車と同じようなスケジュールで整備するのが理想なはずなの に、ホンダはすべてを三種類の間隔の定期点検(たとえば、半年または七五〇〇キロメートルご と、一年または一万五〇〇〇キロメートルごと、二年または四万キロメートルごと)にまとめて いた。この一覧はショールームの受付の壁に貼ってあった。何百種類もの点検項目が、走行距離 を基準にしたどの車種や型にも共通する点検時期に集約されていた。すべての整備点検項目がパ ックにされ、順番に並べられ、値段がつけてあった。その掲示板を見れば、いつ点検が必要で、 それにいくらかかるかひと目でわかる。  しかし、点検項目をパックにして示した掲示板は、単なる便利な情報というだけではなく、確 実な先延ばし撃退法だった。特定の時期や走行距離のとき整備点検を受けるよう、顧客に指示す る役割を果たしたからだ。顧客をスムーズに導いた。しかも非常に簡潔で、だれにでも理解でき る。顧客が混乱することはなくなった。先延ばしすることもなくなった。ホンダの車を定期点検 に出すのはたやすかったのだ。  フォードの一部の人たちはこのアイデアをすばらしいと思ったが、エンジニアたちは、はじめ のうち難色を示した。エンジニアたちは、たしかにオイル交換なしで一万五〇〇〇キロ走れるが、 オイル交換の時期を八〇〇〇キロごとに設定すれば、ほかに点検が必要な全項目と足並みがそろ うことを納得する必要があった。また、マスタングとF‐250スーパーデューティー・トラッ クは技術的なちがいはあるものの、同じ点検スケジュールにまとめることができると納得する必 要もあった。一万八〇〇〇の整備項目を三つの簡潔な定期点検に組みなおすことIマクドナル ドでバリューセットを注文するくらい点検を簡単にすることIは、粗悪なエンジニアリングで はなく良質の顧客サービス(言うまでもなく、いい商売でもある)だと納得する必要もあった。 決定打となったのは、定期点検の間隔に少々さしさわりがあっても、顧客が車をまったく点検に 出さないよりはましだという説得だった。  そしてついに実現した。フォードはホンダに同調して、点検項目をパックにした。その結果、 先延ばしはなくなり、かつて四割が稼動していなかったフォードの修理工場もいっぱいになった。 ディーラーはお金をもうけ、フォードはわずか三年のうちに修理工場事業でホンダに匹敵する成 功を収めた。  では、総合的な健康診断や検査をこのように簡潔にできないだろうか。そして、みずから課す 金銭ペナルティー(あるいは「親」の一喝)をこれと組みあわせて、わたしたちの健康の質を向 上させると同時に、総医療費を大幅に削減できないだろうか。フォードの経験から学ぶべき教訓 は、臨床検査(や医療処置)をパックにして、人々が受けるのを忘れないようにするほうが、人 人にいやがられるいくつもの変則的な保健指導に固執するよりはるかに賢明だということだ。そ してこれが大きな問題だ。はたしてわたしたちアメリカ人は、泥沼のアメリカ医療にはっきりし た形を与えて、バリューセットを注文するくらい簡潔なものにできるだろうか。思想家のソロー は、。単純化だ! 単純化せよ!・と書いた。たしかに、単純化は本物の天才の証だ。 ○貯蓄  人々に浪費をやめるようオーウェル式に厳命するのもひとつの手だろう。わたしが締め切りを 押しつけた三つめのクラスの場合と似た形だ。しかし、人々に支出を管理させるもっといい方法 はないだろうか。たとえば、わたしは数年前、クレジットカードの支出を減らす「氷のコップ」 という方法を耳にした。衝動買いを防ぐ家庭療法だ。水のはいったコップにクレジットカードを 浸し、そのまま冷凍庫へ入れる。すると、衝動的に何か買いたくなったとき、氷が解けるのを待 たなければカードを取りだせない。氷が解けるころには、買いたいという衝動がおさまっている というわけだ(もちろん、カードを電子レンジに入れるわけにはいかない。そんなことをすれば 磁気ストライプが壊れてしまう)。  しかし、おそらくこれよりもっと優れた、まちがいなくもっと現代的な方法がある。ジョンー リーランドは羞恥心が変わりつつある風潮について(ニューヨークータイムズ)紙上でとても興 味深い記事を書いた。。トリシア(仮名)は、先週、クレジットカードの借金が二万二三〇ニド ルになっていることに気づき、その話を早くみんなに広めたくてたまらなくなった。二九歳のト リシアが家族や友人に自分の財政事情を打ちあけることはない。借金を恥じているからだ。にも かかわらず、トリシアはミシガン北部にある自宅の洗濯室で、一世代前なら考えられなかったI −また不可能だったIことをしている。インターネットに接続し、個人的な家計の詳細を、正 味財産(現在はマイナス三万八六九一ドル)から、クレジットカードの差引残高と金利、自分の 借金についてのブログを昨年立ちあげてからこれまでに返済した総額(一万五三一ニドル)にい たるまで、こと細かに公開しているのだ‰  トリシアのブログがより大きな風潮の一部であることもまちがいない。どうやら、同じような タイプの借金ブログを公開する何十ものウェブサイト(いまでは何千かもしれない)があるらし い(「あなたより貧乏」という名のついたpoorerthanyou.coヨ、「われら借金族」のwerei乱ebt. com、「借金するより愛しあおう」 のmakel〇venotdebt.coヨ、トリシアのブログがある bIoggingawaydebt.com、など)。リーランドはさらに、。消費者は、自制心を養うための援助を ほかの消費者に求めている。あまりに多くの企業がなんの自粛もしないためだヽと指摘する。  浪費についてのブログは重要だし役に立つが、感情をテーマにした前章で見たように、わたし たちにほんとうに必要なのは、誘惑の瞬間に消費を阻止する方法であって、起きてしまったあと で不満を言う方法ではない。  どうすればいいのだろう。部分的な選択の自由はあるが制限も組みこまれているという、ガウ ラフたちのクラスに与えた条件を再現するような仕組みをつくれないだろうか。わたしは、新し いタイプのクレジットカードの構想を練りはじめた。自分で自分の出費行動を制限できる「自制 クレジットカード」だ。カードの持ち主は、店ごと、期間ごとに、各項目にいくら出費したいか を事前に決めておくことができる。たとえば、コーヒー代は毎週二〇ドルまで、衣服費は半年ご とに六〇〇ドルまでというぐあいに制限できる。あるいは、食費の上限を毎週二〇〇ドル、娯楽 の上限を毎月六〇ドルに設定し、さらに午後二時から五時のあいだは甘いものにいっさい出費で きないようにすることもできる。上限を超えたらどうなるか。カードの持ち主が自分でペナルテ ィーを選択できるようにする。たとえば、カードが拒否されるようにしてもいいし、自分に税金 を課して、自動的にNPO法人の(ビタットーフオー・ヒューマニティや、友人や、長期預金に 送金されるようにしてもいい。またこのシステムでは、「氷のコップ」法を導入して、大きな買 い物についてクーリングオフ(冷却)期間を設けることもできる。さらに、何かあれば自動的に 配偶者や母親や友人にEメールを送るように設定することも可能だ。   スミさま    このEメールは、普段は善良な市民であるご主人のダンーアリェリー氏が、毎月五〇ドル   というチョコレート費の上限を七三ドルニ五セント超えたことをお知らせするものです。    ご多幸をお祈りいたします。   自制クレジットカード班  絵そらごとのように思えるかもしれないが、そうではない。市場にあふれはじめているICカ ード(驚くべき計算能力をそなえた手乗りサイズの薄いカード)の可能性を考えてみてもらいた い。ICカードは、個人の信用需要に合わせてカスタマイズすることで、個人の信用を賢く管理 する助けになる可能性を秘めている。たとえば、エンジンの最高速度を制限する調速機のように、 クレジットカードに特定の条件での金融取引を制限する出費「調速機」をつけたらどうだろう。 あるいは、消費者がこうありたいと望む行動ができるように、長時間にわたって有効成分が放出 される持続性錠に相当する機能をクレジットカードに持たせ、信用を一定量ずつ供給するよう自 分でプログラムできる仕組みにしてはどうだろう。  数年前、「自制クレジットカード」がすばらしいアイデアだと確信したわたしは、ある大手銀 行に会合を申しこんだ。うれしいことに、この由緒ある銀行からすぐに返答が来て、ニューヨー クにある本社で話を聞いてもらえることになった。  数週間後、わたしはニューヨークに到着し、受付で少し手間どったあと、現代的な会議室に通 された。高みからガラス越しにマン(ツタンの金融街と、雨のなか途切れなく走っていくイエロ ーキャブタクシーの流れが見えた。何分かのち、部屋は半ダースほどの精力的な銀行の重役たち でいっぱいになった。銀行のクレジットカード部門の責任者もいた。  わたしは、いかに先延ばしがあらゆる問題の原因になっているかを話しはじめた。家計におい ては、先延ばしのせいで貯蓄がおろそかになり、手軽な信用販売(クレジット)の誘惑のために 物置が不要な品物であふれています、と説明した。まもなく、わたしのことばが重役たちの共感 を得ているのがわかった。  わたしは説明をつづけた。いかにアメリカ大が悲惨なほどクレジットカードに頼っているか、 借金に苦しめられているか、この窮地から抜けだそうともがいているかを話した。年配者たちは とくにひどく打ちのめされている年齢層だ。一九九二年から二〇〇四年にかけて、五五歳以上の アメリカ人の負債率は、どの年齢層より急激に上昇した。高齢者対象の公的医療保険、メディケ アの不足を埋めるためにクレジットカードを使っている大や、家を失う恐れのある大までいる。  そのうち、映画〈素晴らしき哉、人生1〉で、借金を帳消しにしてくれと懇願するジョージー ペイリーのような気持ちになってきた。やがて重役たちも口をひらいた。ほとんど全員に、クレ ジットカードの問題を抱えている親族や配偶者や友人(もちろん、本人のわけはない)がいて、 話に花が咲いた。  これで下地は整った。いよいよわたしは、消費者が出費を減らし、貯蓄を増やすのに役立つ方 法として、自制クレジットカードのアイデアを説明しはじめた。最初、銀行役員たちは少々めん くらったようだった。この男は、消費者が出費をコントロールするのを助けたらどうかと提案し ている。銀行役員やクレジットカード会社がカードの利子で年間一七〇億ドル稼いでいることを 知らないのだろうか。おいおい、まさかそれを手放せというのか?  わたしだってそこまでうぶではない。自制カードのアイデアの背後に、いいビジネスの話があ るのだと説明した。「よろしいですか。クレジットカード業界は厳しい状況にあります。あなた がたは年間六〇億通のダイレクトメールを出していますが、どのカードの条件もほとんどかわり ばえしません」わたしのことぱに、銀行役員たちはしぶしぶ同意した。「ところが、ここで一社 がほかのクレジットカード会社から一歩リードしたらどうなるでしょう。善玉企業として名のり をあげ、信用危機にあえぐ顧客を支援するんです。顧客が自分のクレジットをコントロールでき、 さらには、お金の一部を長期貯蓄にまわすようになるクレジットカードを提案する勇気のある会 社が一社だけあったら、どうなると思います?」わたしは部屋を見まわした。「何千という顧客 がほかのクレジットカードを切り刻んで、御社と契約するにちがいありません」  興奮の波が室内を駆けぬけた。銀行役員たちはうなずいて、ざわざわと話しはじめた。これは 革新的なことだった。その後、まもなく会合は終わった。銀行役員たちは温かくわたしの手を握 り、近いうちにかならずまた連絡すると言ってくれた。  結局、先方からの連絡はなかった(一七〇億ドルの利息を失うのが不安だったのかもしれない し、ひょっとすると、単に昔なじみの先延ばしなのかもしれない)。だが、自制クレジットカー ドのアイデアはまだ健在だ。いつの日か、だれかがつぎの一歩を踏みだす気になるかもしれない。   7章   高価な所有意識   なぜ自分の持っているものを過大評価するのか デューク大学のバスケットボールーフアンたち  デューク大学では、バスケットボールは真剣な趣味と宗教経験のあいだのどこかに位置する。 バスケットボールのスタジアムは古くて小さく、音響も悪い。観客の歓声をとどろきに変え、天 井を突き破る勢いでアドレナリンを急上昇させる。スタジアムが小さいおかげで内輪の親密さが 生まれるが、同時に、試合を見たがるすべてのファンを収容するだけの座席がないという事態も 起こる。ちなみに、大学側はこれをよしとしていて、こぢんまりした親しみやすいスタジアムを 大きいものに建てかえる気はさらさらないらしい。チケットを配給するために、何年もかけて、 ほんとうに熱心なファンとその他の大たちとを区別する複雑な選考手続きが練りあげられてきた。  春学期がはじまる前から、試合を観戦したい学生たちは、スタジアムの外の広々とした草地に テントを張る。各テントは最大一〇人の学生を収容できる。最初にやってきたキャンパーがスタ ジアムの入り口にいちぱん近い場所を確保でき、あとから来る人たちはつぎつぎ後ろに並んでい く。このどんどん拡張していくキャンプ村はシャシェフスキービルと呼ばれ、コーチK−バス ケットボールチーム、ブルーデピルズのコーチ、マイクーシャシェフスキーーに対する学生た ちの尊敬の念と、きたるべきシーズンの勝利を願う熱き思いを反映している。  こうして、真剣なバスケットボールのファンを、ブルーデビルズの青い血が流れていない連中 から切りはなしおえると、エアホーンが不定期に鳴らされる。その音を合図に秒読みがはじまり、 各テントの最低ひとりが五分以内にバスケットボール当局に顔を出さなければならない。五分以 内に届け出ができなかったテントは、テントごと全員が列のいちばん後ろに追いやられる。これ がほとんど春学期中つづき、試合の四八時間前からはもっと過激になる。  試合の四八時間前になると、届け出の仕組みが「個人ごとの届け出」になる。以後、テントは ただの社会構造となる。エアホーンが鳴るたびに、それぞれの学生が個人的にバスケットボール 当局に顔を出さなければならない。最後の二日間に一度でもこの「居住チェック」にまにあわな ければ、列のいちばん後ろに追いやられることになる。ふだんの試合の前にはエアホーンもとき どきしか鳴らないが、大きな試合(全米選手権中や最大のライバルであるノースカロライナ大学 チャペルヒル校との試合など)の前は、昼も夜も四六時中エアホーンの音が響いている。  だが、この儀式のもっとも変わっている点はそこではない。いちぱん奇妙なのは、全米選手権 の決勝トーナメントのようなほんとうに重要な試合になると、列の前のほうにいる学生でもその ままチケットを手にできるわけではないことだ。学生にはかわりに抽選番号が配られる。欲しく て欲しくてたまらない試合のチケットをほんとうに勝ちとれたかどうかわかるのは、あとになっ て学生会館に張りだされる当選者の一覧の前に群がったときなのだ。 保有効果  一九九四年の春、わたしとジブーカルモン(インシアードの教授)は、デューク大学でキャン プがつづいているあいだ、エアホーンの音を聞きながら、目の前でおこなわれている生きた実験 に興味をそそられた。キャンプをしている学生は、全員がバスケットボールの試合を観戦したい と心から思っていた。その特権のためだけに長いあいだキャンプ生活を送っている。しかし抽選 が終われば、チケットの持ち主になる人と、そうでない人が出てくる。  研究すべきテーマはこれだ。はたしてチケットを勝ちとった学生−チケットの所有権を持つ 学生iは、同じだけ熱心に「働いた」にもかかわらずチケットを勝ちとれなかった学生より、 チケットの価値を高く評価するだろうか。ジャックークネッチ、リチャードーセイラー、ダニェ ルーカーネマンの「保有効果」に関する研究にもとづいて、わたしたちは、人が何か卜車でも バイオリンでも猫でもバスケットボールのチケットでもIを所有すると、ほかの人よりその所 有物を高く評価するようになると予想した。  ちょっと考えてみてもらいたい。家を売ろうという人が、買い手になるかもしれない人より、 その物件の価値をたいてい高く評価するのはなぜだろう。車を売ろうという大が、買い手より高 い価格を期待するのはなぜだろう。多くの売買で、持ち主の信じる所有物の価値が、つぎの持ち 主になるかもしれない人の考える支払い額より高いのはなぜだろう。「だれかの天井はだれかの 床」という古いことわざがある。言ってみれば、持ち主という立場のときは天井にいるし、買い 手という立場のときは床にいるわけだ。  もちろん、常にそうとはかぎらない。たとえば、わたしの友人は、箱いっぱいのレコードアル バムを引っ越しのたびに運ぶのがいやになって、ガレージセールに出した。最初にやってきた大 が、どんなレコードがはいっているか確認もせずに、全部合わせて二五ドルでどうかと持ちかけ、 友人はその申し出を受けた。おそらく、買った大はつぎの日にI〇倍の値段で売りさばいたこと だろう。もし、わたしたちが常に自分の持ち物の価値を過大評価するのだとしたら、〈アンティ ークスーロードショー〉のようなテレビ番組(「その火薬入れをいくらで手に入れたんですか? え、五ドル? では、心して聞いてください。なんとそれは国宝級の品物です!」)は存在しな いだろう。  しかし、このただし書きはあるにしても、たいていは物を所有しているというだけで、持ち主 にとってその物の価値は高くなるものだとわたしたちは考えた。はたしてこの予想は正しいの か? チケットが当たったデューク大学の学生−観衆で埋めつくされたスタンド、縦横無尽に コートを走りまわる選手たちの姿を待ちわびることのできる学生たちIは、はずれた学生より  ほんとうにチケットを高価なものと考えただろうか。答えを見つけるいい方法がひとつだけあっ  た。チケットにどれくらい価値があると思うかじかに学生にきけぱいい。  今回、ジブとわたしは、チケットが当たった学生からチケットを買いとって、はずれた学生に 売ることにした。そう、そのとおり。ダフ屋になろうというわけだ。  その晩わたしたちは、抽選でチケットが当たった学生と、はずれた学生のリストを手に入れ、 電話をかけはじめた。最初にかけた相手は化学専攻の四年生、ウィリアムだ。ウィリアムは忙し そうだった。一週間キャンプしていたおかげで、遅れを取りもどさなければならない授業の課題 やEメールがたまっていたからだ。しかも、あまり機嫌がよくなかった。列の前のほうにいたの に、抽選でチケットを手にするという幸運に恵まれなかったからだ。  「やあ、ウィリアム」わたしは言った。「決勝トーナメントのチケットは、はずれてしまったそ うだね」  「ええ、そうですけど」  「一枚、手配できるかもしれないよ」  「やったI・」  「一枚にいくらなら払ってもいいと思う?」 「一〇〇ドルでどうでしょう」 「それじゃあ安すぎるよ」わたしは笑いとばした。「もっと出さないと」 「一五〇ドルとか?」 「もっとだな」わたしは譲らなかった。「最高いくらまでなら出せる?」  ウィリアムはしばらく考えた。コ七五ドルかな」  「たったそれだけかい?」  「ええ、それ以上はIセントも出しません」  「わかった。待機者リストに載せておこう。また連絡するよ」わたしは言った。「ところで、ど うやって一七五という数字に行きついたんだい?」  ウィリアムは、一七五ドルあれば、スポーツバーに行ってただで試合を観戦しながらビールや 食べ物にお金を使っても、まだCDや、ひょっとしたら靴の一足も買えるだけのお金が残ると思 ったからだと答えた。試合はおもしろいにちがいないが、それでもやはり一七五ドルは大金だと いう。  つぎの電話の相手はジョーゼフだ。一週間のキャンプ生活のあと、ジョーゼフも学業に遅れを とっていたが、そんなことは気にしていなかった。抽選でチケットが当たり、数日後にはデュー ク大の選手が優勝をかけて戦う勇姿を観戦できるのだ。  「やあ、ジョーゼフ」わたしは言った。「いい話があるんだが、チケットを売る気はないかい? 最低額を聞かせてくれ」  「最低額なんて知りませんよ」  「大金を積まれればだれだってなびくもんだぜ」わたしは、できるだけアルーパチーノ風の声で 言った。  ジョーゼフの最初の答えは三〇〇〇ドルだった。  「おいおい、それはいくらなんでも高すぎるよ。常識的に考えてくれ。もっと安くしてくれない と」  「わかりました。二四〇〇ドルかな」  「そんなにもするのかい?」  「これ以上はさげられません」  「わかった。その値段で買いたいという人がいたら連絡するよ。ところで、どうやってその値段 に行きついたんだい?」  「デューク大のバスケットボールは、学生生活の大きな部分を占めているんです」ジョーゼフは 熱く語った。デューク大での日々を象徴する思い出として、子どもや孫たちに話してやるいい経 験にもなるという。「だのにどうやって値段をつけろって言うんです? 思い出に値段なんてつ けられると思いますか?」  ウィリアムとジョーゼフは、わたしたちが電話をかけたI〇〇人以上の学生のふたりにすぎな い。概して、チケットがはずれた学生たちは一枚に約一七〇ドル払う意志を見せた。この学生た ちが払うと言った金額は、ウィリアムの場合のように、お金のほかの使い道(スポーツバーの飲 み物や食べ物に使うなど)によって調節されていた。一方、チケットが当たった学生は、一枚の チケットに約二四〇〇ドルを要求した。こちらの学生たちは、ジョーゼフのように、この経験が 重要で、生涯忘れえない思い出になるだろうことを価格の理由にした。  しかし、ほんとうに驚くべきは、これだけの学生に電話したのに、買う側が支払ってもいいと 思う金額でチケットを売ろうという学生がただのひとりもいなかったことだ。これはいったいど ういうことだろう。抽選の結果が出る前は、のどから手が出るほどバスケットボールのチケット を欲しがっている学生のI群があった。ところが、結果が出たとたん、学生はふたつのグループ にわかれた。チケットの所有者と、非所有者だ。試合のすばらしさを想像する学生と、チケット の代金で買えるほかのものを想像する学生とのあいだに、感情の隔たりが生じた。またこれは、 実証可能な隔たりでもあった。売り値の平均(約二四〇〇ドル)は、買い手の希望額(約一七五 ドル)のほぼ一四倍にあたる。  合理的な視点に立てば、チケットの所有者も非所有者も、試合についてまったく同じとらえ方 をしていなければおかしい。なんといっても、予想される試合の雰囲気や、その経験から得られ るだろう喜びは、抽選に当たるかどうかに左右されないもののはずだ。ならば、ランダムな抽選 によって、試合−そしてチケットの価値−に対する学生の見方がこれほど劇的に変わってし まったのはなぜなのだろう。 三つの不合理な奇癖  所有意識はわたしたちの生活全体に浸透していて、奇妙な形でわたしたちがすることの多くを 方向づけている。アダムースミスは、。〔中略〕あらゆる男は〔女も〕交換によって生きるので あり、つまり、だれもがある意味で商人となる。そして社会そのものが正当な商業社会へと成長 する・と書いている。すばらしい考えだ。わたしたちの人生談のほとんどは、特定の所有物の浮 き沈みI得たものと手放したものIを説明するだけで語りつくせる。たとえば、わたしたち は服なり食べ物なり車なり家なりを買う。また、人に売りもする。家、車、それに、働くことで 時間も売っている。  人生のこれほど多くの部分を所有権のために費やしているのだから、それについて最良の決断 をくだせたらどんなにいいだろう。新しい家や新しい車やべつのソファーやアルマーニのスーツ を自分がどのくらい堪能するか正確にわかったらどんなにいいだろう。そうすれば手に入れるべ きかどうかを的確に判断できる。だが、残念ながらそんなことはまれだ。わたしたちは、ほとん どいつも暗闇を手探りで歩きまわっている。なぜだろう。これは人間性のなかにある三つの不合 理な奇癖のせいだ。  ひとつめの奇癖は、バスケットボールのチケットの例で見たように、自分がすでに持っている ものにほれこんでしまうことだ。フォルクスワーゲンのワーゲンバスを売ることに決めたとしよ う。あなたはまず何をはじめるだろう。ウィンドウに「売ります」と張りだしてもいないうちに、 ワーゲンバスで行った旅行のことを思いだしはじめる。そのころのあなたはずっと若かったし、 子どもたちもまだむずかしい年頃にさしかかっていなかった。思い出の温かい幸福感があなたと 車を包みこむ。もちろん、これはワーゲンバスにかぎったことではなく何にでもあてはまる。し かも自分のものになったとたんに起こることもある。  例をあげよう。友人夫婦が中国から養子を迎えたのだが、そのふたりが驚くべき話をしてくれ た。ふたりは、ほかの匸一組のカップルとともに中国へ行った。孤児院に着くと、院長はそれぞ れのカップルをべつべつの部屋に通し、娘ひとりずつと引きあわせた。翌朝、すべてのカップル がまた一堂に会すと、みんな口々に院長の明察をほめた。どういうわけか、院長はどの女の子が どのカップルにぴったりかをすべて見抜いていたからだ。養親子の組みあわせは完璧だった。わ たしの友人も同じように感じたそうだが、組みあわせが偶然だったことにも気づいていた。組み あわせを完璧にしたのは院長の才能ではなく、何かを手にしたとたんに愛着を感じはじめる人間 性の力だったのだ。  ふたつめの奇癖は、手にはいるかもしれないものではなく、失うかもしれないものに注目して しまうことだ。そのため、愛用のフォルクスワーゲンに値段をつけるときも、これから手にはい るもの(ほかのものを買えるお金)より、失うもの(ワーゲンバスに乗れなくなること)のほう に注目する。同じように、バスケットボールのチケットを持っている学生は、お金を手にする喜 びや、それで買えるだろうものを想像するより、観戦の経験を失うことにばかり目が行く。失う ことに対する嫌悪は強い感情で、本書でものちほど説明するが、まずい決断をくだす原因になる 場合がある。自分にとって愛着のあるがらくたをどうしても売る気になれず、たとえだれかが買 いたいと言ってきても、法外な値段をつけたりするのはなぜなのか、考えたことはあるだろうか。 わたしたちは、大切な所有物を手放そうかとちらりと考えたとたん、もうそれを失うことを悲し みはじめる。  三つめの奇癖は、ほかの人が取引を見る視点も自分と同じだろうと思いこんでしまうことだ。 どういうわけか、ワーゲンバスを買ってくれる相手が、自分と同じ気持ちや感情や思い出を共有 していると思ってしまう。家を買ってくれる相手が、台所の窓から日の光が差しこむ様子をさぞ 楽しむことだろうと思ってしまう。だが、残念ながらワーゲンバスを買う側は、むしろあなたが 一速から二速にギアをあげたときマフラーから煙が出たことのほうに気づくだろうし、家の買い 手は、すみに黒カビが生えていることに気づくだろう。買い手であれ売り手であれ、取引の相手 側の人が自分と同じように世界を見ているわけではないと想像するのはむずかしい。 奇妙な所有意識のいろいろ  また、所有意識には「奇妙な特性」とでも呼べるものがある。ひとつに、わたしたちは何かに 打ちこめば打ちこむほど、それに対する所有意識が強くなる。家具を自分で組みたてたときのこ とを思いだしてみよう。どの部品がどこにはまり、どのねじがどの穴に合うのか見つけだすこと が所有意識を高める。  それどころか、所有しているという誇りは、家具の組みたての容易さと反比例していると言っ てもさしつかえないだろう。(イビジョンテレビにサラウンドスピーカーを接続する、ソフトウ ェアをインストールする、あるいは、赤ちゃんを風呂に入れ、タオルでふき、ベビーパウダーを はたき、オムツをさせ、ベビーベッドに寝かしつける。友人であり研究仲間であるマイクーノー トン((Iバード大学の助教)とわたしは、大手家具店の名前をとって、この現象を「イケア効 果」と呼んでいる。  べつの奇妙な特性は、実際に何かを所有する前に、それに対して所有意識を持ちはじめる場合 があることだ。ネットオークションに参加したときのことを思いだしてみよう。月曜日の午前中、 腕時計に最初の入札をし、この時点であなたの入札額が最高だったとする。その晩、インターネ ットに接続したときも、あなたはまだいちばんだった。つぎの晩もそうだった。そのうちあなた は、洗練された腕時計のことを思いうかべはじめる。自分が腕にはめているところを想像し、人 にほめられているところを想像する。そしてオークションが終わる一時間前にもう一度接続して みると、どこかのやからがあなたより高い額を入札しているではないか! あなたの腕時計が他 人に取られてしまう1・ そこであなたは、はじめに予定していた金額をオーバーしてまで入札額 をあげる。  この部分的な所有意識は、ネットオークションでよくあるように、入札額があがりつづける原 因なのだろうか。オークションが長ければ長いほど、さまざまな入札者が仮想の所有意識を強め、 もっと高い金額を入札するようになるのだろうか。数年前、わたしはジェームズ・ヘイマンと、 イエシムーオルン(シカゴ大学の助教)とともに、オークションの期間がいかにオークション参 加者にじわじわと影響をおよぽし、とことんまで入札する気にさせるかを調べる実験をした。わ たしたちが予想したとおり、もっとも長いあいだ最高額の入札者だった人は、最終的に仮想の所 有意識をもっとも強く抱いていた。もちろん、最高額入札者の立場は危ういものだ。そのため、 いったん自分が所有者だと感じると、その立場を失わないように、しかたなくどんどん高い額を 入札していた。  「仮想の所有意識」が広告業の推進力のひとつになっているのは言うまでもない。幸せそうな夫 婦がBMWのコンバーチブルでカリフォルニアの海岸線を走るのを見て、そんな自分の姿を想像 する。パタゴニア社のアウトドアーウェアのカタログを手にすれば、フリース製のプルオーバー を見て、あっというまに自分のもののように考えはじめる。罠がしかけられているところに、わ たしたちは喜んで踏みこんでいく。そして、まだ何も手にしていないうちから、部分的な所有者 になってしまうのだ。  ほかの方法でも、所有権に釣りこまれることがある。企業はよく、販売促進のための「おため し」を設ける。たとえば、ケーブルテレビの基本パックに加入していると、「おためし」特別価 格(通常一か月八九ドルのところ、たった五九ドル)での「デジタルーゴールドーパック」に誘 われる。そして、どうせいつでも基本パックにもどしたり、「シルバー・パック」にさげたりで きるのだからと自分に言いきかせる。  しかし、一度ゴールドーパックを経験してしまうと、もちろんその所有権を求めるようになる。 基本パックや、せめて「デジタルーシルバー・パック」に格下げするだけの強さがわたしたちに ほんとうにあるだろうか。あやしいものだ。はじめは基本のサービスにもどるなんて簡単だと考 えるかもしれないが、いったんデジタル画像になじんでしまうと、その所有権を世界観や自分自 身に組みこみはじめ、余計にかかる料金もすぐに合理化するようになる。それだけでなく、損失 −「ゴールドーパック」のくっきりした画像とチャンネル数を失うことIへの嫌悪感は耐え がたいほど強い。たしかに、パックを切りかえる以前はデジタルーゴールドーパックにそれだけ 支払う価値があるかどうか決めかねていたかもしれない。しかし、いったん手にすると所有意識 という感情がわいてきて、「デジタルーゴールド」を失うほうが月に数ドル多く払うよりつらい ぞと、わたしたちに吹きこむようになる。すぐに引き返せると思うかもしれないが、実際は予想 よりはるかにむずかしい。  同じように客を誘惑する罠の例には、「三〇日間返金保証」というのがある。新しいソファー を買うべきかどうか迷ったとしても、あとで心変わりしてもいいという保証があれば、迷いが吹 きとんで、結局は手に入れてしまうかもしれない。わたしたちは、ソファーを家に持って帰った 時点で自分たちの見方が変化するだろうことも、ソファーを自分たちのものと考えるようになる ことも、その結果、ソファーを返すことを損失ととらえるようになることも予想できない。何日 かためしに使ってみるために持ち帰るだけだと思っても、実際はソファーの所有者になりつつあ り、どんな感情をかきたてられることになるか気づかないのだ。  所有意識は物質的なものにかぎったことではない。ものの見方にもあてはまる。政治に関する ことであれスポーツに関することであれ、なんらかの思想の所有権を得たら、わたしたちはどう するだろう。おそらく、大事にしすぎるほど後生大事にし、ほんとうの価値以上に高く評価する だろう。もっともありかちなのは、その思想を失うことに耐えきれず、なかなか手放せなくなる ことだ。その結果、残るものは何か。かたくなで柔軟性のないイデオロギーだ。 所有意識から逃れるには  所有意識という病を治す既知の方法はない。アダムースミスが述べたように、所有意識はわた したちの生活に織りこまれている。だが、そうと気づくことは助けになるかもしれない。どこを 向いても、もっと大きい家や、二台めの車や、新しい食器洗い機や、芝刈り機を買うことで生活 の質を向上できる魅力にあふれている。しかし、いったん所有物を変えてしまうと、並たいてい のことではもとにもどせない。すでに指摘したように、所有意識によって見方ががらりと変わっ てしまうからだ。以前持っていた物にもどることが、急にどうしてもがまんできない損失に思え てしまう。そのため、生活の質をあげながら、必要ならいつでも低い生活にもどれるという空想 にふけっている。しかし、もどれないのが現実だ。たとえば、もっと小さい家に格下げするのは 損失と感じ、心理的な苦痛となる。そして、そのような損失を避けるためならどんな犠牲を払っ てもいいIこの場合、たとえ月々の住宅ローンのために沈没することになってもいいと考える。  わたしが個人的にやっているのは、どんな取引も(とくに大きい取引は)、あえて自分と目的 の品物のあいだにある程度の距離を置いて、できるだけ自分が非所有者であるかのように考える 方法だ。そのように努めてはいるか、ヒンドゥー教の托鉢僧が唱道する物質的なものへの無関心 の境地にたどりつけたかどうかは自信がない。少なくとも、できるだけ禅の心でいるよう努力は している。   8章   扉をあけておく   なぜ選択の自由のせいで本来の目的からそれてしまうのか 選択の自由の難しさ  紀元前二〇九年、項羽は秦軍を攻撃するために、兵を率いて黄河をわたった。兵たちはその晩 川岸にとどまり、翌朝目覚めてみると、恐ろしいことに渡河してきた船が燃えていた。兵たちは 敵を撃退しようとあわてて跳び起きたが、すぐに、火をつけたのはだれあろう項羽であり、さら には項羽が鍋釜もすべて壊すよう命じたことを知った。  項羽は、鍋釜も船もない以上、勝つか全滅するまで戦うほかに道はないと兵たちに話した。こ のおかげで項羽が人気の中国武将の仲間入りをすることはなかったが、兵たちの集中力を高める うえでは絶大な効果があった。兵たちは槍や弓を手にすると、猛然と敵に向かっていき、九つの 戦いに勝ちつづけて秦軍の主力部隊を壊滅させた。  項羽の物語が際だっているのは、人間のふつうの行動とまるで正反対のおこないをしているた めだ。わたしたちはふつう、べつの選択への扉が閉ざされると思うだけで耐えられない。言いか えると、ふつうのわたしたちがもし項羽の軍勢に所属していたら、退却しなければならなくなっ たときのために、一部の兵を船の見張りにつけたことだろう。また、何週間か待機しなければな らない場合に備えて、べつの兵を食事係につけたにちがいない。さらには、強大な秦に調印させ る降伏文書を用意するために(まず必要になる可能性はないのに)、巻物をつくるよう指示され る兵もいたかもしれない。  現代の世のなかにおいても、わたしたちはすべての選択の自由を残しておくために同じように 必死になる。コンピューターに(イテクのオプション機能があれこれ必要になったときのために、 増設可能な機種を買っておく。プラズマの(イビジョンテレビの大画面が映らなくなったときの ために、有償の保証サービスを申しこむ。子どもが何に興味をもってもいいように、体操でもピ アノでもフランス語でも有機園芸でもテコンドーでも、とにかく思いつくかぎりの習いごとをさ せる。高級SUVを買うのも、ほんとうにオフロードを走る気があるわけではなく、もし走るこ とになったとしたら、車軸と地面のあいだに余裕があるほうがいいと思うからだ。  いずれの場合も、かならずしも意識しているとはかぎらないが、わたしたちはこうした選択肢 を残すためにほかの何かを手放している。たとえば、必要以上に高性能のコンピューターや、無 駄な保証のついたステレオを大金をはたいて買うはめになる。子どもの習いごとの場合、子ども にさまざまな活動を少しずつでも経験させようとするあまり、子どもと自分の時間をIそして、 子どもがひとつのことにほんとうに秀でる機会をI手放している。わたしたちは、重要かもし れないことのあいだを行ったり来たりしているうちに、ほんとうに重要なことに十分時間を割く ことを忘れてしまう。これこそ愚か者のゲームであるのに、わたしたちはこのゲームにひどく熟 練しているようだ。  わたしは、まさにこの問題を抱えていた学生を知っている。ショーという非常に才能のある若 者だった。三年生になったばかりのショーは、必修科目をすべて終え、専攻を選ばなくてはなら なかった。だが、何を専攻したらいいのだろう。ショーは建築に夢中で、週末はボストン周辺の 折衷主義の建造物を鑑賞してすごした。いつの日かこうした見事な建造物を設計するようになる 自分を思いうかべていた。だがそれと同時に、ショーはコンピューター科学、とくにこの分野の 自由さと柔軟さにも魅力を感じていた。グーグルのような刺激的な企業で高収入の仕事をしてい る自分の姿も想像できた。両親はショーがコンピューター科学者になることを望んでいた。それ に、建築家になるためにMITにはいる学生などいるだろうか。それでも建築に対するショーの 思いは強かった。  ショーは、話しながらいらいらと胸の前で手を握りあわせた。コンピューター科学と建築学の 専攻に必要な授業科目は両立できない。コンピューター科学を専攻するには、アルゴリズム、人 工知能、コンピューター・システムーエンジニアリング、回路と電子工学、信号とシステム、計 算機構、ソフトウェアエ学演習を履修しなければならない。建築学を専攻するにはべつの科目が 必要で、設計工房実習I、視覚アート基礎、建築技術入門、デザインーコンピューテイング入門、 建築史および建築理論入門、設計工房実習Hを履修することになる。  一方の職業への扉を閉ざすことなど、どうしてできるだろう。コンピューター科学の授業を受 講しはじめれば、建築学に転向するのに苦労するだろうし、建築学専攻ではじめれば、コンピュ ーター科学に専攻を変えるのは同じように大変だろう。といって、両方の学科に受講を申請すれ ば、MITで四年間学んだすえに結局はどちらの分野でも学位がとれないで終わる可能性が高く、 学位取得のためにはもう一年(両親に学費を出してもらって)通学しなければならないだろう  (最終的に、ショーはコンピューター科学の学位で卒業したが、最初の職場で、海軍の原子力潜 水艦の設計という両方が完璧に融合した仕事を見つけることができた)。  ダナという女子学生も似たような問題を抱えていた。ただし、ダナの悩みはふたりのボーイフ レンドだった。最近出会った彼にエネルギーと情熱を注いで、(できることなら)長くつづく関 係を築くこともできる。あるいは、消えかけているこれまでの彼との関係に時間と努力を注ぎつ づけることもできる。前の彼氏より新しい彼氏のほうが好きなのははっきりしていたが、ダナは これまでの関係を手放すことができないでいた。そうこうしているうちに、新しい彼氏もそわそ わしはじめた。わたしはダナに尋ねた。「きみは、そうまでして愛する彼を失う危険を冒したい   *じっを一冐うと、MITの建築学部はなかなかのものだ。 のか? 新しい彼とデートを重ねているうちに、やっぱり前の彼のほうが好きだと気づくかもし れないという万にひとつの可能性のためだけに?」すると、ダナは首を横に振り、「いやです」 と答えて泣きだした。  選択の自由の何がこれほどむずかしいのだろう。たとえ大きな犠牲を払ってでも、できるだけ 多くの選択の扉をあけておかなければならない気がするのはなぜだろう。わたしたちは。なぜは っきりした態度をとることができないのだろう。  この疑問に答えるため、わたしは、シンージウン(イェール大学の助教)とともに、ショーと ダナが体現したジレンマを把握しようと一連の実験を考えだした。この実験は、コンピューター ゲームをベースにしている。コンピューターゲームを使うことで人生の複雑さをいくらか排除で きるのではないか、そして、人間に選択の扉をいつまでもあけておく傾向があるかどうか、端的 に答えが出せるのではないかと考えたからだ。わたしたちは、これを「扉ゲーム」と名づけた。 実験場所には暗く陰気なところを選んだ。項羽の軍勢でさえはいりたがらないような洞窟だ。 扉ゲーム実験  MITのイーストーキャンパス学生寮はとっつきにくい場所だ。(ツカー、(Iドウェア(ツ カー、変わり者、ふつうのはみだし者(言っておくが、MITでは、相当のはみだし者でなけれ ばはみだし者にはならない)の巣窟になっている。ひとつの棟は、大音量の音楽も乱痴気パーテ イーも公衆の面前でのヌードさえ許可している。また、工学科の学生を引きつけ、橋からジェッ トコースターまで、ありとあらゆる模型がいたるところに置いてある棟もある(もしこの棟を訪 れる機会があったら、「緊急ピザ」ボタンを押してみるといい。少しすればピザが配達されるは ずだ)。三つめの棟は真っ黒に塗られている。四つめの棟には、さまざまな種類の壁画を施した バスルームがある。ヤシの木やサンバのダンサーの絵を押せば、この棟の音楽サーバー(もちろ ん、すべて合法的にダウンロードしたもの)から伝送された音楽が聞こえてくる。  数年前のある午後、わたしの研究助手のキムは、ノートパソコンをこわきに抱えて、イースト ーキャンパス学生寮の廊下をさまよっていた。キムはそれぞれの部屋の前で、すぐにできる実験 に協力して小銭を稼がないかと学生に尋ねてまわった。やってもいいという返事があると、キム は部屋にはいってノートパソコンが置けそうな空間を探す(なかなか見つからないこともあっ た)。  プログラムが立ちあがると、コンピューター画面に三つの扉が現われる。ひとつめは赤、ふた   *わたしは人からさまざまな打ちあけ話を聞き、そこまで信頼されていることに驚くことがよくある。おそらく、わたしの    体の膓と、かなりの梢神的外傷を経験してきたという公然の事実に負うところがあるのだろう。その反面、人々がわたし    に人間の梢神に対する独特な洞察力があると感じて助言を求めるのだと儒じたい気持ちもある。いずれにしても、みんな    が聞かせてくれる話から、多くのことを学ばせてもらっている。   ↑結婚は、個人にほかの選択の扉を閉ざすことを迫る社会の仕組みに思えるが、だれもが知っているとおり、これもかなら    ずしもうまくいくとはかぎらない。 つめは青、三つめは緑だ。キムは、扉をクリックすれば三つの部屋(赤、青、緑)のどれにでも はいれると説明した。ひとつの部屋にはいったら、クリックするごとにある金額が実験協力者の ものになる。たとえば、賞金がIセントからI〇セントの部屋なら、室内でクリックするたびに、 その範囲のお金が手にはいる。画面には現在の獲得金額がいくらかも表示される。  この実験で最大にお金を稼ぐには、もっとも高い賞金が用意された部屋を見つけて、その部屋 でできるだけ多くクリックすることだ。だが、ことはそう簡単にはいかない。ある部屋からべつ の部屋へ移動するたびに、クリック一回分を消費することになるからだ(クリックできる回数は 全部で一〇〇回)。すなわち、部屋から部屋へ移動するのが、もっとも高い賞金を探すのにはい い戦略である一方、扉から扉へ(つまり部屋から部屋へ)猛烈に走りまわるのは、お金を稼げた かもしれない貴重なクリックを無駄に使うことにもなる。  バイオリン奏者のアルバート(暗黒の君主クロタスを崇拝する棟の住人でもある)は、早いう ちに実験に協力してくれた学生のひとりだ。競争心が旺盛で、このゲームでだれよりもたくさん の賞金を稼いでみせると心に決めていた。一手めは赤い暃を選び、クリックして四角い部屋には いった。  部屋のなかにはいったアルバートは、まずマウスをクリックした。三・五セントと表示された。 もう一度クリックすると、そこに四・一セントが加算された。三度めのクリックはIセントだっ た。この部屋の賞金をあと何回かためしてから、アルバートの興味は緑の扉に移った。はやる思 いでマウスをクリックしてなかにはいる。  この部屋の最初の賞金は三・七セントだった。ふたたびクリックすると、五・ハセントの賞金 が加算された。三度めは六・五セントだった。画面の下のほうに表示されている獲得金額が増え はじめた。どうやら緑の部屋は赤の部屋より賞金がいいらしい。だが、青の部屋はどうだろう。 アルバートは、まだ調べていない最後の扉をくぐるべくクリックした。三回クリックしてみたが、 どれも四セント以下だった。もう十分だ。アルバートはいそいで緑の扉(一クリックで約五セン トの賞金が得られる部屋)にもどり、一〇〇クリックの残りをすべてここで費やして賞金を増や した。ゲームが終わると、アルバートは自分の得点がどうだったか知りたがった。キムはにっこ りして、これまでのところ、上位得点者のひとりだと答えた。  アルバートは、わたしたちが人間の行動について推測していたあることを裏づけてくれた。単 純な設定とはっきりした目標(この場合、お金を稼ぐこと)が与えられれば、人間はだれでも、 かなりうまく喜びの源を追い求められる。この実験をデートに置きかえると、アルバートは、ひ とりめの相手とためしにデートし、べつの相手でもためし、そのうえ三人めにも浮気をしたこと になる。しかし、みんなためしたあとは、最高の相手にもどり、ゲームの最後までそこですごし た。  だがはっきり言って、アルバートはたいして苦労していない。ほかの「デート相手」と浮気し ているあいだも、それまでの相手はアルバートが自分の腕のなかにもどってくるのをおとなしく 待っていた。しかし、もしそうではなく、しばらく放っておくとほかのデート相手がアルバート に背を向けるとしたらどうだろう。選択肢が閉ざされはじめても、アルバートはそのままにして おくだろうか。それとも、できるだけ長いあいだすべての選択肢にしがみつこうとするだろうか。 保証されている賞金の一部を犠牲にしてでも、ほかの選択肢を生かしておこうとするだろうか。  これをたしかめるため、わたしたちはゲームに手を加えた。今回は、どの扉もクリック匸一回 分のあいだ放っておくと、永久に消えてしまう。  「消える扉」の実験  (ツカーの棟の住人サムは、「消える」条件での最初の実験協力者だった。サムはまず青の扉 を選び、なかにはいって三回クリックした。画面の下のほうで賞金が加算されはじめたが、サム の注意を引いた画面の動きはそれだけではなかった。一回クリックするたびに、ほかの扉が匸一 分のIずつ縮んでいき、そのまま放っておくと消えてしまうことを知らせていた。あと八回クリ ックしたら、残りの扉は永久に消えてしまう。  そのままにしておく気などサムにはなかった。カーソルを動かし、赤の扉をクリックしてもと の大きさにもどしたあと、赤の部屋で三回クリックした。しかし、ここで緑の扉が目にはいった。 あと四回クリックしたら消えてしまう。サムはふたたびカーソルを動かし、今度は緑の扉をもと の大きさにもどした。  どうやら緑の部屋がいちばん賞金がいいようだった。ここにとどまるべきだろうか(部屋ごと に決まっているのが賞金の範囲だということを思いだしてもらいたい。そのため、サムは緑の部 屋がいちばんいいと完全には確信しきれなかった。青のほうがいいかもしれないし、赤のほうか もしれないし、どちらでもないかもしれないのだ)。サムは目を血走らせて、カーソルを動かし た。赤の扉をクリックしながら、青の扉が縮んでいくのを見る。何度か赤の部屋でクリックした あと、青の扉に移動する。だがそのころには緑の扉が危険なほど小さくなりはじめているので、 つぎは緑にもどる。  そのうち、サムは選択肢から選択肢へとあたふたととびまわりはじめた。前のめりになって一 心にゲームに打ちこんでいる。その様子から、いつも何かにせきたてられている親が、子どもを 習いごとからつぎの習いごとへと急いで送りとどけている姿が思いうかんだ。  これは日々の生活を送る効率的な方法なのだろうか。とくに、毎週ひとつやふたつ新しい扉が 加わるとしたらどうだろう。あなた個人の生活についてわたしがたしかな答えを出すことはでき ないが、この実験からはっきりわかるのは、あちらへこちらへとめまぐるしく動きまわるのは、 ストレスになるだけでなく、不経済だということだ。実験協力者たちは、扉が閉ざされてしまわ ないよう必死になるあまり、扉が消える心配をしなくてすんだ実験の協力者に比べて、獲得金額 がかなり少なかった(約一五パーセント減)。ほんとうは、部屋をひとっIどの部屋でもI 選んで、実験のあいだじゅうそこにとどまってさえいれば、もっと賞金をかせぐことができたの だ(これが人生や仕事だったらと考えてみるといい)。  選択の扉をあけておくことが不利になるよう実験に手を加えても結果は同じだった。たとえば、 扉を開くためのクリックに一回三セントを課して、扉をクリックする代償がクリック一回分の損 失(機会費用、つまり、部屋でクリックしていれば得られただろう賞金)だけでなく、じかに金 銭的な損失になるようにした。ところが、それでも実験協力者の反応はまったく変わらず、選択 の扉をあけておくことにやはり不合理にも熱中した。  そこで、各部屋で獲得できる賞金の正確な金額を実験協力者に伝えてみたが、それでも結果は 変わらなかった。みんな、扉が閉ざされるのを見るのがどうしてもがまんできないようだ。また、 一部の実験協力者に、実際の実験の前に何百回もゲームを練習してもらう方法もためした。わた したちは、これならきっと、閉じていく扉をあきらめることの賢さに実験協力者も気づくだろう と考えた。だがそれもまちかっていた。いったん選択肢が縮んでいくのを目にすると、わがMI Tの学生たち1おそらく、国内でもとりわけ優秀で聡明な若者たちIは、集中を保つことが できなくなった。裏庭にいるめんどりさながらに、すべての扉をひたすらつつきつづけ、もっと 賞金を得ようとして、結局はるかに少ない金額しか手にできなかったのだ。  最後にわたしたちは、もうひとつタイプのちがう実験をしてみた。復活を思わせる実験だ。こ の条件でも、匸一回クリックするあいだ放っておくと扉は消える。しかし、永久に消えるわけで はなく、一回クリックすればよみがえらすことができる。つまり、消失を心配せずに扉を無視で きるということだ。これで扉をクリックするのをなんとか止められただろうか。答えはノーだ。 扉が消えても実際にはなんの影響もなく、いつでも簡単に呼びもどせるというのに、意外にも実 験協力者は、「復活する」扉を無駄にクリックしつづけた。失うと思うだけで耐えられず、選択 の扉が閉じるのを防ぐためにできることならなんでもした。 価値のない扉にまどわされる  無用の選択肢を追い求めたくなる不合理な衝動から自由になるには、どうすればいいのだろう。 一九四一年、哲学者のエーリヒーフロムは、著書『自由からの逃走』を発表した。フロムによれ ば、近代民主主義において、人々は機会がないことではなく、めまいがするほど機会がありあま っていることに悩まされている。現代社会においてはまさにそのとおりだ。わたしたちは、やり たいことはなんでもやれるし、なんにでもなりたいものになれると常に言いきかせられている。 問題は、この夢にふさわしい生き方をすることにある。わたしたちはあらゆる方向にみずからを 成長させなければならない。人生のすべての側面を味わわなければならない。死ぬまでに見るべ き1000のもののうち九九九番めで止まっていないか、しっかり見とどけなくてはならない。 だが、ここで問題が生じる。わたしたちは無理にいろいろなことに手を広げすぎてはいないだろ うか。フロムが指摘している誘惑は、実験協力者が扉から扉へととびまわる様子を観察している とき、わたしたちが目にしたものではないかと思う。  扉から扉へ走りまわる人間の行動は十分に奇妙だ。しかしもっと奇妙なのは、ほとんど価値の ない扉−消えかけているチャンスや、自分にとってほとんど興味のないチャンスーを追いか けたいという抑えがたい衝動だ。たとえば、先ほどの女子学生のダナは、ふたりの男性のうちひ とりはまず見込みがないとすでに結論を出していた。ならばなぜ、もうひとりの男性との関係を 危険にさらしてまで、魅力に欠ける彼氏とのしおれかけた関係に栄養を与えつづけるようなまね をしたのだろう。同じように、わたしたちは安売りしている品物を見て、ほんとうにそれが必要 だからではなく、バー‘ゲンセールが終わるころにはすべて売れてしまって二度とその値段で買え なくなるからという理由で、特売品を何度買ってしまったことだろう。 価値のある扉を忘れる  この悲劇のべつの一面が顔を出すこともある。なかにはほんとうに消えかけている扉があり、 すぐに注意を向けなければならないのに、わたしたちがそれに気づかないときだ。たとえば、息 子や娘の子ども時代がいつのまにかすぎてしまうことに気づかずに、職場で必要以上に働く。こ うした扉は、閉まるのがあまりにゆっくりで、消えていくところが目にはいらないことがある。 友人のひとりがこんなことを言っていた。結婚生活で最高の一年は、自分がニューヨークに住み、 細君がボストンに住んでいて、週末にしか会えなかった時期だという。このやり方にする以前− −ボストンでいっしよに暮らしていたときIは、週末はそれぞれの仕事の遅れを取りもどすた めに費やされ、ふたりの時間を楽しむことはなかった。しかしやり方を変えたことで、いっしよ にすごせるのが週末しかなく、共有できる時間もかぎられていて、はっきりした終わり(帰りの 電車の時間)があることを意識するようになった。時間が刻々とすぎていくのがはっきりわかっ たため、週末は仕事をせずに、思いきりふたりの時間を楽しんだそうだ。  わたしはなにも、すべての時間を子どもとすごすために仕事をやめて家にいることや、妻や夫 との週末を改善するためによその都市へ引っ越して別居すること(たしかになんらかの利点はあ るかもしれないが)を支持しているわけではない。しかし、いちばん大切な選択の扉が閉じよう としているときに警告してくれる体内アラームがあればいいのにとは思う。 扉ゲームの教訓  ではどうしたらいいのだろう。わたしたちはこの実験で、扉が閉じてしまわないようにあたふ たとかけまわるのは愚か者のゲームであることを実証した。かけまわれぱ感情をすり減らすだけ でなく、財布もすり減らすことになる。わたしたちに必要なのは、いくつかの扉を意図的に閉じ ることだ。言うまでもなく、小さい扉はわりあい閉じやすい。クリスマスカードを出す人のリス トから名前を消したり、娘の一連の習いごとからテコンドーを抜いたりするのは簡単にできる。  しかし、もっと大きい扉(あるいは、大きく見える扉)は閉じるのに苦労する。新しい仕事や もっといい職場につながるかもしれない扉は、閉じるのがむずかしいかもしれない。自分の夢と 結びついている扉も閉じにくい。特定の人との関係も、たとえどこにもつながっていないように 思えても、なかなか閉じるのはむずかしい。  わたしたちは、扉をあけておきたいという不合理な衝動を抱えている。人間はそのようにでき ている。しかし、だからといって扉を閉じる努力などしないほうがいいというわけではない。映 画の一場面を思いだしてみよう。〈風と共に去りぬ〉のなかで、レットーバトラーが去っていく とき、スカーレットーオ(ラはレッドにしがみついて哀願した。「わたしはどこへ行けばいい の? 何をすればいいの?」ずっとスカーレットのふるまいに耐えてきたレッドはもう限界にき ていた。「正直言って、おれには関係ない」このせりふが映画史上もっとも心に残るものとして 票を集めるのは偶然ではない。これが広く人々の心に訴えるのは、断固として扉が閉じられるか らだ。このせりふは、すべての人に閉じなければならない扉―小さいものも大きいものもI があることを思いださせる戒めとすべきだ。  時間を無駄にするだけの委員会からは抜けよう。べつの生活やちがうタイプの友人に移ってい った人たちにクリスマスカードを送るのはやめよう。バスケットボールを観戦して、ゴルフとス カッシュをやって、しかも家族をひとつにしておくだけの時間がほんとうにあるのかと自問しよ う。ひょっとすると、いくつかスポーツをあきらめたほうがいいのかもしれない。このような扉 は閉めなければならない。そのままにしておくと、ほんとうにあけておくべき扉からエネルギー と献身を吸いとってしまうし、わたしたちの気が変になってしまうからだ。 ふたつの選択肢  たくさんの扉を閉じて、あとふたつだけ残っているとしよう。こうなれば選ぶのは簡単だと言 いたいところだが、そうでない場合も多い。というより、同じくらい魅力のあるふたつの選択肢 のどちらを選ぶか決めるのは、もっともむずかしい決断の部類にはいる。これは、選択の扉を長 いあいだ開きっぱなしにしておくというだけでなく、最後に報いを受ける事態になるまで優柔不 断でいるという状況だ。物語を使って説明しよう。  ある日、腹をすかせたロバが干し草をさがしに納屋へ行き、納屋の両端にまったく同じ大きさ の干し草の山がひとつずつあるのを見つけた。ロバは納屋の真ん中で、ふたつの干し草の山のあ いだに立って、どちらを選ぼうかと途方にくれた。何時間たってもまだ決心がっかないでいた。 そのうち、どうしても決められないまま、ロバは飢え死にしてしまった。  もちろんこれは架空の話で、ロバの知性を不当に中傷している。もっといい例は連邦議会だろ う。連邦議会はよく膠着する。法律の全体像−老朽化する(イウェーの修復、移民、絶滅危惧   *フランスの論理学者にして哲学者のジヤンーピュリダンがアリストテレスの行為の理論につけた注釈は、「ビュリダンの    ロバ」として知られるこの物語が刺激となった。 種保護対策の改善などIにかかわるものばかりとはかぎらず、緇かい部分の意見の相違が原因 のこともある。分別のある人の目には、こうした問題に対する両党の方針が、ふたつの干し草の 山に相当するように見えることも少なくない。にもかかわらず、あるいは、だからこそ、議会は ちょくちょくふたつの干し草の真ん中でとりのこされる。すばやく決めてくれるほうがだれにと ってもいいと思うのだが、どうだろうか。  べつの例をあげよう。ある友人は、デジタルカメラを選ぶのに、ほとんどそっくりの二機種の どちらにするかで三か月迷った。友人がようやく一方に決めたとき、わたしは、写真を撮る機会 を何度ふいにしたか、どちらにするか決めるためにどれだけ貴重な時間を費やしたか、この三か 月のあいだ家族や友人を写したデジタル写真が手にはいるならいくら支払うかと尋ねた。カメラ の値段以上だと友人は答えた。あなたにも似たような経験はないだろうか。  ふたつのものごとの類似点とわずかな相違点に注目していたとき、わたしの友人が(それに、 ロバと議会も)忘れていたのは、「決断しないことによる影響」を考えに入れることだ。ロバは 飢えることを考えていなかった。議会は(イウェー法について議論しているあいだに失われる人 命のことを考えていなかった。わたしの友人は撮れずに終わったすばらしい写真のことを考えて いなかった。家電量販店で費やした時間は言うまでもない。さらに重要なのは、三者とも、どち らかに決めることで生じるちがいがほんのわずかだという点を考えに入れていなかったことだ。  わたしの友人はどちらのカメラを選んでも同じように満足したことだろう。ロバはどちらの干 し草を食べてもよかったはずだ。議会の議員たちは、法案のわずかなちがいには目をつぶって、 自分たちの成果を勝ちはこって地元に帰れたはずだ。つまり、三者とも、これを簡単な決断だと 考えればよかったのだ。たとえコインを投げあげて(ロバの場合は比喩になるが)決めたとして も、なんとか生きていけただろう。しかし、わたしたちはそんなふうには行動しない。どうして も選択の扉を閉じることができないからだ。  ふたつの非常に似かよった選択肢からひとつ選ぶのは簡単なはずだが、実際にはそうはいかな い。わたしも何年か前に、MITにとどまるべきか、スタンフォード大学に移るべきか悩んでい たとき、まったく同じ問題に陥った(最後にはMITを選んだ)。ふたつの選択肢を突きつけら れ、何週間もかけて両校をじっくり比較した結果、総合的な魅力という点でどちらもほとんど変 わらないことがわかった。そこでわたしはどうしたか。それでもまだ、さらなる情報と実地の調 査が必要だと判断し、両校を慎重に吟味した。それぞれの大学の人に会って大学をどう思ってい るか尋ねた。近隣や子どもが通えそうな学校も調べた。スミとふたりで、ふたつの選択肢が自分 たちの望む生活にふさわしいかどうかじっくり考えた。そのうち、わたしはこれにすっかり心を 奪われて、学術研究や論文発表に支障が出はじめた。皮肉なことに、仕事をする最適な場所を探 しているうちに、わたしは研究を軽視してしまっていたのだ。  たぶんあなたは、この本に書かれたわたしの知恵を買うために、なんらかのお金(読む時間と、 そのあいだにできたかもしれないほかの活動については言うまでもなく)を投資してくれたのだ ろう。だから、わたしも結局はあのロバのように、ふたつの非常に似かよった干し草の山のちが いを見きわめようとしたなどと、あっさり認めるべきではないかもしれない。だがそれが事実だ。  決断をくだす過程のむずかしさはもともと知っているはずなのに、わたしもほかのみんなと同 じように予想どおりに不合理な行動をしてしまったわけだ。   9章   予測の効果   なぜ心は予測したとおりのものを手に入れるのか 同じできごとの解釈がなぜ異なるか  あなたがフィラデルフィアーイーグルスのファンで、アメリカンフットボールの試合を友人と 観戦しているとしよう。残念ながら、友人はニューヨーク市の出身で、ニューヨークージャイア ンツの熱狂的なファンだ。そんな男となぜ友だちになったのかわからないが、同じ寮の部屋でI 学期いっしよにすごすうちに、アメリカンフットボールの趣味には難があるものの、いつのまに か仲よくなっていた。  試合はイーグルスの攻撃中だが、ジャイアンツに五点リードされていて、もうタイムアウトは 残っていない。最後の第四クォーターで、時計の残り時間は六秒だ。ボールは匸一ヤード地点に ある。四人のワイドレシーバーが最後のプレーのために位置についた。クォーターバックがスナ ップされたボールを持つたままドロップバックする。レシーバーがエンドゾーン目指して全速力 で駆けだし、クォーターバックは時間ぎりぎりに高いパスを投げる。エンドゾーンのコーナー近 くにいたイーグルスのレシーバーがボールに飛びつき、見事なダイビングキャッチを決めた。  審判がタッチダウンの笛を鳴らし、イーグルスの選手全員が祝うためにフィールドになだれこ んできた。だが待ったがかかる。レシーバーの両足がちゃんとエンドゾーンにはいっていただろ うか? 巨大スクリーンではきわどそうに見える。そこでジャイアンツ側かビデオ判定を求めた。 あなたは友人に顔を向けて言う。「いまのを見たか? すごいキャッチだったな。完全にエンド ゾーン内だったよ。なんでビデオ判定なんかしてるんだ?」これを聞いて、友人は顔をしかめた。  「あれは完全にエンドゾーンの外だったさ。審判が見てなかったなんて信じられないよ。あれで はいっていたと思うなんて、頭がおかしいんじゃないか」  いったい何か起きたのだろう。シャイアンツーファンの友人が夢想でもしたのだろうか。それ とも思いちがいをしているのだろうか? まさかうそをついているのか? あるいは、チームへ の忠誠心−そして勝ってくれという期待−が、完全に、うそ偽りなく、深刻なまでに友人の 判断を曇らせたのだろうか。  ある晩、わたしはこの話について考えながら、ケンブリッジをぶらぶら歩いて、MITのウォ ーカー記念館に向かっていた。ふたりの友人−ふたりの正直な男−が、空高くあがったひと つのパスに対して、ふたつの異なる見方をできるものだろうか。そもそも、ふた組の当事者がま ったく同じできごとを見ていながら、なぜ対立するそれぞれの意見を支持するできごとだと解釈 できるのだろう。字の読めないひとりの学童を前にして、二大政党の民主党と共和党が同じ問題 についてなぜここまで激しく異なる立場をとれるのだろう。けんかをしている夫婦が、争いの原 因についてなぜこうもちがった見方をするのだろう。  海外特派員としてアイルランドのベルファストに滞在したことのある友人が、以前、アイルラ ンド共和軍(IRA)のメンバーたちと面会したときのことを話してくれた。インタビューの最 中、おおぜいのIRA工作員を独房に収監しているメイズ刑務所の看取長が殺害されたという二 ユースが飛びこんできた。わたしの友人を囲むように集まってきたIRAのメンバーは、きわめ て当然のことながら、そのニュースを聞くと、自分たちの主義の勝利だと満足していた。もちろ ん、イギリス人はこのニュースをけっしてそのようには考えない。翌朝のロンドンの見出しは、 怒りと報復を求める声で煮えたぎっていた。それどころか、イギリス人は、IRAとの話し合い など無駄に終わるにちがいなく、IRAは壊滅すべきだという証拠としてこのできごとをとらえ た。わたしはイスラエル人で、このような暴力の悪循環についてはよく知っている。暴力はめず らしいことではない。あまりにたびたび起こるため、立ちどまって理由を自問することはまずな い。なぜ暴力は起きるのだろう。歴史や民族や政治が原因なのだろうか。それとも、わたしたち のなかに争いをけしかけるような何か根本的に不合理なもの、つまり、同じできごとを見ても、 それぞれの見方によってまったくちがった解釈をさせる何かがあるのだろうか。  わたしもレナードーリー(コロンビア大学の助教)もシェーンーフレデリック(MITの教 授)も、この深遠な問題に対する答えは何も持ちあわせていなかった。それでも、この人間の状 況の本質を探るべく、過去の印象がわたしたちの見方をどれだけ曇らせるかを調べる一連の簡単 な実験をすることにした。わたしたちは、指標として宗教も政治もスポーツさえも使わない簡単 なテストを考えだした。使うのはビールだ。 予測とビールの味  ウォーカー記念館の入り囗までは、両脇にギリシヤの円柱がそびえる幅広の階段をのぽってい く。なかにはいると(そして右を向くと)ふたつの部屋がある。電灯が出現する以前からのじゅ うたん、それにふさわしい家具。ただよってくるにおいは、まぎれもなくアルコールとピーナツ と気の合う仲間を約束している。マディーチャールズヘようこそ。ここはMITにふたつあるパ ブのひとつで、これから数週間にわたってわたしたち三人が実験をする場所だ。実験の目的は、 予測によって、その後に起こるできごとに対する見方が影響されるかどうか調べることだ。もっ と具体的に言うと、ある種類のビールに対するパブの客たちの予測が、ビールの昧の感じ方に影 響をおよぼすかどうかを調べる。  詳しく説明しよう。マディーチャールズの客に出すビールのひとつはバドワイザーにする。も うひとつは、わたしたちが親愛をこめてMITブリューと名づけたビールだ。MITブリューと は何か。基本的にはバドワイザーで、そこに「隠し味」−ビールーオンス(約三〇ミリリット ル)に対してバルサミコ酢二滴−を加えてある(MITの学生のなかには、バドワイザーを 「ビール」と呼ぶことに異論のある者もいたため、その後の研究では、ボストン市民がはるかに 「ビール」と認めやすいサミュエルーアダムズを使った)。  その晩七時ごろ、コンピューター科学の博士課程二年生のジェフリーが、運良くマデイーチャ ールズに立ちよった。「二種類のビールを少しだけ試飲してもらえないかな」レナードが近づい ていって声をかけた。ジェフリーはそれほどためらいもせず同意した。レナードがジェフリーを テーブルに案内すると、そこには、ふんわりと泡の立った液体がはいったAとBのふたつのピッ チャーが置いてあった。ジェフリーは、一方をひと口含んで囗のなかでじっくり味わってから、 もう一方を試飲した。「大きなグラスで飲むならどっちのビールだい?」レナードが尋ねると、 ジェフリーは少し考えた。無料で一杯飲めるのなら、ぜひとも正しい麦芽の友としばしのときを すごしたい。  ジェフリーはだんぜんBのビールを選び、友人たちの輪(最近MITの学生たちがカリフォル ニアエ科大学から「借りた」大砲の話題で盛りあかっていた)に加わった。本人は知らずにいた が、ジェフリーが味見したビールはバドワイザーとMITブリューで、選んだのは酢を加えたM ITブリューだった。  数分後、エストニアからの聴講生のミナがやってきた。「無料のビールはいかが?」レナード が尋ねると、ミナはにっこりしてうなずいた。今回、レナードはもっと情報を明かし、ビールA は標準的な市販のビールで、ビールBはバルサミコ酢を数滴混ぜてあると説明した。ミナはふた つのビールを味見し、試飲を終えてから(酢を加えたビールBを飮むとき、鼻にしわを寄せてか ら)、ビールAのほうにうなずいてみせた。レナードが大きなグラスに市販のビールを注いでわ たすと、ミナはうれしそうにパブにいた友人たちに加わった。  ミナとジェフリーは、この実験に協力した数百人の学生のふたりにすぎない。しかし、ふたり の反応は典型的だ。酢について前もって知らされなかった学生は、ほとんどが酢を加えたMIT ブリューを選んだ。ところが、MITブリューにバルサミコ酢が加えてあることを事前に知らさ れると、学生の反応はまったくちがっていた。混ぜものをしたビールを少し味見したとたん鼻に しわをよせ、かわりに標準的なビールを求めたのだ。ここでの教訓は、もう予想がついているか もしれないが、あらかじめ味がまずいと教えると、人々がそれに賛同することになる可能性が高 いということだ。それも、人々が経験によってそう実感するからではなく、まずいと予測するか らだ。  ここまで読んできて、もし新しいビール会社、とくにバルサミコ酢を加えたビール専門の会社 をつくろうと考えているようなら、つぎの点を考慮するようお勧めする。   山 人々がラベルを読んだり、原料について知ったりすれば、おそらくあなたのビールをい    やがるだろう。   Q あいにくバルサミコ酢はかなり高価なため、たとえ加えることでビールの味がよくなる    としても、投資する価値はないかもしれない。それよりは、品質のいいビールをつくった 雰囲気が高級なら味も高級に感じる  ビールはわたしたちの実験のほんの手はじめだった。MITスローン経営大学院のMBA学生 は、コーヒーもたくさん飲む。そこで、エリー・オフェク((Iバードービジネスースクールの 准教授)、マルコーベルテイーニ(ロンドンービジネスースクールの助敦)とともに、にわかづ くりのコーヒーショップを開いた。わたしたちのコーヒーについてアンケートに答えてくれる学 生に、無料でコーヒーを一杯提供する店だ。すぐに行列ができた。わたしたちはコーヒー好きの 学生たちにコーヒーをわたし、コーヒーに加えるものIミルク、クリーム、ミルクとクリーム が半々の(Iフーアンドー(Iフ、白砂糖、赤砂糖−をまとめて置いてあるテーブルを教えた。 このテーブルには、あまり一般的でない香味料−クローブ、ナツメグ、オレンジピール、アニ ス、パプリカ、カルダモンーを用意して、好みのものをコーヒーに入れられるようにした。  実験協力者がコーヒーに好きなものを加えて(わたしたちの用意した変わった香味料はどれも あまり使われなかった)味わったあと、アンケート用紙に記入してもらった。このコーヒーをど れくらい気に入ったか、今後も学生食堂で出してもらいたいか、このコーヒーに最大いくらなら 払ってもいいかという質問に答えてもらった。  それから何日かコーヒーを配りつづけたが、変わった香味料を入れておく容器をときどき取り かえた。あるときは、美しいガラスと金属の容器に入れてきれいに印刷したラベルを張り、小さ な銀スプーンといっしょにつや消し加工の金属トレーに載せた。あるときは、白いスチロールカ ップに入れて、赤いフェルトペンでどの香味料かを手書きした。さらには、スチロールカップを 短く切ったばかりか、手でちぎって切り囗をぎざぎざにしたものを使った。  結果はどうなっただろう。いや、しゃれた容器に入れても、変わった香味料を使ってみようか とコーヒー好きたちに思わせることはできなかった(たぶん、まだ当分はコーヒーにパプリカが はいっているのを目にすることはないだろう)。だが興味深いのは、変わった香味料をしゃれた 容器に入れて出したときのコーヒー好きたちの回答だ。コーヒーをとても気に入った、けっこう な金額を払ってもいい、学生食堂でこの新しいブレンドコーヒーを売りはじめるべきだという意 見がはるかに多くなっていた。つまり、コーヒーの雰囲気が高級そうだと、コーヒーの味も高級 に感じるということだ。 知識が先かあとかで経験が変わる  つまり、前もっておいしそうだと信じたときは、たいてい、やはりおいしいということになり、 まずそうだと思ったときは、やはりまずいということになる。それにしても、この影響はどのく らい深いのだろう。わたしたちの意見を変えるだけなのだろうか、それとも、経験そのものの生 理機能まで変えてしまうのだろうか。言いかえると、事前の知識が味覚そのものの背後にある神 経活動に実際に変化をもたらすせいで、おいしい(あるいはまずい)と予測したとき、そのとお りの味に感じるのだろうか。  この可能性を調べるため、レナードとジェーンとともに、ふたたびビール実験をおこなった。 ただし今回はかなりの工夫を加えた。わたしたちはすでに、MITブリューをふたつの方法− 実験協力者が味見する前にビールに酢がはいっていることを伝える方法と、それについて何も伝 えない方法−でためした。だがもし、はじめは酢のことを黙っておいて、まずビールを試飲し てもらい、それから酢がはいっていると伝え、最後に反応を尋ねたらどうなるだろう。知識をこ の位置−経験の直後にIにもってくることで、経験の前に知識を得た実験協力者の反応とは ちがう反応が引きだされるだろうか。  ここで少し、話題をビールからべつの例に切りかえよう。あるスポーツカーを運転するのがと てつもなく刺激的だという話を耳にして、その車を試乗し、その印象を大に話したとする。あな たの印象は、そのスポーツカーについて何も知らずに試乗してから、とても刺激的な車だと小耳 に挟み、その後、車の印象をメモした人の印象とはちがうだろうか。言いかえると、知識が経験 の前にくるかあとにくるかは重大な問題なのか、ということだ。もしそうなら、経験する前に知 識を得るのと、経験したあとに情報を得るのとでは、どちらの入力がより重みがあるのだろう。  この質問をする意義は、知識がたんに事情を知らせるだけのものなら、実験協力者が情報を得 たのが試飲の前かあとかは問題にならないはずだ、という点にある。つまり、ビールに酢がはい っていると事前に話せば、ビールの感想に影響を与えるはずだし、あとで話しても、同じように 影響を与えるはずだ。どちらの場合も、酢を加えたビールについての悪い知らせを聞くことにな るからだ。知識がたんに知らせる役目しか果たさないのなら、そうでなければおかしい。  他方、酢について事前に話すことが、知覚を実際につくりかえて知識と合致させるのだとした ら、あらかじめ酢のことを知っていた大のビールに対する感想は、試飲をしてから聞いた人の感 想とは大きく異なるはずだ。こう考えてみよう。知識がほんとうに味覚を変えるのなら、先にビ ールを飲んでから酢のことを聞いた実験協力者は、「目隠し」条件の実験協力者(酢について最 後まで何も知らない大)と同じようにビールの味を感じるはずだ。酢のことを知るのは味覚が決 まったあとなのだから、予測が経験を変えるとしても、酢の知識が知覚に影響をおよぽすにはも う遅すぎる。  それでは、ビールを試飲したあとに酢のことを聞かされた学生は、試飲の前に聞いた学生と同 じくらい、酢入りのMITブリューを毛嫌いしただろうか。それとも、酢のことを最後まで知ら なかった学生と同じくらい、MITブリューを気に入っただろうか。あなたの意見ではどちらだ ろう。  実験の結果、ビールを飲んだあとに酢のことを知った学生は、事前に酢のことを聞いていた学 生より、はるかにMITブリューを気に入ることがわかった。それどころか、酢のことをあとで 聞いた学生は、ビールに酢がはいっていることをまったく知らなかった学生と同じくらい、MI Tブリューを気に入った。  ここから何かわかるだろう。もうひとつ、べつの例をあげておく。ダーシーおばさんがガレー ジセールをやって、長い人生のなかで収集したさまざまな品を売りはらおうとしているとしよう。 一台の車がやってきて何人かおりたと思ったら、まもなく、壁に立てかけてある一枚の油絵の前 にみんなが集まった。そう、あなたもこの人たちと同意見だ。たしかにその絵は、初期アメリカ 原始主義の優れた一枚のように見える。しかし、じつはダーシーおばさんがほんの数年前に写真 から模写したものだということを、あなたならこの人たちに話すだろうか。  わたしは率直で正直な人間なので、性格からしてこの人たちに話すと思う。しかし、話すのは、 絵を鑑賞しおえる前にすべきだろうか、あとにすべきだろうか。ビール実験にならえば、あなた もダーシーおばさんも、この人たちが絵をじっくり見おわるまで情報は隠しておいたほうがいい。 わたしはなにも、そうすればその絵に何千ドルも払わせることができると言っているわけではな い(たしかに、ビール実験の学生は、飲んだあとに酢のことを聞かされても、まったく聞かされ なかったときと変わらず酢を加えたビールを気に入ってはいたが)。しかし、そのほうがダーシ ーおばさんの作品に高い値段がつくかもしれない。  ところで、わたしたちはもっと極端な形のビール実験もためしてみた。ふたつのグループのう ち、一方には事前に酢のことを教え(「前」条件)、もう一方には試飲が終わってから教えた  (「あと」条件)。試飲が終わったあと、実験協力者が選んだビールを大きいグラスでわたすかわ りに、混ぜ物をしていないビールを大きいグラス一杯分、酢を少々、スポイト、MITブリュー のレシピ(ビールーオンスにバルサミコ酢を二滴)をわたした。調べたかったのは、実験協力者 がすなおにビールにバルサミコ酢を加えるかどうか、加えるとしたらどのくらいの量か、そして、 酢について知ったのが試飲の前かあとかによって、このふたつの結果が左右されるかどうかだ。  はたして結果はどうだっただろう。試飲の前に酢のことを聞いた実験協力者に比べて、試飲の あとに聞いた大は、ビールに酢を加える決心をした人の数が二倍だった。「あと」条件の実験協 力者にとって、酢入りのビールは最初に飲んだときまんざら悪くなかったため(そう判断したと 思われる)、もう一度試してみるのも平気だったわけだ。 予測の効果  このように、予測は生活のほとんどすべての側面に影響をおよぽす可能性がある。娘の結婚式 のために、仕出し料理を頼まなければならないとしよう。ジョセフインズーケータリングは。  。おいしいアジア風ジンジャーチキンヽと、カラマタオリーブとフェタチーズを使った風味豊か なギリシャサラダ・が自慢だ。カリナリー・センセーションという仕出し屋には、。肉汁たっぷ りの有機鶏の胸肉をじっくりローストし、メルローのデミグラスソースをかけて(Iプ味のイス ラエル風クスクスに寝かせたローストチキン・や、。新鮮なローマーチェリートマトとしゃきし ゃきの緑の野菜に、温めた円形シェーブルチーズとブルーティーなラズベリー風味のヴィネグレ ットを添えたサラダ・がある。  カリナリー・センセーションの料理がジョセフィンズーケータリングよりおいしいかどうかを 知る方法はないが、説明が詳しいというだけで、単なるトマトと山羊乳チーズのサラダよりすば らしいものを予測してしまう。そのため、わたしたちが(この料理の説明を見せれば招待客たち も)カリナリー・センセーションの料理に舌鼓を打つ可能性もそれだけ高い。  仕出し屋にとって便利なこの原則は、だれにでも役立つ。自分の料理に異国風でしゃれた感じ のするちょっとしたものを加えればいい(いまはチポレとマンゴーのソースがブームになってい るらしい。あるいは、牛肉のかわりに水牛の肉にする手もある)。こうした材料は、目隠し味覚 テストでは料理をおいしくできないかもしれない。しかし、あらかじめ知らされていれば、こう した材料がわたしたちの予測を変え、味覚に見事な影響を与えることができる。  この手法は、人を食事に招くときIあるいは、子どもにはじめての料理を食べさせるとき− jにとくに有効だ。しゃれた材料を加えるのと同じ理屈で、ケーキに市販のケーキミックスを使 ったことや、カクテルに入れたオレンジジュースがブランドものではなくノーブランドだという   *学生がビールに加える酢の量も調べるつもりだったが、酢を加えた学生は、全貝レシピに咨かれているとおりの分量を加    えていた。 ことを伏せておけば、食事がおいしく感じるかもしれない。また、とくに子どもに有効なのは、 ゼラチンが牛のひづめからつくられていることを伏せておくことだ。言っておくが、わたしはこ うした行為の正当性を主張しているのではなく、たんに予想される結果を指摘しているまでだ。  最後に、見せ方の効果を侮ってはいけない。料理学校で料理を芸術的に盛りつける方法を学ぶ ことが、焼いたり揚げたりする方法を学ぶことと同じくらい重視されているのにはわけがある。 データアウトで買った料理も、発泡スチロールの容器から出して立派な皿に盛りつけ、つまをあ しらってみるといい(とくに、食事をともにする人がいるとき)。これだけで、料理がまったく べつものになる。  もうひとつアドバイスしておこう。招待客にもっと楽しんでもらいたいなら、いいワイングラ スをそろえることだ。  さらに、ワインについてほんとうに真剣に考えているなら、ブルゴーニュ用、シャルドネ用、 シャンパン用など、それぞれのワインに合ったグラスを買うことに全力をつくしてもいい。ワイ ングラスの種類によって、それぞれふさわしい雰囲気が醸しだされ、ワインのいちばんいい面が 引きだされるとされている(比較研究の結果、客観的な目隠し味覚テストではグラスの形による ちがいはまったく見られなかったが、それでも人々は、「正しいグラス」をわたされると味覚に 大きなちがいを感じる)。また、グラスの形がワインの味にほんとうはなんの影響も与えないこ とを気にさえしなければ、ふさわしい形のしゃれたグラスでワインを飲む楽しみをあなた自身も もっと味わえるかもしれない。  言うまでもなく、予測は食べ物にかぎったことではない。人を映画に誘うとき、とても評判の いい映画だと言いそえれば、相手をいっそう楽しませることができる。これは、ブランドや製品 の信用を築くのにも不可欠だ。つまるところ、マーケティングとはそういうものだ。情報を提供 して、予測される喜びと、ひいてはほんとうの喜びも高める。しかし、マーケティングによって つくられた予測は、ほんとうにわたしたちの喜びを変化させるのだろうか。  「ペプシチャレンジ」というテレビ広告を覚えているだろうか。無作為に選ばれた人たちがコカ  ーコーラとペプシコーラを飲みくらべて、どちらが好きかを答えるコマーシャルだ。ペプシ社が 考えたこの広告は、人々がコカーコーフよりペプシを好むと声高に宣伝した。同じ時期、コカー コーラの広告は、人々がペプシよりコカーコーラを好むと主張した。そんなことが可能だろう か? 二社が統計をごまかしたのだろうか。  答えは、製品を評価するのに二社がとった方法のちがいにある。コカーコーラ社の市場調査は、 どちらのコーラか知っていて(有名な赤いトレードマーク付きで)飲んだときの消費者の好みに もとづいているようだ。一方、ペプシ社のペプシチャレンジは、ブランドを伏せ、MとQの印を つけたふつうのプラスチックコップで飲みくらべをした。ということは、目隠し味覚テストでは ペプシがおいしく感じ、非目隠し(見える)味覚テストではコカーコーラがおいしく感じるのだ ろうか?  コカーコーラ対ペプシコーラの謎をもっとよく理解するために、すばらしい神経科学者の一団 Iサムーマクルーア、リーシャン、デイモンートムリン、キムーサイパート、ラタネーモンタ ギュー、リードーモンタギューーが、目隠しと非目隠しでコカーコーラとペプシコーラの味覚 テストをおこなった。このテストに現代的な趣向を添えたのは、機能的磁気共鳴画像(fMR I)装置だ。この装置で、実験協力者がコーラを飲んでいるときの脳の活動をモニターできる。  ちなみに、fMRI装置のなかにいるとき飲み物を飲むのは容易ではない。脳をスキャンされ る人は、横になってじっとしていなけれぱならないからだ。この難問を解決するために、サムた ちはプラスチックの長いチューブを実験協力者の口にくわえさせ、遠くからチューブを通してし かるべき飲み物(ペプシかコカーコーラ)を囗に注入した。飲み物が口にはいるとき、実験協力 者には、コカーコーラがくるのか、ペプシがくるのか、不明の飲み物がくるのかを示す視覚情報 も与えられる。この方法で、コカーコーラとペプシを飲んでいるときの脳の活動を、どちらを飲 んでいるか知っている場合と、知らない場合にわけて観察した。  結果はどうだったか。コカーコーラとペプシの「チャレンジ」と一致するように、実験協力者 の脳の活動は、飲み物の名前がわかっているかどうかでちがっていた。つまりこういうことだ。 コカーコーラなりペプシなりが囗に流れこむと、感情的な絆を強く感じることにかかわる脳の内 側の部分−腹内側前頭前野(VMPFC)と呼ばれる1が刺激される。しかし、コカーコー ラが口に流れこんでくるとわかっているときは、ほかのことも起きる。この場合、脳の前方部分 −背外側前頭前野(DLPFC)と呼ばれる、作動記憶、連想、高次認知、高次観念などの人 間の高次脳機能にかかわる領域−も活発になる。ペプシでも活発になったが、コカーコーラの ほうが反応が強かった(そして、当然、コカーコーラを強く好む人のほうが反応が強かった)。  名前を伏せたときの結果から、この二種類のコーラに含まれる基本的な快楽の要素(要するに 砂糖)に対する脳の反応は似ていることがわかった。それでもコカーコーラがペプシより優位に あるのは、コカーコーラのブランドが高次の脳機能を活発にしたためだ。とすれば、コカーコー ラの化学特性ではなく、ブランドからの連想こそが、コカーコーラを市場で優位に立たせている わけだ。  脳の前方部分が快楽中枢とどうつながっているかという点も一考に値する。快楽中枢から脳の 前頭前野に投射し、活性化させるドーパミンの経路がある。ブランドを明かしたときコカーコー ラのほうが好まれた理由はこれかもしれない。コカーコーラのほうが連想が強かったため、脳の 連想にかかわる部分が快楽中枢の活動を促進させたのではないだろうか。これは広告会社にとっ てはいい知らせのはずだ。なぜなら、真っ赤な缶、渦巻き文字、長年にわたって消費者に届けら れた無数のメッセージ(。スカッとさわやか〜・など)が、泡の立つ茶色い液体そのものに負け ないくらい人々のコカーコーラヘの愛着に貢献したことを意味するからだ。 ステレオタイプの影響  予測はステレオタイプも形成する。ステレオタイプは、いわば、経験を予想したいとの思いか ら、前もって情報を分類しておく方法のひとつだ。脳は、新しい状況に出くわすたびに何もない ところからはじめるわけにいかない。過去に見たものの上に築いていく必要がある。そのため、 ステレオタイプは本質的には有害なものではない。複雑なまわりの状況を理解しようとする果て しない努力に近道を与えてくれる。わたしたちが、年配の大はコンピューターを使うのに手助け がいるとか、(Iバードの学生は頭がいいと予測するのはそのためだ。しかし、ステレオタイプ は、あるグループのメンバーについて特定の予測をさせるため、わたしたちの受けとり方にも行 動にも好ましくない影響をおよぼす場合がある。  ステレオタイプに関する研究によると、あるグループの大たちについてステレオタイプを抱く と、こちらの反応が変わるだけでなく、ステレオタイプ化された大たちのほうも、押しつけられ たレッテルに気づけば反応が変わる(心理学のことぱで言うと、レッテルに「フライミンク」さ れる)。たとえば、アジア系アメリカ人のステレオタイプは、「とくに数学と科学の才能があ る」というものだ。女性の一般的なステレオタイプは、「数学が苦手」だ。これは、アジア系ア メリカ人の女性がどちらの意見の影響も受けうることを意味する。  実際に影響を受けるらしい。マーガレットーシン、トッドーピティンスキー、ナリニーアンバ ディがおこなった注目すべき実験では、アジア系アメリカ人の女性に客観的な数学の試験を受け てもらった。しかし、はじめに女性たちをふたつのグループにわけた。ひとつめのグループの女 性たちには、性別に関する質問をした。たとえば、男女共学の学生寮についての意見と好みを尋 ね、思考が性別に関する問題に向かうようにフライミンクした。ふたつめのグループの女性たち には、人種に関する質問をした。話せる言語、家で使う言語、アメリカに来てからの家族史につ いて尋ね、思考が人種に関する問題に向かうようにフライミンクした。  ふたつのグループの成績には、女性のステレオタイプとアジア系アメリカ人のステレオタイプ に合致するような差が出た。女性であることを意識させられた大たちの成績は、アジア系アメリ カ大であることを意識させられた大たちより低かった。この結果から、自分自身の行動さえ、自 分のステレオタイプによって影響を受ける場合があること、ステレオタイプの活性化が、そのと きの心の状態やその瞬間に自分をどうとらえているかに左右されうることがわかる。  おそらくもっと驚異的なのは、ステレオタイプ化されたグループに本来は属さない人の行動に もステレオタイプが影響をおよぼす場合があることだろう。ジョンーバー、マークーチェン、ラ ーラーバローズがおこなった目覚ましい研究では、実験協力者に、単語を並べなおして文を完成 させる「乱文構成課題」を課した(この課題については4章で触れた)。一部の実験協力者は、 攻撃的、無礼、うっとうしい、でしゃばりなどの単語をもとにした課題をこなし、ほかの大たち   *MITの売店では、「「Iバード だれもがMITに入学できるわけではないから」とプリントしたなかなかいかすTシ    ャツを売っている。 は、名誉、思いやりがある、礼儀正しい、よく気がつくなどの単語をもとにした課題をこなした。 この二種類の単語リストの目的は、こうした単語から文を構成することで、一方は礼儀正しさ、 もう一方は無礼さについて考えるように実験協力者をフライミンクすることだ(社会科学ではよ く使われる手法で、思いのほか効果がある)。  実験協力者は、乱文構成課題を終えたあと、第二の課題と称される課題をこなすためにべつの 実験室に移動する。第二の実験室に行くと、実験者がべつの実験協力者に課題の説明をしている ところに出くわす。どうやらその実験協力者はものわかりが悪く、どうしても説明がのみこめな いらしい(実験協力者に見えるこの人物は、じつは本物ではなく、実験者に雇われた共謀者だ)。 ほんとうの実験協力者が会話をさえぎって、つぎに何をすればいいか尋ねるまでの時間ははたし てどのくらいだっただろう。  実験協力者がどのくらい待つたかは、乱文構成課題に含まれていた単語の種類に左右された。 礼儀正しい単語に取りくんだ人たちは、会話をさえぎる前に約九・一二分のあいだ辛抱強く待った。 一方、無礼な単語に取りくんだ人たちは、約五・五分しか待たなかった。  ふたつめの実験では、フロリダ(退職者に人気の移住先)、ビンゴ(高齢者に人気の娯楽)、古 いなどの単語を使って老齢という概念をフライミンクして、同じような結果が出るかをたしかめ た。実験協力者は、乱文構成課題を終えたあと、これで実験がすべて終わったと思って部屋を出 る。しかし実際は、ここから実験の核心部分がはじまる。実験者がほんとうに知りたかったのは、 実験協力者が建物を出ていくとき、廊下を歩くのにどれだけ時間がかかるかということだった。 予想どおり、実験群の人たちは、「老齢」に関する単語に影響を受けていた。フライミンクされ ていない対照群に比べて、歩く速度がかなりゆっくりだったのだ。そしてここが重要なのだが、 フライミンクされた実験協力者たちは、自分の体が弱っていることを意識させられた老人などで はなく、ニューヨーク大学の学部生だった。 予測の効果にどう対処するか  こうした実験からわかるのは、予測というものが、コカーコーラの缶を見ると期待が膨らむと いう程度のものではないということだ。予測のおかげで、騒がしい部屋で会話しているとき、と ころどころことばが聴きとれなくても意味が通じるし、同じように、携帯電話のメールを読むと き、ところどころ省略語が使われていても何が書いてあるかわかる。また、予測のせいでおろか なふるまいをしてしまうこともあるが、予測は非常に効果的で便利なものでもある。  では、例のアメフトファンのふたりと、勝利を決めるパスの場合はどうだろう。ふたりは同じ 試合を観戦してはいたが、まったく異なるレンズを通して見ていた。ひとりはパスがインーバウ ンズだったととらえ、もうひとりはアウトーオブーバウンズだったととらえた。スポーツでは、 このような議論はべつに有害ではなく、むしろ楽しいことさえある。問題は、このふたりのよう に、両者がかたよったレンズを通して見てきたという経緯があると、スポーツだけでなく世のな かのできごとをどう経験するかもちがってくる可能性があることだ。実際、イスラエルとパレス チナ、アメリカとイラク、セルビアとクロアチア、インドとパキスタンなど、ほとんどの争いは、 かたよった見方をしてきた経緯が激化の大きな要因になっている。  どの争いも、双方の側の人が同じような歴史の本を読み、さらには同じ事実を教えられたとし ても、だれが争いをはじめたのか、だれが責任を負うべきか、だれがつぎの譲歩をすべきかなど について意見が一致することはまずない。こうしたことがらの場合、信念への思いは、スポーツ チームとのどんな結びつきよりはるかに強く、わたしたちはその信念にあくまでしがみつく。そ のため、問題への思いが強くなればなるほど、「真実」について意見が一致する可能性はますま す低くなる。なんともそら恐ろしいことだ。わたしたちは、同じテーブルにつくことで相違を取 りのぞくことができ、そうすればすぐにでも歩みよれると考えたがる。しかし、歴史はそれがあ りそうにない結末であることを示してきた。そしてわたしたちはもう、この悲惨な失敗の原因も 知っている。  だが、まだ望みを持つ理由がある。わたしたちの実験では、酢のことをまったく知らずにビー ルを試飲したり、試飲したあとに酢のことを聞いたりした場合、本来の風味が味わえた。けんか を仲裁するのにも、これと同じ方法が使えるはずだ。それぞれの側の観点を関連性なしに提示す る。つまり、事実はあかすが、どちらの側がどの行動をとったかはあかさない。このタイプの  「目隠し」条件が真実をもっとよく見きわめる助けになるかもしれない。  先入観や予備知識を取りさることが不可能な場合でも、少なくとも、だれでもみんなかたよっ ているのだと認めることはできるだろう。わたしたちが自分の観点にとらわれていて、そのため に真実が部分的にしか見えていないのだと自覚すれば、ほとんどの争いは中立的な第三者jわ たしたちの期待に影響されていないだれかIに約束ごとや規則を決めてもらう必要があるとい うことを受けいれられるかもしれない。もちろん、第三者のことぱを受けいれるのは簡単ではな いし、いつも可能とはかぎらない。しかし可能なときは、大きな効果をもたらすこともある。そ の理由ひとつだけをとっても、わたしたちはあきらめずに努力しつづけなくてはならない。   10章   価格の力   なぜIセントのアスピリンにできないことが       五〇セントのアスピリンならできるのか プラセボ手術  あなたが一九五〇年に暮らしていて、胸の痛みを抱えていたら、心臓医が狭心症の治療法とし て内胸動脈結紮を薦めたとしても無理はない。この手術では、患者に麻酔をかけ、胸骨を切開し て、内胸動脈をしばる。するとどうだろう。心膜横隔動脈への圧力が上昇して、心筋への血流が 改善し、だれもが満足して家に帰れるのだ。  この手術は好結果が得られるようだというので、それまでの二〇年間、盛んにおこなわれてい た。しかし一九五五年のある日、シアトルの心臓医レナードーコブと数人の同僚は疑いを持ちは じめた。これはほんとうに効果のある治療法なのだろうか。ほんとうに効いているのか。コブは 非常に大胆な方法で、この治療法の効果のほどを証明しようと考えた。患者の半分にはこの手術 を施し、もう半分には手術をしたふりをする。そして、どのグループの大がよくなったと自覚し、 だれの健康状態が実際に改善したのかを調べる。言いかえると、二五年のあいだ患者を魚のよう に切り身にしてきた心臓外科医が、ようやく科学的に統制された外科的な臨床試験をおこなって、 その治療法に実際はどれだけの効果があるのか確認するということだ。  コブ医師は一部の患者に従来の手術をおこない、残りの患者には偽手術をおこなった。本物 の手術では、患者の胸を開いて内胸動脈をしばる。プラセボ手術では、患者の体にメスを入れて 二か所を切開するだけで、ほかには何もしなかった。  結果は驚くべきものだった。内胸動脈をしばられた患者も、しばられなかった患者も、胸の痛 みがすぐに和らいだと報告したのだ。どちらのグループも痛みのない状態が三か月つづき、その 後、胸の痛みがもどってきたと訴えた。また、心電図でも、本物の手術を受けた人とプラセボ手 術を受けた人にちがいはなかった。つまり、従来の治療法は痛みを短期間だけ緩和する効果があ ったが、プラセボ手術でもそうだったことになる。しかも、結局どちらの手術にも長期的に痛み を緩和する目立った効果はなかった。  近年でも、べつの治療法について似たような試験がおこなわれ、意外なほど似かよった結果が 出ている。整形外科医のJ・B・モーズリーは、一九九三年から、ある種のひざの関節痛に関節 鏡視下手術をおこなうことに疑問を抱きはじめていた。この治療法はほんとうに効いているのだ ろうか。モーズリー医師らは、テキサス州ヒューストンの退役軍人病院の変形性関節症の患者一 八〇人に声をかけ、患者を三つのグループにわけた。  ひとつめのグループには、標準的な治療をおこなった。麻酔、三か所の切開、関節鏡の挿入、 軟骨の切除、損傷した軟部組織の修復、一〇リットルの生理食塩水による関節内の洗浄だ。ふた つめのグループには、麻酔、三か所の切開、関節鏡の挿入、一〇リットルの生理食塩水による関 節内の洗浄をおこなったが、軟骨は切除しなかった。三つめのグループープラセボ群−は、 外見の傷跡はほかのニグループの治療と似ていて(麻酔、切開など)、手術にかけた時間も同じ だったが、関節内にはなんの手術道具も入れなかった。つまり疑似手術だ。  手術後の二年間、三つのグループ(どのプラセボ実験でもそうだが、全員が志願者だ)の経過 を追って、痛みの軽減と、歩行や階段のぽりにかかる時間を検査した。結果はどうだったか。完 全な手術(関節鏡視下切除と洗浄)を受けたグループと関節鏡視下洗浄を受けたグループは満足 していて、家族や友人にも手術を薦めると答えた。ところが不思議なことにIこれこそ衝撃の できごとだったIプラセボ群も痛みが軽減され、歩行が改善していた。そればかりか、改善の 程度は本物の手術を受けた人と変わらなかった。この驚くべき結論に、モーズリーの研究の共著 者だったネルダーレイ医師はこう述べている。、ひざ関節症患者に対する関節鏡視下洗浄と関節 鏡視下切除の効果がプラセボ手術の効果より大きいわけではないという事実は、この治療に費や されているI〇億ドルをより有効に利用したほうがいいのではないかという疑問を抱かせるヽ。  この報告のあと、抗議の嵐が巻き起こったにちがいないと想像したあなたは正しい。二〇〇二 年七月一一日、《ニュー・イングランドージヤーナルーオブーメディシン》に巻頭論文としてこ の研究が掲載されるや、一部の医師たちが非難の声をあげ、研究の方法や結果に異議を申したて た。モーズリー医師は、入念な実験計画にもとづいて慎重に実施した研究だと反論した。。関節 鏡猊下手術を日常的におこなっている外科医は、手術で患者が改善するのが、自分の外科技術で なくプラセボ効果のおかげかもしれないと思うと、さぞいたたまれないにちがいない。こうした 外科医は、わたしたちの研究の信用を落とすためならどんなことでもするだろうヽ。  この研究の結果をどこまで信じるかはべつにして、この特定の疾患に関節鏡視下手術をするこ とにもっと疑いを持つべきであり、同時に、医学的処置一般の立証責任を強化すべきなのはあき らかだ。  前章では、予測によってわたしたちの経験に対する感じ方やとらえ方が変化することを見てき た。本章ではプラセボ効果について検討して、信念や予測が、わたしたちの視覚、味覚などの感 覚に対する知覚や解釈に影響をおよぼすだけでなく、予測がわたしたちの主観的、客観的な経験 をIときに根底からI変化させることで、わたしたちに影響をおよぼしうることを見ていく。  なにより、まだ完全には理解されていないプラセボの側面を深く究明したい。その側面とは、 プラセボ現象において価格が演じる役割だ。高価な薬のほうが安い薬よりよくなった気がするだ ろうか。実際に安い薬より体を生理的によくしてくれるのだろうか。デジタル式の心臓ペースメ Iカーや(イテクの血管ステントのような、高価な治療法や新世代の装置はどうだろう。値段に よって有効性が左右されるだろうか。もしそうなら、医療費の請求書は増えつづけるということ だろうか。とりあえず、基本的なことからはじめよう。 プラセボの暗示の力  「プラセボ」は、「わたしが喜ばせよう」という意味のラテン語からきている。一四世紀には、 葬式で死者のために泣き、涙を流す役に雇われた泣き屋を指すことばとして使われた。一七八五 年には『新医学辞典』に登場し、瑣末な医療行為のひとつに加えられた。  医学文献に記録が残っているごく初期のプラセボ効果の例は、一七九四年のものだ。イタリア のジェルビという医者がおかしな発見をした。ある虫の分泌液を痛む歯に塗ったところ、痛みが 一年間消えたのだ。ジェルビはこの虫の分泌液を使って何百人もの患者を治療し、患者の反応に ついて詳細な記録を残した。患者の六ハパーセントは、ジェルビと同じように痛みが一年間消え たと報告した。ジェルビと虫の分泌液について一部始終はわからないが、この分泌液と歯痛が治 ったこととになんの関係もないだろうことは想像がつく。肝心なのは、ジェルビは自分が患者を 救っていると信じ、患者の大半もそう信じたことだ。  もちろん、ジェルビの虫の分泌液が市場に出た唯一のプラセボだったわけではない。近年にな るまで、ほとんどすべての薬はプラセボだった。ヒキガエルの目玉、コウモリの羽、干したキツ ネの肺、水銀、鉱水、コカイン、電流などは、いずれもさまざまな病気に効く薬とうたわれた。 リンカーンが狙撃されてフォード劇場の向かいの民家で死にかけていたとき、主治医は「ミイラ 薬」を少し傷口に塗ったと言われている。エジプトのミイラを粉にひいたものは、てんかん、膿 瘍、発疹、骨折、麻痺、偏頭痛、潰瘍など多くの病気を治すと信じられていた。一九〇八年にな ってもなお、「純正のエジプトミイラ」はE・メルク社のカタログで注文できた。そして、おそ らく現在もどこかで使われている。  しかし、ミイラの粉はもっとも不気味な薬というわけではない。一七世紀の「万能」薬の調合 法のひとつにはこうある。。傷も欠点もない二四歳の赤毛の若者の新鮮な死体を用意する。死亡 から一日以内の、できれば首つりか車裂きか串刺しの刑で死んだものが望ましい。〔中略〕死体 を一昼夜かけて太陽と月の光にあててから、細かくあるいは細長く切る。没薬の粉を少しとアロ エをふりかけて、苦くなりすぎるのを防ぐ゜。  いまのわたしたちはこんなものにだまされないと思うかもしれない。だが、そうでもない。プ ラセボはいまだにわたしたちに魔法をかけている。たとえば、外科医は、腹腔内の癒着を剥離す ることで慢性腹痛に対処できると考え、長年この手術をおこなってきた。しかし、研究者たちが 比較実験として偽の手術をおこなって、患者が同じように痛みが和らいだと報告したためおこな われなくなった。エンカイニド、フレカイニド、メキシレチンは、不整脈に広く処方されていた 適応外使用の薬だが、のちに、心不全を引きおこすことがわかった。六種類の主要な抗うつ剤の 効果を調べた研究者は、効果の七五パーセントがプラセボ対照群でも見られたと指摘した。パー キンソン病に対する脳手術にも同じことがあてはまった。この脳手術の有効性を調べるために、 何人かの患者の頭蓋骨にドリルで穴だけをあけ、その後の手技をおこなわなかったが、偽の手術 を受けた患者の結果は、手技を最後まで受けた患者と変わらなかった。もちろん、まだまだたく さんの例がある。  こうした現代の手技や化合物を擁護すべく、どれもまったくの善意で開発されたものだと強調 することもできる。それは事実だ。しかし、エジプトのミイラを使うのも大部分はまったくの善 意だった。しかも、ミイラの粉が、なんであれほかに使われた物質と同じくらい(少なくとも、 負けないくらいには)効くこともあった。  じつはプラセボは暗示の力で働く。プラセボが効果を発揮するのは、人々が信じるからだ。主 治医を見ればよくなった気がする。薬を飲めばよくなった気がする。主治医が高い評価を受けて いる専門医だったり、処方箋の薬が新しい特効薬か何かだったりすれば、ますますよくなった気 がする。それにしても、暗示はどのようにしてわたしたちに影響を与えるのだろう。 信念と条件づけ  一般に、プラセボを働かせる予測は、ふたつの仕組みによってつくられる。ひとつは信念、つ まり、薬や治療や世話をしてくれる人に対する信頼や確信だ。医師や看護師が自分のことを気に とめて、大丈夫だと安心させてくれるだけで、よくなった気がするだけでなく、体内の治癒力が 活性化される。医師が特定の処置や治療に力を入れていれば、それだけでよい結果が出るような 気分になる。  ふたつめの仕組みは、条件づけだ。有名なパブロフの犬(ベルを鳴らすだけでよだれを出すよ うになった犬)のように、体は何度も経験すると期待を高めていき、さまざまな化学物質を放出 してわたしたちに先々の心構えをさせるようになる。毎晩毎晩ピザを注文していたとしよう。配 達員がチャイムを押すと、ピザの香りが漂ってもこないうちに、消化液が出はじめる。あるいは、 愛する人とソファーで寄りそっているとしよう。暖炉でぱちぱちと燃える火を見つめているあい だに、セックスへの期待がエンドルフィンを分泌して、つぎに起こるできごとにあなたが備えら れるようにし、幸福感を成層圏にまで舞いあがらせる。  痛みの場合、予測がエンドルフィンなどの脳内麻薬をはじめとするホルモンや神経伝達物質を 放出させ、激しい苦痛を遮断するばかりか、あふれんばかりの高揚感をもたらす(エンドルフィ ンはモルヒネと同じ受容体に作用する)。やけど病棟でひどい痛みに耐えていたころのことが生 生しく思いだされる。針先から液があふれそうな痛みどめの注射を手にして看護師がやってくる のが見えたとたん、ああ、ありがたい。わたしの脳は、針が皮膚に刺さってもいないうちに、痛 みを和らげるオピオイドを分泌しはじめる。  ことわざにあるように、慣れすぎが侮りを生むかどうかはわからないが、慣れはまちがいなく 予測を生む。ブランド、パッケージ、世話をしてくれる人の「大丈夫」ということばは、わたし たちを元気にする。では、価格はどうだろう。薬の価格もわたしたちの反応に影響を与えるのだ ろうか。 高価な薬と安価な薬  価格だけで言えば、四〇〇〇ドルのソファーのほうが四〇〇ドルのソファーよりすわり心地が いいだろうことは、簡単に想像できる。デザイナージーンズのほうが量販店のジーンズより縫製 もしっかりしていてはきやすいだろう。高品質の電動ザンダーのほうが低品質のザンダーより使 い勝手がいいだろう。インペリアルーダイナスティの北京タック(一九ドル九五セント)のほう がウォンーヌードルショップの北京タック(一〇ドル九五セント)よりずっとおいしいだろう。 しかし、こうした暗に示された品質の差は、実際の経験に影響を与えるのだろうか。また、その ような影響は、医薬品への反応などの客観的な経験にもあてはまるのだろうか。  たとえば、安い痛みどめは高い痛みどめより効果がないのだろうか。冬に風邪をひいて特売の 風邪薬を飲んでも、高い風邪薬を飲んだときほど治った気がしないものだろうか。後発医薬品 は最新の有名ブランドの薬ほどあなたの喘息に効かないだろうか。つまり、薬も、中国料理やソ ファーやジーンズや工具と同じなのか、ということだ。はたして値段の高さは品質の高さを意味 すると考えていいのだろうか、そして、予測はそのまま製品の客観的な効きめにつながるのだろ うか。  この質問はとくに重要だ。考えてみれば、安い中国料理や値の張らないジーンズですますこと は可能だ。少し自制心を働かせれば、たいていは極端に高価なブランド物から身を遠ざけておく ことができる。しかし、自分の健康のこととなると、ほんとうに安物を求める気になるだろうか。 ごくふつうの風邪の話はわきへ置いておくとして、自分の命がかかっているときに、けちけちと 小金を惜しむだろうか。いいや、それはない。わたしたちは、自分のため、子どものため、愛す る大のために、最高のものを求める。  自分のために最高のものを求めるなら、高価な薬のほうが安い薬より気分をよくしてくれるの だろうか。価格はほんとうにわたしたちの感じ方にちがいを生むのか。数年前、わたしは、レベ ッカーウェーバー(MITの院生)、ババーシブ(スタンフォード大学の教授)、ジブーカルモン とともにそれを解明すべく一連の実験をおこなうことにした。  あなたがベラドンRXという新しい痛みどめの効果を調べる実験に参加しているとしよう(実 際の実験は約一〇〇人のボストン在住の成人を対象にしたが、さしあたって、あなたにその役を やってもらう)。  あなたは午前中にMITのメディアラボにやってくる。ぱりっとしたビジネススーツに身を包 んだ(MITの学生や教員のふつうの格好とはまったく対照的な服装だ)若い女性、タヤーリア リーが、かすかにロシア訛りのことばで温かく出迎えてくれる。タヤの顔写真入りの名札には、 ベル製薬の営業担当者と杳かれている。タヤが、ベラドンRXについてのパンフレットに目を通 すようにあなたをうながす。部屋を見まわすと、診療所のような雰囲気だ。古い《タイム)誌や  《ニューズウィーク》誌がちらばり、ベラドンRXのパンフレットがテーブルに広げられている。 そばのペン立てには、薬のロゴがはいったペンが何本もはいっている。あなたはパンフレットに 目を落とす。。ベラドンはオピオイド系の新薬です。臨床試験の結果、二重盲検比較試験でベラ ドンを服用した患者の九ニパーセント以上が、わずかI〇分で痛みが大きく軽減したと報告し、 痛みの軽減は最高八時問まで持続しました‰では薬の値段は? パンフレットによると、一回 分がニドル五〇セントする。  あなたがパンフレットを読みおえたところで、タヤはレベッカーウェーバーを呼んで部屋を出 ていく。レベッカは白衣姿で、首から聴診器をさげている。あなたの健康状態や家族の既往歴に ついて尋ねたあと、あなたの心臓の音を聞き、血圧を測った。つぎに、レベッカはあなたを複雑 そうな装置につなぐ。装置から伸びる電極の先に緑色の電極シェルがついていて、それがあなた の腕にまかれる。レベッカによると、これは電気ショック発生装置で、いまからこれを使って痛 みに対するあなたの知覚と耐性を検査するという。  レベッカがスイッチを押すと、導線と電極を通って電気ショックが伝わってくる。はじめのう ちはなんとなく不快なだけだったが、やがて痛くなりはじめ、だんだん痛みが強くなって、最後 には目玉が飛びだしそうになり、鼓動も激しくなってきた。レベッカはあなたの反応を記録した。 それがすむと、また新たに電気ショックがはじまる。今度は、電気の強さがランダムに上下する。 非常に痛いものもあれば、ちくちくする程度のものもある。あなたは、一回の電気ショックが終 わるごとに、感じた痛みの程度を目の前のコンピューターを使って記録するよう求められる。  「まったく痛くない」から「耐えられないほど痛い」までの範囲を示す直線をマウスでクリック する(「痛みの視覚アナログ尺度」という)。  この拷問の部が終わり、あなたが顔をあげると、レベッカが片手にベラドンのカプセルを、反 対の手に水のはいったコップを持って目の前に立っている。「薬が最大の効果を発揮するまでに 一五分ほどかかります」レベッカが言った。あなたは薬を飲みこんで、部屋のすみのいすに移動 し、古い《タイム》誌や《ニューズウィーク》誌でも見ながら薬が効いてくるのを待つ。  一五分後、レベッカは電極に先ほどと同じ緑色の電極シェルを塗って、明るい声で、「そろそ ろつぎの手順に移って大丈夫ですか?」と尋ねる。あなたはびくびくしながら「ええ、たぶん」 と答える。そして、また装置につながれ、電気ショックがはじまる。あなたは前のように、一回 のショックごとに痛みの強さを記録する。だが今回は痛さがちがう。ベラドンRXの効果にちが いないI・ 前の痛みに比べればまったくなんでもない。あなたは、ベラドンにかなりいい印象を 持ってメディアラボをあとにする。そのうち近所のドラッグストアでも扱うようにならないだろ うかとさえ思いながら。  これは、ほとんどの実験協力者が感じたことだった。ほぼ全員が、ペラドンが効いているとき の電気ショックはそれほど痛くなかったと報告した。ベラドンがたんなるビタミンCのカプセル であることを考えると、非常に興味深い。 価格とプラセボ効果  この実験から、わたしたちの用意したカプセルにプラセボ効果があったことがわかる。しかし、 ベラドンをべつの価格に設定したらどうだろう。ベラドンRXのカプセルー錠を、ニドル五〇セ ントからわずかI〇セントに値引きしたらどうなるか。実験協力者の反応はちがってくるだろう か。  つぎの実験では、パンフレットを変更し、もとの価格(一錠ニドル五〇セント)を消して、一 錠一〇セントという格安の新価格を入れた。実験協力者の反応は変わっただろうか? いかにも。 ニドル五〇セントのときは、実験協力者のほぼ全員が薬による痛みの軽減を経験した。ところが、 価格がI〇セントにさがると、痛みが軽減した人はたった半分になった。  さらに、価格とプラセボ効果のこの関係は、すべての実験協力者で同じわけではないことがわ かった。最近の痛みの経験が多い人に、価格による効果がとりわけ強く表われた。つまり、より 痛みを経験し、そのため、より鎮痛剤に頼った人では、価格とプラセボ効果の関係がより強調さ れていた。薬の価格が安いと、ほかの大よりさらに少ない効果しか得られなかったのだ。とすれ ば、こと薬となると、支払った分に見合うものが手にはいると言える。価格は経験を変化させる 場合があるというわけだ。  ちなみに、わたしたちはほかの研究でも裏づけとなる結果を得た。ある恐ろしく寒い冬に、ア イオワ大学でおこなった研究だ。わたしたちは、学生に頼んで、ひと冬のあいだにひいた風邪に ついて、定価の薬を飲んだか値引きされた薬を飲んだか、薬を飲んだならそれがどれくらい効い たかを記録してもらった。学期の終わりに尋ねると、一三人の実験協力者が表示価格を払ったと 言い、一六人が安売りのものを買ったと言った。どちらのグループのほうが薬でよくなったと感 じただろう? たぶん、もう想像がつくだろう。表示価格を払った一三人のほうが、割り引き価 格で薬を買った一六人より、薬がよく効いたと報告した。そういうわけで、一般市販薬の場合も、 支払った分に見合うものが手にはいると言える。 値段の高い栄養ドリンクは効く?  「製薬会社」の実験で、価格がいかにプラセボ効果を操作するかはわかった。では、価格は日々 の消費財にも同じように働くのだろうか。わたしたちは、「ソービー・アドレナリンーラッシ ユ」に完璧なテーマを見つけた。これは、。あなたの勝負力を高め气 。優れた機能性・を与え るといううたい文句の栄養ドリンクだ。  最初の実験では、大学のジムの入り囗に待機してソービーを提供した。ひとつめの学生のグル ープは通常の価格を払った。ふたつめのグループもお金を払ったが、大幅に値引きして通常価格 のおよそ三分の一だった。学生が運動を終えたあと、ふだんのトレーニングのあとに感じる通常 の疲労度と比べてどうだったか尋ねた。ソービーを飲んだどちらのグループの学生も、ふだんよ りいくらか疲れが少ないと答えた。これは、とくにソービーに含まれる大量のカフェインを考え れば、もっともらしく思える。  しかし、わたしたちが追いかけているのは、価格の効果であって、カフェインの効果ではない。 値段の高いソービーは、安売りのソービーより疲労を抑えるだろうか。ベラドンの実験から想像 できるように、たしかにそのとおりだった。値段の高いソービーを飲んだ学生のほうが、安売り のソービーを飲んだ学生より疲れが少ないと報告した。  この結果は興味深いが、自分の状態についての実験協力者の印象卜主観的報告−にもとづ いている。ソービーをもっとじかに、客観的に調べられないだろうかと思案して、いい方法を思 いついた。ソービーのキャッチコピーは、。あなたの心にエネルギー゜を与えるとうたっている。 そこで、アナグラムを使ってこの主張を検討することにしたのだ。  仕組みはこうだ。学生の半分はソービーを定価で買い、あとの半分は減価で買う(実際は学生 口座に請求したので、ほんとうに支払ったのは親たちということになる)。飲みおえたところで、 一〇分間、映画を観てもらう(飲料の効果が十分に出るのを待つためと説明した)。その後、一 五語のアナグラム問題を三〇分でできるだけ多く解いてもらった(たとえば、TUPPILとい う単語が与えられたら、これを並べかえてべつの意味のある単語PULPITにする。ほかにも、 FRIVEY、RANCOR、SVALIEなどを並べかえて……答えは各自考えてくれたま え)。  わたしたちは、ソービーを飲んでいない学生に事前にこのアナグラムの単語クイズをやっても らって、すでに基準を確立していた。この学生たちは平均して一五問中九問正解だった。ソービ ヽ1を飲んだ学生にこの問題を解かせた結果ははたしてどうだったのか。ソービーを定価で買った 学生の平均正解数は約九問だった。何も飲んでいない学生の結果と変わらない。ところがもっと 興味深いのは、ソービーを減価で買ったグループの結果だ。なんとこのグループの平均正解数は 六・五問だった。ここから何かわかるだろう。価格はたしかにちがいを生み、この場合のちがい は、単語クイズでの約ニハパーセントの成績差だった。  というわけで、ソービーではだれも賢くならなかった。これは、この製品自体が役立たず(少 なくとも単語クイズを解くことに関しては)ということだろうか。この疑問に答えるためにべつ の実験を考えた。わたしたちは、単語クイズの冊子の表紙につぎのような文面を印刷した。。ソ ービーなどの飲料は、精神機能を改善し、クイズ課題などで成績を向上させることがわかってい ます‘。さらに、ソービーのウェブサイトには、ソービーの主張を支持する五〇以上の科学研究 が参照されているという架空の情報も添えた。  結果はどうだったか。やはり定価のソービーを飲んだグループは、減価のソービーを飲んだグ ループより成績がよかった。しかし、クイズの冊子に載せた文面もいくらか影響をおよぼしてい た。減価グループも定価グループも、この情報を吸収し、成功を予期するようフライミンクされ たため、冊子の表紙にこの文面がなかったグループより成績がよかった。しかも、今回はソービ ーが人々を賢くした。五〇の科学研究でソービーが精神機能を向上させることがわかったと誇大 にでっちあげたところ、減価でソービーを飲んだ学生たちの正答数は〇・六問増え、でっちあげ を読み、かつ定価のソービーを飲んだ学生たちの正答数は三・三間増えていた。つまり、価格と、 ソービーの缶(そしてクイズ冊子の表紙)に掲げられた文面が、飲料そのものより効いたと言え るだろう。  とすると、わたしたちは割り引きしてもらうたびに、利益の少ないものが手にはいるよう運命 づけられているのだろうか。不合理な直観に頼っているかぎり、そのとおりだ。わたしたちは値 引きされたものを見ると、直観的に定価のものより品質が劣っていると判断する。そして、ほん とうにその程度のものにしてしまう。改善策はあるだろうか。ちょっと立ちどまって、製品と価 格の対比を合理的に考えれば、安い価格に合わせて品質を差しひいてしまう無意識の衝動から抜 けだすことができるのだろうか。  いくつもの実験をおこなってためした結果、価格と品質の関係について気にするのをやめた消 費者は、値引きされた飲料の効果が劣ると決めてかかる可能性がはるかに少ない(そして、その 結果、劣ると決めてかかった場合ほど単語クイズで悪い成績を取らない)ことがわかった。この 結果は、価格とプラセボ効果の関係を克服する方法を示しているだけでなく、値引きの効果の大 部分が安い価格への無意識の反応であることを示している。 プラセボの有益性  これまで、価格がいかにプラセボや、痛みどめや、栄養ドリンクの有効性を操作するかを見て きた。しかしここでほかの疑問も浮かぶ。プラセボで気分がよくなるのなら、そのままゆったり とくつろいで、効果を楽しむべきではないだろうか。それとも、プラセボはあきらかによくない もので、わたしたちの気分をよくしようがしまいが、廃棄すべきまがいものなのだろうか。あな たがこの問いに答える前に、条件を追加しておこう。気分をよくするだけでなく、実際に体も回 復させるプラセボの薬物やプラセボの治療法を見つけたとしよう。あなたなら利用するだろうか。 あなたが医師ならどうだろう。ただのプラセボでしかない薬や治療を処方するだろうか。わたし が言わんとしていることを説明しやすくする物語をひとつしよう。  西暦八〇〇年、ローマ教皇レオ三世はカールにローマ皇帝の帝冠を授け、教会と国家の直接的 なつながりを確立した。以後、神聖ローマ皇帝たちや、それにつづくヨーロッパの国王たちの身 には、神性の光がしみこんでいる。そこから、いわゆる「王のひと触れ」−手で触れることで 人を癒すわざIが生まれた。何人もの歴史家が記録に残しているように、中世を通じて、偉大 な王たちは定期的に群集のなかを行進してはロイヤルータッチを施した。たとえば、イングラン ド王チャールズニ世(一六三〇〜一六八五)は、在位中にI〇万人もの人々に触れたと言われて いる。記録には、チャールズ王とすれちがって癒してもらうためだけに新世界から旧世界にもど った何人かのアメリカ入植者の名前まで残っている。  ロイヤルータッチはほんとうに効いたのだろうか。もしロイヤルータッチを施されてよくなっ た人がひとりもいなかったのなら、このようなわざはきっと廃れたことだろう。しかし、ロイヤ ルータッチは歴史を通じて何千人もの人々を癒してきたと伝えられている。瘰癧−容貌が損な われ、社会から孤立させられる病気だIはロイヤルータッチで消えると信じられていた。シェ ークスピアは「マクベス」でこう杳いている。、不運にみまわれた者たち。みな体が腫れあがり、 皮膚がただれ、哀れで正視に耐えない〔中略〕。聖なる祈りとともに手を置けば、癒しの祝福が あるという・。ロイヤルータッチは一八二〇年代までつづいた。このころには、君主たちはもは や神から贈られたものとはみなされなくなり、(想像がつくかもしれないが) 「新しい、改良さ れた」エジプトのミイラ軟膏の進歩が、ロイヤルータッチを時代遅れにした。  ロイヤルータッチのようなプラセボについて考える場合、「たんなる心理的効果」ですまして しまうのがふつうだ。しかし、プラセボの力に「たんなる」などというものはなく、よく見ると、 わたしたちの心が体をコントロールする驚くべき方法を体現している。心がいかにしてこのよう な驚くべき成果をあげるのかは、かならずしもはっきりしているわけではない。もちろん、効果 の一部は、ストレスの軽減、ホルモン分泌の変化、免疫システムの変化などが関係しているにち がいない。脳と体のつながりについて理解すればするほど、かつてあきらかだと思っていたこと がつぎつぎ不たしかになる。それがもっとも如実に現われているのがプラセボだ。  現実には、医師はいつもプラセボを出している。たとえば、二〇〇三年におこなわれた研究で は、のどの痛みで抗生物質を処方された患者の三分の一以上が、あとになってウィルス感染にか かっていたことがわかった。ウィルス感染の場合、抗生物質はまったくなんの効果もない(それ ばかりか、わたしたちすべてを脅かす薬剤耐性菌の感染の急増に貢献している可能性もある)。 だからといって、あなたがウィルス性の風邪をひいているとき、医師が抗生物質を出さなくなる だろうか。医師は、風邪が細菌性ではなくウィルス性だとわかっていても(しかも、多くの風邪 はウィルス性だ)、患者がなんらかの安堵を求めていることをよく承知している。患者はみんな 処方箋をもらって帰りたいのだ。この精神的な必要性を満たすのは医師にとって正しいことでは   *痛みの分野では、プラセボがどう働くかかなり正確にわかっている。わたしたちが研究の対象に痛みどめを選んだのもそ    のためだ。しかし、そのほかのプラセボ効果についてはまだそれほどはっきりしていない。 ないだろうか。  医師がいつもプラセボを出しているからといって、望んでそうしているわけではない。おそら く、プラセボを出すことでいくらか居心地の悪さを感じているのではないかと思う。医師たちは、 自分を科学的な人間、つまり、答えを見つけるために現代医療の最高の科学技術に目を向けるべ き人間と考えるよう訓練されている。自分をブードゥーの呪術師でなく、ほんとうの治癒者と考 えたがる。そのため、自分の仕事にプラセボ効果による健康増進が含まれていると認めるのは、 たとえ自分の胸のうちで思うだけでも至難のわざだろう。ある医師が、プラセボだとわかって いる治療で一部の患者を救えると、しぶしぶでも認めたとしよう。その治療を熱心に処方すべ きだろうか。なにしろ、医師が治療に対して熱心かどうかが、治療の効果を左右することもあ る。  もうひとつ、医療に対する国の取りくみについての問題を見てみよう。アメリカはすでに、ひ とり当たりのGDPに占める医療費の比率が、どの西洋諸国より高くなっている。高価な薬(五 〇セントのアスピリン)のほうが安い薬(一セントのアスピリン)より治りがいい気がするとい う事実をどう扱えばいいのだろう。人々の不合理性を甘やかして、医療費をあげるべきだろうか。 それとも、高い薬のほうが効果が高いことは無視して、市場でいちばん安いジェネリック医薬品  (や治療)を買うよう強要すべきだろうか。医薬品から最大の効果を得るには、医療費と自己負 担をどう体系化すればいいのだろう。貧困層の人たちに格安の薬を提供しつつ、効果の劣る治療 にしないためにはどうすればいいのだろう。これは医療システムを構築するにあたって中核とな る複雑な問題だ。こうした問いに答えは持ちあわせていないが、すべての人が理解すべき重要な ことだと思う。  プラセボはマーケティング担当者にとってもジレンマとなる。マーケティング担当者の仕事に は、顧客や消費者が感じる価値(知覚価値)を生みだすためにプラセボが欠かせない。客観的に 証明できる以上に製品の価値を誇大に宣伝するのは、誇大宣伝の程度によっては、真実の誇張に もまったくのうそにもなる。しかし、これまで見てきたとおり、医療、栄養ドリンク、市販薬な どに対して人々が感じる価値は、本物の価値になる場合がある。誇大に宣伝した製品で人々が実 際にもっと満足するのなら、マーケティング担当者は、ステーキを売るときにジュージューと効 果音をつける以上に悪いことをしていることになるのだろうか。プラセボや、信念と真実とのあ いまいな境界について深く考えるようになればなるほど、こうした質問は答えるのがいっそうむ ずかしくなる。 プラセボ実験の倫理問題  わたしは科学者であるため、信念やさまざまな治療の有効性を調べる道具として実験に価値を 置いている。同時に、実験、とくに医療のプラセボを扱う実験が、あきらかにいくつもの重大な 倫理的問題を提起することも、身をもって知っている。本章の冒頭で紹介した内胸動脈結紮に関 する実験も、倫理的に問題があると非難された。患者に偽の手術を施すことに対する激しい抗議 があったのだ。  ある手技を未来の患者に使うべきかどうかを知るために、だれかの健康や、ひょっとすると命 さえ犠牲にするという考えは、たしかに簡単には納得できない。たとえば、がん患者が、何年か あとにべつの人がもっといい治療を受けられるようになるためだけに、プラセボの治療を受けて いる姿を想像すると、払う犠牲の異様さとむずかしさを感じる。  一方で、十分なプラセボ実験をおこなわないことで払う犠牲を認めるのも同じようにむずかし い。これまで見てきたように、何百、何千もの人たちが無駄な(しかも危険な)手術を受ける結 果になってしまう可能性がある。アメリカでは、科学的に検討した手術手技はほとんどない。そ のため、さまざまの手術がほんとうに治癒につながっているのか、それとも、かつての多くの手 術のように、たんにプラセボ効果のおかげで有効なのかがはっきりしない。そのため、もっと丹 念に研究すれば廃止されるような処置や手術を受けさせられることも少なくなさそうだ。わたし 自身が経験した処置の話をしよう。ぜひためすべきだと強く勧められた治療だが、実際は、長く つづく苦痛の経験以外の何ものでもなかった。  入院して二か月たったころ、作業療法士がすごいニュースをたずさえてきた。わたしのような 人にうってつけの、科学技術によって生まれたジョブストースーツというスーツがあるという。 皮膚のようなもので、ほとんど残っていないわたしの皮膚に圧力を与えて、皮膚の回復をうなが す。製作している工場がアメリカにひとつ、アイルランドにひとつあって、そこで自分の体にぴ ったり合わせて仕立てたスーツが手にはいるそうだ。作業療法士は、わたしの場合、ズボン、シ ャツ、手袋、顔のマスクが必要だろうと言った。スーツは体にぴったりフィットして、常に皮膚 に圧力をかけるため、体を動かすとジョブストースーツがわたしの皮膚を軽くマッサージして、 赤みと過度の瘢痕化を抑えてくれるらしい。  どれだけ興奮したことか! 理学療法士のシューラは、ジョブストがいかにすばらしいか話し てくれた。色の種類があると聞いて、わたしはすぐに、頭から爪先までぴったりした青い皮膚で 覆われたスパイターマンのような自分を想像した。だがシューラは、色といっても、白人用の茶 色と、黒人用の黒しかないとわたしを戒めた。かつては、ジョブストのマスクをかぶった大が銀 行にはいり、銀行強盗とまちがわれて警察に通報されたこともあったそうだ。いまは、工場から マスクが届くとき、胸につけておけば状況をわかってもらえるバッジがいっしょについているら しい。  この新しい情報はわたしを思いとどまらせるどころか、ジョブストースーツの印象をさらによ くした。わたしは思わずにっこりした。通りを歩いても、人の目に見えないというのはなかなか いい。口と目のほか、わたしの体はだれにも見えない。だれにもわたしの瘢痕が見えないのだ。  絹のような被覆を想像しながら、ジョブストースーツが届くまでどんな痛みにも耐えられると 思った。何週間かたって、ようやくスーツが届いた。シューラがはじめて身につけるのを手伝い にきてくれた。まずはズボンだ。シューラがズボンを広げ、わたしの足にはかせはじめた。それ は、瘢痕を優しくマッサージする絹のようなものとはまったくちがっていた。素材はまるでキャ ンバス地のようで、瘢痕を引きさきそうだった。わたしはそれでも、まったく幻滅などしなかっ た。スーツで完全に覆われる感覚を昧わってみたかった。  数分後、前に体の寸法を測ったときより体重が増えていることがはっきりした(当時は体の治 癒を助けるために、一日に七〇〇〇キロカロリーの食事と三〇個の卵を食べさせられていた)。 ジョブストースーツはうまくフィットしなかった。それでも、このために長いあいだ待ったのだ。 たいへんな忍耐ののち、とうとう完全にスーツを身につけることができた。長袖のシャツで、胸 も肩も腕も強く圧迫された。マスクはずっときついままだった。長ズボンは、爪先からへそまで つながっていた。手袋もあった。外から見えるのは、つま先の先っぽと目と耳と囗だけだ。ほか はすべて茶色いジョブストで覆われていた。  圧迫は時間がたつにつれてどんどん強くなっていくようだった。スーツのなかはおそろしく暑 かった。わたしの瘢痕は血液供給が乏しかったが、暑さのために血液がどっと流れ、瘢痕が赤く なりもっとかゆくなった。わたしが銀行強盗ではないことを知らせるバッジまで失敗だった。文 字がヘブライ語でなく英語で書かれていたので、これでは意味がない。すてきな夢はみじめな結 果に終わった。わたしはスーツからなんとか抜けだした。体の寸法を測りなおし、アイルランド に送った。これでもっと体にあったジョブストが手にはいるはずだ。  つぎのスーツはもっと楽にフィットしたが、そのほかの点ではたいして変わらなかった。わた しは数か月、この治療に耐え苦しんだ。かゆみ、痛み、着るときの格闘。着ようとするあいだに、 できたばかりの繊細な皮膚が破れた(そして、この新しい薄い皮膚が破れると、治るのに長い時 間がかかる)。わたしはついに、このスーツが少なくとも自分にとってはまったく利点がないこ とを学んだ。スーツでうまく被覆できている部分も、できていない部分も、見た目、触った感じ ともまったく変わらないし、結局、スーツで得られたのは、スーツにともなう苦痛だけだったこ とがわかった。  こうしたスーツの有効性を調べるために立案された実験(異なる種類の繊維をためす、異なる 圧迫レベルをためすなど)に、やけど病棟の患者を参加させるのは倫理的に問題があるだろうし、 プラセボ実験に協力してくれるよう頼むのはさらにむずかしいだろうが、痛みのともなう治療を、 納得のいく理由もないまま、何年にもわたって多くの患者に施すことも倫理的にむずかしい。  もしこのタイプの人エスーツを、ほかの処置との比較試験や、プラセボースーツとの比較試験 で調べていれば、その実験のやり方で、わたしの日々の苦痛の一部は省けたかもしれない。また、 そこから新しい手法の実験−実際に使えるものIも生まれていたかもしれない。無駄になっ たわたしの苦痛や、わたしのような患者の苦痛こそ、そうした実験をしないことの真の代価だ。  すべての治療についてかならず調べ、プラセボ実験をおこなうべきだろうか。医学やプラセボ の実験にからむ倫理のジレンマは現実のものだ。こうした実験の潜在的利益は、その代価と比較 して検討しなければならない。結果として、かならずしもプラセボ実験ができるわけではないし、 かならずすべきものでもない。しかし、わたしの意見では、現在おこなわれているプラセボ実験 は、すべきプラセボ実験の数に遠くおよばない。   11章   わたしたちの品性について その1   なぜわたしたちは不正直なのか、そして、それについて何ができるか  「正直な人」の不正  二〇〇四年、アメリカの強盗事件の被害額は合計で五億二五〇〇万ドル、一回の強盗事件での 被害額は平均して一三〇〇ドルだった。こうした犯罪によって過熱する新聞やテレビの報道はと もかく、強盗の逮捕や拘禁のためにどれだけの警察力、司法力、懲罰力が投入されているかを考 えれば、この金額はそれほど大きくない。もちろんわたしは、常習犯に手心を加えてやろうと提 案しているわけではない。相手は泥棒であり、わたしたちはその所業から自分白身を守らなけれ ばならない。  しかし、これはどうだろう。従業員による職場での盗みや詐欺は、年間およそ六〇〇〇億ドル におよぶと推定されている。この数字は、強盗、押しこみ、窃盗、車の盗難を合わせた被害額  (二〇〇四年の合計は一六〇億ドル)より劇的に大きい。アメリカじゅうの常習犯が死ぬまでに 盗める金額より大きい。さらに、ゼネラルーエレクトリック社の時価総額のほぼ二倍にあたる。 しかし、まだつづきがある。保険業界の報告によると、毎年、個人契約の被保険者たちは財産損 失を申請するときに架空の二四〇億ドルを上乗せする。一方、米国国税局によると、連邦政府の 考える支払われるべき税金の額と、人々が実際に支払っている額には差があり、推定で毎年三五 〇〇億ドルの損失になっている。小売り業も独自の頭痛を抱えている。服を買って、値札をはず さずになかに隠して着用し、使い古しになったものを返品して全額を払いもどさせる顧客のせい で、年間一六〇億ドルの損失になっている。  このような日々の雑多な不正の例に加えて、下院議員がお気に入りのロビイストからゴルフ旅 行の接待を受けたり、医師がよく使う検査ラボとリベート取引をしたり、企業の経営幹部がスト ックオプションの付与日を過去の日づけにさかのぽって最終的な利益を不正に増やしたりする。 腐敗した経済活動で得られる金額は、家庭を狙う標準的な泥棒などとは比べものにならないほど 巨額だ。  二〇〇一年にエンロン事件が起こったとき(そして、《フォーチュン》誌の「アメリカでもっ とも革新的な会社」に六年連続で選ばれたあのエンロンが、成功の大半を不正会計に負っていた ことがあきらかになったとき)、わたしは昼食の席で、ニーナーメイザー、オンーアミア(カリ フォルニア大学サンディエゴ校の助教)のふたりといつのまにか不正について議論していた。わ たしたちは、一部の犯罪、とくにホワイトカラー犯罪が、ほかの犯罪ほど厳しく批判されないの はなぜだろうと不思議に思った。その手の犯罪者が、一〇時のラテから昼食までのわずかな時間 に、通常の強盗ならI生かけてもかなわないほどの大損害を財政に与えかねないことを考えると、 なお不可解だ。  しばらく議論したすえに、世のなかには二種類の不正があるのではないかと思いあたった。ひ とつは、ガソリンスタンドのまわりをうろつくふたり組の強盗を連想させるような不正だ。ふた り組は車を走らせながら、現金入れにいくらはいっているか、だれが自分たちの邪魔をするか、 捕まったらどんな罰を受けるか(模範的な行動をすればどれだけ刑期が短くなるかも含めて)を じっくり考える。この費用便益の計算をもとに、ガソリンスタンドに強盗にはいるかどうかを決 める。  そして、不正にはもう一種類ある。これは、ふだん自分が正直者だと思っている人たちが犯す 不正だ。みなさんのなかで(起立願います)、イベントの会場からペンを「借りた」ことがある 人は? ドリンク供給器の注ぐボタンを少し余計に押したことがある人は? 盗まれたテレビの 盗難損失額を少し多めに申請したことがある人は? イーニッドおばさんとの食事を経費として  (一応、おばさんに仕事がうまくいっているかと尋ねられたことだし)偽って報告したことがあ る人は?  このふたつめの種類の不正が存在することはわかるが、いったいどのくらい広く行きわたって いるのだろう。さらに、「正直」な人たちのグループを科学的な比較実験の状況下に置いて、ご まかしをするよう誘惑したら、人々は誘いに乗るだろうか。自分の品位を汚すようなおこないを するだろうか。いくらまでなら盗むのだろう。さっそく調べてみることにした。 ごまかしを誘う実験  (Iバードービジネスースクールは、アメリカの卓越した学問の場だ。マサチューセッツ州ケ ンブリッジのチャールズ川岸に堂々たるコロニアル様式の建物を有し、こぼれるほど寄付金が注 がれるこの学校は、アメリカの財界の最高指導者を養成することで知られている。現に、フォー チュン五〇〇企業の三役のうち、ほぽ二〇パーセントは(Iバードービジネスースクールの卒業 生が占めている。とすれば、正直さについてちょっとした実験をおこなうのに、これほど適した 場所がほかにあるだろうか。  実験はいたって単純だ。(Iバードの学部生とMBA学生のグループに五〇問の多肢選択問題 からなるテストを受けてもらう。問題は標準テストに似ている(世界一長い川はどれか? モー ビー・ディックとは何ものか? 複数の数や量の中間的な値を意味することぱは何か? ギリシ ャ神話のなかで愛の女神とされるのはだれか?)。学生は一五分間で問題を解き、その後、答え を作業用紙から採点用紙(マークシート)に書きうつしてから、教壇にいる試験監督にマークシ ートを提出する。試験監督は、正答一問につきI〇セントを学生にわたす。これだけだ。  つぎの実験は、新しい学生のグループに同じ一般教養テストを受けてもらうが、ひとつ大きな 変更をする。この学生たちも前のグループと同じように、テストを受け、答えを採点用マークシ ートに書きうつしてもらう。しかし、今回のマークシートには、あらかじめ正答がマークしてあ る。各問題について、薄い灰色でマークされた部分が正答を表わしている。たとえば、学生が世 界一長い川はミシシッピ川だと作業用紙に解答していても、マークシートを受けとれば、そこに マークされたものを見て、正解がナイル川だとわかる。この時点で、作業用紙の自分の答えがま ちかっていても、うそをつくことに決めて、マークシートには正しい答えを記入することができ る。  解答を写しおえた学生は、正答数を数えてマークシートの上に記入し、作業シートとマークシ ートの両方を教壇にいる試験監督に提出する。試験監督は、学生が正答したと申請した数(マー クシートの上に書いた数字)を見て、正答一問につきI〇セントを学生にわたす。  はたして学生はごまかしをするだろうか。まちがえた答えを書きかえて、マークシートにあら かじめマークされていた正答に合わせるだろうか。わたしたちにも想像がつかなかったが、いず れにしても、べつの学生のグループをさらに誘惑することにした。この条件でも、学生はやはり テストを受け、あらかじめマークされているマークシートに解答を書きうつす。しかし今回は。   *(Iバードービジネスースクールの発表による。   ↑わたしたちはよく(Iバードで実験をおこなうが、それはここの学生がMITの学生とちがうと考えてのことではなく。    (Iバードにはすばらしい設備があるうえ、教職員が学生を使った実験を快く許してくれるからだ。 もともとの作業用紙を破棄するように指示し、試験監督にはマークシートだけ提出してもらう。 つまり、不正行為をしても、すべての証拠を消しされるわけだ。学生は餌に食いつくだろうか。 これもわたしたちには予想がつかなかった。  最後の条件では、学生たちの正直さをぎりぎりまで追いこむことにした。今回は、もともとの 作業用紙だけでなく、あらかじめ正答がマークされているマークシートも破棄するよう指示する。 さらに、いくつ正答したかを試験監督に報告する義務もない。作業用紙と採点用紙を破棄したら、 教壇へ行って、そこに置いてあるコインがいっぱいにつまったガラス瓶から正答数の分だけコイ ンを取りだし、そのまま部屋を出ていけばいい。もしごまかそうという気が少しでもあれば、こ の条件なら思う存分、完全犯罪ができる。  そのとおり。わたしたちは学生を誘惑しようというのだ。ごまかしやすいような状況をわざと つくった。はたしてアメリカの最高の若者たちは、食いつくだろうか。  最初のグループが席に着くと、わたしたちは約束ごとを説明し、テストを配った。学生は一五 分間問題を解いて、答えをマークシートに害きうつし、作業用紙とマークシートを提出した。こ の学生たちは対照群だ。正答を与えられていないため、ごまかしをするチャンスはまったくない。 平均して、五〇間中三二・六問が正答だった。         ほかの実験条件の実験参加者の成績はどうだっただろう。対照条件の実験協 J 一 一 一  力者が平均三二・六問を正答したのなら、ほかの三つの条件ではいくつ正答し = = = =     ただろう。         ふたつめのグループを見てみよう。学生たちは同じように問題を解いた。し        かし、今回は答えをマークシートに杳きうつすとき、正答が見えた。学生たち        は正直さをじゅうたんの下に追いやって、一問につきI〇セントの賞金を余計     作  にもらおうとするだろうか。結果、このグループは、平均して三六・二問正答     心  したと申請した。対昭群より賢かったのか。それはないだろう。そうではなく、    L 学生たちの小さなごまかし(約三・六問分)をつかまえたということだ。    破破   では、三つめのグループは? このグループではもっと餌をまいた。学生は  ククク  正答を知ることができただけでなく、作業用紙を破棄するよう指示された。は  エ エ エ    たして食いついただろうか? そう、学生はごまかしをした。平均して、三五 昭yヴヴ  ・九問を正答したと申請した。対昭群より多いが、ふたつめのグループ(作業 対自自自  用紙を破棄しなかったグループ)とはほぼ同じだった。 1234   最後にやってきた学生たちは、作業用紙だけでなく、マークシートも破棄す 皿皿耕皿  るよう指示された。そして、お金の瓶に手をつっこんで、自分にふさわしいだ        けのコインを持ち帰っていいことになっていた。学生たちは言われたとおり、 天使のように作業用紙を破り、お金の瓶に手を入れ、コインを取りだした。問題は、この天使た ちが汚れた顔をしていたことだ。学生たちが申請した正答数は平均三六・一問で、対照群のE二 ・六問より少し高かったが、ごまかすチャンスのあったほかのふたつのグループとは基本的に同 じだった。  この実験から何かわかったか。第一の結論は、チャンスがあれば、多くの正直な人がごまかし をするということだ。少数の悪いやからが全体の平均を押しあげたのではなく、大多数の人がご まかしをしたこと、そして、ごまかしの程度はわずかだったことがわかった。この不正率は(I バードービジネスースクールの上品な雰囲気のせいだと言われないうちにつけくわえておくが、 わたしたちはMIT、プリンストン大、UCLA、イェール大でも同様の実験をおこなって、同 様の結果を得た。  第二の、もっと思いもよらない結果はさらに印象的だ。実験協力者は、いったんごまかそうと いう気になったら、見つかる危険があることには左右されなかったらしい。用紙は破棄できない がごまかすチャンスがあったとき、正答数は三二・六問から三六・二問に増えた。しかし、用紙 を破棄するI小さな犯罪の証拠を完全に抹消するIチャンスが与えられてもそれ以上は不正 を働かず、学生たちは同じ程度のごまかしで思いとどまった。つまり、わたしたちは、ばれる危 険がまったくなくても、とんでもなく不正直になったりはしない。  学生は、両方の用紙を破棄し、お金の瓶に手を入れ、そのまま立ちされる条件だったとき、全 問正解したと申請してもっとお金をもらっていくこともできたはずだ(瓶には約一〇〇ドルはい っていた)。しかし、だれもそんなことはしなかった。これはどういうことだろう。そもそも、 正直とはなんなのだろう。 なぜ正直になるのか  偉大な経済思想家アダムースミスは、この問いに気持ちのいい回答を示した。。自然は、社会 のために人間を形づくったさい、同胞を喜ばせることへの生まれついての願望と、同胞を怒らせ ることへの生まれついての嫌悪を植えつけた。自然は人間に、同胞の好ましい点に快感を覚え、 好ましくない点に不快感を覚えるように教えこんだ‰  スミスはさらにこうつづける。。大半の人の成功は〔中略〕ほとんどいつも隣人や同輩の支持 や評価に左右される。そしてまずまずの正しいおこないをしなければ、支持や評価はなかなか得 られない。そのため、「正直はいつも最善の策」という古きよきことわざがこのような場合にほ とんどいつもあてはまる゛。  これは、釣りあいのとれた分銅や完全にかみあった歯車のように、均衡と調和のとれた産業時 代のもっともらしい説明に聞こえる。この考え方は楽観的に思えるかもしれないが、スミスの理   *正答数の分布は四つの条件すべてで同じだったが、ごまかしができる条件のときは平均値がずれていた。 論にはもっと暗い結果がつきまとった。人々は正直さについて費用便益分析をおこなう一方で、 不正直さについても同じように費用便益分析をおこなえるからだ。この考え方によれば、個人は、 自分に都合がいい(他者を喜ばせたいという願望も含めて)ときだけ正直になる。  正直になるか不正直になるかの決断も、車やチーズやコンピューターを選ぶときと同じ費用便 益分析にもとづいているのだろうか。わたしにはそうは思えない。たとえば、友人が新しいノー トパソコンを買うかどうか費用便益分析で決めたと説明する姿は想像できるだろうか。もちろん できる。だが、友人が費用便益分析をしてノートパソコンを盗むかどうか決めたと言うのを想像 できるだろうか。もちろん無理だ。その友人がプロの泥棒でもないかぎりありえない。わたしは、 正直とはもっと偉大なものIほとんどすべての社会において道徳的美徳とされるものだとする プラトン以降の人たちに賛同する。  ジグムントーフロイトはこう説明した。フロイトによると、わたしたちは社会で成長するにつ れて社会的美徳を内面化して自分のものにし、この内面化によって超自我の発達がうながされる。 ふつう超自我は、わたしたちが社会の倫理に従うと満足し、従わないと不満になる。だからわた したちは、朝の四時に赤信号にぶつかれば、だれも見ていないとわかっていても車をとめる。拾 った財布が持ち主の手にもどれば、自分の正体が相手に明かされなくても、温かい気持ちになる。 こうした行為は、脳内の報酬中枢−側座核、尾状核−を刺激し、満足感を与える。  しかし、わたしたちにとって正直であることが重要で(合衆国の高校生三万六〇〇〇人近くを 対象におこなった最近の調査によると、九ハパーセントが正直であることが重要だと回答した)、 正直になることで気分がよくなるなら、なぜわたしたちは、こうもしょっちゅう不正直になって しまうのだろう。  わたしの考えはこうだ。わたしたちは正直であることを大切にし、正直でありたいと思ってい る。問題は、わたしたちが大きな違反行為−イベント会場でペンを箱ごとごっそりもらうなど Iを意図したときにしか、体内の正直監視モニターが反応してくれないことだ。ベンをI、二 本失敬するくらいの小さな違反行為の場合、こうした行為がどう自分の正直さにはね返ってくる か考えることもないし、そのため、超自我も眠ったまま目を覚まさない。  正直さに対する超自我の助けと監視と管理がない状態で、このタイプの違反行為に対抗する唯 一の防御は、合理的な費用便益分析だ。しかし、ホテルの部屋からタオルを持ちかえる利益と、 見つかったときの代償を意識的に天秤にかけて比較する人などいるだろうか。税金の申告書にい くつか領収書を追加する利益と代償を検討する人などいるだろうか。(Iバードでの実験で見た ように、費用便益分析、とくに、人に見つかってしまう可能性は、不正直さにあまり影響を与え ないようだ。 不正直は外からコント囗−ルできるか  世界はこのようにまわっているのだ。新聞を開けば、不正行為や欺瞞行為のニュースを目にし ない日はまずない。クレジットカード会社は金利をべらぽうに引き上げて顧客から搾取する。航 空会社は破産申請をして、連邦政府に会社の窮地−と年金の積み立て不足−を救ってくれる よう求める。学校は、砂糖たっぷりの飲み物で子どもの過剰行動や肥満が増えることを知りなが ら、校内に自動販売機を置くことを擁護する(そして飲料メーカーから何百万ドルもの利益を得 る)。また、洞察力と才能のある《ニューヨークータイムズ》紙の記者デビッドーケイージョン ストンが、著書「完全に合法−税制度を操作して超金持ちを利し、その他全員をだまそうとい うひそかなキャンペーン」で書いているように、税金は腐敗していく倫理の祭典だ。  このすべてに対して、政府という形で、社会は少なくともある程度は反撃している。二〇〇二 年のサーベンスーオクスリー法(公開会社の経営者に監査と経理の適正性の保証を義務づけた法 律)は、エンロンの崩壊のような惨事を過去のものにするために成立した。議会は、税金の使途 指定(とくに、大きな連邦政府の法案に政治家が紛れこませる地元への予算誘導)を制限する法 案も成立させた。証券取引委員会は、経営幹部の報酬と役得についてさらなる情報開示を義務づ ける規則さえ成立させた。そのため、いまでは、フォーチュン五〇〇企業の経営幹部を乗せた長 いリムジンを見たら、なかにいる企業の幹部がいくらもらっているか、まずまちがいなく知るこ とができる。  しかし、こうした外からの方法で、すべての穴をふさぎ、不正を防ぐことはできるのだろうか。 無理だという批評家もいる。たとえば、議会の倫理改革を考えてみよう。議員や補佐官が「おお ぜい」出席する会合で、ロビイストが無料の食事を提供することは法律で禁じられている。そこ で、ロビイストたちはどうしてきたか。規則の裏をかいて、「少数の」来賓しか出席しない昼食 会に議員を招いたのだ。同じように、新しい倫理法では、ロビイストが議員を「固定翼」の飛行 機に乗せるのは禁じられている。だったら、そう、ヘリコプターならどうだろう。  わたしが聞いたなかで、いちばんおもしろかった新法は、「つまようじ規則」だ。この規則に よると、ロビイストは議員に着席形式の食事は出せなくなったが、いまでも、立っているときに 指やつまようじで口に放りこんで食べられるものならなんでも(おそらくはオードブル)提供し ていいそうだ。  これによって、ワシントンの議員たちのために着席形式のパスタとカキの食事を計画していた 水産業者たちは、予定を変更しただろうか(ちなみに、この食事会はシェークスピアの喜劇のせ りふをもじって「世界をあなたの思いどおりにしよう」と名づけられた)。たいして変更はいら なかった。水産業のロビイストたちは、パスタ料理こそやめたが(つまようじではうまく食べれ ない)、身をはずしたばかりの新鮮な生ガキをたっぷりごちそうした(それを議貝たちは立つた ままのどに流しこんだ)。  サーベンスーオクスリー法も効果がないと言われている。厳しく、柔軟性がないと指摘する批 評家もいるが、いちぱん大声で反対を唱えている人たちは、あいまいで、一貫性がなく、効率が 悪く、とんでもなく高くつく(とくに小さい企業にとって)と批判している。CATO研究所の 所長ウィリアム・A・ニスカネンは、。腐敗は一掃されてなどいな い。この法律のせいで企業は火の輪くぐりなみの苦労を強いられた だけだ・と指摘した。  外からコントロールして正直を強制する話はもう十分だろう。う まくいく場合もあるし、いかない場合もある。不正直を正すもっと いい方法はないのだろうか。 十戒で正直の概念を呼びおこす  この問いの答えを探す前に、わたしたちがおこなったべつの実験 を紹介しよう。このテーマについて多くのことを語ってくれるはず だ。数年前、ニーナとオンとわたしは、UCLAの実験室に実験協 力者のグループを集めて、簡単な算数のテストを受けてもらった。 テストは二〇問からなり、どの問題も、行列に並べた複数の数字の なかから、足すとちょうどI〇になるふたつの数字を探しだすもの だ(問題の例は上の表を参照)。実験協力者は、五分間にできるだけ 多くの問題を解いたあと、くじに登録した。そして、くじに当選し た人は、正答一問につきI〇ドルの賞金を受け取った。  (Iバードービジネスースクールでおこなった実験と同じように、一部の実験協力者はテスト 用紙をそのまま試験監督に手わたした。これが対照群だ。ほかの実験協力者は、ほかの紙に正答 した問題の数を書いて、もともとのテスト用紙は破棄した。このグループの人たちは、あきらか にごまかすチャンスがあった。チャンスを与えられた人たちはごまかしをしただろうか。察しは ついていると思うが、たしかにごまかした(だがもちろん、ほんの少しだ)。  ここまでは何も新しいことはない。しかし、この実験の鍵はこの前に起きたことだった。実験 協力者が最初に実験室に来たとき、わたしたちは、高校時代に読んだ本の題名をI〇個轡きだし てもらっていた。また、ほかの実験協力者には、思いだせるかぎりの十戒を書きだしてもらって いた。実験のこの「記憶課題」部分が終わってから、数字探し課題をはじめたのだ。  このような実験にしたのは、ある人は高校時代に読んだI〇冊の本を思いだしたあとにごまか すよう誘惑され、ある人は十戒を思いだしたあとにごまかすよう誘惑される、という形にするた めだ。どちらが多くごまかしをしただろう。  ごまかしが不可能なとき、実験協力者の正答は平均三・一問だった。   *あなたなら十戒がすらすら出てくるだろうか。ためすなら、紙に轡きだしてから、本章の終わりに靫せたものと見比べて    みよう。正しく覚えているか確認するために、口頭で言うのではなく、かならず咨きだすこと。   ↑十戒で数字探し問題の点数があがるだろうか? わたしたちは、同じ二種矧の記憶課題をごまかしができない条件で実験    してこの疑問をたしかめた。そして、この条件での成績がどちらの記憶課題でも同じだったことから、十戒で得点があが    ることはないと結論づけた。  ごまかしが可能なとき、高校時代に読んだI〇冊の本を思いだした人たちは、平均正答数が四 ・一問だった(ごまかしが不可能だった人たちより三三パーセント増)。  しかし大きな疑問は、最初に十戒を書きだして、それから課題に取りくんだもうひとつのグル ープに起きたことだ。スポーツキャスター風に言うと、このグループを見のがす手はない。学生 たちはごまかしただろうか。それとも、十戒が誠実さに影響を与えただろうか。この結果にはわ たしたちも驚いた。十戒を思いだすように言われた学生たちは、まったくごまかしをしなかった のだ。平均正答数は三間で、ごまかしが不可能だったグループの基準点と同じだった。そして、 ごまかしが可能で、本の題名を思いだすように言われたグループより一問少なかった。  その晩、わたしは家へ向かいながら、つい先ほど起きたことについて考えはじめた。一〇冊の 本を書きだしたグループはごまかしをした。もちろん、大きなものではない。ちょうど体内の報 酬の仕組み(側座核と超自我)が作動し、やめることに報酬を与えはじめる程度にごまかした。  それにしても、十戒はなんという奇跡をもたらしたのだろう¶・ 実験協力者に、十戒のなんた るかを思いださせる必要もなかった。たんに十戒の内容を思いだしてもらっただけだ(しかも、 一〇の戒めをすべて思いだせた実験協力者はほとんどいなかった)。わたしたちは、十戒を杳き だす課題が、学生たちのなかに正直という観念を呼びおこすかもしれないと期待を持っていた。 そして、まったくそのとおりになったのだ。いったいこの実験から、不正を減らすためのどんな 教訓が得られるというのだろう。わたしたちは数週間かけて、ようやくなんらかの結論に達した。 専門職の義務  おそらく、一般の生活に聖書を復活させるのはひとつの手だろう。不正を減らしたいだけなら 悪くないアイデアかもしれない。だが一方で、聖書は特定の宗教を支持する意味合いがあるとい う見地から反対する人や、宗教を商業的で世俗的な社会と混同することになるからという理由だ けで反対する人もいるだろう。しかし、ちがった種類の宣誓なら使えるのではないだろうか。十 戒の実験でわたしがいちばん印象に残ったのは、十戒のうちひとつかふたつの戒めしか思いだせ なかった学生も、一〇個をほぼ完璧に思いだした学生と同じくらい影響を受けたことだ。これは、 十戒そのものが正直になることをうながしたわけではなく、なんらかの道徳基準に思いをめぐら すだけで十分だったことを示している。  もしそうであれば、非宗教的な基準を使って、世のなかの全体的な正直さの水準をあげられる かもしれない。たとえば、医師や法律家などがおこなうIあるいはおこなっていたI職業宣 誓はどうだろう。職業宣誓にも同じ効きめがあるだろうか。  職業や専門職を意味する「プロフェッション「回O才S」§)」という英語は、ラテン語で「公 に確言した」を意味するプロフェッスス(professus)からきている。専門職は、ずっと昔に宗 教のなかで生まれ、やがて医療や法の世界に広がった。秘義の知識を身につけた者は、その知識 の実行を独占する権利を得るだけでなく、自分の力を賢く正直に使う義務を負ったとされる。宣 誓はIロ頭であれ書面であれ1知識の使い手がみずからの行動を規制するための心覚えであ り、専門職の義務を果たすさいに従うべき規則を示すものでもあった。  こうした宣誓は長いあいだつづけられたが、一九六〇年代に、専門職の規制緩和を求める大き な運動が起こった。専門職はエリート組織であり、日中の光にさらけだすべきだと非難された。 これは法律の専門職にとって、平易な英文で書かれた摘要書が増え、カメラが法廷にはいり、宣 伝活動が必要になることを意味した。医療や銀行業をはじめとするそのほかの専門職にも、同じ ようなエリート主義対策がとられた。大半は有益だったが、専門職が解体されて失われたものも ある。厳格な専門職意識は、柔軟で個人的な判断、商業の原則、富への欲求に取ってかわられ、 それとともに、専門職が基盤としてきた倫理や価値観の基準が消えてしまった。  たとえば、カリフォルニア州法曹協会が一九九〇年代におこなった研究によると、カリフォル ニアの圧倒的多数の弁護士が仕事上の信頼が落ちたことにうんざりし、法律の専門職の現状を  。非常に悲観的にヽとらえていた。また、三分の二が、今日の法律家は、経済的な圧力の結果、 専門職意識を危うくしているヽと言い、八〇パーセント近くが、法曹協会は。倫理に反する弁護 士に十分な制裁を与えていない・と答えた。そして、半数が人生をやり直せるなら弁護士にはな らないと回答した。  メリーランド州司法特別委員会がおこなった類似の研究でも、州内の法律家が同じように苦悩 していることがわかった。メリーランドの法律家は、自分たちの専門職の退廃があまりにひどい ため、。いらいらしたり、怒りっぽくなったり、論争的になったり、毒舌をふるったりしやす い・か、。無関心になったり、内向的になったり、放心したり、注意が散漫になったりしやす い・と報告した。バージニア州の法律家は、専門職意識の低下の問題の増加が、少数の面汚し・ のせいか、蔓延している風潮のためかと質問され、圧倒的多数が蔓延している問題だと答えた。  フロリダの法律家は最悪と見なされている。二〇〇三年、フロリダ州法曹協会は、、かなりの 数の少数派ヽの法律家が。お金をためることに熱心で、ちゃっかりしていて、狡猾で、ひきょう で、信頼できない・と報告した。さらに、、真実や公正さをほとんど尊重せず、勝つためなら平 気でゆがめたり、操作したり、隠したりするうえ、傲慢で、恩着せがましく、口汚いヽとしてい る。おまけに、横柄で不愉快・だというのだから、これ以上、何が言えるだろう。  医療の専門職について酷評する人もいる。収益をあげるためだけに不要な手術や治療をおこな う医師や、検査施設からリベートがもらえるからという理由で検査の指示を出す医師、たまたま 所有している検査装置を使うような検査ばかりを好む医師などが批判されている。医薬産業の影 響はどうだろう。これはある友人から聞いた話だが、このあいだ、一時間ばかりすわって主治医 を待ったそうだ。そのあいだに、製薬会社の(とても魅力的な)営業担当者が四人、昼食や無料 のサンプルやプレゼントを持って、自由に診察室を出入りしたという。  どんな専門職団体を見ても、ほとんどすべてに同じような問題の徴候が見つかる。たとえば、 石油地質学者協会はどうだろう。わたしなどは、お金を稼ぐことよりジュラ紀の頁岩や三角州堆 積物に興味があるインディアナージョーンズ風の人たちを思い浮かべてしまうが、もっと深く探 ると問題が見えてくる。協会のある会員は、。倫理に反する行為なら、ほとんどの人が想像した くなくなるほど大規模におこなわれている・と同僚に書き送っている。  いったいぜんたい、どんな不正が石油地質学者たちのあいだにはびこっているというのだ、と あなたは思うだろう。どうやら、不法につくられた地震デジタルデータの利用や、地図や資料の 盗用、土地の売却や投資がからんでいる場合の推定石油埋蔵量の誇張などがあるらしい。ある石 油地質学者は、。不正行為はたいてい灰色で、黒か白かでは表わせないヽと指摘している。  だがそろそろ、これが石油地質学者だけの問題ではないことを思いだすとしよう。専門職意識 の低下はいたるところにある。もっと証拠が必要なら、専門の倫理学者の土俵でおこなわれる議 論を考えてみるといい。倫理学者たちは、これまでにないほど頻繁に公聴会や裁判で証言を求め られるようになっているが、患者に施された治療や胎児の権利といった問題を検討するために、 対立するどちらかの側にやとわれていることがある。倫理学者もいざとなったら屈したい衝動に かられるのだろうか。どうやらそうらしい。。道徳の専門知識卜専門の倫理学者たちの専門職 倫理・というタイトルの記事がある倫理雑誌に載っていた。このように、腐敗の徴候はいたると ころにあるのだ。 宣誓効果の実験  ではどうするか。十戒を引き合いに出すかわりに、正直になると決意表明したことを思いださ せてくれるような非宗教的な文面−職業宣誓のようなものIに署名する習慣をつけたらどう だろう。簡単な宣誓をすることで、十戒に見られたようなちがいがでるだろうか。これは調べな ければならない。というわけで、つぎの実験とあいなった。  今回も実験協力者を一か所に集めた。ひとつめのグループには、行列に並べた数字の問題を解 いてもらい、教壇にいる実験者に回答を提出させた(実験者は正答数を数え、それに応じた報酬 をわたした)。ふたつめのグループにも同じ問題を解いてもらったが、解答用紙は折って個々に 持ちかえるよう指示し、教壇の実験者には正答数のみを申告させた。実験者はそれに応じた報酬 をわたし、実験協力者はそこで放免された。  この実験の新しい点は、三つめのグループにある。このグループには、問題を解く前に、解答 用紙に書かれた文面―「わたしは、この研究がMIT無監督試験制度の倫理規定のもとにおこ なわれることを承知しています」−に署名してもらった。署名のあと、実験協力者は数字の問 題を解いた。時間になると、実験協力者は解答用紙をポケットにしまい、教壇まで行って実験者 に正答数を申告し、それに応じて報酬を受けとった。  結果はどうだっただろう。ごまかしが不可能だった対照条件では、平均正答数は三問(二〇間 中)だった。解答用紙を隠せたふたつめの条件では、申請による平均正答数は五・五問だった。 驚くべきは、解答用紙を隠せたけれど、無監督試験制度の規定文面に署名した三つめのグループ だ。この条件で実験協力者が申請した正答数は平均して三間で、対照群とまったく同じだったの だ。この結果は、十戒で得られた結果−道徳心を呼びおこすものによってごまかしが完全に排 除されたIと似かよっている。無監督試験制度の倫理規定文面に署名することに効果があると いう結果は、MITにそのような規定がないことを考えるとまったくの驚きだ。  これまでにわかっていることをまとめよう。人々はチャンスがあれがごまかしをするが、けっ してめいっぱいごまかすわけではない。また、いったん正直さについて考えだすと土戒を思 いだすにしろ、ちょっとした文面に署名するにしろIごまかしを完全にやめる。つまり、わた したちは何かの倫理思想の水準から離れると、不正直に迷いこむ。しかし、誘惑に駆られている 瞬間に道徳心を呼びおこされると、正直になる可能性がずっと高くなる。  現在、複数の州法曹協会や専門職組織が職業倫理を強化しようとあわてている。大学や大学院 の講座を増やす、倫理の再学習クラスを義務化するなどの取りくみをはじめた組織もある。法律 の専門職では、メリーランド州の巡回判事テニス・M・スウィーニーが『法律家の法廷業務遂行 ガイドライン』を著わし、そのなかで、。このような規則のほとんどは、礼儀正しいきちんとし た大人ならこうすべきだと母親が言いそうなことばかりだ。われわれの(そしてあなたの)母親 にはほかに重要な責務があり、州内のすべての法廷にいるわけにはいかないため、かわりにわた しがそうした規則を示すことにする・と杳いている。  このような一般的な方法は役に立つのだろうか。医師が職業に就くとき宣誓するように、法律 家も法曹協会に入会するとき宣誓するのを忘れてはいけない。しかし、ときおり宣誓し、ときお り規則厳守を表明するだけでは不十分だ。わたしたちの実験から、宣誓や規則を思いだすのは、 誘惑の瞬間か直前でなければ意味がないのはあきらかだ。またそれだけでなく、時間はこの問題 を抑制しようとするわたしたちに不利に働いている。4章では、社会規範が市場規範と衝突する と、社会規範が消えて市場規範が残ると述べた。正確な類推ではないにしても、正直もこれと同 様の教訓を与えてくれる。いったん職業倫理(社会規範)が低下すると、取りもどすのは容易で はない。 不正直になりやすさを自覚する  これは努力しても無駄だという意味ではない。正直さはなぜこれほど重要なのだろう。一例を あげると、アメリカが今日経済大国の地位にある理由のひとつは、企業統治の水準という点で世 界有数の正直な国家である(少なくともそう受けとられている)からだということを忘れてはな らない。  二〇〇二年のある調査によると、アメリカの「清潔度」は世界で二〇位だった(一位はデンマ ーク、フィンランド、ニュージーランド、最下位の一六三位は(イチ、イラク、ミャンマー、ソ マリア)。この調査からすると、アメリカでビジネスをする人のほとんどは公正な扱いを受けら れると感じているのだろうと思ってしまう。しかし、実際問題として、企業不祥事の波によって アメリカの新聞のビジネス欄が警察の事件簿さながらになる以前の二〇〇〇年には、アメリカの  「清潔度」は一四位だった。つまり、わたしたちアメリカ人は危険な坂道を転がり落ちているの であって、けっしてのぼってはいない。この長期的な代償は膨大なものになりうる。  アダムースミスは、正直がほんとうに最善の策であり、とくにビジネスにおいてはそうだとわ たしたちに気づかせてくれた。よその国に目を向けると、この気づきの反対側−信頼のない社 会のマイナス面−を垣間見ることができる。中国では、ある地域のある人が発した指示はめっ たにほかの地域まで届かない。中南米には同族経営のカルテルがあふれ、親族に気前よく貸しつ けている(そのうえ、債務者が債務不履行に陥っても信用貸しを停止しない)。イランも不信に 悩まされている国のひとつだ。MITのイラン人学生から聞いた話だが、イランでのビジネスに は信頼という基盤がないという。そのため、だれも前払いしないし、だれも信用貸しをしないし、 だれもあえて危険を冒そうとしない。人を雇うなら、ある程度の信頼がいまも残っている親族に かぎられる。だが、これを人ごとだと思ってはいけない。正直さがなければ、わたしたちも思い のほか早くそうなるかもしれない。  正直な国家を保つために何ができるだろう。自分の価値観を反映する、聖轡やコーランのよう なものを読むのもいいだろう。専門職の基準を回復する方法もある。署名して誠実にふるまうと 誓約してもいい。べつの方法は、何よりまず、個人の金銭的利益が自分の道徳基準に反するよう な状況に陥ったとき、わたしたちが真実を「曲げ」、世界を私欲と矛盾しないものとして見て、 不正直になってしまうということを自覚することだ。この弱さに気づけば、はじめからそうした 状況を避けるよう努めることができる。医師が金銭的な利益を得るような検査を指示するのを禁 止することもできる。会計士や会計検査官が、同じ企業のコンサルタントの役を務めるのを禁止 することもできる。議員が自分たちの給料を決めるのを禁じることもできる。  しかし、不正の問題はこれで終わりではない。次章では、不正についてもう少し意見を述べる とともに、不正とどう戦うかについて考えたい。 ご 」 付 録                                      三 一 一                                                     } 一   十戒(新共同訳)                                } じ                                                       一 一。                                                      一 ご あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない・              「 二                                                                            匸 」 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。                 一 】 安息日を守ってこれを聖別せよ。                         】 〈一                                                      一 二    あなたの父母を敬え。                                { ・ 殺してはならない。                                一 }  姦淫してはならない。                               一 一一 盗んではならない。                                一 一一 隣人に関して偽証してはならない。                         } 一 あなたの隣人の妻を欲してはならない。                       一 に 隣人のものを一切欲しがってはならない。                     〈   12章   わたしたちの品性について その2   なぜ現金を扱うときのほうが正直になるのか 缶コーラの消滅実験  MITのほとんどの学生寮には共有スペースがある。そこにはいろいろな冷蔵庫が置かれてい て、近くの部屋の学生が利用できるようになっている。ある日の午前一一時ごろ、たいていの学 生が授業に出ている時間に、わたしは学生寮にもぐりこんで、各階で見つけられるだけの共用冷 蔵庫を探しにかかった。  共用冷蔵庫を発見すると、にじり寄っていって、あたりを慎重に見まわす。それからおもむろ にドアをあけ、六本パックの缶コーラをなかに忍ばせて、足早に立ちさる。十分離れた場所まで 行ってから立ちどまり、缶コーラを残した冷蔵庫の場所とその時間をメモに書きとめた。  それから数日のあいだ、わたしはそこに舞いもどっては缶コーラをチェックし、冷蔵庫に何本 残っているかを日誌に記録していった。ご想像どおり、学生寮における缶コーラの半減期はそれ ほど長くはなかった。そして、すべてが七二時間以内に消滅してしまった。しかし、この実験で わたしが冷蔵庫に入れたのは、缶コーラだけではない。いくつかの冷蔵庫には、六枚のIドル札 を載せた皿を置いていったのだ。一ドル札はコーラよりも速く消滅しただろうか?  この問題に答える前に、ひとつ質問したい。あなたの奥さん(あるいはご主人)が職場に電話 をかけてきたとする。明日、娘の学校で赤鉛筆が必要らしく、帰りに一本よろしくと頼まれた。 あなたなら、娘のために職場の備品を持って帰るのに違和感を覚えるだろうか。とても違和感が ある? 少し違和感がある? まったく気にならない?  もうひとつ質問しよう。職場には赤鉛筆がなかった。しかし、建物の下にある売店に行けばI 〇セントで買うことができる。オフィスの小口現金用の現金箱はいつもあいたままになっていて、 そばにはだれもいない。あなたなら、現金箱のI〇セントを持って赤鉛筆を買いにいくだろう か? 手元には小銭がないため、そのI〇セントが必要だとしよう。そのお金を平気で使うだろ うか。べつに問題はないだろうか。  あなたのことはわからないが、わたしの場合、赤鉛筆を職場から持って帰るのはわりあい簡単 だが、お金を取るのはかなりむずかしい(幸いなことに、わたしはこの難問に直面したことはな い。うちの娘はまだ学校に通いだしていないからだ)。  実験の結果、MITの学生たちもお金を取ることにはちがう感情を抱いたようだ。先ほども言 ったが、缶コーラはたちまち消えうせた。七二時間のうちに、すべての缶がなくなっている。と ころが、お金のほうはまったくちがった。一ドル札の載った皿は、わたしが七二時間後に冷蔵庫 から取りだすまで、ずっとそのままだった。  これはいったいどういうことなのか?  世界を見まわすと、たいていの不正行為は現金から一歩離れたところでおこなわれている。企 業は会計で不正をするし、企業の役員は過去の日づけに改ざんしたストックオプションを使って 不正行為をする。ロビイストは政治家の資金集めパーティーで不正行為をするし、製薬会社は医 師を夫妻ともども豪華な旅行に送りだして不正をおこなう。たしかに、こういった大たちは、現 金そのもので不正行為をしてはいない(たまの例外を除く)。わたしが言いたいのはこの点だ。 不正行為は、現金から一歩離れたときにやりやすくなる。  エンロン崩壊の中心人物であるケネスーレイ、ジェフリー・スキリング、アンドリュー・フア ストウたちは、お金が老婦人の小銭入れにはいっていたものなら、はたして盗んだだろうか。も ちろん、おおぜいの老婦大たちの年金から何百万ドルものお金を奪ったのはたしかだ。しかし、 こん棒を持って老婦人に襲いかかり、その手から現金を奪いとったりしただろうか? 異論はあ るかもしれないが、わたしとしてはノーと言いたい。  それでは、お金ではないものがからんだ不正行為はおこなえるのに、お金を扱うときには不正 がしにくいのは、いったいどこに原因があるのだろう。この不合理な衝動はどのように働いてい るのだろうか。 代用貨幣を使った不正の実験  わたしたちはちょっとした不正行為を正当化するのにとても長けているので、お金ではないも のが不正行為にどう影響するのかは、なかなか理解しにくい場合が多い。たとえば、鉛筆を持っ て帰ることについては、職場の備品は大きな意味で報酬の一部であるとか、鉛筆の一本や二本を かすめることくらいだれでもやっているなどと言いわけすることだろう。共用の冷蔵庫から缶コ ーラをときどき失敬するのも問題ない。なぜなら、自分たちだってだれかにコーラを持っていか れることがあるからだ。ひょっとすると、レイとスキリングとファストウは、エンロンの会計簿 をごまかすことは問題ない、事業が上向きになったら修正しなおすつもりの一時的なことだから と考えたのかもしれない。ほんとうのことなどだれにわかるだろう。  とすれば、不正行為の本質を突きとめるには、巧妙な実験を考えだす必要がある。不正の言い わけをする余地がほとんどないようなものを使った実験でなければならない。ニーナーメイザー とオンーアミアとともに検討した結果、貨幣の象徴となる引換券を使うことを思いついた。現金 でもなく、コーラや赤鉛筆のように人々に個々の事情があるものでもない。はたしてこれで不正 の仕組みを解明できるだろうか。確信はなかったが妥当な方法に思えた。そこで数年前、わたし たちは実際にためしてみることにした。  こんな実験だ。MITの学生食堂のひとつで、昼食を終えた学生たちのところに行って、五分 間実験に協力してくれないかと頼む。やってもらいたいのは、二〇問の簡単な数字探し問題(足 すとちょうどI〇になるふたつの数字を探す)を解くことだけだ。協力者には、一問正解するご とに五〇セントをわたす。  実験の出だしはすべて同じだが、終わり方は三種類あった。ひとつめのグループの実験協力者 には、テストを終えたあと解答用紙を実験者に提出させた。実験者は正答数を数えて一問につき 五〇セントを支払った。ふたつめのグループには、解答用紙を破ってポケットなりかばんなりに 突っこんでいいと指示した。あとはただ正答数を実験者に伝えて、一問につき五〇セント受けと るだけでいい。ここまでは、前章で紹介した正直さの実験と同じだ。  しかし、最後のグループに与えた指示には大きくちがう点があった。実験協力者は、ふたつめ のグループと同じように、解答用紙を破ってから正答数を実験者に伝える。だが今回、実験者は 現金をわたさない。かわりに、実験協力者が申告した正答の数だけ引換券をわたした。実験協力 者は、そこから四メートルほど離れた部屋の向こう側にいるべつの実験者のところへ行き、引換 券を五〇セントと交換することになる。  わたしたちが何をしたかわかるだろうか? 取引のなかに引換券−それ自体に価値のない、 代用貨幣卜を持ちこんだのだ。学生たちの正直さに影響はあっただろうか。引換券のせいで、 じかに現金を受けとった学生より、正答数を申告するとき不正直になっただろうか? なったと したら、どの程度だろう?  この結果には、わたしたちも驚かされた。最初のグループ(ごまかしが不可能だった実験協力 者)の平均正答数は三・五問だった(これが今回の対照群となる)。  ふたつめのグループの実験協力者は、解答用紙を破ったあと、平均して六・二問正答したと申 告した。この学生たちが解答用紙を破っただけで頭がよくなったとは思えないので、対照群より 余計に申告した二・七問分がごまかしだと判断できる。  しかし、不正行為の厚かましさでいうと、三つめのグループがずばぬけていた。前のふたつの グループと頭のよさは変わらないはずなのに、申告による正答数は平均して九・四問だった。対 照群より五・九問多く、解答用紙を破っただけのグループより三・二問多い。  つまり、通常の状況で不正の機会を与えられると、学生は平均で二・七問分の不正をおこなう。 ところが、同じように不正の機会を与えられても、代用貨幣がからんだとたん、不正は五・九問 分も増え、二倍以上にはねあがるのだ。現金のための不正と、現金から一歩離れたもののための 不正とで、なんとも大きいちがいがあるものだ。  もしこれが驚きだというなら、これはどうだろう。わたしたちがおこなった正直に関する実験  (前章で紹介したもの)に参加した二〇〇〇人の実験協力者のうち、全開正解したと申告したの は、たった四人だけだった。つまり、「完全な不正」の率は二〇〇〇分の四と言える。  しかし、代用貨幣(引換券)を持ちこんだ今回の実験では、全四五〇人の実験協力者のうち二 四人が「完全な」不正をおこなった。この極端な不正をした二四人のうち何人が引換券を受けと るグループで、何人が現金を受けとるグループだっただろう。なんと、全員が引換券のグループ だった(引換券のグループだけで見ると、「完全な」不正をおこなったのは、一五〇人のうち二 四人だった。二〇〇〇人あたりでは約三二〇人に相当する)。このことから、人々は引換券によ って道徳上の制約から「解放」されただけでなく、かなりの数の人が解放されすぎてめいっぱい まで不正をしたといえる。  完全といえるほどの不正はあきらかに悪事だが、もっとひどい結果もありえた。今回の実験で は、引換券が数秒のうちに現金に交換されたことを忘れてはならない。引換券を現金に交換する のが数日後や数週間後、あるいは(たとえば、ストックオプションの場合のように)数か月後だ ったとしたら、不正率はいったいどうなっていただろう。もっとおおぜいの人が、もっと大胆な 不正行為をおこなったのではないだろうか。 ちょつとした不正行為の例  これまで、機会が与えられれば、人は不正直になってしまうものだということを見てきた。し かしほんとうに奇妙なのは、わたしたちの大半がこうなるとは予想していないことだ。べつの実 験で、引換券のときは、現金のときよりも不正行為が増えると思うかと学生たちに尋ねた。する   *理論上は、全間正解の人がいた可能性もある。しかし、対照群のなかでI〇問以上正解した人がひとりもいなかったこと    から、この四人がほんとうに二〇問正解した可能性は非常に低い。そのため、この四人が不正をしたと判断した。 と、そんなことはない、不正の量は同じはずだと答えが返ってきた。学生たちは、なんといって も引換券は本物のお金のかわりなのだし、数秒のうちに実際にお金に交換されるのだから、実験 協力者は引換券をお金と同じように扱うにちがいないと予想した。  しかしこれは大きなまちがいだ。学生たちは、現金から一歩離れたとたん、わたしたちがどれ ほどすばやく不正行為を正当化できるかわかっていなかった。もちろん、わたしたちにも同じこ とがいえる。おそらく、だからこそ不正行為はこれほどはびこっているのだろう。そして、だか らこそジェフリー・スキリングやバーナードーエバースなど、ここ何年かに起訴された役員たち は、わが身と自分の会社が坂を転がり落ちるままにしたのだろう。  言うまでもなく、わたしたちはだれもがこの弱さを持っている。ありかちな保険金詐欺を考え てみよう。保険加入者は、家や車を失ったと申告するとき、一〇パーセントほど損害額を都合よ く水増しすると見積もられている(もちろん、あなたが大げさに損害額を報告すれば、保険会社 は保険料率をあげるので、状況はとんとんになる)。ここでも、たいていは完全に目にあまるよ うな詐欺はおこなわれない。たとえば、27インチのテレビを失った人は32インチのテレビだった と申告し、32インチのテレビを失った人は36インチのテレビだったと申告する、といった程度だ。 この人たちが、保険会社から直接お金を盗むことはありえない(魔がさしてそんな気になること がたとえあったとしても)。しかし、すでに手元にないものを申告するIそして大きさや価値 をほんのすこしだけ水増しするIという形なら、道徳的な重荷に耐えやすくなる。  ほかにも興味深い不正行為がある。「ワードロービング」といって、衣類を購入し、それをし ばらく着てから、店に返品するというものだ。衣類は、店側か返品に応じられないほどひどい状 態にはなっていないものの、もう一度商品として売るわけにはいかないほど着古されている。ワ ードロービングをしても、消費者は企業から直接お金を盗むわけではない。ただ、買ったり返し たりのごたごたで、はっきりとしないお金のやりとりがおこなわれる。しかし、少なくとも明確 な結論がひとつ出ている。ワードロービングによって、衣類業界は年間およそ一六〇億ドルの損 失を被っていると推定される(空き巣と自動車盗難による年間被害額に匹敵する)。  では、経費報告書はどうだろう。仕事で出張に行く場合、だれしも職場の規則を心得ているは ずだが、経費報告書も現金からは一歩(ときには数歩)離れている。ニーナとふたりでおこなっ た研究の結果、支出によって、経費として正当化できるかどうかという点にちがいがあることが わかった。たとえば、すてきな初対面の人に五ドルのマグカップを買ってプレゼントした支出は、 あきらかに経費の範疇にははいらない。だが、同じ初対面の人に、バーでハドルの飲み物をおご った支出を経費で落とすのは、かなり正当化しやすい。ちがいはその品物の値段でもなければ、 ばれることへの怖れでもない。経費を正当な理由で使ったと自分自身を納得させられるかどうか にかかっている。  経費についてほかにもいくつか調査したところ、同じような合理化が見られた。ある研究では、 事務アシスタントに領収書をまわして提出してもらう場合、不正行為から一歩離れることになる ため、疑わしい領収書をまぎれこませやすくなることがわかった。べつの研究では、ニューヨー クに住むビジネスマンが子どもへのみやげを買う場合、サンフランシスコの空港(あるいは家か ら遠く離れたどこか)で買うほうが、ニューヨークの空港(あるいは空港からの帰り道)で買う より、必要経費だと考えやすいことがわかった。どちらも道理にかなっていない。だが、交換の 媒体がお金でないときには、わたしたちの正当化の能力は飛躍的に増加するのだ。 電子商取引の不正行為  わたし自身、数年前に不正行為に出くわした。何者かがわたしのスカイプ(Skype)のアカウ ントに侵入し(スカイプというのは、かなり使えるインターネット電話サービスのソフトウェア だ)、通話料の数百ドルがわたしのペイパル(PayPa一)のアカウントに請求されたのだ(ベイパ ルはインターネット決済システム)。  この犯人が札つきの悪とは思えない。犯罪者の側からすれば、わたしごときのアカウントに侵 入するのは時間と才能の無駄使いでしかないにちがいない。スカイプを(ツキングするくらい優 秀なら、アマゾンなりパソコンメーカーのデルなり、クレジットカードのアカウントにだって侵 入できただろうし、そのほうがかけた時間にもっと見合った利益をあげられたはずだ。たぶんこ の犯人は札つきの悪などではなく、そのへんの利口な若造で、たまたまわたしのアカウントに侵 入し、この「無料」の通信を勝手に利用して、わたしがアカウントの支配権を取りもどすまでの あいだ、だれか話し相手になってくれる人に電話をかけていたのだろう。犯人は技術屋が挑戦す べき課題か何かのつもりでやったのかもしれないし、もしかすると、わたしがかつて悪い成績を つけた学生が仕返しのつもりでやったのかもしれない。  この犯人は、これがわたしの財布からだとしても、ぜったいにだれにも見つからないと確信し てさえいればお金を盗んだだろうか。可能性がなくはないが、わたしにはそうは思えない。おそ らく、スカイプの仕様やわたしのアカウントの設定方法のどこかに、この行為におよぶことを  「助け」つつ、良心の呵責を感じさせない部分があったのではないかと思う。第一に、この人物 は通話時間を盗んだのであって、現金を盗んだのではない。第二に、この人物はこの取引から何 も具体的なものを得ていない。第三に、この人物はスカイプから盗んだのであって、わたしから じかに盗んだわけではない。第四に、この人物は一日の終わりに通話料を出すことになるのがわ たしではなくスカイプだと思ったのかもしれない。第五に、通話料はペイパルを介して自動的に 請求される仕組みだった。つまり、ここでもう一歩離れる処理がはいり、最終的にだれが通話料 金を払うのかという点がもう一段あいまいになっているわけだ(念のため言っておくと、これ以 後、スカイプからペイパルヘの直接接続の設定はやめている)。  この人物はわたしから盗んだのだろうか。確かにそうだ。しかし、犯行をあいまいにする要素 がたくさんあるため、この人物が自分を不正直な人間と考えているとはどうも思えない。現金が 奪われたわけでもないし、だれかがひどく傷ついたわけでもない。ちがうだろうか? だが、こ ういう考え方は厄介だ。もしこのスカイプ事件の原因が、お金ではないものによる取引というス カイプの特性にあるのなら、さまざまなインターネットのサービスや、ことによるとクレジット カードやデビットカードにまでおよぶ、もっとずっと大きな危険をはらんでいることになる。こ うした電子商取引は、手から手へと物理的に現金をやりとりするわけではない。そのため、自分 の行為の不道徳さを自覚したり、疑問を感じたりすることなく、不正直になってしまいやすいの かもしれない。 ごまかしにおける不吉な考え  もうひとつ、研究を通じて感じた不吉なことがある。わたしたちの実験に協力してくれたのは、 聡明で、思いやりがあり、尊敬すべき人たちで、引換券のような代用貨幣を用いた実験であって も、たいていはごまかしに一定の限度があった。ほとんどすべての人に、良心がもうやめろと制 止する限界点があり、みんなそれに従っていた。そのため、わたしたちの実験で見られた不正行 為は、おそらく人間の不正行為のなかでは下端に位置するものだろう。倫理的でありたいと望み、 みずからを倫理的だと思いたい人たち1いわば善人たちIがおこなう程度の不正行為だ。  不吉な考えというのは、すぐに換金できる今回の引換券のようなものとはちがう種類の現金の 代用品を使って実験したり、正直であることをそれほど気にしない実験協力者で実験したり、そ れほど人目に触れないふるまいについて実験したりしていたら、もっと不正の度合いが大きかっ た可能性が高いということだ。言いかえれば、本章で見てきたごまかしの度合いは、さまざまな 状況や人々のなかで見られるごまかしの度合いを過小評価したものだと考えられる。  たとえば、あなたの所有する会社なり支店なりが、映画〈ウォール街〉で。欲望はよいこと だ・と言ったゴードンーゲッコーに仕切られているとしよう。ゴードンがお金によらない方法で 不正行為を奨励したらどうなるだろう。そんなゴリ押し男がいかに社員の物の見方を変えるか想 像できるだろうか。みんな本質的には正直でありたいと望み、自分を正直な人間だと思いたがっ ているが、一方で、仕事を失いたくないし、成功したいとも思っている。代用貨幣がわたしたち に道を誤らせかねないのは、まさにそんな状況のときだ。代用貨幣なら、わたしたちは良心を迂 回して、不正行為の恩恵をどこまでも追求してしまう。  人間の本質をこのように考えると不安になる。良心的な善人とだけつきあいたいと望むのもい いが、現実を見すえる必要がある。たとえ善人であっても、心の働きによって部分的に目が§る ことは避けられない。目が曇ったために、自分の道徳基準を迂回して、金銭の報酬を受けとる道 を選ぶこともある。要するに、わたしたちが道徳的な善人であろうがなかろうが、衝動がわたし たちに小細工をしかける場合があるのだ。  作家でジャーナリストのアプトンーシンクレアがかつて指摘したとおり、。何かを知らずにい ることで給料をもらっている人に、その何かを理解させるのはむずかしい・。ここにこうつけ加 えるといいだろう。「その人が代用貨幣を扱っている場合、その何かを理解させるのはさらにむ ずかしい」 ビジネス界の不正  ところで、不正の問題は個人だけにあてはまるわけではない。近年、ビジネス界全体の正直さ の水準が下がっているのが目につく。それも、エンロンやワールドコムがしでかしたような大規 模な不正の話ではない。冷蔵庫から缶コーラをくすねていくような、小さな不正行為のことだ。 言ってみれば、わたしたちの皿からお金を盗みはしないが、現金から一歩離れたものをくすねて いく企業が存在するということだ。  実例はいくらでもある。最近、友人のひとりが飛行機のマイレージをこつこつためて、休暇の ために使おうとマイレージを発行している航空会社に行った。ところが利用したい日の便はすべ て利用できなかった。つまり、マイレージを二万五〇〇〇マイルためたにもかかわらず、それを 使えないというのだ(それもいくつもの日程で試した結果だ)。しかし、航空会社の職員は、も し五万マイル分のマイレージを使う気があるなら空席が見つかるかもしれないと言った。調べて みると、はたしてあちこちの便に空席が残っていた。  きっとマイレージのパンフレットには、これでなんの問題もないと小さな文字で説明が書かれ ていたのだろう。だが友人にしてみれば、ためた二万五〇〇〇マイルは多額のお金に相当する。 ひとまず四五〇ドルだったとしよう。これが現金なら、航空会社は友人の手からひったくっただ ろうか? 友人の銀行口座にはいっているお金なら、こっそり引き落としただろうか? それは ありえない。しかし、現金から一歩離れているからこそ、もう二万五〇〇〇マイル必要だという 形にして、友人から四五〇ドル相当のマイレージを盗もうとしたのだ。  べつの例として、銀行がクレジットカードの利息をどう利用しているか見てみるといい。平均 残高をニサイクルで計算する請求法について考えてみよう。この手口には複数の形があるが、基 本的には、請求額を全額払わないと、カード発行会社はただちにそれ以後の買い物に高額の利息 を請求するだけでなく、過去にさかのぽって、以前の買い物にも利息を要求する。先ごろアメリ カの上院銀行委員会でこの問題を調査したところ、銀行がたしかに不正をおこなっているように 見える証言がいくつも得られた。たとえば、オ(イオ州のある男性の場合、カードで三二〇〇ド ル使ったら、違約金と手数料、利息のために負債があっというまに一万七〇〇ドルになっていた。  これは電話セールスをして高い利子や手数料を要求するあやしい証券会社などではなく、かな り大手で、おそらくは評判も高いアメリカの銀行の話だ。広告を見れば、「家族」であるかのよ うに感じてしまうような銀行だ。家族の一員があなたの財布から盗むだろうか? それはない。 しかし、現金から少し離れた取引では、どうやら盗んでいるようだ。  このレンズを通して不正をながめだすと、毎朝、新聞を開くたびに新しい実例を見つけずには いられなくなるにちがいない。 お金という奇妙なもの  というわけで、最初の主張にもどる。お金とはなんと奇妙なものではないか。現金がからむと、 わたしたちは倫理規定に署名でもしたかのように、自分の行動について考えようという心持ちに なる。それどころか、一ドル札などは、意図的に契約書を思い浮かべるようなデザインにしたの ではないかと思うほどだ。目立つ書体で印刷された「アメリカ合衆国」の文字は影がついていて、 まるで飛びだしているように見える。ジョージーワシントンの肖像も描かれている(そして、ワ シントンがうそをつけない人だったことはだれもが知っている)。裏はさらに厳粛だ。「われわ れは神を信じる」と印刷されている。そのうえ、妙なピラミッドの絵があり、てっぺんにはまじ ろぐことのない目が描かれている。しかも、その目がこちらをじっと見つめているのだ。お金の 神聖さは、こうした象徴的な表現に加えて、お金がはっきりした交換の単位であることにも支え られている。一〇セント硬貨がI〇セントではないとか、一ドル札がIドルではないと言うのは むずかしい。  これに対して、現金を使わない取引はなんと自由なのだろう。かならず都合のいい正当化が見 つかる。職場の赤鉛筆を持ち帰ることも、冷蔵庫の缶コーラをもらっていくことも、ストックオ プションの日づけを改ざんすることだってでき、どれももっともな言いわけがたつ。現金を使わ ない取引では、自分を不正直な人間だと思うことなく、不正直になれる。良心がぐっすり眠って いるとおぼしきうちに、盗みを働くことができるのだ。  どうすればこれを正せるだろう。たとえば、備品置き場の物品すべてに値札をつけたり、株式 やストックオプションの金銭的な価値がはっきりわかるような言い方をしたりするのもひとつの 手だ。しかしもっと視野を広げて、わたしたち自身が代用貨幣と不正をしてしまう傾向との関連 に気づくべきだ。現金から一歩離れたとたん、自分では想像できないほどの不正をしてしまうの だと自覚する必要がある。個人として、国家として、これを認識しなければならない。それも早 急に。  なぜか。ひとつには、現金を使う時代が終わりを迎えようとしているからだ。現金は銀行が利 益を生む足手まといになり、だから銀行としては現金をやめてしまいたい。これに対して、電子 証券は大きな利益を生んでくれる。アメリカのクレジットカードによる利益は、一九九六年の九 〇億ドルから二〇〇四年には過去最高の二七〇億ドルにまで増加した。銀行アナリストの試算で は、二〇一〇年には新たな電子商取引が五〇〇億ドルに達し、取引数にして、二〇〇四年にVI SAとマスターカードで処理された数のほぽ二倍になる。となると、問題は、現金が目にはいら なければ善心に立ちかえれないわたしたちが、どうやって不正に傾きがちな心をコントロールす るか、そして、現金がなくなりつつあるいま、わたしたちに何ができるかだ。  大恐慌時代の悪名高い銀行強盗ウィリー・サットンは、銀行強盗をするのはそこに現金がある からだと語ったという。この理屈でいくと、サットンは現代のクレジットカード会社で小さい活 字の説明文を書いているか、航空会社でマイレージの使えない日に×印をつけているかもしれな い。そこに現金はないかもしれないが、お金が見つかる場所であることはまちがいないのだから。   13章   ビールと無料のランチ   行動経済学とは何か、そして、無料のランチはどこにあるのか ビールの注文時の疑問  カロライナーブルワリーは、ノースカロライナ大学チャペルヒル校の近くにあるしゃれたバー だ。煉瓦づくりの建物や老木が美しいメインストリート、フランクリン通りにある。小さな街に もかかわらず、このあたりには数多くのレストランや酒場、コーヒーショップがある。  カロライナーブルワリーのドアをあけると、高い天井にむき出しの梁が見え、古い建物である ことがうかがえる。ステンレス製の大きなビールの容器もいくつか並んでいて、これなら楽しい 時間がすごせそうだ。グループ客用のテーブルもあちこちに配置されている。学生にももっと年 配の人たちにも人気の、おいしいビールと食事を楽しめる店だ。  MITに勤めはじめてすぐのころ、わたしはジョナサンーレバブ(コロンビア大学の准教授) と、こうした感じのいい酒場で思いつきそうな疑問をいろいろ話していた。第一に、順番に注文 をとる(それぞれの大に順に注文を言ってもらう)ことによって、テーブルを囲んでいる大たち の最終的な注文に影響は出るのか。つまり、注文する品物はまわりにいる大たちの選択に左右さ れるのだろうか。第二に、もしそうなら、その影響は同調をうながすのか、非同調をうながすの か。つまり、ほかの大が自分より先に注文したビールと同じものを選ぶのだろうか、それともあ えてちがうものを選ぶのだろうか。第三に、ほかの人の注文に影響されるのは自分のためになる のか、ならないのか。つまり、最終的に注文したビールをどれだけ楽しめるのだろうか。  わたしはこの本を通じて、意表をつく参考になりそうな実験を紹介してきたつもりだ。そう思 ってもらえたのだとしたら、理由の大部分は、こうした実験によって、人間が本来合理的なもの だという一般的な前提がくつがえされたことにあるだろう。わたしは繰り返し、シェークスピア が。大間とはなんとすばらしい傑作か!・と表現した人間像とは反対の例を示してきた。それど ころか、こうした実例は、(同じく(ムレットのことばを借りれば)わたしたちが崇高な理性を 持たず、能力に限りがあり、理解力に問題があることを示している(じつを言うと、シェークス ピアもそれはよくわかっていたのだと思う。(ムレットのこのせりふも皮肉がこもっていないと は思えない)。  この最後の章では、もうひとつ、予想どおりの不合理さを示す実験を紹介する。その後、ふつ うの経済学が人間の行動をどうとらえているか、それに対して行動経済学ではどうかを検討し、 最後になんらかの結論を導きだしたい。それでは、実験の紹介からはじめよう。 ビールの注文実験  カロライナーブルワリーで思いついた疑問を深く探るため、ジョナサンとわたしはビールの大 禄に飛びこむことにした(もちろん比喩的にだ)。わたしたちは、カロライナーブルワリーの支 配人に頼みこんで、客に無料でビールのサンプルを配らせてもらえることになった。ビールの代 金はこちらが持つという条件だ(あとになって、MITの会計係にビール代一四〇〇ドルがまっ とうな研究のための出費だと納得させるのに、どれほど苦労したことか)。バーの支配人は喜ん で協力してくれた。なにしろ、ビールはわたしたちに売れるし、客には無料のビールが配られ、 おかげでまた来ようと思ってもらえるかもしれないのだ。  支配人はわたしたちに店のエプロンをわたしながら、ひとつだけ条件をつけた。客のところへ 行って無料サンプルの注文をきいていいのは、客が席についてから一分以内にかぎるという条件 だ。時間がすぎてしまった場合は、本物のウェイターに知らせなければならない。すると本物の ウェイターがテーブルへ行って、通常の注文をとる。妥当な条件だ。支配人はわたしたちがウェ イターとしてどれほど有能か知らなかったし、わたしたちのせいで客へのサービスを遅らせるつ もりはなかった。ともかく、こうしてわたしたちは働きはじめた。  グループ客が席に着き、わたしは急いでテーブルへ行った。学部生の二組のカップルがダブル デートをしているようだ。どちらの男性もどうやら一番いいスラックスをはいているようだし、 女性たちはエリザベスーテイラーがスッピンに思えるほどの化粧をしていた。わたしはいらっし ゃいませと挨拶してから、店がビールの無料サンプルを提供していると伝え、四種類のビールを 説明した。   山 コパーラインーアンバー・エール     バランスのとれたホップとモルトが特徴で、伝統的なエールのブルーティーさがある、     ミディアム・ボディのレッドーエール。   闔 フランクリンーストリートーラガー     ソフトなモルトの風味とさわやかなホップの後味をもつ、ボヘミアーピルスナー・スタ     イルのゴールデンーラガー。   向 インディア・ペールーエール     イギリスからアフリカの喜望峰をまわってインドまでの長い船旅を耐えぬくように醸造     された、ホップをよく効かせた力強いエール。香り高いフローラルな後味のために、カ     スケートホップをドライホッピングしている。   求@サマー・ウィート・エール     小麦五〇パーセントで醸造されたバイェルンースタイルのエール。ホップはやわらかめ     で、本物のドイツのイースト株によるバナナとクローヴを彷彿させる独特の香りがする、     ライトで爽快な夏向きのビール。  あなたならどれを選ぶだろう?   ロコパーラインーアンバー・エール   ロフランクリンーストリートーラガー   ロインディアーペールーエール   ロサマー・ウィートーエール  ビールの説明を終えると、わたしは男性のひとりにうなずきかけて、どれにするか尋ねた。こ のブロンドの髪の男性は、インディアーペールーエールを選んだ。つぎに、凝ったヘアスタイル の女性に尋ねると、フランクリンーストリートーラガーとのことだった。わたしは、もうひとり の女性のほうに顔を向けた。こちらはコパーラインーアンバー・エールだ。最後に、その女性の ボーイフレンドがサマー・ウィートーエールを選択した。わたしは注文を手に、ガウンクーペ急 いだ。カウンターには、長身で(ンサムなバーテンダーのボブ(コンピューター科学専攻の四年 生だ)がにこやかに立っている。ボプはわたしたちが急いでいることを知っているので、ほかの 注文より優先して用意してくれた。わたしは、その六〇ミリリットルほどの無料サンプル四つを トレーに載せてダブルデートの若者たちのテーブルにもどり、ビールを配った。  無料のビールといっしょに、バーの便せんに印刷した簡単なアンケートをひとりひとりに手わ たして、注文したビールをどのくらい気に入ったか、そのビールにしたことを後悔しているかど うかを尋ねた。アンケートを回収したあとは、離れたところから四人をながめて、ほかの人のビ ールを味見するかどうか確認したが、だれも仲間とサンプルを交換することはなかった。  わたしとジョナサンは、これをあと四九のテーブルで繰り返した。その後、さらに五〇のテー ブルに無料ビールをふるまったが、前半とはやり方を少し変えた。ビールの説明をしたあと、ど のビールにするか口頭で言ってもらうかわりに、四種類のビール名を載せたメニューをひとりひ とりに配り、どのビールがいいか記入してもらったのだ。こうすることで、注文を公の行為から 自分だけの行為に変えたわけだ。ほかの大が何を注文したかわからないためIそのなかにぜひ とも自分を印象づけておきたい相手がいたとしてもI人に影響されることはない。  はたして結果はどうだったのか? 口頭で順番に注文するときと、大知れず注文するときとで は選ぶものがちがうことがあきらかになった。ひとりずつ順に(人前で)注文する形のほうが、 ひとつのテーブルで注文されるビールの種類が多かったのだ。つまり、多様性が好まれたといえ る。この理由を理解するには、サマー・ウィートーエールについて考察するのがいちばんだろう。 このビールは大半の大にとってあまり魅力的ではないようだった。ところが、ほかのビールが先 に「取られて」しまうと、実験協力者はそれ以外のビールを注文しなければならないと考えてI −おそらく、他人をまねしているのではなく、自分自身の意見を持っていると示すためにIだ れも注文していないビールを選んだ。はじめに注文しようと決めていたものではないかもしれな いが、個性を顕示できるビールだ。  では、選んだビールの満足度はどうだっただろう? 人々がもし、独自性を顕示するためだけ にだれも注文していないビールを選ぶのだとしたら、ほんとうは望んでもいないし好きでもない ビールを飲むはめになるのも納得がいく。実験でも、実際にそのとおりのことが起こっていた。 概して、レストランでふつうに食事を注文するときのように口頭でビールを注文した大たちは、 それぞれが大知れず注文したために他人の意見に左右されなかった大たちより満足度が低かった。 ただし、ひとつ重要な例外がある。口頭で注文したグループのなかでも最初に注文した大は、ほ かの人の選択に左右される余地がなかったため、大知れず注文したグループの大たちと事実上は 同じ条件だったと考えられる。そのため、口頭で順番にビールを注文したグループでは最初に注 文した大がもっとも満足度が高く、大知れず注文したグループの大たちと同じくらい満足してい た。  余談だが、カロライナーブルワリーで実験していたとき、おもしろいできごとがあった。ウェ イターの格好でテーブルのひとつに近づき、席に着いたカップルにメニューを説明しようとした ときのことだ。ふいに、目の前の男性がリッチだと気づいた。コンピューター科学専攻の院生で、 三、四年前に視覚の計算理論に関するプロジェクトでいっしよに研究した仲間だ。とはいっても、 実験は常に同じように進めなければならないので、リッチと話しこむわけにはいかない。そこで わたしは、ポーカーフェースのまま淡々とビールの説明をはじめた。そして口上を終えると、リ ッチのほうにうなずいて、「どれにしますか?」と尋ねた。リッチは、注文するかわりに、元気 にしているかときいてきた。  「おかげさまで」わたしは答えた。「で、どのビールをお持ちしましょうか」  リッチと連れの女性はビー・ルを選んだ。そのあと、リッチはもう一度会話を試みた。「ダン、 博士課程は修了したのか?」  「うん、一年くらい前にね。では失礼。すぐにビールを運んできます」  注文を通すためにガウンクーペ向かいながら、リッチがどう思ったのかやっと気づいた。リッ チは、これがわたしの職業で、社会科学の博士号ではビール運びの職に就くのが精いっぱいなの かと思ったにちがいない。無料のビールを持ってテーブルにもどると、リッチと連れの女性− 奥さんだったIは、ビールを味わい、簡単なアンケートに答えてくれた。そのあと、リッチは もう一度話しかけてきた。このあいだわたしの論文を読んだが、とてもよかったという。たしか に、その論文はなかなかのできだったし、わたしも気に入ってはいたが、リッチはただ、ビール 運びをしているわたしを元気づけたかったのだろうと思う。 独自性欲求  このあと、デューク大学でMBA学生を対象にワインのサンプルで研究をおこない、実験協力 者のいくつかの性格特性も評価した(カロライナーブルワリーの支配人には性格特性の評価はさ せてもらえなかった)。おかげで、この興味深い現象に寄与しているかもしれない因子を見つけ る道が開かれた。同じテーブルのほかの人たちとちがうアルコール飲料を注文する傾向と、「独 自性欲求」と呼ばれる性格特性とのあいだに相関があることがわかったのだ。要するに、独自性 を表現することに関心のある人ほど、テーブルでまだだれも頼んでいないアルコール飲料を選ん で、自分がほんとうに個性的だと示そうとする傾向が強いということだ。  この結果は、人がときとして、他人になんらかの印象を与えるために、消費行助から得られる 快楽を犠牲にすることを示している。人が食べ物や飲み物を注文する場合、目標はふたつあるよ うだ。自分がもっとも楽しめるものを注文することと、仲間に好感を持たれるように自分を表現 することである。問題は、料理なりなんなりを注文したあと、好きでもない料理に閉口させられ る場合があることだ。ちょくちょく後悔するはめになる。つまり、人々、とくに独自性への欲求 が強い人たちは、評判という効用を得るために、個人の効用を犠牲にすることがある。  今回の実験でははっきりした結果が出たが、ひとつ疑問が残った。独自性欲求を望ましい特性 と考えない文化では、人前で口頭で注文する場合、グループへの帰属意識を示すために、ほかの 人に同調したものを選ぶのではないかという疑問だ。香港で実験をおこなったところ、実際その とおりであることがわかった。香港でも、人知れず注文したときより、人前で注文したときのほ うが、好みでない料理を選びやすいという点は同じだった。しかし、香港の人たちの場合、先に 他人が注文したものと同じ料理を選ぶ傾向が強かった。料理を注文するときの失敗としては、種 類こそちがうものの、後悔が残る失敗であることにかわりはない。 伝統的な経済学と合理的な決断  この実験についてこれまで話したことから、人生のちょっとしたアドバイスーみんなにふる まわれ、だれにとっても利益になる「無料のランチ」−がこの研究から導きだせることがおわ かりだろう。まず、レストランでは、ウェイターがやってくる前に注文を決め、それを変えない ことだ。まわりの人が選んだものに影響されると、いまひとつのもの選んでしまいかねない。ど うしても他人に左右されてしまうと心配なら、ウェイターが来る前に自分の注文をテーブルのみ んなに宣言するといい。そうすれば、それを注文するのは自分の権利だと主張したことになり、 たとえあなたがウェイターに頼む前にだれかが同じ料理を選んだとしても、テーブルのほかの人 はあなたに独自性がないとは思わないだろう。だが、もちろん最善の策は、一番に注文すること だ。  もしかすると、レストランのオーナーは、ひとりひとりの客に注文を書いてもらう(あるいは、 ウェイターにそっと注文を告げてもらう)ようにしたほうがいいかもしれない。そうすれば、ど の客もまわりの人の注文に影響されずにすむはずだ。外で食事をするという楽しみのために、わ たしたちは大金を払っている。だれが何を頼んだかわからないように注文できれば、外食による 楽しみを増すいちばん簡単で安上がりな方法になるにちがいない。  だが、この実験からIというより、これまでの章で述べてきたすべてのことから卜導きだ したいもっと大きな教訓がある。ふつうの経済学は、わたしたちが合理的であると考える。つま り、決断に役立つ情報をすべて知っていて、目の前のさまざまな選択肢の価値を計算することが でき、それぞれの選択による結果を何にも邪魔されずに評価できると想定している。  そのため、わたしたちは論理的で分別のある決断をするものと見なされる。そして、たとえと きにまちがった決断をするにしても、ふつうの経済学の見方によれば、自分の力で、あるいは  「市場原理の力」に助けられて、その失敗からすぐに学べることになっている。経済学者は、こ のような前提にもとづいて、買い物動向から法律や社会政策にいたるあらゆるものについて影響 力の大きい結論を導きだしている。  しかし、本書(や類書)の実験結果が示すように、わたしたちがくだす決断は、従来の経済理 論が仮定するほど合理的ではないどころか、はるかに不合理だ。といっても、わたしたちの不合 理な行動はでたらめでも無分別でもない。規則性があって予想することもできる。脳の基本的な 配線のせいで、だれもが同じような失敗を何度も繰り返してしまう。だとすれば、ふつうの経済 学を修正し、未検証の心理学という状態(理由づけや、内省や、何より重要な実験による精査と いう検証をしていないことが多い)から抜けだすのが賢明ではないだろうか。  経済学は、人がどのように行動すべきかではなく、実際にどのように行動するかにもとづいて いるほうがはるかに理にかなっているのではないだろうか。「はじめに」で述べたように、この 素朴な考えが行動経済学の基礎になっている。人がいつも合理的に行動するわけではなく、誤っ た決断をすることも多いという(かなり直観的な)考えに着目した、新しい学問分野だ。  ふつうの経済学とシェークスピアは、多くの点で人間性をより楽観的にとらえている。どちら もわたしたちに無限の理性がそなわっていると仮定しているからだ。同じ理屈で、人間に不足が あると認める行動経済学の見方は、多くの点でわたしたちがどれほど理想におよばないかを証明 してみせるため、より悲観的だ。たしかに、わたしたちみんなが、個人の生活でも仕事でもつき あいでも不合理な決断をしつづけていると気づかされるのは、かなり気がめいる。しかし、それ でも希望の光はある。決断を誤るということは、それを改善する余地があることを意味し、だか らこそ、これから説明する「無料のランチ」のチャンスもあるのだ。 無料のランチと行動経済学  ふつうの経済学と行動経済学の大きなちがいのひとつは、この「無料のランチ」の概念と関係 がある。ふつうの経済学の仮定によると、人間の決断はすべて情報にもとづいた合理的なもので あり、あらゆる品物やサービスの価値と、あらゆる決断によってもたらされるだろう幸せ(効 用)の大きさについての正確な観念によってくだされる。こうした仮定のもとでは、市場のだれ もが収益を最大にしようとし、経験を最高のものにしようと努める。したがって無料のランチな どありえないと経済理論は断言する。もしそんなものがあれば、だれかがすでに目をつけて、そ の価値をぜんぶ吸いつくしているはずだからだ。  一方、行動経済学者は、人々が身近な環境から余計な影響を受けやすく(文脈効果という)、 関係のない感情や浅はかな考えなどさまざまな形の不合理性(もっと例が知りたければ、本書の ほかの章や行動経済学の論文を参照)にも影響されやすいと考える。こう認識することで、どん ないいことがあるのか。こうした失敗が改善の機会も与えてくれるということだ。わたしたちみ んなが決断するときに規則正しい失敗をするのなら、新しい戦略なり道具なり方法なりを開発し て、わたしたちがよりよい決断をし、全体的な幸福感を増やせるようにしたらどうだろう。行動 経済学の観点から見た無料のランチの意味は、まさしくここにある。わたしたちすべてがよりよ い決断をするのに役立つ道具や方法や政策があり、その結果として、わたしたちの望みが達成で きるという考え方だ。  たとえば、ふつうの経済学の視点では、アメリカ人が退職後に備えて十分な蓄えをしていない のはなぜかという問いは無意味だ。だれもが、人生のどんなことについても、情報にもとづいた 正しい決断をするのだから、蓄えようと思っている金額をしっかり蓄えているはずだ。そこまで 貯金できていないのは、将来のことを気にしていないから、あるいは退職後に困窮生活を体験す るのを楽しみにしているから、子どもたちが面倒を見てくれることを期待しているから、さもな ければ、宝くじが当たるという期待を持っているからだI考えられる理由づけはたくさんある。 肝心なのは、ふつうの経済学の視点で考えるなら、みんなが自分の思うとおりの金額を蓄えてい なければおかしいということだ。  しかし、人が合理的であるとは仮定しない行動経済学の視点に立つと、わたしたちが十分な蓄 えをしていないのも、まったく当然のことになる。それだけでなく、行動経済学の研究では、人 人が退職後に備えて十分な蓄えをしない理由として、いくつもの可能性が指摘されている。人は 先延ばしをするから。貯金することの利益を理解するのも簡単ではないが(これから二〇年間、 毎月あと1000ドルを退職後のための口座に貯めることにしたら、将来の生活がどれはどよく なるだろう)、貯金しないことのほんとうの損失を理解するのもむずかしいから。持ち家がある だけでいかにも金持ちになった気がするから。消費習慣をつけるのは簡単なのに、やめるのはむ ずかしいから。ほかにも理由は山ほどある。  行動経済学の視点に立った無料のランチの可能性は、人々が心から望んでいるものごとをもっ と達成するための助けになるような方法や仕組みなどの介入にある。たとえば、自制心について の6章で紹介した新しい画期的なクレジットカードは、支出に関してもっと自制心を働かせるの に役立つかもしれない。介入の例には、ほかにも「明日はもっと貯金しよう」がある。リチャー ドーセイラーとシュロモーペナルツィが数年前に提唱し、検証してみせた年金プランだ。  「明日はもっと貯金しよう」について少し説明しよう。このプランでは、新しく入社した社員に、 給料の何パーセントを会社の年金制度に拠出するかという通常の質問に加えて、将来、昇給した ら何パーセントを年金制度に拠出したいかを尋ねる。遠い未来の蓄えのためにきょうの買い物を 犠牲にするのはむずかしいものだが、先々の買い物を犠牲にするのは心理的にそれほどむずかし くないし、まだ手にもしていない昇給のパーセントで考えればあきらめるのはもっと簡単だ。  セイラーとベナルツィの年金プランが試験的に導入されると、従業員たちはプランに加入し、 未来の昇給ごとに拠出を(パーセントの数字にして)増やすことに同意した。はたして結果はど うだったのか。それから数年のあいだ、従業員の昇給につれて、貯蓄率は三・五パーセントから 一三・五パーセントに増加した。これは従業員にとっても、その家族にとっても利益であり、企 業にとっても、より満足して不安の少ない従業員を雇っていることになるため利益になる。  これが無料のランチの基本的な考え方だ。すべての当事者に利益をもたらす。注意してもらい たいのは、無料のランチといっても、費用のかからないものにかぎられるわけではないことだ  (自制クレジットカードや「明日はもっと貯金しよう」プランの導入には、当然ながら費用がか かる)。こうした仕組みが費用より多くの利益をもたらすかぎり、無料のランチーすべての当 事者に純便益をもたらす仕組みIと考えるべきだ。 わたしたちを動かす力  この本で紹介した研究からひとつ重要な教訓を引きだすとしたら、わたしたちはみんな、自分 がなんの力で動かされているかほとんどわかっていないゲームの駒である、ということだろう。 わたしたちはたいてい、自分が舵を握っていて、白分がくだす決断も自分が進む人生の進路も、 最終的に自分でコントロールしていると考える。しかし、悲しいかな、こう感じるのは現実とい うより願望卜自分をどんな人間だと思いたいかIによるところが大きい。  本書の各章では、わたしたちの行動に影響をおよぽす力(感情、相対性、社会規範など)をひ とつずつ紹介してきた。こうした力は行動に多大な影響をおよぼしているのに、わたしたちは自 然にその影響力をとんでもなく過小評価したり、まったく無視したりしてしまう。わたしたちが 影響されてしまうのは、知識がないからでも、訓練が足りないからでも、意思が弱いからでもな い。熟練者でも初心者と同じように、規則性のある予想できる形で何度も繰り返し影響を受ける。 その結果である失敗が、そのままわたしたちの生き方、ものごとのやり方になる。失敗もわたし たちの一部なのだ。  相対性の説明のとき引きあいにだした目の錯覚が、ここでもいい例になるだろう。わたしたち は、目の錯覚に引っかかるのをどうすることもできないように、心が見せる「決断の錯覚」にこ ろりとだまされてしまう。問題は、視覚や決断の周囲にある状況が、目や耳や、嗅覚、触覚、さ らにはその大元締めである脳によってフィルターにかけられていることだ。わたしたちが情報を 把握して消化するころには、その情報はかならずしも現実をありのままに反映したものではなく なっている。むしろ、その情報はわたしたちが生みだした現実の表象であり、わたしたちはこの 入力を決断の基準としている。要するに、わたしたちには自然から与えられた道具しかないため、 自然にくだす決断はその道具の性能や精度の制限を受けるのだ。  もうひとつの重要な教訓は、たとえ不合理があたりまえのことであっても、だからどうしよう もないというわけではない、ということだ。いつどこでまちがった決断をするおそれがあるかを 理解しておけば、もっと慎重になって、決断を見なおすように努力することもできるし、科学技 術を使ってこの生まれながらの弱点を克服することもできる。これについては、企業や政策立案 者も考え方を改め、どうすれば無料のランチをふるまえるような政策や製品をつくれるか検討し てもいいと思う。  この本を読んでくれてありがとう。これを読んで、人間の行動について何かおもしろい発見を したり、わたしたちを動かしているものがほんとうはなんなのか見抜けるようになったり、より よい決断をする方法が見つかったりしたのだとしたら、これほどうれしいことはない。また、合 理性と不合理性の研究に対するわたしの熱意を、いくらかでもわかちあえたなら幸いだ。わたし の考えでは、人間の行動を研究することは、自分白身や日々の生活で出あう謎について理解する のに役立つ、すばらしい贈り物だ。人間の行動というテーマはとても重要で興味深いが、研究す るのは簡単ではなく、この先もたくさんの仕事が残されている。ノーベル物理学賞を受賞したマ レー・ゲルマンはあるときこう語っている。「素粒子が考えることができたら、物理学がどれほ どむずかしくなるか、想像してみるといい」                                 不合理に心をこめて                                   ダンーアリエリー 追伸 もしこの探索の旅に加わりたいとお思いならwww.predictablyirrational.com(英語のみ)にア クセスしてほしい。研究への参加や、あなたのアイデアや意見をお待ちしている。   謝 辞  ありがたいことに、わたしは長年、聡明で創造的で心の広い人たちとの共同研究プロジェクト にいろいろたずさわってきた。本書で紹介した研究は、大部分がこうした共同研究者たちの創意 と洞察の成果だ。みんな優れた研究者であるというだけでなく、親しい友人でもある。この友人 たちが本書の研究を可能にしてくれた。記述の誤りや抜けはすべてわたしの責任だ(謝辞のあと、 このすばらしい研究者たちをざっと紹介している)。いっしょに研究してくれた仲間たちに感謝 するとともに、心理学と経済学の研究者全員にもお礼を申しあげたい。わたしがこれまでに考え たどのアイデアも、これまでに書いたどの論文も、この分野の研究者諸氏の著述やアイデアや創 造性に直接または間接的に影響を受けている。科学はおもに、過去の研究をよりどころに一歩一 歩少しずつ前進することで発展する。そこにわたし自身の小さい数歩をしるして、すばらしい研 究者たちが築いてくれた基盤からわずかでも前進できたことは大きな喜びだ。本書の最後に、参 考文献として、各章に関連する学術論文を掲載した。興味のある読者のみなさんにとって、それ ぞれのテーマについての視野を広げ、背景や全体像をつかむのに役立つ文献ばかりだ(ただし、 言うまでもなく完全なリストではない)。  本書で紹介した研究のほとんどは、わたしがMITにいるあいだにおこなったもので、実験協 力者や研究助手の多くはMITの学生たちだ。実験の結果は、学生たち(そしてわたしたち)の 不合理さを際立たせ、ときにもの笑いのたねにもするが、わたしが学生たちのことを思っていな いとか、賞賛していないなどとはけっして考えないでもらいたい。この学生たちは、やる気も、 向学心も、好奇心も、寛大さもぴか一だ。きみたちと知りあえてほんとうに光栄だったよ。あの ボストンの冬さえがまんしがいのあるものになったのは、きみたちのおかげだ。  どうすれば「学者っぽくない文体」で書けるのか、工夫するのは簡単ではなかったが、執筆中 は多くの人に助けられた。ジムーレバイン、リンゼイーエッジコム、エリザベスーフィッシヤー と、レバインーグリーンバーグーリテラシー・エージェンシーの最高のチームに厚くお礼申しあ げる。また、洞察に満ちた助言をくれたサンディーブレイクスリーにも謝意を表したい。アイデ アをことばに翻訳するのを助けてくれたジムーベットマン、レペッカーウェーバー、アニアージ ヤクペック、カーリー・パーク、ブロンウィン・フライヤー、デブラーネルソン、ジャネルース タンレー、ミ(ルーストラビレビッツ、エレンーホフマン、ミーガンーホガティにも感謝してい る。執筆パートナーであるエリックーカロニウスは、本書に出てくる実社会での例をいくつも提 案してくれた。わたしが語るのを助けてくれただけでなく、物語として語れるような形にしてく れたことにとびきりの感謝をささげたい。常にわたしを支え助けてくれた頼りになる(Iバーコ リンズ社の編集者クレアーワクテルにも深く感謝する。  本轡を執筆したのは、プリンストン高等研究所に滞在しているときだった。あれこれ思案して 書くのにあれほど理想的な環境はほかに考えられない。研究所のキッチンで、ふたりの「シェ フ」、ミシェルーレイモンとヤンーブランシュの監督のもと、切ったり、焼いたり、ソテーした り、料理したりする方法を教わることもあった。視野を広げるのにこれ以上ふさわしい場所は望 めなかっただろう。  最後に、最愛の妻スミに感謝の意を表したい。わたしの研究の話を何度も何度も何度も聞いて くれた。もしわたしが願っているように、この本を二度、三度読んでもいくらか楽しんでもらえ るとしたら、それはすべて、スミの辛抱強さと、わたしに繰り返し耳を貸してくれる優しさが、 聖人の域に達しているからだ。スミ、今夜は遅くとも七時一五分には帰るよ。あ、八時にしてお こう。いや、八時半かな。約束だ。   共同研究者 オンーアミア(○コyヨ已  オンは、わたしがMITに勤めだして一年後に博士課程の学生として入学し、「わたしの」最 初の学生になった。最初の学生だったオンは、わたしが学生に何を期待し、教授と学生との関係 をどうとらえるかを決定づける大きな役割を果たした。オンは、ずばぬけて頭がいいだけでなく、 驚くべき技能をいろいろ身につけている。そのうえ、知らないことでも一日か二日で自分のもの にしてしまう。オンと仕事をし、ともに時間をすごすのはいつもわくわくする。現在オンは、カ リフォルニア大学サンディエゴ校の助教を務めている。 マルコーベルティーニ (Marco Bertini)  はじめて会ったとき、マルコは(Iバードービジネスースクールの博士課程の学生だった。ほ かの学生とちかって、チャールズ川をわたるべからざる障壁とは考えていなかった。マルコはイ タリア人で、それにふさわしい気質とセンスのよさを備えている。言ってみれば、いっしよに飲 みに行きたくなるタイプの男だ。現在マルコは、ロンドンービジネスースクールの助教を務めて いる。 ジブーカルモン(Ziv Carヨ呂)  ジブは、わたしがデューク大学の博士課程にはいった大きな理由のひとつで、在学中いっしょ にすごした年月は、この決断の正しさを証明するものだった。ジブからは意思決定や研究の作法 についていろいろ学んだが、それだけでなく、ジブは大切な親友であり、長年にわたって万金に もかえがたい助言を何度もしてもらっている。現在ジブは、インシアードのシンガポール校の教 授を務めている。 シェーンーフレデリック(Shane Frederick)  ジェーンに会ったのは、わたしがデューク大学の学生で、ジェーンがカーネギーメロン大学の 学生だったときだ。スシを食べながら魚について長い議論を交わしたおかげで、長い議論とスシ ヘの変わらぬ愛着がわたしに刷りこまれた。数年後、ジェーンもわたしもMITに勤めることに なり、スシと長い議論(人生の重要な問題Iバットとボールの合計がIドルー○セントで、バ ツトがボールよりIドル高いとしたら、ポールはいくらか?−を話しあったこともある)の機 会はますます増えた。現在ジェーンは、MITの教授を務めている。 ジェームズーヘイマン(James Hey man)  ジェームズとはカリフォルニア大学バークレー校で一年いっしょだった。ジェームズはよく、 手製のパンを持って議論しにやってきたが、これがいつも興味深い議論に発展したものだ。ジェ ームズは、お金がすべてではないという座右の銘にしたがって、市場取引の非金融的な面に注目 した研究をおこなっている。ジェームズが情熱を注いでいるテーマのひとつは、行動経済学を政 策決定のなかで実現させるさまざまな方法についてで、わたしも長年のあいだにこの取りくみ方 がいかに賢明か認識するようになった。現在ジェームズは、セントートーマス大学の助教を務め ている(バージン諸島ではなく`ζヽ不ソタ州のほう)。 レナードーリー()eonard 」ee)  レナードは、Eコ了−スに関する研究をするためにMITの博士課程にはいった。わたしたち はふたりとも長い時間勉強したので、そのうち夜遅くにいっしょに休憩を取るようになり、これ が共同でいくつかの研究プロジェクトをするきっかけとなった。レナードとの共同作業はほんと うに楽しい。レナードのエネルギーと熱意はつきることがなく、ほかの人ならまるまる一学期か かりそうな数の実験を一週間であたりまえにこなしてしまう。それだけでなく、レナードは、こ れまでに会つたなかでもばつぐんに気のいい男だ。話してもいっしよに仕事をしてもおもしろい。 現在レナードは、コロンビア大学の助教を務めている。 ジョナサンーレバブ「Jonathan 」evav)  ジョナサンほど母親を愛している人間には会ったことがない。ジョナサンの人生最大の悔いは、 医学部に進まずにお母さんをがっかりさせたことだ。聡明で、愉快で、信じがたいほど社会的な 動物なため、ほんの一瞬で新しい友だちをつくってしまう。がたいが大きく、頭も歯も大きいが、 心はもっと大きい。現在ジョナサンは、コロンビア大学の准教授を務めている。 ジョージーローウェンスタイン(George )oewenstein)  ジョージはいちばん古くからの仲のいい長年にわたる共同研究者だ。わたしが模範とする人で もある。わたしのなかでは、ジョージはもっとも創造的で守備範囲の広い行動経済学研究者だ。 まわりの世界を観察して、人間性の理解や公益に重要な行動の機微を見つけだすという驚くべき 能力を持っている。現在ジョージは、カーネギーメロン大学の(Iバート・A・サイモン経済学 ・心理学教授というまさにふさわしい称号を与えられている。 ニーナーメイザー(Nina Mazar)  ニーナははじめ、自分の研究について意見をもらうために数日の予定でMITを訪れ、結局、 五年間とどまることになった。そのあいだいっしょに楽しく仕事をさせてもらい、ずいぶん頼り にするようになった。ニーナは障害物をものともしない。難問に果敢に取りくむその積極性のお かげで、わたしたちはインドの農村部でむずかしい実験をすることができた。何年ものあいだ、 ニーナがMITを去る決断をしないでくれればいいのにと願っていたが、悲しいかな、そのとき はやってきた。現在ニーナは、トロント大学の助教を務めている。平行世界の現実では、ニーナ はイタリアのミラノでファッションデザイナーをしている。 エリー・オフェク(Elie Ofe巴  エリーは電気工学士として教育を受け、その後、ことの真理を知って(本人の談)、マーケテ ィングにくらがえした。当然、研究と教授のおもな分野は、技術革新と(イテク産業だ。エリー はどんなテーマにも興味深い意見や見方を持っているため、いっしよにコーヒーを飲むには最高 の男だ。現在エリーは、(Iバードービジネスースクール(仲間うちでは。(IIIバードービ ジネスースクール・)の准教授を務めている。 イェシムーオルン(Yesim Orhun)  イェシムはあらゆる意味で楽しい女性だ。愉快で、聡明で、風刺がうまい。ふたりともカリフ ォルニア大学バークレー校にいた一年間しかいっしよにすごせなかったのが残念だ。イェシムは、 行動経済学で得られた成果を出発点として、企業や政策立案者に処方箋を示す研究をしている。 どうしたわけか、研究課題に「同時性」と「内生性」ということばが含まれているとがぜんやる 気になるらしい。現在イェシムは、シカゴ大学の助教を務めている。 ドレーゼンープレレク(Drazen Prelec)  ドレーゼンはこれまで知りあった人のなかでもI、二を争う聡明な大で、わたしがMITで働 くことにした大きな理由のひとつでもある。ドレーゼンは学問界の王族だと思う。なんでも心得 ていて、自信に満ちあふれ、触れるものすべてを黄金に変えてしまう。ドレーゼンの流儀と奥行 きをいくらかでも自然に吸収できないものかと願っていたが、研究室が隣にあるだけでは十分で はなかったようだ。現在ドレーゼンは、MITの教授を務めている。 クリスティーナーシヤンパニア(Kristina Shampanier)  クリスティーナは経済学者としての教育を受けるためにMITに入学したが、うれしいことに、 どういうわけかわたしと研究することを選んでくれた。すばらしく聡明な女性で、多くを学ばせ てもらった。その賢明さにふさわしく、クリスティーナはMITを卒業するとき、学問以外の仕 事を選択した。現在は、ボストンでコンサルタントとして精力的に活動している。 シンージウン(Jiwoong Shin)  ジウンは陰と陽のある研究者だ。一方では、人々が完全に理性的だと仮定して伝統的な経済学 の研究をし、一方では、行動経済学の研究をして人々が不合理であることをあきらかにしている。 思慮深い哲学者タイプで、この二重性にもまったく動じない。ジウンと共同研究をするようにな ったのは、ふたりでおもしろいことがしたかったからだ。そのとおり、これまでに長い時間いっ しょに働く楽しさを味わっている。現在ジウンは、イェール大学の助教を務めている。 ババーシブ(Baba Shiv)  ババにはじめて会ったのは、ふたりともデューク大学の博士課程の学生だったときだ。ババは、 意思決定のさまざまな分野、とくに感情が意思決定にどう影響するかについて長年にわたって興 味深い研究をしている。あらゆる意味でずばぬけた人で、ババにかかるとまわりにあるすべての ものが魔法のようにすてきに見えてくる。現在ババは、スタンフォード大学の教授を務めている。 レベッカーウェーバー(Rebecca Waber)  レベッカは、わたしが知りあった人のなかでもいちばんと言っていいくらい、いつも元気で楽 しそうにしている。結婚式で誓いのことぱを読みながら大笑いする女性を見たのはレベッカがは じめてだ。意思決定を医学的な決断に応用する研究にとくに関心を持っていて、光栄にもその共 同研究者としてわたしを選んでくれた。レベッカは、二〇〇八年六月にMITメディアラボの修 士課程を修了し、現在はコンサルティングの仕事に就いている。 クラウスーベルテンブロック(Klaus Wertenbroch)  クラウスにはじめて会ったとき、わたしはデューク大学の博士課程の学生で、クラウスはその 教授だった。クラウスが意思決定の研究に関心を抱いているのは、おもに自分が合理性から逸脱 してしまうI喫煙の習慣や、テレビでサッカーを観戦する快楽のために仕事を先延ばしする癖 1わけを理解するためだ。先延ばしについて共同研究をするにはまさにうってつけの相手だっ た。現在クラウスは、インシアードの教授を務めている。   訳者あとがき  本轡「予想どおりに不合理−行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」」 (原題 Predictably Irrational: The Hidden Forces That Shape Our Decisiotis)には、思わずわが身を ふりかえらずにいられなくなるような話がたくさん出てくる。いつも深く考えずにとってきた行 動が、言われてみればまったく理屈に合わないものだったと気づかされたり、自分のくだすさま ざまな決断が、じつは思いもよらない力に左右されているのかもしれないと考えさせられたりす る。  というのも、著書のダンーアリェリーによれば、わたしたち人間は、従来の経済学の見方から すると、ちっとも合理的でない行動ばかりとっているらしい。本書でも、人間の行動や決断がい かに不合理かを示す興味深い実験がいくつも紹介されている。けれども、著者がこの本全体を通 じて主張しているのは、その不合理さには規則性があって予想することができ、だから解決策も ある、ということだ。自分がいかに予想どおりに不合理かを知れば、それを克服するための対策 も見つけられるというわけだ。日々の生活に生かせそうな対策もいろいろ提案してくれている。  ダンーアリェリーはアメリカのニューヨークで生まれ、イスラエルで育った。イスラエル軍に いた一八歳のとき、訓練中に全身の七割に重いやけどを負って、その後の三年間を病院ですごす ことになった。本書の「はじめに」には、そのあいだに、人間の行動について深く考えるように なったといういきさつが書かれている。  退院後すぐに、イスラエルのテルアビブ大学で心理学を学び、ノースカロライナ大学チャベル ヒル校で認知心理学の修士号と博士号を修得したあと、デューク大学で経営学の博士号を修めた。 その後、MITスローン経営大学院やメディアラボ、カリフォルニア大学バークレー校、プリン ストン高等研究所、スタンフォード大学などの教員や研究員を務めた。現在は、デューク大学の ジェームズ・B・デューク行動経済学教授、MITメディアラボの客員教授を務め、一流の行動 経済学者のひとりに数えられている。  また、二〇〇八年には、本書の10章でも紹介されている「同じ偽薬(プラセボ)でも値段が高 いほうが効き目がある」という研究で、ノーベル賞のパロディであるイグーノーベル医学賞を受 賞した。授賞式に出席したアリエリーは、イグ・ノーベル賞をもらいたいがためにこの本を書い たと挨拶して、笑いをとった。  最後に、本書の6章に出てくる先延ばしの問題を抱える訳者を、どこまでも忍耐強く導いてく ださった早川晝房の東方綾さんにこの場を借りて心からお礼を申しあげる。   二〇〇八年一一月