〈問い〉から始めるアート思考_吉井仁実 はじめに   アート思考とは  「アート思考」という言葉をよく耳にするようにな りました。これをテーマにした本や記事もいろいろ なところで見かけます。しかし、アートの世界に長 い間(たぶん生まれたときから)身を置いてきた私に は「アート思考」という言葉がしっくりきません。 なぜなら、私はアートに特定の思考があると思った ことがないからです。むしろ、アートは常に新しい 思考を生み出し続けるものだと思います。仮にある 一つの思考があったとしても、必ずそれを打ち破ろ うとする動きが出てきて、別の思考に取って代わら れるのです。そうやって一時代を築いた思考があっ ても、やがてその思考も次の新しい思考にバトンを 渡していきます。それがアートの本質的な営みだと 思っています。  だから、「アート思考」を私なりに解釈すると次 のようになります。  ・アート思考=問う力  現代の社会に対して「問い」を投げかけること。 それが「アート思考」であると。「この既成の考え 方は本当に正しいのか」「今の時代ではこのような 表現もあり得るのではないか」「どうして私たちは こんな不自由を強いられるのか」などという問いを、 ときにはユーモラスに、ときには洗練された手法で、 ときには突拍子もないやり方で、つまり今までにな い方法を用いて表現する。それがアートであり、そ の「問う力」が画期的であればあるほどにアートの 価値が高まると私は思っています。   バンクシーの「社会的な問い」  例を挙げましよう。バンクシーはその顕著な例の 一人です。  この英国に拠点を置く謎のア上アイストが作品を 作ると、世界中のメディアが報道して大きな話題を 呼びます。例えば、彼の名を一躍有名にした出来事 の一つに「シュレッダー事件」があります。 2018年10月5囗、著名なオークションハウス 「サザビーズ」で競売にかけられた作品『ガールー ウイズーバルーン』(風船と少女)が104万 2000ポンド(約1億5500万円)で落札される と、その直後、額縁の中に組み込まれていた機械が 作動。作品が額縁の下にずり落ちていき、内蔵され ていたシュレッダーが作品を断裁し始めたのです (図1)。その後、作者のバンクシーが自ら機械を仕 掛けていたことを表明。新たな作品名として『愛は      。                         且且价几よ 22001]’一。一】  どうしてバンクシーはこのようなことをしたのか。 これも社会に対する「問い」の投げかけです。 「アートとは何か」というテーマをバンクシーは社 会に示したのです。どんなに素晴らしいファイン アートの作品でも、オークションに一度かけられれ ば、価格が決められて売買されます。いったいアー ト作品を買う人はアート作品に何を求めているので しょうか。価格が付く物質的なものを求めているの か、それとも価格が付けられない内在的なものを求 めているのか。アート作品であればこの二つの面を 必ず備えていますが、美術作品が競りというシステ ムの中で高額になればなるほど、その二つの面の境 目が分からなくなっていきます。  もし、目の前に「これは1億5500万円の本物 の絵です」と言われて置かれたら、どう思うでしょ うか。作品を鑑賞する前に、どうしても「これは1 億5500万円の絵だ」と思ってしまうのではない でしょうか。つまり、作品を作品のまま見ることが できなくなり、作品という物質から生まれる経済的 価値を強く意識している状態となるのです。これが もし100億円の絵だったら、もはや冷静な気持ち で作品に内在されているものを見ることが不可能に なってきます。だとすると、いったいアート作品と は何なのでしょうか。  おそらくバンクシーはオークション会場で自ら作 品を切り裂くことで、「アート作品に高い価格を付 け、売り買いすることで、人間は何を手に入れるこ とができるのか」という問いを社会に投げかけたの でしょう。もちろん、これは私の解釈ですが、それ ほど的外れなものではないと思います。その証左と して、この作品の落札者は、落札後に作品が切り裂 かれたのにもかかわらず、落札価格のままで買い取 りました。ここにアートの新しい価値があると理解 したからでしょう。  この原稿を書いた後、『愛はごみ箱の中に』はさ らに、2021年10月14囗のサザビーズのオーク ションに再度出品され、前回の落札価格をはるかに 上回る約29億円で落札されました。バンクシー作品 として史上最高の落札額だそうです。サザビーズに よれば、入札には9名が参加し、10分間にわたり入 札が続いたそうです。どこかバブルの気配を感じま すが、バンクシーの「問い」に大きな価値が認めら れたということでしょう。  バンクシー自身も、この事件を通してその名が広 く知れ渡るようにもなりました。つまり、この事件 を通して投げかけた「問い」の雨期性が作品の価値 とアーティストの名を高めたのです。バンクシーは、 作品のうまさよりも、この仕組みのようなものを作 り出すのがうまいアーティストです。そのやり方は とても洗練されていて見事ですが、私にはやり過ぎ に感じるときもあります。  いずれにせよ、「問い」を発しないア上アイスト はいません。ア上アイストが作品を制作したリパ フォーマンスをしたりするとき、何らかのアイデア が必要です。そのアイデアのスタートは、おそらく 「問い」の発見にあることが多いと私は思っていま す。それが社会に問うべき内容であれば、アーティ ストはそれが一番伝わる形を考えて、作品を制作し たリパフォーマンスをしたりします。  ただ、その「問い」には答えがありません。鑑賞 者に今まで感じたことがないものを感じさせ、深く 考えさせるための「問い」なのです。いかに「究極 の問い」を作り出すか。そこにこそアートの営みの 本質があると、私は思っています。  ですから、鑑賞者がアート作品に向き合うとき、 「これはどんな問いを投げかけているのか」という 視点を持つと、その作品をよく理解できるようにな ります。「アート思考」と呼ばれるものは、アー ティストが持つ「問う力」だと前述しましたが、鑑 賞者もそれを意識することで「アート思考」という ものが身に付けられると思います。   アートに触れる意味  イノベーションの例として引き合いに出される米 国アップル社の司ゴO罵にも、私は画期的な「問 い」があったと思っています。この製品が登場する 前から、スマートフォンと呼ばれる機器はありまし た。しかし、lPhoneが登場すると、それまでの携 帯電話市場のシェア分布が大きく変わり、発売以降、 アップル社が今も多くのシェアを占めています。  あの小さな機器に多くの人たちの心を揺さぶる何 かがあったのでしょう。それはいったい何なのか。 便利さや機能性だけではない何かがあったのです。 私に言わせれば、それは「問い」のようなものだと 思います。問題解決から始まる何かではなく、今の 社会や私たちに対する「問い」から生まれた何かが そこにはあった。それは例えば「人が情報をパーソ ナルに身にまとって発信するようになったら世界は どのようになるのか」という問いだったのかもしれ ません。そんな問いがiPhoneにあったように私は 感じます。  今、情報がビジネスや金融と高度に結び付くこと で、さまざまな業務や事業が合理化され最適化され ています。今の社会は「結果」や「効率」だけを単 純に追い求め、「解決」ばかりを提供しようとして いないでしょうか。テレビを見ていても、「問い」 を投げかけて深く考えさせる番組はほとんどなく、 いたるところで「解」を短時間で見せているだけに 思えます。アートのように深く感じさせて考えさせ るものが世の中で少なくなっているような気がする のですが、イノベーションを生み出すのは「問題解 決」からではなく、「問い」なのではないかと思う のです。  物事を合理的に考えていけば人間の仕事をすべて AIに置き換えられるかもしれませんが、それでも 人は最後まで人間にしかできないことを求めるで しようし、最後に残る仕事が何かと言えば、それは 答えのない「問い」を見つけて、今までになかった 表現方法でそれを提示し、人々をうならせるような、 言い換えればアートのような仕事だと思います。そ れが人間らしさなのかもしれないですし、少なくと もコンピューターは答えのないものが苦手です。  私は、一般の方が現代においてアートに触れる意 味は、そこにあると思っています。アートに触れて 「問い」を感じる。その感性はやがて社会の事象や 出来事から「問い」を感じ取り、そこから生活や仕 事につながるアイデアの創出力を育むようになる。 2020年にパンデミツクを起こした新型コロナウ イルスの感染拡大やAI技術の進展からも、私たち は「問い」を感じ取って、今までにない何かを作り 出すことができるはずです。  病気とは何か。都市とは何か。働くとは何か。生 きるとは何か。お金とは何か。家族とは何か。友人 とは何か。学校とは何か。コミュニティーとは何か。 人間とは何か……。ア上アイストが投げかける問い のようなものを私たちが持てるようになれば、これ までの生活スタイルや仕事のやり方が変わっていく はずです。それを「アート思考」と呼ぶのであれば、 ぜひ多くの方にアートを通してアート思考を身に付 けてほしいと願います。  私の父親は東京の銀座で「吉井画廊」というギャ ラリーを営んでいました。自宅にはいつも美術作品 がいたるところにあり、私は父が招いた芸術家や作 家の方たちによく遊んでいただきました。  岡本太郎さんもその一人でした。岡本さんは、な んとも言葉では表しにくいのですが、どこか「覚 悟」のようなものを、まるで自分を追い込むように 持っているといつも感じていました。今思えば、そ の覚悟は当時の画壇や社会に対する「問い」だった のではないかと思います。その「問い」が、岡本さ んの作品や活動、生き方に現れ、今も多くの方に共 感され続けていると、私にはそう見えます。  「問い」は、「答え」よりも時を超えて大きな力を 持ち得ます。その「問い」が社会的かつ本質的なも のであればあるほど、人々を驚かせたり、今まで感 じたことのない感情を与えたり、今まで思考したこ とのないものを考えさせたり、感動させたり、新し い世界を見させたりできます。  このアートが持つ力について、本書でこれから語 ることが、読者の方にとって「アート思考」を身に 付けるきっかけになればと思っています。 〈問い〉から始めるアート思考 目次 第一章アートは未来を提示する   アートは「問い」で未来を見せる  この第一章では、最新のアートシーンで活躍する アーティストたちを紹介します。  「はじめに」で、アートは「問い」であり、どんな アーティストも「問い」を持っていると書きました。 この最先端で創作活動をしているアーティストたち も、もちろん「問い」を持っています。しかも、そ の「問い」を通して、私たちの未来を照らし出して くれます。  ここですぐにでもアーティストたちの紹介に入り たいのですが、その前に、アートと「問い」の関係 についてもう少し説明させてください。アートとは 何か、そしてアートとは何でないのかということに ついての話です。  ほとんどのアーティスト(おそらくすべてのアー ティスト)は、ビジネスのような目的を持つことは ありません(だからこそビジネスに「アート思考」とい うものが求められるのだと思いますが、これについては 後述します)。言い換えると、アーティストは営利目 的や利潤追求のために製品を作ったリサービスを提 供したりはしないということです。「作りたいから 作る」−。ア上アイストの創作の動機は基本的に それだけです。だから、作品が売れるかどうかは結 果的なものです。  よく「デザインとアートの違いは何ですか」とい う質問をいただくのですが、この違いは、ごく簡単 に言ってしまえば、作品制作の目的や動機の違いに あると私は思っています。デザインには他人の目的 や誰かの問題解決がありますが、アートにはそれが 本来的にありません。デザインには必ず施主や発注 者などのクライアントがいて、そのクライアントは 何かしらの目的を持っています。商業目的だったり、 生産性の向上だったり、快適な居住空間の実現だっ たりなどです。デザイナーはその目的をクライアン トから聞き、達成するために問題を明確にしたり、 整理したり、余計なものを削り落としたり、解決の アイデアを提案しながら、目的に向かって合理的に 物事を形作っていきます。  建築も、多くの場合はデザインです。建築家は施 主のクライアントから目的や要望を聞き、それを実 現できるアイデアを考え出し、力学的な構造計算を して建物という形で答えを出します。アートには、 このようなクライアントや制作プロセスがありませ ん。自分が作りたいものを自分が考えた制作プロセ スで作るだけです。  ただし、デザインのプロセスでアート的な思考が 入ることがあり、そのアート性が社会的に評価され ることはあります。また、あえてアーティストのほ うがデザインに近づいて、「問い」として、その境 界線を分からなくさせるということもあります。  例えば、アンディーウォーホルの作品が良い例で しょう。このアーティストは、缶詰のパッヶIジな どの商業デザインをあえてアート作品に持ち込むこ とで、「芸術とは何か」という問いを提示して新し いアートを確立しました。  しかしながら、このようにアートとデザインの境 界線が不明確になっても、ア上アイストにクライア ントはいません。仮に経済的な支援をするパトロン のような者がいて、アーティストが配慮したとして も、作りたいものを作るという核の部分をアーティ ストは手放すことはないし、それをしたらアートで はなくなります。「作りたいから作る」−。これ がアートの大原則であり大前提です。  実際には、いろいろな創作の環境やケースがある ので一概には言えませんが、商業的な目的や問題解 決を第一義にしたら、少なくともそれはアートとは 言えないでしょう。それはクライアントワークです。  では、なぜア上アイストは創作活動をするのか。 繰り返しになりますが、それは見る者に「問い」を 投げかけるためです。作品や活動を通して、アー ティストは自分で見つけ出した問いを鑑賞者に示し、 見ている者の心を揺さぶり、深く感じさせ、今まで になかった経験をさせ、新たな世界へと導くのです。 それがアートの本質だと、私は思っていますし、そ う考えて作品やアーティストと向き合ってきました。  これから紹介する「サイエンスアート」や「テク ノロジーアート」のアーティストたちもそうです。 どの作品にも「問い」があり、その作品を作った ア上アイストたちの動機は「作りたいから作った」 しかありません。誤解してほしくないのは、アー ティストが「作りたいから作った」としても、その 作品は決して独善的なものではないということです。 アーティストが作品に込める「問い」は社会から生 まれたものにほかなりません。社会からつかみ出し た独自の「問い」を独自の方法で提示しだのがアー ト作品なのです。  例えば、ウォーホルが『ブリロボックス』(図1‐ 1)という米国の洗剤付き金属たわしが詰まった パッケージにそっくりなアート作品を作りましたが、 それは日常で見るものも見方を変えればアート作品 に置き換えることができるという、それまでの時代 に欠けていたアート的な探究心への問いなのです。  アーティストたちは社会から「問い」をつかみ出 して社会に向けて投げかけます。この「問い」が洗 練されているほどに、社会は鋭く反応します。「は じめに」にも書きましたが、バンクシーのアート活 動にも「問い」があり、その「問い」が洗練されて いるからこそ、社会的に大きな話題になったのです。  このようなアーティストたちの問いは、ときに社 会を変えるきっかけを与え、ときに社会の未来を作 る流れを生み出すこともあります。アートは社会に 問いかけながら、その未来を作り出すのです。実際、 近年では未来そのものを問うアーティストも現れて います。   未来への不安が強まる現代社会  「人工知能(AI)が人間の仕事を奪う」−。近 年、このような話をよく聞くようになりました。本 当にそんな時代が来るのでしょうか。本当であれば、 いつからそうなるのでしょうか。奪われやすい仕事 や奪われにくい仕事といったものはあるのでしょう か。いろいろな方がいろいろなことを言うので、話 を聞けば聞くほど、調べれば調べるほど、本を読め ば読むほどに分からなくなってきます。  実際のところ、未来がどうなるかは誰にも分から ないでしょう。ただ、AIのテクノロジーの進展は とどまることがなく、ニュースなどで「AIの技術 でこれも自動でできるようになりました」などと聞 く度に、どうしても心が「ざわつ」と揺れて、「自 分の仕事がコンピューターに奪われるのか」「人の 心はコンピューターに読まれてしまうのか」「一部 の企業が優れたコンピューター技術を独占したらど うなるのか」などと、漠然とした不安を抱いたりす るものです。  科学技術は私たちの生活を便利にしてくれます。 しかし、科学者や技術者は、科学の進展や新しい技 術の可能性を語ってばくれますが、それが作り出す 未来社会がどんなものなのかは示しません。素人の 私たちにとって科学技術が進展した先に現れる未来 社会をイメージすることは難しく、どうしても不安 や恐怖から負の印象を抱きやすくなります。  では、どうすればこの漠然とした不安や恐怖をぬ ぐい去ることができるのか。それは未来社会に対す る明確なイメージを持つことです。このイメージを 明確につかむことができれば、現在と未来を一つの 線で結ぶことができ、物事をクリアに考えることが できるようになります。しかし、科学者や技術者は 未来社会のイメージの提示をほとんどできません。 それは彼らの仕事ではないからです。しかし、この 問題を解決できる人たちがいます。アーティストで す。  古来、アーティストは見えないものを見えるよう にするような役割を社会の中で担ってきました。例 えば宗教の世界では、古い時代から神や仏の世界が 絵によって描き出されてきました。ルネサンス以後 の近代でも、西洋では自然美や人間美が描き出され たり、個人の自由を象徴するようなロマンが表現さ れたり、その反動で現実を直視する写実主義が生ま れたりしました。あるいは、光のきらめきをとらえ ようとする印象派が生まれたり、人間の感情を前面 に出すムンクのような表現主義が出てきたり、夢の 世界のような風景を描くシュルレアリスムのアー ティストが登場したり、また独自の方法で現実の三 次元の世界を二次元の絵に落とし込むピカソを代表 とするキュビズムが現れたりしました。アーティス トたちは、その時代や社会の中で、見たくても見え ないものを描き出してきたと言えると私は思ってい ます。  現代において、見たくても見えないものとは何で しょうか。その一つは、科学技術が作り出すはずの 近未来の世界ではないかと思います。実際、その世 界をアートで見えるようにしようとしているアー ティストたちがいて、彼ら彼女らが作り出す作品は 現代の私たちにさまざまな示唆を与えてくれます。 アートの分類では「サイエンスアート」「テクノロ ジーアート」「バイオアート」などと呼ばれる領域 で、その注目度は世界的に高まりつつあります。私 は、この領域のア上アイストが次世代のアートを担 うと思っています。  これらのアーティストたちに共通しているのは、 未来についての「問い」を私たちに投げかけながら、 常識を揺さぶったり、今までにない経験をさせたり するところです。一見、不安をあおる作品に思える のですが、その作品の前にたたずむと、見えなかっ た未来や新たな可能性に気付かされます。私は、こ れから紹介するアーティストたちの作品を見て、安 心したというか、未来が怖くなくなりました。  人は、見えないものには不安や恐怖を抱きますが、 見えればそのような感情はあまり起きません。鑑賞 者がアーティストたちの作り出す未来の可能性を明 確に感じることができれば、それはきっとビジネス でも役立つし、これからどうやって生きていくかを 考えるときにも役立つはずだと私は思います。   長谷川愛−人口問題、食糧問題、環境   問題への問い  最初に紹介したいのは長谷川愛さんと福原志保さ んの二人です。二人とも「バイオアート」のアー ティストであり、その作品は世界的にトップレベル です。  まず、長谷川愛さんについて話したいと思います。 彼女は2021年現在、自治医科大学と京都工芸繊 維大学で特任研究員をされています。  この方の作品を初めて見だのは、東京の六本木に ある森美術館で開かれた「六本木クロッシング 2016展」(2016年)でした。当時、私は長谷 川愛さんのことを知らなかったのですが、その展覧 会で彼女の作品を見て、興味深い作品を作る人がい るなという印象を強く持ちました。  その後、私は日本で初めてのアート&サイエンス 専門のギャラリー「art & science gallery lab AXIOM」を開設しました。2016年のことです。 これまでずっとアートシーンを見てきて、これから の新しい流れの一つとして、アートとサイェンスー テクノロジーとの融合が必須だと確信したからです。 別の言い方をすると、サイェンスーテクノロジーの 進展で、現代社会では新たなサービスや製品などが 生まれ、表現の世界でもさまざまな試みが増え、そ の社会変化の中で「アートとは何か?」という問 いが確実に強まっていると感じたのです。  このAxIoMで最初に取り上げたアーティスト は、後ほど紹介する脇田玲さんでした。この脇田さ んから長谷川さんを紹介いただき、このギャラリー で彼女の展覧会を2017年に開きました。展示し た作品には代表作となっている『Second Annunciati目』もありました。これは、人間の女 性が水の中でイルカを出産している(ような)シー ンが写された映像や、女性の子宮の中にイルカの胎 児がいるような立体作品など、複数の作品で構成さ れています。  作品タイトルを和訳すれば「第二受胎告知」で す。”Annunciation”は、処女マリアに大天使ガブ リエルがキリストの受胎を告知する絵画の英語タイ トルでもあり、長谷川さんは、この作品を通して、 科学技術の発展により性交を介せずに従来とは異な る方法で人類が子どもや家族、他の種の生き物を生 み出す未来を示したのです。言い換えると、彼女は 「産むとは何か」「家族とは何か」「子どもとは何か」 といった「問い」を鑑賞者あるいは社会に投げかけ、 人類がこれまで当然としていた考え方を大きく揺さ ぶろうとしているのです。  まずは、その長谷川さんの作品の一つである『I Wanna Deliver A Dolphin…』(私はイルカを産みた い二を本書の口絵に掲載しましたので、ご覧くだ さい(口絵1)。  人を含むほ乳類は、遺伝子を次世代に渡す方法と して子どもを産み育てます。出産と子育ては遺伝的 に仕向けられているとも言えるのかもしれません。 しかし、人はその数をあまりに多く増やしてしまい、 生態系や食物連鎖のバランスが決定的に崩れそうに もなっています。今後、深刻な食糧不足が起きるの も時間の問題だと言われています。人口過剰、そし て人にとって不都合な方向に変化していく環境に よって、もはや人類はこれ以上子どもを産み育てる ことが難しくなっていると言えるでしょう。  この作品は、世界の現状を踏まえて、人類はこれ 以上数を増やすのではなく、未来では絶滅の危機に ある種(例えばマクロやイルカなど)を代理出産すれ ばいいのではないかと提案しているのです。そうな れば子どもを産みたいという欲求と「おいしいもの を食べたい」、あるいは「この動物を守りたい」と いう欲求を同時に満たしながら、食糧問題や環境問 題を解決できるのではないかというわけです。そし て、現実的にこの出産が可能であることも示し、社 会的な議論のきっかけも提示しています。  長谷川さんが示した未来は、荒唐無稽なものでは ありません。彼女は、岐阜県が2001年に開学し た大学院大学「情報科学芸術大学院大学(IAMA S)」を出て、英国のロンドンにある「ロイヤルー カレツジーオブーアート(RCA)」などでメディ アアートやデザインを学び、米国のマサチューセッ ツ丁科大学の「MITメデイアラボ」でMaster of Scienceの学位を修了した方です。長谷川さんは根 拠を持ってアート作品を作り、未来社会に関わる鋭 い「問い」を投げかけているのです。   同性カップルから生まれた子どもの風景  長谷川さんの代表作の一つで、『(不)可能な子 供』という作品があります。これも「家族とは何 か」という「問い」を投げかけている作品です(こ の作品は口絵に掲載していませんので、興味のある方は インターネットなどで調べてみてください)。  この作品(デジタルプリント写真)の中には4人の 大聞かいますが、女性しかいません。よく見ると少 し違和感があります。この写真には父親らしき男性 はいませんが、4人には遺伝的なつながりがあり。 いわゆる。血のつながった家族”(という想定)です。 二人の大人は実在の同性カップルで、二人の子ども たちはこの同性カップルから誕生した実子。もちろ ん、現代ではまだ同性カップルの遺伝子を受け継ぐ 「実子」を誕生させることはできませんが、長谷川 さんは同性カップルの遺伝情報を実際に用いたAI のマシーンラーニング(機械学習)で子どもたちの 顔を作り出しました。  だから、安易に他人の子どもを連れてきて撮影し たわけではなく、もしかしたら未来の社会では本当 にあり得るかもしれないという「家族写真」になっ ているのです。将来、人工多能性幹細胞(IPS細 胞)などの研究によって同性カップルの間でも遺伝 子を受け継ぐ「実子」を作ることが本当に可能にな るかもしれません。  この作品は、社会的な反響も大きく、文化庁メ ディア芸術祭(第19回)のアート部門で優秀賞を受 賞しました。彼女の作品は世界各国で展示されてい て、受賞作品も多々あります。  私は長谷川さんの作品を見ているうちに、今の人 類の生きる形が果たして本当に正しいのかどうかと 疑問に思うようになりました。今の科学が遺伝子な ど生物についての研究をこのまま進めれば、不妊や 不老などの問題の解決や、不死や同性カップルによ る子どもの誕生など、これまでできなかったことも 可能になるかもしれません。果たして、そのような 未来社会は正しいのかどうか。また、今の社会はそ もそも正しいのかどうか。  素晴らしいアート作品がいつもそうであるように、 長谷川さんの作品も鑑賞者を一時的に混乱させて、 今まで持ってきた価値や思考の基準を分からなくさ せます。なぜ人がイルカの子どもを産むのか。どう して人類が絶滅危惧種の代理出産をするのか。まっ たく突拍子もない発想であり、あり得ないような未 来像ではあるのですが、科学的な根拠を踏まえた画 像や映像、立体物などでその作り込まれた未来像を 見せられると、「もしかしたら……」と思えてきま す。そこが長谷川さんの力であり、アートとして成 立するポイントになっています。  科学者や技術者には、長谷川さんが作り出す美し くて、どこかロマンチックな未来社会のワンシーン を作ることはできないと思います。私たちは、長谷 川愛というアーティストを通して未来に対するイ メージを得たり、未来をより具体的に思い描けるよ うになるのです。すると、未来に対する漠然とした 不安がなくなり、問題点が明確になり、それについ て冷静に考えることができるようにもなっていきま す。   福原志保−バーチャルとリアルの境目   とは何か  次に紹介したいのは、長谷川愛さんと同じバイオ ア圭アイストの福原志保さんです。自身を含む3人 のア圭アイストで「BCL」という集団を作って活 動しています。「BCL」の作品の特徴は、実際に 遺伝子に手を加えるところです。代表作の 『BiopresenceJは、亡くなった人間のDNAを樹木 のDNAの中に保存して、それを墓標、あるいは記 念碑にしようという作品です。英国の美術大学「口 イヤルーカレッジーオブーアート」の同級生だった ゲオルクートレメルとともに発表しました (2004年)。  この作品では、樹木が本来的に持つ遺伝子には影 響を与えないようにヒトのDNAを入れ込みます。 これは、求める形質が現れるように遺伝子に手を加 える「遺伝子組み換え食品」とは逆の発想です。遺 伝的な影響はないのですが、その樹木の中には愛す る故人のDNAがある。そう思うと、遺族はこの樹 木に特別な思いを抱くことができます。  もし日本でこれと同じことをサクラの樹木にした ら、その木が毎年春になって美しい花を咲かせる度 に遺族の心は和むかもしれません。福原さんたちは、 この作品について英国で精力的にプレゼンテーショ ンをすると、倫理的な面も含めて大きな反響を呼び ました。命や死のあり方について根本的な問いを社 会に投げかけることができたのです。  福原さんらBCLは、その後も遺伝に関わる作品 を作り続けました。例えば、デスクトップミュー ジック用のボーカル音源であり、インターネット上 のキャラクターでもある「初音ミク」をモチーフに した作品があります。それは、その外見上の特徴を 発現するように記した遺伝子を作り、IPS細胞 ベースの心筋細胞に組み入れたというものです。つ まり、「初音ミクの人工心臓」と呼ぶべきものを 作ったのです。  本来はデジタル技術が生み出したバーチャルな存 在なのに、バイオテクノロジーを用いることで、現 実の世界に飛び出させたわけです。ネット上には初 音ミクの熱狂的なファンがいるのですが、この作品 にリアルな初音ミクを感じるあまり、「この前で死 にたい」と言い出す方もいたそうです。この作品に も、生とは何かという問いや、バーチャルとリアル の境目は何かという深い「問い」が潜んでいると思 います。  このほか、囗本の企業が開発した青いバラやカー ネーションを自家増殖させたり、青から自に戻すと いう作品も作っていたりします(口絵2)。青いバラ は、かつては「不可能」を意味するくらい、いくら 品種改良しても作ることができませんでした。この メーカーはバイオテクノロジーで他の生物の青い花 が持つ遺伝子をバラのDNAに組み込んでうまく発 現させて、花の色を青くしたのです。当然ながら、 この技術についてメーカーは特許を取っています。  今、多くの野菜や園芸用の植物に関わる技術や改 良された品種は、特許や法律で守られていて、企業 が独占できるようになっています。苦労して開発し たものが社会的に守られるのは合理的な面がありま す。しかし、植物という生物は本来的には自然のも のであり、誰のものでもありません。それを企業が 独占していいのかという疑問は残ります。そこで福 原さんらは、売られている青いバラやカーネーショ ンを買ってきて生物として持つ増殖力で自ら増える ようにしたり、この青いカーネーションの遺伝子に 手を加えて元の自いカーネーションに戻したりする ような活動をして、「この生物は誰のものなのか」 という「問い」を社会に投げかけたのでしょう。  これから、遺伝子に関わる科学技術はますます進 展するでしょう。もしかしたら、人間に関わるさま ざまな生物は、優れた遺伝子を持つものだけが生き 残ったり次世代に引き継がれたりするのかもしれま せん。あるいは、人間の社会に役立つように、いろ いろな生物の遺伝子が組み換えられたり編集された りするようになるかもしれません。それは、ヒトそ のものの遺伝子も含まれるかもしれません。少なく とも、そんな未来への漠然とした不安を私たちほど こかで感じていたりもします。  福原さんらの作品は、そんな不安に輪郭線を与え てくれます。そして、バイオテクノロジーに人間性 や自然性と呼ぶべきものを刻み込もうとしているよ うにも見えます。福原さんらは、現代社会の問題点 を見事に表し、未来について深く考えさせるアー ティストなのです。   バイオアートを牽引する二人が日本から現   れたのはなぜか  長谷川さんも福原さんも、ほぼ同世代です。どう して日本人のこの二人が、次世代のアートシーンで 中心の一つになりそうなバイオアートを牽引するよ うになったのか。何らかの必然的な理由があっだの か、あるいは単なる偶然なのかは分かりません。  1980年代から「アルスーエレクトロニカ」と いうメディアアートの祭典が毎年オーストリアで開 かれていましたが、日本ではこのようなテクノロ ジーアートやサイエンスアートは少し前まで認知さ れていませんでした。二人がア上アイストの活動を 始めた場所は海外でしたが、二人を育てた日本に創 作の源泉につながる何かがあったのかもしれません。  例えば、現代アートシーンで活躍している日本人 アーティストに村上隆さんがいます。マンガ、ある いはキャラクターを用いてアート作品を作るという 作風の背景には日本のマンガ文化、あるいはキャラ クター文化があると言えるでしょう。バイオアート のア上アイストが日本で現れたという背景にも、何 かしらの日本人の文化や生活があっだように思いま す。  私から見ると、二人とも三つの要素を持っていま す。一つは、科学者あるいは研究者の視点があるこ と。もう一つは、SF作家のような未来に対する想 像力が卓越していること。三つ目は、どこかロマン チストな一面を持っていることです。そんな三つの 要素が生まれやすい環境が囗本にあったのかもしれ ません。  ただ、これはあくまで個人的な推察で、学術的に よく研究すれば何かもっと深いものがあるのかもし れません。いずれにせよ、この二人の活動はこれま でのアートの流れから見ても画期的であり、アート の世界にとどまらず、彼女らの問いは、人類の未来 をどう作るのかという意味で多くのヒントを提供し てくれます。  「未来のヒント」を作るバイオアーティスト。科学 者や技術者が見せることができない未来像を提示す るアーティストだちから、私たちは多くのものを得 ることができます。なぜなら、未来を知るというこ とは現在をどのように生きればいいのか、どのよう な行動を取ればいいのか、あるいはこれからどのよ うな問題に取り組むことになるのか、どのような価 値観を作り出す必要があるのか、どのような表現や 製品、サービスを新たに作り出す必要があるのかを 知ることにもなるからです。今後、この二人のアー テイストがどのような活動を展開していくのかは分 かりませんが、私は注目していきたいと思っていま す。   脇田玲−「見えないもの」を可視化す   る  次に紹介する脇田玲さんは、まさにアーティスト であリサイエンティストでもあるサイエンスアー ティストです。脇田さんは第一線のア圭アイストで ありながら、コンピューターサイエンスの専門家で もあります。慶應義塾大学の教授であり、「環境情 報学部」の学部長も務めています(2021年6月 現在)。この多才とも異才とも言える脇田さんとの 出会いが、私とテクノロジーアートやサイエンス アートを結び付けました。  脇田さんの作品の特徴は、最先端の科学技術を 使って目に見えないものを見せてくれるところです。 コンピューターの技術を用いて、目の前にありなが らも知覚できない自然界の情報を可視化することで、 見えない世界を見える世界へと変えようと試みる次 世代アーティストと言ってもいいでしょう。例えば、 コンピューターである計算式を組み込んだプログラ ムを作り、そこに空間の中を流れる気流のデータを 入力することで、空気の流れを全体的にビジュアル 化するのです。  口絵に載せた『Ryoanj七FarkmgJ(口絵3)は、 ヴィジュアライゼーションとシミュレーションを用 いてこの世界を再解釈するための作品です。京都に ある龍安寺の石庭の絶妙にデザインされた。間”が 作り出す緊張や緩みと、まったくデザインされてい ないと考えられる単なる駐車場を俯瞰した風景が、 両者の相違と類似に着目して可視化されています。 上が龍安寺の石庭で、下がよくある駐車場です。ど ちらも空気の流れをシミュレーションして上からコ ンピューターで見えるようにしているのですが、こ の二つの像を見て、どちらを美しいと感じるでしょ うか。  ものの感じ方や美しいと思う気持ちは主観的なも のなので、どちらが正しいとは言えませんが、私は 上の龍安寺のほうに心地よさを感じます。龍安寺の 石庭は、石と苔だけのシンプルな枯山水式庭園であ り、池や流れる遣水などの水を用いず、石や砂、そ して地形などで山水の風景を表現しています。多く の人がこの庭に何か特別な魅力を覚えます。私たち は、実はこのような目には見えない空気の流れと水 の流れを無意識に感じ取っているのかもしれません。  私たちの身の回りには目には見えないものがたく さんあります。その一つが空気です。空気がまった く動かないということはありません。部屋の中でも、 たいていは空気がゆっくりと動いています。今、私 が閉鎖的な空間の中で片手を上げれば、そこにあっ た空気は移動して、それが付近の空気にも影響して 複雑な動きが生じます。もしかしたら、私か窓を開 けるだけで大量の空気が流入して、ナイアガラの滝 のような美しい情景が生じているのかもしれません。  脇田さんが私に言った言葉が今でも忘れられませ ん。「日常、私たちがまったく気にしていない風景 の中には、これまで見たことがないような美しい景 色が存在している」。私は長くアートの世界にいま すが、目に見えないものを作品にする脇田さんのコ ンセプトが、最初はまったく理解できませんでした。 しかし、よく考えてみれば、アートはいつも見えな いものを見ようとしてきた歴史でもあるのです。  先ほども少し触れましたが、これまでさまざまな ア上アイストが見えないものに興味を持って、それ を見せようとしてきました。その挑戦はアートの本 流の一つに違いないでしょう。例えば、レンブラン トは、画面に描く人物たちの一部にスポットライト のような強い光を当て、ダイナミックな明暗対比を 作り出すことで、描かれた現場や状況の雰囲気や空 気感をドラマティックなまでに伝えることに成功し {     いいドレス祐 圜  また、私か脇田さんの『Ryoanji / ParkingJを最 初に見たとき、ニューヨークの近代美術館にある ゴッホの『星月夜』を思い出しました(図1‐3)。月 と星が輝く夜空に描かれたグルグルしたものが脇田 さんの作品から連想されたのです。あの。グルグ ル”は、ゴッホが自身の内在的世界を通して見た、 夜の空気の流れなのでしょう。ただ、その。グルグ ル”はまったくのでたらめではなく、本当の空気の 流れに近いものなのかもしれません。時が流れて、 サイエンスやテクノロジーの進展で、私たちは今 ゴッホが内在的に見ていた星空を現実の風景として t心ふとふIル心のか(しれないのです。 j ゛ 夕”%屬   星 ’¨゛ `一‘・‘゛゛、゛’゛『゛』’。・‘一 づI¨ ゛一’一`肩二匹……’四  羅讖……  叭一 {} ‘’四188  本題から少しそれますが、以前、音楽家の渋谷慶 一郎さんが面白いことを言っていました。人は聞こ えないような音でも感じている、と。かすかに薄く 鳴っている音楽でも、それを意識下で感じ取る力が 人にあるのなら、そのような領域で作る新しい音楽 もあり得るのではないか。渋谷さんはそう考えて新 しい音楽の形を作ろうとしているようです。  今後、見えないものや聞こえないものを感じ取っ ていくような新しいアートジャンルが立ち現れるか もしれません。そのとき、私たちはどのような作品 と出会えるのでしょうか。そんな想像をすると楽し いですし、そんな想像が未来を作っていくのではな いかとも思います。   落合陽一−テクノロジーで作るプリミ   ティブな世界  メディアアーティストの落合陽一さんをご存じの 方は多いと思います。テレビやインターネットなど のメディアによく登場したり話題になったりするの で、見たことがあるという人も多いのではないで しようか。落合さんも脇田さんと同様に、ア上アイ ストでありながらサイェンティストでもあるサイエ ンスアーティストです。アート活動を展開すると同 時に、筑波大学で准教授も務め、「計算機自然 (9弧邑るES)」をテーマにした研究などをしてい ます。  彼がアート界で最初の本格的な個展を開いたのは 私のギャラリーでした。その作品における特徴の一 つは、他のサイェンスア上アイストやテクノロジー ア上アイストと比べてテクノロジーを駆使しないこ とです。核心的なアイデアの部分だけは科学や技術 を用いるのですが、それで表現するものは、どこか プリミティブというか原始的なところが多くあるの です。  例えば口絵に掲載した『』ooking-Glass Timej (アリスの時間)(口絵4)は、時計とその前にあるレ ンズがセットとなり、円環状に整然と設置され、 次々と時計が発光することで異なる時間がアニメー ションとして連なって実在しない奇妙な時間(『鏡 の国のアリス』の世界のような)を示す一つの時計が 壁面に映し出されます。つまり、12の物質的な時計 で構成される一つの不思議な。映像上の時計”を作 り出すのです。  通常、映像はフィルムやデジタルデータなどの処 理されたもので作り出されますが、落合さんは物質 から直接に映像を作り出します。そして、そこにメ ディアや視覚、さらに時間についての「問い」を含 ませます。  この作品のそばにいると、インスタレーションか ら発せられる光と影によって空間をつなぎ、鑑賞者 や空間自体も映像の一部として、時間的、空間的に 変換されていくような印象を持ちます。さらに、 ファンタジックな雰囲気の中に懐かしさのようなも のも感じ、過去・現在・未来の時間が一つの世界観 の中でランダムに表示されて、時間が一つの方向に 進んでいるのかどうかも分からなくなってくる不思 議さを覚えます。  落合さんの場合、作品そのものは単純なものでは あると言えます。ただ、作品の組み立て方やコンセ プトの作り方に、テクノロジストやサイェンティス 卜の思考が絶妙に組み込まれていて、それでいて人 間の根源を問うようなものを作る。これはアートの 手法としてはとても新しいと私は感じています。   豊富なアイデアを持つアーティスト  落合さんと初めて会ったとき、彼はまだ本格的な アート活動を始めたばかりでした。著書もそれほど 多くは出ていないころで、メディア出演も今ほどは 多くありませんでした。彼の代表的な発明「超指向 性スピーカー」を用いた作品を制作していた時期で、 創作活動をしながら自分のアートの方向性を模索し ているように見えました。彼に作品を見せてもらい ながら、いろいろな話を聞かせてもらったのですが、 いろんな意味で会ったことのないタイプの人でした。  話していると、とにかく言葉が尽きなくて、自分 の作品の説明も非常にうまかったという記憶があり ます。思考の幅もとても広く、最先端のテクノロ ジーから人間性の本質に関わるようなことまで、ど こまでも話が広がっていくのです。彼の秀逸なとこ ろは、その出てきた自分の言葉を、言いっ放しでは なく、話しながらきちんと編集できるところでした。 幅広い思考を構造化する力も持っていると思いまし た。  また、彼が実際にやってきたことを聞いて、優れ た実行力もあると思いました。アーティストという のは、いわゆる才能やアイデアだけでなく、突破力 みたいなものが必要になります。無名の新人が頭角 を現すにはこの突破力が不可欠で、彼にはこれがあ ると直感しました。  作品のアイデアをたくさん持っていたことも印象 的でした。それまで付き合っていたアーティストの 中で、おそらく一番多く作品のアイデアを持ってい ると思いました。彼はこれからさらにたくさんの作 品を作り出すでしようし、サイエンスやテクノロ ジーを用いて人間の根源的な問いを私たちに投げか け続けてくれると思います。落合さんの作品が持つ アート性に私は期待しないではいられません。   真鍋大度−最先端のテクノロジーで人   間性を創造する  真鍋大度さんの名を知っている方は多くないかも しれません。ただ、2016年8月に開催されたリ オオリンピツクの閉会式で日本のパート(フラッグ ハンドオーバーセレモニー)のテクニカルディレク ターを務めた人と言えば、思い当たる方は多いので はないでしょうか。あるいは音楽グループ 「Perfume」の映像作品やライブなどで演出をして いる人と言えば、もっと思い当たる方が多いかもし れません。  真鍋さんのコンピュータープログラミングを用い た作品やパフォーマンスは、どれも今までになかっ た新しい表現手法であり、人間と技術の新しい融合 のあり方を提示しています。  この真鍋さんも、アートとサイエンスあるいはテ クノロジーの両方の才能を持つ方です。子どものこ ろはテレビゲームが大好きで、小学校の高学年でプ ログラミングが独学でできるようになったという伝 説を持っています。東京理科大学で数学を学び、大 手の電機メーカーに就職。その後、「国際情報科学 芸術大学院大学(IAMAS)」で学び、学生時代の 友人だちとエンジニア集団「ライソマテイクス」を 立ち上げました。  彼が、アートの最前線のトップランナーであるこ とは、東京都現代美術館で開催された展覧会『ライ ソマティクスーマルティプレツクス』(2021年3 月20日〜6月22日)を見ても分かります。この美術 館は日本の現代美術のシンボル的な存在で、そこが ライソマティクスの個展を開いたのです。企画した 中心人物は、日本を代表するキュレーターの長谷川 祐子さんで、私もよく存じ上げている方です。実は 長谷川さんは、このライソマティクスの展覧会を最 後に、東京都現代美術館を退館しました。  私は彼女が最後の展覧会に何を企画するのか興味 を持っていたのですが、ライソマティクスを選んだ と知ったときは、「やっぱりそうきたか」と心のど こかで我が意を得たような気もしました。おそらく 彼女は「現代美術」の向こう側にある未来の美術に つながるものを最後に扱おうとしたのだと思います。 「アートのバトンをちゃんと未来に渡したよ」とい う長谷川さんのメッセージがこの展覧会から聞こえ てくるような気がしました。  アートは今、サイエンスやテクノロジーを飲み込 んで、大きく変わろうとしている変革期にいるのだ と思います。おそらく、そう感じるのは私だけでは ないでしょう。真鍋大度は、まさにその変革期を作 り出している代表的なアーティストの一人です。  真鍋さんが作る作品の特徴の一つは、テクノロ ジーを通して人の体の潜在能力や、大に秘められた 何かを引き出そうとしているところです。ダンサー の身体表現や自分自身の脳活動、ロボットなどをモ チーフに、最先端の技術を使いながら「人体表現は どこまで可能なのか」あるいは「そもそも生身の人 間とは何か」というような「問い」を社会に投げか けているのだと私には思えます。  アートの歴史を振り返ったとき、人体に深く関 わって作品作りをするアーティストと言えば、レオ ナルドーダーヴィンチが代表だと思います。もしか したら、真鍋さんはレオナルドーダーヴィンチ以来 のアーティストになるかもしれず、そうなれば世界 のアートシーンを塗り変える可能性があります。   神経細胞の活動と人工の光をリンクさせる  私は、この真鍋さんに作品を制作してほしいとお 願いしたことがあります。私か理事長を務める公益 財団法人「清春芸術村」(山梨県北杜市)でアート フェスティバル「HOKUTO ART PROGRAM ed.oj を企画したとき、複数のアーティストに新作を制作 してもらい、ここで発表していただいたのですが、 最初に声をかけだのが真鍋さんでした。  話が少し脱線してしまうのですが、私たちの芸術 施設には、世界的に知られる建築家の安藤忠雄さん に設計いただいた『光の美術館』があります(図1‐ 4)。  この建物の中には人工照明がなく、天窓のような 採光部から自然光だけを取り入れて、内部を照らし 出します。安藤さんはこの建物を設計するにあたっ て、「おそらくアーティストは、アトリエでは自然 光で作品を作っているはずだから、自然光のみの美 術館をやったらいいんじやないか」と提案してくだ さいまして、この光の美術館が生まれました。  完成したとき、その建物の中に入ると、太陽の光 がまるでアート作品のようでした。日の出から日暮 れまで、天窓から差し込まれた自然光が日時計のよ うに移ろい、それが内部の造形を照らし、反射して、 なんとも言えない影の形を刻一刻と変えていきます。 まるで、建築が息をしているような感じさえして、 私は「生きている美術館」だと思いました。  通常、美術館の光は人工照明です。作品保護の観 点から直射日光を避けたいからです。また、光の量 や形が変わると作品の見え方が変わってしまうので、 ほとんどの美術館は自然光を入れないようにしてい ます。しかし、この『光の美術館』はあえて逆のこ とをしました。そこから新たなアート鑑賞の可能性 が開かれると考えたからです。  この建物は、まさに私たちが考える新しい時代に ふさわしい美術館でした。ただ、問題が生じてしま いました。それは、この建物の力があまりに強いの で、この空間にフィットするアート作品が限られて しまったのです。表現に強度のようなものがないと、 この空間が持っている力と釣り合わない。そこで、 この生きている美術館にもっと生命力を与えるよう な、もっと大きく息をしているような、この『光の 美術館』の力強さに挑むような作品を新たに作り出 したくて、真鍋さんに声をかけたのでした。  相談してみると、真鍋さんもすぐに私の意図を理 解してくれました。そして、映像作品ではなく、光 を使って『光の美術館』を呼吸させるようなインス タレーションのアイデアを提案してくれました。そ れが口絵に掲載した作品『critical line - version o』 です(口絵5)。  これは、真鍋さんが自然と人工物との境目に着目 した、光と音によるインスタレーションです。具体 的に言いますと、囗が暮れて太陽光が消えた後、建 物の内部のいろいろなところに設置された複数のラ イトがコンピューターのプログラミングで制御され て直線的に発光します。そして、その光が内部を照 らしたり反射したりして、自然光では出ない光や影 の形を描き出します。同時に、採光部から光が飛び 出して、さまざまな角度でリズミカルな光線が夜空 に現れては消えるのです。また、それに合わせて音 も出ます。  この光と音は、ソフトウェアや人間によるオペ レーションでは作り出せない新しい視覚表現を獲得 するために、外部からの電気刺激に対応する分散培 養細胞の神経活動データが持つ時空間的パターンを 解析、変換して生成しています。つまり、光や音が 発するタイミングは、人為的なパターンではないと いうことです。亶]鍋さんは、この光の美術館に神経 を通わせて、まるで生き物のように光を発するとい うインスタレーションを作り上げたのでした。私は その光景を見たとき、思わず息をのみました。建物 が本当に呼吸をしているようなリズムで光と音を発 していたからです。暗闇の中で『光の美術館』が動 き出すのではないかと思ったほどです。  光をいかに扱い、いかに表すかI。これは歴史 上、数々のアーティストが挑んできたテーマです。 例えば、印象派は「光の圉家たち」と言われ、新し い方法で光を絵の中に取り込んだところに雨期性が ありました。ただ、これまでのアーティストが挑ん できた光はほとんどが自然光です。真鍋大度さんの 雨期性の一つは、人工的な光を用いることでアート にとって不可欠な光を作り出そうとしているところ です。当たり前ですが、新しいアートを作り出せる アーティストが、まさにその時代の先端を行くアー ティストにほかなりません。亶]鍋大度さんは、間違 いなくその一人に入ることでしょう。   アートの概念は拡張する  アートとサイェンスーテクノロジー。こう書くと、 それぞれが両極端に位置するものに思えます。サイ エンスは、自然などから問いを見つけ出して答えを 探究していく活動だと言えます。テクノロジーも、 その科学の知見を応用したり活用したりして、社会 的な課題の解を見つけていく活動だと言えます。こ こに、アートとの大きな違いがあります。アートは 答えを求めませんし、社会的な問題を解決しようと もしません。  ただ、少し見方を変えると、サイエンスとアート は、答えの求め方は違うのですが、問いを見つけ出 すという点ではとても似ています。サイエンスも アートも、問いが尽きるということはありません。 アーティストもサイェンティストも、永遠に問いを 持って活動する人という意味では同種です。  テクノロジーも、社会に対して何かを作るという 意味ではアートと同じ活動であり、テクノロジスト もアーティストも、作ったものを社会に投げかける という点ではやはりよく似ています。実は、アート とサイェンスーテクノロジーはとても近いものでも あります。私はサイエンスアーティストやテクノロ ジーアーティストだちと一緒に展覧会を作ってきた 経験が何度もあるのですが、彼らの創作に向かう姿 勢は、どこか科学者や技術者の研究や開発に向かう 姿勢に似ているように思います。  このように、両極端に見えるアートとサイェン スーテクノロジーですが、今後、アートの世界で互 いに強く結び付くのではないかと私は確信していま す。そして、アートの概念というものが拡張して、 今までにない幅広のスケールを出していくようにも 予想しています。猪子寿之さんが代表を務める 「チームラボ」も、その流れで生まれてきた表現者 集団なのかもしれません。彼らはデジタル技術と創 造性を結び付けることを日本で最も成功させた表現 者集団であり、今後も数多くの話題を提供していく でしょう。ただ、私は彼らの作品に対しては「問 い」のようなものをあまり感じないので、アートと いうよりはエンターテインメントという気がしてい ます。  この章の初めのほうで、現代社会の少なくない人 が、今のテクノロジーの進展に対して漠然とした不 安を抱えていると私は指摘しました。おそらく、そ の不安は未知だから生じるのです。未知であり、自 分の未来に強い影響力を持ち得て、しかもその影響 力を誰かが独占するかもしれないと思うからこそ、 漠然とした恐怖を感じるのです。サイエンスアート やテクノロジーアート、バイオアートのアーティス トたちは、その未知に対して明確なイメージを提示 してみせて、未来の科学技術社会における人間性と は何かと問いかけます。  言い換えると、これらのアーティストの作品に触 れれば、未来に対する怖さが消え、人間と科学技術 の共存について前向きに考えることができるように なります。科学技術がますます影響力を持つ社会に なるからこそ、アートが必要な社会になると私は 思っていますし、その社会的な要請の中で、アート は拡張していくとも思っています。また、私たちは その拡張したアートに触れることで、未来につなが る何らかの示唆を得ることができるでしようし、そ れがやがて「アート思考」になるのだとも思います。 第二章「現代アート」の終焉    「物」ではなく「仕組み」が価値を持つ  アートとは「問い」である。これが私の基本的な アート観です。アーティストは「問い」を、見る者 に、あるいは社会に投げかけます。この「問い」を アート作品から感じられるようになると、アート鑑 賞がもつと楽しくなります。自分なりの解釈で構い ませんので、アート作品から「問い」を自由に感じ てみましよう。その「問い」を感じる力こそが、い わゆる「アート思考」につながるのだと思います。  この章では、現代のアートシーンで活躍するアー ティストの中でも、大きな「問い」を投げかける二 人を紹介したいと思います。一人は、第一章でも触 れたバンクシーです。もう一人は、ピープルという デジタルアーティストです。  バンクシーがアートシーンをにぎわすようになっ て、私はアート作品の価値のあり方が変わったと思 いました。うまく言葉にできないのですが、作品の 持つ強度より、アート作品やアート活動が生み出す 「仕組み」のほうに、より大きな価値が見いだされ るようになったように感じるのです。その価植とい うのは、アート的な面と経済的な面の両方を含みま す。  前述しましたが、バンクシーはアートの新しい仕 組みを作ることで高く評価されてきたアーティスト です。社会を風刺するような絵をストリートでサッ と描くような作品などを通して、さまざまな「問 い」を社会に投げかけては社会の耳目を集めていき ます。  おそらく、彼の「問い」の一つはアートの所有に 関わる問題についてでしよう。分かりやすく言うと、 アート作品に対する所有欲への対抗です。だから、 彼は公共の場であるストリートの壁に絵を描くので す。「売るために作るわけではない」というバンク シーのメッセージがそこにはあります。  また、第一章で触れましたが、オークション会場 で自分の作品を自らリモート操作で切り刻んだのも、 「アート作品に高い価格を付けて売り買いすること で人間は何を手に入れることができるのか?」とい う挑発的なメッセージを、コレクターたちや社会に 投げかけたかったのだと思います。  しかし、バンクシーは本気でアート作品の所有に 対して反抗しているのではなく、そのような社会的 なメッセージを発することで自分と作品への評価を 高めようとする意図があるように感じます。正直、 少しあざとさを感じはしますが、このような表現を するアーティストは彼以前にはいなかったと言って いいと思いますし、そこに彼の雨期性があると思い ます。  バンクシーの卓越したところは、社会に対して、 彼が発する「問い」の問題意識を見事にコミットさ せるところです。そこが巧みだからこそ、彼の作品 や活動は社会から注目されやすいわけです。多くの アーティストが発する「問い」は分かりづらいこと もあるのですが、バンクシーの「問い」はいつも明 瞭です。  コロナ禍で医療関係者が献身的な働きをしてくれ たときは、子どもが看護師の人形を持って遊び、 ヒーローの人形はゴミ箱に捨てられている絵を描き ました。その社会的なメッセージは瞬時に伝わりや すく、その絵の作風はシンプルでありながらも、ど こかエッジの効いた感じもあって、広い世代にその 印象を深く残していきます。  ただ、彼の作風はそれほど新しいものではありま せん。同じような作風を持っていたア上アイストは かつていました。それでも、バンクシーが画期的な のは「風刺+ストリート」という表現方法で社会を うまく巻き込んだところでしょう。このようなアー ティストはそれまでいなかったという意味で、バン クシーの作品は確かにアート的な価値を持つと言え ます。  また彼はアートマーケットに対しても強く意識し ていて、ときに意図的かつ直接的に剌激しています が、このような手法を取るアーティストもかつては いませんでした。もちろん、私はバンクシーと会っ て話したこともないので、実際のところは分かりま せん。ただ、彼の言動を見ていると、そう感じずに はいられません。  このバンクシーのやり方が良いのか悪いのかは分 かりませんが、少なくともアートマーケットでは高 く評価されて、バンクシーの作品には高い値が付き ます。この経済的な評価は、その作風ではなく、お そらくバンクシーが作り出した社会的な作品作りの 仕組みに対するものです。バンクシーの作品の背景 にある新しいアートの仕組みに価値が見いだされて いるのです。またバンクシーもそこを意識して作品 を作って活動してきたのでしょう。  このバンクシーの作品や活動から私たちが学べる ことは多々あると思います。例えば、現代は、価値 が「物」からではなく、仕組みや構造、システムか ら生み出されるようになっているということです。 私たちがよく買い物をするアマゾンも、その雨期性 はあのネットショッピングの仕組みにあります。 ウーハーなどのシェアリングサービスもフェイス ブックなどのSNSも、その仕組みにイノベーショ ンの価植があります。そして、バンクシーも新しい アートの仕組みを作り出して、その仕組みが評価さ れているのです。  いかに社会に刺激を与えて、自分や自分が作り出 すものの評価を高めるような仕組みを作るか。今後、 新たな仕事や活動を始めるときは、彼のように「仕 組み」を意識したものづくりや活動をするといいの かもしれません。   ビープルー作品価格75億円の衝撃  米国出身のピープルというアーティストをご存じ でしょうか。2021年3月、デジタルアーティス トのピープル(本名はマイクーウィンヶルマン)の作 品『Everydays - The First 5000 I』吊箆が約 6935万ドル(約75億円)で落札されました。『美 術手帖』のウェブサイトの記事によれば、この価格 は現存するア上アイストの作品ではオークション記 録第3位であり、デジタルアート作品では過去最高 額となったそうです。また、主要オークションハウ スが「ピープル」の作品を販売するのは初めてだっ たとのことです。  この作品はデジタル作品です。アーティストがI 囗1枚ずつ、13年以上にわたって撮影した5000 枚の画像がコラージュされています。もちろん、デ ジタル作品なので、物質的なものは何も存在しませ ん。そこにあるのはデジタルデータだけです。その データ上でのみ存立する作品が約75億円で買われた のです。私はこのニュースを知ったとき、アート シーンが新しい時代に入ったと感じました。  この『Everydays - The First 5000 I』吊箆の作品 の特徴の一つは、NFT(Non-Fungible Toke已に ひも付けられ、デジタル資産として取り引きできる ことです。NFTとは、デジタルデータに鑑定書を 付けるような技術で、ビットコインなどの暗号資産 (仮想通貨)と同じようにブロックチェーン上で発行 されたり取り引きされたりします。ブロックチェー ンとは、分散型ネットワークを作っている複数のコ ンピューターが、暗号技術を使いながら、デジタル データを相互に検証できるようにして、正しい記録 をブロックごとにチェーンのように蓄積することで コピーや改ざんをしにくくする技術です。このブ ロックチェーン上のデータを不正に扱うことは不可 能に近いと言われていて、この技術が確立したこと で、デジタルデータに資産価値を持たせることがで きるようになりました。  少し前までは、デジタルデータはコピーや改ざん がされやすいので、アーティストがコンピューター で作品を作っても、アートマーケットではなかなか 高く評価されませんでした。しかし、ブロック チェーンの技術が誕生したことで、仮想通貨だけで なく、デジタルアートに対しても「このデータが本 物です」と鑑定書(NFT)を付けることができる ようになり、資産価値を持たせられるようになった のです。  アート作品は、オリジナルに特別な価値がありま す。本物そっくりのコピー作品があっても、その価 値がオリジナルを超えることはありません。なぜな ら、オリジナル作品だけが持てる背景がアート的に 重要だからです。作品の出来栄えだけでなく、アー ティストがどのような時代で、どのようにその作品 を制作したのかという文脈のような背景もアート作 品の重要な要素になります。もしかしたら、コピー 作品にもコピーした人やコピーした背景があるかも しれませんが、それはアートの歴史においてはほと んど意味がありません。  ピープルの『Everydays - The First 5000 I』aysj に高値が付いたのは、デジタルのアート作品が物理 的なアート作品と同様にオリジナルの背景を持つと 社会的に認められたからです。また、このデジタル 作品はNFTとしてオンライン上で取り引きでき、 さらに取り引きされる度にアーティストにお金が支 払われる「追及権」のような新たな仕組みをデジタ ル技術で構築したことも、社会的に認められました。  この作品はアートの歴史において新たなページを 開いた作品であると社会的に認識されたからこそ、 歴史的な高値が付いたのです。社会がますますデジ タル化していく中で、オリジナルであることが極め て重要なアートがしっかりと存在できるようになっ たということを示したからこそ、主要なオークショ ンハウスに出品されて、実際に高額で落札されたわ けです。   現代のセザンヌ  話を戻しましよう。  ピープルが画期的だったのは、オリジナルのデジ タル作品を作り、それをNFTにひも付けたことで す。ピープルは、アート作品だけでなく、デジタル 時代におけるアート作品の新しい作り方も生み出し たのです。デジタルアート作品における資産価値の 面だけではありません。デジタルアート作品の作り 方やオンラインオークションのあり方、コレクショ ンの仕方も含めたアート全体における新たなアート の可能性を切り開きました。ピープルは新しい時代 にふさわしい新しいアートの仕組みを作り、 [TEverydays - The First 5000 I]吊箆はその画期的な 仕組みのシンボル的存在の作品だからこそ高値が付 いたのです。おそらく、この作品を落札した人は、 モニターに現れるアート作品ではなく、その新しい アートの可能性を生み出した仕組みに対して歴史的 に大きな価値があると確信したのでしょう。  私も、あの作品には約75億円の価値が十分にある と思います。私から見ると、ピープルはセザンヌの ような存在に感じます。ポールーセザンヌは19世紀 後半から20世紀初めに活動したポスト印象派のアー ティストで、その後に現れるピカソやマティスに大 きな影響を与えたことでも知られ、「近代絵画の父」 とも呼ばれています。セザンヌがいたからこそピカ ソらはキュビズムを生み出せたと言っても過言では ないでしょう。セザンヌは、20世紀に開花する近代 絵画の扉を最初に開けたアーティストです。  現代でも、キュビズムにつながるセザンヌの最初 の作品がオークションに出品されれば、70億円や80 億円、それ以上の値が付くかもしれません。なぜな ら、その作品の背景にはアートの歴史における重要 な価値があるからです。その作品がセザンヌによっ て作られたことで、その後のアートの流れが生まれ ました。セザンヌがいたからピカソもいた。だから、 そのセザンヌの最初の作品の価値も高まるわけです。  そのセザンヌの作品に匹敵する価値があのピープ ルの作品にもあったと言っても、言い過ぎではない と思います。今後、どのようなアーティストがデジ タル上に現れるかは分かりませんが、そのア上アイ ストはピープルの築いた仕組みを多かれ少なかれ利 用するでしょう。  もしかしたら今後何十年、あるいは何百年も続く アートの仕組みを確立したのが、あのピープルの作 品だったとなるかもしれません。今後、かつてのピ カソのようなアーティストがデジタル上で現れても 不思議ではありません。それが戯言ではないことを、 アートシーンがいつか教えてくれると思います。も し本当にそうなれば、あのピープルの作品の価値は もっと高まるでしよう。  ただ、ピープルはオークションで歴史的な高値を 付ける作品を意図的に作ったわけではないと思いま す。あそこまでの値が付くとは考えていなかったけ れど、彼のアート作品の作り方が時代の流れに見事 にマッチして、あの価格になったのでしょう。  この出来事の衝撃は、アートシーンだけにとどま らないのではないかとも私は思っています。この ピープルの作品は、デジタルの世界の中でオリジナ ルデータが存在できることを証明しました。さらに、 そのオリジナルデータに対して大金を動かせるとい うことも実証しました。この仕組みを応用した新し いビジネスやサービスがこれから生まれるかもしれ ません。それが何なのかは私には分かりませんが、 少なくとも私たちはこのピープルの作品から「デジ タルの世界でオリジナル性を示すことができたら人 間は何をやり始めるのか」という「問い」も感じる ことができるでしょう。    「現代アート」はもう終わった  比較するつもりはないのですが、ピープルという ア上アイストがアートシーンの最前線に現れたとき、 私はバンクシーの存在感が薄らぐのを感じました。 バンクシーは「現代美術」の最先端を走るアーティ ストの中でもトップランナーに近い存在でしたが、 バンクシーが作り出した現代アートの仕組みは、 ピープルが作り出したデジタルアートの仕組みほど には歴史的な重みがないように思います。  私は今、デジタルアートを含むテクノロジーアー トやサイエンスアートに触れる機会が多くなってい るのですが、だんだんと「現代アート」や「現代美 術」を古く感じるようになっています。ときに、そ の分野のアーティストがオールドスクール出身のよ うに思えるときもあります。そのアーティストやそ の作品に価値がないと言っているわけでは決してな く、印象派、ポスト印象派、近代美術、現代美術と いうアートの歴史の流れがあるとすれば、「現代美 術」の時代がもう終わりを迎えつつあるように感じ るのです。  近代美術(モダンアート)と現代美術(コンテンポ ラリーアート)の境目を示す画家が、美術史家に よって「ピカソだ」「モンドリアンだ」「ポロック だ」などと異なるように、現代美術とこれから始ま る美術の時代区分にも幅が生じるでしょう。だから、 今はアートシーンにおいてとても面白い時期で、あ まり経験できない端境期かもしれないのです。  おそらく、やがて「現代美術」の次に来るアート 時代の名前が現れるでしょう。それが「デジタル アート」なのか、「テクノロジーアート」なのか、 「サイエンスアート」なのか、「バイオアート」なの か、「未来アート」なのか、どう呼ばれるかは私に は分かりませんが、きっと出てくると思います。そ の新しい時代の初期を代表するアーティストは、た ぶんピープルであって、バンクシーではないでしょ う。日本では真鍋大度あるいは脇田玲かもしれませ んし、猪子寿之が率いるチームラボなのかもしれま せん。  今後、美術館も変わるかもしれません。これまで は、古典美術の作品も現代美術の作品も同じ建物の 中で並べることができました。しかし、デジタル アートやテクノロジーアートの作品になると、従来 の美術館では作品の本領を発揮させるのが難しく なってきました。チームラボが森ビルと組んで体感 型ミュージアムを東京のお台場に開設したのも、従 来の美術館ではプルスインクできないと思ったから だと思います。  コレクターたちも今後、変わっていく可能性があ ります。少なくとも、従来通りにアート作品を買う 層と、積極的にデジタルアートのようなデータ作品 を買う層に分かれると思います。一つのデジタル作 品を複数の人でシェアするケースも増えていくかも しれません。そのシェアを前提としたシェアアート と呼ばれるような作品も現れて、大人数でアート作 品を所有できるようになったり、アートの民主主義 を「問い」とするアーティストが現れたりするかも しれません。その仕組みがうまくいくかどうかは分 かりませんが、そんな可能性が山のようにあるのが 新しいアート時代の特徴だと思います。  今、私たちはアートの大きな分岐点にいます。 100年後の世界から振り返ったら、今ここは、古 典美術から現代美術まで続いた大きなアート時代が 終わりを迎え、新しい大きなアート時代が始まった 移行期に見えるかもしれません。もしかしたら 100年後、ニューヨークの近代美術館(MOMA) やパリのポンピドゥーセンター、ロンドンのテー トーモダンは、古典美術から現代美術までを扱う オールドスクールのアーティストの作品を扱う美術 館になっているかもしれません。現代の浮世絵美術 館のような存在になっていても、まったく不思議で はないでしょう。  もちろん、MOMAやポンピドゥーセンターや テートーモダンが今も昔も未来も社会にとって大切 な場所であることは一つも変わりません。そして、 その施設の隣に、デジタル機器を満載した大きな建 物が建っているかもしれません。その二つの施設で 鑑賞できる作品の間は断絶しているわけではなく、 むしろアートという線で強く結び付いているのだと 思います。   日本にはないアートの「追及権」  蛇足かもしれませんが、ピープルのところで触れ た「追及権」について少し説明したいと思います。 この権利は、アーティストの創作環境を良くする仕 組みでもあり、ぜひ読者の方に知っていただきたい と思います。結果的にアートシーンが活気づくこと になれば、鑑賞する私たちにとっても、素晴らしい 作品に多く出会えるというメリットがもたらされま す。ちなみに、日本ではこの権利がまだ認められて いません。  この権利は作品の制作者、つまりアーティストに 与えられます。この権利が与えられる国のアーティ スト(その相続人を含む場合もある)は、自分の作品 (原作品)がアートディーラーやオークション(ウ スなどで転売されたときに、その取引額の一部を受 け取ることができます。国によってさまざまな条件 やルール、支払い額があるのですが、最大のポイン トは転売でもアーティストが利益を得られるという 点です。  この追及権が認められないと、アーティストは展 覧会などで作品を売り渡したときだけしか利益が得 られません。優れたア上アイストの素晴らしいアー ト作品は、転売される度に値が上かっていくもので す。しかし、いくら高値を付けても、転売市場(セ カンダリーマーヶツト)でアーティストが得られる利 益はありません。  すると、名前や作品がよく知られるアーティスト でも、経済的に不安定なままになりやすく、創作活 動を続けるのに苦労するケースが生じてしまいます。 その結果、アート作品の質が落ちたり、創作される 数が減ってしまったりします。実際に評価されてい ても経済的に苦労しているアーティストは数多くい ます。  そこで、転売市場の取り引きでも、売買が成立し た場合は、作品の創作者であるアーティストに取引 額の一部を渡すべきだという議論が生じ、その権利 がだんだんと認識されるようになっていったのです。 ちなみに、この権利の起源は意外と古く、1920 年にフランスで生じたとも言われています。現在、 ヨーロッパの国々を中心に多くの国で認められるよ うになっています。  残念なことに、日本ではこの権利がまだ認められ ておらず、この国では、アート界の評価が高いアー ティストでも創作活動を続けるのに苦労することが 多々あります。また、追及権のない国のアーティス トは、追及権のある国のセカンダリーマーケットで 作品が取り引きされても、支払いを受ける権利があ りません。  今、日本は経済的なゆとりを失いつつあります。 その変化の中でこの権利が認められないと、アー ティストたちはますます創作活動がしづらくなって しまうでしょう。豊かな才能を持つアーティストが いても、創作活動を続けられなければ作品は生まれ ません。私たちが目にできる素晴らしいアート作品 も少なくなっていきます。  本書をここまで読んでくださった方なら分かって いただけると思いますが、アートは社会と密接に結 び付いています。社会がアートを支援する仕組みを 作ることは、私たちの社会をより良くすることにつ ながります。アートはいつも社会に必要な「問い」 を発してきましたし、これからもそうしていくので す。より多くの方が、アーティストの創作活動が少 しでもしやすくなる社会的な仕組み作りに対して、 積極的な理解を示していただければと切に願ってい ます。   ブロックチェーンがもたらすビジネスチャ   ンス  この「追及権」の考え方は今後、ピープルが示し たように、ブロックチェーンなどのデジタル技術と 組み合わせて、アート以外の分野でも適用されたり 応用されたりするのではないかと思っています。す でに、その動きがあちこちで見られます。  例えば、ある有名なシューズメーカーはブロック チェーンを用いてスニーカーの所有者を追跡できる システムを開発しました。おそらく、開発目的の一 つは、いわゆる「転売ヤー」対策です。転売ヤーは 人気のスニーカーを買い占めてセカンダリーマー ケットで高く売り、さらに別の転売ヤーが買って再 びセカンダリーマーケットで高く売るという構図の 中で、値が異常に高騰してしまうことがあります。 人気のスニーカーはコレクターが多く、高値でも売 買されるので、転売ヤーたちの格好な商材となった のです。  シューズメーカーは、この事態に対して困惑し続 けていたのだと思います。なぜなら、自分たちが作 る商品の価格がコントロールできないからです。ま た、自分たちが作った商品が転売されて多額の利益 が生じているのに、自分たちには1円も入ってきま せん。これも不愉快に思っていたはずです。さらに、 セカンダリーマーケットで偽物や盗品が取り引きさ れることにも、大いに思うところがあったのでしよ う。つまり、今の法律の仕組みでは、アートの「著 作権」や「追及権」のようなものがシューズメー カーにはないのです。  そこで、メーカーは転売されても所有者を管理で きる仕組みを独自に作ったのだと思います。所有者 を管理できれば、転売ヤーたちによる不当な値上げ を監視できますし、偽物や盗品であるかどうかも分 かりやすくなります。消費者も、不当に高い商品や 危うい商品だと分かれば手を出さないでしょう。  さらに、この仕組みをもっと進展させれば、ビー プルの作品のように、制作物が転売される度に製造 したメーカーやデザイナー、職人などが利益を得ら れる仕組みも作れるかもしれません。その仕組みを 構築できれば、製造者の創作意欲も高まるでしよう。  セカンダリーマーケットを見れば、コレクターが 高額で買い求めるものがいろいろとあります。例え ば、腕時計や宝石、自動車、アートなどです。多く のコレクターがいて、高値が付きやすい商品があれ ば、必ず転売ヤーが目を付けます。そうして転売が 繰り返されれば、実際の価値とは無関係に値ぽつり 上がっていきます。いわゆる「バブル」の状態です。 バブルはいつかはじけます。  このような危うい状態を作らないためにも、ブ ロックチェーンなどのデジタル技術で所有者を管理 できるようにすれば、その商品を本当に欲しいと思 うコレクターが安心して売買できるようになります。 すべてのセカンダリーマーケットの商品をブロック チェーンで管理するのは難しいかもしれませんが、 それをうまくやる仕組みを考え出す人が現れるので はないかと思っています。  ピープルが構築したブロックチェーンによるアー ティストヘの利益還元の方法は、新しい商取引の提 案でもあり、新たなビジネスチャンスの提示でもあ ると思います。アートは、このように、社会の最先 端の課題を解決するためのヒントを与えてくれます。   「ジェネリックアーティスト」の危うさ 「ジ子不リックア上アイスト」という言葉をご存じ でしょうか。「ジ子不リック」という言葉はいろい ろな分野で使われているようですが、近年、アート の分野でもよく耳にします。このジ子不リックアー ティストの作品の特徴は、有名なア上アイストの作 品の雰囲気と似ているところです。例えば、奈良美 智さんの作風に似ているア上アイストがいるのです が、その作品がセカンダリーマーケットなどで人気 だったりします。  実は、このジ子不リックアーテイストたちの作品 が取り引きされる背後で、転売ヤーたちが動いてい ると言われています。私か見聞きしている範囲で推 察すれば、ブロックチェーンの導入によってスニー カーで商売しづらくなった転売ヤーたちが、次の商 材としてアート作品に目を付けたようなのです。  アートの世界はまだ従来の方法で作品が取り引き されています。やがて有名なアーティストの作品は ブロックチェーンで管理されるようになるかもしれ ませんが、現在はまだそのような状況になっていま せんし、将来においても若手のア圭アイストの作品 はこれまでと同じように取り引きされると思います。 そんな若いアーティストの中で、有名なアーティス トに近い作風を持っていると、転売ヤーたちが目を 付けるのです。  もちろん、そのアーティストは自分がジ子不リッ クアーティストだとは思っていないでしょう。思っ ていても認めないでしょう。アーティストであれば、 独自性と雨期性が何よりも重要であることを知って います。しかし、アートの歴史を軽視するアーティ ストは、たいてい過去のアーティストの焼き直しを してしまうものです。  ただ、ジ子不リックアーティストの作品は、転売 ヤーたちによって買われ、国内のアートオークショ ンなどで見せかけの人気や価値が作り出されます。 そして、それに触発された消費者が買い求めるので す。それが繰り返されるうちに、そのアート的な価 値とはかけ離れた値につり上がっていきます。  しかし、このようなバブルの状況は長続きしませ ん。やがて消費者が「このアーティストの作品にど れだけのアート的な価値があるのか」と疑問に思う ようになると、急に人気がなくなったり、値が一気 に崩れたりします。一番損をするのはこのアート作 品を高値で買った一般の方です。  私は、多くの方がアート作品を自ら購入して部屋 に飾って親しむ習慣を持ってほしいと思っています。 素晴らしいアート作品は、長く付き合うほどに、さ まざまな「問い」をさまざまに投げかけてくれるも のです。その「問い」は所有者(鑑賞者)の人生を 豊かにしてくれます。若手のアーティストの作品な ら安く買えることもありますので、私はそのような 作品の購入をアートの初心者によくすすめます。た だし、そのアート作品を選ぶにあたっては、マー ケット上の人気ではなく、自分の目で見て、じっく りと鑑賞し、心に響くものがあるかどうかを確かめ てからにすべきです。ここでは詳しく書きませんが、 「おわりに」にア上アイストの見極め方について少 し書きましたので、ご一読ください。 第三章「アート思考」とは意識の壁を壊    すこと   アートは人々の感覚と意識の壁を取り除く  アートとは「問い」である。そうであれば、なぜ ア上アイストは「問い」を鑑賞者や社会に投げかけ るのでしょうか。何か必然性のようなものがあるの でしょうか。  ア上アイストは誰かに頼まれたわけでもないのに 自ら「問い」を作って、基本的に言葉には頼らず、 それを時間と手間と労力を使って形や色、作品の強 度などで伝えようとします。どうして、わざわざそ んなことをするのでしょうか。芸術学の専門家や美 術評論家に聞けば、さまざまな考えを教えてくれる と思います。ただ、私はわりとシンプルにこう考え ています。  アーティストが「問い」を発するのは、人間の感 覚と意識を拡張したいからだと。  ア上アイストは、不特定の鑑賞者に今まで感じた ことがないものを感じさせたいと思っています。言 葉に頼らないのは、今まで覚えたことのない感覚を 味わわせたいからです。アーティストの中には、そ の新たな感覚を通して、人々に新たな意識を生み出 させようとする人もいます。人が持つ感覚を通して、 今まで感じたことのない感覚を覚えさせることで、 それまで頭の中にあった意識の壁を人々に越えさせ ようとするのです。  アーティストは、お金のためではなく、あるいは 誰かの依頼に応えるためでもなく、人々の意識の拡 張を図ろうとします。それはなぜか。この答えに絶 対的に答えられる人はいないと思いますが、アート はそうやって人類の歴史とともに営まれてきたのだ ろうし、アートが人々の意識を拡張する度に人類は より自由になれたのではないかと私は思っています。  私は、美術館などにあるアート作品を見に行くか どうかを決めるとき、頭にある意識の壁を壊してく れそうかどうかを一つの基準にしています。どんな に頭を柔らかくしていても、いつの間にか「こんな ことは無理だ」とか「アート作品はこう見るもの だ」とか「科学技術はやがて人々を不幸にするに決 まっている」などという固定観念のような意識の壁 が、頭の中で築かれてしまうものですし、自分でそ んな意識の壁を取り除くのも難しいものです。  しかし、この意識の壁を打ち破ってくれるのが アートです。私は、そんなアート作品があるかもし れないと思える展覧会や芸術祭などがあれば、積極 的に足を運びます。私は、アートによって意識の壁 を越えたとき、生きるのが楽しくなったり思考の幅 が広がったりして、自分の感じ方や考え方がより自 由になることを知っています。  この章では、人々の意識の壁を驚くべき方法(と ても意外な表現の仕方)で打ち破ったアーティストを いろいろと紹介したいと思います。ぜひ、自分の頭 にある意識の壁を乗り越え、思考の幅を広げるきっ かけにしてください。   マーティンークリードー「創作物がな   い」アート  最初にご紹介したいのは、マーティンークリード についてです。英国のアーティストで、2001年 に『作品番号227とワイドが点いたり消えたり』 (2000年)で「ターナー賞」を受賞しました。  このターナー賞は、18世紀の終わりから19世紀の 前半にかけて活躍した英国のアーティスト、ジョゼ フーマロードーウィリアムーターナーの名前を冠に した賞で、現代アートに大きな貢献をした英国人、 もしくは英国在住のアーティストに授与します。主 催は英国の国立美術館を運営するデートギャラリー で、現代アートにおける権威ある賞の一つです。つ まり、マーティンークリードは、英国がお墨付きを 与えた由緒正しい現代アーティストの一人というこ とです。  しかし、このターナー賞の授賞式で、プレゼン ターのマドンナ(米国のシンガーソングライター)は 受賞作品に対して「こんな作品、まったく理解でき ない。どうして受賞できたのか分からない」という 趣旨の発言をして大きな話題となりました。マドン ナはどうしてこのような発言をしたのか。推測する に、『作品番号227とワイドが点いたり消えた り』が創作物(アート作品)に見えなかったからで しょう。  この作品は、タイトルが示す通り、美術館などに ある一つの部屋のライトが点いたり消えたりするだ けのものです。その部屋には何もありません。ライ トが点いては消えるだけで、そこには創作されたも のは一つもないのです。  これはいったいどういうことなのか。もうお気付 きだと思いますが、このアーティストはライトを点 滅させることのみで大きな「問い」を投げかけてい るのです。言葉にすれば、「アートに創作物は必要 なのか」とか「つくるとはどういうことか」という 「問い」になると思います。その究極の「問い」を 感じさせて鑑賞者の意識の拡張を図るという意味で は、これは見事なアート作品です。  普通、「作る」「造る」「創る」と言われたら、何 か物を生み出すことだと考えるものです。アートの 世界であれば、絵画を描いたり、彫刻を作ったり、 写真を撮ったります。しかし、クリードは「作る」 「造る」「創る」ことをまったくせず、それでも作品 を。つくリヘ私たちの「普通」という意識の壁を 打ち破ろうとするのです。その表現手法は洗練され ていて、ユーモアさえ感じます。  私はこの作品を実際に見たことがあります。何も ないので「見た」と言えるかどうかは分かりません が、その作品のライトが点いたり消えたりする空間 に入りました。そのときに覚えたのは、なんとも言 えない不思議な感じです。その部屋の空間を、妙に 深く感じ入りました。例えば、天井の高さ、部屋の 奥行き、壁の長さなどを強く感じ、「空間」という ものを生まれて初めてきちんと認識した気持ちにさ えなりました。  この空間の中で、私は普段の生活で見落としてい ることや意識しないでいることがたくさんあるので はないかと思いました。「私たちは見えているもの を本当に見ているのか」。クリードの作品は、「見え ていても存在を意識できていないことが実はたくさ んある」ということに気付かせてくれます。  この作品が現代アートを代表する賞を受賞したと き、私はこれからのアート作品には「つくる」が問 われると思いました。第一章や第二章で紹介した アーティストの作品の多くも、一般に知られている アートの創作物とは少しイメージが違うと思います。 ストリートの壁に描いた絵だったり、女性がイルカ を産んだように見える写真だったりなど、それらに は従来の「創作」とは異なる印象があると思います。 しかし、それも「つくる」なのです。私たちの意識 を拡張してくれるアート作品なのです。マーティ ンークリードは、アート作品のあり方を拡張し、現 代のアートの自由度を引き上げたアーティストの一 人だと言えます。    「つくる」とは何か  クリードは「つくらない」作品を通して「つくる とは何か」という「問い」をアート界や社会に投げ かけました。このような思考法こそ「アート思考」 の良い例ではないでしょうか。見慣れた日常をもう 一度見直したり、当たり前だと思っている思考を改 めて考え直したり、普通だと思っていることを一度 リセットして感じ直したりするという重要さを、ク リードは教えてくれているように思います。  クリードの作品には、こんなアート思考を刺激す るものがたくさんあるので、ぜひインターネットな どで検索して調べてみてください。彼のユニークな ところは、その作品名にも表れています。基本的に 。番号”だけです。例えば『作品番号990』は部 屋のカーテンが勢いよく開いたり閉じたりするだけ の作品です。まったくそれだけなのですが、カーテ ンが開けば窓の外の風景が見え、力上アンが閉じれ ば窓の外の風景は見えなくなります。それを交互に 繰り返すと、その違いがなんだか大きな違いのよう に思えてきますし、そんな大きな違いがあることに 今まで気付けていなかったことに気付かされます。  他に、部屋の中にたくさんの風船が詰め込まれた 作品もあります(『作品番号268』)。鑑賞者はこの 部屋の中に入っていき、少し苦労しながらも楽しみ ながら歩くことになります。普段は、部屋の中に空 気があることなんて意識することはないのですが、 風船を詰め込まれた空間を歩くことで、部屋の中に ある空気を意識せずにいられなくなります。  極めっきは『作品番号850』です。これは、ラ ンナーが美術館の廊下を走り抜けるという作品です。 しかも、その美術館は英国では大英博物館に比肩す るほどの権威を持つ美術館「テートーブリテン」で す。  私は以前、この作品を鑑賞するためにテートーブ リテンまで足を運んだことがあります。マーティ ンークリードの作品が見られると聞いてわざわざ訪 れたのですが、中に入ると常設展しかやっていませ んでした。「どういうことだろう?」などと思って いると、いきなり長い廊下の向こうからランナー姿 の人間がわりと速い速度で走ってきて、私の目の前 を通り過ぎ、反対側の奥まで走っていったのです。 『作品番号850』はそういう作品でした。  普通、美術館の中は走ってはいけません。クリー ドはこの「普通」の壁を打ち破ろうとしたのです。 では、この壁を壊すことで見えてくるものは何で しょうか。それは、美術館の中にある暗黙の「ルー ル」だと考えられます。クリードは常に、意識の壁 を打ち破り、それまで見えなかったことを意識させ てくれるのです。   マーティンークリードを招いて個展を開く  私はかつて東京都江東区の清澄白河に Firomiyoshiijというギャラリーを構えていまし た。ここでマーティンークリードの展覧会を開き、 アーティスト本人を呼んだことがあります。トーク ショーのようなイベントも開き、とてもユニークな 個展を作ることができました。  あえて「普通」という言葉を使いますが、普通、 アーティストは作品を作りながら「問い」を形作っ ていき、それに対する答えをアーティスト自身も探 していくのだと思います。絵画を描くアーティスト なら、絵を描きながら自ら自分に問いかけて答えを 見つけ出していく。作品と対話するように「問い」 を洗練させていくのが創作活動ではないかと思って います。  しかし、マーティンークリードは従来のような創 作方法では「作品」を作りません。そうであれば、 彼は「問い」を生み出して洗練させる独自のやり方 を持っているはずです。私は「ものすごい珍しい アーティストだ」と思い、彼の個展を開き、彼を招 けば、何かが分かると期待しました。  しかし、彼との会話は、正直、禅問答のような感 じでした。私か質問すると、それに答えることはせ ず、絶妙な質問で返してくるのです。仕方がないの で、こちらがその質問に答えると、そこに彼が別の 答えを重ねてくる。会話の方向感覚がだんだんと失 われていくという経験を人生で初めてしました。  おそらく、彼はあらゆることに対して答えを出さ ないようにしているのでしょう。「つくる」ことを すれば、「問い」だけでなく、必然的に「答え」の ようなものも生み出されてしまいます。言い換える と、「つくる」ということをすれば、何かが出来上 がってしまうのです。もし「つくる」ことだけが重 要なのであれば、あるいは「問い」を発することだ けが重要なのであれば、いかに出来上がらないよう に、いかに「答え」が出ないように「つくる」かが 重要になってくるはずです。クリードはそんな矛盾 するようなことを、アートを通して挑んでいるのか もしれません。  クリードの個展を開き、クリードと話す機会を得 て、私は自分の中で何かが変わったように感じまし た。うまく言葉にできないのですが、私の頭の中に ある意識の壁が大きく崩されたと思っています。私 の職業はアートディレクターで、絵や彫刻などの アート作品を売るのが仕事だと思っていましたが、 クリードと出会って「この仕事のやり方でいいの か」と立ち止まって考えるようになったのです。そ れで実際に何か大きく変わったということはないの ですが、仕事に対する取り組み方がそこから変わっ ていったのは確かです。   ジョシュースミスー顔のない自画像  次に話したいアーティストは、ジョシュースミス です。このアーティストも、マーティンークリード と同じように「つくるとはどういうことか」という 問いを投げかけていると、私は思っています。  スミスの作品の中で特に有名なのは自画像です。 この自画像はどう見ても「普通」ではありません。 宍六白六大干   y ’』 “跖一Wy一   Si * £‰  今はネームペインティング以外の作品もあるので すが、かつてはその一連の作品だけを作っていまし た。だから、彼の展覧会に行くと、「Josh Smith」 という文字がさまざまに描かれた作品だけが並んで いて、それはそれでとても圧倒的な光景でした。  たぶん、このスミスの作品を見た多くの鑑賞者は 「自分の名前を書くだけなら私もできる」と思った ことでしょう。私もそう思いました。しかし、スミ スの狙いはまさにそこにあると思います。誰でもで きることをあえて(絶妙に)することで「つくると は何か」という「問い」を存立させたのです。別の 言い方をすると、彼は自分の名前を描くことで、 人々の中にあった「自画像」という意識の壁を打ち 破ったのです。  アーティストが優れた技能を用いて描く自画像だ けがアート作品になるという考え方は、私たちがい つの間にか築いてしまっている意識の壁です。その 壁を人々が乗り越えることができたら、アートは もっと進展するかもしれません。スミスは、そんな 「問い」を投げかけてもいると思います。  彼の作品を見ていて私か強く感じるのは、創造と いう営みはもっとプリミティブ(原始的)なもので いいのかもしれないということです。入学が難しい 美術大学に入って基礎技術を磨くことも大切ですが、 もっと自由に原始的な思いでアート作品を創造して もいいのかもしれません。  今、ビジネスの世界ではイノベーションの剔出が 大きな課題になっており、最先端の科学から生まれ る科学技術も重要だと思いますが、もっとプリミ ティブな思いから生まれた製品やサービスが意外と 社会に大きな影響を与えるのかもしれません。具体 的な提案はできませんが、スミスの作品を通して身 に付ける「アート思考」は、私たちの既成の価値観 を打ち破るときにも役立つと思います。スミスの作 品も、インターネットで検索すると、その片鱗がい ろいろと出てきますので、ぜひ調べてみてください。   遠藤一郎−「応援」をアートにする  次に紹介する遠藤一郎さんは、私かよく知るアー ティストの一人です。強烈な個性を持ったアーティ ストですが、彼も何かを作り出すということはしま せん。独自のパフォーマンスアートを中心にした活 動をしているのですが、その中でも遠藤さんを一躍 有名にしたのが「応援」のパフォーマンスアートで す。  例えば目の前に佐藤さんという人がいれば「フ レー’・ フレー’・ 佐藤’・」と叫びながら、佐藤さ んを応援する言葉を大声で言うのです。応援するの は人物だけではありません。「六本木クロッシング」 などの芸術イベントにおけるパフォーマンスアート では、「フレー’・ フレー’・ アート」と絶叫しな がら、アートが私たちにしてきてくれたことや、 アートがこれからどれだけ必要なのかを大声で言い ながら応援するのです。  おそらく、これを読んだ多くの方が「えっ、それ はアートなの?」と思うことでしょう。何をもって アートと呼ぶのかという議論には正解がないので、 遠藤さんのパフォーマンスアートをアートと呼ぶか どうかは人によって異なると思います。ただ、私は 彼のパフォーマンスアートは極めて洗練されたアー トだと思っています。何より、遠藤さんのパフォー マンスアートには人を勇気づけるものがあります。  私は、アートは人を勇気づけるものだと思ってい ます。その作品が人の感情を激しく揺さぶり、心地 よくない気持ちを抱かせるものであっても、その作 品を通して投げかけたアーティストの「問い」は、 鑑賞者のその後の大生や社会の未来を豊かなものに するものです。もし、そうでなければ、例えば単に 刺激的で大を不快な気持ちにさせるだけなら、やが て社会から消え去るものになるでしょう。  大は、他人を応援する生き物です。これはとても 人間らしい行為です。人間が人間でいられるための 一つの条件かもしれません。遠藤さんの「応援」パ フォーマンスアートは、人を元気にしたいという気 持ちや行動をプリミティブに表現することで、アー ト活動の本質の一つを洗練させたと言うことができ ると思います。彼はおそらく「アートとは何か」と いう自問を繰り返して突き詰めた果てに「応援」と いう表現に至ったのでしょう。「人を元気にさせる パフォーマンスだけでアートは成立するのか」。お そらくこれが彼の発している「問い」です。アート の文脈においても深い「問い」だと思います。  そんな彼が私のギャラリーで個展を開きました。 2014年5月のことです。タイトルは『アートに センスいらねえロマンがあればいいのよ』という ものでした(図3‐2)。この展覧会で、遠藤さんはア クションペインティングのパフォーマンスを披露し てくれました。自い壁に大きな横長の自いキャンバ スが設置され、壁やキャンバスに体を打ち付けなが ら、ときに大きな声で叫びながら、手に付けたペイ ントの色を叩きつけたり、口圭フーでカラフルな線 を引いたりして、やがてその上に太い線で「大好き なんだ おまえらが」と書き、何度も「大好きなん だ おまえらが」と絶叫しました。その後も、エレ キギターを即興で(滅茶苦茶に)弾いて人生につい て歌ったり、体全身を使ってキャンバスに色を叩き つけたりを繰り返して、さらに「大好きなんだ お まえらが」と叫び続けました。そして、たくさんの 色が塗り重ねられた小さなキャンバスの上に、叩き 過ぎてしびれているはずの手で「泣くな」と赤い字 で書いたのでした。   岡本太郎と似ている  私は、彼のパフォーマンスアートを見て、岡本太 郎さんに似ていると思いました。岡本さんは銀座で 画廊を経営していた私の父と仲が良く、ときどき私 の生家にも遊びに来られました。そのとき、子ども だった私と一緒に遊んでくれたのですが、その遊び 方はいつも真剣でした。本気で子どものように遊ぼ うとするので、子どもなからに驚いた記憶がありま す。もっと驚いたのは、私の子ども部屋で岡本さん が寝始めたことです。理由はよく分からなかったの ですが、寝息をたてて急に寝てしまいました。今思 うと、岡本さんは自分の感覚を研ぎ澄ませることに 日々命を燃やしていたのかもしれません。  岡本さんは、才能の人というよりも覚悟の人だっ たように思います。美術の権威や社会の固定観念に 対して、全身で「NO」を突きつけていく。まるで 自分を追い込むようにして強いものに立ち向かい、 そして人々の意識の壁を壊していく。そんな岡本さ んの生き方は、作品とともに力強いメッセージを発 しました。今も、囗本の中で幅広い世代から愛され ているのは、作風だけでなく、この岡本さんの生き 方が現代社会でも価値のあるものだからだと思いま す。  遠藤さんのパフォーマンスアートも、そんな純粋 であり続けようとする人間の生き方の上に成り立っ ているように感じます。遠藤さんが私のギャラリー で個展を開いたころは、師であるアーティストの会 田誠さんに提供されたワゴンで車上生活をしていて、 その車で各地に移動して応援パフォーマンスアート を展開していました。  そのワゴンの車体には誰もが自由に好きなことを 書き込むことができて、彼が車上生活をすればする ほど、それだけで温かい気持ちが囗本中に広がって いき、何かを応援するパフォーマンスアートにつな がっていくのでした。彼の活動は、すべてがアート になっている点で画期的であり、アートはもっとプ リミティブなものでいいのではないかという意義深 いメッセージも、その活動には見られます。  岡本太郎さんもよく言っていましたが、アートに うまさは必要ありません。人類が生活の役に立たな いアートをなぜ有史以前から作ってきたかと言えば、 人の心を動かすというプリミティブな役割を担えた からだと思います。その原点に立ち返れば、アート 作品に「つくる」というプロセスはそれほど必要な いと言えます。むしろ応援のように、他人の心を動 かすことのほうが重要かもしれません。この考えを さらに拡張すれば、人の心をプリミティブに動かす 生き方ができるとすれば、それもアートと呼べるの かもしれません。  絵をうまく描けないし、写真も上手に撮れないし、 彫刻も手先が器用ではないから作ることができない という大も、生き方次第でアーティストになれるの かもしれない。遠藤一郎さんは、自身のパフォーマ ンスアートを通して「生きることそのものがアート ではないのか」と問いかけてもいるのでしょう。   会田誠が育てた新しい世代  ちなみに、この遠藤さんは次の章で紹介するアー ティスト集団「Chim→tOヨ」の主要メンバーと同 じ時期に「美学校」(東京都千代田区)という私塾に 通っていました。そこで、囗本の現代美術を代表す るアーティストの一人、会田誠さんから学び、卒業 後に頭角を現していきました。  この美学校は、美術大学とは異なり入学するため の試験や資格はありません。正規の美術教育はしな いのですが、名だたるアーティストや作家、クリエ イター、映画監督などが教壇に立ち、多くのアー ティストの卵を輩出し、その出身者の中には現在活 躍するアーティストやクリエイターが少なくありま せん。  遠藤さんの師である会田さんは、1965年生ま れのアーティストで、年齢的には村上隆さんや奈良 美智さんより少し下になります。会田さんの作品の 特徴は、ユーモアの中に鋭い社会批判やアイロニー を込めるところです。特に日本社会や日本文化に関 わる作品が多く、その独自性は日本の現代アートの 中では群を抜いています。高く評価されるア上アイ ストでも、たいてい似ている作風のア上アイストが 他にいるものですが、会田さんの場合は、その作風 に類例がないと思います。私は会田さんの作品を取 り扱ったことはありませんが、彼は間違いなく「天 才」だと思います。  その会田さんが見いたした遠藤一郎さんや の吹ぽ→?ヨも、その作風には類例がないと思い ます。独自性が非常に高い表現に加えて、日本なら ではのローカリティーのような面も強く、とても面 白いオリジナルのアートシーンが2000年代の後 半に日本に次々に出てきたのです。私は、この外国 にはいないタイプの日本人アーティストたちが世界 に進出したら、大きくスパークするのではないかと 本気で思っています。  今振り返って思うのは、世界的に知られる現代 アートの国際美術展覧会「ヴ子不チアービエンナー レ」の囗本館で、飛ぶ鳥を落とす勢いだったときの 彼らの作品やパフォーマンスを世界の人たちに見せ てほしかったということです。もしかしたら、彼ら はそこで世界的なアーティストになる最初のステッ プを踏み出せたかもしれません。当時、私は彼らが 囗本館に選ばれてもおかしくないと思っていました。 しかし当時、特にの弌ぽ→?ヨが何をするか分か らない「炎上系」と思われてしまっているところが あっだので(それは誤解なのですが)、もしかしたら 敬遠されてしまったのでしょうか。  しかし、東京の六本木にある森美術館は、 Chim→?ヨの企画展の開催を予定しています。 この美術館は、過去に草間彌生さん、杉本博司さん、 会田誠さんの個展を開いていて、その流れで Chim→?ヨを選んだのでした。見識の高さを感 じます。 第四章都市は本当に必要かっ・   アートは、すでに都市への「問い」を発し   ていた  2019年に発生した、いわゆる「新型コロナウ イルス感染症」は世界を大混乱させました。感染拡 大を防ぐため、不要不急の外出が制限されて、ステ イホームという自宅待機が社会的に求められ、多く の人がリモートワークという新しい働き方を手探り で始めるなどして移動を自粛しました。  この状況は、人々に少なくないストレスを与え、 またコミュニケーション不足による効率低下などの 問題を起こしました。しかし、一方で、通勤電車に 乗ることや手間のかかる出張がなくなったり、オ フィス内での人間関係によるストレスが軽減された り、あまり必要のなかった会合や会食、パーティが なくなったりするなど、精神的な負担が軽くなると いう面もありました。  このようなコロナ禍の中で、私は盤石だった都市 の存在が揺らぎだしたと感じました。まるで、新型 コロナから「都市は本当に必要なのか?」「都市で なければできないことは何か?」という「問い」を 突きつけられているように思いました。コロナ禍を 経て、社会がどれくらい変化するかは分かりません が、都市の存在価値が問われるのは間違いないで しょう。都市は、これまでと同じようにはいられな いと思います。  実は、アートはすでにコロナ禍の前から都市につ いてさまざまな角度で「問い」を投げかけていまし た。その問いを受け止めることは、ポストコロナの 都市を考える上で役立つと私は思っています。この 章では、都市に対するアートの「問い」をいろいろ と紹介します。   OZヨ→でOヨー「御法度寸前」の表現   で社会を風刺  最初に話したいのは、前章で少し触れた Chim→tOヨというアーティスト集団です。メン バーは卯城竜太・林靖高・エリイ・岡田将孝・稲岡 求・水野俊紀。2005年に東京で結成されました。  このの吹ぽ→?ヨも、遠藤一郎さんと同じよう に、作品を作るというよりは新しいアートの「仕組 み」を考えるアーティストたちです。その作品はと にかく前代未聞のものばかりで、どれも「何だこれ は’・」と思わずにはいられません。ただ、その作品 が投げかける「問い」には、現代社会に対する鋭い 批判があります。その洗練された「問い」を、見事 なユーモアと皮肉とともに投げかけてくるのです。  社会的に話題になった作品も多々あります。例え ば、『ヒロシマの空をピカツとさせる』(2008年) という作品は、広島の「原爆ドーム」の上空に「ピ カツ」という字を飛行機で描いたもので、これは大 きく報道されて大いに物議を醸しました。  この騒動によって、企画されていた広島市現代美 術館での彼らの個展は中止。しかし、のゴぽ→?ヨ はその後もヒロシマと核問題をテーマにした作品を 発表し続け、2009年からは広島ではない場所で 展覧会「広島’・」を開き、その後も「’・」を一つず つ増やしながら各地を巡回するという活動を始めま した。そして、2013年に広島で「広島卜凵川」 という展覧会を開くに至り、この開催には広島市民 も自ら協力したそうです。  また、東日本大震災による原発事故が発生した 2011年には、東京の渋谷駅に設置されている岡 本太郎さんの巨大壁画『明日の神話』の端に、 Chim→?ヨが制作した原発事故の絵(板に描いた もの)をゲリラ的に付け足しました(『』EVE」 7 feat. Myth of Tomorrow』匸図4‐1)。その作風は見事で、 『明日の神話』の作風に合わせながらも、どこか ユーモアも感じさせるものでした。これは、広島の 上空で「ピカツ」を描いたときよりもさらに大きく 報道され、物議もより大きなものになりました。  `・ ’一¨       『  一y r     「。ご」  この作品をどのように評価すべきか。まず大前提 として、既存のアート作品に対して制作したアー ティスト以外が手を入れるということはあってはな りません。それは御法度です。ただ、この Chim→?ヨの場合は、岡本さんのパブリック アートの作品に自分の作品を添えた形で、手を入れ ているわけではありません。それでも、制作者に無 断で作品に影響を与える表現を加えることは、「普 通」は許されることではありません。しかし、 Chim→?ヨはそれを百も承知でこの表現に挑ん だのだと思います。  岡本さんの『明日の神話』は原爆が炸裂した悲劇 の瞬間を描いたものです。ヒロシマと核問題に関わ る作品を作ってきたChim→?ヨがそれを知らな いわけがありません。そして、2011年3月に原 発事故が起きてしまったときに、アートで今何かで きるかと考え抜いて、あのような表現を生み出した のだと思います。彼らは、岡本太郎さんへのリスペ クトを前提に、あの岡本さんの作品が持つメッセー ジを強調するような形で自分たちの作品を付け足し ました。  岡本さんに最大限の敬意を払いながら、「普通」 はやってはいけないとされることにあえて挑んだ Chim→?ヨ。そのやり方は、岡本さんが生前に主 張していた「対極主義」を踏まえた行動だったよう にも思います。岡本さんの作品を管理し、あの巨大 壁画をメキシコから運び出して渋谷駅に設置した平 野暁臣さんも、このときのChim→?ヨの表現に 対してアートの文脈があると評して、不問に付しま した。私も、アート作品に手を加えることは許され ないと思いつつも、岡本太郎さんが今生きていれば、 きっとニヤリと笑って許しだのではないかと思いま す。  Chim→?ヨのこの表現は、社会に対して『明 日の神話』という作品を改めて注目させました。そ して、「私たちは岡本太郎のメッセージをきちんと 受け止めているのか」、あるいは「アートはこの原 発事故に対して何かできることがあるのか」という 「問い」を、岡本さんに代わって社会に投げかけた のだと思います。その表現方法は御法度寸前のギリ ギリのところですが、とても洗練されています。   渋谷の闇をユーモラスに照らし出す  Chim→?ヨの説明をしているうちに「都市を 問う」というテーマから外れてしまいました。話を 戻しましよう。  私かChim→tOヨの作品を初めて見だのは 2007年だったと思います。東京の高円寺にある 小さなギャラリーで展覧会が開催されていると聞き、 見に行ったのです。そこで見だのは『エロキテル』 という作品で、私か抱いた最初の感想を正直に言う と「こんなデタラメな作品があっていいのか」でし た。  その作品は、主に携帯電話と古風なデザインの木 製の箱、そして箱の上にある大きな電球で構成され ていました。その装置のようなもののそばにはパネ ルがあり、アングラ新聞に掲載された小さい広告が 大きく引き延ばされて貼り付けられていました。見 ると「チ○ポムワ エロキテル」と書かれていて、 その下に携帯電話の番号が記されていました。  彼らの作品説明は次のようなものでした。    石油や石炭、天然ガスなどの限りある資源の   代替として、「性欲」を電気に変換することで   永久に安定した干不ルギーを供給すべく開発さ   れたシリーズ作品。媒体問わずエロい広告にそ   れらしき文言と電話番号を掲載。広告を見た不   特定多数の成人男性からかけられた電話の着信   電波を、センサーによって感知してライトを光   らせる仕組みになっている。  つまり、下心のある男性が怪しい広告を見て電話 をすると、木箱のそばの携帯電話が着信し、同時に 箱の上の電球がパツと光るという仕掛けです。それ が本当に干不ルギーを生み出しているかどうかは分 かりませんが、実際に着信がときどきあって、する とランプが光り、箱に仕掛けられたブザーのような ものが「ビーピー」と鳴り響きます。「エロが来て いる」。それと平賀源内の「エレキテル」を組み合 わせて「エロキテル」。ふざけ過ぎている。私は最 初そう思いました。  ただ、作品を見ているうちに、だんだんと「待て よ、これは新しいコンセプチュアルアートではない か」という思いが強くなっていきました。もしかし たら、これは都市にいる見知らぬ人々を巻き込んで アート作品にしているのではないか。新たな参加型 のインタラクティブアートの成功例かもしれないと 思ったのです。  短い時間でもエロキテルのランプは頻繁に光りま す。それほどに都市の中では携帯電話の普及ととも に人と人とのつながりが容易となり、そのつながり から出会いが生じ、場合によっては犯罪も起きるか もしれない……。当時、渋谷などの繁華街では電話 番号が書かれたカードなどが若い女性にたくさん配 られていました。そんなことを光るランプを見なが ら想像していくと、そのランプが都市の闇を照らし 出しているようにも思えました。  しかも、ア上アイストたちや鑑賞者たちは、この 作品に参加した街の人々、つまり電話をかけた人に ついては何も知らないし、どんな人なのかも分から ないのです。電話をかけた本人もインタラクティブ アートに参加しているとはまったく知りません。こ の作品はきわどい表現でありながら、誰も傷つかな い構造を保っているのです。それでいて、都市に関 わる強烈な「問い」をしっかりと存立できている。 ただ、その表現はとてもユーモラスで、ランプが光 ると思わず「ニヤリ」としてしまいます。気付けば、 「こんなアート作品は今まで見たことがない」とう なっていました。彼らは見事に都市の闇をユーモラ スかつシニカルに浮かび上がらせていたのです。   渋谷の野良ネズミをピカチュウに  Chim→?ヨのような表現方法を取るアーティ ストは、世界的に見てもいませんでした。前章でも 少し触れましたが、彼らは美術大学を卒業しておら ず、絵を描いたり彫刻を彫ったりする技術を十分に 持っていませんでした。また、いわゆる社会のメイ ンストリームではない、渋谷のバックストリートの ようなところで生きてきた人たちでもあります。そ んな彼らが、主要メンバーの卯城竜太が私塾「美学 校」に通い始めたことをきっかけにアート活動をす るようになったのでした。  彼らの作品や活動は実にユニークです。メンバー たちが身近に感じるものをモチーフにして、ユーモ ラスかつシニカルに現代社会が生み出す矛盾のよう なものを浮き彫りにしていきます。決して茶化して いるわけではなく、糾弾しているわけでもなく、虚 を突くように「問い」を投げかけていきます。  渋谷生まれのChim→?日の「問い」には都市 に関わるものがいくつもあります。その中でよく知 られる作品の一つが『SUPER RAT J(2016年) (図4‐2)です。      二   ? 七三    ― 一XJ ―      いご      乱一  彼らの説明によれば、「スーパーラット」とは殺 鼠剤などの毒への耐性を遺伝的に獲得した、都市圈 で爆発的に増えているネズミの通称のようです。 Chim→?ヨは、このスーパーラットを網で捕獲 し、それを剥製にしました。さらにアニメ『ポケッ トモンスター』のキャラクター「ピカチュウ」に模 して黄色く着色し、展覧会ごとに異なるジオラマの 中に設置して、捕獲する映像とともに展示(図4‐3)。 そして、「都市の中で自らを生き生きと進化させ、 人間との共存を続けるスーパーラットたちは自分だ  匸 いい 一心一一一一.‘  街をうろつくネズミは世界中、どの社会でも嫌わ れ者ですが、その一方で世界的に愛されるキャラク ターはネズミがモデルだったりもします。ピカチュ ウをはじめ、ミッキーマウス、『トムとジェリー』 のジェリーなど、さまざまなネズミモデルのキャラ クターが国内外にあり、多くの人から愛されていま す。しかし、街にいる本物のネズミは毛嫌いされま す。それなら、「嫌われている都市のネズミが一番 愛されているキャラクターに扮したら愛されるよう になるのか」というユーモラスでシニカルな「問 い」をChim→tOヨは投げかけたわけです。  都市で嫌われているネズミの問題は、元をたどれ ば人間が生み出したものです。ネズミが増えた一因 は大量のフードロスです。栄養豊かな残飯が都市に あふれていたからこそ、ネズミが繁殖したのです。 実際、渋谷や銀座で見かけるネズミはとても太って います。人間はそのネズミを駆除しようとしますが、 元にある問題を解消しなければネズミは増え続ける でしょう。  これは、現代社会が抱える問題がいかに根深いか を示す一つの典型例です。  Chim→?ヨは、そんな社会問題を渋谷のバッ クストリートで感じ取り、ユーモラスな形でシニカ ルに提示します。彼らがピカチュウに扮装させた スーパ圭フットは、どこか美しく力強さも感じさせ ます。この作品も、間違いなくアートでしょう。    『友情か友喰いか友倒れか』  私は、自ら運営していた清澄のギャラリーで Chim→?ヨの個展を開催しました。彼らにとっ ては初の本格的な個展になったと思います。 2008年のことです。このときの展示で私か一番 印象に残っている作品は『友情か友喰いか友倒れか 151ack vr DhAi ti curatea by無人島プロダクショ ン』という作品です(図4‐4)。  ↓ 一叫    ゛卵  哨赫一¨  ` ― ”‘  大きな箱の一面にガラスがはめられて、その中に 渋谷で捕獲したネズミとガラスを入れて、さらにメ ンバーの一人である水野俊紀も中に入り、渋谷で調 達したフードロスの食品だけで食いつなぎながら。 いずれが最初に絶命するかという作品です。人間も 残飯を食べるのですが、ファストフードや弁当店な どで販売期限を過ぎて処分されたばかりの食品もた くさんあるので、不衛生というわけではありません。 むしろ、「こんないい状態のものを捨てるの?」と 驚くような食品がたくさんあります。Chim→tOヨ はそのパフォーマンスを会期中ずっと続けることに しました。  個展を開く前、Chim→?ヨからこのパフォー マンスの企画を出されたときは、正直、私は 「えっ?」と思いました。ギャラリーの中で、野良 のガラスとネズミと人間を入れて、残飯を食べ る……。戸惑いましたが、主役のアーティストたち がやりたいと言っているのだから、やってもらうこ とにしました。  実際にこのパフォーマンスが始まるとさまざまな 反響があり、「残酷だ」という批判も多くいただき ました。目の前にガラスやネズミがいて、人間を含 めていずれかが死ぬことを前提にしたパフォーマン ス。確かに残酷だったのかもしれません。  結局、最初に絶命したのはガラスでした。10囗目 くらいのことです。狭いところに閉じ込められたス トレスが原因のようでした。それで、このパフォー マンスは会期中に終わってしまいました。しかし、 それでも私はこの作品の出来は素晴らしいものだと 思いました。この箱の中には東京という都市や、そ の都市が生み出す社会問題の一端が見事に凝縮され ていると感じたのです。  もっと言うと、この作品は「人間とは何か」とい う「問い」も投げかけていると思いました。都市と いうのは人間が作り出したものですが、その中には ネズミやガラスなどの動物も生きていて、もしかし たら、長い時を経れば人間が先に死に絶えて、この ような動物が生き残るかもしれません。この作品で 提示した都市への「問い」は渋谷だけのものではな い。東京や日本、世界、人類全体に関わる「問い」 にもなっていると私は思いました。  Chim→?ヨはそこまで考えていなかったかも しれませんが、この作品が持ち得る「問い」はそこ まで深いものがあると感じました。  批判される一方で、高く評価してくださる方もい ました。前の章で紹介した東京都現代美術館の著名 な学芸員の長谷川祐子さんもその一人でした。この 作品を「購入の候補にしたい」と言ってくださった のです。囗本の現代アートの殿堂と呼ぶべき東京都 現代美術館の購入となれば、それはのゴぽ→?ヨ が現代アートの文脈として認められたことを意味し ます。当時の彼らにとっては最高の評価です。  しかし、この購入は意外な理由で実現しませんで した。ガラスを飼うのは東京都の条例違反で、東京 都の施設である東京都現代美術館が買うわけにはい かないという話になったようです。ギャラリーでの インスタレーションが、ガラスをゲージで飼ったと 解釈されたのはとても残念に思いました。しかし、 あの長谷川祐子さんがChim→?ヨを認めてくれ たというだけでも個展を開いた意味があったという ものです。少なくとも、都市の闇や人間の闇を照ら し出すChim→toヨというアーティスト集団は、 東京都現代美術館が購入を検討するほどの作品を生 み出せるア上アイスト集団だと証明されたわけです から。  その後、Chim→?ヨは、東日本大震災で発生 した原発事故の後、福島でも活動を展開するように なりました。彼らの作品の幅はさらに広がりを見せ ています。ただ、私は彼らが渋谷のバックストリー トで作り出したアート作品がとても好きで、コロナ 禍を経てそのころの作品を改めて見直すと「都市と は何か」という問いがよリクリアに伝わってくるよ うに感じます。の吹ぽ→?ヨの作品を見る機会が あれば、ぜひ足を運んでみてください。これからの 都市のあり方を考えるヒントがそこに隠れていると 思います。   石上純也−建築の概念を破壊する  次に紹介したいのは建築家の石上純也さんです。 私は第一章で、建築家はデザイナーと同じで、彼ら の作品はアートワークと異なることを指摘しました。 建築家は、デザイナーと同様に、クライアントの要 求に応じて新しい形や問題解決の方法を提示してい きます。そこにクリエイティブな要素があったとし ても、基本的に自分以外の者(主にクライアント)の 求めに応じてデザインします。  私は、アートには社会に向けられた「問い」と アーティストの「作りたいから作る」という意志が 不可欠だと思っています。クライアントワークの作 品にはこの「問い」と「意志」を込めることができ ません。この違いが、アートとデザインを圉す一線 だと思っています。しかし、建築家の石上さんがデ ザインした建物を見たとき、「これはアートではな いか」と思いました。その建物が生み出す空間には 機能性や何らかの課題解決だけでは生み出せないも のがあり、そこに「問い」と「意志」を強く感じた のです。  例えば、石上さんが設計した神奈川工科大学の 『KAIT広場』(2020年)(図4‐5)には素晴ら しい「問い」があります。そこに足を踏み入れた者 は、たぶん広場の概念が覆されます。丘の上に野球 グラウンドほどのとても大きな平たい建物があり、 その中には柱が一本もなく、ただただ白い空間が広 がっているのです。その床は優しく湾曲していて、 天井に開けられたさまざまな大きさの窓から外光が 差し込んできます。その太陽光が白くて湾曲した床 に模様を作り、さらにいろいろな角度に反射して空 間全体を明るくします。 ’゛『一  この空間に入ったとき、私はとても不思議な開放 感を覚えました。白い空間に湾曲した床、そして光 の反射が折り重なって、どこまで空間があるのか認 識しにくく、どこまでも空間が広がっているように 感じられて、まさに「広場」になっているのです。 「普通」という言葉をあえてここでも使いますが、 普通、大学などの公共的な場所で広場を作るとなれ ば、芝生を敷いたり木を植えたりベンチを置いたり するようなデザインを考えるのではないかと思いま す。しかし、石上さんはクライアントの要望に応え ると同時に、「広場とは何か」という問いを投げか ける空間も見事に作り出したのです。   天井のない建築  石上さんが中国で計画している教会(『谷の教会』) も、空間とは何かを考えさせられる面白い建物です。 これは、高さ45メートルの大きな鉄筋コンクリート の壁を二つ並べるように建てた建築物です。その二 つの壁の間は狭く、通路のような空間が生まれます。 最小幅はI・3メートル。この建物の圧巻は、屋根 がないところです。  屋根がないと雨が降ったときに雨水でぬれてしま いそうですが、そんな心配は不要で、ある程度の高 さを超えた二つの壁に挟まれた狭い空間では雨が上 から入っても地面に到達するまでに霧になってしま うのだそうです。屋根がないのに、雨に降られるこ とがない空間。石上さんはこの作品を通して、建物 に不可欠な「屋根」について「問い」を投げかけて いるのでしょう。  もう一つ紹介しましよう。栃木県の那須にある宿 泊施設「アートービオトープ那須」に設計した石上 さんの『水庭』(2018年)も、庭園の概念を覆す ような作品です(図4‐6)。これは、広大な上地に 160の小さな池を作り、300本以上の樹木を移 植して作った人工の庭です。その小さな池の間や 木々の間を縫うように飛び石が置かれていて、そこ を歩いて行くと自然の森を歩いているような感覚に なっていきます。  この庭園は巨大なビオトープのようにもなってい て、時間の経過とともに動植物などの生き物が増え て生態系を作り出していきます。その風景は現在、 ますます森のようになりつつあるのですが、その数 多くの小さな池や樹木の配置は極めて人工的です。 庭というのは、植物や水や石などの自然物を用いて 人工的にデザインするものですが、石上さんのこの 『水庭』は極めて人工的にデザインしたものを自然 にゆだねるようなところがあって、今まで見てきた 庭園とは明らかに異なっていました。  他の石上さんの作品を見ても、どれも空間の常識 を打ち崩そうとする試みがうかがえます。広場とは 何か、屋根とは何か、庭とは何か、住まいとは何か、 空間とは何か……。すでに述べましたが、優れた アーティストは作品を通して人々にある意識の壁を 打ち破り、より自由にしてくれるものです。石上さ んは、建築を通して人々を自由にしてくれる希有な 建築家であり、人間が存在する空間の原点を私たち に触れさせてくれる世界的なア上アイストでもあり ます。   箱型の空間の限界  2020年に世界を混乱に陥れたコロナ禍で、私 たちは社会のあり方をいろいろと考えることになり ました。建築についてもそうだと思います。何百年、 あるいはそれ以上に続いてきた箱型の部屋は、実は 密閉空間であり、密集を作りやすく、密接になりや すい場所だと強く認識することになりました。  今後も、私たちはこのような箱型の部屋に人を集 めて、仕事をしたり会議をしたり映画を観たり音楽 を聴いたリアート作品を鑑賞したりするのでしょう か。建物を作り直すのはお金と時間がたくさんかか るので、このまま改良しながら今の部屋の形を維持 するのかもしれませんが、少なくとも箱型の部屋の 限界を私たちは知ってしまいました。  また、今回のコロナ禍は私たちに通勤電車などの 移動についても考えさせました。かつて、これほど 強く移動のリスクを感じさせた出来事はあったで しょうか。移動にともなう感染リスクを減らすため に、リモートワークができない仕事をしている方は 職場に近い家を欲したでしょうし、リモートワーク ができる人は自宅でのストレスを減らそうと自然の 多い場所などに引っ越したいと思ったことでしょう。 しかし、引っ越しをするのは簡単なことではありま せん。購入した家ならそこに住み続けることが多い と思います。  これまで、建築家は一日でも長く使われる建物を 作ろうと努力してきました。しかし、もっと根本的 に考えれば、季節や時期、場所に合わせて建物や部 屋の形、自分のすみかを自由に変えていいはずです。 あるいは、使う目的に合わせて形が変えられる建築 があってもいいのかもしれません。  例えば、建築家の谷尻誠さんは「DAICHI」 という新事業で、自然環境を生かした簡易な宿泊施 設を作っています。コンセプトは「キャンプ以上、 別荘未満」で、自然の中に居心地の良い小屋のよう な滞在空間を作ることでラグジュアリーなひととき を提供しています。テント泊のような道具は持って いなくてもアウトドアのような能動的な体験ができ、 しかもグランピングに通じるグレードの高い空間も 併せ持っているのが特徴です。  この「DAICHI」は自然開発の新しい形です が、この高グレードの小屋を都市や近郊で作っても いいのかもしれません。土地だけ用意して、この小 屋を建て、一定の時期を過ごしたら、別の土地に移 り住む。小屋であれば、住居の移住は簡単です。こ のような移動を前提とした家があれば、都市やその 近郊で暮らす人々の中に「定住」という意識がなく なっていくかもしれません。私は、家を建ててそこ にずっと住むという考え方は、今の時代で終わりに なるような気がしています。やがて、例えばモバイ ルできる高グレードのスモール(ウスを買って、 ワークスタイルやライフスタイルに適した土地を借 りて、何年間か住んだら次の土地に移るという暮ら しを始める人が現れると思っています。  また、石上さんが考えるような屋根がない建築な ら、密閉にならない集会場所を作ることができるか もしれません。仕切りのない広い空間であれば、人 の密集や密接が生じにくい空間も作りやすいでしょ う。今後、箱型の部屋が多い都市において、石上さ んのように建築や空間の新しい形を模索することは 重要な意味を持つはずです。その模索でヒントにな ることが石上さんや谷尻さんの建築には多くあると 思います。  都市には数多くの建築物があり、都市は建築物に よって支えられていると言ってもいいでしょう。そ の都市の建築物のあり方がコロナ禍によって揺らぎ 始めたのです。建築とは何か。建築家の中には、そ の「問い」をコロナ禍の前から考えて、既成の概念 を打ち破っていた人もいました。そのような建築家 の作品を見て、建築とは何か、都市の建築物はこれ からどうあったらいいのかと考えてみるのも、アー ト思考の一つになるかもしれません。   都市は本当に必要なのか?  都市そのものについて考えてみるのも面白いと思 います。  今、都市に行かないと手に入れられない物や受け られないサービスというのはあるでしょうか。服な ら、インターネット通販で買うことができます。サ イズの問題はありますが、やがて解決されるでしょ う。AIなどのデータ技術が進展すれば、ぴったり のサイズをリコメントしてくれるかもしれません。 本や音楽、映画などのコンテンツはどうでしようか。 リアルショップよりもインターネットのほうが手に 入りやすいぐらいです。行政のサービスも、マイナ ンバーが普及して、役所が本気でデジタル化を推進 すれば、多くのサービスがインターネットを介して 受けられるようになるでしょう。  映画館はどうでしようか。ビデオコンテンツなら 家で観ることができます。インターネット経由でD VDを借りることもできますが、最近はストリーミ ングで観ることも当たり前になってきています。  ただ、ビデオ観賞は以前から家でできましたが、 映画館がなくなるということはありませんでした。 友達や家族と一緒に観に行くという非日常的な楽し さがビデオ観賞にはないからでしょう。ただ、それ なら都市に行かなくても、身近なところで映画が上 映されて、そこに友達や家族と一緒に行けば、これ までと同じ楽しみを味わうことができます。同様に、 コンサートはどうでしようか。都市にあるコンサー トホールに行く必要があるでしょうか。ずいぶん前 から、人気の音楽フェスティバルの多くは、都心か ら外れたところで開催されています。  職場はどうでしようか。すべてをリモートで行う のは難しいと思いますが、職場が都市でなければな らないということはないでしょう。私は都心で暮ら しているのですが、コロナ禍で人影がめっきり少な くなった昼間の渋谷を見ながら、それでも経済が回 り続け、しかも株価が上がっていることに驚かずに はいられませんでした。その渋谷の光景は「都市は 本当に必要なのか」という「問い」を投げかけてい るようにも思えました。  ただ、それでも都市が消滅することはないでしょ う。というか、都市はこれからも発展すると思いま す。人類が生み出した都市は、今後も人類の中心地 であり続けるはずです。都市には人を集める何かが あります。  しかし、駅前のスペースに、ロータリーやホテル、 飲食街、オフィスの入るビルを作るというまちづく りの時代は終わりを告げたと感じています。今後、 どのように都市の機能が変わり、地方の役割が変 わっていくのか。そのビジョンを持つことは、これ からどこに住むか、どこで働くか、どのようなビジ ネスをするかを考えるときにきっと役立つでしょう。 アートは、そのビジョンをもたらすものの一つにな ると私は確信しています。   森の中に図書館があってもいい  これからの都市や地方は、それぞれ今までとは異 なる役割を担っていくようにも感じています。そう 思うようになっだのはコロナ禍の前からで、さまざ まな地方で芸術祭が開かれるようになって、アート は都心の美術館でなくても楽しめると実感したから です。芸術祭については次の章で触れますが、ここ では一つの作品を紹介したいと思います。  新潟県の越後妻有で開かれる「大地の芸術祭」に は、ドイツのアーティストのトビアスーレーベル ガーが『フィヒテ(唐楢)』という作品を出してい ます。それは森の中に作った野外図書館であり、防 水加工された本棚や椅子、ベンチがこぢんまりと並 べられています。周辺の木と木の間にはロープを渡 してあり、そこにランプかぶら下がっていますので、 夜でも読書ができます。  私かこの作品を見たとき、図書館は森の中にあっ てもいいのだと思いました。この図書館ならどこへ でも移動できるし、自動車を改造した移動図書館が 行けないところでも開設できます。本の数は隕られ るかもしれませんが、期間ごとにテーマを設けたり、 誰かに本をセレクトしてもらったりすれば、むしろ そのほうが読書をしたくなるものです。この越後妻 有の『フィヒテ(唐楢)』は、その後、アマゾンと も提携するようになりました。この屋外の図書館で いろいろな本をさまざまなシチュエーションで読む ことができれば、読書の楽しさを新たに知る人は増 えると思います。これは既存の図書館ではなかなか できなかったことです。  今後、図書館の役割や機能が都市と地方では少し ずつ分かれていくのかもしれません。例えば、都市 部の図書館はさまざまな本が読めるように大型化し ていき、地方では『フィヒテ(唐楢)』ような個性 あふれる図書館が点在するようになっていく。実際 にどうなるかは分かりませんが、地方の芸術祭に行 くと、物事を考える視座のようなものを得られて、 未来へのイマジネーションが膨らんでいきます。  都市がこれからどのような姿に変わっていくかを 考えることは、とてもチヤレンジングなことだと思 います。都市が変われば地方も変わります。地方が 変われば都市も変わります。その変革の方向性に関 わるヒントがアートにはあり、そのヒントから社会 が変わっていくようにも感じています。  「物の時代」から「心の時代」に変わっていく中で、 都市も変化していくと私は予想しています。アート シーンを見ていると、その流れを強く感じます。第 二章でアート作品が「物」から離れ出していること をお伝えしました。  第一章で紹介したサイエンスアートやテクノロ ジーアートのアーティストの多くも、アート作品の 価値の源泉を「物」に込めることはしていません。 真鍋大度さんは「物」を作るというよりは、テクノ ロジーを駆使して新しい表現を追求し、鑑賞者に新 しい感覚を覚えさせようとしています。チームラボ のデジタルミュージアムも、訪れる方はあの空間で 味わえる感覚を求めているのだと思います。アー テイストも鑑賞者も、「物」を見るのではなく、「経 験」や「感覚」を優先的に求めるようになっている のです。  都市のコアの部分も「物」から「心」に変わって いくと思います。あるいは逆に、「心」の部分を捨 てて「物」に振り切って、新たな特徴を出していく のかもしれません。もしかしたら、都市に住む人が 少なくなって、用事があるときにだけ訪れて泊まっ ていくような、昔の宿場町のようになっていくのか もしれません。いずれにせよ、都市の新しい仕組み を考えるとき、アートからいろいろな示唆を得るこ とができるでしょう。  アートは、新型コロナの感染拡大の前から、「都 市とは何か」を問いながら、同時に「都市にはでき ないことが地方でできるのではないか」という問い を投げかけていました。そして、コロナ禍が世界を 襲い、都市のあり方が問われることになり、社会が その必要性について考えるようになりました。経済 や政治の中心地である都市は今後どのように変わっ ていくのか。ぜひアート思考で読み解いて見通して いただければと思います。 第五章芸術祭とは何か   アートが都市から離れていく  この章では、アーティストではなく、芸術祭につ いて話したいと思います。すでに何度か触れてきま したが、改めてここで一つの章を割いて、囗本の各 地で開かれるようになった芸術祭の社会的な意義、 あるいは私たちに投げかけているメッセージや「問 い」について、私なりの考えを語りたいと思います。 ここに、新しい社会を予見するヒントがあると思っ ています。  前の章では、コロナ禍の前からアートが都市につ いて問うてきたと語りました。この芸術祭という アート活動も、同じ「問い」を発してきたと私は 思っています。美術館などアートの施設があるのは 主に都市です。美術品を鑑賞しようと思えば、たい ていは電車などに乗って都市に行き、目当ての企画 展が開催されている場所まで足を運ぶことになりま す。だから、都市から遠く離れたところに住む方た ちは、アートに触れる機会が都市や近郊に暮らす 方々と比べると、どうしても少なくなると思われま す。  しかし、芸術祭というアートイベントが地方で開 かれるようになって、都市部でなくてもアートを楽 しめるようになりました。むしろその地域にある独 自の環境の中でアート作品を鑑賞したほうが、より 面白く、より興味深く、より印象深くアートに触れ ることができることを私たちは知ることになったの です。新潟県の越後妻有で開かれる「大地の芸術 祭」や、瀬戸内海の島々で開かれる「瀬戸内国際芸 術祭」、あるいは大分県別府市で開かれる「混浴温 泉世界」などの盛況ぶりは、アートを見る場所が美 術館に隕らないことを証明しています。  アートは、2020年に深刻化したコロナ禍の前 から、都市から離れていく動きを見せていました。 機会があれば、いろいろな芸術祭を訪れるといいと 思います。都市の必然性や地方の役割の変化を肌で 感じることができるはずです。  例えば、芸術祭の草分け的存在の「大地の芸術 祭」は、新潟県の越後妻有を舞台にして繰り広げら れる広大なアートフェスティバルで、3年に一度開 催され、毎回多くの人が訪れます。私かここに足を 運んで最初に思ったのは、「地方のほうが都市部以 上にアートが楽しめる」ということでした。  この「大地の芸術祭」は2021年の開催がコロ ナ禍で延期となりましたが、事態が収束すれば再び 開催されることになるでしょう。地方の芸術祭に 行ったことがない方は訪れてみることを強くおすす めします。越後妻有の素晴らしい自然の中で現代 アートの作品に触れられると同時に、これからの日 本の都市や地方のあり方、旅行のあり方、宿泊のあ り方、休日のあり方、体験のあり方、ビジネスのあ り方など、さまざまな示唆を得ることができると思 います。   アートに地域性はない  地方の芸術祭を立ち上げて成功した例はいくつも あります。どうして地方の芸術祭は成功したところ が多いのか。それはアートと地方イベントの親和性 の高さにあるのではないかと思っています。アート は世界共通言語のような一面を持っています。ほと んどのアート作品は言語を使いません。ですから、 どんな国や地方の人でも分け隔てなく鑑賞すること ができます。この特徴は、言語を用いる文学作品や 映画などの映像作品にないものです。  また、地域性がないアートは、その特徴ゆえに ローカルコミュニティにフィットさせやすい面があ ります。  例えば、前の章で紹介した森の図書館『フィヒテ (唐楢)』は、世界各地の森で展示できるでしようし、 作品の中の本を地域の特性に合わせて変えれば、そ の地域ならではの「問い」やメッセージを投げかけ ることもできるでしょう。同じく前章で紹介した Chim→?ヨの作品『友情か友喰いか友倒れか B』ACK OF DEATH curated by無人島プロダクショ ン』(図4‐4)も、外国の都市や地方でも展示するこ とが可能です。その地域で問題となっている動物と 人間を箱の中に入れれば、その地域特有の「問い」 を投げかけることができるでしょう。遠藤一郎さん の応援アートも、言語の(Iドルは少しありますが、 外国でもパフォーマンスすることは十分に可能です。 どの地域でも応援するという文化や習慣があります し、必要な言葉をいくつか習得すれば遠藤さんのパ フォーマンスアートは十分に成立させられます。  このような作品作りをアーティストが実際にする かどうかは分かりませんが、私かここで言いたいの は、アートには地域性がないということであり、だ からこそ世界中で展示や活動ができるということで す。このアートの地域性のなさをうまく引き出しだ のが芸術祭だと私は思っています。芸術祭は、アー ト作品をローカルコミュニティにうまくフィットさ せることで、新たなアートの鑑賞の仕方を提案しま した。それが多くの鑑賞者の心をとらえ、そして地 方の活性化にもつながったのです。  今後、さまざまなアーティストが、このような地 方の芸術祭でローカルな「問い」を次々に投げかけ るでしょう。もし、多くの鑑賞者や地元の方たちが それに反応するようになったらどうなるでしょうか。 芸術祭のアートをきっかけに、さまざまな人たちの 意識が変わっていき、その地域社会が大きく変貌を とげるケースが現れるかもしれません。また、アー テイストも新たな領域の作品を作るようにもなって、 これまでにない「問い」を投げかけるようになるか もしれません。私は、そんなア上アイストが現れな いかとひそかに期待しています。   本来の芸術祭のあり方  私は芸術祭の活況ぶりを各地で見て、「アートが ローカルをこれほど活性化するのか」と認識を新た にしました。このアートの力は、アートが持ち得る 大きな社会的な意義の一つでしょう。地方の活性化 は今の囗本の大きな課題ですが、その解決策の一つ をアートが芸術祭の成功で示したのです。アートは ローカルの可能性を引き出す。その引き出された可 能性は、ビジネスなどさまざまな分野にも広がって いくでしょう。どのような商売が発展するかは分か りませんが、そのヒントはさまざまな芸術祭の中に あるでしょう。  私は、芸術祭のコンセプトで何より重要なのは ローカルを生かすことだと思っています。瀬戸内海 で3年にI回開かれる「瀬戸内国際芸術祭」をご存 じでしょうか。私はこの立ち上げのときに協力した のですが、その総合プロデューサーであり、瀬戸内 海に浮かぶ直島を「現代アートの聖地」にした福武 總一郎さん(株式会社ベネッセホールディングス名誉顧 問/公益財団法人福武財団理事長)の言葉が忘れられ ません。「最初に笑顔にするのは地元の方たちだ。 二番目に笑顔にするのは見に来ていただいたお客様 とア上アイストたちだ。君たち(スタッフ)の笑顔 は最後でいい」。その通りだと思いました。この言 葉は今も私の胸に刻まれています。  都市でも芸術祭は開かれますが、それを見に行く と、どことなく大きなグループ展のように思えてし まうのは私だけでしょうか。批判するつもりはあり ませんが、都市のアートフェスティバルにはローカ ルの方たちを笑顔にする要素があまりありません。 そこに私はどうしても違和感を覚えてしまうのです。 もっと地域あるいは社会に密接に関わって、その良 さを生かしていくというのが本来の芸術祭のあり方 だと私は思います。その肝心のところが、最近の都 市での芸術祭を見ていると少し欠けているように感 じます。  私は今、芸術祭が一度原点に立ち返る時期ではな いかと思っています。コロナ禍を経てますます強く そう思うようにもなりました。前章で指摘しました が、コロナ禍は都市の弱点を露呈し、少なくない人 の意識を郊外や地方に向けさせました。ここで地方 を生かし、地方の人々が喜ぶという原点を大事にし た芸術祭を立ち上げれば、新しい社会のあり方を一 つ示すことができると思うのです。    「何も残さない」芸術祭  第一章で少し触れましたが、私は2020年に山 梨県北杜市で芸術祭「HOKUTO ART PR()GRAM J を立ち上げました(毎年開催する予定です)。 2020年は試行的な開催(壬アイションO)でし たが、複数の著名なアーテイストたちに参加いただ き、開催場所で作品を制作してもらったり、パ フォーマンスアートをしてもらったりしました。私 は、この芸術祭を開催するにあたって決めたことが 一つあります。それは何も残さないということです。  地方で開かれる芸術祭では、開催期間が過ぎても 著名なアーティストの作品が設置されたまま残され ることがよくあります。畑の真ん中に突然アート作 品があるという光景が風景化して、やがて観光名所 のようになってアートが地方を活性化し続けます。 これはこれでアートの力をうまく活用していると思 います。  ただ、私は最近の芸術祭を見ていて、少し「アー ト作品を開催地に残せば会期後もうまくいく」とい うような安易さを感じるようになっていました。先 ほども書きましたが、芸術祭で一番重要なのは地元 の方が喜ぶことです。アート作品を安易に残すと、 ともするとアートを一方的に押し付けてしまうこと になります。  芸術祭のアート作品には、残してもいいものもあ れば、残さなくてもいいものもあると思います。そ の判断は、芸術祭のプロデューサー・ディレクター やキュレーター、アーティストではなく、最終的に は毎日のようにそのアート作品を見ることになる地 域の方たちがすべきでしよう。  芸術祭でアート作品を展示するのは、美術館の場 合とは異なります。美術館は、たいてい鑑賞者が自 ら訪れて入場料を払って作品を見ます。この場合、 鑑賞者もアート作品に対して能動的な気持ちや心の 準備のようなものがあると考えられます。しかし、 芸術祭では日常の風景の中にアート作品を置くこと があり、アート作品を見ようと思っていない地域の 人が目にしてしまう可能性もあります。それで感動 していただければいいのですが、逆の場合もあり得 ます。芸術祭を開くときはそのような可能性を考慮 して、地域の人たちに不愉快な思いをさせないよう に細心の配慮をすべきです。  私か、何も残さない芸術祭を開こうと思った一つ の理由は、「アート側か押し付けるものはすべて正 しいのか?」という「問い」を芸術祭を開く人たち に投げかけたかったからです。言葉を換えれば「パ ブリックアートとは何か?」という「問い」でもあ ります。そういう「問い」を意識して始めたのが、 「HOKUTO ART PROGRAM Jです。  参加いただいたのは、第一章で紹介したテクノロ ジーアートの真鍋大度さんや脇田玲さんをはじめ、 現代アートチームの「EVERYDAY HO」IDAY SQUAD」やネオンーア上アイストのWAKUさん、 音楽家のCharaさん、地元の波多野敦子さん、 マイカールブテさん、建築家の石上純也さんらアー トシーンの最前線にいるア上アイストの面々です。  真鍋大度さんには、第一章で紹介したように、神 経細胞のデータを用いたプログラミングによる光の アート作品を作ってもらいました。安藤忠雄さんが 設計した美術館の窓から放出される光線には、何か 生命感のようなものを感じないではいられませんで した。ホワイトキューブの空間で実施するインスタ レーションやパフォーマンスにおける限界を超えた と私は思っています。その他のア圭アイストの方た ちにも、この芸術祭のために新しい作品やパフォー マンス、即興の音楽作品を披露してもらいました。 どれも素晴らしいものでした。  この初めての「HOKUTO ART PROGRAM ed.oj の会期は、テスト的な開催だったこともあり、わず かI囗となりました。また、その囗が過ぎても残し たアート作品は一つもありませんでした。ア上アイ ストも、作品を残す必要はないと考えてくれました。 見てくれた方の心の中に強い印象や記憶を残せる自 信があったのだと思います。  コロナ禍だったので多くの方を招くことができな かったのですが、地元の方にも来ていただきました。 私か一番見たかったのは、この地域の方たちの反応 でした。何も残さない芸術祭、言い換えると、印象 と記憶だけが残る芸術祭を地域の方に喜んでもらえ るかどうか。喜んでもらえたら、この芸術祭を続け ようと思っていました。    「すぐに消える建築物」を依頼  この2020年の「HOKUTO ART PRoGRAM ed.o」では、建築家の石上さんにも新たな作品を 作ってもらいました。何も残さないというコンセプ トの芸術祭なので、石上さんにも「何も残らないも のを作ってほしい」とお願いしました。とんでもな い依頼だったと思います。多くの建築家は、I囗で も長く、できれば何百年も建ち続けるものを作ろう とするものです。しかし、この芸術祭では会期中に 消えていく建築作品を私は見せたいと考えていまし た。そうすることで、芸術祭の原点だけでなく、建 築における創作の原点も浮かび上がってくるのでは ないかと思ったのです。そんな建築ができるのは石 上さんしかいない。そう思って相談したのでした。  石上さんも、真鍋さんのときと同じように、こち らの意図をすぐに理解してくれて「やってみます」 と挑むように言ってくれました。そして、意欲的に 作品作りを始めてくれて、芸術祭の当日に『ソラト ツチニキェル』(2020年)(図5‐1)が出来上がり ました。  このアート建築物は、通常のビルの4階ほどの高 さのある永の建築物です。その中に木材の骨組みが あるのですが、完成後に点火して燃やすのです。空 気の通り道もきちんと作ってあるので永の中でも燃 え上がり、その炎の中で大きな永の建物が少しずつ 溶かされて消えていきます。 4゛`iW一いJ一゛づ、 t畍七「一` 。″‘三‘・」`{XE    ごJア’{j      、い・ お作 この建物は構造計算もされていて、部屋のような 空間はありませんが、立派な建物にほかなりません。 施工もI週間ほどかけて木組みをして、その後に2 囗ほどかけて永を設置し、削ったり水をかけたりし て完成させました。  芸術祭が始まってしばらくしてから点火すると、 炎が計算通りに立ち始めました。大きな永の建物の 上に炎が立つのです。そんな光景は、おそらくその 場にいた人すべてが一度も見たことがなかったで しょう。炎と永と空気という相いれない自然物が作 り出すアート建築物。炎の勢いが増すとともに永の 建物も美しく溶け始めました。さらに、建物の前の スペースで音楽家のCharaさんが即興の音楽を 奏で、ダンサーの高村月さんがパフォーマンスアー トをしてくれました。炎が大きくなるにつれて、水 も激しく溶かされていきます。ときどき、大きな音 を立てて部分的に崩れ落ちるのですが、それもまた 音楽やダンスと相まって神秘的な光景となり、言葉 では表せないほど切なく、はかなく、美しいもので した。  燃え尽きるまでの時間は1時間弱。私たちは6〜 7時間ほどかけて水が溶けていくように計算し試作 品のモックで何回もテストしたのですが、実際のサ イズでは炎の大きさが想定よりもかなり大きくなり、 短時間で姿を消すことになりました。それでも、こ の作品は見た人の記憶に深く刻まれたと思います。 ご覧いただいた方たちは一様に感動されていました。 石上さん自身も、何かを強く感じている様子でした。  私も、ほかなさと切なさというものをこれほど圧 倒的なスケールで目の当たりにしたのは初めてでし た。それは一瞬にして消えていく美しさなのですが、 私はその光景をこれから何度も思い出すことになる と確信しました。心の中に刻まれれば、何回でも心 の中で思い起こすことができます。作品を見終えた とき、アートというのは本来こういうものではない かとも思いました。どれほど長く作品を残すのかで はなく、どれほど人の心を揺るがし、その中で何を 響かせるのか。石上さんがどのように思い考えてい たかは分かりませんが、私は建築とアートの新しい 扉が開かれたと感じました。  何よりうれしかったのは、招待した地元の方もこ のアート建築作品を見てとても感動してくれたこと です。言葉を失って、ただただ炎の中の永の建築を 見ている方もいました。その方たちも、この作品や 美しく崩れていく光景をずっと覚えていることで しょう。  私はこの芸術祭に大きな手応えを感じました。 「普通」の美術館や都市部の芸術祭ではできない、 この場所だからこそできる、そして何も残さない アートイベント。今後、回数を重ねていけば、私は パブリックアートの一つの形を示すことができるの ではないかと思っています。   すぐに撤収できるテントアート  芸術祭は本来、アートと開催地が密接につながり ながら、お祭りのように一定期間だけ非日常の時間 と空間が現出するものではないかと思っています。 私は、その原点を追求していく芸術祭を作り上げた いと考えていて、さまざまなアイデアが頭の中には あります。ここで一つだけお話しさせてください。  私は、新しい芸術祭を作るにあたって、設置や撤 収が容易にできる特別なアート作品を用意できない かと考えています。単に現代アートの作品を置いた り撤去したりするのではなく、その設置や撤収も アートになっているようなもの。そんな作品であれ ば、地域の中で「アート作品なんて見たくない」と 思っている方がいても、会期などの展示時期が過ぎ たところですぐになくせます。そうなれば、地域の 方々への精神的な負担を最小限に抑えることができ ます。  そこで、私か思いついたのは「テント」です。テ ントは、設置も撤収も簡単です。アート作品と呼べ るような今までにないテントを作れば、見に来てく れた方やアート作品を見たいと思っている地元の方 が喜んでくださるし、会期が終わればすぐに撤収で きます。また、その地域で何かテントが必要になっ たときには、貸し出すこともできます。  私か6人ほどの建築家やアーティストに相談した ところ、どの方も「面白い」と即答してくれて、 作ってくださることになりました。この原稿を書い ている時点ではまだ完成の形は見えていないのです が、途中段階の打ち合わせで見せてもらった形を見 ると、かなり面白い作品になりそうです(図rD!『’乙、 図5‐3』。 1眉 巨匠 影 。。限S?。。。。。  実は、このテントをアート作品にしようという発 想は、建築家の安藤忠雄さんからいただいたもので す。私か関わっている清春芸術村で前々から能舞台 を作りたいと思っていて、安藤さんに相談したこと がきっかけでした。1980年に清春芸術村が作ら れたとき、その設立趣旨書の中に能舞台の設置が書 いてあったのです。  ただ、実際にこれを作ったところで毎日使うもの でもないし、積極的に能が観劇できる機会を作った としても月I回の上演が限度です。すると、能舞台 を作ってもほとんど使われないと思いました。その ことを安藤さんに相談したところ、テントで能舞台 を作ればいいではないかと教えてくださったのです。  例えば、まず清春芸術村にある庭園の一角に板の 間と柱だけの空間を作り、普段はそこで来場者が寝 そべったり子どもが遊んだりできるようにしておく。 そして、能を見せるときは、テントの生地でグルグ ル巻きにして能舞台を簡単に作る。さらに、能が盛 り上かってきたら、テント生地をとめているピンを はずすことで、生地をふわりと落として外の風景と 能楽師を一体化させる。実に素晴らしいアイデアで した。  この能楽堂はまだ実現していないのですが、その 話を聞いてからは、私は高い自由度があるテントを 題材にしたアート作品をプロデュースーディレク ションできないかと、ずっと思っていました。それ を今回の新しい芸術祭でやってみたら面白いのでは ないかと思い、建築家やアーティストに相談したの でした。  事前にテントについていろいろと調べたところ、 基本的に実用性だけが追求されているものばかりで、 デザインや楽しみの面から新しい形を作ったという テントはほとんどありませんでした。また、新しい ライフスタイルが求められるようになったコロナ禍 を経て、テントの可能性が潜在的に高まっているの ではないかとも思っています。テントに住めば自由 な移動もできます。テントを使った新しいアート作 品を作れば、さまざまな「問い」を発信できると私 は思っています。    「記憶だけを残す」アーティストは現れる   か?  今後、社会のデジタル化にともなって、アート作 品からも物質性が少しずつ失われていくように思い ます。この変化は、アート史における大転換点とな るでしょう。  ただ、昔からアーティストは作品の物質性よりも 人々の頭や心の中にあるものに対して何らかの影響 を与えるために活動してきた面が強いと思います。 その目的を果たすために物質的な作品が有利だった から用いたまでで、本質的に作品の物質性はアート の必要条件ではなかったと思うのです。したがって、 たとえ作品を作らなくても人々に記憶をしっかり残 せるというア上アイストがいれば、その人は究極の ア上アイストに違いありません。  すでに、作品を残さないように活動するアーティ ストはいます。例えば、リクリットーティラバー ニヤというアーティストは、展覧会などがあると オープニングの囗にカレーを作るというパフォーマ ンスをします。そして、会期中はそれを作ったとき の調理器具や食器などを展示するのです。彼の作っ たカレーはどこにもありませんが、鑑賞者は心の中 でカレーを食べながらのコミュニケーションの欠片 を感じ取ることができます。とても面白く、興味深 いコミュニケーションアートだと思いますが、それ でもア圭アイストは何かしら二次的なものを作りま す。そうしないと売るものがないからです。  記憶だけを作るようなアート作品を生み出すアー ティストは、今のところまだいません。それに近い 活動をしているアーティストは数人現れてきていま すが、まだ「記憶だけ」という境地には達していま せん。しかし、いつか画期的な表現方法を見つけた アーティストが現れるでしょう。  私は、この新たなアートについて音楽に期待して いるところが大いにあります。新たに立ち上げた何 も残さない芸術祭においても音楽家を招いてさまざ まなパフォーマンスをしていただきました。これは。 この「記憶だけ」のアート作品につながるものがあ ると思ったからです。音楽というのは、アートの世 界から見ると、「記憶だけ残す」という究極に近い パフォーマンスアートの側面があります。音楽は、 本質的に何も残しません。音は空気の振動であり、 聞き終えたらそこには何も残らないのです。それで も頭の中でその音楽のフレーズが残ったり、曲の一 部が繰り返されたりします。歌が得意な人なら同じ ように歌えることもあるでしょう。ごく普通の現象 ですが、考えてみればとても不思議であり、驚愕す べきことのように思えます。音楽という表現は、記 憶と深い関係があるように感じます。  今、インターネットでサブスクリプションという サービスを利用すると、大量の曲をいつでも好きな ように聴くことができます。ネット上に音楽コンテ ンツを大量に記憶させることで、このような便利な サービスが実現したわけですが、その代わりに私た ちは音楽を記憶する必要がなくなりました。これは、 アートの側面から言うと大きな損失になるように思 います。  そこで、私か立ち上げた芸術祭では、即興でコン テンポラリーミュージックを作り出せるChara さんなどの音楽家を招いて、その場で感じることだ けを頼りに演奏してもらいました。楽譜もCDもデ ジタル情報もないので、その音楽は再現されること はありませんが、その場にいた方の頭の中には印象 深く残ったと思います。少なくとも、私の頭の中に はしっかりと残りました。二度と聴けない音楽です が、その記憶だけが、あの場の光景とともに残った のです。  社会が情報化する中で、アート作品は物質性が希 薄になり、一部のアート作品は音楽のようになって いくと私は思っています。このアート作品を取り巻 く今後の変化は、物をやり取りするビジネスなどで も参考になるに違いありません。   消えてはならない建築もある  誤解のないように一つ言い添えたいのですが、私 はアート作品のすべてが消えるものであるべきだと は思っていません。創作された価値あるアート作品 は基本的にすべて残すべきです。建築物も、アート 的な価植があれば現代のニーズに合っていなくても 残すべきでしょう。しかし、現実の社会では、古い 建築物は経済的な合理性が少ないという理由で取り 壊されてしまうことがよくあります。特に日本では その傾向が強くあります。  最近では、電通の旧本社ビルの例があります。こ れは東京の築地にあった13階建てのビルで、建築家 の丹下健三が設計して1967年に竣工しました (図5‐4)。丹下が構想した壮大な東京開発計画を象 徴するものであり、その後に続いた若手建築家らの 「メタボリズム」という建築運動につながる作品で 獸い一匹`‥。〜ぐ 遯昌  しかし、この建物が大手広告代理店の電通の手を 離れ、不動産事業者に渡ると、解体されることに なってしまったのです。愚行だと思います。古い建 物を大事にするヨーロッパではあり得ないことで しょう。フランスなら、建築家ルーコルビュジエの 建物を壊すということはしないはずです。  建築には、消してはならないものがあるのです。 なぜなら、その建物の背後にはアート的な価値や歴 史的な価値があるからです。その価値は建物が存在 することでのみ保有されます。この電通の旧本社ビ ルには、丹下の深い思想が込められています。丹下 が描いた東京の開発計画は、今の言葉で言えばサス テナブルなもので、現代の視点から見つめ直すこと で多くのことを学ぶことができます。その建物を解 体して撤去することは、そこに込められたアート性 や歴史、思想の喪失を意味します。  囗本の建築は海外からも高く評価されています。 私は外国からやってきたアートコレクターを案内す ることがよくあるのですが、彼らは美術館よりも著 名な建築家の建築物を見たがります。そんな価値あ るものをどうして消してしまうのか。どうして、こ の国は自国の素晴らしい文化やアート的な価値を持 つものを大事にしないのでしょうか。不思議でなり ません。  ちなみに、メタボリズムの代表的な建築である 「中銀カプセルタワービル」(東京都巾央区・黒川紀 章設計)も、解体されることが決まっています。 「SDGS」という言葉を産業界からもよく聞きま すが、価値のある建物を次々に壊していくのは「S DGS」のゴールに近づくことになるのでしょうか。  私は、電通の旧本社ビルの記憶をなんとか残せな いかといろいろ考えて、そのエントランスに設置さ れていた大きな彫刻を移設するというプロジェクト を立ち上げて実行しました。移設先は、私か理事長 を務める公益財団法人 清春芸術村です。  ありかたいことに、この活動の趣旨に杉本博司さ んと建築家の榊田倫之さんが設立した新素材研究所 が賛同してくれて、プロジェクトの監修をやってい ただけることになりました。この本が出版されるこ ろには無事に移設が完了しているはずです。この清 春芸術村には、何も残らず記憶だけが残るアートも あれば、決して消してはならないという思いを込め たアートもあります。いずれのアートも「作るとは 何か」「残すとはどういうことか」という深い「問 い」を投げかけてくれるでしょう。    「あいちトリエンナーレ問題」の何が問題   か  本題から外れますが、2019年に開催された芸 術祭「あいちトリエンナーレ」での出来事について、 少し私の意見を述べたいと思います。この出来事に ついては、語ろうと思えば本をI幵書けるほどの思 いがありますが、ここでは私の考える芸術祭のあり 方を明確にすることを目的に、簡単に記したいと思 います。  2019年の「あいちトリエンナーレ」では、展 示の一部だった「表現の不自由展・その後」が賛否 を巻き起こして社会的に大きな話題となりました。 この芸術祭は全体を取りまとめる総合ディレクター に美術畑ではない人を選ぶところに特徴があります。 過去を見ても写真評論家・写真家の港千尋、建築評 論家の五十嵐太郎、そしてメディアージャーナリス 卜の津田大介といった面々が務めてきました。そう した人選によって、社会的な問題提起の機能を強め ようとしているのは、一つの方針として「あり」だ とは思います。  イタリアのヴ子不ツィアービエンナーレではかつ て、ドイツのアーティストの(ンスー(Iケがファ シズム批判の作品を出品し、最高賞の金獅子賞が与 えられました。会場であるドイツ館の床に敷かれて いた大理石を引き剥がし、瓦礫となった大理石をそ のまま配置しました。来場者によってそれらが踏ま れるとバリバリと割れ、その響き渡る音で緊張感と 恐怖心を表すという作品でした。直接的ではなく、 五感へ訴えかける力によって、政治的な問題を表し ていく。これがアートで政治を扱うときの流儀では ないかと、私は思います。  あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」につ いて私かまず違和感を覚えるのは、その表現があま りに直接的であるということです。直接的過ぎるが ゆえに政治的メッセージが何よりも先に目立ってし まっているという印象を強く受けました。本書のこ れまでに紹介したアーテイストたちは、そのような 直接的な表現方法は使いません。ときとしてユーモ ラスだったり、シニカルだったり、あるいは鑑賞者 を(ツとさせたり、ドキツとさせたり、今までにな い表現で今まで味わったことのない感情を抱かせた り、今まで見たことのないものを見せて深く考えさ せたりするのです。  本書で紹介したようなアーテイストたちが直接的 な表現をしないのは、普遍性を求めるからだと思い ます。極めて本質的な「問い」を間接的に鋭く投げ かけ、鑑賞者がそれまでに思いもしなかったことを 思わせる。その「問い」が急進的であれば、必然的 に物議を醸します。しかし、その表現が本質的であ りながらも間接的であれば、誰も傷つけられること なく、どのような鑑賞者でもその問いを感じ取るこ とができるようになり、頭の中にある意識の壁を乗 り越えていけるようになります。  表現というのは、ときに人を傷つけます。私か 「表現の不自由展」について個人的に思うのは、 「もっと間接的に、ユーモラスでアイロニカルなも のになっていたら良かったのに」というものでした。 アーティストが自分自身のために作品を作って、そ れを自分の作品として展示することは、表現の自由 として守られるべきことだと思います。ただ、それ を「アートだ」と主張するのであれば、「アートの 仕組み」をもっと作り込んでほしかった。そうしな いと、鑑賞者はアートではなく、直接的な政治メッ セージだけを受け取るようになってしまいます。  本書でも繰り返し説明してきましたが、現代の アートには「仕組み」が必要です。この仕組みがあ るからこそ、ウォーホルやバンクシーの作品が優れ たアートになるのです。むしろ、新しいアートの仕 組みを作り上げたから、これらのアーティストは アート史に名前が残るのです。  それでも、あの作品の作者が自分のために自分の 作品を作っていて、自分のアイデンティティやイデ オロギーからあの作品を生み出し、それをそのまま 展示したいと思う自由はあるでしょう。しかし、展 示する場所は、不特定多数の方が訪れる公的な芸術 祭ではなく、私設の美術館やギヤラリーにとどめる べきだったと思います。芸術祭は言わば「お祭り (イベント)」です。不特定多数の人を対象にしてい て、会場には老若男女、いろいろな思いを持った人 が訪れます。特定のアーティストのアート作品を見 ようと思って入館する美術館とは違うのです。  ただ、文化庁が展示内容の如何によって助成金に ついての決定事項を覆すというのは、やはりあって はならないことです。それは、行政の一つである文 化庁が「これはアート」「これはアートじゃない」 と判断することであり、それが認められると、美術 への政治的介入が進んでしまいます。それこそ表現 の自由に触れることだと思います。このあいちトリ エンナーレの問題で最も残念なのは、この政治的介 入を呼び寄せてしまったことにあります。  「芸術祭とは何か」−。そんな「問い」を、結果 的にあいちトリエンナーレは投げかけたのかもしれ ません。はっきり言えば、私は大きなグループ展の ような展覧会ではなく、その地域で開催する意味を 吟味していく必要が今こそあるのではないかと、こ の問題を通して切に思うのです。 第六章 〈観る〉から始める   アート以外のものから「問い」を感じる  アートに触れる意味、あるいは意義、価値、面白 さ、楽しさ、魅力があるとすれば、それは何でしょ うか。私はア上アイストが投げかける「問い」を感 じ取ることだと思っています。  アートシーンの最前線を走るア上アイストのアー 卜作品には、現代社会で考えるべき鋭い「問い」が 必ず潜んでいます。鑑賞者はそれを非言語的に感じ 取りながら、同時に今までになかったものの見方や 感じ方、意識の壁、思考の幅を拡張していくことで、 自分なりに「問い」に対する答えを探していくので す。  このようにアートに触れた経験は、その後の鑑賞 者に多かれ少なかれ何らかの影響を与えます。その 影響は、ときに鑑賞者の見方や発想、生き方にも及 びます。それがアート作品がこの社会に存在する意 味だと私は思っています。  「アート思考」というのは、このように「問い」を 感じ取って自分なりに新しいものの見方や感じ方を 身に付けて答えを探し出す力なのではないかと、私 は思っています。現実の社会の中で今まで見たこと も聞いたこともない物事や状況に直面し、それと自 分の間に生じるズレや問題は何かを感じ取り、それ を「問い」として受け止め、自分の立場や仕事、あ るいは生き方やスタイルの中で答えを見つけて行動 していく。そのことが、社会で以前よりも強く求め られるようになっているとも感じます。  私は、アートに触れれば触れるほど「問い」を感 じ取る力が身に付くと思っています。そして、この 力が身に付くほど、アート以外のものからも「問 い」を感じられるようになるとも思っています。ま た、私はアート鑑賞を繰り返していく中で、さまざ まなものごとに対する直感力のようなものも身に付 けてきたと思っています。例えば、初めての人や物 を見るとき、新しいビジネスを始めるとき、あるい は新たな社会現象に触れたときに、無意識に近いと ころで新鮮な感覚や違和感のようなものに数多く気 付けるようになったと実感しています。そして、そ の感覚は私か仕事をする上でとても役立ってきまし た。  おそらく、人は新しい気付きを得るとき、たいて い何かを見ているのです。本やメディアの記事を読 んだり聞いたりして気付きを得ることもあると思う のですが、多くの場合、何か新たなものを見たとき に、あるいは新たな角度でものを見たときに、新し い気付きを得るのではないかと感じます。  また、社会の中で新しい概念が生まれるときとい うのも、まず言語的でない状態があるのだと思いま す。その状態が社会の中でさまざまに作用する中で 少しずつ言語化されて、やがて社会で共有される概 念になっていく。まずあるのは現象であり、それを 見るという体験があって、やがて概念化される。こ れは鑑賞者がアートに触れて「問い」を感じ取って 考えるということにとても似ているように思います。  新しいものの考え方や感じ方を得るために、美術 館に足を運んでアート作品を見てみる。そんなアー 卜鑑賞が広まってほしいと願っています。アート鑑 賞に「この作品はこうやって見る」というルールや 作法はありません。ただただ、作品に向き合えばい いのです。そして自分が感じていることに意識を向 ける。それが「観る」あるいは「鑑賞」ということ なのだと思います。  私は、「観る」あるいは「鑑賞」というのは、自 分の既成概念の壁を越えるための「眼差し」を自ら 持つことであると思っています。また、アートはそ の眼差しを純化させる活動であるとも思います。  この章では、私か出会ってきた芸術家や作家など の方々がどのように観ていたかを伝えていきたいと 思います。「観る」ことや「鑑賞」のヒントがそこ にあるはずです。   白洲正子−「感じる」とは何かを教え   てくれた  振り返ると、私は「観る」ということをとても大 事にしてきたように思います。育った環境の影響も 大きかったのでしょう。画廊を営んでいた父は、 アーティストや作家の方を家によく招いていました。 その方たちの振る舞いを私は子どもなからに間近で 見させていただいたのですが、共通していたのは物 をとてもよく観るということでした。  作家の白洲正子さん(1910〜1998年)もそ んな物を観る力がとても強い方でした。白洲さんは よく父が経営していた銀座の画廊に遊びに来られて、 夜になると私か車を運転して、東京の町田にある白 洲邸まで送らせていただきました。この旧白洲邸は 趣のある古民家で、白洲ご夫妻は「武相荘」と呼び、 今も残されて一般に公開されています。  この武相荘までの道中、白洲さんは私にいろいろ なことを話してくださいました。その会話の中で私 か学ばせていただいたのは、「観る」というのは 「何かを感じ取る」ことであるということでした。 心を常に解放して自分なりに感じ取る。その大切さ を白洲さんはよく説いていらっしやいました。その 心の解放も簡単にできるものではなく、日々よく学 び、自ら心を開く努力をする必要があるとも語って いました。  実際に、白洲さんは父からさまざまな作品を見せ られると、ただ見るというより、感じようとしてい る様子がうかがえました。バックグラウンドの知識 はとても多いのですが、初めての物を観るときはそ の知識に頼ることなく、まずは直感だけで観ている ようでした。それはどこか、物と自分を共感させて いく行為のようにも見えました。  白洲さんは、人に対しても自分から心を開いて何 かを感じ取り共感していくようなところがありまし た。ですから、鋭い感覚や高い知性をお持ちなので すが、とても柔らかい雰囲気に包まれていて、多く の方に慕われていました。そんな白洲さんに私もつ いつい甘えてしまい、車の中でいつもいろいろな質 問をしてしまいました。白洲さんは、そんな質問を する私か求めているものをいつも的確に感じ取って くださり、こちらが求めている以上のものを毎回答 えてくださいました。芸術に関する話以外にも、食 事やお酒、海外のお話など、話題はさまざまに広 がっていきました。ただ、どんな話をしていても、 心を素直に開いて感じ取ろうとする白洲さんの姿勢 が常に感じられました。正解だろうが、間違いだろ うが、まずは自分の感じたものをそのまま意識する ことを大切にしている生き方がそこにはありました。  現代社会では、もしかしたら白洲さんのように心 を開いて人や物を観て感じ取っていく姿勢が有効な のかもしれません。何かと情報が先行しやすい現代 社会だからこそ、ますます白洲さんのような生き方 が必要になっているようにも感じるのです。   小林秀雄−無心の目で見つめていた  文芸評論家の小林秀雄先生(1902〜1983 年)からも物を観るときの姿勢というようなものを 学ばせていただきました。小林先生も、父の画廊に よく遊びに来られました。白洲正子さんとご一緒に 来るときもありましたが、物の見方は小林先生と白 洲さんでは大きく異なるのが印象的でした。  白洲さんの場合、先に触れた通り、見るというよ りは直感で感じ取るような鑑賞の仕方でした。一方 の小林先生の場合は、凝視するように鑑賞するので す。美術品に隕らず、何かを観ると決めたら徹底的 に凝視して、そのものの奥にある何かが見えてくる まで、とにかく観続ける。その間、匸冐も発せず、 その対象をじっくりと観ていくのでした。  例えば、茶碗を観るときは、それを両手で持って いろいろな角度に動かし、いつまでも観ていらっ しやいました。そして、何か言葉を発しようとする のですが、すぐにその言葉を飲み込み、さらにまた 凝視するのです。それを何度も何度も繰り返す姿を 私はたびたび見ました。自分の好みの作品であろう となかろうと、あるいは真贋が分からないものであ ろうとも、ただただ無心に向き合って観ていく。同 時に、それを持ってきた人、そこに居合わせた人に も配慮しながら、何度も自分の中で言葉を作り直し て、それから感想や意見を簡潔に静かに話されるの でした。  今思い返すと、そのときの言葉はいつも余計なも のが一つもなかったように思います。見事に必要な ものだけが洗練された形で並べられていました。し かも、固定観念のような決めつけがまるでないので す。画廊では分かったつもりになって話す人が多く いましたが、小林先生がそのような話し方をするの を私は一度も見たことがありません。  とにかく物の奥に潜む何かを見つけようとあらゆ る角度から凝視して、それを伝えるために必要な言 葉を見つけ出そうとしていらっしゃいました。鋭い 眼光を放ちながら物を観る小林先生の表情には威厳 があり、近寄りがたい怖ささえ感じました。そんな 物の見方は「眼差し」という言葉がぴたりと当ては まるのではないかと、今となっては思います。  今の情報社会が悪いと決めつけるつもりはありま せんが、情報が多くなり、何についても検索できる ようになると、人はどうしても物事が分かったつも りになりがちです。アーティストやアート作品につ いても、インターネットで検索すれば、どのような 評価や解釈をされているのかが瞬時に分かります。 作品をよく観ずにそれを読んでしまえば、「こんな 感じで理解すればいいんだ」と思ってしまい、それ が思考の壁、意識の壁となり、物や人、社会現象、 自然現象を観るという行為を雑にしてしまうように 思います。インターネットで検索する前に、目の前 にいる物や人をもっとじっくりと観て、いろいろな 角度で感じたり考えたりしようとすれば、世界は もっと面白くなっていくのではないか。そう思うの は私だけでしょうか。  物の表面を見るだけでは、何も分からないのです。 表面的なことだけを知っても、それは物事を理解し たことにならないのです。小林先生が今も生きてい らっしやったら、もしかしたらそんなことを思っだ のではないかと拝察します。物を観るとは、強い眼 差しを何度も向けること。出てきそうな言葉があっ ても何度も飲み込み、浮かんできそうな思考があっ ても何度も打ち消し、あらゆる角度でどこまでも対 象を見つめ直していく。そんな鑑賞からしか生まれ ない気付きや発見、言葉が、逆にマルチタスクの現 代社会では希少性を持っているのではないかと、こ の数年私は強く感じています。  かつて、印象派を切り開いたセザンヌは見たもの をそのまま描くのではなく、その自然の奥に潜む美 しさを感じ取ってからキャンバスに描くことが重要 だということを言っています。情報社会だからこそ、 あえて事前に何も調べず、気になる展覧会があれば、 飛び込んでアート作品にじっくりと向き合ってみた り、社会で気になる人や物があれば、いろいろな角 度で観たり思考したりしてはどうでしようか。すぐ に言葉にせず、どこまでも強い眼差しを向けていく。 もしかしたら、今まで見えなかったものが見えるよ うになって、求めているものを見いだせるかもしれ ません。   東山魁夷−「観る」とは何かを教えて   くれた  私は、日本画家の東山魁夷先生(1908〜 1999年)の版画の制作をお手伝いしたことがあ ります。そのとき、ア上アイストの「観る」ことに 対する真剣さを目の当たりにしました。  一時期、私はギャラリーの他に版画工房も営んで いました。そのときに、東山先生の版画作品に携わ る機会を何回か得ることができました。最晩年の最 後に近い作品で、その中には後に有名になった作品 もあります。ただ、その工程はとても大変で、東山 先生から数え切れないほどの「ダメ出し」をいただ きました。もうヘトヘトで精根尽き果てそうになる ほどだったのですが、それでも毎回驚かされたのは、 東山先生の「観る」ことに対する厳しさでした。一 枚の版画の色校正刷りを30分ぐらいかけて、本当に 穴が開くと思えるほどに見つめ続けるのです。そし て「ここがもう少し……」と、わずかな色の修正を 指示するのでした。  おそらく、東山先生にはそこにはない色が見えて いたのではないかと思います。その作品に一番ふさ わしい色、それでなくてはならない色が見えていた からこそ、わずかな違いだけれど決定的に違うとこ ろを指摘できたのではないかと思います。また、東 山先生は最初に見えてくる色、1分後に見えてくる 色、5分後に見えてくる色の違いも知っていらっ しやったようにも思います。  私も、終わりの見えない作業の中で、東山先生と 同じように色校正を工房の中でじっと見つめるよう になっていきました。すると、本当に驚いたのです が、色が変わっていったのです。東山先生は、その 揺れ動く色の中で、どうすれば求める色に到達でき るかを模索されていたのだと思います。  版画は、色を巧みに重ねていくと深みが絶妙に出 るときがあります。濁らず、色の奥行きが現れるの です。その奥行きのある色が現れると、色が時間と ともに変わっていき、作品を支える色となり、いつ までも観ていられるようになります。大変な作業な のですが、東山先生の作品が生まれる瞬間を共にで きるのはかけがえのないことだと思い、何度も刷り 直しては何十分も見つめ、私なりに色の移ろいを確 認していきました。  そうやって東山先生のアトリエに通い続けて「も うこれは先生からOKが出ないのではないか」と思 い始めたときに、ついに東山先生からOKをいただ くことができました。そのときだけは色校を見続け ることはせず、一瞬で「これでいいです」と即断で した。たぶん、東山先生の目には求める色が見えて いたのでしょう。その色が校正刷りと同じだったの ですぐにOKを出したのだと思います。私はこのと き、なぜか私の色に対する見方に対してもOKをい ただいたように思いました。  優れたアーティストは、作品を作っている時点で すでに完成したものを観ていると思います。作品を 作り出す技術も重要なのですが、アーティストに とってより大切になるのは、まだこの世界に存在し ていないものを「観る力」ではないかと思います。 第一章で紹介したライソマティクスの真鍋大度さん にも東山先生と同じような「観る力」を私は感じま す。彼の創作を間近で観ていると、その目の中でも うすべてが観えているようなのです。  この世にないものを観る。それはインターネット を検索しても出てこないものです。イノベーション というものが、まだこの社会に存在していない画期 的なものを作ることを意味するのであれば、それを 作り出せる人はア上アイストのように、まだこの世 にないものを観る力がある人だと思います。その力 を身に付ける一つの方法は、アートに触れることだ と私は思います。   倉俣史朗−観た映画を拡張する  ないものを観る力については、倉俣史朗さん (1934〜1991年)からも感じたことがありま す。倉俣さんはフランス文化省芸術文化勲章を受章 した国際的なインテリアデザイナーです。私は、東 京の西麻布にある「三保谷硝子店」の社長にご紹介 いただいて、直接ご本人にお会いしたことがありま す。  きっとデザインやアートの話をたくさんされると 思ったのですが、予想に反して倉俣さんは映画の話 ばかりをされました。そのとき、とても印象的だっ たのは、あるSF映画の話でした。私もその映画を 観ていたので、倉俣さんがどんな観点でその映画を 観だのかがよく分かり、とても興味深く拝聴してい ました。  しかし、しばらくお話を聞いていると、「あれ?」 と思うことがたびたび出てくるようになりました。 簡単に言うと、その映画にはなかったシーンを、ま るで実際にあったかのように話すのです。私をから かっているとか、うそをついているというわけでは ありません。本当にそんなシーンを観たかのように 語るのでした。しかも、その倉俣さんの独創シーン があったほうが確かに面白いのです。私は心の中で 「倉俣さんは映画を観ながら別の何かを観ている」 と思いました。  それからの私は、映画を観て気に入ると、観終 わってから自分の頭の中でシーンを勝手に作り上げ てその映画に組み込むことをひそかに楽しむように なりました。すると、その映画がもっと面白くなっ て、改めて感動できたりするのです。ぜひ、一度試 してみてください。想像を広げる楽しさを味わえま すし、思考のスケールを拡張させていく醍醐味のよ うなものを感じることができます。  映画以外にも、例えばニュースを見たり聞いたり したときも私は同じような独創をします。例えば、 原子力発電所から放射性物質の入った水が海に流さ れるというニュースを耳にしたら、その水がどのよ うに広がっていくのかと想像したり、国内外の人々 はどのような反応をするのかとイメージしたり、地 元の方々はどのような気持ちを抱くのかを想像した り、その原発の電力を使っていた人たちはどのよう に思うのかとイメージしていくのです。  もちろん、その想像には限界があり、現実とは違 うことをイメージしてしまうこともあります。しか し、ニュースになかったところまで感じ取ろうとす ることで、「(報道の裏側で)実際は何か起きている のか」という問いを持てるようになります。ときに は、「もしかしてこんなことを思っている人がいる かもしれない」と、普段は考えが及ばないところま でイメージできたり、しかもそのイメージが現実と 合致したりすることもあります。  ニュースを見て、想像し、問いを持ち、「もしか したらこうかもしれない」と自分なりに答えを模索 する。それはやはリアート作品と向き合うことに似 ていて、これも一つの「アート思考」の実践と言え るかもしれません。「アート思考」でニュースに接 することができれば、社会にどんな問題があり、ど のように時代が流れているのかが見えてくるように も思います。それがビジネスや仕事でどう役立つか は分かりませんが、この社会を見通すような力をも たらしてくれると私は思っています。   誰でも「アート」はできる  物事を深く観ていき、その奥底にあるものを見い たし、そこから何かを感じ取り、そこにないものを イメージしていく。アートは、この「観る」という ことから始まるのではないかと私は思っています。 さらにそこに人々の心を揺さぶる「問い」を見いた せれば、アートとして成立する可能性が生じます。  ただ、アート作品を実際に作るには技術が必要で す。自分のイメージ通りに絵を描くのは簡単ではな いでしょう。写真を撮るにしても、自分の伝えたい 像が現れるように撮影するのは、やはり難しいもの があります。  しかし、アーティストになりたいと思わないので あれば、技術はいりません。頭の中でアート作品を たくさん作ればいいのです。「こんなアート作品が あったら面白いかもしれない」と創造的な空想をす ればいいのです。仲のよい人にだったら「こんな アート作品を思いついたんだけど、どう思う?」と 話してもいいかもしれません。そこから今までにな い対話が始まれば、クリエイティブな何かが生まれ るでしょう。自分の生活や仕事、日々の暮らしを豊 かにするために、空想アートを楽しむ習慣を身に付 けてはいかがでしょうか。  ところで、オノーヨーコさんは、一般にはビート ルズのジョンーレノンと結婚した日本人として知ら れていると思いますが、彼女は類いまれなアーティ ストの一人です。彼女の創作した『グレープフルー ツージュース』という作品は見事なコンセプチュア ルアートで、まさに頭の中でアート作品を作り、そ れをそのまま形にして伝えることに成功しています。  『グレープフルーツージュース』は、本の体裁をし たコンセプチュアルアートのような形になっていま す。例えば、「空にドリルで穴をひとつあけなさい。 穴と同じ大きさに紙を切りなさい。その紙を燃やし なさい。空はピュアなブルーでなければならない。」 (『グレープフルーツージュース』オノーヨーコ、講談社 文庫より)と指示文が書かれているなど、その各 ページにさまざまなアートのアイデアが書かれてい て、イメージの無限の可能性を感じさせてくれます。  オノーヨーコさんは、この作品で技術を使わなく てもアートができることを示しました。それは空想 に近いやり方なのですが、アートの力を自分に内在 させるやり方を多くの人に教えたと思いますし、そ の意味でこの作品はアート史に残る画期的なもの だったと思います。  アーティストでない人でもアートができるのです。 皆さんも、ぜひ頭の中でアート作品をたくさん作っ てください。心を解放して、じっくりと観て、自分 が純粋に感じていることに意識を向け、想像する。 そして、深度のある「問い」を見つけ出せたら、そ れをいかに形にするかを考えてみましよう。空想す るだけでいいのです。そんな創造的な空想が、意識 や思考、想像を拡張してくれるはずです。  皆さんもア上アイストになってみませんか。「自 分がアーティストになるなんて想像もできない」と 遠慮する必要はありません。ア上アイストになるの に資格も免許も必要ないのです。「私はアーティス トだ」と思えば、その時点で「アーティスト」です。 それをオノーヨーコさんは示したのです。社会があ なたをアーティストと認めるかどうかは二の次の話。 まずはアーティストになると決めること。そして 「問い」を自分なりに発信することです。  現代社会は、実はそんなことを人々に求めている のではないかと私は思っていたりします。今、あな たがどんな状況にいようと、何歳であろうと、ぜひ 挑戦してください。そして、自分自身の可能性を探 求する「問い」の旅を楽しんでください。そうすれ ば、乗り越えられなかった壁をいつの間にか乗り越 えているかもしれません。アートはそんな壁を越え る力を、誰に対しても与えてくれるものです。 終章アート思考とは「問い」である   アートの本質は「表現」ではなく「問い」   にある  本書のテーマである「アート思考」について、こ の最後の章で私なりの考えを記してみたいと思いま す。  優れたアーティストは優れた「問い」を社会に発 します。それゆえに社会から求められるアート作品 になるのだと私は考えます。私かいくつかのプロ ジェクトを共にやらせていただいた杉本博司さんの 作品に『劇場』シリーズがあります。さまざまな映 画館のスクリーンを上映中に撮影したものなのです が、単に映画館の中を撮影した写真ではなく、1本 の映画が流れているスクリーンをカメラで撮るので す。映画が始まったときにシャッターを押し、終 わったところでシャッターを閉じる。つまり、映画 が投影されている間、ずっとシャッターを開けたま まにして1枚の写真を撮影するわけです。  このように撮影すると、出来上がった写真のスク リーンは必ず真っ白になります。どんな映画でも、 どの映画館で撮影したスクリーンでも、例外なく白 くなります。まるで暗い劇場の中で白いスクリーン が浮かび上がるような写真なのですが、そのスク リーンにはいろいろな1本分の映画が流れています。  そう思ってこの写真を見ると、とても不思議な感 じがしてきます。静正した写真であるはずなのに、 動いているように感じられて、私だけかもしれませ んが、自分の頭の中でいろいろな思いやイメージが 現れては消えていきます。生まれて初めて観た映画、 最初に家族で観た映画、好きな人と観た映画、思い 出に残っている映画、そんな記憶が去来するのです。 杉本さんの作品の中の白いスクリーンは、鑑賞者に 合わせていろいろなものを映し出す不思議なスク リーンなのです。  この一連の作品には「時間とは何か」「見るとは どういうことか」「そもそも写真とは何か」という 問いが潜んでいるように感じます。私はこの杉本さ んの作品がとても好きです。素晴らしい「問い」を 生み出している作品は素晴らしいアート作品であり、 美しい「問い」を作り出している作品は美しい作品 であるものだと、杉本さんの作品を見る度にそう思 います。  作品を見て何を感じるかは、鑑賞者にゆだねられ ます。私は、どんなアート作品やパフォーマンス アートからも「問い」を感じますし、その「問い」 の強さや雨期性、洗練具合などで作品を鑑賞し、と きに評価します。これまでアートディレクターとし てやってこられたのも、作品が発する「問い」を感 じる力があったからだと思っています。  そのアート作品にはどんな「問い」があるのか。 アート作品以外でも、目の前にあるもの、この社会 で起きている現象には、どんな「問い」があるのか。 目の前にいる人、一緒に仕事をする人、この社会を 動かしている人には、どんな「問い」があるのか。 どんな「問い」を持っているのか。私は、そんなさ まざまな「問い」を日々感じ続けています。   アートもビジネスも「問う」者がゲーム   チェンジャーとなる  アート作品に秘められた「問い」が洗練されてい て、かつそれが時代を圉するような「問い」であれ ば、アートシーンでは高く評価されて、マーケット でも高値で取り引きされるようになります。バンク シーがその典型例であることについては第二章で話 しましたが、彼はアート作品の価値の付けられ方を よく理解していて、ある面で策略的に作品を作って いるところがうかがえます。ただ、策士の面を持つ バンクシーですが、それでも彼の新たな問いの投げ 方は洗練されていますので、社会的に高く評価され るのは間違いではないと思います。  アートシーンでは、ゲームチェンジャーのアー ティストが高く評価されるのです。この傾向はアー トシーンに隕ったことではないでしょう。ビジネス でも同じで、例えば「GAFA」と呼ばれる米国の トップーT企業も、新たなビジネスのやり方を作り 出し、ゲームチェンジャーになったからこそ今の地 位を得たのだと思います。そこに至るにはさまざま な要因や経緯があったと思いますが、少なくとも彼 らが作り上げたビジネスモデルはそれ以前にはな かったものだと言えるでしょう。  このGAFAも新たな「問い」を社会に投げかけ たのです。小売や消費、ビジネス、ネットワーク、 行動、文化、知識などのあらゆる人間活動がイン ターネットの中でデータと結び付いたらいったいど うなるか。そんな「問い」を見いだしたと言えるよ うに思います。もちろん、社会的に前代未聞のこと をすれば、そこに社会的な「問い」が生じるのは当 たり前のことでしょう。かつて自動車が発明されて、 それを社会で普及させようとする企業が現れたとき は、多くの家庭が自由に長距離移動できる機械を 持ったら社会はどうなるか、という「問い」を見い だすことができたでしょう。  ここで私か言いたいのは、アートから学べること はたくさんあるということです。その一つはゲーム チェンジのやり方でしょう。高く評価されるアー ティストがどのようにゲームチェンジをしたのかを 見ることで、例えばこれからのビジネスの参考にな ることが少なからずあるはずです。アートは社会的 な問題をいち早く感じ取り、その既成の価植観を社 会の中で最初に揺さぶろうとします。そこに次の時 代に関わるヒントを得ることができるのです。   バスキアの後にソニーの「ウォークマン」   がヒット  私の好きなアーティストの一人にバスキア (1960〜1988年)がいます。この「ストリー トーアートの巨匠」と呼ばれるアーティストもゲー ムチェンジャーの一人です。  バスキアの雨期性は、アートを街に持ち出したこ とです。また、美術大学などで美術の専門教育を受 けなかったア上アイストでもあり、人種的マイノリ ティのアーティストでもあります。その創作スタイ ルや作品には、時代を画す「問い」がいくつも潜ん でいます。「アートを紙やキャンバスに描く必要が あるのか」「アートは美術館のホワイトキューブな どの屋内やギャラリーに飾らなくてはいけないの か」「アーティストと呼ばれるには美術教育を受け なくてはならないのか」という、それまでのアート の常識をひっくり返す「問い」をバスキアはいくつ も社会に投げつけました。おそらく本人はその「問 い」を意識していなかったと思いますが、その作品 性と「問い」が時代にぴったりと合ったのです。  当時、時代的に若者がストリートに出て活動する 流れがありました。いわゆる「ストリート文化」で す。1979年に発売されたソニーの「ウォークマ ン」も、そんなストリート文化の花開く中で現れた 製品でした。これは携帯型音楽プレーヤーの原点と も言えるもので、カセットテープという小型の磁気 テープに記録させた音楽を再生できる小さな機械で、 世界的な大ヒット商品となりました。  今、私たちは外出中に音楽をヘッドフォンで聴い たりしますが、その文化というか新習慣を作ったの が囗本のウォークマンだったのです。この製品が登 場するまでは、音楽は部屋の中で聴くものでしたが、 この小さな機械が登場してからは外でも音楽を聴く ようになりました。街路でヘッドフォンをかけて音 楽を聴く若者の姿は、新たな社会現象にもなったほ どです。  この製品からは、例えば「音楽は部屋の中だけで 聴くものなのか」という「問い」を見いだすことが できるでしょう。もしかしたら、スマートフォンの 原点の一つはこのウォークマンにあるのかもしれま せん。そこには「コンピューターは部屋の中だけで 使うものなのか」という、ウォークマンに似た「問 い」が潜んでいるようにも思えます。  ウォークマンを作ったメーカーの方たちは、おそ らくバスキアの作品にインスピレーションを受けた わけではないと思いますが、アート作品と社会の変 革を起こす製品の背景にはいつも同じような「問 い」があったと見いだすことができます。だから、 アートシーンの最先端を走るアーティストから「問 い」を感じ取ることができれば、例えばビジネスな どで新たな製品やサービスを作り出すときのヒント をつかめることもあると思うのです。  バスキアは若くして亡くなりましたが、結果的に アートの流れを意図せず大きく変えることになりま した。同じようにソニーのウォークマンも、機械と 人間の関係を大きく変えることになりました。どち らもイノベ上アイブな存在だったことは間違いない でしょう。  現代ではイノベーションを待望する大きな声が産 業界から毎日のように聞かれます。アートが関わる ことで、何か見えない壁を突破するようなものをも たらすことができないかと、日々、思案していると ころです。具体的な形は見えませんが、模索する価 値はあるでしょう。  余談ですが、近年、バスキアの作品の価植を大き く上げた日本人がいます。オンラインーフアツショ ンストアの「ZOZOTOWN」を立ち上げたこと で知られる実業家の前澤友作氏です。彼はオーク ションで次々とバスキア作品を競り落とし、 2016年には『デビル』と呼ばれる作品を 5700万ドル(日本円で約60億円)で落札して話題 となりました。これは当時のバスキア作品の最高値 で、相場を知るアート関係者は驚くばかりでした。 このおよそ半分ぐらいというところがバスキア作品 の流通価格でした。  前澤氏は翌2017年にもバスキア作品をオーク ション経由で購入。こちらはさらに高額で、落札価 格は約123億円でした。こうしてバスキア作品は 2016年以降に高騰しました。新たなビジネスで 成功を収めた前澤氏は、アートに対しても、それま でにないやり方でアプローチをかけてきました。そ の対象となった作品が、やはりそれまでにないやり 方で絵を描くアーティストの作品だったことは偶然 ではないように思います。   バンクシーの後にアップル「一PhoコΦ」が   ヒット  アートディレクターの私から見て、アートとビジ ネスに共通しているところがあるとすれば、それは 「仕組み」に関わるところです。どちらの分野も高 評価を得るのは、いつも「仕組み」を革新した者だ と言えるでしょう。  例えば、実業の世界では、ソニーはウォークマン を作り、トヨタは(イブリッド車を作り、アップル はiPhoneを作り、グーグルは確度の高い検索シス テムを作ることで社会から大きな評価を得ました。 また、アートの世界では、バスキアがストリート アートを作り、バンクシーが社会的な新たなアート を作り、ピープルがデジタル時代のアートを作り出 すことでアートシーンから高い評価を受けました。 繰り返しになりますが、共通しているのは、それま でのビジネスモデルやアートの仕組み、言い換えれ ば枠組みや文脈、流れ、常識を超えてゲームチェン ジをした者たちであるということです。  「仕組み」は、時代の変化とともに革新が求められ ます。誰がいかに革新するか。それはビジネスも アートも同じであるように感じますし、アートのほ うが少し先を行くようにも感じます。新たな製品や サービスを作るにはどうしても時間がかかりますが、 アートの場合は、作品や制作手法にもよりますが、 短時間で作ることが可能です。  例えば、バスキアがアートシーンに現れたとき、 ソニーのウォークマンが後にヒットしました。バン クシーが社会の注目を浴びたときは、アップルの iPhoneが後にヒットしました。それでは、ピープ ルがアート界の最高値を付けた今はどうでしようか。 もしかしたらその作品に対応するような製品がやが て現れて、世界的にヒットするかもしれません。ま た、今後はテクノロジーアート、サイエンスアート、 バイオアートが高い評価を得るようになると私は 思っていますが、もしそうなれば、そのアートに対 応したものがビジネスの世界でもきっと現れること でしょう。  もし「仕組み」を革新する力を養いたければ、 アートに触れるのが一番いいのではないかと思いま す。美術館などに行けば、その実例がたくさんあり ます。最先端のアートシーンを見てみれば、今どの ような作品が高く評価されているかがすぐに分かる でしょう。イノベーションのヒントは、アートにあ ると私は思います。   アート思考とは「問い」である  アートとは「問い」である。そして、「アート思 考」もやはり「問い」であると思います。「問い」 は、未来という新しい時代における新しい価値や考 え方の提案でもあります。つまり、アートもアート 思考も、「問い」を自ら作り出して多くの人に伝わ るように表現することであり、その「問い」が画期 的であれば、社会の「仕組み」を大きく変えるゲー ムチェンジの原動力になり得るのです。  アートに隕らず、時代を画した製品やサービス、 出来事、社会的な事件や現象には、多くの人の心を 揺さぶる「問い」があるものです。近年、ビジネス の世界では「問題解決」という言葉がよく聞かれま すが、もしかしたら重要なのは「解決」ではなく、 「問題」の中にある「問い」なのかもしれません。 実は、イノベーションは「解決」ではなく、そんな 「問い」から生み出されるものなのかもしれません。  第一章で紹介したバイオアーティストの作品から ヒントを得れば、「人が人以外の動物を産んではい けないのか」という問いや「女性のカップルから生 まれた子どもがいてもいいのではないか」という問 いを持つことができます。その問いを持つことに よって拡張された未来観は、時代と社会を変えるイ ノベーションにつながるように感じます。アートは、 そんな時代の革新を促すさまざまな「問い」を私た ちにいち早く投げかけます。それを受け取り社会で 生かす思考こそが「アート思考」ではないかと私は 思うのです。  ぜひ、積極的にアートに触れて「アート思考」を 身に付けてほしいと思います。そして、自分でも 「問い」を作って表現してみましよう。前章で紹介 したように、頭の中だけでも構いません。オリジナ ルの「問い」を持って人々を元気にするようなもの を作ろうと想像し続けていけば、やがて普段の仕事 や生活がアートのようになっていくはずです。その とき、今までなかったものが新たに作り出せるはず です。  アートとは「問い」である。未来に向かって生き ることは「問い」の模索である。この原点を見直す ことが、これからの社会で一番求められるようにな ると私は思っています。今、社会が世界規模で大き く変わろうとしています。今後、デジタル技術がま すます進展し、私たちの生活を根底から変えていく でしょう。もはや、10年後の未来さえ、ほとんどの 人は予想することができないほど、変化のスピード が上がっています。  しかし、あえて「アートがある限り大丈夫です」 と私は言いたいと思います。なぜなら、未来社会に おいても、そこに人間がいる限りアートがあるに違 いないからです。有史以前からアートは人類ととも にありました。人類はアートなしでは存在できない のです。それは歴史が証明しています。これからも アートは人類とともにあり続け、人間性を問うよう な社会的な問いを投げかけていくでしょう。未来の 社会においてもアートは不滅であり、アートと、そ れに触れる人々がいれば、いつもそこに明るい未来 はあるはずです。逆に言えば、アートの表現の自由 を守っていくことは、より明るい未来を作ることに ほかなりません。  今、社会のデジタル化で多くの人は息苦しくなっ ているように思います。その変化の中で、私はアー トの必要性がとても高まっているとも感じています。 それは、社会を支える多くの人々が人間性のバラン スを取ろうとしているのではないかと私は思うので す。ビジネスを含め、この現代社会のあちらこちら で人間性あふれるアートが強く求められるように なっている。そんな社会的な背景が「アート思考」 という言葉を生み出しているようにも思います。  もしかしたら、これからの時代は、アートはもは やアーティストだけが作るものではなくなっていく のかもしれません。多くの人が自らアート的な「問 い」を持つようになり、デジタル技術などで社会に 「問い」を投げかけるようになるのかもしれません。  もし多くの人々がアート的な「問い」を持って生 きるようになったらどうなるのか。そんな「問い」 を最後に提示して、筆を擱きたいと思います。想像 の自由、思考の自由、問う自由……、ときには迷子 になるかもしれませんが、それも良いでしょう。自 分自身の可能性を信じて、「問い」から始めるアー ト思考を、ご自身の生活の中に取り入れていただき たいと願っています。 おわりに  良いアート作品は、長きにわたって見ていると動 き始めます。  写真家の土門拳は、仏像を撮影する際に、仏像に 対して徹底的に向き合い、朝の光、曇りの昼の光、 雨の囗の夜の光を受けて仏像が表情を変えていくと ころをとらえ、「仏像が動く」と言ったそうです。 アート作品との末長い付き合いも、このように感性 を触発し、鑑賞者の生きる歓びとなると私は思って います。  最後に、皆さんに一つおすすめしたいのは、自分 でアート作品を買ってみるということです。無理に 高価なものを買う必要はありません。無名に近い アーティストの安い作品でいいのです。自分が直感 的に「良い」と思う作品を一点買ってみましょう。 できれば、転売のセカンダリーマーケットではなく、 展覧会を楽しみながらプライマリーマーケットで購 入するのがいいでしょう。そして、いつも見えると ころに飾るのです。その作品に長い間親しんでいく と、いつも見ているはずなのに初めて見えてくるも のが現れるようになります。朝、昼、夜、雨の囗、 晴れの囗、うれしい気持ちのとき、悲しみに沈んで いるとき、さまざまなタイミングで見てみましょう。 すると、少しずつその作品が自分の心のものになっ ていきます。  せっかくなので、私なりのア上アイストの見方に ついても、お話ししておきたいと思います。作品を 買うときに役に立つと思います。大きく分けて三つ あります。  一つ目は、作品がただ美しいというだけでなく、 そのアーティストに将来的な広がりが見えるかどう かという観点です。ア上アイストは、一つの作品の 完成、一つの展覧会の成功で終わるわけではなく、 生涯をかけて制作を続けなければいけません。現時 点で完成度が高く魅力的な作品を作っていても、す ぐに方向性に行き詰まってしまうこともあります。 私か作品を選ぶときは、たとえ荒削りで未完成で あっても、これからの展開の可能性が見えるアー ティストの作品を選ぶようにしています。  二つ目は、そのアーティストが、美術史の流れの 中で、あるいは自分が依って立つ社会への問題意識 において自ら新しいチャレンジをしようとしている かどうかです。社会への問題意識を持つというのは、 いわゆるジャーナリスティックな意味での社会問題 に取り組むということではなく、一人の表現者とし て、社会的な状況の変化を自らの視野の中でとらえ、 その変化に感応するということです。このチャレン ジが、例えば新たな方法論や技法、社会への独自の アプローチに結び付いていきます。  ただ、こうした新たなチャレンジは、ともすると 独りよがりなものになりがちです。そうならないた めには、アーティスト自らが美術の歴史や社会状況 に対する研ぎ澄まされた感受性を持っていなくては なりません。過去を学ぼうとしないア上アイストほ ど過去のアーティストの作品の焼き直しを知らずに してしまっている、というのは実にありかちな現象 です。  三つ目は、自分自身のアーティストとしての社会 的な立ち位置の確認です。自己が依って立つすべて のものに眼差しを向けることは、制作行為と社会を つなぎ止める命綱のようなものです。自己の作品に 対する他者の眼差しを得ようとするものは、必ずそ れに先んじて自分自身をよく見つめることが必要な のだと思います。自らのアイデンティティに対する 確固とした認識があれば、それはさまざまな表現方 法にチャレンジする自由をもたらします。自分の足 もとを見つめる素直さが、新たな表現世界へのアク セスを可能にするのです。  もう一つだけ、私か今抱いている「問い」をお話 しさせてください。世界における囗本のアートマー ケットについてです。とても強い危機感を抱いてい ます。  昨今、日本のアートやエンターテインメントにお ける国内外のマーケットの規模を比較する際、韓国 が例に挙げられることがよくあります。日本と韓国 のアートの輸出額の違いをご存じでしょうか。実は、 韓国のほうが大きく、Oが一つ違うくらいの開きが あるのです。  分かりやすい例は、映画やエンターテインメント です。2019年公開の『パラサイト 半地下の家 族』が第72回カンヌ国際映画祭で韓国映画初となる パルムードールを受賞し、米国の第92回アカデミー 賞においては作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映 画賞の最多4部門を受賞しました。今年の第93回ア カデミー賞では、『ミナリ』のユンーヨジョンが助 演女優賞を受賞するほか、BTSなどのミュージ シャンも世界的な成功を収めていると言えるでしょ  この韓国の成功はどこから生まれているのでしょ うか。それにはさまざまな要因があると思いますが、 第一の要因は、国が輸出産業としてアートやエン ターテインメントに力を入れていることだと私は 思っています。アートやエンターテインメントの分 野に多様な支援を実施し、税制面でも優遇を図って います。  私は映画監督の河瀬直美さんと親しくさせていた だいているのですが、アカデミー賞の選考・審査期 間中、韓国は積極的に投票資格のあるアカデミー会 員に向けて国を挙げてのロビー活動を展開している と話していました。日本は、残念ながらそんな口 ビー活動をする資金はなく、河瀬さんはいつも孤軍 奮闘しているそうです。私はその話を聞いて悔恨の 思いを抱きました。  このようなロビー活動が良いのか悪いのか、きっ とさまざまな考えがあると思います。しかし、推し の作品の良さを多くの人に伝えることは決して悪い ことではありませんし、作品は見てもらわないとそ の価値が伝わりません。自国のアートやエンタ上ア インメントを国が推すという支援をするのは、この グローバル社会においてはとても重要なことではな いかと私は思います。日本が大きな輸出産業となる 可能性を秘めるアートやエンターテインメントに もっと力を入れてくださることを切に願います。  私は、才能豊かな囗本のアーテイストたちが世界 で活躍する可能性は十分にあると確信しています。 それはこれまでの囗本のアートシーンを見ても分か ります。高校卒業後、海外での活躍の場を求め、他 に類を見ない研ぎ澄まされたコンセプチュアルアー トを確立した河原温(1932〜2014年)。女性 が独りで海外へ行くことすら珍しかった時代に単身 でニューヨークに渡ってパフォーマンスアートに取 り組み、自らの独特な作風を確立した草間彌生 (1929年〜)。まだ写真家になるとは決めずに海 外へ旅立ち、世界トップクラスの写真家となり、 アートだけにとどまらず、建築や舞台演出など自分 自身の才能を拡張し続けている杉本博司(1948 年〜)。ロックフェラー財団のACCグラントによ りP.S.l ART PROJECTの招待を受けて海外に招か れ、自分が世界で戦うためのアートを再確認して自 らキュレーションし、コンテクスト作りまで活動の 一部とし、成功した村上隆(1962年〜)。  ファッションの世界でも、国の支援に頼らず世界 で活躍し続けている方たちがいます。COMME des GARgONSの川久保玲、Yohji Yamamotoの山本耀 司、近年では世界で最も注目を集め、私の友人でも あるsacaiの阿部千登勢、他にもUNDERCOVER の高橋 盾、kolorの阿部潤一などがいます。  建築の世界においても安藤忠雄、磯崎新、sAN AA、私のいくつかのプロジェクトで一緒に仕事を している石上純也、田根剛などがいます。挑戦者で ある彼らの世界での戦い方は、あらゆるジャンルで 大いなるヒントと勇気を与えてくれるでしょう。  本書でも少し書きましたが、私は海外からアート コレクターが来日した際に東京の名所を案内するこ とがあります。まず主要な美術館の訪問を提案しま すが、たいてい来日したアートコレクターだちから は「自国に十分なコレクションを保有する美術館が あるので、日本でしか見られないようなものを見せ てほしい」と言われます。そして東京の建築や ファッション、近年はお台場のデジタルアート ミュージアムをリクエストされるのです。  このような経験を踏まえて、私なりに日本のアー トが世界においてイニシアチブを取るために必要な ことを考えてみたいと思います。  いろいろなやり方があるのでしょうが、私はまず 日本で暮らす人たちがもっと日本の文化を愛するこ とが必要だと思っています。私自身、常に心掛けて いることですが、日本の文化を知り再評価すること は世界ヘアプローチするためにとても重要であり、 一番の早道だと思っています。なぜなら、日本にあ る文化は、世界に誇れるものが多いからです。  例えば「茶の湯」です。茶室でお茶をいただく習 慣は洗練されたミニマルな日本独自の文化です。 もっと気軽に茶を楽しむことができるようになれば、 私たちの美意識は高まるような気がします。そして、 日本の文化に対する再評価の意識も自然に高まって いくようにも感じます。  私は日々自分で茶を点てて、気軽に抹茶を楽しん でいます。不思議と茶を点てているときやいただい ているときは心が解き放たれ頭がクリアになります。 すると、いろいろな想像や発想とともに「問い」も 浮かんでくるものです。  床の間の文化なども、日本の住宅に改めて取り入 れられれば良いのではないかとも思っています。隕 られた住空間の中で、縦に長い軸をかけることに よって空間を広く感じさせ、四季があるこの日本で 情趣や風情を楽しむことができるでしょう。日本の 文化をライフスタイルに取り入れることによって、 新たな日本的な「問い」を見つけることもできるか もしれません。  先ほどお話ししたように、日本には世界に高く評 価されている建築家やファッションデザイナー、映 画監督、アーティストたちがいます。特にテクノロ ジーアートやサイエンスアート、バイオアートでは、 日本が世界をリードしています。日本のアートや文 化には世界的な価値を持つポテンシャルが間違いな くあります。それを世界に伝える努力をしっかりと 重ねていけば、やがて日本のアートが世界のイニシ アチブを取ることができると私は信じて疑いません。 日本で暮らす人々が、日本の文化を再評価しながら も最前線で活躍する日本人ア上アイストを応援する。 一方でアーティストたちも個々の活動だけでなく、 それぞれが力を合わせて総合力をもって世界に日本 のアートを発信する。このことが今とても重要なの です。  最後に、本書の企画段階からあらゆる相談に乗っ ていただいた光文社の小松現さん、ありがとうござ いました。また、本書をまとめる上でお手伝いをし てくださった宇津木聡史さん、そして、労を惜しま ず協力してくれた私のアシスタントの菅野真那未、 西塚沙織にも感謝の意を表します。    2021年10月                     吉井仁実 口絵・章扉デザイン 板倉洋 編集協力 宇津木聡史