お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 これは、お金の不安から抜け出すための本だ。 お金の不安という幻想。このタイトルに、首をかしげた人もいるかもしれない。「お金がどこが幻想だ?」と。たしかに、お金がなければ生活は立ち行かない。それは幻想ではなく、まぎれもない現実だ。 「お金さえあれば不安は消える」これこそ、私たちが抱いてきた幻想だ。これまでは、働いて、貯めて、それが安心につながると信じていた。しかし今、お金の価値が揺らぎ始めている。物価は、どこまで上がるのか。老後資金は、本当に足りるのか。何かしないと取り返しのつかないことになるというぼんやりした不安が、私たちを襲っている。 将来への不安に息苦しくなる前に、思い出してほしい。子どもの頃、私たちは不安と向き合い、暗闇の中で不気味な影に怖くなりながらも、どうやって乗り越えたのか。きっと、明かりをつけたはずだ。明るくなれば、その正体が見える。怖かった影の正体は、ただのぬいぐるみだった。大事なのは、幻想におびえることではなく、その正体を見きわめることだ。 人口減少、物価高、老後資金不足-今、日本では、確実に何かが起きている。私たちが向き合うべきは、ぼんやりとした「お金の不安」ではなく、その背後にある「現実の正体」だ。では、これから待ち受ける現実とは何だろうか。そして、私たちはどうすればともに不安を乗り越えられるのだろうか。この本は、8つの問いを出発点に、その現実をあなたと一緒に見つめ直していく。 見えない不安は、誰だって怖い。しかし、その正体がわかれば、前に進める。必要なのは、未来にそっと明かりを灯す勇気だ。 目次 はじめに 誰もが抱えるお金の不安 社会を物語のように俯瞰してみる 子どもたちの問いが教えてくれたこと 8つの問い、4つの行動 第一部 整理する 第1話 その不安は誰かのビジネス 第2話 投資とギャンブルの境界線 第3話 「会社に守られる」という幻想 第4話 愛と仲間とお金の勢力図 第三部 直視する「外」の現実 第5話 「あなたのせい」にされた人口 第6話 お金の不安が増えるのか? 第四部 協力する可能性 第7話 「仕事を奪う」が投資の出発点 第8話 「子どもの絶望」に見えた希望 おわりに お金の不安は、孤独だ。誰にも相談できず、一人で抱えるしかなかった。それを痛感したのは、大学入学を機に上京し、三畳一間の寮に住み始めた頃だった。まだインターネットが珍しく、寮の玄関には、黒電話がぽつんと置かれていた。バイトだけでの生活は楽ではなかったが、不思議と苦しくはなかった。なぜなら、そこには学生同士の支え合いがあったからだ。食事に困れば先輩がおかずを分けてくれたし、後輩の実家から届いたミカンをおすそ分けしてもらうこともあった。レポートの書き方から恋愛の悩みまで、誰かが時間を割いて話を聞いてくれた。しかし、お金だけは別だった。寮費や携帯電話代は、自分で何とかするしかない。おかずやミカン、ときには時間さえも、余裕があれば自然と分け合えた。なのに、お金だけはそうはいかなかった。一人暮らしに変わると、その孤独はさらに深まった。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 誰もが抱えるお金の不安 あの頃感じた孤独は、僕だけのものではなかったようだ。お金や経済について書くようになってから、講演やイベントで多くの人と話す機会が増えた。この1年だけでも1万人を超える人の前で話をしてきた。そこで気づかされたことがある。誰もが、お金の不安を抱えている。それも、ひとりきりで。「老後2000万円問題」が話題になって以降、「今のままで大丈夫だろうか?」という漠然とした不安が、日常のそこかしこに染み込むようになった。 ある雑誌の座談会では、こんな質問が飛んできた。「幼稚園のうちから投資を学ばせるべきでしょうか?」思わず、「お母さん、少し落ち着きましょう」と返したが、彼女は真剣だった。「都心の幼稚園では、もう株の勉強をしていると聞きました」。その姿に、今の社会の空気を感じた。周りから自分だけが置いていかれて、どんどん貧しくなっていくのではないか。そんな不安が、私たちを息苦しくさせている。 この本で考えたいのは、息苦しい「お金の不安」から、どうすれば抜け出せるかということだ。それは、「お金をどう増やすか」という投資の話でもなければ、「気の持ちようで不安は消える」という精神論でもない。新しい時代を生きるための具体的な生存戦略の話だ。僕は金融市場で長年働いてきた経験がある。大学を出て、得体の知れない資本主義の世界に放り出された僕は、たまたまその世界を内側からのぞく仕事に就いた。そこで見えてきたのは、私たちが「良い客」でいる限り、「お金の不安」は決して消えないという現実だった。なぜなら、資本主義は、「お金の不安」をふくらませるシステムだからだ。言い換えれば、私たちはさまざまな不安を、「お金の不安」に置き換えて生きるようになった。 お金がない時代、「お金の不安」は存在しなかった。その代わり、人間関係の不安はより切実だったはずだ。たとえば、マンモスを狩って暮らしていた頃。もしもリーダーに「明日からお前はいらない」と言われたら、それは食糧を失うことを意味していただろう。生きるには、仲間とつながるしかなかった。しかし、現代では、仲間の代わりに商品を買えば不安を解消してくれる。わずらわしい人間関係を気にすることも減った。スーパーで魚を買えば、漁師と仲良くする必要はない。老後の介護も、子どもや親戚に頼らずに、サービスとして買うことができる。お金は生きる不安を解消してくれる万能薬のようにも見える。しかし、それと引き換えに私たちは当然のように孤独になり、「お金の不安」をひとりで抱えるようになった。 しかも、この数年、そのお金自体の様子もおかしい。必要とされる老後資金は2000万円だったはずが、3000万円、4000万円と、蜃気楼のように遠ざかっていく。「インフレだから仕方ない」と言い聞かせながらも、「いったい何が起きているのか」と疑問を抱く人も多いのではないだろうか。 「投資の勉強はしたくないんですけど、お金の不安は減らしたいですよね」とある日、習い事の先生がそんな悩みを口にした。「それならまず、社会を見渡すことですよ」と僕が言うと、彼女は首をかしげた。「不安を減らしたいだけなのに、なんで社会のことを知らなきゃいけないんですか?」そこで、僕はこう返した。「リーポッターやドラゴンクエストのような物語ってありますよね。登場人物たちは、自分の世界で『何か起きているか』を知っています。だから、敵に立ち向かえるんです」。彼らは、情報を整理し、旅の支度をして、困難を直視し、仲間と協力する。もし、敵の正体もわからないまま、「とにかく2000万円の魔法の杖を買わなければ勝てません」とだけ言われたら、そして「値上がりするかもしれませんよ」と言われたら、苦しくて読めない。 今の私たちは、まさにそんな物語の中を生きている。私たちが「お金の不安」と感じるものは、実は「変化する社会をどう生き抜くか」という、根源的な問いではないだろうか。だとすれば、やるべきことは明らかだ。情報を整理し、旅の支度をして、困難を直視し、仲間と協力する。この4つの行動こそが、具体的な生存戦略であり、この本の柱となる考え方だ。 では、今この社会で、何か起きているのか?そのヒントをくれたのは、講演で出会った子どもたちの言葉だった。「お金を稼ぐパパのほうがママより偉いんでしょ?」と真剣にたずねる男の子。「老後が不安だから、早く投資を始めたい」と焦る学生。どちらも、胸が締めつけられるような言葉だった。その一言に、日本社会の「今」が凝縮されていた。男の子の問いかけは、「なぜ『お金を稼ぐ人のほうが偉い』と感じる時代になったのか?」という私たちの価値観への疑問を浮き彫りにしている。学生の焦りは、「投資と労働、どちらが本当に報われるのか?」という、私たちが今直面している問題そのものだ。 この本では、こうした子どもたちの疑問を出発点に、8つの問いを立てた。そして、それに応えるために、4つの行動「支度する」「直視する」「協力する」「整理する」を柱として据えている。時代の変化とともに、私たちの生存戦略も変わりつつある。どんな時代になっていくのかを明らかにし、その戦略を一緒に見つけていこう。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 第1話 その不安は誰かのビジネス 「みんな、やっているよ」 たったそれだけの言葉に、どうしてこんなにも心がざわつくのだろう。小学生の頃、みんなが夢中になっているゲームを、自分だけが持っていないと、急に居場所がなくなった気がした。あの感覚は、大人になった今も残っている。投資、副業、節約術、SNS、子どもの教育。いつの間にか、私たちは「自分も始めなければ」と、見えない何かに背中を押されている。特にお金に関わる話だと、その焦りは格別だ。 電車の中吊り広告や雑誌の特集は、まるで示し合わせたようにお金を増やすことへの焦りを刺激する。子どもの頃と違うのは、仲間外れの不安だけでなく、「乗り遅れたらどうしよう」という焦燥感がつきまとうことだ。不安はいつも突然やってくる。 「何か良い教育があれば」と軽い気持ちで幼児教室の説明会に足を運んだことがある。会場はほぼ満席で、それだけで少し出遅れた気がした。講師が「早いご家庭は、もう小学校受験に向けて動いています」と話す。まだ実感のない言葉だったが、周りの親たちが真剣にメモを取る姿を見た瞬間、背筋がひんやりした。「年中さんから始めるのが、間に合う最後のチャンスです」。その言葉で不安が焦りへと変わり、気がつけば、体験入会の申込書にペンを走らせていた。似たような経験がある人は少なくないだろう。 企業側は本当に心配してくれているのかもしれない。しかし、「乗り遅れたらどうしよう」という不安をくすぐられると、冷静な判断は難しい。私たちは、必要かどうかを吟味する前に、「周りが始めている」という空気に反応してしまう。そうやって、不安は静かに私たちの心の中に積もっていく。 最近、その気配を最も強く感じるのが投資だ。スマホを開けば、「みんながやっている投資信託ランキング」「始めないと手遅れになる」といった広告が次々と飛び込んでくる。気づけば、何かに急かされている。私たちは、社会に漂う空気に無意識に焦らされているのかもしれない。 では、どうすれば、焦りを生む空気から抜け出せるのだろうか。焦りの背後には、「時代の変化」という見えない力が働いている。 子どもも大人も、「みんなと同じ」だと安心する。「全米NO.1ヒット映画」「100万部突破ベストセラー」という宣伝に惹かれるのは、多くの人が選ぶものに自然と信頼を感じるからだ。これはマーケティングでよく知られるバンドワゴン効果という心理作用だ。だけど今、それだけでは人は動かない。そこで、新たな要素が加えられた。それが、「不安」だ。不安が増幅される仕組みは、悪意がなくても生まれてしまう。 たとえば「40代から始めるスキンケア」という言葉は、裏を返せば「40代で始めないと手遅れになる」と告げている。時間のリミットがちらつくと、つい不安になる。やがてそれは、焦りに変わり、人は冷静さを失う。僕自身、金融の世界で何度もそれを経験した。ある日の国債入札。市場では「買いたがる銀行が多いらしい」という噂が飛び交い、様子を見るつもりが「今買わないと利益を逃す」と焦ってしまった。予定していた500億円では足りない気がして、購入額を2倍に増やしたところ、結果は裏目に出て、損をした。なんとも恥ずかしい話だが、プロでも焦りは判断を狂わせる。 特に教育や美容・健康、投資のように「お金をかけたい」と感じやすく、「ためらうと手遅れになる」と思い込みやすい分野では、不安が高まる表現が増えていく。消費者庁が令和4年度に行った消費者意識基本調査でも、「今後(も)お金をかけたいと思っているもの」として、健康、医療、教育、美容などが上位に並んでいた。そして、投資もまた、6年前に比べて2倍以上の関心を集めている。 私たちは、「今すぐやらなければ出遅れる」という焦りを呼ぶ言葉を日々浴びているのだ。では、どうすればこの焦りの渦に巻き込まれずにいられるのか。答えの一つは、「自分だけのモノサシ」を持つことだ。簡単そうで、これが意外に難しい。 中学校や高校でお金の授業をするとき、僕がよく使うクイズがある。教室のスクリーンにメロンジュースの写真とクイズを映し、「さて、3択クイズです」と言うと、生徒の目が輝く。「問題」いつも1000円で売られているメロンジュースがあります。高くて買えなかったのですが、ある日のセールで500円になっていたので、買って飲みました。ところが次の日、そのジュースは300円に値下がりしていました。この買い物で、あなたは得をした? 損をした? A. 500円得をした B. 損も得もしていない C. 200円損をした 「さあ、どれだと思いますか?」生徒に手を挙げてもらうと、毎回きれいに意見が分かれる。Aを選んだ生徒は、「1000円のものを500円で買えたから得した!」と自信満々だ。Bの生徒は冷静に「価値は500円だから損も得もしてない」と答える。Cの生徒は、悔しそうに「次の日には300円なんだから損した」とつぶやく。 ここで僕は付け加える。「実はもう一つ、選択肢があります。D『この中に正解はない』という選択肢です。他の答えを思いついた人はいませんか?」生徒たちは一様に首をかしげる。そこで、後ろで見学する先生や保護者にも問いかける。「大人のみなさんも遠慮せずにどうぞ」。しばらくの沈黙のあと、あるお母さんが手を挙げた。「ジュースがまずければ、どんな値段でも損したって後悔しますよね」。その言葉に、生徒たちの表情が変わる。「確かに!」と納得する声があちこちで上がった。 値段より味。お金の損得より自分の満足感。たった一杯のジュースが「価値とは何か」を考えるきっかけになった。けれど、なぜ私たちは値段や損得ばかりに気を取られるのだろう。その背景には、私たちを取り巻く社会の構造的な変化がある。 企業はかつて、「人々が本当に欲しいもの」を作っていた。しかし今は、「人々に欲しがらせること」に力を注ぐ。それは、「メロンジュースの問い」にも見える構造だ。企業と消費者の当たり前の関係がすれ違い始めたのは、いつからだろう? 話は、戦後の復興期にさかのぼる。1952年、日本はサンフランシスコ講和条約の発効により独立を回復した。占領期を経て、日本人はアメリカの豊かさに強い憧れを抱いた。当時の企業は人々が求めるものを作り、消費者もまた、それを素直に手に取った。両者が手を取り合って豊かさを目指す、健全な循環があった。 たとえば、当時のナショナル(現パナソニック)の新聞広告には、「我々の生活はこれでよいか?」という問いかけで始まっている。これは不安を煽るためではない。広告の本文からは、「電化による社会生活の向上」をみんなで目指そうとする強い意志が伝わってくる。 その勢いは1990年代半ばを境に停滞していく。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 日本のシェアは、1995年の17.9%をピークに、2023年には4.0%にまで落ち込んだ。 経済学者の小野善康氏は著書『資本主義の方程式』で、停滞の原因を「モノ経済からカネ経済への移行」と説明している。戦後から高度成長期は、モノを得ることが豊かさだった。ところが、モノが満たされると人々の関心は「カネ」へと移った。消費者は少しでも安く買って、お金を貯めようとする。企業は、売上を確保するために、価格競争に巻き込まれる。どれだけ良いモノを作っても、高くては売れない。 「モノを売りたい企業」と、「カネを貯めたい消費者」は、いつしか対立し、その距離は広がっていった。かつて「欲しいもの」を作っていた企業は、生き残るために「欲しがらせる」ことに力を入れるようになる。不安を煽る言葉。焦りを仕掛けるカウントダウン。必要かどうかではなく、損をしないうちに買わせる仕組み。こうして、購買の動機は「憧れ」から「不安」へと静かにすり替えられた。 企業と消費者が共に未来を目指す関係は、消え去ったかに見えた。ところが、その閉塞感に風穴を開ける出来事が2019年に起きる。 2019年、「老後資金が2000万円不足する」という金融庁のレポートが話題になった。この「老後2000万円問題」は、お金への不安をふくらませただけでなく、消費者と一部の企業の関係を変えるきっかけにもなった。 人々の関心は依然として「カネ」に向けられていたが、単に貯めるだけではなく、投資で増やそうという動きが広がり始めた。「モノを売りたい企業」と、「投資でカネを増やしたい消費者」のニーズが一致した瞬間だった。企業は、「金融商品」という形で、消費者の欲求を満たせたのだ。さらに2024年、新NISA制度がスタートすると、この流れは加速する。政府の後押しで、「投資は、やらなきゃ損」という空気が広がっていた。 ふくれ上がった「お金の不安」は、作られた側面もある。生活や将来への不安は昔からあったが、それらが「お金の不安」として括られ、他の解決策が見えにくくなった。老後の不安なら、地域や家族との支え合いという方法もあるし、定年後も働けるスキルを身につける選択肢だってある。けれど、一度「老後資金の問題」と定義されると、お金を貯めること、増やすことばかりに目が向く。 不安を感じる私たちに金融機関が忍び寄る。「インフレで現金の価値は目減りします」「投資を始めないと手遅れです」と焦りを誘う。しかし、過去インフレになったときを振り返ると、金利が高くなり預金だけでもお金は増えた。実際に2024年から始まった利上げによって、預金金利は徐々にではあるが上昇している。また、2025年5月時点で、無リスク金利とされる国債金利の30年ものは2.8%に達している。100万円をこの金利で運用すれば、30年後には230万円にまで増える計算だ。これは十分に堅実な方法だが、こうした情報はあまり表に出ない。金融機関が売りたいものは、別にあるからだ。 企業の思惑を知っていれば、不安を煽る情報に出くわしても冷静でいられる。これは投資に限った話ではなく、教育、美容、健康などあらゆる消費行動に共通する。結局のところ、大切なのは、自分自身の価値基準をしっかり持つことだ。 私たちは気づかぬうちに「価格の呪い」にとらわれていないだろうか。「定価が高ければ価値があり、安く買えれば得だ」という思い込みだ。この呪いを解く鍵は、自分が感じた満足感を信じることにある。 私たちが日々意識する価値は、「満足感」と「価格」の2つだ。満足感とは、実際に使ったり体験したりして感じる喜びや幸せのことだ。たとえばメロンジュースを飲んだときに感じるおいしさや、お気に入りの洋服を着たときの心地よさ。経済学では、「使用価値」とも呼ばれる。もう一つの価格とは、市場で客観的に決まる「交換価値」だ。メロンジュースが500円だったり、ジャケットが10万円だったりする、値札の数字だ。 当然ながら、消費者として本来重視すべきは使用価値だ(以降、こちらを価値と呼ぶ)。一方で売る側は価格を重視する。高く売れるほど利益が増えるからだ。 さきほどの3択クイズを思い出してほしい。転売目的でメロンジュースを買ったのなら、価値の基準は「価格」になる。500円で買ったものが300円でしか売れなければ、確かに損失だ。しかし「飲んだ」という体験がある以上、評価すべきなのは満足感のはずだ。 大切なのは、「自分がどう感じたか」を見つめ直すこと。それが、自分だけの「価値のモノサシ」だ。だけど、私たちはつい「価格が高いほど価値がある」と錯覚する。これが、資本主義の巧妙な罠だ。 定価10万円のジャケットが新春セールで3万円に値下げされている。迷っていると、店員がそっと耳打ちする。「今だけ特別に、2万円でご提供しますよ」。気づけばクレジットカードを差し出している。「2万円で10万円のジャケットが買えた」と喜んで買ったとしても、クローゼットに眠ったままなら、そのジャケットの価値は限りなくゼロに近い。他人の評価や価格に振り回され、自分が本当に望むものを見失ってしまう。 作家の森博嗣氏は著書『お金の減らし方』で、現代人が陥りがちなこの傾向に対して、次のように問いかけている。「ちょっと想像してみてもらいたい。もし、写真を撮って人に見せることができないとしたら、それを買うだろうか。それを食べにいくだろうか? その場所へ出かけていくだろうか?」いや、それならしません、と答える人は、自分が本当にしたいことを見失っているように思われる。自分が満足できるもの、つまり自分にとって価値のあるものに、自分のお金を使っていないことになるからだ。 「他人に見せられないなら買わない」という発想は、自分の価値観を他人に預けている証拠だ。本当の価値は、自分自身の中にしかない。他人のモノサシや価格のラベルでは測れない。価格はあくまで市場が決めた他人の評価にすぎないのだ。また、価格がつくということは、他人の所有物になる可能性があるということでもある。子どもが描いた絵や初恋の人からの手紙に値札がつかないのは、絶対に手放したくないからだ。本当に大切なものの価値は、自分の心の奥に刻まれている。「プライスレス」とはそういうことだ。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 「さきほど、価値と価格は別物だとお話ししましたよね。世の中のモノは、この図のように4つに分けることができます。『価格も価値もあるもの』は、たとえばスマートフォン。『価格はないけど価値があるもの』には、手作りの弁当や自然の風景などがありますよね。逆に、『価格も価値もないもの』の例としては、道端に落ちている石ころでしょうか」 生徒も保護者もうなずいている。僕は最後の空白を指して、問いかけた。 「では、『価格があるのに価値がないもの』は何でしょうか?」 生徒たちは考え込み、教室が静まり返る。初めてこの質問をしたのは、母校での講演だった。そのときの光景を、今も鮮明に覚えている。しばらくの沈黙のあと、一人の男子生徒が手を挙げた。 「はい、どうぞ」と指すと、彼は少し照れながら言った。 「焼きうどんです」 教室がどっと笑いに包まれる。「なんだよそれ!」「おいおい!」と茶化す声があちこちで上がった。しかし、彼はひるまずに説明を続ける。 「焼きそばは好きですが、焼きうどんは昔から苦手で、僕にとっては価値がないんです」 再び笑いに包まれたが、今度は共感や納得の気配が混じった。「ああ、そういうことか」と表情を変える生徒もいた。 「その通りです」僕は大きくうなずいた。「価値は、一人ひとりが自由に決めればいいと思います。他人の評価を気にしなくてもいいんですよ。自分の感覚を信じることが、自分の価値観を育てる第一歩です」 彼の勇気ある「焼きうどん」という答えが、教室全体に「周りに流されない感覚」の大切さを届けたのだった。 その不安は、あなたのものか 今感じている不安や焦りは、本当にあなた自身のものだろうか?それはもしかすると、「誰かが決めたモノサシ」による不安かもしれない。焼きうどんに「価値がない」と答えたあの生徒のように、自分の感覚に素直でいることは難しい。 「1000円のジュースには、1000円分の味がある」「100万円の健康器具には、100万円分の効果があるはずだ」いつの間にか、そんな価格の呪いが私たちを縛り、不安な情報に接すると、自分の感覚よりも他人の評価を優先してしまう。 だからこそ、必要なのは自分だけの「価値のモノサシ」だ。投資や消費を促すために、不安を煽る情報は少なくない。そんな情報に出くわしたら、まずは問いかけてみたらどうだろうか。「これは、誰が、何のために伝えているのか?」と。 「価値のモノサシ」があれば、同じ情報でも冷静に取捨選択できる。自分や家族にとって本当に必要だと思えば、自信を持ってそれを選べばいい。逆に「価値のモノサシ」がないと、「みんな」という架空の存在に向けられた不安を、自分のものだと勘違いしてしまうかもしれない。 もちろん、それでも「やっぱり投資を早く始めたほうがいい」と感じる人もいるだろう。しかし、「投資でお金を増やす」とは、本質的にはどういうことなのだろうか? 2008年、リーマンショック直前に、僕は世界を揺るがす大事件に巻き込まれた。そのとき「投資でお金を増やす」ことの意味を、嫌というほど考えさせられた。 第1話のポイント 不安は、他人のモノサシから生まれる 安心は、自分のモノサシから始まる 質問の中で、「石ころには価値がない」と言ったのも、あくまで僕にとっての話だ。石ころに価値を感じる人もいるし、スマートフォンに価値を感じない人もいる。だから、図の中の単語には「?」マークをつけてある。 コラム「不安連鎖社会を断ち切るために」 自分の「モノサシ」を持っていないと、不安を煽られやすい。それは、誰かのビジネス目的の情報だけではなく、周りの人の何気ない言葉からも生まれる。 僕自身、長年トレーダーとして働いてきたため、周囲からは投資の話を期待されることが多い。しかし、できる限りそれを避けてきた。その理由の一つは、「投資をしないこと」への焦りや不安を、必要以上に煽ってしまわないか心配だからだ。投資そのものに否定的なわけではない。むしろ僕自身は投資は好きだ。ただ不安を無駄に広げたくないと思っている。 「私は投資をしている」「投資を始めないと損をするよ」こうした言葉によっても不安は広がり、「お金の不安」がウイルスのように伝染している。まるで「不安のインフレ」とも呼べる状況が、今の日本では起きているように感じる。 平野啓一郎氏の短編小説集『富士山』に収録された「ストレスーリレー」は、人から人へと感染を繰り返す「ストレス」の連鎖を描いている。この物語を読むと、「ストレス」の連鎖を断ち切る人が現代社会には必要だと気づかされる。僕もまた、そう思った読者の一人だったから、「お金の不安の連鎖を断ち切るために、『外から入ってくる情報からいかに自分を守るか』」をテーマとして第一部を書いた。 第2話 投資とギャンブルの境界線 ずるい、と感じる瞬間がある。大好きな人の隣の席を、友達が引き当てたとき。会社の花形部署に、同期の異動が決まったとき。値上がりした仮想通貨を、後輩が持っていたとき。表には出さなくても、胸のどこかにチクリと感じた経験は、誰にでもあるだろう。 SNSを開けば知らない人の成功談まで流れてくる。「投資で1000万儲かった」「わずか数年で億り人達成!」そんな生々しいお金の話も少なくない。「もしかして自分にもできるかも」と淡い期待を抱きつつ、「そんなうまい話が本当にあるのか」という疑念もぬぐえない。この感覚は、プロの世界でも同じだった。 2008年の夏、リーマンショック前の不穏な空気が市場を包んでいた頃のことだ。「短期市場だけで100億円稼いでいる奴がいるらしいぞ」と上司に見つめられて、僕の額からじっとりとした汗が滲んだ。証券会社に入って5年目、金利トレーダーとしての手応えがようやく掴めてきた頃だった。 ほとんど値動きのない短期金利市場で、100億円なんて稼げるのか?正直、信じられなかった。だが、反論する勇気はなかった。「他社がやれて、どうしてうちは稼げないんだ?」上司の視線が無言で訴えていた。「……調べてみます」僕は逃げるように部屋から出たが、頭には大きな疑問が渦巻いていた。100億円も稼ぐ方法など、本当に存在するのだろうか。 その後、「100億男」の真相は明らかになるのだが、この経験を通じて、僕が強く感じたことがある。投資は、甘い話が流れてくる世界ではない。「いやいや、プロと一緒にされても困るよ」と思った人もいるかもしれない。たしかに、趣味の草野球なら、メジャーリーガーの豪速球を打つ必要なんてない。しかし、投資の世界ではそうはいかない。 株式でも外貨でも、金融市場に一歩足を踏み入れれば、初心者でもプロと同じフィールドに立たされる。知識や経験、情報の差は容赦なく牙をむく。目の前を通り過ぎる球の速さすら把握できないまま、バットを振らされる人がほとんどだ。それでもSNSの成功談を見ると、「みんなが儲けているなら、自分にもできるかも」と甘い希望にすがってしまう。 成功者の書いた投資本を慌てて買い、ランキング上位の投資信託を深く考えずに買う。だが、それでうまくいくことは少ない。なぜ、成功した人を真似てもなぜうまくいかないのだろうか。成功談の裏側には、都合よく編集された「偏った情報」や、努力すれば儲かるという「甘い錯覚」が潜んでいる。 「みんな儲かっている」の正体 「みんな、うまくいっている」と感じるのは、昔から人間が抱える錯覚によるものだ。隣の柿は赤い。他人のものがよく見えてしまう傾向は、昔からよく知られている。だが実際に、隣がよく見えるのは特別なことではない。理由は単純だ。「隣」は一軒だけではない。たくさんある柿の木のなかには、青い柿や実をつけていない木もある。 もあるのに、なぜか「自分より赤く色づいた柿」だけが目に入る。無意識に「自分よりうまくいっている例」ばかりを選び取り、「みんな自分より恵まれている」と錯覚してしまうのだ。 この錯覚をさらに強化する別のバイアス(偏り)もある。錯覚2‥良い例が多い場所に自分がいる。スキー場に行くと、周囲がやたらと上手に見えた経験はないだろうか? 実はそれは、当たり前のことなのだ。初心者は年に1、2回しかスキー場に行かないが、上級者は何度も足を運ぶ。そのため、スキー場では上手な人に出くわす確率が高い。自分のスキルが平均でも、周囲が上手く見えてしまう。カラオケやボウリングでも同じことが起きる。実は「自分が下手」なのではなく、「上手な人が集まる場所」に入り込んでいるだけなのだ。 こうした錯覚やバイアスは、投資の世界にも存在する。プロや腕に自信のある人ほど、頻繁に投資の情報を発信する。人は成功すると自慢し、失敗すると黙り込むことが多い。SNSのアルゴリズムも、目立つ投稿をさらに目立たせる。この偏りは、投資商品のセールストークにもはっきり表れる。「過去15年で価格は3倍になりました」。たしかにそれは事実だろう。だが、過去15年ではなく30年にまでさかのぼれば、別の事実が見えるかもしれない。価格が下がっている期間のグラフがあえて提示されることはない。そんなことをすれば、お客さんが買ってくれないからだ。 そこに嘘はない。しかし、都合のいいタイミングで都合のいい情報だけが示されるのだ。こうした偏った情報に触れるうちに「みんなが投資で儲けている」と錯覚する。でも、その「みんな」は本当のみんなではない。私たちは「赤い柿ばかりが目に入る仕組み」の中で、知らぬ間に焦りや不安を育てられている。 錯覚3‥成功は自分の努力の成果と思いたい。SNSが生むもう一つの錯覚は、「努力すれば儲けられる」という幻想だ。人は投資でうまくいったとき、自分の能力や努力のおかげだと考えたがる。失敗したときは、「たまたまタイミングが悪かった」と環境や運など外部のせいにしがちだ。これは「自己奉仕バイアス」と呼ばれ、SNSの投稿に如実に表れる。そのため、SNSを眺めるほど「努力すれば自分も儲けられるかも」と思ってしまう。 だが、ここまで読んで、まだ納得できない人もいるだろう。「いやいや、お前が儲け方を知らないだけじゃないのか? だって、実際に100億稼いだ奴がいたんだろう?」たしかにそうだ。その真実を確かめるために、再び2008年の夏に話を戻したい。 誰も教えない「儲けのレシピ」。 「100億稼いだ真相を一ヶ月で突き止めろ」。そう命じられた僕は、途方に暮れた。そもそも100億円を稼ぐ方法など、本当に存在するのだろうか? 書店やネットを探してもそんな情報は出てくるはずがない。もし魔法のような儲け方があるなら、それはごく一部の人が密かに守り続けている「秘伝のタレ」のようなものだ。 考えてみれば、当然だ。もしケンタッキーフライドチキンの味が自宅で再現できれば、誰もわざわざ店に行かない。秘伝のレシピは門外不出だからこそ、価値がある。金融市場の儲け話でも同じことが言える。たとえば、「月末のエクステンション」という現象がある。月末に年金ファンドが運用方針に従って大量の国債を購入することがある。そのとき、国債価格は上昇しやすい。もし、それを事前に予測できれば、一儲けすることができる。月末前日に買い、翌日に売るだけで利益が出る。一般に国債の値動きは小さいが、1000億円買って、価格が0.5%上がれば、一日で5億円の利益になる。 でも、この情報が世間に知れ渡ればどうなるだろう? 自分だけでなく他の人たちも月末に一斉に売ろうとする。市場に売りが殺到し、むしろ価格は下落する。つまり、情報が広まった瞬間、儲け話は成立しなくなる。秘伝のレシピは限られた人間が密かに使うからこそ価値があるのだ。1970年代にその名を馳せた伝説的な投資家リチャード・デニスもこれをよく理解していた。彼は、ある実験を行った。自ら編み出した投資手法を、まったくの素人に教え、本当に儲けられるかどうか試したのだ。新聞広告で集まった初心者たち通称「タートルズ」はテニスの教育で大成功を収めた。 ただし、テニスは「この手法は5年間、決して口外するな」とタートルズたちに厳命した。自分の手法が広まれば効力を失うと、彼は熟知していたのだ。ちなみに、ケンタッキーの秘伝のレシピは、アメリカ本社の金庫に厳重に保管されている。世界でこのレシピを知る者は、ごくわずかだという。本当に効力のある儲け話は、決して広まっていない。だから、金融業界をどれだけ駆け回っても、「100億男」の真相に辿り着くのは難しかった。 ならば、自力で探すしかない。1ヶ月間、寝ても覚めても市場データを分析し続けた。過去の取引パターンを洗い出し、短期金利市場の細かな動きを徹底的に追いかけた。しかし、得られたのは疲労と無力感だけだった。無情にも約束の1ヶ月が過ぎた。「……すみません、そんな方法は、見つけられませんでした」と伝えるしかなかった。正直、自分の無力さが情けなかった。いくつかの可能性については報告した。だが、それは答えていないのに等しかった。 上司は黙ってうなずいただけで、その目に宿っていたのは静かな失望だった。僕に見切りをつけ、例の「100億男」を迎え入れるかもしれないと覚悟をしていた。しかし、待ち受けていたのは、衝撃的な事実だった。「100億男」の真相が明らかになったのは4年後のことだった。ウォールストリート・ジャーナルのトップニュースに彼の名前が掲載された。見出しを目にした瞬間、「結局そういうことか」と力が抜けたのを覚えている。彼は逮捕されたのだ。LIBOR不正操作事件。世界の金融市場を揺るがす巨大スキャンダルだった。100億円を簡単に稼ぐ方法-やはり、そんなものは存在しなかった。 彼は、自分の取引を有利にするため、複数の金融機関を巻き込み、短期金利「LIBOR」を不正に操作していた。その影響は甚大で、事件に関与した金融機関が支払った制裁金の総額は1兆円を超えた。関係者は次々と逮捕され、彼自身も禁錮14年の判決を受けることになる。どれだけ必死に100億円儲ける方法を探しても見つからないのは当然だった。方法そのものが不正だったのだから。 もちろん、不正は許されない。しかし、合法の範囲でも投資には常に「情報の非対称性」が存在する。有利な情報を持つ者と持たない者が、同じ市場で戦う。それがアマチュアとプロが同じ土俵に立つという意味だ。人は他人の成功を聞くと、真似したくなる。だが、その背後にある理由を知らずに真似ても、簡単にはうまくいかない。これは投資に限らない。他人の成功を真似しても再現できないことの方が圧倒的に多い。 江戸時代の大名・随筆家の松浦静山は『常静子剣談』で次の言葉を残している。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」。現代の工学研究に「失敗学」という分野があるように、失敗には明確な原因がある。そこから学ぶことができる。だが、成功は違う。偶然性、特殊な状況、本人が自覚していない努力。それらが積み重なっていることも多く、成功の原因は見えにくい。そして私たちは、「真似しやすそうな成功例」を無意識に選んでしまう。たとえば、メジャーリーグの大谷翔平選手が、高校時代から膨大な努力を積んできた話は有名だ。しかしそれを聞いても、簡単に真似しようとする人はほとんどいない。ところが、SNSで見かける「X年で1億稼いだ」という投資話には、多くの人が飛びついてしまう。 「真似しやすそうな成功例」ほど、成功に必要な要素が抜け落ちている。だから、再現性が低く、失敗を招きやすい。他人の成功を安易に真似ることが、成功への近道になりにくいのはこのためだ。ここまで読むと、ある疑問が浮かぶかもしれない。-結局、投資はギャンブルと同じなのか? 確かに、そう見えることもある。しかし、投資にはもう一つの側面がある。社会の成長や発展を支え、私たちの暮らしをより豊かにする。それが、本来の投資の姿だ。 では、投資とギャンブルの境界線は、どこに引かれるのだろうか? が向上し、物の供給が豊富になった。これにより、単に努力するだけでは報われない状況が生まれた。特に、教育やスキルの差がそのまま経済的な格差に直結するようになった。  また、経済のグローバル化が進む中で、競争が激化し、特定のスキルや知識を持つ人々がより高い報酬を得る一方で、そうでない人々は取り残される傾向が強まった。これが、貧困の連鎖を生む要因となっている。  さらに、教育の機会も平等ではない。経済的に恵まれた家庭の子どもは、質の高い教育を受けることができる一方で、貧困家庭の子どもは十分な教育を受けられず、結果として将来の選択肢が狭まってしまう。このように、教育格差と経済格差は相互に影響し合い、固定化されていく。  この現実を踏まえた上で、私たちはどのように行動すべきなのか。まずは、自分自身の状況を冷静に見つめ直し、どのような選択ができるのかを考えることが重要だ。また、社会全体の構造を理解し、格差を是正するための取り組みに参加することも必要である。  最後に、努力が報われる社会を目指すためには、個人の努力だけでなく、制度や環境の改善も求められる。私たち一人ひとりがその意識を持ち、行動することで、より良い未来を築いていくことができるのではないだろうか。 が余り始めた。需要は減り、チャンスは減り、努力を活かす場所が減っていった。格差を努力で埋めるのは難しく、親ガチャが、かつてよりずっと重くのしかかる時代になった。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 こうした閉塞感のなか、一発逆転を求める気持ちが芽生えるのは、決して不思議なことではない。努力すれば報われる前提が崩れた社会では、ギャンブル的な投資に惹かれるのもむしろ自然な反応だろう。それを「自己責任」で片付けてしまえば、この時代に特有の構造的な問題を見落としてしまう。この構造が「お金の不安」をふくらませ、投資をギャンブル化させ、貧困から抜け出しにくい社会をつくり上げている。しかし希望もある。人口減少という現実が、皮肉にも社会を変えつつある。個人の努力が、再び報われる時代が到来しようとしている。 第2話のポイント 成功の正体を知れば、焦りは消えていく 「役に立つか」が、投資とギャンブルを分ける お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 コラム「知らないと損する投資術」は存在しない 魅力的に映る投資術にも、落とし穴が潜んでいる。ドルコスト平均法は、毎月一定額を投資する方法だ。価格が安いときに多く買い、高いときには少なく買うため、長期的に平均購入価格を抑える効果があるとされている。例では現在1000円で取引されている株を毎月3万円ずつ「定額」で購入する場合と、毎月30株ずつ「定量」で購入する場合を比較している。たしかに平均購入価格は定額購入のほうが低くなる。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 ただし、必ずしも利益が出やすいわけではない。株価が大きく上昇したケースでは定量購入より利益は少なく、下落したケースでは損失が大きくなる。利益という点では状況次第で結果は異なり、どちらにも数学的な優位性はない。 埋蔵金銘柄 「もし一年前にエヌビディアの株を10万円買っていたら、今頃5億円になっている」という話を聞くと、将来有望な次の埋蔵金銘柄を探したくなる。しかし、これを実現するのは極めて難しい。有望な銘柄は、すでに多くの投資家が注目し、株価も相応に高くなっている。さらなる値上がりには、現状の期待を超える企業の成長が必要になる。SNSでは、銘柄の見つけ方を得々と語るケースがあるが、そこには成功者特有の「自己奉仕バイアス」が潜んでいる。成功した人は自分の能力や努力を強調しやすく、あたかも再現性があるかのように語ることが多い。そして、値上がり益を狙う投資は、他人が高値で買うことを当てにしている。プロの投資家たちと競争する中で、自分が高値で買わされるリスクも高い。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 長期投資なら安心という話があるが、実際には2013年頃まで長らくマイナスの期間が続いていた。それまでに定年を迎え、現金化が必要だった人にとっては致命的だった。企業が国内だけで収益を伸ばし続けるのは難しく、海外事業をうまく拡大できなければ、収益の成長は期待できないだろう。また、株を売却するときに他の投資家が買ってくれなければ、思ったような価格で現金化できず、マイナスになる可能性が十分にある。人口減少はここにも影響を及ぼす。今は新NISAなどで積立投資を始める人が増えており、株価は上がりやすい。しかし数十年後はどうだろうか。積み立てしていた株をいざ売ろうとするとき、新たに投資を始める若者の数は、老後を迎えた高齢者よりもずっと少なくなっている。買い手が少なければ株価は当然下落しやすくなる。人口減少というこれまで経験したことのない時代に突入する日本において、過去のデータを持ち出して「長期的な投資なら安心」と安易には言い切れない。 繰り返しになるが、投資そのものを否定したいわけではない。そもそも投資の世界にいた僕に否定する資格などない。ただ、その正体を知ることで、焦りや不安が少しでも和らぐことを願っている。 れたお化けとは違う。それは優しさからではなく、ときに誰かの思惑で作られている。制度、教育、流行―。昔から「外部」は私たちの「内側」に影響を与えてきた。現代では、マーケティングやSNSの力が加わり、一人ひとりの心の奥まで入り込んでいる。自分の軸がなければ、誰かの都合で作られた価値観に振り回される時代だ。だからこそ、今改めて問いかけたい。その不安は、本当にあなた自身のものだろうか? 第一部では、不安を必要以上に大きくしないための「外」から「内」を守る視点を見てきた。世の中にあふれる情報や空気に流されず、自分だけの「価値のモノサシ」を持つことが、不安に振り回されない第一歩になる。しかし、外からの影響を避けるだけでは十分ではない。私たちが持つ「資産」とは、お金だけなのだろうか。自分の内側に、確かな資産を積み上げていくことが、より安定した生き方につながる。第二部では、その「内」に蓄える資産について考えていく。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 第3話「会社に守られる」という幻想 「老後が不安なんです」。その言葉にショックを受けたのは、内容よりも声の若さのせいだった。講演後、真っ先に手を挙げてくれた彼女は、まだ大学生だという。これから社会に羽ばたく若者が、まっすぐな瞳で見つめていたのは、遠い未来の「老後」だった。「一刻も早く投資を始めたいんです。そのためにはバイトを増やして、まず奨学金を返済したいです。投資について、どんな勉強をしたらいいでしょうか……」。彼女の切実な言葉に、講堂の空気が少し重くなった。そして、僕の頭には2つの疑問が浮かんだ。彼女に老後の不安を植え付けたのは誰だろうか?貴重な大学時代を、お金を増やすことに費やして本当に良いのか? 近年、金融教育の重要性が叫ばれているが、実態は「教育」の名を借りて、投資商品を売り込む場になっていることも多い。「お金があれば選択肢が増えます。若い人こそ、今すぐ投資を始めるべきです」。一見もっともなアドバイスだが、視野が狭すぎる気がする。もちろん、お金を増やす努力自体を否定はしない。ただ、奨学金を借りたのは、若い時間を買うためではなかっただろうか。働いてお金を貯めてから進学する道もあるのに、あえて利息を払ってまで大学に通うのは、限りある若い日々を、勉強や挑戦に充てたいからだ。その貴重な大学生活をアルバイトや投資の勉強で埋め尽くすのは、本末転倒ではないだろうか。 大学時代は、自分の可能性を広げる絶好の機会だ。学問や研究だけでなく、サークルやボランティア、新しい趣味など、多彩な経験を積める。それ自体が実りある時間であり、そこで得られる知識や経験、人間関係などは、目に見えない資産になる。「働いて稼ぐ力」を生み出す基盤になるはずだ。学生に投資を急かす大人たちは、本当に彼らの未来を案じているのだろうか。それとも、不安を煽ってビジネスに取り込みたいだけなのだろうか。 いずれにしても、私たちはこの問いと向き合わなければならない。労働と投資、努力が報われるのはどちらだろうか。「投資をがんばった方がいい」という誤解。「投資は労働より有利」といった誘い文句をよく聞く。投資を勧める人は、その根拠として有名な経済学者の名前を頻繁に持ち出す。ピケティが18世紀までさかのぼってデータを分析したところ、「r>g」の不等式が成り立つ、つまり、運用によって得られる富の方が労働によって得られる富よりも成長が早いとの結論に至っています。 こうした文章を読むと、つい「労働よりも投資をがんばった方が良い」と誤解してしまいそうになる。ピケティといえば、『21世紀の資本』で格差拡大の仕組みを解明した著名な経済学者だが、彼自身が、本当に「労働よりも投資をがんばった方が良い」と主張しているのだろうか?たしかに、彼は「r>g」という式を提示している。歴史的に見ると、投資の平均リターン(r)は約4~5%だが、労働収入を左右する経済成長率(g)は1~2%にとどまる。 たとえば、年収300万円の人が1年がんばって給与が2%上がっても306万円。一方、資産1億円の富裕層は、何もしなくても年間400~500万円の投資収入を得る。これでは、いくら働いても富裕層との差は縮まらない。しかし、ここには話のすり替えがある。富裕層が稼げたのは、労働より投資をがんばったからではなく、1億円の資産を最初から持っていたからだ。ピケティが伝えたかったのは、「最初から資産がある人がさらに豊かになる」社会構造に問題があるということであって、「資産のない人も、投資をがんばれ」という話ではない。 もう一つ重要なのは、「努力が報われるかどうか」という視点だ。自分が汗水流して働いている横で、知り合いから「投資で100万円儲けた」と聞けば焦ってしまう。さらに「r>g」というもっともらしい説明を聞くと、冒頭の大学生のように「投資の勉強をがんばったほうがいいのでは?」と思ってしまう。投資は、プロでさえ成果を出すのは難しく、努力が報われる保証はない。投資に関する名著『ウォール街のランダム・ウォーカー』には、「プロが選んだ株も猿が選んだ株も成績はほぼ同じ」という逸話まである。実際、資産家の多くは投資をしているが、投資の勉強を特別がんばっているという話はあまり聞かない。 一方、労働収入の平均の伸び率とされる1~2%は低く感じるが、この数字は平均でしかない。重要なのは努力が報われるかどうかだ。知識やスキルを高め、資格を取得し、経験を積めば、労働収入を平均の伸び率以上に増やすことができる。努力が報われやすいのは、明らかに労働の方だ。だからこそ、「投資は労働より有利」という安易な言葉に惑わされてはいけない。 有利なのは、資産がある人であって、投資という手段そのものではない。そして、努力が報われやすいという意味で有利なのは、投資よりも労働だ。特に若いうちの努力ほど、その効果は大きい。だから、大学生にはこう伝えた。「バイトや投資の勉強も意味があるけど、『働いて稼ぐ力』を育てる方が、長い目で見るとずっと効率的ですよ」と。 もちろん、バイトでスキルが身につくならいいが、まずは自分自身の労働価値を高めることを優先した方がいい。投資はそのあとの話でも遅くないと思うのだ。とはいえ日本では、どの会社に就職するかが非常に重要だ。就職時には学生時代の努力が報われるかもしれないが、いざ就職すると「がんばっても給料がなかなか上がらない」という閉塞感が長らく漂っていた。 しかし今、状況が変わりつつある。深刻な人手不足が、働き手の価値を急速に高め始めている。平成時代には考えられなかった変化が起きている。2023年頃から人材不足が目立ち始め、初任給が軒並み上がっているのだ。2022年に20万5000円だった三井住友銀行の初任給は、2026年には30万円に引き上がる予定で、東京海上に至っては、初任給が40万円を超えることもあると報道された。 これは一部の会社だけではない。産労総合研究所の調査によると、2024年入社組の初任給を引き上げた企業は75.6%にも上り、若手の人材獲得競争は激しさを増している。住宅手当の増額、柔軟な働き方、特別手当、福利厚生の充実などにも力を入れる企業は多い。新卒だけでなく、既存社員への待遇改善も進み、人材の流出を防ぐ動きも目立つようになった。 この流れはオフィスワーカーに限らない。ネット通販の急増により、物流業界では時給アップや労働環境の改善が進んでいる。介護や看護などのケア分野でも、政府による処遇改善加算や企業独自の手当増加が拡充されている。リクルートワークス研究所によれば、2040年には1100万人もの労働力が不足するという。現在の変化は序章にすぎず、今後さらに人材争奪戦は激化するだろう。 長らく日本を覆ってきた「がんばっても報われない」という閉塞感は崩れ始めている。ギャンブル的な投資で一攫千金を狙うより、「働いて稼ぐ力」を着実に育てるほうが、人生を現実的に好転させられる時代が来ている。 人手不足により労働の価値が急速に高まる一方で、AIの発達というもう一つの大きな波も迫っている。この両方の波が重なる時代を生き抜くために、私たちには何か求められるのだろうか。人手不足の影響については、14世紀のペスト流行後のヨーロッパで起きたパラダイムシフトが非常に参考になる。研究資料を調べるだけでなく、当時をイメージするために、AIにこんなお願いをしてみた。「14世紀のヨーロッパでペスト流行後、人手不足で労働者の待遇が劇的に改善した様子を、小説風に描写してほしい」。 すると、たった数秒待つだけで、当時の風景が目の前に広がるような回答をしてくれた。セフィルは村外れの屋敷の門前で足を止めた。かつて、ここには忙しく働く人々の声があふれ、畑には小麦や果実が豊かに実っていた。しかし今、農地には雑草が絡み、手入れされぬ果樹は落ちきらない果実を腐らせている。顔を紅潮させながら、セフィルは屋敷の番人に「今日は給金の交渉に来た」と告げた。 「日当を二倍にしてくれだって?」村の領主の執事が驚きと動揺を隠せず、エールの入った木製のカップを傾ける。セフィルのような多くの農村労働者は、当時、農奴と呼ばれた。領主に縛られ自由な移動や職業選択がままならない、土地に結びつけられた身分だった。本来なら、こんな要求が通るはずもない。しかし、今や働き手が足りず、他を探しても人がいない。セフィルは執事の戸惑いを見透かしたように言葉を重ねる。「嫌なら、他へ行くまでです」。 以前なら歯向かうことなど想像できなかった労働者が、堂々と条件を突きつけている。畑を耕す者がいなければ、次の収穫はままならない。執事はため息をつき、うなずくほかなかった。AIはゼロからこの文章を作ったのだ。史実にどれだけ忠実かはさておき、その進化には舌を巻く。 これから労働が報われる時代がやってくるとしても、「人の仕事とは何だろうか?」という根源的な問いと向き合う必要がある。参考になるのが、自動車会社フォードの創業者、ヘンリー・フォードの言葉だ。「もし顧客に望むものを聞いていたら、『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう」。馬車が主流だった時代、人々が望んだのは「速い馬」だった。当時AIがあったら、速い馬を手に入れる方法を簡単に教えてくれたかもしれない。だが、フォードはもっと深いところを見ていた。本当に人々が望んでいたものが、「速い馬」ではなく、「速く移動する手段」であることに気づいたのだ。 問題の本質を捉えたからこそ、自動車という新たな価値を生み出すことができた。AIは、与えられた問題を解くことには極めて優れているが、解くべき問題を見つけ出すのは、人間の方が得意だ。そのためにも、日常を深く見つめる「観察力」が重要になる。では、観察力を磨けば、本当に収入や生活の安定につながるのだろうか? 初任給が高くても、いい会社に入らなければどうにもならないという不安をぬぐうのは難しい。特に就職氷河期を経験した世代は、その現実に苦しめられてきた。しかし今、その常識も少しずつ揺らぎ始めている。 僕の子どもの頃、両親は小さな蕎麦屋を営んでいた。湯気が立ちのぼる厨房で、粉をこね、麺を打ち、だしを合わせる両親の姿があった。その一杯が美味しければ、お客さんはまた店に来るが、味が落ちれば足は遠のく。自営業の我が家では、努力と収入がある程度は結びついていた。 戦後間もない日本では、自営業や家族で仕事を手伝う働き方が主流だった。総務省の統計によれば、その割合は、働く人の半数を超えていた。その後、高度成長期を経て会社勤めが増え、2020年には自営業の割合は1割にまで減った。今では、働く人の9割が雇用者だ。「がんばっても収入が上がらない」という不満には、こうした働き方の変化も影響しているだろう。 高度成長期の日本では、終身雇用や年功序列の仕組みが安定を約束していた。自営業より会社員が安泰だという価値観が浸透し、「大きな会社に入りなさい」と子どもに勧める親も多かった。実際、組織で働くほうが生産性は高く、「モノ経済」が順調だった当時は、会社員の収入も伸びていたのだ。 ところが1990年代以降、日本経済は長い停滞期に突入する。モノがあふれて売れにくくなるなか、「いい会社に入れば安泰」という神話は徐々に崩れていった。えらそうに言っているが、僕自身も「大企業病」と指摘されたことがある。大企業病とは、大きな会社に入った安心感から、自分で価値を生み出す感覚が薄れることを指す言葉だそうだ。 大学時代、学費のためにベンチャー企業からプログラミングの仕事を請け負っていた。『はじめてのC』という入門書を片手に格闘する僕を、社長は苦笑しながらも認めてくれ、次々と仕事を任せてくれた。自分の成果がそのまま評価され、収入にも直結する自営業のような働き方に手応えを感じていた。 そんなある日、社長は「一緒に会社を大きくしよう」と、正社員として誘ってくれた。しかし僕はその誘いを断り、安定を求めて大企業への就職を選んだ。僕の決断を聞いた社長は残念そうに、「そうか、大企業病にかかっちまったか」とつぶやいた。当時は深く考えなかったが、あのときの言葉が今でも胸に引っかかっている。 僕は「大きな会社に入れば安泰」という幻想にとらわれ、会社が自分を守ってくれると信じて疑わなかった。しかし、どんな幻想も必ず壊れる瞬間が訪れる。2008年9月15日、敬老の日の月曜日。東京の街角には三連休を楽しむ穏やかな空気が流れていた。しかし僕は、休日にもかかわらず、オフィスに呼び出された。その数時間前、アメリカのリーマン・ブラザーズ証券が経営破綻したのだ。「リーマンショック」の始まりだった。 僕が勤めていた証券会社もその余波をまともに受けた。倒産はなんとか回避したものの、大幅な人員削減は避けられなかった。 それから半年間、オフィスは張り詰めた空気に支配された。内線電話が鳴るたびに、「次は自分か」と誰もが身構える。呼び出された同僚は席に戻らず、残された私物は段ボール箱に詰められて、後日家に送られた。そんな光景が繰り返される中で、僕はある事実を深く思い知らされた。 会社は、社員を養うための装置ではない。会社とは、価値を生み出し、社会に役立つための場にすぎない。誰かの役に立つ価値を提供できなければ、企業は容赦なく淘汰される。「会社が社員を支える」のではなく、「社員が会社を支える」、あるいは、「社員が会社を通して社会を支える」。そんな単純な真実を、リーマンショックの嵐の中で骨身にしみて理解した。 僕が会社に残れたのは、たまたま必要とされる業務を担っていたからだ。「外資系だから特別だ」と思う人もいるかもしれない。たしかに日本企業なら、まだ一定の安泰を感じられる。日本は長らく雇用を守る名目で、規制や補助金を通じて、政府が企業や産業を守ってきた歴史があるからだ。 しかし、その安泰もすでに揺らいでいる。正社員の雇用を無理に守るために生まれた「調整弁」が、非正規雇用だ。契約打ち切りや待遇悪化などのしわ寄せが広がり、非正規比率は約4割に達した。最近では、正社員にも希望退職を募集する企業が増えている。 日本の経済力は確実に弱まりつつある。年金制度だけで老後を支えきる余裕はなくなり、自己責任が求められる時代に突入している。同じように、価値を提供できない企業を、無理に守り続ける余力も残っていないだろう。「大きな会社に入れば安泰」という神話は、すでに崩れ始めているのだ。 この神話は、裏を返せば「新卒でいい会社に入らなければ、がんばっても報われにくい」という厳しい現実でもあった。それが崩れることは、むしろ歓迎すべき変化だろう。 リクルートエージェントの調査によると、「前職と比べ賃金が1割以上増加した」転職者の割合は、2024年は36%に達し、リーマンショック後からおおむね増え続けている。これは、営業的な働き方が選べる社会になりつつあることを示している。一つの会社にしがみつかなくても、価値を社会に提供できれば、その対価を得られるのだ。 文豪・森鴎外は、「しごと」という言葉を、「仕える事」を表す「仕事」ではなく、自ら主体的に「為る事」として、「為事」と書いた。本来、働くこととは、誰かに仕えるのではなく、自分の力で価値を生み出すことだ。 講演で、「老後の不安」を語った彼女も、大学に通いながら、「自分はどうすれば役立てるのか」という問いと向き合っていたはずだ。彼女自身もアルバイトをしていると言っていたが、時給で働いていると時間を売っている感覚が強く、自分が何かを生み出せるという実感は得にくい。 長らく社会では「役に立つこと」と「稼ぐこと」が分断されていた。「自分はどうやって役立てるのか」を真剣に考えても、「お金の不安」がなかなか減らない社会だった。しかし、今、人手不足や安泰神話の崩壊を背景に、「役に立つこと」をすれば「稼ぐこと」につながる社会に戻りつつある。 そして、「誰かの役に立ちたい」という願いは、単なる稼ぐ手段を超えて人を動かす強力な原動力となる。そのために求められるのが、周囲のニーズを敏感に感じ取る「観察力」だ。しかし、どれほど優れた観察力を持っていても、一人でできることには限界がある。だからこそ、協力し合える「仲間」の存在が欠かせない。 次の第4話では、その仲間について考えてみたい。 安だ」と感じていたからだ。共通の不安があったからこそ、彼は僕を助けようと思ってくれたのだろう。  このように、仲間を作るためには共感が重要である。自分の不安や悩みを素直に話すことで、相手も共感しやすくなる。共感を生むことで、信頼関係が築かれ、助け合いの輪が広がるのだ。  また、仲間を作るためには、自分の強みを活かすことも大切だ。自分が得意なことを通じて、他人に貢献することで、自然と仲間が集まってくる。自分の強みを理解し、それを活かすことで、周囲との関係がより良いものになる。  このように、愛と利己心のバランスを取りながら、仲間を作り、支え合うことが現代社会においても重要である。お金だけでは解決できない問題が多い中で、信頼できる仲間を持つことが、より良い未来を築くための鍵となる。 安だ」という、ある意味での利己心を共有していたからだと思うのだ。 「不安」と「ゴール」の共有戦略 教室で「愛、仲間、お金のうち一番大切なのは?」と問いかけたとき、「仲間」を選んだ生徒は似たような経験をしていたはずだ。文化祭でお化け屋敷を作るときや、部活動で県大会を目指すときなど、目標を共有すれば苦手な相手とも自然に協力できる。仲間とは、思いやりや優しさだけで結ばれるものではない。むしろ、「自分のため」という利己心が同じ方向を向いたときに、強い絆が生まれる。 災害時に人々が助け合えるのも、同じ不安を共有しているからだ。その瞬間、「他人は敵かもしれない」という意識は消える。しかし、「お金の不安」は個人的すぎて共有しにくい。そして、自分の問題が解決しても、周囲には妬みや距離感が生まれることがある。 もし僕が「本の印税で稼ぎたい」と言っていたら、編集者の彼はきっとこんなに協力してくれなかっただろう。彼の目に、僕は仲間ではなく、取引相手として映っていたはずだ。 個人でも会社でも、「お金を稼ぐ」という目的だけでは団結するのは難しい。少なくともお金を払う顧客とは共有できない目的だし、稼いだお金の分配を巡って対立が生まれることも少なくない。一方、「美味しいご飯を提供したい」「便利な技術を開発したい」といった共有できる目的なら、会社の内外を問わず、自然と仲間が集まってくる。 学生時代、「社会のために働く」という言葉を「きれいごとだ」と思っていたが、今ではそれが孤立を防ぎ、仲間とつながるための戦略でもあったとわかる。仲間がいないとお金に頼るしかなく、お金を追うほどに孤立する。この悪循環を断ち切るには、「共通のゴール」を見つけて、仲間を巻き込むことだ。さもなければ、必要な知識やスキルをすべて自分で身につけるという孤独で厳しい道を進むことになる。 「共通のゴール」を見つけることが難しいなら、まずは自分が抱えている不安を話してみるのもいいかもしれない。そこから共感が生まれ、自然に共有できる目標が見つかることもある。僕が初対面の編集者と仲間になれたのは、「このままの日本で大丈夫なのだろうか」という社会への不安を共有できたからかもしれないし、お互いに子どもを育てる父親としての漠然とした不安を共有したからなのかもしれない。さらけ出された何らかの弱さが、そこにはあったのだと思う。 貨幣経済の原動力が利己心だと説いたアダム・スミスも、『道徳感情論』の中では、社会の礎になっているのは人々の共感であり、人間には「仲間を喜ばせたい」という願望が備わっているとも説いている。しかし今の日本でふくらんでいるのは、共有するのが難しい「お金の不安」だ。その不安が孤独と息苦しさを生み出している。でも、その背後に、別の問題が潜んでいるとしたらどうだろうか。地震や災害のときと同じように、社会全体の危機であれば、協力しやすいはずだ。 老後資金問題の本質は、実はお金の不足ではなく、「労働力不足」という社会全体の課題にある。この問題意識を共有できれば、孤独な「お金の不安」から抜け出せるかもしれない。僕が編集者に「老後資金問題は、お金だけでは解決できない」と打ち明けたのも、まさにその問題意識を共有したかったからだ。これについては、続く第5話で深く掘り下げていく。 最後にもう一度、「愛・仲間・お金」の特徴を整理しておこう。 ・愛:一人を強く動かすが、簡単には手に入らない。 ・お金:努力次第で増やせるが、それ自体を目標にすると仲間を作りにくい。 ・仲間:愛情や思いやり、あるいは共感、利己心を軸に増やすことができる。 お金が必要なのは当然だが、お金だけを追いかける生き方は孤立を招く。それよりも、不安やゴールを誰かと共有できれば、人生の可能性はずっと広がる。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 第5話 「あなたのせい」にされた人口問題 直視する① なぜ「稼ぐ人が偉い」と思われるのか? 「ママよりも年収の高いパパのほうが偉いの?」教育座談会で、あるお母さんが小学生の息子からこんな質問を受けてドキリとした、という話を聞いた。子どもはお金というモノサシを驚くほど素直に、そして残酷に使う。パートタイムで働くそのお母さんは、「ママは家の中で大事な仕事をしているのよ」と、とっさに答えたそうだが、心にモヤモヤが残ったという。子どもには悪気も偏見もない。ただ、今の社会の空気を、まっすぐに吸い込んでいるだけだ。年収の高い人が評価されるムードが、確かにある。 一昔前まで、お金の話はタブー視され、親の年収を子どもが知ろうとすること自体が珍しかった。しかし今では、テレビやYouTubeで「年収」や「最高月収」といった言葉が飛び交い、若くして数千万円を稼ぐ成功者が称賛される。そんな環境で育てば、息子さんが「お金を稼ぐ人が偉い」と感じても無理はない。 就職活動中の大学生からは、こんな相談を受けたこともある。「やりがいのある仕事をしたいのですが、年収が低いとステータスが低く見られそうで心配で……」彼は、生活のために稼ぎたいというより、人から低く見られたくない気持ちの方が強いようだった。マッチングアプリでも、年齢や居住地と並び、「年収」は欠かせない項目だ。人がお金で値踏みされ、いつの間にか私たちは、「年収の呪い」に縛られている。 なぜ、「お金を稼ぐ人が偉い」と思われるようになったのか。お金がないと生活できない。それは事実だ。「老後資金2000万円問題」以降、多くの人が老後のお金を意識するようになった。今では、インフレの影響で必要額は3000万円とも4000万円とも言われている。しかし、過去の偉人たちは「お金自体は本質ではない」と語ってきた。経済学の父アダム・スミスは、「貨幣は交換の道具であって、富や価値を生むのは労働だ」と指摘した。さらにさかのぼれば、古代ギリシアの哲学者アリストテレスも、「貨幣は単なる慣習で、富そのものではない」と説いている。 もしアリストテレスが、現代の日本に生きていたらどう思うだろうか。「お金は富じゃない。そんなものを貯め込んでも意味ないよ」とすました顔で言うのか、それとも、「時代が変わったようですね」と苦笑いしながら、老後資金を計算するのか。今の状況を考えるヒントになるのが、イソップ寓話『アリとキリギリス』だ。冬ごもりに備えて食料を蓄えるアリ。現代なら蓄えるのはお金だろう。でも、食料を蓄えることとお金を蓄えることは、本当に同じだろうか。もし、あの「アリとキリギリス」が現代を生きていたら?私たちは、アリの「貯蓄信仰」の落とし穴に、気づけるのかもしれない。 現代版アリとキリギリス プロローグ「変わりゆくイソップ寓話の世界」 時は流れ、イソップ寓話の世界にも近代化の波が押し寄せた。虫たちの暮らしも変わり、蓄えるのは食糧からお金へとシフトした。お金を使うようになると、飲食店やスーパー、銀行などが建ち並び、街はにぎやかになった。昔と大きく違うのは、冬でも働けるようになったことだ。かつては、夏に働いて冬に備えるのが当たり前だった。しかし、お金を蓄える時代になると、冬にも仕事はある。いつでもお金を稼ぎ、欲しいものを買える時代になったのだ。とはいえ、変わらないこともある。アリはせっせと働き、キリギリスは気ままに働く。その性格だけは昔のままだった。 もう冬ごもりなんて時代遅れ。ころが、この年ばかりは違った。第一幕「冬ごもり200万円問題」 「ねえ聞いた? 今年の冬は寒くなるらしいよ」4月、気象台が「100年ぶりの大寒波」を予測し、テレビはこの話題で持ちきりになった。ある情報番組で、コメンテーターが発言する。「働かずに冬ごもりしたらいいんですよ。200万円もあれば十分乗り切れますから」この言葉は瞬く間に拡散され、ツイッターのハッシュタグ「#冬ごもり200万円問題」が大流行。勤勉なアリたちはこぞって貯蓄に走った。 「200万円あれば冬は家でゴロゴロできるって、本当かしら?」アリ夫人が慌てた様子で言うと、隣のアリは得意げに肩をすくめる。「投資ってすごいよね。僕は株で稼いだから、250万円あるよ。寒い中で働くなんて、ナンセンスさ」一方、キリギリスたちはどこ吹く風だ。「今慌てて備える必要ある? 冬でも働けばいいし。ずっと家にこもるのは退屈だよ」 第二幕「アリたちの誤算」 12月、本当に大寒波がやってきた。街は雪におおわれ、連日凍てつく寒さだ。「さて、冬ごもりライフの始まりだ」貯金に余裕のあるアリたちは、職場を休み、SNSに連投する。「こたつ最高」「冬ごもり生活、満喫中」「キリギリスたちはこの寒さで震えてるんじゃない?」とほくそ笑むアリもいた。ところが、予期せぬ事態が起きた。「停電だ!」「暖房が止まったぞ!」電力需要が急増し、街全体が停電に見舞われた。発電所にはキリギリスしかおらず、業務が回らなくなっていた。「なんで復旧にこんな時間がかかるんだり」「部屋が冷えきって凍えそうだ!」SNSにはアリたちの怒りの声があふれたが、どうにもならなかった。 5時間後、ようやく復旧したが、次なる問題が待っていた。「まだ、届かないのかよ」アリたちが一斉にフードデリバリーを頼んだため、配達員不足が深刻化。休業する店も多く、ピザに10時間待ちの惨状だった。仕方なく外に出てファストフード店に向かっても、どこも長蛇の列だった。 第三幕「キリギリスの逆襲」 翌日、富裕アリたちは「高い料金を払うから、最優先で配達してくれ」と注文した。それを聞いたキリギリスたちはニヤリと笑った。「じゃあ、配達料を500円から5000円にしておくね」アリたちは慌てたが、選択肢はない。「嫌なら頼まなくていいよ。寒くても働ける俺たちが、今は一番強いのさ」仕事を選べるキリギリスに対し、アリたちは追い詰められ、パワーバランスは完全に逆転した。 「200万円なんて、あっという間に溶けるじゃないか……」「電気代すら払えない。もう冬ごもりなんて無理だ!」悲鳴を上げたアリたちは冬ごもりをあきらめ、職場へと戻って行った。その結果、ライフラインが回復し、食事の値段も落ち着いた。 エピローグ「お金が使えることの意味」 春になり、大寒波が過ぎ去ると、アリたちは集まってため息をついた。「じいちゃんの話とは、逆だった。せっかく冬に備えてお金を貯めたのに……」そして、彼らは悟った。「どれだけお金を貯めても、働いてくれる誰かがいなければ、何の意味もないんだな」(おしまい) 「老後の安心」を奪い合う日 この寓話が示すのは、お金が価値を持つためには、「働いてくれる誰か」が必要だという事実だ。いくらお金があっても、働く人がいなければ、暖房も食事も手に入らない。アダム・スミスが「富を生むのは労働だ」と語り、アリストテレスが「貨幣は富ではない」と断じたのも、この本質を見抜いていたからだ。この物語は私たちの未来の縮図でもある。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 少子高齢化で働く人が減れば、モノやサービスを生む力も弱まる。やがて誰もが平等に必要なものを手に入れるのは難しくなる。アリたちの街のように、「限られたイス」を奪い合うイス取りゲームのような社会になるだろう。「老後資金2000万円問題」の本質も、このイス取りゲームだ。「2000万円あれば安心」と言われれば、私たちは数字にばかり目を奪われる。ところが、モノやサービスの価格が維持される前提は、これまでと同じように働く人がいることだ。2000万円を持っていても、食事や介護を提供する人が足りなければ、老後を安心して暮らせるはずがない。イスが10脚しかないのに、100人が2000万円を貯めても、全員は座れない。90脚足りないのだ。するとイスの値段は3000万円、4000万円と吊り上がり、最終的には、最もお金を持つ10人しか支払えない価格になるまで上昇する。このゲームの勝利条件は、2000万円貯めることではない。他人よりも多く貯めることなのだ。90人が座れなかったのは、資産運用が下手だったからでも、努力が足りなかったからでもない。単にイスが足りなかったのだ。もちろん、貯蓄自体を否定するつもりはないが、それだけでは根本的な解決にならない。イスそのものを増やす取り組み、つまり人材不足や少子化への対処が必要だ。お金だけでは解決できない現実が、すでに日本のあちこちで表面化している。 バスが来ない、先生もいない 「福井駅まで車で迎えに行きましょうか?」福井県立図書館で講演をしたとき、司書さんがそう提案してくださった。はじめは丁重に断るつもりだった。県立の大きな図書館で、地図を見ると新幹線の駅からもそう遠くない。バスを使えば問題ないと思っていた。ところが、事情を聞いて驚いた。運転手不足でバスの本数が大幅に減り、運休日まであるという。結局、ありがたく迎えに来てもらうことになった。こうした公共交通の縮小は、福井に限らない。各地で高齢者や学生の足が奪われつつある。熊本市の教育イベントに参加したときは、教員不足の深刻さを耳にした。熊本市教育委員会は、2024年度に必要な教員を確保できず、追加募集をかけても人が集まらなかった。臨時職員も足りず、教頭先生が担任を兼任する学校まで現れているという。給料を引き上げれば改善するのではそう思いたくなるが、公的な給与水準には限界があり、すぐに対応するのは難しい。人手不足の波は教育現場にも押し寄せている。介護現場も同様だ。特別養護老人ホームなど公的な施設では、入居に1年以上かかる自治体もある。訪問介護の担い手も不足し、対応を断られる家庭も出てきている。ここでも、介護報酬という公的な制約から、抜本的な待遇改善はなかなか進まない。高額な民間施設であれば働く人を集められるが、そこに入居できるのは高額な費用を蓄えた人だけだ。まさに、配達料金5000円でも頼めた富裕アリたちのように、一部の人だけがサービスを受けられる世界だ。暮らしまでが分断され始めている。こうした生活に欠かせない分野で、軒並み人手不足が深刻なのは、仕事の重要性と年収が必ずしも一致しないという構造的な歪みがあるからだ。社会を支える重要な仕事でも、高い年収を得られるとは限らないのが現状だ。 老後への不安が高まるほど、人々は稼げる仕事へと流れていく。「お金を稼ぐ人が偉い」という空気が、その流れをさらに加速させる。冒頭に登場した若者のように、やりがいを感じても、周りからの評価が気になってしまう。その結果、教育・介護・交通など、暮らしの基盤となる分野が崩れ始める。皮肉なことに、「お金に不安を抱く社会」が社会基盤の人材供給を歪めてしまっているのだ。もちろん、給料を上げれば一定の人材は集まるかもしれない。だけど、それだけでは足りない。働き手が不足しているのは、生産年齢人口(15歳から64歳の働く世代)が減り続けているという構造的な問題に根ざしている。2023年に発表されたある報告書は、2040年の日本社会では、深刻な労働者不足によって、社会インフラのあらゆる分野で崩壊のリスクがあると警告している。 お金はあるのに、何も買えない そんな奇妙な社会が、すぐそこまで迫っている。暮らしが壊れる「1100万人の働き手不足」。その報告書、リクルートワークス研究所が2023年に発表した『未来予測2040』は衝撃的な未来を描いている。2040年の日本では約1100万人もの労働者が不足すると予測されているのだ。この報告書によると、これは近畿地方の労働者が丸ごといなくなるほどの規模に匹敵するという。それだけ多くの仕事の穴を埋めるのは、現実的に難しい。では、そんな未来はいったいどんな姿をしているのだろうか? 「労働者としての私たち」にとっては、朗報かもしれない。労働力が希少になれば、労働者側の交渉力が高まり、賃金は上昇する。2021年から2024年にかけて7.5%も上昇しており、特に20代の上昇率が大きい。これから労働供給が足りなくなれば、さらに売り手市場となり、長く働く若い世代にとっては、より有利な環境になるだろう。だが、「生活者としての私たち」は、手放しでは喜べない。賃金上昇は、物価上昇も招く。そして何より、この報告書が警告するのは、2040年には生活の基盤そのものが崩れているかもしれないという現実だ。リクルートワークス研究所と協力して取材を行った朝日新聞取材班の『8がけ社会』によれば、農業を担う人は2020年対比で7割も減り、農作物の価格は高騰。空き家は増えても、大工は6割減少してリフォームも進まず、道路や橋の75%が老朽化し、あちこちで通行止めが相次ぐ可能性がある。 生産年齢人口はすでに減り続けているが、これまでの日本社会は何とか維持できていた。それは女性の社会進出によって働き手の数が底上げされてきたからだ。女性が稼ぐことで、社会が支えられてきた。 しかし、そうなると再びあの疑問が頭をよぎる。「お金を稼ぐ人が偉い」のだろうか?やはり「1円も稼がないこと」の価値。 女性の労働参加率はすでに70%を超えている。これは先進国の中でもトップクラスの水準だ。それでもなお、「もっと女性に働いてもらうべきだ」と主張する有識者の声は根強い。確かに、ドイツやイギリスなど、日本よりも女性の労働参加率が高い国もある。しかし、ここで僕は、冒頭に登場したお母さんの代わりに声を上げたくなる。こうした議論の多くは、家事や育児などの「無償労働」の存在を見落としているように感じるからだ。6歳未満の子どもを育てている家庭では、妻が家事や育児に使う時間は、1日7時間34分。一方、夫はわずか1時間23分だ。日本の女性は、他の先進国の女性よりも1~2時間長く無償労働を担っており、男性は逆に1~2時間も短い。この差は1日当たりのものだ。1年続けば膨大な時間になる。「もっと女性に働いてもらう」と言う前に、すでに多くの女性が働いている事実にまず目を向けるべきではないだろうか。 外で働きたいと思っても、働けない人たちもいる。家事や育児といった無償労働を正当に評価し、それが女性に偏りすぎているという社会の構造的な問題を、きちんと共有する必要がある。かつては、労働に値段などついていなかった。地域や家庭で、みんなが役割を分担してきた。それが、貨幣経済の発達とともに、「自分たちにできないこと」あるいは「他人に任せたいこと」にお金を払って外注するようになった。ただ、それだけの話だ。お金を介さない仕事に価値がないわけではない。 特に育児は、目に見えないストレスがつきまとう。誤飲、喘息、発熱、夜泣き、気が休まる瞬間などない日々もある。こうしたケアには、お金を出しても他人に任せられない仕事もあれば、任せたくない仕事もある。漫画原作の大ヒットドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が注目されたとき、「愛情の搾取に断固として反対します」というセリフとともに、専業主婦の適正給料も話題になった。2011年のデータによると、専業主婦の年収は445万円になるそうだ。 また、実際に料理、掃除、洗濯、保育園や習い事の送迎、子どもの体調管理に至るまで、すべてを外注すれば、そのコストは年間1000万円を軽く超えるという計算もある。そもそも、外での仕事と育児を比べれば、人類にとって重大なのは明らかに育児だ。外で仕事をしなくても人類は滅びない。しかし、育児をしなければ確実に滅びる。もちろん、「だから女性が家庭にいればいい」という話ではない。問題は、育児という負担の大きい仕事が女性に偏っている社会の構造だ。男女どちらも自由に育児や家事を担える社会でなければ、少子化も労働力不足も解決できない。 冒頭の母親が言った「ママは家の中で大事な仕事をしているのよ」という言葉は、まぎれもない事実だ。そして今、求められているのは、「パパも家の中で大事な仕事をしている」と自然に言える社会をつくることだ。また、大事な仕事だからといって、外注してはいけないわけでもない。外注するかどうかの判断は、それぞれの家庭の価値観によって決められるべきものだ。「アレルギーが心配だから」と早起きして弁当を作る家庭もあれば、「手作り弁当よりマックで食べたい」と言う子どもに千円札を渡す家庭もある。どちらも、それぞれの生活のなかで選ばれた、大切な選択だ。こうした視点で見直すと、「お金で価値を測る」という社会の目線が、いかに私たちのリアルな生活からずれているかに気づかされる。この価値観が変わらない限り、家事や育児という人間社会を支える根幹の仕事は、正当に評価されないままだ。そして今、この価値観の延長線上で少子化が加速し、深刻な労働力不足が起きている。 日本全体で人が足りない以上、「給料さえ上げれば人が集まる」といった単純な発想では解決しない。ならば、外国の労働力に頼るという方法はどうか。移民の受け入れには社会的コストが高いが、これまでも私たちは、海外で作られた製品を買うことで、国内の労働力不足を補ってきた。たとえば、農家の減少を、食料の輸入でカバーしてきたように。しかし、そのツケが今、私たちの目の前に現れている。それが、「物価高騰」だ。 給料が追いつかないのに、物の値段ばかりが上がっていく。これは偶然ではない。私たちの財布から消えた「値上げ分の百円玉」はいったいどこへ行ったのか?この問いの先には、海外に依存しすぎた日本社会の問題が横たわっている。値上げされた100円は、どこへ消えた?「現代版アリとキリギリス」の物語では、物価とともに賃金も上がった。しかし、現実の日本は違う。2022年以降、電気代や建築費、うどんの値段までが上昇した。それなのに、給料はなかなか追いついていない。一般的な説明はこうだ。「うどん屋が100円値上げしたのは、材料費が上がったから。だから、従業員の給料には回らない」。なるほど、と納得しそうになるが、どこかに違和感が残る。うどん屋から見れば、値上げの100円は材料費として消えたように感じられる。しかし、実際に100円玉が蒸発するわけではない。その100円は材料の小麦粉を作る製粉会社へと渡っていく。製粉会社も儲かっているわけではない。彼らもまた、原料の小麦が値上がりしたため、やむを得ず小麦粉の価格を引き上げた。では、その小麦を生産するのは誰か?それは、海外の農家だ。日本で消費される小麦の大半は輸入に頼っている。つまり、うどんの値上げ分の100円は国内ではなく、海外の生産者の収入となっているのだ。 もちろん、ここでの説明は大きく単純化している。実際には、製粉工場の機械や電気代、農家が使う肥料代など、さまざまなコストが絡み合っている。それでも、本質は同じだ。値上げされた100円は、必ず誰かの収入になる。問題は、そのお金が海外に流出していく構造にある。このため、日本国内の給料が上がりにくくなっているのだ。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 2022年の輸入物価は2年前と比べて9割も上昇した。日本の輸入額はGDPの約2割を占めるため、単純計算でも国内物価を18%ほど押し上げたことになる。同時期の国内企業物価指数は20%上昇しており、そのほとんどが輸入物価の影響であることがわかる。2023年に入ると輸入物価が下がり、多くの企業で増収増益となり、給料を上げる会社も増えた。しかし、生産や消費を通じて、海外にお金が流れる構図は変わっていない。 「それなら小麦の代わりに米を食べればいい」という考えもある。たしかに米の自給率は高いが、高齢化などの影響で農業従事者は減り続けている。このままでは、米の供給すら維持できず、米の価格が慢性的に高額化するような事態になりかねない。結局のところ、国内の働き手が足りなければ、輸入に頼らざるを得ない。そして、そのたびに、お金は海外へ流れ、給料は上がりにくくなる。 お金の流出に拍車をかけているのが、円安だ。この円安もまた、働き手不足という深い根とつながっている。長い間、「円安は日本経済に良い」と言われてきた。その話を信じていたのに、円安が進むほど、生活はどんどん苦しくなっている。いったい、なぜなのか。その理由を、私たちは知らされていない。 2021年初頭に1ドル=100円程度だった為替レートは、2025年には1ドル=150円近くまでドル高・円安が進行している。ドルを買う人が増えれば、その価格も上がる。それが、ドル高・円安になる仕組みだ。たとえば、スーパーマーケットで小麦粉を買うとき、レジで千円札を差し出す。しかし、小麦を生産するアメリカの農家には、その千円札は届かない。間の企業がその千円札でドルを買い、ドルで支払っているのだ。 アメリカ産の小麦が100ドルから200ドルに値上がりすれば、日本はそれまでの2倍のドルを用意しないといけない。鉄鉱石や石油を買うときも同様だ。ドルでの価格が上がれば日本企業はより多くのドルを用意する必要がある。つまり、為替市場で「円を売ってドルを買う」動きが活発になる。これに日米の金利差などの要因も加わり、1ドルは100円から150円へと上昇した。この円安が、私たちの暮らしにも跳ね返る。仮にアボカドの値段は、海外では1個1ドルのままだったとしても、日本のスーパーに並ぶときには、100円から150円に値上がりしているのだ。 では、なぜ日本はこれまで円安を歓迎してきたのか?それは、かつての栄光を信じていたからだ。1980年代、「メイドインジャパン」が世界を席巻した。日本製の自動車や家電、半導体が海外で高く評価された。今ではiPhoneで音楽を聴くのが主流だが、当時は世界中の人が日本製のウォークマンを使っていた。ウォークマンの価格が1万5000円だったとして、1ドル=100円なら海外価格は150ドルだが、円安で1ドル=150円なら100ドルにまで価格を下げられる。海外の人には割安に映り、売れ行きが伸びる。日本企業は潤い、給料も上がった。円安はたしかに追い風だった。しかし、それはもう過去の話だ。 今の日本には、世界に誇れる商品が少なくなっている。円安でも日本製品は売れない。それどころか、家電や機械、さらには魚介類など、かつて輸出していたものを今では輸入に頼っている。特に、音楽配信やクラウドサービスなどデジタル分野ではアメリカへの依存が進んでいる。外国に売れる物が減り、外国から買う物ばかり増えた。当然、円安が進み、物価も上がった。私たちの暮らしは、確実に追い詰められている。だから「責任者、出てこい」と叫びたくもなるのだ。 一般的には、物価上昇に給料が追いつかない理由として、円安や原材料の高騰が挙げられる。しかし掘り下げると、その根本には「人手不足」という現実が見えてきた。私たちが必要なモノを作る力が減り、世界が欲しがるモノを生む力も弱まっているのだ。さきほどのリクルートワークス研究所の報告書でも、「先端分野への人材供給が後回しになり、経済活動が停滞する」と警鐘が鳴らされている。このままでは、日本が新しい価値を生み出す力は衰える。円安も止まらず、物価はさらに上がっていくだろう。 円安の本質はお金自体の問題ではない。それは「人手不足という構造的な危機」そのものなのだ。 お金の不安という幻想 僕が小学生の頃に教科書に書かれていた「2人で1人の高齢者を支える未来」がやってきた。当時は、働く人の数が足りなくなることに漠然とした不安を感じていた。その後、大人になるにつれ、その不安はいつの間にか「老後のお金が足りなくなる」という不安にすり替わってしまった。だがここまで考えてきたことを振り返ると、子どもの頃の直感のほうが正しかったように思う。 お金がいくらあっても、介護を担う人がいなければ高齢者を支えられない。それは介護に限らず私たちの暮らし全般に関わる問題だ。蛇口から水が出るのも、クリック一つで本が届くのも、どこかで誰かが働いているおかげだ。冒頭で、「どうして『お金を稼ぐ人が偉い』と思われるのか?」と問いかけた。だが、社会を支えているのはお金ではなく、一人ひとりの働きだ。 お金と引き換えに働く人もいれば、冒頭のお母さんのようにお金を受け取らずに育児という社会の根幹を担う人もいる。お金が発生しているから偉いというわけではない。働く人が減れば、モノやサービスの供給が衰える。物価が跳ね上がり、貨幣の価値は目減りする。これが「インフレ」の正体だ。だから、やみくもにお金を増やす努力だけしても、根本的な解決にならない。本当に必要なのは、生産力そのものを底上げすることだ。 子どもを育てる人たち、親だけでなく、保育士や教員など未来の担い手を育てる人たちが、安心して暮らせる社会でなければ、少子化は進む一方だ。そして、働く人が適切に報われなければ、働く意欲も生まれない。資産運用を推奨するだけでなく、働きたいと思える環境がなければ、生産力の底上げにはつながらない。機械化や省力化も含め、人々が効率的かつ意欲的に働ける環境づくりこそ、私たちが真正面から取り組むべき課題だ。 「子育て世帯だけを優遇するな」「AIに仕事を奪われるかもしれない」そんな声もある。生活に余裕がなくなれば、誰だって不安になり、自分以外の誰かが得をしているように感じてしまう。でも、これは沈みかけた船の中で、座席を奪い合うようなものだ。日本という船の沈没を食い止めるには、社会全体の課題に目を向けなければならない。 「老後の不安」は、個人の資産形成で解決する問題ではなく、人口構造という国全体で取り組むべき問題だった。それがいつしか、「個人のお金の不安」にすり替えられてしまった。少子化や人手不足への対応は後回しにされ、「資産運用で安心を手に入れよう」というメッセージばかりが社会を覆う。そして、いつの間にか「お金さえ貯めれば老後は安心」という価値観が定着した。こうした風潮が、「お金を稼ぐ人が偉い」という空気を強め、問題解決を遠ざけている。 だから僕は、「お金の不安」という言葉に強い幻想を感じるのだ。「幻想だから、お金を貯めなくていい」と言いたいのではない。そうではなく、「お金さえあれば大丈夫」という幻想に、私たちは振り回されすぎてはいないだろうか。私たちが直面しているのは、お金だけでは解決できない現実だ。それなのに、GDPや株価といったお金の話ばかりが経済の中心で語られる。少子化や人手不足といった現実的な危機が置き去りにされている。次の第6話では、そうした「お金中心の社会」がなぜ生まれたか、また、これからどんなパラダイムシフトが訪れるのかを考えてみたい。 第5話のポイント お金が社会を支えるという幻想 人がお金の価値を支えるという現実 日本バス協会によれば、すでに全国で1万人以上のバス運転手が不足しており、2030年には3.6万人もの不足が予測されている。2024年9月のNHKの調査では、全国で少なくとも2397人の教員不足が報告されている。 厚生労働省「賃金構造基本統計調査(令和3年・6年)」内閣府男女共同参画局「男女共同参画白書令和4年版」によると、2020年の日本の女性の生産年齢人口の就業率は70.6%で、OECD諸国平均の59.0%よりかなり高く、1位のスイス(75.9%)と比較しても遜色ない水準にある。 貿易・サービス収支の赤字が拡大傾向にあり、円安圧力になっている。一方、海外投資からの収益を表す所得収支の黒字の方が大きいが、こちらは外貨のまま保有されることが多く、円高圧力になりにくい。 コラム「ドルを稼ぎ、土地を失う」外貨投資の副作用 日本製品が売れずに外貨を稼げないなら、「海外投資で、外貨を稼げばいい」と考える人もいるかもしれない。たしかに、自国の産業を立て直すより、海外の成長分野に投資してリターンを得るほうが、効率がよさそうだ。外国株式や海外投資信託への関心が高まっているのもうなずける。「国内に眠る約1000兆円が海外投資に回れば、日本は莫大な外貨を獲得できる」という話もよく語られてきた。だが現実はそれほど単純ではない。水面下では、その副作用が静かに進行している。 仮に私たちが年間15兆円の預金をドルに換え、海外投資をおこなっているとしよう。為替レートが1ドル=150円なら、1000億ドル分の外国資産を購入できる。ところが、その裏側で、ドルを購入するために支払った15兆円は海外の人が保有することになる。その円で、彼らが日本製品を買えば、国内に円が戻る。けれど、すでに話したように、日本製品は選ばれにくくなっている。その結果、その円は日本の資産に向かう。株式や債券などの金融資産だけではない。土地などの不動産も含まれる。 実際、北海道のリゾート地や都心のマンションが海外投資家に買われている。2023年から24年にかけて、東京23区の新築マンション価格は36%も上昇した。その要因には、こうした海外勢による不動産投資があると考えられている。その影響で、国内の住宅購入のハードルが上がっている。私たちは海外資産を一方的に買っているつもりでも、実は日本の土地や住まいを海外の人に売っているのだ。つまり、「海外から配当を受け取る一方で、海外の人に家賃を払う」という構図が生まれつつある。 海外の人が手にした日本円は、投資のほか、インバウンド消費にも向かう。2024年には訪日外国人の旅行消費額は8.1兆円と過去最高を記録した。観光産業に力を入れれば、彼らの保有する円が戻ってくる。だがそこにも課題がある。宿泊業や飲食業は、大量の人手が必要だ。観光に人材が偏れば、他の業種にしわ寄せがいく。実際、北海道では観光業に人材が流れ、介護施設が人手不足で閉鎖に追い込まれた例もある。 誤解してほしくないが、海外投資そのものが悪いわけではない。ただ、「投資さえすれば外貨が手に入る」という発想の中には、「働かなくてもいい」という無意識の期待が紛れ込んでいないだろうか。その期待がふくらみすぎれば、気づかないうちに、土地や労働力といった、社会基盤の根っこにある資源を手放すことになる。「資産運用だけで国を豊かにできる」という考えは、不都合な現実から目を逸らすための甘い幻想だ。 天然資源の乏しい日本が、外貨を獲得し続けるには、限られた人材をどう活かして、どんな価値を生み出すかが決定的に重要だ。やはり、世界で選ばれる商品やサービスを生み出す力を育てる努力から逃れることはできない。 第6話 「お金さえあれば」の終焉 直視する⑦ いつまでお金に支配されるのか? お金を中心に世界を見ると、大切な人がぼやけて見えなくなる。大人になるとは、そういうことかもしれない。その洗礼は、中学校の社会科の授業で待ち受けている。小学校では、「お魚が食べられるのは、漁師さんが働いているおかげ」と教わったはずなのに、中学で社会の見方は一変する。歴史の授業で「大坂城を建てたのは誰か?」と聞かれ、「大工さんです」と答えると、バツをつけられる。正解は、豊臣秀吉だ。大工さんと答えるのは屁理屈かもしれないが、この屁理屈の中にこそ、私たちがお金に支配される理由が隠されている。 ある中学校の外部講師として、僕が経済の話をしたときのことだ。「みなさんが学校で勉強できるのは、誰のおかげでしょうか?」と問いかけた。「親!」「政府!」「税金を払っている国民のおかげ」と生徒が口々に答える中、後ろで見学する担任の先生は苦笑していた。肝心の「先生のおかげ」という答えが最後まで出てこなかったからだ。これは教室だけの話ではない。私たちはいつの間にか、「経済とはお金を回すこと」だと考えている。 経済活動、つまり、私たちの生活には、ヒト・モノ・カネの三要素が必要だ。学校教育なら、校舎や教科書が「モノ」、先生や職員が「ヒト」、運営費用が「カネ」だ。いくらお金があっても、働いてくれる先生がいなければ学校は成り立たない。それなのに、ヒトとモノは忘れられ、カネばかりに注目が集まる。 私たちはいつまで、お金に支配されるのだろうか?そこには「制約」が深く関わっている。制約とは、行動範囲を狭める要素のことだ。私たちが「誰々のおかげ」と感じるとき、その「誰々」は厳しい制約を解消してくれた人を指すことが多い。豊臣秀吉が大坂城を「建てた人」とされるのは、建設工事よりも資金集めがはるかに難しかったからだ。同じく大阪にある太陽の塔を「作った人」が、芸術家の岡本太郎とされるのは、資金や工事よりも、あのデザインを生み出すことが最大の難関だったからだ。 私たちは常に、自分たちを縛る制約を中心に考えて行動している。これは、日常生活でも同じだ。たとえばランチ選び。学生時代は「お金がない」という制約があるため、高くないものからランチを選ぼうとする。年齢を重ねて血液検査の結果が悪化すれば、今度は健康が制約になる。好きなものを自由に食べたいなら、お金を増やすことより、まず健康を改善する必要がある。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 つまり、私たちの選択肢の幅を決めているのは、その時々の制約なのだ。制約を解消すれば、行動範囲が広がる。これは、経済活動全体についても言える。私たちは長らく、「お金さえあれば大丈夫」という常識を疑わずに生きてこられた。それは、「ヒト、モノ、カネ」のうち、カネが制約である時代だったからだ。逆に言えば、ヒトとモノは十分にあったということだ。しかし今、その制約が大きく変わろうとしている。人手不足が深刻化する日本では、カネではなくヒトこそが、私たちの選択肢を狭める制約になりつつあるのだ。 歴史を振り返れば、カネ以外が制約だった時代も存在した。そのとき人々は何を見つめ、どのように生きていたのだろうか。命を奪う「モノ不足」の恐怖。こんなニュースに触れると、「また米が値上がりするのか」とため息が出る。食堂の経営者なら、「これ以上は死活問題だ」と愚痴をこぼすかもしれない。とはいえ、本気で生命の危険を感じる人は、現代では少ない。しかし200年前、江戸時代は違った。米の不足は、文字通り生命の危機だった。当時、経済の中心はモノ。特に米は、食糧の中心であり、税や給料にも使われていた。米の収穫が生活そのもので、不作は即、死に直結した。天候不順や冷害で米が不足すれば、飢饉が発生した。1780年代の天明の大飢饉では、全国で90万人以上が餓死したとされる。 影響は農村だけでなく、江戸や大坂など貨幣経済の発達した都市部にも及んだ。米が市場から消えれば、いくらお金を積んでも手に入らない。米屋を襲う打ち壊しや一揆が各地で発生し、社会秩序が揺らいだ。カネが不足しても、基本的には個人や企業など個別の問題にとどまるが、モノの不足は社会全体を巻き込む危機になる。現代の日本でこうした状況が起きにくいのは、米をはじめ、あらゆるモノが豊富に供給されているからだ。 明治以降、農業技術の進歩や機械化によって、米を効率よく生産できるようになった。また、流通網の発達により、東北で不作でも、福岡や北海道の米が手に入るようになった。さらには、アメリカやカナダから小麦を輸入して、パンを食べることもできる。しかし、近代以降でも、モノの不足が社会全体に大きな制約をもたらした時期は存在する。たとえば、太平洋戦争のさなか。海外からの輸入ルートが断たれ、金属資源が不足したときは、家庭にある鉄鍋や寺の鐘、学校の銅像までもが、兵器の材料として回収された。「金属類回収令」の名のもとに、生活の中の「当たり前」が溶かされていった。 食糧や生活必需品の多くは配給制となり、終戦後も「売ってもらえるだけでありかたい」状況が続いた。「米を売ってくれる農家を案内する」と言われただけで信用し、誘拐されるような事件さえ起きた(小平事件)。より近い記憶でいえば、震災のときを思い出す人もいるだろう。お金があっても、店は閉まっている。水道や電気も止まり、配給されたおにぎり一つが、どれほどありがたかったか。東日本大震災では、被災地以外でも、コンビニやスーパーの棚から一斉に食料が消えた。マスクやトイレットペーパーが消えたコロナ禍も、多くの人がモノの制約を肌で感じた出来事だった。 こうした経験で、私たちは思い知らされたはずだ。生活に必要なのは、お金ではなく、食べ物や水、それを作る人、運ぶ人たちの働きだと。そのとき、生産者や物流に携わる人たちへの感謝が自然に生まれた。しかし日常が戻れば、またカネが制約となり、感謝は徐々に薄れていく。制約が変われば、私たちの価値観や社会のあり方が根本から変わる。では、もし今後、ヒトが制約になったとしたら、私たちの社会は、どんな姿に変わるのだろうか? 若者が「金の卵」と呼ばれた時代があった。1960年代の高度経済成長期の日本。中学を卒業したばかりの少年少女が、期待と不安を胸に集団就職列車に揺られて都会へ向かった。「東京へ行けば、仕事もお金もいくらでもある」という希望に満ちた時代だった。日本はこれまで何度も人手不足を経験したが、深刻な制約になることはなかった。給料を上げたり待遇を改善したりすれば、人は自然と集まった。あくまでお金で解決できる一時的な現象だった。それに、消費拡大による人手不足なら、大きな問題はない。「新しい家電が欲しいけど、今回は我慢しよう」「話題のカフェが混んでいるから、また今度でいいや」その程度の我慢で、社会は十分に回っていた。 ところが今、目の前にある人手不足は、まったく様相が違う。2025年から2040年にかけて、働く世代が約2割減り、日本全体で1100万人の労働力が不足する。これは日本史上、前例が見当たらない。これは、少し我慢すればすむ話ではない。世界の歴史を見渡しても、ヒトが深刻な制約になった例は珍しい。よく知られているものは、14世紀にヨーロッパを襲ったペストの大流行だ。当時のヨーロッパの人口の約3割が失われた。戦争や災害とは違い、生産設備や流通網が破壊されることはなく、ただ働き手だけが消え去った。この激しい働き手不足によって、ヨーロッパの社会構造は根本から揺さぶられた。それまで弱かった労働者の立場が一気に強まり、賃金や待遇の改善を強く主張できるようになった。 パリでは1346年からの7年間で屋根葺き職人と石工の賃金が3倍にも増え、イングランドのカックスでは1347年からわずか3年で農民の週給が5倍以上に跳ね上がったという記録が残っている。農奴制そのものが崩壊に向かい始め、封建社会が解体されるきっかけになるほどの劇的な変化だったのだ。遠い昔の異国の出来事と思うかもしれない。しかし、今の日本にもそれに匹敵する大きな変化が迫っている。すでにあらゆるところで人手不足が起きている。バスの運転手も学校の先生も介護士も足りず、2040年にはさらに過酷な状況が待ち受けている。これは、従来何度も起きてきたような景気の波による短期的な人手不足ではない。少し我慢すればすむ話でもない。今回は人口構造そのものが変わるからだ。私たちの生活を縛る制約は、カネからヒトへと移っていく。経済の重心が、お金から働く人へと大きくシフトする局面を迎えているのだ。 それだけ重大なことなのに、日本の少子化対策は、遅々として進んでこなかった。2024年の日本の出生率は1.15と過去最低を更新し続けている。政府が掲げる希望出生率の1.8からはほど遠い。子どもを持ちたいと思っている夫婦の中で、希望する人数の子どもをあきらめる理由のトップは、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」だ。また、大学生を対象にした調査では、「いまのところ、あまり子供は欲しくない」と回答した大学生が9年前の6.2%から17.7%へと拡大している。その理由として半数以上が経済的な不安を挙げている。現代社会では子育てにかかる経済的負担が重くのしかかる。一度きりの人生で、子どもを持つという選択肢をあきらめている人たちが大勢いるのだ。社会全体から見ても、子どもが育たなければ、国は衰退するしかない。個人の生き方も、社会の未来も狭めてしまうのに、子育て支援は「予算がない」と後回しにされてきた。本来なら真っ先に取り組むべき課題だったはずだ。 なぜ日本社会は、ここまで、ヒトの問題よりもカネの帳尻を優先してきたのだろうか。その背景には、日本が抱える根深い構造的問題がある。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 「お会いしてお話ししたい」 人生初の著書が書店に並んでから、まだ10日しか経っていなかった。差出人は厚生労働省の年金局の担当者。まさかこんなに早く、国の担当者から反応があるとは思わなかった。 この本を書こうと思ったのは、第4話でも触れたように、将来への不安がきっかけだった。「日本の老後資金問題は、お金だけでは解決できないと思うんです」と漏らした僕に、出版業界の知人が助言をくれた。「書籍にまとめれば、きっと必要なところに届きますよ」。その言葉を信じて文章修業を重ね、2021年秋に『お金のむこうに人がいる』をダイヤモンド社から出版した。 本で伝えたかったことはシンプルだった。一個人としては、資産運用でお金を増やすことが大事だが、社会全体では、子どもを育てないことには本質的な解決にならない。「この国は本当にこのままで大丈夫なのか」という不安を、できるだけ多くの人と共有したかった。そして、「僕の視点に偏りや見落としがあれば、遠慮なく指摘してほしい」と思って書いた本だった。 そこに厚労省の担当者からの連絡が舞い込んだ。意外にも、同じ不安を感じているであろう人が、政府にもいたのだ。正直、少し緊張した。著書の中で「お金を貯めること自体は解決にならない」と、かなり明確に書いていたからだ。年金制度への批判とも受け取られかねない内容だった(制度自体を否定しているわけではない。社会の中での負担のあり方を考える上でも、年金という制度が重要なのは言うまでもない)。 会ってお話ししたところ、担当者もまったく同じ問題意識を持っていた。共通の認識として確認したのは、次の2点だった。①お金をただ貯めるだけでは、老後資金問題の根本的な解決にならない。②最も大切なのは生産力の確保。少子化対策と一人当たりの生産性の向上が不可欠。 ここで、一つの大きな疑問が頭をよぎった。「原因はこれほど明らかなのに、なぜ少子化対策はいつまでも後回しにされるのか?」厚労省をはじめ、いろいろな人に話を聞くうちに、構造的な問題が見えてきた。それは、各省庁の管轄という壁だ。 経済の基本要素ヒト・モノ・カネのうち、厚労省が主に扱うのは、労働力、つまりヒトだ。たとえば、高齢化による介護負担の増加に対し、厚労省は「介護職員を毎年3万人ずつ増やす必要がある」と懸念している。少子化対策を担当するこども家庭庁も、厚労省に属している。彼らは、ヒトが制約にならないように対策を考えている。 しかし、いざ政策を決める場面では、ヒト、モノ、カネのうち、どの要素を優先するかを巡り、省庁同士でぶつかることになる。モノについては、多くの省庁が分担している。農業など食糧に関することなら農林水産省、資源やエネルギーは経済産業省、道路やインフラは国土交通省、学校や教育施設は文部科学省といった具合だ。 そして同時に、自分たちの分野のヒトにも目を向けている。農林水産省は農業従事者の高齢化に対応し、文部科学省は教員不足に取り組むなど、それぞれの省庁が生活の土台を守ろうとしている。だが、政策全体に最も強く影響を与えているのが、カネだ。それを担当しているのが、財務省だ。 財務省は税金を集めて必要なところへと振り分ける役割を担っている。税収が不足すれば国債を発行して資金を調達するなどして、カネの流れを管理している。こうして見ると、日本の行政は「ヒト・モノ・カネ」という三要素の管理を、それぞれの省庁が分担している構図が浮かび上がる。 介護問題を例に取れば、厚労省は人手の確保を訴える一方で、財務省は予算確保の重要性を強調する。同じ課題でも、省庁ごとに見るポイントが異なるのだ。冒頭で話したランチ選びを思い出してほしい。値段というお金を気にしたり、血糖値という健康を気にしたりする。忙しければ時間を気にすることもあるだろう。お金か健康か時間か。そのとき置かれた状況に応じて、私たちは行動の優先順位を変える。 本来なら、国も状況に応じて優先順位を判断できるのが理想だが、現実は常にカネが優先される。税はすべてお金で納められるため、国家運営はカネ中心の視点になってしまうのだ。もし奈良時代のように、労働でも税を納めていたなら、ヒトの問題にももっと敏感だったかもしれない。また、政府の予算案は、財務省の報告をベースに作られるため、カネ優先の考えが強く根付いている。これまでは、それで問題なかった。戦後復興を遂げて以降、長い間、ヒトやモノが経済活動の制約になることは少なかったからだ。 しかし、少子高齢化が進む今、状況は変わった。介護や医療現場では、お金があっても働き手がいなければどうにもならない。農業を継ぐ人がいなければ、米不足にもつながりかねない。それなのに、人手不足や少子化への対応は後回しにされる。少子化対策に予算をつけたくても、「これから増える介護や医療の支出に備えたい」という理由で、十分な予算がつけられてこなかった。ヒトを優先する厚労省とカネを重視する財務省がぶつかっても、結局カネの都合が勝ってしまう。 メディアで語られる経済の議論も、これまでカネばかりが取り上げられてきた。財務省出身の専門家が多いこともその一因だ。僕自身、テレビの討論番組で、少子化や労働力不足といったヒトの問題を取り上げた途端、議論が急にかみ合わなくなったことが何度もあった。誤解しないでほしいが、財務省を責めたいわけではない。各省庁が自分たちの担当する制約にしっかり向き合わなければ、社会は機能しない。財務省がカネの流れを厳しく管理するのも重要な仕事だ。富の再分配を行い、通貨安リスクを抑えるためにも、彼らは欠かせない役割を担っている。 ヒト・モノ・カネがそろわなければ、社会は成り立たない。ここで問われるのは、「何を優先にするべきか」だ。行政の中でカネ優先の考え方が強くても、最終的に決めるのは内閣であり、その内閣(政治家)を選ぶのは、私たち国民だ。ヒトが制約になる新時代において、政治参加を通じて何を優先するべきか、私たち自身が考えるべきときに来ている。 血液検査の結果が悪いのに、ランチ選びで安さだけを追えば健康を損なう。それと同じように、カネばかり優先すると、人手不足で社会は壊れてしまう。「経済とはお金を回すこと」という常識を見直し、予算の使い方でも、カネよりヒトを優先することが求められている。そんな当たり前の判断が、今求められている。 口以上あり、修繕が追いつかず、道路が突然陥没する事例は年間3000件近くにも及ぶ。予算があっても人手がなければ解決できない問題だ。 副作用はそれだけでは終わらない。マイホームを夢見ていた人は、人件費の高騰であきらめざるを得なくなる。また、建設業界の高給に惹かれて、他の業界の人材も吸い取られ、人手不足はさらに深刻化する。経済全体が、一つのプロジェクトに振り回されて崩れていく。 ピラミッドの例は極端でわかりやすいが、実際の経済では問題は見えにくい。たとえば、2024年当時、海外からの投資を呼び込んだ熊本のTSMC半導体工場の稼働は、経済界での注目を集め、「雇用を生んだ」「大きな経済効果がある」として称賛された。一昔前であれば、確かにその通りだっただろう。しかし、人手不足の現代では副作用を起こしている。第5話で紹介した熊本の教員不足の原因の一つは、「この工場の稼働によって、人材が吸い上げられたため」という声を耳にしたこともある。経済効果やGDPという数字で見れば、学校教育より半導体を作る方が価値がある、ということになってしまう。「お金を稼ぐ方がえらい」という価値観のもとでは、将来を担う子どもたちを育てることは後回しにされる。 「お金さえ回せば経済はよくなる」という常識は、ヒトもモノも無限に存在するという前提に立った、旧世界の幻想にすぎない。この古い価値観に、私たちは終止符を打たなければならないだろう。 2024年、日本のGDPは過去最高を記録した。しかし、その一方で生活の苦しさを表すエンゲル係数(家計の支出に占める食費の割合)は43年ぶりの水準にまで悪化した。街では「景気がよくなった実感はまるでない」という声が聞こえてくる。数字としてのGDP成長が、私たちの豊かさに直結しない現実が浮き彫りになった。 こうした状況のなかで、新しい経済政策や公共事業に求められるのは、限られた人手と資源をどう効率よく使うかという視点だ。たとえば、1兆円を人々に行き渡らせたいなら、巨大な建造物を作るよりも、直接給付などの「人手を無駄にしない仕組み」を優先した方がいいだろう。それでもなお、「経済を回すためにお金を使いたい」と考える人には、寄付という選択肢を勧めたい。自分の大切なお金を、本当に必要とする分野に届けることができれば、それは社会全体の豊かさにもつながるはずだ。 私たちの日常生活においても、お金を節約するだけでなく、「人手を節約する」という意識が求められている。宅配便の再配達を減らせば、街を走る配達員の負担が軽くなる。その小さな気遣いが積み重なれば、節約できた労力を他の大切な仕事に振り向けることができる。学校現場も同じだ。保護者対応を減らし、先生が教育に専念できるようになれば、子どもたちの未来につながる価値を生む。 「お米一粒でも残したら、もったいない」という昔ながらの教えには、作り手への敬意と感謝が込められている。それは、モノやヒトが制約だった時代の記憶だ。私たちがお金に縛られてきたのは、心が貧しくなったからではない。長いあいだ「お金が制約だった時代」を生きてきたからだ。その時代は今、終わりを告げようとしている。 これから私たちが大切にするべきなのは数字ではなく、その向こう側にいる「ヒトの力」ではないだろうか。 第三部のまとめ 「お金さえあれば安心」という考えは幻想のようだ。戦後の復興を遂げた日本では、働き手も物資も十分にそろい、お金さえ回せば経済が順調に発展する時代が続いていた。しかし、少子高齢化が進み、私たちは前例のない課題に直面している。働く人が決定的に足りないのだ。「現代版アリとキリギリス」で示したように、どれだけお金を蓄えても、生活の基盤を支える人がいなければ、暮らしは立ち行かない。 老後資金や物価高、円安といった形で不安を掻き立てられるが、その根底にあるのはお金ではなく、働き手の不足だ。このままでは、「老後」という概念自体が消え、「ダナイデスの水瓶」のように、誰もが一生働き続けなければならない。問題はそれだけではない。自分のお金を増やすことだけを優先すると社会の中に分断が生まれやすくなり、働き手不足という共通の課題解決を遠ざけてしまう。だからこそ、今必要なのは協力して困難を乗り越えることだ。 第一部と第二部では、自分の「内側」でできることについて考えた。そして、この第三部では、自分ではどうにもならない「外部」にある社会問題を直視した。しかし、社会とは本当に「外部」なのか。自分ひとりでは難しくても、「私たち」でなら変えられるのではないだろうか。次の第四部では、私たちがともに行動する可能性を探っていきたい。 だ。生活に欠かせない炭や薪を買うために、町民たちはその店を利用していた(山室恭子『大江戸商い白書』)。だが、今の東京にはその痕跡すら見当たらない。炊飯器のスイッチ一つでご飯が炊けるようになったからだ。私たちは、かまどの薪で火を調整する面倒な仕事から解放された。同時に薪を売る仕事も消えた。この事実をどう捉えるべきなのだろう。 子どもは素直だ。「面倒な仕事は、なくなったほうがいい」と言う。だが大人は戸惑う。仕事がなくなれば、生活が立ち行かないからだ。「薪屋は消えたけど、電気会社や家電メーカーが生まれた」と自分を納得させてみる。だが、AIやロボットが仕事を奪ったあとに、新しい仕事が本当に生まれるのか。確信はない。「イノベーションが必要だ」「高付加価値を生み出せ」最近よく聞くこうした言葉も、その多くは仕事を生み出すことを目的に使われている。矛盾しているのだ。面倒な仕事を減らしたいと願いながら、いざ仕事が減り始めると不安になる。 人手不足が深刻化する時代に仕事を減らせなければ、忙しさだけが増え、生活の豊かさからは遠ざかってしまう。私たちはどうすれば、仕事を減らせるのだろうか? 仕事は本来、手段であって目的ではない。豊かさとは何か。今改めて、その問いに向き合うときがきている。 生活が豊かになったと実感するわかりやすい瞬間は、給料が増えたときだろう。ただし、物価がそれ以上に上がれば意味はない。2022年頃からようやく給料が増え始めたが、物価高に追いつかず、むしろ生活は苦しくなっている。しかし、長い目で見ると私たちの暮らしは確実に豊かになった。1920年から2020年の100年間で、食費は2280倍に上昇したが、給料(大卒初任給)はなんと5000倍にも増えた。その結果、収入に対する食費の負担は当時の0.45倍まで減っている。 特に驚くべきは、シイタケの値段だ。当時の0.08倍にまで下がったのだ。今スーパーで1パック400円のシイタケは、100年前の感覚なら5000円もする高級品だ。なぜ、ここまで安くなったのだろう? 味が落ちたわけでも、シイタケ農家の収入が減ったわけでもない。シイタケの栽培技術が劇的に進歩したからだ。100人がかりで山に入って収穫していたシイタケを、たった8人で生産できるようになれば、一人当たりの給料が変わらなくても価格は0.08倍に下がる計算になる。 シイタケだけではない。白米やしょうゆも、昔のままなら今の値段では買えない。給料が5000倍になれば価格も同じだけ上がるはずだ。しかし、実際には技術革新や機械化によって、少人数でも効率的に作れるようになった。人手が減れば、値段を下げることができる。そのおかげで、かつて5000円だったシイタケステーキが、今やビーフステーキより安く食べられる。「面倒な仕事はなくなった方がいい」という子どもの考えは正しかったのだ。 ただし、すべてがそこまで効率化されたわけではない。たとえば食堂の天丼の値段は100年前の0.67倍で、それほど安くなっていない。喫茶店のコーヒーは100年前とほぼ同じだ。食材は安くなっても、食堂や喫茶店で調理する人の手間は昔とあまり変わっていないからだ。人手がかかる仕事は、値段を下げにくい。 これらの比較でわかるように、少ない人数で効率よく生産できるようになったときに、給料に対して物価は下がり、暮らしに余裕が生まれる。会社に賃上げを求めるだけでは、限界がある。給料を上げ続ければ、その会社が生産する商品の価格に跳ね返り、物価が上昇するからだ。給料が増えても、物価が同じだけ上がれば、生活は豊かにならない。また、高付加価値の商品を販売するのも同じだ。高額な商品が売れれば、従業員の給料を上げられるが、そこにもジレンマがある。私たち自身も消費者として、より多くのお金を支払うことになるからだ。 世の中に高額な商品が増えて、生活が豊かになるとすれば、それは単に給料が増えたからではなく、その商品が私たちの生活の満足度を高めているときだ。つまり、なんでもいいから高付加価値にすれば生活が豊かになるわけではない。私たちの給料が物価以上に上がってきた本当の理由は、高額商品の開発ではなく、効率化によって仕事を減らしてきたことにある。歴史がそれを証明している。産業革命や高度成長期に暮らしが豊かになったのは、機械化で生産効率が高まり、多くのモノを安価に手に入れられるようになったからだ。 では、シイタケ栽培に必要な人手が100人から8人に減ったとき、残りの92人はどこへ行ったのだろう? 彼らは失業してしまったのだろうか? 仕事が減るほど豊かになる理由は、あくたがわりゅうのすけが「杜子春」を発表した1920年、日本で初めての国勢調査が行われたことに始まる。東京では、女性がスカートをはき始め、路面電車が行き交うなど、近代化が進んでいた。一方、地方では牛や馬を使った昔ながらの農業が残り、のどかな田園風景が広がっていた。 当時の日本を、100軒の家が建ち並ぶ村にたとえると、49軒が農家だった。村人の約半数が農業をしていたわけだから、1軒の農家で生産できるのは2軒分の食料がせいぜいだった。残りの半数は、商店、洋服屋、工務店、郵便局など、農業以外の仕事を担っていた。軍人、役人たちもその中にいる。「村にどの仕事がどれくらいあるか」は、村人のお金の使い方で決まる。村人がもし収入の1割を洋服代にあてるなら、村の産業の1割は洋服関連になる。100軒のうち10軒ほどが、糸を作ったり生地を作ったり洋服を仕立てたりする家だと想像がつく。 そう考えると、農家の多いこの村においては、かなり食費が高そうだ。約半数の農家以外にも、漁師、八百屋、しょうゆ屋など食に関係する仕事は存在する。実際、1920年のエングル係数は60%にも及んだ。現代の感覚なら、月収40万円のうち24万円が食費に消える暮らしだ。残りの16万円で、衣服代や光熱費、家によっては家賃も支払うのだから、お金に余裕はない。 自給自足が可能な農家のエングル係数は低いかもしれないが、自宅で消費してしまえば生産した2軒分の食料の半分しか外には売れないため、やはり経済的余裕は少ない。では、どうすれば食費が減って、生活が楽になるのだろうか? 答えはシンプルだ。「食」に関わる仕事の割合を減らすことだ。少人数で十分な食料を作れるよう、生産効率を上げる必要がある。それから100年が経ち、かつて49軒あった農家は、今ではたった3軒に減った。輸入にも頼っているので、村の外にも数軒必要だが、それでも圧倒的に少ない。食料自給率の問題はあるものの、生産効率は確実に上がっている。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 そのおかげで、エングル係数は60%から27%にまで低下した(総務省統計局「家計調査」)。ただ、農家の数が激減したほど食費が下がらなかったのは、食生活が大きく変わったからだ。100年前は、家庭での調理が基本だったが、今では、外食や加工食品を利用し、たくさんの人の手を借りて食事を楽しんでいる。パン屋で焼いてもらったメロンパン、レストランで調理してもらえるパスタやステーキ、こうした誰かに作ってもらう食事が、生活の一部になった。 食生活が大幅に向上したうえに、エングル係数が26%にまで下がった。月収40万円なら、食費は10万円程度ですみ、残りの約30万円は自由に使える。そのお金でネイルを楽しんだり、子どもを学習塾に通わせたりできるようになった。 こうした豊かさは、農作業が機械化されて仕事が減り、ヒトの力に余裕が生まれたおかげだ。余力ができたことで、パン屋やネイリスト、塾の先生といった新しい仕事が登場した。私たちの暮らしが豊かになってきたのは、いつも仕事を減らすことが出発点になっている。トラクターや炊飯器といったイノベーションの価値は、それを作る仕事が増えたことではない。私たちの重労働を減らし、自由な時間を作ってくれたことにこそある。そして、豊かさの理由は、高級品が増えたからではない。効率化で生まれた時間が、新たな商品の生産やサービスの提供に向けられたから、暮らしに余裕と満足が生まれた。高付加価値とは、値段の高さではなく、私たちが真に価値を感じたときに意味を持つものだ。だからこそ、効率化や新しい価値を生む「挑戦」にお金が流れることが、本当の意味での投資になる。挑戦をする人が現れなければ、投資はただのマネーゲームになってしまう。 銀行が隠す「お金が眠る」カラクリ 銀行員のセールストークに、思わず耳を疑ったことがある。「今は金利も低いですし、預金口座にお金を眠らせておくのはもったいないですよ」。もっともらしい言葉だが、金融機関で働いていた僕は、心の中でつぶやいた。「眠らせているのは、あなたたち銀行のせいでしょう」。そんな心の声など届くはずもなく、彼は投資信託のパンフレットを広げ始めた。 そもそも「預金」という言葉自体が巧妙だ。「預ける」と言われると、あたかも銀行が大切に保管しているかのように勘違いしてしまう。本当のところは、預金者が「貸している」だけだ。貸しているから利息がつくし、銀行が破綻すれば全額返ってこないこともある。貸金庫のように保管料を払っているわけではないから、文句は言えない。 もし本当にお金が眠っているなら、それは銀行が役割を果たしていないからだ。本来の銀行の仕事は、預かったお金を企業や個人に融資すること。しかし今は、企業も個人もあまりお金を借りない上に、銀行側の審査も厳しくなっている。結果として、大量のお金が口座に滞留したままだ。 当時、「資産所得倍増プラン」を掲げた岸田政権が、「貯蓄から投資へ」と呼びかけていた。「個人の預金が株式投資に向かえば、日本経済が活性化する」と主張する人もいるが、そこには大きな誤解がある。私たちが株を買うときの代金は企業ではなく、その株を売ってくれた投資家に支払われる。株取引のほとんどは、投資家同士の「転売」なのだ。眠っていた預金は、別の口座で再び眠ることになる。経済が活性化するのは、取引が増える金融業界だけなのだ。 実際、2024年度の株式取引額は約1300兆円だが、そのうち企業が新規に調達した資金はわずか1.4兆円。個人が株式投資を始めても、企業にはほぼ届かない。「株を買って企業を応援する」というのは、取引を増やしたい証券会社の詭弁だ。多くの場合、当の企業にとっては、株よりも自社製品を買ってもらう方がずっと嬉しいし、実際の応援につながる。CMでも、企業が広告するのは株ではなく、自社製品だ。 融資でも投資でも、金融の本来の役割は、「挑戦したい人」にお金を融通することだ。パン屋を開業する人やシイタケの栽培法を研究する会社に資金を届ける。彼らが新たな価値を生み出すことで、初めて経済が成長する。お金自体には、何の力もない。それが活きるのは、誰かが「何かを始めたい」と手を挙げたときだ。 日本がこれまで成長できた理由は、個人が積極的に投資をしてきたからではなく、多くの人が銀行に預金をしたからだ。そのお金が銀行を通じて、挑戦する人や企業に流れたことで経済が回り、社会が前進した。ところが今、上場企業の多くは資金に困っていない。むしろお金が余り、自社の株を買い戻しているほどだ。2024年度の日本企業の自社株買いは約16兆円で、新規発行で調達した1.4兆円に比べるとはるかに多い。新しい挑戦のためではなく、株価維持のためにお金が使われているのだ。 政府が、個人の株式投資を勧める背景には、別の事情がある。収益を上げた企業が、それを従業員の給料ではなく株主への配当に回すようになった結果、給与所得が伸び悩んでいる。それを補うため、政府は「株式を持てば配当を得られる」と投資を促しているが、これは一時しのぎの対症療法にすぎない。ただ株を買うだけでは、ドラえもんが活躍するような未来はやってこない。未来をつくるのは、資金を元手に挑戦を始める人たちがいるからだ。 「投資される側」になる勇気 ドラえもんのひみつ道具の中には、すでに実用化されたものもある。その一つが「オコノミボックス」だ。テレビやカメラ、音楽プレーヤーなど、さまざまな機能を持った箱型の道具で、声をかけると好きな機能に変身する。学生時代の僕は、こんな道具があればいいなと夢見ていた。1990年代、音楽を聴くのはウォークマン、映画はレンタルビデオ、写真はフィルムで撮影し、情報はテレビか新聞、雑誌で得ていた。どれも日本製品が主役の時代だ。 気づけば、「失われた30年」と呼ばれる時代に突入し、日本製品は生活の中から次々と姿を消した。ウォークマンはSpotifyやApple Musicに、レンタルビデオはYouTubeやNetflixに置き換わった。写真撮影や情報検索も含めて、これらを一台で実現したのが、現代の「オコノミボックス」、iPhoneだ。暮らしは飛躍的に便利になったが、その裏側で日本が得意とした産業は衰退していった。GAFAをはじめとする巨大IT企業がアメリカで生まれたのは、投資が先にあったからではない。まず挑戦する人がいて、そこに後から、投資マネーが自然と集まったからだ。 マーク・ザッカーバーグは学生時代にFacebookを立ち上げ、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツも大学を飛び出して挑戦した。アメリカでは挑戦が尊敬され、失敗さえも経験として評価される。今の日本はどうだろうか。金融教育が盛んになっているが、起業や挑戦を後押ししているとは言い難い。 第3話に登場した大学生のように、「投資とは資産運用をすること」と教えられるばかりで、「お金を融通し挑戦を支える」という金融の本質はほとんど教えてもらえない。そのため、「投資される側になる」という発想が育ちにくい。もしスティーブ・ジョブズが日本式の金融教育を受けていたらと想像するとゾッとする。「将来のために資産運用を」と考え、大学で起業する勇気を持てなかったかもしれない。iPhoneという「ひみつ道具」が誕生しなかった未来があったかもしれないのだ。 挑戦する人を育てず、投資商品の知識ばかり教えているだけで、本当に未来は豊かになるのだろうか。日本には、出る杭が打たれる空気もある。2022年の開業率(新規に設立された会社の割合)は4%にも満たないが、1960年代にはほぼ10%を超えていた。 未来の姿をドラえもんが紹介するシーンがある。就職先が見つからなかったのび太は、自分で会社を立ち上げている。起業は特別な人のものと思われがちだが、やる気さえあればのび太でもできたのだ。 誰もが起業する必要はないが、挑戦を温かく応援できる社会であってほしい。出る杭を打つのではなく、出る杭を伸ばす。そんな社会なら、成長を取り戻せるのではないだろうか。誰かの挑戦を「自分には関係ない」と感じる人もいるかもしれない。しかし、その成功がまわりまわって私たちの暮らしを変えていく。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 ひみつ道具のような便利な商品も、商店街の焼きたてのパンの香りも、すべては誰かの「やってみよう」から始まっている。今、日本は新しいことを始める人にとって恵まれた環境だ。多くの人が「投資したい」と考えているからだ。投資される側になる勇気さえあれば、チャンスはどこにでもある。そして、もう一つ、私たちには「守るものを手放す勇気」も必要だ。 「守る」ことで失った30年 「どこでもドアの利用は、1日1回に制限を!」というホテル業界の訴えはもちろん架空の話だが、日本では似たようなことが現実に起きている。民泊は、ホテル業界の保護などを理由に年間180日までしか営業できず、オンライン診療も「医療の質を守るため」として利用範囲が制限されている。IT技術で農業を効率化しようにも、株式会社による農地取得は難しい。日本では新しい挑戦を始めようとすると、必ずといっていいほど、既存の業界を守る規制が立ちはだかる。 こうした規制が社会的に注目されたのは1993年のことだ。その年、「規制緩和」が新語・流行語大賞の流行語部門の金賞を受賞した。きっかけは、あるタクシー会社の闘いだった。値下げを申請してから認可されるまでに、実に12年かかった。ただ値段を下げるだけでこれほどの年月が必要なほど、日本の規制は根深かった。 1990年代後半、日本にもIT革命の波が押し寄せた。大幅な効率化を進めるという意味では、産業革命以来の大きなチャンスだった。ところが、日本はこの波に乗り切れなかった。日本独特の規制や既存業界の抵抗が足を引っ張ったからだ。携帯電話市場はガラパゴス化により海外企業の参入を阻んだが、気がつけば日本企業自身が世界から取り残された。動画配信もそうだ。テレビ業界や著作権の壁に阻まれているうちに、海外企業が世界を制した。音楽配信でも、日本は主導権を奪われてしまった。 国内企業を守るための規制が、結果として競争力を奪い、市場を海外に明け渡すという皮肉な現象が繰り返されてきた。いつしか、私たちはデジタルサービスの多くを海外に頼るようになった。2024年だけでも、日本から海外へのデジタルサービスの支払いは約6.8兆円にのぼる(財務省「国際収支状況」)。今後も増え続けると予測され、円安をさらに加速させるだろう。 「守り」の姿勢を続けた結果、日本の生産性は停滞した。一人当たりのGDPは2000年には世界第2位だったが、2023年には34位まで転落している。 問題はお金だけではない。私たちの時間にも影響が及んでいる。病院や役所で、何度も同じ住所や名前を書かされた経験はないだろうか。こうした非効率は、私たちの日常を圧迫する。衆議院の文部科学委員会で、ある代議士がこんな趣旨の発言をした。「小学校の入学準備が地獄のようだ」。1年生が使う算数セットの数え棒やおはじき一つ一つに名前を記入する作業は、親にとって大きな負担だ。 効率化が進む時代に、「なぜ、いまだにこんなことを?」と疑問に思う場面は日常の中にあふれている。「昔からそうだったから」という理由で無駄が守られている。いや、もしかしたら、誰かのビジネスを守るために続けられているのかもしれない。私たちも、気づかないうちに効率化を妨げている可能性だってある。 これから、日本は人手不足が深刻になるが、チャンスに変えられるかもしれない。AIやロボットなどを活用すれば、効率化は進み、生産性を高められる。しかし、新しい挑戦はいつも「守る側」の抵抗に直面する。その背景にあるのは、こんな不安だ。「全体が豊かになっても、自分だけが取り残されるかもしれない」。社会の成長は嬉しい。でも、自分の取り分が減るのは困る。そんな不安が守りへと私たちを駆り立てる。知らない間に、奪い合いの空気が生まれてしまう。そうなれば、本来あるはずの全体の可能性がしぼんでいく。 どうすれば分け合える社会が作れるのだろうか?これは国レベルの話だけではない。会社や職場でも起きている。もっと身近な、家庭の中でさえ。 「奪い合い」と「分かち合い」の選択 会社から帰宅し、ソファで息をつく父に、キッチンに立つ母が声をかける。「ちょっと手が空いているなら、その洗濯物たたんでくれない?」 「俺はさっきまで仕事してたんだけど」 「外で働いているのは、私も同じでしょ」。 そこから先は、どちらも引けなくなる。子どもは「またか」と思いながら、静かに自分の部屋へと逃げていく。お互いに自由な時間を守ろうとして、「自分のほうが疲れている」「自分のほうが頑張っている」と言葉をぶつけ合う。ほんの少し協力すればすむことなのに、いつの間にか奪い合いになっている。 でも、本当に守りたいのは自由な時間だけなのだろうか?その奥にはきっと、別の気持ちがある。「職場で頑張っている自分を、認めてほしい」「家事も仕事もこなす私を、気遣ってほしい」。そんな満たされない気持ちが、心の奥に積もっていく。「誰も理解してくれない」と感じる孤独や、「頑張っても報われない」と思う虚しさを、言葉にできず、のみ込んでしまう。「このまま夫婦のすれ違いが続いたらどうなるのだろう」という漠然とした不安も、言葉にできないまま胸に抱えている。 でも、どうすれば、すれ違いではなく、協力に変えていけるのだろうか。第4話で考えたように、「家庭の運営」という共通のゴールを思い出せば、相手を敵ではなく、一緒に家庭を築く仲間だと思える。そこにあるのは、対立ではなく協力だと気づける。もっと単純に、自分の感じている不安を言葉にするだけでもいいかもしれない。相手への不満は共有できないが、不安であれば共有できるかもしれない。 これは家庭に限った話ではなく、もっと広い社会でも同じことが言えると思う。不満をぶつける敵を見つけるより、不安を共有できる味方を探す。そこで目的も共有できれば、奪い合いではなく、分かち合いが始まる。東日本大震災の直後、東京は電力不足で街が薄暗くなった。人々は進んで節電し、明かりの少ないオフィスにも不満の声は少なかった。2020年のコロナ禍でも、マスクや消毒液が不足すると、「本当に必要な人に届くように」と、SNSでは自制の呼びかけが広かった。 そのとき、私たちは「みんなで乗り切ろう」と思っていた。そして、みんなが不安であることもわかっていた。目的も不安も共有されていたから、力強い協力が生まれた。もし、「どうして自分だけ我慢しないといけないんだ」という不満にあふれていたら、電気の奪い合いになっていただろう。 今、私たちが直面している問題を単なる個々の「お金の不安」と認識するなら、協力は難しい。自分のお金や仕事を守る考えになってしまうからだ。しかし、問題の本質が「人手不足」という社会全体の課題だとわかれば、状況は変わる可能性がある。「仕事を効率化して、誰もが豊かに暮らせる社会にしよう」。そんなビジョンを共有できれば、私たちは同じ方向を向き始める。共有するには、置き去りにされる不安をぬぐう必要もある。 ぐえなかった。その根底には、「自分だけが不利な立場に立たされるかもしれない」という不安が、心のどこかにあったのかもしれない。 しかし、私たちが同じ方向に進んでいるとわかれば、その不安は和らぐはずだ。急速な変化ほど、「なぜそれが必要なのか」という問題意識の共有が求められる。そして大切なのは、不安やリスクを個人に押し付けないことだ。失業や転職を余儀なくされた人がいても、安心して次の挑戦に向かえるよう、手厚いセーフティネットなどの支える仕組みが必要だ。社会全体でリスクを引き受け合えれば、人は変化を恐れずに前に進める。 これまで、私たちの暮らしを豊かにしてきたのは、面倒な仕事を減らし、効率化を進めてきたからだ。これから始まる人手不足の時代も同じように乗り越えられる。ただし、それには「ひとりでがんばる」のではなく、「みんなで進む」必要がある。今、本当に考えるべきなのは、「どうすれば自分を守れるか」ではなく、「どんな未来を一緒に目指したいか」ではないだろうか。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 仕事を減らすことが、生活を豊かにする。未来をつくる投資は、誰かの挑戦から始まる。給料については1920年の大卒銀行員の初任給と2020年の大卒初任給(通勤手当・家族手当を含む)を比較している。また、1920年の価格のうち、給料としょうゆ、天丼、コーヒーは1921年のデータ、シイタケは岡山県山林会編『岡山県林業要覧』、食費は篠原三代平『長期経済統計一推計と分析第6』、白米は日本統計協会編『日本長期統計総覧第4巻』を参照している。また、2020年の価格のうち、給料は厚生労働省「賃金構造基本統計調査」、食費は総務省統計局「家計調査年報」、それ以外の品目は総務省統計局「小売物価統計調査」を参照している。国勢調査、農林業センサスをもとに筆者が計算。日本取引所グループ「資金調達額(2025年5月)」より。株主割当、公募、第三者割当、新株予約権の権利行使、優先株式等の合計。アイーエヌ情報センター「2024年年度版-NDB発行市場レポート(抜粋版)」2025年5月2日。中小企業庁「中小企業白書(2024年版)」2024年。中小企業庁「中小企業白書(2020年版(HTML版))」。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 大人の信じてきた常識は、本当に正しいのだろうか。ここまで書き進めてきて、ふと胸に浮かんだ問いだ。もしかすると、あなたの心の中にも、同じ問いが静かに湧き上がっているかもしれない。振り返れば、いつも鋭かったのは、子どもたちの直感だった。「面倒な仕事はなくなったほうがいい」と迷わずそう言い切ったのは子どもたちだった。「魚を食べられるのは、お金じゃなくて、漁師さんのおかげ」とこんなふうに、さらりと本質を突くのも子どもだった。「お金、仲間、愛」の中で、お金ではなく仲間を選ぶのも、子どもたちのほうだった。 大人になった私たちは、いつの間にか「お金」を中心に世界を見るようになってしまった。少子高齢化が進み、支える側が減っている現実を前にしても、ぼんやりと「お金さえあれば、なんとかなる」と信じている。いつしか「お金さえあれば、ひとりでも生きていける」と錯覚し、そのせいで「お金の不安」を大きく膨らませてしまった。人の役に立つ喜びや新たなことへ挑戦する勇気よりも、お金を増やす焦りばかりが先走るようになった。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 そして、「お金の不安」という言葉には、個人だけではどうしようもない、社会全体の課題まで詰め込まれている。ひとりで抱えるには重すぎる。だからこそ、みんなで考え、動いていく必要がある。私たちは成長する中で、多くの常識を身につけてきた。しかし、常識とは「誰かがかつて成功した方法」にすぎない。時代や環境に合わせて、私たちが生き残るために最適化されてきた価値観、それが常識の正体だ。 その一方で、私たちの心の奥底には、子どもの頃の純粋な「あの直感」が、まだ残っている。「一番頼れるのはお金だ」と口にしながらも、それに違和感を覚える「もう一人の自分」がいる。この本で繰り返してきた問いに、柔らかく光を投げかけてくれたのは、きっとその「もう一人の自分」だったはずだ。私たちの中には、常識や先人観にとらわれる「大人」の自分と、本質を見つめようとする「子ども」の自分が共存している。 今、社会の前提は大きく揺らいでいる。かつての常識は急速に色あせ、その常識通りに生きること自体が、苦しくなっている。だからこそ、最後に問い直したいことがある。「大人」の常識は、これからも通用するのだろうか。これまでの視点をふまえ、「子ども」の持つ「本質を見抜く力」に目を向けてみたい。 お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点 子どもたちを応援したいと思う大人は多い。ところが、不思議なことに、その子どもたちが社会に出た途端、温かな視線はなぜか急に冷たく、厳しいものに変わってしまう。「最近の若手は、電話をかけても出ないんだよな」「俺が若い頃は、有給休暇なんて全部取る奴はいなかった」。こうした「最近の若者」批判は、昔から繰り返されてきた。紀元前8世紀の古代ギリシヤの詩人ヘシオドスも、その著作『仕事と時』で、「鉄の時代」と名付けた自分たちの時代を嘆いている。 ヘシオドスによれば、「鉄の時代」の人間は道徳心が薄れ、正義は力によってねじ曲げられ、若い世代は年長者への敬意を失い、倫理観が崩壊しているという。もし、この手の若者批判が本当に的を射ているなら、人類は3000年近くも劣化し続けていることになる。そんなことがあるだろうか。 実際に起きているのは、「社会の前提」の変化だ。かつては、休日でも会社からの電話に応じるのが常識だった。終身雇用が当然で、上司や同僚との人間関係を良好に保つことが、生き延びるための戦略だったからだ。しかし、今は違う。会社はかつてのように社員を守れなくなった。「会社に尽くせば将来が安泰」という前提そのものが崩れたのだ。だから若い世代が会社の電話よりもプライベートを優先するのは、礼節を知らないからではない。単に社会の前提が変わり、それに合わせて行動も変えただけのことだ。 むしろ彼らは、「電話よりメールのほうが記録に残るし正確だ」と合理的に考えている。上の世代が信じてきた常識が、若者からすると非合理に映ることも多い。これは単なる「若者対年配者」の対立ではない。重要なのは「大人になってから身につけた常識」と「子どもの頃に感じた素直な直感」との間にある葛藤に気づくことだ。その葛藤を無視し続ければ、私たちは新しい時代へ踏み出せない。 それは、若者には「守るもの」が少ないからだろう。既得権益や人間関係のしがらみが小さい。だからこそ、古い常識を疑い、迷いなく手放せる。 明治維新直前の江戸末期、日本は黒船の来航に揺れ、不平等な条約が次々と結ばれていた。「このままでは日本が外国に飲み込まれる」という強烈な危機感が社会全体を覆った。その危機を突破できたのは、常識から自由だった若者たちが、鎖国や身分制度といった「当たり前」を捨てられたからだ。 これは決して歴史に限った話ではない。今まさに、私たちの日常でも起きている。上の世代はつい「最近の若者」を批判したくなる。だけど実際には、彼らのおかげで私たちの労働環境は確実によくなっている。会社の電話に縛られることは減り、有給休暇をあきらめる風潮も崩れつつある。 「俺が若い頃は、有給休暇なんて全部取る奴はいなかった」こうした言葉の裏には、いら立ちを超えたもっと複雑な感情が潜んでいる。本当は自分だって休みたかったのだ。会社のために身を粉にして働くことに、内心では疑問を感じていた人は、決して少なくないはずだ。けれど、当時はそれが許されない空気だった。だからこそ、「どうしてあいつらだけ自山なんだ」と複雑な感情が生まれる。理不尽さとうらやましさ。その両方が心を揺らす。 そんな小さな革命は、20年前ならきっと失敗していただろう。今それが成功しているのは、若者が勇敢だからではない。会社の常識を疑いながらも、行動に移す勇気を持てなかった上の世代が、複雑な思いを抱きながら、若者の行動を認めているからだ。 社会の前提が変わり始めるとき、最初に常識を疑い、挑戦を始めるのはいつだって若者だ。しかし、非常識な挑戦だけでは、時代は動かない。何かが本当に動き始めるのは、彼らを見守る人たちの心の中にも、変化が起きたときだ。私たちが何の葛藤もなく、ただ常識を信じて生きていたら、新しい芽は、出る杭としてすぐに打たれてしまう。「失われた30年」とは、まさにそういう時代ではなかっただろう。 だから今こそ、常識と変化の間にある自分自身の葛藤を見つめ直す必要がある。 2000年前後、インターネットという新しい波が、世界を動かし始めていた。「このチャンスを逃してはいけない」とそうした危機感を抱き、日本でも若者たちが動き出した。渋谷には「ビットバレー」と呼ばれるベンチャー拠点が生まれ、古い常識に縛られない若い起業家たちが、新しい時代を切り開こうとしていた。 しかし、彼らの前に立ちはだかったのは、規制という壁だけではなかった。もっと厄介だったのは、常識という「時代の空気」だった。たとえば、2005年、当時32歳の若手実業家・堀江貴文氏は、テレビ局の買収に挑んだ。だがその革新的な試みは「非常識だ」「マナーを知らない」「金の亡者だ」といった、人格批判や感情的な反発にさらされ、つぶされた。後に堀江氏自身は株式をめぐる問題で逮捕されたが、それとは別に、当時の議論の中心は「若いITベンチャーがテレビ局を支配するなんて許せない」という感情論に終始していた。出る杭は打たれたのだ。 その後も、テレビ業界は長らく変化を拒み、ネット配信の波にも乗り遅れた。同じ頃、技術者の金子勇氏は、革新的なファイル共有ソフト「Winny」を開発したが、著作権法違反を幇助した疑いで逮捕される。最終的には無罪となったものの、その間に日本はP2P技術や分散型ネットワークの分野で、世界から後れをとった。日本では、IT革命もデジタル革命も十分に花開くことはなかった。 「新しい挑戦をしても、どうせ出る杭は打たれる」そんなあきらめが社会に広がり、挑戦よりも安定を選ぶ人が増えた。30年間、日本は足踏みを続けてしまった。だが日本にも、出る杭が打たれず、若者の挑戦が成功した時代があった。それがまさに、明治維新だった。 今の日本にも、あのときと同じような転換点が来ているのかもしれない。明治維新が成功したのは、「このままではまずい」という強烈な危機感を若者だけでなく社会全体が共有していたからだ。幕府の重臣だった勝海舟は、海外の脅威をいち早く察知し、立場を超えて坂本龍馬や西郷隆盛に協力した。薩摩藩主・島津斉彬もまた、最新技術を積極的に取り入れ、若い人材を育成した。民衆の間でも、「世直し一揆」や「ええじゃないか」といった動きが広まり、社会全体が変革を受け入れる空気に変わっていた。若者の挑戦は「非常識な反乱」ではなく、「時代に必要な改革」として受け入れられた。 この30年、世界中はIT化やデジタル化を進めてきたが、日本は社会全体でその危機感を共有できなかった。変化を恐れ、現状維持を選び続けた。その結果、「どうせ社会は変わらない」というあきらめが私たちの心に染みついてしまったのだ。しかし今、「時代の空気」は再び静かに変わりつつある。 「あなたは、自分の行動で国や社会を変えられると思いますか?」もし突然、こう聞かれたら自信を持って「はい」と答えられるだろうか。2019年、日本財団が各国の17歳から19歳の1000人に対して、まさにこの質問を投げかけた。結果、日本で「はい」と答えた若者はわずか18.3%にすぎなかった。この数字は調査した9カ国の中で突出して低い。2番目に低かった韓国ですら39.6%。他の国では多くの若者が、「自分の行動で社会を変えられる」と信じていたのに、日本の若者だけが明らかに自信を持てていなかった。 しかしこれは、若い世代だけの問題ではないだろう。日本に暮らす私たちは、社会に対する当事者意識が薄いと言われることが多い。教育者の工藤勇一氏も、こうした意識の低さは学校教育だけでなく、日本社会全体の問題だと指摘している。 SNSやニュースにはいつも、「政府が悪い」「社会が悪い」という声があふれている。だが、「社会が悪い」という言葉そのものが、「社会をつくっているのは自分ではない、誰か別の人間だ」という前提に立っている。ところが、この若者の意識が急速に変わり始めた。3年後の2022年、同じ調査をすると、「はい」と答えた割合は26.9%にまで増加した。そして2024年、その割合はさらに跳ね上がり、45.8%に達したのだ。まだ世界水準には及ばないが、差は明らかに縮まりつつある。 この劇的な変化について、社会学者の宮台真司氏は指摘する。「若い人たちの間で、『自分たちが行動しないとまずい』という危機感が広がっている」。僕自身も、この変化をはっきりと感じている。以前、YouTubeチャンネルで僕が老後2000万円問題の本質について解説した動画が、100万回以上再生されたことがあった。「個人の資産形成も大切だけど、人口問題や生産性など社会全体の課題に目を向けなければ、結局はイス取りゲームになる」という内容だ。 コメント欄にはさまざまな意見が並んだ。「社会全体の課題に取り組むべきだ」という賛同の声もあれば、「そんなことより、自分の資産形成をがんばりたい」という率直な声もあった。しかし、そうした議論を超えて、圧倒的な支持を集めたコメントがあった。それは、短くてまっすぐな、たった1行のコメントだった。その1行が多くの人の心を動かしたのだ。 「若者です。頑張ります。日本の未来は僕たちが変えます。」そのコメントに、桁違いの「いいね」と多くの返信コメントがついていた。未来に向かうまっすぐな覚悟と、それを支えようとする共感が、確かに社会の中で息づいていることを強く感じさせた。 さきほどの調査でも触れたように、若い世代の間には、「自分たちが行動しなければ」という危機感が広がっている。そして、その覚悟を心から応援したいと思う大人たちも、間違いなく存在している。 もう一つ大切なこともある。「未来を変えたい」という共通の目標には、仲間が集まるということだ。対照的に、「自分の資産形成をがんばりたい」というコメントには、ほとんどの人が目を留めていなかった。そこには、孤立した正しさよりも、「誰かと共にある希望」を求める心理が働いているのかもしれない。 未来を変えようと語る姿を見ると、世代を超えた連帯が芽生え、敵をつくる空気は自然と消えていく。「自分たちの手で社会は変えられるかもしれない」という思いが広がっている。 そんな空気が、今少しずつ広がっている。ある高校での講演のあと、高校2年生のグループに声をかけられた。「日本社会がこれだけヤバい状況なのに、どうして大人には危機感がないんですか?」彼らが訴えるのは、個人の「お金の不安」ではなかった。そこにあるのは、未来の社会に向けた切実な危機感だった。そして、その問いかけは、誰かを責めるためではなく、「一緒に立ち向かってほしい」という願いだ。 本当は、大人たちもずっと危機感を抱いてきた。でも、常識という壁に、本音を閉じ込めてきたのだ。かつて「有給休暇を取りたい」とすら言えなかったように。社会はどうせ変わらない。そんなあきらめが、私たちの中で、常識になっていた。しかし、そろそろ、その常識を手放してもいいのではないだろうか。 ここで、私たちには2つの選択肢がある。一つは、これまでどおり「自分ひとりが動いても、何も変わらない」とあきらめることだ。正直、あきらめてもなんとかなる。もっと状況が悪化して、生命の危機すら感じるようになれば、「変わらなければまずい」と考える人が自然に増えるからだ。ただその時点では、かなりの犠牲を強いられる可能性は高い。 もう一つの選択肢は、状況がそこまで悪化する前に、この高校生たちと一緒に立ち上がることだ。すぐには何かが変わるわけではないとしても、早く動き出す人が多ければ、それだけ早く、悪化する状況を食い止められる。これは、自己犠牲を強いる話でも、自分のことだけを考えるなという話でもない。 できる範囲で、少しだけ行動を変えてみる。それだけで、十分だ。私たちは、それぞれが違う立場で、さまざまな不安を抱えている。先の見えない社会で、この教育費が本当に子のためになるのか、不安を感じている人もいる。周りの転職を聞いて、自分にもここ以外の居場所があるのかと立ち止まってしまう人もいる。少子高齢化のニュースを見て、いつか社会のお荷物にならないか、胸が苦しくなる人もいる。 自分では、どうにもならないと思うこともある。しかし、私たちは無人島で孤立しているわけではない。社会と確かにつながっている。消費者として、働き手として、有権者として、保護者として、地域の一員として、誰でもさまざまな役割を担っている。だからこそ、できることは必ずある。 消費者として、働く人の負担を少しでも減らそうとする。働き手として、職場で若手の挑戦を支える声を上げる。有権者として、目先の利益だけでなく次世代を考えた政策を支持する。保護者として、子どもが将来に希望を持てるように耳を傾ける。地域の一員として、小さな交流やイベントに参加する。そして、挑戦する人を支える存在も欠かせない。ただ静かに応援するだけでもいい。出る杭を打たないだけでも、未来は変わる。 大切なのは、「変えられる」と信じる勇気だ。若者たちは、もう未来をあきらめていない。彼らは、すでに動き始めている。「どうして大人には危機感がないんですか?」この一見絶望的な問いかけこそが、私たちが立ち上がるための希望のメッセージなのではないだろうか。 私たちが感じている閉塞感の正体は、「何かを手放すこと」への恐れではないだろうか。仕事を失うことを恐れて、働き方を変えられず、非効率がいつまでも居座った。常識から外れることを恐れて、挑戦する若者を「出る杭」として打ってしまった。 日本ではよく「伝統を守る」と言う。しかし、それは「変わらないこと」ではないはずだ。私たちは困難のたびに自らを変えてきた。明治維新は、若者の情熱だけではなく、「このままではまずい」という危機感を社会全体が共有し、挑戦を後押ししたからこそ動いた。 では、今の日本はどうだろうか。「お金の不安」だけに焦点を当てる限り、不安や目的を共有するのは難しい。それぞれが自分の取り分を求めるほど、分断は深まっていく。だからこそ、その背後にある人手不足という課題に視線を向けたい。人口構造はすぐには変えられないが、小さな協力の積み重ねで効率化は進む。人手不足は乗り越えられるかもしれない。 そして守るべきは、変化に取り残される人だ。孤立し頼れるものがなくなれば、過去の仕組みや古い常識にすがるしかなくなってしまう。それぞれが抱える不安を共有できれば、そこには希望が生まれる。社会は変えられると信じる勇気は、今静かに広がりつつある。職場でも、学校でも、家庭でも、私たちが暮らすあらゆる場所に社会は存在している。 私たち一人ひとりの「社会をよくしたい」という小さな勇気こそが社会を動かし、「お金の不安」をもたらす構造からみんなで抜け出すための大きな力になる。 僕は利己的な人間だ。そして、この本も利己的に考えるための本として書いたつもりだ。講演などで、本書のような日本社会の課題を語ると、こんな反応が返ってくることがある。「すみません。自分のことで精一杯で、社会のことなんて考えられません」僕はそれでいいと思っている。 冒頭にも書いたように、この本を通じて考えたかったのは、新しい時代を生き抜くための「生存戦略」だ。他人のために自分を犠牲にするような、利他的なことは書かなかったつもりだ。本書の後半で社会の課題を取り上げたのも、あくまで自分自身を守るためだ。 たとえば、激しい雨が降って、自宅の屋根が雨漏りしている。そんなときに、隣の家の雨漏りなんて気にしていられない。当然、自宅の修理を優先する。しかし、もし隣人が血相を変えて飛び込んできて、こう叫んだらどうだろう。「堤防が崩れそうだ、手を貸してくれ!」川が氾濫して自分の家までも流されるとなれば、迷わず隣近所と協力して土嚢を積んで堤防を補強するはずだ。この川の氾濫こそが、「社会の課題」だ。 堤防が決壊してもたいした被害がないなら、やはり自分の屋根を優先すればいい。だが、どちらを優先すべきか判断するには、まず「社会で何か起きているのか」を知っておく必要がある。 たとえば、円安の問題。外国製品を買うことで円安が進み、物価が上昇すると本書で指摘したが、これは決して「国産品を買おう」と主張したいわけではない。自分の選択が社会にどんな波紋を広げ、それが自分にどう返ってくるのかを理解した上で、自分にとってベストな行動を選び取ればいいと思っている。 スーパーで国産牛のパックを手に取る。おいしそうだし、日本の農業も守ることにもつながるかもしれない。しかし、子どもの学費も貯めないといけない。家族のことを考えれば、やはり安い外国産牛肉にしようと結論づける。それで構わないと思う。僕だって外国産の牛肉を買うことはあるし、アメリカの株を買うこともある。 何を優先すべきか、それはその時々の状況次第だ。ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは著書『アイデンティティと暴力』で、次のように述べている。一人の人間が同時に所属するすべての集合体がそれぞれ、この人物に特定のアイデンティティを与えているのだ。どの集合体も、この人の唯一のアイデンティティ、または唯一のアイデンティティを持っている。 の帰属集団と見なすことはできない。人のアイデンティティが複数あるとすると、時々の状況に応じて、異なる関係や帰属のなかから、相対的に重要なものを選ばざるをえない。 私たちは常に、いくつもの集合体に属している。国家、会社、家族、隣近所、消費者、公共バス利用者、あるいは「国産牛が好きな人たち」という集合体だってある。この中で、どの立場を優先するか迷ったとき、常識を頼りに判断してきたし、それでだいたいがうまくいった。 かつて村社会が生活基盤だった時代は、「村の一員」という立場を優先して、隣近所との関係を大切にすれば問題なく生きてこられた。その生き方が常識だった。 やがて、「会社の一員」としての自分を優先する常識が生まれたのは、「会社が従業員を守り、国が会社を守る」という前提があったからだ。この時代は、会社が社会の中心だった。男性が外で働き、女性が家庭を支えるのが当たり前だったが、女性もまた夫の働く会社を優先することが常識とされた。 しかし今、時代が変わり、「会社が社会の中心」という前提が揺らいでいる。第一部で触れた通り、「モノ経済」から「カネ経済」へと移り、企業と私たち消費者の距離は遠ざかった。第二部では、「会社が一生守ってくれる」という前提が崩れている現実を確認した。会社に縛られない新たな生き方が広まりつつある。 第三部で見たのは、人口構造の変化によって、経済活動の制約が「お金」から「人」へと劇的に移ろうとしていることだった。仕事とお金を与える会社の力は弱り、私たち個人の力が、これまで以上に必要とされている。 こうした前提の変化によって、これまでの常識では生きづらくなっている。かつて有効だった会社を優先する生き方は、もはや通用しない。だからこそ、本書では大人の常識を疑い、これからの時代の生存戦略を考えてきた。 僕が初めて常識を疑い、自分の目で世界を見つめ直し始めたのは、今から30年前-高校1年生のあの冬のことだった。あの時、部屋で寝ていると、背中を突き上げる強い衝撃に襲われた。夢なのか現実なのか区別がつかない。壁に激しくぶつかる本棚。悲鳴のように軋む家の柱。僕はベッドのフレームに必死でしがみつき、振り落とされまいと歯を食いしばった。揺れが収まったあとも部屋は斜めに傾いていた。息を吸い込むと鼻をつくガスの臭いがした。 慌てて、外に出る。目の前に広がっていたのは、変わり果てた神戸の街だった。見慣れた近所の家々は崩れ、垂れ下がった電線が道路を遮り、路面にはいくつもの亀裂が走っている。遠くに見える鉄道の高架も、無惨に崩れ落ちている。避難した警察署には、混乱と絶望が渦巻いていた。「道路がビルで塞がっている!」「家族が閉じ込められている。早く助けてくれ!」悲痛な声が次々と響くが、署内のわずかな人数では、とても対応しきれない。 それまでの僕は、何かあれば警察が助けてくれて当たり前だと思っていた。しかし、そうではなくなっていた。あの瞬間、目の前で崩れ去ったのは、建物だけではなく、自分がずっと信じてきた常識そのものだった。食料にも困った。自動販売機はすべて空になり、コンビニも閉ざされたままだ。財布にどれだけお金があっても意味がないと、人生で初めて痛感した。商品が届かない世界では、紙幣はただの紙切れにすぎなかった。 避難所となった学校の体育館の床は冷たく、多くの人が不安そうに身を寄せ合っていた。寒がる子どもを毛布で包む母親。黒飴の包みを差し出してくれる老人。災害情報のラジオのボリュームを上げて、周りにも聞かせてくれるおじさん。そこにいる全員が同じ不安を抱えていた。小さな助け合いが始まっていた。不安そのものは消えないが、それを共有する仲間がいることに、かすかな希望を感じていた。 今、私たちが直面している社会の変化は、目に見えない災害のようなものかもしれない。自宅の雨漏りという個人の問題を超えて、川が氾濫するような社会全体の危機がゆっくりと迫っている。その危機を、あの高校生たちは敏感に感じ取っていた。「どうして、大人には危機感がないんですか?」世田谷区の高校で講演を終え、壇上から降りると、高校生7、8人のグループが真剣な眼差しで問いかけてきた。彼らの問いには、さらに続きがあった。「どうすれば、大人に危機感を持ってもらえるんですか?」僕はその場に立ち尽くすしかなかった。彼らの切実な問いに対して、答えることができなかったからだ。この本を書こうと思ったのは、まさに彼らに答えるためだ。もし、多くの大人が社会の危機を他人事ではなく自分事として捉えたなら、川が氾濫する前に協力して土嚢を積めるかもしれない。もしかしたら、もう手遅れかもしれない。それでも、若い高校生たちが、今の日本に不安を感じ、自分たちで何とかしようとしていることを知っただけでも、救われた気がした。 お金の不安は孤独だ。