はしがきに代えてI日本の原風景「里の秋」  「里」という語は、あるときは懐かしさをもたらし、あ るときは悲しみを運んで、この語固有の響きがある。 「里から便りが届いた」「里からの便りも途絶えた」。大 は誰でも、自分が置かれている境遇によって、「里」と いう語に接してさまざまな情景を思い浮かべるであろう。 「人里」「山里」「里山」-これらの言葉に共通してい ることは、全くの自然そのままではなく人の手が加わっ ていることだろう。「自然は寂しい。しかし人の手が加 わるとあたたかくなる。そのあたたかなものを求めて歩 いてみよう」。これは「旅する巨人」、民俗学者宮本常一 (一九〇七-八一)の言葉である。「一日あたり四十キロ、 のべ日数にして四千日に及んだ。宮本は七十三年の生涯 に合計十六万キロ、地球を丁度四周する気の遠くなるよ うな行程」であった(佐野眞一『旅する巨人-宮本常一 と渋沢敬三』文春文庫)。宮本をこのように駆り立てたも のは何か。そこに大がいたからだ。「郷土をよくしよう と思う人間をつくらない限り、日本がよくなることはな い」「地域はそこに住むものが白らつくっていかなけれ ば決してよくなることはない」。宮本常一の偽らざる心 情であろう。  山中の人里を表す「山里」はわが国に古来からある言 葉であり、そこからは牧歌的な情景がかもしだされるが、 「山里」をひっくり返しただけの「里山」となると牧歌 的情景の中で「今まで見過ごされてきたもの」が浮き彫 りにされる。この言葉の出現によって里山の豊かさが世 に知られ、逆に過疎と高齢化によって里山が荒れ、熊、 猪などの野生動物が人里に出没する問題点も浮き彫りに されることになる。「里山」は一九六〇年代にいわれだ した言葉である。里山は人の営みと自然がほどよく調和 する場所であり、自然の寂しさと人の営みの温かさが溶 け合うからこそ「日本の原風景」となるのだろう。  各地の秋の水辺に旅烏が舞う。北国で繁殖し、日本を 経て越冬地に南下する渡り烏である。「水辺」には浜辺、 野辺のように牧歌的な雰囲気がある。「水際」は瀬戸際 といった言葉から連想されるように何か鋭角的な張り詰 めた感じがする。「山里」「里山」と同様に、「水辺」と いうかわりに「水際」という言葉が使われるようになっ た頃から湖や河川をめぐるさまざまな問題が生じてきた。 「里」の水辺の風景は私の原風景の一つである。「里」に は秋が一番よく似合う。子どもの頃に歌った名作抒情歌 「里の秋」(斎藤信夫作詞・海沼實作曲)の影響だろうか。  (匸静かな 静かな 里の秋    おせどに 木の実の 落ちる夜は    ああ かあさんと ただ二人    栗の実 煮てます いろりばた (二)明るい 明るい 星の空    なきなき よがもの 渡る夜は    ああ とうさんの あのえがお    栗の実 食べては おもいだす  「里の秋」は終戦直後、日本放送協会放送部{}Oy芒 からの求めに応じて、復員兵を迎える歌として創作され た。依頼を受けた作曲者の海沼實(一九〇九-七二は そうした要望にあった歌詞を探し求めた。そして見つけ たのが、戦争中に斎藤信夫(一九一一-八七)から海沼 實のところに送稿されていた「星月夜」という作品だっ た。「星月夜」は斎藤信夫が国民学校の教師をしていた 時、太平洋戦争の勃発を報じる臨時ニュースを聞いて書 いた作品である。「星月夜」の一番と二番は「里の秋」 と同じであるが、三番と四番は戦時色の強いものであっ た。  (三)綺麗な 綺麗な 椰子の島    しっかり 護って下さいと    ああ 父さんのご武運を    今夜も一人で祈ります  (四)大きく 大きく なったなら    兵隊さんだよ 嬉しいな    ねえ母さんよ 僕だって    必ずお国を護ります  そのままの歌詞では使えないと判断した海沼實は、斎 藤信夫に連絡をとり、三番以降の改作を依頼した。戦争 を鼓舞するような教育をしていた責任を感じて教師を辞 めていた斎藤信夫は快くこれを受けて、新三番を書き上 げた。「さよなら さよなら 椰子の島/お船に ゆら れて かえられる/ああ とうさんよ ご無事でと/今 夜も かあさんと 祈ります」。川田正子(一九三四-二 ○○六)の声とともに「外地引き揚げ同胞激励の午後」 のテーマ曲として発表されたのは一九四五(昭和二十) 年十二月二十四日のことであった。このようにして今日 にいたるまで愛唱される名作抒情歌が誕生したのである (海沼実『童謡 心に残る歌とその時代』NHK出版)。ソ ニー創設者の井深大さん(一九〇八-九七)は童謡「里 の秋」が大好きで、その告別式は大賀典雄会長(当時、 一九三〇-二○一二夫人の緑さんによるピアノ演奏「ピ アノソナタ第二番第三楽章葬送行進曲」で始まり、終わ りは音羽ゆりかご会による童謡「里の秋」であったとい  里の秋を彩る風物詩は、高く澄み切った青空に鰯雲、 枝がたわむほどびっしりと熟した柿、いがが割れてツヤ のある茶色い実をのぞかせる栗であろう。私の心にある 「里の秋」の風景は藁葺き屋根の農家、その軒先につる された干し柿、庭にある葉の落ちた柿の木に残る熟れた 柿の実、冬隣を思わせる頬を過ぎる冷たい風である。  柿も栗も古くから日本に自生し、日本の秋の果物とし て親しまれてきた。干し柿は貯蔵できるので保存食にな るうえ、柿霜とよばれる表面の白い粉はブドウ糖と果糖 からなり、砂糖が貴重だった時代には、甘味料として珍 重されたという。江戸時代、菓子のけさはよく熟した柿 の甘さをもって標準としていたそうである。老舗の和菓 子屋のあの品のよい甘さはそれで合点がいく。  秋の季語に「木の葉雨」という美しい日本語がある。 「紅葉前線」も山から里に下り、やがて里は落葉が舞う。 二十四節気の「霜降」あたりから、虫が黙り、北国から 初霜の便りが届く。ひと雨、ひと風ごとに秋は深みを増 し、冬隣の季節になる。里の落葉には精気がある。里の 寺や神社の境内では落葉を集めて焚き火をするのは日常 の風景である。枯葉を燃やし、春には新緑、夏には緑陰、 秋には紅葉と私たちの生活に潤いをあたえてくれた木の 葉の最後の力をふりしぼっての炎だと思うとき、その火 に愛おしさを感じないではいられない。都市では「危な い」との理由で落葉の焚き火などもう死語になってから 久しい。落葉が枯葉となって掃き集められポリ袋に詰め 込まれゴミとして処理されるのはなんともいたわしい。  国木田独歩(一八七一-一九〇八)は『武蔵野』(岩波 文庫ほか)の巾で「時雨がささやき、凩が叫ぶ」と秋か ら冬にかけての武蔵野の風景、とりわけ「落葉林の美」 をたたえている。武蔵野にも桜と新緑の季節があるのに、 独歩はあえて春から夏の武蔵野の風景を取り上げていな い。作家の三浦哲郎(一九三一-二○一〇)は郷里(青森 県)の寺の銀杏について「毎年十一月のよく晴れた、冷 え込みのきびしい朝に、わずか三十分ほどで一枚残らず 落葉してしまう」と書いている(朝日新聞「天声人語」二 〇匸一年十一月三日)。それは「すさまじい光景」であり、 また冬の木々が満身の力ですべての葉を振り落とし、樹 木の本来の木地をさらし、冬の空に屹立する姿は感動的 でもある。葉という衣装を脱いで冬の木々は「すべての 虚飾をはぎとられた本来の思想」だけで立ち、そこには 木々の凛とした強い意志を見るようである。  西欧では日本と違って晩秋から冬隣の頃は落葉と枯葉 が人の心を掴むようである。シャンソンの名曲に「枯 葉」があり、上田敏(一八七四-一九一六)の名訳によっ て知られるヴェルレーヌ(一八四四-九六)の詩「落葉」 (原題「秋の日」)がある。「秋の日の/ヴィオロンの/た めいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。/…… げにわれは/うらぶれて/こ丶かしこ/さだめなく/と び散らふ/落葉かな」(L田敏訳詩集『海潮音』新潮文庫)。  私は銀杏の落葉には小さな思い出がある。早実の旧早 稲田鶴巻町校舎の中庭に二本の大きな銀杏の木があった。 冬隣の季節になると中庭はこの銀杏の落葉で覆われる。 校長になって一年目の年である。その日は朝から憂鬱 だった。試験で小さなカンニングをした生徒を校長訓告 する日であった。校長になって一番つらく悲しいのはこ ういうときである。校長室から中庭に出て生徒が待つ部 屋に向かった。落葉の芸術品のような朽ちた色と形に魅 せられて、ふと二葉の銀杏の落葉を手にとった。ハンカ チで汚れを落とし、それを手帳の間に挟んだ。緊張と不 安の表情を浮かべていた生徒に訓告したあと、手帳から 二葉の落葉を取り出し、生徒に差し出した。「これは絨 毯を敷き詰めたように中庭を覆っている銀杏の落葉だけ れど、僕は心をこめて君におくる。つらいとき、悲しい ときにそっと取り出して、小さな勇気をもって生きてい くことを思い出してほしい」。なんの変哲もない二葉の 銀杏の落葉に私の心を託した。しばらく経って、その生 徒のお母さんに出会った。「校長先生、息子はあの二葉 の落葉を宝のように大切にしております。本当にありが とうございました」。私も教師としての拠り所として、 今でも大切に二葉の銀杏の落葉を心に刻んでいる(拙著 『教育の復権を求めて』早稲田大学出版部)。爾来、十三年 の歳月が積もり、私の遥かなる旅路も終わりを迎えよう としている。『限りなく遥かなる旅路の果てに』という 感傷的なタイトルをつけた所以である。  本書は過去数年間に、私が教育に関して書き、また話 したものを主としてまとめたものである。向田邦子(一 九二九-八一)流に言えば「駄文雑文いりまじって、さ ながら駄菓子屋の店先」のようだ、と思われるかも知れ ない。今日では忘れ去られ、どこかに置き忘れてきた駄 菓子屋のぬくもりを感じてくださったならば望外の幸せ である。本書を記述するにあたって多くの人たちの著作 講演、また新聞記事から引用させていただいた。必要最 低限度の出典は明示したが、折々の式辞、講演も含まれ ているので、もとより不完全さは免れない。他者からの 引用は「 」を付して明らかにしているのでご海容のほ どお願い申し上げる。              ⊃。                            一  本書の出版にあたり、前著『早実スピリットの源流を 求めて』に引き続いてベースボールーマガジン社の池田 哲雄社長に大変お世話になった。お会いするたびに語り 合い、多くの示唆とさりげない激励を与えられた。また 原稿を丹念に読み、適切な助言をいただいた恒文社の高 橋良一氏に心からの感謝を申し上げる。    二〇匸一年十一月 冬隣の時節に                       渡邉重範                            一 目 次 はしがきに代えてI日本の原風景「里の秋」 第一部 映画から時代を見る  I 大石先生という教師像-一九五四年と『二十  四の瞳』-  2 アメリカ人をつくったフロンティアの存在-  『ジェーン』と『ウィルーペニー』-  3 アメリカ合衆国の「明白な運命」-『大いな  る西部』と大陸国家への道-  4 この光を守るために生きてきたんだI『喜び  も悲しみも幾歳月』-  5 月のうち、三十五日は雨が降るI『浮雲』と  屋久島I  6 『カサブランカ』のモデルといわれた亡命者-  リヒヤルトークーデンホーフーカレルギーー  7 あ丶人生に涙ありI「水戸黄門」終了に寄せ  てI 第二部 自然災害と防災教育I東日本大震災から学ぶ  8 「おやつの時問」を挟んだ断絶-津波までの三  十分を考える-  9 頑張り、頑張れ、がんばんベー東日本大震災  「天罰」発言に寄せて-  10 地質学的時間軸とミクロ的時間軸-津波てん                           一  でんこ-  H] 防災教育の必要性-津波太郎(田老)から学  ぶ-  12 江戸時代に津波とたたかった人-「稲むらの  火」と潰口梧陵-  13 後藤新平と関東大震災-此ノ期二及ンデ区々  ノ事情何カアランー  14 江戸・東京を襲った大災害-世界でも稀な大  火の頻発- 第三部 行蔵は我に存す。毀誉は他者の主張  15 人並の道は通らぬ梅見かなI関寛斎の生  涯-  16 埋めがたい溝についてIトーマスーマン、フ  ルトヴェングラー、トスカニーニー  17 往時のことは茫茫として何も覚えてはおら  ぬI会津戦争と松平容保-  18 一人の農夫は、帰りの汽車賃を日本の未来に捧げ  たI新島襄と山本八重-  19 自ら進んで火中の栗を拾うI「明治の三太郎」  と児玉源太郎-  20 韓国合併百年を間うI伊藤博文と朝鮮半島-  21 吾、太平洋の橋とならんI新渡戸稲造の「黄  金の中庸」-  22 森羅万象に挑んだ巨人-南方熊楠と柳田國  男-              卜(                            一  23 瀬戸内より日本を見るI『坂の上の雲』と  『ひとびとの跫音』-  24 言行一致にして反骨を貫くI早稲田騒動と石  橋湛山-  25 だれも知らんからやるんやIヒマラヤの未踏  峰・マナスル初登頂- 第四部 「昨日」を想い、「明日」を思うI青春挽歌  26 「大地の窓」に見る悠久の歴史-土と生き、土  を活かす暮らし-  27 小石川植物園のどんぐりI寺田寅彦と妻夏  子-  28 赤いカンナの花が咲いている駅-「根府川の  海」と茨木のり子-  29 都電残影-失った昭和三十年代-  30 山手線物語-命名百年に首都東京の変貌を見  る-  31 わが青春挽歌-ロベルトーシユーマン生誕二  百年に寄せて-  32 晩春の午後の独り言-歴史の引き出しを開け  て-  33 悲しみにも似た共感-三好達治と萩原葉  子-  34 孤独、孤立、孤高-適切な依存と距離につい  てI  35 兵どもが夢見た武家最初の都-平泉世界文化              ごノ.                            一  遺産登録に寄せて-  36 物思う梅雨の夕晴れI捨て難い魅力に満ちた  「水の月」-  37 「五五年体制」の崩壊と新たな発想-安保改定  五十年に寄せて-  38 ウィーンから届いた絵葉書-楽観は明日に向  かう一つの意思である-  39 相手とどう向き合うかI中野好夫「悪人礼讃」  を再読して-  40 心に残る郷愁の響きI「栄冠は君に輝く」と  「赤とんぼ」- 第五部 遥かなる旅路の果てに  41 草創期の早稲田実業学校に学んだ人びとI竹  久夢二、林武、藤原義江-  J一 日本の近・現代史に残る航跡I明治丸、第五  福竜丸、宗谷-  43 限りなく遥かなる旅路の果てにI「一粒は稲  穂のため」- ありがとう 皆様に 著者略歴                  へ『’。I。ノノ                  (冫)                  ノ’゛’I`y\                                      一 第一部 映画から時代を見る                  へ『’。I。ノノ                  (く)                  ノ’゛’I`y\                           一     I 大石先生という教師像        -一九五四年と『二十四の瞳』-  一九五四(昭和二十九)年は『山椒大夫』(溝口健二監 督)、『二十四の瞳』(木下恵介監督)、『七人の侍』(黒澤明 監督)など戦後邦画の最高峰作品が多く輩出された「奇 跡の年」であった。また意外な感じはするが『ゴジラ』 (本多猪四郎監督)もこの年に製作されている。政治的、 社会的側面から見ても万事多難な年であった。三月には ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験により、その近海で 漁をしていたマクロ漁船第五福竜丸が「死の灰」を浴び、 乗組員二十三名全員が被爆し、無線長久保山愛吉さんが 半年後に死亡、広島、長崎につづく第三の核爆発犠牲者 となった。この「死の灰」からゴジラが誕生したことは よく知られている。  戦後の海運業再建のための融資をめぐって構造的汚職 事件「造船疑獄」が発生、佐藤栄作自由党幹事長(一九 ○一-七五)への逮捕状請求に対して、吉田茂首相(一 八七八-一九六七)の意を受けた犬養健法相(一八九六- 一九六〇)の「指揮権」発動で政界は混乱した。政界再 編の動きが胎動し、一九五五(昭和三十)年の「保守合 同」への契機となっだのは「時局を案ずるに、政局の安 定は、現下爛頭の急務である」との緒方竹虎(一八八 八-一九五六)の発言であった(毎日新聞一九五四年四月十 四日)。翌年十月、右派社会党と左派社会党とが統一し 一 て日本社会党になり、十一月に自由党と民主党が保守合 同して白由民主党になり、「五五年体制」が成立する。 一九五四(昭和二十九)年はまさにその成立前夜であっ た。  一九五〇(昭和二十五)年に発足した警察予備隊は五 二(昭和二十七)年に保安隊へ、さらに五四(昭和二十 九)年には自衛隊と改組され、陸海空三軍方式による外 敵への防衛任務が規定されるにいたった。五四(昭和二 十九)年九月には青函連絡船洞爺丸が台風による強風で 座礁・転覆し、日本最大の海難事故となった。映画化さ れもした水上勉(一九一九-二○○四)の『飢餓海峡』 (新潮文庫)はこの洞爺丸事故をヒントにしたものである。  一九五四(昭和二十九)年、この時期は戦前、戦中、 戦後が奇妙に同居していた時代であった。引揚者、傷痍 軍人、未亡人(歴史的用語として使用している)、シベリア 日本人抑留者問題など戦後十年足らず、まだ戦争の余韻 が燻り続けていた時代であった。映画『二十四の瞳』で は高峰秀子(一九二四-二○一〇)演じる大石先生も戦争 で夫を亡くしている。  瀬戸内海に浮かぶ小豆島、分教場に新任の先生の大石 先生かやってくる。大石先生は「イモジヨ」=島の女学 校出身の、いわゆる代用教員ではなく、「エライ先生」 土咼等師範学校を卒業した先生である。前任の小林先生 よりも少し背が低いということで大石先生ならず「小石                        はや      一 先生」と呼ばれ、子どもたちに「大石、小石」と囃した てられた。若き大石先生は颯爽と当時では珍しい洋装で、 毎日、自転車に乗って分教場にやってきた。対岸の大石 先生の住む町はすぐ近くに見えるが、分教場からハキロ も離れていた。当時の言葉を使えば「モダンーガール」 であり、十二人の新入生を受け持ち、男五人、女七人の クラスであった。小学校の生徒は分教場で四年間を過ご し、五年生になると片道五キロの道程を本校に通うよう になっていた。その子どもたちと桜の花の下で汽車ごっ こをして遊ぶシーンがある。  大石先生が先頭にたって汽車ごっこをする。「汽車は 走る 煙を吐いて シュツシュツシュツシュツシュツ シュツ……」。この「汽車ポッポ」の原作が発表された のは一九三八(昭和ナエ)年のことであった。軍事国家 への道をひた走りに走っていた社会背景の中で、作品の もともとの題名は「兵隊さんの汽車」であった。乗って いたのは「僕ら」ではなく、実は「兵隊さん」だったの である。「スピード スピード 窓のそと」の部分も 「僕らも手に手に囗の丸の」であり、「走れ 走れ 走 れ」の部分も「萬歳 萬歳 萬歳」であった。終戦後の 一九四五(昭和二十)年十二月に、平和色の強い現在の 歌詞にかえられたのである。この映画では「汽車ごっ こ」遊びの背景をたどれば、戦争への助走路になってい ることに着目しなければならない。白いブラウスと紺の スカート、私の女の先生のイメージの原点は、大石先生 の姿であった。とくに「汽車ごっこ」をしている大石先 一 生の姿である。後に着物姿、後半はモンペ姿になるが、 この推移も時代の変化とまた継続性を想起せしめるもの である。  ある囗、大石先生は海岸で子どもたちが、いたずらに 掘った落とし穴に落ちてアキレス腱を断裂、長期間にわ たって学校を休むことになった。十二人の子どもたちは 親にも告げず、大石先生に会いに二里も離れた先生の家 まで歩くという無謀な計画を実行する。お腹は空き、疲 れて泣き出す子もいた。たまたま病院から帰る大石先生 が乗っているバスと出くわす。バスから降り立った先生 に子どもたちは駆け寄った。お腹が空いた子どもたちは 大石先生の家でキツネうどんなどをたらふくご馳走にな る。一本松を背景に、松葉杖の大石先生とそのとき撮っ た写真は十二人の子どもたちの胸に深く焼き付けられた。  アキレス腱を切り、分教場に通うことができなくなっ た大石先生は本校に転勤することになった。本校に異動 する大石先生を子どもたちが浜辺で送った歌は壺井栄 (一八九九-一九六七)の原作(『二十四の瞳』新潮文庫)で は「鳥の手紙」(西條八十作詞)であった。歌いだしの歌 詞から、曲名を「山のガラス」と呼ぶ大も多いという (海沼実『童謡 心に残る歌とその時代』NHK出版)。「山 のガラスがもってきた/あかい小さな じようぶくろ/ あけてみたらば 月の夜に/山がやけそろこわくそろ/ へんじかこうと 目がさめりや/なんのモミジの 葉が ひとつ」。映画『二十四の瞳』では「七つの子」(野口雨 一 情作詞)になっている。作曲はいずれも本居長世(一八 八五-一九四五)である。男先生(笠智衆)に違う歌を指 示されても子どもたちは「七つの子」を歌ったのである。 この映画が大ヒットした結果、「七つの子」がメジャー な作品となったのに対して「鳥の手紙」は人びとから忘 れ去られる結果となった。『二十四の瞳』で繰り返し歌 われるのは「七つの子」であり、この映画のイメージ形 成に大きな役割を担っている。  この映画では童謡・唱歌から軍歌、そして再び童謡・ 唱歌への回帰も重要なテーマになっている。「仰げば尊 し」「七つの子」「故郷」「冬の星座」「浜辺の歌」「埴生 の宿」「おぼろ月夜」「庭の千草」「蛍の光」など、この 映画の中で子どもたちが歌う童謡・唱歌の数々も郷愁を 誘う。文部省唱歌が日本の近代化に果たした役割は軽視 されえない。唱歌とは「同じメロディを歌うという身体 的な行為によって国民を一つの共同体へとまとめあげ、 日本の輪郭を形作るために近代国家が作りだした道具で あった」(御園生涼子「幼児期の呼び声-木下恵介『二十 四の瞳』における音楽・母性・ナショナリズム・映像学」)と いう側面は否定できないであろう。この映画の冒頭で子 どもたちが歌う「村の鍛冶屋」は従来の教訓的、偉人ば かりが登場した文部省唱歌に比較して、一介の村の親父 が登場する歌であり、文部省唱歌の転換期をなすもので あろう。「稼ぐに追いつく貧乏なくて/名物鍛冶屋は 日々に繁昌」。こうした歌詞が繰り返し歌われ、イメー 一 ジが固定化される。そうしたイメージがわが国の近代化 に果たした役割は無視できない。  要所、要所で入る字幕はこの物語の流れに一貫した継 続性を与えている。「海の色も 山の姿も そっくりそ のまま 昨日につyく 今日であった しかし 流れ 去った 五年の歳月の間に満州事変 上海事変 世の中 は不況の波に おしまくられていた だが 幼い子供達 は 前途に何が待ち構えているかをしらず 彼等白身の 喜びや 彼等自身の悲しみの中でのびていった」。  五年生になった十二人の子どもは本校に通うことにな り、大石先生と再会する。六年生になり、それぞれがさ まざまな試練にあう。川本松江の母は女の子を産んだが、 産後の肥立ちが悪く、亡くなる。お母さんが元気になっ たら百合の花柄のアルマイトの弁当箱を買ってもらうこ とになっていた。この物語では赤貧の中、寝込んで起き 上がることもままならない母親に松江が執拗に百合の花 柄のアルマイト製の弁当箱をねだる場面がある。小説 『二十四の瞳』によれば、松江が大きな父親の弁当箱で 友達から恥ずかしい思いをさせられたことが背景にある。 子どもの世界には妬みやいじめがあるのがふつうだが、 登場する子どもたちがあまりにもきれいに、淡白に描か れすぎている、との批判もある。大石先生が松江の家を たずねると「赤ん坊が死なないかぎり松江を学校にやる ことができない」と父親は言う。大石先生は買ってきた             一二( 百合の花柄のアルマイト製の弁当箱を「学校に出られる 一 ようになったら使うように」とそっと差し出すのである。 赤ん坊は亡くなり、松江のお父さんは「これでいいんだ、 これでいいんだ」と泣く姿が切なく哀しい。松江が知ら ないおばさんといっしよに大阪に奉公に出たということ を大石先生は後から聞いた。  修学旅行は戦時体制という時節がら、いつもの伊勢参 りではなく、船による近くの金毘羅参りとなった。宿屋 には泊まらず、朝の船で出て、晩の船で戻ってくること になった。それでも行けない子どもがたくさんでた。結 局、岬組で就学旅行に行けない生徒は早苗一人であった。 修学旅行の船が大石先生の婿さんが機関士をしている遊 覧船とすれ違う。金毘羅さんにお参りし、しばしの自由 時間に大石先生は同僚の先生とある食堂に入る。そこに 大阪に奉公に出たはずの松江が働いているではないか。 積もる話も多々あるが店の女主人の手前、ほんの挨拶程 度しかできず、大石先生は後ろ髪を引かれる思いで店を でる。蝿たたきを持った女主人(浪花千栄子)の演技は 抜群であった。松江は店を飛び出て大石先生の後を追う。 通りで大石先生にまとわりつく級友の姿を見て物陰に身 をひそめる。島へ帰る修学旅行の船を見送って一人でむ せび泣く松江の姿は愛おしくも哀しい。  大石先生が「アカ」だとの評判がたっているという。 「私は教え子の命を惜しんだだけ」と大石先生は答える が、本校の校長先生に諭される。「見ざる、言わざる。             一二( 聞かざる。あんたはなにも言わんほうがよい」。卒業式 一 も終わり、あさってから新学期。どこもかしこでも「忠 君愛国」。大石先生は先生を辞めたいと真剣に考える。 卒業した教え子の二人、岡田磯吉と竹下竹一が大石先生 を訪ねてくる。竹一は中学校に進学することになり、磯 吉は高等科に行くことをやめ、明日の晩、大阪の質屋に 奉公に出るという。二人から、岬の庄屋の家柄であった が、半分つぶれかかって貧乏な生活をしていた富士子が、 親子五人、布団と鍋類だけ積んで、兵庫に行ったことを 伝えられた。「こじきにでもなるのではないかと皆心配 しておった」という。  字幕が入る。「そこに住む人の生活は 支那事変 日 独伊防共協定 大きな歴史の流れに おし流されていっ た」。童謡・唱歌から軍歌一色になる。「露営の歌」「暁 に祈る」「予科練の歌」「同期の桜」。支那事変を経て八 年後、肺を病むコトエを大石先生は見舞う。「コトエさ ん、もっと早くお見舞いに来たかったんだけど、誰もい ないの冫・」「昼間はみんな漁に出ていて」「先生、ご馳走 になったキツネうどん、とてもおいしかった。私、もう 長くないの、先生、私、苦労しました」。大石先生はコ トエと一緒に泣く。「苦労しているのはあなたばかりで ないわ。富士子さん、家がつぶれて神戸で、カフェで働 いてるって聞いているわ」。出征兵士を見送るシーンが 続く。教え子五人。徳田吉次、相沢仁太、竹下竹『森 岡正、岡田磯吉も歓呼の声に送られて出征する。大石先 生の夫も出征し、大石先生の母親も亡くなる。     一  四年の歳月が経ち、小学校の子どもたちが整列して白 布で覆われた英霊を迎えている時に、大石先生は夫の戦 死を息子の大吉に伝える。  八月十五囗、全校生徒、校庭に整列して玉音放送を聞 く。終戦後、大石先生の末っ子の一人娘が柿の木から落 ちて死ぬ。二人の息子と墓参りをして、その墓前で大石 先生は涙をながして呟く。「腹が減って、柿の木に登る のは当たり前だ。お前、ちっとも悪いことありはしない。 かわいそう    丶 丶 丶 可哀相で、青い柿を握ってな」(傍点筆者)。「熟していな い青い柿を握ってな」という言葉が心に沁みる。  戦争が終わった翌年、大石先生は再び分教場の先生に なり、息子の大吉が漕ぐ舟で再び分教場へ行く。大石先 生は出席をとる。「片桐まことさん、亡くなったコトエ さんの妹さん」と言って涙を流す。「川本ちさとさん、 あなた松江さんの子ども」「西口かっこさん、お母さん とそっくり」。よく泣く大石先生は「泣きみそ先生」と 呼ばれるようになった。  同窓会が開かれることになった。丘の上の墓地に墓参 りをする。戦地に出征した五人のうち三人が戦死、一人 は失明して帰ってきた。陸軍上等兵相沢仁太、竹下竹一 陸軍中尉、森岡正陸軍軍曹。大石先生は三人の白木の墓 標の前で涙に咽ぶ。小さな子どもたちが「泣きみそ先 生」「泣きみそ先生」と囃す。七人の教え子が集まる。 七人の教え子は大石先生に新品の自転車をプレゼントす る。料理屋の一人娘香川マスノ、川本松江、山石早苗、 一 徳田吉次、岡田磯吉ほか七人が集まった。失明した磯吉 もやって来た。マスノが修学旅行のときに歌った「浜辺 の歌」を歌う。話題は大石先生が怪我をした時にみんな で撮った写真になった。失明して戦地から帰還した磯吉 が言う。わしにも見せてくれんか。失明した磯吉は写真 に指をあてながら言う。この真ん中が先生だろう。「ま るで見えているようじゃ」と皆が言う。  この物語の後半は大石先生が泣いている場面がやたら と多く、過度のセンチメンタリズムといわれることがあ る。「泣くというセンチメンタルな手法による映画を通 した反戦的意見表明を、『反戦映画の日本的形態』」(岩 崎昶『現代囗本の映画-その思想と風俗』中央公論社)な どといわれもした。泣くことが「反戦映画の日本的形 態」というならば、次のようなことも事実だろう。 「行ってまいります」で男たちは出征し、かつて軍国の 母であり、また靖国の母にもなった日本の女性たちは、 人前で悲しみを見せず、泣くこともできず、夫や子ども を「行ってらっしゃい」で送りだしたではないか。むし ろ私は川本三郎の言葉に同感する。「大石先生の仕事は、 まるで泣くことにあるようだ。だからといって『二十四 の瞳』を単純に、センチメンタル、感傷的と批判するこ とが出来ない。なぜなら、この女の先生にとっては、泣 くことは、軍国主義体制に対して唯一可能たった、女の 抵抗の手段だったのであるから、そして、子どもといっ             一二( しよに泣くことで、。女・子ども”という弱い立場にい 一 る者どうしが、かろうじて、心を通わせることが出来る のだから」(川本三郎『今ひとたびの戦後日本映画』岩波現 代文庫)。大きな歴史の流れは「先生にもどうしたらい いかわからない」。社会の矛盾は、個人の良心をはるか に越えてしまっている。「でも、先生、いっしよに泣い てあげる」。  この映画で心に残るのは分教場時代、本校時代、成人 に達した時代と成長した子どもたちの顔がそっくりなこ とである。十二人の子どもたちの成長後の配役に違和感 がなかったことである。高峰秀子は『わたしの渡世日 記』(新潮文庫ほか)で次のように述べている。「『二十四 の瞳』の準備は『小学校一年生と六年生のよく似た兄 弟』の募集からはじまった。映画全盛の折とて、良家の 子女から長屋のハナ垂れ小僧までが続々と応募し、やっ と木下監督のメガネにかなった十二組の兄弟や姉妹がそ ろった」。撮影も大変だった。高峰秀子はお下げ髪姿の 十九歳から四十六歳まで演じた。映画の撮影は、「その 日の天候やもろもろの都合で前後の関係なく撮影するか ら、私は午前中は四十歳になってモンペ姿になるかと思 えば、午後には十九歳のお下げ髪で自転車に飛び乗ると いう具合で、そのたびに六歳と十二歳の子役が入れ替わ る」という具合であった。この『二十四の瞳』によって 高峰秀子は「教師の理想像」となり、多くの教師から 「今日やめようか、明日やめようかと思い悩んでいたと き、映画二十四の瞳を見て、やはり教師を続けることに 決心した。大石先生を理想として努力をする」という手 紙が舞い込んだという。    2 アメリカ人をつくつたフロンティアの        存在        -『ジェーン』と『ウィルーベニー』-  アメリカ史におけるフロンティアの重要性を最初に説 いたのはF・J・ターナー(米国の歴史学者、一八六一- 一九三二)である(”The Significance of the Frontierヨerican History'匸沼ど。「フロンティアはアメリカの歴史の上で 圧倒的な重要さをもつアメリカ的体験であり、民主主義、 平等主義、自由主義、個人主義その他もろもろのアメリ カ人的特性の源泉は、そのフロンティアの存在にあっ た」。アメリカの発展の歴史はフロンティアーラインの 西進の歴史である。アメリカ映画がっくり出したアメリ カ人の「もう一つの故郷」「もう一つのフロンティア」 (川本三郎)といわれるウェスタン(西部劇)の主人公は、 際立った二つのグループに分けられるという。「なんら の社会的絆ももたず、放浪する根無し草のような漂泊 者」=孤独な英雄と「特定の社会的任務をもった『定 住』型の男たち」=集団の英雄である。この孤独な英雄 と集団の英雄を見事に対置させたのが『ジェーン』であ る(加藤秀俊『アメリカ人-その文化と人間形成』講談社 現代新書)。  「遥かなる山の呼び声」の主題歌にのって、氷雪の 山々を背景としたワイオミングの高原の開拓地に白馬に 乗った漂泊者ジェーン(アランーラッド)が開拓者であ る自営農民の家にやってくる。この家には付近の開拓農 民のリーダー格であるショー・スターレッド(ヴアンー ヘフリン)、美しい妻のマリアン(ジーンーアーサー)、息 子のジョイ(ブランドンーデーウィルデ)がつつましく暮 らしていた。ジェーンは人手不足の折でもあり、この家 に身をおくことになる。ジョイ少年は「定住」型の父親 と違って大草原を「漂泊」=「移住」し続けるジェーン に憧れと羨望のまなざしをおくる。いつしかジェーンも マリアンも互いに強く心をひかれていった。  このワイオミングの大草原にもオレゴン街道を通って 開拓農民が移住してくる。しかしそこには牧場主のライ ガー(エミールーメーヤー)が、以前から周辺一帯に牛を 放牧していた。ライガーは囲い込みを図って開拓農民を 追い出しにかかっていた。ライガーの言い分はこうだ。 「わしがここに来だのは、お前のガキの頃だ。多くの者 が死んだ。俺の体にはインディアンの矢の傷跡がいっぱ いある。俺たちは血みどろになって戦い、土地を開拓し た。そうしたら見知らぬやつが入ってきて柵をつくり、 溝を掘った。そんなお前らに権利があるのか」。開拓農 民はライガーの脅しに一人また一人、開拓地を去って いった。  ライガーは名うての殺し屋ウィルソン(シャッターバ ランス)を雇って一番厄介なショー一家を追い出しにか かった。騙し討ちにすべくショーを酒場に呼び寄せる。 ライガーを打ち倒さなければこの土地の平和はないと信 じたショーは、敢然とライガーに立ち向かう決意をして 出かけようとする。ショーの妻マリアンをいつしか愛し てしまったジェーンは、自分がいてはこの一家に平和は ない。漂泊者のとるべき道はただ一つ。再び旅に出るこ とである。敢然と出かけようとするショーを必死に押し とどめ、ついに拳を使ってショーを眠らせ、自分が代わ りに出かけるため馬上の人となる。「ジェーン、待って、 撃ち合いはもうやめたんでしょう」(マリアン)。「気が変 わったんだ」(ジェーン)。「私のために行くの」「あんた とジョイのためだ」「じゃ、もう会えないの」「二度と会 えないだろう」。ジェーンは馬を走らせ、殺し屋ウィル ソンが待つ酒場に向かう。ジョイ少年が走ってジェーン を追う。酒場に着き、ライガーと対面する。時代は変 わっていた。「もう、お前の時代は終わったのだ。拳銃 が幅をきかす時代は終わったのだ」(ジェーン)。「お前は どうなんだ冫・」(ライガー)。「俺はわかっている」 (ジェーン)。「じゃあ、銃をバーテンに預けて、鍬を持つ か?」(ライガー)。酒場で殺し屋ウィルソンと対峙して、 彼を瞬時の早撃ちで倒し、ライガーも倒した。階上から 背中を狙われ、あわやという時、ジョイ少年が叫び声を あげて教えてくれ、一瞬の早撃ちで倒した。ジェーンも             一二( 傷ついた。「ジェーン、行ってしまうの。お母さんも 待っているよ」「ジョイ、世の中で、一番勇敢で立派な のは君のお父さんなんだ」。遥かなるワイオミングの山 野に向けて、ジェーンは再び馬上の人になる。ジョイ少 年は後を追い、声の限りに叫ぶ。「ジェーン、戻ってき て!」。ジェーンの行く手に墓地が映し出される。 ジェーンの姿は次第に小さくなる。「ジェーン、帰って きて!」。戻ってくるのは「遥かなる山の呼び声」だけ である。  このジェーンの公開は一九五三年のことであり、赤狩 り「マッカーシー旋風」が吹き荒れていたころである。 最終シーンで墓地が映し出されたのは「もの言えば唇寒 し」という時代状況にたいするジョージースティーヴン ス監督(一九〇四-七五)の無言の抵抗であったかもし れない。  『ウイルーベニー』は一九六七年、アメリカ社会が公民 権運動、ヴェトナム戦争による反戦運動の高まりなどに より西部劇も転換期を迎えていた時期に公開された作品 である。ウイル・ペニー(チャールトンーヘストン)は年 齢五十歳に近い老カウボーイである。三十歳以上の者は もうオールドーマンと呼ばれる匪界である。「よう、爺 さん」などと牧童仲問の若造にからかわれる年頃なのだ。 チャールトンーヘストン(一九二三1二〇〇八)は実際に も当時四十四歳、そろそろ人生の先が見えてくる年で あった。  フロンティア前線が西へ漸進するにつれて最初に出現 した開拓者像は「マウンテンマン」=「山の男」と呼ば れた人たちである。ロッキー山脈の山中でビーヴァーな どを獲って生活し、毛皮取引に従事していた人びとであ る。この「マウンテンマン」の誕生は一八〇三年に行わ れた「ルイジアナの購入」を契機とする。太平洋岸への 道=オレゴンートレイルはこの「マウンテンマン」に よって先鞭がつけられた。  西部の大平原の乾燥した土地では農作物が育つなどと は思いも及ばず、はじめは農民は進出しなかった。大平 原でまず栄えたのが牛の放牧であったとしても不思議で はない。大平原は公有地であったから、牧場主は何万頭 もの牛を放牧していた。とくにテキサスでは「牛の王 国」が成立する。南北戦争後、肉牛の市場が拡大すると、 遠く離れた肉牛の生産地と消費地とを結ぶルートが必要 になった。北東部での工業都市の成長と鉄道の伸張と相 まって、すこぶる肉牛の需要が高まった。最盛期には鉄 道が通じたミズーリのアビリーンまでテキサスから千数 百キロのロングードライヴが盛んに行われた。  颯爽と馬上で牛を追うカウボーイというイメージがあ るが、いうまでもなくカウボーイの生活は孤独であり、 汚く、事故・病気で死ぬ者も多く、牛の暴走などもあっ て過酷な労働であった。平均して七年ほど働けるだけ だったという。ジョンーウェイン(一九〇七-七九)が 主演した『赤い河』はテキサスからアビリーンまでの口             一二( ングードライヴを主題にした作品で、牛の暴走のシーン は、CGではなく実際に多数の牛を暴走させた実写であ り圧倒されるほどの迫力があった。しかし一八七〇年代 になって西部の大平原への開拓者(農民)の定住がはじ まり、農業ができることがわかると、「最後のフロン ティア」をめざしてものすごい移住ブームが起こった。 この背景には一八六二年に制定され、二十一歳以上の市 民はヱ(○エーカー(六十五ヘクタール)の土地を、五年 間定住し開墾した後に、無償で取得できる自営農地法 (ホームステッド法)があった。このように農民による開 拓が進み、有刺鉄線で農場を囲むようになり、自由に放 牧できなくなった牧場主との間に紛争が頻発するように なる。これがすでに述べてきた『ジェーン』の背景に なっている時代状況である。  ロングードライヴは春から秋までの仕事で、ロングー ドライヴが終わるとカウボーイたちは散ってゆく。冬の 間の働き囗を探さなければならない。ウィルーペニーは ブルー(リー・メイジヤース)、ダッチー(アンソニー・ ザービー)の馬車に同乗させてもらう。河原で野営した 早朝に、鹿撃ちに出かけたブルーが、毛皮ハンターの家 族と射止めた鹿をめぐってトラブルが生じた。彼ら三人 は川を挟んで撃ち合いになった。ウィルは仲間を守るた めハンターの一人を撃ち殺した。狂信的、凶暴な目付き の宣教師を名乗る毛皮ハンター一家の父親クイント(ド ナルドープレゼンス)は、息子を撃たれて「きっと復讐し てやる。『目には目を、歯に歯を、だ!』」とヒステリッ クに叫んだ。こちらもダッチーが腹を撃たれた。ダッ チーを医者のいる町まで運ばなければならない。  三人は町への途中にある農家風の居酒屋に立ち寄った。 そこでウィルーベニーは運命的な出会いをする。息子 ホーレスと共に夫の待つオレゴンへと旅をする子連れの 婦人キャサリン(ジョーンー(ヶツト)である。ダッチー を町まで運び、医者に委ねた。そこでキャサリン親子を 見送り、ブルーとダッチーとも別れた。仲間と別れた ウィルは来年の春までの働き口を探さなければならない。 ウィルは運よくある牧場で「月給三十ドル、春まで。牧 場では酒と賭博は禁止」という条件で、大牧場の見張り 小屋の番を頼まれた。「見知らぬ者は追い出せ」が牧場 の決まりであった。見張り小屋に行ってみると、そこに は道案内人に逃げられたキャサリン親子が、この小屋で 越冬しようとしていた。「二、三日周辺を回って野宿す るから、その間に退去するように」とキャサリン親子に 警告した。野宿した明け方、復讐に燃える宣教師親子に 襲われ、「簡単には死なせない」と、痛めつけられ、身 ぐるみを剥がされ、冬近き季節、野原に放り出される。 九死に一生を得て、どうにか見張り小屋までたどりつい た。そこにはキャサリン親子がまだ残っており、キャサ リンの献身的な看病で、彼は回復する。命の恩人である キャサリン親子に「出て行け」とは言えず、一緒に生活 するようになる。家族の温かさを知らずに育った彼に             一二( とってはじめての心の安らぎであった。息子のホーレス は彼になつき、場末のあばずれ女しか知らない彼にとっ てキャサリンは美しく、魅力的であった。  いつしか心が通じ合うと同時に、二人の間に心の葛藤 がはじまる。「おれも普通の男だ。あんたの目、黙って 仕事に励む時の姿、何か言う時の微笑むような声……」 「お願い、やめて!」。クリスマスイブを迎えた。彼は ホーレスと一緒に山で切ってきたモミの木をクリスマス ツリーにして暖炉の傍らに置いた。暗黙の了解で今宵、 二人は固く結ばれるはずであった。二人は互いに抱擁し 熱い口づけを交わした。そのとき突然「メリー・クリス マスー」と、また宣教師一家が闖入してきた。彼は再び 痛めつけられ、彼女は二人の息子によって乱暴されそう になるが、機転をきかせて、「どちらかの息子の嫁にな る」という口実で難を逃れた。彼女をめぐって二人の息 子が兄弟喧嘩をしている隙に逃げ出した。そのときウィ ルの元の仲間であるブルーとダッチーの二人が応援に駆 けつけ、宣教師一家との銃撃戦がはじまった。彼は機転 をきかせて硫黄を積んである馬車で小屋に突進し、屋根 に飛び移り、煙突から硫黄の袋を投げ落とし、たまらず 飛び出してきた宣教師一家を撃ち倒した。そのとき牧場 主が大勢の仲間を連れて現れた。「見知らぬものは追い 出せ!」と言ったはずだ。ウィルはここに至った理由を 正直に牧場主に告げた。牧場主は、春になったら責任を 持ってオレゴンにキャサリン親子を送り届けると言って             一二( くれた。  別離のときがきた。自分は潔く去っていくしかない。 「おれはもう五十歳に近い。何かできる?」(ウィル)。 「私を愛してる」(キャサリン)。「愛がわがらん。愛以上 のものといっていい」「だけど冫・」「牧場をやるには長い 年月がかかる。その年月がおれにはないんだ」「怖い の冫・」「そうだ、怖いんだ。おれには牧童以外の仕事が できない」「君が賭ける価値はおれにはない」。二人の仲 間とともにウィルは馬上の人となる。キャサリンに「さ よならを言いなさい」といわれたホーレスは、寂しさに 耐えていたが、遠ざかるウィルに向かって「バイ、ウィ ルー バイ」と眩くように言った。  川本三郎は「チャールトンーヘストンを悼む」で「私 見で一本を選ぶとすれば」と断って、「時代に追いやら れてゆく老カウボーイを演じた『ウィルーベニー』が ヒットはしなかったがヘストンの最高作ではないか」 (朝日新聞二〇〇八年四月九日)と述べているが、私も心 から共感する。     3 アメリカ合衆国の「明白な運命」        -『大いなる西部』と大陸国家への道-  『大いなる西部(原題IThe Big Country)』(一九五八年) のチャールトンーヘストン(一九二三-二○○八)と 『ウィルーベニー』(一九六七年)のときのチャールト ンーヘストンとは大いに異なる。その間に約十年の歳月 が流れている。『大いなる西部』の舞台はテキサス。テ キサスと言えば、アメリカ人にとって「フロンティアの ヒーロー」と謳われたデヴィークロケット(一七八六- 一八三六)の名と共に「アラモの砦」の悲劇を忘れるこ とができない。「ギリシヤのテルモピレーの戦いでは、 少なくとも一人が逃れて敗北を知らせに帰ったが、アラ モの砦からは、誰一人帰るものはなかった」のである。 「アラモの砦を忘れるな」を合言葉にテキサスはロー ンースター(孤独なる星)共和国として独立、一八四五 年にアメリカ合衆国に併合された。面積六十八万八六〇 〇平方キロ、日本の約一・八倍の広大な州である。こう した経緯からして、合衆国の中でも独特な誇りと気風が 育まれた土地なのである。  『大いなる西部』は、根っからの開拓者であるルー フアスーヘネシー(バールーアイバス)と、大地主で南北 戦争に従軍し「少佐」と呼ばれ、草原に大邸宅を構え、 貴族のような生活をしているヘンリー・テリル(チャー ルズービッグフォード)というテキサスの二人の牧場主の 水源をめぐる争いの物語である。  ビッグーマディと呼ばれる水源の権利保有者は美しく 知性に富み、学校の先生をしているジュリー・マラゴン (ジーンーシモンズ)で、祖父マラゴンから受け継いで 持っていた。祖父マラゴンの死後、この水源をめぐって 二人の牧場主の戦いがはじまった。ヘネシーには一人息             一二( 子のバック(チャックーコナーズ)がおり、テリルにはパ トリシア(キヤロルーベイカー)という一人娘がいる。  テリルの娘パトリシアの婚約者であるジェイムズー マッケイ(グレゴリー・ペック)が粋な山高帽をかぶって 駅馬車に乗って東部からやってきた。父親が船会社を経 営し、マッケイ自身も船長として大洋を航海してきたイ ンテリである。パトリシアが迎え出て、二人は二頭立て の馬車で父親テリルのラダー牧場に向かう途上、バック とその仲間から西部流=テキサス流の手荒い扱いを受け る。バックとその仲問は二人を散々からかったあげく、 馬車を止めさせ、山高帽を奪い、それを空に投げ、銃で 穴を開けたり、マッケイをロープで縛り、馬を寄せて 威嚇した。「腰抜け野郎だ、東部へ帰しな」(バック)と 捨てゼリフを残して去って行った。パトリシアは「あな た、それでいいの。腹がたたないの」と激怒するが、 マッケイは「いいんだ。新顔への挨拶だよ」と冷静であ る。『大いなる西部』全篇を通じて流れる西部における 反知性主義と東部の合理主義との端的な表現である。  チャールトンーヘストンは根っからの西部人で、テリ ル牧場の牧童頭リーチを演じた。十四歳でテリル牧場に やってきて、テリルに育てられた。今では土地一番の牧 童頭である。本来ならば西部育ちで気性も激しいパトリ シアはリーチと結婚するはずであった。パトリシアに気 があるリーチはマッケイを快く思うはずがなかった。こ とあるごとに「西部は東部とちがうぞ」と言ってはマツ ケイに挑んできた。  翌日の朝、リーチは邸内を故歩しているマッケイを荒 馬ザンダーに乗せようとする。牧場の大びとが集まって きた。見世物にする魂胆だな、と見抜いたマッケイは 「今度にしよう」と言って挑発に乗らない。朝食が終わ リテリルと共に牧童たちが出て行った後、マッケイはザ ンダーに挑戦することにした。雇い人の中でスペイン系 のラモンーグイテレスだけがマッケイに好意を抱いた。 「どうして乗る気になっだのですか」(ラモン)。「理由は きくな、これは私と君の秘密だよ」(マッケイ)。「アド ヴァイスは」と言うと、ラモンが「乗らないこと」と答 える場面は面白かった。マッケイは幾度となく落馬する が、最後は荒馬ザンダーも根負けしてロバのようにおと なしくマッケイに従った。荒馬ザンダーも見事な役者で あった。  はるばる東部からやってきた娘の婚約者をさんざん脅 かされて、テリルが黙っているはずがなかった。それが 西部の掟と言ってもいいだろう。テリルが大勢の配下を 連れて出ていったのはヘネシーの集落を襲うためだった のである。ヘネシーや牧童たちの留守をいいことにテリ ルの配下たちは集落を荒らし回った。貴重な水槽も銃撃 して穴を開けられ、馬は蹴故らされた。  その夜、マッケイとパトリシアの婚約発表のパー ティーがテリル邸で開催された。多くの周辺の大びとが 盛装して集まり、二人は祝福を受けた。このパーティー             一二( の席上でもこの映画の主題に関わる会話が交わされてい る。客の一人がマッケイに問いかけた。「この土地、気 に入りましたか」「ええ、とても」「西部は広大でしょ う」「海はもっと広い」とマッケイは答えた。客は怪訝 な顔をして「何が海だ」と呟く。「海」は隠喩として 重要な意味を持つ。ジョンーオサリヴアン(一八匸ニー 九五)はテキサス併合を、神によって合衆国に与えられ た「明白な運命」であると主張し、テキサス併合を機 にアメリカ合衆国は大西洋から太平洋に跨る大陸国家と しての基礎を作りあげたのである(安武秀岳『新書アメリ カ合衆国史①大陸国家の夢』講談社現代新書)。  このパーティーの席上へ、ルーフアスーヘネシーが銃 を手にして単身で乗り込んできた。「言っておくが、卑 怯な手口は二度と使うな。自分の土地での勝手な真似は 許さない。貴様ほど下劣な偽善者を見たことがない。今 度村に入ろうとしたら、この土地が血に染まることにな るからな」。根っからの開拓者で顎鬚を蓄え、堂々とし た体躯から朗々とした声で訴えるヘネシーに、テリルを はじめ居合わせた人びとは圧倒された。誇り高きテリル も「恐れ入っだホラ吹きだ。度胸だけは大したもんだが な」と言うだけだった。  そのパーティーの翌日、マッケイは密かに水源である ビッグーマディに出かけた。パトリシアとの結婚の記念 にビッグーマディをパトリシアにプレゼントするためで あった。「山はあっちの方角です。でも道に迷ったら大 変ですよ」(ラモン)。マッケイはラモンにコンパス(方 向磁針計)を見せて「味方がいる。これが道案内してく れるよ」と意に介さない。「変な時計ですね。無理です よ」(ラモン)。「今夜は帰らないが、少佐には心配する なと伝えてくれ」。  マッケイが夜になっても帰ってこないのでテリル邸は 大騒ぎになった。広大な西部では土地の人でも道に迷っ たら大事にいたるからである。ラモンが言うには時計み たいなものを持って出かけたという。リーチは「とんで もない恥さらしですね」と言って、パトリシアに無理や りキスをしてパトリシアの気を引こうとした。  マッケイはコンパスを持って正確に方向を測り、マラ ゴン牧場にたどりつき、廃墟となっていた館を窺ってい た。そこでたまたま下の作業小屋を手入れするために来 ていたジュリー・マラゴンに出会った。「大きな屋敷だ な」「昔は祖父のパーティーでにぎわったのよ。時々き て、下の小屋に泊まるの」。二人は水源のビッグーマ ディに出かけることになった。「いい馬ね」「ラモンから 借りた。彼を知ってる?」「昔、私の家の使用人だった のよ。私の馬の先生なの」「さあ、ビッグーマディに着 いたわ」。丘陵の問に川が流れる素晴らしい眺めであっ た。「マラゴン家の宝物よ。スペイン国王からの贈り物 なの、どう」「素晴らしいな。驚いた」。マッケイは自分 の意図を意を尽くしてジュリーに説明して、ビッグーマ ディを譲り受けることになった。             一二(  二日目の夜、ビッグーマディからの帰路、マッケイを 探しに来ていたりIチー行に遭遇した。大騒ぎになって いるとは知らず、「贈り物を買いに行ってた」と言う マッケイと「あんたが道に迷ったせいで大変だったん だ」と応じるリーチとの間の渮はますます深くなって いった。テリル邸に戻るとパトリシアが飛んで出て来て、 二人は次のような会話を交わす。「ジム、本当に心配し てたわ。無事でよかったわ」「危険は何もなかった」「あ んたは皆が狩りでもしてたと思ってるの」「道に迷って いない。自分のいる場所はつねにわかっていた」。そこ に憤懣やる方ないリーチが囗を挟む。「嘘を言うな。途 方に暮れた顔をしてたぞ」「喧嘩を売るには最高のお膳 立てだな、わたしを倒せばパットの関心をひける」「そ んなこと関係ない。だがこの際、言っておく。お前はお 嬢さんをたぶらかした。だがここは東部ほど甘くねえぞ。 腰抜け野郎だということを今、証明してやる」「争って も何も証明できないぞ。馬でも銃でも拳でもだ」。これ でパトリシアとマッケイとの溝は決定的になった。二人 の会話が続く。「どこへ行ってたか聞かないのか?」「関 係ないわ。嘘つきといわれたのよ。気にならないの」 「どう思おうと勝手だ。問題は自分だ」「あたしのこと は? 世問があなたを」「臆病者と思うだろうが、それ はちがう。だが勇敢さを証明する気もない」「その逆は 十分に証明したわ」「パット、明日の朝、ここを出る。 お互いによく考えよう」「それは名案だわ。ではお休み」。             一二(  その夜遅く、マッケイはベッドで寝ているリーチの部 屋を訪ねた。「また迷い子か?」「まあな。明日ここを出 る」「そりゃ結構だな」「ここじゃ狭くて挨拶もできん」 「お前、意外と大馬鹿だな。俺と勝負するとはな」。館か ら遠く離れた誰もいない広い場所で二人の壮絶な殴り合 いが始まった。互角の戦いだった。二人ともへとへとに なった。「マッケイ、お前の挨拶は長いな」「これが何の 証明になった、リーチ」。二人はようやく心が通じたよ うであった。  翌朝、マッケイは町へ去っていった。ジュリーがパト リシアを訪ねてきて、パトリシアは、マッケイが荒馬ザ ンダーを乗りこなしたこと、パトリシアのために、結婚 の贈り物にビッグーマデイを買ったことを知った。パト リシアはマッケイのもとへ馬を飛ばし、自分が悪かった と謝った。しかし、「ビッグーマデイの水源はテリルと ヘネシー、両方に平等に分配する」ことを聞いたパトリ シアは、「あなたはパパの半分も男らしくないわ」と 言って憤然として部屋を出ていった。それ以前にマッケ イの心は知性に富んだジュリーに傾いていた。  他方、息子のバックからジュリーが自分に夢中だとい うことを聞いて、ヘネシーは息子にジュリーを連れてく るように命じた。ブランコ渓谷のヘネシー家に連れてこ られたジュリーに、ヘネシーは「正直ないい若者だぞ、 まだ粗野なところはあるが、それはあんたがなんとかし てくれそうだ」とバックの嫁になってくれと頼んだ。             一二( ジュリーの態度でヘネシーはすべてを知る。「何か夢中 だ、このうそつきの大馬鹿めが」。ジュリーはビッグー マデイの権利をマッケイに売ったことをヘネシーに伝え、 マッケイに会わせると言った。「あんたの話はまだ信用 できない。わしらを騙したら絶対に許さんぞ。忍耐にも 限界があるからな。明日何か起こるかは、あんたの出方 次第だ」。その夜、バックはジュリーに夜這いをかける が、間一髪のところでヘネシーが気付いて助けられた。  ブランコ渓谷にマッケイとラモンがやって来た。ジュ リーはバックにマッケイを死なせたくなかったら、ここ へ白分から来たと言え、と脅されていた。マッケイは登 記済みの権利書を見せ、水ならいくらでも分けると言っ たが、ヘネシーは「お前は信用できそうだが、テリルが くたばるまで平和はない」と言う。マッケイは「あなた の言っていることは独りよがりだ。テリルと変わりはな い。これは二人の醜い老人のくだらない個人的な反目に すぎない」。マッケイは戦いをやめるようヘネシーを説 得する。  「お前はここに丸腰でやってきた。他人の争いを命懸 けで止めるためにな。何故だ」。マッケイとジュリーが 互いに見つめ合う。マッケイとバックが取っ組み合いに なり、バックが拳銃を抜く。ヘネシーが威嚇発射する。 「丸腰の相手を撃つ気か」。「男らしく戦わせるのだ」 (バック)。「相手になるぞ」(マッケイ)。ヘネシーはマッ ケイが持ってきた決闘用の古式の短銃で勝負を決めるこ             一二( とを提案した。背中合わせに立ち、互いに十歩の距離を 隔てて、一で向かい合い、二で狙い、三で発砲する。ヘ ネシーが両者の中央に立ち、合図を送る。このときバッ クは卑怯にも先にマッケイに向かって発砲した。銃弾は マッケイの額を掠った。今度はマッケイの番だ。マッケ イが狙う。バックはたまらず逃げた。マッケイは地面に 向けて発射した。バックは見苦しくも馬車の下に身を隠 し、牧童の銃を奪ってマッケイを撃とうとした。その瞬 間、ヘネシーは卑怯な息子を撃った。息子の最期を看取 りながら「言ったはずだ! 卑怯な真似をしたら撃つと、 言ったはずだ! お前は冗談だと思ったのか」と絶叫す る。バールーアイバス(一九〇九-九五)迫真の演技で あった。  マッケイ、ジュリー、ラモンの三人は馬に乗りブラン コ渓谷へと向かう。ヘネシーは「通してやれ」と皆に指 令した。テリルとリーチの一隊はまさにブランコ渓谷の 入り囗で待機していた。このままいけば双方とも最後の 一人までの死闘となろう。渓谷の切り立った岩場にはヘ ネシーの牧童たちが銃を構えて待っている。テリルと りIチたちはブランコ渓谷に突入し、待ち伏せしていた ヘネシー一党と銃撃戦の最中にあった。リーチも負傷し て、両者ともに多数の死者がでていた。マッケイの後を 追ってきたヘネシーの「撃ち方やめ、その場にとどまれ、 やはりこれは俺とテリルの戦いだ」という声が渓谷に響 き渡った。「テリル、俺とお前と一対一の戦いだ。他の             一二( 者は手出しするな。テリル、聞こえるか」。やがてテリ ルが答えた。「望むところだ」。  ブランコ渓谷の双方から二人の老人が鉄砲を構えて、 曲がりくねった渓谷を互いに近づいていった。お互いの 姿を認めるや銃声が鳴り響いた。互いに相手を倒し、重 なり合うように死んでいた。旧世代の二人が倒れ、駆け 寄ってきたマッケイとリーチは目を合わせた。二人は暗 黙のうちに心が通じていた。互いに「これでいいんだ」 と言っているようであった。ブランコ渓谷を出て、馬を 走らせるマッケイとジュリーの眼前には、激しい抗争の 果てに、広大な「大いなる西部」がひらけていた。    4 この光を守るために生きてきたんだ        I『喜びも悲しみも幾歳月』-  銀幕・舞台で活躍した人たちの自叙伝・評伝または エッセーなどに私は取り立てて関心があるというわけで はない。しかし例外が二人いる。沢村貞子(一九〇八- 九六)と高峰秀子(一九二四-二○一〇)である。沢村貞 子は華々しく銀幕の大スターとして活躍したわけではな いが、脇役に徹し、重厚な、ずっしりとした存在感のあ る役者であった。彼女が書く文章は軽妙・洒脱、心から 温泉が湧くような文章であった。浅草に生まれ芸能一家 に育った彼女は、それでも「特別という言葉」が嫌いで 「普通」という言葉にこだわり、「主役よりも、脇役を望 み」、自分の顔や姿がごく「普通」で、特別な魅力がな いことを私か一番知っているとよく語っていた。しかし その生き方は決して「普通」ではなかった。私か校長に なって初めて書いた『早実通信』(二〇〇〇年四月六日発 行)のタイトルは「古い一冊の卒業アルバムー愛と青 春の旅立ち」であり、その中で「去華就実」「三敬主義」 の精髄が平易に表現されているから、私は沢村貞子の 「普通」のすすめを取り上げた。  高峰秀子は五歳で子役としてデビューして以来、四百 本もの映画に出演した銀幕の大スターであり、昭和を代 表する女優であった。彼女の『わたしの渡世日記』(新 潮文庫ほか)は男性的、硬質の文体で、これは極めて難 しいことであるが、高峰秀子という自己を突き放し、客 観化し、対象化し、そうした醒めた目で昭和の映画史を 描いている。それは他者を描くときの的確さに連動する ものであろう。彼女は五歳でデビューしているから、ま ともな小学校教育も受けていない。掛け算も引き算もま ともにできない彼女がなぜこういう文章が書けるのか。 彼女にかかると日本映画史の巨匠たち、山本嘉次郎(一 九〇一I七四)も、黒澤明(一九一〇I九八)も、小津安 二郎(一九〇三-六三)も、成瀬巳喜男(一九〇五-六九) も、木下恵介(一九匸一-九八)も、不思議にもその 木地(生地)が見えてくるのだ。春の芽吹き、夏の緑陰、 秋の紅葉、冬隣の落ち葉、そして様々な意匠が剥ぎ取ら れた厳冬期における木々のように、冬が洗い出した木地 が見えてくるのだ。高峰秀子は言っている。「人間にな るには、俳優になるには、『ものの心』を『人間の心』 を知る努力をする以外にはない、と思う。もっと簡単に        丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 言うならば『人の痛さが分かる人間』とでもいおうか」 (傍点筆者、高峰秀子『前掲書』)。晩年に書いた随筆は、 六十歳までに書いたものとは違う、何とも言えない優し さと哀しみが漂う。その中でも私は「午前十時三十分」 という随筆(『にんげんのおへそ』所収、新潮文庫)が大好 きである。ヒイキの魚屋さんに、魚を買いに出たときに 出会ったベビーカーとも乳母車ともつかないふしぎな形 をした車に乗った男の子と、それを押している和服の似 合う女性との出会いを綴った随筆である。やがてそれが 車椅子にかわる。この男の子に何かあったのであろうか。 それを見守る高峰秀子の目はあくまでも優しく、心に響 く。これが高峰秀子の本来の木地だろう。  彼女が出演した四百本もの映画のなかで、独断と偏見 で三つの作品を選ぶとすれば『二十四の瞳』(一九五四年、 木下恵介監督)、『浮雲』(一九五五年、成瀬巳喜男監督)、 『喜びも悲しみも幾歳月』(一九五七年、木下恵介監督)を 挙げたい。ここでは一つだけ取り上げたい。  『喜びも悲しみも幾歳月』は灯台守として一九三三(昭 和八)年の岩手県氈ヶ崎灯台を振り出しに八ヶ所の灯台 に赴任した海上保安庁職員の妻、田中きよの手記「海を 守る夫とともに二十年」に感動した木下恵介が製作した ものである。映画は一九三二(昭和七)年から一九五七 (昭和三十二)年にわたって灯台の灯を守る一組の夫婦の 姿を描いたものである。新婚夫婦(佐旧啓二、高峰秀子) の最初の着任地は観音崎灯台(神奈川)であった。以後、 石狩灯台、長崎県の孤島の女島灯台、佐渡島の弾崎灯台、 静岡県の御前崎灯台、三重県の安乗畸灯台、香川県の 男木島灯台、再び御前崎灯台、小樽の日和山灯台へと赴 任する。  石狩灯台で若き同僚の妻の死に直面する。病床の妻の 枕元で若き同僚はマンドリンを弾き、苦しい病床から妻 が呟く。「世間の人たちだって、私たちのこと忘れてる わよ」。夫はそれに応える。「だれも知っててくれなく たって、いいじやないか。俺の苦労はお前が知っている。 お前の苦労は俺が知っている」。危篤の同僚の妻を乗せ て町に向かって森閑とした雪原を走る馬橇の鈴の音があ まりにも哀しい。この橇の中で同僚の妻は息を引き取る。 再び灯台に戻り、妻の亡骸を抱いて、若き同僚は語りか ける。「この灯台の光が、沖の、またさらに沖の方まで 輝いて見えるんだ。俺もお前も、この光を守るために生 きてきたんだ」。  男木島灯台に勤務していた時、大学受験に失敗した息 子は不良に剌されて亡くなる。わが子の死に目にもあえ ず、その後、ただひたすら夫婦二人で灯台を守る日が続 く。息子を亡くし、男木島から台長となって御前崎へ赴 任する船の中での会話。「あなたがはじめて台長になっ た一番うれしいなつかしいはずの灯台なのに」「人問の 一生って、何事もなく無事に通ることってないさ」「七 五〇も灯台があるんだもの、たくさんの人が色んな悲し いことにめぐりあうのね」。御前崎灯台の台長のとき、 娘が婚約者とともにエジプトのカイロに海外赴任するこ とになり、二人を乗せた客船が黄昏迫る御前崎沖を通過 する。二人は灯台に灯をともす。二人は手筈どおりに仲 間に合図して霧笛をならす。それに対して二人が乗る船 からも霧笛が返る。バックに主題歌が流れる。この映画 が作られた一九五七(昭和三十二)年当時、七五〇基で あった灯台は三三三七基、現在ではすべて自動化され、 無人化された。時代の流れの中で多くの人たちのひたす らな、愚直な生き方が消えていく。「星をかぞえて波の 音きいて/ともにすごした幾歳月の/喜び悲しみ目にう かぶ/目にうかぶ」。     5 月のうち、三十五日は雨が降る        I『浮雲』と屋久島-  一九九三(平成五)年に屋久島は白神山地、姫路城と 共に日本初の世界自然・文化遺産に登録された。個人的 には屋久島はいわば私にとって日本における眷恋の地で あり、一度は行って見たいところであった。  私にとって二つの動機があった。縄文杉を見たいから でも、世界自然遺産になったからでもない。ある映画の 残影が心にこびりついていたからである。林芙美子(一 九〇三I五一)の『浮雲』は昭和三十(一九五五)年、成 瀬巳喜男監督(主演・高峰秀子、森雅之)によって映画化 された。主人公二人の戦中・戦後の生き方が心から離れ なかったからである。  ヒロインの病死による二人の永久の別離の地が屋久島 であった。一九四三(昭和十八)年、農林省職員・タイ ピストである幸田ゆき子(高峰秀子)は志願して仏領イ ンドシナ(仏印、現在のヴェトナム)にわたる。そこで妻 を日本に残して農林技官として赴任していた富岡兼吾 (森雅之)に出会う。いつしか二人は深い関係になる。 内地では生活は逼迫しているのに仏領インドシナでの生 活は快適であった。川本三郎は「誤解を恐れずにいえ ば」と断って、次のように述べている。「戦争とは一種 の『観光』の側面も持った。『浮雲』の主人公たちの仏 印での生活は、まさに『観光』の要素が強い。彼らのダ ラットでの暮しは、内地の切迫した暮しに比べれば、王 侯貴族の贅沢がある」(川本三郎『今ひとたびの戦後日本映 画』岩波現代文庫)。  敗戦により一九四六(昭和二十一)年冬、幸田ゆき子 は夏の服装で冬の舞鶴港に上陸する。冒頭のシーンから 今後の生活の苦しさが暗示される。ゆき子はI足さきに 帰国していた富岡を鷺ノ宮の自宅に訪ねる。囗本に帰っ たならば妻と別れて一緒になると言っていた富岡は「戦 争中、耐えとおして、僕を待っていてくれた妻とは別れ られない」と言う。「いつまでも昔のことを言っても仕 方ないだろう」「昔のことは私とあなたには重要なこと なんだわ。それをなくしたら、どこにもないじやないで すか」「正直言えば、あのころは夢を見ていたんだ」。  生活に困ったゆき子は駐留軍兵士のオンリーになる。 それをなじる富岡に「あの人も淋しいのよ。あなたが 安南の女中を可愛がっていたのと同じ気持ちよ」「私か 生きるか死ぬかというときに、めぐり会った人よ」と言 う。やがて富岡の妻邦子が亡くなる。葬式を出せない富 岡はゆき子のところに金を借りにいく。富岡のみじめさ を強調するように、富岡がはいてきたボロ靴がクローズ アップされる。こんな富岡でもゆき子は見捨てられない。 仏印「ダラットでの生活」を機縁とする共依存関係とで も言おうか。富岡との間にできた子どももおろすことに なる。純潔を奪われた義兄(山形勲)から惜りていた布 団を取り返され、「お前、パンパンしてるそうだね」「布 団がないと稼げないかね」とまでいわれても生きようと する。最後は義兄が教祖を演じる新興宗教、大日向教の 手伝いをし、教会の金三十万円を持ち出し、山林官とし て赴任する富岡に同行して屋久島に赴く。そこで幸田ゆ き子は亡くなる。何故、屋久島なのか。農林技官として 富岡は仏印にわたり、幸田ゆき子もタイピストとしてそ こに渡ったのだから、屋久杉で有名な屋久島になること は誰でも考えるであろう。当時、奄美群島もアメリカの 施政権の下にあり、屋久島は最も南の島であった。  二人にとって南方は特別な意味を持つ。「あのころは             一二( よかったわね」。二人の問で繰り返される言葉である。 仏印での生活は明るかった。屋久島は「一ヶ月の間に三 十五日も雨が降る」といわれるように、二人が屋久島に 着くとどんよりして、一日中雨が降り続く。「戦後を生 きられなかった男と女」にとって象徴的なラストシーン である。  林芙美子は昭和十七(一九四二)年に南方行きの報道 班員となり、仏印・シャワーボルネオに八ヶ月間滞在し たことがある。その経験に基づいて『浮雲』を書いたの だが、映画『浮雲』の撮影には対外ロケはもとより屋久 島でのロケも行われなかった。屋久島への出航シーン以 外は伊豆でロケが行われたということである。  もう一つの動機は屋久島の自然条件である。深田久弥 『日本百名山』(新潮文庫)の最後を飾るのが、屋久島の 最高峰宮之浦岳(一九三六メートル)である。屋久島は海 抜Oメートルから「奥岳」と呼ばれる一八〇〇メートル を超える山々が屹立し、その周囲を「前岳」といわれる 一千メートル級の山々が連なることから「八重岳」「洋 上のアルプス」と称えられている。またこの「奥岳」は 永田岳を除いて周囲の人里から見えない神秘性がある。 しかもそのような地形からくる植生の垂直分布と多様な 動植物の生態系で知られている。  去年(二〇一一年)八月の最後の週、台風に遭遇する やも知れないと一抹の不安をいだきながらも屋久島へと 向かった。実際に台風の進路にもあたっていた。屋久島 に着くと「一ヶ月に三十五日間、雨が降る」といわれる だけあって、山々は雲と霧に覆われていた。林芙美子が 『浮雲』の中で屋久島の雨の多さを表現するために使っ た表現である。「『ここは、雨が多いンだそうですね』、 富岡は一服つけながら、軽い箱火鉢を引き寄せて聞いた。 『はア、一ヶ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、 三十五日は雨という位でございますからね』」。作者自身、 これほど巷間に伝わるとは思っていなかったにちがいな い。  屋久島空港に到着したのが昼すぎということもあって、 まず腹ごしらえということで、屋久島名産の首折れサバ と飛び魚のから揚げを食べようと島一番の町、宮之浦町 にタクシーを飛ばした。首折れサバの刺身は美味しかっ た。三日もいながら首折れサバの刺身はこれ一度であっ た。台風の余波ということで漁に出られないとのこと だった。食べられるときに食べておかなければならない、 とつくづく思ったものである。  奇妙なことに屋久島に着いてまず心に残っだのは、整 然としたどれも立派な墓石と墓地の美しさであった。夕 クシーの運転手さんに「墓地が整然として立派ですね」 と問いかけた。運転手さんは「よく気づかれましたね」 と言い、「集落ごとに墓地を作って、どこの集落でも大 切に手入れしている」とのことだった。海岸近くの県道 脇でヤクザルを見かけた。「こんな道路沿いにヤクザル が出没するのですか」。私は思わず運転手さんに問いか けた。「屋久島でもサルに餌付けしたことがあるんです よ」と運転手さんは言った。一九七〇(昭和四十五)年 に入るとサルの餌付けが行われ、それ以後サルが人里に 下りてくるようになり、同時に全島で猿害が頻発するよ うになったという。それ以前は「よほど山に入らないと、 アンチヤン(屋久島におけるサルの俗称、大将とも呼ぶ)に は遭わなんだ」。その後、サルに餌を与えない運動が広 がった。成果を上げているという。屋久島には三タイプ のサルがいるという。二)餌をおねだりに集まってく るタイプのサル。ヤクスギランド線に出没するサルがこ のタイプである。(二)人に遭うと木陰に隠れる本来の 野生気質タイプのサルで、西部林道に見られる。(三) 畑を荒らすタイプのサル。  落差六十メートル、巨大な一枚岩から流れ落ちる壮大 な滝、千尋の滝に向かう農道横に延々と続く金網は無粋 きわまりないが、サルから果実や農作物を守るため止む を得ない措置であるという。金網には電流が流れている。  白谷雲水峡でも西部林道でも、いたるところにヤクシ カを見かける。体は著しく小さくて愛くるしい。果樹農 家でポンカンータンカンや他の果樹の幹が鹿にかじられ たり、新芽が喰われたという被害が報じられている。概 算であるが、ヤクザル、ヤクシカ、おのおの二万頭が棲 息しているという。島の人口よりも多く棲息している。 共生していくために知恵を絞らなければならないだろう。  屋久島まできたら縄文杉を見たかったが、往復八時間             一二(             卜( を要するということで断念して白谷雲水峡に出向いた。 自動車で海抜六百メートルの白谷雲水峡入口まで行き、 管理棟の前で準備運動を入念に行った。屋久島では海抜 六百メートルは重要な意味を持つ。屋久島のスノーライ ン(雪線)と呼ばれ、一番気温が下がる二月にはこのラ インまで雪が降りてくるそうである。人の手が加えられ ていない屋久島の杉は、この六百メートル位からとされ ている。他は植えられた杉で地杉あるいは小杉と呼ばれ、 屋久杉とはいわれない。白谷雲水峡は標高八百メートル、 面積四二四ヘクタール、屋久杉など原生的な森林を容易 に鑑賞できるが、岩場を上がるのは少々厳しいものがあ る。濃い霧がかかり、ところどころに江戸時代に伐られ た屋久杉の巨大な切り株が見られる。散策しながら「こ の巨大な切り株が今も生きてる生木だったら、どんな森 になっているのだろう」と思わずにはいられない。地表 は珍しい地床植物(シダ、コケ類)の緑に覆われ、霧の 中に浮かび上がる世界は「もののけ姫」のまさに舞台そ のものである。  翌日、屋久島空港近くのホテルから出発し島を一周し てみた。島を一周する県道は宮之浦港の三叉路を起点と して、七十八号線(西回り)と七十七号線(朿回り)があ り、接点は尾之問、小島間の鈴川橋である。それにヤク スギランドヘの五九二号線、白谷雲水峡への五九四号線 と屋久島には四つの県道がある。七十七号線を走って東 回りのルートをとっだ。「八重岳」といわれるだけあっ             一二( て島の山容は刻一刻と変わる。まず落差六十メートル、 巨大な一枚岩から流れ落ちる千尋の滝の壮大な眺めを堪 能した。七十八号線に大って、さらに落差八十ハメート ルの大川の滝では滝壷近くに立って水しぶきを浴びた。 遠方に口永良部島を見ながら西部林道を走る。県道七十 八号線の東シナ海側、栗生と永田を結ぶ約二十六キロの 区間が通称「西部林道」と呼ばれ世界自然遺産登録地の 中を走る。南の方から車を走らせると、瀬切川を渡る瀬 切橋の南側に一枚、北からだと永田灯台を過ぎIキロほ どのカーブ地点に一枚の計二枚の「匪界自然遺産登録」 の看板が登録エリアの内と外を分けているそうであるが、 その看板を見過ごし、どこからが「世界自然遺産」登録 地なのかわかりにくかった。「緑のトンネル」を車で通 りすぎると、さすが世界自然遺産登録地、ゴミは見られ ない。しかし実際は違うらしい。夏場は草も茂り、緑も 濃いのでゴミは隠れてしまうが、春先にはとくに車道の 海側ではゴミが目立つという。歩く大が少なく、通行す る車の窓からゴミを捨てる大とも考えにくいので、「地 元の大」の疑いがでてくるという。吐界自然遺産の中を 住民の生活道路である西部林道が走る。問題は複雑であ る。また屋久島を訪れる人の多くが縄文杉を目指す。荒 川登山口から往復で二十一キロ、所要時間八、九時間か かる。かつては、地元中学生が「一年中白い花が森の中 に咲く」と作文にまで書いた捨てられたティッシュは山 にトイレがないことの証明であった。現在ではかなり卜             一二( イレが整備されたが、山問部トイレの屎尿処理は行政側 か頭を抱える問題である。世界自然遺産のゆえに屋久島 の住民が抱える課題も多いのである。  ウミガメの日本一の産卵地である永田いなか浜をへて 宮之浦港に到着して、屋久島一周を終えた。帰路、屋久 島から鹿児島への飛行機の窓から眼下に、薄暮の中に、 かたわらに池田湖を従えて、開聞岳の美しい山容がまる で箱庭につくられた山のように浮かんでいた。深田久弥 は「日本百名山」を選ぶ基準として、おおよそ一五〇〇 メートル以上で山の品格、山の歴史、山の個性に着目し て選んだという。山は高きがゆえに尊からず。開聞岳は 海抜九二四メートルにすぎないが、「完璧な円錐形、全 身を海中に乗り出した、卓抜な構造」をもつ、そのユ ニークさから深田久弥は躊躇なく「百名山」の一つに選 んだ。私は何度か開聞岳を訪れ、つねにその美しい姿に 見とれるが、機上からの眺めはまた格別である。知覧か ら飛び立った特攻隊員は錦江湾の先端にある美しい開聞 岳を見て、どんな思いで祖国囗本に別れを告げ、南方の 空に散っていったのであろうか。私は慄然として襟を正 した。    6 『カサブランカ』のモデルといわれた亡        命者        -リヒヤルトークーデンホーフ・カレル        ギーー  クーデンホーフ光子(一八七四-一九四一)、その波乱 に満ちた生涯はテレビ番組や演劇にもなっているからご 記憶の方も多かろう。オーストリアーハンガリー帝国の 駐日臨時公使として来日したハインリッヒークーデン ホーフ・カレルギー伯爵(一八五九-一九〇六)と結婚し、 一八九六(明治二十九)年にヨーロッパに渡り、爾来、 光子は再び日本の土を踏むことはなかった。日本人初の 「伯爵夫人」、ウィーン社交界では「黒い瞳の貴婦人」と して知られ、「パンーヨーロッパの母」など虚実入り混 じったエピソードを残しつつ一九四一 (昭和十六)年、 六十七歳の生涯を閉じた。時代の奔流に巻き込まれた生 涯であった(シュミット村木眞寿美編訳『クーデンホー フ光子の手記』河出文庫)。  光子は七人の子宝に恵まれたが、長男ヨハネス、次男 リヒヤルトは日本生まれである。次男のリヒヤルト・ クーデンホーフ・カレルギー(一八九四-一九七二)は、 日本名、栄次郎、汎ヨーロッパ主義を提唱し、のちの欧 州連合構想の先駆けとなり、「EUの父」と呼ばれる。 彼はヒトラーによるオーストリア併合後、チェコースロ バキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、イタリア、スイ スを経てフランスを本拠にして活躍、一九四〇年、フラ ンスがドイツの手に落ちるとポルトガルのリスボンから アメリカに亡命した。彼のこうした経歴から映画『カサ ブランカ』の登場人物であるヴィクター・ラズロ(ポー ルーヘンリード)のモデルとなったといわれている。し かし彼はカサブランカを経由してアメリカに行ったわけ ではないので、事実そのものではないが、リヒヤルトの 経歴が『カサブランカ』に投影されていることは十分考 えられる。  映画『カサブランカ』は一九四二年十二月に公開され た(日本での公開は一九四六年)。一九四一年、仏領モ ロッコの首都カサブランカはナチスの支配から逃れて、 ヨーロッパを脱出し、自由な国アメリカへ亡命しようと する人びとで満ち溢れていた。政治的亡命者、反ナチス 運動の闘士、過去に傷を持つ人びと、犯罪者、ゲシュタ ポ、それらの人びとの思惑、意図、裏切りが錯綜し、 様々な人間模様が渦巻いていた。そんな状況下でドイツ 人情報員二人が列車内で殺され通行証が奪われた。この 町でリック(ハンフリー・ボガート)は「カフェーアメリ カン」を経営していた。その店にいわくつきの常連客ウ ガーテ(ピーター・ローレ)が現れ、今夜、カサブランカ を去るという。ウガーテは通行証をしばらく預かってほ しいとリックに頼み込む。リックはドイツ情報員二人を 殺害したのはウガーテだと気づくが、通行証を預かって ピアノの中に隠した。リックにはナチスードイツ軍によ るパリ陥落の直前、愛を誓った恋人イルザーラント(イ             一二( ングリッドーバーグマン)とともにパリ脱出を約束したが、 イルザは理由も告げず、彼のもとを去って行ったという 苦い思い出がある。その過去の傷が今でも心の澱となっ て疼いていた。  この「カフェーアメリカン」に、ヒトラーによってド イツに併合されたチェコースロバキアの反ナチス抵抗運 動の大立者ヴイクター・ラズロとその妻イルザがカサブ ランカ経由でアメリカへの脱出をもくろみ、きびしいゲ シュタポやシュトラッサー少佐の監視の眼を盗んで、こ の「カフェーアメリカン」に現れた。リックの手から通 行証を手に入れたいのだ。そこでパリ時代からのリック の相棒、黒人サムがピアノを弾いているのを見てイルザ は息をのんだ。  淀川長治(一九〇九-九八)は映画『カサブランカ』 を「男と女のしやれた会話の洪水」と評した。リックに ほれたイボンヌが、冷たくリックにあしらわれる場面な どはその最たるものだろう。  イボンヌ Were you last night?(きのうの夜はどこにいた       の)  リック  That's so long ago「 I don't remeヨber. (そんな       昔のことは忘れた)  イボンヌ Will I see you tonight?(今晩会えるかしら)  リック  I neverヨake plans that far ahead. (そんな先の       ことはわからないよ)  また、「シェイクスピア劇の映画を除き、現代英語の              一二( ものに限れば、名台詞のもっとも多い映画」(マークー ピーターセン『続・日本人の英語』岩波新書)とされる『カ サブランカ』は英語の可能性を知るためには好個の教材 である。その場面での二人の会話を敢えて原文で表現す る。  サム   Hello「 Miss Ilsa「 I never expected to see you        again.  イルザ  It's been a long time.  サム   Yes「ヨa'aヨ。 A lot of water u乱er tne bridge.  イルザ  Some of the old songs「 Saヨ。 Where is Rick.  サム   Idon't know. I ain't seen hiヨall night.  イルザ  When will he be back?  サム   zot tonight no more. He ain't coヨing. Uh「 he        went home.  イルザ  You used to be aヨuch better liar「 Sam.  サム   」eave him alone「 Miss Ilsa「 you're bad luck to        him.  イルザ  Play it once「 Saヨ「 for old tiヨe's sake.  サム   Idon't know what you mean「 Miss Ilsa.  イルザ  Play it「 Saヨ。 Play As Time(いoaay・  イルザは、実はラズロと結婚していて、二人はカサブ ランカから中立国ポルトガル経由でアメリカに亡命しよ うとしていた。リックとイルザは再会する。パリでのあ の日、リックを裏切っだのは、死んだと信じられていた ラズロが重態で匿われているとわかったからだった。 リックとイルザは再びカサブランカで愛を確かめ合う。  「この時を永遠に。君の瞳に乾杯」(Here's looking at you( kid)  リックは二人のために通行証を用意する手筈を整えて あげる。リックは隠し持っていた通行証を利用して、二 人を亡命させるためにフランス植民地警察のルノー署長 (クロードーレインズ)と共に空港に急ぐ。ドイツの現地 司令官シュトラッサー少佐がその後を追う。空港ではま さにリスボン行きの最終便が飛び立とうとしていた。 リックはイルザに二人の通行証を手渡した。「さあ、早 くいけ」「あなたは」「昨日、取り戻したパリの思い出に 生きよう(We'll always have Paris)」。リスボン行き最終便 の飛行機は轟音とともに離陸していく。離陸を止めよう とするシュトラッサー少佐をリックはピストルで撃つ。 リツクは逮捕を覚悟する。署長はこれを見逃すことにし た。実は、ルノー署長は対独レジスタンスの支援者で あったのだ。駆けつけてきた部下に言う。「犯人を搜せ。 怪しき人物は一斉検挙せよ(Round up the usual suspects)」。 ルノー署長は転がっていたヴィツシー水の壜をゴミ箱に 投げいれる。リックはこれで本当の友達になれたな(I 巨nk this the beginning of a beautiful frie乱ship)とルノー署長 に語りかけ、二人は夜霧に包まれた空港を後にする。    7 あ丶人生に涙あり        I「水戸黄門」終了に寄せてI  一九六九(昭和四十四)年から始まった時代劇ドラマ の代名詞といえる「水戸黄門」シリーズが今年(二〇一 一年)の十二月で放送を終えた。同じ年(一九六九年)に 映画では「男はつらいよ」シリーズの第一作が作られて いる。この符合は何ら不思議ではないのである。  日本は奔馬のごとく、ひたすら高度経済成長の道を疾 走してきた。そのひずみと矛盾が否応なく人びとの目に も明らかになってきた。大気汚染、環境破壊、世代間の 断絶などが露呈された。大学紛争が世界を席巻し、わが 国とて例外ではなかった。六八(昭和四十三)年末の時 点で紛争大学はIニ(校、うち六十五校の紛争が未解決 のまま六九(昭和四十四)年に持ち越され、一月には全 国の大学紛争のシンボルであった東大の安田講堂は、激 しい攻防戦の末、封鎖は解かれた。私も日々、「造反有 理」とばかりに友と果てしない議論を繰り返し、疲れる としばしば早稲田松竹に任侠映画を観に行った。任侠映 画の主人公たちの単純な生き方が新鮮だった。  この年のキャッチフレーズの代表的なものは「OE モーレツ」「違いがわかる男のゴールドブレンド」であ る。前者は丸善石油の自動車ガソリンのCMから出た言 葉である。タレントの小川ローザが、疾走する車の風で まくり上げられたスカートを押さえて「○茫 モーレ ツ」と叫ぶ。後者は従来のものとは味も香りも違う高級 なインスタントーコーヒーの宣伝「松山善三。四十五歳。 違いがわかる男のゴールドブレンド」である。成長と繁 栄の象徴として一九七〇(昭和四十五)年、「人類の進歩 と調和」をテーマとして大阪府吹田市の千里丘陵で日本 万国博覧会が開催された。時代はつねにアンヴィバレン ツな二つの傾向を示す。「大きいことはいいことだ」 「OΞ モーレツ」の傾向と「本当に、これでいいのか」 の傾向である。「モーレツであっても、けっしてビュー ティフルではない」「はたしてこれでいいのか」「別の生 き方があるのではないか」。一九七〇(昭和四十五)年の 富士ゼロックスの「モーレツからビューティフル」はそ れを示すものであろう。  オープニングに流す「水戸黄門」の主題歌「あ丶人生 に涙あり」の二番「人生勇気が必要だ/くじけりや誰か が先にいく/あとから来だのに追い越され/泣くのがい やならさあ歩け」は高度経済成長期にはピッタリの歌詞 だろう。三番の歌詞「人生涙と笑顔あり/そんなに悪く はないもんだ/なんにもしないで生きるより/何かを求 めて生きようよ」はバブル経済が破綻し、「別の生き方 があるのではないか」という時代風潮を映すものであろ う。しかし、いつの時代でも悪は悪、善は善なのである。 「万華鏡」の世界のように一見複雑そうに見える世界に あって、実は画一化の方向に向かっているのである。い             一二( つの時代も、つねに「価値」は「権力」に依存するから である。  「水戸黄門」にせよ「男はつらいよ」にせよ、結果は誰 でもわかっているのである。「この代官が悪だな」「この あたりで風車の弥七の風車が飛んでくるな」「もうそろ そろ時間だな」「格さん、助さん、もういいでしょう」 「この紋所が目に入らぬか」「頭が高い、控えおろう」。 黄門様は漫遊先で目に留まった悪だけを懲らす。現実の 社会の構造は少しも変わらない。「それが何の意味があ るのか」という声を聞く。「そんなことは誰でもわかっ ているのだ。究極のマンネリ、それのどこが悪いのだ」 とスネてみたい気になる。  「男はつらいよ」だって究極のマンネリだろう。旅の行 く先々でフーテンの寅さんは極めて主観的であるが、 「そこによこしまな点は一つもない」「私心は一つも感じ られない」。だけど、いつも失恋ばかりしている。「おう、 今回は」と思うと白分から身を引いてしまう。そして自 分は故郷の柴又に帰り、朿の間の平穏な日々を送るが、 また旅に出る。  時代劇シリーズはそれぞれの型があり、勧善懲悪であ り、その意味で紛れもなく究極のマンネリである。「遠 山の金さん」シリーズだって「この桜吹雪、散らせるも のなら散らしてみろい」、お白州で悪人やその取り巻き たちの罵声が最高潮に達したとき、遠山の金さんが「や かましいやい! この悪党ども」「おうおうおう、黙っ              一二( て聞いていりや寝ぼけたことをぬかしやがって」などと、 今までの謹厳な口調とはガラリと変わったべらんめえ調 で一喝する。「この桜吹雪に見覚えがねえとは言わせね えぜ」などと言いながら片肌を脱ぐ。  「暴れん坊将軍」シリーズでは江戸幕府の八代将軍、徳 川吉宗が、町火消「め組」に居候する貧乏旗本の三男坊 徳田新之助に姿を変え、市井に出て、江戸の町民と交流 しながら、世にはびこる悪を斬る勧善懲悪ものである。 クライマックスでは「浪人の分際で、ここを誰の屋敷と 心得ておる!」「まるで上様のような口のきき方をし おって!」「はて、どこかで見た顔だな」などと高慢な 態度をとる悪党どもに対して「だわけ者!」「愚か者!」 「うつけ者!」などと一喝した後、黒幕を呼び捨てにし ながら「余の顔を見忘れたか」「余の顔をとくと見るが よい」などと言って、悪党を懲らしめる。「水戸黄門」 では葵の印籠を見せ、「遠山の金さん」では片肌を脱い で桜吹雪の刺青を見せる。それに対して「暴れん坊将 軍」では「余の顔を見忘れたか」とはなんと横着なこと だろうと、冗談めかしに私は話したことがある。  たしかに黄門さまが諸国を漫遊し、諸国の悪を懲らす なんて全くリアリティがないフィクションの塊だ。一歩 譲ってみても、たまたま目に入るだけの悪を懲らしめる だけである。社会の構造的な悪には目を向けない。リア ルを求めた人たちにとってはどうにもならない究極のマ ンネリに思えたことだろう。しかし、とりわけ戦後の食             一二( 料難の時代を経験し、モーレツな会社人間である世代は、 違った受けとめ方をした大も多かったろう。半年ごとの 定期検査で医者に「どこといって悪いところはありませ ん。年とともに肥満の度は増しているが、血圧、脈拍、 体温も正常であり、食欲もあります」と言う人の心境に 似ている。こうした世代は、「外に対して現実にそう見 えるように、すべてが自分に万事うまくいっているのか 否か、これでいいのか」と時折反問する。  一九七〇年代に入ると日本は経済大国を謳歌し、飽食 の世界が現出したが、それこそリアリティがなく、フィ クションそのものだったのではないか。悪代官の下で 呻吟する民こそリアルな存在なのである。助さん、格さ んだってめったに大を斬ることもなく、数ある時代劇の 中でもひときわホームドラマ的要素が強かった。子ども とともに安心して見ていられた。「『水戸黄門』終了、小 学生も残念」という投書が四十四歳の主婦から朝日新聞 「声」欄に寄せられた。  「TBS系の時代劇『水戸黄門』が年内で終了するとい うニュースを耳にしたとき、私は小学六年の娘と三年の 息子に、どう伝えたらよいか途方に暮れた。娘は月曜日 の放送を見ると一週問分のパワーが蓄えられると言い、 息子は幼稚園時代、帰りに私がママ友達と立ち話をして 夕方の再放送時間を過ぎようものなら、たちまちべそを かいた。二人は主題歌にちなんでこの番組を『人生』と 呼び、カラオケでも主題歌を一緒に歌う。二人がこんな             一二( に『水戸黄門』を愛しているのは、おじいちゃんとずっ と一緒に見てきたからだ。そして、画面の向こうに市井 の人が日々の暮らしを積み重ねてゆく様子を目にしてき たからだろう。オープニングからエンディングまで、こ の物語は誰もが知っている。黄門様は死なない。印籠は 絶対。そんな夢物語をもう少し大事にしてほしいと思う。 番組終了を伝えると、二人は『「人生」が終わる』とつ ぶやいた」  「水戸黄門」をはじめ時代劇を見ている人たちは主役の 人たちだけを見ているわけではない。なにげない市井の 人々、セリフもない端役の人にも目を向けているのであ る。私もその一人なのだが、いつも出てくる斬られ役が 心に残る。同じ「声」欄に、その斬られ役とおぼしき人 に関する投書が寄せられたことがある。その投書は 「『あんちゃんが出ているよ』。テレビを見ている夫が私 に話しかけた。『そう、もう斬られたの?』『まだだよ、 あっ斬られちゃったよ』」という書き出しで、この老夫 婦は、時代劇に登場する斬られ役の一人をひいきにして いる。すらっと細くて、斬られ方が格好いい。芸名をし らないので、勝手に「あんちゃん」と呼んでいるという。 時代劇をテレビで見ると、大勢の中から、必ずその人を 探す。見つけるといた、いたと夫婦して喜ぶという(二 〇〇〇年十一月二十九日)。  その後、「背中の演技に男の色気」「斬られても、タダ じゃ死なないぞ」「あの人は陰の大スター」など、「頑張             一二( れ、斬られ役」と続々と投書が「声」欄に寄せられた。 その人の名は福本清三さんである。一九四三(昭和十八) 年、兵庫県生まれだから私と同年である。通行人役やス タントマンを経て二十代後半から斬られ役をつづけてき た大である。自ら考案した斬られ方、工夫を凝らした メーキャップに根強いファンが多いという。佐藤忠男に 戦前の時代劇の立回りと戦後の時代劇のそれとの違いを 見事に示した「斬られ方の美学」という興味ある一文が ある。「戦前の映画の立廻りでは、斬る型と同じくらい、 斬られる型が大切であった」という。少し長いが引用し よう。「ヒーロー自身がしばしば斬られるし、ことに数 多い幕末ものなどでは、善玉である勤皇の志士たちは、 暗殺者たちの刀にかかって美しくのけぞってみせなけれ ばならない。塀かなんかに掴まりながら、よろめいて、 ふらついて、更にいくつか白刃をあび、最後に一つだけ、 美しい言葉を残して死ぬ。それが斬られ方の美学の極上 のものだ」(佐藤忠男『大衆文化の原像』同時代ライブラ リー、岩波書店)。どんな地味な一瞬の仕事でも、見てい る大はいる。見てくれてる大はいるのだ(小田豊二聞き 書き『どこかで誰かが見ていてくれる1日本一の斬られ役 福本清三』集英社文庫)。「斬られ役」「端役」「大部屋俳 優」には違いないが、福本清三氏はNHKの朝ドラ 『オードリー』に大部屋俳優役で出ているし、ハリウッ ド映画『ラストサムライ』にも抜擢されて出演している。  「水戸黄門」にしろ「遠山の金さん」にしても「暴れん 坊将軍」にしても、主人公は市井の人びととの触れ合い の中で活躍する。越後の縮緬問屋の光右衛門、「金さん」 という遊び人、貧乏旗本の三男坊徳田新之助、浮世=憂 世に辛吟する庶民がいる。その庶民をいじめるのは私腹 を肥やす悪代官、十手も預かる二足の草鞋を履く悪徳親 分である。そうであるから身分制の下で庶民は泣き寝入 りするより仕方ないのである。身分を明かして懲らしめ るより道はないのである。しかし身分を明かすのは最後 の場面である。安心して見ていられるのである。以前は 悪代官や二足の草鞋を履く悪徳親分を懲らしめるのはヤ クザというアウトローの人たちであった。故郷に帰って きたヤクザが、悪代官や悪徳親分に、自分の親や兄弟が、 あるいは昔愛し合っていた女やその家族が、ひどい目に 遭っている。そのヤクザは義侠心から助けてあげる。最 後はとうとう長脇差を抜いて彼等を叩き斬る。凶状持ち になった彼は再び旅に出る。  勧善懲悪、究極のマンネリ、リアリティがない。アウ トローの世界でおそらくもっとも民衆に愛された人物で ある「森の石松」をとるに足りない左巻きのチンピラと して戯画的に描き、ヤクザ社会の馬鹿馬鹿しさを訴えた 喜劇映画(吉村公三郎監督『森の石松』一九四九年)があっ た。知的で高級な時代劇として批評家の間ではかなり評 判がよかったが、大衆には嫌われて不評だったという。 大衆が求めているものとの間に径庭がありすぎた。  昨今のテレビ番組を見ると「いい旅 夢気分」をはじ             一二(                 。i―・ めとする温泉・旅番組、料理番組・美食ガイドの連続、 下らぬお笑い番組で芸人自身が笑いころげている。そん な中で「水戸黄門」は砂漠の中のオアシスのような番組 であった。                 。i―I            {………厂………‐‐・ 第二部 自然災害と防災教育-東日本大震災 から学ぶ    8 「おやつの時問」を挟んだ断絶        -津波までの三十分を考えるI  未曾有、壊滅的、巨大、空前絶後、想定外、普段はあ まり使われない言葉が飛び交った。地震発生は二〇一一 (平成二十三)年三月十一日午後二時四十六分、震源は宮 城県牡鹿半島の東南東約匸二〇キロ、マグニチュード (M)9・Oの世界最大級の大震災となった。今回の地 震エネルギーは関東大震災の約三十倍、阪神大震災の約 一千倍に相当するという「巨大」災害である。被害規模 が青森から茨城にいたる地域にわたるというだけではな い。三月十一日以前の日常性との断絶が巨大であるとい うことである。かけがえのない日常性への回復は急務で あることは言うまでもない。他方、防災対策のみならず、 将来のエネルギー対策、食料対策など、これまでの枠組 みを総棚卸しするようなパラダイムの転換が求められる であろう。  東北は農作物・水産物など東京への供給地であり、と くに高度経済成長期に低廉な労働力の供給地であり、経 済成長の死命を制する電力の供給地であったから尚更で ある。したがって、関東大震災、阪神大震災のような都 市型災害とは条件が異なる点にも着目しなければならな い。巨大災害はいつでも「想定外」であろう。「想定外」 という言葉も精神分析学的に見れば、用語の使用自体が 巨大な断絶にたいする精神的適応策となる一面があり、 法的な視点に立てば「予測不可能である」ということで 政府や企業にとっての免責を含意するものであろう。さ らに突き詰めて考えれば、「想定外」という言葉は文字 通り夢想だにしなかったことではなく、逆に本来身近な ことを「なかったこと」にすることではないか(矢守克 也「巨大災害と人間」-朝日新聞二〇一一年五月八日)と いう指摘も説得力がある。  気象庁は地震発生から約四分後の午後二時五十分ごろ、 岩手、宮城、福島に大津波警報を発令した。この最初の 津波警報で気象庁は波高を岩手、福島三メートル、宮城 六メートルと予想した。防災無線で避難を呼びかける際、 その数値を挙げた自治体もあるという。人はだれでも過 去の経験に囚われがちである。三陸地方は明治三陸地震 津波(一八九六年)、昭和三陸地震津波(一九三三年)、チ リ地震津波(一九六〇年)と明治、昭和と過去において 何度も津波被害を受けてきた。沿岸自治体はその記録を もとに、とくに浸水の危険区域を示すハザードマップを 作り、各家庭にも配り、避難訓練も続けてきている。七 十八年前の昭和三陸津波を体験した人もすでに八十五歳 以上で、チリ地震津波から五十年も経過している。過去 の津波の高さを越えた今回はハザードマップの浸水区域 外にいた人に逃げ遅れが目立つたという。ここに盲点が あった。行政が出す情報、経験による被害想定、巨額資 金を投じて作った堤防、それらに引きずられ逃げ遅れた 大が多かった。  被災地では、土砂にまみれた時計の多くが午後三時二 十分前後で止まっていた。多くの人命が奪われたのは地 震発生の直後ではなく、おそらくそれから三十分後のこ とであろう。一八九六(明治二十九)年の明治三陸地震 津波、一九三三(昭和八)年の昭和三陸地震津波に見舞 われた三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」は津波が押 し寄せてくるまでの短い時問の行動が生死を分ける分水 嶺になることを表現しているのだろう。七十八年前の記 憶、「津波てんでんこ」「だめだ、もっと高台へ」向かっ た大は助かった。  陸前高田市では、災害時に最初に避難する一次避難所 を六十八ヶ所指定していた。今回の大震災で三十五ヶ所 の指定避難所が被害を受けた。宮城県南三陸町では三十 人以上の町職員が避難していた三階建て、高さ十一メー トルの防災対策庁舎の屋上を津波は軽々と越えて、波が 引いたときに残っていたのは十人だけだったという。新 聞に載った赤い鉄骨だけ残し、魚網やブイがからみつい た廃墟は痛々しい。宮城県石巻市の北上川の河口にあっ た指定避難所である役場の支所は想定された津波の最高 水位より高く建っていたが、しかし全壊し、身を寄せた 四十九人のうち助かっだのは三人だけだった。今回の大 津波は北上川を五十キロも遡上したと見られ、その凄ま じさは想像を絶するものであろう。  北上川の河口から五キロ、新北上大橋に近い県道沿い にある石巻市立大川小学校は二階建ての瀟洒な建物であ る。そこで全校児童一〇八人が学んでいた。地震が発生 した二時四十六分、児童は下校の準備をしていた。三時 ごろには大津波警報の発令を伝える防災無線が大川小に も流れた。児童の避難開始は三時二十五分ごろだったと いう。津波が押し寄せたのは地震発生から約五十分後の 三時三十七分ごろだった。津波は北上川を遡上し土手と 同じ高さで三トンほどの漁船が疾走してきた。堤防の上 を滑る。目の前で大橋に激突して水が飛び散り、巨大な 滝のような音が響いた。橋の付近からあふれた水が迫っ てきた。裏山には倒木が多かった。そこで山側の出入り 囗を抜けて堤防の高いところへ避難しようとしていた。 学校も濁流にのまれた。一〇八人の児童のうち死者・行 方不明者は七十四人、約七割の児童が犠牲になった。助 かった三十四人の多くは親が車で連れ出したケースで あった。説明会で問題になっだのは、「なぜ避難が遅れ たのか」「なぜ裏山に逃げなかったのか」「なぜ避難先に 堤防道路を選んだのか」ということであった。説明会で は子を失った親から「地震から津波までなにをやってた んだ」「天災ですか、人災ですか」と、怒号や悲鳴が飛 んだという(朝日新聞二〇一一年四月十日、六月五日)。 「斜面が急で雪が積もっていたため、滑って登ることが できなかった」と説明しているが、津波常襲地帯であれ ば日頃から避難訓練をして裏山への避難路を確認してお くべきではなかったか。  岩手県大槌町は毎年三月三日、町ぐるみで避難訓練を していた。三月三日は一九三三(昭和八)年の昭和三陸 地震津波で、この町が壊滅した日である。約二八〇人が 通う大槌小学校では三月十一日、いつもの日常がそこに あった。六年生は一週間後に迫った卒業式の歌の練習を するために音楽室にいた。低学年生はちょうど下校を始 める時間であった。二時四十六分、激しい揺れが襲った。 揺れが落ち着き、小野寺美恵子校長は生徒全員を校庭に 集め点呼をすると全員無事であった。学校の裏手には山 があり、五分も歩けば高台に出られる。保護者も集まっ てきていた。「大津波警報が出ています。すぐに高台に 上かってください」。いつもの避難訓練のようで結構み んな落ち着いていたという。残った子どもたちは教職員 とともに学校の裏手の高台に向かった。時計はすでに三 時を回っていた。三十人ほどの子どもが迎えに来た保護 者に預けられた。佐々木姫さんも、その中の一人だった。 姫さんは迎えにきた母親の亜由美さんと車で学校を出た。 JR大槌駅近くに住む祖母の三浦恵美子さん宅にやって きた。ふいに現れた姫さんらに三浦さんは驚いた。「早 く逃げなさい」と促した。亜由美さんは「うん、そうす る」と答えた。しかし緊迫感はなかった。四人を送り出 し、二階にある携帯電話を取りに行こうと階段を二、三 段上がったときに津波に襲われた。振り返ると姫さんら 四人が乗ったワンボックスカーは半分ほど津波にのまれ て流されていった。大槌小学校の生徒は高台に逃れ、ほ とんどが無事だった。姫さんの他、五年生と四年生の二 人の安否がわからない。母親が迎えにきて連れ帰った子 どもであった。小野寺校長は「親が迎えにきても強引に 避難させればよかった」のではないか、「あの時の自分 はどんな判断をすべきだったのか」と、いまでも答えが 出ない。  宮古市田老地区、ニー七人の生徒が通う田老第一小学 校は、海岸線から五百メートルのところにあった。地震 が襲ってきた時、下校時であった。木村茂樹副校長らは 校門を出ていた子どもたちをつかんで引き戻した。保護 者が次々と集まってきた。保護者たちは子どもを連れ帰 ろうとしていた。「待ってください。津波の状況もわか りませんから、とどまってください」。しかし「道が封 鎖されてしまう」「家族がバラバラになる」と言う親た ちの声が次第に広がっていった。「早く渡してくれ」。一 人の保護者が子どもを連れ出すと、五十人ほどが続いた。 その間、防災無線は大津波情報を伝え始めた、間もなく 防潮堤を津波が越えた。「裏山に逃げろ」。校庭の子ども たちは裏山に避難した。同校の犠牲者は祖母とともに 帰った一人だけだった。  早朝に起こった阪神大震災と違って、東日本大震災が 襲った時間帯が午後二時四十六分ということもあって、 親と子どもが学校や職場など別の場所で罹災しているの で、両親を亡くしたり、父や母、どちらか一方を亡くし た子どもが多かった。こうした子どもたちを含めて、被             一二( 災地においては被災者のこころの問題が顕在化している。 なによりも復興期における教育現場でのこころのヶアが 大事であろう。    9 頑張り、頑張れ、がんばんべ        I東日本大震災「天罰」発言に寄せてI  「三月十一日以後」という言葉に象徴されるように「東 日本大震災」は日本の社会に甚大な影響を与えた。経済 学者ガルブレイス(一九〇八-二○○六)の言葉を借りれ ば「その日を境に、ほとんどすべての事が変わってしま う日がある。何百万人もの生活は再び同じものとはなら なかった」。阪神大震災の一九九五(平成七)年は「ボラ ンティア元年」といわれたが、二〇一一 (平成二十三) 年は「共助の精神の元年」として将来位置づけられるこ とになろう。一瞬のうちに津波にのみこまれて肉親・家 族を失い、またすべての生活基盤をなくした被災者の 方々に多くの支援の輪が広がっている。被災者の「わ かってたまるか」という気持ち、また「失意の胸へは/ だれも踏み入ってはならない/自身が悩み苦しんだとい う/よほどの特権をもたずしてはI」(エミリー・ディ キンソン、中島完訳、朝日新聞「天声人語」二〇一一年三月 十九日)ということを十分に承知しつつも言葉をかけず にはいられない。思わず「頑張ってね」と言ってしまう。 「頑張れ日本」「頑張れ東北」「頑張れ」という言葉は失 意のどん底にある被災者にどのように響くであろうか。  朝日新聞の読者の「声」欄(二〇一一年五月四日)に震 度6強の地震と原発事故の二重苦に苦しむ須賀川市の主 婦の声が掲載された。「家畜やペットを泣く泣く家に置 いてきた人、原発事故のために農作物や水産物が出荷で きない人……。もう、これでもかっていうくらい苦難の 連続なんです。これ以上、どうがんばればいいのでしょ うか。どうか簡単に『がんばれ』なんて言わないでくだ さい。せめて『負けるな』と、そっと肩を抱いてくださ い」。  これを読んだ人が「日本中の、世界中の方があなたを 心配して声をかけているのです。その励ましを受けてい ただけないでしょうか。そう思うと、がんばれという言 葉が、明日の元気を取り戻す力になることと思います。 そして、いつか立場が変わるようなことになったときに は、私たちのことを心配していただき、励ましの『がん ばれ』をお願いしたいとおもいます。負けないでくださ い。そしてがんばってください」と励ましの言葉を贈っ ている。ある医師の方はがんの患者さんを診た際に「が んばってね」と言ってしまった経験を踏まえて、「マイ ペースでね」と言うようにしたそうである。つづけて 「被災者の方々も、これまでいやというほど頑張ってき たのだから、『周りの私たちが頑張るから、あんた方は 無理しないでね』と声をかけるべきだと思います」とい う声を寄せている。災害派遣で東京から被災地に赴いた             一二( 大は次のような声を寄せている。被災者の方々から「頑 張れ、頑張れと言うけど、この状況で何をどう頑張れっ ていうんだ」といわれたという。帰れる家のあるありが たさをかみしめながら帰宅する高速道路で、どこの方言 か、トラックに大きく書かれた「がんばんべ」という文 字が目に大っだ。「『がんばんべ』には優しい気持ちと前 向きな気持ちが含まれている気がし、大声で『がんばん べ』と叫びたくなりました」と結んでいる。  アムステルダムーオリンピック大会(一九二八年)の 三段跳びで日本人としてはじめて金メダルを獲得した織 田幹雄さん(一九〇五-九八)は「頑張り」という名詞 を使ったという。「頑張り」という名詞を使うと傍観者 的な響きがなくなり、「共に、一緒に」という想いが伝 わってくるから不思議なのである。  石原慎太郎東京都知事の「天罰」発言も多くの人の 憤りを呼んだ。東日本大震災に関し、「日本人のアイデ ンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を 一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」 (三月十四囗)と述べた。こうした発言は傲慢、無神経以 外のなにものでもない。苦難に耐え忍ぶ被災者に都民と して本当に恥ずかしい等の批判が集中した。自然災害が 起こるたびに「天罰」発言は珍しいことではない。つと に寺田寅彦(一八七八1一九三五)は次のように言ってい る。「著しい事変のある度に、それが、大問の風儀の悪 くなったための天罰だと言って、自分ひとりが道徳家で             一二( でもあるような顔をしたがる大がある。これも昔から今 まで変りはない。昔のそういう人の書いたものをよく見 ると、人間というものは昔から全く同じことばかり繰り 返しているものだという気がする」(「事変の記憶」-寺 田寅彦随筆選集『地震雑感/津波と人間』所収、千葉俊二ほ か編、中公文庫)。麻布市兵衛町の偏奇館で関東大震災 (一九二三年)を経験した永井荷風(一八七九-一九五九) も「天罰」に言及しているが、拠って立つ視点は石原慎 太郎都知事とは対極的である。「帝都荒廃の光景哀れと いふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都 を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺く いかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜し むには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを 知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なり といふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を 失ひ国帑また空しからむとす。外観をのみ修飾して百年 の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天 罰覿面といふべきのみ」(磯m…光一編『摘録 断腸亭日乗』 岩波文庫)。永井荷風の視座は言うまでもなく庶民の側 にあり、「自分ひとりが道徳家ででもあるような顔」を して言っているのではない。  石原都知事の『新・堕落論-我欲と天罰』(新潮新 書)を読んでも、自己の政治論を展開するのみで、天罰 との内的必然性が感受できない。石原都知事の「天罰」 発言を聞いて私は、関東大震災についての同種の発言に 対する芥川龍之介と柳田国男二人の、ひたむきに日常を 生き、被害を受け塗炭の苦しみの中にある人々への想像 力との違いに想いを馳せざるを得なかった。  関東大震災の被災者でもあった芥川龍之介(一八九 二-一九二七)は実業家の渋沢栄一 (一八四〇-一九三二 が大震災を「天譴」すなわち「天が不埒な民に下した咎 め」と思えと言ったことに対して猛然と反発して次のよ うに述べた。「誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。 脚に疵あるは天譴を蒙る所以、あるいは天譴を蒙れりと 思い得る所以なるべし。されど我は妻子を殺し、彼は家 すら焼かれざるを見れば、誰かまたいわゆる天譴の不公 平なるに驚かざらんや」。続けて「天譴なりなどと信ず ることなかれ。●・・・・● 同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダ ム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること なかれ」(「大震に際せる感想」-『芥川龍之介全集』第十 巻所収、岩波書店)。  柳田国男(一八七五-一九六二)は関東大震災当時、口 ンドンにいた。その折、万国議員会議に参加した数人の 衆議院議員と大使宅で同席した。この時、年長の議員が 「これは全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄 に流れていたからだ」と言った。それに対して柳田は次 のように抗議した。「狭苦しい町裘に住んで、……一命 を助かろうとした者の大部分は、むしろ平生から放縦な 生活をなしえなかった人々ではないか。彼らが他の碌で もない市民に代わって、この残酷なる制裁を受けなけれ ばならぬ理由はどこにあるか」(「青年と学問」-『柳田 国男全集』第三巻所収、筑摩書房)。柳田国男は三陸海岸を よく歩き、名作『遠野物語』を残している。この『遠野 物語』に津波で死んだ妻の霊に、夫が夜の三陸の渚で出 会う話がある。霧の渚で出会った二人連れの一人はまさ しく大海嘯で死んだ妻である。名を呼ぶと振り返って、 にこと笑った。男は同じ里の者で、妻が自分が婿に入る 以前に互いに「深く心を通わせた」男で、大海嘯で死ん だ者だった。今はこの男と夫婦になっているという。 「子どもは可愛くはないのか」と問うと、「女は少しく顔 の色を変えて」泣いた。足早に立ち去って見えなくなっ た。怪異な伝承の中に、この世に残された生身の人間の 切なさが胸を打つ。この物語は「夜明けまで道中に立ち て考え、朝になりて帰りたり」……その男は「その後久 しく煩いたりといえり」と結ばれている(『遠野物語/山 の人生』岩波文庫)。人間の切なさが伝わってくる。この 人間の切なさを垣間見てきた想いが柳田圃男の上述の言 葉となったのであろう。  自然の最も偉大なる点は止まることを知っていること である。大震災も火山の爆発もそれが自然の営みである 限り、いつかは終息するのである。しかし、人間が創り だしたものは止まるところを知らない。自然に対する畏 敬の念を忘れるとき、自然の手痛い反逆を受けざるを得 ないであろう。     10 地質学的時問軸とミクロ的時間軸        I津波てんでんこ1  季節ごとに変わりゆく日本列島の景観、世界有数の長 さを誇る海岸線と入り組んだ入り江、多数の島々、峻険 な山岳地帯、山間を縫う渓谷、火山と全国に散在する温 泉地、日本列島のこの多様な自然景観、これはまさに生 きている地球の活動による地殻変動が織り成したもので ある。三月十一日の東日本大震災は私にとって二つの時 間軸を考える契機となった。  地球形成から現在までの時間を一年間に換算する時間 軸、ここでは地質学的時間軸とでも呼んでおこう。地球 の年齢四十五億年を一年に喩え、現在を十二月三十一日、 深夜十二時とする。歴史時代は人問の尺度で考えれば遥 かなる過去のことであろうが、地質学的時間軸で考えれ ば、キリスト誕生のほぼ二千年前などは十二月三十一日 二十三時五十九分四十六秒、一千年前など二十三時五十 九分五十三秒であり、百年前などは一秒にも満たない時 間である。三陸沖では地質学的時間軸にしたがえば、一 秒にも満たないここ百年余りの問に明治三陸地震津波 (一八九六年)、昭和三陸地震津波(一九三三年)、チリ地 震津波(一九六〇年)、東日本大震災による津波(二〇一 一年)が起こっている。  私たちが日本列島に住み続けるかぎり、私たちは大震 災、火山の大噴火にいつ、どこで遭遇しても不思議では ない宿命を背負わされているのである。桜島の南側にあ る鹿児島市立朿桜島小学校の校庭には一九一四(大正 三)年の桜島噴火の記念碑が建っている。この噴火で、 桜島は錦江湾に浮かぶ文字通りの「島」であったが、東 側が大隈半島につながり、現在のように陸続きとなった。 その記念碑に刻まれているように「住民はふだんから避 難の用意をし、いつ災害に遭っても大丈夫な覚悟が必要 である」。  三月十一日の東日本大震災では地震発生が午後二時四 十六分、気象庁は地震発生から約四分後の午後二時五十 分ごろ、岩手、宮城、福島に大津波警報を発令した。被 災地では、土砂にまみれた時計の多くが午後三時二十分 前後で止まっていた。多くの人命が失われたのは地震発 生直後ではなく、おそらくそれから三十分後のことであ ろう。三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」は、津波が 押し寄せてくるまでの短い時間の行動が生死を分ける分 水嶺になることを表現しているのであろう。  「杞憂だと笑い想定外と言う」(沼沢寛-「朝日川柳」 二〇一一年三月十八囗)。大震災が起こる前は「杞憂」だ と笑い、起こった後は「想定外」だと言って、責任を回 避する政治家や大企業の人たちに対して、生死を分ける 短い時間に自らの職務の行動準則にしたがい殉じた人が いたことを忘れることができない。壊滅的な被害を受け た宮城県南三陸町に、あたかも原爆ドームのように鉄骨             一二( の枠組みだけを残した建物がある。三階建ての南三陸町 防災対策庁舎である。町職員遠藤未希さん(二十四歳) はその庁舎の二階で津波到達の直前まで「六メートルの 津波が来ます。早く高台に避難してください」と防災無 線で町民に呼びかけ続け、最後まで職務を全うし、自ら は津波にのみ込まれた。秋には結婚式が予定されていた。 冷静で聞き取りやすい呼びかけが何度も繰り返された。 その声はまるで神の声のように聞こえたという。海岸に いた両親にもその声は届いたという。  被災各地における消防団員の方々も自らの行動基準に したがって行動した。岩手県大槌町は毎年三月三日の朝、 子どもからお年寄りまで、町ぐるみで津波の避難訓練を する。言うまでもなく三月三日は、昭和三陸地震津波 二九三三年)で、この町が壊滅した日である。三月十一 日、地震発生後、この町で二十年以上消防団員を続けて いた越田富士夫さん(五十七歳)は、自家用車で水門を 閉めに向かい、その後、消防団の屯所に向かった。地震 発生から二十分以上たち、近くの消防団から「津波が来 た」と無線が入っていた。消防車に乗っていた団員たち は「早く乗って」と越田さんに叫んだ。消防車のサイレ ンの音で聞き取れなかったが、越田さんは腕を振ってい た。「いいから、いけ」。腕はそう語っていた。団員たち が屯所を離れてしばらくたった頃、「カン、カン、カン」 ともの悲しいような鐘の音が聞こえてきた。屯所の火の 見やぐらに設置されたサイレンは停電で使えない。それ             一二( を知った越田さんが半鐘を鳴らし続けたのであろう。住 民を救うためにひたすら半鏥を打ち鳴らしながら津波に さらわれてしまった。屯所から二百メートルほど離れた、 避難所となっていた神社にも、半鐘の鐘の音は届いてい た。このように自らの行動準則にしたがって、自己の職 務に殉じた人もいる。  旧田老町は昭和三陸地震津波の七十周年にあたる二〇 〇三(平成十五)年三月三日「津波防災の町宣言」を発 表した。それには「近代的な設備におごることなく、文 明とともに移り変わる災害への対処と地域防災力の向上 に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきま す」と記されている。田老地区には一九三三(昭和八) 年の昭和三陸地震津波の浸水範囲を示す看板、高台への 避難ルートを示す看板、津波に襲われたときの浸水想定 区域を示し、注意を促す看板が随所に見られる。一見し て津波に対して万全の体制を整えたように見えた。しか し、今回の東日本大震災では東方向に延びる防潮堤は津 波で破壊された。その他の防潮堤は見た目には健全な形 で残ったが、大津波はこの防潮堤を越えて田老地区を 襲って壊滅的な被害を与えた。見渡す限りがれきの野に、 防潮堤の巨大なコンクリートブロックが倒れこんでいる。 堤防への過大な信頼が安全な街づくりや避難の足を鈍ら したのではないか。実際に被災者の中から「堤防を信頼 しすぎた」という声が聞かれた。  寺田寅彦(一八七八I一九三五)の言葉を思い出す。 「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇 烈の度を増す」(「天災と国防」-『天災と国防』所収、講 談社学術文庫)。文明の進展が進めば進むほど、天災によ る一つの部分の破綻が全体に対して致命的になることを 示唆している。天災に対してハードの面で、これで十分 だという保障はない。その点で大災害はつねに想定外の ことなのである。巨大災害に対して「想定外」という言 葉は何等の意味も持ち得ない。「つり橋の上にのってい るような」状態にある災害列島、日本に住んでいる私た ちは、地質学的時間軸と「津波てんでんこ」地震発生後 三十分というミクロ的時間軸とをつねに持ちあわせなけ ればならないだろう。  地震はいつ起こるかわからない。日中か夜か、あるい は平日か休日か、それによって被害の様相は大きく異な る。東日本大震災は午後だったのでまとまって避難でき た。これが深夜だったらどうだったか、考えてみる必要 があろう。     い1 1‥一 防災教育の必要性        -津波太郎(田老)から学ぶI  東北地方三陸沿岸は津波常襲地帯であり、とりわけ明 治三陸地震津波(一八九六年)、昭和三陸地震津波(一九 三三年)、チリ地震津波(一九六〇年)、東日本大震災(二 〇一一年)では多くの犠牲者を出した。三陸沿岸に限ら ず、日本列島全体が地震・津波列島と言っても過言では ないであろう。こうした日本の災害の実態を反映して 「津波」は世界に通用する国際語になっている。「津」は 船着場、港のことであり、「津を襲う大波」という意味 で「津波」といわれるようになった。海嘯という言葉も 使われた。嘯という言葉が使用されたのは津波が押し寄 せる折の海の轟きを表現しようとしたものである(吉村 昭『三陸海岸大津波』文春文庫)。海嘯という漢語は中国 の銭塘江の河口付近で見られる「満潮の際に潮流の前面 が垂直の壁となり、砕けながら川の上流へ遡る現象」を 指す。南米アマゾン川のポロロツカと同じである。三陸 地方では明治三陸地震津波以前に「よだ」という言葉も 使われた。  地震津波はいつ起こるかわからない。明治三陸地震津 波は一八九六(明治二十九)年六月十五日午後七時三十 二分、三陸の沖合およそ二百キロの海底で、M8・5の 地震の発生に由来する。陸上では、せいぜい震度2~3 程度の揺れを感じただけで、震害もなく、多くの人は気 にとめることもなかったという。地震の揺れがもっと大 きかったならば、人びとは多分、避難行動をおこしてい たにちがいない。「地震の揺れが弱くても、大津波がく ることがある」(伊藤和明『地震と噴火の日本史』岩波新書)。 このことは防災上重要な視点であろう。地震の発生から 三十五分後、大音響とともに大津波が襲いかかってきた。  昭和三陸地震津波は一九三三(昭和八)年三月三日午 前二時三十二分、M8・1の地震の発生に由来する。地 震の発生から三十分後、海水が急に引いて、その後大津 波が襲ってきた。この地震は沿岸各地で震度4~5の強 い揺れを感じた。一部の住民の間では明治の大津波のと き、揺れがたいへん小さかったから「津波が来る前の地 震は弱い」と思い込み、津波は来ないと思いこんで避難 をためらった人も少なくなかったという。また、三陸沿 岸の住民には「冬季と晴天の囗には津波は来ない」とい う言い伝えがあって、雪が舞う厳寒の時期だったことも あって、津波は来ないと思って、再び眠りについた人も 多かったという。  東日本大震災による大津波は三月十一日午後二時四十 六分にM9・Oの巨大地震が発生し、それからほぼ三十 分後に東北、北関東沿岸を十メートルを越える巨大津波 が襲った。こうしてみると、地震発生から三十分の行動 が生死を分ける分水嶺になることがわかる。「津波てん でんこ」という言葉はそれを端的に示しているであろう。  明治三陸地震津波で岩手県下閉伊郡田老村は壊滅的な 被害を受けた。人口二二四八人のうち死者一八六七人 (八三・一%)と村民の八割以上が犠牲になった。それか ら三十七年たった昭和三陸地震津波でまた壊滅的な打撃 を受けた。わずかに数戸の民家と高地にある役場、学校、 寺院を残すだけで、村落すべてが流出し、死者九一一名 を出し、一家全滅も六十六戸あった。「津波太郎(田 老)」という名称が冠せられたほどだった。  昭和三陸地震津波の翌年(一九三四年)海岸線に防潮 堤の建設を始めた。田老地区の防潮堤は二重になってお り、上空から見るとX字状をしている。中心点から北方 向と西方向にそれぞれ延びる陸側の防潮堤は旧田老村が 建設を始め、戦争で中断されたが、一九五八(昭和三十 三)年に完成、その後旧建設省が改良工事を施した。中 心点から東方向と南方向にそれぞれ海側に延びる防潮堤 は水産庁が整備した。一九七九(昭和五十四)年に長さ 二四三三メートル、高さ十メートル(海面から)の防潮 堤が完成した。一九六〇(昭和三十五)年五月二十四日 未明のチリ地震による大津波が襲来したが、防潮堤が被 害を皆無にとどめた。  一九三三(昭和八)年の昭和三陸地震津波の後、岩手 県宮古市重茂半島東端の姉吉地区、海抜六十メートルの 場所に石碑が建てられている。「高き住居は 児孫の和 楽 想へ惨禍の 大津浪此処より下に 家を建てるな」。 この警句の下に「明治二十九年にも昭和八年にも津浪は 此処まで来て部落は全滅し生存者僅かに前に二人後に四 人のみ 幾歳経るとも要心あれ」と刻まれてある。住民 はこの警告を守り、高台に暮らしてきた。震災当日、港 にいた住民は大津波警報が発せられると、高台にある家 を目指して、曲がりくねった約八百メートルの坂道を駆 け上がり難を逃れた。巨大な津波の勢いは石碑の五十 メートル手前で止まったという。ここに限らず、三陸沿 岸の至るところに過去の教訓を伝える石碑がある。岩手             卜( 県山田町船越半島に建つ石碑はより具体的である。「大 地震の後には津波が来る」「地震があったら高い所へ集 まれ」「津波に追われたら何処でも此処位の高い処へ」 「遠くへ逃げては津波に追付かれる 近くの高い所を用 意して置け」「縣指定の住宅適地より低い所へ家を建て るな」。強い語調に、昭和三陸地震津波当時の人々の危 機感が滲みでている。  巨大天災の前に人間の尺度で時間を考えずに、地質学 的に時間を考えてみる必要があるのではないか。地球の 年齢四十五億年を一年に喩えてみよう。地質学者坂幸恭 教授によると、四十五億年前が一月一日の午前零時、現 在を十二月三十一日の深夜十二時とする。人間の尺度で いえば百万年前は天文学的数値といえるが、地質学的時 間にしたがえば十二月三十一日の午後十時三分になると いう。一千年前は十一時五十九分五十三秒ということに なる。明治三陸地震大津波から一五年、東日本大震災が 襲ってきた。地質学的時間ではほんの一瞬である。いか に三陸沖が津波の常襲地帯であるかがわかるであろう。     D一 江戸時代に津波とたたかった人        -「稲むらの火」と演口梧陵-  一九八三(昭和五十八)年五月二十六日昼、秋田県を 中心に東北、北海道、中部、北陸地方を襲ったマグニ チュードフ・7の地震は日本海中部地震と名付けられた。             一二( 気象庁は午後十二時十四分、東北地方に大津波警報、北 海道、中部地方に津波警報を発令した。一〇二名の犠牲 者をだしたが、そのほとんどが津波による犠牲者であっ た。第一波の津波が襲っだのは警報発令後十五分ほど 経った後であった。もし津波警報後、適切な措置がとら れていたら被害を最小限にとどめることができたのでは ないか、気象庁では、この記録をもとに津波に対する啓 蒙活動を進めてきた経緯がある。日本海中部地震では、 地震の規模にくらべれば被害はまだ少なかったというこ ともできる。発生時が昼間であったこと、震源地が秋田 沖一六〇キロの日本海であったことなどによるのだろう。  秋田県の男鹿半島を中心に被害が大きかった。山村の 町から海を見に、男鹿半島加茂海岸に遠足に来ていた北 秋田郡合川町立合川南小学校の四、五年生四十五人が津 波にのみこまれ十三人が亡くなった。海岸で弁当を食べ 始めた直後、津波に襲われた。なぜ被害は避けられな かったのか。当時、被災地のみならず日本の各地で次の ような声があがっだ。「稲むらの火」のような防災教材 が教科書に採られていたら、被害は避けられたのではな いか。「稲むらの火」は庄屋をつとめる一人の老人が、 地震の後、津波が襲ってくると察して、収穫した大切な 稲むらに火を放ち、多くの村人を救った物語であり、一 九三七(昭和十二)年から一九四七(昭和二十二)年にか けて小学校の国語教科書に採録されて、人びとの心に感 動を呼ぶ作品となった。全文は約ヱ(○○字ほどの長さ             一二( である。  「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は 家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどの ものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方 と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで 経験したことのない不気味なものであった。  五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下 ろした。村では、豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られ て、さっきの地震には一向に気がつかないもののようで ある。  村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸い つけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動い て、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてき た。  「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は 思った。  このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一 のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。  「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな 松明をもって飛び出してきた。そこには、取り入れるば かりになっているたくさんの稲束が積んである。  「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、 五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。風 にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つまた一つ、 五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての 稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失 神したように、彼はそこに突っ立つたまま、沖の方を眺 めていた。  日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってき た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この火を見 て早鐘をつき出した。  「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで 山手へ駆け出した。つづいて、老人も、女も、子どもも、 若者の後を追うように駆け出した。  高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の 歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人ほど の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しに かかろうとする。五兵衛は大声に言った。  「うっちゃっておけ。-大変だ。村中の人に来てもら うんだ」  村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後か ら後から上かってくる老幼男女を一人一人数えた。集 まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを、 代わる代わる見比べた。  その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。  「見ろ。やって来たぞ」  たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方を 一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見 えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常             一二( な速さで押し寄せてきた。「津波だ」と、誰かが叫んだ。 海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山が のしかかってきたような重さと、百雷の一時に落ちたよ うなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我 を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進して きた水煙のほかは、一時何も見えなかった。  人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろし い海を見た。二度三度、村の上を海は進みまた退いた。  高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、 波にえぐりとられて跡形もなくなった村を、ただあきれ て見下ろしていた。  稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、夕や みに包まれたあたりを明るくした。はじめて我にかえっ た村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、 無言のまま五兵衛の前にひざまずいてしまった。  (新漢字・新仮名づかい、振り仮名追加などで読みやすくし                         た)  この「稲むらの火」は一八五四(安政元)年の安政南 海地震の際、紀州和歌山藩広村(現在の和歌山県有田郡広 川町)での実話がモデルとなっている。幕末の一八五〇 年代は内憂外患、めまぐるしく歴史が変転し、また大き な災害をもたらす地震が相次いだ時代であった。一八五 三(嘉永六)年にはペリーが浦賀に来航し、安政と元号 が変わった一八五四(安政元)年十二月二十三日に安政 東海地震、翌日の十二月二十四日に安政南海地震が発生 した。一八五五(安政二)年には江戸安政大地震が発生 している。安政南海地震(M8・4)では被害は中部地 方から九州にまで及んだ。大津波が紀伊半島の南西岸か ら四国の太平洋岸を襲い、紀伊半島の西海岸にある広村 は三九九戸のうち五戸が流失し、三十六人の死者を出し た。広村の名望家である演口家は代々、下総国銚子で醤 油醸造を手がけていた。後のヤマサ醤油である。安政南 海地震が発生したとき、演目梧陵(儀兵衛)は消口家第 七代当主であり、広村にいた。上記「稲むらの火」は、 このときの演口梧陵(一八二〇-八五)が自己を犠牲に してまで村人を救った行為が人づてに伝えられ、ラフカ ディオー(Iン(小泉八雲、一八五〇-一九〇四)の耳に 大ったものと考えられる。一八九〇(明治二十三)年に 来日し、松山中学や熊本の五高で教鞭をとったあと、一 時神戸の新聞社で英字新聞の記者をしていた。神戸から 東京に移り住んだ一八九六(明治二十九)年、三陸地震 津波が起こり、その惨状を知るにつけ、演口梧陵の話を 思いおこし”A 」iving God ” (生ける神)という短編小説 を執筆したのである。それを和歌山県の小学校で教員を していた中井常蔵(一九〇七-九四)が『稲むらの火』 と題して子ども向けに書き改めたものが、一九三七(昭 和十二)年から一九四七(昭和二二)年まで国語の教科書 に載り防災教育の不朽の名作となったのである。  これだけであればただ単なる「美談」で終わったであ ろうが、演口梧陵は復興に手をこまねいていた幕府や藩 に代わり、大防波堤建設を核とする広村再建のための長 期計画を立案し、実現したのである。現在でも広村堤防 として残っている。  演口梧陵の交友関係は勝海舟(一八二三-九九)、福沢 諭吉(一八三五-一九〇一)など幅広く、とりわけ幕末か ら明治期の蘭医たち、佐藤泰然(佐倉順天堂の創始者、一 八〇四-七二)、三宅艮斎(佐倉藩医、医学所教授、一八一 七-六八)、松本良順(佐藤泰然の次男、一八三二-一九〇 七)、関寛斎(上総国出身、徳島藩医、一八三〇-一九二一) との交友関係が私の興味を引く。     13 後藤新平と関東大震災        -此ノ期二及ンデ区々ノ事情何カアラ        ンー  一九二三(大正十二)年八月二十四日、首相加藤友三 郎(一八六一-一九二三)は首相在任のまま急逝した。組 閣の大命が同じく海軍出身、薩摩閥の重鎮、山本権兵衛 二八五二-一九三三)に下った。山本権兵衛はちょうど 十年前、首相の座についたが、海軍首脳を巻き込んだ シーメンス事件の発覚によって総辞職した。今回は二度 目の首相の座であった。加藤の死後、そう間をおかずし て後藤新平(一八五七-一九二九)に入閣の誘いがあった。 九月一日、組閣の最中に激しい震動がおきだ。午前十一 時五十八分三十秒のことであった。  「九月一日(土曜) 朝はしけ模様で時々暴雨が襲って 来た。非常な強度で降っていると思うと、まるで断ち 切ったようにぱたりと止む、そうかと思うとまた急に降 り出す実に珍しい断続的な降り方であった」(寺田寅彦 「震災日記より」-『天災と国防』所収、講談社学術文庫)。 低気圧模様の天候だったのだろう。麻布市兵衛町の 偏奇館にいた永井荷風(一八七九-一九五九)も日記に次 のように書いている。「九月朔。忽爽雨歇みしが風な仔 烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日まさに午 ならむとする時天地忽鳴動す」(磯田光一編『摘録 断 腸亭日乗』岩波文庫)。  山本権兵衛から後藤新平に「内務大臣に就任してもら いたい」との連絡があっだのは九月一日の午後のことで あった。「今「尋常ノ場合ニアラズ。一刻モ速二新内閣 ヲ組織」しなければならない。「此ノ期二及ンデ区々ノ 事情何カアラン」と内務大臣就任を受諾した。帝都東京 はまだ燃え続けていた。後藤新平は九月二日、親任式に 臨み、第二次山本権兵衛内閣は発足した。  後藤新平は医者、政治家として公衆衛生、鉄道、通信、 金融、都市計画など多方面にわたって活躍、その大胆な 構想は「大風呂敷」と揶揄されもしたが、その発想と 天稟からすれば、天辺の椅子=総理大臣になれる器で あった。毀誉褒貶の激しい性格であった。彼は安政江戸 地震の二年後、陸奥国胆沢郡塩釜村(現岩手県奥州市水沢 区)の旧留守家の家中、後藤実嵩の長男として生まれる。 母方の大伯父に高野長英(一八〇四-五〇)がいる。こ の出自は後藤新平を語るうえで重要な意味をもつであろ う。維新後、留守家とその家中は並々ならぬ苦労を味 わった。戊辰戦争に敗れた東北諸藩の出身者は薩長人か ら「白河以北一山百文」と揶揄された。平民宰相といわ れた盛岡藩の上級武土層出身である原敬(一八五六-一 九二二とて同じである。原敬は一山または逸山と号し たが、これは「白河以北一山百文」から取ったものであ り、「この二文字には昂然たる反撥の気概がこめられて いた」のである(岡義武『近代囗本の政治家』岩波現代文 庫)。  薩長藩閥政治の中で政治の世界で頭角を現すには、そ れ相当の覚悟を要したであろう。明治維新前は 「謀反人」、維新後は「維新の先覚者」となった高野長英 を親戚に持ったことは後藤新平の心になんらかの痕跡を 残したにちがいない。後に「今日に在りては即ち宜しく 刻意励行、長英を以て期せさるへからす」と回想してい る(北岡伸一『後藤新平1外交とヴィジョン』中公新書)。  後藤新平にもその段階、段階で運命的出会いがあった。 その第一歩が、胆沢県大参事である安場保和(一八三 五I九九)との出会いであった。安場保和は肥後(熊本) 出身で横井小楠(一八〇九-六九)に師事した。勝海舟 (一八二三-九九)の『氷川清話』(江藤淳ほか編、講談社学 術文庫)に次のような記述がある。「小楠のよい弟子と いったら、安場保和一人くらゐのものだろう。つまり小 楠は、覚られ難い人物サ」。その安場に後藤は認められ て書生となり、県庁に勤務した。後の海軍大将、総理大 臣にもなった斎藤実(一八五八-一九三六)も同じ書生と して引き立てられた。安場が岩倉遣欧使節団に参加し福 島県令になると、後藤は安場をたより福島洋学校に入学 したが、安場の薦めもあり、十七歳で須賀川医学校に 入っだ。安場が一八七五(明治八)年から愛知県令にな ると、後藤は愛知県医学校で医者となる。地方の医学校 出という経歴が心の襞に刻みこまれて時として劣等感を 刺激されたこともあったであろう。しかしここで後藤新 平は生来の負けん気と精進によって、めざましく昇進し 二十四歳で愛知県病院長兼医学校長となる。  一八八二(明治十五)年の四月、前年、創設された自 由党の党首である板垣退助(一八三七-一九一九)が党勢 拡大のため、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷する事件 が発生した(岐阜事件)。板垣を治療したのが後藤新平で ある。後藤は診察して板垣に言った。「最初に胸部を刺 されたとのことですが、なに、こちらはただのかすり傷 です。たいしたことはありません」。幕末の血なまぐさ い転換期をくぐってきた板垣退助である。腕に覚えのあ る板垣は刺客に臆することなく立ち向かった。「手のひ らの出血がひどい」。後藤新平の時宜を得た処置によっ て板垣は一命をとりとめた。一連の沈着冷静な後藤新平 の対応に板垣は「きみは医者として優れているが、まわ りから変わり者と見られよう。だが政治家には最適 だ……惜しまれることではないのか」。心の奥で政治家 志望であった後藤新平の心に火がついたとしても不思議 ではない。「白河以北一山百文」と薩長人から揶揄され てきた後藤新平の心になにがしかの想いをたきつけたこ とも事実であろう。この時、巷間に伝えられている「板 垣死すとも、自由は死なず」との名言は、板垣が暴漢に 発した言葉だとされている。歴史上の名言には誤解がつ きものである。この名言には異説があり、事件直後、小 室信介という新聞記者が岐阜で行った「板垣死すとも、 自由は死なず」という演説の題名が板垣自身の言葉とし て巷間に広まったとか、本当は現場に居あわせた秘書が 叫んだ言葉とも言われている。板垣退助と出会った翌年 の一八八三(明治十六)年、後藤新平は内務省御用掛と なり、政治の道に踏み込むことになった。  このころ後藤新平は安場保和の娘、和子(一八六六- 一九一八)と結婚する。痼癪持ちで直情径行、矛盾撞着 のかたまりである後藤新平と生涯を共に生きた賢夫人で ある。後年、欧米漫遊の和子夫人に後藤は次のような短 歌を詠んでいる。「家に居ても旅にありてもかにかくと 明け暮れ妹を思いけるかな」。  一八九三(明治一一十六)年、順風満帆であった後藤新 平の人生にも翳りが生じた。彼が卒業した「須賀川医学 校」が福島県にあることもあって「旧家相馬家の家督を めぐる争い」に巻き込まれ(相馬事件)、官を辞すること になった。こんな不遇の時期に手をさしのべたのが、囗 本の軍医制度の創設者石黒忠悳(一八四五-一九四二で あった。  当時日本は日清戦争の末期で、帰還軍人の検疫事業が 焦眉の課題となっていた。臨時陸軍検疫部の官制が発布 され、当時陸軍次官の児玉源太郎(一八五二-一九〇六) が同検疫部の初代部長になった。日清戦争にはもう一つ の戦いがあった。それは悪疫との戦いである。日清戦争 の本当の敵は悪疫ではなかったかといわれるほど多数の 兵士が発病した。出征中、入院加療を受けた者は、延べ 十七万人にものぼり、入院患者のうち、戦闘で傷ついた ものは四五〇〇人にしかすぎず、あとは赤痢、マラリア、 コレラなどの伝染病か脚気であったといわれている。し かも日清戦争が終わった大陸や台湾には、二十三万人を 超える将兵が凱旋の日を待っていた。いかに帰還将兵の 検疫が喫緊の課題であったかが理解されよう。そんなと きに石黒忠悳が児玉源太郎に紹介したのが児玉より五歳 年下の後藤新平であった。ここから児玉源太郎と後藤新 平の因縁の関係が始まるのである。  後藤新平は検疫部事務局長に起用され、「さて、どの くらいの予算をいただけますか」-後藤新平は児玉源 太郎に単刀直入に尋ねた。予算の裁定は陸軍次官の児玉 源太郎に委ねられていた。「さっぱり見当がつかんが、 君はいくら欲しい」。大風呂敷の後藤は「まあ百万円と             卜( いうところでしょうか)とふっかけた。児玉源太郎は大 風呂敷の後藤新平のその先を行っていた。「よし、百五 十万円出すことにしよう」。これはたいへんな事業で あった。日清戦争後のみならず、日露戦争後の検疫業務 がスムーズに行われたのは、二人によって樹立された検 疫体制によるものだった。これを機に源太郎と新平の二 人の協働関係は続く。  一八九八(明治三十こ年一月に第三師団長(名古屋) を命じられた児玉源太郎は、ほどなく台湾総督をつとめ ていた乃木希典(一八四九-一九二一)の辞任により、台 湾総督の任に就くことになった。児玉は台湾総督府民生 局長官に後藤新平を起用した。児玉と後藤は荒療治とも 言える大鉈を振るって改革に取り組んだ。児玉の台湾施 政の基本方針は次の三点であった。(一)土匪を鎮定し て平和を与える。(二)文武官僚の権威を明らかにし、 民政の主義を確立する。(三)土地調査∴尸籍調査に よって行政の基礎を確立する。児玉源太郎は「縦横無尽 といった新機軸」を創出して、植民地の統治に彼一流の 努力の跡を見せたが、それは後藤新平という有能な協力 者があったからである。後藤新平がこの台湾での経験を 通じて得た統治の基本は次のようなものであった。後の 朝鮮経営のように日本内地の法制をいきなり移植するの ではなく、差異は差異として認めて民情に即した施政を 行うことである。「緻密な計画と大胆な実行」、これが後 藤新平の真骨頂であった。アメリカから新渡戸稲造(一             一二( 八六二I一九三三)を招聘し、新渡戸は殖産局長として 台湾でのサトウキビ、サツマイモの普及と改良に大きな 成果を残した。後藤新平は多くの有能な人材を登用した。 また阿片漸禁策など、台湾の実情に合わせた臨機応変の 施策を行った。次の後藤新平の言葉がそれを端的に表現 している。「平目の目を鯛の目にすることはできんよ。 鯛の目はちゃんと頭の両方についている。平目の目は頭 の一方についている。それがおかしいからといって、鯛 の目のように両方につけ替えることはできない」。  後藤新平は児玉源太郎の腹心として縦横無尽の活躍を したが、勇み足をして勝手なことをやりかねないのも後 藤新平の性分である。一例をあげれば、本土との定期航 路を開設することを源太郎が思い立ち、後藤に準備を命 じた。一年たっても後藤から何の連絡もない。すると就 航する船会社までも、後藤が独断で決めているようなこ ともあった。この台湾民政長官時代からの樟脳の専売利 権以来結びついていた「鈴木商店」との関係など、金権 体質なども批判されもした。  一九〇〇(明治三十三)年十二月、児玉源太郎は第四 次伊藤内閣で桂太郎(一八四八―一九匸二)の後任の陸軍 大臣に就任した。台湾総督は兼任のままである。就任か ら六ヶ月後に伊藤内閣は総辞職した。後を受けたのが山 県有朋(一八三八1一九二二)子飼いの桂太郎である。四 歳年上の桂太郎、同年の寺内正毅(一八五二-一九一九) と児玉源太郎とは鳥羽・伏見の戦い以来の仲である。桂             一二( 内閣でも児玉源太郎は陸相に留任した。日清戦争後の三 国干渉以来、日本国民は「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシ アとの開戦に備えてきた。日露戦争勃発を目前に控えた 一九〇三(明治三十六)年十月、参謀次長としてロシア 戦研究に没頭してきた田村怡与造少将(一八五四-一九 〇こが急死した。当時の参謀総長は大山巌(一八四 二-一九ヱ()であった。この難局にあたって桂内閣で 内相、文相、台湾総督を兼ね、天辺の椅子=総理大臣に 最も近い人物である児玉源太郎が、いわば降格人事であ るのに、あえて「火中の栗を拾う」かたちで参謀次長に 就任した。日露戦争を大山巌満州派遣軍総司令官、児玉 源太郎総参謀長として戦い抜いた。児玉源太郎は一九〇 六(明治三十九)年七月、燃え尽きたかのように五十四 歳の生涯を閉じた。本来は児玉源太郎が就任するはずで あった満鉄総裁の地位は後藤新平が受けることになった。 児玉源太郎の遺志を継ぐというよりも、後藤新平の変わ り身の早さには、いささか気になるところがある。  以後、後藤新平は一九一六(大正五)年に成立した寺 内正毅内閣の内務大臣兼鉄道院総裁、一九二〇(大正 九)年には東京市長に就任した。東京市長として「東京 市政要綱」という東京改造計画を作った。その内容は 「都市の基本的生活のインフラの整備」、すなわち道路、 塵芥の処理、し尿の処理、福祉、教育、上下水道、住宅、 電気・ガス、港湾や河川の改修、公園や広場の新設や改 修、市庁舎や公会堂の新設など市政全般にわたるもので あった。それに係わる費用は八億円という規模であった。 当時の東京市の予算は一億二、三千万円程度であり、中 央政府の予算が十五億円であったから、この東京改造計 画がいかに大規模なものだったかわかるであろう。これ が「大風呂敷の代名詞」である「八億円プラン」と呼ば れるものである。しかしこの計画は、政治・政策の面で 支えてくれた原敬、経済や金銭的な側面で、後藤の東京 改造計画をささえてくれた安田善次郎(一八三八-一九 二二の暗殺などもあって、後藤は東京市長を辞任して、 東京改造計画は頓挫した。  関東大震災という未曾有の災害に直面して帝都の復 旧・復興を担えるのは自分しかいないと後藤新平が思っ たとしても当然であろうし、またそれは衆目の一致する ところであった。台湾民政長官、満鉄総裁、鉄道院総裁、 東京市長時代を通じて、硬直した官僚機構と党利党略に 明け暮れる政党間の闘争に辟易としていた後藤新平が とっだ手段は、(一)大胆な人事による組織の活性化 (二)有力者の強い支持を得ること(三)大規模で科学 的な調査を行って反対論を封じこめることであった。  一九二三(大正十二)年九月二日、内閣親任式から帰 ると、後藤新平は直ちに娘婿の鶴見祐輔(一八八五-一 九七三)にチャールズーオースティンービアード(一八 七四I一九四八)に電報を打って、「いそぎ囗本に来るよ うに頼んでくれ」と申しつけた。C・A・ビアードは二 十世紀前半の世界でも最高の知的指導者の一人であり、 後藤新平とは東京市長時代から親交があり、来日して 数々のアドバイスを与えていた。ビアードから折り返し 「来日承認」の返電があった。そこには「新街路を決定 せよ。鉄道の駅を統一せよ」と簡潔に、差し当だっての 示唆が書かれていた。後藤新平もまったく同感であった。 後藤は直ちに帝都復興の骨子となる四項目を書き記した。 (匸遷都すべからず(二)復興費に三十億円を要すべ し(三)欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応し い新都を造営せざるべからず(四)新都市計画実施の為 には、地主に対して断固たる態度をとらざるべからず。 閣議における「帝都復興ノ議」の審議にあたって後藤新 平は彼の基本的考え方を述べている。「其ノ惨害言ウニ 忍ビザルモノアリト雖モ、理想的帝都建設ノ為真二絶好 ノ機会ナリ。此ノ機二際シ宜シクー大英断ヲ以テ帝都建 設ノ大策ヲ確立シ之が実現ヲ期セザルベカラズ」。  復興に要する予算規模の問題の他に、閣議における論 議の焦点は次の二点に絞られた。  (匸「罹災地域ノ土地(公偵ヲ発行シテ此ノ際之ヲ買 収シ、以テ土地ノ整理ヲ実行シタル上、必要二応ジテ更 ラニ適当公平二其ノ売却乂貸付ヲ為スコト」すなわち 「焼土全部買上案」である。(二)「帝都復興ノ計画及執 行ノ事務ヲ掌ラシムル為メ新タニ独立ノー機関ヲ設クル コト」すなわち「復興省設立ノ議」である。  後藤新平の手になる復興案を遂行するには四十億を要 するという。閣議では「焼土全部買上案」は留保事項と なり、復興に関する権限の匸兀化を狙う「復興省設立ノ 議」は否決され、「復興院案」が賛成多数で可決された。 九月二十七日に「帝都復興院官制」が公布され、九月二 十九日に後藤新平は正式に復興院総裁に就任した。復興 予算「四十億」という数値もどんどん縮小され、計画が 内務省から復興院に引き継がれるときには十億円になり、 最終的に政府の復興予算総額は七億円となった。  復興院で具体的な復興案の論議にあたって、後藤新平 は四項目にわたる「帝都復興の原則」を挙げている。 (匸横浜港は帝都の関門であるので、東京との連携を 良くしておかなければならない(二)必要のない建造物 は、東京市から他の地に移すこと(三)交通を整備し、 街路、運河、公園などを整備して、必要に応じて新設す る。その際には、建造物は防災に足る街区に建設するこ と(四)土地の区画整理と公共施設の回復である。  総理大臣の下に帝都の「復旧・復興」に関する最高政 策決定機関である「帝都復興審議会」が九月十九日の勅 令により設置された。総裁は山本権兵衛、後藤新平が幹 事長になった。委員は閣僚、帝国議会両院の代表的議員、 有力な財界人、枢密顧問官などで構成されていた。委員 の顔ぶれからすると論議は紛糾することが予想された。 十一月二十四日に帝都復興審議会が開催され、案に違わ ず「幹線道路が広すぎる、古い道路を拡張すれば足りる、 区画整理は無用である、地主の所有権を尊重せよ」など 計画の巨大さに強い批判が浴びせられた。委員の一人。             一二( 後藤新平とは「肝胆相照らす仲」といえる枢密顧問官、 伊東巳代治(一八五七-一九三四)の発言は審議会におけ る議論の趨勢に決定的な影響を与えた。この発言にはさ しもの後藤新平も大分こたえたようである。伊東巳代治 は銀座に広大な土地を所有する大地主であり、「帝都に 地権を有する大地主の意見を代弁したにすぎない」との 説がある。構想ないし政策を遂行する場合に、それに よって恩恵を得る多数の人びとの意見よりも、それによ り不利益を蒙る少数の人びとの主張が議論の趨勢を決定 づけることが多い。伊東にもそういう一面はあったろう。 しかし北岡伸一の次のような指摘のほうがより説得力が ある。「伊東は細部の欠点や矛盾を発見し、その抜け道 を考える官僚的な頭脳では天才的であったが、ヴィジョ ンがなかった」。「法の番人」を自称する伊東には「後藤 新平のように将来を見据えて、日本の防災対策はいかに あるべきか、日本の首都はいかにあるべきか」に関する グランドーデザインがなかった。一方「発想の人」であ る後藤新平は、じっくりと反対者を論破し、説得するこ とが不得手であったことも事実であろう。帝都復興審議 会の意見を一部取り入れて、街路計画を縮小した結果、 予算総額は五億九七〇〇万になっていた。  臨時議会は十二月十日に開催された。後藤新平の構想 は政友会の修正によって、更に一億三〇〇〇万減額され た。これは後藤の復興計画全体に対する不信任を意味す るに等しかった。この政友会の修正に対し、政府は議会             一二( 解散という手段をとらず、譲歩してこれを受け入れるこ とにした。十二月十八日のことである。あの短気で癇癪 持ちの後藤新平が受け入れたのは偏に「おれがやらなけ れば、誰がやるのだ」という白負心のなせるものだった であろう。後藤新平のことだから心の奥底では、その後 の本会議(通常議会)で議会を解散して、国民に是非を 問い、少しずつ自分の理想案に引き戻すことを密かに考 えていたのかもしれない。歴史は皮肉である。十二月二 十七日、帝国議会開院式に向かう途上、虎ノ門付近で摂 政の宮(後の昭和天皇)が難波大輔に狙撃される「虎ノ 門事件」が発生した。この責任をとって山本内閣は総辞 職し、それに従い後藤新平も内相兼復興院総裁を辞任し た。山本内閣は四ヶ月の短命政権であった。翌一九二四 (大正十三)年二月二十五日、帝都復興院は廃止され、内 務省の外局として復興局が新設され、後藤新平の復興構 想は頓挫した。しかし彼の復興構想は、規模と地域を縮 小され、満身創痍となりながらも、その核心的部分は生 き残ったとも言えるであろう。今日に至るまで後藤の構 想が「当初の計画通りに行われていたら」と惜しむ声は 多い。  その後の復興事業は、震災の翌年から始まり、一九三 〇(昭和五)年まで足かけ七年にわたって行われた。今 日でも後藤の構想の一部を見ることができる。「東西と 南北の二大幹線道路」として設置された「昭和通り」と 「大正通り(現靖国通り)」、「日本初のリバーサイド・ パーク」といわれる隅田公園などは後藤新平の構想に由 来するものである。     14 江戸・東京を襲った大災害        -世界でも稀な大火の頻発-  江戸は地震・噴火などの自然災害や大火にしばしば見 舞われた。江戸時代中期の元禄末期から宝永年間にかけ ての十八世紀初頭と幕末の一八五四-五八年の時期には わずか数年の間に地震が相次いだ(伊藤和明『地震と噴火 の日本史』岩波新書)。  一七〇三(元禄十六)年の元禄地震は相模トラフ巨大 地震であり、一七〇七(宝永四)年の宝永地震は東海- 南海巨大地震である。元禄地震は房総半島から相模湾沿 岸にかけて震害のみならず、大規模な地盤隆起、また大 津波によって、大災害をもたらし、元禄の繁栄に終止符 を打った。四年後の宝永地震は日本列島が歴史時代に経 験した最大規模の巨大地震であり、東海地方から紀伊半 島、四国にかけて震害、大津波によって大災害をもたら した。この宝永大地震は南海トラフ上の南海地震と東南 海地震、東海地震が同時に発生したものと考えられる。 しかもその四十九日後に宝永の大噴火とよばれる富士山 の大噴火が発生した。江戸にも多量の火山灰が降り注ぎ、 大飢謹が発生した。  幕末の一八五〇年代も大地震が連続して起こった。一 八五三(嘉永六)年三月には小田原付近を震源とする地 震が起こり、同年七月には四隻の黒船を率いてベリー ニ七九四-一八五八)が浦賀沖に現れ、江戸府内は大混 乱に陥った。嘉永から安政に改元された一八五四年には 七月に伊賀上野付近を震源とする地震が発生、同年十二 月二十三日と二十四日に安政東海地震と安政南海地震と いう巨大地震が連続して発生した。翌一八五五(安政 二)年には、江戸の直下を震源として安政江戸地震が発 生した。安政東海地震では、襲ってきた大津波によって、 折しも下田に停泊していたロシア艦隊の提督プチャーチ ン(一八〇四-八三)が乗艦していたディアナ号が遭難 した。安政南海地震では、紀伊半島の西海岸にある広村 (現在の和歌山県広川町)は津波によって大被害を受け、 そこでの実話が防災教材で有名な『稲むらの火』のモデ ルとなったことはよく知られている。  安政江戸地震(一八五五年一〇月二日)は江戸下町の地 盤軟弱な地域を直撃し、とりわけ本所、深川、浅草、下 谷などに被害が大きく、家屋の倒壊は一万四〇〇〇戸あ まりに達したという。『時風録』の記述によれば「怪し き光りもの四方にひらめきわたるやいなや、大地俄かに 鳴動し、山川を覆へし、陣屋を震倒す事、一時に数万軒、 其響恰も百千雷の落かかれる如し」と表現されている。 瞬時に多数の家屋が倒壊したため、江戸市中の三十ヶ所 余りから出火した。この夜は幸いにも風がおだやかだっ たため、火災はほとんど火元の周辺で消し止められ、関 東大震災のときのような広域火災にはいたらなかった。  「火事と喧嘩は江戸の華」。江戸っ子は、焼けのやん八、 〈恥〉を〈花〉にいいかえて居直らざるを得ないほど、 それほど火事が多かった。大火が頻発し、市街地の大半 を繰り返し焼き払った史実は世界でも類例がないとされ る。ある調査によれば、ヱ(○一 (慶長六)年から大政 奉還が行われた一八六七(慶応三)年にいたるまでの二 六七年間に江戸三大大火といわれる一六五七(明暦三) 年の明暦の大火=振袖火事、一七七二(明和九)年の明 和の大火=行人坂大火、一八〇六(文化三)年の文化の 大火=丙寅の大火を含めて四十九回もの大火が江戸で発 生している。このように世界で類例を見ない大火の頻発 の原因は江戸の膨大な人口と木造建築の密集、様々な動 機による放火、江戸独特な気象条件が挙げられるであろ う。「江戸の町人人口に占める建設職人の割合がとびぬ けて大きかったのも、年中行事のように繰り返す火事の 結果」(藤森照信『明治の東京計画』岩波現代文庫)であっ た。  中でもとりわけ二(五七(明暦三)年の「明暦の大火 (振袖火事)」はすさまじかった。一月十八日昼すぎに本 郷丸山町(現文京区)の本妙寺から出火し、北西風に のって山の手から下町一帯に燃え広がり、江戸の市街地 の三分の二が消失し、死者は約十万二〇〇〇大にのぼっ たという。当時江戸の人口は約三十万人であるから、江 戸人口の約三分の一にあたることになる。特に冬に山の 手で発生し、下町をなめ、海に抜けて止まる江戸の火事 は悪名が高かった。仕事にあぶれた職人は北西風のざわ めきに半鐘の混じるのを心待ちにしたと言われもした。 明暦の大火では江戸城の天守閣にも引火し、消失した。 「山の手」「下町」という言葉も江戸時代初期には現在と はかなり意味が違っていたことに留意する必要がある。 その当時は武家が住む台地部分を「山の手」といい、町 人地となった低地部分を「下町」と呼んでいた。「下町」 は京橋や日本橋、神田を指していたという。「山の手」 の語源は定かではないが、地域は四谷、青山、市ヶ谷、 小石川、本郷あたりを指していた(玉井泰夫『東京・地理 の謎』ふだばらいふ新書)。皮肉にも、明暦の大火によっ て火除け地の設定、火消し制度の整備、また江戸の都市 計画が本格的な日程に上ったことも事実である。  江戸城内にあった大名屋敷を城外に移転させ、跡地に 建物を建てずに空き地とした。江戸城近くや市街地にあ る寺院や大きい神社も郊外に移した。町人地では、防火 と避難のために空き地をつくったり、上野広小路など道 幅の広い道路をつくった。そのために立ち退かせた住民 は、新たにつくった埋立地に住まわせたり、武蔵野に移 住させて新田開発をおこなわせた。中央線吉祥寺に「吉 祥寺」という寺はなく、文京区に「吉祥寺」がある謎も 解けるであろう。もともと吉祥寺があったのは、現在の 水道橋の北側であったという。明暦の大火で消失し、ま たその翌年にも火災の被害に遭い、駒込に移されること             一二( になった。これは江戸の中心部にある土地をわざわざ空 き地にしておき、火除け地にしようとしたためである。 同時に門前に住んでいた住民には武蔵野の原野に土地が 与えられ、ここで新田開拓をすることになった。それが 今日の吉祥寺へと発展したものである。  明治に入ってからも大火は頻発する。一八六九(明治 二)年十二月十二日午後十一時頃、神田相生町から発生 した火事は、付近一帯に延焼し、一一〇〇戸を焼失する 大火となった。当時の東京府知事大木喬任(一息二二- 九九)は、この火事で焼け出された人びとを他の地に移 し、ここを火除け地として、原っぱにしておいたのであ る。そして火除け地に防火の神社をつくることにした。 当時、火伏信仰の中心は遠州(現静岡県)の秋葉山で あったから、ここに秋葉神社ができた。かくして、この 火除け地は「秋葉ヶ原」「秋葉の原」と呼ばれるように なった。「秋葉原」という呼び名になったのは、旧国鉄 (現JR)の駅名になってからである。だから、その呼 び名は本来「あきはばら」ではなく、「あきばはら」が 正しいのである。世界的に知られる電気街である 「秋葉原」も大火と密接に関係がある。  一八七二(明治五)年二月、和田倉門内の兵部省から 出火して、築地、銀座一帯の約四〇〇〇戸を消失する大 火により、銀座の表通りは煉瓦造りの英国風建築に改造 する都市計画が立てられ「銀座煉瓦街」と呼ばれるよう になった。一八八一 (明治十四)年一月には神田松枝町             一二( から出火し、神田から深川に延焼し、約一万五〇〇〇戸 を焼失、明治期最大の大火となった。一万戸以上を焼失 した大火は、これ以降、関東大震災、東京大空襲以外、 東京は経験していない。この火事によって焼失した橋本 町一帯は名高いスラム街であったところから、瓦葺によ る屋上制限と合わせ、スラム街のクリアランスが計画さ れ、実行されることになった。関東大震災と帝都東京の 復興計画についてはすでに述べた通りである。            {………厂………‐1・ 第三部 行蔵は我に存す。毀誉は他者の主張            111………へ………・・     15 人並の道は通らぬ梅見かな        I関寛斎の生涯-  「ばか」という語がもつニュアンスは幅広い。私も時に 応じて「ばか」を臨機応変に使っている。「親の気持ち も分からないで、あのばかめが」「お前、お人よしすぎ るぞ、ばかと言われるぞ」。「ばか」という言葉ほど愛着、 愛惜、喪失感、憤りなどがせめぎあう言葉は他にあまり ないであろう。思いついたままに挙げてみる。  「男はつらいよ」シリーズではフーテンの寅さんをはじ め登場人物たちが「ばか」ということばを味わい深く 使っている。「貧乏人ってものはな、一番つらくてさみ しい時はよ、金持ちに札っ束で頬っぺ夕はたかれる時だ ぞ、金がねえんだよ、こりゃ、だから孝行娘を妾に出さ なきやならねえんじゃねえか、なア、その辛さに悲しさ にじっと堪えてるんだい。てめえみてえにケツの青い若 僧にその悲しさがわかるかい、バカヤロ」(第三作『フー テンの寅』)。「よう、越後屋、相変わらず馬鹿か。己を知 れよ!」(第十六作『葛飾立志篇』)。おいちゃんの竜造も そうである。甥の満男が「おじさん(‥寅さん)はいい なあ、個性的で」と言ったのに対して、「バカ。ああい うのは個性的と言うんじゃないんだ、出鱈目と言うん だ」(第三十五作『寅次郎恋愛塾』)と応える。  『氷壁』(井上靖、新潮文庫)では最後に主人公が山で遭 難死する。主人公に目をかけていた上司が社員を前に追 悼の言葉を述べる。思わず目に出た言葉が「ばかめ が!」であった。これが愛惜の念から出た言葉であるこ とは誰でもわかるであろう。  一九〇九(明治四十二)年十月二十六日、伊藤博文 二八四一-一九〇九)はハルビン駅頭で韓国独立運動の 義士安重根(一八七九-一九一〇)に狙撃され、列車内に 担ぎこまれた。瀕死の伊藤は、撃ったのは誰か尋ねた。 「韓国人です。逮捕されました」と告げられると、「馬鹿 な奴じゃ」とつぶやいた。それが最後の言葉であった。 「馬鹿な奴じゃ」にどういう思いをこめたのか。  幕末から明治期の蘭方医関寛斎(一八三〇-一九二一) の生涯(「生き様」と言った方がピッタリかも知れない)は 司馬遼太郎(一九二三-九六)の『胡蝶の夢』(新潮文庫) や城山三郎(一九二七-二○○七)の『人生余熱あり』 (光文社文庫)で描かれている。関寛斎は上総国山辺郡中 村(現在の千葉県東金市)の農家に生まれ、四歳のときに 母を亡くし、母の姉の嫁ぎ先である在野の儒学者関俊輔 の養子となった。早く亡くなった母への追慕の念は生涯 変わることはなかった。苦学して佐倉の「順天堂」に入 門し佐藤泰然(一八〇四-七二)に師事する。この佐藤 泰然の推薦により醤油醸造の地、銚子で医院を開業した。 この地で防災教材の白眉である「稲むらの火」のモデル、 演口梧陵(一八二〇-八五)に出会う。当時の銚子は、 江戸を控えた利根水運の玄関口として、江戸に次ぐ関東 第二の人口と経済力を誇っていた。消口梧陵はもともと 紀州広村の素封家であり、代々銚子で醤油醸造(現在の ヤマサ醤油)に携わる銚子の有力者であった。この消口 梧陵の支援で関寛斎は長崎に遊学し、オランダ軍医のボ ンベ(一八二九-一九〇八)についてオランダ医学を学ん だ。演口梧陵没後に「恩沢の記」で関寛斎は次のように 回顧している。「予が長崎在学中拝借したる金のみにて も 百両に上れるが 留守中家族の恵まれたる物品費用 厚意は到底計算する能わざる莫大なるものなり」。学業 の傍ら、求められれば患者を診ることもあった。徳富 蘇峰(一八六三-一九五七)、置花(健次郎、一八六八-一 九二七)兄弟の父親徳富一敬(一八二二-一九一四)もそ の一人であった。  長崎滞在は一年で終わり、銚子に帰った。梧陵にさら に五年の長崎留学をすすめられたが、寛斎は経済的自立 を第一に考えたのであろうか、梧陵の申し出を断った。 当時の西洋医学の展開は日進月歩である。再び「恩沢の 記」から引用する。「翁(‥濱囗梧陵)は此の時『後悔す るな』と云われたるのみにて、微笑され居たり」。その 後、阿波徳島の蜂須賀家の典医として徳島に移り住む。 戊辰の役では官軍の奥羽出張病院頭取を拝命し、敵味方 の区別なく治療にあたり、西郷隆盛(一八二八-七七) にも高く評価されたという。「順に行けば、軍医総監男 爵は造作もないことであった」(徳冨健次郎『みみずのた はこと』岩波文庫)が、栄達の道を自ら絶ち、阿波に帰 り一介の町医者として民衆医療に尽くす道を選んだ。 「他の同学の西洋医学の徒が、時流に乗って栄耀の裘を 一枚ずつ着かさねて行っだのに対し、寛斎は逆にみずか らぬぎすてていったようにおもえる」。開業した医院は 門前市を成すほど繁昌した。各地から門弟が集まり、屋 敷前の道は「関ノ小路」と呼ばれるほどであった。その 生き方も尋常なものではなかった。寛斎は金持ちには迎 えの駕籠を出させることもあったが、貧しい人からはI 文もとらなかったという。無料患者の数は有料患者の六 倍にも及んだともいい、「関大明神」と人びとから崇め られた。  その関寛斎が三十年間にわたって盛業を続けてきた医 院をたたんで、七十三歳のとき、なぜ鉄道も達していな い北海道の原野に農場の開発に飛び込んでいったのか。 関寛斎は「高貴な単純さ」「生き方は神に近いほどに単 純」であったとよくいわれる。それにもかかわらず、い やそれゆえにこそ寛斎の心の襞を探ることは殊のほか難 しい。妥協を嫌う性格のゆえに地元医師だちとの確執、 当時の日進月歩の西洋医学の趨勢に寛斎が学んだオラン ダ医学が時代遅れになったこと、家族間の問題などが挙 げられているが、そのような区々たる理由ではないであ ろう。心からほとばしりでる情熱をもって、老躯はるば る北海道の原野に赴かせたのは、何だったのか。司馬遼 太郎は、寛斎が晩年に到達した心境は、ひょっとすると 「医とは、結局まやかしにすぎない」という思想に全身             一二( をさらわれたのではないか、と分析をしている。さらに 進んで私は、貧農の家に育ち、「土」の匂いが体にしみ こんでいた寛斎にとって「土」とともに生きることは 「まやかし」を断ち切り、本来の自分に帰る自己発見で はなかったか、その結果での逆転ではなかったか、と密 かに思う。  「老躯と僅少なる資金と本より全成功を得べからざるも、 責めては資金を希望地に費消し、一身たるや骨肉を以て 草木を養ひ、牛馬を肥すを方針賭するのみ。成ると成ら ざるとは、ただ天命に在ると信ずるのみ」という覚悟で 始めても、その生活は言語に絶するものであった。虫害、 熊をはじめとする獣害、凶作、疫病、百頭近く持ってい た馬が、二年続けていずれも半数近く熊と疫病で失われ てしまったこともあった。入植して三年目の一九〇四 (明治三十七)年五月に、四男又一が農場を開いていた石 狩郡樽川にいた、妻のお愛を失った。妻お愛の寛斎あて の遺言には次のように書かれていた。(匸葬式は決し て此地にて執行すべからず。牧場に於て卿(‥寛斎)が 死するの時に、一同に牧場に於て埋めるの際に、同時に 執行すべし。(二)死体は焼きて能く骨を拾ひ、牧場に 送り貯へて、卿が死するの時に洞穴に埋め、草木を養ひ、 牛馬の腹を肥せ。(三)諸家より香料を送らる丶あらば、 陸海両軍に寄附すべし。この夫にしてこの妻あり。繁昌 していた医業を捨てて北海道の原野の開拓者になったと きも、よろこんで寛斎についてきた。寛斎はよく人に             一二( 「婆(‥妻お愛)はえらい」「わしは、婆さんの織ったも のしか着ない」と語っていた。さすがの寛斎も妻お愛の 死はこたえた。「(明治)三十五年に徳島を発する時は、 老体ながらも相共に手を携ふるも、今や牧場には白骨を 存するのみ」。  進歩的農場主としてのトルストイ(一八二八-一九一 〇)に関心を持ち、作家であり、またトルストイの研究 者でもある徳冨置花(一八六八-一九二七)を東京府北多 摩郡千歳村粕谷(現東京都世田谷区粕谷)の居宅に訪ねた こともあった。そのときの印象を徳冨置花は次のように 書き記している(徳冨健次郎『前掲書』)。「明治四十一年 四月二日の昼過ぎ、妙な爺さんが訪ねてきた。北海道の 山中に牛馬を飼って居る関と云ふ爺と名のる。鼠の眼の 様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅昧ば しった顔をして居る。長い灰色の髪を後ろに撫でつけ、 顋に些の疎髯をピラピラさせ、木綿ずくめの着物に、下 駄ばき。年を問えば七十九」。この時、蘇峰、置花兄弟 の父徳富一敬も存命中で湘南に住んでいた。縁は異なも のである。老父にこの爺さんの話をすると「待てよ、其 は昔関寛斎と云った男じやないかしらん、長崎で脚疾の 治療をしてもらったことがある、中々きかぬ気の男で、 松本良順など手古摺って居た」ということで、寛斎は湘 南の麓花の老父をも訪ねた。「八十八の旧患者は八十一 の旧医師と互に白髪を撫して」五十年前の昔を語るとい う一幕もあったという。麓花も鉄道が開通して間もない 頃、北海道陸別の関農場まで行ったことがある。置花が 北海道陸別の寛斎の農場に出向いてから一年半ほどして から、寛斎から著書が麓花に送られてきた。後になって 形見とわかるのだが、それには「人並の道は通らぬ梅見 かな」という句が添えられていた。一九二一(大正元) 年十月、関寛斎は自らの人生に終止符を打った。服毒に よる自殺である。数え年八十三歳であった。  四歳で母を失った関寛斎は生涯を通じて母への慕情を 抱き続けた。「自分は四歳までが一番楽しかった」と晩 年になって洩らしたことがあるという。死の前年、「夏 の夜の短き夢もむすぼらでふたたびうつる母のおもか げ」と寛斎は詠んでいる。母親に負われて見た夕焼けの 美しさ、「土」の匂いを寛斎は終生忘れなかった。「あの 雲を取ってくれ」と母親にせがんだ。母はどこまでも、 どこまでも歩き続けた。雲は天空高く浮かんだままで あった。空は澄み、紅葉は映え、夕日が沈む風景、北海 道陸別は一年のうちで最高に美しい時期である。「人並 の道は通らぬ梅見かな」。栄達の道を歩まず、頑なに心 の中からほとばしり出るものだけを生きようとしたにす ぎない。しかし、それは人並みの尋常な生き方ではな かった。寛斎は軟着陸を考えず、ひたすら飛び続けてき た。母に負われて見た夕焼けの美しさが眼前にある。母 と妻お愛の面影が浮かぶ。夕焼けの空に浮かぶ雲に向 かって凛々と駆け上っていったのだ。私はそう思いたい。 遺言はなかったが、十首の辞世の短歌を残している。             一二( 「今よりはま丶ならぬ匪を去りてこそ広きみそらに行く ぞ楽しき」。     16 埋めがたい溝について        Iトーマスーマン、フルトヴェングラー。        トスカニーニー  一九五四年は演奏指揮史上、一つの節目をなした。二 十世紀を代表した名指揮者二人が舞台から去った。四月 四日の演奏会で超人的な記憶力を誇っていたアルトウー ロートスカニーニ(一八六七-一九五七)が演奏巾、突然 さきを思い出せなくなり、指揮棒をおいて退場した。こ の演奏会直後、トスカニーニは引退を表明した。トスカ ニーニは極度の近視であり、譜面台においた楽譜が見え なかったため、暗譜で指揮するのが常であった。同年十 一月三十日にはドイツのバーデンーバーデンでヴイルヘ ルムーフルトヴェングラー(一八八六-一九五四)が亡く なった。この二人には奇しき因縁があった。  トスカニーニはイタリアにファシスト政権ができると 早々にアメリカに渡ってしまった。一方、フルトヴェン グラーはナチス政権下のドイツに残り、一九三三年三月 二十一日、ナチス政権下最初の国会開会日当日、祝典演 奏として、国立歌劇場で「マイスタージンガー」を指揮 した。一九四五年一月二十三日、廃墟と化したベルリン で最後の演奏会を指揮し、突如明かりが消え、数個の非 常用ランプの下で指揮し続けるフルトヴェングラーの姿 もあった。また同年五月一日、ヒツトラー(一八八九- 一九四五)の死を伝えるニュースの前奏曲として、彼が 指揮する「神々のたそがれ」の葬送行進曲が終日ラジオ を通して流されたことも事実である。  トーマスーマン夫人、カーチャーマン(一八八三-一 九八〇)の『回想録』に次のようなエピソードが書かれ ている。第二次大戦後、一九五二年、マン(一八七五- 一九五五)が一時ドイツに帰国した時、フルトヴェング ラーの「再会できれば嬉しい」との書簡に対して「お気 持はかたじけなく思いますし、また、嬉しく思わないわ けでもありませんが、なんといいましても、わたしたち 丶 丶 丶 丶    丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 の間には、埋めがたい溝があります。ですから、お会い したところで、さしてためになるとも思いません。とす れば、むしろお会いしない方がいいと考えます」(傍点 筆者)。これに対してフルトヴェングラーは気も狂わん ばかりに激怒し、ある機会に「わたしは、トーマスーマ ンのような人間とはわけがちがう。まるでシャツを着替 えるように、なにかあるたびに国籍をかえるような人間 とはわけがちがう」と言ったという(カーチヤーマン『夫 トーマスーマンの思い出』山口知三訳、筑摩書房)。  マン夫人の実家の父はミュンヘン大学の数学の教授、 フルトヴェングラーの父はミュンヘン大学の考古学の教 授であり、そうした関係もあり、マン家にフルトヴェン              一二( ダラーは出入りしていた。カーチヤーマンは三歳年下の フルトヴェングラーを「ヴィリー」と親しげに呼んで仲 良くしていた。  しかし後年、「非政治的」というよりは「政治に対す る距離感」すら意識にのぼらず、素朴にして、悲劇では あるが一面では感動的にナチス体制下のドイツにとど まったフルトヴェングラーと、外部から見ておそらくド ラスティックな打撃の連続であったものが、内側の世界 の人間にとって意外に目立だない、第一歩の光景の変化 として受け取られている中で、文学者の直感で、これら の変化を透視し、国外に亡命せざるを得ず、祖国ドイツ の倫理的崩壊を体制外から凝視し続けたマンとの間には 架橋できないほどの断絶があったろう。フルトヴェング ラーとトスカニーニとの間にも「埋めがたい溝」があっ たにちがいない。  一九三七年、トスカニーニとフルトヴェングラーがザ ルツブルグで出会う。この出会いでの二人が交わした会 話には幾つかの異説があるが(クルトーリース『フルト ヴェングラーー音楽と政治』八木浩ほか訳、みすず書房)、 次のようなやりとりがあったのは間違いないであろう。 「ナチスの国で指揮する者はすべてナチスだ」と攻撃す るトスカニーニに対して、フルトヴェングラーは次のよ うに応答した。「芸術は政治に支配されない。ベートー ヴェンの演奏される場所には、どこにも自由がある」。  トスカニーニとフルトヴェングラー、二人は生き方。             一二( 指揮者としての性質も対照的である。吉田秀和(一九一 三-二○匸一)は二人の違いを「トスカニーニは、…… あくまでも譜面どおりにインーテンポでやる、その点で 非常に科学的である、あるいは合理主義者であるといっ てもいいと思う……。フルトヴェングラーの場合はまさ にこれと反対で、ドイツの聴衆に聴かせるときが、その 音楽がいちばん生きてくる。そこには、同じ音楽的伝統 で育った公衆が必要である」(『フルトヴェングラー』河出 文庫)。この公衆(?ZFヨ)はマス(大衆)ではなく、 ドイツ文化の担い手としての公衆であり、ナチスは「強 制的同質化」によってまさに公衆を原子化され孤立化し たマスに徹底的に解体してしまって支配を打ち立てた。 F・リンジヤーが『ドイツーマンダリンの没落』で指摘 しているように、ドイツの知識人は、教育の資格に負っ ている社会的・文化的エリートとして、精神を創りだす 「文化」の担い手として自らを位置づけ、「文化」を「文 明」とは異なる精神的価値として理念化し、他国では類 例を見ないような社会階層を形成した。「権力によって 保護された内面性」の雰囲気の中で活動していた彼らは、 マスーデモクラシーの到来と、工業化と都市化とに伴う 大衆の台頭によってその地位を脅かされるに至った。ド イツの知識人は程度の差こそあれ深い没落感と喪失感に 喘いでいた。政治的に音痴とも言えるフルトヴェング ラーは「権力に保護された内面性」の雰囲気の中で、大 衆の台頭という歴史的必然性を認めようとせず、楽天的             一二( と言えるほどに、あくまでもこの公衆を信頼した。  第一次大戦はドイツ知識人の教養地盤を根底から震撼 させた。とりわけトーマスーマンにとって第一次大戦は 思想変遷の転轍機として作用した。「戦時随想」(一九一 四年)、ついで「フリードリヒと大同盟」(一九一五年) を書いて、西欧の「文明」に対してドイツの「文化」の 戦いとしてドイツの第一次大戦を擁護した。ロマンーロ ラン(一八六六-一九四四)は「戦いを超えて」(一九一四 年)、兄のハインリピーマン(一八七一-一九五〇)は 「ソラ論」(一九一五年)を書いて、トーマスーマンを痛 烈に批判するなど国の内外から批判を浴びた。ロマンー ロランは「一頭の牡牛が、怒り狂って、闘牛士が突き出 す剣にむかってまっしぐらに躍りかかる」(「社会評論 集」-『ロマンーロラン全集』第十八巻所収、みすず書房) とまで極言している。マンは大作『魔の山』(関泰祐ほか 訳、岩波文庫)の執筆を中断してまでも『非政治的人間 の考察』(前田敬作ほか訳、筑摩叢書)を書いて自己と政 治との係わりを検証せざるを得なかった。順序的に最後 に書かれた「序文」でデモクラシーを予言するに至った 『非政治的人間の考察』はまさにこの意味でトーマスー マンの「白鳥の歌」であった(脇圭平『知識人と政治- ドイツー九一四~一九三三』岩波新書)。この『非政治的人 間の考察』を経て、マンは、一九二二年ゲアハルトーハ ウプトマンの六十歳誕生日記念講演でワイマール共和国 に信仰告白した。こうしたトーマスーマンにしても、そ れは観念的であり、ナチスの時代でも具体的な大衆を念 頭に置かなかった点にマンのブルジョアーヒューマニズ ムの限界を見てとることができるであろう。その点で 「政治的状況に対する現実感覚が欠けている」という意 味では二人とも変わりはない。そう考えると二人の間の 「埋めがたい溝」とは、一見そう見えるよりは「埋めが たい」ほどの深い溝であったのか、という気持ちに駆ら れるのである。  勝海舟(一八二三-九九)、榎本武揚(一八三六-一九〇 八)等旧幕臣の維新後の出所進退を批判した福沢諭吉 二八三五-一九〇一)の『痃我慢の説』(『明治十年丁丑公 論・痩我慢の説』講談社学術文庫)公刊に際して、福沢諭 吉は勝海舟に書簡を送った。勝海舟はそれに対して 「行蔵(‥出所進退)は我に存す。毀誉は他人の主張、我 に与からず我に関せずと存じ候」と返信した。早実の門 より入って早実の門より出る者は、いかなる逆境のとき にも「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」の気概を持 たれんことを希求するものであります。卒業生の皆さん、 卒業おめでとう。     17 往時のことは茫茫として何も覚えては        おらぬ        I会津戦争と松平容保-  「白河以北一山百文」。戊辰戦争の敗北者である東北諸 藩出身者は薩長人から、このように嘲笑、侮辱された。 とりわけ会津藩出身者は戊辰戦争後、塗炭の苦しみを昧 わった。会津藩主松平容保(一八三六-九三)は京都守 護職在任中(一八六二-六七)、幕府が主張する公武合体 派の一員として、反幕派の尊皇攘夷と敵対して、愚直と いえるほどに京都市内の治安維持に努め、天皇の信望も 篤かった。孝明天皇(一八三一-六七)から容保の働き を称揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌) を内密に下賜された。容保はそれらを小さな竹筒に入れ て首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。後 年、容保は日光東照宮の宮司として東照宮の永久保持に 努め、一八九三(明治二十六)年に亡くなったが、「往時 のことは茫茫として何も覚えてはおらぬ」が囗ぐせであ り、会津戦争については何も語ることはなかった。ここ に容保の心に刻み込まれた深い傷痕を感じないわけには いかない。  京都守護職につくことは容保も家臣たちも反対であっ た。「愚鈍なほどに律儀な男」で政治性に欠けていた藩 主容保の生来の性格、白河以北の奥州の僻辺にあるとい う会津藩の地政学的位置づけ、風俗、気質、家風、言葉 の違い、これらの点から政治的陰謀が日夜繰り返される 京都で、京都を鎮撫し、諸藩を操縦し、公卿を懐柔し、 一旦緩急あれば薩長を相手に一戦を交えることも辞さな い状況の中で、容保いやその一身を越えて会津藩そのも のが孤立することは目に見えていた(司馬遼太郎『新装版 王城の護衛者』講談社文庫)。  幕府の政治総裁職についた越前藩主松平慶永(春嶽、 一八二八-九〇)は、藩祖保科正之(フ(I一-七三)が 残した会津藩の家訓を切り札にして容保を説得した。十 五条の家訓の第一条は次の通りである。「大君之儀 一 心大切 可存忠勤 不可以列国之例白処焉 若懐二心則 我子孫 面面決而不可従」=「大君の儀、一心大切に忠 勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し 二心懐かば、すなわち我が子孫にあらず、面々決して従 うべからず」。ここでいう「大君」とは徳川宗家であり、 列国とは諸藩をいう。容保は京都守護職を受けざるをえ なかった。会津藩士が味わう塗炭の苦しみの極めて具体 的な第一歩は、容保の京都守護職就任(一八六二年)か ら始まる。  転回点になったのは孝明天皇の突然の死(一八六七年 一月)である。前年には第十四代将軍家茂(一八四六-六 六)が亡くなり、将軍後見職の慶喜(一八三七-一九一 三)が将軍の座についた。孝明天皇在欧中に元号が弘化、 嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と次々に代わり、 いかに多事多難な時代であったかが理解されよう。孝明 天皇の死後、時代はさらに急激に展開する。そして幕府 の命運を決した戊辰戦争の関ヶ原は一八六八(慶応四) 年正月三日から四日にかけての烏羽伏見の戦いであった ことは誰にも異論はないであろう。  幕藩体制という封建社会から近代市民社会へ、という 「歴史的必然」への盲目的信仰から(野口武彦『鳥羽伏見 の戦いI幕府の命運を決した四日間』中公新書)、この鳥 羽伏見の戦いは余りにも軽く扱われてきたといえるだろ う。たしかにこの点ではマルクス主義史観でも皇国史観 でも同じである。こうした「歴史的必然」への盲目的信 仰から自由に、歴史的事象のある決定的な一時点で、他 の歴史的発展の可能性への不可逆的な選択の余地がある こともまた事実であろう。では、幕府方がそれを掴み損 ねたのは何だったのか。一八六八(慶応四)年正月三日 から四日にかけて戦われた鳥羽伏見の戦いは、幕府方の 思わぬ惨敗だったし、それ以上に木戸孝允(桂小五郎。 一八三三-七七)が「意外千万」というほど薩長方の想 定以上の大勝利であった。  『会津戊辰戦史』(山川健次郎監修、会津戊辰戦史編纂会、 昭和八年)は三ケ条を掲げて敗因を分析しているが、ま ず第一に挙げているのが慶喜の将としての資質である。 いわく「将帥その人にあらず、従って統一を欠き命令行 われず、各部隊思い思いの動作をなし、難局に遭遇すれ ば命を受けずに逃避する者甚だ多し」。確かに慶喜ば機 を見るに敏であり、「頭脳明晰・言語明瞭・音吐朗々と 三拍子揃っていながら、惜しむらくは、ただ一つの肉体 的勇気にかけていた」(野口武彦)。「百才あって一誠たら ず」「昨日の言葉と今日の言葉とがまるで思想的にちが う」(司馬遼太郎)。慶喜ば大坂城で鳥羽伏見の戦いの推 移を見守っていたが、連日、敗戦の報が届く。戦闘三日 目一月五日、慶喜ば大坂城の大広問で会津藩主松平容佯 容保の弟である桑名藩主松平定敬(一八四七-一九〇八)、 幕府要人・諸将を集めて、熱弁を振るった。「事、すで にここに至る。たとい千騎戦没して一騎となるといえど も退くべからず、汝らよろしく奮発して力を尽くすべし。 もしこの地敗るるとも関東あり、関東敗るるとも水戸あ り。決して中途に已まざるべし」(『会津戊辰戦史』)。慶 喜は「日頃から謡曲で声を鍛えて」おり音吐朗々たる名 調子であり、聞いた者は感涙に咽んだという(野口武彦)。 その舌の根が乾かぬ一月六日の夜には大坂城を脱し、幕 府軍艦「開陽」に乗り、大坂脱出を決行し、前代未聞の 戦線を離脱して江戸に向かう。容保も主命であるから慶 喜に従わざるを得なかった。東下のことを容保は近侍の 神保修理(一八三四?-六八)だけに告げた。会津藩主松 平容保の不幸は、「あまりにも政治的感覚と時勢に敏感 すぎる男を、その宗家にもっていた」ことであろう。そ うであったとしても、容保の東下は許さるべきものでは なかった。  慶喜、容保らは一月十二日、江戸に帰る。慶喜の東帰 は会津藩士神保修理の進言とされている。後に慶喜自身 は『昔夢会筆記』で神保修理が「事ここに至りては、も はやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに 前後の計を運らさるべし」と言ったという。慶喜ば「神 保の建言を聴きたれば、むしろその説を利用して江戸に 帰り、堅固に恭順謹慎せんとしかど、そは心に秘めて人 にかたらず」と言っている。この談話がなされたのは一 九一一 (明治四十四)年のことであるから、もとより自 己合理化されているが、それでも神保修理の進言を「利 用」したと言い放って一点の疚しさも感じていないのに は愕然とせざるをえない。慶喜との東下は容保にとって 生涯、心の澱となって残ることになった。  星亮一『会津落城-戊辰戦争最大の悲劇』(中公新 書)によると、近侍の一人、浅羽忠之助(一八三一-九 七)は鳥羽伏見から急遽、江戸に馳せ参じ、主君容保に 問う。「修理に、東下のこと告げられしはなんぞや」。容 保は答えて「慶喜の軍艦が天保山沖に来ており、もしか するとこれで東帰、江戸に帰ることがありうるのではな いかと考え、白書院にいた修理に告げた」。すると突然、 将軍から「東下に決したので会津(容保)、桑名(容保の 実弟、桑名藩主松平定敬)は従うように」との命令があっ た。「余は驚いて、ねんごろにこれを止めんとしたが、 却って怒りに遭った」という。会津藩内の不満は高まっ たが、主君である容保を責めるわけにもいかず、神保修 理に怒りが向けられた。修理は「余もとより罪なし、然 れども君命を奉ずるは臣の分なり」と切腹した。江戸は 無血開城し、容保は会津帰国を命じられた。「なんすれ ぞ大樹(‥慶喜)連枝(‥徳川家門の自分)をなげうつ」 と嘆じたのももっともなことである。容保は江戸を発つ 前に、鳥羽伏見の戦いに参戦した全将兵に、切々と東帰             一二( を詫びた。「汝らの奮戦、感称に堪えない。しかるに内 府公(慶喜)は東下された。余はその前途を憂い、内府 公に従ったが、これを全隊に告げざりしは、余、大いに これを慚ず。家を喜徳に譲り、必ず恢復をはかる。汝ら 皆一致勉励してよくこれを輔けよ。余篤く汝らに依頼 す」(星亮一『前掲書』)。  会津に帰国した容保に苛酷な運命が待っていた。薩長 新政府は陸奥仙台藩(宮城県)に対し、会津本城襲撃の 命令を下した。「会津容保、このたび徳川慶喜の反謀に くみし、錦旗に発砲、大逆無道、征伐軍発せられ候間、 その藩一手をもって本城襲撃、速やかに追討の功を奏す べき旨御沙汰候事」。仙台藩に送り込まれた長州藩士の 傍若無人の振る舞いなどがあって、奥羽越列藩同盟が結 成され、かくして戊辰戦争は薩長対旧幕府・会津の連合 軍から薩長対奥羽越列藩同盟の戦いになった。官軍によ る会津城攻撃が目前に迫る。迎え撃つ会津藩の主力とな る隊の編成は次の通りである。  (東)青竜隊 三十六歳より四十九歳 国境守備  (西)白虎隊 十六歳より十七歳 予備  (南)朱雀隊 十八歳より三十五歳 実戦  (北)玄武隊 五十歳以上 城内守護  『ある明治人の記録-会津大柴五郎の遺書』(石光真 人編、巾公新書)を読んでみよう。柴五郎(一八五九I一 九四五)は当時十歳、父柴佐多蔵、長兄太一郎、次兄謙 介、三兄五三郎は出陣中であり、家には祖母つね(八十 一歳)、母ふじ(五十歳)、太一郎妻とく(二十歳)、姉そ い(十九歳)、妹さつ(七歳)と病床にあった四兄茂四郎 と五郎がいた。敵が刻々と会津若松に迫り、二本松藩と の国境、母成峠が破られると、母ふじは、病床の茂四郎 を無理に起居せしめ叱咤激励し、衣服を整え大小を腰に たばさみて城中に行けと命ずる。茂四郎は母には「柴家 の男子なるぞ、父はすでに城中にあり、急ぎ父のもとに 参じて、家の名を辱しむるなかれ」、祖母には「われは ひと足先に逝きて黄泉にて待つべし」と送り出される。 五郎は男子一人なりとも生きながらえ、柴家を相続せし め、藩の汚名を天下に雪ぐべきと、親類のすむ近在の面 川村に避難させられた。八月二十三日、敵が城下に侵入 すると、家族は仏前に集まり、祖母、母、兄嫁、姉、妹 の五人揃って自刃した。覚悟の自刃であった。  会津攻防戦は数々の悲話を残し、会津藩の悲惨な敗北 に終わった。なぜ会津藩が敗れたのか。その検証を恐れ ず取り組む時期にきている。会津若松への攻撃には、 虚々実々の情報が飛び交った。しかしながら会津藩は知 り得た多くの情報を分析し、作戦を立てる戦略に欠けて いた。長州の大村益次郎(一八二四1六九)に匹敵する ような戦略家が不在で、当初から会津は情報戦に決定的 に後れをとった。  仔細に情報を分析すれば、八月二十二日早朝の時点で 避難を開始すべきであったろう。避難告知の遅れ、避難 態勢の不徹底が混乱に拍車をかけた。会津戦争では冷静             一二( に戦争を見つめ、勝利の方程式を立案、実践する参謀の 不在、その人選の誤りが混乱に輪をかけた。なぜ会津藩 は西郷頼母(一八三〇-一九〇三)、横山主税(一八四七- 六八)など戦闘経験のないいわば素人を、もっとも大事 な白河の総督、副総督にすえたのか。人材の払底もあっ たが、これは明らかに藩主松平容保の用兵に誤りがあっ たとしか言いようがなかった。同盟軍の敗因は、指揮官 不足、武器の劣悪、油断であった。若手のリーダー山川 大蔵(のち浩、一八四五-九八)は日光口、佐川官兵衛 二八三一-七七)は越後におり、当初から人材が不足し ていたが、結果論からいえば、山川を呼んで配置すると か、大鳥圭介(一八三三-一九一二や土方歳三(一八三 五-六九)を抜擢するなど大胆な作戦を取るべきであっ た。  決死の抗戦、会津では娘子軍とよばれる婦女子の活躍 は会津女性の勇武を示すすさまじくも見事なものであっ た。籠城した婦女子の役目は兵糧を炊くこと、弾丸を作 ること、負傷者の看護をすることである。  砲術師範役山本覚馬(一八二八-九二)の妹、山本八 重(一八四五1一九三二)は、男装し、両刀をたばさみ元 込め七連発銃をかついで城に入った。衣装は鳥羽伏見の 戦いで戦死した弟三郎のもので、一は主君のために、一 は弟のため命のかぎり戦う決心であった。彼女の一番の 心配の種は、厠に入る時だったという。立派な最期を遂 げたい一心であった。そうであったから「もし厠に入っ ております時あの大砲でも破裂してこのまま最期を遂げ ました時は婦人として最も恥ずべき醜態を曝す」ことが 一番心配だったという。松平容保が降伏を決意した開城 前夜、山本八重は「あすの夜はいづくの誰かながむらん なれにしみそらに残す月かげ」という辞世の歌を鶴ヶ城 の三の丸雑物庫の壁にかんざしで刻んだという。山本八 重は、後に同志社を創立した新島襄(一八四三-九〇) の夫人である。  軍事総督山川大蔵の妹山川操も恐ろしい目にあった。 兄大蔵の妻トセは龍城中、城中に着弾した破裂弾で即死 した。「死者は葬る暇もございませんから掘っても水の 出ない空井戸の中へ、鎧櫃に入れて泣く泣く埋葬し」だ が、操は自分でも死ぬ覚悟だったので、少しも恐ろしい とは思わなかった、という。末の妹さきも、数え年九歳 で家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手 伝った。城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、 これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」 という危険な作業をし、さきも大怪我をした。このとき 官軍の砲兵隊長は、西郷隆盛の従弟にあたる大山弥助 (後の元老大山巌)であった。維新後、さきは明治四二 八七二年、津田うめ(後の津田塾英語学校の創設者、一八 六四-一九二九)らと女子官費留学生の第一期生として 渡米した。この先十年という長い異国での生活を思い、 母えんは「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ (松)のみ」という思いから「捨松」と改名させた。捨             一二( 松(一八六〇-一九一九)が再び日本の土を踏んだのは明 治十五(一八八二)年、日本出発から十一年目のことで あった。帰国後、大山巌(一八四二-一九一六)との縁談 が持ち上がった。この縁談は簡単にまとまる話ではな かった。親代わりの兄山川大蔵(浩)にとっては「憎き 薩摩の芋侍」の一人であり、亡き妻の仇敵であり、心情 としても許せるはずがなかった。兄は西南戦争を「会津 藩名誉回復の戦争」と捉え、「薩摩大みよや東の丈夫が 揚げ佩く太刀の利きか鈍きか」という歌を詠んだ。「山 川家は賊軍の家臣ゆえ」と婉曲的に断るが、大山も「自 分も逆賊西郷隆盛の身内でごわす」と熱心に説き、最終 的には「本人次第」ということで決着した。捨松は大山 巌夫人となり、その知性と美貌で「鹿鳴館の華」と呼ば れた。歴史の皮肉を思わずにはいられない。  やや横道にそれるが、山本(新島)八重にしろ、山川 (大山)捨松にしろ、井深登世にしろ、会津で籠城した 女性のなかには、看護婦として活躍ないし看護活動に従 事した者がいる。籠城の体験がなんらかの影響を与えて いるのであろうか。  また飯盛山に登った二十人の白虎隊の一隊は砲声が轟 きわたり砲煙があがり、城外が火に包まれた中で、城に 向かってひざまずき、お互いに刺し違えて白刃した。そ の中で一人、飯沼貞吉(一八五四―一九三一)が生き残り、 白虎隊の悲劇を匪に伝えることになった。  一九二八(昭和三)年は戊辰であり、戊辰戦争から六 十一年目にあたる。この年、松平容保の孫勢津子妃二 九〇九-九五)と昭和天皇の弟秩父宮殿下(一九〇二-五 三)とのご成婚が執り行われた。孝明天皇の宸翰(天皇 直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を小さな竹筒に入れて 首にかけ、死ぬまで手放すことはなく、「往時のことは 茫茫として何も覚えてはおらぬ」と会津戦争について何 一つ語らなかった松平容保の心情に想いをはせるとき、 朝敵・賊軍ということで会津藩兵の遺体の埋葬もできな かった(飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体もおなじであっ た)当時の情況を顧みるとき、また、その後の会津藩士 の塗炭の苦しみを思うとき、この六十年ぶりの皇室との 和解と朝敵・逆賊の汚名の返上を会津の人びとはどんな 思いで迎えたのであろうか。老境の山本(新島)八重は 「いくとせか峰にかかれるむら雲の晴れてうれしき光を ぞ見る」と喜びの歌とともに「六十とせの昔を語る友も なくあはれさみしきこほろぎの声」とも詠んでいる(吉 海直人『新島八重-愛と闘いの生涯』角川選書)。松平容 保の孫娘、秩父宮勢津子妃殿下が誕生するまでのさまざ まな人びとの努力と善意も、もう一度考え直す必要があ るのではないか。     18 一人の農夫は、帰りの汽車賃を日本の        未来に捧げた        1新島襄と山本八重I  明治という時代を駆け抜けた一人の女性がいる。山本 八重(一八四五-一九三二)、同志社大学の創立者新島襄 二八四三-九〇)の妻となる女性である。八重は会津藩 砲術指南役山本権八、さくの間に生まれ、兄覚馬と弟三 郎がいる。兄覚馬は京都守護職となった藩主松平容保 二八三六-九三)とともに京都にいて一八六五(元治元) 年の蛤御門の役で大砲頭取として禁裏を守り抜き、公用 人に取り立てられたが、鳥羽伏見の戦いの頃から消息が 絶えてしまっていた。弟三郎は鳥羽伏見の戦いで敵弾を 浴びて戦死した。八重は戊辰戦争最後の攻防となった会 津鶴ケ城決戦に「数にも入らぬ我が身ながらも」と戦死 した弟三郎の形見の装束を身につけ男装して両刀を佩ん で、元込め七連発のスペンサー銃を肩に担いで城内に籠 城した(「男装して会津城に入りたる当時の苦心」-『婦 人世界』明治四十二年十一月号所収)。籠城した女たちの仕 事は兵糧炊き、負傷兵の看護、弾丸作り、こうした女た ちの働きなくして、一ヶ月間にわたる籠城もありえな かったであろう。八重は屈強な藩士たちに混じって、断 髪して腰に大小を帯び、銃隊の一人として、暗闇に隠れ て夜討ちにも参加し、スペンサー銃を射掛けた。まさに 男にしか見えなかったという(中村彰彦編著『明治を駆け 抜けた女たち』ダイナミックセラーズ出版)。  最後の段階で八重は会津藩主力砲隊の指揮までとった。 兄覚馬を手伝って砲術を覚えた八重は見事にそれに応え た。立派な最期を遂げたいという一心の八重であったが、 籠城中、もっとも心配だったのは厠に入っているとき だったという。「もし厠に入っております時、あの大砲 でも破裂して、このまま最期を遂げました時は、婦人と して最も恥ずべき醜態を曝さなければならぬからでござ います」と後年述懐している。松平容保が降伏を決意し て開城の前夜、八重は「あすの夜はいづくの誰かながむ らんなれにしみそらに残す月かげ」という辞世の歌を 鶴ヶ城三の丸雑物庫の壁にかんざしで刻んだという。八 重の人生を代表するこの歌をめぐっては吉海直人の『新 島八重-愛と闘いの生涯』(角川選書)に詳しい分析が ある。開城の折、八重は女であることが見破られ解き放 ちとなる。会津藩は陸奥に移封され、三万石の領地を与 えられたが、三万石とは名のみで実質的には七千石にす ぎなかった。四千戸の藩士を養うことはできず、陸奥の 新領地(斗南藩)に赴いた藩士の生活は想像を絶した。 寒冷の地、とりわけ冬は悲惨であり「この冬もまた寒風 吹きぬける小屋にて、寝具なく蓆を被りて、みの虫のご とく、いろりの周囲をかこみて寝るはかなし」(石光真 人編著『ある明治人の記録-会津大柴五郎の遺書』中公新 書)という状態であった。  生きる気力を失った八重に、消息不明であった兄覚馬 二八二八-九二)が、会津藩士でありながら維新の世に あって、その識見を買われて京都府の要職にあるという 朗報がもたらされた。一八七一 (明治四)年十一月半ば、 八重は母、姪とともに京都入りした。兄覓馬との縁で新 島峩にめぐり会う。新島峩は一八六四(元治元)年、国 禁を犯して函館から米船に乗り、アメリカに渡り、アー モスト大学を卒業し、岩倉具視使節団の通訳などをし、 駐米公使森有礼(一八四七-八九)の知遇を得て、文部 理事官田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度などを 視察して、一八七四(明治七)年十一月に帰国した。一 八七四(明治七)年秋、米国バーモント州ラットランド、 グレイス教会でのアメリカンーボード海外伝道部の年次 大会での、次のようなエピソードが伝えられている。一 人の青年が登壇した。その青年は、かねてからの大志を、 熱涙とともに訴えた。「囗本に、キリスト教主義の学校 を創りたい。その資金が集まるまで、私はこの壇を降り ない!」。予期せぬ演説に会衆は驚いた。……一人の年 老いた農夫が青年に近寄り、帰りの汽車賃を差し出した。 「なに、歩いて帰れないほど、わしの脚は衰えておらん」。 外へ出ると、一人の寡婦がニドルを差し出し、「これが 私が持っているお金のすべてです。これを是非あなたの 目的に役立ててほしい」。そして一年-ニドルにこめ られた祈りを「礎石」として、新島襄の夢は京都で実現 した。  同志社英学校の創立は一八七五(明治八)年である。 翌七六(明治九)年一月に新島峩と八重は結婚した。同 志社英学校において薩長出身の学生を冷遇したと言われ たり、人力車に夫よりも先に乗る姿を見て匪間から悪妻、 烈婦、元祖ハンサムウーマンなどと呼ばれた。藩閥外の 会津人でありながら陸軍大将、軍事参事官まで昇りつめ た柴五郎(一八五九-一九四五)も西南戦争勃発に際して 「真偽未だ確かならざれども、芋(薩摩)征伐仰せ出さ れたりと聞く、めでたし、めでたし」と言っているくら いだから会津戦争で「十字架の死」を見た八重にもそん な意識があっだのかもしれない。  同志社英学校の学生であった徳富蘇峰(一八六三-一 九五七)から「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のよ うな女性がいる」と強く非難されもした。新島襄はアメ リカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくは ありません。ただ、生き方が「ンサムなのです。私には それで十分です」と書いている。夫婦仲は良かった。新 島襄は大学への昇格をめざして東奔西走の日々を送り、 八重もその運動を支えたが、夫が不治の病にかかったこ とがわかった時も、「大学開講にかける情熱だけが夫の 命をささえている」と、止めることをせずに、静かに見 守ったという。新島襄は一八九〇(明治二士二)年、志 半ばで大磯で逝った。同志社が大学令により大学に昇格 したのは一九二〇(大正九)年であった。同志社と早稲 田との関係は深いのである。早稲田大学の草創期、発展 期に同志社英学校出の俊秀たちが重要な役割を演じた。 同志社英学校の最初の卒業生であり、大隈重信(一八三 八I一九二二)のブレーンといわれた浮田和民(一八六 〇-一九四六)、坪内逍遥(一八五九-一九三五)とともに 早稲田の文学部の基礎を築いた大西祝(一八六四-一九 ○○)、社会主義者で「日本学生野球の父」と呼ばれる 安部磯雄(一八六五-一九四九)である。     19 自ら進んで火中の栗を拾う        1「明治の三太郎」と児玉源太郎1  近代国家形成途上の日本が国運をかけて戦った日露戦 争を辛うじて勝利に導き、宰相という天辺の椅子を目前 に歴史から消えていった児玉源太郎の墓は多磨霊園にあ る(八区一種一七側一番)。そこから一区画先に天野為之 先生の墓がある(九区一種九側一番)。子どものころ、お 彼岸にわが家の墓参りに多磨霊園を訪れるたびに、あた りを威圧するような同型同大の二基の大きな墓石が目に 入る。沈丁花や金木犀の強い芳香のように、その時の印 象は私の胸に刻まれている。妻松子の墓石が、功成り名 を遂げた児玉源太郎の墓石と同型同大であるから深く心 に残ったのだろうと思われる。当時は児玉源太郎とは何 者であるのか知らなかった。「明治の三太郎」と呼ばれ る桂太郎(一八四八―一九匸二)、児玉源太郎(一八五二I 一九〇六)、小村寿太郎(一八五五-一九一このなかでも、 児玉源太郎に強く惹かれるのも子供心に刻み込まれた二 基の大きな墓石の故だと自分では思っている。  女優の故沢村貞子さん(一九〇八-九六)の「男女同 量」(『私の台所』所収、講談社)という随筆に出会い、そ うだったのかと合点した。「ある日、新しい夫婦茶碗を 買いに行った。気に人つだのを眺めていてふと気づくと、 紺と赤の色は違うが、二つは同じ大きさである。男物の 傍らに小ぶりな女物がそつと寄り添う、そうした夫婦茶 碗を見慣れた目には新鮮だった。買って帰り、食卓に並 べてみた。同じ大きさが『嬉しかった』と沢村貞子さん はつづっている」(朝日新聞「天声人語」二〇一〇年四月七 日)。  「明治の三太郎」はほぼ同世代である。天保(一八三 〇-四四)という年号は朝野をとわず明治維新に深くか かわる人びとを輩出した。吉田松陰と大久保利通は文政 から天保へと変わる境の年(一八三〇年)生まれであり、 木戸孝允(一八三三年)、坂本竜馬(一八三五年)、大隈重 信、山県有朋(共に一八三八年)、伊藤博文(一八四一年) と続く。こうした人たちも一八六三(文久三)年生まれ の徳富蘇峰によって「天保の老人」と呼ばれるようにな る。明治二十(一八八七)年以後は、幕藩体制を全く知 らない世代が今や大人になって活躍する時代となり、こ の二つの世代「天保の老人」と「維新後派」との間に自 由民権のイデオローグたちI中江兆民(一八四七年)、 馬場辰猪(一八五〇年)、小野梓(一八五二年)、植木枝盛 (一八五七年)らが入ることになる(丸山真男『「文明論之 概略」を読む』岩波新書)。世代的には「明治の三太郎」 はこの世代に属する。いわば近代日本の長男たちであり (中西輝政『日本人として知っておきたい近代史-明治篇』 PHP新書)、武士としてのエートスを持ちつつ、明治の 元老だちとは距離をおくことができたのではないか。私 はこの距離に注目したい。  「明治の三太郎」が最も精彩を放った時期は日露戦争期 であった。三人の中で一番の年長者は桂太郎である。歴 代首相のなかで、安倍晋三(一九五四-二○二二)の在任 期間(三一八八日・八・八年)に次いで最長の在任記録を 持ち、在任期間は二八八六日(約七・九年)を数える。 しかも近代日本が経験した最も多難な時期である。一九 〇一 (明治三十四)年六月に首相に就任、この第一次桂 内閣で児玉源太郎は陸軍大臣、小村寿太郎は外務大臣と して桂太郎を補佐した。山県有朋(一八三八-一九二二) の直系として自他ともに任じてきたので、桂第一次内閣 は「小山県内閣」「次官内閣」、背後に山県有朋ありとい うことで「緞帳内閣」と揶揄されもしたが、一八八五 (明治十八)年の内閣制度発足以来、短命に終わった第一 次大隈重信内閣を除いて、元老でないものによって組織 された最初の内閣といってよい。  桂太郎は「サーベル」=軍人出身の首相としては珍し く協調型ないし調整型の政治家であり、桂が相手を説得 するとき、二コニコ笑いながらポンと背中をたたく、と いうことから「二コポン」という綽名が桂の政治スタイ ルを端的に示すものである。日英同盟を成立させ(一九 〇二年)、日露戦争を遂行し勝利に導き、一九〇六(明治 三十九)年一月に総辞職した。四年ハケ月という長期在 任、最大の国難、日露戦争を乗り切ったことは、桂太郎 に多大な自信を与えた。山県有朋に対しても一定の距離 を保つことができる、したたかな政治家に変身した。第 一次西園寺内閣のとき、桂は原敬(一八五六-一九二匸 に対して次のように言ったという。「山県のごとき元老 はおがみ倒すの外なし。到底彼も長きことはなし、ある いはかえって悪くなるかも知れざれども、もはや彼も 老耄せり」とか「山県に対しては我より呑んでかかるに しかず」。元老からも自立し始めたのである(千葉功『桂 太郎-外に帝国主義、内に立憲主義』中公新書)。  一九〇八(明治四十二年七月に第二次桂内閣を組閣、 韓国併合を断行し、大逆事件による社会主義者を弾圧し たりもした。一九二一(大正元)年十二月第三次桂内閣 を組織したが、桂太郎は憲政擁護運動を受けて新党組織 を構想し立憲同志会を設立、一九回二(大正二)年一月 に総辞職した。公爵に陞爵され、元勲優遇の詔勅を受け 元老にも列せられて、位人臣を極めたが、同年十月、死 去した。  「明治の三太郎」の中で一番若いのが小村寿太郎であり、 彼は非藩閥の出身、飫肥藩(現宮崎県日南市)の下級武 士の出自である。しかし、日清・日露戦争から彼が亡く なる一九一一(明治四十四)年までの時代は彼を抜きに しては考えられない。彼は身長一五〇センチに満たなく、 「ねずみ公使」と呼ばれながらポーツマス会議(一九〇五 年)の全権代表として講和へと導き、関税自主権を回復 し、不平等条約改正を成し遂げ、この囗本の大転換期に 決定的な役割を果たした。この「明治の三太郎」は近代 日本が血みどろの戦いを挑んだ日露戦争直後に、あるい はそれから間もなく「燃え尽きたように」亡くなるので ある。  児玉源太郎は幼少のころ、父親の憤死、義兄の横死と いう引き続いた不幸を背負っていた。戊辰戦争後、大阪 兵学寮に入った。兵学寮は士官の養成を目的とする後の 士官学校にあたる青年学舎、後の幼年学校にあたる幼年 学舎、下士官の養成を目的とする教導隊に分かれていた が、児玉は教導隊出身である。同じ教導隊に入っだ萩藩 士で五歳年上の桂太郎はドイツ留学を目指して兵学寮を 出て行き、吉田松陰(一八三〇-五九)の縁につながる 乃木希典(一八四九-一九二一)も兵学寮を出て郷里の 長府に帰っていった。彼は下士官から出発し、ついには 陸軍大将まで上り詰めた。叩き上げの軍人人生を歩んだ。 児玉源太郎は長州閥の系列であり、桂太郎、寺内正毅 (一八五二-一九一九)、田中義一 (一八六四-一九二九)ら と共に、山形有朋の眷顧を最もうけた代表的人物とみな されているが、徳山藩という支藩の出であり、「傍流意 識」を生涯持ち続けた。山県有朋はもちろん大山巌二 八四二-一九一六)、桂太郎をはじめ陸軍の首脳はほとん ど例外なく欧州への留学経験がある。寺内正毅のフラン ス留学につづいて、乃木希典も明治十九(一八八六)年、 川上操六少将(一八四八-九九)と共にドイツに留学し ている。児玉源太郎が十ヶ月間の欧州視察に赴いたのは 明治二十四(一八九二年のことであった。幕末から変 転する状況の中で、状況を読み続けた児玉源太郎には、 後代の軍人、そして官僚の、学習による知識とはちがう 知恵、判断力があったのではないか(鶴見俊輔『思い出 袋』岩波新書)。児玉源太郎が心酔し、また恩情を受けた 支援者は同じ長州出身の山田顕義(一八四四-九二)だ けであった。山田はすぐれた戦術家であり、そのため山 県から敬遠され、陸軍中将まで上ったが、その後、司法 卿、司法大臣として新しい道に情熱をそそいだ。彼は明 治二十二(一八八九)年に日本法律学校(現日本大学)を 創設した。  児玉源太郎は一八七四(明治七)年、母や姉の反対を 押し切って芸者であった松子と結婚、松子は軍人の家を よく守り、後顧の憂いを除き、七男四女を養い、賢母と いわれた。  児玉源太郎は日清戦争後、後藤新平(一八五七-一九 二九)を登用して兵士たちの徹底した「検疫体制」を確 立し、一八九八(明治三十一)年に台湾総督に就任し台 湾統治に多大な実績を挙げた。軍事的才能のみならず、 国家戦略の点からも、近代日本が生んだ「最高の知性」 と言えるかもしれない。一九〇一 (明治三十四)年六月 に成立した第一次桂内閣は、憲政党の隈板内閣を除けば 元老以外からのはじめての総理大臣である。桂内閣で児 玉源太郎は陸軍大臣、後に文部大臣を兼任した。詔勅を 受けて元老と優遇されたのは黒田清隆(一八四〇-一九 ○○)、伊藤博文(一八四一-一九〇九)、井上馨二八三 六-一九一五)、西郷従道(一八四三-一九〇二)、松方正 義(一八三五-一九二四)、山県有朋、桂太郎、大正五年 に元老となった西園寺公望(公卿、一八四九-一九四〇) を別にしてすべて薩摩、長州出身である。  山県有朋は囗本の安全と発展のために主権線と利益線 を設定し、日本の主権線を確保するには朝鮮半島に利益 線を置かざるを得ず、朝鮮半島進出を目指すロシアとの 衝突は不可避の状況であった。陸軍でも厳寒、深雪の満 州での日露衝突を仮定してロシア戦の対策が重ねられた。 青森歩兵第五聯隊と弘前歩兵第三十一聯隊の八甲田山雪 中行軍演習もその一つであった。一九〇二(明治三十五) 年一月に悲劇がおこった。青森第五聯隊雪中行軍隊ニー ○名は暴風雪が荒れ狂う八甲田山麓で遭難し、生存者十 一名という悲劇がおこった(新田次郎『八甲田山死の彷 徨』新潮文庫)。  日露戦争勃発を目前に控えた一九〇三(明治三十六) 年十月、参謀次長としてロシア戦研究に没頭してきた田 村怡与造少将(一八五四-一九〇三)が急死した。当時の 参謀総長は大山巌である。大山巌は細かいことはすべて 部下に任せるというタイプであったから、事実上の作戦 立案、実行、指導はすべて参謀次長が担当することに なっていた。この機に臨んで後任の参謀次長は衆目の一 致するところは児玉源太郎しかなかった。しかし児玉は 桂内閣で内相、文相、台湾総督を兼ね、天辺の椅子=総 理大臣に一番近い人であった。いわば降格人事であった。 国家の危機に際して、あえて「火中の栗を拾う」人物が 繰り返し現れる。それが明治という時代がもった顕著な 特質(中西輝政『前掲書』)なのであろう。大山巌は満州 派遣軍総司令官として、児玉は総参謀長として日露戦争 を戦い抜いた。大山巌の息子がおそるおそる「総司令官 てなにをするんですか」と尋ねると「知ってることでも、 知らんようにきくことよ」と答えたという。大山巌の人 となりを端的に示す言葉であろう。  桂、児玉、小村とも山県閥に連なる人たちである。山 県有朋と大隈重信は共に天保九(一八三八)年生まれで ある。大正十一(一九二二)年一月に歿した「民衆政治 家」と称せられた大隈重信の日比谷公園で行われた国民 葬は雑踏、盛大をきわめた。その一ヶ月後、山県有朋が 歿して同じ日比谷公園で国葬がとり行われた。「一介の 武弁」にすぎないと終生言いながらも権力をあくまで愛 し、生涯にわたって権力を追求した山県有朋には「民衆 という視点」が決定的に欠落していた。国葬には不参者 の数が相当に多く、場内は寂しく、官葬か軍葬の観が あったという。国葬翌日の『東京日日新聞』は次のよう な見出しで報じている。「大隈侯は国民葬。きのふは 〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ」。     20 韓国合併百年を問う        -伊藤博文と朝鮮半島-  昨年(二〇一〇年)は韓国併合百年にあたり、韓国併 合をめぐってさまざまな議論が提起された。この「百 年」は、日本と朝鮮半島をめぐる近現代史を考えるため の象徴的な時間と捉えられるであろう。  改めて朝鮮史を鳥瞰して、その忍従の歴史に想いを馳 せざるを得ない。井上靖(一九〇七-九二の『風濤』 (新潮文庫)は元朝クビライ治下(匸一七一-九四)の高 麗王朝、高宋(匸一二一-五九)、元宗(匸一六〇-七四)、 中宗=忠烈王(匸一七四-匸二〇八)の忍従の歴史を文永 の役(匸一七四年)、弘安の役(匸一八一年)にも絡ませ て描いたものである。  匸二九二年、李成桂=太祖が高麗を滅ぼして王位につ き、李氏朝鮮王朝になったが、この李氏朝鮮王朝も五百 年を通じて中国の明、清を宗主国として「事大の礼」を とり続けた。高麗王朝から李氏朝鮮王朝への移行は、ま た仏教から儒教へ移行する画期となるものであった。  朝鮮では男女共に父系によってさかのぼる氏族の一員 として位置づけられる。女性は結婚後も父の姓のままで ある。このような父系血族社会では王妃でも例外ではな   キムビ   (ンビ   ミンビ く「金妃」「韓妃」「関妃」というように父系の姓だけで 記録される。李氏朝鮮王朝の歴史を見ると、「閔妃」と よばれる王妃は四人いるが、「閔妃」といえば、波乱万 丈の生涯を送り、高宗(一八五二―一九一九)の非業の死 を遂げた妃だけを指す呼び名となっている。また「大院 君」とは王の実父に贈られる名称であるが、今日では 「大院君」といえば高宗の実父、興宣君是応を指す名称 として使われている(角田房子『閔妃暗殺-朝鮮王朝末 期の国母』新潮文庫)。  李氏朝鮮王朝は支配層である両班および中人、常人、 賤人などによって構成される身分制社会であった。両班 とは官僚機構が文班と武班に二分されていたことから生 まれた総称で、両班の家に生まれた者だけが高級官吏登 傭試験(科挙)を受ける資格を持つ。十九世紀の李氏朝 鮮王朝の社会と政治は両班支配と勢道政治によって特徴 づけられるであろう。朝鮮社会では同じ本貫(出身地、 それぞれの家の始祖の発祥の地)を持つものだけが一族と される。ちなみに朝鮮では「金」という姓が最も多く、 百以上の本貫があるという。勢道政治とは、権力を握っ た一族が国政を恣にする政治である。李氏朝鮮王朝末 期に「勢道政治は国運を左右するほどの勢いであったが、 やがてその焔が燃え尽きる寸前、いちだんと華やかな 光芒に包まれて王妃の座にあったのが閔妃である」(角 田房子『前掲書』)。  閔妃(一八五一-九五)が李朝二十六代高宗の妃に 冊封されたのは一八六六年であった。十九世紀後半、朝 鮮半島はロシア、清、日本がそれぞれの国益をかけて相 争った角逐の場であった。  山県有朋(一八三八-一九二二)はつとに「国家の独立 を保持し、国勢を伸張する」ために、「主権線」と「利 益線」を確保することが喫緊の課題であると見做し、そ のための軍備の拡張が不可避であることを力説した。 「主権線」とは国境を指し、「利益線」とは「主権線の安 全と緊しく相関係する区域」をいう(岡義武「山県有 朋」-『岡義武著作集』第五巻所収、岩波書店)。山県に よれば「我が邦、利益線の焦点は実に朝鮮に在り」とし、 きたるべく想定されるシベリア鉄道の「竣工の日はすな わち露国が朝鮮に向かいて侵略を始むるの日」との認識 に立ち、シベリア鉄道の完成の暁には朝鮮半島は危機に 陥り、朝鮮の独立が失われるならば「我が対馬諸島の主 権線は頭上に刃を掛くる」情勢となって主権線さえ守れ なくなる(山室信一『日露戦争の世紀-連鎖視点から見る 日本と世界』岩波新書)。山県はそれに対処すべく軍備の 拡張と教育による国民の愛国心と国防意識の昂揚が不可 欠であることを強調した。一八九〇(明治二十三)年十 月三十日に発布された「教育勅語」が山県内閣下であっ たことを想起することは重要であろう。最終的には実現 しなかったが、教育勅語の起草過程で、起草者の井上 毅(一八四四1九五)に対して、勅語の末尾に「一国の 独立を維持するは、陸海軍備に基因す」との一節を入れ ることを要望した事実を確認しておきたい。シベリア鉄 道は一九〇一年に建設を開始し、日露戦争の最中、一九 〇四年九月に全線閧通した。日清・日露戦争も朝鮮半島 に自国の権益を確保するための戦争であった。  前述のように閲妃が李朝第二十六代高宋の妃に冊封さ れると、閔氏一族が重用され勢道政治と閔妃による 「垂簾政治」が行われた。垂簾政治とは女性である権力 者が簾の内側から行う政治のことである。高宗は父親で ある大院君との確執に加えて、とりわけ一八八四年以降 朝鮮支配をめぐって清朝、日本、ロシアの圧力の下で苦 しい舵取りを強いられた。朝鮮半島への影響力の浸透を 図る清朝、日本、ロシアなど各国の対立の中で、まず焦 点となったのは日本と清国であり、清国は「属邦保護」、 日本は「内は治安の基を堅くし、外は独立国の権義を以 てしたるに朝鮮は既にこれを肯諾したるも清国は終始、 陰に居て百方その目的を妨碍」したことを理由に「東洋 全局の平和」を求めることを宣戦詔勅で謳って、一八 九四(明治二十七)年に日清戦争が勃発した。日本が勝 利を収め、下関講和条約が締結された。遼東半島が清国 と朝鮮に対する日本の勢力拡張の拠点になることを危惧 したロシア、ドイツ、フランスの三国干渉をうけ、日本 は遼東半島を返還した。日本が三国干渉を受け入れたこ とは、朝鮮において、それを主導したロシアへの接近を 図る勢力の台頭を促し、日本と協調する勢力の衰退を促 した。苦境に立だされた日本の苛立ちは募った。その元 凶とみなされたのが閔妃であり、一八九五(明治二十八) 年十月、閔妃は日本人の集団によって暗殺された。日本 との間に何か不快なことが起きると、韓国人は決まって この「閔妃暗殺事件」のことを思い出して話題にするほ             一二( ど忘れられない事件であった。  明治の元老伊藤博文(一八四一-一九〇九)が満州視察 の旅についたのが一九〇九(明治四十二)年十月であっ た。十月の末になると満州(中国東北部)には冬が訪れ ていた。最期の地になる満州に出発した時、伊藤博文は 出版されたばかりの朝河貫一(一八七三-一九四八)の 『日本之禍機』(一九〇九年刊)を携えていた(清水美和 『「驕る日本」と闘った男-日露講和条約の舞台裏と朝河貫 一』講談社)。伊藤博文は一九〇一(明治三十四)年に米 東海岸を訪れ、イェール大学から名誉博士号を受けた際、 当時大学院の学生であった朝河貫一と出会ってから交流 があつたという(阿部善雄『最後の「日本人」-朝河貫一 の生涯』岩波現代文庫)。日露戦争後、私曲(よこしまで不 正な態度)な利権を追求し、世界で孤立せる私曲の国、 文明の敵となりつつある祖国囗本の姿に、警鐘を鳴らし 続けた朝河貫一の『日本之禍機』を、彼はどう読んだで あろうか。前年(一九〇八年)の六月、彼は韓国統監の 地位を辞していた。ロシア蔵相ココフツオフとの会談の ためにハルビン駅頭に降りたったとき、韓国独立運動の 志士安重根(一八七九1一九一〇)の凶弾に斃れた。  千円札、一万円札の肖像になり日本を代表する顔に なっている伊藤博文、福沢諭吉(一八三五-一九〇匸も 朝鮮の人びとには人気がない。伊藤博文は日本による大 陸進出の先蹤として韓国併合の道均しをしたと考えられ ている。福沢諭吉は、文明化への最大の障害が儒教にあ るととらえ、儒教への惑溺を厳しく批判した。日本、中 国、朝鮮の旧体制を思想史的に支配した儒教への惑溺を 克服することなしに西洋文明を受容することは不可能で あり、いまだにその惑溺から抜け出せずにいる中国、朝 鮮からの決別=脱亜を宣言して、日本の文明化を論じた。 そうしたイメージを朝鮮の人びとは頭から払拭できない のであろう。丸山真男は中国文化に対する日本と朝鮮の 関係を比較し、日本を「雨漏り型」、朝鮮を「洪水型」 ととらえて「雨漏り型」の日本は中国文化の影響を選択 的に受容しうるのにたいして、地理的に近い朝鮮では選 択の自由がなく、中国文化に同化されてしまう(宮嶋博 史「日本史認識のパラダイム転換のためにI『韓国併合』 一〇〇年にあたって」-『思想』二〇一〇年一月号)。植 民地主義を批判し、三・一独立運動(一九一九年)を支 持し、朝鮮総督府による光化門(景福宮の正門)の破壊 計画に真っ向から反対し、「帝国主義のもとでの良心」 と高く評価された美学者柳宗悦(一八八九-一九六匸に 対しても評価は分かれる(成田龍一「『帝国責任』というこ と『併合』一〇〇年を契機に考える」-『世界』二〇一〇 年一月号)。  安重根は(ルビン日本帝国総領事館で行われた検察 官・溝渕孝雄の尋問に対して伊藤博文狙撃について十五 の理由を列挙し、「今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指 揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ」として、その筆頭に閔 妃暗殺を挙げている。  一九〇六(明治三十九)年三月、伊藤博文は初代韓国 統監に就任した。明治の元勲であり初代の内閣総理大臣 であり、初代枢密院議長、初代貴族院議長を歴任し、華 麗ともいえる経歴を持つ伊藤が韓国統監に就任した意図 は奈辺にあったのであろうか。徳富蘇峰(一八六三-一 九五七)はいとも明快に伊藤の「初物食い」に帰してい る。自負心と名誉欲が強く「よくいえば天真爛漫、悪く いえば多分に稚気があり、無造作・磊落であった」彼の 性格を考えれば一理はあるだろう。伊藤博文と井上馨 二八三六-一九一五)は「尊攘の志士」として死生を共 にした幕末の日以来、終生きわめて深い交わりを結んだ 仲である。井上は精悍、直情径行で猪突猛進型の激しい 気質で、性格的には伊藤と対蹠的であったが、まさにそ れゆえにこそ二人はウマがあったのであろう。井上は一 八九四(明治二十七)年十月から韓国駐在公使として約 半年間韓国に滞在して、韓国の内政指導に従事した(H 第二次甲午改革)。しかし井上が一八九五(明治二十八) 年六月に帰国した折に、高宗によって改革を否定する詔 勅が下され、井上の改革は挫折した。その時から原敬 (一八五六1一九二こをはじめとして政界の事情通の間 では、伊藤が、井上の果たすことができなかった大業を 代行し、韓国に渡るとの憶測がすでに流布していたとい  しかしながら、これまでの伊藤と朝鮮半島との関係の 蓄積を考え、また伊藤の「状況に対する判断力と適応 力」をあわせ考えると「したたかな構想と計画」があっ たと理解すべきだろう。「火中の栗」を抬つたというべ きではないであろう。  韓国統監として韓国統治にあたった際に、「自分の此 の地に来任せるは韓国を世界の文明国たらしめんと欲す るが故なり」と述べている。近代日本の骨格を創りあげ た政治家として、韓国においても民本主義、法治主義、 漸進主義を方策として韓国人民を文明の民に導くことが できると彼が考えたとしても不思議ではないであろう。 伊藤は現実の政治状況を判断するに強気と弱気が交錯し たが、外交の面でも、西洋諸大国と清韓両国に対する関 係では二つの顔(ヤヌス)を持っていたということがで きるであろう(瀧井一博『伊藤博文-知の政治家』中公新 書)。植民地は国際法上では国内(‥したがって外国の干 渉を受けない)、国法上は外国(‥したがって内地人と同等 の権利保障はない)であるとのカールーシュミツト(一八 八八-一九八五)の言葉が想起される。  韓国人から見れば伊藤は、いうまでもなく自由の抑圧 者と映るであろう。安重根に狙撃され、列車内に担ぎ込 まれた瀕死の伊藤博文は、撃つだのは誰か尋ねた。随行 の室田義文(一八四七-一九三八)が「韓国人です。逮捕 されました」と告げると、「馬鹿な奴じゃ」とつぶやい た。それが最後の言葉であった。一九一〇(明治四十三) 年、韓国は日本に併合され、また日本では大逆事件が起 こった。大逆事件は明治天皇制国家を震撼させた事件で あり、明治という時代の弔鐘だったといえるであろう。 韓国併合に対して石川啄木(一八八六-一九匸一)は「地 図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と 詠い、わが国の植民地政策に鋭い批判をしている。岡義 武(一九〇二-九〇)は『近代日本の政治家』(岩波現代 文庫)の一章「初代首相・伊藤博文」の末尾に次のよう に記す。「今や、伊藤の生きた日の極東の世界は、片鱗 だもその跡をとどめていない。この転変を回想して今日 に及ぶときに、伊藤晩年の詩はわれわれに告げる、乾坤 不レ変、古今相通、魚躍・・淵水二鳶飛二太空こ。  追記 脱稿直後、早実海外交流補助資金の創設者寺岡 静治氏の突然の訃報を聞いて、悲しみのあまり言葉もあ りません。寺岡静治氏は昭和十二(一九三七)年に早実 を卒業し、明治大学に学びました。寺岡氏が詠んだ短歌 を中心に寺岡氏の人生を簡潔に記すことにします。  応召されて中国大陸を転戦、陸軍大尉として中国で終 戦を迎え、「終戦の大詔下る」の師団命令を受けたのが 八月十七日の朝、それから二、三日して内地からの郵便 物で、敬慕するほが亡くなったことを知ったという。 「戦地にて母の訃報を聞きにけりまだまだ早し五十六歳」。  戦後は(株)寺岡精工系列の三会社の経営を担い、長 く社長をつとめました。片時も去華就実の精神を忘れず 堅実な経営に専念。七十歳を機に後進に席を譲って、経 営の第一線から退きました。  生涯、旅を愛し、ハーモニカを愛し、晩年は短歌にい             一二( そしみました。平成の「松下村塾」を希求し、地球的市 民の育成を目指して、母校早実に海外交流補助資金を創 設しました。毎年「稲穂祭」に来校し、海外に派遣した 早実生との歓談を楽しみにしていました。「文化祭卒業 以来七拾年活気縊れる生徒頼母し」。  数年前に最愛の奥様を亡くされましたが、追慕の念は 深く、次のような短歌を詠んでいます。「百合子の部屋 少しも変えず元のまま時々一人そっと覗きぬ」「知らざ りき百合子詠みたる短歌には『心の広き夫』とありけ リ」。自分の青春を顧みて「勇ましく己れ鍛えし明け暮 れの吾が青春に悔ゆることなし」と詠った寺岡氏、後輩 の早実生に熱き想いを語る姿が印象的でありました。 「大学の入学決まり喜びて夢を語りぬ世界で学ばん」。寺 岡さんが播いた一粒の種子は早実生に夢と開拓者魂を植 え付け、将来、世界で活躍する多くの人材を輩出するこ とによって、大きく開花することでしょう。  寺岡氏と早稲田大学総長室での初めての出会いを私は 折に触れて思い出します。晩秋、冬隣の季節であった。 一時間以上話し込み、日は傾き始めていた。秋の日はつ るべ落とし、そんな折、寺岡氏は立ち上がって静かに言 いました。「校長先生、「Iモニカを吹かせていただけ ますか。早実の校歌を吹きます」。ハーモニカの音色が 響き、やがて晩秋の空に消えていきました。思い出は尽 きません。二月十五日死去、享年九十二歳。心からご冥 福をお祈りします。             一二(     21 吾、太平洋の橋とならん        I新渡戸稲造の「黄金の中庸」I  明治初期、キリスト教に回心した人びとには、佐幕派 の諸藩、とくに関東、東北の、明治維新の折、割を食っ た諸藩出身者が多かったとはよく言われるところである。 新島襄(一八四三-九〇)は上州安中藩の出身であり、 内村鑑三(一八六一-一九三〇)は高崎藩、新渡戸稲造 (一八六二-一九三三)は奥州の盛岡、南部藩士であった。 新島襄は一八六四(元治元)年、私人として国禁を犯し てアメリカに密出国した。この密出国について後年、新 島は次のように語っている。「この挙は、藩主や両親を すてるということではない。自分一個の飲食栄華のため でもない。まったく国家のためである。自分の小さな力 をすこしでもこの振わざる国家と万民のためにつくそう と覚悟したのである」(司馬遼太郎『「明治」という国家』 日本放送出版協会)。まさに新島峩の密出国は愛国・憂国 の想いからである。密出国を手助けしたアメリカ船ベル リン号のウィリアムーセーヴォリー船長も新島の愛国心 に打たれたからであろう。初期キリスト者に見られる顕 著な特徴は、内村鑑三の「二つのJ」=JesusとJapan に端的に表現され、また武士道的なキリスト者である新 渡戸稲造に見られるように、囗本の精神的伝統を重んじ た点であった。  新渡戸稲造と内村鑑三は札幌農学校の第二期生として 入学し、終生固い信頼で結ばれ、その方途は異なるが、 囗本の「近代精神」の展開に生涯を捧げた。内村は『余 は如何にして基督信徒となりし乎』(岩波文庫)で仲間に ついて語っている。新渡戸は叭(当時、新渡戸は叔父太田 時敏の養子となり、太田姓となっていた)、クリスチヤンー ネームのパウロでしばしば登場している。後の新渡戸を 考えるとき、有益だと思うので引用しておきたい。「パ ウロは『学者』であった。彼はしばしば神経痛に悩んだ、 また近眼であった。彼はすべての事を疑うことができ、 新しい疑問を製造することができた、そして何事も自分 がそれを受取ることのできる前に吟味し証明しなければ ならなかった。ゆ・●・・● 彼の眼鏡といかにも気取った学者的 ふうさい 風采とにかかわらず、彼は心に偽りのない少年であっ た」。  札幌農学校時代、内村の成績は最優秀であって、製図 と兵式体操を除くほかはほとんど各学科にわたって最高 点であつたという。内村が選んだ専攻は水産学であった というから面白い。「もしも内村鑑三が生涯の仕事とし て水産学を選んだとしても、彼はその方面で優に一大家 をなしたに違いない」と矢内原忠雄(一八九三-一九六 匸は『続・余の尊敬する人物』(岩波新書)で述べてい る。札幌農学校二期生の中で首席を通した内村に比べて、 新渡戸稲造の成績はパッとしなかったようで、それは理 数系が不得意だったことによるものだそうである。しか             一二( し新渡戸の英語力は抜群で、語学ではトップを譲ったこ とがなく、教師も一目おく存在であったという(大田原 高昭「内村鑑三と新渡戸稲造」-『高等教育ジャーナル』 第十号所収、北海道大学)。新渡戸は農業経済学を専攻し た。卒業後、さらに勉強を重ねるため東京帝国大学に入 学したが、当時、外山正一 (一八四八-一九〇〇)が文学 部長をしていた。面接した外山正一教授に何を勉強する か問われた新渡戸稲造は農政学だけでなく英文学希望も 告げると、外山に次のようにいわれたという。  「『英文やって何します』僕は笑ながら『太平洋の橋に なり度と思ひます』と云ふと、先生独特の軽々しい調子 で、少しく冷笑的に『何の事だか私は解らない、何の事 です』、其所で不得止説明して、『日本の思想を外国に伝 へ、外国の思想を日本に普及する媒酌になり度のです』 と述べた」(鈴木範久編『新渡戸稲造論集』解説、岩波文庫)。  外山は社会学の講義を担当していた。高価で学生では なかなか買えなかったスペンサーの社会学の本を外山正 一は「机の前に坐って……それを棒読みに読んだもので ある。しかも発音もあまり正しくなかった。そうして生 徒は先生に追付けなくて、今何処を読んでいるのか分ら ない。どんどん進んで行く。それが社会学の講義であっ たのである。随分不完全な教育であった」「それで僕は こんな所におってはどうしても学問なんかは進まないと 思って亜米利加に行った」(「読書と人生」-前掲『新渡 戸稲造論集』所収)。  アメリカではジョンズーホプキンス大学で学んだ。一 八八七(明治二十)年、札幌農学校助教に任ぜられてド イツに留学。ボン、ベルリン、ハレの諸大学にて研鑚に 励み、一八九一 (明治二十四)年にメリー・エルキント ン(一八五七-一九三八)とアメリカで結婚し、日本に帰 国、札幌農学校教授に任ぜられた。  一八九〇(明治二十三)年十月に教育勅語が発布され、 日本全国の学校でその奉戴式が行われた。アメリカから 帰国した内村鑑三は第一高等中学校(後の第一高等学校) の嘱託教員となっていた。一八九一 (明治二十四)年一 月九日、同校には、特に明治天皇「睦仁」という宸筆署 名入りの「教育勅語」が下賜された。同日、その奉読後、 天皇の御真影と「勅語」の宸署に対して教授、生徒一人 ひとりが敬礼をすることになった。嘱託教員内村鑑三は 三番目に壇上に上がり、「ためらいと良心のとがめ」の 裡に、一寸頭を下げてすました。これを目撃した一部の 生徒、教授が騒ぎ立て、「不敬事件」として校外に波及 した。ジャーナリズムもキリスト教徒内村を非難、攻撃 するに至った。  内村自身はこの問題発生直後、感冒にかかり、生死の 境をさまよった。この「不敬事件」は、後に東京帝国大 学文科大学教授井上哲次郎(一八五六-一九四四)が介入 し、漸く下火になりかかった「不敬事件」論議に再び火 をつけることになった。この事件は上下の支配服従関係 を教える儒教的倫理に基づく「教育勅語的」人間像と、 人間を人間として等しく神の愛する子として位置づける 「キリスト教的」人間像との対立であった。近代日本の 形成過程で避けて通れぬ問題であった。  内村は自分の魂の故郷である札幌に帰り、新渡戸稲造 らの旧友たちの援助を受け、さらに熊本や京都に身を隠 し、生涯で最も苦難の道を歩んだのである。このもっと も苦しかった時期に『余は如何にして基督教徒となりし 乎』『基督教徒のなぐさめ』『求安録』(いずれも岩波文 庫)などの代表作を書き残していることはしばしば指摘 されている通りである。  新渡戸稲造は長い外国生活から帰国した直後に内村鑑 三の「不敬事件」に遭遇した。そこに見だのは極度に神 経を痛めつけられ、おびえたような内村鑑三の姿であっ た。この「不敬事件」は国家権力の恐ろしさ、一般大衆 の過激な愛国主義、ジャーナリズムへの警戒心を新渡戸 の心に植えつけたであろう。その脈絡の中で彼の思想の 核である、「中道」思想と包容性も捉えることができる であろう。  新渡戸稲造は第一高等学校校長在任時に明治天皇制国 家を震撼させた大逆事件が起こり、再び国家権力の恐ろ しさに遭遇する。大逆事件に係わりを持ったとされる幸 徳秋水(一八七一-一九一こらの被告人がまさに「奔馬 のごとくひた走る裁判」で処刑された直後の一九一一 (明治四十四)年二月一日に徳冨麓花(一八六八-一九二 七)は第一高等学校で「謀叛論」と題する講演を行った。             一二( 講演の核心的部分は次のようなものである。「死の判決 で国民を嚇して、十二名の恩赦でちょっと機嫌を取って、 余の十二名はほとんど不意打の死刑-否、死刑ではな い、暗殺-暗殺である」「諸君、幸徳君らは時の政府 に謀叛人と看做されて殺された。諸君、謀叛を恐れては ならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。e●●・・● 新しいものは常 に謀叛である」(徳冨健次郎『謀叛論 他六篇・日記』岩波 文庫)。大逆事件後のピリピリした雰囲気のなかで行わ れた麓花の講演に「傍聴の職員等も心安からずひやひや し、同校の将来につき変化来りはせずや」と心配したこ とであろう。  この講演時、新渡戸校長は不在であったが、翌日、全 校生徒を集めて訓諭した。「個人としても、客を招きそ の席上に於いて反駁するは礼でない。不幸にして私は弁 論会には出席しなかったが、それにしても陰口を利くと 言う事は礼ではないと思うから、今更徳冨君の演説に就 いて、どうこうは言わぬ……責任問題を引き起こすかも しれんが、その際は自分が全責任を負うから、生徒諸君 は安心してよい」。新渡戸校長がこの訓示後、更に進退 伺いのため文部省に出頭したことを聞いた生徒たちは新 渡戸校長の意気に感じ、「万一校長がこの事件に就いて 全責任を負い辞職する事があれば、生徒一同協力してそ の責任に代わる事を期すべし」と堅く決議したという (「毎日電報」明治四十四年二月四日)。この件で新渡戸稲造 は文官懲戒令で譴責処分を受けた。             一二(  生涯にわたって在野での活動に終始した内村鑑三に対 して新渡戸稲造の活躍は多方面に及ぶ。札幌農学校教授 時代(一八九一-九七)は札幌農学校を代表する学者と して教育・研究に、学内行政に、また北海道開発のさま ざまな実際問題の指導に八面六臂の活躍を見せ、札幌農 学校の「新渡戸時代」と称される一時代を築き上げた。 しかし過労のため健康を害し、眼がほとんど見えなく なった。一時は重体に陥った新渡戸の健康は群馬県の伊 香保温泉からアメリカに療養の地を移し、メリー夫人の 献身的な看護によってようやく快方に向かった。この時 期に伊香保で代表作『農業本論』を執筆し、アメリカで は名著『武士道』(矢内原忠雄訳、岩波文庫)を上梓した。  台湾総督府の民政長官になった後藤新平(一八五七- 一九二九)より二年越しの招聘を受け一九〇一 (明治三十 四)年に台湾総督府の技師に就任し、台湾における糖業 発展の基礎を築いた。また七年間にわたって国際連盟事 務次長をつとめた(一九二〇-二六)。国際連盟事務次長 という職は「黄金の中庸」を求める新渡戸稲造にうって つけのものであった。国際会議で非常に重大な問題は席 順である。「上下の区別なからしめるためには円形の卓 子(テーブル)とするがよい」。たしかにそうすれば上下 もない。入口に近い方は下に見られるから、入口は各所 に設け、建物自体も円形にしたらどうか。総会はどうす るか。ABC順にしても英語にするか、仏語にするかで 席順が違ってくる。仏語を採用したという。             一二(  生涯を通じての新渡戸稲造の基本的なスタンスは「黄 金の中庸(Golden Mean)」であり、極端を嫌う「漸進主 義」である。それは早稲田大学で行われた科外講演「新 自由主義」のなかで端的に表現されている。「個人の自 由は、どこまでプライマリイープリンシプルでいけるか。 行けないところはセコンダリイープリンシプルで、いわ ば実際的に、なるだけ新自由の幸福と安全を図るために は、どれほどゆずらねばならぬかという、そこを論ずる のが、新自由主義である、と私は心得ている」。しかし 「プライマリイープリンシプル」と「セコンダリイープ リンシプル」の径庭はどこまで許容されうるのかはきわ めて困難な問題である。さもなければどちらかに収斂さ れ「黄金の中庸」は望むべくもないであろう。  多方面で活躍した新渡戸稲造の経歴の中でも傑出して いるのは教育の分野であろう。札幌農学校の後輩であり、 『日本風景論』(岩波文庫)の著者である志賀重昂(一八 六三-一九二七)は、現在の教育者が福沢ならば、未来 の教育者は新渡戸であると評している。札幌農学校教授 時代(一八九一1九七)から放課後、自宅を開放して学 生と語り合い、また農学校学芸会を組織してひろく文学 芸術に親しませるなど、個々人の人格を尊重する全人教 育を実践した。こうした教育理念は終生変わることはな かった。一高校長になった新渡戸は、学校の隣に一軒の 家を借り、学生だちと語らいの時を過ごしたという。新 渡戸校長とせんべいを食べながら語り合ったという思い             一二( 出が多くの学生に残されている。新渡戸稲造に直接に教 えを受け、そして新渡戸を通じて内村鑑三に連なる「札 幌の子」の系譜をたどれば、戦後の教育改革の理念があ ざやかに浮かび上がるであろう。新渡戸の直接の後継者 であり、戦後二代目の東大総長である矢内原忠雄、その 前任者である南原繁(一八八九-一九七四)、戦後最初の 文部大臣前田多門(一八八四-一九六二)、それに続く安 部能成(一八八三-一九六六)、天野貞祐(一八八四-一九 八〇)、森戸辰男(一八八八-一九八四)と歴代の文部大 臣がすべて「札幌の子」であった。「日本国憲法の精神 に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基 本を確立」した教育基本法の育ての親は新渡戸稲造その 人であったと言えるであろう。     22 森羅万象に挑んだ巨人        -南方熊楠と柳田國男-  没後六十年を経て超人的博物学者にして民俗学草創者 である南方熊楠(一八六七―一九四一)が再評価されてい る。「千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木相互の 関係甚だ密接錯雑致し、近頃は『エコロギー』と申し、 此相互の関係を研究する特殊専門の学問さえ出来り居る 事に御座候」。これは南方熊楠が和歌山県知事の川村竹 治(一八七一-一九五五)に宛てた書簡(明治四十四年十一 月十九囗)の一節である。エコロジーを造語したのはド イツ人の生物学者エルンストーヘッケル(一八三四I一 九一九)が一八六六年に使用したのが最初であるといわ れている。熊楠は「植物棲態学」と訳し、現在使用され ているエコロジーよりも狭く限定的に捉えられているよ うに見える。しかしながら後述する熊楠の「神社合祀反 対意見」を仔細に検証すれば、彼はエコロジーを「植物 生態学」だけに限定せず、植物の生態系を破壊すること によって、人間の生命と生活が破壊され、人間性そのも のが荒廃するというように、「環境の全体的保全」とし て広く捉えているのがわかる。百年も以前に「環境の全 体的保全」を唱導していることに驚きを禁じえない。  南方熊楠は一八六七(慶応三)年に御三家の城下町和 歌山に生まれた。この時代的、空問的条件は熊楠の将来 に大きな影響を与えた。夏目漱石(一八六七-一九一六)、 正岡子規(一八六七-一九〇こ、尾崎紅葉(一八六八-一 九〇三)、幸田露伴(一八六七-一九四七)も慶応三年生 まれである。しかも漱石、子規は後に東京大学予備門で の同級生である。名前の熊楠は、熊楠自身が「小生は 藤白王子の老樟木の神の申し子なり」と自ら記している ように楠は藤白神社(現在の海南市藤白)の大楠に由来し、 熊はもとより熊野の熊である。地元の和歌山中学に学び、 一八八四(明治十七)年に上京し、共立学校と東京大学 予備門では前述のように漱石、子規や秋山真之(一八六 八-一九一八)と同級生であった。学業成績は必ずしも 優秀ではなかったという。数学と体操に苦労し、算術の 領域を熊楠は生涯不得手としていた。成績の問題は、学 力の不足というより、自分の好むところばかりを追う熊 楠の知的スタイルと、学校で要求される学科学習とのミ スマッチにもあったともいわれている。また眼病などを 患い一八八六(明治十九)年に退学し、二月に和歌山に 帰郷した。十月には熊楠はアメリカ留学を決めている。 その動機や経緯については不明な点も多い。岩田準一宛 書簡で熊楠は家庭の事情をあげている。「兄が出奔した ため次男である熊楠が当時の家業であった金貸し業の跡 取りにならざるを得ないことを危惧した熊楠は、もしそ うなれば勝手に学問はできず、田舎で守銭虜となって朽 ちんことを遺憾に思い渡米を決意したという」(鶴見和 子『南方熊楠-地球志向の比較学』講談社学術文庫)。  出発前の送別の宴で熊楠は「米国行きを思い立ちし 故」を次のように述べている。「日本人が欧米に入りて、 その土をふみ、その物をみ、その人間の内情を探り、資 るべきはすなわちとり、傚うべきはすなわち傚い、もっ てみずから助むることはなはだ要用なりとす」。注目す べきは「時期もあらばなおまた欧州へも渡らんことを欲 しおれり」と言い、ヨーロッパに渡ることも視野に入れ ていたことである。また渡米直前に熊楠は日高郡塩屋村 (現御坊市)の名医の長男羽山繁太郎に贈った肖像写真の 裏面に都都逸調の戯れ歌を書き記している。「僕も是か ら勉強積んで 洋行すました其跡は 降るアメリカを後 に見て 晴る丶日本へ立帰り 一大事業をなした後 天             一二( 下の男といわれたい」。明治前半の青春群像に共通する 気概と楽天性が見られよう。これらの諸点を考えれば 「次男だった南方は、学生でなくなったため徴兵逃れを 画策した」という穿った見方は採り得ない。  熊楠は一八八六(明治十九)年十二月二十二日、横浜 を出港した。翌年一月、サンフランシスコに到着したが、 アメリカでもイギリスでも熊楠は大学に入らず、学位も とらず、白身で本を渉猟し、本を筆写し、植物を採取し、 観察し、文章を著述する、という基本姿勢を貫いた。一 八九二(明治二十五)年九月に五年半滞在したアメリカ からイギリスに向かった。熊楠はロンドンで父の知己で あり、当地における熊楠の後見人的存在であった中井 芳楠(横浜正金銀行ロンドン支店長、一八五三-一九〇三) から父の訃報を聞いた。父の死により熊楠は経済的にさ まざまな制約を受けることになった。熊楠の在外研究は 全面的に実家に依存していたからである。  一八九三(明治一一十六)年九月、熊楠は大英博物館考 古学副部長C・H・リード(一八五七-一九二九)に面会 して、このつてにより東洋関係資料の整理を助けて、大 英博物館で勉学する便宜を与えられた。大英博物館に六 年ばかりいたころ、館員になるよう誘われたが、「人と なれば自在ならず、自在ならば人とならず」と思案して 辞退したという。一生無官で過ごした熊楠の面目躍如で ある。この時代、帰国すれば、二度と再び渡英すること はないという意識は強かっただろう。大英博物館に毎日             一二( 通い、多くの研究書から抜き書きをして研究ノートを作 り、折に触れては専門誌に投稿するという生活を送った。 イギリス滞在中に『ネイチャー』誌に三十七篇、『ノー ツーアンドークェリーズ』誌に十六篇が掲載された。イ ギリスの学者の問に、ミナカタの名声は高まっていった。 なかでも最大の理解者であり、協力者であっだのは当時 のロンドン大学総長フレデリックーヴィクトルーディキ ンズ(一八三九-一九一五)であった。彼は幼児から長く 日本に滞在し、後に横浜で弁護士兼医師をしたこともあ る経歴の持ち主である。ディキンズが書いた東洋関係の 著述や論文はすべて南方が「多少校閲・潤色したもの」 だといわれる。ディキンズは、ケンブリッジ大学に日本 学の講座を設け熊楠を助教授に迎えようと計画したが、 南阿戦争の勃発(一八九九年)で立ち消えとなった(鶴見 和子『前掲書』)。  父の死後六年経って、弟常楠(一八七〇-一九五四)か ら相続遺産分の送金を終えたという連絡とともに送金が 止まると、熊楠はその先長く滞在を続けることができな くなった。一九〇〇(明治三十三)年九月一日、熊楠は イギリスを去ることになった。余談になるが、熊楠が 乗った船とほぼ時を同じくして大学予備門(旧制一高の 前身)同期の夏目漱石や芳賀矢一 (一八六七-一九二七) を乗せた船がヨーロッパに向かっていた。両者はインド 洋上ですれちがったかもしれない。  熊楠の多方面にわたる巨大な活動と業績の中でも、神 社合祀反対運動は、南方熊楠の学問一筋の生涯の中で、 その学力と精力のすべてを傾けた唯一つの実践活動で あった(鶴見和子『前掲書』)。南方熊楠は次のように合祀 政策を非難した。「神社合祀は第一に敬神思想を薄ふし、 第二に民の和融を妨げ、第三に地方の凋落を来し、第四 に人情風俗を害し、第五に愛郷心を減じ、第六に治安民 利を損じ、第七に史蹟古伝を滅ぼし、第八に学術上貴重 の天然記念物を滅却す。当局は斯く迄百方に大害ある合 祀を奨励して一方に愛国心敬神思想を鼓吹し鋭意国家の 日進を謀ると称す、何ぞ下痢を停めんとて氷を喫ふに異 ならん」。神社合祀政策は一九〇六(明治三十九)年の勅 令によって進められた。合祀政策の主要な目的は地域の 行政区画整理および財政合理化であったが、神社ではな くなった社叢の巨木を産業材として換金できるという短 期的な利潤も馬鹿にはできなかったといわれている。  特に合祀政策が甚だしかったのが三重県であり、県下 全神社のおよそ八十九パーセントが廃されたという。和 歌山県や愛媛県がそれに次いだ。この政策を推進するの は知事の裁量に委ねられたので、この政策の実行の程度 には地域差が生じることになった。熊楠は変形菌(南方 は「粘菌」の呼称を使った)採集を田辺町近郊でするよう になる。採集場所はおのずと集落の中で、比較的自然植 生に近い環境が維持されている神社林ということになる。 ほぼ時を同じくして、和歌山県では神社合祀が積極的に 推進されることになる。             一二(  南方熊楠が保護に尽力した神島は、一番近い陸地、田 辺市新庄町鳥の巣から約五百メートルたらずの海上に浮 かぶ無人島である。古来より地元の人びとに島全体が海 上鎮護の神として崇められ、樹林は神林として、また魚 付き林として保護され、明治まで人手のほとんど入らな い生態系を維持し続けた。それで貴重な生物が維持され た。熊楠が初めて神島に渡ったのが一九〇二(明治三十 五)年六月、○四(明治三十七)年から田辺に居を定め、 ○六(明治三十九)年に再び神島にわたり植物採取を 行った。後年、熊楠は次のように伝えている。「田辺湾 内で目ぼしい処は、何といっても神島だ。すでに神島と 名づく。この島の神が湾内を鎮護すると信ぜられたるの 久しきを知るべし。諸島中最も大きく、二つの小山、東 西にわかれ立ち、岩平らかな地峡で維がれ、大潮ごとに 地峡も海となって一つの島を両分する。東の山は樹木 蓊鬱、古来斧で伐られず」  神社合祀運勣がはじまると神島神社も新庄村の大潟神 社との合祀が決まり、ご神体がなくなった島は伐採が始 まった。熊楠は特に神島は学術上重要であり、とくに八 カマカズラの重要性やその保護の意義、また伐採が漁業 にも大きな影響あることを説いて伐採を中止させた。こ の時点で「こやま」の伐採はすでに行われていた。さら に熊楠は神島については法律上保護は必要と考え、さら なる活動を進めていた。その結果、一九二一(明治四十 五)年に神島は魚付き保安林に指定され、一九三〇(昭             一二( 和五)年にはハカマカズラの北限自生地として和歌山県 の天然記念物に指定するよう申請を行い、県の天然記念 物に指定された。一九二九(昭和四)年には昭和天皇の 紀南行幸があり、御召艦長門にて田辺湾に来航、神島を ご覧になった後、熊楠は長門艦上にてご進講を行った。 神島にはこの行幸を記念してその記念碑が翌一九三〇 (昭和五)年に建てられた。その記念碑には、熊楠の自 詠自筆の歌「一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめ てましし森そ」が刻まれている。天皇のご来訪があって か、神島は一九三五(昭和十)年十二月に国の天然記念 物に指定された。熊楠の娘文枝の回想によれば「熊楠は 長年の宿願が叶った安堵からか二晩も高いびきで眠り続 け、そしてよほど嬉しかったと見えて書斎でありったけ の自分の知っている小唄や都々逸を歌ってはしやいでい た」という。昭和天皇は敗戦後の一九六二(昭和三十七) 年、南紀白浜を訪れた時、田辺湾に浮かぶ神島を見て青 春時代に思いを馳せ、熊楠との一期一会を懐かしみ、 「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を想 ふ」と詠んだ。  三重県南牟婁郡阿田和村(現御浜町)の引作神社も合 祀廃社の結果、叢林の伐採が進行したが、最大の巨木 だった「阿田和の大クス」は、幹回り十五・七メートル という巨木であったため伐採着手が遅れた。新宮発の 『牟婁新報』記事「南都無二の歴史樹、近く伐採されん とす」(明治四十四年六月二十七日)で事態を知った熊楠             一二( は中央の高級官僚であった柳田国男(一八七五-一九六 二)に、三重県知事への働きかけを依頼した。そのとき 熊楠は、自分の心情を託した歌を柳田へ書き送った。 「音にきく熊野櫛樟日の大神も柳の蔭を頼むばかりぞ」。 同郷の東京朝日新聞記者であった杉村広太郎(楚人冠、 一八七二-一九四五)にも助力を依頼した。「紀の路なる 熊野樟日の大神も偏に頼む杉村の蔭」。杉村もこれに応 えて、東京朝日のコラム欄「五味籠」で「一般の民が神 と仰いでゐる霊木をむざむざと切り倒したりなんかして 碌なことがあるものかと熊野辺の人は憤ってゐる」と伝 えている。東京帝国大学植物学教室主任の松村任三(一 八五六-一九二八)への書簡も柳田圃男が紹介した。こ の松村宛二通の書簡は柳田国男の提案で活字印刷し、冊 子にして知名の土に配布された(「南方二書」‥書は書簡 の意)。こうした努力が実って、この巨木だけ伐採され ずに残り、今日でもその雄姿を見ることができる。  柳田図男が『東京人類学会雑誌』(一九一一年二月)に 掲載された熊楠の「山神オコゼ魚を好むということ」を 読んで、三月に熊楠に書簡を送っだのが二人のつき合い の始まりだった。柳田圃男は一九匸二(大正二)年十二 月三十日、紀南周遊の途上、熊楠を訪問している。この とき柳田を料亭に待たせながら、熊楠は酒に酔ってし まって、まともに応対できず、家に帰ってしまったこと は有名な話である。翌日、柳田は熊楠邸を訪問した。そ の様子を柳田は次のように書き記している。「僕(‥熊 楠)は酒を飲むと目が見えなくなるから、顔を出したっ て仕方がない、話さえできればいいだろうといって、 掻巻(‥綿入れの夜着)の袖口をあけてその奥から話を した」。南方熊楠の同日の日記によれば「余眼あかず、 臥したまま話す」。こんな奇妙な直接的出会いであった が、熊楠に対する柳田の敬意を損なうものではなかった (鶴見和子『前掲書』)。  神社合祀反対運動に没頭する熊楠に対して柳田国男は、 彼の学才と努力が合祀反対運動に費やされることを惜し み、研究の世界に没頭するよう促してもいる。二人は書 簡を通して白熱の議論を交わした。権威に頼らず、自分 の眼で見、耳で聞いて確かめる南方熊楠の「地方から中 央を見る眼」と高級官僚であり農政官でもある柳田国男 の「中央から地方を見る眼」との径庭は次第に埋めがた いものになっていった。東京(中央)から見れば僻遠の 地、田辺にいる熊楠に対して柳田は「貴下は年久しく外 国におられ候のみならず、帰りても無鳥郷里にのみ住ま れ候」と書き送っている。これに対して熊楠は「小生は いかにも無鳥郷の伏翼なり。しかしかつて鵑鳳(‥この 上もなく大きいもののたとえ)の間に起居した覚えはあ り」と応じている。  二人の書簡の交換は一九二六(大正十五)年六月まで で途絶する。そこには熊楠のいう「はなはだ面白からぬ ことが起こった」ことによるが、鶴見和子の言うように 「神社合祀反対をめぐる二人の往復書簡は、この二人の             一二( 相違をしだいに大きくさせ、『いきさつ』がなくても疎 遠になったかもしれない。二人のこうした相違にもかか わらず、柳田図男は熊楠の死後、熊楠の才を愛惜し、そ の学を賞賛した」(鶴見和子『前掲書』)。晩年に至るまで の柳田国男のいくつもの熊楠評がそのことを端的に示し ているであろう。     23 瀬戸内より日本を見る        I『坂の上の雲』と『ひとびとの跫        音』-  「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、 阿波、土佐、伊予にわかれている」。司馬遼太郎(一九 二三-九六)の『坂の上の雲』(文春文庫)はこのような 書き出しで始まる。『坂の上の雲』は「のぼってゆく坂 の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとす れば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」 悲壮感なき若者たちの代表として伊予松山が同時期に生 みおとした秋山好古(一八五九-一九三〇)、真之(一八 六八-一九一八)兄弟と正岡子規(一八六七-一九〇二) を中心に描いたものである。  司馬遼太郎が『産経新聞』で『坂の上の雲』を連載し たのは一九六八(昭和四十三)年から七二(昭和四十七) 年にかけてである。その当時「アイデンティティ」とい う言葉が流行した。司馬はアイデンティティを「お里」 と訳した。司馬遼太郎は日本人の歴史的記憶における近 代日本の「お里」を明治十年代末から三十年代にかけて、 子規や真之が、悲壮がらず、しかし真面目に、かつ明る くふるまい得た時代、すなわちオプティミズムを主調色 とした時代として捉えた。かつ日本を中華文明の辺境と とらえ、そこで中華文明の桎梏から自由でまことに「小 さな国」であるが独白の文明を形成した日本、しかもそ の日本でも辺境を重視した。  伊予松山藩の殿様は久松家である。徳川家康(一五四 三-ヱ(ヱ()の異母弟がその家祖となっており、佐幕 藩であり、長州征伐では幕府の命をうけて長州と戦い、 官軍である土佐人によって占領されもした。一八九五 (明治二十八)年、松山中学に赴任した当時の経験が材料 になっている夏目漱石(一八六七-一九こ()の『坊っ ちやん』(岩波文庫など)では子規が「春や昔、十五万石 の城下かな」と詠んだ伊予松山も散々なものである。 「大通りも見た。神楽坂を半分に狭くした位な道幅で町 並はあれより落ちる。廿五万石の城下だって高の知れた ものだ。こんな所に住んで御城下だなどと威張ってる人 間は可哀想なものだ」。  この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめて ヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが日露戦争で あり、当時の囗本人たちは精一杯の知恵と勇気と外交能             一二( 力の限りをつくして、辛うじて勝利を収めた。その代表 者として、居並ぶ顕官から選ばず、伊予松山の秋山兄弟 を選んだのは他に理由があるにせよ、「小さな国」の多 様性と「辺境」という視点があったのだろう。  日露戦争時、陸軍は十三個師団構成であり、第二次大 戦終戦時では百六十九個師団であったことを考えれば、 雲泥の差である。国家の財政基盤も脆弱、しかも国家予 算歳出中の軍事費の割合は、一八九六(明治二十九)年 度四十三・三パーセント、九七年度四十九・四パーセン ト、九八年度五十一・一パーセントなど、日露開戦前の 一九〇三(明治三十六)年度までの年平均は四十ニパー セントと突出していた。三国干渉以後、国民は臥薪嘗胆 のスローガンの下に一汁一菜の耐乏生活を強いられたの である(山室信一『日露戦争の世紀-連鎖視点から見る日 本と世界』岩波新書)。  しかし「時代の気分」は明るかった。司馬は次のよう に言う。「維新後、日露戦争までという三十余年は、文 化史的にも精神史のうえからでも、ながい囗本歴史のな かでじつに特異である。これほど楽天的な時代はない」 (『坂の上の雲』あとがき、文春文庫)。「リアリズムといえ ば、明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きと おっだ、格調の高い精神に支えられたリアリズムでした。 ……そこへゆくと、昭和には昭和二十年までですがリア リズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満し て国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみて             一二( も明治とは、別国の観があり、べつの民族だったのでは ないかと思えるほどです」(『「明治」という国家』日本放 送出版協会)。『坂の上の雲』で司馬遼太郎は「歴史の再 構成というより、日本人の歴史的記憶の再構成をめざし た」(関川夏央『「坂の上の雲」と日本人』文春文庫)といわ れる所以である。  このような捉え方には当然異論が唱えられよう。司馬 もそのようなことは十分認識していた。「庶民は重税に あえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾 の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そ のような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代は ないであろう」(前掲『坂の上の雲』あとがきI)とも言っ ている。司馬遼太郎は日清、日露戦争で朝鮮がどうなっ たか、具体的には描いていない。今年(二〇一〇年)は 韓国併合百年であるので日清、日露戦争での朝鮮問題の 位置づけ等の問題が提起されるであろう。  司馬の視点は「俯瞰」「鳥瞰」である。「歴史小説を書 くことIなぜ私は歴史小説を書くのか」(『司馬遼太郎 全集』第三十二巻所収、文藝春秋)の次の一節は司馬の 「歴史小説」の核心を表現していると言えるであろう。 「某という人物その人生というものは、その某の人生が 完結したあと、時間がたてばたつほど、私にとって好材 料になるようである。時間が経たねば、俯瞰ができない。 俯瞰、上から見おろす。そういう角度が、私という作家 には適している。たとえばビルの屋上から群衆を見おろ し、その群衆のなかのその某の動き、運命、心理、表情 を見おろしてゆく。この俯瞰法(つまり歴史小説をかく視 点)で某を見るばあい、筆者は某そのひと以上に某の運 命とその環境、そしてその最期、さらには某の存在と行 動かおよぼしたあとあとへの影響、というものを知るこ とができる」。私はこの「司馬史観」に関して次のよう に論じたことがある。「幕末という混沌とした時代を例 に取ろう。そこで生起する事象を扱う場合、それ以後の 日本の近代の流れを知る私たちは『現在から見る目』と 『同時代人として見る目』をもつ必要がある。『俯瞰』と いう視点に立てば支配的な歴史の流れに重点が置かれ、 したがって可視的な歴史の流れに沿った青写真をもった 人物に焦点があてられるのを避けることができない。あ る歴史的な時点で、その支配的な流れと同様に、生きた 生命をもった、その他の多くの可能性が背後に退いてし まうことにもなろう」(「『俯瞰の視点』と『虫の目の視 点』-司馬遼太郎と藤沢周平」-『時代を紡ぐ教育論』 所収、早稲田大学出版部)。  文学の態度と方法において対照的な立場に立つ藤沢周 平(一九二七I九七)は彼の時代小説の核心を次のよう に述べている。「文政何年のある囗、路上で男二人が立 ち話をしていたそこまでわかる場合すらある。しかしそ こまでわかっても、男たちの肉声を、我我はついに聞く ことが出来ない。その表情と身振りを見ることがない。 時代に遮られたそのわからなさは決定的である。その肉             一二( 声を聞きたいと思ったときに、すでに創作の領域に入っ ているのである」(藤沢周平「歴史のわからなさ」-『周 平独言』所収、文春文庫)。まさに「俯瞰」の視点に対し て「虫の目」の視点と言ってよいだろう。「藤沢周平の 『わからなさ』はこの歴史記述の空白を生きた人々への まなざしからやってくる」(高橋敏夫『藤沢周平-負を 生きる物語』集英社新書)のだろう。  あえて司馬遼太郎の作品から藤沢周平との接点を探せ ば正岡子規死後の人びとの輪、普通の人びとの普通の物 語を描いた『ひとびとの跫音』(中公文庫)であろう。 『ひとびとの跫音』は正岡子規の妹律、律の養子となっ て正岡家を継いだ正岡忠三郎、忠三郎の旧制二高時代の 学友で革命家西沢隆二などを描いた作品で、しかも男を 支えた妹律、忠三郎の妻あや子、秋山好古の次女土居 健子、西沢隆二の妻麻耶子が重要な役割を演じている。 とくに妹律については『ひとびとの跫音』によって明ら かにされたことが多い。死の前年の明治三十四(一九〇 こ年九月から亡くなる半月前までの子規の断続的な病 床日記である『仰臥漫録』(岩波文庫)では看病する妹律 に関する描写は辛辣である。「律は理窟づめの女なり 同感同情のなき木石の如き女なり 義務的に病人を介抱 することはすれども同情的に病人を慰むることなし」。 この当時、結核菌が骨を腐らせるカリエスが悪化、背や 腰に穴があいて膿が出ていた。毎日、繃帯を取り換えね ばならなかった。この作業は病人にとって最大の苦痛が ともない、叫び声が近所まで聞こえたという。それに堪 えて介抱をするのは妹律である。「兄の看病人となりを はれり」妹律について「もし余が病後彼なかりせば余は 今頃如何にしてあるべきか……」と、子規はすべてにわ たって粛々と世話をする律の別の面を写生している。当 時不治の病と言われた肺結核に罹りながらも、その不幸 を逆に活力にする楽天主義は子規の場合、自虐的になら ず、明るく見えるのは、「時代の気分」が働いていたの であろうか(坪内稔典「マヨネーズと小説の作り方-『坂 の上の雲』と『ひとびとの跫音』をめぐって」-『中央公 論』二〇〇九年十二月吁)。『坂の上の雲』という明治の男 たちの物語は、その快い余韻を『ひとびとの跫音』に漂 わせている。  国民一人ひとりが「坂の上の雲」の坂を眺め、雲を眺 め、日露戦争という歯車を回し、国民国家への道を歩ん でいった。肥大化していった天皇制国家の負の要素をぬ ぐい去って、国民国家成立の有様を描いたのが『坂の上 の雲』の中心的テーマであった。石川啄木(一八八六- 一九二一)に「人がみな 同じ方角に向いていく それ を横より見てゐる心」という歌がある(『一握の砂・悲し き玩具』所収、新潮文庫)。「横より見ていた」一人に朝河 貫一 二八七三-一九四八)がいる。彼のゆるぎない信念 の一つは「世界史ないし人類史を貫く道義ないし倫理性 の存在」であった。日本が世界史を貫くこの道義に貢献 するかぎり、彼は日本の立場を世界に対して擁護した。             一二( それを端的に示すものが彼の著作『日露衝突』(一九〇 四年)であった。この道義に反するかぎり、彼は”祖国 日本に対する徹底した批判者となった。その批判の書が 『日本之禍機』(一九〇九年)であった。日露戦争後、韓 国併合、中国大陸侵略へと突き進み、「十万の英霊、二 十億の国帑」を費やした満蒙の地は日本の生命線として、 日本は果てしないドロ沼に入りこんでいくのである。時 代閉塞的状況の中で軍人による政治への介入が猖獗する 中で「魔性の昭和史」に「許すべからざる怪物」として 登場してくるのが「統帥権の干犯問題」である。ここで は備中岡山県出身の犬養毅(一八五五-一九三二)と但馬 兵庫県出身の斎藤隆夫(一八七〇-一九四九)の二人の議 会人を取り上げよう。  尾崎行雄(一八五八-一九五四)と共に「憲政の神様」 と呼ばれた犬養毅は改進党-進歩党I憲政本党I国民 党-革新倶楽部とつねに野党に所属し藩閥政治と戦って きた。平民宰相で政党内閣の糸口を作った原敬(一八五 六-一九二二は犬養毅の一歳年下である。戦前最後の 政党内閣は犬養内閣である。民党合同による藩閥支配の 打破を夢みた犬養は、山県有朋(一八三八1一九二二)を して「朝野の政治家の中で自分の許を訪れないのは犬養 毅と頭山満だけだ」と言わしめたほどの硬骨漢であった。 しかし多年の逆境の中で鍛えた勇気をもって政友会の 「改善」に力を尽くしたいという一念で政友会と合同す る。運命は急転する。政友会総裁の田中義一(一八六 四-一九二九)が急逝し、犬養が後継総裁に推戴された。 その時、犬養は七十五歳であった。  時の内閣は「ライオン宰相」と呼ばれ、明治生まれの 初めての首相、民政党の浜口雄幸(一八七〇-一九三二 であった。補助艦を制限したロンドン軍縮会議(一九三 〇年)での条約調印をめぐって、海軍部内も與論も「条 約派」と「艦隊派」に分かれて激論が交わされていた。 浜口首相は軍縮条約を締結することに決定した。大日本 帝国憲法第十一条は「天皇八陸海軍ヲ統帥ス」と規定し、 「統帥事項」を輔弼するのは統帥官庁の長、参謀総長、 軍令部長である(帷幄上奏)とし、軍令部の反対を押し 切って条約に調印したのは天皇の統帥権を干犯したもの であるというのである。こうした騒然としたなかで野党 政友会はこれを奇貨として「統帥権干犯問題」を鋭く追 及し、その先頭にだったのが犬養毅であり、鳩山一郎 こ八八三-一九五九)であった。彼が長年にわたって 培ってきた政党内閣を自ら否定するものであった。これ は昭和史の決定的な転回点であった。浜口雄幸は一九三 〇(昭和五)年十一月十四日、東京駅頭で愛国社の 佐郷屋留雄(一九〇八I七二)の凶弾に倒れ、重傷を負 う。昭和を「魔性の昭和史」、波乱万丈へと導くテロ行 為は、この東京駅頭でのピストルの轟音からはじまった。 すでに浜口内閣の下で三月事件、若槻内閣の下で十月事 件があり、軍部(とりわけ陸軍)の政治的介入は五∴ 五事件、二・二六事件とつながっていく。浜口内閣の後 を承けた若槻内閣が総辞職し、組閣の大命は政友会総裁 犬養毅に下った。一九三二(昭和七)年五月十五日に 五・一五事件がおこり、犬養は凶弾に斃れた。戦前にお ける政党内閣は犬養内閣が最後であり、これにより戦前 の政党内閣は終焉した。  但馬兵庫県の出石出身の斎藤隆夫も坂の上の雲をみつ めながら坂道を上った一人であろう。彼は故郷出石でい つも仰ぎ見た中世の山城にちなんで「天城」と号したが、 そこに時代精神を髣髴とさせる想いを読み取ることがで きるであろう。斎藤隆夫は二・二六事件後、一九三六 (昭和十二年五月七日、一時間二十分にもわたる粛軍演 説(「粛軍に関する質問演説」)を行った。三月事件、十月 事件において軍部が軍人の政治関与の問題を隠蔽し、軍 隊を聖域として禍根を初期において断たなかったことが 五・一五事件、二・二六事件を招来させた根本原因であ り、もし政治家にして、軍の一部と結託して政治上の野 心を遂げんとするものは、政治家の恥辱であると断罪し た。軍を批判したものは「非国民」と呼ばれ、軍首脳部 も裏で「糸を引いた」者がいるのではないかといえば 「軍民離間を策するもの」といわれて国民が沈黙を余儀 なくされていた時代に軍人、政治家に粛然たる思いをあ たえた演説であった。首相の広田弘毅(一八七八-一九 四八)も陸相の寺内寿一 (一八七九―一九四六)もおもわ ず頭をたれ、議員席にいた五・一五事件で暗殺された犬 養毅の子息、犬養健(一八九六-一九六〇)もおもわず落             一二( 涙したほどである(松本健一『評伝斎藤隆夫-孤高のパ トリオット』岩波現代文庫)。  さらに一九四〇(昭和十五)年二月二日、斎藤隆夫は 米内光政内閣に対して反軍演説(「支那事変処理に関する 質問演説」)を行った。日中戦争の処理をめぐって、政治 上の実力のない近衛文麿を名指しで糾弾した。その後の 処理に関して「唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲 を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、 曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を列べ 立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大 計を誤るようなこと」がなきよう、明確な指針を政府に 求めて、一時間三十分にわたる議会史上不朽の演説を終 えた。     24 言行一致にして反骨を貰く        I早稲田騒動と石橋湛山-  石橋湛山(一八八四-一九七三)は生涯にわたって言行 一致と反骨性を貫き通した。東洋経済新報社の主幹・社 長時代から戦後政界に転じ、首相になり、首相退陣に至 るまで変わることはなかった。石橋湛山は一九四五(昭 和二十)年八月十五日の玉音放送を東洋経済新報社の仮 社屋のあった疎開先の秋田県横手町で、長男湛一と共に 聴いた。ほとんどすべての人びとが今聴いたばかりの敗 戦に虚脱と絶望の淵に沈んでいる時、仮社屋に集まった 人びとに「新しい日本の前途は、実に洋々たるものがあ ります」と平然と言ってのけた。言論人石橋湛山から政 治家石橋湛山への分水嶺を越えた時、年齢六十歳、還暦 の年であった。  後年、石橋湛山は一九五八(昭和三士二)年一月から 日本経済新聞に「私の履歴書」を全二十一回にわたって 連載し、そのうち三回が早稲田騒動に関するものなので、 早稲田騒動はよほど気になっていたものと思われる。騒 動の発端から終結にいたるまで「意」を尽くして語られ ている。一九一五(大正四)年八月、大隈第二次改造内 閣で早稲田大学学長の高田早苗(一八六〇-一九三八)が 文部大臣に任命され、高田は名誉学長になり、天野為之 (一八六一-一九三八)が第二代学長に就任した。この大 隈内閣は一九一六(大正五)年十月に総辞職し、文部大 臣を辞任した高田を再び学長に迎えようとする動きが浮 上した。学内に天野派、高田派の対立が生じ、かくして 早稲田大学史上、最大の危機である早稲田騒動にまで発 展した。  早稲田騒動は学内における改革運動=恩賜館(戦災で 消失)に研究室を持つ大山郁夫(一八八〇I一九五五)を 中心とする若手研究者の学内改革運動、策動=維持員会 の天野学長排斥策動、騒動=外部勢力と結びついた学生 革新団の講堂占拠騒動という三段階の過程を経た事件と 見ることができる。この騒動で湛山は自ら「履歴書」で 述べているように天野派の総大将に押しあげられ、講堂 占拠(現在の大隈講堂ではない)の首謀者とみなされ、ヶ レンスキー(ロシアの政治家・革命家、一八八一-一九七 〇)という綽名までつけられたという。天野為之との個 人的な関係ではなく、文部大臣を辞任したからといって、 高田早苗が学長に復帰するのは、はなはだ手前勝手で筋 が通らないことが意を尽くして述べられている。「私は 元来、天野博士とは大学時代全く縁故がなく、私が東洋 経済新報社に入社した時は天野氏がすでに同社を去った あとなので天野博士を早大学長におさねばならぬという 私的感情は毛頭いだいていなかった」。早稲田騒動も 「実質を洗えば、同大学の幹部の間の感情の衝突が起し たことにすぎなかった」のだが、こうした実情は後に なって知ったことで、当時は「全く正義の戦いであった のである」とも述べている。天野為之は早稲田騒動で早 稲田大学を去り、早実の校長に復帰し、一九六一 (昭和 三十六)年十一月、大学が天野為之生誕百年祭を行い、 大学における功績が改めて顕彰されるまで早稲田大学の 歴史から抹消された。  私は石橋湛山の「私の履歴書」を読み、二つの事柄が 頭に浮かんだ。一九三〇(昭和五)年十一月十四日、浜 口雄幸首相(一八七〇-一九三二は東京駅で凶弾に倒れ、 重傷を負う。昭和を「魔性の昭和史」へと導くテロ行為 は、この東京駅頭でのピストルの轟音で始まった。浜口 首相はその後、回復もままならず、一九三一 (昭和六) 年四月十三日に総辞職した。石橋湛山はその浜口首相の 出所進退について次のように言う。「浜口首相の遭難後、 首相は意識を回復せられた際に、辞意を決し、辞表を奉 呈すべきであった……y」の大国難の際に、我が政界を爾 来見るごとき無道、無議会に陥れた罪悪に至っては、死 後なお鞭打たるべき罪悪といわねばならない」(『東洋経 済新報』一九三一年四月十八口号社説)。  一九八〇(昭和五十五)年、浜口雄幸の五十回忌が行 われた。その時の浜口の末娘大橋富士子さんの話がある。 病状は一進一退のまま、首相代理幣原喜重郎(一八七 二-一九五一)は野党の追及にたいし、首相は今国会中 に必ず出ますと答えた。しかしとても出られる状態では なかった。浜口首相はやせた手で富士子さんの手をつか んで言ったという。「お前に最後の頼みがある。国会に 立つという約束は、国民に対する約束だ。自分はどんな ことがあっても立ちたい。そうでなければ……総理たる ものが約束を破れば、国民はいったい何を信じて生きて いけばいいのか。だからどんなことがあっても、自分を 国会に出してくれ」。国会に出すことにしたが、「もうと ても病み衰えて靴も履けない。それで布を切って靴の形 にして、それをズボンに縫い付けて、墨を塗って国会に 立った」。そこまでして浜口は約束を守った。  後年、首相になった(一九五六年十二月二十三日)石橋 湛山は首相就任一ヶ月後に過労で病に倒れてしまった (一九五七年一月二十五日)。二月二十三日、「私は新内閣 の首相として最も重要なる予算審議に一日も出席できな             一二( いことが明らかになりました以上、首相として進退を決 すべきだと考えました。私の政治的良心に従います」。 浜口首相を厳しく断罪したことが頭を過ぎったにちがい ない。潔い「出所進退」として今でも語り続けられてい る。  天野為之は一九三八(昭和十三)年三月二十六日に亡 くなった。二十九日に学校葬が行われ、大隈信常侯爵、 小笠原長生子爵をはじめ二三〇〇余名が参列する中、石 橋湛山の弔辞は天野為之の生前の足跡がいかに偉大で あったかを余すことなく物語っている。早稲田騒動を契 機とする天野為之、また三女静子の女婿であった浅川栄 次郎(第六代早実校長、一八八六-一九六七)との親しき 関係から、石橋湛山は早実顧問を引き受け、早実の戦後 復興に多大な功績を残した。  浅川栄次郎の次男滋が昭和二十一(一九四六)年に天 野家を継ぎ、綱子夫人との間に二女を儲けたが、昭和四 十六(一九七一)年七月に亡くなった。二〇〇三(平成十 五)年十一月に綱子夫人が早実を訪れ、娘二人とも他家 に嫁いだので天野家も私か最後になりますと言って、 代々伝わる天野家家紋、また天野為之告別式での石橋湛 山による弔辞文などをご寄贈していただいた。     25 だれも知らんからやるんや        Iヒマラヤの未踏峰・マナスル初登        頂-  人は誰でも心の中にかけがえのない山のイメージを 持っている。子どもの頃、疎開していた栃木県から父親 がいる東京に向かう東北本線の列車の車窓から眺めた、 遥か遠方の浅間山、また筑波山の山容が私の記憶に蘇え る。山は高きがゆえに尊からず。『日本百名山』(新潮文 庫)の著者深田久弥(一九〇三-七一)は山の品格、山の 歴史、山の個性を基準に選んだという。  ヒマラヤの未踏峰だったマナスル(八一六三メートル) を日本山岳会の第三次マナスル登山隊(隊長槇有恒)の 今西壽雄(一九一四-九五)、シェルパのギヤルツェン・ ノルブが初登頂に成功したのは一九五六(昭和三十二 年五月であった。同年七月の『経済白書』で「もはや戦 後ではない」と宣言され、国際地球観測年(一九五七年 七月-五八年十二月)に参加するため第一次南極観測隊が 観測船「宗谷」で南極に向けて東京を出港したのは同年 十一月のことであった。  マナスル初登頂は復興期の日本人に誇りと勇気を与え た。当時の鳩山一郎首相(一八八三-一九五九)は「日本 マナスル登山隊が栄光の頂を征服したことは、日本山岳 界だけでなく、日本国民の喜びとするところでしょう」 との談話を発表した。群青の天空に屹立する真っ白なマ ナスル峰、ドキュメンタリー記録映画『マナスルに立 つ』(一九五六年、毎目映画社製作、文部省特選)を見たと きの感動を今でも私は忘れることができない。  ヒマラヤの八千メートル峰をめざす計画は、戦後まも なく今西錦司(一九〇二-九二)、西堀栄三郎(一九〇 三-八九)ら京大学士山岳会関係者によって着手された。 目標を決めるのに若手が資料を集めた。マナスルは資料 がなかった。写真もなく、山の形さえわからない。しか し今西はマナスルを選んだ。若手グループが「この山は 何もわからへんのに。あきませんよ」と驚くと、今西は こう言ったそうである。「わからへんから、やるんや」。 日本の霊長類学のレールを敷き、世界最高のレベルに育 てあげた今西錦司、「わしは好きなことしかせん」が口 癖、学生時代から登山と探検に入れ込み、生涯で登った 山は一五五二を数えた。  「雪山讃歌」の作詞者である西堀栄三郎は今西錦司の旧 制中学以来の親友であり、京大学士山岳会のメンバーで あり、化学者であると同時に登山家としても著名である。 西堀の妻は今西の妹であり、「あなた、今西の兄と私と どっちか好きなの」と問い詰められるほど今西とは肝胆 相照らす仲だった。西堀は第一次南極観測で越冬隊長と して活躍し、今西に負けず劣らずの開拓者魂の持ち主 だった。日本はまだ貧しく、これから来るべき経済成長 への端緒についたばかりであった。砕氷船すらなく大型 巡視船であった宗谷を改装して砕氷船に仕立て上げて南 極に向かった。当時の越冬隊の苦難は現在では想像もで きないであろう(西堀栄三郎『南極越冬記』岩波新書)。             一二(  日本隊によるマナスル初登頂に先立つ三年前の一九五 三年五月に英国第九次エヴェレスト遠征で、エドマン ドーヒラリー(ニュージーランド、一九一九-二○○八)と シェルパのテンジンーノルゲイによって最高峰エヴェレ スト(八八四ハメートル)が征服された。一九〇九年に北 極点はピアリー(米、一八五六-一九二〇)、一九一 一年 に南極点はアムンゼン(ノルウェー、一八七二-一九二八) によって極められ、第三の極地といわれたエヴェレスト の征服はイギリスにとっては国威をかけての競争であっ た。南極点到達ではアムンゼンとスコット(一八六八- 一九二一)との激烈な競争があり、スコット率いる英国 隊は敗れ、帰路についたスコット隊は全員死亡という悲 劇を昧わっている。この悲劇は「史上最悪の旅」と呼ば れるが、スコットは最後の日付となった三月二十九日の 日記に「余はこの旅をいささかも悔ゆるところなし」と 書き残している。  一九二一年の一次隊、翌二二年の二次隊に参加し、今 度こその意気込みで二四年の三次隊に参加したジョー ジーマロリー(一八八六-一九二四)は「なぜエヴェレス トに登りたいのか」と聞かれて、「そこに山があるから だ」と答えた。名言として登山家の問で語り継がれてい る。マロリーは同僚のアービン(一九〇二-二四)と共 に第六キャンプを出発、八五〇〇メートル付近の岩場で 目撃されたのを最後に消息を絶った。マロリーの遺体は 一九九九年五月、七十五年ぶりに八二九〇メートルの地             一二( 点で見つかった。登頂したかどうか解明されず、登山史 上最大の謎といわれている。  身長一九〇センチの抜群の脚力を持つ登山家ヒラリー も少年時代は跳び箱もできず、体育嫌いの「虚弱児」で 教師や級友からいじめられていたという。エヴェレスト 初登頂の報は、エリザベス女王の戴冠式の前日にロンド ンに届いた。英国中が歓喜したという。ヒラリーにナイ トの称号が与えられ、彼はサー(卿)と呼ばれることに なった。ヒラリーは次のように述懐している。「私かエ ヴェレストに登頂したいと思ったのは、愛国心でも、女 王陛下に対する忠誠心でもなかった。ただ、世界一高い 山に登りたかった。ただそれだけだったよ」。  未知の領域を手探りで進む難路はいつの時代でも容易 ではあり得ない。成功の時にもまして偉大なる失望の時 期もある。卒業生の皆さん、未知の新しい地平に向かっ て、無限の前に腕を振れ。卒業おめでとう。            ⊃{一 第四部 「昨日」を想い、「明日」を思うI青 春挽歌            一一六……・     26 「大地の窓」に見る悠久の歴史        -土と生き、土を活かす暮らしI  今年(二〇一一年)は国際連合が定めた「国際森林年」 である。昨年は生物多様性の保全を目指す「生物多様性 年」であった。生物多様性に富んだ森林が、生物多様性 に富んだ土壌を育む。地球的規模で森林が減少している 現状は生物多様性の危機でもある。日本の国土に占める 森林の割合(森林率)は約六十九パーセントであり、先 進国の中ではフィンランド、スウェーデンに次いで高い。 日本の森林の約四十パーセントをスギやヒノキなどの人 工林が占めるが、わが国の森林は、まさに国民の大切な 資産である。ふと暦を見ると、今日(三月七日)は寒い 冬をこすため土の中に巣ごもりしていた虫が地上に姿を 現す、旧暦の「啓蟄」である。土との直接的な触れ合い が少なくなった昨今の都会生活の中で改めて土のことを 考える契機となった。  「河原の石ひとつにも宇宙の全過程が刻印されている」 と言ったのは芥川賞作家の奥泉光さんであるが(奥泉光 「石の来歴」-『石の来歴・浪漫的な行軍の記録』所収、講 談社文芸文庫)、とりとめもない一塊の土もあたかもそれ が一つの世界=小宇宙を形成するほど複雑な組成や構造 を持っている。また土には農耕生活を営んで以来の人間 の悠久の歴史が刻まれている。土は目も眩むような長い 時間をかけて作られ、複雑な組成や構造を持ち、気象条 件などによって異なるが、一メートルの上が自然にでき るのに一千年~五千年かかるという説がある。  四季折々、一見取りとめもない風景を詩情に高めた山 村暮鳥(一八八四-一九二四)の詩は自然への愛情という よりは祈りともいえる。仮名を生かすのに並々ならぬ苦 心をはらった山村暮鳥は、「いちめんのなのはな」に見 られるように「春の詩人」というイメージを持つ人が多 いだろう。のどかな牧歌を思わせる多くの詩群に「黒い 土」という一編がある。雪が解け出した早春、深い松林 の中のIすじの細道を歩き、棘や篠竹が生い茂る中に、 削られて上が露出しているところに暮鳥は「大地の窓」 を見る。「自分の脚はぴたりととまった/自分は地面 の/その窓にひきつけられて/しみじみとそれをながめ た/まあ、なんといふ黒い上だらう/それからまたその 沃えやうは」(『山村暮鳥全集』第一巻所収、筑摩書房)。コ ンクリートージヤングルといわれる都会生活で、土に直 接触れる機会が少なくなった私たちには失われた感覚で ある。  わが国における近代文学史上はじめて農民の生活をそ の正常な姿で登場させ、わが国農民文学の嚆矢とされる 長塚節(一八七九-一九一五)の『上』(新潮文庫ほか)を 再読してみた。作者の故郷である茨城県結城郡岡田村 国生の貧農の一家、勘次、その妻お品、娘のつぎ、その 弟の与吉、養父の卯平という「教育もなければ品格もな             一二( ければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に成長し た蛆同様に哀れな」(夏目漱石)農民の生活が描かれてい る。朝日新聞に連載された『土』が単行本として出版さ れたとき(明治四十五年)序文を書いた夏目漱石は『土』 を改めて読了するのに「前後半日と中一日を丸潰しにし て漸く業を卒えて」と書いているが、わたしは読了する のに丸六日かかった。「よほど忍耐力がないと読み通せ ない小説」といわれてきた。作中人物の使う言葉が、作 者の故郷あたりの方言から成り立っていること、物語の 展開が明確ではなく、四季折々の自然、村落共同体の生 活や風俗、行事が執拗なほど丁寧に描かれており、文章 も句読点が少なく漢字が多用されている点に由来するの だろう。それにもかかわらず、いやまさにそれゆえに、 不思議なことには『土』が出版された当時の農村の状況 が臨場感を持って捉えられる。長塚節の郷土は夏目漱石 が「斯様な生活をしている人間が、我々と同時代に、し かも帝都を去る程遠からぬ田舎に住んでいるという悲惨 な事実」に驚いたほどの寒村であった。  忍耐をもって読了したとき、作者が「土」というタイ トルをつけた理由が実感をもってわかる。長塚節の生家 から筑波山は東北に十数キロのところにあり、東にIキ ロ余のところに鬼怒川が流れていた。この故郷を長塚節 はこよなく愛していた。郷土に対する覚悟を長塚節は次 のように述べている。「田舎者は、到底田舎のことを書 くより外は無之候」「『土』は自分の土地を離れては困難             一二( の事業に候」。また方言を使ったことに対して「茨城言 葉は他地方の人士に分かっても分からなくても、茨城の しかも純粋な百姓を書く以上止むを得不申候」とも述べ ている。茨城の一寒村という特異な風土と長塚節という 稀有な個性との、一回きりの歴史的邂逅と言えようか。 まさにローカルなものを扱って豊かな普遍性への経路を つけた作品であろう。  一家の大黒柱の勘次が働きすぎてからだをこわすと、 「馬の病気に飲ませる赤玉という薬を幾粒か嚥んで蒲団 へくるまっていた」「然し病気は馬に飲ませる薬の赤玉 では直には癒らなかった」。生きとし生けるもの、「汚 さ」なしに命をつなぐことはできないと、観念ではわ かっていても、現代の日本人の「過剰な無菌志向」から すれば、当時の貧農の暮らしは驚きだろう。それでも免 疫学者の多田富雄さん(一九三四-二○一〇)の言葉は、 現代の子育てへの貴重な教訓だろう。「子供がたまに発 熱したり下痢したりするのは、黴菌との戦い方を習得し ているからである。・・・・・・ 成長の時期にここで戦い方を学 習しないと、雑菌に対する抵抗力が弱くなり、逆にアレ ルギーを起こしやすい体質になる」。傾聴すべき言葉で あろう。  私たちの暮らしは衣食住どれをとってみても土と密接 にかかわりがある。生物多様性の保全には豊かなる土壌 が不可欠である。生物多様性の保全なしに人間だけがよ くなるはずがない。産業社会が繁栄を極め、物質文明が             一二( 爛熟を極めた時代に私たちが置き忘れてきたものを取り 戻す時である。その主役は紛れもなく豊かなる土壌であ る。     27 小石川植物園のどんぐり        I寺田寅彦と妻夏子-  寺田寅彦(一八七八-一九三五)といえば「天災は忘れ た頃にやってくる」との警句で知られている。寅彦を理 解し、敬愛し、また最も多く寅彦から刺激を受けた愛弟 子の、雪の研究で知られる中谷宇吉郎(一九〇〇-六二) によれば、もともとこの言葉は寅彦の書いたものには 残っていないが、寅彦の言葉にちがいがないのである。 寺田寅彦の天災観をつづめて表現したものであろう。実 験物理学を専門とする東京帝国大学教授にして漱石門下 の一人であり、文学者の一面を持ち、名随筆家としても 名高い寺田寅彦は銀座が好きだったようである。「春の 夜や不二家を出でて千疋屋」の句もある。中谷宇吉郎に 「寺田先生と銀座」という小文がある(樋口敬二編『中谷 宇吉郎随筆集』所収、岩波文庫)。千疋屋でメロンをたべ た時のことが書かれている。「メロン五十銭」と書かれ ていた。大学前の洋食屋で、毎日食べるランチの、二日 分であったそうである。寺田先生が「どうです、諸君、 メロンを食べてみませんか」といわれたので思わずド キツとしたそうである。出てきたものは厚さ一糎くらい の薄緑の薄片である。  時流に流されず、世俗的な「栄達」や「権勢」を望ま ず、しかも特異な発想とさまざまな分野の業績は人々を 魅了して止まないが、その寺田寅彦にも悲しい忘れられ ぬ思い出がある。彼の「田園雑感」に次のような一節が ある(小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集』第一巻所収、岩波文庫)。  「私が前後にただ一度盆踊りを見だのは今から二十年ほ ど前に南海のある漁村での事であった。肺結核でそこに 転地しているある大を見舞いに行って一晩泊まった時が ちょうど旧暦の盆の幾日かであった。蒸暑い、蚊の多い、 そしてどことなく魚臭い夕靄の上を眠いような月が照ら していた。  貴船神社の森影の広場にほんの五、六人の影が踊って いた。どういう大たちであったかそれはもう覚えていな い。私にはただなんとなくそれがおとぎ話にあるような さびしい山中の妖精の舞踏を思い出させた。そしてその 時なぜだか感傷的な気分を誘われた。  その時見舞った病人はそれからまもなくなくなったの である」  「ある病人」とは寺田寅彦の最初の妻夏子(一八八三I 一九〇二)である。寺田寅彦が郷里の高知を離れ熊本の 第五高等学校に入学したのが一八九六(明治二十九)年 である。翌九七(明治三十)年、寅彦は夏子と結婚する。 寅彦満十八歳、夏子は満十四歳であった。夏子は松山の 陸軍第十旅団長、坂井重季少将の長女であった。寅彦の 父親利正は陸軍で会計畑の仕事をしながら各鎮台(師 団)を移動していたから坂井家とは同じ陸軍仲問であっ たが、家格は坂井家のほうが高かった。当時こうした若 い年齢での結婚は珍しくなかったが、「前後の日記は 残っているのに結婚年だけないのは、結婚に関して秘す べき事情が記してあったため、後に寅彦が廃棄した可能 性が大きい」ともいわれている(寺田寅彦と妻夏子「団 栗」-朝日新聞二〇〇八年一月十二日)。夏休みが終わる と寅彦は一人で熊本に戻り、夏子を自分の故郷の高知に おいての単身学生生活であった。寅彦が東京帝国大学理 学科に入学したのが一八九九(明治三十二)年である。 こうして寅彦熊本、夏子高知と離ればなれだった二人が ようやく同居できるようになった。夏子が肺結核で突然、 血を吐いたのは、同居して一年もたたない一九〇〇(明 治三十三)年暮れのことであった。十七歳の幼い妻には、 新しい生命が宿っていた。翌年の二月の暖かい日、寅彦 は小康を得た夏子を伴って、自宅のあった本郷西片町か らほど近い小石川植物園に行く。そのときの思い出を書 いたのが「どんぐり」である(前掲『寺田寅彦随筆集』第 一巻所収)。  「後ろで妻が『おや、どんぐりが』と不意に大きな声を して、道わきの落ち葉の中へはいって行く。なるほど、 落ち葉に交じって無数のどんぐりが、凍てた崖下の土に ころかっている。妻はそこへしゃがんで熱心に拾いはじ める。見る間に左の手のひらにいっぱいになる。余もI             一二( つ二つ拾って向こうの便所の屋根へ投げると、カラカラ ところかって向こう側へ落ちる。妻は帯の問からハンケ チを取り出して膝の上へ広げ、熱心に拾い集める。『も う大概にしないか、ばかだな』と言ってみたが、なかな かやめそうもないから便所へはいる。出て見るとまだ 拾っている。『いったいそんなに拾って、どうしようと 言うのだ』と聞くと、おもしろそうに笑いながら、 『だって拾うのがおもしろいじやありませんか』と言う」  夏子は肺結核の伝染を恐れた寅彦の父利正の判断で高 知に戻され、高知市内から小舟で二時間以上かかる種畸 で療養した。夏子は五月に女児を出産、貞子と名づけら れた。東京で吉報を知った寅彦は「幸ありて桃の若葉と 照り栄えよ」という俳句を日記に記した。貞子は生まれ るとすぐに寅彦の実家に預けられ、祖母に育てられた。 夏子は種崎、その後、対岸の桂浜に移り、療養を続けた。 高知港の入り囗にあたる種畸と桂浜の間の海峡は幅はわ ずか二百メートルほどである。出入りする船からは浜に いる人びとの姿がはっきり見える距離である。一九〇一 (明治三十四)年、高知に帰省した寅彦は船でここを通る と決まって浜をみつめたそうである。この地で療養して いた夏子にあらかじめ手紙で知らせておくと、夏子は浜 に出て(ンカチを振った。夏子は翌年の秋、息を引き 取った、満十九歳であった。  それから四年後、一九〇五(明治三十八)年、寺田寅 彦は同じ場所に長女を連れてやって来る。夏子が亡く             一二( なってから二年余りたっていた。昔を思い出して、娘に どんぐりを拾わせる。  「こんな些細な事にまで、遺伝というようなものがある ものだか、みつ坊は非常におもしろがった。五つ六つ拾 うごとに、息をはずませて余のそばに飛んで来て、余の 帽子の中へひろげたハンケチへ投げ込む。だんだん得物 の増して行くのをのぞき込んで、頬を赤くしてうれしそ うな溶けそうな顔をする。争われぬ母の面影がこの無邪 気な顔のどこかのすみからチラリとのぞいて、うすれか かった昔の記憶を呼び返す」(前掲「どんぐり」)  そして「どんぐり」の結末で、どんぐりを拾う無邪気 な遺児を見て「始めと終わりの悲惨であった母の運命だ けは、この子に繰り返させたくないものだ」と寺田寅彦 は述懐している。  寺田寅彦は夏子の死後に再婚した寛子との間に四人の 子があり、その妻も三十代で急死、三番目の妻を迎えて いる。寺田寅彦の死後四十年あまりたった一九七七(昭 和五十二)年の夏、東京日本橋の丸善で、絵を描くのが 好きで、自画像や風景画をたくさん残した寅彦の絵画展 がひらかれた。その会場に七十代になった貞子は毎日、 姿を現し、会場のすみの椅子に腰かけて、父寅彦が描い た絵を静かに眺めていたという。     28 赤いカンナの花が咲いている駅             一二(        -「根府川の海」と茨木のり子-  東海道線根府川駅は、小田原駅から二つ目、あたりは ミカン畑と相模湾を一望できる崖上の駅である。一九三 四(昭和九)年に、丹那トンネルが完成するまで東海道 本線は箱根を迂回して国府津から御殿場を通って沼津に 出るルートを通っていた。鉄道唱歌(東海道篇、大和田建 樹作詞・多梅雅作曲、明治三十三年)は「国府津おるれば 馬車ありて 酒匂小田原とおからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より」「ここぞ御殿場夏ならば われも 登山をこころみん 高さは一万数千尺 十三州もただ一 目」と続く。国府津I熱海間は東海道本線の支線として 一九二二(大正十一)年十二月に開通した。  一九二三(大正十二)年九月一日の関東大震災では震 源地に近い根府川は最も悲惨な結果となった。東京発の 下り第一〇九列車は「午前十一時四十分に小田原を発車 した。そして十一時五十八分すぎ根府川のプラットホー ムに進入し、機関車のみがホームに入った時」大震災に 遭遇した(吉村昭『関東大震災』文春文庫)。地すべりが発 生し、根府川駅のホームごとおよそ四十五メートル下の 海中に転落した。一二一名の犠牲者と十三名の負傷者を だした。東京駅行きの上り列車も近づいていたが、駅直 前の賽の目トンネルを出たところで地すべりに遭遇、蒸 気機関車が埋没し、乗務員六名が死亡し、三名が負傷し た。根府川駅付近の住民も二百名以上が死亡または行方 不明となった。駅は翌年再建され、機関車と客車は一九 三二(昭和七)年に海中から引き揚げられたが、ホーム は沖合いの海底に沈んで、今では絶好の漁礁になってい るという。  十六年に及ぶ工事期間と六十七人もの犠牲者をだして 丹那トンネルが開通し、一九三四(昭和九)年十二月一 日から東海道線は熱海経由となった。御殿場回りの急勾 配から解放された東海道線の輸送力は一挙に増強され、 電化区間は沼津まで延長された。  マリアナ諸島が陥落し、そこに基地ができて、B29爆 撃機が日本本土に初めて姿を見せたのは一九四四(昭和 十九)年十一月、航空母艦を中心とするアメリカの機動 部隊が日本に接近し、艦載機による攻撃がはじまったの は一九四五(昭和二十)年二月十六日からであった。高 射砲陣地や軍需工場が近かったために、根府川は艦載機 の来襲により列車はしばしば機銃掃射をうけた。根府川 駅舎には現在でも機銃掃射の痕が残っている。戦後の食 糧難の時代、宮脇俊三さん(一九二六-二○(‥)三)は一時 熱海に住んでいた。東京に出るのも大変だった。乗降囗 のデッキの手すりにつかまって乗ったこともあるという。 熱海から小田原にかけてはトンネルや鉄橋、またカーブ も多いから命がけであっだろう。「トンネルでは壁にぶ つからないように首をすくめる。カーブによる遠心力が、 こっちにかかってくるときは、デッキに立つ乗客の重み に堪えねばならない」。根府川の手前には一九二四(大             一二( 正十三)年に完成した白糸川橋梁がある。この橋梁を渡 るときは「谷底まで四〇メートル以上もあるのだが、股 の間から見下ろすと、目がくらんだ」という(『時刻表昭 和史-増補版』角川文庫)。  詩人の茨木のり子さん(一九二六-二○○六)に「根府 川の海」という詩がある。「根府川/東海道の小駅/赤 いカンナの咲いている駅」。愛知県に住んでいた茨木の り子さんは東京の帝国女子医学・薬学・理学専門学校 (現東邦大学)薬学部に一九四三(昭和十八)年に入学し ているから、何度もこの根府川の駅を通ったことだろう。 「あふれるような青春を/リュックにつめこみ/動員令 をポケットに/ゆられていったこともある」。学徒動員 で、世田谷区上馬にあった海軍療品廠で就業中、玉音放 送を聞く。翌日、友人と二人で東海道線を無賃乗車で、 郷里に辿りつく。「燃えさかる東京をあとに/ネーブル の花の白かったふるさとへ/たどりつくときも/あなた は在った/丈高いカンナの花よ/おだやかな相模の海 よ」。かつては「軍国少女」であった茨木のり子さんは 「わたしが一番きれいだったとき」を戦争の最中で過ご した。「私が一番きれいだったとき/まわりの人達が沢 山死んだ/工場で 海で 名もない島で/わたしはお しゃれのきっかけを落してしまった」。終戦から八年、 再び根府川の駅を通過する。「女の年輪をましながら/ ふたたび私は通過する/あれから八年/ひたすらに不敵 なこころを育て/海よ/あなたのように/あらぬ方を眺             一二( めながら……」。戦争で失った青春への万感の想いを込 めた。詩人茨木のり子さんにとって根府川駅は詩人への 転轍機となった駅であろう(「根府川の海」「わたしが一番 きれいだったとき」-茨木のり子集『言の葉』第1巻所収、 ちくま文庫)。  去年(二〇一〇年)、夏のある囗、何年かぶりで私は根 府川駅に降り立った。一日の平均乗降客数は約匸二〇〇 人、東海道線唯一の無人駅、改札横の「関東大震災殉難 碑」を見て、機銃掃射の痕の残る駅舎の待合室には茨木 のり子さんの「根府川の駅」の一節を抜き書きした額が かかつていた。駅のあたりには六十五年前のあの時と同 じように色とりどりの花が咲き、赤いカンナの花も咲い ていた。     29 都電残影        -失った昭和三十年代-  近代に人つて首都東京は一九二三(大正十二)年の関 東大震災、一九四五(昭和二十)年の東京大空襲で巨大 な都市壊滅を経験している。それによって東京の景観は ラディカルに変貌を遂げてきた。自然災害や戦災を除い て、東京の景観が変貌したのは一九六四(昭和三十九) 年の東京オリンピック前後から都電が東京から姿を消し た時期であろう。最後の都電世代と思っている私にとっ て都電が縦横に走っていた昭和三十年代は「懐かしさ」 で一杯である。  私は一九五五(昭和三十)年に中学校に入ると都電で 学校に通っていた。中仙道の一番目の宿場があった仲宿 にある板橋区役所前から十八系統(志村坂上-神田橋)の 都電に乗り、小石川駕旭町で二十系統(須田町-江戸川 橋)に乗り換え、護国寺を通って音羽七丁目まで通って いた。  今年(二〇匸一年)の夏の暑い囗に「懐かしさ」に後 押しされてこの経路を歩いてみた。江戸川橋から出発し て護国寺までは都内ではまれである一直線の長い道であ る。両側は目白台と小日向台に挟まれ、私か通う学校は 目白台の関口台町にあった。当時、高い建物といえば講 談社のビルしかなかった。向かいの小日向台側に音羽御 殿とよばれた鳩山邸があった。クラブ活動が終わって一 杯三十五円の中華ソバをすすった小さな店はもちろんな くなっていた。一九五六(昭和三十一)年に鳩山一郎首 相(当時)が日ソ国交回復を実現して帰国したとき、沿 道は熱狂的に歓迎する人々で埋まった。現在ではマン ションが林立する通りとなっている。音羽という町名は 江戸城の女官であった音羽に邸を賜ったことに由来する。 護国寺前から不忍通りを右手にほぼ直角に坂を上がると 大塚仲町である。ここで春日通りと交わり、小石川台地 の尾根道とも言うべき軌道を走ってきた十六系統(大塚 駅前-錦糸町駅前)と交差する。交差点近くに消防署が あり、屋上に望楼が立っていた。このあたりは不忍通り             一二( のなかでももっとも起伏に富んだところである。大塚仲 町から急峻な白鷺坂を下ると氷川下町(千石三丁目)、こ ちら側の台地が小日向台、前方の台地が小石川台である。 再び急勾配の猫又坂を上がるのであるが、二十系統の都 電はこの坂を喘ぎ喘ぎ上るのである。当時運転手は立っ て運転していたのであるが、私は中学時代、運転席の近 くに立って見ていたが、これならば自分でも運転できる な、などと思ってもみた。  しばらくすると不忍通りと国道十七号線(中仙道)が 交わる駕籠町交差点(千石一丁目)に出る。駕籠町とい う町名は元禄時代に江戸幕府の駕籠の者五十一人に住居 を与えたことに由来する。現在では千石一丁目という無 機質な名前になっている。ここで十八系統の都電に乗り 換える。巣鴨駅、巣鴨車庫前を経て新庚申塚で三十二系 統(早稲田-荒川車庫)と交差する。この三十二系統は現 在都電荒川線となり、東京都に残っている唯一の都電で ある。  東京の都電には大別して二つの出自があるという。ひ とつは、純粋に東京市の市電。これは正統である。もう ひとつは、私鉄だったものが東京市に買い上げられて市 電になったものである。こちらは傍流といえるであろう (川本三郎『東京おもひで草』ちくま文庫)。三十二系統(都 電荒川線)も、もともとは私鉄で王子電気軌道、略して 「王電」と呼ばれていた。私が子どものころは王子電車 と呼んでいた。一九一 一 (明治四十四)年八月の開業時             一二( は飛鳥山-大塚問であった。開業時には上野の山と並ぶ 桜の名所であった飛鳥山への行楽電車というものであっ だろう。将軍の墓所のある寛永寺のある上野と違って、 飛鳥山は仮装や鳴り物、音曲おかまいなしであったので 庶民たちの最高の行楽の場となった。大正時代に入って、 飛鳥山から三ノ輪橋まで延長され、昭和に入って大塚か ら早稲田まで延長された。このように都電荒川線は少し ずつ延長されてきたので、京浜東北線が高架になる以前 は、乗客は王子駅でいったん下車して歩いて国電(現J R)の線路を歩いて越えたという。一九四二(昭和十七) 年、戦時体制による私鉄の公営化により市電(都電)に なった。  同じ傍流に青梅街道を走っていた十四系統(新宿駅 前-荻窪駅前)=杉並線がある。一九二二(大正十二年 開業、武蔵水電と呼ばれた郊外電車であった。のちに西 武電車に経営が移った。はじめは、淀橋が起終点であっ た。淀橋浄水場があったところである。映画『三丁目の 夕日』を見た人には次のような場面が浮かぶであろう。 一平のセーターに母親のトモエがつぎはぎをほどこし、 ここにお守りが入っているから、困った時には開けてみ るのよ、と言ってお金を縫い付ける母親の愛。どうやら 孤児の淳之介の母親の居所がわかって、一平と淳之介が その母に会うために都電に乗って高円寺までゆく。だが 淳之介の母親に会うこともできず、お腹はすき、帰る電 車賃もなく途方に暮れている時、ふと一平は母トモエの             一二( 言葉を思い出す。つぎはぎをとり、お守りのお金で、都 電にのって無事、家にたどりついた場面である。年配の 方であれば『三丁目の夕日』の時代設定である一九五八 (昭和三士二)年に映画化された松本清張(一九〇九-九 二)原作の『点と線』(文春文庫ほか)を思い出す人もい よう。犯人の住んでいる家は阿佐ヶ谷。その犯人を追う 三原刑事は都電が好きである。「べつに行先を決めない で乗る。行先を決めないというのは妙だが、何か考えに 行きづまったときには、ぼんやり電車にすわって思案す る。緩慢な速度と適度の動揺とが思案を陶酔に引き入れ る。頻繁にとまり、そのたびにがたごととぶざまに揺れ て動きだす都電の座席に身をかがめる。この環境の中に 自分を閉じこめ、思考のただよいにひたるのである」。 犯人も三原刑事もこの十四系統の都電に乗ったかもしれ ない。この十四系統は東京オリンピックの前年一九六三 (昭和三十八)年十一月、地下鉄丸ノ内線の全面開通に よってその役目を終えた。  都電荒川線の沿線には荒川自然公園、荒川遊園地、飛 鳥山、巣鴨とげぬき地蔵、サンシャインシティ、雑司が 谷霊園、鬼子母神など名所や娯楽施設も多い。都電とし て唯一生き残ったのはもともと郊外電車であり、専用軌 道が多かったことなど、すなわち都電としては傍流で あったことを考えれば、都電=路面電車を愛好するもの にとって何か幸いするかわからない。  大学に入ると高田馬場から十五系統(高田馬場-茅場             一二( 町)の都電は走っていた。十五系統の都電が面影橋から 高田馬場まで延長されたのは一九四九(昭和二十四)年 十二月一日のことであった。私が大学に通っていたころ、 高田馬場駅から明治通りとの交差点にいたるまでの早稲 田通りの両側は二階建ての木造建築が立ち並び、駅周辺 はバラック建ての飲み屋が乱立する場所であった。駅前 の再開発で整備されて広くなり、ビッグボックスも建ち、 山手線内の都電の終着駅でこれほど変わったところも少 ないだろう。  変わったといえば池袋駅東口もそうである。池袋駅東 口から十七系統(池袋駅前-数寄屋橋)の都電が走ってい た。三角寛(一九〇三-七一)が経営する映画館・人生 坐があり、その人生坐の先を見れば緑青の生えた護国寺 の大伽藍が見えた。現在の池袋の景観からは想像もつか ないのんびりした駅前風景であった。この十七系統は日 の出町(東池袋四丁目)で三十二系統(都電荒川線)と交 差する。近くにA級戦犯が拘置されていた広大な巣鴨拘 置所があったが、その跡地に六十一階建てのサンシャイ ンシティが誕生したのが昭和五十三(一九七八)年のこ とであった。  都電が走っていた東京の景観を三十年にわたって定点 対比した林順信の『都電が走った街 今昔I・H』(J TBキヤンブックス)を見ると、その変貌に驚かされる。 都電が消え、高速道路網の整備につれて私たちは広い空 を失った。銀座線廃止の前日、一九六七(昭和四十二)             一二( 年十二月八日の新聞各紙に掲載されたキヤノンのドキュ メンタリースタイルの広告「明日、銀座から都電が姿を 消す」は印象的であった。自動車の洪水のなかで立ち往 生している都電の姿は、車によって都電がつるし上げに あっているようである。われわれは都電の廃止と同時に、 澄んだ空気や落ち着いた街並みやゆったりした暮らし方 なども失ってしまっだのではないか。身の丈に合った生 活を失ってしまったのではないか。     30 山手線物語        -命名百年に首都東京の変貌を見るI  「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」と、新橋- 横浜間に日本最初の鉄道が敷設されたのは一八七二(明 治五)年である。大和田建樹(一八五七-一九一〇)作詞 の鉄道唱歌(東海道篇)の三番の歌詞に「窓より近く品 川の 台場も見えて波白く」とあるように、まだ芝浦の 埋め立てが行われていない当時、海の中に防波堤を築い てその上の線路上を汽車は走っていたという。南風が強 いときは、汽車の窓から波しぶきが入ったと伝えられて いる。JR品川駅の所在地は港区高輪三丁目である。当 時、鉄道への反感が強く品川宿内に駅舎をつくれず、高 輪に設置されたからである。一八八三(明治十六)年に 上野-熊谷間(現高崎線)が開通して、新橋-上野間に 汽車を通せという声が強まったが、新橋-上野間はすで             一二( に市街地であったので線路を敖くことは困難であった。  当時の日本の主要輸出品は生糸や絹織物であったので 群馬県などの生産地から横浜港までの輸送路確保の必要 性から一八八五(明治十八)年、日本鉄道品川線(品川- 目黒-渋谷-新宿-板橋-赤羽)が開通した。一九〇三 (明治三十六)年に田端-池袋間か開通し、池袋停車場が 開業した。一九〇九(明治四十二)年、当時の鉄道院が 品川-赤羽、池袋-田端間の名称を「山手線」とした。 路線も延びて一九一四(大正三)年、当時一面の草っ原 の中に鹿鳴館の設計者であるジョシアーコンドル(一八 五二-一九二〇)の一番弟子、辰野金吾博士(一八五四- 一九一九)設計によるオランダのアムステルダム中央駅 に模した赤レンガの東京駅が完成した。  山手線は初めから環状線ではなかった。一九一九(大 正八)年、新宿I東京-品川I池袋-上野の「の」の字 運転を開始し、一九二五(大正十四)年に上野-東京間 が完成し、環状運転が開始された。一九七一 (昭和四十 六)年に呼び方を「山手線」に統一した。山手線は全長 三十四・五キロ、環状線に二十九駅(現・三〇駅)あり、 約一時間で一周する。路線名の山手線は品川I新宿-田 端の二十・六キロで、田端-東京間は東北線、東京-品 川間は東海道線である。一九八七(昭和六十二)年に日 本国有鉄道(国鉄)は分割・民営化され、JR線となっ た。国鉄時代、私鉄線に対して国鉄線といわれ、東京 (首都圏)や大阪(京阪神)周辺といった大都市近郊の通             一二( 勤電車が走る区間は国電と呼ばれていた。ラッシュア ワー時のすし詰め状態から国電=酷電と揶揄された。  一世を風靡した四代目柳亭痴楽(一九ニー九三)の 新作落語「痴楽綴り方狂室」に「恋の山手線」の噺があ る。「上野を後に池袋、走る電車は内回り、私は近頃外 回り、彼女は綺麗なうぐいす芸者(鶯谷)、にっぽり(日 暮里)笑ったあのえくぼ、田畑(田端)を売っても命懸 け、思うはあの娘のことばかり。我が胸の内、こまごめ (駒込)と、愛のすがも(巣鴨)へ伝えたい。おおつか (大塚)なビックリ、度胸を定め、彼女に会いに行けぶ くろ(池袋)、行けば男がめじろ(目白)押し。そんな女 は駄目だよと、たかたの婆(高田馬場)や新大久保のお じさん達の意見でも、しんじゆく(新宿)聞いていられ ません……」。また一九六四(昭和三十九)年に小林旭が 「恋の山手線」(児島貞二作詞・浜口庫之助作曲)を歌って、 今日まで歌い継がれている。  一九四五(昭和二十)年三月十日の東京大空襲の朝も、 山手線が走っていた。「車内に悲鳴に近い声があがっだ。 一面の焼け野原。前日まで、窮屈そうに並んでいた平屋 は跡形もない。駒込駅から田端駅に向かい、カーブを大 きく右に曲がった山手線は、灰色の匪界に入っていく」 (「山手線五十五年前にみた焼け野原」-朝日新聞二〇〇〇 年九月二十九日)。八月十五日の終戦の「玉音放送」のと きも山手線をはじめ日本各地で汽車は時刻表通りに走っ ていた。米坂線今泉駅。「いつもと同じ蒸気機関車が、 動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もな かったかのように進入してきた。機関士も助士も、たし かに乗っていて、いつものように助役からタブレットの 輪を受けとっていた。機関土たちは天皇の放送を聞かな かったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならな かったはずだが、と私は思った。昭和二〇年八月一五日 正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の 汽車は時刻表通りに走っていたのである」(宮脇俊三『時 刻表昭和史-増補版』角川文庫)。  一九四九(昭和二十四)年に疎開先から東京・板橋に 戻ってきた私の小学生時代、山手線の各駅から遠くに東 京電力千住火力発電所の四本の煙突(通称お化け煙突) を見ることができた。白衣をきた傷痍軍人が山手線の車 内で乗客からお金を恵んでもらう姿も見られ、昭和三十 (一九五五)年ごろまで山手線と並行して大崎から田端ま での「山手線貨物線」では蒸気機関車が走っていた。都 会のど真ん中をSLが走っていたなど今日では想像もつ かないだろう。貨物列車のほかに宇都宮線、埼京線に使 われている路線である。SLを運転していて泣き所も あった。明治神宮近くの原宿駅付近では「黒煙をださな いように」といわれたり、女子学生が多い目白駅やとげ 抜き地蔵参りのお年寄りが多い巣鴨駅付近では「びっく りして心臓まひでも起こしたら大変」と汽笛を鳴らすに も気を使ったという。野菜などがぎっしり詰まった籠を 背負った行商のおばちやんたちも山手線の風物詩であっ             一二( た。  山手線二十九駅の中で、この稿執筆時の時点で最も乗 降客が多いのが新宿駅、一日平均七十六万六〇二〇人、 池袋(五十六万三四匸一人)、渋谷(四十二万六三一七人) と続く。開業当時と比較すると今昔の感を一層強くする。 貨物線としての性格が強かった日本鉄道品川線の中間駅 として開業した新宿駅は、当時蒸気機関車に牽引された 二、三両編成の汽車が通るのは一時間半に一本、一人の 乗降客もいない日があったという。開業後十数年だって も雑木林が茂り、明治三十(一八九七)年ごろになって、 駅構内でキツネの親子が汽車にひかれたという記録もあ るという。池袋駅周辺も似たりよったりの状況であった。 新橋-横浜間に日本で初めて鉄道が開通した一八七二 (明治五)年当時、戸数二〇五軒、人口一一六一人、耕 地は田十五町、畑はI〇七町と畑が田の面積の七倍を超 えていた。畑では都心向けの近郊農業が発達し、沢庵漬 け六百樽も生産していたという。池袋付近では駒込のナ ス、巣鴨のコカブ、滝野川のゴボウ、長崎のニンジンな どが栽培され、江戸・東京向けのブランド野菜となって いたという(大石学『駅名で読む江戸・東京』PHP新書)。 一九〇三(明治三十六)年に池袋停車場が開業し、池袋 周辺の景観は一変する。一九一四(大正三)年に東上鉄 道(現東武東上線)、一九一五(大正四)年に武蔵野鉄道 (現西武池袋線)が池袋を起点として開通し、その付近の 景観は一変した。渋谷の発展も鉄道路線の開通とともに 歩んでいったと言えるだろう。  一日の乗降客全国一である新宿駅では山手線のラッ シュは一日五回あるといわれている。朝夕の「通勤ラッ シュ」、午前十時前のコアパートラッシユ」、深夜十二時 すぎの「終電帰宅ラッシュ」、午前四時すぎの「始発 ラッシュ」である。この全部を経験した人も多いだろう。  山手線は十一両で、五十二編成ある。うち待機・点検 分を除いた四十九編成を運転している。平日の運転本数 は、内回りが三二二本、外回りが三二八本である。平日 朝のラッシュ時は超過密ダイヤである。ラッシュアワー 時の山手線車内、中づり広告や車内広告に目をやる人も 多いであろう。ポスターは縦三十六・四センチ、横五十 一・五センチ。中づりなら二日単位の掲出が基本で一両 に二十八枚、窓上は四日単位で五十四枚。一枚ごとに取 り替え時期が異なるうえ、二枚分の「ワイド版」が入る など、作業の内容は日々かわる。一編成一時間を目安に きれいにミリ単位のズレもなく正確にポスターを取り付 けるプロの技に思いを馳せる。動く広告が一周六十分で 首都を回る。首都東京の変貌を眺めて、山手線は全長三 十四・五キロの環状線を走る。     31 わが青春挽歌        -ロベルトーシューマン生誕二百年に寄        せてI  今年(二〇一〇年)はロベルトーシューマン(一八一 〇-五六)とフレデリックーショパン(一八一〇-四九) の生誕二百年にあたる。世界各地で記念祭が催されてい る。パリのルーブル美術館を初めて訪れて、ドラクロア こ七九八-一八六三)のフランス七月革命(一八三〇年) を描いた「民衆を導く自由の女神」とともに「ショパン の肖像」を鑑賞した時の心のときめきを今でも忘れるこ とができない。ドイツ連邦共和国のボンはベートーヴェ ン(一七七〇-一八二七)の生誕の地として、彼の生家を 訪ねる人は多いが、シューマンーハウスを訪ねる人は少 ない。私が最初にボンに留学したのは一九六五年、まだ 学生の頃であった。旧西ドイツの首都であったが、駅舎 は日本の地方の中小都市の駅舎と変わらぬ質素なもので、 当時はドイツ人からもBundesdorf (連邦村)として揶揄 されていた。市の中心ミュンスター広場でCDU/CS U(キリスト教民主・社会同盟)選出の首相ルードヴイツ ヒーエアハルト(一八九七-一九七七)とSPD(ドイツ 社会民主党)の当時若かったヘルムートーシュミツト (後に首相 一九一八-二○一五)の演説を聞いたことがあ る。一九六六年のCDU/CSUとSPDとの大連合政 権成立直前のことであった。それから十五年経って一九 八〇年に私は交換教授として再びボン大学に研究留学し た。その頃には地下鉄も完成していて、首都としてドイ ツ国民の間に市民権を得たように思われた。その時も第 九回連邦議会選挙を見聞することができ、同じ広場で             一二( ヴイリイーブラント(SPD党首、ノーベル平和賞受賞、 一九匸一-九二)の演説を聞くことができた。それから 十年、一九九〇年にドイツは再統一され首都はボンから ベルリンに移った。ミュンスター広場に立つベートー ヴェンの銅像はドイツ現代史の流れを無言のうちに眺め てきた。  ボンの小高い丘にクロイッツベルグ教会がある。旅を してボンベの帰路、小高い丘の上にあるクロイッツベル グ教会を車窓から眺めては、「ボンに帰ってきた」とい う懐かしさがこみ上げてきたものである。ヘルマンー ヘッセ(一八七七-一九六二)の『ナルチスとゴルトムン ト(知と愛)』(高橋健二訳『知と愛』新潮文庫)のマリアブ ロンの修道院を想起させるその教会は、私の宿舎から歩 いて十五分、寂寥とした厳寒、冬の残滓が私の心で執拗 に抵抗していた早春、濃い緑に覆われ緑陰が心地いい夏、 枯葉が舞い散る秋、ほとんど毎日午後散歩した。それに 至る長い坂道、一気にはのぼれず途中で休んで教会を見 上げると、悲しみにも似た憧憬が潮騒のようにこみ上げ てきたものである。反対側の坂道を下るとボンーエンデ ニッヒ、そこにはロベルトーシューマンが自殺を図って 助けられてから一八五六年七月二十九日に亡くなるまで 晩年の二年間を過ごした精神病院がシューマンーハウス として保存され記念館になっている。彼がデュッセルド ルフのライン河に架かる橋から身投げして自殺を図った のが一八五四年二月二十六日のローゼンーモンターク             一二( (バラの月曜日‥謝肉祭の前日)の日であった。二月末か ら三月末にかけてアルプスの山峡に源を発するライン河 は、谷間の清流と雪解けの水を集め、ネッカー、マイン、 モーゼルの三大支流を合流させ、氾濫する。しかもそれ は静かに水嵩を増し、翌日、河畔にたたずむとあたり一 面湖のようになっている。私は二度ほどこのような静か な氾濫を経験したことがある。水嵩を増したライン河は 吸い込まれるような魔力がある。シューマンが初めてラ イン河を見だのが、ハイデルベルクに遊学途上の十九歳 の時であった。「僕はライン河で死ぬだろう」とその時 の日記に書いてあるそうである。  シューマンは臨終のとき妻のクララを腕に抱き、「私 は知っている(I~I)」という今日でも話題を呼ぶ謎 めいた言葉を残している。一九八一年、シューマン没後 匸一五年で、ゆかりの地デュッセルドルフでシューマン 国際音楽祭が開かれ、私も開会式に参加する機会に恵ま れた。その時、クララーシューマン(一八一九-九六) と若きブラームス(一八三三-九七)との関係が問題に された。臨終のときの言葉「Ich weissJが何を意味した のか。クララとブラームスの関係を知っていると言いた かったのか。「クララ、君がいるのがわかるよ」の意味 であったのか。  没後匸一五年の一九八一年七月二十九日、シューマン の命日、私はボンのアルダー・フリートホープ(旧墓 地)のほぼ中央にあるシューマン夫妻の墓前に佇んでい             一二( た。辺りは森閑としていて、夏の日差しが燦々と降り注 いでいた。墓をフリートホープ(平和の庭)と呼ぶこと が感覚的な実感をぴったりと表現している(三木清『人 生論ノート』新潮文庫)。奇妙なめぐり合わせであるが、 この日ロンドンのセントポール大聖堂でチャールズ皇太 子(現・国王チャールズ三世)とダイアナ妃(一九六一-一 九九七)の婚姻の儀式が行われていて、世界中がその話 題で沸いていた。さらに私は、墓地の壁際にあるベー トーヴェンの母親マリアーマグダレーナの墓に詣でた。 マリアが亡くなったのは彼が十六歳、一七八七年のこと であった。墓石には「Du bist meine Mutter und meine beste Freu乱in=私の母にして最愛の友」と刻まれてい る。それから三十年の歳月が流れた。「歳月は過ぎての のちに/ただ老の思に似たり」(伊東静雄「なれとわ れ」-杉本秀太郎編『伊東静雄詩集』所収、岩波文庫)。     32 晩春の午後の独り言        -歴史の引き出しを開けてI  私は今までとりたてて年齢を気にかけたことはない。 無頓着なほうである。それでも歴史の引き出しを開けて、 一つの思い出を取り出し、有無を言わせず自分に年齢を 納得させる時があるものなのだ。今年(二〇一〇年)の 三月、大隈講堂での早稲田大学入学決定通知書授与式の 時である。推薦が決まった生徒とご父母の前で私は語り             一二( かけた。「『梅一輪一輪ほどの暖かさ』(服部嵐雪)。暖か くなったと思うとまた寒さがぶり返す。『冴え返る』と いう春の季語があります。『冴え返り冴え返りつつ春半 ば』(西山泊雲)。行きつ戻りつ春は来るものです。ナウ い言葉でいえば『もうすぐ春ですね、ちょっと気取って みませんか』というところでしょうか」。生徒の皆さん にはちっとも受けず、笑ってくれたのはご父母の皆さん だけであった。ナウいという言葉自体が古い、その通り だ。キャンディーズが旧後楽園球場でサヨナラ公演した のが一九七八(昭和五十三)年、三十二年前だ。後楽園 球場だって今日、知っている人は少ないだろう。今は東 京ドームだぞ。彼女たちだってもう五十五歳を超えてい る。彼女らに熱狂した「年下の男の子」だってもう五十 歳に手が届くであろう。こう書きながらわかってもらえ るのはご父母だけだろう、との思いが一入である。ご父 母の皆さんが歴史という時代の引き出しを、そっと合鍵 であけ、お子さんの成長を感じてくれればそれでいい。 「そう言っちやおしめえよ」といわれそうだが、それで も語り続けるのが教育だと自分では納得している。  四月二十二日、新入生オリエンテーションに参加する ため、中央線茅野駅から、いつものように車で中央高速 に入らず、杖突峠経由の通常道路を利用し早実駒ヶ根校 舎に向かった。激しい雨の中、七年に一度の「御柱祭」 を間近に控えた諏訪大社に拝礼し、高遠城址を訪れた。 名高いコヒガン桜はすでに故り、激しい雨の中、散って             一二( 水溜り一面に漂う花びらが満開の名残を留める城址公園 を散策した。「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るも のかは」(『徒然草』第百三十七段、岩波文庫ほか)と強が りを言ってみたが肌寒かった。誰一人いない城址公園内 入園料と駐車場代金を払わずに済んだのがせめてもの救 いであった。  東京に帰ると時折「常磐木落ち葉」が舞い、街路樹の ハナミズキの清楚な花も満開であった。この原稿を書き ながら、ふとベランダを見ると、去年買った牡丹が、大 した手入れもしないのに大輪の花をつけていた。「牡丹 花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置の確かさ」 (木下利玄)。寝転んで新刊の上原和氏の『法隆寺を歩く』 (岩波新書)を読む。同氏の『斑鳩の白い道のうえにI 聖徳太子論』(朝日新聞社、一九七五年)を読んで感動し たのは三十五年も前のことである。曽我臣入鹿は皇極二 (六四三)年十一月、天下に威名の高かった上宮の皇子 たちの住む鵤(斑鳩)宮を襲った。聖徳太子の嫡子 山背大兄王をはじめ上宮王家一族は一旦は生駒山に逃れ るが、決然として山を下り、鵤(斑鳩)寺に入り一族全 員自決する。鵤寺を包囲している入鹿配下の軍将に与え た山背大兄王の言葉は身にしみる。「吾、兵を起して入 鹿を伐たば、其の勝たむこと定し。然るに一つ身の故に 由りて、百姓を残り害はむことを欲りせじ。是を以て、 吾が一つの身をば、入鹿に賜ふ」(坂本太郎ほか校注『日 本書紀』第四巻、岩波文庫)。日本書紀の読み下しは難し い。漢字がなかなか読めない。これは年齢の故か。鈴木 真砂女(一九〇六-二○○三)の句だったろうかI「蜆 汁死よりも老いを恐れけり」。そう、年齢を忘れるので はない。「年齢を括弧に入れて」これからも精進しよう。     33 悲しみにも似た共感        -三好達治と萩原葉子-  去年の春は満開の花をつけていたのに。私は切り株を 見るまで信じられなかった。囗当たりがけっしてよいと はいえない住宅街、小さな木造の家とブロック塀に囲ま れた猫の額のような敷地に威厳に満ちて立っていたソメ イヨシノの老木である。その家に不釣合いなほど大きく ブロック塀の一部を壊し、痩せた土壌から精一杯の養分 を吸い上げ、それでもなお威厳を保って咲いていた。森 鴎外(一八六二-一九二二)の名エッセイ『空車』を想起 させるほど威風堂々としていた。切り株から類推すれば、 伐り取られたのは去年の夏ごろであったろうか。  突然、萩原朔太郎(一八八六―一九四二)の「郷土望景 詩」のなかの「小出新道」の一節が頭を過ぎった。「こ こに道路の新開せるは/直として市街に通ずるなら ん。/われこの新道の交路に立てど/さびしき四方の地 平をきはめず/(中略)いかんぞ いかんぞ思惟をかへ さん/われの叛きて行かざる道に/新しき樹木みな伐ら れたり」(河上徹太郎編『萩原朔太郎詩集』新潮文庫ほか)。             一二( 今年(二〇一一年)の春は未曾有の東日本大震災が日本 を襲い「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらなが れ/をみなごしめやかに語らひあゆみ/(中略)ひとり なる/わが身の影をあゆまする甃のうへ」(三好達治「甃 のうへ」-河盛好蔵編『三好達治詩集』新潮文庫ほか)と、 春の感傷に浸る余裕もなかった。  三好達治(一九〇〇-六四)は朔太郎を「あなたはこ の聖代に実に地上に存在した無二の詩人」と詛い、生涯 朔太郎に対する敬愛の念を失わなかった。三好達治は学 生の頃から、当時大森の馬込村の萩原宅をしばしば訪れ た。朔太郎の末の妹愛子(アイ)に憧れ、求婚するが、 彼女の両親に反対され結婚を断念した。愛子は詩人の佐 藤惣之助(一八九〇-一九四二)と再婚するが、佐藤惣之 助は朔太郎が亡くなった四日後に脳溢血で急逝した。佐 藤春夫(一八九二-一九六四)の姪と結婚していた三好達 治は妻と離婚し、年来の思慕の人、愛子と再婚し、北陸 の三国で暮らす。  二人の短い、愛憎織り交ざった悲惨な生活は萩原葉子 (朔太郎の長女、一九二〇-二○○五)の『天上の花-三 好達治抄』(講談社文芸文瘴)に詳細に描かれている。 『天上の花』は少年時代から「乳母車」「甃のうへ」など 三好達治の詩の匪界にどっぷり浸かってきた私にとって 衝撃的だった。慶子(愛子)に惑溺し暴力を振るう達治 の無残な恋愛に「ここまで書かなくとも」という一種の 嫌悪感を抱いたのも事実であった。再読して気付いたこ とだが、『天上の花』は萩原葉子が「これだけは書かず に死ねない。暗闇の中へ葬ってはならない」と胸に誓っ ていたことを書いた『蕁麻の家』(講談社文芸文庫)を書 くためにどうしても通らなければならない道だったので はないか、と思うようになった。『天上の花』に描かれ た三好達治の切羽詰まった「いらだち」と狂気が、今で は悲しみにも似た共感をよびおこすのだ。「母よI/ 淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふる なり」(「乳母車」-前掲『三好達治詩集』所収)。  『蕁麻の家』は萩原朔太郎の長女として生まれた嫩T 萩原葉子)が八歳のとき母が男と去り、知能障害の妹を かかえ、祖母に虐待され、「居候」「醜女」「淫乱」と蔑 まれ、朔太郎の死に至るまでの、救いようのない孤独な 蕁麻の家での生活を描いた自伝的小説である。そのよう な疎外に耐えかねヤクザな男に走った嫩の除籍を、祖母 をはじめ親族が死の床にいる朔太郎に迫る。意識も朧な 父朔太郎は、親族の執拗な申し出を退け、首を横に振っ て「否」の意思表示をする。そこに嫩は一点の灯を見、 また私たちも救いを見るのである。  『蕁麻の家』は結婚をし離婚までの経緯を描いた『閉ざ された庭』、作家として自立し、成功するまでを扱った 『輪廻の暦』と続く自伝的小説(いずれも講談社文芸文庫) の第一作である。     34 孤独、孤立、孤高        -適切な依存と距離についてI  携帯とインターネットを通じて私たちは否応なしに 「同時性という距離ゼロ」の感覚のなかで生活している といえる。とくに若い人たちを中心に他者とつなかって いないと過度に不安を感じる「つながり依存」に悩む一 方で、他者とのつながりを持て余し、つながりに悩む 「つながり恐怖」に陥っている人が多い。望んでいない のにつながりが拡大してしまった。その結果、ネット ワークから離れられなくなってしまう。人が変われば、 ギャラも変わる。学校にいる時はAと親友で~という ギャラを設定、学校を出たらBと親友でギャラ設定を変 える。家に帰ってさあ仮面を外そうとすると自分の本当 の顔も仮面にくっついて、のっぺらぼうな顔になってし まい、本当の自分がわからなくなる。  また今日、「産業構造の総サービス化」「第三次産業の 純サービス化」の趨勢の中で、社会全体が「コミュニ ケーション能力」を過度に求める傾向がある。望んでい ないのに若い人たちはメールが来ないと耐えられない。 孤独に耐える力が無くなっている。それと同時に言葉も 重みを失ってくる。  二〇〇八(平成二十)年六月の交差点の赤信号を無視 して歩行者天国に突入し、通行人を次々に殺傷した「秋 葉原事件」の犯人・加藤智大には「なぜ友達がいるのに、 孤独だったのか」の問いが提起されている(中島岳志             一二( 『秋葉原事件-加藤智大の軌跡』朝日新聞出版)。彼は厳し い母親に育てられ、自己主張することもできない家庭環 境のなかに育った。こうした状況で彼は現実の世界で自 分で思っていることを率直に吐露しても、しっかりと自 分を受け止めて、自分を承認してくれる他者がほしかっ た。しかしながら現実社会で「本音の関係」を断念し、 携帯サイトでの人問関係にそれを見出そうとした。彼は 自分の本音を言葉でしっかりと伝えられなかった。「本 音の関係」を構築するために、掲示板への書き込みを繰 り返した。そこでも「本音の関係」を構築できず、苛立 ち、突発的な行動によって自分の本音を気づかせる以前 からのパターンを繰り返し、犯行に及んだ。この加藤智 大への共感を示す若者が多数存在するという。彼自身の パーソナリティにすべてを還元するものではないが、彼 は最後まで自立することができなかったのではないか。 河合隼雄(一九二八-二○○七)が言うように「自立とは 独りで生きることではない。まして孤立ではない。自立 している人とは、適切な依存ができて、そのことをよく 自覚している人」であろう。「適切な依存」とそれを自 覚している「適切な距離感」という微妙なバランスの上 に成り立っているものであろう。孤独というものを改め て考える契機となった。  孤独、孤立、孤高、これら三つの言葉に共通している のは「唯一人」ということだろう。たくさんの人に取り 囲まれていても孤独感を持つときもあろうし、他から隔             一二( 絶され森閑とした孤独感を持つときもあろう。「孤独と いうのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件 に過ぎず、しかも外的な条件である」と、三木清(一八 九七-一九四五)が『人生論ノート』(新潮文庫)で言っ ている孤独は前者である。「孤独は山になく、街にある。 一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にある のである」。  新田次郎(一九二一-八〇)の『孤高の人』(新潮文庫) は、実在の人物で「地下足袋の文太郎」とか「単独行の 文太郎」とか呼ばれた実在の登山家、加藤文太郎(一九 〇五-三六)の生涯を描いたものである。あくまでも冬 山の単独行にこだわり、それまで大学の山岳部あるいは 「~山岳会」とか裕福な人びとに限られていた登山を社 会人にも開放した。この社会人登山に道を拓いた功績は 大である。冬山と夏山の違いは寒さだけではない。同じ 単独行でも夏山にはどこかに人がいた。小屋もあったし、 鳥もいるし、動物もいた。花も咲いていた。冬山には人 がいなかった。小鳥の鳴き声も聞こえないし、草木も 眠っていた。白一色の世界、雪がすべての音を消し、森 閑とした静寂、どうにもならない孤独が襲う。冬山に勝 つためには、この孤独に勝たなければならない。「山の 特権階級に挑戦するために山に行くのではなかった。記 録を作るためでもなかった。一●・1・● 山そのものの中に自分 を再発見しよう」としたのだ。単独行を主義としていた 加藤文太郎が結婚をして、最後の機会として彼を慕う年 下の青年とパーティーを組み、槍ヶ岳北鎌尾根で遭難死 したのは運命の皮肉というべきであろうか。  孤立と違い、孤独は慣れるものらしい。一九六二(昭 和三十七)年、ヨットで太平洋を単独横断した堀江謙一 さんが、九十四日間の冒険の記録『太平洋ひとりぼっ ち』(ちくま少年文庫)に書いている。嵐と船酔いで迎え た十七日目は「寒さと心配と孤独のため、発狂しそう だ」。それが七十二日目になると「周りに人がいないと いうだけの孤独なら、いつかはがまんできるようになる。 出てくる前のほうが、よっぽど、ぼくは孤立していた」。  リルケ(一八七五-一九二六)の「沈痛なる魂の告白」 の書である『マルテの手記』に異郷のパリのアパートの 屋根裏部屋に住むマルテの告白がある。不気味な死の恐 怖のためマルテは夜半のベッドの上に起き上がる。部屋 の家具もすべてがかかわりを恐れるかのように遠ざかり、 マルテを容赦なく孤独へと突き放す。灯した黄ばんだ明 かりさえ知らん顔をしている。最後の希望は窓が一つ 残っているばかりである。窓の外には味方になってくれ るものがあるだろう。不意に襲ってくる死の窮乏の中か ら自分を救ってくれるものがあるだろう。窓に救いを求 める。しかし「僕の目が窓にむいた瞬間、僕はなぜか窓 がふさがれていて壁のように塗りつぶされていることを          丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶    丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 願ったのだ。僕は窓の向うへ行っても、やはり同じよう 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶    丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 に救いがないこと、窓の外にもやはりただ僕の無限な孤 丶 丶  丶  丶  丶  丶  丶  丶  丶  丶 丶 丶 丶    丶 丶 丶 丶 丶  丶 丶 丶  丶  丶 独が続いているだけなことが、はっきりわかるのだっ た」(傍点筆者、大山定一訳『マルテの手記』新潮文庫)。  この絶対的な孤独の広がりに、どういう慰めも言葉に ならない。せめて私たち凡人は「適切な依存」を自覚し、 他者との「適切な距離」を保だなければならないだろう。     35 兵どもが夢見た武家最初の都        -平泉匪界文化遺産登録に寄せてI  「平泉」が世界文化遺産に(国内では十二番目)、小笠原 諸島が世界自然遺産に(国内では四番目)登録され、わ が国の世界遺産は十六件となった。匪界文化遺産になっ た「平泉」は平安末期に奥州藤原氏が建てた寺院や庭園 などで構成されている。正式な登録名称は「平泉-仏 国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」で あり、登録された資産構成としては中尊寺、毛越寺、観 自在王院跡、無量光院跡、金鵄山の五つである。普遍的 意義をもつ「浄土思想」を表現したもので、仏教と日本 の自然崇拝が融合し、日本独自の庭園であるなどが評価 された。  平泉文化を育んだ「平泉時代」は藤原清衡が後三年の 役を勝ち抜いて平安東北最終の覇者の地位を確定したI 〇八七(寛治元)年を起点とし、清衡(一〇五六1一二一 八)-基衡こI〇五-五七)-秀衡(一二一二-八七)を 経て、四代泰衡こ一五五-八九)の時、鎌倉の覇者源 頼朝ニー四七-九九)によって滅ぼされる一一八九(文 治五)年に幕を閉じることになる。  奥州藤原氏の初代藤原清衡は十二年の長きに及んだ前 九年の役(一〇五一-六二)の最中に生まれ、以後数奇 な運命をたどった。奥六郡(衣川以北の岩手、紫波、稗貫、 和賀、江刺、胆沢の六つの郡)に勢力を張った土着の豪族 安倍氏は安倍頼時(頼良、?-一〇五七)の頃全盛期を迎 え、朝廷の支配下にあった奥六郡を実質的な領地と化し た。この安倍氏に対して税の未納や労役の不備を囗実に、 朝廷は源頼義(九九八-一〇七五)を鎮守府将軍として派 遣したが、安倍氏の執拗な抵抗に遭い戦役は長引いた。 源頼義は最終的には出羽の土着の豪族、清原武則(生没 年不詳)の援軍を得て厨河柵の戦いで勝利を収め、これ により安倍氏は滅亡した。  京の藤原氏の流れ(血統)を汲み、本来ならば朝廷側 につくべき藤原経清(?-一〇六二)は安倍頼時の女婿 ということもあって妻の実家の安倍氏に加担し、その知 略で源氏方を散々苦しめた。源頼義の遺恨を買い、経清 は安倍氏の滅亡とともに悲惨な最期を遂げた。『陸奥話 記』は経清の最期の様子を次のように記述している。 「経清を生け捕る。将軍(‥源頼義)、深くこれを悪む故 に鈍刀をもって漸く(ゆっくりと)その首を斬った。経 清の痛苦を久しくせんと欲してなり」。この藤原経清と 安倍頼時の娘との間にできた子が清衡であった。この経 清の妻であり、また清衡の母が前九年の役後、敵方の大 将であった清原武則の嫡男武貞(生没年不詳)に嫁いだ のである。この清衡の母の行動は謎に包まれている。  次のような興味深い説もあるそうである。清衡の母の 母、つまり安倍頼時の妻が清原氏の出身だろうという説 である。これによって本来ならば謀叛人の子として処刑 されてもおかしくない七歳の清衡は生き残り、清原氏の 中で少年期・青年期を過ごすことになった、ということ である(大矢邦宣「黄金の都、平泉 栄枯盛衰ものがた リ」-『芸術新潮』二〇一一年十月り「世界文化遺産登録 記念大特集」所収)。さもなければあれだけ執拗な抵抗を 続けていた安倍氏が清原氏介入後わずか一ヶ月で滅亡し た説明がつかない、というわけである。逆に言えば清原 武則率いる一万の精鋭の援軍が強力であったと言えるか もしれない。だからこそ源頼義は屈辱的とも言える三顧 の礼をもってまでして清原氏に援軍を乞うたのだろう。 前九年の役の論功行賞で事実上、安倍征討の第一功労者 と認定され、清原武則は従五位上鎮守府将軍になった。 陸奥守・鎮守府将軍には奥羽現地人を任じないのが原則 であったから、ここに武門中世の歴史の幕開けが奥羽の 地にも始まったのである(高橋富雄『平泉の世紀-古代 と中世の間』講談社学術文庫)。  前九年の役から約二十年後、清原氏の内紛に端を発し た後三年の役(一〇八三-八七)が起こる。清原嫡宗家 の二代目清原武貞には真衡(?1一〇八三)、武貞と清衡 の母との間に生まれた家衡(?-一〇八七)および清衡 がいたが、この清原氏の三兄弟の権力争いに源頼義の子 で八幡太郎の通称で知られる鎮守府将軍源義家(一(‥)三 九-一一〇六)が介入した。この過程で清衡は家衡に よってその妻子・眷属を皆殺しにされた。この清原氏の 内紛の過程で清衡は清原氏に勝ち、源氏を制して、つい にみちのくの覇権を握ったのである。安倍氏の血を引き、 一人生き残った清衡が安倍氏の故地「奥六郡」と清原氏 の出羽「仙北三郡」を継承することになったのである (佐々木邦世『中尊寺千二百年の真実』祥伝社黄金文庫)。こ の清衡の不幸な前半生の体験を抜きにしては「みちのく に浄土を」という平泉の歴史を語ることができない。  藤原清衡以前には「平泉」という地名はなかった。 「平泉」は「高度に『現実的=理想的』だった。すなわ ち『政治的=宗教的』な理念の表明だった」のである。 まずは「へいせん」「たいらのいずみ」と呼ばれていた のであろう。「『平泉』『平らの泉』は『清衡都府』の理 念的表徴であり、その願望をこめる王者至高至聖の政治 理想を表明する聖都表徴だったのである。地名ではな い」という高橋富雄の所説は十分に納得できる(高橋富 雄『前掲書』)。平泉は「みちのくの中央」であり「みち のくの南北の境界」であった。『吾妻鏡』によれば清衡 はまず中尊寺の建立に着手した。清衡は奥州の最南端の 白河の関(現白河市)から最北端の外ケ浜(現青森市付 近)までみちのくを南北に貫く、二十余日の行程である 「奥大道」をつくり、一町(約一〇九メートル)ごとに金 色の阿弥陀像を描いた卒塔婆を立て、この「奥大道」の 中央地点の丘の頂に一基の塔を建て、中尊寺としたと伝 えている。事実、白河の関が北緯三十七度、外ヶ浜が北 緯四十一度、中尊寺が北緯三十九度だそうである。  「天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く」(大伴 家持-『万葉集』巻十八、伊藤博訳注『万葉集-新版』 角川ソフィア文庫ほか)。黄金は平泉のシンボルーイメー ジである。奈良時代、陸奥国は最大の産金地であった。 その端緒となったのは東大寺大仏の建立であった。大仏 の鍍金に使う黄金の確保に苦慮していた朝廷に七四九 (天平二十二年、陸奥守百済王敬福から黄金九百両 (約三ハキロ)の献上があり、聖武天皇は喜びのあまり元 号を「天平感宝」と改め、またその後「天平勝宝」と改 元された。この陸奥国の金をI手におさえたことで、奥 州藤原氏は栄えたのであり、中尊寺金色堂はその象徴で あった。  「五月雨の降り残してや光堂」(芭蕉)-「光堂は三 代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠 の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の 叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨 を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり」(潁原退蔵ほか 訳注『おくのほそ道-新版』角川ソフィア文庫)。亀井勝 一郎(一九〇七-六六)は『大和古寺風物詩』(新潮文庫) で次のように述べている。「古寺の美しさは、それが荒 廃のまままさに崩れんとして行くところにあるというの は真実だ」「崩れゆく文物を、崩れるままにしておくべ きか、或は補修を加え博物館に陳列すべきか」。この問 いに対する答えは容易に見出せないであろう。  中尊寺金色堂は、方三間(正面、側而ともに柱間が三 間)、平面の一辺が五・五メートルの小型の仏堂である。 この金色堂は建立当初は屋外に建っていた。建立から数 十年後には建物を風雨からまもる「霧よけ」のような施 設が作られた。匸一八八(正応元)年、鎌倉時代、幕府 七代征夷大将軍惟康親王(匸一六四-匸二二六)の命令で 金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設された。 現在の金色堂覆堂は一九六五(昭和四十)年に建設され た鉄筋コンクリート造りのもので、金色堂はこの覆堂の ガラスケースの中に収められ、温度、湿度が調整されて いる。私が見た旧覆堂(重要文化財)は金色堂の北西に 移築されて保存されている。この覆堂は四囲の風景に溶 け込んでいた。仏としての仏像と美術品としての仏像と のギリギリの妥協であろう。世界遺産となった今日、そ れでも無機質なコンクリート造りの覆堂とガラスケース には問題が投げかけられるであろう。  初代清衡は中尊寺、二代基衡は毛越寺、三代秀衡は宇 治の平等院を模して無量光院を建立した。このように奥 州藤原三代は徹底して平泉の地に仏国土を再現する都市 づくりをめざしたのである。無量光院は標高九十ハメー トルの美しい円錐形の金鵄山の真東に建てられた。宇治 の平等院より一回り大きな阿弥陀堂が建てられ、年に二 回、金鵄山の頂上に沈む太陽の光が、阿弥陀さまの頭上             一二( 越しに、中島の拝所に座っている秀衡のもとに到達する 構造になっていた。金鵄山が世界遺産の構成資産に含ま れたのは、自然と宗教が渾然一体となって融合している 点が評価されたのであろう。  奥州藤原氏が滅亡してから五百年後、芭蕉(一六四 四-九四)が平泉を訪れている。「三代の栄耀一睡の中に して、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野に なりて、金鵄山のみ形を残す。まづ高館に登れば、…… さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢と なる。『国敗れて山河あり、城春にして草青みたり』と、 笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ」。ご 存知『おくのほそ道』の一節である。そこで詠んだ句が 「夏草や兵どもが夢の跡」(前掲『おくのほそ道-新版≒ 芭蕉が平泉に入ったのが一六八九(元禄二)年旧暦五月 十三日(六月二十九日)であった。この時期の植物の成 長は目を見張るものがある。私は昨日(六月二十九日)、 たまたま実家の藤棚の伸びに伸びた藤のつるを切るはめ になった。この時期、植物は一雨ごとに葉を広げ、つる を伸ばす。怖いほどの植物にみなぎる生命力を実感した。 「まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。 衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入 る」(同前)。芭蕉は非業の最期を遂げた義経こ一五 九I八九)の居館のあった草いきれの高台に立ち、往時 を偲び時の移るのを忘れて涙したのであろう。ドナル ドーキーンのように芭蕉の句のなかでも「夏草や」を随             一二( 一に推す研究者は多い。  中尊寺にいたる月見坂を上り、途中の高台からの眺望 は平泉随一といわれているが、私にとっても忘れえぬも のである。一九六〇(昭和三十五)年の秋、修学旅行の 行き先が平泉・花巻であった。高台に登り、眼前に広が る風景に息をのんだ。東側に流れる大河北上川、西から 流れる衣川が北上川に合流する。そのあたりは前九年・ 後三年の役の古戦場である。目を上げれば束稲山が見え る。  平泉の原風景を一望できたこの高台からの眺望は、百 年に一度の大洪水にも耐えられるという大堤防の造成に よって見るも無残な無機的な風景に変貌しつつある。極 めて残念なことである。「眺望平泉随一」「俳聖芭蕉句吟 の地」の案内板も泣いている。  日本史上における十二世紀は都では「院政の世紀」で あり辺境では「平泉の世紀」である。再び高橋富雄の 『平泉の世紀-古代と中世の間』から引用しよう。 「『院政の世紀』が、『摂関政治と平氏政権の問』として 『古代的=中世的』であるのに対して、『平泉の世紀』は 『京都と鎌倉の間』として『古代的=中世的』であると するのである」。平泉こそ鎌倉に先立ち、武家最初の都 として中世へ大きく扉を開くものとして、将来、発掘や 研究が進展するにつれて平泉の独自性が明らかにされる であろう。             一二(     36 物思う梅雨の夕晴れ        I捨て難い魅力に満ちた「水の月」I  今年(二〇一一年)一月十七日で阪神大震災は発生か ら十六年を迎えた。わが国は火山列島であり、地震列島 であり、台風列島である。わが国では災害は忘れた頃に やって来るどころか、忘れる間もなくやってくるのが実 態である。阪神大震災はさまざまな教訓を私たちに残し てくれた。ここでは一例として、多量の避難民の問題を 取り上げたい。阪神大震災で家を失った被災者のうち、 約十二万人は県外に避難し、住み慣れた土地から離れて 暮らした。直下型の地震が首都を襲えば、事態はより深 刻である。身寄りを頼って疎開する人は九十一万人と見 込まれる。一方で、被災地にとどまって避難所に身を寄 せる人は、地震の一ヶ月後でも二七〇万人にものぼると いう。この問題をどうするのか、生徒諸君に神戸大地震 の教訓から学んでほしい。  阪神大震災から十年たった二〇〇五(平成十七)年三 月、『早実通信』第一四〇号に私は次のように書いたこ とがある。震災の当日に生まれた神戸市西区の小学四年 生の菅原翔平君は十歳の誕生日を迎えた。震災当日、予 定より二週間早く翔平君は誕生した。新聞から当日の模 様を再現してみよう。誕生したが、ぐったりして産声を あげない。鼻を吸い、背中をたたいたという。「一一九 番にかけたがつながらない。近所の大が心配して大勢駆 けつけた。救急車を探しに走り、お茶や産着、おむつを 持ち寄った。ライターの火で消毒したはさみで、へその 緒を切ってくれた。しばらくして、やっとオギヤーと泣 いた」。翔平君には軽度の知的障害がある。「他の子と比 べず、ありのままのこの子を受け止めよう」。父親の敏 郎さんの言葉である。「たくさんの命が消えたあの日、 多くの人の助けで、君は生を授かった。この先どんな困 難があっても、立ち向かっていかなければならない」。 重い言葉である。  多くの命が失われ、また新しい命が誕生する。私たち はもう一度「一・一七宣言」(二〇〇〇年一月十七日「∇ 一七 人類の安全と共生を考える兵庫会議」)に立ち戻ろう。 「あの崩壊の中で学んだことを/人々の未来に生かそ う/わたしたちの手で、あの時感じた苦悩を/人々の未 来から払いのけるために/そして、あの時吐界中から分 けてもらった ちからを/一人でも多くの大へと/わた したち一人一人が/手渡していこう」。かつて村落共同 体で行われていた労働の相互扶助慣行を表現するのに 「結」という美しい言葉がある。阪神大震災を契機とし て「結」の明日を求める新しい胎動も始まっている。  去年(二〇一〇年)の梅雨時のことである。丹精こめ て育てた鉢植えの紫陽花が抜けるようなコバルトブルー の大輪の花をつけた。傍らの鉢植えのクチナシも純白の 花をつけ、湿気にのってあたり一面に香りを漂わせてい             一二( る。梅雨には紫陽花がよく似合う。雨を吸収してしっと り重そうであるが、占めている花の位置の確かさはさす がである。開花した一輪を切り取って亡き妻の仏壇に手 向け、また一枝切り収って挿し木にして根付かせ来年の 梅雨時の開花の準備をする。これが私のここ十年来の年 中行事の一つである。  梅雨の合間の晴れの日は格別である。今までの圧迫感、 閉塞感からどこか夏らしい爽快な開放感がある。夏至近 くなると黄昏どきがずいぶん長くなる。「梅雨の夕晴れ」 は美しい。雲で暗かった空が、夕刻に明るさを増すとき など、どこか浮き立つ風情がある。  梅雨時は川や池の水辺が美しい季節でもある。辞書を ひもとけば「辺」は名詞について、そのあたり、そのそ ば、そのへんという意味であり、「際」はある場所と場 所との間を意味する。以前次のように述べたことがある。 素人の語感からすると「水辺」には浜辺、野辺のように 牧歌的な雰囲気があり、「水際」には際どい、瀬戸際と いった言葉から連想されるようになにか鋭角的な張り詰 めた感じがする。「水辺」というかわりに、「水際」とい う言葉がつかわれるようになったころから、湖や河川を めぐるさまざまな問題が生じてきたそうである。五月に は水辺に生える菖蒲の凛として伸びた葉と茎と比較的素 朴で小さな花が私は好きである。梅雨時になると水辺の かきつばだ、山野、野原に咲くあやめも美しい。梅雨が ある日本では六月はあまり人気のない月であるそうであ る。  「六月は恵まれない月」といわれるのは、まず祝祭休日 がなく、食べ物はいたむ。雨が続いて、歳時記を繰れば け ら  なめくじ  みみず  ひる  げじげじ 螻蛄、蛞蝓、蚯蚓、蛭、蚰蜒など陰鬱な生き物がずらり 並ぶ(朝日新聞「天声人語」二〇一〇年六月二十一日)。雨 が降り続くと戸外で遊びたい幼き日々、子どもがもっと 子どもらしく暮らせた日々を思い出す。家で騒いで叱ら れた、テレビもない時代。「雨がふります 雨がふる/ 遊びにゆきだし 傘はなし」(北原白秋作詞「雨」)。幼き 日々が私の心の中で雨に打たれて遠い彼方に消えてゆく。 しかし多彩な「水の月」には捨て難い魅力がある。雨に 洗われた青葉が目にしみる。  去年、夏至を問近にひかえた六月十九日、私は早実校 友会関西支部大会に出席するため京都の宇治に向かった。 雨に煙る平等院鳳凰堂、堂内の平安時代を代表する仏師 定朝(?-一〇五七)の作であることが確実な現存唯一 の仏像、本尊阿弥陀如来坐像、鳳凰堂を水面に映す 阿字池の水辺の趣は格別である。夏至のころ黄昏どきは ずいぶん長い。太陽が沈むのは午後七時ごろである。日 没までの長い明るさにはなにかうきうきとした夏らしい 開放感がある。宇治川沿いにある「鮎屋」で関西校友会 の支部総会が開かれた。私か挨拶に立ったとき、雨が一 瞬上がり、雨に洗われた青葉が目にしみる山際に美しい 虹がでた。それは今まで目にしたことがない光景であっ た。「梅雨の夕晴れ」は実に美しい。太陽が沈み、あた              一二( りに夕闇がせまるころ、宇治川の傍らを流れる別流で 鵜飼を屋形船にのって鑑賞した。水面にきらめくかがり 火、飛び散る火花、巧みに五羽ほどの鵜を操る、焔に映 し出される若き女性の鵜匠の真剣な眼差し、校友の皆さ んもしばし飲むのも忘れて鵜飼に魅入った。翌日の午前 中、宇治市「源氏物語ミュージアム」を訪れ、内海清美 さん(和紙人形彫塑家)の解説を聞きながら参加者二十 九名全員が千年の時空を超えて広がる王朝絵巻の華やか な世界に浸った。     37 「五五年体制」の崩壊と新たな発想        -安保改定五十年に寄せてI  わが国の政党政治システムは「五五年体制」の形成・ 展開・変容・崩壊過程として捉えられる。学術用語とし ての「五五年体制」とは一九六四(昭和三十九)年の 升昧準之輔(一九二六-二○一〇)の『思想』(岩波書店) に載った「一九五五年の体制」に由来し、「五五年体制」 という用語がマスメディアで一般的に使用されるように なったのは一九七〇年代後半になってからのことである。  一九五五(昭和三十)年から始まる五五年体制の第一 段階は自民党・社会党のイデオロギー対立の図式であり、 具体的には経済体制については「資本主義」対「社会主 義」、外交政策では「親米」対「反米」、戦後改革の評価 としては「改憲」対「護憲」という明確な対立軸を構成             一二( した時代である。一九六〇(昭和三十五)年の安保改定 はこの対立図式の頂点であり、国際的には冷戦構造の 真っ只中であった。今年、二〇一〇(平成二十二)年は 六〇年安保改定から五十年の節目の年である。  日米安保条約は一九五一(昭和二十六)年九月、サン フランシスコ講和条約と同時に締結され、その内容は (匸対等な双務的条約でなく片務的条約であり、(二) 米国の日本防衛義務が明示されていず、(三)日本に駐 留する米軍が日本以外の地域に自由に出動でき、(四) 日本国内の大規模な騒擾や内乱に在日米軍が出動できる など内政干渉の虞があり、(五)条約期限の明示がない など確かに問題点はあった。占領統治の最大のモニュメ ントが象徴天皇制と戦争放棄、占領終結の最大のモニュ メントがサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約 であり、この両者の不整合性の上にわが国の戦後政治の 起点があるとすれば、「五五年体制」成立後の与野党間 の対立軸は護憲・改憲の問題であり、なかんずく安保改 定の問題であったことは当然の帰結であると言える。  一九五九(昭和三十四)年九月に「U2」と呼ばれる 謎の偵察機が神奈川県藤沢飛行場に不時着し、翌六〇年 五月に旧ソ連のフルシチョフ首相(一八九四-一九七二 が領空を侵犯した「U2」偵察機の撃墜を発表し、米ソ 冷戦の実体を日本国民に浮かびあがらせた。そんな中で の安保改定であった。  一九六〇(昭和三十五)年一月に新安保条約が調印さ             一二( れ、アイゼンハワー大統領(一八九〇I一九六九)の六月 二十日の訪日も決まり、五月に警官隊導入の下で新安保 条約は強行採決された。この強行採決を境に「反岸」感 情が一気に高まり、反安保運動か日増しに激化した。岸 信介首相(一八九六-一九八七)の「声なき声」発言。 「(デモに)屈したら日本は非常な危機におちいる。e●e一一● 私はぷ尸無き声”にも耳を傾けなければならぬと思う。 いま(聞こえてくる)のはぷ尸ある声”だけだ」。東大生 樺美智子さんの死、大統領秘書のハガチー氏が訪日し、 出迎えのマッカーサー大使と(ガチー氏らの乗った車が、 羽田空港近くでデモ隊に包囲され、二人は米軍のヘリコ プターで脱出するという事態に至った。自衛隊の出動要 請まで岸首相は考えたが、赤城宗徳防衛庁長官(一九〇 四-九三)らが反対し、自衛隊出動は回避された。そん な中、新聞七社の「共同宣言」が出され、ジャーナリズ ム界の在り方に問題が投げかけられた。「社会、民社の 両党においても、この際、これまでの争点をしばらく投 げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の 収拾に協力することは、国民の望むところと信ずる」。 地方の四十一紙も同調してこの「共同宣言」を掲載した。 新聞各紙は何故「これまでの争点をしばらく投げ捨て」 とまで言ったのか。「共同宣言」が掲載された途端に批 判が噴出するのは当然であった。この「共同宣言」は 「五五年体制」の下におけるマスメディアの二面性を端 的に示すものであった。一方では戦前の反省にもとづく             一二( 「悔恨共同体」(丸山貞男)の意識と無関係ではない反権 力的な野党的スタンス、他方では自社両党の勢力状況に 照らして「一ヶ二分の一政党制」と呼ばれる国会におけ る自民党の絶対多数という厳然たる事実を認めて、政 府・与党への接近というスタンスである。新安保は三十 三万人が徹夜で国会を包囲する混乱と混迷の中で、一九 六〇(昭和三十五)年六月十九日零時を期して自然承認 された。  一九六一年八月に東ドイツ国民が西ベルリンに脱出す るのを防ぐため「ベルリンの壁」が建設され、六二年に は米ソ間の全面的核戦争の危険を孕んだ「キューバ危 機」で米ソ間の冷戦はその頂点に達した。三十年の時が 流れ、一九八九年から九〇年にかけてヨーロッパを舞台 として四つの壁が、劇的な速さで崩壊した。第一は米ソ 間の壁、第二は西欧と東欧との壁、第三は東西両ドイツ の壁、第四は、これらを集約的に象徴する東西ベルリン の壁である。国際政治の不動の枠組みと考えられてきた 冷戦構造は音をたてて崩れ、ポスト冷戦の時代が到来し た。  冷戦後の世界のあり方として、F・フクヤマに代表さ れるような「グローバルに民主主義と市場経済秩序が定 着し、もはやイデオロギーなどの大きな歴史的対立がな くなる。歴史の終わり”という時代になるだろう」と いった、いわば楽観主義的な匪界像が描かれていた(渡 部昇一訳『歴史の終わり』三笠書房)。そうした趨勢の中で             一二( 一九九三年に発表されたS・ハンチントン(一九二七- 二○○八)の「二十一世紀の世界は、民主主義によって 一つの世界が生まれるのではなく、数多くの文明間の違 いに起因する、分断された世界になるだろう」という 「文明の衝突」理論は衝撃的であった(鈴木主税訳『文明 の衝突』集英社)。この「文明の衝突」理論はその後のコ ソボ紛争、東ティモール紛争、イラク問題などで、その 予見性の確かさが証明され、二〇〇一年九月のニュー ヨークの同時多発テロはそれを象徴する衝撃的事件で あった。  多文明的な世界にあって建設的な行き方は、普遍主義 を放棄して多様性を受け入れ、共通性を追求することで あろう。そのためには寛容と理性がなによりも要請され よう。冷戦終結によって安全保障概念も多様化し、国家 も唯一の安全提供者ではなくなり、安全保障主体も、国 家、国際機関、NGO、企業など、多元化が顕著である。 国内的に見ても一九九三(平成五)年六月十八日に宮澤 喜一首相(一九一九-二○○七)への内閣不信任決議案が 可決され、七月の総選挙で三十八年ぶりに政権交代し、 自民党一党優位体制にピリオドが打たれ、「五五年体制」 が終焉した。安保改定五十年を契機に「歴史の壁を越え た」発想が求められている。     38 ウィーンから届いた絵葉書        -楽観は明日に向かう一つの意思であ        るI  「玉の如き小春日和を授かりし」(松本たかし)。日本海 側では豪雪が続く中、東京では小春日和に恵まれたある 日、寒波に見舞われたヨーロッパのウィーンの知人から 絵葉書が届いた。私にとって鮮明な記憶が蘇える。「美 しき青きドナウ」を連想するが、ウィーンあたりのドナ ウ河はねずみ色の濁流である。ドイツのシユヴァルツ ヴァルト(黒い森)に源を持ち、ひたすら東に向かって 流れ、黒海に注ぐ、約二九〇〇キロの大河ドナウ、その ドイツ最後の町がパッサオである。この地で北から清冽 なアルプスの水を集めて流れる青きイン川とボヘミヤの 森から流れてくる暗褐色のイルツ川の二つの支流が、ね ずみ色のドナウ本流に合流する。下流数キロにわたって ドナウ本流はねずみ色、青色、暗褐色の三色の帯をなし て流れる。パッサオの旧市街は、合流するドナウ河とイ ン川に挟まれた三角地帯にある。私は三度、厳冬の十二 月末、吹雪の中、ドナウとインが合流する三角地点の頂 点に立ったことがある。人一人いない荒涼とした寂寞の 中、両大河は森閑として合流する。この寂寥感に私は思 わず襟を正す。この寂寥感は、源から約六百キロ、大河 へと成長するドナウ河の美しき青きユングードナウ= 「若きドナウ」への青春挽歌なのであろうか。             一二(  阿川弘之さんの『海軍こぼれ話』(光文社文庫)にこん な話が載っていた。エリート官僚の養成を目的とするフ ランスー難しい学校(ENA)の卒業口述試験に 「ウィーンにおけるドナウ河の水深を問う」といった類 の珍しい問題が時々出題されるという。出題者の意図を 忖度して模範解答を探せば「ご承知の通り、ドナウ河は 約ハキロにわたってウィーン市内を東へ流れております。 どの地点の水深をお答えすればよろしいでしょうか」と いうことになろうか。もっともらしい数値をあげても、 ろくな点数はもらえないであろう。発想を変える以外に ない。  山中の人里を表す「山里」はわが国に古来からある言 葉である。「春たてど花もにほはぬ山ざとは ものうか るねに鶯ぞなく」(在原業平-『古今和歌集』春歌、岩波 文庫ほか)。「そこにあるのに、それを表す言葉がないた めに認識されないものがある。裏を返せば、見過ごされ ていたものも、名称があたえられることで顕在化する」 ことがある。「山里」をひっくり返しただけの「里山」 はその典型であろう(朝日新聞「天声人語」二〇〇九年十 一月二十九日)。人と野生生物との出会いの場であり、人 と自然が共存する日本の原風景といったたたずまいに、 ピッタリの言葉であろう。京都大学や京都府立大学で教 鞭をとった故四手井綱英さん(一九一一I二〇〇九)が一 九六〇年代に言い出した言葉である。この言葉の出現に よって里山の豊かさが世に知られ、逆に過疎と高齢化に             一二( よって里山も荒れ、熊、猪などの野生動物が人里に出現 する問題点も浮き彫りにされることになる。  思いもよらないような社会的事件が起こる。どんな事 件にも社会的背景があることは論を俟だない。しかしそ うした事件が金科玉条のように、時代の閉塞感を表す記 号のように語られると、一寸待てよ、と言いたくなる。 何でも「時代」のせいにすれば、楽なことこの上もない。 小林秀雄(一九〇二-八三)が「モオツァルト」につい て述べた一節を思い出す。「不平家とは、自分白身と決 して折合はぬ人種を言うのである。不平家は、折合はぬ のは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいる」 (『モオツァルト・無常という事』新潮文庫)。いつの時代で も「時代」は戦うに足る相手なのである。「強い精神に とっては、悪い環境も、やはり在るがままの環境であっ て、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものも ありはしない。不足な相手と戦えるわけがない」。噛み 締めなければならない言葉であろう。言うまでもないこ とだが、他人に忠告を与えることは簡単だが、「自分を 知る」ことは難しい。他人を励ますのは気楽だが、自分 を励ますのは容易なことでない。誤解を懼れずに言えば、 教育には一般論は必要なく、一般論からは何も生まれな い。「個人の尊厳」「命の大切さ」「平和の大切さ」とい う抽象的かつ紋切り型の言葉には空疎な響きがある。在 るものはあくまでも凛とした「尊厳を持つ個人」であり、 「大切な命」であり、「大切な平和」であろう。フランス の哲学者アラン(一八六八1一九五一)は悲観と楽観につ いて語っている。「悲観主義は気分によるものであり、 楽観主義は意志によるものである」。アランは御し難い ほどの楽観主義者との批判を受けたとき、「もし 不撓不屈のオプティミズムを原則中の原則として自らに 課さないならば、すぐに最悪の悲観主義が現実のものと なってしまう」(神谷幹夫訳『幸福論』岩波文庫)と述べて いる。この点で楽観は疑いもなく明日に向かう一つの意 思である。     39 相手とどう向き合うか        I中野好夫「悪人礼讃」を再読してI  「津地鎮祭違憲訴訟」などを手掛けた藤林益三最高裁長 官(一九〇七-二○○七)は退任のサヨナラ記者会見で 「世の中の憂いを一身に背負っているような、深刻な顔 をしている人は大嫌いだ」と言ったそうであるが、私も この言葉に共感する。ゼミの女子学生から「先生から見 た理想の男子像は」と尋ねられることがしばしばあるが、 いつも「少なくとも淋しさを売り物にするような男とは 一緒にならないほうがいいよ」と答えている。そのよう な人は「目の前のことを愚直に誠実にこなす」気概に欠 けているというのが私の経験的事実である。  英文学者であり、政治や社会への発言も多かった中野 好夫(一九〇三-八五)に「悪人礼讃」という刺激的な             一二( 随筆がある(ちくま哲学の森『悪の哲学』所収、ちくま文 庫)。「ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つに つきる」。さらに「考えてみると、およそ世の中に、善 意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身 の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思 わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡 明な悪人から苦杯を甞めさせられた覚えは、かえってほ とんどないからである」と続く。何故か。悪人には「自 らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるから である」と中野は言う。それに対して善意、純情の善人 は「ただその動機が善意であるというだけの理由で、一 切の責任は解除されるものとでも考えているらしい」。 彼らにとって「動機が善意である」ということが免罪符 になっている。誰もが一度はそうした経験があるだろう。 教育の世界では善意、純情、動機の善悪で判断されるが、 動機の善悪で結果が斟酌されないのが政治の世界だろう。  マックスーウエーバー(一八六四-一九二〇)は「心情 倫理」と「責任倫理」とを対比しつつ、「政治の手段が 暴力であり、権力が一切の政治行為の原動力である以上、 職業としての政治家は、責任倫理に従って行動する、成 熟した人間でなければならない。政治家にとって、情 熱-責任感―判断力の三つの資質がとくに重要である。 現実の世界がどんなに愚かであり卑俗であっても断じて 挫けない人間。どんな事態に直面しても『それでもな お』(9日OS)と言い切る自信のある人間でなければな             一二( らない」と説いた(脇圭平訳『職業としての政治』岩波文 庫)。  発想の点から考えてみよう。状況、制度、原理という 三つの領域からの着想がある(京極純一『日本人と政治』 東京大学出版会)。物理的環境を自分の眼というフィル ターを通して見ると「状況」となる。同じ環境の下にい ても状況は個人によって異なる。したがって状況は非常 に可変的、流動的であり、不安定である。同じ行動が繰 り返され、一つのパターンができると「制度」となる。 したがって制度は固定的かつ安定的である。「こうする もんだ」という「もんだ主義」「もんだ意識」に裏付け られた問題の捉え方が「制度」からの発想である。  さらに問題を根本的に捉えると「原理」からの発想が ある。例えば、元来、自由と秩序の問題は人間が政治社 会を営んで以来の根本的な問題である。同じ原理を物指 しにしないと「原理的対立」になる。現実の社会生活で は、人びとは熟慮して、三つの領域の間の緊張を、自分 の胸中で整理しなければならない。これがバランス感覚 と呼ぶべきものであろう。三つの領域それぞれに親和性 あるタイプの人間を考えれば「状況」からの発想は政治 家、「制度」からの発想は官僚、「原理」からの発想は聖 職者であろう。向き合う相手がどの立場から発想してい るか、まず考えて相手に向き合わなければならないだろ             一二(     40 心に残る郷愁の響き         I「栄冠は君に輝く」と「赤とん         ぼ」-  阪神・淡路大震災から十七年を迎えた二〇匸一(平成 二十四)年一月十七日、早朝から追悼行事が行われた神 戸市中央区の東遊園地では、東日本大震災が発生した午 後二時四十六分に合わせて、市民や東北から招かれた被 災者らが三・一 一の犠牲者に鎮魂の祈りを捧げた。 「一・一七」と「三・一一」、死者・行方不明者一万九〇 ○○人を超えた東日本大震災は、犠牲者の数や被害規模 で、阪神・淡路大震災(死者六四三四人)を遥かに超え、 戦後の自然災害史を塗り替えてしまった。しかし、悲し みの記憶までは置き換えられない。寺田寅彦(一八七 八-一九三五)の警句をひくまでもないであろう。  「『自然』は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新 思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったこ とが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。 科学の方則とは畢竟『自然の記憶の覚え書き』である。 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 白然ほど伝統に忠実なものはないのである」(傍点筆者、 「津浪と人間」-『天災と国防』所収、講談社学術文庫)。  まして日本列島は「火山列島」であり、「地震列島」 であり、また「台風列島」でもあり、したがって「災害 列島」として「日本の国土全体が一つの吊橋の上にか かっているようなもの」であり、文明が進めば進むほど 天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すことを考え れば、過去の教訓を生かしきれているのか、真剣に考え なければならないだろう。言うまでもなく「大規模災害 はその社会がかかえている様々なひずみを一気に表面化 するものである」。阪神・淡路大震災に見られた被災地 とそれ以外の地域との「温度差」の問題、災害弱者の視 点にたった復旧・復興対策、大と人のつながり、地域社 会のつながりを考えた仮設住宅の建設、仮設住宅での地 域や親しき大から切断された中高年層の孤独死の問題、 「心の砂漠」ともいうべき被災地でのボランティア活動 など、「ボランティア活動元年」とよばれる阪神・淡路 大震災の被災地からの発信は極めて大きな意味をもち、 復興への勇気を与えるものであった。  春、夏の甲子園では被災地から出場した選手たちの活 躍に日本全国の大たちが惜しみない拍手を送った。高校 野球の「栄冠は君に輝く」の作曲で知られる古関裕而 (一九〇九I八九)は福島県出身であり、阪神タイガース の応援歌「六甲おろし」も作曲した。毎年夏になると、 古関はテレビの前に座り、甲子園の開会式の様子を見る のを楽しみにしていたという。「雲は湧き 光あふれ て/天高く 純白の球 今囗ぞ飛ぶ」。古関は自叙伝 『古関裕而-鏥よ鳴り響け』(日本図書センター)で次 のように書いている。「幾千幾万の健児がこの歌によっ て戦い、悲喜交々の青春時代を味わっておられるであろ うか……私も今でも胸がときめく」。校歌から軍歌、歌 謡曲まで、五千曲以上も作曲した古関にとっても「栄冠 は君に輝く」は思い出深き曲であった。「いい曲ね。だ れが作ったのかしら」。妻の金子さんがひやかすと、古 関はうれしそうに「だれだろうね」と応えていたという。  古関裕而は早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應 義塾大学の「我ぞ覇者」の作曲者でもある。一九八九 (平成元)年に古関裕而は亡くなり、盛大な音楽葬が行 われ、早稲田大学、慶應義塾大学の応援歌を作曲した古 関のために、両校の応援団がそれぞれの応援歌を歌い、 古関の棺は、左右からさしかけられた両校の校旗をく ぐって、多くの参列者に見送られた。福島駅の新幹線 ホームでは発着時に「栄冠は君に輝く」のメロディが流 れる。  戦後、高校野球の発展に命をかけた男がいる。神戸市 に生まれ、早稲田大学で活躍した佐伯達夫(一八九二- 一九八〇)である。高野連会長をつとめ(一九六七-八 〇)、野球殿堂入りも果たした。毀誉褒貶もはげしく 「佐伯天皇」と呼ばれ、厳格な「佐伯通達」で知られ、 高校野球は「プロの養成機関ではなく教育・人間形成の 場」と終生アマチュアリズムーエジュケーショナリズム に徹し、筋を通した人物であった。  早稲田大学に学び、慶應義塾大学でも学んだ詩人三木             一二( 露風(一八八九-一九六四)は「播磨の小京都」と呼ばれ る兵庫県龍野町(現たっの市)に生まれ、北原白秋(一八 八五-一九四二)とともに白露時代を築いた詩人である。 露風が作詞し、山田耕筰(一八八六-一九六五)が作曲し た「赤とんぼ」は「私が好きな童謡」でつねに最上位を 占める。JR姫新線本竜野駅前には「童謡赤とんぼのふ る里」の像が立っている。「姐や」を中央に少年と少女 が立ち、少年が肩にかついだ竿の先にトンボがとまって いる。三木露風の生涯は母を恋い求めた一生であった。 露風六歳のとき父母は離婚した。露風は初代龍野町長を つとめた祖父の元で育てられ、幼き日々露風は去って 行った母を待ち続けた。母かたは離婚後、上京して東大 病院で学び、看護婦(師)の草分け的存在となった。 ジャーナリスト碧川企救男と北海道小樽で再婚した。露 風が十八歳のとき、再婚して北海道に住む母からの便り が届いた。封書の巻紙の文章には空白部分があり、「汝 の頬を当てよ、妾はここにキスしたり」と記されていた。 露風は手紙を抱きしめて激しく泣いた。母かたは一九六 二(昭和三十七)年に九十一歳でごくなった。七十二歳 の露風は母の遺族に頼んだ。「母の亡骸のわきで一晩添 い寝させてほしい」と。露風が十六歳で出版した詩歌集 『夏姫』の歌に「母と添寝の夢や夢」という文句がある。 五歳から抱き続けた夢は六十七年後、ようやく果たされ た(朝日新聞「うたの旅人-三木露風作詞『赤とんぼ』」二 〇〇八年九月二十日)。  三木露風は三十一歳のとき北海道上磯町(現北斗市) のトラピスト修道院で文学講師となり、このトラピスト 修道院内の家で四年間過ごした。その家で「赤トンボ」 が生まれた。一九二〇(大正九)年の秋のことだった。 「或日午後四時頃に窓の外を見て、ふと眼についたのは、 赤とんぼであった。静かな空気と光の中に、竿の先に、 じっととまっているのであった」と露風は書いている (「赤とんぼのこと」)。「赤とんぼ」に歌われた情景は故郷 の龍野町だが、詩が詠まれた場所は北海道である。去っ ていった母を待った幼年時代の播州龍野の情景が目に浮 かぶ。  「男はつらいよ」シリーズの第十七作『寅次郎夕焼け小 焼け』(山田洋次監督、一九七六年)の舞台は龍野であり、 タイトルは「赤とんぼ」からとっだことはよく知られて いる。この作品では龍野芸者「ぼたん」を演じたマドン ナ太地喜和子(一九四三-九この熱演もさることなが ら、二人の老名優宇野重吉(一九一四-八八)と岡田嘉 子(一九〇二-九二)の競演が話題を呼んだ。青観画伯 (宇野重吉)と昔の恋人志乃(岡田嘉子)が何十年ぶりか に再会するシーンである。青観は画家としての修業時代 に悔いの残る別れ方をしていた。青観「お志乃さん。 ……申し訳ない」志乃「どないして……」青観「僕は、 あなたの人生に責任がある。・●・1・● 僕は後悔してるんだ」 志乃「じやあ、仮にですよ、あなたがもう一つの生き方 をなすっとったら、ちっとも後悔しないと言い切れます             一二( か。●・一一・・ 私、近頃よくこう思うの、人生に後悔はつきも のじやないかしらんて、-ああすればよかったなあと いう後悔と、もう一つはどうしてあんなことをしてし まったんだろうという後悔……」。「赤とんぼ」のメロ ディーが流れる。たんたんと語る志乃の表情に、昇華さ れた青春時代の余韻が漂う。忘れ難いシーンである。  こんな時にも「赤とんぼ」が歌われた。米軍立川基地 拡張に反対して、反対同盟の人びとが強行測量を阻止し ようとして警官隊と流血の衝突を繰り返した「砂川闘 争」では、いざ決戦のとき、反対同盟の人びとが日没ま での約三十分、繰り返し歌っだのが「赤とんぼ」であっ た。警官隊は突撃してこなかった。私たちの郷愁を誘い、 心に響くものがあるのだろう。 第五部 遥かなる旅路の果てに     41 草創期の早稲田実業学校に学んだ人び        と        I竹久夢二、林武、藤原義江-  草創期の早稲田実業学校には意外と思われる人が一時 期、籍を置いたり学んだりしている。「われらのテナー」 「東洋のヴアレンティノ(戦前のイタリア系(リウッドの大 スター、一八九五-一九二六)」と呼ばれたオペラ歌手藤 原義江(一八九八-一九七六)もその一人であろう。藤原 義江は一八九八(明治三十一)年、スコットランド人 ネールーポロディーリードと琵琶芸者坂田キクとの間に 山口県下関で生まれた。「ゆるやかに蛇行する川幅ほど の海峡は、干満につれて日に四度、潮流の向きを変え、 海面の色はその日その時の空をうつして、さまざまに変 化する」という(古川薫『漂泊者のアリア』文春文庫)。そ れは藤原義江の流離と漂泊の人生を暗示するものであっ た。  父リードに見捨てられ、混血児をかかえての琵琶芸者 の生活は並大抵のことではなかったであろう。若松の石 炭問屋でおよそ一年半育てられ、大分県の国東町の浄土 宗の寺西林寺の小僧となり孝順と名づけられた。そこに も長くいられず、母親が働く杵築町の旭楼に一時身を置 き、藤原姓になり、八歳のとき、水野家の養子になり、 小学校に入学、しかしそれも長く続かず大阪に移る。会 社の給仕、質屋の丁稚、帽子屋の小僧など転々とする。 少年時、悪餓鬼であったが、こんな転変の生活をおくり ながらも出自から生じる、ひねくれたところが微塵も感 じられない。生涯を通じてこれは変わらなかった。  このような少年時の体験は、後年、毒舌で有名であっ たが、その実、本質的な「優しさ」を持った藤原義江の 性格形成に深い影を投げかけているのであろう。そのよ うな境遇がいつしか「瓜生商会」総支配人の父親リード の耳に入り、子どもを捨てたうしろめたさからか、リー ドは義江を上京させ、「瓜生商会」社長の瓜生寅(一八 四一-一九二二)宅から暁星学園の小学部に通わせた(一 九〇九年)。以前とは天と地ほどの生活の転換であった。 そこでも悪童ぶりを発揮し退学になり、明治学院中等部 に入学し(一九二一年)寄宿舎に入る。そこも退学にな り京北実業に入り、野球を始めた。ある日、野球の練習 をしていると「うちの学校に来て野球部に入らないか」 と声をかけられた。声をかけだのが当時早稲田実業学校 野球部の遊撃手で、後に明治大学の遊撃手として活躍、 職業野球の名古屋金鯱軍の監督となった岡田源三郎(一 八九六I一九七七)であった。藤原義江は早稲田実業に 転校した。一塁手で打順は三番であった。彼は嬉々とし て野球に熱中した。「だが、このご機嫌の状態も長くは 続かなかった。瓜生家から学校あてに退学届が出されて いたのである。結局、早実は一年足らずで、またすごす ご荷物をまとめて瓜生家へ帰った……当時は選手になる             一二( 夢で勉強どころではなかった」と義江は自伝で述懐して いる(『流転七十五年-オペラと恋の半生』主婦の友社)。  瓜生老人も亡くなり、瓜生夫人から「あなたの遊び半 分の学費まで負担する余裕は当家にありません」といわ れ、ここで初めて学費が父親リードからではなく瓜生家 から出ていたことを知る(古川薫『前掲書』)。瓜生家を 出て、独立としやれこんだが、電通の電報配達人となる も、日本橋でオートバイと衝突、負傷して失職する。再 び大阪に出て「関西農報」という農業雑誌の見習記者と なる。ここも会社のストライキに巻き込まれ退社した。 この大阪の浪花座で松井須磨子(一八八六-一九一九)の 「芸術座」を観劇し、舞台に惹かれる。九州戸畑の旭硝 子に入社するも、「芸術座」の舞台が忘れられず、会社 を辞め、上京し、沢田正二郎(一八九二-一九二九)の新 国劇に参加し、戸山英二郎の芸名をつけられた。義江は 大阪道頓堀の弁天座で田谷力三(一八九九-一九八八)の 歌う「波をけり、風をつき……」という歌劇「コルネ ビューの鐘」のアリアを聴いて衝撃を受けた。「オペラ らしい歌を聴いた最初であって、この一発で私は自分の 運命を決めてしまった。私が新国劇をドロンして、浅草 に走ったのはこの直後のことである」と義江は述懐して いる。「オペラ歌手になるのが私の行くべき道」との心 を決めた。かくして義江の浅草時代(一九一八―二○) がはじまる。  浅草オペラの花形はいうまでもなく田谷力三であり。             一二( 田谷が好んで歌ったのが小林愛雄(一八八一-一九四五) の訳詩であった。小林の歌詞や訳詩によるオペラは浅草 で次々と上演されたが、フランツーフォンースッペ(一 八一九-九五)作『ボッカチオ』の中で歌われる「恋は やさしい野辺の花よ」は田谷力三の歌で全国に広まり、 多くの人によって愛唱された。小林は一九二〇(大正 九)年から早稲田実業学校の教壇に立ち、商業美学など を担当し、その講義録は『商業美学』と題して出版され た(一九二九年)。その序文には次のように述べられてい る。  「顧みれば十年前、私が早稲田実業学校に職を奉じて間 もなく、『芸術と商業との握手』即ち『商業の芸術化』 を考えた。かくてその翌年商業学校規定の『商業に関す る諸学科中必要なる事項』のIとして、『商業美学』を 開講するや、生徒は異常の興味を以てこれを迎えた。こ れに励まされて、私はその後年々幾多の改訂を施し補正 を加えたものが本書の素地をなしたのである」  小林愛雄は後に早稲田実業学校の第五代校長(一九四 一-四二)に就任している。藤原義江の浅草時代、日本 館の東京少女歌劇団の二大スターは一条久子と白川澄子 である。白川澄子は柳腰、なで肩の美人で、竹久夢二 こ八八四-一九三四)の描く美人画のモデルといわれて いる。竹久夢二は建学草々の早稲田実業学校に学んでい る(一九〇二-○五)。また藤原義江が浅草で「オペラ歌 手になるべく自分の行くべき道」を模索していた頃、同 じく早稲田実業学校に一時籍を置いたことのある(一九 一〇-一二、後に文化勲章を受章する画家林武(一八九 六-一九七五)が同じ浅草で映画の看板を描きながら画 家の道を歩み始めていた。藤原義江と林武が自己の道を 歩みだした頃、その少し前を竹久夢二が歩んでいたこと になろうか。早実の縁の糸を感じないわけにはいかない。 林武の文化勲章受章の記事が「早実新聞」九十九号(昭 和四十二年十一月)に載っている。「途中で病気の為、退 学せざるをえなかったが、在学中は牛乳配達をして家計 を助けていた模範的生徒であった。また画伯は早実を評 して『もっとも印象深い学校』と言っていらっしやる。 洋画を志す者にとって大目標である林画伯が、かつて同 じ校舎の下で勉学にいそしまれた、我々にとっても非常 な誇りである」。  藤原義江は自分の道を歩むべく父親リードの援助を受 けイタリア行きを決意するが、いざ出発する段になって 父親リードの急死に直面する。出発前にプリマドンナの 安藤文子と結婚、一九二〇(大正九)年三月、単身イタ リアに渡る。「青春の修羅を告白する」滞欧日記は藤原 義江記念館開館二十周年を記念して発行された『藤原義 江』に古川薫の解説で掲載されている。藤原義江が劇的 な転回点を目前にしてヨーロッパで煩悶し、苦悩の日々 を送っていた一九ニー (大正十)年、日本では「白蓮事 件」に揺れていた。  柳原白蓮(一八八五-一九六七)は本名輝子、公卿華族 一             一二( 柳原前光と奥津りようの間に生まれた。生母りようは柳 橋の芸者であったが、父親は万延元年(一八六〇)に江 戸幕府最初の使節団の正使としてアメリカにわたった外 国奉行新見豊前守正興(一八二二-六九)であり、母親 は大久保彦左衛門の家系であった。前光の妹の愛子は大 正天皇の生母だったから、天皇の従妹にあたる。  一九一〇(明治四十三)年に九州筑豊の炭鉱王伊藤伝 右衛門と結婚、輝子(白蓮)二十五歳、伝右衛門五十歳 であった。「筑紫の女王」ともてはやされ、十年の歳月 を経た後、所用にて夫婦で上京した白蓮は、東京駅で伝 右衛門を見送り、そのまま姿を消した。伝右衛門に絶縁 状を送り、年下の男性のもとに走り、宮内庁から社会一 般まで巻き込む「白蓮事件」となった。『大阪朝日新聞』 紙上に掲載された絶縁状は次のような書き出しで始まる。 「私は今あなたの妻として最後の手紙を差し挙げます。 今私か此の手紙を差し上げるといふことはあなたに取っ て突然であるかもしれませぬが私にとっては当然の結果 に外ならないので御座います。あなたと私との結婚当初 から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命 ずる所に従ってこの道を執るに至っだので御座います」 (柳原白蓮展実行委員会篇『柳原白蓮展図録-愛を貫き、自 ら生きた、白蓮のように』)。ここから白蓮の孤独な戦いが 始まった。私が柳原白蓮の名を初めて目にしたのは芥川 龍之介(一八九二-一九二七)の「侏儒の言葉」(『侏儒の 言葉・文芸的な、余りに文芸的な』所収、岩波文庫ほか)を 一             一二( 読んだ時である。「公衆は醜聞を愛するものである。白 蓮事件、有島事件、武者小路事件-公衆は如何にこれ らの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公 衆は醜聞をI殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛 するのであろう冫・ グルモンはこれに答えている。- 『隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるか ら』」。  このとき、後に三井財閥の事業を近代化させた功労者 とされる中上川彦次郎男爵(福沢諭占の甥、一八五四-一 九〇匸の三女で、眼科医であり大阪医科大学教授宮下 左右輔博士(一八八二-一九四八)の妻であったあき子 (本名あき、一八九七-一九六七)が義江のもとに走り「世 紀の恋」として匪間を騒がすことを誰が予期しえたであ ろうか。  ロンドンに渡った藤原義江は日本大使館で一等書記官 をつとめていた吉田茂(後に首相、一八七八-一九六七) らの後援を得てシュタインウエーホールで独唱会を開き、 「荒城の月」を歌って喝采を浴びた。出演依頼も殺到し、 さまざまな劇場の舞台に立ち、今までの貧しい生活は一 変する。父親リードの故郷グラスゴーを訪れ、スコット ランドでも歌った。その後アメリカに渡る。  ニューヨークータイムズの日曜版に「ルドルフーバレ ンテイノ日本型」として写真が掲載されて話題を呼んだ。 ニューヨークに立ち寄った朝日新聞編集局長の原田譲二 の「ニューヨーク通信」で「我らのテナー/藤原義江の 一             一二( 話」のタイトルで朝日新聞に連載された。帰国の途につ いて横浜港に着くと埠頭は出迎えの人びとで縊れていた。 まるで凱旋将軍の帰還を思わせる熱狂ぶりであった。浅 草オペラ時代の友人、明治学院、早稲田実業時代の旧友 たちの顔もあった(古川薫『前掲書』)。イギリスーロマ ン派の詩人バイロン(一七八八-一八二四)が長編物語詩 『チャイルドー『ロルドの遍歴』を書いて、爆発的に迎 えられ、「一朝目覚めれば、はや有名になれり」と日記 に書いた心境にも似ていよう。これ以後藤原義江は絶頂 のときを迎えることになる。中上川彦次郎男爵の三女あ きとの関係は数年間つづいていたが、一九二八(昭和 三)年にあきは前夫と離婚して藤原義江を追って、ミラ ノに移住、「世紀の恋」と謳われた。新聞などは「伝統 のきづなを絶って悩みの恋へ」「絶ち難きは母性愛/金 で支配できぬ或る物」といった見出しをつけて報道した。 一九三四(昭和九)年には「藤原歌劇団」を創立、二人 三脚で「藤原歌劇団」の育成に尽力し、充実した生活が 続いた。  舞台美術家・エッセイストの妹尾河童に「河童」とい う名をつけたのが藤原義江である。河童さんは若い頃、 藤原夫妻と息子さんの藤原義昭の三人家族が住む家に居 候していた。河童さんは藤原義江を先生と呼ばずダンナ と呼んでいた。河童さんは書いている。「ダンナだけで はなく、夫人の藤原あきさんも懐の広い人であった。ぼ くは藤原家や歌劇団の手伝いなど何もしない居候で、よ 一             一二( そから頼まれる自分かやりたいグラフィックの仕事だけ をしていた。でも、ただの一度も、嵩高い奴がゴロゴロ している、という迷惑そうな顔をされたことがないし、 ぼくも居心地の悪い。思いをしたことはなかった」。河 童という名前になった経緯はこうだった。藤原歌劇団の ポスターに美術・妹尾河童と印刷されてしまった。本名 は妹尾肇である。そこで「ヒドイじゃないですか、仇名 で呼ばれているぶんには平気だけど、それを活字にして 印刷するなんて!」と言っだところ、ダンナは「みんな 河童って呼んでるんだから、。河立丹でいいじゃないか。 キミの名前が。肇”だなんてぼくだけじゃなく、誰も知 らないよ。俺の名前をみろ、。ヨシエ”だぜ。。カッパ” なら男だとすぐにわかるだけでもいいよ。。河童”が恥 ずかしくない名前になるかどうかは、これからの君の生 き方や仕事の仕方で決まるんだよ」。それ以来観念して 。河童”と名乗ることになったという(妹尾河童『河童の 手のうち幕の内』講談社文庫ほか)。  私も音楽評論家堀内敬三(一八九七-一九八三)が「藤 原ぶし」と命名した彼独特の節まわしで歌う「出船の 港」(時雨音羽作詞・巾山晋平作曲)や「波浮の港」(野口 雨情作詞・中山晋平作曲)を聴いたことがある。「ドンと ドンとドンと波のり越えて 一挺二挺三挺 八挺櫓で飛 はしゃ サッとあがった 鯨の汐の 汐のあちらで 朝 日はおどる」(「出船の港」)。あの風貌と独特の美声は今 でも心に刻まれている。                一             一二(  藤原義江とあき夫妻は一九五七(昭和三十二)年に離 婚した。いつものように義江の女性遍歴が原因だった。 夫人が雑誌に書いた次の文がすべてを言い尽くしている だろう。「女房なんてものは罪のないもので、だらしな い男、愚物、名誉欲の化け物、なんぞと夫の正体は看破 していても、自分に対する愛だけは金輪際信じていたい ものなんです。その信がくつがえされることは、女房に とって一心同体を二枚におろして、ベターハーフの方を 骨付きで持って行かれちゃったことにほかならないので す。嘘も上手におつきなさい。・・一・一・ 証拠になるようなも のは絶対に残さないこと。万一そんなもの女房に見つ かったら最後、天地はひっくり返り、原始時代からやり 直しと覚悟しなくちゃいけません」。  藤原あきさんは一九五五(昭和三十)年から当時テレ ビの人気番組だった「私の秘密」にレギュラー出演し人 気を博した。毎回、素人の参加者が数名登場し、その人 の特技、趣味、自慢のことがらを当てるもので、「事実 は小説より奇なりと申しまして、世の中には変わった珍 しい経験をお持ちのかたがたくさんいらっしゃいます」 という高橋圭三さん(一九一八―二○○二)の冒頭の挨拶 は広く人口に膾炙した言葉となった。一九六二(昭和三 十七)年の参院選に立候補しトップ当選し、タレント議 員の走りとなった。この参院選トップ当選の報を藤原義 江はどんな思いで聞いたであろうか。一九六七(昭和四 十二)年、藤原あきはこの世を去り、それから九年後の 一             一二( 一九七六(昭和五十一)年、藤原義江も静かに永眠し、 流浪と漂泊の人生に幕を閉じた。遺言により遺骨はナポ リの海に沈められた。私は藤原義江の十八番「出船の 港」、竹久夢二の「宵待草」-「待てど暮せど来ぬひ とを/宵待草のやるせなさ/今宵は月も出ぬそうな」を 口ずさみながら草創期の早実に想いを馳せている。     42 囗本の近・現代史に残る航跡        -明治丸、第五福竜丸、宗谷-  梅雨時の谷間に突如として訪れる晴れ間は格別貴重な ものと思われ、「何か」を決断させる不思議な魔力を 持っているようだ。台風四号(二〇匸一年六月十三日)が 通過した後の、束の間の晴れ間を利用して、日本の近・ 現代史にその航跡を残しながらも、過去の帳の中に埋も れている「明治丸」(東京海洋大学・越中島キャンパス)、 「第五福竜丸」(夢の島公園「第五福竜丸展示館」)、「宗谷」 (お台場・船の科学館)をもう一度眼に焼き付けておこう と思って、思い切って出かけてみた。  まず「明治丸」の数奇な航跡から見てみよう。全長六 十八・六メートル、排水量一〇二七トン、二本マスト (後に三本に改修)、ほっそりした白い船首には優雅な模 様が彫りこまれ、船内にはアールーデコ風の豪華な部屋 もある。一八七四(明治七)年に英国で建造され、翌年 に就役した日本最初の灯台巡視船であり、当時の日本国 一             一二( 内における最優秀船でもあった。最初の活躍は小笠原諸 島の領有問題であり、今日に至るまで重要な意味を持つ。 幕末の小笠原諸島には欧米からの移住者が住み着いて、 日本、アメリカ、ロシア、イギリスの問で領有問題が生 じ、危機感にかられた幕府は一八六二(文久二)年、初 めて太平洋を横断し、アメリカから帰還したばかりの 咸臨丸を派遣したが、列強は日本の領有を承認しなかっ た。就役直後の一八七六(明治九)年にイギリスとの間 に領有問題が生じたため、「明治丸」が調査に出発する と英軍艦「カーリュー号」も後を追った。新鋭艦であり 快速であった「明治丸」は「カーリュー号」よりも二日 早く小笠原諸島の父島に到着し、調査を進めていたため、 日本領有の基礎が固められ、小笠原諸島は一八七六(明 治九)年に日本領有が確定するに至った。また「明治 丸」は明治天皇の御召し艦としても用いられ、琉球処分 の際には琉球王尚泰(一八四三-一九〇一)を乗せて東京 まで航海した。  その後、商船学校(現東京海洋大学)の練習船となり、 一九二三(大正十二)年の関東大震災や一九四五(昭和二 十)年の東京大空襲の際には焼け出された被災者を船内 に収容している。戦後は占領軍に接収され、船室は米兵 向けのバーに転用された。一九七八(昭和五十三)年に は船として初めて国の重要文化財に指定されている。現 在、保存と維持のため「明治丸海事ミュージアム事業」 が推進されている。この明治丸の数奇な運命に日本近代 一             一二( の航跡がうかがえる。  一九五四(昭和二十九)年は多難な年であった。四月 五日、青森県が仕立てた集団就職専用列車第一号が青森 駅を発車し、日本の高度経済成長を支えた「金の卵」の 第一期生が故郷を旅立った。政界では「五五年体制」成 立前夜の混沌とした政情のなかで「造船疑獄」事件が起 こり、吉田茂首相(一八七八-一九六七)の意を受けた犬 養健法相(一八九六-一九六〇)の指揮権発動の結果、 捜査は挫折し業界の大物たちも処分保留のまま釈放され た。九月二十六日、台風十五号による暴風雨をついて出 港した青函連絡船「洞爺丸」が座礁・転覆し死者・行方 不明一一五五名という日本最大の海難事故が起きた。こ の多難な年の幕開けは一月二十二日、マクロ漁船「第五 福竜丸」の焼津港(静岡県)出港であり、目的の漁場 ミッドウェー海域をめざした。だがミッドウェー海域で は漁獲があがらず、「第五福竜丸」は新たな漁場探しの 調査航海のため運命のマーシャル群島海域に向かった。 一九五四(昭和二十九)年三月一日未明、海は静かで あった。突然閃光を受けた。「音もなく昼間みたいに明 るくなって黄色になり、最後に赤っぽくなった。九分後 に大きな音と衝撃が襲った」。アメリカはヒロシマ型原 爆の一千倍の威力を持つ水爆実験をマーシャル群島ビキ ニ環礁で行った。多量の放射性降下物=「死の灰」が南 太平洋に降り注いだ。あらかじめ指定されていた危険区 域外で操業していた「第五福竜丸」も「死の灰」を浴びI             一二( 乗組員二十三名全員が被爆した。被爆した「第五福竜 丸」は三月十一日に母港焼津港に帰港、三月十六日に読 売新聞が「第五福竜丸」の被爆をスクープした。築地 魚河岸で同船より水揚げされたマクロから放射能を検出、 すべて破棄され、マクロ価格は暴落した。同年九月二十 三日には「第五福竜丸」の無線長久保山愛吉さんが放射 能症で死去した。  ビキニの「死の灰」がきっかけとなってわが国では原 水爆禁止運動が高まった。しかし「死の灰」が降った広 範囲の南太平洋の「死の海」で操業していたのは「第五 福竜丸」だけではなかったのである。一九五四(昭和二 十九)年の一連の水爆実験によって被災した漁船は九九 二隻、その約三分の一の二七〇隻が高知船籍のマクロ漁 船であった(『わしも。死の海”におったI証言・被災漁 船五十年目の真実』南海放送ドキュメンタリー)。この時代、 マクロは国民に不足していた貴重な蛋白源であり、「一 度船に乗れば家が建つ」といわれたほど実入りがよかっ た。一九五四(昭和二十九)年二月二十四日に神奈川県 浦賀港を出港した「第二幸成丸」は帰路を急ぐ「第五福 竜丸」とすれちがっている。しかし「第二幸成丸」崎山 秀雄船長の漁業日誌には「第五福竜丸」被爆の記述はな い。何故だろうか。苦労して獲ったマクロの価格下落、 ことによったら廃棄が頭をよぎっだのかもしれない。  ビキニ環礁水爆実験による被災者は、「第五福竜丸」 の乗務員を含めて、被爆者手帳を持たない。原子爆弾被 一             一二( 爆者に対する援助に関する法律によれば「この法律にお いて『被爆者』とは……被爆者健康手帳の交付を受けた ものをいう」と規定されている。すなわち広島、長崎の 被爆者のみが、その対象である。再び運命の日、一九五 四(昭和二十九)年三月一日未明に話を戻す。久保山愛 吉「絶筆 死の床にて」(『中央公論』一九五四年十一月号) によれば「朝食をとり、それから機関部員室で雑談中、 推定午前三時五十分ごろ、丸窓が日の出のように明るく 輝いた。高木君は『日が出たよ』と話しかけた。しかし 輝きは西方だった」。一四一トンの「第五福竜丸」はそ の後改造され、東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」と なり、一九六七(昭和四十二)年に廃船となり、現在で は東京都江東区夢の島の「第五福竜丸展示館」に永久展 示されている。  一九五六(昭和三十一)年七月のことであった。とは 言っても日本はまだ貧しかった。国際地球観測年(一九 五七年七月-一九五八年十二月)に参加するため、南極観 測船「宗谷」が東京水産大学(現東京海洋大学)の練習 船「海鷹丸」を伴って南極に向けて出港したのは一九五 六(昭和三十二年十一月八日のことであった。この南 極観測船「宗谷」は翌五七(昭和三十三年一月二十五 日南極に到着し、二十九日に昭和基地を設営し、二月十 五日、越冬隊を残して日本への帰路についた。越冬隊長 西堀栄三郎(一九〇三-八九)は次のように記している。 「これで、はじめてわれわれ十一名だけになった。いつ                           一             一二( か日本から迎えが来るまでは、日本、否、文明国に帰る ことはできない。どんなにつらいことがあっても、何か 不足していようとも、与えられただけのもので生きてい かねばならない」(『南極越冬記』岩波新書)。今日から見 れば少々感傷的に過ぎるが、これが実感であったろう。 帰路についた「宗谷」は南極の氷海に閉じ込められてし まった。リアルタイムに吐界各地の情報が直接に家庭の 茶の間に入ってくる現代では信じられないほど通信手段 が貧弱であった当時、国民は新聞等の報道に一喜一憂し た。外海に待機していた随伴船「海鷹丸(一四五ニト ン)」にも、南極海の厚い氷に閉じ込められた「宗谷」 から連絡を受けて、緊張が走った。「海鷹丸」の船内掲 示板に船長の通達文が張り出された。「告 宗谷の脱出 時期の予想許さず、持久体勢に入る必要があるので、乗 組員各自、清水の使用に当たっては厳重な節約を心掛け られ度い。二月二十二日」。翌二十三日の通達は脱出困 難になった「宗谷」船長から午前九時に、観測隊員と運 転要員以外の乗組員を一時、「海鷹丸」へ移すことを要 請されたことを知らせている。海鷹丸搭載のヘリコプ ターによる救出のため船を可能なかぎり氷海に近づける ことが必要だから、その緊張は並大抵のものではなかっ たであろう。結局、「宗谷」は旧ソ連の砕氷艦「オビ号」 に救出され、脱出に成功した。救出劇にパラパラしなが らも、「オビ号」と「宗谷」の砕氷能力の差に、国力の 違いを見せつけられ、国民は妙な寂しさを感じたもので                           一             一二( あった。それもそのはず、「宗谷」は旧ソ連邦からの発 注で耐氷型貨物船「ボロチャエベツ吁」として一九三七 (昭和十二)年進水、その後、契約が破棄され、旧日本海 軍の特務艦として徴用され、終戦後は海上保安庁の灯台 補給船として利用されていた。耐氷構造と船運の強さが 買われて南極観測船に選定され、大幅な船体補強と耐氷 能力の向上を主眼とし大改装を施したものである。一九 六二(昭和三十七)年、砕氷艦「ふじ」に南極観測の任 務を譲った後、「宗谷」は再び通常任務に復帰し、北海 道に配備され、灯台補給船として活躍していたが一九七 八(昭和五十三)年十月に引退し、現在は東京・お台場 にある「船の博物館」で一般公開されている。今日の日 本の国力からすれば、よくこんな船で南極まで出かけて 行ったかと思うような船である。「宗谷」以後、「ふじ」 (一九六五-八三)、「初代しらせ」(一九八三-二○○八)、 「二代目しらせ」(二〇〇九-)と就役し、氷海に閉じ込 められ、外国船の助けを借りることもなく、逆にオース トラリアの船舶を二度救出している。  一九〇一 (明治三十四)年に早稲田から出港した「早 実・去華就実号」は、過去幾多の試練に耐え、海図なき 荒海を航海し、今日まで三万八〇〇〇人の卒業生を送り 出してきた。各界で活躍している校友は私たちの誇り、 早実「校友会」の八十周年という歴史的な節目にあたり、 「早実・去華就実号」は先人の志と理想を高々とマスト に掲げ、建学の精神を再構築し、新たな使命に向かって                            一             一二( 航海を続ける。     43 限りなく遥かなる旅路の果てに        I「一粒は稲穂のため」-  小惑星探査機「はやぶさ」が七年問にわたる六十億キ ロの旅を終え、二〇一〇(平成二十二)年六月十三日、 地球に帰還した。午後十一時二十一分(日本時間午後十 時五十一分ごろ)、オーストラリア南部の上空で大気圏に 再突入、西の空に光の点が現れ、火の粉をまき散らし空 か満月のような明るさとなって雲がはっきりと照らされ た。気の遠くなるような真空の宇宙、六十億キロの孤独 の旅、「はやぶさ」本体はバラバラになって燃え尽き、 流れ星となって消えたが、わが身と引き換えに回収カプ セルを地上に落とし、この回収カプセルはオーストラリ アの砂漠で無事回収された。それは不適切な言葉である ことを十分承知しつつも、精根尽き果てた末の「玉砕」、 「散華」という言葉が頭を掠めるような光景であった。  私は『早稲田実業 躍進の秘密』(朝日新書)の終章で 小惑星探査機「はやぶさ」について大略次のように書い た。地球から約三億キロ離れた長径わずか五百メートル の小惑星「イトカワ」への着陸を目指して探査機「はや ぶさ」が鹿児島県内之浦町(現肝付町)のロケット発射 場から旅立ったのは二〇〇三(平成十五)年五月、この 年は「鉄腕アトム」の誕生した年であるとされている                            一 (原作では「鉄腕アトム」の生年月日は二〇〇三年四月七日で ある)。当初、この探査機にアトムを愛称とする案が有 力だったという。宇宙航空研究開発機構(JAXA)に よれば、二〇〇五(平成十七)年十一月二十五日に小惑 星「イトカワ」への二度目の着陸に成功し、重要な目的 であった表面からの試料採取をし、帰路についた。  「はやぶさ」は、自分の力で判断して行動する、技術の 粋が詰め込まれているロボットともいえる。重さ〇・五 トン、宇宙では一粒の粒子に過ぎない「はやぶさ」は七 年間に何度も危機に見舞われた。無限の広大な宇宙で七 週間も交信が途絶えた。次々と四つのエンジンが故障し 一時絶望視されたこともあった。その都度、わが国の技 術チームの知恵と工夫に支えられて、満身創痍で地球に 帰還した。月以外の天体との間を往復したのは、世界で はじめてのことであり、歴史的快挙である。  機械ながら、その健気な頑張りは、多くの人びとの共 感を呼んだ。人びとはその健気な姿に自己を投影させた。 「「ヤブサ君頑張ったね」。漫画家の里中満智子さんは 「はやぶさ」の応援イラストを描いた。傷だらけの鳥八 ヤブサが懸命に宇宙を飛ぶ。「ぼくがんばったよ!」「も うすぐ帰るからね!」。宮沢賢治(一八九六-一九三二) の名作「よだかの星」(『新編 銀河鉄道の夜』所収、新潮 文庫)と二重写しとなり、テレビアニメ「鉄腕アトム」 の最後の場面、「心優しい、科学の子」アトムが地球を 救うため、燃えさかる太陽を抑えようと敢然と突入して             一二( 行った姿を彷彿とさせた。  回収カプセルは先住民アボリジニの聖地でもあるオー ストラリア南部の砂漠地帯に落下し無事回収された。着 陸時に回収装置が正常に機能せず、砂が入っていてもご く微量だと考えられる。専門家によれば粉薬一粒でも成 分が分析できるという。  小惑星イトカワは言うまでもなく「日本ロケットの 父」といわれる糸川英夫(一九二一-九九)にちなんで 名づけられた。糸川は常識にとらわれず、「やんちゃ」 であり、また合理主義者であった。チャールズーリンド バーグ(一九〇二-七四)による大西洋無着陸横断飛行 成功に感動し、自分も一生を飛行機にささげようと決意 したというように、「感動からあこがれへ、そして未来 への決心へ」といったパターンが繰り返され、糸川に とっては、「感動が独創のイグナイター(点火器)となっ た」といわれている(的川泰宣『逆転の翼-ペンシルロ ケット物語』新日本出版社)。  あまり知られていないが、早実の国分寺キャンパスは 糸川英夫が一九五五(昭和三十)年、日本で初めてペン シルロケットの発射実験を行った記念すべき場所である。 現在の早実国分寺キャンパスは戦前、「ナンブ銃」など の銃器の製造を手がけていた「新中央工業(現在はミネ ベアの一部門)」の工場のあったところである。一九五五 (昭和三十)年当時は、その廃工場跡地であった。そこに は銃を試射するピットがあり、ここでペンシルロケット             一二( の発射実験が行われた。ペンシルロケットは直径十三ミ リ、長さ二三〇ミリ、重さ二百グラムの今から考えると オモチャのような小さなロケットである。小さな一歩で あったが、わが国におけるロケット技術の新たな地平を 拓く偉大な一歩でもあった。その後、この地は新日本製 鉄のグラウンドとなっていた。この新日本製鉄グラウン ドと早実武蔵関グラウンドと等価交換して、創立百周年 を機に、二〇〇一 (平成十三)年に早稲田鶴巻町から移 転し、早実国分寺キャンパスとなった。  新日本製鉄の前身である八幡製鉄の第一溶鉱炉に火が 入り、操業を開始したのが早稲田実業学校の創立と同じ 年の一九〇一 (明治三十四)年であり、ある種の縁を感 じざるを得ない。二〇〇五(平成十七)年のペンシルロ ケット発射五十周年を契機に、翌年四月一日に早実正門 前広場に七五六号本塁打世界記録を樹立し、国民栄誉賞 第一号に輝いた王貞治選手を記念する「王貞治記念碑」 と並んで「日本の宇宙開発発祥の地」の記念碑が建てら れた。記念碑にはペンシルロケットを持つ糸川英夫博士 の画像が、黒御影石に写真そのままに彫り込まれ、前面 下にはタイムカプセルが埋められ、その上に松本零士氏 の銀河鉄道999のイラストが彫り込まれた黒御影石が のせられている。碑文には次のように刻まれている。  一九五五年(昭和三十年)四月十二日この地において 東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授を中心とした若 い研究者によって日本の宇宙活動の嚆矢を告げるペンシ             一二( ルロケットの水平発射がおこなわれた。その五十年を記 念してここに記念碑を建立する。この碑の地下には二〇 〇五年に子どもたちが夢見た「五十年後の宇宙ロケッ ト」のデザインや、当時の人々からの「五十年後の人々 へのメッセージ」(筆者注-多数の早実生からのメッセー ジを含む)がタイムカプセルに収められ、埋められてい る。  ペンシルロケット発射から百周年にあたる二〇五五年 四月吉日に宇宙航空研究開発機構、早稲田実業学校、国 分寺の有志、立ち会いのもとでこのタイムカプセルを掘 り起こして来し方の百年を偲び、さらにつづく五十年へ の決意を新たにすることをここに提言する。  この地で蒔かれた一粒の種子が大きな実を結んだ。小 惑星探査機「はやぶさ」の七年間にわたる六十億キロの 宇宙の旅からの帰還-その過程で開発関係者の間には、 並々ならぬ苦労があり、失意の時期があったことだろう。 大いなる成功の歓喜の背後に、成功の時にまして偉大な 失望の時があることを心に刻まねばならない。今年(二 〇匸一年)は糸川英夫博士の生誕百年にあたる。  早実校長に就任して以来十三年、限りなく遥かなる旅 路であった。その旅路の果てに想う。生徒、学生の輝く 顔を見て、愚直に教育に「明日」を託したい。 ありがとう 皆様に  四〇年にも及ぶ早稲田大学での研究・教育生活も今年 3月末日で定年を迎え、同時に匸二年間にわたる早稲田 実業学校長も退任することになります。限りなく遥かな る旅路も終わりを迎えようとしています。「目的地」ば かりが主眼の旅ばかりではなく、「目的地」のない旅と まではいかなくても「目的地」に至る過程=道行(みち ゆき)を大切にする旅もおつなものではないでしょうか。 教育の場でも効率が優先され、心の「豊かさ」をどこか に置き忘れてきてしまったようであります。「どこかに 置き忘れてきた駄菓子屋のぬくもり」があるような教育 論を書きたい。そんな想いをこめて書いたのが本書です。 ご笑読いただければ幸いです。皆様の長年にわたる温か いご支援に心からの感謝をこめて。   二〇コ二年一月一五日                      渡邉重範             卜( 著者略歴 渡邉重範(わたなべ・しげのり) 1943年、東京生まれ。68年、早稲田大学政治経済学 部政治学科卒業後、同大学院政治学科修士・博士課程終 了。65-66年、ドイツ連邦共和国ボン大学留学。80-81 年、ボン大学交換教授。94-98年、早稲田大学教育学部 長。98年より06年まで早稲田大学常任理事(広報・学校 担当)。現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授 (比較憲法学・比較政治制度論専攻)、博士(政治学)。 2000年より早稲田実業学校長を兼務する。主要著訳 書に『教育の復権を求めて』『感性をみがく教育論』『日 常を生きる教育論』『ドイツ ハンドブック(編著)』E. イェッセ『戦闘的民主主義(共訳)』(早稲田大学出版 部)、『ドイツ近代選挙制度史』『選挙と議席配分の制度』 (成文堂)、『西ドイツの政治と行政』(共著、三修社)、 『早実スピリットの源流を求めて』(怛文社)、『早稲田実 業 躍進の秘密』(朝日新書)など。             ごノ。 本書は株式会社恒文社より刊行された『限りなく遥かな る旅路の果てに 』バランス感覚のある人問を育てる教 育論(2012年)をもとにした電子書籍です。 表 題/こころを養う教育論-限りなく遥かなる旅     路の果てに 発売囗/2024年3月 著 者/渡邉重範 発行者/向田翔一 発行所/株式会社22世紀アート     〒103-0007     中央区日本橋浜町3-23-I     AcN日本橋リバーサイド 5階 電 話/03(5941)9774 本書は著作権上の保護を受けています。本書の一部ま たは全部について、株式会社22世紀アートから文書に よる許諾を得ずに、いかなる方法においても無断で複 写およびデータの転用することを禁じます。本書への お問い合わせについては、お客様相談センター 03 (5941)9774 までご連絡ください。 www.22art.net info@22art.net