なぜ君は、科学的に考えられないんだ?_松尾祐一  初めまして。著者の松尾佑一と申します。  私は普段、大学で生物学の研究をしています。そ の傍ら、学生時代から小説を書いており、ありかた いことに賞をいただいたこともあります。読者の皆 様に物語の世界に人つていただく前に、少しだけ、 「なぜ、小説家でもある研究者が、ビジネス書を書 いたのか?」について、お話しさせてください。  私は研究活動のなかで、たくさんの書物に目を通 します。その多くは、生物や数学に関する学術書で す。ところがある時期、異分野の考え方を自分の研 究に取り入れられないかと思い、ビジネス書をいく つか手に取ってみたことがありました。  それらの一部は、深く専門的なものでありました が、多くの書籍は、「もう少し科学的な考えが入っ ていればいいのにな」と思えるものでした。  「科学的な考え」とはなにか。それについては、ぜ ひ本編を読んで感じていただきたいところですが、 いくつか示すと、「数字で表されていない」「具体性 がない」「論理的でない」といった内容が散見され たのです。  そんな思いを抱くとともに、ふと、我に返って考 えてみると、「自分たちはどれくらい科学的に物事 を考えて判断をしているのかな?」と、疑問を持ち ました。  例えば、横断歩道を例に考えてみましょう。 「急いでいるときほど、よく赤信号に引っかかる」  そう感じたことのある方は、多いのではないで しょうか。そんなとき、つい「今日はツイていない な」と、自分の運勢を睨ってしまうものです。  ですがそれは、正しい判断でしょうか? 日常で 赤信号に引っかかっている回数や割合を導き出して 比較しなくては、本当に「ツイていない」のかはわ かりません。それなのに私たちは、感覚的に判断し て落ち込んだりしてしまいます。  日常生活であれば、面倒な計算などはせず、「な んとなく」で捉えても問題はないでしょう。ですが、 ビジネスの世界では、そうはいかないのではないで しょうか。  新しいビジネスや新商品の成否を「なんとなく」 の印象で判断してしまう。  効果が不明確な施策も、これまでもそうだったか らと「なんとなく」続ける。  その一方で、新しいことへのチャレンジは「なん となく」リスクがありそうだからやめておく。  「なんとなく」で判断した結果、損失を出してし まったり、好機を逃してしまったりしては、もった いないとしか言えません。  過去や現在に起きていることをデータや数植化し ていたら、それらがどのように計算されて導かれた ものか知っていたら、そして、これまで「なんとな く」だった判断を科学的に考え直していたら、きっ と、「失敗」は減るのではないかと思うのです。  そこで、科学的な視点を伝えるビジネス書、それ も、小説形式といったとっつきやすい形であれば、 さまざまな方に手に取ってもらえて、お役に立てる のではないか。それであれば、私か書く意味がある のではないか。  そう考えたことが、この本を書いた理由です。  主人公は、入社3年目の若手社会人です。この本 は仕事に行き詰った若手社員が、仕事で出会うさま ざまな壁を乗り越えるために、科学の分野からアド バイスしようという試みです。  ただ、「科学」と言っても、大それたものではな く(微分方程式も相対性理論も登場しません)、基本中の基 本を取り上げています。「なんだか分野外の人が面 白そうなことを言っているぞ」という気持ちで、読 んでいただければと思います。  また、主人公は、うまく仕事をこなそうともがく 中で、仕事とはまったく別のこと(同僚との付き合い方 や、上司からのパワ(ラなど……)にも同時に対処しなく てはならなくなります。こういった状況は、実際の 仕事でもよく見られると思います。仕事をする上で の問題は、同時に・複数で・理不尽な形で起こるも のです。それらを乗り越えようと奮闘する様子も、 見ていただきたいと思います。  本書が、皆様の仕事において少しでも役に立ち、 そして、希望を与えるものになれば、著者としてこ れ以上の喜びはありません。                     松尾佑一  凪いだ海の岸に、白い大きな貝が流れ着 いている。その貝の上に、美しい女神が屹 立している。  天の国から「愛」という贈り物を持って きたヴィーナスが、私たちの国の岸辺へと 漂い着いた姿と言われている。  風の神ゼフュロスとクロリスが、彼女に 風とバラの花を吹き付ける。バラの花は、 まるで紙吹雪のようにはらはらと宙を舞っ ている。幻想的な光景だ。  そして、岸へよかろうとするヴィーナス に、季節の女神ホーラが赤いローブを渡そ うとしている……。 ある「文学少女」の憂鬱  ボッティチェリが描いた、『ヴィーナスの誕生』。 フィレンツェ、ウフィツィ美術館に収蔵された、初 期ルネサンス、フィレンツェ派の名画のことを思い 描きながら、私は眼を覚ました。実に優雅な寝覚め だ。  枕のそばでアラームが鳴り続けていた。もうどこ にもヴィーナスの気配も、宙を舞うバラの花も存在 しない。私はベッドからむくりと起き上がって、頭 をぽりぽりと掻いた。枕元に置いたコップ一杯の水 を飲み、目覚まし時計のアラームを止めた。  枕元に置かれた一冊の本に、自然と目が行った。 それはアート思考術に関する書籍だった。  アート思考術とは、ア圭アイストが作品を生み出 す際の過程や思考を、ビジネスなどの分野でも生か そうという発想法である。ある事実に対して、自分 はどう思うのかという感想を思い浮かべ、さらにそ こから自分はなぜそう思うのか、と蝠り下げていく ことで結論(‥求めるモノ)に近づけていく。これが ア上アイストの行動過程である。複数の物事や事例 をならべ、共通項を統合して結論を得るという『帰 納的思考法』などとは発想が異なり、新たなアイデ アを剔出することができる方法として注目を浴びて いた。  この本を読みながら寝落ちしたから、あんな夢を 見たのか……。  本の表紙を眺めながら、私は職場で先日あった出 来事を思い出した。経理部門の、十歳ほど年上の女 性社員から突然話しかけられたのだ。  「咲良さんの趣味って何? いつも休日は何をして いるの?」  すべてを見透かしてやるぞという意気込みのある 目でこちらを見ながら、相手はそう言った。どんな 職場にも、たいてい一人くらいは、他人の情報を集 めることが大好きな人間がいるものだ。私は親しみ を込めた表情をつくり、あっさりと答えた。  「読書です」  「どんな本が好きなの?」  「ええと、簡単に言うと、ビジネス書です」  相手は一瞬、不思議そうな顔になり、それから にっこりと笑った。  「えI、どんな本? 教えてよ’・」  この相手は、簡単に解放してくれるような人間で はなかった。どんなビジネス書なのか、どこで本を 買うのか、一人で本を買うのか(遠川しに恋人の存在を 尋ねていた)、事情聴取のような質問が始まった。  ハッと気がついたときには、私はこれまでに読ん できたビジネス書について10分間も語ってしまって いた。ドラッカーが高校野球のチームを率いたらど うなるか、について説明しているときに、相手の女 性がいささか退屈そうな目をしていることに気がつ いた。私は慌てて口をつぐんだ。  女性社員は、おかしそうに言った。  「咲良さん、あなた、相当変わっているわねえ」  それから間もなくして、私は社内で「文学女子」 というあだ名がつけられた。経理課のこの女性が、 その名前を言いふらしたのだろう。ビジネス書が文 学なのかどうかわからないけれど、それほど私のよ うな存在は珍しかったのかもしれない。  私か勤めているのは、Nジ子不ティクスという名 前の、スキンケア化粧品を開発・販売する外資系ベ ンチャーだ。職場にいる人間のタイプは、どちらか というと、社交的で、スマートに行動する人間が多 いと私は分析している。  スターバックスのテイクアウトのコーヒーを片手 に、スマホに接続したワイヤレスマイクに向かって 会話しながら颯爽と街を歩くような。紙媒体の文字 をほとんど読まず、たとえ読んだとしても、社内の 休憩スペースに積まれた英字新聞に軽く目を通すよ うな……彼らはほとんどのニュースを、デジタルで 入手するのだ。そんなタイプの人たちが多いと、私 は勝手に思っている。  でも、私はちょっと違う。話をするときは直接会 いたいし、本は紙媒体で読みたい。経理課の女性は、 この職場では古風で珍しい私のライフスタイルを見 て、文学女子などというニックネームをつけたのか もしれない。  私のすべてを経理課の女性にさらけ出してしまっ たと思われそうだが、二つだけ、話さないように注 意したことがある。  一つは、常にICレコーダーをオンにして携帯し ていること。とあるビジネス書に書かれていた「ア イデアや勉強になることは、会話の中に含まれてい る」という文章を信じて、大事なことを聞き漏らさ ないように実行しているのだ。音声を常に記録して いるなんて、もし知られたら、誰も私としゃべって くれないだろう。  そして二つ目の秘密は、アート思考についてだっ た。  私は外資系のベンチャー企業に勤めているが、芸 術の世界に興味があった。とりわけフェルメールに 傾倒していた。高校生の頃からフェルメールの描く 光と影の世界に魅了され、油絵を習い始めた。ふら りと応募した美術展で評価を得て美大へ……という ような奇跡は起こらず、平凡な絵を部屋の押し入れ がいっぱいになるくらい描いて、両親から「頼むか ら普通の大学へ行ってくれ」と懇願されて、やむな く美大進学の道はあきらめた。  そして苦手な理数系科目を徹底的に避けるように して、外国語系の大学に進学。就職活動の場面でさ んざん苦しんで、ようやく内定が出だのが現在勤め る会社だった。  私はこれまで高校や大学の友人だちから「地に足 がついていない」と、よく言われてきた。美大を目 指していたことを知っている友人だちからは、会う たびにからかわれてきた。  私は受け流しつつも、「そんなに笑われることな のか?」と内心、納得がいかなかった。アーティス トたちの気ままな生活や、思いついたことを実現し ようとする素直さ、そして何よりあの油絵のケミカ ルな匂いが、私はたまらなく好きだった。  それが今、通勤電車に四十分間すし詰めにされ、 四畳半の狭く古いマンションに住む生活。部屋の中 央に座れば、私の手はコーヒーを載せたテーブルに も、本棚にも、ベッドにも、ぜんぶに届いてしまう。 こんな窮屈な生活を、自分は望んでいたのだろう か?  いいや。本当はパリのセーヌ川沿いにある古いア パートメントの一室で、キャンバスに向かってい る……たとえそれが四畳半の面積しかない狭い部屋 だったとしても……何かの選択が違っていたら、そ んな人生を歩んでいたのではないか。  アートにまつわる回想と空想はそのあたりにして、 私は会社へ行くための仕度を始めなくてはならな かった。時計の針は、午前六時を同ったところを指 し示していた。  頭と体を仕事モードに切り替えなくてはならない。 私は仕事用の手帳を開いて、今日の予定を確認した。  『これから求められるスキンケア製品とは何か』と いうタイトルで、プレゼンテーションをしなくては ならなかった。私か所属する企画課では、新しい商 品やブランド、マーケティングなどの『種』を生み 出すためのプレゼンテーションを、週に一度集まっ て行うことになっている。これからの時代、生き残 るスキンケア製品のブランドに求められる要素とは 何か? 核心的なアイデアとは何か? そのテーマ についてここ一週間ずっと頭を悩ませ続けていた。  アート思考に基づいて、アーティストの考え方に 寄り添って、新たな企画を生み出す。そうやって作 り上げた企画が、私のノートPCにすでに収められ ていた。  七時にセットしていたアラームが鳴った。出勤の 時間だ。着替えをすませ、ぼんやりとプレゼンの内 容を反芻していた私は、飛び跳ねるように椅子から 立ち上がり、部屋を出た。  まだ肌寒い四月の朝は、暗い海の底のようだと 思った。 硬直した業界にイノベーションを起こ すアイデア  「近年のスキンケア市場は、敏感肌を感じる女性の 増加や、肌に優しい使い心地への期待の高まりを受 け、年々拡大しています。一方で、『敏感肌』や 『もちもち肌』といった既存のキャッチコピーには、 実際、消費者は飽き飽きしています。消費者に受け 入れられるのは、皮膚科の医師や大学の研究者によ る監修を受け、科学的に裏打ちされた、肌の悩み改 善に着目した革新的なスキンケア製品、ドクターズ コスメだと考えます」  スクリーンには堂々とした文字で「ドクターズコ スメ」と映し出されていた。そして傍らのモニター には、三田村という名の入社六年目の女性社員の顔 が映し出されている。彼女は主にマーケティングに 基づく企画立案を担当している。眼鏡の似合う、い かにも理知的な女性であることが、モニター越しに でもわかる。彼女はウェブ経由で、どこかのカフェ からこのミーティングに参加しているようだった。 「乾燥などの環境ストレスにより肌荒れやニキビを 繰り返してしまう、そんな肌の悩みを抱える女性の ための専門のスキンケア製品として、わが社はドク ターズコスメ『ミレニアム』シリーズを生み出しま した。皮膚の再生医療に関する専門家の発想による、 科学に裏付けされた『安全性』と『効果』を両立さ せた化粧品開発を続けています。そして……」  三田村さんは、いったん呼吸を止めて、モニター 越しに私たちを見渡した。  「ドクターズコスメという科学的な視点と、SDG Sの視点を組み合わせます。今や時代は、あらゆる 分野に対してSDGSを求めています。我々が追及 するべきは、科学に裏打ちされた製品であり、なお かつ、生産過程からパッケージに至るまで、環境に 配慮して持続可能な製品であることをアピールした ものであるべきです」  上手なプレゼンだ、と私は思った。アピールポイ ントを複数用意することで話に厚みを持たせ、そし て間を置くことで聴衆の注意を引き付ける。  かつて読んだビジネス書の中に、聴衆に響くプレ ゼンテーションのコツとして、ひと呼吸おくという テクニックが書かれたものがあった。その本のタイ トルは……亡心れてしまったが。  彼女と同じように自分はやれるだろうか。まず、 無理だ。いったん呼吸を止めたら、もう二度としや べれなくなってしまいそうだ。  三田村さんのプレゼンは終わった。企画課長の、 四十代の男性の上司は、何度か頷いてメモを取って いた。  次のプレゼンターは、私の五年先輩の男性社員 だった。彼はモニター越しではなく、私の隣に座っ ていた。  名前は長谷川達也といった。化粧品会社の企画部 に、若い男性がいることを、はじめ私は不思議に 思っていた。まもなくして、彼が化粧品業界に並々 ならぬ情熱があることと、彼自身の能力が高いこと に気が付いて納得した。彼の企画力、プレゼン能力 は自分よりも数倍上だと私は思った。  そして長谷川さんの容姿は実に優れていた。身長 は高く、スマートで、縁のない薄いレンズの眼鏡が、 中性的な顔立ちの彼にピタリと似合っていた。  長谷川さんは話を始めた。  「SGDS、大いに結構です。私も同意します」  彼は先のプレゼンターの三田村さんに微笑を送っ た。三田村さんはわずかに照れくさそうな表情を浮 かべた。  「さて、私か本日お話ししたいのは、これからスキ ンケア製品のブランドカはどのように維持されるか、 といった話です。化粧に関する研究活動を行うポー          − ラ文化研究所は、『Iスキンケアーメークの行動と 意識のうつりかわり』という調査レポートを発表し ました。この調査レポートでは、若い世代でスキン ケアーメイクの開始が早くなったことが、ここ数年 の特徴であると述べています。具体的には、スキン ケアを開始する時期は、肌を美しく見せることが目 的のメイクに比べて早く、特に10代の若い世代で顕 著に早期化しています」  モニターの向こうで三田村さんが頷いているのが 見えた。妹でもいて、実感がわくのであろうか。  「この理由は、彼女らの親の世代である保護者が、 乳幼児期の子供本人に対してスキンケアを行ってい たこと……すなわち親の世代が子供に対して肌の保 護、UV対策などのスキンケアを抵抗なく行ってい たことが、背景にあると分析しています。さらには、 インターネットやティーン向けの雑誌から手軽に美 容情報をキャッチするといった行動も、平成の頃に 比べて活発であり、このような変化を加速させてい ると考えられています」  企画課長は、なるほど、と頷いた。  「ここから我々が学ぶべきことは、これからのブラ ンドカの維持のためには、親の世代へのアピールが 重要であるということです。まあ、化粧品自体の品 質なども大切な要素なのですが、親が使用していた スキンケア製品のブランドが、子供の世代にも抵抗 なく受け継がれることで、そのブランドカは維持さ れる可能性があるということです。では、どのよう に世代をまたぐブランドカを維持していくか。私か 重視するのは月並みな『肌への良さ』というような 形容詞ではありません」  場が静まりかえった。私は思わず長谷川さんの顔 を見た。  「オーガニック、保湿、浸透……化粧品業界の形容 詞は、消費者に飽きられています。どれもこれも同 じ。しかし、一方で、消費者はこれらの言葉を愛し ています。なぜなら、化粧品とはチヤレンジングな ものではないからです」  先のプレゼンターである三田村さんは、そうかも しれない……と頷いた。  「新しいものを化粧品メーカーは作りたい。新しい 販路を開拓したい。しかし、消費者はすでに使い続 けた化粧品がある。劇的に変化した新製品を望むの は、よほど肌に合わないものをつかんでしまった気 の毒なごく一部の消費者でしょう。すでにみなさん ご存じのはず。売られている化粧品はどれも大差な く、そして適度に効果があることを」  場はやはり静まりかえっている。企画課長は困っ た表情を浮かべている。それを言っちやあ、おしま いでしょうが、という表情だ。  長谷川さんは気にせず続ける。  「次のデータを見てみましよう。化粧水・乳液・美 容液といった基礎化粧品を、同ブランド・同シリー ズとして販売する売り方があって、同シリーズの化 粧品を揃えることを『ライン使い』と言います。ラ             ー イン使いしているかという2アンケートを取ると、 していると答えたのは32・I%に対して、していな いと答えたのは46・8%です。決してライン使いを している方が主流ではありませんが、このライン使 いをしている人たちの意見の中に見るべきものがあ ります。それは『いつもの物を使う安心感』という 考えです」  そこで長谷川さんは、ひと呼吸おいた。  「新しすぎる成分は避けられる。劇的に美しくなる 化粧品など夢の話。すなわち、成分では、イノベー ションは簡単には起こりえない。であれば、別の部 分でイノベーションを起こすのです。つまり、売り 方を変えるのです。わが社の最高傑作の化粧品、こ れを今後五十年間提供することを保証する、という 打ち出し方をするのです」  「五十年だって?」企画課長は驚いて聞き返した。  「それくらい長い方が、インパクトがあると思いま す」  長谷川さんは自信のある声で答えて、続けた。  「先に述べたように、『いつもの製品を使う安心感』 という意見は、決して顧客の全員が考えていること ではありませんが、一定数に『使い続けていた化粧 品の廃版や変更が困る』と考えている顧客がいるの は事実です。そういう顧客こそ大切にするべきです。 そこで我々は今後五十年間、レシピを変えない化粧 品を作ったと宣言するのです。もちろん言葉だけで はなく、実際にその体制を作ります。原材料と工場 の契約を五十年間とします。その契約書もパッケー ジにしてしまえばいい」  「そうきたか」と言って、企画課長は膝を叩いた。  私は彼のアイデアに驚いた。そんなことを思いつ くなんて。自分は成分のことばかり考えていたが、 彼はマーケティングについてそこまで考えていたな んて。  化粧品業界に影響を起こすようなイノベーショ ン……そんなもの、すぐに自分に思いつくとは思え なかった。「イノベーションは簡単には起こりえな い」。長谷川さんの言葉がすべてを物語っている。 しかし、簡単には起こりえないイノベーションを、 彼はこのプレゼンテーションの中で、別の形で見せ てくれたのだと思った。  長谷川さんは着席した。次は私の番だった。  心臓はぱくぱくと音を立てていた。私か今必要と するのは、オーガニックな化粧品などではなく、心 臓の薬たった。しかし、引き返すわけにもいかない。 用意したプレゼンに運命を託すのみだ。  私は口を開いた。  「私か提案するのは、面倒くさくないスキンケア製 品です。日々の肌のお手入れを面倒に感じていて、 かといって結果がすぐに欲しい人向けの製品……ま さに自分が欲しいものなのですが。私はこの製品を、 アート思考によって生み出しました」  企画課長が、はあ、と間の抜けた声を上げた。  「その製品は……ずばり、ビタミンCの錠剤で す!」 ビタミンCの「代償」  「君のアイデアは大好きだよ」  長谷川さんは自販機のコーヒーをゆらゆらさせな がら私に言った。私たちはオフィスの自販機コー ナーの壁に背を向けて、缶コーヒーを飲んでいた。  「スティーブージョブズはシンプルさを追求して成 功した。彼のシンプルさは美しく、また新しかった。 ビタミンCの錠剤も、もうちょっと新しいポイント が含まれていたら良かったんだけれどね」  「変に慰めないでください……」  私は髪の毛をかきむしった。  「ああ、一時間前に戻りたい。思考が短絡的な自分 を殴りたい。なんだか、私、ひとつのものに注目す ると、他のものが見えてこなくなるんです。肌に良 いもの……みんなが知っていて安心……そうだ、ビ タミンCI つて考えたら、もう他のものが見えな くなっちゃうんです」  私は自分のプレゼン資料を丸めて遠くを見るポー ズをした。プレゼン資料の望遠鏡の先には、窓越し に向かいあったオフィスが見えた。みんなちゃんと 働いていた。  「まあ、まあ、今日のミーティングは、みんなでイ ノベーションの種を見つけよう、というものだった から、君のプレゼンはあながち的外れじゃないよ」  「長谷川先輩……’・」  この人はなんて優しいんだ。おまけに顔もいい。 私か長谷川さんの顔を少女漫画のIページに落とし 込んでいたとき、企画課長が荒々しい足音を立てて やってきた。  企画課長は長谷川さんにではなく、私に向かって 話しかけてきた。  「山田さん、ここにいたか、ちょっと話がある。来 てくれないかな」  長谷川さんと私は思わず顔を見合わせた。  ビタミンCが、それほどいけなかったのか。ビタ ミンCの錠剤が原因でクビになる人間なんて、この 人まみれの東京でも、そうはいるまい。私はどんよ りした気持ちで、企画課長のあとをついていった。  ミーティングテーブルをはさんで、課長と向かい 合うように着座した。そしてまじまじと課長を見た。  片栗という名の企画課長は、外資系のベンチャー 企業の課長というよりは、パン屋の二代目店主とい う趣があった。余計なことをしゃべらず、淡々と毎 日の仕事をこなすタイプの人間で、いったん仕事が 終わると、気さくで人なつこい笑顔を見せるような、 理想的な上司だった。  そして彼はNジ子不ティクスには珍しい存在だっ た。この会社には、自分はデキるという自信に満ち たオーラを放ち、エリート意識を胸いっぱいに抱え 込んで、他者に対して意識的にバリアを張るような 人たちが、うじやうじやいた。そういう人でなけれ ば、外資系のベンチャー企業に身を置こうとは考え ないのかもしれない。  しばらく黙っていた片栗は、私か予想していたこ とと、まったく違う言葉を口にした。  「君は班目兎志男という名の大学教授を知っている かな?」  私はぽかんとした顔をして、それから首を振った。  「先ほどのプレゼンで三田村さんが言ったように、 わが社の製品にはドクターズコスメというものがあ る。皮膚の再生医療に関する専門家(ドクタ士との 共同研究により開発した化粧品なんだが、そのブラ ンドコンサルタントとして班目教授という人物がい る」  班目、という名前は聞いたことがなかった。  私の呆けた顔を見た片栗は、話を続けた。  「君が知らないのも無理はない。班目教授とは、今 から五年前まで共同研究をしていた。過去形の話な んだ。その……とある事情があって、現在は関係が 断絶している。その班目教授と五年前に共同研究し たドクターズコスメの売り上げが、ここのところ急 激に落ち込んできたんだ。心機一転、班目教授との 共同研究を再開して、製品の改良を行うことを上層 部が決定した」  「はあ」と私は気の抜けた返事を返した。  「先方にも伝えたところ、承諾してくれた。それで、 共同研究先との間には通常、専任の担当をつけなけ ればならない。わが社の要望を伝えたり進捗を管理 したり。その仕事を山田咲良さんに任せたい」  「私に、ですか?」  私はおそるおそる尋ねた。  「なぜ私なんかが……」  「いろいろ理由はある」  「その、五年前から疎遠になった理由って何です か?」  片栗は言い難そうに首のあたりを右手で揉み始め た。  「班目教授は気難しい人でね。その、歯に衣を着せ ないというか、思いつくことをそのまま口にすると いうか。すなわち、我々会社人という人種とは違う 世界にお住まいなんだよ。それで、わが社の担当と ほんの少し揉めてね」  片栗の顔は「ほんの少し揉めて」というものでは なかった。ひどく深刻な表情を浮かべていた。片栗 の様子は私をひるませるのには十分だった。彼の話 だと、班目教授は皮膚の再生医療の専門家だという。 外国語系の大学を出たこの身には、理系の大学教授 など別世界の人間である。  「まあ、大学と会社という大人の関係だから、書類 上は『共同研究の休止』という形をとりながら、班 目教授と共同開発したドクターズコスメの販売は続 けていた。これを改良するために、再始動したいと いうわけだ」  「ところで、私の前任の入ってどなたですか? 社 内にいればお話をお伺いしたいんですけど」  目の前の片栗課長が前任だった、という流れを予 想していたが、違った。  「そうだな。前任と言えば、町村常務取締役……当 時は私の上司、企画部長だった人だ。今、マレーシ アの関連企業のてこ入れのために出向されている方 だよ」  私は飛び上がりそうなくらい驚いた。実際にニセ ンチくらいは宙に浮いていたかもしれない。町村常 務取締役。直接会ったことはなかったが、社内では 敏腕と名前の轟く有名な人物だった。そんな人物が 喧嘩して関係を斷ってしまった大学教授を、私か相 手できるのか……冫・私はめまいを感じた。  「あのう、それって、今日のビタミンCが関係して いますか?」  「どういうこと?」  「私か変なプレゼンをしたから、こんな仕事を割り 振られてしまったと……」  片栗は苦笑いを浮かべた。  「ドクターズコスメはわが社の有力なブランドだ。 この重要な任務は、君ならできるかもしれない。そ う、私も上層部も期待しているよ」  私の質問は適当にはぐらかされてしまった。でも たぶん、ビタミンCのせいだと、私は思った。 班目兎志男、またの名を「反重力」  ドクターズコスメはわが社の有力なブランドだ、 と片栗課長は言った。入社三年目の私にも、そのこ とはよくわかっていた。  化粧品業界では、2019年の三月末に、商品に 対する景品表示法違反の指摘が相次ぐという「事 件」があった。誇大広告と見なされた多くの製品の 表示が見直され、以後、メーカーは売り出し方に神 経をとがらせることとなった。  一方で、ドクターズコスメという言葉は、研究者 や専門家に裏打ちされていることを示し、「美自に 効果がある」とか、「シミを消去」という表現とは、 まったく異なる概念で消費者に信用を伝えることが でき、魔法のような力をもっていた。  そういう背景もあり、わが社ではドクターズコス メに大きな期待がされていた。過去に大学教授の担 当として、部長クラスがあたっていたというのも、 その期待の表れだろう。  そんなドクターズコスメの担当が、私なんかで、 本当にいいんだろうか?  東京科学技術大学は山手線の田端駅から都営バス に乗り換えて、しばらく揺られてたどり着いた場所 にあった。東京科技大という名のバス停は、下町の 雑多な住宅街のど真ん中に立っていた。  こんなところに大学があることを、私はこの囗ま で知らなかった。先程までNジ子不ティクス社があ る港区のオフィス街にいた身にとっては、異世界転 生してきた主人公のような気持ちになった。  バス停には大学の名前があったが、あたりにはど こにも大学の気配が感じられない。私はスマホのア プリでキャンパスの場所を探さなくてはならなかっ た。  バス停のそばには、ゴリラ食堂という看板を掲げ たラーメン店があり、ちょうど暖簾がかき分けられ て、チェック柄のシャツを着た三人の男が出てきた ところだった。スターリングエンジンの効率は…… それは熱力学第二法則に反している……などと語り 合いながら、彼らは緩やかな坂道を登り始めた。東 京科学技術大学の学生に違いない。私は彼らのあと をついていくことにした。  小さな丘の上に大学のキャンパスが広かっていた。  生命科学棟、という建物の二階に班目教授の研究 室がある。片栗から渡された資料にはそう書かれて いる。ただし、そののっぺりとした五階建ての、古 臭いコンクリート造りの建物から、生命っぽさは感 じ取れないなと思った。  建物の周囲を見渡しても、どれも同じような無機 質な建物−配管に覆われた建物や、怪しげな重低 音をたてている小屋などが、幾重にも連なっている ばかりだった。こんなところで勉強している理系の 人間は、自分たち文系の人間とは根本的に違う人種 なのだろうと思った。  生命科学棟の受付で来訪者名簿に記入して、班目 教授の教授室の場所を尋ねた。それから、ひとり建 物の中を歩み始めたが、どれもこれも同じような扉 ばかりで、どこが班目教授の部屋なのか、わからな かった。  たまたまそこを歩いていた、髪の毛を後ろで束ね て黒縁メガネをかけた女子学生に、教授室の場所を 確かめた。  「ああ、あの反重力の部屋はですね、ここをまっす ぐ……」  「反重力?」私は聞き返した。  「あのう、班目先生のご専門は皮膚の再生医療で は?」  女子学生は笑った。  「反重力というのはですね、髪の毛が全部逆立って いるからです。あだ名です、あ、だ、な!・」  いったいどういう人物なのであろう。私は恐ろし くなって、今すぐにでも港区に引き返したくてたま らない気持ちになった。  これもすべてビタミンCの錠剤のせいだと思うと、 わが身の不明がひどく恥じられた。だが、とにかく、 前に進むしかあるまい。  班目教授室 在中  そう書かれた、兎の顔の形をしたプレートが掲げ られた扉を前にして、私はしばらく立ちつくした。 ノックの回数は三回が正式だっけ? 四回だっけ? そう逡巡していたとき、目の前の扉がばたんと開い た。  身長が百九十センチくらいの、よれよれの白衣を 着た大男が部屋から飛び出してこようとしていた。 150センチの私から見れば、それは東大寺南大門 の仁王像のように見えた。  そして反重力というあだ名の通り、頭は怒髪天。 そして銀縁眼鏡の奥には、ぎょろりと開かれた眼が あり、私を見下ろしていた。企画課長から聞いた データによると、年齢は44歳。教授としては若いと 思われる。そのせいだろうか、教授っぽさが感じら れないのだ。  「貴君がNジ子不ティクスの者か’・」  「は、はい」私は絞り出すように答えた。  「貴君が来たと事務室から連絡があっだのだが、待 てど暮らせどやってこない。迎えに行こうと思って いた。さあ、中に入ってくれ’・」  手首が外れるのではないかといわんばかり、班目 は高速で手招きした。おそるおそる私は室内に入っ だ。どうやら班目教授は相当にせっかちな人物であ るらしい。  教授室の中に入っだものの、室内は学術書やら段 ボールやらがところ狭しと積み上げられており、私 は畳二畳ほどのわずかにあいたスペースに、身を縮 こまらせながら立っているのがやっとだった。  学術書の隙間に立った私は、積み上げられた学術 書の一番上に『アイデアーノート』と汚い字で書か れたものを見つけた。これは何だろう、と思ってい ると、班目教授に「貴君、何を見ている?」と声を かけられた。  私は慌てて彼に向き直り、名刺を取り出して班目 に手渡した。班目は机の上をごそごそやって、それ から白衣のポケットの中に手を突っ込み、やがて 「ユーレカ’・」と叫ぶと、棚からポッキーの箱を取 り出した。箱から名刺が出てきた。  東京科学技術大学 理工  学部生命科学科  再生医療研究室 教授  博士(俚言  班目 兎志男  「御覧の通り、私は再生医療が専門だが、ここ十年 は皮膚の再生医療をメインテーマにやっている。火 傷の皮膚の治療、皮膚がんの治療後の処置などの基 礎研究を行っている。そこで貴君の会社との共同研 究をやってきた。ここ数年ストップしていたんだが、 再開したいということだったかな?」  私はペコリと頭を下げた。  「その通りです。どうぞよろしくお願いします」  班目教授は頷いた。  「疑似バリア層」とは、なんのことか ね?  「じゃあ、現在の状況を確認したい。どういう風に 再開しようと考えている? 説明してくれるかな」  班目教授は厳しい顔をして言った。四角いメガネ の奥で、目が三角になっている。そりゃそうかもし れない。わが社の前任者とは喧嘩したというではな いか。  私は内心震えながら、片栗課長から渡された資料 のコピーを班目に手渡し、読み上げた。  「弊社と班目先生との共同研究で誕生したドクター ズコスメ『ミレニアム』は、発売当初は好評を博し ておりました。ですが最近の販売数は、落ち着いて いるというか、不調が続いておりました。誕生して 五年以上が経過し、近年の消費者の消費動向に合わ せた改良を検討したいと考えております」  「どんな方向性の改良を考えている?」  私は資料のページをめくって、彼の質問に答えた。  「現在の製品は、化粧水の形態をとっていました。 これにさらにクリーム、美容液ゲルを追加して、複 合的なスキンケアーシステムを提案します。化粧水、 クリーム、そして美容液ゲルの三種類を合わせて用 い、皮膚の奥深くまで浸透させることで、皮膚のバ リア層に不足している成分を効果的に補います」  班目教授は私に何かを言いたそうな表情をしてい たが、私は続けた。  「……また、皮膚のバリア機能を補うために、保水 力に優れた自社開発の成分を配合します。肌のバリ ア層の上に、さらに『疑似バリア層』をつくり、皮 膚内部の水分の蒸発を防ぎつつ、高SPFにより紫 外線対策機能も持たせます。これらの作用により、 乾燥や敏感肌、肌荒れに悩まない綺麗な素肌へ整え ます。このクリームや美容液ゲルといった要素は、 あくまで仮のご提案で、成分などについては、班目 先生のご意見を伺いつつ内容を定めていければと考 えています」  「ふうん。疑似バリア層って、何?」  私は慌てて資料を見返した。どこにも、その説明 は書かれていなかった。  「皮膚のバリア層を、疑似的につくるものです」  私はまごまごしながら答えた。 「じやあ、皮膚のバリア層って何?」 「……すみません、わかりません」  班目は苦笑いを浮かべた。 「皮膚のバリア層というのは、正式な科学用語とし ては存在しない。あえて言うとすれば、肌の表面に ある角質層のことだろう。しかし、角質層というの は実に優れたもので、そう簡単に異物を通さないし、 水を内部に浸透させない。それをマッサージとか、 不要なクリームを塗ることで、かえって悪くしてい るのがスキンケアの問題だ。……それで、皮膚の奥 深くまで浸透させると貴君は言ったが、どのくらい 深くなの?」  私は自分の手のひらを見てみた。皮膚の奥深くま で浸透するというのは、スキンケア製品でよく見ら れるキャッチコピーだ。自社製品をはじめ、いくつ かの製品の浸透感をテストしたことがあった。その ときの感触を思い出そうとした。  「ええと、数ミリくらい……」  「間違いだ。化粧品の成分が浸透するのは、一般的 に角質層までで、その厚さはO・OIミリからO・ 03ミリだ。そしてこの角質層の内側には、分裂を 繰り返している生きた細胞や血管があり、ここに化 粧品の成分が届いてはいけないのだ。化粧品に関す る法律である薬機法でも、角質層よりも奥まで成分 が浸透すると謳う広告は禁じられている。さらに貴 君は敏感肌と言った。敏感肌とは何かね」  敏感な肌です。という答えが班目には通じないこ とは、容易に想像することができた。私はもう涙目 になっていた。「わかりません」と、蚊の鳴くよう な声で答えた。  しかし、班目は笑顔を浮かべた。  「正解だ’・ わからないのだ。敏感肌というのは、 科学的な定義はないんだ。体調の変化やストレスや、 気温の変化などに対して敏感に反応してトラブルが 生じる肌のことを敏感肌と言うが、そんなもの個人 の感じ方の問題であり、なおかつ、正常な皮膚の応 答とも言える。これを一律なスキンケア製品で対応 しようとするのは、科学的ではない」  正解、と言われて、喜べる気分にはなれなかった。 敏感肌に科学的な定義がないということを、私は今 まで知らなかったし、そもそも定義など考えたこと がなかった。  自分は今まで、いったい何を考えてきたんだろう。 スキンケアの会社の人間なのに、班目の質問に何一 つまともに答えることができていない。私は目の前 が真っ暗になり、ぐらぐら揺れているような気がし た。自分が口にしている単語が、すべてばらばらの 記号のようなもので、意味がないような気がしてき た。  「最後に、SPFとは何か、答えてもらおうか」  私の体がぴくりと反応した。この単語は知ってい た。たまたま、先月自分が関わった製品が、高いS PF値を謳うもので、覚えていたのだ。  f Sun Protection Factor、太陽光すなわち紫外線の防 護係数です」  「うん。じやあ、貴君は新しい製品が目指すものと して高SPF値と言ったが、どのような値を考えて いる?」  「現在、市場にはSPF値が15から50のものがよく 見られます。今回開発するものは、この最大値であ る50を想定しています」  私は資料に書いてある数値を読み上げた。この数 値が書いてあって良かったと、心の底から思った。  「SPF値が15と50では、効果は何倍違うの?」  「?」  効果は……単純に、50を15で割った分だけ高いの では?  でも、どうしてそんな単純な計算について聞くの だろうか? 私は目の前の大男を見上げた。彼の表 情からは何も読み取れなかった。  「……約3倍だと思います」  「間違いだ」  班目は言った。彼は手元のメモ用紙に、ひとつの グラフを描いた。 ぺ      。  づ        。 皿  し      ]皿   ……        諮      %戸    2 0 0 0 0 0f♂。yr。01 狛 8  紫い線防14率2  「このグラフにあるように、SPF値15の日焼け止 めを使った場合、日やけなどの原因になる紫外線B 波(UV‐B)をすでに93%防御できることがわかる。 その後、SPF値が上がるにつれて、紫外線の防御 効果の上昇は緩やかになる。SPF値50でも、約97 %となり、あまり差がなくなっていると言える。こ のSPF値を50にするためには、SPF値15の製品 と比較して、大量の紫外線の吸収剤や散乱剤を含ま せなくてはならず、それだけ肌への負担が大きくな る」  班目は私に視線を戻した。  「私か言いたいのは、このグラフにあるような挙動 を示すことを理解したうえで、あえてSPF値を50 としようとするのか、もしくは理解せずにSPF値 を50にしようとしているのか。そして前者であるな らば、あえてSPF値を50とする理由が明確でなく てはならない。SPF値について語るのであれば、 このグラフぐらいは知っておかねばならない。違う かな?」  私は深く頭を下げた。  「おっしやる通りです。私は何もわかっていません でした」  班目は「ふう」とため息をつき、こう言った。  「なぜ君は、科学的に考えられないんだ?」  そして班目は続けた。  「これから一緒にやっていくためには、貴君にも科 学的な視点で物事を語ってもらいたい。貴君らはス キンケアの製品を作るためにここに来た。であれば、 私と満足が行く会話ができるようになってもらわな いと困る。そういう意味では、今の貴君は落第点 だ」 わかりやすい説明には「起承転結」が ある 「はい……」私は蚊の鳴くような声で答えた。 「ひとつアドバイスをあげよう。貴君が用意した製 品に関する資料と、貴君の説明はとても理解しにく い。起承転結がなっていない。例えば……」  班目はホワイトボードにさらさらと字を書いた。  「先ほどの貴君の話は、起承転結の転がなかった。 このように、はじめの状況説明、次に問題提起、そ してなぜ解決されなければならない? だからどう したい? という各段階を意識して、つながるよう に、それでいて簡潔な言葉で説明できなくてはなら ない。起承転結の形を意識することで、次に何をし なくてはならないかも見えてくる。起承転結は一本 道なんだ」  起承転結という言葉は、中学や高校時代に、国語 の時間に聞いたことがあった。国語の教科書に出て くるような優れた文章は起承転結がしっかりしてい る……そのような、自分自身とは遠く離れた世界の 話として記憶していた。  「さらに、貴君の説明にはいくつかの課題がある」  そういって班目教授はホワイトボードに次のよう なことを書き出した。  ・数値で説明していないため、説得力がない  一一文が無駄に長く、理解しがたい  ・どれが主語かわからず、論理的な文章にならな   い  「これらの点を改善できれば、おのずと理解しやす い説明になる」  私は、ホワイトボードから目を逸らし、完全にう つむいていた。  打ちのめされていた。そして思った。どうしてこ んなにも言われなくてはならないのだろう。  班目が言うことも理解できるが、初対面の相手に、 ここまで言うものなのだろうか。「歯に衣を着せな い」と片栗が言っていた言葉を、私は思い出してい た。  ふと、班目は腕時計を見て、「おお、いけない」 と叫んだ。  「これから会議がある。また来週きたまえ。もっと 勉強してからな’・」  そう言うなり班目は教授室から飛び出していった。  班目の白衣の背には、自と黒のまだら模様の兎の イラストが描かれていた。白衣の皺のせいでくしや くしやになった兎は「あっかんベー」しているよう に見えた。一瞬だけ目に入っだその兎のイラストは、 鮮烈な印象として私の記憶に残った気がした。  私はあらためて、名刺に目を落とした。  教授 班目兎志男  兎の志を持つ男。いったい、どういう人なの?  それから私は教授室のなかでしばらく呆然と突っ 立っていた。ゆっくり部屋を出て、歩き出した。ど こに向かえばいいのか、一瞬、わからなかった。と にかく会社に戻ろう、と思った。  バス停で、駅の方向に向かうバスがやってくるの を待ちながら、私はだんだんと「なぜここまで言わ れなければならないんだ」という班目への怒りのよ うな感情が緩やかに溶けていき、敗北感だけが手元 に残っていくのを感じた。  班目がどれだけ異質な人物であれ、これから彼の 担当として自分はやっていかなくてはならない。班 目の質問に自分は何ひとつまともに答えられないの は事実だった。そして答えられないのは、自分が不 勉強だからなのは明らかだった。文系出身だから、 という言い訳は、彼の前では通用しないと思った。  私は仕事でいつも使っている分厚い手帳をカバン から取り出した。些細な事でも、気が付いたことを メモするために、分厚いものを選んで使っていた。 そこに、記憶が鮮明なうちに、班目教授から言われ たことを書き込んでいく。  すでに夕方に差し掛かっていた時刻で、四月の太 陽は柢い位置にあり、空気はひやりとしていた。そ ういえば出勤したときも寒かったな、と、手帳にメ モを書きながら思い出した。まるで海の底のようだ と。  海の底のような寒さを覚えた私は、ふと、マクロ のことを想像した。  就職したての頃のことだろうか。マクロが泳ぎを 止めたなら、死んでしまうという話を聞いたことが あった。それは自分だと私は思った。前へ進む動き をもし止めたなら、自分はこの東京の街で朽ち果て て、死んでしまう。  生まれ育った石川県から上京し、今の会社に勤め ることになって、三年の歳月が経過していた。しか し、正直、仕事に慣れているとは言いがたい。むし ろ、化粧品関係の企業の企画部という場所は、自分 に合っていないと思える瞬間がたびたびある。  自分にはどんな強みがあるだろうか。何もない。 少なくとも、ビジネス書を読んでいるという一点だ けが、この社会にいても良いという、許しを与えて くれていたのかもしれない。  そして私はもう一度、アート思考のことを考えた。 油絵の独特の匂いを思い出して、私は首を振った。  私は変わらなくてはならない。 班目教授の講座1時間目  「起承転結」は必ずしも万能ではない りI 「起承転結」は、人に物事を伝えるときの、基本的 な構成と説明した。また、学術論文の冒頭である 「序論・イントロダクション」の構成のベースにも なる。  しかし、「起承転結」を妄信することは、おすす めしない。「起承転結」の型に収まらない場合もあ るからだ。  ここで、「起承転結」のそれぞれの意味を、おさ らいしよう。 起・:状況を説明する 承・:問題提起・状況の変化 転…解決方法・状況の変化に対する対応 結・:どうするのか・まとめ  例えば、「解決方法自体をIから考えよう」とい うテーマや、「そもそも何も変化を起こす必要がな い物事・状況」を扱う場合などは、「起承転結」は ふさわしくない。  私の経験では、高校や大学入試の「小論文」の問 題などで、「起承転結」に当てはまらない出題テー マを見たことがある。「小論文」では必ずしも解決 方法(卜転)や、どうするのか(卜結)を求めていな い問題が出題されるためだ。そういう小論文の出題 に対しては、次のような構成が自然である。 序論・:状況説明・前置き 本論・:具体例 結論・:まとめ  じやあ、「起承転結」は結局、役に立たないの か?  そうではなく、自分が他者に伝えようとするとき に、構成を考えて、そしてそれぞれの構成が論理的 につながるように説明する、ということを意識して ほしい。  ある前提から出発して、理詰めで(相手の想像力を 期待せずに)説得し、結論を示す。こうだから、こう だ……だから、こうだ。それぞれがつながっていな ければならない、ということだ。  犬も歩けば棒に当たるという言葉がある。  犬がふらふら道を歩くと、犬が嫌いな誰 かに見つかって、棒で殴られてしまう…… そんな災難に遭ったりするかもしれない。 犬小屋にこもってじっとしていれば良いの に、余計な行動を起こすべきでないとの戒 めの言葉。  あるいは……行動を起こすことで、災難 や、チャンスを得るなど、何らかの経験を することができる。犬小屋にこもってじっ としていると、そのような経験はできない ので、積極的に行動すべきであるという助 言−。 起承転結は「一本道」でなくてはなら ない  班目教授との打ち合わせの帰り道、私は書店に飛 び込み、学術書コーナーで肌に関する書籍を三幵 買った。  ついでに、レジの近くに積み上げられていた『犬 から学ぶ直観を大切にする生き方〜人生の。ワン” チャンスを逃すな〜』という、くだらないサブタイ トルのついた新書も購人した。  思えば、昔から何か問題が起こるたび、書店に駆 け込んでいた記憶がある。  例えば高校時代、英語でひどい点を取れば英語の 参考書を買いに走り、国語で赤点を取れば古今和歌 集を全巻揃えた。購人した書籍をしっかり読んで自 分のものにすれば、問題は解決したのだろうが、た いていそういう本は、手元にあるだけで変に自分に 力が付いたと勘違いしてしまい、数ページ書き込ん だだけで放置され、他の興味ある本に目が移ってし まうことが多かった。  同じ過ちを繰り返してはいけない。私は帰宅する なり、テーブルに載っていたアート思考の本を棚に しまい、新たに買ってきた本を並べた。  それから、キッチンに吊り下げられていた木綿の 手ぬぐいの中央に「打倒班目」とマジックで書いて、 頭に巻いた。  「ようし、やるぞ!・」  私はまず、肌の構造について調べることにした。  まず、皮膚は表皮、真皮、皮下組織の三層で構成 されている。表皮は皮膚の最表面の層で、さらに五 つの層にわかれている。表皮の五つの層とは、角層、 透明層、顆粒層、有棘層そして基底層である。  ここまでで、頭の中は十分に混乱している。なん でこんなに難しい言葉を使っているのか。  以前、死後の地獄に関する本を読んだことを思い 出した。地獄には八つの階層があり、八熱地獄とい う。苦しみが軽い順に等活地獄、黒縄地獄、衆合地 獄……y』んな言葉は覚えられたのに、皮膚に関する 言葉は覚え難く感じられた。  肌の中で新しい細胞を作り出すのは、表皮の一番 深い層である基底層である。ここで作られた新しい 細胞は、徐々に表面に押し上げられて、やがて角層 となる。年齢や部位によって異なるが、だいたい28                − 囗周期で、皮膚表面は入れ替わる3.  「……細胞って、どうやって分裂しているんだっ け?」  買ったばかりの本の目次をめくる。生物学や、班 目が専門とする再生医療の基礎の本も購入しておい たのだ。  ひとつのことを調べれば、また別のわからないこ とが現れる。無間地獄のような繰り返しに、うんざ りしてきた私は、いつの間にか四冊目の本を手に 取っていた。  「犬も歩けば棒に当たるの棒って、チヤンスつて意 味なのり なんで?」  私はハツとして我に返り、冷蔵庫の側面に吊り下 げた鏡を見た。打倒班目と書かれた鉢巻きを見て、 自分はいったい何をやっているんだと思った。  いったん本を閉じることにした。班目教授の言葉 を思い出す。班目教授は自分に、どのようにプロ ジェクトを進めていくかをプレゼンするように求め てきた。このプレゼンの内容を、班目が満足するよ うに組みなおさなくてはならなかった。  ポイントとなるのが、起承転結だ。  はじめに状況の説明、次に問題提起、そしてなぜ 解決されなければならないかを述べて、最後にどの ようにして解決するべきかを示す。この各段階を、 説得力のある形で示さなくてはならない。  私はA4用紙を机の中央に置いて、ペンを握った。  まず、「起」の部分。状況の説明だ。  どういう背景があって、その製品……ドクターズ コスメを改良しなくてはならないかを説明しよう。 売り出してから五年以上が経過したので、近年の消 費者の消費動向に合わせた改良を検討したい、と私 は班目教授に説明した。ふと、私の手に握られたペ ンが止まった。  近年の消費動向って何? どういうニーズがあっ て、この製品をリニューアルしなくてはならないの だろう。私は「売り上げが落ちてきだからリニュー アルするんだ」と思い込み、考えることなしに班目 の前に立っていたのではないか。  消費動向について今から調べていたのでは先に進 まないので、「要調査」というメモ書きをつけて、 とりあえず先に進むことにした。  次に「承」の部分。問題提起だ。  五年前から変わっていない部分で、改良しなくて はならないポイントを明確にしなくてはならない。 ここも「要調査」の結果、明らかになることだろう。  そして三番目の「転」について。なぜ、解決しな くてはならないか?  そこで私の手が完全に止まった。「要調査」とし ておいてけぼりにした、そもそもの出発点である 「消費動向」が明確になっていなければ、何も考え ることができないのだ。  「班目教授か言っていた、起承転結は一本道って、 こういうことだったのか……」  私は腕を組んで、しばらく黙り込んだ。まず、出 発点である消費動向についてのデータや分析がなく ては、何も始まらないのだった。それらを調べなく てはならなかった。 データがあるから「仮説」を立てられ る  消費動向の情報は、案外、身近なところにあった。 長谷川先輩のプレゼンの中に、顧客アンヶIトの結 果が含まれていたのだ。  彼はプレゼン資料の中に、そのデータを含めてい ながら、一瞬だけ「化粧品は価格設定も大切」とい う説明のところで触れただけで、次の話題に移って いた。そんな彼の一瞬の言葉の中にも、ちゃんとし たデータの裏付けがなされていることに、私は素直 に驚いた。それと同時に、班目教授の相手を、私で はなく長谷川先輩がやればいいのに、とも思った。  長谷川さんが一瞬で通り過ぎた、消費者の動向  − の4アンケート結果は、次のとおりである。  質問‥スキンケア商品の購入時、重要になるこ とをすべてお知らせください。  価格          82・9%  肌に合う         82・2%  肌に優しい・刺激がない 60・5%  ネットの評判・ロコミ  59・2%  つけたときの感触    49・3%  成分          35・5%  パーセンテージの数字が、全部を足して百を超え るので、複数回答を認めているということだろう。 回答の上位は「価格」と「肌に合う」の二つが飛び 出ている。  私はここで、妙なことに気がついた。  第三位の「肌に優しい・刺激がない」と第二位の 「肌に合う」とは、どういう違いがあるのだろう? 肌に優しいことを肌に合う、と言うんじやないの?  班目教授かこのアンケート結果を見たら、きっと こう言うだろう。  「貴君、この二つの違いを説明したまえ’・」  さらに奇妙なのは、この二つの回答のパーセン テージの差は、21・7もある。それだけの人数の人 が「肌に合う」ことを重視しつつ「肌に優しくなく ていい・刺激があってもいい」と思ったということ だ。両者には、たしかに違いがあるはずだ。  「ううん? わけがわからんぞ」  ただひとつ、私か読み取れることがあるとすれば、 「肌に合う」というキーワードが、その他のことよ りも重視されていることだった。「感触」や「成分」 よりも、である。  私はA4サイズのレポート用紙を机の上に置き、 「要調査」と書き、その下に「肌に合う」と書き込 んだ。  「ところで、どうしてこのアンヶIトは、こんな選 択肢を用意したんだろう?」  私はもうしばらく考えることにした。そして私の 横に、班目教授か腕組みしている姿を想像した。お そらく私か班目教授と出会っていなければ、こんな アンヶIト結果など、読み飛ばすか、無視していた かもしれない。  でも、今は違った。疑問に対して、班目教授のよ うに考えてみよう、と思った。  「肌に合う」ことと、「肌に優しい・刺激がない」 ことの差は何であろうか。自分がこれらの言葉を使 う場合を考えてみた。  「肌に合う」という言葉には「効果」が関係してい るかもしれない。つけた化粧品に対して、手ごたえ を感じた場合に、私なら「肌に合う」と表現する。 一方、「肌に優しい・刺激がない」という言葉には 「効果」は含まれないのではないか。  もしこの考えの通りなら、「肌に優しい・刺激が ない」という回答よりも上位に「肌に合う」が来た 理由は、使用者は、つけた直後に効果が現れる即効 性のようなものを期待していると考えられないだろ うか。  私の考えは間違っているかもしれない。でも、今 はこの答えでいこうと思った。私はレポート用紙の 「要調査」のところに、「肌への即効性」と書き加え た。  それからしばらく、起承転結のストーリーに手を 加えていった。起承転結の「起」が定まれば、あと は言葉をジグソーパズルのように、はめ込んでいく だけだった。  最終的にレポート用紙は私の字ですっかり埋まっ ていた。データを分析して、自らの頭で考えて、自 分自身の言葉で説明することで、それを伝える言葉 も自分のものになったという実感が湧いてきた。  この内容で、企画課のメンバーに話をしてみよう。 彼らの合意を取り付けたら、班目教授にぶつけてみ よう、と思った。  気が付くと、午前三時になっていた。  「まずい!」  私は慌ててパジャマに着替えて、這うようにして ベッドにもぐりこんだ。 班目教授には、気をつけろ  「ふあIあ」  寝不足気味の私は社内の廊下で、大きなあくびを ひとつした。そのとき、突然後ろから声をかけられ た。  「文学少女君、昨夜は徹夜で読書かな?」  振り返ると、長谷川先輩が立っていた。グレーの スーツの下に覗くシャツの糊はしっかりと効いてい て、清潔な印象を感じる。いつもの長谷川先輩だ。 どこかのヨレヨレの白衣の教授とは違う。  私は彼の言葉に対して、首を振った。  「いえいえ、その、班目という名の、変な教授のと こに挨拶に行きまして……」  そこでケチョンケチョンに痛めつけられ、四幵の 本を買って帰った話を彼にした。  「あはは。やっぱり山田さんは面白いね」  長谷川先輩は笑ってそう言って、それから急に真 顔になった。  「……君が班目教授の担当になったという話は、片 栗課長からも聞いたよ。まったく、課長たちは何を 考えているのやら」  「どういうことですか?」  「班目教授には、本当に気をつけた方がいい」  長谷川さんは、私の耳元で語りかけるように言っ た。  片栗課長から班目教授の担当を指名されたときの ことを私は思い出した。  班目教授は気難しい人だ。そう課長は言った。実 際、会ってみると、まったくその通りで、一方的に こちらの不足した部分を追及し続ける、どちらかと いうと付き合いたくないタイプの人間だった。  「わかっていますよ。まあ、ちょっとずつ、教授の 要望に近づくように頑張ります。こちらが壊れない 程度に」  長谷川さんは静かな声で、それでいて力を込めて、 頷いた。  「そこなんだ。とにかく壊れないでいてくれよ。君 の前にも壊れた人がいるからね」  「町村常務取締役のことですか?」  長谷川さんは一瞬、ひどく驚いた顔をした。そし て意外なことを言った。  「町村さんではなくて、別の人だ。町村さんのあと に、もう一人担当がいて、その子がすぐに壊れた。 会社も辞めた」  初めて聞く話だった。  「担当が二人もやめたんだ。だから私は心配でね」  「……長谷川先輩。そんなに私のことを」  「うん。君がつぶれたら、次は私の番かもしれない。 それは困る」  私たちの近くを、女性社員が通り過ぎようとして いた。じやあ、と言って長谷川先輩は、手を振りな がら去っていった。  「まあ、そうですよねえ〜」と私はつぶやいた。  町村常務取締役の他に、班目教授の担当が一人い て、その人はすぐに会社を去ることになった。その 話は私にとって重大な情報だった。しかし、今はそ のことばかり考えている余裕はない。班目教授のと ころへ行き、プレゼンのリベンジをしなくてはなら なかった。  都営バスに乗りながら、プレゼン資料を読む。読 みながら、やはり二人目の、辞めてしまった担当者 のことを考えてしまう。  正直に言うと、不思議なのだ。班目教授はたしか に変人だ。付き合いたい人か、そうでない人かとい うならば、自信を持って後者であると断言できる。 でも、片栗課長や長谷川さんが言うほどの危険人物 なのだろうか。  先の企画についてのプレゼンでは、たしかに私も 泣きそうになった。現に私は四幵の本を買った二 冊は犬の本だが)。本は全部で一万円近くかかった。私 はダメージを受けたのだ。  しかし、班目教授の言動には、突き放すだけでは ない、何かがある。  「貴君のここがいけない。だから、こうした方がい い」  そういう、相手のことを考えて、良くしようとし てくれる言葉がある。だから私は四冊の本を買った のだと思う(しっこいが、一冊は犬の本)。  私は班目教授の白衣の背中を思い出す。兎のイラ ストを堂々と背中に背負う人間が、そんなに悪人に は思えないのだ。  悶々としながら、私は教授室の前までやってきた。 ここまで来て、私はひるんだ。ノックしようか、し まいか悩んでいると、ドアが勝手にあいて、中から 件の大男が飛び出してきた。  「おお、貴君か。すまない、今日、大学の外で講演 会があることをすっかり忘れていた’・ 今から行か なくてはならない。君とのミーティングは明日にし てくれ’・」  そうして走り去る白衣姿の班目教授。やはり背中 には、くしやくしやになった兎のイラストがあり、 「あっかんベー」していた。  「……なんなのよ、もう、あのウサギロ」  彼の姿が見えなくなって、緊張が失われたせいか、 私は一気に脱力した。  ふと、教授室の扉に貼られたポスターが目に入っ だ。   「美容と再生医療」   一般講演会   演  者‥班目兎志男教授  「こんなにでっかいポスターを貼っておいて、講演 会を忘れるってことある?」  私はまじまじとポスターを見た。文字の周りがぐ るっと兎の顔の形に縁取りされたそのデザインは、 演者本人が作ったものだと推測できた。もしくは、 ポスターのデザイナーがいたとしたら、班目教授の リクェストに相当に困惑したに違いない。  そのポスターはあまりにも班目教授の教授室の扉 と一体化していて、教授本人はスケジュールのこと を完全に忘れていたのかもしれない。まさか。  私は、ポスターのある文字をじっと見た。一般講 演会、と書かれている。  私のことをケチョンケチョンにした彼が、一体ど んなプレゼンをするのか、見てやろうと思った。 起承転結のある「科学的」な説明とは  今日は足元も悪い中、私の話を聞きに来てくださ いまして、ありがとうございます。ああ、今日は晴 れでしたね。すみません、用意した原稿にそう書い てあるのです。あはは。  さて、本日の私のお話は、美容と再生医療という タイトルです。肌の再生医療の研究を行っている私 が、今の美容業界との関係や、最新の技術、そして 美容業界のおかしな部分についても語りたいと思い ます。  昨今では、美容は年齢や性別を問わず多くの人の 関心事となりました。ニーズの高まりに呼応するよ うに、美容業界の競争も激化の一途をたどっていま す。例えば化粧品においては、「肌の奥深くまで優 しく浸透します」といったアピールをするものもあ ります。ですがみなさん、肌の奥深くって、具体的 にイメージできますか? 実はわずかO・01ミリ ほど、角質層までなのです。それ以上の浸透は法律 によって禁止されています。どの商品も「ちゃんと 効果的」になった現代では、表現によるアピール合 戦が加速しているのです。  一方で、効果の面で注目を集めているのが、「再 生医療」です。  再生医療とは、人体の組織が欠損した場合に体が 持っている自己修復力を上手く引き出して、その機 能を回復させる医学分野です。最近の再生医療の分 野では、最先端テクノロジーとも言える幹細胞を 使った治療が行われています。そして2017年ご ろから、肌の分野でも、幹細胞を皮膚に直接注射し たりすることで、肌の損傷した部分の修復が促され                  I るなど、肌へ良い効果が現れることが5研究によっ て明らかにされてきました。  ここで、幹細胞について説明しましょう。  私たちの身体は、一説には六十兆個もの細胞でで きていると言われます。体が健全な状態を保つため には、古くなった細胞を除外し、新しい細胞と入れ 替えたりと、ダメージを受けた細胞を修復する必要 があります。  新しい細胞を作るときに登場するのが幹細胞です。 幹細胞はさまざまな身体の組織に分化できる細胞で す。例えば血液に含まれる白血球も赤血球も血小板 も、もとは同じ幹細胞から作られます。  このような幹細胞ならではの性質を応用して、病 気やヶがなどでダメージを受けた組織を治療する再 生医療が考えられ、現在もさまざまな研究が行われ ています。化粧品ではかなわない、完全な修復が可 能であるという特徴を持っています。  ただし、幹細胞を用いた再生医療は、厚生労働省 が認めた委員会によって、治療方法の妥当性や安全 性はもちろん、医療体制や幹細胞の加工管理体制に               I ついても、厳密に審査されます6.審査が通った後、 厚生労働省に治療計画を提出し、受理されて初めて 治療が可能となります。すなわち、現在の状況では、 再生医療による肌への美容は、一般的な選択とはな りえません。なぜ厳密になったかというと、過去に 幹細胞を利用した治療によって、感染や異物混入や 血管塞栓などの重篤な健康被害が生じたためだと言 われています。  そこで私の研究室では、厳密な審査を必要としな い、幹細胞自体を用いない再生医療を目指す研究を 行っています。人工的に、幹細胞の機能を再現する ような仕組みをつくり、ダメージを受けた部分に与 える。幹細胞を用いずに、幹細胞を再現しようとす るものです……。  会場は百人くらいが入れる、駅前のありふれた公 共施設の一室で、席は七割くらいが埋まっていた。 その中に埋もれながら、私はじっと教授の話を聞い ていた。  班目教授のプレゼンはくやしいことに理解しやす かった。  化粧品が角質層にしか届かないことは、多くの人 も含めて初めて聞いたことかもしれない(恥ずかしな がら自分も昨日までその一人だった)が、彼の言葉はわか りやすく、素人の自分にも理解することができた。 幹細胞などという、話のコアとなる難しい言葉は、 時間をかけて解説が付け加えられた。  自分だったらどうだろう? 難しい言葉を、説明 なしに使ったり、あるいは本当の意味も知らずに 「知つたかぶり」のためや「けむに巻くため」に 使っているかもしれない。  そして班目教授のプレゼンには、私に注文した 『起承転結』が明確に示されていたと思う。 起‥昨今の美容業界では、効果より表現による   アピールが重視されている 承‥幹細胞を用いた治療なら、化粧品ではかな   わない、完全な修復が可能である 転‥だが、特定認定再生医療等委員会の厳密な   審査が必要で、一般的とならない 結‥そこで、厳密な審査を必要としない、幹細   胞を用いない方法の開発を行う  このように起承転結を書き出して、私はあること に気がついた。優れたプレゼンとは、起承転結が しっかりとしているのと同時に、簡潔な文章で起承 転結のそれぞれが表現できるようなものを意味する のではないのだろうか。  班目教授のプレゼンを分析しながら建物を出ると、 ちょうど教授がタクシーに乗り込もうとしていたの が目に入った。  教授は私を見て「貴君、なぜここに?」と大声で 言った。  「いえ、ポスターを見まして……」  私はタクシーに近づいて行った。  ふと、このままタクシーに乗り込んでしまおうか、 と思った。  それは、『犬から学ぶ直観を大切にする生き方〜 人生の。ワン”チャンスを逃すな〜』の影響だ。  実は私は、この犬の本を読破していた。このわず か一日の通勤時間やトイレ時間で読み終えてしまっ ていたのだ。二百ページもあったが、大切なことは 一文で表すことができる、実に費用対効果の柢い駄 本であった。しかしタイトルに含まれたその一文は、 今まさに私にとって大切な言葉だっただろう。  人生の”ワン”チャンスを逃すな  次の瞬間、私は班目教授の隣に座りこんだ。  「貴君……冫・」  私かにこやかな表情を浮かべると、班目教授は 「ふうむ」とひとつ息を吐いて、タクシーの運転手 に告げた。 「じやあ、さっき言った場所まで行ってくれ」 「指示代名詞」を徹底的に排除する 「貴君は講演を全部聞いていたのか?」  タクシーが走り出すと、班目教授は尋ねてきた。 「はい、ばしめから終わりまで」  それから私は続けた。  「はっきり申し上げて、大変わかりやすい講演でし た。私のような素人にも良く理解できるプレゼンで した」  [素人では困るよ、音]君」  班目は笑った。私も思わず笑った。  「……わざわざ、タクシーに乗りこんで来たという ことは、何か私と話したいことがあったんじやない かね」  「ええ。聞きたいことは山ほどあります。質問よろ しいですか?」  「貴君の勢いに免じて許そう。なんでも聞きたま え」  「班目教授かプレゼンで大切にしていることをひと つ教えてください」  「ふうむ」と彼はひと呼吸おいて、続けた。  「私はプレゼンのとき、指示代名詞を使わないよう に心掛けている。今、このカバンの中に今日のプレ ゼンの原稿が人つている。読んでみたまえ。『それ』 『これ』『あれ』という単語がいくつあるかな?」  私は班目教授から渡された数枚の紙を受け取った。 タクシーの運転手が気をきかせて車内のライトをつ けてくれた。  紙には先ほどの班目教授のプレゼンの、一字一句 が書かれていた。私は「それ」「これ」「あれ」とい う指示代名詞を探した。ひとつも見つからなかった。 私は意地をはって、ばしめから三度、読み直した。 タクシーの揺れのため、だんだん気分が悪くなって きて、やめた。  「うぷ……たしかに、指示代名詞はひとつもありま せんでした」  「指示代名詞は便利だ。文字の文章では私もときど き使用する。しかし、プレゼンの原稿となれば別だ。 音声として聞く言葉の中で、『それ』という指示代 名詞を耳にすると、一瞬思考が止まる。それって何 だっけ? と記憶をたどる。数秒前にプレゼンター が言っていたあのことかと思い至る。その間に、プ レゼンターはもう別の話を始めている。文字で書か れた文章であれば、本人のベースで読み進めること ができて、しかも文字という形で『それ』が何かを 探しにいけるが、口頭ではそうはいかないのだ」  「なるほど……」私は頷いた。  「もちろん、指示代名詞は具体性を欠くという側面 も持つ。できる限り使わない方が、論理的な文章に なる。文字で書かれた学術論文だって同じで、指示 代名詞は、直前の文章の主語を指す以外には用いな い」  タクシーは渋滞のため停車した。時刻は午後八時 を回ったあたりで、街はにぎわっていて、道には車 があふれかえっていた。目的地までは、もう少し時 間がかかるようだった。  「もう一つ貴君にアドバイスしたいことがある。そ の原稿を読んでみて、どう思う?」  私は車酔いしないよう注意深く、原稿から目を離 して、もう一度冒頭部分を読み返してみた。  今日は足元も悪い中……というくだりも、原稿に 書かれていた。  「講演会では、ここにある原稿のとおりにお話しに なっていますね」  「そのとおり。わたしはひとつのプレゼンのために、 入念に原稿を作り、三十同は練習する。練習する中 で、詰まる場所は、言葉が悪い場所なのだ。そして 私のセリフが止まるということは、聴衆の理解もそ こで詰まる。言葉は音楽のようなもので、それが途 中で詰まるということは譜面が悪いということであ るため、修正するのだ。天気予報を信じたため、冒 頭の挨拶は修正し忘れたがな。そして何度も繰り返 すことで、体と口が覚えて自分のものになる。これ まで何百同と講演を経験し、教授職についた今でも、 その習慣はやめない。貴君も参考にすると良い」  今日の講演会のスケジュールも忘れているのに、 こんなに入念に準備をしているとは、私は思いもよ らなかった。班目教授は、たしかに色々なことを 言ってくるが、その背景には大きな努力に裏打ちさ れた物事があるのだと思い知ったのだった。 そのプレゼンを、あなたの「嫌いな人」 が話していたら?  「ところで、貴君は嫌いな人とか、苦手な人がいる かい?」  突然、思わぬことを聞かれて私は驚いた。苦手な 人ならば、今、目の前にいると言いそうになって、 やめた。  「嫌いであったり、苦手な人物がいるというのは、 プレゼンの練習のためには良いことだ。例えば自分 が作ったプレゼンを、自分が嫌いな人間が作ったも のだと想像して見直すんだ。『アイツが作ったプレ ゼンなんて、めちゃめちゃに文句つけてやれ!』と 思うことで、見直しの精度はぐっと上がる。自分の プレゼンというのは愛着があるもので、なかなか大 手術しようとする気にならないものだからね」  なるほど、と思いつつ、私は気になることを尋ね た。  「班目教授は、嫌いな人物はいるんですか?」  対向車線の車が、道行く他の車に対して、ファン と短くクラクションを鳴らした。一瞬の間があって、 彼は答えた。  「そりやあいるさ。話のわからない教授、問題の本 質が見えていない学会のお偉いさん方、きりがない よ。それに……」  班目教授は私の顔を見た。  「えっ……私?」  「違うよ。君の前任の……」  私は体が硬直するのを感じた。なにか、とんでも ない秘密を聞き出そうとしているような気がした。  「正確に言うと、前任の前任かな。彼は私のプレゼ ンの向上に大変役に立ってくれたよ。あはは」  前任の前任……町村常務取締役だ。やはり、班目 と何かがあったのだ。そして班目教授の言葉には、 もう一つ、大切な情報が含まれていた。  私かまだ知らない前任者は、班目教授としての印 象は悪くない……冫・   それから数分、班目教授は沈黙し、窓の外を見て  いた。私も、何をどう聞き出したらいいか、わから  なかった。そうこうしているうちに、タクシーは停  車した。目的地に到着したようだった。  班目教授はタクシーの代金を支払うと、私に向き 合って、言った。  「今日は貴君のプレゼンを聞くことができなくてす まない。明日でもいいかな?」  「はい、よろしくお願いします」  私は頷いた。  「では、また明日」  颯爽と去っていく班目教授。彼の背を見送りなが ら、今日もまたいろいろなことがあったな、と思っ た。そして、あたりを見同した。見覚えのないマン ションが、十何棟と並んでいた。街頭の明かりが、 一直線に並び、まるで地平線の向こうまで続いてい るようだった。タクシーが一台も通らないどころか、 野良猫の一匹もいやしない。一体、ここはどこなの だ。  「やっぱり……あいつは嫌なやつだ’・」  私は入っ子ひとりいない、真っ暗で寂しい道路の 真ん中で叫んだ。  班目教授の講座2時間目  「人に伝える」ときに、何か起こって  いるのか?  自分が書いた文章であれ、プレゼンのための原稿 であれ、発表する前に自らで声に出して読み上げて チェックすることはとても大切なことだ。  自分で読んでみて引っかかる場所は、相手にとっ ても理解しにくい部分であるし、もちろん自分が理 解不能なところは、もちろん相手も理解不能だ。  では、どうしてそう言えるのだろうか?  私たちは文章を読むとき、無意識的に音声に変換 する癖があるらしい。  くilhauer氏は、英語圈最大のQ&Aサイト [Yahoo Answers]に投稿された質問のシステムを        I 利用して、ある7研究を行なった。  その結果から、本などの活字媒体を読む際に、声 に出さずに黙読していても頭の中で文章を読み上げ る「声」が聞こえる、という人が8割以上を占めて いることを明らかにした。  また、認知心理学を研究する高橋麻衣子氏は、私 たちは活字媒体を理解するときに、声に出して読む (いわゆる「音読」)方が、黙って読む(黙読する)ことよ                  I りもより理解できるという実験結果を8報告した。  このように、音声で文字情報を理解しようとする 行為は、私たちが無意識的に行っていることだと言 える。  従って、私たちが自分で作った文章やプレゼン原 稿を声に出して読むことは、他人の脳内で起こる現 象を再現していると考えられないだろうか?  そこでもし詰まったり、理解しにくいことがあれ ば、他者もやはり同じような状態になってしまうと いうことだ。  エヴァリストーガロア。フランスのブー ルーラーレーヌで生まれた数学者。十二歳 で、すでに数学に対して素晴らしい才能を 見せていたが、教師には評価されず「つま らない質問をして教師を困らせる」と評さ れた。  また、パリ科学アカデミーに送った論文 も、誰にも見られることなく、そのまま紛 失されたという。  彼は、この世界のくだらないわからず屋 たちへの激しい怒りを抱いた。そして数学 に対するたぐいまれな才能を持ちながら、 革命思想と政治運動の中に飛び込んでいっ た。そして理由のよくわからないいざこざ に巻き込まれ、やくざ者と決闘する羽目に なった。決闘の前夜、時間に追い立てられ ながら数学に関する最後の論文を書き、翌 朝の決闘で、命を落とした。 暗雲の立ち込めるランチ  長谷川さんは実に美しくサーモンのムニエルを食 べる。ナイフで適度な大きさに切りそろえ、上品に 口に運ぶ。  今、私は職場近くの、手ごろな値段で食べられる フランス料理店でランチを取っている。   この様子を他の女子社員に見られたら、何か陰で 言われるかもしれないが、そんなことは気にしない でおくことにする。長谷川さんが昼前に、私のデス クのところにやってきて、こんな会話を交わしたの だ。  「山田さん、大事な話があるんだけど。ちょっと食 事にいかないかい?」  「それって、仕事に関することですか?」  「それ以外に君に話をすることなんて、何かあ る?」  わざわざ仕事のことかと確認する私も大概だが、 きっぱり言いきってしまうところも長谷川さんらし い。そんな長谷川さんのことを、私は嫌いじやない。  長谷川さんにとって、私はワンーオブーゼム、そ の他ごろごろいる女性社員の一人にすぎない。少し だけ価植があるとすれば、自分が担当したくない班 目教授の連絡役という、いわば「班目防波堤」であ るという、この一点だ。 「それで……本題なんだけど」  長谷川さんが水を一口飲んで言った。 「町村常務が囗本に戻ってくる」 「えっり」  私は口に運びかけていたパイの包み焼きを落とし そうになった。慌ててお皿に戻そうとしたら、パイ の具が全部テーブルの上に落っこちた。  「マレーシアの支社での仕事がひと段落したという ことで、この東京本社に戻ってくることになった」  長谷川さんは手にしていたフォークを皿の上に戻 して、それから注意深く言葉を選ぶように、ゆっく りと言った。  「私は一度だけ会議で町村さんと同席したことがあ る。まさに敏腕というか、パワフルというか……何 か物事を決めるときの決断力、人々を引き付けるカ リスマ性、そういうものを備えた大だった。あの人 の仕事ぶりをまた目にすることができるのは、ビジ ネスパーソンにとって何よりの勉強になる。そこい らの書店に並ぶビジネス書の百冊にも勝るだろう」  長谷川さんの言葉を聞いて、私は微妙な気持ちに なった。長谷川さんは、私か本を好きであることを 知っているはずだ。実際に目の前にいる人から学ぶ ことも多いけれど、わざわざ私の前で本を貶さなく ても……。  でも、長谷川さんにとって私は「班目防波堤」な のだから、私かどう感じようがどうでもいいだろう し、誰にでもそういうことを気にしない性質なのか もしれない。  長谷川さんは、町村常務が戻ってくることを好意 的に受け止めているようだ。しかし彼の表情は、 まったく嬉しそうに見えなかった。  私は気になることを訊ねた。 「それで……どうしてそんな話を私に?」 「君が班目教授の連絡役だからだよ」  彼はひと呼吸おいて、続けた。  「以前に話したことの続きを話そう。班目教授とわ が社にはトラブルがあった。具体的に言うと、班目 教授と町村常務の間にだ。町村さんから言わせれば、 班目教授の相手などやっていられるか、ということ になり関係は解消。町村さんはマレーシアヘ異動し た。それからまもなくして、共同研究はいったん休 止。そういう一件があったから、君は注意するべき だ。万が一、町村さんに班目教授のことを聞かれた ら、けっして、班目教授を褒めるようなことを言っ てはいけない」  私は頷いた。  「大丈夫ですよ、褒める要素はどこにもないですか らね」  長谷川さんは笑った。  「それでいい。君はNジェネテイクスの人間だ。班 目教授か町村さんか、どちらか選べと言われたら、 町村さんを選ぶ。それは常識だろう。それでいい、 それでいいんだ」  まるで長谷川さんは、自分に言い聞かせるように 言った。  正直、私は長谷川さんの考えが、いまひとつ理解 できなかった。たとえ町村さんと班目教授か喧嘩し ていたって、それは私には関係ないことだ。私はた だこの共同研究がうまくいくようにすればいいはず だ。こういう考えを、子供だというのだろうか?  『……y』ヽ心配頂き有難うございます。肝に銘じてお きます。それで、この話って、私のことが心配だと いうより、長谷川さんが困るからですよね? 私か 町村さんに怒られて連絡役を解任されたら、次は長 谷川さんが連絡役になるから……冫・」  「その通りだよ」  と長谷川さんはきっぱりと答えた。  店を出た私たちは、その場で別れた。私は班目教 授に会いに行かなくてはならなかった。先日のプレ ゼンのリベンジだ。今、私のカバンの中には、修正 したプレゼン資料とノートパソコンが収められてい る。  長谷川さんは会社に戻るため、私とは反対方向へ と歩き始めた。  本当は、彼にひとつ聞きたいことがあった。前任 者の話だ。  班目教授と町村常務が仲違いして、町村さんがマ レーシアヘ異動して、共同研究が休正した。この間 に、大切なことがひとつ抜け落ちていないか? ひ とり、連絡役の前任者が存在するはずなのだ。  その人は、長谷川さんの言葉では「つぶれた」と 表現された。一体、いつ、何か起きたのか。私たち がムニエルとパイを食べる時間では、とうてい聞き 出せない話だった。 距離は長さでしか測れないし、温度は 高さでしか測れない  その日の午後、私は班目教授の元を訪ねた。先日 のプレゼンのリベンジを果たすために。  私は用意した資料を見ながら説明した。  「近年、情報化社会の流れを受けて、購買層はさま ざまな情報に触れることができるようになりました。 化粧品業界においては、『肌に優しい』や『オーガ ニック』などの化粧品の性能を表現する言葉が氾濫 し、顧客にとって本当に大切な情報や、信頼性が伝 わらない状況だと思います。とにかく情報量が多い。 そこで私たちが注目するのが、ドクターズコスメで す。専門家の知見に裏打ちされた製品であることは 大きな信頼性を持ち、その他のいくつもの言葉より も強力に、正確に、顧客に伝わると考えています」  私はチラリと班目教授を見た。彼は黙って私の話 を聴いていた。  「一方で、わが社が班目教授と共同で開発したドク ターズコスメは、五年前に開発したもので、それ以 降、見直しが行われていません。改良を加えなけれ ばならない理由は、消費者の動向の変化があるため です。ここ直近の動向を調査した結果に基づく商品 開発を継続することで、今後も長くこのシリーズを 継続できると考えます。そこで私か着目したのが、 アンケートから見えてきた『肌への即効性』という キーワードです。つきましては私か提案したいのは、 すぐに肌に効果がある、効果があると感じられる製 品です」  班目教授は椅子に深く腰掛け、足を組んで私を じっと見ていた。私の話が終わっても、しばらくそ うしていた。  「うん、良くなったよ。はじめよりずっと」  私は全身の力が抜けたように感じられた。溜まっ ていた涙が流れ出しそうになった(泣かなかったけれ ど)。  「起承転結も明確になった。どのような分析に基づ いて、何を改良していくのかが明確になった」  よくぞ言ってくれました、と私は心の中で叫んだ。 先日、班目教授に説明された起承転結の流れに、自 分のプレゼンしたい内容を落とし込んでいったのだ。 特に起承転結のそれぞれの中で、言葉がつながるこ とを意識した。例えば、  起一ドクターズコスメという言葉の信頼性は強    い。  承一わが社が開発したドクターズコスメは五年    間見直しが行われていない。  転一アンケートの結果から、見直しを行いたい。  結一アンケートの結果「すぐに肌に効果がある、    効果があると感じられる製品」が求められて    いると判断し、これを提案した。  班目教授のアドバイスのとおり、起、承、転、結 のそれぞれの言葉の間で、言葉がリレーするように した。こうすることで話が頭からお尻までつながる のだ。私はこの方法を『言葉のリレーの公式』と名 付けることにした。  班目教授はにこりと笑って、続けた。  「プレゼンの構成は良くなったが、まだ満点ではな い」 「満点じやないんですか」  私は一転して、悲しそうに言った。  「まず言葉の問題。『信頼性』は『大きい』とは言 わない。『信頼性が高い』と言えば正しい。なんで も『大きい』または『小さい』で表現してしまう人 もいるが、あれは乱暴だ。他にも表現を間違えやす い形容詞がたくさんある」            誤         正     信頼性一大きい・小さい ↓ 高い・柢い   距離・長さI大きい・小さい ↓ 長い・短い      温度一熱い・冷たい  ↓ 高い・柢い  「日本語とは不思議な言葉で、形容詞が多少間違っ ても、なんとなくニュアンスが伝わってしまう。で も科学の世界では、間違った文章のままでは意味が 通じない。なぜなら形容詞は測定方法と関係がある からだ。距離は長さでしか測れないし、温度は高さ でしか測れない。形容詞の表現を間違うと、実験の 方法が正しく伝わらないのだ」  「……たしかに、温度が熱いって、日常会話では口 にしてしまいますが、温度は数字で表されるものな ので、熱い冷たいではおかしいですね」 その主張には「適切なエビデンス」が あるか?  「あとは、具体性や科学的な根拠が弱い。例えば 『ここ直近の動向を調査した結果』と言ったが、誰 に聞いたどんな調査なのか? 調査方法は合ってい るのか? もし私かエアコンのセールスマンだった として、近年の日本家屋の室内の温度上昇を示すの に、北極の氷山の面積が減ってシロクマが困ってい る話をしても説得力がないだろう。日本家屋の温度 と氷山の面積は、直接的に関係がないし、指標も部 屋の『温度』と氷山の『面積』では異なる」  私は手元のメモを慌てて見なおした。  「動向を調査した結果というのは、FI層がスキン ケア購入時に重視することは何か、という調査です。       − 発信したのは4C Channelという企業です」  私は、長谷川先輩の資料に書かれていた情報元を、 そのまま読み上げた。  「ちゃんとメモを取っていたのはよろしい。貴君の プレゼン資料の中に明記されていれば、もっとよろ しい。このように、その情報がどこから来たのかを 示すことを『出典を示す』などと言う。学術論文の             I 場合は『参考文献』と呼ぶ9.これらの根拠が示さ れていることで、プレゼンに説得力がもたらされる のだ」  そうなんだ。単純に「こんなことが書かれていま した」だけでは、証拠にならない。それなら、私が でっち上げることだってできる。  出典を示すことで、「ちゃんとした調査に基づく 話です。疑うのならば出典を調べてみてくださ い’・」と、胸を張って言うことができる。長谷川先 輩のプレゼンは、それらができていたから、説得力 が感じられたのだ。  「貴君、なんだか悟りを開いたような顔をしている が、まだまだ指摘することがあるぞ。FIつてなん だ?」  「へっ、エフワン?」  「貴君が参考にした調査の中にあった言葉だろ う?」  班目教授はあきれ顔になって言った。  「ああ……FI層ですね。これはマーケティング分 野の表現で、20〜34歳の女性という性別と年齢層を 表す言葉です」  「うん。じやあFIは君が製品を売り込みたい年齢 層と合致しているんだね?」  「えっ……」  言葉が止まった。そこまで考えていなかった。 「FI層の特徴は?」  「一般的に、FI世代は、消費意欲が強く、特に美 容やスキルアップなど、自分自身の向上のためにお 金をかけることを惜しまないと言われています。一 方で、社会人になって十数年までの層を含むので、 経済力は他の層に及ばないという一面も持ちます」  「FI層の次の世代はなんて言うのかな?」  「F2層と言います。35〜49歳の女性を意味します。 このF2層の女性は既婚者も増え、家庭内での重要 なポジションを確立し、購入する商品の決定権を持 つことや、FI層と比較して購買力もあるのが特徴 です。そして、化粧品に対する考え方には、FIと F2には大きな差があります。それは前者が美しさ を、後者は健康に対する意識が向上していると言わ れていることです」  「じやあ、どうして貴君はFI層に注目したん だ?」  「それは、FI層に受け入れられれば、継続してF 2層でも使用してもらえるという予測ができるから です」  「だとすると、我々はFI層だけに注目していて良 いのかな?」  私はしばらく沈黙して考えた。  「……ドクターズコスメは、どちらかというと、比 較的年齢の高い層に受け入れられてきた製品かもし れません。また価格も高めに設定している場合があ ります。もちろんFI世代もターゲットに含まれる のですが、F2世代も含めなければいけませ ん……」  「柔軟な姿勢で実によろしい。もしF2世代も我々 の開発する商品のターゲットだとして、F2世代の 商品に対するアンヶIト結果がFI層のそれとまっ たく異なるものであれば、貴君は主張を考え直さな くてはならない。自分が主張したいことに対して、 適切な証拠を用いなくてはならないということだ。 注意するべきは、自分に都合の良いデータだけを集 めてきて、主張を作ることだ。例えばAという主張 をしたいとする。九割の意見がBであるのに、自分 にとって都合の良い一割のAという意見を集めてき て主張を形成する……y』れが一番やってはならない ことだ」  班目教授の話を聞きながら、私はまた涙目になっ てきた。  「……プレゼンを作るって、本当に難しいことなん ですね……ゝつゝつっ」  班目教授は首を振った。  「難しいことなんてない。約束事は一つだけだ。ど れだけ物事に対して誠実であるか、だ」  班目教授は厳しい表情のまま、私に向き直った。 「誠実」という言葉を聞いた私は、なんだか自分が 誠実な人間ではないと言われたような気持ちになっ て、さらに悲しくなった。  ふと、班目教授は厳しい顔つきをやめて、言った。  「君は物理学者のファインマン先生を知っているか い?」  「いいえ」私は素直に首を振った。  「ファインマンーダイヤグラムでノーベル物理学賞 を受賞した学者なんだが、彼は実に面白い人物だ。 ぜひ自伝などを読んでみるといい。彼はカリフォル ニア大学の卒業式の式辞で、ある興味深い話をした。 ある囗、ファインマン先生はとあるメーカーのフラ                 − イ用の油の広告を目にしたという10。そこには『揚 げ物の材料に染み込まない油』という謳い文句が書 かれていた。彼はこの広告は必ずしも嘘ではないも のの問題があると述べた。どこに問題があるか、貴 君にわかるか?」  少し考えてみたが、わからなかった。私はまた首 を振った。  「実は、ある温度で処理すれば、どんな油も食物に は染み込まないんだ。逆に言うと、この会社の油で あろうが他の製品の油であろうが、ある温度でなけ ればどんな油だって食材にはやはり染み込む。結論 として、ファインマン先生はこの広告のことを『暗 示』であると表現した。暗示と事実には違いがある。 そして我々は恣意的な暗示に頼らない、誠実な表現 を心掛けなければならない」  班目教授と開発するドクターズコスメの在り方に ついては、さらに検討を続けることになった。二歩 進んで一歩下がる、まるで水中を歩くような気分 たった。  重い足取りで、大学から会社へと戻った。バス停 までの下り坂を歩きながら、班目教授は誠実な人か と考えていた。間違いなく、彼は誠実な人なのだと 思う。私の誤りは指摘するし、正しい所は褒めてく れる。  彼と一緒に仕事をするのは、ゆっくりとした歩み で、とても大変なことなのだが、この方向は間違っ ていない、そう私は思った。  「溶鉱炉の炎」の凱旋  Nジ子不ティクス社の一番大きな部屋である大会 議室に、社員が整列していた。  面接試験のときにしか会ったことがない、会社の 上層部の面々……総務部長、常務取締役、そしてN ジ子不ティクスの社長が、私たちに向き合うように して立っている。  そこに見慣れない男性がひとり加わっていること に気が付く。  がっしりとした体に、短く刈られた髪と、はっき りとした目鼻立ちが印象的である。眼鏡はかけてお らず、そのくっきりとした眉が目立っている。  会議室に並ぶ社長や他の取締役だちと明らかに異 なる点がある。その人物からは、ものすごい干不ル ギーを感じるのだ。この人物が、班目教授と仲違い をしたI。  「町村です。みなさん、お久しぶりです’・」  力強い声たった。日焼けした顔が一瞬崩れて、笑 顔を作った。その笑顔はマレーシアの日差しの下に 五年間いたことを物語っているようだった。  パチパチパチ、と拍手が響いた。  「拍手はいらない’・」  突然、大声が響いて、全員の手が止まった。私は 呼吸が止まった。  大声をあげたのは、他でもない、町村常務だった。  「私はまだ日本に戻ってきて、何の成果もあげてい ない。拍手を受けるべき人間ではない。さきほど社 長に聞いた話だと、この会社の成長率もここ五年で 横ばい。製品開発については、ほぼストップしてい るという。君らも、のんきにこの一人のおっさんに 対して拍手している場合ではない’・」  若手社員から、おおっ、というどよめきが起こっ た。  しばらくの沈黙の後、発言したのは社長だった。  「まあ、まあ、町村さん。囗本に戻ってきてから、 いきなリギアをトップに入れるのも良くないでしよ う。しばらく落ち着いて囗本の空気に馴染んでくだ さい。また、社員のみんなにお知らせしておきます が、町村さんは、わが社の溶鉱炉の炎です。囗本の 本社のテコ人れのために戻ってきてもらいました」  私は他の社員をチラリと見た。長谷川先輩の様子 が目に入った。彼はどこか興奮しているようだった。 続けて私は直属の上司の、企画課長を見た。彼はど ことなく青ざめているように見えた。  長谷川さんも課長も、私とは違い、囗本にいたこ ろの町村常務を直接見知っているはずだ。私にとっ て町村常務は、理解の範囲外にある人物たった。そ して強い違和感があった。溶鉱炉の炎? そんな形 容詞で語られる社員が、このNジ子不ティクス社に いただろうか。  私にとって他のNジ子不ティクスの社員の印象は、 善くも悪くも「他人にあまり関心を払わずに、物事 をスマートに粛々とこなしていく」というものだっ た。  会話や会議などの場では、相手への否定を極力避 けて、冷静にすり合わせていく。できる限り熱量を 費やさないように……それがこの会社の人たちの姿 だと私は考えているし、それでこの会社はちゃんと 回っていたと思う。だから、溶鉱炉の炎は異質に感 じられたのだ。  長谷川さんと課長の様子がまるっきり相反してい たことが暗示していたように、町村常務が戻ってき てから、社内は混乱し始めていた。町村常務は社内 のミ上アイングにふらりと顔を出しては、そこかし こで火をつけていった。具体的には、社員の発言に 積極性がなかったり、要点だけをまとめたような短 いプレゼンなどに対しては、激しく追及して叱責し た。  私たち企画課のミーティングにも、町村常務は現 れた。  私にとって先輩の女性社員、三田村さんが、今後 三年間の化粧品業界の動向について五分間のプレゼ ンをしたのだが、その内容に町村常務は納得がいか なかった。  「これから三年間の変化が、その程度であるとは、 ちゃんちゃらおかしい’・ どんな分析をしたらそう なるのだ。幼稚園児の連絡係かお前は’・」  三田村さんは、顔を真っ赤にしてうつむいた。  町村常務のあまりの剣幕は、三田村さんのプレゼ ン内容がどうだったか、すべて記憶から飛んでしま うほどだった。  「軽い’・ 軽いツ’・ 向こう三年間の分析をするの に、ものの五分で終わる話のはずがない。まずその 姿勢がおかしい。最低、一時間ぶんのプレゼンを用 意せんか」  私は企画課長の片栗さんを見た。そもそも、プレ ゼンは五分間という決まりだった。膨大な情報を五 分間に整理することで、本質を明確にし、情報を効 率良く共有しよう。そういうミーティングのはず だった。そう片栗さんが言ってくれれば、場は収ま るのに、片栗さんは動かなかった。無表情のまま肩 をすくめるようにして、じっとしていた。  声を上げたのは三田村さんだった。  『……y』のプレゼンは五分間で行うという決まりな のです」  すごい勇気だったと思う。私には言えなかっただ ろう。しかし、町村常務はその言葉を瞬殺した。  「馬あ鹿かあお前はあ’・ 五分って言われて、(イ そうですかって右にならえって姿勢が幼稚園児なん だよ’・ 五分間に収まらないと自分が考えれば、一 時間でも二時間でもしやべるくらいのプレゼンを準 備しろよお’・」  町村常務は全員を見渡した。  「いいか、上司の前でプレゼンするときは、地べた を這いずり同って、血反吐を吐いて、死ぬほど自分 を追い詰めて追い詰めて、努力して努力して、積み 上げたものをまず見せろ。それから話を聴いてやる。 その姿勢が見えないヤツの話を聴くほど、こっちは 暇じやねえんだよ。自分の好きなもの、やりやすい ものだけをつまみ食いするような仕事は無意味だ。 自分一人でできなれば、他の人間も巻き込んでいけ。 で、私は間違ったことを言っているかな、片栗 君?」  企画課長は、顔を持ちあげた。 「勉強になりました。取り入れてまいります」  町村常務は頷いた。それから三田村さんに向き 直った。笑顔になっていた。  「いやあ、さっきはすまなかったね。ちょっと言葉 が激しかったら申し訳ない。これが私のやり方なん だ。いったん火をつけるんだよ。焼け野原にする。 そしてもう一度、そこから再生していく。焼き畑農 業ってあるだろう? それだよ」   それだけ言うと、町村常務は部屋を出ていった。   三田村さんは、ドッと椅子に倒れこんだ。 「……一一一田村さん」  私は声をかけた。言葉が続かなかった。  三田村さんはしばらく沈黙したあと、片栗企画課 長を見た。  「……で、どうしましようか、課長? 町村常務殿 のご意見をどうしますか?」  自分を助けてくれなかった片栗さんへ、いささか 怒気のこもっだ声たった。  「そうだね。次からは時間制限はなしとしよう。そ して、共同でレポートをまとめることができる体制 を検討しよう」  会議が終わり、廊下に出た。三田村さんはどこか に走り去ってしまった。私かモタモタしていると、 あとから部屋を出てきた長谷川さんに話しかけられ た。  「いやあ、凄かったな、町村さんの迫力」  「そうですね」  私は短く返事した。  長谷川先輩は、町村常務がつけた火によって、提 灯に明かりがついたかのように高揚していた。いつ も自い陶器のような頬も、いくぶん赤く見える。  「僕たちはぬるま湯につかっていたのかもしれない。 ビジネスパーソンとして、停滞していたのかも。町 村さんの言葉で目が覚めたよ」  私は返事をしなかった。たしかに町村常務は、 まっとうなことを言っだのかもしれない。でも、他 の伝え方があっだのではないかと私は思う。  少なくとも、メンバーの前で叱責された三田村さ んは傷ついた。町村常務は「焼け野原にする」と 言ったが、それは自分の畑ならばいいけれど、他人 の畑を燃やしただけではないか。  そんな私のような気持ちは、長谷川先輩にはちっ ともないようだった。私はただ肩をすくめるしかな かった。  これから私たちの企画課は……y』の会社はどうな るんだろう?  少なくとも言えることは、これまでの空気は失わ れてしまったということだ。そして町村常務側の人 間と、そうでない人間たちに分かれていくのではな いか。  私はふと、学生時代に見た一枚の絵を思い浮かべ た。ギユスターヴークールベの『波』だ。クールベ は何作か『波』と題する絵を描いた。そのなかでも 1869年作のある一枚を、私は強く思い起こした。  鉛色の空の下に、黒い海が激しくうねっている。 そして画面の右側に小さな帆船が見える。船の前方 には、これから起こる不吉なことを暗示するように、 暗く分厚い雲が見える。これから帆船はどうなるの だろうか。  私の記憶の中にあるクールベの描いた帆船は、な すすべもなく暗い方向へと舵を切っているように描 かれていた。  「心のフィルター」で、不要な粒子を ブロックする  目の前のモニターには、浴衣姿の班目教授か映っ ている。愛媛県の道後温泉で開かれた学術会議に教 授は参加していたのだった。  「班目教授、学術会議は終わっだのですか?」  「貴君、はじめに言っておくが、私は決して遊んで いるわけではない。浴衣が学術会議の正装なんだ。 有名な温泉旅館で開かれていてね。貴君は疑ってい るのか? 私か仕事をしていないと」  彼が何を着ていようと、私にはどうでもいいこと なので、適当に笑顔を作っておいた。  私は班目教授にあることを頼まれていた。ドク ターズコスメに対する使用者からのアンケート結果 についてまとめるよう依頼され、今日はその概要を 報告する日だった。  班目教授は私の報告を聞き、さらに詳細なデータ を欲しかった。このウェブでの打ち合わせのあとに、 すぐに私から送信すると約束をした。  「……ところで貴君、なんだか元気がないように見 えるが、何か問題でもあったか?」  班目教授にそんなことを聞かれると思っていな かったので、私は狼狽した。  「どうしてそう思いますか?」  「いつもの君ならば、ぐだぐだと話が長い。今日は 話が簡潔だ。何か体に悪いものでも食べたか?」  私はいささか腹を立てて、言った。  「食べてませんよ’………実は、ちょっと苦手という か、肌にあわないという方が社内にいまして。どう したら歩み寄れるのかなと考えておりました」  自分の会社のことを……しかも町村常務の話を、 班目教授にしてはならないと思った。あやふやなこ としか言えなかった。  「その人物と友達になりたいのかい?」  「は? 友達?」  予期せぬ言葉に私はまごついた。  「ええ、まあ、仲良くなれればそれに越したことは ないです」  「例えばね、魚や昆虫などは、餌の確保や衛生維持 などでギブーアンドーテイクの関係があるときに、 助け合うことがある。普段は争っているような関係 でもね。テッポウエビとハゼの関係がまさにそうで、 『共生』と言う。悲しいが、人間も根源は同じで、 基本は敵対するものなんだが、ギブーアンドーテイ クで友情は成立する。貴君が職場でその人物に対し て手助けできることがあれば、自然と友人になる」  私はため息をついた。直球的に話をしたほうがよ さそうだ。  「教授、大学にパワハラつてありますか?」  「んん? パワハラだって? あるさ、しょっちゅ う」  そうなんですか、と私は声を上げた。  「さっきも言ったように、基本的に人間と人間は仲 良くはなれん。これは自然の摂理で、仕方がないこ とだ。そして世の中には、自分に対する制御がきか ない人間がいる。大学の中は、そんなのばっかりだ。 自分に制御がきかない人間だから教授しか仕事がな いのかもしれん」  「そういうものですか……」  班目教授は、しばらく私の顔を覗きこむように見 た。  「話は深刻そうだねえ」  そう言って、教授は画面から消えた。まもなく、 彼は水の入っだコップと、ドリップ式のコーヒーを 持って画面に戻ってきた。  「旅館にはこういうものがあって実に便利だ。さて 貴君。今からこのコーヒーをコップの水に入れる」  班目教授はドリップ式のコーヒーを、コップの水 の中に入れた。本来ならばお湯を入れるべきところ、 水だと飲めたものではないだろうし、抽出するには 時間がかかるだろう。現に、私たちはしばらく待っ た。おそらく、彼はよほど暇なのかもしれない。  しばらく待つと、コップの水が黄色くなってきた。  「これだよ」  「さっぱりわかりません」  「フィルターだよ。君が欲しいのはコーヒーであっ て、コーヒーの豆ガラ……粒子ではないはずだ」  彼は画面越しに、薄く抽出されたコーヒーを私に 見せた。透き通っていた。  「パワ(ラをする人間と対峙するときに問題なのが、 価値のある指導なのか単なる怒りなのか、境界がわ からなくなることだ。価値ある指導は通したいが、 単なる怒りの場合は、自分側……すなわちフィル ターのこちら側に通してはならない」  私は班目教授の手に握られた黄色い液体をじっと 見た。そして訊いた。  「そのフィルターつて、どうやったら手に入ります か?」  「フィルターはすでに貴君の手の中にある。貴君は そのフィルターを厚くするだけだ」 「厚く……冫・」 「その人物との間に厚い壁を作るんだ。怒りという 不要な粒子を内側に通さないようにする。その粒子 が君のところに届かなければ、その粒子はどこかに 流れていく。もし、粒子がフィルターをすり抜けて しまい、すなわち叱責されたとしても、自分がダメ な奴だと落ち込まないことだ。粒子は液体の中を拡 散する……すなわち、その人物の怒りは誰にでも向 くのだから、君にだけ向けられるものではない」   フィルターを厚く……できるだろうか。三田村さ んに向けられたような言葉を受けたとき、私は冷静 に対処できるだろうか。  「まあ、すぐ怒る人間というのは、脳の機能に問題 のあるやつが多い。脳の前頭前野が未発達な人間は 感情の抑制が効かず、感情のコントロールが困難に   I なる11。衝動的に過激な攻撃行動をとってしまう。 また、自分が正しいと思い込んだことを他者にも要 求してキレる人間は、ドーパミンという興奮性の神 経伝達物質が分泌されることで、キレること自体に 快感を覚えてしまう状態になっていて、手が付けら れない。どうしようもない」  「どうしようもないって……でも、理不尽なことが あっても、会社の中では避けられないですよ。どう したらいいんですか?」  「離れることだ。同じチームから離れたり、仕事を 辞めるかだ。それが無理ならば、精神的に切り離 す」  「精神的に切り離せるものなんですか?」  「できるさ。さっきも言っだけれど、貴君に攻撃を 向けるということは、同じように他の人間にも攻撃 しているのだろう。誰でもいいんだ。彼にとって怒 りは『こんにちは』とか『おはようさん』程度の挨 拶だ。貴君の評価が下がったりしたわけではないし、 そもそも、そんな人間の評価など気にしなくていい。 それに、科学的に言えば、生物はいつか死ぬ。いつ かそいつも死ぬさ」  そんな身も蓋もないことを班目教授は言い、コッ プを画面の隅に置いた。そして小さくため息をつい た。  「世の中は理不尽なことだらけだよ。思い通りにい かないものさ。君はエヴァリストーガロアという数 学者のことを知っているかい?」  「いいえ」  私は素直に首を振った。  「アインシュタインの相対性理論にもつながる、数 学の理論を作った人物なんだけれどね、彼は二十歳 で、よくわからない決闘のために命を落としたん だ」  「ええっ、数学者が決闘で? しかも二十歳 で……冫・」  「ガロアの業績は、『ガロア理論』として名前を冠 され、彼の『群論』は数学の分野において重要であ るだけでなく、数学以外、例えば物理学では相対性 理論や量子力学などを厳密に記述するために用いら れている。そんな人物も、やっかいごとに首をつっ こんだり、関わりすぎたりしてしまったことで、若 くしてあっけなく命を落としてしまったのだ」  しばらく私と班目教授は沈黙した。決闘の話を聞 いた私は、町村常務の理不尽さが、少しだけ緩んだ ように感じられた。やがて教授は静かに私に尋ねた。  「……もしかして、町村氏が帰国したかね?」  私は班目教授の顔を驚いた目で見た。  「はい」  「そうか」  班目教授はそれだけ言って、じやあまた今度と一 言残して、通信を切った。  「働かないアリ」にできること  しばらくして、班目教授からこんなメールが届い た。   爿011山田咲良   Froヨ11班目教授   とある研究者がアリの個体にマーキングを          − してヽ行動を調べた12。どんなコロニーにも、 働かないアリ……自分の体をなめたり、 ぼ1つと歩いたり、コロニーのために働かな い存在がいる。しかし働かないアリは、その 巣が疲弊したときに、突然やる気を出して働 くようになる。怠けてコロニーの効率を下げ る存在ではなく、それがいないとコロニーが 存在できないという重要な存在なのである。 組織には働かない存在がいていい。いざとい   うときに働けば良い。                      兎  おそらく働かないアリとは私のことだろう。私か ぼ1つとしているから、ひどい叱責を受けたり、パ ワハラに遭ってめげていると思って、こんなメール を書いたのかもしれない。ちょっと先回りしすぎて、 多分に失礼極まりない。  しかし、決闘で死んだ数学者の話をしたり、アリ の研究を紹介する形で、私を慰めようとしてくれて いるのは確かなようだ。これが班目教授のやり方な のだ。まあ、嫌いじやない。  会社でお茶を入れようとしたとき、私は班目教授 のフィルターの話を思い出した。  厚い壁を作るんだ。班目教授は言った。  あの班目教授だって、他者との間に厚いフィル ターを作って生きてきたんだ、と思った。私からみ れば十分に優秀な人物でも、他者に対して距離をと リ、自分を守って生きてきたのだ。  じやあ、自分はどうか。これまで他者との間の フィルターなど、意識したことがなかった。でも、 それはただ幸運なだけであっだのかもしれない。人 生しかるべきときに、フィルターを意識しなくては ならないのだ。  正直に言って私は町村常務を恐れていた。あの、 たった一回のミ圭アイングは、私を存分に脅えさせ るのに十分たった。  現に、三田村さんはあの一件以来、殺気立ったよ うになっていた。取引先との連絡や同僚との打ち合 わせを最低限に済ませると、資料室にこもって何か を調べていた。おそらく町村常務に指摘されたこと を、そのとおりに遂行しているようだった。  一方で長谷川先輩は、すっかり町村常務の信奉者 となっていた。どこかの課で町村常務が発言したら、 その課に様子をうかがいに行き、発言内容を聞き出 していた。  そして私は町村常務に脅えている。これらすべて の反応が、町村常務の願った通りなのか、そうでな いのか、私にはわからないし、考えたくもなかった。 班目教授の「アイデアーノート」  そうして数日が過ぎたころ、私は呼び出された。 町村常務に。  常務室にひとり呼び出された私は、恐怖のあまり 室内で立ち尽くしていた。町村常務は、部屋の中央 に置かれたデスクの上に腕を置き、にこやかな表情 を浮かべていた。そう、囗本に帰国したときの冒頭 の挨拶のときのように。そして三田村さんを叱責し た直後のように。よくわからない笑顔で私を見てい た。  「山田君は今、班目教授の連絡役を担当しているん だつてね」  私は、ヒュウと息をのんだ。いきなり核心からく るのか。  「その通りです」  私は正直に答えた。  「大変だろう? 彼の相手は。でもね、彼はすごく 優秀だから。学ぶことも多いと思う。うん」  意外なことを言うので、私は眼を見開いて町村常 務を見た。  「それでね。山田君に頼みがあるんだ」  彼はテーブルに両肘をついて、続けた。  「数年前のことだ。私は班目教授と一緒に仕事をし ていたんだ。とある会議で、彼はひとつのノートを 手にしていた。そしてときどき、それに目を落とし ていた。ノートの表紙には『アイデアーノート』と 書かれていたよ。数々のイノベーションを起こして、 わが社に利益をもたらしてきた班目教授は、何かイ ノベーションを生み出す方程式のようなものを持っ ているのだと私は考えている。私はそれに興味があ る」  町村常務はからりとした声で、私に言った。  「わが社には、彼のアイデアーノートが必要なん だ」  班目教授の講座1J時間目 相手を惑わせない、誤解させない会話 文  文章が長く、何度説明を聞いてもよくわからない 人がいる。  そういう人は、言葉の語順が不適切だったり、読 点「、」(卜ひと呼吸)の位置が悪かったりすることが 多い。話し言葉の場合、読点を意識せず、淡々と抑 揚がなく話をされると、理解できなくなってしまう のだ。  例えば、次のような文章を考えてみよう。  @警官が、自転車に乗って逃げる泥棒を追いか   ける。  A警官が自転車に乗って、逃げる泥棒を追いか   ける。  B警官が自転車に乗って逃げる泥棒を追いかけ   る。  この@〜Bは、読点の位置もしくは有無が違うだ けである。  @は自転車に乗っているのは泥棒で、Aでは警官 が自転車に乗っている。すなわち読点の位置が違う だけで、状況ががらりと変わってしまう。  Bは読点がなく、ひとつの状況を思い浮かべるこ とができない。  このような話を会話でされると、よほど読点を意 識しない限り、理解しにくい。では、どう伝えれば いいかというと、  C自転車に乗って逃げる泥棒を警官が追いかけ   る。  D自転車に乗った警官が逃げる泥棒を追いかけ   る。  このCとDが良い。読点がなくても、状況がひと つに定まっているのがわかるだろうか?  なるべく読点がなくても成立する文章(だらだらと した文章ではない)となることを心がけることで、C やDの文章を書けるようになる。  むかしむかしの中国でのできごと。ある 男が妻に捨てられたのち、頑張って出世し たところ、元の妻が復縁を求めてきた。男 は盆の水を地面にこぼし、「これを元に戻 せたら復縁してやろう」と言ったという。 覆水盆に返らずの故事である。  あるいは、アメリカのこんなことわざも ある。  It is no use crying over spilt milk. (こぼしたミルクを嘆いても無駄だ)  しかし、どうして、こぼれ落ちた水やミ ルクは元に戻らないのだろう冫・  「通知地獄」の現代社会  町村常務の部屋を出たあと、私は大きなため息を ついた。  町村常務から呼び出されたとき、班目教授のこと を聞かれることは十分に予測できた。私の返答次第 では、ひどい叱責をもらうことになると思って身構 えていた。  それは不発に終わった。しかし、とんでもない任 務を与えられてしまった。なんだか後戻りできない 一方通行の隘路に迷い込みつつある気分だ。  班目教授のアイデアーノートならば、実は心当た りがあった。班目教授の研究室を訪問したとき、積 み上げられた学術書の上に載っていたことを覚えて いる。  町村常務の言うように、そこに本当にイノベー ションに関する公式のようなものが書かれているの だろうか?  町村常務は「盗んでこい」と言ったが、本当に盗 まなくてもいいだろう。まずは班目教授との打ち合 わせのときに、それとなく聞いてみよう、と私は 思った。  『アイデアーノート』のことを忘れて、今はデスク ワークに集中しよう。  私はメールの画面を開き、届いたメールの確認と 返信をしていく。販売代理店から寄せられたドク ターズコスメに対する要望や、経理課から届く週ご とのわが社の製品の売り上げに関するレポートに目 を通す。  しかしメールを読みながら、頭のどこかでは『ア イデアーノート』のことを考えている。町村常務が 言うような、盗み出すようなことはできるだけした くない。じやあ、どうやって班目教授に切り出そう か。「町村常務がノートを盗んで来いと言ってます。 返さないかもしれませんが、ちょっと借してくださ い」なんて、馬鹿正直に言うわけにもいかない。そ もそも、そのノートには何か書かれているのだろ  そんなことを考えはじめると、メールヘの対応が めちゃくちゃになってきてしまった。必要な添付 ファイルを付け忘れて、送信先からクレームが届い たり、広報課から届いた一通のメールを探そうとす るものの、いつ、どんな件名で受信したのか思い出 せず、片っ端から受信メールを開いて時間を浪費し たりしてしまった。  そんな間にも、どんどん時間が経過して、受信 メールがたまってくる。  「ああ、もう!・ どうしたらいいの!・」  電子メールというものは、鼠算式に増えていくと、 何かのセミナーで聞いたことがあったっけ。その鼠 算になる原因は、電子メールの宛先のCC(カーボン コピ士という機能のせいだ。   CC、カーボンコピー、「あて先(tO)の人に 送ったのですが、このメールの内容を念のため見て くださいね」という意味。情報共有として使うもの で、基本的にはCCで受信した人は原則、返信しな くて良いとされる。しかし、内容は把握しておかな ければならない。CCであれ、メールを受信してし まっているのだから。  このCCの使い方は、実にさまざまで、単純な情 報共有だけでなく、「あなたもこの情報を知ってし まいましたよ。困ったら助けてくださいね」とか、 「私はこんな仕事をしています」という報告を上司 に送っておくときにも使われる。  この機能を考えた人は囗本人なんじやないかなと 思うくらい、日本人的だと感じているのは私だけだ ろうか。  一人の人間が、5人の人間にCCでメールを送信 する。受信者は同じCCの宛先を設定したまま返信 する。そうやってどんどんCCメールが量産されて いく。  さて、何か厄介かというと、そういうCCのメー ルの山の中に、大事なメールが埋もれてしまうとい うことだ。tOで送られてくる場合と、CCで送ら れてくる場合と、メールの見た目は基本的に似てい るので、重要なメールと、(基本的に)重要ではない メールの区別がつかない。  私は、絶え間なく送信されてくるメールの中で、 今日中に対応しなくても良いメール(期限が数日後) を頭の中の記憶ボックスにためておき、すぐに対応 しなくてはならないメールをまず打ち返すことにし ている。時間は有限であり、ずっとメールの画面を 見ているわけにもいかないから、そうなる。  そして何か起こるかというと、対応する期限が数 日後たったメールが、いつしか期限を迎えて、送信 者から怒られてしまうのだ。  私かメールの受信箱を整理していると、スマホの パイプ音がたて続けに鳴った。ヴィーンという音が フェイスブックのメッセージが届いたことを、ブイ ンブインという音がLINEでメッセージを受信し たことを伝える設定にしていた。  ブイーン、ブイーン、ブインブイン、ブインブイ ン、ブイーン。  フェイスブックのメッセージが3通と、LINE が2通来たことがわかる。  「ああもう!・」  フェイスブックも、LINEも、もはや家族や友 人だちとだけでなく、仕事の連絡手段としても使わ れている。注視しておけばいいのはメールだけでは ないのだ。  最後に届いたフェイスブックのメッセージに目を 向ける。兎のマークのアイコン。班目教授からの メッセージだ。あの教授、反重力の名を持ち髪の毛 を逆立てさせ、浮世離れしたいかつい風貌をしてい るが、フェイスブックというSNSもやっているの だ。彼からのメッセージは、次のようなものだった。    爿011山田咲良    Froヨ11班目教授    以前、貴君に依頼した例のドクターズコス   メの成分表について。送ってほしいと伝えた   が、どうなった? メールでもリマインドを   送ったが、見ていないようなので、フェイス   ブックのメッセージでも送っておく。メール  を見よ。                      兎 「やってしまったあ!」  私は頭を抱えた。班目教授からのこの指示を、完 全に忘れていた。町村さんに呼び出される直前に、 教授からの依頼を受けていたのだった。私の頭の中 の「期限が数日後」のボックスに入れてしまい、そ のことをすっかり忘れていた。  「成分表、成分表……’・」  慌てて探すものの、手元にない。最新のデータは 品質管理課に取りにいかなければならない。  品質管理課宛にメールを打とうとしたが、慌てて しまい、誤字を連発してしまう。そこで、よく考え ると、品質管理課は私のいる企画課の隣の部屋だっ たと思い出す。  「直接行ってしまえ’・」  私は駆け出して、品質管理課の部屋に向かった。  幸い、担当の人がデスクにいて、私のメール宛に 最新の成分表を送ってもらうよう依頼することがで きた。そのまま班目教授に転送してしまえば、添付 ファイルのミスも防ぐことができる。こういうとき には電子メールのありがたさが実感できた。  さっさと班目教授宛にメールを打とう、そう思っ て企画課に戻ると、三田村さんが寝不足そうな表情 で、私に向かって言った。  「外線がかかってきていたわよ。東京科学技術大学 の班目教授から」 ミーティングより速い「情報共有」の 手段  私は班目教授に慌てて電話をかけたが、つながら なかった。別の用事があったのか、それとも私かモ タモタしていることに立腹してしまったか。とにか く、丁重なお詫びの言葉と、必要な情報をメールで 送った。 「……直接会いに行くか」  用事がないわけではなかった。このメールの要件 以外にも、打ち合わせをしておきたいことがあった。 それに、アイデアーノートについても……。  たとえ今日、アイデアーノートについての新しい 情報が得られなかったとしても、何かしら調査的な ことを前に進めておかなければ、町村常務に詰めら れたときに窮してしまう。  前門の虎、後門の狼、という言葉がまさにピッタ リな状況に、廊下でくらくらとめまいを感じて、私 は人の目かまわず髪の毛をかきむしった。  班目教授の研究室を訪れる。教授室の扉は開かれ ていて、兎のイラストを背負ったくしやくしやの白 衣と逆立った髪が見える。  「あの……班目教授……先ほどはすみませんでし た」  私かそう言って頭を下げると、意外にも陽気な声 が返ってきた。  「ああ、貴君か。メールは拝受した。ところで、貴 君は実に良い所に来た」  そう言って、教授は足元に積んであった段ボール 箱を指さした。  「これを一つ持って、私のあとについてきてくれん か」  はあ……と私か頷くなり、彼は私の手の上に箱を 載せてきた。持てない重さではない。教授は二つの 箱を抱え、歩き出した。  行き先は、学生部屋たった。  文系の大学を卒業した私には、理系の学生部屋と いうのは珍しいものだった。広い部屋がパーテー ションで仕切られていて、それぞれのデスクに天井 からケーブルかぶら下かっている。おそらくパソコ ンヘとつなかっているものと思われる。  部屋の壁には、天井まで届く棚がしつらえられて あり、学術書のようなものから漫画の雑誌、アニメ のフィギュア、よくわからない機械などが、まるで 子供部屋のようにぎゅっと無秩序に詰め込まれてい た。  「試供品が届いたぞ」  積み上げられた書類や、よくわからない装置の上 から、ひょいといくつもの顔が覗いた。まるで水族 館で見たチンアナゴの群れのような光景だった。学 生たちは、のそりのそりと起き出してきて、班目教 授の持ってきた箱を物色し始めた。  「これ使えそうですねI」  「これはどうだ?」  「うん。ちょっとボリュームが小さいですかねえ」  「最近、調子はどうだ? フローサイトメータは 直ったか?」  「はい。流路が詰まってただけですね。水につけと いたら直りました」  「ところで、その髪型はどうしたんだ?」  「いやあ、彼女に振られてしまって……」  学生は真っ赤に染まった髪の毛を撫ぜながら、ゴ ニョゴニョと答えた。  やがて、学生たちが段ボール箱と班目教授を囲ん で、方々で話が始まった。それはまるで井戸端会議 のようだった。  教授が荷物を抱えて学生部屋に行き、雑談する。 こんなことも教授がするのかと、私は驚いた。班目 教授か忙しいことは、Nジ于不ティクス社の連絡役 である私であっても知っている。会議や出張、研究 の時間の合間を縫って、私は班目教授との打ち合わ せを成立させていたのだ。  班目教授は空っぽになった箱を折りたたんで、小 脇に抱えた。それから私たちは教授室に戻った。  「班目先生って、ものすごく忙しいのに、こんなこ ともするんですね」  「学生とのやり取りのことかな」  「そうです。会議や出張、ご自身の研究の時間でス ケジュールはいっぱいだと思うのですが、学生に試 供品を持って行ったり、雑談に応じたり」  「ああ。それくらいの時間は作らないとね。ずっと 仕事ばかりやっていたら、脳がおかしくなる。それ に……雑談のなかにこそ大事な情報が隠れていたり する」  「なるほど。装置が直ったという話もありました ね」  教授は頷いて、そうだ、と言った。  「定期的なミーティングを待っていれば、それだけ 情報の更新が遅れる。また、ミーティングでは切り 出しにくいことも、雑談では気軽に聞くことができ る」  私は頷いた。  「それに、彼が失恋したという話も重要だ」  そういって班目教授は笑った。  「170時間のムダ」を削減する方法  部屋に戻ってから、私はあらためて班目教授に 謝った。  「メールの対応が遅れて、申し訳ありませんでした。 次回から気をつけます」  「うん」  私の申し訳なさそうな顔を見て、班目教授は短く 頷き、続けた。  「ちょっと、今日は仕事の処理について話をしてみ ようか」  「仕事の処理ですか……」  「うん。貴君はエントロピー増大の法則というのを 知っているか?」  私は首を振った。なんだ、その焼肉の珍しい部位 のような名前の法則とは。  「エントロピーは熱力学という学問でよく扱われる 概念だが、簡単に言うと、無秩序な状態の度合い、                     − すなわち乱雑さを定量的にあらわすものだ13。無秩 序なほど高い値、秩序が保たれているほど柢い値を とる。そして、エントロピー増大の法則を要約する と、『物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方 向に向かい、自発的に元に戻ることはない』という ことだ。例えば貴君はコーヒーにミルクを入れるか な?」  「入れません。コーヒーにミルクを入れるのは、 コーヒ上豆に対する侮辱と思っています」  思っていることを素直に言うと、班目教授はチツ と舌を鳴らした。  「コーヒーにミルクを入れると自然に混ざるが、勝 手にコーヒーとミルクに分かれることはない。一度 混ざったら、何か操作をしない限りはそのままだ。 想像できるか?」  私は頷いた。ミルクをコーヒーに入れているのを、 生まれてこの方見たことがないわけではない。  班目教授は続ける。  「覆水盆に返らず、とか、こぼしたミルクに泣いて も無駄だ、ということわざを聞いたことがあるだろ う? こぼれ落ちた水やミルクは、エントロピーが 大きい状態にあって、自然に柢い状態(盆の中の水や コップのミルク)には戻らないということだ」  「なるほど」  私は相槌を打ちつつ、元に戻らないことというの は、なんだか人生のようなものだなと、ふと思った。  「一方で、生命は、このエントロピー増大の法則に 抵抗する存在と考える研究者たちがいる。我々は生 きている間、食物などから蛋白質や水分や干不ル ギーを摂取し、体を作り、干不ルギーをため込んで いる。すなわち、無秩序な状態から、秩序だった状 態に並べ替えることで生存している。波動方程式や 『シュレーディンガーの猫』という面白い考えを述 べたエルヴィンーシュレーディンガーという科学者 は、生命を『負のエントロピーを食べている存在』 と表現した14.。実に面白い」  私は曖昧に頷いた。周回遅れのような私の表情を 読み取ったのか、班目教授は話を変えた。  「より身近な例で説明しよう。今日は金曜日だ。今 朝、私は自分のデスクの上を片付けた。毎週、金曜 日の朝にデスクを片付けることにしている。論文や ら書類などが乱雑に積み上がっていたのを整理した。 つまリデスクの上のエントロピーを下げたわけだ」  彼は自身のデスクの上を指さした。  「これで私は仕事の効率が上がった。なにより、書 類を探すための無駄な時間が減った。デイヴンポー 卜という人によれば、平均的なビジネスパーソンは、 探し物のために年間170時間も使うという。一年 のうち、だいたい245日仕事をして、そのうち8 時間仕事をすると仮定したら、すべての仕事に使う 時間は約1960時間ということになる。従って lqyrOO分の170:::約1割弱だ。エントロピー がたまる前に、定期的にデスク周りのエントロピー を下げて探し物をしなくなることで、1割弱ぶんも 効率を高めることができるということになる」  そういえば私自身も、一通のメールを探すために 相当無駄な時間を使ってしまっていた。私は仕事相 手から送られてきたメールや書類を、期限ギリギリ まで未対応のままため込む癖がある。期限の一週間 前に対応しようが、期限当日に対応しようが、プロ ジェクトには影響がないと思っているからだ。  しかし、班目教授の話を聞いて、はっと気が付い た。期限ギリギリまでため込むことで、情報量が多 くなり、その中から探すことで無駄が生じてしまう。  では、ため込む情報をいかにして捨てるかという と、そのキーワードは、班目教授の言葉で言う「定 期的」に「減らす」ということだ。定期的に減らす ことで、事務仕事の「エントロピー」が少なくなる のだ。  無駄なメールは、届いた際に捨ててしまうか、も しくは一時保管ゴミ箱のようなフォルダの中に放り こんでおけば良いのだ。探す時間がなければ、他の 仕事ができたはずなのだ。 仕事の「老廃物」を定期的に排泄する  班目教授は話を続けた。  「そして我々の身体自身もエントロピーを捨ててい る。日中に活動して、その分、体に熱を溜め、内臓 に負担を蓄積し、脳へ記憶を溜め続けている。それ らのストレスを寝ている間に解消する働きを、我々 の身体は持っている。貴君、脳は寝ているときと起 きているとき、どちらが干不ルギーをより消費して いるか、わかるか?」  「それは、起きて活動しているときでしょう。睡眠 から目覚めたあと、脳はスッキリしていると感じま すし」  「実は違う。脳は眠っている間が一番干不ルギーを 消費している。記憶の情報を整理してエントロピー を下げていると考えられている。目覚めたときに スッキリしているのは、デスクを片付けたあとと同 じだからではないか」  「なるほど」私は頷いた。  「排泄も同じだ。体にたまった老廃物をオシツコや ウンコとして体の外に出す。そしてさらに、我々が 注目する肌もそうだ。肌が生まれ変わる周期のこと を肌周期と言うが、一般的に肌周期は約28日間と言      − われている3.具体的には、基底層から顆粒層手前 になるまでが約14日間、顆粒層から最も肌の外側で ある角層となり剥がれ落ちるまでが約14日間だ。こ のようにオシツコなら一日八回として3時間おき、 ウンコなら1日おき、肌なら28日おき……私か言い たいことがわかるか?」  班目教授か何を言いたいのか私にはわからなかっ た。私は半ば、やけくそで言った。  「オシツコはとても大切だということです」  班目教授は大きく頷いた。  「正解だ。貴君には理解力がある。私か言いたいの は、私たちの体の中で行われるエントロピーを捨て る頻度というものは、捨てるエントロピーの種類や 質によって違うということ……すなわち貴君を苦し めている仕事上の膨大なタスクについて、適切な処 理……すなわちエントロピーを捨てるための周期が、 貴君の中でめちゃくちゃになっているのではない か?」  仕事上のタスクの中で、整理するべき周期が、私 の中でバラバラだという。  たしかに、整理するための周期があるなどとは、 考えたことがなかった。いつもタスクは縊れていて、 締切が近いものから手当たり次第に対応する。プレ ゼンたって、いつもそうだ。スケジュールは事前に 決まっているのに、いつも前日とかに作り始める。 そんな状態ではいけないと思いつつ、どうしたらい いのかわからない。  班目教授は言う。  「例えばメールの確認。これは一日のなかで数回、 行わなければならない。まずその頻度を決めるべき だ。そして机の上の整理は、二日に一度。一週間の スケジュールを整理して確認するのは、週末の金曜 日か土曜日がいいかもしれない。この、定期的とい うのが、エントロピーの概念から言うと大切なのだ。 なぜならエントロピーは溜まり続けるからだ。ある 一定サイクルで、強制的に仕事の手を止めて、エン トロピーを下げさせる。そのように、貴君のタスク と、性格にあった整理のサイクルをつかんでいくの だ。始めはうまくいかなくても、修正していけば、 いつかは完璧なサイクルが出来上がる。生まれたて の頃はおしめをしていた我々が、やがてトイレでオ シツコとウンコができるようになったようにね」  私は会社に戻って、とにかくいったんトイレに 行った。そして、ICレコーダーで記録していた班 目教授の言葉を再生して聴き、メモにまとめた。  私を苦しめている仕事上のタスクについて、適切 な処理をする(エントロピーを捨てる)周期を決めてい こヽつ。  ・メールの確認  一日のうち、始業直後、昼食前、午後に一回。そ の三回それぞれ一時間だけにする。一日三回だけと 言うと、なんだかメールを見ていない人のように思 われるかもしれないが、結局、私はいつもすぐには 返信できていないのだ。メールに集中する時間を三 回に区切った、ということだ。  ・机の上の整理  一日のおわりに行う。班目教授は二日に一度と 言ったが、これは毎日やってみよう。私は週に五日 間の勤務なので、二日に一度の頻度だと一日余って しまうことになる。複雑なスケジューリングはしな いことにしよう(複雑なスケジューリングこそが、エントロ ピーを増やしてしまう)。  一次週の予定の確認  週末の金曜日に行う。これは班目教授のアドバイ ス通りにしよう。金曜日に行うのは、もし週内に対 応しなければならないタスクが見つかれば、金曜日 中に対応できるかもしれないからだ。  このように決めて、仕事を始めてみることにした。  私かどのような仕組みを作ったとしても、メール が断続的に届くことには変わりがない。しかしメー ルの対応を一日に三回と決めて、それを守ることに した。  午前十時を過ぎたところでメールヘの対応をやめ、 「あとは昼食前にしよう’・」と打ち切って、別の仕 事……市場調査やミーティングのための資料作りに 集中した。  まもなくしてメールが届いていないか気になりは しめた。「すぐに対応してほしい」、というメールが 届いているかもしれない。でも、そういうメールは 昼食前……すなわち二時間以内には対応するのだ。 文句は言われないだろう。  今はメールを見ない。そう決めて、市場調査や資 料作りを行った。メールのことを頭から排除するこ とで、その他のやるべき作業に集中することができ た。これは効果的だと私は思った。  一時間半後、私は自分が決めたとおりに、メール に向き合った。至急対応してほしいというメールが 一通届いていたが、私は落ち着いた心で対応できた。 なぜなら、市場調査や資料作りは、もうメドが立つ ていたからだ。  私か今日、二回目のメールタイムを終えて、昼食 を取りに行こうと席を立つと、長谷川先輩に声をか けられた。  「ちょっとランチ一緒にどう?」  彼にはいろいろ聞きたいことがあった。私は二つ 返事で承諾した。 前任者、桜井さん  「エントロピー? 知っているよ」  長谷川さんは、あっさりとそう答えた。  「乱雑さとか、そういう話だったっけ。あまり詳し いことは知らないけれど、ビジネスの世界にも応用 されていたりするよ」  「そうなんですか?」  きっと長谷川さんはエントロピーのことなんて知 らなくて、ちょっと彼に教えて『文学少女』のあだ 名を返上させてもらおう。そう思っていたが、甘 かった。  「ビジネスの活動では多くの情報を扱うけれど、そ の情報は整理されずに溜まっていくと、情報自体が 読み取れなくなったり、意味を失ってしまうことが ある。こういう状態のことを、エントロピーが増大 していると表現できる。情報が整理されず蓄積され、 不規則になることで、それはもう、ひとつの混沌と した世界の一部のようになってしまう。こうなると、 せっかく溜めた情報が無意味になる」  「なるほど」  私か頷いたところで、彼が注文していたパスタが 届き、話はいったん中断した。  「……それで、エントロピーがどうしたんだい?」  「いいえ、最近ちょっと興味がありまして」  「ふIん」  長谷川先輩は、私をじっと見たまま、器用にカル ボナーラを口に運んだ。  「もうひとつ長谷川さんに訊きたいことがあります。 以前お話しになっていた、班目教授の担当について です。町村さんと、私の間に、もう一人いるんです よね?」  長谷川さんはしばらく考えたあと、ああ、と声を あげた。  「うん、そうそう。町村常務のあとに一人、担当が いる。その人は、その仕事を引き受けて、数か月で 会社自体を辞めてしまったんだよ。桜井さんという 女性でね」  桜井さん……知らない名前だ。町村常務が担当を 外れたのが約五年前で、それから数か月後には辞め たのだから、入社三年目の私か知らないのは当然で ある。  「どういう理由で辞めたのか、わかりますか?」  「直接聞いた話ではないんだけれど、やっぱり班目 教授か変な人間だからと、間接的に聞いたことがあ る」  「それは誰からですか?」  私は身を乗り出すようにして訊いた。今の私には、 班目教授かそれほど人間関係を壊してしまう人物と は思えないのだ。  たしかに変なところはある。他人の足らない部分 を指摘せずにはいられない、何か独特のルールが彼 にはある。でも、私はそれほど嫌だと思わない。現 に私は班目教授と出会ってから、何か変わりつつあ ると感じている。それはたぶんいい方向に。  むしろ、私は町村常務のほうが苦手である。三田 村さんの一件と、『アイデアーノート』についての 私への依頼という、これだけの接点しかないのだが、 町村常務には心を許すことがまだできないし、でき るには時間がかかると思う。  長谷川さんは、前のめりになった私の様子を見て、 私の真剣さを感じ取ったようだった。記憶の糸を手 繰り寄せるように時間を取って、彼は答えた。  「そうだ……町村常務からだった。桜井さんが辞め た理由を聞いたのは」  その回答に違和感を覚えた。  「おかしくないですか? 桜井さんが辞めたときに は、町村常務はマレーシアに赴任していたんじやな かったんですか?」  「そうだね、いや、どうだったかな。たしかに赴任 されていたと思うけれど、まだ町村さんの日本での 仕事が残っていて、それで頻繁に日本のこっちの会 社に現れたんじやないかな」  私は椅子に座りなおした。そうじやないかもしれ ないが、そうかもしれない。違和感は残ったが、こ れ以上確かめようがない。ただ、長谷川さんの返答 は、町村常務にとって都合の良いように解釈してい るようにも見えた。よほど信頼をしているのだろう。  「じやあ、次は僕の番だ。先日、町村さんに呼ばれ たんだって?」  私は一瞬、どきりとした。『アイデアーノート』 の密命のことが真っ先に頭をよぎったからだ。あの 話は、誰にも話してはならない。  「……ゝ凡ゝ凡、はい。数日前に」  「君、ひとりで?」  「そうです」  「どんな話を?」  「ええと、班目教授についてです。ほんの短い会話 でした。それで、意外なことに、町村常務は班目教 授のことを評価していましたよ」  長谷川さんは、私か口にした班目教授の話につい て、興味がないようだった。彼はフォークを食べか けのカルボナ圭フに載せたまま、しばらく考えごと をするように、私の斜め上をじっと見ていた。  「そうか……そうだよね」  そうだよね?  どういうこと?  それから長谷川さんは、いつもの柔和そうな顔を 浮かべ、カルボナーラを食べ始めた。それから私に 話しかけることはなかった。ただ、カロリーを体に 取り込む動作というように食べ終えて、私たちは店 を後にした。  そんな落ち着かない昼食のあと、会社に戻った私 は、これまた意外な人物に声をかけられた。  「ちょっと時間ある? 人気のない所で話そう」  三田村さんが、両目の下にくまを作った目で私を 見て、そう言った。 町村が企む「ある陰謀J  Nジ于不ティクスのオフィスが人つているのは、 港区の背の高いマンションの三フロア分である。  広報課のあるフロアの奥に、宣伝用のパネルやの ぼり旗が保管された(つっこまれた、と表現した方がいい かもしれない)場所がある。ほとんど人が立ち入らな い場所だ。  三田村さんは、(アアと、辛そうなため息をつい てから、言った。  「さっき長谷川さんとランチに行ったでしょう? 彼とは何の話をしたの?」  目が血走っている。余計なことを喋らず、簡潔に、 正直に答えるべきだ。私の体の中の警報音が鳴り続 けていた。  「私か町村常務に呼ばれたときのことを訊かれまし た。私は町村常務に、班目教授のことを訊ねられた ので、それをそっくりそのまま答えました」  私かそういうと、三田村さんは、(アアアと、先 ほどより大きなため息をついた。  [あの男、本当にくだらない。いい? 山田さん? 今後、長谷川さんが何か言ってきても、宣]に受け ちや駄目よ」  「あの……どういうことです?」  「あなた最近、班目教授のところに出入りしてて社 内にいないからわかんないでしょうけれど、今うち の会社、バラバラになってんのよ。それもこれもあ の町村が戻ってきたせいで’・」  私はおそるおそる、あたりを見回した。  「誰もいないわよ。いても構わないわよ。みんな 知ってることなんだから。いわゆる町村派と、反町 村派。これにきっぱり分かれているのよ」  三田村さんは、ため息をついた。  「あの町村っていう男はね……あなたも見たでしょ うけれど、言葉の暴力の使い方を知っているのよ。 人を委縮させて、コントロールする。攻撃を加える 犠牲者と、攻撃を加えない味方を作って、双方を階 層化して、支配するの。あれはパワ「ラとか生ぬる いもんじやないわ。悪魔よ、悪魔」  そこまで言って、三田村さんは私を見た。  「あなたはどっちなんでしようね? 山田さん。あ いつに呼ばれたんだって?」  私は手がちぎれんばかりに振った。振りまくった。  「いえいえいえ、そんな、私ごときを、どうしよう というんです? 単に班目教授の近況を聞いてきた だけですよ」  そう言うと、三田村さんは私から目をそらした。  「長谷川さんはね、すっかり町村派に収まって、派 閥の中心にいると勘違いしている。それで、あなた が町村さんに呼ばれたからって、ライバル視したん じやないかな」  Nジ子不ティクス社の中で、そんなことが起こっ ているとは。信じがたかった。しかし長谷川さんの 様子を見ていると、話の辻褄はあうと思った。  そして町村常務の持つ、言い知れない不気味さの 正体も、三田村さんの言っていることが真の姿だと 思われた。彼は恐怖で人を支配する。私の目の前で 三田村さんを攻撃し、私を支配して『アイデアー ノート』を入手しようとした? そういう陰謀を、 この会社中で広めているのかもしれない。  「それで……他に何か話をした?」  三田村さんが訊いた。  「桜井さんの話をしました」  そう私か言った瞬間、三田村さんの様子が一変し た。彼女の顔はこわばった。  「桜井さんはね、気の毒な人たった。彼女も町村の 犠牲者なのよ」  「えっ、どういうことですか?」  三田村さんは私の肩をつかんだ。  「いい? 他の誰が何と言おうと、今から私か言う ことを信じなさい。まず町村と班目教授かもめたの は、一方的に町村が悪い。町村はあの性格でしょ う? 班目教授をコントロール下に置こうとして失 敗して、ブチ切れただけ。それでいったんマレーシ アに移った。社内向けには、さんざん班目教授の悪 口を言って、自分は保身しようとした。そして班目 教授をやっつける計画を練っだの。後任には何も知 らない桜井さんがついた。桜井さんは、マレーシア に移った町村から、前任者という立場で総攻撃を受 けて心を病んだの。なんでだかわかる?」  「わかりません」  私は消え入るような声で答えた。  「桜井さんがうまく班目教授と連携できたら、自分 の立場がないからよ」  そんな理由で……。  そしてふと、私は長谷川さんの言葉を思い出した。 『班目教授の側に立つな』  この警告は、町村常務が日本に帰国することが決 まる前に長谷川さんから言われたことだった。まだ、 町村派となってしまう前の、長谷川さんの本心だっ たのかもしれない。  「桜井さんと私は同期で、友達だった。それで私は ずっと町村を警戒していたんだけれど、先日のプレ ゼンでは押し負けてしまった」 「いや……あれは三田村さんのプレゼンが悪いわけ では……」  もはや明確なのだ。故意に三田村さんを貶めただ けなのだ。  でも、三田村さんは強い人たった。彼女は泣き言 をひとつも言わなかった。  「それで……町村常務が、班目教授をやっつける計 画というのは……冫・」  私はもう、涙目になっていた。怖くて怖くて、た まらなかった。  三田村さんは、ここにきて初めて声を潜めた。  「ここから先は、いろいろな情報を集めてたどりつ いた私の推測……彼は新しい会社を作るの。町村一 派でここを出てNジ子不ティクスと班目教授をつぶ すのよ」  「どうやって?」  「班目教授の持っているすべてを盗むのよ」  班目教授の講座4時間目  「エントロピー」は計算式で導ける  エントロピーとは「乱雑さ」であると言った。し かし、エントロピーという言葉はいろいろな分野で 使われる単語なので、必ずしもエントロピーが「乱 雑さ」を示すとはかぎらない。  ひとつ、熱力学という分野でのエントロピーの考 え方を紹介しよう。  熱力学とは、19世紀なかばから、熱を扱うための 技術が熱機関とともに発達し、熱機関の効率性の向 上、さらには限界を知るために熱のもつ性質を物理 的に明らかにすることが求められ発達した学問であ る。  温度や熱というものは日常的なものであるが、具 体的な実体をとらえにくいものである。そのような 量を物理的にとり扱うことが熱力学の本題である。  熱力学では、次のような式で、エントロピーが定 義されている。  式にある通り、熱力学の分野では、エントロピー は計算できるのである。ただ、この式、理解できる だろうか?  外部から熱をもらえば、その熱を吐き出さない限 り、自分自身の内部に熱は溜まり続けて、自分自身 のエネルギーは高まる(その結果、自分自身を構成する粒 子は乱雑に運動し始めるだろう)。  しかし、分母がややこしい。もらった熱を自分自 身の温度で割るということは、どういうことだろう。 これは何を意味するのか。                     − 『マックスウェルの悪魔』(都筑卓司)という13名著 は、こんなたとえをしている。熱をお金に置き換え てみようというのだ。  もらった熱量というのは、他人からお金をもらう ことと考える。一定の熱量……例えば「一万円」を もらったとしよう。  もらう本人がお金のない苦学生であれ、大会社の 御曹司であれ、「一万円」だけエネルギーが上がる。 エントロピーとは、その「一万円」をもらったとき の嬉しさの程度なのだという。  お金のない苦学生(卜絶対温度が低い)なら大喜びし て活性化するだろうし、もしかすると混乱するかも しれない。一方で、お金に困っていない御曹司(H 絶対温度が高い)であれば、何も感じないかもしれな い。  以上、熱力学の分野でのエントロピーの定義の話 であり、計算できることを示す例の紹介である。  滋賀・彦根の積雪、平年の3550%に 記録的大雪続く  気象庁が公開するアメダスのデータによ ると、27囗午前8時の彦根市の積雪は71セ ンチで、平年(2センチ)の3550%と なった。  滋賀県高島市今津も72センチで平年比 1800%、京都府舞鶴市も平年比 1650%となっている。  (京都新聞 卜XO卜X1年12月27日付より一部を抜粋)  「今日はツイていない」は錯覚?  あんな話を聞くんじやなかった。  もし戻れるならば、三田村さんに声を掛けられる 前に戻りたい。いいや、もつと前だ。班目教授との 連絡係を拝命する前? いいや、そもそもNジ子不 ティクスに就職する前……つ・  でも、他の会社だったとしても、同じような話は あるのかもしれない。むしろ、今までが何もなさ過 ぎただけかもしれない。世の中には暗い話が満ち縊 れている。若手社員の離職率の高さ。うつ病の発疱。 (ラスメントによる退職と訴訟。果ては殺傷事件ま で。これが普通の姿というならば、私はありもしな いif:::過去へ戻る空想などで遊ばず、現実を直 視して最善を尽くす他はない。  そして今、私はものすごく気まずい状況の中にい る。  会社の公用車である四人乗りの白いバンの助手席 に私は座っている。運転しているのは片栗企画課長 だ。そして後部座席には長谷川さんと三田村さんが 座っている。  車内では誰もまったく話さない。唯一、片栗課長 がとあるラーメン店の前を通りかかり「あの店知っ てる? 激安だよな。七百円でチャーシュー麺が食 える」と言い、私か「じゅうぶん高いですよ」と答 えただけだ。  ちらりとバックミラーを覗いた。三田村さんの血 走った目と、視線が合った。こんなおっかない車な ど放り出して、私は自分のマンションに逃げ帰りた かった。  でも、そういうわけにもいかなかった。私はこの 囗の主役だった。この企画課のメンバーで班目教授 と会うことになっていた。連絡担当の私かいなくて は、何も始まらないのだ。  とにかく一刻も早く現地について、車から降りた い。  そういうときに限って、道は混んでいた。普段な らば会社から東京科学技術大学まで車で20分もかか らないところが、この囗はどうしてか混んでいて、 20分だっても私たちはまだ港区を出られないでいた。  「どうなってんだ、こりゃ」  片栗さんは頭をかきながら、言った。  とにかくすべての交差点で赤信号のため停車する のである。私たちは会社を出てから、すんなりと青 信号で通過できたことがなかった。  「よりによって、こんな、早くついてはしいときに 限って……!・」  私は言った。  「こんな……冫・」  片栗課長は訊いてきた。私は口をつぐんだ。こん な車内に閉じ込められるのは嫌、なんて言えない。  「ああ、班目教授は気難しい人だからね。直接やり 取りしている山田さんならば、よく知っているだろ う? 実際どんな人だい?」  私はしばらく考えた。  「兎を背中に背負って、髪の毛がすべて逆立ってい る大男ですね」  「なにそれ、妖怪?」  私は笑った。  「もし遅刻しようものなら、さぞかし班目教授は立 腹されるだろうね。山田君、連絡を差し上げた ら?」  「そうしましよう」  私はスマートホンをカバンから取り出して、打ち 合わせの時間に遅れる旨を、班目教授に連絡した。  結局、班目教授との打ち合わせの場には、三十分 遅れて到着した。  「お待たせして、すみませんでした」  片栗課長と私をはじめ、全員、頭を下げた。班目 教授は、黙って頷いた。  「本当に申し訳ない。異様に赤信号ばっかりに引っ かかりまして。今日はツイていないです」と片栗課 長は言った。  班目教授はピクリと反応した。片栗課長を見た。  「特異的に赤信号に引っかかる人は存在しませんよ。 信号の青信号と赤信号の比率は、交通量などによっ て決まる。すなわち、赤信号の確率は平等。ツイて いないから赤信号に引っかかるというのは錯覚です。 青信号のときはありがたみを感じず、記憶には残ら ないので『ツイているな』とも思わない。赤信号の ときだけ『ツイてないなあ』と認識したのでは? 従って、貴君たちが早く出なかっただけですよ」  ア((、と片栗課長は笑って、それから私を見た。 課長の顔には「君も大変だね」と書いてあるように 見えた。 そのグラフは「意図的に」つくられて いないか?  班目研究室の隣にある会議室に私たちは移動して、 そこでプレゼンの準備を始めた。今日のプレゼン ターは私である。班目教授と開発してきたドクター ズコスメについてのアンケート結果を報告し、これ から改良する方向性について議論するのだ。  私はプレゼンの準備をしながら、三田村さんと長 谷川さんの様子をちらりと見た。三田村さんは憮然 とした表情を浮かべ、腕を組んで椅子に座っていた。 一方の長谷川さんは、会議室の隅の方の少し離れた 位置に椅子を置き、息を殺すように座っていた。意 識的に気配を消しているのがありありと見て取れた。 班目教授を避けているのだろう。町村常務の手前、 なるべく班目教授と会話をしないように決め込んで いるのかもしれない。  プレゼンの準備が整い、私は話し始めた。  「本日のミーティングの趣旨を説明します。班目教 授と開発しているドクターズコスメについて、これ まで五年間に蓄積されたアンケート結果などをまと め、今後の方針について議論したいと思います」  私は用意したグラフを見せた。  「こちらは、ドクターズコスメと、比較のために弊 社の他製品を使用してもらった、モニターー00名 の方の満足度の回答です。満足度は満点を100点 としています。性別と年齢としてはFI層で、居住 地や職業などに偏りはありません。結果としては、 弊社の類似の他製品との満足度の差は10%もあり、 優れていたことがわかりました。  「このグラフは、それぞれ100名のデータの平均 値を表しているんだね」と、班目教授か訊いてきた。  「その通りです」  「たしかに両者で差があることが、このグラフから わかる。さて、我々研究者がこのようなグラフを見 たときに気になるのが、母集団がどれぐらいバラつ いているか、だ」  「母集団……ですか?」  「例えば、この世界に存在するドクターズコスメの 利用者は、このアンケートに協力してくれた100 名だけかな?」  「そんなことはありません。利用者は何万人もいま す」  「そう、その利用者全体のことを統計学の世界では 母集団と言う。そしてアンヶIトに協力してくれた 人の回答を標本と言う」 (例えばあるコスメの場合)  母集団一そのコスメの利用者全体のこと。利用      者全体のアンケートは取れない   標本一そのコスメの利用者のなかで、アン      グートに答えた一部の人のこと  「母集団のデータは取りようがない……だから標本 のデータを集めてきて、標本の平均値を求めて比較 する……ということを私たちはしているのです」  「そうだ。貴君たちが欲しいのは、母集団の情報 か? それとも標本の情報?」  私は三田村さんと片栗課長の顔を見た。二人とも 不思議そうな顔をしていた。  「そりやあ、母集団の情報が欲しいです。それぞれ のコスメの利用者全体(母集団)のことを理解しよう として、アンヶIト(標本)を取っているのですか ら」  「そうだな、研究者たちも同じように考える。そこ で標準偏差、正確には不偏標準偏差というものを用 いて、母集団のデータのバラツキを推定するんだ」  「標準偏差」を見れば、全体の傾向が わかる  「母集団のバラツキが推定できる……それはどのよ うなものですか?」  「今回のコスメのアンケートの場合、100点満点 で満足度を回答してもらっているんだよね。その点 数が、このコスメを利用する全員のなかで、どれく らいバラついているかということが推測できるん だ」  「どれほどそのコスメに対する意見が分かれている か……ということですね」  片栗課長が横から言った。  『その通り。では、このグラフに、不偏標準偏差を 付け足してみよう。貴君、生データ……’』のグラフ を作るときに使用したデータはあるかな?」  私は慌ててノートパソコンの中のファイルを探し た。私は先ほどのグラフをExcelソフトで作成して いた。そのExcelのファイルを見つけて、ノートパ ソコンごと班目教授に渡した。彼は恐ろしいほどの 速度でキーボードをたたき、計算をし始めた。  やがて、次のようなグラフができた。 「違いがわかるかな? 二つある」 「縦軸が変わりました。先生のグラフは縦軸がゼロ から百までに変わりました」  「うん。まあ、ゼロから百までが正しいわけではな いが、あることに気が付いてほしくて、このように したのだ。貴君のグラフと見比べてほしい。貴君の グラフは、ドクターズコスメと他製品の顧客満足度 が大きく異なるように見えるが、縱軸を変えただけ で、その印象は変わって見えるだろう。貴君たちの グラフは、見る人に『(実は違いはそれほどないんだけれ ど)大きな違いがありますよ』と伝わるように作ら れていると言われる恐れがある」  そんなことは、考えていません、と私は言いた かった。でも、言えなかった。  実のところ、私は「何も考えていなかった」のだ。 Excelのシートにデータを入れて、自動でグラフが 出来上がっただけだ。  私は縦軸を故意に変えてはいなかった。Excelが 自動で、見やすいようにしてくれたんだろう。裏を 返せば、Excelを使う他の多くのビジネスパーソン も、同じことをやってしまっているのかもしれない。  「さて、二つ目の違いは何だろう? こちらの方が 重要だ」  「グラフに棒が付いています」  「そう。エラーバーだ。このバーは不偏標準偏差を 表している。不偏標準偏差は、データの平均値に対 して『おもにこの範囲にデータが集中している』と 示すもので、公式によって導ける。詳しく説明する とややこしいので割愛するが、多くの場合、不偏標 準偏差の範囲に全体の68%のデータが含まれる」  班目教授は、グラフにつけられたバーを指で示し た。  「グラフには不偏標準偏差などのエラーバーを付け るのが研究者の世界では基本だ。貴君が用いた Excelというソフトウェアでは、不偏標準偏差は関 数『STDEV』を使うことで簡単に求められる。 コスメの利用者全体(母集団)のデータの68%が存在 すると期待される範囲が、不偏標準偏差のエラー バーで表わされている」  「不偏標準偏差を用いることで、私たちが調べるこ とができない母集団のことがわかるんですね!・」  「さらに、不偏標準偏差の2倍のエラーバーをつけ ると、その範囲に母集団の96%が含まれることが期 待される。母集団のデータがどの範囲に収まってい るか、そしてどれくらいバラついているかを推定で きる。これが統計学の威力だ。このエラーバーが大 きいほど、そのコスメの利用者全体(母集団)のデー タがバラついている……すなわち課長殿が言ったよ うに、どれほどそのコスメに対する意見が分かれて いるか……ということが推定できる」  私はグラフのエラーバーをじっと見た。  「若干ですが、弊社他製品と比較して、ドクターズ コスメの子フーバーが大きいように見えます。不偏 標準偏差が大きいということは、商品に大満足して いる人もいれば、まったく気に入らない人もいる傾 向が強いということを表しているんですね」  私はエラーバーをつける意味、その大きさの意味、 そしてエラーバーが重なっていることの意味が理解 できた。 そのデータは「正規分布」をとるか?  そこまで言って班目教授は、言いにくそうな顔を した。  「ひとつ言っていなかったことがある。標準偏差の 範囲に全体の68%のデータが含まれるというのは、 データが正規分布をしているときにのみ成り立つ話 なんだ」  「正規分布……冫・」  私かぽかんとしている様子を見て、班目教授は説 明を続けた。  「貴君の調査のように、横軸が顧客満足度、縦軸が その満足度を回答したモニターの人数……そのよう なグラフを描いた場合、平均値を中心として釣鐘状 になれば、正規分布をとっていると言える」  「一般的に、どういうものが正規分布をとるのです か?」  「例えば自動車の事故の頻度や、降ってくる雨粒の 直径は正規分布をとる例として有名だ。貴君たちが 先ほど口にした、赤信号で車が止まる事象は、正規 分布に従うかもしれない」  「帰り道にデータをとってみますかね?」  片栗課長が楽しそうに言った。班目教授は笑った。  「それでは貴君たちのデータを確認してみよう。こ のグラフのような平均値としてまとめたものではな く、それぞれのモニターの顧客満足度の回答がわか るデータはあるかね?」  平均値を出す前の生のデータ、ということだ。も ちろん私は、平均値を計算するためにそのデータを 持っていた。私はそれらのデータをディスプレイに 表示した。  「これがモニター百名の顧客満足度だね。先に見た 平均値と再頻値(最も多く現れる値)と中央値(分布の中 心)が一致するので、正規分布をとると考えてい  I い16。正規分布の話から、別の大切なことが見えて くる。正規分布をとらないような場合、平均植だけ で分析すると本質が見えないことがある。年収を例 にとって考えよう。ある年の日本全体の男女の平均 年収は461万円、年収の中央値は433万円だっ た。30万円ほどの差がある。この差はどこから来る かというと、計算方法に他ならない。平均値は、年 収が極めて高額な希な場合の影響を受けて、中央値 より高めに現れる。一方で中央値は、その値までに 含まれる人数が全体の50%であるので、一般的な感 覚に近いと言えるね」  班目教授はホワイトボードを指さした。  「ここまでの話をまとめよう。つまり、平均値だけ を求めて終わりというのはもったいない。生のデー タを見て、そこから平均値として評価するのか、中 央値として評価するのかを決めたり、不偏標準偏差 を求めて、母集団のバラツキを推定することは重要 だ。そういった思考が働かず、平均植だけを評価す れば、『ものすごく柢い値・もしくは高い値』の存 在を見落とすことになる。先ほどの場合だと、ドク ターズコスメに著しく悪い評価を与えている人たち の存在を見落としてしまうことになる」  「なるほど、そこにビジネスチャンスを見出す可能 性があるかもしれませんね」  片栗課長はつぶやくように言った。課長は言葉を 続けた。  「いや、失礼。班目教授の話をお聞きしていて、ど こをどうビジネスの世界で使えるのかなと、ずっと 考えていたんです。今お話を聞いて納得しました。 これは私たちにとって勉強になります」 数字に対する「主観」はいらない  それからさらに会議は続いた。班目教授と開発し ているドクターズコスメについて、使用者のアン ヶIト結果を説明し、今後の方針について議論する までに一時間ほど要した。私かアンケート結果から 見出して、Nジ子不ティクスの企画課内で方針を一 本化したドクターズコスメの改良するべきポイント 「即効性のある使用感」も、班目教授に納得しても らうことができた。  班目教授か疑問点を述べ、私か回答するたびに話 が停正したため、時間はかかった。しかし、その分 だけ、議論の内容はしっかりと定まったと思う。  用意した議題が終了したあと、班目教授は、これ だけは伝えておきたいと言った。  「研究者は、複数の値を比較するとき、『著しく』 大きいとか、差は『わずか』である、という表現は 極力使用しない。なぜなら、著しいとか、わずかと いう言葉は、あくまで印象であり、誤解なく伝える ことができないからだ。例えば『著しい』のイメー ジは、研究者や研究対象によって、2倍であったり 10倍であったりする」  「たしかに。例えば激安という言葉があっても、人 によって受け取り方が違いますね。七百円のラーメ ンを激安と言われても、高いと感じる人もいるで しょう」  私は片栗課長をチラリと見ながら言った。  班目教授は頷いた。  「そう。そのような不確かな言葉は、すべての研究 者たちが事実を共有して前進していく科学の世界で は、排除されなくてはならない。じやあ、どのよう にすればいいかというと、2倍であったり10倍で あったり、というように数値で説明すればいい。私 たちが議論するべきは、数値化されたものであるべ きなのだ」  私たちは頷いた。  「化粧品の話にたとえると、『この化粧品は肌の保 湿力が高いと、みんなが評価している』という説明 をした場合、『この化粧品は肌の保湿力が高いと、 何人中の何人が評価している』と言い換えると良 い」  私はウンウンと頷いた。  すると、班目教授は不思議そうな顔をした。 「貴君はもっと嫌な顔をすると思った」 「そんなことはありませんよ」  私は憮然として言った。 「それは失敬。貴君もずいぶん数字に慣れてくれた  ようでうれしい。さて、数字に慣れてくると、別の  問題が起こり始める。数字を間違って使ってしまう  というものだ。例えば、過去にこんなニュースが  あった。『滋賀・彦根の積雪、平年の3550%に』  という記事だ」  「3550%ですか……冫・」  「すぐにイメージが湧くかね?」  「ええと、積雪量がすごく増えたんだなってことは わかります」  「おそらく記者さんは、ちゃんと計算したうえで、 %表示にして大きな数字を見せることで、積雪量の 異常さを伝えようとしたのかもしれないけれど、単 にわかりやすく約35倍と書いても良かった」  私は頷いた。約35倍のほうがわかりやすいかもし れない。  「逆に、世の中には恣意的にデータの分析方法を誤 らせたり、自分のデータを良く見せたりして、都合 の良いように誘導する人間もいる。数字を巧みに駆 使して、人を動かそうとする人もいる。貴君たちの 中で、そういう人物がいないか、注意することだ。 そして、そういった人間に対しては、正しい分析方 法とデータの見方…:例えば平均値だけにとらわれ ずエラーバーに注目するなど、注意深く見る姿勢で 向き合うことが大切なのだ」  班目教授の言葉を聞きながら、私はふと、自分の 変化について考えてみた。  班目と出会う前の自分は、今日のような会話を理 解できただろうか? 興味を持てただろうか?  班目と接するうちに、理系出身ではない自分の中 で、理系的なものの見方ができるようになり、視野 が広がり、また自信が身についてきた気がするの だった。  班目教授のもとを後にして、私たちは会社へ戻っ た。  結局、帰りの車の中でも長谷川さんは匸冐もしや べらなかった。長谷川さんと三田村さんの間には、 どちらかが喋ってしまえば負け、という変なゲーム でもしているような空気感さえあった。  片栗課長は、おかしなことに、帰り道の赤信号と 青信号をすべてチェックして、私にメモを取らせて いた。  「ううん、やっぱり赤信号の方が多かった。ツイて ないってことだよなあ」  会社の駐車場に車を入れながら、片栗課長は言っ た。  「今度、三田村さんか長谷川君が運転してくれよ。 実験をしよう」  そう声をかけたが、二人ともそれぞれ反応せず、 車から降りた。  オフィスに戻り、私たちはそれぞれのデスクに着 席した。  片栗課長が椅子に腰かけようとして、私を見て、 言った。  「君を班目教授との連絡役にして、良かったよ」  私は驚いた顔をして、課長を見た。  「そうですか?」  「君はたぶん、行動力や発想力はあると思う。でも、 論理性や緻密さが足りないかなと思っていた。そう いう点を、班目教授と仕事することで補ってくれれ ばいいなと思っていたんだ」  ちゃんと私の性質を考えて、班目教授と組まされ たのだと、私は初めて知った。  「今日の様子を見ていると、君に足らなかった部分 をしっかり学べていることがわかった。それに君は、 班目教授のペースにしっかりとついていけている。 たぶん、他の誰も、同じようにはできなかっただろ うね」  それから片栗課長は自分のデスクのパソコンの電 源を入れて、仕事を始めた。  班目教授にダメ出しされてばかりだと思っていた が、課長からそのように評価されていることを知り、 私は嬉しさのあまり、しばらく冷静に仕事ができな かった。  自分のパソコンを立ち上げ、うわついた気持ちで メールのチェックをしていると、1通のメールが飛 び込んできていた。差出人は長谷川さんだった。  話したいことがあるから『小会議室』に来てほし い、と書かれていた。 長谷川先輩の思惑  小会議室という、六畳間ほどの部屋のドアに『空 室』というプレートかぶら下がっている。長谷川さ んは慣れた手つきでひっくり返して『使用中』を表 にした。  小会議室には椅子が六脚あった。そのうちの一つ に、長谷川さんが腰を下ろした。  私は少し離れたところに座った。  「班目教授との仕事は順調のようだね。課長からも 評価されて、良かったね」  「ありがとうございます」と、私は素直に喜んだ。  「うん。ビタミンCの錠剤って言っだのが、同じ人 だとは思えない」  「えっ? 長谷川さん、あのアイデア好きだって 言ってたじやないですか」  「ははは」  長谷川さんは笑った。私は口をへの字に曲げた。  「……それで話って、なんですか?」  長谷川さんは、左右の手の指を揉みながら、言っ た。  「あれから……町村常務から、何か声がかかったり したことはあった?」  「へっ?」  私は変な声が出た。あれからというのは、私か町 村常務から班目教授のアイデアーノートをとってこ い、と言われたときのことを指しているのだろう。  「いや、何もないですよ。一回こっきりです」  「そうか……」  そうつぶやき、長谷川さんは窓の外を見た。この 建物と同じようなオフィスビルが見えた。ビルは青 黒い窓ガラスでおおわれていて、中の様子は見えな かった。  しばらくして、重い口ぶりで、彼は言った。  「実は、僕は町村常務からとある密命を受けている んだ」  私はドキリとした。一方で、平静を装うことにし た。  「町村常務は、このNジェネティクス社から離れて、 新たに別の会社を興す計画を持っているんだ。ほら、 常務は五年間、マレーシアにいただろう? あちら で構築した人脈とか、開発した設備を、Nジ子不 ティクス社のために使う気ではないんだ」  三田村さんから聞いた話のことだ、と私は気が付 いた。  ただ、ひとつ疑問があった。三田村さんはこんな 話を、誰から聞いたんだろう? また、どうして長 谷川さんは私に話をするんだろう。それらの疑問は 置いておいて、私は彼の言葉の続きを待った。  「今、その新会社の幹部候補を社内で集めていて、 そのひとりが僕たというんだ。光栄なことでもある し、僕は自分自身を高めるためのチャンスだと思っ ている」  彼は私の顔を見た。何か私か発言しなければ、先 に進まないようだった。  「長谷川さんは、町村常務のことをどう思っている のですか?」  当たり障りのないことを聞いておいた。  「怖い人だと思う。三田村さんへのあたりを見ただ ろう? でも、あれにひるむようでは、高みへと進 めないと思うんだ。それに町村さんが持つカリスマ 性は本物だ。独特の感性で、混沌とした市場から売 れ筋の商品を見出して、会社を大きくしてきた業績 は疑いようがない。国内外で活躍して、今、常務と いう位置にいる」  「じやあ、町村常務の会社に……冫・」  「お声がかかれば、そうするかもしれない」  「なんでそんな話を私に?」  毎回、この質問ばかりしている気がする。  「そりやあ、君に声がかかっていたら、どうしよう かと思ったんだ。君に声がかかるくらいだったら、 手あたり次第、声がかかっていると思うからね」  「失礼な’・」  私は心の底から立腹した。アイデアーノートの話 をしてやろうかと思ったが、もちろんやめておいた。  三田村さんの話、長谷川さんの話、それぞれ要約 すると、町村常務が新たに会社を興すときのキーポ イントが、班目教授のアイデアーノートのような気 がしてきた。どのように使うのか、皆目見当もつか ないけれど。  私かいろいろなことを考えている間、長谷川さん はじっと私を見ていた。  「まあ、君の様子を見ていると、新会社の話は君に は伝わっていないようたね。すまないが、僕が今 言った話は忘れてくれるかな。ずいぷんと虫のいい 話だけれど」  「ぽんと、虫のいい話ですよ。でもまあ、いいです よ。誰も言う相手がいませんし」  長谷川さんは二コリと笑った。別のシチュエー ションでその笑顔を見たら、恋に落ちてしまうかも しれないような笑みだった。この話の流れ的には、 まっぴらごめんなラブストーリーである。  「で、話はそれだけですか……冫・」  私はぶっきらぼうに言った。  「実はまだ続きがあるんだ」  まだ? 私は露骨に嫌な顔をしてしまった。彼は 私の気持ちなど、何も考えないようにして、続けた。  「実はこの後、僕は町村常務と会うことになってい るんだけれど、常務はそこに君も呼べというんだ。 だから僕は心配だったんだ。いつの間にか君も仲間 だったらどうしようってね。でも、まあ、そうでな いらしいし。というわけで、ちょっと一緒に来てく れるかな?」  いやだなあああああああ。  と私は心の中で言った。もしかしたら、本当に、 口に出てしまったかもしれない。  「ドクターズコスメ」誕生の真実  町村常務室には部屋の主である町村常務と長谷川 さんと、私かいた。デスクの向こう側に町村常務が 腰かけて、私と長谷川さんは囲むようにして立って いた。  町村常務は話し始めた。  「日本ではあまり意識されないことだが、海外では 自分の身は自分で守らなければならないし、簡単に 訴訟になる。ビジネスの場は日々戦いであり、自ら を守るためにも常に記録を取り続けなくてはならん。 そのひとつが音声の記録だ」  町村常務は机の引き出しからICレコーダーを取 り出して、私たちに見せた。アイデアーノートのこ とではないとわかり、私はホツとため息をついた。  町村常務の手に握られていたのは、銀色の、小型 のレコーダーだった。 「君たちだけに聴かせる。五年前、班目教授と私の 間で行われた会話を」  「……ですから町村さん。相互に意思疎通するため には、貴君にもこの認識は持っていただきたいので す」  音声は班目教授の言葉から始まった。  「ええ、先生はそうおっしゃるのですがね、逆に私 は尋ねますが、私が一度でも、班目先生に対して、 ビジネスのことを理解してくれとお願いしたことが ありましたかね。ありませんよね? お互い、それ ぞれの立場を尊重しあいましょう。私にはビジネス マンという、班目先生には研究者としての立場と役 割がある。それぞれを尊重して、役割をわけません かって話です」  「違う。私が貴君に言いたいのは、立場とか役割と かそういうことではなくて、考え方を共有しようと いうことです。例えば貴君が私に要望を出す。でも その要望は科学的に裏打ちされていない。数値的な データが何もない。これこれ、こうしてくれという が、これとは何で、どれくらいどうすればいいのか、 わからなければ私は何もできない」  「先生、困りましたな。そういう数字的なものを考 えるのが、先生の役割というものでしょう。肌の老 化を抑制する化粧品を作ってほしい。成分の候補は これとこれである。先生は、どの成分がいいか、答 えてくれればそれでいいのです。どの成分が何% あって、肌の老化を何%抑制するとかいうデータは、 私が考えることではないし、顧客も必要としていな い。効果があるのかないのか? それが製品に求め られる要素であり、それ以外の何物でもない。そう いう全体の方向性、売り方をコントロールするのが 私の役割だ」  「百歩譲って、それが貴君の役割だとしよう。そし てデータを分析して、この成分が良いと提案するの が私の役割だとしよう。そうすると、私の意見が正 しいかどうかを、誰が評価するというのだ」  「言っている意味がわからん」  「君が求めるものを、私が提供して、それをそのま ま貴君は受け入れるのか?」  「班目先生は自信がないのですか? 嘘のデータを 我々に提供しようと? そういうことですか」  「違う。まったく違う。貴君が方向性を示す、私が 提案する、貴君がそれを分析してより良い改善案を 私に示す、私がその改善を行う……そうやって良い ものができるんだ。それが研究者と企業の対話だ。 このやりとりの際には、サイエンスにのっとった会 話が必要になる。だから、貴君に数字として物事を 示すように要望している。そういうことだ」  「そんな分析だとか改善案だとか、私の仕事じゃな いんですよ。私はビジネスマンなんですよ。世の中 の動向を調査して、売れるものをこの私のアンテナ にひっかける。この情報化社会の中の、雑音ばかり の情報の中から、一筋の光を見出す。それは数々の 経験に裏打ちされた直感。そうしていくつもの成功 を導いてきた。それが先生にできますかね? で きっこないでしょう。できないことを私はお願いし たりしませんよ。だから先生も、私の役割を理解し ていただいて、先生の役割に巻き込まんでください よ」  「わかった。貴君にはもう何も言うまい。では、私 は貴君の希望通り、最善の成分を提案しよう。それ で、念のために聞いておくが、私の提案が正しいか どうかを、貴君の上の部署の誰が評価するのか な?」  「またその話かああ。私がいいと言えば、誰も反対 などせんのよ。それが、私の役割だからね」  町村常務はそこでレコーダーの再生を止めた。  「班目教授は優秀な人だが、このように頑固な頭の 持ち主でね。君たちには彼の真実の姿を知っていて ほしかったんだ。さて長谷川君。この会話を聞いて、 君はどう思う?」  長谷川さんは吐き捨てるように言った。  「いや、この班目教授というのは、まったく理解力 がない男ですな。町村常務がおっしやったことを、 理解していない。ビジネスの世界では、常務がおっ しゃるように、役割分担が基本です。研究は研究者 が行えばいい。我々はマーケティングを行えばいい。 それがスペシャリティを最大限に生かした、ソフィ スティケートされたビジネスの在り方です。お忙し い常務に研究活動を手伝わせるようなことを要望し てくるとは」  「そうだ。それでいて彼は私の役割も無視している。 私から言わせれば彼のような研究者など、世の中の 動向に疎く、次に訪れるチャンスなどつかもうとも せず、実験室にこもっている愚鈍な、十九世紀の遺 物のような存在だ。ただ、私はそれを否定せんよ。 彼らが発見したものを、マーケティングを駆使して 世の中に広めるのが我々の役割だからね」  「その通りです。常務のこれまでの経歴……独自の 感性で混沌とした市場から売れ筋の商品を見出して 会社を大きくしてきた、そのことに対してのリスペ クトがない」  「……山田君はどう思う? 身近で彼を見てきただ ろう」  私は、一番気になっていたことを、訊ねた。  「このような状態で、よく五年前にドクターズコス メが完成しましたね」  班目教授に対する町村常務の言葉への突っ込みど ころが、他になかったわけではない。というか、 突っ込みどころしかなかった。長谷川さんに対して も言いたいことはいろいろあったが、もはや彼には どんな言葉も届かないだろう。  数々の突っ込みどころについて、言っても無駄な ことを片っ端から捨てていって、それで残った質問 がこれだけだった。どうやって、今のドクターズコ スメができたのだろう?  町村さんは、吐き捨てるように言った。  「そんなもの、私の次の担当がやったに決まってる だろ」  「へっ?」  「暇そうな若手社員に代わってもらったよ。そいつ は班目の言うことを素直に聞いたのか、聞かなかっ たのか、よく知らん。だが製品はできた。そのころ には私はもうマレーシアヘ行き、別のもっと大きな プロジェクトを動かし始めていた」  私は愕然とした。仲違いしながらも、町村常務と 班目教授か、今あるドクターズコスメを形にしたと ばかり思っていた。でもそれをしたのが町村常務の 後任……桜井さんだったとしたら、じやあ町村常務 はいったい何をしたのだ?  この人は、結局、何もしていないんじやないか?  町村常務には数々の実績がある。だからこそ、常 務という位置にいる。長谷川さんが述べたように、 独自の感性と、売れるであろう商品を見出して、会 社を大きくしてきた功績はあるかもしれない。  でも実のところ、それだって、彼はいったいどん な努力をしてきたというのか?  班目教授か言うような意思疎通を避けて、大事な ところは他の人に任せて、言葉の力で人をコント ロールして。自分に都合が悪い人間は抹殺して、そ れでなんだか知らないうちに最後には評価される。 そういう生き方をずっとしてきたのではないのだろ うか……。  班目教授の講座5時間目 なぜ標準偏差の中に68%のデータが収 まるのか?  私は山田さんとの会話の中で、「平均値から、(不 偏)標準偏差のぶんだけ離れている範囲に、母集団 の約68%のデータが含まれている」と言った。しか しこれでは、いろいろ説明を飛ばしてしまっている。 ここで補足しておこう。  まず、標準偏差は次の式で計算できる。  ここで、標準偏差のことをσ(シグマ)と言う。  例えば理系の業界では上司から「3σでエラー バーを作れ」と指示されることがある。この場合、 エラーバーは「標準偏差σ×3倍」の値を用いるこ とになる。なぜ3σというように、3倍にするのだ ろうか?  統計学には「68‐95‐99・7則」という言葉があ る。次の図を見てほしい。  平均値プラスマイナスーσの範囲中に全体の約68 %のデータが入り、平均値プラスマイナス3σの範 囲中に全体の約99・7%のデータが入る(すなわち、 ありそうなデータをほとんどカバーする)というわけだ。  では、どうして1σは68%なのだろう?  それは、グラフのマイナスーσからプラスーσの 間の面積が、全体の面積の約68%になるからだ。正 規分布をとっている場合、どんな対象や事象であれ 約68%になるのだ!  では、正規分布に従わない場合は……フ・  安心してほしい。正規分布に従わない場合でも、 少なくとも88・8%のデータは平均値プラスマイナ ス3σの範囲内に入ることが、チェビシェフの不等 式からわかっている。  ぜひ、意味をわかったうえで、標準偏差を使いこ なしてもらいたい。  イギリスの海賊に、ウィリアムーダンピ アという男がいた。彼は海賊船の中で、た またま次のような歌を聴いた。 ぷ六月はまだ早い  七月はそろそろ準備  八月はしっかり見張りしろ  九月は時々思い出し  十月はすっかりおしまいだにれは大西洋でのハリケーンと呼ばれる 暴風雨についての言い伝えだ。この歌に興 味を持ったウィリアムは、海の気象、特に 暴風雨の知識と観察結果を調べて、まとめ 始めた……。 不安な「販売予想」データ  「んI」  私はおもいっきり背伸びをした。ひととおり、班 目教授に送るための資料が出来上がったのである。 ドクターズコスメの成分表だ。  新しいドクターズコスメが持つ「即効性のある使 用感」をどのように実現するかについては、研究者 である班目教授の担当だった。そして班目教授から、 ドクターズコスメの成分の候補が送られてきた。  それぞれの成分の効能については、正直、私も勉 強しているところであるが(よくわかっていないという 意味であ亘、Nジェネテイクスの私たちが取り組む べきは、それぞれの成分が法令を満たしているかど うかと、実際に製造するOEM企業(発注元企業のブ ランドの製品を受託して製造する企業のこと)と相談し、実 現可能かどうかについて協議することだ。  また、私たちの課では製品の改良に伴う、販売予 測のシミュレーションも行う必要がある。それらを まとめて、一歩進むたびに班目教授の意見を伺う。  「Nジェネテイクス社としてはこうしたいのです。 科学的な観点から許容できますか?」。このサイク ルを繰り返して、製品を作り上げていくのだ。  私は背伸びを続けながら、先日聴かされた班目教 授と町村常務の会話のことを思い出した。  班目教授か望んだような研究者と企業の対話……。  今、班目教授か望むような対話を私たちができて いるかどうか、よくわからないが、このような研究 者と企業の対話は重要であるだろうし、至極まっと うだと私は思う。おそらく町村常務のやり方だった ら、班目教授から出てきた提案をそっくりそのまま OEM企業に投げつけて、「なんとかしろ’・ でき なければ他をあたる’・」というように進めていたの かもしれない。  班目教授に資料を送信してI息つくと、三田村さ んが私のデスクにやってきた。  「ちょっと相談があるんだけど」  部屋には長谷川さんはいない。彼は今、外勤中で 不在だった。そういうとき、三田村さんは私にしや べりかけてくることがある。しかし、今日の三田村 さんは表情が険しかった。  「私、班目教授のドクターズコスメの販売予測のシ ミュレーションも担当してるじやない?」  彼女は企画課の中でも、マーケティングや販売予 測のシミュレーションを担当している。  「ええ、そうですね。ちょうど三田村さんから受け 取った資料を、さきほど班目教授にお送りしたとこ ろです」  「それで、今私たちが行っている販売予測のやり方 について、ちょっと班目教授のアドバイスが欲しい の。うちの会社が持つリソースを活かして、どのよ うな販路を拡大したときに、どのように業績が伸び るかについての予測をしたんだけど、なんだか自信 がなくて。打ち合せをセッティングしてほしいの よ」  私か不思議そうな顔をしていると、三田村さんは 続けた。  「うちの会社の中での班目教授の評判の悪さって、 あの町村のせいだってわかったわ。それで私は、こ の前の打ち合わせでは、ニュートラルな気持ちで班 目教授の話を聞けたわけ。他のみんなはどう思った かわからないけれど、班目教授の話って、すごく勉 強になるなと思ったのよ」  「わかりました。ちょっと待ってくださいね……」  私は次に班目教授と打ち合わせをする日程を確認 した。次の打ち合わせのときに、三田村さんの相談 も付け加える形で相談できないかと考えたのである。  しかし、次の予定は一週間後だった。本日送信し たドクターズコスメの成分表を確認して内容を分析 するには一週間を要するため、打ち合わせの間隔を 一週間としていたのだった。  そう伝えると、三田村さんは自身の手帳を開いて 見た。  「ちょっと間が開くわね……もっと早くに設定でき ないかしら?」  三田村さんの困った顔を見ると、なんとかしなく てはならないという気持ちになった。  私は班目教授に電話をかけた。  「ああ、貴君か。メールは受け取った。それじやあ また」  「ちょっと待ってください。すみません、ご相談が ありまして」  「何かな? 手短に、今はちょっと忙しい」  「先ほどお送りした資料の中に、ビジネスーシミユ レーションというものが入っております。これはド クターズコスメの販売の予想というもので、この予 想に従って我々は価格設定をするんですが……」  「うん、それで?」  「そのシミュレーションがですね、科学的に相当メ タメタなんですよ。おそらく班目教授か見たらツッ コミどころ満載というか。なので、当方、ちょっと シミュレーションをバージョンアップさせたいと考 えていまして、班目先生にギッタンギッタンにして いただく機会をいただけないかと」  「そんな表現では何も伝わらん’・ どこがどうまず いのか、ちゃんと説明せよ’・」  「ええと、いやあ、なんというか……」  「もういい’・ 話にならん。じゃあ明日の午後五時 だ。こっちにこい!・」  「ありがとうございます’・」  「貴君……なんだか私の使い方が、うまくなってい ないか?」  「そんなことはありません。では明日の午後五時 に」  私は電話を切って、三田村さんを見た。  「明日午後五時にアポが取れました。直接会っても らえるようです」  「あなた、何かメタメタだって?」 数字は「予測不能」で、「変化」するも のである  班目教授も三田村さんも、私に対しては腹を立て ていた。しかし、三人で会うと、三田村さんも班目 教授も大人なのであった。落ち着いたムードで打ち 合わせが始まった。  「お時間をいただきまして、誠にありがとうござい ます。本日は、私の販売シミュレーションに関する メタメタなデータについてご説明させていただきま す」  そういって三田村さんは私を睨んだ。私は天井の 蛍光灯を見た。  「まず図をご覧ください。これは、ビジネスーシ ミュレーションの分野でよく利用されるフィッシュ ホーン……伯Jの骨とも言われるもので、収益モデル            ー の設計図を表しています17。一般的に、このフィッ シュホーンは細かく作りすぎないことがポイントで、 主要なファクターのみで構成されています。そして 黒塗りの部分がバリュードライバー……価値を生む 原動力とでも訳しましようか、我々企業が設定する パラメータです。このパラメータを変動させて、利 益の予想を計算していくのです」  三田村さんは、図を見せながら説明を続けた。  「例えば販売数は、前月の販売数に成長率をかけた ものです。そして売上は販売数に設定価格をかけた ものになります。ここではサンプルとして、同価格 帯および同じターゲット層向けの製品を設定してい ます。このたびの改良により、その類似商品の5% 上をいく販売成長率を目標としているため、図にあ るようなバリュードライバーを設定して、予測収益 を計算しました。それが山田さんに送ってもらった 資料にあるものです」  班目教授は、資料の中の収益モデルのグラフに目 を落とした。  三田村さんは続けた。  「この予測収益のグラフから、販売開始から何か月 たてば目標の収益を達成するかがわかります。この ような見通しを立てたうえで、この企画にゴーサイ ンを出すか、あるいはバリュードライバーを見直す かの判断をするわけです。それで、班目教授、私は この予測収益に不安があるのです」  「不安?」  班目教授は聞き返した。三田村さんは頷いた。 「予測収益やバリュードライバーの考え方は、ビジ ネスの世界ではよく使われている方法です。私は ずっとそれらを使って仕事をしてきました。ですが 先日の班目教授の話を聞いて、不安になってきたん です。自分たちが使ってきた武器が、実は間違った ものであったり、使い方を間違っていたりするので はないかと」  班目教授は頷いた。  『なるほど。はじめに私の印象を言うと……y』のよ うに予測して、不都合な赤字となる場合に、バ リュードライバーを見直して再計算をするという考 え方は面白いと思う。我々研究者の問題解決方法と 同じ原理である。我々は仮説を立ててそれを検証し、 ダメだったら仮説を修正して、また検証していく。 このプロセスを『仮説−演繹サイクル』と言う。こ のサイクルを何度も何度も繰り返していくのが、科 学での事実の認定方法だ」  三田村さんは頷いた。頬が緩んでいることが見て 取れた。  「ただし、いくつか気になる点がある。成長率は、 どのように決めたのかな?」  「成長率は、他社の類似製品の、実際の販売数字を 分析して決定しました」  「それらが、我々のドクターズコスメの成長率とし て使える根拠はどこにあるかな?」  三田村さんは、しばらく沈黙して、答えた。  「ご説明した通り、同価格帯および同じターゲット 層向けの製品の、実際のデータに基づく成長率だか らです。裏を返せば、それしか参考にできるものが 存在しないのです」  「五年前の我々のドクターズコスメでの成長率は使 えないのかな?」  「それは使えません。なぜなら五年前のドクターズ コスメと、今回の改良したドクターズコスメでは製 品が根本的に違うからです。むしろ、同じ成長率で あってはいけないのです。班目教授には申し上げに くいのですが、五年前のドクターズコスメの成長率 は、当初は良かったと聞いていますが、やがてその 値は鈍化しまして、今回の改良につながったという わけです」  班目教授はニヤリと笑った。  「そこだよ。成長率に一定の値を与えることに違和 感がある。成長率は変化するものなのではない か?」  三田村さんは、深く考えるように口に手を当てて 沈黙した。  「成長率はたしかに変動するものです。ですが、変 動することを考慮すると、シミュレーションが複雑 になりすぎると思います。例えば昨年発売した商品 は、成長率ははじめ10%あったのですが、最終的に は2%まで落ち込みました。このような変動を取り 入れるのは困難です」  班目教授はホワイトボードの前に立った。  「いいや、成長率は変動するという考えはモデルに 取り入れるべきだ。計算が難しくなるのを避けたい なら、簡単に考えればいい。例えば成長率が10%か ら2%に変動するのなら、それぞれ成長率が10%の 場合と2%の場合を計算して、グラフに乗っければ いい。その間の範囲内に予測が収まるんじやない か?」  そう言いながら班目教授は、ホワイトボードにグ ラフを書いた。  「研究者たちも、物理や化学反応のシミュレーショ ンをするときに、このようにさまざまな条件の場合 について個別に計算して、おおよその予測を得るこ とを行う。逆に、シミュレーションのインプッ ト……成長率もそのひとつだが……インプットを変 えたときのシミュレーション結果が、どのように変 化するかを調べたりすることもある。感度解析とい う手法だ」  「そういうことも行われているのですね。どういう 意味があるのです?」  「シミュレーションの結果が大きく変化するイン プットは大きなインパクトを持つものだと言えるし、 わずかな変化しかもたらさないインプットは無視し てよい。何か言いたいかというと、シミュレーショ ンは何度だって繰り返すことができるのだから、 たったひとつのシミュレーションだけで結論を出す のはもったいないことであるし、危険だということ だ」  「なるほど……感度解析は使えるかもしれませんね。 成長率、販売価格、設定価格など、バリュードライ バーの数値をそれぞれ動かしてみて、どれが最も結 果を大きく変化するかを調べれば、我々が特に注目 するべき物事が見えてくるというわけですね」  班目教授は頷いた。 PDCAの「C」から考える  「そしてもう一つ。五年前のドクターズコスメは、 同じようにシミュレーションをしたのであろうか? そしてその予測は、実際の結果とどれくらい差が あったのだろうか」  三田村さんの顔が曇った。  「五年前にも収益予測はしたとは思いますが、それ がどうだったか、私にはわかりかねます。おそらく 検証はしていないと思います」  「それはもったいないことだ’・」  班目教授は、大きな声をあげた。  「研究者たちがシミュレーションについて議論する 際、必ず出てくる話が検証だ。シミュレーションを 行うためのモデルがあって、パラメータがある…… それは貴君が示したフィッシュホーンとバリュード ライバーの考えと似ている。次に行うのが、それら が正しいかの検証だ。すでに手元にあるデータを 使って、シミュレートして、モデルやパラメータが 合っているかを検証するんだ。合っていれば良し。 外れていればモデルかパラメータが悪い。実験デー タをもとにシミュレーションで検証して、妥当とい うことがわかってから、まだ実験されていない未来 のことを予測するんだ」  班目教授は一息にまくし立てた。三田村さんはひ るみながらも、こう答えた。  「過去のデータを使うことを、考えていませんでし た。過去は過去だと……ビジネスの世界では、何も かもが常に新しくなっています。過去に引っ張られ てはいけないという、変な固定観念があったのかも しれません。でも、過去のデータの重要性がよくわ かりました。帰社して、過去のデータをよく調べて みます」  「ぜひそうしてみてくれ」  班目教授はそう言うと、次のように続けた。  「ビジネスにもPDCAという言葉があるだろう? 私はよく企業と共同開発を行うが、計画、つまりP を重視しすぎて延々とシミュレーションを繰り返し、 なかなか実行に移らない企業もある。先が見通せな い時代に、綿密な計画を練りたくなる気持ちもわか る。一方、我々研究者が行う実験も、結果がわから ない。だからこそ検証するのだが、ここで重視して いるのはP(計画)よりもC(チェック)だ。どのよう な検証によって、どんな結果を得るために実験を行 うのか。ここを明確にしてから、そのための計画を 立てる。その検証によって得られるものがあれば、 たとえビジネスの観点では失敗しても、それが次の 成功につながる。少なくとも、次のシミュレーショ ンの正確さにつながるだろう。大切なのは、振り返 ることなのだ」  「なるべく失敗はしたくないものですが」と、三田 村さんは苦笑いをした。  「面白い話がある。昔、ウイリアムーダンピアとい う人物がいてね。彼は海賊をやっていたんだが、あ るとき、たまたま耳にした海賊の歌……大西洋の気 象に関する言い伝えの歌を聴いて、海の気象、特に 暴風雨の知識と観察結果をまとめ始めた。やがて彼 は海賊をやめて、1697年に『新世界周航記』と いう書籍を出版した。その業績は災害から身を守る ための気象学に大きく貢献した。それからイギリス 王からニューギニアやオーストラリアの調査も命じ られた。ニューギニアやオーストラリアのあたりに ダンピアという名前の港や島を見つけることができ る」  「海賊から気象学ですか……面白いですね。でも、 ビジネスとなんの関係が……冫・」  「過去の教訓に真摯に向き合うことで、多くのもの を得られるという逸話だよ」  班目教授は、続けて言った。  「話を戻すと……世の中の企業は、たぶん、新製品 がなぜ売れたのかとか、売れなかったのかというの を、深く分析をしていないんだろうなと思う。書店 に並んでいるビジネス書にも、シミュレーションに 関係するものはすごく少なくて、マーケティングや 未来予想などに関するものが多いような印象を個人 的には受けている。でも、物事には必ず予兆や流れ がある。一見不確実に見える未来も、過去をじっく り振り返ることで、その兆しが見つかることがある だろう。未来を見通すために、過去にしっかり目を 向けることが大切なのだ」  三田村さんの顔が、ぱっと明るくなった。 なぜカップラーメンは「3分」待つの か?  さんざん教授の話を聞いた後に、私はとても大切 なことを思い出して、ああ’・ と声をあげた。 [どうした、音]君?」  私は紙袋の中から、紙に包まれた箱を取り出した。 「班目教授への土産物を持ってきたことを失念して いました。ここへ来る途中、高輪ゲートウェイ駅で 饅頭を買ってきたのです」  「高輪の饅頭?」  包装紙には『高輪ゲートウェイ駅に行ってきまし た』と書かれている。行ってきたも何も、単なる通 過駅である。  「貴君たち、どうだ、みんなで食べてしまわない か」  班目教授はそんなことを言い出した。忙しかった のではなかったのか?  三田村さんは饅頭を少しずつかじりながら、班目 教授に訊いた。  『仮説を立ててそれを検証し、ダメだったら仮説を 修正して、また検証していく……’』れを『仮説−演 繹サイクル』とおっしやられましたね。私かお話し したヶIス分析も、同様の手順が含まれているとの ことでしたが、この『仮説−演繹サイクル』の、研 究者の世界での扱いについて、もう少しお話を聞か せていただけませんでしょうか」  班目教授は二つ目の饅頭をほおばりながら、頷い た。  「例えば研究者は、主に学術論文という形で研究成 果を世の中に伝える。この学術論文がまた学術論文 を生み出して科学は進展する。この中にも仮説−演 繹サイクルと似た構造がある。現代の学術論文が、 1600年代の論文を引用することだってある。何 か言いたいかというと、科学の世界はそうやって 個々の研究が関連し、つながってできたものの上に 成り立っているということだ。そんな考え方が、研 究者には身に沁みついている」  「研究者たちは、毎日毎日が繰り返しなんですね」  私は三個目の饅頭をつかんで、口に運んだ。三田 村さんに「お前、食いすぎた」と背中をつつかれた。  「そう。研究者でない人だちから見れば、そのよう な個々の関連やつながりを重視する姿勢が、ときに 面倒くさく、不必要なものに映るかもしれない。普 段の生活を送るうえでは、それで良かった。直観に 従って行動し、感覚的に判断すればいい」  班目教授は、カバンからおもむろにカップラーメ  ンを取りだした。饅頭を食べたあとラーメンを食べ るつもりなのかこの男は? 私と三田村さんは、思 わず顔を見合わせた。  「これは明日の朝食用だ。たぶん今夜はここに泊ま ることになる」  「ご家族はお待ちでは?」  三田村さんが訊いた。 「あいにく独身だ」 「やっぱり’・」と、私は言った。 「やっぱりって何だね?」 「シミュレーションした分析結果です」と、私はう そぶいた。  『それで……y』のカップラーメンだが」  班目教授は私たちの目の前にカップラーメンを置 いた。それから私に尋ねた。  「貴君はカップラーメンを食べるとしたら、湯を入 れて何分待つ?」  「3分ですかね?」  「なぜ?」  「えっ、なぜって? 蓋に3分待てって書いてある から……」 「うむ。期待したとおりの答えだ」  班目教授は頷いて、カップラーメンの蓋を私の方 に向けた。  「あの……何の話をされているのですか?」  三田村さんが訊ねると、班目教授はひとつ咳払い をして、言った。  「蓋に3分待てと書いてあれば、たいていの人間は 3分間待つ。しかし、カップラーメンに3分間お湯 を入れて、きっかり3分間測らなくても、食べるこ とはできる。3分後のラーメンの麺の化学的構造な ど、どうでも良い」  「まあ、そうですね」と私は頷いた。  「しかし、開発する側は違う。まず3分という設定 について考えなければならない。なぜ3分か? 30 分では話にならんのは当然だが、1分ではダメなん だそうだよ。3分間、待たせることによって、食欲 を高めさせる効果も含まれているらしい。実にいろ いろなことを考えなくてはならない。そして3分と 決まったならば、3分間でベストな仕上がりになる ような麺を作らなくてはならない。何か決定因子 か? 麺の表面に穴があるほどお湯の浸透が早く、 時間が短縮される。では麺に穴をあける方法 は……冫・これはざっくりとした話だが、ものの開 発というのは、個々が関連し、つながっていて、そ れぞれに仮説−演繹サイクルの繰り返しなのだ」  饅頭を食べ終わったところで、この場はお開きと なった。なるはずであった。  「本日は長時間、お時間をいただき、ありがとうご ざいました」  三田村さんと私は、二人そろって頭を下げた。  班目教授は首を振った。  「こちらも面白い話を聞くことができた……という か、実は、今日、このように来てもらっだのには、 こちら側にもわけがあったのだ。三田村さん、この あと山田氏をしばらく借りてよいか?」  「えっ?」  私と三田村さんは、お互いの顔を見合わせた。  「ああ、どうぞどうぞ。煮るなり焼くなり、好きに してください」  三田村さんはそんなひどいことを言って、私の背 中を押した。  「ちょっと山田氏と話したいことがあるのだ。そう いうわけで、貴君、今晩ちょっと付き合ってくれ」  班目教授の講座6時間目  分析の効率と正確性を高める「メッ  シュ」の考え方  計算科学の分野でのシミユレーションのひとつに、 有限要素法というものがある。モデルをつくる方程 式を近似的に解くための、数値解析の方法のひとつ だ。  複雑な形状・性質を持つ物体を小部分に分割する ことで近似し、全体の挙動を予測しようとするもの だ。構造力学や流体力学などさまざまな分野で使用 されている。  この有限要素法の考え方のポイントは、解析対象 を複数の有限個の要素……以下、メッシュと言うが、 メッシュに分割して数値解析を行うことだ。  言い換えると、有限要素法とは、「解析できるよ うに形状を分ける」ということだ。  さて、有限要素法では、一般的にメッシュの細か さによって解析の計算精度が異なる。  一般的にメッシュは細かくすればするほど計算精 度が良くなる。計算精度が良くなるということは、 理論解に近くなることを意味する。  しかし、解析結果を理論解に近づけようとす る……すなわち誤差を減らそうとすると、メッシュ の数が多く必要になり、シミュレーションの時間が かかる。  すなわち、最適なメッシュのサイズを研究者は決 定しなくてはならない。  そこで研究者は、自分が注目したい部分や、衒奇 的に変化をするような部分はメッシュを小さくし、 比較的重要度が低い部分はメッシュの大きさを大き くする。  このような工夫をすることで、計算を効率良く行 なうことができる。  この有限要素法の話を、ビジネスのシミュレー ションに生かそうとしたら、どうなるだろう。  例えば劇的に販売数が変動するような年末商戦な どで、シミュレーションのメッシュを小さくす る……すなわち月単位の予測をしていたものを週単 位にするとか、工夫をすることで予測結果がより正 確になることが期待される。  ビジネスであれ、科学の世界であれ、似たような 考え方・捉え方でシミュレーションを行っていると 言えるかもしれない。  ずっと昔の、十八世紀のお話。  あるイタリアの解剖学者が、カエルの足 を実験に使っていた。  そのカエルの足を金属のトレーに置いて いたとき、突然その足がピクピクと動いた。  その発見 が……………………………… III一・・―一一●II一●・・―一一●II一●・・―一・・II一●・・―一 III一・II一一・II一・・II一一・II一・・II一・・II一−・II一 III一・II一一・II一・・II一一・・I一・・II一・・・申一−・II一 :乾電池を生んだ。 なぜ「科学的」に考えられないといけ ないのか?  班目教授から食事の誘いがあるなど、これまでに ないことだった。  社内の男性(例えば長谷川さん)はともかくとして、 ふたりきりで食事など、どれくらいぶりだろう? 私は考えた。どれくらいぶりか、などと恰好つけて みたものの、ほとんど皆無たったことに気がついて 悲しくなった。  しかし、班目教授に対して浮ついた気持ちがある かというと、これまた皆無である。班目教授か独身 だろうが、火星人だろうが、たぶんこの人とは何も あり得ない。  班目教授はくしやくしやの白衣姿のまま私の隣を 歩き、そのまま大学のキャンパスを出てしまった。 そして言った。  「ところで貴君。店のあてはあるか?」  「えっ、誘っておいて、何も考えてないんです か?」  「ラーメン屋とか牛丼屋ならば知っているが……」  「わかりました。調べてみましよう」  私はスマホを取り出して、近くの店を探した。店 はいっぱいあった。なんだ、あるじやないか。私は ここから数分の距離にある、割ときれいそうな焼き 鳥店を見つけた。予約のアプリを操作して、二人ぶ んの予約を入れた。  「貴君は実に上手にスマートホンを使う。私より ずっと上手だ。この店を探すためにスマートホンを 取り出して、地図のアプリを使っていたね」  焼き鳥をほおばりながら、班目教授は言った。  「そうですか? えヘヘ……」  久しぶりに教授から褒めてもらった気がした。  「貴君が店を調べようとしたとき、無意識的に空を 仰いだことに気が付いたかな?」  そうだったっけ? 気が付かなかった。私は首を 振った。  「地図のアプリを機能させるためにはGPS通信が 必要だ。屋根などの遮蔽物があれば精度が下がって しまう。すなわち、貴君は測位衛星から発せられる 電波をキャッチしなければならず、遮蔽物によって 電波がさえぎられることを知っている。この一連の 流れの中には、複数の測位衛星が囗本の上空の軌道 を飛んでいることと、電波が遮蔽されるということ などの、多くの科学的要素が含まれている。貴君が 空を見上げたのは無意識の行動だったとしても、そ の知識の一部分が貴君の中にあるということには変 わりない」  私は曖昧に頷いた。班目教授の言うように、私か 空を見だのは無意識の行動だ。私の頭の中には測位 衛星のことなんて、これっぽっちもなかったのだ。  「一方で、科学的な知識がなくて、損をしてしまっ ていることもあるだろう。例えば赤信号によく引っ かかるのは自分の不運のせいだと思ったり、標準偏 差を理解していないために、比較の際に正しい評価 が行えなかったりしてしまう。私は別に研究者にな れと言いたいわけではない。ただ、最低限の科学的 な知識を知らなければ、損をすることもあるし、検 討が間違ったり先に進まなかったりするんだ」  私は食べかけのやきとりを皿に戻して、班目教授 に向き直って言った。  「班目教授とお話しする前は、私はだいぶ損をする 側の人間だったと思います。いろいろお話を聞いて きて、ちょっとずつ自分が変わってきた気がしてい ます」  「自分は文系出身だから数学や理科はできないんで す、と言う人がいる。でも、そういう人もスマート ホンやパソコンを使いこなしている。私から見ると、 矛盾しているし、単なる食わず嫌いとか、ひがみ根 性だと思っている。貴君は自分のことを理系と思う か文系と思うか?」  「文系です」と、私は即答した。  「じやあ数学とか理科は嫌いかい?」  「嫌いでしたね。できれば避けて通りたいと思って、 外国語学部に進学しました」 「なんで嫌いになった?」 「ええと……一・同校受験のとき、数学の成績が悪くて。 そのときから数式を見るのが嫌になりました」  「中学生というと二十年前くらい前のことかな。そ んな昔の……」  「十年前です’・」と、私は訂正した。  「失敬……十年前でもいい。十年前でも十分に過去 のことだ。そんな過去の印象だけで理系の世界を遠 ざけてしまっていることに、もったいなさを感じる と私は言いたいのだ。まあ、その原因はこの国の教 育システムのせいであるのだが」  「教育システム……冫・」  「そう。日本では高校以降、生徒を理系と文系に分 けてしまう。そのほうが指導しやすいし、生徒の側 としても、早めに将来構想を練ることができるとい うメリットがある。だが、文系と理系を分けるとこ ろに断絶の悲劇がある。貴君のように学生時代に理 系に苦手意識を持った人たちが、自らの将来を狭め られたと考えてしまうと、その後一生、理系のこと を呪い続けるんだ。ちょっと想像してほしい。理系 の科目が嫌になって文系に進んだ人間と、文系の科 目が嫌になって理系に進んだ人間、どちらが巷に多 いだろうか」  「それは前者……理系の科目が嫌になって文系に進 んだ人間の方でしょう」  「そういう統計を見たことがないからなんとも言え ないが、もしそうだとすると、理系を睨う人たちの 数は一定数いて、やはりその中の一定数がビジネス の世界で活躍している。彼らは理系を呪いつつ、理 系を遠ざけつつ、それでいてビジネスの世界の思考 法などが大好きだ」  私はドキリとした。まさに私のことを言っている のだと思った。  「そして第二の悲劇が訪れる。ビジネスの世界の思 考法や思考術は、本来、理系の考え方と切っても切 れない関係にあるはずなんだ。しかし、巧妙に理系 の匂いを排除して、あたかも理系の能力を持だなく ても問題に立ち向かえるように錯覚させるものが多 いと私は思っている。あるいは、理系に対する呪い を抱えた人たちが、理系を避けて迂回しながらイノ ベーションを起こして、理系に対して勝利感を得る という、ねじれた構造になっているのではないか」  そんなことを考えたこともなかった。しかし、自 分の胸に手を当てて考えてみると、否定ができな かった。困ったときはいつも、藁にもすがる思いで ビジネス書を手に取っていた。そうすれば、本来な ら考えなくてはならないことをすっ飛ばして答えだ けが得られる……袿XtEt識のうちに、そう考えていた のかもしれない。  私は苦しくなって、班目教授に聞いた。  「……そういう人間は、どうしたら救われるんです か?」  「いったん理系と文系という壁を壊すことだ。壁な んて物理的には存在せず、人間の心の中に……中学 や高校生の時代に、便利だから築かれただけのバー チャルなものだから、もう捨てていいのだ。東京経 済大学と東京農工大学の間にベルリンの壁のような ものはあったかな? ないよな。武蔵小金井の駅は あるけれどね」  そこで班目教授は笑った。  「これまでの怨念を捨て去って、ノーサイドの心で 知識を深めればいい。これは理系の本だ、文系の本 だと意識せずに、興味のままに読んで知識を深めて いけばいい。そして難しい数式が出たら読み飛ばせ ばいい。理系の人間だってそうしている」  「そうなんですか」  「少なくとも私はそうしている。それに私だって、 貴君だちと一緒に仕事をするまでは化粧品のことは 知らなかった。おしろい粉くらいしか知らなかった。 だから本を読んだよ。化粧品業界のことが書かれた 本で、たぶん就職活動をする大学生向けの本だった と思う。その本で私か初めて知ったのは、化粧品業 界は実に広い分野と関係があるということだった。 経済や流通のことはもちろんとして、皮膚のことを 扱うなら医学、工学……私たちのことだね。そして 法律学。医薬部外品や医薬品を定めることに関係し ている。もちろん国際分野にも関係がある。諸外国 とのやり取りも必須となるからね。貴君は化粧品の 分野にいる。そういう他分野にわたる仕事をしてい て、自分が嫌いだからと言って理系分野のことがら を自分のタスクから排除したりしてはいけない。貴 君のような若手は、これから活躍してイノベーショ ンを起こさないといけないのだろう? さらに上の 立場になっても、まだ自分の狭い範囲にだけしがみ ついておくつもりかい?」  私は班目教授の話を聞きながら、頭のなかで別の シーンのことを思い出していた。ICレコーダーか ら聴いた、班目教授と町村常務のやり取りを。  「……一貝君が方向性を示す、私が提案する、貴君が それを分析してより良い改善案を私に示す、私がそ の改善を行う……そうやって良いものができるんだ。 それが研究者と企業の対話だ。このやりとりの際に は、サイエンスにのっとった会話が必要になる。だ から、貴君に数字として物事を示すように要望して いる。そういうことだ」  私ははっとして、目の前にいる班目教授を見た。 「貴君。大丈夫か?」 「すみません……ちょっと、過去のことを思い出し ていて」  「まあ、いろいろ耳に痛いことを言ったが、貴君に はわかっていてほしい。いいかい、科学的に考える というのは、データでもって物事を理解、説明、予 測して、相手を、世界を納得させることだ。老若男 女、理系文系問わず、どのような人々にとっても共 通で公平なものであるんだ。これから歳を重ねて、 どんどん上の立場に行く。そのときに、貴君は文系 や理系の立場にとらわれず、自由闊達な見方ができ る人材となっていてほしい」  「はい……はい、そうします」  私は何度も頷いた。班目教授の言葉は、本当に私 の心の奥底に届いたような気がした。なんだか、涙 が出てきた。  はじめ、あれだけ恐怖に感じた班目教授が(言葉 は今もぶっきらぼうだけれど)、本当に私のためを思って 言ってくれているのだと、私は理解したのだ。  私か強く頷いたままなので、班目教授は心配をし たのだろうか、静かになった。  私か彼にわからないように涙を拭いて顔を持ち上 げると、彼はスマホを取りだして、明日の天気を見 ているところだった。 イノベーションの「正体」  「ところで、班目教授は、何か私に話したいことが あったんじやないですか? 三田村さんに、私を借 りたいって言ってましたよね」  ある程度、お酒が入ってきたところで、私は尋ね た。  「うん。まあ、目的は半ば達しつつある」  「……冫・」  班目教授はひとつ咳払いをして、言った。  「ここ数日、イノベーションについて考えていたん だ」  「イノベーションですか」  「貴君や貴君の会社は……ビジネスの世界では、よ くイノベーションという言葉を使う。辞書で引いて みると、技術革新という意味が初めに出てくる。そ して、書店に並んでいるビジネス書のコーナーを覗 いてみると、イノベーションに関する本が多く出版 されている。そこで私は不思議に思ったんだ。そん なに簡単に、イノベーション……技術革新が起こる ものなのかと。そして第二の疑問は、ビジネスパー ソンがイノベーションを起こす方法を学ぶ理由とは 何だろう、ということだ」  「なるほど」  私はひと呼吸おいて、続けた。  「私の理解の範囲で答えるならば、ビジネスの世界 のイノベーションとは、新しいアイデアを生み出す という意味で使われているような気がします。あく まで実現するのは製造設備を持った人たちで、アイ デアとか、新しい使い方、新機軸のようなものをビ ジネスパーソンが示すときに、イノベーションと言 うように感じます」  「うん。もともと工学や理学の世界での言葉を、ビ ジネスの世界が借りていった、というのが正確かも しれないね」  「でもビジネスパーソン側も、最終的には技術革新 をしたいのだと思います」  酔いが回っているのか、私はいつもより大胆に、 自分の考えを言うようになっていた。目の前に座っ ているのは、百戦錬磨の教授なのに。一方の教授は、 私のようなひよっこの話に、耳を傾けてくれている ようだった。  「じやあ、いったいどうすれば、イノベーションを 起こせるのだろう?」  班目教授は難しいことを聞いてきた。 「それがわかれば、苦労しませんよね」  そう言ったとき、私はふと、班目教授のアイデ アーノートのことを思い出した。そこで酔いが、50 %ほど醒めた気がした。町村常務からの指令のこと を、最近すっかり忘れてしまっていたのだ。  班目教授は話を続ける。  「過去のイノベーションを起こしてきた太たちのこ とを考えればいいかもしれない。中間子理論により 日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、       − そのエッセイ18の中で、科学者による創造性につい て書いたことがある。まず一生のうちに創造的な仕 事ができるのは一度くらいのことだと。そして、創 造性の源は何かというと、ひとつは執念であり、ま た、相反するもの……矛盾であったり、奇妙にうつ る物事を抱えた者が、創造性を達成できるというよ うなことを書かれていた」  「相反や……矛盾ですか」  「天才と呼ばれる人や、天才に準じる人は、自分の 中にいつまでも深刻な矛盾を残しているんだという。 ああでもない、こうでもない、と自分の中で悩み続 ける」  「そうした悩みの中で、イノベーションを達成して きたということですか?」  「そう考えてみよう。そこでだ。天才たちの頭の中 で行われていることを、ここで再現してみようと思 う。これまでにないものを新たに作るという流れを シンプルに捉えれば、二つの物体の衝突のように考 えられるだろう。例えば、通常では相反するも の……同じ正の電荷を持ち反発しあうはずの重たい 原子核どうしを衝突させたことで、これまで存在し なかった原子核が生まれた。ニホニウム(5E〜) と名付けられた、原子番号113番の新しい元素は、 イノベーションの一つの結果であろう」  「二つの物体の衝突ですか」  「あくまで例だよ。もう少しかみ砕けば、何か足ら ないか、何か必要かという問題設定を深く考えるこ とがスタートラインなのであろう。実際の例を見直 してみれば、すべて『不便なこと』からイノベー ションは生まれてきたと思う。ただし、現代社会は 満ち足りているので、不便さを発見することが難し いのだ。そして不便であるということは、まだ解決 されていない、イノベーションの起こる余地がある と言える。その不便なことについて、二つの物体を 衝突させてみるのだ」  私は頷いた。そして、スマホを取り出した。  「例えばこのスマホはとても便利なものです。でも、 スマホが登場する以前に私たちが使っていたガラ ケーを、当時は誰も不便とは思わなかった。誰もス マホという便利なものが誕生することを知らなかっ たから」  「うん。スマートホンが我々の目の前に現れてから、 我々はガラケーの不便さに気が付いた。でも、その ガラケーの不便さは、ガラケー全盛期から存在した はずだ。であれば、その不便さを見つけたものにイ ノベーターの称号が与えられるわけで、その可能性 は身の回りに転がっているはずだ」  私は、興奮してきて、饒舌になってきた。  「イノベーションは、埋もれたさまざまなパーツが 組み合わさって出来上がる。そのちらばったパーツ を集めるのが、イノベーションを生み出す人間の仕 事だということですね。日頃から情報収集能力、嗅 覚を磨いておくことで、イノベーターになれるかも しれません。何か、埋もれたパーツを見つける方法 はないでしょうか?」  「そうだな。相反するようなもの……`四段結びつか ない事柄を結びつける思考実験を繰り返すと良い」  私はしばらく考えた。  「でしたら、例えば、赤と緑の付箋を用意して、赤 に『解決したいこと』、緑に『さまざまな技術や方 法』を書き、これを組み合わせていくというのはど うでしよう?」  「面白いね。ただ、自分が思いついたアイデアは、 誰かも思いつくと考えていたほうがいい。電話機を 発明したグラ(ムーベルが電話の特許を取るために 特許庁へ行った数時間後に、別の人物が同じ原理の 特許を申請しようとしたという逸話がある」  「それは、急がないといけませんね。帰りに付箋を 買って帰りましよう」  私は笑って言った。  お酒の力が私をさらに気分良くさせていた。勢い のまま、私は班目教授に尋ねた。  「……ところで班目教授。先生のデスクの上に、ア イデアーノートというものが載っていたことを以前 見つけまして、それ以降、すごく気になっているん です」  「アイデアーノート……冫・ああ、あれか」  「あのノートの中身は何なんです?」  班目教授はカバンを膝の上に置き、ごそごそと中 を探し始めた。  「あったあった。これのことかな?」  黄色い表紙の、A4サイズの分厚いノート。  表紙に『アイデアーノート』と汚い字で書かれて いる。  班目教授は無言のまま、ペラペラとページをめく り始めた。私に見えるように。  私は中身を覗き込んだ。これは……’・  「貴君。これに興味があるのか?」  「ええ」  私はひと呼吸置いて、続けて班目教授に言った。  「町村常務も、このノートに興味を持っているので す」 クーデターの「Xデー」  班目教授との飲み会ののち、しばらくして、新し いドクターズコスメの成分は完成を見た。実際に製 品を製造するOEM企業とも合意ができた。  予想外に早い着地となっだのは、三田村さんによ るシミュレーションによるところが大きい。班目教 授のアドバイスを取り入れた、より具体的かつ、確 実性の高い販売予測結果に、Nジ子不テイクスの上 層部はゴーサインを出したのである。  私たち企画課の面々は、ひとつ大きな仕事を成し 遂げた安堵感に包まれていた。一方で、長谷川さん だけは、思いつめたような顔をしていた。  廊下ですれ違ったときに、声をかけてみた。  「町村常務の新会社の話は、どうなりましたか?」  彼は慌てて、あたりを見回して、血相を変えて 言った。  「なんのことだよ。妙なことを言うなよ’・」  その慌てぶりから、着実にその話も進行している ことは明らかだった。  しかし、実のところ、長谷川さんをからかって遊 んでいる余裕は、私にはなかった。製品の製造に ゴーサインが出た後にも、私たちはやらなければな らないことが多々あった。パッケージに盛り込む情 報を決めて、商品課のチームとデザインを決めなく てはならない。そして経営企画部相手に、この新製 品のプレスリリースの内容について話し合わなくて はならなかった。そしてもう一つ……。  経営企画部との、プレスリリースに関するキック オフミーティングには、もちろん町村常務も出席し ていた。いつもの多弁な様子はまったく感じられず、 終始押し黙ったままであった。その町村常務が会議 のあと、私と話がしたいと声をかけてきたのである。 用件はわかっていた。アイデアーノートの話だ。  私は常務取締役室にひとりで呼ばれた。  町村常務は椅子に座り、頭の後ろで手を組んでい た。  「単刀直入に聞く。アイデアーノートはどうなっ た?」  「はい。班目教授の信頼を得たようで、内容を読む ことができました」  町村常務は驚いた顔をした。 「おお、そうか。ではな、それを入手するんだ」 「入手して、どうなさいますか?」 「貴君がそれを理解する」 「えっ……冫・」  それは予想外の返答だった。 「私か、ですか?」  町村常務はくるりと椅子を回転させて私に背を向 けて、窓の外を眺めて言った。  「実は私は君を試していたんだ。班目教授の信用を 勝ち得るかどうか。正直、失礼ながら、私は君のこ とを見くびっていたよ。こんなにも優秀だとは…… いいかい、班目教授のノウ(ウを君が吸収するんだ。 そして君が第二の班目教授になるのだ」  「私か、第二の班目教授に?」  「そう。君にだけ話しておこう。実は、近く、私は 新しい会社を興す」  「ええっ……りI」  私は驚いたふりをした。  「Nジェネテイクス社のなかの優秀な人材に声をか けようとしているところだ。君にも声をかけたい。 どうかな?」  「……考えさせてください」  私は吹き出しそうになった。長谷川さんが聞いた ら、どんな反応をするだろう?  「よろしい。でも、もう君は片足をこちら側に突っ 込んでいるということを忘れるなよ。なぜなら、君 はもう私の話を聞いたのだからな」  それから、町村常務は私の方に向き直った。  「班目教授の新しいドクターズコスメのプレス発表 の日にちは、君も知っている通り、今日の会議で決 定した。それに向けて社内では諸々詳細を詰めてい く段階だが……私の新会社のプレス発表会も同日に 行う。そこに君も参加するのだ。それで班目教授に 大恥をかかせてやることができる。わかったな」  「わかりました」  私はだんだんと頭が痛くなってきた。まるで何か の三文芝居につきあわされているような気になった。 話を早く切り上げて、この場を立ち去りたかった。  それから、私はぼうほうの体で常務取締役室を出 た。  最後まで、町村常務は私に尋ねなかった。アイデ アーノートの内容を。  間違いない。彼はこういう人間なのだ。実際に手 を勣かす人間をそばに並べて、自分は役者を動かす だけのつもりらしい。私の頭が、さらにキリキリと 痛んだ。  「イノベーション」は開かれたもので なくてはいけない  班目教授との新しいドクターズコスメについて、 Nジ子不ティクスの上層部はゴーサインを出した。 そして、そのプレス発表会の日程が決まった。とあ る金曜日の午後一時である。  その時間についても、私は町村常務から聞いてい た。班目教授のドクターズコスメのプレス発表会が 午後一時で、町村常務の新会社のプレス発表会は午 後三時である。時間かすれているのは、化粧品業界 専門の記者たちの流れを、Nジ子不ティクス↓町村 常務とさせるためだ。  もちろん、町村常務のプレス発表会の内容はマス メディアには漏れておらず、記者たちの頭の中は 「?」になっているだろう。同じ会社が、立て続け に違うプレス発表会を行うのだから。  そんなスケジュールを、私のような下っ端社員が 知っているのも、おかしな話である。私は極力、町 村常務のことは頭の外に置いて、自分の仕事、ドク ターズコスメのプレス発表会に集中することにした。  発表会のための仕事をしながら、私は班目教授と の会話を思い出していた。  先日の飲み会の場でのやり取りだ。単に面白い話 だっただけではなく、私たちにとって重要な何かを 教えてくれる話だったと今にして思う。  班目教授はメニューに目を落として、ふと、「い いものを見つけた’・」と短く叫び、そのメニューを 注文した。  それは、カエルの足のから揚げだった。  皿に載った細長い揚げ物を、私はおそるおそる箸 でつついた。  「カエルつて、食べられるんですか?」  「食べられるからメニューにある。食用カエルつて 聞いたことがあるだろう。鶏肉のような味がする ぞ」  そういって班目教授は、カエルの足のから揚げを ひとつまみ口に運んだ。  「カエルの足の話で、面白いものがある。イタリア の医学者、解剖学者のルイジーガルバーニという人 物がいる。ある囗、彼はいつもと同じようにカエル の解剖を行っていた。解剖学者だったから、他の動 物と同じようにカエルを研究に使っていたのだ。そ して彼はカエルの足を、金属の器具を使って実験室 の隅にぶら下げていた」  「あまり想像したくない光景ですね」  食欲を失った私は、文句を言うように彼を見た。 彼はお構いなしに続けた。  「そのとき、たまたま彼のそばで発電機が回ってい た。静電気を利用した接触式の発電機だ。発電機で 起きた電気が放出されたとき、カエルの足がぴくぴ くと動いた。ガルバーニは筋肉が電気によって動く ことを発見したのだ」  「なるほど」  「筋肉は電気によって動く。この発見までは良かっ たが、ガルバーニは『動物の身体には特別な電気が たまっているに違いない』と考えてしまい、最終的 には誤りであることが判明するその発見を、ボロー ニャ学士院雑誌に投稿した」  「間違った発見も、雑誌に載ることがあるんです ね」  「その通り。論文も必ず正しいとは隕らないんだ。 そしてこの論文は、さまざまな科学者に驚きを与え た。そこで同じような実験が行われた。追試実験と いうやつだ。そこで物理学者のボルタは、カエルの 筋肉の動きが、カエル自身の身体が持っている電気 によるものではないことを突き止めた。さらに彼は その一連の研究の中で、異なった金属を接触させる と電気が起こることを見出した。そのボルタの発見 は、今、我々が使っている電池の基礎になってい る」  「カエルの足から、電池が生まれたんですね’・ す ごいイノベーションですね」  「イノベーションのきっかけをつかんだときに次に 踏むべきステップが、このエピソードには隠されて いるかもしれないね。すなわち、異分野の人たちが 集まって、さまざまな視点から考えるということだ。 一人の、ひとつの専門的な視点だけではなく、複数 の専門的な視点で見つめることで、誤りが正され、 さらなるイノベーションにつながっていく。貴君と 私のようにね。科学にだって間違いはある。イノ ベーションは誰か一人によって独占されるべきもの ではなく、どんどん開かれていくべきなんだ」  「私もカエルの足を見つけたいものです」  「貴君も食べるといい」  班目教授は私の前に、カエルの足のから揚げの皿 を置いた。  「我々も名前を残したいものだと思わないか。現在、 ガルバーニの名前はある種の電池の名前として、そ してボルタは電圧の単位に名前を残している……」 町村に葬られたもの  プレス発表会がI週間後に迫ったある囗、私はふ たたび三田村さんに声をかけられた。とある会議室 に連れていかれると、そこには片栗課長と、もう一 人、女性が室内にいた。見知らぬ女性は名前を名 乗った。桜井と。 「私は五年前まで、Nジェネテイクス社にいまし た」  桜井さんは、背の高い女性だった。黒髪を後ろで 括っていて、里回ジャケットを着ていた。化粧っ気 のない顔には、二つの厳しい目が並んでいて、その 目線は背の柢い私の頭のずっと上にあった。  片栗課長が口を開いた。  「桜井さんは僕の元部下で、班目教授とのドクター ズコスメの担当を一時期務めてもらっていたんだ。 彼女は退職するときに、連絡先を僕に教えてくれて いて……。今日はちょっとお願いがあって来ても らったんだ」  次に三田村さんが説明した。  「私かお願いをしたの。先日教授と話していたシ ミュレーションの検証のため、五年前のドクターズ コスメのデータが欲しくて社内のデータベースを探 したんだけれど、どこにも見つからなくて。おかし なことに、データのほとんどがないのよ。それで今 日、片栗課長に相談の上、桜井さんに来てもらった わけ」  三田村さんが話している間も、桜井さんはずっと 厳しい目をしていた。  私は桜井さんのイメージを、もっと柔和な人だと 勝手に想像していた。町村常務に攻撃されて三か月 で退職を余儀なくされてしまったというエピソード が、勝手にそんな錯覚をさせていたのかもしれない。 あるいは目の前にいる彼女は、町村常務に対する復 讐心だけを抱えて、この場にいるのかもしれない。  「お会いしたい方がみなさん揃ったので、私の話を 始めますね。まず、私か会社を辞めるまでの間です が、片栗さんにはとてもお世話になりました。でき る限り私を守ってくれていたのだと思います。そし て三田村さんは、同期として、いろいろ相談に乗っ てくれました。お二人はとても良い人たちだったの ですが、ある一人の人物によって私の立場は崩壊し、 私は早々にこの会社を去ったのです」  桜井さんは、そこでクスリと笑った。  「辞めた今だから言いますが、仕事のために心を病 んで、身をもち崩すほど馬鹿なことはないですよ。 狂った人間がいる場所からは、さっさと離れた方が いい。同じ会社に勤め続けなければならないなんて、 そう言っておくほうが都合がいい人間が言ってるだ けの話ですよ」  片栗課長と三田村さんはうつむいて黙っていた。 私は何も答えることができなかった。  やがて桜井さんは、静かな声に戻って、言った。  「過去の班目教授とのドクターズコスメのデータは、 残念ながら私は持っていません。さすがに会社の データを無断でコピーして自宅に保管するようなこ とはしません。三田村さん、ごめんなさいね」  三田村さんは気落ちしたような表情を浮かべて、 それから小さく頷いた。桜井さんは続けた。  「でも、私は一つだけ、Nジェネティクス社から データを持ち出しました。それは一通のメールです。 例の人物からの」  そうして彼女はスマホを取り出して、画面を順に 三人に見せた。  「そんな馬鹿な’・」と片栗課長が言った。  「……狂ってる」と吐き捨てるように三田村さんが 言った。  「あの、画面の位置が高すぎて見えません」と私は 飛び跳ねながら言った。  身長150センチの私に、三田村さんは申し訳な さそうに画面を傾けた。  私にも見えた。それは桜井さんの言う通り、町村 常務からのメールだった。  三田村さんは、柢い声でつぶやくように言った。  「どおりでいくら探しても、データが見つからない わけだ」  私は桜井さんに訊ねた。  「桜井さん、あなたは、このメールをどうしたいで すか?」  彼女は私の顔をじっと見て、それから語りだした。  班目教授の講座7時間目  イノベーションは「クローズド」から  「オープン」ヘ  ビジネス書やセミナーなどでよく目にする「イノ ベーション」という言葉は、企業だけでなく、研究 者のなかでも使われる言葉だ。しかしその意味は、 時代によって変化していると考えられる。  例えば今は、企業を取り巻く社会環境が大きく変 化し、競争環境がより激化している。そのため、自 前主義によって新たな顧客価値を生み出すイノベー ションがより困難になりつつあり、世界中に広がる リソースを活用するオープンイノベーションに注目 が集まっているというのが、ひとつの流れである。  国立研究開発法人、新エネルギー・産業技術総合 開発機構(略称NEDO)が事務局を務めているオー プンイノベーションーベンチャー創造協議会という 組織がある。  これは民間事業者の「オープンイノベーション」 の取組みを推進し、日本の産業のイノベーションの 創出および競争力の強化に寄与する活動を行ってい る(国立の組織が、イノベーションについて研究しているとい う点に注目してほしい)。  この組織が発行している『オープンイノベーショ ン白書第三版 日本におけるイノベーション創出            − の現状と未来への提言19』のスライドを一部抜粋し て次に示す。  簡単に言うと、だいたい2000年を境にして、 発明などの個々の「イノベーション」だったものが、 デジタル技術を活用したグローバルな視点での「イ ノベーション」に推移していったと言える。  ちなみに、組織をまたいだイノベーションを 「オープンーイノベーション」と言い、単一の組織 内に閉じたイノベーションを「クローズドーイノ ベーション」と言う。 「イノベーション」というもの自体が変化している わけで、変化するものだという認識を持つことはビ ジネスの世界でも重要だろうと思う。ビジネス書や、 そう、私の講義自体の内容も、いずれ古くなるとい うことだ。  1951年。米国のコールドスプリング ハーバー研究所で、遺伝学に関するシンポ ジウムが開かれた。  バーバラーマクリントックは、その日、 遺伝学に関する画期的なプレゼンを行った。 彼女はこの発表の準備に六年間という年月 をかけ、用意されたデータはあらゆる科学 的な反論に備えた、完璧なものであった。  41歳で米国科学アカデミー会員に推挙さ れ、米国遺伝学会の会長も務めた人物の発 表を、新聞社などの記者や研究者たちは、 期待のこもった眼で注視した。彼女は語り 始めた。『動く遺伝子(トランスポゾン)』に ついて……。  聴衆は、世界中は、その内容に絶句した。 そして、誰もがマクリントックが狂ってし まったのだと思った……。 気持ちをコントロールする「科学的」 なアドバイス  その囗が来た。  新しいドクターズコスメのプレス発表会の囗だ。  プレス発表と言っても、大々的に新聞社やテレビ 局がやってくることはない。こちらが指定した都内 の貸しオフィスの一室に、化粧品関係の情報誌の記 者を呼び寄せてプレゼンをして、同時にわが社の YouTubeアカウントから情報を発信するというも のだ。  午後一時の、すこし手前。  予想より多くの記者がやってきた。わが社の熱意 が伝わったのかもしれないし、社長をはじめとする 上層部が後押ししてくれたのかもしれない。いずれ にせよ、これまでの努力が認められた結果であるの は、言うまでもない。記者で埋まった室内を見て、 私は体が震えるのを感じていた。  この場には班目教授も加わった。トレードマーク の、兎のイラストを背負った白衣を着ている。ただ し、白衣はいつものヨレヨレではなく、ピシツと糊 がきいている。なんだ、新しい白衣あるじやん、と 私は思った。  発表が始まるまで、時間がゆっくり流れている気 がする。私か緊張してそわそわしていると、班目教 授か突然、「変な研究がある」などと言って話を始 めた。  「30名の学生のおでこにゴルフのティーを2つつけ、 そのティーの先端どうしをくっつけるように指示を した。無理やり悲しい顔をしてもらったわけだ。そ れから悲しい顔の写真を見てもらった。悲しい顔を 作ったグループは、悲しい顔を見て強い悲しみを覚 えた、すなわち共感したという結果が得られた。悲 しい顔をしているだけで、悲しくなってくるという          I ことがわかったのだ20」  「はあ……」  私ほとりあえず返事した。ゴルフのティー? 他 に気の利いた反応ができなかった。  「元気な顔をするんだ」  彼は言った。私かにっこり微笑むと、班目教授は 失笑した。  「もうひとつ話をしよう。マドリッド大学でこんな 実験が行われた。71名の学生を『胸を張って、背筋 を伸ばすポーズをとるグループ』と『猫背の姿勢を とるグループ』に分けて、『あなたは将来、仕事が うまくいくと思いますか?』と尋ねた。絶対にうま くいくと思う場合を9点、まったくうまくいかない 場合をI点と点数をつけてもらった。前者のグルー プでは平均7・53点、後者では6・卯点と、姿勢に よって明らかにポジティブ思考になることがわかっ  I た21」  「よくそんな数字、覚えていますね?」  私は素直に驚いた。彼はまじめな顔をしていた。  「私かプレゼンをするときにいつも思い浮かべる話 だからね。さあ、貴君、胸を張れ」  私は、背筋をピン、と伸ばした。  彼が唐突に過去の研究の話をするとき、それはた いてい、私を元気づけたりしようとしてくれている ときなのだ。  私たちは横長のデスクに並んで着席した。端から 班目教授、私、片栗企画課長、三田村さんの順番で 着席した。長谷川さんの姿はなかった。今日は病欠 ということであるが、その居場所はわかっている。 向かいのビルディングの一室だ。あちらでも同じよ うに、プレス発表の準備が進んでいるだろう。  私もその場所を町村常務から聞いていた。私は班 目教授のドクターズコスメの発表の開始直前まで、 こちらの部屋にいることになっている。  「貴君、いよいよだね」  「はい、今日までありがとうございました」  私は班目教授に向かって、丁寧にお辞儀をした。  「それでは、始めましようか」  私は立ち上がり、プレスリリースのための原稿を 読み始めた。 イノベーションの「方程式」  とあるオフィスビルの一室。そこにも記者が集 まっていた。  「どうも、Nジェネティクスの町村です」  グレーのスーツを着た男が、深々と一礼した。  「今、この瞬間に、私はこの会社の名前を脱ぎ捨て ようと思います」  記者たちは、お互いの顔を見合わせた。記者たち は、これから男が何を語るのかを、まったく知らず にここに集まっていた。ただ、町村という、それな りにこの業界で大きな声でモノを言っていた男が記 者を呼んだのだから、何かあるだろうという予想だ けはあった。  「私たちは新しい会社を興します。Nジェネティク ス社からヘッド(ンティングした優秀な若手社員と、 私かマレーシアで見つけた現地の情熱的なスタッフ を集めて、化粧品業界専門のコンサルタント会社を 設立します」  記者たちはざわつき始めた。  「私は五年間、マレーシアにいました。そこで私は、 日本企業のやり方が、世界的に見てまったく遅れて いることを痛感したのです。このままではいけない。 私は五年間かけて、日本と諸外国……とりわけアジ アの化粧品業界の動向を調査しつくしました。その 結果、これからの化粧品業界の大きな需要はアジア を起点とする、特に中国、インドに大きな潜在的需 要があると結論づけられました。そしていまだに日 本の化粧品への期待は高い。今まさに、我々は立ち 上がるべきときなのです。このノウ(ウを、囗本の コスメテイツク産業の再興のために生かしたい。私 はいち企業にいるべきではないのです’・」  記者は、ノートにメモを取り始めた。  壇上の町村は会場を一瞥して、私を発見した。そ して一瞬、驚愕したような顔をして、「貴様何して るんだ、こっちに来んか」というように、短く手招 きした。そして次の瞬間、彼はさらに口を大きく開 けて、こちらを見た。正確には……私の隣にいる班 目教授を見てI。  班目教授か静かに手を挙げた。プレス発表会は始 まったばかりで、質疑応答の時間でもないのに。そ して誰にも求められていないのに、教授は話を始め た。  「町村氏がコンサルタント業を始められるというの は、興味深い話である。貴君がトップに就くことで 業界に明るい展望が示されるのなら素晴らしいこと だ。この場ではその数学的な根拠を示すと良い。ま た、化粧品業界のコンサルティング会社というなら、 数学、物理学、計算科学、社会倫理などの能力を持 つブレーンが必要だと考えられるが、その点は新メ ンバーに含まれているのだろうか?」  いつもの班目教授たった。彼の言葉に嫌みな様子 はなかった。単純に、ひとりの学者として質問して いるようだった。  一方の町村氏は、ぶるぶると震えていた。記者た ちを前にして、いつものように怒鳴り散らすことが できないのだ。ただ、その怒りは……あまりにも柢 い彼の頭の沸点は、行き場をなくし、町村氏の体を 前の方に動かした。記者たちの合間をぬって班目教 授の前までやってきた彼は、小声で……彼の中での 小声で、言った。  「……出て行けよ。お前なんかに用はない」  プレスはざわつき始めた。  「お前にはもう用はないんだ。お前のアイデアの源 は、すべてこちら側にあるからな。山田、そうだろ う?」  全員の目が私に向いた。  このとき私は、班目教授の隣で小刻みに震えてい た。しかし、後には引けなかった。そしてここで戦 いをやめるわけにはいかなかった。隣にいる班目教 授をチラリと見ると、不思議に震えはやんだ。そし て私は思い出した。私たちは論理的な説明が可能で あり、決定的な証拠があった。何を恐れることがあ ろうか。  [ああ、あの、宣]つ白なノートのことか」  私の隣で、班目教授か答えた。  「なんだって? 真っ白? 白紙り」  町村氏は班目教授のすぐ傍に来て、彼の白衣の襟 をつかみながら言った。  班目教授は落ち着いた声で言った。  「そうだよ。あのノートの中身は真っ白だ。嘘だと 思うなら、ご自分で見たらどうか?」  アイデアーノートは私か持っていた。ノートを差 し出すと、町村はひったくるように奪い取った。  そしてページをめくっていく。プレスも含めたそ の場にいた全員に中身が見えた。たしかに、宣]つ白 だった。ただ匸冐、一ページ目にはこう書かれてい た。  『この白紙のページは、私にとってフロンティアを 象徴するためのもの。イノベーションの方程式のよ うな、簡単なものは存在しない。あるのは考える頭 と真っ白い紙だけだ』  「科学的」とは、すべての人に公平で あること  「……お前たち、馬鹿にすんなよ」  町村氏は私たちの耳元で唸るように言った。  班目教授は答えた。  「どうして自分で確認しようとしなかったんだ? 知識を持っている人間が周りにいれば、自分は持た なくてもいいとでも思っているのか?」  「そうだよ。その通りだよ」  町村氏は続けて言った。  「大学の中に閉じこもって、ひとりで仕事している 教授に教えてやるよ。それがビジネスつてもんなん だよ。現場が働き、トップが決断する。そうして役 割分担して、成果を上げてきたんだよ」  「どうやって決断をするというんだ?」  「経験だ。若いうちから数々の成功を着実に積み上 げてきた経験と責任感だ。他にあるかり」  町村氏は班目教授を睨みつけたあと、ゆっくりと 視線を逸らして、プレスたちに向けた。その瞳は自 信に満ちているように輝いていた。  町村氏は、もしかすると、ここにきて作戦を変更 したのかもしれない。ふと、私はそう思った。町村 氏はNジ子不ティクス社の若手社員を籠絡し、社内 をめちゃくちゃにしたうえで新しい会社をぶち上げ、 かつ、アイデアーノートを奪うことで、Nジ子不 ティクス社もろとも班目教授を過去のものにしてし まおうと考えていた。  しかし、それよりもずっと近道があるのを彼は発 見したのだ。このプレス会場で、班目教授を直接、 打倒することだ。  「古い考えの教授など用済みなのだ。俺はビジネス の何たるかを知る若い力を結集して、新しいコスメ ティツク産業の導き手となるのだ’・」  その場にいた全員を圧倒するような迫力で、町村 氏は叫んだ。  しかし、ひるまなかった人物が一人だけ会場内に いた。班目教授は首を振った。  「相変わらず、なぜ君は、科学的に考えられないん だ?」  その班目教授の言葉で、町村氏のスイッチが押さ れたように見えた。それは押してはならないスイッ チのはずだった。町村氏の顔が腫れあがったように 赤く染まっていくのが誰の目にも見えた。  「またその話かよ’・ 科学的って、何なんだよ、こ の場で匸冐で説明してみろ’・」  班目教授は頷いた。  「科学的とは、論理的に、自分も含めて世界中の人 たちを納得させることだ」  町村が目を見開いたまま沈黙した。彼が理解でき ていないことを知った班目教授は、学生に語るよう に続けた。  「データでもって物事を自分と相手に納得させるこ とだ。科学的であるということは、老若男女、理系 文系問わず、どのような人々にとっても共通で公平 なものだ。さあ、貴君、貴君がやろうとしているこ とを、誰にでもわかる言葉で説明してごらんなさ い」  私はひとつ、気がついたことがある。この場で 戦っている町村氏は、班目教授に対する怒りを抱い ている。では班目教授は?  班目教授は、この場においてさえも、町村氏のこ とを考えているように私には見えた。班目教授に とっては、気に入るか気に入らないかという感情的 な基準などなく、ただ相手の科学的な正しさだけが 基準にあるのかもしれない……。 崩壊した「計画」  「……」  町村氏は答えられなかった。会場は、異様な空気 に包まれた。そして、その空気は、私の発したひと つの質問で大きく変化した。私は大きく息を吸い込 んでから、訊いた。  「ところで、どうして町村さんは、アイデアーノー 卜を盗もうとしたんですかり」  室内にいた記者たちが、一斉にざわつき始めてい た。  「盗んだ……冫・ アイデアを?」  ここにきて町村氏は、ようやく事態に気が付いた。 私たちの近くから離れて、マイクを握り直して言っ た。  「失礼しました。妨害が入りまして……‘凡ゝ凡と、私 の話を続けます」  「盗んだという声が聞こえましたが、ちょっと先に そちらについてご説明していただけますか?」  記者から質問が出ると、町村氏は、袖で汗をぬ ぐって答えた。  「ええとですね、そこの白衣姿の男と女性社員さん は、どうやら勘違いしていまして、私か何か情報を 盗むように言ったことは……」  私の手に握られたICレコーダーから、町村氏の 声が流れてきた。  「…………彼のアイデアーノートを、盗んでくるん だ」  「なんでそんなものを……」  町村氏は、呆けた顔で、私を見た。  「自分の身は自分で守らなければならない。あなた の言葉です。ですが、私もまた、ずっとずっと以前 から、常にICレコーダーを携帯していたんです。 ほとんどは、交わした会話を記録して、あとで自分 が勉強するためですが」  どういうことですかり 会場は、大騒ぎになった。 混乱の渦の中、ひとりの女性が立ち上がった。大柄 の班目教授の背中に隠れるようにして座っていた彼 女が。  「疑惑はまだあります’・」  桜井さんが大きな声を張り上げて言った。  町村氏の会見は、もはやほとんど会見の形を失い つつあった。  そしてここまでは、私たちの筋書きの通りに進ん でいた。  「桜井さん、あなたは、このメールをどうしたいで すか?」  先日の話し合いのときの出来事だ。私の問いに、 彼女ははっきりした声で答えた。  「町村常務の計画をつぶしたいです」  それから私たち……桜井さん、私、三田村さん、 片栗課長、そして班目教授を加えた5名で、計画を 練った。  「証拠を積み上げるんだ」と班目教授は言った。  「感情的になってはいけない。証拠を積み上げて、 論理的に戦うんだ」  こちらには、アイデアーノートと、桜井さんの メールの二つの証拠がある。それで十分だと班目教 授は言った。  「町村氏もプレス発表を計画しているんだろう? そこにぶつければいい」  そのようにして、プレス発表当日の反撃計画が練 られていった。  「町村氏は五年前から、この計画を練っていたので す。Nジ子不ティクス社に多大な損害を出させ、そ して会社が失った顧客を、自分が作る新しい会社が 掠め取っていくという計画を’・」  会場にいる全員に聞こえる大きな声で話す桜井さ んを、町村常務は見た。彼は呆けた顔をしていた。 桜井さんはめげずに続けた。  「五年前、あなたは何をしたか。Nジェネティクス 社のひとりの女性社員に対してある指示をした。好 調だったドクターズコスメのデータを抹消すること を。あなたはドクターズコスメのドクター……班目 教授とそりが合わなかった。彼は決してあなたに従 わなかった。そんな人間はあなたの人生の中で今ま でいなかったのでしょう。だからあなたは憎んだ。 こいつを倒さなければならないと思った。そして製 品ごと教授をつぶそうという計画を立てた」  会場はしんと静まり返り、記者たちも、私たちも、 誰もかれもが桜井さんを見ていた。そして彼女の言 葉を待った。  「データをすべて消して、あなたはマレーシアに逃 げて、ドクターズコスメをめちゃくちゃにしようと した。実際にそうなった。大切なデータがなくなっ たために、販売予測も、その後のこまかな改良もで きずに、販売数は伸び悩んだ。あなたの思い描いた 通りだ。そして五年後、あなたは何食わぬ顔で戻っ てきて、今そこにいる」  「ええと……」  町村常務は、苦笑いを浮かべて、桜井さんを見た。 「ちょっと、今日は妨害がひどいですなあ。あなた、 一体誰です?」  ひゅううう、という、空気が通るような音が聞こ えて私は左右を見た。  彼女が胸いっぱいに息を吸い込んでいた。  「あなたがつぶした桜井だよ’・」  桜井さんは、壇上の町村氏に向かって詰め寄った。  「忘れたの? あなたの命令で、私かデータを消し たことを。パワ(ラで洗脳して、私を追い詰めて狂 わせて、消させましたよね? そうして次に、デー タを消したことを私のせいにしましたよね。その責 任をとって、私は退職しました’・ これがあなたと の最後のメールです。忘れたとは言わせません’・」  桜井さんはジャケットの内側に隠していた、小さ な、そして大量の紙の朿を、天井に向かって放り投 げた。  そこには短く、こんなことが書かれていた。    To :桜井美和    Froヨー町村充    口頭で指示した件、君がやらなければなら   ない。    外部(Iドディスクへの保存も認めない。    課内会議でこれ以上叱責されたくないだろ   う、明日朝までに指示を守れ!   指示を守れ! 指示を守れ! 指示を守   れ! 指示を守れ!  まき散らされた数百枚の紙片によって、会場は一 瞬、貞]つ白になった。  紙片はスローモーションのようにゆっくりと宙を 舞っていた。私はその光景を、どこかで見たような 気がした。  ボッティチェリによる『ヴィーナスの誕生』。海 辺に屹立する美しい女神。風の神が彼女に風とバラ の花を吹き付けている絵画の様子が思い浮かんだ。 バラの花は、まるで紙吹雪のようにはらはらと舞い 落ちて……。  しかし、美しいバラの花の正体は、桜井さんの用 意した紙だった。しかもその内容は町村のメールな のだ。美しく幻想的な光景から、突如として現実に 戻る。そのギャップに、私は身体を叩かれたかのよ うな衝撃を受けた。  そのヴィーナスの幻影は、かつてアートを追いか けていた自分のように見えた。そしてその幻影が解 かれ、現実世界にいる一人のビジネスパーソンが現 れた。それが今の私のように思えた。自分をヴィー ナスに重ねるのはとてもおこがましいのだけれ ど……。  紙片を手に取った記者たちが一斉に立ち上がった。  「町村さん、どういうことですか?」  町村氏は、パイプ椅子に腰を下ろして、そのまま 動かなくなった。長谷川さんの顔は、押し寄せる 人々によって見えなくなった。  私と班目教授は、騒ぎの中、こっそりとその場を 後にした。  「科学」と「世間」に橋を架ける 「動く遺伝子って、知っているかい?」  プレス発表会からしばらく経ってから、久しぶり に班目教授と会ったとき、彼は私にそう尋ねてきた。  「バーバラーマクリントックという米国の女性の科 学者は、1951年に『動く遺伝子』、すなわち、 ある染色体の中で遺伝子が移動することを……まあ、 たとえて言えば、貴君が持っている書類の中で、勝 手にとあるセンテンスが別の位置に入り込んでしま うようなもの……それを発表した」  私は首を振った。知らない話だった。  「バーバラはすでに米国科学アカデミー会員に推挙 されていたし、米国遺伝学会の会長も務めた人物 だったが、彼女の『動く遺伝子』は、一般人はおろ か科学者からも笑いものにされた。しかし、彼女の 『動く遺伝子』に関する説明は、実に科学的に行わ れていた。後年になって……彼女が81歳のとき、 ノーベル医学・生理学賞を受賞した。このエピソー ドは、科学的に正しくても、すぐに理解されて受け 入れられるとは限らないということを教えてくれる。 発表時点のバーバラにひとつ落ち度があったとすれ ば、それは当時の彼女の説明が、誰もが理解や納得 できるような形ではけっしてなかったということ だ」  私と班目教授は、東京湾に架かるとある橋の上に 並んで話をしていた。この場所は私の会社の近くで、 ときどき私か息抜きに来る場所だった。今日は、会 社に顔を出した班目教授を誘ってみたのだ。  「動く遺伝子ですか……。勉強します」  私は苦笑いを浮かべた。  「講演直後にバーバラが受け入れられなかった理由 を、彼女の伝記を書いた人物はこう述べている。も し『世間との通訳』をマクリントックが持っていた ならば、彼女はずっと早くから正当な評価を得てい た、と」  「世間との通訳ですか」  「そう、君のことだよ」  班目教授は、言った。 「科学的に正しくても、すぐに理解され受け入れら れるとは隕らない。同じことは、ビジネスのイノ ベーションでもしよっちゅう起こっているのではな いだろうか。商品やサービスに対する『時代を先取 りしすぎた』という賛辞は、後から贈られるもので ある。時代を先取りしすぎたサービスとならず、今 この時代に受け入れられる商品やサービスになるた めには、誰もが理解できて納得できるものでなくて はならない。イノベーションの本質である斬新さと、 背反する概念も同時に求められるという、困った話 であるな」  班目教授はため息をついた。  彼の身体の後ろには、わが社の大きな看板が掲げ られていた。その看板には、堂々とした文字でドク ターズコスメの言葉が躍っている。我々がリニュー アルした製品が高評価を受けて、大手通信販売会社 の売り上げI位を獲得したことも、目立つ色の字で 添えられていた。  「だから、貴君らのような、科学と世間との間に橋 を架ける通訳が必要なんだ。科学は万能じゃない。 理系が優れている、文系が優れているということで はなく、お互いがお互いの素養を持ち、理解しあい、 補いあうことが大切なのだ」  班目教授は、看板の文字に気が付いているのか、 少し照れくさそうに、そして楽しそうに言った。  町村氏の独立の話は、あのプレス発表会がもとで 完全に頓挫した。町村氏は退社して、その後どう なったかわからない。長谷川さんは休職の状態が続 いている。戻ってくるのは難しいだろう。三田村さ んは元気に都内を飛び回っている。  そして桜井さんは……。彼女は片栗課長の計らい で、Nジ子不ティクスの関連企業に勤めているらし い。発表会の一件以降会ってはいないが、片栗課長 からは近況を聞くことができる。もう少し時間がた てば、私たちのチームに合流するかもしれない、と いうことだ。  物事は、あるべきところに収まりつつある。 「それじやあ、私は大学に戻るよ」  班目教授は私を見て言った。私はペコリと頭を下 げた。  「ありがとうございました」  「また数年後、あの製品について改良するならば声 をかけてくれ。それかもしくは……君が何かイノ ベーションを成し遂げるようなことがあったら、一 緒にやろう」  「はい、近いうちに。私の机には今、赤と緑の付箋 がいっぱい貼ってあります。ともにイノベーション を起こしましよう’・」