ケネディ大統領が最も尊敬した日本人_上杉鷹山_童門冬二 ジョンーフィツツジェラルド・・ケネディ (John Fitzgerald ・ Kennedy) 1917年米国マサチューセッツ州生まれ。アメ リカ合衆国の政治家。第35代アメリカ合衆国大統 領(1961年1月20日−1963年11月22日在 任)。43歳での大統領就任は、選挙で選ばれた大 統領としては史上最も若い大統領だった。在任中 ヒッグス湾事件、キューバ危機、ベルリンの壁の 建設、米ソの宇宙開発競争、人種問題、公民権運 動、ベトナム情勢の悪化など、内政、外交で多く の難題に直面した。キューバ危機の対応において 「第三次世界大戦」「米ソ全面核戦争」の危機を回 避したと評価され、いまだに多くの人々の敬愛を 集めている。在任中の1963年11月22日にテキ サス州ダラスで暗殺された。46歳たった。 上杉鷹山(うえすぎようざん) ・上杉 治憲(うえすぎはるのり) 1751年(寛延四年)、秋月家江戸一本松 邸に誕生。父は日向高鍋三万石の城主秋月佐 渡守種美、母は筑前秋月の城主黒田甲斐守長 治の女。江戸時代中期の出羽国米沢藩の第九代 藩主。屈指の名君。藩として「倒産」寸前の米沢 藩を再生し、次々代の斉定時代に借り入れを完済 した。ほとんど成功しなかった江戸時代の行政・ 財政改革の中で鷹山の改革の成功は際立ち、近年 ますますその評価が高い。特に強固な封建社会の 中で鷹山が示した「領民というのは、藩主や藩士 の私物ではない」、「改革は、(特に社会的な弱 者への)愛と労りがなくてはならない」とい う思想は、21世紀にも通用する。本名は治憲、 鷹山は藩主隠居後の号。1822年(文政五 年)72歳没。 著者紹介 童門冬二(どうもん・ふゆじ) 作家、本名・太田久行。1927年、東京に生ま れる。第43回芥川賞候補。目黒区役所係員を振り 出しに、都立大学事務長、都広報室課長、広報室 長、企画調整局長、政策室長を歴任。1979年 退職。在職中に累積した人間管理と組織の実学を 歴史の中に再確認し、小説、ノンフィクションの 分野に新境地を拓く。著書に、『小説上杉鷹山』 『上杉鷹山の経営学』『細井平洲の経営学』ほか多 数。 著者Facebookページ はじめに ヶネディ大統領はなぜ上杉 鷹山を尊敬したのか  1961年1月20日、ワシントンD.Cの米国連邦 議会議事堂で行われたケネディ大統領の就任式。ジョ ンソン副大統領、アイゼン(ワー前大統領、ニクソン 前副大統領、トルーマン元大統領等が列席。第二次世 界大戦終了から15年。貧困の克服と自由主義と共産主 義の冷戦の始まりの中で、世界は新しい枠組みを必要 としていた。その揺籃期に43歳の若さでケネディは大 統領に就任し、世界の導きの指標となる、後世に残る 演説を残した。  「同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたの ために何をしてくれるのかではなく、人類の自由のだ めに共に何かできるのかを考えようではありませんか。 最後に、アメリカ市民の皆さんも世界市民の皆さんも、 どうぞ我々が皆さんに求めるのと同じ水準の熱意と犠 牲を我々に求めてください。良心の喜びを唯一の確か な報酬とし、歴史が我々のおこないに正しい審判を下 してくれることを信じて、この愛する世界を導いてい こうではありませんか」(ヶネディ大統領就任式演説 より)  2014年9月27日ケネディ大統領の長女で駐日米 国大使だったキヤロラインーケネディ氏が「なせばな る秋まつり」にあわせて米沢を訪問し、熱狂的な歓迎 を受けた。バルコニーから「私の父(ジョン・F・ケ ネディ)は、優れた統治、そして公的利益のためには 身をいとわなかったことで知られる十八世紀の東北の 大名上杉鷹山を称賛していました」とスピーチし、な かば都市伝説化していた「ケネディ大統領が上杉鷹山 を尊敬していた」という説を公式に認めた。  上杉鷹山は、25歳の時に白鷹山(白鷹町)に登頂し て、祀られている虚空蔵尊を参詣し、藩政改革の大志 を誓った。その山頂(994片)に、鷹山35歳のとき に家督を譲った治広に対して、藩主としての心得を 三ヵ条にして伝えた遺訓の「伝国の辞」石碑が建てら れている。隣にはヶネディ元大統領の就任演説の一節 「国家があなたに何をしてくれるかではなく、あなた が国家に何かできるかを問おうではないか」を刻んだ 副碑が建てられている。 人はひとりでも世の中を変えることができる、 皆やってみるべきだ  米国のジョン・F・ケネディ大統領(1961 年1月20日−1963年11月22日在任)が生前、 日本人記者団と非公式に懇談したとき、「最も尊 敬する日本人は誰ですか」と聞かれて「それはウ ェスギーヨウザン」と答えたという話があります。 残念ながら新聞記者たちは「ウェスギーヨウザ ン」を知りませんでした。当時の新聞記者諸君を 責めるより、上杉鷹山はその頃、日本国内でも忘 れられた存在でした。鷹山は、二宮金次郎ととも に第二次世界大戦中高く評価されていたために、 戦後は評価が変わっていたからです。それは別に 金次郎や鷹山が悪いわけではなく、扱われ方が、 当時の政府や軍部の都合のいいように書かれてい たからです。  江戸時代当時の封建幕藩体制下では、領民は藩 主の私物で、単なる財源として扱われていました。 鷹山はそうは考えず、領民というのは藩という当 時の自治体に属しているものであって、藩主や藩 士の私物ではないということを明確にした初めて の藩主でした。「藩主というのは国家(藩)と人 民(住民)のために奉仕しなければならない」と いう思想です。二百数十年以上も前の封建領主の 言葉とはとても思えません。現在の民主主義下の 政治家でもはっきり言える人は少ないし、実行す る人はさらに少ない。ケネディ大統領が廡山を尊 敬すると言ったのは、たぶんその点だったと思い ます。  ケネディ大統領のこの話は、駐日大使だった長 女のキャロラインさんが、「父からその話を聞い ています」と認められました。キャロラインさん は、山形県米沢市の記念行事にも参加され、次の ようなメッセージを残されています。  「私の父(ジョン・F・ケネディ)は、優れた統 治、そして公的利益のためには身をいとわなかっ たことで知られる十八世紀の東北の大名上杉鷹山 を称賛していました。鷹山は、民主的な改革を導 入し、いろいろな新しいやり方で、異なる社会階 級の人々が共に一緒になって自分たちのコミュニ ティに参加し奉仕することを奨励しました。彼は 質素な生活を送り、将来に向けて学校をつくり、 さまざまな産業を興しました。人々の奉仕を求め るケネディ大統領の有名な呼びかけにも共嗚しあ うような言葉を残しています。  〈ケネディ大統領〉国家とはわれわれの先祖から 受け継いだものであって、私たちの子孫に渡して やるべきものです。私たちの個人的な所有物であ ると考えてはなりません。  〈上杉鷹山〉国家は先祖より子孫へ伝え候、国家 にして我私すべき物にはこれなく候  〈ケネディ大統領〉あなたがそう思ってそうやれ ば、そう成ります。何事もしようとしなければ成 らないのです。ものごとが成らないのは、その大 がそのことをやろうとしなかったからです。  〈上杉鷹山〉なせばなるなさねばならぬなに事 もならぬは人のなさぬなりけり そして、二人とも、一人ひとりに世の中を良くす る力があるという信念を貫いたリーダーです。そ の姿は何世代にも渡る人々に影響を与えてきまし た。皆さんが鷹山から受け継いだ遺産をたたえ、 そして次の世代にその教えを伝えていらっしやる ことは素晴らしいことです。父も『人はひとりで も世の中を変えることができる、皆やってみるべ きだ』とよく言っておりました。上杉鷹山ほど端 的にそれを言い表し、実行した人はいません」 (米沢市役所提供)。  ケネディ大統領(あるいはブレーンのどなた か)は、内村鑑三の『代表的日本人』(原作は英 文)を読んで鷹山を知ったのだと思われますが、 ケネディ大統領の就任演説で特に有名な  「同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあな たのために何をしてくれるのかではなく、人類の 自由のために共に何かできるのかを考えようでは ありませんか。最後に、アメリカ市民の皆さんも 世界市民の皆さんも、どうぞ我々が皆さんに求め るのと同じ水準の熱意と犠牲を我々に求めてくだ さい。良心の喜びを唯一の確かな報酬とし、歴史 が我々のおこないに正しい審判を下してくれるこ とを信じて、この愛する世界を導いていこうでは ありませんか」(ケネディ大統領就任式演説より) 演説のこの箇所は、鷹山の根本思想と深く通じる ものがあります。  わかりやすく言うと「主役は殿様や大統領では なく、あなた自身ですよ」ということです。日本 では忘れられていた江戸時代の一地方大名の勇気 ある「主権在民」的発言を評価するケネディ大統 領の見識に改めて驚かされます。  欧米の列強のように海外侵略をしなかった江戸 幕府は、農業経済を中心とする、いわば鎖国とい う地産地消で日本国家を運営し、凶作や旱魃と いった天変地異の影響を受けながら景気の波に 翻弄されます。鷹山の時代は、日本もかなり貨幣 経済社会になっていたのですが、土地から生まれ る農作物だけを税源とする幕府や藩は、そういう 状況に対応できず、極度の財政難に陥っていて、 幕府も藩もそろって「財政再建のための行政改 革」に必死に取り組んでいました。特に教科書で 習う享保の改革、寛政の改革、天保の改革などの 三大改革をはじめ、江戸時代に幕府が実施した大 規模な財政及び政治制度その他の諸改革は、いく どにわたって行われましたが、ほとんど成功しま せんでした。そんな時代に地方の藩とはいえ、一 七歳の若さで瀕死の米沢藩を引き継いだ上杉鷹山 が藩財政を立ち直らせてしまったのですから、事 例としては大変なことでした。  なぜ上杉鷹山の改革が成功し、その改革が二十 一世紀の今日でも人々の心を魅了し続けるのか、 改めて考えてみたいと思います。  それにはまず、鷹山を単なる倹約家ととらえる のではなく、逆に積極的な経営者だとみることが 大切です。民を富ませるために新しい事業を開発 し、その資金を生むためにムダを省いたと考える べきです。そして公人としての姿勢を貫き、政治 の「私物化」を厳に戒めました。新しい上杉鷹山 像をご紹介したいと思います。 第一章 上杉鷹山が藩主となった米 沢藩(現山形県米沢市)は、 名門意識と慣習で、倒産寸 前だった  「リストラ」というI.一盲葉は、本来窮地に陥った企業の 努力プロセス全体をIぎう。しかし現実には、「縮小」 あるいは「働く者いじめ」がこのI.一盲葉の和訳になって いる。再建ないし再構築のプロセスをどう実現するか、 リーダーが問われなければならない。鷹山の有名なこ の歌こそ「リストラクチャリング」、そのものを言い 当てている。つまり、 ○目標を設定する。○実現手段を考える。○計画を立 てる。○計画を細分化し、仕事として各担当に割り当 てる。○進行管理を行う。○成し遂げた成果に対して 評価を行う。○失敗したところがあれば、なぜ失敗し たのかを探索し、あらためて改善をはかる。○総合評 価を行う。  上杉鷹山の改革は、まさしくこのプロセスをたどっ た。 上杉家の人件費は、総収入の九〇%を占めて いた  上杉鷹山は、いまから二六〇年ほど前の米沢 (山形県米沢市)藩主です。米沢藩は、上杉謙信 の養子景勝を藩祖とし、関ヶ原合戦後から明治 維新まで続いた名門大名です。上杉家は初代謙信 のころは越後地方で二百万石を超える収入を得て いましたが、二代景勝のときに、豊臣秀吉によっ て会津(福島県)百二十万石に移され、さらに 関ヶ原の役後、徳川家康によって米沢三十万石に 減封されました。その後寛文四年(一六六四)、 時の藩主綱勝が死んだときに、相続人の手続を正 しく行っていませんでした。上杉家では、あわて て他家から養子を迎えたのですが、手続の不備を 理由に、幕府は、領地を半分の十五万石に減らし てしまいました。この他家からの養子というのが、 赤穂浪士で有名な吉良上野介の息子綱憲でした。  上杉家は、藩祖景勝以来伝統として、どんなに 領地が減っても家臣団の整理を一切行いませんで した。つまり、収入規模が景勝時代の会津百二十 万石の時に比べれば八分の一に減ってしまっだの に、藩士を一人も整理しなかったのです。人件費 の総収入に占める比率が九〇%を超えているのに、 神社仏閣へのお詣りとか、慣習的な行事だとか、 行列の時のお供の数など、それぞれに少なくない 費用を必要とした行事の遂行を代々の藩主はかた くなに守ったのです。財政破綻が訪れるのは当然 で、名門上杉家の財政は、こういう積み重ねで本 当の真っ赤っ赤の火の車になっていました。  米沢藩は、定数減を全くおこなわずに藩士を温 存しましたが、さすがに給与そのものを温存する 訳にはいかず、十五万石に減らされた時点で、藩 士たちの給与を二分の一から三分の一に減俸しま した。藩士たちはやむを得ず、農業に従事すると か、あるいは職人的加工業に従事するとか、さら にそれを市場へ運ぶとか商人まがいの仕事までし て収入を得ようとしました。いわゆる内職が日常 化したのでした。このころは、すでに貨幣経済が 発達しており、土地からとれる米を給与としなが らも、実際の武士の生活は貨幣によっておこなわ れていました。人間は米だけで生きてはいけない。 いろいろなものがいる、いろいろな物を買うのに は金がいる、その金は、藩から支給される米を 売って得るのが当時の武士の普通の経理方法でし た。物価の騰貴にスライドしない固定した給与の 支給は、日本の武士群の生活を著しく圧迫。経済 が高度成長しても、あるいは低成長になっても、 武士の給与は固定されたままでしたから、インフ レになってもデフレになっても生活は苦しかった のです。  経済が高度成長してホクホクするのは商人であ り、あるいは一部の生産者である農民と流通担当 者でした。単なる消費者であり非生産者である武 士は、その甘い汁は全く皈えず、このために藩政 府である藩庁は、しばしば藩士に対して、次のよ うな禁令を出しています。 ○武具や馬具は自弁すること ○京や江戸の上り下りに際しても、妻子にはもち ろん、組頭その他に対して扇子一本の土産も買っ てはならないこと ○また酒肴を整えて、他人にご馳走をしてはなら ないこと ○給料が出た時に、大きな気分になって妻子に衣 裳を買ったりしないこと ○下級武士は、平常絹を着てはならない ○朋輩との寄合いにご馳走をすることは禁止する。 親類縁者で止むを得ない祝儀不祝儀があった時も。 一汁一菜にとどめること ○遊山賭博は一切禁止する ○若衆狂いし、酒を飲んだり、女と戯れることを 禁ずる こういう禁令を出しながらも、それによるモラー ルダウンが心配だったのか、藩庁はこういう禁令 も出しています。 ○上からの指示について、デタラメな噂をしたり、 君臣の問を妨げるようなことを言ってばならない。 そういう者を見つけたら、すぐ捕えて糾明するこ ○主人を誘ったり、自分より上役の者に対して妄 りなことを言ったり、また逆に自分より下の者に 対して侮ったり辱しめたりするようなことをして はならない ○法律にそむくようなものがあったら、親子兄弟 でもすぐ密告すること ○他藩の者と交際してはならない。ましてや、他 藩の者に米沢藩のことをとやかく言うことを禁止 する  他藩との交際はこの通りにいかなかったようで すが、藩庁は、自分たちのやることについて、あ る種の後ろめたさがあり、それによって藩士たち が何を考えているかを前もって知っていたようで す。だからこういう禁令によって、藩士を圧迫し ましたが、してはならないと言われたらやりたが るのは人間の常であり、またこういう禁令が出る ということは、こういう禁令に相当するようなこ とが、しばしばおこなわれていたことを如実に物 語っています。  「入るを計らず出ずるを制せず」  米沢藩の財政逼迫の原因をもう一度整理すると、 たびたびの減俸にあいながらも家臣団の整理をし なかったこと。そのため収入に対して相対的に過 大支出をともなったということですが、ほかにも まだいくつかの原因があります。それは、 ○米沢藩の地理的・自然的条件は必ずしも恵まれ たものではなかった。山岳中央部の盆地にあり、 陸ならびに海に対する交通要路を確保していな かった。最上川が唯一の道であり、水運によって 地場生産品を運んだ。しかし、西回りの海運が開 けるのは寛文年間(一六六一〜一六七三)であっ て、それまでは関西の市場との結びつきを得るの にひどく苦労をした。最上川水運が可能になった としても、河港、海港などを押えているのは他藩 であったから、当然高い通行税を取られた。財政 支出がともなう高い輸送費は、そのまま領内製品 の買上価格安に結びつかざるを得なかった。 ○米沢藩の税の徴収方法は、半分を米で取り、半 分を金で取るという方法であった。しかしこの半 分の金納は、藩が農民から米やその他の特産物を 買い上げることによって相殺していた。従って藩 が高く買い上げるはずがないから、その負担に苦 しむのはいつも農民たった。金納という体裁の良 い制度をとられながら、実は農民はほとんど現物 によって納める結果になっていた。このことは、 せっかく作った農産物を自己処理する道を絶たれ ることになるから、仕事のうまみもなく、農民の 生産意欲はどんどん下かっていくのだった。 ○悪いことに米沢藩政時代、凶作や飢饉の回数 が四十三回の多きを数えた。こういうたびたびの 凶作は、当然藩財政を圧迫した。  歳入がこのように不安定で、また少ないにもか かわらず、歳出の方は、「入るを計って出ずるを 制す」の原則を無視して、全くの放漫支出を続け ていました。たとえば、参勤交替に藩祖以来の 仰々しい行列をそのまま守ったり、江戸での生活 をことさらに贅沢にしたり、また開藩以来の形式 主義とそれにともなう財政支出をすべて放置した ことなどです。これに加えて、幕府からは、「手 伝い(幕府の事業を自藩の出費とその責任におい て負担させられること)」がたびたび命ぜられま した。開幕当初の江戸城の普請の手伝いや大坂城 の復元、さらに江戸城の石垣修復やら二の丸の修 復やらあるいは堀さらいなど、何度も何度もそう いう手伝いを命ぜられたのです。また宝暦年間 二七五一〜一七六四)には、上野東叡山の修理 や仁王門の再建の工事まで命ぜられ、常に十万両 単位の巨額の支出をともない、藩財政はいよいよ 逼迫し、これに輪をかけて米沢藩の財政支出を増 やしたのが、吉良上野介による莫大な浪費でした。 吉良上野介に食い荒らされた上杉家  元禄十五年(一七〇三)の十二月十五日未明、 吉良上野介は赤穂浪士によって討たれました。米 沢藩には、吉良上野介を恨んでいる連中が多かっ たので、知らせを受けても悲しむ人間はほとんど なく、むしろいい気味だと囗に出して言う者さえ いたそうです。  五代藩主綱憲は吉良上野介の息子で、その綱憲 が上杉家に入ることによって三十万石が十五万石 に減らされたものの上杉家は存続できました。し かし、上杉家の藩士たちは、吉良上野介の息子が 上杉家を相続することについて、ある疑いを持っ ていました。米沢藩四代目藩主綱勝は、寛文四年 (一六六四)閠五月一日に、たまたま江戸城近く にあった吉良上野介の屋敷に寄りお茶をもらいま した。しかしその夜中から綱勝は急に苦しみ出し、 極度の腹痛を訴えたのです。医者が診たが治らず、 最後には嘔吐を続けて一週間苦しみ抜いた挙句、 五月七日未明に死去。藩士たちは「吉良殿の家で 飲んだお茶が原因だ。あのお茶には毒が入ってい たのではないか」と疑いました。そしてその疑い を確信させたのが、吉良上野介の息子が、綱勝の 後継者として急遽養子に立てられたことです。吉 良上野介は米沢藩を食いものにし、自分の贅沢な 生活費のほとんどを息子に言い付けて、上杉家か ら支出させました。  米沢藩士の中には、体面を捨てて武士の家格そ のものを売ってしまう者さえいました。下級武士 たちには、日傭稼ぎや細工ものに従事したり、商 人の下働きをして荷物を運んで他領へ人夫として 出る者さえ出現しました。こういう風潮は、「武 士は食わねど高楊枝」という見栄で毅然とした態 度をとっている者を、時勢に合わない者と馬鹿に するような気風さえ生みました。他にも、早々に ありったけの財産を自分の子供に譲ってしまい、 家名を他人に売って武士を廃業してしまうような 者もいて、刀や槍など武具を売り払うことは日常 茶飯事でした。いままで財政援助をしていた商人 たちからも貧乏武士たちは見放されました。米沢 藩と聞いただけで、一文の金も貸さなくなったの です。困った藩庁は、商人や農民の中で金を貸し てくれる者には、武士としての待遇を与えました。 苗字をつけることや刀をさすことを許したのです。 極端なのは、土地を与えて、そこからの収入を商 人に与えてしまうようなことさえありました。こ んな乱脈な状況で、唯一の税源である農民は、し ぼられるだけしぼられました。農民はたまったも のではありません。だから農民の中には、「米沢 藩はもう駄目だ。他の土地へ行こう」と言ってど んどん土地を放擲して逃げ出す者が増えたのです。 逃散です。米沢藩の逃散人口はどんどん増え、さ らに生まれたばかりの子供を殺してしまう間引き も増え、米沢の人口は激減しました。十四万人弱 の人口が、宝暦十年(一七六〇)には九万人にま で落ち込んでしまいました。この激減状況は鷹山 の時代も続き、米沢藩が十一万人台に人口を回復 するのは、五十余年後の文化十四年(一八一七) のことでした。 ついに版籍奉還を願いでる  税源がいなくなってしまったのでは藩財政は立 ちゆきません。荒廃した土地と乱脈を極める経営 に米沢藩は、ついに破局を迎えます。藩主重定は。  「謙信公以来の名家ではあるが、このままでは米 沢藩は野たれ死をする。いっそのこと版籍を奉還 して、名だけを保つようにしたい」 というような悲愴な決意にたち至りました。  明和元年(一七六四)藩主上杉重定は、江戸家 老色部典膳を尾張藩主徳川宗勝に遣わして、この 意を伝えました。驚いた宗勝は、老臣の石河伊賀 守を使い、上杉家の江戸家老竹俣当綱を呼び。  「上杉家版奉還の話を密かに聞いたが、とんでも ないことである。謙信公以来の名家をこのような ことによって潰すのは、それこそ謙信公の名を汚 すことになろう。どんなに辛くても、ここで一番、 財政再建のための藩政改革を断行して、藩名を存 続するように努めなければならない。尾張家とし ても応分の手伝いをするから、どうか藩士一同結 束して、藩主重定公に版籍奉還の気持を思いとど まらせてほしい」 と命じました。これを聞いた竹俣は。  「お話はよく分かりますが、年来藩の財政が逼迫 していることは予想以上で、御政事が相立ちがた く、国民もまた非常な苦しい生活に喘いでおりま す。連年万端にわたって出来るかぎりの節約を励 行して参りました。そのために、幕府のお手伝い を怠ったり、非分の政治をおこなうことのないよ うに努力して参りましたが、もうどうしても心力 の及ぶところではございません。是非なく藩領地 を差し上げ、藩国人を救いたいと思いますので、 どうかもう一度版籍奉還をお許しのほどお取りな しを願います」 という願書を出した。  徳川幕府が開府されて以来、大名が自分の版籍 を奉還して封土を放り出したいという申し出は、 明治以前では恐らくはじめてのことでした。石河 に説得された竹俣は、このことを重定に報告しま した。しかし、重定は改革の意欲を失っていて、 彼自身もまた贅沢な生活が好きであり、到底改革 の実行者ではありませんでした。重定の生活ぶり によっても藩財政の赤字は増大していたのです。 そこで、重定は隠居を決意し、藩政改革のすべて を、遠い九州の小大名の家に生まれた治憲、すな わち上杉鷹山に全面的に任せることにしたのです。 十七歳で小大名の子から名門上杉家を引き継 ぐ  鷹山はもともと上杉家の人ではなく、九州の 日向(宮崎県)高鍋の秋月という三万石の小大名 の家に生まれました。縁があって上杉家の養子に 入り、家つき娘と結婚し十七歳の時に藩主の座に ついたのです。鷹山が藩主になったころ、日本は 経済の高度成長期の頂点にありましたが、やがて 失速し、こんどはいままでと全く対照的な低成長 期におちいりました。鷹山は一七歳の若さで逼迫 した米沢藩を引継ぎ、さまざまな困難に立ち向か いながら、やがてみごとに藩財政を立ち直らせて しまったのです。おびただしく行われた江戸時代 の改革で、ほとんど唯一の成功を成し遂げたので す。  鷹山が一七歳で引き継いだ名門の上杉家は、上 杉謙信の頃に比べて藩としての収入が八〇分のI まで減収していたのに、人員を一人も減らさず、 藩政のしきたりや形式も昔のままで、今で言うと ころのいつ倒産してもおかしくないという状況で した。藩というのは、自治体と地方警察と裁判所 と消防署、さらに地域産物の独占企業体の合同体 のようなものでしたから、藩の財政改革というの は単純なものではありません。鷹山がしなければ ならなかったのは、単なる行政や財政の改革だけ ではなく、いわば稼ぐ自治体にしなければならな かったことです。現在のような政府からの補助金 制度はなかったので、改革ができなければ藩のお 取り潰しを願い出るしかありませんでした。藩の 取り潰しというのは天下の一大事でしたから、簡 単にできることではありません。いろいろな課題 に対し鷹山は、避けずに勇気をもって改革に取り 組みました。  初めに鷹山は、改革を妨げる三つの壁を藩庁の 役人たちに示しました。 I.制度の壁 2.物理的な壁 3.意識(心)の壁 改革とは、この三つの壁を壊さなければならない こと、特に壊さなければならないのが、3の「意 識(心)の壁」でした。そのために @情報を共有する。 A職場での討論を活発にする。 Bその合意を尊重する。 C現場を重視する。 D城中(藩庁)に対し、住民の信頼を回復する。 そのために藩士は、住民に限りない愛を注ぐ。  以上の行動指針を掲げました。いずれも今の企 業経営にも通じる考えですが、江戸中期、十七歳 で藩主に着任した鷹山が現状の問題点を看破して 実行しようとしたのです。 第二章 指導者としての出発と腹心 の部下、 そして生涯の師、細井平洲 との出会い  上杉鷹山の生涯の師で、鷹山の人格づくり、洽者づ くりを行なった細井平洲(1728−1801)。平 洲は尾張の生まれ。彼は常にこうI.一盲っていた。  「高遠の説は急務ではない。ひたすら聖賢の道を現実 に実践するところに学問の意味がある」。  平洲に学んだ鷹山も、平洲のこの説を尊重してこう 言っている。  「学問と今日(現実)とは二つの道ではない」。  多くの負荷を背負って米沢に赴く若い鷹山に平洲が 告げたのは、「勇気と責任」であった。 なせばなる なさねばならぬなに事も ならぬは人の なさぬなりけり という上杉鷹山の有名なこの歌は平洲が告げた「勇気 と責任」からきている。 鷹山はどんな場合にも逃げず、政治を「私物化」せず、 藩主の責任感に徹し、先頭に立って困難に立ち向かっ た。その鷹山の胸の中には、いつも心の支え手として、 師の細井平洲がいた。 少年鷹山に「望み」をかけた男たち  鷹山というのは隠居して後、五十二歳のときに 自らつけた号です。幼名を松三郎、また直松とい い、治憲は諱名です。  寛延四年(一七五一)七月二十日に日向(宮崎 県)高鍋の藩主であった秋月種美の次男として江 戸の麻布で生まれました。母は、筑前の秋月城主 黒田甲斐守の娘で鷹山の養父となった上杉重定の いとこにあたる女性で、鷹山が上杉家の相続人に なるつながりとなりました。朧山が九歳になった とき、この母の縁で、上杉家との養子縁組が決ま りました。  「上杉家には男の子がおありにならない。養子を おもらいにならなればいけないが、私の方に秋月 の次男松三郎という子供がいます。まだ九つです が、とてもりこうな子です。それに、毎日の遊び なども、普通の子供と違って、みんなの褒めもの になっています。この子を養子に推薦します」 という推薦が効き、鷹山の養子が決まりました。 しかしこの養子縁組は、鷹山にとって必ずしも幸 福とはいえなかったかもしれません。鷹山を待ち かまえていたのは、華麗な大名の座ではなく、公 私にわたる苦難の座であったからです。  上杉鷹山の米沢藩政改革を助けたのは、江戸藩 邸詰めの竹俣当綱、莅戸善政、倉畸恭右衛門、志 賀八右衛門、木村丈八などでした。これらの人物 は、すべて藩医の藁科松柏と気脈を通ずる者でし た。また米沢では煙たがられた存在の者たちでし た。松柏は、鷹山の生涯の師となる儒学者細井平 洲を尊敬し、平洲を鷹山の師に推薦したのも彼で した。  鷹山の上杉家の家臣との接触は、藁科松柏との 出会いがそのきっかけでした。あるとき、上杉家 の相続人に指名されながらも、まだ世子として江 戸藩邸にあった鷹山は、麻布桜田邸にいました。 ある夜、窓に射し込む月光で本を読んでいた鷹山 は、庭でぶつぶつ月に向かってつぶやいている男 を見ました。それが松柏でした。松柏は  「月の姿はいつも変わらない。それなのに、なぜ 人の心は変わるのだろうか」 そう言いながら、はらはらと落涙していたのです。 十三歳の鷹山少年はびっくりして窓から松柏に聞 きました。  「松柏、どうしたのだ、なぜ泣いている?何か心 配事でもあるならば、私に話してくれないか?」 松柏は恐縮してこちらを振り向き。  「さすが若君、御明察恐れ入りました。あなたは 他家からおいでになってこの上杉家の相続人にな られたばかりで、こんなことを申し上げてもお分 かりにならないでしょうが、米沢に森平右衛門と 申す男かおりました。出身は至って低身分であり ますが、藩公に取り入り甘言をもって藩政を壟断 するに到りました。特に悪徳商人と結びつき、農 民を苛め、それから得る収益を私しておりました。 江戸にあってこの噂を聞いた我々は、何とも我慢 出来ずに、寄りあい相談を致しました。その結果、 竹俣当綱が、森を刺殺することに決しました。  竹俣は米沢に参り、森を呼び出しI刀のもとに 刺し殺しました。国許の重臣たちも、竹俣のこの 行為を大いに誉めそやしました。そして竹俣こそ 米沢藩の真の忠臣であると称えました。  ところが森が殺されたことを知った藩公は、激 怒されて竹俣に切腹を命じました。驚いた国許の 重臣群が、強く取りなしをして、竹俣は何とか切 腹だけは免れましたが、藩公は二度と顔を見たく ないとおっしやって、竹俣をこの江戸藩邸に追放 致しました。  そうなると、人の心というものは情けないもの で、あれほど竹俣を煽動し森が殺されたことに 快哉を叫んだ重臣たちが、掌を返すように変わり ました。竹俣を非難する側に回ったのです。藩公 が、森が殺されたことに激怒していることを知る と、竹俣の行為を一緒になって非難するようにな りました。そのことを聞いて、私は人の心の何と はかなきものよ、月はいつもその光が変わらない のにと、嘆いていた次第であります」 この話を聞いて鷹山は。  「国乱れて忠臣現わるとは昔からの言い伝えだが、 竹俣こそ本当の忠臣であろう。しかし、それが養 父に正しく理解されずに、誤解を受けていること は誠に残念だ。しかし、私はあなたの今夜の話を 決して忘れないぞ」 と言いました。おそらく藁科松柏は少年の鷹山に 期待する所が多く、こういう話をしたのでしょう。 鷹山は、それを正しく受け止めました。  鷹山が十五歳の年の冬のこと。彼は、父の代理 として、江戸城に登営しました。寒気が厳しく、 特に風雨の強い日でした。供たちは、顔を手で被 いながら、苦しい歩行をしていました。鷹山は 駕籠の中からこの光景をじっと見ていて、屋敷に 戻ると、すぐ供の部屋に来て、かっぱを脱ぎなが ら雨を払っている供の者に。  「今日は特に御苦労であった。風邪をひかぬよう に、よく風呂にでも入って、休んでくれ」 とねぎらいました。これをじっと見ていたのが竹 俣当綱で、竹俣は、自分が、米沢本国の悪臣を 切ったにもかかわらず、藩主の怒りをかって江戸 藩邸に左遷されていたため、怏々として楽しまな かったが、鷹山のこの行動を見てたちまち胸を熱 くしました。そして、「自分のような忠臣を退け るようでは、米沢藩ももうお終いかと思っていた が、他家から来たこの若君は見所がある。この若 君が家を相続する日を楽しみに待とう」と密かに 思ったのでした。その思いをすぐ書面にしたため て、鷹山に奉り、書面には。  「厳寒の日は、自分も寒いし、人も寒いものです。 炎天の夏は、自分が暑く思えば、人もまた暑く思 います。それを、あなたは、下々の者まで今日の ようにねぎらって下さるとは、何とも胸を熱くす る次第です。恐れながらまだ、御若くあらせられ ながら、人を生かして使う道をすでに御存じだと 竹俣、深く感動致しました。どうか、米沢藩治国 のためにいよいよ御研鑚のほどを御願い申し上げ ます。遠くから、この竹俣も、大いに希望を持っ て見つめております」 と書かれていました。鷹山はこの手紙を黙って手 文庫の中に仕舞い込みました。藁科松柏の話で、 竹俣当綱が今どんな思いをしてこの江戸藩邸にい るかを知っていたからです。少年ながらも鷹山は、 竹俣を登用することが果して良いのか悪いのか、 藁科松柏の話を聞くまで分からなかったからです。 しかし竹俣の手紙を読んで鷹山は確信を持ちまし た。 江戸で知った下級藩士たちの極貧生活  大名の小姓と言えば、いまの秘書。当時の風習 として、美少年が用いられることが常でしたが、 鷹山はこの基準に従わず、鷹山の小姓の役を勤め ていたのは、佐藤文四郎という少年でした。まだ 鷹山が正式に家を相続しないころ、ある夏の夜に、 江戸の藩邸で本を読んでいました。蚊が多く、ば しめは佐藤が吊ってくれた蚊帳の中に入って本を 読んでいたのですが、蚊帳に遮られて灯が暗くて 仕方がない。そこで、鷹山は。  「佐藤、灯が暗くて本がよく読めない。すまない が、蚊帳をはずして、お前が、そこから扇子で蚊 を追ってくれないか」 と。これを聞いた佐藤は色をなしてこう言いまし た。  「これはもっての外のことをうけたまわります。 私は、あなたの蚊を追うために給料をもらってい るのではありません。あなたは、お一人だけが安 楽に本が読めればそれでよろしいのですか。万民 が塗炭の苦しみにおちいっている米沢藩の現状を 見て、よくそういうことがおっしゃれますね。ま た、士たる者に扇子で蚊を追えとは、士を用いる 道を一つも心得ていらっしゃいません。だいたい あなたは本ばかり読んでおられる、書物から得ら れることだけが学問ではありません。今宵は生き た学問をお目に掛けましよう。私と一緒に御出下 さい」 と言って、先に立ち鷹山を促しました。佐藤文四 郎が連れて行っだのは、江戸藩邸の足軽の長屋で した。  深更なのに、長屋には、乏しい蝋燭の光がそれ ぞれの家についていて、足軽たちはまだ起きてい ました。足軽だけではなく、その妻も子供も親も、 家族を挙げて起きていて内職をしていたのです。 傘の骨を削ったり、あるいは楊枝を削ったりして いました。子供のおもちゃを作る妻たちの姿もあ りました。みな粗末な着物を着て、汗まみれにな り、その顔や身体には蚊がいっぱいたかっていま した。しかし、労働に夢中で、蚊を追うどころの 話ではなかったのです。貧しさゆえです。佐藤は 言った。  「ご覧なさい。この者たちの姿を。あんなにたく さん蚊がたかっているのに、一匹も叩き潰すこと さえ出来ないではありませんか。これは、すべて あなたたちのせいです」 鷹山はびっくりして聞き返しました。  「これが、私たちのせいとは、一体どういうこと か」 佐藤は鷹山を冷たく見て、厳しい言葉を放った。  「だってそうではありませんか。この者たちの給 料は元々低い。にもかかわらず藩庁は、その安い 給料さえ半額に削ってしまった。しかも未払いで す。こうでもしなければ彼らは食っていかれない のです。藩庁がこういう貧しい者たちの給料を半 減したのは、即、藩主の責任です。藩主の相続人 たるあなたの責任です。それなのに、あなたは毎 日ただ本ばかり読んでいて、たかが蚊が止まった といっては、私に扇子で追えという。また、蚊帳 の中で本を読んでいれば、灯りが暗くて読めない から蚊帳をはずせと言う。わがままそのものです。 そういうことでは、次の藩主になっても決して良 い政治はできないでしょう。つまり、下の者に対 する思いやりを全く欠いているからです。冬の雨 の激しい日に、あなたは供回りをねぎらった。あ んなことは誰でも出来ます。生きた学問とは、こ こでこうして蚊に食われながら、家族を挙げて働 いている足軽たちの生活を、どうするかというこ とです。それができないような学問なら、いくら 学んでも無駄でしょう」 佐藤の言葉は厳しかったが、誠実さに縊れていま した。佐藤は決して私心から朧山にそういうこと を言っているのではなく、足軽たちの身になって、 自分がその立場に立って、切々と鷹山に訴えたの でした。佐藤は、竹俣から鷹山が冬の日に供回り たちをねぎらった話を聞いていました。内心密か に、(これは期待出来る相続人が出てきた)と喜 んだのですが、喜んだのも束の問、夏になって、 すぐ今夜の出来事があったのです。期待は裏切ら れ、その分だけ怒りに変わったのでした。そうか と言って佐藤は鷹山への期待を捨てたわけではな く、内職に勤しむ足軽たちの姿を見せて、生きた 学問を、鷹山にしてほしいと願ったのでした。鷹 山は佐藤の心情にうたれました。うなだれて自分 の部屋に戻ると。  「佐藤よ、今日は本当に良い学問をさせてちらっ た。礼を言うぞ。お前の言う通り、生きた学問を してこなかった。確かに、書物の中からだけでは、 生きた学問は学べない。今日は本当に有難い経験 をさせてくれた。私は、相続人として、今夜の足 軽たちに、心から済まないと思う」 と言いました。佐藤は驚いて、たちまち涙を浮か べ。  「何をおっしやいますか。本当は、私はああいう 失礼なことを申し上げたのですから、腹を切らね ばいけない立場です。にもかかわらず、あなたは、 私の言葉をまっすぐ受け止めて下さった。あなた は、本当は部下思いの優しい方なのです。どうか 今夜の失礼はくれぐれもお許し下さい」 と詫びたのでした。 江戸の家臣たちが教えてくれた米沢藩の実態  藁科松柏に続いて、鷹山は竹俣当綱を得、さら に佐藤文四郎を得ました。そして木村丈八という 硬骨漢がこれに加わります。木村は、学問が深 かったが、学問が深いだけに、曲がったことが大 嫌いでした。だから歯に衣着せずに、常に苦言を 呈し、鷹山に対しても同様でした。しかも木村は、 頭が鋭いので、他人の言うことが時に馬鹿馬鹿し く思え、馬鹿馬鹿しく思えると、たちまち態度に 出てしまうのです。  ある時、鷹山が自分の感じたことを側近たちに 話すと、竹俣以下みななるほどという顔をして聞 いていたのですが、木村だけがそっぽを向いてい ました。鷹山は話を終えて一人になると、そっと 木村を呼び、  「さっき、お前は私の話を聞きながら、そっぽを 向いた。なぜか」 と問いただしました。木村は鷹山をまっすぐに見 て臆せずに  「確かに私はそっぽを向きました。得てして、偉 い人は、立派なことを言います。そして、何でも 思ったことを言ってほしいとおっしやいます。そ の何でも言ってほしいということの中には、自分 の耳に痛いこと、つまり批判でもよいから言えと いうようなことがあります。私は、かつて、そう いうことばを真に受けました。宣]に受けて、藩公 に直言しました。藩公も、初めは二コニコして聞 いていらっしやいましたが、やがて段々表情が変 わり、ついには目に怒りの色が浮かびはじめまし た。その場はそれで済みましたが、やがて来だの は私に対する左遷の命令でした。その時私は悟り ました。偉い人が、何でも言ってみろと言うのは、 実はうそだと。本当は耳に快い誉めことばばかり が欲しいのです。それなのに、何でも言ってみろ ということを真に受けて、耳に痛いことを言った 私は馬鹿でした。たちまち怒りに触れて左遷され るということを、私は身をもって知ったのです。  だから、今日あなたがあんな立派なことをおっ しやっても、私は信じません。どうせあなたに耳 に痛いことを言えば、私を左遷してしまうでしょ うから」 これを聞いて鷹山は、すぐ言い返すことをせず、 心の中で、(この男の言うことは一面の真理だ。 恐らく、今までの米沢藩では、そういうことがし ばしばおこなわれたのであろう。そのことが木村 の心を頑なにしたのだ。木村は真面目なだけに、 そういうことに怒りをおぼえているのに違いない。 しかし、こういう真面目な男が、本当のことを言 わなくなるような藩はおしまいだ。何とかしてこ の男に本当のことを言わせるようにしたいもの だ)と思うのでした。  志賀八右衛門は、どちらかと言えば柔軟な平凡 な男でした。よく自分のすることを弁解し、人か ら何かを言われても。  「それは無理だ。到底出来るものではない」 と、ことをやる前に、まず出来ないということを 強調するのです。  ある時鷹山は、志賀に言いました。  「なぜ、お前は、そのように常に出来ない、出来 ないと言うのか。また自分のことについて、弁解 がましいことをくどくどと言うのか」 この問いに対して、志賀は、  「私は、人間には誠意があるということを信じて おります。すなわち、真心さえあれば、多くのこ とを語らなくても、人は自然に分かってくれるも のだと信じておりました。しかし、米沢藩ではそ うではありません。宣で心を持っていても、黙って いると、黙っていることを良いことにして、人々 はあらぬことを言いたてます。私の過去がそうで した。私は多くを語らず身をもって、行いをもっ て示すことを信条としてきました。言葉は多く費 やしませんでした。誠意さえあれば、自分の行動 から人々はこの誠意を分かってくれると思ってき たからです。しかしそうではありませんでした。 米沢本国の人々は、私か黙っていることを良いこ とに、私について種々噂をたてました。その多く は私の全く身に憶えのないことでした。ある日、 そのことを知った私は、びっくりいたしました。 私とは全く縁のない私か、一つの虚像として他人 の間を歩いていたからです。私の実体はそんなも のではないと痛憤しました。そこで、噂を聞くた びにその噂が広がっている場所にとんで行って、 そうではない、私はそんなことはした憶えがない、 またそんなことを言った憶えもない、私か本当に したことはこうであり、私か言ったことはこうで ある、というように、実は、実はという言い訳に 走り回ることが多くなりました。 それが、いつの問にか習性となって、すべてこと を起こす前に、それは出来ないと言った方が、む しろ私にとって有利であり、また私について言わ れたことを雑巾で汚れを拭いさるように、追い回 す癖がついてしまったのです。そうしなければ私 は米沢藩では生きていられないのです」 これを聞いた鷹山は、志賀を哀れとは思いました が、責めたてることはしませんでした。志賀がそ うなっているのは、志賀一人の責任ではなく、米 沢藩の社会環境がそうしているのだということを 知ったからです。これも、鷹山が知った米沢藩の 実態の一つでした。  このように、鷹山は人間一人ひとりを見つめる ことによって、藩の実態を知っていきました。つ まり人間に現われている現象がそのまま藩の実態 を反映していると見たのです。人を知れば知るほ どその分だけ鷹山は、米沢藩の実態を知り、一人 ひとりに現われている実態の総和によって、鷹山 は次第に頭の中に米沢藩の実像を構築していきま した。 鷹山の人格づくり、治者づくりを行なっだの は、細井平洲  そして鷹山にとって最も重要な人物が、松柏の 推薦した儒学者の細井平洲です。平洲は、尾張の 生まれで、幼名を甚三郎と言い、平洲は号です。 学派は朱子学派でしたが、彼は必ずしも忠実な朱 子学者ではありませんでした。彼は常にこう言っ ていました。  「高遠の説は急務ではない。ひたすら聖賢の道を 現実に実践するところに学問の意味がある」 後に平洲に学んだ鷹山も、平洲のこの説を尊重し てこう言っています。  「学問と今日(現実)とは二つの道ではない」  細井平洲は幼くして京都で、ただ学問だけに専 心しました。父からもらった五十両の金を節約し、 京都にいたとき使った金はわずかに十両だったと いい、余った金で本を数百巻買い、これらの本を 家から出ずに全部読破したといいます。さらに十 八歳の時には長崎に留学して中国語、書道、南画、 禅と詩を学びました。  『上杉鷹山の経営学』(tコ吻研究所)や『小説上 杉鷹山』(学陽書房・集英社)を読んで下さった 方から、鷹山をテーマに講演をした後、必ず受け る質問があります。  「十九歳かそこらの鷹山に、本当にあんな素晴ら しいことができたのですか?」  「全部鷹山ひとりの仕事ですか?」 ○年齢が若い。 ○他家から養子に来た。 ○それも名門・大家の上杉家に来た。 ○実家は九州の日向高鍋(宮崎県高鍋町)の秋月 家で、養家は出羽米沢藩(山形県米沢市)上杉家 である。土地の状況が全く違う。 ○米沢藩士も藩民も鷹山を全く知らない。鷹山の ほうも米沢人を知らない。いってみれば鷹山は八 ンデだらけだった。  「それなのに、若い鷹山がこれらのハンデを、 たったひとりで克服できたのか?できたとすれば なぜか?」 というのが質問の趣旨です。この質問に私はつぎ のように答えています。 ●鷹山の名は、海上に浮き出た目に見える氷山の 一角だと思う。海面の下にかれを支えた巨大な氷 山、即ち多くの藩士・藩民がいた。 ●しかしかれ自身もすぐれた治者であり、未知の 米沢人に率先垂範の実行力で強力な衝撃を与えた。 ●そういう鷹山の人格づくり、民の父母としての 治者づくりを行なったのは、細井平洲という学者 である。鷹山がいよいよ米沢本国へ改革(いまの リストラクチャリング)に赴くことになった時、 平洲が鷹山に告げたのは、「勇気と責任」でした。 なせばなる なさねばならぬ なに事も ならぬは人の なさぬなりけり  という上杉鷹山の有名なこの歌は平洲が告げた 「勇気と責任」からきています(この歌は熊沢蕃 山の作だという説もあります。おそらく儒学を学 んだ江戸時代の、心ある政治家たちの合言葉だっ たのでしょう)。 鷹山はどんな場合にも逃げませんでした。政治を 「私物化」せず、藩主の責任感に徹し、先頭に 立って困難に立ち向いました。その鷹山の胸の中 には、いつも心の支え手として、師の細井平洲が いたのでした。 第三章 幕府の三大改革を始め、 なぜ、江戸時代の行政改革 は成功しなかったのか  鷹山改革の最も重要な中心人物竹俣当綱。竹俣は鷹 山の全面的な信頼を受け、江戸藩邸のときから改革案 の作成に加わり、本国にあって執政に命ぜられ、改革 推進のほとんどを一身に背負って実行。世の指弾を浴 びながら、藩の破綻寸前の時期に人の嫌がる改革を進 めた。竹俣はその任を避けることなく、鷹山の信頼に 応えて、特に農業政策に優れた治績を残した。縦横に 才略を活用して、きびきびと改革を進め、藩が抱えて いた莫大な借財を、何人もの商人に頼みこんで、返済 を延ばしたり、植樹のための資金を提供してもらった りして藩の資金繰りも助けた。漆、楮、桑、などの大 規模な植樹計画を立て、実行し、改革の思想の中核と なった。細井平洲招請にも彼は労を惜しまず実現させ た。  耕田、殖産、蓄米など、いちじるしい業績は、竹俣 に負うところが大きかった。 改革には、優しさと労り、思いやりがなけれ ばならない  鷹山が上杉家を継いだのは、明和四年(一七六 七)で、十七歳でした。そのころ、中央政治をと りしきる徳川幕府は、十代将軍家治の時代で、鷹 山が相続したのと同じ時期に、突然、田沼意次と いう人物がのし上がってきて、持ち前の才幹でつ いに老中筆頭(首相)になってしまいました。  田沼は父が紀州藩の足軽という、低身分の出身 でしたが、それだけに、あまりしきたりにはこだ わらず、思いきった政策を展開しました。幕府の 根本政策は「重農主義」で、いきおい「賤商主 義」をとり、経済人はいつも圧迫されていました。 田沼はむしろ重商主義をとり、また、鎖国という 国是を破って開国同様の状態にし、外国の文物を どんどんとりいれたのでした。  おかげで、オランダの医学書を翻訳した解体新 書などの本も出だし、平賀源内のひらいた物産展 などで、国民は大いに生活をゆたかにする方法を 知りました。田沼はまた、北辺の問題を国民の課 題にし、北海道や千島列島、さらに樺太の探検調 査をおこなわせました。今日の眼からみれば、田 沼の政治はかなり開明的で、それほど批判される ものではないのですが、田沼には大きな欠点があ りました。賄賂が好きだったことです。しかもそ のことを少しも恥じず。  「金や品物をくれる人間は、それだけ私に誠意が ある証拠だ。だからそういう人間はどんどん出世 させるし、便宜をはかる」 と公言していました。大名や旗本も商人も、金品 を持って、何とかいい役職や儲かる仕事をもらお うと朝から押しかけてきました。  鷹山は、中央政治がこういう状況のときに藩主 になったのですが、重役たちは。  「藩政政革で、つまらない苦労をするよりも、田 沼様にワイロを送ったほうが、幕府で補助金をく れるのではないでしょうか」 とすすめましたが、鷹山は首をふり。  「民の汗であり、あぶらである年貢(税)を、ワ イロなどには使えない、米沢藩は自力で更生しよ う。政治家は徳の人でなければならない」 と答えて、暗に田沼を批判しました。そのうちに、 田沼の政治に反感をもつ大名たちが結束し、田沼 を失脚させ、田沼に代わって登場したのが東北の 白河(福島県)藩主松平定信でした。定信は八代 将軍吉宗の孫で、頭もよく人格者で、国民は定信 に期待しました。  定信が展開したのは、「一大倹約政策」で、そ の線にそった行政改革で田沼の政策をすべてひっ くりかえしました。「重商主義」を再び「重農主 義」に変え、商業を弾圧したのです。西洋の学問 も禁じ、都市にいる若者には田舎へのUターンを 命じました。国民のぜいたくは一切禁じ、貿易も 禁じました。日本は、固苦しい、しめっぽい国に なり、経済は低成長のまま二度と景気が浮揚する ことは期待できないような状態になりました。そ うなると現金なもので、農民や町人は。  「白河様のきれいに澄んだ清流のような政治より も、前の田沼様の汚れた泥沼のような政治のほう がマシたった」 と言い出したのです。  上杉鷹山は、経済の高度成長と低成長の二つの 時代を生きたのです。そして、田沼意次の国民の 消費助長政策と松平定信の緊縮政策の二つをじっ とみつめ、この状況と経済の中から、若き鷹山は 独特な改革案を考え出しました。  鷹山は、かつての将軍吉宗や宰相水野忠之によ る享保の改革や最近の宰相松平定信をはじめとす る徳川幕府の経営改革が、なぜ今まで成功しな かったのか、その理由を次のように考えました. 一.経営改革の目的がよくわからないこと 二.しかも、その推進者が一部の幕府エリートに 隕られたこと 三.改革をおこなう幕府職員にも、改革の趣旨が 徹底していなかったこと 四.当然、改革の目的や方法が親切に国民に知ら されずに、一方的に押しつけられたこと.つまり、 国民の世論を喚起するためのPRに欠けていたこ 五。改革が進んで、徳川幕府が身軽になれば、当 然国民の負担が軽くならなければいけないのに、 逆に幕府は増税をしたこと。つまり、四公六民と いう税率であった所得税を、五公五民、あるいは 六公四民のように上げてしまったこと 六。改革を進める官僚は、すべてエリートであり、 部下に対して、指示・命令としてのみ方法を押し つけたこと  こう分析した後に、もっと大きなことに鷹山は 気がついた。それは、   「改革の根本に優しさと労り、思いやりがまっ  たく欠けている」ということでした。  政府や企業が、経営改革をおこなう時には、当 然それなりの理由があります。経済が高度成長か ら低成長に落ち込み、閉塞状況になって、税収が 落ち、新しい仕事がやりにくくなった時に、必ず 改革がおこなわれました。あるいは思い切って身 を削ぎ、身軽になって、新しい仕事に集中するた めに、古い仕事を切り捨てるというようなことも あります。組織を縮小し、人員を減らし、経費を 切り詰めるというのは常套手段です。これらのす べてが悪いことだとはいえませんが、国民やお得 意さんのためにおこなう変革は、日々日常業務の 中でおこなわれなければなりません。しかしそれ は、経営改革とか行政改革とか、鳴り物入りで誇 大に宣伝して仰々しくおこなうことではなく、地 道にゴツゴツとその当事者が、自分たちの生活を 成り立たせてくれている人々のために、誠心誠意 でおこなうべき日常業務のはずです。それぞれの 職場において、そこの成員が、討論と合意によっ て案を生み、より良い方法を、日常業務として実 現していくことが、真の経営改革、行政改革なの です。  上杉鷹山は、こういう点に着目し、今までの幕 府が改革に失敗したのは、  「すべて、民と部下に対する愛情の欠如だ」 と思うようになったのです。別な言い方をすれば、  「改革には、愛と労りがなくてはならない」 というのが、鷹山の経営改革の底にすえるべき基 本理念でした。たとえ財政再建のための行政改革、 経営改革であっても、その対象となる人々への愛 と労りがなくては決して成功しないということを、 十七歳の彼は感じ取り、自分の経営改革は、決し て藩政府を富ませるためにおこなうのではなく、 藩民を富ませるためにおこなうものでなければな らない、と思うようになったのです。  そう思うと、彼の胸は膨らみました。経営改革 とは、陰気で勤倹節約だけを主目標にしたしめじ めした暗いものではなく、むしろ全藩民が藩主と 一緒になって、厳しいけれども前途に希望を持つ ておこなう楽しい事業である、とさえ思うように なったからです。  「そのための、灯は、私か藩主として掲げなけれ ばならない」 という責任を強く感じたのでした。 心身障害者の妻が教えてくれたこと  鷹山は、自分かおこなう藩政改革の目的を「民 富」におき、その実現は、「愛と信頼でおこなう」 と決意しましたが、その中には、「領内の弱い立 場にある人々を労ろう」ということも含まれてい ました。それを改革の目的のひとつに含めたのは、 鷹山が、もともと弱い立場にある人々に優しい気 持を持っていたからですが、実はもっと身近なと ころに理由がありました。  鷹山が上杉家を継いでから結婚した家つき娘の 幸は、生まれてすぐの心身障害者でした。彼女は、 鷹山が養子になったとき、同い年の九歳でしたが、 肉体だけでなく、精神の状態も二歳か三歳くらい の幼女の状況でした。伝記によれば、若き鷹山は、 日々障害者の妻のために、紙で鶴を折ってあげま した。幸は、それを糸でつなげて、鶴が日々増え ていくのを手を拍って喜んでいました。またある とき、鷹山は、自分で粗末なもめんの布を使って 人形を作って届けました。それを受け取った幸は、 鏡に自分の顔を写し、鷹山の作ってくれた人形に 顔の部分が書いてなかったので、口紅と眉墨を使 いながら、鏡に写った自分の顔を人形に写し、写 し終ると、幸は胸を躍らせながら、鷹山の来るの を待っていました。鷹山が来ると幸は嬉々として、 自分が顔を描いた人形を見せながら、「幸、幸」 と言ったそうです。鏡に写った自分の顔を写しだ のだから、この人形は自分なのだという意思表示 なのでした。自分を見てほしいということと同時 に、絵が描けたということを、鷹山に認めてもら いたかったのです。  鷹山は、幸の描いた人形の顔を見せられると  「実にあなたによく似ている。まるで幸殿そっく りだ。あなたは体が不自由なのに、絵を描く才能 がある。私もそれを発見できてとてもうれしい。 あしたから、もっとたくさんの人形を作って持っ て来ましよう。どうか今日以上の上手な絵を描い てください。この人形は本当にあなたを見るよう な気がする」 と言い、お世辞ではなく鷹山は本心でそう思って いました。つまり、心身障害者の妻に、絵に対す る志向があることを知って、それがそのまま幸の 生きがいにつながると信じたのです。  鷹山の有名な歌の なせばなる なさねばならぬ なに事も ならぬは人の なさぬなりけり も、幸の。絵を描く能力の掘り起こし”に起因さ れたと思っています。あの言葉は、決して、ひと つの事象から導かれたものではないのです。「あ なたにそっくりだ」という鷹山の本心からのほめ 言葉を聞いて、不自由な彼女にも、ほめられたと いうことが伝わり、幸は涙ぐんで喜びました。幸 はそして、次の日も、その次の日も、鷹山が新し い人形を持ってきてくれることを今か今かと待ち かねていました。このように、公私共にきびしい 状況の中で、上杉鷹山は、いよいよ改革案の作業 に乗り出しました。 江戸の問題児たちが作った案など、米沢の藩 士は認めない  鷹山は、藩政改革案を作成するのに、藁科 しようはく だけまたまさつな のぞき 松柏・竹俣当綱・莅戸善政・木村丈八・佐藤文 四郎・倉畸恭右衛門・志賀八右衛門らを登用しま した。そしてこう言いました。  「お前たちが、それぞれ胸の中に、藩の現状に対 して怒りや悲しみを持っていることはよく分かっ た。その怒りや悲しみが決して私欲に基づくもの でないこともよく分かった。そこでお前たちに命 ずる。お前たちで財政再建のための藩政改革案を 作れ。しかしその目的はただひとつである。つま り、藩内の心身障害者、身体障害者・病人・老 人・妊婦・子供など社会的に弱い立場にある者だ ちを労る政治を実現したい。つまり、米沢藩の藩 政改革は民を労り、富ませることにある。藩政府 が富むことではない。そういう藩政改革案を作れ。 そしてその案を二年間この江戸藩邸で実験してみ よう。実験の過程で、悪い所は直し、良い所は残 そう。そして、改革案を練り固めて本国で実施し よう。しかし、ひとつ条件がある」  そう言って鷹山は目の前に居る側近たちを見回 しこう言いました。   「あり体に言って、お前たちは米沢本国の人間 から、すべて問題児と決めつけられた人間である。 問題児に対する世の中の見方は、片寄ってはいる か、ある面で真実を言い当てていないとは言えな い。そこで頼みがある。人の世の中は、何を言っ ているかを大切にすべきであって誰が言っている かは問題でない、ということを十分私も知ってる。 しかし、大は悲しいものだ。必ずしも理屈通りに はいかない。やはり、誰が言っているかによって、 大きく左右される。そこで頼みというのはこうい うことだ。お前たちも少し自分を変えてほしい。 問題児と決めつけられた貼札を自分で剥がせ。つ まり自分を変えてほしいのだ。そうすることに よって、頑な本国の連中もお前たちに対する見方 を変えるだろう。見方が変わってくれば、お前た ちがこれから作る案が生きてくる。ああ、あれほ ど彼らは変わったか、変わった彼らが作った案な らば、読んでも少しはためになるだろう、どれ、 というようにお前たちの作った改革案に目をとめ るに違いない。今のままでは、恐らくお前たちが どんなに良い案を作っても、本国人はそっぽを向 いてしまうだろう。一顧も与えまい。そうなって は残念だ。藩を変えるためには、藩大が変わらな ければならない。その藩人の中にはお前たちも大 る。もちろん、お前たちだけに変われというので はない。私も自分を変えていく。つまり、自己変 革は藩の変革のためにまず成し遂げなければなら ない藩人の義務なのだ。この点よく分かってほし い」  この鷹山の言葉を聞いて、木村丈八は心の中で、 (何を言っているのだ。悪いのは我々ではなくて、 本国の人間だ。まず本国の人間が自分を変えなけ れば、俺たちがいくら変えてみたってどうにもな らない)と思いました。その木村の気持は敏感に 鷹山に伝わり、鷹山はこう言いました。  「お前たちの中には、すべて悪いのは本国の人間 であって、自分たちは少しも悪くない。自分たち は正義の士であって、不正なことは何もしていな い。したがって、まず変えなければならないのは 本国人である。そうしなければ、いくら江戸にい る連中が自分を変えてみても、何の意味もない、 と思う人間もおろう。しかし、それは堪えてほし い。それにこだわると何事も進まない。そしてそ れにこだわることは、誰か大切な人々を忘れてい ることになる。誰か大切な人々とは、年貢を納め る人々のことだ。私たちの生活の資を生み出す 人々のことである。そういう人々の存在を忘れて、 私たちが私たちの考えだけで争うことは、何の意 味もない。だからまず気付いた方から自分を改め るより他に方法がないのだ。辛いことはよく分か る。しかし堪えてほしい。江戸の方から自分を変 えて本国に乗り込んでいこうではないか」 先制攻撃を受けてしまって、木村の心中は決して 穏やかではありませんでした。しかし一面、(こ の若い殿様は、なかなか侮れない大だ。若いくせ に、よく人の心を見抜く。案外大物かも知れない ぞ)と、思うのでした。  鷹山は、何でも、すぐ、  「これかあれか」 あるいは、  「俺が正しいか、お前が正しいか」  というような短絡思考で物事を決めることを好 まず、彼の頭脳はもっと柔軟でした。世の中のこ とはすべて二者択一ではなく、三者択一であり四 者択一であり、あるいは五者択一の場合さえある と思っていたのです。選択肢は無限にあり、その 中から一番良いものを選ぶ、あるいは次善のもの を選ぶ、それが人間ではないかと思っていました。 そうしなければ、人々は常に争い続け、何ら得る ところがなく力を費やしたまま終ってしまうから です。  正義の士ばかりが集まっている江戸藩邸の連中 に、自己変革を求めるということは、思い切った ことでした。当然、不満が出るのも分かっていて、 鷹山はあえてそれを行いました。そうしなければ、 本国の人間が到底鷹山たちの言うことはきかない と思ったからです。鷹山は、自分が若く、貧しい 他家から入り、藩の実態も知らないままに藩主の 座に着いたことを、決して快く思っていない連中 がたくさんいることを知っていました。鷹山がま ず戦わなければならないのは、自分に対する偏見 と軽侮の目でした。それを克服しなければ、到底 藩政改革というような大事業はできないのです。  組織は人である、ということを鷹山はよく知っ ていました。そしてその「組織は人である」とい う場合の人とは、一人ひとりの人間であるという ことを知っていました。だから、まとめてこうし ろ、ああしろと言うことを鷹山はしなかったので す。一人ひとりの人間をよく見つめ、一人ひとり の人間が自覚に基づいて自分を変革し、その変革 の総和が組織を変革していくというふうに考えて いました。だから、鷹山の改革第一歩は、本当は 正義の士であり、何ら憚るところのない連中にさ え、「自己変革」を求めたのです。 身分制度を否定する鷹山の思想が、藩士たち の強い反発を招く  いわゆる本国人から見て問題児と決めつけられ た江戸の藩士たちは、夜を日に継いで、一室にこ もり、改革案を作り、鷹山に提出しました。鷹山 は一読して、ニッコリ笑い、そして、  「良いものを作ってくれた。本当に良い案だ。礼 を言う」 と言ったのです。この案を基に、鷹山はすぐ江戸 の藩邸にいる藩士たちを全員集めました。このと き、重役だけでなく今までのしきたりにはなかっ た平待まで呼びました。さすがに家老がびっくり し、  「そういうことは、今まで藩の例にありません」 と言いましたが、鷹山は微笑んで、  「例にないことをするのが、私の改革の第一歩で ある」 と言いました。  集めた藩士たちに鷹山は言いました。  「上杉家は、大家より小家になった。しかしそれ にもかかわらず、藩の上下は、諸事についていま だに大家の昔を慕っているために、おのずから家 格七重い。重ければ余計な支出も増える。また太 平が久しく続いているので、国全体の風俗も奢る ようになっている。そのため、今これが、相応の ことだと思うことも、実はすぐ奢りに結びついて いる。当家もその風潮と無縁ではなく、誠に嘆か わしいことである。このまま成り行けば、月を経 るに従い、米沢の富は尽き果てるだろう。今の藩 は、他人から借りた金銀によって漸く取り繕って いるような始末である。誠に国の守りというにつ いては甲斐の無いことである。特に上がこういう 状況であるのに加えて、水難、旱魃、火災、幕府 お手伝い等があれば、国家(藩)はたちまち立だ なくなってしまう。私は、小さな大名の家から大 きな大名の家を譲り受けたが、このまま上杉家の 滅ぶるのを待って、国中の人民を苦しめることは 到底できない」 こう前提して、鷹山は切々と訴えたのです。  「これほど衰えてしまった国家をどうしたら再び 立てることが出来るだろうか、一時は、先代がこ の国家を返上しようとまでその筋へ尋ねてみたこ ともあったが、いなからにして滅ぶるのを待つよ りも、皆がギリギリの力を出しあって、努力する しかないと思い返した。これは正しい。私はその 志を継ぐ。どうか、頼む、懸命の努力をしてくれ、 このとおりだ」 と言って、頭を下げました。しかし鷹山の話に対 して、藩士たちの反応は様々でした。  第一のグループは、素直に鷹山の話に感動して、  「この新藩主は、我々がやりたいこと、言いたい ことをはっきり囗に出してくれた。この若い藩主 の下で、我々も精一杯努力していこう」と、発奮 しました。  第二のグループは、真向から鷹山の考えに反対 しました。  「この新藩主の考えを実現すれば、伝統のある上 杉家の格式はメチヤメチヤになってしまう。到底 この人の言うようなことは出来ない。我々は、あ くまでも、上杉藩士の立場に立って、他家から来 たこの藩主の政策に反対していく」  と、会った早々から鷹山の政策に真向から対立 しようと、心を決めました。  第三のグループは、鷹山の藩主としての態度に 疑いを持ちました。  「藩主というのは、もっと威信がなくてはならな い。そこへいくとこの新しい藩主は一体何だろう。 実態報告とは言いながら、べらべら藩の秘密に類 するようなこともしやべり、あまりにも度が過ぎ る。ましてや足軽ごとき身分の低い現場職員にま で、ここまで藩の最高秘密を話すことはない。 トップは方針を示したら、黙って俺についてこい と言うのが正しいあり方ではないのか。この人は、 弱音を吐きすぎる。目的に対して自分の限界を示 すのは正直かも知れないが、逆に言えば自分の無 力振りをさらけ出しているようなものだ。そうい う頼りない藩主についていくことは、とてもしや ないがやりきれない。この大は、我々の考えてい る藩主とはほど遠い。まるでヒラの藩士のようだ。 第一、統制は出来ないから参加してくれとは何だ。 こんな人の下ではこの先、我々はどういう目に遭 うか分からない。おそらく、枇も上がらないだろ う。早く見切りをつけた方が勝ちだ」  第一のグループは協力派、第二のグループは反 対派、第三のグループはシラケ派あるいは脱走派 と言っていいかもしれません。そしてその通りの ことがその後の藩士の態度として表れたのです。 鷹山にすれば、改革の基本が、いたずらな緊縮政 策では、藩士や藩民のやる気が委縮すると考えま した。それは、徳川幕府がいままでにおこなった 行政改革が、すべて勤倹節約の緊縮政策であった ために、行革を推進する幕府職員自体、あるいは それを受けとめる国民自体が萎縮してしまって、 結局はその改革に協力しなかったのです。だから 改革は失敗したと鷹山はとらえ、改革失敗の原因 を自分なりに考えたのです。  改革を進めるには. 一.まず改革主体のやる気を上げなければならな い 二.また改革される側か喜んでその改革を受け容 れるようにしなければならない 三.改革を喜んで受け容れ、やる気を上げながら 改革を進めるということは、改革する側もされる 側も改革の趣旨をよく理解し納得して、自発的に 協力するような雰囲気づくりが必要 四.それには、改革の目的そのものが、究極的に は、誰かのために役立つという意義が設定されて いなければならない と、認識しました。  だから鷹山が藩士たちに話したことは、別な言 葉で言えば、 ○何がしたいか ○どこまで出来るか ○なぜ出来ないか ○どうすれば出来るか 言葉を変えれば ○理念・目的の設定 ○限界の認識 ○障害の確認 ○可能性の追求 ということになります。そして、そのためには、 情報の共有と全藩士の参加が必要不可欠と考えた のです。  しかしやっかいなのは、反対派とシラケ派の始 末でした。反対派・シラケ派は共に、 一。トップはもっと責任を持て。不言実行を重ん すべきだ。この藩主は下に頼りすぎる。 二。秘密をしゃべりすぎる。そのことによって藩 士たちは逆に不安を持つ。情報が公開されたとは 思わない。 三。この案が展開されると、年功序列が乱される おそれがある。特に正当な藩士群が退けられ、い わゆる札つきの問題児たちがのし上がる危険性が ある。 四。上杉藩は伝統と格式のある藩だ。それを無視 して、伝統、格式をことさらにこわし、上杉家の 恥を天下に哂す危険がある。他藩から笑われる。 五。民富民富というが、民は胡麻と同じだ。絞れ ば絞るほど油がとれるのだ。それを民こそ国の宝 など、民を富ませることが改革の目的だというの は、社会秩序を乱す。民をのさばらせ、士が馬鹿 にされる。統治者としての上の権威が失墜する。 民は甘やかすものではない  こういう論理を持っていました。特に最後の。  「民は胡麻と同じで、のさばらせてはいけない。 民富というのは、社会秩序を乱す」 という発想は、ほとんどの藩士に共通していまし た。士農工商という身分秩序が、米沢藩だけでな く、二百六十余の他藩にもすべて共通するもので あり、また徳川幕府そのものがその士農工商に よって成り立っていたからです。士イコール武士 という考え方に立った徳川時代の士たちは、そこ を自分たちの生存の唯一の拠り所にしていたので す。民富民富という鷹山は、その秩序を壊すもの であったわけです。そういう意味では、藩士たち の大部分は、鷹山の発想の中に、武士階級否定の 革命的なものを感じとったのです。  ある面でこれは事実で、鷹山は、朱子学者であ る細井平洲に学問を学びましたが、これから展開 しようとする政策の根幹に、朱子学だけが置かれ ているのではなく、むしろ  「天下を得るためには民を得ればよく、民を得る ためにはその心を得ればよい」 とした孟子の考えがあったと理解してもいいで しょう。  鷹山の話に感動するどころか、逆に大きな不安 を持った層は、もっと極端な拒否の行動に出まし た。藩を見捨て、鷹山を見捨てて、脱走してし まったのです。彼らは。  「こんな藩主の下では、到底枇が上がらないし、 どんな目に遭うか分からない。それに、民富を基 本とする改革などまったく協力する気はないし、 徳川幕府に対する大きな犯罪ではないのか。そう いうことに加担する訳にはいかない。他所へ行っ て違った生き方を求めよう、新天地を探そう」 そう考えて、逐電してしまったのです。いまでい う転職者です。こういう層はかなりいて、つまり 鷹山の政策に反対で、鷹山を見捨ててしまったの です。しかし、こういう状況に対して鷹山は耐え、 腹も立てませんでした。腹を立てれば一度でおし まいです。鷹山は、こういう事態があることをは じめから予測していて、だからこそ、江戸の藩邸 で問題児達に。  「改革案を作れ。しかし、作るお前たちも自己改 革をしろ。世の中は、誰が言っているかが問題で あって、なかなか何を言っているかにならない。 その意味では、改革案がいかに立派なものであろ うとも、それを作ったお前たちが、自分を変えな ければ、米沢本国では到底受け容れられないだろ う」 と言ったのは、すでにそのことを見抜いたためで した。この予感はあたりましたが、反抗とシラケ は予想以上に大きく、朧山は再び窮地に立だされ ました。 米沢本国を軽んじられたと受け止めた重役た ちの強い怒り  江戸の藩邸で改革案の趣旨を述べた鷹山は、改 革案を同時に本国へも伝えたいと思い、本国から 家老の千坂高敦を招きました。千坂に、「志記」 と題した一文を書いてこれを示したのです。  「この志記を米沢本国の重臣はじめ、一般藩士た ちにもよく読んでもらいたい」 と言いました。志記には、  「私は日向高鍋の第二子に生まれ、幸いに先君の 命によって当家を相続することになったが、この 上は国家を再興し、人民を安んずることをこの身 生涯の願いとして努めたい。当家は武尊公(上杉 謙信)の末葉で、英名を日本中に輝かし、武威を 関八州に奮い、関東管領ともなった家柄である。 それなのに、困窮のため国を滅ぼすのは悔しいか ぎりである。そこで、この度大節約をとりおこな うことになった。このため人民が迷惑に思うこと もあろうが、結局は人民の将来の安堵のためであ る(中略)。この度、千坂高敦をして、申達させ ることについて、十分心服し得ないところがある かも知れないが、治憲(鷹山)自らが色部照長と 論議の上、色部も賛同したことであるし、それに 江戸藩邸の諸役人の同意を得たものである(中 略)。 以上は、千坂下向に際して、私の微志を伝えるた めに記した手控である。ただただ私の願うところ は人民の安堵である。この点をよくよく申し聞か せ、人民の不信起らず国家再興の願いを日夜忘れ ることなく、よくよく心得、家中一人も漏れない ように申し渡してもらいたい」 と書かれていました。この志記を携えて千坂は米 沢に下り、米沢城に勤務する重臣たちにこれを読 ませました。しかし、重臣たちの中には、この志 記に対して必ずしも快い感情を持つ者ばかりでは なく、はっきり不快の念を表わす者もいました。 それは。  「藩政改革などということは、藩にとって大問題 である。それを、本国の重役に二言も相談せず、 江戸藩邸にいる一部の者共と、何も分かりもしな い新藩主が一緒になって案を作るなどとはもって の外である。ましてそれを自分自身で言うならま だしも、国老の一人を呼んで、単なる手控を与え て、それをもって藩士全員に改革の趣旨を徹底せ よとは論外の方法である。現に、江戸藩邸にいる 者共に対しては、藩主自身が告げているではない か。本国と江戸藩邸とどっちが大事か。本国は本 社であり、江戸藩邸は支店にすぎない」 というような論が起り、千坂はこれを抑え切れま せんでした。そこで、再び鷹山に。  「米沢の本国へ帰って、あなたの志記を伝えまし たが、重臣だちからはこういう意見が起っており ます。このような重大な事案を、米沢の重臣群に 匸肖の相談もなく独断でなされたことは誠に遺憾 でありますという意見が強くございます。また江 戸詰めの者には藩主が直々示達しながら、米沢本 国には千坂をもって示達するとはもっての外、と いう意見が渦巻いております。ついては、これを 鎮めるために藩公自ら米沢に御入国の上、改めて 御示達のほどを願いたいと存じます」 千坂は、鷹山から言われたことをまったく実行で きなかったのです。千坂から報告を受けた鷹山は、 反対している重臣の名を確かめ、一人ひとりに直 書を書きました。反対した重臣というのは、須田 満主、芋川正令、本庄職長、安田賀元、市川盛房、 清野祐秀などでした。再び同じことを直筆で書い て送ったのですが、重臣たちは依然承知せず。  「このような藩政改革は、米沢藩の体面を汚すも のである」 とまで言い切りました。  「新藩主は、三万石の小藩の育ちだから、気持が 小さく吝嗇なので、謙信公以来の当家の格式を知 らないのだ」 と嘲笑しました。さらに、一部の重臣は、  「十七歳の少年がこれほど見識のある改革案を作 るはずがない。これはきっと莅戸や竹俣や木村な どが密かに少年藩主を唆して作ったものであろ う」 と類推しました。これはある面で当っていて、問 題児として本国重臣たちが退けた層が、実際に改 革案を作っていたからです。鷹山が危惧していた ことは当たり、本国の重臣たちは依然として江戸 藩邸にいる問題児たちを問題児として見ていたの です。だからどんなに良い案だとしても、彼らが 案を作る限り、決してこれに従うまいと決意して いたのです。生半可な自己改革くらいでは到底米 沢本国の重臣たちは、問題児たちに新しい目を向 けようとはしなかったのです。 窮地の鷹山を救つだのは先代重定。非情を超 えねば変革はできない  子供が自身の親に忠実に従うことを示す観念 「孝」は、儒教の根本的な教えであり、それを採 り入れた日本の武家社会の規範です。しかし、鷹 山がとっだ政策は、養父の重定の政策とはまった く相反するもので、治国治民のためなら父の放逐 さえ辞さなかった武田信玄の立場と良く似ていま す。信玄もまた国のため民のためとあれば、国を 破り、民を苦しめる父を放逐することに、何ら 逡巡しませんでした。上杉鷹山が展開した藩政 改革の諸政策は、ことごとく前代藩主の重定の政 策に反するもので、ある意味において、政策的に 父を放逐したと同じことで、「孝」にそむく行為 ととらえられました。鷹山はそれに屈することは ありませんでしたが、そのことで鷹山が指弾され なかったのは、あくまでも鷹山の人柄によるもの と思われます。鷹山のひたむきな誠実な態度が、 人々の心を打ち、その行為を責める者は誰もいな かったのです。それどころか、その鷹山のために 起ち上がったのは、ほかならぬ重定その人でした。 重定は、それまでの生活が贅沢で決して名君とは 言えませんでしたが、後を託した鷹山が、弱年で ありながら、その第一歩ですでにそういう苦労を していることに忍びなく、重定は、千坂と須田を 呼んで江戸からの改革案について、いったいどう なっているのかと聞きました。千坂は。  「重臣どもで相談をしておりますが、まだ決議に 至っておりません」 と答申しました。重定は。  「なかなか議論が尽きないのはもっともであるが、 新藩公の存念もあろう。どうか早く決定して、新 藩主に協力してほしい」 と命じ、一部の重臣から、重臣群の意向を聞くと。  「それは重大である。どうしても新藩主が直接本 国に来て説明をしないと納得をしないと言うなら ば、新藩主の代わりに、隠居の私か代わって藩士 全員に説明しよう」 とまで言ったのです。新藩主に好感を持っていな い重臣群も、永年仕えてきた旧藩主には、頭が上 がりません。しかもその旧藩主が城の広間に出て きて、自分から説明すると言うのでは、重臣群と しての補佐の任をまっとうしていないということ になり、彼らは辟易しました。そこで、相談し、 全員「やむを得まい」と渋々鷹山の藩政改革案に 賛成したのです。しかし終始一貫新藩主の政策に 反対しようという気持を持っていた芋川正令だけ は最後まで反対し、重臣会議にも欠席しました。 重臣群のこういう逡巡ぶりを見て、前藩主重定は、 十二月十一日、米沢城の大広間に全藩士を招集し て自ら鷹山の志記を手にとって、それを読み上げ ました。読み上げただけでなく。  「この新藩主の方針に、自分は従うつもりである。 どうかお前たちもそうしてほしい」 と諭告したのです。しかし重定のこういう収め方 は、本国の藩士たちが、旧主にそこまで心配をか けるのは悪いということで、本心から鷹山の改革 案に賛成したわけでなく、表面だけ重定に従った もので、後々に問題を残しました。それは、改革 案の作成者が誰かということにこだわることに よって表れました。米沢藩の藩士たちは重臣群だ けでなく、一般藩士も。  「この改革案は、江戸にいる左遷組が作ったもの だ。彼らは自分たちの権力復活を狙って、新藩主 を煽てて、こんなものを作り上げ、我々を押えつ けようというのだ。この改革案は、敗者復活の案 である」 と言い合ったのです。この噂は説得力を持って、 たちまち広まりました。藩士たちに罪があるわけ ではなかったのですが、あまりにも当時の米沢藩 士たちは井の中の蛙で、社会状況を知らなかった のです。藩が経済的に追いつめられていても、形 式主義を守り、旧来の慣習に生きることが、士の すべてだと思い込んでいて、自分の身に変革が及 ぼされることを極度に嫌ったのでした。  倉橋清吾という正義感の強い藩士がいて、この 噂をひじように気にし、江戸にいる莅戸善政と木 村丈八に手紙を書いて。  「あなた方は、せっかくの君徳の美を、だいなし にしてしまう。ためにならないので、早々に辞職 されよ」 という辞職勧告書を送りました。莅戸と木村は相 談をし、深く考えこみ。  「今度の大令は、もちろん新藩公の深慮から出た ものではあるが、無知の者共はそうは信じまい。 やはり、君公を煽てて我々が作ったというふうに 考えるのもある面で無理がない。そこで、我々が 君側から退けば、本国の噂も少しは鎮まり、新し い改革がうまくいくかもしれない」 と考え、二人は「病気のためにお役に立ちませ ん」という理由を述べて、辞職を願い出しました。 鷹山はこれを聞いて驚きましたが、二人の顔に 漂っている決意の強さを見て、(これは自分たち が犠牲になる気だな)と悟るところがあり、二人 の気持を尊重することにしました。  「お前たちは誠に忠義の士である。そういう忠義 の士こそ、いま私の周りにいてもらわなければ困 るのだが、止むを得まい。藩士の疑惑がそういう ことによって晴れるならば、お前たちだけにそう いう苦労をかけるのは忍びないが、辞職を認めよ う」 と涙を流し、一首の和歌を詠んで与えました。  恨むなよ後の光を待てよかし   今の曇りはとにもかくにも 莅戸にはさらに一首を与えました。  思いきや愛しと見し日のそれならで   愛からぬ君に別かれせんとは  こうして翌年(明和六年)一月七日、莅戸と木 村は寒風の中、江戸邸を去り、米沢本国に出発し ました。二人は辞職しただけではなく。  「米沢本国に戻って、しばらく休息をいたしま す」 と願い出しましたが、本心は、なぜこのような改 革令を出したのか、お前たちが唆したのであろう、 なぜとめなかったのか、というような米沢の重臣 と藩士だちからの罵詈雑言を二人は進んで受け、 積極的に米沢本国に飛び込んで、飛んでくる礫を 一身に引き受けようと思ったのです。その心根が 鷹山を泣かせました。事を成すには犠牲者が必要 であり、二人は鷹山のおこなうべき改革の橋づく りの人、柱に進んでなってくれたのです。鷹山が、 自分の改革を推進するために、養父である前藩主 重定の施策をほとんどひっくり返し、その非難を、 先兵として莅戸、木村の二人に負わせたというこ とになり、ある面で非情な措置であったと言えま す。しかしその非情を超えなければ、改革の端緒 はつかめませんでした。米沢藩の内情は、それほ ど複雑で錯綜していたのです。ましてや、自分の 政策を否定され、あるいは批判非難の対象ともな りかねない前藩主重定か、自ら進んで、保守的な 米沢藩の重臣群を説得してくれたのです。鷹山に とって、この処置はとても辛いことでしたが、そ の辛さを超えなければ、改革はできなかったので す。  不幸なことが続いて起こりました。藁科松柏が 死んだのです。松柏は不幸にして肺患にかかり、 病重くついに明和六年(一七六九)八月二十四日 に死去。享年三十三歳でした。これから改革が実 行されようという時、鷹山にとっては痛恨の極み でした。 松柏の辞世は、  惜しかりき命の今日ぞ多からぬ   定めなりけむ数と思えば  今朝の露と我も消えけり草の陰 鷹山は慟哭し、深くその死を悼みました。しかし いつまでも松柏の死を悼んでいるわけにはいかず、 米沢本国入りの日がいよいよ迫ってきました。  「過ちて改むるに憚ることなし」  米沢本国に入る前、作成された改革案に従って、 鷹山はまず自分の身近なところから改革を実行し ました。それは、数十人いる奥女中を一挙に九人 に減らしてしまうという人員整理でした。奥女中 というのはだいたい藩主の夫人についていて、先 代藩主重定の夫人は、徳川御三家のうちの尾張家 から入っていました。鷹山が減らそうという奥女 中は、元々は尾張家の人間なので、感情的なもつ れが生じました。しかし鷹山は理をつくして説明 をして、減員に協力してほしいと要請しました。 江戸家老の色部照長は、この点を心配し。  「もともと上杉家に奉公している女中を減らすこ とは構いませんが、尾張家から来た女中をいきな り減員するのはどうかと思われますので、その点 少し加減をなさった方が良いのではないでしょう か」 という妥協案を出しましたが、鷹山は首を振りま した。  「減員に特例を設けてはならない。特に減らし難 いと思われるところを減らさなければ改革の実は あがらない」 そう言って、自分で筆を執った手紙を市ヶ谷に あった尾張家の屋敷に送り。  「当家近年不如意にて、家が存続し難い状況にあ ります。このたび家中の者へ厳しく倹約令を達し ました。ついては、奥向きの女中たちにも多く暇 をとらせたく、尾張家よりお差し回しの者につい ても減員令したいと思いますので、どうかよろし く御引取りのほどお願い申し上げます」 と申し送りました。尾張家では、前に先代藩主重 定から、密かに、「版籍を奉還したい」という相 談を受けていて、それは大変なことだから、藩が 挙げて努力をし、もう一度再建の道を講じたらど うか、尾張家も、できることは協力する、と言っ たことがあるので、鷹山の申し出に反対するわけ にはいかず、了承しました。  しかし一難去ってまた一難といっていいことが 起こりました。上杉家に仕えること長く、大きな 功労者であったある老女がいました。身体が次第 に衰弱していたので、自分用に一人の少女を使っ ていましたが、この少女も減員の対象になってい ました。老女から嘆願が出て。  「このたびの御改革令はごもっともと思います。 私も奥女中の減員には賛成します。しかし、私か 手許で使っている少女は、身体の衰弱しつつある 私にとっては、手足も同然の者でございます。そ こで、減員には賛成をいたしますが、いかがでご ざいましよう、少女の給与を私個人が負担するこ とにして、そのまま手許に置くことをお許しいた だけませんか」 藩の方針には従う、そして減員にも異論はない、 しかし、この少女は自分の健康保持上どうしても 必要なので、自費で雇い続けたい、という妥協案 の嘆願でした。この嘆願を受けた色部照長は、鷹 山のところに相談に行き、鷹山の裁断を待ちまし た。鷹山は、ちょっと考え、すぐ。  「老女の言うところはもっともである。その嘆願 を許してやれ」 と応じました。色部は喜んで早速このことを老女 に伝え、老女も喜んだのですが、鷹山はすぐ色部 を呼び戻し、  「今の判断は誤った。決定を取り消す。少女は例 外にしてはならない。たとえ自費で雇うと言って も、その少女をこのまま藩に置くわけにはいかな い。解雇せよ」 これを聞いた色部はムッとして言い返しました。  「それは聞こえません。あなたは、たった今老女 の願いを許すと言ったではありませんか。それを すぐそのように指示を変更したのでは、朝令暮改 もよいところで、部下の信頼を失います。私は今、 老女にあなたの有難い決定を伝えたばかりです。 老女は涙を流して喜んでおりました。あの顔を思 い浮かべると、それを取り消すなどということは、 到底出来ません。私はその使いで奥に行くのは嫌 です」 と言いました。これを聞いた鷹山は。  「もっともである。その使いには私か立とう」 と言いました。そして、  「朝令暮改はけしからんとお前は言ったが、たし かにそういう解釈もあろう。しかし、私は。誤っ て改むるに憚ることなかれ气という中国の古語 を信じている。私は誤ったのだ。だからすぐそれ を改めたい。憚らないわけではないが、さっきの 決定は、禍根を残す。したがってやはり例外を作 らないような方針で改革を実行したい」 こう言われたら、さすがの色部も、返す言葉があ りませんでした。彼は、心が重かったがもう一度 奥へ行って、老女にこのわけを話しました。老女 は、もとより鷹山の改革に対しては賛意を表して いたので。  「止むを得ません。御決定に従います」 と言って、少女を解雇しました。色部の反対の気 持の中には、実を言えば、鷹山の婚約者である幸 姫の看護の問題がありました。幸姫は、心身障害 者であったために、普通の面倒の見方では足りな い、当然多くの人手がいるだろうという判断をし て、色部は色部なりに、。幸姫のために奥女中を それほどまで減らす必要はないのではないか”と 思っていたのです。しかし鷹山はそれを退けまし た。 第四章  「お前たちが火種になって くれ。 お前たちの胸に燃えている その火を、 心ある藩士の胸に移してほ しい。 私もまた、同じだ」  冬の米沢市内。中央左の森が上杉神社。  上杉鷹山が初めて米沢本国に入ったのは、明和六年 (一七六九年)十月二十八日。東北の冬は特に厳しく、 関東地方から福島に入り、米沢への国境の雪道を鷹山 一行は辿った。従来上杉家が移動する時は、千人単位 の士が供をすることになっていたが、鷹山は十分の一 に減らし、わずかな供を従えた、みすぼらしい行列が、 雪の道を踏んで米沢の国境を越え、第一の宿場板谷に 着いた。駕籠の中から外を見続けながら旅をして来た 鷹山は、荒廃した米沢の山河、暗く沈んでいた人々の 表情に愕然とした。  駕籠の中の煙草盆の灰皿の灰に鷹山は目を止め、手 にとって、「米沢の国はこの灰と同じだ」とつぶやき、 深い絶望感に襲われた。煙管を取ってその灰の中をか きまわしているうちに、小さな火の残りが見つかり、 その火の残りを見つめているうちに、残った火が火種 になるだろうと思った。火種は新しい火をおこす。そ の新しい火はさらに新しい火をおこす。その繰り返し が、この国でもできないだろうか、そう思った。そし て、その火種は誰あろう、藩士・領民たちだ、と気が ついた。自らが火種になって胸に燃えているその火を、 心ある藩士・領民の胸に移してほしいと願った。 初めての入国の囗、雪の宿場で、焚火をしな がら二枚を送った  上杉鷹山が初めて米沢本国に入ったのは、明和 六年(一七六九)十月二十八日でした。十月十九 日に江戸を発ちました。十月といっても旧暦のこ とですから、十二月の半ばになり、真冬です。東 北の冬は特に厳しく、関東地方から福島に入り、 福島から米沢への国境の道を辿るころは、吾妻連 峰も、前方の蔵王の山々も、そして出羽三山も全 山雪です。その雪道を鷹山一行は辿って行きまし た。  従来上杉家が移動する時は、千人単位の士が供 をすることになっていましたが、鷹山はこれを十 分の一に減らし、わずかな供を従えた、みすぼら しい行列が、雪の道を踏んで米沢の国境を越え、 第一の宿場板谷に着きました。板谷宿に入ったと たん、駕籠の中から外を見続けながら旅をして来 た鷹山は、愕然としました。米沢の山河は荒れ、 住んでいる人々の表情があまりにも暗く沈んでい たからです。国境第一の宿場といえば、人の出入 りが激しく、当然その宿場はにぎやかなはずでが、 板谷宿は廃墟同様の宿場でした。街道筋の家々は くずれ、多くの人々が税の重さに宿場を放り出し 逃げ出してしまっていたのです。初めて自分の国 に大って来た藩主を迎えたのは、この廃宿でした。 家臣の一人が来てこう言いました。  「お話があります。ご覧の通り、当駅は山の上の 寒村でございます。もちろん宿駅でございますか ら、当然御屋形様(殿様ということ)にお泊りい  ただく本陣がなければならないのでございますが、  ご覧のように、私共も予想しなかったほどの荒れ  様でございます。目下、せめて、御屋形様だけで  もと、宿探しに狂奔しておりますので、しばらく  お待ちのほどお願い致します」  これを聞いた鷹山は手を振って言いました。  「その必要はない」  「なぜでございますか」  「野宿しよう」 家臣たちはびっくりしました。家臣たちはすでに 野宿の覚悟を決めていたのですが、せめて鷹山の 宿だけでも準備しようとそこいら中を走り回って いる途中でした。鷹山は、しかしこの荒れ果てた 宿駅をI暼したとたんどこにも泊れる宿がないこ とを察していました。そういう状況の中で、自分 一人がぬくぬくと家の中に眠ることは、彼の良心 が許しませんでした。(恐らく家臣団は、この雪 の道に野宿するであろう。野宿といっても焚火を して、その周りに立って暖をとるだけのことに過 ぎまい。そういう中で、どうして私ひとりが布団 の中に寝られようか)と思ったのでした。家臣団 は顔を見合わせて当惑しました。鷹山の申し出は、 大名の言葉とは思えなかったからです。同時に、 鷹山にそこまで言わせることは、いかにも自分た ちがふがいなく、だらしがないように思えて、そ の責任を痛感せざるを得なかったからです。それ を察して鷹山はさらに言い伝えました。  「ただし、雪の夜の野宿は冷える。酒が要る。せ めて酒だけでも近所の民家に行って調達してきて くれないか。そして代金は必ず払ってほしい」 家臣たちは近所を探し回って酒を調達し、あちこ ちで焚火が燃え始めました。鷹山の趣旨は徹底さ れ、鷹山自身が野宿に参加するというので、家臣 団は沸き立ちました。今夜の不始末は、米沢本国 に入ってから後の改革推進の手伝いをすることに よって埋め合わせをしようと、それぞれが誓い 合ったのです。鷹山は、届けられた酒を家臣団の 一人一人に注いで回りました。 「御苦労である。風邪をひかぬように注意せよ。 酒も冷ですまぬな。しかし、お前たちも大変だろ うが、多くの者が逃亡したにも拘らず、この宿駅 に残って、何くれとなく面倒をみてくれる民も大 変である。どうか宿場に残った者を咎めてはなら ぬ。去った者も咎めてはならぬ。つまり誰も咎め てはならぬのだ。これはすべて藩政が行き届かぬ ゆえのことである」 と言い伝えました。藩主として、初の入部に際し、 第一の宿場がこういう状態であることを、得てし て藩庁の役人は、誰かに責任を押しつけ、罪人を 出さなければ気がすまないのですが、今回に隕っ て、そういうことを決してしてはならないという ことを、鷹山は酒を注ぎながら求めたのです。ま してや、自分に付いてきた家臣団を咎める気持な ど毛頭なく、上杉鷹山はこうして、初めての入国 の日、雪の宿場で、焚火をしながら一夜を送った のでした。 ひとつや二つ、火をつけてくれる炭があろう、 それを信ずる以外にない  板谷宿で野宿した後、坂道を下って行きました が、いくら米沢城に近づいて行っても、米沢藩の 領内の光景は決して明るくはならず、山も死に、 川も死に、土も死んでいました。そして、何より も死んでいたのはそこに住む人々の表情でした。 表情だけが死んでいたのではなく、米沢藩内に住 む領民には、希望がないから心が死んでいたので す。鷹山の絶望感はますます深まりました。駕籠 の中に煙草盆がありました。煙草盆の中に灰皿が あり、灰皿の灰は冷たく冷えていました。鷹山は その灰皿に目を止め、そして手にとって、「米沢 の国はこの灰と同じだ」とつぶやきました。冷た い灰が、そのまま米沢の国を象徴していると思え たからです。鷹山はさらに  「この死んだ灰と同じ米沢の国に何かの種を蒔い ても、いったい育つだろうか。恐らくすぐ死んで しまうに違いない。だからこの国の人間は誰も希 望を持っていないのだ。ああ私は大変な国に来た。 年若く、何も知らず、経験もなく、この国で民富 のための藩政改革をおこなおうなどというのは、 天を恐れぬ高言であった。恐らく、私は、米沢城 で、改革の第一歩にも着手しないうちに、しっぽ を巻いて、遠い日向の国に帰らざるを得なくなる であろう」 そういう悔恨の情が次から次へと突き上げてきた のです。  鷹山は、何の気なしに冷たい灰の中を煙管でか きまわしてみました。鷹山は、煙草を吸わないの で、家臣たちも火に注意を払わなかったのですが、 灰の中に小さな火の残りがありました。それを見 ると、鷹山の目は突然輝きました。そして、何を 思ったのか、駕籠の隅にあった炭箱から新しい黒 い炭を取り出して、残り火の脇に置いたのです。 煙管を火吹竹の代わりにしてフーフー吹き始め、 残った火を新しい炭に移そうとしたのでした。駕 籠脇についていた供の者たちは、駕籠の中で鷹山 がフーフー何かを吹いているので驚き、駕籠の外 から声をかけました。  「御屋形様、いったい何をしていらっしゃいます か」  「火をおこしている」  「火をおこしているとおっしやいますか、煙草で もお吸いになりますか」  「いや、そうではない」  「中がお寒くて、火がおいりようでございます か」  「そうではない」 当惑した家臣たちは、いったい鷹山が何のために 火をおこしているか分かりませんでした。すると、 駕籠の中から声がありました。  「駕籠を止めてくれ、お前たちに話がある」 駕籠が止められると、鷹山は、手に灰皿とその上 に新しくおこった炭火を持って雪の道に降り立ち ました。怪訝な顔をする家臣団に鷹山は。  「お前たちに話したいことがある。福島から米沢 への国境を越えて、板谷宿で野宿し、さらにその 宿場を発って沿道の光景を見ながら、私は正直に 言って落胆した。絶望もした。それは、この国が 何もかも死んでいたからだ。この灰と同じように。 恐らくどんな種を植えても、この灰の国では何も 育つまいという気がした。だから今、領内に残っ ている人問たちの表情に希望がないのだ。それを 私はよみがえらせねばならぬ。しかし、そんなこ とは私にはできない。私は、いい気になって今ま でお前たちに改革案を作らせたが、しかしそれを 受け入れる国の方が死んでいた。これに気づかな かった。私は甘かった。そこで、深い絶望感に襲 われ、灰をしばらく見つめていた。やがて私は 煙管を取ってその灰の中をかきまわしてみた。す ると、小さな火の残りが見つかった。その火の残 りを見つめているうちに、私は、この残った火が 火種になるだろうと思った。火種は新しい火をお こす。その新しい火はさらに新しい火をおこす。 その繰り返しが、この国でも出来ないだろうか、 そう思った。そして、その火種は誰あろう、お前 たちだと気がついたのだ。江戸の藩邸で色々なこ とを言われながらも、私の改革理念に共鳴し、協 力して案を作り、江戸で実験をして悪いところを 直し、良いところを残す、そういう辛い作業を やってくれた。そして今、その練り固まった改革 案を持っていよいよ本国に乗り込もうとしている。 そういうお前たちのことを思い浮かべたとき、お 前たちこそ、この火種ではないかと思ったのだ。 お前たちは火種になる。そして、多くの新しい炭 に火をつける。新しい炭というのは、藩士であり 藩民のことである。中には濡れている炭もあろう、 湿っている炭もあろう。火のつくのを待ちかねて いる炭もあろう。一様ではあるまい。ましてや、 私の改革に反対する炭もたくさんあろう。そうい う炭たちは、いくら火吹竹で吹いても、恐らく火 はつくまい。しかし、その中には、きっとひとつ や二つ、火をつけてくれる炭があろう。私は今、 それを信ずる以外にないのだ。 そのためには、まず、お前たちが火種になってく れ。そしてお前たちの胸に燃えているその火を、 どうか心ある藩士の胸に移してほしい。城に着い てからそれぞれが持ち場に散って行くであろう。 その持ち場持ち場で、待っている藩士たちの胸に 火をつけてほしい。その火が、きっと改革の火を 大きく燃え立たせるであろう。私はそう思って、 今、駕籠の中で一所懸命この小さな火を大きな新 しい炭に吹きつけていたのだ」 全員ではありませんでしたが、家臣団の多くは感 動しました。たちまち声がおこりました。  「分かりました。御屋形様、その火をいただかせ て下さい」  「この火を?」 鷹山が聞き返すと、その家臣はこう言いました。  「その火をお借りして、さらに大きな新しい炭に 火を移します。私は、御屋形様が言う改革が達成 される日まで、決して消しません。炭を消さない で、家に大切に保存致します。同時に、私の胸に 燃えている火を、自分の持ち場に帰って仲間の胸 に移します。その火が乏しくとも、数が少なくと も、万分の一なりとも御屋形様のお考えをこの米 沢で実現させましよう」 同じような声が、同時にあちこちでおこりました。 家臣団は、鷹山が持っていた炭火を受け取り、そ れを細かく割って、一人一人が新しい炭を用意し、 火を移しました。ひとつの火種が十にも二十にも 変わり、そしてそれぞれがまた新しい炭に移され、 炭火は十倍にも二十倍にもなったのです。これが、 雪の道に燃えた新しい民富のための改革の火種 だったのです。 自己の非力を素直に認め、協力を要請する  米沢城に入城するには、関根の羽黒堂というと ころから城まで一里の道を、藩主は駕籠を降りて 馬に乗ることになっていました。鷹山は、三里手 前の大沢から馬に乗ると言い出し、家臣団をまた 驚かせました。  「そんな例は今までございません」 鷹山はニッコリ笑い答えました。  「例にないことをやるのが私の改革の初めではな かったのか。ここから馬に乗ろう」 寒風の吹き荒ぶ街道で、通例の三倍の道を鷹山は 馬に乗って歩き始めました。そうした方が沿道の 領民たちに、「これが新しい殿様だ」ということ を伝えるのに都合がよかったからです。しかも、 従来の例によれば、大沢宿からの行列は、今まで 着てきた旅の衣を脱ぎ捨てて美々しい絹の着物に 着替え、華やかに城に入って行くのが常でした。 しかし、鷹山はそうしませんでした。江戸以来の 雨露に汚れたままの旅装でそのまま入城しました。 その姿に、きらびやかな衣服に身を固め、春姿で 城門に待ち構えていた重臣をはじめ、米沢城の藩 士たちはあきれました。  「これが上杉十五万石の殿様の行列なのだろうか。 なんとみすぼらしいことか」 と心の中で嘲ったし、怒りもしました。上杉家が 伝統的に守り抜いてきたしきたりをいとも軽々と 破ってしまったこの少年新藩主に、藩士たちは言 いようのない憤りを覚えたのでした。鷹山はそれ を意に介さず、平然として馬を進めて行きました。 彼自身もみすぼらしい姿だったし、それに従う数 十人の家臣もまったくの浮浪者同様の姿でした。  入城するとすぐに、上杉鷹山は全藩士に登城を 命じました。しかも  「その中には足軽も入れよ」 と命じたので重臣たちは驚き、  「城の大広間に足軽を入れた例などございません。 いかに新しい御屋形様のご方針とはいえ、あまり にもそれは行き過ぎです」 と反対しました。しかし鷹山は。  「先例に背くことが私の改革の第一歩であるとい うことはすでにお前たちもよく知っているはずだ。 改革を進めるのは、実に現場の人問たちである。 その現場の人間たちに改革の趣旨や目的を説明し ないで、何で改革を進めることが出来よう。今回 の改革も、足軽たちが主力になって進めるもので ある。そういう層に、しっかりと説明をしておき たい。どうか私のわがままを許してほしい。足軽 たちも呼んでほしい」 と言って譲りませんでした。  城の大広間に集まった家臣団に鷹山は、語りま した。  「先に千坂を通じて私は自分の考えを文章にし、 それを届けてあるので、みんなも聞いてくれたと 思う。今日はもう少し詳しく私から藩の実情と、 その藩を立て直すために私か何をしたいかを話し たい。私は、率直に藩の実態を話すつもりだ。い ささかも隠すことはしない。そして、私のしたい ことを話す。どうか、よく聞いてもらいたい」  足軽まで呼べと言ったので、広間はもちろん、 廊下や、さらに庭まで、藩士たちがあふれ、前代 未聞の大集合でした。しかし、鷹山が見渡したと ころ、藩士たちの中には、ひたむきに鷹山の言葉 を聞こうとするもの、あるいは初めから反対の色 を露骨に示しているもの、何を言ってやがるんだ という表情を見せながらそっぽを向いたり、鼻毛 を抜いたりしているもの、さまざまでした。鷹山 は心の中で、(これは、容易なことではないな) と感じましたが、ひるむことなく、まず自分がや らなければならないことを信じていました。これ が改革の成否を左右する大事な第一歩だとも考え ていました。  その囗の鷹山の話は、整理すれば次のようにな ります。 一。藩の実態を白書として話した。 二。藩政改革の目的を民富に置くと定め、その目 的を達成するために、改革をおこなう。決して、 藩主や藩士や、つまり藩庁が富むための藩政改革 ではないと明言した。 三。その目標を達成するための藩主として、自己 に限界があることを率直に認めた。 限界とは、 ・自分は大藩の生まれではなく、九州の小藩の生 まれであること。 ・若年であること。 @経験が非常に不足していること。 ○米沢藩を継いだものの、米沢本国には初めて 人って来て、米沢の実態を全然知らないこと。 @今日、広間に集まってもらった藩士だちとは初 対面であり、江戸藩邸で一緒に暮らした者のほか は、ほとんど誰をも知らないこと。 @同時に、藩士の方も自分をまったく知らないこ 四。したがって、やりたいことだけを示しながら、 それをやり抜けるだけの実力を藩主として持って いないこと。 五。そのために、鷹山自身も自己開発して小さな 自分を少しでも大きくするように日々努め、みん なの能力に追いつくように努めると誓ったこと。 および一日も早く藩の実態を知り、みんなの気持 を知るようにすると誓った。 そして次のように話し、協力を要請しました。  「だから、今、この広間でみんなに頼むことは、 指示・命令ではなく、協力の要請である。私は、 みんなを統制・統御する力は持っていない。目標 に対して私の力はあまりにも小さ過ぎる。限界が ある。したがって、藩士のみんなは大き過ぎる目 標に比べて小さ過ぎる私の実態をよく見つめ、そ の目標と私の力との間に空いた隙間を、みんなの 協力によって埋めてほしい。  そのために今後の改革に必要な情報は、すべて 包み隠さずに、藩士全員に告げる。つまり、藩政 に必要な情報を、藩の上層部だけが独占するので はなく、末端の藩士まで行き届くようにする。こ れは約束する。各持ち場、持ち場では、その持ち 場における討論を活発にしてもらいたい。身分の 上下にかかわらず、思うように意見を言い合える ような職場づくりに勤しんでもらいたい。また、 そこで働く人びとも身分や年功や、経歴や、年齢 などを気にすることなく、これが領民のためにな ると思うことは、遠慮なく言ってもらいたい。そ して、そこで合意されたいい意見は、組織を通じ て、必ず私の手許まで上がってくるようにしても らいたい。私の考えや、重役たちが相談して決め たことは、必ず末端の藩士まで行き届くように努 める。つまり、みんなの考えが私のところまで届 くための回路と、私や重役たちの考えが、みんな のところに届く回路とを一本化する。その回路は、 太く短くする」  つまり、現代の経営方法に即していえば、鷹山 が語ったことは、 ○実態の報告 ○方針の明示 ○自己の限界明示 ○協力要請(統御でなく参加を求める) そのために、 ○情報の共有(上層部へのへの偏重を避ける) ○討論のすすめコミュニケーション回路を太く短 く設定する ○トップダウンとボトムアップを滑らかにする  などであったといえるでしょう。  「民を見ること傷のごとし」  鷹山は、こうして全藩士に改革への協力を求め ると同時に、彼自身もひそかに誓いを立て、藩政 改革責任者としての自分の心構えを、上杉家の祖 先の前にはっきり披露したのです。上杉家を相続 した時に、鷹山は次のような和歌を詠みました。  受け継ぎて国の司の身となれば   忘るまじきは民の父母  鷹山は十三、四歳の時代に、彼の師であった細 井平洲から論語の講義を聴き、その中で「民を見 ること傷のごとし」の一行を解釈してもらって、 涙を流したというエピソードがあります。この和 歌は、論語のこの一行に端を発するものですが、 それ以上に、上杉鷹山は生まれながらに優しい人 間であったということがうかがえます。 彼の政治の根本は常に人間への優しさでした。 第五章  「改革の御趣旨は良く分か りました。 そのお金をどこから捻出す るおつもりですか」  上杉鷹山が示した改革案の中で、「原料に付加価値 を加えて製品とする」という方針には、加工の技術指 導と労働力の不足という問題があった。技術指導は他 国の技術指導者を招聘することによって解決したが、 労働力の不足は難題だった。鷹山は、藩士の家族を労 働力にすることを提案。織物を織ったり、蚕から糸を 紡ぎ出すには、藩士たちの妻やその母が適任と考えた。  藩士たちは目を剥いたが、数日経つと、少しずつ実 現され出したと竹俣から報告があり、鷹山は、「武士 でありながら、その妻や家族をそういう仕事に振り向 けるには、大きな勇気がいったに違いない。また決断 もいったであろう。そういう形で協力してくれる家臣 たちに、私は心から感謝をする」とだけ言った。 一。自ら助ける。すなわち自助 二。互いに助け合う。互助 三。藩政府が手を伸ばす。扶助  鷹山が改革推進の核として登用したのは、竹俣 当綱・莅戸善政・倉畸恭右衛門・志賀八右衛門・ 木村丈八・佐藤文四郎などで、中心は竹俣でした。 具体的には、竹俣が改革の全采配をふるうことに なりました。竹俣は、鷹山と同じように。  「改革は、それを進め、あるいはその対象となる 藩士たちが、萎縮していては駄目だ。藩士たちが 萎縮するのは、何よりも勤倹節約のみの強行であ る」 と考えていました。そこで、ある日鷹山に進言し、  「長年の藩士だちからの知行借上をこの際、少し 緩めてはいかがかと思いますが」 と言った。鷹山は名案だと思った。そこで、  「苦しい財政であろうけれども、お前の言い分は もっともである。まず、藩士から借りている給与 の一部を返そう」 と指示しました。竹俣がこの線に沿って、全藩士 に知行借上分の一部を返還すると発表し、藩士た ちにとって朗報でしたが、この程度で、朧山の考 える民富を目標にした藩政改革をなめらかに推進 することはできませんでした。改革の推進者が、 竹俣一派であるために。  「何のことはない、結局は改革を進めるのは竹俣 などの、死んだ藁科松柏の門人群であって、江戸 へ左遷された彼らが復権のために改革を利用して いるのだ」 という噂がしきりに流れ、その噂は真実としてほ とんどの藩士たちの胸の中に宿っていました。鷹 山の改革に対して、反対派は、露骨に職場放棄の 方法で反対する者もいましたが、さらに悪辣な連 中は。  「改革の御趣旨は良く分かりました。しかし、あ なたのおっしやるようにすれば、いままで以上に お金がかかります。そのお金をどこから捻出する おつもりですか」 という意地の悪い問い方をして、鷹山を窮地に追 い込みました。  鷹山は、改革の目的に、藩内の心身障害者に対 する虐待禁止を入れましたが、それだけではなく、 「間引き」の禁止と保育手当の支給も入れました。 間引きというのは、生まれたばかりの子どもを産 婆が、「産湯を使わせてやるね」と言いながら、 赤ん坊の足を持って逆さにつるし、水を張った夕 ライにつけて赤ん坊を窒息死させるのです。これ が江戸時代、貧しい家でおこなわれた間引きです。 この間引きの風習が米沢藩でもおびただしくおこ なわれていました。そのために、ふつうなら十五 万人いるはずの米沢の人口が、九万人を割るほど に激減していっていたのです。鷹山は、この間引 きも禁止しました。  「生命というものは、たとえ貧しい家に生まれ、 あるいは、身体の一部を損なってこの世に出て来 ようとも、大みな尊いものである。人の命を粗略 に扱ってばならない。ましてや、貧しい家に生ま れたからといって、生まれたばかりの赤ん坊を殺 すとは何ごとであるか。天の道に背くものである。 今後こういう行為をおこなったものは、厳罰に処 する。また、個人の責任だけではなく、五人組、 十人組の責任である。村の責任である。藩の責任 である」 すなわち、貧しい家に生まれた生命がその場で斷 たれることは、その生命を生んだ家だけの責任で はなく、コミュニティ(近隣社会)の責任であり、 藩政府そのものの責任であると表明したのです。  このほかにも鷹山は、老人、病人、子供、妊婦、 及びこれに準ずるような弱い人たちの福祉を重視 しました。しかし、その福祉は、いきなりそのす べてを藩財政で負担することはできませんでした。 鷹山はこれらのことを 一。自ら助ける。すなわち自助 二。互いに近隣社会が助け合う。互助 三。藩政府が手を伸ばす。扶助 の三位一体でおこなうことにしましたが、これら のことを実行するのには多額の金を必要とします。 目的がいかに美しくても、それを担保する財政の 裏づけがなければ、何の説得力もありません。反 対派の追及はそこを突いていました。そして、金 の調達力のほかに、鷹山にはもうひとつ大きな弱 みがありました。それは、鷹山自身が持っている いくつもの不利な条件です。鷹山自身は決して全 藩士に拍手で迎えられた藩主ではなく、むしろ、 冷たい目で迎えられました。 ●彼が秋月家という九州の小大名の生まれであっ たこと。 ●これが、大藩意識の強い上杉家の藩士たちに とって軽侮の対象であったこと。 ●そしてそれに応える鷹山自身が非常に若かった こと。 ●若いだけではなく、米沢本国の実態を全く知ら なかったこと。これは見たこともない国なので、 地理的条件や、あるいは人心の状況などをほとん ど把握していなかったこと。 ●また米沢城に勤務する藩士たちの誰ひとりとし て知らなかったこと。藩士たちもまた上杉鷹山な どという若者を全く知らなかったこと。 反対派は金と能力の両面から、鷹山自身のいくつ もある大きな弱点を攻撃してきたのです。 米沢の自然に合った植物を植え、それを原料 にして付加価値を生む製品を作り、収益の道 を開く  鷹山は反対派に対してこう言いました。  「私の案を話す。しかし、何分にも現場に疎い私 のことだから、お前たちの目から見れば到底実行 出来ないことであり、あるいは笑いごとかも知れ ない。しかし一応は聞いてほしい。私はこう考え ている。それは、日本の税の体系は全て米で組ま れている。しかし、東北の地はもともと米作には 適さなかった。だから、木の実や貝を集め、狩り や魚とりなどの縄文の文化が発達した。しかし、 そうばかり言ってはおられず、やはりこの米沢の 地でも米作を強いられている。農民たちは苦労を して、本来は育だなかった土地に米が作れるよう にした。しかし、自然の条件には、限界があって、 無制限に人間の考えによって変えるわけにはいか ない。米作は、一部でおこなわれても、それが東 北全体の大きな農作物になるのは無理である。し たがって、東北の地には東北の地に合ったような 植物を植えるべきである。私がみたところ、この 米沢では、漆や楮や桑、あるいは藍、あるいは 紅花などがひじように適しているように思われる。 中でも漆は、実から塗料や蝋が得られて、とても 多くの利益を生む。そこでどうだろう、米沢では これから、米作の他に漆・楮・桑などを植えて、 その原料から種々な品物を作ろうではないか。漆 からは塗料や蝋をとり、楮からは紙を漉き出し、 桑からは生糸を織り出して、更に絹織物まで作り たいと考えている。つまり、いままで米作一辺倒 であった農作物を多種化し、他植物を原料とする 製品を作り出して、その補いに当てようというの だ。いや補いではなく、むしろこっちの方を主眼 にしても良いかも知れない。その他自分の考えて いることがいろいろあるので、どうかこれがもの 笑いの種なのかどうか検討してほしい」 と考えを伝えました。  鷹山の言うところは、自然条件に見合った植物 を植え(生産可能な物に力を注ぎ、不可能なもの に無理をして手を出さない)、それを原料にして 製品を作り、収益の道を開くべきで、米作だけに 依存をするのは間違いだということでした。同時 に、米沢藩がそれまでやってきた原料輸出のほか に、原料に付加価値を加えて製品化し、それによ る収益を上げようということでもあったのです。 反対派たちは目を剥いて反発しました。藩が先に 立って、木を植えたりものを作り出したりすると いう行為は、農工商のやる仕事であって、士のや ることではないと思っていたからです。だからこ の考えの実現には、藩士の大きな意識変革が必要 だと、鷹山は読んでいました。  「漆などの植樹を進めるのは、単なる殖産興業策 ではない。むしろそのことを通じて、藩士の意識 変革をし、正しい改革者に鍛えあげるためだ」 とさえ思っていたのです。  竹俣当綱に相談すると、竹俣は手を打って賛同 してくれました。  「妙策です。私は、憚りながら農政に詳しいので、 お考えをどんどん実行するような案を立てましよ う」  と言って、竹俣はすぐ実行に移しました。彼の 植樹案は次のようなものでした。 ○漆百万本 ○桑百万本 ○楮百万本  を目標にする。そしてたとえば、そのうちの漆 の植立て計画は次の通りです。 ○六十四万本 郡中百姓持地一かまどへ三十本ず つ ○二十六万五千本 郡中空地七百五十町歩の地所 へ ○七万五千本 家中諸地諸士一屋敷へ十五本ずつ ○五千本 町々一屋敷へ五本ずつ ○五千本 郡中諸寺院境内ヘー寺十本ずつ ○一万本 郡中神社仏閣一地へ二十本ずつ  というような割り当て計画でした。漆を植える のは農地だけでも、また農民だけでもありません でした。空地の活用や、藩士たちの住居、それか ら町民の住居、さらに寺、社にまですべて割り当 てて、百万本を消化しようという計画でした。も ちろん百万本というような規模壮大な計画が、 早々に受け容れられるはずもなく、当然反対の非 難ごうごうの声があがりました。  漆の苗を植えるというのは、簡単なことではあ りませんでした。漆には男木と女木の区別があり、 苗は女木の根を掘って、そこからとらなければな りません。その作業が面倒で、単にどこどこには 何本植えよというような割り当てが済んだからと いって、作業が滑らかにいくわけではなかったの です。事実、竹俣当綱が、百万本植立て計画を立 て、その実施を藩内にふれても、その二年後に なっても、わずか二、三万本の植樹が完成したに すぎなかったのです。この不成績に当綱は怒って、 担当の役人を呼んで叱りつけました。  「財政逼迫の折に、苗のための資金七十分与えた のに、なぜこんな程度なのか。こんな状況では百 万本完成するのにはいったい何百年かかるか分か らないぞ」 役人は、こう答えました。  「漆の苗木にはメスとオスの別がございまして、 これを判別するのには、その成長を待たなければ なりません。したがって我々は故意に遅らせてい るわけではありません」  「そんなことは言い訳だ。それを承知の上で、お 前たちは百万本の植樹計画を了承したのであろう。 なぜ初めからそういうことを言わないか。すぐに でも、メスの木を掘り返しその根から苗をとれ」  「今はちょうど実が成り盛りの時期ですから、そ んな作業はとても出来ません」 これを聞いて竹俣は、カツとし。  「よく分かった。もうお前たちには頼まない。自 分でやるからいい」 そう言って竹俣当綱は、漆の林に出かけ、農民の 意見を聞きながら、メスの木を探し、その根を掘 りました。そこから三百七十余本の苗木をとった のです。その時の説明をしてくれた農民が、漆の 植樹に堪能なので、「漆苗根ぶせ方頭取」に命じ ました。藩士の役人では役に立だないと判断し、 農民を漆の苗を集める役人に命じたのです。問題 はありましたが、この農民の採用で、漆苗の植樹 はどんどん進むようになり、竹俣はまた割り当て 以上に苗を植えた者には、奨励金を出し、割り当 て以下の者からは、罰金を取ったので、住民は、 その公正さに苦情は言いませんでした。竹俣も鷹 山と同じように、人間というのは張りがなくては 働かないし、生きてはいかない、ただ締めつける だけでは到底改革の目的が達成されないことをよ く知っていたのです。  「してみせて、言って聞かせて、させてみ る」  上杉鷹山が示した改革案の中で、「原料に付加 価値を加えて製品とする」という方針には、二つ 問題がありました。ひとつは、加工の技術指導、 もう一点は労働力の不足でした。技術指導者の不 足というのは、米沢藩がそれまで諸植物をただ原 料としてのみ他国へ輸出していたために、技術指 導者がひとりもいなかったのです。鷹山は。  「例えば小千谷縮みというのは、もともとは当米 沢藩が産出する青苧を原料にして、特別な織り方 を加えたものである。小千谷縮みが、他国におい て高く売れていることはお前たちもよく知ってい るだろう。もったいないではないか。なぜ米沢で 豊富な青苧を活用して、自ら縮みができないのだ ろうか。そこで、私は提案する。それは小千谷か ら小千谷縮みの織り手を招くことだ。それも一人 招くのではなく家族ぐるみ、数家族招け。そして、 高い報酬を払え。技術指導に高い報酬を払うのは 先行投資だ。いかに財政逼迫下といえども活きた 金の使い方である。いま使う経費が、将来どれだ けの富をもたらすか分からない。さらに青苧は、 奈良に行けば哂になり、蚊帳になっている。これ も高く売れているではないか。なぜ、他国で出来 る技術が米沢で出来ないのか。奈良から技術者を 招け。小千谷縮みと同じだ。そういう技術者に高 い報酬を払うのは決して無駄ではない」 と言いました。また、  「紅花は、大きな都市に行けば、女の人たちの高 価な口紅になっている。また京阪に行けば友禅染 めの高い染料になっている。これも、もったいな いではないか。なぜ米沢がすぐ口紅を作ったり染 料にできないのだろうか。これもやってみる価値 がある。楮も同じである。紙の作り方は長州藩そ の他が優れていると聞くが、当藩でもやれないこ とはなかろう。紙を漉く技術者をどこからか招こ う」 そして矢継ぎ早にこんな指示も出しました。  「この国には沼や池が多い。また水田もある。水 田には真鯉を入れよ。鯉の出すフンは稲のために 良い肥料になる。また池や沼には錦鯉を飼え。錦 鯉は、今の老中筆頭である田沼意次様のお好みに なるものだ。争って各大名や商人が田沼様への贈 り物にしている。賄賂に使う鯉を育てるのはいさ さか気がとがめるが、しかしそれも一興であろう。 池や沼には錦鯉を入れて飼え。この間、笹野観音 の前を通りかかったら、門前で、一人の老人がこ しあぶらの木を短刀でズバズバと削っておったぞ。 そして鳥や鷹の見事な彫り物を作っていた。あれ を、笹野の一刀彫と名付け、旅人やたちに売った らどうか。米沢の名産品になるぞ。小野小町が発 見したという小野川温泉の湯は、塩分が多いそう だな。あの湯を干して塩をとったらどうだ。この 国は山国であって海から遠い。塩を他国から入れ るにもとても高い。だから自ら塩をつくろうでは ないか」 鷹山は、米沢の風土に適したものは最大限に活用 し、また不足するものも自給自足の方針を立てて いったのです。もちろん塩にしても、大量の生産 は不可能でしたが、彼はとにかく実験をさせ、そ して少量ではありましたが、現実に貴重な塩が産 出されたのです。米沢織にしても、最初は越後小 千谷の縮み布を真似して作った麻織物でしたが、 やがて独創性を出し始めました。縦糸を絹にし、 横糸を麻にして、あるいは絹の竜紋や唐糸織やあ るいは絹縮みを工夫して、多様多彩な米沢織を産 出することになったのです。これは今日でも有名 です。  鷹山の人間管理の原則は。  「してみせて、言って聞かせて、させてみる」 というものでした。何につけても理屈だけではな い、よくその趣旨を説明し、趣旨を分かっても らったところで、今度は自分が実行してやってみ せる、手本を見せてそれに従わせるというのが鷹 山の方針でした。そして、自分にできないことは、 正直に自分の限界を示し、できる者に協力してほ しいと頼むのです。植樹や農事の指導は、竹俣当 綱が自ら農事に明るいと公言する通り、彼はかな りのことを成し遂げました。彼が書いた農政指導 書は、今でも農民たちのテキストとして、あるい は米沢藩の藩政改革の記録として残っているほど です。  「収入を自己の労働によって得れば、精神的 負担も軽くなる。老人も孫に小遣いを与え得 て、家の中の地位も復権する」  技術指導は他国の技術指導者を招聘することに よって解決しましたが、労働力の不足は難題でし た。鷹山が進めようとした地場産業の振興策は、 いわば土地を基本に置いているので、これらの作 業は農事と考えられて、農民が主体と考えられが ちでした。そこで、家臣たちは。  「農民は米作で手一杯です。この上、漆を植えた り、植えた漆から塗料や蝋をとったり、あるいは 楮から紙を漉いたり、繭から絹糸を紡ぎだしたり することは到不可能です」 と言いました。これは当然で鷹山もまた、  「その通りである。地場産業の振興は、農民が、 片手間にやれる仕事ではない」  「それがお分かりならば、なぜこういうような地 場産業の振興策をつぎつぎとお命じになるのです か」 鷹山はこう答えました。  「労働力はある」  「どこにございますか」  「この城内にある」  「この城内に?」 家臣団はいよいよ不審な表情をしましたが、鷹山 は答えました。  「まず、お前たちの家族である」  「家族?」  「そうだ。家族の中でも老人と子供など、たとえ ば鯉に餌をやったり、鯉を育てたりすることには 興味を示すであろう。ただ餌をやらせるだけでな く、鯉を売って得た利益の中から、何がしかの配 分をすれば、老人、子供も小遣いを得て喜ぶであ ろう。恐らく年寄は、この貧しい米沢の国では、 肩身を狭くして日々を送っているであろうから、 何がしかの収入を自己の労働によって得れば、そ れによって精神的負担も少しは軽くなるであろう。 あるいは孫に小遣いを与え得て、家の中における 地位も復権するであろう。私か言うのは、そうい うことだ。また、織物を織ったり、蚕から糸を紡 ぎ出すには、藩士たちの妻やその母がいるではな いか。こういう手仕事は女性でなければなかなか うまくいかない。武士の妻だからといって、夫が 城へ出仕した後、何事もなく家事に縛りつけてお くというのは、決して得策ではない。老人、子供 と同じように、女たちにも仕事を受け持っても らって、またそこで得た収益の何がしかを配分す れば、家計も潤うであろう。労働力が城の中にあ ると言うのは、そういう意味である」 藩士たちは目を剥いた。いやしくも武士の妻が、 糸を紡いだり、木を植えたり、あるいは家族が鯉 に餌をやったりすることなど、いままでのしきた りから言えば思いもよらず、たちまち非難ごうご うの声が沸きあがりました。しかし鷹山は静かに 微笑んでいました。  数日経つと、それが少しずつ実現され出したと、 竹俣から報告がありました。鷹山は、「そうか」 とうなずくだけでした。逆に竹俣たちに。  「武士でありながら、その妻や家族をそういう仕 事に振り向けるには、大きな勇気がいったに違い ない。また決斷もいったであろう。そういう形で 協力してくれる家臣たちに、私は心から感謝をす る」 とだけ言いました。ある時、鷹山は、  「城内の藩士たちの勤務ぶりを見ていると、必ず しもすべてが仕事あって城に来ているのではない ように思える。特に文書を扱う部署では、一日中。 。てにをは”の使い方を論議していて、終日暮ら してしまうような者もいる。これはお互いに無駄 ではないか。大体そういう仕事は廃止すべきだし、 そういう職場もいらない。文章などというものは、 修飾語に労を費やすのではなくて、いつ、どこで、 誰が、何のために、何をしたという五つの要点が 備わっていればそれでよい。美しく飾る必要はな いのだ。意味が分かればそれでよい。それを単な る形容詞や副詞の使い方の論議で時間を費やすの は大いに無駄である。そこで、こういう提案をし たい。不要の仕事と組織は廃止せよ。また仕事の ない藩士は、強いて朝決められた時間から夕方決 められた時間まで、城に勤務する必要はない。好 きな時に来て好きな時に帰れ。そして自分の割り 当てが済んだら、桑や漆を植えるとかしてほしい。 その方がはるかに生産的である」 と言いました。竹俣は鷹山の気持をよく知ってい るから、すぐうなずいて、そういたしましようと 応じましたが、これにもごうごうたる非難が起 こったのです。  「御屋形は、いったい我々を何だと思っているの か。われわれは人足でもなければ農夫でもない」 と怒る藩士が多かったのですが、日がたつにつれ、 次第に城の中がまばらになり、藩士の勤務が乱れ てきました。決まった時間に勢ぞろいして、決 まった時間にそっくり帰ってしまうということが なくなったのです。城に来ていない時には、藩士 たちは自発的に自分の家の庭に漆や楮や桑の木を 植え、あるいは飼っている鯉に餌をやるように なったのです。城に行っても、仕事らしい仕事を していなければ、仕事らしい仕事をしている部署 に対して面目が立たず、いづらくなり、仕事がな いにもかかわらず、文書をひねくり回して、ああ だ、こうだと言うような藩士はI人もいなくなり ました。藩士の生活のありようが次第に変わって きたのです。竹俣は。  「御屋形様もなかなか人が悪うございますな」 と言って笑いましたが、鷹山は。  「何を言うか。私は人間をあるべき所に納めて、 無駄を省いただけだ」 と微笑み返し。  「形式や外見にこだわって、用が無い時もあるよ うに取りつくろって、同役が顔をそろえておりま す、というようなことばかりが、この城でおこな われてきた。これは人間の無駄であって、時間の 無駄でもある。そして、使えば使える労力を、全 く鈍らせている。人間は働かなくては生きがいを 失う。私はただその生きがいを一人ひとりが自分 なりに発見してほしいという道筋をつけただけだ。 水到りて渠(溝)成る、という言葉があるが、私 は渠にすぎない。藩士は水である。水が到らなけ れば渠にはならないのだ」 とつけ加えました。 鷹山は、不要の組織を廃止し、冗員を生産面に振 り向けることに努力しましたが、実際に彼が廃止 した仕事は、 ●佳日、祝日等の行事 ●役人と役人の問の形式的な挨拶や行事 ●形式的な登城や、時間潰しの登城 などで、廃止された事項は四十六項目に及んだと されています。そして藩士たちは、生産労働に回 されるか、自発的に新田開発に進んでいったので す。  「火種を移せ」という願いが少しずつ実り始 めた  藩士の勤務について鷹山は、竹俣当綱の指導に よって、「藩士による新田開発」を奨励しました。 藩士が、荒地を開墾して新しい田を拓き、あるい は畑を拓いて農作物を植えた場合は、しばらくは、 その田畑からは税をとらないことにしたのです。 開拓した田畑からの収穫物は、まるまる拓いた者 の収入にしてよいとしたのです。これは農民にも 適用され農民は争って新田を開発し、次第に労働 に生きがいを感ずるようになりました。かつて板 谷宿で、上杉朧山が入国の日に感じた、山も河も 土も死に、そして人が死んでいた光景は少しずつ 改まってきました。藩内のあちこちで、鍬を振る 姿や木を切り倒す姿、根を掘り起こし、耕した土 に種を蒔く様子が見られるようになったのです。 この状況を見て、家臣の一部には、  「せっかく拓いた田からあるいは畑から上がる収 穫物を、そっくり開拓者にやってしまうのは、藩 庁にとって損ではありませんか」 と言う者も出てきました。しかし鷹山は、首を 振って、  「私の改革は、飽くまでも民富にあると言ったは ずだ。民を富ますのは、民が自ら拓いた田から得 る収穫物を自分の物にするのでなければ富むこと にはならない。せっかく田を拓いても、今までは、 税として取り上げてしまうから農民が土を耕す意 欲を失っていたのだ。嘘をついてはならぬ。当分 新しく拓いた土地からの収穫物は、拓いた者に与 えよう」 と応じました。  藩には五十騎組という上級武士集団があり、あ る日この中から、  「当分お暇をいただきたい」 と願い出た者がいました。北沢五郎兵衛という士 で、応接に当った竹俣が。  「何のための暇乞いか」 と聞くと、北沢は。  「小野川のほとりに荒地がございます。それを組 下の者と一緒に開拓しとうございます。それで、 しばらくお城への勤務がかないませぬ故、お暇を 賜わりたいと願い出たのでございます」 竹俣は鷹山に報告しました。鷹山はうれしそうに 笑って、  「北沢をこれに呼べ」 と言いました。北沢が来ると、鷹山は、  「上級職にもかかわらず、このたびの願い出まこ とに有難く思う。よろしく頼む。ついては、お前 たちが耕してくれる小野川の荒地で籍田の礼をお こないたい」 と伝えました。籍田の礼というのは中国の古法で、 これから耕す地が実り豊かであるように、天と神 に祈る儀式です。鷹山はその儀式を自ら小野川の 荒地でおこなうというのでした。北沢たちは感動 しました。用意が出来た荒地で、中国古代の問の 方式にならって、当日鷹山が斎戒沐浴し、数人の 供を連れて、まず、春日・白子の両神社に参拝し た後、そこで拝受した御神酒をもって、荒地に臨 みます。祭りの行事をおこなった後、鷹山が最初 に立って鍬を持ち、土に打ち込みます。次に執政 (家老)の竹俣当綱が鍬をふるい、奉行がふるい、 代官がふるい、村役人までふるいました。行事が 終ると、鷹山は、北沢に何がしかの金を渡し、  「わずかだが開墾の資金にしてほしい」 と言い、さらに開墾に携わる北沢の組下藩士全員 に、酒を注いで回ったのです。  「これは私か注ぐのではない。天が注ぐ酒である。 どうかよろしく頼む」 と申し伝えました。一人ひとりの藩士たちは感動 し、  「この荒地から、必ず見事な農作物を得るように 努力致します」 と誓ったのです。  この開墾地が成功して、農作物がとれるように なったとき、開墾に携わった士の一人が。  「初なりの農作物を、どうにかして御屋形様に届 けたい」 と言い出しました。上杉鷹山は、参勤交代で江戸 にいたのに、江戸まで小野川開墾地の作物を届け たいと言うのです。しかし、江戸までの旅費もあ りませんでした。これを伝え聞いたある足軽が  「私か参りましよう」 と言って、その役を買って出ました。  「足軽のお前がどうやって江戸に行くのだ」 と北沢は不審な顔をしたが、足軽はにっこり笑っ て。  「私にお任せ下さい」 と言って、本当に江戸に農作物を届けたのです。 その足軽は、家財道具一切を売り払って旅費を 作ったのでした。彼もまた、鷹山の方針と上級武 士でありながらその方針に従い荒地を開墾して、 初の農作物を鷹山に捧げたいという開墾村の藩士 の心意気に感動したのでした。  上杉鷹山が米沢入国の日に、板谷宿で言った。  「火種を移せ」  という願いが少しずつ実り始めたのです。火種 は、心ある藩士から藩士の胸に次々と移り、まだ 燃えない炭を持っていた藩士たちは、火を移され て、次第に自分の胸を燃やすようになっていきま した。それは藩士、領民たちの生きがいの再発見 でもありました。人のために尽くすということが、 いかにその生きがいを強く成り立たせるかを、彼 らは自ら鍬をふるうことによって知ったのでした。 と同時に、農民がいままで苦労に苦労を重ねて収 めてきた年貢が、いかに血と汗と脂の所産である かを藩士たちに教えました。藩士自らが、鍬で土 を耕すことによって、自分たちの生活の糧が、ど のように辛い思いを経て作られるかを如実に知っ たのです。肌で知った学問、鷹山の言う生きた学 問でした。鷹山はまた、藩士や庶民の中で善行を した者を褒賞しました。しかし与える褒美の品が なかったため、鷹山は、自分が着ていた襦袢を贈 りました。その襦袢は着古した木綿の粗末なもの で、野に咲く茜の草で染めた真赤な襦袢でした。 鷹山はよく洗って清潔にしたものを贈りました。 いつの間にかこの褒美が有名になり、「御屋形様 の茜襦袢」と呼ばれて、これをもらうことが藩士 や領民たちの誇りになり、先を争ってこの茜の襦 袢をもらおうと、みなが良いことをするように なったのです。  「武士がああいうことをするのは、飯の椀に クソを盛るようなものだ」  鷹山の改革は、武士に農業や職人に等しいよう な作業をさせ、商人と間違うような行為までおこ なわせました。当時としてはかなり破格な考え方 と行動で、今で言えば近代精神の持ち主と言えま す。しかし、鷹山はただ前へ前へと進む人物では なく、古いことの中にも、伝統的に歴史の重みを 感じさせるような行事があれば、決して廃止にし ませんでした。明和八年(一七七一)にひどい日 照り続きがあり、農民たちは、「お寺で雨乞いを してほしい」と願い出ました。藩の役人は、最近 の鷹山のやり方を見ているので、雨乞いなどと願 い出れば、一笑に付されると思って、これを退け ました。このことを伝え聞いた鷹山は。  「ちょっと待て、雨乞いをしようではないか」 と言い出したのです。びっくりする藩役人たちに 鷹山は、藩内の林泉寺、大善院、鳳台寺などに命 じて雨乞いの祈りをさせたのです。また同時に、 自身が徒歩で城の西にある愛宕山に登って、頂上 で天に祈ると雨が降り始めたのです。それも大雨 でした。祈り続ける鷹山はびしよ濡れになり、驚 いた家臣たちが傘をさしかけると、鷹山は首を 振ってこう言いました。  「雨を祈っているのに、雨が降ったからとて、傘 をさしていたのでは雨乞いにも何もならない。こ れは私というよりも、米沢領民の願いが天に通じ て降った雨である。それを傘で受けては申し訳が 立たぬ」 と言って傘を退けました。そしてずぶ濡れのまま 祈り続け、帰路も依然として雨が降り続いていま した。その中を、鷹山は相変わらず濡れたまま城 に戻って行きました。沿道の農民たちは感動し、 雨の降る道端に膝をついて鷹山におじぎをしまし た。鷹山は。  「よかったな、よかったな」 と、その農民たちに言いながら帰って行きました。 これは、鷹山が、農民たちの信仰を伴う行事まで 近代精神によって廃止することは、逆に農民たち を困惑させるという判断をしたからです。生活に 深く密着した行事は、そのまま維持していく方が、 かえって農民生活には安定を与えるということを 鷹山は知っていたのです。  植物を植えることや鯉に餌をやることなどに端 を発して、城に勤める藩士たちやその家族の生活 はどんどん変わっていきました。それは労働に対 する観念が次々と変わっていったということでも ありました。例えば、米沢藩内の諸施設が壊れた 時の修理は、専門の職人にやらせるのが通例でし たが、それには往々にして多額の出費をともなう ため、藩士たちは相談をして。  「城内の建物や川にかかった橋、あるいは馬小屋 などの破損は、我々の手でも直せるのではない か」 と考え、実際に行動に移しました。  例えば、安永二年(一七七三)に、雪解けの水 で城下を流れる松川が氾濫し、かかっていた橋が 何本も流されました。特に福田橋は、藩主の江戸 への往復などにも使われていた城への出入りの重 要な橋で、その福田橋が流されたのです。藩士た ちの中から有志が出て來て、懸命にこの橋の修理 を行いました。そこへちょうど江戸から参勤交代 の帰国途中の上杉鷹山の行列が通りかかり、鷹山 は雪解けの水に流された福田橋に一驚し、さらに、 橋を修理しているのが藩士だちなのにもっと驚い たのです。鷹山はいきなり馬からとび下り、家臣 団に。  「御苦労である。怪我をしないように気をつけ よ」 と言いながら、一人ひとりの労をねぎらったので した。供の須田満主という江戸家老は、鷹山が馬 から下りる時に、鷹山をとめ  「城門近くで藩主が馬から下りるなどもっての外 であります。先例にお従い下さい」 と言って恐い顔をしましたが、鷹山は聞き入れず。  「藩士が手ずから修理している橋を、どうして馬 で渡ることが出来ようか」 と言って、強引に馬から下りたのです。そして藩 士たち、一人ひとりねぎらいました。この間須田 は渋面をつくって鷹山をにらんでいて、自分は馬 を下りることなく、馬上のまま橋を渡ってしまい ました。須田は、古い形式主義者であって、鷹山 の改革に協力しない急先鋒でした。かつて鷹山の 「志記」が千坂を通じてもたらされたときも。  「こんなことは問題にならない。新藩主は小藩の 生まれなので、大家の格式を全く知らない。こう いうことを実行すれば、上杉家の名が廃る」 と言って、初めから鷹山の計画に協力しない人物 でした。だから藩士が、次々と荒地の開墾に乗り 出し、半農半士の生活に入っていく状況を見て。  「武士がああいうことをするのは、飯の椀にクソ を盛るようなものだ」 と言って、苦い顔をしていました。  鷹山は、初入国したときに、藩士全員に強飯を 配りました。藩主の初入国には、鯛の焼物や上等 な酒をつけて重役だけに配るのが通例でしたが、 鷹山は、重役だけでなく足軽のような低身分の者 にまで配ったために強飯に変わったのでした。須 田はこれを非難し、鷹山が配った強飯を受け取ら ず、使いの者を追い返して拒否したのです。  「我々の誠意を天が汲んでくれるならば、材 木を積んだ船は決して沈みはしない。材木を 捨てるならまず我々を捨てろ」  藩士の労力奉仕と言えば、こういうこともあり ました。  安永元年(一七七二)に、江戸の目黒行人坂か ら出た火が江戸中を焼きつくしました。この火事 で上杉家は、江戸に持っていた桜田及び麻布の両 屋敷を全焼させてしまったのです。この時の江戸 家老は、鷹山の改革に対する頑固な反対者であっ た須田満主で、火事の時は、率先、先頭に立って 消火に努めましたが、彼の努力も空しく風の勢い が強く、上杉家は焼けてしまいました。屋敷は当 然再建しなければならず、報告を受けた米沢本国 は憂鬱になりました。まず資金がありませんでし た。しかも江戸では大工たちの賃金が上がり、材 木商人たちは木材不足につけ込んで、一気に材木 の値を上げたため、いつもの二倍、三倍もの費用 を必要としました。重職たちには、どうすること もできず。  「せめて、材木だけでも江戸に送ることができれ ば」 と言い合うだけでした。  この時、藩士の一団から申し出がありました。  「材木は、我々の手で切り出し、我々の手で最上 川など、海路越後に通ずる川に流して港から江戸 に送りましよう」  この報告を聞いて鷹山は喜び。  「そこまで藩士たちが藩のことを考えてくれるの か。感謝に耐えない。どうか身体に気をつけて作 業に当ってくれ」 とこの願いに許可を与えました。  竹俣当綱を頭取に藩士たちは、会津との国境に ある塩地平の山に入って材木伐採を始めました。 当綱は蓑笠に身を固め、人跡未踏の深山に入り、 拠点とする小屋も笹の葉で屋根を葺き、丸太を組 み立てただけの粗末なものでしたが、みなの手で 建てました。藩士たちは、湯づけと水菜しかない 貧しい食事で重労働によく耐えました。  一方、鷹山は、庄内藩と会津藩に頼んで、最上 川河口あるいは、会津領内にある津川へ材木を流 して新潟港から船で江戸へ送りたいという申し入 れをし、両藩とも快くこの要請を認めてくれまし た。しかし、藩士たちの努力によって切り出され た材木が、川を流れて河口に達し、港から船に 乗って江戸へ向っだとき、船が強風に遭って沈没 しかけました。驚いた船頭が、  「材木を捨ててくれ。そうしないと船が沈む」 と叫びました。船の宰領をしていたのは、木島神 五右衛門という男で、これを聞いて怒りました。  「この材木は、我が御屋形様の真心と、我々の忠 誠によって伐り出されたものだ。我々の誠意を天 が汲んでくれるならば、材木を積んだ船は決して 沈みはしない。材木を捨てるならまず我々を捨て ろ」 と言って頑張っだので船頭も怯み、やがて風は止 み、船は無事に江戸に着きました。  上杉の江戸藩邸は見事に再建され、新築棟上げ のとき、鷹山は次のような諭告を出しました。 一。藩邸は、貴客のもうけとはいえ、一年の旅宿 にすぎない。もともと江戸は火事が多い所なので、 この先もどうなるか分からない。しかも、このた びの工事費は、すべて窮民の膏血である。公例の よんどころない場合は格別だが、その他は大いに 簡略にすべきだ。いわんや勝手向きは、必ず無用 の飾りなどしてはならない。他のところで言って いることを気にすることはない。自分の定規で建 築をすることが大切である。 二。国許からきた材木は、国中の忠誠心の篤い者 共が自ら手を下して、切りとったものである。た とえそのうちの一片の木片といえども、決して疎 かにしてはならない。 三。諸役人は、いよいよ互いに労わりあって、励 んでほしい。また手伝いの町人たちに対しては、 特に情をかけて、怠けないように励ましてほしい。  新田の開発に始まった藩士たちの労力奉仕は、 橋の修復になり、材木の切り出しになり、それ以 後、城内外の普請や本丸、二の丸、三の丸の堀の 新設や水難よけの堤防造り、道普請、飛脚、荷物 運送にまで及びました。もちろん、すべての藩士 がそれに従ったわけではなく、中にはあくまでも 反対し、あるいは非協力的な連中もいましたが、 鷹山の志を理解して、自ら刀を脇に置いて、鍬や 鶴嘴をふるう藩士がどんどん増えていったのです。  「ありのままの農民と農村の姿を見たい、本 当の村の姿が見たい」  上杉鷹山は、実学者の細井平洲に学んだだけ あって、改革を進める過程において、決して自分 の居間で机の前に座ったきりで、ああしろ、こう しろというような指示の出し方はしませんでした。 よく町に出、そして村に出たのです。  しかし当時封建領主の廻村は、村や農民にとっ てありかたいことではありませんでした。そのた めの準備をしたり、掃除をしたり、あるいは御馳 走をしたりしなければならなかったからです。藩 主が出てくる前に、先布令役人の指示をいちいち 聞いて、こと細かい準備をすることは、農村に とっては、はなはだ迷惑だったのです。  鷹山が、「藩内の村を見たい」と言ったとき、 村の迷惑を知っていたから役人は渋り、竹俣当綱 もそう思ったほどです。  「現在は改革途上にあります。村々は相応の努力 をしております。もうしばらくしておいでになっ た方がよいのではないでしょうか」 と婉曲に止めましたが、鷹山はきかず、実際に改 革の進行状況をこの目で見、改革に携わっている 人たちを励ましたいと言ったのです。言い出した らきかない鷹山のことですから、竹俣もそのこと を下僚に命じ、村々は大騒ぎになりました。鷹山 の改革方針に則って、竹俣当綱は執政として、各 農村にいろいろな指示を下していました。それは 農事に関して、種々細かい注意を与えたものでし たが、その中に、  一。今後、農民の囗を塞いではならない。何で もお上に申し上げさせよ。  一。廻村は、村々を巡見して、その村の迷惑に なっていたり、民の害になっていることを除くた めにおこなうものである。したがって廻村は賄賂 や年貢をごまかす相談をするためのものではなく て、農民の暮らしが、更に改善されるような目的 を持っているものである。  というような内容が含まれていましたから、村 役人は、鷹山が出てきたら、百姓たちが殿様に何 を言うか分からない、という危惧を持っていまし た。まだまだ改革は行き届かず、村方には多くの 不正があり、またその不正に対して不満を持って いる農民もたくさんいたのです。役人たちは、そ れがばらされたら困ると思ったのです。大騒ぎに なった村は、掃除や諸施設の整備などに狂奔する だけでなく、不満のありそうな農民たちへの囗封 じが重要な仕事になりました。余計なことを言う なという脅しや、煽てや賺しが盛んにおこなわれ たのです。そこへ鷹山からの達しが来ました。そ れは、  一。御道筋は一切掃除に及ばないこと。  一。御通行の村々では盛り砂無用のこと。  一。田畑の勤めに出ている者は、御通りだから  といって蓑笠を脱いで、農事をやめる必要はな  いこと。  一。橋を新たにかけかえる必要はないこと。た  だし、人馬が踏み抜かるようなところは修復し  ておいてほしいこと。しかし、その修復の方法  が見苦しくても一向に差し支えないこと。  一。この廻村のために、村々から人夫は一人も  徴発しないこと。しかし村においてどうしても  必要な人夫には必ず賃金を与えること。そして  その賃金は藩庁に請求すること。  一。泊る宿や下宿は、食事は上下の別なく、  一汁一菜にすること。しかも、旅籠代を必ず請  求すること。 この達しには、出す前に、出す側の藩役人のほう がまず驚きました。さすがの竹俣当綱や莅戸善政 も目をまるくして、  「これはどのことは、いままで例もございません し、あまりと言えばあまりという気もいたします が、もう少し何か注文をおつけになってもよいの ではないでしょうか」 と半ば当惑して鷹山に言いました。鷹山は。  「この通りにせよ、私の廻村が、忙しい農民たち の仕事を妨げてはならない。それに、私はありの ままの農民と農村の姿を見たいのであって、取り 繕った農民や農村の姿など一向に見たくない。本 当の村の姿が見たいのだ」 と言いました。竹俣たちはやむを得ずこの布令を 出し、受け取った村は、仰天しました。そして、 みな首をひねりましたが、結論は。  「これは我々を試すお布れだ。このお布れ通りに したら、きっと藩役人がとび出てきてお前たちは、 御屋形様をいったい何と心得るかと言って重いお 咎めがあるに違いない」 そこで、お布れを信じずに、再び掃除を始めたり 諸施設を整備したりしようとしました。しかし、 これを知った竹俣が役人を派遣して、どんどん止 めさせたのです。  「お布れは真実である。もしも、このお布れに背 いてお前たちが見てくれのための掃除をしたり、 施設を修理したり、農民の囗に箍をはめたりした ら、それこそ重いお咎めがあるぞ」 と言って、鷹山の廻村のための取り繕いを一切や めさせました。  この時、鷹山は、東置賜、西置賜、南置賜の三 郡を廻りました。廻村には一週間の囗を使い、主 として開墾地を廻村しました。最後に、山の杉林 の植林光景も見て、白鷹山にも登りました。松川 では、漁師たちの希望によって、鱒の漁を見、と れた鱒は、自分の囗にせず、そのまま養父の旧藩 主重定の所に届けさせました。この廻村の過程で、 鷹山が何を見、何を悟ったか、その詳細は不明で すが、この廻村が終った後、どういうわけか鷹山 は、藩士たちの手伝いを解放しました。「今後、 藩士の諸作事への労力奉仕は必要ない」という布 令を出したのです。上杉鷹山に詳しい研究者は。 この時鷹山は、廻村とさらに藩士たちの労力手伝 いの二つを組み合わせて、鷹山の改革でもどうに もならない。  「身分の問題」 を感じとったのではないかと、と考察しています。 藩士が労力手伝いという形で農工商の生活に近づ いていっても、農工商はしょせんその作業をつけ 焼刃として受け止め、本心から、武士たちの共同 作業を歓迎してはいなかったということなのかも しれません。農工商側から言えば、自分たちの守 備範囲を固持したかったのであろうし、武士たち にすれば、最後まで武士気質が抜けず、いわゆる 武士道というものを捨て切れずに、本当の意味で の農工商になりきれなかった、というようなこと が作用していたのかもしれません。いずれにして も、この時の上杉鷹山の廻村は、水戸黄門のよう な、領内漫遊というわけにはいかず、鷹山は、よ り苦い思いを抱いて城に帰ったのです。その詳細 は、あまり書き残されていません。  ただこんなことがありました。ある村を廻った ときに、ある老婆から「きあぴたれ餅」というの を御馳走になりました。きあぴたれというのは今 も残る米沢の餅ですが、餡に砂糖の代わりに塩が 入っている、つまり塩辛い餅です。これは、鷹山 の創始と言われていますが、鷹山にこのきあぴた れ餅を献じた老婆は、毎年のようにきあぴたれ餅 を持って城へ鷹山を訪ねてきました。城門に立っ ている門番はびっくりして、老婆をとめましたが、 老婆は。  「わしは御屋形様とは知り合いじや。御屋形様は わしのこのきあぴたれ餅を楽しみにしていらっ しやる」 と言って譲らず、根負けした門番は上役に照会し た。鷹山はにっこり笑って、  「その老婆はよく知っている。ここへ通せ」 と言い、庭先へ通った老婆からきあぴたれ餅をも らいながら、  「婆さん、相変わらず元気だな。来年も必ずきあ ぴたれ餅を持ってきてくれよ」 と老婆を励まし、老婆は、そのことを生きがいに して、また翌年も元気で生き抜いていったそうで す。 第六章 アンチ鷹山派、団交に入る。  「七人の重臣たちは言語道 断である。 即刻全員切腹させよ」(重 定)  藩政改革のための有能な人材を育成する藩校が設立 された時期は宝暦期(1751〜1764年)以後と 言われており、一七七七年設立の米沢藩興譲館(現在 山形県立興譲館高校)は、その先駆的な存在だった。 学校の名の由来は、「大学」 一節にある、「一家仁一国 興仁一家譲一国興譲」からとられ、細井平洲が命名。 「興譲とは、譲を興すと読み、譲を興すとは、。恭遜の 道”を修養させること」と説明。聖堂、講堂、学寮な ど二十余の部屋からなり、食堂や当直室や看護室など も完備し、寮も作られ宿泊も可能になっていた。学生 たちは、泊まりこみで勉強する者と通って来る通学生 とに分かれ、寄宿舎に泊まれる学生は、学問の成績優 秀な者二十人のみ。選ばれた学生たちの生活はかなり 自由で、ここでは身分はものを言わず、むしろ、長幼 の序が重んぜられ、同時に才能の有無が並行して重要 視された。  この学校を出た子弟で、のちに米沢藩の農政改革の 先頭に立って活躍する人物が多かったのは、やはり平 洲の教育方針が、実学を重視したことにある。  「即刻御決断下さい。われわれはこの座から 退きません」  鷹山が米沢に入って、四年が過ぎました。鷹山 の改革は少しずつ進み、かなりの荒地が開墾され、 水田でない所には、漆、楮、桑の植樹がどんどん おこなわれ、季節がくればその緑の葉が太陽の光 に輝き、水田には真鯉が泳いでいました。藩士た ちの家々では、妻たちが機織りに励み、多くの織 物が藩士たちの家から生まれていきました。町々 でも、いろいろな新しい名産品が企画され、製品 を他国へ輸出できるようになりました。流通に関 して鷹山は、江戸・大阪などの大きな商人ではな く、領内の良心的中小企業を活用しました。藩政 府は、殖産興業の指導と流通経路を確保し、収益 を全体で分配するという共同会社のような形を作 り上げていったのです。  しかしすべてが、順風満帆というわけにはいか ず、問題が起こりました。積年の鷹山の改革指導 に、我慢のならなくなった保守層が反乱を起こし たのです。事が起こったのは、安永二年(一七七 三)六月二十七日未明のことです。この日、米沢 藩の重職である千坂高敦、色部照長、須田満主、 長尾景明、清野祐秀、芋川延親、平林正在の七人 は、早朝から登城して鷹山に面会を求め、一冊の 冊子を出しました。  「この冊子をお読みの上、即刻御決断下さい。そ れまで、われわれはこの座から退きません」 と言いました。表情が堅く、露骨に敵意を示し、 鷹山の返答いかんによっては、何か考えがあると いうことを言外に含ませていました。鷹山は七人 の連署による冊子を手にとり頁を開きました。内 容はすべて竹俣当綱と莅戸善政をはじめとする改 革派の弾劾であり、またそういう層を登用してい る鷹山に対する弾劾書でもありました。藩主を批 判するような文書を、連署で国老群がつきつける とは、当時の社会状況では大変稀なことで、七人 が提出した冊子に書かれていたことは、次のよう な内容でした。 ○あなたは御家督以来今日までの御国政を、御自 分では大変良いことだと思っていらっしやいます。 しかし事実はそれに反して、市民の人情は、ばら ばらになってしまって、もってのほかのことでご ざいます。あなたは、御自分のなさっていること に熱中されているから、そうはお考えにならない と思います。しかし実際には、われわれが気をつ けて見ておりますと、第一にあなたは佞者に、は なはだしくお惑いなされて、正しい意見を言う者 を、まるで不忠者を見るように思っていらっしや います。そこで我々忠義の士としては、自分たち の正しい考えをあなたに告げても、あなたは恐ら く不忠者のようにおぼし召されて、佞者にお漏ら しなされて、彼らと共に嘲り笑うのが関の山と存 じ、今日まで何も申し上げませんでした。しかし、 ことここに至って、もう黙っていられませんので、 今日はあえて申し上げます。 ○申すまでもなく、当上杉家は年久しく御正系を もって相続されてまいり、国中の者も、譜代相伝 の主君を迎えることと考えておりましたが、憚り ながら、あなたは御正系ではなく、御他家より御 家督なさった方であります。したがって、上下の 因も薄いと申さねばなりません。そうであるなら ば、別けても御国政を大切におぼし召されて、市 民が安堵するようになさらなくては、御先祖様は もちろん、国家に対しても大変に申し訳ないこと だと存じます。 ○そもそも手違いの始めは、竹俣当綱を登用した ことにあります。竹俣は、幼年のころから邪智の 人間で、仲間からはことごとく嫌われておりまし た。大殿様の時代に失策があって、きつく叱られ たために、世間を気にし、邪智を慎んで、万事控 え目になりましたが、再び重いお役につけられる と、またまた世間を憚る気持を忘れ、もともと神 を怖れる気持がないものですから、いよいよ性来 に任せ、君上を押し込んで、自分の心に合うもの ばかりかれこれ採用するようになりました。さら に、あなたの御気風をよく呑みこんで、物事は何 でも遠回しに何となくあなたのお耳に入るように 仕向け、同時に文学に長じているものですから、 あなたが文学をお好みになるということを知って、 その才能を活用し、いよいよ取り入っております。 特に莅戸、木村、倉畸、志賀などの一味を引き立 て、これに反対する者を遠ざけておりますが、莅 戸たちも竹俣同様皆奸佞の者であります。  当綱は、沙汰聞などというものを置いて、下情 を知るのだと言っておりますが、結局は彼ら一味 について、人々が何を言っているかを探るための ものであります。そして正しい意見が入っても、 彼らの身を陥れるものと解釈して、すべて退けて おります。今の米沢藩は、藩士の知行を数十年借 り上げ、しかも無料のお手伝いなどさせておりま すのに、水難や火難が相次いで起こり、日本の中 で米沢ほど衰えた藩はないと言われております。 今は、城下町にまで狼がやってきて、のそのそと 歩いております。町の人間は恐がって夜歩きも出 来ません。それはこういう異変が起こるのも狼と 同じような人間が政治を執っているからだ、と皆 言っております。いずれにしても、今の御政道は ただ上べを飾り、美しい言葉をまきちらすだけで。 いっこうに実の伴わない空しいものであります。 ○莅戸善政もいったいに佞者であります。最初か ら竹俣に取り入って、その機嫌をとり、重用して もらっております。だいたい彼はしまりのない人 柄でございます。 ○細井平洲を国許へ招こうということも正しいこ とではありません。米沢藩の実態を何も知らない 学者が、一年ばかり来て何か教えたところで、領 民の風俗強化など出来るはずがありません。それ なのに平洲に家を用意し、高い報酬を出すという ことは無益どころか、いろいろ金がかかる藩財政 にとって、実に大害であります。竹俣もそうです が、だいたい文学者といわれる者は、佞者が多く、 彼らは文学にことよせて、辻褄を合わせておりま すが、逆に文学が藩士の風儀を乱すことは多大で あります。これはすべてあなたが無用の文学を やっているところに責任があります。あなた自身。 一汁一菜の食事で、木綿を着ていらっしやること は結構なことでございますが、そんなことは細か いことにすぎません。そんなつまらないことをし たからといって、政治の流れが変わるわけではご ざいません。だいたいあなたは自分で開拓地に 行って鍬をふるったり、雨乞いをしたり、また先 日は藩士の手伝いで漸く修理の出来た福田橋を渡 る時に、馬から下りて、手伝い過分に存ずる、と 藩士の労を謝しておりましたが、あんなことはす べて子供騙しとも言うべきで、藩士は皆笑ってお ります。こういうことは、いかにあなたの政治に 対する考えが薄いかに原因があります。 ○佐藤文四郎は、竹俣だちと違って、もともとは 性格の良い素直な人物でございましたが、最近は 佞者共の影響を受けて、性格も歪んでまいりまし た。お側近くお用いなさっているようであります が、これからは、佐藤の言うことも、あまりお用 いにならない方が良いと思います。 こういうふうに、竹俣当綱や細井平洲や、挙句の 果ては佐藤文四郎まで攻撃したうえ、いよいよ上 杉鷹山自体の政治について攻撃の矢を向けた。 鷹山を閉じ込めたまま、脅迫的な団交 ○御政治の本体は、本来賞罰の二つにあります。 しかし、近年のお仕置(なさること)は、賞罰の すべてが筋違いでございます。 ○憚りながら、今まであなたが良いと思ってな さったことは、全部悪いことでございます。また 悪いこととしてお退けになったことはほとんど良 いことでございます。 ○御家督以来、すでに何年か経ちましたが、何一 つとして良いことは出てこないで、年を追って悪 いことばかり起こります。天候不順による凶作も 恐らくそのせいでありましよう。神仏の咎めが 下ったものだと思います。それは、そもそも最初 から仰せ出された「志記」その他によるお考えが 間違っているので、文章上は何となくもっともの ように聞こえますが、すべて裏表が逆に出ており ます。 ○たとえば、開聖地に行かれて籍田の礼などなさ れましたが、あんなことは、児戯に類することで、 結局は旱魃、長雨、時候不順になって、五穀は実 らず、あずきだけが僅かに出来た結果に終りまし た。 ○一汁一菜の食事を続けられ、木綿などお召しに なっていらっしやいますが、肝腎の大事なことを ないがしろにして、こんな小さなことばかりが国 中にゆき渡るようでは、他国に対しても面目が立 ちません。 こういうふうに、鷹山のすることなすことにいち いちいちやもんをつけた。そして、最後に、自分 たちの要求として、次に掲げるようなことが書い てあった。 一。御生活を越後風になさっておとなしくなって 下さい。 一。もの堅く厳正なる者をお用いになって下さい。 一。今なさっていることを一切中止して、誠実な 藩政に戻して下さい。 一。口先ばかりの理屈をお捨てになって、重厚な 政策をおとり下さい。 一。賞罰の誤っていることを、深く反省して下さ い。 一。目下、米沢の国風は、しまりがなくて、いた ずらにひそひそとしております。活気もなく、 騒々しくて仕方がありません。人心も、向上心が なく、ふわふわした浮気が多くなっております。 忠信がなくなってすべて追従に終っております。 これらのすべて竹俣はじめ奸佞人たちの余毒でご ざいます。 一。竹俣、莅戸をはじめ奸佞の者をお退け下さい。 われわれほど、国政に丹精して、国を中興出来る 者はおりません。しかし、われわれは囗べたで、 文学も心得ないために、今退けられておりますけ れども、現在藩政を取り仕切っているような奸佞 の気持は全くございません。われわれをお用いに なれば御政道も正しく立ち直ると思います。  こういう要求を掲げた後に、彼らは、最後にこ ういうことを書いていました。  「万一私たちの申し上げていることが、筋がない というふうにお思いになるならば、これはよんど ころないことでございます。われわれはひとりと して今後お役を続けることが出来ませんのでどう かお暇を頂きたいと思います。われわれはそうい う覚悟をしております。右二つのうち、どちらを お選びになるか、かれこれ奸佞の者に相談しない で頂きたい。この場で、あなた自身のお考えで決 めて下さるようお願い致します」  要求の主旨はこの最後に尽きていて、竹俣、莅 戸たちをとるか、あるいは自分たちをとるかどち らかひとつの道を選べ、と言っているのでした。 政策に対する非難はつけ足しであって、実は人事 上の不満に終始していました。朧山は民主的な人 だから、こういう要望書を突き付けられれば、当 然竹俣だちと相談すると見て、それを事前に封じ たのでした。この囗、明け方から、ある部屋に鷹 山を閉じ込めたまま、彼らは巧妙に出入り囗に 散っていって、いつの問にか鷹山を囲む体制を とっていました。返事を聞くまでは、一歩たりと もこの部屋から出さないという気構えを示し、脅 迫的な団交を起こしていました。座にいたのは佐 藤文四郎一人だけでした。  要望書を読み終った鷹山は、七人の顔を見て。  「書いてあることはよく分かった。相談をするな と言われても、これには重大なことがたくさん含 まれている。私は竹俣だちと相談をしたい。また 先代の御隠居様にも相談しなければならない。ひ とまずこの書面をあずかって、また戻ってくる」 と言って立ちよかろうとしましたが、七人は 強張った表情でこれを阻止し、特に芋川は、つ つっと進み寄ると鷹山の袴の裾をとって動こうと しませんでした。これを見た佐藤文四郎は、いき なり芋川の腕を手刀で打つだので。  「佐藤、何をするか」 と芋川は怒っだのですが、思わず手を放しました。 そのすきに佐藤は扉を開けて  「御屋形様早く」 と言って廊下に鷹山を押し出し、扉の所に立ちは だかったまま、追おうとする七人を阻止しました。 鷹山は、廊下を伝わって隠居した先代重定の所に 行きました。鷹山から、ことの次第を聞いた先代 の重定は、激怒し、  「七人の重臣たちは言語道断である。即刻全員切 腹させよ」 と言いましたが、鷹山は、 「いや、全員切腹は重きに過ぎます。彼らの言う ことにも藩士の感情の一面を代表するものとして、 一理はあります。私たちの改革があまりにも急速 度で進みすぎているからでありましよう。しかし、 このままには捨ておけません。今、こちらにお伺 いいたしましたのは、これらの重臣群の意見に対 して、御隠居様が特別なお考えがあるかどうかを お伺いに参ったのでございます。しかし、今のお 言葉で、よく分かりました」。  鷹山が重定に相談したのは、処理に困って相談 したのではなく、七人の要求書を読み進みながら、 鷹山は鷹山なりにこの意見書にどう対応するかは すでに決意していたからです。しかし、それを先 代の重定に黙って実行しては、重定の面目をつぶ してしまいます。もっとはっきり言えば、重臣群 は、重定の権威を背景にして、「他家から来た若 僧藩主よ、何をやるか」というような態度があり ありと見えたために、重定か、一体この七人に対 して今もどういう感じを持っているか、それを確 かめないでは、対応策をすぐ実行する訳にはいか なかったのです。重定の、「不届きである。全員 切腹させよ」という激怒は、鷹山を励ましました。  この囗、七人がうそをついて、竹俣、莅戸、木 村、志賀、倉畸、浅間などの鷹山の側近群を登城 させず、団交は、はじめから計画したものでした。 佐藤文四郎だけが側にいられたのは、七人が、ま だ佐藤の人の好さを信じていて、彼らから見れば、 いてもいなくてもいいような存在に見られていた ためで、その佐藤が、虚をついて、芋川の腕を打 ち、鷹山は、窮地を逃れたのでした。  重定は鷹山に、七人に対する怒りを示しただけ ではすまず、そのまま立ち上がって、七人がいる 部屋に行き、いきなり、  「この不届き者共、弱年の主君に対し、不法千万、 即刻城から退出せよ」 と怒鳴りつけました。先代の藩主の言うことだか ら、さすがに七人は平伏しましたが、芋川だけは、 顔を上げて、何か抗議しようとしました。重定は いよいよ怒りを表にあらわし  「無礼である、早々に下がれ」 と、もう一度怒鳴りつけたのでした。仕方なく、 七人は退出し、この囗以来、七人は登城しなくな り政務を放り出しました。城内で何か起こったか を知らされた竹俣たちは、驚いて登城し、鷹山に。  「重臣群にだまされて、登城を控えておりました が、その問に御屋形様はひどい目にお遭いになっ たそうで、何とも申し訳ございません。それで七 人はいかが致しましたか」 と聞きました。鷹山の話を聞いて、怒った竹俣た ちは、  「ご先代様のおっしやる通り、七人に切腹を命ず るべきです」 と、いきりたちましたが、鷹山は。  「まあ待て」 と止め、翌日、自分の使いを七人の所へやり、 懇々と。  「どうか城に出て仕事をしてくれるように」 と頼んだのです。しかし、七人は、使いの者をせ せら笑い、一向に鷹山の言うことを聞き入れよう とはしませんでした。むしろ鷹山が使いをよこし たことで。  「ようやくあの若殿も、われわれの言うことが分 かったらしいな。我々がいなくてはやはり困るの だ。そこで頼みの使いをよこしたのだ」 と思ったのですが、これは誤算でした。鷹山はた だ手続として、そういう手順を踏んだだけで、鷹 山の胸中では、七人をどう処分するかは、すでに 決まっていました。しかし、いきなりそれをする ことをせず、鷹山は民主的に、どこまでも根気強 く手続を踏んでいったのです。その手続の第一弾 が、七人への登城の要請でした。それを拒まれた ので、第二の手を打ちました。 重役たちの申し出を藩士全員で討議する  翌々日、前藩主重定列席の上、竹俣たちを除い て、大目付、中の間年寄、使い番など藩政や藩士 の監察の職にある者を全部招集し、七人から出た 冊子を示して、全員に回読させ。  「ここに書いてあることの中に、事実があるか、 また、私のやっていることは間違っているのか。 率直に言ってほしい」 と聞きました。冊子を読んだ大目付たちは、まっ すぐ顔を上げて。  「ここに書かれている御政道がよろしからず、人 心が心服していないという事実はまったくござい ません。竹俣様はじめ諸重職の奸佞なる事実も、 私共は聞いておりません。もしそういうことがあ りますれば、当然私共監察の職にある者の耳に 入っております。御屋形様からお尋ねを頂くまで もなく、そういうことがあればとっくに申し上げ ております。今までそういうことを申し上げたこ とがないのは、そういう事実がないということで ございます」 と答えました。鷹山は、「そうか」とうなずき、 次に藩士の組頭たちを呼んで、再びこの冊子を見 せ、大目付たちに聞いたことと同じことを尋ねま した。しかし、彼らの答えも同じで  「御政道は正しいし、人心も服しております。ど うか今のままご改革をお進め下さい」 と答え、鷹山は安心しました。もちろん、大目付 や組頭たちの言うことが、すべて額面通り受け 取っていいものではなく、藩内にはまだまだ鷹山 の改革に反対している者や、無関心を装っている 者がいることはわかっていました。しかし、藩庁 の責任者たちが公然と、鷹山の政道は正しいし、 人心も服していると言うことは、大目付や組頭た ちが、鷹山に対して、鷹山の改革を支持しますと いう協力を誓ったことでもありました。  監察の職にある者や、実際に藩士群を指揮して いる指導者から率直な意見を聞いた後、鷹山は大 広間に全藩士を集めました。藩土たちが総登城す ると、城門を閉じ、広間の中央に座った鷹山は、 全藩士を見ながらこう言いました。  「私は当家の家督を相続し、衰えたお家を再興す るために、竹俣をはじめ赭土を用して国政を委ね た。お前だちから見て、これは正しかったのか、 間違っていたのか、目下国家存亡の場合である。 どうか身分の高下にこだわらず各々思うところを はっきり言ってもらいたい」 しかし、大広間は粛然としたまま、誰も答える者 はなく、重い緊張感がただよい、張りつめた藩士 たちの気持が、そのまま大広間を覆っていました。 それは、今までのように反抗したり、無関心であ る空気ではなく、何かが爆発しそうな雰囲気でし た。鷹山は再び。  「どうだ、誰か意見がないのか」 と言いました。この時、大広間の隅から声があが りました。  「恐れながら申し上げます。他の方々の御心底は よく分かりませんが、どなたも御返答がないのに、 身分の低い私か末席から真先に何かを申し上げる のは、大変さしでがましゆうございますが、どう しても微賤の私にとりましては、申し上げなけれ ばならない思いが胸に溢れておりますので、申し 上げます。  近年の御政治向き、いちいちごもっともしごく で、私にとりましては、誠に一点の非の打ちどこ ろもございません。かつての私は、率直に申し上 げて、お城に勤めに出るのが嫌でございました。 毎日何をしていいか分からず、またしていること の意味がよく分からなかったからでございます。 しかし、今は、城へ来るのが楽しみでございます。 それは、御屋形様のご改革が、何のためのご改革 かを、はっきり示してくれたからでございます。 御屋形様は、私に、天の星をお示しになりました。 私は、その星をめざして歩いております。どうか、 いろいろと、おつらいことがおありのこととは思 いますが、くじけずに、今のままの御政道を、お 続け頂きたいと思います」 訥弁ながら切々たる言葉でした。その男は、自分 の名を柏木伊賀と言い、柏木の発言が導火線に なって、その後、どっと意見が出ました。  「伊賀の意見の通りでございます。どうか、その ままご改革をお進め下さい。私共も、微力ながら、 精一杯努力いたします」 というものが圧倒的で、意見の多くは、大広間の 隅の方から起こりました。つまり身分の低い層か ら起こってきたのです。それに引きずられて、真 中あたりにいた中級藩士たちも、われもわれもと。  「重役たちのその意見は、間違っております。私 たちは決して同意しておりません。どうか改革を お進め下さい」 と発言しました。前列の方にいる重臣群は、重苦 しい表情をしていて、例の七人はもちろん来てい ませんでした。前の方にいる重臣たちは、今日ま で、「休まず・遅れず・仕事せず」という態度で、 いわば中立を守ってきた人々です。しかし、鷹山 は隅の方の下級藩士の声と、それに触発されて声 をあげた真中あたりの中級藩士の声に勢いを得な がら、じっとすぐ前にいる重臣群を見ました。重 臣群は、息苦しそうに顔を伏せました。あまりく どく求めてもいけないと思ったのか、鷹山は。  「今日はこの程度にする。明日もう一度この会議 を開く。そこで、今日言ったことが間違いであっ たと思う者はその旨を率直に話してほしい。 。過って改むるに憚ることなかれ气というのは、 私の信条である」 と最後の方は冗談めかして、鷹山は微笑んで言い ました。張りつめた大広間の空気がほぐれました。 藩主と藩士の主従関係ではなく、同志という 関係  翌日、鷹山は約束通りもう一度大会議を開き。  「昨日は、柏木伊賀の発言に端を発して、多くの 者が伊賀の意見通りであるという答えがあった。 私はとても嬉しかった。しかし、一夜明けた。一 夜明けて、皆の意見はどうか、考えの変わった者 は変わったことを、この場ではっきり言ってほし い。私は謙虚に聞く。そしてその意見が、昨日と 全く反対で、即ち私の改革には反対する、私に 日向の高鍋に帰れ、という意見でもいい。私は、 多くの者がそう思うのなら、潔くそれに従う」 と宣言しました。しかし、昨日と違ってたちまち 反応があり、重苦しい沈黙はなく、異口同音に。  「昨日の意見に相違ございません。一夜明けても、 決して考えは変わっておりません」 と言いたてました。鷹山は前面を見ました。前面 に座っていた重役陣も、今日はまっすぐ顔をあげ て鷹山を見ていました。そしてこもごもうなずき、 やがて、その代表が。  「かれらの言う通りでございます。われわれ重役 陣も、御屋形様のご政道に決して異議はございま せん。改めて今日から努力いたします」 と言ったのです。鷹山は大きくうなずき、不覚に もその目に涙が滲んでいました。鷹山は嬉しかっ た。なぜ嬉しかったのか。改革を実際に推進する 現場から、まず賛成の声があがったからでした。 その現場の声が、中級藩士を動かし、さらに上級 藩士を動かしたことに鷹山は感動したのです。改 革は何と言っても現場が軸になる。その現場がよ く理解せずに、ぶすぶす燻ったまま、ただ上から の押し付けだけで、仕事をさせられれば、決して 納得した仕事ぶりは期待できません。不満が湧き、 不平が湧き、それはいずれくすぶって火が付き、 狼煙となって別な方向で炎をあげるかもしれませ ん。鷹山が一番心配していたのは、そのことでし た。  昨日の柏木伊賀の発言は、見事にその不安を消 し、現場の藩士たちは、鷹山の改革を文字通り支 持していました。身分の低い層ほど、鷹山を支持 していたのです。それが鷹山には何よりも嬉しく、 鷹山は、米沢に入って、初めて自分と心の通い合 う同志を得たような気がしました。それは、藩主 と藩士の主従関係ではなく、民のために、藩を富 まそうとする、志を同じくする同志という関係で した。同志的紐帯が、この囗、形に現われてはっ きり結束されたのです。  しかし、藩士全員の承諾が得られたといって、 それですませるわけにはいきません。七人の重役 を処断しなければなりません。大会議を二日続け た後、鷹山は、竹俣当綱を呼び、全役職者を広間 に集めさせました。広間に集められた役職者たち は、竹俣から厳しい指示を受けて、すぐ城外へ出 て行き、城門は固められ、また国境の宿場宿場に 兵が飛びました。武装した兵がそれぞれ関を固め、 やがて、七人の重役の家に、それぞれ使いが立ち ました。使いは丁重に鷹山の、「どうか心を変え て登城してほしい」という要請を伝えましたが、 七人はかたくなに首を振りました。彼らは、まだ 鷹山をみくびっていたのです。そこであらゆる手 続を取り終えた鷹山は、はじめて七人に出頭命令 を出しました。武装した何人かの士が七人の家に 向かい、こもごも城に入ると、城門が閉じられ、 彼らは、一人ずつ玄関から控室に入れられました。 玄関で、厳しい表情をした上たちが刀を奪い、紙 入れを取り、屏風で囲った中へ、一人一人を別々 に勾留しました。夜、七人に裁決が下りました。 すなわち。  「その方たちが申し出た趣は、藩上たちに相尋ね たが、政治に誤りもなく、竹俣ら諸重職も、奸佞 の儀は全くなかった。また今の政治には、民も帰 服している旨の申し立てがあった。にもかかわら ず、お前たちは、それぞれの非念をもって政治を 誹謗し、讒を構え、徒党を組んで、私を脅迫した。 その罪は重大である。そこで、千坂高敦、色部照 長両人は、隠居閉門を申し付け、知行のうち藩地 を召し上げる。須田満主、芋川延親両人は、即刻 簀倉において切腹を申し渡す。長尾景明、清野祐 秀、平林正在の三人は、隠居閉門を申し付け、知 行のうち三百石を召し上げる」  たかをくくっていた七人にとって、茫然とする 厳しい断罪でした。ましてや、鷹山のような若い 優しい人間が、二人の家老に切腹を命ずるとまで は誰も思いませんでした。鷹山が、二人の切腹者 を出すほど、厳しい処断をしたのは、七人は、鷹 山の政治と竹俣以下を誹謗するときに。  「これは全藩士の意見です」 とうそを言ったからです。鷹山は二度の広間の大 会議において、確かめましたが、七人の意見に同 調する者はなく、むしろ、「それは、われわれの 意見ではありません。われわれは、改革を支持し ます」という意見が圧倒的でした。鷹山からすれ ば、七人の書いたことが不当であっても、その背 後に多くの支持者がいて、書かれたことが多くの 藩士の意見であるなら、鷹山は潔く藩主の座を去 り、高鍋に帰ろうと思っていたのです。藩士世論 の支持のない改革は、進むはずがありません。本 当にそれが藩士世論であるならば、言い訳をせず に黙って去ろうと心を決めていたのです。しかし 現実は違っていました。鷹山は怒ったのです。上 に立つ者が、下の者の気持を代弁していると称し て、まったくのうそをついて、自分たちに都合の いいような言い方をしたことに、鷹山は怒りまし た。七人の重職は、民のための改革を推進したい という理念を塵ほども理解していませんでしたが、 鷹山は怒りをすぐ表わすことなく、何度も、「城 に来てほしい」と勤務につくことを要請し、冷静 に手続を踏みました。そして、二回の大会議にお いて、藩士世論が決定したときにも、鷹山は、も う一度、七人に出勤を要請しました。しかし七人 は出て来ませんでした。ここまでの手続を踏んで、 出て来なければ、鷹山は、最初の怒りの原点に 戻って、七人を容赦することなく処断せざるを得 なかったのです。  果敢な人事異動とも言える処断に、全藩士は驚 き、そして、改めて鷹山の優しさの底に潜む厳し さを発見したのでした。  「あの若い御屋形様は、とうていあなどれるお人 ではないぞ。怖いお人だぞ」 とこもごも思ったのでした。優しい人というのは、 得てして好い人、好人物と思われがちですが、鷹 山は決してそうではないことを自ら示したのです。 思えば、これはひとつの賭け、冒険でした。少し でも間違えたら、鷹山は一挙に信頼を失い、藩士 に背を向けられる可能性もありました。しかし、 藩士たちは背を向けず、むしろ七人を処断したこ とに、拍手を送ってくれました。  鷹山の改革は、危機を脱したのです。しかし鷹 山は七人を処断したものの、いつまでもその状態 を続けませんでした。二年後、切腹した須田、芋 川の息子たちを召し出し、家を継がせ、新知二百 石ずつを与えました。藩庁が預かっていた、両家 重代の刀や系図を返し、士組に組み入れ、また千 坂、色部、長尾、清野、平林らは閉門を免じ、そ の相続人に家督を命じたのです。 藩士と藩民の意識改革と後継者育成のために 藩校を設立  改革の進展に伴い、鷹山は、その改革の理念が 引き継がれ、今の藩士たちの胸に燃えている火が、 そのまま次代に引き継がれることが大切だと思う ようになりました。いつまでも、自分が主導者で あり、藩士が鷹山を頼るのではなく、藩士は早く 自立しなければならないし、改革は皆のものなの です。そのためには、藩校を設立して、若い子弟 を教育することが大事です。教育こそ、後継者養 成に欠くことができない事業であり、養成される 若者たちは、学問に専念して、余計なことを考え ないような環境に置くことが必要だと考えました。 処世術ばかり身につけた旧タイプの藩士は、米沢 には不要なのです。  鷹山は藩校の創立を思い立って、竹俣当綱に相 談しました。命を受けた竹俣は、藩校創立には異 論はありませんでしたが、藩には余裕のお金はな く、頭を抱えましたが、あらゆる方策を講じて学 校創立のお金を調達しました。  「学校を創ることは私にお任せ下さい。しかし師 としてどなたをお招きでございますか」 と聞き、鷹山は、  「細井平洲先生である」 と応じました。細井平洲への講師要請の使いが江 戸に発ちました。平洲招請のことは、七人の重職 があれほど真向から反対したことでしたが、鷹山 は、誰が何と言おうと、上杉藩の藩校には、細井 平洲をおいて、子弟を教育する師はいないと思っ ていました。平洲は喜んで米沢にやってきました。 鷹山は、米沢城から約ハキロの地点にある今の奥 羽本線の関根という駅のそばの普門院という寺ま で直々に迎えに出ました。それほど鷹山は、細井 平洲に、私淑していたのです。  細井平洲には、旧友の藁科松柏の死という悲し いことがあり、米沢に着いた平洲は、すぐ松柏の 墓のある善立寺に行き、松柏の墓の前でいつまで もその冥福を祈りました。新しい学校は、興 譲館(現在山形県立興譲館高校)と呼ばれました。 学校の名の由来は、「大学」一節にある、「一家仁 一国興仁一家譲一国興譲」からとられ、細井平洲 が命名しました。平洲は命名するときに、   「興譲とは、譲を興すと読みます。譲を興すと は、。恭遜の道”を修養させることです」と説明 しました。教授には、片山一積と神保容助をそえ、 事務局長には莅戸善政を命じ、聖堂、講堂、学寮 など二十余の部屋からなっていました。また食堂 や当直室や看護室なども完備し、寮も作られ宿泊 も可能でした。学生たちは、泊まりこみで勉強す る者と通って来る通学生とに分かれていましたが、 寄宿舎に泊まれる学生は、学問の成績優秀な者二 十人でした。これを定詰勤学生と言って、宿舎代 をただにして逆に手当を出しました。そして、後 輩の指導に当たらせ、指導だけでなく、助教授の ような扱いをしました。そして、どういう学問を どういうふうに教えるか、あるいはどういう書籍 を購入するかなども、すべてこの二十人の学生た ちに討議をさせ、その合意によって決定するなど、 運営はかなり民主的でした。大部分が二十代の青 年で、最初に学頭に選ばれたのは、千坂与市とい う三十歳の青年でした。  教育の目的は、 ○上級藩士の子弟は、一国の安危を任せられるよ うな家臣に育てる ○中級の子弟は、命を上に受け、令を下に施す忠 良な家臣に育てる というようになっていました。当時の幕藩体制の 限界を示しているのはやむをえませんが、選ばれ た学生たちの生活はかなり自由で、ここでは身分 はものを言わず、むしろ、長幼の序が重んぜられ ました。同時に才能の有無が並行して重要視され、 この学校を出た子弟で、のちに米沢藩の農政改革 の先頭に立って活躍する人物が多かったのは、や はり平洲の教育方針が、実学を重視したからです。 そして興譲館は、決して孤立した士だけの学校で はなく、平洲は、鷹山と相談をして、庶民の中で も、学問好きな者はどんどん入学させました。同 時に、平洲はじめ教授陣は、町や村に積極的に出 かけて行って、村人や町人を集めて出張講義をし たのです。教科書は、「孝経」をもとに人間道徳 をひじように分かりやすく話し、村人や町人たち は喜んで集まり、平洲や教授たちの話に深い感銘 を受けたのでした。 第七章 改革の光と陰  天明五年(一七八五年)二月三日、鷹山は隠居の願 書を出し、鷹山は隠居を、治広は家督相続を正式に許 される。鷹山在職十九年で三十五歳。この時鷹山は、 洽広に米沢藩主としての心得三ヵ条を与えた。 『国家は先祖より子孫に伝え候国家にして、我、 私すべきものには之無く候 冂人民は、国家に属したる人民にして、我、私すべ きものには之無く候 匸国家、人民のために樹てたる君にて、君のために 樹てたる国家、人民には之無く候  というもので、「伝国の辞」と呼ばれ、米沢藩主が 交代するたびに引き継がれた。「伝国の辞」には、鷹 山の思想がはっきり現われている。  藩は藩主の私物ではないということ、藩の民すなわ ち藩民もまた私物ではないということを明らかにして いる。領民は藩という当時の自治体に属しているので あって、たまたまそこに遭遇した藩主や藩士たちの私 的税源ではまったくない。藩主というのは、その国家 (藩)と人民のための仕事をするために存在するので あって、国家や人民は、藩主のために存在しているの ではない、と明確に宣言している。 権力に溺れた右腕・竹俣当網の堕落  民富という改革理念の浸透、藩士の討論や合意 による方法論の確立とその実行、後継者の養成、 藩士ならびに藩民に対する改革の趣旨の徹底など、 鷹山は、着々と自分の考えを実行していきました。 しかし、ここに思わぬことが起こりました。七人 の重役陣処断から四年後の安永六年(一七七七) のことです。  どんなに優れた人間でも、あるいは鷹山の考え を理解していても、好事魔多しというたとえの通 り、権力は魔もの。権力に永くなれていると、知 らないうちに人間は堕落する、その典型的な例が、 鷹山の、それもごく身近な所で起こったのです。  竹俣当綱が堕落したのです。竹俣当綱は鷹山の 全面的な信頼を受け、江戸藩邸のときから改革案 の作成に加わり、本国にあって執政に命ぜられ、 改革推進のほとんどを一身に背負って実行してき ました。これは、鷹山にとっても当綱にとっても、 大変なことであり、その辛さは言いようがなかっ たはずです。藩の破綻寸前の時期に、人の嫌がる 改革を進めるということが、どれほど世の指弾を 浴びることになるか、二人ともよく知っていたか らです。しかし竹俣はその任を避けることなく、 彼は鷹山の信頼に応えて、特に農業政策に優れた 治績を残しながら、改革をどんどん実行していき ました。この改革を単なる政策変更だと見る者も たくさんいました。それは、政策の変更を、人事 の異動による  「政変」 と見る層です。こういう層は、政策の中身よりも、 その時の権力者が誰であるかということにしか目 を向けません。米沢藩内にも、一部の藩士、ある いは商人、富農の中に、そういう見方をする者が いました。  「他家からおいでになった若い御屋形さまは、竹 俣さまを信頼しておいでになる。これからの政事 は、竹俣さまの意のままにおこなわれる。竹俣さ まこそ新しい権力者である。すべて竹俣様にお願 いしなければ、ことはならないし、また何でも竹 俣さまにお願いすればことはなる」 と考えた層です。竹俣に取り入ることが人事の上 で有利になり、また商人や富農は、商売がうまく いき、あるいは税の加減がしてもらえると思い、 竹俣のところに殺到したのです。それぞれ土産物 や、金を持参し、竹俣に取り入りましたが、竹俣 も、ばしめはこういう層を相手にせず、会うこと もなく、家来を通じて。  「早々に帰れ」 と言って、追い返していました。しかし、こうい う層の竹俣への接近はしっこく、あの手この手で 竹俣を籠絡しようとしました。そのうちに面倒に なった竹俣は、つい、「一度ぐらいなら良いだろ う」と思ってつきあい、一度が二度になり、三度 になり、ついには罪の意識も薄れ、習慣になって しまったのです。竹俣は、よく村を回りましたが、 村を回っても、昔のように厳しい態度で観察し、 自分が稲田に入って、稲の実り具合を調べるとい うような手のかかることはしなくなり、村の豪農 の家に泊り込んで、朝から晩まで宴会を続けるよ うになったのです。改革当初の重圧感からの解放 から気が緩んだのか、あるいは、権力の甘美さに 溺れたのか、魔がさしたとしか言えず、昔の竹俣 からは、想像も出来ないことでした。  それまでの竹俣は、上杉家中興の名臣として鷹 山の改革を助け、縦横に才略を活用して、きびき びと改革を進め、藩が抱えていた莫大な借財を、 何人もの商人に頼みこんで、返済を延ばしても らったり、植樹のための資金を提供してもらった りして藩の資金繰りを助けました。また漆、楮、 桑、などの大規模な植樹計画を立て、実行し、改 革の思想の中核となった細井平洲招請にも彼は労 を惜しまず実現させました。つまり耕田、殖産、 蓄米など、いちじるしい業績のすべては、竹俣に よるものでした。竹俣は人に誉めそやされている うちに、その功に酔ったのです。悪いうわさが 次々と鷹山のもとに入ってきて、鷹山は胸を痛め ました。十一月二十五日、突然竹俣が鷹山に目通 りを願い出ました。  「どうしたのだ」 と胸の中の痛みには触れずに、鷹山は聞きました。 竹俣は  「辞職させていただきたいと存じます」 と唐突に辞職を願いでました。しかし、鷹山は無 言で竹俣をみつめ、竹俣もじっと鷹山を見つめ返 しました。鷹山は、この時、(竹俣は不純な考え を抱いている。この辞職願いは本心ではない。私 を試しているのだ。彼は世間の悪評を知っている。 それが私の耳に届いていることも知っている。だ から、先制攻撃をかけて、辞職を願い出て、私か どう対応するかを見つめているのだ)と悟りまし た。鷹山は竹俣の辞職願いを許さず。  「そういうことを言わずに、今まで通り私の忠臣 として、どうか私を助けてほしい。私は、変わら ずにお前を信頼しているのだ」 と言いました。竹俣は、感動して平伏しました。 しかし、その面上にほっと安堵の色がよぎったの を鷹山は見逃しませんでした。鷹山は若いけれど も、人間を見る眼、洞察力には優れていたので、 竹俣の手には乗らなかったのです。そして、しば らく様子を見るために、竹俣を泳がせようと思っ たのでした。  この囗以後も、鷹山の恩情ある計らいを受けな がら、竹俣は心を入れ替えず、その堕落ぶりはい よいよ速度を増しました。彼の巡村といえば、村 を挙げてのご馳走という意味にとられ、竹俣に 追従する多くの奸佞の徒が生まれ、腰巾着として 竹俣につきまとい、村々を歩いてはご馳走のお 裾分けにあずかったのです。そして大きな顔で。  「今年の税の多寡は、みんな我々が決めるのだ ぞ」 と酔った声で、村々を触れ歩きました。村人たち は辟易し、そして。  「これが御改革の実態なのか」 と密かに胸の中で思ったのでした。竹俣の所行に よって改革は、初めの理念を失い、次第に汚れた ものとして藩民の眼に映るようになっていきまし た。そういう報が頻々と鷹山のもとに入ってくる ようになり、鷹山も捨ててはおけなくなりました。 そして事件が起こりました。  「おまえは、いま白分か言ったことを本気で 信じているのか」  鷹山が江戸へ参勤に出て、国許にいなかった時 のこと、竹俣は下長井の村々を巡回して、小松と いう宿場に泊りました。翌日が上杉謙信の命日に あたり、藩では、謙信の命日には、藩主が直々に 社に詣でるしきたりがあり、藩主が江戸に参勤中 で不在の時は、執政がこの代わりを勤めることに なっていました。竹俣は、その日が謙信の命日で あることを知っていたのか忘れていたのか、いつ ものように彼は酔いつぶれていました。さすがに このことに気づいた供の者が。  「神社にお詣りにならないと、大変なことになり ます」 と、心配顔で言ったのですが、竹俣は、構わぬ、 構わぬと手を振り寝入ってしまい、目が覚めた時 は、すでに囗は中天に高く昇り、昼を過ぎていた のです。社に駆けつけるにも間に合わず、代参の 執政がついに姿を見せなかったことで、社の方で は大騒動になっていました。このことは、急飛脚 をもって江戸の鷹山のところに告げら、鷹山はさ すがに怒り、苦悩しました。そして、江戸に従い てきている莅戸善政や佐藤文四郎を呼び、二人に 聞きました。  「おまえたちは、竹俣のことを知っていたか」  フ・・はい」 二人は苦しそうに答えました。  「なぜ、私に言わなかった」 二人は困ったように下をむき、やがて莅戸が顔を あげて言いました。  「竹俣さまは、御屋形さまのご信任のもっとも厚 い方です。もし、お耳にいれて、御屋形さまのお 心をお苦しめ申してはと…・」  「耳の痛いことは言わなくなったのだな」 莅戸はびっくりして鷹山をみましたが、ことばに はトゲがあり、二人はこんな鷹山を初めてみまし た。いつも優しい鷹山が、明らかに怒っていまし た。鷹山は言いました。  「よいか。藩主の乱れは、忠臣が本当のことを言 わなくなったときから始まる。耳の痛いことを言 わずに、耳に快いことばかり報告するようになれ ば、藩主は次第に暗君になる。真実から次第に遠 ざけられるからだ。そうなった時、忠臣はもう忠 臣ではない。おまえたちもそうだ」 鋭い鷹山の言葉に、二人は身を固くし、あぶら汗 を流していたので、鷹山はやや声をやわらげ。  「と言いたいところだが、私はまだおまえたちを 忠臣だと思っている。そこできく。おまえたちが 私の気持を傷つけないために、竹俣のことを黙っ ていたことはよく分かった。しかし、竹俣に対し て、おまえたちはなぜ忠告しなかったのか、馬鹿 な所行をやめよと、とめなかったのか」  フ・・忠告はいたしました。とめもいたしまし た。しかし」  「しかし?」  「竹俣さまはききません。きかないどころでなく、 こういうことを申しました。『ご改革の目的は美 しい。しかし、それを実行するのには、奈落での 根まわしがいる。その根まわしをする汚れ役がい る。おればその汚れ役なのだ』と」  「根まわし?汚れ役?」 鷹山の眉が再びけわしくつり上がりました。  「竹俣がそう申したのか」  ここで佐藤が顔をあげました。必死の表情に なって  「清い政治をおこなうのも、人間が相手であれば、 必ず汚れ役が要る、という竹俣さまの言葉にも一 理ございます。なるほど、お屋形さまのご改革の 理念は美しゆうございます。しかし、残念ながら その美しさを全藩士・全藩民が理解しているとは いえません。まだまだ反対する者や横を向いてい る者もおります。  竹俣さまは、そういう連中を相手になさってい るのです。なにとぞ、竹俣さまのご苦労のほどを お察し下さいますようお願いいたします」 鷹山はじっと佐藤をみつめ、やがて言いました。  「竹俣を許せ、というのか。佐藤」  「はい」  「おまえは、いま自分が言ったことを本気で信じ ているのか」  「は?」  「私の改革に汚れ役が要ると本気で信じているの か。かつてこの江戸藩邸で、蚊を追うことを拒み、 私に足軽たちの生活の実態をみせたおまえが、本 気でいま言ったことを信じているのか」  「それは・・・」 たちまち佐藤は狼狽し、竹俣をかばう一心で、佐 藤は信じてはいなかったことを囗にし、そのこと を鷹山に鋭く見ぬかれて狼狽したのでした。鷹山 は静かに言いました。  「二人が竹俣をかばおうとするのは分かる。が、 それは、耳に痛いことは絶対に私の耳にいれまい とするのと同じだ。誰のためにもならぬ。私の改 革に汚れ役はいらぬ。どんなに時間がかかろうと、 反対があろうと、私は清い政治をつらぬく。米沢 を再び濁った沼にしてはならぬ。汚れ役が根まわ しをすれば、たしかに仕事の進みは速かろう、が、 私はそういう姑息で拙速な道はとらぬ。私の改革 は、どれほど道が遠かろうと、清い方法で歩く。 それは、領民のためである。改革は領民のために おこなっているのであり、そうであるなら、領民 の眼にいささかの汚れもみせてはならぬ。私は竹 俣を斬る。泣いて馬腹を斬る」 二人は平伏しました。やがて肩をふるわせて泣き 出し、竹俣への思いもありましたが、それ以上に、 そこまで考えていた鷹山の辛い心情が手にとるよ うにわかったからです。そして、本当はそれをわ かりながらも、つい、妥協的心情になっていた自 分たちの甘さを、いやというほど思い知らされた からでもありました。二人だけでなく、鷹山も目 をとしていて、その目から、いまにも涙がこぼれ 落ちそうになっていました。鷹山は莅戸に密命を 下しました。  「つらいたろうが、おまえの役目である」  「よく分かっております」  密命を下す鷹山の顔は苦渋にみちていました。 莅戸は密命を受け、すさまじい木枯しと冷雨の中 を急いで米沢本国に下りました。憂鬱で、荒れた 心情の中、那須野の原に来た時、彼は歌を詠みま した。  故郷に帰ると人の羨まん   山路を越える憂きを知らねば  旅衣晴れぬ想いを重ね着て   しぐるるまでに袖は濡れつつ  「私か処断するのではない。歴史が処断する のだ」  米沢に着いた莅戸は、すぐ年寄や執政群と語っ て使者を竹俣の家に差し向け。  「御用があるのでさっそく、執政の家まで来ても らいたい」 という口上を言わせました。執政は複数制であっ て、竹俣はその最高責任者でしたが、竹俣は使い の表情から、用が何であるかを悟りました。(や はり来たか)と潔く覚悟し、衣服を改めて、指定 された場所に行きました。上座に着いた莅戸が執 政や重役たちの同座する中で、竹俣に、朧山の密 命を伝えました。  「御役を免ずる。芋川邸に押籠める」 という判決でした。竹俣は。  「恐れ入りましてございます」 と言って、この命を潔く受けました。竹俣はこの 時五十四歳。すでに、竹俣は自分のやっているこ とが藩内で悪評を呼んでいることを知っていまし たし、彼自身、決していいと思ってはいませんで したが、結局は惰性、習慣がいつの間にか彼を深 みにはめてしまっていたのでした。竹俣は、誰か の手によって処断されなければ、自分自身をこの 深淵から救い得ないと思っていたので、鷹山の 「御役御免と押籠め処断」は、竹俣自身にとって はむしろ救いであったのです。彼は鷹山を恨まず、 逆に感謝しました。  竹俣は、押籠めになって以来、全く別人のよう に昔の竹俣に戻り、毎日毎日きかされる藩政の動 向について、一喜一憂しました。そして、彼はい ろいろときかせてくれる人に意見を言いましたが、 その意見は、誠忠無比、理念に忠実で、質素な暮 らしに甘んじていたころの竹俣そのものであった と言います。竹俣も鷹山の改革を心から信じてい たのですが、その方法論の展開において魔がさし たのか、自分自身が権力の虜となってしまったの です。しかし、その権力から解放されると、竹俣 は再び誠忠無比の人間に戻り、芋川邸に幽閉され ること三年で、後に自分の家に帰ることを許され ましたが、謹慎は解かれませんでした。十年の禁 固刑に処せられて寛政五年(一七九三)六十五歳 で死去。禁固中、彼は歌を詠んでいます。  積もる圉いつかは我が身に白雪の   今日の寒さを訪う人もなし  彼は幽閉中もいろいろな改革論を書き、「長夜 寝語」、「樹養編」、「文武論」、「政談夜光集」など の政務要書数十巻を書きました。そして、子の 原綱に。  「自分は不破のために幽閉の身となった。この後 生きて御国に報いることはできない。これが死ん でも心残りである。お前は幸いにして執政の職務 に就くことになった。私の書いたこの本の中から、 良いものを選んでおこなってくれ。それが私の志 を継いで、国に報いる道である。お前がそうして くれれば、私は地下ではじめて安心出来る」 と遺言しました。ひとことも私事に及んだり鷹山 に対する恨みの言葉はなかったと言います。十年 の禁固が、淡々と彼に反省の日々を続けさせたの です。  トップの信頼を一身に集めて、自分ではそのつ もりでなくても、権力が集中していると見られれ ば、まわりの人間が放っておかず、寄って集って 堕落させてしまう典型的な例でした。同時にまた、 そういう連中に対しては、根まわしとか、仁義を 切るというような古いしきたりが、まだまだ効果 があるという藩内の古さもあり、その古さが残っ ていた竹俣は、その古さにひきずられ、(鷹山公 の目的を早く実現するのには、この方が速い)と 思い、目前の現実に即応して、改革理念の遠大さ を忘れたのでした。竹俣は、そういうことを知り ながら、焦って、つい、古いしきたりを復活させ てしまいました。しかし、歴史がそれを認めませ んでした。歴史の進みぐあいを知る鷹山は、だか ら  「私か処断するのではない。歴史が処断するの だ」 と言いながら竹俣を処断したのです。竹俣のよう なタイプは、企業草創時の功労者の中にたくさん います。しかし、いつまでも、昔の功にしがみつ いていると、結局は、歴史に処分されるのです。 「国家や人民は、藩主のために存在している のではない」  改革を進めるに従い、鷹山は、自分がいつまで も藩主の座にいることが、米沢藩のために果たし て良いのか悪いのか考え始めていました。それは、 皮肉にも鷹山が養子に決まった後、前藩主重定に 男の子が生まれたからです。安永五年(一七七 六)四月、二十六歳の上杉鷹山は、前藩主重定の 十三歳の子供保之助を自分の相続人としました。 愽役(家庭教師)に剛直の士で、学問も深く、鷹 山の理想もよく理解している木村高広を命じまし た。天明二年(一七八二)、鷹山は江戸に出て、 幕府に保之助を養子にすることを願いで、これが 許されると九月に将軍家治に謁見し、将軍の名を 一字もらって保之助は治広と改めました。十九歳 でした。越えて十一月、尾張大納言宗勝の娘純姫 と婚約しましたが、同じ日に、傅役木村高広が辞 任しました。剛直の士木村は、十三歳の治広の博 役を命ぜられてから、厳しく後継ぎ教育をしまし た。その教育方針の中に。  「この若君は、お屋形さまのように育てなければ ならない。そうすることが私の責任だ」 と思っていました。だから、すべて治広のするこ とに。  「そんなことをお屋形さまはなさいませぬ。お屋 形さまならこうなさいます」 と何事につけても上杉鷹山を物指しに教育したの です。これが治広には面白くなく、自分というも のを失い、立派過ぎる先代を物指しにされたら、 手七足も出なくなってしまいます。治広は次第に 木村が嫌いになり、木村だけでなく、お屋形さま である上杉鷹山すら嫌いになっていったのでした。 そうなると、そういう気配を察知した家臣群がま た動揺し。  「若君は、どうもお屋形さまがお嫌いのようだ。 そうなると、お家を継いだあとは、お屋形さまの ような政務は、お執りにならないだろう。当然、 お側に仕えるものの陣容も変わってくるに違いな い」 と人事の布石まで予想して、噂話を始めるのでし た。木村は、治広がしっかりしなければ藩内の動 揺がさらに増すと判断し、いよいよ治広に対して 厳しく「お屋形さまのように」という基準を適用 したために、ついに治広が怒り。  「そうそうお前の言う通りにはならん。私は私で あって、父ではない。私は私の思うように生き る」  と宣言したのです。この言葉は、木村には大変 な衝撃を与え、木村は家に引き籠り、絶食し、引 き籠ったまま出仕しなくなりました。極度に思い 込んでいた木村は、治広が相続人に決定し、将軍 から名の一字をもらって尾張家の娘との結婚が決 まった日に、辞任し、間もなく家で自殺しました。 五十二歳でした。さすがに治広も驚いて、木村の 数年間の博役の功を賞し、深く墓前に詣で、長く このことを忘れずに、木村の命日ごとに、霊前に 供物を送り続けました。  天明五年(一七八五)二月三日、鷹山は隠居の 願書を出し、鷹山と世子治広は、江戸城に入って、 鷹山は隠居を、治広は家督相続を正式に許されま した。この時、鷹山は三十五歳。在職十九年でし た。鷹山は、治広に米沢藩主としての心得三ヵ条 を与えています。 一。国家は先祖より子孫に伝え候国家にして、 我、私すべきものには之無く候 一。人民は、国家に属したる人民にして、我、私 すべきものには之無く候 一。国家、人民のために樹てたる君にて、君のた めに樹てたる国家、人民には之無く候 右三条、御遺念あるまじく候事 天明五已年二月七日治憲 治広殿 机前  というもので、世間はこれを、「伝国の辞」と 呼んでいます。この伝国の辞は、米沢藩主が交代 するたびに引き継がれました。  「伝国の辞」には、訳すまでもなく、鷹山の思想 がはっきり現われています。当時の封建幕藩体制 下では、領民の人格を無視し、藩主はそこの藩民 を私物として考え、単なる税源としてしか扱って いませんでした。しかし鷹山はそうは考えず、こ こで国家というのは藩のことですが、藩は藩主の 私物ではないということ、藩の民すなわち藩民も また私物ではないということを明らかにしていま す。領民は藩という当時の自治体に属しているの であって、たまたまそこに遭遇した藩主や藩士た ちの私的税源ではまったくない、藩主というのは、 その国家(藩)と人民のための仕事をするために 存在するのであって、国家や人民は、藩主のため に存在しているのではない、と明確に宣言したの です。これは、今から二百数十年以上も前の封建 領主の言葉とは、とても思えません。後に民主主 義政治をおこなう政治家でさえも、ここまではっ きり自分の立場を認識して、天下に明言した人は 少なく、明言しても、その通り実行する政治家は さらに少数になると思います。ケネディ大統領が、 「私の最も尊敬する日本人」として鷹山の名前を あげた理由は、このへんにあるのだと思います。  もう一点、鷹山のこの考えは、あきらかに藩機 関説です。藩は人民の合意を実行するための機関 だということを明言しているのです。二百数十年 以上前に、こういう民主主義的な考え方を表明し たことは、徳川幕藩体制下では稀有のことであり、 鷹山の思想がいかに思い切ったものであったかを 示しています。近代民主主義の概念もない時代の 鷹山の独創であったのです。原典は恐らく中国の 書物中の  「藩主七人民に奉仕するものである」 という主権在民説を学び取っていたのです。  これは、現代の企業において、  「顧客こそ主人であって、企業員はこの顧客に奉 仕するものである。なぜならば、企業員の生活費 は、顧客から与えられるものだからである」 ということにも通じます。  「私の理念のために彼ら(側近たち)は命を 失った」  上杉鷹山の治績は、相続人治広とそれを支える 新しい家臣団によって引き継がれました。しかし 治広と治広を囲む家臣団は、気力においていささ か欠けるところがあり、ついに、鷹山の改革政策 を次々とくつがえし始めました。彼らは、改革を 推進するうえで逆流してくる渦を受け取めるには、 あまりにも力が弱く、降参してしまったのです。  「民富が目的で、藩が富むためではない」 という鷹山の改革の趣旨が、新藩主の側近群には 気にいらず。  「民富とは何だ、農民なんてゴマと同じで、絞れ ば絞るほど油がとれる」 と、また、昔ながらの農民観をもち出し、  「おれたちは武士だ。士農工商のトップに立つ。 この世でいちばんえらい人間だ」 という意識が前へ出て不満となって出てきたので す。治広たちには、気力も信念七情熱もないから 説得できなかったのです。次第に押され「侍は侍 に戻そう」ということになって、侍が農工商に協 力することを一切やめてしまい、地域産業を振興 する役所は廃止され、侍たちはまた城に戻ってき ました。「休まず・遅れず・仕事せず」に戻った のです。鷹山は憂慮しましたが、隠居の身でよけ いな口出しはできず、彼の周囲にも忠臣が減って いました。  いま鷹山の脇にいるのは、わずかに佐藤文四郎 だけでした。その佐藤は、囗を追って変わる新政 権の政策に、怒りの声をあげました。  「かれらは、まったくご隠居さまのお心が分かっ ておりません。せっかくのご改革が、全部元に 戻ってしまいました」  「治広殿には治広殿の考えがあるのだ。そういき り立つな」  「しかし、治広さまはともかく、まわりにいるや つらはひどすぎます。やつらのやることは、前代 の政策は何でもひっくりかえしてやろう、という いやがらせです」  「そうひねくれたもののみかたをするな。やがて 私たちが正しかったことが分かる」  「そうでしょうか」 くやしがる佐藤はこう言いました。  「ああ、いまにして思えば、竹俣さまがああなる 前に、私たちはもっとつよく忠告すべきでした。 ご隠居さまのおっしやったことの正しさが、改め て思い起こされます」  「すんだことだ。過去をふりむくな。治広のため に、前を見よう」  「しかし、このままでは米沢藩はつぶれます。 きっとつぶれます」  「そういうことはあまり確信をもって言うな」 鷹山は苦笑しましたが、思いは佐藤と同じでした。 寂莫たる思いが鷹山の胸の中にありました。それ は二代目が自分の考えで先代の政策をひっくりか えすのはいい、しかしそのことによって、こんど こそ本当に米沢藩がつぶれてしまうことを、治広 たちは知っているだろうか、いや、おそらく知る まい、というむなしさでした。  米沢藩は再び危殆に瀕したのです。改革続行の 声は意外なところからあかってきました。それは 開拓地にいる下級武士や地場産業に携わっている 藩士の家族だちからでした。かれらは。  「徒食者の侍が、せっかく得た生きがいを失いた くない」 と言い、家族たちは、  「貧しい家計の足しになる収入を失いたくない」 と言いました。そして  「改革の火ダネを消すな、火はまだ我々の胸に燃 えている」 と叫ぶ者がたくさん現われたのです。ほとんどが 現場からの声でした。そして、その声は、  「ご隠居さまにもう一度政務をとっていただきた い」 という要望に変わり、  「補佐役に莅戸殿を」 という要求にたかまっていきました。治広派はこ の声におされ、ついに治広自身、鷹山のところに きて。  「どうか、もう一度、藩政のご指導を」 と頭をさげたのです。鷹山は腰をあげ、隠居の身 のまま、もう一度、藩政の前面に出ました。院政 のような形で莅戸善政が登用されました。竹俣当 綱が死んだのち、木村高広も死に、鷹山の側近群 は、次々と倒れ、いずれも不幸な死であったため に、(私の理念のために彼らは命を失った)と鷹 山は痛恨極まりなかったのです。彼らを犠牲者と して見ていたのです。鷹山は、莅戸善政に神保容 助、黒井忠寄らを配して、表面は治広体制を強化 しながら、内実は鷹山が政治指導をしました。  この人事異動によって、かつての改革政策が復 活しました。養蚕を奨励し、その他の国産品を振 興し、医学館も建て、堰を造り、村々に伍什組合 をコミュニティとして組織させ、次々と民富を実 現していったのです。藩政は再び安定し、それを 見届けて、文政五年(一八二三)二月十二日、鷹 山は病を得て床に就きました。治広から斉定に家 督が継がれていましたが、二人はもちろん、家臣 団のすべてが深く憂慮するなか、三月十二日の 早暁、丑の刻に、鷹山はついに冥界に旅立ちまし た。七十二歳でした。 終わりに いまなぜ上杉鷹山か  藩校設立にあたって、鷹山は、誰が何と言おうと、 上杉藩の藩校には、細井平洲をおいて子弟を教育する 師はいないと思っていた。平洲が米沢に入国するとき には、鷹山は、米沢城から約ハキロの地点にある今の 奥羽本線の関根という駅のそばの普門院という寺まで 直々に迎えに出た。それほど鷹山は、細井平洲に、 私淑していた。それから十六年後、平洲もすでに六十 九歳の老境に達していて、いつ死ぬかわからない。 (死ぬ前に、もう一度米沢の地を見てみたい)という 思いもつのり、鷹山の後を継いだ治弘からの招きを受 けて、平洲はみたび米沢へおもむき、懐かしい土地と 人々の姿を、その目で確かめた。 そのときも四十六歳になっていた鷹山は、生涯の師平 洲を普門院まで迎えに出て、涙の再開をした。 愛と労りの精神を守り通した鷹山の生涯  七章にわたって、書き進めてきた鷹山の米沢藩 改革の生涯を概観すると図1のような表現になる でしょうか。全体の核になる鷹山の思想は。  「藩が富むのではなく、藩士、領民が富むために 改革を行う。そうすれば藩も富む。藩主はそれを 実現するために存在する」 に尽きると思われます。そのために、藩主には、 藩士や領民、弱い立場にある人々への「愛」と 「労り」の心が必要であると説きました。改革反 対派は。  「そのような政策は、莫大な資金を必要とする。 米沢藩にはそんな余裕はない」 と、激しい批判の根拠としました。しかし鷹山は、 ぶれることなく、実現しようとしました。いまの 時代でも、ある種の思想や方針をしっかり持って、 改革を実現しようとすることがいかに困難なこと か、我々は体験的に知っています。鷹山の改革に 覆いかぶさったいくつもの困難や妨害がそのこと を物語っています。しかし鷹山は、あれかこれか、 という単純な決め方をする人ではなく、いくつか の案を俎上に載せて、比較検討しながら組み合わ せ、よりよい選択をして物事の実現を進めること ができる人でした。図の全体を貫く、黄色の円は、 既存の考え方や習慣にとらわれない、また感情の 起伏に左右されない、鷹山の冷徹で合理的な精神 を表しています。 その鷹山が  「わが改革の成功はすべて平洲先生のたまもので ある」 と事あるごとに語っていたのが、鷹山の生涯の師 細井平洲の教え、思想でした。この細井平洲の言 葉を、最も正確に受け止め、実行したのが上杉鷹 山でした。平洲は、交流した多くの学者たちを通 じて、その学者たちが仕えている藩や藩主などの 改革の実相を聞いて、これを全て鷹山に伝えまし た。 改革の本質−上杉鷹山の実践と細井平洲の思 怎 ふ介                    おうめいかんいそう  細井平洲がその著書『嚶鳴館遺草』で説いたの は、「恕の精神」、つまり、「忍びざるの心(孟子 がいった言葉で、弱い人や困っている人にそそぐ 人間の優しいいたわりの心)」をもって治世を行 うことと「真の経済の道」、「経世済民」すなわち、 「乱れた世の中をととのえ、苦しんでいる民を救 う」という思想でした。経済というとすぐ銭勘定 だと思いがちですが。  「真の経済を行なうためには、民を愛する政治を 行なうという姿勢がなければなりません。その基 盤に民を愛する父母のような気持がなければなら ない。治者は民の父母であるというのは、世の親 のような気持になって政治を行なってほしいとい うことであります。世の親は、子供が飢えていれ ば自分の食べる食事も差し出します。また、子が 勉強をしたいのにもかかわらず資金が足りなけれ ば、自分の生活費を削ってでも子に学費を送りま す。こういう愛が政治にも必要なのです」 とも説きました。上杉鷹山の改革路線は、『嚶嗚 館遺草』の思想を粘り強く具体化していったもの です。 有名な鷹山の歌 なせばなる なさねばならぬ なに事も ならぬは人の なさぬなりけり に改革の精神がすべて盛り込まれています。 ○目標を設定する。 ○実現手段を考える。 ○計画を立てる。 ○計画を細分化し、仕事として各担当に割り当て る。 ○進行管理をおこなう。 ○為し遂げた成果に対して評価をおこなう。 ○失敗したところがあれば、なぜ失敗したのかを 探索し、あらためて改善をはかる。 ○総合評価をおこなう。 この現代にも通じる改革のプロセスを鷹山は、丹 念にひとつ一つ形にしていったのです。  上杉鷹山は、寛延四年(一七五二秋月家江戸 一本松邸に生まれました。秋月家は日向高鍋の石 高三万石の小藩の藩主で、元々は筑前秋月の地頭 でしたが、秀吉の九州征伐に際し島津に味方した ため、日向高鍋に移封され、関ケ原の戦いで東軍 に寝返って本領を安堵されました。初代藩主は、 秋月種長で、七代種茂は鷹山の兄になります。高 鍋藩も他の外様藩同様、慢性的な財政難に悩まさ れましたが、宝暦十年(一七六〇)に家督を継い だ種茂は山林・塩田・牧畜事業を手掛け、材木、 炭、塩、しいだけ、蝋などの稲作以外の付加価値 の高い生産物をつくり、藩の財政再建を行いまし た。安永七年(一七七八)には、藩校の明倫堂を 創設して人材を育成し輩出しました。種茂と鷹山 がどのように交流し、情報交換したのか定かでは ありませんが、鷹山が幼少のころから小藩の悲哀 を聞かされて育ったことは想像に難くなく、種茂 の施策と鷹山が米沢に入り実施した政策には共通 性が見受けられます。平洲も。  「ご出身の日向(宮崎県)高鍋藩の藩主秋月家は、 代々藩政改革の名手でいらっしゃいます。特に、 あなたのご実兄種茂様は、めざましい改革をおこ なわれました。こういうことも全て模範として、 頭の中に置かれるべきでしょう」 と勧めました。  当時の常識からすれば、日向高鍋藩秋月家は、 ちっぽけな三万石の大名にすぎず、上杉家は十五 万石とはいっても、もともとは百数十万石を領し た大家であり、同時に家そのものは関東管領の名 門で、たまたま養子になった若い藩主に大藩の経 営などできるはずがないというものでした。つま ●この大家と小家との差を、一体この若い藩主は どう埋めようとしていくのか。 ●小家は小家なりの経営方法があって、おそらく 大家の経営方法にはうとい。ちまちました改革を やられたのではたまらない。 ●全体に、お手並拝見という空気が支配的だ。あ るいは、すぐ尻尾を巻いて秋月家に舞い戻るだろ うという意地の悪い見方もしている。  これが、上杉藩の藩士の大多数の意識だったと 思います。それにもかかわらず、江戸の側近藩士 たちが。  「直丸(鷹山)様を頂き、思い切った改革を推進 しよう」 というように心を固めたのは、やはり若くても鷹 山そのものにすぐれた指導者としての資質を見た からです。そして細井平洲が。  「直丸様はすぐれたお方だ。必ず、君たちの目的 を為し遂げるだろう」 と太鼓判を押したからです。細井平洲の存在は、 上杉鷹山の改革あるいは米沢藩の改革にとって、 絶対に欠くことのできないものであったのです。 逆にいえば、細井平洲が存在したからこそ、上杉 鷹山の改革が成功したのだといえます。それほど 平洲の存在意義は大きかったのです。上杉鷹山が 立てた米沢藩の「藩政改革」の骨格は、 ○まず、改革案をつくった。 ○改革案の作り手として江戸の側近グループを選 んだ。 ○側近グループにこの改革案の作成を命じたとき、 鷹山は。  「改革案は、藩の再建だけのためにつくるのでは ない。米沢藩民の幸福享受のためにつくるのだ。 この点を履き違えないように」 と命じました。さらに。  「改革案は、一部の者のためではなく、全藩士が 自分の脇において常に読み抜き、理解し、協力す るものでなければならない。つまり、改革という のはひとごとではなく、自分のことだと思わせる ようにしなければならない。そのためには改革案 に普遍性があり、納得性がなければだめだ。独り よがりな、また独断で他を責め、あるいは責任ば かり追及するようなものであってはならない。一 人ひとりの藩士が、ああ、この改革案なら、自分 はこの部分について参加できると思わせるような ものをつくってほしい。そのためには、案はわか りやすく、平明な文章で書かれなければならな い」 と付け加えました。 改革の目標はまちづくりと人づくり  鷹山の考えた改革案の骨子は、江戸商人が不況 乗り切りの時に用いた手法を参考にしました。江 戸期の商人が不況乗り切りに使った手法は次の四 つです。 『始末 二。算用 三。才覚 四。信用  始末というのは節約のことで、算用というのは 勘定、財政のことです。即ち「ルるを講つて价る を制する」という考え方です。才覚というのは、 いくら始末をしても算用ができない、つまり勘定 が合わない、不足分が出る、それをどうするか、 ということです。しかし、鷹山は単にこの才覚を 不足分の工面だけにしぼって考えませんでした。  「景気が悪く、全体に生産性があがらない時は人 の心が暗くなる。常にうつむきがちになる。国が 豊かになるためには、ただ節約一辺倒の減量経営 だけを行なえばいいというものではない。それだ と単に帳簿上に生じた赤字を消せばいい、という 消極的な姿勢になる。民を幸福にするためには、 何といっても民を豊かにし、国を豊かにしなけれ ばならない。そのためには殖産興業が必要だ」 そこで、かれはこの始末・算用・才覚・信用のう ち、三番目の才覚と四番目の信用に最も力を置い たのです。  「米沢に住む人々にいま必要なのは、他人への思 いやりである。そして、自分が一所懸命働き倹約 したあげく生じた余剰分を、他人あるいは地域に 対して差し出すことが必要だ。これは、他人の悲 しみや苦しみをそのまま見るに忍びないという孟 子の忍びざるの心を持つことだ。米沢の人々の胸 には、その忍びざるの心がある。しかし現在機能 していない。なぜか。それは米沢の都市環境が必 ずしも整備されていないからだ。水は方円の器に 従うという言葉がある。即ち水という存在は柔軟 なものだから、円い容器に入れられれば円くなる。 四角い容器に入れられれば四角くなる。住む人も 同じだ。環境という容器いかんによっては、円く なったり四角くなったりする。いま、せっかく忍 びざるの心を持っていながらそれが機能していな いのは、あまりにも容器がお粗末だからだ。容器 がボロボロで、あっちこっち割れたりしていれば、 中の存在もおちおちとしていられない。いつ落下 するかと不安がる。そうだとすれば、改革で心掛 けなければならないのは、環境の整備である。即 ち容器づくりである。そのために、殖産興業をお こなって、その費用を生むのだ」 即ち鷹山は改革の目標を。  「米沢に住む人々全員が、忍びざるの心という、 他人への優しさ・温もり・思いやりを持つこと だ」 と定義しました。  そのためには、やはりいまでいう「まちづく リ」が絶対必要でした。「まちづくり」というの はお題目ではなく、都市基盤の整備をすることで、 現在でいえば、住宅、学校、道路、橋、上下水道、 ゴミの処理場、保育園、公民館、図書館、あるい は福祉施設等住民が必要とする諸々の施設を整え るということです。「まちづくり」は、ハードー ソフト両面にわたっておこなわれなければならな いというのが鷹山の考えでした。そこに住む人々 が安心して住め、生き甲斐と死に甲斐とを同時に 感じ、自分の子孫も住まわせたいと願い、他地域 に住む人々をも呼び寄せたいと思うような「まち づくり」でした。  しかしそのための殖産興業を行ない、究極的に 理想的な環境整備をおこなうとしても、それをお こなうのは人です。そこで二本目の柱として、鷹 山は、「人づくり」を考え、そのために学校をつ くろうと企てました。学校の名前は細井平洲と相 談して「興譲館」と決め、学長は平洲に頼みまし た。鷹山の考えによれば、資金を得るために殖産 興業を行ない、学校をつくって人づくりに努める ということは、江戸商人たちが不況乗り切りに 使った方法の「才覚」に相当しますが、上杉藩は 膨大な累積赤字でニッチもサッチもいかず、そこ で鷹山が考えた「始末」が、「大倹約令」の発布 でした。鷹山は単純な倹約ではなく、こう考えま した。  「赤字がかさみ、景気が悪いからといっても、住 む人間にとっての需要がなくならないものは多い。 逆に、景気が悪いからこそ生まれる新しい需要も ある。そうだとすれば、その需要に応えていくの が、国の経営者の責任だ。しかし、その需要に応 えるだけの費用が得られない。どうするか。そこ で改めて始末、即ち倹約を考える。が、倹約と いっても生易しいものでは済まない。即ち、殖産 興業を行ない、学校をつくるということは、事業 の拡大再生産、あるいは新規事業を興すことにな る。莫大な費用がかかる。その費用を生むために は、常識的な節約をしていたのではだめなのだ。 思い切った事業の見直しが必要になる。平洲先生 のいわゆる。非常の時”なのだ。藩主と藩士全員 が、。非常の心構え”を持だなければならない。 そのためには、連年上杉家が行なってきた諸行事 や諸事業のうち、時代に合わないものは思い切っ てこの際廃止するか、中止するか、縮小するかし なければならない。事業の根本的見直し抜きでは、 この改革費用は生めない。そのためには、皮を剥 ぎ、肉を切り、骨まで削らなければならない。思 い切った贅肉落しを併行して進めなければ、絶対 にこの改革は成功しない」 というものでした。  鷹山はこの節約の先頭に自分が立ち、江戸の藩 邸にいたときから、自分の生活費を思い切って切 り詰め、身のまわりの世話をする女性たちを五十 人からわずか九人に減らすなどして、まず自分の 身をそぐことによって、全体の信用を得ることに しました。またこういう案をつくっていく過程で、 重役たちに。  「われわれは関知していません」 と言わせないために策定経過を告げ、案ができた あと本国に送って。  「増し刷りをして、藩士全員に配るように」 と命じています。自分が米沢に入る前に、全藩士 がこの計画案を読んで、予備知識を持てば討論が 進むと考え、また案をつくるグループに、「実態 を数字で示せ。絶対に隠してはいけない」  ともいっています。このことは、 ●まず、藩の実態を財政中心にして全員に告げる。 即ち経営状態の情報を正直に公開する。 ●その上で目的を示し、どうすればいいかを明ら かにする。 ●藩主である鷹山をはじめ、全藩士の役割を告げ る。 ●その中で、鷹山は率直に自分の能力不足を告げ る。「だから、不足分を全藩士で補ってほしい」 と依頼する。 これは改革が一部の推進グループのものではなく、 藩あげての全成員の仕事なのだという認識を持た せ、全藩士に「参加」を求めたのです。そのため に数字を中心に情報を公開し、何よりも「自分は きいていない」とか「自分に関係ない」といわせ ないようにしました。  そして鷹山が特に重きを置いたのが現代でいう 中間管理職の存在でした。この計画が成功するか しないかは、中間管理職のリーダーシップにか かっていることに鷹山は気付いていたのです。そ れが、 してみせて いってきかせて させてみる  という考え方で、単に「このとおりやってみ ろ」ということではなく、部下が「なぜこんなこ とを?」という疑問を突き付けたときに、情報を 与え、砕いた説明をし、情熱を持って説明をし、 結果的には部下を納得させる、というプロセスを 踏むということです。  鷹山にすれば。  「どんなにいい案でも、人間というのは保守的な もので、自分の仕事を奪われ、組織を変えられ、 人事異動をさせられれば当然不満を持つ。なぜ? という疑問を持つ。それがあたり前で、怒鳴りつ けたり押しつけたりすれば、その後の仕事は滑ら かにはいかないことは明らかで、やはり時間がか かっても、中間管理職が根気強く説得し、納得さ せることが必要で、反対者や対立する者に時間を かけて理解させ、協力者の中に引きずり込んでい くことが大事だ」 と考えていました。そう考えると上杉朧山は、若 くして、単なる改革の成功者というだけでなく、 人の心をある目標に向ってひとつにまとめていく 人心掌握の名手だったともいえます。そして、か れにそうさせたのはやはり細井平洲の教えが大き いのです。 最も壊しにくい心の壁  改革を阻む壁に三つあることは前に書きました。 ●ものの壁(物理的な壁) ●仕組の壁(制度的な壁) ●心の壁(意識の壁) この中で三番目の「心の壁」を叩き壊すことがい ちばん難しく、鷹山の意図を理解して、江戸の側 近グループは精力的に案の作成に励み、出来上 がった案に鷹山は満足しました。「さすがだ」と 感じましたが、一抹の危惧もありました。  「この案は、江戸にいる重役や本国から呼んだ重 役に根回しをしたといっても、かれらは心の底か ら承服したわけではない。不信感を持っている。 その不信感は、他家から入ってきた雇われ藩主で ある鷹山自身に対する感情と、案をつくった側近 グループに対する反感とないまぜだ。このままで は、この案がいかに立派でも本国では素直に受け 入れてくれまい」 今度はそんな心配が新しく頭をもたげ、細井平洲 に相談しました。平洲はうなずき、  「そのご懸念はごもっともです」  「どうすればよろしいか?」  「足元から心の壁を打ち砕きましよう」  「足元から?」  「そうです。足元というのは、あなたと側近のも のたちのことです」  細井平洲がここで話しだのは、人間の社会の仕 組についてです。 ●人間の社会は、二つのタイプの人間で成立して いる。  一つはいわば「知型人間」というべき存在で、 「何をやっているか、何のためにそういうことを するのか」という内容・目的を重視して物事を進 めていくタイプ。もうひとつは「情型人間」とも いうべきタイプで、何をやっているか以前に「誰 がやっているか」という「ひと・人間関係」に重 きを置くタイプ。両者は別々な価値観、モノサシ を持っているから必ずしも相容れない。 ●本来なら組織というのは「何をやっているか」 で判断すべきで、「誰がやっているか」というモ ノサシをあてはめてはならない。即ち、いいこと であれば誰がやろうとそれは受け入れるべきだ。 これは上下の関係においても同じだ。上の者は下 のある者が嫌いだからといって正当な評価を欠く とすればそれは不公正だ。上の者としてなすべき ことではない。また下の者も上が嫌いだからと いってその指示された内容がいいものであるにも かかわらず、自分は上の者が嫌いだから協力しな いというのは間違いだ。しかしこれは理屈である。 世の中はそうはいかない。どんなにいいことでも、 言い手や、やり手が気にくわなければ協力しない ことはしばしばある。 ●米沢藩も同じだ。現在の側近グループは確かに 正義感が強く、仕事に対して強い情熱を持っては いるか、本国から見れば必ずしも好感を持って迎 えられるグループではない。かれらはことごとに 米沢本国の重役たちを糾弾し、批判した。竹俣当 綱のように、森平右衛門という重役を殺した者さ えいる。そうなると本国から見る側近グループは 全部問題児だ。組織の秩序を破壊し職場の調和を 乱す、いってみればトラブルメーカーの群である。 こういうトラブルメーカーの群に対して、現在米 沢本国の人々がどういう見方をしているか、これ は火を見るよりも明らかだ。  「そこでです」 平洲は微笑みながらいった。  「側近の連中にも、少し自分を変えさせていただ きたい」  「自分を変えるとは?」  「せっかくいい案ができたのです。これは。何を やっているか”という内容が見事に完成したとい うことです。そうなると今度は誰がつくったのか という、。誰が”の面に目を向ける必要がありま す。いまのかれらは、鬼のような表情になって後 脚で砂をぶっかけて米沢を出てきました。その印 象はいまだに本国の人々が持っているでしょう。 そこでかれらに少し自分を変えてもらって、せめ てお地蔵様のような顔に変ってもらうことです。 それには、やはり組織の秩序を守り、他人のいう ことももう少しきく、自分の言うことばかり言わ ない、というような性格に自らを変えることが必 要です。いってみれば、自己改革が必要なので す」 きいているうちに朧山には、細井平洲のいってい ることが全部理解できました。  「なるほど」 とうなずきニッコリ笑い  「先生のおっしやることはよくわかりました。私 も、何を言っているかだけでなく、誰が言ってい るかという見方にも十分たえられるように自身を 変革致します」  「あなたはご立派だ。変えるところは別にござい ませんが、しかし側近たちに自己変革を求めると すれば、やはりそのようなお心掛けは大切でござ いましよう」  「お教え、ありがとうございました」 すでに心を結束させていた主と従は。  「自分の言いたいことばかりいわずに、他人のい うこともキチンと聞く」ということと「反対者や 対立者を、真向からやっつけるのではなく、時間 をかけて柔軟に理解と協力を求めていく根気強さ を養おう」ということを、変革の目標にしました。 藩主は米、農工商は薪、藩士は鍋釜  側近グループがつくった計画案は、上杉鷹山の 藩政改革の基になりましたが、その計画案には、 細井平洲が『嚶嗚館遺草』の中で、鷹山にいろい ろと助言したことがそのまま取り入れられていま す。計画案に取り入れられた平洲の思想の主要な ことというのは次のようなものです。 ○国の財用は、土地と民力の二つ以外にないこと。 ○しかし、その財用を活用する場合も「入るをは かって出ずるを制する」という原則を忘れてはな らないこと。 ○入るをばかり出ずるを制するということは昔か ら決っているように思えるが、しかしそうであり ながらも囗本の大名家は不足を生じていること。 ○これは、定法を守っても不足を生じるというこ とを意味している。となると、生じた不足は定法 によっては補うことができない。非常の法を採用 しなければならない。非常の法を採用するといっ ても、それは下々を咎めたり苦しめたりすること ではない。藩主自らが、思い切った贅肉落しを行 なうことである。 ○なぜ、藩主がこういう非常の法をもって、率先 して贅肉落しをしなければいけないかといえば、 それは藩主というのは藩民の父母だからである。 親の気持を持てば、まず苦しんでいる藩民を飢え させたりしないようにすることが親の役割だと思 うに違いない。これを子の方から見れば、ああ、 うちの親は有難いなという気持を持つ。 ○この親の気持を持って政事を行なうことを仁政 という。 ○だからといって、藩主が自ら贅肉を落す行為を、 これ見よがしに他に喧伝するような邪な心があっ てはならない。あくまでも、親の愛情という仁徳 から生まれたものでなければならない。 ○そのためには、自分かおこなうことに対する意 志を鉄石のように固くする必要がある。 ○藩主の決意は、樹木の根元のようなものだ。城 の部下と町や村の民は枝葉である。樹木の根が しっかりしていれば、枝葉も栄える。 ○そのために、根本である藩主の生き方が全部注 目の的になる。 ○改革の究極的な目的は、下々が暮し易く幸福感 を感ずることにある。そのためには、藩主が入用 を省き、恵み深く下々に接しなければならない。 具体的には節倹の術を自身の奥向きから実行する ことである。 ○藩主がいかに仁徳の政事を行なうからといって も、やはり人間だ。欠点もある。その欠点を隠し ていいことばかり告げるようであってはならない。 もっといえば、改革を進める上で藩の実態を悪く 率直に告げるべきである。都合の悪いことを隠せ ば、結局は不信感を養う。 ○こういうことは藩主一人ではできない。やはり 忠義な部下が必要だ。 ○忠義な部下というのは、改革を進め、国を富ま せ、民を富ませる人間だ。そうなると、やはり人 材育成を欠くことができない。人づくりが大切で ある。人づくりには学校が必要だ。その学校では 「興譲」を旨とし、この精神を身につけるような 教育をすべきである。興譲とは、譲を興すことで あり、譲を興すとは。恭遜の道”を修行させると いうことである。 ○藩主は米である。農工商は薪である。藩士は鍋 釜である。最も大切なのは鍋釜である。どんなに 米がよく、薪がよく燃えても、鍋釜が壊れていた ら米はよく炊けない。鍋釜を頑強に鋳ることが最 も肝要である。 などです。平洲の『嚶鳴館遺草』に書かれたこと と、鷹山が実行した改革案の幹や枝葉に至るまで、 平洲の考えが隅々まで染みているといえます。  「敬天愛人」の源になった『嚶鳴館遺草』  鷹山が座右の書とした『嚶鳴館遺草』の根底に   しゆうしん せいか ちこく へいてんか は、「修身・斉家・治国・平天下」という、人間 が生きる最も大切なプロセスが書いてあります。 文字通り解釈すれば、自分の身を修め、家庭を斉 (整)わせ、国(この時代は藩)をきちんと治め、 天下すなわち日本を平和に経営する、ということ になります。  平洲の教え『嚶嗚館遺草』は、鷹山の他に、尾 張(名古屋)藩主徳川家・紀州(和歌山県)藩主 徳川家・四国の西条(愛媛県)藩主松平家にも同 じものが配られました。これらのテキストは、平 洲の没後に、西条藩士の上田雄次郎によって『嚶 鳴館遺草』全六巻としてまとめられ刊行されまし た。世に出された『嚶鳴館遺草』の平洲の教えに、 幕末にもかなり影響を受けた人がいます。西郷隆 盛と吉田松陰です。  西郷隆盛は、名君島津斉彬に仕えてその手足と なって幕末の政治活動に奔走しましたが、斉彬が 死んだあと薩摩藩主が斉彬の甥忠義に代わると、 その父である久光が実際の実力者になりました。 「御国父」として大いに力を発揮しました。西郷 は久光が嫌いで久光が御国父として勢力を発揮し 始めると抵抗しました。そのため久光も西郷を 嫌って、西郷が命令に背いたときに遠く南方の島 に流しました。二度目の流罪では西郷は沖永良部 島に流され、そのときに島に流されていた薩摩藩 の学者川口雪逢に「いつまでも久光公を恨んでい ないで、少しは島の人々のためになることをした らどうかね。この本を読みたまえ」と渡されたの が、平洲の『嚶嗚館遺草』でした。いつも「民の 心配」をしていた西郷は、たちまちこの本の魅力 に取りつかれ、ほとんど徹夜でこの本を読み切っ てしまいました。かれは久光を恨むのをやめ、 「民のことを思う政治家は、天を敬い、人を愛さ なければならない」と悟ります。これが西郷の有 名な「敬天愛人」という生涯を貫いた思想になり ます。つまり、西郷隆盛の「敬天愛人」という思 想は、細井平洲の『嚶鳴館遺草』にその根源が あったのです。  吉田松陰は、「松下村塾」を開いたことで有名 ですが、門人たちには常に、「いつも社会にお こっている問題をもとにしてどうすればよいかを 考えたまえ」と言い続けました。つまり文章の解 釈や句読点の打ち方などにうつつを抜かすことな く、毎日周囲で起こっている社会問題を参考にし なさいということです。弟子たちに  「この本にこそ本当の経世済民の意義が書いてあ る」 と『嚶鳴館遺草』を勧めました。松陰は「経済」 を重視した学者です。しかしその経済は、「乱れ た世の中を正し(すなわち経)、苦しんでいる 人々を救う(済)」という意味です。単なるソロ バン勘定ではありません。「乱れた世の中を正し、 苦しんでいる人々を救う」という立場で書かれた 改革の方法が温かく、またわかりやすい文章で書 かれていたのが『嚶鳴館遺草』でした。 鷹山の精神は現代のベンチャー企業の参考に なる   『嚶嗚館遺草』は、今読み直してもみずみずし く、新鮮な発見があります。「大学」で示された 「修身・斉家・治国・平天下」という人間の生き 方」の大切なプロセスが乱れてしまった現代に、 もうI度よみがえらせて活用するために「自治」 というキイ(鍵)を使いましよう、とわたしは提 言します。自治というのは「自主的な行動と責 任」という意味です。細井平洲が上杉鷹山その他 の大名の、藩政改革のテキストとして『嚶嗚館遺 草』を提供したのは、「大学」でいう「治国」の 部分に当たります。米沢藩はいまでいう地方自治 体に当たります。鷹山はそこの首長です。当時の 米沢藩の領地は現在の米沢市のほか、近隣数市を 含んでいましたから規模は相当大きいものでした。 鷹山の改革は現在の企業と同じで、企業における、 「拡大再生産」を目的としていました。鷹山とい えばすぐ、「倹約の大家だ」とうけとめるのが一 般的ですがまったくちがいます。このうけとめ方 はケチと倹約をいっしょにしているからです。鷹 山はむしろベンチャー企業家だといっていいで しょう。  鷹山の生き方や平洲の思想は、国・地方の公務 員だけでなく、企業のビジネスマンにも役立つし、 もっと大げさにいえば現在の日本人すべてに役立 つだろうと思います。なぜなら「修身・斉家・ 治国・平天下」という人生コースは、日本人(い や人間すべて)のだれにでもあてはまることだか らです。古いこの生き方コースにわたしは「自 治」という言葉をキーワードとして設定しました。 ・修身は個人の自治確立 ・斉家は家庭の自治確立 ・治国は地方(都道府県市町村)の自治確立 ・平天下は囗本国の自治確立  ということになります。  自治は言葉をかえればそれぞれの「独立自尊」 のことです。組織や団体でいえば、「割拠」とい うことです。極力他の人の世話にならず、「自分 のことは自分でおこなう」ということです。そし て「自分に責任をもつ」ということです。  細井平洲は、江戸アカデミズムの高踏的な場所 に身をおかず、つねに庶民や農民を主体とする生 活者の中で生きていました。底辺で生きる大びと に忍びざるの心をもって接し、その苦楽を自分の こととしてうけとめ、民の苦楽は平洲にとってい つもひとごとではなく、わがことだったのです。 江戸時代に学者の世界で、こういう生き方を選ぶ ことは相当勇気の要ることです。しかし平洲はそ れを敢行しました。その生き方を保持するのには、 平洲自身の精神の持ち方が、「独立自尊」に貫か れていたことです。山上の一本松の姿勢を保ちつ づけたということです。庶民には本当にやさしく 接した平洲は、そのために自分にはどれだけきび しかったかわかりません。『嚶嗚館遺草』の中で 上杉鷹山に語りつづけたのは、平洲のそういう心 の叫びだったと思います。だからこそ、 勇なるかな、勇なるかな と叫ぶのです。そして平洲は自分のこういう言行 の意味を、決して誇大に喧伝したりはしませんで した。  「語ることとおこなうことがすべてだ」 と考えていたからです。学問には、「実学」とい う分野があります。平洲は実学者でした。しかし 現在のように、目的を達するための技術(ノウハ ウ)を教えたわけではありません。  「あるべき理念をどうすれば実現できるか」 を語りました。それも相手の理解度を念頭におい て(恕の精神を発揮して)、わかりやすく実例を あげながら説明しました。平洲は学問の深い学者 です。中国語にも堪能でした。いくらいってもわ からない相手もいたと思います。しかし平洲は腹 を立てず、根気強く説きました。これは単に「が まんづよい」という美徳ではありません。平洲の 人間愛です。わたしはそこに胸をうたれるのです。 わたしがいま、ものを書く基本的な態度は、実を いえば『嚶嗚館遺草』にあります。同時に日常の 生き方もいつも、  「平洲先生ならどう対応するだろうか」 と考えています。この世の持ち時間がどんどん 減っていくいま、そのわたしが心から希っている のは、  「平洲先生のように生きたい」 ということです。 一字コ泯  二度目に米沢に行ってから十六年目の寛政八年 (一七九六)、平洲に、「もう一度米沢においでい ただきたい」という招待状が来ました。出し手は 新しい米沢藩主上杉治広でした。治広は、鷹山の 先代重定の実子で、鷹山が上杉家の養子と決って から生まれた子でした。その辺の経緯を知ってい る鷹山は、自分の子でなく先代重定の子を自分の 相続人にしました。これも、細井平洲の教えによ るものです。  平洲もすでに六十九歳の老境に達していて、い つ死ぬかわからない。(死ぬ前に、もう一度米沢 の地を見てみたい)という思いもつのります。聞 くところによれば、見事に復興なって、人々の心 もいきいきしているという。平洲はみたび米沢へ おもむきました。懐かしい土地と人々の姿を、も う一度この目で確かめたかったのです。長年無沙 汰を続けてきた上杉鷹山にも会いたい。朧山もす でに四十六歳の年齢に達しているはずです。  八月二十五日、細井平洲は江戸を出発し、九月 六日に米沢に着きました。この日山を越えて米沢 への下り坂になった途中の関根村(米沢市関根) 羽黒堂に着くと、驚いたことに堂の前に、以前と 同じように上杉鷹山が出迎えていたのです。城外 一里余の地域まで、鷹山は老師を迎えに出ました。 普門院という上杉家の藩主が江戸へ参勤交代する 時に、上りの時も下りの時も休憩する寺の門前で、 細井平洲は上杉鷹山に出迎えられたのです。平洲 は思わず地に膝を付けて鷹山を伏し拝みたいと思 いましたが、そんなことをすれば鷹山の方も土の 上に座ってしまうことをわかっていたので、身を 屈めて膝に手をつき丁寧にお辞儀をしました。  言葉はありません。  無性に涙が込みあげてきました。鷹山も同じよ うに膝まで両手を下して頭を下げました。鷹山は 無言で、鷹山も泣いて  「先生、お懐かしうございます。お達者で何より でございます」 込みあげる涙を押えながら鷹山はかろうじてそう 言いました。平洲は黙ってうなずくだけで言葉が 出てきません。しばらくの間、言葉なしの対面が 続きました。やがて鷹山が先に立ち  「ご案内致します」 と普門院の門をくぐり、外門から中門まで、およ そ三丁ばかりある坂道を堂に向って歩きました。 鷹山は平洲と並んで歩いていましたが、気付いた 鷹山が。  「先生にお杖を」 といいました。平洲は慌てて手を振り、  「御屋形様、まだまだ大丈夫でございますよ」 すると鷹山は  「私を杖の変わりにお使いください」 といって、平洲の体にピッタリ寄り添い、手を引 かんばかりにして肩と肩を並べながら歩いたので す。  現在普門院には、「一字コ泯」という碑が建て られ、感激した平洲の手紙の一部分が、その碑に 刻まれています。ふたりが会った座敷は、そのま ま保存され、その時鷹山が植えた唐松と平洲が植 えた椿が「敬師史跡」として残されています。懐 かしい思い出話に時が過ぎ。  「それでは米沢城にご案内致します」 と再び案内に立つ鷹山に従って城下町に近付くと、 行き過ぎる村々の道の脇に、老いも若きも、おび ただしい農民が座り込んで道端にひれ伏し鷹山を 拝んでいたのです。しかも、農民たちは皆泣いて いました。平洲は驚きました。(御屋形様は、こ こまで領民から慕われていらっしやるのだ)。嬉 しかった。そして、(米沢の領民は、日本一幸せ な民だ。自然にも恵まれず、資源も乏しい。いっ てみれば貧しい国だ。が、ここまで領主と領民の 心が一体化している国は他にはない。これが本当 の政治だ。学問もこういう政治のためのもので あって、政治から離れたものであってはならな い)平洲は改めてそう感じたのです。  細井平洲はこの時米沢に五十二日間滞在しまし た。毎日、朧山の隠居所に行って、学問の話、政 治の話、経済の話、村々の農民の話など夕方まで 話し込みました。  ある日、平洲の世話をしている武士がおそるお そる  「町や村で、たった一度でよいから細井先生のお 話を伺いたいと申しておりますが」 担当は。  「この度の細井先生のご滞留は、わずかな日数で ある。お大切な日々なので到底その願いはかなわ ない」 と断りましたが、これを聞いた平洲は、「いや、 参りましよう」、そう応じて鷹山の許しを請い、 興譲館で講義をしました。集った聴講者は四百人 余り。これがきっかけになって、藩士の中でも、 「ぜひ、私の家に」と招く人間が次々と出て、平 洲は時間の許す限りこれらの招きにも応じました。  米沢は冬の訪れが早く、雪も深いので十月二十 八日、平洲は米沢を出発しました。すでに何度か 雪が降っていて、その囗は雨でした。上杉鷹山は 分家の勝定を伴って、午前四時過ぎに隠居所を出、 普門院に先行しました。そして平洲が来ると、別 れの杯を交わしました。平洲は、  「これが今生のお別れになるかも知れません」 と感慨深げに鷹山を見ました。鷹山は首を振って、  「いやいや、先生はますますご壮健です。またお 目に掛ることもございましよう。ぜひ、その日を 楽しみにしております」 といいましたが、これが二人の永遠の別れになり ました。  平洲はいつも、  「私は農民の息子だ。それが、尊いお大名からも 尊敬されるようになった。しかしこれは、西条侯 と米沢候に知られたおかげだ。特に米沢侯の知遇 は肝に銘じて忘れることができない。桜田のお屋 敷にお伺いする度に、私は自分の家に戻ったよう な気がした・・・」 と語っていました。享和元年(一八〇匸三月九 日、人吉藩の講義を終って、家に戻ると平洲は倒 れました。平洲の病気が重いという報は、治広か らの使者によって鷹山に知らされ、鷹山は深く悲 しみ、すぐ興譲館の管理者である神保綱忠を自分 の名代として江戸に向わせました。多くの人々の 悲しみと哀惜に見守られながら、六月二十九日、 細井平洲はついに永眠しました。享年七十四歳で した。  上杉鷹山は平洲の死を深く悲しみ、用人の岡田 文内を遣わして、平洲の位牌に代拝させ、自身は 五十日の喪に服しました。その上杉鷹山は、二十 二年後の文政五年(一八二三)三月十二日に永眠 しました。享年七十二歳でした。鷹山にとって、 生涯出会った人物で細井平洲ほど影響を受けた人 はいません。将軍から表彰された改革の実績も、 『嚶嗚館遺草』を中心とした細井平洲の思想を粘 り強く実現したものです。平洲自身と身近に接し て、その一挙手一投足から学んだことも多く、鷹 山は。  「わが改革の成功は、すべて平洲先生のたまもの である」 といつも語り続けたのでした。(了) 上杉鷹山 年譜 1751年(寛延四年) 7月20日、秋月家江戸一本松邸に誕生。 幼名松三郎、のち直松と改める。父は日向高 鍋三万石の城主秋月佐渡守種美、母は筑前秋 月の城主黒田甲斐守長治の女。 1759年(宝暦九年) 9歳 上杉重定の養子内約。 1760年(宝暦一〇年) 10歳 養子縁組みをし、直丸、勝興と改名。 1763年(宝暦匸二年) 13歳 竹俣当綱ならび木村高広、莅戸善政、佐藤文 四郎などを近臣とする。 1766年(明和三年) 16歳 元服し、治憲と改名。 1767年(明和四年) 17歳 重定の長女幸姫と結婚。 襲封。尾形様と呼ばれる。 江戸勤番の諸役員および平士一同を召し、大 倹約の大旨を告諭する。白身、生活費を十分 の一に切り詰める。 1768年(明和五年) 18歳 近習役木村高広、莅戸善政、大倹約の責任を 負い、退役を願う。 鷹山、改革推進のために泣いてこれを許す。 1769年(明和六年) 19歳 米沢国へ初入国。途中、板谷峠で。火種”論 を説き、入城直後、全藩士に藩の実態と改革 の目標を示す。 1771年(明和八年) 21歳 旱魃のため、愛宕山に登り降雨祈願。 1772年(安永一年) 22歳 江戸藩邸を焼き、江戸に木材を送る際、伐採 したのが藩士である旨を告げ、小さな木片も 大切にせよと戒る。 荒地開拓藩士のため、遠山村で籍田の礼を挙 行。 1773年(安永二年) 23歳 改革に反対する七人の重臣を衆議の末処断。 1775年(安永四年) 25歳 地場産業の振興を策し、桑・楮・漆、各百万 本植樹の計画が成る。 同時に領民相互の扶け合いを勧める。 1776年(安永五年) 26歳 後継者養成のため、興譲館設立。 1777年(安永六年) 27歳 とかく権力になれはじめた竹俣当綱の辞任願 いを留めさせる。 1783年(天明二年) 32歳 幸姫没。 執政竹俣当綱を禁籠の刑に処す。 世子御傅役の木村高広辞任。 1784年(天明三年) 33歳 木村高広没。 御近習頭莅戸善政、職を辞す。 1785年(天明五年) 35歳 隠居。重定の子治広に藩主の座を譲る。治広 に、人君の心得三ヵ条を伝授する。これを 『伝国の辞』と称し、上杉家襲封の際、代々 受け継がれる。 1791年(寛政三年) 41歳 治広の補佐役の失政続きにより、莅戸善政再 勤。中老職に就き、ゆるんだ改革策をひきし める。 1793年(寛政五年) 43歳 竹俣当綱没。 1794年(寛政六年) 44歳 莅戸善政、奉行職おおせつけられる。 1795年(寛政七年) 45歳 黒井堰落成。 1801年(享和一年) 51歳 細井平洲没。 1804年(享和三年) 53歳 奉行職莅戸善政没。 1807年(文化四年) 57歳 黒井堰復旧工事落成。 1822年(文政五年) 72歳 3月D一日、没。   一 奥 付 】 ケネディ大統領が 最も尊敬した日本人 上杉鷹山 発行日 2018年8月30日 著者   童門冬二 発行人兼編集人  黒坂勉 発行所 いきいきネット株式会社 住所 東京都新宿区神楽坂3‐6丸岡ビル4 階     4。心話 03−5206‐5221     〒162‐0825 本書の無断流用・転載・複写・複製を厳禁し ます。