システムの科学_ハーバート・サイモン THESCIENC畄iE ARTIFICIAL 气詰擂2がI 華驚 ↑ 7 1 The Sciences of the Artificial Third edition by Herbert A. Simon Copyright C 1996 Massachusetts Institute of Technology except “Rational Decision Making in Business Organizations” copyright C 1978 by Nobel Foundation. Japanese translation rights arranged with The MIT Press, Cambridge, Massachusetts, USA through Tuttle-Mori Agency, Inc., Tokyo. 本書は著作権上の保護を受けています。 本書の一部または全部を著作権法上の定 めによる範囲を超えて、複写、複製、転 記、再配布(ネットワーク上へのアップ ロードを含む)することは禁止されてい ます。 本書は『システムの科学 第3版』(1999 年、パーソナルメディア刊)の電子書籍 版です。 本書に記載されている製品名、システム 名は一般に各メーカーの登録商標または 商標です。なお、本文中ではTM、Gマー クは明記していません。 日本語版(第3版)への 序文 本書の旧版い)は、日本の読者に暖 かく迎え入れられた。このたび、本書 第3版の日本語訳が刊行されることを 知り、大きな喜びを感じている。この 翻訳に力を尽くしてくれた3名の訳者 すなわち稲葉元吉、吉原英樹、稲葉洋 平の諸氏には深く感謝の意を表したい 英語版の序文で今回の改訂の要点を 示したので、ここで改訂の概略を繰り 返すつもりはない。今回の改訂の全体 的な趣旨は、本書全体をアップデート することと同時に、カオス、遺伝的ア ルゴリズム、セルラーオートマトンに 関し、数理的実験的研究を通じて深め られてきた、複雑系(人エシステム、 自然システムのいずれを問わず)への 理解にかかわる主要な進歩の実状を、 本書の中に取り入れるところにある。 旧版の序文で述べたように、自然と 人工の統合という本書のテーマは、人 工物を自然環境の中に無理なく融合さ せる点で永年の文化的伝統をもつ日本 社会の読者に、きわめてなじみやすい ものであろう。われわれ自身やわれわ れの社会と、われわれの生存基盤であ るこの地球との、結びつきを維持し強 化することは、来るべき世紀へむかう われわれの第1の課題であり、さらに いえば人類が生き残るための本質的な 課題である。 私はこの機会に、日本ならびに日本 文化を私に紹介する役割を果たしてく れた2人の親友について、一言触れて おきたい。すなわち、つい先週彼の悲 報が私に届いた松田武彦氏と、本書日 本語版の旧版の準備に大きな役割を果 たしながら出版直後に逝去された高宮 晋氏とについてである。松田教授は、 1950年代カーネギーメロン大学に新 設されたビジネス・スクールの最初の 外国人大学院生の1人であり、また私 の著書『経営行動(Admin丿strative Behavior)』の初版の翻訳者三万であっ た。彼は、オペレーションズ・リサー チの分野で国内的、国際的に指導的な 立場に立つとともに、東京工業大学の 学長をつとめられた。またそこを退職 された後も、産能大学の学長を歴任さ れていた。 高宮教授は、何年もの間、日本にお ける組織研究のリーダーであり、組織 学会のリーダーであった。また国際的 に著名な組織実務の専門家でもあった 彼は、私か1969年に初めて日本を訪 問したとき、私のホスト役をしていた だいたが、それ以来ずっと私の貴重な 親友であった。私か日本訪問から得た 喜びと知見は、これら両人の支援と友 情とに依っている。私か感じている個 人的な恩義とは別に、われわれは誰し も、組織科学の知識拡大のため彼らが 生涯をかけて為したその仕事に、おか げを負っているのである。 Herbert A. Simon Pittsburgh, Pennsylvania 29 January 1999 ※1(訳者注)本書‘鳬e Sciences of the - Å泊・facial'日本語訳(旧版) 『新訳 システムの科学』高宮晋監修、稲葉 元吉・吉原英樹訳、ダイヤモンド社、 1977 (原書初版) 『新版 システムの科学』稲葉元吉・吉原英 樹訳、パーソナルメディア、1987 (原書第2 版) ※2(訳者注)『経営行動』松田武彦ほか訳、ダ ー イヤモンド社、1989 日本語版(第2版)への 序文 アメリカ人が日本と日本文化を知り 始めるとき、きわめて印象深く感ずる ことは、日本社会の一面が人や人工物 を自然環境と調和させることに注意を はらっているという点である。丹精を 込め見事につくりあげられた盆栽は、 自然物と人工物との混合をみごとに集 約している。そこでは、自然がどこで 終わり人工がどこで始まるのか、ちは やだれも明らかにすることができない のである。園芸家は、彼の抱くデザイ ンに合わせ盆栽の手入れをする。 しか しどの段階においてもその手入れは、 生きている植物を支配している生物学 的法則と矛盾したものであってはなら ない。 かくて『システムの科学』の中心 テーマは、いかなる適応システムも ーそれが人間であれ、コンピュータ であれ、さらにはまた社会組織であれ 自然物と人工物との調和的混合物にほ かならないということであるが、この ことは日本の読者にとって、おそらく アメリカ人が感ずるほど不思議とは思 われないであろう。自然と人工との関 係を理解することは、人間の心と人間 の組織を理解するのに基本的なことな のである。私は本書のテーマに関する 私の論述が、前述したような考え方を 象徴する盆栽芸術を重視する社会で、 理解され受け容れられることを熱望し ている。 私は、本書初版の翻訳のために努力 された故高宮晋教授に深く感謝してい る。同氏の不慮の死去は、日本のまた 世界の経営科学の重大な損失である。 私は本書が、経営科学の発展に国際的 な協力を惜しまなかった同氏の、末永 いよすがとなることを願う者である。 またこの原書第2版の翻訳の労をとら れた稲葉元吉、吉原英樹の両氏に対し 心からお礼を申し上げたい。さらに、 本書を日本の方々に利用可能なものに してくださったパーソナルメディア社 に対しても、深甚の謝意を表したい。 第3版序文 1981年に本書の前回の改訂がなさ れて以来、地球は5000回以上も自転 したが、いまや、世界に対する認識の どのような変化がこのテキスト改訂に 必要かを、問題とする時期に来ている とくに関連があるのは、複雑性や複 雑系に対する最近の顕著な関心の高ま りである。前回の旧版では、私は、複 雑性に関する一般的なアイデアと、本 書が主に関心をもつ複雑性に関する特 殊な階層形態との間の関係については ほんのわずか触れるにとどまっていた 今回私は、この欠けた部分を埋めるべ く、新たに1章を加えることにした。 (私自身を含め)複雑性の研究に熱心 な仲間は、どちらかといえば寄せ集め 的なクルーから構成されていて、還元 論に対しわれわれの見解は必ずしも統 一されているわけではない。われわれ の間でも、複雑性を分析する用具はい ろいろであり、そのため昨今では、 「カオス」「適応システム」「遺伝的ア ルゴリズム」などいろいろによばれて いる。新しく追加された第7章の「複 雑性に関する諸見解」(「複雑性の構 造」は本書では第8章となっている) で私は、上記の諸テーマを選び出し、 複雑性に関する人工性と階層性の意義 を探究している。 今回の第3版のこのほかの変更点は 大体は、本書を時代遅れなものにしな いように注意を払ったことである。 と くに私は、認知心理学(第3章と第4 章)の分野とデザインの科学(第5章 と第6章)の分野で、1981年以降に みられた重要な進歩に考慮を加えた。 これら2つの領域で引き続き急速な進 歩がみられたため、それらの進歩を記 録する多数の新たな文献を追加する必 要が生じた。それと同時にまた、人工 物の科学に関する本書の基本的な論題 を確証したり拡張したりする必要も生 じたのである。第2章の強調点の変更 は、経済システムにおける組織と市場 の役割に関する、私の考え方の進歩を 表している。 今回の版も、いままで同様、生涯の 半分にもわたる永年の友人、Allen Newellに捧げられる。悲しいことに、 彼はいまは記憶の中にしか生きていな いのであるが。彼の最後の著書『認知 の統一理論』は、いまでも、知能シス テムに関するわれわれの理解を促進し た強力な論題を提供している。 私は助手のJanet Hilfが、この改訂 版を書き上げるに必要な時間を確保し てくれたことに対し、また出版にむけ た草稿の準備にいろいろ手伝ってくれ たことに対し、深く感謝している。 MIT出版局では、Deborah Cantor- Adamsが原稿の編集に力を貸してく れたと同時に、出版局とのコミュニ ケーションに力を貸してくれた。彼女 にも感謝の気持ちを表したい。 旧版の序文に記した知人、友人に加 え、今回取り上げた新しいテーマに関 し、いろいろアイデアを与えてくれた 方々についても何人かの氏名を挙げて おきたい。すなわち、プロトコル分析 の理論を実践で共同研究したAnders Ericsson ; 科学的発見の過程で共同研 究したPat Langley、Gary Bradshaw、 Jan Zytkow ; その他Yuichiro Anzai、 Fernand Gobet、Yumi Iwasaki、Deepak Kulkarni、皿1 Larkin、Jean-Louis Le Moigne、Anthony Leonardo、Yulin Qin、 Howard Richman、Weimin Shen、Jim Staszewski、Hem!ina Tabachneck、 Guojung Zhang、Xinming Zhu など。 し かし本当のところ、このような氏名リ ストをどこで区切ればよいのかよくわ からないので、氏名をあげた方、あげ なかった方を問わず、私の友人や同僚 のすべてに対し、深く感謝を申し上げ る次第である。 第1章で私は、科学の目的は不思議 なもの複雑なものを、不思議さを減ら すことなく、理解可能なもの単純なも のにすることである、と述べている。 もしも読者が、本書の第3版を通じ、 少しでもこの目的が果たされていると 思われるなら、幸いである。 第2版序文 この著書は、フーガ(fugue)のか たちをとっている。その主題と対比主 題はもともとは、アメリカ大陸の両岸 でしかも1970年代の直前と直後にな された講演に基づいている。本書は、 これら二つの講演を章別に編成し直し 全体としてのまとまりのあるものに織 り合わされたのである。 1968年の春、私はマサチューセッ ツエ科大学においてKarl Taylor Compton記念講演を行うように招聘さ れたが、そこで私は、自分の研究すな わち最初は組織論、つぎには経済学と マネジネント・サイエンス、そしてご く最近では心理学における諸研究の大 部分にとって中心的であった論題を明 確にし、また相当詳しく展開するため の絶好の機会を得ることができた。 また1980年代には、カリフォルニ ア大学バークレー校でH. Rowan Gaither記念講演を行うもう一つの招 聘を受けたが、ここで私は上述の論題 を修正したり拡張したり、さらにはそ れをいくつかの新しい分野に応用した りする機会を得ることができた。 本書の論旨は、ある種の諸現象は以 下のようなきわめて特殊な意味におい て「人工的」である、ということであ る。すなわちそれらの現象は、あるシ ステムがその置かれた環境に対し、目 標とか目的とかを通じて形成されてい るという意味において「人工的」なの である。もしも自然現象が自然法則に 従うという点で、それらみずから「必 然性」という意味合いをもつとするな らば、人工現象は、環境に従順である という点で、「環境依存性」という意 味合いをもっている。 人工現象のこのような環境依存的性 格は、人工現象が正しく科学の領域に 含まれるか否かについて、たえず疑問 を生じさせてきた。それらの疑問はし ばしば、人エシステムに関する目的論 的性格と、そこから生じてくる命令と 記述との混同に向けられている。 しか し私にはそこには真の困難性があると は思われない。真の問題は、相異なる 環境が与えられた場合、それぞれまっ たく別個のものになるようなシステム について、いったいわれわれはいかに 経験的な命題を立てうるかを明示する ところにある。 およそ40年前、経営組織を研究し 始めると同時に、私はほぼ純粋なかた ちで人工性の問題に逢着した。 ……経営活動は演技に似ていないこ とはない。良い俳優は、役割の内容が いかに異っていようとも、自分の役割 を知ってそれを演ずることである。演 劇のできばえは、その脚本と演技との できばえに依存する。経営過程の結果 は、組織とその構成員が果たす役割と の両者によって変化するであろう。 [Adn]jnjs能tjve Behavior, p.252) それでは、良い演技を行うための規 範的なルール以上のものを含んだ経営 の理論を、われわれはいったいどのよ うにしてつくることができるのであろ うか。経営に関する私の著作、とくに 『経営行動[Admit]istrative Behavior)』 と『人間行動のモデル(Models of M皿)』第4部は、これらの設問に答 えようとしたものである。それらの著 作のなかで私は、人工現象の綛験的内 容(それは環境依存性を超えて現れて くる必然性にほかならない)が実は、 行動システムが環境に完全には適応し えないことからーすなわち私か合理 性の限界とよんできたものから一生 じてくることを示したのである。 私の研究が他の領域に向けられるに つれて、人工性の問題は、経営や組織 に特有なものではなく、もっとはるか に広範な主題に波及していることが明 らかになった。経済学は、経済人につ いて完全な合理性を仮定しているので 彼をまことに熟達した行為者とみなす のである。このことから行為者の行動 は、彼の環境が課した諸要求をいくぶ んは反映するが、しかし彼自身の認知 構造については、なにも反映しないも のとなったのである。 しかしこのよう な困難性は、経済学をこえてさらに思 考、問題解決、学習といった合理的行 動に関する心理学のすべての領域にま で、拡大していくにちがいない。 結局私は人工性の問題のなかに、い ままで綛験してきた困難性-すなわ ち工学およびその他の専門分野を、そ の基礎となっている諸科学と違った経 験的理論的内容で充実させることの困 難性-を理解し始めたように思う。 工学、医学、経営学、建築学、美術な どはいずれも必然性にかかわりをもつ のではなく、環境依存性にかかわりを もっーすなわちそれらはいかにある かにかかわりをもつのではなく、いか にあるべきかに一つまリデザインに かかわりをもつのであるが、デザイン の科学あるいはデザインの諸科学をつ くりうるか否かは、人工物の科学をつ くりうるか否かとまったく同じ大きさ の問題なのである。これらの2つの可 能性は、共に立ち共に倒れる関係にあ るのである。 かくして本書は、人工物の科学はい かに可能であるかを説明しようとする ものであり、また人工物の科学の本質 を明らかにしようとするものである。 私はおもな例を経済学(第2章)、認 知心理学(第3章、第4章)、および 計画学、工学的デザイン論(第5章、 第6章)の分野からとることにした。 Karl Compton は、すぐれた工学教育者 であると同時にすぐれた科学者でも あったから、私は、デザインに関する 自分の結論を、工学系のカリキュラム 再編成問題(第5章)にあてはめるこ とを不適当であるとは考えていない。 同様に、公共政策の設定にシステム分 析を応用しようとするRowan Gaither の関心事は、とくに第6章に反映され ている。 議論を重ねていくうちに読者はやが て、人工性ということが、複雑な環境 のなかで活動する複雑なシステムにか かわりをもつとき、とりわけ興味深い ものとなることを見出すであろう。人 工性に関するトピックと複雑性に関す るトピックとは、離れがたく結びつい ている。このような理由で、私は本書 に「複雑性の構造」(第8章)土]亘とい う論文をつけ加えることにしたが、そ こで私は、本講で簡単にしか触れるこ とができなかった複雑性という考えに ついて、かなり詳しく理論的な展開を したのである。なおこの論文は1962 年12月『アメリカ哲学会会報』とし てはじめて発表されたものである。私 は、この本の適当な場所で脚注にあげ た多くの人々からの特別な恩恵を受け たことに感謝したいと思う。私か全体 的に深く恩義をうけているのはAllen Newellであり、彼は20年以上もの長 きにわたって私の仕事の非常に多くの 部分で、よき共同研究者であった。そ こで私はこの本を彼に捧げるものであ る。もし、私の論旨のなかで、彼と一 致しないところがあるとするならば、 それはたぶん間違った部分であろう。 しかしその他の部分については,たい てい彼は私と責任をともにすることを 避けるわけにはいかないのである。 とくに第3章,第4章で示された着 想の多くは,同僚であった故Lee W. Greggと私との共同研究に端を発して いる。また他の同僚たちも,多数の現 あるいは前院生とともに,本書の各所 にその協力の足跡をしるしている。後 者の人々のうち,とくにつぎの方々の 名前を挙げておきたい。すなわちL. Stephen Coles, Edward A. Feigenbaum, John Grason, Pat Langley, Robert K. Lindsay, David Neves, Ross QuVian, Laurent Siklossy, Donald S.WViamsお よびThomas G.Williamsである。これ らの人々の研究は、ここで論議されて いる論題に対して、とくに深い関連を もっている。 第8章り)の元の論文に対して、つ ぎの人々から貴重な示唆と資料とが寄 せられた。George W. Corner, Richard H. Meier, John R. Piatt, Andrew Schoene, Warren Weaver そしてWViam Wise。 本書で報告された心理学的研究の大 部分は、つぎの機関から援助をいただ いたものである。国立精神衛生研究所 (The National Institute of Mental Health) から与えられた公衆衛生サービスに関 する研究資金MH − 07722 (the Public Health Service Research Grant MH − 07722)。また、デザインに関 する研究のいくつかは、第5章、第6 章で展開されているが、それは国防省 高等研究プロジェクト局(SD − 146) (the Advanced Research Projects Agency of the Office of the Secretary of Defense 〈SD − 146〉)の協力を得たものであ る。われわれがカーネギー・メロン大 学において、人工現象の理解を深める ために非常に多岐にわたる調査研究を 20年以上ものあいた続けることがで きたのは、上記のような研究資金、お よびカーネギー株式会社、フォード財 団ならびにA・P・スローン財団の資 金援助のおかげである。 最後に、この講演会を準備し開催さ れたマサチューセッツエ科大学とカリ フォルニア大学バークレー校に感謝す るとともに、刺激にみちたこれらの2 つの大学で、目下進展をとげつつある 人工物の科学について、より一層の理 解を深める機会を与えてくださったこ とにも、感謝の意を表するしだいであ る。 私はまた両大学が、私の講演を1冊 の本にまとめて刊行することに同意を してくださったことにも感謝している すなわち本書の第1章、第3章、第5 章はCompton記念講演の一部であり、 第2章、第4章、第6章はGaither記 念講演の一部である。本書の初版 (The MIT Press、1969)は広く世に受 け容れられたので、私は第1、第3、 第5および第8の各章の修正は、これ を明らかな誤りについての訂正、いく つかの事実に関するデータの更新、各 章間の橋渡し文の追加にとどめること にした。 ※1(訳者注)第3版で新たに7章が挿入された ー ため旧版では第7章にあたる。 目次 日本語版(第3版)への序文 日本語版(第2版)への序文 第3版序文 第2版序文 1 自然的世界と人工的世界の 理解 人工物 型としての環境 「接面」(interface)としての人工 物 機能的な説明 機能的記述と合成 適応の限界 シミュレーションによる理解 シミュレーションの技法 新しい知識の源としてのシミュ レーション 理解が不十分なシステムのシミュ レーション 人工物としてのコンピュータ 抽象的対象物としてのコンピュー タ 経験的対象物としてのコンピュー タ コンピュータと思考 記号システム:合理的な人工物 記号システムの基本的能力 計算能力としての知能 経済学:抽象的な合理性 2 経済的合理性:適応機構 経済主体 手続的合理性 オベレーションズ・リサーチとマ ネジメント・サイエンス 満足化と要求水準 市場と組織 見えざる手 不確実性と期待 企業組織 組織への忠誠心と一体化 進化モデル 経済人に対する別の理論 局所的最大化と全域的最大化 進化の近視眼的側面 経済的進化のメカニズム 人間社会 3 思考の心理学:自然と人工 との結合 人工物の科学としての心理学 探索戦略 情報処理能力の限界 概念到達の速度に関する限界 記憶に関するパラメータ:1チャ ングにつき8秒 記憶に関するパラメータ:フチャ ンク、あるいは2チャングか 記憶組織 刺激のチャング化 視覚的記憶 想像力 自然言語の処理 言語処理における意味論 結論 4 記憶と学習:思考に対する 環境としての記憶 意味豊かな領域 長期記憶 直観 情報量はどの程度か? 情報処理過程のための記憶 理解と表現 理解するプログラム 物理学を理解すること 規模と単純性 学習 理解を伴う学習 プロダクション・システム 例示からの学習 発見過程 目標がない場合の問題解決 古典物理学の再発見 新しい問題表現を見出すこと 結論 5 デザインの科学:人工物の 創造 デザインの理論:固定的な代替 案 一 命令論理のパラドックス 叙述論理への還元 最適値の計算 満足行動の発見 デザインの理論:代替案の発見 目的一手段分析 探索の論理 資源配分としてのデザイン 高速道路のデザインの例 探索を導く方法 デザインの型一階層 ジェネレータ・テストの循環 スタイル決定要因としての過程 デザインの表現 表現の変化としての問題解決 空間的表現 表現の分類 要約:デザイン理論におけるい くつかのトピックス 心の世界におけるデザインの役 割 − 6 社会計画:進化する人工物 のデザイン デザイン問題を表現すること 表現としての組織 制約的資源の発見 数学を用いない表現 計画設定のためのデータ 予測 フィードバック 顧客は誰か 専門家一顧客関係 顧客としての社会 社会設計における組織 デザインに対する時間的・空間 的視界 将来を割り引く 時間的視界の変化 進歩を定義する 注意力の管理 最終的な目標をもたない場合の デザイン活動 出発点 価値ある活動としてのデザイン活 動 社会計画と進化 社会をデザインするためのカリ キュラム 7 複雑性に関する諸見解 複雑性の概念 全体論と還元論 サイバネティクスと一般システム 論 複雑性に対する現在の関心 カタストロフ理論 複雑性とカオス カタストロフ的世界あるいはカオ ス的世界の合理性 複雑性と進化 結論 8 複雑性の構造一階層的シ ステムー 階層的システム 社会的システム 生物的システムと物理的システム 記号システム 複雑なシステムの進化 生物的進化 多細胞有機体の進化 自然淘汰としての問題解決 選択性の源泉 帝国と帝国の形成について 結論:階層の進化論的説明 準分解可能システム 社会的システムの準分解可能性 物理化学的システム 階層の幅に関する考察 要約:準分解可能性 生物的進化:再論 複雑性の記述 準分解可能性と理解可能性 複雑なシステムの単純な記述 状態記述と過程記述 自己増殖システムにおける複雑性 の記述 個体発生は系統発生を繰り返す 要約:複雑性の記述 結論 付 企業組織における合理的 意思決定 経済科学としての意思決定論 A 政治経済学分野における意思 決定論 B 内発的利害追求の意思決定論 C 意思決定論に関する集計レベル での検証:限界理論 D 限界論者の予見は検証されて きたか E 規範的意思決定論 限定された合理性の特徴 A 記述理論を求めて B 実証的研究 C 理論的研究 D 要約 新古典派の再生 A 探索と情報伝達 B 合理的期待理論 C 統計的決定理論とゲーム理論 D 結論 行動理論の発展 A 効用理論と人間の選択 B 問題解決の心理学 C 組織的意思決定 D 企業の理論 結論 参考文献 訳者あとがき 人名索引 事項索引 訳者略歴 奥付 システムの科学 第3版 The Sciences of the Artificial Third Edition 1 自然的世界と人工的世 界の理解 Newtonの時代から約3世紀を経た こんにち、われわれは自然科学とはど ういうものであるかをよく知っている なかでも、物理科学と生物科学につい てはよく知っている。 自然科学とは、 この世に存在するある種の事物一対 象物や現象-に関する知識の体系で ある。つまり、自然科学とは、事物の 特徴や特性に関する、またその作用お よび相互作用に関する知識の体系であ る。 自然科学の中心課題は、不思議なこ とをごくあたりまえのことにすること である。すなわち、正しく観察すれば 複雑性も単純性を覆う仮面にすぎない ということを明らかにすること、また 混沌とみえる状態の中にかくされたパ ターンを見出すことが、自然科学のお もな任務である。初期のオランダの物 理学者、Simon Stevin は、優雅な図 (第1図)を描き、経験からいっても 理論からいっても、図の球の鎖は右に も左にも移動しないで静止しているが ゆえに、斜面の法則は永久運動の不可 能なことから「自明のうちに」導きだ されることを示した。(球の鎖の移動 は図のうえになんら変化を生じないか ら、もし鎖が移動するとすれば、鎖は 永久に移動しつづけることになろう。) XJ ■ ・ 默笶lg阿帽 ゛言| `S Qp ◎ ゛ljに罌堡塁佶ふ認‰9 鎖の垂れ下かっている部分は左右対 称であるから、均衡をくずさずに、こ の部分を切り離すことができる。この とき、長いほうの斜面上の球と、急勾 配の短い斜面上の球とがバランスを保 つから、両斜面上の球の数の比は、そ れぞれの斜面の傾斜の角度の正弦(サ イン)に反比例するといえる。 Stevinはこの図に大いに満足し、そ れを美しい飾り模様の中に書き込み、 その上部に次のように記している。 Wonder, en is gheen wonder それは、「不思議ではあるが、理解 できないことはない」という意味であ る。 不思議なことでも理解できないこと はないということを明らかにすること そして、いかにしてそれを理解できる かを示すこと、これこそが自然科学の 任務である。とはいえ、それは、その 不思議をこわすということではない。 われわれが不思議な事柄を説明し、そ こにかくされた秩序を見出したときに は、その複雑な事象が、単純なものか らどのようにつくりあげられたのだろ うかという、新しい不思議が生まれる ものである。自然科学と数学の美学は 音楽と絵画の美学と軌を一にしている 両者はともに、部分的にかくされた秩 序の発見にあるからである。 われわれが現在生きているこの世界 は、自然的世界というよりは、むしろ 人間且によってつくられた人工的世界 というべきである。環境を構成してい るほとんどすべての要素に、人為のあ とをみることができる。われわれの生 活の場の温度は、人工的にほぼ摂氏 20度に保たれるし、湿度もまた適当 に調整される。また、われわれの吸い 込む不純物も、ほとんどが人間によっ てつくりだされたもの(また濾過され たもの)である。 そのうえ、われわれホワイト・カ ラーのほとんどにとって、環境の重要 な部分はほとんど「記号」とよばれる 人工物から成り立っている。われわれ は、それらの記号を書き言葉や話し言 葉のかたちで目や耳から受け取り、ま た、私かいましているように、囗や手 でそれらの記号を環境に送り出してい る。それらの一連の記号を支配してい る法則や、われわれが記号を送ったり 受けたりするその場面を支配する法則 また、それらの記号の内容を決めるも のは、いずれもわれわれ人間集団の人 為の結果である。 ここで、私かこの世界の人工的な性 格を誇張しすぎている、と反論する人 があるかもしれない。人間は、石ころ とまったく同様に、引力の法則に従わ なければならないし、また、人間は生 命有機体であり、食物その他いろいろ の点で生物的現象の世界に依存して生 きている。この点では、私はすこし言 いすぎたことを認めるが、ただし、誇 張の程度はごく軽いものにすぎないと 反論したい。宇宙飛行士や飛行機のパ イロットは、引力の法則に従うもので あり、それゆえに完全に自然現象であ る、というのは正しい。 しかし、この 主張が正しいのは、自然法則に「従 う」ということの意味について、ある 特殊な解釈がなされているからである Aristotleは、重いものが上昇したり、 軽いものが下降することを自然なこと とは考えなかった(Physics, Book IV)。 しかし、おそらくわれわれ現代人のほ うが彼よりも、「自然的」ということ をより深く理解するようになっている といえよう。 同様に、「生物的」即「自然的」と 考えることにも、注意が必要である。 森林は1つの自然現象であろうが、農 地はけっしてそうではない。人間が食 用にしている小麦や家畜のような生物 は、まさに人間の創意が生んだ人工物 である。耕地は、アスファルトで舗装 された道路と同様、けっして自然の一 部ではない。 これらの例は、われわれの問題の用 語を設定する。なぜならば、ここでわ れわれのいう人工物とは、自然からか けはなれたものではないからである。 人工物は自然の法則を無視したり、 破ったりはしない。それでいて、人工 物は人間の目標や目的に適応するもの である。人工物は、空を飛びたいとか おいしいものを食べたいといった、人 間の欲求を満たすために存在している ものである。 したがって、人間の求め るものが変われば、人工物もまた変化 するのであり、その逆についても同じ ことがいえるのである。 このような自然の法則と人間の目的 の両者をあわせもつ事物や現象を、も し科学によって取り扱うとするならば 科学はこれら2つの異質な要素を関係 づける手段をもたなければならない。 そこで、以下の章において、そのよう な手段の性格と、それらの手段がいく つかの知識領域、-とくに心理学と エンジニアリングーに対してもって いる意味関連を、主に検討する。 人工物 自然科学は、自然の物体と現象につ いての知識の体系である。それでは、 人工的な物体と現象に関する知識の体 系である「人工」科学 (“artificial” science)というものは、 はたしてありえないだろうか。あいに く「人工的」(artificial)という語には 軽蔑的な響きがあるので、論議をすす めるまえに、まずこの用語上の問題を 解決しておかなければならない。 私の手もとの辞書では、「人工的」 という語は、「自然によってつくりだ されたものではなくて人間の技巧の結 果として生みだされた、本物あるいは 天然ではない、ものごとの本質にかか わらない」と定義されている。同義語 としては、「みせかけの、こしらえた、 製造された、ふりをした、にせの、ま ねた、仮の、でっちあげた、不自然 な」があげられている。また、反意語 としては、「現実の、本物の、正直な、 天然の、ほんとうの、真実の、みせか けでない」があげられている。このよ うにみてくると、われわれの言語は、 自分たちのつくりだしたものに対する 深い不信感を反映しているように思わ れる。といっても、いまここで私は、 人工物についてのわれわれ人間のその ような評価の妥当性をうんぬんしたり その心理的な根拠を追求するつもりは ない。ただ、私は「人工的」という語 をできるかぎリ中立的な意味で使用す ること、すなわち、自然的ということ に対して、人間によってつくられたと いうことを意味するものとして使用す ることにしたいのである≒ 場合によっては、「人工的」 (artificial)と「合成的」(synthetic)が 区別される。たとえば、天然のサファ イアに似せて着色したガラス製の宝石 は、人工的であるといわれるが、天然 のサファイアと化学的に区別できない 人造の宝石は、合成的であるといわれ る。同様の区別は、「人工的」ゴムと 「合成的」ゴムのあいだにもしばしば みられる。このように、人工物は自然 物の模倣であることもある。その模倣 には、自然物と同じ物質を材料にする 場合と、まったく異なる物質を使用す る場合とがある。 「人工」とともに「合成」について 述べたとたん、われわれはエンジニア リングの領域に足を踏み入れている。 なぜならば、「合成の」という語は、 「設計された」とか「組み立てられた」 とかいう、より広い意味で凵ましば用 いられるからである。エンジニアリン グは「合成」にたずさわり、科学は 「分析」にたずさわる、といわれる。 合成された、ないしは人工的なもの、 もっと明確にいえば、のぞましい特性 を備えており、しかも実現性があると 思われるものこそ、エンジニアリング の活動と技術の中心的な対象なのであ る。エンジニアは、もう少し一般化し ていうと、設計にたずさわる者は、も のはいかにあるべきか、目標を達成し 機能を果たすためにはいかにあるべき かという問題に取り組んでいるのであ る。この点で、人工物の科学は、エン ジニアリングの科学に類似したものと なろう。ただし、本書の第5章でみる ように、人工物の科学は、こんにち 「エンジニアリングの科学」の名でよ ばれているものとは、まったく異質の ものである。 目標と「いかにあるべきか」に加え て、規範的と記述的の区別も考えなけ ればならない。自然科学は規範性を排 除し、事物のありのままの姿をもっぱ ら追求する方法を確立している。われ われの研究が自然現象から人工現象に 移り、また分析から合成へと移るとき にも、なおそのような規範性の排除を 維持できるであろうか。また、維持す べきであろうか售 これまでのところでわれわれは、人 工物を自然物から区別するものとして 次の4点を明らかにしてきた。それら によって人工物の科学の領域を設定す ることができよう。 1 人工物は、人間によって合成され る(ただし、常にあるいは通常、将 来の正確な予測のもとに行われてい るとはかぎらない)。 2 人工物は、外見上は自然物を模倣 しているかもしれないが、多かれ少 なかれ、自然物の実質を欠いている。 3 人工物は、その機能、目標、適応 によって特徴づけることができる。 4 人工物は、とくにそれが設計され ているときは、記述法のみならず命 令法によっても論議されることが多 廴丶。 型としての環境 ここで、人工物の機能的ないし目的 的な側面をもうすこし詳しくみること にしよう。目的の達成とか、目標への 適応には、次の3つの間の関係がかか わっている。すなわち、目的ないし目 標、人工物の特性、そして人工物が機 能する環境がそれである。たとえば、 目的に照らして時計というものを考え ると、「時計とは時を告げるものであ る」という、子供のする定義を使うこ とができる。 ところが、時計それ自体 に注意を向ける場合には、歯車の配列 スプリングの力の利用、重りや振子に はたらく引力の利用などの観点から、 時計について述べることができるであ ろう。 しかしまた、われわれは時計を、そ れが使用される環境に関係づけて考え ることもできる。日時計は、晴天の多 い気候のところで時計としての機能を 果たす。したがって、日時計は、ボス トンでよりもフェニックスでのほうが より役に立つし、北極では冬のあいだ はまったく役に立たない。上下左右に ゆれる船上で、経緯度を測定できる程 度に正確に時を刻む時計を考案するこ とは、18世紀の科学と技術にとって 大きな挑戦であった。そのような困難 な環境の中で時計がその機能を果たす ためには、それはいくつかの精巧な特 性を備えていなければならなかった。 そのうちのいくつかの特性は、新米の 水夫の時計の性能には、ほとんどある いはまったく無用のものであった。 自然科学は、人工物を特徴づける関 係の3つの構成要素のうち、次の2つ の要素をとおして、人工物にかかわり をもってくる。その2つの要素とは、 人工物それ自体の構造および人工物が 機能する環境である。時計がほんとう に時を告げるかどうかは、その時計の 内部構造と置かれる場所によって決ま る。また、ナイフの切れ味は、その刃 の材質と切るべき物体の硬度とによっ て決まる。 「接面」(interface)としての人工 物 われわれはこの問題をまったく対称 的にみることができる。人工物それ自 体の中身と組織である「内部」環境と 人工物がその中で機能する環境である 「外部」環境の両者の接合点として、 現代風にいえば「接面」(interface)と して、人工物をみることができる。も し内部環境が外部環境に適合している か、あるいは逆に外部環境が内部環境 に適合しているならば、人工物はその 意図された目的に役立つ。 したがって もし時計が動揺に強ければ、その時計 は船の経線儀として役立つであろう (反対に、もし時計が動揺に弱ければ、 その時計を家の暖炉の上に置くことに よって、それを時計として利用できる であろう)。 さて、このような人工物についての 見方は、人間によってつくられていな い多くのものについても、いや、実は なんらかの状況に「適応している」と みなしうるすべてのものについて、同 様にあてはまることに注意していただ きたい。なかでも、このような見方は 有機的な進化の力によって展開されて きた生物システムにあてはまるのであ る。航空機の理論では、その内部環境 (たとえば、動力機関)、外部環境(異 なった高度における大気の状態)、内 部環境と外部環境の関係(気体中の翼 の運動)の説明については、自然科学 に依拠している。しかし、鳥について の理論も、これとまったく同様に分解 できるのである圦 飛行機であろうと鳥であろうと、目 的や適応に特別の注意をはらうことな く、つまり、いわゆる内部環境と外部 環境とよぶものの接面に言及すること なく、これを自然科学の方法で分析す ることができる。結局のところ、これ らの行動も他のいかなるものの行動も 自然法則によって支配されているので ある(少なくとも、飛行機が自然法則 の支配のもとにあることは、すべての 人によって信じられており、また、た いていの人は、鳥についても同様に信 じるであろう)。 機能的な説明 ところで、もし仮に飛行機や鳥の分 析にあたって、内部環境と外部環境の 区別が必要でないとしても、この区別 はすくなくとも非常に便利なことがわ かる。これにはいくつかの理由がある つぎに、例を用いてそれを明らかにし ていくことにしよう。 北極にすむ多くの動物は、白い毛皮 を身につけている。これをわれわれは 通常、北極の環境では白色の生物は他 の色の生物に比べて比較的見つかりに くいので、白が最適の色である、とい うように説明する。いうまでもなく、 これは自然科学的な説明ではない。そ れは、目的あるいは機能の観点からの 説明である。それは単に、この種の環 境ではこの種の生物が「うまく機能す る」と、つまり、生存できるといって いるにすぎない。 したがって、この叙 述を1つの説明にするためには、自然 淘汰の概念、あるいはそれと同様なメ カニズムの概念を、これにつけ加えな ければならないのである。 この種の説明で重要なことは、説明 のためには、主として外部環境につい ての理解が要求されることである。雪 の多い環境をみるだけで、そこで出会 う生物の主色を予測することができる 生物自身の生物学的特性についてはほ とんど知る必要はない。ただ、それら の生物が、しばしば互いに敵対し、行 動の指針として視覚を手がかりとし、 そして適応力(自然淘汰あるいは他の なんらかのメカニズムによって)であ ることを知っているだけで十分である 進化論的生物学で、自然淘汰が果た しているのとよく似た役割を、人間行 動の科学では、合理性が果たしている 企業組織が利潤極大をめざすシステム であることを知っているだけで、環境 が変化すれば企業組織の行動はどのよ うに変化するか、製品に対する売上課 税が変われば企業はその製品の価格を どのように変化させるかを、しばしば 予測することができる。こうした予測 はーじつは経済学者は繰り返し行っ ているのだが一適応のメカニズム、 すなわち、企業組織の内部環境である 意思決定の機構について、詳細な仮定 をおかなくてもできる場合がある。 このように、適応的あるいは人工的 なシステムを研究するにあたって、内 部環境から外部環境を区別することの 第1の利点は、そのシステムの目標と 外部環境の知識があれば、その内部環 境についてはほんの最小限の仮定をお くだけで、そのシステムの行動を予測 することがしばしば可能になるという ことである。このことからすぐにわか ることだが、まったく異なった内部環 境でありながら、同一または同種の外 部環境のもとで、同一または同種の目 標が達成されることがよくある。飛行 機と鳥、イルカとマクロ、重りによっ て動く時計と電池によって動く時計、 電動リレーとトランジスタなどがその 例である。 内部環境と外部環境を区別すること には、内部環境の観点からいっても、 凵ましば同じような利点がみられる。 たいていの場合、ある特定のシステム が特定の目標あるいは適応を達成する かどうかは、その外部環境のごく少数 の特性によって決まるのであり、外部 環境の細部の特性にはなんら関係がな い。生物学者は、適応的システムのこ の性質について、ホメオステイシス (恒常性)の名でよく知っている。そ れは、生物的なものであれ、人工的な ものであれ、たいていのすぐれたデザ インに備わる1つの重要な性質である 設計者は、いろいろの方法で外部環境 から内部システムを隔離し、そのこと によって、外部環境を特徴づける多く のパラメータの広範な変動に関係なく 内部システムと目標のあいだに不変の 関係を維持しようとする。船の経線儀 は、船の動揺に反作用し、船の動揺と は無関係に、その板上の針が常に実時 間と不変の関係を保つようになってい る。 システムの近似的独立性を外部環境 に対して維持する方法としては、受動 的な隔離、反応的な負のフィードバッ ク(これが、隔離の方法としてもっと もよく論議されるものである)、予測 的適応、あるいはこれらの方法の組み 合わせなど、さまざまのものがある。 機能的記述と合成 最良の状況、すくなくとも設計者に とって最良の状況においては、適応的 システムを目標、外部環境、内部環境 に分けることから生じる前述の2つの 利点を結合することができるかもしれ ない。また、外部環境と内部環境のど ちらか一方を詳細に決めなくても、そ のシステムの主要な特性と行動を特徴 づけることができるかもしれない。わ れわれがその成立について期待をよせ ている人工物の科学は、内部環境と外 部環境の接面が比較的単純であるとい うことから、抽象性と一般性とを獲得 するであろう。 ここで、計算機として役に立つ物理 的装置の設計を考えてみよう。いま仮 に、1000の数まで計算できる装置を つくろうとするなら、その装置はすく なくとも、1000個の異なる状態をと ること、またそのうちどの状態にでも とどまること、そして1つの状態から 「次の」状態に移ること、これらのこ とが可能でなければならない。多くの 異なる内部環境が、そのような装置の ために使用されるであろう(事実、使 用されてきている)。周囲に20分ごと に刻み目がついている1つの輪があり その輪を回転させたり、止めたりする ための追歯がついていれば、それは計 算機の役を果たすだろう。また、10 個の電気スイッチがあり、それらが2 進法を表すように適当に配列されてい れば、それもやはり計算機の役を果た すだろう。こんにちでは、実際には、 電気スイッチの代わりに、トランジス タやその他の固体素子装置を使用して いるようである≒ これらの計算機は、外部環境からの ある種のパルス、それは機械的であっ たり、電気的であったりするが、その 適切なパルスによって作動する。 しか し、内外2つの環境のあいだに適当な 伝達変換装置を設けることによって、 内的パルスの物理的性格が外的パルス の物理的性格によって影響をうけない ようにすることができる。すると、そ の計算機は、どのようなものでも計算 できるということになる。 人工物を、その組織と機能の観点か ら記述すること、すなわち、その内部 環境と外部環境の接面から述べること は、発明とデザイン活動の主要な目的 である。モーターの改良制御機に関す る1919年の特許から引用された次の 承認要求の陳述は、技術者にはおなじ みのものであろう。 私は、以下に述べることを新しいも のと主張し、特許規約による保護を申 請する。 1 逆回転機構と正常にはたらく磁場 弱減機構を組み合わせて1つのモー ター制御装置をつくると、モーター の始動時において、逆回転機構の関 連機構は磁場弱減機構のはたらきを おさえ、その後は、逆回転機構の仕 組みによって種々の程度にその作用 力を変え、……蚰。 この発明がモーターの制御に関する ものであるという明白な事実を除けば 上の陳述には、特定の具体的な物体や 現象について述べているものはほとん どなにもない。むしろ「逆回転機構」 や「磁場弱減機構」について述べられ ており、その目的とするところは上に 引用した特許申請文に先立つ個所で明 らかにされている。 図に示された特殊タイプのモーター とその制御装置の利点は、この分野に 明るい人であれば、容易に理解できる であろう。なかでも、始動時の高トル クの確保と、モーターの迅速な逆回転 の確保の2つは、とくにその利点とし てあげられよう≒ さて、ここでこのモーターが、かん な盤に組み込まれていると仮定しよう (第2図を参照)。発明者はその作用を 次のように述べている。 八………一一匸二j・・ 一一一二。宍t嶮煮 町………e………石6. ル →! 心 偸 尸≒隨‘よ宍IJ。L 抖 殞]……尚飛。・;ぷ: 伴子 ・・139 1ザ 尸 冷冫ヨキタ制鷹櫪の特夕の回瓜 第2図を参照すればわかるように、 この制御装置は、モーターMによっ て動くかんな盤(100)と連結してお り、モーターMを調節し、また、か んな盤の往復運動台(101)によって 自動的に操作されるようになっている。 この制御装置の主軸にはレバー(102) がとりつけられており、連結棒(103) によって、かんな盤のフレームの上の レバー(104)に接続し、かんな盤上 の2つの突出した爪(105)および (106)へとつながっている。容易にわ かるように、こういう仕組みになって いるため、かんな盤の運動台の逆運動 は、前述の連結装置をとおして、制御 装置の主軸を前後両端へと動かす。そ の結果、逆転スイッチ(1)と(2)の 選択的な操作とその他のスイッチの自 動操作とが、上記のような方法でなさ れるのである‰ このようにして、内部環境の諸特性 は、特定の外部環境のもとで、特定の 目標の達成に役立つのである。上記の モーターは、かんな盤の位置の制御に よって、周期的に逆回転する。その行 動の「型」(たとえば、モーターと結 びついている変数の時間経路)は、外 部環境の「型」(この場合では、かん な盤の2つの突出した爪のあいだの距 離)の関数になるだろう。 これまで述べてきた装置は、人工物 の性質を微細な点にわたって例解して いる。人工物を記述するにあたって中 心的なことは、内部システムを外部シ ステムに結びっける目標である。内部 システムは、自然現象を組織化して、 ある範囲の外部環境のもとで特定の目 標を達成できるようにしたものである しかし、これを行うことができる機能 的に等しい自然システムは、数多くあ るのがふつうである。 外部環境は、目標達成の条件を決定 する。もし内部システムが正しく設計 されるならば、それは外部環境に適応 したものになるであろう。そしてその 結果、その行動は、「経済人」の場合 のように、外部環境の動きによってほ とんど決まることになろう。その行動 を予測するためには、「合理的に設計 されたシステムは、これらの条件のも とでは、どのように行動するだろう か」を考えれば、それで十分である。 行動は、その課題環境の型に似かよっ てくるのである≒ 適応の限界 しかし、問題はこれまでの説明から 想像されるよりは、もうすこし複雑で あるにちがいない。「望みが馬であれ ば、どんな乞食にもあたえられるだろ うに(望むだけならだれでもできる)」 課題環境の型を正確にとる変幻自在の 内部システムが、もし仮にいつも設計 可能であるとすれば、設計とはすなわ ち希望することであるということにな ろう。「ダイヤモンドを細工する方法」 は、デザインの目的を定義している。 その目的は、多くの異なった物質を使 うことによって達成できるかもしれな い。ところが、そのデザインは、通常 の自然法則に従う実現可能な内部シス テムをすくなくとも1つは発見しない かぎり、実際に完成したことにならな い。いまの例では、ダイヤモンドを細 工するに十分な硬度をもつ物質が発見 されてはじめて、デザインが実際にな されたということになる。 凵ましば、デザインの目的をただ近 似的に達成することで満足しなければ ならないことがある。そのときには、 内部システムの特性が「その姿をあら わす」ことになろう。つまり、そのシ ステムの行動は、課題環境にただ部分 的に反応するだけであり、また内部シ ステムの制約的特性にも一部反応する だろう。 前述のモーター制御装置は、モー ターを「迅速に」逆回転させることを めざしている。 しかし、モーターは電 磁気や機械工学の法則に従うものであ るから、そのモーターの能力以上に迅 速な逆回転を要求する課題環境があた えられるときには、それに応じるシス テムを考えることがすぐに問題となる めぐまれた環境のもとでは、われわれ がモーターについて知ることは、その モーターに遂行するように要求されて いることだけである。 ところが、きび しい環境のもとでは、そのモーターの 内部構造、とくにそのモーターの性能 の主たる制約要因となる内部構造の局 面に関して、いくつかの点が明らかに なるであろう旦。 橋は、通常の使用条件のもとでは、 その上を車が走れる比較的なめらかな 水平面にすぎない。それに過重な負担 がかけられたときにはじめて、橋の素 材の物理的特性がはっきりするのであ る。 シミュレーションによる理解 人工性とは、本質的には相違してい るが、みたところ類似しているという こと、また内部よりもむしろ外観が似 ているということを意味する。前節の 用語を用いれば、次のようにもいえよ う。人工的対象物は、外部システムに 本物と同じ外観を呈することによって また本物と同じ目標について外的な課 題の比較可能の範囲に適応することに よって、本物を模倣するのである、と 模倣が可能であるのは、異なる物的シ ステムであっても、それを適当に組織 化してほぼ同じ行動をとるようにする ことができるからである。減衰スプリ ングと減衰回路は、同じ二階線形微分 方程式にあてはめることができる。そ れゆえ、どちらか一方を他方を模倣す るために使用できるのである。 シミュレーションの技法 抽象的性格と一般的な記号操作能力 とをもつディジタル・コンピュータ (計数型電子計算機)によって、行動 を模倣できるシステムの範囲は、いま や大きくひろがった。一般に、現在で は模倣は「シミュレーション」とよば れ、シミュレートされた環境、つまり 模倣されたさまざまの環境のもとでシ ミュレーションをテストすることに よって、模倣システムの理解が試みら れている。 いうまでもなく、シミュレーション は、システムの行動を理解し、予測す るための1つの技法として、ディジタ ル型のコンピュータの出現する以前か ら使われていた。模型プールや風洞は 大規模なシステムを、小さいモデルを 用いて研究する貴重な方法である。ま た、Ohmの法則が発見者の頭にうか んだのが、簡単な水力学的現象からの 類推によってであることは、ほぼたし かである。 また、シミュレーションは、けっし て実行されることのない思考実験のか たちをとることもある。大不況の記憶 の1つとして、私はいまでも、父の書 斎にあった大きい色刷りの図をはっき りと覚えている。それは、経済システ ムの水力学的モデル(貨幣と物財の流 れは別々になっていた)を描いていた その図は技術主義的傾向をもつ Dahlbergというエンジニアの考案した ものであった。そのモデルは当時、ペ ンと絵の具の段階をこえるものではな かったが、それを使って、特定の経済 量や経済現象の動きとその結果を跡づ けようと思えば、それは可能であった ただし、その図の基礎にある理論が正 しければの話であるが山。 経済学を本格的に勉強するようにな るにつれて、私はそのような幼稚なシ ミュレーションを軽蔑するようになっ たが、第2次大戦後になって、著名な 経済学者A.W.Phillips教授が、ケイン ズ経済学をシミュレートする水力学的 モデル、Moniacを実際に作成してい たことを知ったのであった旦。もちろ ん、PhVips教授のシミュレーション は、それ以前のものに比べて、より正 しい経済理論をとリ入れており、それ に実際に組み立てられ、操作されてい たから、その意味ではすぐれたもので あった。 しかし、そのMoniacも、教 材としては有用であったが、ケインズ 理論の単純な数学的定式化から容易に 導き出せる以上のことは、なにも教え てくれなかった。そして、やがてつぎ つぎにつくられた経済現象のコン ピュータ・シミュレーションによって 駆遂されてしまったのである。 新しい知識の源としてのシミュレー ション いまMoniacについて述べたことは、 シミュレーションに関する次のような 決定的な問いを引き出す。すなわち、 いったいシミュレーションは、いかに してわれわれに未知の事柄を教えるこ とができるのだろうか、という問いで ある。ふつうこの問いは、それが不可 能であるという意味をもって発せられ る。しかし実際問題として、コン ピュータとシミュレーションに関して しばしば耳にする次の2つの主張のあ いだには、以下でみるような、興味深 い類似性がみられるのである。 1 シミュレーションは、その中に組 み入れらている前提以上のなにもの でもない。 2 コンピュータは、プログラムされ たことしか実行できない。 私は、この2つの主張のいずれも否 定しないだろう。 というのは、2つと も正しいように思えるからである。 し かし、これら2つの主張にもかかわら ず、シミュレーションは、われわれに 未知の新しいことを教えることができ るのである。 シミュレーションが新しい知識を提 供できる方法には、相互に関連する2 つの方法がある。1つは明白であるが、 他の1つはすこしわかりにくいかもし れない。まず明らかな点は、たとえ正 しい前提があたえられていても、それ に含まれる意味を導き出すことはしば 凵またいへん困難である、ということ である。正しい推論はすべてトートロ ジーの壮大な体系である。この命題が そのまま妥当するのは、神様だけであ る。われわれ人間は、苦心して、また 失敗を繰り返しつつ、前提から結論を 引き出さなければならないのである。 このようなことからいえば、気体の 行動を支配するメカニズムについてわ れわれの知識から、気象の理論や天気 予報の方法を導き出す1つの有力な方 法として、シミュレーションは期待で きるかもしれない。現に、多くの人た ちが知っているように、この方法を実 際に適用する試みが数年前からすすめ られている。大胆に単純化していえば 正しい基本的な前提である局地的な大 気についての方程式を、われわれがす でに知っているということである。 し かし、膨大な変数の相互作用の結果を 複雑な最初の条件から計算して順次そ れを追求していくためには、コン ピュータが必要なのである。これは要 するに、われわれが代数で二元連立方 程式を解くときの考え方を、現代のコ ンピュータの規模にまで拡大適用した ものであるにすぎない。 シミュレーションのこういう利用の 仕方は、エンジニアリング・デザイン に多くの適用例がみられる。それとい うのも、多くの種類のデザイン問題で は、内部システムの構成要素の行動の 基本法則、すなわち、機械的、電気的 化学的な法則はよく知られているとい う特徴があるからである。そしてまた デザイン問題のむずかしさはしばしば そういった構成要素の組み合わせ全体 がどのように行動するかを予測するこ とにあるからである。 理解が不十分なシステムのシミュ レーション より興味深く、しかし同時によりわ かりにくい問題は、われわれがはじめ 内部システムの行動を支配する法則に ついてあまりよく知らないときでも、 はたしてシミュレーションは役立ちう るかどうかという問題である。この問 いに対しても、やはリイエスと答える べきであるが、つぎにそのわけを説明 しよう。 まずはじめに、ことを簡単にするた めに、予備的説明をしておこう。それ は、われわれが現象を説明したり予測 する場合、その細部のすべてにわたっ ていちいち説明したり予測することに ほとんど関心をもたず、ふつうは、複 雑な実体から抽出された少数の特性の みに関心をはらう、ということである たとえば、アメリカ航空宇宙局 (NASA)が打ち上げる人工衛星はた しかに人工物であるが、それが月や惑 星を「シミュレートしている」とは、 ふつうみなされない。それはただ、月 や惑星と同じ物理法則に従っているだ けであり、その法則は、人工衛星のも つ他のほとんどの特性に関係なく、そ の慣性と重力の特性のみにかかわって いる。その人工衛星は、まぎれもなく 1つの月なのである。同様に、シッピ ングポートの原子力発電所から私の家 に送られていた電気エネルギーは、火 力発電や風力発電によるエネルギーを 「シミュレートしていた」わけではな い。 Maxwellの方程式は、両者にあて はまるのである。 現象からその細部を捨象すればする ほど、現象のシミュレーションは容易 になる。さらに、システムの内部構造 のすべてを知っていたり、推測する必 要はなく、抽象化にぜひとも必要な部 分だけを知っていればよいのである。 これは、われわれにとっては幸運な ことである。もしそうでなかったら、 過去3世紀にわたって自然科学をつく りあげてきたトップ・ダウンの研究方 法は、実行不可能であったにちがいな いからである。われわれは、分子を知 る以前に、大きな物理的、化学的な現 象について多くを知っていたし、原子 の理論が現れる以前に、分子科学につ いて多くのことを知っていたし、また 素粒子の理論-こんにちそのような 理論があるとしての話であるがーが できる以前に、原子について多くを 知っていたのである。 このように屋根から土台へと築いて いく式の、宙に浮いた摩天楼の建設の ような科学の発展が可能であっだのは 各レベルにおけるシステムの行動を決 めているものが、そのシステムの1つ 下のレベルにおけるごく近似的で、単 純化され、抽象化された特性だけであ るからである旦。このことは幸運なこ とである。そうでなければ、橋や飛行 機の安全性は、素粒子の「八道説」の 正しさのいかんにかかってくるだろう 人工的システムと適応的システムは その特性のゆえに、単純なモデルを使 用するシミュレーションの対象として とくに適している。その理由は、この 章の前節で説明したこれらのシステム の性格からであろう。関心の対象に なっている行動が、システムの構成要 素のうちごく少数の要素特性だけに関 係しており、しかもそれらの構成要素 の組織からでているときには、内部構 造がちかっていても、そのシステムの 行動が類似することは、十分にありう ることである。 したがって、多くの目 的のために、ある1つの材料について その張力や圧縮力の強さといった特性 だけに関心がはらわれる。われわれは その材料の化学的特性について、さら にそれが木であるか鉄であるかについ てさえ、まったく関心をはらわなくて よい。 先に引用したモーターの制御に関す る特許は、組織的特性に抽象化するこ とがいかなることであるかを、1つの 例によって明らかにしている。あの発 明は、「逆回転機構」と「磁場弱減機 構」の「組み合わせ」からできており そこでは、それらの構成要素は、組織 づけられた全体におけるおのおのの機 能の点から述べられていたのである。 モーターを逆回転させたり、磁場を弱 める方法は、どれぐらいあるだろうか われわれは、あの特許申請文に述べら れていたシステムを、そこに述べられ ていた物理的な装置をまったく用いな くても、さまざまな方法でシミュレー トすることができる。もうすこし抽象 化して特許申請文を書きかえれば、電 気的装置だけでなく、機械的装置にも あてはまるようにすることができる。 カリフォルニア大学(バークレー)、 カーネギー・メロン大学あるいはマサ チューセッツエ科大学の工学部の学生 ならだれでも、逆回転能力と変動的な 始動時トルクを備えた機械的システム を設計し、この特許のシステムをシ ミュレートできると思う。 人工物としてのコンピュータ 人間のつくった人工物の中で、ディ ジタル・コンピュータほど、この種の 機能的記述に便利なものはない。それ はまことに変幻自在である。 というの は、その行動において見出しうる特性 はほとんどすべてがーそれが正常に 作動しているかぎりでの話であるが 一組織的な特性であるからである。 その基本操作のスピードから、その物 理的な構成要素とそれらのもつ自然法 則について、すこしは推測できるかも しれない。たとえば、データ処理のス ピードからいって、ある種の「緩慢 な」構成要素は含まれていないと考え られる。このことを除けば、実際に作 動しているコンピュータについての興 味深い叙述は、ハードウェアの性質と ほとんどこれといった関係がない。コ ンピュータは、基本的な機能的要素を 組織化したものであり、それらの構成 要素の機能だけが、ごくおおざっぱな 意味で、システム全体の行動に関係し ているにすぎないのである士。 抽象的対象物としてのコンピュータ コンピュータのこの高度に抽象的な 性格のために、コンピュータ理論の研 究には、容易に数学を導入することが できる。そして、現にある人たちは、 コンピュータ・サイエンスが生成して くるにつれて、それは必然的に経験科 学というよりは数学的な科学になるで あろう、という誤った結論に達してい る。そこで、数学とコンピュータの関 係、およびコンピュータを経験的に研 究する可能性という2つの点を、順次 取りあげてみたい。 コンピュータの信頼性というテーマ に関して、John von Neumann を先駆者 として、いくつかの重要な理論的研究 が行われてきた。それは、信頼性のな い部品から、いかにして信頼度の高い システムをつくるかという問題である ここで、この問題が物理学あるいは物 理工学の問題として提起されていない ことに注意していただきたい。 コン ピュータ部品の技術者は最善をつくし たと思われるが、それでも部品にはい ぜんとして信頼性がないのである。し たがって、この部品の低い信頼性の問 題は、結局その部品の組織化の仕方に よって解決しなければならない。 ここで、この問題を取りあげるにあ たって、信頼できない部品の性質につ いて、もうすこし述べておく必要があ る。その場合、どのようなコンピュー タも、単純な基本的要素からなる小さ い構成単位を組み立てることによって つくられる、ということを知っている とわかりやすい。たとえば、コン ピュータの部品の原形として、いわゆ るピッツ=マクロツクのニューロン (Pitts-McCulloch neurons)を考えるこ とができる。その名が示すとおり、そ のニューロンの構成要素は、脳の神経 細胞の、解剖的ならびに機能的特性を 想定し、それをまねてつくられたもの であるが、しかし、それは高度に抽象 的なものである。それは、もっとも単 純な種類のスイッチ回路である「およ び」(and)、「あるいは」(or)、「否」 (not)の回路と、形式的には異種同型 である。さて、このような要素からシ ステムをつくらねばならず、しかもそ の各基本要素が、ある確率でしか正常 に機能しないとする。このとき、信頼 性の問題とは、要素および要素間の相 互連結をうまく配列することによって 全体のシステムが高い信頼性を確保す るようにする問題であるといえる。 ここでの論議にとって重要なことは ここでいう構成要素は、神経細胞でも リレーでもよく、またリレーでもトラ ンジスタでもよいということである。 リレーに関する自然法則はよくわかっ ているが、神経細胞の自然法則につい ては、ごく不自然にしかわかっていな い。だが、そんなことは問題ではない この理論に重要なのは、構成要素が、 一定のレベルの低い信頼性しかもって いないことと、ある特定の方法で相互 に関係していることだけである。 この例から、1つのシステムについ ての数学的理論をうちたてること、あ るいは、そのシステムをシミュレート することは、システムの構成要素を支 配する自然法則に関して十分なミクロ 理論をもっていなくても、可能である ことがわかる。そのようなミクロ理論 は、実際のところ、まったく不必要で あるかもしれない。 経験的対象物としてのコンピュータ つぎに、コンピュータ部品の固体物 理学や生理学と区別される、経験的な コンピュータ科学が成立しうるかどう か考えてみよう旦。経験的な事実とし て、これまでに設計されたコンピュー タは、ほとんどすべてが、ある共通の 組織的特徴を備えている。それはたい てい、能動的な処理装置(Babbageの いう「工場」)と記憶装置(Babbage のいう「倉庫」)とに分解でき、そし てそれらは入力装置と出力装置に組み 合わされている(大規模なシステムの 中には、群生する藻のように、小規模 なシステムの組み合わせからできてい て、その小規模なシステムに、これら の構成部分のいくつかあるいはすべて が備わっているものもある。 しかし。 ここの論議にとっては、大胆に単純化 しておいてもよいだろう)。それらは いずれも、記号(プログラム)を貯え る能力をもち、それらの記号は、プロ グラム・コントロール装置によって読 みとられ、処理される。また、コン ピュータの同時並行的な処理能力は、 ほとんどの場合、ごくかぎられている つまり、コンピュータは、基本的には 一時に1つのことを行うシステムであ る。記号は、ふつうまず大きな記憶装 置から中央処理装置へと移され、その 後に操作される。コンピュータのシス テムは、単純な基本動作ができるだけ である。すなわち、それは記号を変換 し、貯え、写しとり、移動し、消去し そして比較するだけである。 現在ではそのような装置はたくさん あり、またそれらの装置の特性は、人 間の中枢神経系にもみられるようであ るから、コンピュータの自然史をつく ることは、けっしてできないことでは ない。われわれは、うさぎやしまりす を研究するのと同じように、コン ピュータを研究することができ、環境 的刺激の異なったパターンのもとでコ ンピュータがどのように作動するかを 知ることができる。 コンピュータの行 動が主として、さきほど述べたような 広範な機能的特性を示すものであり、 そのハードウェアの細部の特性とは無 関係であるかぎり、われわれは、コン ピュータについての一般的-しかし 経験的-な理論をつくりあげること ができる。 コンピュータ・タイムシェアリン グ・システムの設計の研究は、コン ピュータの行動を1つの経験的な事象 として研究した1つのよい例である。 タイムシェアリング・システムの設計 の指針として、また、ある特定のシス テムが、利用者の要求を入れた環境的 条件のもとで、実際にどのように作動 するかを予測するにあたっても、断片 的な理論しか利用できない。実際に試 みられた設計のほとんどは、当初、重 大な欠陥をもつことがわかったし、性 能についてのほとんどの予測は、おど ろくほど不正確であった。 このような状況のもとで、タイム シェアリング・システムの開発と改良 に通じるおもな道は、実際にそれをつ くり、それがどのようにはたらくかを 調べることである。そしてこれこそ、 実際に採用された方法であった。タイ ムシェアリング・システムは、つくら れては修正され、何回にもわたって順 次改良されたのである。もし理論があ れば、これらの実験は事前に予想でき したがって、それらの実験は不必要で あったであろう。 しかし、実際にはそ うではなかった。タイムシェアリン グ・システムのように、非常に複雑な システムに精通している人で、理論が 実際を不必要とすると考えている人は おそらくひとりもあるまい。そのよう なシステムを理解するためには、シス テムを実際につくり、そのはたらきを 実際に観察しなければならなかったの である旦。 同様に、ゲームをしたり、あるいは 数学の定理の証明をみつけるように設 計されたコンピュータ・プログラムは 非常に大規模で複雑な課題環境のもと で使われる。たとえプログラム自身は それほど大規模でなく、また複雑でな くても(たとえば、大型コンピュータ のモニタリングとオペレーションのシ ステムに比べて)その課題環境につい てはほとんどわかっていないので、そ のプログラムがいかにはたらき、いか に選択的に問題の解を探求できるかに ついて、正確な予測を行うことは不可 能である。 ここでもまた、理論的分析を多量の 実験的作業によって補う必要がある。 そのような実験を報告する文献が増加 するにつれて、探求すべき問題空間の 範囲をせばめるうえで、各ヒューリス テイツク技法がどの程度の発見力を発 揮するかについて、しだいに正確な知 識が得られるようになってきている。 たとえば、定理の証明において、経験 的研究に基づき、またそれに導かれて 発見的能力はたえまなく進展してきた Herbrandの定理、解決原理(the resolution principle)、一連の支持原理 (the set-of-support principle)などがそ うである匹。 コンピュータと思考 われわれが、コンピュータについて の理論的かつ経験的な知識を広め、ま た深めるとともに、コンピュータの行 動の大半は、単純な一般法則によって 支配されていること、また、プログラ ムの一見した複雑性は、かなりの程度 まで、そのプログラムが適応せんとす る環境の複雑性にはかならないこと、 を知るようになっている。 プログラムと環境の関係がこのよう なものであるため、コンピュータ・シ ミュレーションは、人間行動をより深 く理解するための方法として、非常に 重要な役割を演じるようになっている というのは、コンピュータの行動を決 めるものが、その構成要素の物的特性 ではなく、その組織であり、また、コ ンピュータが人間の姿(イメージ)に 多少とも似せて組織されているのであ れば、コンピュータは、人間行動につ いてのいくつかの代替的な組織的仮定 の帰結を研究するための、1つの明白 な手段になるであろうからである。構 成要素のデザインの問題が、神経学的 に解決されるのを待つことなくーそ れらの構成要素が、たとえおもしろく また重要であることが後ほどわかると してもーわれわれは、心理学の研究 をすすめることができるだろう。 記号システム:合理的な人工物 コンピュータは、記号システム(よ り正確には物理的な記号システム)と よばれる人工物の中の重要な種のメン バーである旦。同じ種に含まれるもう 1つの重要な(擬人観的にはこれが一 番重要であると考える大があるかもし れない)メンバーは、人間の精神と頭 脳である。本書でこれから主にとりあ げるのは、人工物のうち前者の記号シ ステムのほうである。記号システムは ほとんど純粋な人工物といってよい。 というのは、環境への適応がその存在 理由のすべてであるからである。記号 システムは目標追求的な、情報処理の システムであり、通常はよリ大きなシ ステムのために機能する。 記号システムの基本的能力 物理的な記号システムは、記号とよ ばれる一群の実体を有している。それ は物理的パターン(黒板にチョークで 書かれたマークはその1例)で、記号 構造の構成要素(ときに「表現」とい われる)になり得るものである。コン ピュータを例にとって指摘したが、記 号システムは、記号構造にはたらきか ける単純なプロセス、つまり記号をつ くり、変更し、複製し、そして壊すと いうプロセスを有している。物理的な 記号システムは1つの機械で、その機 械は進化的な記号構造を時間の経過と ともにつくリ出す旦。記号構造は、そ の記号構造が適応せんとする環境の内 的表現(つまり環境の「メンタル・イ メージ」)として機能しうるものであ り、また実際そのように機能するのが 通例である。記号構造によって、環境 を正確に(その程度はさまざま)、ま た詳細に(その程度はさまざま)モデ ル化することができ、そのため環境に ついて理論化することも可能になる。 もちろん、このような能力が記号シス テムにとって有用であるためには、記 号システムは外界に開かれた窓と手を もつことも必要である。外部の環境か ら情報を得てそれを内部的な記号につ くりかえる手段がなければならず、ま た、環境にはたらきかける行動を引き 起こす記号をつくリ出す手段もなけれ ばならない。 したがって、記号システ ムは記号を使って、外界の対象的、関 係、行動に指示を出さなければならな い。 記号はまた、記号システムが解釈し 実行できるプロセスを指示することも できる。そのため、記号システムの行 動を決めるプログラムは、他の記号構 造とならんで、システム自身の記憶の 中に貯えることは可能であり、そして そのプログラムにはたらきかけること によって実行させることも可能である 記号システムをここで「物理的」な 記号システムとよぶのは、実体的な装 置として記号システムが存在している ことを忘れないためである。ちなみに コンピュータはガラスと金属でできて おり、人間の頭脳は肉と血液でできて いる。従来われわれは、数学と論理学 の記号システムを抽象的かつ非実体的 なものと考えるくせが多分にあり、数 学と論理学の記号システムを実際に生 きたものとして使うには紙と鉛筆と人 間の知力がなければならないことを見 逃しがちであった。コンピュータに よって、記号システムは従来の理念の プラトニックな世界から経験的な世界 へと移転する。経験的な世界では機械 や頭脳によって、あるいは機械と人間 の頭脳の協働によって、記号システム は実際に作動することになる。 計算能力としての知能 本書のこれからの3つの章の基本に ある仮説は、知能とは記号システムの はたらきに他ならないという仮説であ る。この仮説をもうすこしきっちりし たかたちに述べると次のとおりである すなわち、私かいま、前述したような 種類の物理的な記号システムは、一般 的な知能活動のための必要にして十分 な手段を有しているという仮説である この仮説は明らかに経験的な仮説で あり、仮説が真であるか偽であるかは 経験的な証拠に照らして判断しなけれ ばならない。本書の第3章と第4章の 1つの課題は、そのような経験的証拠 (基本的に2種類のものがある)につ いて検討することである。まず第1に 知能活動を行えるコンピュータ・プロ グラムをつくることによって、さきの 仮説の十分条件の側面について証拠を 提供する。つづいて第2に、人間の思 考活動に関して、人間の頭脳は記号シ ステムとして機能していることを示す 実験データを集めることによって、仮 説の必要条件の側面に信頼性をつけ加 えることにしたい。というのは、その ようなデータは、これまでに知られて いる知的システム(頭脳とコンピュー タ)はいずれも記号システムであるこ とを示しているからである。 経済学:抽象的な合理性 物理的な記号システムの機能として 人間の知能をとらえるわれわれの試み の序として、第2章では雄大な抽象化 と理念化の試み(近代経済学、なかで も新古典派とよばれる経済学にみられ る人間の合理性の理念)について検討 する。これらの経済理論は理念化の試 みである。というのは、それらの理念 では人間の思考の外部環境に主として 注意をむけるからであり、また、適応 的システムの目標(効用ないし利潤の 極大化)を実現するのに最適な意思決 定に主として注意をむけるからである それらの理念が明らかにせんと努める 意思決定は、外部環境によって定義さ れる状況において十分に合理的な意思 決定である。 内部環境(物理的な記号システムの 特徴)によって課せられる合理性の限 界の経済理論の取り扱い方は、現実的 な傾向があり、ときには機会主義的で もある。一般均衡理論の公理論的な展 開においては、また、適応へのいわゆ る「合理的期待」アプローチにおいて は、情報処理システムがごく限られた 適応能力しか有さないという可能性は ほとんど無視されている。他方、市場 メカニズムが合理的であるとの論議に おいて、また、不確実性下での意思決 定の多くの理論においては、合理性の 過程的側面に十分な注意がはらわれて いる。 第2章において、合理性の限界を無 視する事例および合理性の限界に関心 をはらう事例の両方をみることにした い。第2章で経済学の理念化の試み (およびその批判)をみたあとで、わ れわれは第3章と第4章で、思考の内 部環境のより体系的な分析についてみ る。すなわち、思考過程が、人間の頭 脳のような物理的な記号システムのパ ラメータによって課される制約の中で 思考が実際に機能する過程についての 体系的分析をみることにしたい。 1 私は場面に応じて「人間」という用語を男性 − にも女性にもあてはまる両性的な名詞として使 用するつもりであり、また「彼は」「彼の」「彼 に」についても両性的な代名詞として使用し、 女性と男性を等しく取り扱いたい。 2 ここで「人工的」という語を選んだことにつ ー いて、私は自分で責任を負わなくてもよいと 思っている。私は「人工知能」(artificial intelligence)という語句から、この語を選択す るに至ったが、この語句は、チャールズ川の右 手にあるマサチューセッツエ科大学ではじめて つくられたと思う。ランド(RAND)および カーネギー・メロン大学におけるわれわれの研 究グループは、[複雑な情報処理][comp]ex information processing)とか「認知過程のシミュ レーション」(simulation of cognitive processes) といった語句のほうを好んで使用してきた。し かし、これらの語句を使うと、別の新しい用語 上の問題が生じてくる。辞書によれば、「シ ミュレートする」とは、[実体を欠きながら。 単なる外観またはかたちを装ったり。示す。模 倣する。まねる。ふりをする]という意味であ るとされているからである。いずれにせよ、 「人工知能」という語句はここにあてはまるよ うであるし、なしですませるよりは。浄化する ほうが容易かもしれない。この語句もそのうち 慣用的になり、語義上の論議の的になることも なくなるであろう。 3 この問題については、本書第5章で再び詳し ー く取り上げる予定である。しかし、読者がそれ まで気をもまれることのないように、私が自著 Admii.】dstrative Behavior (New York : MacmUlan, 1976)の第3章でとったとおり、[あるべき] (ough!)を[ある](js)に還元することは絶対 に不可能であるという経験主義の立場をとるこ とを、ここで明らかにしておきたい。この立場 は、自然的あるいは人工的な目標追求システム を、その目標に言及することなく、1つの現象 として取り扱う方法と完全に一致する。前記自 著の附録と次の有名な論文を参照。A. Rosenb】uth,“Behavior, Purpose, and Te]eology.”鳬jjos叩ihy of Scier.]ce,jO(1943): 18-24. 4「内部」環境から「外部」環境を分離できると ー するこの論議を一般化すると、そのシステムが 人工的であるか、自然的であるかにかかわりな く、すべての大規模で複雑なシステムにおいて、 大なり小なり、この分雕可能性がみられるとい うことになる。一般化した形で述べれば、それ は、自然はすべて[階層]をなして組織化され ているであろう、という論議である。本書に収 められている[複雑性の構造](The Aichi!ecture of Complexity)という私の論文(本書第8章) では、この問題についての一般的な論議が、か なり詳しく展開されている。 5計算機の機能的等価の理論は、近年かなりの 発展をみせている。次を参照。Marvin L. Minsky, Computatioi]。・Fjlljle and !njj]lite Machir】es (Englewood Cliffs, N. J.:Pnentice-Ha】】、1967)、 Chapters 1-4. 6合衆国特許第1307836号。1919年6月24日、 Arthur Simon 氏(訳者注:著者Simonの父)に 与えられたもの。 76に同じ 86に同じ 9適応あるいは合理性、およびその限界が、経 一 済学と組織論にとっていかなる重要な意味を もっているかについては、次を参照。自著 Models of Man [New York:Wi]ey, 1957)の第4 部の序章“Rationa]ity and Administrative Decision Making"および前掲Adma】j・slralj・ve Baavjofの 38-41、80-81、240-244ページおよび本書第2章、 10管理組織のデザインに関する、これと同様な 一 次の命題と比較していただきたい。「したがっ て、合理性が行動を決定するのではない。合理 性の領域の中では、行動は完全に弾力的であり、 能力、目標、知識に対する適応力をもっている。 そのかわり、行動は、この合理性の領域をこえ た不合理的、非合理的な要素によって決定され る。……中略……管理論は、合理性の限界およ び人間が意思決定するときに組織がこれらの限 界にいかに影響を及ぼすかということを取り扱 うべきである」。前掲Admit]jslraljve Bejlavjofの 241ページ。心理学では、これと同じ問題がど のように論議されているかについては、次の私 の論文を参照。“Cognitive Architectures and Rational Analysis : Comment, "in Kurt VanLehn (ed.)、Arc鈿leclufes for Intelliger.]ce[Hillsda]e, NJ: Erlbaum, 1991)。 11 このモデルのうち公刊されたものについては 一 次を参照。A. O. Dahlberg, Natioi.]aHI]con]e Visualized (N. Y.:Columbia University Press, 1956). 12 A. W. Phi】】ips,“Mechanical Models in Economic Dynamics,"Econoir.】iica, New Series, j7(1950): 283-305. 13 この点は、本書第8章の[複雑性の構造]に ー おいて、さらに詳しく論じられている。これと 同じことを、Bertrand Russel]が50年以上も前に 数学の構造に関して指摘している。その著書 Prii]cipia Mathematica の「序」には、次のように 述べられている。「(前略)数学の原理に関する いかなる理論も、それを支持する主たる論拠は、 常に帰納的なものでなければならない。換言す れば、それはその問題の理論によって、われわ れが通常の数学を演繹できるという事実の中に 存在するものでなければならない。数学におい ては、再高度の自明は、演繹のはじめの段階で 得られることはめずらしく、解いていくにつれ てある段階で得られるというのがふつうである。 したがって、その段階に到達するまでの初期の 演繹においては、前提から真の結論が引き出さ れるという理由でその前提が信じられるのであ り、前提からその結論が引き出されるという理 由でその結論が信じられるのではない」。1910 年当時におけると同様に、最近でも演繹的形式 論が好まれ、この点がしばしば見逃されるので ある。 14 このパラグラフと次のパラグラフの主題にっ ー いては,まず M. L. Minskyの前掲書を参照し, それからさらに次を参照。亅ohn van Neumann,“Probabilistic Logics and the Synthesis 01 Reliab】e Organisms from Unreliable Components," in C. E. Shannon and J. McCarthy (eds.), Automata Sludjes(Prjnceton : Princeton University Press, 1956)。 巧A、Newe]1 and H. A. Simon,“Computer Science as Empirical lDqujry," Communications oftheACM, J 9 (March 1976):113-126.また,次も参照。H. A. Simon,“Artificial Intelligence : An Empirical Science,"Artificial Intelligence, 77(1995): 95-127. 16 コンピュータ研究の経験的,探究的性格は, - 1967年Turing講義でのMaurice V. Wilkesの説明 によくとらえられている。“Computers Then and Now,"Jourr.】ajoftj】e Association fi】ir Comp山・Jig Machinery, 15 : 1-7 (January 1968)。 17 たとえば,次の文献,およびそこにあげられ ー ている初期の文献のいくつかにみられる経験的 データを参照。Lawrence W八〕s, George A. Robinson, Danie】F. Carson, and Leon Shalla, “The Concept of Demodu]ation in Theorem Proving," Jovrr.】ial of the Association fi】ir Computing Mart】j・1】efy, j4:698-709 (October 1967)。また、次の書物に 集められているプログラムも参照。Edward Feigenbaum and Julian Fe】dman (eds.)、Co召lpulefs and nou幼1(New York : McGrawHV、1963)。発見 的なプログラムを扱った論文に、[XYZプ卩グ ラムによる実験]という題をつけるのは、この 分野では慣行になっている。 18文献では、記号システムの用語よりも情報処 一 理システムのほうがよく使われる。私はこの2 つを同義語として使うつもりである。 19 Newell and Simon, “Computer Science as Empirical lDqujry,"p.116. 2 経済的合理性:適応機 構 稀少性一土地、貨幣、燃料、時間 注意力その他多くのものが稀少である ーは、生活上の中心的な事実である から、それら稀少なものを配分するこ とは、合理性の果たすべき1つの役割 である。この役割を果たすこと、それ が経済学の主要な関心事である。 経済学は、人間行動の人工的側面を もっとも純粋な形で示しているが、そ れは個々の行為者、企業、市場、経済 全体の各レベルでそうなのである。こ の場合、外部環境は、各レベルにおけ るほかの行為者、企業、市場、経済な どの諸行動によって、定義される。ま た内部環境は、個人、企業、市場、経 済がそれぞれにもつ目標と、合理的適 応的な行動をなしうる能力とによって 定義される。経済学は、外部環境と内 部環境とがどのように相互作用しあう かを説明するのによく役立つし、また とくに知的システムが外部環境に適応 していく(実質的合理性)とき、それ が知識や計算を通じ、適切な適応行動 を見出していくシステム自身の能力 (手続的合理性)によって、どのよう に制約されるかを説明するのにも役立 つ。 経済主体 教科書にみられる企業の理論によれ ば、「企業家」は利潤の最大化を目指 すが、しかしそこで想定されている状 況はきわめて単純であるので、企業家 のもつ計算能力は問題にはならない。 この場合、費用曲線は製品の生産量を 支出金額に結びっけるものであり、ま た収益曲線は、その製品の販売量を収 入金額に結びっけるものである。目標 (収入と支出の差の最大化)は、企業 の内部環境を完全に定義する、また費 用曲線と収益曲線は外部環境を定義す る售初等微分学によれば、(生産量 の変化に対する利潤の変化率である) 一次導関数をとり、それをOに等しい とおくことにより、利潤を最大化する 生産量を求めることができる。 ここに、内部環境によって定義され た目標を唯一の条件として、その下で 外部環境に適応していく人エシステム の、すべての諸要素が見出される。こ の場合われわれは、適応過程それ自体 が問題となる状況とは対照的に、最適 生産量を実際にどう計算するのかその 方法を知ることなしに、システムの行 動を予測することができる。すなわち われわれは、たんに実質的合理性だけ を考えればよいのであると。 われわれは、この骨格のみの企業の 理論を、実証的に(すなわち企業がい かに行動するかを記述するものとし て)解釈することもできるし、また規 範的に(すなわちいかに利益を最大化 するかの方策を与えるものとして)解 釈することもできる。事実、企業の理 論は、ビジネス・スクールや学部にお いて、企業があたかも現実の世界でも 理論通りに動くあるいは動きうるかの ごとく、上記の2つの意味で広く講義 されている。 しかし、残念なことに、 そのような描き方は、現実を説明する のにあまりにも単純すぎるといえよう 手続的合理性 収益と費用との差を最大化すること の問題がおもしろくなるのは、もっと 現実的な場面で、企業がどのようにし てその最適生産量を見出すのかをたず ねるときである。原価計算は、ある数 量の製品を生産するおおよその原価を 教えてくれはするが、しかし特定の価 格でどれだけの数量販売できるのか、 またその数量は価格とともにどのよう に変化するのか(すなわち需要の弾力 性)については、通常はきわめて大ま かにしか推定できない。(たいていの 場合がそうであるように)不確実性が 存在する場合には、見込み利益はリス クによって相殺されなければならず、 したがって、利益最大化に代え、もっ と漠然とした目的すなわち企業家の心 の中にある利益対リスクの「効用関 数」を最大化すること、になるのであ る。 ところで現実の場面では、企業は、 製品の数量を選択するだけでなく、あ わせて製品の種類も選択しなければな らない。 しかもそれら各種の製品を、 企業はときに発明したり設計したりし なければならない。また企業は、それ らの製品を利益があがるべく組み合わ せて工場で生産できるよう、スケ ジュールをたてなければならないと同 時に、生産物を売るためマーケティン グ上の手続きや構造を工夫しなければ ならない。こうしてわれわれは、教科 書にでてくるような企業のカリカチュ アから、実際のビジネス界にあるよう な企業の姿へと、一歩一歩進んでいく のである。そして現実に近づくごとに 問題は、正しい行為の代替案を見出す こと(実質的合理性)からしだいに、 良い行為の代替案がどこにあるかを計 算するその方法の発見(手続的合理 性)へと、移っていく。このような推 移により、企業の理論は、不確実性下 の推定の理論となり、またコンピュ テーションの理論となるーこれらの 理論は、情報や計算が曖昧になり、複 雑になるにつれ、きわめて重要な理論 となってくる。 オペレーションズ・リサーチとマネ ジメント・サイエンス こんにち応用科学のいくつかの分野 は、企業が手続的合理性を達成するの に、助けとなっている售その1つは オペレーションズ・リサーチ(OR) であり、他の1つは人工知能(AI) である。 ORは、ときに不確実性を含 む難解かつ多変量の、意思決定問題を 扱うためのアルゴリズムを与える。リ ニア・プログラミング、インチ ジャー・プログラミング、キューイン ク・セオリー、リニア・デシジョン・ ルールなどは、ORで広く使われてい る例である。 何千何百という多数の変数が存在す る場合、コンピュータが妥当な計算量 の範囲内で最適解を見出せるようにす るには、ORと結びついた強力なアル ゴリズムでも、やはり決定問題に厳し い数学的な条件を課すことになる。ア ルゴリズムの力は、コンピュータの処 理能力の範囲に収まるよう、現実問題 を圧縮することで、はじめて得られる ものなのである。たとえば、現実の目 的関数や制約条件をリニアなかたちに 置き換えることによって、リニア・プ ログラミングは、応用が可能になるの である。その場合もちろん、単純化さ れた近似問題で最適である解か現実の 世界でも最適であるということには必 ずしもならないが、それでも綛験的に みて、その解はしばしば満足のいくも のとなっている。 AIによって与えられる別の手法 -それはたいていは発見的探索(す なわち目の子算的に進められる選択的 探索)の形をとるのであるがーは、 納得のいくあるいは満足のいく解を見 出す方法である。AIモデルも、ORモ デルと同様、現実の世界を近似して取 り扱うが、しかしORモデルに比べれ ば、はるかに精密かつ詳細な近似を行 うものということができる。このこと が可能なのは、OR的な最大化手法に 要求されるより、はるかに複雑でしか も構造化の難しい問題空間の中で発見 的探索が行われるからである。いっそ う現実的ではあるがしかしより定型的 でないモデルを使うAIの手法は、一 般に最適解を得ることは難しくただ満 足解を得るだけである。かくてわれわ れは、きわめて単純なモデルを使い最 適化するOR的手法と、現実にきわめ て近いモデルを使い満足化するAI的 手法とのどちらかを選択しなければな らないのである。その結果あるときに は前者が選好され、またあるときは後 者が選好されることになる。 AI手法は、最大級のコンピュータ を用いてもOR手法では扱いきれない ような組み合わせ問題(たとえば工場 の日程計画問題)を、取り扱うことが できる。発見的方法は、コンピュータ の助けなしに自分の頭だけを使い、し たがって近似解を得るにさえかなりの 単純化を行わなければならないような 人には、とくに力強い問題解決および 意思決定の用具なのである。 AI手法 はまた、たいていのOR手法の場合と 違って、数量的に表現されうる状況に 限定されないところに、もう1つの特 徴がある。 AI手法は、記号的に換言 すれば言語的・数学的あるいは図示的 に表現できる、あらゆる場面に活用す ることができる。 ORとAIは、従来、企業の中間管 理者の意思決定に主に利用されてきた トップ・マネジメントが行う広範な決 定事項、たとえば投資、研究開発、専 業化と多角化、管理者の採用・啓発・ 能力維持などは、いまも多くは伝統的 な方法で、すなわち綛験豊かな経営幹 部の判断によって、処理されている。 後に第3章、第4章でみるように、 いわゆる「判断」は、ほぼ、専門家に よって大量に記憶されている情報を利 用した、非数値的な発見的探索法には かならないことは明らかである。今日 われわれは、以前なら専門家の判断に まかされていた分野-たとえば病状 診断や信用調査といった領域一で、 ますます広く「エキスパート・システ ム」とよばれるAI手法が使われてい ることを、知っている。その上、古典 的なOR手法が既知の代替案の中から の1つの選択だけができるのに対し、 AIエキスパート・システムは、いま や代替案の生成にまで、すなわちデザ インの問題にまで拡張されつつある。 これらの発展については第5章、第6 章でさらに詳説することにしたい。 満足化と要求水準 人は、どんなにしたいと思っても、 できないことをやろうとはしないであ ろう。現実の複雑さに直面して、企業 は、最善の解が得られない問題に対し 十分に良い解を与える手続きに頼るの である。コンピュータを使おうが使う まいが、現実の世界で最適化は不可能 である。そのため現実の経済主体は、 多いよりも少ないほうが良いからでは なく、それ以外に選択の余地がないが ゆえに、「十分良好な」代替案を受け 容れる、そういう人間すなわち満足化 を追究する人(satisficer)なのである。 Milton Friedman に代表される多く の経済学者は、満足化と最適化との差 異は大して重要ではない、したがって 行為主体が最適化すると仮定すること が現実的でないとしても、それは大し たことではない、と主張している。 し かし、私を含め他の人たちは、そのこ とは重要である、しかもきわめて重要 である、と考えている遐。 しかしこの 古くからの議論をここで取り上げると 私のここで主要なテーマ、すなわち人 エシステムの行動は、そのシステムの もつ適応能力−その知識や計算能力 −の限界によって、深刻な影響を受 けるであろうという主張から、大いに 逸脱することになる。 満足化と相容れない最適化のための 1つの要件は、すべての代替案がある 共通の効用関数で計測できなければな らない、という点である。人間の選択 力には、もし明確な効用関数が存在す れば得られるであろうような、そう いった類の首尾一貫性と推移性とが備 わっていない、という証拠はきわめて 多い≒ しかし満足化理論でも、満足 に関する何らかの判断基準は必要であ る。それでは、信頼のおけない効用関 数の代わりに、利益、喜び、幸せ、満 足などを測る、いかなる人間的な測度 があるのだろうか。 選択の心理学の知見によれば、満足 を測る温度計は、次のような特性を もっているという。すなわち第1にそ れは、効用関数とは違って、正の値だ けに限らず、(最少の満足を表す)ゼ ロ・ポイントをもっている。ゼロを上 回る場合には、いろいろの程度の満足 が感じられ、またゼロを下回る場合に は、いろいろな程度の不満が感じられ る。第2に、もしも比較的安定した生 活環境の下で人間を定期的に測定して みると、ゼロ・ポイントを大きく逸脱 するような温度はきわめて少なく、そ の逸脱の度合いもやがて時がたつにつ れ、ゼロ・ポイントに向かって回帰し ていく傾向がある。たいていの人はほ ぼ間違いなく、ゼロを少し下回る(す なわち軽度の不満)かあるいはゼロを 少し上回る(すなわち適度な満足)示 度を示すのである。 これらの現象を取り扱うために、心 理学は要求水準という概念を採用した 要求(aspiration)は多くの次元をもっ ている。たとえば楽しい仕事、愛情、 素敵な食事、旅行、その他等について これらの各次元で達成可能と期待され るものが要求水準を定義するのである が、この要求水準は、現在の実績水準 と比較して、その度合いが決められる ことになる。 したがって、もしも実績 が要求を上回っていれば満足は正(プ ラス)と記録され、逆に要求が実績を 上回っていれば不満が存在することに なる。また、各次元相互間の比較に関 する、単純なメカニズムは存在しない 一般にある次元で大きな利得を得るに は、他の次元で少しだけ譲歩すればよ いといわれている。-したがってわ れわれは、システムの純満足は歴史依 存的(history-dependent)であって、 他のものを見返りにバランスをとるこ とは容易ではない、と考えることがで きる。 要求水準は、満足化のための計算メ カニズムを提供する。ある代替案は、 もしそれがすべての次元で要求水準を 満たしていれば、満足すべき案として 採用される。 しかしもしもそのような 代替案が見つからなければ、新しい代 替案を求めて探索が行われる。その間 1、2の次元では、要求水準がしだい に低下し、新たに満足できる代替案が 見つかるか、あるいは既存の代替案か ら満足できるものが現れるまで、低下 する。これらのメカニズムを組み込ん でいる選択の理論は、人間の計算能力 に限界があることを認めるとともに、 効用最大化理論よりもはるかに、人間 の意思決定に関するわれわれの観察結 果と一致した内容をもっている尅。 市場と組織 経済学はいままで、個々の消費者や 企業よりも、より大きな人エシステム すなわち経済とその主要な構成要素で ある市場とに、主な関心を寄せてきた 市場の目的は個々の経済主体の多様な 意思決定と行動とを調整することー すなわち市場に出荷される芽キャベツ の数量が、消費者が買って食べる数量 となんらかの合理的な関係をもち、ま た芽キャベツが売れる価格が、その生 産量と合理的な関係をもつということ を保証することーである。自給自足 経済ではなく専門化と分業が行われて いる社会ではすべて、この調整機能を はたすメカニズムを必要としている。 しかし市場は、いかなる社会もそれ らに頼る各種の調整メカニズムのうち の、1つにすぎない。 目的によっては、 統計数値にもとづいた中央の計画設定 が、行動パターンを調整する基礎とな る。たとえば高速道路の計画作成は、 道路使用の見積もりに依存するが、こ の見積もり自体がさらに、安定した運 転行動のパターンを反映したものと なっている。その他の目的のためには 社会は、たとえば雇用者側と労働組合 側との間の賃金協定を締結したり、立 法府で多数派を形成したりするときの ように、個々の行動を調整するため、 交渉や協議に頼るかもしれない。さら に他の調整機能を果たすものとして、 社会は頂点から底辺まで公式権限の経 路が走っている階層組織一企業、官 庁、教育機関といったーを用いる。 最後に、ある特定の重要な意思決定を したり公式的な地位に人選をしたりす るため、いろいろなかたちの投票手続 きをとる社会もある。 たいていの社会では、これらすべて の調整方法が程度の差こそあれ存在す る。 しかしこれら諸方法の組み合わせ や利用方法は、国によりまた文化によ り大いに異なっていると。われわれは 通常、資本主義国の調整には主に市場 が用いられ、また社会主義国の調整に は主に階層組織と計画策定が用いられ ると考えがちであるが、しかしそれは あまりにも単純化をしすぎている。な ぜならそれは、いずれの体制の場合で も民主国家であれば投票という方法を 使用していることを無視しているし、 また現代の「市場」社会で大規模組織 がいかに重要であるかを無視している からである。 資本主義社会の経済単位は、大部分 が企業であるが、企業はそれ自体が階 層組織であり、しかもそのうちのいく つかはきわめて大きなものであるが、 そこでの内部活動には市場メカニズム はほとんど利用されていないのである 大ざっぱにいって、普通には「市場」 経済の典型とみなされているアメリカ 経済でも、人間が担う経済活動の 80%は、企業などの組織の内部環境の 中で行われているのであって、組織の 外部や市場の中の組織間の環境で行わ れているわけではないのである趾。誤 解を避けるためには、そのような社会 を「組織−と一市場の経済 (organization - & - market economy)」 とよぶべきであろう。なぜならその社 会を説明するには、われわれは市場に 対すると同等の注意を組織にも向けな ければならないからである。 見えざる手 社会的調整過程を検討するにあたリ 経済学は市場メカニズムに最高の地位 -ときにはほとんど独占的な地位 -を与えてきた。実際それは驚くべ きメカニズムであって、多くの状況下 で次のような事態をもたらすのである すなわち、たがいに利己的な打算で反 応する膨大な人々の生産、消費、購買 といった諸行動か、市場-それは事 実、経済社会が産出し使用する芽キャ ベツその他のすべての商品の、消費と 生産とを均衡させるものであるーを 通じ諸資源を配分していくということ これである。 このような均衡を生み出すには、比 較的弱い条件だけで間に合うのである 主に要求されることといえばそれは、 供給が過剰になれば価格が下落するこ と、および価格が下落したときあるい は在庫が増えたときには、生産量が低 下するということ、である。これらの 特別の性質を用いて、いくつでも動学 的なシステムを定式化することができ またそのシステムは均衡に到達しよう とすると同時に、その均衡点の近傍で 広範な条件のもと安定的な振動をする ことになろう。 近年、人間を被験者とする、あるい はシミュレートされた被験者としての コンピュータ・プログラムを用いた、 実験研究が数多く発表されている≒ それによると、実験市場-これは、 それ以下では売ろうとしない最低価格 しか知らない「馬鹿な」売り手と、そ れ以上では買おうとしない最高価格し か知らない「馬鹿な」買い手とから構 成される市場なのであるがーの場合 でも、古典的な意味で合理的である商 人から構成されている市場と、ほとん ど同じくらい速く均衡点に達する、と 報告されていると。 市場と最適性 これらの知見は、現 代の新古典派経済学が価格メカニズム のために置いているきわめて強い要件 を、根底から脅かしている。たんに市 場を一掃すること以上を求めている新 古典派経済学は、完全競争のほか、経 済主体に関しても利潤あるいは効用の 最大化について、強い仮定を置いてい る。それらの諸過程が満たされるなら どのようにしてもこれ以上はすべての 人間を同時にはよリ豊かにすることは できないという意味で、最適な市場均 衡が存在することが証明できるのであ る。これこそ、Arrow、Debreu、 Hurwiczなどによって優美に定式化さ れた、競争均衡に関するパレート最適 の諸命題にほかならない山。 パレート最適に関する諸定理は、現 実世界の市場に関するかぎり、真実性 を拡大解釈するものである。なぜなら これらの諸定理は、企業の理論の検討 において、われわれが認めがたいよう な実質的合理性を必要としているから である。最適化する代わりに満足化す る消費者と生産者によって構成される 市場は、それらの諸定理がよってたつ 条件を満たさないのである。 しかしな がら、シミュレートされた市場の実験 データによれば、確かな証拠が存在す る唯一の市場特性たる市場の清算的 (market clearing)機能は、最適化の仮 定がなくとも、したがってまた市場が パレート最適をもたらすと仮定しなく とも、実現可能なのである。 Samuel Johnsonが踊る犬について言ったよう に、「驚くべきは、犬が上手に踊ると いうことではなく、とにかく犬が踊 る」ということである。驚異は、市場 が最適化するところにあるのではなく 市場が商品の在庫を一掃するところに あるのである。 計画者なき秩序 われわれは、人体 や生態系のような自然システムが、自 己調節を行うという考え方に慣れてい る。この点は事実、後の諸章で取り上 げる、複雑性に関する昨今の議論の恰 好のテーマである。われわれは、中央 の計画指令当局によるよりも、むしろ フィードパックリレープによって、調 節を説明する。 しかし直感的には、中 央の指令のない自己調節という考え方 は、人間社会の人エシステムにはあて はまらないようである。私は何年も前 に、私の都市経済論の講義を受けた建 築学専攻の学生が、私か中世の都市の 多くは、無数の人々の個々の決定に よって「成長した」驚くほどパターン 化されたシステムである、ということ を指摘したときに表した驚きと不信と を、いまも鮮明に記憶している。学生 たちにとってパターンがあるというこ とは、それを自分の心の中に構想し、 またみずからの決定によってそれを実 施した、そういう計画者の存在を暗黙 のうちに意味していたのである。都市 が雪の結晶の模様のように「自然に」 そのパターンをつくっていくという考 え方は、彼らにとってまったくなじみ のないものであった。彼らはこの考え 方に対し、あたかもDarwinに対し多 くのキリスト教原理主義が反応したの と同じように、反応したのである。つ まり「デザイナーなくしてデザインな し」と。 東欧の新しい社会主義経済を建設す る任務を担ったときの、マルクス主義 原理主義者も、同様の反応を示した。 彼らは、市場と価格が、社会主義経済 で建設的な役割を果たしうるのみなら ず、資源配分の手段として中央計画に 勝る重要な利点を持ちうることを理解 するのに、およそ30年を要したので ある。私のかつての師であったOscar Langeは、第2次大戦後この異端の考 えをポーランドにもたらした先駆者の 1人であったが、そのため彼は自分の 経歴と生命とを危険にさらしたのであ る。 1990年頃の東欧経済の破綻ととも に、中央当局による計画策定への素朴 な信仰は、一部の影響力のある人たち の間で、同様に素朴な市場に対する信 仰に、置き換えられることになった。 東欧経済の破綻は、現代経済が、円滑 に働く市場なしには、順調に機能しえ ないことを教えた。それとともに、破 綻後依然としてそれらの国の経済が良 好でないことは、そこに効率的な組織 が存在しないからである、ということ も教えたのである。 もしわれわれが、パレート最適の幻 影を無視し市場の均衡化機能に焦点を あてるなら、市場プロセスが好ましい 主な理由は、それが中央計画当局に対 し、最大級のコンピュータの助けを借 リてもなお不可能であるような計算を 負担させないですむからである。市場 は、意思決定を、その決定に関係する 情報を利用できる人に、割り当てるこ とを通じて、情報と計算の負担を省い ている。-その際かれらは、売買の 対象である財の特性と価格以外、経済 のほかの部分についてはほとんどなに も知らなくともよいのである。 Friederich von Hayek ほど見事に市場 のメカニズムの特性を述べた者はいな い。彼は第2次大戦後何十年もの間、 市場メカニズムの主要な解説者であリ 擁護者であった。彼の擁護論は主に、 市場メカニズムによって実現すると考 えられる最適値に立脚しているのでは なく、むしろ内部環境の限界一すな わち人間の計算能力−に立脚してい る旦。 価格システムのもっとも重要な事実 は、そのシステムが機能する際、知識 が節約される点にあり、もしくは個々 の参加者が、正しい行為を行いうるた めには、ほんの少しの知識をもつだけ でよい点にある。 前述の、シミュレートされた市場の 実験は、彼の見解を裏付けるものであ る。少なくともある環境の下では、市 場の商人は、きわめて部分的な情報を 少しもつだけで、まだきわめて単純な (しかも最適化ではない)意思決定規 則をもつだけで、需給の均衡を実現し 市場を清算することができる。 つぎにわれわれは、組織−と一市場 の経済における組織の役割と、すべて の経済活動をなぜ市場の力にまかせる ことができないか、の問題を取り上げ てみよう。 しかしこの話題に入る前に 不確実性と期待について検討しておか なければならない。 不確実性と期待 多くの行動の結果は遠い将来にまで 影響を与えるから、客観的に合理的な 選択をするには、将来への正確な予測 が不可欠である。将来について知る必 要のある事柄のなかには、自然環境に 関するものが含まれる。来年の収穫に 影響を及ぼす天候がその例である。ま た経済的環境以外の社会的政治的環境 に関する事柄もある。ボスニアやスリ ランカの内戦がその例である。また自 分以外の経済主体一顧客、競争企業 供給業者-の行動に関する事柄もあ るが、それら他の経済主体の行動は、 こちら側の行動によって逆にまた影響 を受けるかもしれない。 単純な場合には、外生的事象によっ て引き起こされた不確実性は、保険会 社がしているようにーしかしそれに は、計算上の複雑さがあると同時に必 要情報収集の点で、通常はかなりのコ ストがかかるーその事象に関する確 率を計算することによって処理するこ とができる。もう1つの別の方法は、 予想外の事象あるいは不正確に予測さ れた事象に対し修正を行うため。 フィードバックを用いることである。 事象が不完全にしか予測できず、また 事象に対する反応が正確であるとはい えない場合でも、衝撃によって適応シ ステムが正常な位置から逸脱するごと に、フィードバック制御がそのシステ ムを予定の方向に引き戻すので、激し い動揺にもかかわらず、システムは安 定を保ちうるのである。不確実性の存 在は、理性的な選択を不可能にするも のではなく、正確に知られた環境に ぴったリ合ったときだけうまく機能す る最適化戦略の代わりに、たくましい 適応手法を奨励するものなのである旦、 期待 システムは一般に、過去の誤 りを訂正するフィードバックと組み合 わせて将来の見通しに基づくフィード フォワードを用いる場合に、より正確 に自己の制御を行うことができる。 し かし、不確実性を処理するために期待 を形成することは、新たにそれ独自の 問題をつくりだす。システムはときに 予測に対し過剰反応をすることがある ため、フィードフォワードは安定化を もたらさないことがあり、不安定な振 動状態を導くことがある。市場におけ るフィードフォワードは、それぞれの 行為者が他の行為者たちの行動(した がって他の行為者への期待)を予想し ようと努力する場合、とくに強い不安 定化作用をもつことがある。 不安定化を及ぼす期待の、もっとも 普通の経済的実例は、投機によるバブ ル事件である。最後には破裂して終わ るバブルは、世界中の市場において、 一定の時期をおいて観察される(歴史 的に有名な例は、チューリップ投機熱 である)。またバブルとその破裂現象 は、実験市場でも観察されている。す なわちそこでは、被験者が、市場が遠 からずある時点であるレベルまで崩落 することが明らかであるにもかかわら ず、競り上げを続けたのである。 もちろんすべての投機がバブルを生 むわけではない。たいていの場合、市 場はシステムを安定させ変動幅を小さ くする。なぜなら投機家は、特定の価 格が「正常」または均衡の水準を上回 るときに売り、下回るときに買おうと するため、前者と後者のそれぞれの夕 イミングを知ろうと努めるからである このような行動が価格を均衡点へと近 づけるのである。 しかしときに、価格の上昇がいっそ うの価格上昇の期待を生み、したがっ て売りよりも買いを誘う。そして投機 に参加しているすべてのプレーヤーが 自分だけは崩落が起きる前に脱出でき ると考えるため、経済上の「度胸試 し」ゲームが現れるのである。不安定 化作用を及ぼす期待が、通貨のハイ パーインフレーションや景気循環にお いて重要な役割を果たしているという ことは、経済学では広く知られている しかし誰の期待が反応の連鎖の最初の ものとなるかについては、あるいはそ れにどのように対処すべきかについて は、それほど意見の一致がみられてい るわけではない。 相互期待によって引き起こされる問 題は、市場が完全には競争的でない場 合に、いつでも現れる。完全競争の場 合にはそれぞれの企業は、市場価格を 自己の行動によっては動かすことので きない、いわば「所与」のものとみな しているので、価格は物理的世界の法 則と同様に外部環境の一部とされるの である。 しかし、市場が完全競争状態 でない世界では、企業はこの仮定をと る必要はない。たとえば、1つの産業 に少数の企業しか存在しない場合には それぞれの企業が競争相手を出し抜こ うとするかもしれない。もしも2つ以 上の企業がゲームをする場合には、合 理性の定義さえ問題となる。 ゲームの理論 1↑止紀半も前 Augustin Cournot は、2つの企業から なる市場での合理的選択について1つ の理論を組み立てようとした士。その 際彼は、企業が「限られた」利口さし か持ち合わせていないことを前提に、 各企業が自己の行動に対する相手企業 の反応について予想する場合、各企業 は相手の行動の次の行動のみを考慮に 入れると、仮定したのである。 しかし もしも2つの企業の一方あるいは双方 が、反応に対する反応をも計算に入れ るとしたら、いったいどうなるのであ ろうか。両者はおそらく、際限なく相 手の出方を読み合うことになろう。 その1世紀後の1994年von NeumannとMorgensternが『ゲームの 理論と経済行動』を刊行したが、これ によりこの問題のいっそう明確な定式 化に大きな一歩が踏み出された旦。 し かしゲームの理論は、問題を解決する どころか、利害対立する複数の行為者 がいる場合、そこで最適に合理的な行 動を規定することが、いかに厄介であ るかを示すことになったのである。 合理性を定義することの難しさは、 いわゆる「囚人のジレンマ」ゲームに おいて端的に示される旦。囚人のジレ ンマでは、各プレイヤーは、2つの手 のうち1つを選ぶ権利があり、その1 つは相手と協力する手であり、もう1 つは相手を攻撃する手である。双方が 協力的な手を選んだときは、両者がと もに中くらいの報酬を受ける。一方が 協力的な手を選び他方が攻撃的な手を 選んだときは、攻撃者側は報酬を大幅 に増やすのに対し、協力者側はひどい 処罰を受ける。双方がともに攻撃的で あるときには、双方が第2の場合より も軽い処罰を受ける。このような状況 では、明白な合理的戦略は存在しない 各プレイヤーは、相手が攻撃してこな ければまたその限りにおいて協力は得 となるが、もしも相手が協力するであ ろうことを予測できるならば、攻撃は いっそう大きな得となる。こちらから の裏切りは、相手からの裏切リにあわ ないかぎり、得になるのである。相互 に利益をもたらす戦略は、安定的では ないのである。 このゲームを繰り返した場合、事態 は好転するのであろうか。この場合で さえも、うまい時期に仕掛けた裏切り は利得をもたらす、もっともその後は 協力しようとしても安定した関係ぽっ くりにくくはなるが。 しかし実際の ゲームの実験結果では凵ましば協力行 動が現れている。すなわちしっぺ返し (tit-for-tat)の戦略(相手が攻撃を仕 掛けてこないかぎり、協力的な行動を する。その後、攻撃を1度だけ行うが また協力行動に戻した場合、相手も当 方と同じように行動する、という戦 略)は、たいていいつも他の戦略より も高い利得をうる。Roy Radner は、 プレイヤーが最適な利得よりも満足な 利得を得ようとしている場合は、協力 解が安定しうることを証明している (私信による)。この種の競争状況下で は、限定された合理性のほうが、限定 されない合理性より良好な結果を生み 出すように思われる。 囚人のジレンマ・ゲームは、政治や 企業の現実に類似性を見出すことがで きるが、しかしそれは、目標が部分的 にあるいは全面的に対立する状況下に おける合理性の矛盾を示す、数ある ゲームのうちの1つにすぎない。古典 的な経済理論は、相互期待が何の役割 も果たさないような2つの状況に焦点 を当てることによって、これらの矛盾 を回避したのである。 市場制度は、複雑な相互作用のあら ゆる筋書きを計算しようとする人間の 能力の側に大きな限界があるため、際 限なく相手の先を読もうとすることが できないからこそ、うまく(最適にと いうことではなく)作動しうるのであ る。ゲームの理論のもっとも価値ある 貢献は、競争者同士がお互いに相手の 先をどこまでも読み通しうるときにこ そ、合理性を効果的に定義しえないこ とを示した点にある。 しかし、そのよ うな問題は、現実の世界と同様、限定 された合理性の世界では現れてこない のである。 合理的期待 上述した内容とは別の 見解が、しばらく経済界で人気の的で あった。すなわち、相互に相手の先を 読むという問題は、経済主体が彼らの 期待を「合理的に」形成すると仮定す ることによって解かれるはずである、 という見解である匹。この見解は、経 済主体が経済システムを動かす法則を 知っている(しかもそれに合意してい る)こと、および将来に関する彼らの 予見がその法則によって定義された均 衡の不偏推定値であること、を意味す るものと解される。 しかしこれらの仮 定は、投機が不安定化作用をもたらす という可能性の大部分を、排除するこ とになる。 合理的期待の根底にある仮定は、経 験的なものではあるが、しかしそれを 支持する証拠はほとんど存在しない。 またどのような意味でそれらが「合理 的」(すなわち効用最大化)であるか も、明白ではない。企業、投資家ある いは消費者は、合理的期待の戦略を実 行するのに必要な知識や計算能力の一 部さえもってはいない。それができる ためには、彼らは経済モデルを共有し またその均衡値を計算できなければな らないであろう。 こんにち大部分の合理的期待論者は 「適応的期待」という、より現実的な 図式に後退しつつある。ここでは行為 主体は、周囲の事情が明らかになるた びに、環境から徐々に学習をする、と 想定されている旦。 しかし適応的期待 アプローチの多くは、市場を先読みす るという考え方を放棄し、代わりに環 境は、その経路がどの行為者の意思決 定にも大きくは左右されない、そうい うゆっくりとしか変化しない「与件」 であると、解釈するようになったので ある。 要するに現実の経済システムの動き について、われわれの現在の理解は不 完全なのである。われわれはとくに、 限られた合理性しかもだない経済主体 が、将来についてどのように期待をつ くり、またみずからの行動計画をたて るとき、どのようにその期待を使用す るのかなどについて、綛験的な情報に 乏しいのである。期待形成の研究には 経済学は、Geoge Katona によって提唱 され(実践され)だ綛験的な方法に回 帰する以外に、成功する道はないので あろう旦。そして実験経済学の現在の 関心は、相当程度、そのような回帰を 表している。経験的な知識面にギヤツ プがみられるので、景気循環を説明す べく経済学が提案している現在のいく つかのモデルのうち、どれを選択する かを決める綛験的な根拠はほとんど存 在しない。 したがってまた、それらの モデルから得られるいろいろな政策提 言のうち、どれを選択すべきかについ ても、合理的な根拠はほとんどないの である。 企業組織 組織の内部環境でおきている多くの 経済活動に話題を転換しよう。ここで の重要問題-それは「新制度派経済 学」(NIE)辿で大いに議論されたもの であるがーは、組織と市場との境界 を決めるものはなにか、また経済活動 を組織するのに、いつ一方が使われ、 またいつ他方が使われるのか、という ことである。 組織一市場間の境界 はじめに、境 界は凵ましば動きうるものであること をみておこう。たとえば自動車の小売 りは、通常、メーカーとは別の組織の ディーラーを通じて行われる。他の多 くの商品は、メーカーから消費者に直 接に販売され、また(ファーストフー ドのような)いくつかの業界では、直 接販売とフランチャイズ代理販売との 組み合わせを行っている。フランチャ イズは、メーカーに原料や部品を供給 する独占販売業者のような、混合種の 典型例である。 われわれは、しばしば市場の利点と 組織の利点との間にほぼ釣り合いが保 たれている証拠として、組織の境界が 動いたり曖昧になったりすることを論 じた。 しかしそれにもかかわらずわれ われは、膨大な活動が組織一多くの 状況において、組織は市場以上に重要 な利点をもっている。組織の多くがき わめて大規模であるのは、そのことの 証明であるーの中で行われているこ とを、再び思い起こすのである。 ときには市場よりも組織が好ましい という新制度派経済学の説明理由は、 ある種の市場契約には取り引き費用が かかるが、この費用は、販売契約を雇 用契約に代えることによって減少ある いは消滅させることができるから、と いうものである。 しかし同時に、新制 度派経済学は、経済主体すべてが利己 的な打算で動くと仮定しているから、 組織は従業員に対し、彼らの個人的な 利害を追究するのではなく、組織目標 に向かって働くよう報酬を与えたり、 また彼らが実際に組織目的のために働 いているか否かを監視したりする、コ ストが不可欠になる俎。 2つの制度の利点を比較する上述の 説明は、話の本質的な部分を欠いてい る。とくに組織内意思決定の分権化へ の機会について触れるところがない。 これらの機会はさらには、組織に対す る従業員の忠誠心の強さに依存し、ま た忠誠心や彼らの置かれている情報環 境から生ずる組織目的への一体化にも 依存する。 分権化 組織は、すべての重要な意 思決定が中央においてなされる、高度 に集権化した構造のものではない。高 度に集権化された方法で機能している 組織は、再び、手続的合理性の枠をこ え、階層的な権限の使用から得られる 多くの利点を失うことになる。現実世 界の組織は、それとはまったく違った 動きを示すのであるり。 1つの決定は、多くの事実前提と選 択基準によって影響されるから、これ らの決定前提のうちの一部が上司に よって規定されるからといって、それ が完全な集権化を意味するものではな い。組織は、決定を分散させることに よって、市場と同様、情報の需要を局 所化し最少化することができる。実際 の事柄は、組織内のそのための技能と 情報がもっともよく集まったところで まず決められ、次にそれを「集合点」 に伝達し、もって特定問題に関するす べての事実を統合する、そしてこれら を踏まえて1つの決定が下される。わ れわれは1つの決定を、それぞれが特 定のタスクをもちかつローカルな情報 源に依存しているサブルーチンを備え た、大規模なコンピュータ・プログラ ムを実行することによって造り出され た生産物、と考えることができる。い かなる1個人あるいは1集団も、その 決定にかかわるすべての面で専門家で ある必要は、まったくないのである。 このようにして企業組織は、市場と 同様、巨大かつ分散化されたコン ピュータなのであって、その意思決定 過程は実質上分権化しているのである 大会社、とくに特定の製品グループ別 に事業部化された大会社のトップ層を みると、かれらは以下のようなごく少 数の役割だけを遂行していることがわ かる。すなわち(1)事業計画のため に資金を配分する「投資銀行」的役割 (2)首脳人事の選任、および(3)設 備資金に対する長期計画の作成と、既 存事業部の範囲外にある可能な新事業 への長期計画の作成。 いかに分権化されていようとも、市 場と組織は、その効果の面でけっして 同等というわけではない。理想的な競 争市場で証明されうる、資源配分の最 適性に関するいかなる定理も、階層組 織では証明されない。 しかしこのこと から、実際の組織は実際の市場よりも 効率が悪いという結論がでてくるわけ ではない。 外部性 経済学者はときに「外部 性」との関連で、市場に対比させて組 織を論ずることがある。外部性の問題 が生ずるのは、ある活動のインプット とアウトプットのすべてが市場の価格 決定にかかわる場合にのみ、価格機構 が宣伝どおりに働くという事情がある からである。外部性の伝統的な例は、 周囲の住宅所有者になんの補償もせず 煙を排出する工場である。このような 状況では、価格機構は、社会的に望ま しいレベルで生産活動するようには働 かないであろうーすなわち製品価格 は社会的費用より低く設定され、かく して製品の濫用が生ずるであろう。 経済学者が好んで使う外部性への救 済策は、望ましくない結果を価格機構 の計算の中に入れ込むこと、たとえば 排煙に対し課税することである。この 場合、税金をどこまでかけるかの問題 が生ずる。費用便益分析の技術の中に この問題への可能な解決策が含まれて いるが、しかしその解決策は行政的な それであって、市場機構によって自動 的に決められる解決策ではない。 企業内の事業部間にも同様の外部性 の問題が現れるが、この種の問題があ るため大企業では、各事業部間や各部 門間の取り引きをすべて内部市場に委 ねることに、あまり乗り気ではないの である。完全競争が行われない場合、 内部市場価格は、競争価格ではなく管 理価格あるいは交渉価格なのである。 不確実性 意思決定に際し、市場よ りも階層組織を社会システムが選好す るのは、不確実性が存在する場合であ る。小型装置を製造する会社で、販売 部門が売る製品を生産部門がつくる場 合、翌年の需要予測を生産部門と販売 部門に別々に行わせることは、合理的 ではない。このようなときあるいは製 品設計の際には、関連するすべての部 門が、たとえ(あるいは「とくに」) 不確実性があるためいろいろに仮定を たてうる場合でも、同じ共通の仮定に 基づいて活動するほうが、好ましいか もしれないのである。不確実性に直面 した場合、合意された仮定の上につく られる標準化や調整は、予測よりも いっそう効果的であるかもしれない。 不確実性は柔軟性を要求するが、市 場は、不確実性が存在する場合、最大 の柔軟性を与えるとは限らない。すべ ては不確実性の源泉に依存している。 もしも不確実性が個々別々の市場に関 する諸事実から生じてきているのであ れば、分権化された価格機構が魅力的 であろう。しかし、同一方向を目指す 組織の諸部分に影響する重要事象の中 に、もしも不確実性が存在するならば 将来に関する仮定の設定はこれを集権 化し、かつ決定に際しては、集権的に 設定された仮定を用いるよう、組織の 諸部門に指示するほうが良いかもしれ ない。 ある部門が、同じ組織内の他部門の 動きにある期待をもつようなとき、不 確実性はとくに問題を生じさせやすい 市場にまかせた場合、この種の不確実 性は、ゲームの理論や合理的期待の理 論との関係で既述した、合理性のジレ ンマに直接つながることになる。経営 者の調整を通じての組織による不確実 性の吸収は、もっとも効果的な方法で あるのかもしれない。不確実な状況の 下では、意思決定機構として市場より も組織のほうが有利な理由は多い。 限定された合理性の世界では、個々 の人間の計算能力を拡大し、彼らの集 団的な生存と繁栄の可能性を高める方 法が、いくつか存在する。市場と管理 階層とを組み合わせることによって、 人類は仕事の専門化と分業の能力を著 しく高めてきた。人口の莫大な増加と 拡散を一現代医学や現代技術もそれ とある程度の関係があるがーこれら のメカニズムのみですべて説明するこ とは行き過ぎであるとしても、地球全 体にわたる今日の人類の優位は、これ ら社会的人工物により可能となった人 間理性の増大の証なのである。 組織への忠誠心と一体化 人間活動がなぜこのように多く組織 の中で行われるかの重要な理由につい ては、すでに簡単に述べてきた。すな わち人は、自分の所属している集団や 組織に忠誠心、しかも凵ましば多大な 忠誠心、を持っているからであると。 一体化の帰結 組織への忠誠心は、 動機的であり認知的であるがゆえに、 おそらく「一体化」と名づけるほうが よいのであろう。動機的な要素は、集 団目的への愛着であり、個人目的をあ る程度犠牲にしても集団目的のために 献身することである。(結果的には、 集団目的が個人目的となる。)われわ れが見ている世界各地の民族紛争は、 集団目的へのこの愛着の、また「われ ら」と「彼ら」の観念を生む差別的な 取り扱いの、明らかな証拠である。 組織への一体化はまた、認知的要素 をもっている。組織の成員は、組織外 のあるいは他組織の人々とは違った、 情報や概念や思考の枠組みをもってい るからである。限定された合理性しか もちえない生き物として、すなわち世 界の複雑さをそのままには取り扱えな い生き物として、われわれは単純化さ れた世界像、換言すれば、われわれの 所属する特定の組織の利害や目的の観 点からみた世界像を、つくるのである 組織によって与えられたこのような 思考の枠組みや情報は、意思決定の過 程や結果に大きな影響を与える。思考 の枠組みはまた、ある組織単位から他 の組織単位へ、さらにはあるレベルか ら他のレベルへと変化するから、被雇 用者はあるときは部に、あるときは課 に、さらにあるときは組織全体に一体 化する。 組織への一体化の結果、組織成員は 凵ましば自己の利害を犠牲にして組織 目的を追求するーすなわち個人的な 観点からみれば、利他的に行動するの である。いかなる組織も、被雇用者が 利己的に行動し上司はそれを押さえる ことしかできないような組織は、存続 することはできない。一体化により引 き出される付加的な力は、組織有効性 の主要なしかも不可欠な源泉であり、 また市場よりも組織を通じて経済活動 を行う基本的な理由なのである。 一体化のための進化的基盤 人間は 基本的に利己的であって、上述のよう に利他的には行動しないという反論が あるかもしれない。事実、新ダーウィ ン的進化論は、ごく近い親族に対して は利他主義がみられるとしても、利他 主義という考え方は、有機体が自己の 適合性を増すべく進化を遂げる、とい う根本原理と相容れない、と主張して いる俎。 しかし私は、広く繰り返され てきたこの主張が、間違っていること を示したいと思う出。 個々の人間は、限定された合理性し かもちえないこと、またそうであるか らこそ彼らは、その所属集団から情報 や助言を受けることによって、みずか らの限られた知識や技能を高めうるこ と、これら2つの理由があるため、従 順な人一すなわちそのような情報や 助言を受け容れやすい人一は、他者 からの影響を拒否するいわゆる従順で ない太に比べ、適合性の面で大きな利 点をもっている。従順な(docile)人 間は、ストーブに触れずにストーブの 危険を他人から学ぶことができる。 たいていの社会的な影響は、それを 受ける者の適合力を高める。それは一 般に、世の中についての有益な情報や 助言を与えるか、あるいは少なくとも 受け手が独立につくりだす情報よりも はるかに有益な情報を与える。 しかし 従順さはまた、個人的には得にならな いが集団にとっては得になるような、 そういった行動をとるよう人々に負担 を与えることがある。「負担」が、従 順さの利点を打ち消すほどに重くない かぎり、利他的な人間は、従順でない 人間よりもいっそう適合性をもつこと になる。かくして組織の適合性は、そ の成員の従順さあるいはその成員の利 他主義によって、高められることにな る。従順さは、一般的には当人に対し て報酬を与えることになるが、その行 為の一部は、上記の意味で利他的であ り、またこの利他主義こそ組織の有効 性の重要な要因なのである。 われわれは、現代社会における市場 と組織の役割について、これまでの議 論を次のように要約することができる (1)各人が互いに相手の行動を予測し ないで済むよう、調整されたしかたで 相互依存的活動がもっともよく遂行さ れるような場合には、いつでも組織が 現れてくること。(2)組織を存続させ るとともに、個人の努力がその報酬と 密接に結びつかないときに現れる公共 財問題を緩和させもする、そういった 人間の動機づけは、組織への忠誠心や 組織への一体化によって与えられるこ と。(3)組織の場合も市場の場合も、 人間の合理性に制約があるからこそ、 どうすれば個人的に利用可能な限られ た情報だけで、意思決定することがで きるのかに、重大な関心が向けられる こと。 進化モデル 進化過程は、組織への忠誠心を説明 するのに重要であるばかりでなく、企 業をふくむ経済諸機関の歴史的な発展 過程の記述や説明にも、重要である。 進化に関するもっとも単純な図式は、 ジェネレーターとテストという2つの 過程に依存する考え方である。この場 合ジェネレーターは、多様性すなわち 以前には存在していなかった新しい形 態を生み出すことであるのに対し、テ ストは新しく生成された形態を選別し 環境に十分適した形態のみが生き残る ようにすることである。現代の生物学 的進化論でいえば、遺伝学上の突然変 異や染色体の交差が、主なジェネレー ターであり、また自然淘汰がテストで ある。 経済人に対する別の理論 現代の組織−と一市場の経済が、熟 慮の結果つくりだされたものでないこ とは、誰でも知っているであろう。事 実それは、それ以前の自給自足経済か ら進化し、何百年もの時間をかけ、多 数の経済主体によって形づくられてき たものである。これに対し、企業行動 に関する大多数の説明では、個々の行 為者は、与えられた一定の経済環境の 中で各自の目標に適した行為を慎重に 選択する、ということが想定されてい る。この場合適応は、合理的行為者に よる選択を通じて実現するのであって たまたま適応的な行動をした行為者を 自然が選択することによって実現する のではないのである。企業の進化理論 は、競争市場の世界では、あたかも最 大化するよう意思決定する者だけが生 き残るから、人々が最大化するか満足 化するかはさして問題ではない、と主 張するかもしれない旦。この進化論的 な議論は、事実、最適化のことを意味 しているのであろうか。 われわれの議論は、経済学に対して と同様生物学に対しても意味をもつこ とになろう。 なぜなら進化生物学は、最適性なる 用語をきわめて自由に使っており、近 年は生物システムにおける自然淘汰の 結果を予測するのに、ORの分野で用 いられている線型計画法やその他の最 適化手法をも借用しているからである しかしこのことが正当であるのは、最 適化が、自然淘汰が導くのと同じ均衡 を、確実に導く場合のみである。 局所的最大化と全域的最大化 ここでの問題を扱う際に、局所的最 大化と全域的最大化との相違は決定的 に重要である。カリフォルニア州の風 景でいえば、小さな丘はそれぞれ局所 的にはもっとも高いが、しかし全域的 にはホイットニー山(Mt. Whitney) だけがもっとも高いことになる。ノブ ヒル(NobHm)に立つ場合とホイッ トニー山に立つ場合とでは、目的によ り違いがある。局所的な最高点をみつ けることは、通常は容易である、すな わち歩くところがなくなるまで丘を登 りつめればよいわけである。これに対 し全域的な最高点を見つけることは、 その地形がきわめて特殊な性質を持つ ものでないかぎり、通常は著しく複雑 になる。経済の世界は、局所的な最大 化現象に富んでいる。それぞれのサブ システムが自己をとりまく他のサブシ ステムに最適に適応していても、その 均衡は単に局所的な均衡にすぎないよ うな、また進化に関する山登り法では 遠くの均衡点にはとても到達できない ような、そういったシステムを考える ことはきわめて容易である。 進化の近視眼的側面 Darwin的な進化は完全に近視眼的 である。進化する有機体は、各段階ご とに、現在の環境に対しいっそう適合 的になっていく。 しかしその進化過程 が、個々の適合性を全域的な最大点に まで至らせる理由はどこにも存在しな い。もしも多数の局所的最大点をもつ 環境に置かれたこの種のシステムを考 えるなら、そのシステムの進化の方法 と歴史をある程度知らなければ、われ われはそのシステムを理解することは できない。それと同時にまた、そのよ うなシステムを「最適な」状態にある と考える合理的な根拠もないのである このことは、山登り法を最適化と混 同することに対し、ただ原則的に反対 しているということではない。近眼視 的な山登り法を用いたシステムでは、 ある局所的な最高地点から深い谷の向 こう側に見えているもう1つの局所的 な最高点まで移動することは、困難あ るいは不可能であるかもしれない。英 米流の尺度法からメートル法の尺度法 へ移行する場合が、その良い例である もしもゼロからスタートし、しかも両 方の尺度法もよく知っている社会なら たしかに英米流の尺度法よりもメート ル法の尺度法を選ぶであろう。 しかし もしも将来の利点がある利子率で割り 引かれるなら、ひとたび採用されたあ る尺度法から、別の尺度法へ転換する ことはけっして得策ではないであろう かくして、経済システムが進化して いるという事実から、そのシステムが すでに到達したかあるいはいずれ到達 するであろう地点が、完全競争の理論 に見出される均衡点と、多少とも類似 していると結論することはできない。 生態系中のどのような種も、それとと もに同時に進化しつつある他の種から なる環境に、適応しつつある。このよ うなシステムの進化と将来の姿とは、 その過去の経緯に関する知識からのみ 理解しうるのである。 経済的進化のメカニズム 企業と生物種の双方がみせるそれぞ れの環境への適応は、発見的探索の、 したがってまた局所的最適化法のある いは満足化法の、具体例であるとして も、われわれはなお、この適応を生じ させるメカニズムの説明をしなければ ならない。生物学では、このメカニズ ムは、遺伝子の中にあり、またその遺 伝子の自己増殖の成功の中にある。企 業の場合、なにがこの遺伝子に相当す るのであろうか。 NelsonとWinterは企業はその仕事 の大部分を標準的な業務手続き一定 型化され、経営者や従業員により世代 をこえて受け継がれていく、日常的な 意思決定のためのアルゴリズムーに よって成し遂げるということを示唆し ていると。 したがって進化は、これら アルゴリズムの革新と変革を生み出す すべての諸過程から生ずる。適合性の テストは、企業の収益性と成長率であ る。収益性の高い企業は、利益の再投 資および新投資への魅力などによって 成長するのである。 NelsonとWinterは、生物的進化と は対照的に経済的進化においては、成 功したアルゴリズムはある企業から他 の企業へ借用されていく可能性がある ことを、観察している。かくしてこの 場合想定されたシステムは、Lamark 的な進化論にしたがって進化する。な ぜなら新しい着想はそれが良いもので あることがわかるやいなや、それを業 務手続きの中に組み込むことができる し、また成功した変革は企業から企業 へと移転させることができるからであ る。移転の際、もちろん費用が生じな いわけではない、受け入れ企業側に学 習費用が生ずるからである。移転は特 許や営業秘密などの障壁によって妨害 されることもありうるであろう。 しか しそれでも、上述した過程の存在は、 企業群から構成される経済システムの 漸次的な進化に、大きな影響を及ぼし ている。 以上のことを考え合わせると、企業 や経済の進化は簡単に予測できるよう な均衡点には導かれないのである。ま してや最適点に導かれるとは、到底い うことはできない。それらの進化は、 たぶん無限に継続する複雑な過程で あって、おそらくその進化の歴史を検 討することによって、もっとも良く理 解されるのである。ほぼ同一の地点か らスタートしても、その後分岐してい く経路をもつような動的システムの場 合には、経済学的均衡理論は、そのシ ステムの現状や将来を説明するのにほ とんど役立だないのである。 人間社会 経済学は不当にも「陰鬱な (gloomy)」科学とよばれてきた。そ の理由は、資源に与える人口圧力につ いてのMalthus的見解とあいまって Ricardo的な形で、経済学が人間の進 歩に関しあまり多くの希望を抱かせな かったからである。陰鬱な科学とよば れるのは、適当ではない。なぜなら経 済学は事実、人間の知性について夢の ような、おおげさともいえるような描 写をしているからである。古典派経済 学は、個人としてもまた集団としても 人間を、資源配分の最適化にかかわる 途方もなく複雑な問題を解く者として 描いている。経済人の用いる技能は彼 に、自分が置かれている環境の中で自 分が必要とするものに対し、それこそ 最良の適応を行うことを、可能にする 本章において私は、知性の適応能力を 問題の中心に据えながら、いっそう複 雑な事態を示唆しようと努めてきた。 経済人と経済制度にかかわる真の描写 のためには、彼らの内部環境によって 課せられた情報処理能力の限界を組み 込まなければならない。このような描 写はまた、経済的意思決定者の意識的 合理性の側面のみならず、経済制度を つくりあげてきた非計画的な、しかし 適応的な進化過程の側面をも取り入れ なければならない。 オペレーションズ・リサーチと人工 知能は、経済主体の手続的合理性を高 め、また彼らにより良い意思決定をさ せてきた。規模が大きい場合には市場 と組織が、行動の調整を容易にすると 同時に、複雑かつ大量の情報を処理す る人間の能力というきわめて重要かつ 稀少な資源を保存する、そういった社 会的なしくみとなっている。本章で私 は、これら個別組織と社会組織の諸形 態について、とくに評価を下そうとし たわけではない。私の試みたことは、 人間の限定された合理性への適応とい う中心的な人間問題に、広く利用され ている解決方法として、それら2つの 組織形態を取り上げたのである。 以上の分析によって、手続的合理性 の用具をいっそう深く理解するために は、人間知性の働き方や人間合理性の 限界などをもっと綿密に検討しなけれ ばならないことが示された。以下の2 つの章において人間の情報処理に関し 過去半世紀に明らかにされたことを述 べたいと思う。第3章では問題解決過 程と一般的認知構造に焦点をあて、第 4章では記憶と学習過程に焦点を合わ せることにしたい。 ]私はここで企業の境界線で外部環境と内部環 − 境とを分けているのではなく,企業家の皮膚を 境に両者を分けていることに注意されたい。こ の考え方によれば,工場は外部的な技術の一部 であり,頭脳-おそらくはコンピュータで支 援されているであろうーは内部的なものであ る。 2 H. A. Simon,“Rationality as Process and as Product of Thought,"American Econom】j・c Review, 68 (1978):1-16. 3 これらの発展に関する簡単な展望については, − H. A. Simon,“On How to Decide What to Do,"The Bell Journal of Economics, り(1978):494-507を 参照。またそれらが経営管理にいかなる影響を 与えるかの予測については, H. A. Simon, The New Science of Mai.】tagement Decjlsjlojl, revised. edition【Eng】ewood Cliffs, NJ : Prentice-Hall, 1977), chapters 2 and 4 を参照。 4 この問題については,私はいろいろな論文で ー 議論してきた。最近のものは次の2つであ る.“Rationality in Psychology and Economics,"The Joun]ajofBusjj]ess, 59 (1986):S 209-S224 (No. 4, Pt. 2) ; and “The State of Economic Science,"in W. Sichel (ed), 71]eS雌eof Eco口omjcScjelce【Ka】amazoo, MI:W. E. Upjohn Institute for Employment Research, 1989). 5 たとえば次の文献を参照。D. Kahneman and A. − Tversky,“On the Psycho】ogy of Prediction," Psychological Review, 80(1973):237-251. H. Kunreuther et al., Disaster Ii]tsural.】ce Pfolecljon (New York : Wiley, 1978). りH. A. Simon,“A Behaviora]Mode】of Rational Choice,"Quarterly Journal of Econon.】jlcs,6 0955):99-118 ; I. N. Gallhofer and W. E. Saris, Fofe裙I Policy Decjsjol-A4akjlng : A Qualitative al】d Quantitative Analysis ofPolitical Argumentation (New York : Praeger, in press). 7 R. A. Dahl and C. E. Lindblom, Politics, − Economics, and Welfare【New York : HaJI】erand Brothers, 1953). 8 H. A. Simon,“Organizations and Markets," Jovrr.]aj of Economic Perspectives, 5{1991):25-44. 9 V. L. Smith, Papers jjl Experimental Economics (New York : Cambridge University Press, 1991). 慂D. J. Gode and S. Sunder, “Allocative Efficiency of Markets with Zero In!elligence Traders,"Jourr.】tal of Political Economy, 101<1993):119-127. 且Gerard Debreu, Theory of Value : An Aχiamatic Amjysjs ofEcoi]omjc Equilibrium (New York: Wiley, 1959)を参照。 コF. von Hayek,“The Use of Knowledge in Society,"An】erica n Econoir.】lie Review, 35 (September 1945):519-30, at p. 520. D Kenneth Arrow は,“Economic Theory and the Hypothesis of Rationality" というタイトルの論文 をv The New Palgrave 。・A Dictiot]taiy ofEconomics (London : Macmillan Press, 1987), vol. 2, pp. 69-74 に掲載したが,そこで彼は,将来に不確実性が 存在する場合,市場のパレート最適性を維持し ようとすれば,われわれは経済主体の側に,き わめて過酷かつ非現実的な情報上および計算上 の要件を,課さなければならない,と述べてい る。 14 Researches jl】101山e Mathematical Princかlies of t.山e neo乃yofWea劭(New York : Augustus M. Kelley, 1960),nrst published in 1838. 15 Princeton : Princeton University Press, 1944. 16 R. D. Luce and H. Raiffa, Games and Decjsjol】s - (New York : Wiley, 1957),pp.94-102;R.M. Axe】rod,neEvoluljol】of Co叩mljol,(NewYork: Basic Books, 1984)。 17「合理的期待」という言葉と概念は, J. F. - Muth,“Rationa]Eχpectations and the Theory of Price Movements,"Econometiica, 29 (1961): 315-335に端を発している。この概念は後に認 められ,精緻化され,さらにR. E. Lucas, Jr., E. C. Prescott, T.1 Sargentそのほかによって系統的 にマクロ経済学の中に応用されることになった。 挧T. J. Sargent, Bo叩dedRalj01]iality i・ Macroeco・omics (Oχford:Clarendon Press, 1933)。 ただしv Sargen!でさえ,彼流の適応的期待の概 念に,「限定合理性」の名称を借用しているに もかかわらず,残念なことに,彼がっくりあげ た特定の行動仮説を証明するのに必要な,直接 観察や実験などの実証的な方法は,これを借用 していない,ということに注意されたい。 19 G. Katona, Psychological Ai.】ajysjs of Economic Bdlavjor(New York : McGraw-Hill, 1951)。 20 O. E. Williamson, Markets and Hjerardjes (New York汀he Fiee Press, 1975)・ 趾O. E. Williamson, op. d・ ; O. E WiVamson, The Eco口omjc ljlstjluljol】s of Capitalism (New York: The Free Press, 1985)。 22 J. G. March and H. A. Simon, Organizatiot】is, 2nd ed. (Cambridge, MA : Blackwell, 1993)。 23 このような事例は,たとえば次のような文献 - で述べられている。R.Dawkins,neSe皿汕Gele (New York : Oxford University Press, 1989)。 24 H、A. Simon,“A Mechanism for Social Selection - and Successful Altruism,"Scier]ce, 250 (1990): 1665-1668. 25 A、A. Alchian,“Uncertainty, Evolution, and - Economic Theory,"Journal ofPoliti・cal Economy, 58(1950):211-222 ; M. Friedman,“The Methodology of Positive Economics,"m Essays j・l j)osiljve Economics (Chicago : University of Chicago Press,1953}。最適化と自然淘汰とが一致すると いう考え方は,たとえば S. G. Winterの論 文“Economic Natural Selection and the Theory of the Finn,"Yale Econorr]ic Essays, 4 (1964): 225-272において批判されている。 26 R. R. Nelson and S. G. Winter,Å1】Evolutior.】afy - Theory of Economic Change (Cambridge : Harvard University Press, 1982)。 3 思考の心理学:自然と 人工との結合 蟻が風波の跡をとどめた海岸を、苦 労しながら歩いているのを見かけるこ とがある。蟻は前進したり、小さな砂 丘を登りやすいように右折したり、小 石を迂回したり、仲間と情報を交換す るために一瞬立ちどまったりする。こ のようにして縫うように進んだり停止 したりしながら、自分の巣に帰るので ある。人間に擬して蟻の目的を考える わけではないが、いま紙の上にその道 筋を描いてみよう。そうすると不規則 で角ばった諸部分からなる一連の図形 ができあがる。といってもそれは、蟻 の動きの背後に方向感覚が働いている から、単なる彷徨の跡とはいえない図 形である。 さて、試みに題目をつけないで、そ のスケッチを友人に見せ、これは誰が つけた跡であろうか、と質問してみる ことにしよう。するとたぶん、熟達し たスキーヤーが、岩石の多い急な傾斜 面を回転しながら滑降した跡だろうと か、一本マストの帆船が島や浅瀬のだ くさんある海峡を、風上に向かって進 んでいるのを示しているのだろう、と いった答えが返ってくるだろう。かと 思うと、おそらく抽象的な空間の軌跡 だろう、たとえば幾何の定理を証明し ようとしている学生の努力の跡を示し たような、という答えが返ってくるか もしれない。 誰が、どんな空間に、そのような跡 をつけたとしても、その路はなぜ直線 にならないのだろうか。出発点から目 標に向かって、直線的に行かないのだ ろうか。蟻の場合(この点については 蟻以外の場合も)には答えは明らかで ある。蟻は自分の巣がどこにあるかと いうことについては、大まかな方向感 覚をもっているが、そこに行きつくま での途中に横たわる障害物については 必ずしもすべてを予知しているわけで はないからである。蟻は困難な事態に 出会うたびに、何回となく進路を変え なければならないのである。視界が非 常に限られているから、障害物に突き 当たるたびに、それを処理することに なるのである。つまり、将来の障害物 に思いをいたすことなどせずに、遭遇 した時点で、それを乗り越えたり迂回 したりする路を探しだすのである。だ から蟻に遠回りさせることなど、容易 なことである。 蟻の歩いた路を幾何学的な図形とし てみると、不規則で、複雑であり、記 述しにくいものである。 しかしそこに みられる複雑性は、本当は蟻が歩いた 海岸の複雑さを示しているのであって その蟻の複雑さを示すものではないの である。蟻と同じ所に巣をもつ蟻以外 の小動物でも、同じ環境におかれたら きっと似たような路をたどるにちがい ない。 何年も前にGrey Walter は、部屋の 中を探索することはできるが、環境に 対しては触覚しかもちあわせない、ま たバッテリーに充電するため定期的に 自分の巣に帰ることのできる、そう いった電気機構の亀(turtle)を製作 した售今日では、ある程度視覚能力 をもっだロボットが、多くの人工知能 研究所の中で動き回っていると。いま、 蟻に似た諸次元をもつ、すなわち蟻と 同じような運動能力と感覚能力とをも つオートマトンをデザインするとしよ う。このオートマトンは、急な坂道に さしかかったらそれを斜めによじ登り 越えることのできない障害に対しては それを迂回していこうとしたりするよ うな、いくつかの単純な適応能力を備 えているものと仮定しよう(構成要素 の小型化という問題を除けば、現在の 技術水準において、確かにそのような デザインは容易であろう)。このよう なオートマトンの行動は、蟻の行動と どのように違うのであろうか。 この問題を考えていくと、人工物に ついてすでに論じたことから導き出せ る1つの系として、次のような仮説に 到達する。すなわち。 1つの行動システムとして眺めた場 合、蟻はきわめて単純である。その行 動の経時的な複雑さは、主に、それが おかれている環境の複雑さを反映した ものである。 最初のこの仮説を納得しうる場合も あれば、また納得しえない場合もある であろう。この仮説は、次のような事 柄を観察することによって検証される べき、1つの経験的な仮説なのである。 すなわち、蟻の適応システムをきわめ て単純なものと仮定した場合、この仮 定からわれわれは、所与の環境あるい は類似の環境の中での蟻のさまざまな 行動を説明できるであろうか、と。第 1章で詳細に展開された諸理由によれ ば、上述の仮説の真偽は、蟻が微細に 観察された場合、それが単純なシステ ムであるのか複雑なシステムであるの かということは、関係がないというべ きであろう。細胞や分子のレベルでみ れば、蟻は明らかに複雑である。 しか し内部環境の微視的な世界は、外部環 境との関連における蟻の行動とはほと んど関係がないといいうるのである。 このようなことがいいうるからこそ、 微視的なレベルでは完全に相異なって いるにもかかわらず、なぜオートマト ンが概略ながら蟻の行動をシミュレー トしうるのかを説明できるのである。 本章で私は「蟻」という言葉を「人 間」という言葉に代えて、次の仮説を 検討してみたい。 1つの行動システムとして眺めると、 人間はきわめて単純なものである。そ の行動の経時的な複雑さは、主として 彼がおかれている環境の複雑性を反映 したものにほかならない。 さてここで、少しばかり予防線を 張っておきたい。つまり私は、腺や内 臓を完備している「人間全体」をここ で想定しているわけではなく、以下の 議論を、ホモ・サピエンスすなわち 「思考する人間」という対象に限定し ておきたいのである。私自身は、前記 の仮説が人間全体にもあてはまると信 じているが、さしあたりはいろいろの 困難を分解して、行動一般よりは認知 能力だけを分析の対象にするほうが、 安全であると思う售 私はまたもう1つの方法でも予防線 を張っておきたい。というのは人間は 適当な刺激によって喚起されうる、莫 大な情報を記憶の中に蓄積することが できるからである。かくして私は、情 報の詰まったこの記憶装置を、有機体 の一部として見なすのではなく、有機 体がそれに向かって適応していく環境 の一部と見なしたいと考えている。 すでに前の2つの章で、上記の仮説 に、ある確からしさを与えうるいろい ろな理由を述べてきた。思考する人間 は適応システムであり、また人間の目 標は内部環境と外部環境の間の接面を 定義する。人間が効率的に適応すれば その行動は(目標に照らして)主とし て外部環境の特質を反映することにな る。 と同時に、その内部環境一人間 に思考を可能にさせるような生理的機 構-に関しては、ごくわずかな制約 面が現れるにすぎないといいうるので ある。 私は、このような理論的議論をここ で詳しく繰り返したくはない。ただ人 間の思考過程の領域で、その論点を経 験的に証明してみたいのである。 とく に私は、思考する存在の内部環境に 「固有」な諸特性のうち、問題環境の 型に思考が適応していくのを制約する ようなものは、実はごく少数であると いうことの証拠を指摘したい。思考行 動や問題解決行動に含まれている他の 一切の事柄は一学習されるという意 味で、また改善されたデザインの発明 を通じて改良が加えられていくという 意味で一人工的である。 人工物の科学としての心理学 問題解決というものは、しばしば、 ぼう莫とした可能性の迷路を探ること として記述される。この場合、迷路が 環境を表している。問題解決に成功す るということは、そのような迷路を選 択的に探索し、その数を減らしていっ て、制御可能な大きさにすることにほ かならない。例としてとくに次のパズ ルをあげてみよう。これは陰伏算術と して知られているものである售 DONA£7) 十G£/?・ALD D=j ROBERT 問題は、右のように配列された文字 にOから9までの数字を置き換え、同 じ文字には同じ数字を、しかも違った 文字には違った数字を置き、結果とし て現れた数字の配列は正しく算術の問 題になっているようにせよ、というも のである。この特定の問題には、追加 的なヒントとしてDは数字の5に よって置き換えられる、ということが 与えられている。 この問題を眺める1つの方法は、10 個の数字が10個の文字に割り当てら れる組み合わせ、つまり10 ! 通りの 数を全部考えてみることである。 10! という数字は、現在のコンピュータを 恐れおののかせるほど大きな数ではな い。それは300万を少し超える程度 (正確には362万8800)の数である。 あらゆる割り当てを順次つくりだして いくプログラムは、おのおの場合を検 討するのに要する時間が10分の1秒 とするなら、せいぜい10時間もあれ ば十分である(D = 5ということが与 えられれば、この時間は1時間にな る)。私はこのプログラムを書くこと はしなかったが、10分の1秒という 時間は、現在の大型コンピュータの能 力をもってすれば、各可能性を検討す るのに要する時間としては長すぎると 考えてよい。 人間がこうしたことを成しうるとい う確かな証拠はない。人間の能力では 1つの割り当てをつくりだし、かつそ れを検討するのにおそらく1分はかか るであろう。それだけではない。彼は 自分がどこまで進んだかを跡づけてお くのに、きわめて大きな困難を感ずる にちがいない。どこまで済ませたかは 紙と鉛筆に頼れば可能であろうが、こ うした事態は仕事の速度をいっそう減 殺することになる。こうした方法で問 題を解いていくとしたら、週40時間 働くとして1人当たり数年を要するで あろう。 可能な問題解決の1:ち法としての網 羅的で系統的な探索方法を除外するに あたって、われわれは人間能力につい て、きわめて大まかな仮定しか設けて いないことに注意していただきたい。 単純な算術演算に秒単位の時間がかか るということ、計算は、本来並列的に というよりは直列的に行われるという こと、新しい情報を瞬間的に記憶でき る大量記憶装置を十分に利用できない ということ、などをわれわれは仮定す るだけである。これらの仮定は、人間 の中枢神経システムの生理について、 きわめて多くのとはいわないまでも、 かなり多くのことを示唆してくれる。 たとえば脳に卓上計算機の性能を備え たあるサブシステムを結合することに よって、その頭脳の改造ができるなら まことに驚嘆すべき脳外科上の功績 -あるいは発展-となるであろう しかしそうした大きな変化がみられる としても、それが、問題環境の中の人 間行動を説明し予知することにかかわ りのある仮定に対し、著しい影響を与 えるということはほとんどありえない であろう。 人間は現実に凵ましばDONALD + GERALD = ROBERT問題を解いてい る。ではどのようにしてそれを行うの であろうか。環境を表現し探索を行う のに、どのような代替的な方法が存在 するのであろうか。 探索戦略 探索活動を一挙に切り詰める1つの 方法は、次のようなものである。すな わち系統的に数字を割り当てるのは前 と同様であるが、今度は1つの割り当 てが完全なものになるまでに矛盾が発 見されうるように、したがってまた、 可能な割り当てがすべてある1つの段 階で除去されうるように、1つ1つの 数字を文字に割り当てていくのである このことを例示しよう。 まず右端のほうの文字から、つまり D、T、L、R、Å、E、N、日、0、G の順に数字j、2、3、4、5、6、7、8、 9、0を順次割り当てるものとする。 われわれはすでにD=5がわかって いるから、ここでまず利用可能な数字 のリストから5を除去する。さて、T =1の場合を考えてみよう。右辺の列 を検討すると、すぐ矛盾が発見される すなわちD十D=T十Cとなるから である。この場合はCは10かOであ る。こうして、〔D=5、T=1〕が不 可であることから、残りの8個の数字 を割り当てるという8!通りの組み合 わせをことごとく除去しうる。同様に Tに対するいかなる割り当ても、T= O以外は、残余の文字に対する割り当 てを考慮することなく除去することが できる。 このような方法は、2項の和が既知 となるたびに、列の和にいかなる割り 当てをすべきかを直接計算することで すなわちこの場合には加算することで いっそう改善されうる。こうしてT に対する探索は必要でなくなる。D= 5から直接T=Oが算定されうるから である。この方法を利用すると、DO NALD十GERALD = ROBERTとい う問題は、紙と鉛筆さえあれば、簡単 に解くことができる。時間についても 10分間与えられれば十分であろう (第3図)。第3図は、やや単純化した 形での探索樹を示したものである。各 枝は矛盾が見出されるまで伸ばされる たとえば、〔D=5、T=O〕という割 り当てが定まると、L=1という割り 当てがR=3を導くことになるが、 これは矛盾をもたらすことになる。な ぜなら問題の左辺の列から、R=3が Gは負の値であることを示唆するから である。 0=5 T= 0 r,= I R = 3 C< 0「 £=21=5G=0匚 ム=3・= 7 .4=1£=2口 j=2鳬'=4凵 /1=・1 F. = 8囗 j=6 L' = 2口 j=s£'=6口 j=9£=8口 瓦=41=9j=IE=2凵 A = 2 £ = \囗 j=3£'=6口 j・1=6£=2凵 *4=7 E = 4口 .1=sE=6凵 1=61=3G<0冂 エ=7・=5囗 £=81=7j=1£=3口 A = 2 F. = 5囗 .4=3 E = 7囗 j=4鳬'=9入゛=l jj=8匚 丿丶.・=2 K=9匚 j\=3G=0匚 丿丶.・= 6 0= 2 G = I 第3図DONALD+GERALD=ROBERTを觧くための探東櫚 第3図は、1つの点で単純化されす ぎている。Eにある値を割り当てたあ と矛盾を生じさせうる各分枝が、実際 にはさらにもう一段階分岐されなけれ ばならない。なぜならこれらの場合の 矛盾は、文字0への割り当てがいま のところ確かでないことから生じたた めである。これを確定するには、各場 合について4通りの割り当てを検討し なければならない。こうして完全な探 索樹は、68本の枝をもつことになる。 この数は10 ! はおろか9!に比べても 桁違いに少ない数である。 系統的で網羅的な探索方法から ちよっと離れるだけで、巨大な空間が 小さな空間へと縮まったわけである。 しかし実際にはこうしたやりかたは、 この例のように必ずしもうまくいかな いことを打ち明けておかなければなら ない。上記のような方法の場合に、一 歩前進するためには、ある割り当てに よって生み出される矛盾を見出すこと が必要となる。このことはもちろん。 「比較的直接的な」矛盾の存在を意味 する。なぜなら、直接的なそれであれ 間接的なそれであれ、われわれにあら ゆる矛盾を迅速に見つけだす能力が備 わっているならば、問題はほとんど即 座に解決されてしまうであろうからで ある。しかもこの問題の場合、正解は 1つに限られていて、その他の割り当 てはいずれも矛盾を示すからである。 直接的な矛盾を探索するというのは 次のような意味である。すなわち、あ る新しい割り当てが決まると新しく文 字が代入されたところで列の計算が行 われる、と。このようにして、各列は それが解決可能であるならば、いまま で割り当てられていなかった文字につ いて解かれることになる。またその解 は、当該数字がまだ割り当てられずに 残っているか否かを検討するため、照 合を受ける。このようなことが不可能 であるならば、矛盾が存在することに なる。 いまや力づくの探索方法に代えて、 探索行動と「推理」との結合システム を取りあげてきた。 ところで、こうし た過程をさらに推し進めることができ るであろうか。また、解決方法として 試行錯誤の過程を、実質上取り除いて しまえるであろうか。あらゆる陰伏算 術の問題解決に、それが可能だとはい えないが、ここでの問題に対しては解 決可能なことが指摘できる≒ 問題解決に際して、試行錯誤の探索 を排除しようとする基本的着想は、順 序正しく右から左に数字を割り当てる ことをやめることから導きだされる。 その代わり、問題の配列のうちから、 新しい割り当てをつくるのに十分な確 定的な列を探索するか、あるいは割り 当ての性質において少なくとも新しい 推論を導きうるような、そういった確 定的な列を探索するのである。 この過程を簡単に検討してみよう。 D=5からただちにT=Oが推定で きる。同時に第2列目に1が繰り上が るから、R = 2L + 1となり、Rが奇 数であることが判断できる。ここで左 端の列を見ると、D=5であるからR は5より大であること(R = 5十G であるから)がわかる。この2つの推 測からR=7かR=9であることが つかめるが、この段階ではこれ以上進 めない。さてそこで左から2番目の列 が意味をもってくる。0十E=0、 つまりある数十他の数=ある数それ自 体(いかなる数字がその列に加えられ あるいはそこから繰り上かっていくか は別問題として)ということがわかる 数字上または綛験的にも、このような 場合はE=OかE=9のときだけ成 立する。すでにT=Oがわかってい るから、E=9は明らかである。この ことから、Rに関する代替案が1つ除 去され、結局R=7ということにな る。 E=9からÅ=4がわかり、右か ら3番目の列に1が繰り上げられなけ ればならないことから2L + 1 = 17、 すなわちL=8がわかる。こうして いまや未解決の問題は、N、B、0、G にいかなる順序で1、2、3、6を割り 当てるかということである。0にどん な数を割り当てても左端の列に繰上り が生ずるから、G=1は明らかである こうしてもはや、3!=6通りの可能 性しか残されていない。ここまでくれ ば試行錯誤の方法を使っても、N=6、 B=3、したがって0=2は明らかで ある。 以上、われわれは探索戦略に関し、 相異なった3つの仮説を設けることで 問題の迷路の解経路を明らかにしてき た。それはある意味で、戦略が高度化 すればするほど、探索活動は少なくて すむことを示している。 しかし重要な ことは、ひとたびある戦略が選択され てしまうと、探索の道はその問題の構 造だけに依存し、問題解決者の特質に は依存しないということである。われ われは人間やオートマトンが、その問 題環境の中でいかに行動するかを観察 してきた。ではこの観察から人間や オートマトンについて、何を学びえた のだろうか。われわれは、彼(すなわ ち人間やオートマトン)がどのような 戦略に従っていたかも推定することが できよう。失敗をし、またそれから立 ち直るのを観察することによって、彼 の記憶や基本的な情報処理過程に関し その能力や正確性にある程度の限界が あることも見出しうるであろう。また 情報の処理速度についても、学ぶこと ができよう。状況がよい場合には、想 定されうる戦略のうちいったいどれを 実際に利用できるかについても、知る ことができる。またどんな状況のもと で、彼がそうした戦略を採用しやすい かをも知ることができる。 しかしわれ われは、彼の中枢神経システムの神経 学的特性について何ら具体的に知リう ることはないし、また可能性に限界を 与えること以上には、おそらくそのシ ステムの特性は彼の行動に関連はない であろう。 情報処理能力の限界 上述した問題状況において、行動に 影響を与える中枢神経システムの限界 や制約はいったいなにか、という点に ついて積極的に考えてみたい。この点 の考察にあたっては、人間能力に関す る実験結果とコンピュータ・シミュ レーションの結果とを利用することに しよう。それらの研究結果は、比較的 複雑なもの(陰伏算術とかチェス、定 理の証明など)から中間的なもの(概 念到達)を経て、心理学研究で人気の ある単純なもの(言語の機械的記憶と か短期的な記憶幅)まで、いろいろな 認知上の問題を取り扱っている。情報 処理能力についてのこのような多様性 にもかかわらず、内部システムの適応 力に関してはごく少数の限界しか現れ てこないということ、しかもこれらは 本質的にはすべての問題に共通する限 界であるということは、非常に重要で ある。だから、これらの限界がいった いどんなものであるかについて述べる ことは、異質な問題環境全体にわたる 人間の能力について、1つの首尾一貫 した説明を与えることになる。 概念到達の速度に関する限界 概念到達については、広範な心理学 研究が、次のような範例を通して行わ れてきている尅。刺激として、カード ごとにいくつかの次元-たとえば、 形(四角とか三角、丸など)、色、大 きさ、描かれている図形の位置など ーで相異なっている、単純な幾何学 模様を表した1組のカードが用いられ る。「概念」は、外延的にはカード ーその概念を例示しているカード ーのある組み合わせによって定義さ れる。それは内包的には、すべての場 合に共通であり、しかも残りのカード のいずれによっても表されることのな い性質、として定義される。概念の例 としては、「黄色」とか「四角」(単純 概念)、「緑色の三角形」とか「大きく て赤い色」(合接概念)、「小さいかあ るいは黄色」(離接概念)などがあげ られる。 ここでのわれわれの議論では、各次 元について2つの可能な値をもち、か つ1つの関連次元(すなわち単純概 念)をもっだ、N次元刺激を用いた実 験について論及することにしたい。各 試行ごとに、ある表示(正あるいは 負)が被験者に提示される。つまり彼 は「正」に、あるいは「負」に反応す るのである。そしてその時々の場合に 応じて「合っている」とか、「間違っ ている」とかを知らされ、こうして彼 の概念が強化されていくのである。こ の種の典型的な実験では被験者の行動 は、その行為に誤りがなくなるまでの 試行回数、または誤った反応の回数で 記録される。すべての場合にとはいえ ないがある実験では、被験者がその反 応の基盤として用いている意図的概念 (もしあるとすれば)をも、定期的に 報告するように要求されている。 この状況は、陰伏算術の問題同様、 非常に単純である。そのため被験者が もっとも効率のよい発見的戦略を用い たとするならば、意図された概念を見 つけだすのに彼は平均何回ぐらいの試 行を必要とするのかということを、事 前に推測することができる。各試行ご とに被験者がどんな反応を示すかにか かわりなく、彼は実験者の補強により 刺激が実際にその概念の例証をなして いるかどうかを明確にすることができ る。それが例証をなしていれば、刺激 に関するその属性値の1つーたとえ ば色とか大きさ、形などーが、その 概念を構成していることを知るのであ る。逆に例証をなしていなければ、そ の属性値の1つの補集合がその概念を 構成しているとわかるのである。いず れの場合も1回の試行で、ありうる単 純概念の半分を除去することになる。 また無作為に刺激を与えていくと、新 しい刺激はそれぞれ、平均して、前に 除去されていなかった概念のおよそ半 分を除去することになる。こうして正 しい概念を発見するのに要する試行の 平均回数は、刺激における次元数の対 数とともに変化する。 各試行に十分な時間(たとえばおお めにみて1分間というような)が与え られ、被験者が紙と鉛筆の使用を許さ れるなら、普通の知能をもっていれば 誰でももっとも能率的な戦略に従うこ とを学びうるし、またさしたる困雖も なくそうすることになるだろう。 しか し実際には、この実験が行われる場合 被験者は能率的な戦略を教えられず、 紙と鉛筆も与えられない。 しかもきわ めて短時間一典型的には、たとえば 4秒間-に、連続した刺激に反応し なければならない。また正しい概念を 見つけるために、能率的な戦略から算 定される数値よりもはるかに多くの試 行を繰り返す。私の知るかぎりこの実 験はまだ行われていないが、4秒間に 答えなければいけないとか、紙と鉛筆 は使用してはいけないという条件つき なら、被験者は訓練を受けてもなお能 率的な戦略を用いることができないで あろうことは、ほぼ確実である。 この実験は、人間の思考について、 いかなることを告げているのであろう か。第1に人間は、必ずしも他から容 易に指摘されうるような優れた戦略を 自分で発見するとは限らないことが明 らかになる(チェスの名人がポカを演 じているのをみると、いま述べたこと が本当であると納得できるであろう)。 このことは示唆に富んだ結論といえよ うが、さして驚くほどのことではない 後ほどこの問題にもう1度言及するつ もりである。 第2に人間は、刺激呈示の速度を大 幅に遅らせないかぎり、あるいは被験 者に外部記憶用具の使用を許可しない かぎり、あるいはさらにこの2つの条 件が実現しないかぎり、能率的な戦略 を使用させうるに十分な情報貯蔵手段 をもたないことが明らかになる。われ われは、他の事実から、人間が実質的 には無制限の半永久的な記憶装置を もっていることを知っているから(そ れはほとんど一生涯を通じてちよっと した事実を記憶し続けているといった 能力で証明される)、実験における隘 路は、利用可能な高速呼び出し記憶装 置(いわゆる短期記憶)の容量が少な いという点、および限られた短期の記 憶装置から大規模な長期の記憶装置ヘ アイテムを移すのに時間がかかるとい う点に見出されることになると。 他の実験で得られた事実から、高速 の短期記憶にとらえられうる数は、 たった7アイテム(あるいは4程度の わずかな数であろうか)ぐらいであリ 短期の記憶装置から長期のそれヘアイ テムを移すためには、5秒から10秒 ほどの時間が必要であることが推定さ れている。こうした説明を操作可能な ものにするために、「アイテム」の意 味をより正確にしなければならない。 しかししばらくは、1つの単純概念が 1つのアイテムである、と仮定してお くことにしよう。 紙と鉛筆が与えられない場合でも、 (1)被験者に能率的な戦略が教えられ (2)各試行ごとに、刺激に反応しそれ を処理するのに20秒ないし30秒とい う時間が与えられるならば、彼はおそ らく能率的な戦略を用いるであろうと 予期しうるのである。 しかし私は、こ の実験をしていないから、こうした主 張も予言の段階にとどまっているので あって、理論化のためには検証を必要 とする。 再び、このような結果は、それが些 細なことでないとしても、読者には自 明のこととして映るかもしれない。も しそうであるならば、読者は私か述べ た次の一般的な仮説を容認する場合の み、そのことが自明であるといえるこ とをご記憶願いたい。すなわち人間の 目標志向的行動は、大部分、たんにそ れが展開される環境の型を反映してい るだけであり、またその行動を予測す るには、人間の情報処理システムの特 徴について、ほんの概括的な知識があ れば十分である、と。この実験で、人 間の情報処理システムに関連する諸特 徴は、(1)アイテム(以後、私はそれ を「チャング(chunks)」と呼ぶ)数 で推定された短期記憶の容量、(2)ア イテムあるいはチャングを長期記憶に 固定化するのに要する時間、の2点に あるように思う。これらの特徴が、い ろいろな問題環境にあって、いかに首 尾一貫したものであるかを、次節で検 討することにしよう。 しかしその前に 被験者がもっている戦略の知識と、被 験者を訓練することの効果とについて 結語的な注釈をつけ加えておきたい。 戦略を学習しうるということは、さ ほど驚くべきではない。また学習され た戦略が、情報処理能力を大幅に変え その有効性を高めうるということも、 さして不思議とはいえない。教育機関 はすべて、これらの前提にたって設立 されているのである。こうしたことに ついての完全な意味づけは、認知実験 を手がける心理学者たちによっては、 必ずしも明らかにされてきたとはいえ ない。行動が、人間の情報処理システ ムの生得的な特性よりも、むしろ学習 された技能の関数であると考えられる かぎり、行動に関するわれわれの知識 は、心理学的であるというよりは、む しろ本質的に社会学的であると見なさ なければならないーすなわちそれは 人間が特定の社会環境の中で成長する とき、実際に何を学習するかを明らか にするものとして、考えなければなら ないのである。いつ、どのようにして 人間がある事柄を学ぶかという問題は 実に難しいが、われわれは習得された 戦略を、人間の根底にある生物学的シ ステムの内在的特性と、混同してはな らないのである。 Bartlettやわれわれの研究室で集め られた、陰伏算術の問題に関する資料 は、同じ点を指摘している。実際、被 験者が違えば、その問題一前節で述 べた戦略全体も、またその他のところ で取りあげるものについても同様であ るがーを解くために使われる戦略も 違ってくるものである。すなわちわれ われは、戦略上の技巧が、被験者の もっている以前からの数学とのかかわ りあいによって違ってくることは知っ ているが、しかしどのようにして彼ら は戦略を学ぶのか、また問題と取り組 んでいる最中に戦略をどのようにして 見つけだすか、についてはわかってい ない。 しかし戦略を別にすれば、陰伏 算術の問題に顕著に現れている人間的 特性は、短期記憶の大きさには限界が あるということである。被験者が組み 合わせ論的な戦略を非常にとりにくい (またそうした戦略を彼らが概して避 けようとすることの)大方の理由は。 この戦略が短期記憶に大きな負担をか けるからである。被験者はたんに、自 分かいまどこまで進んだか、どのよう な割り当てがすでになされたか、条件 つきで行った割り当てにたいして暗黙 の前提とされていた仮定はなにか、な どを忘れてしまうということだけで困 難につき当たるのである。これらの困 難はすべて、短期記憶にごくわずかな チャングしか据えることのできない処 理装置において、また短期記憶内の チャングを長期記憶に移送するのに利 用しうる時間よりももっと多くの時間 を必要とするような処理装置において 必然的に生ずるであろう。 記憶に関するパラメータ:1 チャングにつき8秒 すでに論じてきた少数のパラメータ が、人間の認知行動に現れる内部シス テムの主要な制約点であるとするなら ば、これらのパラメータの数値を測定 し、被験者別や問題別にそれらがいか に変動したり一定になったりするかを 明らかにすることは、実験心理学に とってきわめて重要な課題となるであ ろう。 感覚心理学のある領域を例外とすれ ば、心理学の典型的な実験範例は、パ ラメータの推定というよりも、むしろ 仮説の検定にかかわりをもっている。 実験報告書の中に、特定のパラメータ の数値が他のものと「非常に異なって いる」-あるいは異なっていない ーという記述を見かけることが多い が、そのような場合でも、数値そのも のについてはほとんど触れられていな い。事実、推量の基礎になるべきパラ メータの数値を記述せずに、有意水準 や分散分析の結果を報告するという好 ましからぬ慣行が、ときに見られるの である。 私は実験心理学の報告書のあリ方に 異議を唱えるものであるが、ここでさ らに、もう1つの苦言を呈しておこう それは通例、理論にもっとも関係の深 い行動の測定尺度の選択に、ほとんど 注意がはらわれていないということで ある。こうして、たとえば学習実験で いわれる「学習率」が、「ある基準に 対する試行の回数」、「錯誤の総計」、 「ある基準に対する必要時間」その他 の尺度と、ほとんど無関係に報告され ているのである。とくに今世紀の前半 というよりは現在に至るまでも、時間 よりも試行回数で学習率を報告する慣 行が一般化してきている。そのことは 私がこれから述べようとするパラメー タの驚くべき一定性を陰蔽してしまう ばかりでなく、「1回」学習対「増分」 学習という、無意味な論争を招来して いるのである≒ Ebbinghausはもう少し分別があった 彼は自分自身を被験者にして、無意味 綴りを学習するという古典的な実験で 異なった長さの一連の綴りを学習する のに必要な繰り返しの回数と時間の長 さの両方を記録したのである。読者が 同じことを計算するならば、彼の実験 で1綴り当たりに要した時間が、およ そ10秒から12秒になっていることが わかるであろう≒ もちろん私は、小数点以下2桁 -1桁さえもーの数値を計算する ことが、あまり有意義でないことを 知っている。ここでいう一定値とは、 大きさの順についての一定値のことで あり、また2つの因数に対する一定値 -すなわち光の速度の一定値という よりは、むしろ日々の温度が、絶対温 度でいえば、263度から333度までの 間にあるという意味での一定値一に 他ならないのである。2つの因数との 関連で一定値を云々することについて は、それを蔑視すべき理由などまった く存在しない。 Newtonが初めて音速 の推定をしたときには、30%の誤差因 子(それはやっと100年後に取り除か れた)が含まれていたが、今日の素粒 子に関するいくつかの新しい物理学上 の「定数」は、それよりもさらに曖昧 でさえある。近似的で粗雑であるとさ えいえるような一定値でも、測定中に 制御しなければならない条件がなんで あるかを知るならば、われわれはその 正確な数値を定めることができる真の パラメータを見出しうるのが普通であ る。 その一定値がたんにEbbinghaus個 人のパラメーターそれは数年にわた り不変であるとされていたものである がーを表しているだけであるとする ならば、それは心理学にというよりも 伝記に対して興味あるものということ になろう。しかしそうした言い方は正 しくない。たとえば、S- S. Stevens編 『ハンドブック』(Handbook)の中の、 C Hovlandが執筆した章に述べられて いる、1930年代のHull-Hovlandの実 験のいくつかをいま検討してみると、 ここでも次のようなことがわかる。す なわち大学の2年生が系列予言法で内 容のない無意味綴りを記憶するには、 10ないし15秒かかることがわかる (この実験では、時間の代わりに試行 回数が報告されているので、われわれ はあとでそれを計算し直してある)。 ドラムの速度が増したとき(たとえば 1綴り当たり4秒から2秒へ、という ように)、ある基準に対する試行回数 はそれに比例して増加するが、総学習 時間は本質的には変わらない。 比喩的にいえば、これらの山には多 量の黄金が含まれている。過去に行わ れた無意味綴りの実験が、以上のよう な観点からいま再吟味されたなら、学 習に関する基礎的なパラメータが1綴 り当たりほぼ15秒であることは数多 くの事例からも明らかとなろう。読者 はたとえばJ. A. McGeochの『学習心 理学』(Psychology ofHumazl Learning) に報告されている実験から、自分自身 でその計算をすることができよう。し かしB. R. Bugelskiこそは、このパラ メータの一定値を公表し、自らもその 目的をもって実験をしてきた最初の人 であろう辿。 私は「定数」がいかに「一定」であ るかを誇張しないように努めてきた。 しかしながらパラメータの測定を精密 化しようとする努力は、まだほとんど 始まっていないといってよいほどであ る。確かに、その数値に影響を与える いくつかの変数については、われわれ はそれをよく承知しているし、またそ れらの影響について、現在まで妥当と 思われるような理論的説明をもってい るのではあるが。 われわれは有意味性ということが、 非常に重要な変数であることを知って いる。高い連想値をもっだ無意味綴り や無関係な1綴り語の学習に要する時 間は、低い連想値をもっだ無意味綴り の所要学習時間のおよそ3分の1であ る。文章を形成している散文の中の1 語当たり所要学習時間は、関連のない 言葉のつながりからなる学習の場合の 約3分の1である[後者の数字は、ド ン・ジュアン〈Do・ Juai]〉を記憶する というEbbinghausの実験からも得ら れる。単位記号当たりの必要時間は、 無意味綴りに要する時間の約10%で ある)。 われわれは、類似性-とくにいろ いろな刺激の間にみられる類似性- が固定化のパラメータに与える影響は 有意味性がそれに与える影響よりもい くぶん少ないことを知っているし、ま たその影響の大きさを理論的な根拠に 基づいて推定することもできる。 機械的言語学習に関する文献の中で 報告された、上記の現象を説明する最 良の理論は、EPAM (Elementary Perce iver and Memorizer)山であるが、それ は、人間の行動をコンピュータ・シ ミュレーションとしてプログラム化し た情報処理論である。 EPAMについ てはすでに各種の文献で詳しく論じら れているから、われわれの分析に関連 のある1点を除いて、ここで再論する ことは差し控えたい。 EPAM理論は、 「チャング」とは何かを理解させる基 盤を提供してくれる。チャングとは、 刺激に関する最大熟知単位である。 し たがって、「QUV」という無意味な綴 りは「Q」「U」「V」などのチャング から構成されている。 しかし「CAT」 という言葉は、それが非常に親密な1 つのまとまりを形成しているため1個 のチャングを構成しているということ になる。 EPAMは、1チャングを固定 させるのに要する時間について、ある 一定性を仮定している。経験的には、 それを表す定数は1チャング当たり8 秒ないし若干それよりも短い時間であ ろう。実際、学習速度に与える有意味 性、親近性、類似性などの諸影響に関 して、EPAMが予測した数量的な内 容は、すべてこのチャングに関する考 え方と、1チャングを固定させるのに 要する時間の一定性の概念とから導き 出されるといってよい。 新しい情報を定着させるにあたって EPAMは、まず識別回路 (discrimination net)に新たな分枝 (branch)を加え、つぎに分枝の末端 の節点の画像(image)に情報をつけ 加える。長期記憶の固定化に必要な8 秒間は、識別回路の拡張にだけ使われ るということ、および情報は1秒か2 秒の間に、専門家の長期記憶にすでに 存在している画像個所(可変的な場 所)に、つけ加えられるということの 2つの証拠は、しだいに増えつつある。 そのような画像は、検索構造あるいは テンプレートと呼ばれる。あとでわれ われは,専門家の記憶について議論す る際,この点に立ち返ることにしよう EPAMの構造や記憶過程については, H. B. Richman, J. J. Staszewski, and H. A. Simon,“Simulation of Expert Memory Using EPAM IV ,”Psychological Review, 102 (1995):305-330で述べ られている。 記憶に関するパラメータ:7 チャング,あるいは2チャング か 学習ならびに問題解決の実験に何回 となく現れてくる内部システムの2番 目の制約的特徴は、短期記憶にとらえ られうる情報量である。ここでも関連 する単位はチャングであるが、この用 語は、固定化の定数を規定する際に定 義した場合と、まったく同じ意味内容 をもっている。 「不思議な数7、プラス・マイナス 2」(The Magical Number Seven, Plus or Minus Two)止という論文で賞賛された George Miller は、数列記憶、数値判断 弁別問題で以前から知られているこの パラメータに関心を向けた。この3つ の型の問題に含まれているパラメータ が、3つではなくてただ1つであると いうことについては、彼が論文を書い た当時ほどにはいまは是認されていな いが、ここでは数列記憶の問題だけを 改めて考察してみたい。今日われわれ は、そのパラメータを、ほぼ2秒間で 復唱できる情報量(それは実際はほぼ 7綴りかあるいは短綴語であるが)と して、表すことができるであろう。 短期記憶に関する最近の実験から得 られた事実は、次のようなものである 被験者が一連の数字や文字を読みとっ て、それを単純に逆方向に言い返すこ とを求められた場合、一般に7ないし 長くて10アイテムまで正確に言い返 すことができる。それがどんなに単純 なものであっても、何か他のことが聴 き取りと言い返しの間に介入してくる 場合には、記憶しうる数は2に落ちる 日常生活において、われわれはそうし たことに慣れ親しんでいるから、この 数を「電話帳的な定数」と呼ぶことが できよう。邪魔されること一自分自 身の思考による妨害の場合を含めて ーがなければ、電話帳から7個の番 号を記憶することぐらい、大抵の人な らできるであろう。 いくつかの実験では、妨害をしたに もかかわらず、2チャング以上が保持 されるという現象がみられたが、それ は前節で論議された機構によって大部 分説明されるであろう。そのうちいく つかの実験では、被験者が短期記憶に メモリする前により少数のチャングに 刺激を記号変更するのであると、この 間の事情を説明-すでにMVerが指 摘したようにーしている。もしも 10アイテムが2チャングとして記号 変更されうるならば、10アイテムが 保持されたということになる。短期記 憶に「あまりに多くのもの」が保持さ れたと思われるその他の実験例では、 被験者は許された時間が十分なため、 事実上、長期記憶に余分のアイテムを 固定させえたのである。新しい情報が 挿入される専門領域で、検索構造を獲 得してきた専門家にとっては、これら の時間はきわめて短いといえるであろ うーたとえば1アイテムにつき1. あるいは2秒といったようにー。 専門家の話題はしばらくおき、文献 から2つの例を引用してみることにし よう。N. C. WaughとD. A. Normanは、 彼ら自身や他の人たちによる、以下の ような実験を報告している旦。すなわ ち、一連のアイテムのうち最初の2つ だけは、干渉が加えられたにもかかわ らず確実に記憶されたが、残りのアイ テムについてもいくぶん記憶が残存し ていることがわかった、と。これらの 実験で、被験者に許された固定時間の 測定から、5秒ごとに1チャングとい う長期記憶への移送率は、おそらく残 存部分の大半を説明するであろう、と いうことが示される(この説明は、 WaughとNorman自身が推定した理論 的モデルと完全に一致している)。 ある被験者に非常に長い一連の写真 一大部分は風景であるがーが提示 され(その多数の中から選択するよう に求められ)だ場合、かつて見たこと のある写真をよく記憶していたという 記録を、Roger Shepard が報告してい る旦。課題が認知問題、すなわち区別 できる刺激だけを記憶するという問題 であることが明らかな場合、およびア イテムごとの平均時間が約6秒という ことが明らかな場合、上記のような現 象は、われわれが提唱している理論の 枠組みの範囲内で、まったく理解可能 一実際には予測可能-になるので ある。 記憶組織 私は決して、上述した固定化のパラ メータや短期容量のパラメータを支持 するために、またそれらのパラメータ が、標準的な心理学実験によって示さ れる情報処理システム上の、主要な、 しかもほとんど唯一の特徴であるとい う仮説を支持するために、引用しうる 実験例を網羅したわけではない。 このことは、他のパラメータがない とか、パラメータが見出されたり推定 されたりする実験がなされていないと かいうことを、意味しているのではな い。行動が単純で環境だけが複雑な状 況の下にあっては、人間行動を左右す る諸法則の中に複雑性を持ち込む必要 はないということを、それは述べてい るのである。 われわれの研究室では、たとえば暗 算問題が他の可能なパラメータをつく リだす有利な環境を与えることを見出 している。 Dansereauが進めてきた研 究によれば、初等算術の演算に要する 時間と、中間結果の記憶に要する時間 とでは、4桁の数字に2を掛けるとい う暗算に要する総時間の1部分-お そらく半分-しか説明しない。残り の時間の大部分は、一時的に記憶され ている場所から数値を取りだして、演 算が施される短期記憶のポジションに それらの数値を「おく」ためのもので あると考えられる。われわれはやがて Dansereauの仕事から新しいパラメー タ数値を推定し、その計算の基礎に なっている過程を若干理解するように なるであろう旦。 刺激のチャング化 私はいまや、ある実験で示された内 部システムの他の特徴-それはよリ 「構造的」なものであって、より数量 的なものではないーに注目したい。 記憶は一般に「連想的」な仕方で組織 されると考えられているが、この言葉 がいったい何を意味するのかはあまり 明瞭ではない。その意味する1つのこ とが、McLeanとGreggによって明ら かにされている。彼らは学習すべきも の一具体的にはでたらめに並べられ た24個のアルファベット文字-の リストを被験者に与える。そして被験 者は1回ごとに、1枚のカードに1と か3とか4とか6とか8とか書かれて いる文字を示され、そのリストをチャ ング化するように仕向けられたのであ る。分類された状況のすべてにわたっ て、被験者は、一度に全部を記憶する 場合に必要な時間に比べ、およそその 半分で学習したのである旦。 McLeanとGreggはまた、学習され た結果が1つの長いリストの形で記憶 されるか、それともよリ短いリストか らなるチャングの階層構造として記憶 されるか、を明らかにしようと試みた それを明確にしようとして彼らは、被 験者がリストを暗記する際、とりわけ 逆方向にそれを暗記しようとするとき どのようにして一時的にアイテムをグ ループ化するかを測定した。その結果 は明らかであった。すなわちアルファ ベットは短い部分系列の連鎖として記 憶されていた。その部分系列は、実験 者が示したチャングか、それらのチャ ングの部分的な長さに対応していた。 こうしたことから、自己の判断に任さ れた場合には、被験者は3ないし4文 字のチャングを選好する傾向があった (先に機械的学習における有意味性の 影響に関する実験で、この長さのチャ ングがもっている役割のことについて 触れたが、それをここで思い出してい ただきたい)。 視覚的記憶 McLean − Greggの実験の素材は、 記号の連鎖であった。それと同様の問 題を、2次元の視覚的な刺激に関する 情報の記憶形態についても検討するこ とができる匹。それではどのような意 味で、記憶や思考が視覚的な刺激の特 徴を反映するというのであろうか。わ れわれはここで「無心像思考」につい て論争-もちろん、論争の起こった 当時のままではーを繰り返すつもり はない。 しかしおそらく現在では、今 世紀初頭よりも争点をはるかに操作的 なものにしうるのである。 この危険地帯に足を踏み入れてみて 私は、精神主義に対するもっとも熱烈 な反対者でさえ、私より進んでいるこ とを知って慰められるのである。たと えば、B. F. Skinnerの『科学と人間行 動』(Science and Human Behavior, 1952, p. 266)から次の文を引用してみよう。 人間は、条件反射の型に基づいて、 「存在しない刺激」に対しても見たり 聞いたりする場合がある。彼は、Xが 存在するときばかりでなく、しばしば Xに随伴して現れてくる刺激に対して も、そこにXをみる。食事を告げるベ ルは、われわれを垂涎させるとともに われわれの目に食物を映し出させる。 私は、Skinner教授が「食物を映し 出す」という表現を使って何を言おう としているのか正確に知っているわけ ではないが、彼の記述のおかげで私は あえて、情報処理論からみてこの言葉 をどう解釈するかを述べることができ る。この問題を明らかにするために、 よく用いられてきた実験の1つを単純 な形で記述してみよう。被験者に次の ような視覚的刺激-1つの魔方陣 -を記憶させるものとする。 4 9 2 3 5 7 8 1 6 さて、この刺激を取り除いてから、 被験者にそれに関する一連の質問をし その回答に要する時間を測定する。た とえば3の右側にある数字は何か、1 の右側にある数字は何か、5の真下に ある数字は何か、3の右斜上の数字は 何かといった具合にである。これらの 質問は、必ずしも同程度の難しさを示 しているわけではない。事実この場合 難しさの増大に対応させて質問を配列 したのである。 しかも実際に、被験者 にとっては、最初の問題に答えるより も最後の問題に答えるほうが、時間が かかるであろうことを期待したのであ る。 なぜこのようなことになるのであろ うか。記憶にとどめられた心像が、対 象物をそのまま写しとっだ写真と同一 であるならば、相異なった質問に、そ れぞれがあまり差異のない所要時間を 答えるはずであろう。 したがって、記 憶された心像が写真とはまったく異 なった仕方で組織されると結論しなけ ればならない。もう1つの仮説は、そ れがリスト構造だということである ーそれは、たとえばMcLean − G reggの実験から得られたデータとも 一致するし、また認知に関する情報処 理モデルの精神にも、多分に含まれて いる仮説なのである。 たとえば、記憶されたものが次のよ うなリスト、すなわち「上段」「中段」 「下段」と分け、「上段」は4-9-2, 「中段」は3-5-7、「下段」は 8-1-6であるようなリスト構造で あるとするならば、実証的な結果は理 解しやすいものとなるであろう。3の 右側にある数は? という質問に対し ては、前記のリストを下方に搜してい くことによって回答が得られる。 しか し反面、5の真下の数は?という質問 には、2つのリストをアイテムごとに 対応させることによって回答が与えら れる。これは前よりもはるかに複雑な 過程である。 もちろん被験者が左右の関係と同様 上下の関係や対角線の関係を学習でき ることは明らかである。EPAM的論 理でいうならば、被験者が左右関係と 上下関係を学習する時間は、左右関係 だけを学習する時間の約2倍であると 予測するであろう。この仮説は容易に 検証できるが、しかし私の知るかぎり 実際にそれが行われたということはな い。 いまあげた例と同じ方向を示す「視 覚的」心像の記憶の本質に関する証明 が、チェスに関するde Groot らの有名 な知覚実験でなされている旦。 de Grootは被験者にチェス・ゲーム中の 駒組み一実際のゲームから借用した ものーを、たとえば5秒間だけ見せ たうえで、いったん駒組みをくずし、 それを再現するよう要求した。すると グランドマスターとマスターは、間違 わずに(盤上の20個ないし24個の駒 組みを)再現することができた。ダッ フアーのほとんどは正確に駒組みする ことができなかった。マスターとダッ フアーの中間ぐらいの腕前をもっだプ レイヤーは、マスターとダッフアーの ほぼ中間の成績を示した。 しかし驚い たことに前記と同数の駒をデタラメに 盤上に並べてみせ、もう1度同じよう に駒組みさせてみたところ、マスター とグランドマスターも、その再現能力 は前の例でみせたダッフアーのそれに 比べごくわずかしか良くならなかった のである。しかもダッフアーは、前と 同程度の成績しか示していないのであ る。 この実験から、どのような結論をひ きだせるだろうか。そこから得られた データは、チェスのマスターにはある 特別の視覚的心像能力が賦与されてい る、という仮説と矛盾する。でなけれ ば、2度目の再現でなぜうまくいかな かったのであろうか。実際データが明 らかにしていることは、チェス盤上の 情報が、64日を「テレヴィジョン的 に走査する」というかたちでよりは、 むしろ駒と駒の相互関係で記憶される ということである。たとえグランドマ スターでも、10秒間に64(あるいは 24)目の情報を記憶しうると考えるこ とは、前に述べたパラメーター短期 記憶に関するチャングは7であり、1 つのチャングが固定するのに要する時 間は5秒であるーと両立しない。し かし彼が、第4図の駒組みを再現する のに十分なほどの関係(各関係を1つ の熟知したチャングであると考えて) の情報を,(短期および長期記憶に) m土工言二尚 囂二皇゛`喟舎 ti i i li l:泣 盍 旦−宣 稾 旦 。……,唾1。 。‥,筥 第4図記憶実験に便われたチェスの駒組み 1 黒ば、キングのナイトを守ってい るビショップをキングの前に置いて、 K側をキャッスルで固めている。 2 白ばキングの前にクイーンを置き、 Q側をキャッスルで固めている。 3 K5の黒のホーンとQ5の白のポー ンは、それぞれキングのナイトとク イーンのナイトに攻められ、守られ ている。 4 白のクイーンのビショップが、 KN5からナイトを狙っている。 5 黒のクイーンはQN3から、白のキ ングを狙う。 6 黒のホーンがQB4に陣取っている。 7 K3のホーンが、黒のホーンの前進 を阻んでいる。 8 両者とも、ホーンとナイトを1つ ずつ取られる。 9 白のKのビショップが、K2に陣 取っている。 これ以外の駒は元の位置のままであ るとしておく。ここに列挙した関係の うちのいくつかは込み入っているので こうした関係を単位的な「チャング」 と見なす私の論拠を示しておかなけれ ばならないであろう。私はチェスの強 い人なら、たいていは前述のように考 えるものと思う。私は、たまたま綛験 したままの局面の駒の位置の記憶から 上記のような関係を書いたのである。 熟達したチェス・プレイヤーがその駒 組みを見る目の動きのデータをみると 駒同士の関係がどのように分析され、 またそれがどのように記憶されるかと いう点について、上述の分析の正しい ことが示唆される旦。 とくにそのデー タは、3と5の関係を明瞭に示してい る。 もしも専門家が、いまの状態が標準 的な序盤戦であるーこの場合は、グ ルエンフェルド防禦であるがーこと を知るならば、駒組みの情報をいっそ う速く記憶に貯蔵することさえ可能で ある。 したがって専門家は、1ダース ほどの駒からなる駒組みの、なじみの 型(template)にアクセスすることが できるのである。 このような視覚的記憶を云々するこ とが、私の述べたいことと、どのよう に関連するかについては、次のように 言うことができよう。すなわち、心像 現象の多くは、その基礎にある神経学 によって詳細に説明されるのではなく 記憶組織のまったく一般的抽象的な特 徴-それは本質的には、機械的学習 や概念到達現象について、情報処理論 を構築しようとするときに想定された 諸特徴と、同じものに他ならないので あるがーに基づいて、説明され予見 されうるのである、と。 とりわけわれわれは、記憶というも のがリスト構造(その各成分もまたリ ストでありうるような、そういったリ スト)の体系であって、それが説明的 な部分(2項を結びっける関係)と短 い(3あるいは4個の要素)部分とか らなるリストを含むものである、とい う仮説に到達するのである。この種の 組織構造をもつ記憶は、命題的(文章 的、数式的)な情報と同様、視聴覚的 な情報に関する貯蔵現象をも、正しく 説明しているように思われる。 想像力 われわれが論議してきた実験は、視 覚上の長期記憶に関連するぽかりでな く、心像を保持したり処理したりする 場の短期記憶たるいわゆる想像力 (Mind's Eye)にも、関連をもっている われわれは想像で、しばしば、推理の 代わりに観察をする。たとえば、経済 学者がよく使う需要と供給の図を考え てみよう。そこでは、一方の曲線は、 いろいろな価格で市場に供給されるで あろう商品の数量を表し、他方の曲線 は各価格で需要されるであろう数量を 表している。もし2つの曲線が交わっ ているなら、その交点を需給が等しく なる点つまり市場均衡点と解釈するこ とができ、またx軸とy軸から直接に 均衡量と均衡価格とを読み取ることが できる。この過程はすべて、図から読 み取られた情報を利用しつつ、想像で 展開されていく。 別の方法によれば、2つの方程式を たてそれらを連立させて解くことに よって、同じ均衡量と均衡価格とを見 出すことも、可能である。図を用いて も代数的に解いても、同じ知識を得る ことにはなるが、しかしそこにたどリ 着くまでの経路はまったく違っている (おそらく投入される労力や洞察力も 大いに異なるであろう)。多くの科学 分野では、結論は、文章的、数式的、 図解的な各種の方法を組み合わせて、 導き出すことができる。-ある種の 結論はある1つの方法で比較的簡単に 得られるが、他の結論はまた別の方法 で比較的簡単に得られる。 Alfred Marshallの有名な著作『経済学原理』 (Principle of Economics)は、すべて文 章で書かれ、図は注釈で、また代数は 附録で使われているだけである。かく て同書は読者に対し、どのような表現 方法が好ましいかについて、十分な自 由度を与えている。 人間の用いるいくつかの推論方法の 間の相互作用を知るには、われわれは それぞれの場合にどのように結論に達 するのか、その計算過程を研究する必 要がある。現在、この分野は、認知科 学の中でもきわめて活発な研究が行わ れている領域である几 自然言語の処理 人間の思考に関する理論について述 べる場合、人間がもっているもっとも 特徴的な認識技能一つまり言語の使 用-の問題を省略することはできな い。またそれは省略すべき問題でもな い。言語は、私か素描してきた認知過 程の一般的な叙述とどのように結びつ くのであろうか。またそれは、心理学 が人工物の科学であるとする私の一般 的な命題と、どのように結びつくので あろうか。 歴史的には、変形言語学の現代的な 諸理論も認知に関する情報処理論も、 同一の母体-すなわち現代のディジ タル・コンピュータの発展により生み だされた諸観念-から発生した。そ れだけでなく、この両者は、コン ピュータが具体的にはハードウェアと して存在していながら、その魂はむし ろプログラムの中に見出される、とい う認識から生まれたものである。変形 言語学と情報処理心理学に関する最初 の専門的な論文は、1956年9月に MITで開かれた会議に提出されてい る俎。このようにこの2つの理論は、 初期のころから密接な関係にあった。 しかもきわめて正当な関係にあった。 というのは、概念的にどちらも人間の 精神を同じ観点から考えているからで ある。 いやそうではない、この両者は人間 の精神を正反対にみている、と異議を 唱える人がいるかもしれない。なぜな ら私は、人間の思考について、人工的 な特性一思考というものが、個人的 な学習や社会的な知識伝達を通じて、 どのように課題環境の要件に適応して いくかという特性-を強調してきた からである。他方、形式言語学の指導 的な理論家は、「生得論者」の立場を とってきた。子供が言葉を話したり理 解したりする諸技能を身につけるため に、基礎的な機構を生まれながらにし てもっていないとするならば、後天的 に複雑な技能を習得することなど不可 能であるとするのが彼らの論拠である この問題は、現存するすべての国語 に何か共通する特徴があるか否か、と いう言語普遍性に関する論争を思い起 こさせる。われわれは、各言語間にみ られる共通性がけっして特別なもので はなく、むしろそれは、すべての言語 にどこか共通するところがあるといっ た、幅広い構造的な特質に関連してい ることを、知っている。すなわち名詞 と動詞の区別つまり対象と行為あるい は関係との区別といったようなものは 人間のいずれの言語にも見出されるよ うに思われる。すべての言語は、句構 造と呼ばれる入れ子式の特徴をもち、 またすべての言語は文変換によってあ る文章から他の文章を導き出している ように思われる旦。 しかし仮にこれらを生得論者のいう 普遍概念の典型であるとしても、なお その議論には少なくとも2通りの相異 なった解釈をすることができる。1つ は、言語能力は純粋に言語的なもので ある、言語は独自性をもつ、さらに言 語が要求する人間の諸能力は、他の活 動に必ずしもそれらすべてが活用され るとは限らないという解釈である。 生得論者のいうもう1つの解釈は、 自分が発声したり他人が発声したこと を理解するのは、すべての言語に共通 した特徴、すなわち話したり聴いたり すること以外に人間の思考に不可欠な 中枢神経システムのいくつかの特徴に 依存しているというものである。 現代言語論に組み込まれている人間 能力に関する基本的な仮定と、人間思 考の情報処理論に組み込まれている仮 定との間にみられる顕著な平行論に対 し、上の2つの解釈のうち前者は説明 を与えないが、後者はそれを与える。 人間の記憶構造について私か前述した 仮定は、まさに言語処理が可能なシス テムに対し、人が設定してみたくなる ような類の仮定なのである。実際、こ れら2つの分野は互いにかなり貸借し あっている。両者は階層的に組織され たリスト構造を、記憶組織の基本的な 原理として想定している。両者はとも に、直列的に作動する処理装置が、い かに一連の記号をリスト構造に変え、 あるいはリスト構造を一連の記号に変 えるか、にかかわりをもっている。ま た現象をモデル化しシミュレートする のに、同じ一般的なコンピュータ・プ ログラム言語が非常に便利であるとい うことが、双方の分野において明らか にされてきたのである。 言語処理における意味論 言語学上の諸理論と思考の情報処理 論との関係は、これから先、従来以上 に接近するであろうが、以下でそのよ うな方向の1つを示唆することにした い。ところで言語理論は従来、ほとん ど綺語論、文法論であった。 したがっ て、自動翻訳にみられるような実際的 な応用面で、翻訳が綺語論的な手がか リ以上のものに左右される場合一そ れが文脈や「意味」で左右される場合 一前記の言語理論はいろいろな困難 に直面したのである。こうして今後言 語学が辿らなければならない主要な発 展方向の1つが、統語論を補完すべき 意味論にあるということはかなり明白 であるように思われる。 私か概略を述べてきた思考の理論は すでにそうした意味論的な要素の重要 な1部分を提供できるものである。私 のいう記憶組織の原理は、言語的な綴 りを内的に表現する問題を議論したり 2次元的な視覚上の刺激や他の非言語 的な刺激を内的に表現する問題を議論 したりするための、1つの基盤として 利用されうるのである。いく種類かの 刺激の組み合わせに対し、前述のよう な対比可能な基盤が与えられるならば 統語論的な手がかりと意味論的な手が かりの総合を考えることが、いっそう 容易になる。 この点に関連する研究プロジェクト が、いままでMITとカーネギー・メ ロン大学とでいくつか実施されてきた そこで、意味論的な手がかりを用いて 統語論的な曖昧さを解決するのに、上 記のアプローチがどのように利用され ているかを説明してみることにしたい L. S. Colesは、1967年に完成した博 士論文の中で、統語論的な曖昧さを解 決するため、ブラウン管に映像を使用 したコンピュータ・プログラムについ て述べている几ここでは彼が実際に 採用したものよりも心像化しやすい例 を用いて、彼の研究方法を解説してみ たい。次の文章を考えてみよう。 I saw the man on the hVwith the telescope。 この文章は、少なくとも3つの解釈 が可能である。言語学者なら他の解釈 の仕方も見つけるだろう。私のいう3 つの解釈とは次のようなものであるが 3つの解釈のうちどれをとるかは望遠 鏡がどこにあると考えるかに依存する すなわち私かそれをもっているのか、 それとも丘の上にいる人がそれをもっ ているのか、あるいは丘の上に置いて あって彼は手にしていないという意味 なのか、の3つである。 さていまこの文章が第5図といっ しよに示されたとすれば、もはや疑問 の余地などあろうはずはない。明らか に望遠鏡をもっているのは私なのであ る。 ヂ 厂 第5図統詔論的に曖眛な文章|saWtheman0ntheh|||W池 。こできるようになっている。さらにその 映像をリスト構造として表すことがで きる。それをこの例で示すと次のよう になる。 SAW〔(I, WITH〈telescope〉)、(m an, ON〈hill〉)〕 私は、Colesが採用した方法を詳細 に再現しようとしたわけではない。た だ映しだされた像が一連の語句の関係 をたやすく別の側面から解釈させうる こと、したがってまたそれが言葉の曖 昧さを解釈するのに役立ちうることを 示したにすぎない。 Laurent Siklossy が完成した別のプロ グラムは、意味論的な情報がいかに言 語の習得に役だちうるかを説明してい る出。読者は、I. A. Richards教授たち が開発した『絵で学ぶことば』 (Language through Pictures)を知って いるであろう。この本は多数の言葉に 対してつくられているが、各ページに 絵が描かれており、その下に学習すべ き言葉で絵に関する説明文が1つある いはそれ以上載せられている。絵とそ れに関する文章は、非常に単純な状況 (〈ここに私かいる〉くあれは人間であ る〉)から複雑なもの(くその本は棚の 上にある〉)へと配列されている。 Siklossyのプログラムは、インプッ トとして1種の『絵で学ぶことば』の 本に類似したものを取り入れている。 絵は内部表現としてすでにリスト構造 (Colesのシステムで説明したのと同 じもの)に変形されているものと想定 されている。プログラムの課題は、そ のような絵にぶっかった場合、学習中 の自然言語で絵に合った文章一絵が 表している内容を述べた文章一を表 現することにある。望遠鏡に関する文 章(実際に検証されたものよりいくぶ ん複雑なもの)の場合についていえば プログラムは、もしもそれが英語を学 習しているものであれば、絵に対し、 l saw the man on the hVwith the telescope.という文章で答え、またド イツ語を学んでいるものであれば、 匐1五油e den Mann auf dem Berg mit dem Fernglas gesehen。という文章で答える ことを示している。 もちろんこのプログラムは、それが 翻訳に必要な語彙と文法とを他の文脈 の中で、あらかじめ学習している限り においてのみ、正確に応答することが できる。その他の場合には、そのプロ グラムは、語彙や構文のほかに、絵と 関連のある文章を使用することになる であろう旦。 私はいくつかの先駆的な実験結果を 意味論全体に拡張しようとは思つてい ない。これらの例から引き出されるこ とは、それらが以下の内容を示してい る点にある。すなわち、他の諸理由で 比較的単純な認知問題における人間行 動を説明すべく仮定されてきた前記の ような記憶構造は、一連の言葉が内的 にどのように表現されるのか、また他 の種類の刺激が内的にどのように表さ れるのか、さらに頭の中で言葉と「意 味」とをいかに合致させていくかに関 し表現の共通性一言葉による刺激や その他の刺激に対し、階層化されたリ スト構造が用いられるという共通性 -の観点からそれをどのように説明 するのか、などを解説するのに適切で あるという点、これである。 このようにして、人間は生来言語を 習得しそれを使用する能力をもつとい う主張と、言語はもっとも人工的なも のであり、したがってそれは人間がつ くったもののうちでもっとも人間的な ものであるという主張の間には、矛盾 など存在しないのである。前者は、内 的な環境というものが存在し、またそ の環境が人間のなしうる情報処理の種 類を限定すると主張するのである。言 語の構造はこうした限界を表している が、逆にこうした限界こそが、各国語 間の混乱の底に横たわるある共通性を 説明するのである。 言語の人工性に関する後者の主張は 内部環境によって課せられた諸言語に 対する適応上の限界が、実は有機体に かかわる非常に広範な限界であって、 統語論にかかわる特殊な限界ではない ということである。さらにこの主張は 言語だけでなく、外界の刺激を通じて 得られる綛験を内的に表現するすべて の方法にも、限界のあることを意味し ている。 言語と思考の関係についての以上の ような見解は、極端にいえば表しうる ものしか考えられない、という 「Whorf流」の仮説に、新たな色彩を 与えることになる。すなわちこの見解 が正しいものとすれば、「考えられる ことだけが表現できる」一私にはそ れがKantにぴったりであると思われ るような見解-といっても、決して 誤りではないであろう。 結論 本章は、つぎに述べるような命題か ら出発した。すなわち、 1つの行動システムとして人間をみ ると、それはきわめて単純なものであ る。その行動の経時的な複雑性は、主 として彼がおかれている環境の複雑性 を反映したものに他ならない。 この仮説は、第1章の命題すなわち 行動は目標に適応させられ、それゆえ にこそ行動は人工的であり、まただか らこそ行動は、その適応力を制約する 行動システムの特徴だけを表すのであ る、という命題に立脚している。 これらの命題をいかにして検証し始 めたのか、また同時に、どのようにし て人間行動の基礎にある単純な諸原理 を理論化し始めたのかを示すために、 私は人間情報処理能力の領域から、と りわけ心理学の研究室で検証されたも ののうちから、いくつかの明らかな事 実を展望してきた。 陰伏算術の問題を解いたり、概念に 到達したり、短期記憶に情報を保持し たり、視覚上の刺激を処理したり、自 然言語を使う課題に対応したりする被 験者の行動は、前記の諸命題を強く支 持している。人間行動の人工性-し たがって可変性-は、日常生活を観 察してみるだけで十分に明らかなこと である。こうしてきわめて重要な点は 人間がさまざまな課題に取り組むとき 彼らの情報処理システムの機構のなか に広範な共通性が現れるということで ある。 人間の情報処理システムは、基本的 には直列的に作動するものであるとい う証拠は圧倒的である。というのは、 それが1度に処理できる記号はほんの わずかであり、処理されるべき記号は 内容が急速に変わりうる特定の限られ た記憶構造のなかに、保持されなけれ ばならないからである。能率的な戦略 を利用する被験者の能力を強く制限す るものは、短期の記憶構造がもつきわ めてわずかな容量(フチャンク)であ り、1チャングの情報を短期記憶から 長期のそれへと移送するのに要する比 較的長い時間(8秒)などである。 人間の認知システムが、基本的に直 列に働くという主張は、神経系の ニューラル・ネットワークやパラレ ル・コネクショニスト・モデルの提唱 者たちによって、近年、挑戦を受ける にいたった。 しかし私は、以下のよう な留意点を指摘しておきたいと思う。 すなわち、感覚器官(とくに目や耳と いった)では明らかに多くのパラレリ ズムが見られるが、しかし刺激が確認 されたあとは、のちの処理段階で用い られる短期記憶のわずかな容量によっ て、直列性が強制されること。また、 運動信号(motor signal)の処理過程で ある程度のパラレリズムが見られるが しかしそれはあくまでも初期信号 (initial signal)がSTMの隘路を通過し たあとであること。第3に、われわれ が、ここで議論している記号レベルの 処理の直列性に関する議論は、そのす ぐ下のレベルたる神経系の記号処理の 直列性や並列性の度合いについてのあ れかこれかの議論ではない、というこ と。(逆説的にいえば、パラレル・コ ネクショニスト・ネットワークは、 von Neumann 型の標準的な直列コン ピュータで走るプログラミングによっ て、ルーチン的にシミュレートされる のである。) 最後に、脳の中の並列的な神経活動 の多くは、記憶におけるパッシブな保 持(maintenance)部分に見られるだ けで、アクティブな過程はたいてい局 所化されかつ直列的になっている。 〔脳の核磁気共鳴映像法( = MRI)か ら得られる証拠は、この見解と一致し ている。〕人が認知的な課題を遂行し うる速度と、人が同時になしうる課題 数の限界の、両者からは必ずしも並列 的な処理能力に関する証拠が十分得ら れるわけではない。現在のところはま だそこまで到達しているわけではない が、今後コネクショニズムがはっきり 示されるまで、すなわち複雑な思考過 程や問題解決過程がシリアル構造でモ デル化されたように、パラレル・コネ クショニスト構造でもモデル化できる ようになるまで、また同時的な認知活 動に関して、実験的に観測された限界 値がコネクショニスト・モデルで表現 されうるまで、感覚機能以外で多くの パラレリズムが表れるケースには、依 然として疑問が残るのである。 主として中枢神経システムの短期記 憶や直列処理能力を用いる課題から、 記憶情報の検索を含む課題に目を移す と、われわれは新たな適応の限界とい う問題に直面する。これらの限界を通 して、われわれは精神と脳の機構に関 する新しい知識を得るのである。視知 覚に関する研究や、自然言語を用いな ければならない課題についての研究な どから、実際に記憶というものが、連 想的に組み立てられていることが示さ れるが、その「連想」はコンピュータ の世界で通常「リスト構造」と称され ている特性をもっていることが明らか にされている。これらの特性がどんな ものであるかは、簡単にではあるが、 すでに述べたとおりであり、またそれ についてはよリ詳しく次章で論及する 以上の内容は、人間の思考に関する 実験結果から得られた一種の一般化に 他ならない。われわれの仮説が予期し たように、これらの内容は単純である 将来このような描写は拡大され明確化 されていくであろうが、その描写が本 質的にいっそう複雑になると考える必 要はないであろう。人間が辿る道の複 雑さは蟻のそれとは本質的に異なった ところから由来する、と論じたがるの は人間のプライドのなせるわざにすぎ ない。 私のアプローチー私の命題-の 興味ある結論の1つは、生理学のこと に一言も触れていない点である。精神 は脳に宿っていると普通考えられてい るが、私は脳の構造に触れないまま精 神の機構について論じてきた。 このように精神を切り離して論じた おもな理由は、いうまでもなく私の命 題そのもののせいである。コンピュー タの「ハードウェア」と脳のそれが 違っているにもかかわらず、コン ピュータは人間の思考の広範なスペク トルをシミュレートしてきた。これは 要するにコンピュータも脳も、それが 思考している間は、環境の型に自らを はめこもうとする適応的なシステムに なっているからである。 かといって、神経生理学が人間行動 の説明になんら寄与するものをもたな い、などと結論を歪曲して解釈されて は困る。そうした考え方が滑稽なもの であることはいうまでもないが、それ は、われわれが人工物を分析していけ ば、やがて行動について生理学的に説 明せざるをえないような、ある特定の 観点に行きつくことになるからである 神経生理学は、ホモ・サピエンスと呼 ばれる適応システムの内部環境に関す る学問なのである。短期記憶が7チャ ングに限られるのはなぜか、「チャン グ」に相当する生理学的構造は何か、 チャングが定着する8秒の間に何か起 こっているのか、脳の中で連想構造は どのように形成されていくのか等々、 われわれは適応能力の限界を説明する ために、生理学の助けを借りなければ ならないのである。 知識が増加するにつれて、生理学的 説明と情報処理論的説明との関係は、 生物学における量子力学的説明と生理 学的説明の関係(あるいはコンピュー 夕・サイエンスにおけるソリッド・ス テート的説明とプログラミング的説明 の関係)に似たものになっていくであ ろう。生理学と情報処理論とは、両者 間の接面を浮き彫りにしながら、(わ れわれの例でいえば)内部システムの 制約要因を解明しようとする、相互連 関的な2つの説明方法に他ならないの である。 最後にわれわれは、内部的に情報処 理の心理学を生理学に結びっけるとき それは同時に外部一つまり問題環境 の側面一的には大規模な組み合わせ 空間を通じて、心理学を探索の一般理 論に結びっけることを期待しうるので ある。しかしそれを論ずることは、第 5章で述べる論題に入っていくことに なる。なぜならデザインの理論は、探 索の一般理論であるからである。われ われは、第5章の論題を取り上げる前 に、デザイナーによって使われる大量 の情報が、どのように人間の頭のなか に記憶されるかについて、もう少し論 及しておかなければならない。 ! W. Grey Wa】tel,“An Imitation of Life," Scjlel]tific Americar.]、185(1950):42. 冫たとえばR. Brooks, "A Robust-layered Control System for a Mobi】e Robot,"IEEE Journal of Roboljcs and Automati・o・、RA-2 (1986):14-23を 参照。また自動車NAVLABは、1995年の夏、 ワシントンD.C.からカリフォルニアのサン・ ディエゴまで公道を使って自動運転を行い、ま たオフロードのナビゲーションに高い能力を示 した。 3 このような仮説を情動,動機などの現象に拡 一 大することについて,私は論文〔“Motivational and Emotional Contro〕s of Cogni!ion," Psychological Review, 74 (1967):29-39〕におい て素描を行った。また知覚の側面に関しては 〔“An Information-Processing Explanation of Some Perceptua】Phenomena,"British Journal of Psychology, 58 (1967):1-12]で述べてある。こ れら両論文は,私の著書Models ofnou励tの vol. 1 (1979)の1.3章と6.1章に再録されてい る。この問題の議論は,いまでも次の文献で行 われている。“BoU]eneck of Attention : Connectiong Thought with Motivation,"in W. D. Spaulding (ed.), Integrative Vjews ofMotivati・0・, Cogniti・0・ and Emotion. Lincoln, NE : University of Nebraska Press, 1994. 4陰伏算術の問題は F. Baitlettがその著書 − [T辿]iking (New York : Basic Books, 1958)]の中 で,問題解決の研究のためにはじめて使ったも のである。ここでの説明に私はN Bartlettの仕事 およびAllen Newel】と私の著書HE]aj]Problem SoMf]g[Englewood C]ifls, N. J.:Prentice-Hall, 1972)の8-10章から引用している。 5 たとえば,陰伏算術問題CROSS I ROADS = − DANGERからは,さほど多くの探索活動の省略 は行われない。 6概念到達についてのこのような説明は,私と ー 同僚Greggとの共同論文“Process Mode]s and Stochastic Theories of Simple Concept Formation,”Joun.]ial ofMafhemati・cal Psyc力ology. 4 (June 1967):246-276によるものである。ま たA. Newe】】and H. A. Simoo,“Overview: Memory and Process in Concept Formation,”chapter 11 in B. Kleinmun!z(ed.),Concepls and ie Sm亅clufe ofMemory (NewYork:Wiley, 1967) , pp. 241-262も参照されたい。両論文のうち前者は Models of Thought, vo】。1の5.4章に再録されてい る。 7亅. S. Brunei, J. J. Goodnow, and G. A. Austin のモ ノグラフA Study of Thinking (New York : Wiley, 1956)は,おそらく短期記憶が概念到達を制約 する(彼らは[認知的緊張]という用語を使つ ている〕ことを強調した最初の論文であろう, またこの論文は,被験者の戦略のいくつかにつ いても,かなり明確な記述を与えてくれる。 8固定化のパラメータの一定性についての証明 − は,以下の諸論文で展望されている。L. W. Gregg and H. A. Simon,‘'An Infc〕inflation- Processing Explanation of One-Trial and Increments] Learning,”Jourr.】ial of Verbal Lean.】nag and Verbal Bejiavjof,60967):780-787 ; H. A. Simon and E. A. Feigenbaum,“An Information-Processing Theory ofVerba]Learning,"ibid., 3 (1964):385-396 ; E. A. Feigenbaum and H. A. Simon,“A Theory of the Serial Position Effect,"Bflllj汕Joun】tal of Psychology, 53 (1962):307-320 ; E. A. Feigenbaum,“An Information-Processing Theory of Verbal Learning,"unpublished doctoral dissertation, Pittsburgh : Carnegie lns血ute ofTechnology, 1959: and reference cited therein. これらの論文のうち。 最後のもの以外はModels of Thought, vol. 1に再 録されている。 9 Herman Ebbmghaus, Memory (New York : Dover Publications, 1964), trans】ated丘om the German edition of 1885, especia】]ly pp. 35-36,40, 51. 10 B. R. Bugelski,“Presentation Time, Tota】Time, Vld Mediation in Paired-Associate Learning," Jovrr.]ial ofExperiir.]a]Ial Psychology, 63 (1962): 409-412. H EPAMがテストされた諸現象の範囲について ー はv E. A. Feigenbaum and H. A.Sjmon,“EPAM- like Models of Recognition and Learning," Cognitive Science, 8<1984):305 − 336, reprin!ed in Models of Thought, vol. 2 (1989), 3.4章参照。 コPsychological Review, 63 (1956):81-97. D N. C. Waugb and D. A. Norman,“Primaiy Memory,"Psychological Review, 72(1965): 89-104. 14 Roger N. Shepard,“Recognition Memory far Words, Sentences, and Pictures,"Joun]aJ of Verbal Learning ar.]d VefbajBe力iavior, 6 (1957):156-163. 15 Dona]d F. Dansereau and Lee W. Giegg,“An Information Processing Analysis of Mental Mu】ttiplication,"j)syciollomjc Sciei.]ce, 6 (1966): 71-72を参照。記憶のパラメータの話はModejs of Thought, vol. 1の2.2章と2.3章. vol. 2の2.4 章およびRichman, Staszewski and Simon の文献 でよリ詳細に議論されている。 16 R. S. McLean and L. W. Gregg,“Effects of Induces Chunking on Temp《)『a』Aspects of Serial Recitation,"Joun】tal ofExperimer】tal Psychology, 74 (1967):455-459. 17 McLean-Greggの実験で刺激として使われた文 字は,もちろん2次元の視覚的刺激である。し かしそれらは,熟知のチャングであり,ただち に再認され,再符合されうるものであるから, その実験でそれらの2次元的な特性が被験者の 行動になんらかの役割を果たしていると,推測 する理由はまったくない。しかしこのことは, 刺激がいかに[内部]で処理されるかについて の一般理論が与えられるならば,改めて[明 白]になるであろう。 18 Adrian D. de Groot,“Perception and Memory versus Thought : Same Old Ideas and Recen! FindingぐinB.K]einmuntz (ed.), Problem Sojvjl]g (New York : Wiley, 1966), pp. 19-50. Models of Thought, vo】.1の6.4章と6.5章に報告されてい るChaseとSimonの研究も参照. 琥O. K. Tikhomirov and E. D. Poznyanskaya, “An Investigation ofVisua】Search as a Means of Ana】lysing Heuristics,"English trans]ation from Voprosy psikhologii, 1966, vol. 12, in Soviet Psychology, 2 (Winter 1966-1967):3-15. ModeJs of Thought, vo】.1の6.2章と6.3章も参照. 沺J. Larkin and H. A. Simon, “Why a Diagram is (Sometimes) Worth 10, 000 Words,"Cogr.]jlljlve Sciei.]ce, 11〔1987):65-100 ; A. M Leonardo, H. J. M. Tabachneck and H. A. Simon>“A Computations】 Mode】of Diagram Reading and Reasoning," Proceedings ofl力ej71j】ÅVluaj Conflrelce ofie Cognitive Scjlence Society (1995) ; Y. Qin and H. A. Simon,“Imagery and Mental Mode】s of Prob】em So]ving."in J. G]asgow, N. H. Narayanan and B. Chandrasekaran (eds.), Diagrammatic Reasooi・g.・ Compuぱional and Cogr.】titive Perspectives {Menlo Park, CA : AAAI/The MIT Press, 1995). 21 N. Chomsky,“Three Mode]s for the Description of Language,"and A. Newe]1 and H. A. Simon,“The Logic Theory Machine,"both in IRE Trar.】i&acb'ans 01111]formati・on Theory IT-2, No. 3 (September 1956)。 望言語普遍性に関しては亅oseph H. Greenberg (ed.),Uj]liversais of Language (Cambridge : The MIT Press, 1963),とくにGreenberg論文pp. 58-90を, また[生得論者]の立場についてはJerrold J. Katz, The Philos叩>hy of language (New York: Harper and Row, 1966), pp. 240-282をそれぞれ参 照されたい。 四L. Stephen Coles, Syl]tax Directed ll】terpretaむ・on of NalurajLax】Iguage, doctoral dissertation, Carnegie Institute of Technology, 1967.これはH. A. Simon and L. Sik]ossy (eds.), Represen凶ioe ai.]d Meaning (Englewood Cliffs, N. J.:Prentice-Hall, 1972)に少 し簡約された形で再録されている。 型これもまたRepresenばjon and Meaning に収め られている。 乃ことのついでに私は, Siklossyのシステムが。 亅ohn Searle の周知の“Chinese Room Paradox"(それは,こ)ンピユータが言語を理解 できないことを証明すると主張したものである が)を論破しているという点を指摘しておきた い。Siklossyのプログラムが示すように,もし も部屋に外を見る窓がある(Searleの郤屋にそ のような窓はついていない)ならば,彼のシス テムは,語や句や文が表している場面を文とを 比べることによって,語,句,文をそれらがも つ意味と合致させることができる。 4 記憶と学習:思考に対 する環境としての記憶 人間の思考過程は単純であるという 第3章の命題を展開していく場合、そ れを説明するのに適当な例はかなり多 く見出される。 DONALD十GERALD = ROBERTのような問題は、理解力 のある大人にとっても難解であるが、 しかしこれを解くには、記憶情報はさ ほど多く必要ではない。問題解決者は 数値ならびに加法や減法さらには同等 について若干の事柄を知らなければな らないが、しかしこの場合それで十分 である。この問題を、ピッツバーグ (Pittsburgh)やイースト・ベイ(East Bay)でのタクシー業務と対比してみ よう。タクシーの運転手が通りの名前 や通りの位置、さらには交差点などに 関する膨大な情報を記憶していないな らば、知性があってもこちらからあち らへと行くことはできないであろう。 (私のもっているピッツバーグの地図 には8500ほどの通りの名前があかっ ている。)しかし、記憶情報が利用で きれば、あるルートを選ぶのにたぶん きわめて複雑な戦略はとらなくてもす むことになる售 人間の思考過程は単純であるという 仮説は、1950年代から1960年代にか けて行われた情報処理に関する研究か ら得られたものである。その研究の多 くは、前章で検討された陰伏算術の問 題や概念到達の問題と似たパズル的な 課題を取り扱っていたが、それらの問 題は、記憶や以前に習得された技能な どにさほど依存することなく解くこと のできる問題なのである。その他の例 として宣教師と人喰い土人 (Missionaries and Cannibals)パズル、 ハノイの塔(Tower of Hanoi)パズル、 論理的推論の問題などがあるが、それ らはすべて心理学の実験室で広範に研 究されてきたものであり、前章で描か れた人間の思考に関する記述を支持す るものである。 人間の思考に関する研究は、この種 の比較的無内容な問題から進めていく のが妥当であろうが、しかしそこでと どまるべきではない。過去何十年かの 間に、認知心理学や人工知能の研究は ますます意味豊かな(semantically rich)領域-すなわち本質的で意味 ある内容が含まれており、それをうま く取り扱うには、記憶された大量の専 門知識を必要とするような領域一に 関心を向けつつある。人間の思考はそ のような領域でも依然として単純にみ えるものであろうか? この問題を追及していくときわれわ れは、専門家が日常の仕事を行う場合 に直面するような、あるいは大学生が 専門教育を受ける場合に直面するよう な類の問題を、どのように手際よく処 理していくかにことさら興味を抱くこ とになる。実験室でかなり広範に研究 され、かつすでにいくつかのパラメー タが確認されている専門家レベルの領 域の中には、チェス競技、病状診断、 大学での物理の問題解法、綛験データ からの規則性の発見などが含まれてい る。われわれはこれらを例に取り上げ よう。 チェス・ゲームを除いて、長期記憶 は、第3章で取り上げた問題の処理に は、ほんのわずかの役割しか果たさな かった。そこで見出された単純性は、 人間の情報処理過程の単純さ(人間行 動を説明する上で仮定される基礎的記 号操作過程は、ほんのわずかである) であり、人間の精神過程の単純さ(そ の直列処理と限定された短期記憶)で あった。そこでは少数のパラメータ、 とくに短期記憶のチャング容量と新し いチャングを長期記憶に蓄えるために 要する時間とが、人間の情報処理シス テムの限界を画する主要な役割を果た していたのである。 しかしわれわれが意味豊かな領域に 目を向けるにつれ、単純性と複雑性と に関する新たな問題が浮かび上ってく る。長期記憶の内容の豊かさは、構造 の複雑さを意味しているのであろうか あるいはその豊かさは、第3章で素描 されたリスト構造の単純な組織とも合 致しているのであろうか。これらの大 量の記憶内容を活用するためには、よ り高度の複雑さが必要となるのであろ うか。また人間の情報処理過程は、第 3章で検討したパズル的問題への処理 過程と同じなのであろうか。新しい データとその処理過程とを長期記憶に 蓄えるのに必要な学習プログラムは、 新たな水準での複雑さをもたらすので あろうか。われわれはここで、人間能 力に関する研究結果と、コンピュー タ・シミュレーションの結果とが、単 純性の仮説を一般に支持するものであ ることを見ていくつもりである。記憶 の増大が複雑さの増大を導くとは限ら ないのである。 意味豊かな領域 人エシステムの環境を内外に分けよ うとすると、どうしてもその境界線は ある程度恣意的になる。第2章で経済 行動を論議したとき、われわれは企業 の費用関数を内部環境の一部と考えて もよかったかもしれない。その代わり にわれわれは、生産技術から意思決定 過程を抽出し、かつまた合理的計算に かかわる限界のみを適応力に関する内 部的な制約条件と見なしたのである。 そこでは費用関数は、需要関数ととも に、企業が適応してゆこうとする外部 環境の一部として取り扱われていたの である。 われわれは人間という問題解決者に 対しても同様の見地をとりいれること ができるが、この場合も、問題解決の 基本的用具は、前章で述べた情報処理 過程の小さなレパートリーなのである 情報処理者は、2つの主要な構成要素 からなる外部環境に、影響を与える。 1つは目、耳、肌などを通じて感じと られ、また手、足、舌などを通じて働 きかけられる「現実の世界」で、もう 1つは、長期記憶に貯蔵され再認ない し連想により検索されうる、現実世界 についての(正確、不正確な)大量の 記憶情報である。情報処理者がパズル 的な簡単な問題を解く場合、記憶は限 られた役割しか果たしていない。この 場合、記憶組織よりも問題構造のほう が、問題解決の探索活動の方向を決定 するのである。 しかし意味豊かな領域 で問題を解く場合には、問題解決の探 索活動は、その大半が長期記憶のなか で行われ、その記憶内の情報によって 方向づけられる。 したがってその領域 での問題解決過程は、記憶に関する適 切な理論に基づいて説明されなければ ならない。 長期記憶 人間の長期記憶に関するある程度の 事実は、すでに前章で示されている。 長期記憶は、本質的にはその規模に限 界はない一年をとると新しいアイテ ムを貯蔵できなくなるとはいえ、溢れ るまで記憶容量をいっぱいにしえた人 は、いまだかつていなかったように思 われる。長期記憶に新しいチャングを 貯蔵するのにはおよそ8秒かかる。た だし専門家が、すでに貯蔵されている テンプレートをもっていて、それを開 いてチャングが連想されうるような場 合(この場合には、ほんの1、2秒の 時間が必要になるだけである)を除い ては≒ 長期記憶に関する現在の知識を、こ こでわれわれは、もう少し拡張するこ とができる。われわれは長期記憶を大 百科辞典ないし図書館として考えるこ とができよう。すなわちそれを、自由 に交差的に参照でき(連想リンク)、 かつ複数のエントリーを通じそこに直 接アクセスできる、そういった精巧な インデックス(再認能力)つきのト ピックス貯蔵情報(結節点)として、 考えることができるのである。長期記 憶は、目や耳で感じる現実環境となら んで、あたかも第2の環境のように作 用するのであり、また問題解決者はそ れを通して探索を行いかつその内容に 応答していくことができる、そういっ たものなのである。 病状診断は、医師の診断過程を理解 したり、診断用のコンピュータ・シス テムを設計したりする目的で、こんに ち広く研究されている意味豊かな領域 の1例である。医学に関する教科書や 参考書の分厚さは、正確な診断に、い かに膨大な情報が必要とされるかを示 している。医師の診断方法を研究し、 考えていることを声に出して言った調 書(プロトコル)をみてみると、次の 2つの過程が浮かび上ってくる。すな わちその1つは直接(再認 (recognition)」の過程であるが、これ は症状によってほとんど即座にその原 因となっている病気を想定するもので ある。もう1つは、「探索(search)」 の過程であるが、これは第3章におい てよリ単純な問題解決課題を述べたと きに識別したものときわめてよく似て いる。診断は一般に症状から、想定し た病気の本体を探り当てるまで、曖昧 な点を解決すべくあるいは症状の似た まぎらわしい病気と区別すべく検査を 実施し、さらに新しい症状を見つけた り……等々というかたちで進められ る圦こうして探索活動の2つの環境 -すなわち医師の記憶している医学 的知識と患者の身体-の下で交互に 実施されることになる。一方の環境で 収集された情報は、もう一方の環境で の探索活動を方向づけるのに利用され るのである。 直観 熟達者は時折、未熟者が(できると しても)長時間探索活動を行ったあと ようやく見つけだすような解答を、 「直観(intuition)」によって即座に導 きだすことがある。この突然のひらめ きである直観とは一体どのようなもの なのであろうか?(直観という言葉を ここで力ヽヅコに入れたのは、頭の中で 行われているある情報処理過程に名前 をつけるためであって、それを説明す るためでないことを強調したかったか らである。)直観はかなり容易に説明 しうる現象であって、それは要するに 大抵の直観は、再認活動のことにほか ならないということなのである。チェ ス・ゲームを使ってこれを説明してみ よう。 第3章で私は、チェスのマスターと グランドマスターとの驚くべき能力に ついて論及した。すなわち彼らは、 チェスの駒組みを5秒ないし10秒間 みたあと、ほとんど間違えることなく それを再現したのである。この能力は チェス・マスターが、ゲームの駒組み を、25個のばらばらの駒としてでは なく5、6個のチャングとしてみてい るためで、短期記憶の限界という周知 の概念とは、矛盾しないのである。こ の場合、おのおののチャングは、12 個の駒でつくられた1つの意味のある 纏まりか、あるいは2個から5個程度 の関係づけられた駒からなる、より小 さな纏まりかである。われわれは、良 いゲームを通して、多様な駒組みの数 をおおまかに推定することができるか ら、チェス・マスターが駒組みを再現 するため長期記憶に貯蔵しなければな らないおなじみのチャング数も、見積 ることができるのである。いくつかの 異なった方法でこの数値を推定してみ たが、その結果5万という数値が示さ れたのである。われわれはこの数値の 正確さを深刻に受け止める必要はない が、しかしこの数が、大学教育をうけ た読者が再認しうる自然言語の語彙数 と同じ大きさであることは、興味深 い遐。 したがってわれわれは、グランドマ スターの技能の一部は、記憶された5 万チャングの中に存在するということ ができるし、また彼に対し、盤上の駒 組みが記憶されたチャングのうちどれ にあたるかを確認し、かつそれに関連 のある情報を長期記憶から探り当てる ことを可能とならしめるような、そう いった索引の中に(特徴検定構造とい うかたちで)存在するということがで きる。おなじみのパターンに関連のあ る情報は、そのパターンに出くわした とき、つぎに何をすべきかについての 情報をも含んでいるのであろう。 した がって、オープン・ファイルとよばれ る特徴を認識している綛験豊かなチェ ス・プレイヤーはすぐに、ルークをそ のファイルにまでもってくることの可 能性を考えるのである。チェスにおけ るこのような手の打ち方は、最善のも のであるかもしれないしそうでないか もしれない。 しかしこのようなやリ方 は、オープン・ファイルが存在する場 合にはいつでも考慮に入れられてしか るべきものである。熟達者はたんに自 己の立場を認識しているだけでなく、 つぎにどのような手を打つべきかをも 理解しているのである。 5万個の異なったアイテムを弁別し うる特徴検定システムは、その弁別を きわめて迅速に行うのであろう。そん なことはありそうにはないが、たとえ おのおののテストが二分法で行われる としても、おのおのの確認には、およ そ16回のテストを行わなければなら ない。(「20の扉」というゲームは、 20回の二分法を適用して100万個の アイテムを弁別できるという事実に基 づいてつくられている)。そしておの おののテストにもしも1000分の10秒 を要するとすれば、およそ1000分の 200秒以下で一人間の再認能力の時 間的限度内でーすべての処理を行う ことができる。 「早指し・多面指し」ゲームをチェ スで行う場合、すなわち1手10秒で 50人の相手と同時にチェスを行い1 つの盤から次の盤へとすばやく移動し ていくゲームの場合、チェス・マス ターは盤の特徴とそれが示唆する手の 打ち方とを再認することによって、ほ とんど「直感的に」駒を動かしていく その際マスターは、1駒動かすのに平 均的約3分を要する正式のトーナメン トほどはうまく打てないとしても、比 較的強いチェスを指している。人間の 技能は、グランドマスターからマス ターへ、マスターからエキスパートへ とレベルは下かっていくかもしれない が、しかしそれは決してなくなってし まうことはないであろう。かくて再認 能力と認識されたパターンにかかわる 情報とは、チェス技能のかなり大きな 構成要素となっているのである≒ 情報量はどの程度か? チェス・マスターが記憶している情 報量は、それ以外の領域の専門家が記 憶している情報量とほぼ一致している ように思われる、この場合もちろんそ の量は、まったくラフにしか測定でき ないのであるが。当初はチェス、医学 数学、化学といった別々の分野で互い に比較できるくらいに同程度の記憶量 を必要とするとは、とても思えないか もしれない。 しかしこのような比較は 各領域の性質についてほとんど何も、 ふれてはいないのである。チェス、医 学、化学、その他どのようなまじめな 領域でも、その領域内のことについて すべて知っている人はいない。ここで も他の場合と同様、人間が技能の尺度 にならなければならない。すなわち同 一学問分野の他の専門家と同じ程度の 知識を有すれば、彼は専門家としての 適当な知識をもっだことになるのであ る。専門知識の上限に限界を与えるも のは、知識を入手しそれを維持するの に要する時間-それは人間の一生で 目を覚ましている時間のほんの一部に すぎないものであるがーなのである 人間が新しい情報を長期記憶に貯蔵 しうる速さから判断すると、5万チャ ングという数は、専門家を育てあげる のにたとえば10年を要する知識量で あるとみてよいであろう。もちろん5 万チャングは、チェス・マスター(あ るいはその領域での専門家)が修得し ているものを過少に見積った場合であ るが、しかしたとえこの数値を1桁2 桁上げても、それだけの情報量を修得 するには、およそ10年を要するであ ろう。1つの新しいチャングを長期記 憶に移すのに30秒間(当初のチャン グの獲得に8秒かかり、それを長期に 記憶保持するためにさらに22秒の時 間がかかる)の注意を要するとして、 年に1500時間(1日当たり約4時間 として)の集中的な研究を10年間続 けるならば、1億8000万のチャング を記憶することができるであろう。空 想にほとんどふけることなく昼夜働い ている献身的な専門家でさえ、それ以 上学習することはありそうもない。な ぜならその時間の大半はおそらく、学 習に費されるのではなくすでに学習し た内容を実行することに費されるであ ろうからである。 このような事柄は2つの分野で研究 されているが、もっとも才能のある人 間でさえ、一流専門家としての技能を 得るまでに、約10年の歳月を要する ことがわかったのである。 Bobby FisherとJudit Polgar は、チェスを始 めて9年数力月でグランドマスターの 地位に到達しているが、彼らを除き、 10年以下でそのレベルに到達した チェス・プレイヤーはいまだに現れて いない。 Mozartを除き、10年未満の 作曲修業や作曲活動で、第一級の作品 をかきあげた作曲家もこれまで現れて いない。そのMozartでさえ、作曲を 始めて7年から10年の間にかきあげ た曲は、「巨匠」の作品としてではな く、子供のころのMozartの作品とし て有名なのである尅。 専門家の仕事に必要な知識が10年 間では修得できないようなところまで 達している分野では、多かれ少なかれ それに対処しうる方法が開発されてい るように思われる。通常は専門分化が 進み(たとえば医学の世界で生じたよ うに)、またその実務担当者は仕事を するに際し、しだいに書籍その他の外 部参考資料を多く利用するようになっ てきている。 専門家の必要とする多くの情報が参 考文献のかたちで蓄積されている領域 として、建築がその良い例である。そ こでは建築材料、設備、部品、正式な 建築基準などがカタログのかたちで蓄 積されている。これらの情報をすべて 記憶したり、あるいはこれらの情報源 をしばしば利用せずにデザインしよう と考えたりする建築家は、いないであ ろう。実際、意味豊かな領域において 建築はデザイン過程の原形とも考えら れうるのである。デザインが進むにつ れてそれらはつぎつぎと、スケッチ、 フロア・プラン、ユーティリティ・シ ステムの製図などといった、一連の外 部記憶構造の中に組み込まれていく。 デザイン過程が進むごとに、書類に残 された部分部分のデザインは、デザイ ナーがつぎに何をなすべきかについて 示唆を与える重要な刺激となっていく 新たな下位目的に対するこのような方 向づけはさらに、記憶の中からあるい は参考資料から新しくどのような情報 を取り出すべきかを決めることを可能 にするであろうし、さらに進んでデザ イン過程をもう一歩進めることを可能 にするであろう。私はこのようなデザ イン活動のサイクルこと、そのような やリ方のもつ意味とを次章でもう少し 述べるつもりである。 人間の知識が進歩したからといって 専門家の修得すべき情報量がふえなけ ればならないということではない。そ れどころか反対に、もっとも重要な科 学的進歩のなかには、多くの事実をわ ずかな原則の中に包摂するような、強 力な新理論の発見・検証が含まれてい る。知識の探求と、それを理論によっ てよりまとまったかたちで要約するこ ととの間には、一定の競走関係が存在 する。かくて現在の専門化学者が、50 年前すなわち量子力学の一般法則がま だ明らかになる前のころよりも、もっ と多くのことを学ばなければならない とは言いきれないのである。もっとあ てはまりそうなことは、その化学者は たぶん努力家の人が約10年かけて学 べることとほぼ同量のことを、身につ けるにちがいないということである。 情報処理過程のための記憶 これまで記憶というものが、主とし てデータの塊から構成されているかの ごとく議論してきた。 しかし熟達者は 知識だけでなく技能をも備えているも のである。彼らは、状況を把握しその 状況に関する情報を準備する能力のみ ならず、そのような状況に遭遇した場 合それに対処するための強力な専門技 能をも身につけている。医師は診断す るだけでなく処方箋を書き、手術もす るのである。 知識と技能との境界は微妙である。 たとえば機械語以外の言語でコン ピュータープログラムを書く場合、わ れわれは実際にはその過程を書くので はなく、データ構造を書いていくので ある。そしてそれらのデータ構造は、 さらに次の処理過程に翻訳されコンパ イルされるーすなわちコンピュータ が理解し実行しうる機械語の命令へと 移されていくーのである。しかしそ うではあっても大抵の場合には、翻訳 段階を無視して高級言語で書かれたコ ンピュータープログラムを、各処理過 程の代表として取り扱うことは、便利 なことである。 われわれは(人間あるいはコン ピュータの)医療診断システムなるも のを、推論を得るためごく少数の一般 的な情報処理過程と結びっけられた、 膨大な医学知識の体系と考えることが できる。あるいはまた、専門家に診断 をいかに進めていくかを指示する、情 報処理過程のなかに組織化された知識 として考えることもできよう。たとえ ば、それは。 もしも患者が高熱をだしていること がわかれば、新たに次の症状を検査し なさい、と指示するように。 同様に幾何学に関する学生の知識は 次のような定理として貯蔵されるであ ろう。 2つの三角形の。相対する3辺が互 いに等しいならば、それら2つの三角 形は合同である。 あるいはさらに、次のような(プロ ダクションとよばれる)条件一行動の 組み合わせとして蓄えることもできる 2つの三角形の相対する辺がそれぞ れが等しいか否か調べなさい、もしそ れらが等しいならば2つの三角形は合 同であるということを貯蔵しなさい。 熟達とよばれるものが、データとし て貯蔵されるのかプロセスとして貯蔵 されるのか、あるいはまたそれら両者 の組み合わせとして貯蔵されるのかは 複雑性についてわれわれがいままで論 じてきた内容をいささかも変えるもの ではない。専門的な知識や技能は、依 然として、長期記憶という外部環境の 中に存在するとみることができるので あり、かつそれらの知識や技能は、問 題解決に際し、探索活動を制御したり 方向づけたりする一般的な情報処理過 程によって引き出されうるものなので ある。ただしこの場合の情報処理過程 とは、第3章のより単純な課題環境の 中で確認された、目的一手段分析や再 認過程のことである。 理解と表現 問題を理解する努力は、問題を解決 する努力に先行しているに違いない。 ここに大抵の人間がかなり難しいと思 われるようなパズル的な問題の例があ る。 茶会 あるヒマラヤの村の宿屋では、非 常に礼儀正しくかつ洗練された茶会 が行われている。その茶会は、ホス トとちようど2人のゲストから構成 されていてそれよりも多いこともな ければ少ないこともない。ゲストが 到着し、彼らがホストのテーブルの 席に着いたあと、ホストはゲストの ために以下の5つの行為を行う。そ れらの行為は、ヒマラヤ大が考える 高貴な順(しだいに高くなってい く)で次のようになっている。 火を焚く 炎を煽ぐ 餅を配る 茶を注ぐ 詩を暗誦する 茶会の間、出席者の誰でも、もう1 人の大に次のように言ってよいこと になっている、「失礼ですが、あな たのために私かこのやっかいなこと を行ってもよいでしょうか?」と。 しかしある大がもう1人の大にお願 いできるのは、他の大が行っている 仕事の中でもっとも高貴でないもの に限られる。またもしある大が何か をしている場合、彼は自分かいまし ているもっとも高貴でない仕事より も高貴なことを要求することはでき ない。作法では、茶会が終わるまで にすべての動作を、ホストから上位 のゲストに移すことになっている。 どのようにしてこの茶会は行われる のであろうか? General Problem Solver (第5章参 照)でこの茶会問題が解けるためには その説明文から、GPSが取り扱うこ とのできる構成概念(constructs)で (すなわち記号構造、構造間の差異の 検定、構造を変えるオペレータ、記号 化された目標とそれが達成されたか否 かのテストなどのかたちで)問題の記 述を抽出してこなければならない。 GPSは、問題がこのような構成概念 で提示されてやっとその問題を理解す るのである。そしてそのうえで差異を 見出し、適当なオペレータを見つけ、 それを適用し、さらに解決に近づいて いるかどうかを評価するという過程が 初めて実施に移されるのである。 さてここでの茶会問題は、ヒマラヤ の村の宿屋が実際に問題なのではない この問題の取り扱いの奥には、2種類 の対象(参加者と動作)、対象間の関 係(各動作の各参加者への割り当て)、 動作の順序(高貴な順による)、およ びオペレータ(ある参加者から別の参 加者へ動作を移す)といった諸点につ いて、説明文の中から問題の記述をい かに抽出してくるかといった課題が存 在しているのである。問題を理解する には、自然言語のテキストから上記の ような内容を引き出してくることが必 要なのである。 理解するプログラム UNDERSTANDというコンピュー タープログラムは、茶会のような問題 を内部表示できるよう、人間が使う情 報処理過程をシミュレートするもので ある≒UNDERSTANDは、2つの段 階を通じて情報処理していく、すなわ ちまず問題文を解析し、つぎに解析文 から抽出された情報から表現をつくり あげるという順序である。 自然言語文の解析の仕事は、すでに 前章で論じられた。すなわちそこには 一連の語(word)のつながりから、 句や節の意味ある階層構造を推論する 過程が含まれている。 UNDERSTAND プログラムは、現在あるこのほかの解 析プログラムと同様に、上記の過程を きわめてオーソドックスな方法で実行 する。とくに第2段階(construction) はいっそう興味深い。ここでは解析文 は、次のような諸点を見出すために検 討が加えられるのである。すなわち、 いかなる対象が、あるいはいかなる対 象の組が言及されているのか、対象の いかなる側面に注意が向けられまたそ れらの間にどのような関係があるのか 述語と関係のいずれかが「状態 (states)」を表し、いずれが「動き (move)」を表すのか、目標状態はど んなものであるか等々。このようにし てUNDERSTANDは、まず状態を表 すフォーマットをつくり、つぎにある 状態を他の状態に変化させるいわゆる リーガル ム一ヴ 規則に適った動き(legal move)のプ ログラムをつくりだす、といったかた ちで進んでいくのである。 たとえば茶会問題では、ある状態は 3人の参加者のリストによって表わさ れ、また各参加者は彼の行う動作に よって記述される。別のリストは、5 つの動作の高貴さの順位を表す。 リー ガル・ムーヴ・プログラムは、ある動 作が、提供者(donor)あるいは受領 者(donee)のリストにある他の動作 よりも高貴でないことを確認したあと 特定参加者(donor)のリストからそ の動作を削除し、それをもう1人の別 の参加者(donee)のリストにつけ加 える。 (前章で議論されたように)リスト 構造は、あらゆる種類の記号情報を表 現するきわめて一般的な能力をもって いるので、UNDERSTANDのような プログラムは、原則として、理解のた めに現実の世界に関する知識を必要と しないパズル的問題に対しては、実質 上どんなことも表現できる能力をもっ ている。なぜなら、そういった問題は どれも、対象、対象間の関係、諸関係 の変化といったかたちで記述できるか らである≒ 物理学を理解すること 茶会のような問題を理解するのとは 対照的に、意味豊かな領域における問 題を理解するには、その領域に関する 知識をあらかじめもっていることが必 要である。単純な静力学の問題を考え てみよう。 梯子の足が垂直な壁に向かって水 平な床の上に置かれている。梯子の 最上部は、壁から30フィート離れ た水平なロープで支えられている。 この梯子の長さは50フィート、重 さは100ポンド、支えから20 フィートのところに重心があり、 150ポンドの体重の男が梯子の最上 部から10フィートのところにいる。 この場合のロープの張力を求めよ。 この問題を解いていくには、摩擦係 数とは何かということ、この場合梯子 は支点とそこに加わる力とをもっだ1 つのテコと考えられうること、人間も また1つの質量あるいは支点に抽象化 されうること、その他同様のことがら に関する多くの事実をわれわれは知っ ていなければならない。この種の問題 が茶会問題と異なるのは、それが現実 の世界にかかわっているからというこ とではなく、既知であると前提されて いる事柄に関連しているからである。 Gordon Novak は、きわめて興味深 いプログラムISAACを作成したが、 これは上記のような物理学(静力学) の問題を理解することができるもので ある旦。 ISAACは、梃子・質量・斜 面等々といった事項に関する情報を、 問題対象を記述し、それに関連する情 報を提示する簡単なスキーマで記憶し ているため、そのようなことが可能と なっているのである。梯子のスキーマ はたとえば、つぎに示すようなもので ある。 梯子 種類:梯子 位置:(足。最上部。その他) 支え: 長さ: 重さ: 付帯事項:(その他の対象について の) ISAACに問題を与えると、 UNDERSTANDプログラムの場合と 同様、それはまず問題文の解析を始め る。 しかしISAACの場合には、対象 や関係を確認しそれを適切に表現する こと以上の、内容が含まれている。そ の意味がすでに知られている(たとえ ばISAACに記憶されているスキーマ で与えられるような)特定のオブジェ クトは、ISAACに含まれているス キーマによって確認され識別されなけ ればならないし、またそのスキーマの 「スロット(slot)」は必要情報によっ て満たされなければならないのである 梯子は梃子として認識され、またコ ピーは、長さ、重さ、重心、支点およ び作用点の位置などに関する梃子のス キーマからつくられるのである。 適当な対象スキーマを確認し、それ に関する情報を適当に蓄積したあと、 ISAACは(梯子、男、梯子の足元な どを記述している)個々のスキーマを 集め、それらを総合して1つの全体的 な問題スキーマをつくりあげるのであ る。この後者のスキーマを指針としな がら、そのプログラムは、力の均衡を 表す適当な方程式を組み立てかつそれ を解くのである。 ISAACは、意味豊かな領域の問題 を理解するシステムの、典型的なもの である。物理学の知識は2とおりの方 法でプログラムに貯蔵される。すなわ ちその1つは、要素スキーマによるも ので、これは問題状態(問題スキー マ)に表現を与える過程の指針となる ものであり、いま1つは均衡方程式 (UNDERSTAND的プログラムでは、 オペレータをつくっていく過程に対応 する静力学の法則)をつくる手続きで ある。 理解する2つのプログラムをここで 比較してみると、UNDERSTANDの 場合には、問題指令(problem instruction)に含まれている情報だけ を頼りに、問題表現(problem representation)とオペレータを問題状 況全体からつくりあげていかなければ ならないのに対し、ISAACは、問題 文で取り上げられている事柄と記憶 (memory)に貯蔵されているスキーマ や物理法則とが正確に対応しているか 否かを見出さなければならない。もっ と精緻な理解システムは、これら2つ の能力を結合させたものであろう。そ のシステムの1つの構成要素 (UNDERSTANDに相当する)は、新 しい問題領域に直面したとき、状態表 現をつくりだすものであり、またそれ らをスキーマの集合として貯蔵するも のであろう。またもう1つの構成要素 (ISAACに相当する)は、そこに示さ れた新たな問題を解決するため、すで に貯蔵されている表現を利用しようと するものであろう。 既存の理解するプログラムが、たと えいかに素朴なものではあっても、そ れらは、既存知識をもたない新しい領 域で、また以前から多少は意味論的な 知識をもっている領域で、いったい人 間がどのようにして問題を把握できる かを説明する一連の基礎的メカニズム を与えるものであり、また1つの理論 を与えるものである。ここで描かれた 2つの特別なシステムは、たえず、拡 大していく課題集合の中で、理解過程 を説明するようなプログラムであり、 それはまた現在成長しつつあるプログ ラム群の一部なのである。これらのシ ステムのうちいくつかは、比較的定義 しにくい課題に取り組んでいる。たと えば、童話や新聞小説を理解するため に使われうる情報処理過程についての 研究は、現在までにかなり存在してい る。いままで論じられた問題解決課題 とはちがって、システムが問題を理解 したか否か(すなわち問題解決者が解 答を見出すのに助けになりうるような 表現をつくれるか否か)を簡単に検証 しうるときでも、この場合には、小説 が「理解」されたか否かの検証は、曖 昧なのである。後者の課題の場合には 理解の程度や深さはさまざまなのであ る。 理解プログラムはわれわれに、第3 章で論じた1つのトピックすなわち視 覚的心像についての新たな洞察を与え てくれる。 UNDERSTANDによって もたらされた状態記述とISAACのも つ要素スキーマや問題スキーマは、前 章で心像として検討された記号構造の 優れた例である。事実Novakは、 ISAACの一部として補助プログラム を書きあげたが、それは、それがつく リあげた問題スキーマから、ブラウン 管に表示されうる問題状況を現実に (単純ではあるが)描き出すものなの である。 規模と単純性 問題一理解プログラムは、外部世界 (この場合は、自然言語のテキストと いうかたちで与えられるものである が)から情報を入手し、それを、リス ト構造として長期記憶に貯蔵されてい く知識に、変換する。きわめて断片的 かつ曖昧な外界の写真を記憶した場合 問題解決過程の作業の一部は、外部世 界の代わりに内部世界で行われる。外 部世界から情報を入手するのに費用が かかる場合には、この方法は有利であ る。 より多くの主題についてよリ多くの 知識が得られるにつれ、記憶量は、本 質的に際限なく増大する。 しかしなが ら、記憶量が増大しても、記憶そのも のは、同じ基本的な要素から構成され また同じ原理にしたがって組織化、索 引化され、さらには同じ基本形の処理 過程で操作されていくのである。こう してわれわれは、規模が拡大したから ということでシステムが複雑になった ともいえるし、また基本構造に変化が ないのであるから単純なままであると もいえるのである。 国会図書館が単純であるか複雑であ るかを議論する場合でも、まったく同 じような説明ができるであろう。書籍 の数が数子から数百万、数千万と増加 した場合、保管に要する棚の数はそれ に応じて増加し、また図書目録の数も それに応じて増加していくであろう。 しかし、書籍数の増加がいかに印象的 なものであっても、図書館の構造上か らは、それを複雑性の増加として特徴 づけることはできない。第7章で検討 するように単細胞から多細胞への有機 体の変化は、複雑性の増加を示すので あるが、しかし子牛の体重の増加や藻 の群落数の増加は、なんら複雑性の増 加を示すものではない。 人間は頭の中に多くの領域の知識を 記憶し、しばしばいくつかの領域では 専門家のレベルまで到達する。個々の 領域がそれぞれはっきりしている限り そして実際はそういう場合が多いので あるが、領域の多様性は、かならずし も個々の領域での問題処理の複雑さを 増大させるわけではない。図書館でギ リシヤ語の教科書を勉強することは、 同じ図書館にラテン語、サンスクリッ ト語、古典中国語などの書籍があるこ とによって、とくに難しくなる(そし てまたやさしくなる)わけではない。 人間の記憶量の増加はこれを、思考 過程の複雑さの増加とみるよりも、思 考過程の生ずる環境の拡大(ときには 大幅な拡大)と考えるのが、もっとも 適当である。記憶構造全体に関する驚 くべき事実は、まさに次のようなこと の中にある。すなわち思考システムは 記憶の力をかりて、茶会問題や物理学 の静力学問題を理解し解決するのに用 いたと同じ基礎装置を使いながら、相 異なるかなり広範な課題を効果的に処 理しているということ、これである。 学習 思考にとっての外部環境たる現実世 界と長期記憶とは、ともにたえず変化 する。その変化は記憶内では適応的に 生じている。すなわち現実世界に関す る知識は更新され新しい知識が追加さ れる。また特定の問題領域に貢献する 技能にさらに新たな手続きを追加し、 また既存の手続きを改善する。人間の 思考に関する科学理論は、記憶内容に かかわるこの変化の過程をも考慮に入 れなければならない。 もしも人間の知的システムが真に単 純であるならば、その単純さは、変化 の基礎にある不変要因を見出すことに よってのみ明らかとなる。この不変要 因の中には、第3章で検討した、記憶 に関する基礎的パラメータ(内部環境 のパラメータ)や一般的な探索および 制御の過程が含まれる。これに加え、 われわれが学習とよんでいる長期記憶 の適応をもたらす一連の基礎過程につ いても探求することができるであろう われわれは学習過程なるものを、単純 かつ一定の方法でその変化の過程を説 明できる不変化された変化要因 (unmoved mover)と想定することがで きるであろう。 学習とは、環境適応能力に多少なり とも永久的な変化を生みだすような、 そういったあるシステムにおける変化 のことである。理解するシステム、と くに新しい領域で問題を理解すること のできるシステムは、学習するシステ ムなのである。人間の機械的な言語学 習をシミュレートする、第3章で論じ られたシステムEPAMがこれに該当 する。また同じく前章で検討した、一 次言語学習(first-language learning) をシミュレートするためのSiklossyの システムも、これに該当する。 多要素システムはどんなものでも、 多くの方法でこれを改善することがで きる。「学習」という用語が専らあて はまる人間の認知システムにおいても 単一の変化しかないということはあリ えない。 しかし学習がいろいろなかた ちで行われるからといって、当惑する 必要はない。なぜならそれらは、認知 システムの主要な構成要素に対応して ごくわずかな基本的な種類にまとめら れうるからである。 ある次元ではわれわれは、(データ 構造に貯蔵される)情報の獲得と(手 続きに貯蔵される)技能の獲得とを区 別することができる。 UNDERSTAND プログラムはこれら双方を説明できる ものである。 UNDERSTANDが組み 立てる状況記述は、新しい知識、オペ レータ、新しい技能を構成する。これ らのカテゴリーのほかにわれわれは、 EPAMに例示されたような、新しい 知覚弁別に関する学習をつけ加えるこ とができる。運動技能は、一部はすで に検討された学習にも基づいているが しかしおそらくはそれ以外の追加要素 があるであろう。 人間の可能なあらゆる種類の学習を 説明するのに必要な学習過程を残らず すべて分類しようとすることは、学習 研究の現段階では時期早尚ではあるが しかし人間の学習の大部分は、われわ れがいままで述べてきた記号処理シス テムの枠の中で説明しうると信じてよ い理由が存在する。 理解を伴う学習 どんな教師も、教科を学習する際に 授業を機械的に受ける学生と、授業を 理解しながらあるいは意味づけながら 受ける学生との間に、大きな差異があ ることを知っている。機械的に学習さ れた内容は、文字どおり多かれ少なか れ想起されることはありうるのである が、しかしそれは認識の用具としては 使うことはできない。研究室での実験 が明らかにしてきたことは、機械的に 学習するより理解しながら学習するほ うが、より迅速に教材を学びとること ができ、またよリ長期間記憶にとどめ ておくことができると同時にさらに、 新しい問題にもよリ応用が利くという ことである山。 機械学習と有意味学習との相違が実 際面で非常に重要であるにもかかわら ず、その相異は情報処理論的にまだ完 全には理解されていない。相違の一部 は、索引化(indexing)の問題である。 すなわち有意味な資料は適宜即座にと りだせるようなかたちで索引化されて いる。また一部は有意味な資料が重複 度の高いかたちで貯蔵されていること にもよる。すなわちそのように貯蔵さ れているため、たとえある部分を忘れ たとしても、記憶に残っている他の部 分から全体を再構成することができる のである。さらにまた表現の問題も考 えられる。有意味な資料は、「受動的 (passive)な」データとしてよりも、 むしろ手続き的なかたちで貯蔵されて いるのであり、あるいはデータとして 貯蔵されている場合でもそれは、一般 的問題解決過程やその他の処理手続き が、容易に利用できるような方法で表 現されているのである。これらすべて は、さらに今後研究を要する、理解と 意味との側面なのである。 プロダクション・システム データ構造とプログラムとから構成 される情報処理システムでは、既存の システムに新たなスキーマや他のデー タ構造を付加する方法を考案するほう が、新しいプログラムをつけ加えるよ りも、通常は容易であった。早い時期 の人工知能の研究では、人工知能やシ ミュレーション・プログラムは通常、 ルーチンやサブルーチンの階層として 組織されたのである。そこではプログ ラムの修正は、1つ以上のサブルーチ ンの修正をともなったが、その作業は 容易なことではなかった。 過去何十年かの間に、プログラム構 造の新しい形式として、プロダクショ ン・システムが普及してきた旦。この システムの良い点、とくに学習するシ ステムを組み立てるのに良い点は、そ の構造の単純性と画一性とである。プ ロダクション・システムは、任意の数 のプロダクションの集合なのである。 個々のプロダクションは、2つの部分 一つまり1組のテストないし条件 (conditions)と1組の行為(actions) とーから構成されている1つのプロ セスである。プロダクションに含まれ る行為は、そのプロダクションの条件 が満たされると、実行される。その意 味で、プロダクションは、他のプロダ クションとたがいに完全に独立してい る状態で作動する。プロダクションは 通常次のように表現される。すなわち 条件→行為 これは、刺激一反応の心理学でおな じみのS→Rの対を思い出させるも のである。プロダクションは、S→R の組み合わせよりもいっそう複雑なも のであるが、S→Rの対をプロダク ションの組み合わせの隠喩として使う ことはときには可能である。 人間の認知活動をシミュレートする システムは、2種類のプロダクション から構成されているように考えられる すなわち1つは、その条件が短期記憶 の内容をテストするプロダクションで あり、もう1つはその条件が外部世界 に関する知覚をテストするプロダク ションである。前者の条件の例として 「もしあなたの目標がその家に入るこ とであるならば、そのドアを開けなさ い」が挙げられよう。ここで家に入る という目標は短期記憶の記号構造に よって表現されるであろうし、またそ の短期記憶はその構造の存在の有無で テストされるであろう。 後者の知覚プロダクションの例とし ては、「もしそのドアに錠がかかって いるならば、あなたの鍵を使いなさ い」が挙げられる。ここでの条件は、 現実の世界で(そのドアに錠が下され ているか否かを確認することで)テス 卜される。 その行動が知覚プロダクションに よって制御されているシステムは、と きに「刺激駆動型」あるいは「データ 駆動型」とよばれる。これに対し短期 記憶における目標記号によって制御さ れるシステムは、「目標駆動型」とよ ばれる。主として目標駆動的である問 題解決システムは、望ましい目標から 出発して後方に進むような印象を与え るであろう。また刺激駆動型のシステ ムは、現在知られているところから望 ましい目標へと前方に作動するように みえるであろう。目標指向システムは もちろん、普通、知覚条件を伴ったプ ロダクションと条件としての目標を 伴ったプロダクションとの双方を用い ることであろう。 プロダクション・システムとして今 日まで、数多くの認知的シミュレー ションがモデル化されてきた。しかし モデルをつくる上でプロダクション・ システムがとくに魅力的なことは、そ れに学習能力を賦与するーすなわち いわゆる適応的なプロダクション・シ ステムをつくるーことが比較的容易 であるという点にある。プロダクショ ン・システムは単にプロダクションの 集まりであるから、それはプロダク ションを削除したり追加したりするこ とによって修正が可能なのである。そ のような変更の結果、適応的になるか もしれないし、そうはならないかもし れない。 しかし、少なくとも変化がど のように生じたかははっきりする。 例示からの学習 新しい手続きを説明している理科や 数学の教科書では、必ずといってよい くらい、段階を追って多くの例題が解 かれているのを見るであろう。たとえ ば初等代数の教科書では次のような例 がみられる。 9X + 17 = 6X + 23 3X + 17 = 23 (両辺から6Xをひ く) 3X = 6 (両辺から17をひく) X = 2 (両辺を3で割る) 各段階ごとに代数方程式は修正され またそれに対して「正しい理由」が与 えられている。式が次のような形に なったとき、この計算は終わりとなる 〈変数〉=〈数値〉 この方程式やこれと類似の方程式は 次のようなプロダクション・システム によって解くことができよう。 もしも式が、〈変数〉=〈実数〉の かたちをとっているなら→計算はや めなさい。 もし式が右辺に変数をもつなら→ 両辺から変数を引き、式を簡単にし なさい。 もし式が左辺に数値をもつなら→ 両辺から数値を引き、簡単にしなさ い。 変数が1以外の係数をもつなら→ 両辺を係数で割りなさい。 さて、いまある頭のよい学生がいて 彼が教科書で練習問題に出合いしかも それを解く手続きをいままで学習して いない場合、おそらく彼は次のような やリ方で学習していくであろう。例題 の初めの2段階を検討することによっ て、彼は第1式から第2式へどのよう に変形が行われたかをみるであろう。 またこれら2つの方程式を比べること によって、右辺から「6X」が消え、 左辺でXの係数が変わっているのに 気がつく。彼はその計算をやってみる ことにより、結果が正確に導き出され ることを発見する。さらに「6X」が 消去された式は、最初の式よりも最後 の式に近いことも発見する。このよう にしていまや彼は、消去される最初の 式の特徴を行為の条件と考えることに より、新しいプロダクションを学習す るのである。この場合のプロダクショ ンは、上述したわれわれのプロダク ション・システムに含まれる第2のも のである。第2式と第3式とを比較す ることにより、彼は同様に第3のプロ ダクションを推論し入手するし、さら に第3式と第4式とを比較することに よって第4のプロダクションを推論、 入手するのである。おそらく彼はすで に第1のプロダクションは獲得ずみで あろうが、それは代数方程式において 「解」とは何であるかを、彼が理解し たことを示すものである。 ここでの説明で私は、緇かなしかし 重要な点をいくつか省略した。たとえ ばこの学生は、プロダクションのため に一般化する場合、どの程度が適当な のか(第2のプロダクションの条件と 行為において、なぜ「6X」の代わり に「変数項」としたのか)を、どう やって決めているのか、といったこと がそれである。 しかしここでの単純な 例は、適応的なプロダクション・シス テムが新しい技能をどのように獲得し ていくのかについて、一般的な考え方 を伝えてくれる。この場合の図式は、 David Neves によって考案されプログ ラム化されたものである旦。 幾何や代数やプログラミング (LISP)の分野で、例題から学ぶ (leaming-from-examples)方式の発想 でつくられた、きわめて効果的なコン ピュータ・チュートリアル・システム は、J. Andersonと彼の同僚とによって 開発されたものである。それはまた高 等学校の教室で、実際に役立つことも 示されている。中国では、中国科学院 心理学研究所が、講義や教科書を通じ てではなく例題を通じて学習する方法 を基礎に、3年制中等学校向けカリ キュラムの幾何、代数、プログラミン グ(LISP)用のコンピュータ・シス テムを開発した。それらは現在、中国 の数百校で成功裏に活用されている。 いずれの場合もそれらのシステムは、 生徒の効果的な学習のためには、まず どんな解答が必要かを分析し、ついで どんな例題解説が彼らの解答をひきだ すのに有益かを分析することによって 開発されている。米国と中国における これら2つのプロジェクトは、Neves その他の研究者がコンピュータ・シ ミュレーションを踏まえて想定された 人間の学習過程に、関連があることを 強く示唆するものである旦。 いくつかの例示からの学習の考え方 は、「行為を通じて(by doing)」学習 する方法に拡張することができる。い ま、ある特定の問題を解くことのでき る、しかしそれには多大な探索活動を 要したあと非能率的にしか解決できな いような、そういった問題解決システ ムがあると考えよう。問題に関係のな い探索活動をすべて取り除いたあと、 最終的に見出された解法手順は、前述 のパラグラフの手続きが適用できる練 習問題の1例として役立つであろう。 AnzaiとSimonはこの種の「行為学習 (learning by doing)」図式を、ハノイの 塔(Tower of Hanoi)パズルのために 作成したが、それは連続的に何度かそ の問題を解くことにより、しだいに効 率的かつ一般的な戦略を獲得するもの である旦。 発見過程 他の人には知られている事柄を学習 することと、世の中に知られていない 事柄を学習することとを明確に分ける ことはできない。何か新奇なことなの かを決めるのは、問題解決者がすでに どれだけの知識をもっているかという ことと、環境からどのような支援が得 られるかということに依存している。 したがってわれわれは、学習システム で用いたのと同様の処理過程を、新し い知識を発見するシステムをつくる際 にも利用しうる、と期待してよいので ある。 目標がない場合の問題解決 発見の過程は、曖昧にしか目標を定 義できないいわゆる悪構造問題の解法 の部類に属している。人は金を発見し ようとする場合、それが期待どおりに なるとは思ってもみないであろう (もっとも、一部の人はそう思ってい るかもしれないが)。また金を見つけ ようとして、その代わりに銀や銅が現 れても、その結果はふつう満足すべき ものといえるであろう。何かが発見さ れたという結果は、前もって確実に予 測できなかった何かが現れたというこ とであり、その新しい事がある種の価 値あるいは興味を惹きつけるというこ とである。 1963年に開発された初期の発見プ ログラムは、文字のつながりを完成さ せる問題を解くものであった。 「ABMCDMEFM,」のような文字のつ ながりが与えられた場合、つぎにどん な文字がくるのであろうか。正解とさ れる解答は、「GHMIJM,」などである このパターンを発見するには、文字の つながりのパターンを探索する、3番 目の文字はいずれもMである。3文 字1組の各組で1番目の文字は、先行 する組の文字の2番目のものに、アル ファベット順に結びついている。また その組の2番目の文字は、アルファ ベット順の1番目の文字に直結してい ると。答えは、簡単で、このパターン を外挿すればよい。この文字列の外挿 法は、1980年代、1990年代の科学法 則発見プログラムの先駆となったもの である。中心的な発想は、データに含 まれるパターンを探索するのに仮説 ジェネレータを使うこと、および探索 を継続していく際にパターンが示され るごとにそれを利用することの、2つ である。これは、われわれに旧知の、 発見的な探索法「以外の何物でもな い」。 初期の発見プログラムの別のものは AMである止。その課題は、おもしろ い新概念やそれらに関する興味深い推 測を発見することであった。AMは、 何かおもしろいかを判断する規準をも つとともに、(best-first探索に依拠し た)1組の探索ヒューリステイクスと、 さらにある課題領域に関する初歩的な 知識(たとえば集合論の初歩)をもっ ていた。このプログラムは、素数の概 念のような、興味深い新しい概念を発 見するかなり高い能力を示したが、し かしこの発見の基礎については若干の 論争があった。たとえばその新しい概 念はAMのプログラム作成に使われ たLISP言語に暗々裡に存在していた ものである、といった批判がこれであ る、私は、このような侮蔑的な見解に は組しないが、この問題をここで議論 すると話の本筋から外れることになっ てしまうので、これ以上立ち入らない ことにしたい。 古典物理学の再発見 非常に興味深い第2の発見システム は、P. LangleyのBACONプログラム である加。BACONは、多数の数値 データの中から不変数(invariants)を 発見するプログラムである。太陽から 惑星までの距離とそれらの軌道の周期 に関するデータが与えられると、その プログラムは、距離の2乗に対する周 期の3乗の比率が、すべての惑星で同 一であること(Keplerの第3法則)を 発見する。それは、回路における電流 と抵抗線の長さとの変化量から、Ohm の法則を推論する。同様の方法で気体 の法則、GaVeoの落体の法則、その 他多くのものを見つけだしたのである BACONは、それが見出した不変数 を説明するため、新しい概念を導入す る。2つの物体がたがいに加速したと き、その加速比がっねに一定であると いうデータが与えられるならば、それ は質量の概念を発明し、質量を各物体 と関連づけるのである。同様の方法で それは、屈折指数(Snellの法則にお ける)、比熱、原子価の概念を発明し ている。 AMと同様、基本構造の面で、 BACONにはとくに目新しいものはほ とんどない。2組のデータが与えられ、 しかも一方のデータが他方のデータと 単調に(同方向であれ逆方向であれ) 結びついて変化することがわかれば、 それはそれらの比(あるいは積)が一 定であるか否かをテストする。もし一 定であれば、それはデータの中に法則 関係を見出したことになる。もし一定 でないならば、それは新しい変数を定 義したことになるが、それは他の変数 に追加されさらに同様の過程が繰り返 される。このシステムの行動で驚くべ きことは、この手続きで上述のような 法則を発見していく場合、広範な探索 を必要としていない点である。不変数 を見出すのに、オリジナル変数 (original variables)について12個以上 のファンクションを検討することは、 ほとんど必要ないのである。 AMとBACONのあと、科学的発見 のいろいろな側面を解明する多くの発 見プログラムが現れたが、それらのう ちのいくつかは、Scientific Discovery の中で論じられている。それらのシス テムは、新しい概念を発見する能力を 有しているだけでなく、実験の手順を 計画したり、複雑な化学反応に対する 反応経路を仮定したり、質量スペクト ル分析からデータの解釈ルールを推定 したり、システムの状態空間を拡大し て直接には観察できない変数を調整し たりすることができる。 この研究の一部は、科学の道具に人 工知能をつけ加えるものとして理解さ れてきた。たとえばDENDRALや MECHEMプログラムは、化学への貢 献として化学専門誌に載せられるよう ないくつかの発見を生んできた。 しか しその研究の多くは、人間の発見過程 の理解を深めることが、目的であった たとえば、BACONによるシミュレー ションは、物理学や化学の世界の、発 見に関する歴史的な事例と比較された またそれと並行して、実験室での人間 を被験者に、彼らの発見への努力過程 とBACONのそれとが比較され、さ らに科学史上の記録と比較された旦。 AM、BACONの両プログラムおよ びその後継プログラムは、われわれに 発見過程が、人間の認知活動に新たな 種類の複雑さをもたらすものではない ことを信じさせる、いくつかの根拠を 与えてくれる。それらのシステムのど れかがいつか、それ自体にとってのみ ならず世の中にとっても興味深い、ま れな何かを発見してくれるならば、前 述したことの証明はいっそう明白にな るであろう。 しかしいまのところ、そ のような検証はなされていない。 新しい問題表現を見出すこと どのような問題解決活動も、問題に 合った表現一解の探索が行われる問 題空間-をつくることから始めなけ ればならない。もちろんわれわれが日 常個人的あるいは仕事上の生活で出会 う大部分の問題は、以前に出会った場 面で蓄積し使用してきた表現の記憶か ら、単純に検索することで済ませられ る。ときにその表現を少しだけ新しい 状況に合わせなければならないことも あるが、それは、通常は比較的簡単に できる。 しかしたまにわれわれは、多少拡張 したり変形したりしても、以前に出 会った問題空間のいずれにも適合しな いような状況に遭遇することがある。 そのようなときには、あたかも新たに 自然法則を見出すくらい困難な、発見 の仕事に取り組むことになる。 Newtonが重力の法則を発見しえたの は、その法則を同じく見出そうと努力 していたWrenやHookeが当時はまだ 持ちえなかった、微分法という新しい 表現を利用することができたからであ る。このような状況よりももう少し頻 繁に表現問題が現れてくるのは、すで に知られている表現を単純に利用する ことと、新たな計算法を発明すること との、中間地帯においてである。 「損なわれたチェッカー盤」として 知られている難しい「洞察」問題では チェッカー盤は、正確に2つのマス目 で構成される32のドミノによってカ バーされている。誰かが左上隅と右下 隅のマス目を盤から切り取ったとしよ う。損なわれた盤は、(31の)ドミノ でカバーされるといえるであろうか。 もしそうであるならば、どうしてそう なのか、またもしそうでないならば、 なぜそうならないのであろうか。 たいていの場合被験者は、ある1つ のカバリング(covering)を見出すべ く、与えられた盤とドミノの問題空間 を、何時間かあれこれ考える。フラス トレーションが生じてくるころになる と、表現を変化させることを考え始め る。 しかしどのようにそれを行うのか この場合、表現に関する「空間」も与 えられていなければ、また可能な表現 をつくりだす仕組みも与えられていな い。 しかしある時点で、ごく少数の被 験者は、盤をカバーしようとしてうま くゆかなかった何回かの試行過程を通 じ、カバーされていないマス目はつね に、ある1つの色であることに気がつ く。そしてひとたびこのことに気づく と、その人はたいていまた各ドミノが それぞれの色の1マス分をカバーして いることにも気づくようになる。この ようにして、ドミノは、それぞれの色 のマス目と同じ数をもつ盤をカバーで きるだけであるとのアイデアを得る。 しかし損なわれた盤は、これにあては まらない。 損なわれたチェツカー盤の問題を解 いた(あるいは解けなかった)被験者 を観察してみると新しい表現方法を見 出す問題にわれわれが直面した場合、 それにどう対処すればよいかについて ある重要な示唆を与えてくれる。すな わち注意の焦点は、成功への鍵である と。換言すれば、ある問題にかかわる 状況のうち特定の諸特徴に焦点をあて たうえ、それらの特徴をもたないもの は除去し、それらの特徴をもつもので 1つの問題空間をつくるのである。こ のようなアイデア1つで、表現変更の 理論(A theory of representation change) をつくるにはあまりにも不十分ではあ るが、しかしこのアイデアは、そのた めの理論をつくるのに最初の一歩には なるであろう。新しい表現を見出して いく過程は、われわれの思考理論の主 要な欠落環(missing link)であり、現 在、認知心理学や人工知能での重要な 研究領域となっている几 結論 記憶に関してここで見出されたこと は、人間の認知に関する複雑性や単純 性についてわれわれの基本的な考え方 を修正する必要はどこにもない、とい うことである。もしわれわれが人間環 境とよぶものの中に、書物や長期記憶 に貯蔵されている、人間が人間自身の ために紡ぎだした情報の繭を含めると するならば、われわれはいまなお次の ようにいうことができる。 1つの行動システムとして眺めてみる と、人間はきわめて単純なものである。 その行動の経時的な複雑さは、主とし てわれわれがおかれている環境の複雑 性を反映したものにほかならない……。 データや処理手続きとして蓄積され かつ適当な手掛りでそれを取り出しう るよう豊富に索引化されている情報の おかげで、人間の単純な基礎的情報処 理過程は、広範な情報や戦略を利用す ることができ、また表面に現れた人間 行動の複雑さを説明しうるのである。 その内部環境すなわちハードウェアは 単純である。複雑さは外部環境の豊か さ、すなわち五感を通じて理解される 世界と長期記憶に貯蔵されたその世界 に関する情報との、この2つの外部環 境の豊かさによるものである。 人間の認知過程に関する科学的説明 は、一連の不変数によって記述するこ とができる。第1に内部環境に関する パラメータがある。つぎにあらゆる課 題領域で繰り返し利用される、一般的 な制御と探索指示のメカニズムがある 最後にまた、そのシステムが、そのお かれている特定の環境にしだいに効果 的に適応できるようにする、学習およ び発見のメカニズムがある。人間有機 体の適応能力、すなわち新しい表現や 戦略を獲得し、高度に特定化された環 境に手慣れたかたちで取り組めるよう になる能力は、それ自体、われわれの 科学的研究のーそしてまた人工物の まさに原型にかかわる一曖昧ではあ るがしかし魅力のある対象となってい るのである。 工私はこのことが正しいとは思っているが、し かし明々白々であるというわけではない。読者 に対する練習として次の問題を掲げておこう。 すなわち、ある地域の道路地図とどの道路が幹 線道路であるかについてある程度の知識とが与 えられた場合、ある地点から他の地点へ乗客を 運ぶ合理的な経路を1つ選択するコンピュー タ・プログラムを作成せよ。 2ただし、第3章の検索構造に関する議論も参 一 照のこと。 j ArthulE]stein et al・、 Medical Problem SoMI]g (Cambridge, Mass.:Harvard University Press, 1978)。いまではDoctor・s Asls咄11という内科用 の、完全に自動化された診断システムが市販さ れているが、それはここでのモデルに大幅に依 拠した診断過程に基づいており、しかも試行段 階での臨床結果は、きわめて良好であった。 4 Simon, Models ofnou幼1,vo]。1, chapter 6.2およ び6.3を参照。 5 これに関する強力な実証結果は、F. Gobet and − H. A. Simon,“TbeRo]es of Recognition Processes Vld Look-Ahead Search in Time-Constrained Eχpert Problem So]Iving : Evidence from Grandmaster Leve】 Chess,"Psychological Science, 7(1) (January 1996):52-55の中で示されている。私の同僚 Hans Berliner は、西洋双六に関する強力なプ卩 グラムを作成したが、それは、世界チヤンピオ ンのプレイヤーを試合で打ち負かしたことがあ り、またその基礎技能としては、探索過程より もむしろパターン再認能力を利用するものであ る(“Computer Backgammon,"Scientific Americar.],242(6)(June1980):64-85.を参照) これに対して現在の大部分のコンピュータ用 チェス・プログラムは,強力な再認能力を欠い ているため,膨大な探索活動を行わせている。 チェスに関するコンピュータ・プログラムの現 状の展望についてはv H. A. Simon and J. Schaeffer,“The Game of Chess,”in R. J. Aumann and S. Hart (eds.), Handbook of Game Theory, vo]。1, (Netherlands : Elsevier, 1992)を参照。 6作曲に関する情報は私の同僚John R. − Hayes (私信による}によって集められたもの である。また彼が集めた予備データから,同様 のことは絵を描く場合にもあてはまるように思 われる。 7 Omer Akin, Psychology of Architectural Desig・ (London : Pion Limi!ed. 1986)。 8 UNDERSTANDの記述およびその行動に関す ー る議論については,Modejs of Thought vol. 1の chapter 7.1から7.3までの諸章で取り上げられて いる。そのプログラムと確証の論文は J.R. Hayesと私との共同研究によりまとめられたも のである。 9現実に実行されたUNDERSTANDプログラム ー は,いうまでもなくそれを一般的に遂行してい くのに必要な機関{engine)のプロトタイプの1 つにすぎない。 10 G.S.Novak,“Represen!ation of Knowledge in a Program for Solving Physics Problems," Proceedings ofl力e Fifth Inten.】tational Joint Conferei.】ceo・Artificial h.]telliger】ce, 1977, pp・ 286-291. 且George Katona, Organizing al】d Memorizing (New York:Hafiier Publishing Co・, 1967), chapter 4. 12 Newell and Simon, Ji圃lan Problem SoMj]gを参 - 照。 D D. M. Neves,“A Computer Program that Learns A】gebraic Procedures by Examining Examp]es and Working Problems in a Textbook,"?roceedjngs of the Second Natjo口ajCo・&relceoftl】e Canadiai.】 Socjelyji〕fCompul汕・onal Sludjles of Intelligence (1978), pp. 191-195. 14 J. R. Anderson, A. T. Carbett, K. R. Koedinger and - R. Pelletier,“Cognitive Tutors : Lessons Learned," Jovrr.]ial of the Lean.]iing Scjejlce, 4(1995):167-207 ; X. Zhu and H. A. Simon,“Learning Mathematics 盆om Examples and by Doing,"Cognilior】and Instruction, 4 (1987):137-166. 巧Y. Anzai and H. A. Simon, “The Theory of Learning by Doing,"Psychological Review, S6 (1979):124-140. 16 Models of Thought, vol. 1, chapters 5.1 and 5.2 (with Kenneth Kotovsky)。 17 D. B. Lenat,“Automated Theory Formation in Mathematics,"Proceedings oflj】eFj・tihh.】temational Jot.】t Conference on Artificial It.]teHigence (1977), pp. 833-842. See also W. Shen,“Functional Transformation in AI Discovery Systems,"Artificial Intelliger]ce, 41 (1989):257-272. 18 P. Lang]ey, H. A. Simon, G. L. Brads haw and J. M・ Zytkow, Scier】tjfic Discovery .・Computatior.】tal Eχpjofalj01s of the Creative Process (Cambridge, MA:The MIT Press, 1987). 琥Y・ QLn and H. A. Simon, “Laboratory Replication of Scientific Discovery Processes,"Cognjlljve Sciei.]ce, 14〔1990〕:281-312. 20 C. A. Kaplan and H. A. Simon,“In Search of - Insigh!,"Cognitive Psychology, 22(1990): 374-419. 5 デザインの科学:人工 物の創造 歴史的にも伝統的にも、自然の事物 -それらがどのように存在し、また それらがどのように活動するかーに ついて教えることが、科学という学問 分野の任務である。他方、人工物- 望ましい性質をもった人工物をいかに つくり、またそれをいかにデザインす るかーについて教育することは、従 来から工学部の任務であった。 しかしエンジニアだけが決して唯一 の専門的なデザイナーであるわけでは ない。現在の状態をより好ましいもの に変えるべく行為の道筋を考案するも のは、だれでもデザイン活動をしてい る。物的な人工物を作リだす知的活動 は、基本的には、病人のために薬剤を 処方する活動や、会社のために新規の 販売計画を立案し、あるいは国家のた めに社会の福祉政策を立案する活動と なんら異なるところはない。このよう に考えると、デザインは、すべての専 門教育の核心をなすものであり、また それは専門的知識を科学的知識と区別 する主要な標識をなすものである。工 学諸学部は、建築、経営、教育、法律 および医学などの各学部と同様、すべ てデザイン過程に中心的なかかわりあ いをもっている。 専門家活動におけるデザインの中心 的な役割を考えるとき、今世紀に入っ て、自然科学が専門学部のカリキュラ ムから人工物の科学(それは第2次大 戦後20年間あるいは30年間にわたり 大きく発展をしてきた分野である)を ほとんどすべて駆遂してしまったこと は、皮肉な現象である。工学部はしだ いに物理学部や数学部になってしまい 医学部は生物学部となり、さらに経営 学部は有限数学部となってしまっだの である。「応用」という形容詞の使用 は、事実を隠してしまうが、しかし事 実そのものを変えたわけではなかった 「応用」という形容詞が用いられると き、それは単に、専門学部では、専門 的な実務ときわめて深く関連している と思われるトピックスが、数学や自然 科学の分野から重点的に選択される、 ということを意味しているのである。 それは、分析と区別されたデザインが 教授され続けるということを意味した のではなかった。 自然科学に近づき人工物の科学から 遠ざかるという傾向は、上述した他の 専門学部よりも工学、経営学、医学に おいていっそう広くかつ急速に進行し ている。 しかし法学、新聞学、および 図書館学などの各学部にそのような傾 向がないということでは決してない。 有力な大学は弱小の大学よりもいっそ う深刻な影響を受け、また大学院のプ ログラムは学部のそれよりもいっそう 多くの影響を受けたのである。その間 一流の専門学部の博士論文で、固体物 理学や確率過程の問題から区別された 真のデザイン問題を取り扱ったものは ほとんど存在しなかった。これから説 明する理由のゆえに、私はコンピュー タ・サイエンスやマネジメント・サイ エンスの論文については、ある程度例 外を認めなければならないであろう。 また確かにその他に、たとえば化学工 学のような例外も存在していたのであ る。 このような普遍的な現象には、基本 的な理由があったはずである。それは きわめて明白な理由をもっていた。 個々の工学部を含めどの専門学部も、 総合大学の一般的な雰囲気を身につけ ていくにつれて、ますますアカデミッ クな体面に憧れたのである。一般に普 及している考え方からすれば、アカデ ミックな体面は、知的な意味で、厳密 で分析的で定式化でき教授可能な、そ ういった内容を必須としている。 しか し過去において、われわれがデザイン についてまた人工物の科学について 知ったもののうち、大部分とはいわな いまでもかなり多くのものは、知的な 意味で、厳密性を欠き直観的で定式化 できず、調理の本のごときものであっ たのである。大学に身を置く者が固体 物理学に専念できるとき、だれが好ん で機械設計や市場戦略の計画設定を教 育し、あるいは学習することに身をお とすであろうか。これに対する解答は 明白であった、すなわち通常はそれを あえてしようとする者はいなかったの である。 専門教育のカリキュラムからデザイ ン研究を放棄した結果生じた専門能力 の欠如は、やがて工学部や医学部で、 そしてその程度はよリ少なかったもの の経営学部でも、認識されるように なった。いくつかの学部では、応用科 学の諸学部をかつての職業学部より いっそう優れたものであると見なすが ゆえに、上記のような事柄を問題とは していない。われわれも、もしもこれ ら両者の間の選択の問題であるならば 彼らの意見に同意することができる售 しかし本当はどちらの代替案も満足な ものではない。すなわち古い型の専門 学部は、大学にふさわしい知的水準で 専門的なデザインを教育するための方 法を知らなかったし、また新しい型の 学部は、中心となる専門技術を教育す る責任をたいてい放棄してしまったか らである。かくしてわれわれは、高度 の知的水準で、人工科学と自然科学と を教育するという2つの目的を、同時 に達成しうる学部を考案する問題に直 面していたのである。このことがまた 1つのデザインーすなわち組織のデ ザインー問題なのである。 この問題の核心は「人工科学 (artificial science)」という言葉の中に 存在する。前の諸章で私は、人工現象 の科学がたえず分散、消滅の危険にさ らされていることを指摘した。人工物 に関する特異な性質は、その人工物の 内側にある自然法則とその外側にある 自然法則との間の薄い接面に見出され る。それについてわれわれは、どのよ うなことを論じうるであろうか。手段 と課題環境とを取り扱う境界科学の他 に、何を学ぶべきなのであろうか。 人工的な世界は、まさしく内的な環 境と外的な環境との間の接面に位置し ている。すなわちそれは、内部環境を 外部環境に適合させることによって目 標を達成する、ということにかかわり をもつ。人工物に関心をもつ人たちの 固有の研究領域は、いかにして環境に 手段を適合させるかということであリ したがってその中心問題はデザイン過 程それ自体なのである。専門学部はや がて、デザインの科学を、すなわちデ ザイン過程に関する知的に厳密で分析 的な、なかば定式化できなかば綛験的 でかつ教授可能な、そういった学説体 系を見出しかつそれを教えるようにな るにつれて、再び専門的な責任を果た せるようになる。 そのようなデザインの科学は、たん に可能であるばかりでなく、1970年 代以降、現実にそれが現れつつあるこ と、それを指摘することが、本章の テーマである。事実、1969年本書初 版の刊行は、デザインの科学を実現す る呼びかけとして、またその科学がと る形態を素描するものとして、この分 野の発展に影響を与えたのである。デ ザイン過程の研究に向け動き出した最 初の工学部の1つであるカーネギー・ メロン大学では、1975年頃、その第 一歩としてデザイン研究センターを設 置した。このセンター(1985年以後、 エンジニアリング・デザイン研究セン ターと改称されている)は、デザイン の科学と実践に関する研究を目指す教 員と学生の間に共働を促すと同時に、 大学学部および大学院のカリキュラム にさかのぼりつつ、デザイン理論の諸 要素を開発したのである。同センター は現在もカーネギー・メロン大学およ びその他の所でのデザイン研究やデザ イン教育の現代化と強化に、重要な役 割を果たしている。 実質的な面では、デザインの理論に は、デザイン活動を支援するコン ピュータ能力の拡大が意図されている とともに、人工知能やORの用具を装 備することが意図されている。かくし て、コンピュータ支援デザインに関す る多様な側面の研究は、コンピュータ 科学、工学、建築学部などで、またビ ジネス・スクールのORグループなど で、しだいに強化されつつある。 コン ピュータをデザイン過程に導入するた めには、デザインの理論を明示化し、 正確化する必要があるが、それはデザ イン論がアカデミックな世界で受け入 れられるための鍵となるものであった 以下本章で私は、デザインの理論に 含められるべき、またデザイン活動の 指令の中に含められるべきトピックス のいくつかを、取り上げてみたいと思 う。 デザインの理論:固定的な代替 案 われわれは、いくつかの論理学上の 問題から出発しなければならないと。 自然科学は、事物がいかなる状態で存 在しているかにかかわりをもつ。 日常 の論理体系-たとえば標準的な命題 計算法や述語計算法-は、自然科学 によく適合している。標準論理かかか わりをもつのは叙述表明であるから、 それは、現実世界についての言明や、 その言明からの推論にきわめて適して いる。 しかし他方デザインは、いかに事物 が存在すべきかにかかわりをもち、ま た目標を達成する人工物の考案にかか わりをもつ。 したがって自然科学に適 当な推論の形式が、デザインの場合に も適合しうるか否かには疑問がある。 動詞「べきである」を導入すると、叙 述的な論理の中にすでに含まれている 推理のルールに、さらに付加的なもの を追加したり、またルールそのものを 変更したりする必要がでてくるかもし れない。 命令論理のパラドックス 明瞭な命令論理あるいは規範的な義 務論理に不可欠なものを明らかにする ため、従来から各種の「パラドック ス」が考え出されてきた。通常論理で われわれは、「犬はペットである」と 「猫はペットである」とから、「犬と猫 はペットである」を推論することがで きる。 しかし「犬はペットである」 「猫はペットである」および「あなた はペットを飼うべきである」から、わ れわれはいったい、「あなたは犬と猫 とを飼うべきだ」を推論することがで きるであろうか。「針と糸とをくださ い」から、叙述的な論理が似ているか らといって、「針か糸をください」を 導くことができるであろうか。怒リつ ぽい人ならばおそらく、針だけあるい は糸だけを貰うよりむしろ針も糸も貰 いたくないであろう。また静かな生活 を好む人は、犬と猫の双方を飼うより もむしろ犬も猫も飼いたくないであろ う。 これら明白なパラドックスの挑戦に 対して、従来から、いろいろな種類の 「べきである」を取り扱う、数多くの 様相論理が構築されてきた。 しかし私 の見るところそれらはいずれも、デザ イン過程に関する論理上の諸要件を取 り扱うのに適切であると証明されるほ ど十分には、開発あるいは応用されて いないようである。 幸い、上記のようなことがらを証明 することは、本質的なことではない。 なぜならデザインに関する諸要件は、 通常の叙述的な論理を慎重に使用する ことによって、十分に満たされうるこ とが示されるからである。かくして命 令法に特有の論理の必要性は存在しな い。 私は、「不必要」という言葉に下線 を引きたいと思う。 この言葉は、「不 可能」を意味するものではないからで ある。様相論理は、キリンの存在を証 明しうると同じ方法で一つまりそれ らのいくつかを示すことによってー その存在を証明することができる。問 題は、それが存在するか否かではなく デザインにとってそれが必要とされる か否かである。 叙述論理への還元 デザインにとってどのような種類の 論理が必要となるかを見出すもっとも 容易な方法は、デザイナーが慎重に推 論しているとき、彼らはいったいどの ような論理を利用しているかという点 を検討してみることである。しかし、 もしもそのデザイナーが、いつもルー ズに漠然とそして直感的に推論するい いかげんな人間であるならば、上記の ようなことを検討しても無意味であろ う。そのようなときには、たとえどの ような論理を使おうとも、それは彼ら が使うべき論理ではないということが できるのである。 しかし、推論の厳密さの基準が人が 要求しうる限界いっぱいまで高度な、 デザイン活動の分野も相当広範に存在 する。私はここでいわゆる「最適化方 法」の領域について言及しているわけ である。それらは統計的決定理論やマ ネジメント・サイエンスにおいてもっ とも高度に発展したが、しかしエンジ ニアリング・デザイン理論でもまたし だいにその重要さを増しつつある。確 率および効用の理論ならびに両者の交 点は、たんに実際のデザイナーや意思 決定者からだけでなく、最近の世代の もっとも傑出せる多数の論理学者や数 学者からも、大いに注目を集めている F. P. Ramsey, B. de Finetti, A. Wald, J. von Neumann, J. Neyman, K. Arrowそし てL. J. Savageなどがその例である。 最適化方法の論理は、次のように素 描することができる。すなわち、デザ イン問題の「内部環境」は、与えられ た一定の代替的な行為の集合によって 表される。かかる代替案は残りなく詳 細に与えられる場合もあるが、もっと 一般的には、代替案は定義域を定義し た命令変数によって指定される。「外 部環境」は、パラメータの集合によっ て表示されるが、それは確定的に知ら れうる場合もあるし、また単に確率分 布との関連でのみ知られうる場合もあ る。内部環境を外部環境に適合させる ための目標は、効用関数一通常それ はスカラの関数であって命令変数と環 境パラメータとから成っているーに よって定義されるが、それにはたいて い、数多くの制約条件(たとえば、命 令変数の関数と環境パラメータの間の 不等式関係)がっけ加えられる。最適 化問題とは、制約条件と両立しうる許 容値の集合のうち、環境パラメータが 与えられたとき、効用関数を最大化す る命令変数を見出すことである。(確 率的な場合には、「効用関数を最大化 する」代わりに、たとえば「効用関数 の期待値を最大化する」と表現しても よい。) 湍墹学|・心用語 食甄の問遜 命令変鼠 (手段1 食物の哢 食物価格 固定パラメータ(法則1{ 含有栄養よ 制約条什} (||的) {必要栄養分 効j↑j関数 食汕のaJlj(司 lll豹桑什は内祁嵋境で聆覆づけられ亂・ パラメータは外部亅i境で特徴づけられる。 悶皿jjl』釣条什と固定パラメータとを所与として、効用囹駁を最 人化する命令変数の値を撻出せ、 第6図命令諭理のパラダイム このパラダイムの1つの応用例は、 いわゆる「食餌問題」とよばれ第6図 に示されている。食物のリストは与え られていて、また命令変数はその食餌 に含められるべき各種の食物量として 示される。環境パラメータは、各食物 の価格と栄養素(たとえばカロリー、 ビタミン、ミネラル等々)である。効 用関数は食餌の(マイナス符号のつい た)費用であり、制約条件はたとえば 1日2000キロ・カロリー以上は摂ら ないとか、ビタミンやミネラルについ ては、最小限の必要量は満たしていな ければならないとか、さらには1週に 2度以上ニンジンは食べないといった ようなことである。制約条件は内部環 境を特徴づけるものとして解釈される 問題は、必要な栄養分を摂リ、しかも 所与の価格で費用の最少化という副次 的な条件を満たすような、食物量を選 択することである。 食餌問題は、たとえ変数の数が著し く多くとも、リニア・プログラミング として知られている数学的な形式に よって、容易に処理される一群の問題 の中の簡単な1例である。この方法に ついてはもう少し後で取り上げる。こ こでの私の関心は、この問題の論理に かかわるものである。 ひとたび定式化された最適化問題は 標準的な数学問題一制約条件下の、 関数の最大化-となるので、解答を 導くために用いられる論理は、数学が それに依拠している述語計算の標準論 理なのである。そうであるならばこの 形式は、どのようにして特殊な命令論 理の使用を避けるのであろうか。それ は次のように、可能な世界の集合を取 り扱うことによって行われるのである すなわち、まず外部環境の制約条件を 満たす可能な世界をすべて考慮する。 つぎにその集合のうち残りの目標に関 する制約条件を満たしつつ、しかも効 用関数を最大にするような特定の世界 をみつけだす。この論理はあたかも、 環境条件に具体化されている現実の自 然法則に、新しい「自然法則」として 目標条件や最大化要件を付加した場合 と、まったく同じである瓲われわれ は単に、まず条件をすべて満たしてい る世界において命令変数がどのような 値をとるであろうかを問い、つぎにそ れらの値が命令変数のとるべき値であ ることを結論すればよいのである。 最適値の計算 いままでの議論ですでに、デザイン の科学のカリキュラムについて、2つ の中心的なトピックスが明らかになっ た。 1 与えられた代替的選択対象から合 理的な選択を行うための論理的枠組 みとしての、効用理論と統計的決定 理論 2 利用可能な代替的選択対象のうち、 どれが最適値であるかを実際に計算 するテクニックの体系 最適な代替的選択対象を計算するこ とが容易なのは、簡単な場合だけであ る(第2章を思い出してほしい)。も しも効用理論を現実のデザイン問題に 応用しようとするならば、効用理論は 実際にその計算を行うための手段をも たなければならない。合理的なチェ ス・プレイヤーのジレンマは、だれに もなじみのことである。チェスにおけ る最適な戦略は、容易に明らかにする ことができる。すなわちまず、勝ちに は+1を引き分けにはOをそして負け には−1の数値を与える。つぎに、す べての指し手を考える。最後に、いか なる場合も各プレイヤーは、与えられ た手の中から最良のものを選択するは ずであると仮定して、その手の結果か ら逆算的にミニマックス化を行う。こ の手続きは、いまどの手を打つべきか を決定する。 しかしこの場合の唯一の 困難は、必要な計算が天文学的な回数 (チェスの場合、しばしば10120とい う数値が挙げられている)にのぼり。 したがって人間によっても現存のコン ピュータによってもさらには予想され る将来のコンピュータによっても、そ の計算を実施することが可能ではない という点にある。 チェス・ゲームに適用されるような デザイン理論は、たんに理想としての ミニマックス原理のみならず、現実の 人間あるいは現実のコンピュータのも つ計算能力の範囲内で、実時間で実際 の広範な戦略点を考え、そこから良い 手を現実に見出しうる手続きをももた なければならないであろう。 しかし今 日、グランドマスターに記憶されてい るもの以外に、上述したような例外的 に素晴しい手続きは存在しない。 しか し専門家のレベルで、あるいは強くな いマスターのレベルーすなわち数百 人のプレイヤーよりもうまく指せるよ うなレベルーで競技できるコン ピュータ・プログラムが少なくとも1 つは存在する。現在存在するこの種の 手続きのうち、最良のものは、依然と してグランドマスターの頭脳の中に貯 蔵されているが、それは私か第3章、 第4章で論じた諸特性をもつものであ る。 しかしいまや、最強の人間グラン ドマスターの数人を除いて、ほとんど いつも相手を打ち負かすコンピュー タ・プログラムが、いくつか存在する これらのプログラムは、人間マスター がチェスについてもっているような、 知識はもっていなくとも、序盤戦に関 するかなりの程度の「本」からの知識 と駒組みを評価する適当な基準関数と を、力づくの計算方法(それはときに 何億という多様な指し手を解析する) と組み合わせることによって、成功し ている。 つぎに、デザイン科学のカリキュラ ムに関する第2のトピックは、効率的 な計算技法ということになるが、これ は現実の状況においてあるいはそれと 類似した状況において、最適な行為を 実際に見出すのに利用されうるテク ニックのことである。第2章で述べた ように、このトピックの中には、こん にち数多くの重要なものが含まれてい るが、その大部分は一少なくとも実 際の応用面では一過去25年間に発 達したものである。それらの中には、 リニア・プログラミング、ダイナミッ ク・プログラミング、ジェオメトリッ ク・プログラミング、待合せ理論、お よび制御理論などが含まれる。 満足行動の発見 計算技術の問題は、最適化のみに限 られるわけではない。伝統的な工学の デザイン方法は、最大や最小よりも、 むしろ不等式一満足すべき性能につ いての仕様-をいっそう多く利用す る。いわゆる「良度指数」は、「より 良い」および「より悪い」という観点 から各デザイン間の比較を可能ならし めるのであるが、しかしそれが「最 良」の判断をもたらすということはほ とんどない。1例として、制御システ ムのデザイン問題で採用されている根 軌跡法をあげることができる。 最適解の代わりに満足解を求める決 定方法に対して、英語の中に適当な言 葉が見出されなかったので、数年前私 は上記の意思決定手続きに関して、 「満足化(satisficing)」という用語を 導人した。さて、もしも同じくらいの 容易さで最適化できるにもかかわらず それをしないで満足してしまう正気の 人はいないであろうし、また最良のも のを獲得しうるにもかかわらず、たん に適当に良いもので事足れりとする人 もいないであろう。 しかしそのような 問題は、現実のデザイン状況の中で、 普通に現れてくるものではない。 第2章で述べたように、現実にはわ れわれは通常、満足解か最適解かの選 択をしない。なぜならわれわれは、 めったに最適解を見出す方法をもたな いからである。たとえば、巡回セール スマン問題といわれる周知の組み合わ せ問題を考えてみよう。すなわちそれ は、一定数の都市の所在が与えられた とき、すべての都市をセールスマンが 最短距離で回るルートを見出せ、とい う問題である售この問題に対しては (チェス・ゲームのミニ・マックス。 アルゴリズムに類似した)、直接的な 最適化のアルゴリズムが存在する。す なわちそれは、すべての可能なルート を辿ってみてその最短のものを選ぶと いう方法である。 しかし都市がかなり の数の場合には、そのアルゴリズムは 計算不可能である。(N個の都市の ルートの数はN!になる)。探索の長 さをきりつめる方法はいくつか発見さ れたが、しかしたとえば50の都市を 巡回するセールスマン問題を解くのに 十分な方法は、いまだに見出されてい ない。 セールスマンを巡回させないよりは 最短とはいわないまでも、満足すべき ルートを見つけ出すほうが望ましいこ とはもちろんである。大抵の場合、常 識的にかなりよいルートを見出すもの であるが、発見的な諸方法のどれかを 使えば、しばしばもっとよいルートを 見つけだすことができる。 最適化ができないために満足化する ようなすべての状況の特色は、利用可 能な代替案の集合が、ある意味で抽象 的には「与えられて」いるのであるが (われわれは、究極的にはそれらをす べて生成させることを保証するような ジェネレータを定義することができ る)、しかし、実際上適当であるとい う意味では、「与えられて」いないと いう点にある。実際の計算の範囲内で は、われわれは、許容可能な代替案を 必ずしもすべて列挙していくことはで きないし、また、それらおのおのの長 所を相互に比較することもできないの である。また、たとえ運良くそのよう な代替案をいち早く見出したとしても すべての代替案を検討してみるまで、 それが最良のものであるか否かを判定 することはできない。われわれはふつ う、探索にかなりの努力をはらったう えではじめて受容可能な代替案を見出 すことができるが、そのような方法に よる代替案の探索で満足しなければな らないのである。 さて多くの満足化状況において、受 容可能な水準を満たす代替案を探索す るのに必要と考えられる時間の長さは その水準がどの高さに設定されるかに 依存し、探索対象の規模全体にはほと んど依存しない。干草の山から鋭い縫 い針を探し出すのに必要な時間は、針 の分布密度によるのであって干草の山 全体の大きさによるものではない。 かくして満足化の方法を用いる場合 許容しうる代替案の全集合が、形式的 には可能であるが実際には不可能であ るようなアルゴリズムによって、与え られるか否かは、しばしば大した問題 ではないのである。また、その集合の 大きさが如何なるものであるかにもか かわりがない。このような理由から満 足化による方法は、巡回セールスマン 問題に対して代替案の集合が「与えら れ」るという非現実的な意味において さえその集合が「与えられ」ないよう な、広い範囲にわたるデザイン問題に 適応しうるのである。かかる可能性を 検討することが、次の課題である。 デザインの理論:代替案の発見 いかなる構成的な意味においてもデ ザイン案が与えられず、したがってそ れらが合成されなければならないよう な場合には、その合成過程のなかに、 何か新しい推論形式が入りこんでこな いか否かをもう1度吟味してみるか、 あるいはまた、叙述表明の標準論理で われわれの用件に十分であるか否かを 問題にしてみなければならない。 最適化の場合には、われわれは次の ような質問を提起した。すなわち「す べての可能な世界(行為変数のうち許 容可能な数値に達しているもの)のう ち、どれが最良(基準関数の最大値) であろうか」と。すでに見てきたごと く、これは純粋に綛験的な問題であっ て、たんに事実だけを必要とし、また それに答えるために通常の叙述的な論 法だけを必要とする問題なのである。 満足のいく代替案を求める場合には 候補となるある1つの代替案が見出さ れたとき、われわれは次のように問え ばよい。すなわち「この代替案は問題 となっているデザイン基準をすべて満 たすであろうか」と。この場合も明ら かに事実に関する質問であって、新し い論理上の問題はなんらそこに介在し てこない。 しかし、代替案を探索する 過程についてはどうであろうか。探索 のためには、どのような論理が必要な のであろうか。 目的一手段分析 いかなる目標追求システムにも共通 な条件は、次の2種類のチャネルを通 じて、システムが外部環境に結びっけ られているということである。すなわ ちその1つは、求心的あるいは感覚的 チャネルであって、それによってシス テムは環境から情報を受けとり、他の 1つは、遠心的あるいは運動的チャネ ルであって、これによリシステムは環 境にはたらきかける≒システムは記 憶の内部に、外界の状態に関する情報 一求心的あるいは感覚的情報-と 行為に関する情報一遠心的あるいは 運動的情報-とを貯蔵する手段を もっていなければならない。目標達成 の能力は、外界の状態の特定の変化と そのような変化を引き起こすであろう 特定の行為とを、結びっけることに よって決定される。ただし、それが簡 単にできるか、あるいは非常に複雑に なるかは、問わないとして。このよう な結びつきについてはすでに第4章で プロダクションとして述べたところで ある。 少数の生得的な反射機構を除いて、 幼児は、感覚情報を自分の行為と結び つける基盤をもっていない。幼児にお ける早期の学習過程で非常に大切な部 分は、外界を感知したとき、特定の行 為あるいは一連の行為が、その外界の 状態に、特定の変化をひき起こすとい うことを学ぶ点にある。幼児がそのよ うな知識をつくりあげるまで、感覚の 世界と行動の世界は互いにまったく分 離されていて、相互になんらかかわり をもたない。一方の要素が他方の要素 にどのように関連するかということを 綛験しはじめたときにのみ、幼児は外 界に対し目的的な行為をすることがで きる。 GPS (General Problem Solver)とよ ばれるコンピュータの問題解決プログ ラムは、人間の問題解決の主要な特徴 のいくつかをモデル化するためにデザ インされたものであるが、それは、目 標志向的な行為が、求心的な世界と遠 心的な世界との関連に、いかに多く依 存しているかということを明瞭に示し ている。求心的あるいは感覚的な側面 においてGPSは、現在の状況のみな らず、目標とする状況や目標とする対 象を表すことができなければならない またそれとともに、目標と現実との差 異も表せなければならない。遠心的な 側面ではGPSは、対象や状況を変え ていく行為を表すことができなければ ならない。行動が目的的であるために はGPSは、時間的な経過の中で、シ ステムが見出した目標と現実との特定 の差異を減少させるか除去するような 特定の行為を選択できなければならな い。GPS機構において、選択は結合 表を通して行われるが、この場合結合 表は、見出されたいろいろな差異に対 し、その差異を減少させるのに関連の ある行為を結びっけるものにほかなら ない。求心的な世界を、遠心的な世界 に関連づけること、これがこの場合の 結合なのである。一般に、ある目的の 達成には行為の連鎖が必要となるとい うことから、またある行為が効果的で ないという場合もありうることから、 GPSは同時に、いまどこまで進んで いるか(すなわち目標と実際との差が どの程度減少したか)を見出す手段を もたなければならないし、また代替的 経路を試行する手段をもたなければな らないのである。 探索の論理 かくしてGPSは、現在の状況を目 標状況に変えるべき一連の行為を発見 し、またそれらを集めるために、(だ ぶん大きな)環境を選択的に探索する 1つのシステムなのである。 ところで、 このような探索を支配している論理の ルールは、一体何か。標準論理に含ま れるもの以外に、何か必要となるので あろうか。われわれは、上記のような 過程を正当化する論理形式を、別に必 要とするのであろうか。 そのためには、標準論理で十分であ るように思われる。求心的な世界と遠 心的な世界との関係を表すために、わ れわれはGPSなるものを、巨大な迷 路のなかを辿ることである、と見徹し てみよう。迷路の結節点は、求心的に 説明される場合、状況を表している。 1つの結節点からもう1つの結節点へ 連なる経路は、運動経過を記述する行 為を表すが、それは1つの状況を他の 状況へ変換させるものにほかならない 与えられた時点において、GPSは常 に1つの問題に直面している、すなわ ち「私はつぎにどの行為をとるべき か」と。 GPSは、行為と状況の変化 との関連について不完全な知識しかも ちあわせていないから、上記のような 問題は、前節ですでに議論した、一種 の不確実性条件下の選択の問題となる 解、すなわち最終的なデザインを構 成する完全な行為は、実は、個々の行 為の連続から組み立てられるというこ とこそ、代替案の探索に特徴的なこと なのである。代替案空間の巨大さは、 必ずしも数の多さを必要としない要素 的諸行為が、連鎖をなして結合される その結合方法に、無限の組み合わせが あることから生ずるのである。 完全な行為を構成する行為系列を考 える代わりに、要素的な行為を考える ならば非常に得るところが多い。なぜ なら求心的に把握される状況は、通常 遠心的な要素分解から得られる個々の 要素的諸行為と、少なくとも大まかに 対応するかたちで要素分解されるから である。 GPSにおいて暗黙に前提さ れている推論は次のようなものである すなわち、もしも目標状況が現実状況 とD1,D2,…、圦だけ相違していると き、行為Å1がDI型の差異を除去し、 行為Å2がD2型の差異を除去し等々 ……とした場合、AI,Ay‥、べという 一連の行為によって、現実状況は目標 状況に変換されうる、と。 この推論は、標準論理のルールから 見るかぎり、けっして可能な世界のす べてに通用するようなものではない。 この推論が有効であるためには、いく つかの行為がいくつかの差異に影響を 及ぼさない、というある種の強い仮定 が必要となる。換言すればこの推論は ある意味で「加法的」あるいは「分解 可能」な世界において妥当するという ことができる。(すでに引用した「犬 一猫」「針一糸」の例にみられるよう なパラドックスはまさしく行為の非加 法性から生じている。経済学者の言葉 でいうならば、前者は収穫逓減の場合 であり、後者は収穫逓増の場合であ る。) さて、問題解決者やデザイナーが取 り組んでいる現実の世界が、この意味 において完全に加法的であるというこ とは滅多にない。諸行為は、副次的結 果をもたらし(すなわち新しい差異を 生みだすかもしれず)、またときには、 ある副次的な条件が満たされる場合 (それらの行為をとる場合、前もって 他の差異が除去されなければならない といったような)にのみ、それらの行 為がとられうるのである。これらの状 況の場合、ある目標を達成する部分的 な行為系列が、すべての条件を満たし かつ問題の目標(たとえそれが満足解 を求めるような目標であるとしても) をすべて達成する1つの解を与えるよ う、拡張されうるか否かは決して定か ではない。 この理由のゆえに、現実の世界の問 題解決システムやデザイン手続きは、 たんに構成諸要素から問題の解を集め るだけでなく、それらの適当な組み合 わせを探索しなければならないのであ る。そのような探索をすすめていく場 合、もっている卵をいくつかの容れ物 に分けたほうが効率的であるーすな わち、それが完全に成功するか、ある いは徹底的に失敗するかはっきりする まで、1つの道筋だけを追っていくの ではなく、まず数本の試行的な道を探 索し、それらのうちその時点において もっとも有望であると思われる道を2, 3追っていくというように。もしも追 跡中の道の1つが有望でないとわかっ てきたならば、その道は、前にそれよ り低い順位が与えられていた別の道に とって代わられるのである。 かくして、代替案が与えられていな い場合のデザインの議論は、デザイン 科学の教育に対し、少なくとも次の3 つのトピックスをつけ加えることにな る。 3 標準論理の代替案探索への適用 デザイン解は、特定の条件が満たさ れるような世界を導く、一連の行為 系列のことである。満足基準による 目標が与えられた場合、可能な世界 を探索する道は、大抵ただ1つとい うわけではない。なぜなら探索は、 目標達成にとって十分な行為ではあ るが、必要な行為ではないからであ る。 4 差異に対する並列的ないし準並列 的な要素分解の適用 目的一手段 分析は、このような要素分解を利用 した、広範な分野に適用可能な問題 解決技法にほかならない。 5 部分的に探究される代替的な行為 を探索するための資源配分 この 最後のトピックについて幾分詳細に 説明しておきたい。 資源配分としてのデザイン デザイン過程が資源配分にかかわり をもつ道は2つある。第1に、稀少資 源の保存ということが、満足なデザイ ンを得るための1つの判定基準である 第2に、デザイン過程それ自体にデザ イナーの資源管理活動が含まれている ため、デザイナーの努力は、成果を生 まないことがわかっているような問題 に、不必要に浪費されるということは ない。 資源保存−デザイン判定基準とし て、たとえば費用最少化といったよう なーについて、ここでとくに云々す る必要はない。費用の最少化は、工学 的な構造をデザインするとき暗黙のう ちに考慮されていたが、しかしそれは 数年前までは一般に、たんに暗示的に のみ了解されていて明示的に取り上げ られることはなかった。 しかし、費用 計算がますますデザイン手続きの中に 明示的に取り入れられるようになり、 今日では「費用一便益分析」として経 済学者に知られている理論ならびに技 術体系が、デザイン・エンジニアを教 育するために用いられる例が指摘でき る。 高速道路のデザインの例 デザイン過程をたどる際にはデザイ ン・コストを考慮しなければならない という考え方は、フォーマルなデザイ ン過程が発達するにつれ、しだいに根 を下ろしてきてはいるか、しかしまだ 広範に利用されているわけではない。 デザイン過程の中にデザイン・コスト を関係づけた初期の、しかも現在でも 依然として優れた例は、高速道路の口 ケーション問題を解くために、MIT に博士論文として提出されたMarvin L. Manheimの手法である尅。 Manheimの手続きは、次の2つの 主要な概念を結びっけている。第1は きわめて一般的な計画水準から、実際 の建設を決定するに至るまで、デザイ ンを逐次的に特定していくという着想 であり、第2は、さらに具体化すべき 計画案はどれかを決定するための基礎 として、より高次の水準で各計画案を 評価する、という着想である。 高速道路のデザインの場合、より高 い水準での探索は、良いと思われる特 定のルートをそこから見出せそうな 「関心対象の組」を、いくつか見つけ 出すことに向けられる。各関心対象の 組の範囲内で、1つ以上のロケーショ ンが選択されることになるが、それら は後にさらに詳細な検討を受ける。そ の後特定のデザインが、特定のロケー ションのために開発される。このよう な考え方の図式は、いま述べたような 特定の3段分割だけに限られるのでは なく、適当に一般化されうるものであ る。 ある水準から次の水準へ、どの代替 案を追っていくべきかを決定する Manheimの方法は、各デザイン活動 にコストを配賦し、またよリ高次の各 計画案に対し高速道路のコストをそれ ぞれ推定すること、を基礎にしている 1つの計画に結びついた高速道路のコ ストとは、もしその計画がそれに続く デザイン活動によって具体化されてい くならば、実際のルートにコストがい くらかかるかに関する予測値のことで ある。換言すればそれは、ある計画が どの程度「有望」であるかを測定する 尺度となる。かくしてこれらの計画は それらについて見込まれるデザイン・ コストと相殺されたあと、もっとも有 望と思われるものが徹底的に追求され るのである。 Manheimが述べた特定の方法では、 ある計画の「有望さ」は、その計画の 完成によって生じてくるところの、結 果に関する確率分布によって表示され る。確率分布はエンジニアによって推 定されなければならないーこれがこ の方法の重大な弱点であるーが、し かしひとたびそれが推定されるならば Bayes決定理論の枠組みの中でそれを 利用することができる。 しかしこの方 法については、使用される特定の確率 モデルが重要なのではない。なぜなら Bayes流の理論構造とは無関係に、他 の評価方法でも満足すべきものがあり うるからである。 高速道路のロケーション問題の場合 より高次の計画案の評価には、2つの 機能がある。すなわちその第1は、 「つぎにどこを探索すべきか」という 問題に答えることであり、第2は、 「いつ探索をやめ、また満足のいくも のとして、いつある解を受諾するか」 という問題に答えるものである。かく てそれは、探索活動への指針ともなり またその探索活動を終わらせる満足解 受諾への判定基準ともなるのである。 探索を導く方法 高速道路のロケーション問題に対す るManheimの例を超えて、また Bayes決定理論に基づいた上記のよう な彼の考え方をこえて、探索活動への 指針の概念を一般化してみることにし よう。そのためにまず、問題解決プロ グラムの典型的な構造について考えよ う。このプログラムは、まず可能な経 路を探索し、探査された経路の「樹 型」を記憶装置に記憶する。そして各 経路の「イ襾値」を示すと考えられる数 値を、各分枝一各部分的経路-の 端点に与える。 しかし「価値」という言葉は実際に は誤った呼び方である。各部分経路は 問題の解ではない。つまり経路は解を 導かない限り「真の」価値はゼロであ る。したがって、上記の言葉で価値と 呼ばれたものは。直接的な「価値」と いうよりもむしろ、その経路に沿って 探索活動を行ったならば。さらに得ら れるであろうと期待される推定値とし て理解するほうが、いっそう有意義で ある。たとえば、可能性は少ないかも しれないが、非常に適切な解を導くか もしれない部分的な探索活動に、相対 的に高い価値を与えることが望ましい ということもあるであろう。もし、探 査活動が進むにつれて、当初の見込み が悲観的なものに変わっていくならば 探索費用だけの損失ですむ。期待のも てない結果を受け入れる必要がなく、 代わりに別の経路がとられる。かくて 部分経路に価値を与えていくこの方法 は、当初考えられた完全解のための評 価関数とはまったく違ったものになる かもしれないのであると。 不完全な経路に数値を与えることの 目的が、探査活動をしていく場合に、 つぎに何を選択すべきかの指針を与え るところにあることが認識されるなら ば、そのような考え方をいっそう一般 化してみようとすることは自然であろ う。探索過程において集められたあら ゆる種類の情報は、探索の次の段階の 選択に大切なものであるかもしれない われわれは部分的な探索経路の評価だ けに限定して考える必要はないのであ る。 たとえばチェス・ゲームのプログラ ムにおいてある探査が行われると、そ れは当初のジェネレータで予想された 手と違った手をつぎつぎと生みだすで あろう。手が生成される脈絡一探索 樹の枝-が実際にどのようなもので あれ、いまやその手は、以前の脈絡か ら除外され、他の手系列の脈絡の中で 考察される。このような考え方は、限 られた基礎の上にではあるが、Baylor によって、MATERすなわちチェスに おける王手の組み合わせを見出すプロ グラムに対し、つけ加えられた。これ により同プログラムの力が著しく向上 したのである≒ かくして探索過程は、問題の解を追 求する過程一大抵の問題解決の議論 に見出されるようなーとして見なす ことができる。 しかしそれはもっと一 般的にいうならば、ある解を見出すの に究極において重要な意義をもつとこ ろの、問題構造に関する情報収集の過 程として見ることができる。後者の観 点は重要な意味において、すなわち探 索樹のある特定の分枝に関して得られ る情報はそれがつくりだされた脈絡以 外に多くの脈絡で使われうるという意 味で、前者よりもいっそう一般的であ る。以前のいっそう限定的な観点から より新しい観点へ幾分たりとも進歩し たと見なされるような問題解決プログ ラムは、今日ほんのわずかしか存在し ない≒ デザインの型一階層 第1章において私は、複雑なシステ ムがなぜいくつかのレベルからなる階 層をなして構成されるのか、あるいは またなぜ入れ子構造をなして構成され るのかという理由をいくつか説明した そのときの基本的な発想は、複雑なシ ステムにおける構成要素は全体機能に 貢献する特定の部分機能を遂行する、 というところにある。全体システムの 「内部環境」が、そのメカニズムの詳 細な記述なしに単にその機能の記述に よって定義されうるように、サブシス テムの「内部環境」は、そのサブメカ ニズムの詳細な記述なしに、そのサブ システムの機能の記述によって定義す ることができる迦。 かかる複雑な構造物をデザインする ための有力な方法の1つは、そのよう な構造物を、多数の機能的部分に対応 した半独立の構成要素に分解する、適 当な方法を見出すことである。このよ うにすれば、ある程度他の構成要素の デザイン過程と無関係に、各構成要素 をデザインすることができるのである なぜなら各要素は主としてその機能を 通じて他に影響を及ぼすのであって、 その機能を遂行するメカニズムの詳細 とは関連がないからである止。 全体のデザイン(complete design) を機能的な構成要素に分解する仕方が ただ1つしかないと考える理由はまっ たく存在しない。いくつかの重要な場 合において、きわめて異なった種類の いくつかの実行可能な分解方法が存在 するかもしれないのである。このよう なことがありうるということは、管理 組織のデザイナーには周知の事実であ る。すなわちそこでは部分機能、部分 過程、部分領域等々によって仕事が分 割される。実際多くの古典派組織理論 は、相互に関連する仕事の全体をどの ような方法で分解するかという、この 種の問題に対し真正面に取り組んでい たのである。 ジェネレーターテストの循環 要素間の関係をまったく無視するこ とはできないということを認めたうえ で、分解を考える1つの方法は、デザ イン過程をまず代替案の生成を含む過 程と考え、つぎにそれら代替案を一連 の諸要求や諸制約に照らして検証する というように考えることである。この 場合、必ずしもたんに1つの生成 (generate)・検証(test)サイクルが存 在するというのではなく、そのような サイクルの絡みあった連鎖も存在しう る。ジェネレータは、暗にデザイン問 題の分割を定義し、テストは、重要な 間接的結果が注目され評価されること を保証する。代替的な分割案は、最終 デザインのためジェネレータとテスト との間にいろいろの方法で責任を分割 することに対応する。 過度にまで単純化された1例をあげ てみるならば、一連のジェネレータは ある建物について1つあるいはそれ以 上の、可能な窓割計画を考え出すであ ろうし、また考え出された計画の範囲 内で、特定の部屋の要求が満たされる か否かを決定するために、テストが行 われるであろう。あるいはまたジェネ レータは部屋の構造を考えだすために 利用され、またテストは考案されたも のが受容可能な総体的形状と意匠とに 合致しているか否かを検討するために 用いられる。家屋は、外から内へちま た内から外へもデザインされうるので ある旦。 デザイン過程を組織するに際し、全 体的な統合デザインが詳細に開発され る前に可能なサブシステムはどこまで 開発されるのか、あるいは逆に、種々 のまたは可能な構成要素が開発される 前に、総体的なデザインはどこまで開 発されるかについてもまた、代替案は 自由に考えてよい。デザインに関する これら自由な考え方は、建築家にとっ てはなじみのものである。それらはま た、主題を構成するいくつかの部分的 諸要素が作り出される前に、音楽構造 の体系がどこまで展開されるのかを決 定しなければならない作曲家にも、周 知のものである。 コンピュータ・プロ グラマも同様の選択すなわち、エグゼ クティブリレーティンからサブルー ティンヘと下向的に働くものと要素的 なサブルーティンから調整的なエグゼ クティブへと上向的に働くものとの間 の選択、に直面する。 デザインの理論はやがて、デザイン 過程においてどちらを優先させるべき かの問題を決定する、原理原則を含む ことになろう。たとえば、構造化プロ グラミングとよばれるコンピュータ・ プログラミングのデザイン法は、かな りの程度、適当な順序で(通常は上位 から下位へ)下位問題を設定していく ことに関心を向けている。また建築学 部での多くの説明も、同様のことに焦 点をあてている。 スタイル決定要因としての過程 一般にデザイン過程が、最適デザイ ンよりもむしろ満足デザインを発見す ることにかかわることを思い起こすな らば、ジェネレータとテストとの間の 結合ならびに分割のありかたは、デザ イン活動に諸資源がいかに効率的に使 用されるかに影響を与えうるばかりで なく、最終的なデザインの本質にも影 響を与えうることがわかる。普通「ス タイル」とよばれているものは、最終 デザインを通じて達成される目標に重 点がおかれる場合と同様の影響を、デ ザイン過程の意思決定からも受けるこ とがあるのである旦。建物を外から内 にデザインしていく建築家は、内から 外ヘデザインしていく建築家とはまっ たく異なった建物を構想することにな るであろう。たとえ満足のいく建物の もつべき諸特徴について、両者が一致 している場合であっても。 複雑なシステム、たとえば都市や建 物や経済をデザインする場合、われわ れはある仮定された効用関数を最適化 するシステムをつくることを、断念し なければならない。そしていま述べた ような種類のスタイル上の相違が、 「より良い」あるいは「より悪い」と いうかたちで評価される諸代替案を反 映するよりも、むしろそれがデザイン 過程で大変望ましい変数を反映してい るか否かを、われわれは考えなければ ならないのである。満足しうる制約の 範囲内であるならば、多様性はそれ自 体望ましい目的であるとも考えられる のであるが、その理由はとりわけ、多 様性によってわれわれは結果に対して と同様、探索に対しても価値を付与す るーデザイン過程に参画する者に とっては、デザイン過程それ自体が有 意義な活動であるとみなされるーこ とができるからである。 われわれはふつう都市計画を、計画 者の創造的な活動が住民の要求を満た すようなあるシステムをつくりだすた めの1つの手段であると考えてきた。 しかしたぶんわれわれは、地域社会の 多くの住民がそこに参加の機会を見出 しうるーもしもそのような方法で計 画過程を組織しうる能力が、われわれ にあるならば、-そういった重要な 創造的活動として都市計画を考えるべ きなのであろう。これらのトピックス については、次章でさらに述べるつも りである。 しかしそれはともかくとして、私は デザインされたものの形態と、デザイ ン過程の形態および組織とが、デザイ ン理論の不可欠な構成要素であること を、いまや十分に説明してきたと考え る。これらのトピックスが私の提案す るデザインのカリキュラムの6番目の 項目をなしている。すなわち 6 複雑な構造の組織とそれがもつデ ザイン過程構成への意義 デザインの表現 私は決して、興隆しつつあるデザイ ンの科学の全側面を展望してきたわけ ではない。とくに私は、問題表示がデ ザインに対しどのような影響を与える かについて、いままでほとんど論じて こなかった。今日この問題の重要性が 認められてはいるのものの、われわれ は依然として、この主題について体系 的な理論をもつにはいたっていない ーとりわけ効果的な問題表現をどう つくるかを教えるような理論について は圭一。 ここに数集めとよばれるゲームの ルールがある。ゲームは9枚のカード ーたとえばハートの1から9まで -をもっだ2人の人間によって展開 される。カードは2人のプレイヤーの 間に、表を上にして、1列に置かれる。 プレイヤーは、中央に置いてあるカー ドから交代で一度に1枚ずっをとって いくのである。ゲームの目的は一方の プレイヤーが「3つ揃え」をつくるこ と、すなわち相手よりも早く点数が合 計15になるような3枚1組のカード を集めることである。3つ揃えを最初 につくったほうが勝ちとなる。もしも どちらかのプレイヤーが3つ揃えをつ くらないまま9枚のカードか全部引か れてしまったときには、このゲームは 引分けとなる。 このゲームで良い戦略とはどのよう なものであろうか? それをどうやっ て見つけるのであろうか? もしも読 者がいまだ自分で見つけておられない ならば、表現を変えることによってい かにこのゲームがうまく運ばれるかを ここで示してみたいと思う。ここに第 2章で紹介した魔方陣があるが、それ は1から9までの数字から構成されて いる。 4 9 2 3 5 7 8 1 6 各行、各列、各対角線の和はいずれ も15であり、また逆に合計15のこれ ら3文字1組のおのおのは、この魔方 陣の行、列、対角線をなしている。こ のことから、数集めにおいて「3つ揃 えをつくること」は三目並ベゲームで 「連続3文字」をつくることと同じで あることは明らかである。 ところで大 抵の人は、三目並べをいかに上手にや るかを知っているから、そのいつもの 戦略を数集めに応用することなど簡単 にできるであろう旦。 表現の変化としての問題解決 表示の仕方で相違が生ずるというこ とは、すでに周知の事柄である。われ われはだれでも、ローマ数字に代えて アラビア数字とその位取りの記法を採 用して以来、算術がたいそう容易に なったことを知っている。もっともそ の理由を説明する理論についてわから ないのであるが。 表現が相違を生むということは、別 の理由からも明らかである。数学とい うものはすべて、私か前章で指摘した ように、その前提の中に暗黙のうちに 含まれているものだけを結論として引 き出すのである。 したがって数学的な 展開はすべて、もともと真ではあるが はっきりしなかったものを明確にする 表現上の変化として見なすことができ る。 このような見方は、すべての問題解 決一問題を解決するということは、 単に解をはっきりさせるようにそれを 表現することにほかならないーに拡 張しうる旦。 もしも問題解決過程が 実際にこのように構成されているとい うのであれば、表現問題はまさに中心 的なものとなるであろう。 しかしたと えそれが中心になりえないとしても ーすなわち以上のような見方が、仮 にあまりに誇張であるとしてもーい かに表現がつくられ、またその表現が いかに問題の解決に役立つかをいまま で以上に深く理解することは、将来の デザイン理論に不可欠な事柄となるで あろう。 空間的表現 デザインとりわけ建築上のデザイン や工学上のデザインの多くは、2次元 あるいは3次元の実ユークリッド空間 の対象や配置に関連をもっているから 空間の表示ならびに空間内の事物の表 示は、必然的にデザインの科学の中心 的なトピックとなるのであろう。すで に述べてきた視知覚に関する議論から デザイナーの頭の中あるいはコン ピュータのメモリの中の「空間」が、 紙面上の絵や3次元の模型と、ひどく かけ離れた性質をもつかもしれないこ とは明らかである。 これらの表現問題はすでに、コン ピュータ利用のデザインーすなわち デザイン過程における人間とコン ピュータの協力−にかかわりをもつ 人々の注目を集めてきている。1例と してIvan Sutherland が開拓した SKETCHPADプログラムをあげるこ とができるであろうが、それは幾何的 な形状を表現しうるものであり、また 制約というかたちでその形状に条件を 加えることができるようなものなので ある。この場合、そのような制約条件 に対し形状が調整されていくのであ る匹。 デザイン、たとえばプリント回路や エッチ回路のデザイン、あるいはまた ビルディングのデザインなどを、完全 に自動化しようとしてきたこれまでの 努力の中にも、幾何的な考慮は顕著で ある。たとえばGrasonは、住宅用床 設計を行うシステムにおいて、提案さ れた部屋の配置が、それはコミュニ ケーションのために必要なデザイン基 準に合うように選ばれたものであるが ある平面内で実現できるかどうかを決 定するのに役立つような、レイアウト の内部表現法をつくったのである旦。 表現の分類 諸現象の集合を理解する最初の段階 は、その集合の中にどのようなものが 存在するかを学ぶこと一つまり分類 をすることである。 しかし表現に関し ては、まだこの段階にいたっていない われわれは、問題を表現しうる諸方法 について、大まかでしかも不完全な知 識しかもちあわせていないし、またそ れら諸方法間の差異のもつ意義につい て、いっそうわずかな知識しかもちあ わせていない。 完全に実践的な意味からいえばわれ われは、問題が自然言語で言葉によっ て叙述されうることを知っている。問 題はまた、代数学、幾何学、集合論、 解析学あるいは位相数学などの標準的 なフォーマリズムを用いることによっ て、数学的に記述されうることもしば 凵まである。もしも問題が物理的な対 象に関連をもつものであるならば、そ れら(あるいはそれらの解)は床図面 技術設計、レンダリング、さらには3 次元モデルなどによって表現されうる のである。行為を伴わざるをえない問 題は、フローチャートやプログラムで 処理することができる。 このリストに加えられなければなら ない項目は他にもきっとあるであろう し、またそれらの諸項目を分類する もっと基本的で重要な方法もありうる であろう。 しかしたとえわれわれの分 類が不完全であるとしても、これらの 表現がもつ諸特性に関する理論を、わ れわれは構築し始めている。現在成長 しつつあるコンピュータ・アーキテク チヤやプログラミング言語の諸理論 -たとえば、機能言語やオブジェク ト指向言語に関する成果-は、表現 理論がとりうる方向のいくつかを示し ている。またこれと並行して、第3章 第4章でみてきたように、思考過程に おける表現の人間的な使い方の理解に 向け、かなりの進歩がみられたのであ る。 こうしたトピックスはまた、われわ れの主張するデザイン論のプログラム の最後の題目に、かなりの内実を与え ることができる。 7 デザイン問題に対する代替的表現 方法 要約:デザイン理論におけるい くつかのトピックス 本章の主要な目的は、デザイン論を 構成するいくつかの諸要素が今日すで に存在していることを示すことであり また理論および経験のそれぞれに関係 のある実質的な知識体系が存在してい ることを示すことであった。われわれ がエンジニアリング全体のカリキュラ ムの中に占める自然科学の位置の近く に、デザインーつまり人工物の科学 -のカリキュラムをまとめるとなる と、そこには少なくとも次のようなト ピックスが含まれなければならない。 すなわち デザインの評価 1 評価理論:効用理論、統計的決定 理論 2 計算方法: a リニア・プログラミング、制御 理論、ダイナミック・プログラミ ングなどの最適代替案選択のアル ゴリズム b 満足代替案選択のためのアルゴ リズムと発見的方法(ヒューリス ディックス) 3 デザインの形式論理:命令論理と 叙述論理 代替案の探索 4 発見的探索:要素分解と目的一手 段分析 5 探索のための資源配分 6 構造の理論およびデザイン組織化 の理論:階層システム 7 デザイン問題の表現 上記のカリキュラムのうちいくつか の部分-たとえば評価理論やデザイ ンの形式論理-では、体系的かつ形 式的な理論の枠組みの中で知識を組織 化することが、すでに可能になってい る。 しかし他の多くの部分では、取り 扱いはいっそうプラグマティックでま た綛験的である。 しかしわれわれは、もともとデザイ ンなるものの意義を低く評価させ、そ れをエンジニアリングのカリキュラム から追放してきた調理本の方法論に、 方向転換したり戻ったりする必要は まったくない。なぜなら今日では以下 のような、いわゆるコンピュータ・プ ログラムの実施という形で、メタル カードに完全に定義された多種多様な 実際のデザイン過程例が、数多く存在 しているからである。最適化アルゴリ ズム、探索手続き、およびモーター設 計、組立ラインのバランス、投資ポー トフォリオの選択、倉庫配置、高速道 路の設計、病気の診断および治療など のための特定目的用プログラムなどで ある旦。 これらのコンピュータ・プログラム は、複雑なデザイン過程を完全かつ詳 細に描き出しているから、それらは自 由に十分な検討や分析を受け、あるい はまたシミュレーションによる試行を 受けられるようになっている。それら のプログラムは、デザイン研究者が自 らそれに対し語りかけまたそれを理解 しようとすることのできる、経験的な 現象体をなしている。これらのプログ ラムが存在しているからこそ、「判断」 とか「経験」とかいったものの背後に かくれているデザイン過程について、 何らの疑問も存在しないのである。そ れらのプログラムを創リだすのに使わ れたあらゆる判断や綛験は、いまやプ ログラムの中に織り込まれ、したがっ て観察可能な形になっているに相違な いのである。プログラムこそ、複雑な 外部環境を探求しその環境の中に目標 への道を見出すべく、人間によって考 案された各種の図式の具体的な記憶に ほかならない。 心の世界におけるデザインの役 割 私は、ここでのトピックスを「デザ インの理論」とよび、また私のカリ キュラムを「デザインのプログラム」 とよんだ。私は、専門技術者-ある いは問題を解決し、選択をし、合成し 意思決定することを任務としているあ らゆる専門家一を全体的に訓練する 場合、自然科学のカリキュラムを補完 するものとしてのデザインのプログラ ムの役割を強調した。 しかし、デザインの理論が他の知識 との関連で眺められうるもう1つの別 の道が存在する。第3章、第4章では 心理学-とくに人間の生物学的な内 部環境と人間との関係一を扱った。 本章もまた、心理学に関するーすな わち、人間がそこで生存し目的を達成 しようとする複雑な外部環境と、人間 とのかかわりに関する一章として解 釈することができる。 そのように解釈するとこれら3章は すべて、われわれが「デザイナー」と よんできた人間の専門的な仕事につい ての話以上の、意味深長な内容をもっ ている。われわれの多くは社会が2つ の文化に分かれていることに不幸な思 いを感じてきた。われわれのうちのい く人かは、2つだけではなく多数の文 化が存在すると考えてさえいる。もし もそのような分化が嘆かわしいもので あるとするならば、われわれは、あら ゆる文化の構成員に共有されうるよう な共通の知識の核一天候、スポーツ 自動車、子供の養育、あるいは、おそ らく政治よりもはるかに重要なトピッ クスを含むような、そういった核- を探求しなければならない。われわれ がそこで生活し、選択している空間を 定義するところの、内部および外部環 境へのわれわれ自身の関係を、われわ れが共通に理解するということは、少 なくとも上述したような重要な核の一 部となりうるのである。 このようなことは、途方もないよう な主張にみえるかもしれない。そこで 私のいわんとすることを明らかにする ため、音楽の世界から例をひいてみよ う。音楽は、人工物の科学の最古のも のの1つであり、またこのことはすで にギリシア人によっても認められてい た。私か人工物について論じてきたこ とはすべて、私かいままで引用してき た多くのエンジニアリング上のトピッ クスにあてはまるのと同様、音楽にも すなわち作曲したり鑑賞したりするこ とにもあてはまる。 音楽はある形式的なパターンをもっ ている。それが内部環境とかかわる点 は、けっして多くはない(しかし重要 である)。すなわちそれは深い感動を よび起こすことができ、またそのパ ターンは聴衆に聞きわけられうるもの であり、さらにその和音関係のいくつ かは肉体的生理的に解釈することがで きる(もっとも、それらについての美 的意味合いについては、議論のあると ころであるが)。作曲を1つのデザイ ン問題とみるならば、外部環境につい てわれわれは、他のデザイン問題にお いて行っているのと同じ仕事、すなわ ち代替案の探索、評価、および表現の 仕事に直面するのである。望みとあら ばわれわれは、他のデザイン分野で用 いられてきたコンピュータによる自動 デザインと同じ技術を、音楽に適用す ることもできるのである。 コンピュー タ作曲の音楽が美学的な見地からはま ださほど優れた水準に達していないと しても、それは専門的な作曲家や分析 家からまじめに注目を受けるだけの価 値をもっているし、すでにまた注目を 集めてきてもいるのである。ただし彼 らは、それが彼らの知らない言語で書 かれているとは気づかないままにと。 確かに数学を知らない作曲家がいる ように、音痴のエンジニアもいる。音 痴だろうと無知だろうとあるいはそう でなかろうと、それぞれの専門的な仕 事内容について相互に実りある会話を なしうるようなエンジニアや作曲家は ほとんどいない。 しかし私かここで示 唆していることは次のような事柄なの である。すなわち彼らはデザインにつ いて実りある会話を行いうる、また彼 らは自分たちが従事している共通の創 造的な活動を知り始めうる、さらにま た彼らは創造的で専門的なデザイン過 程について自分たちの綛験を分かち合 い始めることができる、と。 その懐胎期と幼年期とを通じて、現 代のコンピュータの開発に密接に関連 して生きてきたわれわれのいく人かは 広範な各種の専門分野一音楽もその 1つであるがーからそこに参画した のであった。われわれは、コンピュー タを中心に現れてきたいろいろな知的 領域間のコミュニケーションの増大に 気づいたのである。そしてわれわれは そのことを歓迎してきたが、それはそ のことがわれわれに新しい知識世界と の接触をもたらしてくれたーすなわ ちわれわれにわれわれ自身のもってい る複数文化間の断絶と闘うよう支援し てくれたーからである。学問相互間 の古い境界を打破するというこの努力 は、いままで大いに議論されてきたし またそれとコンピュータや情報科学と の結びつきもしばしば指摘されてきた しかし確かにコンピュータは、ハー ドウェアの1つとしてあるいはプログ ラム化されたソフトウェアの1つとし てさえ、直接にはそのこととなんら関 連をもっていない。私かすでに示唆し てきたものは別の説明方法であった。 諸分野を超えて意思疎通しうるーす なわち共通の場がある一能力は、複 雑な方法でコンピュータを使う人がい ずれもデザイン活動のためにあるいは デザイン過程に参画するためにコン ピュータを使っている、という事実か ら生じてくる。 したがってデザイナー としてわれわれは、あるいはデザイン 過程のデザイナーとしてわれわれは、 デザイン創造の過程に何か含まれ、ま た創造活動が行われている間にどんな ことが起こっているかということにつ いて、かつてないほど明瞭に理解しな ければならなくなったのである。 多数の文化にまたがる新しくて自由 な知的交流の真の主題は、われわれ自 身の思考過程であり、またわれわれの 判断、意思決定、選択および創造など の過程なのである。われわれは、人間 -あるいはコンピュータ、あるいは 人間とコンピュータの協働複合体- に見られるような直列的に組織された 情報処理システムが、著しく複雑な外 部環境の中で、どのように問題を解決 し目的を達成していくかについて、あ る1つの知的領域から他の知的領域へ といろいろなアイデアを輸入したり輸 出したりしているのである。 人類固有の研究課題は、人間そのも のであるといわれてきた。 しかし私は 人間というもの一少なくとも人間の 知的側面-が比較的単純であること および人間の行動の複雑さと大部分は 環境からあるいは優れたデザインを探 索する努力から生じてくることを述べ てきた。もしも私の主張が正しいとす るならば、技術教育に関する専門的な 1分野としてのみならず、すべての教 養人の中心的な学問の1つとして、人 間の固有の研究領域はデザインの科学 にほかならない、とわれわれは大まか に結論することができるのである。 1 事実、1世代前の工学部での選択はそうであっ た。学部は職業主義を追放する必要に迫られて いたが、真の意味でのデザインの科学は、1つ の代替案として初歩的な形でさえ存在していな かったのである。かくして進むべき道は、基礎 科学の導入であった。そのような改革は1930 年にMITの学長に就任した際の、Karl Taylor Comptonの演説の主要テーマの1つであった。 「私は次のようなこと、すなわち、本学の関心 がしだいに基礎科学に向けられていくこと、基 礎科学は研究心や研究業績の面で、かつてみら れなかったような成果をあげるであろうこと、 緇かなことを教えることにあまり力点がおかれ たため、包括的で基礎的な原理をもっと強力に 教えることがおろそかになっているような、そ ういった授業内容を注意深く検討すること、を 期待します」 Compton学長が[基礎的]ということを強調し た点に留意されたい。基礎を重視することは、 1930年当時と同様今日でも正しいことなのであ る。求められていることは、基礎から離れるこ とではなく、自然科学の基礎とともにエンジニ アリングの基礎をカリキュラムの中に導入すべ きことをいっているのである。このようなこと は1930年には可能ではなかったが。今日では 可能なのである。 2私はデザインに対する論理形式主義の問題を 一 次の2つの論文でいっそう詳しく論じたことが ある。 “The Logic of Rational Decision,"Brjljst Jounlaj ijr血抛jljos叩砂ofSciei.]ce, 16 (1965)、169-186 ; Vld “The Logic of Heuristic Decision Making,"in Nicholas Rescher (ed.)、The Lo,がc ofDecjsjon and Action (Pittsburgh : University of Pittsburgh Press. 1967)、pp. 1-35.これらの論文は私の著書である Modejs of Discovery (Dordrecht : D. Reidel Pub. C0.、1977)の3.1章。3.2章として再録されてい る。 ここでの議論はこの2つの論文をもとにしてい る。 3叙述論理に命令論理を組み入れるべき「可能 − な世界」という概念の使用は、少なくとも J tp rgen J
" Molecular Biology, 3 (1961):318-56. 19 このような種類の階層的構造を,学習あるい ー は進化の速度を速めるために、第7章で論じた 発生学的アルゴリズムにどのようにすれば取り 入れることができるかについては、次のところ で論じられている。John H. Ho】】and in Adaptation in Natural and Artificial Sysleills(AnnArbor,MI: The Universi!y of Michigan Press, 1975)。とくに、 167-168ページおよび152-153ページを参照。 20 George A. MVelは、被実験者に顔を描くとい ー う課題を与え、プロトコールを集めたところ、 被実験者がここに述べたような仕方で行動する ことを発見したという(私信による)。次をも 参照。E. H. Gombrich, Art at]dlllusioL](New York: Pantheon Books, 1960)、pp. 291-296. 趾W. M. Elsasser の前掲書The Physical Foundation ofBi・ologyの中心的な命題に関してみられる誤 りは、彼が、システムが階層的構造をもつとき には、複雑なシステムの記述は単純化できると いうことを無視しているために生じている、と 思われる。彼は、次のように述べている(同書、 155ページ)。 「今もし、タンパク質分子をつくっているアミ ノ酸配列と酵素反応とが関連があるという事実 に、この同じ論議を適用すると、十分な時間に わたって、これらのタンパク質分子の構造の繼 部に関する情報は、細胞のダイナミツクス、い わぱより高いレベルの組織へと伝達され、その ダイナミツクスに影響を及ぼすことがわかる。 この推論は定性的なものにすぎないが,それは, 生命有機体の場合には,無機化合物の結晶とは ちがって,微視的構造の及ぼす影響は単純に平 均して求めることはできないという仮説に,1 つの確からしさを与える。時間がたつにつれて, この影響は,『すべてのレベル』の細胞行動に 及んでいくであろう」 しかし,われわれの準分解可能性の論議からい えば,生物的ダイナミツクスのゆっくりとした 発生過程をコントロールする微細構造の局面は, もっと速度の速い細胞の物質代謝過程をコント ロールする微細構造の局面から区別して取り出 すことができるように思える。それゆえ,入り 組んだ原因を解きほぐすことをあきらめるべき ではない。J. R. PiattによるE】sasserの著書の書 評Perspectives jl]Biology 31.]d Medicii.]e, 2(1959): 243-245を参照。 22次を参照。H. A. Simon and A. Newell, − “Simu】ationofHumanThinking,"in M. Greenberger (ed.), Mai.】iagement an】d the Computer of the Future (New York:Wiley, 1962), pp. 95-114, esp・pp. 110汀。 四羽】e Works of Plato, B. Jowett, translator[New York:Dia]Press, 1936), Vol 3, pp. 26-35.次を参 照。H. A. Simon,“Bradie on Polanyi on the Meno Paradox,"抛jjos叩砂of Scier.]ce, 43 (1976): 147-150. 24 ごくごく概略的に,過度に単純化して述べた ー ことが,次のところで詳しく述べられている。 C. B. Anfinsen, The Molecular Basjs ofEvolutior.】 (New York : Wiley, 1959), chapters 3 and 10. 分子 の構造を支配する過程記述のメカニズムに関す る想像力に富む論議については,次を参照。H. H. Pattee,“Oil the Origin of Macro mo】ecular Sequences" ,Bj叩砂'steal Jourr.]aj,バ1961): 683-710. 25 これらの点の広範な論議についてはv J.D. − Watsonの前掲書。とくに第8章と第14章を参 照。また,初期の研究結果のレビューについて は,次を参照。P. E. Hartman,“Transduction : A Comparative Review" , in W. D. McElioy and B. G】ass (eds.), The Chemical Basjls of Heredity (Baltimore : Johns Hopkins Pressl957), pp. 442-454. また,異なる組織や異なる発生段階において, ちがった遺伝子がはたらいているという証拠は, 次に論じられている。J. G. Ga】]‘'Chromosomal Differentiation,"in W. D. McElroy and B. Glass (eds.). The Chemical Basis ofDeveloprnei]1 (Ba)timore : Johns Hopkins Press, 1958), pp. 103-135.さらに,ここで提案したモデルとよく 似たものを,独立的に,しかもはるかに綿密に 述べているものがある。次を参照。J. R.P】a11, “A 'Book Model1 of Genetic Information Transfer in Cel】s and Tissues,"in M. Kasha and B. Pa]lman (eds.)、Horizor.]sjjlBjodlemjs卯(NewYolk: Academic Press, 1962)、pp」67-187.いうまでもな く、この種のメカニズムが、過程記述によって 発生をコントロールする唯一のメカニズムでは ない。Spemannの形成体の理論で描かれた形の 誘導は、過程記述に基づいており、そこでは、 すでに形成された組織における代謝産物が次の 発生段階をコントロールする。 付: 企業組織にお ける合理的意思決 定 Rational Decision Making in Business Organizations 付 企業組織における合 理的意思決定ヱ Alfred Marshall はその著書『経済学 原理』の冒頭で、経済学は1つの心理 科学であると言っている。すなわち、 政治経済学あるいは経済学は、日常 の仕事における人間の研究である。す なわちそれは、幸福であるために必要 な物的なものを獲得し利用することと 緊密に関連した、個人的および社会的 行為についての研究である。 かくしてそれは一面では富の研究で はあるが、反面、より重要な側面では 人間研究の一部でもある。なぜならば 人間の性質は、その人の宗教的理想に よる以外は、何にもまして日常の仕事 やそれによって彼が獲得する物的資源 によってかたちづくられるからである。 しかしながら経済科学は、実際の発 達過程では、人間の性質の一側面すな わち理性について、およびとりわけそ の理性を、稀少性の中での配分問題に どのように応用していくかについてだ け焦点を当ててきた。稀少資源の配分 とか合理的意思決定とかいうかたちで 定義される現代の経済科学は、いまな お克服し解決すべき広大な領域をもっ ている。もっとも近時、伝統的には経 済学、社会学、心理学などに属すると 考えられていたこの領域のいくつかの 部分についても、経済学者はかなり探 求を進めてきていることは指摘してお かなければならない。 経済科学としての意思決定論 経済科学が有している帝国全体に、 経済学者がどのように入植分布してい るかは、かなりまちまちである。いく つかの分野では、人口も多くかなりの 規模にまで発達している。経済学の 「中心部分」は、資源の完全雇用、資 源の効率的配分および経済的成果の分 配の公正という3つの主要課題に関連 した、国民経済・国際経済の規範的研 究であり、またその市場の規範的研究 である。「経済学」という曖昧で一般 化しすぎた用語を使うかわりに、私は ここで上記の中心部分を表すのに「政 治経済学」という言葉を使い、また もっとも遠隔の植民地にまで含めた帝 国全体を表すのに、「経済科学」とい う言葉を用いたいと思う。この論文に おけるわれわれの主要な関心事は、意 思決定論として知られる1つの重要な 植民地区についてである。私は、意思 決定の規範的な側面と記述的な側面と の両面について論ずるつもりであるが 特にそれらを企業の理論に応用する場 合のことを問題にしたい。このような 論点が政治経済学の中心部分とどうか かわるかについてもまた論ずるつもり である。 政策志向的な規範的経済学の基礎に は、もちろん、数学的な美しさと優雅 さの点で物理科学のもっとも精緻な理 論にも匹敵するような印象的な、記述 的または「実証(positive)」的な理論 体系が存在する。その例として Walras流の一般均衡理論と、Schultz, Samuelson, Hicksなどの業績にみられ るその現代版を思い出してもらえばよ いであろうし、あるいはまた、ある条 件の下では、競争均衡はパレート最適 に等しいということを示したArrow, Hurwicz, Debreu, Malinvaudおよびその 同僚たちの精巧な理論体系を思い出し てもらえばよいであろう。 しかしこれらの業績のいっそう洗練 された諸部分が、現実の世界とどう関 連するかについては、疑問を呈するこ とができるし、事実これまで疑問が提 起されてきた。これらの知的所産の山 のいくつかは、おそらく、それがそこ にあるーそしてそれをよじ登る厳し さに挑戦と喜びとがあるーというた だそれだけの理由で、登られたのであ る。そのようなことは、人間の科学 的・芸術的などんな営為の中にも、当 然ありうべき事柄である。 しかし登山 者の動機や社会の現実いかんにかかわ らず、実証的な政治経済学が、基本的 な公共問題に助言を与えるべく経済政 策の要求にしたがって形成されてきた ことには、疑問の余地がない。 次の点もまた当然ありうべき事柄で ある。科学的探求についていえば、そ れが有益であるよう強制されると基礎 的でなくなってしまうとか、日常の世 界で提起された問題に対処すべく登場 してきたが故に基礎的だりえないとか 考えることは、世間一般の陥リやすい 誤りである。実際、現実の世界は、基 礎的な科学研究を導くよい研究課題の もっとも豊かな土壌なのである。 A 政治経済学分野における意思決定 論 しかしながら、同様に好ましくない 正反対の誤りもある。すなわち基礎研 究は、政策問題に直接かつ明白に関連 をもつときにのみ、推進する価値があ るという考え方の誤り、これである。 現在では、少なくとも自然科学に関す るかぎり、このような誤った考え方が 広く受け入れられることはないであろ う。われわれは過去3世紀あるいはそ れ以上の間、自然法則について厳密か つきわめて成功裡に研究を進めてきた が、このような研究の多くは、単に理 解するために行われたのであり、また 複雑性の中に潜む秩序の美しさを見出 すために行われたのである。われわれ はときに、現実の人間にきわめて重要 であると思われることに関して、永い 探求の結果、まことに「大したことの ない(idle)」真理に到達するのをみる ことがある。ここでこの点を議論する のに時間をさく必要はないであろう。 なぜなら科学者はそのことを知ってい るし、技術者や医者もそれを知ってい るからである。また国会議員も、街角 の男もそれを知っているからである。 しかしこのような当たり前のことが 経済学の分野で、当然と思われるほど 広く知れわたっているかどうかについ ては、私は確信がもてない。そうでな ければ私は、企業の理論とその周辺を 含む意思決定過程の記述理論が、なぜ 弱々しくかつ他に遅れてしか発達しな かったのかを説明することができない し、またその研究者の、大部分とはい わないまでも、多くが経済学以外の分 野一社会学、心理学、さらには政治 学-から参加していることの事実を 説明することもできないのである。経 済学におけるいく人かの著名人たち ーたとえば、Edward Mason, Fritz Machlup, Milton Friedman らーは、 企業の理論を含む意思決定の記述理論 を、経済学の枠外に位置づけてきた (もっと正確にいえば、その枠外に経 済学を設定した)し、またそれが真の 経済学的研究課題にきわめて近い関係 をもたないかぎり、それをまるっきり 放置してきたのである。 かくして、企業の行動理論に関する 1952年のPapandreouの展望論文をコ メントするにあたり、Masonは、声高 に次のように述べたのである。 ……経済分析に対するこの論文の貢 献は本当に大きいものであったのであ ろうか? ……この批評論文の筆者は 「経済分析の目的にとって」、この新し い企業概念が、古くからある企業家概 念より、明らかに優れていることを主 張するのに自信をもてないに違いない。 (pp. 221-222) また同様の調子でFriedmanは、理 論における現実主義に対し、その有名 な論争点を次のように要約している。 完全な「現実主義」は明らかに達成 不可能である、また理論が、「十分に」 現実的であるかどうかは「当面の目的 にとって」十分妥当な予測をするかど うか、あるいは他の理論の予測より いっそう正確な予測をするかどうかみ ることによってのみ、その決着がっけ られるのである。(1953, p. 41) これら2つの引用文に暗黙のうちに 含まれている「当面の目的」という表 現こそ、実証的な政治経済学の意思決 定論的基礎を与えるものであり、かつ また規範的なそれの基礎を与えるもの ともなっている。 MasonやFriedman の見解によれば、企業組織の脈絡で合 理的な人間行動を基礎研究することは それが当面の目的に大きく貢献しない かぎり、(定義により)経済学-す なわち政治経済学-の領域に含まれ ないのである。このことはときに、次 のような内容を意味すると解釈される 場合さえある。すなわち、マイクロの 現象について綛験的な予測値が、観察 データとほとんど一致しないことがわ かっても、意思決定の経済理論はなお 誤まりではないということができる。 と。そのような理論は、政治経済的に 重要な事項について、特に集計観察上 矛盾が見出されないならば、それは依 然として「十分に」現実的であると解 釈されるのである。かくして、経済的 行為者は最大化に関係すると熱心に主 張する経済学者が、自らの理論を評価 する場合には、考え方を転換し満足化 主義者になってしまうのである。彼ら は、経営者は最大化すると信じている が、その反面自分たちが満足化するこ とも知っているのである。 理論に対し満足化の原理を適用する ことは、ときに、オッカムのかみそリ (Occam's Razor)すなわち「あてはま る理論でしかももっとも単純なものを 受け容れよ」に反すると言われたこと がある售 しかしオッカムのかみそり は、双刃である。叙述の簡潔性は、理 論の簡潔性の唯一の尺度であるわけで はない。オッカムは、現象を説明する のに必要以上の仮説はつくらない (Essentia non sunt multiplicanda praeter necessitatem)という考えをもって自 分自身のルールと理解したのである。 利潤あるいは効用最大化の理論は、私 か後で議論するような満足化の理論よ りも、はるかに簡潔に表現することが できる。 しかし前者は後者よりも、人 間という認知システムについてはるか に強い仮定をおくのである。 したがっ てここの例では、かみそりの双刃はそ れぞれ反対方向に切れるのである。 オッカムの原則をどちらの方向で解 釈しようとも、2つの理論が同じ予見 を導かないかぎり、両理論間の選択に 際し、簡潔性を云々してもそれは第二 義的な意義しかもちえない。 したがっ てわれわれは実証的な決定理論が取り 上げていると思われる現象の考察に立 ち戻らなければならない。これらの現 象には、意思決定者に関する微視的レ ベルのものと、政治経済学に関する集 計レベルのものとの双方が含まれる。 B 内発的利害追求の意思決定論 「経済学」という言葉の定義は、も ちろん重要ではない。ハンプテイ・ダ ンプテイ(Humpty Dumpty)のように われわれは自分で意味したいものは、 これを何でも言葉にすることができる しかし経済学者が関心をもつ専門領域 の範囲は重要である。経済学は政治経 済にかかわる集計現象のみに関係があ るという狭い見解を採用すると、合理 的な人間行動に関する豊かな領域全体 を、経済研究の対象に適していないと して、定義から除外してしまうことに なる。 私は、企業の行動理論が政治経済学 の建設に「これまで」かかわって「こ なかった」という見解に賛意を表して いるようにはみられたくない。私はむ しろその関連性について、すぐに、多 くのことをいわなければならないと 思っている。 しかし今ここでの私の主 張は、かたちの上で条件法的叙述と なっている。すなわち「たとえ」その ような関連性についていま証拠がない としても、企業における人間行動は、 すべての現象に説明が必要なようにな んらかの説明を必要とする、そういっ たきわめて興味深い綛験的現象をつ くっている、と。 したがって、もしも 他の諸科学の歴史から推測するなら、 説明がつくようになるにつれ、実際に 応用される領域との関連が遠からず明 らかになるであろうと期待しうるので ある。 ときに次のような指摘がなされるこ とがある(Friedman, p. 14)、すなわち 企業の古典理論のもとになっている合 理的行動についての仮定が正しいか否 かは関係がないばかりか、なにか直接 的な方法で経験的に検証しうるか否か も問題ではない、理論が正しいか否か の唯一の有効な判定基準は、その仮定 が巨視的レベルで許容可能な程度に正 しい予見をするか否かに存するのであ る、と。このような考え方は、もしわ れわれが顕微鏡をもっていないで、そ の結果、微視的レベルの行動が直接に 観察できないような場合には、もちろ ん正しい。しかしわれわれは現に顕微 鏡をもっているのである。もし欲する なら秒単位にでさえ観察できる、そう いった意思決定行動の観察技術が数多 く存在している。われわれの経済理論 を検証するのに、計量経済学という製 粉所に送られる穀物のような、粗い集 計的な時系列データに頼る必要はない し、また企業の財務諸表にさえ頼る必 要がない。 経済的な意思決定や企業についての 古典理論は、意思決定主体の具体的行 動について、きわめて特殊な検証可能 な予見を行っている。行動理論はそれ とはまったく異なる予見を行っている これらの予見は、観察によって直接検 証をされうるから、もしそれらの予見 が的中しなければ、集計現象に関する 予見が誤っている場合と同じように簡 単に、いずれの(あるいは両方の)理 論が誤りであるかがわかるであろう。 C 意思決定論に関する集計レベルで の検証:限界理論 微視的経済理論は、集計現象の予見 を通じてテストされうるのみであると いく人かの経済学者が間違って考えて いるとしても、われわれは逆に、集計 現象とは、意思決定論を検証すること に関係がない、という誤った考えに陥 ることは避けるべきである。 とくに、 完全合理性の理論から導かれるが、し かし合理性に関する行動理論から導け ないような、そういった重要かつ「経 験的に証明された」集計レベルでの予 見はありうるのであろうか。 全知的合理性に関する古典理論は、 著しく単純でかつ美しい。そのうえそ れは、(正しくても正しくなくても) 人間行動がいかなるものであるかを観 察するのにひじ掛け椅子にすわったま ま、その行動を予見させてくれる。そ の予見能力のすべては、人間行動が引 き起こされるその環境の特徴からもた らされるのである。環境は、完全合理 性の仮定とともに、人間行動のあリ方 を完璧に規定するのである。合理性的 選択の行動理論一限定された合理性 の理論-は、この種の単純さを持ち 合わせていない。 しかしその代わり人 間能力に関する仮定は、古典派理論の それよりも、はるかに緩い。 したがっ て、行動主体たる人間の知識と計算能 力について、わずかなそして現実的な 要求を設定するだけである。 しかしま たそれは、行動主体が限界単位で費用 と収益を等しくするだろうと予見する ことはできない。 D 限界論者の予見は検証されてきた か これまで、行動論的競争相手に対し 企業の古典派理論を多かれ少なかれ最 終的に支援するような、そういった数 多くの綛験的現象が提示されてきた (Dale Jorgensen, Calvin Siebert を参照)。 しかし依然として、個人や企業が実際 に限界費用を限界収益に等しくしてい る、という直接的な観察はどこにも見 出されない。古典理論について綛験的 に証明されたことは、ほとんど常に直 接観察よりも基礎の弱いものである。 最も重要な4つの例をここで検討して みよう。すなわち需要曲線は一般に負 の傾斜をもっているという事実、計測 されたコブーダグラス関数はおおむね 一次同次であるという事実、規模に関 する収穫逓減の事実、経営者の報酬は 企業規模の対数で変化するという事実 これらはいったい本当に事実なのであ ろうか。またその証拠となっているも のは、満足化理論に対し最大化理論を 支持しているのであろうか。 負の傾斜をもつ需要曲線 消費者が実際に彼らの購入品を、彼 らの効用が最大化するよう、したがっ て限界効用を均等にするよう、分配し ているという証拠はまったく存在しな い。経験的データが確認したことは、 需要曲線は一般に負の傾斜をもってい るということである。(この「明白な」 事実さえ、Henry Schultz が何年も前に 示したように、証明するには特別の工 夫が要るのである。)しかし負に傾斜 する需要曲線は、効用最大化の行動か らよりも、むしろ限定された合理性の 仮定を満たす行動から、広く導くこと もできるのである。 Gray Becker は、 彼は古典派理論の反対者とはめったに みられることはないが、そのような場 合を、適切に次のように言い表してい る、すなわち、 経済学者たちはすでに永い間、家計 の実行可能集合あるいは機会集合のあ る変化が、いかなる意思決定ルールが 用いられているかに関係なく、同じ反 応を引き起こすことに気づいていた。 たとえば実質所得の減少は、少なくと もある1つの財への支出額を減らすこ とは確かである。……しかし相対価格 の変化から生ずる機会の変化もまた、 意思決定ルールのいかんにかかわらず、 あるシステマティックな反応を引き起 こす傾向があることは、ほとんど理解 されていない。とくに伝統的理論の基 本定理一需要曲線は負に傾斜してい るーは大抵、機会の変化のみによっ て生ずるのであり、多くの場合、意思 決定ルールには無関係である(p.4)。 後にBeckerはもっとはっきりと、 「効用最大化のみならず、その他多く の意思決定ルールが、多様な非合理性 的行動と結びついて負に傾斜する需要 曲線を導くことになるが、それは価格 変化の影響が機会に対して及ぶからな のである」(p.5)趾といっている。 生産関数の一次同次性 古典派の仮定がそれに対し必要条件 ではないが十分条件を与えているもう 1つの観察例は、計測されたコブーダ グラス生産関数において、生産物に占 める労働分配率と労働要素指数とが同 等であるという点である(Simon & Ferdinand Levy 参照)。計測されたコ ブーダグラス関数は、通常は一次同次 でかつ労働分配率とほぼ等しい労働指 数をもっている。 しかしこのような発 見を古典派理論への強力な証拠とみな すことはできない、なぜなら、線形の 会計厄等式(製品の価値は労働費用プ ラス資本費用に等しい)から実際に得 られたデータに、コブーダグラス関数 を誤ってあてはめても、容易にそれを 導くことができるからである(E.H. Phelps-Brown参照)。同じようなコメ ントはSMAC生産関数にもあてはま る(Richard Cyert & Simon, 1971)。か くしてこの綛験的事実の発見からは、 古典派理論および行動理論のいずれに より説得力があるかについて、なんら 特定の結論を出すことができず、双方 が同等にデータと合致するのである。 長期費用曲線 これと幾分異なっているものが、企 業の長期費用曲線の場合であるが、そ れは古典派理論では競争均衡が安定的 であるためには、長期費用曲線はU 字型をしていなければならないという ものである。限定された合理性の理論 は、このようなことを予見することは しない一幸いなことに、観察された データから費用曲線が実際一般にU 字型をしていることはきわめて疑わし いからである。多くの産業から得られ た証拠では、曲線の右端で(at the high-scale ends of curves)費用は本質 的に一定であるか、もしくは減少さえ している(Alan Walters 参照)。この ような事実発見は、企業の成長と規模 に関する確率過程モデル(Y. Ijiri & Simon参照)とは両立しうるが、しか し古典派理論の静態的均衡モデルとは 両立しえない。 経営者の給与 企業のトップ経営者の平均給与は、 企業規模の対数とともに増大する (David Roberts 参照)。この発見は、 利潤最大化に関する古典派理論の仮定 から導き出されたものであるが、これ は経営者能力の分布についてきわめて 特殊な場当たり的な仮定の助けを借り てのみ成り立つものである(Robert Lucas, 1978参照)。同じような観察結 果は、簡単な行動理論によっても示さ れるが、行動理論の場合には単に、管 理者の給与が直属部下の給与に対し一 定の平均比率になるよう作用する、そ ういった文化的に規定された単一のパ ラメータが存在することを仮定するだ けなのである(Simon, 1957参照)。経 営者給与に関するデータの場合、観察 結果を説明する行動モデルは、同じ結 果を説明する古典派モデルより、(外 生変数についての仮定に関するかぎ リ)実質的にいっそう簡単になってい る。 要約:区別できない諸現象 結論的に論点を主張するには、ここ に取り上げたものよりはるかに多くの 文献を回顧してみなければならないで あろう。しかし私は説明のために、限 定された合理性の理論よりも効用最大 化あるいは利潤最大化の理論を必要と するような特殊な現象は、集計データ では簡単に観察されてこなかったと 思っている。事実、最後の2例が示し ているように、いくつかの綛験的な観 察結果を取り扱うのに真に困難に直面 しているのは、行動理論よりもむしろ 古典派理論なのである。 古典理論の失敗 古典派理論は、不確実性や憶測現象 が中心的な役割を果たさないような状 況を広く扱えるようになるまではー それはすなわち、比較的安定的で競争 的均衡状態からあまり乖離していない 場合の経済行動を取り扱うことなので あるがーどうにか手直しをすること ができるかもしれない。 しかしながら 不確実性下ならびに不完全競争下の意 思決定を含む状況を検討するとき、古 典理論を限定された合理性のモデルで 置き換える強い積極的な事態が現れ始 める。古典理論はこれらの状況を取り 扱いうるようにつくられておらず、ま た今までそれらを納得のいくよう取り 扱ったこともなかったのである。一方 主観的な期待効用の着想を取り入れた 統計的決定理論と、他方におけるゲー ムの理論とは、この種の状況を概念的 に明らかにするのに大いに貢献したが しかしそれらは実際の人間行動につい ては満足のいく説明はしなかったし、 また大抵の場合、人間やコンピュータ が限られた計算能力しかもたなくとも 実際に使用できるような、そういった 規範理論さえ満足に描き出すことをし なかったのである。 私は限定された合理性の記述理論を 積極的に支持する話を後でもっとしな ければならないと思うが、しかしまず は経済科学のもう1つの分野、すなわ ち第二次大戦後急速に人気を博した規 範的意思決定論の領域に、話題を転換 したいと思う。 E 規範的意思決定論 意思決定論は政治経済学の基礎をつ くったり、それ自体本質的におもしろ い現象を理解したり説明するためだけ ではなく、企業や政府の意思決定者に 直接に助言を与えるためにも、研究さ れるのである。私にははっきりしない いくつかの理由で、第二次大戦前から この地域に少しずつ定住が見られるよ うになった。そこでの住民は、主に産 業技術者、行政研究家、企業の専門職 のような人々であったが、そのいずれ も特に経済科学の仲間というわけでは なかった。著名な先駆者には、数学者 でありまたディジタル・コンピュータ の発明家であったCharles Babbage、 技術者のFrederick Taylor および経営 者のHenry Fayol などが含まれていた。 ほとんど見捨てられていたこの地域 は、第二次大戦中に、軍の管理やロジ スティックスにかかわりをもっていた 科学者、数学者、統計学者達によって 再発見され、新しく「オペレーション ズ・リサーチ」あるいは「オペレー ション・アナリシス」とよばれるよう になった。オペレーションズ・リサー チの研究者は社会科学の世界からかな り離れていたため、その領域に入りこ もうとしていた経済学者は、彼ら自身 の植民地をつくらなければならなかっ たが、それを彼らは「マネジメント・ サイエンス」とよんだのである。かく して現れた2つの専門家組織は、多く の共通努力によって友好的に連合しな がらも、それぞれの独自性をもちつづ けているのである。 最適化の技法は経済学からマネジメ ント・サイエンスに移され、リニア・ プログラミングとして有名な新しい最 適化の技法が発明され開発された。 Dantzig, Kantorovich, Koopmansといっ た人々が、この用具の初期の開発段階 で著名である。 現在、マネジメント・サイエンスで 使われている意思決定用具の著しい特 徴は、それら用具で実際に意思決定し たり、あるいはある決定を推奨したり することができなければならないと同 時に、インプットには現実の世界で利 用できるような綛験的データを取り入 れたり、さらには当時の卓上計算機や その後のコンピュータを用いて無理な く計算したりすることができるように なっていなければならない、という点 である。これらの領域では、この世の 中の事象を完全な確かさで知っていて ーあるいは最悪の場合でも、不確実 な事象に対し完全な確率分布をもって いて一最適化する企業家といったよ うな理想的なモデルは、ほとんど役に 立だない。そのため、いかに厳しい近 似化や単純化が強いられようとも、モ デルは実際に計算できるようにつくら れなければならない。 このような厳しい条件のもとでモデ ルをつくる場合、従来から2つの方法 があった。第1は、最適化ということ はそのままにしながらも、単純化を大 いに進めることによって、最適値が (単純化された世界で!)計算できる ようにすることである。第2は、適当 な計算コストで十分納得のいく決定が できるよう、満足化モデルをつくるこ とである。最適化することを諦めるこ とによって、現実世界の豊富な諸特性 をモデルの中に保持することができる 言い換えれば意思決定者は、単純化さ れた世界に対し最適解を見出すか、あ るいはいっそう現実的な世界に対し満 足解を見出すか、いずれかによって自 分自身を納得させることができる。一 般にはいずれのアプローチも他に優越 するものではなく、両者はマネジメン ト・サイエンスの世界で共存し続けて きたのである。 かくしてマネジメント・サイエンス で発達してきた理論体系は、記述的な 意思決定論の体系と意思決定の方法に 対しきわめて重要な関心をもつことで 共通しているのであって、意思決定の 結果についての関心事から共通項をも つというわけではないのである。私か 別のところ(1978b)で述べたように、 これらの理論は「何を」決定するかに ついての理論というよりも「いかに」 決定するかの理論なのである。 規範的な経済学がモデル構築をする 場合、計算に対する考慮をどのように 行っているかの1例を、私か参加した 研究(Charles Holt, Franco Modigliani, John Muth & Simon参照)から引用し てみよう。不確実で変動的な製品需要 に直面するとき、企業は在庫保有のコ ストを負担することによって生産およ び雇用水準を円滑かつ安定させること ができる。その場合コストが適当であ るためには、どのような意思決定ルー ルを用いればよいのであろうか。形の 上ではこれはダイナミック・プログラ ミングの問題であって、これを解くに は通常ほとんど耐え難いほどの計算が 要求される。 この困難を克服する1つの方法は、 計算が容易になるよう問題を特殊なか たちにすることである。もしも企業の 費用関数が二次式のかたちをとると仮 定するならば、最適決定ルールは決定 変数について一次関数となるが、この ような式であれば、コスト・パラメー 夕に関し簡単に計算することができる 同様に重要なことは、将来の売上げが 不確実な場合、確率分布の期待値だけ が意思決定ルールの中に入り、それよ り高次のモーメントはその中に入って こないという点である(Simon, 1956 b)。かくて費用関数を二次式と仮定す ることで、本来の問題を容易に計算可 能なものへと転換したわけである。も ちろんこのような解は単純化された仮 定の世界では最適決定を与えるのであ るが、しかしそれは、二次関数で近似 しようとした現実世界の意思決定問題 に対しては、せいぜいのところ満足解 を与えるにすぎないのである。原則的 には解けない最適解が、実際に解ける 満足解へと置き換わったのである。 もしも人間という意思決定者が、限 定された計算能力と不完全な情報とに 基づいて意思決定する限りでの合理性 をもつというのであれば、そのときは 規範的な意思決定論と記述的な意思決 定論とが近い関係をもつことになる。 双方の研究領域は主に実質的な合理性 よりも手続き的な合理性にかかわりを もっている(Simon, 1978a)。最適決 定および満足決定を計算する新しい数 学的用具が発見されるにつれ、またコ ンピュータがますます強力なものにな るにつれ、規範的な意思決定論が与え る処方箋の内容は変化してくるであろ う。 しかし新しい処方箋内容が普及す るにつれ、企業内で実際に観察される 意思決定の仕方も変わってくるであろ う。そしてこれらの変化が、やがてマ クロ経済レベルにある効果を及ぼすこ とになるかもしれない。たとえばアメ リカ企業の平均在庫保有高は、発注量 と発注時期とを計算するフォーマルな 手続きの導入により、顕著に減少して きていることが認められている。 限定された合理性の特徴 企業の行動理論の主要先駆者は、通 常、制度学派とよばれる伝統である。 しかし、この項目のもとにまとめられ る欧米の諸著作に多くの共通点があり またその著者達の間に見解の一致があ る、とみてよいかどうかははっきりし ない。せいぜいのところ彼らが共有し ている信念は、経済理論は市場取引が 行われている場である社会的法的構造 を考慮に入れるよう定式化し直されな ければならない、ということである。 こんにち、新古典派的価格理論の中に 制度主義者の考えを入れ込むようない ろいろな発展が、経済学の中に見出さ れるのである。この点もう少し後でよ リ詳しく述べなければならない。 アメリカの制度派学者の中でも、 John R.Commonsの名はとりわけ有名 であるーおそらく最も有名であろう Commonsの難解な著作(たとえば 『制度派経済学(Instit凶onal Economics)』)は、その用語を主に法 律から借用し、また行動の基礎単位と して「取り引き(transaction)」という 概念を使用しようとしたのである。私 はここでCommonsの考え方を回顧す ることはしないが、ただ彼の考えが組 織的意思決定に関する私の初期の研究 に幾多の洞察を与えてくれたことだけ は述べておきたい(拙著 Admin丿strative Behavior p.136参照)。 CommonsはまたChester Barnard の 考え方にも多大な影響を与えたが、 Barnardはきわめて知性的な企業経営 者であり、ニュージャージー・ベル電 話会社の社長としての綛験から、また その他の企業、政府機関、非営利団体 等の役員としての綛験から、『経営者 の役割』という意思決定に関する深遠 な著書を著したのである。 Barnardは 独創的な理論を提起したがそれは、組 織における権威機構の本質および従業 員の組織目標を受容する際の動機的基 礎(いわゆる「誘因一貢献」の理論) について、綛験的研究をふまえ理論化 したものである。彼はまた組織的意思 決定過程を現実に即して描きだしたが それを彼は「機会的(opportunistic)」 と特徴づけている。『経営行動 (Administrative Behavior)』の中で Barnardの著作に私か何度も論及して いるのは、不十分ではあるが、組織に 対する私の見方に彼の影響が著しかっ たことの証拠である。 A 記述理論を求めて 1934年から1935年にかけて、ミル ウォーキーの公共レクリエーション施 設の管理の実態調査をしていたとき、 私は頭をひねらされるような現象にぶ つかった。なお、当時同施設は、教育 委員会と市の公共土木部門とが共同で 管理していた。2つの機関の長はレク リエーション活動の目的について意見 が一致しているようであり、またそれ ぞれ自己の勢力圏の拡大を目指して競 い合っているようにもみえなかったの であるが、それにもかかわらず一方施 設の維持と他方管理業務との間の資金 配分をめぐってたえず意見の不一致と 緊張とが存在していた。いったいなぜ 彼らは、経済学の教科書が示唆するご とく、一方の活動の限界成果を他方の 活動のそれと単純に均衡させなかった のであろうか。 さらによく検討してみると、彼らが 限界単位で支出額を均等にしなかっだ のは彼らにはそれができなかったから であることが明らかとなった。限界生 産性を定量的にそこから引き出せるよ うな、測定可能な生産関数は存在しな かったし、また双方の責任者がもって いるような生産関数の量的概念は、互 いに両立しうるものではなかったので ある。公共土木事業の管理者にとって みれば、遊び場(playground)は、混 雑した灰色の都市にある緑のオアシス として役立つ物的施設なのであった。 またレクリエーション担当の管理者に とっては、遊び場は、子供たちが大人 たちの保護のもとみんなで一緒に遊ぶ 社会施設なのである。 このような場合、人間はいったいど のようにして合理的な意思決定を行う ことができるのであろうか。どのよう にして限界計算を適用するのであろう か。あるいはまたもしもそれを用いな いとすれば、その代わりにどのような ものを用いているのであろうか。 ミルウォーキーで観察された現象は 人間が意思決定する場合に至る所で直 面するものである。組織論ではそれは 「下位目標への一体化(subgoal identification)」と通常よばれている。 組織目標を操作的に行為と結びっける ことができない場合(すなわち生産関 数が具体的な用語で定式化しえないと き)、意思決定は行為と結びつきうる 下位目標に照らして下されるであろう これらの下位目標については唯一の決 定があるわけではない。それの定式化 には、意思決定者の知識、経験、組織 環境といったものが影響を与えるであ ろう。このような曖昧さの中で、その 定式化はまた、微妙にあるいは明白に 意思決定者の私心や権力欲によって影 響されるであろう。 このような現象は、社会的な意思決 定や社会的な問題解決の場合と同様、 個人の場合にも頻繁に起こってくる。 今日「問題表現(problem representation)」の題目のもとに、そ れは認知心理学の中心的な研究関心と なっている。ある特定の刺激環境と、 ある特定の既得知識とをもっている場 合、人間は複雑かつぼう大な情報をど のように組織して、解決努力が実を結 ぶように問題を定式化するのであろう か。もしNewtonがリンゴをもってい たとして、彼はいったいどのようにし てそれが地球に引っぱられるものとし て表現するようになったのであろうか このような現象が『経営行動』の中 心的なテーマであった。すなわちこの 研究は、「行政管理の分野で私自身の 研究に有益な用具をつくりだそうとす るこころみ」であったのである。この 著作は、実際には、1つの理論の序説 となるほどには理論化されているわけ ではなかったけれども、「意思決定は 経営活動の核心であり、経営理論を組 み立てる語彙は、人間が行う選択につ いての論理と心理とから引き出されな ければならない」という信念から書か れたものであった。それは、そういっ てよければ、問題表現に関する1つの 練習問題であったのである。 よく検討してみると、下位目標への 一体化は巨大な氷山の露出した一部で あることが明らかとなった。氷山の形 は、合理的選択に関する古典派モデル と対比するとき、最も適切に評価され る。古典派モデルは、選択に際し開か れているすべての代替案について知識 があることを要請するのである。それ は、それぞれの代替案から得られる結 果について、完全な知識があるか、あ るいはそれを計算しうることを要求す る。それは、意思決定者がそれらの結 果を現在および将来において評価する とき、それが確定条件下にあることを 要求する。それは、結果が互いにいか に多様かつ異質であろうとも、ある首 尾一貫した効用の尺度でそれらの結果 を比較しうることを要求する。かくし てそのときの課題は、古典派モデルを 代替案が探索されなければならないと き、あるいは限られた計算能力と外界 の不確実性との双方の理由から特定代 替案の選択結果がきわめて不完全にし かわからないとき、さらには異質の代 替案を比較する際意思決定者が普遍的 かつ首尾一貫した効用関数をもってい ないとき、これらの場合に、どのよう に意思決定が行われうるのか(あるい は実際に行われたのか)を記述するよ うなモデルで、置き換えることであっ たのである。 その結果、取り扱いにくい決定問題 を取り扱いやすいものにする、かなり 汎計匯のある、また広範に使われる、 いくつかの手続きが発見された。その 1つはすでに述べたところの、最適な 選択をする代わりに満足のいく選択を 求めることである。もう1つは、抽象 的で大域的な目標を、その結果が観察 され測定されうるような、具体的な下 位目標に置き換えることである。第3 は、意思決定の仕事を多くの専門家の 間に分割し、それらを伝達機構と権威 構造とで調整することである。これら はいずれも、「限定された合理性」と いう一般的な題目に適するものであり また、生産活動のためおよび統治活動 のために人間がつくりだした現在の精 巧な組織は、複雑性と不確実性とに囲 まれて理解し計算する人間能力の限界 に対処するための、1つの機構として とらえてはじめて納得がいくのである 限定された合理性という着想に関す る、このような莫然としたしかも一般 的な当初の定式化は、2つの方向で精 緻化される必要があった。すなわち理 論の形式をいっそう整えることであり また理論の主要内容を綛験的に証明す ることである。『経営行動』出版後の 10年間に、これら2つの方向でかな りの進歩がみられたが、そのうちのい くつかは私の同僚と私自身とによって またそのうちの多くは同じ時代精神を 共有する他の研究グループによって進 められたのである。 B 実証的研究 組織的意思決定に関する実証データ の主要な源泉は、直接的な「人類学的 な」実態調査であったが、それは意思 決定手続きの記述書から得られたり、 特定の意思決定事例を観察することか ら得られるものであった。会計データ が大企業の意思決定過程でどのように 利用されているかを研究した Guetzkow, Kozmetsky, Tyndallとの共同 論文(1954)や、多くの異なった企業 で特定の非定型的な政策をどのように 決定するかに関する、Richard Cyert, James March およびその他の人々との 一連の研究(Cyert, Simon and Donald Trow参照)は、その具体例である。 後者の線に沿った業績はCyertと Marchによって大いに進められかつ拡 張されたが、それとともに経済学に対 するその理論的意味づけも、彼らの重 要な著作である、『企業の行動理論』 の中で探求されたのである。 ほぼ同じころ、経営政策の事例集か ら経営者による問題状況の把握の仕方 に関するいくつかのデータを、偶然入 手できたことから、DeWitt Dearborn と私は、下位目標への一体化を示す認 知的基礎を実証的に解明することがで きた。この現象はかつてミルウォー キーのレクリエーション施設の研究に 際し、私に強い印象を与えたもので あった。事例にあった企業の場合には 主要問題に対する経営者の認識は、ほ とんど彼ら自身の仕事綛験一販売お よび経理担当の経営者は販売問題に執 着したし、製造担当経営者は内部組織 問題に執着したーによって決定され たのであった。 もちろん組織的意思決定過程につい ては、一握りの研究で済まされるより もはるかに多くの事柄が学ばれ検証を されなければならない。その後ヨー ロツパやアメリカでかなり多くの研究 が進められたが、大体のところこの分 野は依然としてまだ十分には開拓され ていない(参考のためMarch, 1965 : E Johnsen, 1968 : Eliasson, 1976を参 照)。たとえば社会心理学における実 験室での実験に比べ、この分野の研究 が比較的無視されている理由のうちの 主なものは、これらの研究の精練度を 高めるのにきわめて多くの費用と時間 とが掛かるからであり、また研究方法 が素朴であるからでもあり、さらには 意思決定行動に納得のいくかたちで接 近することがなかなか難しいからであ る。経済学でのこの方面の研究にはい まだに、Simon Kuznets やMIT-SSRC- Penn計量経済学モデルの業績による 他の領域でみられたような、事実追求 の粘り強さ、一徹さといったものが根 づいていないのである。 C 理論的研究 理論面ではとくに3つの問題を解明 する必要があるように思われた。第1 に仕事の遂行を確保する仕組みとして いったいどのような状況のときに、他 のかたちの契約よりも雇用関係が選好 されるのか、第2に古典的な企業の理 論とChester Barnard によって初めて提 起された組織均衡の理論とは、どのよ うな関係にあるのか、第3に複雑さゆ えに全能だりえない状況下で人間が合 理的な選択をしようとする場合、主に どのような特徴が現れてくるのか。こ の3点である。 雇用関係 現代の産業社会の基本的な特徴の1 つは、大部分の仕事が、商品を生産す る個人によってでもなく、また個人的 な請負業者によってでもなく、企業に 雇用されることを受容しかつ雇用者と の間に権威関係を結ぶことを受容した 人達によって、遂行されているという 点である。この場合、権威を受容する ということは、すなわち、少なくとも ある無関心圈あるいは受容圈の範囲内 で、被雇用者が雇用者によって彼の行 動が決められることを容認することに 他ならない。このような仕組みは、特 定の財あるいはサービスを入手する場 合の契約と比べ、どのような利点があ るのであろうか。この世の中の仕事の 多くが、なぜ大規模かつ階層的な組織 によって遂行されるのであろうか。 分析の結果示された(Simon, 1951) ことは、以下の2つの要因が結びつい て、雇用契約が他のかたちの契約より も選好されると説明された点である。 すなわち、いくつかある将来の行動の うちどれが雇用者にとって有利である のかが不確実であること、および被雇 用者のもつ(受容圈の範囲内であれ ば)将来の行動のうちどれを行おうと かまわないという考え方が、雇用者の それよりもいっそう大きいこと、これ である。たとえば秘書が雇われる場合 雇用者はどの手紙を彼女にタイプさせ るかがまだはっきりせず、かつ秘書の 方もあの手紙よりもこの手紙をタイプ したいといった好き嫌いを特にもたな い場合である。このようなとき雇用契 約が結ばれると、被雇用者にとっては ほとんど犠牲を払うことなく、しかも 雇用者にとっては非常に便益の多いか たちで、意思決定を延期することがで きるのである。このような説明は、 Jacob Marschak が流動性選好に対して 与えたものと酷似している。つまり不 確実性の下では、資源を流動的、弾力 的なかたちで保有することが有利なの である。 組織均衡 Barnardはかつて、組織の参加者 (従業員、投資家、顧客、供給業者) を喜んでシステム内にとどめておくよ うな動機づけの観点から、組織存続の 現象を説明したことがある。私は、 『経営行動』の中でこの概念をいっそ う発展させることによって、誘因と貢 献のバランスに関する1つの動機づけ 理論をつくりあげた。この場合、誘因 とは、組織が参加者に与えるものであ り、また貢献とは、参加者が与える組 織への資源である。 この理論の定式化の結果(Simon, 1952 − 1953)明らかにされたことは、 企業の古典理論にきわめて類似する点 もあるが、しかし重要かつ示唆に富む 相異点も存在するということであった 両理論を比較すると、各誘因・貢献の 関係は、企業にとっての供給スケ ジュールに対応していた。また存続の 条件は、正の利潤の条件に対応してい た。 しかし、一方企業の古典理論では すべての利潤は、所有者という特定の 参加者にだけ発生すると想定されたが 他方組織論では、剰余というものを もっと対照的に取り扱った。ただしそ れがどのように配分されるかについて は特に予見することはしない。かくて 後者の理論の場合、独占的競争あるい は不完全競争状況下で、剰余の取り分 を巡って参加者間(たとえば労働者と 資本家との間)に交渉が行われる余地 を残すことになったのである。存続条 件一最大利潤というよりも正の利潤 一もまた完全合理性の仮定からの訣 別を可能にした。 限定された合理性のメカニズム 『経営行動』では、限定された合理 性は主に、残余的な範疇として特徴づ けられていたーすなわち合理性は、 全知的でありえないとき限定されてい る、と。そして全知性がもてないとい うことは、主として、すべての代替案 を知るというわけにはいかないこと、 外生的な事象について不確実性がある こと、および結果を計算することがで きないことを意味していた。そこで限 定された合理性という条件の下で、選 択のメカニズムをより積極的かつ形式 を整えたかたちで特徴づけることが必 要であった。その方向にむかっての最 初の歩みは2つの論文(Simon, 1955 : 1956a)を通じて試みられた。 特徴を明示するのに中心的な概念は 「探索(search)」と「満足化 (satisficing)」の2つである。もしも、 当初意思決定者に選択のための代替案 が与えられていないならば、彼はそれ をまず探索しなければならない。かく して限定された合理性の理論は、探索 の理論と結合されなければならない。 この着想は後に、意思決定場面の例と して中古車の購入をとりあげた、きわ めて影響力の強い論文の中でGeorge Stiglerが、独立に展開したものである この場合Stiglerは、探索理論を、古 典的な効用最大化という古い皮袋の中 に注ぎ返したのである。すなわち探索 の費用は探索の限界収入に等しい、と これと同じ結果を私は1956年の論文 で示したが、その場合私は、家の販売 過程を例としてそれをダイナミック・ プログラミングで定式化することに よって示したのである。 しかし、すでに指摘したように、効 用最大化は探索図式に不可欠のもので はない一幸いなことに、あまりに複 雑で大域的な合理性を行使できないよ うな決定場面で、探索図式は、意思決 定者が探索の限界費用と限界収入を推 定しうることを、要請しているからで ある。それに代わるもう1つの考え方 は、意思決定者がある代替案をみつけ たとき、それがどの程度好ましいもの であるかについて彼はある「要求 (aspiration)」をもっていると想定する ことである。彼は、選択に際し要求水 準を満たすような代替案がみつかれば ただちに探索活動をやめ、その代替案 を採用する。私はこのような選択様式 を「満足化(satisficing)」とよんだの である。このような考え方は、Lewin その他の研究者たちによる、要求水準 についての、綛験妥当な心理学的理論 に基づいている。心理学研究が明らか にしてきたように、要求水準は静的な ものではなく、変化する綛験に相伴う かたちで上昇したり下降したりする傾 向をもっているのである。多くの良い 代替案をもたらしてくれる順境のとき には、要求水準は上昇し、逆境のとき には要求水準は下降する。 もしも探索費用をも考慮に入れたう えで要求水準に動的に適応するような 選択をすれば、それは最適な選択と同 値になるだろうということは、長期の 均衡ではありうることである。 しかし 探索と満足化の理論について重要な点 は、不可能なこと一最適化の手続き を実行することーをせずに、妥当と 思われる計算量ときわめて不完全な情 報のもとで、選択が実際にどのように 行われるかを示したことなのである。 D 要約 かくして1950年代の半ばまでに、 限定的合理性の理論は、古典派的全知 的合理性に代わるものとして提起され ることとなった。その時期までにまた 多くの重要な実証研究が行われたが、 それらは企業における実際の意思決定 は、完全合理性の仮定にではなく、限 定的合理性の仮定にこそよくあてはま ることを示したのであった。そしてさ らにまたそのころまでに、新しい理論 の主要な構成要素一権威や雇用関係 の本質、組織均衡、探索と満足化のメ カニズムーもフォーマルに明らかに されたのである。この論文の残りの部 分で私は、意思決定論のその後の発展 を追跡するが、その場合、限定的合理 性の理論のみならずそれと競合する諸 理論の発展も含めて論ずるつもりであ る。そしてその後でさらに、新しい記 述的意思決定論の、政治経済学に対す る意味(およびその潜在的意義)につ いて注釈を加えたいと思う。 新古典派の再生 1950年代の時点で将来をみてみる と、限定的合理性の理論が経済学的思 潮の主流に大きな位置を占めることに なろうと予言しても、決して不自然で はなかったであろう。理論に対し フォーマル(formal)な構造を与える という点でも実質的な進歩がみられた し、また次第に増加する実証的資料も 新しい理論が、古典的な完全合理性の 概念よりも、はるかによく企業組織の 意思決定過程を描き出していることを 示していたのであった。 時代精神(Zeitgeist)は多くの側面 でこの方向への動きに好意的ではあっ たが、歴史はそのような単純なコース を辿らなかった。第二次大戦の最中な らびにその後、多くのアカデミックな 経済学者が直接に実務を綛験したし、 また多かれ少なかれ企業組織の中で、 実際にどのように意思決定が行われて いるかを観察する機会をもっていた。 その上、新しいマネジメント・サイエ ンスの発展に積極的であった人々も、 実務場面で現実に応用できる意思決定 手続きが開発されなければならない状 況に直面していた。これらの動きは確 かに、経済合理性に関する基礎的仮定 を、よりいっそう現実主義的な方向に 変えていくようであった。 しかしこれらの動きは、戦後の経済 学に生じた事柄のすべてではなかった 第1に方法論的基盤に関する行動科学 的立場(behavioralism)の批判から古 典派を護ろうとする厳しい反論があっ た。この方法論上の議論については、 この話の最初のところですでにこれを 取り上げた。このことに関し、いかに 考え方に深刻な相異があろうとも、そ れはかつて説得的に述べられていたし また今なおアカデミックな経済学者の 間にかなりの影響力をもっているので ある。 第2に、経済学の専門家の間に数学 的な知識と能力をもつものが急増した 結果、古典派は、特に統計的決定理論 とvon Neumann およびMorgensternに よるゲームの理論と結びついたとき、 精緻化と優雅さとの点で新たな高みに 到達することになった。 と同時に、ま たそれは、高度に様式化された形式に おいてではあるが、不確実性と不完全 情報との現象をある程度包摂するよう 拡大されることにもなったのである。 数理経済学と計量経済学との開花は、 2世代の理論経済学者に対し、彼らの エネルギーを吸い上げることになった そしてまた現実の優雅さに欠けた世界 との取り組みを遅らせることにもなっ た、あの形式的で技術的な問題に、広 い庭先を与えてきたのである。 もし私か、古典派のこれらの新展開 にあまリ批判的でないとすれば、それ は私もまたその発展の一翼を担ってき たし、またそれらを現に賞賛している し、さらにそれらがようやく取って代 わった数学以前の世界に戻っていくこ とは、私にとってきわめて不幸である と考えているからであろう。私か気が かりなのは、経済学の専門家が人間合 理性における一時に一事(one-thing- at-a-time)的な逐次的性格をかなり もっていたこと、そして新古典派的理 論、巨視的計量経済学、ならびに記述 的意思決定論の間にバランスをとって 注意を分配することができなかったよ うにみえたこと、の2点である。その 結果、人が希望し期待したほどには後 の二者に、そしてとりわけ最後のもの に、専門家の努力が多く向けられな かったのである。中心部はかつてより もいっそう人口過剰になっているのに 帝国の他の部分の肥沃な土地は耕作さ れないままになっているのである。 A 探索と情報伝達 古典派理論が、それがもつ伝統的な 限界のいくつかを克服し、さらに心理 学的な仮説を組み込むことによって行 動理論の発展を不必要なものにしよう とさえしてきたいくつかの方法のうち 3つだけをとりあげ論ずることにしよ う。第1は、探索と情報伝達とを明示 的に経済活動として導入することで あったが、それは、関連する費用や産 出量とともに、探索と情報伝達が古典 的な生産関数に組み込まれるというか たちで行われたのである。私はすでに 情報の経済学に関するStiglerの1961 年の論文と、前に引用した1956年の 私自身の論文での同じ方向への試みと については、触れてきたところである このジャンルの理論では、意思決定 者は依然として一個人である。集団に よってなされる意思決定あるいはチー ムや組織の中で行われる意思決定につ いての、きわめて重要で新しい方向は Jacob Marschak とRoy Radner とによっ て開発されたチームの経済理論である ここにわれわれは、合理的計算から現 れてくる真に組織的な現象一情報伝 達のコストの結果生ずる意思決定の専 門化-を見るのである。数学的な困 難があまりに大きいため、この理論は 主に例示的な段階にとどまっており、 ミニチュア組織内のきわめて単純な状 況に限定されている。それにもかかわ らず、この理論は、情報の経済学に関 するわれわれの理解を大いに拡げるこ とになったのである。 これらの諸理論はどれも一統計的 決定理論やゲームの理論以上に一完 全最大化の仮定を棄ててはいない。情 報の限度やコストについての考えが導 入されたが、それは意思決定者の心理 的特質としてではなく、技術的環境の 一部として取り入れられたのである。 かくて新しい理論は、意思決定者の直 面する計算上の複雑さを、なんら軽減 するものではない一新しい理論は、 意思決定者が大胆な近似、単純化、満 足化を通じて計算上の諸困難に対応し ているとはみないで、単にそれらを拡 大し増加させただけなのである。いま や意思決定者は彼の供給曲線や需要曲 線の形を計算しなければならないばか リか、さらに、それらの形をもっと正 確に計算するための費用と便益をも計 算しなければならないのである。かく て、ある程度は新しい理論がいままで 無視されていた不確実性や情報伝達を 取り扱っているという印象は、幻想で ある。 しかし多くの経済学者にとって その幻想は説得的であったのである。 B 合理的期待理論 私か注釈を加えておきたい、新古典 派理論における第2の発展は、いわゆ る「合理的期待」理論である。この理 論の起源を巡ってはいくぶん歴史的な 皮肉が見出される。私はすでにHolt, Modigliani, Muthそれに私とのマネジ メント・サイエンスに関する共同研究 に触れたが、そこでは二次の費用関数 という特別な(そして計算しやすい) 場合について動的計画法のアルゴリズ ムが開発された。この場合、意思決定 ルールは線形で、将来の事象に関する 確率分布はその期待値によって置き換 えることができるが、これが確実同値 (certainty equivalents)として役立つの である(Simon, 1956 ; Henri Theil, 1957参照)。 Muthは想像力豊かにこの特例の中 に不確実条件下における合理的行動の パラダイムを見出したのである。 HMMS研究チームのわれわれのいく 人かにとっての近似化、満足化による 単純化への道が、彼にとっては完全合 理性を護る1つの主要な防衛線として 役立ったのである。彼は1961年の工 コノメトリカ誌の論文で次のように述 べている。すなわち「経済学における 合理性の仮定が、観察された現象、特 に時間にわたる変化と一致しないよう な理論を、あるいはその現象を適切に 説明しえないような理論を、つくり出 しているということがしばしばいわれ る。……われわれの仮説はまさにそれ と正反対な視点に基づいている、すな わち動学的な経済モデルは十分な合理 性を仮定していない(p.316)」と。 新たに合理性を高めるべくMuthが 提唱した内容は、「彼らは未来の事象 に関する予告を情報として受け取るか ら、期待は本質的には、それに関する 経済理論が予告するものと同じになる のである(p.316)」というものであっ た。彼は思い切って難問を解決したの である。彼は意思決定過程のモデルを 丹念につくりあげることによって不確 実性を処理する代わりに、これを最後 にとばかり、その過程を切り離してし まった一彼の仮説が正しいとすれば ーのである。 Sargent, Lucas, Prescott その他の手になる合理的期待理論のそ の後の著しい発展は、大部分の読者に は周知のことであろう(たとえば Lucas, 1975参照)。 合理的期待理論について最終的な判 断を下すにはまだ時期尚早である。争 点は、すべての科学的討議がそうであ るように、経験的な証拠による選別過 程で究極的には決められていくであろ う、そしてその選別過程はまさに始 まったばかりなのである。その間、あ る深刻な理論上の困難がすでに明らか になった。 Muth自身が指摘している ように、もしも関連する費用方程式が 実際に二次式ならば、「合理的期待」 の決定ルールを使うことが合理的(だ とえば利潤最大化)なのである。その ようなわけで、私は別のところ(1978 a)で、その意思決定を「首尾一貫的 期待」のルールと呼ぶ方が誤解が少な いのではないかと、示唆したことがあ る。 たぶんいっそう重要なことは、 Albert AndoとBenjamin Friedman (1978,1979)が次のことを 明らかにした点である。すなわち合理 的期待のルールが生み出す政策的意味 は、システムにとって新しい情報がた えず利用できるような状況の場合、あ るいは構造が変化したり、意思決定者 が学習したりするような状態のもとで は、定常状態のもととはまったく異な るものとなる、ということである。た とえば、より変動的な状況のもとでは 貨幣の中立性-これは一般に静学的 な首尾一貫的期待モデルにあてはまる ものであるがーは、ある一定の時間 の範囲内では、もはや保証されないの である。 さらに、情報環境がたえず変化する 場合を説明している、首尾一貫的期待 理論の最近の「改訂論者」の見解では 期待がいかに形成されるかーすなわ ち意思決定者はどのような情報に考慮 を払い、またどのようなものを無視す るのかーを説明すべく、再びいろい ろな行動仮説が登場するようになって きた。しかしそれらの仮説がまったく 場当たり的かつ恣意的につくられるの でないかぎり、彼らは再度、意思決定 「過程」について明示的かつ妥当な理 論を必要とするようになるのである (Simon, 1978a ; B.Friedman, 1979)。 C 統計的決定理論とゲーム理論 統計的決定理論とゲーム理論とは、 新古典派再生の他の2つの重要な構成 要素である。前者は不確実性(あるい はもっと適切には、リスク)を意思決 定モデルの中に組み込む問題に向けら れたものである。それは、意思決定者 がもつ、関連諸変数の確率分布につい ての情報に大げさな仮定を必要とする ものであり、また意思決定者が直面す る計算上の問題をずっと大きくしただ けなのである。 ゲーム理論は、経済主体が彼自身の 行動に他者がいかに反応するか、その 可能性を考慮にいれる場合いつでも生 じてくるいわゆる「推測 (outguessing)」問題に、向けられたも のである。私の考えでは、ゲーム理論 の優雅な装置の主な成果は、この種の 場面(あるいは結局は同じことになる のではあるが、ゲームの「解」の最終 的な定義)に対し明確に合理性の規準 を定義することは、実質的には不可能 であるということを、きわめて明解に 示した点であった。かくしてゲーム理 論は、当初期待されていた、寡占およ び不完全競争の理論を、それがもつ矛 盾と複雑さとから救済するということ は、結局実現しなかったのである。む しろそれは、そこでの困難がいかに根 絶できないものであるかということを 示したのであった。場合によっては、 あるゲームにはある合理性の判断規準 が適当であるといった合意は得られる かもしれない。 しかしその場合、もし もある人が別の規準の方が好ましいと して、その合意に異議を唱えた場合に は、間違っているのはあなたのほうで あると彼に説得をする論理的根拠は何 ももちえないのである。 D 結論 以上私は、新古典派の再生について なぜそれが行動理論に比べきわめて魅 力的であるのかを示唆するのに、十分 なことを言ってきたと思う。少なくと もいく人かの経済学者にとっては、古 典派が手こずるようないくつかの重要 問題を、完全合理性という中心的な仮 定を放棄せずに、したがってまた最大 限先験的な推論に頼り退屈な綛験デー タの掘り起こしは最小限にしか行わな いままで、取り上げる可能性と希望と が残された状態になっている。 しかし 私は同時にまた、それらの新しい理論 では、その発展を促してきた問題をな ぜ解くことができないかという理由を も、新理論の限界を指摘するなかで、 十分に論じてきたと思う。 行動理論の発展 過去20年にわたる経済学全体の研 究活動の中で、無言の役割しか演じて こなかったにもかかわらず、限定的合 理性の理論と企業の行動理論とは、着 実な発展を遂げてきた。それらの業績 全体を展望することは大変な作業にな るので、ここでは、この分野に属する 重要な研究のうちいくつか違った種類 の例を挙げることによって、全体の雰 囲気を暗示するというところで満足し なければならない。特定のトピックス に関する展望については、これまでい くつか刊行されてきたので、そのよう な文献を挙げるにとどめておきたい。 第1に、比較的単純な選択場面にあ る人が、統計的決定理論(期待効用の 最大化)が称しているように、本当に 行動しているのかどうかを検証するた め、心理学の実験室や現実の状況で行 われたいくつかの研究がある。第2に 人間の意思決定過程や問題解決過程に 関し、それが実際に微視的な世界でど うなっているのかを発見するために行 われた広範な心理学的研究があるが、 この分野はAllen Newell と私か深くか かわってきた領域である。第3は、組 織および企業の場で意思決定が実際に どのように行われているかを綛験的に 観察する数多くの研究-その大部分 は「事例研究」の形をとっているー である。第4に、古典的な最大化仮説 を行動論的意思決定仮説に置き換える べく行われた、企業の理論の再定式化 と拡大とである。 A 効用理論と人間の選択 第二次大戦後における効用と確率の 公理化およびBayes的統計学の復活は 選択状況におかれた人間が主観的期待 効用(SEU)を最大にするように行動 しているか否かを、経験的に検証する 途を開くことになった。極端に単純な 選択状況を用いた初期の研究では、そ れは、正しいことのようにみえた。 し かしそこに少しでも複雑さを導入する と、SEU理論の予測とは、かなりか け離れた行動がみられたのである。 SEU理論に対し経験的に最も劇的か つ確信に満ちて論駁したものは、 D.KahnemanとA.Tverskyによる報告 であるが、彼らによればある状況のと きには意思決定者は事前の知識にほと んどまったく重きを置かず、ほとんど 大部分は新しい証拠に基づいて選択を 行ったが、他の状況のときには、新し い証拠は、彼らが今までもっていた意 見を変えさせるような力を、ほとんど もっていなかったのである。これと同 じように大きくまた著しくSEU理論 の予測行動から逸脱した行動は、 Howard Kunreuther と彼の同僚達の研 究からも見出されたが、それは洪水保 険を掛けるか否かに関する個人的意思 決定の研究である。これらおよびその 他の証拠に基づくかぎり、SEU理論 は人間の実際行動を正しく予測-ほ ぼ近似しているという程度においてさ えーしていないと結論されることは 避けられそうもない。 ここで、SEU理論への反論は、意 思決定の「内容(substance)」にかか わらなければならないのであり、それ を通じて決定がなされていく過程だけ にかかわるものではない点に注目して いただきたい。このことはすなわち、 人々はSEU決定に到達するのに必要 な計算を辿らないということを主張し ているのではない一新古典派の考え 方は、人々がその計算過程を辿つてい くと主張したことは一度もない。ここ での論点は、あたかも人々がそのよう な計算を行った「かのごとく「as if)」 行動することさえしていないというこ となのであり、このことの結果、新古 典派的仮定を直接に論駁することにな るのである。 B 問題解決の心理学 合理的意思決定に関する証拠は主と して、消極的なもの、つまり人は何を 「しない」かに関する証拠である。と ころが過去20年の間に、難しい意思 決定や複雑な問題解決に際し、人々は どのような過程を利用するのかに関し 積極的な証拠も多量に蓄積されるよう になった。このような証拠の上に築き 上げられた理論体系は、情報処理心理 学と呼ばれ、通常、正式にはコン ピュータ・プログラミング言語で表現 されている。 Newellと私は、この領 域に関するわれわれの見解を共著『人 間の問題解決(抗皿an Problem Solving)』にまとめあげたが、それは、 情報処理論的な概念枠組みを前提に理 論を表示・検証するのにコンピュー タ・シミュレーションを主要用具とし て利用した、そういった大量かつ急速 に成長しつつある文献の一部なのであ る。 情報処理論は、問題解決活動という ものを、大抵は巨大な問題空間をきわ めて選択的に探索していく活動、とし てとらえる。経験則や「発見的方法 (heuristics)」に基づく選択力は、探索 を有望な範囲に導いていく傾向があり その結果、解は一般に、全体空間のご くわずかな部分を探索するだけで得ら れるのである。満足化基準により満足 解か見出されればその段階で探索は止 むことになる。 したがってこのような 問題解決理論は、ここで私か詳説して きた限定的合理性の分析枠組みに明ら かに適合するものである。 現在では、問題解決過程に関するこ のような一般的な図式を支持する綛験 的証拠は広範に存在する。証拠の多く は、実験室での管理された研究に持ち 込むことができるような、そういった 比較的単純なパズル的状況に関係して いるが、しかし医療診断、株式・社債 といった金融資産への投資、チェスと いった専門的な課題に関しても、多く のことを知るようになったのである。 この種の課題の場合、一般的探索メカ ニズムは、人間の長期記憶に蓄積され た豊富な情報環境の中で作動するが、 しかしその処理過程の一般的な仕組み については、もっと単純で特殊な課題 を取り扱う場合と比べ、実質的には何 も変わらないのである。 目下のところ情報処理的心理学の研 究は、いくつかの方向に進みつつある 専門レベルの技能についての研究も続 けられている。また新しい問題に直面 したとき、当初それをどう表現するの かを決める研究にもきわめて大きな努 力が向けられつつある。単純な問題領 域においてさえ、問題解決者は、彼が 探索している問題空間を定式化する場 合、その方法において大きな自由裁量 をもつのであって、ここでもまた実際 の過程が、一義的に決定される最適値 への探索といかに違うかということが 明らかとなったのである(J.R.Hayes & Simon参照)。 情報処理心理学研究の経済理論に対 する主たる意義は、それが、問題場面 における意思決定過程が前述した限定 的合理性のモデルにきわめてよく適合 することの綛験的な証拠を、結論的に 与えたところにある。この発見はまた 選択は問題状況の客観的諸特性によっ て一義的に決められるものではなく、 決定に到達するまでに使われる特定の 発見的過程にも依存している、という ことも意味しているのである。 した がって過程的モデルは、現実世界を記 述すると称している意思決定の実証理 論には、どうしても不可欠なもので あって、そのようなモデルを不必要に しようとする新古典派的野望は、理解 し難いように思われるのである (Simon, 1978a)。 C 組織的意思決定 上述したような心理学的研究からの 証拠に加え、組織内部での意思決定過 程の綛験的研究を紹介しておくことが 望ましいであろう。個人の問題解決や 意思決定の研究は、組織内の意思決定 過程に入りこんでくる多くの社会心理 学的諸要因には論及していない。過去 20年間に、組織内意思決定過程につ いて、かなり多くの研究がなされてき たが、それらは簡単にはもとめられて いない。それが困難な理由は、大部分 の研究が個別組織内部の特別な意思決 定あるいは特定種類の意思決定に関す る事例研究のかたちをとってきたから である。私の知るかぎり、この方面で 優れた展望を行った文献はまだ刊行さ れていない。 したがって今までの諸研 究を位置づけ識別することさえ困難で ある售 またこれらの個別的な事例研 究から、意思決定過程の一般理論をつ くるのに有意義なものを引き出すため の、システマティックな方法も開発・ 検証されてこなかったのである。 したがって組織的意思決定の事例研 究は、科学的探求の自然史的段階を表 している。それらは意思決定過程の事 実-これらの事実は大部分、ここで 提起した行動モデルと一様に合致して いるものであるがーについてわれわ れに多くのものを与えてくれる。 しか しわれわれは、なにかフォーマルな方 法でそのモデルを検証するには、それ らの事実をどう利用したらよいのか、 この点がまだわからないのである。ま た、組織で使われる特定の意思決定手 続きが、組織ごとにあるいは組織内部 の下位単位ごとにさらには状況が変わ るごとにさえ、相違するという観察が 得られた場合、いったい何をすべきか についても完全にはわからないのであ る。われわれはそれらのデータから、 新古典派理論に含まれているようなき ちんとした正確な一般化を期待しては ならないのである。 事例研究から理論的に関連のある情 報を引き出す方法に最も近いものは、 おそらくコンピュータ・シミュレー ションであろう。意思決定過程に関す る綛験的証拠をコンピュータ・プログ ラムに転換することによって、データ を説明するプログラム機構の適切性を 検証したり、おもしろくしかも重要な 行動特性を定性的に説明するプログラ ムの基本的な諸特徴を見出したりする 1つの途が開かれるのである。このよ うな技法を用いた例としては、投資信 託担当役員の意思決定に関する G.P.E.Clarksonのシミュレーション、 複占の変遷をシミュレートしたCyert, Feigenbaum, Marchの業績、さらには 企業における従業員の動機づけに会計 情報や上司の圧力がどのような効果を 及ぼすかに関するC.P.Boniniのモデル 等が挙げられる。シミュレーションに 関する方法論は、DuttonとStarbuck の書物の中でいろいろな観点から論じ られている遐。 D 企業の理論 限定的合理性の一般的特徴-すな わち選択的探索、満足化、その他一 は、これまで、企業の理論を行動論的 仮定と結びっけようとする数多くの試 みの出発点として取り上げられてきた そのような理論の具体的な例の中には すでに触れたCyertとMarchの理論、 最小限の利潤は確保した上で売上高を 最大化しようとするWilliam Baumol の理論、企業目的が成長率で表現され るRobin Marris の企業モデル、理論的 には達成可能な水準を下回るように生 産を抑えてしまういわゆる「X一非能 率」に関するHarvey Leibenstein の理 論、供給駆動型経営と需要駆動型経営 とを分けるJanos Kornai の理論、取引 費用に関するOliver Williamson の理論 Richard Nelson とSidney Winter (1973) の進化モデル、適応的学習の概念を導 人したCyert, Morris De Groot のモデル およびRadner (1975a, b)の明示的な 満足化モデル、その他が含まれる。 このようなかたちで特徴をみてみる と、企業における意思決定の場合、何 らかの意味で古典派の仮定する完全合 理性の考え方から離れているというこ と以外に、上記の諸理論や諸モデルの 間にほとんど共通性がないように見え るであろう。 しかしそれらの諸仮定に ついて、いっそう詳細にみてみると同 時に記述をいっそう抽象化してみるな らば、上述の諸理論はいくつかの基本 的な特性を共有していることが明らか となる。それらのうちの大部分は短期 における利潤最大化の仮定から離れ、 それを具体的な目的で定義した目標の 仮定に置き換えているーすなわち多 かれ少なかれ満足化理論になっている それらが最大化仮説を維持している場 合でも、利潤最大化が実現できないあ る種の仕組みがそこに導入されている のである。 Cyert-Marchの理論では、 またLeibensteinの理論では、この仕 組みは「組織スラック」を生むものと して見なされ、その大きさはそれ自体 動機的変数ならびに環境的変数の関数 となっているのである。 最後に、これらの理論の多くは、組 織が学習することを想定している。 し たがって、もしも環境が十分長期的に 定常状態にあるならば、システムの均 衡は、古典的な利潤最大化の均衡にま すます近づいていくであろう。もちろ ん上述の諸理論は一般には、古典派の 解か実際の行動に一致していくことを 妨げるような、そういった強い環境的 撹乱が通常は存在する、ということも 想定している。 企業モデルの中に組織スラックのよ うなものが存在するということは、短 期における企業行動に複雑さを持ち込 むことになる。企業は最適値とはかな り離れたところで活動するであろうか ら、スラックは環境と企業の意思決定 との間の緩衝器として役立つことにな る。環境の諸事象への対応は、もはや (状況の要件(requirements of the situation)」を分析することだけでそれ を予測することはできず、企業が用い る特定の意思決定過程にも依存するの である。企業モデルに関するこのよう な特徴がいかに現実によくあてはまろ うとも、多くの経済学者にとっては、 それはそのモデルの魅力を減退させる 以外のなにものでもないのである。経 済学者の多くは、古典派理論のもつ過 程無関連的予測を放棄することには抵 抗を示すとともに、また現実世界の意 思決定過程を明らかにするのに必要な この種の綛験的研究になじんでもいな いのである。 しかしこのような事情にはもう1つ の別の側面がある。もし同一の環境条 件の下で相異なった意思決定のメカニ ズムが相異なった企業行動を生むなら ば、過程に対する結果についてのこの ような感度は、市場レベルや経済レベ ルの分析に対し、重大な影響を与える ものと考えられる。かくて記述的であ れ、規範的であれ政治経済学は、反応 の多様性を生み出す源泉に無関心であ ることはできなくなる。少なくともそ れはーわれわれの理論から、その政 策的な結論を引き出す前に、またとり わけその政策的結論を実行に移す前に 一微視的レベルにおける意思決定メ カニズムについて相異なった仮定をお くごとに、われわれの結論がどの程度 変更されうるかを検証すべく、感度分 析を行うことを要求するであろう。 われわれの結論が強いものであれば 一古典派モデルを行動モデルの1、 2の変種で置き換えても、実質的にそ れが変更されないというのであれば ーわれわれはわれわれが予測や観測 を行うことに自信をもつことになるが もしもその結論がそのような置き換え に感応的であるならば、そのマイクロ 理論が正しいのかはっきりするまで、 われわれはそれらを慎重に使用するで あろう。 本節の初めの方で引用した文献に照 らしてみると、市場の動きや経済の動 きに関するわれわれの予測は、意思決 定過程レベルのメカニズムにどのよう な仮定を置くかに対して感応的で「あ る」。その上、行動理論の仮定は、ほ ぼ確実に古典派のそれよりも現実に近 い。これら2つの事実は一体となって 古典派理論の仮定が非現実的であって も有害ではないという議論に対し、直 接の反論となる。糖蜜の中を重いもの が沈んでいく状態を予測するのに、わ れわれは、真空状態を前提とした落体 の法則を利用することはできない。古 典派ならびに新古典派の予測とそれら 両理論から引き出される政策的勧告は 最大限の注意を払って取り扱わなけれ ばならない。 結論 政治学には「代替案なしに批判だけ することはできない」という諺がある ある政策や候補者を単に不適格さを指 摘するだけで批難することはできない それに代わる対案を提示しなければな らない。 同じ原則は、科学理論の場合にもあ てはまる。ある理論がひとたび確立さ れるとそれは、証拠と一致したそれに 代わる別の理論が現れてこないかぎり それに反駁する綛験的事実が数多く あっても、その攻撃に耐え生き延びて いく。確立された信念に対するそのよ うな保守的防衛は、もちろん非合理的 なものとはいえない。第1にわれわれ は綛験科学において近似的な真理だけ を求めているのであって、全体の真理 だけをとらえるただ1つの公式を見出 せるとか、あるいはやや複雑な公式を 見出すことができるかといった幻想は もっていない。われわれはたえずより よい近似化を求めているのであって、 理論とデータとの間に乖離が見出され た場合まずわれわれが衝動的にやるこ とは、それを基礎から再構築すること ではなく、ただ修繕をすることなので ある。 第2に、乖離が現れた場合でも、ど こに問題があるのか、すぐにはっきり することはほとんどないということで ある。問題は理論の基礎的な仮定のと ころにあるかもしれないし、あるいは それは単に、理論と観察とを結びっけ るために想定しなければならなかった 補助的な諸仮説と測定上の諸前提の欠 点にあるのかもしれないのである。構 造上後者の部分を修正すれば、その他 のところは十分救えるかもしれない。 それでは古典的な企業の理論の現状 はどうであろうか。この理論の微視的 な仮定一完全合理性の仮定-が事 実に反していることはもはや疑う余地 がない。それは近似の問題ではない。 なぜならそれは、複雑な状況で人間が 意思決定する際に用いる過程を、大ま かにでさえ描きだしてはいないからで ある。 その上、代替的な理論が存在してい る。 どちらかといえば、困るくらいい ろいろな対案が存在する。今日われわ れは実験室からあるいは現場からきわ めて多くの記述的なデータを入手して いる。そして、それらはわれわれに、 いろいろな状況のもとで人間が実際に どのように問題解決し意思決定してい るかを示してくれている。これらの データを説明するのに多くの理論が構 築されてきている。確かにそれらの諸 理論はまだ唯一の全体的総合体とは なっていないが、それらの間には多く の共通性が存在している。それらはな んらかの方法で、限定的合理性の概念 を、すなわち代替案探索の必要性、最 適化の満足化への置き換え、学習と適 応の機構等を組み入れている。もしわ れわれの関心が記述的な意思決定理論 (あるいは規範的な意思決定理論の場 合でも)にあるならば、何か実際に行 われているのかについて、はるかに正 しい近似をわれわれにもたらしてくれ る、より優れた代替理論によって、古 典派ならびに新古典派の理論が置き換 えられてしまったことは、今やまった く明白である。 しかしもしもわれわれの関心が、経 済科学の遠隔地域にあるのではなく、 主に規範的な政治経済学のところにあ る場合には、どうなるのであろうか。 その場合われわれは、おなじみの理論 を放棄しなければならない理由がある のであろうか。意思決定に関する、ま た企業に関する新しい概念は、「経済 分析の目的のために」、その優越性を 示したことがあったのだろうか。 もしも古典派および新古典派の理論 が、何度か議論したように、完全合理 性の場合も限定的合理性の場合も同様 にあてはまるような、そういう集計的 な結果を引き出すほどに強力な用具で あるならば、われわれはその目的のだ めに両理論を温存すべき理由は十分に あると思われる。 しかしわれわれがみ てきたものは、それとは反対に、新古 典派理論は、限定的合理性の前提に よって意味されるものと同じ結論を、 集計レベルならびに政策のレベルで必 ずしも導いてこないということであっ た。 したがってわれわれは、それがも つ真実性は重要ではないという議論に よって、事実に反するそれらの諸仮定 を無批判に使用し、これを弁護するこ とはできないのである。事実多くの場 合この真実性は、政治経済学の中心問 題について正しい結論を得るのに、き わめて重要であるかもしれないのであ る。予測を比較することによってのみ われわれは、われわれの前にある1つ の事例が、多くの予測のうちの1つで あるかどうかがわかるのである。 社会科学は、自然科学の分野で最も 目覚しい成功を収めたモデルを求め続 けてきた。もしそれが猿真似的な模倣 の心からなされているのでないならば 実害はない。経済学ではNewton力学 (あるいはすでにみてきたような落体 の法則)を賞讃し、また運動の法則に 匹敵する経済法則を探し求めることが 共通の関心事であった。 しかしそれが 科学の唯一のモデルであるわけではな いし、またそれが実際われわれの目的 にとって正しいものとも思われないの である。 人間の行動は、たとえ合理的な人間 行動であっても、ごく少数の不変数で 説明されるようなものではない。それ は明らかに、環境に対する完全な適合 を仮定することによっては説明できな い。その基本的な仕組みは比較的単純 であるかもしれないし、私もまたそう 思ってはいるか、しかしその単純さは 環境によって課せられた、また人間の 長期記憶と人間が個人的集合的に学習 する能力との2つの事実によって課せ られた、そういう極端に複雑な境界条 件との相互作用の中で働くのである。 もしわれわれが自然科学に倣って導 かれたいと思うのならば、私は物理学 からよりもむしろ生物学から比喩を得 ることを勧めたい(Newell and Simon, 1976参照)。進化論的生物学には明ら かに学ぶべきところがある。 しかし分 子生物学からはさほどではない。それ でも分子生物学からは特に、少数の基 礎的な仕組みーたとえば二重らせん 状のデオキシリボ核酸とか、Peter Mitchellによって見事に説明されたエ ネルギー転換のメカニズムとかーが 広範にわたる複雑な現象をいかに説明 するかについて、1つの考え方を得る ことができる。われわれは定性的な構 造上の諸法則についてその科学面での 役割を理解することができるとともに また定量的な説明と同様に定性的な説 明の力もこれを理解することができる のである。 私はいつも人間の科学についての話 を未来形で終わらせたくないと思って いる。それは、その科学がいつか実現 をみる可能性のある科学であって、現 在は実在していないという内容の印象 を与えすぎる。もちろんそのようなこ とは、この場合まったくあてはまらな い。人間行動に関するわれわれの知識 が、その知識を求めるわれわれの要望 にいかに達しないものではあっても、 それはやはり多量に存在している。わ れわれはこの点を割り引いて考えがち である。なぜならそのような現象の多 くは、われわれにとってあたりまえに みえる人間的環境下における人間的生 活のただなかで、誰もが近づきうるも のであるからである。そのうえそれは 必ずしも、われわれが答えて欲しい問 に答えているわけでもないのである。 われわれは景気循環の動向を非常に正 確に予測することができるわけでもな いし、また雇用率を管理することもで きない。(さらにつけ加えるならば、 われわれは、ストックホルムで次にい つ雷雨が来るかをかなり正確に予知す ることもできなければ、地球の気候を 管理することもできないのである。) これらすべての留保事項あるいは限 定事項をもってすれば、われわれは今 日人間の合理的選択の仕組みについて 多くのことを理解している。われわれ は、人間とよばれる情報処理システム が、彼には理解できない複雑さに直面 したとき、代替案を探し出すのに、ま た結果を計算するのに、さらには不確 実性を解決するのに、そしてさらにそ れによって一必ずというわけではな く、多くの場合一当面は十分な、す なわち満足化する行為の方途を見つけ だすのに、いかに彼の情報処理能力を 使うかについて知っているのである。 乱copyrigh! C the Nobe]Foundation, 1978. この論文は、H. A. Simon教授のノーベル経済 学賞受賞に際し、1978年12月8日スウェーデ ンのストックホルムで配布された、同氏の講演 内容である。本論文の版権は、1978年ノーベル 財団に帰属する。本論文は、同財団の許可を得 てここに掲載される。 著者は、本論文の草稿段階で貴重なコメント を与えられたA]bert Ando, Otto A. Davisおよび Benjamin M. Friedman の諸氏に感謝の意を表す る。 ]「有効に機能する(“‥‥‥thatworks”)」とい ー う言葉は、仮定の中に現実は含まれないという 主張を賞讃するFriedmanの讃歌への直接的な反 論となる。落体の例を考えてみよう(pp.16〜 19)。彼が妥当と考える論点は。[かなり十分 (good enough)」に近似的であるならば、空気抵 抗を無視したあの単純な法則を利用するほうが 有効である、というものである。しかしいうま でもなく、法則が良き近似を与える条件は、そ の法則が非現実的となる条件であるわけでは けっしてなく、またそれが[現実に関する、ひ