ドクター・ホワイト_心の臨床_樹林伸  プロローグ  その広々とした病室の窓は海に面していて、す べて開けるとあたかも海岸に佇むような光景と潮 の香りに包まれる。  こんな晴れた囗には、窓際に座ってずっと本を 読んでいたくなる居心地の良さだ。  部屋中にいい香りのアロマが満ちていて、壁に は世界の一流画家のアートが月代わりで架けられ ている。ベッドを取り囲むように配置された棚に は、季節の花がいくつも飾られていた。  狩岡将貴は、初めて訪ねた時に、一流ホテルの スイートルームのような病室だなと思った。将貴 のような庶民には、想像もできない世界だったが、 そこに幸福があるとは感じられなかった。  どんな贅沢よりも、身体が自由に動き言葉が話 せて、好きなものが食べられるという当たり前の ことこそが実は真の幸福なのだと、むしろここを 訪ねる度に痛感させられるのだった。  熱海の海岸近くの高台にあるこの入院施設は、 たった一人の患者のためのものだ。  もともとあった別荘を買い取り、彼女のために 改造して医療設備を整え、医師と看護師を常駐さ せているのである。  持ち主は海江田誠。日本有数のIT起業家であ り資産家だ。4年前に経営の第一線を退き、運動 神経系が冒され全身の筋肉が萎縮していく不治の   きんいしゅくせいそくさくこうかしょう 病、筋萎縮性側索硬化症、通称ALSを病んで全 身不随の床にあった一人娘、朝絵と一緒にこの瀟 洒な別荘兼入院施設で暮らし始めたのだった。  「狩岡くん。天気もいいし、シャンパーニュでも 軽く飲まないか」  海江田がワインセラーからボトルを取り出し、 グラスを三つ出して、窓際のローテーブルに並べ た。  「よかったら白夜さんも」  シャンパンボトルのコルクを抜きながら、遠慮 がちに『さん』付けで呼ぶ海江田は、遺伝的には 親子である雪村白夜のことを、未だにどう扱って いいのか計りかねているらしい。  無理もない話だ。ほんの5年ほど前まで、彼は 白夜の命を奪おうとしていたのだから。今もベッ ドの上で指先ひとつ動かせずにいる娘の朝絵のた めに。  ヒトークローン。  その全人類共通の絶対的禁忌が、きっと今も囗 本のどこかで生まれ育っているに違いない。  人里離れた山中なのか、それとも住民も少ない 離島なのか。関係組織の者以外は誰も知らない自 い壁に閉ざされた施設の中で、おそらくは何人も の子供たちが、いずれ誰かにその肉体の全てを譲 り渡す『ドナー』として、誕生し飼育されている のだ。  もちろんそれは犯罪行為であり、世界のどこの 法律も彼らの存在を認めることはない。今日でも 人間のクローン胚自体が技術的に樹立不可能とさ れ、さらにクローン人間は法的にも倫理的にも宗 教的にも許されず、一人も造られていないことに なっている。  しかし、少なくとも一人、ここにいる。  白夜は、海江田の娘、朝絵の体細胞から造られ たクローン人間なのだ。  難病によって全身不随状態にある娘に、脳移植 によって健康な身体を与える計画。未だ正体不明 の医療犯罪組織がもちかけた悪魔の誘惑に乗って しまった海江田が、大金を費やして造らせた生贄 の羊であり朝絵の身体のスペアが、胚ナンバー ー08号、白夜と名付けられた彼女だったのであ る。  5年前、事件が発覚した時には、新聞社系雑誌 の編集記者である将貴は、その事実を記事として 公表しようと試みた。  しかし公安警察、そして政府による高度な判断 で、その報道はお蔵入りになってしまった。  彼らの言い分では、全人類のタブーとされる悪 魔的行為がこの日本で成されていたという事実を 公表するのは、あまりにもショックが大きすぎる とのこと。たしかに日本社会に激しい動揺が走る だけでなく、国際世論からの激しいバッシングを も浴びることになるだろう。  ことに警察上層部からは、いずれ公表するにし ても謎に満ちた医療組織の正体を明らかにしてか らでないと、結局は犯罪者をただ野に放つことに なってしまうという理由で、脅迫に近い『説得』 を受けた。  もちろん納得したわけではなかったが、実は将 貴にもためらいがあった。  白夜の将来のことだ。  この事実が報道されれば、白夜は好奇の目にさ らされることになる。それは彼女の驚異的な医学 の才能をスポイルすることにほかならず、なおか つ未だ地下で活動を続ける犯罪的医療組織から、 常に付け狙われることにも繋がるだろう。  どちらも彼女のためには、なんとしても避けな くてはならない。  守らなくてはいけないのだ、白夜を。  なによりもそれが、彼女への想いを心に秘め続 けている、将貴自身の誓いでもあった。  すったもんだの末、白夜の人権と安全を確保す るために監視体制を敷くことを条件に、将貴は警 察と政府上層部の『要請』に従うことにしたの だった。  もっとも、従わずに公表しようとしたところで、 よくも悪くも公器である新聞社は乗らなかっただ ろうし、出版社に持ち込んでも一流どころからは 斷られたに違いない。  かといってインターネットで公表したところで、 いち記者の妄想として扱われるだろうし、そう見 せるために公安警察や政府が動くだろうことは目 に見えていた。  ようするにこの国、いやこの世界では、真実は 必ずしも庶民のもとに届けられてはいないのであ る。  それが現実というものなのだろう。  「いいえ、海江田さん。私、お酒は飲まないんで す」  白夜はそう言って、首を少し傾げて微笑んだ。  「ああ、そうだったね。では狩岡くんにだけ、お 付き合い願おうかな」  「ええ、喜んで」  と、将貴は海江田に促されるままに、少し硬め の自い革のソファに腰を下ろした。  白夜はひとり、病室の真ん中に据えられたベッ ドに近づいて、呼吸器をはじめたくさんの管や コードに繋がれたままの朝絵に身を寄せ、慣れた 手つきで電動介護ベッドを操作して彼女の上半身 を軽く起こす。  「眩しくないですか? 朝絵さん」  その問いかけに頷くように、朝絵はゆっくりと した瞬きを一つしてみせる。  「よかった」  白夜はまた微笑んで、ベッドの縁に腰を預けた。  「いい天気ね……」  と、窓の外に視線を移す。  普段着のように身につけている愛用の白衣でな く、将貴の妹の狩岡晴汝が選んだブルーのワン ピースを着ているからなのか、大きな窓からの陽 光が、彼女の真っ自い頬をいっそう輝かせる。  思い返せば6年前、初めて白夜を見た時には、 その美しさよりも感情の欠如したような面持ちに、 戸惑いを覚えたものだ。今の彼女には6年の歳月 で身につけていった喜怒哀楽の表現が、ごく当た り前に生まれ育った女性のそれのように備わって みえる。  しかし、将貴は知っていた。  普段の白夜は、まだそう演じているにすぎない ことを。  持ち前の学習能力で、普通の二十四歳の大学生 のように振る舞うことを覚えただけなのだ。彼女 の深部には、その異形の人格を刻みつけた自い牢 獄での長い暮らしが、洗っても取れない刺青のよ うに染みついているのである。  将貴は待っているのだ。  彼女が本当の意味での人間らしさ、誰に教わる こともできないヒトという生き物の複雑性を、い つかきっと心に纏うだろうその囗をI。 「いつもきてくれてありがとう、白夜ちゃん」  女性の声がした。機械音声だった。  同時にベッドの脇のモニターに、文字が表示さ れる。朝絵の『言葉』だ。障碍者用のコミュニ ケーションーツールで、視線と瞬きだけでそう やって話が出来るシステムらしい。  似たようなツールは大手メーカーでも作られて いるが、この装置は海江田が買収した医療機器 メーカーが製造しているもので、彼が主導して改 良を重ねたとのこと。  患者の目を覗き込むように設置された二台の モーションカメラで目の動きを正確に読み取り、 瞬きを使わなくても、AIの力も借りて言いたい ことが伝えられるという。  白夜は将貴を伴って最低でも月に一度、多いと きには毎週この部屋を訪れるが、そのたびに長い 時では3時間ほども、飽きずに朝絵とおしゃべり をしていくのである。  身寄りのいない白夜にとっては、いわば年の離 れた双子のような存在の朝絵は、気が合う本当の 姉妹のような話し相手になりつつあるようだった。  「私か来たくてきてるんです。朝絵さんと話して ると、なんだかわくわくするの」  「そういってもらえるとうれしいわ」  十三歳で米国の一流大学に進学した天才という こともあってだろう、ツールを使った朝絵の会話 は実にスムースだ。  白夜は彼女との会話に夢中になると、将貴や海 江田の存在などまったく目に入らなくなるらしい。 時間を忘れて没頭してしまうのだという。  ベッドの上でも常に学び続けてきたと聞く彼女 の知性と教養は、医学の知識以外はあちこちが抜 け落ちている白夜のそれとは比較にならないほど 上質で高度なのだろう。  なにより朝絵の前では、白夜の感情表現はごく 自然で、彼女自身のパーソナリティに逆らわない ものになっている気がする。つまりそこには、感 情というものを身につけ始めてから、まだほんの 6年ほどという幼さが、てらいなく迸っているの だ。  そしてそんな白夜の未熟さを、朝絵は微笑まし く受け止めているように思える。もちろん、彼女 の相貌にその表情が浮かぶことはないのだが。  「あ、そうだ。忘れてました。お土産買ってきた んですよ」  白夜はソファの所に置いたままの手土産の袋を 取りにいく。  熱海駅近くで買った名物のプリンだ。  『熱海プリン』というのだが、白夜がどこかのサ イトで見つけてきたのである。  普段の食事は、ビタミンとミネラルのバランス だけ考えて、質素な晴汝の作る料理を一番好きだ と言って食べていて、好物のたぐいは聞いたこと がない。ただ、プリンだけは別格なのだ。  ネットであれこれ調べては、高森総合病院で診 断チームの一員として働いていた時の貯金を切り 崩して、たくさん買い込んできて冷蔵庫に並べて いる。  普段、余計なことをしゃべらずに感情表現にも 乏しい白夜だったが、プリンを食べている時だけ はご機嫌で、いつも二コニコ笑って美味しそうに スプーンを口に運んでいるのである。  彼女がプリンにはまっだのは、一昨年のこと だっただろうか。晴汝の就職祝いをやろうと将貴 が提案したところ、それならば白夜の誕生日も一 緒に祝おうと言い出して、その時にレストランの 食後のデザートとして食べたのがきっかけだった。  そもそも誕生日のわからない白夜の誕生日を決 めたのが晴汝だった。4月18日。白夜と将貴が出 会った日だ。その日に彼女は初めて外界に出て、 施設の中の研究者たち以外の人間と接した。  その日が誕生日だとすれば彼女は、まだ六歳児 ということになる。六歳の女の子といえば、プリ ンが大好きな年齢ではある。  「朝絵さんも、プリンなら少しだけ口に含んで味 を楽しめるでしょう?」  などと言って、食器棚からスプーンを出してき て、プリンの入った昔の牛乳ビンのようなガラス 容器を出して、ベッドサイドのテーブルに並べて いく。  「これがコーヒー牛乳味で、前に来た時に買って 帰ってすごく美味しかったんです。このマロンも お薦めですけど、最初はこっちのカラメルシロッ プ付きから食べてほしいかな。どれからにします か」  「そうね、だったらおすすめのものからいただこ うかしら」  機械音声で朝絵が答えると、嬉しそうに微笑ん で白夜はそのプリンの包装を解いて、スプーンに ほんの少量載せる。  「ちょっとだけ外しますね」  と、スプーンを持つたままで、朝絵の口から呼 吸器を外し、半開きの口の中にそっとプリンの 欠片を入れた。  朝絵はかろうじて動く舌でそれを舐めとり、 ゆっくりと味わって少しずつ、誤嚥に気をつけて 呑み込んで言った。  「本当に美味しいわ。ありがとう、白夜ちゃん」  朝絵が言うと、目を細めて白夜は、自分の口に もプリンを運ぶ。  「やっぱり美味しいですよね、凄く」  そして楽しそうに会話を弾ませながら、あっと 言う間に一つ目のプリンの瓶を空にしてしまう。  二人の話が弾んでいるのを見て、自分たちは蚊 帳の外だと目配せして苦笑し、海江田と将貴は並 んでソファに座り、小さくグラスを当てて乾杯し た。  「狩岡くんには、心から感謝しているよ」  海江田が海を見ながら言って、グラスの縁を口 もとに運ぶ。  それに倣って将貴も一口、柔らかい香りのシャ ンパーニュを飲んで、 「いえ、私は何もしていません」  と、海江田が眺めている海に目をやる。  「白夜が私のところに来たことで、そもそもこう なる運命の流れに乗せられていたのかな、と今に してみれば思うんです」  本心だった。  犯罪組織から白夜を連れて逃げた高森勇気が、 たまたま昔から家族ぐるみの付き合いだったこと で、彼は将貴に白夜を託した。  将貴は勇気の思惑通りに白夜を、彼の妹で高森 総合病院の跡継ぎである高森麻里亜の許に連れて いくことになる。  そして白夜は、神懸かったような診断を次々に なし遂げていった。その迸るバイタリティで、傾 きかけていた病院を変え、澱んでいた医師たちの 意識を変え、多くの患者たちを救い、海江田と朝 絵をも救ったのだ。  「運命の流れか……」  海江田の瞳は、じっと水平線を見つめていた。  空と海は同じ青でも、その密度が違う。空の青 はどこまでも突き抜けるような透明感で、海のそ れほどっしりとした存在感に縊れている。  海江田は、どちらかといえば空を見つめている ように感じた。  どこか儚い、宙の青を。  「少しお痩せになられましたか」  ふとそう感じて問いかけた。  「……ゝつん。そうかもわからんね」  その受け答えが気になった。どこか身体でも壊 しているのか。それとも何か心配事でもあるのだ ろうか。  「やはり、君には話しておいたほうがいいか」  と、海江田は半分ほど飲んだシャンパングラス をテーブルに置いて、将貴の方に向き直る。  「朝絵は死を望んでいるんだ」  「えっ?」  「知っての通りALSは有効な治療法がない。運 動ニューロンが冒されていき、全身の筋肉が萎縮 していずれは……」  海を見つめたままで、小さくため息をついて 言った。  「目の動きすら失われてしまう。そうなれば機械 を使った会話すら、ままならなくなる。いわゆる 『閉じ込め症候群』という状態だ」  「そんな……」  「安楽死を望んでいるのだよ、朝絵は。そんな生 き地獄に陥る前にね」  「そうだったんですか……」  振り返り、白夜の様子を見た。  彼女は朝絵との対話に夢中で、今ここで語られ ていた深刻な事実は、耳に入っていないようだっ た。  それを承知で、海江田は言った。  「あとで、白夜さんにも話しておいてほしい。君 の口から。よろしくお願いするよ」  と、薄くなりかけた頭を下げる海江田は、IT 業界の革命児、怪物と言われた面影はすでになく、 一人娘を失おうとしている一人の父親でしかな かった。  「はい、承知しました」  彼の気持ちを思うと、そう応えるのが精一杯 だった。  落胆を隠そうともせず、涙ぐみながら自分のグ ラスにシャンパーニュを注いで、口の端からこぼ れるのもかまわずに飲み干す。  もともと小柄な男だったが、いっそう小さく 弱々しく見えるのは、たんに痩せたからという理 由ではなさそうたった。  神に背く行為と知りながら、数十億の資金を費 やし、なりふり構わず救おうとした一人娘に近づ く死神は、この天才経営者から全ての気力を奪お うとしているのだ。  「もう私に出来ることは、一つだけだ。残る時間 を娘と一緒に過ごすことだけなんだ。ただ、それ だけになってしまったよ」  そう言って振り返ると、朝絵は白夜にそっくり な目を見開いて、じっと父の憔悴した有り様を見 ている。  言葉に出来なくても彼女の目は訴えかけていた。  もういいの。  お父さんは十分頑張ってくれた。  ありがとう。  白夜は気がつくと四つあったお土産のプリンを ほとんど一人で平らげていて、そんな親子の言葉 にならないやりとりを、しばし不思議そうに見比 べているのだった。  第一章 ドクター・ホワイトの帰還     I  「ありがとうございました」  ドアの向こうに消えていく最後の客に向かって、 深々と頭を下げながら、野上一夫は一日がまた無 事に過ぎたことに感謝していた。  ほんの三ヵ月ほど前までは、井の頭公園の舞台 の上やベンチで、新聞紙を布団代わりに被って寝 泊まりしていたのだ。  雨が降れば公園のトイレの個室に籠もって、背 中を丸めて寝る。捨てられたコンビニ弁当の残り を拾い集めれば飢えることはなかったが、残りの 人生に希望はIかけらもないと絶望していた。  長く勤めていたバーが、新型コロナウイルスの 感染拡大をきっかけに閉店したのが1年半ほど前。 そのまま失職した野上は再就職もままならず、苛 立ちから次第に酒に溺れていったのだった。  1年前に借りていたアパートを追い出されると、 もう仕事を見つけられる見込みはなくなった。家 族もなく住所不定というだけで、雇い主の側から すれば不安なのだろう。コピーして使い同してい た履歴書も、考えてみればイメージは良くなかっ た。  35年にも及ぶバ圭アンダーとしての経験を誇り に思っていた野上は、そこを評価してくれる仕事 を求めて日雇い労働などは避けてきた。しかしそ んなキャリアなど、このご時世ではなんの役にも 立だないことを思い知るころには、公園を寝床に するのが囗常になっていた。  安岡美保が野上を拾ってくれたのは、そんな朝 のことだった。  公園の広場に作られた多目的ステージの隅っこ で、ガラスの鳴き声におびえるように目をさまし た彼に、客席のベンチから美保が声をかけてきた のだ。  早朝からジョギングをしていたのか短パンにT シャツ姿の美保は、遠目には三十そこそこに見え たが、野上の知る限りでは彼女はもう五十歳近く なはずだった。15年ほど前、銀座の店でバ上アン ダーを務めていた頃に、一緒に働いたことがある。  まだ三十三歳だったがやり手で、チイママとし て売り上げに貢献した後に、吉祥寺に自分の店を 出すと言って辞めていった。それから何年かして 野上も吉祥寺のバーで働きはじめてからは、何度 か彼女の店に飲みに行ったものだ。  ただそれだけの縁でしかなかった野上に、美保 は仕事と部屋を与えてくれた。給料は安いがその 代わりにと、店の酒もある程度は自由に飲んでい いと言われている。  二日酔い防止のためにと薬をくれてもいるし、 解約した時に退職金が払えるからと、法人名義の 保険にも入れてくれて、その保険料も会社から支 払ってもらっているのだ。  いつも通り店の後片付けをしながら、今置いて ある中で一番安いウイスキーを、グラスに注いで チビチビと飲む。安価とはいえ目の利く野上が選 んだものだから、ストレートで飲みたい味わい深 さがある。  最後の客が帰って少しすると、いつも通り美保 が店に現れた。他にも店をひとつ経営しているよ うで、そこが閉店した後に野上が働く『バー・ M』に来るのが日課だった。  「あら野上さん、そんな安酒飲まないでよ」  そう言って美保は、カウンター奥の棚からマッ カランの12年を出して、新しいグラスに注ぐ。   マッカランは十八世紀から続く単一蒸溜所の 原酒だけで造られている、いわゆるシングルモル トーウイスキーだ。野上の好みをよく知っている 美保は、いつもこうしてシングルモルトを勧めて くる。  「ほら、そんなのさっさと飲み干しちやって、 こっちを飲んで」  と、たっぷりと琥珀色の液体を注がれた、バカ ラのタンブラーグラスを差し出した。 「こんなに沢山頂いていいんですか、美保さん」  そう応じながらも、思わず喉をごくりと鳴らし てしまう。  「いいのいいの。さ、その安酒を飲んだら、次は マッカランよ。野上さんがお好きなドライマン ゴーも、おつまみにどうかしら」  と、美保は棚にならぶガラスの広口瓶を逆さに して、グラスと同じバカラのボウルに惜しげもな くオレンジ色のドライマンゴーを盛りつけた。  「頂きます」  と、一息に飲みかけのグラスを空にすると、バ カラを手にして照明に透かす。  美しい琥珀色を眺めていると、人生の後半にふ いに訪れた身に余る幸運に感謝したくなる。同時 に、その理由も知りたくなるのだ。  好物のドライマンゴーをひとかけら口に放り込 み、ストレートのマッカランをぐいと飲むと、い つになく勇気が湧いてきた。  訊いてみようかな、今夜は。  グラスを静かに置くと、カウンターの向こう側 に座っている美保を見て、  「美保さん、なんで私なんかにこんなに良くして くれるんですか」  「えっ、どうしたの急に」  苦笑する美保のためにマッカランの水割りを作 りながら、  「公園で寝泊まりしてた六十五になるチビでアル 中の元バ上アンを拾ってくれて、店で働かせてく れて住むところまで……親切にもほどがあります。 こんないい酒も飲ませてくれて、考えると涙が出 そうになる。どうしてなんですか。わけを教えて もらえませんか」  カウンター越しに目の前に置かれた水割りを少 し口にすると、美保は目を細めて言った。  「似てるのよ、野上さん。亡くなった父に」  「私かですか」  「ええ、そういう驚いたような顔とか、本当に そっくり。ほっとけないでしよ、そんな人を」  「そうだったんですか……」  ようやく納得がいった。そんなこともあるのか もしれない。  「あたし、親不孝だったからさ。その罪滅ぼしみ たいな気持ちもあって。だから気にしないで、 ずっとこのお店を手伝ってね」  「もちろんです。私でよければ喜んで」  と、マッカランのグラスを掴んで、今度はさき ほどより少し多めに喉に落としこんだ。  ひリリとするアルコールの痺れが、身体の芯を 駆け抜けてゆく。  この感覚がたまらなく好きだ。  チビチビやるのもいいけれど、ある程度の量を ぐいと飲まないと、この痺れは味わえない。  身体に悪いのは承知の上だ。無職で酒びたり だった頃よりも、ここのところ酒量はずっと多く なったし、ただでさえ良くなかった肝臓は、きっ と潰れる寸前だろう。  でも、もう人生になんの未練もない。  こうして、きっと長くはない残りの日々を好き な酒と仕事に埋没しながら生きていければ、本望 なのである。  いつのまにかグラスは空になり、またボトルか らマッカランを注いだ。  そんな野上を微笑んで眺めながら、美保は大き めのハンドバッグから自いプラスチックボトルを 取り出してカウンターに置いた。薬剤の入れ物の ようだったが、名称は何もかかれていない。  「これ、いつもの薬よ。これを飲んでいたら、多 少はお酒を飲み過ぎても大丈夫、二日酔いの頭痛 から解放されるの。今日みたいに飲んだ日は、一 度に20錠くらい飲んでも害はないし、いいと思 う」 「20錠ですか。頑張って飲みます」 「よかったわ。これからもよろしくお願いしま す」  小首を傾げて笑う美保は、五十手前にはとても 見えない。若い頃から美人だったが、今も変わら ぬ綺麗さである。  本当に幸せだ。  もういつ死んだってかまわない。  引退したあとに年金のようにもらえるお金も、  会社名義で用意してくれているそうだが、自分は 引退など考えていないし、どうせなら恩ある美保 のために何かを残し、現役のバ上アンダーとして 逝きたい。  そんなことを考えていると、カウンターチェア に置かれた美保のハンドバッグの中で、何かがブ ルブルと震えだした。  携帯の着信らしい。  「あら、こんな時間に仕事の電話だわ。ごめんな さい、あたしもうそろそろ帰るわね。あとはご ゆっくり」  手にした携帯を眺めながら、美保は立ち上がり バッグを肘に提げて戸口に向かう。  その忙しそうな背中に向かって野上は、酩酊を こらえ姿勢をただして、  「ありがとうございました」  と、客を見送るように頭を下げたのだった。  「はい、あたしです」  エレベーターに乗らず階段で下りながら、美保 はスマホに向かって囁いた。 「どうなさっだの、こんな時間に」 「首尾はどうかと、ふと気になりましてね」  電話の主は、笑いを堪えるような声色で言った。  「そろそろいいタイミングじやないかって、昨日、 薬をお渡しする際に美保さんがおっしやっていた から」  「ええ、そうなるかもしれないわ。まさに今しが た、お店でお薬を渡したところなの」  「そうですか」  ぐすっ、と笑い声が漏れた。  やけにご機嫌だ。好きなワインでも飲んでいる のだろうか。  「うまくいったら、祝杯をあげたいわね」  美保も、彼の上機嫌に乗ってあげることにした。  「折角だからロマネコンティでも開けちやいま しようよ」  「ロマネですか。いいですね。それくらいのご褒 美はあってしかるべしだ」  「楽しみね」  「ええ。楽しみです。おやすみなさい」  彼はそれだけ言って、電話を切った。  いつものように、そっけなく。  悪魔のように、如才なく。  新緑をすり抜けて差し込む木漏れ囗が、今朝は やけに眩しい。前を走る妹の晴汝も同じなのか、 時おり掌を額にかざしている。  顧みると後ろの白夜は、いつのまにかランニン グ用のサングラスをかけていた。推定年齢十八歳 になるまで陽光を知らずに育った彼女は、外界に 出てからもう6年になるが、相変わらず強い日差 しが苦手らしく、日中はいつもサングラスを持ち 歩いているのだ。  「暑いですね、今朝は」  目が合うと白夜は、そう言って自い歯を見せた。 「ほんとだな」  と、将貴は水面を輝かせる公園池に目を移す。  桜の季節が過ぎたばかりだというのに、公園の 森を吹き抜ける風は、もう夏の気配を帯び始めて いた。  自宅からほど近いこの井の頭公園で、将貴が早 朝ランニングを始めてから6年が過ぎた。白夜が 港医科大学に合格した4年前からは、看護大学 の3年生だった晴汝も加えた三人で週に二度の ペースで続けている。  6年前の朝、ちょうど今走っている森のこの辺 りで、全裸に白衣だけをまとった白夜に出会った。  笑顔も怒りも涙も知らない人形のようだった彼 女は、その後さまざまな経験を経て人間性を培い 感情表現を覚え、今は普段の生活ではごく自然に 振る舞っている。  しかし、白夜が本当はどんな思いを抱えて生き てきたのか、ずっと家族のように一つ屋根の下で 暮らしてきた将貴も、当たり前だが知ることはで きない。  何を抱え、何を探し、何を得て何を捨て去り、 そしてどこを目指していくのだろう。願望はある のだろうか。目標はあるのだろうか。  天才的な頭脳を発揮して彼女はすぐに大学受験 資格を得ると、そのまま大学受験も学費が免除さ れる特待生資格で突破して、医師になる道を順調 に歩んでいる。  しかし将貴はたまに思うことがあるのだ。  白夜はどこに向かっているのだろうか。  そこに彼女の安息の地はあるのだろうか。  「ねえ、お兄ちゃん。もう一周するの?」  考え事をしながら走っている将貴が、スタート 地点のカフェの前を通り過ぎようとしているのを 見て、晴汝が呼びかけてきた。  「あ、そうだな。そろそろ帰って支度しないと、 今日は白夜が……」  「そうだよ。『里帰り』する日じゃない」  「里帰り……」  晴汝の言葉を、白夜がおうむ返しする。  「あ、ごめん、わからない?」  「言葉としては知ってます。お盆やお正月に生ま れた地方に帰ることですよね」  「ええ。それに喩えて言ったりするのよ。白夜 ちゃんの故郷みたいなものでしよ、高森総合病院 は」  「……わかる気がします」  白夜は照れたように微笑んだ。その笑顔は作り 物ではなさそうだった。  将貴が高森総合病院を訪ねるのは、実はかれこ れ2年ぶりだった。晴汝が看護師として提携医療 機関の港医科大学附属病院に就職した時に、世話 になった御礼の挨拶のためにI緒にいったのが最 後で、それ以来足を運んでいない。  ちょっとした風邪くらいなら近くのクリニック にいけば済むし、白夜も都心部の大学に通い始め たとなると、行く理由がなかったのである。  ただ、幼なじみの麻里亜はもちろん、かつて診 断協議チーム『DCT』に白夜と共に所属してい た医師だちとは個別に会って、時には食事したり 酒を酌み交わしたりしていたし、話にはいろいろ と聞いているから、久しぶりに訪れるという感慨 があるわけではなかった。  それでもこうして、晴汝と白夜を伴っていくと なると、格別な思いが胸をよぎる。  医師でもないのに名医さながらの診断能力を発 揮し、次々に患者を救い、経営危機に陥っていた 病院までも救った白夜の活躍は、晴汝の話では今 も語り種だという。  そういう晴汝も白夜に二度に亘って助けられた のだ。  病院のゲートをくぐり広い駐車場を抜けてエン トランスの前に着くと、白夜は立ち止まりぐるり と周囲を見渡した。彼女もやはり懐かしいのだろ う。なにしろかれこれ4年ぶりの訪問なのだから。  と、思って見ていたら、意外なことを言われた。  「駐車場のレイアウトが変わりましたね。それと あの建物、4年前はなかった。増築したんでしょ うか」  なんだそういう理由か、と苦笑すると、怪訝そ うに顔を覗かれた。  「何かおかしいんですか、将貴さん」  「いや、たいしたことじゃないんだ。ちょっと ね……」  「そうですか」  と、さっさとエントランスに向かって歩きだす。 こういうことを深く追求しないのは、彼女のいい ところだが、少し拍子抜けもしてしまう。  このあっさりしすぎとも言える対人感覚のせい もあるのか、大学では友達らしい友達は一人もい ないという。  入学当初はその並外れた美貌に目をつけた学生 たちが大挙して寄ってきたようだが、もちろん全 員が玉砕。やがて彼女の不思議な性質に近寄りが たさを感じたのか、2年生になる頃にはそういう 輩もいなくなってしまったらしい。  ただ、話をする相手がいないわけではなく、成 績優秀者の白夜は試験前には、勉強を教わろうと する学生たちに囲まれていると、将貴は親代わり に面談で大学に出向いた時に、担当の教授から言 われた。  しかし当の白夜は彼らに興味がないらしく、用 件が済めばさっさと離れ、一緒に食事や飲み会に 行ったりはもちろん、カフェで話し込んだりする ことすらなかった。友達が欲しいと思うこともな いようだ。  6年来の同居人である将貴と晴汝がいれば、他 に話し相手はいらないと本人は言い切っている。  そんな調子だから、もちろん恋愛などはまった く気配もなさそうで、晴汝はそういう話を白夜か ら聞くたびに、せっかく綺麗なんだからもったい ないと、彼氏くらい作るようにけしかけていた。  白夜に秘かに思いを寄せている将貴にしてみれ ば、余計なお世話だったのだが。  決して叶わぬ恋なのだろうと思いながらも、か れこれ5年以上も変わらずに気持ちを抱え続けて いる自分が、我ながら嫌いではなかったのである。  「岩崎先生」  看護師が、岩崎竜介の肩をちょんちょんと叩い てきた。どうやらウトウトしていたらしい。  いけない。こんなことじゃ、当直医は務まらな い。  相談役の上級医は、岩崎を日頃から高く評価し てくれる人で、それが故に自分は院内で別の業務 をしているからと、内科全体の単独当直を任せて くれたのだ。いい経験になるからと言って。  確かにいい経験かもしれない。なにしろ、昨夜 から今朝にかけては本当に忙しくて、病棟では容 体の急変する老人が三人も立て続けに出たかと思 えば、小児がんで入院している小学生がふらふら と病室を抜け出して騒ぎになり、おまけに救急搬 送されてきた急性アルコール中毒の年配男性が同 されてきて、その対応をするはめになった。  そもそも学生時代から昼夜逆転生活など経験し たことのない岩崎にとって、夜を徹しての当直は 思った以上に疲労困憊する仕事だったのである。  とはいえ、自分を買ってくれている上級医を失 望させないために、ここはきちんと責任を果たさ なくてはならない。そういう気持ちで岩崎は、無 理やりの笑顔を見せて看護師に向き直った。  「ごめん、ちょっと考えごとをしてて。どうかし ましたか」  クスツと小さく笑われた。ベテラン看護師の彼 女には、ちょっと居眠りがばれていたのかもしれ ない。恥ずかしい気持ちがわき上がったが、ぐっ と堪えて威厳をみせるために立ち上がる。  「すぐに対応しますので、言ってください」  「あ、はい。深夜に救急搬送された患者が」  「ああ、急性アルコール中毒の」  そう岩崎が診断した六十代の男性だ。  ふと時計を見ると、もう朝の8時を同っている。  当直は勤務医たちが出勤してくる9時までなの で、あと1時間で帰宅できる。  岩崎は半ばホッとしながら、看護師が持ってき た最後の仕事に向かった。  四人部屋の病室の一番手前のベッドの上で、そ の患者はうめき声をあげて蠢いていた。のだうち 同るというほどの動きではなかったが、表情を見 る限りではかなり苦しそうだった。 「どうしました?」  岩崎が近づいて訊くと、白髪の痩せた小柄な男 性は嗄れた声で言う。  『お腹が……y』の辺が痛くて……」  右肋骨の下辺りを押さえている。  少し吐いたのかベッドの上には汚物が見られた。 傍らには昨夜着ていた私服が畳まれていた。それ も白っぽく汚れている。   ひどい臭いもした。   吐いた物の臭いに混じる糞尿の異臭。もしかす ると下痢を起こして排便してしまっだのかもしれ ない。  昨夜のヨレヨレで服をひどく汚したこの患者の 姿が思い出された。  看護師二人がかりで対応するのを2メートル離 れて衣服の着替えを観察し、重大な外傷は見当た らないことを確認。そのうえでなんとかしやべれ る患者から、酒を飲んでひどく酔ってしまったと いう事実を聞きとっだ。  そのうえで採血と採尿を頼んで、結果から急性 アルコール中毒と診断したのである。もちろんお およその『答え』は見えていたから、先に輸液も してあった。正直、それ以上に医師が出来ること はなにもない。  あとは呼吸の観察だけしておくようにと告げて、 この四人部屋に上げてもらったのである。  その患者をまた、当直が終わる直前に診ること になるとは。  いっきに気持ちが萎えた。朝だというのに、ま たハズレくじを引いてしまった思いがした。しか し、医者を続けていくならこんなことは日常茶飯 事なのだ。  なるべく患者を見ずに、採血と採尿の結果に目 を落としながら看護師に告げた。  「鎮痛剤の点滴をお願いします。アセリオ ー000ミリグラムで」  朝8時半と通常勤務の時間としては早いにも拘 わらず、かつてこの病院で共に働いたDCTの 面々は、全員が揃って白夜を出迎えた。  「ウエルカムバック、ドクター・ホワイトナイ トー・」  両手を大げさに広げて真っ先に声をあげたのは、 皮膚科部長に就任したばかりの夏樹拓美だった。  下手に近づくと抱きしめられそうなその勢いを 警戒しながら、白夜はそれでも少し嬉しそうに応 えた。  「皮膚科部長就任おめでとうございます、夏樹先 生」  「お、ちゃんと先生つけて呼んでもらえたぞ。社 会性身につけたな、白夜ちゃん」  「最初はともかく、1年くらいしてからはちゃん と先生って呼んでましたけど」  「あれえ、そうだっけ」  「そうですよ」  脳神経外科の仙道直樹が割り込む。  「まあ、確かに納得いかないまま、いちおう先生 付けで呼んでた気もしますけどね」  仙道は4年前、おそらく白夜に惹かれていたの ではないかと、将貴は思っている。DCTの中で は一番若く、未婚だし当時は恋人もいなかった。  白夜に最初に誤診を指摘されてこっぴどくやり 込められたのも彼だったが、逆にそういうことが きっかけで、異性に心を奪われることもあるのだ ろう。  しかし、二ヵ月ほど前に麻里亜に誘われて出た 元DCTメンバーの食事会に、彼は交際中だとい う二十代の女性を連れてきたので、今は吹っ切れ ているはずだった。  「皮膚科は総合病院じゃ傍流だから医師も少ない し、部長っていってもやってることは前と一緒だ よ。それより仙道はいまや、脳外のトップナイフ だ。毎日、頭開けてて、DCTにちっとも顔ださ ないんだよ、な?」  夏樹に背後から肩を揉まれて、仙道は迷惑そう に振り返りながらも。  「毎日なんてことないですって。大げさですよ、 夏樹先生。まあ、五十過ぎてる他の先生方、最近 切りだからないから、忙しいっちや忙しいです が」  と、まんざらでもない様子だ。  「いやいや、変わりませんね、白夜さんは」  と、精神科の西島耕助か、一番後ろから背伸び をして手を振った。  相変わらすのずんぐりとした体形で、最初に 会った時に白夜に血管の状態を調べろと言われた 頃より、むしろ少し太ったようだ。  井の頭公園の近くにある焼鳥屋に集まった件の 食事会でも、好物だという鳥皮を山ほど頼んで食 べながら、ビールを何杯もお代わりして上機嫌 だった。  その会で内科部長を務めている麻里亜が皆に、 白夜が実習生として高森総合病院に戻ってくると 発表したせいかもしれない。  白夜は彼ら全員にとっても、きっと特別な思い 入れのある存在に違いないのだ。  「お帰りなさい、白夜さん」  すいっと一番先頭に歩み出て、麻里亜が言った。  「楽しみにしてたのよ、あなたが来るのを。あた したちだけじゃなく、この4年で入った先生たち もみんな、あなたがここにいた2年間で起こした 奇跡を聞いてるから」  「奇跡なんかじゃありません、麻里亜先生。私は 事実を積み重ねて導きだされた、ごく当然の診断 仮説を立てただけです。そしてそれに則って、治 療方法を提案したというだけのことですから」  「いいえ、あなたは正真正銘の奇跡をいくつもな し遂げた。特にあの狂犬病の件は……」  と言いかけて、麻里亜は言葉を濁した。当時院 長で、狂犬病治療のための麻酔が最期の仕事だっ た、父の高森巌を思い出しだのかもしれない。  思えばあの一件がマスコミに大きく取り上げら れたことが、高森総合病院の経営が改善していく きっかけとなったのだ。  麻里亜はふと将貴と目を合わせた。亡き父との 思い出を共有しているのは、もうここでは幼なじ みの将貴だけなのだ。  懐かしさのこもった視線を交わし合い、きっと 将貴と同じくほんの数秒の間に沢山の出来事を回 想した後、何度か瞬きをして何事もなかったよう に微笑むと、  「ともかく、心から歓迎するわ」  と、白夜に握手を求めた。  「はい、麻里亜先生。よろしくお願いします」  おずむずと差し出された白夜の右手を、麻里亜 は少し乱暴に膕んで言った。  「こちらこそ。短い間かもしれないけど、実習生 としてではなく、実質上の総合診療医としての活 躍も期待してるの。前もそうだったけど、診断仮 説を立てるだけなら、医師免許は必要ないもの ね」  「はい、お役に立てたら嬉しいです。あ、こ れ……」  と、左手に下げていた紙袋を、麻里亜に渡す。  「今日からお世話になるので、手土産を持ってき ました」  「えっ、手土産?」  と、将貴の背後で微笑んでいる晴汝に目をやっ た。麻里亜の見立て通り、もちろん晴汝のさしが ねだ。こういう時に手土産を持っていくなんてこ とは、まだ白夜に自分からはできない。  でも、選んだのは白夜である。  先日出向いた熱海で買い込んできた、例の『熱 海プリン』だ。  「あとでDCTのミーティング室でみんなで食べ ましよう。このコーヒー牛乳味がお薦めですから、 麻里亜先生はこれを選んでくださいね。夏樹先生 はたぶんこのマロンがいいと思います。仙道先生 ほかぼちや、西島先生は落ち着いた味の静岡抹茶 にしましよう」  嬉しそうに自分の手土産の解説をいきなり始め た白夜を、唖然とみていた西島が、  「なんか楽しくなりそうですね、しばらく。白夜 さんがいなくなってからは、DCTも大変だった んですよ」  と、笑いを堪えるようにして言った。  「仙道先生と夏樹先生、ことあるごとに意見が食 い違って。僕の話は二人ともぜんぜん聞いてくれ ないし、しまいには白夜さんに電話して訊いてみ ようとか、どっちかが言い出して、麻里亜先生が 軽くキレて終わるという」  「電話してもらってもよかったです。授業中でな ければ、スマホを使ってリモートで診断協議に参 加できたと思います」  白夜が深く考えずに言うのを聞いて、麻里亜が 苦笑する。  「そういう問題じゃないのよ、白夜さん。でも大 丈夫。おかげであたし、ずいぷんと勉強させられ たから。そう……あたしが頑張らないと、この病 院またおかしくなっちやいそうで……」  ふと、麻里亜が表情を曇らせた。  その空気を感じてなのか、夏樹たち三人も黙る。  なんだろう、この雰囲気。  まるで病院の経営を奪い取るかの勢いで、医療 ファンドグループのJMA、ジャパンーメディカ ルーアドバイザーズの派遣医師たちが乗り込んで きた、あの時の彼らを見るようではないか。  JMAは程なく自夜たちDCTの活躍で病院の ファイナンスが好転したこともあり、資金援助は 続けながらも派遣医師を引き上げて、経営には ノータッチの姿勢に切り換えてくれた。  麻里亜の話では、もうJMAの持ち分は当時の 半分以下で、実質上の支配力はなくなっているよ うだ。  では、この嫌な空気はなんなのか。  気になりながらも訊けずにいると、麻里亜の白 衣のポケットでスマホが振動を始めた。  医療施設で使われていた小電力通信のPHSが サービスを終了した今は、病院もスマホで医師だ ちとの連絡を取っているのだ。4Gが普及してか らのモバイル通信は、医療機器にほとんど影響を 与えないらしい。  「はい、高森です」  スマホを耳に当てて、呼び出しに応える。その 表情はすっかり、総合病院の内科部長の趣だ。  「……はい、わかりました。東棟の2001病室 ね。すぐに向かいます。ええ、横川師長を呼んで もらえるかしら。彼女から研修医に言ってもらい たいの。今からDCTがいくので、それ以上余計 なことをせずに待機していて、と」  スマホを切ると麻里亜はDCTのメンバーと白 夜を見渡して。  「昨夜遅くに救急搬送された六十代の急性アル中 患者の容体が、1時間ほど前に急変したらしいの。 ひどい腹痛と吐き気を訴えたので、当直で受けた 研修医が胃腸薬と鎮痛剤を投与して、今は痛みは 治まってるんだけど、ナースいわくボーツとして て反応が鈍いみたいで気になるって……」  「いきましよう、内科部長」  夏樹は先頭に立って歩きだしている。  全員が後に続いたが、それを追い越しながら白 夜が、  「急いだほうがいいと思います」  と、さらに歩を速める。  麻里亜は追いかけながら問いかけた。  「なんでそう思うの?」  「六十代以上の急性アル中搬送というのが、そも そも少ない事例で、全体の14%しかいません。ま して花見の季節も終わっているのに、どういう状 況でそうなったのか気になります。もしかしたら、 そもそも急性アル中ではなかったのかもしれませ ん」  「だったらなんなのかな、白夜さん」  「まだはっきりとはわかりません。ただ、腹痛と 吐き気、反応が鈍いことも同じ理由だとしたら」  白夜は小走りになって言った。 「研修医の投薬が命取りになりかねません」  東棟は白夜がかつて出入りしていた頃にはな かった病棟で、経営状態が改善したのを受けて、 増え続ける患者を受け入れるために建設された。 もとは庭園だった土地に建てられた8階建てのビ ルで、今は主な手術もこの東棟で行われていると いう。  新病棟建設と最新鋭の医療機器の導入は、病院 にとっても賭けだったが、幸いにして今はすべて が順調に稼働していて、足りなかった看護師や医 師の受け入れもできるようになったということ だった。  8階建ての白亜の病棟をもって自い巨塔という には大げさかもしれないが、高森総合病院は着々 と都下有数の総合病院への道を歩み始めている。  そういう病院だから、今は多くの研修医も受け 入れていて、もちろん戦力になってもいるのだが、 中には少々問題のある者もいて、せっかくの評判 に傷をつけかねない誤診もあるようだ。ただ、今 のところ小さなミスはあるにせよ、優秀な先輩医 師たちのフォローによって、大事に至らずにいる らしい。  東棟2001病室の患者を担当している研修医 の岩崎竜介は、受け入れている中では優秀なほう で、高森総合病院と関係の深い港医科大出身の二 十八歳、つまりは白夜の先輩だった。  一般病室にその患者は寝かされていた。四人部 屋の入り口近くのベッドだった。  他の三人の患者は意識レベルの柢い老人だとい う話だったが、まだ六十代なはずのその男も、将 貴の目からは似たような状態に見えた。  目は開いているのだが、何かを見ているように は思えない。担当医は重篤とは思っておらず、容 体が落ち着いたら帰すつもりだったらしいが、到 底退院できる状態ではなさそうだ。  ベッドサイドの収納付きテーブルには、患者の ものと思われる衣服と一緒に、古い携帯電話が置 かれていた。スマホではなくフューチャーフォン、 いわゆるガラ携たった。 「こんなに先生方が集まって協議するようなこと でしょうか」  と研修医の岩崎が、うんざりした様子で眉を寄 せた。  自分が責任を負っている患者の件で、名高い診 断チーム・DCTが勢ぞろいしたうえに、白夜と 将貴という見慣れない人間が二人も一緒なのだ。 多少は嫌な気分にもなるかもしれないが、それに しても研修医にしては不躾な物言いである。  「もしかしたら新しく来た実習生の指導ですか。 それならわかりますけれど、でも僕は当直明けだ しぼちぼち帰宅したいんですが」  なるほど、当直明けで不機嫌らしい。  とはいえ、この態度には、DCTの先輩医師た ちも苦笑いしていた。  医師の世界は年齢に関係なくお互いを『先生』 と呼び合うので、上下関係がゆるいように傍から は見えるかもしれないが、現実はむしろ逆で旧態 依然とした封建的社会だ。  大学病院では教授は神様のような存在だし、そ の命令は絶対と言っていい。  ただ高森総合病院は、港医科大病院と提携関係 にあるとはいえ付属医療機関ではなく、この『徒 弟制度』のような空気をあまり感じない。だから なのか、若い研修医にとってはすこぶる居心地が いいようだ。  それが評判になってネットなどで拡散している ため、研修希望者には人気らしい。  とはいえ、岩崎の態度はいささか目に余ると、 門外漢の将貴にも思えた。  彼はこの4月I囗に来たばかりだがここが2軒 目の研修先で、まだ年齢は二十八歳。大学を特待 生待遇で卒業し、研修医2年目にして学会の若手 奨励賞をいくつも取っている秀才だ。  それもあってなのか、プライドの高さが鼻につ くいささか扱いにくい人物だと、麻里亜からは聞 いていた。  ただ、そのプライドに見合うだけの勉強も怠ら ないタイプだそうで、仕事が終わった後も居残っ て、病院のサーバにある症例や治療経過のアーカ イブに目を通しているらしい。頭脳明晰なうえに 日々の努力を怠らない、将来有望な若手なのは確 かだろう。  だから研修担当医の麻里亜も一定の権限を与え て、特殊な症例の患者以外は、彼に診断から投薬 までを任せていたのだった。  今回、容体が急変した患者も、深夜に運び込ま れた時は酒の臭いをプンプンさせていて、同席し たベテラン看護師の判断でも、急性アルコール中 毒だろうという所見だったようだ。  「今回は急性アル中による救急搬送でしたが、 バーテンダーという職業からみても、長年の過剰 な飲酒習慣が想像できます。実際に血液検査の結 果もAST、ALT、カンマGTPすべて問題が ある数値でした」  岩崎は不機嫌そうな早口で、集まったDCTの 医師たちの前でまくし立てた。  「ただ、急にどうこうというレベルではなく、今 回は内科でしっかりと生活指導をしていただけれ ば、いったん退院だろうと考えていたところでの 出来事なんです。突発的な腹部の激痛発作を訴え てナースコールがあったので僕もここに来ました が、投薬の効果があって今は吐き気が少し残って いるだけで……」  「でも、意識が朦朧としていると看護師からは聞 いたわ」  と、麻里亜が口を挟むと、岩崎は苦笑いして首 を傾げた。  「深夜1時過ぎに急性アル中で搬送ですよ。まだ 残ってますよ、アルコールが。意識がはっきりし ないのはそのせいだと僕は思います。吐き気も同 じでしょう」  「腹痛は? ナースが来た時には、うめいて転げ 同っていたそうじゃない」  「もう見ての通り治まっています。一週間前にこ この消化器内科に来てて、逆流性食道炎の診断を 受けてますし、あるいは慢性的なアルコール過剰 摂取による胃腸の炎症か潰瘍などが考えられます が、鎮痛剤の投与で落ち着いています。だから僕 はもう帰らせてもらって、腹痛に関してはのちほ どまた消化器で再検査をしていただければと I」  「急性膵炎の可能性は? 見逃したら大ごとだ ぞ」  夏樹が、面倒臭そうに腕組みしながら言った。 彼はこの若い生意気な秀才が気に食わないのか、 病室に来てから目を合わせようとしない。  「膵炎でみられる心窩部、つまりみぞおちの痛み ではなく右季肋部の痛みでした。そして痛みだし たのはついさっき、急性アル中になっだのは深夜 です。急性膵炎ならもっと早く腹痛が出ると思う のですが」  夏樹は目をそらしたままで黙った。おそらく岩 崎の判断に間違いはないと思ったのだろう。  夏樹は皮膚科が専門だが、ここに来る以前には 内科や外科など、幾つもの専門をこなしてきてい る。DCTでは最も多くのジャンルを経験してき た、総合診療医に近いキャリアの持ち主だ。  彼も納得したなら、おそらく大丈夫なのだろう −という面持ちで、DCTの四人が目配せし 合った時だった。  「それ、誤診です」  いつのまにか患者のベッド脇にいた白夜が、お もむろに立ち上がりながら静かに言った。 「誤診だと?」  当然だが岩崎は気色ばむ。  「何を根拠にそんなこと言ってるのかな。ていう か君は実習生だろ、今日来たばかりの」  「ええ、実習生の雪村白夜さんよ。岩崎先生と同 じ港医大の5年生。仲良くしてあげてね」  麻里亜が間を取り持つように割り込むと、岩崎 は苦笑いを浮かべて、  「僕の後輩じゃないか。礼儀知らずだね、君は。 そんなんだと、医局じゃ苦労するぞ」  それほど礼儀を知っているとは思えない彼の言 いぐさに、今度は麻里亜が苦笑した。  「彼女は特別なのよ。言い分を聞いてみたいわ、 あたしも」  「高森先生、医師免許もない実習生の言い分を聞 いて何か意味があるんでしょうか。僕もまだ研修 医ですが、血液検査の結果くらいは読めるつもり です。深夜1時すぎに救急搬送されてすぐに採血 した結果−」  と、岩崎は院内LAN経由でカルテが出せるI Padを見ながら、  「総ビリルビン3・2、AST、ALTともにか なり高く100を超えていました。なによリアル コール性肝障害で上昇するカンマ値が、400を 超えてるんです。バーテンダーが急性アル中で搬 送されてこの数値って、もう典型的じやないです か。それに、逆流性食道炎の既往もあるとなれば、 腹痛についても右側となると胃酸過多による十二 指腸潰瘍でしょうか。緊急を要するとは思えませ ん。なので患者が持っていた胃薬を服用しても らって、痛み止めのアセリオを通常通りに点滴し たところ、見ての通り症状は落ち着いてます」  たしかにその初老の患者は、薬が効いたのかも う痛みを訴えてはいないようだ。しかし、ボーツ としていて目の焦点があまり合っていないのが気 になる。酔いが残っているといわれれば、そうも 見えるが……。  「このまま昼過ぎくらいまでナースに経過観察し てもらって、アルコールが抜けてきても頭痛が あったらアセリオをあと1000点滴してみては どうでしよう。そのうえで、念のため内科でCT 撮って、必要なら内視鏡、あとは後日に超音波で 胆石、肝がんや肝硬変の検査を受けるのを前提に、 今日はいったん退院でいいんじやないでしょう か」  将貴にも、彼の話は筋が通っていると思えた。 6年にもなる白夜との付き合いを通じて、彼もそ れなりの医学知識が身についているのである。  しかし、白夜がきっぱり誤診だと決めつけてこ こに来たのだ。きっと何かあるに違いない。  「どうかな、実習生くん。勉強になったならもう そろそろ僕は……」 「気にならなかったんですか、岩崎先生」  と、白夜は岩崎に近づいた。  「AST値とALT値の比率がほぼ一緒で、若干 ですがALTのほうが高かったこと。普通はアル コール性肝障害の場合、ASTのほうが高くでま す。標準値よりどちらも高いうえに、ASTがA LTの倍くらいの数字になっていれば、アルコー ル性肝障害なのではという診断仮説が成り立ちま すが、この患者は逆でした」  「そんなのケースバイケースだろ。逆になる場合 だってあるはずだ」  「このこと一つだけとればそうでしょう。でも、 急性アルコール中毒に似た症状で救急搬送された あと、数時間たってから突発した激しい腹痛と吐 き気、意識レベルの低下も加えて考えると、慢性 的なアルコール性肝障害だけでない、もっと急を 要する症例が浮かび上がってきます」  「急を要する症例……冫・」  「はい。それともうひとつ。おそらく岩崎先生は、 血液などの検査結果ばかり見て患者をあまり診察 しなかったんじやありませんか」  岩崎は答えずに目をそらした。おそらく図星 だったのだろう。  「だから気がつかなかった。皮膚の一部に生じて いる紫斑。わかりますか、これです」  白夜はベッドに寝たままで、相変わらず反応の 鈍い患者の腕を両手で軽く持ち上げて、肘の表側 を岩崎に向けて見せる。  「小さな内出血がたくさん見られるんです」  「もしかしてDICなの?」  麻里亜が訊いた。  「はい、おそらくそうでしょう。播種性血管内凝 固症候群。感染やがんなどが原因で凝固活性化が 生じ、血栓が出来たり出血傾向になったりする症 状です。でもこれは別の原因だと私は考えまし た」  「なんだっていうんだ、いったい」  ようやく過ちに気づいたのか、動揺の色を浮か べて岩崎が問いかけると、白夜は患者の腕をそっ と置いて立ち上がりながら答えた。  「薬剤性肝障害……アセトアミノフェン中毒だと 思います」  「間違いないの、白夜さん」  麻里亜の顔から血の気が引いた。  「はい。そう考えれば患者の意識レベルの低下も、 肝性昏睡の初期症状ということで説明がつきます。 急性アル中に見えた症状も、酒の前に飲んだ大量 のアセトアミノフェンの血中濃度が上がったせい で、肝臓が負担に耐えられずアルコールの分解能 が極端に柢下したせいでしょう。大量の飲酒でな くても、嘔吐や悪心を起こすことがありますし、 分解されないアルコールが血中に滞り、ずっと 酔ったような状態になります。数時間後に腹痛を 起こしたのは、中毒が第2相に至ったからです。 右上腹部の痛みはまさに典型的なその症状です し」  「それが本当だったら大変よ。ここにきて投与さ れたのもアセトアミノフェン。それも点滴でかな りの量を入れてる。そうでしよ、岩崎先生」  「は、はい……アセリオを1000ミリグラム投 与しました……申し訳ありません……」  岩崎も蒼白になっている。  当然だろう。白夜の指摘が正しければ、患者の 命に関わる誤診をやらかしたことになる。  優等生研修医のやや過剰なプライドは、医師免 許もない実習生の白夜にばっさりと切り落とされ てしまったようだ。  「あなたが指示を出そうとしていたように、昼過 ぎにアセリオをまた1000とか入れたらどう なってたかわからない。手遅れになって肝不全を 起こせば、肝移植以外に助ける方法がなくなる わ」  「はい、そう思います……ほんとに……」  岩崎は言葉を詰まらせた。  厳しい追い込み方ではあったが、白夜の言うよ うに彼が触診などの常識的な診察を怠ったのだと したら、これくらいの言い方をしてもいいだろう。  たしかに、ベッド脇の籠に畳まれた彼の服は患 者の吐瀉物に汚れていたし、救急搬送されてすぐ だと、若い岩崎は目を背けたのかもしれない。  それゆえに致命的な誤診を犯したのだとすれば、 責任は重大だ。  「すぐに解毒薬のアセチルシステインを投与して ください。同時に血液を採ってアセトアミノフェ ンの血中濃度を測りましよう。それと集中治療室 で血液吸着療法の準備を」  白夜が指示を出すと、採血をする看護師と動揺 が激しく患者のそばを離れられない岩崎を除く他 の面々は病室を出て、それぞれが対応に動いた。  集中治療室への搬送準備を整えるためにナース ステーションに向かいながら、麻里亜は同行して いる白夜に訊いた。  「患者の状態とDICの兆候だけじゃないわよね、 判断材料。他にも何かあったんじゃない?」  「ええ、実は」  と、白夜は首を傾げた。どこか納得いかないこ とがある時にみせる癖だ。  「患者の電子カルテにあった通院歴ですけど、一 週間前に逆流性食道炎でここに来院してました。 その時に出された薬が、ランソプラソールだった んです。この薬はアセトアミノフェンの血中濃度 を上昇させるという報告があります」  「それは知らなかったわ。さすがね」  「でも気になるんです」  「なにが?」  「アルコールの過剰摂取で肝機能がひどく弱って いる患者が、一週間前に逆流性食道炎で高森総合 病院の診察を受けてランソプラソールを処方され、 その薬を飲んでいる最中に、おそらく処方を受け ていないアセトアミノフェンで中毒を起こして救 急搬送された。それも経験の浅い研修医が当直の 囗の深夜に」  学生であるはずの白夜が、仮にも医師免許をも つ大学の先輩の岩崎を『経験の浅い研修医』呼ば わりすることも、麻里亜はなんの違和感もなく受 け止めている。  どうやら、5年前のあの時の関係に、麻里亜も 戻りつつあるようだ。  将貴も不謹慎ながらわくわくしてくる。  「そして腹痛を起こしたために、またアセトアミ ノフェンを大量に投与されることになった。気に なりませんか」  「そんなに気になることかしら。たまたまでしよ う」  「少なくともあの患者がこの病院に運ばれたのは 必然です。救急搬送では、かかりつけの病院があ る場合はそこに運ぶことになっていますから」 「何か言いたいの、白夜さん」 「いくつもの『偶然』がたまたま重なり合うこと で命の危険にさらされることになったというには、 よく出来すぎたストーリーだと思いませんか。ま るで誰かが考えぬいたかのような」  と、いつになく抑制された柢い声で言った白夜 の表情を、将貴は思わず覗き込んだ。  見たことのない厳しい顔つきだった。  彼女には天才的な知性と豊富な医学知識だけで ない、何か第六感のようなものがあると、将貴は 思っている。  壮絶な誕生と成長の過程を経験している彼女な らではの特別な感性が、警告音のようなものを鳴 らしているのだとしたら。  将貴の中でも、なにか不穏なシグナルがちかち かと点滅を始めた気がした。  白夜はまた静かに言った。  「いずれにしても、偶然で片づけられない事実が 一つあります。患者が、肝不全を起こすような大 量のアセトアミノフェン製剤を飲んだという事実 です。これは、たまたまでは済まない、とても危 険な出来事です」  「たしかにそうだな」  将貴が口をはさむ。今は出版部門に籍があると はいえ、元新聞記者の血が騒ぐ。  「俺もジャーナリストとして、ちょっとこの件は 嫌な感じを覚える。あの患者−野上一夫だっ け? 彼の容体が落ち着いたら、その理由を聞く だろう? 麻里亜、よかったら俺も同席させてく れないか」  「ええ、そうね。患者本人に了解がとれたらぜひ お願いしたいわ」  「それと、麻里亜先生、もう一つ気になることが あって……」  と、白夜が病院のサーバに繋かっているIPa dに、視線を落としながら尋ねる。  「なあに?」  「先ほど岩崎先生が言っていたように突発的な腹 痛発作を十二指腸潰瘍と診断したなら、通常は鎮 痛効果の強いNSAIDs、つまり非ステロイド 性抗炎症薬を処方します。静注ならたとえばロピ オンとかが第一選択かと」  黙って聞いている麻里亜の表情が曇る。その様 子が少し気になった。  「なのに彼は、アセトアミノフェンの点滴投与を 行った。安全性が高いので確かにメリットもある のですが、抗炎症作用があまりないので、十二指 腸潰瘍に対して基本に忠実な研修医がやる投薬に しては、やや不自然です。ちょっと気になって、 今調べてみたらI」  白夜はIPadの画面を麻里亜と将貴の方に向 けて。  「病院のサーバにある投与薬剤データによると、 今年に入ってからずっと、高森総合病院では腹痛 も含めた痛み止めの処方に、ほとんどアセトアミ ノフェン系薬剤を投与してるんです。そして逆流 性食道炎にはランソプラソールだけ。他にも薬は たくさんあるのに、どうしてでしょうか」  「薬剤投与の基本ガイドラインを新しい院長先生 が作ったからよ。研修医もそれに従うから、使え る薬はおのずと決まってくるわ」  「新しい院長……」  と、麻里亜の言葉から拾っておうむ返ししなが ら、白夜はまた首を少し傾げてみせる。  「里中賢蔵先生ですよね。港医大病院の元副院長 でALSの権威として知られる」  「ええ。出身大学の医局に戻った真壁先生の代わ りに、里中先生が院長に就任されたのが去年のH 月なんだけど、それから少ししてあの人が、内科 を中心に病院全体の投薬方針を見直そうと言い出 したの」  麻里亜の話では、里中新院長は着任してまもな く、内科での投薬を統一するガイドラインを提案 してきたという。  その理由は、一つには医師の個人裁量に任され た複雑な投薬が、多剤投与による医療事故を起こ すリスクを下げるため。もう一つは院内の薬局が 同一薬剤を大量に仕入れることで単価を引き下げ て、病院経営をより健全化することだった。  どちらも客観的に見れば理に適っていると将貴 も思う。しかし麻里亜からすれば、診断された病 名からなんの薬を処方するかをトップダウンで決 められてしまうのは、現場の医師たちの治療に向 き合う気持ちをスポイルされるようで、やりきれ ないというのだ。  将貴は、白夜を出迎えた時に、麻里亜の発言を きっかけにDCTの医師たちの間に流れた冷やや かな空気の意味が、ようやくわかった気がした。  以前、医療専門ファンドによる支配に苦しんだ 時ほどではないにせよ、新参の院長が持ち込んだ 息苦しさを、病院を支えてきたという自負のある DCTの医師たちが、不満に思っているのは間違 いなさそうだった。  麻里亜がナースステーションで指示を出してい ると、すらりと背の高い男性医師が近づいてきた。  「やあ、麻里亜先生」  右手を上げてゆるりと振りながら、親しげに ファーストネームで呼びかけてくる。  笑うと刻まれる目尻の皺からすると、年の頃は 四十代半ばくらいか。麻里亜や将貴よりは上だろ うけれど、髪は白髪も交じっておらず、白衣の下 にはきちんとネクタイを締めた薄いブルーのシャ ツを着込んでいる。  本当なら白髪も出てきそうな年齢だろうから、 おそらくまめに染めているのだろう。忙しい勤務 医の男性としては、珍しい身繕いである。  「なにやら早朝からハタハタしてるじやないです か。DCTが出張るような案件でも発生しました か」  「そうなんです、水樹先生」  麻里亜が微笑んだ。ふだん将貴の前では見せな い女性的な笑みだった。  大学生の頃までは将貴も、麻里亜を女性として 意識することがあった。長い間、一番近くにいる 女性だったことは確かだし、交際に発展してもお かしくなかっただろう。  しかし、結局付き合うことはなかった。  男と女というのは、そういうものなのかもしれ ない。  現在、わけあって逃亡生活を続けている麻里亜 の兄の高森勇気に、麻里亜は将貴のことがずっと 好きだったのだと言われたことがある。将貴のほ うは彼女に恋愛感情はなく、幼なじみとしての家 族のような信頼関係でつなかっていると思ってい た。  だから、もし麻里亜に真面目な気持ちで近づい てくる男性がいて、彼女もそれに応えたいと思う なら祝福してあげたい。  心からそう思っていたのだが、非常事態だとい うのに足を止めて、二人で小声で話し始めた麻里 亜と男性医師の背中を見ていると、なんとなく疎 外感を覚えた。  どういう男なのだろう。  ふと気になって声をかけた。 「麻里亜、そちらの先生は?」  振り返りざまに水樹医師は、笑顔で歩み寄って、 「狩岡将貴さんですか。お噂はかねがね伺ってま す。一度お会いしたかった」  と、右手を差し出す。  「今年の1月よりこちらで副院長を務めさせてい ただいている、水樹冬星と申します」  胸の名札に手を当ててみせる仕種がスマートだ。  「狩岡です」  将貴は握手を受け取って言った。  「よくすぐにお分かりになりましたね」  「ええ、麻里亜先生を名前で呼び捨てにする入っ て、幼なじみだと伺ってる狩岡さんくらいかなと。 当たっていてよかったです」  と応えつつも、水樹の関心はもう将貴にはな かったようで、視線は少し後ろに佇んでいる白夜 に向かっていた。  握手していた掌をするっと品よく抜き取り、そ のまま白夜に近づいていって差し出した。  「雪村白夜さんですよね。あなたのことも、いろ いろと伺っていました。驚くほどの才能の持ち主 だと……」  白夜は水樹の握手を受けずに、  「病院実習にきた雪村です。しばらくお世話にな ります、水樹副院長先生」  と、無理に笑顔を作ろうともしなかった。  相変わらず、相手が誰だろうと知らない人間に 対しては心を開かないし、そういう自分を表現す ることに遠慮がない。  水樹はその様子に一瞬不思議そうな顔を見せた が、あくまでも笑みを絶やさずに、  「なるほど、噂通りのクールな方だ。今朝、ハタ ハタと騒がしくDCTが動き同っている件にも、 関わっておられるのかな。だとしたら、少し話を 伺ってよろしいですか」  「その話なら、私がします」  麻里亜が言った。  「深夜1時に急性アル中で救急搬送された患者さ んが、どうやらアル中ではなくアセトアミノフェ ン中毒だったみたいなんです。白夜さんがそうい う診断仮説を立ててくれて、今からICUに上げ て対応する所なの」  「おっとそれは深刻だ。ステージはどのくらいな んでしょう。肝不全に至っていたら、肝臓移植以 外に助からない……」  「いえ、そこまでは。ただ、研修医が気づかずに アセリオの点滴を1000ミリもしていて、しか も亢進剤として働く可能性があるらしいランソプ ラソールも服用していたから、白夜さんが気づか ずに放置していたら肝不全を起こしていたかも」  「そうですか。復帰早々にお手柄ですね、白夜さ ん」  初対面なのにさらりとファーストネームで呼ぶ 水樹の如才なさは、なるほどこの若さで副院長に 抜擢されるだけのことはある。確かにスマートで 空気を読むのが巧い。でも、それだけで麻里亜が 惹かれてしまうとも思えない。  彼女はこと医師に対しては、亡き父や母のよう に努力と才能に裏付けされた本当の意味での『実 力』を要求する。  若いながらも病院の理事長でもある麻里亜が、 おそらく四十代半ばと思われる水樹の副院長就任 を認めているということは、彼に相応の実力があ るということだろう。  「しかし妙だな」  水樹が、白夜に向かって差し出していた手をこ めかみにもっていく。握手を無視されたことを気 にしていない所作もまた、気が利いている。  「たとえ患者がアルコール性肝機能障害を抱えて いたとしても、たかが1000ミリグラムの点滴 投与で肝不全を起こすほど、アセトアミノフェン は危険な薬ではないはずだ。ランソプラソールが アセトアミノフェンの血中濃度を上げてしまった としてもです。患者に自殺願望は?」  「わかりません。まだちゃんと患者と対話できて いないので」  相変わらず黙っている白夜に代わって、麻里亜 が答えた。  「まあしかし、仮に自殺や自傷行為としてアセト アミノフェンを大量服用したのだとしたら、患者 が簡単に本当のことを言ってくれるとは思えませ ん」  「そうですね、麻里亜先生。焦らずに、体調が落 ち着いてから少しずつ聞き出していったほうがい い。そうでないと自殺願望がある患者の場合は、 病院内で事件を起こしかねない」  「そうでしょうか、水樹先生。私はなるべく早く 話を聞くべきだと思います」  白夜が言った。  「あの患者が自殺するためにアセトアミノフェン を大量服用したとは、私には思えません。もっと 他の理由があるとしたら、その事情に近づくのは 早いほうがいいのではないでしょうか」  「ほう。なぜ自殺だと思えないのか、理由を教え てほしいな」  「あの患者−野上一夫さんは、スマホではなく 普通の携帯を使っていました。インターネットで 何かを調べるには向いていない、古いタイプの携 帯電話です。そんな人が、パソコンを使いこなす とも思えない。バ圭アンダーという職業からして も」  「どういう意味だね、それは。自殺となにか関係 があるのかな」  「アセトアミノフェンは一般的な風邪薬にも含ま れている成分です。鎮痛解熱剤としてはもっとも 安全な部類に入る薬に、実は肝不全を起こして死 に至る副作用があるなんてことは、かなリネット で調べたりしなければ簡単にはわかりません。誰 かが教えたか、あるいは騙されて飲まされたか。 そのどちらかではないでしょうか」  「自殺教唆か、殺人未遂……つてことか」  思わず将貴が口を挟む。 「はい」  白夜がぼそりと呟くと、その場にいた全員の表 情が俄かに曇った。  殺人。  人の死が珍しい出来事ではない総合病院の勤務 医たちでも、この単語を耳にする機会は、そうは ないはずだ。  その場の全員に動揺の色が走った。  「白夜、しかしあの患者−野上さんを殺そうと した人物が仮に本当にいるとして、目的はなんな んだ」  新聞記者あがりで今も出版部門で編集者として 働いている将貴は、殺人事件の報道やルポを担当 したことが少なからずある。  付き合いのある捜査一課の刑事から聞く殺人事 件は、まず動機ありきだった。  衝動的な通り魔的犯行でも、犯人には人を殺す 動機が必ずある。ましてや、アセトアミノフェン 中毒などという持って同った方法で人を殺そうと する人間が、さしたる動機もなしに面白半分で殺 人を実行するはずがないのだ。  そういう計画殺人には、強い憎悪や金銭が絡ん でいるヶIスが殆どだった。  しかし、さきほど病室で見た初老の男は、誰か に殺されそうになるほど恨まれる人物には到底見 えなかったし、ましてや殺してまで奪いたいほど 資産があるようにも思えなかった。  「わかりません。それも本人に訊いてみないと」  白夜は小さく横に首を振ってみせた。  「とはいえ意識もまだはっきりしてないし、IC Uで訊くわけにもいかないものね。少し落ち着い てからになるわね」  指示を終えた麻里亜は、そう言ってストレツ チャーを押す看護師たちを伴い、件の患者の待つ 病室へと向かった。  野上一夫はICUでアセトアミノフェン中毒の 解毒剤を点滴されると、1時間後には容体に落ち 着きが見え始めた。  その時にはすでに、血液検査からも白夜の診断 仮説が正しかったことが証明されていたので、患 者をしっかりと診察せずにアセトアミノフェンの 大量点滴を行った研修医の岩崎は、白夜に対して 涙を滲ませて感謝の言葉をくり返した。  当の白夜はといえば意に介さず、ただ、  「よかったです」  とだけ告げて、さっさとDCTの診断協議室に 戻ってしまった。  DCTの診断協議室には、白夜のためのデスク が用意されていた。  そしてそれは麻里亜の配慮で、5年前に彼女が この病院で活躍していた時のままの配置だった。  専用のノートパソコンも置かれていて、病院の サーバヘのアクセスコードも作られていた。  白夜はデスクにつくなリパソコンを開いて、各 科で用いられている医薬品のリストをチェックし 始める。  「白夜、病院で出してる薬の何かそんなに気にな るんだ?」  将貴が尋ねると、彼女はパソコンのモニターを 注視したままで言った。  「わからないんです」  「わからない?」  「はい。何か気になってるのかわからない。でも それが、なんだか気になるんです」  不思議な言い同しだったが、将貴が感じている 白夜のこの『第六感』こそが、彼女の恐ろしいほ ど的中する診断仮説を導き出す、触媒のような役 目を果たしているのではないか。  「だったら納得するまで調べてみるといい。止め ろと言ってもやるだろうけどな」  と、白夜を置いて部屋を出ようとすると、にわ かに立ち上かって腕を掴んできた。  「どこに行くんですか、将貴さん」  「どこって、家に帰るんだよ。白夜の調べ物の邪 魔にならないように」  「邪魔だなんて、誰が言ったんですか」  「えっ」  「将貴さんは、ここにいてください。そうでない と、わからなくなった時にアドバイスしてくれる 人がいなくなるじやないですか」  腕を握る手を握り返したい気持ちを、慌てて堪 えた。  こんな風に白夜に必要とされるのは、何年ぶり かだった。  そう。  思い返せば白夜がDCTの一員として、この高 森総合病院で数々の奇跡を起こしていたあの2年 間にも、こういうストレートな物言いで、彼女は 何度か将貴に頼ってきたのだ。  「そうか。ならここにいよう」  と言って隣の席に座ると、白夜は安心したよう にまたパソコンに向かった。  それっきり何も言葉を発しないまま、作業に集 中している彼女の横顔を見ていると、やはり自分 はいなくてもよかったのではないかと内心思えて くる。  ただ、こうやって頼りにされているのは嬉しい し、別の期待感も抱かせてくれる。  白夜とは今も、井の頭の家で妹と三人で暮らし ている。だが彼女が医大に進学してからは、一緒 にいる時間は大きく減った。  彼女は大学の講義と勉強があるし、将貴も以前 より仕事が忙しくなった。なにより、高森総合病 院という共通の居場所がなくなってしまった。  5年前、将貴は勤めている新聞社の出版部で、 病院経営を建て直していく診断チームDCTの活 躍を、ノンフィクションとして書籍化し高い評価 を得た。もちろん作品には白夜は登場せず、彼女 の奇跡的な活躍は、チーム全体の協議の成果とし て描いたのだが、本当は医師でもない少女の活躍 だったことを、編集部の直属の上司の三田村には、 すべて伝えてあった。  そのことがあるから、三田村に白夜が久しぶり に古巣ともいえるこの病院に実習生として戻って くるという話をしたところ、取材してもう一冊、 ベストセラーをものにしろと言われたのである。  堂々と高森総合病院に入り浸れるお墨付きをも らったのは有り難かったが、ベストセラーになる ようなノンフィクションを作れと言われたのは、 いささか気が重かった。5年前とは病院の体制も 違うし、あの時のようなドラマティックな出来事 はそうそう起こるものでもないと思えたからだ。  しかし、もし今、白夜が調べている野上一夫の 一件が彼女が訴えたような殺人未遂事件だとする なら。  これはもしかすると、また思わぬスクープを拾 えるかもしれない。  真剣なまなざしでパソコンのモニターに向かう 白夜の横顔を見ていると、将貴はそんな期待感に も、図らずも心を揺さぶられるのだった。     10  高森総合病院の院長室は、先々代の高森巌か主 だった時代は狭く質素な作りだった。しかし、先 代の真壁院長の時に新病棟が出来るとその新しい 建物に院長室も移され、広く立派になった。  モダンな応接セットが中央に鎮座し、奥に置か れた執務机も木製の大きなもので、まるで大企業 の社長室のような設えだ。  エアコンも新品で良く効くし、壁には現代美術 の絵画まで飾られている。  総合病院として発展していこうとしているのだ から、院長室もそれに見合うものにしたいという 前院長の考えは理解できたが、麻里亜はいまひと つ、この広すぎる部屋が好きになれなかった。  その理由の一つが、向かい側の病棟が見えるだ けの無駄に大きい窓だ。  以前の院長室の窓からは、病院のシンボルツ リーだった欅の大木の緑が眺められたが、そうい う情緒的な景色はこの部屋からは見られない。  新病棟建築の際に土地を有効活用するため切り 倒そうという意見も、真壁院長はじめ一部理事か ら出だのだが、それだけは理事長権限で麻里亜が 突っぱねた。  窓の外に聳えるあの欅を背負って院長室の椅子 に座っている父、厳の姿を6年経った今でも、麻 里亜は医師の理想像としてどこかで追い求めてい るのかもしれない。  里中院長から午後4時に院長室でミーティング をしたいと言われていたのだが、少し遅れている から先に入ってソファに座って待っていてほしい と直前にメールが届いた。  それなら自分のデスクで待ちたかったが、そう メールで返すのも気が引けたので、いちおう待ち 合わせ時間に院長室を訪ねたのである。  里中は20分遅れて現れた。スーツでもなければ もちろん白衣も着ておらず、ラフなポロシャツに 明るい色のジャケットといった出で立ちだった。  早朝からゴルフにでも出掛けていたのだろう。 医師会のコンペだろうか、彼はそういうVIPが 集まる社交の場には実にまめに顔を出す。  若かりし頃は難病のALSの研究者として名声 を築きあげ、将来は港医科大病院の院長になると 目されていたそうだが、結局は副院長止まりだっ た。  理由はいろいろと噂されているが、投資好きが 災いしプライベートで大きな損失をだし、病院か らの融資を受けるはめになっだのが原因という声 もある。  大学の同期で若い頃は同僚でもあった父、巌い わく、優秀だがいささか権威主義で敵も多かった というから、それも院長にたどり着けなかった理 由だったのかもしれない。  「申し訳なかったですね、お待たせしてしまっ て」  里中は冷蔵庫からペリエを二本出してきて、一 本を立ち上がった麻里亜に渡して自分は先にソ フアに座った。  シュツと音を立ててペリエの蓋を捻ると、よほ ど喉が渇いていたのかまずは自分から一口飲む。 やはり早朝ゴルフに違いない。  「いいえ、もう今日の仕事はだいたい終わってい ましたので、大丈夫です」  「そうですか。まあ、あなたもよかったら飲んで ください」  と、里中は掌を突き出して、ペリエを飲むよう に麻里亜に促した。  「実は麻里亜先生に来てもらったのは、昨日起き た誤診の件なんですよ」  アセトアミノフェン中毒のことだ。もちろん、 院長には報告が上がっている。  「昨日実習生としてきた雪村白夜さん、ご存じで すよね」  「ええ、もちろん。天才的な診断能力でDCTの メンバーとして活躍してくれた女性でしょう」  「はい。危ないところでしたが、彼女がいてくれ たおかげでことなきを得ました。今後は内科とし ては、当直は研修医単独の患者対応はやめようと いう話になっています」  「そうですね。当日の上級医も、彼は優秀と聞い ていたので、つい任せてしまったんだろうが、本 来はあり得ないはずだからね。当面はそれがいい だろう。ただ、ちょっと気になることがありまし て」  「なんでしよう、里中先生」  「病院に出入りしているジャーナリストのことで すよ。なんといいましたっけ、あなたのご友人 の……」  「狩岡将貴ですか」  「そう、その方。アセトアミノフェン中毒を起こ した患者さんに興味を持っておられるとか。なん でも経緯の聞き取りに参加を希望していると伺い ましたが」  と、またIロペリエを飲む。貧乏ゆすりで膝が 揺れている。認知心理学にも詳しい白夜がいたら、 彼のボディラングージから何を読み取るのだろう。   不安? 苛立ち? それとも……。  「麻里亜先生は、本当にその方を同席させるおつ もりかな。いやすでに、研修医が誤診をはたらい た現場にもいたそうじやないですか。あわや肝不 全で患者を殺してしまうところだったというのに、 そんなスキャンダルが記事にでもされたら、当院 はまた昔のように閑古鳥がなくことに……」  「そんな心配はありません」  麻里亜は里中の言葉を遮るようにして言った。  「将貴は私の幼なじみです。父とも親子のような 関係でした。そんな彼が私やこの病院に迷惑がか かるような報道をするはずがありません。そうい う人じゃないんです」  「しかし、それならなぜ患者からの聞き取りに参 加するのですか。記事にしたいと考えたからでは ないのかな。そもそも患者のプライバシー保護の 観点からも、同席は遠慮して頂きたいですね」  「患者さんには、ちゃんと了解をとるつもりです。 その上での同席ならかまわないと思いますが」  「しかしですね……」  「これはもしかしたら、殺人未遂事件かもしれな いんです」  「えっ。どういう意味ですか」  「患者が大量のアセトアミノフェンを服用してい たらしいことに、白夜さんが事件性を感じている んです。正直、私もそれは同感です。あの患者さ んに、アセトアミノフェンを悪意をもって飲ませ た誰かがいるとするなら、放置できません。そう なれば、元新聞記者で警察にも顔がきく将貴の力 が必要になるかもしれないんです」  「……そういうことですか」  里中はため息をついて、緑色のガラスボトルの 中に残っていた炭酸水を飲み干した。  「やむを得ませんね。ただしくれぐれも問題が起 きないように気をつけていただきたい。よろしい ですか、理事長」  本音の見えない曖昧な笑みを浮かべて、麻里亜 の目を覗き込む。  「もちろんです、院長先生」  麻里亜は、そう答えて微笑みを返し、ペリエの 瓶を手にして堅いスクリューキャップを力任せに 捻った。     H  狩岡将貴の家は、吉祥寺駅から井の頭公園を通 り抜けた先の閑静な住宅街にあった。  鬱蒼とした公園の森林のおかげで東京としては 夏も涼しく、古い日本家屋で大きな掃き出しの窓 がある将貴たちの家では、昔は冷房なしで夏を過 ごせた。  温暖化の進む昨今は、さすがにそうはいかない が、4月半ばを過ぎてもまだ寒いと感じる囗が少 なくない。  高級住宅街と言われるこの辺りとしては大きな 庭がある家だが、そのほとんどは晴汝の作る有機 野菜の畑と白夜が植えた薬草類で埋めつくされて いて、さながら農家の庭先のような有り様だ。  おまけに建物はといえば築60年の木造で、すき ま風も入るあばら家だった。  しかし白夜はこの家がすこぶる気に入っている ようで、将貴と妹の晴汝が深く考えず建築雑誌を 一緒に眺めていたら、自分がいる間は建て替えた りしないでほしいと懇願されてしまった。  もっとも、建て替えようにもそんな金があるわ けもないのだが。  この土曜日はとき父の旧友が訪ねてくることに なっていて、将貴はローテーションで出勤のない 晴汝と二人で朝から整理整頓に大忙しだった。  未だに片づけという概念のない白夜は、何か使 うとそのままにしてしまう。本を読めば、読んだ まま。食事をしたら食器はテーブルにそのまま。 しつけのなってない小学生のようだ。  何度言ってもそれは直らず、将貴も晴汝も今は 諦めている。なので家の中は兄妹二人だった頃と は大違いの雑然ぶりだ。  それなりに客人を招けるまでに片づくのに、朝 食後すぐ始めて昼過ぎまでかかってしまった。  槙村宗一郎が将貴の家を訪ねてきたのは、白夜 が病院から戻った昼下がりだった。  曖昧に2時から3時ごろに行くと告げてきてい て、そのちょうど真ん中の2時半に彼は、将貴た ちの子供の頃からのイメージそのままの、着古し たジーンズと自いコットンシャツといった出で立 ちで現れた。  将貴と晴汝が庭先に出迎えると、槙村は囗に焼 けた相貌を皺だらけにして笑い、  「久しぶりだな、将貴君とは。晴汝ちゃんは院内 でたまに会うがね」  と、今にも抱きつきそうな勢いで二人に歩み寄 る。  ふと将貴の脇に寄り添う白夜に気づいて歩みを 止めた。  「おお、君はたしか白夜さんだね。入学した後に 一度お会いしたんだが、憶えてくれているかな」  勢いのある人間が苦手な白夜は目を合わせずに、 小さく頭を下げるだけである。  「槙村先生、変わってませんね。お元気そうでな によりです」  将貴が言うと、彼は好きなコーヒーとワインの せいなのか少し黒ずんだ歯を見せてまた笑った。  「人間、立場が変わったくらいでそう印象が変わ るもんでもないさ。むしろ若返ったんじやないか な、現場に戻って」  確かに見た目はむしろ若くなったように見える。 自髪まじりだが豊かな髪は以前より少し長めに カットされていて、肌の色つやも良く、いつト レーニングしているのだろうと思うくらいに引き 締まった180センチ近い体躯といい、六十五歳 にはとても見えない。  教授職からは身を引いたと聞いていたが、現場 に戻るためだつたということか。  「ということは、今は診療をされてるんですね」  確かめるようにきくと、槙村は嬉しそうに笑っ て、  「やってるとも。新設された一番儲からない科の 部長をやらされてね、人数も少ないから毎日俺も 現場だ。充実してるよ、齢六十五にして人生が」  「新設された科、ですか」  玄関でなく開けっ放しの縁側に向かって四人で 歩きながら、将貴がきいた。  「総合診療科と言ってね。患者の診断をすること に特化した科なんだ。俺がカリフォルニアにいた 頃にやっていた家庭医のようなことを、大学病院 でやってるというわけだ」  診断に特化した科と聞いて、がぜん興味が湧い た。DCTとかつての白夜も、まさにそれが仕事 だった。  「面白そうだ。お話を伺いたいですね、今度ちゃ んと」 「お、そういう言い方、お父さんに似てきたな」 「ええ〜、そうですか?」  四十手前の男が父親に似てきたと言われても、 苦笑いしか出てこない。  そんな当惑顔の将貴を見て、槙村は言った。  「修は日本一の医療ジャーナリストだったんだ。 そういう男に似てきたというのは、褒め言葉だ ぞ」  父の狩岡修は、港医科大学を卒業しながら医者  にはならず、当時の厚生省の医系技官として数年 働いた後に医療ジャーナリストの道に進んだ変わ り種だ。槙村とは大学の同級生で、麻里亜の父親 の高森巌もそうだった。  三人は切磋琢磨してきた仲だったのだ。  槙村は10年近いアメリカ滞在からの帰国後は、 母校付属病院の医師として長く勤め、巌は祖父の 創った病院に戻って理事長兼院長として働いたが、 6年前に癌でこの世を去ってしまった。  将貴の父である修もまた、四十代の若さで事故 死している。  将貴と晴汝にとっては、父を亡くした後に学費 も含めて面倒をみてくれた巌はもちろん、槙村も また親戚同様に関わってくれた恩人なのである。  白夜が同時に合格していた国立大学医学部でな く港医科大学を選んだのも、ただ単に学費免除の 特待生待遇が理由ではなく、いざという時に頼り になる槙村の存在を意識した将貴と晴汝、そして 麻里亜の勧めがあってこそだった。     12  将貴たちの両親の位牌を収めた仏壇に向け線香 をあげてじっと手を合わせると、槙村は四人で井 の頭公園を少し歩こうと言い出した。天気もいい し、散歩に付き合うのはやぶさかでないが、急に 訪ねてきたことといい、なにか意図があるのでは と感じた。  よく晴れた4月の空は、公園の森の緑に絵はが きのようにマッチしていた。  コンクリートの階段を下りていくと、きらきら と輝く池が見えてくる。  将貴はここからの景色が、子供の頃から好き だった。  サッカーボールを蹴りながら階段を下りていく と、追いかけようとした妹が転びそうになるのを 見て母が慌てて助けあげる。  笑いながら振り返り、なんとか無事な妹を確認 してもう一度顧みると、水面を輝かせる池が木々 の間から覗いているのだ。  そんな光景が、幼い囗の記憶のステレオタイプ として、将貴の脳裏に刻みつけられているのだっ た。  週末の井の頭公園は総じて人通りが多いが、公 園の西側はさほどでもなく、こういうそぞろ歩き にはちょうどいい。  看護師として働く晴汝の近況をはじめ、他愛な い昔話などをしながら、弁財天様を祀っている社 の辺りを過ぎた時、ふと歩を緩めて槙村が言った。 「今日は少し、話があってきたんだよ」  思った通りである。  晴汝が看護師として働き出す前にも、槙村は同 じようにふらりと訪ねてきて、公園を歩きながら アドバイスをしてくれた。  その時は、晴汝が港医科大附属病院に就職を決 めたのを知ってのことだった。  大学病院の仕事も一度は経験して損にはならな いが、決められた科の属した派閥の医師だけを相 手に長く働くよりも、なるべく早く高森総合病院 のようなところで、希望すればいろんな科で経験 を積める環境に身を置いて、自分の適性を探って いくほうが将来のためになるという話を、ちょう どこの弁財天を過ぎた辺りでされた憶えがある。  「やっぱりそうだったんですね。もしかすると、 白夜のことですか」  将貴がきくと、槙村は小さく頷いてみせながら、  「彼女のことは麻里亜から聞いて、俺も興味を もっだよ。素晴らしい才能の持ち主らしいな、若 いのに」  と、少し下がったところを歩いている白夜を顧 みた。  白夜は照れるでもなく、ただ槙村の顔を興味深 そうに見ている。  槙村は、またすぐに前に向き直って言った。  「じつは、麻里亜に病院のことで相談を受けて ね」  彼は麻里亜のことも生まれた時からよく知って いる。分娩も港医科大病院の産婦人科だったそう で、赤ん坊の頃はおむつも替えたことがあると 言ってば、麻里亜によく嫌がられていた。  「麻里亜が相談を?」  「うむ。彼女は去年から院長を務めている里中賢 蔵のことを、信用できなくなっているらしいんだ。 港医大附属病院の院長になってもおかしくなかっ た大物ということで、大学側からの推薦もあって 受け入れたというのだが、もしかするとやっかい 払いだったんじやないかと思っているようだ」  「それはつまり、彼の投資失敗からくる借金のこ とですか。付属病院が肩代わりしたという……」  「その借金はもう、ほとんど返し終わっているは ずだと伝えたんだが、どうも麻里亜が感じている のは、もっと漠然とした不安なのかもしれない。 しきりに聞いてきてね、里中は港医大時代どんな 人物だったのか、彼を院長にして本当によかった のだろうか、などと」  「どう思われるんですか、槙村さんは」  「正直、俺もいやな予感がするんだ」  「いやな予感……」  「里中は俺の大学時代の同期だ。大学病院に勤め るようになったのも1年違いで、それからずっと 切磋拓磨してきたライバルであり、友人でもあっ た。ところが彼が副院長に就任した頃から、様子 がおかしくなってきてね。投資の失敗がきっかけ だったのかもしれないが、よくない噂がたち始め たんだI」  槙村の話では、里中は脳神経内科部長からのス テップアップとして副院長になると、内科全体の 治療方針決定にも影響力を行使するようになった のだという。  中でも彼が介入したがったのが、投薬のあり方 だった。  それぞれの科の担当医がどんな薬を患者に処方 するかは、普通は個人の裁量に任されている。し かし里中は、そこに一定のルールを設けようとし たのである。  表面上は科をまたいで受診する患者の薬の拮抗 や多剤投与からくる副作用を防ぐことと、病院付 属薬局が同じ薬剤を大量仕入れすることによるコ ストダウンが理由だったが、槙村いわく、そこに 彼の個人的な利益が関与していた可能性があると いうのだ。              丶丶丶丶丶                わいろ  特定の製薬会社からの手厚い礼金、つまり賄賂 を受け取っていたのかもしれないという。  「賄賂ですか」  里中は高森総合病院でも、同じような使用薬剤 のコントロールを始めている。  しかしそれでどこかの製薬会社から賄賂をも らっているとは思えない。  アセトアミノフェンのようなジ子不リックもあ る薬剤を大量仕入れしても、特定の製薬会社に利 することにはならないだろうし、仮に多少はなっ たとしても、大学付属病院とは規模が違ってくる。  多額の賄賂を手に出来るほどの影響力はないだ ろう。  「まあ賄賂そのものは、仮に受け取っていたとし てもたいした額でもなかったとは思う。それより もっと、大変な事件があってね」  「事件?」  「医療事故だよ。七十代の女性患者が、必要以上 の投薬を受けて死亡したんだ」  将貴の中で警鐘が鳴り響いた。  公園の小道がふいに薄暗くなった気がして、思 わず辺りを見渡す。  親子連れ、恋人同士、読書をするサラリーマ ン……いつもと変わらない光景が、サスペンス映 画の一場面のようにどこかおぞましく映る。  つい先日、目の当たりにしたアセトアミノフェ ン中毒による医療事故未遂。  それと今聞いた話がシンクロしていく。  「どういう経緯だつたんですか。詳しく教えてく ださい」  将貴が歩みを止めて問いかけると、槙村は眉間 に皺を寄せて、不可解な事故の顛末を話し始めた のだった。     13  その薬害死亡事故を見つけたのは、槙村本人 たった。  港医科大附属病院では、原因のはっきりしてい るヶIスを除いて、亡くなった入院患者の死因を 全て調べることになっている。場合によっては遺 族の了解を得た上で病理解剖をすることもあると いう。  その七十代の女性患者の死因は、担当医の所見 では便秘による腸破裂からの敗血症。緊急手術の 準備中にあっという間に亡くなってしまったとい  症例自体が珍しいこともあって、総合診療科を 開設したばかりの槙村が駆り出されたということ だった。  遺体の検分と死亡時の報告書の検証を行って、 彼はすぐに疑問を感じたという。  便秘による腸破裂からの敗血症でそこまでの突 然死というのは、不自然だと考えたのだ。  「便秘で腸破裂……」  白夜が、槙村の話に引き込まれたのか確認する ように呟いた。  「そうやって便秘で腸が破けたなら、石のように 固い便がじわじわと腹部に漏れだして、周囲の臓 器に感染を起こして死亡するまで、ある程度時間 がかかります。発熱とひどい痛みを伴う症状が長 く続いて、敗血症から多臓器不全を起こし死に至 る。それが突然死となると、敗血症以外の理由が あるはずです。たとえば腸管穿孔による出血で低 血圧になり心停止とか……ちt変時のバイタルは頻 脈でしたか?」  「いや、むしろ徐脈になっていたようだ」  「出血なら脈が速くなるはず。患者は心臓に問題 があったんですか」  「それは恐らくなかっただろう。持ち物にスポー ツクラブの会員証があった」  「そもそも、腸が破裂するほどの便秘も珍しいで すけど、原因は何かわかりましたか」  「うむ。患者はアルコール依存症で心因性と思わ れる偏頭痛もあったそうだ。持っていた鞄から、 薬がいくつか出てきて、それが極度の便秘を招い たと思われる」  と槙村が言うと、打てば響くように白夜がその 薬が何かを口にした。  「抗うつ薬ですね。それも三環系の。現在はうつ 症状には選択的セロトニン再取り込み阻害薬、い わゆるSSRIを投与するのが一般的ですが、ア ルコール依存で偏頭痛があれば、今でも三環系が 処方されることもあります」  「正解だ。トリブタノールだった。それと……」  言いかけた槙村を遮るように、白夜は続ける。  「トリブタノールには便秘を引き起こす副作用が あります。他にも手の震えなどの症状が出る場合 がありますが、それを予防するために飲む、パー キンソン病治療薬の抗コリン薬、アキネトンにも 便秘の副作用がある。患者が高齢女性ということ も考えると、合わせて飲めば極度の便秘になる可 能性はとても高い」  「驚いたな、まさにその通りだよ。彼女の遺した 鞄からは、その二つの薬がたくさん出てきた。便 秘を引き起こした原因は、間違いなくそれらの薬 だと確信した」  「薬は港医大附属病院で処方されたものなんです か」  「うむ。彼女はうちの精神科に通院歴があってね。 その際に処方されたらしい。ただ三ヵ月前のこと だったし科も違っていたため、便秘を担当した医 師はまったく考慮しなかった。しかし、なぜかた くさん彼女の遺品の鞄から出てきたんだよ。もし かすると、処方された薬を気に入って大量に個人 輸入して常用していたのかもしれない。抗うつ剤 や頭痛薬の場合はたまにあるからね。それらの薬 剤はすべて自いピルケースに入っていて、担当し ていた看護師いわく、患者はサプリメントだと 言って飲んでいたそうだ」  「サプリメント……」  「担当医は知らなかったらしい。知らずに便秘の 治療をしていたそうだ」  「死因は腸破裂からくる敗血症……それ、誤診で すね」  「ああ、その通りだ。自夜くん、本当の死因はな んだと考えるかね、君は」  わずかな情報からズバズバと真相を言い当てる 白夜に興味津々の様子で、槙村は訊いてきた。  「高マグネシウム血症です。もしかすると患者は、 さっきの二種類の薬剤の他にも、サプリメントと してビタミンDも常用していたのでは? ビタミ ンDはマグネシウムの吸収を促す効果があります から」  槙村は、半ば呆れたように天を仰いだ。  「参つたな、君には」  「どういうことですか槙村さん。俺にもわかるよ うに説明してください」  将貴が訊くと、槙村の代わりに隣にいた晴汝が 答える。  「便秘薬のカマー酸化マグネシウム製剤を投与 されていたんじゃないかな。それが極度の便秘の せいで腸から吸収されちゃって、高マグネシウム 血症になり心不全を起こしちゃったんだと思う」  「晴汝ちゃんもよく勉強してるね。その通りだよ。 酸化マグネシウムは安全な薬とされていて、通常 はほとんど腸から吸収されずに便通を促して共に 排出される。しかし患者の便秘はあまりにひどく、 薬が腸に大量に蓄積してしまい、ビタミンDの効 果も重なって、便秘に伴う食欲不振からの脱水を 契機に一気に腸管吸収されてしまったんだ」  高マグネシウム血症は、強い心機能抑制作用が あり、徐脈から心停止に至る致命的な病態で、便 秘薬の副作用としてまれに見られるという。  腹痛からのレントゲンで腸管の破裂が見られ、 担当医はまず感染症を防ぐために抗生剤を点滴投 与し、手術の手配をしたということだったが、高 マグネシウム血症には気づかなかったようだ。  その結果、死亡後に本当の原因がわかることに なってしまったのである。  患者の七十代女性は身寄りがなく、遺体は彼女 が働いていた清掃会社の社長が引き取ったとのこ とだった。  「ちょっと待ってください、槙村さん」  将貴が口を挟んだ。  「その医療事故については理解できました。でも それが、里中院長となんの関係があるんでしょ う」  「関係があるかも知れないんだよ」  槙村は押し殺すような声で言った。  「さっきも言ったように、港医大附属病院の投薬 ガイドラインを刷新したのは里中なんだからね。 そしてアルコール依存で心因性の頭痛がある患者 には基本、トリブタノールを使い、合わせてアキ ネトンを処方するという、重箱の隅をつつくよう な奇妙な精神科の投薬ルールも、重症の便秘には 全て酸化マグネシウム製剤で対応するという消化 器内科のルールも、彼がすべて副院長就任の後に 決めたことだったんだ」     14  槙村の言葉に将貴は凍りついた。  今、高森総合病院で起きていることと酷似した 投薬ルールの見直しが、港医科大病院でもかつて 里中によって行われ、もしかするとそれが原因で 死者が出だのではないか、槙村はそう言いたいの だろうか。  「麻里亜からの相談事というのは、そのことだっ たんですか」  将貴が訊くと、槙村は木々の間から覗く青空を 仰ぎ見て言った。  「こんな晴れやかな囗に話すようなことでもな かったな」  「いえ、伺えてよかったです。おかげで頭の中は どんより曇ってしまいましたけど」  「麻里亜は里中を受け入れた責任のある病院理事 長として、表立って出来ることは隕られていると 言っていた。だから将貴くんのペンの力と自夜く ん、君がさっき見せてくれた、驚くべき洞察力に も期待しているようだった。よろしく頼むよ、お 二人さん。俺も麻里亜が言っていた高森総合病院 の投薬ミス事件が、偶然なのかどうかは別として、 里中のやってることが遠因になっているのは間違 いないと思っているんだ」  偶然でないなら、なんだと言うのだろう。たま たまでないなら、必然ということか。  しかし、なんのための必然なのだ。  それがわからない。 「槙村先生」  ふいに晴汝が呼びかけた。 「さっきから、あの赤ちゃん、ずっと泣きっぱな しなんです。大丈夫かしら」  見るとベンチに座っている母親が、必死の様子 で赤ん坊をあやしていた。槙村の話に夢中で気づ かなかったが、かなりの大声で泣き叫んでいる。  静かな公園だけに周囲の視線も気になるのだろ う、眉を厳しく寄せてうんざり顔だ。  「あたしたちがここに来る前から泣いてたから、 もう10分くらいは泣き通しなんじやないかな。な んか病気だったりしないでしょうか」  確かに10分泣き続けているとなると、何か病的 な理由があってもおかしくない。  「さあ、どうだろうね。自夜くん、君はどう思 う」  槙村が訊くと白夜は、  「どうでしようか」  と、少し近づいて観察しはしめた。  「乳児が母親と一緒にいるのにあんな風にずっと 泣き続けているヶIスでは、たんなるおむつの汚 れとか空腹、発熱などは考えにくいですね。排便 や空腹なら母親が対処しているはずですし、発熱 なら抱いているうちに気づくでしょう」  「なるほど、そうかもしれないな」  「だとすると、考えられる症例で急を要するもの は、腸重積でしょうか」  「なんだそれは」  将貴が訊くと、白夜はいつも通り淡々と説明を 始めた。  「零歳から二歳くらいの乳幼児に比較的多い病気 で、腸管の一部が後部の腸管に引き込まれる形で、 重なってしまう状態を言います。原因は不明な場 合も多く、長く放置すると腸管が壊死を起こして 命に関わることもある危険な病気です。初期症状 としては原因がわからないまま大声で泣き続けた り、ずっと不機嫌で顔色が悪かったり、進行して いくとぐったりしたり嘔吐、血便なども出てきて、 こうなると治療を急ぐ必要があります」  「大変じゃないか、それは」  「まあ慌てなさんな。ちょっと自夜くん、一緒に あのお母さんのところにいこう。将貴くんと晴汝 ちゃんは、そこで見ていてくれないか。あんまり 大勢でいくと、お母さんがびっくりしてしまう」  「はい、わかりました。ここで待ってます。ね、 お兄ちゃん」  「ああ、かまわないが……」  「よし、一緒に行こう、自夜くん」  槙村は手招きしながら歩きだした。  白夜は不思議そうに首を傾げながらついていく。 「何をするのかな、槙村先生」  と、晴汝が小声で聞いてくる。 「さあ。槙村さんはちょっとイタズラ好きだった からね、昔から。何か企んでいそうな気がする な」  と、晴汝を誘って将貴は、母子から5メートル ほど離れた大きな立ち木の陰に隠れるようにして、 成り行きを覗き見ることにした。     15 「お子さん大変ですね、お母さん」  ベンチに座っていた母親は、槙村のいきなりの 問いかけにびっくりして、目を丸くして応えた。  「あ、はい、すみませんうるさかったですか」  騒音に文句を言いにきたのかと思ったのだろう。 槙村はしゃがみ込んで、すぐに笑顔で否定した。  「いやいや、こんな公園で赤ちゃんの泣き声をう るさがるなんて、心の狭い人間のやることです。 私は医者でね。ちょっと心配になって様子を見に きただけですよ」  「えっ、お医者さんなんですか」  医者が心配して来たと聞いて、母親の表情に不 安の色が浮かぶ。  「この子、なにか病気なんでしようか」  と訊かれて槙村は、明るい笑顔のままで首を横 に振って、  「ちょっと泣いてるくらいで、重大な病気という ことはありませんよ。ね、そうだろ、自夜くん」  「そうですね。泣いているだけで病気と決めつけ ることはできません」  白夜は槙村が何をしたいのかわからず、居心地 悪そうに突っ立っている。  「あの……そちらのお嬢さんもお医者様なんです か」  母親が怪訝そうに訊いてきた。何か答えようと する白夜を手で制して、代わりに槙村が答える。  「いえ、この人は医者の卵でね。まだ医学部の学 生なんです。近くの病院で研修を受けてるところ なんですが、なかなかに優秀な人ですよ。美人だ しね」  「学生さんなんだ。本当に綺麗な人ですね、色が 真っ白で」  そんなことを言われて、白夜はさらに困り顔に なる。  白夜は相変わらず自分の容姿にあまり関心がな い。こぎれいにしているのは、晴汝が気をつかっ て毎日アドバイスをしているからで、放っておく と髪は起き抜けのまま、化粧はもちろんせずに すっぴんで、服も適当に手近なものを雑に着て出 掛けてしまうのだ。  「いやいや、お母さん、あなたも相当にお綺麗で すよ」  唐突に槙村が言った。確かにわりと美人の部類 かもしれないが、公園で赤の他人がいきなりそん なことを言い出すなんて、怪しいにもほどがある。  しかし槙村は止まらずに、さらに続ける。  「こんな小さなお子さんがいて身の回りを気づか う余裕ないのが普通なのに、着てらっしやるお洋 服もお洒落で、雑誌のママさんモデルみたいじや ないですか。もしかしたら、元々そういうお仕事 をされてたとか」  よくもまあ歯の浮くようなことをシレツと言え たものである。  しかし言われる側は悪い気はしないようで、照 れたように自い歯を見せ、  「やだ、そんなんじゃないですよ。まあ少し、学 生時代は、読モ? みたいなこと、やってたりし ましたけど……やだ、恥ずかしい。ねえ、みやび ちゃん」  と、抱いている子供に話しかけた。  「あれ、泣き止んでますね、赤ちゃん」  (ツとなった。確かにいつのまにか泣き止んで、 ご機嫌な笑顔で母親に手を伸ばそうとしている。  「あら、本当だ。笑ってる」  「どうやら病気じゃないようだ。もう大丈夫です ね、お母さん。私たちはこれで失礼します」  立ち上がって軽く会釈して、きよとんとしてい る白夜を促して欅の大木の陰に隠れている将貴た ちのほうに戻ってきた。  「どういうことですか、槙村さん」  母子連れから離れながら将貴が尋ねると、槙村 は得意気に笑って、  「問題は赤ちゃんではなくお母さんのほうにあっ たってことさ」  「どういう意味ですか、それ」  今度は白夜が訊く。  「わからないか自夜くん。つまりね、赤ちゃんが 泣きだしたのは、きっとお母さんが不機嫌だった からなんだ。何か家庭で嫌なことがあっだのかも わからないし、土曜日の午後なのにお父さんが一 緒にいないのもそれが理由なのかも知れない。と もかくお母さんは、こんないい天気の公園に来て いるのに、赤ちゃんの前で笑顔を作れていなかっ たんだろう。それを見ていた赤ちゃんが、お母さ んの怖い顔を恐れてなのか、そのネガティヴな気 持ちに引っ張られてなのか泣きだし、子供に泣か れてさらに不機嫌になったお母さんを見て泣き続 ける、という悪循環に陥っていたんだと思う」  なるほど、だから歯の浮くようなお世辞で、母 親の笑顔を引き出したというわけかと、将貴は得 心がいった。さすが港医科大病院きっての診断医 と言われるだけある。  「自夜くん、君は麻里亜の言うとおり確かに素晴 らしい観察眼と知識、推理力、それに我々にはな い第六感のような感性を持っているようだ。しか し、診断医はそれだけでは一流とは言えない。患 者の心にもっと寄り添うことが必要になってくる んだよ」  「患者の心に寄り添う。どういう意味でしょうか。 私にはよくわかりません」  それも本音だろう。白夜はまだ、そこまで精神 的に成熟していないのだ。この世界に解き放たれ て、まだたった6年しか経っていないのだから。  「そうか、わからないか。ならばこう考えてみて はどうかな。たとえば今の赤ちゃんの件で、君の 見立てた腸重積の可能性を、あのお母さんにさっ きしたように滔々と語り出したらどうなっていた と思う?」  「どうなっていたんでしょうか」  「お母さんは自分の子供が重病かも知れないと動 揺し、その様子を見た赤ちゃんはさらに不安に なって泣き声を上げただろう。その足で、病院に 駆け込んでレントゲンを撮ってくれと言い出した かもしれない。あんな小さな子にそれは、大きな 精神的負担にもなるだろうし、ちょっとしたトラ ウマを残しかねない。決めつけていなくても、あ の母子にとってはそれは『誤診』されるに等し い」  「やっぱりわかりません、私には」  白夜は納得いかないようで、首を傾げたポーズ で言った。  「たまたま泣き止んだので恐らく違うでしょうけ ど、あの時点では腸重積の可能性も確かにあった はずです。いえ、今だってまったく可能性がゼロ とは言えません。医師の診断はそういう可能性も 考慮して行うべきで、私か間違っていたとは思え ません」  白夜も腹を立ててそう言っているわけではない だろう。それを感じたのか、槙村は笑顔になって 言った。  「まあ、無理にわかろうとしなくても、今はそれ でいいんじやないかな。でもこの先、患者と向き 合って、その本音を引き出せずに苦労した時は、 俺の言ったことを思い出してほしい。案外、これ から君が当たる壁は、すぐ近くに待ち受けている かもしれないからね」  「そうですか」  白夜は淡々と言って。  「散歩のついでに吉祥寺駅のほうにちょっと行っ て、『エピキュリアン』という店に寄っていいで すか。ここのプリンがとても美味しいので、買っ て帰ってみんなで食べましよう」  と、おそらくなんの悪気もなく話を変えてしま  「いいとも。俺も甘い物は嫌いじやないよ、自夜 くん」  槙村も白夜の人となりを早くも理解したようで、 にこやかに受け止めてくれた。  しかし、この時の槙村の言葉は、ほどなく現実 のものとなり、白夜はその『壁』と格闘すること になるのだった。     16 「野上からメールが来だの」  美保は震える声で、電話口の男に告げた。  「生きてるのよ、彼。どうしてなの? 死ぬって 言ったじやない」  最後の客を送り出すとドアに閉店の札を架け、 疲労を癒すつもりで棚にある飲みかけのボトルか らウイスキーをグラスに注いだタイミングで、 メールを送ってあった彼から電話がかかってきた のだ。  「そうですか」  彼は淡々と答えた。  「なぜ死ななかったのかは、ちゃんと検証します。 あなたは心配する必要ない」  「本当に? もし彼が、あたしがあげた薬のせい でこうなったとか言い出したら……」  「そんなことは言わないように、信頼関係を築い てきたでしょう」  「それはそうだけど……」  「大丈夫」  また彼は、ぐすっといつもの含み笑いをして。  「私か言った通りに、二日酔いの頭痛止めとして 渡していたんでしょう。だったら、仮に彼があな たからもらったことを話したとしても、病院側は それをことさらに追及しようとは思わないはずで す。まして、経験不足の研修医の投薬ミスが招い た事態となれば、それを認めること自体、病院に とっては恥ですから」  「投薬ミス? どういうことなの」  うっかり口を滑らしたのだろう、彼は小さく舌 打ちして、  「私か考えていたストーリーの話です。細かいこ とまで、あなたは知る必要がない。いいですね。 知る必要がないんです」  と、柢い脅迫的な声色で念を押す。  「……わかったわ」  一杯目のグラスを空にすると、なんだか少し勇 気が湧いてくる。  「あたしは言われた通りにやった。あとは、あな たの責任よ」  「ええ、もちろんわかっていますよ、安岡さん。 いいですか。あなたが私とのこういうやりとりを 口にしないかぎり、鎮痛解熱剤を渡していたこと だけで、責任を追及されることはありません。あ なたは何一つ強制していなかったのだから。そう でしょう」  「そうね。彼には無理やり飲ませた覚えはないも のね。もちろんあなたとのやりとりを喋るつもり もないから安心して」  「それでよろしい」  「でも、このままじゃ、どっちみちあたしは沈没 なのよ。どうすればいいのかな」  「大丈夫ですよ」  また、ぐすっと笑って、彼は言った。  「これくらいのことは想定済みです。あとは私に 任せて、あなたは野上がICUを出たタイミング を見計らって、知らん顔でお見舞いにでも行って やってください。今生のお別れにね」  「死ぬのね、野上は」  「ええ、もちろん。そうでなければ困りますよ。 あなただけでなく、私もね。……では、おやすみ なさい」  電話口で囁いて、彼はいつも通りにそっけなく 電話を切った。  手段はわからないが、殺すつもりなのだろう。  今度は彼自らの手で、確実に野上を。  美保はその冷血さに身震いがしたが、かといっ てもう後には引けない。  野上から来た携帯メールに、スマホでICUを 出たら見舞いに行く旨を返信すると、店のカウン ターに置いたグラスにまた指二本分のウイスキー を注ぎ、一気に飲み干す。  ヒリリとした(Iドリカーの刺激に喉を焼かれ ながら、思った。  どうしてこんなことになってしまったのだろう。  この年で独り身の自分には、今背負っている莫 大な借金を返せる見込みはない。返せなければ全 てを失い、夜逃げするか自己破産して惨めな人生 を甘んじて受け入れるか、そのどちらかだ。  それはわかっている。  だからあの男の誘いに乗った。  いちかばちか、捲土重来を期して。  人生をやり直すために。  ここまで来たら、彼を信じてやり遂げるしかな いのだ。  自分に言い聞かせながら、美保はまたウイス キーを呷った。  第二章 命の値段     1  月曜の昼間だというのに店内はほとんど満席で、 高価そうなバッグを荷物置きの籠においたマダム たちが、何かを競い合うように甲高い声で談笑し ている。  吉祥寺を人気の町にしている第一の理由であろ う井の頭公園に面するこのイタリアンレストラン は、池を臨む広いテラス席も有していて、晴汝い わく常に人気ランキングの上位にいるらしい。  古くからの友人で吉祥寺署の刑事である奥村淳 ぺい    丶丶丶丶 平に、折人って話がある時は、必ずこの店で待ち 合わせをすることにしている将貴だったが、たま たま予約を取り忘れて、レジ前に並んだ椅子でお しゃべりなマダムたちに交じって待つぼめになっ てしまった。  「お客様、お席がご用意できましたので、どうぞ こちらに」  店員の女性が笑顔で会釈して、ようやく将貴を 店の奥へと案内しようとしたそのタイミングで、 奥村は息を切らせながら現れた。  「すまん、将貴。出ようとしたら課長に呼び止め られて、つまらん競馬の話に付き合わされてね」  「競馬? そんなの約束があると言って振り切れ ないのか。お前だってもう役付きだろうに」  「それが出来ないのが警察って組織なのさ。お前 らマスコミとは正反対なんだ、勘弁してくれ」  「ははは。まあいい、どうせ俺も予約取り忘れた せいで、10分以上も入り口で待だされてたんだ。 ちょうどいい按配だよ、今来てくれて」  そんな会話に笑いを堪えながら、店員は二人を 希望してあったテラス席に案内してくれた。  テーブルの上に木の影が、だんだら模様を揺ら している。  小鳥のさえずりに混じって遠くから聞こえるシ タールは、楽器の練習をしに来た市民が奏でてい るのだろうか。それとも、茣蓙を敷いて空き缶を 前に置いた、ストリートミュージシャンなのか。  子供の頃からそれらに親しんできた将貴には、 なくてはならない井の頭公園の風物詩だった。  「−で、今日の相談事はなんだ」  お互いの近況を伝え合いつつランチセットのパ スタを食べ終え、運ばれてきた熱いコーヒーを唇 を尖らせて啜りながら、奥村が訊いてきた。  「殺人未遂か自殺教唆か、そんな話だ」  奥村はコーヒーを噴きだしそうになって、問い 返す。  「お前、また事件記者に戻ったのか」  「いや、そうじゃない。高森総合病院で起きてる 事件なんだ。白夜がDCTに実習で復帰してさっ そく診断した薬害の話なんだが、どうもきな臭 い」  「詳しくきかせろ」  「そのために呼び出したんだよ」  将貴はここだけの話だと釘を剌した上で、先日 病院で起きたアセトアミノフェン中毒騒動につい て話して聞かせた。うんうんとうなずいて聞いて いた奥村だが、薬の名前など具体的な話になると 目が泳いでいた。  どうやら奥村には、数年間医学についてそれな りに学んできて、ノンフィクションも出版した将 貴のわかりやすい説明でも、ついてこられないと ころがあるとわかったので、最後にはずばり。  「ともかく誰かがその患者に、飲みすぎたら危な い薬を大量に飲ませた疑いがあるんだ」  と言って話をまとめた。  「なるほど、そいつは確かにきな臭い」  奥村はもう冷めてしまったコーヒーを、一気に 飲み干して言った。  「ようするにお前は、その野上一夫っていうバー テンの身辺を俺に洗えって言いたいわけか」  「察しがいいな。そういうことさ」  将貴ほとりあえず今のところは、患者がどんな 症状でどういう処置を受けて危険な状態に陥った か、その事実を伝えるだけに留めた。  麻里亜が懸念している病院内部の不穏な動きに 関しては、まだ警察が乗り出すようなレベルでは ないと思っている。  そこは現状では将貴が水面下で、取材と称して 医師だちからの情報を収集することから始めない と、火のないところに煙をたたせかねない。  もし万が一、本当に病院内で何か陰謀めいたこ とが行われているとしたら、逆にその首謀者を警 戒させて証拠隠滅をされてしまう可能性もある。  病院内の件についての警察の出番は、もしそれ が事実であるなら動かぬ証拠を掴んでからでも遅 くないと、将貴は踏んでいたのである。  ともかく奥村には、野上一夫がどんな人物でど こで働いているのか、職場の人間関係や家族のこ となどを調べてもらいたかった。  所轄警察署に勤める彼にとっては、そのくらい は朝飯前なはずだ。  「住所とか年齢とか、わかる範囲でいいから教え てもらえないか。それがわかれば、二、三日でお 前のほしい情報はあらかた調べがつくと思う」 「たった二、三日で?」 「警察ってのは、そういうもんさ。その気にな りや、あらゆるデータベースにアクセスできるん だよ、今の時代」  「プライバシーもくそもないわけか」  「お前らマスコミと違って、それを暴露したりは しないがな」  笑って軽く言い返すと、奥村は伝票を手にして 席を立った。  たかが1500円のランチでも、奢りは受けな い。  上司とやりあつて所轄に飛ばされたとはいえ、 かつて捜査一課で働いたこともある男の矜持は、 相も変わらずだつた。  野上一夫の病室は、麻里亜の配慮で個室に移さ れた。  四人部屋の他の入院患者は認知症の高齢者ばか りで、野上に聞き取りをしてもそれを理解できる とは思えなかったが、彼らの家族が見舞いに訪れ ることを考慮しての処置だった。  念には念を入れて正解だと将貴も思う。もし本 当に、彼のアセトアミノフェン中毒が殺人未遂だ としたら、慎重にことをすすめなくてはならない。  白夜の判断で行われた解毒剤注射などの迅速な 処置が効いたのだろう、急変から二日後には野上 は集中治療室から出て、ごく軽い食事も摂れるよ うになった。しかしまだ肝臓の値は良くなく、長 年のアルコール過剰摂取も肝機能障害の原因の一 つだと思われた。  肝臓は再生力の強い臓器で、一ヵ月も禁酒すれ ば恐らく正常値に戻るだろうと、白夜は言ってい る。もし彼の命を誰かが狙っているのだとすれば、 それはありかたくないことに違いない。  個室に移されてその一日だけ経過観察を経ると、 翌日にはいよいよ野上にアセトアミノフェン中毒 に至った経緯の聞き取りを行うことになった。  「誰が参加するか決めないとね」  DCTのメンバー全員を集めて、麻里亜が言っ た。  「あたしと言い出しっぺの白夜さん、それと記者 として将貴にも参加してもらうことになっていて、 患者にはもう了解を取ってあるわ。でも、あんま り沢山いると患者を緊張させることになるし、四 人に絞っていこうと思うの」  「あ、俺が行きたいです」  夏樹が真っ先に手を挙げた。 「こう見えていろんな科で仕事してきてるんで、 いると便利な男ですしね」  仙道が笑って、  「自分でいいますかね、それ」  と、手を挙げる。  「僕を加えてください。外科的観点もあったほう がいいと思います」  「外科は関係ないだろ。薬の話を聞きに行くわけ で」  「夏樹先生こそ、皮膚科はなんか関係あるんです か」  「いやだから、俺は皮膚科の前はいろいろ と……」  「私は」  ふいに白夜が割り込む。  「西島先生がいいと思います」  「えっ、僕ですか」  名指しされた西島のほうが驚いた顔で、  「なんでですか白夜さん。いや、全然かまわない しむしろ行きたいですけど……」  と、聞き返す。  「精神科でアルコール依存や薬物依存の治療経験 もありますし、なによりも他の二人と違って、聞 かないかぎりしゃべらないでいてくれるので」  真顔で悪気なさそうに言いにくいことを平然と 口にする白夜に、麻里亜が噴きだしそうになる。 将貴も笑いを堪えた。  「へいへい、わかりましたよ白夜ちゃん」  「きっついなあ〜」  夏樹と仙道は苦笑い。ただ、二人はこの『白夜 節』には慣れっこなので、怒ったりはしない。  「さて、ぼちぼち野上さんとの約束の時間よ。病 室に向かいましよう」  と、麻里亜は白衣のボタンを留めながら、立ち 上がった。  野上の病室は、新病棟の2階にあった。  本来は安くない個室料を払った患者だけが入院 できる病室なのだが、今回はその費用は病院持ち で野上の負担はない。そのことを野上に伝えると、 しきりに申し訳なかっていたそうで、彼の謙虚な 人柄が垣間見えた。  病室のドアをノックすると、意外や女性の声が 返ってきた。  思わずみんな顔を見合わせ、麻里亜がそろりと ドアを開ける。  ベッドサイドの椅子から立ち上がっだのは、夕 イトな黒のワンピースを着た女性だった。  見様によっては三十代前半にも思える若作り だったが、おそらく四十はゆうに超えているだろ う。物腰にそれが表れている。  新聞記者や雑誌編集者として、いろんな業界の 人間ウオッチをしてきた将貴の見立てでは、おそ らく人生の半分以上は水商売に携わっている女性 に違いない。  そういう夜の蝶の鱗粉が、しやなりと立って笑 顔を作り、媚びを売りながら相手の品定めをする 瞬間に、ふわりと舞い散るのを感じた。  「面会の方ですか」  歩み寄りながら麻里亜が訊いた。 「はい、そうなんです」  小首を傾げながら頷き、女性は答える。  「安岡と申します。野上さんにお世話になってい る者なんですよ」  と、肘に掛けた高級ブランドのバッグを開けて、 中から手早く名刺を出して、将貴たち四人に配っ て回った。  「お店は吉祥寺にいくつかあるんですけど、野上 さんにバ圭アンダーをお願いしているところは、 女性の方でもお一人でよく来られてますから、よ ろしかったら」  女性が一人で来るというのが本当か嘘かはわか らなかったが、ともあれホステスが横につくよう な店ではないのだろう。  白衣を着ているとはいえ未だに少女のような白 夜にも、少し迷いながら笑顔で名刺を差し出した。 しかし受け取ろうとしない白夜の様子に、固執せ ずさらりと引き下がる。  「どうも。野上さんを担当させて頂いております、 高森と申します」  受け取った名刺を見ながら、麻里亜が軽く会釈 をした。  将貴も見てみると、安岡美保という名前の下に 三つの店の名前が並んで書かれている。それぞれ スナック、バー、クラブとあった。  なるほど、見立て通りである。佇まいからして まだ自ら店に立つこともありそうだったが、3店 舗を吉祥寺でいとなんでいる経営者という肩書だ。  [野上さんにお願いしてるお店は、宣]ん中にある 『バー・M』なんですの。シックなお店ですので、 よろしければ先生方にも二次会なんかで使って頂 ければ」  「昔と違って今どきの勤務医は、居酒屋とか焼き 鳥なんですよ」  麻里亜は作り笑顔で応えた。  「MRの接待とかも、だいぶ減ってきていますし、 派手な生活とは無縁なんです」  そもそも彼女はその手の接待を嫌っていて、総 合病院の理事長という立場にも拘わらず、医薬品 業界との繋がりもほとんどない。  そういう『政治』が苦手たった父親譲りの清廉 さは、昔から変わっていなかった。  「あらそうなんですね、今どきは。野上さん、な んだか診察みたいなんで、あたしはぼちぼちおい とましますね」  と、美保は野上を顧みて告げる。  「ああ、もうお帰りですか、美保さん。本当にあ りがとうございました、今日は。お店もお任せし てしまって……本当に本当に……」  と、目頭を潤ませてベッドから起き上がろうと する彼を、派手なネイルをした手で制して、  「ああ、いいのよ、横になっててちょうだい。ま た来ますね。それじゃ……」  と、そそくさと病室を出ていった。  野上に対する聞き取りは、軽い世間話をしたあ とに、さりげなく始まった。  ネタを引き出すテクニックは記者を長く経験し た将貴が長けていたが、医者でもないのにへたに 関わると、事情聴取のようになってしまい、却っ て患者を頑なにしてしまうかもしれない。  今回ほとりあえず質問をするのは遠慮して、少 し離れたソファに座ってパソコンを開き、メモ係 に徹することにした。  「−そういうわけで、野上さんの病状は薬物の 中毒症状だったんです」  麻里亜は野上が救急車で運び込まれてからの出 来事を、刺激的な部分を除いて軽く伝え、その上 で本題に入った。  「どうやら当院に運び込まれてきた時点で、野上 さんの症状は急性アルコール中毒ではなく、アセ トアミノフェンという鎮痛解熱薬−つまり頭痛 薬とか風邪薬のような薬を、大量に飲んでしまっ たために起きたものだったようなんです。なにか 心当たりはありませんか。それについて」  「いえ、私には心当たり、ありませんね」  野上は麻里亜の方を見ずに答えた。  その様子から将貴は、彼が何か隠し事をしてい ると感じた。  思い出そうともせず即答したのは、麻里亜の説 明を聞くうちに、何かそれなのかすぐに思い当 たったからだろう。しかしそれを伝えるのは避け たかった。なんらかの理由で。  だから、彼の返答は一つしかなかったのである。  心当たりがない。  そう答えるしかなかったのだ。 「本当ですか、野上さん」  麻里亜は諦めずに食い下がる。 「あなたの血液を調べたところ、かなりの量のア セトアミノフェンが検出されたんです。こちらの 白夜さんが気づかずに解毒剤を投与できなかった ら、命に関わる量でした」  と、傍らに立っている白夜を掌で示してみせた。  「命に関わる? どう関わるんですか」  反応があった。隠すつもりでも、自分の生き死 にに繋がることだったとするなら、理由を知って おきたかったのだろう。  麻里亜は慎重に言葉を選びながら、彼が数日前 に陥った状態について話し始めた。  「アセトアミノフェンというのは、普通に使う分 にはとても安全な薬で、解熱や鎮痛、つまり熱を 下げたり痛みを抑えたりという作用があって、い ろんな病気や怪我の症状を軽くするのに使われて いるんです」  「安全な薬なんですね?」  野上は少し安堵したように聞き返す。  「ええ、通常の量ならまず重篤な副作用が出るこ とはありません。でも、薬は薬ですからね。あま り大量に摂ると、大変な副作用が出てしまうんで す」  「大変な副作用?」  「はい。薬剤性肝不全。つまり肝臓が壊れてし まって機能を失い、助けるにはもう、肝移植しか なくなってしまうという、非常に恐ろしい副作用 です」  「……つまり、死ぬところだったんですか、私 は」  「はい。正直に申し上げて、危ないところでし た」  実はその『危ない』には、研修医の投薬ミスが 関わっていたのだが、そのことには触れなかった。  病院の失態であることは確かだが、白夜のおか げで事なきを得だのだから、というエクスキュー ズがあったのだろう。  そして正式な勤務医ではなく、いわば彼が所属 する医局からの預かり物とも言える研修医だった ことも、理由の一つであるに違いない。  とはいえ、中学の頃から正義感が強かった麻里 亜にとっては、病院のミスを隠すような行為には かなりのストレスを感じているに違いなかった。  だからこそ、その真摯な表情には、真相の究明 に立ち向かう覚悟があると思えた。  「どうでしよう。何か思い当たることはありませ んか」  と、ここに来る前に薬局に寄って受け取ったポ リ袋から、錠剤のシートを何種類か出して見せ、  「こんな感じの白い錠剤のようなものを、大量に 飲む機会があったとか、間違えて飲んでしまった とか、あるいは誰かに飲まされたとか……」  「ありませんね。そんな覚えは」  麻里亜の言葉を遮るように、野上はきっぱりと 言った。  椅子から腰を浮かせて覗き見ると、錠剤のシー トには『アセトアミノフェン錠 500丐』と書 かれていた。I錠で500丐も摂れてしまうなら、 10錠で5000昭になり、そこにアルコール性肝 機能低下と研修医の点滴が加わっていたら、かな り高い確率で肝不全を起こしていただろう。  「なんだか少し眠くなってきてしまいました。話 はまた今度にしてよろしいですか」  と、野上は麻里亜から目を逸らすようにして、 窓の方を向いてしまった。  医師は警察ではないので、患者をしつこく尋問 する資格などない。  当の患者に露骨に拒否されてしまうと、ひとま ず畳むしかないと思った麻里亜が、将貴の方を見 た時たった。  「野上さん、あなたは殺されるところだったかも しれないんです」  野上と麻里亜のやりとりを黙って聞いていた白 夜の、いきなりの爆弾発言だった。  ぎょっとなって野上が振り返った。  目は見開かれ、眉ぽつり上かっている。  やはり眠たいと言っだのは方便たったようだ。  「殺される? 私か? 誰にですか」  半身を起こして、気色ばむ。 「それを知りたいんです、私たちは」  白夜は麻里亜の手にある薬のシートを、勝手に 取り上げて野上の前に差し出す。  「この薬に似た錠剤を、あなたは救急車で運ばれ た囗に飲んでいるはずです。それは誰にもらった 薬ですか。自分で手に入れたものとは思えません。 きっと誰かに渡されたにちがいない。どこの誰 だったか教えてください」  止める間もなくまくし立てる白夜の遠慮のない 言い方に、野上はたじろぐが、目を逸らして言い 返す。  「どういう意味だかさっぱりわからん。だいたい 私は誰かに殺されるほどの人間ではない。見捨て られこそすれ……」  何か言いかけたまま押し黙り、プイと窓の方に 向いて布団をかぶってしまった。  「話を聞いてください、野上さん」  白夜は食い下がる。  「誰かがあなたを殺そうとした可能性があるんで すよ。あなたの血液中からアセトアミノフェンと いう、大量に摂取すれば致命的な副作用のある薬 が検出されているんです。それは放置すれば肝不 全を起こしてしまう量でした。あなたが自殺を 図ったのでなければ、誰かが飲ませたに違いない んです。その誰かを特定して警察に逮捕してもら わないと、退院したらまた狙われることに……」  「だめよ、白夜さん。それ以上は」  麻里亜が見かねて止めに入った。  「いったん質問は止めにして、今日はもう出ま しよう。ね、お願い」 「止めるってどうして……」  言いかけて口をつぐむ。 「わかりました。ではまた明日にでも」  と、無表情になり俯きかげんに後ずさりする。 そのまま倒れ込むのではないかと一瞬思えて、将 貴は立ち上がり、支えるように後ろから両肩に手 を置いた。  「大丈夫です、将貴さん」  将貴の意図を感じ取ったのか、すまなそうに言 うと、しゃんと背筋を伸ばして、ひと足先にドア の方に向かった。  戸口で立ち止まると振り返って、  「また明日話を聞きにきます。お大事に」  と、頭を下げてさっさと出ていってしまった。  あぜんと見送ってから、まず麻里亜がクスツと 笑いを漏らした。  「お大事になんて言葉、いちおう覚えたのね」  「そりやあ、医大の5年生だからな、ああ見え て」  将貴も苦笑する。  「でも変わってないですね、本質は」  西島はなんだか嬉しそうだ。  それぞれ、背中を向けて布団をかぶったままの 野上に、軽く挨拶をして病室を出て行った。  廊下では、少し済まなそうな顔で白夜が三人を 待っていた。  麻里亜を見るとすぐに、  「すみませんでした」  と、頭を下げた。  「つい歯止めがきかなくなってしまって。あのま ま、黙って病室に留まっていることもできなくて、 先に出てしまいました」  「もう少しだけ我慢を覚えないと、研修医になっ てから苦労するかもよ」  麻里亜は苦笑いを浮かべたが、怒ってはいない らしい。  彼女はこの病院では唯一、白夜の過去、生まれ 育った環境のことを全て知っている。まだこの世 に出て他人と接してから、たった6年にしかなら ないと思えば、このくらいのことは仕方ないと、 麻里亜も思っているのである。  「はい、頑張ります」  そう応えながら笑顔はない。素直なのか強情な のか、恐らく両方だろう。  そしてそれが彼女の生来の性質からくるものな のか、それとも幼さゆえなのか、将貴にもわから なかった。  「でも麻里亜さん、あの患者は何か隠しています。 それは間違いありません」  DCTのミーティング室に向かいながら、白夜 が言った。  「それは同意するわ。なんとか聞き出さないと先 に進めないし、いずれまた彼の身に危険が及ぶ可 能性もあるんじやないかな」  「可能性は十分にあるね」  将貴も同じ意見だったが、記者あがりならでは の直感もあった。  「しかし、彼がなぜ隠し事をしているのか、俺は その理由の方が気になるな」  「確かにそうね。なんでだと思う? 将貴は」 「誰かをかばっているんだろうな」 「かばう? 自分の命を危険に哂した人間をです か」  白夜が聞き返すと、将貴に代わって精神科医の 西島が答えた。  「おそらく普段から、その人物に対して強い精神 的依存状態だったんでしょう。アルコール依存症 の患者はたくさん診てきていますが、理想的な自 我を他者に投影することで、世話になっている誰 かに心酔し惚れ込んでしまう人もいます。また、 普段は自己評価が柢く空虚で他人から見捨てられ ることを恐れていて、その抑圧から解放されよう として飲酒を繰り返すケースが多いんです。そし て楽天性と自己破壊衝動を繰り返す、つまりや けっぱち状態に陥り、人によっては死への「Iド ルが柢くなっていく」  白夜は西島の話を聞きながら、宙に向かって本 をめくるような仕種をして、  「なるほど」  と言って腑に落ちた顔をした。  「理解できました。アルコール依存症には、西島 さんが言うようなケースが確かにあるようです。 つまり死ぬことより、その死をもたらそうとした 人物への依存を選びかばってしまうという、楽天 的自己破壊衝動を伴った症例ということですね」  「あ、いやそれはその……」  何か言おうとした西島の方を見ずに、白夜は続 けた。  「病的精神状態において、自分に害を及ぼす人間 をかばう心理的現象には、監禁事件などで犯人を 被害者がかばう、ストックホルム症候群と呼ばれ るケースもあります。ただ、実際の事件を検証す ると可能性は柢く、多くても8%程度という調査 結果も出ていますが……」  「白夜さん」  西島にしては珍しく、やや強い口調で白夜の話 を遮った。  「僕の言い方が悪かったかも知れないですけど、 それは半分正しくて半分間違ってるんじやないで しょうか」 「……どういう意味でしょう」  また白夜が小首を傾げる仕種を見せた。 「アルコール依存症だけが原因じやないってこと ですよ。もっと根深い何か……ゝ心の虚というか、 ぽっかり空いた空洞があの患者さんにはあって、 元々はそれを埋めるための酒だったのかも知れま せん。ただそれが過ぎてしまって、逆に空洞を拡 げることになっていて、そこに誰かが上手いこと 入り込んできた。優しさというご馳走をチラつか せながら。だからアセトアミノフェンを大量に飲 まされたかも知れなくても、それを悪意に取れな い。むしろ善意のためにしたと思い込むことで、 うやむやにしようとしてるんじやないでしょうか ね」  白夜は珍しく、黙って西島の話に耳を傾けてい る。  さきほど見せた空中で記憶の中の書物を読むよ うな仕種も見せず、ただ真顔で彼の目を見つめて その言葉に集中していた。  「もしかしたら、アルコール依存症が悪化したこ とさえ、その善意の仮面を被った誰かの仕業だっ たのかも。そう考えると、アセトアミノフェン中 毒とも繋がってきますし」  確かにそうだ。アセトアミノフェンの大量摂取 で肝不全を起こさせるには、肝臓がアルコールで 弱っていたほうが都合がいい。  ふと将貴の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。 もしかすると西島も、その人間のことを念頭に置 いてこの話をしているのかもしれない。  「でも、あの患者さんが精神的に深く依存してる 相手だとすると、本当のことを聞き出すのはかな り大変だと思います」  やはりそうだ。同じことを彼も感じていたのだ。  だから、珍しく力説しているに違いない。  「確かに大変そうですね」  思わず将貴が口を挟むと、西島は大きく頷いて 言った。  「ええ。何度も足を運んで、彼の心に寄り添う必 要があると思います」  心に寄り添う。  将貴は、井の頭公園で槙村が白夜に伝えた同じ 匸冐を思い浮かべていた。  それは診断医の心構えとでも言うべきか。  医師は見た目の症状や検査の数値だけから、患 者の抱える広い意味での『病』を見抜くことはで きない。  真実は患者が見せる本質、聞かせてくれる本音 にこそある。  槙村はそう言いたかったのではないだろうか。  残念ながら、今の白夜にはまだ難しい。  だからこそI。  「麻里亜、その役割、白夜に任せてやってくれな いかな」  「えっ、でもそういうの苦手なんじやないかな、 白夜さんは」  「大丈夫さ。やれる。そうだよな、白夜」  「……はい、任せてもらえるなら」  白夜にしては、少し自信なさそうな返事だった。  それはそうだろう。  おそらく彼女にはまだ、西島や槙村の言ってい る『患者の心に寄り添う』というテーゼの意味す らわかっていないのだから。  しかし、乗り越えなくてはならない。  白夜の素晴らしい天賦の才能を活かしていくに は、絶対にこの壁を。  「よし、決まりだ。大丈夫。もちろん俺も付き合 うから」  「それならきっと、大丈夫ですね」  と、白夜は子供のように笑った。  他意はないのだろうけれど、ドキツとさせられ る。  将貴は動揺を紛らせるように言った。  「俺は俺で、ちょっと思うことがあるんで、自分 でも調べるし、また奥村にも頼んでみるよ」  そう。  徹底的に調べてやる。  あの安岡美保という女のことをI。  美保がその医者と知り合っだのは、年が明けて 少し経った頃だ。借金のストレスで深酒が過ぎた ことが原因で、軽い急性膵炎を起こして高森総合 病院に入院した時のことだった。  猛烈な痛みでのだうち回ったわりに、さほど病 状は重くなかったようで、三日間の入院で退院で きたのだが、その間、何度も病室を訪れて丁寧に 診察してくれた彼が、退院後に店に来てくれたの だ。  もちろん美保は歓迎して、普段出さないような 高級酒を無理して開けてサービスした。大きな病 院の医師なら常連になってくれるのではという期 待もあった。  それからも彼は店に通ってくれて、遅くまで二 人で飲むことになったある夜、閉店の札をかけた 店内のソファの上で抱き合い、そのまま行為に及 んだのだった。  何度か関係を持ち続けたある囗、美保は自分の 借金の相談を持ちかけた。かなりの額でこのまま では立ち行かなくなり、自己破産して路頭に迷う ことになる。そう告白した美保には、医師である 彼が救いの手を差し伸べてくれるのではないか、 という期待もあった。  真摯に話を聞いてくれた彼だったが、自己破産 した美保を救うつもりはないと告げられた。その 代わりに、彼女が借金をすべて返し、それでも残 るそこそこの大金を使って、人生をやり直せると いうアイデアを持ちかけてきた。  ただそれは、彼女にとって大きな賭けであり、 また良心の呵責と闘う行為だったのだ。  自分のバーで一緒に飲んでいる時に、美保は彼 に、ホームレスになったかつての同僚、野上一夫 の話をしたことがあった。もし破産に追い込まれ たら、自分もそうなるのではという焦りから出て きた話だったと思う。  銀座時代に一緒に働いていたバ上アンダーの男 が、井の頭公園で寝泊まりしているのを見たとい う事実に、彼は何か特別な興味を抱いたようで、 根掘り葉掘り聞いてきた。  思えばその時から、野上を使って大金を手にす る計画を立て始めていたのだろう。  彼は美保を説得するために、いかに多くのホー ムレスが苦しんだ末に、結局は長く生きられずに 様々な病気を抱えて死んでいくか、自殺者がいか に大勢出ているかを語り、挙げ句に広い意味での 殺人とも言える安楽死の正当性まで巧妙に混ぜこ ぜにして、閉店後のバーのカウンターに並んで座 り、あるいはベッドで寄り添って話し続けた。  一億円もの大金を目的に、一人の初老の男をア ルコール漬けにして、鎮痛解熱薬を大量に与えて 死に至らしめることへの罪の意識を、なんとかし て美保の中から追い出すために。  正当化できるはずもない悪事だったが、そう やって終末医療や貧困、自殺や安楽死などと結び つけて語られるうちに、次第に良心が鈍麻して いっだのは確かたった。  ただ、人ひとりに保険金をかけて死に追いやる 犯罪行為を拒絶できなかっだのは、帰宅する際に 通る公園でゴミを拾い集めて食べている痩せ細っ た野上の姿を、毎日のように見続けたせいだった に違いない。  ああはなりたくない、という気持ちが、ああ なったら人間はお終いだ、ああなった人間はもう、 心のどこかで死にたいと思っているんじやないだ ろうか、という身勝手な理屈へと歪んでいったの だ。  結局、一ヵ月ほど悩みに悩んだ末に彼の『提 案』に乗ることに決めた時には、美保もすっかり 悪魔に魂を売る覚悟を決めていたのだった。  美保が計画に加担することを決めた囗から、彼 は店にほとんど訪れなくなった。一緒にホテルに 行くこともなくなった。  直接会うこと自体、ほとんどなくなって、携帯 電話で話すだけとなってからの彼は、次第によそ よそしい言葉遣いをするようになっていった。そ うなってから感じたのは、彼はこういう犯罪が初 めてではないに違いないということだ。  きっと前にも彼はやっている。  莫大な保険金をかけた人間を、医療を利用して 死に追いやる行為を。  この囗も彼は、用意した薬を美保に手渡す場所 として、夜の井の頭公園の公衆トイレを指定して きた。  頭上を覆う黒い木の枝の狭間には、音もなく飛 び交う鳥のような影がたくさん見えた。鳥がこん な夜に飛ぶものだろうか、と彼を待つ間、目でそ れらを追っていると、街灯の明かりに照らされて その正体がわかる。  コウモリだ。  無数のコウモリが飛んでいるのだ。  わけもなくソッとする。  なんだか自分たちのしている冷酷な犯罪を、彼 らが暗い空から見下ろしてあざ笑っている気がし た。  早く用事を済ませて、この場から立ち去りた かった。  「お待たせしました、美保さん」  ほどなく彼は、暗闇の奥から湧くように現れた。  一時は男女の関係でもあったというのに、言葉 づかいは相変わらすの他人行儀だ。  それがこの男の本性を物語っている。  慇懃な言葉遣いとは裏腹に、自分たちのような 人種を下に見て憚らない。ましてや野上のような 元ホームレスなど、命を奪ったとしても罪の意識 など欠片も感じないに違いない。そういう冷血さ が、よそよそしい語り口調としてにじみ出ている のだろう。  しかし、そんな男の誘いに乗った自分も同類 だった。いや、どちらかと言えば野上に近い世界 に棲息してきたにも拘わらず、彼をばっさりと切 り落として大金を得ようとしているのだから、 もっと罪深いかもしれない。  そんな内心の動揺を隠して、美保は腕を組んで 胸を張ってみせた。動揺を知られたらつけ込まれ る。そんな気がしたのだ。  「さっさと渡してちょうだい。あまり長く一緒に いたくないわ、あたしたって」  そういう距離感のほうがいい。この男とは、も う野上の件が済んだら二度と接したくないと思っ ている。  「ええ、ここにあります」  彼はまたグスッと陰気な笑いを漏らして、ジッ パーのついた小さなビニール袋に入った2粒の錠 剤を渡した。手には手術用なのか、薄いゴム手袋 をはめている。  「前に電話で話した通り、これを細かく砕いて手 土産に持って行く明太子のおにぎりに混ぜてくだ さい。明太子の中に少しずつ押し込み、周囲にも まぶすのがいいと思います。明太子はなるべく唐 辛子の利いたやっかいい。そのほうが、錠剤の苦 みがわからなくなるのでね」  以前野上について細かく聞き出された時に、博 多の出身だということは話した覚えがあった。明 太子というのは、そこから発想したのだろう。  錠剤を受け取る手が震えた。  「毒なの、これ」  思わず訊いてしまう。  「まさか。れっきとした医薬品のひとつですよ。 使い方さえ間違えなければね。以前、あなたが飲 ませた薬もそうだったように」  自分が飲ませろと言つたくせに、他人事のよう に突き放す。  少しカチンときだが、なんとか堪えてまた尋ね た。  「彼に……野上に使うとどうなるの」  「高い確率で我々が望む結果になるはずです。た だ、念の為にもうひとつ、お願いがあります」  と、彼は奇妙な頼みごとを付け加えた。  「どういう意味があるの、そんな……」  「あなたは知らなくていい」  にべもなくそう言って、彼は2、3歩後ずさり すると、右の掌を美保に向けて、小さく振ってみ せた。  「やりとげてくださいね、美保さん。心配はなに もありません。野上さんは病死になります。酒で 壊した肝臓が、たまたまどこかでもらった薬の過 剰摂取でさらに機能不全を起こし、その結果とし て別の症状を起こして……治療のかいなくごくな る。ご遺体の引き取りの際には、泣いてあげてく ださい。それが一番の供養です」  と、彼は後ずさりしながらボソボソと用件を伝 え、ふいに背を向けると足音もたてずに暗闇に溶 けていった。  コウモリの舞う漆黒の帳の向こう側へ、幽霊の ようにI。  その朝、白夜は都心部の病院に出勤する晴汝よ りも、ずいぷんと早くに起きたらしい。  いつも通りに起きてきた晴汝が寝間着のまま キッチンを覗くと、白夜はなにやら一人でずっと 冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりしていた。  開けてしばらく中を漁っていたかと思うと、た め息をついて閉じて、またしばらくすると開けて 同じことを繰り返す。  見かねて尋ねると、白夜は子供のように口を尖 らせて言った。  「熱海プリンなんですけど、一つだけ人にあげる としたら、やっぱりあと2個あるコーヒー牛乳味 ですかね。それともDCTの皆さんにいま一つ人 気がなかった、このだいだいソースと塩のプリン でしょうか。でも、私はこれ、けっこう好きなん ですよね。美味しいと思ってます、すごく」  「それ、そんなに迷うこと? なんども冷蔵庫開 け閉めして……」  笑いを堪えて晴汝が訊くと、白夜は真剣なまな ざしで言った。  「迷いますよ。コーヒー牛乳味を除くと、あとは 全部残り一つずつしかないんですよ? 人にあげ たら、もうなくなっちやうんですよ?」  「また買えばいいじやない」  「熱海まで行かないと買えないんです。いえ、種 類によっては通信販売で買えるものもあるみたい なんですけど、なんだかそれって味が変わってし まう気がして」  「変わらないと思うけどな」  「だってこんな柔らかくて繊細な食べ物、宅配便 で送ってきたら……」  「はいはい、わかりました。じやあとりあえず、 コーヒー牛乳味にしたら? それなら2個あるん でしよ?」  「やっぱりそうなりますか……」  悲しそうに振り返り、また冷蔵庫を開けて考え ている。  「一番好きなのね、それが」  「はい」  後ろを向いたままで、何度かうなずいてみせる。  「大丈夫よ。他のも美味しかったし、全部食べ ちやうまでには、また熱海に行く機会があると思 うよ」  「そうですかね……」  「そうよ、しょっちゅう行ってたじやない、最 近」  「でもしばらく病院実習が忙しくて行けないかも しれなくて」  「ぜったい行くと思うな。ところで熱海プリン、 誰にあげるのかしら」  「患者さんです」  「えっ」  「これを食べさせてあげたら、きっと本当のこと を話してくれると思って」  どうやら将貴が言っていた、肝臓障害で入院し ている患者のことらしい。  「え1つ、もう平気なの、プリンなんか食べさせ て」  「大丈夫だと思います。二日間の絶食とその後の 食事制限で肝臓関係の検査数値もかなり改善しま したし、出血傾向があったので血圧などはまだ警 戒が必要ですが、甘いものをちょっと食べるくら いは問題ありません」  そういう話をするときは、また別人のようにキ リリとするのが、傍から見ていると芸人の小芝居 のようで面白い。  しかし彼女は、プリンに立ち向かう時のその子 供染みた様子が、他人にどう見えているかなど少 しも気にしていないのだ。  たまに一緒に町に出た時、日差しが苦手なせい で普段は必ずかけているサングラスを、天気に よってたまにしないで歩いたりすると、ひっきり なしに若い男性が振り返り、ナンパしてきたりも するほどの美形なのだが、本人はまるで意に介さ ずに日々を過ごしている。  相変わらず関心のあることは医療と、あとは唯 一の『趣味』であるプリンのことだけ。恋愛など、 どこ吹く風なのだ。  でも。  晴汝は気づいていた。  兄、将貴がそんな白夜に惹かれていることに。  いつからなのかはわからない。6年前に突然現 れた彼女の捉えどころのない言動に、当時は将貴 もただ翻弄されているように見えた。しかしそん な日常で時折見せる純粋さ、物事の真実を射貫く 言葉の一つ一つに、いつしか晴汝も強く惹かれて いっだのは事実だ。  将貴の想いも、そんな日々に育まれていったも のなのかもしれない。ただそれを彼自身、忸怩た る思いをもって心に秘め続けているようだった。  外見はもうすっかり大人でひときわ美しく、そ して圧倒的な医療の知識と診断能力、推論を導き 出す感性をもつ白夜だったが、精神的にはまだ十 代にも届かない幼さなのだ。そんな彼女に心惹か れている自分を恥ずかしく思っているのだろう。  晴汝は最近、ふと思うのだ。  いつしか、白夜に異性を愛する気持ちが芽生え たら。  その時の相手が、もしも兄であれば、心から応 援してあげたいと。  だからもう、白夜に他の男性を紹介したりはし ないと決めていた。きっと以前、それをやらかし た時には兄もやきもきしたに違いないけれど。  そんなことを思いながら、まだどのプリンを 持っていこうか迷っている白夜の背中を見ている 晴汝に、階段の上から起きたばかりの兄が呼びか ける。  「おIい、晴汝。俺のパンツ、引き出しに1枚も ないんだけど!・」  ため息をついて苦笑。  「いっぺんに洗濯に出すから、一度に洗ってまだ 畳んでるとこなの’・」  大声で返して、それらを取りに洗濯場に向かう 晴汝には、白夜以上に兄の鈍感さが心配に思えた のだった。  高森総合病院に野上が入院してから、もう十日 以上になる。麻里亜の配慮で退院まで個室を無料 で使えることになっているが、本音では病院の投 薬ミスで肝不全になりかけたことも、考慮しての ことだろう。  担当医は自身の申し出もあって研修医の岩崎が 務めていたが、補助として白夜も付き添うことに なっていた。  形の上では岩崎が担当で白夜は補助ということ になっているが、実質上の立場は白夜のほうが上 なのは明らかで、ことあるごとに岩崎は白夜に 『お伺い』を立てている。  誤診事件があった後になって、彼も白夜が病院 内で伝説になっている診断の天才だと知ったよう で、不遜な態度をとっだことをひどく恥じ入って いるようだ。  白夜が嫌がるので『先生』とは付けないで『さ ん』付けで呼んでいるものの、別の患者の診断で もわからないことがあると真っ先に彼女に訊いた りする辺り、まるで師匠のように崇めている。  もしかしたら元来素直な性格なのかもしれず、 鼻っ柱を折られたおかげでそれが出てきたのだと したら、彼にとっては幸運だったとも言える。  最初の聞き取りの日以来、白夜は毎日必ず一度 は野上を訪ね、なんとか彼の本音を引き出そうと 頑張っていた。  彼女なりの誠意ある態度をもって接していたの だろうけれど、予想通りに苦戦しているようだっ た。  訪問二日目には、またストレートに野上が殺さ れかねなかったという事実をぶつけてそっぽを向 かれ、匸冐もしやべってもらえず。三日目にはそ の件は封印できたものの、何を話していいかわか らず、世間話から入ってみたらどうかという将貴 のアドバイスで天気の話をしてみたが、良くも悪 くもない天気だったこともあって盛り上がらない まま。  四日目には、岩崎が痺れを切らせて聞き出して きた囲碁が趣味だという件を利用できないかと、 ほとんど徹夜で勉強して学習し、ポータブル囲碁 を持ち込んで対局を持ちかけた。  しかしもとより天才的な知能の持ち主の白夜は、 たった一晩で覚えた囲碁で野上を完膚無きまでに 叩きのめしてしまい、却って関係を悪化させるこ とになってしまう。  そして五日目の今日は、日曜日にまた海江田朝 絵に会いに行ったついでに買ってきた熱海プリン を、何か一緒に食べながらでも話したらどうかと いう麻里亜の助言に従い、小一時間迷ったあげく に持ってきたのであった。  「さあどうぞ」  晴汝に借りた手提げから、宝物を扱うように二 つのガラス瓶を取り出すとベッドサイドのテーブ ルに置き、狩岡家のキッチンから持ってきたス プーンを、ベッドで半身を起こしてぽかんとして いる野上に渡した。  「熱海プリンつていうんです。これはその中でも 人気のある『コーヒー牛乳味』なんですよ。コー ヒーの香ばしさと牛乳の……なんていうか、ええ と……」  「まったりとしたコク、かな」  味を表現する言葉などまだほとんど知らない白 夜のために、離れて見ている将貴が助け舟をだす。  「そう’・ まったりとしたコク’・ そんな感じで す。ともかく本当に美味しいんです」  「これをどうしろっていうんですか、雪村先生」  将貴は思わず(ツとなる。初めて、野上が白夜 の名前を呼んだ。ネームプレートに雪村白夜と書 いてあるのだが、彼は一度も名前で呼んだことが なかった。  不器用ではあるが、毎日のように通っていた効 果は、多少なりとも出ているのかもしれない。  「あの、ええと……」  一瞬白夜も戸惑うが、ベッドの脇の椅子に座っ て意を決したように言った。  「私と一緒に食べませんか」  「遠慮します」  即答だった。  「私は呑兵衛でね、甘いものはツマミのドライフ ルーツくらいしか食べないんです。すみません が……」  言い終わらないうちに、白夜は自分の分のプリ ンを開けてスプーンを瓶に突っ込んで食べ始める。  そして、大きな両の瞳から、ぽろぽろと涙を流 し始めたのである。  だいぶ前にも、白夜がふいに涙を流しだのを見 たことがあった。彼女が自らの育ちについて話し てくれた時のことだ。とてつもなく重たい涙だっ たと思う。  解き放たれた現実世界とのギャップに戸惑いな がらも、自分が置かれていた絶望的な境遇を、悲 劇だったとようやく認識できるようになった彼女 の心に、湧き出してきた煩悶が涙として縊れたの だろう。  しかしこの涙はそれとは違う。  ある意味でもっと人間的で感情的な、女性らし く可愛らしい、幸福な涙だった。  慌てて近づこうとする岩崎を腕で制して、将貴 は目配せで彼を黙らせる。  「……美味しいのに」  少し洟をすすり、白夜はぼそぼそとしゃべりな がらプリンを口に運ぶ。  「こんなに美味しいのに、なんで食べてくれない んですか。ぜったいに喜んでくれると思って持つ てきたのに……」  「ご、ごめんなさい、食べます。いただきます」  野上が慌てたようにテーブルの上のガラス瓶を 拾い上げ、不器用に蓋を外して手渡されていたス プーンを使って食べはしめた。  「確かに美味しいですね、これは。なるほど、 コーヒー牛乳か。懐かしい味だ。子供の頃に私も よく飲みましたよ、コーヒー牛乳」  「ぽんとですか。コーヒー牛乳って、私飲んだこ とないです。名前は知ってるけど」  今度は微笑んだ。幸福な涙は笑顔と紙一重なの だ。  「えっ、ないんですか飲んだこと。今のひとは、 子供の頃に売ってなかったんですかね、学校の売 店とかに」  「あっ、いえ、どうでしようか」  白夜は小学校も中学校も通ったことがない。 ずっと白い無機質な施設の中で過ごしてきたのだ から。  しかし、そのことを「言いにくい」と感じた彼 女には、確かに人間としての成長が感じられる。 出会ったばかりの頃の白夜なら、淡々と学校とい うものを知らない、自分は行ったことがないと口 にしていただろう。  「こういう味の飲み物なんですね。まだあるんで しょうか、コーヒー牛乳」  と、楽しそうに白夜はまた一ロブリンを食べた。  「もちろんありますよ、今だって。スーパーに だって、売ってるんじやないかな。今はいろいろ 美味しい飲み物があるから、あんまり人気ないか もしれないけど」  野上も付き合ってなのか、たぶんそれほど好き ではないだろうプリンを口に運んで、しきりにう なずいている。  「しかし、かなり甘いですね。美味しいけれど」  「はい、甘いです。でも甘いだけじゃないんです よ。少し香ばしくてまったりとしたコクがありま す」  と、さきほどの感想を繰り返す。  野上は笑って、  「私は呑兵衛だから、同じ甘い物でもちょっと歯 ごたえがあって酸っぱ味があるのが好みでね。ド ライマンゴーつてわかりますか。果物のマンゴー を干したやつで。私は生まれが宮崎で、その後に 博多に15年住んでから東京に出てきてるんですが、 マンゴーは宮崎の特産物ですからね」  こんなに話す人なのかと驚いた。  野上が入院してから、将貴も白夜に付き合って 毎日のように会っていたが、ほとんど話すのを聞 いた覚えがない。  必要最小限の言葉しか口にしなかった彼が、こ んなに滔々と自分のことを話し始めるとは、正直 思っていなかった。  心を開き始めたのは間違いないが、かと言って 今すぐに自分の命を狙ったかもしれないにも拘わ らずかばっているような相手のことを、ぺらぺら としやべりだすとも思えない。今の自夜とのやり とりから見ても、彼はそういうことのできない、 律儀な人間に違いないと将貴は感じていた。  タイミングが大事だ。  話させるために手土産を持ってきたのは、彼も 重々承知しているだろうから、それを鑑みても、 白夜のことは信じるに値すると感じてもらわなく てはならない。  その上で、白夜が野上に対して行われた理不尽 で冷酷な『殺人未遂』について、わかりやすく話 して聞かせる必要がある。  そんなことを考えながら、野上と白夜の目的を 忘れてしまったかのような会話に耳を傾けている と、ふいにドアがノックされた。  「あ、はい」  野上が返事をすると、そろりとドアが押し開け られた。  顔を見せたのは、麻里亜ともうひとり、副院長 の水樹冬星たった。  「白夜さん、やっぱりここだったのね」  と言いつつ、麻里亜は野上と一緒にプリンを食 べている白夜を見て、意外そうな顔をした。  野上が心を開いた様子なのもそうだが、白夜の 嬉しそうな笑顔に驚いたのかもしれない。  「あ、麻里亜先生。おはようございます。もうひ とつ、持ってくればよかったですね、プリン」  そんな言葉が返ってくると思っていなかったに 違いない麻里亜は、将貴に何かあったのか目で問 いかけてくる。  「まあ、こういうことさ」  将貴はそう言って立ち上がり、戸口に立つたま まの麻里亜と水樹に近づいて、廊下に出るように 促した。   一緒に出て後ろ手にドアを閉じると、麻里亜は 小声で尋ねてくる。  「どういうことなの?」  「まあ細かい話はあとにしよう。それより何か急 用か、水樹先生と二人して」  親しげに二人してやってきたことに、軽く水を 向けてみたが、麻里亜は意に介さずに真顔で用件 に入る。  「それがちょっと厄介な話なの。院長から呼び出 しがあって……実は白夜さんのことなのよ」  「えっ、白夜の? 何か問題でもあるのか、彼女 に」  「そう院長はおっしやってるんですよ、将貴さ ん」  水樹が割り込む。  「そもそも彼女はこの病院に学生として実習に来 てるのに、なぜDCTと一緒に診断協議に参加し て特定の患者の担当にまで帯同しているのか、と 言われてしまったんです」  「それは……」  困って麻里亜を見ると、彼女も苦笑いして、  「里中院長は半年ほど前にうちにいらしたばかり だから、白夜さんのことはご存じないんで仕方な いとは思うんだけど……」  「その話もしてもらって、納得してもらえないか な。特に今、こちらの野上さんの件では、彼女も 本当に頑張って毎日通って、ようやく打ち解けら れたところなんだ」  「私もそう思って、院長先生には掛け合ってみた んですが、意外と頑なで……」  と、水樹。彼も困っているようだ。  「ともかく、白夜さんも一緒に、院長室に来てい ただけないかと思って、連れにきたってわけなん です」  「……わかりました。ここで待っててください。 すぐに呼んできます」  と、将貴は急いで病室に戻った。  豪華な作りの新しい院長室のアームチェアに 座って、里中院長は白夜が来るのを待っていたが、 麻里亜、水樹、将貴も含めた四人がドアの近くで 入らずに立っているのを見ると、  「ああ、すまないね、お呼びだてしてしまって。 どうぞどうぞ、ソファに座ってください。四人だ とちょっと狭いかもしれないが」  と、自分も立ち上かってI人がけのソファに 移った。  院長室が新館に移ってからは将貴がそこを訪ね ることはなかったので、この時が初めての訪問だ。 なるほど、麻里亜が言っていたように、大きな窓 からは隣の建物しか見えず、緑といえるものは、 大きなパキラの鉢植えくらいだった。  「なるほど、君が白夜さんか。ずいぷんとお綺麗 な方ですな。あ、いや今はこういうのは、セク「 ラに当たるのかな」  愛想笑いするその顔はゴルフ焼けなのか真っ黒 で、左手だけがやけに白い。ゴルフ用のグローブ をしているからか。  「どうかね、勉強は進んでいますか」  思った通り、白夜のことをただの医学生扱いし ているようだ。ALSの研究と治療では日本を代 表する権威だということで、港医科大病院では脳 神経内科部長を長く務めたあと、副院長まで上り 詰めたというが、その肩書からしても権威主義に 染まった古いタイプの医者なのだろう。  白夜はこういうタイプの医師と会話したことが あまりないせいか、人ごとのようにキョトンとし て答えた。  「勉強はもちろん欠かさずに続けています。医療 は本来、どんどん知識をアップデートしていくべ きなので」  「知識のアップデートね。それは賛成ですよ、私 の専門はALSですが……」  「よかったです」  白夜は里中が一瞬、間を挟んだすきに言葉の続 きを待たずに、持論をまくし立てる。  「今後は日本も、アメリカのように数年、せめて 10年に一度の医師免許の更新を課すべきだと思い ます。時代遅れになった知識で診療を行えば誤診 を招きますし、新しい治療法を知らずに患者を見 殺しにしてしまう可能性もあります」  苦笑いを浮かべて戸惑っている里中を見て、将 貴は笑いを堪えていた。おそらく自分の専門のA LSについて、ちょっとした自慢話をするつもり だったのだろうけれど、出端をくじかれてしまっ たようだ。  「白夜さん、今日はそういう話をしてもらうため にここに集まったわけじゃないと思うのだけど な……」  思わず水樹が口をはさむ。  「実は院長先生は、君にあの野上さんの担当を外 れてもらいたいとおっしやってるんだ」  「それはなぜでしょうか、院長先生」  白夜の表情が固まる。  里中は身をのりだして、  「いやいや、そもそも白夜さんは学生で、病院実 習にいらしてるわけでしょう。DCTでは戦力に なっているそうで、ありかたい限りだが、学生の 本分は勉強です。一ヵ月という隕られた期間なの だから、いろんな科を横断的に経験してもらって、 卒業されて医師になる準備をして頂きたいんで す」  「DCTでの仕事こそが私にとって、医師になる ための一番の準備だと思ってます。そして野上さ んの件は、ただひとつ確定できていない診断みた いなものなんです。あの人が誰になぜ命を狙われ たのか、それを突き止めるのは、病気の確定診断 と同じくらい大事なことだと思います」  「白夜さん……」  苦笑いする里中が、ちらりと横目で水樹を見た。  それを受けて水樹が言った。  「言いたいことはわかるが、学生を預かる病院側 としては、いろんな経験をさせてあげるべきだと 考えるものなのだよ。その点では院長先生のおっ しやる通りかな、と私も正直思ってしまう。もち ろん君の素晴らしい診断能力はこの病院のために 使って頂きたいが、DCTの先生方だって普段は それぞれの科で活躍しているんだ。西島先生は精 神科だし仙道先生は脳神経外科、夏樹先生は皮膚 科の部長でもある。どうだろう、この機会に容体 の落ち着いた野上さんのことは岩崎先生に任せて、 君もDCTで集まる傍らいろんな科、たとえば産 科や精神科なども経験してみて、手術の立ち会い などもやってみることで、今後の専門医選択の参 考にしてみては。案外、考えが変わることだって あると思うが」  「ありません。私は診断医になります。つまり 2018年に19番目の新しい専門領域となった、 総合診療医を目指します」  きっぱりと言い切る白夜に、水樹もたじろぐし かなかった。  「そこまでの覚悟があるなら、仕方ないね」  ため息をついて里中を気にしながら、水樹は 言った。  「とりあえず白夜さんにはDCTを中心に実習を 続けてもらいましよう。ただし、患者の負担も考 えて野上さんの病室を訪ねるのは、一日一回でお 願いします。しかもなるべく短時間にしてくださ い。それでよろしいですか、院長先生」  「そうだね。水樹先生がいいなら、私もそれでか まいませんよ」  里中は面倒くさそうにうなずいた。  里中院長の『面談』が終わると、連絡をとり あってDCTはミーティングルームに集合した。  「へえ〜つ、あのタヌキ院長を引かせちゃったん だ、白夜ちゃん」  と、夏樹が手を叩いてみせた。  「水樹先生が間に大ってくれたおかげよ。バラン スのいい大だから」  「相変わらず絶賛ですね、麻里亜先生はあの人の こと。院長も自分が引っ張ってきて副院長に据え た大だから、まあ立てざるを得ないってとこです かね」  仙道が言った。  「あの先生、6年前までは脳外の執刀医だったん ですってね。なんで切るの止めて内科にいっ ちやったんだろうな。どこかの病院で大きな失敗 でもやらかしたかな」  どうも仙道は水樹をあまり良く思っていないら しい。同じ脳神経外科の出身ということもあるの かも知れない。  同属嫌悪とでもいったところか。  「そういうこと言わないの、仙道先生」  と、麻里亜がたしなめる。  「彼がいてくれなかったら、今よりもっと里中院 長にいろいろと勝手なことされてると思うな、あ たしは」  「そうでしょうか」  西島が遠慮がちに言った。  「里中先生は今でも十分に勝手なことをしてると 思いますよ、僕は。精神科の薬までケチ付けたり、 本当に迷惑で仕方ないです」  「精神科の薬?」  白夜が食いついた。将貴もピンと来た。槙村が 言っていた、港医科大病院の話だ。  「もしかすると三環系の抗うつ剤を出すように指 示されたんですか。トリブタノールをアルコール 依存で偏頭痛の患者に」  「よく知ってますね。その通りですよ。アルコー ル依存で頭痛もちというのは、確かにまあまあ多 い病態なんですが、だからって患者に出す薬を統 一するって、どういう意味があるのか僕にはさっ ぱりわかりません。トリブタノールは便秘になる し、パーキンソン様症状が出ることもあって、予 防に出す抗コリン薬にも、便秘の副作用があるん で、便秘薬まで処方しなくちやならないこともあ ります。無駄な多剤投与になりがちで、あまり使 いたくないんです、本当は僕は」  同じことをやっているのだ、港医科大病院の副 院長たった時と。  思わず白夜と顔を見合わせた。  「何かあったの、お二人さん」  にやついていた夏樹が真顔になって尋ねる。  将貴は先日、槙村から聞いた一件を、DCTの 全員に事細かに話して聞かせた。  「高マグネシウム血症か……」  ため息まじりに夏樹がつぶやく。  「患者が一人亡くなっだってのに、懲りずに同じ 投薬ルールを、うちにも持ち込んだってことかい。 それは勘弁だな」  「そんな単純な話でしょうか」  白夜が言った。  「もしその港医大病院の出来事が、野上さんの身 に起こったアセトアミノフェン中毒と同じロジッ クで故意に起こされたんだとすれば、大変なこと だと思います」  「同じロジック? どういう意味だよ、それ」  「野上さんは誰かにアセトアミノフェンを大量に 飲まされていました。アルコールで弱った肝臓に それは毒として作用し、そこにさらにタイミング 悪く研修医がアセトアミノフェンの点滴を 1000ミリグラムも投与したんです。気づかず にいたら、時間を置いてさらにもう1000ミリ 点滴していたかもしれない。そうしたら間違いな く肝不全に至っていたでしょう」  「それと同じロジックつてこと?」  「はい。病院で出される薬が何か承知している誰 かが、同じものをさらに何らかの方法で患者に飲 ませることが出来たら、高い確率で中毒や、港医 大病院の症例ならマグネシウムが腸管吸収されて しまうような極度の便秘を起こせるんじやないで しょうか」  「おいおい、それって殺人じやん」  「その可能性は十分にあると思ってます」  「未必の故意による殺人ってやつだな」  将貴の言葉を、白夜が問い返す。  「なんですか、ミヒツノコイつて」  「法律用語だよ。必ずしもそうなるとは隕らない と考えながらも、なってもかまわないと思ってる ケースを言うんだ。この場合は殺意は確実にあっ て、そのための医薬品をターゲットに飲ませてる。 しかし、飲ませたのは毒ではなく医薬品だ。それ によって100%相手が死んでくれるとは隕らな い」  「でも実質上は毒と同じ効果を発揮しているはず です」  「確かにそうだ。でも医者も同じ薬を投与してる のがミソさ。野上さんのケースで言うなら、アセ トアミノフェンを点滴した岩崎医師には、殺意は なかったわけだからね」  「こ、巧妙っすね……」  仙道が声を震わせた。  確かに巧妙だ。  もし仮にこれがすべて里中の仕組んだ計画だと するなら、彼は病院の投薬ルールを支配すること によって、無関係な医師を動かして狙い通りの薬 をターゲットの患者に飲ませるという、二重に もってまわったことをして殺意をうまく隠蔽して いることになる。  木の葉を隠すなら森に隠せ。殺意を隠すなら、 人の死がありふれている病院に隠せ、ということ だ。  「本当に巧妙だと思います」  西島が冷水を浴びたような顔で言った。  「大間心理的にみて、そのやり方は罪の意識を著 しく減らす効果もあります。犯罪を医療行為に紛 らせて、しかも一部を他人にやらせてしまうこと で、殺人を犯すという良心の呵責から逃避できて しまう」  「でも、目的はなんなの? その便秘の患者にし ても普通の老人だったわけでしょう。野上さん だって……」  麻里亜はいま一つ納得いかない様子だ。  しかし、将貴の中にはすでに一つの可能性が持 ち上がっていた。  保険金殺人である。  高マグネシウム血症でごくなった高齢女性にし ても野上にしても、もしかすると誰かに、多額の 保険金をかけられていたのではないだろうか。  だとすれば、その受け取り人はI。     10  奥村からの電話が入ったのは、DCTのミー ティングが終わったすぐ後だった。  どうもなにか重要な話があるようで、ちょうど 将貴もまた相談事もできたので、早急に会おうと いうことになった。  麻里亜と白夜も同行していいかと訊くと構わな いということだったので、病院のすぐ近くのカ レー屋で軽くランチしながら話すことにした。  白夜が育つたというあの奇妙な施設を訪ねた時 以来、5年ぶりの顔合わせだったが、白夜は相変 わらすの淡々とした対応で、奥村の方も、  「相変わらすの美白ぶりだねえ、白夜ちゃんは」  などと、社交辞令なのか素直な感想なのか匸冐 口にしただけで、すぐに席について食事の注文を とり始めた。  こういう辺りが、やはり刑事らしさなのだろう。  インド人が経営する本格的なカレーの店で、カ レーと合わせてナンを選ぶことも出来たので、女 性二人はナン、男二人はライスを頼んだ。  麻里亜の勧めでナンを選んだ白夜は、カレーに あの薄っぺらいパンのようなものを合わせるのが いたく気に入ったようで、ダイエットのために麻 里亜が半分残した分をもらって食べていた。  プリンのことといい、白夜はどうも食に目覚め 始めているのかもしれない。ただ普段は粗食で、 庭で採れた野菜ばかり食べている。  特にダイエットなど考えたこともなさそうなの だが、体形は出会った6年前と少しも変わってい ない。  全員がカレーを食べ終わる頃には、DCTの 面々と話した疑惑について、奥村にほぼ話し終え ていた。  彼は警官としての習い性なのか、余計な質問や 誘導はせずに、黙って将貴と麻里亜の話に耳を傾 けていた。  「……なるほど、だいぶキナ臭い話になってきた な」  食後のコーヒーを啜りながら、奥村が言った。  「てことは、その里中っていう医者の身辺を洗 えって話か、お前の次の頼みは」  「ああ、多額の借金があったって噂もあるし、交 友関係なんかも洗えば何か出てきそうじやない か」  「う〜ん、そいつはさすがに、ちょっとまだ今の 段階じゃ(Iドルが高いな。順番からいうと、そ の便秘がもとで死んだ患者っていうのが、果たし て命を狙われる理由があったかどうか、つまり高 額の保険金をかけられていたかどうかを調べるの が先だ。それがお前の推理どおりだったら、いよ いよキナ臭い。里中のことも内偵する許可が降り るだろうな」  「いっきにそこまでいけそうなのか」  「ここからは俺の方の話になるが、お前に頼まれ た野上一夫の身辺調査。あれ、ビンゴだったよ」  「ビンゴつて?」  「野上一夫の勤め先は『バー・M』つていう吉祥 寺の飲み屋だ」  「ああ、それはわかる。先日そこのママだってい う女がお見舞いに来ててね。名刺を渡された」  と、将貴は鞄から財布をだして名刺を取り出し て奥村に見せる。  「なるほど」  と、スマホを出して名刺の写真を撮りながら、 奥村は何かビンゴだったのかを話し始めた。  「この女のやってる株式会社ピースヒルズつて会 社が、野上に保険をかけてやがった」  「保険?」  「生命保険を。それも金額は1億」  「1億も保険を? あんなただのバ上アンのジイ サンに?」  「将貴さん、その言い方よくないです」  白夜にたしなめられた。  「あ、すまん……」  ちょっと驚いた。白夜がこんなことを口にした のは、知る限りでは初めてだ。患者に対して、命 を救いたいという本能のような感情以外は、思い 入れることの少なかった彼女が、あんな平凡な初 老の男に、何か特別な情のようなものを抱いてい るのだろうか。  「と、ともかくあの野上さんに1億の保険をかけ てるっていうのは、どうみても……」  「お前の言うように、保険金詐欺の可能性は十分 にあるだろうな」  「いやキマリだろ。令状とって調べるってわけに はいかないのか」  「馬鹿いえ。法人が従業員にちょっと高額の保険 金をかけることなんざ、よくある話なんだよ。ま あ、たいていは危険な仕事をさせるにあたって、 何か起きた時の賠償金をそこから払うとか、そん な理由なんだが」  確かに芸能事務所が所属タレントのチャームポ イント、たとえば大きなバストなどに保険をかけ たりするのは、マスコミ業界にいても耳にする。  しかし、野上はただのバ圭アンダーだ。1億も の保険をかける理由が見当たらない。  [とはいえ、宣]つ黒けなのは確かだ」  奥村はコーヒーをぐいと飲み干して言った。  「儲かってる会社ならば、傷害保険を従業員にか けて保険金を経費にして使うこともあるだろうが、 安岡美保の会社は赤字で、しかもかなりの借金を 抱えてる」  「だったら……」  「いや、まだ全然だめだ。お前の言う医療がらみ の事件だとするなら、その里中っていう医者との つながりでも見えてきたら、話はまた別なんだが な。いやそれどころか、東都大学付属病院で起き たっていう、その投薬ミスによる死亡事例も、殺 人の可能性が出てくる。でっかいヤマだぞ、そう なったら」  「なんだか怖い話になってきたわね」  ずっと黙って聞くだけだった麻里亜も、黙って いられなくなったのか口を挟んできた。 「港医大病院のことなら、槙村先生に頼めばいい んじやないかな」  「誰だそれは」  「そっか、奥村くんは知らないのか。あたしと将 貴の共通の知り合いで、子供の頃から家族ぐるみ でつきあってた人なの。今でも港医大病院の現役 の部長先生で、理事でもあるから、高マグネシウ ム血症で亡くなった患者の身元くらいはすぐに調 べてくれると思う。そうしたらまた、奥村くんな ら、元の勤め先とか生命保険のことなんかも簡単 にわかるでしょう?」  「まあ、そんな簡単にってわけにいかないが、な んとかする。それより、将貴に頼みだいことが出 てくるかもしれん」  「えっ、俺に?」  「ああ、この名刺にある携帯のことなんだがな」  と、奥村はスマホの検索エンジンで、その携帯 番号を調べ出す。  「出たぞ。ラッキーなことに日本グローバル通信 −海江田誠の会社だ」  ネット検索で番号からキャリアがわかるとは、 将貴も知らなかった。さすが蛇の道は蛇である。  「海江田さんの? おい、頼みってまさか」  「将貴お前に、この携帯の通信記録を調べてほし いってことさ」  「そんなの警察なら出来るだろうが」  「令状があればな。現段階じゃとても無理だ。そ こまでの権限は警察にもない。まして俺はいち所 轄の刑事だぜ」  「し、しかし……」  「海江田にはたっぷり恩を売ってるだろうが。斷 りゃしないよ、お前と白夜ちゃんの頼みなら、 な……」  にやり、と白夜に向かってコーヒーの飲み過ぎ で黄色くなった歯を見せて、奥村は伝票を手に席 を立った。     H  白夜の病院実習が休みの日曜日を待って、将貴 たちはまた熱海に向かった。先週の日曜に続いて の訪問だが、海江田は歓迎してくれているようだ。 ただ、折人って話があると言うと、すぐにビジネ スマンの声色になり、  「その話は来てくれた時に、シャンパーニュでも 飲みながらゆっくりしよう」  と言われた。  例によって熱海駅の商店街に立ち寄り、熱海プ リンをしこたま買い込んで、手土産の分以外は将 貴が持って海江田の『私設病室』に赴く。  海江田は娘の病室で、シャンパンをクーラーで 冷やして待っていてくれた。  白夜に対してはまだ少しぎくしやくしているが、 将貴を見つけた時は素直に嬉しそうに笑っていた。 この病室でほとんどの時間を過ごしている彼に とっては、たまにくる良い飲み相手なのかもしれ ない。  白夜がまた朝絵にプリンを食べさせながら、話 を始めたのを見届けると、将貴と海江田は窓際の 大きなソファセットを二人で占めて、電話で軽く 伝えた頼みごとについて語りはしめた。   白夜が救急外来で運び込まれた初老のバーテン ダーを救ったことがきっかけで、将貴たちが保険 金殺人疑惑に踏み込もうとしていること、その真 相解明のために日本グローバル通信でキャリア契 約された、ある携帯電話のアクセス記録を知りた いということ。  とりあえず詳細は抜きでその二点だけ伝えて、 情報が知りたい安岡の名刺をテーブルにおいて、  「よろしくお願いします」  と頭をさげると、海江田は腕組みし天井を見上 げて唸った。  「警察は動いているのかな」  「ええ、ただし僕の友人関係から内偵してもらっ てる段階です。令状はまだ取れないと思います」  「令状なしでは、出せない情報だな、それは」  「はい、承知してます。だから、海江田さんにお 願いするしかなくて」  「ユーザーの個人情報を第三者に漏洩するという のは、重大なコンプライアンス違反なのだよ。簡 単にはウンといえない話だ。せめてもう少し、そ のユーザーが保険金殺人に関わっているという、 決定的な情報でもあれば、私の責任で内密に調べ させることは可能なんだがな」  「その情報なら、もう少しで話してもらえると 思ってます」  ふいに白夜が割り込んできた。  「その番号の持ち主に殺されかけた人と、ずっと 話してるんです。ようやく自分の話をしてくれる ようになって。まだ肝心な話まではいけてないん ですけれど、きっともうじき、話してくれると思 います」  「しかし白夜さん……」  「お願いします、海江田さん’・ ここで止めない と、野上さんはまたきっと命を狙われます」  「野上というのかね、その患者は」  「はい。最初、何を話していいのかわからなくて。 でもそのうち、少しずつ……」  白夜は嬉しそうに微笑んで言った。  「心に寄り添うことができるようになってきた気 がするんです。それなのに、このままじゃ……」  白夜は変わった。いやまだ、変わってきたとい う段階か。でも確かに、実習生として戻ってきた 高森総合病院での臨床を経験して、彼女は一歩ず つ前に進み始めている。  臨床とは、床、つまり患者の横たわるベッドに 臨むことを言う。  白夜の医師としての人生が、ようやく始まろう としている。  将貴はたまらなくワクワクしていた。 「私はあの人を……患者を誰も死なせたくないん です。そう……朝絵さんのことだって……」  「聞いたのかい、朝絵から」  「はい。もう尊厳死を選びたいって。でも、本当 にそれでいいんでしょうか」  「えっ」  「プリン、食べてるんですよ、朝絵さん。まだ食 べられてるんです」  思わずベッドの朝絵を見た。もう首も動かせな い彼女の目は、天井を見つめたままだっだ。しか し、その意思は間違いなく、白夜を見ていた。白 夜の言葉に耳を傾けていた。  「いやしかし、朝絵の意志は固くて……」  「気になることがあるんです」  白夜はふいに話を変えた。いやもしかすると、 彼女の中では野上の件も朝絵のことも、一つの口 ジックでつながっているのかもしれなかった。  「教えてもらえませんか、その主治医……い‘尺、 そうじゃなくて、朝絵さんが最初にALSの診断 を受けた時の担当医を。その時の資料が見てみた いんです」 「どういうことかな、それは」 「それ、誤診かもしれません」 「なんだって?」 「教えてくれませんか、どこの病院でどういう医 師の診斷だったか」  海江田はまだ手に持っていたシャンパングラス を落としそうになり、慌ててテーブルに置いた。  見ると朝絵も、かろうじて動かせる瞼をなんど も瞬かせている。  「30年近くは前のことだと思いますけれど、憶え てますよね」  仮に白夜の実年齢を二十四歳とすると、おそら くそれくらい前の話だ。  「それはもちろん。その瞬間の言葉の一つ一つま で克明に憶えているよ。そう、あれは白夜さん、 君が通っている大学の病院だった」  「港医科大学附属病院……ということですか」  「うむ。当時、ALSに関する世界的な論文を 次々に発表し、まだ三十代の若さで教授に抜擢さ れた先生だったよ。名前は……」  「里中賢蔵」  白夜がその名前を口にした時、将貴の中でいく つもの出来事が、一つのイメージとなってつな がっていく気がした。  それは、患者の命というものをどこか遠く高い ところから見下ろし、名誉や欲得、金でその重さ を計ろうとする人間たち、彼らの傲慢さを表す映 し絵たった。  「その通りだ。なぜわかったのかね」  「高森総合病院の現院長です。ALSの権威で港 医大附属病院の副院長たった。そして野上さんが アセトアミノフェン中毒を起こす原因を作った 人」  ふいに黙り込んで何か考え始めた白夜に代わっ て、将貴が続けた。  「彼は港医大病院にいた頃に、今回と同様に投薬 のルールを不自然に規定して、それが遠因となっ て少なくとも一人の患者が亡くなっているんです。 似たような目に遭わされかけた野上さんの件とい い、彼は何か隠している。それが原因で患者が命 の危険に哂されてます。海江田さん、どうか力を 貸してください。お願いします’・」  そこまで言い切り、立ち上かって直角に頭を下 げていても、迷っているのか返事のなかった海江 田の背中を押しだのは、黙考状態から戻ってきた 白夜の匸冐だった。  「海江田さん。朝絵さんは、本当に助かるかもし れません」  「助かる? それはどういう意味で助かるのか ね? このままの状態でなんとか命を永らえるこ とが出来るというだけでは、もはや……」  「いいえ、違います。完治する可能性があるとい うことです」  海江田は糸の切れたマリオネットのように、よ ろよろとソファにへたり込んだ。  「完治する? 朝絵が?」  「まだわかりません。でも調べる価値はあると 思ってます」  「……なんでも言ってくれ。私に出来ることは、 なんでもする。手始めに、その名刺の携帯番号の 通話記録だったな」  と、海江田はテーブルに置かれたままの安岡の 名刺を手に取ると、自分のスマホを出してかけ始 めた。  普段はほとんどSNSかせいぜいメールしか使 わないと聞く海江田だったが、こういう時はやは り電話なのか。秘書につながると、その場で通話 記録のあぶり出しを命じたのだった。     12  男性と二人きりでディナーなんて、何年ぶりだ ろうか。もう来年には四十の大台に乗るというの に。  我ながらなんと色気のない生き方をしているの だろうと苦笑しながら、食事に合わせて運ばれて きた3杯目のワインの香りを嗅ぐ。  「いい匂いですね、水樹先生。なんていうワイン なんですか」  「アンヌーフランソワーズーグロという女性の作 り手の、リシュプールという畑のワインです。こ んな素晴らしいワインをベアリングで出してくれ るレストランがあるなんて、吉祥寺も捨てたもの じやないですね」  水樹はなかなか飲もうとせずに、香りばかり楽 しんでいる。  よほどワインが好きなのだろう。  「ワイン、お詳しいんですね、先生は」  「ああ、いやそれほどでもないですよ、好きなだ けで。まだ覚え始めてから、ほんの5年ほどです から」  「そうなんですか」  意外だった。10年以上も花形の脳神経外科医 たった水樹のことだ、ワインなど一緒に嗜む各界 の名士だちとも交流があるのかと、勝手に思って いたのだが。  「外科から内科に鞍替えした時に勉強しなおそう と思って、2年ほど海外を転々としたんです。大 変すぎて心が折れて戻ってきちやいましたが」  苦笑しながら、ワインを一口飲む。  「おお、味わいも本当にエレガントで、花畑にい るような気持ちになりますね」  「よかったです、喜んでいただけて」  「今夜は誘って頂いて本当にありがとう。女性に 奢ってもらうというのも不思議な気持ちだ が……」  それは麻里亜の方も同じだった。  長身でお洒落な水樹はナースの間でも人気が高 く、麻里亜の目からも確かに魅力的だ。脳外科医 という(Iドな仕事を10年以上もこなしてきたか らなのか、内科医に転じた今もどこか達観したよ うな佇まいである。   一時期は麻里亜も男性として少し意識したが、 どうも彼のほうはあまり関心がなさそうなので 早々にあきらめた。  そもそも、彼がナースや事務も含めた病院関係 者の女性を、飲みに誘ったなどという噂は、いっ さい聞かない。  仕事抜きのプライベートが、まったく見えない タイプなのである。  「ところで麻里亜先生、お話というのはなんで しようか。もう頼み事でもなんでも聞いてしまい そうですよ、このワインのおかげで」  「ええ、実はいくつかあって……ひとつは、DC Tの件なんです」  「診断チームですか。白夜さんがきて、また次々 と成果を出してると聞きますが」  「よろしかったら、先生も加わっていただけない でしょうか」  「わたしがですか」  水樹は意外そうに眉を上げて、  「かまいませんが、どうしてでしょう。今までメ ンバーチェンジはなかったと聞いています が……」  「ええ、でも最近は仙道先生も脳外の執刀が忙し すぎて、なかなか出られませんし、あたしも内科 部長としての仕事が増えて……」  「まあたしかに、夏樹先生も皮膚科部長ですから ね。メンバーのうち二人が部長、一人が外科の エースとなると、診断会議に集まれないことも多 そうですね」  「はい。なので、もしお時間が許せば、ぜひ加 わっていただけないでしょうか」  麻里亜は食事の手を休めて、カトラリーを皿に 置いて頭を下げた。  「大変名誉なことですし、ぜひお受けしたいので すが……少し考えさせてください」  と、水樹は照れくさそうに自分も頭を下げてみ せた。  「はい、もちろんです。急いでいるわけではない ので」  「よかったです。お話というのは、それだけです か」  「……いえ、実はもうひとつ。里中院長のことを 少し伺いたいと思って」  「里中先生のことを? なぜ私に?」  「先生をうちに引っ張ってくださったのは、里中 先生ですから。きっと親しい間柄で、昔のことな どいろいろご存じかと」  実はこちらのほうが本命の用件だった。白夜と 将貴の推察がもし万が一事実だったりしたら、病 院にとっても大変な事件になってしまう。  理事長である麻里亜自身も、少しでも動いて真 相解明に寄与したいと思ったのである。  「いや、それほど昔からのおつきあいというわけ でもありませんよ、私は。もちろん私はもともと 脳神経外科で、あの先生はその内科のほうの権威 でしたし、私か内科に鞍替えする際にも相談に 乗って頂いたりもしましたが、こんな感じに飲み 交わすくらいに親しくなっだのは、3年くらい前 たったはずです」 「3年、ですか」 「ええ、ちょうど里中先生が副院長になられた頃 でしたから」  ということは、里中が港医科大病院の副院長を 勤めたのは、たった2年半だったということにな る。大病院だけに副院長は数人いるはずだが、そ れにしてもこのポストの在任期間としてはかなり 短い。  真壁に代わる新院長として、彼が港医科大病院 の理事会から推薦されたのは、やはり何らかの理 由で押しつけられたのかも知れない。  「退任されるまでの間に、何度かアルバイトで内 科に入らせてもらって、それ以来、よく飲みに連 れてって頂くようになりました」  「そうだったんですね」  「副院長として呼んでもらえたのは、外科と内科 どちらも知ってることと、あとは2年ほどですが、 海外で修羅場を潜ってきた経験を買ってもらえた のかな、と思ってます」  「確かに、すべての科を見渡せることが重要なポ ストですものね」  「ええ、便利な医者だと思ってますよ、我ながら。 なんといっても独身で暇だから、副院長のくせに 当直もできますしね」  と、明るく笑って自虐的なことを口にできる水 樹は、やはり四十六という年齢のわりに達観して いる。  「なんで結婚されないんですか、水樹先生って」  ふと、わけを聞いてみたくなった。  同性愛者である可能性もあるし、女が男にで あっても今の時代はタブーなのかもしれないが、 水樹は笑って答えてくれた。  「手術でたくさん人を殺してきちやいましたから ね。年寄りも若い人も、男も女も。結婚なんかし ないほうがいいんですよ、そんな人間は。相手が 不幸になります」  「そんなことありませんよ、絶対」  即座に否定しながらも、執刀医を長く経験する とそんな思いに囚われる人もいるのだろうか、と 水樹と話しているとつい感じてしまう。  「すみませんね、後ろ向きなことを言ってしまっ て。そういう麻里亜先生こそ、お綺麗なのになぜ 独身で通してらっしやるのか、気になりますよ、 男としては」  男としては、と不意に言われてどぎまぎしてし まヽつ。  まさか誘われてるのかな、と思うとついワイン グラスに手が伸びる。  「それは……機会がなかっただけです」  本当にそうだった。学生の頃は、いつもツルん でいた仲間がいて、その中の一人は幼なじみの将 貴で、もしかしたら彼が伴侶になるのかな、など と漠然と思っていた。  その気持ちは、激しくはなかったけれど消える ことなく数年前まで灯り続けていたのだ。  諦め始めたのは、白夜が現れた頃からだった。  いつも近くにいた存在だけに、彼の気持ちの機 微はすぐに感じ取れる。  将貴はおそらく、白夜のことが好きなのではな いだろうか。  あの唯一無二の存在感に、惹かれているに違い ないのだ。  「あ、そうか。あの狩岡さんですね。彼とつき あってるのかな。実はもう婚約されていると か……」  「まさか」  軽く傷ついた自分をごまかすために、グラスの 底に残っている赤ワインを飲み干す。  「最近、ずっとプライベートで会ったりしてない ですよ、将貴とは。彼はいっつも白夜さんと一緒 だし。今日も確か、熱海に一緒に行ってるはずで すし」  「えっ、二人でですか? 温泉旅行?」  「あ、いえ、そうじゃなくて日帰りです。白夜さ んが定期的にお見舞いに行ってる人が、熱海にい まして。有名な起業家の娘さんみたいなんですけ ど」  「有名な起業家……」  「ええ。でも今日はお見舞いというより、お願い ごとがあったんです、大っきい通信会社の創業者 のお父様のほうに……あ、余計なことしやべっ ちやったかな。すみません、忘れてください」  「いや、なんだかさっぱりわかりませんが、もち ろん忘れます。このワインと一緒に飲み干しちや いますよ」  と笑って、水樹も残ったワインをすべて喉に流 し込んでしまった。     13  夜の9時過ぎに熱海から吉祥寺の家に帰り着く と、白夜はすぐに自分のノートパソコンを居間に 引っ張りだしてきてネットにつなげた。  スマホに連絡が来ていた通り、槙村から大量の 画像ファイルのグラウト共有メールが届いていた。 休日だというのにわざわざ病院に出向いて、デー タサーバに保管されているすべての検査画像と診 断ファイルを検索して、27年前の海江田朝絵の診 察データを見つけて共有してくれたのである。  さっそく画像を開くが、高精細で重たいファイ ルのため時間がかかる。  その間に将貴は晴汝と一緒に白夜を質問責めに した。  「海江田朝絵さんにプリンを食べさせてたら、急 に何か閃いたみたいだって、お兄ちゃんが言って たけど、いったい何に気づいたの? 白夜ちゃ ん」  「いやそれよりALSは不治の病なはずだろ? それがなんで完治するかも知れないんだ。まさか 海江田さんに携帯の通話記録を引き出させるため の「ツタリじゃないよな」  パソコンの前に座ったまま振り返り、白夜は二 人を制して言った。  「ちょっと待ってください。まだ確定じゃないん です。そもそも、槙村先生に送ってもらった画像 からわかるかどうかもまだ「ツキリは言えない し……」  「じゃあ今わかってることだけでもいいから教え てくれ」  「はい、今わかってるのはプリンのことだけで す」  「プリンのことなの?」  と、晴汝が首を傾げる。  「プリンを食べられたことです。ALSの末期患 者なのに」  「それって不思議なことなのか。プリンくらい、 柔らかいしなんとか食べられるものなんじやない のか」  そもそも、そう思ったから白夜も与えてみよう と考えたはずだ。  「食べることは出来るはずです。ALSは味覚神 経が侵される病気ではないので、味もわかると 思って、だからスプーンで少しずつあげてみたら、 美味しいって言ってくれて。今日もそのつもりで した。ところがこの前と違って、舌を器用に動か してスプーンからプリンを舐め取ってくれたんで す」  「舐め取ったのか」  「はい。運動を司る神経の障害が全身にくまなく 起こるALSなら、舌にも運動ニューロンの障害 によって筋肉の萎縮が起きてしまいます。本当に 死が迫っているような末期なら、そんなことは出 来ないはずなんです。それで不思議に思って舌を 見せてほしいと頼んだら、舌は萎縮していなくて 健全だったんです。すごくきれいな舌でした。私 たち健常者と同じように」  白夜は自分の舌を出して見せ、いろいろと動か して見せる。自在に動く舌には確かに筋肉があり、 当然それを動かすための神経が通っているのだ。 手足と同じように。  「なるほど……全身の運動ニューロンが侵されて るはずなのに、舌にはその影響が見られなかっ たってことか」  「はい。何かあります、きっと。その何かが何な のかは、まだわからないけど……もしかしたら、 当時の診察記録にそのヒントがあるかもしれませ ん」  話しているうちに、ようやくすべてのファイル が参照できるようになった。  まず白夜は問診の記録から読み始めた。将貴に はまったくわからなかったが、看護師として基礎 的な医学知識を身につけている晴汝には、だいた いの内容が読み取れるようで、  「特におかしなところはないように、あたしには 思えるけどな」  と、首をひねっている。  「ええ、今のところは。血液検査も行われていま すが……」  「ALSの特徴が出てるのか、血液に」  と、将貴が訊くと白夜の代わりに晴汝が、軽い ため息を交えて答えた。  「お兄ちゃん、ALSは神経の病気よ。血液検査 には異常が見られないのが普通なの」  「そんなこと言われたって……」  白夜と出会って以来、少しは医学の勉強をして きたつもりだったが、専門教育を受けた側からす れば、まだまだらしい。  「ただ、逆に言うと他の病気でALSのような症 状になっているなら、血液にも異常が見られる場 合があるわ」  「そうですね。たとえば筋ジストロフィーなども 筋肉が萎縮して動けなくなっていくという意味で は似た症状を示しますけど、この病気の場合は筋 肉の障害を反映して、血液中のCK、AST、A LT、LDH、アルドラーゼなどの数値が上昇し ます。朝絵さんの血液診断の結果はこれらが正常 値の範囲内なので、筋ジストロフィーではないと 言えます」  「なるほどね、そういうことか」  異常が出ていることはもちろんだが、症状があ るのに異常がないということも、診断の材料にな るわけである。  「次はMRIの画像を映します」  白夜がキーボードを叩くと、黒と白で描かれた 胡桃の断面のような画像が表示される。  脳を輪切りにして撮影したMRIの診断画像だ。  「脳には異常が出るのか」  「だからね、お兄ちゃん。神経の病気なんだから 脳に画像診断でわかるような異常は出ないのよ。 これも血液検査と同じ理由で、脳梗塞とか腫瘍と か、画像で見えるような病態がないか確認するた めのものなの」  「う〜ん……難しいな、いろいろと」  「当たり前よ。命を預かる仕事なんだから」  「で、どうなんだ、白夜。ALSなら脳に異常は ないってことだよな」  「はい。ありません。この画像を見る限りで は……」  「でも、あたしは今のMRI画像しか見たことな いけど、27年前の画像って、だいぶ違うのね、今 と」  「そうですね。世界初のMRI商用機は、 1983年に東京芝浦電気が商品化したものです から、27年前ということは、まだ10年くらいしか 経っていません。今のMRIは人体を縦からも横 からも輪切りにしますが、この時代はまだ横から だけでした」  「なるほどねえI。昔のがオニオンスライスなら、 今のはみじん切りってところね」  晴汝の言葉に人体のそれを想像し、軽い吐き気 を覚える。やはり医療の仕事は適性が必要だ。自 分にはつきあいきれない。  ましてや心臓や脳を切り開いたりする外科医の 仕事というのは、ある意味で精神的にも選ばれた 人間だけに許される特殊技能と言えるだろう。  何度か白夜に付き合って手術の現場を斜め上か らガラス越しに眺める機会があったが、あの距離 で見ていても貧血を起こしそうになったものだ。  「……で、どうなんだ、結論として」  一通りデータを見終わった様子の白夜に水を向 けてみたが、首を少し傾けたお得意のポーズのま ま固まっていて、返事もなかった。  成果なし、ということだろう。  「明日になったら、病院の大型モニターに映して もう一度しっかり検討してみよう。DCTのメン バーも集まってもらって、みんなで侃々諤々やれ ば、なにかわかるかもしれないじやないか」  そう言葉をかけても白夜は、動きもせずに首を 傾けたまま、じっとパソコンのモニターに映し出 されている脳の輪切り画像を見つめているだけ だった。     14  あの医者からの電話は、コオロギの鳴き声に設 定してあった。  客のいるカウンターで鳴り出しても、他の音と 紛れることはないと思ったからだが、こうして帰 宅する時に通る公園で聞くと、本当の虫の声と間 違えてしまいそうになる。  この時もそういうタイミングだったため、30秒 ほども放置してしまった。  「早く出てくださいよ、美保さん」  電話に出るなり彼は言った。  「ごめんなさい、今帰り道で公園の中なの。本物 の虫の声に聞こえてしまって」  「この季節に虫が鳴くわけがないでしょう。秋な らともかく」  やけに不機嫌そうだ。何かあったのだろうか。  そう尋ねると、またあの陰気な笑いを漏らして、  「別にあなたが不安に思う必要はありませんよ。 ところで、今日は面会に行ってくれましたか」  「ええ、もちろん。夕食の後くらいに面会に行っ て、例のおにぎりを差し入れに持っていったわ。 夜食に食べるように言って置いてきた」  「上出来です」  「薬は粉々にしても思ったより量が多くなっ ちやったけど、明太子に押し込んで、あとは周り のご飯に混ぜておいたんで、すんなり食べてくれ ると思う。明日確認はするけど……でもなんで明 日また行って『あんなもの』を食べさせたりする の?」  「わかりやすく言うと、薬の効果が本格的に出始 めるのが12時間から24時間後と幅があるのですが、 出来ればピークを迎える明日の深夜ごろに、狙い 通りの『仕事』をしてほしいと思いましてね。そ のための工夫だと思ってください」  暗い公園で聞く彼の声は、冥界から聞こえる悪 魔のそれのようだった。  「ふうん……なんだかよくわからないけど、うま くいくんでしようね、必ず」  「必ずとは言い切れませんが、確率は高いはずで す」  「わかったわ。言う通りにする。明日の差し入れ も、もう買って用意してあるわ。あれをたっぷり 食べさせれば、野上は死ぬのね」  「ええ、そうなるはずです」  彼はそう言って大きく息を吐き出した。  「飲んでるのね」  酒の入った客を見慣れている美保には、すぐに それがわかった。  「前祝いですよ、ほんの。上手くいって保険金が 下りたら、約束通りにロマネコンティを開けま しよう。もちろん、お代は私もちでかまいません。 久々にゆっくりと、二人で楽しもうじやありませ んか」  「そうね。考えておくわ」  とだけ告げて、今度は美保から電話を切った。  冗談じやない。  もうごめんだ。  ロマネコンティなんかどうたっていい。  早くあの男と縁を切らないと、どうにかなって しまう。  さっさと保険金を手に入れ、借金を返して会社 を畳みたい。  そして、どこか遠くへ。  あの男の地獄からの囁きが届かない、遠くの街 に逃げてしまいたい。  美保は公園の中を小走りに自宅に向かいながら、 にじみ出る涙をぬぐった。  第三章 権威という名の病     I  この囗はたまたま、DCTのメンバーは手術な どの重要な仕事もなく、朝からのルーティーン的 な診察を終えると全員が昼にはミーティングルー ムに集合できた。  とはいえ午後の診察まで時間は隕られていたの で、全員分の弁当を手の空いている将貴が買い出 ししてきての診断会議となった。  壁に掛けられた60インチのモニターに、槙村か ら送られた海江田朝絵の診断データがタイル状に 4枚まとめてI画面として表示され、それを全員 がブレストで検討していく。  何か気づいたことがあれば、間違いを恐れずに 発言していくことで、個々の力を融合させて真相 に収斂していけるのが、このチームの強みだった。  その中でも、さまざまな発言を取り込みながら、 卓越した知識と自由な発想で答えを見つけ出せる 白夜の存在は特別だと、彼女が4年ぶりに戻って 来て以来、誰もが感じているに違いなかった。  「しかし、白夜ちゃんが一晩考えても出てこな かったとなると、こりゃあ難物じゃないのか?」  夏樹がそう言って、食べ終えた弁当の箱をク シヤリと潰す。  「だからこそみんなの考えを白夜に聞かせてはし いんだ」  将貴は全員を見渡して、  「一晩考えてるってことは、先に進めなくなって るってことだ。別の人間が違う角度から見た発想 が必要だと思う。なんでもいいから、思ったこと を口にしてほしい」  「あ、それならひとつ、いいですか」  と、仙道が手を挙げた。彼は脳神経外科医だ。 脳の障害による全身不随の症例は数多く診てきて いるに違いない。              のうしゅよう  のうこうそく  「MRI見たかぎりじや、脳腫瘍とか脳梗塞、出 血のたぐいは見られませんが、頭椎はどうなんで すかね。この診断データにはそこがない。案外、 ALSでなくて単純な類椎損傷だったりして。経 験ありますよ、僕も。脳挫傷からくる血腫で麻痺 が出てるらしいっていうんで、手術のためにMR I撮った画像を、いちおうDCTにも回そうって 話になって」  「あ、それ3年くらい前にDCTに回ってきた患 者ですね」  西島が手を挙げて口を挟む。  「僕もいましたよ、その診断会議の時。確かに脳 にも影があったんですが、それは古傷の血腫で問 題がなかったんですよね。麻痺が出てる部位が血 腫の場所と相関性がないんじやないかって……」  「それはあたしが言い出しだの」  今度は麻里亜が挙手する。  「結局、麻痺部位からもしかしたら類かもって結 論になって、単純レントゲンで頭椎損傷が見つ かったのよね」  「あったあった。もし気がつかないで頭開いて血 腫取ってたら、ちょっと厄介だったよな。患者、 市会議員だったし、誤診騒ぎになってたかも」と、 夏樹。  白夜がいなくなってからも、DCTはそうやっ ていくつもの成果を出して、病院を支えてきたの だろう。  「でも、この27年前の所見じゃ、まだ麻痺は手足 の痺れと運動能力の極度柢下って程度たったわけ だろ。それが、少なくとも白夜ちゃんが初めて 会った5年前の時点で、口もきけない全身不随状 態まで来てる。てことは、進行性の病気ってこと だ。頭椎損傷じゃ、最初から症状がフルに出てな きやおかしい。違うね、これは。類じゃない」  「そっかI……外傷性じゃないってことだな、つ まり」  仙道は腕を組んで唸った。  「クレアチンーキナーゼの植も正常だし、筋ジス トロフィーもなさそうよね」  麻里亜が言った。 「もし筋ジスだったら、ALSよりは治癒の可能 性もある。デュシェンヌ型なら、核酸医薬の新薬 ビルトラルセンなんかで、治療効果が期待できる んだけどな」  「はい、ただ、朝絵さんは十六歳の時に診断を受 けてから、もう27年間も生き延びています」  と、白夜。ろくに寝ずに考え続けていたようで、 さすがに眠そうに目をこすっている。  「筋ジスなら、そこまで生きられる例はまれです し、全身のあらゆる筋肉の破壊が進んでしまうの で、少なくとも舌の萎縮は起きているはずです。 舌が健康な人間と同じということは、全身をその ような状態に出来れば、完治が望めると直感した んです……」  「そうね、その考え方はちょっとわかる気がする。 だって運動ニューロンがすべて障害を起こすAL Sなら、舌の筋肉を動かす神経にも起きてるはず。 舌だけ例外なんてことはあり得ないわ。というこ とは、もしかすると何か別の原因で起きた局部疾 病が、なんらかの理由で全身性の症状につながっ てるのかもしれない」  「はい、私もそう思ったんです」  「だとしたら、原因はやっぱりここにありそうで すよね」  仙道は、壁のモニターのMRIで写された脳の 画像を叩いた。  「脳以外の臓器じゃ、全身症状を起こすなんて考 えにくい」  「ま、それはそうかもな。しかし27年前のALS 診斷って、どこの誰がくだしたんだろうな」  と、夏樹がパソコンを操作して診断医の名前を 探す。  「ええと……ゝ凡っ? 里中賢蔵って、うちの院長 の?」  「ええっ、そうなんですか」  と、西島。仙道も白夜と将貴を見て、  「知らなかった。なんで最初に言ってくれなかっ たんですか、将貴さんも白夜さんも」  「予断をもたせたくなかったのよ、皆に」  麻里亜は苦笑して言った。 「だって、知ってたら皆、なんとなく最初からネ ガティヴに考えちやうでしよ。誤診を探してやる んだって思ってみたら、目が曇っちやうじやな い」  「麻里亜先生も知ってたんですか、人が悪いなあ。 それじやぜってI誤診っすね’・」  仙道はしかめっ面で吐き捨てる。  「この症例、きっとなんかありますよ。万が一こ れまでにわかった医者がいたとしても、あの入っ てALSの権威だから指摘できなかったでしよう し、ましてや再検査やろうなんて言い出せなかっ たでしょうから」  「ほらほら、そうやって色眼鏡で見ちやうでしょ。 だから言わなかったの」  「再検査か。今やったらどういう結果なんですか ね。どっちみちALSの診断はこういう画像とか 意味がないし、結果はあんまり変わらなかった か……」  と、仙道がつぶやいて、モニターの画像をしげ しげと眺める。  「しかし、昔のMRIつて不便だな。輪切りにす るだけで、これで手術部位を三次元的に把握する のは、なかなかに大変だったと思う。脇に、輪切 りの位置情報を表す小さい画像があるけど、脳外 科医の立場からすると、これだけかよって……」  「まあでも、CTもありましたからね」  西島が言うと、仙道は大きく首を振って、  「いや〜、用途が違うんで。脳外の場合は、出血 以外はMRIの分野っすから」  途中から白夜は自分では発言せず、他のDCT 医師たちの会話に、ただ黙って耳を傾けていた。  夏樹拓美、仙道直樹、西島耕助、そして高森麻 里亜−それぞれの分野で一家言を持つ優秀な若 手医師たちの言葉の一つ一つを拾い集め、脳裏に 刻みつけているのだ。  この作業は、いわば確定診断という料理を、調 理するための食材を集めているようなものだろう。  ほんの匸冐のジョーク、視線を送った先にある 何か、横道に逸れたような発言……何か思考跳躍 のステップとなるか、白夜にもまだわからないは ずだ。でも、将貴は期待せずにいられない。  白夜に備わる、他の誰にもない第六感に。  もし彼女にそれがあるとすれば、ここまで拘り 続けている27年前の診断データの中に、何か重要 なヒントが隠されていることを、どこかで感じ とっているに違いない。  そこに辿りつけたら、朝絵はきっと救えるに違 いないし、それとは関係ないかも知れないのだが、 野上の事件にも何か大きな進展があるのではない か。  将貴は、そんな気がしてならなかった。  DCTの会議は午後2時まで続けられたが、こ れといった成果はなかった。  とはいえ白夜にとっては大切な時間だったよう で、解散する時には、また明日も集まってくれる よう、何度も頭を下げて頼んでいたが、皆そのつ もりだったはずである。  部屋を出ていきつつも、名残惜しいかのように、 まだガヤガヤと意見を交わしていた。  一人まだ検証を続ける白夜に付き合って、将貴 も居残った。  里中院長が言っていたように、本来なら実習生 の白夜は何らかのカリキュラムを課されているは ずだったが、一般の学生がするようなことを彼女 が経験しても意味がないのは、ここの医師たちは 承知している。  実習よりは実戦に参加して、まず今は病院が直 面している疑惑の解明に努めてもらいたいという のが彼らの総意であり、理事長である麻里亜の願 いでもあった。  将貴の方も、今日あたり多少なりとも進展があ りそうな気配だった。  今朝、海江田の秘書から連絡があったのだ。  秘書いわく、安岡美保の携帯通信記録自体はす ぐに収集できたのだが、将貴に伝える前に海江田 自身で検証しておきたいとのことだった。  代表を下りたとはいえ、圧倒的な筆頭株主であ ることは変わらず、今でも実質上、日本グローバ ル通信のオーナーである彼にとって、その顧客の 個人情報を第三者に渡す行為には、ある程度の覚 悟が必要なのだろう。  彼なりに通信記録の相手を特定できるものはし た上で、疑わしさが感じられたものだけ引き渡す つもりなのかもしれない。  秘書の話では、今日中には整理して、海江田本 人から電話で連絡をくれるという。  すでに里中の携帯番号は入手済みだったので、 安岡と連絡を取った形跡があるとなれば、それを 根拠に不可解な薬剤ルールのことも含めて、警察 が正式に捜査に乗り出せるかもしれない。  それともう一つ、麻里亜づたいに槙村に頼んだ、 便秘から高マグネシウム血症を起こして死亡した 女性の身元についても、すでに情報は届いたよう で奥村に伝わっている。  奥村は、身寄りのいない女性の遺体を引き取っ たという勤め先の情報について、二日で調べると 豪語していたので、そろそろ今日あたり結果が聞 けるかもしれなかった。  一人で思考に集中しだして3時間が過ぎたが、 白夜は何も話さずじっとモニターを見つめて、時 折パソコンを操作して表示ファイルを切り換えて いるだけである。  将貴はといえば、勤め先の編集部におけるルー テイーンの仕事をモバイルパソコンでこなしつつ、 白夜にとことん付き合うつもりだったが、休むと いうことを知らずに、ひたすら考えていて立ち歩 きもしない彼女を見ていると、いささか不安に なってくる。  それこそエコノミークラス症候群でも起こしや しないかと心配になり、気分転換させるつもりで 声をかけた。  「白夜、今日は野上さんの病室には行かないでい いのか」  (ツと我に返った白夜が椅子から飛び上がるよ うに立ち上がる。  「いけない。忘れるところでした。今から行きま しよう」  取るものもとりあえず部屋を出て行こうとする 彼女を追うために、将貴も慌てて身支度をするは めになった。  病室の前に来ると白夜は立ち止まり、  「今日はどんな話をしたらいいと思いますか、将 貴さん」  と、珍しく聞いてくる。  「そうだな……」  考えてみて、ふと思ったことを伝えた。 「野上さんの話を聞かせてください、それだけ 言ってみたらどうかな」  「それだけ、ですか」  「それだけでいい。その代わり……」  将貴は白夜の後ろに立って、軽く背中を押しな がら言った。  「今日は一人で訪ねようか」  「えっ、私一人で?」  「そのほうが、きっと野上さんも話しやすいん じやないかな。きっとそうだよ」  白夜はひとしきり迷ったあげく、大きく深呼吸 してドアノブに手を伸ばす。  「行ってきます、一人で」  「あっ、ちょっと待った。いちおう、ノックをし たほうがいいね」  「えっ、そ、そうですね。すみません、うっかり しました」  「肩の力を抜いて。こないだみたいに、自然に接 すればいい。そうしたら彼も、きっと心を開いて くれるよ。そんな気がする」  「そうでしょうか」  もう一度深呼吸をやり直して、白夜はドアをこ わごわとノックしたのだった。  一人で何もすることがなく退屈していた野上は、 白夜の訪問を待ちわびていた。  だからノックの音を聞いた時から嬉しくて仕方 ない気持ちで、まだずっしりと重い体を無理に引 き起こして、ベッドの縁に腰をかけて彼女を出迎 えた。  「白夜先生、また来てくださったんですね。あり がとうございます、きっとお忙しいでしように」  と、つい何度も頭を下げてしまう。仕事という より、生きていくのが精一杯だった失業時代に身 についてしまった習性だった。  白夜は困った顔で、  「そんなことないです。忙しいというより、考え なくちやいけないことがあって、でも答えが出な いで煮詰まっていたところでした」  「そうですか。煮詰まってしまうと、先に進めな くなりますよね。私は長くバーテンをやってまし て、そういうお客様のお話を伺うのが好きでした。 人に話すとすっきりして、先に進めてしまうこと もあるんです。よかったら、お話しください、先 生も」  なぜだろう、この少女のような瞳をした医者に は、いつになくすらすらと言葉が出てきてしまう。  とはいえ、余計なことを口にしてしまった。  案の定、戸惑っているような白夜を見て、野上 は慌てて打ち消す。  「すみません、そんなことできませんよね。きっ とお仕事のことでしようし、私か聞いてもわか りっこない。まあ、だったら身の上話でもなんで もI」  「ごめんなさい、私の話はできないんです。して はいけないって言われてて」  「えっ、そうなんですか」  どういう意味だろう。 「患者には、プライベートな話をするなと、上司 から言われてらっしやるんですか」  「いえ、そうではなくて。誰にも話してはいけな いんです」  いよいよわからない。  この若さで、そんな身の上話があるものなのだ ろうか。  「そうですか。だったら無理になさらなくても大 丈夫ですよ」  「ありがとうございます。あの……」  「なんでしようか」 「野上さんのこと、お話ししてくれませんか」  おずおずとした様子で言いながら、白夜は野上 の前にある椅子に腰掛けた。  「お願いします」  頭を下げて頼まれて、野上もいささか戸惑った。  正直、自分のことを話すのは得意ではなかった。 美保にも、自分の過去については差し障りのない ことしか話したことがない。  宮崎の出身で、博多に出て行ってバ上アンダー として働きだしたこと。その頃に一度結婚をした ことがあったこと。  子供について訊かれた時は、  「一人いました」  とだけ答えた。  それだけだった。  「話して頂けませんか」  今度はじっと目を見てくる。大きなその瞳には、 若さに似合わぬ意志の強さが感じられた。けっし てものごとを諦めない、そんな迫力が漲っている。  「わかりました」  つい押し切られて、うんと言ってしまった。  すると今度は、先日のプリンを野上が食べた時 に見せた、子供のような笑顔を向けてくる。  引くに引けない気持ちで、少しだけ話そうとい う決心をした。  「大して面白い話でもないですが、じやあちょっ とばかりお話ししますね。私の生まれは九州の宮 崎というところなんです。宮崎牛とか宮崎マン ゴーとか有名で、大きな町はそれなりに都会です が、私の生まれた辺りは本当に田舎で、美味しい 食べ物ときれいな景色以外には、何もないところ でした。まあ今にして思えば、それだけあれば十 分だったのかも知れませんが」  話しだすと情景が浮かんでくる。  海岸線の一本道。  トタン波板張りの小さな倉庫や工場がひしめく 魚港界隈を、自転車で10分ほど西に走り抜けると、 フェニックスが並ぶ道に出る。  その辺りは春には桜も咲いて、海際にフェニッ クスと花が並ぶという、きっと他では見られない ような不思議な光景が広がるのだ。  幼い頃は酒屋を営む父の運転する軽トラの助手 席に座って、レビューのように移り変わる海の景 色を眺めるのが好きだった。  「実家は小さな酒屋を営んでいたんですが、従業 員に売り上げをごっそり持ち逃げされたのが元で 資金がショートしちまって、私か高校2年生の時 に夜逃げすることになりました。私はいろいろと 嫌になって、家族とは別に博多に一人で出て、酒 を出す店で働くことにしたんです。酒屋の息子だ から、酒のことは少しは知ってましたんで。両親 と妹とは、それっきり会ってません。連絡もつか なくなって、今はどこで何してるのか。まあ両親 は亡くなってるかもしれませんね。お袋は生きて れば今年八十七ですし、親父はその三つ上でした から。私と同じく呑兵衛だったし、もう生きちや いないでしょう」  両親を思い出すことは、だいぶ前からほとんど なくなっていた。しかし生き別れの妹のことだけ は、たまに考えることがある。  もう還暦を過ぎているから、孫がいてもおかし くない年だ。  妹の孫。それはつまり野上にとっては姪孫に当 たる。  どこかで、幸せになっていてほしい。  そう思う。  「博多の飲み屋では2店舗合わせて15年働きまし た。最初はただのウェイターでしたが、そのうち バ上アンダーとして使ってもらえるようになって、 給料も上がって。結婚したのはその頃です。相手 は近くのお店のホステスでしたが、結婚する時に 辞めることになりました。子供が出来たからでし た」  その時代が一番幸せだった。  息子が寝つく前には帰れない仕事だったが、そ の代わりに昼間はサラリーマンより長く遊んでや れた。  公園にも夫婦二人で息子を連れていけた。  平日にそんな夫婦はほとんどいなかったから、 息子も誇らしかったに違いない。  何かが狂いだしたのは、三十を過ぎた頃にスカ ウトされて店を移ってからだ。  給料はずっとよくなったが、仕事は厳しかった。 仕込みなども任されていたので、昼間から出かけ ることになり、息子と遊ぶ時間もなくなった。  夫婦仲も次第に悪くなり、喧嘩も増えた。  「忘れもしない、三十三になった冬でした。年末 が近くなると忘年会も始まり、飲み屋は大忙しの 書き入れ時ってやつになるんです。私の店は特に 流行っていて、日曜も休みなく働かされましてね。 土曜は前から仕事でしたが、それでも日曜くらい は休めたんです。それがなくなって、いよいよ夫 婦仲は最悪になって。でも、あんなことがなけ りや……」  その日は年の瀬で店は一番の賑わいだった。カ ウンターはもちろん、ボックス席に出す酒のこと まで取り仕切っていた野上は、妻との不和や疲れ もあって苛立ち、部下のちょっとの失敗でも怒鳴 り散らして、声をかけづらい雰囲気をまとってい たに違いない。  だから家から電話がかかってきていることも、 なかなか伝わらなかった。  それが伝わっだのは、妻からの五度目の電話が きてからだった。  しかしその電話さえも、野上は用件を聞くなり 怒鳴ってすぐに切ってしまった。  「子供が泣き止まないって、そんな用件だったん です。ずっと泣いて様子がおかしいってんで、私 に電話したらしいんですが、そんなことで電話し てくるなって怒鳴って、叩ききってしまいました。 馬鹿なやつです、本当に。店が夜中に引けて家に 帰ったら、妻も息子もいなくて、救急車を呼んだ ので病院に行くって書き置きがありました。慌て てすっとんでいったら、もう……手遅れで……」  不意に涙が縊れた。  こんな話を他人にするのは、これが初めてだっ た。  なぜ話したのだろう。  なぜ、こんな若い女医に、なぜ……。 「腸重積、だったんですね」  ぼそり、と白夜がつぶやいた。野上が話し始め てから、ずっとただうなずくだけだったのだが、 不意にそう問いかけてきた。  「……そんな名前の病気だったと思います。よく お分かりになりますね。あなたのような先生が近 くにいたら、あの子もきっと助かったんでしよう ね。いや、私か最初に電話に出てすっとんでいけ たら、もっと前に電話をつないでもらえる人間 だったら、きっと……いや、どうですかね。酒の ことしかわからない男でしたから……」  それからすぐに妻とは離婚し、野上はすべてを 捨てて東京に出てきた。  何もかも忘れてしまいたい、それだけの理由 だった。  東京では、銀座を中心にいくつものバーを転々 とした。  日が落ちれば仕事に出かけ、終われば朝方まで 痛飲し、昼下がりに起き出して、また仕事に出か ける。  そんな毎日だった。  「東京に来てからのことは、あんまり覚えてない んです。酒を飲み過ぎると、なんもかも忘れちま う。でも嫌なことも思い出さなくなるんです。一 番嫌なことを思い出さなくて済むってだけで、あ りかたい。そうやってね、いまはこんなざまです。 だからいつ死んでもいいんです。もう、なんの後 悔も……」  「野上さん」  白夜がまた言葉を発した。野上の言葉を遮るよ うに、野上の名を呼んだ。じっとその大きな瞳で 見つめながら。  憂いを湛えたような、とでも言うのだろうか。 今にも雨が降り出しそうな空を思わせる、そんな 目の色。  唇が震えながら開かれ、次の言葉を紡ぎ出そう とした、まさにその瞬間だった。  けたたましい音で、インタホンが鳴り響いた。  野上は我に返り、インタホンに手を伸ばす。  「受付です。野上さんに面会の方がいらしてます。 お約束があるとのことですが、どうしますか」  女性の忙しそうな声だった。  「はい、すみません。うっかりしてました。上 がってきてもらってかまいません」  野上が言うと、受付の女性は、  「はい」  とだけ返事をして、インタホンをそそくさと 切った。  「……すみません、白夜先生。面会の約束があっ て……」  恐縮して頭を下げると、彼女はゆっくりと首を 横に振った。  「いいえ、とても嬉しかったです、野上さんのお 話が聞けて。また聞きにきます。明日も明後日も 来ます」  そう言って目頭を軽く押さえるような仕種を見 せて、すぐに立ち上かって、一礼をして出ていっ た。  白夜の背中を見送ると、現実に引き戻された気 がした。  病室の壁にかかっている時計を見ると、とっく に5時半を回っていた。  そうだった。  今朝電話が来たのだ。  出勤前に、またお見舞いに寄っていくという美 保からの電話。  これからまた彼女と面会だと思うと、少し気が 重い。  待ちわびていたはずなのに、なぜだろう。  もっと白夜と話をしていたかった。  彼女が言いかけた言葉を、最後まで聞いてみた かったI。  白夜を野上の病室に置いて、いったん帰宅して この囗の仕事を片付けると、将貴は公園脇のいつ ものイタリアンレストランに向かった。  スマホに奥村からのメッセージが届いていたか らである。いわく、夜7時に待ち合わせをしたい、 重要な事実がわかった、とのこと。  どうせ暇だろう、と見透かすような内容だった が、すぐに了解したと返した。  逸る気持ちもあって、10分も前に店についたが、 奥村もすぐに現れた。彼も早く話したかったに違 いない。  とはいえディナータイムなのだからと、いちお う食事を頼んだ。店内を見渡せばカップルか女性 同士ばかりで、男二人でレストランのディナーと いうのは自分たちだけだった。  パスタ付きの一番安いディナーコースにして、 食前にビールを二つ注文するとすぐに運ばれてき たので、軽く乾杯をしつつ27年前の海江田朝絵の 診断について、白夜が疑問を持って調べ始めてい ることを伝えた。  朝絵の病気がALSでなく治る可能性があるら しいという話よりも彼が食いついたのは、彼女の 診断を下した人物が他ならぬ里中賢蔵だという件 だった。  刑事の勘というやつなのか、ただの偶然ではな いと感じたようだ。  「偶然は偶然なのかもしれん。でも事件ってやつ は、たいていが何らかの偶然が重なって起こるも んなんだ。そういう偶然の匂いがするんだよな、 里中と海江田の娘のつながりは」  美味そうにビールを飲みながら、奥村は持論を 述べた。  「でも27年も前のことだぜ。それが今起きてる事 件とどう関わってくるんだ」  「さあ、そこまではわからねえよ。でも見てろ、 きっと関わってる。……ただなんだか、ちょっ と……」  何か言い掛けて、奥村は二口か三口分は残って いるビールを一気に飲み干すと、口の周りについ た泡をナプキンで拭って、しきりに首を捻りなが ら続ける。  「ちょっとだけ、役者が足りない気もするんだよ な……」  「役者って?」  「まあ、その話の前に俺のほうの本題だ。今日の 成果」  「ああ、そうだった。で、どうなんだ、例の高マ グネシウム血症で亡くなった女性の働いてた会社 は」  「例によって真っ黒けだったよ」  「やっぱりそうか……」  将貴はのけぞるように背もたれに寄りかかり、 天井を見上げた。  「死んだ年寄りはその会社が派遣してた清掃員 だったんだが、1億の保険金を彼女にかけてた。 七十代の女性にだぜ?」 「同じ構図だな、野上の件と」 「ああ。どうみても怪しいが、保険金は支払われ たそうだ。病院に入院して亡くなった上に、死亡 診断書の病名が便秘による大腸破裂からくる敗血 症となってたから、保険会社も保険金を払うしか なかったんだろうな」  もはや間違いない。  里中による投薬ルールの構築は、それを利用し て生命保険をかけた患者を死に至らしめ、おそら くは患者の勤め先の会社から、保険金の分け前を せしめるためのものなのだ。  巧妙かつ冷酷な保険金殺人が、命を救うために あるはずの病院で行われている。  それが本当なら、決して見逃してはならない。  元新聞記者の血が騒いだ。  「で、海江田に調べてもらってる電話の通話履歴 はどうなった」  と訊きながら奥村は、ようやく配膳されたパス タコースの前菜を、フォークだけで粗野に食べて いく。  「それも今夜聞かせてもらえるはずだ。里中の携 帯番号も掴んでるから、履歴にそれがあれば、令 状とれるんじやないか」  「まあなんとかなるかもな。一番いいのは、野上 の証言がとれることなんだが。それでまず安岡美 保を引つ張れたら、あとはどうにでもなるだろう。 次は便秘で死んだことになつてる患者の方に取り かかる。こいつは、けつこうでかいヤマになる な」  「しかし、あの里中が保険金殺人か……」  いよいよという段になって、将貴はどこか釈然 としない感覚を覚えた。  「どうかしたか、将貴。里中が」  「うん。俺も一度しか会ってないから、なんとも 言えないんだが、六十五になるオッサンでね。ゴ ルフ焼けの」  「それがなんだ。人殺したってゴルフくらいやる だろう」  「そりゃそうなんだが、どうもイメージが湧かな いんだよ。あのオッサンが進んで保険金殺人なん かやるかな、とね。しかも二件も続けざまに」  「殺人だと思ってないんじやないか」  「……そういうような話を、DCTの精神科医も 言ってたな。罪の意識を希薄化するために、毒薬 でなく普通に使われてる医療薬を使って、副作用 を利用して死に追い込む。しかも善意の医者の手 を借りて」  「卑劣なやり方だぜ。絶対に許せねえ」  「もちろんだ。……でも、そう考えても、 なあ〜……」 「気になることがあるなら、一応言ってみろ」 「奥村、お前、手術の現場って見たことあるか」 「いやないが、それがどうした」 「見ればわかると思うんだが、なかなかに壮絶で ね。あれを無理して出来るようになる人間かいる のはわかるが、積極的に、喜んでやりまくる人 種ってのは、俺には少なくとも理解しがたいん だ」  「そうかもわからんな。ただな、俺だって血まみ れの殺人現場とか見て、こんなことをやらかす犯 人なんざ、人間じゃねえって毎回思うんだが、捕 まえてみると、意外なくらい大人しい奴だったり することもあった。人間って生き物は、環境次第 でどうにでも化けるんだな、つて思わされるよ」  運ばれてきたウニのパスタを美味そうに味わい ながら、奥村は言った。捜査一課を経験している 彼は、つくづくそう思うのだろう。  「その環境の話さ」  将貴は彼の言葉を拾って、ますます確信を抱い た。  「里中賢蔵って医者は、調べたところずっと若い 頃から研究と診断が主なキャリアでね。ALSつ ていう難病を徹底的に深掘りし続けて、高い評価 を得た医療者なんだ。難しいとされるALSの診 断では、世界有数の実績を若い頃から築いてきて るらしい。まあ、権威ってやつだ」  院長室に里中を訪ねた時にもそれを感じた。棚 の上には彼の私物らしい額に入った賞状のような ものが飾られていた。それは彼にとって権威の象 徴なのだろう。  おそらくどこの病院に勤めても必ず持っていき、 自分の身の回りに飾ることで、彼は自分の権威を 周囲に知らしめている。少なくとも本人は、そう 思っているに違いない。  「ALSつていう病気は、外科的な手術じゃ治ら ないし、診断も患者の容体を診た上で、血液検査 やMRIで特に問題が見当たらないことを理由に して確定診断される。つまり病気の中じゃ、えぐ いシーンに出会わずに学問として極めていき、ラ ボの中で何か原因で起きるか、どうすれば改善さ れるかを研究していけるってことさ」  新聞社にも、似たような社員は少なからずいる。  基本デスクワークでキャリアの大半を過ごして きた彼らは、夜討ち朝駆けと言われる記者の(I ドな現場を、ほとんどわかっていない。  それが必ずしも悪いわけではないが、そういう 人間が上司になると、現場はすこぶるやりにくい ものだ。(Iドで小さいことを気にしていられな い分だけ、ある意味で緩くもある現場の空気を知 らないせいで、生真面目で融通がきかないからだ。  医者の世界も近いものがある気がする。修羅場 を知らないがゆえに、道を踏み外すこともできな いような医師。里中もそういうタイプではないだ ろうか。  「わかるか、奥村。手術なんか、彼は若い研修医 時代に少し経験しただけのはずなんだ。そして人 間臭い臨床も、他のジャンルの医者と比べたら大 して経験してないに違いない。そんな医療の綺麗 な部分ばっかり見てきてるような人間が、いきな り医療を悪用した保険金殺人を計画するなんて、 どう思う、お前は。刑事として、あり得ると思う か」  「わからんな、俺には」  と、パスタの残りをかっこんで、通りがかりの ウェイターに食後のコーヒーをジェスチャーで要 求しながら、奥村は言った。  「医療のことはさっぱりだからな。ただ、お前は その里中って医者に会ってるんだろ。会ったお前 の印象が、保険金殺人を喜んでやるような人間に は見えなかったっていうなら、それは尊重するよ。 お前が言うような理屈はおいといてな」  「まあ、なんでもいい。ともかく、いま一つ腑に 落ちないんだ」  「それは俺も一緒だよ。なんだろうな、この感じ。 パズルのヒースが一つ足りないような……」  「パズルのヒースか……」  気がつくと、もう9時近かった。メッセージだ け入れて置いてきてしまった白夜は、何をしてる だろうか。まさかもう野上の病室にはいないだろ う。病院の夕食の時間は6時たったはずだし。  一人でまた、あの朝絵の診断データと格闘して いるのだろうか。  時計がわりに見ていたスマホが、不意に震えだ す。同時にその画面に発信者の名前が表示された。  海江田誠たった。  海江田のあの静かだが迫力のある面持ちを思い 浮かべ、つい反射的に姿勢を正してしまう。  「誰からだ?」  将貴のただならぬ様子を感じてか、奥村が小声 で問いただしてくる。将貴は名前の出ている画面 を見せて立ち上がり、小走りに店の入り口近くの 客席のないエリアに向かいながら、着信を受けて 話しだした。  「はい、狩岡です」  「海江田です」  「お疲れさまです。例の件ですか」  「そうです。奇妙なことがわかってね。本当に奇 妙で、どう解釈していいかわからず、連絡に時間 がかかってしまった」  天才経営者海江田誠をもってして、奇妙と言わ しめる事実がとてつもなく気になって、ガヤつく 店内の騒音を避けるために、スマホを当てていな い側の耳に指を突っ込んで塞ぎ、無礼を承知で大 声で問い返す。  「なんですかそれは’・ どんな奇妙なことです か!・」  「待ってくれ、その前にまず、最初に君に頼まれ た件だが、名刺の人物−安岡美保のスマホの通 話履歴を半年前までさかのぼって調べたが、預 かった里中賢蔵という人物の携帯番号とのやりと りは確認できなかった」  ショックだった。成果なしということになるの か。しかし、別の携帯、たとえば特殊詐欺などに 使われる身元のわからない携帯でやりとりしてい た可能性もある。  それを告げると、海江田は当然そうくるだろう と想定していたのか、即座に否定する。  「いや、それもない。いわゆるトバシ携帯は警察 からリストが来ているし、そもそもすべての可能 性を消すために、秘書たちを使って我が社のもの でない携帯すべてに、電話をかけさせたのだよ」  「そこまで……」  驚いた。違法すれすれのことまでしてくれてい る。これで何もなかったら、どう言い訳すればい いのか、と押し黙った将貴に、海江田はおもむろ に彼からの用件である『奇妙なこと』を話しだし た。  「さて、ここからが私の側の用件だ。トバシ携帯 は除き身元の確認が取れた携帯も弾いていった後 に、最後に『謎』が残った番号が一つあってね」  「謎……ですか」  「そう。私かよく知っている人物のものだった」  「えっ」  スマホに誰かの割り込み着信が入る。しかし誰 からなのか確認する余裕もない。  海江田は続けた。  「君もよく来てくれる、あの熱海の入院施設だが、 あそこには常に医師が数人、交代で駐在してくれ ている。もちろん、それなりの実力のある医師限 定で常に募集していて、応募があれば審査の上で、 かなりの高給を提示して依頼してきた。それでも 長続きはしないもので、まあ長くて1年、短けれ ば三ヵ月ほどで辞めていく。当然のことだろう」  「はい、そうでしようね。でもそれが何か……」  「安岡美保と電話していた人物の中に、その臨時 医師の一人が交じっていたのだよ」  「ええっ。だ、誰ですか。私の知っている人物で すか?」  また着信。しかし無視した。  それどころではないのだ。  海江田はさらに続ける。  「それを訊きたくて、こうして電話をかけている。 3年ほど前に三ヵ月だけ熱海に来てくれていた医 師でね」  「3年前……」  鼓動が昂ってゆく。 「もとは脳神経外科で優秀な執刀医たったそうだ が、その時はもうメスは置いていて、内科医とい う触れ込みだった。当然ながら脳神経の疾病に詳 しく内科の知識も豊富で、確かに優秀な医師だっ たよ。古い朝絵の診断記録だけでは治療方針が立 てにくいと言って、近くの総合病院で血液検査や MRIをやり直したり、今までにない手厚い診療 を行ってくれたりね」  「水樹冬星……ですか」  声が震えた。震えてしまった。  経験したことのない衝撃だった。  長く新聞記者をやっていた将貴にとっても、こ んな驚きは過去に覚えがない。  海江田も同じだったのだろう。数秒の間を空け て、押し殺すような声でつぶやいた。  「やはり、知っていたか。どこでどう知ったんだ、 今何をしているんだ、彼は」  「高森総合病院の副院長です」  「……なんだと」  「里中院長が引っ張ってきたそうです」  「事件に関係があるのかね、水樹先生は」  「ないと思われますか」  「……田心ゝ凡ないな。そんな偶然は信じない。水樹 医師は3年前に娘を、ALSを病んだ朝絵を診て いた。そして彼を高森総合病院に引き入れた里中 賢蔵医師はALSの権威で、娘を診断した人物だ。 それがただの偶然なはずがあろうか」  「同感です」  足りなかったパズルのヒースが、どうやら埋ま ろうとしている。  「おい、将貴’・」  不意に背後から呼ばれて振り返る。奥村が慌た だしく近づいて来ていた。気づくと20分以上も待 たせていたようだ。  「まだ電話してるんだ、あとで……」  通話口を押さえて言ったが、奥村は引き下がら ない。  「いったん切ってこっちに出ろ。話を聞け。麻里 亜からだ」  ただならぬ様子に、謝りつつ後でかけ直すと告 げて海江田の電話を切り、奥村が差し出したスマ ホを受け取って耳に当てた。  「もしもし、将貴だ」  「麻里亜よ。二回かけたけど出ないから、奥村く んにかけたら今一緒だって……」  「なにかあったのか」  「ええ、今の今まで、港医大病院にいたんだけど、 槙村先生から意外な話が飛び出してきて……」  「なんだ早く言え」  「急かさないで。あたしもまだ、整理がつかない んだから。信じられないし、どういう意味だかよ くわからないのよ」  「だから何かだ」  「槙村先生、例の高マグネシウム血症で亡くなっ た患者さんのこと調べてくれてたでしょう。その 時についでというか、気になって誰が担当医でカ マ……つまり酸化マグネシウム製剤を大量投与し たのか、ちょっと調べてみたらしいの。そした ら……」  「おいおい、まさか……水樹医師だったとか じや……」  「そうなの、水樹先生が……でもなんでそう思っ たの?」  早鐘のような鼓動を堪えて、なるべく平常心で 海江田から聞いたばかりの事実を伝えた。麻里亜 が彼に好意を抱いていたかもしれないと考えたか らだ。  「うそ……」  しばし絶句したあとで、すぐに思いなおしたよ うに返してきた。  「待って待って。野上さんのアセトアミノフェン 中毒にも関わってたかも知れないってことよね。 それじゃまさか……」  どうやらそれはどの好意でもなかったようだ。 少しホッとする。  「ああ、彼……水樹冬星こそが、この二つの保険 金詐欺犯罪の真犯人だ」  「でも、じゃあなんで里中院長が……彼も共犯っ てこと?」  「さあ、それはどうかな。もしこの事件の発端が、 あの熱海の私設病院で海江田の娘を診たことだと したら、真相が見えてこないか」  「真相……」  「里中が27年前にALSの診断を下した患者に、 なぜか彼は改めて血液検査とMRIを受けさせた らしい」  「なんのために?」  「気づいたんじやないのか、彼も。白夜と同じよ うに、舌を診て。そしてMRIを撮って確信した のさ。里中の誤診にね」  「誤診なの? ALSは……」  「たぶんね。それを材料に水樹は里中を脅迫した んじやないのか。天下の海江田の娘を誤診で寝た きりにしたと世間に知られたら、彼は終わりだ。 すべてのキャリアを失い、医学界から抹殺される と考えてもおかしくない」  「あ、あり得るわ。水樹先生、里中院長のこと前 から知ってたみたいだし、確か3年前くらいから 急に親しくなったって……」  「海江田のところにいた頃だ。まさにその時から 水樹は、里中を脅迫し始めたに違いない。そう考 えれば、里中が唐突に強引な投薬ルールを病院に 押しつけてきた理由も、想像がつく。水樹はそう やって、保険金殺人の片棒を担がせていたんだろ う、里中に。彼がその恐ろしい真意を知っていた かどうかは別としてね」  「何に気づいたっていうの、水樹先生は」  殺人容疑者だと知っても、まだ『先生』と呼ぶ 医者の感覚は理解しがたかったが、今はそんな場 合ではない。  「ねえ、将貴。彼はいったい何に……」  「さあ、俺は医者じゃないし、それが何かわかる はずがない。でもI」  将貴の分も会計を済ませてくれた奥村と目配せ した。荷物を奥村から受け取ってレストランの階 段を下りていく。  「でも、白夜ならわかる。きっと、彼女は気づく はずだ」  将貴はスマホを切り、奥村に返して先に歩きだ した。  朝絵の診断データに今も向き合っているはずの 白夜に、すべてを伝えるためにI。  「入りますよ、白夜さん」  ノックの返事を待たずに、岩崎竜介はDCT ミーティング室のドアを開けた。  先程出ていった時とまったく同じ姿勢で立つた まま、白夜は壁のモニターを見入っている。  夕刻の5時過ぎに、野上一夫の病室に彼女を残 したままどこかに出かけようとしていた狩岡将貴 に、廊下でばったり会った岩崎は、彼から時々 ミ上アイング室を覗いてほしいと頼まれていたの だ。  岩崎にしてみれば、願ってもない役割たった。  自分の誤診を見抜き的確な投薬で患者を救って くれた彼女のことを、岩崎は心から尊敬していた。 それは年齢が下だとか上だとか、そんな封建的な 理由で躊躇する必要を感じない、純粋にして本能 的な敬意たった。  その本能とは、つまり彼女をリスペクトしてそ の一挙手一投足を可能なかぎり追うことで、自分 が誰よりも成長できるに違いないという確信にほ かならない。  そういう虚心坦懐が自分の一番の長所であると、 彼に医師への道を進めてくれた中学時代の恩師に も言われたことがあった。  事実、岩崎はDCTの一員として働いている白 夜に隙あらば近づいて、彼女の診断の理由や自分 の突き当たっている問題とその解決方法などを、 幾度となく尋ねていた。  白夜は真摯な姿勢で訊けば、嫌がるでもなく丁 寧に説明してくれる。  ただ今日はなぜか、朝からほとんどの時間ミー ティングルームに引きこもって、モニターに映し 出されている誰かの診断データに見入っているの だった。  岩崎が入室したことにも気づいていない様子の 白夜に近づいて、  「あの……白夜さん」  と、小声で驚かせないように声をかける。  それでも彼女は飛び上がるように驚いて、岩崎 をにらみつけた。  「あ、岩崎先生……なんですか」  ホッとした顔で訊かれて、15分前に出ていく時 に告げたはずの理由を、もう一度繰り返す。  「おなかすいてるんじやないかと思って、お弁当 を買ってきました。僕もまだですから、よかった ら一緒に食べましよう。もう9時半過ぎてます し……」  「大丈夫です、まだ」  「いやいや、何に悩んでるのかわかりませんが、 腹が減ってば戦は出来ぬって言うじやないです か」  「そんなこと、誰が言ったんですか」  「えっ、誰って……」  諺としてしか知らないし、そんな『返し』を食 らうとは思っていなかった。  「と、ともかく食べてください。僕はいちおう、 狩岡さんに頼まれて来てるんです。白夜さんが 放っておくと、何も飲まず食わずで、ずっとそう やってるからって」  「将貴さんが……」  その名前を聞くと肩の力が抜けたようになって、 ため息をついてよろけるように席に座った。  渡された弁当箱を開いて、  「いただきます」  と、箸をぎこちなく使って食べ始める。  「あの、すみませんが一つ伺っていいですか、白 夜さん」  「なんでしようか」  岩崎の顔を見ずに返事をする。  いつものことなので気にせずに、質問を投げた。  「あのモニターに出ているMRIは、どういう症 例なんでしようか。僕が見ても何も異常はないよ うに思えるんですが」  「異常はないです。私にもそう見えます」  「えっ、そうなんですか。じやあなんで、何時間 も見続けてるんでしよう」  「何も異常がないはずがないからです」  言われたことが理解できない。  MRI画像に出る病的兆候というのは、あるか ないか、あるいは写っているかいないか、それ以 上でも以下でもないはずだ。  穴の空くほど眺めていたからと言って、突然何 か閃くたぐいのものではなかったはずである。  「異常があるんですかね、これに」  立ち上かって近づいて見る。  自分の知っているMRI画像とは、だいぶ様相 が違っているようだ。縦の断層画像がなく、すべ て輪切り、横に切ったものばかり。確か、一昔前 はそうだったと聞いている。  「古いMRIなんですね、これ。何年前のものな んですか」  「27年前です」  「えっ、それはまた……なんでそんな画像 を……」  「複雑な理由があるんです。匸冐では説明できま せん」  と、白夜は食事をしながら答えにならない返答 をする。  「そうでしようね。異常があるんですか、この画 像に。う〜ん、わかりませんね。横の輪切りしか ないってことは、今のMRIと比べたら情報量が 半分ってことですし、何か病気が隠されててもわ からないのかもしれないですよね」  「情報量が半分……」  ぼそっとつぶやいて、白夜はまた画像に目をや る。  「再検査はしてなかったのかな。ALSの確定診 断が下っていれば、何か検査するにしてもMRI は撮らない。ましてや里中賢蔵はALSの権 威……」  独り言を漏らして、立ち上がった。  「仙道先生か言ってた」  「えっ、仙道先生か何をですか」  岩崎が問いかけても、もう耳に入っていないよ うだ。  「昔のMRIは不便だ、三次元で捉えて手術部位 を特定するには……位置情報画像を見て判断する しかない」  カッと目を見開いて、パソコンに飛び掛かる。  「位置情報画像’・」  叫んでパソコンのキーを連打する。  モニターの画像がアップになり、脇にずれて隅 に表示されている小さな表示エリアがフォーカス されていく。  人間の脳を輪切りにして病巣を映し出すMRI だが、昔のそれは横にしかスライスできなかった ため、どの部分がいま表示されているのか、その 位置を示す画像が存在したというのは、岩崎も聞 いている。  今モニターにアップになっているのは、その位 置画像らしい。ただしそれは、小さく輪切りにさ れたものではなく、単純に中心部分をばっさりと 切り落としたような切断面を写しているだけだ。  頭の形がわかるようになっているため、今表示 されているスライスがどの部位なのかは、それを 参考にすれば把握できる。  当然、たんなる位置情報なので精度は柢く、細 かい部分までは把握しようがないはずだった。  だが今、白夜はその位置情報画像を食い入るよ うに観察している。  何かの答えがそこにあると確信しているかのよ うに。  「これおかしい。こんなに下がってるはずがな い」  またつぶやいて、今度は両手を目の前に持ち上 げて、見えない本でも読むような仕種を始めた。  「どこかにあった。確かにあった。こんな病 態……間違いなくあった……」  虚空に浮かぶ透明な本を繙いていた白夜が、不 意に動きを止めて、クシヤツと何かを潰すような 仕種を見せて、目の前で両手を祈るように組んだ。  「あった……見つけた……やっぱり」  振り返り、微かな笑みを浮かべて言った。  「やっぱりこれ、誤診だった」  そんな白夜を見ていると、何か何だかわからな い岩崎も、肩の力が抜けてきて、思わず釣られて 微笑んでしまう。  しかしそんな安堵を吹き飛ばすように、壁のイ ンタホンが激しいコールを鳴らす。  受信ボタンを押すまでもなく、赤いランプの点 滅によって、それが緊急事態を告げるナースス テーションからのコールであることが、一目でわ かった。  10時過ぎに高森総合病院にやってきた将貴は、 通用口で警備員に事情を伝えて通してもらうと、 まずはDCTのミーティング室に向かった。  ところが荷物だけが置かれていて彼女の姿は見 当たらず、まさかと思いつつも訪ねてみた野上の 病室には、白夜はおろか当の野上すらいなかった。  何度か電話も鳴らしたが、捕まらないし、メッ セージなどのリアクションもない。それもそのは ずで、ミーティング室で電話すると、白夜の荷物 の中で鳴り出した。  持ち歩いていないのだ。  インタホンの使い方がわからずにナースステー ションにかけることができなかったので、直接 行って聞いてみようと思って廊下を早足で歩いて いると、反対側から白夜がやってきた。  「どこ行ってたんだ、白夜。捜したんだぞ」  「すみません、患者が急変して、ICUとCT室 に行ってたんです」  白夜も汗だくで、顔色がよくない。 「急変って、誰が」 「野上さんです」  「えっ」  「ナースステーションから連絡が来て、野上さん が意識障害と嘔吐でICUに運ばれたって。慌て て駆けつけたら、まだかろうじて意識があって、 トイレでよろけて頭をぶつけたみたいなんです」  「それだけで意識なくしたり吐いたりするものな のか」  「野上さんは緊急搬送されてきた時、肝臓障害で 播種性血管内凝固症候群を起こしかけて、出血傾 向が出ていました。しばらくは頭蓋内出血に注意 が必要で、それもあって入院が長引いていたんで す。だからちょっとの衝撃でも、脳の血管が破れ てしまうこともあり得るんですが、それにしても 最近は改善してだのにどうして急にこんな……」  思い入れの強い患者の急変だけに、さしもの白 夜も動揺を隠せないでいる。  「で、どうなんだ、容体は」  「いま、またICUに運ばれてますが、CTから 診断した限りでは、急性硬膜下血腫だと思われま す。すぐに手術が必要で、今その準備に入ってる ところです」  「そうか。病院でよかったじやないか。こんなに 早ければ、まず助かるんじやないか」  「そう思います。よかったです、頭開けられる人 が当直でいて」  脳外科医の仙道が当直ということだろう。それ は幸運だった。彼は今や、この病院の脳神経外科 のエースだ。  「ただひとつ、気になることが……」  「なんだそれは」  「ICUで野上さんから、少しだけ違和感のある アルコールの匂いがしたんです」  「なに?」  「ICUなら常に消毒用アルコールが使われてい ますから、それかとも思ったんですが、もっと甘 い香りでした。お酒の匂いかもしれません」  「酒って、病室で?」  「もちろん病院には売ってません。だから可能性 があるのは、お見舞いに来た誰かが持ち込んだと いうことです」  「誰か来たのか、面会が」  「はい。私かいる時に受付からコールが入りまし た」  気になった。もしそれが安岡美保だとした yにり……。  「野上さんの病室に行ってみよう。もし酒だった ら匂いが残ってるかもしれない。そうしたら、白 夜の嗅覚ならわかるはずだ」  「そう思って向かうところでした」  二人は同時に廊下を駆け出した。  野上の病室はさきほど将貴が覗いた時のまま だった。ベッドもサイドテーブルも雑然としたま まになっている。  慌ててICUに搬送したのがよくわかる。  白夜は部屋に踏み込むなり、将貴にはわからな いアルコールの匂いを感知した。出会った時に見 せた驚異的な嗅覚は健在のようだ。  「この匂いでした。甘いような……絶対に消毒用 のエタノールとは違います」 「ウイスキーかもしれないな」  となると、誰が持ってきたのか気になる。  「面会が誰だったか調べよう。受付に訊けばわか るだろう」  インタホンで訊いて、すぐに正体はわかった。 予想通り、安岡美保だった。彼女は昨日の日曜日 も来たという。  「なんのために、あの人、二日も続けて? しか もお酒を飲ませたり……」  白夜も動揺が隠せない。  「気になるのは、その直後に野上さんが脳出血を 起こしたことだ」  タイミングがよすぎる。偶然とは思えないでは ないか。  いつだってそうだった。この一連の事件は、偶 然とは思えない偶然が重なり合い、最悪の結果に 向かって落ちていく印象なのだ。  「酒の影響で脳出血という可能性は?」  「もちろんそれも一因ではあるでしょう。でも、 今日訪ねた時の様子と朝方の診察のカルテを見る かぎりでは、ちょっとお酒を飲んだくらいでそん なことにはならないと思います。かと言って、ト イレで頭をぶつけたことだって、それを狙って安 岡美保が何かできるとは思えません」  「それはそうだな」  ふと、ベッド脇のごみ箱が目に入った。何か大 きなビニールの袋が捨てられている。  手を突っ込んで拾い出す。  「差し入れを持ってきたらしいな」  ビニール袋には、人っていたはずの品物の名称 が書かれていた。 『特選宮崎ドライマンゴー』とあった。 「ドライフルーツか」 「宮崎ドライマンゴー?」  白夜がいきなり袋を将貴の手から奪い取った。 「どうした白夜?」 「宮崎の生まれだと言ってました、野上さん。だ から持ってきたのかな……いや、違う。マンゴー は確か……」  と、また両手を顔の前に出して本を捲る仕種を し始めた。  その『答え』はすぐに見つかったらしい。血相 を変えてごみ箱を掴むと、中身をベッドのシーツ の上にぶちまけた。  「おい白夜、なにを……’・」  「昨日は日曜日で、この病院はごみの収集は来な いはずです。ということは、昨日安岡美保が別の 何かを持ってきたとしたら、ごみ箱に痕跡が残っ ているかも……y』れは……冫・」  丸めたラップのようなものを拾い上げ、匂いを 嗅ぐ。  「ごほんの匂いがする……」  「たぶんおにぎりをくるんであったラップだろう。 食べたことあるだろ、おにぎり。晴汝の作ったや つ」  思い出したらしく、ラップを広げて中の米粒を つまみ出す。  そしていきなり口に放り込んだ。  「えっ、白夜、ちょっ……」  そのまま口をもぐもぐさせて、ごみ箱に吐き出 すと言った。  「苦いです、これ。ごほんの味に何か混じってる。 食べ物じゃない何か。たぶん、薬だと……」  言葉を詰まらせた白夜の顔から血の気が引いて いくのが、傍で見ている将貴にも見てとれた。  『大変……y』のまま手術したら、野上さん死ん じゃう!・」  廊下に飛び出した白夜を追いかけて、並走しな がら訊く。  「何か大変なんだ? 安岡は何を食わせたんだ、 野上さんに’・」  「乾燥させたマンゴーです。でもその前に昨日、 おにぎりの中に入れて薬を食べさせた可能性があ ります。血を固まりにくくするワーフアリンとい う薬を危険な量内服させたのだとしたら、ちょっ と頭をぶつけただけで硬膜下に出血を起こした理 由も説明がつきます」  「マンゴーはなんの意味がある?」  白夜はマンゴーの包みを見て、何かに気づいた ようだった。  「マンゴーはワーフアリンの効果を高めることが 知られています。この組み合わせは危険なんです。 ましてそんな状態で手術なんかしたら、出血が止 まらなくなり助からないかもしれません。早 く……」  息を呑み込んで言った。  「早く執刀医に、水樹先生に伝えて手術の前に拮 抗薬を投与してもらわないと’・」  「水樹? 今、水樹と言ったのか。奴が執刀する のか!・」  思わず白夜の腕を掴んで押しとどめる。  白夜は驚いて立ち止まり、将貴の腕を振りほど  「そうです’・ あの先生は元は脳神経外科医で、 久しぶりだけど自信はあるって言ってましたか ら……」  「だめだ、すぐに止めさせろ’・」  「なんでですか’・ CTの結果から開頭するしか ない状態で……出血箇所は一つじゃない可能性も あるんです。すぐに手術をしないと、どんどん生 存率が下がって……」  「あの男が犯人なんだ’・」  「えっ……」  「あの男が、野上さんを殺そうとした真犯人なん だよ。詳しいことはあとで話すが、それがさっき わかったんだ」  白夜は一瞬、石のように硬直した。  「俺の言うこと、わかるか。信じられるか」  「……将貴さんは、私に嘘はつきません」  「ああ、そうだ。嘘なんかつかない」  「で、でも……それじゃ……」  へなへなと廊下に座り込む。  「どうすればいいの、どうすれば……」  こんな動揺を見せる白夜は初めてだった。  どんな状況でも崩れない冷静さが一番の凄み だっただけに、いきなり頼りなく見えてしまう。  ここは自分がしっかりしないと。  そう思って白夜の肩を揺すり、問いかけた。  「仙道はどうしたんだ、彼を呼んで手術を代わら せれば……」  「連絡が取れないんです。メッセージは送ってあ るんですけど、どこにいるかわからなくて。今日 はオンコールでもないし、夜の10時過ぎだとお酒 を飲みに出ているのかも……」  「そうか……」  「他の脳外の先生たちは家も遠いし、一番近いオ ンコールの藤田先生も60分以上かかります。今か ら呼んでも間に合いません」  「仕方ない、水樹に切らせよう」  「えっ」  「その代わり白夜、君が目を光らせるんだ。手術 室に一緒に入って、すぐ近くから奴の手技をじっ と見つめて、おかしなマネをさせないように見張 れ。それしかない、野上さんを助ける方法は」  賭けだった。  いちかばちか。しかし他に手はない。  殺人未遂の真犯人が、命を狙っているターゲッ トの手術をする。しかも頭蓋骨を開いて、脳にメ スを入れるのだ。  ちょっとでも隙を見せれば、手術中の事故に見 せかけて殺そうとするだろう。  それを阻止できるかどうかは、白夜の眼力にか かっている。  「やれるか、白夜」  将貴の呼びかけに白夜は立ち上がった。  「やれます。やってみせます」  白夜の目に、あの決して諦めない意志のもたら す力強い光が戻っていた。  「よし、行こう、手術室へ」  「はいっ」  二人はまた走り出した。  手術室という名の決闘場に向けて。  久しぶりの手術用手袋の感触だった。  6年ぶりになるだろうか。  あの致命的なミスを犯した執刀以来、この眩い 光の下に立つことはなかった。また立つことにな るとも思っていなかった。  実際、それは予定外だったのだ。  ワーフアリンとマンゴーの組み合わせは、出血 傾向を強めるとの報告が多数ある。機序は不明だ が、ワーフアリンコントロール下の臨床で得られ た観測によると、マンゴーの摂取によって血液の さらさら度をあらわすPT‐INRの値が、大き く上昇することがわかっている。  見た目の量以上に成分を多く含むドライマン ゴーの徳用サイズをI袋も食べれば、確実に効果 が発揮され、ワーフアリンの血液凝固因子抑制作 用とあいまって、眠りについた深夜のどこかで脳 内か硬膜下に出血が始まり、朝までには冷たく なっている計算だった。  それが、野上がトイレで転倒し頭を打ったこと で、こんな時間に出血が始まってしまったのだ。  しかし、そういう可能性も考えて、勤務医たち の申告スケジュールから見て麻酔科の専門医の多 くが学会で出払っていて、オンコールの脳外科医 が遠方在住者であるこの囗に、自分の当直を入れ て計画を決行したのである。  以前アセトアミノフェン中毒を狙った囗も、当 直で病院に詰めていた。新米の研修医に単独で当 直の取り仕切りを任せることで、自分自身は鎮痛 薬の点滴投与を手がけずに済むと考えたのだ。  港医科大病院の時はアルバイトで投薬を担当し たが、今回もそうなってしまうのは、ややリス キーに感じたからである。  上級医として研修医の指導をする中で、たまた ま任せてしまっただけなら、関わりはほとんどな いと見える。  今夜も彼は隣で、まだ何も始まっていないのに、 緊張で汗を浮かせている。おそらく麻酔科医、看 護師2名を含めて5名という最少人数での緊急開 頭手術など、初めての経験なのだろう。  こんな若い研修医が第1助手に入ることなどま ずあり得ないことで、手術現場の経験が多少はあ るにしても、せいぜい第2助手の立場なはずだ。 脳外の手術においては、第2助手はほとんど手術 に関わることはない。  手術用機材のとりまわしは臨床工学士がやるし、 器具を扱うのは看護師、追加で必要になった血液、 薬剤などの手配なども看護師の仕事だ。  となると第2助手はほとんど、手術の見学をし にきている体なのである。  しかしこの手術はそうはいかない。臨床工学士 もいないし、第1助手として執刀医の手伝いをす るのはもちろん、麻酔科医の手伝いから機材の管 理、脳外の経験がある看護師が一人でもう一人は 二十代半ばの若手となると、普段は看護師が担う 仕事もこなしていかなくてはならないのだ。  緊張するのも無理はない。  この様子なら、これから行われる執刀がどんな ものかもろくに判断できないだろう。  当然ながら、どういう執刀ミスで患者が命を落 とそうとも、それを故意だと看破する眼力など、 持っているはずもなかった。  「……では、これより左側頭部硬膜下血腫除去手 術を行います」  研修医の岩崎は早くも額に浮いている汗を看護 師に拭ってもらいながら、  「はい、水樹先生」  と、弱々しく返事をした。  血液検査も、緊急手術だからと言って今朝の結 果で代用することで麻酔科医も納得しているし、 すでに手術部位周辺の剃毛は済んでいて、十分に 麻酔も効いている。いよいよ執刀だ。  水樹は思った。  なるべく早く終わらせよう。  時間をかけすぎて、万がフォンコールでもな いのに脳外専門医の仙道が戻ってきたら、やっか いなことになる。  「さて、ではまず頭皮切開を行います。メス ー」  と、水樹が看護師に向かって右手を差し出した その時たった。  「水樹先生’・」  外回りの若い看護師が、手術室の扉を見て呼び かけてきた。  「どうした」  差し出した手を宙に戻し、扉の方に目をやる。  扉上部のガラス窓の向こうでマスクをした人影 が見えた。   一瞬消えて自動ドアが開く。  「入室します、許可を」  と、女の声。  「だめだ、手術中だぞ」  いらだって大声になる。  「入ります」  制正したにもかかわらず、その女は開いたドア から手術室に足を踏み入れてきた。  「おい、誰だ。今は手術中なんだ。許可なく入る なんてあり得ないぞ」  見るとその女は、手に薬剤らしきものが入った 医療コンテナを提げている。  手術着に身を包みマスクをしていたが、ゴーグ ルは付けておらず、その印象的な目を見ただけで 誰だかすぐにわかった。  雪村白夜だった。  「白夜さんか。どういうつもりだ……」  両手を掲げた状態のままで言うと、白夜は平然 と近づいてきて、若い看護師にコンテナを渡し、  「仙道先生に言われてきました」  と、手袋をした手で耳の辺りを示す。  そこには白いイヤホンコードが伸びていて、下 は手術着のポケットに続いている。ポケットには スマホらしきものが入っていた。  「今も繋がっていて、指示を仰いでいるところで す」  携帯電話で仙道と繋がっているというのか。  いったいなんのためにそんな……。  「だからどうした。執刀医は私だぞ」  水樹は平静を装って言った。  「はい、しかし先生は当直でおられただけで、脳 外科の専門医ではありません。せっかくこうして 連絡が取れたので、当病院の脳外科医として入院 中に倒れた患者を救う責任がある、仙道先生の指 示に従っていただけませんでしょうか」  そう言ってじっと水樹の目を見つめたあと、や おらその視線を斜め上に動かした。  釣られて見ると、やや上に設置されたガラスで 仕切られた見学室から狩岡将貴が見下ろしている。 その脇には、常備されている三脚に載った手術撮 影用のビデオカメラがあり、手術台に向けられて 赤い撮影中のランプが灯っていた。  動画撮影しているのか。  なんのためにこの手術を録画する?  理由は一つしか思い当たらない。  水樹に疑いを抱いているのだ。  なぜ気づいたのかはわからないが、彼は、いや 彼と白夜は、水樹がなぜ野上の手術を買って出た のか、その狙いに勘づいているのではないだろう か。  いや落ち着け、そんなはずはない。何を根拠に そんなことを考えるというのだ。証拠はなにもな いし、どこをどう調べても、自分に辿り着くはず はない。  自分に言い聞かせながらも、ここは仙道の指示 を受けながら手術をするという、白夜の提案に従 うべきだと判断した。  手術に入ってしまえば、チャンスはいくらでも ある。何しろ手にはメスがあり、これから頭蓋を 外し脳に向けてそれを振るうのだから……。  いや、それ以前にどんな手練が手術をしたとし ても、今この状態の野上の頭を開けば、絶対に助 かることはない。  ここで無理をして白夜の提案を拒絶して、あら ぬ疑いをかけられては損というものだ。どうせ助 からないのだ、この患者は。たとえ真剣に腕を振 るい、本気で助けるための手術を行ったとしても。  「わかりました。では仙道先生の指示を仰いで手 術を開始しましよう」  マスクとゴーグルの下でいつもの笑顔を作って みせたが、残念ながら誰もそのことに気づいた様 子はなかった。  水樹が白夜の無茶な提案を受け入れた。  なんとか第一関門は突破したようだ。手術の現 場責任者である執刀医の了解がなければ、手術室 に入ることはできない。ましてや医師でもないい ち実習生が手術に口出しをするなんてことは、常 識的にはあり得ない。  だから白夜には、正式な脳外科医である仙道の 名前を使って、指示を仰いで伝えるために来たと いう体で水樹にアプローチさせたのである。  しかし、それを水樹が受けなければ万事休す だった。そのために、将貴はすべてのやりとりを 見学室からビデオ録画することにした。  録画されているとなれば、後ろ暗い目的のある 水樹は、病院内ではただの実習生とはかけ離れた 特別な位置づけにある白夜を、うかつに拒絶でき ないのではないかと考えた。  それでも拒絶されたら、もう最後の手段に訴え るしかなかった。  麻酔医、看護師たち、それに研修医の岩崎がい る前で将貴が膕んでいるすべての状況証拠を突き つけて、ここで野上の手術を失敗することは、彼 が証拠隠しのために故意に行う殺人に等しいのだ と、真っ向から勝負を挑むしかない。  もちろん、それで野上が助かるという保証はな く、水樹がそこまで言われてどういう行動に出る かは、まったく読めない。  しかも余計な時間を使ってしまうために、野上 の救命率を下げることにも繋かってしまうだろう。  しかし、結果として最悪の選択は避けられ、水 樹は白夜を通じて仙道がリモートで手術の指示を 出すという提案を、あっさりと受け入れた。  ただ、将貴は彼がきっと受け入れるのではない かと考えていたのだ。  彼は確信があるに違いない。  たとえわざと失敗などせずに正しいやり方で手 術をしたところで、野上は助からない。そうタカ をくくっているのだ。  しかしI。  「では、手術を再開します」  見学室のスピーカーから、水樹のはきはきとし た声が響きわたる。  「待ってください、水樹先生」  看護師にメスを要求しようとする水樹を、また しても白夜が制止する。  「このままで開頭手術を開始してしまえば、患者 は助かりません」  「なんだって。どういう意味だねそれは。ぐずぐ ずしていたら、そのほうが患者の命を危険に哂す ことになるんじやないのか」  「聞いてください。野上さんは、ただ頭をぶつけ たというだけで硬膜下出血を起こしたわけではな いんです」  「ではどうだというんだ」  「彼は硬膜下出血を起こすリスクのある、血液凝 固因子抑制剤ワーフアリンを、規定をはるかに超 える量、飲まされた可能性があるんです」  「なんだと?」  マスクとゴーグルで隠れていても、水樹の顔色 が変わるのが見て取れた。  どうやら図星らしい。  「彼の病室にその痕跡が残っていました。わずか な量ですが採取してあるので、あとで検査に回す つもりです」  水樹のみならず、その場にいる看護師や麻酔医、 岩崎も驚きを隠せずに、白夜の発言に固唾を呑ん でいる。  「しかも病室には、ワーフアリンの作用を著しく 亢進すると言われているマンゴーを食べた形跡も ありました。この二つの相互作用を知っている医 学に詳しい人間の仕業に違いありません」  この切り込みは大胆にして周到だ。他の医師や 看護師たちのいる前でそれを口にすることで、水 樹はさらに下手な行動に出にくくなると踏んだの だろう。 「ばかげた妄想だな」  水樹は苦笑して言った。  「誰がそんなことをするというのかね、この患者 に。なんの得があるというんだ」  「その話はあとにしましよう。今はどうやって、 ワーフアリンの影響を抑制しながら、硬膜下血腫 除去手術を行うか、それに集中思考しなくてはな りません」  「ビタミンKの投与ですか」  岩崎が割り込んだ。彼も心なしか興奮している ように見える。何かとんでもないことが起きよう としていると、本能的に感じているのかもしれな い。  「いえ、それでは間に合いません。ここにケイセ ントラを持ってきています」  と、さきほどコンテナに入れて持ち込んだ薬剤 の入った容器を取り出してみせる。  「溶解液バイアルですぐに静注できるようにして あります。水樹先生、こちらを静注してよろしい ですか」  白夜はここに来る前に生理食塩水に溶かして あった薬剤を、麻酔科医の小田切に手渡した。  「よろしいですか、水樹先生」  小田切が受け取って、水樹の許可を仰いだ。  「投与お願いします」  と、水樹が小さく舌打ちして答えると、小田切 はすぐにそれを、野上の腕に繋がっている点滴の 側管に繋ぎ注入する。  黙って見届けて、水樹は忌ま忌ましそうに言っ た。 「これで気が済んだかね」 「いえ、これからです」  白夜と水樹の間に言葉にならない緊張が走った のが、傍で見ていてもよくわかった。火花が散っ たかのようだった。  「いつ開頭に入ればいいか、仙道先生に訊いてく れたまえ、白夜さん」  両手を無様にかざしたままで、水樹が言うと即 座に白夜が返す。  「いえ、まだしばらく開頭はしません」  「なに?」  「効果が早いとはいえ、ケイセントラが十分に効 いてくる前に開頭すれば、大出血が起こるリスク があります。それよりはまず、硬膜下に溜まって いる血腫の圧力を下げて、ワーフアリンの効果が 落ち着くまでの時間を稼ぎましよう」  白夜は手術室のモニターに映し出されているC T画像に近づいて、指先で部位を示しながら、  「この部位に(イスピードードリルで穿頭を行い、 ドレーンを通して血腫をある程度排出します。患 者は少し前に肝障害から播種性血管内凝固症候群 を起こしかけていたので、血小板を使い果たして もいるはずですから、多めの輸血でそれを補いつ つ、ヶイセントラの効果が出てくるのを待ちま しよう」  それを聞いて呆然としている水樹を見て、 「……そう仙道先生がおっしやっています」  と、白々しく付け加えた。  水樹の表情がこわばる。  おそらくこの時点で彼も、敵は仙道ではなく目 の前にいる医師免許もない実習生なのだと気づい たはずだ。  「了解しました。では穿頭を開始します。スキン マーカーを」  水樹は看護師に向かって右手を差し出した。     10  野上の手術は仙道の言葉を借りた白夜の指示に 従って、粛々と行われていった。  将貴には見当もつかなかったが、白夜の表情を 窺う限りでは、水樹の手技に怪しい部分はなさそ うたった。  水樹にとっては不本意たったはずだが、ちょっ とした動きにも事細かに指示を出してくる白夜の 眼力を前にして、致命的なミスを故意に行うこと は困難だったに違いない。  しかし、諦めたとも思えない。  ここでまた野上に生き延びられ、彼が二度にわ たって安岡美保に命に関わる薬を飲まされたと知 れば、今度こそすべてを話してしまう可能性があ る。そのことは水樹も感じているはずなのだ。  「硬膜を切開します。硬膜切開剪刀を」  「はい」  看護師が渡した小さな鋏をつかって、切断し外 した頭蓋の下に露出した硬膜を慎重に切っていく。 素人の将貴の目から見ても、水樹の手術の腕は確 かに思える。  「慎重にお願いします、水樹先生。脳を傷つけな いよう鋏を手前に起こし気味に」  白夜の言葉に返事もせず、黙々と手術を続けて いる水樹は、本当に患者を救いたい気持ちでそれ を行っているようにみえる。しかし、そんなはず はないのだ。彼は人を殺すことになんの抵抗も感 じない冷血漢なのだから。  今、この瞬間にも隙あらば、致命的な一撃を露 出していく患者の脳に加えてやろうと、虎視眈々 と狙っているに違いない。  白夜は白夜でそれを阻止するために、水樹の指 先のほんの微かな動きにさえも神経を尖らせて、 彼の思考を先読みしながら言葉を投げかけている のだ。  まさに果たし合いのような空気が、手術室に張 りつめていた。  ただでさえ緊張させられる手術室の光景が、命 を賭けた決闘の場のように見えてくる。  脳を覆う硬膜が切り裂かれて脳そのものが露出 すると、やや固まりかけてドロリとした血腫が露 わになり、その下から脈動に合わせて血が縊れ出 ているのがわかる。  しかし出血量はさほど多くない。  あらかじめ穿頭を行いドレーンで血を外に流し ていたおかげたろう。白夜の的確な判断が功を奏 したのである。  「ここからは出血部位の特定です。ワーフアリン の過剰作用による硬膜下血腫ですから、脳挫傷は 起こしていないはずなので、血腫をていねいに処 理すれば特定できるはずです。お願いします、水 樹先生」  「そのつもりですよ」  助手の岩崎も加わって血腫の除去作業が行われ ていく。ゼリー状の血の瑰が減っていくと、白っ ぽい脳の本体が見え始め、その一部から血が湧い ているのが見てとれた。  その辺りの血管が破れたのが原因なのだろう。  「捕まえた。よし、止血する。バイポーラを」  左手に持った(サミに似た道具−おそらく鉗 子というものだろうIそれを使って血管を摘ま みながら、水樹が看護師に向けて右手を差し出す。  コードの付いた歯科の道具のようなものが渡さ れると、水樹はいよいよ血管の止血作業に入って いく。  「よし、いいぞ。うまく焼けて止血できそう だ……」  黙って手術をしていた水樹が、自分の手技を説 明するようにしゃべり出しだのが気になった。  『うん、止血できそうだ……y』れで……終わり だ……」  水樹が大きく息を吐きだし、緊張で上がってい た肩をゆったりと下ろしてみせた。  「止血終了。あとは硬膜を縫合します。少し縮ん でいるようなので、人工硬膜の用意をしておいて ください。足りなければ使うので」  「はい、先生」  手術スタッフの緊張が解けていくのが、遠目に よくわかった。執刀医の言葉がそうさせたのだろ う。もう大丈夫、手術は成功だ、とI。  「待ってください」  不意に、白夜が声をあげた。  「なんだ、まだ何かあるのか、君は」  水樹がうんざりしたように顔をしかめる。 「止血がちゃんとできたか、確認させてくださ い」  「止まってるだろう、現に」  「今はそうです。でもハイポ圭フの使い方が浅 かったら、組織でなく血の瑰をほんのわずかに焼 いただけだったら、かさぶたが出来て今は血が止 まっているけれど、硬膜を閉じたあとでまた出血 が始まるかも知れません」  「いい加減にしてくれ’・」  水樹が大声を上げた。  「そんなに言うなら、君がやればいいだろう。さ あ、バイポーラを渡すから、ここにきてやってみ せてくれ。ほら’・」  手に持ったあの歯科のドリルのような機材、バ イポーラを、白夜に向けて突き出す。  「できません。私はまだ医者ではないので、それ は許されていません」  「ほう、そうかい」  水樹はおかしそうに笑って言った。  「だったら研修医の岩崎くんがやるのはどうだ? なあ、君だったら医師免許もある、立派な医者だ。 君がやりたまえ、あそこの白夜大先生のご指導で。 な、それがいい。ほら、受け取りたまえ」  なんとも品のない、攻撃的な口ぶりだった。普 段はにこやかで紳士的に振る舞う彼の、歪んだサ ディスティックな本性を見た気がした。  「む、無理です、僕には……」  岩崎はすっかり腰が引けてしまっている。無理 にやらせても、大失敗をしでかすに違いない。  「じやあ麻酔科の小田切先生、あんたがやっては どうかな」  「無茶言わないでくださいよ、水樹先生」  小田切は、なぜこんなトラブルになっているの か理解できない様子だ。  「そうですよね、すみません。ほんとに、なんな んだあの実習生は。ねえ?」  と、意地悪そうに小田切に向かって笑いかける。  「私かやります」  白夜が声をあげた。  「私かやってみせます。部位も手技も今見た通り に再現すればいい」  「ほう。そうか。ただそれは違法行為だぞ。医師 でもない君が手術に直接関われば、法に違反する ことになるんだ。実習生が手術器具を使って一番 大事な止血作業をやるなんざ、私は許さない。君 は退学になり、医師免許を取ることは出来なくな るんだ。それでもやるのか?」  「はい、かまいません」  白夜は本気だった。 「よせ、白夜’・」  将貴は叫んだが、ガラス越しの白夜には届かな い。  引かない白夜の迫力に気圧されながらも、水樹 はまた笑って言った。  「よIし、いい覚悟だ。見ててやるから、やって みせろ’・ 私の手術の不備とやらを、君の手で修 正してみせてくれ。さあ’・」  そう言ってハイポ圭フを差し出す水樹を一瞥し て白夜が、  「着替えてきます」  と、彼に背を向けて出口に向かおうとしたその 刹那だった。  「はい、そこまでだよ、白夜さん」  手術室のドアがいつのまにか開いていて、手術 用ガウンに身を包んだ男が立っていた。  脳外科医の仙道だった。  「仙道先生……」  白夜はよろけて、泣きそうな笑顔で仙道を迎え た。 「もう大丈夫。いいよ、下がってて」 「はい……」 「えIと、水樹先生。久しぶりの手術、お疲れ様 でした」  深々と頭を下げながら、手術台に近づくとまだ ハイポ圭フを持つたままの水樹に向かって手を差 し伸べて言った。  「ここから先はおまかせください。手術ってしば らくやってないと、ちょっとした手違いもあるか もしれないから、いちおう僕が確認のうえ、なに かあれば処置しておきますので、ご安心ください。 本当にありがとうございました」  「そうか。じやあ、あとはおまかせしよう。頼ん だよ、仙道先生」  力なく微笑んで仙道に手術機材を手渡すと、水 樹はふてくされたように振り返りもせずに手術室 を出ていってしまった。  「仙道先生、状況は……」  白夜が訊くと、仙道はマスクの下で笑って、親 指を立ててみせた。  「大丈夫。事情も含めて逐一、将貴さんからの電 話を通して聞いてたから。もう心配しないでいい よ。僕が必ず助ける」  「ありがとうございます。お願いします」  白夜はそう言うと、安心して貧血を起こしたの かその場によろよろとへたり込んでしまった。     H  野上の手術は成功に終わった。  白夜の見立て通り、水樹の行った止血は不完全 で、血腫部分を焼いてかさぶた状にしただけのも のだったようだ。あのまま硬膜を閉じて手術を終 えていたら、そう遠くないうちにかさぶたが剥が れ、また出血を起こしていた可能性が高い。  もしそれが全身麻酔で昏睡状態にあるうちに起 きてしまえば、脳で致命的な出血が起きているこ とを知る術はなく、心肺停止によって初めて発覚 することになっていたかも知れなかった。  しかし不完全な手術を水樹が故意に行っだのは 間違いないとしても、その責任を追及されること はないだろうというのが、後始末をした仙道の意 見だった。  仙道に交代したことで事なきを得たし、そもそ も今の水樹は内科医なのである。昔取った杵柄で 手術をしたものの、やはリミスが出てしまったと 言われれば、それ以上は責められないだろう。  しかし彼には、必ずすべての事件の責任を取ら せなければならない。  野放しにしてはならないのだ。この冷酷にして 卑劣な男を。  そのためにはまだ、いくつか越えなくてはなら ない(Iドルが残されている。  野上の手術が終わった時、白夜は岩崎に肩を貸 されて連れ出された手術準備室のソファで眠りこ けていた。  前の囗からほとんど寝ていなかったうえに、手 術現場での水樹との対決で疲れ果てたのだろう。 揺すっても何をしても目を覚まさない。  仕方なく将貴が背負って、タクシーに乗せて家 に連れて帰ったのだった。  そのまま翌日の昼近くまで眠り続けた白夜だっ たが、目を覚ますと食事も摂らずにすぐに、寝起 きのクシヤクシヤの髪のままで居間で仕事中の将 貴のところにやって来た。  「お願いがあります」  「どうした血相を変えて。昨日は大変だったんだ から、少しゆっくりしてればいいのに」  将貴も溜まっている仕事を片づけたい。  「だめです。一刻も早く動かないと、人の命がか かってるんです」  「まだそういう話なのか」  仕方なくやりかけの仕事を中断してノートパソ コンを閉じ、  「なんだ、言ってみてくれ」  と、隣に正座している白夜に向き直る。  「海江田さんに電話をかけてください。すぐに 送ってほしいものがあります」  白夜はそう言って、勝手に将貴のスマホをテー ブルから拾い上げて、無遠慮に目の前に突き出し てきた。  「送る?」  「はい。それが届き次第、病院に行きます。里中 院長に会いに」  「院長に? じゃあ、いよいよか」  「はい。彼の欺瞞を暴いて水樹医師を追い込みま す」  「すごい、白夜ちゃん湯気が上がってるよ、頭か ら」  お昼の用意をしていた晴汝が、居間を覗き込ん できた。彼女も夜勤明けでさきほど起きたところ なのだ。  医療関係者は看護師も含めて、本当に激務だと 思う。  「頭から湯気、ですか。本当に?」  と、白夜は自分の頭とおでこに手を当てて首を 傾げる。  「やあね、ものの喩えよ。そんな風に見えるって いう意味」  と、くすくす笑う晴汝を見て白夜は、  「そういうのわからないです。ちゃんと教えてく ださい、晴汝さんが」  と、口を尖らせた。  「そうね、教えてあげないとだね、まだまだいろ いろと。だってまだ、六歳だもんね」  晴汝は白夜の頭を撫でた。  「少し頭を冷やしてからいくといいよ。冷静なほ うが白夜ちゃんらしいもの。そのほうが、きっと いい結果になると思う」  我が妹ながら、なかなかにいいことを言う。  その通りである。  冷静にロジカルに接するべきだ。  彼が権威という名の病に取り憑かれた患者のよ うなものだとするなら、これから白夜は医師とし てその治療に向かうのだから。  「はい、そうします」  と、晴汝を見てうなずく。  「そういえば、お腹がすいてるみたいです。ごは ん、何かありますか」  「いま作ってるところよ。腹が減ってば戦が出来 ぬって言うからね」  「あ、それ知ってますよ。誰が言ったんですか、 それ」  「さあ、誰だろ。お兄ちゃん、知ってる?」  「知らないなあ。諺としてしか」  「もう1つ、元新聞記者で今は出版社の人でしよ。 それくらい知らないの?」  と、晴汝は笑った。  白夜も笑っていた。ごく自然に笑顔になってい た。  人は人と出会う中でしか、学べないものがある のだと、彼女の屈託ない笑顔を見て感じるのだっ た。     12  その午後、高森総合病院はどこか不穏な空気に 満ちていた。  昨夜の緊急手術の件が、研修医の岩崎や麻酔科 の小田切、二人の看護師といったあの場にいた者 たちの口から、あっという間に広まったのだろう。  当直だった水樹はこの囗は休みで、それだけに 誰もブレーキを踏むことなく、噂は拡散していっ たようだ。  「大変でしたよ、あの後、みんなに問い詰められ ちやって」  将貴の顔を見るなり小声でそう話す仙道だった が、大変というわりに妙に興奮状態で、この先に 何か起きるのか興味津々らしい。  「まだいちおうわからないですから、あんまり話 さないでおいたんですけど、水樹先生の手術が白 夜さんの言った通り危険だったことは、事実なん でしやべっちやいました。まあ看護師も岩畸くん も小田切先生もいましたしね。僕が話さないでも 連中からだいたいのことは伝わってるみたいで」  欠席裁判がすでに始まっているようだ。  水樹は確かにスマートで看護師たちには人気だ と聞いていたが、嫌われている里中院長が肝煎り で引っ張って副院長に据えたこともあって、快く 思っていない者もいたに違いない。  「まあ、いいんじゃないのか。あの男はもはや医 者じゃない。絶対に許しちゃいけない犯罪者なん だ。必ず正体を暴いてやるさ」  将貴は、はっきりそう伝えた。  そのために白夜と二人で、これから里中に面会 に向かうのだ。  里中も卑劣だとは思うが、しょせんは操り人形 だったのだろう。ただ、白夜にとってはまた別の 思いがあるようだ。  詳しいことはまだ聞いていないが、27年前に彼 がくだしたALSの診断が、誤診であることは間 違いなさそうだ。  誤診はどんな医者であっても起こしかねない過 ちだが、それを脅迫材料にされて結果として犯罪 に加担することになったのは、許しがたい卑劣さ だと思う。  しかし、白夜の憤懣の理由はそれだけではなさ そうなのだ。  院長室に向かって歩く白夜は、晴汝の助言通り に努めて冷静さを保とうとしているようだったが、 胸のうちに燻る怒りは、そのいつにない歩みの速 さからも感じられた。  「失礼します」  ノックするなり返事を待たずに、白夜は院長室 の扉を押し開けた。  里中は自分のデスクではなく応接セットのソ ファに腰掛けていた。  外様の彼にわざわざ話しかける者はこの病院に は少ないだろうから、昨夜の出来事はまだ耳に届 いていないはずだ。ただ、病院全体に漂ういつも と違う空気は、多少なりとも感じていたのかも知 れない。  テーブル上の灰皿は、以前に訪れた時はただの 置物のようだったのに、山盛りの吸殻で溢れかけ ている。コーヒーも何杯か飲んだのだろう、部屋 はそれらの香りで溢れていて、匂いだけ嗅ぐと場 末の喫茶店のようだった。  「おお、白夜さん狩岡さん、会って話したいこと があるとのことだったが」  ソファでふんぞりかえっていた里中が、二人の 顔を見て立ち上がる。  「はい、先生が27年前に海江田朝絵さんという女 性にくだした診断について、お話しさせていただ きにきました」  いきなりその話から入るのか、と驚いたが、無 駄な世間話をする理由は、よく考えればひとつも ない。  顔を合わせるなり核心に迫る発言をぶつけられ て、里中の顔から笑みが消えた。  「なんの話だね、それは。27年前の誰の診断だっ て? そんなもの憶えているはずがない」  「いいえ、あなたは憶えています。忘れていたか も知れないけれど、思い出さされた。3年前、水 樹医師に指摘されて」  「水樹先生にだと?」  里中は見るからにうろたえた。この様子からだ けでも、彼が主犯ではないとわかる。将貴の見立 て通り、里中は保険金殺人などを自ら企てるよう なタイプではないのだ。  「ばかばかしい、そんな根も葉もない話をしに、 ここに来だのかね。だったらさっさと出て行って もらおう。私も暇ではないんだ」  おろおろと、ポケットから煙草を取り出してく わえ、ライターで火を付けようとするが、手が震 えてうまくいかない。  「27年前、あなたは港医科大学附属病院でALS について多くの論文を著し、内外に高い評価を受 けていた。そんなあなたの許に、すでに日本を代 表する起業家の一人という地位を築いていた海江 田誠氏から、娘の朝絵さんを診察してほしいとい う申し出がありました。彼女が示した筋力低下を はじめとする症状をALSではないかと疑っての ことでした」  白夜は淡々と語っていく。里中は相変わらずブ ツブツと、小声で反論めいたことを口にしていた が、お構いなしである。  「あなたはMRIをはじめとするすべての検査を 駆使して、最終的に彼女の病気を進行性のALS であると診断しました。ところがそれから24年し てあなたの許に、以前より交流のあった元脳神経 外科医が訪ねてきました。そしてこのMRI画像 を、あなたに突きつけてこういっだのではありま せんか。あなたが27年前に海江田朝絵さんにくだ したALSの診断は、誤診だったと」  白夜はそう言って、脇に抱えていたIPadを テーブルの上に置き、モニターに映し出されてい るMRI画像を里中に向けて見せた。  その画像の意味は、将貴にはわからなかった。 しかし、里中はわかったようだ。火を付け損ねた 煙草を、いらだたしく灰皿に投げ捨てたことから も、それは明らかだった。  「私か朝絵さんのALSに疑惑を抱いたきっかけ は、彼女の舌を見たことでした。ALSは全身の 運動ニューロンが侵される病気です。舌の筋肉を 動かすためのそれも例外ではないはず。なのに彼 女の舌は、健常者のものと変わらない状態だった んです」  将貴は思い出していた。  朝絵の口に、スプーンに載せたプリンを運んで、 そっと食べさせている白夜の姿。  そうやって患者に近づき、接することでしか、 医者は病の真実に辿り着けないこともあるのだと、 白夜はあの時、体験として学んだに違いない。  「私はそれから、彼女がかつて受けたMRIの画 像をずっと検証し続けました。でも、画像本体を いくら見ても、それがALS患者のものではない という根拠は見つからなかった。しかし答えは、 MRIの位置を示すための、小さく不鮮明な画像 の方にあったんです。輪切りにされた画像が、ど の部分のものなのか、それを示すだけの画像です。 そこには、この3年前のMRIにははっきりと 写っている、ある病気に特徴的な症状が、よく観 察すれば見てとれました」  と、目を逸らそうとしている里中を追いかける ように、白夜はIPadを両手で掲げて突きつけ る。  「よく見てください。このMRIを。小脳が脊髄 の中に落ち込むように、下垂している病態がはっ きりとわかるはずです。目を逸らさずに見てくだ さい、里中先生’・」  白夜は声を荒らげた。  里中は反論しようもないのか、黙ってちらちら とその画像に視線を送るだけだ。  「おわかりですよね。これはALSではなく、終 糸という脊髄の下−」  白夜は立ち上がり、自分のお尻の辺りに手を当 てて続ける。  「この辺りの末端にある繊維が、先天的に異常に 緊張した状態にあったために、脊髄と神経系が下 にひっぱられてしまい、小脳扁桃が大後頭孔から 下に落ち込んでしまうために起こる、キアリ奇形 I型という病態です。朝絵さんのように、ALS に似た全身の麻痺や筋力の柢下が起きるケースも ありますが、手術によって劇的に改善する可能性 があるものなんです」  白夜の追及に、里中は何も言い返すこともなく ただ顔を両手で覆うばかりだった。  「里中先生、あなたは3年前、水樹医師からこの 誤診の話をされましたね。そして、きっと脅迫め いた言い方で迫られたに違いありません。彼はそ の時、海江田誠さんが娘のために作った療養施設 の医師でしたから、あなたの誤診を彼に告げて責 任を問うつもりだと、そう言われたのではありま せんか」  「27年前の話なんだ……」  蚊の鳴くような声で、里中は答えた。  「今のようにMRIも性能が高くなく、小脳扁桃 の下垂までは読み取れなかったのだよ。あなたが 言ってるように、位置画像によく見れば兆候が 写っていたようだが、そこまでは考えもしなかっ た……私でなくても、あれはALSだと診断した はずだ。ほとんどの医者がそうしたはずなん だ……」  「仮にそうだとしても」  白夜は言った。  「3年前の時点であなたは、本当の病名を知った はずです。なのにそれを海江田さんに知らせよう と、なぜしなかったのですか」  「そ、それは……」  将貴にも白夜の怒りの理由がよくわかった。彼 女は誤診が許せないのではない。それを知りなが ら、見殺しにしようとした欺瞞が看過できなかっ たのだ。  「保身ですよね、里中院長」  将貴が白夜の代わりに言った。もしかすると白 夜には、なぜ彼が真実を知りながら患者に伝えな かったのか、その理由が本質的には理解できない かも知れないと考えたからである。  「あなたはALSの研究に長く携わり、そのジャ ンルにおいては権威と言われている。そのあなた が、よりにもよって日本を代表する起業家である 海江田誠氏の一人娘を、致命的な誤診で全身不随 に追い込み、彼女の人生を台無しにしてしまった。 そのことを海江田氏が知ったらどうなるのか。医 療業界が知ったら、学会が知ったら、世間が知っ たら自分はどうなるのか。それが怖かった。だか ら見殺しにした。もうこのままALS患者として 亡くなってくれたらいいと、そう思ってしまった。 違いますか、里中院長」  里中は押し黙るだけだった。  その沈黙がすべてを物語っていた。  「少なくともこの3年間」  白夜は立ち上がり、里中に向かって身をのり出 す。将貴の言葉から、里中がなぜ朝絵を見殺しに しようとしたのか、その意図、冷酷さ、卑劣さが 理解できたのだろう。澄んだ瞳に怒りの涙を溜め ている。  「朝絵さんを見殺しにしようとしたこの3年間に ついて、あなたは言い訳のしようのない責任を 負っています。ただ誤診をしたということではす まない責任です。自分の身を守るために人の命を ないがしろにしたという事実。もし気づかなかっ たら、あの大は安楽死を選んでいたかもしれない。 そして今から正しい診断に基づいた治療を行い、 あの大が健康を取り戻したとしても、その3年間 は戻ってきません。私はあなたを、絶対に許しま せん」  「……き、君は……」  目線を合わせてきた白夜を見て、里中は驚きの 声をあげた。  里中はようやく、目の前で自分を責めたててい る若い女性の相貌が、かつて自分が誤診してし まった少女時代の朝絵に瓜二つであることに気づ いたようだった。  「いったい君は……どういうことだ、これ は……」  彼にその理由がわかるはずはない。しかし、だ からこそ恐ろしかったのだろう。まるで遠い過去 に、自分が絶望に追い込んだ患者の亡霊に責めた てられているような、そんな感覚に囚われたに違 いなかった。  そのことが、里中の動揺をさらに掻き立てたよ うで、震えながら目を逸らし、頭を垂れて呟いた。  「申し訳なかった……本当に……」  もはやそこにいるのは、医学界の権威でもなけ ればこの病院の院長でもない、自分の過去の過ち に怯え、追い詰められた哀れな初老の男にすぎな かった。  「そう思うなら、あなた自ら海江田さんに、朝絵 さんにその思いを伝えてください。謝ってくださ い」  「わかりました……そうします……」  「そしてもうひとつ、あなたはやらなくてはなら ないことがあります」  白夜のその言葉を受けて、将貴が言った。  「あなたは誤診の事実に気づいた水樹医師に、病 院の投薬ルールを細かく規定するように進言され ましたね。誤診の事実を黙っているかわりに、 と」  「……ゝ凡ゝ凡、確かに。リストを渡され、その通り にするように、と」  「従ったんですね、それに」  「はい。それくらいのことで済むならと思っ て……」  「理由はなんだったんですか。水樹医師がそんな ことを、当時港医大病院の副院長だったあなたに させた理由は」  「はっきりは言わなかったですが、製薬会社との 繋がりみたいなことを、匂わしていました。たぶ ん癒着というか、そのことで賄賂を受け取ってい たんだと……」  やはりその程度の認識だったようだ。  無理もなかった。投薬ルールを利用して、保険 金殺人を企てるなどという飛躍的発想は、この凡 夫には想像もできないだろう。  「そうではなかったんです」  将貴は、野上が救急搬送されてきてから今まで にわかった事実を、かいつまんで里中に話して いった。  核心に迫っていくにしたがって、ただでさえ憔 悴していた里中の顔色がさらに青ざめていく。  「そ、そんなこと……私は知らなかった、本当に 知らなかったんだ。信じてくれ。信じてください、 狩岡さん’・」  「では、警察の捜査に協力して、あなたが水樹に されたこと、させられたことを、すべて話してく れますね」  「もちろんです’・ なんでも協力します。いや、 させてください’・」  頭をテーブルにぶつけんばかりに下げて、里中 は言った。  「本当に本当に、申し訳ありませんでした。この 通りです……」  消え入るような涙声だった。     13  麻酔から目覚める寸前に、野上は夢を見た。  幼い自分の子供と公園で戯れている夢だった。  今はどこで何をしているかもわからない妻もそ こには居て、ビニールで出来たオレンジ色のボー ルを蹴りながら追いかけていく息子の姿を、二人 で笑って眺めていた。  息子が大きく蹴りだしたボールが、若い女性の 足元に転がった。  女性はそのボールを拾い上げて、息子に手渡し た。そして息子と一緒に野上を見た。  女性の顔は日本人離れして真っ白で、目は力強 い印象的な光を帯びていた。  それは白夜だった。  野上が目を覚ました時にそばに居だのは、回診 に来ていた岩崎医師たった。  岩崎は笑顔で野上を覗き込み、脈を取るとイン タホンで看護師を呼んだ。  看護師を待つ間に野上は、岩崎になぜ自分はこ うして生きているのかと尋ねた。  すると岩崎は、どこか誇らしげに微笑んで答え た。  「白夜先生のおかげですよ。あのひとが、あなた を必死で、疲れ果てて倒れるくらいに頑張って助 けてくれたんです」  しばらくして、看護師と一緒に病室に現れた女 性の医師は、胸のプレートから高森麻里亜という 名前だと分かった。  高森医師は野上にはわからない難しい話を岩崎 や看護師と交わして、それからまた注射器で血を 採られたり、いろんな機械で体の調子を調べられ たりと、一通りの作業が終わったあと、ようやく 一人になれたとホッとしていた時に、白夜が訪れ てきたのだった。  夢に出てきたこともあって、野上は彼女が病室 に来るのを待っていた気がした。  ノックをされて、あの良く通る声がドアの向こ うから聞こえてくると、気持ちが急いたのがわ かった。  白夜はいつもの少し大きめに見える白衣を身に まとっていて、微笑みを浮かべて野上のベッドに 歩み寄ってきた。  初めて会った時の彼女は、こんな笑顔はみせな かったように思う。どちらかというと表情のわか らない、綺麗だが冷たい印象の女性だった気がす る。  自分に親しみを感じてくれているのかも知れな いと思うと、なんだか嬉しい。  「本当によかったです、野上さん」  白夜はそう言って、ベッド脇に置かれた椅子に 座った。  「ありがとうございます」  野上はきしむ体を無理やり起こして、懸命に頭 を下げた。  「白夜先生が助けてくださったそうですね。岩畸 先生がおっしやってました。こんな私みたいなジ ジイのために、疲れて倒れるくらいに頑張ってく ださったと……」  「いえ、そんな……当たり前です、そんなこ と……」  と、白夜は照れたように、モジモジとした様子 で言った。  しかしそこからの彼女は別人のようにしっかり とした口調になり、野上がなぜこのような状態に 追い込まれることになったのか、最初の救急搬送 の時からの出来事を、事細かに順序立てて話して いった。  言葉は十分に選ばれていて、野上でも彼女の言 いたいこと、伝えたいことはほとんど理解できた。  野上にとっては信じがたい、信じたくないよう なことばかりだったが、白夜の話だと思うと信じ るしかないと思えた。  いや、自分を助けるために、本当に必死になっ て働き、そして手術の際には夜中まで闘ってくれ たこの人の言うことを信じられないなら、他に何 を信じることが出来ようか。  一通りの話が終わった時、野上はあらためて、 前から思っていたことを白夜に尋ねた。  「白夜先生はなぜ、私なんかのために、そんなに も頑張ってくれるんですか。こんな、どうしよう もないアル中のジイサンのために、そんな に……」  「なんのためって……野上さんが、私の患者さん だからですよ」  白夜はあっけなく答えた。  シンプルだが不思議な説得力がある答えだった。  「前に話した時、野上さんは、いつ死んでもい いって言ってましたよね。それ、私は許しません よ」  「えっ」  「私だけじゃなく、みんなで必死になって、野上 さんのこと助けたんですから。いつ死んでもいい なんて、そんなのダメです。絶対に許しません」  「白夜先生……」  「だからお酒、止めてください。もう金輪際、飲 まないって約束してください。バーテンダーのお 仕事に戻っても、自分は飲まないでください。お 願いします」  白夜は、深々と頭を下げた。  「止めてください、そんな。頭を下げたりしない でください。わかりました。わかりましたから」  慌てた勢いで、ついそう口にしてしまった野上 のことを、満面の笑みで見つめて、白夜は言った。  「約束ですよ、野上さん’・」  「……わかりました。約束します。指切りげんま ん、しましよう」  「……なんですかそれ」  白夜は、きよとんと首を傾げる。  最近の若い人は指切りも知らないのかな、と苦 笑しながら、  「右手の小指を伸ばしてください。こんな風に」  と、野上は『指切り』の態勢で右手を白夜に向 けて突き出した。  おずむずと従う白夜の小指に自分の小指を絡め て、かすれ声をなんとか張り上げて言いながら、 手を上下に揺らす。  「指切りげんまん、嘘ついたら針千本、の〜ます。 指切った’・」  そう言って小指を放すと、白夜はしばしきよと んと口を開けてから、白い綺麗な歯を見せて笑っ た。  ころころと楽しそうに声を出して、子供のよう に笑ったのだった。     14  安岡美保が逮捕されたのは、それからまもなく のことだった。  野上の証言とその裏付けとなる彼の血液検査 データ、さらに病室のごみ箱に残っていたおにぎ りの欠片に微かに含まれていた薬剤、ワーフアリ ンが検出されたことが決め手となった。  不自然に高額な生命保険が、安岡の経営する法 人によって野上にかけられていたことも、彼女の 殺意を示す状況証拠として重要視されたようだ。  さらにその安岡の警察での証言と、過去の誤診 を材料に脅迫を受けていた里中の告白、そして安 岡との通話記録の存在が、港医科大学附属病院で 起きた不審死と今回の件の黒幕である水樹の正体 を浮き彫りにしていった。  港医科大病院で、一度は極度の便秘による大腸 破裂で起きた敗血症という診断をなされていた七 十代女性の死亡事象が、その後に槙村によって高 マグネシウム血症による薬物死たったことがわか り、しかもその薬物の投与と誤診をした医師が、 他ならぬ水樹たったことも警察の疑念を深めた。  この女性患者が勤めていた清掃会社の女性社長 の携帯通話記録にも、水樹の携帯番号が残されて いたため、彼女にも警察は任意で事情を訊くこと になり、主犯格の水樹の逮捕は時間の問題となっ てきていた。  しかし大胆にも水樹は、高森総合病院での診療 を続けていた。  警察の手が伸びてきていることを、頭のいい彼 が感じていないはずはなかった。看護師など病院 のスタツフたちの好奇の目もあっただろう。  にもかかわらず平然と日常の診療をこなしてい く彼の大胆不敵には、将貴たちも戦慄を覚えずに はいられなかった。  水樹逮捕の日は雨が降っていた。  そういう天候だと患者も比較的少ないものらし く、大挙して現れた刑事たちの姿は、いっそう只 事ではない様相だった。  将貴は奥村から逮捕の情報を密かに得ていて、 白夜について病院に足を運んでいた。  奥村の話によると証拠の不足を思えば、まだ任 意同行を求めるくらいの段階だったそうだが、そ の悪質性、社会的影響をふまえて、世論を味方に つけたいという意図があったのか、わざと一部マ スコミにリーグをした上で、敢えて病院で勤務中 に逮捕という運びになったようだ。  逮捕の瞬間、DCTと白夜、将貴らは病院の口 ビーに揃っていた。  午前の診療を終えた水樹が、昼食のために降り てきたところに刑事が声をかけ、逮捕状を見せて 同行を促した。  水樹は覚悟をしていたのだろう、すんなりと同 行に応じ、そのかわりに手錠はかけないでほしい と捜査員に頼んだそうだが、その申し出は拒否さ れた。  ロビーで患者たちが見ている中、水樹は手錠を かけられることとなったのである。  脱いだ白衣で手錠を隠された水樹が玄関に向 かっていく様子を、将貴は白夜と一緒に見ていた。  一瞬だけ目が合った。  確実に水樹は白夜と将貴の方を見ていた。  なんの感情もこもらない、それこそよく言う死 んだ魚のような目で。  そういう目で一瞥するだけにとどめることが、 彼の最後のプライドだったのかも知れない。  それからの一週間は修羅場だった。  系列出版社に出向しているとはいえ新聞社にま だ籍のある将貴は、事件に深く関わっていること を理由に本社に呼び出され、久しぶりに記事を担 当し編集委員に経緯説明をさせられた。  さらに出版編集部が発行している週刊誌の特集 記事までも担当することになり、寝る間もない一 週間となったのだった。  警察官で唯一、当初から事件の中心に身を置い ていた奥村は、捜査一課に交じって水樹の取り調 べに同席を許された。  水樹はほぼ黙秘を通し、冤罪に強い腕利き弁護 士を雇って徹底抗戦の構えだったようだ。恐らく 弁護士探しは逮捕の気配が感じられたころに済ま せてあったのだろう。  強引な逮捕劇を演出した以上、不起訴で終わら せることはなさそうだったが、用意周到な容疑者 に捜査当局は苦戦を覚悟しているとのことだった。  怒濤の一週間が過ぎて多少の時間が持てるよう になると、奥村と将貴はお互いの健闘を労うため と称して、いつもの公園沿いのイタリアンレスト ランで夕食を共にした。  将貴はここのところ海江田に仕込まれてきた シャンパーニュをグラスで注文したが、奥村は相 変わらずビール一本槍。乾杯するなり1分もかか らずグラスを空にしてしまい、もうI杯注文を追 加する飲みっぷりである。  3杯めに突入するころになって、ようやく将貴 の聞きたかった取り調べの話になってくれた。  「−まあそんなわけで、黙秘黙秘で、まだなん にもできちやいないんだよな、捜査本部も。あ りやあ、たいしたタマだぜ」  奥村は、水樹に対してなのか銘柄を変えた黒 ビールになのか、ひどく苦い顔をしてみせた。  「当然だろうな。だから病院で逮捕ってのはやり すぎたって言っただろ。あんなパフォーマンスを やらかしたら、医療団体だって人権団体だって 黙ってないし、却ってつけ込まれるって」  そもそも、病院側にとってもたまったものでは ない。今年就任したばかりとはいえ、副院長が事 件の主役なのだ。  これをきっかけにまた、閑古鳥が鳴くのではな いかと、理事長の麻里亜は戦々恐々としている。  もっとも今のところ病院の経営に影響は出てい ないようで、待合室はいつも通りの混雑である。 ただ、二人いた副院長の一人が逮捕された上に院 長までも辞任してしまい、理事会は次の院長を、 問題のある人物を押しつけてきた港医科大に要請 しているらしいが、まだ空席状態が続いていると のことだった。  「とはいえ、このあと大きな手術が待ってるから な。それで今度は、いい意味で話題にもなるはず だから、そんなに心配はしちやいないんだが」  「それって、例の海江田誠の娘の件か」  「ああ。彼女はもう熱海から高森総合病院に搬送 されてきてて、いよいよ明日には手術することに なってる」  「うまくいくといいな」  「大丈夫。最高の執刀医と最強のサポートスタッ フで臨むって話だからね」  そう。『彼』が執刀するなら、失敗はあり得な い。必ず完治して、病の軛から海江田朝絵を解放 してくれるに違いない。  「ところで奥村−」  将貴は3杯目のシャンパーニュを飲みながら訊 いた。  「水樹ってのは、いったいどんな奴なんだ。黙秘 を通してるって言っても、何もしゃべらないわけ じゃないんだろ」  思えば将貴は、彼の人となりをほとんど知らな い。将貴に隕らず病院の誰に訊いても、プライ ベートなことはもちろん、過去についてもほとん ど知る者はいなかった。  「ほんの少しだが、医療のことについての彼の考 えは、口にすることもあったな」  奥村はもう何杯目になるかわからないビールを、 ぐびぐびと底無しに飲み続けている。居酒屋では ないので、あとの会計が恐ろしいくらいだ。  「6年前までは脳神経外科医だったそうだが、当 時勤めてた横浜の病院で、国会議員の執刀で大き なミスをやらかして、それをきっかけにメスを置 いて内科医に転身したって話でね。一時は海外の 医療機関を転々として、アフリカの病院で働いた こともあるらしい」  「アフリカの病院? それだけ聞くと、ボラン ティアでもやっていそうな良心的な医者に思える が……」  「実際、ボランティア同然の仕事をしてた時期も あるみたいだ」  「本当かそれ。1億の保険金をかけて、患者を殺 すような金欲の瑰が、信じられないな」  「それが、金欲の瑰ってわけでもなさそうなんだ よな、あの男」  「なに?」  「警察としちや、保険金目的の犯罪となると真っ 先に預金の出入りを調べるわけなんだが、確かに 高マグネシウム血症で患者が亡くなった後に、彼 女の勤め先の法人から5000万円の入金があっ たわけさ。ところがその金のほとんど、4000 万円以上がユニセフなどの慈善団体に寄付されて たことがわかったそうなんだ」  「寄付だと……冫・」  信じられない話たった。罪もない患者を殺害し て得た保険金のほとんどを、慈善団体に寄付した というのか。  いったいどういうメンタリティで彼は、保険金 殺人を企てたというのだろう。  まったく理解しがたい精神構造だ。  「医療について、何か話したことがあると言つた な。いったいどういう内容だったんだ、それは」  「いわゆるトリアージの話さ」  トリアージ。  一般的には災害や戦争などの現場で、医師など 医療従事者が治療すべき患者に優先順位を付ける ことを言う。  しかし、新型ウイルスなどの蔓延による、人工 呼吸器やECMOといった機器の他、医師や看護 師を含む『医療資源』の枯渇が原因で、それが行 われるヶIスも出てきている。  「どうもそれを、海外での医療活動でだいぶ経験 したようだな彼は。もしかすると、そこで命を天 秤にかけることを、歪んだ形で受け入れちまった のかも知れん」  奥村の言いたいことは、なんとなく理解できた。  港医科大病院で亡くなったのは七十代の女性で、 事件の1年前に胃癌を切っていて、それ以来不眠 に悩まされていたという。結婚歴はなく子供もお らず、天涯孤独だったそうだ。  野上も同じように天涯孤独、まだ六十五歳だが アル中でホームレスだったのを、安岡美保が拾っ た。保険金をかけて殺害するために。  彼らの命は、水樹にとっては『もう尽きてい る』と見えたのではないだろうか。  その儚い命と引換えに得られる大金で救われる 者がいるのだと思えば、自らの冷酷な犯罪行為も 正当化されると、水樹は思っていたのかも知れな い。  もちろんその異常心理の根幹には、彼自身のサ ディスティックな性質が土壌として存在するに違 いない。  この怪物を育てた土壌、つまり彼の生まれ育っ た環境にこそ、まだ何か警察すら知り得ない謎が 横たわっている気がした。  将貴は思い出していた。  逮捕され連行されるその刹那に、水樹冬星がほ んの数秒だけ合わせてきた視線の冷たさを。  その名の如く感じた、冬に星を見るような凍え を、将貴は生涯忘れられないだろう。  きっと、白夜もI。     15  この日の高森総合病院は、全ての出入り口に警 備員が立っていて、患者や見舞い客が院内に入る 際に、必ず診察券または身分証を提示するように 義務づけていた。  もっとも、日曜なので本来は救急以外の外来患 者は受け付けておらず、見舞いもなるべく遠慮し てもらうように、入院患者に伝えてあったという。  そんなものものしい警戒の中で、唯一例外的に ノーチェックで院内に入れる人物の容姿服装が、 警備員には伝えられていた。  青いキャップを被っていて、濃いブルーのマス クをした男性。服は茶色のブルゾンに、カラシ色 のコットンパンツという出で立ち。サングラスを かけていて、身長は176センチ程度という指定 通りの人物が現れたのは、午後1時過ぎのこと だった。  彼の来訪に気づいた警備員は雇い主の海江田誠 に言われていた通りに、声すらかけずに玄関を通 し、あとは見て見ぬふりで外の警戒に当たった。  院内に入ると彼はそのまま新しい病棟へと向か い、出迎えた病院スタッフに見送られ、手術準備 室へと消えていったのである。  彼が入室すると準備室の扉は閉じられて施錠さ れた。  30分後にはシャワーを浴びて手術用ガウンに着 替え、ゴーグルとマスクを整えた彼が姿を現し、 患者の待つ手術室へと向かった。  彼が誰なのか知っている者は、今この病院にい る中でもごく僅か。この数年で何度か困難な手術 を成功させるために彼が呼ばれた際に、助手とし て居合わせることを許されたDCTの男性メン バー三人と、看護師長の横川文江、あとは麻里亜 と将貴、そして白夜の7名だけだった。  今回、手術に参加するのは、執刀医の彼の他に 総勢9名。第一助手の仙道、第二助手に夏樹、第 三助手に麻里亜、師長の横川の他、事情を知らな い麻酔医と臨床工学士、外回りの看護師2名。そ れに立会人として白夜も加わっている。  将貴も、見学室から手術に付き合うことを許さ れていた。  患者の全身麻酔はすでに十分に効いてきている。 9名が緊張した様子で待つ中、執刀医の彼が自動 ドアの向こうに姿を現した。  ドアが開き、グローブをした両手を掲げた彼が ゆっくりと入室してくる。  その場にいた全員が小さく一礼をして彼を出迎 え、そして執刀医のスペースを空けていざなう。  全員の準備が整ったのを見計らい、彼が術式の 確認を始めた。  「手術内容を確認します。既存症状はキアリ奇形 I型による全身の麻痺と筋肉の萎縮、患者の名前 は海江田朝絵に間違いありませんね」  「はい、先生」  麻里亜が応える。  「間違いありません」  と、仙道も続いた。  「確認しました。では術式の説明に入ります。大 後頭孔減圧術、および第1類椎椎弓切除術。前 者は頭骨を部分的に切除して取り外し、後者も椎 骨の後ろの部分を切除して取り去るものです」  見学室のスピーカー越しでも、すぐにわかる。 子供の頃から聞き慣れた彼の声。中学時代は家庭 教師として、将貴の勉強をみてくれたこともあっ た。  「この両方に加えて硬膜を拡げることで、小脳下 部にスペースが生まれ、脊柱管内に落ち込んでい た小脳が引き上げられて、圧迫症状が解消される ことになります」  優れた研究者であり、困難とされる脳神経外科 から心臓外科、もちろん胃腸などの手術もこなせ る天才的な外科医でもあった彼が、表舞台に戻っ てくるのは、いつになるのだろう。  そのためには、白夜の誕生にも関わった犯罪集 団の正体を暴き、横領の罪を着せられて逃として いる彼の無実を証さなくてはならない。  「脳や脊髄には触れず、骨を切り硬膜形成を行う だけなので、侵襲が少ない外科処置であり、成功 すれば患者もすぐに病室に戻れる手術です」  と言って、彼は見学室で将貴の隣から手術室を 見ている海江田を一瞥した。  海江田が小さく微笑んでうなずくのを見ると、 声をやや張り上げて宣言する。  「それでは手術を開始します。……メスを」  横川師長の手からメスが手渡され手術が始まっ た。  麻里亜の兄である天才外科医、高森勇気の神懸 かったメスさばきが、また一人の患者を絶望の淵 からすくい上げる。  その物語をじっと見つめる白夜の瞳には、医学 を志す者が見失ってばならない目的地、患者を救 うというテーゼの尊さが、きっとまた一つ刻まれ てゆくに違いなかった。  エピローグ  もうそこに朝絵はいないというのに、白夜は彼 女のお見舞いにいく前に熱海に寄っていくと言っ て聞かなかった。  仕方なく吉祥寺からは片道2時間弱かかる熱海 のプリン店に朝から出向いて、目当てのものを買 い漁ってのとんぼ帰りを敢行したのだった。  高森総合病院にはVIP向けの病室などなく、 朝絵も通常の個室で療養をすることになる。なの で手術のあとは、どこか別の場所でリ(ビリをし てもかまわないと、麻里亜は父親の海江田に話し だのだが、朝絵自身がこの病院で普通の入院患者 として過ごしたいと言って、そのまま留まること になったのである。  袋いっぱいの熱海プリンを両手で抱えて、白夜 は将貴と一緒に朝絵の病室を訪ねた。  ノックをすると海江田の柢い声で返事があり、 将貴はまた不要な緊張をしてしまう。  どうも最初に会った時の彼とのひりつくような やり取りが、刻みつけられて離れないようだ。  「失礼します’・」  対する白夜はなんのてらいもなくドアを開けて、 満面の笑みでベッドで上半身を起こして寛いでい る朝絵に駆け寄った。  「朝絵さん、体調はどうですか」  「うん、だいぶ良くなってきたわ。今囗はなんと か、歩行器を使って歩いてみたの」  朝絵の声は白夜にそっくりだった。  長く外に出ていなかったせいで、肌の色も白夜 に負けないくらい真っ白である。  27年前、十六歳の時にALSの診断を受けてか ら8年で歩けなくなり、そのあと5年で入院生活 となった。  全身不随になっだのは7年前。  白夜が『施設』の外に出る1年前のことだった という。  しかし今の朝絵は四十三歳という実年齢より、 十歳ほども若く見える。  だから白夜と並ぶと、本当に年の離れた姉妹の ようだ。実によく似た、仲のいい姉妹にしか見え ない。いや、事実そうなのだ。  この二人は年の離れた双子の姉妹と言っていい。 もう、それでいいはずだ。  「白夜ちゃんはもう、昨日でこの病院の実習は終 わりだったのよね」  「はい。無事に終わりました。ちゃんとレポート も書いて教授に提出しましたよ」  「どういうレポートだつたのかしら。そのへんの 教授よりもよっぽど詳しいのに」  クスクスと笑う朝絵は、ほんの1ヵ月前までは 安楽死を望んでいたとは思えない、爽快さに縊れ ている。  籠から解き放たれた鳥のように心の羽根を動か し、どこに飛んで行こうか楽しみにしているかの ようだ。  「さ、食べましよう」  白夜は自分が待ちきれないのか、いそいそとス プーンの準備を始める。  「将貴さんはもちろんですけど、海江田さんも食 べますよね」  「そうだな、いただこうか。抹茶のプリンでも」  照れたように笑う海江田は、二人の娘に囲まれ た幸福な父親のように見える。  「はい、了解です」  と、緑色の瓶とスプーンを手渡す。  「将貴さんは、お茶かコーヒーをいれてください ね。よろしくお願いします」  言い方は丁寧なようだが、容赦なく仕事をさせ る様子はどことなく海江田に似ているように思え た。  「朝絵さんは、いつものようにマロンから食べま すよね。はいっ」  白夜は、ぶっきらぼうにプリンの瓶を差し出し た。  朝絵はそれを受け取り、自分の手指で蓋を開け てスプーンを持ち、  「いただきます」  と、口に運んだ。  白夜とよく似た、少女のような微笑みを湛え て……。 謝辞 本作を執筆するにあたり、千葉大学医学部附属病院生坂 政臣先生、 福井大学医学部附属病院林寛之先生、 福島県立医科大学会津医療センター山中克郎先生から 医療上の監修をいただきました。 この場を借りて御礼申し上げます。 医療上の誤謬に関しての文責は、すべて著者にあります。 本書は書き下ろしです。