ロールキャベツ                森沢明夫 この作品は縦書きでレイアウトされています。 また、ご覧になる機種により、表示の差異が認められることが あります。 一部の漢字が簡略字で表示されていることがあります。  目 次 閇司可凵列 第丁草 青の世界 第二章 若草色のテーブルクロス 第三章 葡萄色の朝 第四章 鉛色の波 第五章 パイナップル色の夕空 第六章 ピンク色のTシャツ  第七章 金色の文字  第八章 ブルートパーズ色の海 月回01−凵列  あとがき    プロローグ  海の町へと向かう快速列車は、淋しいくらいに空 いていた。  わたしは四人がけのボックスシートに一人で座り、 ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。  春めいた空は、明るめのパステルブルー。とはい え、樹々はまだ新芽のままだから、山々は寒そうな 薄茶色をしている。  ふと、腕時計に視線を落とした。  時刻は、午後三時すぎ。  半日がかりだった列車の旅も、あと少しで終わる I  長旅に、思わず「ふう……」と嘆息したら、列車 がガクンと速度を落としはじめた。目的の駅が近づ いてきたのだ。  寒がりのわたしは、隣の席に置いていたコートを 着た。念のため、ぶわぶわの自いマフラーを首に巻 いて顎まで隠しておく。そして、転ばないよう注意 深く席を立つと、父の形見のアコースティツクギ ターを背負い、ライムグリーンのスーツケースを転 がして、車両のはじっこにあるドアの前に立った。  降車の準備をしているのは、わたし一人だ。  やがて列車は簡素な田舎の駅に到着した。  プシュウ、と空気が抜けるような音を立ててドア が開く。と同時に、ひんやりとした清澄な空気がな だれ込んできた。  これが、新たな人生の空気−。  わたしはスーツケースの持ち手を両手でぎゅっと 掴むと、せ1の、で背中を反らして持ち上げた。  「う、ぐ、重たっ……」  特大のスーツケースの重量によろめきながらも、 なんとか春風の吹くホームに降り立った。  着いた。やっと。  胸裏でつぶやいたわたしは目を細めていた。パス テルブルーに覆われた風景が、やたらとまぶしく感 じたのだ。  プシュウ、と列車のドアが閉まる。ゆっくりと鉄 の箱が動き出す。  わたしは駅の階段に向かってスーツケースを押し ながら歩き出した。  右を見ると、樹々の生い茂る山がすぐそこにまで 迫っている。  左は、徐々に速度を上げていく快速列車。動いて いる窓の向こうに、反対側のホームと改札口が見え た。改札の先には、ちょっとしたロータリーがあっ て、小さな不動産屋やコンビニも見える。  のどかな町の、のどかな駅だ。  ふいに山から腐葉土の匂いのする風がさあっと吹 いて、わたしの黒髪を揺らした。その風にのって、 ひらり、ひらり、無数の桜の花びらが舞い落ちてく る。風上を見遣ると、駅のすぐそばに満開の桜の老 木がそびえていた。  もしかして、わたし、この町に歓迎されてたりし て……。  少しずり落ちた鼈甲柄のメガネの位置を正したわ たしは、自いぶわぶわのマフラーのなかで頬を緩め た。  そのまま駅の階段の前までスーツケースを転がし て、いったん足を止めた。この駅にエレベーターも エスカレーターも無いことは二月に確認済みだ。と いうわけで、ここからは、いよいよ力仕事となる。  スーツケースの持ち手から手を放したわたしは、 そそり立つ階段を見上げて「ふ1」と呼吸を整えた。 そして、あらためてスーツケースに手をかけようと したときI。  タッタッタッ、と背後から軽快な足音が近づいて きて、わたしの目の前で止まった。  なに、この人……。  足音の主を見上げると、野暮ったい感じのグレー のジャンパーを着た青年たった。年齢は、たぶん、 わたしと同じくらいだろう。  「えっと……」  不審に思ったわたしが囗を開きかけた刹那、青年 は短い言葉を早口でまくし立てると、慌てた様子で わたしのスーツケースを右手で掴み、ぐいっと持ち 上げたIと思ったら、そのまま階段をダッシュで 駆け上がりはじめたのだ。  えっ?  「ちょっ、ちょっとI」  わたしの大切なモノを詰め込んだスーツケースが、 見知らぬ男に持ち去られていく。  なにこれ。どういう展開?  どんどん離れていくグレーのジャンパー。  茫然と立ち尽くすわたし。  いまから追いかけても、無理、追いつけないI、 そう思ったとき、背後からふわっとパステル色の風 が吹いた。  ひらり、ひらり。  桜の花びらが、夢のように舞い降りてくる。  ふと我に返ったわたしは、慌ててコートのポケッ トに右手を突っ込んだ。なかからスマホを引き抜く。 そして、冷静に、匸ベリの狂いもなく、いま、この 瞬間、わたしが最低限すべきことをした。  そうこうしているうちに、青年は階段を上り切り、 こちらを振り向きもせず左に折れて視界から消えて しまった。  「…………」  わたしは、手にしていたスマホの画面を見詰めて、 コートのポケットに戻した。  どっくん、どっくん、どっくん……。  あまりの出来事に、肋骨の内側で心臓が暴れてい た。  わたしはそれをなだめるように、ひとつ深呼吸を した。  大丈夫。あいつの顔はちゃんと覚えてる。  胸裏で自分に言い聞かせたわたしは、いまさら追 いつくはずのない青年の残像を追うように、最初の 一段へと左足を踏み出した。  捕まえるから。きっとI。    第一章 青の世界  [夏川誠]  俺は古びた中学校の校舎のなかに居た。  校舎といっても、とっくの昔に廃校になっている のだろう、まるで人の気配がない。静かすぎて、自 分の足音が響くほどだ。  うっすら埃に覆われた長い廊下を見渡すと、右側 にはいくつかの教室が並んでいた。左側にはガラス 窓が並んでいて、淡い乳白色の薄日が差し込んでい る。俺は、その廊下には向かわず、正面の薄暗い階 段を上りはじめた。  身体がやけに重たい。まるで全身の血管にびっし りと砂が詰まってしまったようだ。足もふらついて、 思うように動かない。おかげで何度もつんのめりそ うになった。  階段に接する足の裏はひんやりとして、ざらつい た埃の感触が不快だった。いつのまにか俺は素足に なっていたのだ。  それでも、かまわず、上へ、上へと足を運ぶ。  誰にも見られず、できるだけ痕跡を残さずに、こ の階段を上らなければならない。なぜか俺はそう思 い込んでいた。  三階の踊り場を過ぎたあたりで、いよいよ平衡感 覚がおかしくなってきた。うっかりバランスを崩し て階段から落ちたりしないよう、俺は両手を前脚の ように使い、四足歩行で上りはじめた。上へ。もっ と上へ。俺だけが知っている「あの場所」に行くた めに、手足を埃で汚しながら、餓死しかけた動物の ように這い上かっていく。  上階へと上がるにつれて周囲は暗くなった。各階 の踊り場にある明かり取りの窓が、どんどん小さく なっていくのだ。  やがて、階段は行き止まりになった。  そこは新月の湖のように静かで、暗く、淋しいと ころだった。でも、俺の目の前にある金属のドアノ ブだけは、むしろ月光を浴びたようにぼわっと青白 く光って見えた。  立ち上がった俺は、そのドアノブをひねり、重た い金属の扉を押し開けたIと同時に、目を細めた。  扉の向こう側は、まばゆい「青の世界」だったの だ。  抜けるような原色の青空。  空の青を鏡のように映す足元の水の広がり。  水平線を思わせるその場所は、校舎の屋上たった。  足元の水は、深さIセンチほどに溜まった雨水ら しい。  俺は、まぶしさに目を細めたまま視線を彷徨わせ た。  アレは、すぐに見つかった。  青一色の広がりのど真ん中に、ちよこんと置かれ た純白のベッド。  よかった。  ちゃんと、居てくれた。  間に合った。  すうっと身体が軽くなった俺は、胸を撫で下ろし ながら、埃にまみれた素足をそっと踏み出した。    ぴちゃ。     ぴちゃ。      ぴちゃ。       ぴちゃ。  一歩ごとに俺の素足は耳障りな音と少しいびつな 波紋を立てた。  静謐のなか、他に動くものは無い。  それが「青の世界」のあるべき姿に違いなかった。            ぴちや。              ぴちや。  しかし俺は、その姿を自身の欲望のために破壊し ていた。  完璧な世界を穢さずにいられない異物−俺は、 そんな自身の存在を憎んでいるようにも思えた。  ずっと前から胸の奥にあった疼痛。  心に、なまくらな爪を食い込ませる自い指。  その指が誰のものなのかも、何となく予想が付い ている。  やがて俺は、純白のベッドに辿り着いた。  するとI、ベッドで眠っていた人物が、異物の 気配と水音に気づき、ゆっくりと瞼を開けた。  透明感のある黒い瞳に、空のブルーがてらりと映 り込む。  純白の枕にのせていた頭をゆっくりと転がして、 その人はこちらを振り向いた。そして、俺という異 物を認識してくれた。  自い布団のなかから血管の浮いた青白い手が出て きた。枯れ枝のようなその手は、力なく震えていた。  その手を握らなくてはI、そう確信した俺は、 そっと両手を伸ばしかけて、ためらった。四つん這 いで階段を上ってきたから、俺の両手は埃で汚れて いたのだ。  ああ、せっかく、ここまで辿り着いたのにI。  と、肩を落としかけたとき、ベッドに横たわった その人が、こちらに向かって何か大切なことを囗に した気がした。  「まこ……。す……よ」  え? なに?  訊き返そうとしたその刹那−、純白のベッドが 青い鏡面の上をスーツと滑るように遠ざかっていっ た。  えっ? 待って!・  俺の思いは喉元で詰まって声にはならなかった。  なんだか、ひどく息が苦しい。  あれ? この、もどかしくて苦しい感じ、どこか で……。  そう思ったときI、ブーン、と小さな羽音が耳 元を横切った。そして、その音が俺を現実の世界へ と引き戻してくれたのだった。  俺は、布団のなかで、そっと薄目を開けた。  ぼやけた視界には、見慣れた天井が映っていた。  神秘的で怖い「青の世界」は、もう意識の裏側で 霧散していた。  この夢、久しぶりに見たなI。  「ふう……」  俺は、夢のなかで喉元に詰まっていた言葉をため 息に変えて、天井に向かって吐き出した。嫌な熱を 帯びた心臓が、どくどくと強く拍動している。この 夢を見た後は、毎回、不安と後悔と悲しみをまぜこ ぜにしたような不快感が残るのだ。  仰向けのまま、右手で枕元を探り、スマホを掴ん だ。  時刻を確認すると、朝の七時を少し過ぎたところ だった。  今日は大学の授業がない代わりに、朝から日雇い のバイトを入れていたのを思い出した。バイトの時 間は九時から。つまり、あと一時間くらいは寝てい られる。もう少し寝るか。あるいは起きるか。寝不 足ぎみの鈍い頭で考えた結果、思い切って起きるこ とにした。下手に二度寝をしたら、あの夢の続きを 見てしまいそうな気がしたからだ。  俺は布団の上で上体を起こした。  両手を突き上げ、ぐっと伸びをする。  と、そのとき、レモン色の朝日を浴びたレースの カーテンに小さな虫がとまっていることに気づいた。 どこから入り込んだのか、それは一匹の蜜蜂だった。  羽音で俺を呼び戻してくれたのは、キミか。  胸裏でつぶやきながら立ち上がった俺は、窓の方 へと歩み寄った。そして蜜蜂を驚かせないよう、 そっとカーテンをずらし、窓ガラスを開けた。  ほら、自由になれよI。  しかし、蜜蜂はカーテンにしがみついたまま、飛 び立とうとしなかった。だから俺は、ふう、とやさ しく息を吹きかけてやった。よろめいた蜜蜂は、よ うやく朝日にきらきら輝く羽を動かした。  ふわり、と重力を無視したような浮揚。  蜜蜂は、ほんの一瞬だけ、こちらを見たと思った ら、まばゆい春風のなかへと飛んでいった。  午後二時すぎI。  日雇いのアルバイトが終わった。  今日の派遣先は、まもなく国道沿いにオープンす るというリサイクルショップで、仕事内容は倉庫の 整理だ。なかなかの肉体労働だったけれど、店長が 三十代の若くて楽しい人だったのには救われた。  倉庫の隅っこで汗の染みたTシャツを着替えてい ると、その店長から声をかけられた。  「そういや、夏川くんの家って、どの辺り?」  「えっと、新海漁港の手前にある、コンビニの裏手 です」  俺は上半身裸のまま答えた。 「おお、なら、ここからすぐじやん」 「はい」 「夏川くん、まじめに働いてくれるからさ、そのう ち、また助っ人として頼みたいんだけど、いいか な?」  「あ、はい、もちろんです」  「よかった。じやあ、そんときは忠司さんに夏川く んを指名するから、よろしくね」  忠司さんというのは、この辺りの若者たちにアル バイトを斡旋する手配師みたいな人だ。年齢は、た ぶん四十代後半くらい。無精髭に、ぼさぼさのロン 毛なので、わりと胡散臭そうにも見えるおじさんだ。 本業は、見晴らしのいい海辺の崖の上に建つ喫茶店 (兼・輸入雑貨の店)のオーナーつてことになって いるけれど、噂によると、他にもいろんな仕事に首 を突っ込んでいるらしい。  「はい、ありがとうございます」  俺は店長に返事をすると、洗いざらしのTシャツ を着た。上半身裸のままでは寒かったのだ。  「じやあ、今日は、お疲れさんね」  そう言って店長は踵を返すと、倉庫の外へと歩き 出した。  「お疲れ様でした」  俺は店長の背中に軽く会釈をして、Tシャツの上 にスエットのパーカーとジャンパーをはおった。続 けてショルダーバッグを斜めにかけ、黒いフルフェ イスのヘルメットをかぶりながら外に出る。ジャン パーの左右のポケットから抜き出しだのはバイク用 のグローブだ。それを両手にはめた。  倉庫の前に停めておいた自い愛車(HONDA/ CB223S)にまたがり、単気筒のエンジンをか ける。  ドウルルン。ドウルルン。  スロットルを軽く同してエンジンをふかしてから、 走り慣れた国道へと飛び出した。  大学入学に合わせて中古で買ったこの自いバイク は、日々、潮風にさらされているせいで、少し錆が 浮いているけれど、片田舎の漁師町で暮らすには 「生活の足」としてかかせない相棒だ。  平日のせいか、道路は空いていた。  空は明るい水色で、よく晴れている。  トンネルをひとつ抜けると、右手にまばゆい海が 広かった。  片側一車線の国道は、渚に沿って緩やかにカーブ していく。  俺は車体を軽く右に傾けながらコンビニの前を通 り抜けた。信号を山側に左折すれば、俺の住む 『シェアハウス龍宮城』があるのだが、かまわずス ロットルを開け、さらに北へとバイクを走らせる。  ふと遠くの防波堤を見ると、シルエットになった 二人の釣り師の姿があった。地元の年寄りだろうか。 仲良く肩を並べて、のんびりと長い竿を手にしてい る。  風があるせいか、今日の海は少し波っ気がある。  そういえば、ほんの一週間前までひりひりするほ ど冷たかった海風が、いまはずいぶんまるくなった。 日差しも明るくクリアになり、太平洋のブルーも彩 度を上げてきらめいている。  三月も残すところ、あと数日。おっとりとしたこ の漁師町に、ふたたびパステルカラーの季節が近づ いているのが、空気と光の変化でよくわかる。  それなのに、いや、だからこそ……。  「もう、春なんだよなあ……」  俺はヘルメットのなかで、ため息みたいにつぶや いた。  この春−、渋々ながらも俺は大学三年生に進級 する。つまり、否が応でも「就職活動」と直面する のだ。これまでは「考えない」ことで逃げてきたこ の問題も、いよいよ年貢の納め時だ。その証拠に、 最近の俺はうっかり「考えて」しまうようになって いるのだ。  心にへばりついて離れない鬱々とした感情を吹き 飛ばしたくて、俺はスロツトルをぐいっとひねった。  ドウルルルルン。  鉄の白馬が吠えて、一気に加速した。  やがて大きな観光ホテルのある交差点を右折した 俺は、カツオやマクロの水揚げで知られる『新海漁 港』に面した道を走った。幾隻もの漁船が停泊して いる港には、無数のウミネコが集まり、つややかな 羽を休めている。その港を通り過ぎて、昭和レトロ な風情の漁村を走り抜けると、道はいきなり細い上 りの山道になった。  俺はギアをふたつ下げて速度を落とした。  頭上にかぶさる常緑の樹々。その隙間から、バ ター色の木漏れ日がぽたぽたとアスファルトに落ち ている。そのまま坂道を百メートルほど登り、真っ 暗な素掘りのトンネルをくぐり抜けると、少し開け た場所で行き止まりになった。  俺のお気に入りの場所『龍宮岬公園』の駐車場 だ。  駐車場といっても、そこは未舗装なうえに地面は 凸凹していて、いくつかある水たまりには青空と 樹々のシルエットがひらひらと揺れていた。ようす るに、昼間でも薄暗い空き地のような場所なのだ。 先客の車は一台のみ。自い軽トラックが駐車場のい ちばん奥(=公園の入り囗脇)に停まっているだけ だった。  俺は、その軽トラから少し離れた右奥にバイクを 停めた。  「ふう」  バイクから降りてヘルメットを脱ぎ、それをシー トの下にあるホルダーに引っ掛けた。はずしたグ ローブをジャンパーのポケットに押し込みながら、 公園の入り囗に向かって歩き出す。  ここ龍宮岬公園は、見晴らしのいい小さな岬を丸 ごと展望公園にした絶景スポットなのだが、場所が マニアックすぎるせいか、ほとんど地元の人しか知 らない、いわゆる穴場だ。  俺はすたすたと駐車場を斜めに横断し、自い軽ト ラの脇を通り抜けようとした。  と、そのとき、軽トラの荷台のすぐ後ろで、二人 の若い女性がしゃがみ込んでいることに気づいた。 二人そろつて、なにやら荷台の下を覗き込んでいる。  奥の娘は、オーバーオールに麦わら帽子。  手前の娘は、背中に龍が刺繍された水色のスカ ジャンを着ていて、短めのボブの髪は鮮やかなピン ク色に染められていた。  このピンク頭には見覚えがあった。俺が通ってい る『新海国際大学』のキャンパスで、たびたび見か ける学生に違いない。いつも派手な格好をしている うえに、少し左足を引きずるように歩くから、けっ こう目立っているのだ。同じ大学の学生なら誰でも、 この娘の顔くらいは知っているだろう。  それにしても、いったい彼女たちは何をしている のだろう。  荷台の下に仔猫でもいるのかな?  俺は、そんなことを考えながら二人の傍を通り過 ぎた。  と、ふいに背中に声をかけられた。  「ああっ、お兄さん、ちょい待ちいや」  え? と足を止めて振り向くと、ピンク頭が立ち 上かって、両手を腰に当てていた。俺をまっすぐに 見据えたその顔は、少し眉が八の字になっていて、 どこか不機嫌そうにも見える。  「キミ、四月から新国の三年生になる学生やん な?」  新国というのは新海国際大学の略称だ。太平洋沿 いの田舎町『新海市』に三十年以上も前に設立され た、いわゆる地方の二流私大というやつだ。  「そうIですけど」  正直、このピンク頭が俺のことを知っていたのに は、少しばかり驚いた。こちとら髪の毛は黒くて特 徴は無いし、服装も声も顔も背格好も、悲しいくら いに平凡なのだ。  「…………」  ピンク頭は、人を呼び止めておきながら、なぜか 黙っていた。  「えっと、俺に、なにか?」  思わずそう訊くと、ピンク頭は、やれやれ、と言 わんばかりにため息をついたのだった。  「はあ……。お兄さんなあ、華奢でか弱い同級生の 女子たちがI、しかも、こんな美女二人がやで」  「…………」  「いま、キミの目の前で困っとるワケやんか?」  えI、困ってる?  俺は、麦わら帽子の方を見た。そちらの娘は、ま だ、荷台の後ろでしやがんだまま、ぽかんとした顔 でピンク頭を見上げていた。きっと俺も、この娘と 同じ顔をしているに違いない。  ぽかんとした二人にはかまわず、ピンク頭は続け た。  「そんな美女二人のすぐ横を、あっさり見て見ぬ振 りして通り過ぎる男って、正直どうかと思うじゃ ん?」  「どうって……」  しかも、急に語尾が「じゃん」になってるし。ど うやら関西と関東の言葉がごちゃまぜになっている らしい。  さて、何から答えるべきか、と俺が迷っていると、 今度は、麦わら帽子の娘がすっくと立ち上がった I、と思ったら、ふいにその帽子を取って背中側 にぶら下げた。あごひもが首にかかっているのだ。 すっぴんに、そばかすの浮いた頬。ストレートの黒 髪は肩甲骨あたりまである。なんとなく『北海道の 酪農家の娘さん』を彷彿させる出で立ちだった。  「あの、急に呼び止めちやって、すみません」と言 いながら、麦わら帽子がぺこりとお辞儀をした。こ ちらは、ピンク頭とは違うタイプらしい。「わたし たちの力だと、ちょっと手に負えなくて……。少し 手伝って頂けませんか?」  麦わら帽子は、くりくりした少女みたいな目で俺 を見ていた。  「手伝う?」  「はい」  「えっと、まあ………はい。俺でよければ」  話の流れがいまいち掴めないまま、俺はゆっくり 頷いていた。  すると麦わら帽子の娘は「よかった。ありがとう ございます」と言って、ひまわりみたいな笑みを咲 かせた。一方のピンク頭はというと、それでよし、 合格、とでも言わんばかりの顔で頷いている。  「ちなみに、困ってるっていうのは、何に?」  俺が訊くと、ピンク頭が答えた。  「パンクや。パンクロックやない方のパンクな」  「えI」  「これ」ピンク頭が、軽トラの右側の後輪を指差し た。「タイヤがぺしゃんこになっとるやろ?」  「ああ。つてことは、スペアタイヤを取り外そうと してたんですか?」  「そうなんです。でも、けっこう錆びてて」  頷いた麦わら帽子の手には、安っぽい工具が握ら れていた。  「錆でナットが動かなかった?」  「はい」  そういうわけか。ようやく俺は状況を把握できた。  「俺、てっきり車の下に仔猫でもいて、二人で覗き 込んでいるのかなって思ってました」  「え1つ、仔猫ちやんつて。なんやその可愛すぎる 妄想」  なぜかピンク頭がくすくす笑い出した。笑うと目 が線になって、急に人懐っこい顔になる。  「じやあ、とりあえず、その工具、貸してもらえま す?」  「はい。お願いします」  麦わら帽子が両手でレンチを差し出した。  受け取った俺は訊いた。  「これ、車載工具ですか?」  「はい」  だろうな、と思ったとき、ピンク頭が横から囗を 挟んできた。  「つ1か、あたしら同級生やし、敬語使わんでもえ えよな?」  たしかにそうかも知れないけれど、その言葉が俺 に向けられたものなのか、麦わら帽子に向けられた ものなのかがわからなくて、結局、二人して「あ、 うん」と声をそろえていた。そのタイミングがあま りにも完璧だったので、俺と麦わら帽子は顔を見合 わせて苦笑した。  崖の下から、すうっと涼やかな海風が吹き上がっ てきた。  駐車場を囲む樹々の枝葉が揺れて、さらさらと心 地いい音のシャワーが降ってくる。  「じやあ、とにかく、やってみるよ」俺は軽トラの 荷台の後ろにしやがみ込み、スペアタイヤの位置を 確認した。「ちなみに、ジャッキはありますかI じゃなくて、ある?」  「あるで」  ピンク頭が頷く。  「了解っす」  俺は両膝を土の地面に突くと、本日二度目の肉体 労働に取り掛かった。  それからしばらくのあいた、せっせと作業をしな がら交わした会話から、この凸凹コンビのプロ フィールがわかってきた。  麦わら帽子の名前は「上村風香」で、ピンク頭は 「王丸玲奈」。  それぞれの呼び名は「風香」と「パン子」たった。  ピンク頭の玲奈は、高校時代までパンク系のロッ クバンドをやっていたことから、大学生になって友 人だちから「パン子」と呼ばれるようになったのだ そうだ。実家は関西の「超」がつくほど山奥にあっ て、小学生のとき、通学中に二度も野生のイノシシ に体当たりされ、吹っ飛ばされたことがあるらしい。  「それでも怪我ひとつせんかったから、あたし地元 では『不死身の玲奈』つて呼ばれててん」  パン子が腕を組んで言うので、俺は笑ってしまっ た。  「それ、ドヤ顔で言う話?」  「あはは。ほんとだよね」  風香も、心から楽しそうに笑う。  「え、なんや? 二人して、あたしを馬鹿にしとる ん?」  「いや、してないけどさ」と俺。  「野生のイノシシのパワーは、めっちやヤバいん やって。都会モンは知らんやろうけど」  「田舎モンのわたしたって知らないよ。うちの畑、 昔からイノシシに荒らされてるけど、さすがに体当 たりされたことはないもん」  「ほんなら風香も一度、吹っ飛ばされてみいって。 そしたら、あのパワーを体感できるから」  「え1つ、なんで、そうなるの?」  と吹き出した風香は、ここ新海市の出身で、農家 の娘だそうだ。小・中・高と地元の公立学校を出て いるから、近所にたくさんの友人知人がいるらしい。  「で、キミの名前は?」  ふいにパン子が、作業中の俺を見下ろしながら 言った。  「ああ、俺は、夏川誠」  「あだ名とかは、ないん?」  「えっと、あだ名はI」と、そこで少しためらっ だけれど、「パン子」よりはマシだと思って正直に 答えることにした。  「マック……かな」  「え?」  風香が首を傾げた。  「誠って名前と、パソコンのマッキントッシュの扱 いが得意だからI」  「それで、マック?」とパン子。  「そうだけど……」  ちょっと照れながら頷いたら、パン子がくすっと 笑った。  「なんか、まあ、アレやね。外人みたいなあだ名や けど、悪くないと思うよ」  「悪くないって言いながら、思い切りニヤニヤして んじやん」  「いや、だって、マックの顔」  パン子は、さっそく俺のあだ名を口にした。 「俺の顔が、なんだよ?」 「こってこての日本人なんやもん」  そう言ってパン子が吹き出すと、風香まで口元を 両手で押さえた。  「はあ? ちょっ、なんだよ、風香まで」  俺も、風香と下の名前で呼んでみた。  「たってえ」  「その顔で『マック』は、反則やんな」  女子二人が顔を見合わせて笑い出す。  「反則って……。つ1か、『パン子』よりはマシだ ろ」  「うわ、ひどっ。パンクロックを馬鹿にする奴は許 せへん」  パン子は笑いながら言うと、両膝を突いた俺の頭 に空手チョップを振り下ろした。  「痛って……」  と頭を押さえた俺を、パン子は仁王立ちで見下ろ した。そして、ニッと笑いながら腕を組む。  「言っとくけど、野生のイノシシのタックルは、 もっと痛いで」  「そりゃ、そうだろ!・」  と返したら、俺たちを見ていた風香が目を細めた まま麦わら帽子をかぶり直した。  「なんか、パン子とマックつて、初対面なのに息が ぴったりで、夫婦漫才を見てるみたい」  言われた俺とパン子が「へ?」と顔を見合わせた ときI、  ぴい〜ひよろろろろお〜。  遥か高い青空から、鳶の歌が透明な音符になって 降ってきた。  手強い錆には難儀したけれど、きっちりスペアタ イヤを装着させた俺は、ついでにパンクしたタイヤ を抱えて軽トラの荷台に載せてやった。その荷台に は、アウトドア用の折りたたみ椅子が二つと、ひと 抱えもあるクーラーボックスが積まれていた。  「よし、これで終了ってことで」  そう言って、俺は額に滲んだ汗を手の甲でぬぐっ だ。  「ありがとう、マック」  風香にあだ名で呼ばれると、まだ、ちょっと照れ 臭い。  「お疲れマック、サンキュー」  パン子に言われると、引き続き揶揄されている気 がする。  俺は「いや、別に……」と口ごもりながら二人の 顔を見た。  二人は何も言わず、俺を見ていた。  「ええと、じやあ俺は、これでI」  と別れの挨拶を囗にしようとしたら、「そういえ ば」とパン子が言葉をかぶせてきた。「マックは、 ここに何しに来たん?」  「えI?」  急に振られた俺は、脳裏に「就活」という悪魔の 単語がちらついて言葉を詰まらせた。  まさか、心にもやもやを抱えているから、なんと なく一人になりたくてI、なんて言える空気では ない。だから俺は、質問に、質問で返した。 「二人は?」  すると風香が軽トラの荷台を指差しながら答えた。 「チェアリングをしに来たんだよ」 「チェアリング?」  はじめて耳にした単語を、俺は訊き返した。 「せやで。椅子に座って、の〜んびりすんねん」  今度はパン子が言った。  「のんびりする、だけ?」  「うん。わたしとパン子の趣味なの。眺めのいいと ころに椅子を並べて、そこに座ってI」  「のんびりする、か……」  「あとは、コーヒーを淹れたり、ジュースを飲んだ り、おしゃべりしたりして。車の運転がなければ、 お酒を飲んだりもするよ」  北国の酪農家の娘っぽい風香がしゃべっているせ いか、いっそうのんびりとした風景が俺の脳裏に広 かってくる。  「なんか、いいね」  「ええやろ? あたしも風香に教わってハマつたん やけどな、自分の気に入っだ場所にポンツと椅子を 置いただけで、そこから見える風景がぜ〜んぶあた しの庭ってなる感じが最高やで」  言いながら、パン子が、少し遠い目をした。  「なるほど。それは最高だな」と頷いたとき、俺は 気づいた。「あ、そっか。椅子……チェアーを使う から、チェアリングか」  「うん。『いちばん手軽なアウトドア』つて言われ てるんだよ」  風香が軽トラの荷台を見ながら言うと、パン子が 俺への質問を蒸し返した。  「で、結局、マックは何しに来たん?」  「ああ、ええと、俺はI、まあ、二人と同じか な」 「同じって?」  パン子の声に合わせて、風香も首を傾げた。 「なんとなく、ぼうっとしに来たっていうか」 「ほんまに?」 「まあ、うん」 「ねえ、たったらさ」と、風香がくりくりの目をさ らに大きくした。「マックも一緒にチェアリングし ない? 椅子は無いけど、クーラーボックスに座れ るから。いいよね?」  最後の「いいよね?」は、パン子に向けられた言 葉たった。  「せやな。タイヤを交換してくれたお礼に、コー ヒーの一杯くらい、ご馳走せんとな」  パン子のオーケーが出たことで、俺は初対面の女 子二人と『チェアリング』とやらをすることになっ たのだった。  さっそく風香とパン子は、それぞれ自分の椅子を 手にすると、展望公園へと続く遊歩道を歩き出した。 二人が持っている椅子は「折りたたみ式」で、細長 い筒状にまとまっている。しかも、ストラップで肩 にかけられるから持ち運びもラクそうだ。俺は、 クーラーボックスを担いで二人の後を付いていく。  遊歩道は崖に沿ってくねくねと延びていた。コン クリートで舗装されているから歩きやすいうえに、 樹々の隙間からは真っ青な海が望める。空は相変わ らずよく晴れていて、その青い広がりのなか、鳶の シルエットが音もなく旋同していた。  風香とパン子は弾むように言葉を交わし、声を出 して笑いながら、ゆっくり、ゆっくり、歩いていく。 パン子は、キャンパスで見かけるときと同じく、左 足を微妙に引きずるように歩いていた。  過去に大きな怪我でもして、その後遺症が残って いるのだろうか。   少し気にはなっだけれど、さすがに初対面でそこ に触れるのは悪い気がして黙っていた。  そうこうしていると、俺たちの眼前に芝生の地面 が広かった。展望公園の広場に着いたのだ。  三月後半の芝生は、まだ青々とはしていないけれ ど、それより何より、崖の上から見晴るかす海と空 の青さが鮮やかで、俺は思わず深呼吸をしてしまっ た。  「お1い、マック、もうひとつ上に行くでえ」  こちらを振り返ってパン子が言う。 「あ、頂上まで行くんだ?」  「うん。その方が気持ちいいから」  にっこり微笑んだ風香の黒髪が、海風になびく。  俺たちは、芝生の広場からさらに上へと続く、森 のなかの細い階段を上りはじめた。そして、二分ほ どで到着したのは、龍宮岬公園の最上部−黒潮に 面した断崖絶壁の上たった。  芝生の広場と比べると、敷地面積はだいぶ狭くな るけれど、そのぶん海を広々と見晴らせるし、なに より俺たちは満開の桜に囲まれているのだった。  「わあ、やっぱり今日にしてよかったね」  「ほんまやなあ。この桜、ぜ1んぶうちらの貸し切  りやもんな」   風香とパン子は、パチン’・ と音を立ててハイ タッチを交わした。そして、海を見晴るかす場所に 設置された木製のベンチのさらに前、崖の際に立て られた柵ぎりぎりのところに椅子を並べた。そこは、 まさに、この岬の特等席たった。  「マック」  パン子が、俺を呼んだ。  「ん?」  「タイヤ交換をしてくれたお礼に、ハーレムを堪能 してええよ」  「ハーレム?」  「せや。美女二人の間にクーラーボックスを置きい や」  「え……」  俺が、まごまごしていると、パン子が笑い出した。  「あはは。ほら、早よ置きなって」  「じやあ、まあ、お邪魔します」  俺は二人の問にクーラーボックスを置いて、その 上に座ろうとしたらI「あ、ちょっと待って」と 風香に止められた。  「え?」  「そのなかにコーヒーをドリップする道具が人つて るから」  「ああ、そうなんだ。ごめん」  「ううん」  首を振りながら風香がクーラーボックスを開けた。  俺は、風香の後ろからクーラーボックスのなかを 覗き込んだ。  コーヒー豆、ペットボトルに人つだ水、アウトド ア用のシングルバーナー、注ぎ囗が細い小型のケト ル、ドリッパー、ステンレス製のマグカップなどが 詰め込まれている。 「ピーナッツとビスケットもあるんだね」  俺が言うと、パン子が「せやで」と頷いた。  「優雅な時間を過ごすには、おつまみも必要や ろ?」  「おつまみ? 茶菓子じゃなくて?」  「どっちでもええやん。案外、小っさい男やな」  「……俺、ぴったり平均身長だけど」  「うわ、その返し、おもろないわあ。関西じゃシカ トされるヤツやで」  俺とパン子のしようもない言い争いに挟まれた風 香は「まあまあ。じゃあ、わたし、コーヒー淹れる ね」と苦笑して、クーラーボックスの中身をベンチ の上に並べた。そして手慣れた感じでお湯を沸かし、 ドリップをしはじめた。  豆は深煎りの中挽き。風香がくるくると回しかけ るようにお湯を落としていくと、水分を含んだ豆が ふっくらと丘のように盛り上がり、それがクリーム 色の泡で覆われた。  「風香、手際いいじやん」  海風に溶けたコーヒーの豊かな匂いに、思わず俺 は目を細めた。  「ぜんぜんだよ。わたし初心者だし。パン子の方が 上手だよ」  「へえ、そうなの?」  意外に思ってパン子を見た。するとパン子は、ま んざらでもない顔をしつつもピンク色の頭を振った。  「それは嘘。風香の方が上手いやん。あたしは大雑 把やし」  「そんなことないじやん。前に大学の屋上でパン子 に淹れてもらったとき、すごく美味しかったよ」  そんな感じで、ひとしきりお互いを褒め合ったり しているうちに、三人分のコーヒーが出来上がった。  俺たちは、たっぷり注がれたカップを手にした。 そして、それぞれ椅子とクーラーボックスに腰掛け た。  「ではでは、とりあえず乾杯でもしますかね」  言いながらパン子がカップを掲げた。思わず「宴 会かっ」と突っ込みそうになっだけれど、さっきみ たいな言い争いになるとコーヒーが冷めそうなので、 俺も黙ってカップを掲げた。  「ええ、それでは、マックヘのタイヤ交換のお礼と、 あたしたちの庭であるこの海と空と満開の桜にI、 乾杯」  「乾杯」  「乾杯」  コツン、コツン、とカップを軽くぶつけ合う。  そして俺たちは風香が落としたコーヒーに囗をつ けた。  「うん、美味いね」  俺は、心のままにそう言った。  「ぽんと? よかった」  風香が、ふんわりと微笑む。  「この風景のなかで飲むと、さらに美味しいや ろ?」  パン子に言われて、俺はあらためて風景を眺め渡 した。  やわらかな春色の空。  青いセロフアンみたいに閃く海。  満開の桜と、首筋をさらさら撫でる清爽な風。  俺は、遠い水平線を眺めながら深呼吸をした。  ここ最近、ずっと閉じかけていた心が、内側から ゆっくりと押し開かれていくのがわかる。  「ぽんと、最高だね」  俺が素直にそう言うと、ハーレムの女子たちは満 足げに頷き合うのだった。  それからしばらくのあいた、俺たちは雑談を愉し みながら、のんびりと風景を眺め、コーヒーと『お つまみ』を味わった。  コーヒーを飲み終えたとき、俺は風香に訊ねた。  「このコーヒー、どんな豆を使ってんの?」  すると風香は、くすっと笑って答えた。  「ごめんね。これ、スーパーでいちばん安かった 『ブレンド』つてやつなの」  「マジで? 美味かったから、てっきりいい豆なの かと思った」  「チェアリングで飲むコーヒーは、美味しさ五割り 増しだもんね」  と、風香がパン子に振った。  するとパン子は、俺を見て小首を傾げた。  「つ1か、マックつて、もしかしてコーヒーにうる さい系?」  「いや、ぜんぜん。俺は素人だよ。でも、同居人が、 かなりのコーヒーおたくなんだよね」  「同居人?」  「同居人?」  二人の声がぴたりとそろった。  「うん。俺、いま、シェアハウスに男三人で暮らし てるんだけど、そのうちの一人が、将来、喫茶店を やるのが夢でさ。世界中のコーヒ上豆を買い集めて ドリップの研究をしてるんだよね」  「え1、それはすごいねえ」  風香がまるい目をきらきらさせて言う。  「ちなみに、そいつのあだ名、高校時代から『マス ター』だから」  「あはは。そのまんまやん」  「ぽんと、そのままなんだよ」と、俺も笑う。  「で、そのマスターつて人も、大学生なん?」  「うん。マスターも、もう一人の同居人も、同じ大 学の同級生」  「じやあ、うちらが知ってる顔かな? もしかして、 イケメン?」  俺は、同居人たちの顔を脳裏に思い浮かべた。  「まあ……ゝつん、二人とも、けっこうイケメンだと 思うよ」  嘘はついていないIはずだ。多分。  「ええや1ん。こう見えて、あたし面喰いやから。 イケメンやったら顔くらいは知っとるかも」  とパン子は言っだけれど、その台詞の信憑性は疑 わしい。なぜならパン子は俺の顔を知っていたから だ。自分で言うのもアレだけど、俺は人生で一度も 「イケメン」などと言われたことはない。たまに言 われるのは「どこにでもいそうな顔だよね」だ。  「ちなみに、パン子と風香の学部は?」  俺は気を取り直して訊いた。  「あたしと風香は国際学部」  「そっか。国際か」  「マックと、同居人たちは何学部なん?」  「俺とマスターは経営で、もう一人は経済」  「う1ん、じやあ、顔を見てもわからんかもなあ。 あっ、でも、アレやん、教養演習とか語学とかで同 じクラスだったりして」  とパン子が少し身を乗り出してきたところで、珍 しく風香が会話に割り込んできた。  「あの、ちょっと話を戻してゴメンだけどI。 マックが住んでる、そのシェアハウスつて、もしか して……」  「え? うちは『シェアハウス龍宮城』つていうん だけど」  俺が答えたのとほぼ同時に、風香が「うわあっ」 と声を上げて椅子から立ち上がった。  「な、なんや、どうした、風香?」  しかし、風香はパン子の問いかけには答えず、俺 を見下ろしたまま続けた。  「それって、千鶴バアのとこだよね?」  「そう………だけど」  千鶴バアというのは、シェアハウス龍宮城のオー ナーであり管理人でもある、同じ敷地の母屋に住ん でいるお婆ちゃんだ。  「風香、千鶴バアと知り合いなの?」  今度は、俺が訊いた。  「知り合いもなにも」そこで風香は、パツとひまわ りの笑みを咲かせた。「千鶴バアは、わたしのお婆 ちゃんのお姉さんだよ」  「ええええっ!・」  と声を上げた俺も、気づけば立ち上かっていた。  すると、パン子も釣られたように立ち上かって、 俺たちの会話に割って入っだ。  「えっ? つてことは、アレやんな、マックの家っ て、海沿いのコンビニの裏あたりってことやろ?」  「そう、そこ。知ってんの?」  「ついこのあいた、風香と一緒に千鶴バアんちに 行ったし。しかも、あのコンビニ、あたし、何度も 使ったことあるわ」  「うわ、マジかよ」 「びっくりやなあ。こんな偶然、ある?」 「なんか、すごいねえ」  想定外のつながりに盛り上がった三人は、あらた めて空っぽになったカップで乾杯をすると、また近 いうちにチェアリングをしようと約束を交わした。 しかも、このとき俺は「じやあ、次はシェアハウス の同居人たちも連れていくよ」などと、うっかり無 責任な約束をしてしまったのだった。  それからしばらくして、二杯目のコーヒーをパン 子がドリップしはじめたとき、風香が頭上の桜を見 上げながら言った。 「そういえば、千鶴バアが言ってたよ。シェアハウ スの男の子たちは、みんないい子だって」  「えI」  いい子? 俺たち三人が?  「マックと同居してる二人、どんな人だちなんだろ う? わたし、いまから楽しみだなあ」  「ほんまやな。いい子なうえに、イケメンらしい し」  風香とパン子が顔を見合わせて微笑むのを見た俺 は、思わず、ごくり、と唾を飲み込んでいた。つい 軽いノリで「連れていくよ」なんて言ってしまった けれど、考えてみれば、俺はまだ風香とパン子に話 していなかったのだ。  その同居人たちが、いくらか「変わり者」である ということを。  シェアハウス龍宮城の玄関で、慌ただしくスニー カーを履いた俺は、昨日、近くのホームセンターで 買った折りたたみ椅子を肩にかけた。一脚、九八〇 円のセール品だ。  そのまま外に出ると、すでに準備を終えて待って いたマスターが、やれやれといった顔で言った。  「もう、待ち合わせ時間を過ぎてるよ……」  「えっ、マジで?」俺は腕時計を見た。たしかに、 午後一時を三分ほど過ぎていた。「ほんとだ。お1 い、ミリオン、急げって」  俺は玄関の奥に向かって呼びかけた。返事はない けれど、これはいつものことだ。  「ミーリーオーンー・」  今度は大声で呼んだ。すると、「おおお」という 間延びした声とともに、ひょろりと背の高いミリオ ンが玄関に現れた。「マック、お前、朝っぱらから 大声を出すな」  色白で、黒縁メガネをかけたこの男は、俺とマス ターと共にシェアハウス龍宮城で暮らす同居人なの だが、とにかく面倒臭がりの出無精で、何をするに も腰が重い。  「どこが朝っぱらなんだよ。とっくに昼だろ」  「いま起きたばかりの俺にとっては早朝だ。ふあ あ……」  大欠伸をしながら寝癖頭をぼりぼり掻いたミリオ ンは、裸足にビーチサンダルをつっかけた。  「つてか、ミリオン、その格好のまま行くわけ?」  あらためてミリオンの全身を見ると、さっきまで 寝巻にしていたグレーのスエット上下に、薄手の黒 いジャンパーを羽織っているだけだった。  「ん? この格好じゃ駄目か?」  「いや、べつに、駄目じゃないけどさ」  俺は思わず腕を組んで嘆息した。  こいつは洒落た服でも着て綺麗にしていれば、ど こぞのモデルと見紛うくらいのイケメンなのに……。 これぞ容姿の無駄遣い。ぽんと、もったいないよ なあ、と妬ましく思ったとき、俺は気づいた。  「つてか、そのジャンパー、俺のじゃんか」  しっかり不平を込めて言っだのに、ミリオンはど こ吹く風といった顔で折りたたみ椅子をひとつ肩に かけると、両手をジャンパーのポケットに突っ込ん でふらふらと外に出てきた。背中のリュックには 『商売道具』のノートパソコンとタブレットが入っ ているに違いない。  「これ、なかなか着心地いいぞ。サイズも俺にぴっ たりだ」  「いやいや、誰がどう見ても小さいだろ。つ1か、 なんで俺のジャンパーを着てんだって」  「マックの物は、俺の物。俺の物も、俺の物−、 だろ?」  シャイアンみたいな台詞を囗にしたミリオンは、 二重のタレ目を細めてニッと笑った。  「だろ? つて………あのなあ」  すっかり毒気を抜かれた俺は、「はあ」と肩を落 とした。  この男は、本当に色んな意味で「しよ1もない 奴」なのだけれど、でも、いまみたいに邪気の無い 顔でニッと笑いかけられると、なぜか毎回、まあ、 しようがないか、という気にさせられてしまうのだ。  「ねえ、ミリオン、桜の季節にサンダルじゃ、さす がに足が冷えると思うよ」  マスターは心配してそう言っだのだが、ミリオン は「う1ん、まあ、平気だろ」とアメリカ人みたい に首をすくめると、ビーチサンダルのかかとをぺた ぺた鳴らしながら玄関を出て、こちらに近づいてき たIと思ったら、そのまま俺とマスターの横を素 通りしていった。そして、こちらを振り返らずに 言ったのだ。  「君たち、遅刻するぞ」  はあ?  思わず、俺とマスターは目を合わせた。 そして俺は、後ろからミリオンに駆け寄っていき 「お前が言うかっ!・」  と、寝癖頭に空手チョップを振り下ろしてやった。 「くはっ。痛ってえ……」  叩かれた寝癖頭をガシガシと掻いたミリオンを見 て満足した俺は、横に並んで歩き出した。すぐにマ スターも笑いながら追いついてきて、俺たち三人は 横並びになった。  右から背の高い順に、ミリオン、俺、マスター。  そのままシェアハウス龍宮城の敷地を出て、長閑 な田舎の小径を海へ向かって歩いていく。  「ねえ、マック。もう五分も過ぎてるよ。ぽんと、 急がないと」  俺たちを見上げるように言ったマスターの肩には、 折りたたみ椅子の他にアウトドア用のトートバッグ かぶら下かっている。中身はもちろん極上のコー ヒーをドリップするための道具一式だ。細身のジー ンズに自いパーカー。うなじの辺りでひとつに結ん だ長い黒髪。華奢で小柄なマスターを後ろから見た ら、女性だと勘違いする人も多いだろう。  「いま、『もうすぐ着く』つて、メッセージを送っ たよ」  俺は、手にしていたスマホの画面をマスターに見 せた。  「そっか。それにしても、今日はいい天気になって、 よかったね」  マスターが穏やかな顔で春空を見上げる。  「うん、まさに、春爛漫って感じだよな」  道端で咲き乱れている名も知らぬ雑草たちを見下 ろしながら、俺は相槌を打った。すると、黙って歩 いていたミリオンの方から、じつに切ない音が響い てきた。  ぐヽつヽつヽつヽつう。  「すまん。ちょっとコンビニに寄らせてくれIと、 俺の親友が訴えてる」  ミリオンは自分の胃の辺りをさすりながら言った。  「相変わらず、雄弁な親友だね」  とマスターが苦笑して、その台詞に俺が続けた。  「親友の訴えはわかっだけど、待ち合わせ場所は 『前浜』なんだから、まずは二人に挨拶して、それ からコンビニに行けよ」  前浜というのは、シェアハウス龍宮城から歩いて 行ける「コンビニの前の浜」を略した俺たちの造語  だ。そして、挨拶をする「二人」というのは、パン  子と風香のことだった。  俺はいま、数日前に取り交わした彼女だちとの約 束を果たすべく、「イケメン」たちを引き連れて、 チェアリングの場となる渚に向かっているのだ。  「おい、マック」  ミリオンが前を向いたまま囗を開いた。  「ん?」  「お前が紹介したいっていう女たち、大丈夫なの か?」  「大丈夫って、何か?」  「俺がコンビニに立ち寄っただけで機嫌を損ねるよ うな、ヤバい連中なのかってことだ」  「連中って言い方はアレだけど……」  俺は、二人の顔を脳裏に描いた。  のんびりした性格の風香は、まあ、大丈夫だろう。  でも、パン子はI。  「俺も、まだ一度しか会ってないから何とも言えな いけど、片方の娘は『遅いんじや、ボケー・』とか言 いながらミリオンのノートパソコンを貞っ二つ、く らいは平気でやるタイプかもな」  俺が真顔で言ったら、急にミリオンの歩幅が広く なった。  「急ぐぞ、君たち。レディーを待たせるなんて、男 として最低だ」  「だから、お前だけは、それを言うなっつ1の」  と俺。  「ほんとだよねえ」  と眉尻を下げるマスター。  「黙れ、のび太ども。さっさと歩け」  「のび太『ども』つて何だよ」  俺たちは、いつものようにじやれ合いながら、民 家と畑に挟まれた小径をせっせと歩いた。  そのまま少し行くと、ふわっと春の海風が吹いて きて、すぐに遠い波音が耳をくすぐりはじめた。  「なんか、今日は、ひときわ青いね」  マスターが、まぶしそうな目で遠くを見た。  「たしかに。いつもより、ブルーが鮮やかな気がす る」  答えながら、俺も目を細めた。  小径の先に、春の海が見えてきたのだ。  国道に沿って弓なりに延びる白砂のビーチ。ひら ひらとたゆたうコバルトブルーのきらめき。  今日は、あそこが「貸し切りの庭」になるのか  悪くないな、と思ったら………  ぐヽつヽつヽつヽつヽつヽつヽつう。  ミリオンの雄弁な親友が、ふたたび不満を訴えた。  俺たちが前浜に着いたとき、パン子と風香はすで に並べた椅子に腰掛けて水平線の方を見ていた。二 人の脇には、この間と同じクーラーボックス。そし て今回はアウトドア用のテーブルも設置してあった。  やわらかな海風になびくピンク色の髪と、麦わら 帽子。   いまこの瞬間、広い白砂のビーチは、彼女たちの 貸し切りだ。   ミリオンとマスターを引き連れて近づいていくと、 二人の肩が小刻みに揺れていることに気づいた。な にやら愉快な話でもして笑っているらしい。  俺は背後から声をかけた。  「ごめん、遅くなっちやって」  弾かれたようにこちらを振り向いたパン子と風香 は、表情に笑みのかけらを残したまま立ち上がった。  「遅かったやん、マック。それとI」  パン子は、ミリオンとマスターを順番に見た。  「紹介するよ。こいつがミリオンで、こっちが前に 話したマスター」俺は、まず同居人たちを紹介した。 そして、くるりと向きを変えて続けた。「で、ピン ク頭の方がパン子で、麦わら帽子が風香」  「ち1つす」  パン子はおでこに右手を当てて、敬礼の格好をし てみせた。  「こんにちは」  風香は少しはにかんだように目を細める。 「はじめまして。ぼくは奈良京太郎です」  マスターが女子二人に柔和な笑みを向けると、そ の横でミリオンがホツとしたような声を出した。  「俺は長沢智也。つ1か、マック、どうやらノート パソコンを出しても大丈夫そうだな」  ミリオンの言葉に、一瞬、パン子と風香はぽかん とした。  「あ、いや、こいつトレーダーでさ、テーブルがあ るから、そこにパソコンを出しても大丈夫だよねっ てこと」  慌てて俺がフォローすると、さっそくパン子が好 奇心で目を輝かせた。  「トレーダー? つてことは、株とかやっとる ん?」  「ああ。FXもやってるぞ」  ミリオンは淡々と答えつつ自分の椅子を白砂の上 に設置すると、ついでに背負っていたリュックを テーブルの上に置いた。  「じやあ、俺はコンビニに行くからな」  「コンビニ?」  と風香が小首を傾げた。  「ああ。寝坊して、飯も食わずに来たから、腹が 減ってるんだ」  暗に遅刻の理由をほのめかしたミリオンを見て、 風香がくすっと笑った。  「よかったら、おにぎりとサンドイッチと、あと、 少しだけど、おかずっぽいモノも作ってきたけど I」  「ん? それ、食っていいのか?」  ミリオンは黒縁メガネの奥の目をキラリと光らせ た。  「うん。お囗に合えばいいけど」  頷いた風香の肩を、パン子が抱き寄せた。  「最初に言っとくけど、この風香の手料理はプロ級 やからね」  「ちょっと、パン子。いきなりハードル上げないで よ」  「あはは。でも、ほんまやし」  言いながらパン子が、足元のクーラーボックスの ふたを開けた。中には密閉容器に入っだ食べ物が並 べられていた。  「いつまでも突っ立っとらんで、椅子を置いて、 テーブルを囲んでや」  俺たちは言われた通りに、それぞれの椅子をセッ トした。  パン子と風香は、せっせと手料理をテーブルに並 べていく。  「じやあ、ぼくはコーヒーを淹れようかな」  マスターもトートバッグの中身をテーブルの上に 並べはじめた。  「わあ、わたし、それ、楽しみにしてたんだあ」  「ほんま、それやね」  女子たちが喜びを囗にしている目の前で、ミリオ ンは、さっそくノートパソコンとタブレットを並べ て起動させた。いつものように株のチャートを チェックしながら食事をするらしい。  気づけば、俺だけが手持ち無沙汰になっていた。  「なんかI、俺だけ、やることがないな」  取り残されたような気分で言うと、パン子がこっ ちを見た。  「暇やったら、なんかオモロい話でもして、みんな を笑わしてや」  「えっ? そんな、急に振られてもなあ……」  困り切った俺に向かって、ミリオンが囗を開いた。  「こいつの話は、だいたいつまらないぞ。なあ、マ スター」  「あはは。ミリオン、それは内緒でしよ」  「お前らなあ……」  俺たちの掛け合いを見ていたパン子と風香が、な ぜか、ちょっと意味ありげな感じでくすくす笑い出 した。  「なに、二人の、その笑い」  訊ねた俺に、パン子が悪戯っぽい目を向けた。  「男子チームがくるまで、あたしたちマックの噂話 をしててん」  「俺の噂話?」  「せや。マックはまじめやから、オモロい話をして くれって振ったら、絶対に困っちやうタイプやねっ て。そしたら、いま、マック、本当に困ってたや ん? なあ、風香?」  「うんI、ごめんね、マック」  風香が、てへ、と悪意のない顔で笑う。  なるほど。それで、さっき二人は肩を揺らしてい たのか。  そういえば、先日のアルバイト先の店長にも同じ ようなことを言われた気がする。君はまじめだから、 また仕事を頼みだいって。  「俺、そんなにまじめかなあ……」  まじめと言うより、おもしろ味のない人間だと言 われたような気がして、なんだか微妙な気分になっ てきた。すると、そんな俺を見ていたマスターが、 みんなに声をかけた。  「今日はさ、パン子と風香に出会えた記念つてこと で、ちよつと特別な豆を使うね」  言いながらマスターは手際よくドリッパーにペー パーフィルターをセットし、メジャースプーンで中 細挽きの豆をすくっだ。  「え1つ、特別な豆つて、どんなん?」  目をきらきらさせて質問したパン子と風香はもち ろん、株価のチャートを見ていたミリオンまでがマ スターの手元に注目した。  俺にはわかっていた。マスターは、窮地に立ださ れた俺をさりげなく救うために、わざわざ特別な豆 を使うたなんて言い出してくれたのだ。  「この豆はね、『コーヒー発祥の地』つて言われて るエチオピア産のモカなんだけど、標高が二〇〇〇 メートルくらいある『イルガチェフェ地区』の農場 で作られてるんだよね。ほんのり柑橘が混じったよ うなブルーティーな香りと、爽やかな甘みが風味の 特徴かな。なるべく苦味の角を取って、飲みやすく したいから、八〇度くらいのお湯でドリップする よ」  マスターは、注ぎ囗が細いケトルに温度計を差し 込んで、お湯の温度を確認すると、丁寧にドリップ をしはじめた。  「さすが、仕草が様になってるね」  マスターの手際を見ていた風香が、つぶやくよう に言った。  「ほんまやな。プロの風格があるわ」  「いやあ、そんなことないよ」  べた褒めされたマスターは照れ笑いしたけれど、 ドリップしているときの目は、いつもどおり真剣そ のものだった。  やがて蒸らしの時間に入っだとき、ミリオンが囗 を開いた。  「風香」  「は、はい?」  はじめてミリオンに名前を呼ばれた風香は、 ちょっとびっくりしたようにタレ目を開いて背筋を 伸ばした。  「おにぎりをもらっていいか?」  「えI、あ、うん。なんでもお好きなモノをどう ぞ」  「よし。じやあ、まずは、これをもらうか」  ずっと空腹に耐えていたミリオンは、手近なとこ ろにあったおにぎりを掴み上げると、勢いよくかぶ りついた。  「おI、こりゃ、マジで美味いな」  「ぽんと? よかった」  風香の頬がゆるんだとき、今度はパン子が声を上 げた。  「うわ、めっちゃいい匂いがしてきた」  馥郁としたコーヒーの香りが潮風に漂いはじめた のだ。  「香りがいいでしよ。この豆はね、少し浅めに焙煎 してから五日間くらい寝かせておくの。で、中細挽 きにして、ペーパードリップでゆっくり落とすのが ペストだと思うんだよね」  パン子と風香は、すっかりマスターの蘊蓄と妙技 に心を奪われているようだった。ミリオンはおにぎ りを囗に押し込みながら、タブレットとノートパソ コンを操作しはじめた。そして、また、俺ひとりだ けが手持ち無沙汰になっだので、風香が作ったとい うサンドイッチを手にした。  「風香、俺もいただくね」  「あ、どうぞ。おかずも食べてね。箸はここにある から」  「うん、サンキュー」  俺は適当にサンドイッチを見つくろって頬張った。 そして、次の瞬間、思わず目を丸くしていた。  「うわ、なにこれ。めっちや美味いんだけど」  「よかった」風香はにこにこしながら、サンドイッ チの中身について教えてくれた。「それね、卵サン ドの具に照り焼きチキンの細切りを混ぜ込んである の。わたしは『親子サンド』つて呼んでるんだけ ど」  「なるほど。たしかに『親子サンド』だ。にしても、 卵と照り焼きの甘辛い味がマッチして、後を引く なあ」  「せやろ? 風香の手料理は、いちいち美味いから な」  と、なぜかパン子が胸を張ったところで、マス ターが「うん、いい感じに落とせたと思うよ」と顔 を上げた。「最初は、パン子と風香の二人前ね。男 性陣のコーヒーも、すぐに淹れるから」  「わ1い。すごい、愉しみ」  と、満面に笑みを浮かべた風香を見て、パン子が 「オマエの喜び方は、小学生か」とツッコミを入れ た。すると、負けじと風香も「誰が小学生やね1 ん」と関西弁でパン子に言い返す。  そんな二人を横目に、ゆったり微笑みながら、マ スターは温めておいた二つのカップにコーヒーを注 ぎはじめた。  「うっし。来たな。ここで買っとくか」  ひとりごとを囗にしたミリオンは、おにぎりを手 にしたままパソコン画面に向かって前のめりになっ ている。  ぽんと、つくづく自由な奴らだよなあI。  そう思ったら、なんだか急におかしくなってきて、 俺は『親子サンド』を頬張りながら一人でにんまり してしまった。そして、視線を遠くに移した。  空と海のブルーが、ぴったり寄り添った水平線。  さらさらと頬を撫でる海風。  クリーミーな波音と、白砂のまばゆさ。  俺は、青い風を肺に吸い込んだ。そして、それを 吐き出しながら、みんなに向かって言った。  「とりあえず、自己紹介でもしようか」  「ええな。ミリオンとマスターとは初対面やし」  そう言ってパン子は、マスターから「サン キュー」と受け取った自いカップに囗をつけた。  すると、次の瞬間「!・」という顔で固まった。そ して、風香を見た。  「え、なに? そんなに美味しいの?」  風香も、マスターの淹れたコーヒーを囗に含んだ。  「ん1つ!・」  と目を見開いた風香の反応は、はじめて俺がマス ターのコーヒーを飲んだときとそっくりだった。  「な、ヤバいやろ? 美味しすぎやんな?」  「うん。こんなコーヒー、わたし飲んだことない よ」  「だろ?」  と俺が腕を組んだら、パン子が幸せそうな顔で頷 いた。  「うん。ほんま、あたし、マックのこと見直したわ。 おもろいことは言えんでも、レベルの高い友達は 持っとるもんな」  するとミリオンが横から「そのとおりだ」と言っ たから、女子二人は吹き出して、マスターまで苦笑 するのだった。  それから俺たちは、マスターのコーヒーと風香の 手料理に舌鼓を打ちながら自己紹介をしはじめた。  トップバッターに名乗りを上げたパン子は、パン クロックが好きなことや、関西の超ど田舎での奔放 な日々を話して一同を笑わせた。  風香は、地元の農家の娘であることや、幼い頃は 親戚の千鶴バアが『野遊びの師匠』たったことなど を話してくれた。  マスターは、コーヒーに興味を持った高校時代の 話や、忠司さんが営む喫茶店『崖の上のヘブン』で、 アルバイトとしてコーヒーを淹れていることなどを 話した。  「あ、ヘブンつてアレやろ、海を見晴らせる崖の上 にあって、店内にいろんな雑貨が置いてあるI」  パン子が言うと、マスターは「そう、そこ」と頷 いた。  「パン子、うちの店に来てくれたの?」  「だいぶ前やけど、風香と一緒に軽トラで行った わ」  「うん、行ったね。でも、あのときはマスターじゃ なくて、ぼさぼさロン毛頭のおじさんがコーヒーを 淹れてくれた気がするけど」  「そっか。じゃあ、きっとその日、ぼくは非番だっ たんだね。次に店に来てくれるときは、あらかじめ 連絡してよ」  「うん、そうする」  「せやな。あの怪しいロン毛のおっちやんのコー ヒー、いまいちやったし」  「ちょっと、パン子」  風香がパン子をたしなめたら、マスターがくすっ と笑った。  「大丈夫だよ風香。そのロン毛の人、忠司さんつて いうんだけどさ、喫茶店のオーナーなのに、コー ヒーを美味しく淹れることに、ちっとも興味がない んだよ」  「じやあ、忠司さんつて、何に興味があるわけ?」  俺が囗を挟んだら、マスターは少し眉を八の字に して答えた。  「酒を飲むこと。遊ぶこと。あとは金儲けだって 言ってるよ」  返答の内容があまりにも忠司さんらしくて、俺は 軽く吹き出してしまった。そして、話題をミリオン に振った。  「金儲けと言えば、ミリオンだよな」  みんなの視線が集まると、ミリオンはノートパソ コンの画面からちらりと視線を上げた。  「俺か? まあ、俺も、金儲けがおもしろくて仕方 がないタイプだからな」  あけすけに言ったミリオンは、中学生の頃にはす でにお年玉を元手に投資をはじめていたことや、そ もそもクラスでは「智也」と呼ばれていたのに、投 資をやっていることをからかわれて「ミリオンダ ラー」と呼ばれ、それが短縮されて「ミリオン」と いうあだ名が定着したことなどを話した。  「本当に中学生の頃から資産運用をしてたの?」  風香が大きな目をいっそう丸くした。  「ああ。うちは貧乏だったからな。このままじゃヤ バいと思って、中一の頃には投資関連の勉強をはじ めてたんだ」  「すごつ。天才少年やん」と、パン子。  「まあ、そうかも知れんな」と、頷くミリオン。  「お前、少しは謙遜しろ」  思わず俺は突つ込んだけれど、ミリオンは、どこ 吹く風だ。  「投資つて、子供でもできるの?」  風香が素朴な疑問を口にした。  「おう。親権者の同意があれば、未成年でも開設で きる口座があるんだ。信用取引はできないけどな」  「信用取引?」  と、パン子は鸚鵡返しにした。  「まあ、ひとことで言えば、現金を後払いにする取 引だな。で、その逆が現物取引と言ってI」  ミリオンがあれこれ説明をしていると、ピロン、 と電子音が鳴っだ。するとミリオンは「すまん、 ちょっと待ってくれ」と言って、タブレットの画面 を凝視しはじめた。  「なに? 急に、どうしたん?」  パン子が怪訝そうな顔で俺を見たから、ミリオン の代わりに答えた。  「いまの電子音は、投資に使うアプリの『株アラー 卜』つてやつらしいよ」  「株アラート?」  風香が訊き返してきた。  「うん。あらかじめミリオンが設定しておいた株価 に到達したとき、お知らせしてくれる機能なんだっ て。ようするに、いま、ミリオンにとっては、株を 動かすタイミングが来たってことだと思う」  「へえ、詳しいやん。マックも投資とかやるん?」  「いやあ、俺とマスターはやってないよ」  首を振ってコーヒーをひとくち飲んだら、ミリオ ンが顔を上げた。そして、キョトンとした顔でみん なを見た。  「ええと、で、なんだっけ?」  「あはは。みんなミリオンの自己紹介の続きを待っ てるんだよ」  マスターが言うと、ミリオンは「おお、そうだっ た」とひとりごちて、続きをしやべりはじめた。  「自慢じやないけどな、俺、中学生の頃から資産運 用の勉強ばかりしてたせいで、高校時代にうっかり 留年してなI、おかげで、修学旅行に二度も行け たんだ」  「なんか、すごい。留年がポジティブな出来事に なってる」  言いながら風香は笑っだけれど、パン子は真顔で 「修学旅行に二回も行けたって、ちょっとうらやま しいわあ」と言った。  「だろ?」  「うん。思い出が二倍やもんね」  「その通りだ」  意外なところで共鳴する二人−、それを見てい たマスターが、ミリオンの留年に関する情報を補足 した。  「ちなみにミリオンが留年した高校ってね、全国的 にも有名な超進学校で、しかも特待生だったんだ よ」  「えっ、なんて高校なん?」  パン子のストレートな質問に、ミリオンがさらり と出身校を囗にした。すると女子たちは 「え1つ!・」と声を揃えて、そのまま絶句。つまり、 それくらい有名な高校なのだ。  「そんな秀才が、どうしてうちみたいな大学に来だ の?」  風香が疑問を持つのはもっともだ。ちょっと頑張 れば東大に入れるような高校を卒業して、わざわざ 地方の二流大学に来るなんて、ふつうでは考えられ ない。  「新国には倉持教授がいるからな」  ミリオンは、やたら誇らしげに言っだけれど、女 子二人はぽかんとした顔で固まった。  「お………お前ら、倉持満教授を知らないのか? 『倉』を『持』つて『満』たすと書いて、倉持満だ ぞ」  「知らんけど、めっちや『金満』まる出しな名前や な」  とパン子が笑い、風香も続いた。  「ごめん。わたしも知らないや」  「お前ら、マジか……」  悲しげに嘆息したミリオンは、まるで出来の悪い 生徒でも見るような目で女子たちを見ながら、説明 をはじめるのだった。  「いいか、あの先生はな、投資の世界じゃ有名なレ ジェンドで、俺は、そのレジェンドから直接教えを 請うためだけに、わざわざこの大学の経済学部に 入ったんだ」  「ミリオンは、放課後、教授室に入り浸っちゃうく らいのフアンだもんな」  と俺が插足したら、ミリオンはなぜか首を振った。  「いや。ファンというのはおこがましい。あの人は 俺にとっての『神』だから、『信者』が正解かも知 れん」  「まさかの神と信者−」  と俺は苦笑した。  「おう。俺は、あの神の持つ知識とスキルの習得に 人生を懸けてる」  「えっ、そこまでだったの?」  とマスターも苦笑した。  「もちろんだ。マックもマスターも、倉持教授の投 資術に懸けてみたいって言ってただろ?」  そんなこと言ったっけ? 俺とマスターは顔を見 合わせた。  「ほら、入学してすぐの頃に。なんだ、お前ら、忘 れたのか?」  不満げなミリオンの顔を見ていたマスターが、ふ いに手を叩いた。  「あっ、そういえば、言った。こたつでゴロゴロし ながら」  それを聞いて、俺も思い出した。たしかに、そん な会話をしたことがあった。  「たしかに言ってたけど、俺とマスターは素人だか らなあ」  「…………」  ミリオンは少しのあいた黙って俺とマスターの顔 を見ていたけれどI、ピロン、また株アラートが 鳴っだので、さっとタブレットの画面に視線を落と してしまった。  ミリオンが『仕事』をしているあいだは、マス ターと俺が勝手にミリオンを紹介した。   例えば、シェアハウス龍宮城では、三人の生活費 を『共同財布』から出していて、その財布の管理は お金の計算が得意なミリオンに任せているとか、ミ リオンは冬でもビーチサンダルを履いているとか、 ミリオンの部屋がいちばん寒くて、暗くて、狭い、 北側の四畳半だとか。しかも、その部屋をミリオン が選んだ理由は、狭い場所の方が株の売買に集中で きると言ったからだとかI。  とにかく、紹介すればするほどミリオンの変人っ ぷりが露呈していくのには、話している俺があらた めて驚くくらいだった。しかし、このままだと単な る悪口になりそうだと心配したのだろう、マスター が上手にフォローをしてくれた。  「そうは言っても、ミリオンはいい奴でね、『金は エネルギー。自分と誰かの願いを叶えるためにあ る』がモットーなんだよね」  「ふうん。自分だけじゃなくて『誰かの』つて言葉 が入っているところが、いいね」  風香が褒めると、マスターが「でしよ?」と微笑 んだ。  そうこうしていると、ミリオンがふたたび顔を上 げた。すると、そのタイミングを見計らっていたの か、すかさずパン子がミリオンに訊ねた。  「ねえ、株とかって、素人でも勝てる裏技みたいな のはあるん?」  『裏技? そんなもん、あるわけがない……y』とも、 ないか」  「えっ、あるん? どんな?」  パン子が少し前のめりになった。  「まあ、いわゆる『コピートレード』とか『ミラー トレード』なんて言われる手法だな。ようするに、 専用ソフトを使ってプロの投資家の売買の動きと自 分の売買をシンクロさせるわけだ」  「え、すごい。それをやれば絶対プロ並みに儲かっ ちやうってことだよね?」  おにぎりを手にしたまま、風香が声をあげた。  「いや、投資の世界に『絶対』はないんだ。しかも、 この手法を使うと、コピーさせてもらった相手に成 功報酬を払わなくちやいけないし、そもそもプロの トレーダーもふつうに大コケするからな」  「なんだ、そっかあ」  風香は、残念そうな顔でおにぎりを囗にした。  「ミリオンは、そのコピートレード、やってへん の?」  パン子が訊いた。  匸応、たくさん動かしている案件のなかのひとつ として、後学のためにやってはいるけどな。ちなみ に、日本には、このサービスはないんだ」  「え? そしたら、どこにあるん?」  「ケイマン諸島とニュージーランド、あとはベリー ズだったかな」  「マニアックやなあ」  「だろ?」  「そうだ。じやあ、あたし、ミリオンをコピーする から、あたしのお金も増やしてくれん?」  パン子が両手を胸の前でにぎり合わせて言った。 しかし、ミリオンは、あまりにもあっさりと断るの だった。  「駄目だ」  「なんでよ?」  「儲けさせる自信がない」  「え?」  「そもそも俺はプロじゃないし、他人の責任までは 負えない」  「じゃあ、倉持教授だったら?」  「俺よりも勝率は高いだろうな」  「え1、あたし、教授のコピーやりたいわあ」  「わたしもお」  女子たちは、笑いながら顔を見合わせてI、  「お金、欲しい!・」  と声をそろえたので、俺とマスターは笑ってし まった。  「二人とも、欲望にたいしてストレートだよね」  マスターの言葉に、パン子が頷いた。  「せやで。なんでも正直なのがいちばんや」  「そう。自分に嘘をつかないのが、わたしとパン子 のいいところだもんね」  風香はそう言って、おにぎりを持っていない右手 をパン子に向かって掲げて見せた。すると、その手 に、パン子の右手が勢いよく合わさった。  ハイタッチ。  パチン、と乾いた音が、青い海風のなかに響いた。  なんだろう、この二人の自由な感じIちょっと まぶしい気がする。  俺がそう思ったとき、ふいにマスターが「だよね。 正直って格好いいよね。憧れるよ。イエーイー・」と 楽しそうに笑って右手を掲げた。そして、その手に、 パン子と風香が立て続けにハイタッチ。  直後に三人は俺を見た。  「え、俺も? イエーイー・」  流れで俺も三人とハイタッチを交わした。  全員の視線が残されたミリオンに集まった。  「さっきから思ってたけど、お前ら、ぽんと変わり モンだなあ」  いちばんの変わり者がそう言って右手を掲げた。  パシ、パシ、パシ、パシ。  四つの音を渚に響かせたあと、俺たちはしばらく のあいた、どうでもいいような会話で笑い合った。  パン子と風香はチェアリングの魅力について語っ てくれた。椅子ひとつあれば、海でも川でも山でも、 どこでも手軽に自分だけの「庭」にできること。誰 かと一緒でも楽しいし、一人で読書するのも静かな いい時間になること。夏は川の浅瀬に椅子を置いて、 流れに足を浸しながらチェアリングをすると涼しく て気持ちがいいこと。  「でも、やっぱり、誰かと一緒に景色を眺めながら 会話ができるのがいいんだよね。向かい合うんじや なくて、同じ方を向いて、同じ景色を見てると、普 段は言えないようなことも言えたりしてさ」  風香が言うと、続きをパン子が引き受けた。  「ほんまやな。なんか、こう『仲間』つて感じがし て、心が寄り添う気がすんねんな」  「うんうん。ぽんと、そんな感じ。なんか不思議だ よね」  幸せそうに話している二人を見ていたら、俺とマ スターまでほっこり微笑んでしまった。  「そっか。二人は、そうやって仲良くなったんだ ね?」  マスターが、俺の心を代弁してくれた。  「うん、そうだね」  「せやな」  白砂のビーチにさらりとした木綿の春風が吹いて、 風香の黒髪とパン子のピンク色の髪をなびかせた。  なんか、平和な時間だなあI。  俺がそう思っていると、少し離れたところから複 数の男の声が聞こえてきた。それは、やけに下卑た 感じの耳障りな大声たった。声の方を振り向くと、 さっき俺たちが国道からビーチへと降りてきた石段 を、四人組の男たちが降りてくるところだった。年 齢は俺だちより少し上くらいだろうか。一見しただ けでガラの悪さが伝わるような連中たった。  俺たちの横を通り過ぎるとき、彼らはまるで品定 めでもするような不躾な目でこちらを見た。そして、 そのまま五〇メートルほど離れたところまで歩いて 行き、じやれ合いはじめた。奇声を上げつつビーチ に落ちていた流木を振り回してみたり、缶ビールを 振ってから開栓して噴水みたいにしたり、プロレス まがいの取っ組み合いをしたり……。  「なんか、元気な人たちだね」  マスターが、ポジティブな言葉に変換してくれた おかげで、俺たちの周りに漂っていた不穏な空気が 少しだけ緩んだ気がした。ずっとノートパソコンの 画面に釘付けになっていたミリオンだけは、そもそ も彼らの存在にすら気づいていないようだけれど。  「ねえ、マスター、また美味しいコーヒー淹れて欲 しい」  パン子が言って、「わたしも」と風香が続いた。  「じゃ、俺も頼むよ。ミリオンのカップも空っぽだ し」  「オッケー。じゃあ、今度は、さっきとは違う豆で 淹れるね」  椅子から立ち上がったマスターは、さっそくお湯 を沸かしはじめた。  「マスターつてさ、喫茶店のマスターになるんや ろ? つてことは、就活はせんの?」  パン子が訊ねた。  「うん。就活はしないつもり。一応、いくつか本を 読んで喫茶店の経営の勉強とかはしてるし。パン子 は?」  「あたしも、まあ、ミュージシャンになるのが夢や し」  「つていうか、パン子ってすごいんだよ。ユー チューブでファンがたくさんついてて、すでにお金 も稼いでるし」  風香の言葉に、思わず俺は「えっ、マジで?」と 言ってしまった。「どんな動画をやってんの?」  「どんなってI、まあ、アレやな、一人でパンク ロックつてのも難しいやん? せやから、ふつうに アコギで弾き語りやけど」  「ふつうじやないじやん。パン子の声つて本当に素 敵なの。あ、そうだ、いま、ちよつと動画を観てみ ようよ」  言いながら風香がスマホを手にしたら、急にパン 子が照れはじめた。  「ちよつ、風香、いまはええつて」  「なんで? いいじやん。みんな感動すると思う よ」  「いや、でも、急すぎて、アレやんか」  「大丈夫。パン子は天才なんだから」  にっこり笑った風香が、スマホを操作しはじめた。 そして、端末をテーブルの貞ん中に置いた。俺とマ スターはもちろん、いつの間にかミリオンまで身を 乗り出してスマホの画面を見下ろした。  「じやあ、行くよ。再生、スタート」  言いながら風香は画面をタップした。  小さな画面のなかで、モノクロの粗い映像が動き 出した。アコースティックギターを爪弾くパン子は、 白っぽいTシャツを着ていた。ピンク色の髪は、モ ノクロ画面のせいで銀髪っぽく見える。  短い前奏が終わり、パン子の歌声が流れはじめた。  と、その瞬間−、すうっと周囲の音が消えた。  国道を往来する車の音も、波音も、ガラの悪い連 中の馬鹿騒ぎさえも、俺の耳には入ってこなくなっ たのだ。  「なんか、想像してたのと、違う……」  呆然としながら俺が言うと、マスターが頷いた。  「うん。すごい。天使の歌声ってやつだね」  「でしよ? あ、そうだ、今度、みんなでチェアリ ングやるときは、パン子にギターかウクレレを持っ てきてもらって、生でI」 風香の台詞に、思わず俺はかぶせていた。 「いいね、それ。マジでいいと思う」 「うん、最高だね」  マスターも笑顔で賛同してくれた。  ところが、当のパン子はというと、ピンク色の髪 をつまんでクリクリひねったりしながら、「いや、 でも、そういうのは……」と蚊の鳴くような声を出 したので、俺とマスターは視線を合わせてニンマリ してしまうのだった。  パン子を黙らせるには、ほめ殺しが効くらしい  曲を聴きながら、マスターは二杯目のコーヒーを 落とす準備をしはじめた。そして、パン子に訊いた。  「じやあ、パン子も、ぼくと一緒で、就活はしない んだね?」  「せやね」短く答えたパン子は、話題をミリオンに 振った。「ミリオンは、そのまま投資家になるんや ろ?」  「俺は、まあ、そうだな。いったん倉持教授の助手 になるっていう選択肢もあるけどな」  「風香は、就活すんの?」  俺は、この五人のなかで、いちばん俺と近そうな 存在に声をかけてみた。すると風香は、「わたし は……」と言って、次の言葉を探しはじめたIと 思ったら、あっさりパン子が答えてしまった。  「風香は農家の娘やん? しかも、料理の天才や ん? つてことで、将来は農家レストランをやるん や。な、風香?」  「まあ……ヽつん。いつか、できたらいいなって思っ てるけど」  面映ゆそうな風香を見て、マスターがやさしく声 をかけた。  「できるよ、風香なら。だって、こんなに料理が上 手いんだもん」  「そう、かな……」  「絶対にできる。あたしが保証する!・」  パン子は、風香の肩を抱き寄せながら言った。  「卒業後は?」  俺が訊ねると、パン子に抱かれたまま風香は 「う1ん」と小首を傾げて言った。「とりあえずは、 実家の農業を手伝いながら、少しずつ準備を出来た らいいかなって」  「そっか。いいね」  俺は笑みを浮かべて答えたけれど、本音をいえば、 胸の奥がざわついていた。ミリオンは投資家。マス ターは喫茶店のオーナー。パン子はミュージシャン。 風香は農家レストランの経営。まもなく大学三年生 になろうという五人のなかで、まったく進路が見え ていないのは俺だけだったのだ。しかも、人には言 えないI言いたくない「ある問題」を抱えてもい る。  「マックは? 将来どうするとか考えてるん?」  パン子の問いかけに釣られて、風香も俺を見た。 まだ何も決まっていないことを知っているミリオン とマスターは、それぞれタブレットとコーヒード リッパーに視線を向けて無関心を装ってくれた。  「いや、俺は……まだ、とくには」  「そっか。ほな、これから考えるって感じやね?」  パン子が他意のない台詞を囗にした。すると、ド リップをはじめたマスターが、さらりと話題を変え てくれた。  「あ、そういえば、マックの実家って、『かもめ 亭』つていう洋食屋さんなんだよ」  「え1、そうなんや?」  「でね、マックのお母さんが作ってくれたロール キャベツが、めっちやくちや美味しかっだの」  マスターが言うと、めすらしくミリオンが同調し た。  「おお。たしかに、あれは絶品だったな」  「え1つ、いいな。わたしも食べてみたい」  料理に興味がある風香が、懇願するような目で俺 を見た。  「え? えっと……」  「じやあさ、いつか、この五人で食べに行こうよ」  ドリップする手元を見たまま、マスターが言った。  五人でってI。全員でうちに泊まるってこと か? 前回は俺を含めた三人だったから何とかなっ たけど……。  「いや、でも、俺の実家、けっこう遠いよ」  とりあえず、そう言ってみた。  「えっ、ほんまに? どんくらい遠いん?」  「まあ、ここからだと、バイクで二時間半ばかかる かな」  すると、女子たちが笑いはじめた。  「それ、ぜんぜん遠いって言わないよね」  風香が言って、パン子が何度も頷いた。  「ほな、五人で行くロールキヤペツーツアー、決定 やな」  「そうだね」  「決まりだな」  マスターとミリオンも賛同してしまった。  決まり……つて、と俺が軽くため息をついたとき、 さっきまで遠くではしやいでいたガラの悪い連中が、 こちらに近づいてきた。いい加減、砂浜で馬鹿騒ぎ をするのにも飽きたのだろう。  とりあえず、視線を合わせずにやり過ごそうI、 と思っていたら、ふいにパン子がボソツとつぶやい た。  「あいつら、ゴミ……」  パン子の視線の先を見ると、自い砂浜の上に、空 き缶とコンビニの袋が捨て置かれていた。  しようがない連中だ。後で拾っておくか。  俺がそう思った刹那、何を思ったのか、近づいて きた連中の前に、パン子がひょいと立ちはだかった のだ。  は? 嘘だろI。  ぽかんとしている俺の目の前で、パン子が淡々と いつもの陽気な声を出した。 「お兄さんら、ちょい待ちいや」 「ん? なんだ、お前」  いちばん前を歩いていた金髪で坊主頭の男が、眉 間にシワを寄せてパン子を見た。そして、俺たちの ことも見たIいや、睨んだ。  「ちよ、ちょっと、パン子」  風香が止めようとしても、パン子は気にも留めず に顎でゴミの方を指し示した。  「あれ、あんたらの忘れもんやろ。ちゃんと持って 帰りいや」  「はあ? なんだ、このピンク頭ちゃん」  金髪坊主は、そう言って苦々しく笑った。そして、 パン子に向かって一歩足を踏み出した。 うわ。マジか。ヤバいな、これは。かなり。 「あ、えっと……」  完全にノープランのまま、俺は小声を出していた。  連中の物騒な視線が、パン子から俺に移った。  うわ、怖わっ……と思ったその刹那−、 「チッー・」  あからさまな舌打ちがビーチに響いた。しかも、 舌を打ち鳴らしたのは、まさかのミリオンだった。 連中の視線が一気にミリオンへと移った。  ミリオンは手にしていたタブレットをゆっくり テーブルに置くと、すっくと立ち上がった。そして、 一ハハセンチの長身を生かして、上から言葉を放っ た。  「お前ら、クツソうるせえなあ。さっさとどっかに 消えろ」  吐いた言葉は汚いけれど、でも、その口調はいつ ものミリオンらしい、のんきでかったるそうな声色 だった。  ガラの悪い連中はミリオンの上背と妙な口調に思 考が追いつかなかったようで、一瞬、きよとんとし た顔で固まった。でも、そのとき、彼ら以上に驚い ていたのは俺とマスターだったと思う。なにしろミ リオンが自ら他人の行動に関わろうとするのは、と ても、とても、とても、珍しいことなのだ。  「なんだよ、ノッポの兄ちゃんも威勢がいいじゃね えか」  パン子の目の前に立っている金髪坊主が吐き捨て るように言った。目つきがやたらと剣呑な感じに なっていた。でも、ミリオンは、その視線の圧をそ よ風ほどにも感じていないようで、相変わらずかっ たるそうに答えたのだ。  「威勢がいいのはお前らだろ? つ1か、俺はいま、 損切りするかどうかのギリギリの判断をし損なった んだ。この大事な局面で、俺の集中力をぶち壊しや かって」  「…………」  ミリオンの言葉の意味がわからなかったのだろう、 連中は四人そろって「ん?」という顔だ。  「おお、そうだ。お前ら、四人合わせていくら持っ てる?」  ミリオンが淡々と訊いた。  「…………冫・」  ミリオンの言葉の意味を測りかねている四人は、 完全にフリーズしていた。  「おい、聞いてんのか? 俺は、いま、大損したか も知れねえんだ。少しは責任を取って、全員、財布 を置いて帰れ」  「えI?」  と、思わず声に出しだのは、俺たった。  まさかの、逆カツアゲ?  いろいろな意味で想定外なミリオンの台詞に、連 中はもちろん、こちらの仲間までが言葉を失ってい た。  次に囗を開いたのは、パン子たった。目の前に立 ちはだかっている金髪坊主に向かって「つ1か、ゴ ミ」と言ったのだ。しかし、金髪坊主は、もはやパ ン子のことなど眼中には無かった。  「てめえ、いま、俺らに財布を置いていけとか言っ たよな? ブチ殺されてえのか、コラ」  金髪坊主は、目の前にいたパン子の肩を乱暴に押 しのけてミリオンの方へと歩き出した。バランスを 崩したパン子は、そのまま白砂の上に尻餅をついた。  「パン子」  反射的に俺は立ち上がり、パン子の傍で片膝をつ いた。  「大丈夫か?」  「う、うん」  パン子は頬をこわばらせて頷いた。そして、転ん だ勢いで少しめくれ上がったジーンズの裾を直した。 その様子を見た俺は、一瞬、呼吸を止めていた。パ ン子のジーンズの裾から、アルミのような金属の棒 が伸びていることに気づいたからだ。  パン子の左脚はI。  いや、いまは、それどころじゃない。  「パン子。とりあえず、もう、なんも言うなよ」  俺はパン子にだけ聞こえるように小声で言うと、 ミリオンの方に向き直りながら立ち上がった。  と、その刹那−、  ぺちん。  いきなり金髪坊主がミリオンに平手打ちをくらわ せたIのだけれど、頬で鳴った「音」にはまるで 迫力がなかった。  もしかして、ミリオンとの身長差で力が入らな かっだのかな、と思っていたら、タワーを思わせる ミリオンの長躯がぐらりと揺れ、そのままスロー モーションのように後ろへと傾きはじめた。  え? なんで? どういうこと?  俺の思考が追いつかないうちにI、  どさ。  白砂の上に、鈍い音が響いた。  ミリオンが大の字になって倒れたのだ。  嘘……だろ?  その場に居た誰もが声を失い、固まっていた。  やわらかたった潮騒が音量を上げ、びょうと海風 が吹き抜けた。  仰向けのミリオンは、ぴくりとも動かない。  「ちょっI、いま、頭を打つたかも」  言いながら俺は、なかば無意識にミリオンの傍に 駆け寄った。  ミリオンは目を閉じていた。寝ているようにも、 死んでいるようにも見える。  俺は、白砂に両膝を突いたまま、ミリオンに平手 打ちした金髪坊主の顔を見上げた。そして、救急車 を呼べと言おうとしたとき、背後から冷静な声がか ぶさってきた。  「いまのやりとり、最初からぜんぶ動画に撮って、 知り合いたちに送ったから。全員の顔もバッチリ 映ってるよ」  マスターの声たった。マスターは、スマートフォ ンの画面を連中に見せつけるようにしていた。つま り、お前らの悪事の証拠は押さえたうえに、もう消 せないからな、というわけだ。  「はあ?」  今度は金髪坊主ではなく、大柄でロン毛の男が剣 呑な目をした。しかし、マスターは臆することなく、 さらにかぶせるように続けた。  「いますぐここから消えてくれたら、ぼくらは何も しないよ。でも、これ以上、絡んでくるなら、この 動画を警察に持って行くけど」  そこまで言って、マスターが「ね?」と俺に同意 を求めた。  「えっ? あ、うん。持ってく」  そこで勝負はついた。  さすがの連中も警察沙汰になるのは嫌たったよう で、ぶつくさ言いながらも立ち去ってくれたのだ。 金髪坊主が倒れたままのミリオンに放った最後っ屁 のような捨て台詞は、「触っただけで勝手にブツ倒 れんなよ、ボケ」たった。  四人の姿が完全に消えると、俺たちは揃って「は あ」と嘆息した。そして、俺はマスターに向かって 言った。  「ミリオン、頭を打つたかも。このまま動かさない で、すぐに救急車を呼ばないと」  マスターは真顔で「うん」と頷いて、手にしてい たスマートフォンを操作しはじめた。パン子も、風 香も、ミリオンの傍で両膝を突いて、不安げにミリ オンの顔を覗き込んでいた。もしも、いま、二人の 背中をそっと撫でたら、それだけで揃って泣き出し てしまいそうに見えた。  俺も、ミリオンを見下ろした。そして、ごくりと 唾を飲み込んだ。  パン子が連中の前に立ちはだかったときI、最 初に動くべきは俺たった。少なくとも男三人のなか で、いちばん運動神経がいいのは俺なのだから。小 柄で華奢なマスターでは勝ち目がないし、そもそも 空気を読まないミリオンに対応させたら、ろくでも ない結果になるに決まっている。そんなこと、少し 考えればわかるはずなのに。  俺は周囲に気づかれないよう、湿ったため息をこ ぼした。  膝が震えて何もできなかった自分がつくづく情け ない。  「あ、すみません。救急車を一台お願いしたいんで すが」  マスターの声がした。俺たちは、そろってマス ターの方を見たIと、そのとき、足元から低い声 が聞こえてきた。  「電話を切れ」  えっ?  俺も、パン子も、風香も、通話中たったマスター も、弾かれたようにミリオンの顔を見た。  「救急車はいらん」  大の字に倒れたままのミリオンが目を開け、空を 眺めながらそう言っていたのだ。  「え? あっ、す、すみません。ええと、こちらの 間違いでした。はい、救急車は大丈夫です。本当に すみません」  あたふたと電話の向こうの人に謝って、マスター が通話を切った。  「ミリオン………大丈夫なの?」  と、声を震わせたのはパン子たった。  「もちろんだ」ぎょろりと眼球だけ動かして、ミリ オンはパン子を見た。「死んだフリだからな」  えI?  四人が呆気にとられていると、ミリオンは大の字 のまま、ふたたび空を見た。そして何事も無かった かのような囗調でしやべりはじめた。  「あいつの言うとおり、触られただけだしな。それ にしてもI」  このとき、すでに俺は笑い出しそうになっていた。  残りの三人は、ホッとしたような、泣き出しそう な、それでいて笑い出しそうなI、なんとも複雑 な顔をしながら、白砂に寝そべっている大男を見下 ろしていた。そしてミリオンは明るい春空に向かっ て、とてものんきな言葉を放ったのだ。  「今日は、いい天気だ」    第二章 若草色のテーブルクロス  [夏川誠]  新学期がはじまり、俺たちは大学三年生になった。  春休みの後半に起きた「ミリオンの死んだフリ事 件」のあと、シェア(ウス龍宮城の面々とパン子と 風香の五人は、すっかり打ち解けて気軽に遊ぶよう になり、ゆるい仲間意識でつながるようになってい た。  ところが、パン子が囗にした、あるひとことが きっかけで、俺たちはその「ゆるい」を取っ払うこ とになったのだった。  春雨がキャンパスを濡らす午後−。  たまたま五人が学食に集まったとき、パン子はま るで大発明でもしたかのように「せやっ!・」と膝を 打ったのだ。  「ねえねえ、あたしたち五人で、チェアリング部を 結成しよ!・」  チェアリング部? タブレットを操作していたミ リオン以外の三人は、頭の上に透明な「?」を浮か べたような顔でパン子を見た。  「部活を、立ち上げるってこと?」  最初に囗を開いたのはマスターだった。  「ううん。大学から認可をもらうのは面倒やから、 『部』つていうのは名前だけやけど。とにかく、こ のメンバーでサークル的にわいわいやれたら、めっ ちや面白そうやん?」  パン子は自信ありげな笑みを浮かべて、ぐるりと みんなを見た。  「うん。それ、なんか楽しそうでいいかも」と、ひ まわりみたいに微笑んだ風香は、さっそく「お揃い で、かわいいTシャツとか作ったりしたいなあ」と 妄想をしはじめた。  「たしかにテンションが上がるね。みんなでいろん なところに行って、絶景を片っ端から『ぼくらの 庭』として登録していくの」  マスターも乗った。そして、少し細めた目で俺を 見た。  俺は、これまでの二度のチェアリングを思い返し た。  龍宮岬公園と前浜で堪能した、青くきらめく風景。 美味しいコーヒー、みんなの笑い声、清々しい風で 肺を洗う爽快感。  チェアリング部、かI。  未来をイメージしたら、胸のなかをすうっと心地 いい風が吹き抜けた気がした。  うん、悪くないかも知れない。  思えば、この二年間、アルバイトの他は、とくに やるべきことも、やりたいこともなくて、いつも 日々の根底に「灰色の空っぽ」を薄く積もらせたよ うな大学生活たった気がする。そして、そんな日常 に差し込んだ小さな光彩が、パン子と風香とチェア リングなのではないか?  俺は、ゆっくり息を吸うと、吐く息を決意の言葉 に変えた。  「うん、じやあ、一丁やりますか」  みんなの笑みがさらに広かった。残すはミリオン だ。  さすがのミリオンも四人の視線の圧を感じたのだ ろう、タブレットからゆっくり顔を上げた。  すると、すかさずパン子が囗を開いた。  「ミリオンはやっぱり部費をやりくりする会計係や な」  パン子は、いきなり「決定事項」のように言っだ けれど、正直、このときの俺は、内心でこう思って いた。  漬物石より腰の重いミリオンが、サークル活動な んかに参加するわけがないぞ、と。  でも、次の瞬間、俺の耳は意外な台詞を聞くこと になったのだ。  「会計係ならやってやる。でも、それ以外は期待す んなよ」  まさかの参加宣言。しかも、面倒な役職まで引き 受けて。  ミリオンの性格を知り尽くしている俺とマスター は、思わず顔を見合わせてしまった。一方、全員か ら賛成を取り付けてご満悦なパン子は、奥歯が見え るほどの笑みを浮かべて、さらに続けた。  「ほな、ミリオンは史上最強の会計係ってことで決 まりやね。で、肝心の部長やけどI」  そこでパン子は、なぜか俺を見た。しかも、その 視線に釣られたのか、マスターも風香もこちらを向 いたのだ。  「あたしは、マックがええと思うんやけど? まじ めやし」  「ちょっ、なんで俺が? 言い出しっぺのパン子 じゃないの?」  「あたしは、ほら、こういう人やし。昔から『長』 が付くようなのは苦手なタイプやもん」  「わたしも、この四人のなかたったらマックがいい 気がする」  風香が屈託ない瞳で俺を見た。  「マジかよ……」  俺は椅子の背もたれに上体をあずけて、不平をそ のまま顔に出した。しかし、そこでマスターが駄目 押しをしてきたのだ。  「いいじやん、マック。引き受けなよ。べつに大学 公認の『部活』つてワケじやないから顧問もいない んだしさ。なにか面倒なことがあったら、ぼくとパ ン子と風香でサポートするし。ね?」  最後の「ね?」は、女子二人に向けられていた。  「うん」と風香。  「もちろん」とパン子。  そこまで言われて首を横に振るのは、さすがに難 しい。  俺は「はあ」と、大きなため息をついた。そして、 それが「渋々ながらも承諾」のサインとなってしま うのだった。  「じやあ、まあ、やるよ。でも、俺、パン子が思っ てるほどまじめじやないと思うから、あんまり期待 すんなよ」  「自分のことを『まじめじやない』つて言う奴ほど、 じつはクソまじめな件な」  タブレットを操作しながら、ミリオンがひとりご とみたいにつぶやいた。すると、女子たちが「たし かに」「だよね」と笑い出した。  「うっさいわ。ほっとけ」  俺は、やれやれ、という顔でボヤいてみせた。  それから、しばらくの間、俺たちは今後の「チェ アリング部」の活動や運営についてあれこれしゃ べっていたのだが、ふとした会話の流れから、あの 日、マスターが撮影していた「ミリオンの死んだフ リ事件」の動画をみんなで観てみよう、ということ になった。  せっかくなら、スマホより大きな画面で観たいよ ねI、ということで、ミリオンのタブレットを テーブルの貞ん中に置き、それを全員で覗き込みな がらの再生となった。  はじめて観るその動画は、想像以上に笑える代物 だった。なにしろ、ミリオンが損切り云々と専門的 な言葉を並べ立てたときの、ポカンとした連中の顔 がまぬけだし、さらにミリオンが続けて「お前ら全 員、財布を置いて帰れ」などとカツアゲ的な台詞を 吐いた瞬間の、連中の凍りついた表情ときたら。極 め付きは、平手打ちをされたミリオンが、ゆっくり 後ろに倒れていくシーンだった。スロー再生でよく 見ると、なぜかミリオンは白目になっていたのだ。  「なんで、白目に………あ、あかん、腹筋が、つ るう」  と、涙を流しているパン子の笑いが伝染して、俺 とマスターと風香も腹を抱えて笑った。当のミリオ ンは、ひとり憮然とした顔をしていたけれど、その 様子がまた面白くて、余計に笑えてくる。  ほんの一瞬だけ、尻もちをついたパン子の義足が 映り込んでいるシーンがあっだけれど、それに気づ いているのは俺だけのようだった。だから俺は、 「いやあ、笑えた。こりゃ永久保存版で決まりだな」 と、あえて過去形で言いながら、タブレットをミリ オンの方に押しやった。そして、さくっと話題を変 えた。  「そういえばさ、さっき風香が言ってたチェアリン グ部のTシャツだけど、デザインは風香とパン子に 任せていい?」  俺が言うと、女子二人は顔を見合わせてから、 「うん」「ええよ」と頷いてくれた。  「ミリオンも、それでいいよな?」  念のため声をかけたけれど、反応は予想どおり だった。  「あ? なにが?」  すでに株のチャートに集中しはじめていて、まっ たく聞いていなかったのだ。   ■一  ■一  ・  そんなこんなでチェアリング部を結成した俺たち は、さっそく活動をスタートさせた。  記念すべき第一回の「ぼくらの庭」は、高台にあ る大学の校舎の屋上からのパノラマだった。そこは パン子と風香のお気に入りポイントで、南を見れば 紺碧の太平洋、北を見れば翠緑の山々、そして眼下 には、俺たちが住む海辺の町並みが展開していた。  五人で椅子を横一列にならべ、広々した風景を堪 能していると、隣にいた風香が鉄柵の向こうを指さ した。  「ほら、あそこがマックと出会った龍宮岬だよ」  「おっ、ほんとだ。展望台がちょっとだけ見えて る」  「でしよ? でね、あの龍宮岬から左に連なる山の 向こう側に『崖の上のヘブン』があってI、シェ アハウス龍宮城があるのは、あの畑の少し先だよ」  ミリオン以外のメンバーは、椅子から身を乗り出 して景色を見下ろしていた。風香はさらに続ける。  「わたしんちは駅の向こうに見えてる森の右手で、 パン子のアパートは……あの坂道の左奥あたり。あ そこに見えてる鎮守の森の少し手前に、わたしが子 供の頃から大好きなソフトクリーム屋さんがあるん だよね。あと、今度、みんなを連れていきたいな あって思ってる絶品のわらび餅屋さんはねI」  自分の生まれ育った漁師町の地理を、風香は嬉し そうに教えてくれた。そして、その横顔を眺めてい るだけで、俺はなんだかほっこりしてしまうのだっ た。  チェアリング部、第二回の「庭」は、忠司さんの 喫茶店「崖の上のヘブン」の隣の空き地たった。  切り立った崖の上に椅子を並べた俺たちが、青い 水平線を眺めていると、銀のトレーを手にした忠司 さんが「お1つす」と言いながら現れて、全員に コーラーフロートを差し入れてくれたIと思った ら、そのままちゃっかり忠司さんも店を閉めて「俺 も仲間に入れてくれよ」と、店の椅子を持ってきた のには笑った。この人、つくづく仕事をサボるのが 好きなのだ。  その後も、俺たちは時間の許す限り、新たな 「庭」の数を増やしていった。それぞれに大学の課 題やアルバイトがあるから、五人そろわないことも あっだけれど、そこは割り切って、そのとき参加で きる者だけでチェアリングを愉しんだ。  ある日の「庭」は、高台に広がる草原で、またあ る日は、色彩の海のようなホビー畑たった。さらに、 静謐の竹林、夕空を水面に映した田植え前の田んぼ、 炭酸水のように澄んだ清流の河原、そして、深い森 に囲まれた神秘的な野池のほとり……。  チェアリングをはじめて、あらためて気付かされ たのは、海と山と森と田畑に彩られた、この町の 懐の深さたった。しかも俺たちは、ある特権を手 にしていた。地元の農家で生まれ育った風香が、あ ちこちの地主に顔が利くので、ふつうでは立ち入れ ないような私有地までも借景として「庭」にするこ とができたのだ。  市外に遠征するときは、風香の家の軽トラと、俺 のオートバイと、マスターの原付きスクーターの出 番たった。パン子と荷物は軽トラに、ミリオンは俺 のバイクの後ろに乗せて移動した。  酒を飲みたいときは、手近な徒歩圏内の「庭」を チョイスするのだが、意外だったのは、いかにも酒 好きに見えるパン子が下戸で、一滴も飲めなそうな 風香が酒豪たったことだ。  シェアハウス龍宮城の庭には、枝垂れ桜の老木が ある。  その樹が満開となったある日、俺たちは、同じ敷 地の母屋に住んでいる千鶴バアを招待して(という か、ここは千鶴バアの土地だけど)、一緒にバーベ キューを愉しむことにした。  千鶴バアは、お茶目さと知性を兼ね備えた可愛ら しいおばあさんで、チェアリング部のメンバーはも ちろん、地域の誰からも愛されるような人だ。  ランチタイムに合わせて、俺たちはバーベキュー グリルに火を入れた。その日は珍しくミリオンが張 り切っていて、スーパーで買ってきた肉や、風香の 家の畑で採れた野菜などをじゃんじゃん焼きはじめ た。  それぞれの皿に焼肉のたれを注いだところで、マ スターがクーラーボックスに入っていた飲み物を 配ってくれた。  千鶴バアを含めた五人は缶ビール。下戸のパン子 はペプシコーラを手にした。そして、一応、部長で ある俺が言った。 「それでは、本日のゲストである千鶴バアに、乾杯 の挨拶と音頭をお願いします」  いきなり振っだのに、千鶴バアは少しも慌てるこ となく「うふふ」と笑うと、落ち着いた声でしゃべ りはじめた。  「わたしね、この離れをシェアハウスにして、最初 に入ってくれたのがあなたたち三人で本当によかっ たと思ってるのよ。今日もお招き頂いて幸せです。 どうもありがとうございます」  シワに埋もれた小さな目を細めて、千鶴バアは俺 たちを見た。そして、可愛らしいしゃがれ声で「で は、乾杯」と言った。  四月なかばのまあるい風が吹き抜けて、枝垂れ桜 の花びらが、ひらり、ひらり、と舞い散る。  「乾杯!・」  俺たちは、それぞれが手にしていた缶をぶつけ合 い、喉を鳴らした。  「ぼくらも、千鶴バアが大家さんで本当によかった ねって、いつも話してるんですよ」  マスターがそう言うと、  「家賃も破格の月一万たしな」  と、ミリオンが頷く。  「うふふ。ありかとね。でも、なんだか不思議。あ なたたちが来てくれて、もう二年も経つのね」  千鶴バアが、感慨深げに言うので、俺も入居当時 のことを追想して「あれから、もう二年かあ」とつ ぶやいた。そして、はじめてこのシェアハウスの敷 居をまたいだ日のことを囗にした。  「俺がここに来たとき、先にマスターが入居してて さ、その日の夜、さっそくコーヒーを淹れてもらっ て、めっちや感動して、すぐに打ち解けたんだけど、 三人目が来たときは不安になったよなあ」  「おい、それ、どういう意味だ?」  ミリオンが怪訝そうに眉根を寄せた。 「お前がここの入居条件をクリアしてないんじやな いかと思って、心配したんだよ」  「マック、お前は、つくづく人を見る目がないんだ な」  ミリオンは、せっせと肉を焼きながら、これみよ がしのため息をついた。  じつは、当時、千鶴バアが設定していた入居条件 は『素直で、年寄りに親切な若者』だったのだ。  そのことをパン子と風香に話したら、「条件が千 鶴バアらしい!・」と声をそろえて笑った。 「でしよ?」  茶目っ気たっぷりに千鶴バアも目を細める。  千鶴バアは、俺たちが入居する二年ほど前にご主 人を亡くし、それ以来、一人暮らしをしている。二 人いる息子さんたちは、どちらもすでに結婚して都 会に住んでいるらしい。  「年寄りの一人暮らしは気ままでいいんだけど、た まに不便なこともあるのよ。だから、素直で年寄り に親切な若者を近くに置いて、いろいろとこき使っ ちやおうかなって思って」  そう言って千鶴バアは、女子二人にウインクをし て見せた。  するとパン子は「なるほどね」と頷き、俺たちを 一人ずつ眺めた。  「で、千鶴バアの狙いどおり、うってつけの鴨が三 羽、葱を背負ってひよこひよこ集まってきたんや ね」  「パン子ちゃん、正解。この鴨さんたち、とっても やさしくて、わたしが困っているときは、いつでも 気持ちよく助けてくれるから、あと二年でいなく なっちゃうと思うと、いまから淋しくなっちゃう」  そのあまりにも直球な言葉に、俺は照れたうえに 胸が熱くなってしまい、気の利いた台詞を返せな かった。マスターもミリオンも同じだったようで、 「いやあ」とか「俺らは、別に」などと煮え切らな い言葉をこぼしている。  「よかったね、千鶴バア」  いつもの麦わら帽子をかぶった風香が、なぜか瞳 を潤ませながら「はあ」と感嘆のため息をこぼした。  「ぽんと、この三人でよかったわ」千鶴バアは、 ゆっくり頷くと、そのまま俺たちの方に視線を向け た。「じつはね、最初は、広い母屋の方をシェアハ ウスにして、わたしが離れに住もうかなって考えて たの。でも、ほら、母屋は築一五〇年も経ってる古 民家だから、若い人たちには向いてないよってみん なに言われて」  古民家暮らしI。そういうのも悪くないな、と 思ったら、目を潤ませていた風香が「え1つ’・」と 声をあげた。「なんで? 古民家の雰囲気って素敵 じゃん。わたし千鶴バアの家、むしろ味があって大 好きだよ」  「うふふ。ありかと。風香ちゃん」  と、千鶴バアが小さな目を細めたとき、うっすら 甘い花の香りのする春の風が吹いて、枝垂れ桜の花 びらがはらはらと舞った。  俺は、少しぬるくなった缶ビールに囗をつけ、あ らためて小柄でにこやかな老女を眺めた。長年の畑 仕事で日焼けした顔には、たくさんのシワが刻まれ ていた。でも、そのシワこそが、笑っていなくても 笑っているように見えるチャーミングな「恵比寿 顔」を形づくっているのだ。  と、ふいに、千鶴バアが、何かを思い出したよう にしやべりだした。  「あ、そういえばね、わたし、ウクレレ教室に通い はじめたの」  えっ、ウクレレ?  と驚く五人をよそに、千鶴バアは続けた。  「じつは、昔からハワイに憧れてたんだけど、なか なか行けるチャンスが来なくて。だから、せめてウ クレレを弾けたら、いつでもアロハな気分になれる かなって」  そこまで言うと、千鶴バアは両手でウクレレを弾 くふりをして見せた。すると、パン子もウクレレを 弾く仕草をしはじめた。  「あたしもウクレレ弾くから、いつかセッションし ようよ」  「わあ、それ、めっちゃ素敵。聴きたい!・」  風香が手を叩いて喜んだ。  「あらあら。じゃあ、いつかパン子ちゃんとセッ ションできるように練習がんばらないと」  そんな女三人のやり取りをまぶしそうに眺めてい たマスターが、どこか感慨深げに囗を開いた。  「千鶴バアつて、今年で七三歳ですよね?」  「そうよ」  「その行動力、本当に凄いと思います」  まっすぐに褒められた千鶴バアは、しかし、とぼ けた風に「そうかしら?」と言って目尻の笑い皺を 深めた。  「そうですよ。俺も、凄いと思います」  マスターに追随して、俺も頷いた。  すると千鶴バアは、ちょっと不思議なことを言い はじめたのだ。  「言っとくけど、いまのわたしは人生で最強なの よ」  最強−? と、言葉の意味を測りかねている俺 たちを、千鶴バアはゆっくり見回しながら続けた。  「だって、ほら、いまのわたしは、過去から見たら いちばん人生経験豊富で、未来から見たらいちばん 若々しいでしよ? 何でもできちやう気がしな い?」  そう語る千鶴バアに、俺たちは一瞬、言葉を失っ た。  いまの自分こそが、過去から見たらいちばん人生 経験豊富で、未来から見たらいちばん若々しいI。  考えてみれば、その理屈は、人生のいかなる瞬間 にもあてはまる。つまり人は、いつだって自分史上 最強なのだ。だから、何にだって挑戦していいし、 楽しんでいい。いや、そうするべきだと千鶴バアは 言いたいのだろう。  俺は、花吹雪のなかで微笑むシワシワの顔を見た。  もしも俺が、この人みたいな思考回路を持つ人間 だったら、まもなく訪れる「あの問題」と対峙した ときにも、心を乱さず、鬱々ともせず、さらりと乗 り越えたりできるのだろうか……。  ぼんやりとそんなことを考えていたら、パン子が 両手でガッツポーズをしながら言った。  「いまの自分が最強って、ほんまやね。なんか、あ たし、何でもできる気がしてきたわ」  「うん、ぼくもだよ」  と、マスターも頷く。そして、なんとなく視線が 合った俺と風香が小さく頷き合ったとき、バーベ キューグリルの方から素っ頓狂な台詞が飛んできた。  「おい、お前ら、さっさと食え。肉が焦げてるぞ」  さすがミリオン。この大事なシーンですら、ひと り自分の世界に入っていたらしい。でも、もしかす ると、達観した千鶴バアの域にもっとも近いのは、 常に自分の心に正直に生きているミリオンなのかも 知れない。  俺は目の前に置いてある皿を見た。皿の上には、 冷めてしまった肉とソーセージとピーマンが転かっ ていた。とりあえず、それらを囗に押し込んで、俺 はなるべく元気な声を出してみた。  「よっしゃ。ミリオン、肉、じゃんじゃん喰うぞ」  ゴールデンウイーク直前の、日曜日の朝−。  チェアリング部の五人は、山あいの空き地に集合 していた。  眼前には、段々になった田んぼが谷の奥へと連 なっていて、青空を映した水面がひらひらと揺れて いる。  今日、俺たちは、ここで田植えをするという農家 に「出張・青空ランチ」的なチェアリングを頼まれ ていた。つまり、お昼と三時の休憩時に、のんびり ランチとコーヒーを楽しみたいから、その準備をし てくれないか、というわけだ。  農家から依頼を受けたのは、もちろん風香たった。  「必要経費の他に、お小遣いをくれるって言ってる んだけど、どうかな?」  学食のいつものテーブルで風香がそう言ったとき、 貞っ先に「よし、稼ぐぞ」と答えたのはミリオンで、 一瞬、遅れて「おもろいやん!・」と声をあげたのは パン子たった。  「じやあ、やってみようか」   一応、部長の俺がそう言って、マスターが「オー ケー」と頷き、そして風香がひまわりみたいに微笑 んで、決まりだった。  やると決めたその日、俺たちは近くのホームセン ターへと繰り出して、手頃な値段のアウトドア用 チェアを五脚とテーブルを一つ、さらに食器類を購 人した。元手は、ミリオンに預けていた「部費」だ。 そして、いま、俺たちは、新品のそれらを山あいの 空き地に並べ終えたところだった。  風香とパン子は、気を利かせて若草色のテーブル クロスを持ってきてくれた。昨夜、二人は、風香の 家で、いらなくなった生地を使って三枚のテーブル クロスを縫ってくれたのだ。  ランチ用の弁当は、今朝、シェアハウス龍宮城の キッチンを使って五人で作ったIというか、風香 の指導のもと、残りの四人が言われた通りにせっせ と働いたのだった。  正午になると、農家さんたちは田んぼから上がっ てきた。  この田んぼのオーナーは六十歳くらいの小太りな 男性で、名前を武藤さんという。そして今日は、そ の武藤さんの奥さん、息子さん、娘さん、同級生で 幼馴染の畑中さんが手伝いに来ていた。  武藤さんの息子さんと娘さんは、すでに結婚して 都会で暮らしているけれど、毎年、田植えと収穫の ときは手伝いに戻ってくるのだそうだ。  「年に二回は、こうやって家族がそろうから、なん だか嬉しくてね」  奥さんがそう言うと、「それが米農家の特権だよ な」と武藤さんが微笑む。  「じやあ、さっそくランチの準備をしますね」  風香の言葉を合図に、俺たちはクーラーボックス から今朝つくったランチを取り出し、てきぱきと テーブルの上に並べた。  若草色のテーブルクロスには、自い食器と料理が よく映えた。  「おお、思っていたより本格的だなあ。じやあ、頂 こうか」  五人そろって両手を合わせ、「いただきます」を した武藤さんたちは、美味い、美味い、と言いなが ら食べてくれた。俺は、その様子をスマートフォン で撮影した。あとで記念に送ってあげるのだ。  食後は、マスターが淹れた極上のコーヒーでおも てなし。  「いやあ、やっぱり風香ちゃんに頼んでよかった わ」  武藤さんたちは、俺たちが想像していた以上に喜 んでくれたので、なんだか、くすぐったいような気 持ちになってしまった。  そして午後一時、武藤さんたちがふたたび田んぼ に入っていこうというときに、ふと娘さんが俺たち の方を振り向いた。  「ねえ、よかったらさ、みんなも田植え、やってみ ない? 風香ちゃんは知ってると思うけど、田んぼ の泥に素足をつけるのって、けっこう気持ちいいん だよ」  突然の申し出に、俺たちは顔を見合わせた。  そんな俺たちを見て、武藤さんが陽気に微笑んだ。  「見ての通り、うちの田んぼは一枚一枚が小さな棚 田だから、田植機を入れられない田んぼがあってさ。 そういうところは、ぜんぶ手で植えるから、人手が あると助かるんだよね」  「どうする? やってみる?」  マスターが言うと、武藤さんが駄目押しをしてき た。  「ランチ代に少し色を付けるから、暇なら手伝って よ」  その台詞に反応したのは、もちろんミリオンだ。  「よし、お前ら、稼ぐぞ」  現金なミリオンに、パン子も賛同する。  「せやせや。みんな、やった方がええよ。田んぼは、 ほんまに気持ちええし。あたしも子供の頃、地元で よく手伝ってたんよ」  パン子の言葉に、俺はハッとして風香を見た。風 香は少し不安そうな目でパン子を見ていた。すると パン子は、そんな風香を見返して、いつもの愛嬌の ある笑みを浮かべたのだった。  「風香、みんなに手植えのやり方を教えてやりい」  「じやあ………うん、わかった」  小さく頷いた風香は、麦わら帽子のあごひもを締 め直した。  「おお、よかった。助かるよ。んじや、とりあえず、 いちばん上と、その下の小さな田んぼから頼むね」  武藤さんは風香の肩をポンと叩くと、田植機の方 へと歩いていった。  「じやあ、みんな、靴と靴下を脱いで、ズボンの裾 をできるだけ上までめくってね」  風香が言うと、その続きのような感じでパン子が 明るい声を出した。  「みんな、ごめんやけどI、あたしは見学しとく わ」  全員の視線がパン子に集まったとき、パン子は穿 いていたジーンズの裾をめくり上げた。  「内緒にしてたわけやないんやけど、あたしの脚、 これやから」  露わになった金属の棒が、初夏の日差しを受けて  ツルリと光る。  俺はパン子の顔を見た。パン子は笑っていた。と ても、あっけらかんとした感じで。それなのに、な ぜだろう、俺の胸のなかには不安とよく似たこわば りが生じていた。  ところが、マスターは違った。靴を脱ぎながら、 さらりと言ったのだ。  「あ、それは知ってたよ。だいぶ前から」  「マスター、知ってたの?」  思わず俺は、そう訊いていた。 「ふつう気づくでしよ。あんだけ一緒にいたんだか ら」  「マジか。俺は、まったく気づかなかったぞ」  ミリオンが、ミリオンらしい言葉を吐いて眉を八 の字にしたとき、弾けるような笑い声が空に向かっ て放たれた。  「あははは。ほんまに、あんたらってオモロい わあ」  笑っだのは、パン子たった。  「ん? なにがオモロいんだ?」  ミリオンの問いかけをパン子は軽くスルーして、 近くにいた風香の肩を抱き寄せた。そして、ふたた び愉快そうにニツと笑ってみせた。  「みんな、この風香先生の言うことをよ1く聞いて、 しっかり働くんやで」  「オッケー」  俺は親指を立てて答えると、胸のこわばりを抑え 込みながら、靴と靴下を脱ぎはじめた。  「おい、パン子。その脚、あとでゆっくり見せてく れ。どういう仕組みになってるのか知りたい」   匸ベリも遠慮なくミリオンが言うと、パン子も あっさり「ええよ。けど、その前に、しっかり稼い でな」と返した。  そんな二人の淡々としたやりとりが変にまぶしく 見えて、俺はズボンの裾をめくりながら、そっとた め息をついた。  初夏らしい薫風が山の斜面を撫でて、サアツと音 を奏でた。  草木もざわめき、田んぼの水面に細かな漣が立つ。  そして漣は、水面に映っていた青い空と自い雲を 掻き消した。  水曜日の夕方−、マスターが「崖の上のヘブ ン」のアルバイトに入っていたので、俺たちチェア リング部の残りのメンバー四人も「客」として店を 訪れていた。  俺たちが座った窓際のテーブル席からは、ちょう ど海と空かパイナップル色に染まりゆく様子を眺め られた。その絶景をパン子がスマホで撮影している と、コロン、と店のドアベルが甘い音を響かせた。  店に入ってきたのは、オーナーの忠司さんだった。  さっそく俺たちを見つけた忠司さんは、「おっ?」 と眉を上げると、上着を脱ぎながらすたすた大股で 近づいてきた。  「お前ら、武藤さんとこの田植えを手伝ったんだっ て?」  手近な椅子を俺たちのテーブルの「お誕生日席」 に置いた忠司さんは、それに腰を下ろして続けた。  匸昨日だったかな、武藤さん夫妻がここに来てさ、 学生だちと田植えができて楽しかったって、えらく 喜んでたぞ」  すると、ミリオンがタブレットから顔を上げた。  「田植えの手伝いってのはオマケみたいなもんで、 メインはビジネスだったんですけどね」  「ビジネス?」  と、忠司さんが小首を傾げる。 「せやね。出張サービスつてやつ」  パン子の台詞を、今度は風香が引き取る。  「田んぼの前の空き地に椅子とテーブルを並べて、 そこで手作りのお弁当とコーヒーを愉しんでもらっ たんです」  「へえ。お前ら、面白いことを考えつくなあ」  「武藤さんの方から、こういうサービスをしてくれ ないかって依頼されたんですよ」  と俺が答えているとき、マスターが四つのアイス コーヒーを銀色のトレーに載せてやってきた。  「はい、みんな、おまたせ」  テーブルの上にアイスコーヒーを並べると、マス ターは、ちょっとあらたまったようにしゃべり出し た。  「あのさ、いま、みんなの話を聞きながら思ったん だけど、この間みたいな出張サービス、本当にビジ ネスにしたら面白そうじゃない?」  「スタートアップか?」  と、ミリオン。  「まあ、そんなに大袈裟に考えなくてもいいんだけ ど。とにかく、地元の大学生が景色のいいところに 椅子とテーブルを並べて、そこでこだわりの料理と コーヒーを味わってもらってさ、なんならパン子の 歌も愉しめるっていうサービス」  「えっ、あたしの歌も?」  パン子が、自分の鼻を指差しながら目を丸くした。  「もちろん、パン子が嫌ならいいんだけどさ。でも、 お客さん、きっと感動すると思うんだよね」  お腹の前でトレーを抱えたマスターが、にっこり と笑う。  「う1ん……」  珍しくパン子が難しい顔をしたと思ったら、忠司 さんが無精髭を撫でながら「なるほど」と頷いた。  「悪くねえかもな。お前ら、それ、やってみろよ」  えI? 俺は忠司さんの顔を見た。  みんなも、忠司さんの次の台詞を待っていた。  すると耳目を集めた忠司さんは、満足そうに目を 細めて続きを話しはじめた。  「とは言ってもな、実際、ビジネスにすんなら食品 衛生責任者の資格を持ってる人間が一人は必要だし、 保健所からの営業許可ってやつも必要になってくる わけよ。でも、お前らみたいな大学生には、そうい うのってハードルが高えだろ?」 「まあ、せやなあ……」  と頷くパン子。  たしかに、俺たちには知識も経験もないのだから 当然だ。そう思って黙っていると、ふいにミリオン が囗を開いた。  「で、忠司さんは、何パーセントをイメージしてる んですか?」  何パーセントつて?  ミリオンの言葉の意味するところがわからない俺 たちがポカンとしていると、忠司さんはミリオンを 見てニヤリと笑った。 「ミリオン、お前、さすがだな。まあ、仲良く半々 でどうよ?」  「ないですね。それ、完全に、ぼったくりです」  眉根を寄せたミリオンが腕を組んだ。  「ねえ、ちょっと、何の話をしてるの?」  風香が二人の会話に割って入っだ。  「まあ、アレだ。お前ら大学生と経験豊富な俺が タッグを組んだらいいんじやねえかって話だよ。い いか、よく聞けよ。俺は、この店をやってるから食 品衛生責任者の資格を持ってるし、保健所からの営 業許可ももらってるだろ? つてことはだなI」  じわりと前のめりになった忠司さんの台詞に、ミ リオンがかぶせた。  「ようするに『忠司さんの店の仕事』として依頼を 請けて、実際は、俺たちがアルバイトとして稼働す るってことだ」  なるほど、それで合点がいった。その「仕事」で 得た収益を、俺たちチェアリング部と忠司さんが分 け合う際の分配率をどうするか、という話を、ミリ オンと忠司さんはしていたのだ。  「それって、忠司さんからしたら、ただの名前貸し やんな?」  パン子がいぶかしげな顔で忠司さんを見た。  「名前貸し? まあ、言葉は悪いけど、ざっくり言 えば、そういう感じの部分もあるかな」  少しバツが悪そうな忠司さんは、蓬髪をガシガシ と掻いた。  「だったらあかん。名前貸すだけで半々はないわ。 それじゃ、忠司さん、金の亡者やん」  「おいおい、パン子ちゃん、金の亡者はひでえな。 オジサン、傷ついちゃうよ。じゃあ、仕方ねえ。口 クーヨンでどうよ?」  「キュウーイチが妥当ですね」  我が方の金の亡者(=ミリオン)も負けてはいな い。  「ちょっと待て。それじゃ、俺が噛む意味がほとん どねえだろ」  「いや、ありますよ。何もしないで金が入るんです から、得でしかありません。しかも、そのあぶく銭 をこつこつインデックスなどの投資に回して、うま く複利で育てていけたらI」  投資関連のグラフが表示されたタブレットの画面 を忠司さんに見せながら、ミリオンが小難しい話を しはじめるとI、  「ああ、もう、面倒くせえ奴だな。わかった、わ かったよ」忠司さんは、大袈裟に首を振ってミリオ ンの話を遮った。「じやあ、ナナーサンでどうよ? しかも、この店のキッチンも備品も使わせてやっか ら。それなら文句ねえだろ?」  するとミリオンは、忠司さんに向かって右手を差 し出した。  無言のまま、握手を求めたのだ。  「んじや、決まりだな」  忠司さんがミリオンの手をがっちりと握った。そ して、俺たち一人ひとりを見てニヤリと笑った。 「学生ども、一緒に儲けようぜ」 「もちろんです」  一応、部長である俺を差し置いて、ミリオンが返 事をした。  「ええと、ちょっと待って」俺は、この急すぎる流 れをいったん遮ることにした。「ようするにさ、今 後は『チェアリング部』の活動を『仕事』にするっ てことだけど、みんなはOKなわけ?」  トレーを抱えたマスターは言い出しっぺだから、 もちろん、という顔をしていた。ミリオンはむしろ、 何か不満でもあるのか? という不思議そうな目で 俺を見ていた。風香は、みんながいいならいいん じやない? という顔で、最後にパン子と目が合っ た。  「マックは、反対なん?」  「えっ? いや、俺は別に、反対じやないけど」  「けど?」  とパン子が、俺の目を覗き込んでくる。  「何ていうかI、俺、いままでの『チェアリング 部』の活動も楽しかったから、あれが無くなっちや うと思うと……」  「やめへんよ」  「え?」  「いままで通りの活動も楽しみつつ、仕事の依頼が 入ったら、そっちもやって部費を稼ぐ。それでええ やん?」  なるほど。別に「チェアリング部」が無くなるワ ケじゃないし、むしろ活動内容が濃くなるうえに、 部費を稼ぐチヤンスにもなるわけか……。  「そっか。うん。なら、俺も賛成するよ」  俺は、みんなに頷いて見せた。  すると、さっそく忠司さんが右手を掲げた。  「うっし。お前ら、新しいビジネスのはじまり だ。つてことで、よろしくな。イエーイー・」  学生よりも学生みたいなノリの忠司さんは、俺た ち全員と順番にハイタッチを交わした。  それから俺たちは、ガラス越しに差し込むパイ ナップル色の夕照を浴びながら、なんだか変にハイ テンションになって、それぞれが夢想する「チェア リング部」の未来を囗にしては、いいね、いいね、 と話を盛り上げていった。そして、そんな俺たちを 愉快そうな目で眺めながら、忠司さんはシャツのポ ケットからスマホを取り出し、どこかに電話をかけ た。  「ああ、もしもし。どうも、ヘブンの忠司です。お やっさん、いま電話オッケーつすか? あのね、こ のあいた、おやっさん、銀色のハイエースーワゴン を廃車にするって言ってたでしよ? あれ、譲って もらえないかな。うん。もちろんタダで。そりゃ、 そうだよ。中古車屋で値段が付かないって言われた んでしよ? じゃあ、タダでいいじゃん。え? 違 うよ。未来ある学生たちのためだよ。値段の付かな いポンコツ車を学生たちに売りつけるなんて、大人 として恥ずかしいでしよ? 逆に廃車代が浮いた分、 学生たちに小遣いをやって欲しいくらいだって −」  気づけば、みんな、夢物語から覚めて、じっと忠 司さんの言葉に耳を傾けていた。  その通話は、三分と経たずに終わった。  忠司さんはスマホをテーブルの上に置くと、俺た ちに向かってビシツと親指を立てて見せた。  「お前らのビジネスには、自由に使える車が必要だ ろ?」  「え、もしかして………車をタダでもらえるんです か?」  思わず俺が訊いたら、忠司さんはムフフと笑って みせた。  「そりゃ、タダに決まつてんだろ。いい大人が大学 生から金を取るなんて恥ずかしいわ」  一瞬、しんとしたあと、パツとひまわりの笑顔を 咲かせた風香が「その台詞、どの囗が言うかあ」と 言つだので、みんなで爆笑した。  「ああ、そうそう。言つとくけど、タダなのは車体 だけだからな。名義変更やら保険やらの手続きはお 前らでやれよ。駐車場はシェアハウスの庭を使わせ てもらえばいいだろ。車検は、まだ一年近く残つて るみたいだから、一年以内に車検代くらいは稼げよ な」  そこまで一気に言った忠司さんは、ひと仕事を終 えた、という顔でタバコに火をつけ、天井に向かっ て紫煙を吐き出した。  「ハイエースーワゴンつてことは、七人乗りですか ね?」  俺の問いかけに忠司さんは首を横に振った。  「いや。前列が二人で、二列目と三列目はそれぞれ 三人がけのベンチシートだから、八人乗りだな」  「えっ、八人乗り?」くりっとした大きな目をいっ そう見開いた風香が、胸の前で両手を合わせた。 「じやあ、わたしたち全員が乗っても、荷物がたっ ぷり積めるね」  「ほんまやな。もう風香の家の軽トラを借りんでも オッケーやん」  「あ、でも、お客さんを乗せるときは、わたしたち が乗れなくなるかも」  「そういうときは、また軽トラの出番やね」  「二列目と三列目のシートの背もたれを倒してつな げれば、キャンピングカーみたいに寝られちやうん だよね?」  「たしかに!・ めっちや楽しそうやん!・」  はしゃぐ女子たちを横目に、ミリオンが冷静に言  「その車を誰の名義で登録するかIだけど、この なかで運転免許を持ってるのはマックと風香で、千 鶴バアの庭に車を置かせてもらうってことは……」  みんなの視線が俺に集まった。  すると、マスターがみんなを代表して言った。  「マックで決まりだね」  「えっ、俺の名義にすんの?」  「他に選択肢はないだろ? それこそ、ただの名前 貸しだし、維持費は経費として部費から出すから心 配すんな」  そう言ってミリオンは頷いてみせた。  「そっか。まあ、うん。わかった」  俺もすんなり頷いてみせたけれど、正直いえば、 鼓動が少し速くなっていた。ただの名前貸しとはい え、まさか自分が大学生のあいたに車を持つことに なるなんて思いもしなかったのだ。  「それにしても、いきなり車まで用意できちやうな んて、忠司さん、やる時はやる男やん」  パン子が褒めると、忠司さんは「だろ?」と、不 器用なウインクをしてみせた。  「本当に、さすがですよ」  珍しくミリオンが他人を褒めたと思ったら、忠司 さんの瞳にいつもの悪戯っぽさが滲んだ。  「そんなに感謝してくれるなら、やっぱり利益は 半々にしとく?」  「だから、その台詞、どの囗が言うかあ!・」  笑いながら言った風香に釣られて、今度は忠司さ んを含めたみんなで吹き出した。   それから約半月後−。  大学の一限の授業を終えた俺は、ひとり閑散とし た学食に行き、いつものテーブルに着いた。  「さてと……」  と、ひとりごちた俺は、自分のあだ名の由来と なったアップル社のノートパソコンを開いて電源を 入れた。次の授業は四限だから、それまでの空き時 間を出張チェアリングーサービスのホームページ制 作に当てようと思ったのだ。  傍にマウスを置き、ソフトを立ち上げる。そして、 ホームページに使用する写真や動画のデータを一つ 一つチェックしていった。  じつは、昨日の朝、俺たちは忠司さんの知人から 譲り受けた銀色のハイエースに乗り込んで、はじめ てのドライブに出かけていた。とっておきの絶景ス ポットを巡りながら、ホームページに使うための写 真と動画を撮影することが、そのドライブの目的 だった。  いざ撮りはじめてみると、被写体は予想以上に多 岐にわたった。美しい風景はもちろん、マスターが コーヒーをドリップする様子や、風香の家の畑、新 鮮な素材で作られたランチ、クロスを敷いたテーブ ルと、そこに生けた野草の一輪挿し、陽光をきらり とはじくカトラリー類、クーラーボックスのなかの 冷えたビール、青空、砂浜、打ち寄せる波、四つ葉 のクローバー、白亜の灯台、竹林、野池、花畑……。  最終目的地となっだのは、「崖の上のヘブン」の 隣の空き地たった。俺たちはそこで、オレンジ色の 水平線を見晴らす崖の上に五つの椅子を等間隔に並 べて、その椅子に座ったメンバー五人の後ろ姿を撮 影したのだった。  そして、いま、その写真を眺めながら、俺は「は あ」とため息をこぼしていた。なにしろ、それは 「ザ・青春!・」とでも題したくなるような、くす ぐったいほどのいい写真だったのだ。  写真のなかの俺たちは、それぞれが右手に持った 缶ビールを夕空に向かって掲げていた。逆光だから 人物と椅子はほぼシルエットだけれど、耳を澄ませ ば画面のなかから歓声が聞こえてきそうなくらいに 躍動感がある。  よし。この写真は、俺たちのプロフィール用に使 おう。  俺がそう決めたときI、 「うっす!・」  ふいに背後で声がして、肩に手を置かれた。  驚いた俺は、椅子から五センチくらいお尻を浮か せていた。  「うわ、びっくりしたあ」  慌てて振り向くと、色白でひょろつと背の高い男 が俺を見下ろしていた。昨年度まで語学の授業でク ラスメイトだった笹本だ。  「なんだ、笹本か」  「なんだって、なんだよ。失礼だな」笹本は苦笑し ながら俺の隣に座った。「つ1か、夏川、何やって んの?」  「ああ、ちょっと、ホームページを作ろうと思っ て」  「ホームページ? 何の?」  「これから仲間と立ち上げる仕事の公式サイト」  「えつ、仕事を立ち上げんの?」  「まだ企画段階だけどね」  「マジかよ。どんな仕事?」  思いがけず笹本は前のめりで食いついてきた。 「屋外でやる出張カフェみたいなサービスかな」 「出張カフェー。なんか、面白そうじやん」 「面白くなるといいけど」 「でも、ちよつと意外だな」 「え?」 「夏川も、いろいろと考えてたんだなって」  俺は、笹本の言葉の貞意がわからず、訊き返した。  「いろいろって?」  「そりゃ、将来のことだよ」  将来、という単語を耳にしたとたん、俺の胃のな かには、コロリ、と苦い異物が転がった。  「これからガチで就活だぞってときに、夏川はさっ さと仕事を立ち上げてんだもんな」  「…………」  「俺、いままで夏川のこと勘違いしてたかも」  「勘違い?」  「う1ん、なんて言うかI、夏川ってさ、リスク を取るより、ふつうにこつこつ就活して、まじめな 会社員になって、安定を手にしようとするタイプだ と思ってたから」  「そういうことか……」  俺は、ため息みたいに言って、小さく頷いた。  たしかに俺は、どこにでも居そうなタイプだし、 大それた哲学や思想を抱いたこともなければ、特技 もない。哀しいかな、笹本の分析は当たっていると 思う。  「あのさ」俺は、背もたれに上体をあずけて言った。 「このホームページの仕事は、サークルの延長線上 にあるバイトみたいなもんで、就活とは全然関係な いんだよね」  「えっ? そうなの?」  「うん」  「なんだ。俺、てっきり流行りのスタートアップか と思ったよ」  「いや、そんな大それたこと……」  と苦笑した俺は、胃の中の異物が少し大きくなっ た気がしていた。  「ちなみに、そのサークルつて、毎日ここに集まっ てる連中のこと?」  言いながら笹本は、目の前のテーブルを指差した。  「まあ、うん」  「じやあ、その夕暮れのなかのシルエットの写真も、 あいつらか」  笹本は、俺のパソコン画面を覗き込みながら言っ た。  チェアリング部の仲間を「連中」とか「あいつ ら」と言われると、少し胸のなかがざわつくけれど、 俺は淡々と答えた。 「うん。昨日、撮影してきたんだよね」 「そのなかに、女の子もいるよな?」 「いる……けど」 「ほら、黒髪の子。俺、けっこう好みなんだよね」  風香のことだ。  「へえ」  俺は、あえて関心が無さそうに言った。  「あの娘、いつもにこにこしてるし、性格良さそう じやん?」  「まあ、そうだね」  たしかに、いまどき、あそこまで絵に描いたよう な純朴な女子はいない気がする。  「あと、ピンク頭の娘な」  「…………」  「あの娘もけっこう可愛い顔をしてるけどI、な んか、義足らしいな?」  笹本は、義足のところで声のトーンを落とした。  そのとき、俺の脳裏にパン子の笑顔がチラついた。 田植えをしたあの日、躊躇なくジーンズの裾をめく り上げて仲間たちに義足を見せたときの笑顔だった。   笹本、お前が声をひそめるなよ。   パン子は、むしろ堂々としてんだよ。  俺は、笹本をまっすぐに見据えた。そして言った。  「あいつは、義足を隠したりしてねえけど」  俺の視線と語気の変化に違和感を覚えたのだろう、 笹本は少し引き気味に答えた。  「え? ああ、そうなんだ……」  もちろん笹本に悪気が無いことはわかっていた。 でも、なぜか俺は、チェアリング部やパン子の義足 に不用意に触れられると、心に土足で踏み込まれた ような嫌悪を覚えてしまうらしい。  「笹本、悪りいけどさI」  「ん?」 「これ、なるべく早く仕上げたいんだよね」  俺は、パソコンの画面を指差しながら言った。  すると笹本は、そそくさと立ち上がった。  「そっか。悪りい。邪魔しちやったな」  「いや、べつに」  そして笹本がきびすを返しかけたとき、「あ、そ うだ、夏川」と、ふたたび笹本はこちらを振り向い た。  「−?」  「就活関連でいい情報があったら、お互いに交換し ようぜ」  せめて最後くらいは空気を良くしようと思ったの だろう、笹本は俺の背中をポンと叩いてそう言っだ けれど、残念ながら、その台詞はむしろ俺の胃に転 がった苦い異物の存在感をいっそう膨らませるだけ だった。  「了解。じやあ、また」  俺はストレスを顔に出さないよう心を砕きながら、 笹本に向かって手を上げた。  「おう、じやあな」  笹本も同じように手を上げると、こちらに背を向 け、そのまますたすたと歩き出した。  ちょっと大人気なかったかな、俺……。  笹本のひよろ長い背中を眺めながら、俺は小さく ため息をこぼした。そして、あらためてパソコン画 面に視線を戻した。すると、どういうわけか、つい さっきまで「いい写真」だと思っていた五人のシル エットが、どこかよそよそしく見えるのだった。   瞻  瞻  齒  その夜、俺は自室のパソコンで、ネットの動画を 再生していた。  モノクロ画面のなかでは、淡い色のTシャツを着 たパン子が、ギターを爪弾き、バラードを唄ってい た。  じつは最近、俺は、パン子の音楽にどっぷり八 マつていた。照れ臭くて直接本人には言えないけれ ど、パン子の歌声やメロディーには、いわゆる「癒 し」の効果があると思うのだ。一人で聴いていると、 俺の心はやわらかな真綿でくるまれたようになり、 なんともふしぎな安堵の世界をたゆたいはじめる。  ところが歌詞をちゃんと聴くと、また少し印象が 変わってくる。パン子の感性が紡ぎ出す詞には、な んとも言えない「もの哀しさ」が漂っているのだ。 バラードはもちろん、ホップでアップテンポな楽曲 でさえも、歌詞を咀嚼すればするほどに、言葉の裏 側からじわじわと哀しみの匂いが滲み出してくる。  からりと陽気に笑う、チェアリング部のパン子。  哀切を秘めた言葉を編み、それをやさしく唄いあ げるパン子。  前者はフルカラーで、後者はモノクローム。  ふつうの大学生と、音楽クリエイター。  光と、影−。  正直、本人を知っている俺としては、そのギャッ プに違和感を覚えずにはいられなかった。でも、も しかすると、そのギャップこそが彼女の人間性の幅 であり、才能の顕れなのかもしれないけれど。  俺は、あらためて、モノクロのパン子を見詰めた。  たぶん俺は、本当のパン子を知らないんだろうな  なんとなくそう思って天井を見上げたとき、デス クの上で充電中たったスマホが振動した。電話だ。  電話をかけてきたのは、珍しく実家の母たった。  俺は、パン子の歌声のヴォリュームを絞って電話 に出た。  「もしもし」  「あ、誠? 遅くにごめんね」  久しぶりの声を聞きながら、俺は壁の時計を見た。  午後十一時十五分。  「いや、ぜんぜん大丈夫だけど」  おそらく母は、今日一日の営業を終え、店内の片 付けもすべて終えたところで俺に電話をかけてきた のだろう。  「まだ寝てなかった?」  「さすがに、この時間には寝ないよ。つていうか、 どうしたの?」  「うん、たいしたことじやないんだけどねI」   と断ってから、母は用件を話しはじめた。   いわく、実家の俺の部屋が黴臭いので、その臭い の囚を辿ってみると、出窓に置いてあるオートバイ 用のヘルメットが原因だとわかった。内側にびっし りと自い黴が生えていたから、さすがに捨てようと したけれど、持ち主の許可なしに捨てるのもどうか と思い、とりあえず電話をかけてきた、というわけ だった。  「黴ってI、洗っても駄目そう?」  「駄目だと思う。内側のスポンジみたいなのも劣化 してて、触るだけでボロボロ剥がれ落ちてくるし」 「そっかあ」と言ってから、俺は肚を決めた。 「じゃあ、うん、捨てちゃってくれる?」  「わかった。じゃあ、捨てとく」  「よろしく」  「うん。で、最近はどうなの?」  「え?」  「ちゃんと栄養のあるご飯、食べてる?」  「まあ、わりとちゃんと食べてると思うよ。農家の 友達が採れたて野菜を持ってきてくれるから、それ を同居人だちと一緒に料理して食べてるし」  「あら、料理にちっとも興味のなかった誠が台所に 立つてるなんて、偉いじやない」  「べつに、偉くはないでしよ。生活のためだし」  そう答えた俺は、自分の言葉の歯切れの悪さに気 づいて話題を変えた。  「あ、そういえばI、そのうち、また、友達を連 れて帰ると思うから、よろしくね」  「お友達つて、前に来た二人? ええと……」  「ミリオンとマスターね」  「ああ、そうそう。ミリオン君と、マスター君」  「今回は、あいつらの他に、女子が二人加わるか ら」  「あら、女の子も?」  「うん。なんか、ミリオンとマスターが、うちの ロールキャベツが美味かったって吹聴してさ、そし たら女子たちも食べてみたいって言い出して」  こんなことを言ったら、きっと母は照れるだろう な、と思っだのだが、なぜか母は含みのあるような 言葉を囗にしたのだった。  「そっか。うんI、それは、嬉しいことだよね」  俺は、スマホを耳にあてたまま首を傾げた。そし て、訊いた。  「もしかして、何か、あった?」  しかし、母は、俺の問いかけを無視して、逆に訊 き返してきた。  「お友達は、いつ来るの?」  「え? ええと……… いまのところ夏休みの予定だ けど」  「わかった。じやあ、お友達と会えるのを楽しみに してるよ」  母の声に、いくらかの明るさが戻った気がしたけ れど、このまま通話を切るワヶにいかず、俺は、ふ たたび訊き返した。  「だから、何かあった?」 「ううん、ちょっと考え事をしてただけ」 「いやいや、そんなわけないでしよ」  すると母は観念したのか、小さなため息を洩らし てから、「あのね」と切り出した。  「誠には、もうしばらく黙っていようかなって思っ てたんだけどI」  それから母が、ぽつりぽつりと囗にした言葉は、 春の牡丹雪のようにずっしりと俺の内側に積もって いった。そして、そのまま五分ほど言葉を交わし 合って、久しぶりの通話を終えた。   スマホを握りしめたまま、俺はかすれた声でつぶ やいた。  「なんで、いままで……」  黙ってたんだよI。  そして、ゆっくり、深く、息を吸い、吐いた。  静かな部屋のなか、ささやくようにパン子の歌声 が漂っている。  俺は、さっき下げたヴオリユームを元に戻した。 そして、パソコンのモニターに視線を移した。モノ クロームのパン子が、真綿の声で語りかけてくる。  俺は手にしていたスマホを操作して、SNSに短 文を投稿した。 『モヤモヤして、眠れそうにない夜……』  そして、スマホをデスクの上に置いた。もう一度、 深呼吸をして肚に力を込めた俺は、椅子から立ち上 がり、シェアハウスの共用スペースとなっている居 間を覗いた。  誰もいない居間はカランとして、いつもより広く 感じた。居間の隅っこには、ダンボール箱がポツン と置かれている。箱の中身は、風香が持ってきてく れた野菜だ。昨夜、俺たちは、その野菜をたっぷり 使って、風香に教えてもらったレシピ通りにカレー を作った。完成したカレーは想像以上に美味しくて、 最初のひとくちを囗に運んだ瞬間、三人そろって 「おおっ!・」と目を丸くしたほどだった。  そもそも、風香にこのカレーのレシピを伝授した のは、イケメンサーフアーの直斗さんという入らし い。直斗さんは、隣の龍浦町の海岸沿いにある小さ なカフェ『シーガル』のオーナーで、風香とは親戚 にあたる農家の息子だそうだ。そして、その『シー ガル』で人気ナンバーワンを誇る名物メニューが、 風香に伝授された野菜カレーというわけだった。  シーガル、か……。  胸裏でつぶやいた俺は、パン子の歌声が漂う自室 へと戻った。  シーガル。日本語で言えば、かもめ。  隣町の「シーガル」は、野菜カレー。  実家の「かもめ亭」は、ロールキャベツ。  妙な縁を感じつつ、ふたたび椅子に腰掛けようと したとき、部屋の片隅に置いてあるヘルメットが目 についた。  夜中にバイクを走らせて気晴らしするのもアリだ なI。  そう思って俺は、引きかけていた椅子を戻した。  と、そのとき、ふたたびスマホが振動した。今度 は電話ではなく、メッセージだった。端末を手にし て画面を見ると、王丸玲奈という文字が目に飛び込 んできた。パン子だ。  メッセージの内容は、だったの一文で、『あたし も眠れん……』たった。つまり、パン子は、いま、 俺のSNSの投稿を読んで、すぐにメッセージを 送ってきたのだ。  俺は、パン子の歌声に包まれながら、その本人に レスを返した。 『眠れん……つて、何かあった?』  そのレスも、すぐに来た。  『まあ、よくあることなんやけど……。人生いろい ろやね』  人生いろいろ、かI。  『ポンドだよな』と入力しながら俺は嘆息した。そ して、送信。  『つてか、マック、いま、なにしてん?』  『パン子とメッセージしてる』  『そうじゃなくて!・』  さすがにパン子の歌を聴いてるよ、とは書けなく て、  『これからバイクでひとつ走りして、ストレス発散 しようかなって思ってたところ』  と返信した。すると、思いがけない言葉が返って きたのだ。  『えっ、あたしも行く!・』  『マジで?』  『後ろに乗せてよ。夜の海とか見たいわあ』  俺は『いいよ』と入力しかけた指をいったん止め て、少しのあいた考えた。そして、あらためて返信 した。  『いいけど、夜のバイクはけっこう寒いから、冬の 服装に着替えておいて』 『わ1い。了解!・』 『これからアパートの前まで迎えに行くよ』  すぐに『アイアイサ♪』というスタンプが来た。  俺はスマホをショルダーバッグにしまうと、長袖 シャツの上にジャンパーを羽織った。ヘルメットを かぶり、さらにタンデム用のヘルメットを手にして ノートパソコンを閉じる。  パン子の歌声が消えた。  部屋の温度が二度くらい下がった気がした。   ゛  `  パン子が一人暮らしをしている二階建ての自いア パートは、細い路地の奥まったところにある。  俺は青白く光る街灯の下にバイクを停め、エンジ ンを切った。  排気音が消えると、周囲の闇の静けさが際立った。  俺はバイクに跨ったまま二階のいちばん右にある ドアを見上げた。これまでにも何度かチェアリング 部のハイエースで迎えに来たことがあるから、パン 子の部屋はすでに知っている。  ヘルメットを脱ぎ、バックミラーにかけた。ショ ルダーバッグからスマホを取り出して、パン子を呼 び出そうとしたところで、  カチヤ……。  小さな音とともに二階のドアが開いた。  ドアの内側から四角いバター色の光が洩れて、小 柄なパン子の影が現れた。バイクのエンジン音で、 俺が来たことに気づいたのだろう。  影は、二階の手すり越しに俺を見下ろし、無邪気 な子供みたいに大きく両手を振った。俺は軽く右手 を上げて応えた。  手すりにつかまりながら、パン子が外階段を一段 一段ゆっくりと降りてくる。   やがて地面に降り立ったパン子は、ご機嫌そうな 顔で近づいてきた。珍しく、膝に穴が空いていない ジーンズを穿いている。上半身はクリーム色のダウ ンジャケットで、両手にはニットの手袋。今夜のパ ン子は、いつもより「女の子」たった。  「お迎え、ご苦労であった」  俺の前に立ったパン子が、おどけたように言う。  「言われたとおり、ちゃんとあったかい格好してる じゃん」  「ふふ。あたし、けっこう素直やろ?」  うん、と言うのも照れ臭いから、俺は「ほれ」と ヘルメットを手渡した。  「サンキュー」  受け取ったパン子は、さっそくヘルメットをか ぶった。でも、不慣れなうえに手袋をしているせい で、あごひもを締めるのに手間取っていた。  「締めようか?」  「うん」  パン子は、俺の目の前に立って、あごを上げた。 間近で目にしたパン子の首とあごは、儚いくらいに 自くて華奢で、俺は思わず、ごくり、と唾を飲み込 んでいた。 「きつくない?」  あごひもを締めて、訊ねた。 「うん、大丈夫」  俺もヘルメットをかぶった。  「オッケー、乗っていいよ」  「うん」  ヘルメットのなかで微笑んだパン子は、俺の肩を 後ろから両手でつかむと、少しぐらつきながら義足 の左脚だけで立った。そして、振り上げた右脚を シートの上に乗せた。  「ゆっくりでいいから、気をつけてな」  「大丈夫やって」  言いながらパン子は、そのままスルリと体重を移 動させ、器用にタンデムシートに跨った。そして、 両足をステップに乗せた。  「バイクの後ろに乗るのは、はじめてだっけ?」  「うん。せやから、めっちやワクワクしてん」  「そっか。じやあ、ひとつだけ注意して欲しいんだ けど」  「ん?」  「両膝の内側で、俺のケツをしっかり挟んでおいて。 そうすると走ってるときにぐらつかないから」 「オッケー」  パン子は素直にニーグリップをしてくれた。 「んじや、どこ行く?」 「夜の海!・」 「どの辺りの海がいい?」 「う1ん………どこでもええねんけど、できれば静 かで、あんまり人のいないところかな」  「静かで、人のいないところか……」  「あと、なるべく暗いところ」  静かで、大がいなくて、暗いところI。考えた ら、俺の心臓は、わかりやすいくらいに一拍スキツ プした。  「暗いと星がよく見えるやん?」  「ああ、そういうことか」  「え?」  「あ、いや……。じやあ、龍浦町にある海辺の公園 にでも行くか」  「ええよ。マックに任せる」  「オッケー」  頷いた俺は、前を向いてハンドルを握った。  エンジンをかけ、クラッチを切り、ギアを一速に 入れて、念のため「行くよ」と後ろに声をかける。 返事の代わりに、パン子は俺の上半身に身体をあず け、しがみつくように両腕を同してきた。  そんなにギュツと抱きつかなくてもいいんだけ ど……。  俺はそう思っだけれど、何も言わずにおいた。  パン子は、はじめてバイクの後ろに乗るのだ。し かも、義足で。緊張するのは当然だし、少し走って 慣れれば力も抜けてくるだろう。それにI、まあ、 何ていうか………しっかり抱きついてくれれば、走 りが安定するし、俺の背中があったかいし。  胸裏でぶつぶつ言いながら、ゆっくりとバイクを 発進させた。  パン子の両腕にいっそう力が加わる。  なんか、俺、勘違いしそうなんだけどI。  そんなことを思いながら路地を出て、坂道を下り、 「超」がつくほどの安全運転で海沿いの国道へと 戻った。  予想どおり、その頃にはパン子の腕の力は緩んで きた。  じやあ、そろそろ、バイクの風を感じさせてやる かI。  俺は走りながら後ろに向かって叫んだ。 「パン子」 「なに?」 「スピード上げるぞ」 「うん!・」  ゆるみかけていたパン子の腕が、ふたたびギュツ と俺の胴体を締め付けた。俺はじわじわとスロツト ルを同して五月の夜の海風をつくり出していく。  ゆるやかなカーブで車体を左に倒すと、パン子は ヘルメツトのなかで声を上げた。  「ヤバーい!・ めっちや最高や1ん!・」  無邪気なその声に釣られて、俺もヘルメツトのな かで頬を緩めた。  さっきまで「最低」たった夜が、いま、わずかな がらも好転しつつある。そのことに気づいた俺は、 さらにスロツトルを回した。  パン子が歓声を上げる。  ガラガラに空いた、真夜中の海沿いの国道。  背中から沁みてくるパン子のぬくもり。  冷たいけど、心地よくもある海風。  どこか現実味に欠けた夜が、前から後ろへと吹っ 飛んでいった。    第三章 葡萄色の朝  [王丸玲奈]  きいこ、きいこ。  ブランコを軽く揺らすと、錆の浮いた金属が軋む 音がした。  その音は、わたしがまだ無邪気でいられた少女の 頃を思い出させた。  ざわざわ、ざわざわ。  正面に広がる夜の黒い海からは、やわらかな潮騒 が届く。  「ねえ、マック」  わたしは、隣のブランコに向かって声をかけた。  「ん?」  まっすぐ黒い海を見ていたマックが、こちらを向  「こんなマニアックな公園、どうやって見つけた ん?」  「ああ……一年生のときに、一人でふらっとバイク に乗ってたらさ、なんとなく海につながりそうな路 地があるなって思って。で、なんとなくその路地に 入り込んでみたらI」  「なんとなく、この公園に着いた?」  「あはは。うん。全部、なんとなくだな」  「ふうん。穴場って、そんなふうにして見つけるん やね」  言いながらわたしは周囲をくるりと見渡した。  夜の海が見えて、静かで、人がいなくて、暗いと ころI。  この寂れた海辺の公園は、わたしが望んだすべて を備えていた。  公園といっても、遊具はブランコと砂場しかない。 園内のあちこちには雑草がはびこっていて、その一 部は砂場にまで侵食していた。ようするに、ここは、 近所の子供たちもほとんど訪れることのない「忘れ られた場所」なのだろう。  園内を照らす外灯も古びていて、それはまるでた んぽぽの綿毛のように、ほわっと丸く、自く、頼り ない光を放っていた。  「暗い公園やから、星がよく見えるわ」  「うん。パンツて手を叩いたら、小さな星がパラパ ラ降ってきそうだよな」  「ほんまやね」わたしは小さなため息をついて、星 空に話しかけるように言った。「あたしもバイクの 免許を取れたらなあ……」  「取れたら、パン子は何したい?」  訊かれたわたしは、ちらりとマックを見た。  マックは、わたしの義足のあたりを見ていた。  「せやなあ……」わたしは義足の左脚を前に伸ばす と、反対の右足で軽く地面を蹴って、止まりかけて いたブランコを再び揺らした。「可愛いバイクを 買って、好きなときに、好きな人と、好きな場所に、 好きなだけ行く……かな」  バイクに乗っている自分を夢想したら、なぜかブ ランコと潮騒の音が、さっきよりも少しだけ淋しく 響いた。  きいこ、きいこ。  ざわざわ、ざわざわ。  「そっか。自由な感じで、いいね」  わたしは「自由」という単語が、まだ少しだけ苦 手だ。だから、曖昧に微笑んでみせて話題を変えた。  「そういえば、うちらのホームページ、また改良し とつたな」  「ああ。うん。少しいじってみたんだけど、ど う?」  「ええやん。めっちや充実してきて嬉しいわ。ス タッフ紹介のところに忠司さんが加わってたのには 笑っだけど」  「あれ、忠司さん本人からの要望なんだよ。『一応、 俺はオーナーなんだから、メンバーに入れてくれ よ』つて」  「それ、言いそうやわあ」  わたしは忠司さんの顔を思い浮かべて、くすっと 笑った。  「だろ?」  「あと、タイトルロゴのデザイン、めっちやイケて た」  あおぞら絶景カフェ  〜Pr亀uced by新海国際大学チェアリング部  みんなで話し合った結果、わたしたちの「仕事」 のタイトルはこれでいくことになっていた。マック は、その字面を使って洒落た企業のロゴつぽくデザ インしてくれたのだ。 「パン子が気に入ってくれたなら、よかった」 「うん。好きやで、あたし」  わたしはマックの横顔を見ながらそう言っだけれ ど、照れ屋のマックは黒い海の方を向いたまま、わ ずかに目を細めていた。  「じつは、あのロゴを作るのが、いちばん大変だっ たんだよな」  間違いない。いまマックの顔を正面から見たら、 お菓子をもらった子どもみたいに二コニコしている はずだ。その顔を想像したら、わたしは、さらにお 菓子をあげたくなってしまった。  「マックには、ああいう才能があんねんなあ」  「才能? そんなの、ないない」  と、こっちを向いたマックの顔は、残念ながら苦 笑だった。  「あるやん。あたしには、あんなん作れんもん」  「あれは『才能』で作ったんじやなくて、ただの慣 れだって」  「慣れ?」  「うん。ちょっとやれば誰でも作れるようになるし Iつてか、才能があるのはパン子の方じやん」  「え?」  「音楽の才能。あの歌声を出せる『喉』は、それこ そ天性の才能だろ。あと、作詞、作曲、アレンジ、 ギターー」  マックはブランコを止めて、わたしの「才能」と やらを指折り数えはじめた。だから、わたしもブラ ンコを止めて静かな声でかぶせた。  「マック、あたしなI」  「ん?」  「最近、なんていうか、微妙にスランプやねん」  あまり空気が重くならないよう「微妙にスランプ やねん」のところで少しおどけたつもりだったのに、 なぜか、それがあまり上手くいかなかった。  「マジで?」  「うん。いまマックが数えてくれた才能、枯渇ナ ウつて感じ」  「枯渇ナウつて……」  「メロディーも、歌詞も、ち1つとも浮かほんの。 なんでやろ?」  それが、今夜、わたしが眠れなかった理由のひと つたった。  「先週アップされた曲、すごく良かっだけどな」  「え、ほんまに? あれ、良かった?」  「良かったよ。正直、俺の好みのど真ん中」マック はブランコに座ったまま、少し面映ゆそうな顔をし て続けた。「じつは、俺、最近さI」  「うん」  「毎晩、パン子の歌を聴きながら寝てるんだよな」  「え……冫・」  マックがわたしの歌をI。  「まあ、うん。なんかさ、聴いてると心が落ち着 くっていうか……」  マックが、ますます照れ臭そうな顔をしたので、 なんだかこっちまで気恥ずかしくなってきた。わた しは照れ隠しに、マックが褒めてくれた楽曲につい てしやべりはじめた。  「じつは、あれ、高校生の頃に作った曲でな、それ を今回、苦し紛れにアレンジしてみてん」  「あれが、苦し紛れ?」  「うん。作った当時は、いまいちピンとこなくて、 お蔵人りさせてたんやけど。でも、このあいた、ふ とあの曲のことを思い出して、なんとなく音源を聴 き直してみたら、修正すればアリかもって」  「へえ。そういうこともあるんだ」  「不思議やろ? いくら寝かしても楽曲そのものは 変わらんのに」  「酒と違って、音楽は寝かせといても熟成しないも んな」  「ほんまやね」  マックのたとえがおかしくて、わたしはくすっと 笑った。  「パン子」  「ん?」  「いま、あの曲、流してもいい?」  訊きながらマックは、ショルダーバッグのなかか らスマホを取り出した。  「はあ? あかんて。恥ずいわ」  わたしは小さく首を横に振った。  「じやあ、こうしよう。いまから俺は勝手にネット サーフィンするから、パン子は別のこと考えててい いよ」  「で、勝手に流すん?」  「うん」  「なんやそれ。あたしに拒否権はないってことや ん」  苦笑しながら言ったわたしの台詞は、遠回しの許 可になってしまったらしい。  「あはは。正解。パン子に拒否権はナシ」  マックは口元に笑みを残したままスマホを操作し はじめた。  ざわ、ざわ。  ざわ、ざわ。  二人が黙ると、やわらかな潮騒の音色が存在感を 増してくる。  わたしはふたたび義足ではない右足で地面を押し て、ゆっくりとブランコを揺らしはじめた。  きいこ、きいこ。  きいこ、きいこ。  すぐにマックのスマホからアコーステイツクギ ターのアルペジオが流れ出した。  わたしは何も言わず、足元に視線を落とした。  ブランコの音。潮騒。黒い海を渡ってきた夜風の 潮の匂い。  そして、わたしの歌声が、公園の夜気に漂いはじ めた。  ちらりと隣を見た。スマホを手にしたマックは、 穏やかそうにも不安そうにも見える横顔で、黒い水 平線のあたりを眺めていた。  わたしはブランコを揺らしたまま、マックと同じ ように黒い広がりを見詰めた。  [夏川誠]  シンプルでストレートな詞と、音符の少ないメロ ディー。その両方から哀しみの匂いが染み出してき て、俺の胸はじんわりとウェットになる。そして、 それと同時に、心がやわらかな真綿でくるまれ、落 ち着いた気分にもなっていく。  「これ、ラブソングだよな?」  俺は、ブランコを軽く揺らすパン子に訊いた。  「えI」パン子は遠くから視線を戻すと、なぜか 少し気恥ずかしそうな顔をした。「まあ、そうでも あり、そうでもないような感じ、かな」  「つて、どっちだよ」  煮え切らない返事に、俺は苦笑した。  「う1ん………ちょっと説明が難しいんやけど、聴 く人の心の状態によって、ラブソングに聞こえたり、 聞こえなかったりする感じやな。でも、本質的で普 遍的なモノは、一本の芯として真ん中に通してある。 そういう楽曲にしたかってんけど」  「なるほどなあ」  「ま、なかなか思った通りには表現でけへんわ」  「いや、できてるよ。すごいよパン子は。さすがプ ロ」  「あたし、まだ、デビューもしてへんよ?」  「デビューしてなくても、ネットの動画で収入を得 てるじやん。音楽で稼いでるってことは、すでにプ ロだって」  しかも、風香に聞いたところによれば、パン子は 大学の学費も、一人暮らしの生活費も、その収入で まかなっているらしい。  「あたし、五年も前から動画をアップしとるから。 じわじわチャンネル登録者が増えてくれただけやけ どね」  「五年前ってことはI、高校一年生の頃から?」  「せやね」  パン子はさらりと頷いたけれど、よく考えてみれ ば、それは称賛に値する行為だ。なにしろ五年もの あいた情熱を注ぎながら、ひとつのことを継続した のだから。もっと言えば、パン子がそこまでやって きたからこそ、彼女の創り出す音楽はいっそう洗練 され、結果、ファンが付いてI、そして、いま、 学費も生活費もまかなえるレベルの「仕事」になっ ているのだ。  ふと、俺の脳裏にチェアリング部の仲間たちの顔 が浮かんだ。  思えばマスターだって、高校時代にはすでに「マ スター」とあだ名されるほどコーヒーに情熱を注い でいて、それをいまでも継続中だからこそ、プロを 凌ぐような腕前を持つに至っている。  ミリオンも同じだ。中学時代に資産運用にハマリ、 高校生のときには、うっかり留年するほど傾注して いたのだ。そして、その熱をずっと抱き続けてきた からこそ、いま、ミリオンは投資一本で食べていけ るほどの手腕を備えている。  風香もまた、子供の頃から農家ならではの新鮮な 食材を使って料理の腕を磨き続けてきたからこそ、 いま、人を感動させるほどの料理を作れる人へと成 長できたのだ。  ミュージシャン、バリスタ、投資家、料理人−。  俺以外の四人は、夢を手繰り寄せるための努力を こつこつと積み重ねてきた。だからこそ、彼らが語 る夢にはリアリティがあるし、成功のイメージも湧 いてくる。なんの努力も意思決定もせず、ただ「問 題」から逃げているだけの自分を憶うと……。  なんだかなあ、と軽く嘆息した俺の脳裏には、疲 れた母の顔と、息苦しいほど完璧な「青の世界」が チラつくのだった。  「マック?」  ふいに名前を呼ばれて、我に返った。  「え?」  「いま、違う世界に行っとっだやろ?」  「悪りい。ちょっと、ぼうっとしてた」  あはは、と空笑いで誤魔化した俺は、さっきまで のパン子との会話を思い出して、ちゃんとつながる ように質問を投げた。  「高一の頃から音楽の動画を上げてたってことは、 当時のパン子が唄ってる動画もあるってこと?」  するとパン子は、なぜか慌てたように首を振った。  「ないない。あたし、黒歴史はさくっと消去する主 義やから」  「え1、マジかあ。パン子がパンクロックをやって るところ、見てみたかったなあ」  「……なんで?」  「そりゃ、ブッ飛んでるパン子を見てみたいじゃ ん」  するとパン子は何も言わずに小さく微笑んだ。  正面の黒い海から風が吹いてきて、パン子のピン ク色の髪がなびくと、形のいい頬があらわになった。  「ブツ飛んでる人を見たいなら、あたしよりミリオ ンやん?」  ふいにパン子は話題のベクトルを変えた。  「え? まあ、あいつも、ある意味、相当ブツ飛ん でるからな」  「せやろ?」  俺とパン子は、変わり者の顔を思い出して、く すっと笑った。  「ミリオンつてさ、あれでけっこうモテるんだよ な」  「あ1、せやろな。黙ってれば、ふつうにイケメン やし、高身長やし、お金も持っとるし」  「そうなんだよ。だから、ときどき女の子から告白 されちやあ、言われるまま付き合うんだけど」  「すぐにフラれちやうI、やろ?」  確信を持った苦笑いでパン子は言った。  「正解」と俺は頷く。「あいつ、よく知ればいい奴 なんだけど、いつも、ひとこと足りないから誤解さ れちやうんだよな」  「それ、分かる!・ しかも、肝心なひとことが足り ないんよ」  「そうそう。それで、いつもマスターに説教されて んの。大事なことはちゃんと言葉にして伝えなきや 駄目だって」  「その二人のやりとり、想像つくわあ」  「だろ?」  少しずつブランコの揺れ幅を大きくしながらパン 子は笑ったIと思ったら、目元に笑みを残したま まパン子がちらりと俺を見た。  「マックは、モテるん?」  「え? 俺は、ミリオンみたいにはモテないよ」  「じゃあ、どんな女子がタイプなん?」  「う1ん……」  首をひねりながら、俺は過去に好きになった女子 たちの顔を思い浮かべてみた。小学生の頃から数え ると五人の顔が浮かんだ。  「とくに決まったタイプはないかもなあ」  「つてことは、ストライクゾーンが広いんや?」  「まあ、そういうことになるのかもな。パン子 は?」  訊き返してパン子を見ると、どことなく口元が緩 んでいるように見えた。  「ん? パン子、なに笑ってんの?」  「べつに、笑ってへんよ」明らかに微笑みながらそ う言ったパン子は、自分の好みについて話しはじめ た。「あたしの好みはI、せやなあ、ど田舎とは いえ、一応あたしも関西の人間やし、やっぱ大阪の おばちゃんみたいな感じの人かなあ……」  「大阪のおばちゃんつて」  もちろん冗談だと思って俺は笑った。ところがパ ン子は、冗談を言ったつもりなど毛頭ないようで、 淡々と続けたのだ。  「ようするにアレや。打算とかナシで、ただ、自然 とおせっかいを焼いちゃうタイプの人やな」  「…………」  「泣いとる子がおったら、当然のように近づいて いって、『あらあら、どしたん? おばちゃんかお るから大丈夫やでえ』つて飴ちゃんを握らせる感 じ?」  「飴ちゃんねえ……」  「だって、そういう人が、いちばんやさしいや ん?」  「まあ、うん。分からなくもない、かな」  「ちなみに、やけどI、いま、あたしは、マック がくれた飴ちゃんを舐めとるとこやで」  「なにそれ?」  意味がわからずパン子を見たら、本当に『飴ちゃ んをもらった少女』みたいに、無垢な感じでにっこ り笑っていた。  「だって、眠れなくて悶々としてたあたしのこと、 わざわざ迎えに来て、バイクに乗っけて、ここまで 連れてきてくれて、気分を上げてくれたやろ。それ が、いま、あたしが舐めとる飴ちゃんや」  「まあ、ちょうど俺もバイクに乗ろうとしてたしね I、つていうか、パン子の気分が上がったなら、 よかったよ」 「ほな、マックは?」 「え、俺が、なに?」 「上がった?」 「気分?」 「うん」 「上がったというか、なんか、少しスッキリした感 じかな」  「ならよかったわ。あたしがバイクに乗せたわけや ないけど」  「だよな」  くすっと笑ったパン子の表情を見て、俺は、いま なら訊けると思った。  「パン子さ」  「ん?」  「やっぱり、さっき言ってたスランプが原因で、今 夜、眠れなかったのか?」  「う1ん、それも原囚のひとつやけど」  「けど?」  俺はパン子の目を見た。するとパン子は、咲かせ ていた笑みを閉じてブランコを止めると、視線を足 元に落とした。  「マック、幻肢痛って、知っとる?」  「ゲンシツウ?」  「漢字だと、幻の、四肢の肢の、痛みIつて書く んやけど」  「いや、その単語は、はじめて聞いた」  「そっか。簡単に言うとな、あたしの左脚って、脛 から先が無いやんか。なのに、その無い部分が痛む んよ。それが幻肢痛」  「無いところが痛くなる?」  「不思議やろ?」  「…………」  「でもな、後天的に手足を失った人の脳って、勝手 に『四肢がある前提』で、そこに痛みを作り出すら しいんよ」  「脳が、勝手に……」  「マック、ちょっと、そこのベンチに座らん?」  そう言ってパン子は、ブランコの隣にあるベンチ を指差して、ゆっくりと立ち上がった。  「おう」  俺も立ち上がり、二人でベンチに移動した。  パン子は俺の右側に腰を下ろすと、おもむろに ジーンズの左脚の裾をずり上げた。そして、そのま ま義足をスポツと外した。  「この義足の、いちばん上にあるプラスチックの カップみたいなところな」  「うん……」  「ここを『ソケット』言うんやけど、この形が完璧 に脚にフィットしてないと、歩いてて脚がめっちや 痛だなるんよ。で、脚の方には、ほら、こんな感じ でシリコン製の靴下みたいなのをかぶせておくねん。 要は欠損部の保護と滑り止めやな。で、このシリコ ンの先端からネジみたいなピンが出とるやろ? こ のピンをソケットの底にある穴に差し込むと、歩い てるときに義足が抜けなくなるんよ」  淡々と義足の解説をはじめたパン子は、「これ、 シリコンライナー言うんやけど」と言いながら、欠 損した脛の先にかぶせてあるシリコンを脱いだ。  ツルリとしたパン子の自いふくらはぎが露わにな る。  「触ってみる?」  「え……… いいの?」  「ええよ」  俺は、脛から先を失ったパン子の脚に向かって、 ゆっくりと右手を伸ばした。  そして、ギリギリ触れそうになった刹那−、  「わっ!・」  パン子が大声を上げた。しかも、触ろうとした脚 を跳ね上げて。  驚いた俺は、ペンチからズリ落ちそうになった。 そのまま愕然としている俺を見て、パン子は手を叩 いて笑った。  「あははは。そんなに驚くとは思わんかった。ごめ ん、ごめん」  「マ、マジで、心臓が止まるかと思った」  笑いすぎて涙目になったパン子は、「ほんま、ご めんな」と謝りながら、座り直した俺の右手首を 握った。そして「もう驚かしたりせんから」と言っ て、俺の手を欠損した箇所へと導いた。  はじめて触れたパン子のふくらはぎは、思いがけ ないくらいやわらかくて、すべすべで、ぷにぷにし ていて、そして、ハツとするほど温かかった。  「どう?」  「なんか、こう、ぷにぷにって……」  「マックの触り方、エロいわ」  言いながらパン子は、悪戯っぽく目を細めて俺を 見た。  「はっ? あ、阿呆か」  俺は、触れていた右手をそっと引いた。  「うふふ。冗談や」笑いながらパン子は、脱いでい たシリコンライナーをふたたびかぶせた。「今日み たいに、ひんやりした春の夜ならええねんけど、夏 だと暑くてシリコンのなかが蒸れんねん」  「ああ。だろうね」  「ちなみに、あたしの幻肢痛が出るのって、だいた いいつもこの辺なんよ。脚があったら、内くるぶし のあたりやな」  パン子は、脚のない中空を指差して言った。  「そっか。その痛みで、寝られなかったのか……」 「うん。でも、それだけやないけどね」 「え、まだ他にもあんのかよ?」 「まあね。でも、そっちの理由は内緒」 「なんだよ、それ」 「ええやん。人にはそれぞれ、他人には言いたくな いことがあんねん」と言いながら義足のソケットを かぶせたパン子は、いったん立ち上かって体重をか けた。「はい、これで装着完了や」  パン子は、「シヤキーン」とふざけながら親指を 立てて見せると、ついでにウインクをした。そして、 くるりと踵を返し、ふたたびブランコに腰掛けた。 俺もなんとなくベンチから腰を上げて、隣のブラン コに移る。  きいこ、きいこ。  パン子は、ブランコを揺らしながら「なんかさ I」と話し出した。「マックと出会ったのって、 三月の末やったやん?」  「うん。龍宮岬公園の駐車場な」  満開の桜を眺めながらチェアリングをしたあの日 が、なんだかずいぷんと遠い昔のように感じる。  「その翌週、前浜でいまの五人が顔を合わせて、仲 良くなって、そのままみんなで三年生になって、 チェアリング部をつくって」  「うん」  「そこからの展開、急すぎてヤバいと思わん?」  「うん。俺も、いま、それを思ってた。時間が五倍 速くらいで流れてるよな」  「せやろ。きっと、あたしたちの毎日って、パンパ なく濃密やったんやろなあって」  「だな」  と頷いた俺の脳裏に、ある疑問が浮かんだ。  「いまさらだけどさ」  「ん?」  「そもそもパン子と風香って、どうしてチェアリン グをやろうってことになったわけ?」  するとパン子は、珍しく言葉を選ぶように「う1 ん……」と首をひねって、こちらを見た。  「風香のやさしさゆえIやな」  「というと?」  「入学したての頃にな、風香、あたしの脚を気遣っ て『チェアリングを一緒にやってみない?』つて 誘ってくれたんよ」  俺は黙ったまま、パン子の左脚に視線を落とした。  「チェアリングは座ったまま楽しめる遊びやん? だから、あたしでも気後れせんと、一緒に楽しめる と思ってくれたんやろね」  「なるほど……」  たしかに、風香なら、そういうことをしそうな気 がする。  「あの娘もおせっかいな人なんよ。だから、あたし、 大好きや」  そう言って微笑んだパン子の横顔は、なんだか幼 い少女のようだった。  きいこ、きいこ。  ブランコも、どこか幸せそうにリズムを刻む。 「ねえ、マック」  パン子は、前を向いたまま俺を呼んだ。 「ん?」 「あたし、めっちや応援したいねん」 「応援?」 「うん。風香の夢」 「ああ、農家レストランな」 「叶えて欲しいなあって、心の底から思っとるん よ」  パン子は、まるで自分の夢を語るみたいに、星空 を見上げた。  「俺も応援してるIつてか、するよ」  「よろしく頼むぜ、部長」  「おう」  二人でにっこりと笑い合った。俺は手のなかにあ るスマホを見た。小さな端末からは天使の歌声が流 れている。音を出したままスマホをジャンパーのポ ケットに入れた俺は、パン子の揺れに合わせてブラ ンコをそっと揺らした。  きいこ、きいこ。  きいこ、きいこ。  「風香がイメージしてる農家レストランつてな、建 物が古民家なんやって」  「へえ」  「前にあたしたちがチェアリングをやらせてもらっ た、海を一望できる高台の空き地があったやろ?」  「ああ、風香の実家が持ってる、耕作を放棄したっ て土地な」  「せや。風香な、いつか、あの土地に古民家を移築 したいって」  「わお。それ、最高じやん」  「でもな、古民家を買って移築するのって、けっこ うお金がかかるらしくて。せやから、とりあえずは、 あの土地に、小さくて洒落たお店を建てるのが目標 やって言ってたわ」  「まずは実現可能な方法で仕事をはじめて、資金を つくるのか」  「うん。やれることからこつこつと。大事なことや んな」  だよねI。と、俺は心のなかで得心した。でも、 それができていない自分を憶うと胸がチクリと痛む。 そして、その痛みをポケットのスマホから流れ出す パン子の歌声が甘やかに包み隠してくれる。  「風香ってさ」  俺は、ひまわりの笑みを思い浮かべながら囗を開 いた。  「ん?」  「明るくてポジティブだし、誰からも好かれるタイ プじやん?」  「ほんまに、うらやましいくらいにそうやね」  「だから、こつこつやってるうちに応援してくれる 人も増えて、自然とうまく行っちやう気がするんだ よな」  「うん。あたしもそう思うし、そうやったらええな とも思うよ。けどな、ふわふわでにこにこな風香 だって、ずっとポジティブつてわけではないんよ。 ああ見えて風花も、色々と考えたり、悩んだりもし とるし」  「そっか……。そりゃそうだよな。風香だって人間 だもんな」  「せやで」  「じゃあ、アレだな。風香が凹みそうになったとき も、今日みたいにバイクに乗せてストレス発散させ てやるか」  すると、パン子は、なんとなく意味ありげな感じ で小さな笑みを浮かべた。 「バイクには、乗らんと思うけど」 「え?」 「あの娘、そういうタイプの子やから」 「そういうタイプ?」  つて、どんなタイプだよ? と俺が首をひねると、 パン子は「うふふ」と笑った。  「まあ、そこは気にせんといてや。とにかく、親友 のあたしには分かるんよ」  珍しく思わせぶりな言い方をしたパン子は、しか し、もう、この話題は終わり、とでも言わんばかり に俺から視線を外すと、正面の黒い海を見詰めて少 し声を低くした。  「あたしな、本当は風香のこと、ちょっと妬まし かった時期があんねんI、と言っても、出会った 頃の、ほんの短い期間やけど」  「へえ。なんか、ちょっと意外な話だな」  「せやろ。でも、ほら、風香ってさ、幸せな家庭に 生まれて、地域の人たちにも可愛がられて、まっす ぐのびのび育ったように見えるやんか?」  「うん」  「当時のあたしには、そういうのが、なんか、こう、 いちいちまぶしすぎてな。正直、一緒にいるのが、 ちょっとキツいなあって思う時期もあったんよ」  「…………」  「ギターのコードで言うたら、風香は明るくて素直 なメジャーで、あたしは暗くてちょっと癖のあるマ イナーセブンみたいな。わかる?」  「まあ、なんとなく、だけど」  「もっと言っちやうと、風香は素直で正直なまま生 きてきたのに、あたしは偽物だらけの人生やったな あ……つて。そんな、しよ1もない比較をして、勝 手に落ち込んだりしててん」  なにも、そこまで自分を卑下しなくてもI。  そう思った俺が、フォローの台詞を囗にしようと したとき、パン子は黒い海に向かって、ふっ、と 笑った。そして、こちらを見た。  「あたし、しよ1もない阿呆やろ?」  阿呆かどうかはさておき、俺には引っかかる言葉 があった。  「人間は誰でも阿呆だと思うけど、それより、偽物 だらけの人生って?」  俺はブランコを止めて、ちらりとパン子の左脚を 見た。  すると、パン子もブランコを止めた。  「マックはさ……」  「うん」  「マックはI、人生のすべてを『本当の自分』で 生きれとる?」  思いがけない問いかけに、俺は声を詰まらせなが らパン子の表情を窺った。パン子は、なぜか微笑ん でいた。微笑んでいるのに、心のなかに灰色の雨が 降っているような、そんな笑みにも見えた。  「俺は……」   つい嘘をつきそうになった俺に、冷たい海風が吹 き付けた。  ざわ、ざわ。  ざわ、ざわ。  やさしくて揺るぎない圧力を秘めた潮騒が足元か ら這い上かってくる。そして、その圧力が、俺に本 音をしゃべらせた。  「俺も、偽物だらけな状態で生きてるIかな」  「そうなん?」  「まあ、たぶん」  弱気な小声で言って、パン子を見た。  夜風が、ピンク色の髪をさらさらと揺らしている。 「例えば?」 「え?」 「例えば、マックのどんなところが偽物なん?」 「えっと、そうだなあ……」  首をひねりながら、俺は、自分の胸の内側を手探 りした。そして、海の匂いのする夜気を肺に吸い込 むと、それを言葉に変えた。  「自分の弱さと本音に蓋をして、平静を装っている 感じ、とか」  「マックの弱さと本音?」  小首を傾げたパン子の顔から、ゆっくりと笑みが 消えていき、今度はちょっと不思議そうな顔になっ た。  「まあ、うん」  「それってI」  「パン子は?」  そのとき俺は、ほとんど無意識に言葉をかぶせて いた。  「え、あたし?」  とパン子が眉を上げたとき、俺は自分の小狡さに 嘆息しそうになっていた。  「パン子の『偽物の人生』てどういうこと?」  そう訊いた俺は、まさにいま、自分の恥部には蓋 をして、代わりに相手の蓋を開けようとしていた。  「えっと、あたしはI」少しかすれた声を出した パン子は、しかし、そこから声色を明るく塗り替え た。「めっちや偽物だらけやけど、そのなかのひと つだけならマックに教えてあげてもええよ」  「…………」  「でも、みんなには、まだ、内緒にしといてや」  パン子は自分の囗の前に人差し指を立てて、そう 言った。  「え………あ、うん」  俺は、胸に生じた自己嫌悪の鈍痛を味わいながら 小さく頷いた。  するとパン子は「ふうっ」と何かを決意したよう に息を吐くと、思いもよらない台詞を囗にしたの だった。  「あたしな、ほんまはI、パン子やないねん」  [王丸玲奈]  わたしの言葉を聞いたマックは「は?」と絶句し た。  「ごめんやけど、じつは、あたし、パンクロックは 聴く専門なんよ」  「…………」  「高校時代にバンドをやってたって話、あれ、嘘や ねん」  「嘘って。えっ、なんでI」そんな嘘をついたわ け? とマックは訊きたいに違いない。だからわた しは自分の義足を指差した。  「だって、この脚やもん」  「…………」  「本当は、ステージの上を格好よく跳び同って、 シャウトして、胸のなかのもやもやした気持ちを ぜ1んぶ吐き出してみたかってん。けどI」 「うん……」 「あたしには無理やん、そういうの」  わたしはふたたび健常な右足で地面を押して、ブ ランコを小さく揺らした。眉を少し八の字にした マックも、何も言わず軽くブランコを揺らす。  きいこ、きいこ。    きいこ、きいこ。  ふたつのブランコの泣き声は微妙にズレて夜気に 漂った。そして、そのズレが、わたしの内側を ちょっぴり重たくした。  「せやから………あたし、恥ずかしながら、風香に そそのかされて、思い切ってパン子になってみて ん」  「風香に?」  「うん」わたしは、チェアリングをはじめたばかり の一年生の春を想いながら語りはじめた。「風香と 出会って、どんどん仲良くなっていった頃のことや けどI、あたし、風香にしよ1もない愚痴をこぼ したんよ。自分はこんな脚やから、中高生のときは バンドを含めて何もやれんかったし、きっと、これ からもって。そしたら風香が涙目でこんなことを言 い出してん。『だったら、王丸さんは、もしもの人 になればいいよ』つて」  「もしもの人?」  「うん。ようするにな、もしも、あたしが自分の理 想どおりに生きてこられたとしたら、いま、どんな 人になってるかなあIつて想像して、そういう人 になれた体で生きればいいってこと」  「え……」  マックは、いまいち腑に落ちないような顔で首を ひねった。だから、わたしは続けた。  「風香な、あたしにこう言ってん。『王丸さんは、 高校時代にめっちや格好いいパンクロックをやって た元バンドーウーマンとして大学生活を楽しみな よ』つて」  「なり切って生きるってこと、か……」  「うん。まさに、それやね。風香が言うにはな、人 間には想像力っていう最強の武器があるんやって。 想像力を働かせれば、誰でも自由に理想のきらきら した自分をイメージできるやろ?」  「まあ、うん……」  「理想の自分をイメージできたら、そのイメージ像 を現実に引っ張り出してきて、それをスーツみたい に着ちやうんやって。で、それを着た姿こそが本当 の自分だってことにして、あとは楽しんじやえばい いんだよって」  「風香が、そう言っだの?」  「せや。うじうじしてたあたしの背中をポンつて押 してくれてん」  「なるほどなあ……」  ブランコを止めたマックは感慨深げにつぶやいて 腕を組んだ。  「せやから、あたし、風香の言うとおり、試しに元 パンクロッカーのイメージを着ることにして、それ から風香に『パン子』つて呼ばれるようになったん よ」  「そっか……」  「偽モンすぎて、ダサいやろ?」  「いや、ぜんぜんダサくない」  やさしいマックは、瞬時にフォローしてくれた。  きいこ、きいこ。  わたしのブランコの音だけが暗闇を漂い、海風に 霧散する。  薄暗い公園だからマックは気づかないかも知れな  いけれど、いま、わたしはきっと赤面しているに違  いなかった。熱を持った耳がじんじんしているのだ。 それでもわたしは続けた。  「不思議やけど、ずっと理想のスーツを着たまま過 ごしてたら、だんだんそっちの方が心地よくなって きてな、いつのまにかスーツを着た自分が本物ちや うんか? つて感じになってくるんよ」  「マジで?」  「うん。せやから、いまのあたしは、あたしが本当 のあたしでいられた子供時代に戻れたみたいなI そんな感覚すらあんねん」  言いながらわたしは、まだ左脚があって、両親も いてくれた時代を憶っだ。 「パン子」 「ん?」 「ぽんと、よかったな。風香と出会えて」  マックが、今日いちばんのやさしい顔で微笑んだ。  「うん」と素直に頷いたわたしは、なぜか目の奥が 熱くなってしまっだので、「あはは。風香には、ほ んまに、大、大、大感謝やな」と、わざと明るく 言って涙腺の決壊を防いだ。  「だな」  「マックもさ、困ったときは『もしもの人』になっ たらええよ」  「俺が?」  「うん」  わたしは、気恥ずかしさを抱えたままマックに微 笑みかけた。でも、マックは少し困惑したように小 さく首を振るのだった。  「俺にはI、無理かな」  「……何で?」  「俺、そもそも、自分の理想像がイメージできない し」  「そうなん?」  つぶやくように言ったわたしは、そのままマック の顔を見詰めていた。  「俺って、本当は、どうなりたいんだろうな?」  「…………」  「パン子先生、教えて下さい」  マックは冗談めかして、拝むような格好をしてみ せた。だからわたしもくすっと笑って「知らんわ」 と冗談で返した。  「え1、なんだよ、冷たい女だなあ」  「あはは。まあ、でも、とりあえずマックは、いま のままでええんちやう? そのうちマスターみたい に達観して『自分道』を極められるかも知れんで」  「え? なんでここでマスターが出てくるんだ よ?」  「だって、ほら、マスターには『性別の概念を持だ ない人』つていう素の顔があって、そこからブレず に淡々と生きとるやん? 想像のスーツなんていら ん人やんか」  わたしがそこまで言ったとき、なぜかマックが 「え……」と言って固まった。  「ん? どしたん?」  「いや、えっとI、パン子、なんでマスターの、 そのこと、知ってんの?」  「なんでって………わりと前に、本人から聞いてた し」  「マジで?」  「うん」  「わりと前って、いつよ?」  「ミリオンの死んだふり事件の日やけど……」  「つてことは、五人がはじめて集まった日じやん」  マックは目を丸くしながらそう言った。  「まあ、せやな」  「ちょっと待て。あの日、マスター、そんな話、し たっけ?」  不審そうな目でマックはわたしを見た。  「前浜では、してへんけどなI、夜になって、い きなりマスターが、あたしと風香を入れた三人の メッセンジャー・グループを作って、メッセージを 送ってきてん」  「そのメッセージで、二人にカミングアウトしたっ てこと?」  「せやで」  わたしは頷いて、事の顛末をマックに話してあげ ることにした。  あの日−、わたしたち五人は、ミリオンのお金 の話で盛り上がり、そのとき金銭欲に関してわたし が「なんでも正直なのがいちばんや」と言って、風 香とハイタッチをした。すると、それを見ていたマ スターが「正直って格好いいよね。憧れるよ」と、 わたしたちにハイタッチを求めてきた。じつは、そ のときマスターは、初対面のわたしと風香にも「正 直に」カミングアウトしようと決めたのだそうだ。  「そっかあ……。つてかマスター、俺とミリオンに、 そんなこと言ってなかったんだよなあ」  「あたしは、マスターのその気持ち、分からんでも ないけど」  「えI」  「だって、『ぼく、女子たちにカミングアウトした よ』つて、わざわざマックとミリオンに報告するな んて、照れ臭いやん?」  「まあ、そっか。そうだよな」  「せやろ?」  「うん。でも、まあ、とにかく俺、ちょっとスッキ リしたわ」  「スッキリつて、何か?」  「パン子と風香にたいする隠しごとが、ひとつ無く なったからさ」  マックはそう言って、ホッとしたように微笑んだ けれど、それはわたしも同じだった。わたしが本当 は「パン子」じやないってことをマックにカミング アウトできたことと、それをマックがあっさり受け 入れてくれたこと。それらは、わたしにとって、と ても、とても、大きなスッキリ事案だったから。  [夏川誠]  気分がスッキリした俺とパン子は、ブランコに揺 られながら「チェアリング部」の連中をネタに話を はずませた。  例えば、風香には年子の妹がいて、いまはカナダ に留学しているとか、ミリオンは五人の弟と妹がい る大家族で生まれ育ち、かつて父親の事業が失敗し て極貧生活を味わっだけれど、でも、その父親もい まや経営者として立ち直り、成功しているらしいと か。  そして、マスターの実家の話題になったとき、パ ン子は少し声のトーンを落とした。  「そういえば、マスターのお父さんつて、わりと大 きな病院の院長先生なんやろ?」  「らしいね。俺もミリオンも会ったことはないけ ど」  「お兄さんも医者で、病院の跡継ぎなんやって?」  「なんだよパン子、そんなことまで知ってんのか よ」  「まあね。で、お父さんは、居丈高で、やたら怖い 人やって」  「まあ、そうらしいけど」  それ以上、マスターの家庭のことを話すのは、少 し気が引けるかなI。俺がそう思ったとき、パン 子は察してくれたのか、すっと話題を変えた。  「つてか、いまさらやけど、マックは兄弟おらん の?」  突然の質問に、俺は一瞬、言葉を詰まらせた。そ して、本当なら加えるべき「いまは」という単語を 伏せたまま頷いた。  「うん。一人つ子だよ」  「ほな、あたしと一緒やね」  「そっか」  「あたしな、ずっと昔からお兄ちゃんが欲しかって ん」  お兄ちゃんI。  俺は無意識のうちに早口で答えていた。  「俺は姉ちゃんが欲しかったかな」  「うん、お姉ちゃんもええなあ。めっちゃ憧れる わ」  「だろ」  「マックとあたしはさ、無い物ねだりの一人っ子仲 間やな」  そう言って微笑んだパン子が、なぜだろう、俺に はどこか痛々しいように見えた。  「まあ、うん、そうだな……」  と答えた俺も、似たような表情をしていたかも知 れない。  「あ、せや。仲間と言えば、あたしも子供の頃、お かんが作ってくれたロールキャベツが大好物やって ん」  「…………」  「あれを食べてるときは、心があったかくて、幸せ やったなあ」  痛々しさのかけらを残したまま、パン子は、その 幸せな記憶を「過去形」で語った。でも、俺は、そ れをスルーしてしまった。  「そうなんだ。いい思い出じやん」  俺は、平静を装いながら無難な台詞を囗にした。  すると、そんな俺をじっと見ていたパン子が怪訝 そうな顔をした。  「マック?」  「ん?」  パン子は静かにブランコから降り立った。そして、 両手をジャンパーのポケットに突っ込んで俺の正面 に立った。  俺はブランコに座ったまま、何も言わずパン子を 見上げてた。  「あたし、ずっと思ってたんやけど」  「…………」  「やっぱ、おかしいわ、今日のマック」  「おかしいって、なにが……」  俺は、とぼけた。  「マックの顔に書いてあんねん。ぼくは悩んでます Iつて」  「え1つ、マジか。どの辺に書いてある?」  俺はおどけながら両手で自分の顔を撫で同してみ せだけれど、パン子は、やれやれといった感じでた め息をついた。  「とぼけ方が不器用すぎて、見てられんわ」  「…………」  「しゃあない。今日は、あたしがお姉ちゃんになっ て悩みを聞いたるわ。眠れなかったわけでも何でも 話してみ?」  そう言って俺を見下ろしたパン子が小さく微笑ん だ。  だったら、話しちゃおうかな。  パン子に、ぜんぶ。  俺の心がぐらりと揺れかけたときI、それまで ずっとジャンパーのポケットから流れていたパン子 の歌声が消えた。  ふいに訪れた深夜の静けさ。  その居心地の悪さが引き金になって、俺の唇は動 き出していた。  「じつは、今日さI」  「うん」  「電話があったんだよね。実家から」  「実家の、お母さんから?」  「うん……」  「そんで?」  言いながらパン子は、ブランコの支柱に背中をあ ずけた。  「うちの店、そのうち閉めるかもって」  「え……冫・」  「二年前だったかな、実家の近くに大きな複合商業 施設がオープンしてさI」  その施設には、いくつものレストランや食堂、 フードコートがつくられ、お客さんがそちらに流れ てしまったことや、最近、母の体調が優れず医者に かかっていることも話した。  「もともと『かもめ亭』を立ち上げたのは、俺が小 四のときに癌で死んだ親父でさ。おかんは一人に なった後も、パートさんを雇って営業を続けてきた んだよね」  俺がそこまで言ったとき、パン子は、ぽつりと 言った。  「マック……」  「ん?」  「お父さんを、亡くしてたんやね」  「親父だけじゃなくて、兄ちゃんもだけど」  「え……」  「ごめん。さっき俺、自分のことを一人っ子って 言っだのは、『いまは』一人っ子って意味なんだ」  「そっか……」と小さく頷いたパン子は、何か言い たいことを飲み込んだような顔をして、もう一度、 消え入りそうな声で「そっか」と繰り返した。  パン子が黙っだので、俺はぽつぽつと話し続けた。  「兄ちゃんは俺の三つ上でさ、俺なんかよりずっと まじめで、強くて、やさしい人で。高校を出たら専 門学校で料理を習って、腕のいいシェフになって、 店をどんどん盛り上げてI、で、親父の代わりに おかんを助けるって」  「…………」  「でも、高二のときに親父と同じ悪性の腫瘍が見つ かってさ。そのときはもう医者もお手上げ状態で。 それから兄ちゃん、どんどん弱っていってI」  あれは、兄が亡くなる二日前のことだったI。  当時、中学二年生たった俺は、学校帰りに兄の見 舞いに行った。  病院のベッドの上で衰弱して痩せこけた兄は、虚 ろな目で俺を見ると、自い布団のなかから枯れ枝み たいな手をズルズルと伸ばしてきた。  そんなことは、かつてI度もなかったから、俺は ひどく動揺しながら、おずむずと兄の手を握った。 すると兄は泣き笑いみたいな顔をして、ひび割れた 声で俺の名を呼んだのだ。  「誠−」  「ん、なに?」  兄の手は、ほとんど骨と皮だけなのに、燃えそう なくらいに熱くて、怖いほどの力で俺の手を握りし めてきた。  「俺、そろそろ、駄目みたい」  「そんなこと……」  「もう、自分で、わかるから」  兄は、泣き笑いの顔を、痛々しい笑みに変えてそ う言った。  その日が近い、ということは、じつは、すでに俺 も母から聞いて知っていた。  「誠、いろいろ……頼むよ」  頼むって、何を? とは訊かなかった。兄亡きあ とに残るのは、当然、母と店だ。兄の言葉は中二の 俺の背中に重くのしかかった。だから無意識に俺は、 ゆっくりと深呼吸をしていた。  「誠−」  兄は念を押すように俺の名を囗にした。窪んだ眼 窩の奥で涙を溜めた兄の黒い瞳が強く光っていた。 そして、祈るようなその光に気圧された俺は、ほぼ 反射的に頷いていた。  「うん。わかった」  俺の囗が、嘘をついた。  すでに死を悟った、尊敬する兄を髷したのだ。し かも、俺の手を握る兄の手の熱さと力強さが怖くて、 俺は自分から兄の手を放したのだった。  そして、その夜、俺はひとりベッドのなかで泣い た。  「で、その二日後に、兄ちゃんはI」  そこまでパン子に伝えた俺は「ふう」とため息を こぼした。  「うん……」  頷いたパン子は、俯き加減のまま、黙って俺に横 顔を見せていた。  黒い海から風が吹いてきて、ピンク色の髪をさら さらと揺らす。  「俺さ、あのとき兄ちゃんについた嘘と、自分から 手を放したことがトラウマになってるんだよな」  「え?」  ようやくパン子がこちらを向いた。  「同じような夢を何度も見るんだ。ビルの屋上に自 いベッドがあって、その布団のなかから痩せた手が 出てきて、俺はその手を握ろうとしてI」  「それ、お兄さんなの?」  「夢のなかではわかんないんだけど、多分……」  そうなんだろう、と思う。いや、そうとしか思え ない。  「マックはさ」  「ん?」  「いまでも、お店を継ぐ気は無いん?」  「継ぐ気が無い、つていうか、向いてないし、自信 がないのかも」  「そうなんや……」  「ずるいんだよな、俺」  「え?」  「俺には、将来の夢もなんも無いから、就活もやる 気が起きなくてさ。だから、正直言うと、心のどこ かに、もし就職できなくても、とりあえず実家のお かんのもとでバイトつぽく働けばいいんじや ね? つていう『滑り止め』みたいな考えが捨て切 れなくて」  「うん……」  「でも、なんか、そういうのってずるいじゃん。あ の店で懸命に働いて俺を育ててくれた両親に失礼な 気もするし」  俺は太ももの上に置いた自分の両手を見下ろした。 その手には、枯れ枝のような手が発した熱と握力の 記憶がいまもこびりついている。  「電話で、おかんから『閉店するかも』つて聞かさ れた瞬間から、俺のなかで『滑り止め』つていう逃 げ道は消えてI、かと言って『店を継ぐ』のは無 理だと思うし。でも、このまま店が無くなったら淋 しいし、兄ちゃんとの約束もあるし……」 「うん……」 「で、なんか、もう、頭も心もぐちやぐちやになっ てさ」  そう言って俺は、「はあ」と情けないようなため 息をこぼした。  するとパン子は、言葉を選ぶように、ゆっくりと 話しはじめた。  「えっとな、まず、自分のことを『ずるい人』つて 責める人は、本当はずるくない人やし、お兄さんに 嘘をついたって胸を痛めとるマックは、やっぱ誠実 な人なんやなってI、あたしはそう思うよ」  俺は、パン子のやさしい言葉を素直には受け止め られず、そのまま黙ってしまった。パン子も、少し 困ったような顔で、ただ俺を見ていた。  ざわ、ざわ。  ざわ、ざわ。  潮騒が少しずつ沈黙を重くしていく。  さすがに何かしゃべらなきや、と思ったときI、 先にパン子の囗が動き出した。  「いまは、立ち止まっててもええ時期なんとちゃう ん?」  「え……」  「いまのマックは、自分の『心の声』に耳を澄ます ときなのかも」  「…………」  「自分の『心の声』つてな、最初のうちは無視でき とっても、時間が経つに連れて無視できなくなるん よ」  パン子は、ひとりで深く頷きながら「ほんまに」 と言い切った。   おそらくI、パン子は左脚を失ってから、深く、 長く、絶望した自分の「心の声」と会話してきたに 違いない。そのことを憶っだ俺は、ようやく「う ん」と頷けた。  「それにな、マックも主役を演じたらええと思う。 長い人生ドラマのなかで、たまたま、いまは立ち止 まっとるシーンつてことで」  「あはは………王役にしては地味なシーンだな」  自嘲気味に笑った俺を見て、パン子は小さく首を 振った。  「人それぞれ、色んな主役がいてええやん」  「まあね」  と俺は苦笑する。 「あたしは、そんな地味な主役の隣で、ピリリと辛 味の効いた脇役になって、主役を支えてあげるよ」  「…………」  「チェアリング部のみんなも、ギャラの濃い脇役と して、マックのこと応援してくれるに決まっとるや ん?」  「ちょっ……」  なんだよ。急に。やめろよ。俺、涙腺ゆるいんだ から。  そう思っだけれど、俺はそれを言葉にできず、た だ、ひんやりとした海風を吸い込んで、吐いた。で もI、  「大丈夫やで、マックなら」  静かに言ったパン子が、にっこりと目を細めたと き、  あ、真綿の感じだI。  そう思ったら、鼻の奥がツンと熱を持ってしまっ た。  俺は再び深呼吸をして、その熱を散らした。そし て頷いた。  「おう……」  パン子は何も言わず、ただ微笑みを少しだけ深め てみせた。 その笑みに釣られて、俺も頬をゆるめた。 「てか、パン子」 「ん?」 「いつの間にか、空か明るくなってきてる」 「あ、ほんまやね」  俺たちは空を見上げた。  海の上の空には、まだ星々がきらめいているけれ ど、俺の背後の空には透明感のある葡萄色が広がっ ていた。  世界の半分が夜で、半分は夜明けI。  まるで、いまの俺みたいだ。  「あたし、明るくなってからバイクに乗るの、 ちょっと恥ずいわ」  ふいにパン子が半笑いでそう言った。  「え、なに、それ?」  「だって、後ろからぎゆ1つて抱きつくんやで?」  「は? そういうこと言うなって。こっちまで恥ず かしくなるじやんか」  「あはは。ほんまやね」  笑いながらパン子は歩き出して、ブランコに座っ たままの俺の背後へと同った。そして、後ろから俺 の右肩に顎を乗せるようにして、しかも「ぎゆう う」と声に出しながら抱きついてきた。  「ちょっ、いきなり何して……」  ふわっと女の子のいい匂いがして、思わず俺は続 く言葉を飲み込んだ。  「明るくなっても恥ずかしがらんと、後ろから抱き つく練習や」  「なんだよ、それ」  「うふふ。慣れって大事やん?」  こうやってはしやぐことで、パン子は、情けない 告白をした俺の気持ちを少しでも軽くしようとして くれているのだ。その気遣いが背中のぬくもりを通 して伝わってくる。  そんなパン子にかけるべき言葉を探していたら  「あ、まさか、あたしに抱きつかれて文句でもある ん?」  いきなりパン子は不平の声を出した。  「いや………ない、けど」  「けど?」  「ない、です」  「せやろ? 慣れるまでは、お姉ちゃんの言うこと、 ちゃんと聞くんやで」 「分かりました、お姉様」  俺も、パン子のおふざけに乗ることにした。 「よろしい」 「でも、ひとつだけ質問してもいいでしょうか?」 「ん、なんや?」  ここまでずっと主導権を握られつ放しなのだ。そ ろそろ俺もやり返していいだろう。  「パン子つてさ、好きな人いるの?」  「…………」   一瞬、俺の胴体に抱きついていた腕が緩みかけた。 よし、このままからかってやる。 「あ、黙っちやった。つてことはI」 「おるよ」  え? いるんだ。  俺は、ちょっと意外に思いながら続けた。 「それって、もしかして」 「…………」  黙っているパン子の緊張感が伝わってくる。  「桜の季節に、龍宮岬公園で出会ったイケメンだっ たりして」  もちろん、俺は冗談で言った。  するとパン子は、予想通り、俺の耳元で吹き出し た。  「あははは。外れえ」  「マジかよ。パン子、男を見る目ねえなあ」  「ほっとけ。あたしは、二年前にイカした男と出 会っとるんや。で、それからずっと一途に想い続け とるんよ」  「二年って、ずいぶん前だな」  「せやね」  「告白とか、しないんだ?」  「どうやろなあ」  俺の肩に乗せた顎が少し動いて、かすかに頬と頬 が触れ合った。  「じやあ、俺も応援するよ」  「え?」  「パン子の人生に登場する、ピリリと辛味の効いた 脇役として」  「マジか。ほな主役のあたしが失敗せんよう、上手 くやりいや」  「なんか、ずいぷんと偉そうな主役だな」  「まあねえ」  俺たちは、少しずつ明るくなっていく海を見なが らくすくす笑った。  「パン子」  「ん?」  「なんか、ぽんと、サンキューな」  さっきからずっと喉の奥で引っかかっていた言葉 を、やっと吐き出せた。  「ちょっ、あかんて。そういうこと言われると、抱 きつくのより恥ずかしくなるやんか」  「だよな」  また、笑い合った。  「そういえば、今日からあたしたちは、一人っ子仲 間のほかに『朝帰りの仲』やね」  「たしかに。このまま二人でシェアハウスに帰って、 ミリオンとマスターを驚かせてやるか」  「あはは。それ、ええな。で、あたしがマックを抱 いたって言うの」  「嘘はついてないもんな。実際、後ろから抱きつか れたし」  「せやろ? うわ、めっちやおもろ1い」  なんだか、本当におもしろくなってきたI、と 思ったとき、背中のぬくもりがすっと離れた。  「ほら、マック、すごい。空の紫がぐんぐん広がっ てきた」  パン子は無邪気な感じで空を見上げていた。  「うん」  俺も同じ空を見上げた。  同じ風景を一緒に見て、感動を分かち合う。なん だか、チェアリングみたいだ。  「あたし、このまま海がどんどん明るく、青くなっ ていくのを見てたいわ。まだ、しばらくここにいて もええやろ?」  「どうぞ、お好きなように」  「やった」  背後で軽やかな声が上がった。だから俺は振り向 いて言った。  「俺は、ひとりで先に帰るけどね」  一瞬、ぽかんとしたパン子の顔に、パン子らしい 無垢な笑顔がはじけた。  「こら誠、あんたはいつからそんな冷たい弟になっ てん!・」  「やばっ。姉ちゃんがキレだ。逃げろっ」  俺はブランコから腰を上げると、正面の砂浜に向 かって、ゆっくり、ゆっくり、走り出した。  「コラ待てえ、ピリリと辛味の効いた姉ちゃんがし ばいたるわ」  後ろから、片足を引きずった足音が付いてくる。  すぐに、足元がさらさらの白砂になった。  「あはは。插まえたあ」  俺の右腕が、パン子の左腕に搦め插られた。  目の前に広がる海原は、空の紫色を吸い込んで、 ひらひらと神秘的に揺れていた。    第四章 鉛色の波  [夏川誠]  七月なかばの土曜日−。  俺たちチェアリング部の面々は「崖の上のヘブ ン」の隣の敷地で「あおぞら絶景カフェ」を開催し ていた。  今回は、総勢十五名の団体客に依頼されての開催 だ。  午前中に集合して準備に取り掛かった俺たちは、 テーブルとアウトドア用の椅子とビーチパラソルを 設置した。そして、いま、お客さんたちは、それぞ れ好きな椅子に腰かけて、自由気儘に青い眺望と風 香のお手製ランチを楽しんでくれている。  この日は、いわゆる梅雨の晴れ間で、広い空には 夏色のブルーが広かっていた。遠くからは蝉たちの 恋歌が聞こえてくる。コバルトの海を渡ってきた風 は、すぐそこの断崖にぶつかって垂直に駆け上がり、 敷地の隅に生えている蘇鉄の葉をさらさらと揺らし ている。  「いやあ、ここは本当にいい風が吹くなあ」チョコ レート色に日焼けした自髭の男性が、蘇鉄の近くで 陽気な声を上げた。「マスターのアイスコーヒーも 絶品だし、今日は最高だよ」  すると、その隣に座っていた自いパナマハットの 夫人が、汗をかいたアイスコーヒーのグラスを手に 頷いた。  「ぽんと。眺めも素敵だし、風香ちゃんのお料理七 美味しいし」  手腕を褒められたマスターと風香は、少し照れ臭 そうに微笑み合うと、お客さんたちに向かって軽く 会釈してみせた。  今日の団体客は、ウクレレ教室に通う千鶴バアが つないでくれた「新海アロハの会」という地元の中 高年の集まりたった。ハワイとフラとハワイアンー ミュージツクを愛好する彼らは、とにかく陽気で、 いつでも目尻に笑い皺をつくっていた。もちろん、 千鶴バアを含めた全員が涼しげなアロハシャツを着 ている。  「みなさ1ん、アイスコーヒー、ジュース、缶ビー ルは、お代わりがありますからね」  自いアディダスのキャップをかぶったパン子が言 うと、ピンク色のアロハを着たおじさんが「んじゃ、 パン子ちゃん、俺にビールのお代わりくれるかな」 と手を上げた。  「は1い」  彼らと同じく陽気な声を返したパン子は、クー ラーボックスから缶ビールをひとつ取り出して、お じさんに手渡した。  「パン子ちゃん、サンキュー」  ピンクのおじさんはハワイアンつぽく小指と親指 を立てたハンドサイン、いわゆる「バングルーズ」 を振りながら、ちょっと不器用なウインクをしてみ せた。  それを見たパン子は、クスツと笑いながら同じ仕 草を返す。  毎度のことだが、「あおぞら絶景カフェ」をやっ ていると、愛嬌のあるパン子と風香はお客さんたち に可愛がられ、すぐに名前を覚えられる。もちろん、 お客さんたちの目の前で究極のコーヒーを淹れるマ スターも、敬意を込めて「マスター」と呼ばれるよ うになる。  俺はというと、裏方の仕事が多いせいか、声をか けられるとしても「ちょっと、そこのお兄さん」が せいぜいで、ワゴンで送迎したときなどは、そのま ま「運転手さん」と呼ばれるのが常だ。  ミリオンにいたっては、経理と裏方しかしないう えに、愛想の「あ」の字も見せないから、お客さん から声をかけられるということすら稀だ。そして今 日、その無愛想の塊のようなノツポは、「用事がで きた。多分、明日には戻る」と言って、急遽、実家 に帰ってしまった。「用事って?」と理由を訊ねて も、奴はポーカーフェイスのまま「家のことだ」と しか言わなかった。こういうことはミリオンにはよ くあるので、俺もマスターもあえてそれ以上、問い 質したりはしなかった。パン子と風香も、そもそも ミリオンの「肉体労働力」は頭数に入れていないか ら、気にしている風でもない。  期待されない(あるいは、させない)、というの は、もしかすると、自分らしく生きるための有用な 手段なのかもしれないなI。  そんなことを考えながら、俺は、自分の椅子に腰 掛けて、よく冷えた缶コーラを喉に流し込んだ。い つもなら俺とミリオンの「不人気コンビ」が、並ん で椅子に座っているのだけれど、今日は俺ひとりだ けがサボつているような格好になっていた。  でも、まあ、いいのだ。  俺は、しっかり「運転手さん」をやったし。  陽気な中高年たちを相手に、笑顔でサービスをし ているマスター、パン子、風香−、この三人は チェアリング部のロゴが入っだ水色のTシャツを着 ていた。デザインを担当したのはパン子と風香だ。 以前、俺がホームページ用に作った自いロゴがバッ クプリントされていて、袖には波の模様がデザイン されている。いかにも「海の街の大学」といった感 じの爽やかなデザインに仕上かっているから普段着 としても重宝している。  もちろん、いま俺もそのTシャツを着ているけれ ど、三〇度を超えた真夏日だけに、バックプリント された部分が汗で背中に張り付いていた。  梅雨明け前なのに、すでに盛夏だな、こりゃ……。  胸裏でつぶやいた俺は、ぬるくならないうちに、 と思って、缶コーラを一気に飲み干した。  すると「めちゃくちゃ暑いね」と言いながらマス ターが戻ってきた。首にかけたタオルで額の汗を拭 きつつ、俺の隣の椅子に座る。  「ハワイ好きなあの人たちには、ちょうどいい気温 なのかな」  小声で俺が言うと、マスターは苦笑した。  「ぽんと、歳の割に元気な人たちだよね」  「せっかくパラソルで日陰をつくったのに、誰も使 わないんだもんなあ。ほら、千鶴バアもはしやいで て、めっちや楽しそう」  俺たちは、陽気な中高年の集団を眺めた。  「ほんとだ。風香とパン子もはしやいでるね」  言いながらマスターは、まぶしそうに目を細める。 「たしかに」  と頷いた俺も、目を細めていた。  海も、空も、風も、無数の笑顔も、すべてがまぶ しいのだ。  「ねえ、マック」  「ん?」  「なんかさ、順調だよね」  「え、何か?」  「何かって、あおぞら絶景カフェの運営だよ」  マスターは、当然でしよ、という顔をした。  「ああ、それか。うん、まずまず順調つてとこか な」  俺は、まぶしい風景を眺めながら答えた。  正直いえば、毎回、営業するたびに小さな問題が いくつも露呈するから、その都度、工夫と修正を繰 り返しつつ、なんとか切り抜けてきた感はある。で も、その甲斐あってか、地元での知名度はじわじわ と上がってきているようだし、ホームページのアク セス数も着実に増え続けている。  個人的には、あらかじめ「この場所で○時から 『あおぞら絶景カフェ』やります!・」と告知をして、 当日、お客さんを待つIというスタイルを基本に したのが当たりだったと思っている。それと、無理 せず土日祝日のみの営業としたのも正解たった。平 日の俺たちには大学の授業とアルバイトがあるし、 なにより、いままでどおり放課後に「チェアリン グ」をのんびり愉しむ時間を確保できているのがい い。あくまでも俺たちのメインは「チェアリング 部」の活動で、「仕事」はおまけ。この少しゆるめ のスタンスが、学生にとっては心地いいバランスな のだと思う。  パン子の発案で、ホームページの他に、各種SN Sのアカウントも持った。「あおぞら絶景カフェ」 を利用してもらったお客さんには、なるべくその場 でSNSでつなかってもらうことにしているから、 こちらの営業日時に関する情報が、常にリアルタイ ムで告知できるようになった。そのおかげか、最近 はリピーターも増えはじめている。  さらに、忠司さんの人脈を頼って、新海市の広報 誌で紹介してもらったり、老人介護施設、ゲート ボールクラブ、ダイビングショップ、草野球チーム、 市民大学のメンバー、起業家のグループなどをお客 さんとして紹介してもらえたりしたのもありかた かった。そこからの囗コミ効果が予想外なほどに大 きかったのだ。  現在ネックになっているのは、当初、俺たちが期 待していたほどの儲けにならないことだった。利益 の三割を忠司さんに渡して、その残りを五等分して みると、ふつうにアルバイトをしたほうが、よっぽ ど実入りがいいのだ。経理担当のミリオンも「料金 設定を見直すべきか」と眉間にシワを寄せているく らいだ。  「これで、もうちょっと儲かるといいんだけど なあ」  俺がボヤいたら、足元に置いたクーラーボックス からお茶のペットボトルをつかみ出しながらマス ターは言った。  「でもさ、これまではサークル活動ってことで『出 費をしながら愉しんでいた時間』が、少ないなりに も『収入を得ながら愉しむ時間』になったワケだか ら」  「ああ、そっか。そう考えると」  「やらないよりは、ずっといいよね」  「たしかに」  得心した俺が頷いたとき、ピンク色のアロハを着 たおじさんが、おもむろに立ち上がり、満面に笑み を浮かべてウクレレを弾きはじめた。しかも、その 曲に合わせて、一人、また一人と椅子から立ち上が り、女性たちはフラを踊り出し、男性陣は歌を唄い はじめた。  「あの人たち、ぽんと幸せそうでいいなあ」  思わず、俺がそう言うと、パン子と風香が戻って きた。  「今日のお客さん、めっちや陽気で最高やん」  「ね1、こっちまで楽しくなってくる」  パン子と風香も、まじりっけのない笑みを浮かべ て椅子に座った。  「冷たいお茶、飲む?」  マスターが二人に訊いた。  「うん、センキュー」とパン子。  「ありがとう」と風香。  「ついでに俺も」と俺。  そして俺たちは、一列に並べた椅子に腰掛けたま ま、片田舎のハワイアンたちを眺めた。  最初の曲が終わったとき、俺は右隣のパン子に向 かって言った。  「あのウクレレを借りて、パン子も一曲、飛び入り で披露してきたら?」  「え、なんで、あたしが?」  「パン子が唄ったら、あのお客さんたち大喜びだ よ」  「だ1か1ら、あたし、そういうのはやらんつて」  パン子は「はあ……」と煩わしそうなため息をこ ぼすと、そのままプイッと前を向いてしまった。  なんだよ、もっだいぶらないで、やればいいのに  俺は、そう思っだけれど、声にはしなかった。  というのも、これまでパン子は、かたくなに「あ おぞら絶景カフェ」での演奏を固辞し続けてきたの だ。しかも、パン子の動画に付いている数万人の フォロワーたちに宣伝や告知をすることもなかった。 ようするに「あおぞら絶景カフェ」と音楽活動は、 きっちり分けておく。どうやら、それがパン子のな かのルールらしいのだ。  以前、俺はその理由について訊ねてみたことがあ るのだけれど、そのときもパン子は、どこか投げや りな口調で「なんとなく、そういう気分やから」と、 はぐらかしたのだった。  ふたたびウクレレの演奏がはじまった。二曲目の スタートだ。  と、ふいにパン子が立ち上がった。 「あたし、トイレ行ってくるわ」  「じやあ、わたしも」  風香も立ち上がり、パン子と並んで歩き出す。二 人はヘブンの店内にあるトイレを借りるのだ。離れ ていく二人の華奢な背中を眺めていたら、マスター が俺にだけ聞こえる声で言った。  「パン子、どうしてライブはやらないんだろう ね?」  「う1ん、俺にも分からないけど……。でも、もっ たいないよな、あの才能」  俺たちが視線を合わせて、軽くため息をこぼした とき、遥か頭上から鳶の歌が降ってきた。  ぴゆ〜うひょろろろお〜。  その声に釣られて、俺たちは空を見上げた。  高く澄んだブルーの貞ん中で、スローモーション みたいにゆっくりと旋回する猛禽のシルエット。  「最近さI」上を向いたままマスターが言った。 「寝るときに、よく、パン子の歌を聴いてるんだよ ね」  「えっ、マスターも?」  「マックもなの?」  俺たちは、空から視線を戻して、互いに目を丸く した。  「うん。なんか、寝る前にパン子の歌を聴いてると、 気分が落ち着くっていうか」  「わかる。すっごく癒される。そうだよね?」  言いながらマスターは頬を緩めた。  小さく頷いてみせた俺は、あの真綿でくるまれた ような安心感を思い出していた。そして、ふと思っ たのだ。  「つていうか、マスター、毎晩、癒しが必要なわ け?」  するとマスターは、眉毛を八の字にして苦笑した。  「最近、ちょっと、いろいろあってさ」  「いろいろ?」  「う1ん………まあ、ほら、前に話した、うちの家 族のこと」  マスターの父が医者で、立派な病院を経営してい ること。その後継ぎは、医学部を出た秀才のお兄さ んと決まっていること。マスターは幼少期からずっ と父が苦手で、その父の言いなりに生きている母と 兄を見ているのもつらくて……。そんな感じだから、 もはや実家にはマスターの「心の居場所」はないこ と。マスターが以前、俺に話してくれたのは、つま りはそういうことだった。  「先週、久しぶりに兄さんから電話があってさ」  「うん」  「いきなり『お前は就職活動をしなくていい』つ て」  「は? なにそれ?」  「大学を卒業したら実家に戻って、うちの病院で事 務方をやれって」  「マスターが事務方?」  「うん。絶対に無理だと思うでしよ?」  「無理っていうか、やってる姿をイメージできな い」  「ぼくもできない」とマスターは苦笑して続けた。 「いずれ院長になる兄さんを補佐しながら、兄弟で 病院を経営しなさいって。まあ、全部、父さんの指 示なんだと思うけど」  「そしたら、喫茶店をやるっていう夢は?」  俺のストレートな問いかけに、マスターは大きく 息を吐いた。呼吸で気持ちを整えないと、続きを話 せなかったのかもしれない。  「もちろん、ぼくの夢は変わらないよ。兄さんにも、 将来は自分のお店を持ってバリスタになるって言っ たんだけど……」  「けど?」  「お前は馬鹿か? つて、鼻で嗤われちやった」  「…………」  俺は何も言えず、ただ、ため息をこぼした。  「あの二人からしたら、コーヒーの美味しさとか喫 茶店の経営なんて、おままごとレベルの下らないこ とでしかないんだよね」  「マジかよ……」  俺は小さく首を振りながら、そうつぶやいた。  「なんか、ごめん。暗い話になっちやったね」  「いや、俺は大丈夫だけど」  「まあ、そんなワケだからさ、最近、ぼくは寝る前 にパン子の歌声を聴きたくなっちやうんだよね」  「そっか……」  俺は椅子の背もたれにぐったりと身体をあずけた。  正面の視界に、青いツートンカラーの水平線が広 かった。その手前にはハワイアンの歌とダンスを愉 しむ陽気でカラフルなお客さんたち。絶叫する蝉、 優雅な鳶のシルエット、蘇鉄の葉を揺らす、きらき らした海風。  俺たちが、こんなに重たい話をしているというの  に、世界は明るく、そして、シンプルに美しかった。 「マックは?」 「え?」 「マックは、就活、どうするか決めた?」 「いや………正直、まだ、まったくのノープラン」  俺の脳裏に、実家の店と母の顔、そして、枯れ枝 のような手がチラついた。  「そっか」  マスターも背もたれに上体をあずけた。  「ぽんと、どうしたもんかね」  なんて囗にしながら、俺は、内心では分かってい たのだ。  いい加減、肚をくくるしかないんだよな、と。  実家のレストランで働くという「滑り止め」は消 えたわけだし、じつは、密かにほんのちょっぴりだ け期待していた「あおぞら絶景カフェ」だって、い ざ、はじめてみたら普通のアルバイトより儲からな いのだ。いや、そもそも大学を卒業して、みんなが それぞれ仕事をしはじめたら、俺ひとりになってし まうわけで……。  夢の無い人生。母の心配。兄との約束。収入。理 想と現実−、いろいろ憶っだ俺が、思わず「ふ う」と息を吐いたら、ぴったり同じタイミングでマ  スターも「はあ」と嘆息したので、俺たちは顔を見  合わせて苦笑してしまった。  ふいに左手から「お待たせえ」と風香の声がした。  振り向くと、風香とパン子がトイレから戻ってき たところだった。  「二人して、なに深刻そうな顔しとるん?」  パン子の言葉に、マスターがとても自然な明るい トーンで答えた。  「深刻ってほどじやないよ。ね、マック」  「あ、うん」  ちょっと慌てた俺も、すぐに口角を上げてみせた。  するとパン子が、俺の目をじっと覗き込んできた。  こりゃ、バレるかなI、と思ったとき、ハワイ アンの二曲目が終わった。そして、フラを踊ってい たおばちゃんが、こちらに手を挙げた。  「マスター、わたしアイスコーヒーのお代わりが欲 しいんだけど」  呼ばれたマスターは「は1い」と答えて腰を上げ ると、永の入っだクーラーボックスを手にして、一 旦、こちらを振り向いた。  「ぼくは呼ばれちゃったから、パン子と風香には マックから話してあげて。べつに、たいしたこと じやないけどね」  マスターは、そう言い残してお客さんたちの方へ と歩き出した。  たいしたことIだと思うけど……。  小柄なマスターの背中を眺めていたら、チョンと 肩を突かれた。  「マスター、なんかあったん?」  パン子たった。  俺は「まあね」と軽く頷くと、いまマスターから 聞いた話を、そのままパン子と風香に話しはじめた。  俺が話しているあいた、マスターはまばゆい日差 しのなかで、とても幸せそうにアイスコーヒーを落 としていた。  翌週の水曜日−。  午前の授業を終えた俺は、ひとリバイクで帰途に ついた。  今日は朝から薄曇りで、海沿いの国道から見渡し た海も、淡い鉛色に沈んでいた。  俺はいつものようにコンビニの手前で路地へと曲 がり、少し走ったところでシェアハウスの敷地へと 人っだ。すると、正面の母屋の縁側に並んで腰掛け た二人の女性の姿が目に入っだ。  右にいるのは千鶴バア、左にいるのは風香たった。  風香はバイクの音に気づいて、少し慌てたように 顔を上げた。  その風香と目が合った刹那−、  「えっ?」  俺は、思わずヘルメットのなかで声を出していた。  風香は、泣いていたのだ。千鶴バアに背中をさす られながら。  とにかく俺は、いつもどおり離れの前でエンジン を止め、バイクから降り立った。そのままシェアハ ウスの玄関へ入っていくこともできたけれど、さす がに見なかったフリをして消えるのは不自然すぎる。 だから俺はヘルメットを脱ぎながら、ゆっくりと母 屋に向かって歩いていった。  千鶴バアが俺に目配せをして、そっと頷いてみせ た。  その横で、風香が目頭を親指でぬぐっている。  「えっと………ただいま」  二人に向かって言うと、千鶴バアはいつものよう に「おかえりなさい」と穏やかな声を出した。そし て、風香の肩にポンと手を添えた。  「ほら、風香ちゃん、ちょうどいい人が帰ってきた じゃない。二人で椅子を持って、前浜にでも行って おいで」  えI?  わけが分からず、俺は千鶴バアと風香を交互に見 た。  風香は潤んだ瞳をこちらに向けたまま、少し面映 ゆそうに「えへへ」と泣き笑いみたいな顔をした。   f  耆  さ  広い砂浜のど真ん中に、俺と風香は使い慣れた椅 子を置いた。  なにげなく並べた二つの椅子は、みんなでチェア リングをするときよりも、いくらか間隔が広い気が した。  空はさっきよりも濃いグレーに沈み、その色を吸 い込んだ海原も気怠そうにたゆたっている。  俺たちの手には、それぞれコンビニで買ったペッ トボトルの紅茶があった。風香はそれをひと囗飲ん で明るめの声を出した。  「わたし、紅茶は、これがいちばん好きなんだよ ね」  「分かる。これ、俺もよく飲むよ」  俺は、はじめて飲む紅茶を囗に含みながら風香に 微笑みかけた。  「今日は、少し風があるね」  風香がまた明るめの声で言う。  「たしかに」  と俺は短く無難に返す。  「わたし、こういう生ぬるい風、わりと嫌いじやな いんだよね」  風香は、海風の始点を探そうとでもするように背 筋を伸ばし、じっと遠くを見詰めた。いつもは前髪 で隠れている広いおでこが風で丸出しになっている。  俺だちから三〇メートルほど離れた波打ち際に、 投げ釣りをしている老人の姿があった。小柄な爺さ んだけど、四〜五メートルはありそうな長い釣竿を 器用に振っている。  「マック」  「ん?」  「なんか、ごめんね。急に付き合わせちやって」  釣り人の方を見ながら風香が言った。 「いや、全然。俺、今日は暇だし」  軽く首を振りながら風香を見たら、やっぱり少し 気まずそうに微笑んでいた。  自分からは、言い出しにくいのかなI。  そう思った俺は、さりげなく核心に触れることに した。  「千鶴バアつて、本当にやさしいよな」  こちらの意図が伝わったのだろう、風香は声の トーンを少し落とした。  「うん。わたしが子供の頃から、ずっとやさしい よ」  風香は水平線の辺りを眺めながら深呼吸をした。  俺は黙って次の言葉を待った。  それから鉛色の波が、三回、正面の汀に打ち寄せ たとき、ようやく風香は、さっきの涙の理由を語り はじめたのだった。  「あのね、せっかくマックに聞いてもらっても、結 果が変わるようなことじやないんだけど……」  「うん」  「前に、海が見える高台の空き地でチェアリングを やったでしよ」  「ああ、元々は風香んちの畑だったってところな」  しかも、そこは、いずれ古民家を移築して農家レ ストランをやりたいと風香が考えている土地だ。  「そう、あの土地なんだけど……。売られてたんだ よね。わたしが知らないあいたに」  「えっ、どういうこと?」  「先月から不動産屋さんに売地として預けてたらし いんだけど、最近、買い手が見つかって、その人と 契約を結んだって」  風香はため息をこぼしつつ微笑んで、手元の紅茶 に視線を落とした。  「土地を手放しだのは、風香の両親の意思?」  「うん……。でも、率先して売っだのは、お義父さ んだって」  「なんで? 風香があそこでレストランをやりたい と思ってること、知ってるんだよね?」  すると風香は、ゆっくりと二度、首を横に振った。  「あの土地でI、とまでは言ってなかったの。お 母さんにも、あの人にも」  あの人−、という単語が、俺の内側で異物と なって引っかかった。  かつて風香は、俺と同じく父親を病気で亡くして いて、いまは母親と再婚した義父と暮らしているこ とは知っているけれど……。  「そっか。言ってなかったのか」  「うん。まさか、先祖代々、受け継いできた土地を 売っちやうなんて、わたし思ってなかったから」  「そうだよな」  「うん……」  「でも、どうして急に売ろうと思ったんだろう?」  「あそこは、農地として使うには立地が悪いって」  「お義父さんが?」  「うん。わたしも、それくらいは知ってだけどね」  でも、それを知っていたからこそ風香は、あの土 地で……。  「契約を破棄してもらうってのは?」  「わたしも、ほんの一瞬だけそう思ったんだけど、 でも、やっぱり言えなくて……。土地の所有者は、 わたしじやないし」  「いや、でも、将来、風香が、あそこを使おうと 思ってたわけじやん? それを正直に話したら、さ すがにご両親だってI」  すると風香は、俺の言葉にかぶせるように、ゆっ くり、大きく、首を振ったのだった。  「言えないんだよ、うちは」  そう言って風香は俺から視線を外すと、鉛色の海 原を眺めた。  俺は、その横顔を見ていた。黒くて細い髪の毛が、 生ぬるい海風にあおられて、少しだけ唇にかかった。  と、そのとき、風香の下まつ毛のうえに、ぷっく りと透明なしずくが膨れ上がった。  「風香……」  「やっぱ、言えないんだよね……」  風香がまはたきをした。解き放たれたしずくが、 風香の頬のカーブに沿ってつるりとすべり落ちた。  「あの人、すごくやさしいし、いい人だから」  風香はふたたびこちらを向くと、手の甲で濡れた 頬をぬぐっだ。そして、あらためて「あの人」につ いて話しはじめた。  「あの人、本当にいつも申し訳ないくらい、わたし にもお母さんにも気を遣ってくれるの。今回のこと だって悪気はIミリもなくて、むしろ、良かれと 思っての行動だって知ってるから」  「そっか……」  と、つぶやくように言った俺は、夜の公園でパン 子が言っていた台詞を思い出していた。  ああ見えて、風香も色々と考えたり、悩んだりも しとるしI。  俺は、紅茶をひとくち囗に含んだ。囗当たりがよ くて、ふくよかな香りがする。たしかに風香が好き そうだな、と思う。風香は、そのペットボトルの蓋 のギザギザに人差し指をあてて、何度もその感触を 味わうように撫で続けていた。そして、続きを囗に した。  「わたしが中二のとき、本当のお父さんが病気で亡 くなったって話、前にしたでしよ?」  「うん」と俺は頷く。半月ほど前、野池のほとりで チェアリングをしていたときに、風香はみんなに伝 えていたのだ。  実父が他界したあとは、母と祖父母の三人で畑を 耕し続けていたという。そして風香が高校三年生の ときに母が再婚して、「あの人」が風香の義父に なった。  「あの人ね、亡くなったお父さんの幼馴染なの」  「そうなんだ……」  それは初耳だった。  「だから、わたしのおじいちゃんとおばあちゃんと も気心が知れてて」  「うん……」  「あの人、お母さんと結婚するまでは、港の市場の 近くで小さな電器屋さんをやってたんだけど、結婚 を機に、そのお店をたたんで、うちに婿養子として 入ってくれたの」  いま風香は、人って「くれた」と言った。  「それからは、毎日、朝から晩までこつこつ畑仕事 をしてくれてるし、農業に関する勉強も一生懸命し てくれて。農協の会合とかにも嫌な顔ひとつしない で出てくれるんだよね」  「なるほど」  風香が「いい人」だという理由が伝わってくる。 「うちは、ほら、男の子がいないでしよ? だから、 あの人、ときどきわたしに言うんだよね。風香ちゃ んは長女でも、家業にしばられない人生を歩んでい いんだよ。好きに生きていいんだよ。応援するから ねって」  言いながら風香の目に、ふたたびしずくが膨れ上 がってきた。  そのしずくを見ていたら、ふと、病床で目にした 兄の涙を思い出した。  びょう、と灰色のなまぬるい海風が吹いてくる。  風香の髪が乱れて、小さな束が濡れた頬に張り付 いた。   俺は、風香にかけてやるべき言葉を探した。でも、 ふさわしい言葉が見当たらなかった。だから、せめ て背中を撫でてやろうかと右手を動かしかけたけれ どI、結局、その手も引っ込めた。ふいに風香が 「はあ」と短く息を吐いて、両手で自分の頬をペチ ペチと叩いたからだ。  そして風香は、小さなひまわりの笑みを咲かせて 俺を見た。  「ぽんと、難しいな」  「え?」  「周りを気にしないで、好きに生きるのって」 「たしかに。俺もよく、難しいなって思ってるよ」 「マックも思ってるの?」 「まあね。俺、あんまり器用じゃないし」  少しおどけた感じで言うと、風香の目元に笑みが にじんだ。  「たしかにマックは、不器用そうだもんね」  「えI、そこまで直球で肯定されると、悲しいん だけど」  半分本音で言った俺に向かって、風香はくすっと 笑った。そして、頬に涙の痕を残したまま「大丈夫 だよ」と軽く頷いた。 「マックだけじゃないから、不器用なのは」 「え……」 「わたしもそうだし、パン子も、マスターも、ミリ オンも」  「ああ」  たしかにI。  「チェアリング部の五人つて、みんなそろつて不器 用じゃない?」  「言われてみれば………だよな」  頷いた俺の脳裏に、仲問たちの顔が浮かんでは消 える。  「みんな、すごくやさしくて、いい人だちなのに」  そこで風香は、いったん言葉を切った。  「なのに?」  「なんて言うか、みんな不器用で、ちょっぴり心に 傷を負ってて」  俺は、風香の唇を見たままぼうっとしてしまった。 おそらく、その言葉が妙に的を射ていたせいだろう。  「マックは、そう思わない?」  風香が小首を傾げた。  「思うよ。すごく」  そう答えた俺の声は、少しかすれてしまった。  「やっぱ、そうだよね」  「うん」  「しかも、そういう入ってさ、なんか、理由はよく 分かんないけど『愛すべき人』つて感じがする」  やさしくて、不器用で、  ちょっぴり心に傷を負っている人は、  愛すべき人。  「うん……」  分かる。その感じ。  俺は、ゆっくり、深く、頷いていた。そして、わ ずかに苦笑いを浮かべた。本当は、そんなことを考 えている風香こそ、愛すべき人だろうに、と思った のだ。  「ちなみに、マックはさ」  「ん?」  「どういう感じで、好きに生きられてないの?」  水平線から風香の視線が戻ってきた。これまで黒 目がちだと思っていたけれど、風香の瞳は、よく見 ると鳶色だということに気づいた。  「そうだなあ………俺の場合は、いろいろあるけ ど」  言いながら俺は、もやっとした鳩尾のあたりを右 手で押さえた。  「もしかして、就活のこととか?」  いきなりの図星に、一瞬、俺は固まりかけた。  「まあ、それは大きいかな。つてか、もしかして風 香、パン子から何か聞いてる?」  「聞いてるつていうか……… ついこのあいた、わた しがパン子に『マックつて就職どうするのか ね?』つて何の気なしに訊いたら、パン子が『いま は立ち止まつてるみだいやから、動き出したら応援 したろな』つて」  「それだけ?」  「それだけだけど、他に何かあるの?」  「え? いや、とくにはI、無いと思うんだけ ど」  「思うんだけど、つて、自分のことなのに」  風香は、眉を八の字にして苦笑した。  釣られて俺も小さく笑う。  「なんか俺さ、就活を前にして気持ちがもやもやす るなんて………ぽんと、どこにでも転がってる、些 細でしよ1もない悩みすぎて、我ながら情けない なあって」  そう言って俺は、ほとんど無意識に「はあ」とた め息をこぼしていた。  すると風香は「それ、情けなくないと思うよ」と 首を振った。  「え?」  「たってさ、些細でしよ1もないことにまで悩んで 動けなくなる入って、裏を返せば、自分の人生の些 細でしよ1もないところまで大切に思ってるってこ とだもん」  「…………」  「もしもマックが自分の人生をいい加減に扱う人 だったら、就活でもやもやしたりしないよ。きっと 適当な会社を受けて、適当な社会人になるんじやな い?」  いかにも風香らしい、やさしい理屈だった。  俺は、いま、風香に褒められているのか、慰めら れているのか、あるいはその両方なのかが分からな くなっていた。でも、ひとつだけ分かっていること があった。それは、風香と俺とでは、俺という存在 の捉え方が一八〇度違うということだ。  「風香」  「ん?」  「なんか、サンキューな」  「えっ? べつに、わたしは……」  照れ臭そうに椅子に座り直した風香を見ながら、 俺は心の裡をさらに吐露した。  「俺さ、チェアリング部のみんなと違って、将来の 夢が無いじやん。だから風香のことも、ちょっと羨 ましかったりするんだよな」  「わたしを?」  風香は自分の鼻を指差した。  「うん。農家レストランをやるっていう夢に向かっ て動いてるじやん。しかも、それを叶えられる環境 と実力がすでにあってさ」  と、そこまで言った刹那、俺はハッとして囗を閉 じた。  風香は、狼狽しかけた俺を見て小さく笑うと「ま あ、その環境のひとつは、失くなっちやったけど ねえ」と、あえておどけるように言ってくれた。  「ごめん。俺……」  「ううん。ぜんぜん大丈夫だよ」  風香は、不用意な俺にたいして、つゆほども不快 な顔をせずに首を振った。  「でもね、一応、言っておくと、わたしたって、 けっこうもやもやしてたりするんだよ」  「え?」  匸応、将来の夢はあるけど、でも、その夢を叶え られるっていう保証はどこにもないでしよ?」  「まあ、うん」  「だから、時々すごく不安になるし、とりあえず就 職しておいた方がいいんじやないかって、気持ちが 揺れることもあるし。しかも、あの土地を失うって いう想定外の事件まで起きちやったから、もう I」  風香は自嘲気味に小さく笑つてみせると、ペット ボトルの紅茶をひとくち飲んだ。そして、気持ちを 入れ替えたように「ふう」と息をつくと、あらため てこちらを振り向いた。  「ねえ、マック」  「ん?」  「パン子つて、すごいと思わない?」  「えI、パン子?」  話題の急変について行けず、ぽかんとしている俺 に、風香はいつもより少し低めのトーンで語りはじ めた。  「うん。パン子がね、前にわたしに言っだの。事故 で左脚を失ったときは、人生をまるごと潰されたみ たいな気分だったって。まさに絶望のどん底に堕ち てたって。それってさ、夢とか就活とかとは別次元 の絶望でしよ?」  「うん……」  パン子の左脚は、事故で失くしたのかI。  俺は、はじめて知った事実に少し戸惑いながら、 風香の言葉に耳を傾け続けた。  「でもさ、パン子は、そこから必死に立ち直って、 這い上かって、あんな風にいつも笑顔でいられる子 になったんだもん。ぽんと、尊敬しかないよ」  「たしかに」  俺は、無垢な少女みたいなパン子の笑みを憶っだ。  「どうしてパン子って、あんな風に、いつも明るく て、凛としていられるんだろうね」  風香はため息みたいに言うけれど、その答えのひ とつを俺は知っていた。  風香が、いつも傍にいて、心の支えになってるか らだよI。  「なあ、風香」  「ん?」  「パン子の脚が義足になった原因って、事故だった んだな。俺、いま知ったよ」  「え、いま? 嘘でしよ?」  風香は、とても意外そうな顔をした。  「嘘じゃないよ。事故って、交通事故?」  「そうだけど……。パン子、事故のことは、まった く隠してないし、訊かれたら誰にでも普通に答えて るのに」  「マジで?」  「うん。まさかマックに話してないなんて」  「俺が、訊かなかったからかな……」  「そうかも。だって、前に、ミリオンに訊かれてた けど、そのときもパン子、笑い話みたいにして話し てたから。イノシシに体当たりされても平気だった けど、さすがに車はあかんかったわって」  「俺、ミリオンから、その話、聞いてないんだけ ど」  ちょっと不満を込めてそう言うと、風香はくすっ と笑った。  「だってミリオンだもん。マックから訊かれなかっ たら、あえて自分からはしゃべらないと思うけど。 あ、ちなみに、その話をしてたとき、マスターもい たよ」  「え1、じゃあ、知らなかったのって俺だけじゃ ん」  ひとりパン子に気を遣いまくっていた自分が、急 に哀れに思えてきた。だから俺は、あらためて風香 に言った。  「なあ風香、俺もパン子のこと、ちゃんと知ってお きたいんだけど」  すると風香は、俺に同情したのか、小さく微笑ん で頷いた。  「だよね。部長として、マックも知っておきたいよ ね」  そして風香は、とても丁寧に話してくれたのだっ た。  「パン子が中学二年生たったときにね、両親と一緒 に乗っていた自家用車が事故に遭っだの。速度の出 るカーブを走ってたら、対向車線からバイクが飛び 出してきてI」  それを避けようとしたパン子のお父さんがハンド ルを切ると、車はスピンしてガードレールに衝突。 そして、それがトラックなど数台を巻き込んだ大事 故になったらしい。そのとき後部座席に乗っていた パン子は、開いていた窓から外に放り出されて左脚 に大怪我を負い、前の座席に乗っていたご両親は、 二人とも命を落としてしまったのだそうだ。  「バイクの飛び出しが原因で、ご両親まで……」  「うん……」  頷いた風香は、痛々しそうに眉をひそめていた。  ふと俺の背中に、パン子のぬくもりが甦ってきた。 そして、あの夜の公園でパン子と交わした会話を思 い出した。俺が小学四年生のときに父を亡くしたと 告げたとき、パン子は、やたらと悲しげな顔で 「マック………お父さんを、亡くしてたんやね」と 言ったのだ。  あの夜−、俺のバイクの後ろに乗ったパン子が、 必要以上にぎゆっとしがみついてきたのは、もしか すると、その事故のトラウマによるものだったので はないか。変にはしやいでいたのも、事故の恐怖を まぎらわすためだったのかも……。  俺の考えすぎたろうか。  とにかく、パン子は十四歳で家族を亡くし、独り ぼっちになったI。  しかも、左脚まで失って。  「風香」 「ん?」 「その事故の後のパン子の生活は?」 「歳の近い従妹がいる伯父さんの家にあずけられて、 そのまま高三までお世話になったって」  そして、大学生になるのを機に伯父さんの家を出 て、いまのアパートで一人暮らしをするようになっ たというわけだ。   周囲をパツと明るくする笑顔。   心を真綿で包んでくれるような歌声。   そして、哀しみを漂わせる楽曲。   俺のなかで「パン子」という存在が少しだけ腑に 落ちた気がした。  風香は穏やかな声で続けた。  「中二のときにパン子は両親を亡くして、わたしも 中二のときにお父さんを亡くしてI。で、それか ら、わたしたち、本当の親じゃない人のお世話にな りながら生きてきたでしよ?」  「うん……」  「わたしとパン子って、そういう変な共通点がある せいで、なんとなく他人とは思えないような部分が あるっていうか、仲間意識みたいなのが芽生えてる のかもなってI」  「そっか。それで、あんなに……」  二人は仲がいいんだ。  風香とパン子は、心の傷から流れ出した血と血で 繋かっている。だからこそ結びつきが強いのだろう。  「パン子ね、亡くなったお母さんが作るロールキャ ベツが大好物だったんだって」  「…………」  二年くらい前だったかな、お母さんのレシピはだ いたい覚えてるから一緒に作ろうって言われて、パ ン子の家で作ったことがあるの」  そういえば、夜の公園でパン子はロールキャベツ について、俺に話そうとしていた。でも、あのとき は俺が強引に話題を変えてしまったのだ。  「そのロールキャベツ、美味かった?」  「それはもう」風香は素敵な想い出を眺めるような 目をした。「味付けがやさしくて、すっごく美味し かったよ」  「そっか……」  「そのときパン子、ロールキャベツを食べながら、 はじめてわたしに亡くなったお母さんのことを色々 と話してくれたんだよね。時々、うるっとしながら。 でも、想い出を回想してるときは幸せそうな顔をし てたなあ」  きっと、それは、風香にしか見せない表情なのだ ろう。  「ちなみに、どんな話を?」  「ん1と、例えば………ハン子のお母さんが、ロール キャベツを好きな理由とか」  「え、理由って、味じゃないの?」  「うん。味はもちろんだけど、それ以外にもあった んだよ」  なまぬるい海風に吹かれた風香は、その横顔にま どやかな表情を浮かべて続きを話してくれた。  「大切なものをしっかり包み込んでコトコト煮てる と、包んだ方も、包まれた方も美味しくなるのが ロールキャベツでしよ?」  「うん……」  「パン子のお母さん、その様子を見て、『ロール キャペツつて仲良しな親子みたいで好きやわあ』つ て言って、パン子のことをいつも『ぎゆうう』つて 抱きしめてくれてたんだって。だからパン子は、い までもロールキャベツを見ると、その言葉とシーン を思い出して、無条件に愛おしくなっちやうみたい なの」  「そっか……」  あの夜−、もしかするとパン子は、俺にこの話 をしようとしてくれたのかもしれない。だとしたら 俺は、少しくらい自分の胸が痛んだとしても、ちゃ んと聞いてやるべきだった。  「そういえば、はじめてマックだちと、この前浜で チェアリングしたとき、みんなでマックの実家に 行ってロールキャベツを食べようって話になったで しよ?」  「ああ、うん」  「あの日の夜ね、パン子、わたしと二人になってか ら、はしやぎ気味だったんだよね。ロールキャベ ツーツアーが楽しみすぎるって」  「そっか」  「うん」  「じやあI」俺は母の顔を脳裏にチラつかせなが ら言った。「ロールキャベツーツアー、実現させな いとな」  「だね。わたしも楽しみ」  気づけば、ついさっきまでしずくを伝わせていた 風香の頬が緩んでいた。俺は少しホッとしてペット ボトルの紅茶を飲んだ。そして、そのキャップを閉 めようとしたとき、風香が言った。  「今日は、ありかとね」  「え?」  「なんか、いろいろ話せたから、少しスッキリした かも」  「いや、べつに、俺は何もI」  俺は首を横に振った。実際、何もしていないのだ。  「わたしも、パン子を見習って復活しないと」  自分に言い聞かせるように言った風香は、そのま ま背もたれに上体をあずけて「ん1」と伸びをした。  復活、かI。  俺も椅子に背中をあずけ、正面を見た。波打ち際 から沖の水平線まで、ずっしりと重たい鉛色がたゆ たっている。でも、南の方角だけは違った。低い雲 の切れ間から幾筋もの陽光が放射状に伸び、薄暗い 海原を点々と光らせていたのだ。  「風香、ほら、天使のはしごが架かってる」  俺は南の方を指差して言った。 「わあ、ほんとだあ」 「これは吉兆だから、いいことあるぞ」 「だよね。どんなラッキーが起こるかなあ」 「う1ん、このタイミングつてことは、風香のレス  トランにふさわしい、もっといい土地が見つかるん  じやないか?」  俺は、もちろん、風香を元気付けようと思ってそ う言っだのだが、しかし、どういうわけか風香は、 せっかく咲かせた笑みを苦笑いに変えてしまうの だった。  「マック、ごめんI」  「え?」  「あの土地と比べられる場所は、他にはないんだよ ね」  「…………」  俺は地雷を踏んでしまったのだろうか?  胸に嫌な熱が広かっていくのを感じながら、俺は 次に何を言うべきか考えていた。すると風香が思い がけない話をはじめたのだ。  「あそこね、亡くなった本当のお父さんと、よく二 人でおにぎりを食べた場所なの」  やはり地雷だった。俺は、またしても余計なこと を囗にした自分を軽く呪いながら「そっか。なんか、 ごめん」と控えめに言った。  「あ、ううん、大丈夫」  いまいち大丈夫ではなさそうな色をにじませなが ら、それでも風香は、ふたたび微笑んでみせた。  「わたしが小学生たった頃にね、農作業のお昼休み とかに、よくわたしが握ったおにぎりをお父さんに 差し入れしてたんだ。そうすると、お父さん、軽ト ラの助手席にわたしを乗せて、あの高台の土地まで ブーンつて上っていってI、で、一緒に海を見な がらおにぎりを食べてたんだよね」  天使のはしごを見詰めながら、風香は想い出を話 してくれた。  「お父さん、おにぎりを囗いっぱいに頬張りながら、 いつも言ってくれたの。『風香がにぎってくれるお にぎりは、ふしぎなくらい美味しい』つてI」  「うん……」  「だから、二人で『おにぎり広場』つて名付けた の」  「え?」  「お父さんとわたしで、あの場所に命名」  風香の視線が、海原から俺に戻ってきた。  「おにぎり広場、かI」  「うん。我ながら、なんの工夫もない名前だけど ね」  ふふ、と風香は目を細めて笑った。笑っているの に、涙を流していないのが不思議なくらい、その表 情は淋しげだった。  「おにぎり広場。かわいい名前だね」  「そうかな」  「うん、なんか、ほっこりする」  「ありかと」  俺は何も言わず、小さく首を横に振ってみせた。  すると、風香はまた天使のはしごを眺めてしやべ り出した。  「あの場所でね、いつも、お父さんが嬉しそうにお にぎりを食べてくれたから、わたし、誰かにご飯を 作って喜んでもらうのが大好きな子になっていって。 で、いつかこの場所でレストランを開いて、お父さ んに美味しいご飯を好きなだけ食べさせてあげる よって約束してI」  そこで風香は、いったん続く言葉を飲み込んだ。 「そっか。うん」  俺は、何度か小さく頷いて見せた。 「なんか、ごめんね」 「え?」 「湿っぽすぎる話だよね」 「いや。微笑ましくて、いい話だと思うよ」 「ぽんと?」 「もちろん」 「そっか……。うん、じやあ、よかった」  そう言って風香は、こくこくと喉を鳴らして紅茶 を飲んだ。  そのまま、なんとなく二人で黙っていたら、潮騒 と風の音が、いっそう存在感を増してきた。どこか 遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。徐々に 遠ざかっていくその音が完全に消えたとき、ふたた び風香が囗を開いた。  「お父さんが亡くなったあとね、わたし、ネットで シングルマザーについていろいろと調べてみたの」  「うん……」  「そしたら、たまたまだけど、いまの日本の子ど もって、ほぼ六、七人に一人が貧困家庭で育てられ てて、充分にご飯を食べられないでいるってことを 知ったんだよね」  「シングルマザーに限らず?」  「うん。わたしも驚いたけど、ちゃんとデータが出 てるみたい」  「マジか……」  俺も母子家庭の子だけれど、家がレストランだっ たせいか、ご飯はしっかりと食べられていた。  「でね、せっかく『おにぎり広場』でレストランを やるなら、そういう子どもたちに、せめておにぎり くらいはお腹いっぱい食べさせてあげられるような 『子ども食堂』としての役割も果たしたいなあって 思うようになったんだよね」  「子ども食堂かI」  「ほら、うちは農家だから、お米と野菜は売るほど あるし。お父さんの代わりに、お腹を空かせた子ど もたちにおにぎりを頬張ってもらうのもいいかなっ て」  「うん……」  「わたしにそれができたら、きっと空のお父さんも 喜んでくれそうだし」  「風香」  「ん?」  「空のお父さん、いま、すでに、めっちや喜んでる と思うよ」  俺は、心のままにそう言っだのだけれど、うっか り語尾を震わせてしまった。  「え……」  風香が目を丸くして一瞬、固まった。  そして、俺を下から覗き込むようにして言った。 「え? ちょっI、マック。なんで……冫・」  俺は、いったん洟をすすってから答えた。 「天使のはしごの美しさに感動しました」  苦し紛れの俺の冗談から約二秒後に、風香はプツ と吹き出した。  「マック、涙腺ゆるすぎい」  そう言って咲かせた風香の笑顔は、間違いなく今 日いちばんの無垢なひまわりだった。    第五章 パイナップル色の夕空  [夏川誠]  「ごめん、みんな、お待たせ」  ヘブンでアルバイトをしていたマスターが、息を 弾ませながら帰宅した。どうやら自転車を飛ばして きたようだ。  時刻は、午後八時すぎ。  これでようやく風香を除いたチェアリング部のメ ンバー四人がシェアハウスに揃った。  「遅刻しちやったお詫びにアイスコーヒーを淹れる から。ちょっと待ってて」  パン子とミリオンと俺は、共有スペースにしてい る居間のちやぶ台を囲んで座り、台所に消えたマス ターを待った。  相変わらずミリオンはタブレットを覗き込みなが ら、「この下げ幅をどう見るかだな」などとつぶや いている。その斜め横で頬杖をついたパン子が、 「迷ったときはトーンと買いやろ」と無責任なこと を言って笑った。  「馬鹿モノ。俺はいま、売るかどうかで迷ってん だ」  「だから、そういうときこそ逆張りして買いやろ」  「お前なあ……」  ミリオンとパン子の夫婦漫才のようなやり取り。  昼間に風香からパン子の生い立ちを聞かされたせ いか、俺は、くるくるとよく変わるパン子の表情を 感慨深い思いで見詰めていた。  すると、その視線に気づいたパン子がこちらを向 いた。 「ん? なんやマック」 「えっ、あI」 「あたしの顔に、なんか付いとるん?」 「いや、別に。なんか、ぼうっとしてた」  俺が狼狽しているところに、台所からマスターが 戻ってきた。そして、ちやぶ台にアイスコーヒーの グラスを置きながら言った。  「マックはさ、パン子があまりにも可愛いから見惚 れてたんだよ」  「きや1.マックつたら、見る目あるや1ん」  パン子は両手で自分の頬をはさみ、わざとらしく 照れたフリをした。しかし、タブレットから顔を上 げたミリオンが、あっさり話題を変えるのだった。  「おいマック、お前、俺たちに急な招集をかけたん だから、そろそろ用件を話せ」  三文芝居をスルーされたパン子とマスターは、顔 を見合わせて苦笑いをしていたけれど、ミリオンの 言うことにも一理ある。  俺は「そうだよな」と言って座り直した。  「今日は、ちょっと、みんなに相談があって」  「相談ってI、なんで風香には内緒なん?」  予想通り、さっそくパン子が怪訝そうな顔をした。  「うん、まさにそのことなんだけどI、じつは俺、 千鶴バアの勧めで、昼間に風香と前浜でチェアリン グをしたんだよね」  そう前置きをした俺は、いま風香が置かれている 状況について、ざっくりと説明をした。農家レスト ランを建てたいと思っていた土地が、知らぬ間に売 却されていたこと。しかも、その土地は、亡くなっ たお父さんとの思い出が詰まった「おにぎり広場」 で、風香が夢を抱くきっかけにもなった場所たとい ヽつこと。  「風香、泣いてたんだよ」  最後にそう言って、俺はメンバーの顔を見渡した。 するとマスターが、手にしていたグラスを置いて、 穏やかな口調で言った。  「なるほどね。で、マックは、どうしたいわけ?」  「俺としてはI、なんか、こう、想像の一歩先を 行くような『何か』を風香にプレゼントしてやりた いというか」  「想像の一歩先を行くプレゼント?」とパン子。  「うん。たとえば、一日だけでもいいから、あの場 所で風香の夢を叶えてやれたらって」  「それができたら、かなりのサプライズだけど」  と、マスターは難しそうな顔で首をひねった。  「風香の夢って農家レストランやろ? どうやって 叶えるん?」  パン子がまっすぐな視線で俺を見た。  「もちろん、風香がイメージしてる『農家レストラ ン』には遠く及ばないけど、でも、俺たちがいつも やってる『あおぞら絶景カフェ』のレストランー ヴアージョンだったら、やれるかなって」  「なるほど……。うん、それは、ええかもな」  パン子が少し身を乗り出してきた。  ところが、ミリオンの低い声が会話の流れを堰き 止めたのだ。  「ちよつと待て。もし、それをやるなら、新たな土 地の所有者から許可をもらう必要があるだろ」  「それは、わかってるよ」と俺はミリオンに切り返 した。「風香が言うには、現状、まだあの土地は空 き地のままらしいから、所有者に頼めば一日くらい 貸してくれるんじやないかな。つていうか、それよ り俺が気になってるのはさ、あそこには別荘が建つ らしくて、その基礎工事がはじまる前にやらないと 問に合わなくなるつてことなんだよね」  「その工事がいつはじまるのかは、風香から聞いて へんの?」  「ごめん。そこまでは俺も聞いてなくて」  一瞬の沈黙のあと、マスターがまとめてくれた。  「ようするに、なるべく早く新たな所有者に許可を もらって、工事がはじまる前に実行−つてことだ ね」  俺とパン子は頷いたけれど、ミリオンは腕組みし たまま目を閉じて、何やら考えているようだった。  「ほなマック、新しい所有者の連絡先は知っとる ん?」  「ごめん。それも聞いてない」 「土地を売買した不動産屋は?」  目を閉じたままミリオンが問いかけてきた。 「ごめん。それも、まだ……」  なんか俺、謝ってばかりだな、と思ったら、マス ターがフォローしてくれた。  「仕方ないよ。マックだって、ついさっき風香の話 を聞いたばかりなんだから。とりあえず、ぼくから 忠司さんに連絡して、めぼしい不動産屋に心当たり がないか訊いてみるよ」  なるほど。顔が広くて情報通な忠司さんを巻き込 めば、効率的に不動産屋を見つけられるかもしれな い。  「助かるよ、マスター。サンキュー」  俺は両手を合わせて感謝を表明した。  「あ、そういえば、みんなは知らんと思うけど、じ つは、もうすぐ風香の誕生日やから、できたら、そ の日に合わせてやるとか」  このパン子の提案には、もちろん全員が賛成した。  「ちなみに、風香には、いつ、この計画をバラすん だ?」  ミリオンの質問に答えたのは、マスターだった。  「そりゃ、すべてお膳立てを整えてからだよね、 マック?」  「うん。それがいいと思う。どっちにしろ料理長は 風香にお願いするわけだから、誕生日の少し前には 伝えないとだけど」  「せやな。なんか、あたし、わくわくしてきたわ」  「ぼくもだよ」  例によってパン子とマスターが目配せをして、ム フフと笑う。  そんな二人を尻目に、ミリオンだけは冷静な声を 出す。  「つまり、今後の流れとしてはI、一、マスター が忠司さんに連絡して不動産屋を特定する。二、そ の不動産屋に新たな土地の所有者を紹介してもらう。 三、その所有者から風香の誕生日に土地を貸しても らえるよう交渉する。できればロハで」  箇条書きみたいにまとめたミリオンが、閉じてい た目を開けて俺を見据えた。視線で「だよな?」と 念押ししたのだ。  もちろん俺は頷いた。とはいえ、その三つすべて が順調に行くとは限らないし、そもそも風香が喜ん でくれるという保証もない。だから俺は、つい胸の 隅っこにある弱気をこぼしてしまうのだった。  「この企画、俺の思いつきだけど。大丈夫かな I」  するとパン子が、コツンと音を立ててグラスを ちやぶ台に置いた。  「心配いらんつて。だって、ほら、いまのあたした ちは、過去から見たらいちばん経験豊富でI」  と言って、パン子は男三人を順繰りに見た。  ん? この台詞は……と思っていると、マスター がその続きをあっさり囗にしてしまった。  「未来から見たら、いちばん若々しいI、だよ ね」 「うん、せやで」 「つまり、俺たちは最強だ」  締めの台詞までミリオンに取られてしまった俺は、 この名言を教えてくれたしわしわの顔を思い出しな がら言った。  「当日は、千鶴バアも招待しないとな」  だね。せやな。当然だ。  それぞれ頷いた三人と俺は、愉快な悪だくみをす る子供みたいに、ニツと笑い合うのだった。  「ええと、新海国際大学の……夏川くんだっけ?」  こざっぱりとしたカウンター越しに、そう訊かれ た。  「あ、はい。今日はお忙しいところ、すみません」  緊張しながら軽く会釈をすると、目の前の男はい きなり貧乏ゆすりをはじめたようで、椅子がカタカ タと鳴り出した。  匸応、これ、僕の名刺ね」  「ありがとうございます」  差し出された名刺を両手で受け取った俺は、肩書 きと名前を見てからカウンターの上にそっと置いた。 『こころ不動産 営業担当 玉熊太』  たま くま ふとし  この人が「おにぎり広場」の売買を担当したのか  ようやく会えた捜し人を、俺はあらためて見た。  頭髪は、たわしを思わせる剛毛。黒いフレームの 眼鏡のレンズは指紋だらけ。「玉・熊・太」という 名前のとおりの体形をしているせいか、クーラーの 効いた室内でも額に汗をにじませている。年齢は、 三十代の前半といったところか。  「で、僕に用があるって、どういうこと?」  玉熊さんは貧乏ゆすりをしたまま言った。  「電話でも少しお話ししましたけど、玉熊さんが売 買を担当された土地の新たな所有者を紹介して頂け れば、と」  「う1ん。初対面の学生に顧客を紹介しろって言わ れてもねえ」  丸顔を少し傾けた玉熊さんは、なんだかすごく胡 散臭いモノでも見るように眉を動かした。  古びたエアコンが、ブーンと唸るような音を立て る。  なんだかエアコンまで俺を疑っているみたいだ。  玉熊さんの背後には、天井に届きそうな高さの事 務用の書棚があって、その奥からカチャカチヤと キーボードを叩く音が洩れ聞こえてくる。きっと書 棚の向こうは事務所になっているのだろう。  「えっと、あの………じつは、地元の農家の武藤さ んという方から玉熊さんのことを伺って、ご連絡を 差し上げたんですけど」  とりあえず武藤さんの名前を出しておけば、少し は怪しまれずに済むかもしれない。  「武藤さん?」傾けていた丸顔をさらに傾けた玉熊 さんは、ふいに貧乏ゆすりを止めた。「あっ、分 かった。ちょっとぽっちゃりした米農家のおじさん だ」  自分よりだいぶ痩せている武藤さんのことを 「ぽっちゃり」と表現する玉熊さん。この、なかな か無遠慮な人を俺たちが見つけられたのは、ミリオ ンのひらめきのおかげだった。  じつはI、マスター発案の「忠司さんルート」 では情報を仕入れられなかったのだ。さすがの忠司 さんも不動産関係は守備範囲外だったらしい。仕方 なく俺とマスターは市内の不動産屋をネットで検索 し、片っ端から電話していっだのだが、しかし、ほ とんどの不動産屋は「契約については秘密」らしく、 ほぼ門前払いたった。  凹んだ俺が、盛大なため息とともに「ああ、直接、 風香のお義父さんに訊けたら早いのになあ」とこぼ したとき、傍で株のチャートを眺めていたミリオン がボソツと言ったのだ。  「農家って横のつながりがあるんだよな? だった ら田植えのオッサンなら知ってるんじやねえか? あのオッサンー武藤さんだっけ? 風香のことも よく知ってただろ」  「あ、それだよ!・ ミリオン、冴えてるじゃん」  そう言ってマスターは褒めたけれど、ミリオンは 「俺なら当然だ」という顔をすると、ふたたび チャートを眺めはじめた。  で、さっそくスマホに登録しておいた武藤さんの 番号に電話をかけてみると、武藤さんはあっさり担 当者の名前まで教えてくれたのだった。  「風香ちゃんとこの土地の売買は『こころ不動産』 が手がけたんじゃないかな。担当は、営業の玉熊さ んつて人だと思うよ」  そして、今日−、バイトも授業もなかった俺は、 アポの取れた時刻ぴったりに「こころ不動産」に単 独で乗り込み、武藤さんよりぽっちゃりした玉熊さ んと対峙しているのだった。  「はい。その米農家の武藤さんです」  俺は玉熊さんに向かって頷いた。そして、あらた めて言った。  「武藤さんの知人の上村さんが最近まで所有してい た、海を見晴らせる高台の土地なんですけど、あの 土地を購人した方と連絡を取りたいんです。できれ ば上村さんには内緒で」  すると、ふたたび玉熊さんの貧乏揺すりがはじ まつた。  「内緒つてI。そもそも顧客の連絡先を教えるの はねえ」  「でしたら、玉熊さんに仲介に人つて頂くこと は?」  「あのさあ、夏川くんが、あの土地を買うわけじゃ ないよね?」  「え? はい。ぼくが買うわけではないです……」  「うちは不動産屋なのよ。土地を《売買》するのが 仕事なわけ」 「はい……」 「大と人のあいたに大って《連絡係》をするなんて のは、僕の仕事じゃないんだよね」  連絡係という単語を強調して言った玉熊さんは、 これみよがしにため息をついた。  「それは………もちろんわかってます。でも、そこ を何とかお願いしたくて」  「つてか、そもそも、君はどうしてうちの顧客と連 絡を取りたいわけ? その理由を先に言うのが筋 じゃない?」  たしかに、それはそうかもしれない。  「そうでした。すみません。ええとIほんの一日 だけ、あの土地をお借りして、あそこで友達の夢を 叶えてやりたいんです」  こうなったら情に訴えかけるしかない。  「友達の夢?」  「はい」  「夢って、どんな?」  少しは興味を持ってくれたみたいだ。ここで畳み 掛けねば。  「将来、あの高台の土地で農家レストランをやるの が、友達の子供の頃からの夢だったんです」  「農家レストランねえ……」  「はい。その友人は、すごくやさしい女性で、もし も夢を叶えられたら、そのレストランで子ども食堂 もやろうと思っているんです」  そこまで俺が話したとき、事務用書棚の奥で、カ タン、と音がした。そして、小さな足音がこちらに 近づいてきた。  仕事の邪魔だ、とか言って怒られたりしたら嫌だ なI。  ネガティヴな妄想をしながら足音に耳をそばだて  ていると、書棚の裏から五十路くらいの男がひょい と現れた。袖捲りをしたワイシャツ。チョコレート 色に日焼けした顔。茶色い髪はまんなか分けで、左 目のまぶたの横に三センチほどの傷痕があった。そ して、なにより目つきが異様に鋭い。正直、かなり の強面たった。でも、その強面は、両手にひとつず つ缶コーヒーを握っていて、玉熊さんの隣の椅子に ストンと腰掛けるなり、「はい、これ。キンキンに 冷えてるよ」と言いながら、ひとつを俺の前に置い てくれた。コーヒーを置いた強面の拳には、いわゆ る「拳だこ」ができていた。きっと空手か何かを やっているのだろう。 「あI、ありがとうございます」 「遠慮しないで飲んでね。で………はい、これが俺 の名刺。ついでに、こっちの名刺も渡しておこうか な」  いかつい手から二種類の名刺を受け取ったとき、 強面の男はいきなりニカツと笑いかけてきた。そし て、その瞬間、俺は呼吸を忘れて固まった。陽気さ と図太さと愛嬌がてんこ盛りになった笑みに心臓を 射貫かれて、うっかり見惚れていたのだ。  めちゃくちゃ頼れる、かっこいい兄貴−。  シンプルに言い表すなら、そんな感じの笑みだっ た。  すぐに我に返った俺は、まず一枚目の名刺に目を 通した。  『こころ不動産 代表取締役 宅地建物取引士 不 動産鑑定士 石村蓮二』  驚いたことに、この不動産屋の社長たった。  しかし、二枚目の名刺には得心した。  『キックボクシング・空手 新海ジム 会長 石村 蓮二』  とあったのだ。これで「拳だこ」の理由が分かっ た。  石村さんは、さっそく自分の缶コーヒーのプルタ ブを起こすと、ごくごくと美味そうに喉を鳴らした。  「夏川くん、だっけ?」  「あ、はい」  「遠慮しないで、コーヒー飲んでよ」  「はい。じやあ、いただきます」  俺もプルタブを起こして缶に囗をつけた。石村さ んの言葉どおり、コーヒーはキンキンに冷えていて、 なんだか喉の奥から細胞が目覚めていくような気が した。  「裏にいたら、二人のやりとりが聞こえちやってさ −」  石村さんがしゃべりはじめたとき、隣の玉熊さん が声をかぶせた。  「あのう、社長。僕のコーヒーは?」  すると石村さんは、笑いながら親指を立てて背後 を指した。  「熊ちゃんの分は、ちゃんと冷蔵庫に入ってるよ」  玉熊さんは、どうして自分の分だけ持ってきてく れないのか、と言いたげな顔をして、こっそり嘆息 した。  「でI、夏川くんのお友達、子ども食堂をやるん だって?」  石村さんは、玉熊さんには構わず問いかけてきた。  「はい。そうしたいって言ってます」  「そっか。きっと心のやさしい子なんだろうなあ」  しみじみと言った石村さんは、少しのあいた、や さしさと淋しさを同居させたような遠い目をしてい た。そして、ふいに「うっし」と言ってこちらを見 た。  「そういうことなら、俺も気合いを入れねえとな」  「え?」  「俺から顧客に頼んでみるよ。一日だけ、大学生の 夢のために土地を無料で貸してやってくれって」  「えI、ほ、本当ですか?」  「おう。貸してくれるかどうかは先方次第だけど、 とにかく交渉はしてみる。約束だ」  そう言って「めちゃくちゃ頼れる兄貴」が、ふた たびニカッと笑ったとき、玉熊さんが横から囗を挟 んできた。  「いや、ちょっと、社長。何でまたそんなI」  「いいんだよ、熊ちゃん」  「でもI」  「大丈夫だって。ほれ、今日の熊ちゃんは忙しいん だから、さくっと外回りに行ってこいって。あとの ことは俺が引き受けるからさ」  そう言って石村さんは、肉付きのいい玉熊さんの 背中をポンポンと二度叩いた。玉熊さんは、それで も不満そうに「マジですかあ……」とボヤいてみせ たけれど、さすがに社長の言葉には逆らえないのだ ろう、渋々ながらといった様子で椅子から腰を上げ た。  「今日も熊ちゃんスマイルで営業だ。ほれ、行った 行った」  石村さんの明るい声にぐいぐいと背中を押された 玉熊さんが、書棚の裏手へと消えた。すると石村さ んは、くすっと悪戯っぽく笑って、俺にだけ聞こえ る声で言ったのだ。  「なんか、ごめんね」  「え?」  「熊ちやんつてさ、まじめすぎて融通が利かないと ころがあるんだけど、根は悪い奴じやないから」  「あ、はい」  俺が頷くと、石村さんは穏やかな笑みのまま缶 コーヒーを飲んだ。そして、まっすぐに俺の目を見 て言った。  「さてと、じやあ、あらためて君の大切な友人の話、 じっくり聞かせてもらおうかな」  「はい、ありがとうございます」  俺はぺこりと頭を下げてから、今回のサプライズ 計画の概要を説明させてもらった。その間、石村さ んは、うんうんと何度も小さく頷きながら、真剣に 俺の話を聞いてくれた。  やがて一通りの説明を終えて、ホツとした俺が缶 コーヒーに囗をつけると、石村さんは穏やかな声色 で言った。  「夏川くん、いい仲間に囲まれてるんだね」  石村さんの鋭い目が、やさしげな光をたたえてい た。  「はい。本当にいい奴らです」  と素直に答えた俺は、心から思っていた。  いつか俺も、この人みたいな笑い方ができる大人 になりたいな、と。  大学三年生の前期試験が終わった。  蝉たちの絶叫に包まれた広いキャンパスは、まぶ しい夏色できらめき、校舎を吹き抜ける南風はむっ ちりとした海の匂いを運んでくる。  明日からは、いよいよ夏休みだ。  チェアリング部の面々は、いつものように学食に 集まり、終わったばかりの試験や夏休みの予定をネ タに、おしゃべりに興じていた。そんななか、俺は ひとりノートパソコンを立ち上げて、仲間たちに声 をかけた。  「みんな、ちょっと、これを見て欲しいんだけど」  「え、なになに?」  とパン子が立ち上がると、他のメンバーたちも釣 られたように集まってきた。そして、俺の左右と背 後からそれぞれパソコン画面を覗き込んだ。  「ホームページに新しいページを加えたんだけど、 どうかな?」  俺は、そう言って右隣にいる風香の横顔をちらり と見た。  左隣にはパン子。後ろにはマスターとミリオンが いる。みんな、風香がどんな反応をするか気になっ て仕方がないはずだ。  新たなページに表示されているタイトルはI、 《1日限りの「絶景!・ 農家レストラン」を開催し ます》  そのタイトルのすぐ下に、にっこり笑ったエプロ ン姿の風香の写真を載せて、『腕を振るうのは 上 村風香シェフ♪』とキャプションをつけておいた。  開催日は、風香の誕生日である七月二七日。ス タートはお昼の十二時から。海を見晴らす広場の写 真をトーンと大きく使い、「今回の絶景ポイントは、 こちら!・」という見出しを付けて、そのすぐ下には 「通称・おにぎり広場」と銘打った。ページのいち ばん下には拡大表示ができる地図と、「※メニュー などの詳細は、追って発表致します!・」という注釈 を載せてある。  この宣伝ページは、風香がOKを出してくれれば 「あおぞら絶景カフェ」のホームページに正式に アップすることになっている。つまり、風香以外の みんなからは、すでに了承済みなのだ。  「こころ不動産」の石村社長は、本当に頼れる兄貴 たった。  なんと、俺が訪れた翌日には土地の所有者と連絡 を取り合い、ばっちり風香の誕生日に「おにぎり広 場」を借りる算段を付けてくれたのだ。そして俺た ちは、風香に知られぬよう、こっそり打ち合わせを 重ねて、前期試験の最終日となる今日をサプライズ の日と決めていたのだった。  さあ、風香は、いったいどんな驚き方をしてくれ るだろうI。  俺たちは、さりげなく風香の横顔をチラ見してい た。  しかし、風香は、テーブルに両手を突いて画面を ぼうっと眺めたまま、とくに反応を示さなかった。  もしかして、このページの意味を分かってない?  若干、不安になりつつ、俺は囗を開いた。  「えっとI、じつはさ、一日だけ、あの土地を貸 してもらえることになったんだよね。で、もし、風 香がよければ、このページを俺たちのホームページ にアップしたいと思ってるんだけど」  サプライズの内容を仕掛け人の囗から説明すると いう、なんともきまりが悪い感じになってしまっだ けれど、まあ、仕方がない。とにかく俺たちは風香 に喜んでもらえればいいのだ。  ところが、ネタバレを耳にしてもなお、風香は何 も言わずパソコン画面を見詰めているばかりだった。  まさか俺、またしても地雷を踏んじやったの か……。  嫌な予感を抱きつつ左を見たら、不安そうな目を したパン子と視線が合った。後ろにいるマスターと ミリオンも、微妙な顔で風香を見ていた。  もしかすると、あの「おにぎり広場」は、風香に とって「聖域」なのかもしれない。それなのに俺た ちは、風香の許可もないまま、その「聖域」に土足 で踏み込んでしまって……と、ネガティヴなことを 考えはじめた俺は、なんだか胃の奥がずっしりと重 たくなってきて、ため息をこらえるのに必死たった。  「風香?」  パン子が親友の名前を囗にした。壊れ物にそっと 触れるような声色で。すると、ようやく風香は画面 から視線を外し、そのまま下を向いて「ふう」と息 を吐いた。  風香のその仕草にたまらなくなったのだろう、パ ン子は俺たちの後ろをくるりと回って風香の隣へと 移動した。そして、丸まった風香の背中にそっと手 を置いた。  すると、風香が下を向いたまま言った。  「あ、パン子、それは駄目。ストップ」  そして、突いていた両手をテーブルから放すと、 自分の胸に押し当てた。  「風香……冫・」  「いま背中を撫でられたら、わたし、絶対に泣い ちゃうI」  その台詞の語尾は、すでに潤み声たった。  パン子は撫でかけた手の動きを止めてくすっと笑 うと、「せやな。風香ちゃんは泣き虫やもんなあ」 と言って、撫でる代わりにパシパシと小気味よく背 中を叩いた。  「あはは、痛いよパン子」  言いながら風香が顔を上げた。  ぶわっと咲かせた泣き笑いのひまわり。  その表情を見て、俺たちはようやく胸を撫で下ろ したのだった。  「これ、ずっと、わたしに内緒で?」  「せやで。みんなで話し合いはしたけど、そもそも 企画したのはマックで、不動産屋に乗り込んで土地 を借りられるよう掛け合ったのもマックで、この ページをデザインしたのもマックやけどな」  パン子の言葉を聞いて、風香がゆっくりと俺の方 を向いた。  「マック、なんか、わたしI」  とまで言って、いったん息を吸った風香に、俺は 言った。  「まあ、ほら、不動産屋とアポが取れた日に、たま たま俺だけ授業もバイトもなくて暇だったっていう か」  「ありかと。マック……」  「お、おう。じやあ、これ、ホームページにアップ するぞ?」  照れまくりながら俺が言うと、風香は「うん」と 大きく頷いた。そして今度は、なぜか風香が照れた ような顔をしたのだ。  「あのねI、自分で言うのもナンなんだけど……… じつは、この日つて、わたしの誕生日なんだよね」  そう言って風香は、てへ、という感じで笑った。  その、あまりにも想定外の台詞に、俺たちは絶句 してしまった。  こそばゆいような沈黙が、一秒、二秒、三秒と続 いたあと、俺たちは一斉に吹き出した。そして、そ れぞれが我先にと風香に突っ込みを入れた。  「アホか、そんなん知っとるわあ」とパン子。  「たまたまだと思ったのかよ」と俺。  「あえて、その日を選んだんだって」とマスター。  そして、少し間を置いてから、ミリオンがとても 心配そうな顔で風香を見下ろしながらボソツと言っ た。  「風香、おまえ………かなりの天然だぞ。そんなん で人生やっていけるのか?」  ミリオンに本気で心配された風香はもちろん、残 りの三人もまた吹き出した。  「ちょっ、わたしが天然ってI、それ、どの囗が 言うかあ!・」  風香が笑いながら突っ込み、すかさずパン子が駄 目押しをした。  「たしかに風香もなかなかの天然ちやんやけど、さ すがに天然界の帝王・ミリオン様にだけは言われた ないわなあ」  「おい、ふざけんな。誰が帝王だ」  ぶすっと心外そうな顔をしたミリオンを見て、俺 とマスターは手を叩いて笑うのだった。  そうして迎えた風香の誕生日は、よく晴れた夏日 になった。  俺たちが満を持して臨んだ「農家レストラン」の 食事メニューは「フアーマーズーカレー」のみ。ひ とつに絞った理由は単純で、何もない現場に「レス トラン」と銘打てるほどのキッチンを用意すること ができなかったからだ。  俺たちは風香の指導のもと、前日からヘブンの キッチンを借りて業務用の寸胴鍋二つ分のカレーを 仕込んだ。そして当日は、仕込んだカレーと大量の 水と米を現場に持ち込み、プロパンガスを使った バーナーで炊飯とカレーの保温をした。ガスバー ナーは、以前、俺が倉庫整理のバイトをしたリサイ クルショップの店長が格安で貸してくれたものだっ た。  オープン時刻は正午だったけれど、二〇分前には すでに十数人ほどのお客さんたちが集まっていて、 先にビールやらジュースやらを飲みつつ勝手にわい わいやっていた。  そして、いざ正午を迎えると、俺たちはノンス トップの大忙しとなった。「経理以外はやらない宣 言」をしていたミリオンまでが尻を叩かれフル稼働 させられたほどだ。  客層も想像以上に広かった。「あおぞら絶景カ フェ」のリピーターはもちろん、ファミリー、夏休 みの子供たち、風香の実家の農家つながりの人たち や、ヘブンの常連とその周辺の人たち、大学の友人 知人の他に、まさかの教授陣までが顔を見せてくれ たのだ。そのなかに倉持教授の姿があったことで、 ミリオンのテンションも爆上がりしたIらしい。  なぜ「らしい」という伝聞なのかというと、じつ は、この日の俺は、ほとんど現場にいられなかった のだ。俺の担当は「運転手さん」で、ひたすらハイ エースにお客さんたちを乗せては「おにぎり広場」 と新海駅のあいだをピストン輸送し続けていた。  そもそも「おにぎり広場」は辺鄙な高台にあるた め、自動車などの「足」が無いお客さんや、ビール を飲みたい飲兵衛たちにとっては訪れにくい。  そこで俺は、あらかじめホームページに「ご連絡 を頂ければ、新海駅から車で送迎致します」と明記 しておいたのだが、これがまさかの申し込み殺到。 しかも、ビールを飲みすぎて「トイレに行きたい」 というお客さんを海辺の公衆トイレまで運んだり、 パン子に「缶ビールと烏龍茶が切れそうやから、急 いで酒屋で買ってきて!・」なんてお遣いを頼まれた りもしていたから、まさに言葉どおりのノンストッ プだったのだ。  そんなこんなで、気付けばパイナップル色の夕刻  最後のお客さんのグループを駅まで送って、「お にぎり広場」に車を滑り込ませたとき、すでに力尽 きた仲問たちは、空になった客席に腰を下ろして休 んでいた。よく見ると、そこには忠司さんと千鶴バ アの姿もあって、二人はカレーを食べていた。当初 の予定どおり、日差しが優しくなる夕方に、忠司さ んが車で千鶴バアを連れて来てくれたのだ。  ハイエースの運転席から降りた俺は、「いやあ、 お疲れ」と言いながら、みんなの方に歩いていった。  「マックもお疲れちや〜ん」  と手を振って微笑んでくれたパン子をはじめ、風 香もマスターもミリオンも鼻と頬のあたりが日焼け で真っ赤になっていた。ずっとクーラーの効いた車 内にいられた俺は、じつは、いちばんラクをしてい たのかもしれない。  「おうマック、お疲れ。カレー、完売したってよ」  忠司さんに言われて、俺ははじめてその事実を 知った。  「えっ、ポンドに? 大成功じやん」  一瞬、テンションのあがっだ俺は、仲間だちと八 イタッチしてから椅子に腰を下ろしたのだが、その ときに、うっかり「ふう〜」と情けない声を洩らし てしまった。  「長時間の運転お疲れさま。コーラでも飲んで休ん でよ」  俺の前のテーブルに、マスターがよく冷えた缶 コーラを置いてくれた。  「サンキュー、マスター」  さっそくプルタブを起こしてコーラを喉に流し込 んだ。  「くはあ、うめえ。炭酸が沁みるう」  と言ったら、スプーンを手にした千鶴バアが「カ レーも、すっごく美味しい。さすが天才シェフね」 と言って風香を見た。  「ぽんと? よかったあ。実際は、みんなに手伝っ てもらったんだけどね」  風香が嬉しそうに目を細めて、隣にいたパン子と ハイタッチを交わしたとき、遠くから車の排気音が 聞こえてきた。音の方を振り向くと、パイナップル 色に染まった海から続く細い坂道を、一台のメルセ デスがゆっくり登ってくるのが見えた。  やがてメルセデスは「おにぎり広場」に入って停 車した。  ドアが開き、運転席から人が降り立った。  その人の顔を見た瞬間、俺は反射的に立ち上かっ ていた。  えっ、石村さん!・  さらに二人の男女が後部座席から降り立った。す ると今度は風香が立ち上かって「えI、ちょっと、 なんで? 来るって聞いてなかっだのに」と目を丸 くした。  「わあ、三人とも来てくれたんや!・」  風香に続いてパン子も立ち上かって手を振った。  マスターとミリオンは、意味が分からずキョトン とした顔だ。  「えっ、ちょっと待って。これは、どういうI」  俺は、言いながらパン子を見た。  パン子は、いま「三人とも」と言った。つまり、 パン子はなぜか石村さんを知っているし、他の二人 のことも知っているのだ。  するとパン子は、みんなに向かって言った。  「ええとな、向かって左の人が、この土地を借りる ための交渉をしてくれた『こころ不動産』の石村社 長で、あちらが風香のお義父さんとお母さんやで」  それを聞いたミリオンとマスターも、バネのよう に立ち上かって会釈をした。  車から降り立った三人は、まず忠司さんと千鶴バ アに軽く挨拶をした。忠司さんと石村さんは初対面 のはずだけれど、一分後には意気投合して、笑顔で 握手を交わしていた。というのも、以前、石村さん はヘブンでお茶をしたことがあるというのだ。これ で忠司さんは、新たに地元の不動産人脈を手中に収 め、いっそう顔が広くなったことになる。  大人同上の挨拶が終わると、今度は俺たち学生の 番たった。  さっそくパン子が前に出て、チェアリング部のメ ンバー一人ひとりを紹介してくれた。  すると石村さんは、感慨深そうに風香を見てI、  ニカツー・  あの「めちゃくちゃ頼れる兄貴スマイル」を浮か べた。  「そうか。君が風香ちゃんか」  「え………あ、はい。このたびは、えっと、本当に、 何て言うかIお世話になりました。ありがとうご ざいます」  風香は、石村さんのビッグースマイルに気圧され たのだろう、もたつくようにそう言って、ぺこりと 頭を下げた。  そんな娘を見て、くすっと笑ったお母さんが、  「ねえ風香、カレーはまだ残ってる?」  と訊ねた。自と赤のボーダーの長袖Tシャツに ジーンズ姿。年齢よりもだいぶ若くてきれいな人だ けれど、キリツとしたその顔は、風香とはあまり似 ていなかった。  「ごめん、来るって知らなかったから、完売し ちやったよ」  首を振りながら風香が言うと、パン子が言葉をつ ないだ。  「あ、でも、ほんのちょっぴり鍋の底に残ってるや ん。味見程度にしかならんけどI」  さっそくパン子は鍋の底に残ったわずかなカレー をおたまで丁寧にかき集めて、ミニサイズのカレー ライスを三つ作った。そして、「ひと口ずつしかな いですけど。あ、座って下さい」と椅子を勧め、三 人の前にカレー皿と烏龍茶の入っだコップを置いた。  「パン子ちゃん、サンキュー」  石村さんは、ずいぷんと親しげな口調でそう言っ た。  風香のお義父さんもパン子に「ありがとう、パン 子ちゃん」と言うと、その顔をまっすぐ風香に向け た。そして、すっと居住まいを正した。  「あのさ、風香ちゃん」  「えI」  「この土地のことなんだけど………昔、拓弥と約束 してたんだってね」  思いがけない話の展開に絶句した風香はもちろん、 俺まで固まってしまった。  「俺、そのこと、ぜんぜん知らなくて……。風香 ちゃんに相談もないまま勝手なことしちゃって。ぽ んと、ごめん」  固まっていた風香が、何か返事をしようと囗を開 きかけたとき、ふいにお義父さんが「あ、そうだ」 と言いながら、麻のシャツの胸ポケットからカード ケースのようなものを抜き出した。そして、その ケースをテーブルに置いてあったコップにそっと立 てかけた。  よく見ると、そのケースの表面は透明になってい て、なかには一枚の写真が差し込まれていた。写真 に写っているのは、三十代くらいの二人の男性だっ た。ひとりはお義父さんの若い頃に違いなかった。 ということは、もう一人が拓弥という名前のIつ まり、風香の実の父親なのだろう。写真のなかの二 人は、互いに肩を組んで笑っていた。その笑みを見 て俺は気づいた。風香は父親似なのだと。  「せっかくだから、ここで拓弥と一緒に食べさせて もらうよ」  「えっと、その写真−」  ひとりごとみたいに言いながら風香は席を立ち、 お義父さんの横に立った。そして両手を膝に突いて、 じっと立てかけた写真のなかの二つの笑顔を見詰め たIと思ったら、そのカードケースをつまんで、 少しだけ向きを変えた。  「こっちに向けたら、海が見えるから」  「そっか。うん。そうだよね」  風香とお義父さんの会話に、お母さんが加わった。  「風香には内緒にしてたんだけど、この人、わたし と再婚するって決めた日から、ず1つとこの写真を 持ち歩いてるの」  「え……」  意外そうな顔で、風香は横にいるお義父さんを見 た。  「いや、ほら、拓弥とはガキの頃からの親友だから さ」  眉の横を指でぽりぽり掻きながらお義父さんが言 うと、お母さんがちょっと悪戯っぽく笑った。  「あの人は、生前、あなたのことを『親友』じゃな くて『悪友』つて言ってたけどね」  「あはは。まあ、そっちの方が正しいかもな」  とお義父さんも笑う。  それから少しのあいた「おにぎり広場」にやわら かい沈黙が降りて、パイナップル色の世界に蜩の哀 歌が満ちた。  沈黙を破っだのは、風香の穏やかな声たった。  「カレー、冷めちゃうよ」  「あ、そうだね。じゃあ、いただきます」  お義父さんが風香と俺たちに向かって手を合わせ ると、お母さんと石村さんも「いただきます」と 言って、カレーを囗に運んだ。  「お、これは………ぽんと、美味いや」  お義父さんはカレー皿に話しかけるみたいに言っ て、立てかけた親友の写真を見た。そして、ふたた び風香に向き直った。  「ええと、いまさら言い訳がましく聞こえるかもし れないけど」  「…………」  「ここにいる石村さんにお願いしてさ、この土地の 売買契約を破棄できないか、相手方と交渉しても らったんだけど……」  そこまで言うと、なぜかお義父さんはパン子を見 た。  見られたパン子は、思い詰めたような顔でゆっく りと頷いた。なんだか合否の発表を聞く前の受験生 みたいな表情をしている。  そのパン子に向かって言葉を発したのは、石村さ んだった。  「申し訳ない。俺の力及ばずで、駄目たった」  パン子は息を止めていたのか、はあ、と静かに息 を吐き出した。  いったい、この流れは、どういうI。  俺があれこれ思考を巡らせていると、それを風香 がそのまま言葉にしてくれた。  「えっと、なんか、わたしIまだ、この話の展開 に付いて行けてないっていうか。どういうことです か?」  風香は、石村さん、お義父さん、お母さんと順に 見て、最後にパン子を見た。  石村さんの「力及ばず」発言で残念そうな顔をし ていたパン子が風香の問いに答えようとしたとき、 「それは、俺から説明するよ」と石村さんが言った。  そこにいた全員の視線が石村さんに集まった。  「ええと、まず、この土地のことなんだけどI、 購入したのは個人じゃなくて法人でね。すでにいく つかの『仕事』の話が進んじゃってるみたいで、も う手放すわけにはいかないって。別荘が建つってい う話も、いわゆる会社の保養所的な意味合いのある 建物らしいんだよね」  そこまで言った石村さんは、いったん烏龍茶で喉 を潤してから「んでI」と続けた。「俺のところ に契約破棄の交渉をしてくれないかって相談しにき たのは、そこにいるパン子ちやんなんだよ」  「えっ、パン子が? いつ行ったんだよ?」  思わず俺はパン子の顔を見た。答えたのは、また しても石村さんだった。  「夏川くんがうちに来てから、三日後くらいだった かな? そこで、あらためて事情を聞いたら、夏川 くんより深いところまで話してくれてさ。そういう ことならIつて、俺の方からこちらの上村さんに 連絡を差し上げて、色々と相談をさせてもらって。 結果、先方の企業と交渉してみることになってね。 でも、最後は力になれなくて、ごめんな、ぽんと」   眉を八の字にした石村さんが風香を見た。   すべてを理解した風香は、ゆっくり首を横に振る と、静かに息を吐いた。そして、どこか複雑な笑み を浮かべて言った。  「なんて言うか………本当に、ありがとうございま した。わたしはもう大丈夫ですので」  石村さんに頭を下げた風香は、心配そうに風香を 見上げていたお義父さんとお母さんに向き直った。  「わたし、大丈夫だからね、ぽんと」  「うん……」とお義父さん。  「わかってる」とお母さん。  パイナップル色に染まった風香の表情が少し緩ん で、やわらかな笑顔になった。  すると、ふいにマスターの声がした。  「つていうか、パン子さ、こっそりひとりで抜け駆 けしてたなんて、ズルいよ」  「ふふ。あたしの将来の夢は、おせっかいババアや からな。それに、マックもマスターもバイトに出 とっだし」  「え1、だからって、俺に黙って行くか、ふつう」  思わず俺も突っ込みを入れた。 「おい、俺なんて、バイトもしてないのに誘われな かったぞ」  ミリオンが真顔で言っだので、「それな!・」とみ んなで吹き出した。  「ねえ、風香ちゃん」  と石村さんが、ふたたび囗を開いた。  「はい」  「農家レストランを開いたら、子ども食堂もやるん だって?」  「あ、はいI」  そこまで話しだの? という顔で、風香は俺とパ ン子を交互に見た。  「あ、ごめん。それ、俺が石村さんに話したんだ」  まずかったかな、と思いつつ、俺は白状した。す ると石村さんが笑いながら続けた。  「とにかく、俺さ、風香ちゃんがそういう活動をす るなら、できる限り応援したいと思ってるんだよね。 この辺りの土地のことだったら、そこそこ力になれ ると思うから、いざってときは、いつでも相談しに おいで」  「えI、本当ですか?」  「うん、もちろん」  石村さんは、ニカッーと、あの笑みを浮かべる と、ゆっくり、深く頷いてみせた。  「おい風香、プロの不動産屋のバックアップを得だ のは大きいぞ」  ミリオンが経営者みたいな顔をして言う。  すると、これまでちよこんと椅子に座って、みん なをにこにこの恵比寿顔で見守っていた千鶴バアが、 久しぶりに「ええと、ちょっといいかしら?」と しゃべり出した。  「風香ちゃんに追い風が吹いたところで、わたしか らもプレゼントがあるの」  「えI?」  と、目を丸くした風香。  俺たちも、千鶴バアからプレゼントがあるなんて 話は聞いていないので、しわしわの笑顔をじっと見 詰めた。  「プレゼントつて言っても、そんな大層なモノじや ないんだけどね」  言いながら千鶴バアは、テーブルの隅っこに置い てあったバッグのなかから小さな花柄の封筒を取り 出すと、「はい、これ」と風香に向かって差し出し た。風香は、ぽかんとした顔で千鶴バアのところま で行くと、両手でそれを受け取った。  「ふふ。読んでみて」  千鶴バアに言われて、風香は封筒を開けた。なか から便箋を抜き出し、静かに開く。と、次の瞬間  「うそ……」  風香は便箋を持っていない右手で囗を押さえると、 そのまま固まってしまった。  「なんやったの、風香?」  パン子が訊いた。すると風香は、あらためて便箋 に視線を落とし、そこに書かれていた短い文章を読 み上げたのだった。  「風香ちゃんへ わたしがいなくなった後、わたし の家を風香ちゃんに譲ります。そのときは自由に 使ってね。 〜千鶴バアより」  あの古民家が、風香にI。  夏の夕暮れの風が吹いて、周辺の樹々がさわさわ と音を立てた。  蜩の哀歌がパイナップル色の世界にしっとりと沁 み込んでいく。  「千鶴バア……」パン子が、恐るおそるといった感 じの声を出した。「もしかして、体調が悪いなんて ことI」  みんなの心配そうな視線を一身に浴びた千鶴バア は、しかし、いつもの明るい顔でくすっと笑うの だった。  「それは遺書じゃないんだから。悪いけど、わたし はまだピンピンしてますよ」  「でも、そしたら、千鶴バアがいなくなるっ て……」  今度は風香が言った。  「ああ、それはね、この先、わたしが弱ってきたら、 息子たちが東京に呼んでくれるって言うから。そし たら、あそこが空き家になっちゃうでしよ?」  「でも、あそこを相続するのは、やっぱりI」  風香がさらに続けると、千鶴バアは、いつものや さしい目で風香を包み込んだ。  「それは大丈夫よ。うちの子たちにも了解を取って あるから」  「えI」  「空き家を壊して更地にするのだってお金がかかる のよ。だったら風香ちゃんに使ってもらった方がい いじゃない?」  「…………」  「わたしがお嫁に来てから何十年も過ごしたお家だ から、愛着があるの。だから、空き家になったり、 取り壊されたりするのは淋しくて。きっとあのお家 も、風香ちゃんに使ってもらえたら喜ぶと思うわ」  千鶴バアがそこまで言うと、ふいにパン子が反応 した。  「あかん。千鶴バア、大好きすぎる……」  と、ひとりごとのように言ったパン子は、義足を 軽く引きずりながら千鶴バアのところに歩み寄った。 そして、腰を屈めて横から千鶴バアに抱きついた。  と、すぐに反対側から風香も同じように抱きつい た。  「あら、あら、あら……」  二人に挟まれ、困ったように微笑む千鶴バア。  なんだか胸がほこほこしてきた俺は、マスターと ミリオンと視線を合わせて、いいシーンだね、と微 笑みながら頷き合ったIと思ったら、何を勘違い したのか、ミリオンがいきなり素っ頓狂なことを言 い出したのだ。  「おい、取り込み中に悪いけどな、俺たちチェアリ ング部からも風香にプレゼントがあるぞ」  すると、マスターが笑いながら突っ込んだ。  「ちょっと、ミリオン。いまは本当に取り込み中 じやん。ぼくらからのプレゼントのタイミングじや ないでしよ」  「なんでだ? いま、お前とマックが俺に目配せを しただろ」  「してないって」と俺。  「あれは、そういう目配せじゃないっては」とマス ター。  いつもの男三人が、いつものようにやいのやいの やっているのを見た千鶴バアが、  「うふふ、お次のプレゼントは何かしら?」  と言っだので、取り込み中たった二人も、そっと 千鶴バアから離れてこっちを見た。  「じやあ、まあI、アレ、取ってくるわ」  俺はそう言って席を立った。そして、今朝から ずっと風香に見つからないよう、こっそりハイエー スの荷室に隠しておいた大型のクーラーボックスの なかから、誕生日ケーキの入っだ箱とプレゼントの 入っだ小箱を取り出して、みんなのところに戻った。  ケーキの箱は、そっとテーブルの上に置き、プレ ゼントの小箱はパン子に向かって差し出した。  「やっぱり、プレゼンターはパン子だよな」  「オッケー」   細長い小箱を受け取ったパン子は、風香と向かい 合うように立つと、「ほな、いくで」と一同を見渡 してから、「みんなのアイドル風香、誕生日おめで とう’・」と言って、小箱を風香に差し出した。  みんなも「おめでとう!・」と声を上げる。  「え………ありがとう」  少し首をすくめながら風香は両手で小箱を受け 取った。  「風香」  パン子が親友の名前を呼ぶ。 「ん?」  「それを使って、これからも、た1くさん美味しい 料理を作って、みんなを喜ばせるんやで」  パン子の言葉に、風香はハッとした顔をした。ど うやら小箱の中身を察したようだ。  「え、これ、もしかしてI。開けていい?」  「もちろん、開けてみてや」  風香は小箱に巻かれたリボンをするりと解き、包 装紙を破かないよう丁寧に開封した。そして、箱の ふたをそっと開けた。  「あ………すごい。ダマスカス鋼だ」  目を丸くした風香が箱から取り出しだのは、刃の 部分に木目のような模様が浮かんだ高級ペティーナ イフたった。  「嬉しいI。みんな、ありがとう」  「ふふふ。いつかこういうのを使ってみたいなあっ て、風香、言ってたやろ?」  「うん……。パン子、覚えててくれたんだ」  「当たり前やん」  「ああん、もう一生、大切に使う」  風香はナイフを手にしたまま、パン子にぎゆっと 抱きついた。  「うわっ、風香、怖いって。剌されるかと思った わ」  言いながらパン子が笑って、俺たちも笑った。  ふと気づけば、夕日はさらに熟していた。  遠く眼下に広がる海原。  夏休みの広々した空と、沁みわたる蜩の哀歌。  田畑の上をさあっと駆け上かってくる海風。  いま、この瞬間、世界のすべてが甘ったるいマン ゴー色に染められていた。  きっと、風香のお父さんも笑っているだろうな。  なんとなくそう思った俺は、頬を緩めて空を見上 げた。  「じやあ、そろそろケーキ食べちやう?」  マスターの明るい声がした。  すると、パン子を抱きしめていた風香が、ゆっく りとその腕をほどいて、なぜか少しだけ申し訳なさ そうな顔をした。  「ごめん、マスター。えっとね、ケーキを食べる前 に……」  風香は、すっと炊飯釜に視線を送った。  「分かったでえ。おにぎり、やろ?」  パン子が言うと、「うん……」と風香が頷いた。 「カレーは無くなっだけど、まだ、ご飯が残ってる から」  「せやな。みんな忙しくて、お昼もろくすっぽ食べ てへんし、おにぎりがあったら嬉しいんちやう?」  「賛成だ。俺は、いまなら五個は食えるぞ」  ミリオンが言うと、風香は「あはは。そんなにた くさんは残ってないけど」と笑って、さっそくタン クの水で手を洗いはじめた。そして、釜のなかで冷 めかけていたご飯を手に取った。  ひとつ、またひとつ、慈しむようにおにぎりを 握っていく風香の横顔。それが、とても満ち足りた 表情に見えてI、俺はジーンズの尻ポケットから スマートフォンを抜き出し、写真を撮った。ホーム ページに使おうと思ったのだ。  風香の手のなかから、きれいな正三角形のおにぎ りが次々と生まれ、皿に並べられていく。  おそらく風香は、きっちり人数分を握ろうと思っ ていたのだろう。しかし、ご飯が足りなくなったの か、最後のひとつだけ、ピンポン球サイズになって しまった。  「はい、お待たせしました」  風香は、おにぎりを並べた皿を、みんなのいる テーブルへと運んできた。その皿を見てすぐに、風 香のお義父さんが囗を開いた。  「じやあ、その小さいやつ、俺が頂くよ」  すると風香は、即座に「ううん」と首を振った。  「数は足りてるから。この小さいのはI、ここ に」  そう言って風香は、小さなおにぎりを別の紙皿に のせると、それを父の写真の前にそっと置いた。  「で、お義父さんにはI、はい、これ」  いちばん最初に握った大きめのおにぎりを風香は 義父に差し出したのだった。  「え……… これ、いいの?」  「うん」  風香は、しっかりと頷いた。  マンゴー色の風のなかで、ひまわりが明るく咲い ていた。  「じやあ………遠慮なくいただくよ」  お義父さんは、両手でおにぎりを受け取った。  そんな二人のやりとりを隣で見ていたお母さんが、 涙をこらえるように深呼吸をした。  お父さんのおにぎりから  お義父さんのおにぎりへ  ふと気づけば、俺の左隣にパン子が立っていた。 「今日のクライマックスやな」  とパン子はささやくように言った。 「うん」  俺はパン子と視線を合わせて微笑みを交わし合っ た。  それにしてもI、こんな素敵なクライマックス を呼び込んだのは、石村さんと風香の両親を動かし たパン子の手柄に他ならない。単純に、この場所で 農家レストランをやろうと考えただけの俺とは、や さしさの質も深さも違う。  俺は、さりげなくパン子の横顔を見た。  パン子は、心から嬉しそうな目で親友を見詰めて いた。  見られている風香は、何かが吹っ切れたような 清々しい顔をして、みんなにおにぎりを配って回る。  やがて全員におにぎりが行き届くと、マスターが 言った。  「じやあ、マック部長、いただきますの号令を」  軽く頷いた俺は、海と土と草と日なたの匂いのす る風を肺に大きく吸い込んで、それを声に変えた。  「では、あらためて風香の誕生日を祝しまして、こ の素晴らしいおにぎり広場で、最高のおにぎりを I、いただきま1す!・」  そう言って俺は、おにぎりを夕空に掲げた。  みんなも「いただきま1す」と続いてくれた。  亡き「悪友」の写真を見ながら、感無量といった 顔でおにぎりにかぶりつくお義父さん。その様子を 見ながら微笑むお母さん。うめえ、美味しい、と声 を上げる忠司さんと石村さん。おちょぼ囗で少しず つ食べる千鶴バア。あっという間に囗に押し込んだ ミリオンと、みんなを幸せそうに眺めながら頬張る マスター。  「風香、ここで食べるおにぎりは、ほんまに最高や ね」  「うん。ありかと……」  大きな瞳を潤ませた風香と、もらい泣きしそうな パン子。  俺は、手にしていたおにぎりを見詰めた。  そして、がぶり、と三角形の頂点にかぶりついた。  塩加減が絶妙なせいだろう、噛むほどにシアワセ な米の甘さが囗の中に沁みわたってI。  「あはは、ちょっと、マック」  パン子が俺を見て笑いはじめたので、俺はくるり とみんなに背を向け、マンゴー色の海原を眺めなが ら洟をすすった。そして、もうひと囗、おにぎりに かぶりつくと、素早く親指で目の下を拭った。  さあっと音を立てて海風が斜面を吹き上がってき た。  チェアリング部のTシャツの背中が、はたはたと 心地よくはためく。  「おせっかいで泣き虫な部長さん」  すぐ隣からパン子の声がした。 「は? 別に、泣いてね1し……」  俺の強がりをパン子はくすっと笑ってスルーして くれた。  「ねえ、マック」  「ん?」  「ちっちやかった頃の風香とお父さんつて、こんな にきれいな景色を一緒に眺めてたんやね」  まだおにぎりを咀嚼していた俺は、短く「うん」 とだけ答えた。そして俺は、ジーンズの尻ポケット からスマートフォンを抜き出して、眼下に広がる風 景を撮ろうとしたらI、  「せっかくやし、ツーショットで自撮りしよ」  とパン子が言った。  「ん? おう」  俺は急いでおにぎりを呑み込むと、スマホを手に した右手をいっぱいに伸ばして、マンゴー色の海原 とパン子と俺の顔をフレームに入れた。  「んじや、撮るぞ」  「うん」  パン子の顔がすっと近づいてきて、かすかに女の 子のいい匂いがした。  俺はシヤッターボタンを押した。  スマホを下ろすと、風香が幸せそうな笑顔で俺た ちを見ていた。  「じやあ、今度こそ誕生日ケーキ、食べようか」  マスターが、千鶴バアのいるテーブルでケーキを 箱から出しながら、みんなに呼びかけた。  いいね!・  と、俺たちはケーキの周りに集まった。  チョコレートのプレートに『HAPPY BIRTHDAY 風香♪』と書かれたショートケーキだ。  ミリオンが不器用な手つきでロウソクをぐさぐさ とケーキに突き刺し、マスターがそれに火をつけて いく。  ケーキの前の椅子に風香を座らせると、パン子が 天使の声で「ハッピーバースデー・トウー・ユー ♪」と唄い出し、みんなもそれに続く。  照れ笑いの風香と、そんな風香を見ながら愉しそ うに唄うチェアリング部の仲間たち。やさしくて、 頼もしい大人たちI。  そこにいる全員を見渡した俺は、胸の奥で膨らん できたやわらかな熱を味わいながら、そっと充足の ため息をつくのだった。    第六章 ピンク色のTシャツ  [夏川誠]  八月に入ると太陽が一気に沸騰しはしめた。  国道のアスファルトには午前中から陽炎がゆらめ き、海のブルーも、渚の白砂も、コンクリートの照 り返しも、目の奥が痛くなるほどにまぶしい。きれ いな海と山を擁する新海市は、観光客と蝉たちの恋 歌であふれ返り、海沿いの国道は渋滞するように なった。  よく晴れた水曜日の朝−。  俺たちチェアリング部はハイエースに乗り込み、 混雑した新海市から脱出した。向かった先は、水曜 定休の「かもめ亭」。いよいよ、みんなが楽しみに していた「ロールキヤベツーツアー」へと繰り出し たのだ。  じつは、この日の朝方、俺は久しぶりに「青の世 界」の夢を見た。夢のなかの舞台は学校ではなく、 薄暗い廃墟のような団地だったけれど、それ以外は、 いつもと同じあの夢たった。  久しぶりの帰省にあれこれ思い巡らせながら眠り に就いたせいで、あの夢を見たのだろうか……。俺 は、そんなことを考えながらハイエースのステアリ ングを握っていた。  とはいえ、道中は愉しめた。道の駅で話題のイカ スミ味の「黒ソフトクリーム」を食べて、みんなで 「お歯黒」写真を撮ったり、予約しておいた山あい の窯で陶芸体験をしたりもした。さらに、パン子と 風香の要望で、最近、離島のパワースポットとして 知られるようになった「小鬼ヶ島神社」の分社とや らを参拝。そして、いよいよ実家に近づいたとき、 俺は少しだけ遠回りをした。なんとなく、兄が亡く なった総合病院の前を通るのを避けたのだ。  実家に到着したのは、ディナーにはちょうどいい 夕暮れ時たった。俺は五台分ある店の駐車場のいち ばん奥にハイエースを停めた。  「着いたぞお」  後部座席に向かって声をかけた。  「マック、運転お疲れさま」  ねぎらいの言葉をくれたのは助手席にいたマス ターだけで、それ以外の三人は自分の荷物を背負う と、子供みたいに車から飛び出した。  「あいつら、テンション高すぎじやね?」  マスターにぼやきながら車から降りた俺は、四人 を引き連れて店の裏手へとまわっだ。建物の裏側と 二階部分が居住スペースになっているのだ。  玄関口のドアノブは鍵がかかっていたので呼び鈴 を押した。  「はいは1い」  すぐに中から母の声がして、足音が近づいてきた。 ガチヤンと、レトロな音を立てて内鍵が開けられ、 そのままドアが押し開かれた。目の前に現れた母は、 満面に笑みを浮かべていたIけれど、以前よりも 少し痩せて見えた。  「ただいま」  「おかえり」  母は、俺の頭のてっぺんからつま先までを確認す るように見ると、すぐに「あらあ、ミリオンくんと マスターくん、お久しぶりねえ」と声のトーンを上 げた。  「おばさん、どうも」  「ご無沙汰してます」  ミリオンとマスターが、軽く会釈をした。  「はじめまして」  「お世話になります」  パン子と風香が男性陣の背後から挨拶すると、母 はさらにテンションをあげて「えっ、ちょっI、 二人とも可愛くてアイドルみたいね」と、なぜか俺 に言ったあと、「はじめまして。誠の母です。いつ も愚息がお世話になって」と、よそ行きの声を出し た。よく見ると、今日の母は、しっかり化粧をして いるうえに、着ている服までよそ行きだった。  「さあ、遠慮しないで上かってね。どうぞ、どう ぞ」  母に促された俺たちは、狭い玄関で順番に靴を脱 ぐと、ぞろぞろと家に上がった。  「すぐにご飯にする?」  俺とすれ違いざまに、母が訊いた。  すると「はい。ぜひとも」という返事が、俺の斜 め上から聞こえてきた。もちろん、ミリオンだ。  「あはは。ミリオンくんは相変わらずね。下ごしら えはもう終わってるから。誠、とりあえず二階に荷 物を置いて、みんなをお店に連れておいで」  「オッケー」  俺はみんなを従えて階段を上がり、自室へと案内 した。  「荷物は、適当にこの部屋に置いといて」  言いながら俺は、窓を開けて網戸にした。淀んで 蒸し暑い部屋の空気を入れ替えようと思ったのだ。  「マック少年は、この部屋で育ったんやねえ……」  感慨深げに言って、パン子は部屋のなかを見同し た。釣られたように風香もきよろきよろしはじめる。  「ちょっと、二人して、そんなに見るなって」  なんだか恥ずかしいモノでも見られたような気分 になって、俺はこめかみをぽりぽり掻いた。  「おいマック、買ってきた酒は、店の冷蔵庫に入れ といてもらえるのか?」  酒類が入っだコンビニ袋をぶら下げたミリオンが 話題を変えてくれたので、俺は「うん、大丈夫だと 思うよ」と答えて、その袋を受け取った。そして、 みんなに言った。  「んじや、荷物を置いたら下の玄関で靴を履いて、 外をぐるっとまわって店の入り囗に来てくれる? 俺は、なかから店の内鍵を開けるから。ミリオンと マスターは分かってるよな?」  「うん。僕が案内するから大丈夫だよ。パン子、風 香、行こう」  頼れるマスターを先頭に、仲問たちは階段を降り ていった。  ひとりになった俺は、あらためて部屋のなかを見 渡すと、机に両手をついて「ふう」と小さく嘆息し た。机の上はつるりとして、埃っぽさを感じなかっ た。よく見ると、部屋の隅々まで掃除が行き届いて いた。しかも、ベッドの上には、ミリオンとマス ターのための布団が畳まれた状態で置いてある。お そらく、一階のリビングにはパン子と風香のための 布団も準備してあるのだろう。  心のなかで母に感謝しつつ、俺は「よし、行く か」とつぶやいて自室を出ると、そのまま一階へと 降りた。   一階の廊下のなかほどには店の厨房と直結した引 き戸がある。俺はその引き戸を開けて、履き古され たサンダルを履き、厨房に出た。  すでに母は厨房でロールキャベツをはじめとした 夕食を作りはじめていた。俺は母の背後を通り抜け ながら「悪いけど、今日は、よろしくね」と声をか けた。  「うん。わたしも、みんなが来てくれるのを楽しみ にしてたから」 「体調は、どう?」 「絶好調」  と微笑んだ母だけれど、正直、その言葉通りには 見えなかった。  「そっか。俺も手伝うから、何でも言ってね」  「大丈夫よ。せっかくなんだから、誠はお友達と楽 しんで」  「うん……」  頷いた俺は客席へと出た。そして、店のドアの鍵 を解錠した。ドアには「本日定休日」と書かれたプ レートが掛けられている。   ほどなく四人の姿がガラスの向こうに見えて、俺 はドアを開けた。   コロン、コロン。   開店当時からあるドアベルが、甘く懐かしい音を 立てる。  さっそくマスターを先頭に四人が店内へと入って きた。  「わあ、もう美味しそうな匂いがしてる」  目をきらきらさせた風香が厨房を見た。 「俺の親友が不平をこぼしそうだ」  眉を八の字にして腹をさすったミリオンに、俺は 言った。  「じやあ、さっそくビールでも飲むか」  するとパン子が「ビールもええけど」と俺を見た。 「あたしたち、厨房のお手伝いせんでええの?」  「ああ、それは大丈夫だって」と俺。  「ほんまに?」  母の病気のことを知っているパン子は、俺の目を 覗き込むように見て念を押した。  「うん。いま訊いたら、本当に大丈夫だって」  あらためて言うと、パン子はようやくホツとした 顔になった。  「ほんなら、ビール頂こか。あたしはノンアルやけ ど」  さっそくマスターがカウンター越しの厨房に声を かけた。  「おばさん、すみませんけど、グラスとかお借りし ますね」  「は1い。なんでも自由に使ってね。よかったら生 ビールもどうぞ」  「オッケー、ありかと」  母に礼を言った俺は、買ってきた酒類をカウン ターの近くにある冷蔵庫に入れると、マスターと手 分けして人数分の生ビールをジョッキに注いだ。下 戸のパン子はノンアルだ。その間、ミリオンたちが、 カウンターに近い四人席のテーブルをふたつ繋げて、 宴会用の席をつくってくれた。  それぞれが席に着いて、準備万端。  「じやあ、部長、乾杯の音頭を」  いきなり風香が言うので、俺はジョッキを手にし つつ「あ、ええと、どうしょI」とまごついた。  するとパン子が「うちの部長は、ほんまに下手っ ぴいやなあ」と笑って、代わりに音頭を取ってくれ るのだった。  「ほな、あたしが代役でI。このメンバー五人が はじめて揃ったあの日から、ず1つと待ち続けた 『ロールキヤペツーツアー』が実現して、めっちや 嬉しいわ。マックの母上のご好意に感謝しつつ、今 夜は楽しみましよう!・ つてことで、かんぱ1 い!・」  「かんぱ1い!・」  明るい声を上げた仲間たちは、年代物のテーブル の上で、カツン、カツン、と冷えたジョッキやグラ スをぶつけ合った。   酒宴がはじまると、さっそく母がソーセージの盛  り合わせや、フライトポテトなどのつまみを出して  くれた。そして、それから十五分ほどで、今夜のメ  インとなるロールキャベツの皿がテーブルに並べら  れた。  「わあ、めっちや美味しそうやなあI」  「ほんとだね」  興味津々のパン子と風香がこっちを見た。  「俺が作ったわけじやないけど。とにかく、熱いう ちに食べよう」  「だよね。じやあ、久しぶりに、いただきます」  とマスターが言ったときには、すでにミリオンの ナイフとフォークは熱々の一切れを口に運んでいた。  「ふ、ふほ………は、あふい(熱い)」  「あはは。ミリオン、口のなか火傷するぞ」  俺が笑いながら言うと、ミリオンは、はふはふ言 いながら「ふまひ(美味い)」と親指を立ててみせ た。  みんなもロールキャベツを食べはじめたので、猫 舌の俺も小さな一切れをふうふうやって口に入れた。 咀嚼の瞬間から肉汁がどっとあふれ出し、口中に広 がる。キャペツのやさしい甘みと、まろやかなスー プの旨味。味を引き締める風味豊かなピンクペッ パー。そして、うちのロールキヤペツのいちばんの 特徴を最初に囗にしたのは、やっぱり風香たった。  「ん1、めっちや美味しい!・ 旨味とコクが、すご い濃厚。あ、これ、バターを効かせてるんだね」  「ほんまに、これは噂以上の絶品やなあ。バターの 他にも何か隠し味的なもんか入っとるんちやう?」  風香とパン子が顔を合わせて、そのままこっちを 振り向いた。  けれど、俺はレシピをまったく知らないのだ。  さて、どう答えたものか、と思ったときI、  「ね、美味しいでしよ?」マスターが俺より先に囗 を開いていた。「バターが効いてるのに、しつこく ないのが不思議なんだよね」  「囗のなかで美味さが爆発するんだ。俺は軽く十個 は食える」  そう言って、また大きな塊を囗に放り込んだミリ オンが、熱さで目を白黒させた。  すかさず風香が「もしもし、ミリオンさ1ん、学 習能力をどこかにお忘れですかあ?」と突っ込んだ ので、みんなで笑った。  それから仲間たちは、ひたすら幸せそうにロール キャベツを食べ、ビールを飲み、ごきげんな笑顔を 咲かせた。その様子をときどき厨房から眺めている 母の顔がまた、とても満足そうで……。  このとき、俺は、ふと亡くなった父の口癖を思い 出していた。  お客さんの笑顔が、シェフのいちばんのご褒美な んだよI。  父は、幼かった俺に、よくそう言っていた。そし て、それを隣で聞いていた兄が、とても誇らしそう にしていたのも覚えている。  俺は、もう一切れを口に入れた。子供の頃から、 ロールキャベツといえばこの味たった。何度も、何 度も、食べたメニューだけれど、ただの一度も「飽 きた」と感じたことはない。それって、もしかする と相当すごいことなのではないか。そんなことを思 いながら、懐かしい味を瞼みしめる。  思えば、あまり友達をつくれなかった小学生の頃 −、たまたまこの店に食べに来てくれたクラスメ イトがいると、たいてい翌日はクラスで話題になっ たものだった。  「オレ、昨日、誠んちのロールキャベツを食べたけ ど、めちゃくちゃ美味かったぜ’・」  クラスメイトがそんなふうに喧伝してくれると、 幼かった俺は誇らしい反面、気恥ずかしくもあって、 いつもただ胸をどきどきさせながら、ひとり半笑い をしていたのだった。  「ほんまに、マック、ずるいわあ」  パン子の声に、俺は我に返った。  「ずるい? なんで?」  「だって、こんなに美味しいものを、ちっちやい頃 からいつでも食べられたんやろ?」  「べつに、毎日ロールキャベツを食ってたワケじや ないけどね」  と苦笑すると、風香も続いた。  「わたしがこの家で育ってたら、いま頃、食べ過ぎ で絶対に太ってる自信があるわあ」  「わかるう」  とパン子が同意したとき、ミリオンは女子たちを 見ながら首を傾げると、いつものように囗を滑らせ た。  「おい、お前らの会話−、裏を返すと、いまは 太ってないってことになるけど、それでいいの か?」  「はっ? ちょっ、なにそれ。いまのわたしたちが 太ってるっていいたいわけ?」  「ミリオン、夜道を歩くときは、せいぜい背後に気 いつけえや」  風香とパン子が、カトラリーナイフの刃を上にし てミリオンを睨んだので、俺とマスターは吹き出し た。  「ミリオン、いつもはひとこと足りないのに、今日 はひとこと多かったね」  マスターの言葉に女性陣が、そうだそうだと乗っ かった。  こうして仲間たちは、いつものように笑い合いな がら、お目当てだったロールキャベツをきれいに平 らげたのだった。  「パン子ちゃんは下戸なの?」  酒を飲まないパン子を見て、母が意外そうな顔を した。  「そうなんです。体質的に駄目みたいで。あ、でも、 酒豪の風香がわたしの分まで飲んでくれますから」  「風香ちゃんは酒豪?」  「いやあ、まあ、それほどでも」 肩をすくめた風香に、パン子が突っ込む。 「日本酒やったら、一升は軽いやん?」 「そんなI、軽くは、ないよ」 「え? でも、飲めちやうの?」  と目を丸くした母。 「まあ………はい。時間をかければ」 「うわあ、一升はすごいね」  以前、ミリオンとマスターが来たときと同様、今 回も食後の宴会に母が加わっていた。そして、その きっかけをつくったのはパン子と風香たった。二人 は、俺たちがロールキャベツを食べ終えると、さっ そく厨房に押しかけて皿洗いを手伝いはじめたのだ。 そして、いつものように高いコミュニケーション能 力を発揮しまくり、母とすっかり打ち解けたのだっ た。やがて皿洗いを終えた二人は、「お母さんも一 緒に飲みましようよ」と声をかけ、そのまま母を引 き連れてテーブルに戻ってきた、というわけだ。  正直、友達と同じテーブルに母がいるという状況 は、かなり気恥ずかしいけれど、でも、まあ、母と しゃべるのも久しぶりだし、なにより母が楽しそう だったので、ここは不平を言わずにおくことにした のだった。  母は大学のことやシェアハウスでの暮らしぶり、 チェアリングという遊びについて、とても興味深そ うに聞いていた。そして、ひょんな話の流れから、 母の囗から「将来」という単語がこぼれ出た。  「みんなは、将来、どんな仕事をしたいとか、もう 考えてるの?」  仲間たちは一瞬、顔を見合わせたけれど、最初に 囗を開いたのはミリオンだった。  「前にも言ったと思いますけど、俺は投資家として 複数の会社の経営に関わっていきます」  続いてマスターも「ぼくも以前と変わらず、喫茶 店をやるつもりです」と言った。さらに風香が農家 レストラン、パン子が「できればミュージシャン で……」と言ったあと、当然ながら、母は俺を見た。  「俺は………まだ、考え中かな」  一秒、二秒と間があって、母は「そっか」と微笑 んで見せた。  すると、なぜかミリオンが母に向かって囗を開い たのだ。  「もしも、ですけど、マックがこの店を継ぎたいっ て言ったら、お母さんはどうします?」  おい、ちょっと、ミリオン待てょI。  俺が胸裏で声を上げていると、母は「ふふ」つと 短く笑って、首を横に振った。  「その『もしも』は、無いんじやないかなあ」  ミリオンが俺を見た。その目は、俺にこう訊いて いた。  お前、それでいいのかI?  さらにミリオンが続けた。  「じつは、このあいたマックから聞いたんですけど、 この店、マックの大学卒業に合わせて閉めるんです か?」  「う1ん、まあ、そういう方向もあるかなって思っ てるけど」  「閉店する直接の理由をお聞きしていいですか?」  「理由? そうねえ……」  「やっぱり経営的に良くないんですか?」  ど直球すぎるミリオンの問いかけに、母は笑い出 した。  「あはは。正直、昔と比べたら良くはないかな。こ ういうご時世だしね。でも、亡くなったお父さんが お隣にアパートを残してくれたから、ちょっぴりだ けど家賃収入はあるの。贅沢さえしなければ、年寄 りひとりくらいは、なんとか暮らしていけるから」  「なるほど。ちなみに、この店の経営再建というお 考えは?」  どんどん突っ込んでいくミリオンに、俺はもちろ ん、そこにいた誰もが唖然としていた。しかし、母 だけは、いつもどおり、のんびりとした微笑みを浮 かべたまま、無遠慮なミリオンの質問に淡々と答え 続けるのだった。  「う1ん。よっぽどいい再建計画でもあれば、考え ちやうかもね」  冗談めかした母は、自分の病気のことは囗にしな かった。みんなを心配させたくないのだろう。昔か らそういう人なのだ。   一方のミリオンは、自分が投げた質問に母が答え ているあいた、時々、下を向いてスマホをいじって いた。正直、他人の話を聞く態度じゃないよな、と 俺は思う。悪気がないのは分かっているけれど、で も、ミリオンのこういう態度が、しばしば誤解を生 む原因になっていることも俺たちは知っている。  ミリオンがスマホから顔を上げた。  「なるほど。ちなみに、この店をロールキャベツ専 門店にするというのは、ありですか?」  「いいアイデアかも知れないけど、いまから急に方 向転換するのは、ちょっと難しいかな」  母がそう答えたあたりで、もはやテーブルの上の 空気はかなり重たくなっていた。そこにきて、ミリ オンが駄目押しとも言える台詞を吐いたのだ。  「おいマック」  「え?」  「長期間、儲からないでいる飲食店は、思い切って 経営方針を転換しない限り、早めに閉めるのがベ ターだぞ」  「ちょっI、ミリオン」  マスターが、ミリオンの言葉を遮ろうとした。そ れでもミリオンは、ゆっくりと首を振って俺を見据 えた。  「飲食で失敗しないためには、まず、なにより現状 をしっかり認識することが大事なんだ。カーナビで いえば現在地を把握するのと同じことだ。それを 知っていないと自分がどこへ向かえばいいか分から ないだろ? 俺が思うに『かもめ亭』のメリットは、 ターミナル駅から歩いて数分という立地のよさ。駐 車場があること。そこそこ人通りのある道路に面し ているところだな。もちろん、ロールキヤベツつて いう魅力的な商品を持っていることもある。逆にデ メリットは、店の売りになるロールキャベツの味を 知ってもらいにくいことと、お母さんとパートさん しか従業員がいないこと。つまりI」  「もういいってミリオン。やめろよ」  思わず、俺はミリオンの言葉を遮った。  「…………」  ミリオンは素直に囗を閉じた。でも、黒縁眼鏡の 奥の目は、俺に向かって、冷静でまっすぐな視線を 送り続けていた。  「つ1か、俺は、べつにさI」  と、何かを言いかけたけれど、その先の台詞が俺 の喉の奥に引っかかって出てこない。そのまま囗を つぐむと、テーブルの上に、いっそう重たい沈黙が 降りた。すると、  カランー。  パン子の前にあるグラスの氷が溶けて、小さな音 を立てた。  「あら、もうこんな時間」ふいに母がしやべりだし た。「じやあ、わたしは、そろそろI、明日もお 店があるし。ミリオンくん」  「はい」  「うちのお店と誠のこと、心配してくれてありかと ね」  そう言って母は、ゆっくりと椅子から立ち上がっ た。そして、両手を腰に当てて「ふう」と息を吐く と、あらためてみんなに向かってにっこり微笑んで みせた。  「じやあ、みなさんは、ゆっくり楽しんでいって ね」  母は、そう言い残して厨房のなかへ入っていくと、 そのまま自宅の廊下へと続くドアの向こう側に消え た。  しんとした客室に、低く抑えたマスターの声が響 いた。  「ミリオン、いまのは、さすがに無神経すぎるよ」  「…………」  ミリオンは黙ったまま腕を組んで眉間に皺を寄せ た。  「ほんまやで……」  と、眉を八の字にしたパン子は、上目遣いに俺の 顔を窺った。  俺は、ミリオンにひとこと言ってやりたいという 思いはあっだけれど、その思いは、ぬるくなった ビールと一緒に飲み込んだ。  結局、日付が変わる前に宴会はお開きとなった。  母が席を外してからは空気がよそよそしくなって、 いまひとつ盛り上がらなかったのだ。  散らかしたテーブルを片付けた俺たちは、順番に シャワーを浴びた。そして、パン子と風香は一階の リビングで、残りの三人は二階の俺の部屋で寝床に 入っだ。  俺は自分のベッド、マスターとミリオンは床に敷 いた布団に寝そべった。天井の照明を消して部屋を 暗くすると、マスターが「おやすみ」と、ひとりご とみたいに言った。  「おやすみ」  俺も同じ言葉を返した。こちらに背を向けて寝て いるミリオンは、かすれた声で「おう」とつぶやく だけだった。  さっきのミリオンに悪気が無かっだのはわかって いる。だから俺も、なるべく譲歩した態度で接した つもりだった。それなのにミリオンは………と考え はじめたら眠れなくなりそうなので、俺はいったん、 この件についての思考を放擲することにした。  しばらくして、俺はそっと寝返りを打った。  通りに面した窓のカーテンが、街灯の明かりをわ ずかに透かして朧に光っていた。床に布団を敷いて 寝ているミリオンとマスターの姿が、セピア色のモ ノクロ写真みたいにうっすらと見える。  よく考えてみるとI、俺たち三人がシェアハウ スで暮らすようになってから、こんなふうにわだか まりを残したまま寝床に入るのは、はじめてのこと だった。よりによって、三人が同じ部屋で寝なきや ならない日に、こんな空気になるなんて……。  俺は、ふたたび身体を転がして仰向けになった。 薄暗い天井を見つめていたら、ふと母の顔が脳裏に ちらついた。それは、ついさっき、将来を語れない 俺を見たときの微妙な表情たった。  唯一、自分の息子だけが夢も希望も抱いていない ということを知ったとき、母親というのは、ああい う顔をするんだな……。  そんなことを思ったら、なんだか全身がぐったり としてきて、やわらかいマットに背中からずぶずぶ と沈んでいきそうな気がした。  こんなときI、いつもなら部屋でひとりパン子 の歌を聴いて、ささくれた心を真綿でくるんでもら うのだけれど、さすがにマスターとミリオンが寝て いるなか音楽を流すのは気がひける。  俺は仄暗い天井を見たまま深呼吸をしてパン子を 憶った。  いま、あの癒しの歌を唄うパン子は、同じ屋根の 下にいる。  泊まりに来ているのだから、そんなことは当たり 前なのに、なぜだろう、そのことが妙に不思議なこ とのように思えてくる。そして、それと同時に、俺 は胸の奥の方に痛みを感じていた。  最近のパン子は、俺の胸のなかを好き勝手に飛び 回る蜜蜂だった。ふとしたときにお尻の針でチクリ と心を刺し、みずからの存在をアピールするのだ。 刺された痛みで俺がパン子のことを想うと、とたん に蜜蜂はやさしくなって、刺し傷に甘い蜜を塗り込 んでくれる。  神出鬼没で避けようがなく、ときに鋭く、ときに 甘い痛みI。  ますますパン子の歌を聴きたくなった俺は、この 部屋のどこかにイヤフォンがあった気がして、薄暗 い天井を見詰めながらその在処を思い出そうとした。  と、そのとき、枕元に置いておいたスマホの画面 に明かりが灯った。  俺はスマホを手にして画面を見た。  トタン……。心臓が、肋骨を内側から叩いた。  パン子からメッセージが入っていたのだ。  『コンビニに連れてって欲しいんやけど。もう寝 ちやった?』  コンビニつてI、いまから?  一瞬、迷っだけれど、俺は、『了解。じやあ、玄 関のところで』と返信した。そして、部屋の薄暗闇 のなかに、ささやくような声を放った。  「あのさI」   でも、マスターとミリオンからの返事はなかった。   俺は、スマホを手にしたままベッドから降りると、 寝ている二人の足元にある部屋のドアをそっと開け て外に出た。そして、音を立てないよう気をつけて ドアを閉めた。  ふう………と嘆息したとき、ふたたびスマホの画 面が光った。 『やった。ありかと!・ すぐに行ける?』 『うん。俺、もう部屋を出たよ』 『あたしも、すぐ行く』  閉めたドアの前でパン子とメッセージのやりとり をしていると、ふいに部屋のなかから、かすかな声 が洩れ聞こえてきた。  「マスター、起きてるか」  低く抑えたミリオンの声たった。  「うん。寝落ちする寸前だったけどね」  マスターが返事をした。  「そうか。悪いな」  「いいよ、べつに。なに?」  どうやら二人は狸寝入りをしていたらしい。その まま俺は耳をそばだてていたけれど、しばらくの間、 ドアの向こうには小さな沈黙が降りていた。  先に声を発したのはマスターだった。  「ミリオン、さっきの件は、あんまり気にしなくて も大丈夫だと思うよ。悪気がないのはマックもわ かってるはずだし」  「ああ。それより、マスターに相談があるんだ」  そこまで聞いて、俺は、廊下の床がきしまないよ う、ゆっくり歩き出した。二人の会話を盗み聞きす ることに罪悪感を抱いたIというより、これから 二人が俺に聞かれたくない話をするのかと思ったら、 この場にいられなくなってしまったのだ。  階段の前まで歩を進めると、階下から小さな物音 がした。  耳慣れたリズム。すぐにパン子の足音だと分かっ た。  俺は、そっと階段を降りた。廊下の先に見える玄 関には、お尻を床に着けて座るパン子の背中があっ た。義足に靴を履かせているのだろう。  「お待たせ」  パン子の丸まった背中に声をかけた。  こちらを振り向いたパン子は「深夜のお散歩や ね」と、にっこり微笑んだ。その笑顔を見たとき、 ふたたび蜜蜂が俺の胸のなかで羽音を立てはじめた。 そして、立ち上がったパン子が俺を見て「早よ、行 こ」と小首を傾げた刹那−、  チクリ。  心の隅っこに甘い毒を打ち込まれた。  こっそり玄関を出た俺たちは、ひとけのない真夜 中の歩道を並んで歩いた。  チ、チ、チ、チ、チ、チ、チ……。  街路樹のハナミズキから、カネタタキの声が漂っ てくる。  「この辺りでも、深夜になると静かなんやね」  昼間より少し控えめなトーンでパン子が言った。 「ほとんど丑三つ時だからな。でも、心配しなくて いいよ」  「え?」  「熊も猪も出ないから」  「あ1つ、田舎もんを馬鹿にしとるやろ、コラ」  パン子に脇腹を突かれて、俺は「はうっ」と変な 声を上げてしまった。そんな俺を見て、パン子がく すくす笑う。  通りの正面から、ぶわっと生ぬるい夜風が吹いて きた。  「こういう蒸し暑い夜には、やっぱり海か山の風が いいよなあ」  「せやね、あたしも新海の風が恋しいわ」  夜空を見上げながら言ったパン子は、髪の毛と同 じピンク色のTシャツの胸のあたりをつまむと、は たはたと動かした。  「ねえ、あたし、アイス食べた1い」  パン子が子供みたいな口調で言った。  「コンビニに行きたい理由って、それか?」  「ううん」微笑みながらパン子は首を横に振った。 「コンビニに行きたいってのは嘘やもん」  「はあ? じゃあ、何で……」  「なんか眠れんから、夜のお散歩をしたくなって ん」  「それだけ?」  「それだけじゃ、あかん?」  と、隣から俺を見上げたパン子の顔が、なんだか ずいぷんと近く感じて、俺は思わず視線を外した。  「まあ、俺も眠れなかったから、いいけどさ」  「そうかなって思ってた」  「なんで?」  「だって、ミリオンとあんな感じになってたやん」  「…………」  「シェアハウスの三人が、あんなふうにギスギスし とんのはじめて見たから、風香と二人で心配してた んやで」  「マスターは、あいたに入っただけだけどな」  そう言いながら、俺は、ミリオンとマスターの内 緒話のことを思い出していた。  俺がいない部屋で、二人はいったい何を話したの だろう?  話題を変えたくなった俺は、少し先で光っている 看板を指さした。 「コンビニは、あそこだよ」 「なんや、めっちや近いやん」 「だろ?」 「ほな、アイス買って、食べながら散歩しよ」  パン子の提案に、俺は「オッケー」と頷いた。  コンビニでソーダ味のかき永のバーを買った俺た ちは、それをかじりながら住宅街をぶらぶらと歩き、 JRの線路沿いに広がる芝生の公園へと入っていっ た。  「やっぱ歩くと暑いわあ。ちょっと座らん?」  「うん、あそこにベンチがある」  俺たちは、外灯の下にある木製のベンチに並んで 腰を下ろした。  座るとすぐにパン子は左膝を伸ばし気味にして、 今度は薄手のコットンパンツの太もものあたりをつ まみ、はたはたと空気を入れた。  義足を付けるために履くシリコンライナーのなか が蒸れているのだろうか。俺は、以前、触らせても らったパン子のふくらはぎの感触を思い出した。  と、そのとき、パン子が顔を前に出して「あかん、 もう溶けてきた」と言って、かき氷のバーを啜った。  「あ、俺のも溶けてる」  俺も、慌てて同じように啜る。  「ここだけの話やけどI」  「ん?」  「マックは、お母さんが『かもめ亭』を閉めても大 丈夫なん?」  パン子は、かき水のバーを啜りながらさらりと訊 いた。  「なんか、いきなりだな」  「ふふ。お姉ちゃんに、まるっと正直に話してみ」  パン子は悪戯っぽく笑った。そういえば、以前に もこんなシーンがあったな、と思って、俺もふっと 口元を緩めた。  「まあ、生まれ育つだのが、あの実家で、あの店だ からさ。正直に言えば淋しいよ、すごく」  「うん」  「あと、やっぱ、罪悪感っていうか……」  「マックが、お店を継がないことにたいして?」  俺は、黙ったまま小さく二度頷いた。そして、少 し先にある花壇のあたりを眺めながら言った。  「今日、久しぶりに、あの夢を見たんだ」  「屋上にベッドがあってIつてやつ?」  「うん。そのせいかどうかはわかんないけど、実家 に近づくに連れて兄貴との約束のシーンが頭にチラ つきはじめちやってさ」  「…………」  「うちのおかん、ああ見えて糖尿病になったらしい し」  俺は、はじめて母の病名を囗にした。  「え………体調が良くないって、糖尿病やった ん?」  「いまのところ重症ではないみたいだけど。でも、 担当医から、あんまり仕事で無理をするのはよくな いって言われたらしくて。だから、店を閉めるのも 仕方ないんだよな」  「そっか……」  「なんかIごめんな、パン子」  「え?」  「せっかく楽しみにしてくれてたロールキヤベツー ツアーなのに、雰囲気、壊しちやってさ」  「何でマックが謝るん? 悪気は無かったとしても、 悪いのはミリオンやで」  そう言ってパン子は夜空に向かって両手を上げる と、「ん1」と背中を反らして伸びをした。すでに かき水が無くなった木製のバーを右手でつまんでい るせいか、その様子が、なんとなく、真夏の星空に 魔法をかけているように見えてI。  俺は、幼稚な空想をしている自分に苦笑した。そ して、少し自戒を込めて言った。  「ミリオンの性格は、俺たちがいちばん分かってん のにな」  パン子は、俺の言葉には答えず星空に魔法をかけ 続けていた。そして、次の瞬間、「ふう」と声に出 して、上げていた両手をストンと元に戻した。  「やっぱ、マックはさ、いまの本心をお母さんに伝 えた方がええんちやう?」  「また、いきなりだな……」  「あはは。せやね。でも、ほら、あたしはさ、事故 で亡くした両親に、色んなことを伝えられないまま 永遠に会えなくなったんよ」  「…………」  俺は、すぐには返事ができなかった。  するとパン子は、ふたたび星空を見上げた。  「多分、やけどI、誰かに伝えたいことを伝えら れるって、それだけできっと幸せなことやん?」  この台詞を耳にしたとき、一瞬、呼吸を忘れた気 がした。  「そう……かもな」  背後の草むらで一匹の夏の虫がリリリと鳴きはじ めた。  闇を渡ってくる生ぬるい南風がパン子の前髪をか すかに揺らす。  「そういえば、春の夜中にさ」ふいにパン子が話題 を変えた。「小さな海辺の公園に、バイクで連れ てってもらったやん?」  「ああ、うん」  「あのとき、あたし、自分の人生の主役とか脇役と か、そういう話をしたの覚えとる?」  「もちろん、覚えてるよ」  と答えたら、パン子は少し安心したように頷いた。  「いま、ふと思い出したんやけどな、あたしが左脚 を失くして入院してたときに、母方のばあちゃんが  一人でお見舞いに来てくれたんよ。で、当時、まだ、 凹みまくってたあたしの背中を撫でながら、ばあ ちゃん、やさしく言ってくれてん。『玲奈ちゃん、 生まれ変わるなら生きてるうちにやでえ』つて」  生まれ変わるなら、生きてるうちにI。  俺は心のなかで復唱した。  「なんか、いい言葉だな」  「せやろ。長渕剛の『人生はラーラーラ』つて曲の 歌詞なんやって」  「そうなんだ」  「うん」と小さく頷いて、パン子は続けた。「あた りまえやけど、人は死んだら終わりやん? せやか ら、生きとるうちに、自分の人生の脚本を自分で書 き換えて、好きな自分に生まれ変わらなあかんよつ て」  「あのさ」  「ん?」  「もしかして、前に話した主役とか脇役とかって話 も、そのおばあちゃんの教え?」  「正解!・」  「そっか。なんか、格好いいおばあちゃんだな」  「うん。ほんまに格好よかったわ。ちょっぴりやけ ど、千鶴バアと雰囲気が似ててな、あたし小さい頃 から大好きやってん」  パン子は過去形でそう言っだけど、その意味につ いては、あえて訊かないことにした。  「ほんまはな、あたし、両親を失ったあと、このば あちゃんと暮らしたかってん。でも、ばあちゃんは 一人暮らしで生活力ないし、あたしもまだ子ども やったから、父方の伯父さんの家にあずけられたん よ」  パン子は、過去の自分を慰めるような目で言った。  「そうだったんだ……」  「うん。でな、人生の脚本の話を教えてもらってた とき、あたし、ばあちゃんに訊かれてん。『玲奈 ちゃん、感動的ないいドラマに共通する。見せ場” はどこか知っとる?』つて」  パン子は、じっと俺を見て、視線で答えを催促し た。  「そりゃ、やっぱり、最後のクライマックスじゃな いの?」  俺は、陳腐な答えを囗にした。  するとパン子は、「まあ、それもそうなんやけど」 と苦笑して続けた。「そんとき、ばあちゃんがあた しに教えてくれた正解は、主人公が逆境に陥ってか らのシーンなんやって」  「逆境……」  「うん。その逆境から主人公がどうやって這い上 かっていくか。そこがドラマのいちばんの見せ場な んやでって」  「…………」  「じつはな、うちのばあちやん、めっちや苦労人な んよ。若い頃に死産を経験して、やっと子どもを産 めたと思ったら、今度は旦那さんを亡くしてん。し かも、シングルマザーとして頑張って働いてた職場 が倒産して、転職した後は、働きすぎで大病して倒 れて……」  「なんか、ドラマより大変な逆境だな」  「せやろ? しかも、ばあちやんがあたしに『人生 の脚本』の話をしてくれたのって、必死に育て上げ た実の娘を亡くしてすぐやから」  そうだった。パン子は左脚と同時に両親も失って いたのだ。  「おばあちゃん、強いんだな……」  「うん。あたしの知ってる人のなかでは最強やし、 いちばんのおせっかいやったわ」  また過去形で言ったパン子は、少し遠い目をして 微笑んだ。  「この『人生の脚本』の話、当時のあたしには、め ちゃくちゃ響いてなI、病院のベッドの上でわん わん泣いちゃったんよ」  言いながら感極まったのか、パン子の瞳がわずか に揺れた。  「パン子−」  俺がつぶやくように言ったら、パン子は「あは は」と泣き笑いみたいな顔をした。  「ようするに、あたしが何を言いたいかっていうと I、逆境が来たら、そのときが生まれ変わるとき やでっていう、最強のばあちやんからの教訓や。そ れと、大事な人には本心を伝えた方がええってこ と」  「おう」  しっかりと俺が頷き、パン子が親指で目元を拭っ たときI、  べちや……。  俺の足元で絶望的な音がした。  「あっ」  と、パン子が声を上げた。  「え1つ」  俺も足元を見ながら声を上げていた。  食べかけのかき水が溶けて、バーから落ちてし まったのだ。  「まだけっこう残ってたのに……」  俺は、思わずパン子を見た。  するとパン子は、半笑いで言った。 「さっそく逆境やな」  その台詞に軽く吹き出して、俺は答えた。 「よし。俺、いま、生まれ変わる」  パン子も吹き出した。  ひとしきりくすくす笑い合っていたら、俺たちの 背後を貨物列車が通りはじめた。それは、長い、長 い、列車で、最後の一両が通り過ぎるまでに一分近 くもかかった気がした。  やがて貨物列車の音が遠ざかると、パン子は、ひ とつ深呼吸をした。そして、なぜか姿勢を正して、 こちらに向き直った。  「あのな、マック」  「……冫・」  「じつは、ちょっと、聞いて欲しいことがあんね ん」  少し首をすくめるようにしてパン子はそう言った。  「え? なんだよ、急にあらたまって」  「あはは、ごめんな」パン子は面映ゆそうに笑って みせると、言葉を選ぶようにしやべりはじめた。 「もう半月くらい前のことなんやけど」  「うん」  「あたしのSNSのDMにな、東京のレコード会社 の人から連絡があってん」  「えI」  「なんか、その天な、あたしの動画を観て、めっ ちや気に天ってくれたみたいで」  この流れは。まさか……。そう思っていたら、そ のまさかをパン子は囗にしはじめた。  「うちの会社から、デビューせんかって」  「誘われたの?」  「うん……」  「で?」  「あたし、それからずっと、どうしようか迷ってて。 みんなには内緒にしとったんやけど、さっき思い 切って風香に打ち明けたら、とにかくマックに相談 しなよって……」  ようやく理解した。パン子が、こんな夜中にコン ビニに行きたいなんて言い出しだのは、これを俺に 伝えるためだったのだ。  「パン子は、その人になんて?」  「あんまり急やったから、ちょっと時間を下さいっ て」  「え………夢を叶えるチャンスなのに?」  「……まあ、そうなんやけど」  「つていうか、いまが、まさに『人生の脚本』を書 き換えて、生まれ変わるときじゃないの?」  そこでパン子は、小さなため息をついた。  「でもな、デビューするなら、あたし東京に引っ越 さな……」  引っ越しI。その単語を耳にしたとき、胸のな かの蜜蜂が針を突き立てて苦い毒を注ぎ込んだ。  「しかもな、ライブもガンガンやって欲しいって言 われて。あたし……」  そこまで言って、パン子は囗を閉じた。 「パン子、人前で歌うのは避けてきたもんな」 「…………」  パン子は声に出さず、小さくコクリと頷いた。  「その理由、俺に話せるか?」  ずっと前から気になっていたことを、俺は、はじ めて囗にした。  するとパン子は、少ししおらしい声で「あたしな、 ちょっと情けないんやけど」と言いながら、両手を 左膝の上に置いてさするようにした。「正直、怖い んよ……」  「怖い?」  「あたしの動画を観てくれてる人たちに、まだ、義 足のことを伝えてへんし」  「…………」  「ずっと隠してたみたいに思われるのも嫌やし、騙 されたって思われるのも怖いし。いちばん怖いのは、 あたしがデビューして、知らない人たちの前で歌っ たらI」  そこでパン子は、続く言葉をのみ込んで、少し俯 いてしまった。  「歌ったら?」  俺は、なるべく穏やかな声色で先を促した。  「こっちに、注目されるんやろうなって……」  パン子はか細い声で答えながら左の膝を両手で撫 でた。  もしも、パン子の言う通りになったら、下手する と『義足のシンガーソングライター』みたいな売り 出し方をされるかも知れない。そして、それは、パ ン子にとっては望ましくないどころか『怖い』こと なのだろう。  「あたしがステージに立ったら、みんなの視線も、 意識も、脚に集まりそうやし、そんな状況やったら、 あたしの歌、誰にも届かん気がして……」  「う1ん、そんなもんかな?」  言いながら俺は腕を組んだ。義足だろうが何だろ うが、パン子のあの歌声なら、余裕で届くんじやな いか、というのが俺の正直な気持ちだった。でも、 いま、それを囗にすべきかどうかI、と考えてい ると、先にパン子が囗を開いた。  「あたし、高校の文化祭のときにな、周りのみんな にぐいぐい背中を押されて、飛び入りで弾き語りを させられたことがあるんよ……」  「うん」  「そんとき、義足のあたしがギターを抱えてステー ジの袖から登場しただけで、すうっと体育館ぜんぶ の空気が重くなってん。それまではロックバンドの 演奏でカンカンに盛り上かってだのに、いきなり冷 めたんよ。で、あたしが歌いはじめたら、お客はみ んな『いい人』になって、まじめに聴いとるし、歌 い終わったあとの拍手まで、なんか、こう『これは 誠実な拍手ですよ』つて感じで……。あたし、それ がショックで膝が震えちやって、ステージの袖に戻 ろうとして歩きはじめたら、みんなの前でコケても うて」  「え……」  「ふつうなら、そこは笑うとこやん? なのに、あ たしは、めっちや心配されて、六人くらいが駆け 寄ってきて。で、余計に客席の空気が重たなって I」  俺は慰めの言葉が見つからず、ただ「そっか」と だけつぶやいた。  「その文化祭の最終日にな、グラウンドでキャンプ ファイヤーとフォークダンスがあったんよ。でも、 あたしは跳んだり踊ったりするのは苦手やから、一 人で遠くから炎を眺めてて。そんとき、ふと思って ん。あたしの歌は、義足に負けちやうんや なあ……つて」  そこまで言うと、パン子は自嘲の笑みを浮かべな がらため息をついた。  「パン子……」  「まあ、そんなしよ1もない記憶やけど、でも、 きっと、あれはあたしのトラウマなんよ。思い出し ただけで膝が震えそうになるし。せやから、あたし、 いまでも人前ではよう唄わんし、ステージに立つの を想像しただけで息苦しくなって……」  「…………」  「偉そうにミュージシャン志望なんて言っとるくせ に、情けないやろ?」  そう言ってパン子は、俺から視線を外し、苦笑し た。  俺は、そんなパン子の横顔を見ながら「類友だ な」と言った。  「え?」  「俺も、本心を囗にできない情けない奴じやん? だからパン子とは類友だなって。つ1か、俺がもし もパン子の立場たったとしても、やっぱり同じよう にトラウマになると思うわ」  本音で俺はそう言った。でも、パン子は小さく笑 うだけで、何も言わなかった。だから俺は話を元に 戻すことにした。  「で、レコード会社の人には、義足のこと伝えたの か?」  「うん、一応は……」  「その人は、なんて?」  「むしろ、いいじやん、それがキミの個性だよ。義 足はフックになるからガンガン使っていこうIつ て。なんか、勝手に喜んでたわ」  なるほど。パン子がデビューをためらった理由が 痛いほどに分かる。  「ちなみに、そのレコード会社って、どこ?」  もしも、怪しいインディーズとかだったら、迷わ ず「やめとけ」と言うつもりだった。でも、パン子 の囗から出た社名は、驚くほどの大手だったのだ。  「オールーアップーエンターテインメントつていう 会社やけど」  「え……」  「マック、知っとる?」  「オールーアップつて………そりゃ、日本人なら誰 だって知ってるよ」  言いながら俺は、パン子をまじまじと見た。そし て、無意識に「すげえな、パン子」とつぶやいたと き、俺とパン子の距離がすうっと遠くなった気がし た。  「ねえ、マック」  「え……」  「ちょっと変なこと訊いてもええ?」  「まあ………俺が、答えられることなら」  するとパン子は、両手を膝に置いたまま言った。  「マックはさ、あたしのこの脚を『個性』やと思 う?」  あまりにも予想外でセンシティブな難問に、俺は じっとパン子の横顔を見た。  「…………」  「あたし、自分でもよう分からんからI。変な 気い遣わんで、マックの正直な気持ちを答えて欲し いんやけど」  そう言って小首を傾げたパン子は、切実で、とて も真剣な顔をしていた。  いま、パン子に嘘をつくのはやめよう。  俺自身にも嘘をつくのはやめよう。  これを言ったら傷つけるとか、やさしい嘘とか、 そういう『誠実な拍手』みたいなモノは、きっとい まは必要ないはずだ。  そう思った俺は、自分の内側にある正直な想いを 手探りしながら、ゆっくりと言葉をつかみ出して いった。  「俺は、もう、パン子の義足には慣れちやってるか ら、『個性』というより、ふつうに『パン子の 脚』つて感じかな。いまさら『義足は個性』とか言 われると、ちょっと違和感があるかも」  「…………」  パン子は、黙ったまま俺の目を見ていた。俺は続 けた。  「ときどき思うのは、不便だろうな、とか、夏だか らシリコンのなかが蒸れてるかな、とかI。あと、 過去の辛かったときを思い出すきっかけになっちや うこともあるだろうな、とか、やりたいことができ ない理由になることもあるだろうから、ふと、可哀 そうだなって思うこともあるかも」  「可哀そう?」  「うん。気に障ったら、ごめん。でも、ときどき、 そう思っちやうことがあるのは事実かな」  「…………」  「ようするに、パン子の義足は『個性』というより、 パン子にとって純粋に『不便な点』で、しかも、辛 い記憶とつなかっている部分−。俺は、そんな風 に思ってるかも」  「…………」  パン子は、なぜか、まはたきを忘れたように、ぽ かんとした顔で俺を見ていた。そして、その目が潤 みはじめたことに俺が気づいたとき、パン子は二つ 目の質問を囗にした。  「マックは、あたしが東京に行ってもええの?」  「え?」  暗がりから漂ってくる夏の虫たちの哀歌が、す うっと遠くなった。  「えっと、俺は……」  夏の虫の代わりに、胸のなかの蜜蜂の羽音がじわ じわと大きくなっていく。  その羽音が、俺の内側から声を押し出させた。  「パン子にはI」  「え?」  「大学一年の春から好きな人がいるんだよな?」  一瞬、驚いたような顔をしたパン子は、少し問を 置いてから、ゆっくりと頷いた。  「……おるよ」  だよな、やっぱりそうだよな、と俺がため息を堪 えていると、  「その人の、写真もあるよ」  とパン子は、どこか照れ臭そうに言った。  「えっ? その写真、俺が見たら、その大が誰か分 かる?」  「う1ん、分からんと思う」  俺の知らない男−。  蜜蜂の羽音が遠くなっていく。  俺は、少し慌てて話題を変えた。 「そっか。まあ、それはいいや。で、えっと、パン 子が東京に行くことに賛成か反対かの答えだけど I」  「うん……」  「いまは、答えられない、かな」  「え?」  パン子は、俺の言葉の意味を測りかねたような目 をして小首をかしげた。  「俺、正直、まだアルコールが残ってるし。酔った 状態でパン子の夢にたいして意見をしたくないか ら」  俺は、嘘と綺麗ごとを混ぜこぜにした、クソみた いな台詞を囗にしていた。  「…………」  パン子は何も言わず、わずかに視線を下げた。  情けない俺は、「つてことでI」と言いながら、 すっくとベンチから立ち上がった。  「とりあえず、その答えは保留な」  「え、もう………帰るん?」  座ったまま、パン子は俺を見上げた。  「さすがに、いい時間だし」  甘やかさを失った蜂毒は、俺に心ない台詞を吐か せた。    第七章 金色の文字  [夏川誠]  翌朝、俺は、ご〜う、ご〜う、という騒音で目を 覚ました。  仰向けのまま、ゆっくり薄目を開けると、どこか 違和感のある天井が見えた。  そうか。実家に帰省してたんだっけI。  俺は、そっと寝返りを打ち、ベッドから床を見下 ろした。マスターとミリオンが背中合わせに寝てい る。俺を起こした騒音の正体はミリオンのいびき たった。そして、そのいびきと重なって、階下から 懐かしい音が聞こえていた。厨房で母が働いている 音だ。  枕元のスマホを手にして時刻を確認した。  六時四二分−。  もっとゆっくり寝ていたかっだのにな、と思いつ つ、ベッドの上であくびをひとつ。そして、昨夜の パン子との会話を思い出してため息をこぼした。  俺はマスターとミリオンを起こさないよう静かに 起き上がり、部屋を出た。と、その瞬間、思わず 「暑っちい……」とつぶやいた。エアコンのない廊 下は、何もしなくても汗が吹き出すような気温と湿 度だったのだ。天気予報によれば、今朝は最低気温 が三〇度を下回らないことになっていたから、それ も頷ける。  とにかく俺は一階に降りて洗面所で顔を洗い、歯 を磨き、いくらか気分をシヤキツとさせたところで 廊下から厨房に出た。  厨房はすでに美味そうな匂いが充満していた。  「おはよう」  母の背中に声をかけた。  「あら、おはよう。寝坊助の誠にしては早起きじゃ ない」  こちらを振り向いた母は、とろ火にかけたミネス トローネの鍋をかき混ぜているところだった。ずい ぷんと早起きをして、俺たちの朝食を作ってくれて いたようだ。  「うん、なんか、目が覚めちゃってさ」  言いながら俺は、母の顔色をチェックした。少し 気怠そうにも見えたけれど、声にはしっかりとした 張りがあった。  「他のみんなは、まだ寝てるの?」  「二階はぐっすり。平和そうにいびきをかいてる よ」  「ふふ。平和がいちばんね。エアコンはかけてある んでしよ?」  「うん。つけっ放しにしてある」  「ならいいけど。お母さんはエアコン消して寝てた から、暑すぎてあんまり寝られなかったわよ」  母は、やれやれという顔で苦笑した。どうやら気 怠そうに見えたのは寝不足が原因らしい。  「なにか、俺も手伝うよ」  「じやあ、そうねえ……」母は、おたまを鍋の縁に 引っ掛けて火を止めると、腕を組んだ。「スクラン ブルエッグは作れる?」  「まあ、うん、それくらいなら」  俺でも作れるIはずだ。  「じやあ、お願いね」  母はそう言って、冷蔵庫から出して常温にしてお いた卵とバターを指差した。  「オッケー」  それから俺と母は、それぞれの持ち場で調理にい そしんだ。  久しぶりに「親子水入らず」になったせいか、母 はノンストップで囗を動かした。やれ親戚の娘さん が年下の外国人と結婚したとか、韓流ドラマが泣け るとか、散歩中に犬に吠えられて心臓が止まりそう になったとか、泥酔したお客さんを帰すのに苦労し たとか……。  そんなどうでもいいことを嬉しそうに話す母の横 顔を見ていたら、シミの浮いた目尻に深いシワが 寄っていることに気づいた。  そのとき、ふと、昨夜のパン子の台詞を思い出し た。  −誰かに伝えたいことを伝えられるって、それ だけできっと幸せなことなんよ。  俺は、母の目尻のシワから視線を外して、ひとつ 呼吸をすると、肚に力を込めて呼びかけた。  「あのさI」  ニンジンの皮を剥きはじめていた母は、ピーラー を動かしたまま「ん?」とこちらを見た。少し細め られた母の目−それを見たとき、俺の脳裏に「慈 愛」という言葉が浮かんだ。思えば俺は幼い頃から ずっと、この穏やかな眼差しを向けられながら生き てきたのだ。いつも美味しそうな匂いで満たされた、 愛着あるこの空間で。  そして、何かに背中を押されたように、俺はしや べりはじめた。  「俺、小さい頃さ、おとうとおかんが、この厨房で 並んで仕事をしているのを見てると、ふしぎと気持 ちが安らいだんだよね」  「…………」  母は微笑みを浮かべたまま、黙ってピーラーを動 かし続けた。  シャツ、シャツ、とニンジンの皮が剥ける音だけ が厨房に響く。  「兄貴は、二人を誇らしく思ってたし」  「そうなの?」  にっこりと深めた母の笑みのなかに、喜びと淋し さが見え隠れした。  「うん。えっと………俺さI」  いよいよ核心に触れようとした刹那−、廊下か らハタハタと足音が聞こえて、厨房につながるドア が開かれた。 「おはようございます」 「おはようございま1す」  風香とパン子が顔をのぞかせて、明るい声を厨房 に響かせた。  「あらあ、二人とも、おはよう。よく眠れた?」  母の表情も明るさを増した。  二人はそろって「はい」と微笑んでみせた。  そして、そこから先は俺の予想どおり、朝食作り に二人が加わって、せまい厨房が賑やかになった。  正直、昨夜のことを思うと、俺はパン子にたいし て多少なりとも気まずさを覚えてしまうのだが、パ ン子はなぜか何事も無かったような顔でこちらに近 づいてくると、腕と腕が触れ合いそうな距離で並ん で立って俺を見上げた。  「ねえマック」  「ん?」  「今日の帰りも、いっぱい寄り道して、みんなで遊 んで帰ろ」  朝っぱらから蜜蜂に剌された防御カゼロの俺は、 なんとか「おう、いいね」と答えたものの、すぐに 続けて「あ……」と短く声を洩らしていた。焼きす ぎたスクランブルエッグが煙を上げていたのだ。  八時を少し過ぎた頃、俺たちは朝食を食べはじめ た。  いつもなら、みんなの冗談がテーブルの上をぽん ぽん飛び交うところだけれど、今朝は会話が少なく、 ちぐはぐで、空気も重かった。相変わらず俺はパン 子を見れば気まずいし、マスターとミリオンのあい だで交わされた秘密の会話の内容も気になっていた。 さらに、昨夜の行きすぎた発言のせいか、ミリオン が、みんなから微妙に浮いた感じになっているのも 空気を重くする原因に違いなかった。  それでもミリオン以外の四人は、この雰囲気を変 えようと手を替え品を替え楽しげな話題を口にして 場を盛り上げようとした。しかし、どういうわけか 今朝は歯車がうまく噛み合ってくれないのだ。  当のミリオンは、いつも通りタブレットを眺めな がら、がつがつと朝食をむさぼり食っていた。その ふてぶてしい態度を見ていたら、わりと温厚なはず の俺も徐々に苛ついてきて、つい口数を減らしてし まう。そして、そんな俺の変化を敏感に察知した風 香とマスターは、いっそう気が休まらない様子に なって……。  そんななか、母が厨房からひょっこり顔を出した。  「あら? みんな、今朝はなんだか静かじゃな い?」  すると、パン子が器用に笑いながら答えた。  「ご飯が美味しすぎて、力二を食べるときみたいに 無言やったんですう」  母は、その冗談にくすっと笑うと、俺に向かって 言った。  「ちょっと業務用スーパーで買い出ししてくるから。 あとは適当によろしくね」 「うん、わかった」 「じやあ、みなさん、ごゆっくり」  そう言って母は出かけて行った。  母がいなくなると、ふたたびテーブルの上に沈黙 が降りた。でも、食後のコーヒーを飲みはじめる頃 になると、少しずつだけど空気がほぐれはじめ、会 話の数も増えてきた。肝心のミリオンはというと、 やはり、ほとんど会話に加わらず、むしろ難しい顔 でスマホをいじっているのだった。  「おい、ミリオン、眉間にシワを寄せてると幸運が 逃げてくぞ」  少しでも空気を軽くしようと、俺から話しかけて みたのだが、ミリオンは眉ひとつ動かさずにスマホ から顔を上げた。そして、いきなり椅子から立ち上 かってこう言った。  「ちょっと、急用ができた」  「え、なんや急に。どうしたん?」  パン子がミリオンを見上げながら訊いた。しかし、 ミリオンは、その質問には答えず、「しばらく実家 に帰省する」とだけ言うと、すたすたと大股で店か ら出て行ってしまった。  テーブルに取り残された四人は、しばらく呆然と していたけれど、その沈黙を破っだのは俺たった。  「いま俺、ミリオンに、なんか悪いこと言ったか な?」  するとマスターが首を振ってくれた。  「全然そんなことないよ。でも、とにかく、ミリオ ンの様子を見に行かない?」  「うん……」  俺は、気が乗らないまま頷いた。 「パン子、わたしたちも行こ」 「せやな」  結局、四人そろって席を立つと、急いで厨房の扉 から廊下へと上がった。そして、俺の部屋に向かっ て階段を上りはじめたところで、上から降りてきた ミリオンと鉢合わせになった。ミリオンは肩に大き な鞄をかけていた。どうやら本当に帰るつもりらし い。  「なんだ、お前ら。見送りはいいから、どいてく れ」  ミリオンの口調は低く、断固とした響きを持って いた。その声に気圧された俺たちは、思わず身体を 左に寄せてミリオンを通させた。  「ねえ、ぽんと、急にどうしたの?」  風香がミリオンの背中に声をかけた。  「お前らには関係ない」  こちらを振り向かずに答えたミリオンは、そのま ま玄関でくたびれたサンダルをつっかけた。そして、 ドアノブに手をかけたときI、  「おい」俺の囗から硬い声がこぼれ出していた。そ して、その声色が、俺の感情のフタを開けてしまっ た。  「俺たちには関係ないって、お前、ナニサマだ よ?」  ハツとしたパン子が「ちょっ、マック?」と小声 で言いながら俺の手首をつまんで軽く引いた。それ でも、いったんあふれ出した感情は抑えられなかっ た。  「勝手に俺たちの空気をぐちやぐちやにしといて、 そのまま一人で逃げんのかよ」  しかし、すでにドアノブに手をかけていたミリオ ンは「ふう」と肩で息を吐くと、何も言わずにドア を押し開けた。  レモン色の朝の光と、ミンミンゼミの声がなだれ 込んでくる。  そして、長身のシルエットが、真夏の光のなかへ と消えた。  誰もいなくなった玄関のドアがゆっくりと閉じて、 カチヤ、と無機質な音を立てた。パン子の手が、俺 の手首を放した。俺の心臓は乱暴に動いて、耳の奥 にまでその鼓動をドクドクと響かせていた。  「いったん、お店に戻ろう」  マスターが、ため息まじりに言った。  「うん」  と風香が消え入りそうな声を出したとき、俺の短 パンのポケットから場違いな電子音が鳴り響いた。 電話だ。  もしかして、ミリオンか?  そんなことを思いながら俺はスマホを手にした。 しかし、画面に表示されていたのは見知らぬ固定電 話の番号たった。  「もしもし……」  訝しみながら電話に出ると、相手は野太い声をし た男で、「突然すみません。夏川誠さんでしょう か?」と、やや早口に言った。  「そう……ですけど」  すると男は、「よかった、出て下さって」と言っ てから、自分の身分と、いま俺に電話をかけた理由 を簡潔に説明しはじめた。  その説明を聞いているあいた、俺の囗は、壊れた ロボットみたいに「はい」という二文字を何度も繰 り返していた。  やがて通話を終えると、パン子が不安げに俺を見 上げた。  「マック、なんか、あったん?」  俺は小さく頷いた。そして、ぼうつとした頭のな かに浮かんだ単語をそのままつらつらと囗にした。  「えつと、とりあえず、風香がハイエースを運転し てさ、みんなで先に新海に帰つててくれるかな」  「えっ? マック、どういうこと?」  言いながらマスターが俺の顔を覗き込むようにし た。  「俺、すぐに病院に行かないとI」  薄暗い階段に、短い沈黙が降りた。  「せやから、なにがあったん?」  パン子が、また俺の手首をつまんだ。  「いや、なんか、外でおかんが倒れて、救急車で病 院に運ばれたって……」  なぜだろう、自分の囗から出た言葉が、変に遠く、 嘘っぽく聞こえた。だから俺は、あらためて自分に きちんと言い聞かせるように、さっきと同じ台詞を 繰り返した。  「とにかく、俺、すぐに病院に行かないと」  汗だくになって駆けつけた病室は六人部屋だった。  母のベッドは右奥の窓際で、カーテンで仕切られ たその小さな空間は自然光で満たされていた。  俺は、息を弾ませたままベッドの脇の丸椅子に腰 掛けて母を見下ろした。母は眠っていた。眉間にシ ワを寄せ、少し苦しそうに囗呼吸をしているけれど、 担当医によれば、すでに容体は安定傾向にあって、 もう心配はいらないとのことだった。  母が倒れた理由は、まさかの熱中症たった。  炎天下に自転車を漕いでいたら、徐々にふらつき はじめ、そのうち呼吸が激しくなり、目指す業務用 スーパーに着いた頃には、まともに立っていられな くなっていたらしい。母は、スーパーの入り囗から 少し離れた場所にあるベンチに腰掛けて、俺に電話 をかけようとしたのだが、今日に限ってスマホを家 に忘れてきたことに気づいた。ペンチから動けず、 しかも、誰にも気づいてもらえないI時間の経過 とともに症状は悪化し、ついには座っていることも ままならず、ベンチの上に横たわった。すると、そ こへ、たまたま中学生の少女が通りかかって母に声 をかけてくれた。その少女は、尋常でない母の様子 に気づくやいなや、急いでスーパーの店員に声をか け、その店員が救急車を呼んでくれたのだった。  救急隊員に応急処置を受けながら運ばれた先は、 業務用スーパーからほど近いIかつて兄が亡く なった、あの総合病院たった。  ぽた、ぽた、ぽた、ぽた、ぽた、ぽた……。  点滴のしずくが音もなく落ちては、母の手の甲の 血管へと吸い込まれていく。  俺は心の隅っこを「青の世界」の静謐に侵された まま、落涙のような点滴をぼんやりと見詰め続けた。  点滴は二時間ほどで終わった。  担当医の言葉どおり、その間に母は目覚めて顔色 もよくなってきた。会話も交わせるようになり、呼 吸も整った。とはいえ、さすがに、まだ、その表情 はぐったりと疲れ切っていた。  目覚めたときI、母は俺の顔を見るなり「誠、 ごめんね……」と掠れた声を出すと、自い布団のな かから手を伸ばしてきた。母が何にたいして謝って いるのかは俺にはわからなかっだけれど、とにかく 俺は「大丈夫だよ」と頷いて、母の手を両手で包む ように握った。母の手は火照っていた。熱中症で体 内にこもっだ熱が、まだ完全には引いていないのだ ろう。  兄が亡くなった病院と、点滴の落涙。  自いベッド。自い布団。  そして、そのなかから伸びてくる手。  俺は「青の世界」で握る、枯れ枝の手の熱さを思 い出した。  しかし、いま俺の両手が包んでいるのは、現実世 界で生きている母の小さな手だ。それは、俺が生ま れたその日から、ずっと休むことなく育ててくれた 強い手でもある。  「手が熱っぽいけど、大丈夫?」  「うん。少し、身体がジンジンして重たいけど」  しゃべった後、母は、ふう、ふう、と呼吸を整え るように息をした。  「ジンジンするの?」  「なんだか、全身に熱い粘土を詰め込まれたみたい な感じ」 「それは嫌だなあ」  俺が苦笑してみせると、母も同じ顔をした。  「さっき、俺、担当医と話をしたんだけどさ、最低 でも二〜三日は入院になるって」  「そう……。じゃあ、お店は開けられないか」  「そりゃそうだよ。熱中症で倒れたんだから。しか も、そこそこ重症だったらしいよ」  「そっかあ。参ったなあ……」母はふたたび、ふう、 と息をして続けた。「うちのお店、畳むことになる のかなあIつて思ってから、ときどきお父さんの ことを思い出すんだよね」  「…………」  匸緒に楽しく働いてたときのこととか、亡くなる 少し前に『店は任せる』つて言われたときの絶望感 とか」  そう言って母は視線を天井に向けた。まるで天井 に当時の映像が映っているような顔をしている。そ んな母の顔を眺めつつ、俺はひとつ深呼吸をした。 そして、ようやく肚を括れた。  「あのさI」  「ん?」  母の視線が天井から俺に戻ってきた。俺は、熱っ ぽい母の手を握ったまま続きを話した。  「じつは俺も、兄貴が死ぬちょっと前に、託された んだよね」  「託された?」  「うん。おかんのことと、店のこと」  俺は、母の表情を窺った。すると母は、思いがけ ず穏やかな笑みを浮かべて「で?」と先を促した。  「俺、そのときも、こんな感じで兄貴の手を握って てさ。そしたら兄貴、枯れ枝みたいになった手で、 俺の手をぎゆって握り返してきて」  「うん」  「俺、そのとき約束したんだ。おかんのことも、店 のことも、兄貴の代わりに守るつて」  「そっか」  「うん……」  「わたしの知らないところで、そんなことがあった んだね」  母は、小さいけれど、とても感慨深そうなため息 をついた。  「あのときの兄貴、たぶん人生ではじめて、俺に本 気の頼みごとをしたんだと思う。それこそ、命懸け で」  「…………」  「それなのに、俺、なんていうかI」  思わず言葉を詰まらせたとき、母の手に少し力が こもっだ。きゆっ、と俺の手を握り返してきたのだ。  「ありかとね、誠」  え……。  「お母さん、わかってるよ」  何を? と言いたいのに、声にならなかった。 「誠は、ずっと悩んでくれてたんだよね」 「…………」 「お兄ちゃんとの約束が気になって、ずっと身動き が取れなくなってたんでしよ?」  「俺……」  母は、なんでもお見通したった。お見通しすぎて、 俺には続く言葉が出てこなかった。  「誠は小さい頃から、まじめで誠実だったから。ぽ んと、おとうさんが付けた『誠』つていう漢字のと おり。そういう性格だから、人との約束を守れない と苦しくなって、つい、誰かのために自分を犠牲に しようとしちやうの」  母の顔に、恵み深いような微笑みが浮かんだ。  「ねえ、誠」 「……冫・」 「お母さんが、ずっとお店を続けてきたのはね、お 父さんから託されたからじゃないの」  「え……」  「理由はふたつあってね、まず、ひとつは、当たり 前だけど、わたしと誠の生活のため。で、もうひと つは、単純に楽しいからなの。生前のお父さんが、 よく言ってたでしよ。『お客さんの笑顔を見るのが 幸せだ』つて。お母さんも、それとおんなじ」   たしかに、考えてみれば、昨夜もそうだった。母  は、ロールキャベツを頬張る俺たちを見ながら、と ても満足そうな顔をしていたのだ。  「あと、これだけは、絶対に問違いのないことなん だけどね」  「うん」  「亡くなったお父さんも、お兄ちゃんも、わたしも I、とにかく誠に幸せでいて欲しいの。それが家 族みんなの第一希望」  「…………」  「だからね、やさしくて誠実な末っ子が、いちばん に守るべきことは、まず『自分が幸せでいること』。 お兄ちゃんとの約束は、その次でも、さらにその次 でもいいと思う」  「…………」  「誠は、誠の人生を楽しんで」  「うん……」  頷いた俺を見て、母は少しホツとしたように微笑 みを深めた。その表情を見た俺もまたホツとしてい た。長いあいた、心のずっと奥の方で固く結ばれて いた感情の紐が、するりと緩んだようなI、そん な感覚を味わっていたのだった。   ふと俺は、窓の外を見た。   四角いガラスの向こうには、青い、青い、夏空が 広かっている。  「俺さI」  「ん?」  「好きに生きるよ」  まだ何か「好き」なのかもわからないけど、とに かく自分を「人生の主人公」にして、きちんと腑に 落ちる生き方を探しながら、俺らしく生きていく。  「うん」  目を細めて小さく頷いた母を見たとき、胸のなか に可愛い羽音が響きはじめた。そして、その羽音が、 いま俺が伝えるべき言葉を思い出させてくれた。  「俺さ、いつ、おかんが店を閉めたとしても、ずっ とあの店のことが好きだし、あの店で育ててもらっ たことは幸せだったと思ってる。だからI」  「…………」  「ありかとね」  そう言ったとたん、心のなかに、あたたかい点滴 のしずくが、ぽた、ぽた、ぽた、と落ちて、生ぬる い水たまりができはじめたIと思ったら、なんだ か急に照れ臭くなって「はは」と小さな声を出して 笑ってしまった。  すると母もまた照れたように微笑みながら言った。 「相変わらず誠は涙腺がゆるいね」 「いや、これは、おかんの遺伝だから」  二人で目元をぬぐって笑い合った。  俺は、面映ゆいような、でも、どこか晴れ晴れと したような気分になって、知らず識らず「はあ」と 嘆息して顔を上げた。そして、ふたたび窓を見ると、 さっきまで青一色たった夏空に、銀色に縁取られた マッチョな入道雲が顔を出していた。   それから俺は、少なくとも一週間は実家に泊まる ことにした。  店の入り囗のドアには『夏季休暇中です』の張り 紙を貼り、チェアリング部の仲間たちにはメッセー ジで母と俺の状況を伝えておいた。忠司さんには電 話で事情を話し、直近のアルバイトの予定をすべて キャンセルしてもらった。  というわけで、いきなり暇を持て余すことになっ た俺は、数少ない地元の友人たちに声をかけてみた。 しかし、皆それぞれに予定が入っていて、あっさり フラれてしまった。仕方なく、書棚にある本を読み 返してみたり、スマホで動画を観たり、ゲームを やったりして、間延びした時間をやり過ごすのだっ た。  母の見舞いには三日連続で行き、四日目には退院 となった。  「ああ、すっかり休んで、前より元気になっちやっ た」  病院の玄関口から真夏の日差しの下に出たとき、 母は気持ち良さそうに伸びをしてそう言った。  「だからって、しばらく店は開けちや駄目だから ね」  放っておくと無理をしそうな母に、俺は釘を刺し た。  「わかってるわよ」  と、母は苦笑する。  担当医によると、熱中症は、重度になると臓器を はじめとした全身に深刻なダメージを与えるので、 完全に本調子に戻るには、もう少し時間がかかると のことだったのだ。  俺が『シェアハウス龍宮城』に向かっだのは、母 が退院してから一週間後のことだった。  その日は、朝から天気がぐずつき、薄墨色の雲が 低く垂れ込めていた。午前中に実家を出た俺は、久 しぶりに快速列車に揺られ、シェアハウスに到着し たのは昼過ぎたった。  「おい1つす」  なるべく明るい声を出しつつ玄関を上がり、俺は 居間に顔を出した。すると、そこには、大きめの リュツクを背負ったマスターが立っていた。  「あっ、マック、お帰り。色々とたいへんだった ね」  「うん。でも、もう医者も心配ないって。ミリオン は?」  俺の問いかけに、マスターは無言のまま首を横に 振ってみせた。  「連絡も?」  「無いよ。メッセージを送っても未読のまま」  「そっか……」  もしかすると、ミリオンは俺たちにI、いや、 俺に嫌気がさしてしまっだのではないか? そう考 えると、罪悪感によく似た感情が俺の内側を重くし た。しかも、ミリオンとマスターがしていた内緒話 も気になっていて……。  「つていうか、マスター、出かけるの?」  「うん。マックとバトンタッチで、今度は、ぼくが 実家に帰るよ」  「え………なんで?」  「昨日、また兄さんから連絡が入ってさ、すぐに 帰ってこいって。今回は、父さんと兄さんを相手に ガチンコ勝負になっちやうかも」  そう言ってマスターは、やれやれという顔をして みせた。  「ガチンコ勝負ってI」  「例の件について、二人がぼくと話したいんだって さ」  つまり、マスターが実家の病院の事務方をやらさ れることになるか、あるいは喫茶店経営という夢を 追い続けられるかI、今回の帰省は、その分水嶺 となるのだろう。  「マスター、大丈夫か?」  頭の同転が速いマスターが本気を出せば、口喧嘩 なら負けない気もする。でも、やたらと怒鳴り散ら すらしい父親と、その腰巾着みたいな兄をまとめて 相手にすると思うと、さすがに心配だ。  「わかんないけど。まあ、なんとかするよ」  首をすくめたマスターは、どこか他人事みたいに 言った。  「マスター」  「ん?」  「絶対に、負けんなよ」  俺はマスターの目を見て、真剣にエールを送った。  「うん。ありかと、マック」  言いながらマスターは右手を上げた。俺はその手 を右手で叩いた。パンツ、と強い音が居間に響いた。  「じゃ、行ってくるね」  「うん」  俺は玄関まで出て、マスターの小柄な背中を見 送った。  夕方、降り出した雨が一気に激しい横殴りになっ た。  俺は、ひとりクーラーを効かせた自室のベッドに 横たわり、ミステリ小説を読んでいた。その本を読 了したら、いよいよ本当に退屈になってしまった。 枕元に本を置き、天井に向かって「暇だあ」とつぶ やいたら、胸の奥の方で蜜蜂の羽音がした。  俺は、本の代わりにスマホを手にした。そして、 いったん深呼吸をしてから、パン子にメッセージを 送ってみた。  『おっす。いま何してる?』  するとパン子は、思いがけないレスをよこしてき た。  『風香と旅行中やで』  旅行? そんなの、聞いてないけど……。  『マジで? どこにいるの?』  若干の「置いてけぼり感」を味わいつつ送った メッセージのレスは、パン子にしては珍しくつれな いものだった。 『内緒』  つて、だったの二文字かよI。  ため息をついた俺は、仰向けのまま大の字になっ て天井を見上げた。  ミリオンとマスターは、それぞれの実家。  パン子と風香は、女同上の小旅行。  そして、俺はI。  「なんだ、この、夏休みの浪費感」  いつもより高く感じる天井に向かってぼやいてみ たけれど、かすれた俺の声は、窓を叩く雨音にあっ さりかき消されてしまった。  なんだかなあ……。  今度は胸のなかでぼやいて、眠くもないのに目を 閉じた。世界が暗転すると、雨音の輪郭がくっきり 鮮明になった気がした。  エアコンの涼しい風が、さらさらと俺のおでこを 撫でる。その心地いい感触を味わっていたら、鮮明 な雨音が曖昧な意識のなかにまで沁み込んできた。  俺は、閉じていた目を開こうとした。でも、上下 のまぶたは、揺るぎない力でくっついて離れなかっ た。  ああ、雨の音って、やさしくて、淋しいな……。  目を閉じたまま、俺は、だんだんと耳だけの存在 になっていきI、ほどなく、背中からずぶずぶと 眠りの海へと沈んでいった。  目を覚ましたとき、俺は暗闇のなかにいた。  夜−?  窓の向こうから洩れ聞こえてくるのは、蝉の声で も雨音でもなく、鈴虫の恋歌だった。どうやら雨は 上がったらしい。  手探りで枕元のスマホを掴み上げ、時刻を確認し た。  驚いたことに、すでに午後九時を回っていた。  どんだけ寝るんだ、俺−。  のそのそと布団の上で起き上がり、照明を点けた。  やけに腹が減っているな、と思っだけれど、それ も当然だ。朝から何も食べていないのだから。  とりあえず、台所に備蓄してあるカップラーメン で胃袋を落ち着かせ、風香が差し入れてくれたと思 われるスイカを冷蔵庫から出して食後のデザートに した。  充分すぎるほど眠り、腹も満たされた俺は、誰も いない居間で「さてと……」とつぶやいて立ち上 がった。  と、そのとき、ふいにブーンと羽音がして、庭に 面した網戸に一匹の虫がとまっだ。一瞬、クワガタ かな、と思っだのだが、よく見るとカナブンだった。  「お前がいてくれるだけでも、少しはマシだよ」  カナブンに向かってつぶやいた俺は、ため息をこ らえつつ自室へと戻った。  机に着いてパソコンを立ち上げ、就職情報サイト を開いた。そして、様々な業種の会社情報を眺めて いった。  そのまま一時間ほどパソコン画面とにらめっこし 続けてはみたけれど、正直、ピンとくる会社は見つ からなかった。  仕方なく俺は、気分のリフレッシュを兼ねてサイ トのなかにある「適職診断」をやってみたり、俺と 同じように就活で悩んだ人のブログを読み漁ったり してみた。そして、しまいには『フリーランスで生 きていくには』をキーワードに検索してみたけれど、 ヒットしたページを読めば読むほど、可能性の低さ とリスクを目の当たりにするハメになるのだった。  「はあ。駄目だ。いったん休憩」  俺は声に出して椅子から立ち上がると、そのまま 部屋を出て台所に行き、冷蔵庫の扉を開けた。そし て、マスターがポットに淹れておいてくれた水出し アイスコーヒーをグラスに注ぎ、それを持って自室 へと戻った。  ふたたびパソコンの前に座った俺はアイスコー ヒーに囗をつけた。ブルーティーな香りと酸味、そ して、豊かな豆の甘みが俺の舌を一瞬にして幸せに してくれた。  やっぱり、マスターが磨いてきた技術は凄い。こ うもあっさりと人を幸せにしてしまうのだから。  俺は、実家にいるマスターを想った。まさにいま、 傍若無人な父と、その腰巾着の兄と闘っているのか もしれない。  俺はクーラーを止めて、窓を網戸にした。  湿気を含んだ夏の夜風が、ぶわっと室内に入り込 んでくる。  その風は、かすかに海の匂いをはらんでいた。  鈴虫たちが涼やかな恋歌で闇を彩り、近くの田ん ぼからは愉快そうなカエルたちの合唱が聞こえてく る。  俺はスリープ状態になっていたパソコンを起こし た。そして、就職にまつわるサイトの画面をすべて 閉じて、代わりに「あおぞら絶景カフェ」のホーム ページを開いた。気分転換に、前々から気になって いたページを改良しようと思い立ったのだ。  まず手をつけたのは「最新情報」の更新たった。 それが終わると「思い出の写真」コーナーに新しい 写真を加えた。さらに、いくつかの項目のデザイン にメリハリをつけたり、トップページの写真を加工 してみたり、チェアリングを紹介するための文章を リライトしてみたりもした。  このホームページを訪れてくれた人が、「見やす い」「使いやすい」「分かりやすい」と感じてくれる ようにI、いや、そんな感じすら抱かないくらい、 すんなりと気持ちよく直感的に使ってもらえるレベ ルにまで昇華させたくて、俺は思いつく限りの工夫 を凝らし、ひたすらに修正を加えていった。  そのまま、作業に没頭していたらI、  ミーンミンミンミン……。  蝉の声が聞こえて、俺はハツとした。  いつの間にか、夜が明けていたのだ。  網戸の向こうからは、小鳥たちのさえずりも聞こ えてくる。  「んあああ……」  椅子に座ったまま、思い切り伸びをした。そして、 改良が進んだホームページ画面をあらためて眺めて みる。  うん。どこをどう見ても、よくなったIと思う。  刷新したこのホームページを見たら、みんな喜ん でくれるかな。  チェアリング部の仲間たちの笑顔を思い浮かべた 俺は、背もたれに上体をあずけて大あくびをした。  それから三日後の午前十時すぎI。  コンビニで買ってきた惣菜パンを居間の卓袱台で 詔っていたら、ふいにカラカラと玄関の引き戸が開 く音がした。  「ただいまあ」  マスターの声だ。  「おお、マスター、お帰り」  俺は玄関に向かって声を上げた。  居間に入ってきたマスターは、背負っていた リュックを床に置くと、「はあ」と深いため息をこ ぼして俺の向かいに腰を下ろした。  「なんか、疲れた顔してるけど………大丈夫?」  俺は、いろんな意味を込めてそう訊いた。すると  マスターはリュツクのなかから炭酸の入っだ栄養ド  リンクを取り出しながら、「やっぱり、いろいろ  あったから」と言った。そして、ドリンクのフタを  開けてひとくち飲んだ。  俺は何も言わず、マスターの次の言葉を待った。  するとマスターは、意外な話をしはじめたのだっ た。  「昨日さ、実家に置いてあったミステリ小説を読ん だんだけど」  「ミステリ小説?」  「うん。ぼくらが生まれる前に出版された古い小説 なんだけどね、それを読んでて、ふと、思ったんだ よね」  「…………」  「ぼくらの人生って、小説とは違って、とくに何も 起きないんだよなあって」  俺は、マスターの意図するところがわからず、小 首を傾げて先を促した。  「例えばさ、リアルに命を懸けた勝負とか、絶体絶 命のピンチとか、名探偵が解決するような殺人事件 とか、そういうのって、ほとんどの人は経験しない まま人生を終えるわけでしよ?」  「まあ………そりゃ、そうだよな」  「つてことはさ、小説にするほどのことすら起きて ないのにI、ぼくらって、ぽんと些細なことで悩 んだり、泣いたり、怒ったり、苦しんだりしてるっ てことだよね」  「…………」  「ごめんね、急に。意味わかんないよね?」  そう言ってマスターは、珍しく自嘲ぎみに笑った。  「いや、わかるよ。すごく。たしかにそうだなって 思った」  俺は、できるだけゆっくり誠実に言った。すると マスターは残りの栄養ドリンクを一気に飲み干して、 空いた瓶を卓袱台の上に、コト、と音を立てて置い た。  「ぼくらの人生には、たいしたことは起きてない。 それなのにI」  「うん」  「うちの父さんと兄さんつてさ、すぐに『殺るか、 殺られるか』みたいな感じで相手と渡り合おうとす るんだよね」  「…………」  「でも、ぼくは違う。殺すって書く『殺るか、殺ら れるか』じゃなくて、自分のやりたいことを『やる か、やらないか』で生きていくって決めたから。他 人じゃなくて、自分と勝負しながら未来を切り開い ていくって、ぼくはI」  マスターの語尾が潤み声になって揺れた。  「うん」  「今回の帰省でさ、きっちり考えをまとめてきたか ら」  「うん」  「だから、もう、何も迷うことはないよ。ぼくは大 丈夫」  「そっか」  「うん」  小さく頷いたマスターは、俺を見ながら泣き笑い をしていた。  ポンコツな俺の涙腺も、さっそく弁が緩みはじめ た。  「ということでI」マスターは、意を決したよう に言って、立ち上がった。「ぼく、ちょっと、シャ ワー浴びてくるね。外、すごく蒸し暑くてさ、駅か ら歩いてきただけで汗かいちゃつたから」  そう言って、床に転かっていたリュックを拾い上 げたマスターは、いったん自室に消えた。そして、 着替えを手にして浴室へと向かった。  間もなく浴室からシャワーの音が洩れ聞こえてき た。  きっと、マスターは、いま、無数のしずくのなか で泣いているに違いない。でも、それはきっと勝利 の涙だ。マスターは自分の尊厳と自分の未来を死守 して戻ってきたのだから。  親友として、誇らしいよI。  と胸裏でつぶやいたとき、ふいにカラカラと玄関 の引き戸が開く音がした。  ハッとした俺が、あぐらをかいたまま固まってい ると、ぼさぼさ頭のノッポがぬうっと顔を出した。  「おう、なんか、久しぶりだな」  ミリオンは、俺とのあいたに何もなかったかのよ うな口調でそう言うと、肩に背負っていた旅行用の バッグを床の上に置いた。  「つてか、ミリオン、お前さあI」  と不満を口にしかけた俺を見て、ミリオンは、 「ん?」と軽く首を傾げた。そして、卓袱台を挟ん だ正面であぐらをかいた。  なんで誰にも連絡を返さなかったんだよI、そ う言いそうになっだけれど、俺はその台詞をぐっと 飲み込んで、別の言葉に切り替えた。  「えらく疲れてるみたいだけど、大丈夫か?」  「まあ、実際、疲れたからな」  他人事みたいにぼそっと言いながら、ミリオンは いつものようにタブレットを取り出した。そして、 電源を入れると「ん?」と眉間にシワを寄せた。  「充電が切れそうだ……」  つぶやいたミリオンは、面倒臭そうにのそのそと 立ち上がると、ふたたび旅行用のバッグを手にして 「部屋で充電してくるわ」と言った。そして、その まま自室に消えてしまった。  ひとり居間に取り残された俺は、思わず「はあ」 と息を吐いて天井を見上げた。ミリオンがシェアハ ウスに帰ってきたこと。しかも、違和感なく会話を してくれたことに、どうやら俺は安堵を覚えたらし い。  と、そのとき、卓袱台の上のスマホが振動した。  見ると、パン子からのメッセージだった。  『ヤッホーー・ サイコーな女子旅から、ただいまや でっ♪』  このハイテンションな文章を読んだ俺は、すぐさ ま返信した。  『パン子、お帰り。ちょっと急だけど、いまから五 人で前浜に集まってチェアリングしない?』  楽しい旅の余韻に浸っているあの二人なら、疲れ たミリオンとマスターを元気付けてくれるような気 がしたのだ。   f  耆  さ   この日の前浜は、空も海も灰色だった。   それでも俺たちは、久しぶりに各自の椅子を持ち 寄り、車座に置いて座った。  俺の狙いどおり、はじめは口数の少なかったミリ オンとマスターも、パン子と風香の会話に釣られて 少しずつ表情が明るくなっていった。  やっぱり五人が揃うと違うなI。  と、ホッとしていたら、ショートパンツのポケッ トに入れておいたスマホが振動した。画面を見たら 「母」と表示されていた。  まさか、また体調が悪化したんじや……。 「もしもし」  俺は少し慌てて電話に出だのだが、母は、あっけ らかんとした声を返してきた。  「ねえ、誠。あんた、本当にいい友達を持った ねえ」  え……冫・ いい友達?  「急に電話してきて、なに?」  「うふふ。内緒」  「は?」  と、固まっている俺に、母は続けた。  「それよりさ、ミリオンくんに伝えて欲しいことが あるの。彼ね、うちを心配して、本当に事業再生の 計画書を作ってきてくれたのよ」  「なにそれ? 俺、全然聞いてないけど」  ミリオンをちらりと見ながら立ち上がった俺は、 いったん五人の輪から外れて距離を取り、背を向け た。  「その計画書、じっくり読ませてもらったんだけど ねI」  母の説明によれば、まずはチェーン店にフラン チャイズ加盟して経営を学び、その後、また独立す るという内容らしい。  「でも、うちは、ほら、そういうのは、もういいか なって」   つまり母は、俺からやんわりとミリオンに断って 欲しい、と暗に言っているのだ。  俺はもやもやする感情を抑えながら、母との通話 を終えた。そして、五人の輪に戻ると、一度、深呼 吸をしてからミリオンを見た。  「ミリオン、ちょっといいか」  「ん?」  ミリオンは、とぼけたような顔で俺を見た。  「お前、なんで俺にひと言もなしで、うちの実家に 事業再生の計画書なんかを渡したんだ?」  なるべく穏やかに言おうとしたのに、つい棘を含 んだような言い方になってしまった。  「そりゃ、お前の母ちゃんが、いい再建計画があれ ばIつて言ったからだろ」  「まあ、たしかに、あのときはそう言っだけど さ……」  「なんだ? 先に、マックに言えばよかったの か?」  ミリオンは、また、とぼけたような顔をして言っ た。  「そういう問題じゃねえだろ。お前、ふざけてんの かよ?」  「ふざけてる? 俺が、か?」  俺のなかで、もう一人の俺が、抑えろ、抑えろ、 と言っていた。でも、この瞬間、俺は内側からイラ イラの炎に焼かれて、自制が利かなくなっていた。  「まずはフランチャイズで学べってI、お前、何 様なんだよ」  完全に喧嘩腰な口調で俺は言った。パン子と風香 とマスターは、呆然としていたけれど、なんだかも う、どうでもよくなっていた。  「俺は、何様ってほどじやないぞ。でも、うちの親 父−いや、うちの実家が、ステーキのチェーン店 をやっててな、現状、まずまずの黒字経営なんだ。 だからI」  「お前んちの傘下に入れってか?」  「ちょっと、マック」  あいたに入ろうとしたマスターを目で制した俺は、 以前から溜まっていたストレスを吐き出すように雑 言をミリオンにぶつけた。  「お前、馬鹿なのか? うちの実家に来たときのこ と、匸ベリも反省してねえのかよ?」  するとミリオンは、珍しく哀しげな目をして囗を 閉じた。そして、おもむろに立ち上がった。  「ちょっと、コンビニでトイレを借りてくる」  そう言って踵を返したミリオンは、いつものよう に大股で国道の方へと歩いていった。その後ろ姿を しばらく見詰めていたマスターが、眉を八の字にし て「マック」と俺に向き直った。  「いまのは、さすがに言い過ぎだよ」  「いや、たってさI」  「だって、じゃないよ。言葉の使い方がマックらし くないし、完全にアウトな発言だよ」  「…………」  出会って以来、はじめてマスターに叱責された俺 は、正直、軽く面食らっていた。するとマスターは、 やれやれ、といった感じで嘆息すると、ゆっくりみ んなを見渡した。そして、いつもの穏やかな声で 言った。  「あのね、これ、本当は内緒にしとくはずだったん だけどI、ミリオンはさ、シェアハウスの共同財 布に集めた三人のお金の一部を倉持教授のコピート レード分として、ずっと運用してくれててさ。で、 この間、その運用益をまるごと全部『かもめ亭』再 建の足しにしてもいいかって、こっそりぼくに訊い てきたんだよね」 「え……」  想定外のエピソードに呆然としている俺を見て、 マスターは、いっそう口調をやわらかくした。  「マックの実家に泊まった日の夜、マック、夜中に こっそり部屋を出て行ったよね」  「え? あ、うん……」  頷いた俺は、ちらりとパン子を見た。  「あのとき、ぼく、ミリオンに言われたんだ。もし もマックがお店を継ぐことになったら、一緒にサ ポートしてやろうぜって」  ずっと気になっていた二人の内緒話の中身が、ま さか、そんな内容だったなんて……。  俺は、ミリオンの折りたたみ椅子を見た。主のい ない椅子は、ぽつんと孤立して見えた。  「大学に入学してすぐの頃にさ、ぼくとマックは、 話のノリで『ぼくらも倉持教授の投資術に懸けてみ たいよね』つて、ミリオンに言ったんだ。そしたら ミリオン、それを真に受けて本当に実践してくれて たんだよ」  俺は、ふと、奴の口癖を思い出した。  −金は干不ルギー。自分と誰かの願いを叶える ためにある。  「もちろん、ぼくも、その運用益を『かもめ亭』の ために使うことには賛成したんだけど、そしたらミ リオン、すごく嬉しそうに『マック、喜ぶだろう な』つて言ってたよ。そういう流れがあって、ミリ オンは実家に帰っている間に『かもめ亭』の事業再 建計画書を作って……。ミリオンは、そういう奴な んだよ。人の言葉をいつも真に受けて、よかれと 思って、そのまま真っすぐ行動しちやうんだよ」  俺は何も言えず、ただ「ふう」とゆっくり息を吐 いた。  パン子も風香も、言葉を発しなかった。  マスターは、さらに続けた。  「ミリオンは、ああいう人だからさ、子どもの頃か ら他人と上手くやるのが苦手で、ずっと友達がいな かったんだって。でも、大学に入って、人生ではじ めて友達ができたって言ってた。最初は、マックと ぼくで、その後、風香とパン子が登場してくれてさ。 ああ、仲問ってこういう感じなのかって」  「そっか。ミリオン、ずっと淋しかったんや ね……」  潮騒にかき消されそうな声でパン子が言った。  「うん。きっと腰の重いミリオンがチェアリング部 に入ったのも、人生ではじめての『友達と楽しめる チャンス』を大事にしようと思ったからじやないか な」  マスターの言葉に、風香はそっと嘆息して、下唇 を噛んだ。  「マックの実家でさ、ぼく、ミリオンに訊かれたん だ。『友達がI人もいない教室に入るときの気分を 想像できるか?』つて。それを言われたとき、ぼく のなかでミリオンを見る目が少し変わったんだよね。 なんて言うか、孤独から逃げないで、ひたすら乗り 越えてきた人なんだなって……」  マスターの言葉を聞きながら、俺はミリオンの椅 子を見詰めていた。  ふいに海から生ぬるい風が吹いてきて、足元の白 砂がさらさらとサンダル履きのかかとを撫でていく。  「ぼくがマックにI、ううん、みんなに伝えたい 話は、以上だよ。長くなってごめん」  パン子も風香も俺も、黙ったまま小さく首を振っ た。  すると、国道の方からミリオンの声が聞こえてき た。どうやら歩きながらスマホで誰かと話している ようだった。  やがてミリオンは俺たちの目の前まで来て、通話 を切った。  そして、何かを決意したように「ふう」と息を吐 くと、仁王立ちをした。  「いきなりだけどな、俺、大学を辞めることにし た」  この突拍子もない告白に、俺たちは目と囗を開い たままフリーズしてしまった。  「じつはな、このあいた親父が死んで、代わりにオ カンがうちの会社の代表になることになってな。で、 財務面は俺が見ることになったんだ。と言っても、 経験のない俺だけだと不安だから、倉持教授に社外 取締役として入ってもらうことが決まった」  ミリオンの説明はショッキングな情報の詰め合わ せたった。だから俺たちは、引き続きフリーズした ままたった。  そんななか、なんとか我に返って囗を開いたのは パン子たった。  「つていうか、え、ちょっI、ミリオンのお父さ んが亡くなったなんて、うちら聞いてないやん」  パン子は少し怒ったように言った。  「ああ。じつは、マックの実家で朝食を摂ってると きに、訃報のメッセージが届いてな」  「えI、それで、あのとき、急に実家に帰っ ちやったの?」  驚いて目を丸くした風香が訊いた。  「まあ、そういうことだ」  「じやあ、あれから、しばらくシェアハウスに帰ら なかっだのは……」  答えが容易に想像できる質問を、俺は囗にしてい た。  「葬儀やら、会社のごたごたやら、仕事の引き継ぎ やらで、死ぬほどバタついててな」  ミリオンが、あんなにも疲れた顔をして帰ってき た理由が分かった。俺のなかでパズルのヒースが八 マつていく。  「つてことはI、これまでちょくちょくミリオン が実家に帰ってたのも」  「親父が人退院を繰り返してたからな。何度か、い よいよヤバそうだって連絡が来て、そのたびに帰っ てたんだ」  「つてか、ちょっと待ちいや」と、強めの声を出し たのはパン子たった。「そういう大事なことを、な んでうちらに黙っとるん? ミリオンは、いつだっ てひとこと足りないんよ、ほんまに」  いつものマスターの台詞をパン子が代わりにぶつ けた。  「お前らに言っても心配させるだけだし、親父の病 気は治らないだろ?」  「そりゃ、まあ、そうやけどI。なあ、マスター も言ってやりいや」  すると、パン子に振られたマスターが、なぜか急 に申し訳なさそうな顔をしたのだった。  「あのねI、ごめん。じつは、ぼくも、みんなに 黙ってたことがあって」  「え………ちよと、やだ。今度は、なに?」  風香は、怪談話を聞く直前の少女みたいな顔をし た。  「結論から言うと、ぼくも大学を辞めることになり そうなんだよね」  「は? ちょっ……… マスター、ナニ言ってんの? 冗談だろ?」  俺の言葉に、マスターは苦笑しながら首を横に 振ってみせた。  「実家でさ、やっぱり父と兄と喧嘩になっちやって。 そのとき、ぼく、思い切ってカミングアウトしたん だよね。そしたらI」  マスターの父は侮蔑の視線を向けて「お前のせい で頭が痛くなってきた。もう、うちには帰ってこな くていい」と捨て台詞を吐き、席を立ってしまった のだという。さらに、兄にまで「お前、なにふざけ たこと言ってんだ」と嘲笑されたのだそうだ。  「あかん。ひどすぎる。完全にアウトやわ、それ I」  眉間にシワを寄せたパン子が、信じられない、と いった感じで首を横に振った。  「とにかく、そんなこんなでさ、もう、ぼくの学費 は出すつもりはないって。いまどき珍しく勘当され ちやったんだよね」  マスターは、自分の境遇に愛想を尽かしたように 「ぽんと、やれやれな家族でしよ?」と苦笑した。  すると、あらためてミリオンが囗を開いた。  「で、マスターは、これからどうするんだ?」  「とりあえず、ヘブンでバイトを続けながら、しば らくはフリーターかな。家賃は安いし、なんとかな ると思うから」  「そうか。俺も、財務の仕事は基本的にリモートで こなすから、シェアハウスからは出ずにいようと 思ってる。あの家賃は破格だからな」  「じやあ、とりあえず、わたしたち、二人とお別れ をしなくて済むってこと?」  不安そうな顔をした風香の問いかけに、ミリオン とマスターは、それぞれ小さく頷いた。  そうか、よかったIと、つぶやきそうになった 俺は、しかし、その言葉を飲み込んだ。これからも  一緒に暮らせるとはいえ、彼らは大学を辞めてしま うのだ。  五人の間に、とても気鬱でウエットな沈黙が降り た。  仁王立ちしていたミリオンが、ゆっくりと椅子に 腰を下ろす。  と、そのとき、パン子が控えめな声を出したの だった。  「じつはな、あたしも、大学を辞めないかって言わ れてん……」  みんなの視線がパン子に集まった。  「東京のレコード会社のプロデューサーから連絡が 来てな、さっさと契約してデビューの準備をしよ うって、せかされて」  「それ、いつ?」  間髪を容れず、俺は訊いた。  「昨日の夜。また電話が来たんよ」  「え、ちょっと、それってI」  とマスターが目を丸くした。ミリオンもポカンと している。  「内緒にしてて、ごめんやけどI」  パン子は二人にざっくりと今回のスカウトの件に ついて説明をした。  するとマスターとミリオンは、驚きつつも「すご いよパン子。チャンス到来だね」「やったな、お前」 と頬を緩めた。その祝福の言葉を聞きながら、俺は、 ひとり密やかに蜜蜂の毒に耐えていた。  「で、パン子は、なんて答えたの?」  マスターが核心の問いを囗にした。  「とりあえずは、保留にしてもらったんやけど」  答えたパン子は、ちらりと俺を見た。でも、その 視線はすぐに足元の砂へと向けられてしまった。  −マックは、あたしが東京に行ってもええの?  俺の内側でパン子の声が甦る。でも俺は、まだ納 得できる答えを見つけていなかった。いや、そもそ も、パン子の未来を決めるのはパン子であるべきだ し、たとえ俺が「部長」だとしても、口出しすべき ではない。ただ、もしもI、俺が、パン子の恋人 だったりしたらI。そこまで考えて、俺は思い直 した。パン子には二年前の春から想い続けている人 がいるのだ。  「とにかく、俺たちは、パン子の決定を尊重するし、 応援するよ」  蜜蜂の毒にやられて、いっそう臆病になった俺は、 いちばん当たり障りがなくて、もっともみじめな 「部長の言葉」を吐いていた。  その夜は、天候が荒れた。  マスターは、前浜から戻るなり、急に高熱を出し て寝込んでしまった。きっと、ここ数日のストレス にやられたのだろう。  一方のミリオンはというと、狙いどおり株が爆上 がりしたと上機嫌になり、ひとり土砂降りのなかコ ンビニに行って、酒とつまみを買って戻ってきた。 そしてI、  「よし、マック、飲むぞ」  と、居間の卓袱台を挟んで言った。  「いいけど、これ、ミリオンのおごりだよな?」  「いや、共同財布からの出費だ」  「お1い!・」  となるのは、いつものことだ。  「そういえばマック、ホームページのデザインを変 えたな」  「あ、うん。色々と変えちやったけど……」  「前より、かなりいいと思うぞ」  まっすぐ褒められた俺は、変にくすぐったくて、 ただ親指を立ててみせた。  それから俺とミリオンは缶ビールで乾杯すると、 ごくごくと喉を鳴らし、ぷはあ、とやった。  「そういえばさ、ミリオンは、よく『金は自分と誰 かの願いを叶えるエネルギー』みたいなこと言うだ ろ?」  俺は、昼間にマスターから聞いた話を思い出しな がら訊ねた。  「ああ、あれは倉持教授の受け売りだけどな」  「受け売りなのは知ってる」と俺は笑って続けた。 「なんで、自分だけじゃなくて『誰かの』つて言葉 が入っているのか、気になってたんだけど」  「それは単純な話だ。金儲けの基本は『徳集め』だ からな」  「徳集め?」  「まあ、これも倉持教授の受け売りなんだけどな」  そう言ってミリオンは、スマホの待ち受け画像を 俺に見せた。赤地に金色で文字が書いてある。俺は、 それを読み上げた。  「徳が集まるところに、得が集まるI」  「おう。それが教授の持論なんだ」  「えつと……」俺は心が汚れているのだろうか、脳 裏に「綺麗事」という単語をチラつかせながら訊い た。  「現実も、そんなもんなのか?」  「多分な。教授の授業が、それを実証してくれてる し」  「実証?」  「ああ」  「ちなみに、どんな授業をやってんの?」  「授業のメインは、これまで教授が投資した会社の 経営者だちと教室をリモートでつないで、成功した ビジネスにまつわる話を聞かせてもらうことだな」  「マジか。すげえな」  「だろ。まあ、事前に録画した映像を流すときもあ るけどな。いずれにせよ、投資すべき会社は、志と 徳を備えた社長がいる会社だってことを教え込まれ るんだ」  「それで、徳かI」  「教授は俺たちに『本物の大人』を見せることで、 人を見る目、生き方や本質を見る目を育てて、結果 的に、人に喜ばれる企業こそが儲かる企業だってこ とを実感させてくれるってわけだ」 「なんだよ、マジで、いい教授じやんか」 「だから、ずっと前から俺は絶賛してただろ」 「あはは。たしかに、そうだよな」 「いまだから言うけどな、うちの実家のステーキ屋 は一回、倒産してるんだ。で、俺たち家族が貧乏の どん底にいたとき、親父の親友の倉持教授が颯爽と 現れて、あっさり親父の店を買い取ったと思ったら、 儲かってるチェーン店と契約して、親父をオーナー に据えてくれたんだ。教授は、もちろん、その チェーン店の株主だぞ」   驚いた。倉持教授とミリオンの父親は親友だった のだ。  「それで?」  と、俺は先を促した。  「親父は儲かってるチェーン店から経営のイロハを 学ばせてもらったあと、あらためて独立させても らってなI」  「つて、おい。それ、ミリオンが『かもめ亭』用に 作った企画書と」  「ほぼ同じだな」にやりと笑ったミリオンは、 チューハイの缶を開けてガブリと飲んだ。「地獄み たいな貧乏と、そこから脱した経験とノウハウを少 しでも役立ててもらえたらと思ってな」  「ミリオン、やっぱ、お前さあ」  「ん?」  と、こちらを見たミリオンの目には、匸ベリの邪 気すら感じなかった。  「ぽんと、ひとこと足りないんだよ、いつも」  すでに俺は、下まぶたにしずくをためていた。で も、ミリオンはそのことには突っ込まず、他人事の ように返した。  「ああ、どうも昔からそうらしい。そのせいで俺は 友達ができないし、すぐ女にフラれるし、マスター には叱られっぱなしだ」  「あはは。少しは学習しろよ」  笑いながらも、うっかり語尾が潤み声になってし まった。  「お前は、ガキみたいにすぐ泣くな」  「泣いてね1し」  と俺は親指で目尻をぬぐう。  それから卓袱台の上に、やたらと照れ臭い空気が 流れてI、俺たちは思わずプッと吹き出していた。 そして俺は、昼間からずっと言えずにいた言葉を、 ようやく囗にすることができたのだ。  「ミリオンー」  「ん?」  「なんか、色々と誤解してて、ごめんな」  するとミリオンは、いつも通り、そ知らぬ顔で小 さく笑ったと思ったら、ふいに話題を変えたのだっ た。  「そういえば、お前、いいのか?」  「え………なにが?」  「パン子、東京に行っちまうんじやねえか?」  横殴りの雨滴が窓ガラスを叩いてパラパラと音を 立てた。  俺は、何も言わず、ミリオンが飲んでいたチュー ハイの缶に手を伸ばすと、それをごくごくと飲んだ。  「おい、なんで、いきなり俺の酒を飲む?」  「お前のモノは、俺のモノだからな」  真顔で俺が言うと、ミリオンはくすっと笑った。  「じやあ訊くけどなI」  「ん?」  「パン子は、誰のモノだ?」  俺は、手にしていた缶をそっと卓袱台の上に置く と、胸のなかでどんどん大きくなっていく蜜蜂の羽 音を無視して答えた。 フハン子はI、モノじゃないよ」   第八章 ブルートパーズ色の海 [王丸玲奈]  ミリオンとマスターとわたしが、三人そろって退 学の話を打ち明けたあの日から三日が経った。急な 発熱で床に伏していたマスターはすっかり元気にな り、新海市を覆い尽くす暴力的な夏空も、目を射る ようなまぶしいブルーを取り戻していた。  そして今朝、わたしは「計画」どおり、マックの スマホにメッセージを送った。内容は、『マックに 話したいことがあんねん。バイクで龍宮岬公園に連 れてってくれへん?』たった。  というわけでI、いま、わたしとマックは、は じめてチェアリングをした公園のベンチに座って、 真夏の海風に吹かれていた。  ここに来てからしばらくのあいた、わたしたちは 軽い世間話やジョークで笑い合っていた。でも、ふ と会話が途切れたとき、マックは大事なことを思い 出したように言った。 「そういえばパン子、俺に話したいことって?」 「あ、うん。えっと……」  言葉を詰まらせながら、わたしはマックを見た。 マックの表情には、かすかな不安が見え隠れしてい た。そりゃ、そうだろう。なにしろ朝っぱらから意 味深なメッセージを受け取って、結果、わたしたち はここにいるのだから。  でも、いま、本当に不安なのは、わたしの方だと 思う。なぜなら、これからわたしは、わたしの消し 去りたい過去を吐露するのだから。  「じつは、あたしな」わたしは少し声のトーンを落 とした。「ずっとマックにも言ってなかったことが あんねん」  「え?」  マックは眉尻を下げて、じっとわたしを見た。  「前に、あたしの人生は偽物だらけやって話しだの、 覚えとる?」  「ああ、うん。バイクで行った夜の公園で……」  「そう。あれな、じつは、あたしの義理の家族のこ とやねん」  「義理の家族?」  「うん。事故で孤児になったあたしを引き取ってく れた伯父さん夫婦と、あたしのふたつ下の娘さんの 三人なんやけど」  「うん……」  あの「家族」の顔が脳裏にチラつく。  わたしは少しお腹に力を込めて続けた。  「あの家の人たち、めっちや優しくてな、いつも、 よそ者のあたしに気い遣うてくれててん。でも、こ の三人に嫌われたら、あたし、もう行くとこないわ けやん? せやから、それがめっちや怖くてな I」  当時のわたしは、とにかくこの「家族」に好かれ なきや、完璧ないい子でいなきや、と日々、心を砕 いていたのだった。  そんなある日のこと、わたしが帰宅していること を知らない義理の家族三人が、夕方、リビングに集 まって談笑していた。わたしもその談笑に加わるべ きだと思ってリビングに入ろうとしたときI、義 母が、とても楽しそうな声で言ったのだ。  「さっきな、武上さんから美味しそうなゼリーをも ろたんよ。でも、三つしかないから、Rが帰ってく る前に食べなあかんね」  わたしはリビングの手前で足を止め、壁の裏から 密かにその言葉を聞いていた。武上さんというのは、 近所に住んでいる義母の知人の苗字だが、それはと もかく「あ1る」つて?  R−。  それが、わたしのイニシャルだと気づくのに、さ ほど時間はかからなかった。  「あははは。せやな。Rにバレる前に急いで食べ よ」  義妹は、とても愉快そうに笑った。  せめてこの人だけはIと願った義父も、結局は、 さらりと残酷な台詞を囗にしたのだった。  「食べ終えたら、Rにバレんよう、容器を隠して捨 てなあかんな」  「大丈夫やろ。いくらRでも、ゴミ箱を漁ったりは せんよ」  「たしかにい!・」  義母と義妹は、そう言って吹き出した。  いつのまにか脚が震え出していたわたしは、決し て足音を立てないよう、そっと二階の自室に向かお うとしたのだけれど、でも、踏み出した左脚の義足 が小さく、カチヤ、と音を立ててしまったのだった。   その瞬間、リビングの中が静まり返った。   バレだ。完全に。   盗み聞きをしていたと思われたに違いない。   わたしの心臓は一瞬で凍りつき、全身も固まりそ うになった。  でも、とにかく、ここから逃げなくてはならない。  そう思って、わたしは急いで自室へと続く階段を 上っていったのだった。  とI、そこまでマックに話したわたしは、なん となく左膝を両手で撫でながら、なぜか「ふふっ」 と小さく笑っていた。  「とくに義母はな、あたしに向かって何度も、何度 も『玲奈ちゃんは、うちの本物の家族やからね』つ て言ってくれてたんやで」  「…………」  「でも、あたしがいないところでは『R』つて。笑 えるやろ?」  マックは何も言わずに、ゆっくりと首を横に振っ た。  「あのとき、あたし、部屋のベッドに突っ伏して、 『ん1、ん1』つて、声を殺して泣きまくったんよ。 なんか、泣き声を聞かれたら全部が終わるみたいな 気がしてな」  「その後は、『家族』と気まずくならなかったの か?」  「もちろん、よそよそしくはなっだけどな、でも、 お互い、暗黙の了解みたいに『アレはなかったこ と』つて感じにしてたんよ」  「そっか……」  「それしかないやん? 向こうは気まずいだろうし、 あたしには逃げ場がなかったし」  「パン子……」  マックは、つぶやくようにわたしのあだ名を囗に した。  その声色が真綿のようにやさしかったから、わた しは、ゆっくりとマックの方を見て、なるべく明る めに微笑んでみせた。  「というわけで、あたしの人生は、幸せなフリだら けの偽物の人生やってん」  「…………」  「あ、もちろん、孤児なうえに義足のあたしの面倒 を看てくれた義父母には、ちゃんと感謝しとるんや で。陰で何を言ってたかは知らんけど、衣食住を与 えてくれたんやもん。そこは、感謝せなね。せやけ ど、よ1く自分を観察してみると、周りにいるのは、 義父、義母、義妹。そんで、この義足−つて、な んか『義』だらけやんか。しかも、義足だってこと、 動画のファンには隠しとるし、そもそも、あたし、 パン子ですらないから呼び名も本物やないし」  「なあ、パン子」  「ん?」  「なんていうか……自分のことを、そんな風に言わ なくてもI」  「うん。わかっとるよ」と、わたしは言葉をかぶせ た。「ちゃんとわかっとるから、こうやってマック に話せるようになったし。せやから、いまのあたし は大丈夫。心配せんといてな」  「…………」  「ただ、マックには、ちゃんと伝えておきたかった んよ。これまでのあたしのことを」  「えI」  「その上で、これからのあたしは、なるべく偽物や ない人生を生きたいなあって思っとることも、伝え たかったんや。ちゃんと」  「それ、どういうこと?」  相変わらず不安そうな顔で、マックは首を傾げた。  「あたしな」 「うん」 「そろそろ『パン子』を卒業してもええかなって」  これからのわたしは、自分の心をちゃんと大切に して、嫌なことは嫌だと言い、好きなものは好きだ と言う。そして、そろそろ「元パンクロッカー」の スーツを着た女の子としてのあだ名「パン子」を返 上してもいいかな、と思えるようになったのだ。風 香のアドバイスをきっかけに身に着けた想像のスー ツは、もう完全にわたしの人格の一部になっている。 だから、もう、人の目を気にして、控えめで、弱々 しくて、できないことを何でも義足や他人のせいに して、心のどこかで卑屈になっていたあの頃の呼び 名、「玲奈」に戻しても、いまのわたしはきっと大 丈夫。  この義足は、わたしにとって、たしかに「不便な 点」だし「R」を思い出させるトリガーでもある。 それでも、わたしは、その変えようのない事実をそ のまま受け止めたうえで、欠損した部分を埋めよう とする人生ではなく、欠損したまま楽しむ人生を送 ると決めたのだ。  たとえポンコツでも、わたしは、わたしでいい。  「え……と、『パン子』を、卒業って?」  わたしの言葉の意図を探ろうと、マックが、わた しを見詰めてくる。  「マック」  「ん?」  「あたしのこと、玲奈って呼んでもええよ」  「え?」  「でも、いきなり呼び方を変えるのって、恥ずいや んか?」  「まあ、うん」  「せやから、ちょっとずつでええねんけど」  「…………」  マックの視線がわたしから逸れて、わかりやすい くらいに泳ぎだした。きっと、マックは、何か勘違 いをしている。  わたしは、それがおかしくて、くすっと笑うと、 スマホをチェックした。  「あっ、あかん。そろそろ時間や。帰らな」  「え? 帰る? いま?」  「うん。あたし、この後、友達と前浜で待ち合わせ しとるんよ。せやから、急いでバイクで送って欲し いねんけど」  自分で言いながら、自分に「どんだけ自分勝手な 奴やねん!・」と突っ込みを入れたくなる。でも、 根っからお人好しのマックは「え1、マジかよ」な んてボヤきつつも、海風に吹かれたベンチから腰を 上げてくれるのだった。  「ちなみに、パン子、その待ち合わせって、何 時?」  「十分後やな」  「はあっ? 十分後ってI、嘘だろ?」  「ごめん。それが、大マジやねん」  「つたく、しやあねえなあ。じやあ、急ぐぞ」  言いながら、くるりと踵を返したマックが、わた しを置いて歩き出した。  でも、その脚は、背中を追いかけるわたしがちゃ んと追いつけるくらいの、やさしい歩幅を刻んでく れていた。  [夏川誠]  パン子をバイクに乗せて国道を飛ばした俺は、前 浜の入り囗で停車した。  「サンキュー、マック」  と言いながら器用にタンデムシートから降りたパ ン子は、ヘルメットを外すなり、なぜか俺の手首を 握って軽く引いた。  「マックも一緒に来るんやで」  「えI? どういうこと?」  「ほれ、早よ降りて」  何がなんだか分からないままバイクから降ろされ た俺は、そのまま砂浜へと引っぱられていった。  「なんだよパン子。ちゃんと説明し……」  そこまで言いかけた俺は、続く言葉を失った。  というのも、俺の視線の先には、自い渚にテーブ ルと椅子を並べて、こちらを見ている三つの見慣れ た笑顔があったのだ。  「え………なにこれ? どういうこと?」  「うふふ。ええから、行くで」  パン子は笑いながら俺の後ろにまわり、今度は背 中をぐいぐい押しはじめた。  そのまま三人に近づいていくと、いきなりI、  パンー・ パンー・ パンー・  こちらに向けられたクラッカーから、乾いた破裂 音が飛び出した。  「マック、誕生日おめでと1う!・」  と、口々に叫ぶ四人。  これがいわゆる「サプライズ」だと気付くまでの 約二秒間、俺は囗を半開きにしたまま杭のように 突っ立っていた。  「マ、マジか……。いや、びっくりしたあ」  なんとかそう言って近づいたテーブルには、真っ 赤なホーロー鍋が準備されていた。  ふわふわと鍋から漂う湯気。  俺は、その鍋のなかを覗き込んだ。  「えっ……冫・」  この真夏の炎天下に、ロールキャベツ?  みんなの顔を見回した俺に、風香が「まあまあ、 食べてみて下さいな」と、ロールキャベツをひとつ 小皿に取り分けてくれた。  そして俺は、言われるがままにそれを囗にして I、固まった。  「これって……」  「やっぱり、わかるんだね」  と嬉しそうに目を細めたマスター。  「そりゃ、わかるよ」なにしろ、実家のロールキャ ベツの味だったのだ。「つ1か、え? これ、どう いうこと?」  と、ますます驚いている俺に、ひまわりの笑みを 咲かせた風香が「あのねI」と弾んだ声で説明し てくれた。  風香いわく、俺以外のみんなは、俺に内緒でこっ そり実家を訪れ、元気になった母からロールキャベ ツの作り方を教わったのだという。発案はパン子 たったそうだ。  「あたしは今日、マックをどこかに連れ出しておく 役で、一緒にロールキャベツを作れんかっだけどな。 せっかくマックのお母さんから作り方を習っだの に」  眉を八の字にして拗ねたフリをするパン子を見て いたら、俺の頭のなかで散らばっていたパズルの ビーズがヒシヒシと音を立てて一気につなかった。  つまりI、俺が母の快癒をみんなに伝えて、ひ とり実家から帰ってきたとき、入れ替わるようにパ ン子と風香は旅行に行き、マスターは実家に帰った。 誰もいなくなったあの期間のどこかで、四人は密か にうちの実家に集合してロールキャベツのレシピを 学んだのだ。ミリオンは、父親が亡くなったことを 誰にも伝えないまま、例の事業計画書を母に渡し、 しれっとレシピを学んだのだろう。以前、母が電話 で「誠。あんた、本当にいい友達を持ったねえ」と 謎めかせたのは、このサプライズを知っていたから だ。  「うん、美味い。このロールキャベツは、あおぞら 絶景カフェの定番にできるな」  ミリオンが自分も食べながら言うと、風香が続い た。  「わたし、パン子のお母さんのロールキャベツも ちやんと覚えて、それぞれメニューに入れるよ。そ したら、どっちの味も、この先、ずっと残せるで しよ?」  それを聞いたパン子が「風香あ、愛してるう」と 言って飛びついた。そして横から風香をハグしたま ま俺を見た。  「な、みんな、おせっかいやろ?」  「…………」  俺は、何も言わず、ただ小さく笑って頷いた。  まったく、本当に、最高すぎるおせっかいな連中 だ。  それから俺たちは、白砂のビーチでロールキャベ ツを頬張った。  しばらくすると、ミリオンが何かを思い出したよ うに囗を開いた。  「ところでマック、誕生日を迎えたお前に頼みがあ る」  「え? ふつうは、俺の頼みを聞いてくれるんじや ねえの?」  するとマスターが横から人つてきた。  「それがね、むしろプレゼントみたいな頼みごとな んだよ」  プレゼントみたいなIつて? 俺は首を傾げた。 するとミリオンが、いきなり突拍子もないことを言 い出したのだ。  「マック、お前、もう就活はあきらめろ」  「は? なんだよ、それ」  「ぼくらと一緒に、ちゃんとスタートアップしよ う」  とマスターが続いた。  スタートアップ?  誕生日の俺をからかってるのか? と、ひとり訝 しんでいる俺に、ミリオンは真顔で続けた。  「じつはな、マスターが大学を辞めるって聞いたと きから、俺は考えてたんだ。そもそも、うちの実家 のチェーンは飲食で、マスターと風香の夢も飲食。 つまり、俺たちには技術とノウハウと似通った夢が ある。不動産屋の石村さんと忠司さんと倉持教授と のコネもある。資本金も、まあ、多少なりとも、あ るにはある」  「資本金って、三人の生活費の一部をコピートレー ドしたっていう、アレか?」  思わず俺はそう訊いていた。  「まさにソレだ。でな、俺たちで新会社を設立して、 お前には、あるものをプレゼントをする」  そこまで言ったミリオンは、いったんみんなの顔 を見渡した。そして、にやり、と笑いながら言った。  「社長の椅子だ」  「え……冫・」  と、俺も、仲間たちの顔を順番に見た。真夏の陽 光のなか、みんな、それぞれ、まぶしそうに微笑み ながら俺を見ていた。  「いいかマック、お前は今日から経営を学びまく れ」  「いや、ちょっI、俺が、社長って」  「そうだ。社長だ。いずれ倉持教授に投資してもら えるような、志と徳のある経営者になれ」  「だから、ちょっと待てって。つ1か、パン子はど うするんだよ?」  「こいつは、にぎやかしだ」  「うわ、あたしは平社員かと思ったら、にぎやかし か1い!・ でも、まあ、音楽しかできんから、そん なもんやろな」  と自虐を口にしたパン子に、マスターがいつもの 優しい言葉をかけた。  「にぎやかしっていうのは、大切な広告塔っていう 意味だよ」  「広告塔?」  不思議そうな顔をしたパン子に向かって、ミリオ ンが、もはや社長みたいな口調で指示を出す。  「よく聞けパン子。お前が東京でデビューするなら、 それこそ広告塔として俺たちの事業を宣伝しろ。い ままでどおり動画で音楽を続けるにしても、ガッツ リ広告塔として活躍してもらう」  「ん? どっちを選んでも広告塔ってことはI、 あたし、デビューしてもしなくてもええってこ と?」  パン子は訊ねながらミリオンを見て、そして、俺 を見た。  「おう、好きにしろ。お前のやるべきことは同じだ からな」  尊大に腕を組んだミリオンが、もはやリアル社長 に見えてきてI、俺はふたたび我に返った。  「いやいや、ちょっと待てって。だから、いきなり 俺が社長だなんて、無理だって」  「無理どころか、お前には社長のほかに広報係も兼 務してもらうからな」  「広報係?」  「そうだ。お前は自分の好きなことと得意なこと、 自分で分かってるか?」  俺の好きなことと、得意なこと?  いったい何のことだ、と思っていると、ミリオン は腕を組んだまま、出来の悪い生徒を見る教師みた いな目で俺を見下ろすのだった。  「例えば、お前はパン子の動画サイトを作れるだ ろ? そういう能力を惜しみなく使って、どんどん 広告塔を有名にして儲けさせろってことだ」  「…………」  「いいかマック。誰かに『やれ』と言われなくても 勝手にやってしまうくらい好きなことで、しかも、 それが得意なことだったら、それを仕事にするのが ペストなんだ。俺なら投資、マスターならコーヒー、 パン子なら音楽、風香なら料理。分かるか?」  「そりゃ、分かるけど、俺はI」   と言いかけて、ふと考えた。   そういえば俺は、「あおぞら絶景カフェ」のホー ムページを作っているとき、時間を忘れて朝まで没 頭していた。しかも、誰に命令されたわけでもなく、 ただ好きだから勝手にやっていたのだ。それって、 まさに、好きで得意なことI。だから俺は広報係 なのか。なんだかマックというあだ名が、ここに来 て……。  と考えはじめたところで、再び我に返って、いや ちょっと待てよ、と首を振った。  「でも、やっぱり社長は違うだろ。俺、好きでも得 意でもないぞ」  すると今度はパン子が、やれやれ、という目で俺 を見た。  「マックは、自分の才能に気づいてないんやなあ」  「そうだよマック」  とマスターがパン子に同調した。  「お前のいちばんの才能はな、その性格なんだ」と ミリオンが得意げに説明をはじめた。「いいか、お 前は、真面目で誠実。そして、誰かに喜ばれること が好きなうえに、おせっかい野郎だ。そういう人間 こそ、倉持教授が応援したくなる社長なんだ」 「応援したくなるのは、倉持教授だけじゃないよ」  と風香が笑いかけてきた。  「マックは、ぼくらも応援したくなるタイプの人だ からね」  マスターが、嬉しそうな顔で言う。  想定外の褒められ方をした俺は、急に照れ臭く なってきた。  「いや、でも、俺………経営なんて右も左も分から ないし。もし、失敗したら、それこそI」  「それは、そんときに考えればいい。俺たちには 『失敗する自由』があるからな」  ミリオンの妙な台詞を俺は訊き返した。 「失敗する自由?」  俺の問いに答えたのは、なぜかマスターだった。  「間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、 自由は持つに値しない」  「え……冫・」  「マハトマーガンジーが言った名言だよ。昔、ぼく が尊敬してる『岬カフェ』つていう喫茶店のママに 教えてもらった言葉なんだ」   そう言って微笑んだマスターに、ミリオンが続い  た。  「その名言は一理ある。じつはな、ビジネスで成功 した人ほど、たくさんの失敗を経験してるんだ。で、 その失敗から学びを得て、修正を加えて、ふたたび 挑戦−そのサイクルをひたすら繰り返した者が、 いつか成功者と呼ばれるようになる。つていうか、 そもそもビビつて何もしなかったら失敗すらできな いだろ? 失敗ができなきや、成長もできないって わけだ」  俺は何も言い返せずに、雄弁なミリオンをじっと 見ていた。  するとミリオンは、ふう、と息をついて言った。  「というわけで、これが、俺だちからマックヘの、 人生を懸けた誕生日プレゼントだ。上手くやれば 『かもめ亭』とパン子の母ちゃんのロールキャベツ も残せるぞ」  ミリオンは、どうだ、と言わんばかりの顔で俺を 見た、と思ったら、ふと表情をゆるめて続けた。  「ちなみに、俺だちからの、この真剣なプレゼント を受け取るかどうかはI」  「俺自身が決める……つてことか」  ひとりごとのように俺が言うと、なぜかミリオン は「いや」と首を振った。「決めるのは、俺たちだ」 「は?」 「のび太よ、お前は、ただ有り難く受け取れ」  ミリオンは腕を組んだままドヤ顔で俺を見下ろし た。  のっぽで傍若無人な男の背景には、阿呆みたいに マッチョな入道雲が自く光っていて、しかも、それ が神々しくさえ見えてI。  「なんかさ……」俺は胸いっぱいに青い海風を吸い 込んで、「誕生日なのに、上下関係がおかしくね?」 と言ったら、みんながドッと笑い出した。そして、 俺たちの笑い声に呼応したように、遥か高い空から 澄んだ鳶の歌が降ってきた。  ミリオン、マスター、パン子、風香−。  おせっかいすぎる連中の顔を見たら、またしても ポンコツな俺の涙腺がじんわりと熱をもってき て……。  「あっ、俺、酒を飲む前に、いったんバイクをシェ アハウスに戻してくるわ」  と、逃げ口上を口にした。  「えっ、なら、あたしも付き合う!・」  明るい声で言ったパン子が、夏空に向かって小学 生みたいにピンとまっすぐ手を上げた。  [王丸玲奈]  それからマックとわたしは、バイクに乗ってシェ アハウスに戻った。  いつもの場所にバイクを停めたマックは、二つの ヘルメツトを玄関のなかに入れると、すぐに出てき た。  「うっし。じやあ、戻るか」  「せやね」  わたしたちは前浜へと続く小径を並んで歩き出し た。  よく考えてみると、何度も通ったこの道だけど、 マックと二人で歩くのは初めてだ。  「それにしても、まさか、俺の知らないところでス タートアップの打ち合わせをしてたなんて……。マ ジで驚いたわ」  マックは、嬉しいような、困ったような、複雑な 笑みを浮かべながらそう言った。  「うふふ。でも、おもろい展開やろ? 発案者のミ リオンがな、せっかくならマックの想像の一歩先を 行くプレゼントにしたいって」  匸歩先どころか、一万歩くらい先だったよ」  「あはは。でも、ええやん。あたしらの会社の社長 がマックつて、ほんまにピッタリや」  「正直、ぜんぜん自信ないけどね」  「大丈夫やって。ピリリと辛味の効いた脇役が、 ちゃんと支えたるから、頑張りいや」  わたしはマックの弱点である脇腹をチョンと指で 突いて「はうっ」と変な声を出させてやった。そし て、訊いた。  「ちなみに、やけどI」  「ん?」  「マックが渋々でも社長の椅子を受け取ろうって思 えた決め手は何やったん?」  するとマックは、「う1ん……」と少しのあいた 思案したあと、ぽつぽつとしゃべり出した。  「ミリオンが、好きなこととと得意なことの話をし てたじゃん?」  「うん」  「あのとき、俺、ふと思ったんだよな。みんなには それぞれ、投資、コーヒー、音楽、料理っていうプ ロ並みの得意分野があるけど、俺のパソコンいじり だけは、唯一、素人に毛が生えた程度なんだよ なあって。ようするに、俺だけが『人を喜ばせる能 力』を持ってないってこと。でもI」  「でも?」  「もしかすると、だけど………『人を喜ばせる能力』 を持った仲間を支えることだったら、俺にもできる んじやないかって。ふと、そう思ったんだよな」  「なるほど。なんか、ええ話やん、それ」  「そうか?」  「うん。ただの涙腺が壊れたおせっかいな大学生か ら、一歩前進って感じやで」  と、マックを茶化したとき、なぜだろう、ふいに、 わたしの脳裏にあの言葉がチラついたのだった。  生まれ変わるなら、生きてるうちにI。  そして、わたしはハツとした。マックは変わった のだ。自分には何もできないと思い込んでいたマッ クから、仲間を支えようとするマックヘと。  わたしは、隣を歩くマックの顔を見上げた。  マックは穏やかな笑みを浮かべながら、「いや、 そこで俺の涙腺は関係ねえだろ」と突っ込んできた。  わたしも、変わりたいな。  とても素直にそう思えたときI、 「ねえ、マック」  わたしの囗は自然と動いていた。 「ん?」  小首を傾げてわたしを見下ろしたマックの顔が、 なんだか急に近く感じて……。  「あ、えっとI」  早鐘を打ちはじめた自分の心臓に戸惑いながら、 わたしは肩にかけていたポーチからスマホを取り出 した。そして、大切な写真を画面に表示させた。  「この、写真なんやけど……」  いまにも震え出しそうな手で、マックにスマホを 差し出した。  スマホを受け取ったマックは、歩きながら写真を 見て、「ん?」とつぶやいた。  ライムグリーンのスーツケースを右手で持って階 段を駆け上がる一人の青年の後ろ姿−。  「これって、新海駅の上りと下りのホームをつなぐ 通路の階段?」  「せやで」  わたしはマックの横顔を見ながら、そっと深呼吸 をした。  「で、この写真が、ナニ?」  マックは、少し怪訝そうな顔をして、わたしを見 た。  「この後ろ姿の人、誰やと思う?」 「ここに小さく写ってる人?」 「うん……」 「いや、ぜんぜんわかんないけど」  言いながらマックは、画面を顔に近づけ、あらた めて写真をまじまじと見た。  心臓の早鐘に耐えられなくなったわたしは、「ほ な、ヒントをあげるわ」と言った。  「うん」  マックが軽く頷いた。  と、そのとき、わたしたちの正面から、さあっと 明るい夏の風が吹いてきた。小径に沿って植えられ た向日葵たちも、風を浴びて楽しげに揺れた。  「その写真を撮ったんぽ、あたしらが大学に入っだ 年の春やで」  「つてことは、二年前の春か……」  マックは、思案しながら、つぶやくように言って  ハツとした顔でわたしを見た。  「え? もしかして、これ、パン子が片思いして るっていう……」  ちゃんと覚えててくれたんだ、マック。  わたしは黙って小さく頷いた。  「俺が写真を見ても、誰だか分からないっていうア レだよな?」  「うん。その、おせっかいな人やで」  わたしの心臓はどんどん膨張してきて、もはや肋 骨のなかに収まり切らなくなりそうだった。きっと 耳も頬も真っ赤になっていると思う。ふと見たマッ クの表情も、ふつうじゃなくなっていた。  気づいたのかな? 気づいてくれてるよね?  「え? えっと………あ、あのさ」  マックが、どぎまぎしたような顔でしゃべりだし た。  「いま俺、ちょっと思い出したことがあるんだけ ど」  「ほう、なにを思い出してん?」  強がりのわたしは、あえて意味ありげに微笑みな がらマックを見上げた。  「あれは、たしかI、俺たちの入学式の一週間く らい前だったかな。その日、俺、出先から電車に 乗って、新海駅で降りて、そのままミリオンとマス ターとの待ち合わせの場所に行こうとしてて」  「うん」  「でも、その待ち合わせにI」  「遅れそうになってたんやろ?」  思わず、わたしは言葉をかぶせていた。  何かを確信したマックが、ぴたりと足を止めた。  わたしも歩みを止めた。  やっぱり………気づいてくれてる。  「うん。そうだった。あのとき俺、すごく急いでた んだ。でも、階段の手前にギターを背負った小柄な 女の子が突っ立ってて。しかも、やたらと大きな スーツケースを手にして」  「声、かけたんやろ?」  「うん、かけた」 「このスケペ」  緊張と羞恥の限界を超えたわたしは、なぜか一周 回って変な冗談を言ってしまった。  「あははは。こらっ、誰がスケベじゃ!・」  でも、マックが冗談に乗ってきてくれたから、わ たしは次の質問を囗にすることができたのだ。  「そんとき、このおせっかいでスケベな男が何て 言ったか、知っとる?」  わたしはマックの手にあるスマホを横から覗き込 むようにして言った。そして再びゆっくりと歩き出 した。マックも、わたしのペースに合わせて歩き出 す。  「いやあ、何て言つたかなあ……」  記憶を二年前の春へと飛ばしたように、マックは 首をひねった。  でも、なかなか答えが出てこないので、わたしが モノマネを交えて正解を教えてあげることにした。  「この男な、めっちや慌てた感じで、こう言つたん やで。−俺、いま、ちよつと急いでるんで、この スーツケース、向こうの改札の駅員さんに預けてお きますんで」  「あつ、それ、言つたかも!・」  「で、そのおせっかいな男は、背中にギターを背 負った田舎もんのか弱き美少女からスーツケースを 勝手にひったくって、そのまま階段をダッシュして いってん。そのとき、持ち逃げされんよう慌ててス マホで撮った写真が」  「この写真かよ?」  「せやで。か弱き美少女の自己防衛やな」  「おせっかいで、ひったくりって………一一。一・いたい放 題だな」と苦笑したマックは、ため息をつきながら 写真を拡大した。そして、声のトーンを上げた。 「うわ、懐かしい。このグレーのジャンパー、たし かによく着てたわ。いま見ると、ちょっとダサいけ ど」  「たしかに、そのジャンパーは、まあまあダサかっ だけど。でもなI」  「ん……冫・」  「その後ろ姿、か弱き美少女の目には、めっちや格 好良く映ってたんやで」  言っちやった……。  わたしは赤面した顔を見られるのが嫌で、思わず 下を向いてしまった。  「へえ、格好良く見えたのか。ひったくり犯なの に?」  マックの冗談に、わたしは、うつむいたまま笑っ た。  「なあ、パン子」  「ん?」  わたしは、ゆっくりと顔を上げた。  「龍宮岬公園の駐車場で、パンクしたタイヤを交換 したときさI」  ひらひらと桜の花びらが舞っていたあの日の映像 は、いまでも鮮明に思い出せる。  「うん」 「もしかして、すでに俺のこと」 「知っとっだよ」 「…………」 「もちろん、風香もな」 「風香も? マジかよ」 「うん」  だから、あのとき風香は、わたしのためにマック を引き止めて、チェアリングに誘ってくれたのだ。  「つてことは、俺たち、あのときが二度目の出会い だったんだな」  それは、違う。  「ううん。しゃべっだのは二度目やけど、キャンパ スでは何度もすれ違ってたんやで」  あの頃は、ただ、遠くから見ているだけでいいと か、まるでウブな中学生みたいなことを本気で思っ ていたのだ。  「そっか。すれ違ってたのか。何度も」  マックは少し遠くを見て、感慨深そうに嘆息した。  「俺、正直いうとさ、この写真を撮ったギター少女 と、いまのパン子のイメージが、ぜんぜん重ならな いんだよな」  「ふ1ん。なら、ちょっと貸してみ」   わたしは、そう言って、マックの手からスマホを 取り上げた。そして、「ちょっと恥ずいけど……」 と言いながら、別の写真を表示させてマックに再び 手渡した。  するとマックは、「えっ、これ、高校生のパン 子?」と言って、わたしと写真を何度も見比べるよ うにした。  「ちょっI、は、恥ずいやん。そんな見比べんと いてや。デリカシーないんか」 「あ、わ、悪りい」  謝りつつもマックは、あらためて写真のなかのわ たしを見た。  黒髪で、おかっはで、鼈甲柄のメガネをかけた、 とても大人しそうな田舎の制服少女。背景は時代め いた屋根付きのバス停で、さらにその後ろには広い 田んぼと緑の山々。そして、高い青空。  当時の「家族」から「R」と呼ばれていた頃のわ たしだ。  「スレてなさそうで、可愛い美少女やろ?」  照れ隠しに、わたしはそう言った。  「たしかに、これは、これで。つてかさ、『パン 子』つていう想像のスーツを着る前の、この、なん ていうかI」  「ちょっ、コラ。王丸玲奈の時代を黒歴史みたいに 言ったらシバくで」  「言わないって。だって、これはこれで、可愛い し……」  自分で言ったくせに、マックは勝手に視線を泳が せた。  顔から火が出そうなわたしも、きっと側からみた ら挙動不審に違いない。  お互いに照れまくったまま少し歩くと、小径の先 にコンビニと国道が見えてきた。国道の白いガード レールの向こうには、ブルートパーズ色の海がきら めいている。横断歩道を渡れば、三人の仲問たちの 姿も見えてくるだろう。  「えっとI、これ」  言いながらマックはスマホをこちらに差し出した。  「あ、うん」  受け取ったわたしは、スマホをポーチにしまうと、 マックにバレないよう、ひとつ深呼吸をした。  自分の人生の脚本は、自分で書き換えるI。  意を決したわたしは、おずむずとマックの手を 握った。  え? という顔で、マックがわたしを見た。  「いまだけ、みんなに気づかれないところまで、こ のまま手えつないでてもI」  「うん」  わたしに最後まで言わせず、マックは頷いてくれ た。  そして、わたしたちは黙って手をつないだままコ ンビニの脇を通り過ぎ、国道を渡る横断歩道の前に 立った。  北から南へ、二台の乗用車が勢いよく通り過ぎて いった。  「パン子、渡るよ」  「うん……」  顔から火が出そうなまま、わたしは頷いた。  横断歩道の上を歩き出した二人。  自然な感じでわたしに合わせてくれる、いつもの 歩幅。  国道を渡り切ると、眼下に前浜の白い渚が広かっ た。  歩道のうえで立ち止まったわたしたちは、耳によ く馴染んだクリーミーな波音と海風に包まれていた。  白砂の向こうには、夏の強い日差しにきらめくブ ルートパーズ色が揺れている。  遠くに、三人の姿が見えた。  「お1い、ロールキャベツ、ぜんぶ食べちやう よお!・」  こちらに気づいた風香が声を上げた。マスターも 振り向いて手を挙げた。ミリオンもわたしたちを見 て眼鏡の位置を直している。  慌てたわたしは、マックの後ろに回って半身を隠 しながら、つないでいた手を放そうとした。でも   え……冫・   マックは、逆に、わたしの手をぎゅっと握って放 さなかった。しかも、手をつないだまま、わたしの 横に並んで立つと、みんなに空いた手を振り返した のだ。  「え? ちょっ……… マック?」  わたしは海風にかき消されそうな声でつぶやいて、 マックを見上げた。 「うん」  軽く頷いたマックは、あらためて白砂の上の三人 の方を見た。  そして、そのまま、しゃべり出した。  「もしも俺が、パン子に我がままを言っていいな ら」  「…………」  「やっぱ、東京には、行かないで欲しい」  「え……」  ポカンとしているわたしに、マックの視線が戻っ てきた。  「その代わり、俺が動画作りとか手伝うし、パン子 の音楽活動をサポートするから。ピリリと辛味の効 いた脇役にもなるし、キャベツにもなる」  「え……冫・」  「ロールキャベツの」   一秒、二秒、わたしはマックを見上げながら、そ の言葉の意味を考えた。すると、わたしの脳裏に、 やさしかった母の笑顔が浮かんだ。わたしの手を包 む大きな手。  「だから、このまま、みんなのところに行こう」  マックの手に、いっそう力がこもっだ。  「えっと、それって……」  「ちょっと、言うのが遅くなってゴメンだけど」  そこでマックは、ひとつ深呼吸をした。  「俺、玲奈のことI」  そこから続いた短い台詞は、真っ自なわたしの頭 のなかをふわふわと漂って、そのまま広い夏空に霧 散してしまった。  え、いま、なんて言っだの?  もう一度、聞きたい。  そう思ったときI、  「わあ1、なんだ、お前らあ!・」  「きや1、やったあ1」  愛すべき仲間たちの冷やかしが遠くから飛んでき た。  「つたく、ぽんと阿呆だよな、あいつらって」  照れ臭そうなマックが苦笑してみせた。  「うん……。愛すべき阿呆たちやね」  わたしも思い切り照れながら頷いた。  「んじや、行こうか」  ふう、と決意の息を吐いて歩き出そうとしたマッ クの手を、「あ、ちょっと」と、わたしはいったん 引き止めた。  「えっと………あたし、先に言っとかな」  「え、なにを?」  マックは、少し不安そうな目でわたしを見た。  「なんて言うか……」適当な言葉が見つからなかっ たわたしは、なんとなく「言い訳」と言ってしまっ た。  「言い訳?」  「えっとな、あたし、ほら、こんなんやから……… 歩くのすら下手くそやし、他にも色々とできないこ とがあるし。日常生活でも、あきらめなあかんこと がたくさんあって。せやから、いろいろと迷惑かけ るかも知れI」  「大、丈、夫」  マックは言葉をかぶせて微笑んだ。  「え……」  「どうやら俺、スーツケースをひったくるほどお せっかいらしいから」  「…………」  「なにかあったら、勝手に面倒みちやうと思うよ」  そう言ってマックは、夏空の下でニカツと笑った。  その笑みが、なんだかとても頼り甲斐があるよう に見えてI。  「ありかと」  わたしの囗から、とても素直な言葉が引き出され ていた。  「早く、こっち来てよお」  両手を振りながら白砂の上をぴょんぴょん跳ねて いる風香が黄色い声を上げた。  わたしたちは、あらためて歩道から仲間たちを眺 め下ろした。  それぞれ人生の重荷を抱えた三人が、こっちを見 て、やいのやいのと囃し立てている。わたしも、 マックも、まだたっぷりの重荷を抱えている。あの ときのスーツケースみたいに、一人じゃ持ち切れな いほどのI。  「よし。こうなったら、堂々と行こうぜ」  「せやな。こっちか照れてると、みんなも恥ずかし くなるもんな」  「とはいえ、さすがに緊張するな」  本音をぽろりとこぼしたマックが可愛くて、わた しは笑った。  「うふふ。でも、大丈夫やで」  「え?」  「大抵のことは心配せんでも大丈夫やん?」  「…………」  「だって、あたしたちはI」  そこでマックは、何かに気づいたように笑みを深 めて頷いた。  「そっか。そうだったよな」  「うん」  それから、わたしたちは手をつないだままコンク リートの段をゆっくりと降りて、まぶしい白砂の渚 に降り立った。そして、照れ隠しに、握り合った手 を大きく振りながら三人のもとへと歩いていった。  「おい、お前ら、起業する前から社内恋愛か」  ミリオンが珍しく歯を見せて笑った。  「おう、せやでえ!・」  と下手な関西弁で答えたのは、マックたった。 「そういえば、今日はまだ乾杯してなかったね」  とマスターが言うと、 「うん。いろんな意味で乾杯だね」  言いながら風香がビールやジュースをみんなに手 渡した。  「ええと、経理の俺からひとこと言わせてもらうと だなI」  ミリオンが勝手に乾杯の挨拶をしはじめた。  でも、それが相変わらすの素っ頓狂な内容で、み んな、くすくす笑いはじめた。  この先−、スタートアップしたわたしたちに何 か起きるかなんて、誰も知らないし、考えたってわ からない。  はじめての経験だから、きっと失敗もするし、心 配事だって尽きないと思う。  でも、だからこそI。  わたしは、不器用で愛すべき四人の顔を順番に見 た。  風香。マスター。ミリオン。そして、マック。  過去から見たらいちばん経験豊富で、未来から見 たらいちばん若々しいわたしたち五人は、チェアリ ングのときのように同じ方を向いて進んでいくのだ。  ちょっぴり怖いけどわくわくする「未知」に向 かって。  ミリオンの挨拶の内容が明後日の方へと飛んでい  風香が、カセットコンロに火を着けた。  鍋のなかのロールキャベツが、再びあたためられ ていく。  わたしの小さな手を包んでくれる、大きな手。  幸せの香りが、きらめく海風に漂いはじめた。    エピローグ  「うっす!・」  ふいに背後で声がして、肩に手を置かれた。  驚いた俺は、学食の椅子から五センチくらいお尻 を浮かせていた。  「うわ、びっくりしたあ」  慌てて振り向くと、色白でひょろつと背の高い男 が俺を見下ろしていた。一昨年度まで語学の授業で クラスメイトだった笹本だ。  「なんだ、笹本かよ」  「なんだって、なんだよ。相変わらず失礼な奴だ な」  笹本は苦笑しながら俺の隣に座った。  「つ1か、夏川、一人で何やってんの?」  「ああ、ちょっと、ホームページを作ってんだよ ね」  「ホームページ? またかよ」  「まあね」  「今度は、なんの?」  「これから仲間と立ち上げる仕事の公式サイト」  「仕事つてI、前も、同じようなこと言つてたよ な?」  「ああ、アレの進化版、つてとこかな」  「ふうん」笹本は、あまり興味なさそうに鼻から声 を出すと、話のベクトルを少し変えた。「つていう か、最近、連中の顔を見ないけど、どうした?」  「連中?」  「ほら、よく夏川と一緒にこのテーブルでたむろし てた、黒縁メガネのノツポと、小柄なロン毛くん」  「ああ、あいつらは退学したから」  「え? マジで?」  「うん」  「じやあ、お前、両手に花の、ハーレムかよ」  言いながら笹本は、俺の背中をバシツと叩いた。  「痛つて!・ お前、阿呆か。少しは手加減しろよ」  しかし笹本は、俺の言葉をスルーして続けた。  「最近、ピンク頭の娘も見なくなっだけど、でも、 代わりの娘を引き入れたんだろ?」  「代わりの娘?」  「俺が来る直前まで、お前、一緒にいたじやん」  「え……」  「とぼけんなよ。俺はちゃんと見てたからな。髪の 毛は、これくらいの黒髪で」笹本は両手で肩のあた りを示した。「鼈甲柄のメガネをかけた、ちよつと 小柄な娘」  「ああ」  と俺は頷いた。  間違いない。笹本は、見事なまでに勘違いをして いる。  「あの娘、俺、けつこう好みなんだけど」  「へえ」 俺は、あえて関心が無さそうに言った。 「チャンスがあったら、紹介してくんない?」 「悪いけど、それは無理」 「え1、何でだよ」 「何でって……」 俺は二秒ほど思案して、こう答えた。 「社運を損なうから」 「社運? ちょっと言ってる意味がわかI」 「悪りい、笹本」 俺は言葉をかぶせた。 「ん?」  「これ、なるべく早く仕上げたいからさ」  言いながら俺は、パソコンの画面を指差した。  すると笹本は、湿っぽいため息をつきながら立ち 上がった。  「お前、毎回、同じことを言って俺を追い払うの な」  「いや、べつに追い払おうってわけじゃ……」  「いいよ、いいよ。邪魔者は消えますよ」  と、冗談めかした笹本がきびすを返しかけたとき、 「あ、そうだ、夏川」と、ふたたびこちらを振り向 いた。  「−?」  「就活、いい情報があったら、お互いに交換しよう な」  笹本は俺の背中をポンと叩いてそう言っだけれど、 残念ながら、俺は首を横に振るしかないのだった。  「ごめん。俺、就活はしないことにしたから」  「え………どういうこと?」  「じつは、スタートアップしてみることになって」  俺の言葉に、しばらく固まっていた笹本が、眉を 上げた。  「え、なに、マジで言ってる?」  「うん。マジ」俺は頷いて、パソコンの画面を笹本 に見せた。「これ、そのためのホームページだから」  「おいおい、マジかよ。ちょっと見せて」  笹本は、立つたまま俺の横から画面を覗き込んだ。  「かなり本格的じやん。あれ? この写真、なんか、 見覚えがあるような……」  「そうか?」  俺はとぼけたけれど、たしかにこの写真は、以前、 笹本に見られたことがある一枚たった。  チェアリング部を立ち上げた頃にヘブンの脇の空 き地で撮影した、俺たち五人の後ろ姿−。  「じやあ、そろそろ、いいかな?」  なるべく角が立たないよう、俺は穏やかな声で 言った。  「おう。あ、最後にI」  「なに?」  「スタートアップする会社の社名、教えてくんな い? あとで検索するから」  「ああ」俺は、できたばかりの会社のロゴマークを パソコン画面に表示させて笹本に見せた。「これだ けど」  興味深そうに画面を覗き込んだ笹本が訊ねてきた。  「このロゴのデザイン画って、蜜蜂?」  「そうだよ」  「へえ。いいじやん。ちなみに、この社名は誰 が?」  匸応、俺が考えたんだけど」  初の社長権限(という名の懇願)を発動させて、 みんなに頷いてもらった社名は、『有限会社八 ニー・ビー』。  「えっ、夏川が考えたんだ?」  「まあ、なぜか俺、社長だから」  少し照れながら言うと、笹本は苦笑いを浮かべて あっさりこう言った。  「いや、そういう冗談はいらんから」  そして笹本は俺の肩をポンと叩くと、「じやあ、 またな」と言って、今度こそ、こちらに背を向けて 歩き出した。  俺は、その、ひよろ長い背中を見送りながら、一 人ため息まじりにつぶやいた。  「社長らしくなれる想像のスーツ、着てみようか な……」    あとがき  読了、ありがとうございました。  じつは、この『ロールキャベツ』という作品、当 初の構想段階では、チェアリングという遊びを通じ て集まった大学生たちの「スタートアップ」をメイ ンに描こうと思っていました。個性的な大学生たち が様々な障害を乗り越え、ビジネスを軌道に乗せて いく、いわゆる「お仕事サクセスストーリー」とい うやつです。  ところがI、いざ執筆前の「キャラクター設 定」という作業に入ったら、思いがけずぼくの心は 揺らぎました。マック、ミリオン、マスター、パン 子、風香という五人のキャラクターのことが、びっ くりするほど好きになってしまって、こりゃスター トアップ云々よりも、むしろ、この五人の「愛すべ き未熟さ」を描きたいぞ!・ そう思ってしまったの です。  そうして執筆に取り掛かってからは、もう、ひた すら悶々としていました。  いいなあ、俺もこいつらの仲間に入りたい なあ……。  一緒に遊んだり、悩んだり、馬鹿やったりして、 ハイタッチしたいなあIつて。  ようするに「部外者」である自分を淋しく思いな がら書いていたんですよね。  さて、そんなぼくが大学生たった頃は、と言いま すとI、それはそれは未熟者でした。思い出すと 情けなくて赤面するほどに……。未熟者ゆえに、い つも「漠然とした不安」と「いくつもの問題」を抱 えていましたし、そのせいで心も常に不安定。浅学 非才で経験も浅く、財力も人脈も乏しい大学生のぼ くは、のしかかってくる不安や問題をさっぱり解決 できず………そして、何も解決できないままなのに、 正体のわからない圧力に背中を押され、社会の荒波 へと突き落とされ、長らくあっぷあっぷしていた気 がします。  でも、いまならわかるんですよね。それでいいん だってことが。  抱えた不安や問題を解決できずとも、それらをな んとかしようと必死にあがいてさえいれば、それが 未熟者の時代の「最良の姿」つまり「成長している 姿」だと知ったからです。  物語のなかでも書きましだけど、ぼくらの人生に は、たいしたことは(ほぼ)起きません。大多数の 人が、ありふれた人生を生きて、ありふれた死に方 をします。しかも、そのありふれた人生のなかで起 こる、ありふれた問題にすら、うまく対処できず右 往左往して……(涙)。  それが、ぼくら未熟な人間であり、「チェアリン グ部」の仲間たちのような「成長中の人たち」でも あるんですよね。  というわけで、ぼくはいつか未熟ゆえに愛すべき 彼らのその後を書きたいな、と思っています。思い つきではじめてしまった「スタートアップ」は前途 多難な予感しかしませんし、マックと(パン子改 め)玲奈の恋の行方も気になっているので。               小説家・森沢明夫 森沢明夫(もりさわ・あきお) 1969年千葉県生まれ、早稲田人学卒業。2007年『海を 抱いたビー玉』で小説家デビュー。『虹の岬の喫茶店』『夏美の ホタル』『癒し屋キリコの約束』『きらきら眼鏡』『人事なことほ ど小声でささやく』『おいしくて泣くとき』等、映像化された作 品多数。他の著書に『ヒカルの卵』『エミリの小さな包f』『ぶ くぶく』『本が紡いだ五つの奇跡』『さやかの寿司』『桜が散って も』等がある。 カバーイラスト=タカヤユリエ カバーデザイン=坂詰佳苗 この作品は2023年5月徳間書店より刊行されました。 なお、本作品はフィクションであり実在の個人・団体な どとは一切関係がありません。 電子書籍化にあたり、徳間文庫『ロールキャベツ』 (2025年4月刊)を底本としています。