上杉鷹山と細井平洲_童門冬二 人心をつかむリーダーの条件              童門冬二  まえがき  『上杉鷹山の経営学』(PHP研究所)や『小説 上杉鷹山』(学陽書房)を読んで下さった方から、 あるいは鷹山をテーマに講演をした後、必ず受け る質問がある。  「十九歳かそこらの鷹山に、本当にあんな素晴 らしいことができたのですか?」  「全部鷹山ひとりの仕事ですか?」 つまり、  ○年齢が若い。  ○他家から養子に来た。  ○それも名門・大家の上杉家に来た。  ○実家は九州の日向高鍋(宮崎県高鍋町)の  秋月家で、養家は出羽米沢藩(山形県米沢市)  上杉家である。土地の状況が全く違う。  ○米沢藩士も藩民も朧山を全く知らない。朧  山のほうも米沢人を知らない。 という状況だ。いってみれば朧山はハンデだら けだった。  「それなのに、若い鷹山がこれらのハンデを、 たったひとりで克服できたのか? できたとすれ ばなぜか?」  というのが質問の趣旨である。この質問に私は つぎのように答えている。   ○鷹山の名は、海上に浮き出た氷山の目に見   える一角だと思う。海面の下にかれを支えた   巨大な氷山、即ち多くの藩士・藩民がいた。   ○しかしかれ自身もすぐれた治者であり、未   知の米沢人に強力なインパクトを与えた。   ○そういう鷹山の人格づくり、民の父母とし   ての治者づくりを行なっだのは、細井平洲と   いう学者である。  鷹山がいよいよ米沢本国へ改革(いまのリスト ラクチャリング)に赴くことになった時、平洲が 鷹山に告げたのは、  「勇気と責任」  であった。   なせばなる なさねばならぬ なにごとも   成らぬは 人のなさぬなりけり  という歌はここからきている(この歌は熊沢蕃 山の作だという説もある。おそらく儒学を学んだ江戸 時代の、心ある政洽家たちの合言葉だったのだろう)。  鷹山はどんな場合にも逃げなかった。トップの 責任感に徹し、先頭に立って困難に立ち向つだ。 その鷹山の胸の中には、いつも心の支え手として、 師の細井平洲がいた。  先年、愛知県東海市で平洲を記念する行事があ り、私は記念講演を頼まれた。以来、平洲の事蹟 をビジネス界に役立てる紹介ができないか、と考 えてきた。これはその試みである。  したがって正確な平洲の伝記ではない。かなり 現代風にケーススタディ(事例)化した向きもあ る。が、まとまった細井平洲の本としては、はじ めてではないか、と思っている。基礎資料は、 「東海市史編纂委員会」の綴った『東海市史』の うち、資料編第三巻『新篇 細井平洲全集』であ る。この本を恵与して下さった同市にお礼を申し あげるとともに、浅学のための読みちがい等につ いては、おわびを申しあげる。併せて、『上杉鷹 山』(横山昭男先生・吉川弘文館)、『米沢における 教師の系譜』(上村良作先生・米沢信用金庫叢書)、 『上杉鷹山公』(今泉亨吉先生・同)等を参考にさ せていただいた。お礼を申しあげます。                   童門冬二 上杉鷹山と細井平洲*目次 プロローグ上杉鷹山の師、細井       平洲   実学者・平洲とその友たち  細井平洲は、実学者たった。  「学問は、単に字句の解釈だけをしていてもだ めだ。そんなものは死学だ。いま生きている私た ちの実際に役立だなければならない」  と主張していた。しかしだからといって、かれ は偏屈な人柄ではなく、非常にソフトで、多くの 人に愛された。学者仲間とも分け隔てなく交流し た。かれは折衷学派といわれる。折衷学派という のは、古代の聖賢をはじめ、その聖賢の道を説く 多くの学者たちの説から、これはと思うよいとこ ろをとって、混合して人々に教える学派のことだ。 そういう混合説を唱えることもあって平洲も多く の学者だちと交わった。学者の世界はともすれば、 嫉妬したり、あるいは自説にこだわって他の学者 を罵ったりしがちだが、平洲にはそんなところは 全くなかった。まんべんなく交わった。  学者仲間で生活に困っている人がいると、かれ はすすんで、  「私のところへいらっしやい」  といって同居を勧めた。呼ばれた学者たちは喜 んで家族ぐるみ平洲の厄介になった。かれが江戸 で塾を開いていた時、転がり込んだ学者だちとの 共同生活を見たまわりの人々は、  「いまの世の中で、細井先生は本当にめずらし く奇特な方だ」  といって、平洲の心の寛さを誉めた。一時期か れの家には、平洲とその妻、平洲の父甚十郎、子 供たち、それに飛鳥子静という学者とその妻石村 氏、小河仲栗という学者とその妻桑野氏などが 一緒に住んでいたので、世間では、  「三家五姓が共同して住んでいる」  といった。主人の姓と、妻の姓とを合わせると、 合計五つになるのでこういう言い方をしたのだ。 特に近くに住む老人たちは、  「自分も細井甚十郎さんのようになりたい」  と、平洲の父を羨ましがったという。平洲は親 孝行でもあった。  平洲が中でも、生涯の学友として付合っだのが、 長州藩の学儒であった滝鶴台と、肥後熊本藩の学 儒であった秋山玉山である。  滝鶴台は、まるまると太って背の低い人だった という。学者のくせに非常に言葉が少ない。弟子 たちへの教え方も変っていた。テキストを手にす ると、難しいところしか読まない。そして、易し いところはさらっと読んで、  「意味は、まあこのとおりだろう」  といってすましていたという。弟子たちは顔を 見合せて苦笑した。  有名な話がある。かれの妻は、長州藩士世良儀 左衛門の娘たった。あまり器量はよくなかったが、 娘の頃からかなりよく勉強していた。そして、自 分の友達に、  「お嫁に行くのなら、滝鶴台先生のところに行 きたい」  と公言していた。鶴台はそれを聞くと感動した。  「藩にめずらしい娘がいるものだ。はっきり私 の名を告げてそういう希望を洩らすというのは頼 もしい。ぜひ妻にしたい」  といって、その娘をもらった。  嫁に来てから妻はまめまめしく鶴台の世話をし た。ある夜、鶴台が本を読んでいると妻が茶を入 れに来た。  「お疲れでしょう。どうぞ一服なさってくださ い」  そういって茶碗を差し出した途端、懐から赤い 糸の毬が転がり落ちた。慌てて拾おうとする様を 鶴台が見咎めた。  「それは何だ?」  と聞くと、妻は真赤になって、  「何でもありません」  と慌てて隠そうとした。鶴台は聞いた。  「何だ? 話しなさい」  困惑の極に達した妻は、しかし鶴台がまじめな 表情でじっと自分の顔を凝視しているので、仕方 なく話しだした。  「実を申しますと、この家に参りましてから私 は愚かで行き届かぬものですから、毎日し損じば かりしております。あなたのお世話にも手抜かり が沢山あろうと思います。そこで私は、何か一つ 失敗をする度に赤い糸を巻くことに致しました。 毎日巻いているうちに、いつの問にかこんな大き な毬になってしまいました。お恥ずかしうござい ます」  聞いていた鶴台は微笑んだ。  「そうか、その赤い毬はそういうことだったの か」  と、改めて慈愛に満ちた目で妻を見た。そして こんなことをいった。  「ぜんぜんよいことはしていないのか?」  「え?」  「この家に来てからし損じばかりしていて、い いことはひとつもしなかったのか?」  そういわれると妻はチラと微笑んでこう応じた。  「いえ、決してそうではありません。いいこと も少しはしております」  「その時はどうしているのだね?」  問われて妻は今度は袂から白い糸の玉を出した。 鶴台に見せて、  「いいことをした時は、白い糸を巻くようにし ております」  鶴台は白い毬を手に取って、赤い毬を出させ比 べた。ポンポンと掌の上で両者を比べながら、  「白い毬の方が、少し小さいかな」  と笑った。妻も笑い出した。そして、  「早く、白い毬の方を大きく致しますから、ど うぞお導きください。あなたは、私の夫であると 共に私の先生でもございますので」  鶴台は、  「わかった。これからもよろしく頼む」  と頷いた。  だからといって滝鶴台は、完全に柔らかい人柄 たったわけではない。正しいことを主張し、曲っ だことが大嫌いたった。それは、誰に対しても同 じだった。特に「治者」の立場にある人物に対し ては、ズヶズヶと意見した。  細井平洲が人に語ったことがある。  「弥八(滝鶴台の通称)は長州で、ある大身の家 に呼ばれた。沢山の武士が来ていて、鶴台にもお 呼びがかかったのだ。この時、その家の主人が鶴 台に。  『わが国と唐土と、政治を行なうにはどちらが 難しいと先生はお思いか?』  と聞いた。すると鶴台はためらいもなく、それ は唐土の方が難しうございますと答えた。主人が、 それはなぜか、と聞くと鶴台はこういった。唐土 は古くから学問の国で、人民もよく本を読み学ん でおります。物の道理も心得ております。した がって、治者の立場に立った人間が迂闊なことを すればすぐ批判されます。ところがわが国ときた ら、字を読むことも書くこともできない徒が多く、 どんなぼんくらが上の方にいようと、大して気に しません。政治の何たるかがわからないからです。 わが国ほど治者が楽な政治をできる国はないで しょう。  聞いた一座の人々は顔色を変えた。おそるおそ る主人を見た。主人も不機嫌になっていた。鶴台 は平気で酒を飲んでいた。このことが殿様の耳に 入った。殿様は偉かった。  『さすが鶴台先生だ。そういうことをズヶズヶ いえるのは、先生以外いない。呼んだ人物は、さ ぞかし居心地が悪かったに違いない』、と笑われ た……」  つまり、細井平洲は滝鶴台や秋山玉山だちと、 集まってはこういう話をし合っていたのである。 今でいえば、学者問における通俗情報の交換だ。 しかし、平洲はこういう通俗情報をばかにしな かった。それがかれの、  「学問は、いま生きている私たちに役立だなけ ればならない」  という考えにつながるからだ。実学というのは、 現実と無縁ではいられない。日々起っている人間 生活の瑣末なことも結構学問の対象になる。論争 の素材になるのだ。平洲はそれを大事にした。長 州藩にはもともとこういう習慣があって、幕末の 松下村塾を経営した吉田松陰もいつも、  「日々、私たちの身の回りで起っていることを 学問の題材にしよう。なぜ、そういうことが起っ て来るのか、政治との関わりで論議しよう」  といっていた。  そしてその吉田松陰が、  「この本こそ、治者の宝典である。諸君、いつ も座右において学びたまえ」  といって塾生に勧めたのが、『嚶嗚館遺草』と いう本である。細井平洲の書いた本であった。そ して、この本を誰のために書いたかといえば、治 者の立場にある何人もの大名のためであった。特 にいにいしいう(に鍛藩主の上杉鷹山のために     謌羅    11語一    階龍頭一匹=    隰圖     。、   二   親友秋山玉山の熊本改革  秋山玉山も平洲の親友だったが、かれは肥後藩 六代目の藩主細川重賢の。宝暦の改革”を補佐し たので有名だ。特に新しく学校をつくった。「時 習館」という藩校だ。  「学んで時にこれを習う。またよろこばしから ずや」  という『論語』からとった校名だ。  玉山も滝鶴台に負けない変った学者だった。も ともとは、鶴畸という地域での医者だった。医学 の修業のために熊本に来た時、その学才が重賢の 耳に入った。重賢は当時、疲弊した熊本藩の財政 を再建するために、宝暦の改革をばしめたばかり だったので、玉山を召し出して三百石の祿を与え、 毎日部下たちを集めては、玉山から講義を聴いた。 重賢は。  「藩政改革というのは、理念がなければだめだ。 単に帳簿に生じた赤字を消せばいいという姑息な ものではない。それには、やはり改革推進者であ る藩の武士が、全部学問を学び直さなければだめ だ」  と考えていた。  ところが、秋山玉山は、普通の学者ではない。 性格が非常に豪放磊落で、特に酒が好きだった。 これを知った重賢は、部下に命じて、  「秋山先生には毎日一升の酒を届けてやれ」  といった。ところが玉山は一日一升では足りな い。夜になると喉が渇いてくる。どうしても外に 出て飲みたくなる。重賢は、参勤交代で江戸に 行った時も玉山を連れて行った。玉山は、飲屋に 出掛けたいが熊本藩の掟はなかなか厳しくて、夜 の外出を認めない。玉山は智恵をしばった。毎晩、  「明日の講義で、どうしても不明な点がある。 ちよっと、幕校の総裁である林家に行って尋ねて きたい」  そんなことをいって外出する。実をいえば門番 は、玉山が何のために外出するか知っていた。し かし、  「林家に行ってくる」  というのに対して、嘘でしようともいえない。 外出を認めた。玉山は、藩邸を出ると一応は林家 の屋敷に行った。そして、  「こんばんは。ちよっとその辺まで参りました のでご挨拶に参りました」  などと適当なことをいって、玄関先で挨拶を済 ませ、すぐ飛び出す。そして行きつけの飲屋に 行って、大いに酒を飲む。グデングデンに酔っ 払って戻って来る。門番に、  「いやあ、済まぬ済まぬ。林家ですっかりご馳 走になってしまった。通るぞ」  そういって自分の長屋に戻り、ダーグー寝てし まうのだ。藩の人問たちは皆そのことを知ってい たが、秋山玉山の人徳で黙認していた。  玉山は酔っ払うと、よく筆を揮って得意の詩を 書いた。なかなか字に味があるのでずるい連中は、 玉山に酒を飲ませて色紙をねだった。玉山は気持 よく書いた。が、相手が気に入らないと、  「俺が嫌いなのは、魯国浪人仲尼(孔子の字) だ」  などと書いた。もらった連中は有難がらずにか えって迷惑そうな顔をした。そんな悪戯心も玉山 にはあった。  この玉山に、片岡朱陵という友達がいた。なか なかの豪傑学者で、弟子たちを教える時にも夏な どふんどしまではずして素っ裸で、畳の上をゴロ ゴロ転がりながら講義した。弟子たちも先生の真 似をして、皆素っ裸になって転がりながら講義を 聴いた。この片岡朱陵がある時いった。  「今は藩は貧乏だが、これを再建するためには やはり学校をつくった方がいい。財政難の時こそ、 人づくりに力を注がなければだめだ。どうだ? おまえたちが走りまわって、城下町の有志から学 校をつくる資金を集めてはもらえぬか?」  いい思いつきだったので弟子たちは賛成した。 飛びまわった。たちまちかなりの資金が集った。 片岡朱陵はそれを見届けると、江戸にいた秋山玉 山に使いを出した。  「弟子だちと相談して、新しく熊本に学校を建 てたらどうかと考えた。金も少し集めた。殿様に いって、学校を建ててくれ。学長はおまえがや れ」  玉山は片岡朱陵の友情に胸を温めた。このこと を主人の重賢に話すと、重賢も、  「片岡はすばらしい。私も実をいうと熊本に学 校が必要だと思っていたところだ。早速建てよ う」  そういって学校を建てた。これが「時習館」で ある。重賢は、学長に秋山玉山を命じた。こうい うことをいった。  「人づくりを行なう先生は、いわば国家の名大 工さんだ。名大工さんは、人づくりを木づくりと 考えることが必要だ。つまり、育てられる人間が 何の木かと見抜いて、その人間に見合った教育を してほしい。教育というのは、いわば学ぶ者の前 に横だわっている川を渡る智恵と勇気と技術を教 えることだろう。川を渡れば、すばらしい人間の 世の中がある。しかしそこへ行きつくためには、 やはり一人ひとりが苦労しなければならない。そ の苦労を助けてやるのが教師だ。しかし、川を渡 すからといってただ橋を架ければいいということ ではない。学ぶ者は、川上にもいるし川下にもい る。道のないところにもいるだろう。橋は得てし て道のあるところにしか架けられない。どうか、 先生は導かれる者がいる場所、いる場所から、彼 岸に渡れるような教育を行なってもらいたい。学 問は国政の基である」  こう言い切る頼もしい重賢の言葉に、玉山は感 動した。そして。  「お志を大切にし、必ずご高恩に報いる教育を 行ないます」  と誓った。  細川重賢の宝暦の改革を、かれの手足として実 際に展開したのは堀平太左衛門という男だ。。ガ ネマサどん”と呼ばれた。ガネマサというのは、 熊本で力二のことをいう。堀は、力二のように背 が低く、横幅の広い人間だったのでそう呼ばれた。 また、  「ガネマサどんのキンキラキン」  と呼ばれた。堀が、  「キンキラのような贅沢な物は、今後一切禁止 する」  と宣言したからである。つまリキンキラを禁ず るということで、キンキラキンと呼ばれたのであ る。  秋山玉山は、こういう自分の身に起ったこと、 あるいは細川重賢と堀平太左衛門の熊本藩の改革 の実相を事細かく細井平洲に伝えた。平洲は、  「熊本藩はすばらしいことをやっているな」  と舌を巻いた。  そして、これらのことは全て細井平洲の囗から、 学問の弟子であった米沢藩主上杉鷹山に伝えられ た。  細井平洲は米沢藩だけではなく、尾張藩、西条 藩などの藩政改革にもいろいろと意見をいってい る。平洲は実学者だけあって、単なる学問の師で はなく、半分は経営コンサルタントのような役割 をしていた。平洲は常に主張した。  「治者は民の父母でなければならない。そのた めには、経済という言葉の本当の意味を悟るべき だ」  かれはこういう。  「経済というのは、経世済民の略であります。 経世というのは乱れた世を整えるということです。 済民というのは、苦しんでいる民をすくうという ことであります。したがって経済というのは単な る銭勘定ではなく、その背後に、民を愛する政治 を行なうという姿勢がなければなりません。治者 は民の父母であるというのは、世の親のような気 持になって政治を行なってほしいということであ ります。世の親は、子供が飢えていれば自分の食 べる食事も差し出します。また、子が勉強をした いのにも拘らず資金が足りなければ、自分の生活 費を削ってでも子に学費を送ります。こういう愛 が政治にも必要でしょう」  この細井平洲の言葉を、最も正確に受け止め、 実行したのが上杉鷹山であった。だから朧山の改 革は必ずしもかれのオリジナルではない。平洲が 交流した多くの学者たちを通じて、その学者たち が仕えている藩や藩主などの改革の実相を聞いて、 これを全て鷹山に伝えた。同時に、  「ご出身の日向(宮崎県)高鍋藩の藩主秋月家は、 代々藩政改革の名手でいらっしゃいます。特に、 あなたのご実兄種茂様は、めざましい改革を行な われました。こういうことも全て模範として、頭 の中に置かれるべきでしょう」  と勧めた。  では、こういう広がりと深みをもった細井平洲 は、一体どこで生まれ、どんな勉強をしてこうい う学者になっていったのだろうか。 第一章実学者・細井平洲の思想     ―現実感覚なきリーダーの戒       めI   神童だった幼少年時代  細井平洲は、享保十三年二七二八)六月二十 八日に、尾張国知多郡平島村(愛知県東海市荒尾町 金山)に生まれた。後に「平洲」という号をつけ るが、その由来は平島村からとったものだ。父は 豪農で、細井甚十郎正長といった。母は竹内氏と しかわからない。  この母に隕らず江戸時代の女性の名は、男尊女 卑の傾向が強かったから、残っていないことが多 い。だからといって女性に名がなかったわけでは ない。立派にあるのだが、それを公式に名乗るの を男側か禁じたのだ。だから、古いお寺に行って その家の過去帳を見ても、江戸時代の多くの女性 がただ「女」としか書かれていないことが多い。 上杉鷹山の師で名の高い細井平洲の家にしても同 じだったのである。  細井家はもともと、この地域の人ではない。先 祖は紀長谷雄といった。紀長谷雄は、菅原道真と 共に、宇多天皇に仕えた有名な学者である。後に、 河内国(大阪府)に移り住んだので、地名を姓と した。その子孫が三河国にやって来て、今川義元 に仕えたり徳川家康に仕えたりした。しかし、戦 争を嫌って帰農し、平島村に拠点を据えた。しか しここでも旧姓細井をそのまま名乗った。地域の 豪農となって、代々続いてきた。  細井平洲は、名を徳民といい、通称を甚三郎と いった。かれには甚平正方という兄がいて、かれ は次男たった。にも拘らず三郎と名乗っている。  八歳になった頃、平洲は近くの加家村の観音寺 というお寺に行って、そこの住職義寛(あるいは 観)和尚に学問を学んだ。  平洲自身の思い出によれば、  「義寛和尚は私の母方の叔父である。私は幼少 の頃三年間この人について勉強した。この和尚は、 観音寺の和尚になって六十年余りになるが、門を 出たことはあまりない。それでも退屈を知らない 立派な和尚であった」  という意味のことを綴っている。和尚が全く寺 の外に出ないので、ある時、ある人が、  「そんなにお寺の中ばかりにいて、退屈しませ んか?」  と聞いた。すると義寛和尚はこう答えたという。  「カタツムリの歩みがのろいように見えても、 実はかれも石火光中にあるのだ。かれにすれば、 常に迅速に行動している。私も同じだ。したがっ て、暇など感じない」  聞いた人はなるほどと感心し恥じ入ったという。  平洲は学問熱心で、雨の日も風の日も雪の日も 通い続けた。義寛はこういう平洲に無理矢理学問 を詰め込むことなく、むしろのびのびした平洲の 性格を伸ばすことに力を注いでいた。  十歳になった日、義寛和尚が寺を留守にした。 すると平洲が本箱を重ねた上にあかって、他の弟 子たちにこんなことをいった。  「これから私かいろは歌のお話をします。皆お 習字をやめてわたしの話を聞きなさい」  その時和尚が用を済ませて帰って来た。和尚は すぐ部屋に入らずに、外で平洲のよく通る声を聞 いた。耳をすましていると、子供の平洲が教えて いる話の方が、和尚の話よりもみずみずしい。和 尚はビックリした。  「甚三郎はすばらしい子供だ。いつ、人に教え るほどの学問を身につけたのか」  しかし平洲はまた負けず嫌いでもあった。ある 時、寺で修行しているお坊さんが、境内の大きな 松の木の下を通りかかった。見上げると、平洲が その枝にまたがって足をブラブラさせている。お 坊さんは怒った。  「こら、人が通る頭の上で足をぶら下げるとは 何事だ!」  すると平洲はこう答えた。  「足だけではないぞ。学問たってあなたには負 けないぞ」  なぜ平洲がこのお坊さんにこんなことをいった のかはわからない。あるいは、義寛和尚のところ で学んでいて、このお坊さんがことごとに自分の 学問の深さを自慢したのかも知れない。それが平 洲にはカチンと来ていたのだろう。  こういうように、めざましい精進ぶりを見せた ので、義寛和尚はある日両親のところに来ていっ た。  「もう私のところでは教えることがない。どこ か大きな町に出して、本格的な勉強をさせた方が よい」  そこで、両親ほとりあえず名古屋へ行かせて平 洲を勉強させることにした。残念ながら、名古屋 の何という先生について平洲が学んだのかわかっ ていない。この頃平洲は加藤という家に寄宿して、 学問を修めた。加藤家では平洲を大変愛し、本当 の子供のように面倒をみたという。  しかし向学心に燃える平洲は、名古屋でも適当 な師にめぐり合うことができなかった。かれは、  「京都に行って学びたい」  と志した。当時の京都は学問の都だ。すぐれた 学者が沢山いる。そこで両親にこのことを願い出 た。聞き伝えた親戚たちが反対した。  「京都は大変賑やかな町だ。たしかに貴族やす ぐれた人物たちが大勢いることだろう。が、一方 には名優や美妓あるいは不良の者が沢山いて、若 い者の心を誘惑する。鉄石のような固い意志がな くては、学問はできない。それに、おまえは農民 の子なのだから、必要以上に学問を修める必要は ない。もっと地域に腰を据えて、土の問題も考え なければだめだ」  と注意した。平洲は諦めなかった。  「必ず誘惑には打ち勝って、正しい学問を修め て参りますから、どうか京都遊学をお認めくださ い」  と言い返した。その熱意にほだされて、親戚た ちも渋々承知した。両親ははじめから平洲の京都 行きに賛成だった。そういっては何だか家は豊か だ。平洲一人を京都へ出しても何ということはな い。沢山の学資をもらって平洲は京都に行った。   京都で修業する  京都時代のかれの勉学生活も、それほど詳しい 記録は残っていない。ただ、北畠世規という向 学心に燃える青年と同居生活をはじめ、豊田孝元 などとも親しく交わったという。もらった金は全 て本に換えた。  ある時、  「甚三郎がどんな勉学ぶりをしているのか、ひ とつ見に行こう」  ということで、父と母が京都にやって来た。と ころが、平洲の生活ぶりはひどく惨めだった。狭 い部屋に友人と二人で住み、布団もろくにない。 机の前の座布団もない。衣類も垢染みてボロボロ だ。何を食べているのだと聞けば、粗末な食事を 見せた。しかも、だんだん人間嫌いになって、自 分の説に共鳴する者としか付合わない。顔も体も 痩せ衰えて、目ばかリギラギラ光っていた。  父と母は顔を見合わせた。母親はたちまち涙ぐ んだ。  「なぜ、こんなにひどい暮しを……」  そういって絶句した。両親は平洲に五十両の金 を渡した。  「これで少しはうまい物を食べて精をつけなさ い。そんなに自分から苦しんでまで学問を修める ことはないだろう」  といった。平洲は両親に感謝して金を受け取っ た。しかし、かれはその金でうまい物も食べな かったし、きれいな着物も着なかった。大急ぎで 全額本を買い込んだ。前々から欲しくて仕方がな い本が沢山あった。しかし、それ以上故郷の父母 に金をせびることは何となくはばかられたからで ある。  その後平洲は一年ほど京都にいた。が、ある日、  「京には、もうわが師と仰ぐ学者はいない」  という宣言をした。若者の衒気(てらい)に溢 れた言葉である。京都は学問の都、文化の都だっ たから、かれがわが師とする師がいなかったわけ ではない。  ただ考えられるのは、後年のかれが。折衷派” と呼ばれたことだ。折衷派というのは、いろいろ な学説を唱えている学者のよいところを取り、悪 いところは捨てて取らないということだから、あ る特定の人が唱えている学説だけに拘るような勉 学態度を平洲がとらなかったといえる。つまり平 洲にとっては、  「自分よりすぐれた学者は、全て先生だ」  ということではなかっただろうか。  学問上では師にめぐり得なかったが、別なもの で師を得た。和歌である。かれは歌をつくりはじ めた。そしてこの方面で有名たった有栖川宮職仁 親王に教えを請うた。親王は快く平洲に和歌を教 えた。平洲は一首の歌をつくって親王に見せた。   わくいろは 夏野の草の深緑   あめのめぐみに 生うる種とて  親王はいたく感動し、  「みごとである」  といって褒美に玉椿香をくれた。平洲にとって 大変名誉であり、また嬉しいことであった。  両親が置いていった五十両の金で買い込んだ本 を二頭の馬に積んで、平洲は平島村に戻って来た。 後年かれは、  「後に私か人の師と仰がれるようになれたのは、 京都での勉学と二頭の馬で運んだ書物のおかげで ある」  と述懐している。   将軍吉宗にタテつく尾張徳川家  平洲が京都から平島村に戻って来だのは、延享 元年(一七四四)の頃だといわれる。  この頃は、第八代将軍徳川吉宗のヱ旱保の改 革”が盛んに行なわれていた頃だ。吉宗の改革は、 日本の各大名家にも多くの影響を与えた。各大名 家でも先を争って藩政改革に励んだ。  ところが、尾張藩だけは違っていた。  徳川家の七代将軍は家継といった。五歳で将軍 職に就き、八歳の時に死んでしまった。かれには 二人の兄がいたが、二人とも夭折していた。病気 がちの家系であったらしい。父の家官一(六代将軍) は、そのことを心配して、  「私の後は家継に継がせるよりも、尾張・紀 州・水戸の御三家の中から、有能な人物を選んで 跡継ぎにしたい」  といった。これに対して、  「そんなことをしてはなりません。あなたには まだご三男の家継様がおいでです。相続問題では 筋を通すべきです」  といったのが、家宣のブレーンだった新井白石 という学者だ。白石は、  「そのために、補佐役が存在するのです」  と主張した。白石のいうことは絶対だったから、 家宣もついに家継を指名した。家継が死んだ後、 徳川家は再び、  「次の相続人を誰にするか」  ということで悩んだ。家継は少年だったから子 供はいない。そうなると、結局は始祖の徳川家康 が設けた将軍予備軍である御三家の中から誰かを 本家に迎えなければならない。最も有力視された のが尾張藩主徳川継友たった。そのため尾張徳川 家の江戸藩邸にいた重役たちは、この情況を楽観 視した。巻き返しを図ったのが、紀州藩の江戸藩 邸にいた重役たちだ。紀州側では徹底的な江戸城 工作を行ない、ついに紀州藩主だった吉宗を八代 将軍に推し立てた。尾張藩側では愕然とした。が、 江戸藩邸にいた重役陣が問抜けなのだから仕方が ない。しかしこれはしこりになった。徳川継友は 享保十五年(一七三〇)に死んだ。後を継いだの が徳川宗春である。  宗春は、八代将軍吉宗に敵意を持っていた。特 に吉宗の勤倹節約を旨とした享保の改革に反発し た。宗春は。  「不景気になったからといって、幕府や大名が 支出を惜しんだら、民間の景気はさらに悪くなる。 不況期こそ、幕府や大名がどんどん支出をして、 民間の景気浮揚につとめなければならない」  と主張した。そのため名古屋で展開した徳川宗 春の政策は、ことごとに徳川吉宗の政策とは逆に なった。吉宗がいくら勤倹節約を主張しても、宗 春の方は、  「大いに贅沢をしろ」  と華美な生活を奨励した。かれ自身は、世間の 目を見張らせるような行動に走った。江戸では、 芝居小屋や華やかな花街などが次々に禁止された が、名古屋の噂を聞いて皆名古屋にやってきた。 いってみれば、  「江戸がだめでも名古屋があるさ」  ということになったのである。このやり方が吉 宗の癇に触って、徳川宗春は、やがて謹慎を命ぜ られる。その後かれは座敷牢に閉じ込められ憤死 する。そして墓には六十数年の問金網がかぶせら れた。吉宗はとっくに死んでいたが、徳川首脳部 にとって、尾張宗春のやり方はそれほど腹立たし かったのである。  細井平洲が勉学に励んでいたのは、ちょうど徳 川宗春の積極政策が名古屋の町を吹きまくってい た頃だ。少年から青年期にかけての細井平洲が、 こういう雰囲気をどう受け止めていたかははっき りしない。ただ、宗春の末期に一人の学者が出現 した。中西淡淵である。  中西淡淵は、もともとは福尾といって、尾張藩 主徳川継友に仕えていた。やがて、尾張藩の家老 である竹腰山城守に仕えるようになった。  細井平洲が京都から平島村に戻って来たちょう ど同じ頃、中西淡淵も岐阜から名古屋に出て来た。 そして、塾を開いた。塾の名は叢桂社といった。  淡淵は大変に背が高かった。二十歳の頃、六尺 (約ニメートル)にも達していたという。しかし、 体の割には性格が温和で、非常に愛情深かった。 教え方は厳格たった。常に肩衣をつけていたとい  しかし、門人に対しては優しく、何か過ちを犯 してもいきなり、  「おまえは何をやっているのだ”」  と咎めることは絶対になかったという。本人が 気がついて、自分で自分の過ちを改めるようなヒ ントを与え、自覚を待った。この教え方が名古屋 で評判になった。   中国の学問を本場の長崎で学ぶ  平島村に戻った平洲が、成人の年齢に達しはじ めたので、父はある日、  「おまえにも少し田畑を分けてやる」  といった。平洲は首を振った。  「申し訳ありませんが、私は農業に従事する気 が全くありません。あくまでも学問で身を立てた いと思います。もし、私に田畑をくださるという のでしたら、それを売ってお金を私にください。 そのお金でもっと本を買いたいと思います」  これを聞いた父は母と顔を見合せて苦笑した。  (また、この子は本を買うという)  思わず京都時代を思い出したのだ。しかし、優 しい父親は平洲のいうことを認めた。平洲に分け るはずだった田畑を売って約二百両の金をつくっ た。  「では、おまえの希望どおりこの金を与える。 一所懸命勉強するように」  「ありがとうございます」  こうして平洲は二百両の遺産を貰って、家を継 がないことを宣言した。哲司だ金でまた大量の本 を買い込んだ。  その後約一年、平島村の家に籠ったまま、新し い本を読み耽った。そしてこの頃、  「名古屋に中西淡淵先生という素晴らしい学者 がいる」  という噂を聞いた。学問熱心な平洲は早速名古 屋にでかけて行った。そして、叢桂社に行って、  「中西先生におめにかかりたい」  と申し込んだ。一面識もなかった平洲の来訪を、 中西淡淵は快く迎えた。そして、  「今講義中だから、あなたも隅に座って一緒に お聴きなさい」  といってくれた。平洲は喜んで講義場の隅に 座った。  中西淡淵の教え方は素晴らしかった。ちよっと その講義ぶりを見ただけで、平洲はすぐ、  (中西先生は、学ぶ者の身になって教えてい らっしやる)  と感じた。門人が十人いれば、十色に分けた講 義を行なう。一人ひとりの能力に応じて、  「こういう話し方をすれば、この門人には理解 できるはずだ」  という心配りが微妙に存在していた。平洲はた ちまち中西淡淵のとりこになった。そこで淡淵の 講義が終ると、  「ぜひ、門人の隅にお加えください」  と頼んだ。淡淵は許した。平洲は一旦平島村に 戻って来て、  「自分は随分と傲慢だった。京都まで行かなく ても、身近な名古屋にあんな素晴らしい先生かい らっしやるのを知らなかった」  と嘆いた。そして、  「自分が師と仰ぐのは中西先生以外いない」  と思い込んだ。淡淵の塾に入って、際立って熱 心な勉学ぶりをみせる平洲を、師の淡淵の方も愛 した。淡淵はやがて人々に向って、  「私の学業を助けてくれるのは、細井甚三郎以 外いない」  というようになった。  中西淡淵が偉かったことは、学者としての自分 の限界を知っていたことだ。そして有能な弟子に は、  「この弟子は自分よりもほかの師に学んだ方が、 さらに伸びる」  と考えていたことである。心の狭い学者は、よ く弟子を独占して、他へ出したがらない。また、 自分の学業も引き継がせたがらない。何でも一人 占めにしていないと気がすまないタイプがある。 中西淡淵は違った。  延享二年(一七四五)、中西淡淵は細井平洲に いった。  「漢学は、やはり直接中国人に学んだ方が、言 語的にも意味解釈にしても本当の意味がつかめる。 君は非常に有能だ。長崎に行って、本場の中国人 に学んだらどうだ?」  平洲は喜んで平島村に戻り、このことを両親に 話した。さすがの両親もちよっとためらった。そ の頃親戚筋が囗を揃えて、  「おたくの息子さんは、全然稼業に励まない。 学問ばかりしている。学問というのは、本当は人 の道を教えるものではないのか。特に甚三郎さん が学んでいる中国の学問では、親に孝ということ が一番大きな目標になっている。いままでも、温 かい思いやりに満ちたお父さんやお母さんに心配 ばかりさせて、お兄さんに全部世話をさせてきた。 わがままを通して京都では勝手なことをしたし、 今度は名古屋に行って勉強もしていた。にも拘ら ずその上今度は長崎に行って、またまた親に心配 をかけようとしている。これは明らかに人の道に そむく。一体、甚三郎さんは親というものをどう 考えているのか。また親の方も親の方だ。そうい う甚三郎さんの勝手を認めることは、地域でも他 家に対する影響がよくない。まして細井家は地域 の指導者であり、多くの影響力をもっている。い ま長崎に行くことを許せば、きっと後悔すること になる」  こんな論理で寄ってたかって平洲の長崎留学を 止めた。しかし、両親は平洲の理解者であり同情 者であった。平洲もそういうことをいわれたから といって、自分の学問に対する志を折り曲げるよ うなことはなかった。  「どうか、何をいわれても私を長崎に行かせて ください」  と頼んだ。  こうして両親の温かい理解によって平洲は長崎 に留学することになった。が、ひとつ問題があっ た。それはいくら気持ばかり熱く燃えていても、 肝腎の長崎に行って、一体誰に学ぶのか、また、 日常の生活の世話をしてくれるのは誰なのか、そ ういうことを考えると、  「やはり、そういうことをしてくれる世話人が 要る」  ということであった。中国の言葉を習うのには 中国人がいい。また、外国語を習うのには紅毛人 がいい。紅毛人といってもこの頃の日本は鎖国を していて、中国とオランダとだけ交流をしていた。 したがって、紅毛人というのは全てオランダ人の ことである。  平洲は考えた。そして両親に、  「熱田に行って、そういう大を探します」  と告げた。熱田の宿場は、東海道の要衝なので、 たくさんの人が通る。外国人も通った。朝鮮人も 中国人もオランダ人も江戸への往来で通る。そこ で平洲はここで待ち構えていて、自分の世話をし てくれそうな外国人か、あるいは外国人に密接な 関係を持っている日本人を探した。かれの熱意を 天が認めたのかどうか、恰好の人がみつかった。 それは、紅毛人の貢ぎ物を贈る調査の仕事をして いる小河という男であった。五十歳ばかりの人物 だったが、なかなか理解力の豊かな人物たった。 平洲の話を聞くと、  「私の弟も学者だ」  といった。思わず目を輝かせる平洲に、  「弟は小河仲栗という」  と告げた。もちろんこの頃の平洲は小河仲栗と いう学者を知らない。仲栗もそれほど有名ではな かった。しかし小河の兄は、  「すぐ長崎の弟に手紙を書いて、あなたが長崎 に行ったらよく面倒を見てくれるように頼んでお きます。いつでも旅立ってください」  といった。平洲はねんごろに小河仲栗の兄に礼 をいった。   多彩な長崎の仲間と母の死  延享二年(一七四五)十月、平洲は旅立った。 美濃街道を抜け、清洲から萩原を通り、起の岸か ら船に乗って木曽川を渡った。やがて京を抜け、 大坂に行って大坂から船で瀬戸内海を西へ辿った。 玄海灘を渡って長崎に着いた。十一月五日のこと である。波止場では、先に手紙をもらった小河仲 栗が待っていてくれた。  小河仲栗はこの時三十四歳たった。三人兄弟の 真中で、兄と弟は紅毛人の貢物を贈る調査の仕事 をしていた。宣]中の仲栗は、医者だった。が、単 なる医者ではなく、学問を好んで、いまは性理学 に熱中していた。仲栗は初対面の平洲を迎えると、 いきなりその手を握って、  「君を待つこと久しいぞ」  と喜んだ。それだけでなく自分の知人や親戚を 沢山招いて、歓迎の宴を張ってくれた。まるで、 古い知己が遠くから帰ってきたのを迎えるような 喜び方たった。  小河仲栗には、飛鳥子静という親友がいた。二 人の案内で、翌日から平洲は長崎市内を見学して まわった。すべて目を見張らされた。町のつくら れ方がいままで育った平島村はもちろんのこと、 名古屋の城下町とも全く違う。つまり日本的光景 ではない。オランダ屋敷や中国人屋敷があるだけ でなく、外国人の影響が町の隅々まで染み込んで いた。平洲はビックリした。  「ここでは、日本と中国とオランダの文化が共 存共生している」  そう思った。かれはすぐ故郷に手紙を書いた。  「長崎は、日本のようではありません。まるで 外国です」  この時、平洲は十八歳たった。  助かったのは、師の中西淡淵の名がこの長崎ま で知れわたっていたことである。そのため平洲は かなり得をした。  「名古屋の有名な中西淡淵先生の一番弟子が やって来た」  皆そういって歓迎した。だから、平洲が勉強を しにきたのにも拘らず、逆に、  「私たちに学問を教えてください」  とすぐ入門を申し込んで来た人が二、三十人も いた。こうなると平洲も満更悪い気がしない。す ぐ故郷に、  「この長崎にいる学者の中で、私にとって手強 い人は一人もおりません。次々と兜を脱がせてお ります」  と得意気な手紙を書いている。  が、  「門人の人々は皆親切です。故郷にいるのと同 じで、何の苦労もありません」  と、長崎の人々の親切心を誉めている。この手 紙は、平島村で、  「甚三郎は、一体どうしたろう?」  と心配していた父や母を喜ばせ、また安心させ た。  平洲は、  一中国語を陳象胥に、  一書道を董宜一に、  ・南画を伊孚九に、  一禅と詩を大音寺の玄海和尚に、  それぞれ学んだ。こういうところは折衷派の平 洲らしい。つまり。餅は餅屋”すなわち。それぞ れの専門課目は専門家に气という態度をとった。 ひとりで何でもやれる先生についたのではなく、 学問、書、絵などを分けて、それぞれのプロに弟 子入りしたのであった。  長崎に行ってから二年目の延享四年(一七四七) の秋九月、平洲はそろそろ月が美しく輝く時期な ので、親しい友人だちと長崎の名所である福済寺 の丘の頂に上った。入り組んだ谷の問を縫うよう に湾が見えた。天上の月の光を受けて、小さな黄 金の波がしきりに走りまわっていた。  「美しい……」  平洲たちは言葉もなかった。  「この海の彼方には、たくさんの未知の国があ る」  平洲はすでに、長崎の友人たちに教えられて外 国の存在を知っていた。外国は何も中国やオラン ダだけではない、まだまだたくさんの国があると いうことを教えられていた。そんな思いを抱きな がら、皆は、  「それぞれ詩をつくろう」  と相談した。その時、小河仲栗が急いで丘を 上ってきた。かれは用事があって、  「あとから行く」  ということになっていたのだ。が、山道を登っ ていた小河は緊張していた。平洲に、  「細井先生、急飛脚です」  といって一通の手紙を渡した。何だろうと平洲 は嫌な予感がした。急いで開いてみると、  「母が危篤だ」  という兄からの手紙たった。平洲は愕然とした。 月どころではない。詩どころではない。外国なん かどうでもいい。矢も盾もたまらなくなった。  「母が死にかかっている。すぐ故郷へ戻りたい」  友人たちにそういった。友人たちも驚いて。  「すぐ戻った方がいい。月見はやめよう」  そういってばたばたと平洲をせきたてて丘を下 りはしめた。九月十五日のことである。翌十六日、 平洲は小河の家を出発した。この日がちょうど満 月に当っていた。最初の日は、長崎東の永昌里の 馬氏の家に泊めてもらった。二年の勉学の甲斐 あって、この頃では平洲は中国人ともほとんど不 自由なく会話ができるようになっていた。しかし、 せっかくの中秋の名月も、平洲にとっては紙の月 を見るのと同じようなものであった。  (早く故郷に辿り着きたい)  問に合わないのではなかろうか。そういう不安 が次から次へと突きあげてくる。かれは、  「旅服は涙のあとに汚れて……」  と、この時の感懐を詩に詠んだ。  心は飛ぶように急ぐが、足は思うように動かな い。体力にも限界がある。人間のこの頃の旅は、 大体一日十里(約四十キロ)が限度だといわれる。 平洲は、それを一里でも多く歩こうと努力した。 歩きながら心の中で叫び続けた。  (お母さん、亡くならないでください。甚三郎 が帰り着くまで生きていてください。一目でもい いから、お母さんが生きている時のお顔を見せて ください)  しかし、この願いはかなえられなかった。平洲 が平島村に着いた時、母はすでに亡くなっていた。 平洲は呆然とした。それだけではなかった。無理 な旅がただったのだろう。平洲は絶望と落胆のた めにどっと病の床に伏した。しかもその病気が重 く、まわりの大は、  「甚三郎さんは助からないのではなかろうか」  と本気で心配した。  細井平洲は上杉鷹山の学師になった時、目をき わめて、  「治者は民の父母でなければならない」  といい続けた。よく、  「他人に接する時は、その人の親のように」  という。しかし、これはどちらかといえば口先 だけのこと、あるいは建前の場合が多い。が、平 洲は違った。心の底から、  「真実味のある父母になってください」  と鷹山に語り続けたのである。その原点はかれ 自身がここまで父に愛され、母に愛されてきた経 験による。特に平洲にとって母の存在はかけがえ のないものであった。京都遊学や名古屋遊学や長 崎遊学など多少渋る父に向って、  「ぜひ、甚三郎の願いをかなえてあげてくださ い」  と、涙をこぼさんばかりに頼んでくれたのは母 である。  (その母がいなくなってしまった。私は一体何 につかまって生きていったらいいのだろう)  青年甚三郎にとって、この気持は全く嘘ではな かった。だから、病んだかれはしばらくの問起き あがれなかった。  しかし、時間というのは有難い。人間の営みを 越えて、そういう病も癒してくれる。平洲もいつ か起きあがれるようになった。そして、母を失っ た細井平洲に、  「お母さまのことは伺った。心からお悔みをい う。ところで、新しく気持を変えて江戸に出て来 ないか?」  と誘う人がいた。中西淡淵である。   塾を開き、平洲と号す  細井平洲が母の死に衝撃を受けて重病の床に伏 すようになったのは、実をいえば前触れがあった。 長崎にいた時から大きな病気にかかっていた。春 頃からどうも具合が悪く、人事不省になることが 度々あった。母が重体だと聞いた時も、時々病の 床に伏していた。そういう体質であったようだ。 そしてもっと悪いことに、母が死んで帰郷した時、 家の状態があまりよくなかった。つまり、兄の正 方に多少経営能力に欠けているところがあるらし く、家計がかなり傾いていた。平洲は兄の能力不 足を責める気はなかった。むしろ。  (自分が度々わがままをいって遊学をしている ために、家がこのように傾いたのだ)  と責任を感じた。  そこで母の葬式を行なうかたわら、長崎の飛鳥 子静に借金の申し込みをした。  「こういう事情なので、できれば百両ばかり都 合してほしい。必ず返します」  と頼んだ。飛鳥はすぐ金を送ってきた。しかも 金を納めた箱の上に「石」と上書が添えてあった。 手紙が添えてあって、  「返す必要は全くない。自由に使いたまえ」  という温かい文章があった。「石」と書いたの は。  「この金は自分にとって石ころと同じようなも のだから、気にしないでいい。返済の必要もな い」  ということだ。長崎遊学で散々世話をしてくれ た上に、いままた自分の借金の申し出にも快く応 じてくれる飛鳥子静の友情に、細井平洲は胸を熱 くした。しかしかれの病気は一向によくならな かった。延享という年号は、五年七月十二日に寛 延と改元した。その寛延元年(一七四八)も、平 洲は引続き病臥していた。時々血を吐いた。まわ りの者は心配した。  「このまま亡くなってしまうのではないか」  と暗い表情で顔を見合わせた。  友人の学者の中にも平洲の病気を心配する者が いて、橘候沢などはせっせといままで平洲が書い てきた詩稿をまとめはしめた。特に長畸遊学中に つくった詩を整理した。気付いた平洲が、  「おまえは何をしているのだ?」  と聞くと、橘は、  「おまえは死にそうだ。詩稿が散逸するともっ たいないので、今から整理しているのだ」  と答えた。平洲は苦笑して、  「それはどうもご親切に」  と苦しい息の下で笑った。しかし、橘候沢がこ の時整理した詩稿は後の『嚶鳴館詩集』に発展し ていく。  ところが人間の運命というのは不思議なものだ。 こういうように人間としては非情な行ないだが、 学者としては良心的な行ないを続けた橘候沢が、 突然死んでしまった。そして、逆に細井平洲の方 が元気になった。平洲はねんごろに橘候沢を弔っ た。そして、  「おまえが私の死を慮って詩稿をまとめてくれ たことに感謝する。まことに学者らしい振舞たっ た」  と心から霊に礼をいった。  寛延二年(一七四九)になって、やっと平洲は 健康を回復した。その頃、長崎の小河仲栗が長男 の爵を連れて尾張にやって来た。長崎で平洲が、  「名古屋に中西淡淵というすぐれた先生がおい でだ。一度、教えを請うといい」  と勧めていたからだ。長崎以外出たことがな かった小河は、平洲のこの言葉をいつも頭の中に 置いていた。そこで、  「これから尾張に向う。中西先生に入門したい」  と平洲のところに言ってきた。健康を取り戻し た平洲は小河父子を京都まで出迎えた。小河仲栗 は、中西淡淵の弟子になった。  翌寛延三年(一七五〇)、中西淡淵は主人の竹腰 氏について江戸に下った。そして、赤坂南芝に塾 を開いた。小河仲栗は、中西淡淵について塾の世 話をすることになった。そこで子供の爵は平島村 の平洲に預けられた。  そんなこともあって、中西淡淵が平洲に、  「江戸に出て来ないか?」  と誘ったのである。もちろん、小河仲栗の強い 要望もあった。  寛延四年(一七五二の夏、細井平洲は小河仲 栗の子、爵を連れて江戸に行った。そして、淡淵 が開いた江戸の叢桂社に入門した。しかし、中西 淡淵は。  「もう、あなたに教えることはない。この際独 立して、一塾を構えたらどうか」  と勧めた。そこで平洲は、神明町(東京都港区) に、小さな塾を開いた。師の中西淡淵は記念に平 洲に茶碗をくれた。が、平洲が開いた塾は名ばか りのもので、狭い長屋の借家だった。いうところ の九尺二間の家である。二階屋たった。ところが どういうわけか二階へ上る梯子がなかった。米櫃 もない。実家の方も兄の事業の失敗によりかなり 困っていた。もちろん平洲が金を持っていれば全 部本を買ってしまうから、蓄えはない。が、中西 淡淵ほか多くの友人が醵金をしてくれた。そして。  「必要な道具を買いに行こう」  と平洲を誘った。この時の面白い話がある。そ れは平洲の手伝いに来だのがほとんど中西淡淵の 弟子だった。が、中西淡淵は前に書いたように、 いつも肩衣をつけてキチンとした服装をしていた。 弟子にもそれを求めた。だから、この日米櫃や梯 子を買いに行く連中も、皆肩衣をつけていた。 買った梯子の上に米櫃を乗せて運んだ。ところが、 運ぶ連中が皆肩衣をつけているものだから、江戸 の市民が目を見張った。  「何だろう?」  と目配せをしながら顔を見合わせた。中には近 寄ってきて、  「どちら様のお葬式ですか?」  と聞く者もいた。平洲たちは二コニコ笑いなが ら、  「ご近所に塾を開いた者です」  と怒りもしないで穏やかに応じた。この時平洲 は、  「箸と主人は丈夫な方がよい」  といって、自分で杉の木を削って箸をつくった。 そして師の中西淡淵がくれた茶碗とセットにして、 一生の問使った。この茶碗で食事をする時、平洲 は箸の先を一寸(約三センチ)以上は決して濡ら さなかったという。つまり、それだけかれの食事 はつましかったということだ。  塾を開いたかれば、学者としての号をつくった。 故郷の平島村にちなんで「平洲」と名づけた。ま た、子供の頃よく近くの如来山に登って遊んだの で、如来山人とも号した。  寛延ば四年十月二十七日に宝暦と改元する。こ の年七月二十日に、上杉鷹山が生まれた。そして、 その少し前の六月に、当代(九代将軍徳川家重)の 背後から大御所として院政を行なっていた徳川吉 宗が死んだ。六十八歳たった。さらにこの年十二 月には、吉宗の享保の改革の手足として、名江戸 町奉行ぶりを発揮した大岡越前守忠相も死んだ。 七十五歳たった。  神明町に塾を開いた平洲は、たちまち有名に なった。平洲には不思議と人を引きつける何かが あるようだ。吸引力があった。多くの学者と親し く交わるようになった。秋山玉山、滝鶴台、渋井 太室、木村蓬莱、信夫子野などとたちまち仲良く なり、盛んに往来した。集ってば詩をつくり、あ るいは時事問題について討論した。  平洲が江戸に出てきたおかげで、それまでバラ バラたった江戸の学者たちがひとつの核を得た。 細井平洲という核は大きな吸引力を持っていたの で、学者たちは平洲を中心に相乗効果を起した。 自分たちの学業がさらに進んだのである。  ところがこの頃、嫌な知らせが来た。平島村で 平洲が死にかかった時に、友人の橘候沢が平洲の それまでの詩稿を整理した。橘は整理した詩稿を 名古屋の飯田子晋という学者に預けた。ところが この飯田の家に泥棒が入って、平洲の詩稿がそっ くり盗まれてしまったのだ。  「何とも申し訳がない。取返しのつかないこと をした」  飯田子晋はそういう謝罪の手紙を寄越した。平 洲はすぐ返事を出した。  「気にしないでください。橘君が私の詩稿を整 理してくれた時は、私も死にかかっていた。場合 によっては死んでいたかも知れない。そうなると、 その詩稿は私にとって見ることもできなかったは ずです。それよりも、あなたは無事でしたか? 身体上の危難はありませんでしたか?」  屈託のない温かい返書に、飯田子晋は胸を熱く した。そして、盗賊に平洲の詩稿を盗まれたこと が返すがえすも悔やまれるのだった。  同じ頃、長崎の飛鳥子静か母と妻を失った。悲 しみが大きかったのだろう。  「子を連れて、とりあえず先生のお宅にご厄介 になりたい」  そういう手紙を寄越して、実際に子を連れて平 島村の平洲の実家にやって来て、居候をはしめた。 どんなに生活が苦しくても、困った人が飛び込ん でくれば、温かく迎えるという気風が、細井家に はあったようだ。平洲が江戸に行って塾を開き、 何かと物入りな時にも、実家の方ではこういう 次々とやって来る居候たちを温かく世話した。と ころが、飛鳥子静はこの恩に報いようと、いまま での学者にないことをはしめた。   嚶嗚館の意味  飛鳥子静がはじめたのは、砂糖キビの栽培だっ た。かれは長崎を出る時にどういうわけか砂糖キ ビを持ってきた。そして、細井家の世話になりは じめると。  「この土地は、土地柄が砂糖キビに向いている ように思います。どうですか? 試してみません か?」  と、平洲の兄正方に持ちかけた。正方は乗った。 付近の農民たちも乗った。飛鳥は砂糖の製造方法 まで知っていたので、砂糖キビが育つと製糖方法 を教えはしめた。が、砂糖の製造は許可が必要だ。 兄の正方や飛鳥子静は江戸にいる平洲に、  「あなたからその筋の許可をもらっていただけ ないか」  と頼んできた。平洲は奔走しはしめた。  幸いに師の中西淡淵は、尾張藩の家老竹腰家の 学儒だ。それを頼って、淡淵の弟子に紹介しても らい、竹腰山城守に陳情運動をはしめた。実際の 許可の実権は代官が握っていたので、この代官に も許可の陳情運動をはしめた。この経過を詳しく 返事として故郷に送り、  「めでたく許可が下りた暁には全てを九州の人 飛息子静君の指導を受けるようにすること」  と念を押した。この時故郷の有力者に出した手 紙には、  一役人は必ずこういうことを質問するから、そ の時はこういうように答えること。  一許可というのは、やはり表と裏があるから、 付届けも必ず行なうこと。  ということまで書いている。つまりかれにすれ ば、  「学問は、どこまでも生活に密着したものでな ければならない。空理空論に耽ったり、いたずら に読書博識を誇ることなど意味がない」  という信念を持っていたから、砂糖キビの栽培 の件ひとつにしても、ここまで細かい配慮をした のである。京都に遊学し、名古屋に遊学し、長崎 に遊学し、さらに江戸に出てきたかれば、人間社 会が理屈だけで動いているのではないことを痛い ほど知っていた。だから、人のいい平島村の人々 が、砂糖キビの栽培にしても、  「ただお願いすれば許していただける」  などという甘い考えでは、決して許可が下りな いことを知っていたのである。その点細井平洲は、 かなり現実的な人だといっていい。  尾張藩では平島村での砂糖キビ栽培を許可した。  「これは、藩そのものの富を増す」  と判断した尾張藩庁は、他にも寺中村、大野村、 幾地村などにも砂糖キビの栽培許可を与えた。こ のため尾張藩内の熱心な村々で、砂糖製造がはし まった。白砂糖、氷砂糖など質のいいものが次々 と造られるようになった。村の人々は江戸の平洲 に感謝した。  しかしこの年の七月十五日、中西淡淵が死んだ。 まだ四十四歳の若さだった。平洲は悲しんだ。師 を失った多くの弟子たちは、  「引き続き先生のところで学ばせてほしい」  と大挙して細井平洲のところにやって来た。平 洲は受け入れた。このため、たちまち門人が増え、 塾が狭くなった。そこで門人たちも心配して大増 築をはしめた。塾は、宝暦三年(一七五三)に改 築された。平洲はこの塾に名をつけた。  「嚶嗚館」  である。嚶嗚というのは、雄雌の鳥が互いにオ ウォウと嗚き交すことをいう。しかしこれは何も 腹が減って餌を求めるわけでも、また愛を囁いて いるわけではない。これが転じて、  「朋友が互いに切磋琢磨して、学問に励む」  という意味を持つようになった。現在「嚶嗚館 純覚書」という扁額が残っている。純覚というの は、安志藩主の小笠原長興の号だ。明和四年二 七六七)に、再び嚶嗚館が増えた弟子のために大 増築を行なった時に、小笠原長興が平洲に書いて くれたものだ。が、残っているのは写真だけで実 物はいまどこにあるのかわからないそうだ。純覚 こと小笠原長興は、その頃名筆家としても名が高 かった。  こういうように、細井平洲には仲間や門人だけ でなく、大名の中にも教えを請うたり、親交を結 んだりする人物が非常に多かった。   三家五姓の同居  宝暦三年二七五三、細井平洲は二十六歳に なった。伊藤玄沢という医者と親交があり、玄沢 の師、児玉氏の息子を預ったり、あるいは玄沢の 施薬出願を実現させるために、尾張藩家老竹腰家 に運動をするなど、精力的に人のために勣いてい た。  長崎で世話をしてくれた小河仲栗は、はじめは 名古屋で中西淡淵に学問を学んだが、淡淵がその 後江戸に出たので供をして塾生の面倒を見ていた。 が、細井平洲が神田神明町に小さな塾を開いた時、 仲栗は平洲のところにやって来て、  「君の手伝いをさせてくれ」  といった。そのまま平洲の塾に同居をはしめた。 そんなことをしているうちに師の中西淡淵も亡く なってしまったので、平洲はこの友人学者の身の 始末を考えた。ある日こういった。  「小河君、君はもう長崎に帰る気はないのか?」  小河は首をふった。  「ない。ずっと江戸にいる」  「もしそうなら、長崎にいる家族を呼びたまえ。 この家に一緒に住もう」  これを聞いて小河仲栗は目を輝かせた。  「本当か?」  「本当だよ。ぜひそうしたまえ」  「ありがとう」  小河仲栗は感動して平洲の手を握った。そして すぐ長崎の家族に、江戸に出てくるようにという 手紙を書いた。長崎の家族も喜んで、すぐ旅立ち ますという返書を寄越した。  ところが、小河仲栗の妻が尾張までやって来て、 平洲の実家に草鞋を脱いだ時、仲栗が病気になっ てしまった。本当なら仲栗が妻と子を平島村まで 迎えに行く予定だった。仲栗は病床の中で頭を抱 えた。これを見た平洲は、  「心配するな。私か迎えに行ってくる」  そういった。小河仲栗は、重ね重ねの平洲の友 情に感謝した。平洲はこの時、預っていた伊藤玄 沢の師の児玉氏の息子玄桐を伴った。かれの教育 法は、こういうように自分の身近に起った事柄を も必ず学業の素材にした。一緒に旅をすることで、 平洲の人柄を弟子に伝え、また弟子の人柄をよく 認識しようとした。平洲は。  「真の学問は、師と弟子がお互いに人間として 知り合うことによってさらに進む。講義だけでは 駄目だ。一番効果があるのは、やはり対話だ」  と考えていた。そのためには、とにもかくにも フェイスーツウーフェイスあるいはスキンシップ で、お互いに接触する時間を多く持つことが必要 だ。この旅は、その意味では児玉玄桐にとっても 非常に有益たった。  平島村に戻った平洲は、多くの人々に歓迎され た。特に地域で砂糖キビ栽培と製糖の指導をして いた飛鳥子静か喜んだ。平洲の方も、  「あなたのおかげでこの村が豊かになった」  と感謝した。そして、  「この際、あなたも江戸に出て来ないか」  と誘った。しかし飛鳥は首をふった。  「もう少し砂糖キビの栽培と製糖の方法が根付 いたら江戸に行く。しばらくは、ここでそういう 指導に当りたい」  やりかけた仕事なのだからといった。平洲は了 解した。  こうして、平洲は小河仲栗の妻と息子を連れて 江戸に戻った。小河夫婦は再会を喜んだ。  翌宝暦四年(一七五四)、細井平洲は結婚した。 相手は石村という家の娘で十七歳たった。  ちょうどその頃、平洲の故郷平島村を中心に、 近隣一帯で砂糖キビの栽培と製糖方法を指導して いた飛鳥子静か、仕事の区切りをつけた。たまた ま、平洲の父甚十郎も、  「江戸へ行きたい」  といっていたので、  「では、一緒に参りましよう」  そういって、飛鳥は平洲の父甚十郎を伴って江 戸へやって来た。嚶嗚館は、たちまち大家族に なった。細井平洲の父甚十郎と、平洲、平洲の妻 石村氏、小河仲栗、その妻桑野氏、その息子爵、 長女の鼎、それに飛鳥子静と合計八人になった。 姓を数えると男側か三つ、女側か二つで、五つに なった。そのため世間では、  「三家五姓の和」  という評判を立てた。近所の老人たちが平洲の 父に、  「あなたは三人の立派なお婿さんと、二人の孝 行な娘さんと、三人の優しいお孫さんをお持ちだ。 お幸せで羨ましい」  といったことは、前に書いた。  小河仲栗の妻子を平島村まで迎えに行った時、 平洲はたまたま遠州灘を一望に眺められる舞坂に 行った。海を眺めた後、脇を見ると、大きな竹藪 があった。中に一本の見事な竹が生えていた。直 感で、平洲は、  (この竹は、いい笛になる)  と感じた。平洲は、笛についてもかなりの知識 を持っていた。そこでこの竹を切って江戸に持ち 帰ってきた。笛につくりあげた。自分で吹いてみ ると、音色が大変にいい。平洲はこの笛を愛蔵し、  「舞坂笛」  と名付けた。  その後の宝暦十年(一七六〇)、江戸で大火が あった。神明町の嚶嗚館も消失してしまった。こ の時平洲は、老いた父や妻子を伴って、やっとの ことで難を逃れた。ところが弟子たちは、  「先生がお大切になさっているお茶碗とお箸と 舞坂笛だけは何とかして持ち出そう」  と相談して、これらの三つの品物を運び出した。 残念なことに、平洲が長年買い溜めてきた書物は 全部焼けてしまった。弟子たちはしきりに、  「私共がまごまごとしていて申し訳ございませ ん。大切なご本を全部焼いてしまいました」  と謝った。平洲は微笑して、  「君たちの責任ではない。焼けた本に書いて あったことは、すでに私と君たちの頭の中に入っ ている。心配するな」  といった。弟子たちは顔を見合せて平洲の温か い言葉に涙ぐんだ。  焼け出された平洲は、その夜から笛を吹いて弟 子たちを慰めた。弟子たちは殊更妙なる音を出す 笛の音に、感動に胸ふるわせて聴き入っだ。平洲 の心が痛いほどわかった。多くの書物を焼いて一 番打撃を受けたのは平洲自身である。しかしそれ を少しも色に出さず、むしろ弟子たちを慰め。  「焼けた本に書いてあったことは、全て私と君 たちの頭の中にある」  といっだのは、平洲自身がそう思いたかったの だろう。本に対する哀惜の念を、平洲は笛を吹き 続けることによって忘れようとした。平洲のそう いう悲しい気持が、弟子たちには痛いほどわかっ た。が、ここでいつまでもすみません、すみませ んといっていれば、焼けた本の痛手がいつまでも 平洲の胸に残る。そう思うと弟子たちも、  「われわれも、一日も早く火災のことを忘れな ければいけない」  と思うのだった。   秋山玉山、時習館の学長に  この舞坂笛は、その後の宝暦十三年(一七六三 に、西条藩主松平頼淳に献上される。その頃平洲 は松平頼淳の学師をつとめていた。西条というの は伊予国(愛媛県)西条市のことだ。頼淳は西条 藩主だったが、後に治貞と名を変えて、本家であ る紀州徳川家の九代目の藩主になった。西条藩主 時代、江戸の藩邸が渋谷にあった。  細井平洲が松平頼淳のこの渋谷の屋敷に出入り するようになったキッカケは、頼淳が大変漢学好 きで、中国からきた大鵬禅師と対談した時に通訳 が必要になったことだ。たまたま細井平洲が中国 語に堪能だと聞いたので、  「先生にぜひこの対談の通訳をお願いしたい」  と頼んだ。平洲は承知した。この時の通訳ぶり が大変みごとだったのと、平洲が単に中国語に堪 能なだけでなく、折衷学派として諸々の学説を取 り入れ、特に実学を唱えていたので頼淳は深く尊 敬しはしめた。そこで頼淳は、  「私自身の師となるだけでなく、藩中の武士た ちにもどうか先生の説をお聞かせいただきたい」  といって、賓師として招いた。これが細井平洲 がその後たくさんの大名家の賓師となるキッカケ になった。そういう縁もあって、平洲は自分が故 郷の竹薮からみつけた見事な竹でつくった舞坂笛 を松平頼淳に献じたのである。  悲しいことが起った。宝暦五年(一七五五)十 月に、親友の飛鳥子静か死んでしまった。四十一 歳だった。子静は、平洲が長崎に遊学した当初か らの友人で、母の危篤で帰郷した時、生家が生活 に苦しんでいたので百両の金を貸してくれたりし た。しかもその貸し方が、金を入れた箱に「石」 と書いて、石だから返す必要はないというような 心配りをしてくれる本当の友であった。平洲はね んごろに弔い、浅草の天嶽院に埋めた。  その翌年の八月十一日、小河仲栗の長男の爵が 死んだ。疫病だった。まだ十八歳である。爵は、 平洲が子供の時から預り。神童”の誉れが高かっ た。父の小河仲栗と一緒に平洲のところに転がり 込んでからすでに九年、  「細井先生の後を継ぐのは小河爵だろう」  と嚶鳴館の内外で噂されていた学才だった。平 洲は悲しんだ。弔いに「哭河爵(小河爵をなく、 という意味)」という長詩を詠んで哀悼の意を表し た。二日ばかりたった八月十三日には、平洲自身 の祖母が死んだ。  この年には越後の大森子陽が入門した。子陽は 出雲崎の近くで、少年時代の良寛に漢学を授けた 人である。平洲の名の高さをきいて、はるばる江 戸にやってきてすぐ入門したのだ。  そんな時、江戸にいる友人の秋山玉山が、ある 日こんなことをいった。  「熊本の友人から手紙が来た。それによると藩 公細川重賢公は、堀平太左衛門という家老を使っ て、本格的に改革をおはじめになった。財政が厳 しい時こそ人材育成が大切だとおっしやり、学校 をおつくりになりたいという。すでに学校の名は 時習館とお決めになっておられるそうだ。『論語』 からとっだものだ。管理者は長岡という藩の重役 だが、実質的な運営は私に任せたいという。手紙 によれば重賢公は、長岡殿に対し、学校の運営費 は秋山のいいなりに出してやってほしい。また、 藩の財政が逼迫していることを学校の先生や学生 たちに教えてはならない。学校は、そういう世情 から遠い純粋次元の場として、教育を施してほし い、という有難いお言葉を賜ったそうだ。もし本 当なら誠に名君・賢君といってよく、学者冥利に つきる。いずれ私も熊本に戻って時習館の世話を することになりそうだ」  平洲は感動した。まるで自分が細川重賢に仕え ているような気分になった。そこで、  「すばらしい。もしそれが実現したら、秋山先 生は日本一の幸福な学者だ」  といった。秋山もそのとおりだと頷いた。  この熊本における学校づくりはやがて実現する。 この経過と細川重賢の秋山玉山に対する入れ込み 方は、いつまでも細井平洲の頭の中に残った。  そしてこれがそのまま、後の上杉鷹山の興談館 設立につながっていく。しかし上杉鷹山は細川重 賢とは違って、  「学校で学問を教える者も、学ぶ者も、藩の財 政事情を厳しく知るべきである。そうしなければ、 本当の実学が学べない」  といった。この考え方は、細井平洲が注ぎ込ん だものだ。平洲は、  「実学が実学であるために、やはり現実と離れ てはならない。現実生活の厳しさを知ってこそ、 教師も本当の学問を教えることができ、また学生 も学ぶことができる。現実を避けてはならない」  と、いってみれば細川重賢と真向から対立する 教育観を展開した。 第二章改革の始まり     I「民の父母」思想に共鳴し       た鷹山−   藁科松伯、平洲の辻講釈を聴く  こういうように実学を自分の説とする細井平洲 は、やがて江戸の街頭に立って辻講釈をはしめた。 場所は人が沢山通る両国橋の近くを選んだ。  かれの講釈は、歴史事件や、歴史上の人物や、 実際に存在した孝子節婦の実話を語った。そして、 それほど学問のない聴き手たちの心をほろりとさ せた。しかしそれだけでなく、四書五経などの真 義をわかりやすく語った。しかもその語り方が人 の心の機微をつくので、聴き手は皆聴き惚れた。  「細井先生の講釈は、難しいことをわれわれの 頭に合わせて易しく教えてくださる」  「世の学者には、易しいことをわざわざ難しく いって自分の利口ぶりを誇る人が多いが、細井先 生は違う。細井先生こそ、本当に頭がいいのだ。 易しいことをわざわざ難しく語る学者は、本当は 馬鹿なのだ」  そんな噂を立てていた。平洲の人柄は、聴き手 たちを引き込むような魅力を持っていた。辻講釈 をするからといって卑しくない。品格もある。  細井平洲の両国橋付近での辻講釈には、次第に 聴き手が増えていった。  ある日、この平洲の辻講釈の聴き手の中に、一 人の医者がいた。名を藁科松伯といった。米沢 藩の藩医である。しかし単なる医者ではなかった。 この時の松伯は三十七歳だったが非常な熱血漢で、 財政に苦しむ藩の行先に上杉家存亡の危機感を感 じていた。というのは、そういう財政難であるに もかかわらず、米沢本国の重役たちが一向に藩政 を改革しようとする気持を持たず、いままでのの んべんだらりとした仕事ぶりをそのまま踏襲して いたからである。松伯は、  「このままだと、上杉家は滅びてしまう。気持 の建直しが必要だ」  と考えていた。そして、  「そのためには、藩士全体に精神的な主柱を立 ててくださるような学者先生が必要だ」  と考えていた。松伯自身も儒学に詳しく、また 医者の身でありながら政治面にもいろいろと囗を 出した。普通ならこんな医者は嫌われ、疎外され てしまうのだが、松伯は時の藩主上杉重定の信任 が絶大だった。重定はどちらかといえば好人物で、 長年続いてきた上杉家の財政難に疲れ果てていた。 だから信頼する松伯には何でもいえるので、  「いっそのこと、上杉家の版(土地のこと)と籍 (住民のこと)を幕府に返上してしまいたい」  などと気の弱いことをいった。気持はわかった が、松伯は怒った。そして、  「藩の最高責任者がそんな気の弱いことでどう なさいますか。もし、あなたが本当に米沢藩の経 営に能力がないとお思いなら、早く隠居なさい。 そして有能な養子をお迎えになって、藩を建直す べきです」  と意見していた。この考えは松伯だけでなく、 同じことを考える沢山の米沢藩士がいた。そうい う藩士たちの運動が功を奏して、上杉家の親戚筋 からも助言があり、日向(宮崎県)高鍋藩主秋月 種美の次男松三郎を、養子に迎えた。松三郎は、 直丸治憲と名を変えて、正式に上杉重定の世子 (相続人)になった。  当時は徳川幕府の掟で、大名の正夫人と世子は 必ず江戸に住むこととされていた。早くいえば人 質である。上杉直丸は、高鍋藩主の次男ではあっ たが、高鍋に行ったことはない。また、上杉家の 世子にはなったが米沢に行ったことはない。生ま れてからずっと江戸で育っていた。  この頃米沢藩では本国の重役たった竹俣当綱を 江戸家老に任命した。竹俣は松伯と仲が良かった。 二人は毎日のように、 「世子としてお迎えをした直丸様に、すぐれた と話し合っていた。    葱瀧    騷鷆  竹俣当綱は細井平洲と同じ年で、三十代半ば だったが、若者のような正義感を持っていた。か れが米沢本国から江戸藩邸に転勤になっだのは、 本国で悪徳商人と癒着していた森平右衛門という 重役を剌殺したためであった。本来なら大きな罪 に問われるところだったが、重役側にも非があっ たので竹俣を重く罰することができなかった。 いってみれば米沢本社から江戸の支店に左遷とい う形で決着がつけられたのである。  桜田の江戸藩邸には竹俣だけでなく、ほかにも 同じような正義感の強い武士がたくさんいた。佐 藤文四郎、木村丈八、莅戸善政、倉畸恭右衛門な どである。この連中はすべて、  「何とかして米沢藩を再興したい。そのために は、藩内に巣くう因循姑息な連中を一掃しなけ ればだめだ。特に本国の重役陣は堕落しきってい る。責任感が全くない」  と言い合っていた。その意味では、頂く殿様の 上杉重定か、嫌気がさして、  「いっそのこと、大名家など放り出したい」  という気持はわかるのだ。この理解は当綱にも 通じた。だから当綱も米沢本国からたくさんの左 遷グループを押しつけられても文句はいわなかっ た。重定は、  「この連中は癖はあるが、しかし少くとも信じ ることはできる」  と評価していた。だから藁科松伯が先頭に立っ て、  「世子直丸様に、いい学師をつけたい」  という意見には、重定も、  「ぜひそうしてほしい」  と頷いていた。  藁科松伯が、両国橋のほとりで辻講釈をしてい る細井平洲の言葉に耳を止めたのは、そういう事 情もあった。この日、松伯の足は釘付けになった。 耳はピンと立ち、平洲の話す一語一語が全部飛び 込んできた。目は大きく見開かれ、松伯は平洲を 凝視し続けた。いいようのない反応が胸の中に 起っていた。予感といってもいい。それは、  (この学者こそ、直丸様の学師に相応しい)  という直感であった。  辻講釈を終えると、細井平洲は静かにその場か ら立ち去った。松伯は後をつけはしめた。平洲は 当時の住いである神明町の家に戻った。松伯は案 内を請うて、  「細井先生にお目にかかりたい」  と、応対に出た門人に告げた。門人が奥に入り、 やがて出て来て、  「どうぞ」  と奥へ案内した。平洲の前に数人の弟子がいた。 平洲は一冊の書物を見ていた。松伯が入ると、  「すぐ済みますので、ちよっとお待ちください」  と挨拶した。そして再び書物に目を戻した。 あっちのページを開いたり、こっちのページを開 いたりしていたが、やがてパタンと閉じた。そし て、  「わかった。加えられた朱は大変参考になる」  といった。門人がビックリして聞き返した。  「先生、しかしその朱は、先生の説に反対する あの学者が、先生のおつくりになった詩をメチヤ メチヤに批判したものでございますよ」  「知っている。しかしここに加えられた朱には 理のあるところもある。大いに参考になる。もし、 会うようなことがあったら細井が礼をいっていた と伝えてほしい」  「……」  弟子たちは呆れた。松伯はその場の光景が何を 意味しているのかをすぐ悟った。平洲に反対する 学者がいて、平洲が書いた詩に散々いちやもんを つけたのだ。それを手に入れた弟子が平洲に読ま せ、一緒に怒ろうと考えていたのだろう。ところ が平洲の反応は逆たった。批判されて、  「大変参考になる」  といっている。弟子たちはおそらく、  (先生の負け惜しみではないのか?)  と疑っているに違いない。が、松伯の見たとこ ろ平洲には全くそんな色はなかった。本心で、加 えられた朱を自分なりに消化しようとする誠実な 態度が見えた。松伯はますます平洲の人柄に感動 した。  自分の詩に加えられた朱の一件が済むと、平洲 は、  「お客様とお話をしたい」  といって弟子たちを退らせた。藁科松伯は、  「私は米沢藩上杉家の当主の侍医で藁科松伯と 申します」  と名乗った。平洲は頷いた。松伯は続けた。  「先生の両国橋でのお話を感動をもって伺いま した」  それで? という目で平洲は松伯を見た。松伯 は平洲をまっすぐ見返したまま、  「今日から私を先生のお弟子の一人に加えてい ただきたく存じます」  と頼んだ。平洲は微笑んだ。  「お見受けしたところ、先生も相当に学問が深 く存じられます。私ごとき一町学者が、先生の師 となるような資格はございません。弟子などとは おっしゃらないでください。学友としておいでい ただけるならば、喜んでいつでも学問の議論を致 しましよう」  と応じた。その謙虚さに松伯はいよいよ、  (この先生こそ、世子直丸様の学師としてぜひ ともお迎えしなければならない)  と思い込んだ。松伯としては、その日平洲の門 弟入りを許可されたと感じ、喜んで桜田の藩邸に 戻ってきた。そしてこのことを竹俣や江戸藩邸に 集っていた正義派の連中に話した。皆目を輝かせ た。そして、  「私たちも是非細井先生のお弟子にしていただ こう」  と頷き合った。翌日、この連中が大挙して細井 平洲のところに行った。平洲は苦笑しながら、連 中の入門を許した。ただこういった。  「あなた方には、藁科先生というすばらしい方 がおいでだ。藩邸の中に塾をおつくりになっては いかがか? 折があれば、私も伺ってご一緒に勉 学させていただきましよう」  それはすばらしい、ということになって、藁科 松伯は米沢藩の桜田藩邸内に小さな塾を設けた。 「菁莪社」と名付けた。このため、藁科松伯を中 心にする細井平洲の門人たちは、藩の人々から 。菁莪社中”と呼ばれるようになった。この連中 が、後に上杉鷹山の改革の案をつくり、同時に強 力な推進力となって鷹山を補佐するようになる。  藁科松伯は、細井平洲というすぐれた学者の発 見を、自分たちグループのものだけにするのは惜 しく、このことを藩主の上杉重定にも話した。重 定は喜んで、  「ぜひ一度私も細井先生のご講義を伺いたい」  といった。   訪れる幸と不幸  ところが不幸なことが起った。  宝暦十年(一七六〇)二月五日、江戸で火が出 た。燃え広がり、神明町にあった細井平洲の家に も襲いかかった。家は丸焼けになった。この時、 書籍や家財はほとんど焼けてしまったが、師の中 西淡淵からもらった茶碗と、平洲が自分でつくっ た杉の箸と、そして舞坂笛の三つの品物だけは門 人たちが必死になって運び出した。平洲自身も、 老いた父や妻や子供たちを助けながら、やっとの ことで身一つで難を逃れた。世話する者があって、 浜町(東京都中央区)の山伏井戸というところに 移転した。  火災は予測しない災害だったが、悪いことばか りではなかった。春になると秋山玉山が一人の学 者を連れて来た。  「長州の滝鶴台先生だ。萩から江戸に出てこら れて、どうしても細井先生にお会いしたいとおっ しやるので連れて来た」  といった。鶴台はこの頃五十二歳になっていた。 しかし謙虚な態度で平洲に接し。  「ご高名はかねがね伺っておりました。お目に かかれて大変光栄です」  と挨拶した。平洲は恐縮した。この滝鶴台の妻 が、自分のした行為で、よいことは白い糸を巻い て毬をつくり、悪いことは赤い糸を巻いて毬をつ くったことは前に書いた。人間というのは、第一 印象が肝腎だ。滝鶴台は一目見ただけで、細井平 洲がよほど気に入ったらしい。この日から、平洲 は滝鶴台とも無二の親友となる。  西条侯松平頼淳から使いがきた。  「ぜひ、殿様の侍読となっていただきたい。同 時に藩中の武士たちにも学問を教えていただきた い」  という有難い申し出であった。平洲は承諾した。 決めによって、渋谷の西条藩江戸屋敷には、毎月 三の日と八の日の六日通うことになった。しかし だからといって平洲は両国橋のほとりでの辻講釈 をやめなかった。  「辻講釈こそ、私の本領である。門人でも何で もない無縁の人々が、私の講釈をどう聴くか、す ぐ飽きて立ち去るか、あるいは馬鹿にするか。そ の反応を厳しく見極めることによって、私の学業 がますます磨かれていく。両国での辻講釈は、私 の学業にとって欠かすことができないのだ」  平洲はそう告げていた。  宝暦十一年二七六匸六月十三日、今度は親 友の小河仲栗が死んだ。まだ五十歳たった。死ぬ 時、心配したその妻が、  「あなたにもしものことがあったら、今後私た ちはどうしたらいいのでしょう?」  と聞いた。仲栗は死に向いつつあったが、薄く 目を開いて、  「何も心配することはない。細井が何とかして くれる」  と答えた。言葉どおり、小河仲栗が死んだ後の 家族の世話は全部細井平洲がした。仲栗には三人 の子供があって、上が宝暦六年に死んだ男の子の 爵、次が女の子たった。平洲は、仲栗の未亡人と この鼎を引きとって自分のところで暮させた。そ して、女の子が成人して嫁に行く日まで面倒を見、 立派な嫁入り仕度をしてやった。それほど平洲の 友人や友人の家族に対する情は厚かった。  宝暦十二年二七六二)の夏、秋山玉山がやっ てきてこういった。  「熊本に帰る」  「いよいよか?」  「ああ、熊本に学校ができた。時習館という。 私は督学を命ぜられた。前に話したように名目上 の管理は重役の長岡殿が行なうが、実際の運営は 全部私に任される。名残り惜しいがお別れだ。こ れからは後輩の育成でそう度々は会えない。おぬ しも頑張ってほしい」  「わかった。目出度いことだ。存分に後進の育 成に当ってほしい」  「頼みがある」  「何だ?」  「おぬしは、たくさん詩をつくっているが書 きっ放しだ。私に草稿を貸してくれ。旅中読みな がら整理をしたい。もし、出版するようなことが あったら私に序文を書かせてくれ」  「そんなことまでしてくれるのか。喜んで持っ て行ってもらおう」  細井平洲は自分が書き散らした詩を全部秋山玉 山に預けた。前の詩集の草稿は名古屋で盗賊に盗 まれてしまった。しかし秋山玉山なら決して盗ま れるようなことはしないだろう。約束どおり、玉 山は熊本に戻ってからも暇を見ては、平洲の書い た詩を整理した。そして『嚶嗚館詩集』と名付け られたこの詩集の序文を書いた。大変長い文章で、 平洲がいつ、なぜ、その詩を書いたのか、あるい はどんな特質があるかなどを克明に書いた。こう いうものは、やはり詩だけでなく、書いた人間と 深く交わり、その性格をよく見抜いていないと書 けない。秋山玉山の『嚶嗚館詩集』の序文は名実 共にすぐれたものであった。  が、悲しいことが起った。この年の十二月十一 日、秋山玉山が死んでしまったのである。六十二 歳たった。賢君細川重賢がつくった時習館という 学校の、実質的管理者に命ぜられて後進の育成に 当り出したばかりなのに、何とも惜しいことだっ た。平洲は、  「哭秋玉山(秋山玉山をなく)」  という長い詩をつくって霊を弔った。  こうして身近なところで親友やその子が次々と 亡くなっていく悲しみをこらえながら、細井平洲 は相変らず両国橋脇で辻講釈を続けながら、自分 の学業を磨いていった。   上杉治憲の賓師になる  上杉家から使いが来た。明和元年(一七六四) 秋のことである。要件は、  「世子上杉直丸様の賓師をお願いしたい」  ということであった。前々から打診を受けてい たことでもあったので、平洲は快諾した。  その年の十一月十六日、細井平洲ははじめて上 杉家の桜田藩邸に行った。驚いたことに、藩主上 杉重定か直接平洲に依頼した。  「内々お願いしたとおり、世子直丸の賓師をお 願いしたい。直丸は私などとは違って、末頼もし い見込みのある少年です。秋月家から迎えたのも、 疲れ果てた上杉家を興す責任を負う力量があると 思いますので、ぜひその面を引き出すように教育 していただきたい。この件切にお願い致します」  およそ大名らしからぬ丁寧な懇願であった。  平洲は恐れ入った。藁科松伯が脇にいて、付け 加えた。  「直丸様のご学友は、ここにいる神保綱忠とし ます。また、佐藤文四郎、木村丈八、莅戸善政、 倉畸恭右衛門などを直丸様の近習と致します。私 は侍医となります」  「……」  目礼しながら平洲はじっと藁科の顔を見詰めた。 藁科は微笑んでいた。平洲は心の中で、  (藁科様、思いどおりのご人事を行ないました な?)  と目で聞いた。藁科も目で頷いた。ずらりと並 んだ直丸周辺は、すべて藁科の息のかかった腹心 である。たとえ火傷をしても、上杉家のためには 火の中から栗を取り出そうという情熱と、正義感 を持った武士たちの一群であった。その先頭に医 者の藁科松伯が立っていた。この日、上杉直丸は 十四歳、細井平洲は三十七歳であった。  はじめての平洲の講義は『大学』だったといわ れる。しかし、平洲は『大学』の文章をただ解釈 しただけではなく。  「学問の目的は実践の二字でございます。学理 と行動は一つであって、二つではありません」  と熱を込めて説いた。この日から一か月余り 経った暮の十二月二十五日、直丸は第十代将軍徳 川家治に目見えした。つまり、秋月家から入った 松三郎直丸を、正式に上杉家の世子として、将軍 が認めるという儀式だった。この時、直丸は家治 から「治」という名をもらった。そこで上杉家の 五代、六代、七代の藩主の名にそれぞれ付いてい た「憲」という字を付けて「治憲」と名乗ること にした。上杉鷹山の誕生である。  いい時にはいいことが続くもので、翌明和二年 (明和三年という説もある)に、平洲に長男が生ま れた。平洲はこの子に長融という名を付け、通称 は嘉一郎とした。そしてふざけているのは号を 「玉石」としたことである。照れくさかったのだ ろうか。お祝いに来た人々に平洲は、歌を詠んで 見せた。   玉か石か 石か玉かは知らねども   天よりわれに与えたまいし  よくいう玉石混交の意味だ。生まれた子供が玉 のようにすぐれているのか、あるいは石のように ぼんくらなのかまだよくわからないが、とにかく この子供は天が与えてくれたものだ、ということ だ。そういうユーモア精神も平洲は持ち合わせて いた。  明和三年(一七六六)には平洲の友だちが次々 に死んだ。平洲はその度にねんごろな墓碑の文を 撰んだり、あるいは詩をつくって霊を弔った。明 和四年になるとすぐ嚶鳴館の改築工事をはしめた。 弟子が増えて、いまのままでは手狭になったから だ。が、同じ頃妻と父が病んだ。父は「楽翁」と 号して、幸福な隠居生活を送っていたが、さすが に年には勝てなかったようだ。老衰である。  三月三十日、嚶嗚館の改築工事は完了した。伝 え聞いた播磨の安志藩主(兵庫県宍粟郡安富町)一 万石の小笠原長興が扁額を書いてくれた。「嚶嗚 館」と書かれている。これが前に書いたように、 長年人の手から手に移っていたが、現在行方不明 だといわれている扁額だ。名筆である。平洲は喜 んだ。  嚶鳴館の改築が完了したので、学友や弟子たち が平洲の四十歳のお祝いと、病気の治った父楽翁 の無事を祝う宴を開いてくれた。学友渋井太室が、 「寿序」を書いてくれた。  この年四月二十四日、上杉治憲は家督を継いだ。 当主としては謙信から数えて十代目、米沢藩主と しては九代目である。十七歳たった。平洲は心か ら祝い、期待した。藁科松伯、竹俣当綱などの菁 莪社の面々が、  「いよいよ本格的な藩政改革を行なうぞ」  と勢い込んだのは当然だ。  が、その年の七月十七日、平洲は妻を失った。 妻は三十歳たった。残された子長融はまだわずか に二歳である。平洲は暗澹たる気持になった。  一か月後の八月十四日、藁科松伯の母が死んだ。 五十四歳である。平洲は松伯に頼まれて、その母 のための墓碑の文を撰した。   平洲に感動した松陰や西郷  上杉家の当主となった治憲は、八月、密かに腹 心の使者を米沢に走らせた。上杉家の祖神春日神 社に自身の「誓詞」を奉納させるためである。春 日神社は、藤原氏の流れを汲む社で、上杉家が越 後の守護であった頃、奈良の春日大社から勧請し た社である。そのため、上杉謙信は自分の居城を 。春日山城”と呼んだ。上杉家が米沢に移封され た時、これも越後から移ってきた菩提寺林泉寺の 一角に、社殿を建てた。代々上杉家の氏神として 尊崇されてきた。治憲は使者に、  「この誓詞のことは、絶対に他言してはならな い」  と固く命じた。使者は言いつけを守った。その ため、新しく当主になった治憲が春日神社に誓詞 を入れたことは家臣の誰も知らなかった。  それが、九十九年後の慶応元年(一八六五)三 月十七日になって、林泉寺が火災にあった。この 時、林泉寺の住職が急いで神社に伝わって来た宝 物を取り出した。そして、宝物と一緒に上杉治憲 のこの誓詞が発見されたのである。  書かれたことは、  一文学・武術を怠らぬこと。  ・民の父母の心構えを第一とすること。  ・質素倹約を忘れぬこと。  一言行不斉、賞罰不正、不順無礼があってはな らぬこと。  などと並べられている。つまり言行不一致、賞 罰がでたらめで、人間の道に反くようなことは絶 対にしませんという誓いだ。この時一首の歌を詠 んだ。   受けつぎて 国のつかさの身となれば   忘るまじきは 民の父母  また、約一か月ばかり後に、今度は藩の鎮守社 である白子神社に、やはり誓詞を入れた。  「連年国家衰微し 民人相なずみ候 よって大 倹相行ない 中興仕りたく祈願仕り候 決断もし 相怠るにおいては たちまち神罰をこうむるべき なり」(一部分仮名書きにした)。  日付は明和四年(一七六七)九月六日となって いる。興味深いのは、この誓詞も実に明治二十四 年(一八九二になってはじめて発見されたとい うことだ。春日神社の方が九十九年目の発見なら、 白子神社の方は百二十五年目の発見ということに なる。それほど鷹山の、  「こんなことは個人の誓いであって、公にすべ きことではない」  という意思が守られていたということだ。  ところで、春日神社というのは前に書いたよう に上杉家の祖神だ。そして白子神社は米沢藩全体 の鎮守の神である。ということは、前者は上杉家 個人の神社、白子神社は藩が管理する地域の神社 ということになる。そこで治憲の誓詞も使い分け がされている。つまり、  一上杉家の祖神である春日神社に対しては上杉   治憲は自分自身の行ないについての誓詞を入   れた。  一米沢藩の鎮守社である白子神社に対しては、   藩主としての政治理念あるいは目的を誓詞と   して入れた。  ということになる。もちろんこの辺の助言は賓 師である細井平洲が徹底的に行なったのに違いな い。「受けつぎて……民の父母」という歌は、完 全に平洲の教えそのものだ。そこでここで少し、 細井平洲が米沢藩主であった上杉鷹山や西条藩主 であった松平頼淳、さらに頼淳が紀州本家に入っ た後の徳川治貞、さらに尾張藩主徳川氏のために 書いたという『嚶鳴館遺草』に即して、平洲が治 憲に教えた「民の父母」の思想が、どんなもので あったかを見てみることにする。  ちなみにこの『嚶嗚館遺草』は、幕末にも志士 たちのバイブルとして大いに読まれた。特に多く の逸材を育てた長州の松下村塾の主宰者吉田松陰 は、  「この書は経世済民の書であって、読めば読む ほどよい政治とはどのようなものであるかがわか る」  といって、常に座右から離さなかった。もちろ ん、友人や弟子たちにも、  「士たる者は、必ず読むべき書である」  といっていた。  また、一時期沖永良部島に流されていた西郷隆 盛が、この書にめぐり逢って感動し、  「敬天愛人」  の思想を生んだ。同時に、この書を他人に勧め て、  「民を治める道は、この一巻で足りる」  と誉めちぎった話は有名だ。それほど細井平洲 の『嚶嗚館遺草』は、同時代だけでなく後の時代 の心あるひとびとに大きな影響を与えた。 第三章教科書『嚶鳴館遺草』     −真の経済の道とは何かI    『嚶鳴館遺草』のあらまし  『嚶嗚館遺草』は、全六巻からなっている。巻 別の内容は次のとおりだ。 巻のI 野芹 上中下 巻の二 上は民の表 教学 政の大体 農官の心     得 巻の三 もりかがみ 対人之闘忠 建学大意 巻の四 管子牧民国字解 巻の五 つらつらぶみ 特√U卜余対某候問書    4100筒    謳麟の一一一一一丁一一諮    ……{”  . 齒…………y}j    .……一1髱韜聯……一一』    二………]}‘”゛”`‘゛””溂”`、皿作・、’ 余.`    ………ル竃…………四`’一一’`一一’`一一一一’『一’゛”一.`.一一’{一一一  細井平洲は大名たちに向って、  「自分の意見は野芹のようなもので、味もそっ けもございません。しかし、野芹は昔から春の七 草にも入っているので、味がないからといってす ぐ捨てるようなものでもございますまい。摘む者 が誠の心を持って摘み、お勧めすれば神もお受け になります。そこで、はばかりを捨ててここに書 き記す次第です」  と謙虚に前置きしている。さらに、  「ご節倹の政は、ご領分の全体をはじめ、ご家 格、ご風儀、などをもともとよくご存じのお役人 たちが申しあげるべきでしょう。したがって、私 のような一介の学者が自分勝手の推量で申しあげ るべき筋では全くありません。が、あらゆること には道理が必要だと考え、その道理だけをここに 書き記しました。不敬の文意も多くあると思い、 大変恐れ入る次第ではございますが、腹の中に隠 しごとをしていては愚忠を效しがたいと思います ので、前後を顧みはばからずしたためる次第です。 日々の細いことにつきましては、それぞれ堪能な お役人方へご相談していただきたく、その点につ いてはわざと書きませんでした」  と、謙虚ながらも自分の意思をはっきり示す前 置きを書いている。そして、いきなり「野芹」上 では「根本三か条」としてご節倹の政、即ち藩政 改革にとって一番大事な認識と考え方を述べてい る。  その第一か条では、  一国の財用は、土地と民力との二つを根本にし て生じるほか、出るところはございません。そこ で土地の大小、民力の多少にしたがって財用の生 じる高も限りあるものでございます。そのため財 用を用いる方法を「入るをはかって出ずるを制す る」と申します。入るとは、年内にできる物成を 申します。出ずるとは、それを使うことを申しま す。入る高に比べて、使う高を定めるほか、財用 の運営方法はございません。  その第二か条では。  一入るをばかり出ずるを制するということは、 古代から決った法です。しかし家国の費用はいつ も定めのとおりにはまいりません。そこで財用不 足と申す時は、節倹の政をつとめて、確実に物入 りを減らすこと以外財用を足す方法はございませ ん。それなのに元来常法を外れた上に、物入りも 減らしておりません。これでは常法の政では元へ 戻る方法は全くありません。よって非常の法を用 いて、使い方を減らし元へ戻すことが必要です。 しかし、非常の法を用いるからといって、無理な ことをして下を苦しめることでは決してありませ ん。  非常というのは、平生に異ることです。平生に 異ることというのは、異常事態に応じた特別な方 法を考え、実行することです。もともと人君は国 臣民の天と仰ぐところにあるので、その尊いこと は申すに及びません。そのため人君は、一国でた だ一人、豊かで暮され、飲食衣服やあらゆるお振 舞いに何ひとつ欠けることなく、全部備えお持ち で、多くの人々からかしずかれております。これ が人君に備わった持前でございます。  非常の法とは、その平生の持前を一挙に省きた もうことであります。なぜならば、人君は一国の 臣民に天と仰がれるというからには、その身に天 のごとき徳がなくてはなりません。これはいまま でお教えしたように、聖教賢伝に表れたとおり、 古今人君の賢愚興亡が歴然たるものでございます。  ところで天のごとき恩徳というのは、一体どう いうことでありましようか。天は万物の父母とし て、およそ天地のありとあらゆるものに恵みを与 えております。この恵みを受けないものは何ひと つとしてありません。このように一国万民の天と なることが必要です。それは天の心を心とし、臣 民の父母となることが人君の道でございます。  人の父母と申すものは、とにかく子供を最優先 にして考えます。自分が飢えたり凍えたりするこ とよりも、まず子供たちを飢えさせたり凍えさせ たりしないように考えます。もし子供たちがそん な目にあえば、心から嘆き悲しみます。これが人 間の天性です。  したがって、人君が一国の臣民一人ひとりを子 供とお考えになる時は、ご自分一人のご安楽を考 えるような心は絶対にないはずでございます。そ うなれば、お一人だけ満ち足りた普段の生活も、 思い切ってご省略になり、臣民と同じ苦しみを分 ち合うような方法をお考えになって、上下に財用 が行渡るようにお考えになるべきです。こういう ように自己一人の格別のご省略をまず実行し、 下々をお恵みいただきたいために、このご仁政を 非常の法と申す次第です。これが節倹の根本でご ざいます。  その第三か条では、  一しかし、この非常の法は、人君のご実心の仁 徳から出るものでなければなりません。いたずら に世間の視聴を驚かそうなどという卑しい動機か ら行なったのでは、すぐ見抜かれます。ご実心か ら行なうご省略には、臣民も「ああ、わが君はわ れわれと労苦を共にしてくださっているのだ。ご 自身からまずご節倹あそばされている」と感動す るに違いありません。それにはこの非常の法を一 旦立てた上は、お心を鉄石のようにお固めになる ことが必要です。なぜならこのご節倹の政にはか なり年月が必要だからです。ご実心が鉄石でなけ れば、必ず途中で崩れます。  ・右の三か条が、節倹の根本でございます。こ の根本を固く行なわれなくては、次に申しあげる 枝葉が栄える道理がございません。  しょっぱなからかなリガツンとカマす提言であ る。しかしここに書かれていることは、  一藩主は、藩民の父母でなくてはならない。  ・普通の親は、子のことをまず最初に考える。 子が飢えたり凍えたりしないように配慮し、その ために自分が飢えたり凍えたりしても決して何と も思わない。それが親の愛情だ。  ・藩主も同じではなかろうか。節倹をしなけれ ばいけないのなら、藩主自身がまず自ら実践すべ きである。それによって、下々も理解し、協力す ることになる。  一いままでやってきた方法をそのまま踏襲して、 節倹の政を行なおうとしても無理だ。だから非常 の法を考え出さなければならない。しかしその非 常の法というのは、藩主自らがいままでの生活を 放擲して、厳しく贅肉をこそげ落すことからス タートする。  言葉を換えれば率先垂範、。隗よりはじめよ” ということだ。  後に知られる上杉鷹山の藩政改革は、まさにこ の、  「藩主は民の父母である」  「藩主自らが、まず節倹の見本を示す」  ということからスタートした。   藩主は木の根、士民は枝葉  「野芹」の上でこういう認識と考え方をピシツ と立てた平洲は、次の「野芹」中で、「枝葉四か 条」と題して次のようなことを述べる。  ・君が樹木の根本なら、臣民は枝葉のようなも のです。  ・したがって、人君のお心が樹木の根本のよう に堅固にしてゆるがなければ、枝葉である臣民も 自然と繁栄致します。  一しかし、臣民というのは、君の令するところ には従わず、自分の好むところに従います。この 性癖を活用するならば、人君が模範を示して、臣 民が全て「仁」を好むように仕向けるべきです。 それにはまず人君が率先して「仁」を好まなけれ ばなりません。  一人君が仁を好むということは、格別のご省略、 即ち非常の法を実行され、お手許をご不自由にな さってお暮しなされ、性来お好きなことも我慢な さることが必要です。一途に費用を節的なさるこ とです。それが、そうしないで、根本である人君 が贅沢三昧に暮せば、枝葉は枯れてしまいます。  一前々からお教え申した『大学』にも、「財を 生むは大道にあり」と書かれてあります。しかし、 現在諸大名方のご不如意は、すべて大学の教えに 背いているからでございます。  一支出のうちで最も多いのが、役人の人件費で ございます。多くの役人を養うために、農工商三 民の苦労はばかり知れません。  一しかし、十人いる役人を五人、五人いる役人 を三人に減らすことは、囗でいうのは簡単ですが、 実際にはなかなか難しいものでございます。  一そこで、お城の当番、あるいはいろいろなお 役、仕事について、五人ずつ出ていたのを三人に 減らし、十人ずつ出ていたのを五人に減らすこと は可能かと存じます。日勤は隔日番にし、隔日番 は三番にし、三番は四番、五番に変えることでご ざいます。  役人が始終用もないのに城に出て来ると、衣類 も傷みます。家の負担も多くなります。整髪や、 風呂代もかさみます。  一そこで、交代勤務にして、役人たちも家にい る時は何等かの生産活動に従うようになれば、お 互いに富が増すかと存じます。  一人君のお恵みと申すのは、下々が無理して働 くのではなく、働き易いように場づくりをするこ とが最も肝要でございましよう。  ・用もないのにお城にあかって、雑談ぽかりし ているのでは時間の無駄、能力の無駄でございま す。こういうことが、根本である木の幹を次第に 腐らせるキッカケになります。  一人君が仁を好み、徳をお養いになるのと同じ ように、仕える役人たちも文武二道を大切にし、 仁義礼智信の人間の五常を守るようにお鍛えにな るべきです。  一そのためには、まずお城の内にあって君の奥 向きから節倹の政をご実行になるべきです。  ・ここで大切なのは、梅の木には梅の花が開き ます。桜の木には桜の花が開きます。これは天地 自然の道でございます。梅の木に桜の花を咲かせ たり、桜の木に梅の花を開かせようと思うことは 無理がございます。やはり、花を見て木を知るこ とが大切でございましよう。そして、無駄花が多 く木の幹が痩せるようならば、思い切って無駄花 は刈り取るべきでございます。  一同時に、木というのは長生きしなければなり ません。そのためには幹が節倹の政を行ない、枝 葉や花である臣民が、安心して生きられるように すべきです。となると継続性が必要です。木を植 えても、怠らざる育成が大切です。人君のお仕事 も同じです。人君のお仕事は決してご一代限りの ことではございません。ご子孫代々ご長久の道を お考えになることが必要でございます。そのため にも、ご一代限りの華美な暮しを善とされては、 幹はたちまち枯れてしまいます。  このように「野芹」では、人君と臣民を木の幹 と枝葉に分けて説明した。そして。  「枝葉を栄えさせるためには、根本である人君 がまず率先して節倹の政を行ない、その滋養分を 枝葉にまわすべきだ」  と説いた。  これを受けて、『嚶鳴館遺草』巻の二では、そ の「節倹の政」を実際にどのように行なえばいい か、その心構えを説く。  文意だけをピックアップすれば、次のようなこ とを書いている。  一上である人君は、常に万人から見られており ます。そして、人々は自分のモノサシによって、  「この君は、徳があるかないか」  と評価します。そうなると、人君の方も警戒し て、  「こんなことは見せない方がいい。こんなこと は知らせない方がいい」  と恰好をつけることに夢中になります。しかし 人君七人間であれば、やはり欠点もあるはずです。 美徳ばかり備わっている人はおりません。  一そうであれば、やはり下に仕える人々の中に、 人君の欠点を指摘し、改めて下々に徳を及ぼすよ うな意見をいう人々も大切です。この意見をいう 人々を嫌い、耳当りのいいことばかり聞いていた のでは、人君の徳は培養できません。  ・君徳というのは、ただ一筋に下々の幸福を願 う心であります。それには、やはり古代の聖賢の 教えを勉強し、増長しがちな自分の性格を押えて いくことが必要です。学問が大切です。  一こういうことから、古の聖王賢者は、必ず学 校を建てて人を教えました。いずれも、徳行道芸 を教えるところです。  一こういう学校で学ぶことによって、役人も天 下国家が安定する道を学び、官職を得て下民を教 え導くことができるのです。また公正な裁きをす ることもできます。  一およそ人の性は全て善だとは思いますが、し かし古の道を学ばなければ、これがいい面に発揮 できません。  一自分の心だけを定規にして、大を取り扱うこ とは、差金を使わないで四角いものをつくり、ぶ ん回し(コンパス)を使わずに、円いものをつく るのと同じでございましよう。  一自分の思いつきや、心のままに大を扱うこと は決してやってはなりません。  一法度(法律)は墨金(モノサシ)であります。 役人は大工です。下民は材木です。墨金があって も大工がなく、大工があっても材木がなければ、 どうして造作することができましよう。また、墨 金が悪く、大工が下手で、材木が悪くては、どう して細工の手際を見せることができましよう。  一墨金と、大工と材木の三つが全部揃うように することが、教学の道の大切なところです。  一古代の聖王賢君は、天下国家を治めるために、 狂いのない墨金のような掟(法律)をつくりまし た。そして、この墨金をよく使いこなす上手を大 工すなわち役人としました。周という国では、重 要なポストには全て三徳三行、六芸六儀などを持 つ人を採用しました。これは全て上手な大工を取 り立てたということでしょう。さらに、地方役人 の各ポストも、それぞれ仕事の内容は異りました が、共通していえることは人々に徳行道芸を教え ることのできる能力者ばかりでありました。即ち、 民という材木を素直に育てる役割を果したのです。  一しかしいずれにしても古の聖王賢君は、民に 対する態度は全て親の子を育てるがごとく心配り をし、教え導いたことでした。  一民を恵むということは、ただ金銀礼銭を与え て一時の飢えや寒さを凌がせることだけではあり ません。罪人が多ければ、そのことを憂え、こう いう人々が罪を犯さないように善を教え諭して、 自然に刑罰が行なわれないように人君や役人が気 をつかうことです。  一下民はそういう上の仁徳に従って、罪もなく 罰もなく、一生を心豊かに暮すことができれば、 こんなに幸せなことはありません。ですから、そ ういう心を培うような仁政こそ限りない恩恵と申 せましよう。  次の「政の大体」において、平洲は次のように 述べた。  一しかし、いかに君上が仁心を持っておられて も、その心を受けて実際に仕事を行なう役人たち が、未熟では何にもなりません。というのは、末 端の人々がまず目にするのは、その役人たちの行 ないだからであります。  ・役人は何よりも、正直でなければなりません。 また、自分の貪欲の心を押え、恥を知らなければ なりません。  一人々に恥の存在を知らせるためには、やはり 役人自身が礼儀を明らかにしなければなりません。  一礼儀を明らかにするということは、聖賢の学 を学ぶ以外にありません。さらに、聖賢の道を尊 び、これを実際に行なうことです。  一聖賢の道を尊び、実際に行なうというのは、 孝悌忠信礼義、そして遜譲の大を賞美することで ございます。匸言でいえば、人の善を賞し悪を罰 するということでございます。  農官の心得では、  一古代の中国の聖王といわれた尭舜が、天下を 治めた時に五穀樹芸の官長のポストを最も重いも のと見ました。ということは、治民の政は第一に 農業にあるということを認識していたからであり ます。  一そこで、孟子は諸侯(諸大名)の宝は三つあ る。それは土地、人民、政事だと申しました。土 地というのは地方のことです。人民というのは士 農工商の四民をいいます。政事というのは、右の 四民を取り扱う方法をいいます。  一土地がいくら広くても、人民が少なければそ の国は貧しいといわなければなりません。四民が 多くても、その扱いが悪ければ四民は安堵するこ とがありません。  一そこで、この四民の中で最も重要な農民を国 の根本と考えますと、いまの世の中でも奉行代官 となって農民を扱うポストは、最も大事な職掌と 考えるべきです。なぜならば、人間の生命を支え る根本は、衣と食の二つに止まるからです。そし てこの衣食の源は、いずれも農民の勤労から出る ことは、いうまでもありません。  一それなのに、奉行代官がいたずらに威張り散 らして、悪いことをする農民ばかりに目を向け、 これを吟味して罰を加えることが代官の役だと思 う連中が多いようでありますが、これは完全に間 違っております。  一もともと人間というのは自分勝手なもので、 自分の暮しさえ安穏であれば他人のことは知っ ちやいないというのが普通であります。そこへ 持って来て、このような悪代官が上にいたのでは、 下々七人のことを考えるはずがありません。  一そこで、よき役人というのは、やはり人君の 仁徳を己れの心とし、ただ上の気に入ろうとして 下を苦しめたり、あるいは下の顔色ばかり窺って 上を欺こうとするようなことでは困ります。  ・やはり役人は、正直無欲で法律を乱さず、不 義非道の指図をせず、慈悲に縊れた柔和さで下々 を取り扱うことが必要でしょう。こういう役人が 多ければ、君上の徳が万民に流れ渡って、臣民も 悦服いたします。天地神明も幸福の使いを下して、 家も国も富むことは間違いありません。   帝王学  「もりかがみ」では、人の育成を草木を育てる ことにたとえる。  一およそ草木を育てるのには、「始中終」の三 段があることを知るべきです。  一始というのは幼少の頃で、中というのは強壮 (青年)のことです。終というのは老衰のことで す。  一したがって、少壮老の三つの時代に従って、 人々の行なうべき道を教えるべきでしょう。  しかし、ここに書かれていることは一般向けに いっていることではない。〃もりかがみ”という のはおそらく。傳鑑”のことだろう。特に大名家 における世子教育の心構えを書いたものだ。いわ ば帝王学を教える側の心得として、平洲は自分の 経験を書き綴ったのだ。  だから、世子の一生を、始中終と三段階に分け、  「それぞれの時期に、その時期に見合った師傅 が必要だ」  というのである。  この中で平洲が特に強調したのが、  「師傅と近習の選び方」  である。師傅にいかに忠良の人物を得ても、近 習の臣がばらばらであっては、決して育てられる 存在はまっすぐ育だない。望むべきは、師傅の教 えを近習もよく認識し、実践することが大切だと いっている。ということは、近習の臣にも忠良な 人間を選ばなければいけないということだ。平洲 はこのことを、  「病気の時における、薬と毒の関係」  にたとえている。  「どんなに薬がいいものであっても、毒と一緒 に用いれば毒の方がかえって勢いを増す。十人の 忠臣がいても、一人の不良の臣が入っていれば、 その毒回りは速い。ましてや、十人の忠臣の中に 三人の不良の臣が入っていた場合は、七人の忠臣 はあってもなきが如くで、薬と同じで一向に効き 目がない」  といっている。  平洲はまた、  「世子を育てる時に最も大切なのが孝悌の徳を いざなうこと。さらに仁恕の心を育てること」  といっている。仁というのは、自分のことは二 の次にして、とにもかくにも他人のことを憐れみ、 心配すること。恕というのは物事に対し思いやり が深く、他人のことを考え、自分勝手をしないこ とをいうと説く。  「対人之闘忠」においては、  ・臣下は、何よりもまず忠と不忠の境をとくと わきまえるべきだ。  一忠という文字は、。まめ”と読む。まめとい うのはまめやかという意味だ。  一したがって、労苦を惜しまず心の底から主人 に仕えることが大切で、ただ如才なく、その場限 りのいい加減なことを言って毎日を過すようなこ とがあってはならない。  ・人間の体にたとえれば、トップは頭だ。臣は 股肱耳目という。足と手と耳と目のことである。 目は物を見、耳はものを聴き、手は掴み、足は歩 み、囗は食べる。鼻は匂いを嗅ぎ、唇や舌、爪な どもすべて上下左右に働いて、一身の主である頭 に従う有様は、文字どおり一人の君主に、群臣が 忠誠心に溢れた奉公をしているといえる。望まし い姿である。  これが、股肱耳目がばらばらで、それぞれ勝手 なことをしたのでは、頭の方もたまったものでは ない。  「昔中国の斉という国に管仲という執政がいた。 かれは常に礼義廉恥を四維と名付けて、国を治め るひかえ綱と定めた。礼というのは、人間はそれ ぞれ身の程をわきまえてそれを守ること。かりに も上を侵し、凌ごうなどと思わないこと。義は、 上の引き立てもないのに、自分から立身出世を企 てるようなことがないこと。廉というのは、悪い ことをしながら自分で責任をとらず、他人に罪を なすりつけて、一日を送るようなさもしい行ない のないこと。恥というのは、自分に都合がいいか らといって、邪な考え方を持って悪事に加担する ようなことがないこと。この四つの綱をしっかり と手繰っていれば、国の政治が誤ることはない」  と説いた。  次に「建学大意」でいよいよ人材育成のための 学校建設と、その学校が持つべき建学の精神を説 く。平洲がここで特に主張するのは、「譲」の精 神である。  平洲の譲は、必ずしも「遜る」あるいは「我慢 する」ということではない。譲るということは、 他に仁や徳を差し出すことだという。  即ち、天地には大きな仁がある。それによって、 その仁を受けた万物は天地の大譲を知る。そのた め、この仁と譲にのっとる人を有徳の君子といっ て、この仁と譲に反く人を不肖小人という。  徳のある君子が上にいれば、恩恵は下に下る。 そのため万民は承順する。小人が上にいれば貪虐 が前面に出て、ゆえに万民は恨んだり怒ったりす る。  したがって、学校における人材育成の目的は、 「興譲」以外ない。  興譲というのは、譲を興すということである。 恭遜の道を修行させることをいう。  しかし、単に字句の解釈だけを教育の目的とし ない細井平洲は、ここでも実地に即した例をあげ た。  「人君は米である。士農工商は薪と火である。 地方役人は鍋釜である。米が上等で、薪がよく燃 えたとしても、鍋釜にひびが入っていたら、決し ていい飯は炊けない。やはり、鍋釜をしっかり鋳 立て、その上で飯の炊ぎ加減を按配する薪火に目 を向けるべきである。したがって、何よりも大切 なのは鍋や釜を鋳ることだ。だからといって、君 を鍋釜にしてはならない。また、薪も鍋釜にはな れない。やはり大切なのは、いい鍋釜を多く鋳立 てることだ。  したがって、奉行や代官は必ず、学校の講堂に やって来て、恭遜の道を学ぶべきである」  平洲が米沢藩を見ていて、一番問題があるのが やはり農工商と直接関わりのある地方役人群だと いう認識があったのだろう。 第四章鷹山・改革の本質     Iリストラのためには何が必       要かI   平洲のリストラ論  平洲が『嚶鳴館遺草』で説いたのは、  「真の経済の道」  である。宣]の経済の道というのは、「経世済民」 即ち、  「乱れた世の中をととのえ、苦しんでいる民を すくう」  ということだ。経済というとすぐ銭勘定だと思 いがちだが、平洲は決してそうはいわなかった。  「真の経済を行なうためには、その基盤に民を 愛する父母のような政治がなければならない」  と説いた。  上杉鷹山の改革路線は、いままで書いてきた 『嚶嗚館遺草』の中からのさわりにほとんど尽き ている。こんどはそれを具体的に鷹山の改革の中 に見てみよう。ただし上杉鷹山の藩政改革につい ては、その全体計画、その実行方法、そしてその 成果、あるいは挫折、再起などの細かい事蹟は、 筆者の別著『上杉鷹山の経営学』(PHP研究所) に書いているので、改革そのものにご関心のある 向きは、そちらも併せて読んでいただきたい。  現在、「リストラ」という言葉がしきりに使わ れている。バブル経済がはじけた後、窮境に陥っ た企業の努力プロセス全体をいう。が、実際プロ セス全体よりもむしろその一部である「縮少」あ るいは「働く者いじめ」がこの言葉の和訳になっ ている。しかし本当のリストラはそういうことで はあるまい。再建ないし再構築のプロセスをどう 実現するかだ。つまリリーダーシップの問題でも あるのだ。常に何かがなされつつあるということ。 また、なさなければいけないということである。 鷹山の歌にこういうのがある。   なせばなる なさねばならぬ何事も   ならぬは人の なさぬなりけり  まさしくこの言葉が。リストラクチャリング” そのものではなかろうか。つまり、  一目標を設定する。  一実現手段を考える。  一計画を立てる。  一計画を細分化し、仕事として各パート、パー トに割り当てる。  一進行管理を行なう。  一為し遂げた成果に対して評定を行なう。  ・失敗したところがあれば、なぜ失敗したのか を探索し、あらためて改善をはかる。  一総合評価を行なう。  こんなプロセスを辿る。  上杉鷹山はまさしく、このプロセスを辿った。 かれは家を継いだ時まだ江戸の藩邸にいた。そし て、前に書いたように、藁科松伯や竹俣当綱を核 とするいわゆる。菁莪社グループ″に囲まれた。 菁莪社グループは、すでに鷹山が上杉家に入る前 から。  「米沢藩上杉家をいかにして再建するか」  ということで、日夜カンカンガクガク論議を続 けていた。かれらは一様に、米沢本国の重役たち に嫌われて江戸の藩邸に左遷された者たちであっ たが、決して人事上の不満を漏らすことはなかっ た。  「そんなことより、上杉藩をいかにして改革す るか」  という一点に神経を集中させていた。そして、 自ら選んだ指導者として、日向高鍋藩の秋月家か ら入っだ上杉直丸に的をしぼったのである。上杉 鷹山は、かれらから見れば能力は未知数であった が、しかしはじめから、  「期待された藩主」  であった。  そしてかれらにそう思わせた媒介者が、細井平 洲である。上杉鷹山も、藁科松伯ら菁莪社グルー プも共通して細井平洲の門人であった。これは強 い。細井平洲というすぐれた学者を仲介者にする ことによって、かれらは結束した。普通なら、米 沢藩士である菁莪社グループも、若い鷹山に多少 の危惧を持ったに違いない。それは、他の米沢藩 士が持った上杉鷹山への印象と全く同じもののは ずである。即ち、  一年が若い。  一米沢藩上杉家の実態を全く知らない。  一しかも、その生国は、南九州であって、米沢 は東北の寒冷地にある。地理地形が全く違うし、 生産物も全く異る。つまり地域差がある。この認 識が果して鷹山にどこまであるか。  一米沢藩に勤務する藩士たちを鷹山は一人も知 らない。藩士の方も鷹山のことを知らない。  一当時の常識からすれば、日向高鍋藩秋月家は、 ちっぽけな二万石か三万石の大名である。大名と いうよりも小名だ。しかし、現在の上杉家は十五 万石とはいっても、もともとは百数十万石を領し た大家であり、同時に家そのものは関東管領で あった。名門である。  ・この大家と小家との差を、一体この若い藩主 はどう埋めようとしていくのか。  一小家は小家なりの経営方法があって、おそら く大家の経営方法にはうとい。ちまちました改革 をやられたのではたまらない。  ・全体に、お手並拝見という空気が支配的だ。 あるいは、すぐ尻尾を巻いて秋月家に舞い戻るだ ろうという意地の悪い見方もしている。  菁莪社グループが直接こういう感情を持たな かったとしても、他の藩士たちが一般的にこうい う感情を持って鷹山を見ていることは、菁莪社グ ループもよく知っていたはずである。にも拘らず、 かれらが、  「治憲様を頂き、思い切った改革を推進しよう」  というように心を固めたのは、やはり若くても 鷹山そのものにすぐれた指導者としての資質を見 たからに外ならない。同時にまた細井平洲が、  「直丸様はすぐれたお方だ。必ず、君たちの目 的を為し遂げるだろう」  と太鼓判を押したためだ。  こう考えると、細井平洲の存在は、上杉鷹山の 改革あるいは米沢藩の改革にとって、絶対に欠く ことのできないものであったといっていい。逆に いえば、細井平洲が存在したからこそ、上杉鷹山 の改革が成功したのだといえる。それほど平洲の 存在意義は大きかった。  そこで上杉鷹山が立てた米沢藩の「藩政改革」 のスケルトン(骨組)を見てみよう。  一まず、改革案をつくった。  一改革案の作り手として菁莪社グループを選ん だ。  一菁莪社グループにこの改革案の作成を命じた 時、鷹山は、  「改革案は、城の再建だけのためにつくるので はない。米沢藩民の幸福享受のためにつくるのだ。 この点を履き違えないように」  と命じた。  ●さらに。  「改革案は、城の一部の者のためではなく、全 藩士が自分の脇において常に読み抜き、理解し、 協力するものでなければならない。つまり、改革 というのはひとごとではなく、自分のことだと思 わせるようにしなければならない。そのためには 改革案に普遍性があり、納得性がなければだめだ。 独りよがりな、また独断で他を責め、あるいは責 任ばかり追及するようなものであってはならない。 一人ひとりの藩士が、ああ、この改革案なら、自 分はこの部分について参加できると思わせるよう なものをつくってほしい。そのためには、案はわ かりやすく、平明な文章で書かれなければならな い」  そう命じた。   改革の目標はまちづくりと人づくり  一鷹山の考えた改革案の骨子は、江戸商人が不 況乗り切りの時に用いた手法をそのまま採用した といっていい。即ち、江戸期の商人が不況乗り切 りに使った手法は次の四つだ。  一始末  一算用  一才覚  一信用  始末というのは節約のことである。算用という のは勘定、財政のことだ。即ち入るをはかって出 るを制するという考え方だ。才覚というのは、い くら始末をしても算用ができない。つまり勘定が 合わない。不足分が出る。それをどうするか、と いうことだ。しかし、朧山は単にこの才覚を不足 分の工面だけにしぼって考えなかった。かれはこ う考えた。  「景気が悪く、全体に生産性があがらない時は 人の心が暗くなる。常に俯きがちになる。国が豊 かになるためには、ただ節約一辺倒の減量経営だ けを行なえばいいというものではない。それでは 単に帳簿上に生じた赤字を消せばいい、という消 極的な姿勢になる。民を幸福にするためには、何 といっても民を豊かにし、国を豊かにしなければ ならない。そのためには殖産興業が必要だ」  一そこで、かれはこの始末・算用・才覚・信用 のうち、三番目の才覚と四番目の信用に最も力を 置いた。  一かれはこう考えた。  「米沢に住む人々にいま必要なのは、他人への 思いやりである。そして、自分が一所懸命働き倹 約したあげく生じた余剰分を、他人あるいは地域 に対して差し出すことが必要だ。これは、他人の 悲しみや苦しみをそのまま見るに忍びないという 孟子の。忍びざるの心”を持つことだ。米沢の 人々の胸には、皆その忍びざるの心がある。しか し現在機能していない。なぜか。それは米沢の都 市環境が必ずしも整備されていないからだ。  。水は方円の器に従う”という言葉がある。即 ち水という存在は柔軟なものだから、円い容器に 入れられれば円くなる。四角い入物に入れられれ ば四角くなる。住む人も同じだ。環境という容器 如何によっては、円くなったり四角くなったりす る。いま、せっかく忍びざるの心を持っていなが らそれが機能していないということは、あまりに も容器がお粗末だからだ。円にせよ四角いにせよ、 その容器がボロボロで、あっちこっち割れたりし ていれば、中の存在もおちおちとしていられない。 いつ落下するかと不安がる。そうだとすれば、改 革で心掛けなければならないのは、環境の整備で ある。即ち容器づくりである。そのために、殖産 興業を行なって、その費用を生むのだ」  ・即ち鷹山は改革の目標を、  「米沢に住む人々全員が、。忍びざるの心”とい う、他人への優しさ・温もり・思いやりを持つこ とだ」  と定義した。  一そのためには、やはりいまでいう”まちづく リ”が欠くことができないと考えた。まちづくり というのはお題目ではない。具体的に都市基盤の 整備をすることだ。現在でいえば、道路、橋、上 下水道、ゴミの処理場、保育園、公民館、図書館、 あるいは福祉施設等住民が必要とする諸々の施設 を整えるということだ。このことは、まちづくり がともすれば掛け声やお題目に終りそうになるの を戒め、いわゆるハコもの即ち鉄とコンクリート を絶対に忘れないという態度である。まちづくり は、ハードーソフト両面にわたって行なわれなけ ればならないというのが鷹山の考えであった。  一いってみれば、そこに住む人々が安心して住 め、死に甲斐と生き甲斐を同時に感じ、同時に自 分の子孫も住まわせたいと願い、さらにいえば他 難11八勺  ・しかしそのための殖産興業を行ない、究極的 に理想的な環境整備を行なうとしても、それを行 なうのは人である。そこで二本目の柱として、鷹 山は、  「人づくり」  を考えた。そのために学校をつくろうと企てた。 学校の名前は細井平洲と相談してすでに「興譲 館」と決めていた。もちろん学長は平洲に頼んで いた。  この辺は、かれよりちょっと前の時代の宝暦時 代に、熊本藩の改革を担当していた名君細川重賢 に似ている。重賢も財政難の折にも拘らず「時習 館」という学校をつくった。実質的な学長に秋山 玉山を命じた。秋山玉山と細井平洲は根っからの 親友である。この辺の経緯は、折に触れ秋山玉山 から細井平洲に伝えられていたに違いない。  ・鷹山の考えによれば、殖産興業を行ない、学 校をつくって人づくりに努めるということは、江 戸商人たちが不況乗り切りに使った方法の「才 覚」に相当する。が、上杉藩は累積赤字でニッチ もサッチもいかない。そこで鷹山が考えたのが 「始末」だ。始末というのはかれが発布した「大 倹約令」たった。  一鷹山はこう考えた。  「赤字がかさみ、景気が悪いからといっても、 住む人間にとっての需要はなくならない。逆に、 景気が悪いからこそ生まれる新しい需要もある。 そうだとすれば、その需要に応えていくのが、国 の経営者の責任だ。しかし、その需要に応えるだ けの費用が得られない。どうするか。そこで改め て始末、即ち倹約を考える。が、倹約といっても 生易しいものでは済まない。即ち、殖産興業を行 ない、学校をつくるということは、事業の拡大再 生産、あるいは新規事業を興すことになる。莫大 な費用がかかる。その費用を生むためには、常識 的な節約をしていたのではだめなのだ。思い切っ た事業の見直しが必要になる。そのためには、連 年上杉家が行なってきた諸行事や、諸事業のうち、 時代に合わないものは思い切ってこの際廃止する か、中止するか、縮小するかしなければならない。 事業の根本的見直し抜きでは、この改革費用は生 めない。そのためには、皮を剥ぎ、肉を切り、骨 まで削らなければならない。そういう思い切った 贅肉落しを併行して進めなければ、絶対にこの改 革は成功しない」  というものだった。  一そこで、鷹山はこの節約の先頭に自分が立と うと考えた。まず自分の身をそぐことから考え、 全体の信用を得ることが肝腎だ、と考えた。  一そのためかれは江戸の藩邸にいた時から、自 分の生活費を思い切って切り詰め、また身のまわ りの世話をする女性たちを五十人からわずか九人 に減らしてしまった。  ・こういう案をつくっていく過程で、かれはし ばしば江戸にいた重役たち、あるいは国許から重 役を呼んで策定経過を告げている。それは、重役 たちに、  「われわれは関知していません」  といわせないためだ。  案ができたあと、かれはこれを本国に送って、  「増し刷りをして、全員に配るように」  と命じている。まだかれは江戸の藩邸にいて、 本国での改革をはじめてはいない。しかしかれは、  「自分が本国に入る前に、全藩士がこの計画案 を読んで、予備知識を持つことが必要だ。そうす れば、討論が進む」  と考えていた。  この計画の中で、かれは案をつくるグループに、  「実態を数字で示せ。絶対に隠してはいけない」  といっている。このことは、  一まず、藩の実態を財政を中心にして全員に告 げる。即ち情報を公開する。  一その上で目的を示し、どうすればいいかを明 らかにする。  一藩主である鷹山をはじめ、全藩士の役割を告 げる。  一その中で、鷹山は率直に自分の能力不足を告 げる。「だから、不足分を全藩士で補ってほしい」 と依頼する。これは改革が一部の推進グループの ものではなく、藩あげての全成員の仕事なのだと いう認識を持たせるためだ。つまり、全藩士に 「参加」を求めたのだ。そのために情報を公開す るということだ。鷹山は、何よりも「自分は聞い ていない」とか「自分に関係ない」といわれるの が最も嫌いだった。そういわせないためには、あ らゆる情報を公開し、嘘をつかず率直に実態を認 識させたうえで、どの部分にどう参加すればいい かを自ら認識するという方法をとったのである。  一鷹山が特に重きを置いたのが現代でいう中間 管理職の存在だ。この層がしっかりしていないと、 せっかくの改革案も途中で歪められる。前に書い た「自分は聞いていない」とか「上のやることで、 俺の知ったことではない」というような中間管理 職もいるだろう。あるいは、疑問を持って「なぜ、 いま、こんなことをしなければいけないのです か?」と聞く部下に対し、怒鳴りつける管理職も いるだろう。「ばかやろう。そんなことがわかる ほど俺は管理職手当を貰っていない。上の方がや れといっているのだから、グズグズいわずにやれ !」。こんなことをいわれたのでは、下の者はむ くれてしまう。鷹山は、  「この計画が成功するかしないかは、あげて中 間管理職のリーダーシップにかかっている」  と考えていた。それが、   してみせて いってきかせて   させてみる  という考え方になる。これは単に「このとおり やってみろ」ということではない。部下が「なぜ こんなことを?」という疑問を突き付けた時に、 情報を与え、砕いた説明をし、情熱を持って説明 をし、結果的には部下を納得させる、というプロ セスをいう。  となると、これはそのまま現代でいうリストラ クチャリングそのものではないのか。つまり鷹山 にすれば。  「どんなにいい案でも、人間というのは保守的 なものだ。自分の仕事を奪われ、組織を変えられ、 人事異動をさせられれば当然不満を持つ。なぜ? という疑問を持つ。これがあたり前だ。それを怒 鳴りつけたり押しつけたりすれば、その後の仕事 は滑らかにはいかない。やはり時間がかかっても、 中間管理職が根気強く説得し、納得させることが 必要なのだ。反対者や対立する者を時間をかけて 理解させ、協力者の中に引きずり込んでいくこと が大事だ」  と考えていた。これが本当の。リストラクチャ リング”である。そう考えると上杉鷹山は単なる 改革の成功者というだけでなく、人の心をある目 標に向って一つにまとめていく。リストラクチャ リング”の名手だったともいえるのだ。そして、 かれにそうさせたのはやはり細井平洲の存在が大 きい。   最も壊しにくい心の壁  改革を阻む壁に三つあることは前に書いた。  一ものの壁(物理的な壁)  一仕組の壁(制度的な壁)  一心の壁(意識の壁)  である。この中で三番目の「心の壁」を叩き壊 すことが一番難しい。鷹山の意図を理解して、菁 莪社グループは精力的に案の作成に励んだ。案が できると、鷹山は満足した。  「さすがだ」  と感じた。しかし一抹の危惧もあった。それは この案が、江戸にいる重役や本国から呼んだ重役 に根回しをしたといっても、かれらは心の底から 承服したわけではない。不信感を持っている。そ の不信感は、他家から入ってきた雇われ藩主であ る鷹山自身に対する感情と、案をつくった菁莪社 グループに対する反感とないませた。  「このままでは、この案がいかに立派でも本国 では素直に受け入れてくれまい」  今度はそんな心配が新しく頭をもたげてきた。 細井平洲に相談した。平洲は頷いた。  「そのご懸念はごもっともです」  「どうすればよろしいか?」  「足元から心の壁を打ち砕きましよう」  「足元から?」  「そうです。足元というのは、あなたと菁莪社 グループのことです」  細井平洲がここで話しだのは、人間の社会の仕 組についてであった。  一人間の社会は、二つのタイプの人間で成立し ている。  一一つはいわば「知型人間」というべき存在で、 「何をやっているか・何のためにそういうことを するのか」という内容・目的を重視して物事を進 めていくタイプだ。もう一つは「情型人間」とも いうべきタイプで、何をやっているか以前に「誰 がやっているか」という「ひと・人間関係」に重 きを置くタイプである。  ・両者は別々な価値観、モノサシを持っている から必ずしも相容れない。  ・本来なら組織というのは「何をやっている か」で判断すべきで、「誰がやっているか」とい うモノサシをあてはめてはならない。即ち、いい ことであれば誰がやろうとそれは受け入れるべき だ。これは上下の関係においても同じだ。上の者 は下のある者が嫌いだからといって正当な評価を 欠くとすればそれは不公正だ。上の者としてなす べきことではない。また下の者も上が嫌いだから といってその指示された内容がいいものであるに も拘らず、自分は上の者が嫌いだから協力しない というのは間違いだ。しかしこれは理屈である。 世の中はそうはいかない。どんなにいいことでも、 言い手や、やり手が気にくわなければ協力しない ことはしばしばある。  一米沢藩も同じだ。現在、菁莪社グループは確 かに正義感が強く、仕事に対して強い情熱を持っ てはいるか、本国から見れば必ずしも好感を持っ て迎えられるグループではない。かれらはことご とに米沢本国の重役たちを糾弾し、批判した。竹 俣当綱のように、森平右衛門という重役を殺した 者さえいる。そうなると本国から見る菁莪社グ ループは全部問題児だ。組織の秩序を破壊し、職 場の調和を乱す、いってみればトラブルメーカー の群である。こういうトラブルメーカーの群に対 して、現在米沢本国の人々がどういう見方をして いるか、これは火を見るよりも明らかだ。  「そこでです」  平洲は微笑みながらいった。  「菁莪社グループの連中にも、少し自分を変え させていただきたい」  「自分を変えるとは?」  「せっかくいい案ができたのです。これは。何 をやっているか”という内容が見事に完成したと いうことです。そうなると今度は。誰がつくった のか”という、。誰が”の面に目を向ける必要が あります。いまのかれらは、鬼のような表情で後 脚で砂をぶっかけて米沢を出てきました。その印 象はいまだに本国の人々が持っているでしょう。 そこでかれらに少し自分を変えてもらって、せめ てお地蔵様のような顔に変ってもらうことです。 それには、やはり組織の秩序を守り、他人のいう ことももう少し聞く、自分のいうことばかりいわ ない、というような性格に自らを変えることが必 要です。いってみれば、自己改革が必要なので す」  きいているうちに鷹山には、細井平洲のいって いることが全部理解できた。  「なるほど」  と頷いた。ニッコリ笑った。  「先生のおっしやることはよくわかりました。 私も、何をいっているかだけでなく、誰がいって いるかという見方にも十分堪えられるように自身 を変革致します」  「あなたはご立派だ。変えるところは別にござ いませんが、しかし菁莪社グループに自己変革を 求めるとすれば、やはりそのようなお心掛けは大 切でございましよう」  「お教え、ありがとうございました」  細井平洲から助言された鷹山は菁莪社グループ を集めていった。  「おまえたちの作った案は見事である。江戸藩 邸で実験の結果、いいところを残し悪いところを 削った。案は見事に整った。いよいよ本国に向っ て出発する。しかしその前に一つだけ頼みだいこ とがある。それは、おまえたち自身もう少し性格 を変えろ。つまり、いまのままだとこのいい案が、 米沢本国で真向から拒否されるおそれがある。そ れを緩めよう。それには、おまえたち自身が自分 を変えて、本国でも素直に受け入れられることが 必要だ。自己変革をせよ。米沢藩の改革は、改革 案をつくったグループの自己変革から出発する」  凛々と響く若い朧山の言葉に、菁莪社グループ は顔を見合わせた。  (この若殿様はすごいぞ)  しかし不快感を持ったわけではない。逆に頼も しさを感じたのだ。肝腎なところは引き締める、 メリハリはきちんとつける、そういう鷹山の態度 は非常に頼もしく思われた。竹俣当綱が答えた。  「お屋形様のおっしやることはよくわかります。 われわれも、もう少し柔らかくなりましよう」  「わかってくれてうれしい」  すでに心を結束させていた主と従は、ここでさ らにその繋りを強めた。菁莪社グループは一斉に 自己変革に励んだ。即ち、  「自分のいいたいことばかりいわずに、他人の いうこともキチンと聞く」  ということと、  [反対者や対立者を、宣]向からやっつけるので はなく、時間をかけて柔軟に理解と協力を求めて 行く根気強さを養おう」  ということが、かれらの自己変革の内容であっ た。   灰の中の火種  こうして計画案を確定した鷹山は、明和六年 二七六九)十月十九日に江戸桜田の上杉藩邸を出 発し、同月二十七日はじめて米沢城に入っだ。現 在、東京駅を出発する東北新幹線は。隼”という ミニ新幹線を連結して走る。そしてこの連結され た隼は福島から奥羽本線となって、山形に向う。 これは平成四年七月一日から実施された。たまた ま平成四年に山形県は弌にはな国体”を行なっ た。そのお祝いの意味もあったのだろう。  しかし、平成四年六月末までは、米沢に至るま では、電車はかなり長い問駅ごとにスイッチバッ クだった。福島県境を越えて最初の駅が板谷であ る。以下、峠、大沢、関根と続く。鷹山の時代は それぞれ宿場である。  鷹山の初入国の日は、最初の宿場である板谷宿 では、本陣に灯火が点り、暖房が用意され、ある いは食膳も準備されていなければいけないはずだ。 が、何もなかった。真暗だった。宿は潰れていた。 つまり、都市基盤整備が全く行なわれず、税ばか り高く、働き場もないから若者はどんどん大都市 に行ってしまった。いわゆる過疎化が進行してい たのである。鷹山はしかしこれを咎めなかった。  「責任は全て藩主の自分にある」  と考えた。この時、かれが煙草盆の灰皿の中か ら発見した小さな火種を自分にたとえ、部下たち に向って、  「私か灰の中のこの小さな火種になろう。おま えたちはこの火を受ける黒い炭になってほしい。 そして、明日から米沢城内で火種運動を起せ。い つかその火が城中に漲れば、やがては飛び火をし て、町に住む大や村に住む人の胸に飛んでいく。 そうなれば、住民もこの改革に協力してくれるは ずだ」  という。火種の誓い”を行なったエピソードは 有名だ。  ところで菁莪社グループがつくった計画案の内 容に、すでに細井平洲が『嚶嗚館遺草』の中で、 上杉鷹山にいろいろと助言したことがそのまま取 り入れられていることは、読者の皆様にもおわか りだと思う。一応、ダブるかも知れないがそれを 整理しておく。つまり、有名な上杉鷹山の藩政改 革の基になった計画案の中に、いかに細井平洲の 思想が取り込まれているかということを確認して おきたいからである。計画案に取り入れられた平 洲の思想というのは次のようなものだ。  一国の財用は、土地と民力の二つ以外にないこ  ●しかし、その財用を活用する場合も「入るを はかって出ずるを制する」という原則を忘れては ならないこと。  一入るをばかり出ずるを制するということは昔 から決っているように思えるが、しかしそうであ りながらも日本の大名家は不足を生じていること。  一これは、定法を守っても不足を生じるという ことを意味している。となると、生じた不足は定 法によっては補うことができない。非常の法を採 用しなければならない。  一非常の法を採用するといっても、それは下々 を咎めたり苦しめたりすることではない。逆に、 藩主が自ら思い切った贅肉落しを行なうことであ る。  ・なぜ、藩主がこういう非常の法をもって、率 先して贅肉落しをしなければいけないかといえば、 それは藩主というのは藩民の父母だからである。 親の気持を持てば、まず苦しんでいる藩民を飢え させたりしないようにすることが親の役割だと思 うに違いない。これを子の方から見れば、ああ、 うちの親は有難いなという気持を持つ。  ・この親の気持を持って政事を行なうことを仁 政という。  一だからといって、藩主が自ら贅肉を落す行為 を、これ見よがしに他にPRするような邪な心が あってはならない。あくまでも、親の愛情という 仁徳から生まれたものでなければならない。  一そのためには、自分が行なうことに対する意 志を鉄石のように固くする必要がある。  ・藩主の決意は、樹木の根元のようなものだ。 城の部下と町や村の民は枝葉である。樹木の根が しっかりしていれば、枝葉も栄える。  一そのためには、改めて根本である藩主の生き 方が全部注目の的になる。  ・改革の究極的な目的は、下々が暮し易く幸福 感を感ずることにある。そのためには、藩主が入 用を省き、恵み深く下々に接しなければならない。 具体的には節倹の術を自身の奥向きから実行する ことである。  一藩主がいかに仁徳の政事を行なうからといっ ても、やはり人間だ。欠点もある。その欠点を隠 していいことばかり告げるようであってはならな い。もっといえば、改革を進める上で藩の実態を 悉く率直に告げるべきである。都合の悪いこと を隠せば、結局は不信感を養う。  一こういうことは藩主一人ではできない。やは り忠義な部下が必要だ。  一忠義な部下というのは、改革を進め、国を富 ませ、民を富ませる人間だ。そうなると、やはり 人材育成を欠くことができない。人づくりが大切 である。人づくりには学校が必要だ。その学校で は「興譲」を旨とし、この精神を身につけるよう な教育をすべきである。興譲とは、譲を興すこと であり、譲を興すとは共存の道を修行させるとい うことである。  一藩主は米である。士農工商は薪である。地方 役人は鍋釜である。最も大切なのは鍋釜である。 たとえどんなに米がよく、薪がよく燃えても、鍋 釜が壊れていては米はよく炊けない。鍋釜を頑強 に鋳ることが最も肝要である。  そうとうな駆け足で、平洲の『嚶鳴館遺草』に 書かれたことと、鷹山が実行した改革案との関わ りをピックアップしてみた。が、改革案の幹や枝 葉に至るまで、平洲の考えが隅々まで染みている ことはこれによっても明らかである。 第五章「心の壁」への挑戦     −人心をつかむリーダーの条       件とはI   平洲、米沢に行く  細井平洲がはじめて米沢に行っだのは、明和八 年(一七七二五月のことであった。しかし、こ の平洲の米沢行きははじめからスムーズにいった わけではない。障害があった。それは平洲が、上 杉家だけでなく、いくつかの大名家の賓師を兼ね ていたからだ。特に、かれを最初に発見した西条 公、すなわち四国の西条藩主松平頼淳には中国語 の通訳を務めた時から懇願されて、毎月三の日、 八の囗の六回、渋谷の江戸藩邸に行って講義を続 けていた。  米沢に入っだ鷹山は、まず「大倹約令」を出し て改革の開始宣言を行なった。動揺が起った。や はり、予測したとおり、総論では理解していても、 それがいざ自分の身に及ぶ各論になると人々は反 発する。迷う。さらに、不安も持つ。  「こんなことをやって、米沢藩は本当に再建で きるのか?」  そういう声が満ちた。鷹山だけでなく、かれを 支える竹俣当綱たちも憂慮した。額を集めて相談 した結果、  「細井平洲先生に米沢においでいただいて、藩 士や民に感動的なご講義をしていただく以外にな い」  ということになった。そこで問題になっだのが、 西条藩松平家などに対する了解工作である。この 了解工作が難しかっだのは、実をいえば西条藩主 松平頼淳も随分前から細井平洲に向って、  「わが藩の賓師になっていただきたい。西条に 下って、西条藩士や西条藩民に先生のご講義をお 聴かせ願いたい」  と頼んでいたからだ。他の大名家からも同じよ うな申し込みがいくつかあった。しかしその申し 込みの悉くを細井平洲は斷った。  「私は一介の町学者でございます。特定のお大 名家の専属になる気はございません。いまのまま で十分お役に立てると思いますのでご勘弁を願い ます」  そういってきた。それなのに、米沢藩上杉家が 正式な藩儒として迎え入れ、その身分を固定する となると問題が起る。平洲に対しても、  「いっていることとやっていることが違うでは ないか。およそ学者らしくない」  ということになるだろうし、上杉家に対しても、  「あちこちの大名家がすでに細井先生を招きた いといっているのは知っているはずだ。にも拘ら ず、上杉家は強引に細井先生を自分のところの藩 儒にしてしまった」  と、その不当性をなじられる。竹俣当綱たちは 弱った。やがて、  「こうしよう」  ということになった。こうしようというのは、  「細井平洲先生を米沢藩上杉家にしばりつける のではなく、一年間だけ米沢に来ていただいて、 ご講義をいただく」  ということである。これならば西条藩、各大名 家も了解してくれるだろう、と竹俣たちは思った。 そこで上杉鷹山が参勤交代で江戸に出た明和八年 二七七匸、竹俣はこのことを進言した。鷹山は 頷いた。そして、  「私か細井先生にお願いに行こう」  といった。竹俣たちはビックリした。  「そんな先例はございません。お屋形様が直接 おいでにならなくても、私共で十分用が足ります。 細井先生も決してお気を悪くはなさらないと思い ます」  「いや、細井先生には私から直接お願いしたい」  こうして上杉鷹山は本行列を整えて桜田の上屋 敷から浜町にある山伏井戸の平洲の嚶嗚館に向っ た。町筋の町民たちはビックリした。  「上杉様のお行列は一体どこへ行くのだろう?」  と囁き合った。浜町山伏井戸近辺では皆目を見 張った。十五万石の殿様の本行列が、一介の町学 者の家にやって来たからである。しかし鷹山は、  「これこそまさに細井平洲先生から私か教わっ たものだ。即ち、大名といえども弟子は弟子だ。 町学者であろうと師は師だ。師に対する礼は保だ なければならない」  こういう鷹山の心掛けと、礼を尽して頼む米沢 下向の願いを、平洲は承知した。事前にすでに竹 俣から、  「西条様はじめ各お大名方からは一年間という お約束でご了解をいただきました」  という根回しの報告を受けていたからである。  平洲ははじめて米沢に行った。宿舎兼教場とし て、馬場御殿松桜館が用意されていた。ここで、 平洲は藩主朧山と主立った藩士、並びに選抜され た俊秀学生二十名の指導に当ることになった。   暗殺者も泣いて入門する  しかし、だからといって細井平洲は米沢本国で 両手をあげて歓迎されたわけではない。異論が あった。  「他所から学者を招くのはいかがなものか。米 沢にもすぐれた学者が沢山いるはずだ。何も高い 費用を出して江戸から招く必要はない」  「上杉家は代々武名をもってなる家柄だ。学問 中心の気風を生むと、武士が皆軟弱になってしま う」  こういうように上杉家の家風や家格が傷つけら れると考える藩士たちもいた。が、もっと現実的 なことをいう者もいた。  「聞くところによると、細井先生に対する報酬 はえらく高額なものだという。先代の藩公が、版 籍奉還まで考えられるほど上杉家の財政が逼迫し ているのに、いままた何の役にも立だない学問の 師を招いて、支出を増大させるというのは好まし くない」  そういう財政的見地から反対する者もいた。  上杉家は、会津百二十万石から米沢三十万石に 転封した時、家臣を全部連れていった。しかし米 沢の中心街には全部住まわせることができず、城 の東西南北の荒地に住まわせた。武士たちは付近 を開拓して、自ら鍬を振い食糧を得た。この東西 南北に散った武士たちを。原方衆”といった。当 初のうちは、原方の武士たちに対して同情と理解 が持たれていたが、時代が経つにつれて次第にそ の意識が薄れた。城下町に住む武士たちがむしろ 馬鹿にするようになった。  「原方のくそつかみ」  などという蔑称が生まれた。これに対し原方衆 七言い返した。  「城方のカユ腹」  どっちもどっちだ。原方のくそつかみというの は、鍬を振って土を耕し、肥料を撒くからそうい う蔑称が生まれた。一方城下町に住む武士たちは、 いつも米が食えなくて粥ばかり食っているから、 直接生産者である原方から見れば嘲りの対象にな る。いずれにしても、目くそ鼻くそを笑うのたぐ いであって本来こういうお互いの見方はよくない。  しかし、都市化した城下町に住む武士よりも、 荒地を耕して自ら生産者となった武士たちの気風 の方が荒い。  細井平洲が米沢に入った頃、南方の原方衆で南 原猪苗代町に住む五十騎組の吉田一夢という人物 がいた。剣道の達人である。直情径行の性格で 曲ったことが大嫌いだった。気性も荒かった。こ の吉田が細井平洲が招かれて米沢に来たというこ とを聞いて怒った。  「われわれ原方衆が、ここまで苦労をして藩を 支えているのに、足りない金を支出してそんなへ ぼ学者を招くとは何事だ。招いた奴も招いた奴な ら、招かれて来る奴も来る奴だ。よし、俺が叩き 斬ってやる!」  吉田一夢は周辺の武士たちにそう豪語して、あ る日松桜館に行った。他の原方衆も詳しいことは 知らないから吉田を応援した。  「頑張れ。見事に細井平洲を叩き斬れ」  とけしかけた。  その囗細井平洲は松桜館で静かに『大学』の講 義をしていた。吉田は家の中に入り、足音を忍ば せて廊下を渡った。愛知県東海市立平洲記念館に ある「平洲絵カード」の一枚に、この光景が描か れている。きちんと座って講義を続ける平洲の話 を、机もなく畳の上にテキストを置いた武士たち が、熱心に聴き入っている。平洲の後の唐紙が一 枚開いていて、刀の柄に手をかけた吉田一夢が忍 び寄っている。じっと平洲を窺っている。  しかし、吉田は平洲の後姿に微塵も隙のないこ とを発見した。吉田はたじろいだ。胸の中で、  (こいつめ、こいつめ)  と思うが、どうしても斬りかかれない。この時 吉田は悟った。  「細井という学者は文の人だ。俺は武の人間だ。 ところが、軟弱だと思っていた文の人間に、武の 俺が斬りかかれない。これは一体どうしたことか。 やはり、文と武とは別ではないのだ。この先生は、 文だけで生きているようだが実は文を極めること によって、武の精神も極めている。だから隙がな い。いや、俺が間違っていたかも知れない」  根がまっすぐな人間だから、吉田一夢は自分が 悪いと悟るとすぐ改めた。一夢は刀を廊下に置い ていきなり部屋の中に飛び込んだ。皆ビックリし た。平洲も驚いた。吉田は平洲の前に手をついた。  「先生、申し訳ございません」  「どうかなさったか?」  「実は……」  細井平洲が米沢に来たことを喜ばず、仲間を代 表して斬りに来たのだと話した。しかし、先生の 後姿を見ているうちにどうしても斬れなかった。 それだけでなく学問の大切さを知った。  「今日から先生の門人にしてください」  平洲は微笑んだ。  「面白い方だ。こんな話でよろしければ、どう ぞ他の皆さんと一緒に聞きなさい」  「有難うございます」  感動した吉田一夢は、この日以来細井平洲の大 の崇拝者になった。そして、南原に戻っても、  「細井平洲先生ほどすばらしい人はいない」  と吹聴した。皆変な顔をした。笑った。  「ミイラとりがミイラになった」  しかし何といわれても吉田一夢は、その後二度 と平洲の悪口はいわなかった。南原だけでなく、 あちこちの原を駆けめぐっては、  「おまえたちも、鍬や刀を振りまわしてぽかり いないで、たまには松桜館に行って細井先生の講 義を聴け」  などといった。しかし吉田一夢のような心酔者 を得たことは、細井平洲にとっても幸せだった。 同時に平洲の幸福は、招いた上杉鷹山の幸福でも あった。細井平洲のファンは囗を追って増えて いった。  講義のない囗、細井平洲は藁科松伯の墓参りを した。松伯は最初平洲の門人になった藩の医者で ある。しかし、高潔なその人柄は影響力が大きく、 藩の中でも慕う武士が沢山いた。こういう連中を 集めて、松伯は江戸の米沢藩邸内に「菁莪社」と いう塾をつくった。細井平洲の門人だけを集めて つくったものだ。  やがて、上杉鷹山が家督を継いで改革に乗り出 すと、その案の作成の指揮をとっだ。そして明和 六年(一七六九)夏に案が完成し、いよいよ本国 へ乗り込もうという直前の八月二十四日、松伯は 死んだ。まだ三十三歳だった。不治の持病に冒さ れていた。  細井平洲にとっては思い出の尽きない人物であ る。生前、何度も、  「細井先生、ぜひ一度米沢においでください。 先生が来てくだされば、米沢はきっと再興しま す」  と涙を縊れさせんばかりの表情で告げ続けた。 あの頃の松伯の必死の表情が、いまも平洲の胸に ありありと浮んで来る。  平洲は米沢にやって来た。しかし、待ってくれ るはずの松伯はすでに死出の旅に出ていた。善立 寺にある藁科松伯の墓には、  「菁莪院貞祐日宗居士」  と刻まれていた。案内したのは松伯の遺児松玄 である。  墓の前に立ち尽した平洲は、  「松伯先生、もっと長生きをしてほしかった。 米沢の土地をよく知らない私は、もしあなたが生 きていてくださったら、どんなに力強く思えたこ とだろう」  としみじみと語った。三首の歌を詠んだ。   浮雲のあとをしるべにと(訪)いくれば   忘れず山のかいもなかりき   こけの道といより袖の霧をだに   せめては人のかたみとも見む   見ればなお夢かとばかりたどられぬ   げにもふりしか苔のいしぶみ   現地を歩きまわる平洲  一部の米沢藩士たちは誤解したが、細井平洲に 対する待遇はそれほど高額なものではなかった。 平洲が米沢藩からもらった給与は十人扶持である。 一人扶持というのは一日米五合を基準として与え られる給与額のことだ。これをその年の相場に よって売り払い、貨幣を得て必要な食糧や生活用 品を買う。平洲の場合は一日に米五升分か与えら れたということで、決して高額な給与ではない。  平洲が米沢にやって来だのは明和八年(一七七 匸の五月二日のことだったが、六月二十七日に なると、上杉鷹山が平洲のところに使いをよこし た。  「米沢郊外に大平滝というところがあるので、 ご一緒しませんか」  ということである。鷹山にすれば目論見があっ た。城を離れて平洲から率直な意見を聞きたかっ たのである。平洲は喜んで大平滝に行った。  この時鷹山はいろいろな話をした。中でも、  「この度郡奉行所を復活致しました。郡奉行や 郷村頭取という役職を設けました。さらに、郷村 勤方心得という掟を出して、これら郷村役人たち の心構えを改めさせました」  と報告した。平洲は頷いた。  鷹山が行なった郡奉行所の復活というのは、平 洲が『嚶嗚館遺草』に書いた例の「米・薪・鍋 釜」の三位一体論を実行したということだ。平洲 は鷹山のために書いた『嚶嗚館遺草』の中で。  「藩主は米で、士農工商は薪です。地方役人が 鍋釜に当ります。どんなに米がよくても、また薪 がよく燃えても、鍋釜が割れたり傷んでいれば、 米は決してうまくは炊けません。いい鍋釜を鋳る ことが大切です」  と強調した。鷹山はそのことを実行したのであ る。鷹山もまた。  「国の富が農作物にあるとすれば、やはり農民 が国の宝だ。それを管理する郷村役人が正しくな くては、国の宝も決して生き生きと働いてはくれ ない。米沢でも新しくいい鍋釜を鋳よう。それが 郷村役人だ」  と考えた。後に鷹山は、地方役人である代官の 世襲制を廃止してしまう。そこまで考えていたの かどうかわからないが、鷹山にすれば、  「代官という農民に直接関わりのある役人は、 上から選ぶものでなく、下から選ばれるものでな ければならない」  という思想があったのではなかろうか。  上杉鷹山の改革は、改革を妨げる三つの壁、す なわち、  一物理的な壁  一制度的な壁  一意識的な壁  という、物の壁、仕組の壁、心の壁の三つに挑 戦することであった。勢い、かれが置かれている 徳川幕藩体制下の一封建大名という立場と、幕藩 体制をつくっているいろいろな仕組にも挑戦せざ るを得ない。鷹山の改革は、かなりこの仕組を壊 している。しかしその仕組を壊すのに最も骨の折 れるのが、意識的な壁を壊すことであった。つま り、士農工商それぞれの立場で持ち続けている 「心」をどうぶち壊すかということである。  上杉鷹山は、精神的な改革の拠り所を、細井平 洲の教えに求めた。だから平洲に請うて米沢に来 てもらい、実際に学問を教えてもらった。これに 併行して鷹山自身も、制度的な改革を次々と行 なっていった。鷹山の改革は、あてはめて見れば 江戸期商人の不況乗り切り策である始末・算用・ 才覚・信用の手法を取り入れたといっていい。だ から最初かれが発したのが「大倹約令」である。 それも自分自身から率先して実をあげた。  しかし鷹山は。  「単なる減量経営だけの改革を行なっても意味 はない。改革の究極的な目的は、住んでいる民を 幸福にすることである。そのためには、拡大再生 産乃至は新規事業も興さなければならない。その ために、米沢藩内で取れる製品に付加価値を加え、 高価値化して他国に輸出することが必要だ」  と考えていた。この辺も平洲の『嚶嗚館遺草』 から学んだ考え方である。  しかし、城と農村の接点で農村を豊かにするた めの政治を行なうのは、あくまでも郡奉行所だ。 鷹山の制度改革の中で最も画期的なのは、この地 方役所を強化し、そこに勤める役人に最も優秀な 人物を選んだことである。『嚶嗚館遺草』にいう、  「鍋釜の強化」  であった。  鷹山は、大平滝で自分かはしめたことをこもご も平洲に語った。そして意見を求めた。平洲は自 分なりに城下町や、近くの農村を歩いて感じたこ とを告げた。  一上からの命令がなくても、武士の一部は自分 から郊外の荒地に赴いて耕していること。そこに 農作物を植え育てていること。  ・松川に架かった大橋が、風雨によって腐蝕し ていた。それを、藩士の一部が自発的に修復に乗 り出し、見事に改修したこと。  一藩士の一部は遠く山林地帯に入って木材の切 り出しを行ないはしめたこと。  こういう例をあげて平洲はいった。  「これは明らかに、いままで世襲的に決められ て来た士農工商の身分が、自発的に壊されている ということでございましよう。つまり、武士も自 分の中に潜んでいる能力が、農に向けば農に使い、 山に向けば山で使いというように、それぞれ従来 のしきたりにこだわることなく、新しい仕事にど んどん挑戦しているということでございます。お 屋形様のご仁徳が、次第に浸透しはじめたという ことでございましよう」  「いやいや、とんでもございません。あげて細 井先生のお教えのたまものです」  そういいながらも鷹山は嬉しかった。平洲がた だ松桜館で弟子たちに学問を教えるだけでなく、 暇を見ては実地に城下町を歩いたり農村を歩いた りして、自分の改革の進み具合を見守っていてく れたからである。しかも前向きに評価してくれて いる。  (細井先生のこういうお言葉が、自分にとって は何よりの励ましになる)  若い鷹山は率直にそう思った。  いかにかれの人格がすぐれ、能力があっても、 東北の事情など何も知らない若者が、たった一人 で高い山の上に降りたようなものだ。自分の周囲 に何人かの味方はいるか、山裾まで至る問には果 してどれだけ敵がいるかわからない。いずれは、 足を引っぱり、あるいは後から突き飛ばす者も出 てくるだろう。そういう不安が常にある。その意 味では米沢に入って以来の上杉鷹山の神経は、極 度に緊張していた。  そういう鷹山の精神状態を知る平洲は、しみじ みといった。  「お屋形様、糸も張りつめると切れます。少し 弛みをお持ちになった方がよろしうございましよ う。弛みを持ちませんと、糸だけでなく両側の物 体に対しても、影響を与えましよう」  「……」  鷹山は平洲の言葉を胸の中で咀嚼した。味わっ た。やがてニッコリ頷いた。  「お言葉身にしみます」  この日から間もなく、米沢地域は日照りが続い た。鷹山は雨乞いをした。皆笑った。  「殿様が雨乞いをしたからといって雨が降るも のか」  ところが奇跡が起った。実際に雨が降りはじめ た。いままでカンカン照りだった空か真暗になり、 雲が天上で走りまわった。大粒の雨がパラパラと 降り、やがてそれは大雨になった。天を仰いで、 雫の恵みを受けた農民や武士たちは、感動した。  「雨が降った1’雨が降った!」  そしてその雨も、  「お殿様の雨乞いが天の神の胸に届いたのだ。 新しいお殿様が雨をお降らせになった」  農民たちは口々にそういって走りまわった。こ の話を聞いて細井平洲は喜んだ。  「治憲様のご誠意が、次第にこの土地の土に染 み込んでいく。天の神も、おそらく治憲様のお気 持を高く評価なさったのに違いない」  八月三日、細井平洲は城に呼ばれた。城内の書 院に鷹山がいた。思わぬ話を切り出された。鷹山 はいった。  「先生、ご休暇をお取りください」  「休暇? いやあ、私はまだこちらに伺ってか ら三か月しか経ちません。いまから休暇を取るな どとはとんでもございません」  「先生は大平滝でおっしやったではありません か。糸も張りつめるだけが能ではないと。弛みが なければ切れてしまい、それだけでなく、糸を支 えている側にも悪い力を及ぼすと」  「あれはお屋形様に申しあげたことで、私のこ とではございません。私は、ずっと弛みっ放しで すから大丈夫でございます」  「いやいや、私のお礼の気持もあるのです。先 生がお見えになっただけで、藩内の空気がどんど ん浄化され、藩士たちの気持も引き締まっており ます。ちょうど夏でございます。松島へでもお出 掛けください」  「松島へ?」  松島と聞いて平洲の目は輝いた。かねてから 行ってみたかった景勝の地である。しかし、ため らいもあった。その心を知って、鷹山はさらに勧 めた。もちろん経費の心配は全くなく、供に数人 の心利きたる弟子を付けましよう、とまでいって くれた。そこまでいわれると平洲も逆らえなかっ た。  「ご好意を有難くお受け致します」  と承知した。この時の松島見物は、八月九日か ら八月二十二日にわたって行なわれる。供に付い たのは藁科松伯の息子松玄をはじめ、六人いた。 この時のゆったりした見物風景は、東海市立平洲 記念館が持っている「平洲絵巻」に描かれている。 平洲はこの時の印象を『遊松島記』、『をしまのと まや』という書物に書き記した。電車も車もない 時代だから、行きは北へ向かって上ノ山へ行き、 上ノ山から東に向かって仙台に行き、松島に至っ た。滞留期間は三日である。時期が時期なので、 松島で月を見た。帰りは、南に下って福島に出た。 そして鷹山がはじめて入国した時のコースであり、 また参勤交代の時に通る道を辿った。すなわち、 板谷峠を抜けて米沢に入って来る道を歩いた。一 行は、口々に、  「財政難の折に、われわれにこんな観光旅行を させてくださるお殿様のご恩は尊い」  と感激した。  しかし米沢に帰ると、慣れない旅のせいか平洲 は足を傷めた。いつまでも治らない。これを知っ た鷹山が使いを寄越した。  「赤湯の温泉に入られると、きっとよくなると 思います」  平洲はすぐ赤湯温泉に行った。鷹山のいったと おりだった。温泉につかっているうちに足はどん どんよくなった。平洲は、鷹山がまだ入国してか らそれはどの年月が経っていないのに、よくそん な細かいことまで知っていると感心した。ところ が宿の主人に聞くと、宿の方が鷹山のことをよく 知っていた。それは、この宿に来た城の武士が粗 末な襦袢を着ていたが、入湯する時にその襦袢を 丁寧に衣紋掛に掛けた。主人がその訳を聞くと。  「この襦袢は、お屋形様お手ずから賜ったもの だ」  と告げた。つまり、鷹山はそれほど粗末な襦袢 を着ていたということである。その時、自分の娘 が嫁入りの時に、あれも買ってくれ、これも買っ てくれといろんな要求を出されて弱り果てていた 宿の主人は、この話を聞くと意を強くした。そし て娘を懇々と諭し、  「城のお殿様でさえ、こういう粗末な襦袢をお 召しになっているのだ。おまえは何だ」  と叱った。娘は心を改めた。以来、赤湯の宿の 主人は、見たことのない鷹山を身近に感じ、日々 敬愛の念を持ち続けているのだという。  細井平洲は感動した。それは、入国した鷹山が、 暇を見ては精力的に歩いていたからだ。  赤湯から戻って、松桜館に戻ると平洲はすぐ鷹 山に礼を言いに行った。  「お教えいただいた赤湯温泉に参りました。効 き目があらたかで、おかげさまで傷んだ足がすっ かりよくなりました」  「それはようございました」  「赤湯の宿で、お屋形様のご仁慈のお話を聞き、 胸を温めました」  「襦袢の話ですね」  鷹山もその話は知っていたようだ。微笑んだ。 平洲は頷いた。そして、  「領内にお屋形様のご仁徳があまねきわたって おります。ご改革は必ず成功致しましよう」  「先生のそのような力強いお言葉は、私を奮い 立たせます。今後ともどうぞよしなにご指導くだ さい」  師の平洲と、弟子の大名上杉鷹山は、ここでも また新しい心の結束を感じ取るのだった。   高山彦九郎も門人になる  明和という年号は、九年の十一月十六日に「安 永」と改元される。理由は、この年の二月に江戸 で大火があり、また秋になると日本諸国で風水害 がしきりに起ったからである。囗の悪い連中は、  「明和という年号は、明るく和しているどころ ではない。メイワクだ」  といった。そこで幕府要路は考えて、  「平安な日々が永く続くように」  ということで安永と改元した。  この時の江戸の大火では、米沢藩上杉家の江戸 の藩邸が二つ焼けた。上杉家の藩邸は、上屋敷が 桜田に、中屋敷が麻布飯倉片町に、そして下屋敷 が芝白金と麻布にあった。このうち上屋敷と中屋 敷が全焼した。下屋敷は助かった。出火が、目黒 行人坂であっだのにも拘らず、白金の下屋敷が焼 け残っだのは不思議たった。目黒の行人坂と芝白 金とはほとんど境を接した地域だったからだ。  両藩邸が焼けたのは明和九年(一七七二)二月 二十九日のことである。この報は、三月三日に早 飛脚で米沢城にもたらされた。平洲の家がどう なったかは不明たった。しかし平洲はそんなこと には気を遣わなかった。翌日すぐ平洲は麻裃を着 けて登城した。そして上杉鷹山に謁し、  「こんなめでたいことはございません。上杉家 興隆はまさにこの時にございます。江戸の危難を 契機として、上杉家はいよいよ上下共に心を一に することでございましよう」  と進言した。鷹山は喜んだ。鷹山自身も、  「火災は災いを転じて福とする転機である。こ れを活用しない手はない」  と考えていたからだ。  一年間の約束で米沢に下った細井平洲は、間も なく江戸に帰ることになっていた。その直前だっ たので、平洲も思い切ってこんなことをいったの だ。鷹山の脇で聞いていた米沢城の重役たちは苦 い顔をした。  (無責任な学者が、また無責任なことをいって いる)  と思ったからだ。  細井平洲が米沢を出発したのは三月十日のこと だ。この直前に、妙な人物が平洲を訪れて来た。 寛政の三奇人といわれた高山彦九郎である。高山 彦九郎は、上州(群馬県)の農民出身だったが、 早くから勤皇論を唱えて諸国を遊説して歩いてい た。京都に行って公家と交わり、しきりに。  「天皇と朝廷を大事にしなければなりません」  と説いてまわった。はじめて京都に着いた日、 かれは三条大橋から京都御所の灯が洩れているの を見た。御所の塀が壊れて、内部から洩れる灯火 が、三条大橋からも見えたのである。高山彦九郎 は愕然とした。大きな衝撃を受けた。かれはへた へたと三条大橋の上に坐り込み、両手を付いてそ の灯火を伏し拝んだ。額を大橋の板に擦りつけた。 とめどなく涙が流れた。  かれを知る人の表現によれば。  「高山彦九郎という大は、大変大きな体をして いて、肩が聳え、鼻が高く、囗が大きく、唇が厚 かった。髪は総髪で額を剃らない。二つの眉も非 常に長い。赤ら顔で顎髭が美しい。声は大きい。 目は鋭い。だからちょっと見るとおそろしい感じ を受ける。ところが本人の気持はとても優しく親 切で、誰からも好かれた。皆懐いた。衣服も差し ている刀も質素だったが、人への対応はいたって 丁寧だった。が、その底に厳として侵すべからざ る威厳があった」  またかれと一緒に、松島へ旅行した学者がいた。 この学者がこんなことをいっている。  「私はある時高山彦九郎と松島見物に出掛けた。 ところが、高山は宿屋へ着く度に、その土地の名 のある人々、孝子や義僕、さらに賭博の親分まで 訪ね歩いた。その人物がどんなに遠くにいてもい とわない。あるいは雨が降っていようと風が吹い ていようとお構いなしだ。このために、旅程が一 向に捗らなかった。私はほとんど宿屋で高山彦九 郎が歩きまわっているのをただ待ち続けるのが多 かった。早く先へ進もうと促してもきこうとしな い。結局この時の旅は、往復数十日にわたってし まった。だから今度の旅の最大の見物は松島では なく高山彦九郎であった」  また、京都にいた時も有名な先生のところに 行って、  「弟子にしてください」  と頼んだが斷られた。京都の先生は、  「紹介者がいなければ門人にしません」  といった。高山彦九郎はそんなことではへこた れなかった。  「それでは、昼間お差支えのない時間に隅でご 講義をお聴かせください」  といって、昼間講義を聴くと、夜は京都の町家 の縁の下に入って寝た。それも、すぐみつかって 追い出されるので次々と縁の下を取り替えた。京 都で評判になった。  「東から来た妙な大男が、毎日縁の下で寝てい る。盗人ではないか」  結局市中を追い出されて、高山彦九郎は北山の 出茶屋の軒を借りることにした。出茶屋は、夜に なると店の人間が市中に帰ってしまって誰もいな かったからである。京都から約三里の距離があっ たが彦九邸は気にしなかったという。  こういう変った高山彦九郎が、なぜ突然米沢に 細井平洲を訪ねて来たのだろうか。誰かから平洲 の噂を聞いたのに違いない。同時に上杉鷹山の改 革が、あるいは高山彦九郎が志していることに結 びつくような色合があったのかも知れない。  人当りのいい細井平洲のことだから、高山彦九 郎が訪ねて来てもおそらく丁重に対応したことだ ろう。事実、高山彦九郎は、一目会ってすぐ、  「私を先生の門人にしてください」  と平洲の門に入門している。しかし目と耳が常 に日本全国に及ぶ高山彦九郎は米沢に定住するこ とはできなかった。江戸にも定住しなかった。か れは諸国を歩きまわり、やがて九州久留米に行く。 そして突然久留米の友人の家で自殺してしまう。 なぜかれが自ら命を斷ったのか、現在でもその理 由はよくわからない。  明和九年(一七七二)三月十日、細井平洲は米 沢を出発した。そして三月十七日に家に着いた。 家は無事だった。  翌日平洲はすぐ桜田と白金の上杉家の屋敷に 行った。そして、上杉鷹山の伝言を家老の須田満 主らに伝えた。伝言というのは、  「この度の火災を災いと考えず、福に転じて上 下心を合わせ、上杉家の興隆の好機と考えるよう に」  というものである。三月四日に米沢城に行って、 上杉鷹山に進言した内容そのものであった。とこ ろが須田満主は鼻の先にせせら笑いを浮べた。須 田はもともと細井平洲が好きではない。  「こんな財政難の時に、うちの養子藩主にいろ いろと悪い智恵をつけては、思いのままに操って いるとんでもない学者だ」  と思っている。鷹山の改革案が菁莪社グループ によってつくられたことも気にくわない。須田家 は上杉家の譜代の重臣だから、  「どんな些細なことでも、こと改革のような大 切な事柄は、全てわれわれ重役に相談されなけれ ばならない」  と思っている。ところが鷹山はそうしなかった。 菁莪社グループに属する問題児ばかりを集めて計 画案をつくった。そして須田からすれば、  「このとおり実行しろと、歴代の重役たちに押 し付けた」  と感じている。だから折があれば改革案をひっ くり返し、重役中心による元の藩政に戻したいと 思っていた。これは須田だけではない。そう思っ ている重役が何人もいた。だから細井平洲が、  「本国のお屋形様のご伝言です」  といっても素直に聞かない。また、いいかげん な智恵をつけて、それを江戸のわれわれにも押し 付けようとしていると受け止めた。細井平洲は須 田満主の敵意丸出しの態度に、自分に対する感情 がどんなものであるかを痛切に知った。須田の方 は須田の方で、  (このへぼ学者め、いずれ思い知らせてやる)  という憎しみの色を、目に炎として燃え立たせ ていた。  翌三月十九日、平洲は渋谷の西条藩邸に松平頼 淳を訪ねた。頼淳は喜んで、  「今日は何も仕事がない。ゆっくりしていただ きたい」  といって、平洲を引き止めた。結局平洲は、そ の夜は徹夜で頼淳と話し込んでしまった。  四月になると、大坂から中井竹山がやって来た。 そして嚶嗚館に平洲を訪問した。平洲の名は大坂 でも鳴り響いていた。  こういうように、江戸に戻ってからも平洲は片 時もゆっくりできなかった。毎日のように人を訪 ね、あるいは訪ねられていた。  が、平洲が米沢を去った後、上杉鷹山は最大の 危機にみまわれた。 第六章反乱の功罪     ―弊害を除くための「断」と       「情」I   武士の相次ぐ自己変革  鷹山の改革で最も重視したのが農業である。い まの言葉を使えば、鷹山の農業振興は、農産物に 付加価値を加えるということだろう。そのために は、いままでとは違った才覚を働かせ、あるいは 労働の内容そのものも変ってこなければならない。 いきなり農民たちにそれを求めても無理だ。  「こういう方法で、こうすれば、こうなる」  ということを示さなければならない。つまり、 して見せて・いって聞かせて・させてみるである。  そのために鷹山は、藩の武士たちに向って、  「農業に相応の志を持ち、自分ならこうやれる と思う者は、城の仕事を投げうって進んで鍬を 振ってもらいたい」  と呼びかけていた。応ずる者が次第に出はしめ た。鷹山は、そういう企てを聞くと、すぐ自分が 出掛けて行って「籍田の礼」を行なった。籍田の 礼というのは古代中国の周代の方式によって行な われる、田に対する礼の儀式だ。  明和(一七七二年十一月十六日に安永と改元)九 年(一七七二)三月二十六日、藩士の一部が城の 西にある遠山村に新しく田を拓きたいと願い出た。 鷹山は許可した。許可した鷹山は。  「開拓開始の日は、私か籍田の礼を行なう」  と告げた。当日、朝早く起きて、精進潔斎した 鷹山は、春日・白子の両社に詣で神酒をいただい て遠山村に行った。そして、自ら鍬を握って土に 打ち込んだ。家老の竹俣当綱や郡奉行たちがそれ ぞれ決められた数だけ鍬を振った。その後鷹山は 関係者一同に神酒を自ら酌をして振舞った。驚い た藩士たちはペタペタと土の上に坐り込んでし まった。特に、足軽階級でいままでろくに鷹山の 顔を見たり話したりすることもできなかった連中 は、涙を流した。そして、  (必ずこの田を見事に耕し、実った初穂をお屋 形様にさしあげよう)  と固く心に誓った。  この誓いは守られる。この田で取れた初穂は、 小姓の佐藤文四郎が当時参勤交代で江戸にいた鷹 山のところに届けに行く。鷹山は初穂を、  「これが武士たちがつくった米か」  といって推し戴いた。  安永二年(一七七三)五月十四日にち、城の西 小野川村で、一部の武士たちが田を拓いた。鷹山 はここにも臨み、籍田の礼を行なった。そして、 一人ひとりに酒をついでまわった。これが慣例に なって、次々と新しい田が拓かれた。  これが重役陣たちには気に入らなかった。渋い 表情で、特に批判的な七人の重役が城内に集った。  「お屋形様にも困ったものだ。武士を農民にな さっている」  「ご自身が、日向高鍋などという遠国の小さな 家に生まれたから、土に親しむのはお得意なのだ。 しかしだからといって、家門の高い上杉家の侍を 皆農民にされてはかなわない」  「そろそろお諌め申しあげなければだめなよう だな」  重役たちはそう話し合った。  籍田の礼を行なった直後、鷹山は江戸に出た。 焼けた桜田、麻布の両邸を、藩士たちが自分たち の手で修復したからである。藩士たちは、米沢の 山の中に入って山の木を切り出した。  「修復を職人の手に任せてはならない。われわ れが自分たちの手で修復工事を行なえば、それだ け藩の財政が助かる」  山に知識のある武士が先頭に立って、多くの同 志を募り鋸やまさかりを振って木を切り倒した。 これを江戸に運んで、修復工事もはじめた。江戸 の藩邸はあっという間に再建された。これを聞い た鷹山は目を輝かせた。  「藩士がそこまで手伝ってくれているのか」  では江戸に行ってその藩士たちに礼をいおうと いうことで急遽江戸に向ったのである。  江戸家老の須田満主は、そういう武士たちに 向って、  「餅は餅屋だ。武士が大工の真似をするな」  と渋い顔で叱ったが武士たちはいうことをきか なかった。餅は餅屋というが、武士の中にも大工 仕事が好きで、趣味を越えて本職はだしの技術を 持っている者も沢山いた。かれらは自分たちが持 ち続けてきた技術が、こういう時に役立つことを 喜んだ。皆も目を見張った。  「おまえにはそんな特技があったのか。見直し たよ」  作業の場でそういう声が飛び交った。再建作業 は活気づき、終日笑い声が絶えなかった。江戸に 出てきた鷹山は、そういう藩士たちに丁重に礼を いった。一夜、酒を振舞って大いに歓談した。  「須田も付合え」  そういわれた須田満主は、終始一貫して渋面の ままだった。腹の中で。  「お屋形様は、米沢本国で武士藩士を農民に仕 立て直しただけでなく、今度は大工にまで仕立て 直している」  そんな思いを噛みしめていた。夏になると落ち 着いた新しい藩邸に、鷹山は細井平洲を呼んだ。 平洲は「萄子」を講じた。そして、鷹山の請いに よって、これからは毎月四の囗、九の囗の月六回、 復興なった江戸藩邸で鷹山が在府する限りお伺い すると約束した。年が改まると一月二十四日、長 州から滝鶴台が死んだという報が入っだ。滝鶴台 は、妻の善事悪事の赤糸・白糸の毬で知られた学 者だ。平洲とは親友だった。と同時に、滝鶴台も 上杉鷹山の賓師に選ばれていた。亡くなった時鶴 台は六十五歳たった。平洲は鶴台のために遺稿を まとめ『鶴台先生遺稿』として十巻に整理した。   重役たちの反乱  四月二十二日、上杉鷹山は江戸を発って米沢に 戻った。二十九日に米沢に着いた。松川に架かっ た福田橋を渡った。橋は新しく架けかえられたば かりだった。というのは、この年は雪が多く、雪 が溶けると奔流となって橋を押し流した。そこで 藩士の一部が。  「われわれの手で橋を架けかえよう」  といい、多くの同志が山に入って木を切り出し、 そういう技術を持つ藩士の指導によって、ちょう ど架けかえられたばかりだった。鷹山は、供から このことを聞いた。するとかれは、橋の袂で馬を 降りた。徒歩で橋を渡りはじめた。供がビックリ した。  「お屋形様、どうか馬でお渡りください。それ がしきたりでございます」  といった。鷹山は首を振った。  「武士の手によってつくられた橋を、馬足で渡 ることはできない」  供たちは顔を見合わせた。しかし胸の中では感 動していた。  この時、江戸から家老の須田満主も一緒に米沢 に戻って来た。ところが須田は、乗馬したまま橋 を渡った。かれは。  「江戸から米沢城に入る時、大沢の宿場から乗 馬して城内に入るのは上杉家のしきたりである。 徒歩で橋を渡ることはできない」  としきたり遵守の固い態度をとっだ。朧山は別 に何もいわなかった。自分が橋をつくってくれた 武士たちへの感謝と誠意の気持を示せば、須田は 須田で自分の考えどおりに行動すればよかろうと 考えていた。自分がそうだからといって鷹山は決 して他人に自分のやることを押し付けはしなかっ た。  (本人が納得しなければ、いくら他人が押し付 けても無駄だ。本人の身につかなければ、何の意 味もない)  と考えていたからである。しかしこの福田橋の 渡橋事件は、大きな問題を引き起した。鷹山の方 はそれほど気にしていなかったが、須田満主の方 がそのままにしなかったからである。二か月後の 六月二十六日、突然、七人の重役が登城し、城内 の一室に鷹山を引きずり込んだ。入口に何人かの 重役が坐り込み、鷹山を逃さないようにした。代 表が鷹山に長文の文章を突きつけた。  「これをお読みになった上、即刻ご態度をお決 めいただきたい」  「何のことか?」  「まずお読みください」  鷹山は静かに面々の顔を見た。奉行職の千坂高 敦と色部照長、江戸家老の須田満主、侍頭の長尾 景明、清野祐秀、芋川延親、平林正在の七人だっ た。いずれもいままで鷹山の改革に批判的であり、 真向から反対してきた面々だ。  「強訴か」  静かに応じた鷹山は文書に目を通しはしめた。 現代風に訳すと、  「あなたはご相続以来、今日に至るまで、国の 政治が全てよろしいとお思いになっているようだ がとんでもないことでございます。すでに、士農 工商四民の気持はあなたに背を向けております。 しかしあなたはご自分のなさっていることに夢中 になっているので、そのことがおわかりにならな い。われわれは真に米沢藩上杉家のことを心配し、 何度かご意見申しあげようと思ってまいりました が、あなたは佞者にまどわされて、一向にお耳を 傾けようとは致しません。現在の米沢城では、真 の忠義の者が不忠の者とされ、不忠の者が忠義の 者とされて、いよいよ佞者が奸謀を逞しくしてい ます」  以下、七人の重役たちが相談して、リストアツ プした鷹山の非が書き連ねてあった。文意を今風 に整理すると次のようになる。  一当家は、年久しくご正系が相続して来た。と ころがあなたは、ご正系ではなく他家から養子に 入られた。したがって上下のちなみも非常に薄い。 そうであればわけても国の政治を大切におぼし召 され、四民安堵を願うことが、ご先祖様はもちろ ん国に対する責務だと思う。  一そもそもこういう間違った政治が行なわれる ようになったのは、まず竹俣当綱が原因だ。かれ は子供の時から非常に性格が悪く、当家の中でも 嫌われ者たった。それがご先代のご指導よろしき を得て、だんだん重い役につくようになり、真人 間になったかと思ったが、決してそうではなかっ た。あなたがご相続後は、生来得意たった学問を 悪用して、あなたと結びついた。そして、自分の 思うとおりに藩の政治を行なっている。  一莅戸善政も侫人のひとりだ。かれは最初から 竹俣に取り大って機嫌をとり、右腕となっている が、かれは一体に締まらぬ人柄の人間だ。  ・小姓の佐藤文四郎は、性格はいいのだが、佞 人たちに騙されて自分を出し切っていない。竹俣 や莅戸のいいなりになって、あなたの悪政を助け ている。  そして、細井平洲にも次のようなことを書いて いた。  「細井甚三郎は油断のできない人物と思ってお ります。が、江戸でかれの講義を聴いている分に は、国家に対する害もそれはどないと思っており ました。ところがあなたは米沢本国にまで連れて 来て米沢四民の風俗をガタガタに変えております。 おそらく、これも竹俣の策謀によるものとは思い ますが、甚三郎の教えるところによって米沢の風 儀や上杉家の伝統をメチヤメチヤに壊しておりま す。かれが来てから、米沢国内ではトラブルばか り起っております」  読み進むうちに鷹山は情けなくなった。  (かりにも上杉十五万石の重役ともあろうもの が、こんな程度の認識しかないのか)  と悲しくなった。書き連ねられたことは全て 。公の情”に基くものではない。全て。私の情” に基くものだ。上杉鷹山とその周辺に対する憎悪、 嫉妬が渦巻いている。それを露骨に叩きつけただ けだ。鷹山たちの改革がいけないのならば、  「われわれはこう考えているのだから、こうし ていただきたい」  という建設的な意見を出せばいい。それが全く ない。ただ鬱憤晴らしのために書き連ねられた文 章でしかなかった。  しかし文書はまだ続く。  ・政治の本体は賞罰の二つだ。ところが近頃は 賞罰基準がメチヤメチヤだ。  一いままであなたがいいと思ってきたことは全 部悪いことだ。そして逆に悪いと思ってきたこと がいいことだ。  一ご家督以来すでに数年経つのに、藩の状態は 一向によくならない。変っだのは、上杉家が連年 守ってきた伝統を片っ端からぶち壊していること だけだ。  ・米沢の四民はあなたを信用していない。なぜ なら、あなたは見せかけの恰好ばかりつけている からだ。  一近年来、新田開発の場に立ち会われて、籍田 の礼などという古い儀式を行なっているが、あん なことは児戯に等しい。  一ご自身の食事をつましくし、木綿の衣類を召 されているが、これも見せかけだけだ。こんなこ とは国の大事とは全く関わりがない。  ・先日の福田橋を下馬してお渡りになったのは、 世問でいう子供騙しのたぐいた。皆あんなことは みえすいたことだと笑っている。  一近頃は、城の近くまで山から狼が降りて来て うろついている。これもあなたの政治が悪いから だ。  ここまでいいたいことを書き連ねた重役陣は、  「そこで今後は次のようにしていただきたい」  といってかれらの条件を列記した。  一今後は、ご勝手なお考えを捨てて、いままで の越後風にお戻りになり、おとなしくされること。  一実直で厳正な者をご登用になること。  一いままでおやりになったことを全て中止し、 誠の実をお示しになること。  一お口先の理屈をお捨てになって、行ないを厚 くなさること。  一いままでの賞罰が間違っていたことを、心か ら反省なさること。  一いまあなたの周囲にいる連中は、本心からの 忠義ではなく、おべんちゃらや佞奸の毒だとご認 識になること。  一竹俣、莅戸をお退けになること。われわれの ように、長年上杉家のために尽してきた者をご登 用になること。  そして、  「万一、私たちが申しあげていることが筋のな いことだとお思いになるのならば、よんどころな いので、われわれは一人としていまのお役を務め ることはできません。すぐ、解任していただきた いこと。どちらをおとりになるか、お決めいただ きたい」  匸言でいえば、依然として竹俣・莅戸ラインを 使っていくのか、それとも自分たちにもう一度藩 政を任せるのか、どっちかを選べ、ということで ある。  沈痛な面持ちで文章を読み終った鷹山はいった。  「非常に重大なことが書かれている。私の一存 では答えようがない。大殿様のご意見を伺って来 たい」  すると、須田が立ち塞がり、  「いや、あなたはご当代様だ。ご一存でお決め ください。大殿様のご意見など必要ない」  と言いつのった。芋川延親が鷹山の桍の裾を押 えた。この時、隣の部屋から佐藤文四郎が飛び込 んできた。そしていきなり芋川の手を打った。芋 川は驚いて手を放し、佐藤を睨みつけた。  「貴様、重役に対して何をするか?」  しかし佐藤は芋川を睨み返し、ガラリと戸を開 けた。そして、  「お屋形様、早く」  と鷹山を促した。鷹山は佐藤の案内ですぐ先代 の重定のところに行った。文章を見せ、  「ご下知をいただきとうございます」  と頭を下げた。重定は読みはじめるとすぐ体を ブルブル震わせた。読み終ると真赤になって怒っ た。  「とんでもない奴らだ」  七人の重役にすればたかをくくっていた。それ は先代の重定は必ず自分たちの味方になると思っ ていたのだ。だから鷹山が重定のところに去って 行った後も、  「大殿様は、必ずわれわれの味方をしてくださ る」  と話し合っていた。そこへ、足音も荒く廊下を 鳴らして重定かやって来た。入口でいきなり、怒 鳴った。  「この不忠者! 若年の主君に何たる不法を働 くか! 早々に退れ」  七人の重役はビックリした。思わず重定の顔を 見返した。が、重定の目は怒りに黒ずんでいて憎 悪の色がありありと浮いている。微塵も七人の重 役に対する同情の色はない。七人は思わず顔を見 合わせた。この囗の七人のやり囗は周到たった。 鷹山側近の莅戸善政、木村高広、志賀祐親、倉畸 清恭、浅間忠房などの忠臣に全部登城を停止して いた。佐藤文四郎だけは、根が好人物なのでとい うことで安心して登城を認めたのである。  味方と思った先代重定の意外な怒りに触れ七人 は色を失って城を退っていった。鷹山は呆然とし ていた。心が重かった。やがて何か起るとは思っ ていたが、こういう形で重役が七人も揃ってクー デターを起すとは思わなかったからだ。胸の中で カラカラと何かが崩れていった。いままで積み重 ねてきた改革の石の群が、宙に吹っ飛んだ。  その夜鷹山は一睡もできなかった。そしてこの 時思い出しだのが江戸で教えられた細井平洲の一 言であった。すなわち『嚶嗚館遺草』の中に書か れていた一文である。  「人間も薬と毒と同じで、どんなによく効く薬 が十あっても、その中にIないし三の毒が混れば、 結局は毒の薬の方が強くなる。いい薬の効力はな くなる。毒に対しては、断の一字を以て対するべ きた」  そしてもう一つ。鷹山がはじめて米沢に入国す る直前、細井平洲はこういった。  「あなたがこの度本国に赴くのは、まさに薄氷 を踏むようなものです。単身でほとんどの人間が 知らない米沢に行くのですから。しかしこういう 時に心に据えるべきは、勇以外ありません。勇な るかな、勇なるかな、勇にあらずんば何を以て行 なわんや。君、その時なるかな」  匸言でいえば、  「いまは勇気以外何もありません。勇気をお持 ちください」  と励ましたのだ。鷹山は改めてあの時の細井平 洲の言葉と表情を思い出した。そして胸の中で呟 いた。  「まさに、いまが私の渾身の勇気を奮う時なの だ」  未明、鷹山は心を固めた。  「七人をそのままにしておくわけにはいかない」   反対派への断と情  しかし、鷹山はいきなり報復的に七人を罰しな かった。罰するにしても手続きが必要だと思った。 長文の弾劾兼要求の文書を鷹山に突きつけた時、 七人は、  「これはわれわれ七人だけの意見ではありませ ん。藩士全体の意見です」  といった。  しかし、鷹山にはそうは思えない。  「絶対に藩士全員の意見であるはずがない。そ の証拠に、まずご先代様が七人に対してお怒りを 感じ、城から退がれとおおせになった。というこ とは、はっきり養子の私を支持しているというこ とだ。また、竹俣はじめ菁莪社グループも私を支 持している。したがってこの連中も省かれる。藩 内にはまだまだ菁莪社グループに共鳴し、私のや ることを支持してくれる武士がたくさんいるはず だ。これを確かめよう」  そう心を固めた鷹山は、前夜一睡もしなかった にも拘らず、翌日、養父の先代藩主重定のところ に行った。  「ご先代様のご近習をI人拝借しとうございま す」  「何のためか?」  「千坂高敦はじめ私に強訴いたしました七人の 重役のところに、城への出仕を促すためでござい ます」  「わかった」  重定は若い養子藩主の行き届いた心掛けに感心 した。鷹山は、手続きを踏むつもりだ。まず、強 訴した七人の重役に城への出仕を促す。出て来な かった時は、かれらが文書に書いたとおり、  「あなたの処置が不満なので、仕事をしません」  という意思表示を実行したものとみなす。  重定は下条という近習を貸してくれた。鷹山は 下条に自分の意とするところをよく話して、  「七人の重役に、急ぎ城に出るように伝えてほ しい」  と命じた。ところが、七人は申し合わせたよう で城には出て来なかった。全員、  「病気のため、お城に上がれません」  と答えた。ところが芋川延親などは、病気だと いいながら城の大手門の前で、しきりに馬を乗り まわした。鷹山に対する嫌がらせであリデモンス トレーションだ。  「俺はこのとおリピンピンしているぞ」  ということを誇示する姿勢だった。それだけで はない。  「藩士の中で、俺たちに同調する者は集まれ」  という呼びかけでもあった。しかし、芋川の呼 びかけに応ずる藩士はI人もいなかった。  その翌日、鷹山は、先代上杉重定にも出座して もらったうえで、大目付、監察、年寄、使い番な ど、いわばクールな厳しい目で藩政を眺め、同時 に藩士の行動について是非を判断するポストにあ る連中を集めた。そして七人から出された文書を 読みあげ。  「七人は、これを藩内の総意だといった。そう か?」  と確めた。皆顔を見合せたが、やがて声があっ て。  「さような声は聞いたことがございません。お 屋形様の御国政がよろしからず、人心が心服して いないということは、噂にも聞きません。竹俣宿 老のやり方に対しても、別段異議はございません。 もし、いまお話しのようなことがございますれば、 当然早くからわれわれの耳に入っているはずでご ざいます。事実は全くございません」  鷹山は安心した。そこで次に侍組の頭クラスを 全部集め、同じことを聞いた。しかし侍頭たちも 一様に首を振って、  「さような事実はございません。われわれは今 日の御政道の正しさを信じ、心からご支持申しあ げております」  と応じた。鷹山は安心した。同時に怒りが噴き あかって来た。  (七人は、これが藩全体の総意だといいながら、 結局は嘘をついた。藩士の気持を偽って、私に伝 えた)  許せないと思った。そこで鷹山は第三弾の手を 打った。  安永二年(一七七三)六月二十九日朝、米沢城 から突然太鼓が鳴った。藩士総登城を命ずる合図 である。鷹山は城の幹部クラスには意見を聞いた が、さらに藩士全員の意見を聞こうと考え、総登 城を命じたのである。しかし、集まった全員から も別段鷹山のいまのやり方や、竹俣当綱、莅戸善 政、佐藤文四郎、あるいは細井平洲についての異 議異論は全く出なかった。鷹山は声を励ました。  「私は当家の家督を相続し、衰えた家を再興す るために竹俣当綱らを登用して、国政を委ねた。 これは正しいことだったのだろうか。それとも大 きな誤りであったのだろうか。いま、国家存亡の 場合である。一人ひとり、身分を問わず思うとこ ろを述べよ」  凛として告げる鷹山の体から、大広間を圧倒す るようなすさまじいパワーがほとばしった。末座 から声をあげた武士がいた。  「柏木伊賀と申します。所存を申し述べます。 他の者の心は存じませんが、私ごとき末輩が恐れ 多いことではございますが、連年の御政治向き、 いちいちごもっともにございます。まことに一点 の非の打ちどころもございません」  これがきっかけになって、あちこちから堰を 切ったように声があがった。皆、  「柏木伊賀の申すとおりでございます。何卒い ままでどおりの御政道をご続行願いとう存じます。 われわれはお屋形様に身命を捧げて、ご改革に従 います」  皆、そういった。不覚にも鷹山の瞼は熱くなっ た。鷹山は感動した。というのは、米沢城に入っ てはじめて城に勤める藩士だちと、心が固く結び ついたと思われたからである。いままで米沢城と いう山の上に単身降下したかれには、わずか菁莪 社グループぐらいの支持者しかいない気がしてい た。ところが、いまはそうではない。大広間に集 まった藩士の大半が、鷹山を見詰め一斉に目を輝 かせていた。鷹山は大きく頷いた。  「よくわかった。おまえたちの支持を得て、私 も自信を持って改革が実行できる。礼をいう。一 層励んでもらいたい」  「はっ」  藩士たちは揃って平伏した。  ここまで手を打てば、もはや遺漏はない。踏む べき手続きは全部踏んだ。  そこで七月一日、上杉鷹山は強訴した七人の重 臣に判決を下した。  隠居閉門、知行半分召しあげ 千坂高敦、色部 照長  切腹 須田満主、芋川延親  隠居閉門 知行のうち三百石召しあげ 長尾景 明、清野祐秀、平林正在  若い藩主鷹山が強訴した七人を厳しく罰したた め、城内には動揺が起った。しかし全体に、  「お屋形様は本気でご改革をお進めになる」  という、鷹山の改革への意気込みのすさまじさ は、隅々まで伝わった。いままで日和ったり、  「お手並拝見」  などという傍観者的な態度をとっていた藩士だ ちも心を入れ替えた。  「本気で仕事をしないと、俺たちも罰せられる ぞ」  という気分になったのだ。菁莪社グループを核 とした推進派は、手を取りあって喜んだ。  「いよいよわれわれの輪が拡がり、結びつきが 固くなる」  と思ったからである。  江戸でこのことを事細く聞いた細井平洲は、竹 俣当綱に手紙を書いた。七月二十三日のことであ る。  「この度のこと、いろいろと伺いました。しか し、お屋形様のなされようは、武運いまだ地に落 ちず、いよいよ聖人の道が行なわれたことと感じ 入ります。邪はついに正に勝たず、天道が善に味 方したということで、早速城内がお静かになった とのこと、何よりと存じます。あなたもいろいろ 大変でしょうが、お屋形様をお補けの上、お励み ください」  というような文意だった。  そして平洲は、  「邪に対する罰は罰として、その家族には罪は ありません。折を見て、遺族には応分の扱いをす べきでしょう」  と助言した。これは二年後に鷹山によって守ら れた。鷹山は、切腹させた須田満主と芋川延親の 息子たちを呼び出して、  「旧怨を忘れて、私に仕えるように」  と命じた。そして預っていた両家の家宝も返し た。両家の息子たちは手をついて、  「父の非は非として、私共はお屋形様に忠誠の 限りをお尽し致します」  と誓った。これもまた、他の大名家にはない例 として、上杉鷹山の名を高めた。細井平洲の助言 がきいたのである。  その年九月二十七日、米沢藩の医者だった藁科 立沢が斬首の刑に処された。調べて見ると、鷹山 に出した強訴状の文章は、この立沢が書いたこと がわかったからだ。鷹山は文書を手にした時、  (七人の筆にしては、少し文章がうますぎる)  と感じた。そこで内々町奉行を通じて調査をさ せたところ、藁科立沢の手になることがわかった。 七人の重役の強訴の黒幕として、七人をそそのか した罪を問われ、立沢は首を斬られた。  このことを聞いた細井平洲は、藁科松伯の息子 松玄に手紙を書いた。  「あなたとご同姓の医者が、邪悪のために斬首 されたそうだが、これもまた天が悪を懲めたこと として、当然だと思います。が、姓が同じために あなたもさぞかしいろいろとご心労が多かったこ とでしよう」  と細い心配りをしている。事実、同じ姓であっ たために藁科松玄はいろいろと迷惑を被った。一 時は、  「同姓の者がかような失態を致しましたことは 誠に面目なく、しばらく仕事を控えさせていただ きたいと存じます」  と願い出た。鷹山は笑って、  「たとえ同姓であってもおまえには何等関係な い。いままでどおり務めよ」  と逆に励ました。  七人の重役に対する処断は、上杉鷹山のリスト ラクチャリングにおけるひとつの考え方を示して いる。鷹山は、リストラクチャリングの真義に立 ち、  「反対者あるいは対立者に対しても、根気強く 説得を続け、やがては理解者、協力者にしてい く」  ということを目標にした。しかし、いくら説得 しても理解せず、逆に改革の理念を歪め、あげつ らうような悪意を持って対する場合には、これを 断固として叩き潰すという気構えを見せたのであ る。  これはあるいは現代でも必要かも知れない。つ まり、リストラクチャリングにも、  「許容の限界」  がある。それは、トップの決断権を発揮しなけ ればいけない場面があるということだ。それに遭 遇した鷹山は、決断権を行使した。  これが、俗にいう。雨降って地固まる”という 結果を生んだ。米沢藩内では、いまほとんどの者 が鷹山の改革理念に賛同し、自分なりに、潜んで いた能力を開発して着々と改革作業を続けていっ た。そしてその一部に、細井平洲を再び米沢へ招 く企てが進行していた。即ち、前に決めた「興譲 館」という藩校の設立である。 第七章藩校「興譲館」設立     ―「人づくり」のための教育       の在り方―   山里で女子供にも講義する  上杉鷹山の改革案の大きな柱のひとつに、「人 づくり」があったことは前に書いた。細井平洲は、  「そのためには学校をつくることが大切です」  といって「建学大意」というのを『嚶鳴館遺 草』の中に書いた。即ち、  「現在の世の中では、譲るという徳が人心から 欠けております。これを興すことが何よりも大切 です」 といって、「譲るという徳を興す」という意味 で興譲館という学校名を考えたのだ。   謳   毆’‘]………S‘『’‐匹豌。 。  y  学校の開設は神保綱忠を中心に着々と行なわれ ていた。江戸でも平洲は上杉家と縁を切ったわけ ではない。桜田藩邸に行ってば、決められた囗に 『論語』、『孟子』、『大学』、『萄子』などの講義を 行なっていた。  安永五年(一七七六)の正月になると、神保綱 忠が細井平洲のところにやって来た。  「先生の建学大意に基いた興譲館がまもなく出 来上がります。ついては、学館開設の際、是非と も先生に米沢に來ていただき、ご講義をお願いし たいと主人からのお言葉でございます」  平洲は承知した。もともと自分がいい出したこ となのだから、今度は他の大名たちへの手前も あって伺えないとはいえない。それともう一つ、 西条藩主だった松平頼淳が、名を治貞と改めて前 年の安永四年に本藩紀伊徳川家を相続していた。 そんなこともあって、この時の平洲は割合気軽に 米沢へ赴くことができたのだ。  米沢では竹俣当綱の提唱によって、漆・桑・こ うぞの百万本植え立て計画がつくられ、これは農 家だけでなく、藩士の家の庭にも、各身分に応じ て百本だとか五十本だとか三十本だとか植樹を割 り当てられていた。画期的なことである。  神保綱忠の要請に対し、平洲は、  「学館開設の後、折を見て必ず米沢をお訪ねし ます」  と答えた。綱忠は、  「学校名、並びに学校運営について先生のご意 見を伺えとの主人の言葉です」  といって、二番目の要望を述べた。平洲は丁寧 に、  「こうなさればよろしかろう」  と自分の考えを述べた。  四月十九日、学館の新築が完了した。平洲の命 名によって正式に「興譲館」と名付けられた。四 月二十六日には上杉鷹山が世子(相続人)を伴 なって、興譲館で釈典を行なった。  六月十三日に鷹山は江戸に出てきた。そして、 国許の重役たちに対し、  「早く細井先生を米沢にお招きする用意を整え よ」  と命じた。八月十八日に、いよいよ米沢へ赴く ことになった細井平洲のために、鷹山は桜田の上 杉藩邸で盛大な送別の宴を開いた。快い気持に なった平洲は、七言の詩を詠んだ。九月三日、平 洲は江戸を出発した。そして同十三日に米沢に着 いた。奉行吉江某の家を宿舎とした。  九月十八日に、平洲は宿舎の吉江宅で「萄子」 を講義した。侍頭以下要職者たちが礼服で聴講し た。翌十九日は、はじめて興譲館で書経を講じた。 受講した武士は四百人に達した。  神保綱忠の請いによって、平洲は興譲館学則を 書いた。次のようなものである。   先生教を施し、弟子これ則ふ、温恭自ら虚う   し、受くる所これ極め、   善を見ては之に従ひ、義を聞いては則ち復し、   温柔孝悌にして、驕りて力を恃むことなく、   志虚邪なく、行必ず正直、   游居常あり、必ず有徳に就き、   顔色整斉、中心必ず式しみ、   夙に起き夜に寝ね、衣帯必ず飾へ、朝に益し   暮に習ひ、小心翼々   此を一にして解らず、是を学則と謂ふ。    安永丙申(五年)九月  紀 徳民 敬書  この学則は、現在も興譲館高校で大切に保存さ れているという。  平洲は神保綱忠にいった。  「私の講義は、武士だけでなく町人や農民にも 聞かせたい。また、女、子供にも聞かせたい」  神保はこのことをかねがね鷹山から聞いていた から、  「是非、お願い致します」  と応じた。が、心の中で、  (農民、町人はともかく、女、子供まで呼んで、 果してそういう連中に先生の講義がわかるのだろ うか?)  と疑問に思った。ところが興譲館で平洲の講義 を脇で聴いていた神保綱忠は、思わずアツと胸の 中で声をあげた。平洲の講義は、全く易しくてわ かりやすかった。だからといってつまらないこと を話しているわけではない。話の底には、聖賢の 教えがキチンと据えられていた。平洲の話し方は 平明だけではない。感情も入る。面白おかしい。 聴いている方は、その度に笑ったり、涙を流した りした。ところが話し終った後、聴衆は一様に ズーンと重い感動を胸に受けていた。聴いている 間はわれを忘れていたが、聴き終ってみると、  「ああ、細井先生はこういうことをおっしゃり たかったのだ」  ということがはっきり伝わった。この辺は細井 平洲の講義の妙味だ。つまり、話というのは、  「何を話すか」  という内容と、  「どのように話すか」  という表現との二つで成り立つ。もちろん内容 がくだらなければ、どんなうまい話し方をしても 意味はない。が、だからといって、  「どんな話し方をしようと、内容さえよければ 必ず相手に伝わる」  と思うのは錯覚だ。傲慢でもある。細井平洲は この辺のことを心得ていた。平洲は、  「どんなにすぐれた内容でも、聴き手の水準に 合わせて表現方法を考えなければ正確にこっちの いいたいことが伝わらない」  と考えていた。この辺は、平洲が若い頃から江 戸の両国橋のほとりに立って、いわゆる。辻講 釈”を行なっていた経験が役に立った。かれが街 頭に出だのは。  「字も満足に読めないような人々がわかるよう な表現方法で話を伝えなければ、決して実学とは いえない」  つまり平洲にすれば、自分の学問がいま生きて いる人々に役立だなければならない、という実学 的態度をとる以上、現実に生きている人々を選り 好みはできない。一定の教養がある人だけを相手 にして話すのはたやすい。いままで、学問とはほ とんど縁のなかった人々にも。  「ああ、学問というのはこんなにも面白いもの だったのか」  という興味を持たせることからはじめなければ ならない。江戸の街頭講釈で十分経験を積んだ平 洲は、米沢に来てもその経験を生かした。だから、 米沢の純朴な人々は飛びついた。早くいえば、江 戸の人間はある意味で擦れっからしだ。毎日数十 万の人の問で揉まれて生きているから、感覚が鋭 いかわりに、容易なことでは勧善懲悪の情も素直 に受け止めない。どこかに人間不信の念を持って いる。米沢の人々にはそれが全くなかった。平洲 のいうことは、まるで砂地が水を吸い込むように スイスイと受け止められた。これは平洲にとって 喜びだった。  「日本には、まだまだこういう純粋な人々がい る」  それが大きな励みになった。だから、平洲は 「何を」という内容を、「どのように」いかにわか り易く伝えるか、という「表現」の面でも、多大 な苦労をしていたのである。米沢ではその苦労が 実った。  興譲館にどっと押し寄せた町人や農民たちの姿 を見て、平洲は考えた。  (米沢の興譲館本校だけで講義を行なっていれ ばいいというものではない。こういう機会は滅多 にない。私もそうしばしば米沢に来られるわけで はない。ひとつ、城から遠い里にも行って同じ話 をしよう)  そこで、神保綱忠や竹俣当綱にこの話をした。 二人とも喜んだ。  「お屋形様も、先生がそこまでなさってくださ るお志を、感動してお喜びになることでございま しよう」  「ただ、先生もお年でございますから、十分ご 自愛ください」  といった。平洲は、  「何をおっしやいますか、私はまだ五十歳です よ」  と笑った。  安永六年(一七七七)になると、平洲は精力的 に領内の里を歩いた。小松村というところに行っ て話をした時のことを、平洲は友人の伊藤玄沢へ の手紙でこんな風に書いている。  「二月七日、八日、九日の三日問、小松村の本 陣大竹という者の家で、昼と夜数百人の農民たち に話をしました。いずれも落涙に咽び、老人たち はひとしお名残りを惜しんでくれました。これか ら米沢に戻るというと、折しも降り出した雪の中 に、村民七、八百人が地の上に座って、ただ声を あげて泣きました……」  平洲の話がどれほど農民の心を打つたかを如実 に物語っている。この時平洲は、最初集ったのが 男ばかりだったのでこう告げた。  「男ばかり聴いてもだめだ。女房、嫁、娘、姑 さんも呼んできなさい」  このことを女性たちが待ち構えていたらしい。  「細井平洲先生なら、われわれ女にもお声を掛 けてくださるかも知れない」  という期待があったのだ。そういう話が平洲が 来る前からひそひそと女性たちの間で語られてい た。そこで平洲がこういったものだから、各家か らどっと女性たちが走り出てきた。むしろ男より 多いくらいの人数が押し掛けた。  平洲の名前がすでに知れ渡っていたので、男も 女も皆頭を下げて話を聴いていた。気付いた平洲 がいった。  「そのように頭を下げていたのでは話が聴きづ らいだろう。頭をあげてください」  このざっくばらんな打ち解けた態度が、村民だ ちによけい平洲への敬愛の念を増させた。  具体的にいくつかの収穫もあった。  小松村に伝五郎、大助という兄弟がいた。兄弟 とも学問が大好きで、暇を見ては二人で本を読み、 討論を続けていた。それだけでなく近所の人々に も呼びかけて、読書会をつくっていた。  ことに兄伝五郎は、江戸にいたことがあって、 両国橋のほとりの平洲の街頭講釈を聴いていた。 その時、  (こんなすばらしい先生が、故郷の米沢におい でくださったらどれほど地域の人々も学問好きに なることだろう)  と思っていた。  ところが本当に平洲が米沢にやって来た。上杉 鷹山が招いたからである。この時伝五郎はすぐ米 沢に行って、弟子入りを希望した。平洲は許した。 藩の武士たちが妙な顔をした。  「先生は、これから藩がつくる学校のために、 こちらにおいでいただいたはずです。それをいき なり農民の弟子をお取りになるとは何事です か?」  この時平洲は静かにその武士を見返して答えた。  「学問に身分はありません。熱心な者は誰を弟 子にしても構わないはずです。この伝五郎君は、 江戸時代から私の話を聴いてくれた学友です」  藩の武士は黙った。恥ずかしさで顔を赤くした。 伝五郎は感動した。特に自分のことを「学友」と 呼んでくれた平洲の温かく広い心に涙ぐんだ。   平洲の教えの成果  上杉鷹山が、平洲に松島見学を勧めたことがあ る。この時平洲は、旧友だった藁科松伯の息子松 玄と共に、この伝五郎を特に供に選んでいる。  平洲の教えは、伝五郎の日常生活にも染み込ん でいった。二人は農業の他に、村で困っている人 たちに資金の融通をしていた。ところが、担保を とらなかった。しかも、相手が欲しいというだけ の金を貸してやった。また決して催促もしなかっ た。  恩に感じた借主が返金を持って来た時には、わ ずかな利子をもらった。また、  (この農民は、無理して金を返しに来た。本当 はまだそんな余裕はないのだ)  と思う時は、返しに来た金をそのまま、  「持ってお帰りなさい」  と押し付けた。これは弟の大助の場合も同じ だった。大助の方は多少ユーモア精神を持ってい たので、借り手が恐縮してまごまごしていると、 こんなことをいった。  「それじゃ、もし私の家が火事で焼けるような ことがあったら手伝いに来てくださいよ」  相手は、  「このお宅が火で焼けることなどあるものです か」  と冗談を言い返して去って行く。ところが、実 際に小松村で火事が起った。弟の大助の家も類焼 で焼けてしまった。  「大変だ、大助さんの家が焼けている!」  普段から世話になっている農民たちが一斉に駆 けつけてきた。そして、家は焼けたが家財道具は 全部外へ運び出した。  このことを聞いた兄の伝五郎(別なところに住 んでいた)は、火災見舞金として五十両の金を 持ってきた。大助は、  「こんなに沢山のお見舞をいただかなくても、 家一軒ぐらいは私一人の力で建てられますよ。心 配しないでください」  そういったが兄は首を振った。  「もし、立場が逆ならどうする? 私の家が焼 けてもおまえはきっと多額の見舞の金を持って来 てくれただろう。兄弟というのはそういうものだ。 黙って受け取れ」  大助は、そこまでいうのならと受け取った。そ して家を建てた。  たまたま、細井平洲が小松村に講義に来て、 前々から知っている大助の家の前を通った。平洲 は首をかしげた。大助に聞いた。  「新しい家は、前よりも小さくなったような気 がするが、どうだろう?」  大助は頷いた。  「おっしゃるとおりです。前より小さく建てま した」  「なぜだ?」  「もともと私の家は先祖から譲られたもので、 非常に大きなものでした。私は毎日こんな大きな 家に住んでいて、村の人々から恨まれないかとひ やひやしておりました。しかし先祖から受け継い できたものですから勝手に建て替えることはでき ません。たまたま火事があって焼けてしまいまし た。これ幸いと思って、家を小さく建て替えたの です」  これを聞くと平洲は、  「あなたは立派だ。私など到底足元にも及ばな い」  といって大助の手を握った。兄の伝五郎も脇で 嬉しそうに瞼を熱くしながらその光景を見守って いた。村人たちは、細井平洲の飾らないそういう 態度に、ひとしお感動の度合いを強めた。  米沢藩士に志田源七という人物がいた。頑固者 だった。男の子がなかったので娘に婿をとっだ。 ところが、源七は情の薄い男で、この婿を苛めた。 まるで召使い同様に扱ったので、婿の方が我慢で きなくて逃げ出した。二番目に来た養子も同じよ うな扱いをされたのでこれも逃げ出した。源七は 性懲りもなく三人目の婿を迎えた。  この頃藩の掟で、  「養子を三人まで去らせた場合は、その家は後 継ぎを認めない。潰す」  ということになっていた。だから世間では、  「さすがの志田源七も、三人目の婿には優しく するだろう」  と見守っていた。ところが源七は、前の二人以 上に三人目の婿を苛めた。そしてこの婿のことを、  「イヌ」  と呼んだ。家族と一緒に食事もさせない。たっ た一人で台所で食わせる。婿の妻である娘がさす がに見兼ねて、  「父上、もう少し優しくしてあげてください」  といったが源七はきかない。  「あいつはイヌだ。本当なら庭に繩でつないで おくのだが、家の中に入れてやっているだけでも 幸せと思わなければならない。余計な口出しをす るな」  源七の深層心理では、おそらく一人娘をよそか ら来た男にとられたというような淋しさがあった のだろう。その淋しさが裏返しになって、婿に意 地悪をし、苛めるのだ。が、まわりではそんな風 にはとらない。  「あんな柔順な婿を、イヌ呼ばわりをして苛め るとは、源七は人間ではない。あいつこそイヌ だ」  という噂をされ、つまはじきにされていた。  が、世間というのはまた非情なものだ。源七が、 イヌ、イヌと呼んでも、三人目の婿が一向に抵抗 したり反発したりせず、柔順に従っているものだ から、婿が外を通りかかると袖をひいて囁いた。  「ほら、志田のイヌが歩いて行くよ」  「いつも源七に尻尾ばかり振って、全く意気地 のないイヌだ」  そしてさらにこんなことをいった。  「が、おそらくもうすぐ逃げ出すよ」  「あの舅じゃ、とても辛抱できないものね」  「そうなると志田の家もいよいよお終いだ」  そんな陰口をきいた。その志田源七にある人が いった。  「いま、新しく建った藩校興譲館に、江戸から 細井平洲先生という偉い学者がお見えになってい る。大変わかり易いお話をなさるそうだから、暇 だったらおまえも一度聴きに行ったらどうだ?」  志田源七は、その男を黙って見返した。  (おまえの魂胆はみえすいている。婿に意地悪 をしている俺が、細井という学者の話を聴けば心 を入れ替えて優しくなると思っているのだろう。 俺はそんな甘ちゃんじゃない)  目がそう語っていた。源七は興譲館に出掛けて 行った。平洲の講義に聴き入っていた聴衆が驚い て顔を見合わせた。  「おい、志田源七が来ているぞ」  「一体、あいつどんな風の吹き回しで細井先生 の話を聴きに来たのだろう」  ひそひそとそんな声が聴衆の問で起った。源七 は前の方に座って、睨みつけるようにして細井平 洲の話を聴きはしめた。しかし、しばらく経つと 源七の顔色がだんだん変りはしめた。白くなった り青くなったりした。やがては土色になってし まった。額からは玉のような汗がじりじりと流れ 出し、ホクホク落ちた。ついにかれはいたたまれ なくなった。しかし講義の途中で立つようなこと はしなかった。平洲が。  「今日はこれまでにしましよう」  そう告げると、志田源七はその場にピタリと手 をつき、おでこを畳に擦りつけた。平洲が部屋を 出るまで、その場を立だなかった。  平洲が部屋を去ると、志田源七は一散に自分の 家に戻った。そして、妻に、  「わが家の若旦那をここへ呼んでくれ」  といった。妻はビックリした。  「若旦那? そんな人かおりましたか?」  「馬鹿者。うちの若旦那というのは一人しかい ないはずだ。すぐ呼べ」  事情を察した妻はすぐ婿を呼んできた。源七は、 婿を上座に据えて畳の上に両手をついた。  「申し訳ない。よく今日まで我慢してくれた。 おまえのことをイヌめ、イヌめと呼び続けてきた が、本当のイヌは私の方だ。今日細井平洲先生の お話を聴いて、そのイヌが、はじめて人間になっ た。今日からは人の父、人の子、人の夫として努 める。改めて親子の祝言をしてもらいたい」  この話は、すぐ細井平洲に伝わった。平洲は喜 んだ。また、その頃江戸にいた上杉鷹山の耳にも 人った。鷹山は、  「平洲先生はすばらしい。志田源七のような頑 固者の心を改めることは、余人ではできない。し かし、長年我慢した婿も偉い。私か戻ったら、召 し出すように」  と側近に命じた。事実、この婿は鷹山が米沢に 戻って来ると、小姓として登用された。  こういう鷹山の人材発見、あるいは信賞必罰の モノサシは、全て細井平洲の教えをそのまま守る ことによって行なわれた。  二月十一日に、平洲は神保綱忠らに、  「今後の興譲館は、こういう運営をなさるとよ い」  という話をした。神保綱忠は、  「お話の件は全て文章にして興譲館で守るよう に致します。また藩の方針として長く伝えさせて いただきます」  とキチンと応じた。平洲は喜んで頷いた。  三月二日、平洲は江戸の千住に着いた。驚いた ことに上杉家から莅戸善政が出迎えに来ていた。 それだけではなかった。翌三月三日、江戸藩邸に いた上杉鷹山がわざわざ嚶鳴館にやって来た。そ して、  「米沢では、先生に大変お世話になりました。 藩民一同、心から感動しております」  そう礼を述べた。そして、礼として、銀百枚、 縮緬十五巻、鯛一掛、樽代千疋などを贈った。  翌四日、平洲は答礼のために桜田の上杉藩邸に 鷹山を訪ねた。  めでたいことは続くものだ。この月十二日に次 男の米次郎が生まれた。その日から、毎日のよう に平洲は無沙汰をした西条侯や紀州侯のところに 伺った。この辺平洲は実にマメだ。片時もじっと していない。よく歩き、よく教え、そしてかれ自 身もよく学んだ。  米沢からも竹俣当綱や莅戸善政から逐次情況が 絶え問なく伝えられた。  「六月二十三日に米沢で大雨洪水がありました。 この時、帰国されていたお屋形様が陣頭指揮を とって、水防と救助に当りました……」  こういうことが細大漏らさず伝えられた。平洲 は、そういう情報を自分だけのものとせず、すぐ 筆をとって友人の伊藤玄沢その他に伝えた。  秋になると、平洲は思い出したように莅戸善政 に手紙を送った。  「私はこの頃、こんな暮し方をしております。 お屋形様から頂いた賜物は、一半は家の修築に当 てました。しかしまだ相当残り分かありましたの で、それは親戚友人に配分しました……」  と事細かに報告している。  鷹山は、  「たとえ私か米沢に戻っていても、江戸の上杉 藩邸では、ご講義をお続けください」  と依頼して行っだので、相変らず四の囗と九の 囗の月六回は、必ず桜田の上杉藩邸に行って講義 をした。この頃平洲は、主として「萄子」の話を している。  安永八年(一七七九)平洲は五十二歳になった。 時々風邪をひいたりして寝ることもあったが、ま だまだ元気だった。七月二十日、親友の伊藤玄沢 が死んだ。七十歳たった。玄沢は美濃(岐阜県) の人で、名古屋の中西淡淵と知ってから、その仲 介で細井平洲と仲良くなった。死ぬまで平洲とは 心を通わせた。医者で、貧しい人々に対する愛情 が深かった。細井平洲が最も信じた友である。上 杉鷹山の行なうことを、ほとんど細大漏らさず伊 藤玄沢だけには手紙に書いて知らせていることで もそのことがよくわかる。  翌安永九年(一七八〇)と年が替わるとすぐ、 平洲は、奥州白河藩主松平定信が、平洲の『嚶鳴 館遺草』を読んで、感動しているという話を聞い た。  松平定信は、八代将軍徳川吉宗の子田安宗武の 息子に生まれたが、あまりにも才能がすぐれてい たので、警戒した一橋治済と老中筆頭田沼意次の 謀略によって、白河藩の養子に入れられた。世間 では、  「次の将軍様は、田安定信様だろう」  という噂が立っていたからだろう。定信はそん な野心を持つことなく、白河のせせらぎのような 清い政治を行なった。特に老人を大事にした。月 に一度「老人の日」を設け、城下町や農村から年 寄たちを城の中に呼んで、率直な意見を聞いた。 このため若い者が震えあがった。  「うちの隠居が、今日お城にあかって殿様にわ れわれの悪口をいっている」  とビビッたのである。そこで白河藩内の若者た ちの気風が一斉に改まった。定信は、。楽翁”と 号した。  定信が細井平洲の『嚶嗚館遺草』に目を向けた のは、その頃の田沼政治が非常に汚れてきて、世 間では、   田や沼や 汚れたみ世を改めて 清く澄ませ   白河の水  と、松平定信が国政に乗り出して、政治倫理を 確立し、汚濁した政治の川を澄んだせせらぎにし てくれることを期待していたからだ。定信にも青 雲の志があった。  (いすれば中央に出て、政治の汚れを浄化した い)  と思っていた。そういう定信にとって、細井平 洲の『嚶嗚館遺草』はまたとないテキストであっ たのである。  松平定信が実際に老中首座のポストに就くのは、 それから七年後の天明七年(一七八七)六月のこ とである。老中の座に就いた定信は、すぐ第十一 代将軍徳川家斉に進言して、  「元米沢藩主上杉治憲の事蹟を表彰していただ きたい」  といった。家斉はビックリした。  「わたしは四月に将軍になったばかりだ。おま えも六月に老中首座になったばかりだ。それなの にいきなり一大名を表彰するというのは、いかが なものか」  定信は首を振った。  「いや、上杉治憲を表彰することは決して上様 のご損にはなりません。ぜひお願いします」  強引に迫った。家斉は鷹山を表彰した。これが 九月のことである。それほど松平定信は上杉鷹山 に入れ込んでいた。キッカケになったのは細井平 洲の『嚶嗚館遺草』である。特に定信が何度も繰 り返し読んだのは冒頭の「野芹」の章であったと いわれる。   竹俣当綱の慢心  平洲を迎えたいという大名家はあちこちにいた。 尾張藩もその一つだった。九月二十九日、尾張藩 は藩主徳川宗睦の養嗣子治行の侍講に迎えた。平 洲は、自分の生まれ故郷である平島村の領主でも あるので、承知した。当日、奥書院で『論語』を 講じた。尾張藩は平洲に二十人扶持を与えた。  この時、一緒に講義を聴いていた宗睦が感動し て、  「嗣子治行の受講だけでは細井平洲先生のご講 義が勿体ない。正式に尾張藩儒者として召し出す ように」  と命令した。十二月十二日に細井平洲は尾張藩 儒者として採用された。三百俵を貰うことになっ た。この時平洲は、  「前々からの経緯がございまして、紀州藩、西 条藩、米沢藩の藩儒を兼ねておりますが、この点 はいかがでございましようか?」  と誠実に聞いた。他の大名家に仕えていること を知らん顔にして、ぬけぬけと尾張藩の儒者にな ることはかれの心が許さなかったからだ。尾張藩 側では、  「他家との関係はそのまま従来どおりにしてい ただきたい」  と応じた。  細井平洲にとって胸の痛い事件が起った。それ は米沢で、竹俣当綱が失脚したからである。  竹俣当綱は、藁科松伯がつくった菁莪社グルー プの先頭にいて、細井平洲を積極的に米沢に迎え た人物だ。上杉鷹山の改革の推進者として、その 先頭に立っていた。鷹山は竹俣を家老として重く 用いた。  が、人間というのは権力に狎れると人が変る。 つまり、上杉鷹山がいくらすぐれていても、結局 は養子藩主だ。日向高鍋の秋月という小さな家か ら来た。そこへ行くと竹俣は上杉家の譜代の重臣 だ。馴染みが深い。  人事だとかあるいは頼み事は全て竹俣のところ に行く。竹俣は捌く。そうなると、  「実権を持っているのは竹俣様だ」  ということになってくる。竹俣の家には人々が 殺到する。中には金品を携えて行く者もある。竹 俣が藩内を歩けば、大変なご馳走をしてもてなす。 こういうことが続くと、どんな人間でも次第に堕 落していく。竹俣はやがて、  「俺は大したものだ」  と思いはしめた。竹俣のような人間にとって実 に想像できないことだが事実だった。  つまり、かれはいつの問にか「肩書き人間」に 変ってしまったのだ。家老という肩書きをはずし た時残る竹俣当綱という存在が、果して世間でど う受け止められるかという恐ろしさを知らなかっ た。これは現在にも当てはまる。ただの人間に なった後、世間がどう遇するか、そういう怖さを この頃の竹俣は知らなかった。そのために奢った。  ちょうど鷹山が参勤交代のため江戸にいた時、 毎年行なわれる行事のうち、上杉謙信公の「命 日」があった。普通は、藩主がその行事を主催す るのだが、たまたま鷹山が江戸にいたので、この 代行を竹俣に命じた。  ところがこの日竹俣は、前夜からある豪農の家 にいて、酒を飲み続けたった。翌朝目を覚ました 時は、すでに昼近くだった。まわりの者から、  「本日は大切な行事がございますよ」  と告げられた時は、もう時間的に間に合わな かった。さすがに竹俣は青くなったが、心の奢っ ていた竹俣は傲然とこんなことをいった。  「いまの米沢では、俺が朝だといえば朝だ。昼 だといえば昼なのだ。いまは朝だ」  時間的に間に合わない行事を、そんなことを いって強引に行なおうとしたのである。もちろん 受け付けられるはずがない。このことは江戸の鷹 山の耳に入った。鷹山は苦しんだ。信じられな かった。  「あの竹俣が……」  無念だった。せっかく積み重ねた改革の石が、 これではカラカラと崩れ落ちてしまう。先頭に立 つ竹俣が、心奢り、ましてや上杉家の祖謙信公の 命日の行事をないがしろにしたとあっては、その ままには済ませない。  考え抜いた鷹山は意を決した。  「泣いて馬腹を斬ろう」  天明二年(一七八二)十月二十九日、鷹山は竹 俣当綱に、  「不謹慎の罪により、隠居・押込めに処す」  と下命した。竹俣は謹んで受けた。この時の竹 俣はすでに後悔していた。  (しまった!)  と臍を噛んでいたが問に合わなかった。ひたす らに冷汗を流しながら、額を畳に擦り付けた。  この後竹俣は謹慎生活の間に心を入れ替える。 そして本心から鷹山に謝罪する。その心をめでて、 鷹山は再び竹俣を登用する。  もちろん竹俣当綱事件のことは細井平洲の耳に も入った。平洲は胸を痛めたがどうすることもで きなかった。  (人間というのはやはり神や仏ではない。いろ いろなことがあるものだ)  と感じた。そして、  「お屋形様はさぞかしお心を痛めておいでだろ う」  と、鷹山の苦しみを自分の苦しみとして受け止 めた。しかしこの頃の平洲は忙しかった。それは 一度講義を聴いただけで完全に平洲にのめり込ん でしまった徳川宗睦が、片時も自分の側から平洲 を放さなくなったからである。参勤交代で江戸へ 行く時も、  「先生もご一緒していただきたい」  と懇願して、平洲を江戸に伴った。   尾張藩での活躍  徳川宗睦は、米沢における平洲の活動ぶりをよ く知っていた。かれ自身も大変な学問好きで、 「明公」といわれた名君である。自身は、大変な 倹約家で、食事は常に一汁一菜を通した。ただ、  「いつ、何か起るかわからない」  といって、握り飯と味噌を必ず城内に用意させ ていた。  愛用していた硯を、小姓が落して破損したこと がある。しかし宗睦は、  「硯が足に落ちたそうだが、怪我はなかった か?」  と硯よりも小姓の足のことを心配した。そして 角の欠けた硯をそのままその後も使った。 平洲が定められた日に名古屋城に行くと、宗睦  麗。一゛ にそ尚。  米沢で平洲が興譲館という学校をつくったのを 知った宗睦は、  「尾張にも学校をむっくりいただきたい」  と頼んだ。そこで平洲は名古屋の長島町(いま 東照宮があるところ)に学校を建てた。「明倫堂」 と名付けた。  明倫堂における講義も、尾張藩士だけに聴かせ たわけではない。米沢の興譲館の例にならって、 平洲は町民や農民にも聴かせた。  熱田近辺の魚屋たちも押しかけた。魚籠を門前 に置いたまま講義に聴き入った。そのため、夏の 囗などは籠の中の魚が腐ってしまったという。  当時の狂歌に、  「尾張で売れるものは、古文孝経、水口屋、薬 に小麦饅頭」  とか、  「当たるものは、水野権平、富十郎、学館総裁、 ふぐ汁に鮨」  と歌われた。古文孝経というのは、平洲が講義 に使ったテキストなので、これが飛ぶように売れ たというのだ。また、大当りをしたのは、芝居や ふぐ汁、鮨の他に、細井平洲という学館総裁の講 義だということである。  米沢よりも人囗の多い名古屋で、平洲の講義は ここでも大当りをとったのである。  天明という時代は、いろいろと災害が多かった。 特に天明三年(一七八三)の七月、浅間山が噴火 した。降り続く大雨のため、領内を流れる庄内川 が堤が切れて縊れた。大洪水になった。雨が止む と堤の改修工事が行なわれることになった。名古 屋の久留米利助という人が。  「堤を工事するだけでは駄目だ。川の底から一 人ひとりが一鍬だけ砂をとれば、川がそれだけ深 くなる。堤も丈夫になる」  と提案した。村々の人々は賛成して、川普請が 行なわれた。  このことを明倫堂で講義をしていた細井平洲が 聞いた。平洲は。  「講義は中止する。私の話を聴いている人々も、 皆鍬を握って庄内川に行っていただきたい」  そう告げた。もちろん自分も先頭に立った。平 洲はこの時五十六歳になっていたが、川普請の工 事人の中に積極的に参加していった。感動した門 大たちも、われもわれもと庄内川に駆けつけた。 この時の川普請の光景が、東海市立平洲記念館の 「平洲絵カード」に描かれている。  尾張藩主徳川宗睦は、米沢での平洲の巡村講話 のことを知っていた。そこで平洲に、  「大変申し訳ないことではございますが、名古 屋の明倫堂だけでなく、領内の各村を巡ってお話 を農民たちにもお聴かせいただきたい」  と頼んだ。  平洲はもちろん承知した。遠く尾張の果てや、 美濃の各地を回った。  会場は大体お寺が選ばれた。あるいは、地方の 豪農の家が使われた。しかし、聴く者が謚れてし まうので会場が狭くて仕方がない。そこで庭にま で数百枚の筵を敷いたという。巡村講話は、一日 に二回七三回も行なわれた。内容は、  「経世済民」  という。経済”の真義であった。即ち、  「道徳と経済の結びつき」  である。記録によると、  「三日問先生の講義が行なわれたが、遠くの 村々から集った人々は合計一万五千三百四人に達 した。また、隣村で行なわれた時は二日間で一万 人、その後津島村では三日間で老人から若者、男 も女も集って合計一万八千人、春日井地域では、 二日間に一万人を、岐阜では五日間で五万人、全 てを集めて六か所で十万人余りの人が集った。聴 く者はほとんど字をひとつも知らない農民が多い。 わずかに学問のある者はその百分の一にもすぎな かった。しかしそれが争って先生の講話を聴き、 頭を傾け、涙を流しただ感動していた。これは全 て細井平洲先生の徳の致すところである」  と書かれている。多少人数が多すぎるきらいも あるが、こういう大きな影響を与えたのだ。  天明三年(一七八三十月二十八日と二十九日 の二日間は、横須賀方面で講義が行なわれた。庭 に敷かれた筵は何百枚とあった。二日間で聴く者 は七千七百人に達したという。  尾張藩の勘定奉行だった人見という人物が、た またま平洲の講話の実況を目撃した。そして、  「平洲先生の声は、鐘が鳴るように大きく遠く までよく聞えだ。しかも、縦横自在に道徳や経済 の話をなさった。立錐の余地もないほど会場に押 し寄せた人々が、全くわれを忘れて、夜遅くまで 聴き惚れていた」  と書き残している。  こういうように米沢であげた実績と同じような ものを着々と細井平洲は尾張藩で実行していた。 エピローグ平洲の思想は死なず   一字一涙  十数年の月日が流れた。二度目に米沢に行って から丁度十六年目の寛政八年(一七九六)、平洲に、  「もう一度米沢においでいただきたい」  という招待状が来た。出し手は新しい米沢藩主 上杉治広であった。  治広は、鷹山の先代重定の実子である。皮肉な ことに鷹山が上杉家の養子と決ってから生まれた 子であった。その辺の経緯を知っている鷹山は、 自分の子でなく先代重定の子を自分の相続人にし た。この辺も、細井平洲の教えによるものだ。  竹俣当綱事件で、上杉鷹山は深く傷付いた。同 時に、  「自分がいつまでも藩主の座にいると、家臣た ちも自分に頼りきって、上杉家のためにならな い」  と考えた。そこで、  「早く隠居して、治広に家を譲ろう」  という考えは、かなり前から持っていた。  天明五年(一七八五)二月六日、まだ三十五歳 だった鷹山は隠居した。そして二月七日、有名な 「伝国之辞」という訓戒書を治広に与えた。次の ようなものである。 一、 国家は、先祖より子孫へ伝候国家にして、    我私すべき物には無之候、 一、 人民は、国家に属したる人民にして、我私    すべき物には無之候、 一、 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立    たる国家人民には無之候、  右三条、御遺念有間敷候事、  天明五巳年二月七日    治憲 花押   治広殿 机前  意味は説明するまでもない。ここで国家という のは藩のことだ。人民というのは藩民のことであ る。当時「くに」といえば大名家の領内のことで あり、人民というのはそこに属する主として農民 のことである。くどくなるかも知れないが、ここ に書かれた意味は、  「土地七人民も、国に属しているもので、私有 物ではない。また、藩主というのはその土地と住 民のために存在するものであって、土地や住民が 大名のために存在しているわけではない」  ということである。  伝えによれば、暗殺されたアメリカの大統領 ジョンーフイツツジェラルドーケネデイは、  「日本人で一番関心のあるのが上杉朧山だ」  と語ったといわれる。もしそうだとすれば、お そらくかれは英文で書かれた内村鑑三の『代表的 日本人』の中にあった、この「伝国之辞」を読ん で、感動したのに違いない。ここに書かれたこと こそ、まさしく民主的政治家の「主権在民」の思 想に外ならないからである。  しかしあえていえば、上杉鷹山のこの民主的発 想も、細井平洲が囗を酸っぱくして説き続けた、  「治者は民の父母でなければならない」  という。愛民”の思想に基づくものであること はいうまでもない。  三度米沢から平洲が招かれているという話を聞 いた徳川宗睦は、  「先生、尾張のことをしばらくお忘れになって、 どうか米沢にお出掛けください」  と自分の方から勧めた。平洲は喜んだ。平洲も すでに六十九歳の老境に達していた。いつ死ぬか わからない。  「死ぬ前に、もう一度米沢の地を見てみたい」  聞くところによれば、見事に復興なって、人々 の心もいきいきしているという。そういう懐かし い土地と人々の姿を、もう一度この目で確かめた かった。長年無沙汰を続けてきた上杉朧山にも会 いたい。鷹山もすでに四十六歳の年齢に達してい るはずだ。  寛政八年(一七九六)八月二十五日、細井平洲 は江戸を出発した。九月六日に米沢に着いた。と ころが、この日山を越えて米沢への下り坂になっ た途中の関根村(米沢市関根)羽黒堂に着くと、 驚いたことに堂の前に上杉鷹山が出迎えていた。 城外一里余の地域まで、鷹山は老師を迎えに出て いたのである。  普門院という寺の門前で、細井平洲は上杉鷹山 に出迎えられた。平洲は思わず地に膝を付けて鷹 山を伏し拝みたいと思った。ところが、そんなこ とをすれば鷹山の方も土の上に座ってしまうこと をよく知っていた。そこで、身を屈めて膝に手を つき丁寧にお辞儀をした。言葉はない。無性に涙 が込みあげてきた。鷹山も同じように膝まで両手 を下して頭を下げた。鷹山は無言である。鷹山も 泣いていた。  この時の感動の光景は、現在普門院内に、  「一字コ泯」  の碑文となって残されている。  「先生、お懐かしうございます。お達者で何よ りでございます」  込みあげる涙を押えながら鷹山はかろうじてそ ういった。平洲は黙って頷くだけだ。言葉が出て こない。しばらくの間、言葉なしの対面が続いた。 やがて鷹山が先に立った。  「ご案内致します」  普門院の門をくぐり、堂に向って歩いた。外門 から中門まで、およそ三丁ばかりある。坂道だ。 鷹山は平洲と並んで歩いた。気付いた鷹山が、  「先生にお杖を」  といった。平洲は慌てて手を振った。  「お屋形様、まだまだ大丈夫でございますよ」  すると鷹山は平洲の体にピッタリ寄り添い、手 を引かんばかりにして肩と肩を並べながら、  「私を杖の代りにお使いください」  といった。  本堂に入ると、改めて久闊を叙した。懐かしい 思い出話に、時がどんどん過ぎていった。  普門院はもともと上杉家の藩主が江戸へ参勤交 代する時に、上りの時も下りの時も休憩する寺で あった。  「では、米沢城にご案内致します」  再び案内に立つ鷹山に従って、城下町に近付く と、驚いたことが起った。それは行き過ぎる村々 の道の脇に、老いも若きも、夥しい農民が座り込 んで道端にひれ伏し鷹山を拝んでいることであっ た。しかも、農民たちは皆泣いていた。平洲は驚 いた。  (お屋形様は、ここまで領民から慕われてい らっしやるのだ)  嬉しかった。そして、  (米沢の領民は、日本一幸せな民だ。自然にも 恵まれず、資源も乏しい。いってみれば貧しい国 だ。が、ここまで領主と領民の心が一体化してい る国は他にはない。これが本当の政治だ。学問も こういう政治のためのものであって、政治から離 れたものであってはならない)  平洲は改めてそう感じた。  城の中に入ると、奥山という侍の家が平洲の宿 舎に空けられていた。奥山の家の庭には、新しく 泉水がつくられていた。これは、平洲のために鷹 山がわざわざつくらせた泉水である。この家は、 鷹山の隠居所からも近かった。  細井平洲はこの時米沢に五十二日間滞在した。 毎日、鷹山の隠居所に行って夕方まで話し込んだ。 学問の話、政治の話、経済の話、村々の農民の話 など、話は尽きなかった。  ある日、平洲の世話をしている武士がおそるお そるいった。  「町や村で、たった一度でよいから細井先生の お話を伺いたいと申しておりますが」  上役が、  「この度の細井先生のご滞留は、わずか日数で ある。お大切な日々なので到底その願いはかなわ ない」  と断った。が、これを聞いた平洲は、  「いや、参りましよう」  そう応じて鷹山の許しを請い、興譲館で講義を した。集った聴講者は四百人余りだ。  これがきっかけになって、藩士の中でも、  「ぜひ、私の家に」  と招く人間が次々と出てきた。平洲は時間の許 す限りこれらの招きにも応じた。   平洲の死  毎晩遅くまで話し込んでいても、月日はどんど ん流れていく。米沢は冬の訪れが早い。山形県の 中でも雪の深いところだ。十月になると、周りの 者がその心配をしはじめた。  十月下旬になると、平洲は米沢を発つことにし た。上杉家からは、高価な絵画や、銀二十枚、綿 三十把などいろいろのくだされ物があった。  十月二十八日、平洲は米沢を出発した。すでに 何度か雪が降って、その日は雨だった。  上杉鷹山は分家の勝定を伴って、午前四時過ぎ に隠居所を出、普門院に先行した。そして平洲が 来ると、ここで別れの杯を交わした。平洲は、  「これが今生のお別れになるかも知れません」  と感慨深げに鷹山を見た。鷹山は首を振って、  「いやいや、先生はますますご壮健です。また お目に掛ることもございましよう。ぜひ、その日 を楽しみにしております」  といった。しかし、これが二人の永遠の別れに なった。  十一月九日、平洲は無事に江戸に着いた。すぐ 市ヶ谷の尾張藩邸に行って、徳川宗睦に米沢のこ とを報告した。  十一月十一日には、江戸にいた米沢藩主上杉治 広が平洲の嚶嗚館を訪ねた。そして、  「わざわざ米沢までおいでいただいて有難うご ざいました。父鷹山も心の底から喜んでおりまし た」  とお礼をいって、数々の贈り物をした。十一月 十四日に、平洲は返礼のために桜田藩邸に行った。 ところがその翌日から、旅の疲れが出たのか熱を 出して寝込んでしまった。十二月上旬まで病床に いた。  しかし少しよくなると起きあかって、十二月に は平洲は鷹山にお礼の手紙を書いた。そして、  「この度の旅は私にとって生涯の本望でござい ました。ご恩遇のおかげで、もはや思い残すこと はございません。ひとえに天助神佑と大いに喜ん でおります」  と書いた。  寛政十年(一七九八)、七十一歳になった平洲に とって悲しいことが起った。二月八日に、長子の 平作が死んでしまったことである。十九歳だった。 平洲はこの子が生まれた時、  「将来、玉になるか石になるかわからない」  と照れて、。玉石”というあだ名をつけたりし た。てふという娘を残していた。平洲は、この孫 娘を自分の養女とすることにした。  三月二十六日には、米沢で上杉重定か死んだと いう報がもたらされた。平洲は早速鷹山に手紙を 書いて、  「あまりお悲しみになりませぬように」  と告げた。  さらにこの年十二月二十四日、平洲をあれほど 愛してくれた尾張藩主徳川宗睦が江戸市ヶ谷の邸 で死んだ。六十七歳たった。この報を聞いた平洲 は、  「わが事終れり」  と嘆いた。「明公」というむくり名を奉ったの は平洲である。引き続く親しい人の死に、十二月 の末になると平洲はどっと寝込んでしまった。翌 年の二月まで病床にいた。小康を得たので起きあ がった平洲は、また各大名家への講義をはじめた。 この頃は、米沢藩、尾張藩の他に、紀州藩、人吉 藩、郡山藩などにも出講していた。  寛政は十三年二月五日に享和と替る。その享和 元年三月九日、人吉藩の講義を終って家路に着い た平洲は、家に戻ると倒れるように寝込んでし まった。持病の中風がひどくなったのだ。  この報が各大名家に伝えられた。米沢藩、尾張 藩、紀州藩、人吉藩、郡山藩から次々と見舞いの 使者が駆けつけた。しかし、平洲の病状は一向に よくならなかった。日に日に重くなった。  その頃江戸にいた米沢藩主上杉治広は、三月二 十三日に平洲の病床を見舞った。  平洲はいつも、  「私はもとは農民の息子だ。それが、尊いお大 名からも尊敬されるようになった。しかしこれは、 西条侯と米沢侯に知られたおかげだ。特に米沢侯 の知遇は肝に銘じて忘れることができない。桜田 のお屋敷にお伺いする度に、私は自分の家に戻っ たような気がした……」  と語っていた。  細井平洲の病気が重いという報は、治広からの 使者によって鷹山に知らされた。鷹山は深く悲し み、すぐ興譲館の管理者である神保綱忠を自分の 名代として江戸に向わせた。  こういうたくさんの人々の悲しげな目に囲まれ たまま、その年六月二十九日、細井平洲はついに 永眠した。七十四歳であった。  遺骨は浅草の浄土宗の寺天岳院に葬られた。米 沢、尾張、紀伊、人吉、郡山の各大名家からは代 参があった。学者として一代の盛儀だったと伝え られている。  平洲が亡くなってから六年後の冬十二月、すな わち文化四年(一八〇七)に、平洲の門人の山村 蘇門が中心になって、平島村に碑が建てられた。 平島村の浅間山神明社境内の、  「細井平洲先生旧里碑」  である。山村蘇門が筆を揮った。  平洲の偉大な業績が克明に刻まれている。  上杉鷹山は平洲の死を深く悲しみ、用人の岡田 文内を遣わして、平洲の位牌に代拝させた。自身 は五十日の喪に服した。  その上杉鷹山七文政五年(一八二二)三月十二 日に死んだ。七十二歳たった。おそらく鷹山に とって、生涯出会った人物で細井平洲が一番印象 が深かったに違いない。将軍から表彰された改革 の実績も、すべては『嚶嗚館遺草』を中心とした、 細井平洲の思想をそのまま実現したものだ。平洲 自身と身近に接して、その一挙手一投足から学ん だことも多い。鷹山は、  「わが改革の成功は、すべて平洲先生のたまも のである」  と、いつも語り続けた。 ☆この作品は一九九三年八月にP HP研究所より刊行された『細井 平洲の人間学』を改題したもので ある。 著者紹介 童門冬二(どうもん ふゆじ) 本名太田久行。1927年(昭和2年)東京に生 まれる。第43回芥川賞候補。日本文芸家協会なら びに日本推理作家協会会員。主な著書に『小説上 杉鷹山(上・下)』、『青春児−小説伊藤博文 (上・下)』、『近江商人魂(上・下)』、『小説二宮 金次郎(上・下)』、『名将に学ぶ人間学』、『坂本 龍馬に学ぶ』、『西郷隆盛』、『織田信長』、『新撰組 の女たち』、『川路聖謨』、『志士の海峡』、『群れず、 敢えて一人で立つ』、『上杉鷹山の経営学』、『小説 徳川吉宗』、『新釈三国志』など多数。