動物化するポストモダン_東浩紀 第一章 オタクたちの疑似日本 I オタク系文化とは何か  「オタク系文化」の構造に現れているポストモダン の姿  「オタク」という言葉を知らない人はいないだろう。 それはひとことで言えば、コミック、アニメ、ゲー ム、パーソナルーコンピュータ、SF、特撮、フィ ギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサ ブカルチャーに耽溺する人々の総称である。本書で は、この一群のサブカルチャーを「オタク系文化」 と呼んでいる。  コミックやアニメに代表されるオタク系文化は、 いまだに若者文化としてイメージされることが多い。 しかし実際には、その消費者の中心は一九五〇年代 後半から六〇年代前半にかけて生まれた世代であり、 社会的に責任ある地位についている三〇代、四〇代 の大人たちである。彼らはもはやモラトリアムを楽 しむ若者ではない。この意味でオタク系文化はいま や囗本社会のなかにしっかりと根を下ろしている。  また、オタク系文化はJホップのような国民的広 がりをもつ文化ではないが、決してマイナーな文化 でもない。同人誌市場の規模や専門誌の販売部数、 ネット上の検索エンジンヘの登録数などから推測す るに、オタク系の消費者は、二次創作(詳しくは後 述する)を売買したり、コスプレをしたりといった きわめて活動的な層に隕っても、数十万の規模を下 ることはないと思われる。そしてさらに付け加えれ ば、オタク系文化はもはや日本だけの現象でもない。 オタクたちが作り上げたコミックやアニメ、ゲーム などの独特の世界は、一般紙でもたびたび報道され るように、韓国や台湾を始め、アジア地域のサブカ ルチャーに深い影響を与えている。  最後にもうひとつ加えれば、いまだパソコン通信 しかなかった八〇年代に始まり、現在まで、日本の ネット文化の基礎はオタクたちによって築かれてい る。オタク系のウェブサイトや掲示板が多いという だけでなく、プロバイダのFTPサイト名にアニメ キャラクターの名前があてられていたり、ワープロ ソフトや表計算ソフトの解説書の例文に何気なくノ ベルゲームの一節が紛れ込んでいたりと、その痕跡 は陰に陽にあらゆる場所に確認できる。  したがって、いま、日本文化の現状についてまじ めに考えようとするならば、オタク系文化の検討は 避けて通ることができない。ところがこの「オタ ク」という言葉には、一九八八年から八九年にかけ て宮崎勤か起こした連続幼女誘拐殺人事件のため、 いまだに独特の負荷がかかり続けている。  オタクという言葉はもともと、七〇年代に台頭し た新たなサブカルチャーの担い手を指すものだった 湖沼圉。ところが不幸なことに、その言葉はこの猟 奇事件をきっかけとして社会的に認知されてしまい、 そのためオタクといえば、非社会的で倒錯的な性格 類型を広く連想させることになってしまったのであ る。宮崎事件の直後、ある週刊誌は、オタクとは 「人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の 世界に閉じ込もりやすい」人々だと解説しているが 孀倒型、このような理解はいまでも一般的だろう。  他方にはまったく逆の立場もある。一般にはあま り知られていないが、オタクという言葉はじつは、 九〇年代、特定の世代のオタクたちによってきわめ て積極的に使われてきた。宮崎事件を契機とした激 しいバッシングが、逆にオタクたち自身の強い反発 を生み出し、彼らは今度は過剰に「オタクであるこ と」を意識するようになったのである。オタクたち のそのような自負はなかなかマスメディアに乗らな かったが、九五年に『新世紀エヴアングリオン』が ヒットし、オタク系文化に社会的注目が集まるにし たがって徐々に表面に出始めた。そのひとつの例が、 九六年に批評家の岡田斗司夫が出版した『オタク学 入門』である。そこでは冒頭で、「オタク」という 言葉が差別表現になっている現状に疑問が示され、 オタクとは「進化した視覚を持つ人間」であり、高 度消費社会の文化状況に対応した「ニュータイプ」 なのだと再定義されている(注3)。誇大妄想的に も見えるこのような主張には、逆に当時のオタクた ちがいかにバッシングに怯えていたか、その恐怖心 がはっきりと窺える。  宮崎事件により生じたこのような分裂は、九〇年 代が終わるまで、オタク系文化について客観的に正 面切って語ることを難しくしていた。一方で、権威 あるマスメディアや言論界ではいまだにオタク的な 行動様式に対する嫌悪感が強く、オタク系文化につ いての議論は、内容以前にそのレベルで抵抗にあう ことが多い。実際、筆者自身、かつてアニメについ ての小著の企画が持ち上がったときに、ある有名な 批評家から強い反発を受けて驚いたことがある。  他方で、どちらかといえば反権威の空気が強いオ タクたちには、オタク的な手法以外のものに対する 不信感があり、アニメやゲームについてオタク以外 の者が論じることそのものを歓迎しない。現代思想 の学術誌で論壇に現れ、出自的にはサブカルチャー の世界から遠い筆者は、この点でも一部から反発を 受けてきた。つまり、簡単に言えば、一方にはオタ クなどにそもそも価値を認めない人々が、他方には オタクについては特定の集団だけが語る権利をもっ ていると考える人々がいて、その両者のどちらにも 加担しない立場を取るのはきわめて難しかったのだ。  本書の企図は、そのような機能不全を修復し、オ タク系文化について、そしてひいては囗本の現在の 文化状況一般について、当たり前のことを当たり前 に分析し批評できる風通しのよい状況を作り出すこ とにある。そしてそれはまた、私たちの社会をより よく理解することにも繋がるはずだ。文学に歴史が あり、美術に歴史があるように、オタク系文化にも、 四〇年という短い期間ながら歴史があり、その歩み は確かに私たちの社会の変遷を映している。その歴 史を「サブカルチャー史」として縦に辿ることも可 能だろうが、ここで筆者が行いたいのは、むしろそ の歴史を横に見て、オタク系文化の変遷とその外側 の社会的変化との関連を取り出してみること、そし てその過程を通じて、オタク系文化のような奇妙な サブカルチャーを抱えてしまった私たちの社会とは どのような社会なのか、少し真剣に考えてみること である。だから以下の議論は、筆者と知識や世代を 共有するオタクたちにも向けられているが、同時に、 オタクのことなど考えたこともないし、考えたくも ないと思っている多くの読者にも向けられている。  オタク系文化の構造には私たちの時代(ポストモ ダン)の本質がきわめてよく現れている、という筆 者の考えが、少しでも多くの読者を納得させ、それ ぞれの立場での世の中の理解に役立てば、これに越 した喜びはない。 オタクの三つの世代  ところで本書において、「オタク文化」ではなく、 「オタク系文化」といういささか曖昧な表現を用い ている理由について、簡単に述べておきたい。前述 のような複雑な状況のため、九〇年代、「オタクと は何か」「オタク的なものとは何か」「だれがオタク でだれがオタクではないのか」という問題について は、オタクたちのあいたで莫大な議論が積み重ねら れてきた。しかし、筆者自身の経験から言って、こ のような問いに結論を出すのは不可能であり、突き 詰めても各人のアイデンティティを賭けた感情的な 遣り取りしかでてこない。筆者がここで「系」とい う曖昧な表現に込めているのは、そのような不毛な 議論ほとりあえず棚上げにして、少し大雑把に話を 進めよう、というメッセージである。  それでもあえて付け加えれば、その曖昧な「オタ ク系」なるものについても、つぎの二つのことは言 える。一つは、一群のオタク系サブカルチャーの起 源は、基本的には六〇年代だと思われることI{涓 内、そしてもうひとつは、オタク系文化の担い手 は、いま、大雑把に三つの世代に分かれているよう に思われることである。  その三つというのは、六〇年前後生まれを中心と し、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』を 一〇代で見た第一世代、七〇年前後生まれを中心と し、先行世代が作り上げた爛熟し細分化したオタク 系文化をI〇代で享受した第二世代、八〇年前後生 まれを中心とし、『エヴアングリオン』ブームのと きに中高生たった第三世代、とでも分けられるもの で、この三つのグループの趣味志向はそれぞれ微妙 に異なっている。  たとえば、コミックやアニメ、コンピュータは世 代を越えて強い関心を集めているが、第一世代でS FやB級映画に向けられていた関心は、第三世代で はおおむねミステリやPCゲームヘの関心に置き換 えられている。また、第三世代はI〇代半ばにイン ターネットの普及を迎えており、その結果、彼らの 同人活動の中心はウェブサイトに、イラストの中心 はCGに変わり、先行世代とは流通経路も表現形式 も大きく変わっている(注5)。本書の議論は、そ のなかで、どちらかといえば第三世代の新しい動き に焦点をあてて組み立てられている(注6)。 2 オタクたちの疑似日本 ポストモダンとは何か  オタク系文化の構造にはポストモダンの本質がき わめてよく現れている、といま筆者は記した。「ポ ストモダン」というこの言葉もまた、どこかで聞い たことがある読者が多いだろう。「ポスト」とは 「後に来るもの」を、「モダン」とは「近代」を意味 する。したがって「ポストモダン」とは、文字通り には「近代の後に来るもの」を意味する。この言葉 は、一九六〇年代あるいは七〇年代以降の文化的世 界を広く捉えるため、現代思想や文化研究の分野で しばしば使われている。  いまから三〇年ないし四〇年前、日本、ヨーロッ パ、アメリカなどの高度資本主義社会では、「文化 とは何か」を規定する根本的な条件が変容し、それ にしたがって多くのジャンルが変貌した。たとえば、 ロックミュージックが台頭し、SFX映画が台頭し、 ポップアートが台頭し、LSDとパーソナルーコン ピュータが生まれ、政治が失墜し、文学が失墜し、 「前衛」の概念が消滅した。私たちの社会はこの巨 大な断絶のあとに位置しており、したがって、現在 の文化状況を、五〇年前、一〇〇年前の延長線上に 安直に位置づけることはできない。たとえば、ミス テリやファンタジーやホラーに支配されたエンター テインメント小説の現状を、近代日本文学の延長線 上で理解しようとしても絶対に無理がくる。そのよ うな断絶の存在は、専門家に隕らず、多少ともまじ めに現在の文化に触れている人ならば、だれでも感 覚的に察知できることだと思う。現代思想や文化研 究の分野では、その常識的な直観を「ポストモダ ン」という言葉で呼んでいるだけの話だ。  本書では以下、この「ポストモダン」という言葉 が繰り返し使われる。しかし、紙幅の都合上、本書 ではその概念について詳しい解説を行うことはでき ない。ポストモダンの定義についてはさまざまな紹 介本が出版され、また筆者自身も別に理論書を準備 中なので、興味のある方はそちらを参照していただ きたい。むろん以下の論述では、そのような参考書 がなくても理解が進むように、適宜必要な概念につ いては解説を加えている。ここでほとりあえず、六 〇年代あるいは七〇年代以降、より狭く取れば、日 本では七〇年の大阪万博をメルクマールとしてそれ 以降、つまり、「七〇年代以降の文化的世界」のこ とをポストモダンと呼ぶのだ、と大雑把に理解して もらえばそれでいい。  この前提のうえで、筆者は以下、オタク系文化と ポストモダンの関係を中心に、さまざまな実例を挙 げながら議論を進めていきたい。しかしその前にひ とつ、その主題から離れるが、オタク系文化の本質 を知るためにぜひ確認しておかねばならないことが ある。それはオタクと囗本の関係である。 オタク系文化のもつ日本的なイメージ  オタク系文化の特徴については、いままで囗本の 伝統文化との比較で語られることが多かった。たと えば批評家の大塚英志は、八九年に出版された『物 語消費論』で、八〇年代に急増した二次創作の存在 意義を、歌舞伎や人形浄瑠璃で用いられる「世界」 や「趣向」という概念を用いて分析している。この 議論は前掲の『オタク学入門』に暗に取り入れられ ており、岡田はそこでは、オタクたちは作品のメッ セージよりもむしろ「趣向」を読み解くことに重点 を置き、そのセンスは江戸時代の「粋」と直結して いると主張している(注7)。『オタク学入門』の最 後の章は、「オタクは日本文化の正統継承者である」 と題されている。  これらの指摘はおもにオタクたちの消費行動に注 目してなされているが、より内容に即しても、オタ ク系文化と伝統文化の連続性は随所で指摘されてい る。そのなかでもっとも有名なものは、おそらく現 代美術家の村上隆の主張だろう。彼によれば、七〇 年代にアニメーターの金田伊功が達成した独特の画 面構成は、狩野山雪や曾我蕭自らの「奇想」に連な り、また、九〇年代に原型師のボーメや谷明か先導 したフィギュア造形の進化は、仏像彫刻の歴史を反 復している(注8)。  このような論客たちの議論を横に置いたとしても、 オタク系作品がもつ日本的なイメージヘの親和性は だれでも簡単に見て取ることができる。たとえば、 八〇年代の初めにカルト的な支持を集めていた高橋 留美子のコミック『うる星やつら』は、民俗学的な アイテムとSFファンタジーが混淆した、独特の作 品世界で知られている。鬼や雪女や弁財天をモチー フとした宇宙人=異人たちが、セクシュアルな衣装 を纏ってば次々と現れて事件を起こしていくこのド タバターコメデイは、オタクの幻想が日本的な意匠 に囲まれてはじめて成立するものであることをよく 表している。  日本的なイメージに向けられたこのような愛着は、 アニメやゲームが世界的に受容されるようになった 現在でも、いまだオタク系文化を広く深く規定して いる。というより、むしろいまでは、その愛着こそ がオタクの条件だと考えられていると言える。  たとえば九六年に佐藤竜雄が作ったTVアニメ 『機動戦艦ナデシコ』は、オタク系文化と日本的イ メージとの以上のような込み入った関係を意識的に 相対化し、さらにメタフィクション的なトリックを 仕掛けた秀作である。この作品の主人公はアニメオ タクであり、同時に、戦闘ロボットに乗る戦士でも ある。この二つの設定は、当初、ロボットものの ヒーローアニメに憧れる主人公が、まさにアニメの ようにヒーローとしてロボットに乗るという幸福な サイクルで結ばれている。しかし物語の途中、じつ は主人公たちの「敵」とは、主人公自身が憧れてい たロボットアニメを国家綱領の軸として採用した、 日本人ばかりで作られた軍事国家であったことが明 らかになる。したがって物語の後半の主人公は、 ヒーローアニメに素朴に同一化していたかつての自 分、オタクたった自分を自己批判しつつ、同類のオ タクが勘違いして作り上げた軍事国家と戦う羽目に 陥ってしまうのだ。この作品では、七〇年代の口 ボットアニメやヒーローアニメが抱えていた右翼的 な精神性と同時に、また、そのようなアニメを介し てしか生きる目的を学べなかったオタクたちのあり 方が、ともに戯画的に抉り出されている。  オタク系文化はこのように、さまざまな面で日本 の問題と関係している。オタク系の作品は、日本を 主題とすることが多く、日本的な表現を多用し、い かにも日本的に消費されている。したがって従来の 議論では、肯定的にであれ否定的にであれ、オタク 系文化が日本独自のサブカルチャーであることが繰 り返し強調されてきた。  しかし実際には、オタク系文化の影響はいまや広 く国外に及んでいる。『カードキャプターさくら』 の翻訳版がパリの本屋に積まれ、香港人が作った綾 波レイの改造フィギュアがネットオークションで高 値を付けているいま、オタク的な感性が日本独自の ものだという主張は、もはや以前ほどの説得力をも たなくなっている。オタク系文化の展開を、日本国 内での通史としてだけではなく、むしろ世界的なポ ストモダン化の流れのなかで理解してみよう、とい う本書の企図は、そのような状況認識のもとで抱か れている。筆者は、決して、オタク系文化の出現が 日本独自の現象だと考えていない。それはむしろ。 二〇世紀半ばに始まった文化のポストモダン化とい う大きな流れの、日本における支流のひとつだと捉 えるべきだと考えている。だからこそ、オタクたち の作品は国境を越えて支持されているのだ。 オタク系文化の源流はアメリカ  しかしそれならば、逆に、オタクたちはなぜ「日 本的なもの」に前述のように固執してきたのだろう か。ここで想起しなければならないのは、オタク系 文化の起源はじつは、アニメにしろ、特撮にしろ、 SFにしろ、コンピューターゲームにしろ、そして それらすべてを支える雑誌文化にしろ、戦後、五〇 年代から七〇年代にかけてアメリカから輸入された サブカルチャーだったという事実である(注9)。 オタク系文化の歴史とは、アメリカ文化をいかに 「国産化」するか、その換骨奪胎の歴史だったので あり、その歩みは高度経済成長期のイデオロギーを みごとに反映してもいる。したがって、もしいま私 たちがアニメや特撮の画面構成に日本的な美学を見 てしまうのだとすれば、そのときは同時に、つい数 十年前までこの国にはアニメや特撮はなかったので あり、それが「日本的」になった過程はかなりねじ れたものだったこともまた思い起こしておく必要が ある。オタクたちは確かに江戸文化の継承者なのか もしれないが、その両者は決して連続していない。 オタクと日本のあいたには、アメリカがはさまって いるのだ。  そのねじれた歩みでもっとも分かりやすいものは、 おそらくリミテッドーアニメの国産化の過程だろう。 リミテッドーアニメとは、ブルーアニメと対をなす 言葉で、一秒につき八枚の動画(動画一枚にっ貪二コ マ撮り)で作られたアニメーションを意味する。こ の手法はもともと、四〇年代後半のアメリカで、 ディズニー的なリアリズムヘの反発から生み出され た。つまりそれは、当初は、アニメーションという 表現媒体の可能性を引き出すために選ばれた、芸術 家の側の積極的な選択だったわけだ。しかしその手 法は日本では、手塚治虫が作った『鉄腕アトム』以 降、TVアニメを効率よく生産するための必要悪へ と変わってしまう。劇場映画とは比較にならない短 時間と低予算で作られねばならなかった当時のTV アニメは、動画枚数を減らすため、三コマ撮りにか ぎらず、循環動画やバングーシステム、会話のロパ クなどさまざまな技法に依存せざるをえなかった。 そしてその条件は当然のことながら、三〇年代のア メリカで作られた作品と比較して、日本アニメの質 を極端に下げることになった。その状況は当時の批 評家たちにとっても耐え難いものだったようで、六 六年に出版された古典的なアニメーション解説書で もすでに強く批判されている(注10)。また、手塚 自身、そのような制作環境に一貫して不満を抱いて いたことも広く知られている。 日本のアニメが発達させた独特の美学  しかしここで興味深いのは、続く七〇年代、囗本 のアニメ業界がその貧しさを積極的に引き受け、逆 に独特の美学を発達させてしまったことである。七 ○年代のアニメ作家たちは、大きく表現主義と物語 主義の二つに分けられると言われている(注11)。 前者は、大塚康生、宮崎駿、高畑勲ら東映動画出身 の作家たちであり、基本的にブルーアニメ志向の、 動きの美学に魅せられたアニメーターである。宮崎 や高畑がその理想を達成するのは八〇年代も後半に 入ってからだが、六八年に作られた『太陽の王子 ホルスの大冒険』など、ごく初期の作品にもすでに その美学ははっきりと窺える。こちらの方向は、い わば、ディズニーやフライジャー兄弟の伝統に則っ た正統的なアニメーションの追求だと言える。  他方でそれとは別に、りんたろうや安彦良和、富 野由悠季、さきほど名前を挙げた金田伊功など、リ ミテッドーアニメや循環動画、バングーシステムな どの限界を前提としながら、動きの美学とは別の方 向で作品の魅力を組織しようとする作家たちもいた。 その方向とは、具体的には、『宇宙戦艦ヤマト』や 『機動戦士ガンダム』『幻魔大戦』で行われた物語や 世界観の充実であり、安彦やスタジオぬえが先導し たイラストレーションの洗練であり、さらには、金 田が開発した特殊な演出リズムと画面構成(止め絵 の美学)などである。そしてまさにこの後者の流れ こそが、八〇年代、日本アニメをオタク系文化の中 核に押し上げ、また同時に、アメリカで作られる 「アニメーション」から遠く離れた、独自の美学を もつジヤンルヘと成長させていく。  つまり、八〇年代以降のアニメを「オタク的なも の」「日本的なもの」としている多くの特徴は、じ つは、アメリカから輸入された技法を変形し、その 結果を肯定的に捉え返すことで作り出されたものな のだ。オタク的な日本のイメージは、このように、 戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、 その劣位こそが優位だと言い募る欲望に支えられて 登場している。それは明らかに、ラジオや自動車や カメラの小型化への情熱と同じく、高度経済成長期 の国家的な欲望を反映している。そしてこのような 欲望は、現在でも、岡田にしろ大塚にしろ村上にし ろ、オタク系文化を高く評価する論者たちの文章に 共通して見られるものである。  オタクたちが好む日本的意匠をこのように捉える と、冒頭に述べたようなオタク系文化の評価をめぐ る厄介な状況の裏側にも、宮崎事件の余波だけでは なく、さらに深い集団心理の存在が見えてくる。止 め絵の美学にかぎらず、大塚が注目した二次創作の 氾濫にしろ、『うる星やつら』の民俗学的世界にし ろ、オタク系文化の「日本的」な特徴は、近代以前 の日本と素朴に連続するのではなく、むしろ、その ような連続性を壊滅させた戦後のアメリカニズム (消費社会の論理)から誕生したと考えたほうがよい。 七〇年代にコミケ(コミックーマーケット)をパロ ディマンガで満たした欲望は、江戸時代の粋という よりは、そのI〇年前にアメリカでポップアートを 生み出した欲望に近いものだろうし、『うる星やつ ら』の作品世界もまた決して、民話の延長線上にあ るのではなく、SFとファンタジーの想像力が屈折 したところに日本的な意匠が入り込んできた、と捉 えるのが自然だろう。オタク系文化の根底には、敗 戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ産 の材料でふたたび疑似的な日本を作り上げようとす る複雑な欲望が潜んでいるわけだ。  したがってその姿は、多くの日本人に二律背反的 な感情を抱かせてしまう。たとえば、オタク系の小 説やアニメでは巫女のイメージは一貫して根強い人 気があり、巫女の衣装を着た女性が、超能力を使っ たリサイボーグになったり宇宙船に乗ったりする作 品が無数に生産されている。『うる星やつら』のさ くらや『美少女戦士セーラームーン』のセーラー マーズはそのひとつだ(図1)。  このようなイメージに出会ったとき、ある世代以 下では、過度に固着する集団と過度に反発する集団 がなぜかくっきりと分かれる傾向にあり、その分裂 がオタク系文化についての議論をやりにくくしてい る。おそらくはそれは、日本的な「巫女」と西洋的 な「魔術」という意匠の組み合わせに対して、「ど れほどファンタジーが過激になってもそこに巫女は 存在する」ことに親近感を覚えるタイプと、「巫女 のような純日本的な存在でさえファンタジーの想像 力に冒されている」ことに生理的な嫌悪感を抱く夕 イプの二つに分かれることに起因しているのだろう。 つまりそこでは、オタクたちが作り上げた奇妙にね じれた「日本」のイメージ、中学生の制服を着て占 星術を唱え魔法のスティックをもった巫女のような、 ある意味でめちゃくちゃで醜悪な想像力を認めるの か認めないのか、それが試されているのだ。その八 イブリッドな想像力を「日本のもの」だと言い切れ ればオタク系の作品を受容できるし、そうでなけれ ば、オタク系の作品はとても耐えられない。 日本文化の背景にある敗戦の傷跡  オタク系文化の日本への執着は、伝統のうえに成 立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあ とに成立している。言い換えれば、オタク系文化の 存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、 私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失っ てしまったという残酷な事実が隠れている。オタク たちの想像力を「おぞましいもの」として拒否する 人々は、じつは無意識のうちにそのことに気がつい ている。  筆者はおおむねこのように考えているが、サブカ ルチャーの現在について語るため、五〇年以上前の 出来事を持ち出すことに戸惑われる読者もいるかも しれない。しかし第二次大戦の傷跡は、私たちが想 像する以上にこの国の文化全体を規定している。た とえば美術評論家の椹木野衣は、戦後囗本の現代美 術は長いあいた敗戦で規定された「悪い場所」のな かで動いており、作家自身がその条件に直面し始め たのはせいぜい九〇年代に入ってからのことだと主 張している(注12)。いまやだれもが実感している ように、八〇年代までの日本社会は、敗戦とその後 の経済成長が生み出した矛盾の多くを放置し、その まま九〇年代以降に解決を先送りしてしまった。同 じ現象が、表現のさまざまなジャンルでも反復され ている。 ポストモダニズムの流行とオタク系文化の伸張  そしてこのような状況に注意を向けると、オタク たちが疑似日本に執着する理由がまた別の角度から も見えてくる。「オタク」という言葉が認知された のは八九年だが、その存在がひとつの集団として意 識され、前述のような疑似日本的な想像力が広く支 持され始めたのは、七〇年代から八〇年代にかけて のことだ。そしてそれは日本では、「ポストモダニ ズム」と呼ばれる思潮が流行し始めた時期とほぼ一 致している。編集者の中森明夫がオタクという言葉 を商業誌ではじめて使い、経済学者の浅田彰がポス トモダニズムのバイブルとなった『構造と力』を出 版したのは、ともに同じ八三年だ。  ここで混乱しないでほしいのだが、この「ポスト モダニズム」というのは、前述のポストモダンとは 異なる概念である。ポストモダンとは七〇年代以降 の文化的世界を漠然と指す豆果だが、ポストモダニ ズムのほうは、ある特定の思想的立場(イズム)を 指す豆果であり、はるかに対象が狭い。ポストモダ ンの時代には独特の思想がいくつも現れたが、その うちのひとつが「ポストモダニズム」と呼ばれるも のだった、と考えてくれればよい。  ポストモダニズムの思想は、六〇年代のフランス で生まれ、七〇年代にアメリカで成長し、八〇年代 に囗本に輸入された。それはもともと、構造主義や マルクス主義や消費社会論や批評理論の集積からな る複雑で難解な言説であり、したがっておもに大学 内で流通するものだった。ところがそれが日本では、 八〇年代の半ば、若い世代の流行思想としてむしろ 大学の外でもてはやされ、そして時代とともに忘れ 去られた。日本のポストモダニズムは、流行思想と しては「ニューアカデミズム」と呼ばれることが多 い。したがって、日本でポストモダニズム=ニュー アカデミズムが消滅したあとも、英語圈の大学では 関係なくポストモダニズムは研究されているし、そ の後の学問的動向に影響を及ぼしている。このあた りの事情については別の論文で説明したのでI{崖 131y、興味のある読者はそちらを参照してもらいた い。いずれにせよ、ここではポストモダニズムの内 容はあまり重要ではない。むしろ重要なのは、日本 で、その難解な思想がジャーナリスティックに流行 してしまったという事実である。  おそらくその流行は、当時すでに一部の批評家が 指摘していたようにIペ崩椪−y、八〇年代の日本社会 を満たしていたナルシシズムと関係している。当時 日本で流行したポストモダニズムの言説は、「ポス トモダン的であること」と「日本的であること」を 意図的に混同して論じることに特徴があった。当時 のポストモダニストが好んだ主張は、要約すればつ ぎのようなタイプのものである。  ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味 する。しかし日本はそもそも十分に近代化されてい ない。それはいままで欠点だと見なされてきたが、 世界史の段階が近代からポストモダンヘと移行しつ つある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に 近代化されていないこの国は、逆にもっとも容易に ポストモダン化されうるからだ。たとえば日本では、 近代的な人間観が十分に浸透していないがゆえに、 逆にポストモダン的な主体の崩壊にも抵抗感なく適 応することができる。そのようにしてニー世紀の日 本は、高い科学技術と爛熟した消費社会を享受する 最先端の国家へと変貌を遂げるだろう……。  近代=西欧に対してポストモダン=日本があり、 日本的であることがそのまま歴史の最先端に立つこ とを意味する、というこの単純な図式は、歴史的に は、戦前の京都学派が唱えた「近代の超克」の反復 だと言える。だが同時に、その発想はやはり当時の 経済的環境を色濃く反映してもいる。八〇年代半ば の日本は、ベトナム戦争より続く長い混乱期にあっ たアメリカと対照的に、いつのまにか世界経済の頂 点に立ち、バブルヘと至る短い繁栄の入口に差しか かっていた。  当時の日本のポストモダニストは、フランスの哲 学者アレクサンドルーコジエーヴを好んで参照して いたが、この選択ほど彼らの欲望を如実に表してい るものはない。第二章でもういちど詳しく説明する ように、この哲学者は、ポストモダンにおいて考え られる社会形態として、動物化したアメリカ型社会 と、スノビズムに覆われた日本型社会の二つのタイ プを挙げたことで知られている。そしてそこでコ ジエーヴは、日本に対して妙に好意的であり、西洋 人のアメリカ化=動物化よりむしろ日本化=スノッ ブ化を予測していた。八〇年代の日本人にとって、 当時の日本の繁栄は、まさにこの期待の実現に向 かっているもののように思われたことだろう。  これは言い換えれば、当時の日本社会が、前述の ようなアメリカヘの屈折を表面的には忘れることが できたことを意味している。いまやアメリカに勝っ た、アメリカニズムの日本への浸透はもはや考えな くてもよい、むしろ日本主義のアメリカヘの浸透を 考えるべきだ、という風潮が、思想的にはポストモ ダニズムの流行を支えていたのだ。オタク系文化の 伸張にも同種の要因が働いている。オタクたちが固 執する日本のイメージはアメリカ産の偽物でしかな いが、以上のような空気は、まさにその起源を忘れ させてくれるものだからだ。 日本が最先端という幻想  そのような自己肯定的な時代の空気に敏感に反応 したオタク系作品としては、たとえば、八五年に作 られた石黒昇原作・監督のアニメ『メガソーン23』 を挙げることができるだろう。この作品は、当時の 東京がじつはすべて未来の宇宙船内に作られた虚構 であり、コンピュータの作り出した仮想現実だった、 という設定を導入している。そして物語は、主人公 がその虚構性に気がつき、その閉域を飛び出そうと もがくことで進んでいく。この設定そのものも興味 深いが、さらに注目すべきは、物語の後半、主人公 がその虚構を作り出すコンピュータに対して、なぜ 八〇年代の東京を舞台として選んだのか、と理由を 問いただすことである。  このいささかメタフィクション的な問いに対して、 相手のコンピュータは、「その時代が人々にとって いちばん平和な時代だった」からだと答えている う濔21。おそらくその台詞は、オタクたちに限らず、 当時の東京に生きる多くの若者たちの共通感覚を伝 えていたに違いない。八〇年代の日本ではすべてが 虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構 が続くかぎりは生きやすいものだった。筆者は、そ の浮遊感の、言説における現れがポストモダニズム の流行であり、サブカルチャーにおける現れがオタ ク系文化の伸張だったと捉えている。  そのような浮遊感は、あらためて言うまでもなく、 バブル崩壊に始まり、阪神・淡路大震災、オウム真 理教事件、援助交際や学級崩壊が相次いで話題と なった九〇年代にはほとんど消滅してしまった。と ころがオタク系文化の周辺においては、その幻想が 例外的に生き続けてきたように思われる。というの も、アニメやゲームが世界的評価を獲得し、またそ の強さが一般に知られるようになったのは、まさに 九〇年代に入ってからのことだったからだ。  実際に、九〇年代後半のオタク系の論客の主張は、 かつてのポストモダニズムの言説を知る読者にとっ ては、懐かしさすら感じさせる独特の古さを帯びて いる。たとえば岡田は「オタク文化が世界の主流に なりつつあるのではないか」と述べ、また村上は 「日本は世界の未来かもしれない」と記しているが、 これらの発言はじつは、「この三百年、五百年ぐら いで、今ほど日本主義がトレンディな時代はないわ けで、浮世絵以上じやないかな」という八五年の坂 本龍一の発言とかぎりなく似ている(注16)。オタ ク系文化をめぐる言説はこの点で、九〇年代のあい だも、相変わらず八〇年代の浮遊感を継承し、甘美 なナルシシズムを生き続けてきたと言ってよい。 アメリカ産の材料で作られた疑似日本  したがってオタク系文化と「日本」の関係は、集 団心理的に大きく二つの方向に引き裂かれてきたと 言うことができる。オタク系文化の存在は、一方で、 敗戦の経験と結びついており、私たちのアイデン ティテイの脆弱さを見せつけるおぞましいものであ る。というのも、オタクたちが生み出した「日本 的」な表現や主題は、じつはすべてアメリカ産の材 料で作られた二次的で奇形的なものだからだ。しか しその存在は、他方で、八〇年代のナルシシズムと 結びつき、世界の最先端に立つ日本という幻想を与 えてくれるフェテイシュでもある。というのも、オ タクたちが生み出した疑似日本的な独特の想像力は、 アメリカ産の材料で出発しつつ、いまやその影響を 意識しないですむ独立した文化にまで成長したから だ。  オタク系文化に向けられる過剰な敵意と過剰な賞 賛はともにここから生じているが、結局その両者の 根底にあるのは、私たちの文化が、敗戦後、アメリ カ化と消費社会化の波によって根こそぎ変えられて しまったことへの強烈な不安感である。いま私たち の手元にあるのは、もはや「アメリカ産の材料で作 られた疑似日本」でしかない。私たちはファミレス やコンビニやラブホテルを通してしか囗本の都市風 景をイメージできないし、またその貧しさを前提と してねじれた想像力を長いあいた働かせている。そ の条件を受け入れることができなければオタク嫌い になるし、逆にその条件に過剰に同一化してしまう とオタクになる、そういうメカニズムがこの国のサ ブカルチャーでは働いているのだ。だからこそ、あ る世代より以下の人々は、たいていオタク好きかオ タク嫌いかくっきりと分かれてしまうのである。  オタクたちが好む疑似囗本の姿について、最後に もうひとつだけ分かりやすい例を挙げておこう。九 六年から九七年にかけて放映された、あかほりさと る原作のTVアニメ『セイバーマリオネットJ』は、 一見チーフなドタバタSFコメディだが、そのため にかえってオタク的な幻想の構造をみごとに反映し た、興味深い作品だった。  この作品の舞台は、男性しかいない架空の惑星で ある。そこでは女性はアンドロイドしかおらず、 「マリオネット」と呼ばれている。他方、男性たち も、じつはすべて数人のオリジナルから作られたク ローンにすぎない。オリジナルを共有するクローン 集団は、それぞれ、直系のクローンに治められて 別々の都市国家を作っている。『セイバーJ』はそ のなかでさらに、江戸を擬して作られた都市「ジャ ポネス」を舞台とし、主人公の男性と、あるきっか けから「心」を抱えてしまった三体の特殊なマリオ ネットたちを中心に進んでいく。  それら三体のマリオネットの役割は、当初主人公 にも視聴者にも伏せられている。しかし物語のなか で少しずつ設定が明らかになっていく。作品世界の 惑星は地球人の植民星であり、もともとは女性もい るはずだった。女性がいないのは植民船のコン ピュータートラブルが原因だ。植民船に乗り込んで いた唯一の女性は、いまも冷凍睡眠で保存され、惑 星の上空を周回している。しかし、その女性を解凍 して惑星に降ろすためには、彼女を独占し保護して いる狂ったコンピュータを何とかして騙さなければ ならない。そのために、人間の「心」にかぎりなく 近い疑似的なプログラムを育て、女性のかわりに差 し出すという計画が作られた。その「心」はあくま でもフェイクなので、真実の心と交換するには三つ 存在しなければならない。登場するマリオネットた ちは、そのプログラムを育てるために作られた。つ まり彼女たちは、じつは、単なる代用品ではなく、 オリジナルと交換するために作られたコピー、人間 の女性をふたたび降臨させるための生贄だったのだ。 この事実を知ることから、主人公の葛藤が始まる。 つまりこの作品の主題は、「フェイクな人格しか持 だないが長いあいた連れ添ったマリオネット」と 「真実の人格を持つらしいが見たことも聞いたこと もない他人」のどちらを選ぶのか、本物に見える偽 物と見たことのない本物のどちらを選ぶのか、その 二者択一である。  この設定は、コミュニケーション一般の問題だけ ではなく、オタクたちの世界観をみごとに寓話化し ている。近くには、あくまでも想像物でしかないが、 しかし十分に性的であり、また十分に感情移入がで きるキャラクターが存在する。他方、遠くには現実 の異性がいるが、それは人工衛星のように手の届か ないものであり、かりに届いたとしても、そのとき は、長いあいた築き上げてきたキャラクターヘの感 情移入を引き替えに捨てなくてはならない。この二 者択一の感覚は、次章で詳しく分析するような 「ギャラ萌え」に駆動された九〇年代のオタクたち、 とりわけ、ギャルゲー(これについても後述する)や フィギュアの大きなブームを迎えた男性のオタクた ちにとっては、かなり実感に近いものだったように 思われる。 江戸の町人文化という幻想  そして本章の文脈でここで注目すべきなのが、そ のオタクたちの幻想が営まれる場所が、江戸時代の 町人文化に擬した一種のテーマパークのように描か れていたことである。前掲のコジエーヴをはじめと して、日本の江戸時代はしばしば、歴史の歩みが止 まり、自閉的なスノビズムを発達させた時代として 表象されてきた。そして高度経済成長以降の日本は。 「昭和元禄」という表現があるように、自分たちの 社会を好んで江戸時代になぞらえていた。ポストモ ダニストたちの江戸論は、八〇年代に幾度もメディ アを賑わしている。  この欲望のメカニズムは理解しやすい。日本の文 化的な伝統は、明治維新と敗戦で二度断ち切られて いる。加えて戦後は、明治維新から敗戦までの記憶 は政治的に大きな抑圧を受けている。したがって、 八〇年代のナルシスティックな日本が、もし敗戦を 忘れ、アメリカの影響を忘れようとするのならば、 江戸時代のイメージにまで戻るのがもっともたやす い。大塚や岡田のオタク論に限らず、江戸時代がじ つはポストモダンを先取りしていたというような議 論が頻出する背景には、そのような集団心理が存在 する。  したがってそこで見出された「江戸」もまた、現 実の江戸ではなく、アメリカの影響から抜け出そう として作り出された一種の虚構であることが多い。 『セイバーJ』が描くジャポネスは、まさに、その ようなポストモダニスト=オタクたちの江戸的な想 像力のいかがわしさを体現している(図2)。超近 代的な科学技術と前近代的な生活習慣を混ぜ合わせ て設定されたその光景は、まったくリアリティを欠 いている。TVアニメという性格上、登場人物は強 いデフォルメでデザインされ、過剰に非現実的な感 情表現をする。ジャポネス城は変形してロボットに なるし、マリオネットたちの衣装もまた和服に似せ てはいるものの、セクシュアルーアピールを強調す るため随所に変形が加えられた結果、まるでイメク ラのコスチュームのようになっている。低予算で作 られたアニメのせいか、映像的にもセルの使い回し が多く、主人公以外の男性たちは、数人を除きほと んど描き分けられることがない。おまけに物語の多 くはドタバターコメディであり、シリアスな設定と 齟齬を起こしている。物語的にも映像的にも、ここ にはいかなる深さもなく、いかなる一貫性もない。 しかしそれはある意味で、オタク的な疑似囗本の戯 画であり、また、現代囗本の文化状況の戯画でもあ る。制作者たちがそのようなメッセージを自覚的に 込めたとは思わないが、筆者は以上の点で、『セイ    いい頻暼Aい万。。 瓢 オタク系文化の重要性  ここまでの議論でも明らかなように、オタク系文 化についての検討は、この国では決して単なるサブ カルチャーの記述には止まらない。そこにはじつは、 囗本の戦後処理の、アメリカからの文化的侵略の、 近代化とポストモダン化か与えた歪みの問題がすべ て入っている。したがってそれはまた政治やイデオ ロギーの問題とも深く関係している。たとえば、冷 戦崩壊後のこの匸一年間、小林よしのりや福田和也 から鳥肌実にいたるまで、囗本の右翼的言説は一般 にサブカルチャー化しフェイク化しオタク化するこ とで生き残ってきたとも言える。したがって彼らが 支持されてきた理由は、サブカルチャーの歴史を理 解せず、主張だけを追っていたのでは決して捉える ことができない。筆者はこの問題にも強い関心を抱 いており、いつか機会があれば主題的に論じてみた いと考えている。  しかしそれは本書の主題ではない。本書での筆者 の関心はオタク系文化のまた別の特徴にあり、そち らは今度は日本という枠組みを越え、より大きなポ ストモダンの流れと呼応している。オタク系文化に ついて考えることの重要性を理解してもらったとこ ろで、いよいよ本論に入ることにしよう。 第二章 データベース的動物 I オタクとポストモダン シミュラークルの増殖  オタク系文化の本質とポストモダンの社会構造の あいだに深い関係がある、という筆者の主張は、別 にそれだけでは新しいものではない。オタク系文化 のポストモダン的な特徴としては、すでにつぎの二 点が指摘されている。  ひとつは「二次創作」の存在である。二次創作と は、原作のマンガ、アニメ、ゲームをおもに性的に 読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲー ム、同人フィギュアなどの総称である。それらはお もに、年二回東京で開催されるコミケや、全国でよ り小規模に無数に開催されている即売会、またイン ターネットなどを介して活発に売買が行われている。 アマチュアベースとはいえ、この二〇年間、その市 場は量的にも質的にもオタク系文化の中核を占め、 大量の部数が動き、数多くのプロの作家がそこから 育っている。オタク系文化の動向は、商業ベースで 発表される作品や企画だけではなく、それらアマ チュアベースの二次創作まで視野に入れないと捉え られない。  この特徴かポストモダン的だと考えられているの は、オタクたちの二次創作への高い評価が、フラン スの社会学者、ジヤンーボードリヤールが予見した 文化産業の未来にきわめて近いからである。ボード リヤールはポストモダンの社会では、作品や商品の オリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちら でもない「シミュラークル」という中間形態が支配 的になると予測していた(注17)。原作もパロディ もともに等価値で消費するオタクたちの価値判断は、 確かに、オリジナルもコピーもない、シミュラーク ルのレベルで働いているように思われる。  しかもその変化は消費者の側に止まっていない。 商業誌で数百万部を売る作家が自ら自作の二次創作 を制作し、発売する例はいまや珍しいものではない。 たとえば『セーラームーン』の原作者がコミケに出 品していたことは広く知られている。また、厳密に は二次創作ではないが、『エヴアングリオン』の制 作会社は自ら本編のパロディ的なソフトをいくつも 発売している。そこではもはや、生産者にとってさ え、オリジナルとコピーの区別が消えている。以上 に加えて、そもそもオタク系のジャンルではリアリ ズムの意識が希薄であり、原作とされる作品でさえ、 先行作品の模倣や引用で世界が作られることが多い ということも挙げられる。現実世界を参照すること なく、最初から先行作品のシミュラークルとして原 作が作られ、さらにそのシミュラークルのシミュ ラークルが同人活動によって増殖し、次々と消費さ れていく。オタク系文化の作品は、近代的なひとり の作家によってではなく、そのような無数の模倣や 剽窃の連鎖のなかで生み出されているわけだ。 大きな物語の凋落  もうひとつは、オタクたちの行動を特徴づける虚 構重視の態度である。その態度は、単に彼らの趣味 だけでなく、また人間関係も決定している。オタク たちの人間関係は、親族関係や職場のような社会的 現実(と呼ばれるもの)とは関係なく、アニメや ゲームの虚構を中核とした別種の原理で決められて いることが少なくない。その振る舞いはオタク以前 の世代からするとモラトリアムや退行にしか見えな いため、ここにときに軋轢が生じることになる。  「オタク」という総称は、一九七〇年代から八〇年 代にかけて、オタクたちがたがいに「おたく」と呼 び合っていたことから生まれた。批評家の中島梓は、 『コミュニケーション不全症候群』で、この呼び名 にはオタクの本質がすでにはっきり現れていると論 じている。「お宅、という語が示すものは、その関 係の個人的でないこと、家単位の関係、自分のテリ トリーをしょってここにいるのであるということの 主張である」と彼女は記している。そのようなテリ トリーが必要とされるのは、中島によれば、オタク たちが、父親や国家の権威が失墜したのち、それで も帰属すべき集団を探さなければならないからだと いう。オタクたちが「どでかい紙袋に山のような本 や雑誌や同人誌や切抜きをつめこんでヤドカリの移 動さながらどこへゆくにも持ち歩く」のは、彼らが っねに、「自我の殼」を、すなわち帰属集団の幻想 そのものを持ち歩かなければ精神的に安定しないか らだ(注18)。「おたく」という二人称には、そのよ うな帰属集団の幻想をたがいに承認しあう役割が与 えられている。この中島の指摘は重要である。オタ クたちは確かに、社会的現実よりも虚構のほうを重 視している。ジャーナリズムはしばしば、この観察 から安易にオタクたちは現実とゲームの区別もつか ないと結論づけている。  しかしそのような結論は賢明ではない。オタクだ ちがすべて精神病者というわけではない以上、虚構 と現実の区別がつかなくなることはありえない。む しろその選択は、中島が説明したように彼らのアイ デンティティと関係している。オタクたちが社会的 現実よりも虚構を選ぶのは、その両者の区別がつか なくなっているからではなく、社会的現実が与えて くれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範のあ いたのどちらが彼らの人間関係にとって有効なのか、 たとえば、朝日新聞を読んで選挙に行くことと、ア ニメ誌を片手に即売会に並ぶことと、そのどちらが 友人だちとのコミュニケーションをより円滑に進ま せるのか、その有効性が天秤にかけられた結果であ る。そのかぎりで、社会的現実を選ばない彼らの判 断こそが、現在の日本ではむしろ社会的で現実的だ とすら言える。オタクたちが趣味の共同体に閉じこ もるのは、彼らが社会性を拒否しているからではな く、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、 別の価値規範を作り上げる必要に迫られているから なのだ。  そしてこの特徴かポストモダン的だと言えるのは、 単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小 さな規範の林立に取って替わられるというその過程 が、まさに、フランスの哲学者、シャンHフランソ ワーリオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋 落」に対応していると思われるからである(注19)。 一八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、 成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシス テムが整備され、その働きを前提として社会が運営 されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には 人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革 命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位と して現れてきた。「大きな物語」とはそれらシステ ムの総称である。  近代は大きな物語で支配された時代だった。それ に対してポストモダンでは、大きな物語があちこち で機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に 弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長 と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤 軍事件を経た七〇年代に加速した。オタクたちが出 現したのは、まさにその時期である。そのような観 点で見ると、ジャンクなサブカルチャーを材料とし て神経症的に「自我の殼」を作り上げるオタクたち の振る舞いは、まさに、大きな物語の失墜を背景と して、その空自を埋めるために登場した行動様式で あることがよく分かる。  この点でもうひとり参考になるオタク論を展開し ているのが、社会学者の大津真幸である。彼は九五 年の「オタク論」で、オタクたちにおいては内在的 な他者と超越的な他者の区別が「失調」しており、 そのため彼らはオカルトや神秘思想に強く惹かれる のだ、と分析している(注20)。ここで「内在的な 他者と超越的な他者の区別」というのは、平たく言 えば、自分の身の回りにある他人の世界(経験的世 界)と、それらを超えた神の世界(超越的世界)の 区別を意味する。オタクたちはその両者を区別でき ず、その結果、サブカルチャーを題材とした疑似宗 教にたやすく引っかかってしまう。そのような失調 は、かつての近代社会では個人の未成熟として切り 捨てることができただろうが、ポストモダン社会で はそう簡単にはいかない。というのも、私たちが生 きているこの社会そのものが、いまや大きな物語の 失調によって特徴づけられるものだからだ。伝統に 支えられた「社会」や「神」の大きさをうまく捉え ることができず、その空自を近くのサブカルチャー で埋めようとするオタクたちの行動様式は、ポスト モダンのそのような特徴をよく反映している。  オタク系文化はこのように、シミュラークルの全 面化と大きな物語の機能不全という二点において、 ポストモダンの社会構造をきれいに反映している。 この二点については、先述したもののほかにも随所 で論考が積み重ねられており、いまさら付け加える べきことはあまりない。したがって筆者は本章では、 この二点を前提としたうえで、つぎのような二つの 疑問を導きの糸として、オタク系文化の、ひいては そこに凝縮されたポストモダン社会の特徴について 考察を進めていこうと思う。  その二つの疑問とは、   (I)ポストモダンではオリジナルとコピーの区  別が消滅し、シミュラークルが増加する。それは  よいとして、ではそのシミュラークルはどのよう に増加するのだろうか? 近代ではオリジナルを 生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンで シミュラークルを生み出すのは何ものなのか?  (2)ポストモダンでは大きな物語が失調し、 「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーか ら捏造されるほかなくなる。それはよいとして、 ではその世界で人間はどのように生きていくの か? 近代では人間性を神や社会が保証すること になっており、具体的にはその実現は宗教や教育 機関により担われていたのだが、その両者の優位 が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしま うのか? である。 2 物語消費  『物語消費論』  第一の問いから出発しよう。ここで筆者が注目し たいのは、まず、さきほども参照した大塚英志の 『物語消費論』である。そこで大塚は、前述のよう なシミュラークルの全面化を前提としたうえで、さ らに、ではそのシミュラークルがどのような論理に 従って生産され消費されているのか、一歩踏み込ん だ分析を行っている。後々まで参照するので、詳し く引用しておこう。   コミックにしろ玩具にしろ、それ自体が消費さ  れるのではなく、これらの商品をその部分として  持つ〈大きな物語〉あるいは秩序が商品の背後に  存在することで、個別の商品は初めて価値を持ち 初めて消費されるのである。そしてこのような消 費行動を反復することによって自分たちは〈大き な物語〉の全体像に近づけるのだ、と消費者に信 じこませることで、同種の無数の商品(「ビックリ マン」のシールなら七七二枚)がセールス可能にな る。「機動戦士ガンダム」「聖闘士星矢」「シルバ ニアフアミリー」「おニヤン子クラブ」といった 商品はすべて、このメカニズムに従って、背後に 〈大きな物語〉もしくは秩序をあらかじめ仕掛け ておき、これを消費者に察知させることで具体的 な〈モノ〉を売ることに結びつけている。   【中略】  プログラムそのものへの関心が特定のマニアに 限定されているうちはよかっだのだが、アニメや コミック、玩具といった限られた分野に関しては これが明らかに消費者の共通感覚と化しつつある のが現状だ。ここに今日の消費社会が迎えつつあ る新たな局面が見てとれる。消費されているのは、 一つ一つの〈ドラマ〉や〈モノ〉ではなく、その 背後に隠されていたはずのシステムそのものなの である。しかしシステム(=大きな物語)そのも のを売るわけにはいかないので、その一つの断面 である一話分のドラマや一つの断片としての〈モ ノ〉を見せかけに消費してもらう。このような事 態をぼくは「物語消費」と名付けたい。   【中略】  しかしこのような〈物語消費〉を前提とする商 品は極めて危うい側面を持っている。つまり、消 費者が〈小さな物語〉の消費を積み重ねた果てに 〈大きな物語〉=プログラム全体を手に入れてし まえば、彼らは自らの手で〈小さな物語〉を自由 に作り出せることになる。例えば以下のような ケースが考えられよう。著作権者であるメーカー に無許可で、誰かが〈スーパーゼウス〉に始まる 七七二枚のビックリマンシールのうちの一枚を そっくり複写したシールを作れば、これは犯罪で ある。こうして作られたシールは〈偽物〉である。 これは今までいくらでもあった事件である。とこ ろが同じ人間が、「ビックリマン」の〈世界観〉 に従って、これと整合性を持ちしかも七七二枚の シールに描かれていない七七三人目のキャラク ターを作り出し、これをシールとして売り出した としたらどうなるのか。これは七七二枚のオリジ ナルのいずれを複写したものでもない。したがっ てその意味では〈偽物〉ではない。しかも、七七  三枚目のシールとして七七二枚との整合性を持つ  ているわけであるから、オリジナルの七七二枚と  も同等の価値を持っている。〈物語消費〉の位相  においては、このように個別の商品の〈本物〉  〈偽物〉の区別がつかなくなってしまうケースが  でてくるのだ[注刀])。 ツリー型世界からデータペース型世界へ  大塚はここで、「小さな物語」という言葉を、特 定の作品のなかにある特定の物語を意味するものと して用いている。対して「大きな物語」とは、その ような物語を支えているが、しかし物語の表面には 現れない「設定」や「世界観」を意味する。  そして大塚によれば、オタク系文化においては、 個々の作品はもはやその「大きな物語」の入口の機 能を果たしているにすぎない。消費者が真に評価し、 買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ実際 には、設定や世界観をそのまま作品として売ること は難しい。したがって現実には、実際の商品は「大 きな物語」であるにもかかわらず、その断片である 「小さな物語」が見せかけの作品として売られる、 という二重戦略が有効になる。大塚はこの状況を 「物語消費」と名づけた。二次創作というシミュ ラークルの氾濫は、その当然の結果にすぎない。  この指摘はじつは、サブカルチャーの状況分析に とどまらず、ポストモダンの原理論としても示唆的 である。ここで簡単に説明しておくと、ポストモダ ンの到来の前、大きな物語が機能した近代とは、だ いたい図3aのようなツリー・モデル(投射モデル) で世界が捉えられていた時代である。一方には、私 たちの意識に映る表層的な世界があり、他方にその 表層を規定している深層=大きな物語がある。した がって近代では、その深層の構造を明らかにするこ とこそが学問の目的だと考えられてきた。  ところがポストモダンの到来によって、そのツ リー型の世界像は崩壊してしまった。ではポストモ ダンの世界はどのような構造をしているのか。一九 八〇年代の日本では、そのひとつの候補として、深 層が消滅し、表層の記号だけが多様に結合していく 「リゾーム」というモデルが示されることが多かっ た(注22)。しかし筆者の考えでは、ポストモダン の世界は、むしろ図3bのようなデータベースーモ デル(読み込みモデル)で捉えたほうが理解しやす い。  その分かりやすい例がインターネットである。そ こには中心がない。つまり、すべてのウェブページ を規定するような隠れた大きな物語は存在しない。 しかしそれはまた、リソームーモデルのように表層 的記号の組み合わせだけで成立した世界でもない。 インターネットにはむしろ、一方には符号化された 情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに 応じて作られた個々のウェブページがある、という 別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツ リー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に 現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ) を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、 隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側 にあるという点である。近代のツリー型世界では表 層は深層により決定されていたが、ポストモダンの データベース型世界では、表層は深層だけでは決定 されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表 情を現す。  筆者の考えでは、このモデルの変更は、単に社会 的にインターネットの出現だけではなく、学問的に も、自己組織化や人工生命やニューラルーネットな ど、九〇年代に広く注目された複雑系の科学の発想 にはっきりと現れている。しかしここではポストモ ダン論の細部に踏み込むことはやめておこう。以下 の議論を追うためには、とりあえず、近代の世界像 がツリー型であるのに対してポストモダンの世界像 はデータベース型であり、前者の深層には大きな物 語があるが後者の深層にはそれはない、という点だ け押さえてくれれば十分だ。  さて、このような前提のうえでさきほどの大塚の 文章を読み返すと、そこに記された物語消費の構造 が、まさにこのデータベースーモデルの構造を反映 していることが理解できるだろう。「小さな物語」 と「設定」の二層構造とは、見せかけと情報の二層 構造のことである。物語消費に支配されたオタク系 文化においては、作品はもはや単独で評価されるこ とがなく、その背後にあるデータベースの優劣で測 られる。そしてそのデータベースはユーザーの側の 読み込みによっていくらでも異なった表情を現すの だから、ひとたび「設定」を手に入れてしまえば、 消費者はそこから原作と異なった二次創作をいくら でも作り出すことができる。この状況を表層でだけ 捉えれば、オリジナルの作品=原作が無秩序にシ ミュラークルの海に呑み込まれていくように見える。 しかし実際には、それは、まずデータベース=設定 があり、その読み込み方によって、原作もできれば 二次創作もできるという現象だと捉えたほうがよい。  つまリオタク系の消費者たちは、ポストモダンの 二層構造にきわめて敏感であり、作品というシミュ ラークルが宿る表層と設定というデータベースが宿 る深層を明確に区別しているのだ。この二層構造は、 以下、本書のなかで幾度も登場するので、ここで しっかりと頭に入れておいてもらいたい。 3 大きな非物語 大きな物語の凋落とその補填としての虚構  この大塚の指摘はいまも基本的に有効性を失って いない。しかし筆者はそこにひとつ修正を加えたい。 大塚は設定や世界観のことを「大きな物語」と呼ん でいた。彼がその言葉を用いたのは、当時流行して いたポストモダニズムの影響だけでなく、一九八〇 年代末ではまだオタク系作品にひとつの世界観や歴 史観を見出すことが一般的だったからである。たと えば『ガンダム』においては、七九年に放映された 最初のTVシリーズ以降、『機動戦士Zガンダム』 『逆襲のシヤア』『機動戦士ガンダムZZ』などと続 く作品のほとんどが、同じ架空の歴史に属するもの として構想されている。したがって『ガンダム』の フアンたちの欲望は必然的にこの偽史の精査と充実 に向かうのであり、事実、『ガンダム』の関連書籍 はつねにメカニックのデータや年表に覆われている。 そこでは確かに、中島梓が指摘したとおり、現実と は別の物語=虚構が作られている。  そしてその虚構の物語は、ときに現実の大きな物 語(政治的なイデオロギー)の替わりとして大きな役 割を果たしている。そのもっとも華々しい例が、サ ブカルチャーの想像力で教義を固め、最終的にテロ にまで行き着いてしまったオウム真理教の存在であ る。大津真幸が『虚構の時代の果て』で分析したよ うに(注23)、七〇年代の連合赤軍と九〇年代のオ ウム真理教の違いは、ただ、前者が共産主義という 社会的に認知された物語を信じたのに対し、後者が オウム真理教という認知されにくい物語を信じてい たことにあるにすぎない。  八〇年代の物語消費もまた、同じような社会的条 件を背景に登場している。大塚自身が物語消費の台 頭の理由として、現代社会における「異界」や 「死」の消滅、つまり超越的なものの消滅を指摘し ているぶ恣傾。したがって、彼がサブカルチャー を支える設定や世界観の集積を「大きな物語」と呼 んだのはまったく適切だったとも言える。八〇年代 の状況では、それは確かに、大きな物語の凋落を補 うために作られたもののように見えたはずだからで ある。 イデオロギーから虚構へ  大きな物語の凋落とその補填、というこのメカニ ズムは、もう少し視野を広げても位置づけることが できる。二〇世紀の後半はそもそも、日本だけでな く、世界的に、二つの時代に挟まれた大きな変動期 だった。五〇年代までの世界では近代の文化的論理 が有力であり、世界はツリー型で捉えられていた。 したがってそこでは必然的に、大きな物語がたえず 生産され、教育され、また欲望されていた。たとえ ばそのひとつの現れが学生の左翼主義への傾倒だっ た。  しかし時代は六〇年代に大きく変わり、七〇年代 以降は、逆に急速にポストモダンの文化的論理が力 を強める。そこではもはや、大きな物語は生産もさ れないし、欲望もされない。ところがこのような変 動は、ちょうどその時期に成熟した人々に大きな負 担を与える。なぜなら彼らは、世界そのものがデー タベース的なモデルで動き始めているにもかかわら ず、教育機関や著作物を通じて、古いツリー型のモ デル(大きな物語への欲望)を植え付けられてしまっ ているからだ。結果としてこの矛盾は、特定の世代 を、失われた大きな物語の捏造に向けて強く駆動す ることになる。ここでは詳しく述べないが、たとえ ば、七〇年代のアメリカで高まったニューサイエン スや神秘思想への関心、世界的に生じた学生運動の 過激化などはそのひとつの結果だと考えられる。そ して囗本のオタク系文化の台頭もまた、やはり同じ 社会的背景を共有している。当時の第一世代のオタ クにとって、コミックやアニメの知識や同人活動は、 全共闘世代にとっての思想や左翼運動ときわめて近 い役割を果たしていた。 大きな物語を必要としない世代の登場  しかしそのような複雑な心理がいまでもオタク系 文化を規定しているかといえば、それはまた別の問 題である。むしろ筆者には、逆に、近代からポスト モダンヘの流れは、進むにつれて、そのような捏造 の必要性を薄れさせていくように思われる。という のも、ポストモダンの世界像のなかで育った新たな 世代は、はじめから世界をデータベースとしてイ メージし、その全体を見渡す世界視線を必要としな         丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 い、すなわち、サブカルチャーとしてすら捏造する 必要がないからだ。もしそうだとすれば、失われた 大きな物語の補填として虚構を必要とした世代と、 そのような必要性を感じずに虚構を消費している世 代とのあいたに、同じオタク系文化といっても、表 現や消費の形態に大きな変化が現れているに違いな い。  そして実際にその新しい傾向は、大塚の評論が発 表されたあと、九〇年代のI〇年間でかなりはっき りと目に見えるものになってきた。九〇年代のオタ クたちは一般に、八〇年代に比べ、作品世界のデー タそのものには固執するものの、それが伝えるメツ セージや意味に対してきわめて無関心である。逆に 九〇年代には、原作の物語とは無関係に、その断片 であるイラストや設定だけが単独で消費され、その 断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強め ていく、という別のタイプの消費行動が台頭してき た。この新たな消費行動は、オタクたち自身によっ て「ギャラ萌え」と呼ばれている。後述のように、 そこではオタクたちは、物語やメッセージなどほと んど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々 と消費している。したがって、この消費行動を分析 するうえでは、もはや、それら作品の断片が「失わ れた大きな物語」を補填している、という図式はあ まり適切でないように思われる。  『エヴァングリオン』のファンが求めていたもの  具体例に沿って検討してみよう。筆者はさきほど 『機動戦士ガンダム』に触れた。九〇年代には、『新 世紀エヴァングリオン』が『ガンダム』と頻繁に比 較されてきた。というのも、この両者とも、近未来 の戦闘に巻き込まれる少年を主人公としたSFアニ メであり、主人公と近い世代から支持を得て社会的 な話題となった作品だからである。しかし実際には、 この両者は、物語に対するまったく異なったタイプ の態度に支えられ消費された作品だと言うことがで きる。  前述のように『ガンダム』のファンの多くは、ひ とつのガンダム世界を精査し充実させることに欲望 を向けている。つまりそこでは、架空の大きな物語 への情熱がいまだ維持されている。しかし、九〇年 代半ばに現れた『エヴアングリオン』のフアンたち、 とりわけ若い世代(第三世代)は、ブームの絶頂期 でさえ、エヴアングリオン世界の全体にはあまり関 心を向けなかったように思われる。むしろ彼らは最 初から、二次創作的な過剰な読み込みやギャラ萌え の対象として、キャラクターのデザインや設定にば かり関心を集中させていた。  つまりそこでは、ガンダム世界のような大きな物 語=虚構は、もはや幻想としても欲望されていな かった。『ガンダム』のファンは「宇宙世紀」の年 表の整合性やメカニックのリアリティに異常に固執 することで知られている。それに対して、『エヴァ ングリオン』のファンの多くは、主人公の設定に感 情移入したり、ヒロインのエロティックなイラスト を描いたり、巨大ロボットのフィギュアを作ったり することだけのために細々とした設定を必要として いたのであり、そのかぎりでパラノイアックな関心 は示すが、それ以上に作品世界に没入することは少 なかったのである。  そしてこの変化はまた、消費者や二次創作者の側 だけではなく、原作者の側にもはっきりと現れてい る。『ガンダム』は、七九年に放映された最初のT Vシリーズ以降、つぎつぎと続編が作られたことで も有名な作品である。そしてそのほとんどは、総監 督である富野由悠季の監修のもと、ひとつの架空の 歴史に沿って展開されている。対して『エヴアング リオン』には続編が作られていないし、また作られ る予定もない。かわりに原作者の制作会社ガイナッ クスが展開しているのは、本章の冒頭でも述べたよ うに、コミケで売られている二次創作にかぎりなく 近い発想の関連企画、たとえば、登場人物を使った 麻雀ゲームであり、エロティックな図柄のテレフォ ンカードであり、さらにはヒロインの綾波レイを対 象とした育成シミュレーショングームである。この 両者の原作に対する考え方には、きわめて大きな隔 たりがある。  さらに重要なのは、この変化が、原作の再利用や 周辺企画だけではなく、また原作の構造そのものに も大きな影響を及ぼしていたことである。『エヴア ングリオン』の監督を務めた庵野秀明は、富野とは 異なり、最初からコミケでの二次創作の出現を予測 し、むしろその生産を奨励するかのような仕掛けを 原作内に大量に配置している。たとえばTVシリー ズ最終話では、まったく異なった性格の綾波レイが 住む、まったく別の歴史を歩んだエヴアングリオン 世界が挿入されるのだが、そこで描かれる光景は、 じつは放映時にすでに二次創作として大量に流通し ていたイメージのさらなるパロディである。つまり そこには、オリジナルがシミュラークルをあらかじ めシミュレートする、というきわめてねじれた関係 が織り込まれていたことになる。  またこの作品には二つの劇場公開版があるが、そ のいずれも、TVシリーズの直接の続きというより、 その世界を別のヴァージョンで語り直す構成になっ ている。その性格はとりわけ、九七年に総集編とし て作られた『EVANGELION DEATH』 で明確であり、そこではTVシリーズの映像はすべ てリミックスの素材に変えられ、統一した物語なし に断片として提示されている。  これらの特徴はすべて、『エヴアングリオン』と いうアニメが、そもそも特権的なオリジナルとして ではなく、むしろ二次創作と同列のシミュラークル として差し出されていたことを示している。言い換 えれば、この作品でガイナックスが提供していたも のは、決してTVシリーズを入口としたひとつの 「大きな物語」などではなく、むしろ、視聴者のだ れもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語 を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体 だったわけである。  筆者は以下、小さな物語の背後にありながら、も はや決して物語性をもたないこの領域を、大塚の 「大きな物語」と対比させて「大きな非物語」と呼 びたいと思う。『エヴアングリオン』の消費者の多 くは、完成したアニメを作品として鑑賞する(従来 型の消費)のでも、『ガンダム』のようにその背後に 隠された世界観を消費する(物語消費)のでもなく、 最初から情報=非物語だけを必要としていたのだ。 4 萌え要素 物語とマグカップが同列の商品  それでも『エヴアングリオン』においては、原作 のTVシリーズは、大きな物語ではないにせよ、い    丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 まだデータベースに近づくための入口として機能し ていたと言えるかもしれない。しかし『エヴアング リオン』以降、ここ数年のオタク系文化は、じつは その必要性すら急速に放棄しつつある。  ここで重要なのがメディアミックスの台頭である。 現在のオタク系市場においては、コミックの原作が アニメ化され、次いで関連商品や同人誌が出される といった順序はもはや支配的ではない。たとえば、 アニメの企画がいつのまにかゲームに転用され、完 成以前にすでにラジオドラマやイベントで支持を集 め、その段階で関連商品が流通する、あるいは逆に、 ゲームやトレーディングーカード(トレカ)がまず 商品として成功し、続いて同人アンソロジー(原作 者の許諾のもとで作られる二次創作集)やノベライズ が出版され、アニメ化され、コミック化される、こ のような入り組んだ同路が幾重にも張り巡らされて いる。そのような状況では、何か原作でだれが原作 者であるかはきわめて曖昧になるし、消費者もその 存在をほとんど意識することがない。彼らにとって 存在するのは、原作(オリジナル)と関連商品(コ ピー)の区別ではなく、匿名的に作られた設定(深 層にあるデータベース)と、その情報をそれぞれの アーティストが具体化した個々の作品(表層にある シミュラークル)、その両者の区別のみである。そこ ではもはや、設定や世界観への入口となるオリジナ ル=原作という考え方すら不適切になりつつある。  この傾向を理解するうえでもっとも重要な例は、 一九九八年に誕生した「デージーキャラット」、通 称「でじこ」と呼ばれるキャラクターである(図 4)。このキャラクターはもともと、アニメーゲー ム系関連商品を取り扱う販売業者のイメージーキャ ラクターとして作られた。したがってその背景には いかなる物語も存在しない。それが九八年の後半よ り徐々に人気を集め、九九年にTVCMでブレイク し、二〇〇〇年にはアニメ化やノベライズもされ、 いまでは確固たる作品世界を備えている。  この過程で注目すべきは、そこで作品世界を形作 る物語や設定が、すべて、でじこのデザインが単独 で支持を集めたあと、市場の期待に応えるかたちで 集団的かつ匿名的に作られてきたことである。たと えばこの作品には「うさだヒカル」と「プチーキャ ラット」(通称「ぷちこ」)と呼ばれるキャラクター が存在するが(図5)、それらは九九年にようやく 発表されたものであり、前者は名前すら公募で決定 されている。また、いまではでじこには「生意気で うかつ」という性格が加えられているが、この設定 も最初から用意されていたものではなく、アニメ化 に際して半ば自己パロディ的に付け加えられたもの だ。  しかも『エヴアングリオン』とは異なり、これら の展開は特定の作家や制作会社が制御しているもの ではない。というのもこの作品は、基本的には一企 業の宣伝企画にすぎないからである。このような状 況においては、コアージーキャラット』のオリジナ ルがどのような作品で、その作者がだれで、そこに どのようなメッセージが込められているかを問うこ とは、まったく意味をなさない。この企画は最初か ら断片の力を基本として動いているのであり、そこ では、従来ならば「作品」として独立して語られる アニメやノベルのような企画も、マグカップやクリ アファイルと同じ関連商品のひとつでしかない。物 語はここでは、もはや設定やイラスト(非物語)に 添え物として寄せられる余剰品にすぎないのだ。 萌え要素の組み合わせ  しかもそれだけではない。コアージーキャラット』 でもうひとつ興味深いのは、前述した物語やメッ セージの不在を補うかのように、そこでギャラ萌え を触発する技法が過剰に発達している点である。筆 者はさきほど、でじこのデザインがまず単独で支持 を集めたと記した。ではそれがとくに個性的で魅力 的なものかといえば、そう指摘するのも難しい。実 際にはでじこのデザインは、デザイナーの作家性を 排するかのように、近年のオタク系文化で有力な要 素をサンプリングし、組み合わせることで作られて いる。その代表的なものを明示すれば、図6のよう になるだろう。  ここで各要素の性質について述べる余裕はないが。 これらの要素が、それぞれ特定の起源と背景をもち、 消費者の関心を触発するため独特の発展を遂げた ジャンル的な存在であることには注意してほしい。 それは単なるフェテイシュと異なり、市場原理のな かで浮上してきた記号である。たとえば「メイド 服」は、八〇年代後半のアダルトアニメ『くりいむ レモン・黒猫館』を起源とし、九〇年代に入ってノ ベルゲームを中心に勢力を広げてきたことが知られ ている(注25)。また「触角のように刎ねた髪」は、 筆者の観察では、九〇年代の半ば、ノベルゲームの 『痕』で現れたことから一般化し(図7)、現在では 多くのアニメやゲームで見られるデフォルトの要素 に成長している。消費者の萌えを効率よく刺激する ために発達したこれらの記号を、本書では、以下 「萌え要素」と呼ぶことにしよう。萌え要素のほと んどはグラフィカルなものだが、ほかにも、特定の 口癖、設定、物語の類型的な展開、あるいはフィ ギュアの特定の曲線など、ジャンルに応じてさまざ まなものが萌え要素になっている。  ’nl  ‰  秋葉原や新宿の専門店を覗けばすぐに分かるよう に、萌え要素の群れはいまオタク系文化を覆い尽く している。そこで流通している「キャラクター」は、 作家の個性が創り出す固有のデザインというより、 むしろ、あらかじめ登録された要素が組み合わされ、 作品ごとのプログラム(販売戦略)に則って生成さ れる一種の出力結果となっている。そして実際に、 その状況はオタクたち自身によっても自覚されてい る。  たとえばその自覚を装置として表現したひとつの 試みが、九六年に公開が始まったオタク系検索エン ジン、「TINAMI」である(図8a)孀猖回 数万件の登録サイトから目的のイラストを効率よく 探し出すため、このエンジンのシステムはオタク的 図像の特徴を細かく数値化し分類している。たとえ ばそこでは、萌え要素として「ねこみみ」と「メイ ド」を指定し、「ギャラ含有率」を七五%以上に、 「ギャラ年齢」をI〇歳から一五歳に、コアフォルメ 度」を五に設定して目的のサイトを検索する、とい うようなパラメータの選択が実装されている。図8 bは「TINAMI」の実際の検索画面だが、図の 下半分にずらりと並んだ「カテゴリ」のいくつかは、 「ねこみみ」「動物」「天使」「メイド」「めがね」と いった萌え要素である。  インターネットが普及し、同人活動の中心がウェ ブに移った九〇年代後半のオタク系文化において。 「TINAMI」のような検索エンジンはきわめて 大きな役割を果たしている。そしてこのような環境 においては、好むと好まざるとにかかわらず、制作 者は、オタク系文化全体のなかでの自分の相対的な 位置に自覚的であらざるをえない。いまや新しく生 まれたキャラクターは、その誕生の瞬間から、ただ ちに要素に分解され、カテゴリーに分類され、デー タベースに登録される。適当な分類がなければ新し い要素やカテゴリーが用意されるだけであり、その かぎりで、もはや、オリジナルーキャラクターのオ リジナリティすらシミュラークルとしてしか存在し ないとも言えるだろう。  かつては作品の背後に物語があった。しかしその 重要性が低下するとともに、オタク系文化ではキャ ラクターの重要性が増し、さらに今度はそのキャラ クターを生み出す「萌え要素」のデータベースが整 備されるようになった。このI〇年間のオタク系文 化はそのような大きな流れのなかにあったが、九〇 年代末に現れた『デージーキャラット』は、まさに その流れが行き着くところまで行った地点に現れて いる。  実際にこの作品のキャラクターは、すべて、意図 的に萌え要素を過剰にして作られている。でじこは 「フリルをつけまくったメイド服に自い猫耳帽子、 猫手袋、猫ブーツ、そして猫しっぽ。完全無欠の萌 え萌えオプションフル装備」であり、ぷちこは「ト ラ縞模様の猫耳帽子をかぶり、セーラー服にちょう ちんブルマー。お尻にはトラ猫のしっぽがついてい るという、ファンにとってはかなり凶悪かつ反則的 な萌え萌えコスチューム」だとノベル版は記してい るが(注27)、このような自己パロディ的な記述が、 この作品の置かれた危うい位置を明確に示している。 でじこは猫耳をつけて「そうだによ」「疲れたによ」 と話すのだが、それは猫耳や「によ」そのものが直 接に魅力的だからなのではなく、猫耳が萌え要素で、 特徴ある語尾もまた萌え要素だからであり、さらに 正確に言えば、九〇年代のオタクたちがそれを要素 だと認定し、そしていまやその構造全体が自覚され てしまっているからなのである。コアージーキャ ラット』はこのような点で、素直にギャラ萌えの欲 望に依存した企画というより、むしろ、その欲望を ぎりぎりまで押し進め、結果として萌え系のデザイ ンに支配された現在の市場への皮肉になってしまっ た複雑な企画だと捉えたほうがよい。 5 データベース消費 個々の作品よりもキャラクターの魅力  萌え要素のデータベース化は一九九〇年代に急速 に進んだ。「萌え」とはそもそも、八〇年代末に生 まれた言葉で、コミック、アニメ、ゲームなどの キャラクター、あるいはアイドルなどに向けられた 虚構的な欲望を意味していたと言われる。特定の キャラクターに「萌える」人々は関連商品を集中的 に購入するので、制作者からすれば、作品そのもの の質よりも、設定やイラストを通して萌えの欲望を いかに喚起するかが、企画の成否を直接に握ること になる。この傾向は古くは七〇年代まで遡るが、し かし、その重要性は九〇年代のメディアミックスの 流れのなかで決定的に増すことになった。  さきほども述べたように、メディアミックスにお いては、原作の地位が曖昧なままでさまざまなタイ プの企画が同時に進行する。したがってそこでは、 それら企画群をまとめあげる根拠は、原作者の作家 性でもメッセージでもなく、そこに共通して現れる 作品世界とキャラクター、極端な場合にはキャラク ターだけになってしまう。たとえば、庵野秀明が監 督した『エヴアングリオン』と、その数年後に発売 された育成シミュレーション『綾波育成計画』を同 じ「エヴァングリオン関連」の作品だと、あるいは、 カルト的な人気を誇るLeafのノベルゲーム 『雫』や『痕』と、そのパロディ的なトレカゲーム 『リーフファイト』を同じ「リーフ関連」の作品だ と受け取る根拠は、著作権表示を除けば、そこに共 通して同じキャラクターが登場していることにしか ない。それらのあいたの内容的な連続性がかぎりな く希薄である以上、『エヴァングリオン』や『雫』 のファンでも『綾波育成計画』や『リーフファイ 卜』には何の関心も抱かない、という消費行動が支 配的であってもよかったし、むしろそのほうがオタ ク系市場の外では分かりやすかったはずである。  にもかかわらず、九〇年代のオタク系市場は、そ の両者を連続して捉える消費者を組織的に育て、ま たそのような「関連商品」の氾濫を前提として規模 を拡大してきた。その結果、いまや、個々の物語が 登場人物を生み出すのではなく、逆に、登場人物の 設定がまず先にあり、そのうえに物語を含めた作品 や企画を展開させる戦略が一般化している。そして このような状況では、必然的に、個々の作品の完成 度よりもキャラクターの魅力のほうが重要になるし、 またその魅力を高めるためのノウハウ(萌え要素の 技術)も急速に蓄積されることになる。萌え要素の データベース化は、このような状況のもとで必然と なった。 作品を横断するキャラクターの繋がり  その結果近年の多くのオタク系キャラクターは、 単独の作家や作品から出てきたというよりも、むし ろ作品横断的に多数のキャラクターと繋がっている。 たとえば図9に挙げたのは、『ナデシコ』のホシ ノールリ、『エヴアングリオン』の綾波レイ、『雫』 の月島瑠璃子、『アキハバラ電脳組』の大鳥居つぼ めという四つのキャラクターだが、これらは、たが いに設定やデザインの点で多くの共通点をもってい る。  オタク系作品に頻繁に見られるこのような繋がり は、従来「引用」や「影響」や「パロディ」といっ た言葉で語られてきた。しかし、「引用」にしろ 「影響」にしろ、それらの概念は作家や作品という 単位を無意識に前提としている。ある作家が別の作 家の作品に影響を受け、それを引用し、ときにパロ ディにする、そういう発想である。確かに、いまで もそのモデルでオタク系作品の動きを語れないこと はない。たとえばこの例であれば、レイの影響のも とで瑠璃子が生まれ、その両者の引用でルリが作ら れ、さらにそのルリのパロディとしてつぼめがデザ インされた、と系譜を辿ってみてもそんなに誤りで はない。  しかしその有効性もまた隕られている。かりにル リがレイや瑠璃子の引用だとして、ではそのとき 「引用」を行っだのはだれなのか。監督の庵野秀明 やキャラクター・デザインの貞本義行の個性と役割 が比較的はっきりしていた『エヴアングリオン』に 比べ、『ナデシコ』の複雑な構成に佐藤竜雄や麻宮 騎亜がどのように関わっていたのかを知るのは難し い。しかも図9の四例は氷山の一角にすぎない。  実際には九〇年代後半、綾波レイに酷似したキャ ラクターは、コミックでもアニメでもノベルでも、 商業ベースでも同人ベースでも、大量に生産され消 費されてきた。その広がりをすべて『エヴアングリ オン』の「影響」に帰着させるのは、あまり賢明で ないように思われる。  したがって筆者はこの状況を捉えるには、データ ベースのイメージのほうが適切だと考える。レイの 出現は、多くの作家に影響を与えたというより、む しろオタク系文化を支える萌え要素の規則そのもの を変えてしまった。その結果、たとえ『エヴアング リオン』そのものを意識しない作家たちも、新たに 登録された萌え要素(無口、青い髪、自い肌、神秘的 能力など)を用い、無意識にレイに酷似したキャラ クターを生産するようになってしまった。このよう に考えたほうが九〇年代後半の現実には近い。レイ にかぎらず、オタク系作品に現れるキャラクターは、 もはや作品固有の存在なのではなく、消費者によっ てただちに萌え要素に分解され、登録され、新たな キャラクターを作るための材料として現れる。した がって、萌え要素のデータベースは有力なキャラク ターが現れるたびに変化し、その結果、次の季節に はまた、新たな萌え要素を搭載した新世代のキャラ クターたちのあいたで熾烈な競争が繰り広げられる のだ。  「ギャラ萌え」に見る消費の二層構造  以上のような特徴から明らかなように、九〇年代 のオタク系文化を特徴づける「ギャラ萌え」とは、 じつはオタクたち自身が信じたがっているような単 純な感情移入なのではなく、キャラクター(シミュ ラークル)と萌え要素(データベース)の二層構造の あいだを往復することで支えられる、すぐれてポス トモダン的な消費行動である。特定のキャラクター に「萌える」という消費行動には、盲目的な没入と ともに、その対象を萌え要素に分解し、データベー スのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側 面が隠されている。この二層構造については、のち にノベルゲームを例として詳しく語るが、いずれに せよ、ギャラ萌えを単なるマニアックな消費行動と して片づけてしまうと、いろいろ説明できない部分 が出てくることは確かである。  オタクたちの萌えの感覚は、つねにキャラクター の水準と萌え要素の水準のあいたで二重化されてお り、だからこそ、彼らは萌えの対象をつぎつぎと変 えることができる。もし萌え要素の水準がなく、彼 らが単にそれぞれの趣味でキャラクターを選んでい るだけならば、特定のキャラクターに特定のフアン がつくだけで終わっていただろう。しかしそれでは、 九〇年代に華開いたキャラクター・ビジネスはとて も成立しなかったはずだ。 「物語消費」から「データベース消費」へ  いままでの議論をまとめておこう。コミック、ア ニメ、ゲーム、ノベル、イラスト、トレカ、フィ ギュア、そのほかさまざまな作品や商品の深層にあ るものは、いまや決して物語ではない。九〇年代の メディアミックス環境においては、それら多様な作 品や商品をまとめあげるものはキャラクターしかな い。そして消費者はその前提のうえで、物語を含む 企画(コミックやアニメやノベル)と物語を含まない 企画(イラストやフィギュア)のあいだを無造作に往 復している。ここでは、個々の企画はシミュラーク ルであり、その背後に、キャラクターや設定からな るデータベースがある。  ところがさらに別のレベルで見ると、そのキャラ クターもまた、萌え要素のデータベースから引き出 されたシミュラークルにすぎない。つまりここでは、 シミュラークルとデータベースの二層構造がさらに 二重化し、複雑なシステムが作り上げられている。 オタクたちはまず作品を消費し、ときにそれに感動 する。しかしじつはその作品はシミュラークルであ り、実体はキャラクターにしかないことも自覚して いる。つぎに彼らはキャラクターを消費し、ときに そこに「萌える」。しかしじつはそのキャラクター もまたシミュラークルであり、実体が萌え要素の組 み合わせでしかないことも自覚している。コアー ジーキャラット』は、筆者の観察では、オタクたち のこのような二重化(三重化?)された意識にもっ とも自覚的に作られた企画である。  したがってコアージーキャラット』を消費すると は、単純に作品(小さな物語)を消費することでも、 その背後にある世界観(大きな物語)を消費するこ とでも、さらには設定やキャラクター(大きな非物 語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、 より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費 することへと繋がっている。筆者は以下、このよう な消費行動を、大塚の「物語消費」と対比する意味 でコ7‐Iタベース消費」と呼びたいと思う。  近代からポストモダンヘの流れのなかで、私たち の世界像は、物語的で映画的な世界視線によって支 えられるものから、データベース的でインターフェ イス的な検索エンジンによって読み込まれるものへ と大きく変動している。その変動のなかで囗本のオ タクたちは、七〇年代に大きな物語を失い、八〇年 代にその失われた大きな物語を捏造する段階(物語 消費)を迎え、続く九〇年代、その捏造の必要性す ら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階 (データベース消費)を迎えた。大塚の評論と筆者の 観察から浮かび上がってくるのは、大まかにいえば このような流れである。物語消費とデータベース消 費の構造の違いを図10に示しておこう。図10aと図 10bの二つの図は、それぞれ前出の図3aと図3b に対応している。 「アニメ・まんが的リアリズム」小説  オタク系文化を扱うとどうしてもグラフィカルな 作品の例が多くなるが、ここで別の例も挙げておき たい。ギャラ萌えとデータベース消費の台頭は、ま た、活字文化にも大きな影響を与えつつある。マス メディアでは「小説」はいまだ純文学とエンターテ インメントの二つに分けられているようだが、現実 には、このI〇年間、オタク系市場はそのどちらに も分類されない莫大な数の小説を生産し、消費して きた。旧来の区分に則って「ミステリ」や「SF」 や「ファンタジー」と、あるいは読者層や制作者の 意識に則り「ジュニアノベル」や「ゲームノベル」。 「ヤングアダルト」など多様な名前で呼ばれている それらの作品の世界は、旧来の純文学ともエンター テインメントとも異なる独特の論理で作られており、 そのためかいまだに一般の評価は低い。しかしその 論理も、また、以上のようなオタク系文化の流れを 知ると自然に理解できる。  そのような異質な新しい小説の例として、いま もっとも適切なのは清涼院流水の作品だろう。彼は 七四年生まれであり、第二世代と第三世代の中間に あたる。九六年に出版された彼の処女長編『コズ ミツク』は、数十件の密室殺人を十数人の探偵たち が推理する小説である。これだけでも十分に奇抜な 設定だが、加えてその探偵たちにはみな印象的な名 前と特徴が与えられI「ジン推理」と呼ばれる弁 証法で推理する刃仙人、「神通理気」と呼ばれる直 観で推理する九十九十九、「悟理夢中」と呼ばれる 睡眠で推理する雨霧冬香などI、事件の解決もま たおそろしく荒唐無稽に行われる。しかも、これら 超人的な登場人物たちは『ジョーカー』『19ボック ス』『カーニバル』などと続く一連の小説にも登場 し、作者自身は、デビュー時から、その全体がいず れひとつの「流水大説」をなすのだと宣言している。 ひとことで言えば、この作家の小説は、個々の作品 の完成度をあまり重視することなく、むしろキャラ クターの魅力を高め、それら全体が作り上げる「流 水世界」そのものの完成度を上げることを目的とし て作られているのだ。この作家は一貫してI〇代の 読者に強い支持を受けているが、他方、先行するミ ステリ作家たちの反発を買ってもいる。  ふたたび大塚を参照するが、彼はこのような小説 が台頭する背景に、リアリズムそのものの変化を指 摘している(注28)。近代小説が現実を写生してい るとするならば、オタク系小説は虚構を写生してい る。清涼院の描く登場人物や物語は決して現実的で はないが、先行するコミックやアニメの世界では可 能なものであり、したがって読者はそれをリアルだ と受け止める。大塚はこのような態度を「アニメ・ まんが的リアリズム」と呼び、その起源を、七〇年 代末、新井素子が「マンガ『ルパン三世』の活字版 を書きたかった」と発言したことに求めた。自然主 義的なリアリズムと「アニメ・まんが的リアリズ ム」は表面的にはまったく異なった印象を与えるが、 前者自体が日本では虚構だった以上、リアリズムの その変化は一種の必然だった、と大塚は論じている。 ミステリの要素も萌え要素に  筆者はここでも大塚の意見にほぼ同意するが、い ままでの議論と同様、その写生されるべき虚構がい まやデータベース化され、要素化されていることも 強調しておきたい。清涼院の小説が車田正美のベス トセラー『聖闘士星矢』の影響を受けていることは、 よく知られている。しかし同時に彼の世界は、八〇 年代末から九〇年代半ばまでブームとなった新本格 ミステリの蓄積のうえで、そこからさまざまな要素 を取り出し、自由に組み合わせることでも作られて いる。そしてそこでは読者もまた同じデータベース を共有している。何十件もの密室殺人や十何人もの 探偵がつぎつぎと描き分けられ、読者もまたそれを 自然に許容しているという現象は、清涼院が読まれ る市場において、探偵像やトリックや解決方法がす べて萌え要素になってしまっているからこそ成立す るのだ。  ジャンルの条件に対するこのような自己言及の意 識は、おそらく、綾辻行人や法月輪太郎のような先 行世代の志向が受け継がれたものである。ただし、 そこには、先行世代の意識があくまでもミステリの 規則(コード)に向けられていたのに対し(注29)、 清涼院の意識は萌え要素のデータベースに向けられ ている、という大きな差異がある。九〇年代にミス テリ市場が大きく成長したのは周知のとおりだが、 こと若い読者に関するかぎり、その成長は、トリッ クの巧みさを理解する本格の読者よりも、むしろ京 極夏彦や森博嗣の登場人物に「萌え」、イラストを 描いたり二次創作を試みたりする別種の読者に支え られていた。  そしてその状況はいまやミステリ以外にも蔓延し ており、オタク系の活字文化は、全体として、作品 ではなくキャラクターを中心に作られた別種の論理 で動き始めている。清涼院の小説はじつは、その状 況を前提とするだけではなく、ときにそれを戯画化 するようにして書かれている。たとえば、そのよう なキャラクター中心の市場を念頭に置くと、三五〇 人の探偵が「第一班から第七班まで七つの班に分け られ」「ふだ月に一度の班替えでは、下位班の成績 優秀者と上位班の成績不良者が容赦なく入れ替えら れ続けている」という「日本探偵倶楽部」の設定は 孀霑q、ほとんどその状況全体のパロディのように 読めてくるだろう。  オタク系の小説は、いまや、純文学でもエンター テインメントでもなく、むしろアニメやゲームやイ ラストに近い論理で動き、近い市場で消費されてい る。自然主義的リアリズムから「アニメ・まんが的 リアリズム」への移行は、商業的にはこの市場の変 化で支えられている。清涼院は、筆者の知るかぎり、 その変化にもっとも敏感に反応し、もっとも根底的 に小説の書き方を変えてしまった作家である。そこ ではもはや、現実(自然主義)でも、先行する虚構 (物語消費)でもなく、萌え要素のデータベースこそ がもっともリアルなものだと感じられている。 6 シミュラークルとデータベース シミュラークル論の欠点  ここまでの議論で、この章の冒頭に挙げた第一の 問い、「ポストモダンのシミュラークルはどのよう に増加するのか」という疑問には、オタク系文化を 通じてひとつの答えが出たように思う。オタク系文 化の表層は、シミュラークル=二次創作に覆われて いる。しかしその深層には設定やキャラクターの データベースが、さらに遡れば、萌え要素のデータ ベースが存在する。一見、無秩序なシミュラークル の氾濫に見えるオタクたちの消費行動も、ひとたび このデータベースの水準に目を向ければ、十分に秩 序立ち、理解しやすいものに姿を変えるだろう。  そしてこのような観察からは、サブカルチャーの 分析にとどまらず、また、従来のシミュラークルの 概念を変更するような知見も得られるように思われ る。そもそもいままでのポストモダン論においては、 シミュラークルの増加は、オリジナルとコピーの区 別が失われたところで生じる無秩序な現象だと捉え られることが多かった。そういうときにまず引用さ れてきたのは、ドイツの批評家、ヴァルター・ベン ヤミンが六〇年以上前に記した「複製技術時代にお ける芸術作品」という短い論文である。そこでベン ヤミンは、特定の作品に宿るオリジナリティの感覚 (デウラ)と呼ばれる)とは、その作品の存在を生み 出した「儀式」の「一回性」によって根拠づけられ るものだが、複製技術はその感覚を無効にしてしま う、と主張して有名となった(注31)。この主張が のちのシミュラークル論の根幹となる。  ベンヤミンのこの「アウラ」の捉え方は、じつは 前述のツリー・モデルをきれいに反映している。オ リジナルを前にしたとき、鑑賞者はそこに何か作品 を超えた「儀式」との繋がりを感じる。コピーには その繋がりがない。つまり、オリジナルとコピーの 区別は、その儀式との繋がりの有無(アウラの有無) によって決定されているというわけで、これはまさ に近代的な世界観を反映した美学なのだ。この発想 を図3aに重ねて示せば、図11aのようになるだろ う。シミュラークルの全面化とは、その繋がりの有 無という基準そのものが失われ、オリジナルであろ うとコピーであろうと価値が変わらなくなり、すべ ての記号が根拠をもたず浮遊し始める事態を意味し ている。  したがって、いままでのポストモダン論の文脈で は、筆者がこの章の冒頭で分けた「シミュラークル の全面化」と「大きな物語の凋落」という二つの現 象は、じつは、ただひとつの変化(ツリー・モデル の崩壊)の表裏として捉えられてきた。むろん、前 者がおもに技術的発達で引き起こされた変化である のに対し、後者はあくまでも社会的・イデオロギー 的な変化であるという本質的な差異はあるのだが、 この両者に共通する世界観の変化もまた否定できな いのだ。実際、複製技術の時代の到来とイデオロ ギーの凋落はベンヤミンの論文でも関連付けて論じ られているし、また、ボードリヤールも「今やイデ オロギーなるものはなく、シミュラークルしかな い」と述べ、その両者の流れをはっきりと相関関係 で捉えている(注32)。  しかしいままでのポストモダン論の多くは、その ツリー・モデルが単に崩壊しだのではなく、データ ベースーモデルに取って替わられたことにあまり自 覚的でなかったように思われる。むろん示唆的な議 論は示されている。たとえばボードリヤールは、 マーケティングが浸透し、記号的消費が蔓延した現 代社会では、「われわれはモノを使うひととしてと いうよりはむしろ、モノを読みとり、かつ選ぶひと として、つまり読解の細胞として生きている」と述 べている(注33)。差異化された商品や記号が大量 にストックされ流通し(この総体をボードリヤールは 「バイパーリアリティ」と呼ぶ)、いまや消費者はその 組み合わせでしか個性=オリジナリティを表現でき ない、というこの指摘は、本書の考えるデータベー スーモデルにきわめて近い現実を捉えている。  しかしその議論でも、シミュラークルの水準と データベースの水準が明確に区別され、二層構造と して捉えられたことはなかった。ボードリヤールの 「バイパーリアリティ」は、シミュラークルの世界 もデータベースの世界もともに意味する。オタク系 文化の例で言えば、二次創作の氾濫も物語消費も ギャラ萌えも、またデージーキャラットのような奇 形的なデザインも、すべてバイパーリアリティの一 言で片づけられてしまうだろう。 オリジナル対コピーからデータベース対シミュラー クルへ  それに対して筆者が本書で示したいのは、この社 会を満たしているシミュラークルとは決して無秩序 に増殖したものではなく、データベースの水準の裏 打ちがあって初めて有効に機能しているのだ、とい う別の考え方である。  オタク系文化は二次創作に満たされている。そこ では原作も二次創作も、あたかも「同等の価値」を もつかのように生産され、消費されている。しかし、 それら二次創作のすべてが同じ価値であるわけでは ない。それでは市場は育だない。実際にはそれらシ ミュラークルの下に、良いシミュラークルと悪いシ ミュラークルを選別する装置=データベースがあり、 つねに二次創作の流れを制御しているのだ。ビック リマンーチョコの七七三枚目のシールは、七七二枚 を支えるデータベースを適切に共有していなければ ならないし、そうでなければそれはそもそも二次創 作だと見なされない。『綾波育成計画』も『エヴア ングリオン』と世界観を適切に共有していなくては ならないし、デージーキャラットのデザインもまた 一九九〇年代後半の萌え要素を適切にサンプリング していなくてはならない。そのような手続きを経ず、 単に無趣味に作られたシミュラークルは、市場で淘 汰され、消えゆくのみである。  これは言い換えれば、ポストモダンにおいて、旧 来のオリジナルとコピーの対立の替わりに、シミュ ラークルとデータベースという新たな対立が台頭し てきたことを意味している。従来では原作がオリジ ナルで、二次創作はコピーだった。作品の優劣の基 準はそこにしかなかった。たとえば『エヴアングリ オン』であれば、庵野秀明のTVシリーズは作家性 やメッセージと結びついた「作品」だが、アマチュ アが作った二次創作や商業的に作られた関連企画は あくまでもコピーでしかなく、人々はその両者を厳 密に区別して消費するはずだった。  しかし実際には、この二〇年間、その両者を区別 なく扱う消費行動がますます力を強めている。かわ りにそこで台頭してきたのが、いままで述べてきた ように、キャラクターや設定や萌え要素のデータ ベースであり、このデータベースとの関係に基づい た別種の基準である。そこではコピーは、オリジナ ルとの距離ではなく、データベースとの距離で測ら れる。その新たな関係を示せば、図11bのようにな るだろう。  オリジナルのオリジナルとしての不思議な魅力、 それは現代思想では、しばしば「作家性の神話」な どとも呼ばれてきた。八〇年代から九〇年代、そし て二〇〇〇年代へのオタク系文化の変遷を概観する かぎり、この領域でもまたその神話は急速に衰えて いる。八〇年代を代表するコミック作家やアニメ作 家は何人でも挙げることができるが、九〇年代を代 表する作家となるとちょっと困ってしまう、という のが、専門家にかぎらず、まずおおかたの読者の共 通意見だろう。この特徴は普通には低迷の徴候とし て受け取られるのだろうが、しかし実際には、作家 の名が挙がらない、というこの事実にこそ、九〇年 代のオタク系文化の本質が示されているのだ。そこ ではもはや作家は神ではない。だから名も挙がらな い。そのかわりに神々になったのは萌え要素である。 九〇年代を代表する萌え要素ならば、多少詳しい消 費者ならいくらでも挙げられるはずだ。 二次創作の心理  オタク系文化の市場は、シミュラークルとデータ ベースの二層構造で成立している。この単純な事実 を知ることは、またオタクたちの意図を誤解しない ためにも重要である。たとえば、シミュラークルの 氾濫というオタク系文化の現実は、見方によればと ても過激で無政府主義的なものにも見える。しかし 実際には、二次創作の作家にはそのような攻撃的意 識は見られない。彼らはむしろ、一方で原作を躊躇 なくパロディ化し、切り刻み、リミックスしつつも、 他方でその作業をまったく原作の侵害と考えておら ず、原作者のクレームが入ったらすぐ二次創作をや めてしまうような保守性をもっている。  この二面性は一見不可解だが、前述のような二層 構造を知れば簡単に理解できる。何度も繰り返して いるように、オタク系文化では、原作も二次創作も ともにシミュラークルと見なされ、その両者のあい だに原理的な優劣はない。  むしろ作品の核は設定のデータベースにある。し たがってオタクたちの感覚では、二次創作がいくら 作品としての原作(シミュラークルの水準)を侵害し たところで、情報としての原作(データベースの水 準)のオリジナリティは守られているし、また尊重 されてもいるということになる。逆に二次創作の作 家だちからすれば、シミュラークルが増えることで ますます原作の価値は高まっている、くらいに考え ているだろう。むろん現実には、著作権の存在があ る以上、このような感覚をそのまま肯定するわけに はいかない。しかし、コミケが誕生して四半世紀が 経ついま、その心理の背景を知っておくのは重要な ことだ。 村上隆とオタクの齟齬  またそのような基本的な理解は、オタク系文化の 成果をその外に持ち出そうとしたときにも必要にな る。この数年、オタク系文化とその外の連結をもっ とも精力的に試みてきたのは、ここまでにも何回か 触れた現代美術家の村上隆である。  村上は六二年生まれでオタクならば第一世代にあ たり、アニメやフィギュアから影響を受けた作品を 多く発表し、「オタクになりきれなかったオタク」 を自称している。彼の作品は、『DOB』連作(図 12)や『S・M・P・kO2』連作(図13)に見ら れるように、オタク系文化で独特の発達を遂げた キャラクター・デザインに注目し、その特徴をグロ テスクなまでに強調し、解体し、変形することで作 られている。筆者は、そのイメージはオタク的なシ ミュラークルの異形さを美術作品に昇華させたすぐ れた試みだと思うのだがぶ跼悶、オタクたちの評 価はそれほど高くない。それどころか村上の試みは、 彼の作品に協力しているオタクだちからもしばしば 批判されている。  村上とオタクたちのあいたのこの齟齬の原因はい ろいろ挙げられるだろうが、そのひとつは、以上の ようなオタク系文化の構造的な特徴にある。フィ ギュアの原型師であり、編集者であり、また『S。 M・P・kO2』制作の中心人物でもあったあさの まさひこは、あるイベントで、村上には「オタク遺 伝子」が欠けていると述べている(注35)。おそら くそこで彼が言いたかったのは、村上には、オタク 系作品を「オタク的」にするさまざまな特徴を直感 的に捉える能力、つまり萌え要素を捉える能力が欠 けている、ということである。  そもそも現代美術の批評的な世界では、シミュ ラークルの生産は「新たな前衛を構成するための武 器」と位置づけられている(注36)。そしておそら く村上もまた、当初は、オタク系文化の表層にその ような「前衛」としての魅力を感じていたと思われ る。その文脈で理解すれば、『DOB』や『S・ M・P・kO2』はまさに、オタク的なデザインが もつもっとも過激で無根拠な部分を抽出し、純粋化 して作られた作品であり、その点で高く評価される べき質を備えている。しかしオタクたちにとっては、 村上のその実験は、萌え要素のデータベースを理解 することなしに、デザインというシミュラークルだ け(まさに表層だけ)を抽出して模倣した、不完全 な試みでしかない。シミュラークルについてのこの ような考え方の違いが、村上の試みについて、現代 美術側の評価とオタク側の評価に大きな差を生み出 している。  村上の試みは、いくらオタク的な意匠を借りてき たとしても、データベースの水準がないかぎりにお いて本質的にオタク的なものではない。それが彼の 美術家としての評価を上げるのか下げるのかは分か らないが、オタク的なデザインを借りるということ と、その背後にある文化的な構造を理解するという ことのあいたのこの差異については、やはり敏感に なっておいたほうがよいだろう。とはいえ、筆者の 個人的な意見としては、村上の試みには、オタク系 文化の構造を理解していないがゆえにかえってその 一面を鋭く抉りだしているところがあり、その点で 決して借用には止まっていないと思う。デージー キャラットを始めとして、オタク系のデザインはと きにきわめて過激な地点に到達しているのだが、作 り手の意識としては萌え要素の組み合わせにすぎな いため、その過激さを肝心の制作者が自覚していな い、ということがしばしば起きている。村上の作品 は、そのような無自覚を破るひとつのきっかけにな るはずだ。 7 スノビズムと虚構の時代 ヘーゲル的「歴史の終わり」  ではつぎに、本章の冒頭で掲げた第二の問い、 「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、 ではそこで人間性はどうなってしまうのか」という もうひとつの疑問に進むことにしよう。この問いに 答えるためには、まず、以上のようなデータベース 消費の台頭やポストモダンの二層構造が何を意味す るのか、囗本の状況論を離れ、より広く世界史的な 視野のなかに位置づけておく必要がある。  第一章でコジエーヴという哲学者に触れたことを 覚えているだろうか。コジエーヴはロシア出身のフ ランスの哲学者であり、一九三〇年代にヘーゲル哲 学について独特の講義を行ったことで有名だ。それ はのち『ヘーゲル読解入門』として出版された。  ヘーゲル哲学は一九世紀の初めに作られた。そこ では「人間」とは、まず自己意識をもつ存在であり、 同じく自己意識をもつ「他者」との闘争によって、 絶対知や自由や市民社会に向かっていく存在だと規 定されている。ヘーゲルはこの闘争の過程を「歴 史」と呼んだ。  そしてヘーゲルは、この意味での歴史は、一九世 紀初めのヨーロッパで終わったのだと主張していた。 この主張は一見奇妙に思われるが、じつはいまでも 強い説得力を備えている。というのも彼は、ちょう ど近代社会が誕生するとき、まさにその誕生こそが 「歴史の終わり」だと宣言していたからだ。彼の主 著『精神現象学』が、ナポレオンがイェナに侵攻す る前日、まさにそのイェナで脱稿されたというのは 有名な話である。むろん、西欧型の近代社会の到来 をもって歴史の完結とするこのような考え方は、の ち民族中心主義的なものとして徹底的に批判されて いる。しかし他方で、ヘーゲルののち、二世紀のあ いた近代的価値観が全世界を覆っていったという現 実がある以上、その歴史観がなかなか論駁しがたい のも事実である。 アメリカ的「動物への回帰」と日本的スノビズム  いずれにせよここで重要なのは、ヘーゲルではな く、その歴史哲学にコジエーヴが加えたある解釈で ある。より正確には、彼が講義の二〇年後に『ヘー ゲル読解入門』の第二版に加え、以後、少なくとも 日本では有名となったある脚注である。第一章でも 簡単に紹介したように、そこでコジエーヴは、ヘー ゲル的な歴史が終わったあと、人々には二つの生存 様式しか残されていないと主張している。ひとつは アメリカ的な生活様式の追求、彼の言う「動物への 回帰」であり、もうひとつは日本的なスノビズムだ。  コジエーヴは、戦後のアメリカで台頭してきた消 費者の姿を「動物」と呼ぶ。このような強い表現が 使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人間」の規定 と関係している。ヘーゲルによれば(より正確には コジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)、ホモーサピ エンスはそのままで人間的なわけではない。人間が 人間的であるためには、与えられた環境を否定する 行動がなければならない。言い換えれば、自然との 闘争がなければならない。  対して動物は、つねに自然と調和して生きている。 したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす 商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモー ドが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の 用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼 ばれることになる。そこには飢えも争いもないが、 かわりに哲学もない。「歴史の終わりのあと、人間 は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、 それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなも のであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供 の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性 欲を発散するようなものであろう」と、コジエーヴ は苛立たしげに記している(注37)。  他方で「スノビズム」とは、与えられた環境を否 定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形 式化された価値に基づいて」それを否定する行動様 式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそ こに否定の契機が何もなかったとしても、スノッブ はそれをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、 その対立を楽しみ愛でる。コジエーヴがその例に挙 げているのは切腹である。切腹においては、実質的 には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規 律といった形式的な価値に基づいて自殺が行われる。 これが究極のスノビズムだ。このような生き方は、 否定の契機がある点で、決して「動物的」ではない。 だがそれはまた、歴史時代の人間的な生き方とも異 なる。というのも、スノツブたちの自然との対立 (たとえば切腹時の本能との対立)は、もはやいかなる 意味でも歴史を動かすことがないからである。純粋 に儀礼的に遂行される切腹は、いくらその犠牲者の 屍が積み上がろうとも、決して革命の原動力には ならないというわけだ。 オタク系文化が洗練させた日本的スノビズム  コジエーヴのこの議論は短い日本滞在と直観だけ に基づいており、多分に幻想が入っている。しかし、 日本社会の中核にはスノビズムがあり、今後はその 精神が文化的な世界を支配していくだろうというそ の直観は、いまから振り返るとおそろしく的確だっ たとも言える。  というのも、まさに彼の指摘のあと、日本ではオ タク系文化が出現し、江戸文化の後継者を自任しつ つ新たなスノビズムを洗練させていったからである。 幾度か参照している『オタク学入門』によれば、オ タク的感性の柱をなすのは「騙されているのを承知 の上で、本気で感動したりもする」距離感である。 オタクたちは、「『子供騙し』の番組を大人になって からあえて見る、というのも相当無意味な行為」で あることを知っている(注38)。たとえば彼らに根 強い人気のある戦隊特撮ドラマやロボットアニメは、 どれもこれも似たような設定で似たような物語を展 開しており、そのかぎりで個々の作品はまったく無 意味だと言える。しかし、岡田斗司夫が説明するよ うなオタク的感性は、まさに、その実質的な無意味 から、形式的な価値、「趣向」を切り離すことで成 立している。このような切り離しは、コジエーヴが 記したスノビズムの特徴そのものである。  たとえばコジエーヴは、「ポスト歴史の人間は、 【中略】その形式を内容から切り離し続けねばなら ない。しかしそれはもはや、内容を行動によって変 質させるためではなく、純粋な形式としての自己を、 何らかの内容として捉えられた自己および他者に対 立させるためである」と記している(注39)。この ような記述はずいぷんと分かりにくいが、『オタク 学入門』が描くオタクたちの消費行動と比較すれば、 きわめて具体的に理解できる。  ポスト歴史の人間=オタクたちは、オタク系作品 の価値とパターンを知り尽くしていながら、そこか らあえて趣向を切り離す。つまり「形式を内容から 切り離し続け」る。しかしそれはもはや、作品から 意味を受け取ったり、また社会的活動に踏み出した りするためではなく、純粋な傍観者としての自己 T「純粋な形式としての自己」)を確認するためであ る。オタクたちは、このように、コジェーヴが五〇 年前に予見した「ポスト歴史」の生存様式をある意 味で体現している。岡田や村上がオタクに世界の未 来を見たことにも、それなりの正しさはあったわけ だ。 シニシズムに支配された二〇世紀  コジェーヴが「スノビズム」と呼んだ世界への態 度は、のち、スロヴェニア出身の精神分析学者、ス ラヴオイージジェクによって「シニシズム」と呼ば れ、より詳しく理論化されている。彼はシニシズム の例として、しばしば冷戦期のスターリニズムを挙 げた。八九年に出版された『イデオロギーの崇高な 対象』では、つぎのように記されている。   このつながり【ヘーゲル哲学とラカン派精神分  析の関係】を例証するために、スターリニズムを、  とりわけ、いかなる代償を払おうとも見かけを維 持しなければならないというその強迫観念的な執 着を取り上げよう。スターリニズムの強迫観念と はこうだ。私たちはみな、舞台裏では荒々しい党 派闘争が続いていることを知っている。にもかか わらず、党の統一という見かけは、どんな代価を 払ってでも保たれねばならない。本当はだれも支 配的なイデオロギーなど信じていない。だれもが そこからシニカルな距離を保ち、また、そのイデ オロギーをだれも信じていないということをだれ  もが知っている。それでもなお、人民が情熱的に  社会主義を建設し、党を支持し、云々という見か  けば、何か何でも維持されねばならないのだ。  【中略】それゆえ、スターリニズムは、大文字の  他者の存在を示す存在論的な証拠として価値があ  ると言うことができる(注40)。  スターリニズムの支持者は、本当はそれが墟であ ることを知っている。しかしだからこそ、彼らはそ れを信じるふりを止められない。実質と形式のこの ねじれた関係は、コジェーヴが「スノビズム」と呼 んだ態度と同じものである。スノッブでシニカルな 主体は、世界の実質的価値を信じない。しかしだか らこそ、彼らは形式的価値を信じるふりを止められ ないし、ときにその形式=見かけのために実質を犠 牲にすることもいとわない。コジェーヴはこの「だ からこそ」を主体の能動性として捉えていたが、ジ ジェクは、その転倒はむしろ主体にはどうにもなら ない強制的なメカニズムだと述べている。人々は無 意味だと分かっていても切腹を行い、墟だと分かっ ていてもスターリニズムを信じる。そしてそれは嫌 でも止められないのだ。  ジジェクの理論によれば、この逆説は人間心理の 原理に関係している。したがって彼の著作を読むと、 「だからこそ」の転倒は、ギリシア哲学からヒッチ コックやコカーコーラまで、あらゆる時代のあらゆ る場所で確認されるように記されている。  しかし筆者の考えでは、そのような普遍性はいさ さか疑わしい。ここでその詳しい根拠を述べる余裕 はないが、ただひとつ、『イデオロギーの崇高な対 象』のシニシズム論が、そもそも、ドイツの批評家、 ペーター・スローターダイクが八三年に出版した 『シニカル理性批判』のうえに作られていることに は注意しておきたい。スローターダイクが検討した シニシズムは、あくまでも二〇世紀の現象である。 彼はつぎのように記している。  第一次大戦は、近代シニシズムの転回点を意味 する。大戦によって旧来の素朴に対する腐食・分 解が本格化する。たとえば戦争の本質や社会秩序、 進歩、市民的な価値、要するに市民文明全般の本 質についての素朴な見地が崩れてゆく。この戦争 以来、ヨーロッパ諸大国を覆うこの散乱した分裂 症質の風土が晴れたためしはもはやない。【中略】 すべての『肯定』はこれ以後『されどなお』でし かなく、それとて底のほうでは潜在的な絶望に  よって浸食されている(注41)。  第一次大戦の経験とその結果訪れたヨーロッパの 荒廃は、啓蒙や理性に対する一九世紀的な信頼を徹 底的に壊してしまった。筆者の考えでは、ジジェク のシニシズム論は、彼自身の主張とは異なり、人間 の普遍的原理というより、むしろこの戦争の結果生 まれた「二〇世紀の精神」の分析として精緻にでき ている。これはある意味で当たり前で、というのも、 彼が頻繁に参照するフランスの精神分析医、ジヤツ クーラカンの理論そのものが、じつはその同じ大戦 の経験から導き出されたものだったからである。た とえばラカンはフロイトのなかでも晩年の仕事(死 の欲動や反復強迫)に注目していたが、それらはま さに第一次大戦中から戦後にかけて生み出されたも のだ。さらにまた、フロイトに加えて彼に影響を与 えたハイデガーの哲学やシュールレアリスムの運動 も、すべて同じ時代に生まれている。したがって、 前述のようなジジェクの分析は、じつは、第一次大 戦によって生まれた現実(冷戦期のイデオロギー)を、 同じく第一次大戦によって生まれた理論(ラカン) で説明する試みだったことになる。ここで具体的に 紹介できないのが残念だが、ジジェクのさまざまな 文化批評や社会批評は、このような距離を取って読 めばきわめてよく練り上げられている。彼の著作で はほとんどの現象がシニシズムの転倒により説明さ れるのだが、じつはそれは、過ぎ去った二〇世紀、 私たちの社会がまさにシニシズムに支配されていた ことの反映なのだ。  この章の冒頭で説明したように、ポストモダンと は七〇年代以降の文化的世界を意味する。しかし、 より広く取れば、複製技術の登場にしろ情報理論の 起源にしろ人間観の変容にしろ、ポストモダンの萌 芽の多くは二〇年代や三〇年代にまで遡ることがで きる。さきほどのベンヤミンの論文が三六年のもの だし、それに何よりも、啓蒙や理性のような「大き な物語」が最初に凋落し始めたのは第一次大戦での ことである。そして逆に、その凋落が完全に表面化 したのは、冷戦が崩壊し、共産主義という最後の大 きな物語の亡霊さえなくなった八九年のことだと捉 えることもできる。したがって近代からポストモダ ンヘの移行とは、七〇年代をひとつの中心として。 一四年から八九年までの七五年間をかけてゆるやか に行われたものだと考えてもよいかもしれない(図 14)。    ン  ー    ダ    宍 一    ボ   m   !      代      近 行 穆 の ヘ ン ダ モ ト ズ ポ らM か凶 代 近 1    ` 1    1 図  ジジェクはおそらく、その長い移行期の精神を もっともきれいに反映し、その構造をもっとも分か りやすく理論化した思想家である。二〇世紀とはひ とことで言えば、超越的な大きな物語はすでに失わ れ、またそのことはだれもが知っているが、しかし、 だからこそ、そのフェイクを捏造し、大きな物語の             丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 見かけを、つまりは、生きることに意味があるとい う見かけを信じなければならなかった時代である。 言い換えれば、中途半端にポストモダン的たった時 代なのだ。生は無意味だが、無意味であるがゆえに 生きる、という逆説は、いまはもう重みを失ってし まったが、過ぎ去った冷戦時代にはきわめて切迫し た考え方だったにちがいない。 オタクのスノビズムに見られるシニシズム  そしてこのような視点で見ると、前述のようなオ タクのスノビズムは、江戸文化の形式主義の延長線 上にあると同時に、またこの世界的なシニシズムの 流れのひとつの現れでもあったことがよく分かる。 スターリニズム下の市民と囗本のオタクとでは、確 かに政治的緊張も社会的条件も異なり、この両者を 比べるのは滑稽かもしれない。しかし、その両者と もに、あらゆるものの価値が相対化されてしまった あと、無意味なものにあえて意味を見出し、そして いつのまにかその「あえて」から逃れられなくなる、 という心理的な過程では共通している。だからこそ コジエーヴは、囗本のことなどほとんど知らずに、 オタク的感性の台頭を予見できたのだ。  先行するオタク論のなかでは、前にも触れた大津 真幸がこのような面に触れている。前述のように彼 は、オタクの特徴を、凋落した大きな物語(超越的 他者の審級)をサブカルチャーで埋めようとするこ とに求めている。さきほどは述べなかったが、じつ は彼はそこでジジェクを参照しており、以上のシニ シズム論と完全に重なるかたちでオタク論を展開し ている。大津はそこで、オタクたちにおいては「第 三者の審級の第一次的な崩壊を前提にした、第三者 の審級の二次的な投射が生じて」おり、その投射は 現代の社会で生きるための「苦肉の策」だと主張し ている(注42)。この大津の術語は特殊だが、本書 での表現に直せば、「第三者の審級」とは、超越的 他者=大きな物語のことであり、「二次的な投射」 とはサブカルチャーによる捏造のことである。オタ クたちにおいては本来の(一次的な)大きな物語が 崩壊し、その前提のもとでフェイクの大きな物語 (二次的な投射)が作られている。そして彼らはその フェイクを手放すことができない。 理想の時代と虚構の時代  そして大津は、この前提のうえで、『虚構の時代 の果て』や『戦後の思想空間』などの著作でさらに 踏み込んだ指摘を行っている。大津によれば、戦後 囗本のイデオロギー状況は、四五年から七〇年まで の「理想の時代」と、七〇年から九五年までの「虚 構の時代」の二つに分かれる。本書での表現で言え ば、「理想の時代」とは、大きな物語がそのまま機 能していた時代、「虚構の時代」とは、大きな物語 がフェイクとしてしか機能しない時代のことである。 この枠組みのなかではオタク的な物語消費=虚構重 視は、「消費社会的シニシズムの徹底した形態」と して、終戦から八〇年代まで一貫する流れのうえで 捉えられる。そして九五年のオウム真理教事件は、 まさにその流れの終わりに位置している。「連合赤 軍−およびそれに同時代性を感覚した人々−が、 理想の時代の終焉(あるいは極限)を代表している とするならば、オウム真理教は、虚構の時代の終焉 (極限)を代表するような位置を担ったのだ」孀周到。  一四年から八九年までの七五年間は、一九世紀的 な近代から二一世紀的なポストモダンヘの長い移行 期だった。この移行期の時代精神はシニシズムある いはスノビズムで特徴づけられ、それは冷戦で絶頂 に達した。しかし日本では、その過程は四五年の敗 戦でいちど切断された。そして逆に、復興期から高 度成長期にかけての日本は、むしろ、教育機関や会 社組織など、社会のイデオロギー装置を強化し、大 きな物語=国家目標を復活させることで危機を乗り 越えてきた。実際にこの時期の効率的な経済成長は、 戦中の総力戦体制が遺した法制度や行政システムに 大きく支えられている。そして、その統合がふたた び綏んだのが七〇年代であり、その結果、日本では、 ポストモダンヘの移行が、七〇年代に入ってようや く本格的に、しかしそのぶん急速に進展したのでは ないだろうか。大津が論じた「理想の時代」と「虚 構の時代」の対立が明確なのは、おそらくはこのよ うな日本独自の状況に基づいている。 8 解離的な人間 ウェルメイドな物語への欲求の高まり  しかし大津も強調するように、私たちはもはや 「虚構の時代」には生きていない。シニシズム=ス ノビズムの精神はすでに世界的にも日本的にも有効 性を失い、いまや新たな主体形成のモデルが台頭し つつある。このような幅広い視野をもってみると、 前節まで検討してきた物語消費からデータベース消 費への移動もまた、単にサブカルチャー内部での モードの変更ではなく、より大きな動きを反映して いることがよく分かる。では、そのデータベース消 費の背後に、いったいどのようなモデルが窺えるの か。  それを考えるうえで注目すべきなのは、このI〇 年間、オタク系文化では、大きな物語の凋落と反比 例するように、作品内のドラマヘの関心がますます 高まってきたという事実である。筆者はいままで、 いまやオタク系文化において大きな物語は必要とさ れていないと論じてきた。しかし現実には、『エ ヴアングリオン』以降、ノベルズのブームやコミツ クの物語回帰に見られるように、読者や視聴者を一 定時間飽きさせず、適度に感動させ、適度に考えさ せるウェルメイドな物語への欲求はむしろ高まって いるように思われる。そして筆者の考えでは、まさ にこの矛盾にこそ、データベース消費を担う主体の 性質がもっともはっきりと現れている。 「読む」ゲームがオタク系文化の中心に  具体例に沿って検討していこう。一九九〇年代の オタク系文化では、「ギャルゲー」あるいは「美少 女ゲーム」と呼ばれるコンピューターゲームが重要 な役割を果たしてきた。このジャンルは八二年に生 まれ、九〇年代前半に多様化し、九〇年代後半に全 盛期を迎えたと言われるI図価コ。ギャルゲーは基 本的に成人向けのゲームであり、コンシューマ機 (ファミコンやプレイステーション)ではなく、おもに Windows機でプレイされる。その基本的な形 式は、プレイヤーが複数用意された女性のキャラク ターをさまざまなシステムを通して「攻略」し、報 酬として与えられるポルノグラフィックなイラスト を鑑賞するというきわめて単純なものである。しか しこの単純さが、かえっていくつもの興味深い試み を生みだしてきた。  そのなかでもここで注目したいのは、九〇年代後 半のギヤルゲーの隆盛を支え、大量の二次創作や関 連商品を生み出し、『エヴアングリオン』以降のオ タク系文化の中心を担ってきたとも言える「ノベル ゲーム」と呼ばれるサブジヤンルである。  ノベルゲームとは一般には、かつてゲームーブッ クなどで試みられていたマルチストーリー・マルチ エンディングの小説を、コンピュータースクリーン 上で画像や音楽とともに「読む」ゲームのことを意 味する。その基本的な画面は、絵巻物や紙芝居を想 像してもらえば分かりやすい。このシステムは九〇 年代の初めにスーパーファミコン用のゲーム『弟切 草』で確立されたが、九六年に作られた『雫』を契 機にギヤルゲーの世界に導入された。『雫』は、第 二世代のオタクたちが中心となった制作会社Lea fの手になるもので、続く『痕』『To Hear t』と並びいまでもカルト的な人気を誇っている。  ノベルゲームのプレイヤーは、基本的に、テクス トを読み、用意された選択肢を選ぶことしかできな い。その自由度はアクショングームやロールプレイ ングゲームと比較して圧倒的に低く、また動画やリ アルタイムの3D画像が活かされる余地もほとんど ない。したがってコンシューマ機の技術的進歩はノ ベルゲームにとって逆風になったが、低予算で作ら れる成人向けコンピューターゲームの世界では、逆 にその貧しさが利点となった。以下で「ノベルゲー ム」とは、とくに断らないかぎり、この後者の世界 でのノベルゲーム(ギヤルゲーのなかのノベルゲーム) を意味する。いずれにせよ、最近では、コンシュー マ機で発売されるノベルゲームの多くは、ギヤル ゲーからの移植作である。  ノベルゲームのプレイヤーは、他の多くのゲーム と異なり圧倒的に受け身である。プレイ時間の大半、 プレイヤーはただテクストを読み、イラストを見る だけだ。確かに最近では、BGMを充実させ、台詞 に有名な声優をあて、動画を挿入しているゲームも 多く、そのなかには興味深い試みも見られる。とは いえ、その中心がテクストとイラストであることは やはり変わらない。そもそもつい数年前までは、 データ量が多い音声や動画を家庭用のコンピュータ で処理することは難しく、それらは使いたくても使 えなかったのである。このような制限のために、ノ ベルゲームの進歩は、半ば必然的に、効率よく感動 できる(泣ける)テクストと効率よく感情移入でき る(萌えられる)イラストの追求へと集中すること になった。マルチストーリー・マルチエンディング の構造もこの傾向を後押しした。ストーリーが複数 あり、エンディングが複数ある(攻略できる女性が複 数用意されている)ということは、できるだけ多く の物語とできるだけ多くのキャラクターを、必要な モジュールの組み合わせによって効率よく作ること を要求するからだ。  未成熟なハードウェアを利用し、低予算で作られ、 成人向けということで不必要な文学性や芸術性を顧 慮する必要がないノベルゲームは、以上のような理 由で、オタクたちの萌え要素への情熱をもっとも効 率よく反映した独特のジャンルに成長していったの である。したがって、ここ数年のオタク系文化でノ ベルゲームが果たしてきた役割はきわめて大きい。 たとえば、『エヴアングリオン』以後、男性のオタ クたちのあいたでもつとも影響力のあつたキャラク ターは、コミックやアニメの登場人物ではなく、お そらく『To Heart』のマルチである(図 15)。 ノベルゲームで「泣ける」という意味  ノベルゲームは、このように、総じてデータベー ス消費に支配された現在のオタク系文化のなかでも、 とりわけデータベース消費の特徴が強く現れたジャ ンルだと言うことができる。そしてその結果として、 一部のゲームは、いまやギャルゲーとしての性格す ら離れ、ポルノグラフィックな表現よりも萌え要素 の組み合わせに重点が置かれた独自の世界を作り始 めている。たとえばその典型が、Keyが制作した 九九年の『Kanon』と二〇〇〇年の『Air』 という二つの作品である(図16)。  この両作は、販売上は成人向けゲームとされては いるものの、もはやポルノグラフィックなイラスト をほとんど含まない。Keyのゲームは、消費者に エロティックな満足を与えるよりも、むしろ、オタ クたちに人気のある萌え要素を徹底的に組み合わせ、 彼らが効率よく泣き、萌えるための一種の模範解答 を提供するために作られている。たとえば『Ai r』では、ギヤルゲーの目的がエロティックな満足 にあるという前提を拒否するかのように、あらゆる ポルノグラフィックなイラストはすべて前半に押し 込められている。一〇時間以上にも及ぶプレイ時間 の後半は、実質的な選択肢もなく、ヒロインのメロ ドラマが語られていくのを淡々と読むだけだ。そし てそのメロドラマも、「不治の病」「前世からの宿 命」「友だちの作れない孤独な女の子」といった萌 え要素が組み合わされて作られた、きわめて類型的 で抽象的な物語である。物語の舞台がどこなのか、 ヒロインの病とはいかなる病なのか、前世とはどん な時代なのか、そのような重要な箇所がすべて曖昧 なまま、『Air』の物語はただ設定だけを組み合 わせた骨組みとして進んでいく。  それでもこの種のゲームが、高い単価にもかかわ らずI〇万部以上を売り上げ、商業的に大きな成功 を収めているのは、コアージーキャラット』の成功 と同じく、物語の類型からデザインの細部にいたる まで、そこで萌えの基本がきっちりと押さえられて いるからである。さきほども清涼院流水の小説をめ ぐって述べたように、九〇年代に現れた新たな消費 者にとっては、現実世界の模倣よりも、サブカル チャーのデータベースから抽出された萌え要素のほ うがはるかにリアルに感じられる。  したがって、彼らが「深い」とか「泣ける」とか 言うときにも、たいていの場合、それら萌え要素の 組み合わせの妙が判断されているにすぎない。九〇 年代におけるドラマヘの関心の高まりは、この点で 猫耳やメイド服への関心の高まりと本質的に変わら ない。そこで求められているのは、旧来の物語的な 迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効 率よく感情が動かされるための方程式である。 より徹底したシミュラークルの制作が可能に  しかしノベルゲームの消費にはもうひとつ別の側 面がある。小説やコミックと大きく異なり、コン ピューターゲームの本体は、プレイヤーがスクリー ン上に目にするドラマ(小さな物語)ではなく、そ のドラマを生成するシステムのほうに求められる。 アクショングームにしろロールプレイングゲームに しろ、スクリーン上に表示される画面や物語展開は、 プレイヤーの操作に応じて生成されたひとつの ヴァージョンにすぎない。プレイヤーの操作が変わ れば、同じゲームは異なった画面や物語展開を表示 する。そしてゲームの消費者は、当然のことながら、 ひとつの物語だけを受容しているのではなく、それ ら異なったヴァージョンのありえた物語の総体をも 受容している。したがって、ゲームの分析において は、この消費の二層構造に注意しておかないと、文 学批評や映画批評の枠組みをそのまま持ち込んで失 敗することになる。  このようなゲームの構造は、明らかに、いままで 検討してきたようなポストモダンの世界像(データ ベースーモデル)を反映している。したがってコン ピューターゲームの発展とポストモダン化の進展の あいだには深い関連があり、実際にそれは時期的な 符合でも明らかだが、その点について論じるのはま た別の機会に譲ることとしよう。とりあえずここで 重要なのは、ノベルゲームもまたコンピューター ゲームである以上、その作品に向かう消費者の意識 が二層化されているということである。前述のよう に、ノベルゲームの表層的な消費は萌え要素の組み 合わせで満たされ、オタクたちはそこで泣きと萌え の戯れを存分に享受している。これは確かにそうな のだが、しかし、より詳細に観察すると、また別種 の欲望の存在が見えてくる。  それは具体的には、ノベルゲームのシステムその ものに侵入し、プレイ画面に構成される前の情報を ナマのままで取り出し、その材料を使って別の作品 を再構成しようとする欲望である。ノベルゲームの 多くの画面は、実際には複数のデータの組み合わせ で作られている。図17の右側に並べた三つの図版は 『痕』のプレイ画面だが、これらはすべて、それぞ れ左側に示したようなさまざまなファイルに分解す ることができる。たとえば、もっとも右上の画面は、 和室の背景画像(システムではS10.)FGというファイ ル名で指定されている)にキャラクターの画像(同じ く口←。)FG)を重ね、そのうえにシナリオのテクス ト(016.SCNとして指定されているファイルの一部)を 重ねて作られていることが分かる。そして図に示し たように、同じテクストや画像は、組み合わせに よってほかにもさまざまな画面を生み出すことがで きる。ひとつのファイルの使い回しは、制作過程で の省力化だけでなく、九〇年代半ばのハードウェア の条件(記録媒体の限界)から必然的に求められた ものでもあった。  画像のこのような使い回しそのものは、コミック やアニメでも頻繁に見られることであり、決して珍 しいものではない。とくにアニメでは、ほとんどの 画面は複数のセル画の重ね合わせで作られており、 ノベルゲームとあまり発想が変わらないとも言える。 しかしノベルゲームがアニメと決定的に異なるのは、 そこで、画面の断片が制作者によって利用されるだ けではなく、消費者によってもたやすく解析され、 データベース化されてしまう点である。図で示した ようなテクストや画像のファイルは、じつは、購入 時の状態では圧縮され暗号化されて読めないことが 多い。ところがギヤルゲーの消費者には、技術的な 知識が豊富で、ハッカー的な気質をもったコン ピュータ利用者が多い。それゆえインターネット上 には、ここで取り上げた『痕』を始めとして、有力 なゲームのデータを解析し、シナリオや画像や音声 を「吸い出す」ソフトウェアがいくつも無料で公開 されている。図を作るために筆者自身が用いたのも、 そのようなフリーソフトのひとつである(注45)。  そしてこのような環境は、ノベルゲームにおける 二次創作を、従来の二次創作からさらに一歩踏み出 したものに変えつつある。すでに説明したように、 二次創作とは、原作の設定をデータベースにまで還 元し、そこから任意に抽出された断片の組み合わせ で作られたシミュラークルとして提示される作品で ある。しかし従来の二次創作では、そこで利用され るコアータベース」とは、あくまでも消費者が自主 的に再構成する抽象的なものにすぎず、その点に作 者のオリジナリティが入り込む余地があった。たと えば『エヴアングリオン』の同人作家は、いくら原 作を断片化して組み合わせるといっても、出版され る同人誌のページそのものは自分の手で描かねばな らなかったのであり、そこにはどうしても作家性が 宿らざるをえなかったのである。TVシリーズから のサンプリングで二次創作を作るような試み (「マットビデオ」と呼ばれていた)もないではなかっ たが、当時の技術的な限界もあり、やはりそれほど 大きな動きにならなかったと言える。  しかし、九〇年代後半のノベルゲームの隆盛と、 以上のような解析の一般化、そしてさらに、データ を再構成するためのマルチメディア環境の充実は、 いまや、そのような二次創作とは質的に異なった、 より徹底したシミュラークルの制作を可能にしてい る。そのひとつの例としては、「マットムービー」 と呼ばれる映像作品が挙げられる。それは、アニメ やゲームの画面を取り込み、適当な音楽に合わせて 加工し編集して作られる短時間のビデオクリップで あり、おもにインターネット上で流通している。八 〇年代の「マットビデオ」と異なるのは、そこでの 編集作業がほぼ完全にデジタル化され、結果として 制作者の志向や動機が大きく変わってきた点だ。そ してそのなかでも、ノベルゲームの二次創作として 作られた作品はとりわけ特異な発達を遂げている。  たとえば『Air』のマッドムービーのなかには、 『Air』から吸い出した画像を、ほとんどそのま ま、同じく『Air』から吸い出した音楽にのせて 編集して作られた作品が見られる。つまりここでは、 従来の同人誌的な二次創作とは異なり、完全に原作 と同じデータを用い、ただその配列と表現方法だけ を変えて作られる新しいタイプの二次創作が現れて いるのである。同じ方向の動きとしては、ほかにも、 キャラクターの画像や音声だけを用いてまったく別 種のゲームを作る試みや、Windows用に作ら れたノベルゲームをほかのプラットホームに自主的 に移植する試みなど、最近ではいくつも興味深い例 が現れている。  このような新しいタイプの二次創作は、原作の データをそのまま使っている点で、同人誌のような 従来の二次創作よりはるかに著作権法上の問題を引 き起こしやすい。実際にそれは制作者も自覚してい るようで、以上のような試みのなかには、匿名で期 間を区切りインターネット上でのみ交換される作品 も多い。筆者はその現状について意見を述べる立場 にはないが、ただひとつ、そのような欲望が、決し て個人の逸脱ではなく、ノベルゲームの本質が(ひ いてはポストモダンの本質が)必然的に生み出した欲 望だということには注意を促しておきたい。  繰り返すが、ノベルゲームのひとつの場面は、オ リジナルにおいても、そもそも複数のデータを組み 合わせることで作られている。表層でひとつのもの に見える画面や物語展開も、深層では無意味な断片 の集まりにすぎない。そこでは、同じテクストや画 像が、プレイヤーの操作に応じて幾通りもの異なっ た役割を与えられている。とすれば逆に、それら断 片を別の方法で組み合わせることで、原作と同じ価      丶丶丶丶丶丶丶丶丶 値をもつ別のヴァージョンのノベルゲームが作れる かもしれないと考えるのは、まったく自然の成り行 きだろう。マットムービーの制作者たちは、原作に 出会ったときと同じ感動を別の組み合わせでふたた び実現するためにこそ、熱心にシステムを解析し、 データを再構成している。それは、少なくとも彼ら の意識のうえでは、盗作やパロディやサンプリング とは本質的に異なる意識で導かれた活動なのである。 小さな物語と大きな非物語がバラバラに共存  ノベルゲームの消費者はこのように、作品の表層 (ドラマ)と深層(システム)に対して、まったく異 なる二種類の志向をもつことで特徴づけられる。前 者では彼らは、萌え要素の組み合わせによって実現 される、効率のよい感情的な満足を望んでいる。そ れに対して後者では、そのような満足を与えてくれ る作品の単位そのものを解体し、データベースに還 元したうえで、また新たなシミュラークルを作り上 げることを望んでいる。言い換えれば、彼らにおい ては、小さな物語への欲求とデータベースヘの欲望 が、たがいに切り離されて共存しているのである。  筆者の考えでは、ここには、スノビズムと虚構の 時代が終わり、データベースーモデルが優勢となっ た時代の主体形成のありかたが、文化消費の構造を 通してきわめて分かりやすく示されている。近代の 人々は、小さな物語から大きな物語に遡行していた。 近代からポストモダンヘの移行期の人々は、その両 者を繋げるためスノビズムを必要とした。しかしポ ストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語と いう二つの水準を、とくに繋げることなく、ただバ ラバラに共存させていくのだ。分かりやすく言えば、 ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされた としても、それを世界観(大きな物語)に結びつけ ないで生きていく、そういう術を学ぶのである。筆 者は以下、このような切断のかたちを、精神医学の 言葉を借りて「解離的」と呼びたいと思う。  そしてノベルゲームの多くは、興味深いことに、 内容的にも、そのような解離の感覚をわざわざ強化 するように作られている。前述のように、ノベル ゲームはマルチストーリーとマルチエンディングを 前提としている。したがってそこではプレイヤーは、 ひとりの女性との恋愛だけを辿るわけにはいかない。 ノベルゲームの構造は、本質的に、プレイヤーがい くつもの恋愛を変遷することを求めている。にもか かわらず、ノベルゲームのシナリオでは、主人公 (プレイヤーの同一化の対象になる登場人物)の性格と して、つぎつぎと女性を取り替える漁色のタイプが 設定されることは少ない。むしろそこでは、ヒロイ ンとの「運命」や「純愛」が強調されることがきわ めて多い。したがってそのようなゲームにおいては、 主人公は、各分岐ごとに純愛を経験し、それぞれの ヒロインと運命の出会いを送る人物として描かれな がら、しかし実際にはプレイヤーが別の分岐を選ぶ たびに別の恋愛が運命と呼ばれる、という明確な矛 盾を抱えることになる。つまりここでは、普通に考 えて、システムの特性が要請するドラマと、シナリ オとして用意されているドラマのあいだに大きな齟 齬が見られるわけだ。  しかしデータベース消費の局面においては、まさ にこの矛盾が矛盾だと感じられないのである。作品 の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運 命(分岐)は複数用意されているし、またそのこと はだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわ ちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただ ひとつのものだということになっており、プレイ ヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心 を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を 矛盾だと感じない。彼らは、作品内の運命が複数あ ることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然 に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命である と感じて作品世界に感情移入している。  このような解離的な心の動きは、もしかしたら読 者によっては理解しにくいものかもしれない。近代 の小説においては、主人公の小さな物語は、必ずそ の背後の大きな物語によって意味づけられていた。 だからこそ小説はひとつの結末しかもたず、またそ の結末は決して変えてはならなかった。  対してポストモダンのノベルゲームにおいては、 主人公の小さな物語は意味づけられることがない。 それぞれの物語は、データベースから抽出された有 限の要素が偶然の選択で選ばれ、組み合わされて作 られたシミュラークルにすぎない。したがってそれ はいくらでも再現可能だが、見方を変えれば、ひと 振りのサイコロの結果が偶然かつ必然であるという 意味において、やはり必然であり、再現不可能だと 言うこともできる。大きな物語による意味づけを運 命だと考えるのか、有限の可能性の束から選ばれた 組み合わせの希少性を運命だと考えるのか、おそら くここには、小説とノベルゲームの差異にとどまら ず、近代的な生の技法とポストモダン的な生の技法 のあいたの差異が象徴的に示されている。本書では 紙幅の関係でオタク系文化の検討しかできないが、 実際には、より広く、シミュラークルの水準で生じ る小さな物語への欲求とデータベースの水準で生じ る大きな非物語への欲望のあいたのこの解離的な共 存こそ、ポストモダンに生きる主体を一般に特徴づ ける構造だと筆者は考えている。 9 動物の時代 他者なしに充足する社会  コジエーヴによれば、大きな物語が失われたあと、 人々にはもはや「動物」と「スノビズム」の二つの 選択肢しか残されていなかった。そして本書ではこ こまで、そのスノビズムのほうは、世界では一九八 九年、日本では九五年に時代精神としての役割を終 え、いまは別種の時代精神=データベース消費に 取って替わられつつあると論じてきた。とすれば、 ここで、その変化を、コジエーヴの言葉を踏まえて、 「動物化」と名づけるのもよいかもしれない。  動物化とは何か。コジエーヴの『ヘーゲル読解入 門』は、人間と動物の差異を独特な方法で定義して いる。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。 コジエーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物 は欲求しかもだない(注46)。「欲求」とは、特定の 対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望 を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を 食べることで完全に満足する。欠乏−満足のこの回 路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲 求で駆動されている。  しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それ が「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象 が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。 その種の渇望の例として、コジエーヴを始め、彼に 影響を受けた多くのフランスの思想家たちが好んで 挙げてきたのは、男性の女性に対する性的な欲望で ある。男性の女性への欲望は、相手の身体を手に入 れても終わることがなく、むしろますます膨らんで いく(と彼らは記している)。というのも、性的な欲 望は、生理的な絶頂感で満たされるような単純なも        丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 のではなく、他者の欲望を欲望するという複雑な構 造を内側に抱えているからだ。平たく言えば、男性 は女性を手に入れたあとも、その事実を他者に欲望 されたい(嫉妬されたい)と思うし、また同時に、 他者が欲望するものをこそ手に入れたいとも思う (嫉妬する)ので、その欲望は尽きることがないので ある。人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会 関係を作ることができるのは、まさにこのような間 主体的な欲望があるからにほかならない。動物の欲 求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的 に他者を必要とするIここでは詳しく述べないが、 この区別はじつは、ヘーゲルからラカンまで、近代 の哲学や思想の根幹をなしているきわめて大きな前 提である。コジエーヴもまたそれを踏襲している。  したがってここで「動物になる」とは、そのよう な間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏−満 足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。コ ジエーヴが「動物的」だと称したのは戦後のアメリ 力型消費社会だったが、このような文脈を踏まえる と、その言葉にもまた、単なる印象以上の鋭い洞察 が込められていたことがよく分かるだろう。  アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着 実に拡大し、いまでは世界中を覆い尽くしている。 マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行 き届いた現在の消費社会においては、消費者のニー ズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的 に満たすように日々改良が積み重ねられている。従 来ならば社会的なコミュニケーションなしには得ら れなかった対象、たとえば毎日の食事や性的なパー トナーも、いまではファーストフードや性産業で、 きわめて簡便に、いっさいの面倒なコミュニケー ションなしで手に入れることができる。そしてこの かぎりで、私たちの社会は、この数十年間、確実に 動物化の道を歩み続けてきたと言える。前にも引用 したように、コジエーヴはそのような社会について。 「蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が 遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散 する」世界になると予測していた。もし現在の爛熟 し情報化した消費社会を見たとしたら、コジエーヴ はこの予測はほぼ実現されたと記したかもしれない。 オタクたちの「動物的」な消費行動  そしてこのような視点で見ると、コアージーキャ ラット』に萌え、『コズミツク』を読み、『Air』 に泣いているオタクたちの消費行動もまた、「動物 的」という形容にまさに相応しいように思われる。 幾度も繰り返しているように、現在のオタクたちは もはやスノビズムを必要としない。スノビズムを生 み出した大きな物語への欲望そのものが、いまでは 弱体化している。かわりに彼らは、感情的な満足を もっとも効率よく達成してくれる萌え要素の方程式 を求めて、新たな作品をつぎつぎと消費し淘汰して いる。  したがって、そこでは、何か新たな要素が発見さ れればキャラクターや物語の大勢はすぐ変わってし まうし、また、複数の要素を順列組み合わせで掛け 合わせることで、類似した作品がいくらでも生産さ れてしまう。この集団的で匿名的な作品群のなかで は、従来のような作家性はきわめて小さな役割しか 果たしていない。作品の強度は、作家がそこに込め た物語=メッセージではなく、そのなかに配置され た萌え要素と消費者の嗜好の相性によって判断され るのだ。  そしてそのようなオタクたちの行動原理は、あえ て連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な 鑑賞者(意識的な人間)とも、フェテイシュに耽溺 する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、 もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に 近いようにも思われる。あるキャラクター・デザイ ンやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変 わってしまったかのように同じ絵や声が頭のなかで 回り続け、あたかも取り憑かれたようだ、というの は、少なからぬオタクたちが実感を込めて語る話で ある。それは趣味よりも薬物依存に似ている。 オタクたちの保守的なセクシュアリティ  そして実際に、そのような体験談を額面どおりに 受け取ったほうが説明しやすい現実もある。精神科 医の斎藤環は、オタク系文化の図像がさまざまな性 倒錯で満たされているにもかかわらず、なぜオタク には現実の倒錯者が少ないのか、という問いを幾度 か提起している(注47)。男性のオタクたちがロリ コンものを好み、女性のオタクたちが男性の同性愛 者が登場する「やおい」ものを好むのは八〇年代か ら有名だが、その一方で、現実の小児性愛者や同性 愛者がオタクたちのあいだで決して多くないことも また知られている。したがって斎藤の問題提起は興 味深い。  ところが残念ながら、斎藤の答えはあまりに複雑 である。彼の説明によると、大きな物語を失った (斎藤の言葉では「象徴的去勢に失敗した」となる)オ タクたちは、その喪失を埋めるために現実のセク シュアリティと想像的なセクシュアリティを切り離 し、後者で前者の不在を補う必要があり、結果とし て彼らの創作物は過度に性的なイメージで満たされ ることになったのだ、ということになっている。お そらく、この説明もオタクたちの心理のある側面を 突いているのだろうが、こと現象の整理に関するか ぎり、不必要に迂遠な論理だという印象は拭えない。  しかし、動物化の流れを念頭に置けば、同じ現実 の説明ははるかに簡単にできるように思われる。動 物的な欲求と人間的な欲望が異なるように、性器的 な欲求と主体的な「セクシュアリティ」は異なる。 そして、成人コミックやギヤルゲーを消費する現在 のオタクたちの多くは、おそらく、その両者を切り 離し、倒錯的なイメージで性器を興奮させることに 単に動物的に慣れてしまっている。彼らはI〇代の 頃から膨大なオタク系性表現に曝されているため、 いつのまにか、少女のイラストを見、猫耳を見、メ イド服を見ると性器的に興奮するように訓練されて しまっているのだ。しかしそのような興奮は、本質 的には神経の問題であり、訓練を積めばだれでも掴 めるものでしかない。それに対して、小児性愛や同 性愛、特定の服装へのフェティシズムを自らのセク シュアリティとして引き受けるという決断には、ま たまったく異なった契機が必要とされる。オタクた ちの性的自覚は、ほとんどの場合、とてもそのよう な水準に到達していない(注48)。だからこそ彼ら は、前に述べた二次創作への態度と同じく、一方で いくらでも倒錯的なイメージを消費しながら、他方 では現実の倒錯に対して驚くほど保守的であるとい う奇妙な二面性をもっているのである。 虚構の時代から動物の時代へ  大きな物語の捏造から単なる廃棄へ、『ガンダム』 からコアージーキャラット』へ、物語消費からデー                丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 タベース消費へ、つまりは部分的なポストモダンか 丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 ら全面的なポストモダンヘの大きな流れは、このよ うに、そこに生きる人々の動物化を意味する。した がって筆者はここで、四五年から七〇年までを理想 の時代、七〇年から九五年までを虚構の時代として 捉えた大津真幸の議論を受け継ぎつつ、九五年以降 の時代を「動物の時代」と名づけたいと思う。消費 者の動物化というこの変化は、幾度も繰り返してい るように、ポストモダン化全体のなかで生じたもの であり、決して国内的な現象ではない。ただそれで も、理想の時代と虚構の時代の対立が先鋭だったの と同じように、虚構の時代から動物の時代への移行 も、この国ではとりわけ急速で明確だったように思 われる。  そこでひとつ参考になるのが、オタク系文化とは 異なる方向で九〇年代のジャーナリズムを賑わして いたストリート系の少女、いわゆる「コギャル」た ちの行動様式である。筆者はこちらについてはほと んど細かい動向を知らず、考察は一般的な報道に頼 らざるをえない。だからきわめて大雑把な印象でし か語れないのだが、しかしそのかぎりでは、彼女た ちの行動様式は、表面的にはオタクだちと正反対の 部分も多いにもかかわらず、やはり同様に「動物 的」と言えるように思われる。彼女たちは、自らの 性的身体を主体的なセクシュアリティから切り離し て売買することにほとんど抵抗を感じず、知り合い は多いが本質的には孤独なコミュニケーションのな かで、欲求の満足に対してはきわめて敏感な生活を 選んでいた。 コギャルとオタクの類似性  そしてこのコギャルの台頭はまた、オタク系文化 の変化とも決して無関係ではない。九〇年代後半に ストリート系の少女文化の紹介者としてよく知られ ていたのは社会学者の宮台真司だが、その彼の問題 意識は、じつは同世代である大塚英志や大津真幸と きわめて近いところを動いている。したがって彼の 文章を辿ると、オタクとコギャルという二つのサブ カルチャー集団が、本質的には同じひとつの社会的 変化を反映して現れてきたものであることがよく分 かる。  たとえば、宮台が初めてコギャル(当時は「ブル セラ少女」と呼ばれていた)について主題的に論じた 著作は九四年の『制服少女たちの選択』だが、この 著作はまた、後半にすぐれたオタク論を収めている ことでも注目される。宮台によれば、七三年以降、 日本社会では世代的な共同性が失われ、若者集団は 「島宇宙化」している。八〇年代に現れた「新人類」 と「オタク」と呼ばれる人々は、その変化に対応し た最初の集団である。そして彼の分析によれば、新 人類とオタクの行動原理は、ともに「シンボルの交 換を中心とした深さを欠いたコミュニケーションと、 限定された情報空間の内部でかろうじて維持される 自己像」で特徴づけられる。彼らが虚構的なシンボ ルの交換を重視するのは、「かつてよりも希薄なも のになったコミュニケーション前提を、いわば人為 的に埋め合わせるため」だ(注49)。これは明らか に、大塚によって物語消費と呼ばれ、大津によって 「第三者の審級の二次的な投射」と呼ばれたものと 同じ心理過程を指す分析である。大きな物語が失わ れたあと、サブカルチャーによって替わりを捏造し ようとするその欲望を、宮台のほうでは「(世界の) 有意味化戦略」と呼んでいる。  しかし、『制服少女たちの選択』でも強調されて いるように、九〇年代はその戦略が飽和し、「限定 された情報空間」を維持することすら難しくなった 時代である。本書の言葉で言えば、物語消費すら難 しくなった時代なわけだ。そして九五年以降の宮台 は、このような認識のうえで、ストリート系の少女 たちの即物的な行動原理を高く評価し、「まったり 革命」や「意味から強度へ」といったスローガンを 掲げてジャーナリスティックな活動を始めることに なる。それ以降の宮台はまとまった文章を書いてい ないので引用が難しいが、彼の基本的な姿勢は、こ れらのスローガンからでも、またさまざまなエッセ イからでも明らかである。そしてそこには、本書で ここまで論じてきたようなデータベース消費の問題 との興味深い符合が見られる。  たとえば宮台は、オウム真理教事件の直後に出版 されたエッセイ集『終わりなき日常を生きろ』にお いて、「終わらない日常に適応できない者」と「適 応できる者」の対立を執拗に問題にしている。オウ ム真理教徒は前者の代表であり、「ブルセラ少女」 は後者の代表である。このような対立のうえで、宮 台は、前者の閉塞性を知的に乗り越えることはおそ らく可能だが、「その間接性たるや気が遠くなるほ どであり、その実効性には疑いを禁じえない」と記 し、続けて、「しかし私は、まったく別の道がある かもしれないと思っている。それは、全面的包括要 求そのものを放棄するという、決定的な、しかも現 に私たちが進みつつある道である」と述べている 孀函弓記号化され、匿名化された都市文化のなか で、「ユミとユカの区別もつかない」でまったりと 生きている九〇年代のブルセラ少女たちには、もは や世界全体を見渡そうという意志(全面的包括要求) も、その断念から来る過剰な自意識も存在しない。 彼らは有意味化戦略をもたず、物語消費も必要とし ない。  これはまさに、筆者がここまでデータベース消費 として論じてきたものと同じ「道」である。八〇年 代のスノッブなオタクたちが新人類と表裏の関係に あったように、九〇年代の動物化したオタクたちは、 おそらくはこの少女だちと表裏の関係にあったのだ。 オタクたちの社交性  ポストモダンの時代には人々は動物化する。そし て実際に、このI〇年間のオタクたちは急速に動物 化している。その根拠としては、彼らの文化消費が、 大きな物語による意味づけではなく、データベース から抽出された要素の組み合わせを中心として動い ていることが挙げられる。彼らはもはや、他者の欲 望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わ されず、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で 演出してくれる作品を単純に求めているのだ。  とはいえ、このような主張には反論があるかもし れない。なるほど、オタクたちが作品に向ける態度 は動物化しているだろう。つまり、欠乏−満足とい う単純な論理で動くものになっているだろう。しか し彼らは同時に、それなりに社交的な人々としても 知られているのではないか。オタクたちは実際には、 他者との接触を避けるどころか、インターネット上 のチャットや掲示板、現実世界での即売会やオフ会 などを通して、きわめて多様なコミュニケーション を展開しているのではないだろうか。そしてそこに は、他者の欲望を欲望する、という複雑な関係も しっかりと働いているのではないだろうか。オタク たちはいまでも、世代にかかわらず、友人とコレク ションを競い、嫉妬し、虚勢を張り、ときに党派を 作って誹謗中傷を投げ合っている。このような振る 舞いはまったく「人間的」であり、このI〇年間で とくに変わったわけではないし、これからも変わら ないだろう。とすれば、オタクたちが動物化し、彼 らから欲望の水準が抜け落ちつつある、と主張する のはあまりに一面的ではないだろうか。  ところがそうではないのだ。なるほど確かに、ポ ストモダンのオタクたちも「人間」であり、欲望と 社交性を備えている。しかしその欲望と社交性のあ りかたは、やはり、かつての近代的な人間からずい ぷんと離れているのである。  幾度も繰り返しているように、オタクたちは現実 よりも虚構のほうに強いリアリティを感じ、そのコ ミュニケーションもまた大部分が情報交換で占めら れている。言い換えれば、彼らの社交性は、親族や 地域共同体のような現実的な必然で支えられている のではなく、特定の情報への関心のみで支えられて いる。したがって彼らは、自分にとって有益な情報 が得られるかぎりでは社交性を十分に発揮するのだ が、同時に、そのコミュニケーションから離れる自 由もまたつねに留保している。携帯電話の会話にし ろ、インターネット上のチャットにしろ、不登校や 引きこもりにしろ、そのような「降りる」自由は、 オタク系文化にかぎらず、九〇年代の社会を一般に 特徴づけてきたものだ。  私たちの生きる時代とは、そもそも、たいていの 生理的な欲求を動物的にすみやかに満たすことがで きる時代である。それが個々人の豊かさの実感に繋 がっているかどうかはともかく、この点で、現代の 日本が先行する時代に比較し圧倒的に便利であるこ とは疑いえない。そして、オタクたちの社交性は、 宮台も指摘したとおり、そのような社会に適応して 生み出されている。現実の必然性はもはや他者との 社交性を要求しないため、この新たな社交性は、現 実に基盤をもたず、ただ個人の自発性にのみ基づい ている。したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹 謗中傷のような人間的なコミュニケーションが展開 されたとしても、それらは本質的にはまねごとであ り、いつでも「降りる」ことが可能なものでしかな いのだ。コジエーヴならばこの事態を、オタクたち は社交性の実質を放棄したが、その形式だけを維持 していると述べるかもしれない。繰り返すが、この ような傾向は、九〇年代においてはもはやオタクだ ちに限られたものではなかった。 大きな共感の存在しない社会  そして社交性のこのような形骸化を補うように台 頭してきたのが、まさに、前節で検討した小さな物 語への関心の高まりなのである。ポストモダン=動 物の時代においては、世界は、小さな物語と大きな 非物語、シミュラークルとデータベースの二層構造 で捉えられる。そしてそこでは、深層に大きな物語 がない以上、生きる「意味」を与えてくれるのは表 層の小さな物語だけである。データベースは意味を 与えてくれない。だからこそ九〇年代のオタクたち は、作品を解体し、分析し、再構成する欲望をもっ ていながら、いや、むしろそれゆえに、作品の表層 に宿るドラマに素直に感動していくのだ。  ノベルゲームの消費は二層化されている。データ ベースの水準で生じるシステムヘの欲望と、シミュ ラークルの水準で生じるドラマヘの欲求である。前 者ではオタクたちにも社交性が要求される。彼らは 活発にチャットを交わし、オフ会を開いて、情報を 交換し、二次創作を売買し、新作の評価について議 論し合っている。しかし対照的に、後者では社交性 はまったく要求されない。彼らの物語への欲求は、 きわめて個人的に、他者なしに孤独に満たされてい る。ノベルゲームは決して多人数でプレイするもの ではない。そしてそこで九〇年代に急速に高まった 「泣き」や「萌え」への関心は、彼らがもはや、 データベースを介して作られる疑似的な社交に感動 や感情移入を期待していないことをはっきりと示し ている。これは一面だけ見れば、現実のほうで感動 することができないので、虚構のほうで感動を求め る、というよく指摘されているオタクたちの心理で ある。しかし、筆者がここでわざわざ「ポストモダ ン」やコアータベース」といった概念を用いて論じ てきたのは、その変化が、単に感情の場所が変わっ ただけではなく、質の変容を伴っているからなのだ。  ルソーを持ち出すまでもなく、かつては、共感の 力は社会を作る基本的な要素だと考えられていた。 近代のツリー型世界では、小さな物語(小さな共感) から大きな物語(大きな共感)への遡行の回路が保 たれていたからである。しかしいまや感情的な心の 動きは、むしろ、非社会的に、孤独に動物的に処理 されるものへと大きく変わりつつある。ポストモダ ンのデータベース型世界では、もはや大きな共感な ど存在しえないからだ。そして現在のオタク系作品 の多くは、明らかに、その動物的処理の道具として 消費されている。このかぎりで、オタク系文化にお ける萌え要素の働きは、じつはプロザックや向精神 薬とあまり変わらない。そして同じことは、また、 ハリウッド映画やテクノーミュージックなど、さま ざまな娯楽産業の働きにも言えるのではないか。  そろそろ結論に入ることとしよう。データベース 型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体 もまた二層化されている。それは、シミュラークル の水準における「小さな物語への欲求」とデータ ベースの水準における「大きな非物語への欲望」に 駆動され、前者では動物化するが、後者では疑似的 で形骸化した人間性を維持している。要約すればこ のような人間像がここまでの観察から浮かび上がっ てくるものだが、筆者はここで最後に、この新たな 人間をコ7‐Iタベース的動物」と名づけておきたい と思う。  近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固 有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固 有な社交性を通して満たすことができた。言い換え れば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に 結ぶことができた。  しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望 を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動 物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。 そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあい だにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的 に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。 意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そして シミュラークルの水準での動物性とデータベースの 水準での人間性の解離的な共存。現代思想風の用語 を使って表現すれば、これが、本章の第二の問い。 「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして。 ではそこで人間性はどうなってしまうのか」という 疑問に対する、現時点での筆者の答えである。 第三章 超平面性と多重人格 I 超平面性と過視性 ポストモダンの美学  前章までの議論で、ポストモダンという視点から オタク系文化の現状を分析する、あるいはその逆に、 オタク系文化の分析を通してポストモダンの本質を 探る、という本書の目的はあるていど達成してし まったように思う。コアータベース」「シミュラーク ル」「大きな非物語」「二層構造」「動物の時代」「萌 え要素」「解離」などなど、あまり一般的でない言 葉も数多く使ってきたが、筆者は、それらの概念は、 オタク系にかぎらず、現在の文化一般を分析するう えでも有益なものだと信じている。いずれにせよそ れらは、現代思想とサブカルチャーを往復しつつ一 九九〇年代の日本を過ごしていた筆者にとっては、 単なる概念以上の重みを伴った、言ってみれば「リ アル」な言葉である。本書の冒頭でも記したように、 その個人的な経験と分析が、少しでも多くの読者を 納得させ、それぞれの立場での世の中の理解に役立 てば、それに越した喜びはない。  というわけでこの章では、原理的な考察はもうや めて、ポストモダンとは表層的にはどのような世界 で、そこで流通する作品はどのような美学で作られ るのか、そのヒントとなるような思いつきを二つほ ど記しておきたいと思う。前章がポストモダン分析 の理論編だったとしたら、本章は、その応用編の予 告のようなものである。 HTMLの性質  ひとつはウェブの記号的な世界についてである。 インターネットの起源は六〇年代まで遡るが、私た ちがいま普通に「インターネット」と呼んでいる ウェブページ(ホームページ)の集合体は、九〇年 代に入ってようやく誕生したものである。そのシス テムは、厳密には、ネットワークそのものを意味す る「インターネット」と区別して、「ワールドーワ イドーウェブ(WWW)」、略して「ウェブ」と呼ば れている。『日経BPデジタル大事典』の記述を借 りれば、ウェブとは、「ハイパーテキスト形式の分 散情報システム」であり、「ハイパーテキストは文 書の中にポインタを設けて、そのポインタからほか の文書や図にジャンプするリンクを設けた構造に なっている。このようにして世界中に分散している 情報を相互にリンクすることからワールドーワイ ドーウェブ(世界的なクモの巣)の名前が生まれた」 とのことである(注51)。  話を簡単にするため、以下、断りなしに「イン ターネット」と言ったらこのウェブの世界を指すこ とにしよう。さて、ウェブも含め、インターネット の構造がポストモダンの二層構造を反映している、 というのは前章で述べた。しかしここではそのよう な全体的な構造ではなく、あえて表層だけに注目し てみたい。インターネットの表層、つまリスクリー ンに表示されるウェブページについて考えるとき、 まず考えねばならないのはHTMLの性質である。 というのも、ウェブにおいては、定義上、あらゆる ページは必ずこの言語で書かれることになっている からだ。いかなる文章が書かれ、いかなる画像が埋 め込まれていようとも、ウェブページは必ずHTM Lで書かれている。  HTMLは簡単なプログラム言語である。それは 本来はページ内の各要素の関係(たとえば、あるテク ストは表題なのか本文なのか、ある段落は引用なのか否 か)を指定し、ブラウザにその情報を伝えるために 用いられるものだ。たとえば、HTMLには〈江〉 というタグが定義されているが、これは、そのタグ に挟まれた文字列が最上位の見出し語(「見出し語 I」)であることを意味している。しかし実際には、 このような機能は、むしろウェブページをデザイン するために使われることが多い。〈江〉であれば、 単に文字サイズを大きくするため、無造作に本文中 で使われていることもしばしばだ。  しかしこの使い方は決して適切ではない。という のも、HTMLの表示は、じつはOSやブラウザに よって大きく異なるからである。HTMLは、原則 としては、ページのなかに含まれた各要素の論理的 な関係を示すものであり、その視覚的な表現はユー ザー環境に委ねている(注52)。つまり、〈江〉の夕 グは、ある文字列が「見出し語I」として読まれる べきであることを指定するにすぎず、その具体的な 表示サイズや位置は指定しないのである。したがっ て、まったく同じHTMLで書かれたウェブページ も、WindowsとMac、Inte日et Explorerと Netscape Navigatorでは、細部の表示が異なること がしばしばだ。その齟齬は、専門のデザイナーであ ろうとアマチュアであろうと、多少とも意識的に ウェブページをデザインしようとする人々にとって は、つねに悩みの種になっている。 「見えるもの」が複数ある世界  しかしこの限界は、HTMLの不備というより、 むしろ、ウェブの世界が、印刷物の世界とはまった く異なった論理で動いていることを示したものだと 考えたほうがよい。説明を簡単にするため、ここで 「見えるもの」と「見えないもの」の対立という考 え方を導入してみよう。  印刷されたページを目の前にするとき、私たちは、 まず印刷されたテクストを見て、つぎに意味に遖っ ている。これはつまり、「見えるもの」から「見え ないもの」へ遖っているということである。そして 逆に自分で文章を書くときにも、意味を具体的な言 葉の列に落とす、つまり「見えないものを見えるも のに変える」という発想が支配的だ。  この発想はじつは、単なる印象論にとどまらず、 一九世紀から二〇世紀にかけての学問をあちこちで 規定してきたことが知られている。これは現代思想 では「音声中心主義」と呼ばれ、さまざまな検討が 加えられているのだが、ここではその細部に踏み込 むのは止めておこう。いずれにせよ、印刷物の表現 の世界は「見えないものを見えるようにする」とい う論理で動いてきた、ということさえ頭に入れてお いてもらえばそれで十分だ。  ところがウェブの世界はそのように作られていな い。そこではまず「見えるもの」の状態が定かでは ない。繰り返すが、ウェブページの本質はHTML で書かれた一群の指示であり、ユーザーに見える画 面は、それぞれのOSやブラウザ、さらにはモニタ やビデオチップまで含めた環境による「解釈」にす ぎない。しかもウェブページはブラウザを通して見 なくてもよい。実際にそのソースコード(HTMと は、〈江〉などのタグが入ったテクストとして、エ ディタで簡単に開くことができる。そしてそれもま た、テクストとして表示されているかぎりは、やは り「見えるもの」である。このような意味で、ひと つのウェブページには、見えるものがつねに複数あ ると言うことができる。  だから、ウェブページを読むときには、従来のよ うに「見えるものから出発する」という単純な前提 を取ることができない。具体的に言えば、ウェブ ページの質を判断するときに、ひとつのOS、ひと つのブラウザ、ひとつのマシンで見たときの印象を 基準にすることはできない。ある環境できわめて効 率よく、美しく作られたページが、別の環境ではま ともに表示すらされない、というのはよくあること なのである。したがってこの世界では、ページの コアザイン」は、見える部分のみではなく、むしろ、 できるだけ多くの環境で問題なく動き、できるだけ 同一の外見を保つことのできるHTMLで書かれて          丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 いるのかどうか、見えない部分も含めて判断される のだ。ここには価値観の大きな変化がある。印刷媒 体では確固とした見えるものが出発点だったが、 ウェブの世界では、まず複数の見えるものの比較検 討から入らなければならないわけだ。  「見えないもの」の不安定な位置  そしてウェブの世界では「見えないもの」の位置 も安定しない。というのも、HTMLがテクストと しても開けることに示されているように、ウェブで は、ある環境で(ブラウザで)見えないものが、環 境を変えれば(エディタを使えば)すぐに見えるもの になってしまうからである。ウェブページをプラウ ザで見ているときには、その外見を規定している構 造的な情報は見えない。しかしその情報も、HTM Lを開けば、タグやスクリプトとしてはっきりと見 えるようになる。  たとえば、あるウェブページのレイアウトがどの ように作られているのかを知りたければ、HTML を開くのがもっとも早い。そこには、どこにどのく らいの大きさで表やイメージが配置され、文字色や 背景色がどのように設定されているのか、すべての 指定が具体的な数値として記されているからだ。そ のような数値は、印刷されたページのレイアウトで は、自分で定規でも使って測らないかぎり決して手 に入らなかった。そして、HTMLでは直接扱って いない特殊なデータ(プラグインで再生されるデータ) の情報も、適切なアプリケーションさえあれば、す べて解析することができる。  しかもHTMLには、そのような視覚的な構造の 情報だけではなく、意味的な構造の情報も含まれて いる。たとえば、さきほども触れた〈江〉を始め、 定義語を表す合子〉や略語を表す〈§町〉など。 HTMLには、文字列の役割を直接に指定するタグ がいくつも定義されている。印刷媒体ではこのよう な役割は、視覚的なデザインを通して間接的に伝え られるはかなかった。たとえば、〈江〉の機能は文 字列を大きく印刷することで、合子〉の機能は改行 や太字で、〈斗町〉の機能は直後にカッコを配して 原語を明記することで、間接的に果たされるはかな かった。しかしHTMLは、そのような役割すら見 えるものにしてしまう。言い換えれば、印刷媒体で はあくまでも見えないものだった個々の文字列の役 割が、ウェブでは、HTMLをエディタで開きさえ すれば、原理的には見えるものに変えられてしまう のである(注53)。  ある環境での見えないものが別の環境では見える ものになる、というこの性質は、ウェブにかぎらず、 もともとコンピュータの世界に共通している。私だ ちはいま、グラフイカルーユーザー・インターフェ イス(いわゆるデスクトップ画面)を用い、アプリ ケーションソフトを動かしてコンピュータを操作す ることにあまりに慣れている。しかし、計算機の基 本は、あくまでも一連の数や文字により書かれたプ ログラムであり、さらにはその基礎にある二進数の 数列である。したがって、デスクトップを「見る」 ことでコンピュータを操作しているとき、その背後 には、じつはプログラムや二進数が見えないものと して存在しているはずなのだ。  私たちは普段あまりそれを意識しない。しかしコ ンピュータは本質的に、そのような見えないものも、 環境さえ整えば即座に見えるものにしてしまう性質 をもっている。アプリケーションのインターフェイ スの背後に隠されたプログラムを見ることは、適切 なソフトウェアさえ手に入れ、復号化(これは「逆 コンパイル」と呼ばれ、実際には禁止されていることも 多い)を施せば簡単にできる。普通にコンピュータ を使っているかぎりこのようなことは意識しないで すむが、もし、ウェブも含め、コンピュータを基礎 とした新たな文化について考えようとするのならば、 このような原理的な特徴を無視するわけにはいかな い。 データペース消費はウェブの論理に似ている  ウェブの世界では、印刷物の世界と異なり、「見 えるもの」は複数あり、「見えないもの」の位置も 安定しない。したがってそこでは、表現者が見えな いものを見えるものに変えることで作品を作り、鑑 賞者が逆に見えるものから見えないものへ遡る、と いう従来の論理は通用しない。というのも、ウェブ の世界では、多少自覚的な鑑賞者ならば、単に見え るもの(画面)を見るだけではなく、ソースコード を開き、見えないものも見えるように変えてしまう からだ。  それは前章で言えば、ノベルゲームのユーザーが、 システムを解析し、画像やシナリオを吸い出したこ とに相当する行為である。ユーザーからのこの能動 性があるかぎりで、ウェブの世界、あるいはより広 くソフトウェアの世界では、「作品」の単位は、単 にユーザーが見るものだけではなく、そこで見えな いはずのものまで含めて定義されねばならないこと になる。具体的に言えば、ウェブページであれば表 示画面だけでなくHTMLまで含めて、ノベルゲー ムであればドラマだけでなくシステムまで含めて、 アプリケーションであればインターフェイスの美し さだけでなくソースコードの効率性まで含めて、評 価の対象とならねばならないのだ。ウェブページの 文化は、「ページ」という比喩のせいか、あるいは 日記や掲示板など文章中心のサイトがいまでも多い せいか、印刷文化の延長として捉えられることが少 なくない。しかし、それは本質的には、ゲームやソ フトウェアにはるかに近い論理で支えられた文化で ある。  インターネットの構造はポストモダンの世界像を 反映している。したがって、その構造が生み出した このようなウェブの論理も、実際にはインターネッ トやコンピュータの世界だけで見られるものではな い。だれでも知るように、この数年、あらゆるジャ ンルの表現は、よリインターネット的に見え、より コンピュータ的に見える外見を求めて雪崩を打って 変貌を遂げている。そしてその結果、ウェブの論理 は、技術的にはそれらと無関係な多くのジャンルに も広く深く浸透し始めている。  たとえば、本や雑誌は今後も出版され続けるだろ うが、その構成や文体はますますウェブページに近 づいていくだろうし、映画は今後も上映され続ける だろうが、その演出や編集はますますゲームやビデ オクリップに近づいていくだろう。前章で検討した オタク系文化の変化も、当然のことながらその流れ のなかで現れている。そもそも、作品の本体をデー タベース(見えないもの)として捉え、消費者の好 みに応じてそこからシミュラークル(見えるもの) を読み込んでいくというデータベース消費の行動様 式そのものが、以上のようなウェブの論理にぴった りと合ったものなのだ。だからこそ、ウェブでのコ ミュニケーションが中心となったノベルゲームの消 費には、動物の時代の特徴か凝縮されていたのであ る。 異なる階層が並列されてしまう世界  以上のようなウェブやゲームやソフトウェアの世 界、ひいては私たちが生きるこのポストモダンの世 界の特徴を、ここで「超平面的」という言葉で捉え てみたいぶ禺到。この表現は、文字どおり、徹底 的に平面的でありながら、同時に平面を超えてしま うという特徴を意味している。コンピュータのスク リーンに代表される超平面的な世界は、平面であり ながら、同時にそこから超えるものも並列して並べ てしまう。  具体例で考えてみよう。図18は、筆者が使ってい るコンピュータのデスクトップから取ったスナップ ショットである。ここにはひとつのデータの三種類 の表現が並べられている。まず、もっとも左側に開 かれているウィンドウでは、筆者が最近出版した対 談集の表紙のイメージを表示している。このイメー ジはAdobe Illustratorというドロー・アプリケー ションで作られており、画像内の図形はすべて座標 やベクトルで数値的に指定されている。したがって このファイルは、イメージとしてと同時に、また、 それらの膨大な指示からなるテクストとしても開く ことができる。右下のウィンドウがそのテクストを 表示している。  しかし実際にはこのテクストもファイルの本体で はない。というのも、コンピュータが処理している のは、あくまでも二進数の数列であり、決して英数 字そのものではないからだ。したがって、同じファ イルはまた別の方法で表示することもできる。右上 に開かれた小さなウィンドウは、コアータフオー クーエディタ」と呼ばれる特殊なソフトウェアを使 い、同じファイルのデータ部分をヱ(進数で表示し たものだ。  ではこの三つのウィンドウの関係はどのようなも のだろうか。普通に考えれば、右上に表示された データがもっとも「本体」に近く、それがエディタ で解釈されてテクストとなり、さらにそれがy&g 三ustratorで解釈されてイメージとなる、と階層的 に捉えられるだろう。しかし、コンピュータの世界 では、そのような階層関係は説明原理としては正し いものの、物理的にはほとんど根拠がない。という のも、もしファイルの「本体」なるものがあるとす れば、それはハードウェアのどこかに格納された電 磁気的なパターンにすぎず、その解釈という点では 二(進数もテクストもイメージも変わらないからだ。 だからこそそれらは、三つのウィンドウとして、同 じスクリーンのうえに並べることができるし、また そうせざるをえないのである。  この構造にはポストモダンの世界像がみごとに反 映されている。ポストモダンにおいては、世界の深 層はデータベースとして表象され、表層に位置する 記号はすべてその解釈(組み合わせ)として捉えら れる。同じように、この例では、ファイルの深層は 見えない情報として表象され、スクリーン上に表示 された三種類の表現はすべてその解釈として捉えら れている。したがって、そのシミュラークルの世界 では、AがBを、BがCを、CがDを規定すると いったツリー型の階層関係よりも、AもBもCもD もすべて同じ情報からの読み込みとして捉える並列 関係のほうが好まれるのだ。  このような特徴はいまやコンピュータの世界に限 られない。たとえばオタク系文化で言えば、前章で 詳しく検討したように、アニメやノベルという作品 の単位と、その背景にある設定やキャラクターと、 さらにその背景にある萌え要素という異なった階層 の情報が、ウィンドウを開くように等価に並行して 消費されているという現実がある。現在のグラフィ カルーユーザー・インターフェースは、このかぎり で、単なる便利な発明にとどまらず、私たちの時代 の世界像を凝縮したみごとな装置だと言うことがで きるだろう。 物語が横滑りしていく構造  最後にもうひとつ付け加えておこう。このような 超平面的な世界は、また、見えないものがつぎつぎ と見えるものに変えられ、同じ平面のうえに並べら れてしまうがゆえに、かえって見えないものへの探 求が止まらない、という逆説を生み出すことになる。 さきほどの例であれば、ドロー・アプリケーション からエディタヘ、そしてデータフオークーエディタ ヘ、と環境を変えることで見えないものをつぎつぎ と見えるようにしていく行為は、論理的には階層を 遡っているにもかかわらず、その世界(デスクトッ プ画面)のなかでは同じ平面のうえを横滑りしてい るにすぎないと見なされる。したがってそこでは、 最終審級に辿り着くことなく、できるだけ多くの見 えないものを見えるものに変え、できるだけ多くの シミュラークルをデータベースから引きだそうとす る別種の欲望が台頭することになる。  たとえばウェブでは、世界的に有名なサイトでも 単なる個人サイトでも等価にリンクされてしまうた め、半ば必然的に、検索エンジンを頼りに無数のサ イトを渡り歩くことが要求される。そしてその探索 は、あるていど深くインターネットの世界に関わっ た読者なら分かるように、内在的には終わる契機が ない。同じタイプの欲望は、オタク系文化において も、トレカの消費者たちのコンプリート(すべての カードを集めること)への情熱や、ギヤルゲーのプレ イヤーたちの全分岐クリアーヘの情熱、それに何よ りも、同人誌即売会の林立を支えている二次創作の コレクションヘの情熱としてはっきりと現れている。 前章でも触れたように、データベース消費のなかに いるオタクたちは、ひとたびある作品に捕まれば、 あとは関連商品と二次創作を無限に消費してくれる。 彼らが前にしているデータベース型世界では、その 情熱を鎮めるための「大きな物語」が存在しないか らだ。  超平面的なシミュラークルの世界、すなわちポス トモダンの表層に対して働く欲望のこのような特徴 を、今度は「過視的」という言葉で捉えてみよう。 これは、過剰に可視的という意味を込めて筆者が 作った造語で、見えないものをどこまでも見えるも のにしようとし、しかもその試みが止まることがな いという泥沼の状態を指している(注55)。筆者は 前章で「小さな物語への欲求」と「大きな非物語へ の欲望」の解離的な共存について述べたが、このよ うな観点で捉えると、その両者は過視的な関係で繋 がっているとも言えるかもしれない。見えるもの (小さな物語=シミュラークル)から見えないもの(大 きな非物語ムアークベース)へと遡行しようと試みな がら、しかし果たされないままに小さな物語の水準 を横滑りしていく、そういう不発の構造が、筆者が ここで「過視的」と名づけたいものだからである。  近代のツリー型世界では、表層と深層、小さな物 語と大きな物語の両者は相似関係で繋がっていた。 したがって、人々は前者から後者へと遡行すること ができた。これを「見えるもの」と「見えないも の」の比喩で捉えれば、近代では、まず小さな見え るものがあり、その背後に大きな見えないものがあ り、前者から後者へと遖って、見えないものをつぎ つぎと見えるものに変えていくことが世界理解のモ デルだったと言うことができる(図19a)。近代的 な超越性とは、何よりもまず視覚的な運動だったの だ。  しかしポストモダンのデータベース型世界では、 その両者はもはや直接に繋がることがない。小さな 物語は大きな非物語を部分的に読み込むことで生ま れるが、同じ非物語からはまた別の小さな物語が無 数に生まれうるのであり、そのいずれが優位かを決 定する審級はない。つまり小さな物語から大きな非 物語へと遡ることはできない。したがってここでは、 まず目の前に小さな見えるものがあり、そしてそこ から見えないものに遡ろうとしたとしても、それは 見えた瞬間にただちに小さな物語へと変わってしま い、それに失望してふたたび見えないものへと向か う、という際限のない横滑りの運動が生じることに なる(図19b)。  この過視的なポストモダンの超越性は、視覚的な 近代の超越性と異なり、つぎつぎと階層を遡りはす るが、決して安定した最終審級に辿りつくことがな い。おそらくはここからは興味深い哲学的な問題が いろいろと出てくるのだろうが、そちらの展開はま た別の機会に譲ることとしよう。 2 多重人格 二層構造を「見えるもの」にした作品  もうひとつはゲームについてである。ここで最後 に取り上げたいのは、一九九六年に菅野ひろゆき (当時の名義は剣乃ゆきひろ)の監修で作られた『Y U‐NO』という作品だ。菅野の仕事はおもにギヤ ルゲーとして発表されており、一般的な認知はそれ ほど高くない。しかしドラマとシステムの双方にま たがる彼の巧みなゲームデザインは、一部できわめ て高い評価を得ている。  菅野の作品の中核にあるのは、ひとことで言えば 物語の多層性の強調である。たとえば九四年の『D ESIRE』や九五年の『EVE』では、ひとつの 事件を同時に複数の登場人物の視点で見る「マルチ サイトーシステム」と呼ばれる手法が採用されてい る。また二〇〇〇年の『不確定世界の探偵紳士』で は、ひとりの探偵が順番に事件を解決していくので はなく、複数の事件が同時に進行する独特のシステ ムが試みられている。この両者に共通するのは、ひ とつの物語が複数に分岐していく通常のマルチエン ディングではなく、ひとつしかない物語を同時に複 数の視点から見るというアイデアである。そして 『YU‐NO』は、その菅野の試みのなかでもとりわ け複雑かつ周到に作られた作品だ。  『YU‐NO』はギャルゲーであり、構造的にはシ ナリオ分岐型のアドベンチャーゲームである。ゲー ムの基本的な目的はキャラクターたちの攻略にあり、 五人いる主要なキャラクターごとにシナリオが分岐 し、それぞれの途中でポルノグラフィックなイラス トが鑑賞できるシステムになっている。この構造は 多くのギャルゲーと共通しているが、菅野はそこに 重要なアイデアを加えている。この作品では主人公 の目的は、単にそれぞれの女性を攻略するだけでな く、各分岐にまたがってばらまかれたアイテムを集 め、失踪した父親を探し出すことだとされている。 そのため主人公は、ゲームの冒頭で「並列世界」の あいだを移動できる「次元間移動装置」を渡される ことになる。ここで「並列世界」とは、それぞれ異 なった歴史を歩むパラレルーワールド、つまり、主 人公がそれぞれ異なった女性キャラクターとの恋愛 を進めている分岐のことである。  この設定の導入は、『YU‐NO』の主人公にメタ ギヤルゲー的な二重性を与えている。彼はひとつの 分岐のなかを生きながら、同時にその分岐マップも また見ることができるからだ。前章で用いた言葉で 言えば、この作品ではプレイヤーは、シミュラーク ルの水準にある小さな物語(ドラマ)とデータベー スの水準にある大きな非物語(システム)を同時に 眺め、そのあいだを往復しながらゲームを進めるこ とが要請されている、ということになる。次の図20 の二つの画面は、それぞれ実際のプレイ画面である。 図20aが並列世界のなかの画面であり、そこで右下 のボタンのひとつをクリックすると図20bのメタ並 列世界的な画面が現れる。分岐マップのなかには マークが表示され、自分かいまどの歴史線上にいる のかすぐに確認でき、そしてほかの時間と空間に、 あるていどの制限付きで飛び移ることができる。  このような構造をもつ作品の存在は、本書の議論 にとってきわめて重要である。繰り返し論じている ように、この「動物の時代」においては、シミュ ラークルの水準で生じる小さな物語への欲求と、 データベースの水準で生じる大きな非物語への欲望 が、切り離されたまま矛盾なく共存している。その 結果九〇年代のオタク系文化では、一方で効率よく 感動できる物語と効率よく感情移入できるキャラク ターが何の迷いもなく探求され、他方でその効率性 を支える萌え要素の群れが着々とデータベース化さ れてきた。ただしこの後者の領域は、コアージー キャラット』では、作品の背後に、ジャンルあるい はオタク系文化の全体に広がって見出されるはかな かった。それに対してノベルゲームは、作品そのも ののなかにシミュラークルとデータベースの二層構 造を抱え、かつ消費者がそれに簡単にアクセスでき るという興味深い特徴を備えている。だからこそ筆 者はノベルゲームに注目したわけだ。  しかし『YU‐NO』は、その二層構造そのもの さえ「見えるもの」にし、スクリーン上に表示して しまった点でさらに決定的な一歩を踏み出している。 『痕』や『Air』のようなノベルゲームのプレイ ヤーは、それぞれのプレイのあいだは、システムが 作り出した個々のドラマを素直に受容している。そ の背後の構造が解析され、シナリオやイラストが吸 い出され、さらにそのまわりに情報交換や二次創作 のコミュニケーションが張り巡らされるのは、あく までもプレイの外側においてである。言い換えれば そこでは、小さな物語への欲求は作品内で孤独に満 たし、大きな非物語への欲望は作品外で社交的に満 たす、という明確な分割が成立している。  ところが『YU‐NO』は、そのドラマの外で生 じるはずのコンプリートヘの欲望すらドラマの内に 組み込み、両方の情熱をともに作品内で満たすこと を目指して作られている。ノベルゲームではドラマ は見えるが、それを生み出すシステムは見えない。 しかし『YU‐NO』では、その両者がともに見え るかのような錯覚が作り出されているのだ。  言うまでもなく、『YU‐NO』でもシステムのす べてが見えるわけではない。表示される分岐マップ は、あくまでも本当のシステムが用意した見かけの システムであり、そこでは重要な情報は隠されてい る。したがって『YU‐NO』のデータパックもま た消費者によって解析されているし、そのまわりで オタクたちのコミュニケーションも繰り広げられて いる。つまり消費の二層化はこの作品をめぐっても 生じており、その点で前述のようなノベルゲームと 本質的に変わらないと言うこともできる。ドラマの 消費とシステムの消費のこの二層化は、コンピュー ターゲームの前提となる条件であり、この作品も決 してそれを逃れているわけではない。しかしとはい え、『YU‐NO』が、そのような条件のなかにいな がら、同時にその条件の自覚を目指したアクロバ ティックな試みであり、きわめて重要な作品である ことは疑いない。 超平面的な世界に生きる主人公  さらに加えて『YU‐NO』は、以上のようなシ ステム面だけではなく、ドラマ的にも注目すべき特 徴を備えている。そのなかでも筆者が注目したいの は、並列世界を移動するごとに主人公の記憶が部分 的に失われる、という奇妙な設定の存在である。  この設定は作品のなかでは必然性が低く、むしろ ほかの設定と齟齬を起こしている。たとえば、並行 世界の移動によっても集めたアイテムは失われない ので、記憶だけが失われるのはどう考えても理不尽 だ。普通に考えて、自分がもっているアイテムを見 れば、記憶も回復しそうなものである。それに実際 に、ほかの並列世界で手に入れたアイテムを使わな いと先に進めないシナリオ展開もあるので、この矛 盾は決定的だと言えるだろう。制作過程に沿って考 えれば、これは明らかに、『YU‐NO』がギャル ゲーであり、同時にメタギャルゲーとして作られた ことで生じた矛盾である。ギャルゲーである以上、 主人公は分岐のなかの世界を唯一の運命として辿ら ねばならないし、メタギャルゲーである以上、主人 公はその世界が数ある分岐のひとつであることを自 覚しておかねばならない。このような二重の設定が、 並列世界間を移動する主人公が、一方で記憶を失い つつ、他方では行動を連続させているという矛盾し た状態を引き起こしたわけだ。  しかしここで重要なのは、その状態が、単なる制 作上の失敗によるものではなく、むしろポストモダ ンの特徴をあまりにきれいに反映した結果として生 まれているということである。さきほども述べたよ うに、ポストモダンにおいては、論理的な階層が異 なるものを等価に並べ、共存させてしまう「超平面 的」な感覚が優勢となる。ひとりの主人公が分岐の 内部にいて、かつ分岐の外部にもいるという『Y U‐NO』の世界は、まさにその感覚に支えられて 作られている。したがって、その超平面的な世界の なかで生きる主人公の記憶がときおり部分的に切断 される、という設定にも、やはり私たちの時代の一 面が反映されているのだ。 多重人格を求める文化  その一面とは「多重人格」の流行である。ひとり の人間のなかに複数の人格が宿り、ときに交代する、 というこの精神疾患については、このI〇年間でか なり有名になったので知らない読者は少ないだろう。 それは臨床的には「解離性同一性障害」と呼ばれ、 精神医学界の公式の認知も受けている。しかしこの 症例はじつは、五〇年代より前にはほとんど報告さ れず、また現在でも北米以外ではごく少数しか知ら れていない。多重人格の患者は、七〇年代にアメリ カで急増し、八〇年代に公式に認知され、九〇年代 には日本でも小説や映画を舞台に一種の流行にさえ なったが、その歴史はごく短く細い。したがって、 現実に患者がいて治療を必要としている以上、その 実在は疑いえないとしても、それを生み出した要因 が何なのか、という点については社会学的な説明を 否定するのが難しいのだ。この点で多重人格は、単 なる医学現象というより、アメリカのある科学哲学 者が指摘するように(注56)、二〇世紀後半の文化 的な「運動」のひとつだと捉えたほうが分かりやす いだろう。この三〇年間、多重人格の報告数が急増 し、また多重人格を主題とした作品がつぎつぎと現 れるようになったのは、精神医学が突然に進歩した からではなく、むしろ、私たちの社会そのものが、 何かしら多重人格的なモデルを強く求めてきたから なのである。  そしてその多重人格的なモデルとは、まさに記憶 の部分的な断絶によって特徴づけられるものである。 ひとりの人間のなかに複数の交代人格が区別される 最大の根拠は、それらのあいたで記憶が断絶してい ることだ。ダニェルーキイスの紹介で有名になった ビリー・ミリカンの言葉を借りれば、人格交代とは、 「どこかで何かしてるとしますね。ところが、はっ と気がつくと、別の場所にいて、時間がたったって ことはわかるけど、何か起こったのかわからないん です」という体験である(注57)。  しかしその断絶は決して完全なものではない。た とえば、交代人格が数多く存在するときには、その あいたにしばしば階層関係が生まれることが知られ ている。キイスはミリカンの症例を報告するなかで、 「アーサー」と「レイゲン」と呼ばれる二つの人格 が「われわれふたりが、誰が意識を持つべきか、持 つべきでないかをきめよう」と相談する場面を描い ている(注58)。この描写そのものはあまりに小説 的で信憑性が低いにしても、類似した現象は医学論 文でも報告されている。たとえば七〇年代のある症 例では、交代人格が四つあり、そのうちAとBとC はみなDの行動や心理を完全に記憶していたが、D はそのいずれにもまったく気がついていなかったと 言われている(注59)。  つまり、多重人格の患者のなかにいる複数の交代 人格とは、決して完全な他者なのではなく、同じ記 憶や習慣を断片的に抱え、ときにほかの人格が行っ た行為の後始末に悩まされるような、部分的な他者 なのである。彼らは身体を別の人格と共有し、とき に記憶の一部まで共有しながらも、それぞれ別のア イデンティティをもち、別の人生を歩んでいるのだ と強く主張している。  このような曖昧な自己の感覚は、多くの読者には 理解しにくいものだろう。しかしここで、前章で 扱ったノベルゲームの例を思い起こされたい。繰り 返すが、ノベルゲームの消費は二層から成立してい る。一方で消費者は、分岐ごとに異なった運命を生 き、異なった人格(主人公の異なった側面)に同一化 してプレイを楽しんでいる。人格Aが運命Aのなか で女性Aと恋に落ち、人格Bは運命Bで女性Bと。 CはCと、DはDと、EはEと恋に落ちる。他方で 消費者は、システムを解析し、画面を断片に分解す ることで、そのような運命をすべて相対化する視点 ももっている。  筆者は前章でこの両者の共存を「解離的」と呼ん でいたのだが、それはまた、多重人格の心理的な構 造とも似ているのではないだろうか。ノベルゲーム の各分岐の主人公に同一化するプレイヤーは、ほか の分岐をプレイしたときの記憶を部分的に蘇らせつ つも、しかし目の前の分岐をひとつの独立した物語 として読み進めていく。同じように多重人格の患者 のなかにいる交代人格は、ほかの交代人格が生きた 記憶を部分的に蘇らせつつも、しかし目の前の自己 の感覚を基礎として生きていく。マルチストー リー・マルチエンディングというゲームの台頭は多 重人格の流行を思わせる、といった印象論はいまま でも頻繁に言われてきたが、確かにその両者には構 造的な類似性があるのだ。複数の分岐を往復し、人 生としては連続しているにもかかわらず、記憶だけ が途切れがちな『YU‐NO』の主人公の設定には、 そのような多重人格的な生き方の特徴かよく凝縮さ れている。 ポストモダンの寓話  以上のことを念頭に置くと、主人公の設定だけで はなく、『YU‐NO』のドラマの全体が、ポストモ ダンの社会的な構造を主題とした物語として興味深 く読み込めてくる。深読みとの批判を覚悟のうえで、 最後にいくつか記してみよう。たとえばこの作品で は、前述のように、主人公の目的は失われた父の捜 索として設定されている。言い換えれば、主人公が 並列世界のあいだを移動し、人格の分裂に曝される のは、父が失われたことが原因なわけである。この 設定はあたかも、大きな物語(父)が失われ、小さ な物語が林立するポストモダンの特徴をそのまま寓 話化したかのようだ。  加えてここで重要なのは、主人公がこの作品で父 に会うことができるのが、すべての分岐をクリアー し、すべての女性キャラクターとの性行為を成就し たのちのことだと設定されていることだろう。この 設定は、多重人格の例で考えると、すべての交代人 格が意識化され、統合され、結果として発症の原因 となった心的外傷を思い出す、という標準的な治療 の過程に相当している。分岐から分岐へと飛ひまわ り、それぞれの世界での主人公の欲望を目的に導い てやることで、『YU‐NO』のプレイヤーは、いわ ば、多重人格障害に陥ってしまった主人公の心を再 統合しているわけだ。  そしてこのような読みを進めると、さらに興味深 い構成が明らかになる。じつは『YU‐NO』のプ レイは、「現世編」と「異世界編」と呼ばれる二つ の部分に分かれている。前者のドラマの舞台は、日 常的な生活空間であり、主人公は高校生に、女性た ちは同級生や教師や義母に設定されている。いまま で注目してきたようなメタギヤルゲー的なシステム が採用されているのは、こちらの部分である。対照 的に後者のドラマの舞台は、典型的なファンタジー 世界であり、龍が飛び交い、剣と魔法が幅を利かせ ている。そしてこちらのシステムは今度は、実質的 に分岐がほとんどない、オーソドックスなアドベン チャーゲームのものだ。この二つの部分はドラマ的 にもシステム的にも大きく異なり、『YU‐NO』は 二つの異なったゲームの集合体だと言えるくらいで ある。  そしてここで注目すべきは、その二つの部分が、 主人公が現世編ですべての女性を攻略し、必要なア イテムが揃い、父との再会の準備が整ったところで、 何の前触れもなしに異世界編に飛ばされてしまうと いうかたちで繋がれていることである。つまり、こ の『YU‐NO』の世界では、分裂した心の再統合 が成功したにもかかわらず、父は復活せず、かわり にファンタジーが現れてしまうのだ。  もし現世編の分裂状態がポストモダンの寓話だっ たのだとすれば、この突然の切り替えの意味もまた はっきりしている。七〇年から九五年までの日本で は、前述のように、大きな物語の喪失を補うために さまざまなフェイクが考案され、また消費されてき た。『YU‐NO』の切り替えは、そのような虚構の 時代の条件、人々はすでに大きな物語を失ってし まったのであり、かりにそれを補おうとすれば捏造 された虚構に頼るしかないという現実を明確に反映 している。そこではもはや、現実的な物語は、「学 園」や「街」という小さな閉鎖空間のなかでしか展 開できない。そして、主人公がそこから脱出し、そ の小さな物語の背後にあるはずの大きな物語を知ろ              丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 うと試みたとしても、それはもはや剣と魔法の世界 丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 としてしか想像できない。これはまさに、オウム真 理教を支えた心理そのものだ。  異世界編に投げ入れられた主人公は、もはや父の 手がかりを失っている。彼はふたたび父の捜索を始 め、ロールプレイングゲームを思わせる類型的な冒 険を再開するのだが、そこに登場するのは、かつて 性行為を交わし、あるいはこれから交わす女性たち ばかりである。そしてその冒険の最後に目にするの も、本来は父がいるべき「神帝」の座に座った義母 の姿であり、またその母を救うために現れる実娘で ある。大きな物語=父と出会えるはずだった場所は、 いまや近親の女性たちで埋め尽くされており、プレ イヤーは決して父に出会うことがない。  かといって父は死んだのでもなく、「思念体」と して亡霊のように時空間の狭間を彷徨っていること になっており、物語の最後ではむしろその亡霊が決 定権を握っている。主人公のほうはと言えば、父が 愛した義母と性行為を交わし、さらには娘とも性行 為を交わすが、だれも何も救うことはできず、ただ 時空の彼方に飛ばされてしまうだけだ。そういう過 程を経て『YU‐NO』の全体は、結局、当初の目 的に到達することなく、最初の場面に戻って円環的 に閉じることになる。このようなドラマは一見単な る空想に見えるし、それは確かにそうだ。しかしそ れでも筆者には、その空想こそが、大きな物語の凋 落のあと、世界の意味を再建しようと試みて果たせ ず、結局はただ小さな感情移入を積み重ねることし かできない私たちの時代のリアリティを、独特の手 触りで伝えているように思われる。  いずれにせよ筆者は、以上のような点で『YU‐ NO』は、現世編のシステムではデータベース消費 の二層構造を、現世編のドラマでは多重人格的な生 き方を、そして異世界編のドラマでは物語消費の幻 想の限界を描いた、きわめて周到な作品だと考えて いる。「ポストモダン」や「オタク系文化」という と、社会的な現実から切り離され、虚構のなかに自 閉したシミュラークルの戯れを想像する読者も多い かもしれないが、そこにもやはりこのような作品が あるのだ。このようなすぐれた作品について、ハイ カルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、 大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメン 卜だといった区別なしに、自由に分析し、自由に批 評できるような時代を作るために、本書は書かれて いる。これ以降の展開は、読者ひとりひとりの手に 委ねたい。 注 注1  現在私たちが使っているような「オタク」という表現 (サブカルチャー集団の名称としての表現)は、一九八三 年に中森明夫によって初めて用いられた。『おたくの木』 参照。その起源となった「おたく」という呼び名そのも のは、六〇年代のSFフアンダムにまで遡ると言われて いる。なお、本書では書誌情報は巻末の参考文献表にま とめてある。 注2  『週刊読売』一九八九年九月一〇日号。中森明夫の紹介 より引用。『おたくの本』、九〇頁。 注3  『オタク学入門』、一〇、四九頁。 注4  竹熊健太郎の示唆によれば、オタク系文化の起源のひ とつは、六〇年代の大伴昌司の活動にある。大伴は七三 年に三七歳で急死したコラムニスト・編集者であり、怪 獣ブームの仕掛け人としても知られる。彼は六一年にマ スメディアに登場し、六六年から七一年まで、『少年マガ ジン』を舞台に、怪獣、ミステリ、SF、オカルト、口 ボット、コンピュータなど、のちのオタク系文化の中核 となる話題について多くの記事を書き続けた。 注5  そのひとつの例が、森川嘉一郎が指摘するような、秋 葉原の急速なオタク化である。九〇年代の秋葉原は、家 電の街でもコンピュータの街でもなく、情報産業とサブ カルチャーの融合が果たされた希有な地域に成長してい た。本文ではとくに触れなかったが、のち参照する 『デージーキヤラット』や九八年に大月俊倫が制作した 『アキ『バラ電脳組』に見られるように、九〇年代のオタ ク系作品は秋葉原という街と深く結びついている。それ は、七〇年代から八〇年代にかけてのオタク系文化が中 央線沿線の光景と結びついていたのとは対照的である。 この意味で九〇年代のオタク系文化は、「渋谷系」や「新 宿系」や「下北沢系」のように、地名で「秋葉原系」と 名づけてもいいかもしれない。 注6  さらに正確に言えば、本書でおもに扱うのは、第三世 代の男性のオタクたちの動きである。コミケ(コミツ クーマーケット)の日程が長いこと二日に分けられ、暗 黙のうちに男性向けと女性向けに区別されていたことに 象徴されるように、オタク系文化における性差は無視で きないものがある。しかし本書ではそこまで触れられな かった。 注7  『物語消費論』、二〇−二四頁。『オタク学入門』、二二 四頁以下。 注8  『スーパーフラット』所収のエッセイ「スーパーフラッ ト日本美術論」参照。フィギュアと仏像彫刻の類比につ いては、二〇〇〇年八月二〇日に「ワンダーフェスティ バル2000」で行われた講演で触れられている。 注9  コミックにしろアニメにしろ雑誌文化にしろ、それら 単独で見たときには、アメリカからの影響は三〇年代ま で遡ることができる。そして実際に、その蓄積は戦後の オタク系文化の展開に大きな影響を与えている。たとえ ば近年では、いままで手塚治虫が開発したとされてきた さまざまな技法が、じつは戦前の漫画家だちから継承さ れたものであることが明らかになりつつある。しかし、 その影響が第二次大戦によりいちど中断され、戦後まっ たく異なった環境で再開されたことは疑いえない。オタ ク系文化というサブカルチャーのまとまりが生まれたの は、その後の話である。 注10  森卓也の発言。『アニメーション入門』、三〇−三一頁 参照。 注11  小黒祐一郎との会話で示唆を受けた。 注12  『日本・現代・美術』、九四頁以下。 注13  「ポストモダン再考」参照。同論文は筆者の個人ウェブ サイトでも公開されている。URL= http到 w ww.hirokiazuma.coヨヘ 注14  たとえば柄谷行人の指摘。『批評とポストーモダン』所 収の表題論文を参照。 注15  じつはこの作品は、八〇年代の日本で政治的な想像力 がいかに空転していたかを知るうえでも、たいへん示唆 的なプロットを含んでいる。『メガソーン23』の東京は、 本文でも記したように、宇宙船のコンピュータにより作 られた虚構にすぎない。それが明らかになるのは、宇宙 船の外部から「敵」が到来し、その敵に対抗するために 「軍」がコンピュータを掌握したからである。しかしその 「軍」は、東京都民に対しては、敵が外の宇宙から到来し たものであることは明らかにせず、徹底して「某国」と の戦争だと偽り続ける。このような抽象的な設定は、作 品の政治的なメッセージ(右傾化批判)が明らかである がゆえに、かえって当時の人々の想像力の性質を明らか にしている。八〇年代半ばの日本は確かに右傾化してお り、それは九〇年代まで続いている。しかし、その右傾 化か何に対してのものなのか、だれが「敵」として到来 し、そこで得をするのがだれなのか、もはや批判する側 もよく分からなくなっていた。したがって、『メガソーン 23』の制作者たちは、彼らの感じた現実的な危機意識を、 非現実的な設定のうえにのせるしかなかったのである。 宇宙船の外から敵がやってくる、という抽象的な設定こ そがもっともリアルに感じられてしまうような、そうい う奇妙な空気が八〇年代には存在した。 注16  『オタク学入門』、二三〇頁以下。『スーパーフラット』、 巻頭言。『E.V.cafe』、三五一頁。 注17  ボードリヤールの「シミュラークル」の概念について は、七六年の『象徴交換と死』および八一年の『シミュ ラークルとシミュレーション』の二冊が参考になる。ど ちらも邦訳は簡単に手に入るので、興味のある読者は一 読されたい。 注18  『コミュニケーション不全症候群』、四四、四九頁。 注19  「大きな物語の凋落」について、もっとも基礎的な著作 は七九年の『ポストモダンの条件』である。この著作の 分析はおもに学問の世界の変化を対象にして行われてい るが、その後、リオタールのこの言葉はさまざまに拡大 解釈され、七〇年代以降の世界の特徴を捉える便利な概 念として流通していった。本書で「大きな物語」という ときには、リオタールの固有の概念というより、それら さまざまな拡大解釈も含めた広い概念として使っている。 注20  『電子メディア論』、二五九頁以下。 注刀一  『物語消費論』、匸ニー一四、一七−一八、一八−一九 頁。 注刀一  リソームーモデルの性質についてもっとも参考になる 著作は、浅田彰の『構造と力』である。とりわけ二三六 −二三七頁の見開きのチャートは便利である。ちなみに、 浅田の説明では、ツリー・モデルは前近代のモデルで、 クラインの壺モデルこそが近代のモデルだということに なるのだが、この両者はむしろ同じシステムの表裏であ り、その表裏が一体となってツリー・モデルは維持され ると考えたほうがよい。その点の哲学的な細部に関心の あるかたは、筆者の『存在論的、郵便的』を参照された い。そこでは、ツリー・モデルが「形而上学システム」 と、クラインの壺モデルが「否定神学システム」と呼ば れている。 注23  『虚構の時代の果て』、五二頁以下。 注24  『物語消費論』、二六頁以下。 注25  『不確定世界の探偵紳士 ワールドガイダンス』、匸一 九頁以下の記事を参照。 注26  URL=http://www.tinami.com/ 注一‥一一  『デージーキヤラットA』、匸一、一九−二○頁。 注28  『物語の体操』、一九八頁以下。 注29  九〇年代のミステリにおける「コード」の脱構築の問 題については、笠井潔の『探偵小説論H』がもっとも参 考になる。 注30  『コズミツク』、二七五頁。 注31  邦訳は『ボードレール』所収。 注32  『象徴交換と死』、一四頁。 注33  『象徴交換と死』、一五二頁。 注34  たとえば、本文で掲げた図13は、『S・M・P・kO 2』の「B形態」と呼ばれる作品であり、等身大のフィ ギュアである。この造形は少女(A形態)から戦闘機 (C形態)への架空の変形過程の中間という設定であり、 緑色の髪や自いボディスーツなど、オタク的な意匠を詰 め込んで作られている。しかしここで注目すべきは、そ の機首に刻まれたリアルな女性器である。  本文でものちに登場する精神科医の斎藤環は、『戦闘美 少女の精神分析』で、オタクたちの性的な欲望は「徹底 して空虚な存在」である「ベニスに同一化した少女」に 向けられていると論じ、その少女のイメージを「戦闘美 少女」と呼んだ。分かりやすく言い換えれば、オタク系 文化で消費される少女のイメージは、現実の女性とは基 本的に関係なく、むしろ、オタクたちの自分自身のぺ二 スヘの執着が投影されたもの、つまり、ナルシシズムの 投影によって作られたフェテイシュだということである。 全裸の少女がペニス的な形態をもつメカニックへと変形 する『S・M・P・kO2』の連作は、まさにこの斎藤 と同じ洞察に導かれて作られている。つまり村上はそこ で、「戦闘美少女とは実はオタクたち自身のペニスなの だ」という隠された構造を、ベニスにそっくりの機首に 刻まれた女性器として作品化し、オタクたちに突きつけ ているのだ。村上の作品の魅力と批評性は、こういう文 脈で見るとたいへんよく理解できる。 注35  前掲の「ワンダーフェスティバル2000」で行われ た、あさのまさひこと村上と著者によるトークショー 「見えないものを見えるようにする」での発言。 注36  椹木野衣の記述。『シミュレーショニズム』、一一頁。 注37  『ヘーゲル読解入門』、二四五頁。以下の注39、40とと ちに、引用部分は原著から訳しているので、邦訳とは多 少の齟齬がある。 注38  『オタク学入門』、匸一一頁。 注39  『ヘーゲル読解入門』、二四七頁。一部引用符を外した。 注40  『イデオロギーの崇高な対象』、二九八−二九九頁。 注41  『シニカル理性批判』、匸二五頁。 注42  『電子メディア論』、二七九、二八六頁。 注43  『戦後の思想空間』、二二八頁。『虚構の時代の果て』、 四〇頁。 注44  ギヤルゲーの歴史を大雑把に掴むためには、『パソコン 美少女ゲーム歴史大全』が便利である。 注45  参考のため記しておけば、利用したのはSusie32 ver0.45aに、」eafPAK AX ver0.27と」eaf CG to!)ヨベq P回のプラグインを入れたものである。 注46  コジェーヴは正確には、「人間的欲望」と「動物的欲 望」という言葉を用いている。しかし、この区別は煩雑 なため、本文ではあえて別の言葉で言い直した。用いた のはラカン派精神分析の術語である。ラカン派では、「欲 望desirjという言葉で人間の欲望のみを意味し、コ ジェーヴが「動物的欲望」と呼んだものには「欲求 besom jという別の言葉を割り当てている。 注47  『戦闘美少女の精神分析』、五三頁など。 注48  とはいえ筆者はここで、やおいものを中心に消費して いる女性のオタクたちについては留保をつけておきたい。 筆者の数少ない経験から言うと、すっかり動物化してし まったギヤルゲーの消費者と比較して、やおいものを愛 する女性のオタクたちの創作動機や消費行動ははるかに 人間的で、セクシュアリティの問題と密接に関係するよ うに見えることも多いからである。注6でも述べたよう に本書の重点はどちらかといえば男性のオタクたちにあ るので、オタク系文化のこの大きな側面にはあえて触れ てこなかった。しかし、他方で、商業ベースでの動きを 見るかぎり、その女性たちですら、若い世代では動物化 しデータベース化しつつあるようにも思われる。そこら へんの正確な事情は、残念ながら、調査不足で筆者には よく分からない。 注49  『制服少女たちの選択』、二四八、二六七頁。 注50  『終わりなき日常を生きろ』、一六八頁。 注51  『日経BPデジタル大事典』、四三〇頁。 注52  正確には、スタイルシートを用いたり、ブラウザ判別 のJAVA Scriptを用いるなどさまざまな同避方法がある が、ここでは基本的な特徴について述べている。いずれ にせよ、内容の論理的関係の指示と視覚的表現の指定を 切り離すことは、ワールドーワイドーウェブーコンソー シアムの勧告でも強く推奨されている"Web Content Accessibility Guidelines 1.0"を参照されたい。URL= http://www.w3.org/TRyWCAG/ 注53  言うまでもなく、ウェブページの意味や内容が、それ ら数少ないタグやスクリプトによってすべて表現され尽 くされることはありえない。しかしHTMLの文法は、 というよりも、それを生み出したコンピュータ文化その ものが、かつては「見えないもの」だった意味の領域を できるだけ「見えるもの」に変え、コード化し論理化し ようとする情熱を原理的に抱えている。計算機科学や情 報理論とは、そもそもが、すべてが見えること、すべて が操作可能であることを理想とした学なのだ。それは思 想史的には、二〇世紀前半の論理実証主義から引き継が れたものである。インターネットが大衆化し、コン ピュータがマルチメディア化するにつれて、そのような 理知的な傾向は一見曖昧になったように感じられるが、 奥底の流れは変わらない。 注54  この言葉は、村上隆がこの数年、自作を中心とした美 術運動を特徴づけるため用いている「スーパーフラット」 から影響を受けている。とはいえ、ここでの「超平面性」 は、ポストモダンの記号的世界の特徴のみを指す狭い概 念であり、村上の概念とはかなり異なる。村上の「スー パーフラット」は、作品の視覚的な特徴だけでなく、社 会構造やコミュニケーションの特徴まで含む感覚的な言 葉である。 注55  筆者はかつて同じ状態を「郵便的不安」と表現した。 『郵便的不安たち』参照。 注56  イアンー(ツキング、『記憶を書きかえる』、第三章参 照。 注57  『24人のビリー・ミリカン』、上巻一〇二−一〇三頁。 注58  『24人のビリー・ミリカン』、上巻四四三頁。 注59  『多重人格障害』所収のアーノルド・M・ラドヴィッグ らの論文を参照。多重人格障害における記憶の問題につ いて、より詳しくは、フランク・W・パトナムの『解離』 第六章、とりわけ一五五頁以下を読まれたい。 参考文献 浅田彰『構造と力』、勁草書房、一九八三年。 東浩紀『存在論的、郵便的』、新潮社、一九九八年。 東浩紀『郵便的不安たち』、朝日新聞社、一九九九年。 東浩紀「ポストモダン再考」、『郵便的不安たち#』、朝   日文庫、二〇〇二年。 大澤真幸『電子メディア論』、新曜社、一九九五年。 大澤真幸『虚構の時代の果て』、筑摩書房(ちくま新書)。    一九九六年。 大澤真幸『戦後の思想空間』、筑摩書房(ちくま新書)。    一九九八年。 大塚英志『物語消費論』、新曜社、一九八九年。 大塚英志『物語の体操』、朝日新聞社、二〇〇〇年。 岡田斗司夫『オタク学入門』、太田出版、一九九六年。 笠井潔『探偵小説論H』、東京創元社、一九九八年。 笠原敏雄(編)『多重人格障害』、春秋社、一九九九年。 柄谷行人『批評とポストーモダン』、福武書店(福武文   庫)、一九八九年。 ダニエルーキイス『24人のビリー・ミリカン』、堀内静   子訳、早川書房(ダニエルーキイス文庫)、一九九   九年。 アレクサンドルーコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』、上   妻精・今野雅方訳、国文社、一九八七年。 斎藤環『戦闘美少女の精神分析』、太田出版、二〇〇〇   年。 坂本龍一・村上龍(共著)『E.V.cafe』、講談社(講談社   文庫)、一九八九年。 椹木野衣『シミュレーショニズム』、河出晝房新社(河   出文庫)、一九九四年。 椹木野衣『日本・現代・美術』、新潮社、一九九八年。 塩田信之・ CB's Project(編)『不確定世界の探偵紳士   ワールドガイダンス』、ソフトバンクパブリッシン   グ、二〇〇〇年。 スラヴォイージジェク『イデオロギーの崇高な対象』、   鈴木晶訳、河出書房新社、二〇〇〇年。 ペーター・スローターダイク『シニカル理性批判』、高   田珠樹訳、ミネルヴア書房、一九九六年。 清涼院流水『コズミック』、講談社(講談社ノベルス)、   一九九六年。 清涼院流水『ジョーカー』、講談社(講談社ノベルス)、   一九九七年。 清涼院流水『19ボックス』、講談社(講談社ノベルス)、   一九九七年。 清涼院流水『カーニバル』、講談社(講談社ノベルス)、   一九九九年。 中島梓『コミュニケーション不全症候群』、筑摩青房   (ちくま文庫)、一九九五年。 パソコン美少女ゲーム研究会(編)『パソコン美少女   ゲーム歴史大全』、ぶんか社、二〇〇〇年。 イアンーハッキング『記憶を書きかえる』、北沢格訳、   早川書房、一九九八年。 フランク・W・パトナム『解離』、中井久夫訳、みすず   書房、二〇〇一年。 ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール』、野村修編訳、   岩波書店(岩波文庫)、一九九四年。 ジヤンーボードリヤール『象徴交換と死』、今村仁司・   塚原史訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、一九九二   年。 ジヤンーボードリヤール『シミュラークルとシミュレー   ション』、竹原あき子訳、法政大学出版局、一九八   四年。 宮台真司『制服少女たちの選択』、講談社、一九九四年。 宮台真司『終わりなき日常を生きろ』、筑摩書房(ちく   ま文庫)、一九九八年。 村上隆(編)『スーパーフラット』、マドラ出版、二〇〇   〇年。 森卓也『アニメーション入門』、美術出版社、一九六六   年。 菜の花こねこ『デージーキャラットA』、角川書店(電   撃文庫)、二〇〇〇年。 シャン凵フランソワーリオタール『ポストモダンの条   件』、小林康夫訳、書肆風の薔薇、一九八六年。  『おたくの本』(『別冊宝島』一〇四号)、JICC出版   局、一九八九年。  『日経BPデジタル大事典』第三版、日経BP社、二〇   〇〇年。 参照作品  本書で言及された作品については、以下、名称とジャ ンルだけを並べておく。サブカルチャーの性質上、各作 品の販売元や入手方法は頻繁に変わる可能性があるので、 興味をもった読者は各自インターネットで検索するのが 確実である。 『アキハバラ電脳組』TVアニメ 『綾波育成計画』シミュレーショングーム 『EVE burst error』アドベンチャー   ゲーム 『宇宙戦艦ヤマト』TVアニメ 『うる星やつら』マンガ/TVアニメ 『Air』ノベルゲーム 『S・M・P・ko2』美術作品 『EVANGELION DEATH』劇場用アニメ 『弟切草』ノベルゲーム 『カードキヤプターさくら』マンガ/TVアニメ 『Kanon』ノベルゲーム 『痕』ノベルゲーム 『機動戦艦ナデシコ』TVアニメ 『機動戦士ガンダム』TVアニメ 『機動戦士ガンダムZZ』TVアニメ 『機動戦士Zガンダム』TVアニメ 『逆襲のシヤア』劇場用アニメ 『くりいむレモン・黒猫館』OVA(オリジナルービデ   オーアニメーション) 『幻魔大戦』劇場用アニメ 『雫』ノベルゲーム 『新世紀エヴアングリオン』TVアニメ 『セイバーマリオネットJ』TVアニメ 『聖闘士星矢』マンガ/TVアニメ 『太陽の王子 ホルスの大冒険』劇場用アニメ 『DESIRE』アドベンチャーゲーム 『デージーキャラット』メディアミックス企画 『鉄腕アトム』TVアニメ 『To Heart』ノベルゲーム 『DOB』美術作品 『美少女戦士セーラームーン』マンガ/TVアニメ 『不確定世界の探偵紳士』アドベンチャーゲーム 『メガソーン23』OVA(オリジナルービデオーアニ   メーション) 『YU‐NO』アドベンチャーゲーム 『リーフフアイト』トレーディングカードゲーム 謝辞  本書の論述は、『ユリイカ』誌二〇〇一年二月号、三月 号、五月号、七月号に分割して掲載された「過視的なも のたち」を大幅に改稿したものである。掲載時にお世話 になった青土社の山本充氏と、それを新書にまとめるに あたりお世話になった講談社の田中浩史氏にまず感謝し たい。また、引用された図版の原作者のみなさんにも、 深く感謝したい。著作権の扱いをおろそかにするのは許 されないが、引用の自由は、二次創作に満たされた私た ちの文化の基礎条件である。  そして最後になったが、一五年以上も前に見た押井守 の映画の衝撃が忘れられず、その残り火でアニメ界隈を うろうろしていた旧世代の筆者に対して、ノベルゲーム やら同人ソフトやら、近年のオタク系文化の動きを示す 作品をつぎつぎと持ち込んでくれた若い友人たちにも礼 を言いたいと思う。サブカルチャーを主題とする本は発 刊したときにはすでに時代遅れであることが多く、それ はまたサブカルチャーの性質上避けられないものなのだ が、にもかかわらず本書の記述に多少とも新鮮な部分が あるとすれば、それは全面的に彼らのおかげである。