奇跡のリンゴ_木村秋則_石川拓治  私たちの番組「プロフェッショナル仕事の流儀」 で、りんご農家・木村秋則さんの回を放送したのは、 二〇〇六年匸一月七日のことでした。  この回は、二〇〇六年一月の番組放送開始以来、 異例の大反響を呼び、七〇〇通ものメールや手紙が、 放送後数力月にわたってNHKに寄せられました。 再放送の希望、木村さんに手紙を送りたい、栽培方 法を詳しく教えてほしいといった声とともに、最も 多かっだのが、「木村さんのりんごを一度でいいか ら食べてみたい」というものでした。  番組の冒頭は、東京白金台のレストランのシーン で始まります。  半年先まで予約でいっぱいの、知る人ぞ知る隠れ 家レストラン。その看板メニューの一つが、「木村 さんのりんごのスープ」です。シェフの井口久和さ んが、りんごをきざみながら呟きます。  「腐らないんですよね。生産者の魂がこもっている のか……」  井口さんの厨房で、二年前から保存されていた、 二つに割ったりんごを目にしました。通常、りんご は切ったまま置いておくと、すぐに茶色く変色し、 やがては腐ってしまいます。しかし、その木村さん のりんごは腐ることなく、まるで「枯れた」ように 小さくしぼんでいました。そして、赤い色をほのか に残したまま、お菓子のような甘い香りを放ってい たのです。  私たちの取材が始まったのは、二〇〇六年夏でし た。  「農薬も肥料も使わず、たわわにりんごを実らせ る」そんな農家がいる。最初にこの情報を聞いたと き、私は、にわかに信じられませんでした。青森県 弘前市に生まれた私にとって、農薬散布によって 真っ自になったりんご圉は子供の頃から見慣れた光 景でしたし、りんご農家が病害虫の駆除に膨大な手 間と時間をかけていることも知っていました。  しかし、その農家・木村さんの作るりんごは、農 薬どころか有機肥料も一切使わず、そして「腐らな い」といいます。いったいどんな秘密があるという のでしょうか。  私は心の中に小さな疑念を抱きつつ、岩木町(現 弘前市)の木村秋則さんのもとを訪ねました。事前 に得た情報では、「かなり変わった入らしい」とい います。木村家の、ふすまの破れた居間で対面した 木村さんに、私は津軽弁で尋ねました。  「なして(何で)農薬も無くて、りんごできるんだ べ」  「よく聞かれるんだけど、私にも、よく分からない のな。きっとあまりにも私バカだから、りんごの木 が呆れて実らしてくれたのかもしれない。ハッハツ 八」  けむに巻かれた。と、その時は思いました。  私たちの六週間に及ぶ撮影は、こうして小さな疑 念をかかえたまま、スタートしました。撮影を始め ると、木村さんは、とにかくよく笑う人でした。自 分で冗談を言ってば笑い、誰かの言葉に笑い、そし て辛い思い出を話していても、最後はなぜか笑うの でした。同行した音声スタッフは、当初津軽弁が分 からなかったこともあり、「なぜ木村さんはあんな に意味もなく笑うんだ」と、怪訝な顔をしていたほ どでした。しかし、取材が進むにつれ、私たちは木 村さんの笑顔の陰には、壮絶な苦労や、あまり人に は言えないような過去が隠されていることを知りま した。そして、人生のどん底から這い上がってきた 木村さんの、突き抜けた笑顔に、いつしか一緒に笑 うようになっていたのです。  木村さんの無農薬でのりんご作りには、八年にも 及ぶ試行錯誤の末に辿り着いた、独自のノウハウが ありました。それでも木村さんは、相変わらずこう 言いました。  「私、バカだからさ、いつかはできるんじやない かって、ただイノシシみたいに突き進んだのさ」  そして秋。木村さんは、本当に農薬も肥料も使わ ずに、たわわにりんごを実らせました。事実、収穫 されたりんごで行った残留農薬検査でも、農薬は検 出されませんでした。私たちは、畑で、貴重なりん ごを頂きました。それは一本の木から一個か二個し か取れない「ひやけ」と呼ばれるりんごでした。夏 の間、太陽の光に当たりすぎたために割れてしまい、 商品にはなりません。しかし、見た目の悪さとは裏 腹に、そのりんごは、私かこれまで食べていたもの とは全く違う果物でした。噛むとパリンと音がしそ うなほど、しっかりとした歯ごたえ。強烈な甘みと 酸味。まさに、木村さんが「樹の実」と呼ぶのにふ さわしい、野生の味でした。  なぜ農薬も肥料も使わずにりんごが実るのか、そ の科学的なメカニズムは今なお明らかになっていま せん。確かなことは、木村さんの雑草の生い茂った 畑には、多くの虫が息づき、カエルが卵を産み、鳥 がさえずる。そこは本当に気持ちがいい場所です。 りんごの木にとっても、きっと同じだと思うのです。  木村さんの無農薬への挑戦の日々の全ては、番組 で紹介しきれませんでした。それを本にしようと言 い出しだのは、番組キャスターの茂木健一郎さんで した。書籍化の話が動き出して一年半、こうして本 が完成しました。  本には、石川拓治さんの手で、新たな取材が大幅 に加えられました。番組では伝えきれなかった木村 秋則さんの、長く壮絶な闘いの記録が、ここにあり ます。 奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 危険から守り給えと祈るのではなく、 危険と勇敢に立ち向かえますように。 痛みが鎮まることを乞うのではなく、 痛みに打ち克つ心を乞えますように。 人生という戦場で味方をさがすのではなく、 自分自身の力を見いだせますように。 不安と恐れの下で救済を切望するのではなく、 自由を勝ち取るために耐える心を願えますよう に。 成功のなかにのみあなたの恵みを感じるような 卑怯者ではなく、失意のときにこそ、 あなたの御手に握られていることに気づけます ように。 (ラビンドラナートータゴール『果物採集』より石川拓治 訳) 」et me not pray to be sheltered from dangers but to be fearless一コ`匐n一コQgaヨ’ 」et me not beg for the stiΞコg ofヨy pain but fo「the heart to conquer it. 」et me not一〇〇k for allies一コ一一fe's battlefield but toヨy own strength’ 」et me not crave一コ黻コx一〇c∽`Qs「″○σes匐くQa σc″冫○でe`o「the patience to winヨy freedoヨ’ (`「ant me that I may not be a coward「 `Qa一一コg your mercy inヨy success al〇コe; but let me find the grasp of you「hand inヨy failure. ( excerpted from Rabindranath Tagore「"FRU一。「・ (l冫。「エmRING" 」     プロローグ  長崎の出島から江戸へ旅したシーボルトの旅行記 に、囗本の農村風景の美しさについて記した文章が ある。  「山の斜面の下の方では囗本の農民は驚くほどの勤 勉さを発揮して、岩の多い土地を豊かな穀物や野菜 の畑に作りかえていた。深い溝で分けられている細 い畝には、オオムギーコムギーナタネやキャベツの 類・カラシナーハトマメーエンドウマメーダイコ ンータマネギなどがIフィートほど離れて一列に栽 培されていた。雑草一本もなく、石ひとつ見当たら ない。(中略)いまわれわれは幅広い街道に立って すばらしい景色をあかず眺めた。両側に緑の苗床や 菜園があリマツ林を通りぬけ、村々の間を通るよく 手入れされた道は、わが故郷の公園にある散歩道に 似ていた。この道は、曲がり角に来ると新しい景色 が旅行者を驚かすように、考えて作ったかのように 思われる」(『江戸参府紀行』ジーボルト著斎藤信 訳)  シーボルトの記述を読んでいると、農家でも江戸 時代の人間でもないのに、なぜか誇らしい気持ちに なる。  それが何百年も昔から続いてきた囗本の姿だ。  石を積み上げて建造した巨大な聖堂や、世界の海 を支配する艦隊がヨーロッパ文明の象徴であるなら、 丹精込めて手入れをした水田や、箒の目のついた道 は、日本の文明の神髄と言うべきものだ。  勤勉を尊び、清潔を旨とし、日本人はこの小さな 島国の隅々まで丁寧に掃き清めるようにして、稲を 植え、豆や野菜を育てて生きてきた。  津軽平野に聳える独立峰、岩木山の麓に延々と広 がるリンゴ畑もその例外ではない。  どの畑を見ても、リンゴの木々は端正に剪定が施 され、根元の雑草は芝生のように短く刈り込まれて いる。夏の陽光を浴びて青々と繁る葉は、一枚一枚 人が磨いたかのように輝いていた。完璧に手入れが 行き届いたリンゴ畑が連なるその景色を眺めたら、 シーボルトでなくても賞賛の声を上げたくなる。  リンゴ農家の人々にとって、美しい畑を作ること は、豊かな実りを得るために欠かせないというだけ でなく、おそらくはある種の道徳ですらあるのだ。  そういう意味でも、そのリンゴ畑の主が、カマド ヶシという津軽弁の最悪の渾名で呼ばれているのは、 仕方のないことだったかもしれない。  一九八〇年代半ば過ぎのある夏のことI。  夏に大って緑の濃さを増した一面のリンゴ畑は、 岩木山から吹く風に吹かれ何億何十億枚もの葉が いっせいに揺れて波立つ海のように見えていた。  その景色の中に、一ヵ所だけ風変わりな畑が混 じっている。  まず何より目につくのは、伸び放題に伸びた雑草 だ。場所によっては、人の胸の高さほども伸びた 草々が生い繁っていた。  今年に大って一度も草が刈られていないことは、 誰の目にも明らかだ。  その雑草の密林で、我が物顔にバックが跳ね、蜂 が飛び、カエルが鳴き、野ネズミやウサギまでが走 り同っていた。畑というより、人の手の大らない野 山の眺めだ。  行く手を阻む薮をかき分け、踏みつけながら、下 草の密生した山林を前進することを、薮こぎと言う。 その畑では一本のリンゴの木に辿り着くためにも、 薮こぎをしなければならないほどだった。  高さが三メートルにも四メートルにもなるリンゴ の木の手入れには脚立が欠かせない。普通の畑は下 草が短く刈り込まれ踏み固められているから、テニ スが出来るくらい地面は平らだ。脚立の移動で苦労 するなんてことはあり得ないのだが、その畑では脚 立を移動させるだけでも大仕事だった。畑の主は胸 まで草に埋まりながら、大汗をかいて脚立を運んで いた。  そんな苦労をするくらいなら、草刈りをする方が よほど楽なはずだ。それでなくても雑草は虫の発生 源になりかねないのだ。頼むから草刈りくらいして くれと、周りの畑の農家が頼み込んでも、畑の主は 頑として首を縦に振らなかった。  それだけでも近所の勤勉な農家の顰蹙を買うには 十分なのだが、さらにひどいのが、大切なリンゴの 木の姿だ。  夏のこの季節、他の畑のリンゴの木には鬱蒼と葉 が繁り、枝が折れるのではないかと心配になるくら いに、たくさんのまだ青い果実を実らせている。  ところが、その畑のリンゴの木には、果実がほと んどついていない。葉の数も奇妙なくらい少なかっ た。夏だというのに、すでにかなりの葉が落ちてい る。  かろうじて残っている葉も、ある葉には茶褐色の 斑点が出来ていたし、ある葉には黒っぽい煤のよう なものが張りついている。穴だらけになっている葉 もかなりある。  その畑だけが、皮膚病で毛の抜け落ちた犬のよう に荒れ果てていた。  なぜ、そんなに荒れているのか。  近所の農家で、理由を知らぬ者はいない。  農薬を散布しないからだ。  この六年間というもの、畑の主はリンゴ畑に一滴 の農薬も散布していない。当然のことながら、リン ゴの木は病気と害虫に冒され、春先に芽吹いた葉の 大半が、夏になる前に落ちてしまう。おかげで、こ の何年かは花も咲かなくなった。  しかも、である。  自分の畑がそんな有様になっているというのに、 畑の主であるその男の行動は、不可解でわけがわか らなかった。  夜明け前から畑にやって来て、日がな一日リンゴ の木につく虫を手でつまんで取っていたかと思えば、 雑草の中に一日中身じろぎもせずに座り込んでいる こともある。そうかと思えば、農薬の噴霧器に酢を 入れてリンゴの木に散布してみたり、食用油で樹皮 を洗ってみたり……。およそまともなリンゴ農家と は思えない。  今日は朝からずっとリンゴの木の下で、腕枕をし て寝ていた。  カマドケシは、竈消しだ。一家の生活の中心であ る竈を消すとは、つまり家を潰し家族を路頭に迷わ せるということ。農家にとってこれ以上の侮蔑はな いのだが、その男にはいかにも相応しい悪口だった。  いや、男が畑に座り込んだり寝たりして、ほんと うは何をしているか知ったら、カマドケシどころか、 ついに頭がおかしくなったと思ったかもしれない。  男は眠っていたわけではない。  夏の強い日差しの下で、生い繁っだ雑草から立ち 上る青臭い匂いに包まれながら、リンゴの葉を食べ る害虫を見ていた。  草陰では、虫が鳴いていた。風が吹き、黄色に変 色した葉がパラパラと落ちる。何かの羽虫が、ブー ンという鈍い羽音を立てて男の顔をかすめて飛び 去っていく。  静かな山麓の畑でも、一日寝ころんでいれば様々 な事が起きる。けれど、そういう外界の出来事は、 男の目や耳にはまったく入っていなかった。  男の目はただひたすら、一匹の害虫の動きを追い かけていた。  リンゴの木を荒らす害虫を数え上げればきりがな い。  春先の新葉や花芽を喰うトビハマキやミダレカク モンハマキなどのいわゆるハマキムシ類に始まって、 葉を食べるシャクトリムシに、アブラムシ、ハダニ、 果実を冒すシンクイムシにカイガラムシ……。代表 的な種に隕っても、三〇種類は下らないと言われて いる。  その囗、男が熱心に見つめていたのはシャクトリ ムシだ。  普通のシャクトリムシの太さはせいぜい三、四ミ リというところだが、そのシャクトリムシは優に人 間の小指ほどの太さがあった。体長も小指の長さを 超えている。よっぽどリンゴの葉を食べたに違いな い。  男の視線の先で、丸々と太った巨大なシャクトリ ムシが、人間が親指と人差し指を開いては閉じてモ ノの長さを測る仕草にそっくりのユーモラスな動き で、リンゴの葉の裏側を移動していた。  シャクトリムシの動きはいたって緩慢だ。たっぷ り時間をかけて一枚の葉を喰い尽くすと、次に食べ る葉を探し始める。手当たり次第に食べればいいよ うなものだが、シャクトリムシにはシャクトリムシ の好みがあるらしい。  まず、病気に冒された葉は絶対に食べようとしな かった。健康な緑の葉でも、なぜかシャクトリムシ が見向きもしない葉もあった。  シャクトリムシは、おそらく彼自身にしかわから ない理想の葉を求めて、リンゴの葉から葉へと、 ゆっくりゆっくり移動していく。  それだけでも焦れったいのに、突然、ぴたりと動 きを止めてしまうことがある。何かの気配に驚いた のか、あるいは単なる気紛れか。一〇分も二〇分も、 最後部の腹脚だけで枝にしがみつき、小枝のように 全身を伸ばした姿勢で固まっている。体表の色も模 様も、灰白色のリンゴの小枝に感心するくらいよく 似せていた。ある種の擬態なのだろう。よく見ると 口から吐いた極細の糸で、枝にカラダを固定してい た。  男の目には、いくら巧妙に小枝を真似てはいても、 やっぱリシヤクトリムシにしか見えないのだけれど、 鳥の目にはそうは映らないらしい。動いている虫は            / −i あっという間に鳥の餌食になってしまうのだが、動 きを止めているシャクトリムシは襲われなかった。  そういうシャクトリムシの行動の一部始終を、男 は朝からずっとリンゴの木の下で目を見開いて飽き もせずに眺めていた。  大切なリンゴの木を荒らす憎い敵である。  習性を熟知すれば退治する方法も見つかるかもし れないというのが、一応は男の目論見なのだが、そ れにしてはシャクトリムシを見るまなざしが優し かった。  ある意味で、そのシャクトリムシのおかげで、リ ンゴ農家である男の家庭は滅茶苦茶にされていた。 葉を喰い荒らされたリンゴの木は、もう何年もの間、 実をつけていない。無収入の年が続き、今では家族 七人が、路頭に迷う寸前の極貧の暮らしを続けてい たのだ。  にもかかわらず、胸元にぽろりと落ちてきたシャ クトリムシを指でつまむと、虫眼鏡でその顔をしげ しげと覗き込み、リンゴの葉に戻してやったりして いる。  「あんまり葉っぱ喰うんでないよ」  虫にそんなことを言い聞かせる始末だ。  畑の隅には、段ボール紙に男が書いた虫たちへの 警告の看板まで立てていた。  『虫への警告’・ これ以上、畑に害をすると、強力 な農薬を使用する’・』  どう考えても普通ではない。  けれどまあ普通ではないからこそ、男はそんなと んでもないことを始められたのだ。  農薬を使わずにリンゴを育てる。  簡単に言えば、それが男の夢たった。  少なくともその時代、実現はI〇〇%不可能と考 えられていた夢である。     1  その男の名を木村秋則という。  筆者が木村に初めて会ったのは、実のならないリ ンゴの木の下で彼がシャクトリムシを眺めていた時 代から約二〇年後、二〇〇六年の暮れのことだ。  奇跡のリンゴ。木村が作るリンゴは、そう呼ばれ ていた。  とにかく手に入れるのが難しい。彼のリンゴから 作ったリンゴジュースの三分の一はある政治家に買 い占められているとか、彼のリンゴで作った極上の スープを出すフレンチレストランが東京にあるのだ けれど、一年先まで予約でいっぱいだとか。  そういう噂話は山ほど聞いていた。  三〇年近くの歳月を、リンゴの無農薬栽培にかけ てきた人だ。  きっと気難しい人なのだとばかり思っていたのだ が、東京から電話をして取材を申し込むと、木村は こちらが拍子抜けするくらい気持ちよく引き受けて くれた。  彼の自宅は青森県のJR弘前駅からクルマで三〇 分ほどの岩木町にある。かつては中津軽郡岩木町と いう独立した町だったのだが、その年の二月に町村 合併して弘前市の一部になっていた。  タクシーではわかりにくいから、駅前まで迎えに 来てくれると言う。  ところが約束の時間に弘前駅に着き、しばらく 待っても木村は姿を現さなかった。電話をかけても つながらない。自宅の電話はずっと話し中だし、木 村の携帯電話はいつまでも空しく呼び出し音が鳴っ ているだけだ。  ようやく連絡がついたのは一時間後だった。  「ごめんなさい、ごめんなさい。突然お客さんが来 てしまってさ。今すぐに迎えに行くから、ほんとに ごめんなさいよ」  電話の向こうの木村は、思わず携帯電話を耳から 離したほどの大声だ。  そんなに謝る必要はない。こちらが取材させてく れと頼んだのだ。それに、木村の強烈な津軽弁のイ ントネーションには人の心を揉みほぐす癒しか何か の効果があるらしい。雪の降る駅前のロータリーで 一時間も待だされたことなどすっかり忘れていた。  すぐに迎えに行くからと木村は言ってくれたのだ が、それではまた何十分か待つことになる。結局、 タクシーで木村の家に向かうことにした。  桜で有名な弘前城の堀端の道を通って市街地を抜 け、岩木川を渡ると、前方に思わず息を呑むほど美 しい雄大な山が聳えていた。それが岩木山だった。  津軽富士という別名の通り、その姿は富士山と似 ている。火山活動によって作られたいわゆる成層火 山で、そういう意味では富士山の兄弟と言ってもい いのだろうけれど、岩木山は弟というよりは妹だ。 緩やかな曲線を描いて平野へとおりてくる優美な山 裾は、しばしば平安の姫君たちが着ていた十二単に たとえられる。津軽平野に暮らす人々にとっては特 別な山で、古くから信仰の対象とされてきた山でも ある。  木村の家のある岩木町は、その裾野の町だ。  弘前市と合併しても、岩木町の人々がリンゴ栽培 と稲作を中心とした農業で生計を立てていることに 変わりはない。周囲には、東北地方の典型的な農村 の景色が広がっていた。  家までの道がわかりにくいからと、木村は雪の中 を近所のガソリンスタンドまで迎えに来てくれた。 年の頃は五〇代の半ば過ぎ、短く切った髪には自い ものがかなり混じっている。身長は高くもなく柢く もなく。この世代の人の平均くらいだろうか。長い 歳月を肉体労働に費やしてきた大に特有の、痩せて 筋の強そうな体つきをしていた。  ただ、そう書くと、無口で表情に乏しい人物を連 想させてしまうかもしれない。性格に限って言えば、 彼はいわゆる日本人の典型とはとても言えない。  初対面にもかかわらず、彼はしわくちやの顔に満 面の笑みで迎えてくれた。  会った瞬間から、何十年も昔から知っている懐か しい人のような気持ちにさせられた。側にいるだけ でこちらまで愉快にならずにはいられないくらい、 木村は陽気な大だった。  木村の自宅の居間兼仕事場に通されて、電話がつ ながらなかった理由がわかった。  ひっきりなしにFAXが送られて来ていたのだ。  木村のリンゴは通常の流通ルートには乗っていな い。本当の意味での産地直送、葉書やFAXでの注 文に応じて生産者の木村から直接購入者に宅配便で 送られる。あまりにも有名になってしまって、生産 量が注文に追いつかない状態がもう何年も続いてい た。その囗も取材している間中、注文のFAXが鳴 り止むことはなかった。  リンゴの無農薬栽培などという難題に取り組んだ おかげで、木村の一家が長年にわたってひどい窮乏 生活を強いられたという話は聞いていた。けれど、 それはもうI〇年以上も昔のことだ。  現在は新聞やテレビでも取り上げられるくらい有 名な大で、全国には彼の信奉者がたくさんいる。国 内だけでなく、外国にまで農業を教えに行ったりも しているのだ。しかも、彼の作るリンゴは飛ぶよう に売れる。収入だって増えたはずなのだが、その居 間を見渡した限りそういう気配はどこにも見あたら ない。  木村秋則という大は、贅沢ということにはおよそ 興味を持だない人のようだった。  質素な農家の暮らしがそこにはあった。畳や襖は もう何年も換えていないらしい。近所の捨て猫をみ んな飼ってしまうので、木村の家には何匹もの猫が 住んでいる。襖を換えても、畳を新しくしても、す ぐに爪を立てられてしまうから換えないのだそうだ。 卓袱台の上に、顧客管理のための年代物のパソコン が置いてある。未だにMS‐DOSのマシンを使っ ている。そのパソコンの隣には、リンゴの注文のF AXが山積みになっていた。  もっとも近頃では、リンゴの注文だけでなく、木 村に対する激励や人生相談のFAXがやたらと増え たらしい。  「テレビに出てから、いろんな人から電話だのFA Xが来るようになったのよ。若い天も多いけど、お 寺の住職さんとかお医者さんとかな、いろんな職業 の人からな。この前はコワモテのお兄さんが三人、 大きな外車に乗ってこの家まで訪ねてきたよ。さす がに恐かったな。何事かと思ったらさ……」  木村はある東北地方の大都市の名前を口にした。  「わざわざそこから私に会いに来たんだって。何の 用ですかって聞いたら、『ちょっと電話に出てもら えませんか』つて、携帯電話を渡すの。電話の向こ うは親分さんらしき人でさ、何を言われるかと思っ たら『テレビ見て、涙が出た』つて言うの。随分久 しぶりに泣いたって。それを伝えたくて、三人を寄 越したんだって。『あんたといっぺん、サシで飲み たい』つてさ」  木村の人生がNHKの「プロフェッショナル仕 事の流儀」という番組で紹介されたのが、その十二 月の初めのことだった。  「あの時、あなたが喋った匸冐匸冐が心に残ってま すって、いろんな人が言って寄越すんだけどな。私 何を喋ったべなあ。バカだからよく憶えてないの さ」  そう言って、木村は歯のない口を大きくあけて 笑った。  木村はまだ五〇代だったが、すでにほとんどの歯 を失ってしまっていた。わずかに残った歯も、茶色 くなったリンゴの芯のようにチビていて、モノを噛 む用をなしていなかった。治療をするか、でなけれ ば入れ歯を入れればいいのにと思うのだけれど、木 村はそれすらもしていない。「私はリンゴの葉と自 分の歯を引き替えにしたのさ」と、下手な駄洒落を 言って自分で大笑いしている。  いっこうに気にしていないのだ。  その笑い声をなんとか読者に聞かせられないかと 思う。あんなに気持ちのいい笑い声は聞いたことが ない。  「あっあっあっあっあ」  H音の混ざらない、母音のAの音だけが連続する その笑い声は、東野英治郎が演じていた頃の水戸黄 門の笑い方にちょっとだけ似ている。光圀の笑い声 から偉そうな雰囲気を綺麗さっぱり抜き取って、陽 気さを五割り増しにすると木村の笑い声になるかも しれない。  その雪の囗からほぼ一年、暇を見つけては弘前へ 遊びに行った。彼の笑い声が聞きたいばかりに、 通ったような気すらする。愉快なだけではなくて、 木村の笑い声には何か底の知れない力強さがあった。  もっとも、そうして彼から聞いたのは、笑って聞 けるような話ばかりではなかったのだけれど……。  「自殺を考えてたっていう若い人からも電話あった な。大学院まで出た人なんだけどもな。親には学費 やらなにやらでたくさん金を使わせてしまったそう だ。だけど何をやっても駄目で、就職口もないし、 家へも戻れない。それで死ぬことを考えていたんだ けど、あのテレビ見て思い直しました、やっと生き る気持ちが湧きましたとな」  彼の経験した苦労や挫折の大きさに比べたら、自 分の悩みなんて悩みのうちにも入らないことがわ かったと、若者はきっぱり言ったのだそうだ。木村 さんはそういう時、どんな話をするんですかと聞く とちょっと考え込んだ。  「……ゝつん、とにかく思い直して良かったねえと 言ったかな。それから、バカになればいいんだよと 言いました。バカになるって、やってみればわかる と思うけど、そんなに簡単なことではないんだよ。 だけどさ、死ぬくらいなら、その前に一回はバカに なってみたらいい。同じことを考えた先輩として、 ひとつだけわかったことがある。ひとつのものに狂 えば、いつか必ず答えに巡り合うことができるんだ よ、とな」  ひとつのものに狂えば、いつか答えに巡り合う。  木村の言葉は、木村の人生そのものだった。  木村が狂ったひとつのものとは、いうまでもなく リンゴの無農薬栽培だ。  今現在ですら、それは不可能だと言う専門家は少 なくない。  農薬を使わなければ、リンゴを収穫することは出 来ない。  現実のリンゴ栽培を知る人にとって、それは常識 以前の問題なのだ。  これは農家でない人には、理解しにくい話かもし れない。  確かに現代農業は、深く農薬に依存している。ほ とんどの作物栽培に農薬が使われているわけで、農 薬を使わずに栽培されている作物が極めて少数派だ ということは、農業に携わっていない人でもよく 知っている。  けれどそれはあくまでも、依存の問題であって、 農薬を使わなければ栽培出来ないという話ではない はずだ。実際に見かけは悪くても、農薬を使わずに 育てたという野菜や果物は世の中に出回っている。  そもそも、昔は農薬なんてこの世に存在しなかっ た。  江戸時代の農家は、除草剤も殺虫剤も使わずに、 稲を育て野菜を作っていた。リンゴにしても、少な くともニュートンの時代にはあったわけで、万有引 力の法則を発見するきっかけになったというそのリ ンゴに、農薬はかかっていなかった。農薬を使わな ければリンゴが作れないなら、ウィリアムーテルが 息子の頭の上にのせた果物はリンゴではないという ことになる。一四世紀のスイスに、農薬散布器はな かったのだ。  農薬を使うのは、あくまで収穫量を増やすとか、 農作業の手間をはぶくとか、あるいは作物の見かけ をよくするためなのではないか。  そう考えるのが普通だろう。  それは間違いではないのだけれど、少なくとも現 代のリンゴ農家に言わせるなら、その考え方は甘い ということになる。農薬を使わなければ、収穫が減 るなどという生易しい話ではない。農薬を使わなけ れば、リンゴ畑は壊滅してしまうのだ。  農作物の農薬への依存度は、農作物の種類によっ てかなり違う。  日本での研究によると、農薬を使わなければ病害 虫の被害によってリンゴの収穫は九〇%以上も減る と言われている。キュウリも同じくらい農薬の不使 用によるダメージを受ける作物なのだが、それでも キュウリは毎年新たに種を播くことができる。  リンゴの場合はそうはいかない。収穫が平年のI 〇%以下というような大きな被害を受けた木は、翌 年は花を咲かせることができなくなる。花が咲かな ければ、もちろん果実は実らない。つまり無農薬栽 培を二年続ければ、リンゴの収穫はほぼ確実にゼロ になるというわけだ。農薬を使わない限り、その状 況を好転させることは出来ないのだ。  実を言えば、現代のリンゴと、ウイリアムーテル やニュートンの時代のリンゴには大きな違いがある。 無農薬リンゴが作れない最大の理由もそこにある。  その理由とは、品種改良だ。  現代のリンゴは、昔のリンゴとはまったくの別物 なのだ。  アダムとイブがエデンの圉で食べたのはリンゴと いうことになっているけれど、旧約聖書には善悪を 知る木の実と書かれているだけだ。善悪を知る木が いかなるものかはよくわかっていない。正体不明の 木の実がリンゴになっだのは、英語でもドイツ語で もリンゴという言葉が、元々は木の実を意味する言 葉だったからだ。  木の実がすなわちリンゴを意味したということは、 他の果物を知る以前から、つまりきわめて古い時代 から彼らがリンゴとつきあってきたことを意味して いる。実際にスイスでは四〇〇〇年前のヨーロッパ 先住民の遺跡から炭化したリンゴが発掘されている。 これは当時からリンゴが栽培されていた証拠だと考 える考古学者も少なくない。  ローマ帝国でもギリシヤの都市国家でも、古代エ ジプトでも、リンゴはよく知られた果物たった。人 間は数千年にわたってリンゴを栽培してきたという わけだ。  バラ科リンゴ属に分類されるこの植物の野生種は、 西ヨーロッパからアジアにいたる広い範囲に分布し ている。その中でも、現在我々が食べているリンゴ に直接つながる原産地は、コーカサス山脈の山麓一 帯という説が有力だ。  この野生のリンゴは一般的に小さくて酸味や渋み が強く、少なくとも現代人にはとても食べられたも のではない。欧米では今も料理やシードルという酒 の材料としてクラブアップルというリンゴが栽培さ れている。野生種に近い甘みの少ない小さなリンゴ だ。エジプトやギリシヤの人々が食べていたのも、 おそらくそういうタイプのリンゴだった。  とはいえ、当時から接ぎ木の方法は知られていた。 ギリシヤ時代の文献に接ぎ木の方法が書かれている くらいだから、少しでも味のいい品種のリンゴが選 ばれ、接ぎ木によってその品種が広まったことは想 像に難くない。ローマ時代には少なくとも匸一の品 種が知られていたという。現代のような品種改良で はないにしても、長い歳月をかけた偶然の品種改良 は、人類がリンゴの栽培を始めた頃からゆっくりと 進行していたのだ。  もっともこれは、リンゴに限った話ではない。 我々が食用にしている穀物や野菜、果物のすべてが、 気の遠くなるような長い年月をかけて人が改良した 植物だと言っても過言ではない。米や麦の野生種は、 熟すと実がバラバラになって飛び散る。我々の食べ ている麦や米がそうならないのは、人間が収穫する のに都合がいいからだ。バナナに種がないことを不 思議に思ったことはないだろうか。それも、熱帯の 人々が、何千年もかけて、種を作らない個体を選別 して育ててきた結果なのだ。  一八世紀のイギリスで二つの品種を交雑して新し い品種を作る方法が発見されると、この品種改良の スピードは加速する。人々はより美味しいリンゴを 求めて様々な品種を交配するようになる。さらに一 九世紀に入ると、アメリカでリンゴの品種改良があ る種のブームになる。その元になっだのは、もちろ ん移民たちの手でヨーロッパから運ばれたリンゴ だったのだが、新大陸で品種改良されたリンゴは、 旧大陸の昔ながらのリンゴよりも遥かに大きく、そ して甘い果物になっていた。  もっとはっきり言えば、一九世紀を境に、リンゴ はそれ以前のリンゴとはまったく別種の果物になっ てしまった。  数千年も続いたリンゴ栽培の歴史の中で、決定的 なことが一九世紀に起きた。  農薬の発明である。現代では古典的農薬と呼ばれ る石灰硫黄合剤や、ボルト上肢が一九世紀半ばに発 明されたのだ。  もちろん、発明されてすぐに、農薬が農民たちの 間に広まったわけではない。リンゴの栽培において 農薬が本格的に使用されるようになるのは、一九世 紀も終わりに近づいた頃なのだが、それでも害虫や 病気を極めて効率よく駆除する薬剤の存在は、品種 改良に対する考え方を根本的な部分で変えていた。  農薬の存在しない時代には、たとえ品種改良で甘 いリンゴを実らせる木が生まれたとしても、その木 が病害虫に弱ければ育つことは出来なかった。別の 言い方をすれば、農薬など使わなくても病害虫に負 けない品種しか栽培出来なかったのだ。  ところが農薬の出現とともに、その制約が外され ることになる。害虫や病気との戦いは農薬が肩代わ りしてくれるのだ。病害虫に対する耐性を考えずに、 より大きく、より甘いリンゴを実らせる木を作るこ とだけを目的とした品種改良が出来るようになった。  実を言えば、現在我々が食べているリンゴのほと んどすべてが、農薬が使われるようになってから開 発された品種だ。つまり、農薬を前提に品種改良さ れた品種なのだ。  その結果として、現代のリンゴは、遠い祖先であ るコーカサス山脈の野生種とは比べものにならない くらいに巨大で、甘い果物になった。そしてその引 き替えとして、リンゴは野生の力を失った。農薬の 助けなしには病害虫と戦うことのできない、極めて 弱い植物になってしまったというわけだ。  リンゴという果物は、農薬に深く依存した、現代 農業の象徴的存在なのだ。  もっとも、そんな理屈を持ち出すまでもなく、リ ンゴを作っている農家なら誰でも、農薬の散布を怠 れば畑がどれだけ簡単に病害虫の餌食になるか身を もって知っている。農薬を使っていても、その散布 時期や方法を誤れば病害虫は発生するのだ。  ましてその農薬が普及していなかった時代、リン ゴを育てるために自分たちの父祖がどんな苦労をし たかという話は、リンゴ農家の子供だちなら耳に夕 コができるほど聞かされていた。現代では想像すら 出来ないような労力をかけたにもかかわらず、青森 県のリンゴ栽培は幾度も全滅の危機に瀕している。  大津波のように襲ってくる害虫の群れ、あっとい う間に蔓延する疫病……。  リンゴ栽培の歴史は、虫と病気との絶望的な戦い の歴史でもあった。  その戦場に差した一筋の光明が、つまり農薬だっ たのだ。  農薬が発明されなかったら、リンゴ畑はとっくの 昔に青森県から姿を消している。  農薬を使わずにリンゴを育てるなんて、世迷いご と以外の何ものでもない。  リンゴ農家なら、誰もがそう思う。  問題は、木村がなぜその世迷いごとに狂ってし まったかである。  木村は一九四九年の八月に、青森県中津軽郡岩木 町で生まれた。  生家の名字は木村ではない。  三上という、代々続いた農家の次男坊だ。大金持 ちというわけではないけれど、かなりの面積の田畑 を所有していたし、リンゴ畑からの現金収入も少な くなかったから、暮らしに困った記憶はない。バナ ナがまだ目を剥くほど高価な果物だった時代の話だ。 リンゴは果物の代表で、価格も安定していた。その 特産地である津軽地方の農家の間では、リンゴの木 は金のなる木と呼ばれていたくらいだ。リンゴを栽 培している限り、家族が力を合わせ、額に汗して働 けば、裕福な暮らしが出来たのだ。  ただ、祖父が昔ながらの人で、子供の頃は家で勉 強をしていると叱られたそうだ。学問などというも のはある種の道楽で、農家の子供がそんなものに夢 中になったら、都会の大学へ行きたいなんて言い出 すに決まっている。親に田畑を売らせる元になると いう考え方が、あの頃の農村には根強く残っていた のだ。  だから、勉強するのはいつも祖父が寝静まった夜 中だった。  勉強机は買って貰えないし、夜中に電灯など点け ていたらすぐ見つかる。机代わりにしたリンゴ箱を 窓際に寄せ、窓の雪明かりをたよりに勉強をしてい ると、母親がこっそり蝋燭を持ってきてくれた。蝋 燭は一本だと手元が影になるから、三本の蝋燭を立 てて勉強していたことをよく憶えている。  「宿題やってかないと、学校で先生に叱られるから な。じいさんと先生の板挟みだよ」  木村はそう言って笑うが、おそらく勉強は嫌いで はなかったのだろう。得意な科目は算数と理科。そ れから、絵画でも大人顔負けの才能を発揮した。小 学校の宿題で障子紙に山水雨風の墨絵を描いて行っ たときは、教師に叱られたくらいだ。  結局その絵はあるコンクールで金賞を獲得するの だけれど、教師はそれを誰か大人に描いて貰ったも のだと信じて疑わなかったのだ……。  そんな少年時代の彼が、いちばん夢中になったの はなによりも機械だった。  普通の子供と同じように、彼も子供の頃は玩具で 遊んだ。けれど遊び方が、普通とはちょっと違って いた。  まだ小学校の低学年たった頃の話だが、祖父にせ がんでロボットの玩具を買って貰ったときも、家に 帰るまでロボットは原型をとどめていなかった。帰 りのバスの中で、バラバラに分解してしまったから だ。どんな玩具だろうと、クルマだろうが飛行機だ ろうが、いや玩具だけでなく置き時計でもラジオで も、大人の目を盗んでは片っ端から分解していた。 大人たちにどんなに叱られようとも、馬の耳に念仏 だった。  彼にとって、玩具は遊ぶためのものではなく、そ れが動いたり火花を出したりする仕組みを知るため のものだった。機械の内部構造を調べること以上に、 少年時代の彼を面白がらせる遊びはなかったのだ。  彼が少年時代を過ごした、五〇年代から六〇年代 という時代の影響もある程度はあったかもしれない。 テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器と呼ばれてい た。敗戦のショックから立ち直った囗本に押し寄せ たのは、機械文明とでも言うべきものだった。  井深大がソニーの前身である東京通信工業を設立 したのも、本田宗一郎が本田技術研究所を設立した のも、木村の生まれる三年前の一九四六年だ。五〇 年代に入る頃には、ホンダが初のオートバイ「ド リームD型」の生産を開始、東京通信工業もテープ レコーダー、トランジスタラジオと次々に新しい機 械を発売する。  丶丶丶丶                                                          あこが  新型機械は豊かな生活の象徴であり、人々の憧れ そのものだった。  もちろんそういう機械は庶民にはまだまだ高嶺の 花で、子供たちの手に触れられる代物ではない。け れど、子供の遊びはいつも時代を反映する。現代の 子供たちがインターネットに夢中になるように、当 時の子供たちは機械というものの不思議さに夢中に なった。不思議なものに出会えば、秘密を解き明か そうとするのは子供の本能だ。彼らの最も身近な機 械、つまリゼンマイ仕掛けのロボットや自動車が結 局はバラバラに分解されてしまうのは宿命みたいな ものだった。もっとも彼のように、玩具で遊びもせ ずに、いきなり分解してしまう子供はさすがにそう 多くはなかっだろうけれど……。  成長するにしたがって、木村はそうやって解き明 かしたメカニズムを自分で組み立てることに喜びを 感じるようになる。  「中学生のときに、電気に興味を持ったのさ。ラジ オは電波を受信してるっていうけど、電波がなんで 音になるんだろうかとな。それで、無線機を作った。 確か、中学二年生の頃だ。だけど、家の中でそんな ことやってると怒られるから外で実験していたわけ よ。電気のメーターの手前から電線引っぱってな。 今じゃそんなこと出来ないようになってると思うけ ど、昔は簡単に出来たのよ。あはは、悪いことした もんだ。盗電だもんな。電柱から直接電線を引っ ぱって、無線機が作動するか調べていたの。そした ら、回路をドライバーでショートさせてしまってさ。 家の中なら安全器のヒューズが飛んだんだろうけど、 直接電気を引っぱってたから、電信柱のヒューズが 飛んでしまったわけ。それで、周りの家が四〇軒く らい停電になった。いや、あの時は怒られたなあ」  その後も、木村の悪戯は止まらない。  専門誌に公開された回路図を参考にして、原始的 なコンピュータを作ろうとしたこともある。回路に まだ真空管が使用されていた時代のコンピュータだ。 真空管は学校の放送室からこっそり拝借してきた。 老朽化して使わなくなった機材から抜いたのだと木 村は言うけれど、そのまま順調にコンピュータ作り が進んでいたらどうなっていたかわからない。木村 の学校の放送部が放送を続けられたのは、ひとえに 真空管の効率の悪さゆえだった。  「作り始めてからわかったんだけど、ものすごい数 の真空管が必要なのさ。本を最後まで読まないで最 初から順番に作り始めたから、作り始めたときは気 づかなかった。そのコンピュータを完成させたら、 三階建てのビルの大きさになるの。さすがに、無理 だと思った。青森中駆け同っても、中学生の力じゃ そんなに真空管集められないものな」  高校時代はアンプを何台も作った。グループサウ ンズの全盛期である。エレキギターを弾いていた友 達に頼まれて、食べることも眠ることも忘れ、三日 三晩ほとんど不眠不休で完成させたアンプは出力が 大きすぎて、体育館の窓をあやうく割るところだっ た。さすがにガラスは割れなかっだけれど、体育館 のスピーカーが壊れたのは間違いなく彼のアンプの せいだ。エレキギターをつないで、弦を弾いた瞬間、 スピーカーが爆発したようなとんでもない音を出し、 それっきリウンともスンとも言わなくなった。学校 のスピーカーはせいぜい五〇W程度なのに、彼が完 成させたアンプは出力がI〇〇W近くあったのだ。  何かに夢中になると、他の一切が見えなくなって しまう。そういう彼の性格は、生まれつきのもの だった。  高校三年生の頃は、オートバイに熱中した。夜中 に農道を走り同って、カミナリ族の真似事をしたり、 今で言うモトクロス用のバイクで山道を走って事故 を起こし、骨を何本も折る大怪我をしたのも彼らし い話だけれど、彼がバイクに興味を持つたいちばん の理由はエンジンだった。  「ヘンリーレーシングのCR93とか、いろんなバイ クに乗った。三沢の米軍基地のアメリカ兵から、中 古のバイクをものすごく安く買ったりしてな。買っ たままのオートバイに乗ってもつまらないから、改 造するわけだ。カミナリ族って言っても、爆音を響 かせるとか、そういうことに興味はなかった。エン ジンをちょっといじるだけで、オートバイの性能は ものすごくアップするのよ。それが面自くてな」  空気とガソリンの混合気体にプラグで点火して爆 発させ、その干不ルギーをピストンとクランクの動 きで動力に変える。メカニズムはシンプルだが、奥 行きは深かった。人類の数ある発明品の中でも、内 燃機関はもっとも洗練された機械と言えるかもしれ ない。エンジンを知れば知るほど、工夫の可能性が 広かった。  木村はその奥行きの底知れなさの虜になってし まったのだ。  もし木村が都会に生まれていたら、あるいはもう 少し生まれるのが遅かったら、どこかのレーシング チームの優秀なメカニックか、自動車メーカーのエ ンジン開発者にでもなっていたかもしれない。  けれど昭和二〇年代の津軽地方の農家に生まれた 彼は、世の中にそういう職業があることすらよく知 らなかった。  「次男坊で家を継ぐ必要もなかったから、農業をや るつもりはなかったんだ。なまじ計算が出来たから よ、親が農業をやっている姿を見て、将来はないな と思っていた。あの頃の私は、効率ばっかり考えて いる効率人間だったのさ。それで高校二年のときに、 簿記一級の資格を取った。会計士になろうと思って、 高校卒業する年に試験を受けたんだけど、落ちてし まってよ。それで就職試験を受けて、川崎にあった 会社に就職したの。日立の系列の子会社で、サウジ アラビアとかイラン、イラクあたりに建設するパイ プラインを作っていた会社でした。いわゆる集団就 職だな。急行津軽に乗って、昭和四三年の三月二三 日、上野駅に着きました。あの頃は一七時間くらい かかったんでねえべか。『ああ上野駅』つて唄が あっだけどさ、ここがあの上野駅か、すごいところ へ来たもんだとな。ものすごく人がたくさんいて、 ホームが数え切れないくらいたくさんあってな。感 心するやら、驚くやら。うっとりして見惚れていた んだけど、ふと我に返った。  そこから川崎までの行き方がわからないんだよ。 上野と川崎は目と鼻の先だと思ってたら、とんでも ない。駅員に聞いて、聞いてさ。大変な思いをして 川崎に辿り着いたら、駅に人事課の人が迎えに来て くれていた。あのときは嬉しかったな。でもさ、太 陽がオレンジ色なのよ。あれにはびっくりした。夕 陽は赤いもんだとばっかり思ってたけど、川崎で赤 い夕陽は見たことなかったな」  一九六〇年代の川崎である。  環境対策などは、まだほとんど何もなされていな かった。なにしろ立ち並ぶ工場の高い煙突が、繁栄 の証とされていた時代である。日本有数の工業地帯 だったこの都市の汚染はピークに達していた。  交差点はトラックのまき散らす黒い排気ガスで息 も出来ないほどだったし、工場からの排煙で晴れた 囗でも空か霞んでいる。夜になれば都会の明かりに 照らされた雲が不気味に光っていた。朝、木村が 真っ自なワイシャツを着て出勤し、オレンジ色の夕 陽を眺めながら寮に戻ると、ワイシャツの袖が油煙 で薄く汚れていた。川はドブのように濁って、側を 歩けば鼻をつまみたくなるくらい不快な臭いがした し、水道の水は不味くて飲めたものではなかった。 弘前ではあり得ないことだ。  けれど、木村はとんでもない土地へ来たとは思わ なかった。むしろそれが工業の発展した都会という もので、田舎の友達に話したら、さすがに都会はた いしたもんだと感心されたに違いない。憧れの大都 会で、木村は意気揚々と働いた。  配属されたのは、原価管理課だった。  そこで木村は初めて、回路図ではない、本物のコ ンピュータと出会う。  「簿記の資格とって、ソロバンで喰っていこうと 思ってたからよ、コンピュータがどんなことするか 見ていたの。IBMのコンピュータでな、パンチ カードをリーダーマシンに入れて操作する昔のコン ピュータだ。それでな、一ヵ月もしないで気づいた ことがある。これは過去のデータを利用する機械に 過ぎないんじやないかと思ったの。どんな高性能の コンピュータだってさ、データを入れないと使えな いのな。データつていうのは過去だ。過去のデータ をどれだけ集めて計算したって、新しいものは生ま れて来ない。未来は開けない。コンピュータという のはさ、私に言わせればただの玩具なんだよ。  だけど、この機械によって、やがて人間が使われ るようになるんだろうなと思った。人が作った機械 に人が使われるようになるんだとな。今の世の中を 見れば、その通りになってるよ。コンピュータと同 じでさ、他から与えられたものしか利用出来ない人 がすごく増えてしまった。自分の頭で考えようとし ないの。インターネットだってそうだよ。みんな答 えはインターネットの中にあると思い込んでしまう のな」  もっとも、木村がコンピュータ嫌いになったわけ ではない。パンチカードの打ち方を憶え、コン ピュータの仕組みを学び、その内部に秘められたブ ラックボックスを研究するのは、彼にとっては子供 の頃にロボットを分解したのと同じ、娯楽みたいな ものだった。  川崎での暮らしは、木村には楽しい思い出になっ た。仕事も面白かったし、職場でも可愛がられた。 原価管理課での最大の仕事は、各課の経費をチェッ クすることだった。他の課を同って、経費節減を促 すという憎まれ役的な仕事なのだが、なぜかどの課 でも木村は歓迎された。木村が来ると、職場全体が 明るくなるとよく言われた。津軽弁混じりの陽気な 大声と、あの天真爛漫な笑い顔のせいかもしれない。  そして週末は毎週のように、湘南のチューニング ショップに通っていた。ショップの主人と知り合い になって、エンジンの改造という高校時代からの趣 味に没頭したのだ。  「あの頃はセリカの一六〇〇GTとか、スカイライ ンがメインだったな。カムシヤフトを鏡のようにぴ かぴかになるまで研磨して、エンジンをパワーアッ プするわけだ。指先で触って削り具合を確認しなが らやるんだけど、一〇〇〇分のIミリの世界だよ。 ずっとやってると、指で触るだけでその○・○○一 ミリの違いがわかるようになる。人間の感覚という のは、すごいもんだよ。機械なんか使うよりずっと 正確だ。そうやってパワーアップすると、あの頃の スカイラインは匸一〇馬力くらいか、それを三〇〇 馬力にするのは簡単だった。これを仕事にしたら面 自いだろうなという気持ちもあったけどな、そんな ことしているうちに帰還命令が出て、青森に戻らな ければならなくなったの」  木村は、川崎の会社を一年半で退職する。帰還命 令というのは、両親からのもので、つまり実家に呼 び戻されたのだ。跡取り息子の兄が、パイロットに なりたくて自衛隊に入隊してしまった。次男である 秋則が、跡を継がなければならなくなったのだ。  帰郷したその囗は、台風が青森を通過した直後 だった。弘前駅に迎えに来てくれたのは祖父一人。 他の家族は、暴風雨の被害を受けたリンゴ畑や水田 に出払っていた。  「田圃に行ったら、川の水があふれて、穂先だけが 水から出ていた。これだから百姓は嫌いなんだと思 いました。私は効率人間だからよ。すぐにソロバン 弾いて、被害額を計算するわけだ。土まみれになっ て汗水垂らして働いても、ちょっとした自然の気ま ぐれで、一年間の収入がこんなに減ってしまう。そ うやって計算ずくで考えれば、百姓というのは効率 の悪い、時代遅れの職業だという結論しか出てこな いよな。でも、お袋はこんなことを言っていた。 『都会で人の歯車になって働くよりも、百姓の方が ずっといい。お金儲けは出来ないかもしれないけれ ど、私はずっとこっちの方が好きだよ。歳を取った ら、あんたもきっと土いじりがやりたくなるよ』と な。母親は戦前の大で、ロクに学校も行かなかった と思うんだけど、本をたくさん読む人でな。ふとし たときにいいことを言うの。今考えてみれば、すご くいいことを言ってくれたんだけどな、あの時は耳 に入らなかった」  父を手伝いながら、なんとか農業を継がない方法 はないかと考えていた木村に、ひとつの幸運が訪れ る。自衛隊に入隊した兄が、思い直して家に帰って 来てくれたのだ。木村は家を継ぐ義務から解放され た。都会へ出て勤め人に戻るか、あるいは湘南のあ のチューニングショップに正式に弟子入りして本職 のメカニックになるか。夢を膨らませていたのだけ れど、結局は農業の道へと進むことになる。  二二歳で木村は中学校時代の同級生、木村美千子 と結婚をする(だから正確には、この時から三上秋 則が木村秋則になった)。美千子は農家の長女で、 結婚するにはいわゆる婿養子として木村の家に入ら なければならなかったのだ。  農業の道を進むのが、彼の運命だったのかもしれ ない。  「一所懸命に農業やりました。婿養子だからさ、真 面目にやらないと家を出されちやうでしょう。あは はは。ほんとのこと言うと、効率人間だった私か、 格好つけて言えば、農業に光を見いだしたの。何 かっていうとさ、トラクターと出会ったんだよ。囗 本の小さいトラクターではないよ。アメリカとかの さ、広い畑を走り同っているでっかいトラクターあ るでしょう。雑誌か何かでその写真見て、こんな農 業ならちょっとやってみたいと思ったわけさ。いわ ゆる大規模農業だ。広大な土地をトラクターで耕し て、小麦とかトウモロコシを作っているでしょう。 どうせ農業をやるなら、ああいうダイナミックな農 業がやってみたいとな。それで、トウモロコシを作 ることにしたの。アメリカのトウモロコシ畑みたい なものを私も作ってみようと思ったわけだ。い や……、まあ、もっとほんとうのこと言うとさ、ト ラクターに惚れ込んでしまったんだよな。トラク ターつていうのはエンジンとミッションをつなげた だけの単純な構造で、クルマみたいな余計な飾りが 一切ついてないんだ。エンジンがそのまんま走って るみたいなもんなのさ。これがエンジン好きにはた まらない乗り物なのよ。いじればいじるほど好きに なって、そのうちバイクに夢中になったみたいに、 大好きになってしまってな、あははは。だから本音 を言えば、私はトラクターをいじりたくて百姓に本 腰を入れたというわけだ」  現在の岩木山一帯には、リンゴの他にもうひとつ 名産品がある。  トウモロコシだ。その栽培でよく知られた嶽高原 の名前を取って「嶽きみ」と呼ばれるトウモロコシ は、ちょっと驚くくらい甘くて旨い。リンゴがまだ 出初めの夏の季節には、この嶽きみがこの土地の格 好の土産にもなっている。  岩木山山麓を走る県道三〇号線沿いに、今はゴル フ練習場になってしまったが、当時は荒れ果てた畑 があった。畑とは名ばかりの、草木の繁茂する原野 だった。  その広大な荒れ地を借りて、木村は憧れの大規模 農業への一歩を踏み出す。  リンゴ栽培と併行して、トウモロコシの栽培を始 めたのだ。  相棒はもちろん、トラクター。木村は真っ先に舶 来品のトラクターを買った。  「結婚したときに、持参金じやないけどさ、実家の 父親が田畑と、それからちょっとまとまったお金を 持たせてくれたのな。そのお金でイギリス製のトラ クターを買いました。インターナショナルーハーベ スト社というメーカーだった。雑誌とか本を読んで いろいろ調べたら、囗本のトラクターでは三〇馬力 より大きいのが見つからなかったんだけど、そのイ ンターナショナルーハーベスト社のは四五馬力も あった。しかもディーゼルなのに、予熱しなくても エンジンかかるの。ヨーロッパはディーゼルエンジ ンが進んでいるからな。これにしようと思って、住 所調べて、イギリスに手紙を書いた。漢字やひらが なじや相手がイギリス人だから読めないだろうなと 思って、手紙はローマ字で書きました。いや英語は わからないからよ、ローマ字で書いたって言っても、 中身は日本語だ。『T orakuta目Katarogu wo okutte kudasai. Kiヨ耳a Aki呂昌 ってな、あはは。でも、イ ンターナショナルーハーベスト社は、ちゃんとカタ ログ送って寄越したよ。いくらしたっけな、確か一 五〇万円くらいでなかったか。結構な買い物であり ました。乗用車のクラウンがI〇〇万円くらいの頃 だからな。農耕機具って高いんだよ」  大きなトラクターだった。タイヤだけでも、木村 の身長ほどの高さがあった。ほとんどエンジンにカ バーをつけただけの、機能一点張りの無骨なデザイ ンも木村の気に入った。もちろん、近所にそんな外 国製の巨大なトラクターを持っている家はない。  嬉しくて、毎日のように磨いていた。自家用車の 洗車は一年に一回するかしないかなのに、トラク ターは毎日洗車していた。畑の作業を終えて夕方家 に戻るたびに、トラクターをジャッキアップして夕 イヤの泥を洗い落とし、ボディにワックスがけまで した。  大きすぎて納屋に入るようなサイズではなかった のだが、雨晒しにするのが嫌で、無理矢理入れたら、 脇をこすってしまった。後に木村は、トラクターを 泣く泣く手放すことになるのだが、庭先の納屋の壁 には、その時につけた傷痕がまだ残っている。その 傷を見るたびに木村は三〇年以上も昔のことを、昨 日のことのように鮮明に思い出す。  巨大なトラクターは、草木の生えた荒れ地を驚く べきスピードで畑に変えていった。惚れ惚れするよ うなパワーだった。鬱蒼とした木立の中に、外国の 雑誌で見た、あの広大な整然としたトウモロコシ畑 が出来上がった。品種はハニーバンタム。土地がよ く肥えていたせいか、出来はきわめて良好だった。  ただ、タヌキの被害に悩まされた。収穫間際にな ると、たっぷりと太ったトウモロコシが、ごっそり 喰われてしまうのだ。  「それで畑のあっちこっちに、虎鋏をしかけた。そ したら、仔ダヌキがかかっだの。母親のタヌキがす ぐ側にいてさ、私か近づいても逃げようとしないの な。虎鋏をはずしてやろうと思って手を出したら、 仔ダヌキは歯を剥いて暴れるわけだ。可哀想だけど、 長靴で頭を踏んづけて、虎鋏をはずして逃がして やった。ところが、逃げないのよ。私の目の前で、 母親が仔ダヌキの足、怪我したところを一所懸命舐 めているのな。その姿を見て、ずいぶん罪なことし たなあと思ったよ。それで『もう食べに来るな よ』つて、出来の悪いトウモロコシをまとめて畑の 端に置いてきた。トウモロコシ作ってると、私の 歯っ欠けのようなトウモロコシが結構出来るのよ。 売り物にならない不良品だな。それを全部置いてき た。次の朝、畑に行ったら、ひとつ残らずなくなっ てた。と同時に、タヌキの被害が何もなかったのな。 それで虎鋏をやめて、収穫するたびに歯っ欠けのト ウモロコシを置いてくるようにした。それからタヌ キの被害がほとんどなくなった。だから、人間がよ、 全部を持っていくから被害を受けるんではないのか とな。そんなこと考えました。元々はタヌキの住処 だったところを畑にしたんだからな。餌なんかやっ たらタヌキが集まって来て、もっと悪戯するんでは ないかと思うところだけど、そうはならなかった。 不思議だなあと思った。自然の不思議さに目を開か されたと言えばいいか、とにかく自然は人間の計画 通りには動かないもんだと思っだの。今考えてみれ ば、あの頃が、効率農業からの転換期だったかもし れないな」  木村がトウモロコシの栽培を始めた理由は、トラ クターを使って大規模農業をやりたいということ以 外にももうひとつあった。  妻の美千子が農薬に過敏な体質だったのだ。  リンゴは農薬で作るといわれるくらい、リンゴの 栽培にはきめ細かな農薬散布を必要とする。生来が 働き者で、しかも「効率人間」だった彼は、当然の ことながら防除暦に従って、せっせと農薬散布に励 んでいた。  水田もあったけれど、基本的には自家消費が中心 だったから、一家の現金収入はリンゴが頼りだった。 リンゴ農家の収入は、虫喰いのない、甘くて大きく て美しいリンゴをどれだけ生産出来るかで決まる。 害虫や病気は、収入を減らし、一家の暮らしを脅か す憎き敵だ。憎き敵を根絶やしにするために、撒け るだけの農薬を撒いていたのだ。  防除暦というのは、簡単に言えば、どの時期にど の農薬を使用すればいいかを示した農業用の暦だ。 リンゴだけでなく、ミカンや桃などの果物から、 キャベツやニンニクなどの野菜にいたるまで、ほと んどあらゆる作物について防除暦が作られている。 地域によって発生しやすい害虫や病気には差がある から、基本的には県の農業試験場の専門家の指導を 受けて、各地の農協などが作成している。  木村が使っていたのは、青森県で発行されたリン ゴ用の防除暦だ。新聞紙を広げた大きさの暦に、時 期ごとに散布すべき農薬の種類とその濃度などが詳 細に記されている。素人目には目眩がするほど複雑 だけれど、病害虫を予防するには欠かせないものだ。  昆虫、カビ、細菌、ウイルス……。リンゴの木は 多種多様の生物の攻撃にさらされている。一種類の 農薬を散布すれば、すべての外敵を防除できるとい うわけではない。病気にしても害虫にしても、それ ぞれに発生しやすい時期がある。外敵の種類に合わ せ、適切な時期に散布しなければ、農薬散布の効果 は上がらないのだ。しかも病気や害虫には流行りが あるから、毎年同じように散布すればいいというわ けでもない。だから防除暦は、病害虫の発生状況や、 天候予測などをふまえて毎年発行される。経験豊か な農家でも、防除暦がなければ適切な農薬散布は難 しいのだ。  ところで、この防除暦にはもうひとつ役割がある。  収穫物であるリンゴの残留農薬を基準値以下に抑 えるという役割だ。第二次世界大戦後になって、化 学合成した様々な種類の農薬が作られるようになっ た。その中にはたとえばDDTなどのように安全性 に問題があるとされて、使用を禁止された農薬も少 なくない。  農薬の安全性に関する研究が進んでからは、農薬 に厳格な使用基準が設けられるようになった。人体 に有害なことが明白な物質は使用出来なくなったし、 使用することが認められた農薬でも、使用する濃度 や頻度、さらには使用していい時期が決められてい る。出荷した農産物に残留する農薬が、人体に僅か でも悪影響を与える可能性を排除するためだ。  農薬の害については色々な議論がある。その議論 はひとまず置いて、公平な目で見るならば、日本で は農薬の残留濃度に関する基準がかなり厳しいのは 事実だ。ことに近年では食の安全性の見地から、出 来る限り農薬の使用量を減らすようになっている。  防除暦にはその厳しい基準をクリアするための、 農薬使用のガイドラインという役割もあるわけだ。 防除暦の指示を正しく守れば、収穫時のリンゴの残 留農薬はゼロに近い値に抑えられるようになってい る。  けれど安全なリンゴを作ることと、安全にリンゴ を作ることはまた別の話だ。  防除暦に従えば安全なリンゴを作ることは出来る かもしれないけれど、そこには安全にリンゴを作る 方法は記されていないのだ。  リンゴの残留農薬の濃度が厳しく指導されるのは、 人体に悪影響を与える可能性があるからだ。出荷さ れるリンゴの残留農薬は、限りなくゼロに近いレベ ルにまで下げられているかもしれない。ところが、 そのために大変な苦労をしているリンゴ農家の人々 は、農薬そのものに日々接しているのだ。  もちろんそれぞれの農薬には、使用上の注意とい うものがある。その注意を守って使用する限り、使 用者が健康被害を受けることはないことにはなって いる。  とはいえ、一年に何回も何百本という数のリンゴ の木に農薬を散布している間中、使用上の注意を完 璧に守るのは、実際上は極めて難しい。たとえば皮 膚についたらすぐに洗い流すことという注意書きが あったとしても、農薬散布中に一滴でも皮膚に付着 したら水で洗うなんてことをしていたら、作業が進 むわけがない。  リンゴを作るということは、そのリスクを背負う ということなのだ。  ましてその時代は、農薬の安全性が現在ほど厳し く議論されてはいなかった。そして妻の美千子は、 散布するたびに、一週間も寝込んでしまうほど、農 薬に過敏な体質だった。  「農薬は農協から表彰を受けるほど使っていたよ。 あの時代の農薬は、使ってる人間の皮膚のことなん か考えてなかったのな。とにかくリンゴ生産が第一 だからさ。二コチンつて呼ばれていた農薬がありま した。吐き気がするような臭いがするんだけど、そ れを散布していて畑で倒れたとかな、あの頃はそう いう類の話をよく聞いたよ。私か主に使っていたの は硫酸銅、青い結晶です。またこれがよ、すごく綺 麗なんだ。あれこそコバルトブルーだな。何ていう んだ、あの教会にある……、ステンドグラスみたい な感じだったな。あんまり綺麗なんで、間違って舐 める人もいるんじやないかっていうくらいのな。そ の硫酸銅に生石灰を混ぜて、殺菌剤として使ったわ けです。これはボルドー液と言って、日本でも明治 か大正時代ぐらいから使われていたんでないかな。 昔はこれを、リンゴの葉が真っ自になるくらいかけ ていたもんだ。だけどこの硫酸銅と生石灰を混ぜて、 ボルドー液を作る作業だけでも大変なの。かぶれる ことって言ったらない、強アルカリ性炎症です。ま るで火傷をしたみたいに、水膨れができるんだか ら」  ボルドー液だけではなく、もちろんドリン系やプ ラチオン系などの戦後発明された化学合成農薬も 使っていた。今日では安全性に問題があるというこ とで、生産中止になった農薬も少なくなかった。農 薬散布の回数は一年間に何回までと決められている から、何種類もの農薬や殺虫剤、殺菌剤を混ぜて散 布していた。そんなに農薬を使ったらどんな害があ るかなどということは、まったく考えたことがな かった。  「だって、私は物心つく頃から親たちがそうやって リンゴを作って来だのを見ていたわけだ。こんなの 当たり前だと思っていたの。それがリンゴを作ると いうことだ、火傷するくらいなんともないとな。た だ、美千子が農薬に弱いみたいで、農薬散布すると 寝込んだりしていました。それは、なんとかしない といけないと思った。トウモロコシを始めたのはそ ういう意味もありました。トラクター農業やりた いって気持ちもあったけどよ、トウモロコシでちゃ んと収入が得られるようになれば、リンゴは作らな くてもよくなるから。美千子に辛い思いをさせない でもすむようになるかもしれないとな」  ある偶然がなければ、木村はリンゴ作りをやめて しまっていたかもしれない。トラクターを使ったト ウモロコシ栽培は順調に進んでいたのだ。何にでも 夢中になったら前後の見境がつかなくなる彼が、本 格的にトウモロコシ栽培の面白さに目覚めていたら、 岩木山の麓が今頃、トウモロコシ畑で埋め尽くされ ていた可能性もある。トウモロコシ栽培で収入が安 定すれば、妻に無理をさせながら、リンゴ作りをす る必要はないのだ。  そうならなかったのは雪のせいだ。津軽平野は冬 の間、雪に埋もれる。その間は、カンジキを履いて リンゴの木の雪下ろしをするくらいしかやることが ない。出稼ぎの必要がない農家にとっては、一年間 の重労働の骨休めをする季節だ。  この骨休めは、木村の最も苦手とするところだっ た。妻の美千子は、木村が家でのんびりくつろいで いるとか、寝転がってテレビを見ている姿を見たこ とがないと言う。いつも何かしらしていないと気が 落ち着かない性格なのだ。  畑が雪に埋もれると、木村は農業の勉強を始める。 町の図書館に通ったり、本屋に出かけ、一年間の農 作業の合間に湧いた疑問に答えてくれる本を探して 読み耽る。アイデアを思いつけば、それを克明に ノートに書きつけていく。床についてからも資料や 本を読むのが習慣になっていたから、受験勉強中の 学生のように、木村の寝床の周りには農業関係の書 籍やメモがいつも積み重ねられていた。  その囗も、木村は参考資料を探していた。トラク ター農業に関する専門書だ。  何軒か町の書店を同って、ようやく見つけた目当 ての本は、書棚の最上段にあった。背伸びをしても 手の届かないそんな場所に置かれていたのは、おそ らくその本があまり売れない本だったからに違いな い。  木村は横着をした。踏み台を探すか、店員を呼ぶ べきだったのだが、ちょうどいい具合にそこに棒が 置いてあったのだ。  「その棒でさ、トラクターの本をつっついたわけ。 そしたらよ、隣の本も一緒になって二幵落ちてきた。 慌てて拾ったら、隣の本のカドが潰れてしまってい たの。雪だか雨だかで床が汚れていたから、泥も少 しついていたのな。それで、しようがないからその 本も一緒に買っだの。値段は二〇〇〇円くらいした と思う。結構高いのにさ、なんか安っぽい紙を使っ ていてな。本の綴じ方も良くなくて、開いただけで 破けてしまいそうな感じでよ。これは損したなあと 思って、家に持って帰ってからも、しばらく放っぽ らかしにしておいたの。本屋のあんな高い場所に置 いてあったのは、きっとその本もあんまり売れない 本だったからでしょう。ちゃんと読んだのは、それ から半年後か一年後か、もう忘れてしまっだけどよ。 暇だったときか何かに、引っ張り出してみたの。表 紙に稲の写真があって、本のいちばん最初のところ に、『何もやらない、農薬も肥料も何も使わない農 業』と書いてあった。ああ、こういう農業もあるの かなと。自分でやるやらないは別としてな、同じ百 姓として、興味が湧いてきたのさ。それから何回、 その本を読んだかわからない。本が摩り切れるほど 読んだ。福岡正信さんの書いた『自然農法』という 本でありました」  福岡正信という人は、農学者というよりはむしろ 思想家と呼ぶべき人物だ。  人間の知恵を否定し、人為的な営みのすべては無 用だと福岡は言う。  そう書いてしまうと、何かとてもシニカルな思想 家のようだ。  けれど、福岡の思想は、人類が文明を築き始めた ときから抱え続けている、ひとつの根源的な問いで もある。  聖書のマタイ伝に「明日のことを思い煩うな」と いうイエスの言葉がある。「明日は明日みずから思 い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」。明日の ことで悩むのはやめて、今日という日を精一杯生き なさいとイエスは言った。  釈迦はそのことを、生への執着が人生の苦の源で あるという言葉で表現した。この世の一切は空であ るのに、その空なるものに執着するから人は苦しむ のだ、と。  人知を否定し、無為自然を理想とした老子も、本 質的には同じことを言っている。  明日のことを思い煩うのも、生に執着するのも、 つまりは人の知恵の働きだ。その知恵を働かせて、 大は欲望をかなえようとする。けれど欲望には切り がない。ひとつの欲望をかなえれば、次の欲望が生 まれる。その繰り返しの中で、大は文明を発展させ てきた。つまり文明の歴史とは、人類の欲望の肥大 化の歴史でもある。  人類に火を与えたプロメテウスにゼウスが下しだ のは、岩に身体を縛りつけられて内臓を大鷲に喰わ れるという罰たった。タイタン一族のプロメテウス は不死身だから、喰われた内臓は翌朝には再生する。 プロメテウスは死ぬことも出来ず、未来永劫にわ たって生きながら内臓を喰われる苦しみを味わい続 けるというわけだ。その残酷な罰は、どれだけ文明 を発達させたところで真の幸福には至れないという 残酷な真理の象徴のようにも思える。文明の発達の 歴史が欲望の肥大化の歴史であるのなら、文明が本 当の意味で人を幸せにすることは未来永劫あるはず のないことだからだ。であるなら、人間の知恵や、 その知恵から生まれる人間の営みには、いったい何 の意味があるのだろう。  文明を手に入れたその瞬間から、人は少なくとも 心の片隅でそのことを考え続けて来だに違いない。 老子が説いた無為自然は、その文明の対極の姿だ。 欲望をかなえて人を幸せにするのが文明の方向性で あるとするなら、人を幸せにする正反対の方法があ る。それは文明を否定して、自然のままに生きるこ と。釈迦が言ったように、欲望などというものは幻 に過ぎないということを知ることであり、キリスト の説くように、明日を思い煩うのではなく、今とい う瞬間を、何者かに感謝しながら生きることだ。  文明論的に言えば、宗教の本当の役割はそこにあ るのかもしれない。信仰の問題をひとまず横に置け ば、神や仏を信じることはあくまでもひとつの手段 であって、その真の目的は、文明の方向性に対して 異議を唱えること、つまり人の欲望というものを否 定することにあるように思えてならないのだ。  人間の知恵を否定し、人為的な営みのすべては無 用だという福岡の思想は、その系譜に連なるものだ ろう。この人のユニークなところは、それをひとつ の哲学や思想として完結させるのではなく、農業と いう人の営みの中で実証して見せたところにある。 彼は自然科学を否定したけれど、彼自身の素養はき わめて自然科学者的でもあった。  一九匸一年に愛媛県伊予市に生まれ、岐阜高農農 学部で学んだ福岡正信は、横浜税関植物検疫課で植 物病理の研究者としての職を得る。  稲の病原菌からジベレリンの分離に成功した黒沢 英一という世界的な植物病理学者の指導を受けなが らミカンの樹脂病の研究をしていた時期に、福岡は 「人知人為は一切が無駄である」という思想に辿り 着く。そして戦時中は高知県の農業試験場でいわゆ る科学農法の指導をしながら、その一方で人間の知 恵を使わない農業を模索する。その後、一九四七年 に帰農し、故郷の愛媛県で農業一筋に生きてきた人 だ。  彼が目指しだのは、何もしない農業だ。  人間の知恵や営みが無駄であるということを、農 業という彼自身が最も深く理解していたフィールド で実証しようとしたのだ。  自然はそれ自体で完結したシステムだ。  大が手助けなどしなくても、草木は葉を繁らせ、 花を咲かせ、種を実らせる。  そのシステムに手を加え、人間に都合のいい結果 を得ようとする人の営みが、つまり農業というもの だと福岡は言う。  肥料を与えれば、より大きな実をつける。害虫を 殺せば、よりたくさんの作物が収穫できる。人間は たとえばそういう風に考える。そして肥料の与え方 に工夫を凝らし、害虫駆除の方法を発達させてきた。  その積み重ねの結果として、農作物は自然の産物 というよりも、ある種の石油製品になってしまった。 現代の農業は、大量の化学肥料や農薬を投入し、農 業機械を使わなければ成り立だなくなっている。化 石燃料が枯渇したら、いったいどうなるだろう。  それは人間の知恵や営みが、単に無駄であるとい うだけでなく、有害なものですらあることの、きわ めて明白な実例であると福岡は考えたのだ。  けれど自分の理想とする何もしない農業が、現代 の農業よりも優れていることを証明できなければ、 それは机上の空論でしかない。石油製品であろうと 何であろうと、現代の農業が膨大な地球の人口を支 える食料を生産していることは事実だからだ。  最初は文字通りの何もしない農業を実践してみた と、福岡はその著書の中で述懐している。郷里の父 親のミカンの果樹園を譲り受け、剪定も何もせずに、 放任したのだ。その結果、枝は混乱し、害虫が発生 して、ミカンの木は枯れてしまった。  人為的に作られた果樹園は、自然とはまた別のも のだ。  動物園で育った動物を、そのままでは野生に返す ことが出来ないのと同じように、果樹園のミカンの 木も、単に人の手を加えないというだけでは自然に 戻すことは出来ない。そしてそれは、果樹園だけで なく田も畑も同じことだった。  何もしない農業とは、つまりそれ自体で完結した 自然のシステムをI〇〇%生かした農業ということ だ。その自然のシステムに、いわば人間に飼い慣ら された農作物をまかせるには、それなりのプロセス が必要なのだ。  そのことに気づいた福岡が、四〇年近くかけて完 成させたのが、彼の提唱する自然農法だった。「何 をしなくてもいいか」という発想で試行錯誤を繰り 返したと福岡は言う。文明は何かをつけ加えるとい う、足し算の方向性で発展してきた。その反対の引 き算を繰り返して、最終的な理想である、人間が何 もしない農業を目指したのだ。  木村が偶然に買ったその本には、試行錯誤を経て 福岡が完成させた、米と麦の連続不耕起直播という 栽培法が記されていた。  ごく簡単に要約すれば、この農法では米と麦とク ローバーの種を播き、育った米と麦を刈って、その 藁をそのまま田全体に散らすという以外のことは何 もしない。  福岡はこの方法で三〇年以上にわたって、農薬を 使う現代農業なみの収穫をあげていると書いている。 ちょっと信じられないような話だ。  耕すこともなければ、田植えをすることもない。 農薬も肥料も必要ないというなら、世の中の農家が 苦労してやっていることはいったい何なのだろう。  まして、木村はそれで収入を得ている農家である。 福岡がその本に書いたことを頭から信じることはで きなかった。それに米と麦の二毛作が可能な愛媛県 と、冬は雪に埋もれる青森県では、気候があまりに も違っている。福岡の農法をそのまま実行すること は、とても出来る相談ではなかった。  それでも木村はその本を、繰り返し読まずにはい られなかった。  福岡の本を読めば読むほど、木村の心の中でひと つの思いが頭をもたげるようになっていった。それ は大量の農薬にまみれながらリンゴを作っていたと きには、一度も考えたことのないことだった。  自分はリンゴを栽培するために、春先から九月の 収穫前までに十数回の農薬散布を行っていた。リン ゴの葉は農薬で真っ自になった。そうしなければ、 病気や虫からリンゴを守ることは出来ないと信じて いたからだ。  けれど、本当にそうなのだろうか?  「すごいなあと思いました。もしこれがリンゴでも 出来たらすごいなあとな。おそらく福岡さんの本を 読まなければ、そんなこと考えなかったと思う。 だってこの世の中で、誰もそんなことやった人はい ないんだからさ。リンゴを作るのに農薬を使うのは 当たり前のことで、農薬を使わなければリンゴの栽 培ができないっていうのは、常識以前の問題だった のな。今現在だって、ほとんどの農家がそう信じて いると思う。ある意味では、その通りなの。普通に 無農薬でやったら、まず間違いなく失敗するからな。 だけどそんな本を読んだことが、薮知識になったわ け。いくら他の果樹で可能であっても、リンゴ栽培 だけは農薬がなければ不可能だと言われていだけど よ。よく考えてみれば、誰もほんとに不可能かどう か、試したことはないのな。確かに手入れを放棄し たリンゴ畑は、病気と害虫が大発生して手がつけら れなくなる。農薬を使わないからそうなるんだって 思い込んでいたけれどもさ、はたしてほんとにそう なのかってな」  福岡の農園は愛媛県にある。当然のことながら、 木村が手にしたその本には、リンゴ栽培に関する項 目はなかった。けれど、ミカンの栽培については詳 細な記述があった。  福岡は枯らしてしまったミカン畑の経営を、後に 息子に任せることになる。最初は化学肥料や農薬も 使ったらしい。その化学肥料や農薬の使用を徐々に 減らし、最終的には鶏糞や堆肥を主体にした肥料と、 マシン油や硫黄合剤など、昔ながらの危険性のきわ めて柢い薬剤の散布程度で、立派なミカンを作れる ようになったと書かれていた。福岡のミカン畑でさ えも、少なくともその当時は、完全な無農薬でもな ければ無肥料でもなかったのだ。  木村も完全な無農薬を目指したわけではない。農 薬の散布量を少しでもいいから、減らしてみようと 思った。  けれどその当時、リンゴの減農薬栽培に関するテ キストなど、どこにもありはしなかった。木村は独 学を始める。ありとあらゆるリンゴの本をとにかく 読みまくった。リンゴ関係の書物が充実している町 の図書館に毎日のように通った。リンゴの本だけで なく、有機栽培に関する書物もむさぼるように読ん だ。  「それで化学肥料が良くないんじやないかと考える ようになって、鶏糞を集めて堆肥を作り始めました。 仲間の農家と一緒に、売りに出せるくらい大量の堆 肥を作ったよ。化学肥料を全部やめて、その自分で 作った堆肥を畑に入れて、それから農薬の使用を減 らすという順番だな。あの頃、ウチにはリンゴ畑が 四ヵ所あった。三ヵ所は木村の家に元からあった畑、 もうIヵ所は俺が婿に入るときに実家の父親から 貰った畑。この四ヵ所の畑で農薬散布の回数を変え てみた。それまでは一年間に匸一回くらい農薬を散 布していた。それを六同にする畑と、三回にする畑 と、それからI回しか散布しない畑という具合にな。 結論から言えば、農薬を六回散布した畑は、普通の 畑とほとんど見劣りしないくらいの収穫がありまし た。三回の畑は害虫の被害もあったけれど我慢でき る程度だった。一回しか農薬を散布しない畑は、さ すがに虫は多かった。それでも、農薬を普通に使っ た畑の半分以上の収穫はあったな。そこでまた、ソ ロバンを弾いたわけ」  農薬を減らしても、想像したほどリンゴはダメー ジを受けなかった。さすがに年に一度の散布では収 穫が半減したが、そのかわり農薬にかかる費用は、 単純計算すれば匸一分の一なのだ。経費を計算すれ ば、収益率はそれほど悪くない。あと一回農薬散布 を減らして完全な無農薬栽培にすれば、農薬の費用 はゼロになる。収穫量がさらにどれくらい減るかは わからないけれど、なんとか採算は合うのではない か。  リンゴの無農薬栽培は誰もが不可能だと言ってい た。誰も成功した者はいない。誰もやったことのな いことをやると考えただけで、木村の心は高鳴った。  「これなら完全無農薬栽培も可能かもしれないとな。 まあ今考えてみれば、若気の至りでそう思ってし まったわけだ。それで親父に相談した。来年の春か ら無農薬を試してもいいかとな。正直言って、反対 されると思った。いや自分では出来ると思ってるけ ど、常識で考えればそんなこと許す人間がいるとは 思わなかった。だから説得には時間がかかるだろう と思ってた。ところが『無農薬でやらせて欲し い』つて言ったら、親父は二つ返事で『やってみ ろ』つて。こっちか驚くくらい、あっさり許してく れた」  ここで木村が親父と呼んでいるのは美千子の父、 つまり木村の義父のことだ。  義父は長く郵便局員を務めた人で、リンゴ畑は 持っていたが、専業のリンゴ農家ではなかった。太 平洋戦争中は、出征した南方の島で、農作物を作っ て食料を自給した経験があった。ジャングルの土地 を耕して、米や芋を作っていたのだ。  「親父は戦争中の話をいろいろしてくれた。錆びて 穴が空いたヘルメットをザル代わりにして、川で海 老を獲って食料にした話とかな。畑もけっこう作っ ていたそうだ。農薬はもちろん手に入らないんだけ ど、ナスなんか木みたいに大きくなったって。そう いう経験があったから、農薬がなければ農業はでき ないという、既成概念に縛られていなかったんだな。 囗本に帰ってからもいろんなことを試していた。稲 の苗は何本植えたら収穫がいちばん多くなるとかな。 研究熱心な人だったのよ。だから私がやろうとした ことを理解してくれたんだと思うのな。親父が根っ からのリンゴ農家だったら、減農薬というだけでも 説得するのが大変だったはずだ。それでもさすがに 無農薬でリンゴができるとは思ってなかったと、後 で笑っていだけどよ。二年か三年もやれば、きっと 諦めるだろうとな」  三〇年近くも昔、木村がまだ二〇代だった頃の話 だ。  正確な年は木村自身も記憶していない。前後関係 から考えると、彼が減農薬栽培から完全な無農薬栽 培に移行し始めたのは一九七八年頃のことだろう。  その年、木村は四ヵ所あったリンゴ畑のうちの一 ヵ所、結婚したときに実家の父親が譲ってくれた岩 木山山麓のハハアールの畑を農薬散布のゼロ同区に した。木村が子供の頃、実家の父親が切り開いた畑 である。木村も兄と一緒に山麓の斜面を掘って、二 人でリンゴの苗木を植える手伝いをした記憶があっ た。  懐かしい思い出のだくさん詰まったその畑で、木 村はリンゴの無農薬栽培を始めた。  通常は、春先のリンゴの発芽前から農薬散布が始 まる。リンゴが発芽すればまた農薬を散布して、花 が開けばふたたび農薬を散布する。病気の予防だっ たり、害虫の駆除だったり、時期によって農薬散布 の目的も違えば、散布する薬剤の種類ももちろん違 う。当時の平均的なリンゴ農家は、秋の収穫期まで の約半年の間に匸一回前後、様々な種類の農薬を散 布していた。  その一切を、やめてしまったのだ。  青森ではリンゴの花は五月に咲く。  その開花は、なんの問題もなかった。  農薬を散布していないから、畑の空気はすがすが しい。貞]つ青な空に岩木山が悠々と聳えている。そ の美しい眺めを背景に、木村が手塩にかけて育てて きたリンゴの木々が真っ自な花を咲かせていた。  同じバラ科の樹木だから、リンゴの花と桜の花は 似ている。ただし、リンゴは開花前に葉が開く。緑 の葉の間に、自い花が咲く。だからリンゴの花見は 桜ほど派手ではない。  けれど、リンゴ農家にとって、それは何よりも心 躍る眺めだ。  葉と花があって、初めてリンゴの果実は大きく育 つ。雌しべはやがて受粉して、花の根本がふくらみ 始める。その小さな果実に、葉で作られた養分かど んどん送られる。豊かに繁った葉が、秋のみのりを 約束してくれるのだ。  東北地方の遅い春の日差しは急速に強くなってい く。その日差しに合わせるように葉は大きく生長し、 緑の濃さを増していった。  六月に入っても、心配していた病害虫の被害はほ とんどなかった。  夢でも見ているような気分だった。  自分はとんでもないことを発見してしまっだのか もしれない。  農薬など、リンゴ栽培には必要なかったのだ。  化学肥料をやめて、堆肥を使っだのが良かったの かもしれない。  こんなにも簡単に無農薬栽培が出来るなら、この 農法はあっという間に日本中に広がるに違いない。 リンゴ農家が農薬から解放されるのだ。ひょっとし たら、自分がその功労者ということになるのだろう か。  ぬか喜びという言葉があるけれど、健康そのもの に見えるリンゴの木を眺めながら、木村はまさにそ のぬか喜びにひたっていたのだ。  順調だったのは、最初の二ヵ月だけだった。  七月に入っだとたんに葉に異変が現れた。リンゴ の葉が、黄色く変色し始めたのだ。  「ほんとに七月に入っだ初っ端だったな。黄色くな る葉っぱが出始めたの。一面の緑の中に、黄色があ るとすごく目立つでしょう。で、その黄色くなった リンゴの葉がチラチラチラチラ落ちていく。でも、 落ちる葉はいささかなわけだ。減農薬で試していた ときも、多少の病気は出ていたからな。ああ、やっ ぱり病気は来るもんだなと。農薬をやってないんだ から、これも仕方がないなとな。最初のうちは、冷 静に受け止めていたわけ。ところがこれが止まらな いの。畑中の葉っぱがどんどん黄色くなっていって な、七月の末には半分くらいの葉が落ちていた。八 月のお盆前には、もう残っている葉の方が少なかっ た。かろうじて残っている葉も、ほとんど黄色く変 色してしまっていてな。ほとんど枯れ木のような状 態だな。春先に花が咲いていたから、リンゴの実は なっていたけれど、なんと言いましよう、枯れ木の 山にリンゴだけがなっているという感じでありまし た」  病気で葉が落ちると、リンゴの木は懸命に新しい 葉を開かせる。ようやく開いたその新しい葉も瞬く 間に病気にやられた。斑点落葉病という病気だった。 葉に茶褐色の斑点が出来て、そのうち葉っぱ全体が 黄色く変色して落葉する病気だ。農薬を使わないと いうだけで、これはどの被害が出るとは思いもしな かった。農薬を一回散布した畑と、一回も散布しな い畑では、天国と地獄ほどの差があったのだ。  「正直言えばさ、あの時ばかりは、農薬というのは なんとすごいものかと思いました。農薬を撒くだけ で、あれだけの病気を防いでいたわけだよな。でも 変な話だけど、枯れ木の山のようなあの畑の姿を見 て、かえって闘志が湧いてきたのよ。春先の何も問 題がなかったときには、充実感はそれはどないわけ だ。農薬を使ってないというだけで、堆肥作り以外 はほとんど何もやってないんだから。ところが、リ ンゴの無農薬栽培が一筋縄で達成できるもんじやな いってことがわかって、俄然やる気になった。ここ からが自分の出番だと。自分の力でこの枯れ木の山 を、なんとしてでも元のような緑のリンゴ畑に変え てやるんだと。そう思い込んでしまったのさ」  夏が過ぎ、秋に入ると、その枯れ山のような畑で、 リンゴの木々がいっせいに花を咲かせ始めた。狂い 咲きである。葉がほとんど落ちている状態で気温が 下がったために、リンゴの本が生理的に春先とよく 似た状態に陥ったのかもしれない。  他の畑ではリンゴの収穫が始まっていた。  木村の畑では、生長することが出来ず、秋になっ ても苦いままの小さな果実の脇で、リンゴの花が咲 いていた。  背筋の寒くなるような光景だった。秋に花を咲か せてしまったリンゴの木が、翌春に花を咲かせるこ とはない。リンゴが咲かせているのは来年の春の花 芽なのだ。来年の収穫もこれで絶望的だった。  けれど、木村の目には、それがリンゴの木が必死 で生きようとする姿に見えた。  リンゴの木は、葉を失うたびに、新しい葉を開か せる。落ちても落ちても、また新しい葉をつけた。 病気に冒されながらも、なんとか生きようとしてい たのだ。  葉は植物の命の源だ。  葉の細胞一個の中には数百個の葉緑体が存在して いる。葉緑体は太陽光を干不ルギーにして、大気中 から取り込んだ二酸化炭素と水から糖を合成し、脂 質やタンパク質の代謝を行う。その葉を失うという ことは、動物で言えば食物を得られないのと同じこ とだ。  激しい飢餓状態にありながら、それでもリンゴの 木は春が来たと勘違いをして、次の世代へと命をつ なぐために花を咲かせたのだ。  葉についた病気を追い払うことさえできれば、こ の強い生命力がリンゴの木を復活させるに違いない。 リンゴの無農薬栽培の鍵は、まず第一に葉を守るこ とにある。農薬を使わずに、いかにして葉を守るか。 その方法を確立すれば、不可能とされてきたリンゴ の無農薬栽培を可能に出来るはずだ。  誰にも言わなかったけれど、木村は自分ならそれ が出来ると信じていた。  バイクやトラクターのエンジンだって、初めて蓋 を開けたときは絶望的なほど複雑に見えるのだ。分 解していくうちに、ひとつひとつの部品の機械全体 の中での働きが見えるようになってくる。それさえ わかれば機械そのものを思い通りに改造することが 出来た。リンゴの栽培だって同じことだろう。  リンゴの病気の正体は、カビや菌だ。  たとえば斑点落葉病は、ある種の菌だ。その菌が リンゴの葉や果実の表面で繁殖し、生体の機能を破 壊する。人間の皮膚病みたいなものだから、その菌 が嫌う物質さえ見つけて散布してやれば、防ぐこと はそう難しくないのではないか。  木村は農薬のかわりに、自分たちがいつも食べて いる食品で病気を防ぐ方法を探せないかと考えた。 それならリンゴを食べる人はもちろん、自分たち農 家も安全にリンゴを栽培出来る。環境への影響も少 ないだろう。そういう目で探してみると、効き目の ありそうな食品がいくつもリストアップできた。二 ンニクやワサビなど、食品の中には自然の殺菌力を 持つものも少なくない。殺菌力はなくても、カビや 菌の成長を阻害する物質を含む食品が見つかるかも しれない。  ただ、問題もあった。  一ヵ所の畑だけでは、そのすべてを試すのに時間 がかかりすぎるのだ。  四ヵ所あった畑のうちのIカ所から無農薬栽培を 始めたのは、もちろん収入を考えたからだ。最初か ら無農薬栽培が成功するとは木村も思っていなかっ た。農薬を使わない畑の収穫がゼロになったとして も、一ヵ所だけなら収入減は四分のIですむ。何年 かかるかわからないけれど、無農薬でも安定した収 入が得られることを確かめてから、他の畑も無農薬 に移行させる計画だったのだ。  荒れ果てた畑を眺めているうちに、そんな悠長な ことを言っていられる状況ではないと思った。すべ てのリンゴの木が栄養失調状態に陥っていた。この ままでは、木そのものが衰弱してしまう。リンゴの 葉を守る方法を一刻も早く発見しなければならない のに、リンゴ栽培は一年に一度しか結果が出せない のだ。それが農業の難しさというもので、たとえリ ンゴの栽培に三〇年取り組んだとしても三〇同しか リンゴ作りは出来ないのだ。  一刻も早く正解に辿り着くために、出来る限り実 験の数を増やしたかった。  木村は翌年、二ヵ所の畑を無農薬にした。さらに その翌年には、思い切って四ヵ所すべての畑で農薬 の使用をやめた。リンゴの収穫はゼロになった。当 時はまだ水田があったので完全な無収入ではなかっ だけれど、一家の収入は限りなくゼロに近づいた。  それでも、そうするしか成功の道はないと思い込 んでしまったのだ。  正気を疑われても仕方がない。  いや、実際に木村は正気を失っていたのかもしれ ない。  「リンゴの収穫がないということは、収入がないと いうことだものな。バカなことをしたもんだよ。地 獄への一本道を駆け足してしまったわけだ。だけど あの時は、それだけしか考えられなくなっていた。 とにかく、斑点落葉病の発生を抑える食品を見つけ ることしか頭になかったな」  木村はそう言う。それは、木村の少年時代からの 悪い癖たった。ひとつのことに夢中になると、前後 の見境がつかなくなってしまう。機械をいじったり、 バイクの改造をしていたときも、完成するまでは眠 れなかった、二日でも三日でも、一睡もせずに作業 を続けたものだった。結婚して農業を始めてから、 そういう精神状態になるのはこれが初めてだ。リン ゴの無農薬栽培は木村にとって、単なる仕事ではな かったということなのだろう。その意味では、木村 は幸せだったと言えるのかもしれない。幸せでは あっても、家計のことを考えれば、それはきわめて 危険な精神状態でもあった。  「収入はどうするなんてことは、もうどうでも良く なっていたのな。そんなことは頭の片隅でも考えて いなかった。試してみたいことは、次から次へと思 いつくんだよ。まあ、手当たり次第という感じでは あっだけどな。ご飯を食べていて、魚に醤油をかけ る。もしかしたら、醤油が効くんじやないかと思う。 そうすると、もう試してみたくてたまらなくなるわ けだ。眠って夢を見ても、そういうことばかり考え てる。何か思いつくと、夜中にでも起き出して、畑 に行きたくなるのな。小麦粉を溶かして糊にして散 布してみたり、焼酎を薄めて撒いてみたり。ワサビ を散布したこともあった。粉ワサビを水で薄めて散 布するんだけど、あれは涙が出てたまらなかったな。 散布してからしばらくは畑に入ると、ワサビの香り で鼻がツーンとしたもんだ。あははは、まるで笑い 話だな」  卵の白身を散布したこともある。バラの家庭園芸 の本を読んでいたら、牛乳がアブラムシに効くと書 いてあったのだ。虫に効くなら、病気にも効くかも しれない。そう考えて牛乳を水で薄めて散布した。 牛乳は上手く水と混ざらない。手洗い用の石鹸を混 ぜて、乳化させて散布していた。もちろん、効果は なかった。アブラムシ対策が、斑点落葉病対策にな るわけはないのだ。けれど、木村の思考はそういう 風には働かなくなっていた。牛乳は動物性タンパク 質だ。同じ動物性タンパク質である卵の白身なら、 効くかもしれないと考えてしまう。  「それで今度は、卵の白身を試そうということにな るわけだ。その頃は毎日のように黄身だけ食べてた よ。何をやっても、効果はなかったんだけどな。い やまったくな、何をやっていたんだか。それでもま た、あれはどうだろうって思いついてしまうわけだ。 今年はこれとそれはだめだつたから、来年はあれを 試してみようとな。馬鹿みたいに、そういうことの 繰り返しをやっていたのな。  リンゴの木は惨憺たるありさまでした。年を追う ごとにひどくなっていった。斑点落葉病は相変わら ず猛威をふるっていたし、そのうちものすごい数の 害虫が発生するようになった。虫の天国が始まった わけだ」  一八世紀のイギリスで品種改良が始まるまで、リ ンゴはせいぜい温州ミカンほどの大きさの果物だっ た。前にも書いたように、もっぱら料理の材料とし て、あるいは酒の原料として使われていた。そのま ま食べることもあっだけれど、それはおそらく当時 は甘い食べ物が今ほど豊富ではなかったからだ。現 代人の感覚からすれば、甘みも足りないし、酸味や 渋味が強すぎて、とても食べられた代物ではない。  一九世紀に入ると、このタイプの野生種に近いリ ンゴをクラブアップルと呼んで、ただのアップルと 区別するようになる。単にアップルと言えば、品種 改良によって大型化して甘くなったリンゴを意味し た。品種改良したリンゴの方が、普通になったとい うことだろう。もっとも大型化したとは言っても、 あくまでもクラブアップルに比べて、である。ヨー ロッパでは日本人のようにリンゴを切り分けて食べ るということをあまりしない。リンゴは丸かじりす るものだから、大き過ぎる品種は敬遠されるのだ。 小さなクラブアップルを食べていた時代の食習慣が、 ヨーロッパには色濃く残っているのかもしれない。  イギリスで始まったこのリンゴの品種改良は、新 大陸で大きく発展する。  アメリカ大陸にリンゴの木を持ち込んだのは、メ イフラワー号以来のヨーロッパからの移民だった。 一七世紀のことだから、もちろんクラブアップルだ。 故郷のヨーロッパを偲ばせる郷愁の果実だったとい うこともあるだろうけれど、それ以上にリンゴは飲 み水がわりのジュースやシードルの原料になる重宝 な果物だった。未開の上地に暮らすには、何よりも 安全な飲み水の確保が不可欠なのだ。開拓者の庭に リンゴの木はつきものとなり、彼らが西へと移動す るにつれ、リンゴ産地も東部から西部へと広かって いった。  そこに、ジョニー・アップルシードという人物が 登場する。アップルシードはアメリカ人なら知らぬ 者のいない伝説的ヒーローだ。本名はジョンー チャップマン。彼はリンゴの木を植えた。開拓者た ちを手伝って、入植地に何千何万本というリンゴの 木を植えたのだ。アップルシードが活躍した一九世 紀初頭から半ばにかけて、アメリカではリンゴの新 品種が続々と生み出される。  現代のリンゴに直接つながる、生食用のリンゴ品 種の祖先のほとんどは、この時期に生まれたものだ。 小さな渋いリンゴしか知らなかった人々は、大きく て甘いリンゴに目を丸くしたことだろう。新品種の 苗木は本家のヨーロッパに逆輸入されるようになり、 アメリカ生まれの大型リンゴは世界的ブームとなる。  そしてその余波は、開国したばかりの東洋の島国 にも伝えられる。ペリーが四隻の蒸気船を率いて浦 賀に到着したのは、ジョニー・アップルシードが亡 くなって八年目に当たる一八五三年のこと。その七 年後に日米修好通商条約批准の特使としてアメリカ に渡った新見豊前守が、この西洋リンゴの苗木をア メリカから日本へ持ち帰っている。  合衆国政府の誰かからの贈答品か、それとも豊前 守が自ら購入したものかはわかっていないのだが、 この西洋リンゴが、幕府高官の土産に相応しい異国 の果物であったことは間違いない。品種改良された 甘くて大きなリンゴは、今でいうなら文明国アメリ カの誇る、最先端の(イテク製品だったというわけ だ。  明治に入ると、この西洋リンゴは日本中で栽培さ れるようになる。日本政府の内務省勧業寮と北海道 開拓使が、農産業育成のために国策としてアメリカ から西洋リンゴの苗木を輸入し、国内の農業試験場 で接ぎ木繁殖して全国の府県に配布したのだ。  江戸時代から、囗本の園芸技術はきわめて高い水 準にあった。江戸の植木屋の手にかかれば、アメリ カから渡って来たこの果樹を接ぎ木で増やすことな ど朝飯前だったのだ。  本当のことを言えば、囗本にも古くからリンゴは あった。織田信長の妹、お市を娶った浅井長政が書 いた、贈答品の林檎への礼状が残っているくらいだ。 ただし、この林檎はおそらく天山山脈を原産地とす る野生種が中国経由で日本に入って来たもので、 ちょうど欧米におけるクラブアップルのように小さ くて渋い果物だった。水の豊富な日本では、欧米の ように水がわりに果物を絞って飲んだり、アルコー ルを造るという習慣がなかった。だから、基本的に はほとんど観賞用だったらしい。  漢字で林檎と書くのは、本来はこの日本古来のリ ンゴのことなのだ。ところがアメリカから渡って来 たリンゴが日本各地で栽培されるようになると、日 本古来の林檎の影は薄くなり、和リンゴという特別 な名で呼ばれるようになる。  元からあった野生種に近いリンゴをわざわざクラ ブアップルと呼ぶようになっだのと同じことが、日 本でも起きたというわけだ。  西洋リンゴは驚くべき勢いで日本中に広まった。  勧業寮がリンゴの苗木の配布を始めたのが明治七 年、その苗木が育ち、初めて実をつけたのが明治一 〇年前後。明治匸一年には全国でリンゴが実り始め た。和リンゴとは比べ物にならないくらい美味しい 西洋リンゴは飛ぶように売れた。「リンゴの木一本 から米一六俵分の収入がある」と言われ、リンゴの 栽培面積は飛躍的に拡大し、明治二〇年代には第一 次リンゴブームが到来する。当時は日本中でリンゴ が栽培されていたのだ。明治政府の農政官僚たちの 目論見は、見事に成功したというわけだ。  けれど、長続きはしなかった。  新種のリンゴを歓迎したのは、人間だけではな かったからだ。  甘いリンゴは、虫たちの絶好の標的になった。果 実だけでなく、柔らかい新芽や葉にもかなりの害虫 がつく。農家の人々は西洋リンゴの栽培を始めてす ぐに、そのことに気づいていた。けれど、彼らは明 治時代の囗本の農家である。ちょっとした害虫くら いで、慌てるわけもない。農薬なんて知らない時代 のことだ。虫の発生する時期には、夜明け前から せっせと虫取りに励んでリンゴの木を守っていた。  ところがリンゴブームの真っ直中の明治三〇年代 から、いかに勤勉な農家でも克服出来ない状況に陥 る。害虫の発生が尋常ではなくなったのだ。  リンゴワタムシという昆虫がいる。枝の分岐点や 芽の周辺に寄生して、その名の通り綿のような自い 分泌物で身を守る。花芽の形成を妨げたり、果実の 肥大を阻害する厄介な昆虫だ。アメリカから苗木を 輸人したときに囗本に持ち込まれた、いわゆる外来 生物である。天敵がいなかったということもあって、 囗本中のリンゴ畑が片っ端から異常な量のリンゴワ タムシに襲われて壊滅していった。追い打ちをかけ るように、リンゴスガやモモシンクイムシなど様々 な蛾の幼虫が大発生して花や葉を喰い荒らす。さら に腐乱病というリンゴの幹を腐らせる病気が流行し て、リンゴの木を回復不能なまでに痛めつける。明 治時代が終わる頃には、ほとんどの県がリンゴ栽培 を放棄してしまっていた。  青森県だけが諦めなかっだのは、青森では養蚕が 出来なかったからだと言われている。  米で年貢を納めていた時代は過ぎ、農村にも否応 なく貨幣経済が浸透していた。農家には現金収入を 得るための作物が必要だった。明治政府がリンゴ栽 培を積極的に導入した理由もそこにある。欧米列強 に伍して富国強兵を成し遂げるには、税収を増やさ なければならない。税収を増やすには、当時の国民 の大半を占めていた農家の収入を底上げする必要が あったのだ。もちろん明治政府はリンゴ栽培の導入 だけでなく、農家のために他にも様々な現金収入の 道を模索していた。養蚕もそのひとつで、絹製品は 当時の囗本の主力輸出品だっただけに、養蚕農家は 多額の収入を得ることが出来た。養蚕が可能な地方 では、無理をしてリンゴ栽培を続ける必要がなかっ たのだ。  ところが青森では、気温の関係で養蚕が不可能 たった。しかもリンゴは、冷害で稲作が打撃を受け た年でも収穫することが出来た。度重なる冷害に苦 しめられていた青森の農家にとって、リンゴは貧困 から抜け出すための大きな希望たった。リンゴの栽 培を諦めてしまうわけにはいかなかったのだ。  彼らは激発した害虫を、人海戦術で駆除した。何 万匹、何十万匹という虫を一匹ずつ手で取り、棒に 布きれを巻き付けてたたき落とす。害虫の食害を防 ぐために、リンゴの果実ひとつひとつに袋をかける。 藁に苛性ソーダをつけてリンゴの木を一本ずつ洗う。 一反歩のリンゴ畑の手入れに三五人の人手をかけた という話も残っているくらいだ。当時のリンゴの木 は磨き上げられて、床柱のように輝いていたらしい。 それでもリンゴの木が枯れれば、切り倒して、また 新しい苗木を植えた。  けれど、涙ぐましいまでの努力でなんとか持ちこ たえた青森県のリンゴ畑も、明治四〇年代にはモニ リア病と褐斑病というリンゴの病気の相次ぐ蔓延に よって、今度こそ壊滅の危機に瀕することになる。 とりわけ明治四四年の褐斑病の激発ではリンゴの葉 が早い時期に落葉したため、翌年の春先になっても リンゴの花が咲かず二年連続の大不作となった。  害虫の激発は人海戦術で乗り越えられても、病気 に対してはなす術がなかった。病気は手で取るとい うわけにはいかないのだ。もちろん当時の人々も、 木村と同じように、出来る限りのことをした。 馬酔木や生石灰、硫黄、煙草茎、石けん水など、害 虫対策に用いられた手段も試されたけれど、病気の 蔓延を食い止めることは出来なかった。  この絶体絶命の危機を救っだのが、農薬だった。  記録によれば、囗本のリンゴ栽培史上、初めて農 薬が使われたのは明治四四年。褐斑病の流行で、青 森県のリンゴ畑が壊滅的害を受けた年のことだった。  この年、青森県の農業試験場の研究者の指導で、 欧米で使用されていた農薬の散布が行われた。当初 は使用法の問題で、農薬の散布がかえってリンゴの 落葉を早めるなどの被害が出て、あまり普及しな かったのだけれど、大正時代に入る頃までには正し い使用法が確立し、めざましい防除効果を発揮する。  褐斑病で全滅しかけていたリンゴの木が息を吹き 返すのを目の当たりにして、リンゴ農家は先を競っ て農薬を導入するようになる。ストレプトマイシン が結核の特効薬になったように、手の施しようがな かったリンゴの病気を農薬が駆逐したのだ。  病害虫という自然の脅威に対抗する手段を手に入 れ、農家の人々はようやく安定したリンゴの栽培が 出来るようになったのだった。  農薬がなければ、青森県でもリンゴ栽培が終息し てしまっていたに違いない。  この時使われた最初の農薬が、欧米で発明された ボルドー液だった。木村がかつて使っていた農薬で もある。  ボルドー液という農薬の名は、ワインの生産で有 名なフランスのボルドー地方に由来するものだ。 元々はブドウの栽培に用いられた農薬だった。硫酸 銅と生石灰を混合した物質の持つ強力な殺菌作用が、 ブドウの木を病害虫から守ることは一九世紀半ばに は知られていたらしい。その使用が世界的に広まっ たのは、ブドウに隕らず様々な農作物の栽培におい て、病気や害虫の発生が見過ごせないほど大きく なっていたからだ。  果樹栽培の方法が、大きく変化していた。ブドウ、 リンゴ、ミカン、モモ……。なんであれ単一の果樹 が、広大な果樹園に密植される。フランスやイタリ アの地方を旅する楽しみは、たとえば緩やかな斜面 に延々と続くブドウ畑の眺めの美しさであったりす るわけだけれど、それは純粋な自然の美しさとはま た別のものだ。それは、本来ならそこに存在してい たはずの在来の植物や昆虫や動物を根絶やしにした 景色でもある。  文明を享受する一人として、そのことを批判する のは難しい。早い話が、我々がワインを飲むことが 出来るのはその景色のおかげなのだ。リンゴやモモ を食べられるのも、いやもっと言えば、米を食べら れるのも同じことだ。現在この地球には六四億人の 人間が生きている。その人間が食べるものを生産す るということは、そういうことなのだ。  だからといって、自然が人類の事情を斟酌するこ とはない。不自然な環境がどこかに生じれば、それ を元の自然に戻そうとする力が働く。  自然の生態系が保たれている環境では、たとえば 一種類の昆虫の数は、得られる食物の量とそれから その昆虫を捕食する他の生物によって、ある一定の 範囲内に制限される。生態系にはある種のフィード バック機能が備わっているのだ。リンゴ畑では、そ のフィードバックが機能しない。マイクをスピー カーに向けると、マイクの拾ったスピーカーの雑音 が際限なく増幅されてハウリングという現象を起こ す。それとよく似たことが、生態系の内部で起きて しまうのだ。  葉を喰い荒らす虫は、つまり草食動物だ。自然界 において、草食動物は他の動物の餌になる宿命を 負っている。昆虫に隕らず、哺乳類でも魚類でも、 餌となる草食動物は大量の子を産む。肉食動物に喰 われて減る分か見込まれているのだ。ところが、リ ンゴの葉という食料が無尽蔵にある場所では、この 減る分か減らなくなる。草食動物を喰い尽くしたら 滅びるしかない肉食動物は、草食動物ほどたくさん の子を産まない。豊富な食料のおかげで草食動物の 増加がある範囲を超えて増えてしまうと、肉食動物 によるフィードバック機構が働かなくなるのだ。ス ピーカーの音をマイクが拾うという循環で際限なく 音が増幅されていくように、喰われて減るはずの子 が減らないまま次の世代の親になり、世代を重ねる ごとに爆発的に増加していく。リンゴ畑の害虫は一 年の間に数世代を重ねるから、人間の尺度からすれ ば、それこそあっという間に何百倍にも増える。  それがつまりI〇〇年前のリンゴ畑の姿だった。  たかが昆虫である。けれどその光景の恐ろしさは、 筆舌に尽くしがたい。  中国の穀倉地帯では、古代から飛蝗の大発生によ る被害の記録が数限りなく残されている。ある種の バックの幼虫は、生息数が増加して個体群の密度が 増加すると、体型や生理的な特徴までが変化する。 長時間の飛翔に耐えられるように羽と後肢が長く伸 び、集団行動を好む凶暴な個体に変異するのだ。そ の進路にある植物はすべて喰い尽くされる。  いわゆるバックの群生相だが、外見も性質もあま りにも異なっているために、二〇世紀に入るまで普 通のバックとは別の種の昆虫と考えられていた。こ れを古代中国の人々は、飛蝗と呼んだのだ。  日本でも江戸時代にはウンカという昆虫の大発生 によって稲が壊滅し、大飢饉が起きるほどの被害を 受けている。それは大津波や山火事と同じ類の、人 類に何度も襲いかかってきた自然の脅威のひとつな のだ。  リンゴ畑に飛蝗やウンカは発生しないけれど、人 間が栽培する作物の中でもリンゴは圧倒的に病気や 害虫が発生しやすい果樹だった。ボルト上肢やその 後に開発された多種多様の農薬によって、現代人は かろうじてその脅威に対抗しながらリンゴを生産し ているというのが現実なのだ。  その農薬の使用を木村はやめてしまった。  何か起きるかは、火を見るより明らかだ。  そして、その通りのことが起きていた。  病気が蔓延し、害虫が異常発生する。農薬を使わ ない限り、その先に待っているのは、リンゴ畑の壊 滅という結論しかあり得ない。  木村が経験したことは、すでにI〇〇年前の先人 達が経験していたことでもあった。  はっきり言ってしまえば、焼酎やワサビを散布し たくらいで対処出来るなら、誰も苦労はしない。明 治二〇年代から約三〇年間にわたって、全国の何千 人というリンゴ農家や農業技術者が木村と同じ問題 に直面し、同じような工夫を重ね続けていた。何十 年という苦労の末に、ようやく辿り着いた解決方法 が農薬だったのだ。  木村はその結論を、たった一人で覆そうとした。  自分の能力を過信していたのかもしれない。  「地獄への道を駆け足した」という木村の言葉は、 誇張でも何でもない。まさしく木村はその時、最悪 のシナリオを突き進んでいた。  囗本のリンゴ栽培の歴史を逆回しにして、破滅へ の道を突き進んでいたのだ。     10  「まず春先に出て来るのがハマキムシ。それからケ ムシやシャクトリムシが発生する。ケムシつて言つ ても何種類かあるけど、要するにいろんな蛾の幼虫 だな。私の畑で多かっだのは、モンクロシャチホ コつていう蛾の幼虫だった。他にもヒメモンシロド クガの幼虫とかな。赤とか緑とか派手な色をしてい て、見た目は綺麗なんだけどな。これがまた、びっ くりするくらい葉っぱを食べるの。葉が落ちると、 リンゴの木はまた新しい葉を出すと言ったでしょう。 その葉は、枝の先の方に出るわけだ。そうすると虫 たちは葉を食べ尽くしながら、そのまだ新しい葉の ついた枝の先にびっしり集まって来て、満員電車み たいにひしめきあってるわけ。鈴なりっていうのは、 あのことだな。虫の重さで、リンゴの枝がしなって 垂れ下がるんだものな。何千匹、何万匹、何十万匹 いたかわからないよ。とにかく、ものすごい数の害 虫がリンゴの木に取りついていた。異様な光景たっ た。こんなことが実際に起きるのかと、首を傾げた くなるくらいの眺めだった」  害虫など手で取ればいい。  最初は木村もそう思っていた。  けれど、とても手で取りきれるような量ではな かった。  取りきれないからと言って、害虫をそのまま放置 しておくわけにはいかない。少なくとも隣の畑との 境に植えた木の虫は、なんとしても駆除し尽くさな ければならなかった。他人の畑に害虫をやるわけに はいかないのだ。木村と美千子、義父と義母の四人 で、明け方から夕方日が沈むまで、毎日毎日、虫取 りをしていた。  使う道具は、スーパーのビニール袋だけだ。その 取っ手の片方を左手首にかけ、袋の中に片っ端から 虫を落としていく。こうすると、両手が使えるのだ。  一本の木から、ビニール袋三杯分の虫が取れた。 けれどいくら取っても、虫はあとからあとから湧い てきた。何の達成感もない仕事だった。底に穴のあ いたバケツで、池の水をくみ出そうとするようなも のだ。害虫はまったく減る兆しを見せない。そして、 リンゴはまったく花を咲かせなくなった。  もちろんリンゴは一粒も実っていない。どんなに 必死に虫取りをしても、収穫はゼロなのだ。何のだ めに、自分はこんなことをやり続けているのだろう。  そんなことを考えながら、木村は来る囗も来る囗 も虫取りに明け暮れていた。  枯れたリンゴの葉が、地面に落ちて音とも言えな いようなごく小さな音をたてる。  腕にビニール袋を下げ、黙々と虫取りをしながら、 木村はその微かな音を聞いていた。  夏の盛りの暑い囗たった。体中から汗が噴き出し、 額や顎をつたって流れても、両手がふさがっている から拭くことすらできない。瞼をしばたたかせて、 目に入る汗を振り払いながら、木の枝にしがみつく ケムシを一匹ずつつまみ取る。  眩しいほどの太陽の光の下で、周囲の畑のリンゴ の木は、これ見よがしに濃い緑色の葉をたっぷりと 繁らせている。鬱蒼と折り重なるリンゴの葉で、畑 の向こうが見通せないくらいだ。  木村の畑だけが、冬の畑のように寒々としていた。 黄色く萎びた葉が、一枚、また一枚と落ちていく。  カサツ、カサツ、カサツ。  葉が落ちる微かな音が、太鼓を鳴らす音のように 聞こえた。  リンゴ畑にいる間中、木村の耳にはその轟音が鳴 り響いていた。家に帰って床に就いても、その音が 聞こえる気がした。  リンゴが悲鳴を上げているのだと思った。  黒砂糖、胡椒、ニンニク、トウガラシ、醤油、味 噌、塩、牛乳、日本酒、焼酎、米の澱粉、小麦粉、 酢……。  有望と思える食品を片っ端から、農薬のかわりに 散布してその効果を試し続けた。  農薬のかわりになる食品−。  それさえ見つければ、この戦いは終わる。木村は そう考えていた。もちろん、農薬並みの効果のある 食品などありはしないだろう。病気や虫をI〇〇% 防げるとは、木村も思っていなかった。病気の原因 となる菌や害虫が嫌う環境を葉や枝の表面に作って、 リンゴの果実を育てるのに必要なだけの葉を残せれ ばいいのだ。  つまり木村は殺菌剤や殺虫剤ではなく、ある種の 忌避剤を探していた。  たとえばトウガラシのカプサイシンは、人間に とっては料理のスパイスだけれど、本来は植物が昆 虫に葉や果実を喰われないために生産する物質だ。 進化の過程でそういう物質を自ら作り出すように なった植物は少なくない。  あるいは塩分が、菌の活性を抑制するかもしれな い。アルコールや酢に殺菌作用があることも、古く から知られている。  どれかひとつくらいは、効いても良さそうなもん じやないか。  新しい食品を試すたびに、いつもそう思った。  けれど、どれひとつとして、満足な効果は得られ なかった。  大量の枯れ草と鶏糞を集めて、堆肥を作る。その 自然の堆肥を畑に施す。雑草は毎月徹底的に刈り込 む。家族総出で毎日、朝から晩まで虫取りをする。 そして、ニンニクをすり下ろして水に溶いて散布し てみたり、食用酢を希釈して撒いてみたり。来る囗 も来る囗も、リンゴ畑で実験に明け暮れた。  周りのどの農家よりも長い時間リンゴ畑にいて、 どの農家よりも丁寧にリンゴの面倒を見ているのだ。  にもかかわらず、どんなに手抜きをしている農家 より、木村の畑は酷い有様だった。  ほとんどの葉が病気に冒されて変色し、わずかに 残った緑の葉や枝までが害虫に覆い尽くされ、足下 には落葉が降り積もる。  木村の畑は、リンゴ農家の最悪の悪夢そのもの だった。  「そのうち台所にあるものでやってないものは何も なくなって、最後には畑の土までかけました。リン ゴには腐らん病という病気がある。一種の寄生菌が 枝や幹について、そこから腐っていく病気なんだけ ど、この対策に昔から泥を使っていた。寄生された 部分を切り取って、そこに泥を塗って固定しておく と治るわけさ。土の中にいる土壌菌が、腐らん病を 引き起こす寄生菌を抑えるんだと思う。これは使え るんじやないかとな。泥をそのままリンゴの木にか けるわけにはいかないから、畑の土で泥水を作った。 これを一晩置くと、泥が沈殿する。その上澄みを、 布で濾して散布するわけだ。  他のものに比べると、泥水がいちばん効果があっ たかもしれない。わずかではあっだけれど、葉の状 態は良くなっていたからな。でも、それで無農薬栽 培が出来るというほどではなかった。それに、いく ら布で濾しても、目に見えないような細かな砂粒ま では取りきれないから散布器のポンプが壊れるの。 いくつポンプを壊したかわからない。その頃にはも うお金がなくなっていたもんだから、農機具のスク ラップ屋で壊れたポンプを買ってきてな。ひとつI 〇〇円とかだ。それを直して使っていました。ピス トンに傷がついたくらいの故障なら、目の細かいサ ンドペーパーで丁寧に磨いてやると、また使えるよ うになるからな。湘南のチューニングショップでエ ンジンのカムシヤフト磨きをかなりやっていたから、 それくらいは簡単だ。毎晩のようにピストンを磨い ていたこともあった。あははは、農家なんだか、修 理工だかわからないな」  春は残酷な季節でもあった。  雪が解け、日差しが暖かくなると、冬の間は押し 潰されていた心に希望が湧く。  すべての葉を失って枯れ木のようになった本も、 春先になれば新しい葉をつけた。  虫や病気のついていない淡い緑色の葉を見ている と、今年こそはなんとかなるのではないかという気 になる。  あと一年だけ、頑張ってみよう。  その繰り返しで、二年が過ぎ、三年が過ぎた。  年月が経ては経つほど、諦めるのが難しくなった。 ここで諦めたら、今までの苦労がただの無駄になっ てしまう。  「去年よりは葉の状態が良くなっている。今年こそ 上手くいくから」  木村は毎年のように、そう言い続けた。  良くなってなんかいないのだ。  ただ、どうしても前の年の秋の悲惨な状況に比べ てしまうから、新緑の葉が元気に見えるというだけ のことだ。  「家族を洗脳していたようなもんだな」と木村は笑 うけれど、家族というよりも、自分自身を洗脳して いたのかもしれない。 「農薬を使わなければ、ある程度の虫が発生するの は仕方ないと思うんだ。だけど、あれはある程度な んてもんではなかったものな。ほんとにどこからこ んなに虫が湧くのか不思議になるくらいだった。た だ、面白いことに、農薬を使わなくなってから、畑 の様子が年ごとにものすごく変わっていった。害虫 が増えるとか、大きくなるとか、たいていはありか たくない変化ではあったけれどもな。  シャクトリムシなんて、普通はマッチ棒の軸くら いの太さでしょう。それが私の小指の太さくらいに なるんだよ。手でつまむと、指を噛むんだから。ナ メクジが大量に発生したこともあった。台所にいる ような小さなやつじゃないよ。もう半端じゃない大 きさ、一匹がI〇センチくらいはあった。おそらく 山のナメクジだと思うんだけどな、これがリンゴの 木の囗の当たらない側にびっしりとついているの。 朝、畑に行くと、樹皮になめくじの這った跡が青白 く、ぬらぬらと光っているんだよ。いったい何を食 べていたんだべな。あまりにも大量なもんだから、 リンゴの木に害をなしたらいけないと思って片っ端 から取っていたけれども、もしかしたら害虫の卵を 食べていたのかもわからない。あの頃は、とてもそ んなこと考える余裕はなかったけれどもな」  パンドラの箱ではないけれど、そういう変化の中 に、ほんのわずかの希望が混じっていた。無農薬に して二年目に、(ダニが姿を消した。  (ダニは果樹の葉を食害する、ダニの一種だ。普 通は殺ダニ剤という殺虫剤で駆除するのだが、(ダ ニにも何種類かあって、その種類によって効き目の ある薬剤が違う。おまけに薬剤への抵抗性が高いか ら、同じ殺ダニ剤を使い続けていると効かなくなっ てしまう。  殺ダニ剤を使っていても、一日リンゴの手入れを して家に帰ると、帽子や服の背中に小さな芥子粒ほ どの(ダニが点々とついている。リンゴ栽培にはつ きものと言ってもいいくらいで、駆除がきわめて難 しい生き物なのだ。  その(ダニが、なぜかI匹もいなくなった。 「一滴の殺ダニ剤も使っていないのに、なぜそうい うことが起きるのか。(ダニがいなくなったんだか ら、(マキムシもシャクトリムシもそのうちいなく なるかもしれない。根拠は何もないんだけど、そう 信じようとした。(ダニがいなくなったからと言っ て、リンゴが実るわけではないんだけれどもな。そ れが、微かな希望になりました」     H  微かな希望は、微かな希望のままたった。  すべてのリンゴ畑を無農薬にしてから三年が過ぎ、 四年目になっても、リンゴの花はまったく咲く気配 を見せなかった。  貯えは底をつき、義父の郵便局の退職金も使い果 たした。木村には小学四年生の長女を筆頭に、三人 の娘がいた。妻の両親とあわせて、一家七人が貧乏 のどん底にいた。  自慢のイギリス製のトラクターはもちろん、自家 用車も、リンゴの輸送用に使っていたニトントラツ クも売った。税金の滞納が続いて、リンゴの木に赤 紙が貼られたことも一度や二度ではなかった。その たびに必死で金をかき集めて、競売をなんとか取り 下げてもらった。銀行に金を借り、それでも足りな くなって消費者金融にも手を出し、実家の両親だけ でなく、親戚からも借金をした。  電話はとっくの昔に通じなくなっていたし、どう しても必要な電気や水道代を払うために金策をしな ければならないほどだった。健康保険料が払えなく て、健康保険証も取り上げられていた。子供のPT A会費も払えなかったのだ。娘たちの服も、学用品 すらもまともに買ってやれなかった。穴のあいた靴 下にツギをあて、鉛筆がチビて持てなくなると、妻 が二本をセロテープでつないで使わせた。消しゴム は一つを三つに切って渡した。  それほど遠い昔の話ではない。  一九八〇年代の初め、エズラーヴォーゲルの 『ジャパンーアズーナンバーワン』がベストセラー になり、日本経済が世界の模範とされた時代のこと だ。  リンゴの価格も高値で安定していたから、岩木町 の人々の暮らしも豊かたった。子供たちを東京の大 学や専門学校に進学させるのも珍しくはなくなって いたし、その子供たちが卒業旅行で外国へ出かけて も誰も驚かなくなっていた。  終戦直後のような木村家の耐乏生活は、人々の目 には悲惨と言うより、むしろ奇異なものに映ってい たかもしれない。  そういう生活を続けながらも、木村が花を咲かせ ないリンゴの木と向かい合い続けられた理由がもう ひとつあった。  彼は水田で米を作り、リンゴ畑の隙間に野菜を植 えた。すべて無農薬栽培だった。  キュウリ、トマト、ジャガイモ、ピーマン、ナス、 カボチャ、メロン、大根……。無農薬で作れない作 物はなかった。米にしても、農薬も肥料も使わずに 一反あたり九俵余りの収穫を上げられるまでになっ た。農薬や肥料を使った一般の水田でも、一反あた りの収穫はI〇俵程度だから、ほとんど遜色はない。  リンゴ以外の作物なら、無農薬栽培はそれほど難 しくなかったのだ。  「まあそうは言っても、米は無農薬でやった最初の 年は一反で四俵しか収穫出来なかったんだけどな。 これじゃとてもしやないけど大変だと思いました。 無農薬にしたら、確かにいい米は出来た。食べても 旨い。だけど、こんなに収穫が少なかったら生活が 出来ない。生活が成り立だなきや、自分だけのロマ ンで終わってしまう。リンゴも駄目、米も駄目では、 世間から馬鹿にされるだけだものな。それで、実験 を始めたわけ。米の栽培も一年にI回しか試せない から、お酒のワンカップあるでしょう、あの空き瓶 を酒屋からたくさん貰って来て実験したのな。ワン カップを二〇〇個くらい並べて、それぞれに田圃の 土を入れてな、土をどう耕して、どういう代掻きを して、どんな生育条件を与えれば、稲の育ちが良く なるかを比較したわけだ」  その。実験”には、稲ではなく同じイネ科のヒエ の種を使った。稲の生長よりも、雑草の生長速度の 方が遥かに早いからだ。ガラスのコップの中でヒエ を栽培すると、一年の間に何度も実験を繰り返すこ とができた。  それぞれ生育条件を変えて育てると、二〇〇個の ワンカップに植えたヒエの生長に、極端な差がつい た。常識的には、土を丁寧に耕し、泥がとろとろの お汁粉のようになるまで代掻きをするのが理想的と 言われている。ところが実験してみると、いちばん ヒエの発育が良かったのは、その正反対の耕し方を したカップだった。  土の塊が残るくらい粗く耕して、代掻きも適当に 二、三回掻き混ぜた方がヒエはよく育ったのだ。自 分が今まで信じてきたことの正反対の結果たった。 一回の実験では偶然ということもあるから、同じ実 験を三回繰り返した。何回やっても結果は同じだっ た。  次の年から木村は田の耕し方を変えた。普通では 考えられないほど粗く耕したのだ。  「何やってるんだって、周りの農家に笑われたよ。 耕してるのに、田んぼの中には大きな上の瑰がいっ ぱいあるわけだからな。その田圃に水を入れて、代 掻きをしました。これも実験結果の通りに、軽く表 面を混ぜるだけだからすぐに終わってしまった。と ころがそこに田植えをしたら、びっくりするくらい 稲が育つだの。  田植えしてすぐは、普通の田圃に比べると生育が 遅いような感じなんだけど、七月の半ばになると急 激に稲が伸び出してな。稲を引き抜いたら、根っこ がびっしりと生えていた。根の数も、根の張り具合 も、普通に耕した田の稲とは比べものにならないほ ど立派だった。おそらく、粗く耕した方が根が張り やすいんじやないかな。田植えの直後は、その根を 張らせるのに精一杯で地上部があまり伸びないんだ と思う。そのかわり、地下の根が十分に生長した後 は、普通以上に地上部の葉や穂が生長するというわ けだ。あの頃はコンバインがなかったもんだから。 一条刈りをしていたんだけど、稲の一束がとても手 では持ちきれないくらいたっぷりあったな。収穫は 一反あたり七俵とちょっと。前年に比べれば倍近く の収穫だな。同じやり方で、その次の年は九・二俵 収穫出来ました」  ワンカップの実験を続けているうちに、木村は別 のことも発見していた。ヒエの種を播いて一週間ほ どして、ヒエが芽を出したか出さないかくらいの頃、 何気なく割り箸でカップの中をつついてしまったこ とがあった。そのカップからは、ついにヒエが芽を 出さなかった。割り箸がヒエの芽を壊してしまった からに違いない。  そう考えて、木村はユニークな除草法を思いつく。 田植えを終えて一週間後の苗が落ち着いた頃合いに、 苗の間にタイヤチェーンを引きずって歩くのだ。こ れをI週間おきに三回から四回繰り返すだけで、水 田には雑草がほとんど生えなくなった。除草剤を散 布しなければ、田の草取りという重労働が待ってい る。それが無農薬栽培を志す農家のひとつの壁に なっていたのだが、チェーンを引きずって歩くとい う簡単な作業で、その壁が取り除けるのだ。高齢者 の農家でも、この方法なら無理なく除草剤の使用が やめられるはずだ。  無農薬栽培は手間もかかるし、高度な農業技術を 必要とする難しいものだと世間では信じられている。 けれど実際に取り組んでみれば、それはどのことは なかった。確かに農薬を使った慣行農業から無農薬 栽培に移行した直後は問題が起きることもある。け れど、落ち着いて作物を観察していると、必ず問題 を解決する方法が見つかった。  それだけではない。  木村はリンゴ畑に、西洋ナシやプラムなどの果樹 も植えていた。どの果樹にも農薬は散布していな かったが、リンゴの木ほどは害虫や病気の被害が出 なかった。西洋ナシもプラムも、毎年美味しい果実 をつけた。  ほかの作物でこんなに簡単に出来るのだ。リンゴ だけが不可能なはずはない。  今は害虫と病気に冒されているけれど、自分なら いつかきっとこの問題を解決して、リンゴの木に実 をならせる方法を見つけられるはずだ。  それが、いつしか木村の信念になっていた。  ある意味では、その信念が木村の最大の障害だっ た。     12  四年の歳月が過ぎ、五年目に入ってもリンゴ畑の 状態は悪化するばかりだった。  リンゴの実らないリンゴ畑を、木村夫婦と両親の 四人が五年にわたって毎日、朝から晩まで世話し続 けたことになる。周囲から見れば、狂気の沙汰と言 うしかなかった。  陽気で真面目な性格だから、木村にはたくさんの 友人がいた。彼らも最初の頃は、木村のことを心配 していた。同じ農家であるだけに、木村の畑の姿が 尋常でないことはよくわかる。どう考えても、木村 は間違った方向に突き進んでいた。  「無農薬では無理だってことは、もうわかっただろ う。いい加減に目を覚ませ」  「少しは奥さんや、子供たちのことを考えたらどう だ」  激しい口調で忠告するのも、友を思えばこそのこ とだった。  けれど誰がどれだけ親身になって話をしようとも、 木村は頑なに首を横に振るだけだった。強い信念が あったと言えば格好いいが、何の結果も出せないの にその信念にしがみつき、家族を貧窮の底に追い込 んでいるのだ。他人から見れば意固地でしかなかっ た。心からの忠告に耳を貸さない木村に腹を立て、 友人たちは愛想を尽かした。忠告をしているつもり が、言い合いになり、それが激しい喧嘩になること もあった。友人たちは一人去り、二人去り、いつし か木村の味方をする農家は誰もいなくなった。  道で誰かと行き会って頭を下げても、気づかぬふ りをされることが多くなった。  けれどそれは、相手だけのせいではない。おそら く当時の木村は、険しい顔をしていたに違いない。 いつもうつむき加減で、苦いものでも呑み込んだよ うに、眉間に皺を寄せていたことだろう。そういう 人間が向こうから歩いて来たら、誰だって目を背け たくなる。  「カマドケシ」という、津軽弁の最悪の渾名で、木 村が呼ばれるようになったのもその頃のことだ。  理由はさておいても、自業自得であることには違 いない。家族を守るべき家長が、一家を貧窮に追い 込んでいるのは事実なのだ。木村には言い返す言葉 もなかった。  「あいつは頭がおかしくなった」  「バカが感染るから、近づくな」  みんなに陰口を叩かれているのがわかっていたか ら、木村も自然と人目を避けて暮らすようになった。 道で誰にも出会わないように、夜が明ける前に畑に 出かけ、囗が暮れて畑から人影がなくなっだのを見 届けてから家路についた。  木村の家から岩木山山麓のリンゴ畑までは、歩け ば二時間近くかかる。クルマもトラクターも売り 払っていた。エンジンのついた乗り物といえば、ス クラップ屋から1000円で買った原付バイクと、 二〇〇〇円で買ったトラクターがあるだけだった。 壊れて動かなくなっていたのを買って、例によって エンジンを修理して使っていたのだ。そのポンコツ の原付バイクとトラクターは、妻と年老いた両親に 使わせていた。リンゴ畑まで往復四時間の暗い道の りを、木村は毎日のように歩いて通った。  それでも人々の冷たい視線を浴びるよりは、ずっ と楽たった。誰も住んでいない無人島へでも行って、 リンゴ栽培に取り組めたらどんなに楽だろう。人目 を気にすることに比べれば、病気や害虫に悩まされ ることなど何でもないとすら思った。  狭いコミュニティでの話だ。木村のやっているこ とと、その結果としての一家の困窮について誰一人 知らぬ者はなかった。村八分という言葉こそ使われ なかっだけれど、この時期の木村の家はそれに近い 扱いを受けていた。近所の人々はもちろんのこと、 親戚からの慶弔の誘いまでが絶えていた。  それも、農家としての気持ちを考えれば、仕方の ないことではあった。  何らかの理由で手入れが放棄されたリンゴ畑を放 置圉と呼ぶ。「あそこは放置圉だ」と噂するとき、 リンゴ農家の人々は声をひそめる。その声には、何 か不道徳なことをした人を非難する響きが込められ ている。放置された畑は、病気や害虫の発生源にな りかねないからだ。リンゴの木の手入れを怠けるこ とは、ある種の悪徳なのだ。  青森県には県の条例があって、病害虫対策を怠る リンゴ畑の持ち主には反則金が科せられることに なっていた。五年間も農薬を使っていない木村の畑 は、ただの放置圉よりも荒れ果てていたけれど、さ すがに木村が条例違反だとは誰にも言えなかった。 毎日、朝から晩まで畑にいて虫取りをしているのだ。 効き目があるとはまったく思えないが、焼酎だの酢 だのを頻繁にリンゴの木に散布してもいる。毎月一 回は草刈りをしているから、畑の地面に雑草は生え ていない。  病害虫対策を怠っているわけではないのだ。ただ、 それが効いていないというだけのことだ。けれど、 それが何よりの問題だった。条例違反にはならない がゆえに、なおさら始末が悪い。法的には文句のつ けようがないからだ。  どれだけ農薬を使っても、リンゴ栽培は病気や害 虫の被害と無縁ではない。農薬そのものが進歩し、 その使用が徹底している現在でも、病気の流行や害 虫の発生に農家は怯えている。病害虫を根絶するた めの地域をあげての集団防除の呼びかけは、農薬の 使用が一般化して以来、今に至るまで毎年のように 行われている。木村のやっていることは、そういう リンゴ農家の努力に背を向ける行為と見なされた。  それが、果樹を無農薬で栽培することのもうひと つの難しさでもある。農薬を使わないということが、 地域のコミュニティの中で、周囲との軋轢を生んで しまうのだ。  無農薬でリンゴを栽培することは、木村にとって は夢でも、他の農家には狂気の沙汰の空想でしかな いのだ。他の農家からすれば、木村は身勝手な幻想 に取り憑かれ、自分の畑を病気と害虫の巣窟にする                     丶4j だけでなく、周囲のリンゴ畑をも危険に哂している ということになる。リンゴ畑を放置するのは、一家 の働き手が倒れたとか、経営に失敗したとか、たい ていはそれなりの事情というものがある。木村は、 完全な確信犯なのだ。同情する余地のない、危険人 物だ。陰口ならまだましな方で、木村に憎しみに似 た感情を抱く人々が現れても不思議はなかった。  それはごく普通の人間の、ごく当たり前の反応だ と思う。他でもない、木村自身も揺れ動いていたの だ。他人の前では強情な彼も、一人になると自問自 答を繰り返していた。いや、それは自問自答などと いう生易しいものではなかった。     13  妻の美千子は、夜中に布団を抜け出す木村の姿を 見るようになった。夢遊病にでもかかったように玄 関を降り、庭先にある納屋に入っていく。がらんと した納屋には、収穫したリンゴを詰める木製の箱が 几帳面に積み上げられているだけだ。箱はもう何年 も使っていない。こっそり様子をうかがうと、夫は そのリンゴ箱の上にじっと座って目を閉じていた。  夜が明けるまで、そのまま座り込んでいることも しばしばたった。何をしているかはわからないけれ ど、夫がどうしようもないくらい苦しんでいること だけはよくわかった。  この何年間も取り組んでいることを、夫にやめさ せたいとは思わなかった。一度言い出したら絶対に 聞かない人なのだ。誰がなんと言おうが、やめるわ けがない。本人がやめない限りは、ついていくしか ないと思っていた。  一家の団欒などというものはなくなっていた。夫 の神経は張り詰めたままだ。家族と一緒にいる時も、 心はそこにない。いつも何か別のことを考えていて、 食事中もほとんど喋らなかった。口を開くのは、誰 かを叱りつけるときくらいのものだ。何か夫の気に 障るのか誰にもわからない。なるべく剌激しないよ うに、腫れ物に触るように接するしかなかった。幼 い娘たちも、父親に甘えようとはしなかった。  家族全員が、夫の顔色をうかがって暮らしていた。  まだ自家用車を売る前の話だけれど、夫が思い 立って家族旅行に出かけたことが一度だけある。娘 たちは少しも楽しそうではなかった。いつ爆発する かわからない父親と家族旅行などしても、どんな結 末になるかわかりきっていたからだ。  昼食の時間になって、夫は観光地の蕎麦屋にクル マを停めた。メニューを渡されて好きなものを頼み なさいと言われても、外食など経験したことのない 娘たちは戸惑うばかりだった。長女がようやく見慣 れた献立を見つけて、店員に注文した。  「カレーライスください」  その匸冐で、夫の機嫌が悪くなった。  「蕎麦屋でそんなものを注文するやっかあるか」  娘は一瞬、ポカンとしていた。なぜ怒られるのか わからなかった。夫としてはせっかくの蕎麦屋なの だから、おいしい蕎麦を食べさせたかったのかもし れない。けれどそれならそうと言葉できちんと説明 しなければ子供には伝わらない。頭ごなしに叱られ たら、子供はわけもわからずただ傷つくだけだ。  そんなことを考える余裕すら、夫は失ってしまっ ていた。リンゴの木のことを考えるだけで精一杯な のだ。  その後はさんざんで、確かあの囗は、昼食を食べ ただけですぐに家に帰ったはずだ。帰りの道中の記 憶がまったくない。おそらく全員が無言でクルマに 乗っていたのだろう。  そういう夫を恨んだり、不満を持ったことは一度 もない。  夫の混乱が、家族を思うがゆえであることはわ かっていた。  もしたった一人でリンゴの木に向かい合っていた ら、あんなに不機嫌になることはなかったはずだ。 信じられないほど無欲な人なのだ。食べ物がなくて も、服がなくても、自分のことなら何も不満はない し、心を乱されることもない。どんなに困窮しよう と、嬉々として、夢を追っていただけのことだろう。  夫が焦っているのは、家族がいるからだ。  貧乏させて申し訳ないの匸冐もなかっだけれど、 それを誰よりも辛く思っているのは夫たった。娘た ちに新しい服はおろか、学用品も満足に買ってやれ ないこと、自分が娘たちに人並みの幸せを与えられ ないことが、夫の不機嫌の原因たった。  その不機嫌のせいで、家庭の雰囲気は暗くなり、 子供たちは萎縮していた。  本当のことを言えば、子供たちは一家が貧乏して いることなどそれほど苦にしていないのだ。学校で 惨めな思いをすることなどよりも、父親のどうしよ うもない不機嫌が彼女たちの心に落とす影の方が、 ずっと大きくて寒々としていた。お金がなくてもい い。みんなが笑って暮らせたら、それだけで子供た ちは今よりもずっと幸せに暮らせるはずだ。みんな そう思っていたが、木村だけがそういう気持ちに気 づくことができないでいた。  結局のところ、木村の家族に対する罪悪感が、逆 に家族を苦しめていたのだ。  それは悲しいジレンマだけれど、誰にもどうする ことも出来なかった。  ひとつだけ救いがあるとすれば、それでも家族が バラバラになっているわけではないということだ。 リンゴ畑で、夫が珍しく弱音を吐いたことがあった。  「もう諦めた方がいいかな」  本気でそう思っているわけではないことはわかっ ていた。けれど、お父さんも苦しんでいるんだよと いうことを教えてやりたくて、子供たちにその話を すると、長女が思いがけない反応を見せた。  いつもは大人しい彼女が、色をなして怒ったのだ。  「そんなの嫌だ。なんのために、私たちはこんなに 貧乏してるの?」  父親の夢は、いつしか娘の夢になっていた。  そのことを夫に話してはいない。娘が子供なりに 自分を理解していることを知って、それを励みに思 うというような段階は、とっくの昔に通り過ぎてい た。今の夫には、小学生の娘の期待ですら重荷にし かならないはずだ。  夫は追い詰められていた。  無農薬でリンゴを育てる。それは気高い夢では あったけれど、成功か失敗かということで言えば明 らかに失敗だった。もう何年も、花を咲かせていな いのだ。何本かのリンゴの木は、すでに枯れ始めて いる。すべての木が枯れてしまうのも時間の問題だ ろう。  夫にはもはや、それを止める手だては何も残され ていないようだ。最初の頃は、次々に新しい手段を 試していたけれど、近頃は何もかもやり尽くした感 じで、新しいことをほとんどしていない。毎日畑に 通って、虫を取り、泥や酢を散布してはいるか、リ ンゴの木は衰弱するばかりだ。いっそのこと、すべ て諦めてしまえばどんなに楽になることか。  けれど、それが出来るくらいなら、こんなに苦し みはしない。  行き着くところまで行かない限り、夫が諦めるこ とはないだろう。妻としての本能でそれだけははっ きりとわかっていた。  その行き着くところが何処なのか。それを考える のはやめていた。何か恐ろしいことが待っているよ うな気がしたからだ。どれだけ恐ろしくても、そこ へ行かなければならないのなら、考えるのは無駄な ことなのだ。  自分に出来るのは、どこまでも夫についていくこ と。夜更けに寝床を抜け出す夫の後をつけて、こう してそっと見守るくらいのことだった。リンゴ箱に 座り込んで、夫は毎晩のように苦しみ抜いていた。 その苦しむ姿を自分が知っているということすら、 夫に伝えようとは思わなかった。     14  木村は自分の頭がどうにかなってしまっだのでは ないかと思った。  まるで脳味噌が半分に割れているようだった。頭 の中ではもう一人の自分が、「もう諦めろ」と叫ん でいた。  夜眠っていても、その声に叩き起こされる。気が つくと布団から抜け出して、納屋のリンゴ箱に座り 込んでいた。  そうして真っ二つに引き裂かれた心の喧嘩を眺め ていた。  必ず出来ると言う自分と、絶対に出来ないと言う 自分。  どちらが天使の声で、どちらの声が悪魔なのか。  答えを出せないまま、何かにしがみつくようにし て、無農薬を続けてきた。それはもはや、どちらが 正しいとか間違っているとかいう問題でなかった。 自分は意地になっているだけなのではないか。これ は単なる自分の我が儘なのではないか。  無農薬栽培に固執すればするほど、生活は苦しく なり、人々の風当たりは強くなっていった。九俵あ まりの収穫を上げた水田も、借金を返済するために 結局は手放さなければならなくなった。米を自給す る手段を失って、生活はますます困窮した。リンゴ 畑に陸稲を植えたが、得られる収穫はごくわずか たった。米も満足に食べられなくなった。  リンゴ畑で作った野菜を市場で売って、わずかな 現金を手に入れると、それで米を買った。農村地帯 の米屋では、五キロ単位でしか米が買えなかった。 妻の美千子は1000円札を握りしめて、町の自動 販売機へ通った。その機械ならIキロずつ米が買え たからだ。  七人で食べればIキロの米などすぐになくなる。 米は粥にして食い延ばした。  その粥でさえ、木村も美千子もほとんど口にして いなかった。育ち盛りの子供たちに食べさせるため だ。腹を膨らませるために、味噌汁だけは何杯も飲 んだ。もっともリンゴ畑で野菜を作っても売れるも のは売ってしまうから、その味噌汁の具になるのは 市場に出せない傷物くらいだ。それで足りなければ、 畑の雑草を具にした。たいていの雑草は固くて食べ られたものではないけれど、茹でれば食べられる雑 草も中にはあったのだ。  「農作業の出来ない冬場は、東京に出稼ぎに行って ました。前に勤めていた川崎の会社の近くに公園が あって、日雇いの労働者が集まっているのを知って いたから、そこでもしばらく生活をした。宿を借り る金はないから、公園で寝泊まりするのな。会社の 知り合いに顔を見られたくないから、手ぬぐいで頬 かむりしてさ。朝になると、人集めのトラックが来 る。それに乗って、港で荷揚げをしたりするわけだ。 貰ったお金を財布に入れて、枕にして寝ていたんだ けど、朝目が覚めたらそっくりなくなっていたこと もあった。それからはパンツに袋を縫いつけて、そ の中に入れるようにした。パンツはIヵ月も、二ヵ 月もはきっぱなしだよ。風呂も入らないから、髪も 髭も伸び放題でな、春になって青森に帰る頃には、 ひどい臭いだったんでないかな。ダムエ事の現場に 行ったこともあるし、神田で段ボール集めをしたこ ともある。一緒に仕事をしていた人たちは、ゴミを あさって食べ物を探していたな。さすがに私はそれ は出来なかっだけれど、出稼ぎと言っても浮浪者同 然の生活だった。世の中はバブルとか言って騒いで いたけれど、私には何も関係なかったな。そうやっ て必死で働いても、たいした稼ぎにはならなかっ た」  少しでも家計の足しになればと、義父は山でイタ ドリの茎を集めた。  茎を割ると渓流釣りの餌になるイタドリ虫が巣 くっていることがある。ウスジロキノメイガという 蛾の幼虫だ。それを釣具屋が買い取ってくれるのだ。 僅かな金のために、義父はそんな内職までしてくれ ていた。『あんな婿は追い出せ』と言ってくる親戚 たちの盾になって、木村を庇ってくれていたのも義 父だった。娘や孫たちをこんなに追い詰めていると いうのに、義父は木村に一度も無農薬なんか諦めろ と言ったことはなかった。  明け方、畑に出ようとすると、玄関の前に米や味 噌が置かれていることがあった。おそらく実家の母 親が、夜のうちにこっそり届けてくれたのだろう。  実家とはほとんど没交渉だった。木村が実家を訪 ねても、玄関の鍵をかけて居留守を使うようになっ た。農薬散布をやめることに、誰よりも強く反対し ていたのが実家の両親だった。婿にやった息子が、 木村家の生活を滅茶苦茶にしているのだ。木村の家 の人々に申し訳が立だないと、母親は泣いた。父親 は顔を見るたびに意見をしたが、息子は聞く耳を持 だなかった。実家の両親としては、そんな息子との 交わりを絶つしか、誠意の見せようがなかったのだ ろう。それでも息子の身を案じて、こっそり米を運 ぶのが親の情なのだ。  暗い夜道を米と味噌の袋を下げてとぼとぼと歩く 年老いた母親の気持ちを考えると、胸を掻きむしり たくなった。  自分はいったい何をしているのか。何のために、 こんなことを続けているのか。  考えてみればそもそもの最初から、確信などどこ にもなかったのだ。  ただ不確かな予感があっただけだ。  農薬を使わなくても、リンゴを実らせる方法はあ るはずだ。  五年前、このすべてを始めたときには、宵の明星 のように輝いていたその予感も、今では嵐の夜に雲 の隙間から一瞬だけ顔を覗かせる小さな星のように 弱々しかった。いや、それは、見えた気がしただけ で、ほんとうは単なる錯覚なのかもしれない。  その錯覚に、自分だけでなく妻や子供たちまでが 振り回されているのかもしれないと思うと、いても 立ってもいられなくなる。  家族七人を小舟に乗せて、太平洋の真ん中に乗り 出してしまったようなものだ。みんなは自分を信じ てついて来てくれているのに、自分にはもはやどの 方向へ進路を取ればいいかもわからない。陸の影は どこにも見えなかった。  思いつく限りすべてのことは試してみたのだ。け れど、何ひとついい結果は得られなかった。そして、 今はもう何も思いつかなかった。  万策尽きたとはこのことだ。  尻の底から、痺れるような焦りが湧き上かってく る。  何かをしなくてはいけないと焦るのだが、何をし たらいいかわからない。  いや、何をしたって駄目なのだ。  リンゴ箱の上に座り込んでどれだけ考え込んだと ころで、そこから抜け出す道が見つかるわけもない ことはよくわかっていた。  答えは、すでに出ている。  自分はリンゴの無農薬栽培に失敗した。  リンゴの無農薬栽培は不可能なのだ。  何よりの証拠に、リンゴの木は枯れようとしてい る。  一刻も早く、農薬を使ってやるべきなのだ。  理性はそう告げているというのに、木村の中の何 者かが頑強にそれを拒んでいた。  一筋の希望が見えたわけでもない。宣]つ暗闇で孤 立して、周囲を絶望的な高さの壁に囲まれているよ うなものだ。  五年もの歳月をかけて、完全な袋小路にはまり込 んでしまったのだ。  すべてを諦めて、農薬を使う。それがたったひと つの出口であることは、誰に言われなくても、木村 自身がいちばんよく知っていた。  にもかかわらず、その出口を選択する気持ちには どうしてもなれなかった。  すべての夢や希望が完全に絶たれた今になっても、 諦められないとは、いったいどういうことだろう。 なぜ自分は諦めることが出来ないのか。  空か白むまでリンゴ箱に座って、考えに考え抜い ても答えは出なかった。  答えのない問題の答えを考え抜くこと。たとえば 臨済宗の修行僧にとって、それは雑念に囚われず心 胆を練るための、重要な修行のひとつだ。彼らはそ れを公案と呼ぶ。  リンゴは木村の公案だった。  何年もの間、木村はリンゴの木の前で座禅を組ん でいたようなものだ。  もっとも、たとえそれで悟りを開いたとしても、 リンゴが実らなければ木村にとっては何も意味はな い。そういう意味では、木村は禅僧よりも厳しい修 行をしていたと言えるのかもしれない。  そのうち、幻覚まで見るようになった。  リンゴの木の手入れをするための脚立がある。枝 の高いところにいる害虫取りをしながらその脚立に 座っていても、つい考え事をしてしまう。考え事を しながら脚立の頂上から見下ろすと、地面がやけに 遠くに見える。まるで断崖絶壁の縁に腰をかけてい るようだと思って見ていると、いつの間にか地面が ぽっくりと割れて深い亀裂が出来ていた。幻だとわ かっていても、亀裂から目が離せない。  それは地球の中心にまで届きそうな、深い大地の 裂け目だった。その裂け目の底に、どこまでも落ち ていく自分の姿が見えた。  恐ろしくはなかった。海の底に潜って日本海溝と いうものを覗いたら、こんな風に見えるのだろうと 思った。我に返って周囲を見回すと、降りそそぐ太 陽の光の下に、病気と害虫に喰い荒らされたリンゴ 畑が広かっていた。  現実の景色の方が、遥かに絶望的たった。     15  すべてのリンゴ畑を無農薬にしてから六年目、一 九八五年の春が過ぎ、季節は夏を迎えようとしてい た。木村は相変わらず、夜明け前から夕方日が暮れ るまで畑にいた。  妻たちが畑に来ている間は、木村の行動はいつも と変わりがない。スーパーの袋を手首に下げて黙々 と虫取りをするか、あるいは酢の散布をしている。  この頃には、リンゴの木に散布するのはほとんど 酢ということになっていた。  様々な食品を試した結果、少なくとも何らかの効 果がありそうなのが酢だった。黒星病という、リン ゴの果実や葉を冒す病気がある。正体はある種のカ ビだ。黒い綿毛のようなそのカビのついた葉を一枚 取って酢をかける。まだ多少の余裕があった頃、子 供に買ってやった学習雑誌の付録についていた玩具 の顕微鏡で観察していると、酢に負けてそのカビの 成長が止まることがあったのだ。  とは言え、実際に畑に散布した結果ははかばかし くなかった。水で三〇〇倍とか五〇〇倍に薄めて散 布するのだが、濃度が高いとリンゴの葉の方が先に 酢にやられて変色してしまう。濃度を柢くして使う しかなかったが、それでは効き目がほとんどなかっ たのだ。しかも肝心の斑点落葉病は相変わらず猛威 をふるっていて、効いているのかどうかすらよくわ からない。だから酢を散布するのも、ほとんど気休 めでしかなかった。  その酢を買う金にもこと欠くと、クエン酸を使っ た。ブドウジュースを作っている工場へ行けば、夕 ダで分けて貰えたからだ。  酢でも上手くいかないのだ。苦労してクエン酸を 貰って来て、水に溶かして散布してもリンゴの木は 弱っていくだけだった。気休めと言うより、何も散 布しないでいることに耐えられなかったと言った方 が、真相に近いかもしれない。  それでも、家族と一緒に虫を取ったり、酢を散布 している姿はまだ理解出来る。効果は上がらないに しても、なんとかリンゴの木を守ろうとしているの だ。ところが夕方になって家族が帰った後、畑に一 人残った木村の様子がどう見ても奇妙だった。  畑に忘れ物を取りに帰った妻が、偶然その姿に出 くわしたことがある。  リンゴの木の傍らで、木村は誰かと話していた。  夕闇を透かして見ても、そこには誰もいない。畑 にいるのは、木村一人だ。  けれど、確かに彼は誰かと喋っている。遠くて何 を話しているかはわからないが、風に乗って木村の 声が聞こえて来た。謝っているような、懇願するよ うな調子の声だった。  しばらくすると、まるで挨拶するように木の幹に 手をかけ、隣の木のところへ行く。そこでも、また 同じ調子で話し始める。話しながら、高い枝を見上 げたり、虫の喰った葉をそっと撫でたりしている。  どうやら木村が話している相手は、リンゴの木で あるらしい。まるで普通の人と話すように、ゆっく りと畑を同って一本一本の木と話していた。  夫はついに、気が変になってしまったのだろうか。 そう考えてもおかしくないところだけれど、木村の 姿があまりにも自然なので、その時はどうしてもそ ういう風には思えなかった。リンゴの木と話す農家 が、一人くらいいてもいいとさえ思った。  ひとつだけ気になっだのは、木村がリンゴの木と どんな話をしているかということだった。近寄って 話を聞いてみたいという衝動に駆られたけれど、な んとか思いとどまっだ。  そんなことをしたら、何か大切なものが壊れてし まいそうな気がしたからだ。  「あのときは、リンゴの木にお願いして歩いていた の。リンゴの木はどんどん弱り始めてました。おそ らくは、根っこまで駄目になっていたんでしょう。 ちょっと幹を押しただけで、木がぐらぐら揺れるよ うになった。これじゃ、枯れてしまうと思ってな。 リンゴの木を一本、一本同って、頭を下げて歩いた。 『無理をさせてごめんなさい。花を咲かせなくても、 実をならせなくてもいいから、どうか枯れないで ちょうだい』と、リンゴの木に話しかけていました。 何をしたらいいのか、もうわからないんだよ。家族 にそんなことは言えないから、今まで通り畑の作業 は続けていだけどな。ほんとうは何にも出来ること がなくなって、あとはもうリンゴの木にお願いする しかなくなったわけだ。周りの畑の人が見たら、木 村はとうとう頭までおかしくなったと思っただろう な。だけどな、今にして考えてみれば、あの頃の私 がいちばん純粋であったと思う」      16  今でも木村はリンゴ畑にいるとき、リンゴの木に 声をかける。取材をしていても「いや私じゃなくて、 リンゴの本が頑張ったんです」というようなことを よく言う。それが謙遜しているというより、後ろで 聞いているリンゴの本を励ましているような調子な のだ。 「よく頑張ったなあ」 「すごい、すごい」  妙なことを言うようだけれど、笑みを浮かべ、目 を細めてリンゴの木に話しかける木村の姿を見てい ると、本当に心が通じているんじやないかという気 がしてくる。  そう言えば、風もないのに枝が揺れ、葉がさらさ らと鳴っているではないか。  危ない、危ないと思いながら、目を逸らす。もち ろん、それは気のせいなのだ。  ただ、ひとつだけ、間違いなく本当だと思えるこ とがある。  それは、彼が本気でリンゴの木と話しているとい うことだ。  自分の力ではどうにもならないことを悟ったとき、 彼は初めて本当の意味でリンゴの木に向かい合うこ とが出来たのだと思う。  木村がリンゴの木に声をかけるのは、心からリン ゴの木に感謝しているからだ。相手が聞いているか どうかは問題ではない。リンゴの木は、リンゴとい う果実を生産する機械ではない。リンゴの木もまた、 この世に生を受けたひとつの命なのだ。当たり前の ことのようだけれど、心からそうだと思えることと はまた別の話だ。彼はそのことを誰よりもよく知っ ている。だからリンゴに声をかける。木村は人とい う生き物として、リンゴという生き物と向かい合っ ている。  綺麗事ではなく、数限りない失敗と、際限のない 徒労を重ねた末に、ようやくそういうものが見える 場所に辿り着いたのだ。  そして荒れ果てた畑を見回し、彼は愕然としたの だ。自分に何かが出来ると思っていたときには、見 えていなかったことがはっきりと見えた。木村の四 つの畑には、八〇〇本のリンゴの木があった。その 八〇〇本のリンゴの木が飢えて、死にかけていた。  自分はいったい何ということをしてしまったのだ ろう。そう思っても、彼に出来るのはリンゴの木に 頭を下げることだけだった。果実なんかもう実らせ なくてもいいから、とにかく枯れないでくれ、生き てくれと頼むことしか出来なかった。  経験や知識ではなく、木村は自分の生身の心だけ でリンゴと向かい合っていた。  それを木村は、あの頃がいちばん純粋だったと 言ったのだろう。  その囗から、彼にはリンゴの声が聞こえるように なった。  葉の一枚一枚、枝の一本一本が、リンゴの声なの だ。  初夏の青々とした葉にリンゴの生きる喜びを聞き、 秋の果実のずっしりとした重みに感謝の言葉を聞く。 その声に応えて、リンゴに声をかけるだけのことだ。 木村は今もそういう風にして、リンゴと話をしてい る。  木村が過ごした苦労の年月は、結局のところ自分 の心でリンゴの木と向かい合えるようになるために 必要な時間だったのかもしれない。  木村が「バカになればいい」と言っだのは、その ことだ。  人が生きていくために、経験や知識は欠かせない。 何かをなすためには、経験や知識を積み重ねる必要 がある。だから経験や知識のない人を、世の中では バカと言う。けれど人が真に新しい何かに挑むとき、 最大の壁になるのはしばしばその経験や知識なのだ。  木村はひとつ失敗をするたびに、ひとつの常識を 捨てた。一〇〇も1000もの失敗を重ねて、よう やく自分が経験や知識など何の役にも立だない世界 に挑んでいることを知った。そうして初めて、無垢 の心でリンゴの木を眺めることが出来るようになっ たのだ。  そういう意味で、彼の達した心境はひとつのゴー ルではあった。  けれど、そこに到達したからと言って、何かが起 きるというわけではない。  リンゴの木と話したからと言って、奇跡が起きる はずもない。  彼が生きているのは、現実の世界なのだ。  一人の農民として、植物を育てて糧を得る人間と して、木村はそのことを身に染みて理解していた。 自然は摂理によって動いているのだ。人の祈りや思 いで、その摂理が動かされることはない。  そういう現実の中で、木村は何かをしなければな らなかった。  自分の知識や経験が何の役にも立だないことはわ かった。自分もリンゴの木も、この世に生を受けた ひとつの命だということを知り、リンゴの木のあり のままの姿を眺められるようになった。けれど、そ のありのままの姿とは、何も出来ない自分と、弱り きって死にかけているリンゴの姿だった。  立ち止まっているわけにはいかない。どんな方向 であれ、足を踏み出さなければならなかった。そし て、木村はとんでもない方向へとその一歩を踏み出 してしまう。  自分の無力を知った彼の、それは当然といえば当 然の結論ではあっだのだが、不思議なことに、それ は神話のひとつの形式に奇妙なくらい符合していた。  死と再生の神話である。  リンゴの木と同じように、木村も死にかけていた のだ。  そう考えれば、それも彼が辿らなければならない 道だったのかもしれない。     17  一九八五年の夏の盛り、七月三一日の話だ。  岩木山山麓に広がる、一面のリンゴ畑に夕暮れが 訪れていた。  どの畑もひっそりとして人影はない。  夏のこの時期、普通のリンゴ畑での作業と言えば、 虫に喰われたリンゴの実を摘むことと、農薬散布く らいのものだ。その農薬散布も、スプレーヤーのお かげで時間がかからなくなった。大正時代から使わ れている農機具だが、改良が進んで一頃流行った スーパーカーのようにスマートになった。性能も飛 躍的に進歩したから、農薬散布は朝の涼しい時間帯 の二、三時間の作業で終わってしまう。こんな夕方 遅くまで畑にいる必要はまずない。  畑の下草は芝生のように整然と刈り込まれ、手人 れの行き届いた木々の枝には葉が生い繁り、たわわ に実ったリンゴはまだ青いけれど重みでどの枝も大 きくしなっている。この分なら、今年も豊作は間違 いないだろう。  忙しい収穫の季節を目前にして、この日本有数の リンゴ産地は今日も静かな夕暮れを迎えていた。  ただ、一ヵ所だけ無惨な例外があった……。  言うまでもない。  木村の畑である。  リンゴ農家なら誰もが目を背けずにはいられない、 無惨に荒れ果てたその畑の真ん中に木村がポツンと 座り込んでいた。  東麓のこのあたりからだと、岩木山はリンゴの 木々の上にばっかりと浮かんでいるように見える。 他の畑なら繁った葉が邪魔になるところだが、その 畑からはやせ細った枝々を透かして、頂上が赤く染 まった岩木山がやけに大きく見えた。  けれど木村は、その壮大な景色には気づいていな い。さっきからずっと目の前の地面を見つめていた。  いや、その地面だって本当の意味では見ていな かった。  夏の日差しに焼かれた顔には、深い溝のような皺 が刻まれている。まだ三〇歳の半ばを過ぎたばかり の働き盛りだが、ひどい苦痛をじっと我慢している ようなその顔は、まるで老人たった。目の焦点はど こにも合っていない。もう何を見ればいいかさえ、 わからなくなっていたのだ。  彼が自分の無力を悟り、リンゴの木にどれだけ真 剣に頭を下げようが、枯れないでくれと頼もうが、 荒れ果てた畑は荒れ果てたままたった。  この畑だけではない。  彼の四つの畑の八〇〇本のリンゴの木が衰弱して、 枯れかけていた。  何も打つ手が思い浮かばない以上、今はまだ辛う じて生きているこのリンゴたちも、やがて病と虫に 負けて枯れていくしかない。すべてのリンゴの木が 枯れて、すべてが終わりになるだけだ。  自分が今なにをなすべきか、答えはすでに出てい るのだ。  今すぐすべてを諦めて、みんなと同じ栽培方法に 戻るしかないのだ。  けれど……。  そこまで考えたところで、思考はいつも止まって しまう。それはもう、何百回も何千回も考えたこと だ。  太い鉄の鎖につながれてでもいるかのように、そ こから先に一歩も考えが進まない。  自分の力ではどうしても、やり始めてしまったこ とを、ここでやめる踏ん切りがつけられなかった。 木村は自分が思っているよりも遥かに心の深いとこ ろで、その夢と結びついていたのかもしれない。夢 に取り憑かれていた。  どうしてこんなことになったのか。  最初はほんの思いつきだったのだ。  遠くに、高い山が見えた。自分はあの山頂まで行 けるだろうか。ふと、そう思いついて登り始めただ けなのだ。  手に負えないなら、途中で引き返せばいいと思っ ていた。  手に負えないどころではなかった。登れば、登る ほど、山頂は遠くなった。  六年登り続けて、山が自分には高すぎることを思 い知らされただけだった。  ところが、無我夢中で登っているうちに、それが 生き甲斐になっていた。この山を登りきるために、 自分はこの世に生まれて来たのだと思った。  無農薬でリンゴを栽培する。  それが自分の天命なのだ。  歯を食いしばってそのことに打ち込んでいるとき に、雷に打たれたようにはっきりとわかったことが ある。ここで自分が諦めたら、もう誰もそれをやろ うとはしないだろう。自分が諦めるということは、 人類が諦めるということなのだと思った。  木村はいつしかその夢を実現するためだけに生き ていた。  木村の夢は、木村そのものだった。  けれど、その夢は潰えたのだ。  木村秋則に出来ることは、もう何もない。  夕陽は薄れ、空には星が瞬き始めていた。地面を 見つめていた木村は、我に返ったようにあたりを見 回した。物置がわりに畑の入口に置いてある廃車の 荷室に、一束のロープがあった。リンゴ箱を軽ト ラックの荷台にくくりつけるためのロープだ。  そのロープを引っぱり出すと、西の空に微かに 残った光にかざして見た。もう何年も使っていない から、古びて傷んでいた。それに少し細い。三本の 荷造りロープを縄のように編んで、手際よく一本の 太いロープにした。  いつも物思いは堂々巡りに終わるのだが、その囗 は、思考をもう一歩だけ前へ進めることが出来た。  答えの出せなかった問題への、鮮やかな答えを思 いついたのだ。よく考えてみれば、もう何週間も前 からその答えは見つかっていた。  あとは実行に移すだけだ。  木村はロープの仕上がりを確かめると、リンゴ畑 の間の道を登り始めた。  目の前には、岩木山が黒い影になって聳えている。  誰かが見たら、信仰の深い村人が、時季外れのお 山参詣にでも出かけるのかと思ったかもしれない。 津軽地方の農家の間には遠い昔から、五穀豊穣を祈 願して旧暦八月一日の深夜から岩木山に登り、翌朝 のご来光を拝む風習があったのだ。  老人のような険しい顔が、三〇代の男の気楽な表 情を取り戻していた。  誰にも見つからないところまで登って、そこで死 のうと木村は思った。  すべての原因は自分なのだ。  自分が死ねば、このすべてを終わらせることが出 来る。  そんな簡単なことに、なぜ気がつかなかったのだ ろう。  この世に生まれた意味を、自分は果たせなかった。  ならば、これ以上生きる意味はない。  悔しいとか、無念とか、そういう思いはどこにも なかった。  死ぬことを恐いとも思わなかった。  この何年間も背負い続けた、自分には重すぎる荷 物を下ろせるという解放感があるだけだった。  やれることは、すべてやったのだ。  これ以上すべきことはもう何もない。  生きていても、家族に迷惑をかけ続けるだけだろ う。自分かいなくなれば、みんな今よりは幸せにな れるに違いない。無責任きわまりない考え方だけれ ど、どうしても自分が死ぬという選択が悪いことと は思えなかった。  どれくらい登っただろう。足元に影が出来ている のに気がついて振り向くと、東の空に巨大な月が 昇っていた。  見事な満月だった。こんな月を見るのは久しぶり だ。  眼下には、弘前の夜景が広がっている。  なんて綺麗な夜だと思った。  月や街の灯だけでなく、夏の夜空も、暗い山の道 も、足元で鳴く虫の音色も、何もかもが美しかった。  世界は自分が思っていたよりも、ずっと美しい場 所だった。  その世界を去る今になって、そんなことに気づく のも皮肉な話だけれど、だからと言って思い直そう という気持ちもなかった。  重荷を捨てたから、この世の美しさがこれだけ はっきり見えるのだ。  今はこの景色を楽しみながら、自分が行くべき場 所へと行き着こう。  ロープを握りしめ、踏み出す足の一歩一歩を慈し むように進んでいった。  その足元で一本の小枝が折れ、音に驚いた鳥が木 立から飛び立った。  もしその鳥が下界を見下ろしていたら、明るい満 月の下、山道を登っていく木村の姿が見えたことだ ろう。  そしてその姿が、小暗い木立の中へと消えるのも  「弘前の夜景が、ずいぶん綺麗だったな。なんで弘 前ってこんなに綺麗なのかなって思った。七月の三 一囗だから、下界ではちょうどねぶた祭りの前の晩 だ。死のうと思ってるわけだから、もちろん明るい 気持ちではなかったよ。だけど、死ぬと決めたらよ、 苦しいことを全部忘れてしまうのな。生活の苦しさ も、世間の批判も、何もかもな。家族に苦労かけて ることも、あの人にこう言われたとか、この人にこ んなことされたとか。すごく苦痛に思っていたこと が、綺麗さっぱり消えてしまった。いや、ほんとに、 格好いい話ばっかりではないんだよ。どろどろした 気持ちもいっぱいあったんだ。なんだかんだ言って もさ、死んでそこから逃げようとしたわけだからな。 死ななきや夢を諦められなかったと言えば格好いい けどよ。卑怯と言われても仕方がない。家族や周り の人からしたら、ほんとうに自分勝手な男だよな。  ただ、あのときのことを正直に言えば、それで すっかり気持ちが軽くなった。思い残すことなんて 何もない。何日も風呂に入っていなくて、久しぶり に風呂に入っだときのように、さっぱりした気分で 岩木山を登っていったんだ。クマが恐いとも思わな かった。昔はさ、山にもみのりが結構あったでしょ う、今みたいにちょくちょくクマが出ることもな かったんだけどな。ただ、ときどき鳥が驚いて木の 枝を落とすの。その音が、やたらと大きく響いてな。 鳥だとわかっていても、そのたびに心臓が飛び出し そうになった。あれだけは、なんとも恐かったな。 それでも結構、高いところまで登ったよ。途中に渓 流があったから、それも越えてな。二時間くらいは 登ったんでないかな。もうこのあたりでいいかと 思って見回すと、ちょうどいい具合の木が見つかっ た。よし、ここにしようと決めて、持ってきたロー プを枝に投げたんだ」  そのロープの端が指をするりと抜け、勢い余って あらぬ方向へと飛んでいった。  この期になってもへまをする。なんて駄目な男な んだと思いながら、ロープを拾いに山の斜面を降り かけて、木村は異様なものを目にする。  月の光の下に、リンゴの木があった。     18  まるで魔法の木のように、そのリンゴの本は輝い ていた。  山奥のこんな場所に、なぜリンゴの木があるのだ ろう。  夢か幻でも見ているのではないかと思った。  けれど、じっと見つめても、幻は消えない。  葉の一枚一枚が、満月の光に照らされて輝くのま でがはっきりと見えた。  思わず見惚れてしまうほど、美しいリンゴの木 だった。のびのびと枝を伸ばし、そのすべての枝に みっしりと葉を繁らせている。  条件反射のように、誰が農薬を撒いているのだろ うと思った。  あれがリンゴの木である以上、農薬をかけてやら なければあんなに健康な葉をつけていられるはずが ない……。  そこまで考えて、木村は脳天を稲妻に貫かれたよ うな気がした。  そんなわけがない。  もちろんあの木には、一滴の農薬もかかっていな いはずだ。  投げたロープを拾うことも忘れて、走っていた。  もちろん山奥のこんな場所に、リンゴの木がある わけがなかった。  走りながら、木村もそれがリンゴの木ではないこ とに気づいていた。  それでも、心臓の高鳴りは止まらなかった。  それは、ドングリの木だった。  戦時中に陸軍が軍馬の飼育のために切り開いた山 中の土地に、ドングリの実が落ちて育つたらしい。 話に聞いていた軍馬の草刈り場だ。山中の平らな場 所にドングリの木が何本も生えている様子が、リン ゴ畑のように見えたのだ。  リンゴでも、ドングリでもその時の木村には同じ ことだった。  なぜ農薬をかけていないのに、この木はこんなに 葉をつけているのか。  夢中でポケットを探り、マッチの火をつけた。葉 を引き寄せて、火をかざす。思った通り、害虫の姿 はなかった。虫に喰われ、病気で変色した葉がない わけではなかったが、ほとんどの葉が健康そのもの だった。  六年の間、探し続けた答えが目の前にあった。  この椎の木だけではない。  森の木々は、農薬など必要としていないのだ。  今までどうして自分は、そのことを不思議に思わ なかったのだろう。自然の植物が、農薬の助けなど 借りずに育つことを、なぜ不思議に思わなかったの だろう。  山に虫がいないわけではないのだ。さっきから虫 の音は、うるさいほどに鳴り響いている。あたりに は小さな生き物の気配が充ち満ちていた。畑の虫に しても、あの大きなナメクジがそうであったように、 その多くが山や森からやって来るのだ。病気の原因 になるカビや菌も同じことだろう。  それなのに虫や病気が、このドングリの木を喰い 尽くさないのはなぜか。  木村はその理由を、この場所に足を踏み入れた瞬 間に悟っていた。  麓の畑のリンゴの木も、このドングリの木も、同 じ岩木山の空気を吸って、同じ太陽の光を浴びてい る。条件はほとんど変わらない。  ただ、決定的に違うことがひとつあった。雑草が 生え放題で、地面は足が沈むくらいふかふかたった。 上がまったくの別物だったのだ。  青臭い草いきれに包まれながら、木村は無我夢中 で足下の上を掘っていた。上はほろほろと崩れ、い くらでも素手で掘ることが出来た。草を引けば、上 のついた根がそのまま先端まで抜けた。こんなに柔 らかな上に触れたのは初めてだった。  ツンと鼻を刺激する、山の上の匂いがした。  これだ、この土を作ればいい。  直観と言うより、何者かが自分の頭の中でそう囁 いているような気がした。  思わず土を口に含んでいた。鼻にツンと来る独特 の匂いが、口いっぱいに広がった。ある種の剌激臭 なのだが、何とも言えずいい匂いだと思った。  自分は今まで、リンゴの木の見える部分だけ、地 上のことだけを考えていた。目に見えないリンゴの 木の地下のことを考えていなかった。堆肥を与え、 養分を奪われないように雑草を刈ることしかしてこ なかった。葉の状態ばかりが気になって、リンゴの 根のことを忘れていたのだ。  こんな草の中で、ドングリの木はすくすくと育っ ていた。いや、草が生えているからこそ、ドングリ は元気なのではないか。  この柔らかな土は、人が作ったものではない。  この場所に棲む生きとし生けるものすべての合作 なのだ。落葉と枯れた草が何年も積み重なり、それ を虫や微生物が分解して土が出来る。そこに落ちた ドングリや草の種が、根を伸ばしながら、上の深い 部分まで耕していく。土中にも、草や木の表面にも、 無数のカビや菌が存在しているだろう。その中には いい菌も、悪い菌もいるはずだ。  自然の中に、孤立して生きている命はないのだと 思った。ここではすべての命が、他の命と関わり合 い、支え合って生きていた。そんなことわかってい たはずなのに、リンゴを守ろうとするあまり、その いちばん大切なことを忘れていた。  自分は農薬のかわりに、虫や病気を殺してくれる 物質を探していただけのことなのだ。堆肥を施し、 雑草を刈って、リンゴの木を周囲の自然から切り離 して栽培しようとしていた。リンゴの木の命とは何 かということを考えなかった。農薬を使わなくても、 農薬を使っていたのと同じことだ。  病気や虫のせいで、リンゴの木が弱ってしまった のだとばかり思っていた。それさえ排除できれば、 リンゴの木は健康を取り戻すのだと。  そうではない。虫や病気は、むしろ結果なのだ。  リンゴの木が弱っていたから、虫や病気が大発生 したのだ。  ドングリの木だって、害虫や病気の攻撃に哂され ているはずなのだ。それでもこんなに元気なのは、 農薬などなくても、本来の植物は自分の身を守るこ とが出来るからだ。それが自然の姿だ。そういう自 然の強さを失っていたから、リンゴの木はあれほど までに虫や病気に苦しめられたのだ。  自分のなすべきことは、その自然を取り戻してや ることだ。  掘っても掘っても、山の土は柔らかく、そしてほ のかに温かかった。目に見えない、小さな命がここ で生きているのだと思った。  この上を畑に再現すれば、リンゴの木は必ず根を 伸ばす。そして、ドングリの木と同じように元気に なるだろう。  そう思うというのではなく、そうなのだと心の深 い部分で確信していた。  ついに、答えを見つけたのだ。  その答えをもう一度確かめるように、手探りで土 を掘り、土の匂いをかぎ、口に含んで土を味わう。 草を抜き、震える指先で根の柔らかな感触を確かめ る。   T心不乱に上にまみれる木村の姿を、中天の満月 が皓々と照らしていた。     19  「これだ、これだ、これが笞えだとな。あの山中で、 踊り出したい気分であったな。ほんとにバカだから さ、自分が何のために山を登って来たかも忘れて。 ロープのことなんてすっかり忘れてよ、今度は駆け 足で山を下りたわけだ。一刻も早く自分の畑の土の 状態を見て、何をするか考えたかったからよ。下り 坂だからな、一時間ちょっとで麓の畑まで下りたん でねえべか。それでも、夜中近くになっていたな。 あんまり私の帰りが遅いもんで、美千子が子供を連 れて畑まで様子を見に来ていたよ。心配していたん だろうけど、私かあんまり意気揚々としているもん だから、狐につままれたような顔をしていたな」  翌朝、木村は再び山を登っていた。  あのドングリの木の下の土を、もっと詳しく観察 したかったからだ。  太陽の光の下で見るドングリの木は、思ったより も細かった。幹の太さはせいぜい一五センチという ところだろう。けれど、その根は驚くほどしっかり していた。掘っても、掘っても、丈夫な根がどこま でも続いていた。若い木なのに、根は太くて長くて、 しかも細かな毛のような髭根がびっしりと生えてい る。  土が柔らかいのをいいことに、木村はあたりの土 をどんどん掘った。昨晩の自分の印象は間違ってい なかった。土はほんのりと温かく、そしてツンと鼻 を刺激する独特の匂いがした。自分の畑の上とは まったく違っていた。  「やっぱり土が違うんだとな。その土の姿を写そう と思って、紙と鉛筆を持って行ったんだけど、上手 く圉けなくてな。ナイロンの袋に土を掘って背負っ て帰ってきました。あのツンとする匂いが飛ばない ように、口をしっかりと縛ってな。それで、また自 分の畑に帰って、土を掘って比較するわけだ。私の 畑の土は、あの匂いもしないし、やっぱり固かった。 草を抜いても、途中で根がぶちっと切れてしまうく らいだったな。リンゴの根は、惨めなもんだった。 太さも張りもないし、なんだか黒ずんでいる感じで 根の白さがないんだよ。ドングリは雑草だらけの中 で、あれだけの根を張っていた。坊主頭みたいに雑 草を丁寧に刈り込んだ私の畑のリンゴの根っこはこ の有様だ。雑草は敵だってずっと思い込んでいた。 雑草を刈るのはリンゴのためだってな。だけど、雑 草をいくら刈ってもリンゴの木は元気にならない。 というか、雑草を刈っていたから駄目だったのな」  自分にはもう何も出来ることはないと思っていた のが、まるで嘘のようだった。何も出来ないと思っ ていたのは、何も見ていなかったからだ。目に見え る部分ばかりに気を取られて、目に見えないものを 見る努力を忘れていた。  ドングリの木の下で掘った土のツンとする匂いは、 調べてみると、ある種の放線菌によるものだった。 この放線菌が大気中の窒素を固定して、養分として の窒素を土中に貯える働きをしていたのだ。大豆な ど豆類の根に共生する根粒菌が、窒素を固定する放 線菌の一種であることはよく知られている。  窒素、リン酸、カリと言えば、作物の栽培には不 可欠な肥料の三大要素だ。農業の教科書にもそう書 いてある。山の土はそんな教科書のことは何も知ら ない。一グラムの肥料も施さないのに、あれだけの ドングリの木を育てる条件を備えていた。  堆肥など与える必要はないのだ。化学肥料であれ 堆肥であれ、人間が施す栄養分は一時的にしか効か ない。だから毎年施さなければならない。しかもそ うやって育てた自分の畑のリンゴの木は、甘い菓子 を好き放題に与えられた子供のように、必要な養分 を求めて土中に根を張る努力をしなくなっていた。  木村は毎日のように土を掘って観察を続けた。今 や何よりの教科書になったドングリの木の下や、自 分の畑だけでなく、山の中の様々な場所から、山の 麓の荒れ地まで、掘れるところはどこでも掘った。 踏みつけてその上を歩いていただけのときには思い もよらなかっだけれど、畑の上と山の上はなにもか もが違っていた。  そもそも温度からして違っているのだ。この時期 の木村はどこへ出かけるときでも、折れないように 段ボール紙で補強した大きな温度計を持ち歩いてい た。そして土を掘ってば、温度を測った。深く掘っ ても、山の土の温度はほとんど変わらない。表面に 近い場所から、何十センチもの深さまで温度はほぼ 一定たった。ところが畑の土は、一〇センチ掘るだ けで極端に温度が柢くなるのだ。  「実を言うと、雑草のことでは前に親父と言い争っ たことがあるんだ。親父は、雑草を抜くなと言っだ の。例の南方の島で、雑草のあるところで作物が良 く育つという経験をしていたんだな。私はその話が 信じられなかった。南の島と、青森は違うんだとな。 それじゃなくても、リンゴの木は弱ってるわけだ。 雑草なんか生やしていたら、養分を奪われてもっと 弱ってしまうと思ったのさ。だけど、親父の言う通 りだった。雑草が土を耕してくれていたんだな。雑 草は雑草で、役割を果たしていたわけだ。私には親 父に見えていたものが見えなかった。視野がものす ごく狭くなっていたんだな。針の目から、リンゴの 木を覗いていたようなもんだ。木を見て、森を見ず。 私はリンゴの木しか見ていなかったのな。  リンゴの木は、リンゴの木だけで生きているわけ ではない。周りの自然の中で、生かされている生き 物なわけだ。人間もそうなんだよ。人間はそのこと を忘れてしまって、自分独りで生きていると思って いる。そしていつの間にか、自分が栽培している作 物も、そういうもんだと思い込むようになったんだ な。農薬を使うことのいちばんの問題は、ほんとう はそこのところにあるんだよ。  農薬を撒くということは、リンゴの木を周りの自 然から切り離して育てるということなんだ。山の上 が温かいのは、微生物がたくさんいて、活発に活動 しているからだ。だから深く掘っても温度は一定 だった。畑の上がI〇センチ単位で温度が柢くなる のは、土中の微生物の働きが弱っているということ だな。その証拠に、いろんな場所の土を掘って温度 を調べてわかったんだけど、畑でない場所でも、畑 に近いところでは同じだった。深いところほど、温 度が柢くなっている。農薬の影響で、上の中の生態 系が変化してしまったんだろうな。私の畑も同じ だった。おそらく、土中に棲息する微生物の量が、 山の土に比べたらずっと少なかったんだと思う。あ の時で農薬散布をやめてから六年経ってたけど、そ の前はずっと農薬を撒いていたから、生態系が壊れ ていたんだと思うのな。おまけにいつも草刈りをし ていたから、生態系が回復することが出来なかった。 生態系は無数の生き物の活動によって生み出される ものだからな。  それで、とにかくリンゴの木の根を丈夫にするに は、山の土を再現するしかないと思って、雑草を生 やしてみることにしたの。山の柔らかな土、微生物 が豊富で、深く掘っても温度の変わらない土の中で、 根っこは育つんだってわかったからな。畑の草は刈 り込んでしまっていたから、時季外れだったけれど、 雑草のかわりに大豆を播きました。クズ大豆を安く 買ってきてな。何俵播いたかな。どのくらい播いた らいいかわからないから、これでもかっていうくら いたっぷり播いた。そしたらどこで見ていたのか、 山鳩が集まって来てよ。権兵衛が種播きやカラスが ほじくるじやないが、鳩が後をついて来て播いたそ ばから大豆を食べていくわけだ。あはは、笑い話だ よ。一時は、畑に山鳩が巣を作っていたんだから。 今度は山鳩の天国だな」  生長した大豆を抜くと、根に小さな粒がびっしり ついていた。根粒菌の棲み家だ。思った通り、山の 土にいた放線菌と同じ働きをしてくれているに違い ない。  翌年は、春から大豆を播いた。大豆は腰の高さに まで育ち、リンゴ畑がジャングルのようになった。 毎月やっていた草刈りも一切やめてしまったから、 大豆の下には様々な種類の雑草が生え、その草陰で 虫が鳴く。虫を蛙が追い、蛙を狙う蛇が姿を見せる。 野ネズミや、野ウサギまでが走り回っていた。木村 の畑は、にわかに賑やかになった。不思議なことに、 大豆の根粒菌は前の年よりも減っていた。  そして、リンゴの木は少しだけ元気になった。  斑点落葉病も(マキムシも相変わらず猛威をふ るっていたけれど、木村の目にはリンゴの木が長い 闘病を終えて健康を回復しつつあるように見えた。     20  この頃から木村は、アルバイトをするようになる。  畑の状態が好転の兆しを見せたからと言って、木 村家の家計が火の車であることに変わりはない。困 窮の度合いは囗増しにひどくなっていた。働いて現 金を手にしなければどうにもならない局面に追い詰 められていたということもある。けれど、この期に 及んでようやくアルバイトを始めたいちばんの理由 はプライドの問題だ。  リンゴ畑を滅茶苦茶にしておいて、働きに出るの は自ら敗北宣言をするようなものだった。リンゴで 食えないからアルバイトをしているのだと他人に思 われるのが辛かった。  みんなも昔からしていたことだから、都会に出稼 ぎに行くことには何の抵抗もなかっだけれど、家の 近所でアルバイトをする気にはどうしてもなれな かった。周囲の批判や陰口に、木村は自分が思って いるよりも深く傷つけられていたのだろう。誰に何 と言われようと、自分はリンゴ農家だ。リンゴだけ で食べていける。アルバイトなんかするものか。 ずっとそう思い続けていた。  岩木山に登って答えを見つけてから、どういうわ けかそういう妙なプライドのようなものが綺麗さっ ぱり消え去っていた。プライドが他人の目を意識す る気持ちから生まれるとするなら、他人の目がまっ たく気にならなくなったとも言える。  リンゴの木に実をならせるためなら、何でもやれ るという気持ちになったのだ。  岩木山から帰って以来、夜中にリンゴ箱に座り込 むこともなくなった。リンゴを収穫できるようにな るまでには、まだやらなければいけないことは山ほ どあったが、もう何をすべきか悩むことはない。畑 での作業が終われば、夜は寝るだけだった。  その夜の時間に、アルバイトをしようと思った。  地方の町で夜のアルバイトを探すのは簡単ではな い。  最初に勤めたのは弘前のパチンコ屋たった。生真 面目な木村は、生まれてこのかたパチンコ屋に入っ たことがない。パチンコの台を見るのも初めてだっ た。無謀である。  パチンコ屋の店員の第一の仕事は、客のクレーム 対応だ。  玉が釘にひっかかって詰まった、当たりの穴に 人ったのに玉が出てこない、そもそもこの台はなぜ 玉が入らないのか……。クレームはひっきりなしだ。 トラブルをいかに迅速かつ的確に処理し、客の心を なだめられるかがこの商売の要諦で、それはすべて 店員の肩にかかっている。  クレームが正当なものでパチンコ台のトラブルが 原因なら、そのトラブルを速やかに解決しつつ、店 が損をしない範囲でさりげなく客の損失を補填して やる必要がある。クレームが単なる言いがかりで あっても、機嫌を損じないように、やんわりとかつ 客が調子に乗らない程度には、毅然とたしなめるこ とが出来なければいけない。  木村には荷の重すぎる仕事だった。客に呼ばれて もオロオロするばかり、なだめるどころか、客の気 持ちを逆撫ですることの方が多かった。見かねた店 長が、廃棄処分の古いパチンコ台を木村にくれた。 家で扱いを練習しろというわけだ。それでパチンコ 台の構造は理解したけれど、駄目店員ぶりは一向に 改善しなかった。木村にはリンゴの木の気持ちはわ かっても、パチンコ客の気持ちはちんぷんかんぷん なのだ。  八ヵ月で解雇された木村が、次に見つけた仕事場 は繁華街のキャバレーだった。  最初はトイレ掃除のアルバイトから始めた。店が 終わった夜中に、飲み屋を一軒一軒まわって、汚れ たトイレの掃除をして五〇〇円、一〇〇〇円の金を 稼ぐのだ。辛い仕事だったけれど、それで家族に何 か買ってやれると自分を励まして続けていた。その うちに、あるキャバレーの支配人が店の仕事をやら ないかと声をかけてくれた。  客の入りが少なければ店の前で客引きをし、店が 混み合ってくればボーイの仕事をする。キャバレー も木村には未知の世界だ。オンザロツクスと水割り ではグラスの種類が違うことも知らなかったし、お 冷やとかチャームという程度の店員の隠語すら理解 できなかった。毎日のようにヘマをしていたけれど、 キャバレーの人々は木村に優しかった。  ホステスもその他の従業員も、ほとんどが青森県 外の出身者たった。みんなそれぞれの事情を抱えて、 その店に辿り着いたのだ。店で過去の話を聞くのは 暗黙のタブーだったけれど、その分だけ誰もが他人 の苦境には敏感だった。  木村が困窮していることは一目瞭然たった。何年 も続いている栄養不良のせいでリンゴの木が痩せた ように、木村もカリガリに痩せていた。畑仕事を夕 方に終えると、例の中古の原付バイクでキャバレー に直行していたから、着古した化繊のセーターも、 膝の抜けたよれよれのズボンも、いつも泥まみれだ。 それを一日五〇〇円の契約で貸衣装屋から借りた安 物のスーツに着替え、ゴムを首にかける方式の蝶ネ クタイをつけて客引きをする。客の入らない寒い夜 は、夜中の二時過ぎまで人気のない通りに立ってい た。  リンゴ農家といえば、弘前の飲み屋街では上客で ある。同じリンゴ農家の木村がなぜそこまで貧乏し ているのか。  そう問われて、隠すことは木村には何もなかった。 おそらくは彼のことだから、面白可笑しく、虫が葉 を喰い荒らし放題のリンゴ畑の惨憺たる有様と、そ れから無農薬のリンゴを作るという夢の話をしたの だろう。  木村が人から好かれる理由は、彼と話をすればす ぐにわかる。  まず、話が面白い。自分を飾る天ではないので、 たいていは数限りない木村の失敗談を聞くことにな るのだが、イントネーションと話の間が絶妙で引き 込まれてしまう。しかも彼の話にはいつもオチがつ く。津軽弁の落語を聞いているような感じなのだ。  リンゴの話ばかりかというとそうでもない。そし て酒を飲むと、本当か嘘かわからないような荒唐無 稽な話が混じるようになる。荒唐無稽なのだけれど 妙なリアリティがあるから、聞いているときはつい 信じてしまうのだ。  木村が酔って気分が良くなると、決まってする不 思議な話がある。  宇宙人に会った話だ。  「あれはさ、まだ軽トラックを売る前だから、無農 薬栽培を始めて二年とか三年目くらいのことだ。夕 方、何時頃かな、もうあたりは薄暗くなっていた。 畑仕事が終わって、家に帰ろうと思って、軽トラの 運転席に座っだの。そしたら、目の前に人が立って いる。妙な人だった。全身が銀色に光っていて目も 鼻も見えないのな。その銀色の人が、フロントガラ ス越しに、じっとこっちを覗き込んでいる。私、動 けなくなってしまってな。目だけ動かして、何をす るつもりだろうと思って見ていたらさ、なんと私の リンゴ畑に入っていくんだ。葉っぱが落ちて、荒れ 放題の畑にな。それでさ、ものすごいスピードで畑 の中を走り回っているんだよ。それから、ふっと消 えたのな。いったい今のは何だったんだと、その時 は首を傾げるばかりであったんだけどな。  しばらくして、今度は夜中だ。夜中に起き出して、 布団の横に座って、考え事をしていたときのことだ。 寝床は二階にあるんだけどもな、カーテンが揺れて 窓が開いたのな。そこから、人が二人人ってきた。 小さくて、影のように真っ黒な人であった。その二 人が私の両腕をつかんでさ、その開いた窓から外に 出るの。気がついたら、空中に浮かんでいるのよ。 下を見たら、家の屋根が見えた。黒い人たちは、何 も言わない。私は二人に腕をつかまれたまま、どん どん上昇していった。空のかなり高いところに、も のすごく大きな宇宙船のようなものが浮かんでいて な、私はその中に連れ込まれたの。連れ込まれたの は、私だけじゃなかった。先客が二人いたのな。一 人は若い白人の女の人、もう一人は白人の男たった。 頭は角刈りでさ、なんか軍人のような感じであった な。しばらくそこに座らされていたんだけど、その うち一人ずつどこかへ連れていかれた。最初は女の 人、それから軍人風の男、最後が私であった。歩い ていくと、二人は平らな台のようなものにそれぞれ 寝かされているのな。裸にされてよ。どういうわけ か、逃げようとか、抵抗しようという気は起きな かった。ただ、私も裸にされるんだなと思いながら 歩いていっだの。ところが私は服を脱がされなかっ た。宇宙船の操縦室のようなところに連れていかれ たの。操縦室といっても、計器のようなものは見あ たらなかったな。そこで、どういう風にしてこの宇 宙船が飛んでいるかを教えてくれてな。宇宙船の動 力源だという、黒っぽい物質を見せてくれた。これ で、空中に浮かぶんだとな。それから別の部屋に連 れていかれた。そこには黒い人ではなくて、昔のギ リシヤの哲学者の……ソクラテスみたいな人がいた。 大きな板が何枚もあってさ、それをこっちからこっ ちへ移動させろと言うんだ。よく見たら、地球のカ レンダーなのな。一枚が一年。過去のカレンダーで はないよ、未来のカレンダー。何枚あるんだろうと 思って、数えてみたんだけどもよ……」  何枚あったかは、いつも教えてくれない。そうた くさんはなかったと言う。  ユングに言わせれば、空飛ぶ円盤は全体性の象徴 ということになる。大きな困難に陥って自分を取り 戻そうともがいているときに、現代人が見る典型的 な幻視のひとつだ。中世の人々なら神を見た。神を 信じられなくなった現代人は、そのかわりに空飛ぶ 円盤を見るというわけだ。地上は現実の象徴であり、 宇宙からやって来る何者かはその現実からの救いを 意味する。ある意味では現実逃避なのだろうけれど、 その何者かが円盤であることに重要な意味がある。 困難に突き当たって分裂した自我は、再びひとつの 完全な姿に戻ろうとする。円形や球体はその統一さ れた完全な自我の象徴なのだ。何年もリンゴ栽培に 失敗し続け、追い詰められて脳味噌が二つに割れそ うなくらい混乱していた木村が、空飛ぶ円盤の幻を 見たとしてもそれほど不思議ではない。  もっとも、酔っている木村は、そういう現実的な 解釈で自分の話が片付けられそうになると、とって おきのオチを持ち出して対抗する。  「何年か経ってから、家でテレビを見ていたの。よ くあるでしょう、『空飛ぶ円盤は実在する』みたい なよ、UFOの特集番組だ。その中に、宇宙人に連 れ去られたという人が出てきた。それがさ、あの白 人の女の大だったの。女房も一緒に見ていたんだけ ど、驚いていたよ。私と同じ話をするんだもの。円 盤の中には自分以外にも二人の地球人がいた、一人 は軍人のような男で、もう一人は眼鏡をかけた東洋 大だったって。それ、私のことでないかってな。あ ははは、あの時はさすがの私もびっくりしたよ」  妻の美千子に、その話を確かめたことはない。困 らせることになるのは、わかりきっているからだ。 木村にしても、その話をするのは、酒を飲んだとき と決まっている。  だから、もちろんそれは木村のファンタジーなの だ。  キャバレーの人々も、もしかしたらそういう話を 聞かされていたかもしれない。ファンタジーだとわ かっていても、木村の話には何度でも聞きたくなる 何かがある。  パイオニアは孤独だ。何か新しいこと、人類に とって本当の意味で革新的なことを成し遂げた人は、 昔からみんな孤独だった。それは既成概念を打ち壊 すということだから。過去から積み上げてきた世界 観や価値観を愛する人々からすれば、パイオニアと は秩序の破壊者の別名でしかない。ライト兄弟が飛 行機を飛ばそうとしたとき、ヨーロッパのある学者 は、飛行機なる人工の機械が空を飛べないことを 。証明”するために論文まで書いたという話がある。 ガリレオーガリレイが宗教裁判にかけられて、強引 に地動説を取り下げさせられたのも同じ話だろう。 現代人の感覚からすれば、なぜそんな問題で大騒ぎ をするのか不思議なくらいだ。地球が太陽の周りを 回っていたからといって、何かが変わるというわけ でもない。空を飛ぶ実験をすることに、どんな不都 合があるのだろう。けれど、当時の人々の反応は 違った。物理学の法則に反するとか、神を冒涜する とかいう理屈はおそらく後付けで、どちらも根っこ にあるのは、変化に対する人間の本能的な恐怖だ。  人は変化を恐れる生き物なのだ。ライト兄弟やガ リレイが現代人にとっては偉人で尊敬の対象なのは、 飛行機も地動説も現代では、もはや新しいものでは ないからだろう。  木村もまた同じ種類の、人が本能的に持つ恐怖感 を相手にしていたわけだ。農薬万能主義のあの時代 に農薬を使わずにリンゴを栽培しようとするなんて、 ガリレイの時代に地球が太陽の周りを回っていると 主張するのに匹敵する暴挙だったのだ。彼が受けて いた有形無形の圧力がすさまじいものだったことは 想像に難くない。  けれど木村は、ほとんどそういう話をしない。  おそらく、そのかわりに円盤の話をするのだ。手 も足も傷だらけなのに、明日の計画を語る冒険家の ようなものだ。  円盤とリンゴは何の関係もないようだけれど、木 村の無意識の中ではおそらく深いつながりがある。 円盤も無農薬のリンゴも、不可能の象徴なのだ。誰 もがそんなものは幻だと言う。その円盤に乗ったと いうことは、木村が不可能を克服するということだ。 無農薬のリンゴは完成し、そして木村は完全な自己 を取り戻す。  不可能を可能にすること。  無農薬でリンゴを栽培することに、木村の全存在 がかかっていたのだ。  リンゴ栽培のことを知らないがゆえに、かえって キャバレーの人々は木村の夢を熱心に聞いた。リン ゴを無農薬で栽培するのが実際にどれだけ難しいか はわからなくても、木村の姿を見ていれば、その夢 が彼にとってどれだけ大きなものかはよくわかった。 あるいは木村の娘とは違う意味で、彼らもまた木村 の夢を自分の夢としたのかもしれない。自分の夢で なくても、夢は夢なのだ。それは、人生が生きるに 値するものだということを思い出させてくれる。夢 を実現するために、プライドを捨てて昼も夜も働き 続ける木村は、誰も知らない自分たちだけのヒー ローだった。  木村が「おとうさん」と呼ばれて、みんなから慕 われるようになるのに時間はかからなかった。木村 が夕食も食べずに畑から店に通っていることを知っ てからは、ホステスたちが交代で弁当を作って来る ようになった。  キャバレーの支配人は、木村が来るようになって、 店の雰囲気が明るくなったことに気づいていた。無 欲で実直な性格と簿記の才能を知ってからは、店の 経理も任せるようになった。水商売に向いていると はとても思えなかった木村が、いつの間にか店にな くてはならない従業員になっていた。  木村はその職場に三年勤めた。  毎日夕方七時から夜中まで働いて、一ヵ月に手取 りで一七万円余りの現金収入は、木村家の家計に とってなくてはならないものになっていた。  そのちょっとした事件が起きなければ、辞めるこ ともなかったはずだ。  だからもしかしたらそれは、リンゴの木が木村を 呼び戻したのかもしれない。  その囗は店に客がほとんど入っていなかった。 ボーイ兼、経理担当の木村は久しぶりに店の前に 立って客引きをしていた。  冬の寒い囗で、通りの両側には雪が積み上げられ ている。繁華街の人影はまばらだ。客を引こうにも、 人がいない。時々、思い出したように通りすがる酔 客に、木村は片っ端から声をかけていた。  それでも、クルマのヘッドライトで逆光になって いなければ、その二人連れに声をかけたりはしな かったはずだ。繁華街の客引きにも作法というもの があって、同業者にはまず絶対に声をかけない。顔 見知りでなくても、店で働く従業員や関係者は、客 とは明らかに違う雰囲気をまとっているからすぐに わかるのだ。  男たちはそういう客引きをしてはいけない相手の 中でも、最も注意を要すべき人種だった。地元のヤ クザである。  「お客さん、どうです一杯?」  声をかけた瞬間に、襟首をつかまれていた。  「てめえ、これが目に入らんのか?」  胸元の金バッジをこれみよがしに見せつける。平 謝りに謝ったが、もちろん後の祭りである。男たち はそのまま店に入ろうとした。入れればトラブルに なるのは確実だ。夢中で謝っているうちに、人気の ない寺の境内に連れ込まれていた。  いつの間にか、七、八人の男に囲まれていた。顔 を殴られた。前歯が折れて、ワイシャツが血だらけ になった。そこからは、無我夢中だ。とにかく逃げ 出すしかない。  足下を見ると、殴ってきた男は柔らかい防寒靴を 履いていた。咄嗟に、その足の甲を靴の踵で思い切 り踏んでいた。店の客に接骨医がいて、足の甲が人 間の急所だと話していたのを思い出したのだ。  男が足を抱えてうずくまっだ隙に、木村は走り出 していた。寺の裏手の斜面を、転げ落ちるようにし て逃げた。その後は、どこをどう走ったかよく憶え ていない。繁華街の近くを通っている私鉄電車の線 路沿いを走り、踏切を渡る。目についた飲食店の裏 のガスボンベの隙間に潜り込むと、男たちが追いか けて来る足音や、木村を搜して呼び交わす声が聞こ えた。息を潜めてやり過ごす。なんとか店に辿り着 くと、店の前にパトカーが二台停まっていた。テレ ビで見た、刑事ドラマのようだと思った。  「警察で、台帳みたいなのを見せられてな。警察が マークしている暴力団関係者の顔写真が貼ってあり ました。私のワイシャツは血だらけで、顔も腫れて るのに、警察はおかまいなしでな。一枚、一枚写真 を見せながら、この男か、それともこの男かと聞く わけさ。それで誰に殴られたのかはすぐわかったん だけど、私は事件にしないと言いました。声をかけ た私か悪かったんだから、この人たちを訴えるつも りはないとな。そしたら警察も諦めたみたいで『わ かった。ただし、殴った二人については明日警察に 出頭させるから』と言うわけだ。被害届がないから 逮捕はしないけど、警察は事件を把握しているから なと言ってくれたんでしょう。それで翌日、その二 人が私のところに謝罪に来ました。これは後で聞い た話だけど、私の働いていた店は、その人たちの組 にお金を払っていなかったらしいのな。昔はよ、水 商売の店はそういうお金を払うのが普通だったらし いな。それを払わないもんだから、店が目をつけら れていたという話だった。だけど警察沙汰になって しまっては、手の出しようがないものな。その後も、 二回くらい謝りに来て、手打ちをしたいからという ことで、親分さんのところに呼ばれてな。お酒を一 杯飲んで、仲直りしたわけです。そんなに何度も 謝ってもらわなくても、私はよかったんだけどもよ。 あの人だちなりに、仁義というか筋を通したんだろ うな。  それをきっかけに店を辞めました。ちょうどいい 潮時だと思っだの、リンゴがどんどん元気になって いたからな。そろそろアルバイトじゃなくて、本業 のリンゴで食べていけるようにしなさいと、リンゴ の木に発破をかけられたような気がしたんだ。キャ バレーの支配人さんは、怪我が治ったら戻ってくれ ないかと何回も言ってきたんだけどもな。ちゃんと 斷らなきゃと思って店に挨拶に行ったら、私の決意 が固いことがわかったみたいで、退職金まで出して くれました。『わかりました。じゃあ頑張って、リ ンゴを実らせてください』とな。封筒をあけたら五 〇万円も入っていたのでびっくりしたよ。三年間勤 めた退職金だって言っていたけど、そんなまとまっ た大金を見だのは久しぶりだった。たまっていた税 金の滞納分を払ったら、ほとんど残らなかったけど もよ。  まあ、そういうことがあって、私は歯抜けになっ たんだ。その時折れたのは前歯が一本だけだったん だけど、このことを忘れたくないと思ったから、そ のまま歯医者にも行かなかった。この抜けた歯は、 リンゴのために私か戦った証だと。人に殴られるよ うなことまでして、自分がリンゴの木を守ったとい うことを一生忘れないためにも、歯抜けのままでい ようと思っだの。だけど一本抜けたら、周りの歯が 動いてぐらぐらし始めてよ。ぐらぐらするたびに、 ペンチで抜いていたらそのうち歯が一本もなくなっ た。だから、なんで歯がないんですかって人に聞か れると、こう答えることにしているの。『私はリン ゴの葉と、自分の歯を引き替えにしたんです』と な」     21  冬の寒さの中に、ふと春の気配を感じることがあ る。  自然の変化は、目に見えない場所で少しずつ進行 して、潮が満ちるようにひたひたと周囲に影響を与 えていく。何かが明らかに変わりつつあった。  人も無意識にそのことを感じるのだろう。目に見 えない変化は、まず木村を変えた。そして、木村と 周囲の人々の関係にも影響を与えていた。  木村がこんな話をしてくれた。  ジャングルのようになった木村の畑にたまりかね て、近くの畑の持ち主が苦情を言って来たことがあ る。  「雑草ぐらい刈ってくれ」  堪忍袋の緒が切れたという顔をしていた。  言葉は短かったけれど、山ほどの意味がこめられ ているのは、木村にもよくわかっていた。  無農薬栽培などという戯言に耳を貸すつもりはな い。腹ば立ったが、少なくとも畑の手入れをしてい るのだからと自分に言い聞かせ、今までずっと黙っ てきた。ところがお前はとうとう草刈りまで放棄し てしまった。雑草は生え放題の伸び放題、大量に播 いたクズ大豆は腰まで伸びて、畑の中を歩くのにも 薮こぎをしなければならない。荒れ山のような畑を、 いろんな虫がぶんぶん飛び回っているではないか。 こんなものは、もはや畑とは言えない。バカな夢に 取り憑かれて、何年リンゴの栽培に失敗しようが、 貧乏しようがそれはお前の勝手だけれど、周りに迷 惑だけはかけないでくれ。だいたいあの虫たちが、 こっちへ飛んで来たらどうするのだ。  いくらなんでも、もう許せないというわけだ。  一年前なら、言い争いになったかもしれない。け れど、木村は黙って男の話を聞いていた。それから、 静かにこう言った。  「明日の夕方、またここへ来て貰えないか」  翌日の夕暮れ時、男は木村と並んで畑の境界線に 立っていた。  蛾が飛んでいた。  蛾は葉を喰い荒らす害虫の親である。  男は信じられないという顔をしていた。  木村の畑から出て行く虫は見あたらなかった。む しろ何かから逃れるように、隣の畑から蛾が一匹、 二匹と木村の畑に飛び込んで来る。  木村の畑は、害虫の発生源というよりもむしろ害 虫の集まる場所だった。  虫の身になれば、それはよくわかる。農薬を撒い ていない畑の方が居心地がいいに決まっている。考 えてみれば、当たり前の話だ。  その近所の畑の持ち主には、農薬を使っているは ずの自分の畑にそれだけ蛾がいるということ自体が 大きな驚きだったようだ。  虫を根絶やしにすることなど出来ないのだ。だか らこそ、毎年農薬を散布しているわけだけれど、そ れにしても現実を目の当たりにした衝撃は大きかっ たのだろう。二度と苦情を持ち込むことはなかった し、それだけでなく近所の農家にもその話をしてく れた。  それは木村がただの変わり者ではなく、少なくと も何かをしているのだということに気づいたからで もある。畑を見回すと、あちこちに深い穴が掘られ ていた。地中の温度を測っているのだと言う。山の 土と畑の土では温度が違うという話から始まって、 なぜ雑草を生やすのかを木村は熱心に説明した。  「学者でもあるまいに」  思わず皮肉は言ったけれど、内心では感心してい たらしい。リンゴの根が土の中でどんな具合に伸び ているかなんて今まで考えたこともなかったのだ。 少なくとも木村が何の根拠もなく、雑草を伸ばし放 題にしているわけではないことだけは認めざるを得 ない。気のせいかもしれないけれど、そう言われて みれば以前に比べてリンゴの葉が元気になっている ように見えた。  それにリンゴはさておいても、木村がリンゴ畑の 中で栽培している野菜は素晴らしかった。トマトな どは茎が三メートル近くの高さに育ち、驚くほどた くさんの実をつけていた。リンゴの木よりも高いト マトなど見たことがない。木村は確かに変わり者か もしれないが、農業の才能は認めてもいいんじやな いだろうか。  もちろん手放しで木村を認めたわけではない。な にしろ畑は、相変わらず虫だらけなのだ。けれど、 その虫が自分たちの畑に害をなさないと言うなら、 もう少し木村の努力を見守ってやってもいいのかも しれない。  周囲の人々の木村を見る目が、少しずつ変わり始 めていた。  ここで、ひとつだけ読者に斷っておかなければな らないことがある。  この夕暮れの話は、木村への取材だけを元に書い た。「雑草くらい刈ってくれ」と木村に頼みに来た、 近所の農家には取材していない。それが誰だったか を、木村が明かそうとしないからだ。  もちろん、四ヵ所にある木村の畑に隣接する畑の 持ち主すべてに話を聞けばわかることかもしれない が、そうする気にはどうしてもなれなかった。  それが二〇年以上も昔のことで、当時の働き盛り の農家の多くがすでに代替わりしているということ もある。けれどそれよりも、自分の問題で隣近所の 畑の主に、これ以上迷惑をかけたくないと木村が 思っていることが痛いほどよくわかったからだ。  だから、ここに書いた出来事は、あくまでも木村 の主観的な記憶である。そしてその木村にしても、 一日中、自分の畑の境界線に立って、蛾がどこから 来て、どこへ飛んで行くのかを観察していたわけで はない。木村の畑で発生した大量の害虫が、一匹も 他の畑へと飛んで行っていないと断言することは出 来ない相談なのだ。したがって、木村に苦情を言っ たその人が、心から木村の言っていることに納得し ていたかどうか、本当のところはわからない。今現 在ですら、津軽地方のリンゴ農家のすべてが、木村 を認めているわけではないのだ。いや、むしろ木村 に否定的な農家の方が多いかもしれない。  農薬を使わずにリンゴを育てるという試みそのも のが、自分たちのリンゴ栽培を否定する行為である と受け止められているのだろう。木村が英雄視され ればされるほど、農薬を使わなくてもリンゴを育て ることが出来るのに、なぜ農薬などを使うのかと糾 弾されているような気持ちになるのは、リンゴの農 家の心情を考えればよくわかる。  けれど、木村本人には、そういう気持ちはまった くなかった。彼はただ、自分のリンゴの木を、農薬 を使わずに育てようとしただけなのだ。そして、そ のせいで周囲の畑に迷惑をかけてしまうことを何よ りも恐れた。夜明けから日没まで、一日中害虫を手 でつまんで取っていた最大の理由もそこにあったの だ。  そういう木村の姿を間近で見ていた一人の若者が、 木村の理解者の一人になる。竹谷誠である。父親の 竹谷銀三のリンゴ畑は、岩木山山麓にある木村の畑 に隣接していた。地元の農業高校を卒業した誠が、 父親の畑の手伝いをするようになった頃、木村の畑 ではまだ毎年のようにリンゴの花が狂い咲きをして いたと言うから、極めて初期の段階から木村の姿を 眺めていたことになる。もちろん、病気や害虫が大 発生して、手のつけられない状態になっていること も知っていた。  年下ということもあるし、そのことで木村に何か を言った記憶はないけれど、当時の大人たちがどう いう目で木村のことを見ていたかは想像出来ると竹 谷誠は語る。  「今なら農薬散布の技術が発達しているから、たと え隣の畑で病害虫が増えても、それほど神経質にな ることはないと思うんです。適切な時期に、適切な 農薬なり殺虫剤を散布していれば、リンゴの木が害 虫や病気にやられることはまずないですから。けれ ど、二〇年前のあの頃は、まだそこまで技術が進ん でいなかった。戦後の新しい農薬を使うようになっ てから、せいぜい四〇年しか経っていないわけです からね。農薬を散布しても、害虫の被害が出てしま うことは少なくなかったんです。もしかしたら自分 の技術が未熟でそうなっだのかもしれないけれど、 それを木村さんの畑のせいじゃないかって考える人 がいたとしてもちっとも不思議じゃない。ただ、隣 からずっと眺めていた者として言えるのは、実際に 木村さんの畑からたくさんの害虫が飛んで来て困っ たという記憶は、少なくともウチの畑ではありませ んでした。それよりも、あんなにひどい状態だった 畑が、だんだん良くなっているということがすごく 不思議でした。木村さんが農薬を使っていないのは、 隣で見ている私たちがいちばんよくわかっています から。木村さんを見直すと言うと、失礼な言い方か もわからないけれど、この人はすごいことをしてる んじゃないかと、私の父親も含めて周囲の農家の見 方が、あの畑の状態を見てだんだん変わっていった んだと思います。話に聞いているわけじゃなくて、 自分の目で見ているんです。木村さんの畑を目の当 たりにしたら、リンゴ農家はみんな同じ気持ちにな ると思いますよ」  周囲の農家が木村に向ける視線が微妙に変化する のとまるで並行するように、木村が害虫を見る目に も、ある種の変化が起きていた。  葉を喰い荒らす憎い敵とばかり思っていた頃には 見えなかったことが、少しずつ見えるようになって いたのだ。  「あのさ、虫取りをしながら、ふとこいつはどんな 顔をしてるんだろうと思ったの。それで家から虫眼 鏡を持ってきて、手に取った虫の顔をよく見てやっ たんだ。そしたら、これがさ、ものすごくかわいい 顔をしてるんだ。あれをつぶらな瞳って言うのかな、 大きな目でじっとこっち見てるの。顔を見てしまっ たら、憎めないのな。私もバカだから、なんだか殺 せなくなって葉っぱに戻してやりました。私にとっ ては憎っくき敵なのにな。だけどさ、害虫だと思っ ていたのに、よく見たらかわいい顔しているんだか らな。自然って面白いもんだと思って、今度は益虫 の顔を見てみたわけ。害虫を食べてくれるありかた い虫だよな。ところが、これが恐い顔してるの。ク サカゲロウなんてさ、まるで映画に出てくる怪獣み たいな顔してるんだよ。ああそうなんだと、人間は 自分の都合で害虫だの益虫だの言ってるけど、葉を 食べる毛虫は草食動物だから平和な顔してる。その 虫を食べる益虫は肉食獣だものな、獰猛な顔してる のも当たり前だよ。  こんなに毎日虫取りしてだのに、虫のことを何も 知らなかったわけだ。リンゴの木にはいろんな虫が 卵を産むけど、考えてみれば、どの卵からどの虫が 孵るのかもわからなかったし、その虫がどんな成虫 になるかも自分は知らなかったと思ってな。それか らだんだん虫を観察するようになったわけ。どんな 風に葉を食べるのか、一日中眺めていたりな。卵を 見つけたら片っ端から取っていたけど、ちょっとだ け残しておいて毎日記録をつけるとかな。いろんな 虫を採ってきて、家で飼ってみたこともある。そう 言えば、それで失敗したこともあったな。うっかり 何日か目を離していたら虫が全部蛾になってしまっ てな、部屋中を蛾が何十匹も飛び回ってるの。あは はは、観察どころじゃなかったな。だけど、同じ種 類の蛾でも、雄と雌では飛び方が違うんだよ。私は そんなことも知らなかった。  ほんとに虫の世界は不思議だよ。たとえば、木の 幹に産みつけられる害虫の卵は、木の幹の色をして いる。保護色なわけだ。これがだいたい直径五ミリ の塊なんだけど、そのひとつの塊に五〇個の卵が並 んでいる。それでさ、その卵の瑰からI〇センチく らい離れたところに、別の卵が二個産んであるの。 これがテントウムシの卵なわけ。害虫が孵化するの を益虫が待っているわけだよな。ところが害虫の方 もただ食べられるわけじゃない。五〇個の卵は。 いっぺんに孵化しないの。まず半分が孵化して、リ ンゴの葉っぱを食べに向かう。それでその半分の虫 がIセンチくらいの大きさに育った頃、残りの半分 が孵化する。テントウムシはちょうどそのタイミン グで孵化するの。孵ったばかりで自分も小さいから、 後から孵った半分の害虫を食べて育つのな。先に 孵った半分は、その間に葉っぱをどんどん食べて大 きくなって生き延びる。つまり後から孵った半分は、 テントウムシに喰われるために生まれてくる。先に 孵った半分を生き延びさせるために、犠牲になるた めに生まれてくるわけだよな。あれ見たら、びっく りするよ。虫たちは、どんな世界に生きているんだ ろうとな。こんなプログラムを誰が組んだんだろう と、ものすごく不思議な気持ちになった。私つくづ くさ、自然というのは何とよく出来たものだろうと 思いました。大袈裟かもしれないけど、地球がある のもこの小さな虫たちのおかげじやないのかなって な」  自然の中には、害虫も益虫もいない。木村はその 当たり前の真理に気づいたのだ。  人間が害虫と呼ぶ虫がいるから、益虫も生きられ る。喰う者と喰われる者がいるから自然のバランス は保たれている。そこに善悪はない。病気や虫の激 発にしても、バランスを回復させようとする自然の 働きなのではないか。  森の土壌の豊かさに気づいて雑草を生やすように なってから、リンゴの木はゆっくりと健康を回復し つつある。畑の地下ではリンゴの根が順調に伸びて いるのだろう。グラグラと揺れる木はめっきり少な くなった。  だからと言って、虫がいなくなるわけでもなけれ ば、病気をもたらすカビや菌類が消えるわけでもな かった。自然か不自然かということで言うなら、 コーカサス山脈生まれのリンゴの木がここにあると いうことが、そもそも不自然なのだ。  ドングリの木があそこにあったのは、自然がそれ を受け入れたからだ。  その年降った雨の量、湿度や温度、あるいは周囲 の植物との関係。そういう条件が地面に落ちたドン グリに適していたから、あそこで育つことが出来た のだ。ドングリの木を選んだのは自然であり、自然 が必要とするからそこにある。その関係が変われば、 ドングリの木は静かに枯れていくだけだ。  リンゴの木は違う。リンゴの木を植えたのは人で あり、リンゴの木を必要としているのは、あくまで も人だ。自然の摂理に従うなら、おそらく枯れるし かないだろう。そのリンゴの木をなんとか生かそう とするのは、人間の都合なのだ。  それが農業というものであり、農薬を使おうが使 うまいがそれは同じことだった。  つまり木村の抱えていた問題は、自然の摂理と人 間の都合の折り合いをいかにつけるかという問題で もあった。折り合いのつかない部分が、虫や病気と して現れていたわけだ。  農薬はいとも簡単にその問題を解決する。虫が発 生すれば殺す。病気が蔓延すれば消毒する。その結 果として、自然のバランスが深い部分で傷つけられ ていた。山の土と畑の土を比べれば、それはあまり にも明白だった。極端な言い方をすれば、現代の農 業は自然のバランスを破壊することで成立している のだ。  その農薬のかわりになるものを探して木村は失敗 した。失敗して良かったのだ。もし農薬と同じくら い虫や病気に効く食品を発見していたら、たとえそ れが人間にとっていかに無害なものであっても、結 局は農薬を使うのと同じことになったはずだ。ドン グリの木をリンゴの木と見間違えることもなかった だろうし、土の大切さにも気づかなかったに違いな い。  岩木山で学んだのは、自然というものの驚くべき 複雑さだった。その複雑な相手と、簡単に折り合い をつけようとするのがそもそもの間違いなのだ。  自然の中には、害虫も益虫もない。それどころか、 生物と無生物の境目すらも曖昧なのだ。土、水、空 気、太陽の光に風。命を持たぬものと、細菌や微生 物、昆虫に雑草、樹木から獣にいたるまで、生きと し生ける命が絡み合って自然は成り立っている。そ の自然の全体とつきあっていこうと木村は思った。 自然が織る生態系という織物と、リンゴの木の命を 調和させることが自分の仕事なのだ、と。  「農薬を使わなくなってわかったことがあるのな。 農薬を使っていると、リンゴの木が病気や虫と戦う 力を衰えさせてしまうのさ。楽するからいけないん だと思う。クルマにばっかり乗ってると、足腰が弱 くなるでしょう。同じことが起きるわけ。それでな、 リンゴの木だけじゃなくて、農薬を使っている人間 まで病気や虫に弱くなるんだよ。病気や虫のことが よくわからなくなってしまうの。農薬さえ撒けばい いから、病気や虫をちゃんと見る必要がなくなるわ けだ。人のことを言っているんじゃなく、この私か そうだった。害虫の卵は、保護色だと言ったでしょ う。小さいし、枝でも葉でも、産みつける場所と同 じ色をしているから、なかなか見つからないのよ。 おまけにどの卵からどの虫が孵るかわからないから、 害虫の卵のそばのテントウムシの卵を取ってしまっ たりな。テントウムシの卵は、オレンジ色をしてい るからむしろ見分けがつきやすいんだ。害虫を目の 敵にして無我夢中で虫取りをしているうちは、そん なことすら気がつかなかったわけだ。落ち着いて虫 たちのことを眺めるようになって、ようやくいろん なことがわかるようになったのな」  たとえばある囗木村は、保護色で見分けのつきに くいその害虫の卵が、変色して白くなっていること に気づく。以前の木村なら、それがなぜかなどと考 える前に、卵を潰していただろう。けれど、そうは しなかった。毎日見ていると、そのうち卵が孵化し て小さな幼虫が出てきた。白く変色してから、一週 間目のことだった。  もしやと思って、同じ種類の卵を見つけるたびに 記録をつけた。どの卵でも、同じことだった。孵化 する一週間前になると、その卵は変色して白くなる のだ。  それがわかってから、害虫の卵の駆除が楽になっ た。変色するまでは、卵は絶対に孵らないのだ。白 くなった卵だけ取ればいい。  不思議なことに、その白い卵を樹皮からこそげ落 とすと、蟻や蜘蛛などの地面にいる虫たちがすぐに 集まって来て跡形もなく食べ尽くしてしまう。まる で木村が落とすのを待ちかまえていたかのようだ。  その白い瑰が卵で、その中には孵化を目前にした 幼虫が詰まっていることを、蟻や蜘蛛はなぜ知って いるのだろう。卵が白く変色することに気づくまで に、自分は何年もかかっているというのに。テント ウムシにしてもそうだ。テントウムシだって卵を産 むのは初めてだろうに、害虫の卵がどこにあるかわ かっているのだ。そうでなければ、まるで計ったよ うに正確に、害虫の卵のすぐそばに卵を産みつける ことは出来ないはずだ。  自然というのは、考えてみれば不思議なことだら けだ。  人間は長い時間をかけてひたすら観察しなければ、 生まれたばかりの虫ほども自然のことがわからない のだ。  さすがに三〇年もリンゴの木とつきあってきた今 では、リンゴの木を見ただけで、虫が卵を産むなら ここだということが直感的にわかるようになったと 木村は言う。  直感に従って、見るべき場所を見ると、ちゃんと そこに卵がある。  保護色だろうが、小さかろうが、害虫の卵に木村 の目を逃れるチャンスはない。もしそこになければ、 その木には卵が産みつけられていないということだ。 そう断言出来るほどに、虫のことを理解するように なった。  妙な言い方だけれど、テントウムシに負けていな い数少ない人間なのだ。  「でも、そうなるまでには長い歳月がかかっている わけだ。病気の対策も、同じことだったな。酢が有 望だと思って、ずっと使ってはいたけど効果が現れ なかった。それはやっぱり、見るべき場所を見てい なかったからなのな。農薬だって散布する濃度や夕 イミングは大切だけどもさ、酢の場合は比較になら ないほどそれが重要なの。酢は農薬と違って、カビ や細菌を根絶やしにするわけではないからな。農業 関係の法律では酢を特定農薬と呼んでいるけど、 やっぱり農薬とはぜんぜん違うものだよ。酢を飲ん で自殺しようとする人はいないものな。人間には健 康食品になるくらいで、酢は殺菌力を持っているけ れど、それはごく弱いものだ。その弱い殺菌力で、 リンゴの木が本来持っている病気に抵抗する力を 補ってやるわけだ。そのためには細菌やカビの生態 をよく知って、先手を打だなきやいけない。ただ酢 を撒いても駄目なのな。そういうことがわからな かった。私は病気だけを見て、その病気だけをなん とかしようとしていたんだな」  病気も自然の一部なのだ。  春先に雨が多い年もあれば、梅雨に気温が上がら ない年もある。  自然が毎年違う顔を見せるように、リンゴの病気 もその年によって、発生する時期も違えば、発生の 仕方も違う。病気と気候は密接な関係にあるわけだ。 その関係が見えるようになって、ようやく酢が効き 目を現すようになった。  その年、というのはつまり、大豆を撒いて畑に雑 草を生やすようになって二年目のことだけれど、畑 の状態が目に見えて良くなった。  リンゴが春につけた葉が、秋まで落ちずに残った のだ。  残った葉は全体の三分の一程度だったが、それで も木村は嬉しくて踊り出したいくらいだった。なに しろそれまでは毎年、夏に入る前にほとんどの葉が 落ちていたのだ。  もちろん、酢だけが理由ではない。  畑の土は、山の土のように柔らかくなっていた。 リンゴの根が張って、リンゴの木が丈夫になったか ら、酢が効くようになったのだろう。いくつもの条 件が重なって、あの結果があったのだと木村は思っ ている。  けれど、何も考えずに酢を撒いていたら、絶対に そうはならなかった。  大袈裟に言えば、自然の全体を理解して初めて、 酢は効果を発揮するのだ。  「それはまあ、今だからはっきりわかることなんだ けどな。今年の梅雨はいつ頃から始まるとか、夏は 気温が上がらなさそうだとか、あるいは週末から雨 が降りそうだとかな、そういうことがわかれば病気 の発生時期が予測出来る。カビや細菌の活動が活発 になる直前のタイミングで酢を散布すれば、かなり の効果を上げることが出来るんだ。天気予報は外れ ることがあるからよ、自分で天気が読めるようにな らなきやいけないけどな。少なくとも天気予報より は正確にな。農薬と酢の違いはそこだな。爆弾と刀 みたいなもんだ。どっちも太を殺す道具だけど、爆 弾はボタンひとつでドカン、誰でも簡単に何千人も の太が殺せる。だけど刀はそうはいかない。剣術の 修業をしていないと、人一人切り殺すのも大変なわ けだ。使い方を知らなきや、ただの飾りにしかなら ない。あははは、喩えとしてはちょっと不穏当か。  要するに、酢が効果を現すには、人間の経験とか 能力が必要だということなのな。逆に言えば、自然 を知れば知るほど、酢の効果が発揮されるというこ とだ。秋まで葉が三分の一残ったと言っても、周り の畑に比べたら貧弱きわまりないのな。葉が落ちな いのが当たり前なんだからな。かろうじて木に残っ た葉を見ながら、もっと自然をよく見ろ、もっと手 を動かせと、リンゴの木に言われているような気が したよ」  同じ濃度の酢を散布し続けていると、カビや細菌 に耐性が出来て効かなくなる。これを防ぐために、 酢の濃度を微妙に変化させて使う技術を、木村は自 分のものにしていた。今まで使っていた酢よりも酸 度の高い醸造酢も手に入るようになった。  リンゴの木そのものが元気になったからこそ、酢 が効果を発揮するようになったことは間違いない。 けれど、木村の酢の使用技術が向上していたのも事 実たった。たった三分の一ではあっても秋まで葉が 残っだのは、木村が言うように、様々なことが重 なっての結果だった。  自然界の現象は、実験室で起きる現象のように、 たったひとつの原因から生じているわけではない。 人の目には些細な変化でも、その裏側には互いに絡 み合った無数の原因が隠されている。小さな波が重 なって大波になるように、その無数の小さな変化は 重なり合って、時に思いもよらない大きな変化を引 き起こす。  貧弱ではあっても、かろうじて残ったその三分の 一の葉は、リンゴの木に少なからぬ変化をもたらし ていた。  翌年の春先には新梢、つまり新しい枝がI〇セン チほど伸びていた。  何年も生長を止めていたリンゴの木が、ふたたび 生長を始めたのだ。  そして、畑の入口にある一本のリンゴの木が花を 咲かせた。  咲いたと言っても、注意して見なければ見落とし てしまったに違いない。  無農薬を始めたときには八〇〇本あったリンゴの 木の、半分近くが枯れていた。四〇〇本余りのリン ゴの木のうちの一本が、七個の花を咲かせたに過ぎ ない。  けれど、自分の畑に花が咲くのを見るのはほんと うに久しぶりだった。大豆を撒いて三年目、すべて の畑で農薬の使用をやめた年から数えれば八年目の 春だ。  畑に咲いた、七つの花。  その七つのうち二つが実をつけた。収穫出来たり ンゴはだったの二つだ。  そのリンゴは神棚に上げて、それから家族全員で 食べた。  驚くほど美味しかった。  リンゴは物心つく前からずっと食べ続けてきたけ れど、こんなリンゴを食べたのは初めてだと思った。  それは、気のせいばかりではなかったはずだ。  なにしろ一本のリンゴの木の葉が作る養分が、 たった二個の実に注ぎ込まれたのだ。美味しくなら ないわけがない。  その年、晩秋になって落葉するまでリンゴの木は 三分の二以上の葉を残していた。  木村の長い苦闘が、ようやく終わろうとしていた。     22  最初に、その光景を見だのは、隣のリンゴ畑の持 ち主、竹谷銀三たった。  自分のことでもないのに、思わず声を上げていた。  あいつ、とうとうやりやがった。  ひとこと祝いが言ってやりたくて、木村を探した。  ところが、畑を見回しても人の気配がない。  畑のどこを探しても、木村の姿は見あたらなかっ た。  まったく、こんな時にあの男は何をしているのだ ろう。  虫のことでも、雑草のことでも、いらいらさせら れてばかりいたから、この時も反射的に腹を立てて しまった。けれど、ふと思い直した。  きっと、まだ知らないのだ。知らせてやらなけれ ばと思った。  方々探し回って、ようやく田圃で見つけた。木村 は人に借りた田圃で作業をしていた。  「木村、畑行ったが?」  「何処の?」  「リンゴ畑だよ」  案の定、首を横に振った。  「花咲いでるぞ」  そう言っても、ポカンとしている。鳩が豆鉄砲と いうのはこの顔だ。  「岩木山のお前のリンゴ畑に、花咲いたぞ。行って みろじや」  嬉しくないのかと、肩を揺すってやりたくなるく らい、木村の反応はまだるっこしかった。畦道に停 めてあった原付バイクにまたがってもすぐには走り 出さない。どこかのスクラップ屋で買ったという、 いつものオンボロだ。何度かキックして、ようやく エンジンが息を吹き返す。  タッタッタッタという五〇肬のエンジン音が、 ゆっくりと遠ざかっていく。苦笑しながら見送って いると、エンジンの音が変わった。アクセルを全開 にしたらしい。木村が背中を丸めて、T心に山への 道を上っていくのが見えた。  農道の砂利道を、二人乗りの原付バイクが上って くる。(ンドルを夫が握り、荷台には妻が座ってい た。明らかな法令違反だけれど、二人にそういうこ とを考える余裕はなさそうたった。まだ見えるわけ もないのに、自分たちの畑の方角を見据えていた。  そのくせ目指す畑のかなり手前で、夫はバイクを 停めてしまった。農道をそのまま上れば自分たちの 畑なのに、まるで恐いものでも見るように、手前の 畑から畑伝いにおずおずと自分たちの畑に近づいて いく。合格発表を見に来た受験生のようだ。隣の畑 の農具小屋に辿り着くと、その陰からそっと首を伸 ばす。  白い花が見えた。  畑一面に白いリンゴの花が咲いていた。  何年も花を咲かせなかったリンゴの木々が、いっ せいに花を咲かせていた。  本当に感動したとき、人は言葉も、表情すらも 失ってしまうものらしい。何か言葉を発することも、 そこから動くことすら忘れて、二人はその場に立ち 尽くしていた。  春と言っても、岩木山の山麓に吹く風はまだ冷た い。その冷たい風に吹かれたせいなのだろう、夫の 目にも、妻の目にも、うっすらと涙が浮かんでいる。  九年ぶりのリンゴの花見は、涙に濡れていた。  「なんか、まともに見られないのな。見ると言うよ りも、ほんとにその小屋の陰から覗くという感じで あったな。自分でも自信はあったんだよ。その前の 年に、七個だけど花が咲くのを見たわけだ。春先の 蕾の状態も見ていたし、今年こそばちゃんと咲いて くれるんじゃないかと思ってはいた。だから、期待 はしていたけど、その一方でさ、リンゴの木はまだ 私のこと許してくれないんじゃないかって、心のど こかで思っていたのな。まあ何年も花を見ていな かったから、花が咲かない方が当たり前になってい たんだな。花が咲いてるのを見ても、あそこはまだ 隣の畑じやないかって思ったくらいだからな。だけ ど、どう見ても自分の畑なのさ。全部の木に、花が 咲いていた。ほんとにもう、ただ、ただ、あの時は 嬉しかった。あの頃を思い出すとさ、今でも涙が出 てくる。もう二〇年も昔のことなのによ。家に帰っ て、親父とお袋に報告したら、朝のうちに見に行っ て花が咲いたの知っていたのな。あはは、知らな かっだのは、私と美千子だけだった。でさ、午後に なって、また一人で見に行った。あの囗は、何回見 に行ったかわからないな。夕方、祝いをしようと 思って、お酒を持って行って、リンゴの木の一本一 本にふるまいました。木の根元に、ちょっとずつか けて回っだの。ありがとう、よく花を咲かせてくれ たって。うん、私も飲んだよ。あははは、私か飲ん だ方が多かったな。だけど、あんな気持ちのいい花 見は後にも先にもなかった。お酒を飲んで、リンゴ の木の下に寝てずっと花を見上げていたよ。リンゴ の花はなんと綺麗なものだと思った。桜に似ている けど、リンゴの花は上を向いて咲くのな。桜の花は 下を向いて、花見をする人の方を見て咲くでしょう。 リンゴは人間を気にもしてないの、上を向いて咲く んだよ。ちょっと、威張っているのな」  そう言って、木村は心から愉快そうに笑った。  九年ぶりに花が咲いたその日の話は何度も聞いた。 二〇年近くも昔の話なのに、木村はいつも昨日のこ とのように嬉しそうに話す。彼にとって、その日が 大生のひとつのクライマックスであったことは間違 いない。  そのクライマックスは、彼の転機でもあった。  木村とリンゴの関係が、その囗を境に変わる。  それは悟りとでも呼ぶべき体験で、木村の経験し た様々な転機の中でも、本質的な意味で最も重要な 出来事でもあった。  「人間に出来ることなんて、そんなたいしたこと じゃないんだよ。みんなは、木村はよく頑張ったっ て言うけどさ、私じゃない、リンゴの木が頑張った んだよ。これは謙遜なんかではないよ。本気でそう 思ってるの。だってさ、人間はどんなに頑張っても 自分ではリンゴの花のひとつも咲かせることが出来 ないんだよ。手の先にたって、足の先にたって、リ ンゴの花は咲かせられないのよ。そんなことは当た り前だって思うかもしれない。そう思う人は、その ことの本当の意味がわかっていないのな。畑を埋め 尽くした満開の花を見て、私はつくづくそのことを 思い知っだの。この花を咲かせたのは私ではない。 リンゴの木なんだとな。主人公は人間じゃなくてリ ンゴの木なんだってことが、骨身に染みてわかった。 それがわからなかったんだよ。自分がリンゴを作っ ていると思い込んでいたの。自分がリンゴの木を管 理しているんだとな。私に出来ることは、リンゴの 木の手伝いでしかないんだよ。失敗に失敗を積み重 ねて、ようやくそのことがわかった。それがわかる まで、ほんとうに長い時間がかかったな」     23  その年の秋、木村はピンポン球ほどの大きさのリ ンゴを山ほど収穫した。  リンゴの実を大きく育てるには、花を間引いて果 実の数を適度に減らす摘花作業が欠かせない。その 摘花作業が、中途半端になってしまったのだ。  リンゴの花は、一房に五つ花が咲く。そのうちの 四つを摘んで、一房に花をひとつにする。そこまで はやったが、それだけではまだ足りない。樹勢を考 慮して、一本の木にどれくらいの実をつけるかを決 めて、さらに花を摘むという作業があった。  けれど、どうしてもそこまでは出来なかった。  なにしろ九年ぶりである。  夢にまで見たリンゴの花なのだ。もったいなくて、 摘む手が震えた。  花を摘まなければ、実は大きくならない。わかり きっだことが、出来なかった。  もっとも、摘花を完璧にやらなかっだのは、そう いう気持ちだけの問題でなく、病気と虫に長年苦し められてきた木村なりの言い訳もあった。  花が咲き、リンゴが実ったからと言って、喜んで ばかりはいられない。酢が効くようになって、病気 の発生はかなり抑えられるようになった。だからと 言って、完全に病気を抑えられるわけではない。そ して害虫の数は相変わらずたった。むしろ全体とし ては、葉が元気になった分だけ、害虫の数も増えて いたくらいだ。  たとえば(マキムシは葉だけでなく、花の雌しべ と雄しべも喰う。相変わらすの手作業で駆除してい たが、すべての食害を防ぎきれるわけではない。( マキムシに喰われる花もあるわけだ。さらに、果実 そのものが、虫や病気に冒される割合も考えておく 必要があった。黒星病は果実の表面にも発生する、 リンゴの茎だけを切って果実を落とす風変わりな虫 もいる。農薬を使っていても、残したすべての花の 数だけ収穫出来るわけではない。歩留まりというも のがあるわけで、まして農薬を使っていない木村の 畑の歩留まりが、かなり低いことは目に見えていた。  ただ、その歩留まりがどのくらいになるかの見当 がつかない。無農薬、無肥料のリンゴ畑で見る初め ての満開の花なのだ。摘花は最低限に抑えて、どれ くらいの実が秋まで残るかを見ようと考えたのだ。  ところが、思ったほど虫や病気の被害は大きくな らなかった。花が咲いて木村一家の虫取り作業に励 みが出たということもあるかもしれないけれど、何 よりもリンゴの木の勢いが病害虫を凌駕するように なっていた。  木村の想像よりもずっと歩留まり率は高く、秋に なってもリンゴの木にはたくさんの実がついていた。 栄養が行き渡らないため、リンゴはピンポン球ほど の大きさにまでしか生長できなかったというわけだ。  もちろん、そんな小さなリンゴを買ってくれる相 手は隕られる。  結局、加工用リンゴの仲買人に引き取ってもらう ことになった。小さくても、糖度は高かったからリ ンゴジュースの原料くらいにはなる。収穫用の木箱 に一杯詰めると、普通のリンゴならせいぜい七〇個 しか入らないが、この年の木村のリンゴは二六〇個 も入っだ。  仲買業者のプラスチックケースに入れたら、格子 の目からリンゴがポロポロと落ちたというのだから よほど小さかったのだろう。一箱二〇キロリンゴを 詰めて、引き取り価格は一六〇円。屑リンゴ扱いだ。 畑からの全収穫を集めても、収入は一万円に満たな かった。  「ずっとリンゴが出来なかったわけだから、収穫出 来たってだけでも大喜びだったんだけどな。冷静に 考えれば、それだけじゃ意味がないんだよ。出来た リンゴを売って生活が成り立だなければ、絵に描い た餅でしかない。翌年は摘花をちゃんとやったから、 リンゴも少しは大きくなっだけれど、農薬を使って 育てるリンゴに比べたら話にならなかった。畑の状 態が、まだ安定していなかったんだな。『これがリ ンゴか?』なんて、びっくりされたくらいだ。あち こちの市場へ持っていっだけど、見向きもされな かった。  なんとか、このリンゴを売る方法はないかと考え ました。生活することが出来て初めて、無農薬でも リンゴは育てられるんだと言える。生活出来ないよ うじゃ、誰も真似しようと思ってばくれないものな。 自己満足で終わるわけにはいかない。実を言えば、 リンゴがなるようになるずっと前から、そのことは 考えていたの。やっぱりお客さんに直接買って貰う のがいちばんいいと思っていました。スーパーには、 見かけのいい、綺麗なリンゴしか並べてくれない。 だけど、大きさが不揃いでも、見かけは綺麗じゃな くても、無農薬のリンゴが食べたいというお客さん はきっといるはずだって。どうしたらそういうお客 さんのところに、自分のリンゴが届けられるのか。 その方法がわからなかった。それでリンゴがなるよ うになってから、二年目だったか三年目だったかに 大阪へ行きました。なんで大阪かって? 食は大阪 にありって言うでしょう。本物の食べ物の良さをわ かってくれるのは、大阪の人だろうと思っだの。笑 わないで下さいよ。宣]剣だったんだから。とにかく 大阪へ行って、道端でもどこでもリンゴを並べて売 ろうと思っだの。なんのあてもなかったけどな。あ ははは、破れかぶれとはあのことだ」  弘前発大阪行きの列車は、朝の早い時間に大阪駅 に着いた。  リンゴはすでに送ってあった。大阪に知り合いな どいないから、受取人を木村秋則にして大阪駅に直 接リンゴ箱を送りつけたのだ。  無茶な話だが、もちろんこの人にそんな常識は通 用しない。  駅事務所で自分のリンゴはどこかと尋ねると、駅 員が目を三角にして怒り出した。  「あのリンゴ、あんたが送ったの?」  駅員の後をついて行くと、通勤ラッシュで混雑し た駅の片隅に木村の送ったリンゴ箱がうずたかく積 まれていた。  「こんなことされたら困るんだよ」  駅員はカンカンだった。  「私は青森でリンゴを育てていまして。これは無農 薬、無肥料で栽培した……」  話はろくに聞いてくれなかったけれど、木村がお ずむずと差し出したリンゴは受け取ってくれた。リ ンゴというには、あまりにも小さかった。その小さ さに興味を惹かれたのかもしれない。そのまま皮ご とかぶりつく。無農薬という言葉だけは、聞き漏ら していなかったらしい。途端に表情が和らいだ。  さっきまで怒っていた駅員が笑っていた。  「だけど、あんたこのリンゴどうするつもり?」  「もし出来れば……」  駅のどこかで売らせて貰えないだろうかと、木村 は切り出した。駅員の笑顔につられたということも ある。駅員は首を横に振った。いくらなんでもそれ は無理だ。いきなり荷物を送りつけ、駅で売らせて 貰えないかなんて。そんなことを許したら、大阪駅 が物売りであふれてしまうと駅員は言った。  木村は肩を落とした。ここまで来て、他にあてな どないことに気がついた。すでに九〇年代に入って いた。大阪の街もバブル期を通過して、大きく様変 わりをしていた。街には近未来的なビルが建ち並び、 最先端のブランドーフアッションに身を固めた人々 が行きかっている。自分だけが昭和三〇年代から夕 イムスリップして来たような気分だった。  この混雑したよそよそしい都会のどこに、リンゴ をおかせてくれる場所があるだろう。  物見高い大阪の大が、いつの間にか小さな人垣を 作っていた。  積み上げられたリンゴ箱の前でうなだれる男と、 食べかけの小さなリンゴを片手に困り顔の駅員。何 か起きているのか、知りたくなるのが人情というも のだ。 「あんた大阪城へ行けば?」  見物人の一人が助け船を出した。 「なんや知らんが、大阪城の公園に食いもんの屋台 がぎようさん出てるらしいで。そのリンゴも売らせ て貰えるんとちやうか」  「そや、それがいい。食のイベントとか言うてた な」  何人かが、異口同音に賛同の声を上げる。  駅員は肩の荷を下ろして、ほっとした顔をしてい た。どこかから台車を運んで来て、これを貸すから 是非そうしろと勧める。  渡りに船とはこのことだ。もちろん木村に否やは ない。  台車にリンゴ箱を積んで、意気揚々と大阪城公園 に運んだ。一時間以上はかかったはずだが、あっと いう間に着いた気がした。  イベントの責任者に話をすると、今から会場内に 出店するのは無理だが、入場口の手前のスペースな ら空きがあると言う。すでに何人かの農家が、テン トの下に朝摘みの野菜や果物を並べて売っていた。  奈良で柿を作っているという農家の隣が、木村に 与えられた場所だった。その見事な柿と比べるまで もなく、木村のリンゴはいかにもみすぼらしかった。 色や形の良いものを選んだつもりだが、並べてみる とかなり傷物が目立った。それになにより小さかっ た。  イベントに訪れる人の数は少なくなかったが、木 村のリンゴには目もくれない。立ち止まってくれる 大も中にはいたけれど、リンゴのあまりの小ささに 興味を惹かれたというだけのことだった。  「これほんとにリンゴなん?」  「農薬も肥料も施さないで出来たリンゴです。小さ いけど……」  とっておきの売り文句のつもりだったが、反応は 冷ややかだった。その小さな果物がリンゴだという ことを確認すると興味を失ったらしく、さっさとそ の場を去って行く。出来損ないたと思われたのだろ  柿売りの農家と目があった。気の毒そうな顔をし ていた。思わずリンゴを差し出した。  「小さいけど……、旨いんですよ」  物々交換しようということになって、木村は柿を 貰った。美味しい柿だった。  夕方まで声を嗄らして無農薬無肥料をアピールし たけれど、リンゴはちっとも売れなかった。ほんの 数人が買ってくれただけだ。買ってくれただけで嬉 しくて、用意しておいた紙袋に、詰められるだけリ ンゴを詰めてやった。  それでも大阪駅から大汗をかいて運んだリンゴが 一〇箱、ほとんどそっくりそのまま残った。リンゴ を青森へ送り返したくても、運送代もなかった。ク ルマで来ていた柿売りの農家に、良かったら全部 貰ってくれないかと声をかけたら、喜んで引き受け てくれたのだけが救いだった。  弘前までの帰りの旅は、うんざりするほど長かっ た。大阪へ来るときの意気揚々とした気分は、もの の見事にしぼんでいた。運送代が出ればいいと思っ ていたから、リンゴは思い切り安くした。一個、六 〇円。それでも、買って貰えなかった。  加工業者に出荷するだけでは、とてもやっていけ ない。リンゴが売れなければ、畑が維持出来ないの だ。  今度ばかりは、リンゴの木に頭を下げてもどうし ようもない。なにしろ相手は人間なのだ。そして人 間を相手にすると、木村はからきし不器用だった。  二〇代でリンゴ作りを始めた木村が、すでに四〇 歳を過ぎていた。リンゴの花が咲いたときは、世界 の頂上に登り詰めたような気がしたものだ。誰にも 出来なかったことを成し遂げたのだという、静かな 高揚感で胸が一杯になった。けれど、そのリンゴが 人に見向きもされなくては、話にならないじやない か。自分のやってきたことが、間違っているという ことなのだろうか。  鬱々とした気持ちを抱えて、木村は畑に向かった。  リンゴの木々は、冬支度を始めていた。  役目を終えた葉が、紅葉していた。もうじき葉が 落ち始めるだろう。  他の畑では見られない景色だ。  農薬や肥料を使っている畑は、どういうわけかは とんど紅葉しない。冬に入っても、くすんだ色の葉 が木に残っていた。  自然という意味では、きっと自分の畑の姿が正し いのだ。自然の畑で出来る自然のリンゴが、人に見 向きもされないとはどうしたことなのだろう。  紅くなった葉が一枚、ひらひらと草むらに落ちた。 「お前は間違ってない」  そう言われた気がした。  心が少しだけ軽くなった。  その通りだ。間違ったことはしていないのだ。  世の中に受け入れられるかどうかは問題ではない。 それは、世の中が決めることだ。自分はこの道を行 けばいい。あとは野となれ、山となれだ。   一通の手紙が届いたのは、何週間か経ってからの ことだった。紙袋が破けるほどリンゴを詰めて渡し た客の一人からだった。  「あんな美味しいリンゴは食べたことがありません。 また送って下さい」  手紙にはそう書かれていた。     M]  「まあ、そういう感じで、ほんとに少しずつでは あっだけど、私のリンゴを買ってくれるというお客 さんが増えていったのな。あの時のリンゴはどうい うわけかすごく甘かったんだよ。今よりもずっとな。 甘いなんてもんではなかったな。ナイフで切るとさ、 切ったリンゴがナイフにくっついてくるほどであっ た。なんでだろうな。リンゴの木が、ちょっとだけ、 私を手助けしてくれたのかもしれないな。でも、あ んなリンゴをよく買い続けてくれたものだと思うよ。 最初の頃は畑の状態も安定していなかったから、リ ンゴに甘みがのらない年もあったの。傷物も、虫喰 いも多かったと思うんだけどな。『甘くないから、 リンゴに塩つけて食べた』つて、手紙が来たことも あったよ。あの時代を乗り越えられたのは、とにも かくにもお客さんたちのおかげた。甘くなくても傷 があっても食べるから、頑張ってくれって。私を支 えてくれたのな。リンゴの実をならせるのはリンゴ の木で、それを支えているのは自然だけれどもな、 私を支えてくれたのはやっぱり人であったな。  考えてみればよ、カマドケシだ、バカだと、周囲 から白い目で見られたのも事実だけれど、そういう 時でも味方をしてくれる人はいたのな。私か電気代 とか水道代が払えないときにこっそり払ってくれて いた友達もいたし、スクラップ屋の人もそのうち代 金を取らないようになっだの。『これ持ってけ』つ て、程度のいいエンジンとかを取っておいてくれた りな。お金を借りていた銀行の支店長も、利息だけ でも払おうと思って私かお金をかき集めて行っても 受け取らないことがあった。『それ払ってしまった ら生活費がなくなるだろう』つて言ってな。税務署 にも赤紙は貼られたけどな、課長さんは『いつかあ んたの時代が来るから』つて、ずっと励ましてくれ ていたしな。リンゴがなるようになってからは、隣 の畑の持ち主が、私の畑との境にある自分のリンゴ の木を全部切り倒してしまったんだよ。この人は、 私にリンゴの花が咲いたことを教えてくれた竹谷銀 三さんの息子の誠さんなんだけど、『木村さんの畑 に自分の撒いた農薬が少しでもかかったら、無農薬 が台無しになる』つて言ってな。地元のフランス料 理店のシェフ、山崎隆さんが私の畑に来てさ、少し でもリンゴが売れるようにって、私のリンゴを使っ た料理を考えてくれたりな。いろんな人が支えに なってくれたから、私もなんとかかんとかやって来 られたんだよな。リンゴがならなかったときは、と てもそんなことまで考える余裕はなかったんだけど な、少しずついろんなことが上手くいくようになっ て、だんだんそういうことがわかるようになった。  リンゴの木が、リンゴの木だけでは生きられない ようにな、人間もさ、一人で生きているわけではな い。私もな、自分独りで苦労しているようなつもり でいだけどよ、周りで支えてくれる人がいなかった ら、とてもここまではやって来られなかった。木村 の家のお袋も親父も、リンゴがなるようになってか ら間もなく亡くなりました。『まさかここまでやる とは思わなかった。二、三年で諦めると思って た』つて、親父は笑っていたけどさ。ほんとに、苦 労のかけ通しであったからな。華岡清州という人の 伝記を読んだとき、ああこれは私と同じだなと思い ました。あの大は麻酔薬の実験のために、自分の母 親と女房をいわば犠牲にしたんだよな。それで囗本 に麻酔技術が普及したわけだけれど、はたしてあの 人の母親と奥さんは、それで幸せであったのかとな。 幸せであってくれたらいいなとな、そのことを今も よく考える」  木村の畑の姿は、その後も刻々と変化していった。  大豆は岩木山に登ったあの年から五年目に播くの をやめた。根に根粒菌がつかなくなったからだ。最 初の年は、大豆の根に根粒菌の棲み家になる粒々が びっしりついていた。二年目、三年目と年を追うご とに、その粒の数が減った。土壌に窒素が不足して いれば、大豆は根に根粒菌を共生させて窒素分を補 給する。根粒菌の働きで土中に窒素分が増えるにし たがって、逆に根粒菌の活動が抑制されるのだろう。 五年目に根粒菌がつかなくなっだのは、畑の土壌に 十分な窒素が行き渡ったからに違いない。自然は無 駄なことをしないのだ。その証拠に、根粒菌の数に 反比例してリンゴの木は元気になった。  リンゴの木だけでなく、畑全体が元気になったと 言った方がいいかもしれない。  雑草も虫も、種類が圧倒的に増えていた。土壌や、 幹や葉の表面に棲息する菌類まで含めれば、畑の生 き物の種類は何千種にも達したに違いない。何千種 類の生物が、たがいに競争したり、依存したりしな がら、生態系というひとつの織物を織り上げていっ た。  大豆の姿が畑から消えると、湿気を好む草が勢力 を伸ばすようになった。その草の優位が何年か続い た後には、また別の種類の草の天下がやって来た。 万華鏡を回すように、季節ごと、年ごとに、種々の 草の生長が畑に描く模様が変わっていった。  虫たちの世界にも、同じようなことが起きた。葉 が繁るようになって、(マキムシやシャクトリムシ が以前にも増してはびこるようになると、今度はそ の(マキムシやシャクトリムシを餌とする昆虫が目 立つようになった。  花が咲いて、毎年収穫ができるようになってしば らくすると、畑に膨大な数の蜂がやって来た。オオ スズメバチ、キイロスズメバチ、アシナガバチ、 トックリバチ……。様々な種類の蜂が、リンゴの木 やその根元の地面に巣を作った。一時期は一本の木 に、まるでリンゴがなるように、何十もの蜂の巣が 下かっていた。「ちょっとした前衛芸術のようで あったな」と、木村は笑うけれど、ざっと計算して も畑全体で何千もの蜂の巣があったことになる。蜂 があまりにも多くて畑に入れなくなったこともある らしい。その蜂の巣を落として割ると、(マキムシ やシャクトリムシがぎっしり詰まっていた。  蜂の大発生は、三年間続いた。同時にリンゴ畑か ら害虫が姿を消した、ということになれば話として はわかりやすいのだが、自然は一筋縄ではいかない。 四年目、蜂の巣は畑のところどころにチラホラと残 るという程度にまで減っていたのだが、木村の印象 では(マキムシやシャクトリムシの数が目に見えて 減るというほどではなかった。自然の生態系が保た れている場所では、肉食動物が草食動物を食い尽く してしまうことはないのだろう。  おそらくそこで起きたことは、ある種の自然界の 綱引きなのだ。台風という空気の渦に周囲から猛烈 な風が吹き込むように、畑の生態系に何かが起きて、 その目に見えない空隙に大量の蜂が命を育む余地が 生じたのだ。台風が北へと進むうちに気圧差が解消 されて風が弱まるように、その空隙がまた別のもの で満たされて蜂の数は減った。  そういう綱引きは、たとえば土中のような畑の目 立だない場所でも起きていたに違いない。綱引きが 繰り返されるごとに、畑の生物相は豊かになった。 一種類の生物が占めていた場所に、何種類もの生物 が入り込むことになるからだ。多種多様な生物が棲 むようになって、畑の生態系はより弾力のある安定 を獲得する。一本の綱引きではなく、何百、何千の 綱引きが、畑のあらゆる場所で行われれば、全体と して大きくバランスを崩す可能性はそれだけ柢くな る。繰り返し打ち寄せる波が海岸の地形を変えるよ うに、多様な生物の営みが畑の生態系をより柔軟で iくII ノ 強靭なものに変えていったのだろう。  もっともそこは畑であって、自然の野山ではない。 木村が自然を観察したのは、リンゴの木を育てるた めだ。いうなればドングリの木の強靭さを、リンゴ の木に与えようとしたわけだ。そのためにはリンゴ の木と畑の生態系を調和させる必要があるわけで、 それが木村の重要な仕事だった。  たとえば、秋の草刈りだ。木村は「リンゴの木に 秋を教えるために草刈りをする」と言う。岩木山か ら帰ってからずっと雑草は生え放題にしていたけれ ど、何年かそれを続けるうちに、秋まで草を生やし ておくと、リンゴの実が赤くなりにくいことに木村 は気づく。雑草が断熱材の役割を果たして、気温が 下がっても地面の温度が下がらない。それが原因な のではないかと考えて、ある秋、試しにリンゴの木 の周囲の雑草を刈ってみると、リンゴの色づきが良 くなった。それ以来、秋の初めに一度だけ畑の雑草 を刈ってみるようになったのだ。  蜂の大発生が終息してからは、リンゴの木にバケ ツを下げるようになった。バケツの中には、リンゴ を発酵させて作った液体を水で希釈したものが入っ ている。これをリンゴの木に下げておくと、多い時 には一晩にI〇〇匹もの蛾が水に浮かんでいる。い うまでもなく、この蛾はシャクトリムシや(マキム シ、ケムシなどの親である。発酵したリンゴに蛾が 群がるのを見て思いついたことだ。蛾の行動を観察 した結果、バケツの色を赤や黄などの暖色系にして、 バケツを下げる高さを人間の目の高さ程度にすると、 蛾が入りやすいこともわかった。蛾はちょうどそれ くらいの高さを飛ぶことが多いのだ。  もちろん農薬のように、害虫を殺し尽くすことは できない。それでも手作業で虫やその卵を取る手間 を、かなり省くことが出来た。毎年、根気よくバケ ツを下げ続けているうちに、(マキムシやシャクト リムシの数が徐々にではあったが、確実に減って いったのだ。  枝の剪定も、木村は独特の方法で行っている。果 樹の栽培において、枝の剪定はきわめて重要な意味 を持つ。枝の切り方で樹形、すなわち木の形が決ま る。その樹形が、果実や葉のつき具合、囗の当たり 具合や、さらには病気や害虫の発生にまで深い影響 を与えるのだ。明治時代のリンゴ農家が、病気や害 虫にさんざん苦しめられたのは、農薬がなかったと いうだけでなく、この剪定技術が確立していなかっ たからでもあった。  木村はリンゴの葉の葉脈を見ながら、枝の剪定を する。葉脈の形と、リンゴの木の根の張り方が一致 しているからだと言う。葉脈を見て根の張り具合に 合わせて枝を切れば、それがリンゴの理想的な樹形 なのだ。斷っておくけれど、これはあくまで木村の 方法で、他の果樹農家が聞いたら目を丸くするに違 いない。そもそも、リンゴは接ぎ木なのだ。根は台 木のカイドウの根で、葉はそこに接ぎ木したリンゴ の葉だ。その根と、葉脈の形がなぜ一致するのだろ う。もっとも、木村に言わせれば、なぜかと問うこ とは自分の仕事ではないということになる。根を観 察し、葉を観察して、そうだと直感したのだ。そし て大切なことは、その直感に従って剪定するように なってから、リンゴの木が以前にも増して豊かに葉 を繁らせ、より大きな果実をつけるようになったと いうことだ。  「私は百姓だからな」と木村は言う。近所の誰かが いみじくも言ったように、木村は学者ではないのだ。 もし学者なら、たとえばリンゴの木につく一種類の 虫の生態を研究するだけで一生を終えることもでき る。「だけど、それじゃ百姓は出来ないんだ。百姓 は百の仕事という意味なんだよ。百の仕事に通じて いなければ、百姓は務まらないのさ」と。  これは木村の皮肉ではない。一匹の虫の研究が、 世紀の発見につながることもあるわけだ。もちろん 実際には、一種類の虫の研究が一種類の虫の研究で 終わってしまうことの方が多いのかもしれない。そ れでも、その研究は無駄ではない。無数の石を積み 重ねてピラミッドが出来ているように、誰も知らな い小さな発見の積み重ねが、文明という人類の創造 した巨大な構造物を支えているのだ。そんなことは、 木村もよく知っている。  けれど、そんなやり方では「百姓は務まらない」 のもまた事実なのだ。  リンゴの木が一年を通じて土壌から吸い上げる水 の量がどのように変化するか、その根元に生える草 がどの時期にどの程度の養分を土壌から奪っている か、上中にはどういう細菌がいてどんな働きをして いるか、交信攪乱剤は畑に集まる蛾の生殖活動をど の程度阻害するか、今年の冬の天候と来年の夏の天 候がどう関係しているか……。  木村から聞いた話を、すべて書き記すには、とて も一冊や二冊の書物では足りない。実を言えば、木 村を取材するために、何人かの専門家に話を聞いて いた。農業の専門家もいれば、生態学の研究者もい る。その取材で得たどんな最新の知識を披露しても、 木村にはかなわなかった。およそリンゴ栽培に関す ることで、木村の知らないことは何もないのではな いかとすら思う。驚くべきことに、そのほとんどす べての知識を、木村は自分の畑での作業から得てい たのだ。  木村の畑のことが、徐々に研究者の間に知れ渡る ようになっていた。農薬を使っていないリンゴ畑は、 ある種の研究者にとっては宝の山のようなものなの だ。たとえば害虫の研究者にとって、彼の畑は害虫 のまたとない採集場所だった。リンゴの病気の研究 者にとっても同じこと、人エフェロモンの効果を試 すにも、農薬を使っていない木村の畑は得難い実験 場だったというわけだ。  そういう研究者や専門家の助けがあったのも事実 だけれど、それにしても木村はそのすべてを自分の 目と手で調べ尽くしていた。自分の畑をフィールド にして、学者も顔負けの研究を続けてきたと言って もいい。  木村が学者と百姓の違いをことさら強調するのは、 皮肉でも謙遜でもなく、方法論の違いを言っている のだと思う。  自然を細切れに分解して理解しようとするのが自 然科学の、つまり学者の方法論だとするなら、自分 がなすべきはその正反対のことだと木村は言いたい のだろう。  自然は細切れになど出来ない。それは、木村があ のドングリの木の根元で悟った重要な真理だった。 自然の中に、孤立して生きている命など存在しない。 自然をどれだけ精緻に分析しても、人はリンゴひと つ創造することは出来ないのだ。バラバラに切り離 すのではなく、ひとつのつながりとして理解するこ と。科学者がひとつひとつの部品にまで分解してし まった自然ではなく、無数の命がつながり合い絡み 合って存在している、生きた自然の全体と向き合う のが百姓の仕事なのだ。だから、百の仕事に通じな ければならない。  これは言葉で語るほど簡単なことではない。何か を理解するときに、物事を分析的に見るのは、人間 の癖のようなものだからだ。だから木村も、リンゴ の幹の導管をインクで染め、電気抵抗を計って、水 分の移動量を分析したりする。ただ、彼はそういう ことをして得た知識を、自分の直感によってリンゴ の木の世話に結びつける。それが正しいか正しくな いかは、一流の学術誌に掲載されるかどうかではな く、リンゴ畑の姿で、リンゴの木がどれだけ良い果 実を実らせるかで決まる。  リンゴが彼の学術論文であり、唯一無二の業績な のだ。  だからそういう意味では、自分が学者ではなく百 姓だと言うのは、彼のひとつの哲学のようなものな のかもしれない。本物の百姓であることで、彼は自 然科学というものの限界の向こう側へ辿り着こうと しているのだと思う。  一九九一年の秋に青森県を台風が直撃して、リン ゴ農家が壊滅的な被害を受けたことがある。大半の リンゴが落果しただけでなく、リンゴの木そのもの が風で倒れるという被害まで被っだ。県内のリンゴ の被害額だけでも七四二億円にのぼる。ところが、 木村の畑の被害はきわめて軽かった。他の畑からリ ンゴの木が吹き飛ばされて来たほど強い風を受けた のに、八割以上のリンゴの果実が枝に残っていたの だ。リンゴの木は揺るぎもしなかった。根が普通の リンゴの木の何倍も長く密に張っていたというだけ でなく、木村のリンゴは実と枝をつなぐ軸が他のも のよりずっと太くて丈夫に育っていたのだ。  畑の姿は一年ごとに変化を見せながら、リンゴの 生育にとって理想の状態に近づいていった。かつて あれほど大量に発生した(マキムシは、二〇〇〇年 を過ぎた頃からどういうわけかまったく姿を見せな くなった。だからこの数年間は、発酵リンゴを入れ た例のバケツは下げていない。もちろん、手首に買 い物袋を下げて虫取り作業をする必要もない。斑点 落葉病や黒星病が葉につくことはあるが、ごく少数 の葉や実を冒す程度で終わる。病気が発生しても、 畑に広まらないのだ。  農薬を散布していないのに、なぜそういうことが 起きるのか。  おそらく最大の理由は、畑に余分な栄養分が存在 していないからだろうと木村は言う。  この栽培を続けてきて、木村が発見したことがあ る。  それは、肥料というものは、それが化学肥料であ れ有機肥料であれ、リンゴの木に余分な栄養を与え、 害虫を集めるひとつの原因になるということだ。肥 料を与えれば、確かにリンゴの実は簡単に大きくな る。けれど、リンゴの木からすれば、安易に栄養が 得られるために、地中に深く根を張り巡らせなくて もいいということになる。運動もロクにしないのに、 食べ物ばかり豊富に与えられる子供のようなものだ。  現代の子供たちに、免疫系の疾患が増えているこ とは周知のことだが、肥料を与えすぎたリンゴの木 にも似たことが起きるのではないか。その結果、自 然の抵抗力を失い、農薬なしには、害虫や病気に勝 つことが出来なくなるのではないかと木村は言う。  他の畑のリンゴの木の根の長さは、せいぜい数 メートルというところだ。けれど畑に雑草を生やし、 肥料を与えていない木村の畑のリンゴの木は、調べ てみると二〇メートル以上も根を伸ばしていた。地 上の枝や葉を見ればさほどの違いはないが、地下の 根を見れば、まるで別の生き物である。そのことと、 病気や害虫が蔓延しなくなったことには間違いなく 関係がある。  もっとも、ただ肥料を与えなければ、そうなると いうわけではない。そんなに簡単なことですむなら、 木村があれはどの苦労をすることもなかった。  ひとつだけ言えるのは、こうすればああなるとい う、一対一の因果関係ではないということだ。害虫 が姿を消したのも、病気が蔓延しなくなったのも、 原因はひとつではない。  肥料は化学肥料も、有機肥料も与えない。リンゴ の根を傷める原因となる農業機械は一切畑に入れな い。畑に雑草を生やして、土を自然の状態に近づけ る。土壌に窒素が不足していれば、大豆を播く。秋 には一回だけ、草刈りをする。病気の発生の兆候を 見極めて、頻繁に酢を散布する。害虫が増え始めた ら、発酵リンゴの汁を入れたバケツを木に下げる。 葉脈を見ながら、リンゴの木を剪定する……。  理由を探すなら、木村が今までやってきたことす べてが理由ということになる。その結果として、リ ンゴの木は普通では考えられないくらい丈夫になっ た。そして、農薬や肥料の助けがなくてもリンゴが 実るようになったということなのだろう。  農薬や肥料のかわりに、木村は自分の目と手を使 い、生態系という自然の摂理を生かして、リンゴを 育てていると言ってもいいかもしれない。  つまり木村の畑は、自然とリンゴの木と、それか ら木村という人間の合作なのだ。  三〇年の歳月をかけて、木村はそういう畑を作り 上げた。  木村に言わせるなら、自分はリンゴの木の手伝い をしただけだ、ということになるのだろうけれど。  そして、リンゴの木はとびきり美味しい実をつけ るようになった。  外見はごく普通だ。  それほど大きいわけではない、形は少しばかり歪 んでいるし、小さな傷もある。  少なくとも外見は、デパートの地下食品売り場に 並ぶような一級品ではない。その何の変哲もないリ ンゴに初めて齧りついたとき、不覚にも涙をこぼし そうになった。  もちろん、先入観があったことは認めよう。  リンゴを頬張りながら、木村が三〇年間にわたっ て経験しなければならなかった、数限りない苦労の ことを思い出していたのは事実だ。  けれど、涙の理由はそれだけではない。  そのリンゴは、信じられないくらい美味しかった のだ。  あまりにも美味しいものを食べると、人は涙を流 すのだということをその時初めて知った。一口頬 張った瞬間に、大袈裟ではなく、自分の全身の細胞 が喜んでいるような感じがした。  「これだ’・ これだ’・ これだ’・」  細胞という細胞が、そう叫んでいるような気がし た。  甘さとか、酸っぱさとか、香りとかの話ではない。  もちろんそのリンゴは、そういう要素もひっくる めて美味しかったのだけれど、それ以上の何かがそ のリンゴには充ち満ちていた。  その何かを言葉で説明するのは難しい。  無理矢坪言葉にするなら、生命とでも表現するし かないもの。  あるいはこの世に生きる喜びの、エッセンスとで も言うべき何かが、そのリンゴには充満していた。  母親と引き離されて育った赤ん坊が、初めて母の 胸に抱かれたとき、いったいどんな顔をするだろう か。きっと、泣くんじやないかと思う。泣きながら、 夢中で母親の胸に顔を埋めるんじやないか。  リンゴを食べながら、そんなことを考えていた。  ふと気がつくと、手の中に残っていたのは、リン ゴの種だけだった。リンゴの芯まで食べていたのだ。 そのことに気づかぬほど、芯まで美味しいリンゴ だった。  最後に蛇足を書く。  木村のリンゴがなぜそんなに美味しいのか。  そのことにはたぶん、合理的な説明がつけられる。  ワインの善し悪しを語るときに欠かせないテロ ワールという言葉がある。大地の香りとでも訳せば いいだろうか。ブドウの育つ土地の地質学的性格が、 ワインの味や香りに深い影響を与える。この土地に 由来するワインの特徴を、テロワールと呼ぶのだ。  このテロワールということで言うと、肥えた畑よ りむしろ痩せた上地に育ったブドウが極上のワイン になることが少なくない。乏しい養分を求めて、ブ ドウの根は地中深くまで張り巡らされる。その結果 として、ブドウは土壌中の様々な微量の元素を取り 込み、香りや味がより複雑で奥行きのあるものにな るというわけだ。  台風でもびくともしないほど、太く長い根を地中 に張り巡らせた木村のリンゴにも、同じことが起き ている可能性は十分に考えられる。  肥料という人工の栄養で育ったリンゴに比べて、 木村のリンゴがより複雑な香りや甘みを備えている のは、そう考えてみれば不思議でも何でもない。そ れはたとえば、天然の鯛と養殖の鯛の味が違うのと 同じことなのだろう。  ただ、ひとつだけ不思議なことがある。  枯れかけていたリンゴの木の一本一本に、木村が 「枯れないでくれ」と頼んで回ったときの話だ。  実を言えば、木村はすべてのリンゴの木に声をか けたわけではない。隣の畑や道路との境に面してい るリンゴの木には声をかけずにすませてしまった。 さすがの木村も、リンゴの木に話しかける姿を、周 りの農家に見られたくなかったのだ。  木村の頼みにもかかわらず、枯れてしまったリン ゴの木は少なくない。畑のあちこちでリンゴの木は 枯れていた。  その枯れたリンゴの木を調べていて、木村は奇妙 なことに気づく。  どのリンゴの木が枯れるかはランダムで、場所に よる規則性のようなものはもちろんなかった。強い リンゴが生き残り、弱いリンゴが枯れたのだろう。  ところが、例外がひとつだけあった。ドミノを倒 したように、その一列のリンゴの木だけは全滅して いた。  木村はそのことを今も深く後悔している。      丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶  木村が声をかけずにすませたリンゴの木は、一本 残らず枯れてしまっていたのだ。     エピローグ  ニ〇〇七年八月−。  岩木山山麓のリンゴ畑に木村はいた。  畑の中には微かに酢の匂いが漂っている。午前中 に酢を散布したらしい。  鬱蒼と繁るリンゴの葉の向こうで、木村は例の脚 立に腰掛けて作業をしていた。地面を見下ろすと、 大地が割れて断崖絶壁に座っているように見えたと いうあの脚立だ。  なんとなく金属製の無骨な脚立を想像していたの だが、木村が座っているのはよく使い込まれた温か みのある木製の脚立たった。脚立の下に妻の美千子 がいて、なにやら愉しげに話をしている。  邪魔はしたくなかっだけれど、木村に見せたいも のがあると言われていた。 「これ、この葉っぱ見てよ。丸く穴があいているで しよう。何だと思います?」  木村は、一枚の葉を手にしていた。確かに葉の中 央に穴があいている。虫に喰われたのだろうか。そ う言うと、木村は嬉しそうに首を横に振った。  「違うの。これはリンゴが自分であけた穴なの。い や私も、最初は虫かなと思って見過ごしていたんだ。 だけど、どうもこんな葉の喰い方をする虫はいない。 長年、不思議には思っていたんだけどもな。ある時、 この穴のあいた葉っぱのそばに、斑点落葉病特有の 茶色い病斑がついた葉を見つけたのな。あれっ、と 思った。それで、その病斑がどうなるか見ていてや ろうと思ったわけ。そしたらさ、病気に冒された部 分が、カラカラに乾燥していった。葉っぱがそこだ け水分の供給を絶って、病気を兵糧攻めにしている みたいに見えたな。そのうち、病斑部がぽろりと落 ちて、穴があいたというわけだ。それだけではない んだよ。この穴があいてから、葉っぱの横について いる小さな葉がどんどん大きくなっていっだの。 葉っぱを失った分を、補っているわけだ。スヶIル で計ったんだけど、穴の大きさと葉っぱが大きく なった分かほぼ同じであったな。穴がもっとたくさ んあいて、それでは補えなくなると、今度は枝の先 に新しい葉っぱを出すんだよ。畑に堆肥をやってい た頃は、病気になってもこんな穴は出来ていなかっ た。この畑にはぎりぎりの栄養しかないから、リン ゴの木が元々持っていた自然の力が引き出されたん だと思うのな。知れば知るほどよ、自然というもの はなんとすごいものだと思う。  自然の手伝いをして、その恵みを分けてもらう。 それが農業の本当の姿なんだよ。そうあるべき農業 の姿だな。今の農業は、残念ながらその姿から外れ ているよ。ということはさ、いつまでもこのやり方 を続けることは出来ないということだよ。昔は私も 大規模農法に憧れたけど、その大規模農法地帯はど んどん砂漠化しているわけだからな。アメリカの穀 倉地帯も、昔のソ連の集団農場も、今どうなってい るか見たらすぐわかる。どんなに科学が進んでも、 人間は自然から離れて生きていくことは出来ないん だよ。だって人間そのものが、自然の産物なんだか らな。自分は自然の手伝いなんだって、人間が心か ら思えるかどうか。人間の未来はそこにかかってい ると私は思う。決して大袈裟でもなんでもなくな。 私に出来るのは、リンゴの木の手伝いをすることだ けだ。たいしたことが出来るわけじゃない。だけど それは人間の将来にとって、きっとためになること だって。これは少々大袈裟だけどもな、でも心の底 からそう思うようになったんだ」  ちっとも大袈裟ではない。飛行機を飛ばすよりも、 月面に降り立つよりも、人類の未来にとって大切な ことを木村は成し遂げたのだ。  リンゴの木にはまだ青い果実がたわわに実ってい た。収穫の季節は目の前だ。その平和な光景を眺め ながら、あらためて、ここだったのだと思う。  少年時代に兄とリンゴの木を植えたのも、四つの リンゴ畑の中でまず最初に無農薬にしたのも、銀色 に輝く人を見たのも、山ですべてを終わりにしよう と決めてロープを編んだのも、七つだけ花が咲いた のも、そして九年ぶりの満開を見たのも、この畑 たった。  この畑で、リンゴの木に向かい合い続けたのだ。 人々から揶揄され、馬鹿にされ、貧困に苦しみなが ら、それでもひとつの道を歩き続けたのだ。  ふと、こういう話は前にも聞いたことがあるぞと 思った。  海から遥か遠い場所で、その男は船を造った。洪 水なんて来るわけがない。世間の人は確かそう言っ て、男を嗤っだのではなかったか。それでもその人 は、自分の信じるところに従って、独りで船を作り 続けたのだった。  そしてその船に、男は地上のあらゆる動物を一対 ずつ乗せた。  農薬も肥料も施していないのに、なぜこの畑のリ ンゴの木は虫や病気に滅ぼされることがないのか。 その謎の一端は、少しずつ解明されつつある。  弘前大学農学生命科学部の杉山修一教授の研究に よれば、木村の畑の土壌やリンゴの葉の表面には、 他の畑の何倍もの微生物が存在しているのだそうだ。 白神山地の原生林と、木村のリンゴ畑の状態はよく 似ているらしい。昆虫や雑草の種類や数については まだ調べられていないけれど、きっと同じ結果が出 るはずだ。その多様な生き物たちの綱引きが、病気 や虫の異常な発生を抑制していることはおそらく間 違いない。  けれどこの話は、別の見方もできる。他の畑では 生きられない生き物たちを、木村はリンゴ畑という 名の船に乗せてやったのではないか。  いつか必ず来る、その囗に備えて……。  エジプトもメソポタミアもインダスも、古代文明 の繁栄した上地は、ことごとく砂漠化した。森林を 伐採し、破壊し尽くしてしまったからだ。現代人は 古代人の思慮の足りなさを笑うかもしれない。けれ ど、我々が笑っていられるのは、単に化石燃料を使 う技術があるからに過ぎない。森林が消えても平気 でいられるのは、まだ滅びていない遠くの森林から 木々を運ぶことが出来るからだ。ある土地が砂漠化 しても、また別の土地を畑にすることができるから、 何か起きようが知らないふりをしていられる。農薬 や肥料を与えなければリンゴが実らないのとまった く同じ意味で、現代人は農薬や肥料がなければ生き ていけなくなっているというのに、そのことの意味 を真剣に考える人は少ない。  いつまでもそんなことを続けられるわけがないの だ。  化石燃料が枯渇するのが先か、それとも環境が回 復不能なところまで破壊されてしまうのが先かはわ からないけれど、いずれにしてもそうなれば、農薬 や化学肥料が不可欠な現代の農業が破綻することは 目に見えている。  それがI〇〇年後なのか、あるいは三〇年後なの かはわからない。  それでも、大洪水はいつか必ずやって来るのだ。  「つまりこの畑は、箱船なんでしよう?」  唐突にそう言ったのだけれど、木村には意味がす ぐにわかったらしい。  「確かこう言うんだろ?」  両手を広げて聖者のようなポーズを作り、ある言 葉を呟いた。  それから愉快そうに笑った。  木村はこの何年間も全国を回って農業指導を続け ている。相手はリンゴ農家だけではない。米に野菜 にお茶、オリーブやマンゴーの栽培者までが、農薬 も肥料も施さない、より自然に近い農業に移行する ために、木村の助言を受けるようになったのだ。そ して木村の助言を受け入れた農地は、水田であろう が畑であろうが見違えるほど豊かになった。評判が 評判を呼んで、近頃では国内だけでなく、外国から も招かれて講演をしたり、農業指導をするように なった。  木村が本気だなと思うのは、米にしても野菜にし ても、無農薬無肥料の栽培で収穫が安定してくると、 次は出来るだけ価格を下げるようにとアドバイスし ていることだ。  木村の作ったリンゴも、その美味しさと稀少価値 を考えれば今の値段の五倍にしても売れるに決まっ ているのに、木村は絶対にそうしようとはしない。 出来ることなら日本中の人に、自分のリンゴを食べ て貰いたいくらいなのだ。  少なくとも、誰にでも買える値段でなければいけ ないと木村は思っている。  値段が高くても、買ってくれるというお客さんは もちろんいるだろう。  無農薬無肥料で農作物を栽培するのは手間もかか るし、農薬や肥料を使う農業に比べればどうしても 収穫量が少なくなる。出来るだけ高い値段で売りた いというのが、生産者としての当然の気持ちなのも よくわかる。  けれど、それでは無農薬栽培の作物はいつまで 経っても、ある種の贅沢品のままだと木村は言う。 無農薬作物が裕福な人のための贅沢品である限り、 無農薬無肥料の栽培は特殊な栽培という段階を超え られないのだ。  現状では難しいとしても、いつかは自分たちのや り方で作った作物を、農薬や肥料を与えて作った農 作物と競争出来るくらいの安い価格で出荷出来るよ うにする。  それが、木村の夢だ。  値段がそれほど変わらないということになれば、 世の中の多くの人が、無農薬無肥料の農作物を選ん でくれるに違いない。たとえば無農薬のリンゴと、 そうでないリンゴが同じ値段で売られていたら、た いていの人は無農薬リンゴを買うに決まっている。  そうなって初めて、普通の農家が本気で無農薬無 肥料で農作物を作ることを考えるようになる。それ がいちばん大切なことで、そのために木村は頼まれ ればどこへでも出かけて行って話をする。あれだけ 苦労して辿り着いたリンゴの栽培法にしても、求め られれば誰にでも惜しげもなく教えている。それを 自分の専売特許にしようなどとは夢にも考えていな い。数年以内には、木村の畑のように無農薬無肥料 で安定してリンゴを収穫出来る畑が、国内の何力所 かに出来るはずだ。  あんなに苦労をしたのだから、少しぐらいその苦 労から利益を得ようとしてもちっとも悪くないと思 うのだけれど、木村はそういうことにはまったく興 味を抱かない。今も相変わらず、歯は抜けたまま。 家の襖もずっと張り替えていない。  そんなことよりも大切なことがあると知っている からだ。  文明があまりにも進歩して、人間は自分たちの 根っこがどうなっているかを忘れてしまった。イン ターネットがどれだけ便利になろうが、携帯電話で 世界中と話が出来るようになろうが、毎日何かを食 べなければ大は生きてはいけない。生態学者に言わ せれば、人間は植物の寄生虫ということになる。農 業は人の命を支える根っこなのだ。  その根が枯れてしまったら、大は生きていけない。  そんなことは誰だってわかっているはずなのに、 根をこんなにも痩せ細らせてしまって平気な顔をし ているのが、現代人の偽らざる姿なのだ。  木村はそのことをあまり言わない。いつかわかっ てくれる囗が来ると信じ、名利も見返りも求めずに、 自分のなすべきことをただ黙々と続けている。  すごい人がいたものだと、心の底からそう思う。  リンゴの葉が風に揺れて、ざわざわと鳴った。  何の脈絡もなく、さっきの言葉を思い出す。  そう言われたときは鳥肌が立った。  冗談めかしてはいたけれど、木村は確かにこう呟 いたのだ。  「私の船に乗りなさい」      ○  その囗は夏の暑い囗で、弘前市内でも気温が三〇 度を超えていたけれど、木村の畑には涼しい風が吹 いていた。下界は暑いですよと愚痴を言うと、木村 が笑って「それならここで原稿を書けばいい」と勧 めてくれた。  というわけで、この本の大部分は木村の畑で書か れることになった。  草むらに座り、パソコンを広げると、リンゴの葉 が気持ちのいい陰を作ってくれた。  生え放題の雑草の海を、バックが跳ね、蜂が飛び、 どこかでカエルが鳴いていた。畑と言うよりは、野 山の眺めである。  シーボルトがこの畑を見たら、なんと言うだろう と思った。 *注記  本書では「農薬」という言葉を、取り扱いに専門 的な知識および注意義務を課せられた一般的な農薬 という意味でのみ使用し、現行の農業関係法規上で 特定農薬に指定されている酢については、本書の表 記上「農薬」の範疇には含めていない。  理由は大きく分けて二つある。  その第一は、法律が酢を特定農薬に指定するのは、 農作物の栽培において酢の果たす一定の効果を認め、 かつその安全性を保証することが目的であり、取り 扱いに専門的な知識および注意の必要な一般的な農 薬とは区別していること。  その第二は、農薬の使用について現在ではその問 題点が様々な方面から提起されているが、この場合 の「農薬」が食酢のような特定農薬を意味している わけではないことが明らかと思われるからだ。  したがって、本書における農薬という言葉の意味 するものは、あくまでも社会通念上(と著者の考え る)の「農薬」であって、法律の定義によるもので はないことを明記しておきたい。 石川拓治 *主な参考文献  『自然栽培ひとすじに』木村秋則著/創森社刊、 『わら一本の革命』福岡正信著/春秋社刊、『江戸参 府紀行』ジーボルト著斎藤信訳/東洋文庫/平凡社 刊、『日本奥地紀行』イザベラーバード著/平凡社 ライブラリー、『The Apple GrowerJ Michael Phillips 著/9elsea(yg刊、『科学革命の構造』トーマ スークーン著/みすず晝房刊、『果樹病害虫図説』 福田仁郎・北島博著/朝倉書店刊、『料理の起源』 中尾佐助著/NHKフックス、『天敵生物等に対す る化学農薬の影響評価法』日本植物防疫協会刊、 『栽培植物の起源と伝播』星川清親著/二宮書店刊、 『栽培植物と農耕の起源』中尾佐助著/岩波新書、 『栽培植物の進化』ギデオンーラディジンスキー 著/農山漁村文化協会刊、『農薬散布技術』日本植 物防疫協会刊、『農薬の科学』桑野栄一 ・田村慶 人・首藤義博編著/朝倉書店刊、『宇宙から見た日 本の農業』福原道一・今川俊明編著/養賢堂刊、 『青森県りんご協会60年史』青森県りんご協会刊 *プロフィール 木村秋則(きむら あきのり) 一九四九年青森県中津軽郡岩木町で農家の次男坊と して生まれる。高校卒業後、神奈川県川崎市のメー カーに集団就職するが、一年半で退職。以来、故郷 で農業一筋に暮らす。二〇〇六年にNHK「プロ フェッショナル仕事の流儀」に登場。現在、リン ゴ栽培のかたわら、国内外問わず飛び回り、講演や 農業指導を続けている。 石川拓治(いしかわ たくじ) 一九六一年茨城県水戸市生まれ、ノンフィクション ライター。著書に、『ぼくたちはどこから来だの?』 (マガジン(ウス)、『国会議員村長』(小学館)、『37 日間漂流船長あきらめたから、生きられた』(幻冬 舎文庫)などがある。 NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」 さまざまなジャンルで活躍中の一流のプロの「仕 事」と「生き方」を徹底的に掘り下げるNHK総合 のドキュメンタリー番組。二〇〇六年一月にスター ト。二〇一〇年三月まで脳科学者の茂木健一郎さん と住吉美紀アナがキャスターを務めた。 この作品は二〇〇六年匸一月から二〇〇八年六月ま で著者が木村秋則さんとその周辺を取材し、二〇〇 八年七月小社より刊行されたものです。