幸福なる人生_中村天風 −中村天風[心身統一法]講演録                 中村天風   まえがき  本書は、中村天風先生が在世中に収録された 講演テープをまとめて『中村天風講演録CD 「心身統一法 入門編」』として頒布されたもの をもとに、活字化したものです。  「心身統一法」は、天風先生が当時(明治おわ りから大正はじめ)死病と言われた結核の身を 冒して、人生何たるかを求めて欧米の有識者を 訪ね歩き、最後にインドのヨガの聖者に出会い、 ヒマラヤ山中で修行し感得された真理をもとに 創見された、人間として完全な人生に活きるた めの方法です。それは、人間が真理に基づいた 正しい生き方をすることによって、心と身体に 備えられている潜在能力をI〇〇%発揮し、病 気や困難を克服することができるという方法で、 われわれ普通の人間が日常生活を送りながら実 践できるものです。  私自身、通産省(現・経済産業省)の官僚で あった二十八歳のとき、結核に倒れ、人生のど ん底にあったときに天風先生に巡り合い、この 心身統一法を真剣に実践した結果、人生を切り 拓くことができました。それ以来どんなときに も心身統一法は我が人生の指針となり、現在も 喜びにあふれた充実した毎日を送っています。  本書は天風先生の言葉をそのまま極めて読み 昜く活字にしたもので、心身統一法の基本を系 統的、段階的に学べるものです。人生に迷い、 不本意な思いに毎日を送られている方や、人生 の目標を真剣に求められている皆様にとって、 必ずや価値高き人生への門を開く貴重な第一歩 となるものであると確信しております。  大自然との協調が人間の生き方として問われ る現在、森羅万象を創り出した宇宙の摂理に基 づいた心身統一法は、具体的な実践方法である と同時に、人間も自然の一部であるという歓び を感じることができる壮大な哲学でもあり、特 にこれから人生に乗り出す若い人々にとっては、 将来への確かな目的を見出すための指針ともな るべきものです。  ぜひ本書を座右に置かれて繰り返し読んでい ただき、人間として最も大事なことを悟り有意 義な人生を送っていただきたいと思います。  なお、CDの『中村天風講演録』では、天風 先生の力の籠ったお声を聴くことができます。 聴覚と視覚と両面から心身統一法を確実に身に つけられることを、さらにお勧めいたします。 二〇一一年十月   公益財団法人天風会理事長 尾身幸次 第一章 六つの力     −幸福な人生を生きるために  健康法・修養法・宗教にあらず  今晩初めて来られた方々に、天風会のあり方 と、天風会の教義であります「心身統一法」と いう方法が、一体どんな人生建設を目的として 組み立てられているかということをはっきりお わかりをいただこうがために、この講習会が催 されております。  すでに支部長をはじめとする方々の尊い体験 を基盤として説かれたお言葉から、もう私かあ えて詳しく説明する必要もないほど、天風会に ついておわかりになったことと信じますが、組 織の責任者として、私からも心身統一法という この教義が一体どんなものかということをわか りやすく説明してみたいと思います。  まず第一番に申し上げたいのは、心身統一法 という方法は、絶対に健康法でもなければ修養 法でもなく、さらにまた、宗教でもないという ことであります。  なぜこういうお断りを申し上げなきやならな いかというと、この方法の効果を見れば健康法 のようにも考えられるし、また修養法であるか のごとくにも見られます。さらにまた、宗教だ と断定されても、こういうことがあるからそう 断定するんだと言われたら、それは違うよとも 言えないものもあるんであります。  実際の話、一体それは何か目的で組み立てら れている方法かと初めての人に聞かれると、私 なら平気で答えますけれど、二年や三年ぐらい この教えを聞いて、この方法によって相当の効 果を人生に味わっている人も、率直に簡便に説 明する言葉に困るらしいのです。  わかりやすく申し上げりゃ、健康法じゃない よと言うにもかかわらず、病で長く苦しんでい た天が完全に治っちまうと、これは健康法だと 思いますよ。たとえば、喘息というのは医者の 薬じゃ治らない病ですが、どんなに重患でも、 三月我慢してここに来てりゃ治ってしまう。そ ういう人から見りゃ、これは健康法だと思いま すよ。誰が何と言ったって健康法だって。  それからまた、自分ながら自分の心の成り行 きにどうにも始末がいかないと困っていた天な どがこういうところへおいでになって、わずか な歳月の間に、知らない間に、自己の人格の内 容が陶冶された、このはっきりした事柄を直感 すると、「初めの囗に修養法じゃないと言った が、立派な修養法じゃないか」と、こう言いた くなるらしい。  明治時代に有名な言論家で、政治家で、実業 家であった井上角五郎という人がいます。お若 い人はご存じないかもしれないが、ご年配はみ んな等しく知っている人です。なぜよく知られ ていたかというと、非常におかしな顔をしてい た人なんです。あだ名が「カニ将軍」といわれ るくらいで、福井地方でとれます出雲ガニによ く似ている、あんなに生き写しっていう顔は珍 しいと思う。  この人、おじさんが真宗の坊さんで、六つの 年から二十五までそのお寺で育つだのだが、真 面目に仏教を信仰したのではでなく、初めから 仏教に飽き足らないものを感じていたために、 非常に研究したらしいんですよ。ですから、い わゆる仏教哲学には相当の薀蓄を持っていたん だ。また言論家としても有名で、衆議院におけ る永井柳太郎、貴族院における井上角五郎は、 言論界の双璧と並び称された。匸冐居士という 名もつけられていたが、何事につけ「囗言わず んば已むべからず」という人で、どんな正しい ことを聞いても、必ず「それはおまえ、そう言 うけれどもね」と言わずにおれない。もっとも、 あなた方のお友達にも一人や二人必ずいますが ね、こういうのは。  この大が、会員になったんであります。道を 求めて謙虚な態度で人生を考えようなんていう ような真面目な気持ちで会員になったんじやな いんですよ。兄弟で陸軍大将になって有名な大 迫尚敏という人の弟に、尚道という大がいる。 この尚道という大と井上という大が碁を打つ仲 間で非常に仲がよかったらしい。  ところが、この大迫大将というのが先にこの 天風会に入って、非常に感激した。それで、感 激のエクスタシーを井上角五郎さんにあるとき 話したんだな。そうしたら、井上角五郎が「そ の天風ってやつは幾つだ」と聞く。  「さあ、四十五、六かな」  「あのね、おまえは幾つだ。六十八にもなって 四十五、六の人間が言うことに感心するやっか あるか」  その時分、四十五、六だったんですよ、私。 生まれておぎやあとこうなったんじやないんだ から、あらかじめお断りしておきたい。  「おれは六十二だ。おまけに八宗兼学、仏教 はもちろん、今世界にありとあらゆる宗教のほ とんど全部を研究して、最後に得た結論として、 この世の中に本当に人間を救ってくれる方法な んかないっていうことがはっきりわかっている 人間だ。それをおまえ、救われた、救われたっ て言うけれども、救われたんじゃない、救われ たように思っているだけだろう。惚れた欲目も、 じゃんこもえくぼ。そのへんてこな男に、貴様 は惚れてんだ」  「惚れているか惚れていないか、おれにはよく わからないが、それじゃ、おまえ、とにかく 行って聞かねえか」  勧めるほうも、うまいこと言ったんですよ。  「おまえが行って聞いてみろ。それが偽者だっ たら、おれもすぐやめるからよ」  「ようし、なら、行ってやろう」  というわけで来た。今夜あたりも来てやしね えか、そんなのが。  それで、井上さんを連れて来たときに、大迫 さんが私にこういう断りを言った。  「ご承知でもござりましようけれど、なかなか 一筋、二筋、三筋の縄で結わえられるやつじや ございません。もうこれはきっとそうなること を覚悟して連れて参りましたが、講習がしまわ ない間にもう先生に議論を吹っかけるかもしれ ませんが、その点はあしからずお含みを願いた い」と。  「ああ、いいとも。どんなことを言っても、 知っている限りはお相手する」  そうして、一講習とにかく無事に済んだ。す ると間もなく大迫大将が私のところへ来て聞い た。  「いろいろ何か申しましたか」  「いや、何も言わない」  「おかしいな、あの男、断然そういう男じゃな いんですけれどもね。へえ1」  二月経った。また聞いた。「言わないね」。三 月経った。また聞いた。「言わないね」。結局、 六ヵ月黙っていた。六ヵ月目に、「これはね、 先生、よほどご用心なさらないといけない」と、 大迫大将。  「なぜたい?」  「あいつ、言わないでいるのは、溜めているん ですぜ」  つまり、一遍に爆発すると言うんです。今の ように原子爆弾なんてない時分だからね、「爆 裂弾のように」と、こう言いました。  「いいよ、いいよ。溜めときや、溜めておくほ どこっちも相手しいいから」  ところが、六ヵ月目に、まだ陸軍軍閥華やか なりしころ、九段・偕行社で陸軍の将官だけを 集めた集まりに呼ばれて講演することになった。 ちょうどその朝、取り次ぎが私のところに来て。 「お電話でございます」と言う。私、電話に直 に出るっていうことないんであります。ところ が「井上さんという人から、先生でなきやどう しても用が足りない。だから、先生に出てくれ とおっしやいます」と言うから、「井上といっ たってわかるか。井上だの、吉田だの、中村な んていうのは犬のくそみたいなものだ。井上誰 だか聞いてこい」と言ったら、また聞いてきて、 角五郎だという。「ああ、あのおやじか。よし よし、あれじゃ、おれが出なきや解決つかん わ」。それで私、電話に出た。  「天風だが」  「あっ、恐れ入ります、お呼び立ていたしまし て。きようはたしか九段・偕行社でご講演がお ありだそうで」  「ああ、ある」  「申しかねますが、お許しができますならば、 私に前講をご命じください」  「前講したいの?」  「はあ。六ヵ月承りまして、頂戴したものが多 分にございます。これを陸軍の将官連中、皆わ れわれと同じように、人生苦楽の歴史を繰り返 したような年輩ではありますが、案外人生とい うものを浅く考えておりますから、ひとつあそ こへ行って話をして聞かせてやりたいと思いま す」  「ああ、よかろう。やりたかったらおやり」  それで、まあ、電話が切れた。すると、一時 間ばかり経って、大迫さんから電話があった。  「先生、井上に前講をお許しになったんです か」  「ああ、したいそうだからね」  「とんでもねえ、あいつに許したら何言い出す かわかりませんぜ、先生。一応何を言うかって いうことをお聞き取りの上でもってイェスー ノーを決めてやっていただきたい」  「聞く必要ないよ。私か最初に出て、あの人が 後から出るんならちょいと困るけど、あの人が 私より前へ出る」  「え?」  「サギをガラスと言おうと、ガラスをサギと言 おうと、それは向こうの勝手だ。後から出た私 かみんなこれを訂正しちまうからいいよ」  「そうですか。だけど、失礼なこと言いやしね えかな」  「言ったっていいじやないか、向こうの囗で言 うんだもの。人の囗に戸は立てられない。言わ すだけ言わせなさい」  「そうですか、心配だな」と、陸軍大将が心配 してくれやがっだ。  そして、前講が始まった。私も聞いてた。な かなか立派なことを言うんですよ。今夜の皆さ んのような新しい人に、非常に大きい理解を与 える貴重な講演が諄々と進んでいって、別に大 迫が心配するほどのこともないじやないかと 思っているうちに、最後がいけなかった。  「ただ今ご紹介した天風哲人という希世の哲人 が、まもなくここへ出られる。そして、出られ ると必ず、自分が説くところの方法は健康法で もなく、修養法でもない、宗教でもないと言わ れるに違いない。健康法でない、修養法でない、 こりゃ、たしかにそんな第二義的なもんじゃあ りません。がしかし、宗教でないという言葉は、 不肖角五郎、六十二年の経験の上から、断然反 対します。  六つの年から二十五まで、真宗の寺で仏教に よって育てられたはずの私か、十九年間少しも 仏教によって救われた自覚がありませんでした。 以来今日まで、八宗兼学的に人間の生きる上に 参考になるという教えだったら、宗教はもちろ ん、修養法といわず、哲学といわず研究してき たものであります。そして経験の上から、うた た、この世の中に理屈を言う人は多いけれども、 本当に人間の魂に触れて、どんな頑冥不霊の人 間をも正しい自覚に導き得るようなものはない と、遺憾ながらそう思っておりました。  ところが大迫将軍の紹介で、下手をすりや自 分の子供ぐらいにしか当たらない若年者が人生 を説いているというんで、どうせろくなことを 説きはしまい、今のインチキ流行りの世の中、 大見せ物だろうと思って行って聞いているうち に、まったく私の長年の研究の中にないものば かりが説かれた。そうして、感激してお教えを 受けたことを実行している間に、まったく自分 の思い図らざる大きなえものがあることを発見 したんであります。  その思い図らざる大きなえものとは何かとい うと、安心立命の大境涯であります。せめて一 日のうちの何時間でもいい、心のどかに安らか な気持ちになり得る安心立命の境涯が欲しいと 思って、私は道という道をむさぼるような気持 ちでもって研究してきたが得られなかった。そ れが、この天風哲人によって救われた。今じゃ、 朝から晩まで、いや、毎日毎日、文字どおりの 安心立命の大境涯を私の人生として生きており ます。この動かされざる大事実を前に、天風哲 人の説く方法は宗教じゃないなんて言われたっ て、私かさようでございと申せますか。後から 先生が出て何と言おうと、これは宗教ですぞ」  と、こう言ったんです。  「宗教も宗教、既成宗教で救われない人間の魂 に大きな甦りを与える合理的理想的、否、少し く声を大にして形容すれば、やがて世界人類の 救済を現実になし得る力ある宗教だと私は断言 する」と。  大抵のことじゃ困らないが、これには困った。 先入観念が力強く与えられると、それを取り去 るのは難しいものですぜ。そのとき私のお弟子 になった人は、私か何て言ったって、みんなこ れを宗教だと思ってる。人生苦楽の歴史を本当 にとことんまで舐めてきた、あの苦労人の井上 角五郎さんが言うんだから、これは宗教だと。  際限極まりなき人間の欲望  なかにはね、「宗教じゃないと言っている宗 教だ」と言ってるやつがおって、こうなったら 私の弁解はもう三文の値打ちもないから、「ど うお考えになってもこれは構いやしません」と は言うものの、ただ一つ私か懸念する理由は、 健康法だと思って聞いていると、健康法だけの ことしか受け取らないんですよ。修養法だと 思って聞いていると、修養法だけの消息しか受 け取りません。宗教だと思っていると、宗教だ けの消息しか受け取らない。  よ1く考えなさいよ。この点は多くの人が考 えていないが、人間はね、それはもう病を患っ ているよりは丈夫なほうがいい。したがって、 健康法も尊いものではあるけれど、健康法だけ で人生解決しないんであります。  さらにまた、人格の内容が陶冶されてからに、 気高い人間になって生きるということは、これ はたしかに尊いことだけれども、到底、修養法 だけで人生は解決しない。そうかといって、安 心立命的な大境涯に生きられ得たからとて、そ れで人生解決しませんよ。なぜかというと、事 なき囗だけ続きやいいが、人生、そういう囗ば かりが続くわけではない。すると、きよう安心 立命の大境涯に生きられたかのごとくに感じて も、明日そうでない場合が来たときにどうなる か。そういうことがしばしばあり得る、これは 事実です。  人間というものの人生は、ただ単一のことだ けが解決されたからとて、それで万事OKにな り得るものじゃない。弱い者が丈夫になった、 それでもう人生が、いつどんなことがあっても 春復活だというふうになれますか。不幸なるか な人間というものは、「隴を得て蜀を望む」。こ れは誰でもあるんです。一つかなえばまた一つ。  山出しのおさんどんが、おっかさんの形見に もらった銀の指輪をはめて都へ出てきた。とこ ろが東京では誰も銀の指輪なんかはめていない。 せめてお嬢ちやんの指にはめてある、あの赤い 玉の入っている指輪でも欲しいなと思う。お給 金を貯めてからに、ルビー入りの、たとえ偽物 であろうと、金の指輪が手にはまるようになる と、それで辛抱するかといえば、しません。一 年、二年経つ間に、せめてあの奥さんの手には まっている真珠の指輪買いたいな。これがまた 手に入るようになれば、それでもうすっかり安 心するかというと、安心しません。これもいい けども、先週奥さんが表に出るときにはめてい らっしやったあのぴかぴか光るダイヤモンド、 何とかしてあれを、とこうなる。しかも、今度 はお給金じゃものにならんというと、悪い気持 ちを起こしたりなんかするようになる。  人間というものは、欲望際限極まるところが ない。だから、丈夫でない者が丈夫になった、 精神の気高さができた、安心立命の境涯がわが ものになった、それだけで解決しない。一口に 人生といっても、まことに複雑多彩変化変転極 まりなきものであり、人間は形容する言葉もな いほどの、いろいろ変わった事柄の中に生きる ことを余儀なくされているものであります。そ のときに、ただ単に体が丈夫になった、あるい は人格が気高くなったからって済むものではな く、さりとて安心立命の境涯が自分のものにな り得たからといって、それで万事OKになるも のでもない。と申し上げても、人生というもの を深く立体的に研究した人でないと、この消息 はおわかりにならんでしよう。  私か病たったときのことを今から考えれば、 病人の欲望というのはじつに小さなものだと思 わざるを得ない。何しろ奔馬性の肺結核であり ます。肺にみるみる大きな穴があいちまうやつ で、結核菌が容赦なく腸に下る。そうするって えと、鶏鳴下痢といって、夜明けに必ず激しい 下痢が続くんであります。そうすると、食い物 がどうしても流動物になる。そのときの欲望は、 せめておまじりでもいいから、おまんま粒の 入っているものを食べたいなということです。 人生に望む欲望のなんと小さなことか。ほかに 何も欲しくはない。ところが、お腹がやや固 まってきて、おまんま粒が入っているおまじり が食べられると、今度はもっと米粒の入っだお 粥が食べたいな、とこうなる。  これがいわゆる「隴を得て蜀を望む」という ことです。だから、病人が丈夫になりやいいと 思っても大違いよ。丈夫になっていいと思いや しない、丈夫になるってえと今度は金が欲しい な、とこうなる。金が回るようになるというと、 別荘が欲しいな、着物が欲しいな、男のやつは もうすぐ細君に内緒でよろめく相手が欲しいな、 とこうなる。こと近代は、男ばかりでなく、女 のほうも盛んにその方面が発展するらしい。別 に人に迷惑かけなきやいくらでも発展なさい、 ですけれども。  こういうのが本当の人生の姿だとすれば、健 康法や修養法や宗教だけじゃ人生、解決はつか ないということから考えついたのが、この心身 統一法であります。  幸福とは何か  さあ、そこで、率直簡便にもう一遍言う。健 康法でない、修養法でない、同時に宗教でない、 しからば心身統一法とはそも何か? わかりや すく今晩は説明します。暮れの講演だからね。  心身統一法とは、人生を幸福に生かすのに必 要な条件を完全につくり上げる方法。そう言っ ただけじゃまだわからない。何だい? その幸 福というのは。幸福というのは、人間の見方、 考え方によっていろいろ違いますからね。  この暮れに、どうやって年を越そうかと思っ ているような人は、金をたんまりもらったら幸 福だろうと思いますよ。けれど、金がありすぎ ちゃってからに、税務署のほうの計算もできな いで困っている人間なんか、せめてもう少しな けりやいいなと思いますわ。そういう身分に なってみたい? なるってえとかえって持たな いときより煩い多いぞ。  じつはこの十二月の五日に私はアメリカへい よいよ連れて行かれる運命がほぼ決定してたん です。いい塩梅にその日行かずに済むように なったんで、今月今日、こうやって皆さんにお 目通りできていますけれども。ロックフェラー (三世)、死んじまうといいんだけどね(笑)、 あれが生きている限り、「先生、アメリカに来 てくださいっていうのを決してやめません」つ て言っているんだから。それで、だんだんだん だん呼ぶ金をせり上げやがっだ。せり上げるた びに、私は行かないっていうのをわからないん ですから、その点ちょっと、あの人どうかと思  金の中に埋まっている人間だから、金の力と いうものは大きなものだと思っていましよう。 もっとも、アメリカの財界のすべてを牛耳って いるくらいですから、それはそうであるかもし れませんけれどね、天風だけは、金じゃ動きま せんわ。ほろっとするような人情じゃ動くかも しれないけれど、金じゃ動かないよ。それにど んどんどんどん競り上げてきやかつて、アメリ カに帰化してくれたら二十五億やるって。へっ、 考えてみりゃ、安っぽいもんだね、日本人がア メリカ人になるのに二十五億だって。アメリカ 全土の全財産をやるからなってくれと言ったら、 また考えるかもしれないけれどね、私も(笑)。  終戦後、このロックフェラーに初めて会った ときに、「何かあなたの一番の煩悶だい」つて 聞いた。そうしたら、「さあ」つて夫婦で顔見 合わせたっけ。そして言ったもんだ、「今現在、 私、いくら持っているかわからないのが一番苦 痛です」と。  あなた方、幸福だよ、ロックフェラーから見 りや。現在ただ今いくら持っているかはっきり わかっているわねえ(笑)。それはそうでしよ うなあ、ヨーロッパのほうのロックフェラーの 持っている会社の株が下かつているとき、アメ リカでぐうっと上かつていることもあるが、ア メリカが上かつているときに、ヨーロッパのほ うも上かつているということもあり得る。それ はもう世界中にあの人の会社があって、自動車 製造会社だけでも何百というのの社長なんです から。ですから、自分がいくら持っているか ちっともわからない。気の毒なやつだね、これ、 なきに等しい。  もっとも、このごろの煩悶は違うんだそうで す。うまいこと言ってきやがるんです。  「初めてお目にかかったとき、ああいうような 価値のないお答えをしましたが、このごろは夫 婦でよくこういうことが不幸だということを語 り合います」  その「こういうこと」とはどういうことかと いうとね、「結局、金、名誉、意思、富なんて いうものも、煎じ詰めれば命があってからのこ と。命がなけりや、世界じゅうの金がみんな私 のものになったって、それが何かあろう」とい うことなんです。それもたしかにそうだね。ど んなご馳走があったって、命がなきや何にもな んない。ご先祖の墓場へ行ってからに、山盛り のご馳走を持って行って喜ぶか喜ばないか、墓 の前へ置いてごらん、喜びやしねえ。野良犬が 喜ぶぐらいのもので。  「このごろのわれわれ夫婦は、本当にいかなる 場合であっても、魂が潤って、命が豊かな力で 生きていくということが必要である以上、これ が乏しいことが一番の悶えです。この悶えを癒 してくれるのは、世界の中であなた一人だとい うことを、あなたの記憶の中にはっきり、落と さないで持っていてください」  「ドントードロツプ」と書いてあるんだから、 面白いね。「{}O目こ「召」、いい言葉だな、こ りゃ。ラブレターに使ってごらん。「私のよう な者であろうとも、どうぞ私の名をあなたのお 心の中に、決して落とさないで持っていてくだ さい」と。「お心の底のどこかにおしまいくだ さい」なんていうのは生ぬるいぜ。余計なこと を教えて相済みませんけれども(笑)。  幸福とは何か。つらつら思うに、人間がこの 世に生きていくときに、これは非常に大きな事 柄でありますが、それについて考えている大は 多くない。まして、時まさに一陽来復の間際に なっている年の暮れなんかだと、もう人の顔さ え金に見える。金、金、金、金、金、金って。 さればこそ、幸福とはどんなものやら、ちっと もわからん。「幸福とは何だ」と聞くと、「不幸 福でないこと」と答え、「不幸福とはどんなこ とや」と聞くと、「幸福でないことや」と答え る。これじゃ、こんにゃく問答だ。  人生の三大不幸  もちろん幸福というものの標準は、人によっ て違いましよう、境遇ところによってね。しか し、人類の通念で世界的にこれだけは誰が考え ても不幸だよと思うものが三つある。これを誰 が言い初めけん、「人生の三大不幸」と折り紙 がつけられている。哲学者の仲間じゃ、エマー ソンの言葉だといいますが、それよりもつと古 いらしい。何でしょう? 病と、煩悶と、貧乏 であります。どんな屁理屈言うやつでも、これ を幸福だとは言わないだろう。  「鬼もかなわねえくらい、おれは丈夫だったん だ。ところがよ、このごろどうも体の具合が悪 くなってよ、幸福だ」なんて人いないでしょう。 煩悶またしかり。「おめえみたいなのんきなや つはないと言われたのが、このごろちょいと物 思いがあるんだ。物思いが始まってから、何と なく生きがいがあるよ」つていう人いる?  最後の貧乏、いかがです? 私はどういうも のか、生来の貧乏嫌い。およそ何か嫌いだ天風 さんと言ったら、貧乏だ。病なんか、治すこと 知っていますから何でもない。貧乏は大嫌いだ。 軍事探偵中、蒙古の奥で洞穴に寝て生のジヤガ イモなんか食って生活していたときも、軍票で 少なくともその当時の金で十万、二十万は懐に 持っていました。貧乏ということが嫌いなんだ。 景気が悪くていけねえ。そうだろう? 愛する 彼女を連れて元町散歩の折、貧乏でもって景気 がいいかどうか。  「ねえ、歩いてばかりいないで、どこかへ連れ て行ってお茶でも飲ませてよ」 「水でも飲んどけ、贅沢な」  「暮れよ、クリスマスのプレゼントして」  「余計なこった、そんなことは。第二あんな プレゼントをクリスマスにしなきやならないと いうことは、憲法にはねえんだぞ」  「そんなこと言わず、何か買ってよ。「ンド バッグだって、これもう五年持っているわよ」  「まだ入るだろう?」  「それは入るけど」  「底が抜けねえ限り持ってろ」 「お腹減ったわ」 「唾でも飲んでろ、うち帰って何か食え」  なんていうようなことを言ったら、男として 景気がいいかい? 女はしようがねえや、こん なぐうたらと一緒になったんだからと諦めるか もしれないけれど、男としてどうたね。よし 買ってやろうって店へ入れば、女のことですか ら、安いものを「これ」つて言いますよ。「こ れ」つて高いものを欲しがるのは、よほど女の 心臓に毛が生えている場合。女が物を買うとき は必ずそうですよ。そのときに、「もう少し安 いのねえか」と言うのと、「そんな安いもの買 うな、どうせ買うならうんと高いもの買え、 こっちにしろ」と言うの、男としてどっちか気 持ちがいい? そんな経験がない? お気の毒 な(笑)。  あのね、無人島で生きてりやともかくも、通 貨というものがある世界に生きている人間には 誰しも、よろしいか、自分の人生を豊かに生か すだけの収入ぐらいは得られる力が与えられて いる。それを知らないから、いつまでだっても 貧乏。孔子何て言った? 十五で志を立てて、 三十にして立ち、四十にして惑わずと言った。 五十にして命を知れと。だから、四十になって 一家を成すあたわざる男というものは、男の格 好してるだけの男よ。ご夫婦で来ているお方で、 四十越した男で、相変わらずだらしのないのは、 責めちやいけないよ、あしたから連れておいで。 そうすりや、立派な働きのある旦那にしてあげ る。  一体、今の人はね、大変な了見違いがあるん だよ。十五とは言わないが、二十にして志を立 てるでしょう? 三十にして事ならざれば、そ の原因が世間にあると言うんですよ。おれには 力があるけど、世間がおれを認めないと。そん な考え方を持っているから、四十になると、惑 わざるどころか、すぐよろめく。五十になって ぺしやんこだ。六十になって、もういないで しょう、大抵。  それはともかく、理屈なんか要りませんよ、 病と煩悶と貧乏、これはわれわれの生きる世界 に必要としないもんだ。必要としないものをな ぜか人間、こっちを見てもあっちを見ても、ど れかしらやっている、病か、貧乏か、煩悶か。 なかに念の入ったばかになるというと、三つ背 負い込んでいるやつがいる。そういうのが多い から、そうあるべきは人生の当然だと思ったら 大違いよ。静かに自分自身というものの存在を、 ものすごい階級の高い自覚で考えてごらんなさ いよ。万物の霊長だ。万物の霊長、この世の中 に貧乏しに来たり、煩悶しに来たり、病患いに 来たりしたんじやありやしねえ。人この世に生 まれたのは、進化向上という偉大な宇宙の本来 の面目に即応するためだ。  ところが、大という人のほとんどすべてが、 病か、煩悶か、貧乏のどれかしらにとっちめら れて苦しんでのだうち回ってからに、ああもな りてえ、こうもなりてえと思いながら死んじま う。その理由の一番の根源がどこにあるかとい うと、本当に進化向上という使命を全うし得る ような人間それ自身をつくる生き方をしないで 生きているからだ。  東京へ行こうと思って、三宮へ行って、九州 行きの切符を買って行っちまえば東京へ行けや しない。本当の人間として生きようという気持 ちだけはあっても、生き方が猿や豚にも劣って いるんだから。猿の世界や豚の世界に、人間の ような煩悶や貧乏に苦しんでいる仲間はありや しねえぜ。年の暮れ、手形が落ちるかしら、落 ちねえかしらなんて、猿は思いやしねえ。  内容量を豊富にすべき六つの力  さらば病、煩悶、貧乏を知らずして生きる人 間になれるのか。なれますとも。なるほうが易 しいんで、ならねえほうが難しい。その難しい ことがやれているんだもん。ただ、生きる道の 誤りが訂正されないと、与えられた当然のこう いう権利ともいうべき尊いものを自分のものに することができないんですよ。それがあなた方 の、失礼ながら現在だと言ってもいいのじゃな かろうか。  病も知らない、貧乏も知らない、煩悶も知ら ない、よくそれらのものを克服して、自分の幸 福を嘆美するような人間になるのには、なるた めに必要な資格をつくらなきやだめなの。ただ なりたい、ありたいと思っても、なれません、 できません。道は法をもって達するを得る。  では、どういう資格条件が必要かというと、 六つの力の内容量を豊富にしなければ、断然病 になりたくない、煩悶に苦しみたくない、貧乏 でありたくないと思ってもだめです。現在何を どうしても丈夫になれないとか、どう稼いでも 貧乏神と縁が切れないとか、なぜおれはのべつ 心を苦しませるような煩悶をしていなきやなら ないんだろうとかいう人は、世間が悪いんでも なければ、自分の生きる人生のアトモスフィア が悪いんでもないんですよ。それは、この六つ の力のどれかしらの内容量が不足している結果 生じた悲惨な事実なんだ。  その六つの力とは、第一が体力、第二が胆力、 第三が判断力、第四が断行力、第五が精力、第 六が能力です。そして、これらの力を完全に目 的どおり内容量を豊富にする方法が、心身統一 法であり、その方法をお教えするのがあしたか らの講習会です。しかも、その方法を説いてい るものが、これははっきり申し上げておく、世 界のどこにもないんであります。ですから。 ロックフェラーが、ドクトル天風の説くドクト リン(教義)はユニークだと言ってくれた。そ して、同時にラショナリスティックだと、こう 言ってくれているんです。ユニークとは、絶対 にほかにないぞということ。ラショナリス ディックというのは、真理にぴったりと適合し た方法だということでしょう?  私自身が、何も自己宣伝する必要はありませ ん。事実は、最後の証明者として、いつも無言 の雄弁をもってこれを証拠立てている。第一、 疑う人よ、聞かれたい。天風会、大正八年の創 業以来、指折り数えて来年四十年、この間、新 聞雑誌その他の宣伝機関で宣伝をしたことは一 遍もありません。それじゃ、どうやってこの会 を継続してきているか。話を聞いて、方法を行 なって、言われるままの価値の高い人生をつく り得た人の喜びが、まだこの道を知らざる大へ と高い人類愛で言い伝えられ、取り次がれる。 この価値の高い事実伝達が、天風会をしてから に、かくあらしめているのであります。この事 実だけ考えてください。  宗教方面を見ると、よくまあ、ナシの芯にア リのたかるように言っているなというところ、 それはもう幾つもありましよう。けれど、この 点も私、一応触れておきたい。あの仲間は付和 雷同の、要するに迎合者であります。天風会員 は、自慢じやないが、選り抜きのリアリストば かりであります。嘘か本当か、天風会員になっ ている人と、当てにもならない迷信をありがた かっている人を比べてごらんなさい、全然その 価値内容が違いますから。  現実の人生の建設に、事実の誇りを持って生 きているのが天風会員であります。そして、そ の方法を現実に教えているのが、天風会の最も 誇りとする点なんであります。誰もが人として 生きる以上、丈夫になりたい、煩悶は嫌だ、貧 乏なんかもう真っ平だと思っています。けれど、 そうなり得ないのは、なり得るような方法をお れは知っているよと教えているやつが、じつは なり得ない方法を教えているからだと、おわか りになっている?  あなた方だって、何も天風の話だけを初めて 聞くんじやないでしょう。人生を完全にし得る と宣伝している人がいくらもあります。宗教に もあれば、修養法の方面にもある。そういう方 面へ行った人でもって、天風会で救われたよう な救われ方をしている人がありますか。救われ たかのごとく考えているだけの淡いエクスタ シーじやないんですか。「いや、自分は救われ た」という人があったら、ご遠慮なくおっ しやってください。私と力を試しつこしましよ  救われたかのごとき淡い観念現象で、ひとり 善がりに善かつていても、それは壁に描いたぼ た餅を見て、「ああ、腹が大きくなった」と 言っているのと同じことです。生きているって いうことは、現実ですぜ。人生というものは、 夢の世界でもなきや、空想の世界でもない。切 りや赤い血の出る肉体を生かしている、瞬間瞬 間のIこまを人生となん名づける。その真剣な 現実を生命としていながら、救われたように思 えたり、ありかたいように思えたりするだけで もって善かつている人間は、今言ったとおり、 絵に描いたぼた餅で腹が大きくなるように感じ るやつです。だから、私は、既成宗教を第二義 とし、既成宗教をやみくもに無条件で、自分の 理念許諾も得ないでもって信仰している人は、 時代遅れの人だと言うんです。  今やまさに文化の先端期でありますぞ。考え てごらん、あなた方の理念が承諾しているんで すか、既成宗教の教義を。宗教そのものの生ま れ出た理由は、科学の今日のように進歩してい なかった時代に、無理からぬこれは自然の要求 でしょう。「不思議なるかな、この世の中のあ りさまよ」と思いいづれば、何かここに人間以 上のより大きな存在があるかのごとくに考えら れた時代もあったに違いない、これは否定でき ない。しかし、真理を知り、真理によって人生 をコントロールして、自分自身が自分自身の人 生の主人となって、自主自立の、天は自ら助く る者を助くという、この最大なる、階級の高い 自覚と信念で生きている人間が、今さら既成宗 教のような第二義的な教義を信仰しようったっ て、信仰する気になれますか。  だから、天風会員、正しくこの教義によって 目覚めている人は、祖先は尊敬する。祖先尊敬 のために仏壇を飾ったり、先祖崇拝のために奉 られた神社にお参りしたりはするでしょうけれ ども、しかし、そのときの天風会員の気持ちは、 尊敬以外の何ものでもないのであります。おす がりしようとか、助かろうとか、恵まれようと か、憐れみを乞おうとかなんて、そんな卑怯な、 惨めな、憐れな価値のない気持ちを持って、手 を合わせて拝んだり、頭下げたりしませんよ、 天風会員は。  私も、皇室に関係を持っています仕事上、三 年に一遍、五年に一遍は伊勢神宮に行きます。 あそこの最高宮司をしているのが北白川(道 久)さんで、これも、長い、私の会員だ。行け ば、必ずあそこヘー晩泊まって帰ってきます。 私も伊勢神宮へお参りして頭を下げますよ。頭 は下げますが、それはあなた方に「こんにち は」と言うのと同じように、「こんにちは。あ なたの子孫に今いろんなことを教えているよ」 と挨拶しているだけです。あなた方が神に詣で、 仏に祈るときは、何かしら当てがあるんだもの、 ふてぶてしい了見だね。平気ではっきり言って いるやつがあるぜ、息災無病、家内安全、商売 繁盛。本当にそれでもって願いがかなうんなら、 人生、苦労はありません。  成功者への道  私、あと二十何日経つと八十四だそうな。人 のことのようだ。私はまだ三十ぐらいの気持ち で、二十歳代の女とランデブーしたいぐらいの 気持ちを持っているのにさ。二十歳代の気持ち を持っているの知っているもんだから、二十歳 代ぐらいの女もずいぶんランデブー申し込んで くるが、とにかく戸籍上の歳は否定することが できない。それだけの歳になっても、よろしい か、自分自身が自分自身の力で生きている現在、 決して人にものを頼みやしません、助けてくれ、 恵んでくれ、憐れんでくれなんて。私はそれを 男の恥、いや人類の恥だと心得ている。  助けてやろう、恵んでやろう、憐れんでやろ う、これは気高い行為であります。しかし、助 けてくれ、恵んでくれ、これは自分が万物の霊 長たる人間であることを自ら侮辱していること になる。それもこれも、みんなこの六つの力が 足らないからだ。その力をがっちりと役立つ程 度まで、あなた方の生命の内容に分量多くして あげる方法を本当に教えるのが、天風会であり ます。  だから、教えられたことを一所懸命にやりや、 みんな知らざる間にどんどんどんどんこの力が 増えてくる。幾多の成功者が天風会員の中から 出ている、それも一人や二人や三人や五人じや ないでしょう?  今月、東京の講習会に来られると、前講に出 られる人に、三島徳七という人がいます。これ は世界的に有名な科学者であります。世界の学 者もたった三人しかもらえない、ノーベル賞よ りも尊い賞牌(ソーバー賞)を受けに、今アメ リカに行っていて、もうあしたあたり帰るで しょう。  関西の人、自慢していいぜ、この人は淡路島 から出た人だ。貧しい百姓の子。小学校だけは 淡路の小学校を出た。中学は独学で、その後苦 学して東京帝大に入っだ。いいところへ養子に 行って学費を出してもらった。帝大を出て間も なくして私の会の会員になった。一家中みんな なりました。もう一人の名誉教授の富塚清とい う大と一緒に。  今ジェット機が飛び、ロケットが飛んでいま すが、あの中には三島氏の発明が使われている。 世界でたった一人の発明で、ニッケル鋼をマグ ネタイズ(磁化)するという、それまでの科学 が全然できなかったことを実現した。どこの飛 行機でも、これを採用しないものはない。だか ら、非常な権利金がこの人の懐に大るんであり ます。  昔、冗談半分に「徳さん、今権利金というの は月にどのくらい入るんだ」と聞いたら、「あ あ、六千万円ぐらいでしょう」と言う。月によ。 税金にまあ半分持って行かれても三千万円。使 うかっていえば、使いやしねえ。金が貯まって しようがなかんべと思うが、養老院や孤児院、 あるいは困っている事業家なんかにやっちまい ますから、いくらあったっていいわけだ。  この人がこの会に入るまでは、家庭には病人 が絶えないわ、自分自身は学者として貧乏で もって苦しんでいるわで、やるせない悶えが しょっちゅう頭の中に去来していた。それが、 この人は、偶然なことから私の弟子になったん だ。友達がノイローゼ、その時分の神経衰弱に かかって私のところへ来た。それが治ったとい うので、彼も私のところへ来た。自分はどうも なかったんだけど、今言ったとおり、家族が弱 くって、それがもとで始終煩悶があって、貧乏 はもう学者のつきものだと思っているほど融通 がきかなかったわけ。  それが今はもう驚くべき収入でしょう。この 人ばかりじやありません。そういう会員はいく らもいるんですよ、成功者はね。  これだけの力が出りや、いやでも病も煩悶も 貧乏もなくなっちまう。病と、煩悶と、貧乏の ない人生というものは豊かな人生ですぜ。人生 は、空威張りや屁理屈やわかったふりしてわか らないで生きてはいけない。独自な断定でもっ て、屁理屈でもって、痩せ我慢してもいけない んで、自分自身のことを自分自身で厳かに考え なさい。  鉄のごとき体力はあるか  われに頑健鉄のごとき体力ありや否や。まず 第一に、これから考えていこう。体力に自信が なければ、「おれは、今壇上で偉そうなこと 言っている天風ぐらい生きられるか、生きられ ないか」とか、「どんなに悪い風邪が流行ろう と、どんな悪病が流行ろうと、びくともする か」とか、そういうことも考えられない。  「悪い風邪が流行っているわ、ワクチンがない そうな。罹ったらどないしよう」なんていうふ うに生きてやせんか。「八十四なんてとんでも ない、来年どうなるだろうと思っているのに」 なんていうような人はいやせんかい。「もう余 命幾ばくもない、生きたところで三年か五年 だ」と、そんなことを考えていて愉快かい? 体力に自信があるてえと、びくともせんわ、そ んなこと。  あなた方のほうからは、私の顔だけしか見え ていない。私からは、皆さんの顔がみんな見え る。「血圧が高い、狭心症になりやせんでしよ うか」「肝臓が悪うなったらどないしよう」な んて、薄い氷の上をおっかなびっくり歩いてい るような気持ちで人生に生きている人の顔は、 一目でわかる。やがてこの教えをだんだんに教 わっていくてえと、「ああ、なるほど、一目で わかるというのは、これかな」つていうことが わかってきますよ。生命の炎が完全に燃えてい ないと、人間の体から出ているオよフというも のが薄いんです。  オーラとは、ルミエールーオブスキュルと いって、肉眼では見えない。第三の目でなきや 見えない。インドでは、額に第三の目が開いた 者は印つける。ここに目があるんじやないんで すよ。いわゆる心眼が開ける。心眼の開けた者 は、心眼が開けたというマークをつけられるの。 だから、インドの仏像にはこの心眼が開いた印 がダイヤモンドや真珠、水晶でつけられている んだな。これ、シナの仏像にありません。  その第三の目が開かれると、オーラというも のがはっきりわかる。だから、医者が見捨てた 病人でも、私か引き受けて死んだ者はないで しよう。それから、私かあかんと言うと、医者 がいいと言う病人でも、ころっと逝くんだよな。 ときには私、死ぬ囗まで言うでしょう、時間ま で言うこともある。これはオーラが見えるから。 ただこれは、法令上禁じられている。いつごろ まで生きて、いつごろ死ぬでしょうって答える ことは、法律は許さぬけれども、私、そういう 人には遠回しに、このままでいくと、このくら いで死ぬよっていうことは言って聞かせます。  ことしの春にも、ある人に「今のまんまでい くてえと、三年もたんぞ。了見入れかえて、も う少し一所懸命になれ」と言った。このごろは なかなか一所懸命で、もう大丈夫。だけど「本 当に大丈夫でしょうか」と聞く。私か大丈夫だ と言っているんだから、これは聞く必要ない。 「またいけなきや、おれが注意するから、その ときまた、慌てて了見取り返せ」。  体力に確信がなかったら、人生、心細くない ですか。この節、そういう方面を予防する薬の 売れ行きのいいこと、いいこと。これはおっか なかつているやつが多いからだよ。薬なんか飲 んで体力をつくろうなんて、そんな計画は成就 しませんよ、薬屋さんにはお気の毒だが。  ありていに言えば、医者と警察と裁判所と薬 屋はこの世に要らないときが来なきやいけない というのが、私の理想なんだ。医は医なきを もって期すべし。医者になったらもう、医者が この世の中にいなくても済むような世界をつく れっていうのが、私の信念であり、かつまた主 張なんです。お医者さんには気の毒ですけどね。  ものに動しない胆力はあるか  第二、胆力。わが大日本国の民族は、有史以 来、世界に冠絶せる剛毅果敢な民族であったは ず。小ちやな国で、これまで幾たびか外国から 攻められて負けなかった。それが昭和二十年八 月十五日、すっかり足出しちまいやがっだ。剛 毅果敢なんていうのは昔の夢物語。今の日本人、 何と憐れな腰抜けの多いことよ。実際これは何 ならんとして滂沱たる涙をとどめるあたわず。  昔は富士を持つ国民は、この国に生まれし人 の誇りかな、と言ったものです。富士は相変わ らず八朶の芙蓉を中天にそびえさせていながら、 その国の民族の多くを見てみろ。男も女七言い 合わせたように、臆病で、神経過敏で、人生を 生きる仕打ちに耐えかねて、みんなノイローゼ。 夜寝られねえの、つまんねえことが気になるの、 まして少しでも病になろうもんなら、それはも う大変だ。  この節、関西はどうか知らんけど、関東の人 間は、やがて大きな地震が来ると騒いでる。来 るか来ねえかわからないのに。笑えない話だが、 このあいたなんか、質屋に家財道具みんな預け たやつがある。何で質屋に預けたと思う? う ちへ置いておいちや安心できねえからだそうな。 「そいつに言ってやれ」つて言ったんだ、「朝起 きたらすぐアドバルーンに乗ってろ。天は動か ねえたろう。おりちやいけねえぞ」と。  自分のことは、自分が一番よく知っている。 人に聞かれりや、痩せ我慢がある。われ剛健容 易にものに動じない胆力ありや否や。ご自分で 考えなさい。でも、見てくれは堂々たる男子で ありながら、肝っ玉といったら、ノミの金玉よ りまだ小せえやっかいる。  胆力がないと、長生きできないんだぜ、いく ら体が丈夫でも。胆力のないやっは、体ができ ててもころつと死ぬんだ。いずれあしたの晩の 講釈で、胆力がどれだけ人生に必要かっていう ことを説いて聞かせる。  第二神経過敏でいて、この生きている刹那 に、人生のユートピアを感じますか。胆力がな いやっには、おかしなのがいて、「きようはい やにネズミが暴れやがるな、何か悪いことの兆 しじやねえか」とか「いつもはうちの屋根にガ ラスが来ないのに、きようはどうしてガラスが 来てんだい?」とか、そんなことを気にしてる。 鳥だもの、羽がある。  あるいは「きようここへ来る前に、往来で猫 が前を突っ切った。それで回り道したから遅く なった」なんてやつがありやせんか、あんた方 の家庭に。「出がけに、げたの鼻緒が切れたか ら、出かけるのよした」なんてやつがありやし ねえか。文化の先端を行っている時代でありな がら、世を挙げて迷信の時代だ。これも胆力が ないからだね。  人間とっつかまえて、イヌ(戌)だの、サル (申)だの、トリ(酉)だのって、どういう了 見なんだろうね。心弱いてえと、すぐ迷信に陥 る。じいさん、ばあさんならどうでも構わねえ。 失礼、だけど、じいさん、ばあさんにご厄介か けちや、相済まないもの。若いやつよく聞け。 若い人間が、文化の時代に生きながら、「私、 ウマ(午)よ」なんて言うんじゃないよ。もっ とも、そういうやつに限って顔が長えや(笑)。  婿を取る、嫁にやるっていうときに、この年 回りを気にするやつもいる。  「先様は? トラですか。こりゃ、お断りしま すわ。いえいえ、ほかのことはもう、非の打ち どころございません。けれどなあ、この相性 が」  「何でですねん?」  「あたしのところ、ウサギですねん」  「ああ、食われてしまう」  そんなことはないよね(笑)。  それから、今どきまだ囗が良いとか悪いとか 言っている人があるね。天気予報が良し悪し言 うのはわかるけど、大安だとか友引だとか仏滅 だとか、何だい、ありや? お弔い出すのに友 引はいけない、後引くって言うけど、友引に出 さんでも後引くがな、必ず。「散る桜、残る桜 も散る桜」で、回向している人間も、また回向 されるんです。  家を建てるのに、方角がどうだのと気にする やつもいる。暗剣殺北の方塞がりなんていうけ ど、道の両側に向かい合っているうちは、それ じゃ一体どうなるの。どっちかが家相が悪いと いうことになるぜ。やめときなはれ、ばかばか しい、本当にもう。何か暗剣殺北の方塞がりや。 北の方頭寒いだけや。  そうかと思うと、姓名判断なんていうのもあ る。「名字と、名前と、字画が相克すると凶気 多し」とか、「病の治らないのも、あんたの名 前が悪いからだ、運命がいい名前に変えなは れ」とか、いやだねほんとに。それで病が治っ たり、運命がよくなるんなら、のべつ変えてろ。 姓名判断の店に行って頼むと金取られるから、 公衆電話へ入って、電話帳を片っ端からめくっ て、通りのいいのに毎日変えていけばいい。 「きよう私は、八兵衛と名乗っております」、明 くる日は「権兵衛と名乗っています」と変えて いきやいい。悪いことが続くてえと、名前なく なるね。およしなさいよ、姓名判断、ばかばか しい。世界の人間、みんな名前があるけど、そ ういうのは世界にない、日本だけや。  ことほどさように胆力まことに憐れ惨憺、 肝っ玉なんていったって、玉がどこにあるんだ かわえらねえ。あるとしたらば、さわりや、ぱ ちんと弾ける、あぶくみたいな玉だろう。そん な肝っ玉が何になる。そういう人は、生きる刹 那刹那が、さぞ恐ろしかろうな。一歩行っちや 心配し、二歩行っちや心配し、ちょうど薄い氷 の上を歩いているようなもんよ。そんな人生に 生きてからに、長生きしようなんぞは大間違い だ。生きる力の根本が、そうした弱気でぐんぐ ん働きを鈍らせちまう。あしたその点を、生理 科学から詳しく説明する。  判断力、断行力、精力、能力は充実  しているか  さて、三番、四番、これは兼ね備わっていな きやいけない、判断力、断行力。ひとかどの人 間に誰でもなれるようにできている。なれるよ うにできているけれども、この判断力と断行力 が一緒に兼ね備わっていないと、なれるように できている人間がなれない。さっき言った、四 十にして一家を成すあたわざる男というのは、 どちらかがないんです。  それから、第五番の精力どうだろう? 今の 人は、肉体的にも精神的にも精力憐れ惨憺。デ パートへ行って、薬品部で「何か一番売れま す?」と聞くてえと、ベポー。何です、あ りゃ? 私、初めて聞いたとき、高峰秀子「愛 称コアコちゃん」)が売れるのかと思った。そ うしたら、そうじゃないんだって。男の精力ね、 わかるだろう、あれがみんな衰えているらしい。 それで、あれ、買いに行くんだって。一本の注 射で四十囗。一体何です、それ。  これが流行る前、牛の脳の下垂体を移植する ということが流行ったね。間もなくやめたけれ ども、ありゃ牛が気の毒だよ。乳吸われて、皮 取られて、肉食われちやって、骨にされて、そ の上、脳まで取られている。牛に生まれなくて よかったよ、あんた。  ませているやつになると、もう五十ぐらいか らあかんやつがあるね。よくまあ、我慢して生 きているな。もし精力を販売できたら儲かるだ ろうと思うね。私は現在、別に毎日は利用しま せん。全然入り用のないことはありませんけど、 毎日は要りませんから、毎日もう片っ端から 売ってもあり余るくらい、これはある。自分で も始末にいけねえほど精力は絶倫でさあ。精力 絶倫でなきや、これだけの講演、長くできやし ませんぜ。何とかして精力のもう少し減退する 薬ないかいなと思うくらい。  肉体的精力ばかりじゃない、人生に必要なの は、精神的精力だ。精神的精力が減退するとど うなるかというと、克己心と忍耐力がなくなる。 克己心と忍耐力がなくなるてえと、些細なこと で癇癪を起こして、目くじら立てて怒鳴りつけ たりする。克己心のないやつは、もう事ごとに 感情の奴隷になって、怒ってみたり、泣いてみ たり、恐れてみたりする。忍耐力のないやつは、 ものの根気というものが続きません。人生が幅 の狭いものになっちまう。  最後、六番目の力が、能力。肉体的にも、精 神的にも、人間である以上は人間のできること が何でもできなきやならんはずなのに、恥ずか しいかな、犬にも劣るような、何にもできねえ やつがいるね。だから、できているやつのそば に来ると、おかしいらしい。  私は自分のセーターを一遍編んでいたことが ある。そうしたら、十八ぐらいの小娘が飛んで 来やかつてね、「あら、まあ、大事件だわ、先 生がセーター編んでいる」つて言うから、「ば かやろう、おまえたって編めんじやねえか。十 八の小娘が編めるセーターを、八十越したじい さんが編めなくてどうするんだ」つて言ったん だけど、あんなもの、手を動かしや編めるって、 ひとりでに。だけど、それが不思議だって言う の。  それから女の頭のカールが上手なんですな、 私。お頼みになっても、暇がありませんから、 できませんけど。うちの娘だの、野崎(郁子。 天風会第三代会長)さんの頭、時々してやるこ とがある。わけないよ。うちにある天風会員の 娘が来ちや、やってたんだけど、あっ、この小 娘が神戸で气二を争うパーマネントの名人か いと思って、やっているところを見りやね、あ の子だってできるんだもの、一遍見てたらわ かっちやった、何だ、わけねえことだと思って。 ただ、あの虚無僧の笠みたいなものがねえから、 あれだけは、まあ、しようがねえけど(笑)。  ただ、私もお産することだけはできません、 どう頑張っても。ねえんだもの、孕めない。孕 ませることも、その相手がなきやできないから、 今見つけているんですがね、せめて天風の第二、 本当の男の子こしらえてやろうと思うんだが、 これはなかなか候補者がないですよ。お願いし ますって言えば、いくらも出てくるかもしれな いけれどもね、私の意にかなった者が出ないん で、今困っているんだ。余計なことをお頼みし ているんじやないですから、どうぞご心配なく (笑)。  人は幸福になれるようにできている  以上、挙げ来り、数え来ったわけだけど、今 夜、寝際にもう一遍、人のことじゃなく、わが 身のこととして考えてみてください。今言った とおり、われに頑健鉄のごとき体力ありや否や、 さて、胆力はどうだろう? 剛健容易にものに 動じないか動じるか、判断力は、断行力は、さ て、精力は、能力はと、一つ一つを厳密に検討 しなさい。で、こりやいけねえや、どれもこれ も足らないと思ったら、あしたからおいで。  思い切って諦めているやつはそれでもいいよ。 「あそこへ行きや、もうちょっとましになるか もしれないけれど、せっかくこんなだらしのな い人間に生まれちやったんだから、まあ、今 生はこれで我慢しようか」と思ったら、勝手に せい。命はそっちのもの、教えはこっちのもん や。別に私は金儲けしに来ているんじやないか ら、余計お弟子ができようと、少なくできよう と、そんなことは少しも念頭にはありやせん。  しかしね、くどいようだけれども、二度も三 度も生まれ変われる人生じやないよ。一遍 キューつて死んじまうと、二度と出てこられな い。たとえお寺の和尚さんが来世があるよと 言ったって、嘘、嘘。寺の坊主が一遍死んで 帰ってきたんなら、ある程度まで、嘘ごとを信 用してもいいけれど、とんでもねえや、 キューつとやったらキヤーで、もうおしまいだ。  そうして、とくに重大に考えなきやならない のは、よろしいかい? 今日ただ今、この時の、 この瞬間が、ぽっぽっぽっぽっと、過去の絵巻 物の中に消えていくということ。しかも、その リールの回るスピードの速いこと。現在今日、 六時にここにおいでになったときのあの景気は、 もう再びあなた方の意識の中に感覚すらできな いだろう? 次から次へと、どんどんどんどん 時は経っていく。時日は過ぎ去る。人生を考え る者は、これを考えなきや。されば、「ああ、 私は生きているな」と自己意識で感覚している その瞬間は尊い。  「私は生きている」「おれはいる」「われあり」 という自己存在をしっかり保持している時間と いうのは尊いんだぜ。その時間を、悩みで多く 生きるがいいか、貧乏で多く生きるがいいか、 不健康で多く生きるがいいか、楽しみ多く、嬉 しく、爽やかに、朗らかに、のどかに生きるの がいいか、親類集めて相談しなくたってわかる でしょう。  それもこれも、ここに挙げた六つの力を内容 量豊富にしなきや、なしあたわざるの計画なり。 因縁あってここの席にお集まりになったあなた 方よ、何も人間は、病まなきやならない義理張 りもなければ、悶えて生きなきやならない規則 もなけりや、よろしいか、貧乏で世間付き合い ができないという憐れなものでもないんですよ。 病も、煩悶も、貧乏も克服して、明けても暮れ ても、ああ、幸せだなと、明るく、朗らかに、 強く、尊く生きられるように生みつけられてい るんだ。  それを、何も知らないとはいいながら、余計 な辞退でもって断っているような開抜けな人生 を生きる必要ないでしょう? もっと幸いにお なんなさい。もっと幸福におなんなさい。本当 になれる権利を与えられている人間に生まれて、 そこを拒絶する者は、こりゃ、およそ愚か者だ と言っていい。  人の数は多いけれど、人間というものの価値 認識を非常に低く評価して、「おれなんか、も うだめだ」というような考え方で生きている大 間ばかりがいくら増えたとしても、広き意味に おいて、世界の、人類の、本当に生きがいのあ る世界はできてきませんぜ。どの人間を見ても、 病か煩悶か貧乏で苦しんでいるというような人 間がうようよ集まったら、本当に明るい世界を つくろうと、どんなに社会制度を改善し、設備 をどんなに工夫したって、これは、なしあたわ ざる計画と言うしかない。人工衛星を何万飛ば してみたってだめだこりゃ。  結局、人の世は、大、人の集まりであります。 そういう大、大という一個の人格が一つの細胞 体となって、社会、国家、世界というのができ ている。この細胞体となるべき一人一人のあな た方が、すぐれた理想どおりの人間である数が 増えれば、黙っていたって、この世界は明るく なり、住みよくなるでしょう。いくら付き合い が大事だからといって、われわれは価値のない 人生に生きるお付き合いはしなくたっていい。  いえ、あしたからおいでになって聞いている うちに、ああ、よくぞこういう会を知らせてく れたと、あなた方を紹介した人を、涙を垂らし て、後ろ手で拝まないわけにいかないくらいの 感激を感じますぜ。そうして、体力も、胆力も、 判断力も、斷行力も、精力も、能力も、内容量 を増やしたときに、「ああ、おれ、本当に幸福 になった」と感じるでしょう。  迷えば永久の損であります。悟れば一瞬にし て幸福来る。因縁あって今月今日お目にかかっ た。そして、私か何十年の間、インドの山の中 にまで入って、現地人も知らぬ暗いところで、 考えて、考え抜いた人生の集積を、一つのドク トリンとして、これをコンサイス(簡明に)し てあなた方に、あなた方の魂に捧げようとする この計画を、つつましやかに受け取り得るだけ の純な人を、私は増やしたいのであります。  二度なき人生、さらんばわが命尊しと、自覚 でなくてよろしい、あなた方の気持ちの中に、 ただそう感じた人は、自分の人生をマイナスか らプラスへと持っていこうとする意欲に燃えて はいないまでも、意欲が出た人だ。そういう人 を私はお導きしたい。今夜とっくりと考えて、 今夜決定ができなかったら、朝起きて考える、 まだ決意ができない、昼も決意できない、さり ながら、六時近くなったら、ああ、行こう、そ ういう気持ちの出た人こそ尊けれ。お導きしま しよう。正しいベターマインドはその寸前に決 まるという格言もあります。おいでをお待ちし ています。 第二章 心身統一の根本義     −心の持ち方の積極化  教えを受ける者の心得  きようから残る三日間、実際方法のお導きに 全力を注ぎます。いよいよあしたから、こうす るんだ、ああするんだという方法のお導きに移 る前提として、きようはあまり理論的理解の方 面には言及しないで、心身統一の根本義という ことに重点を置いてお話を進めていきます。  私かあなた方に希望するのは、断然、批判を 乗り越えて、すべてを無条件で自分のものにす るという気持ちを忘れないでほしいということ です。それが、未知の世界の消息を自分のもの にしようとするとき、あなた方の会得を完全な ものにする一番の秘訣です。  とかくこの現代の理智教養を受けた人間は、 自分じゃ気がつきませんが、自分が考えてもわ からないことを聞いた場合、なぜそうなるんだ ろうという疑問を、すぐ自分の気持ちの中に湧 かせるのであります。これは自分で気がつかな いから、自分はしていないように思うかもしれ ませんが、じつはそうじゃない。  現にかく言う私も、アメリカやヨーロッパで 世界的に有名な学者、識者の教えを受けながら、 今言ったような注意を与えてくれる人が誰もな かったから、考えてもわからないことを聞くと、 なぜそうだろう、どういうわけでそうなるんだ ろうと、すぐ「ギ耳」「1ぼ{}という疑問が心 の中に湧いてきた。  これはよくないことなんですが、どうしても 科学文明の時代に理智教養を受けた人間は、そ うなることを余儀なくされるんですな。また人 間というものは、自分がそれに向かって本当に うなずき得る共鳴を感じない場合、どんな真理 でも、それを自分のものにしようとしない傾向 が、自然と心の中に生じてくるという事実があ るんです。  それがために、何であのときにあんな気持ち を持つたんだろう、なぜあのとき、わかりもし ないくせに、批判しようとする僭越な態度に出 たんだろうと、今になっては後悔しています。 しかし、その当時は、自分の態度に間違いはな いと考えていたのです。自分ばかりでなく、四 十年来こういう仕事をしていると、毎回の講習 会に必ず五人や十人そういう人が出てくるのを 見て、講習会のときに、これはもう必ず言わな きやならない言葉として言うようになってし まったのであります。  しかしね、私、四十年前にこの仕事を始めた 当時は、まさか四十年後の今日まで、初めと同 じような注意を相変わらず繰り返さなきやなら ない日が続くとは思っていませんでした。もっ と正直に私の始めた当時の気持ちを言えば、二 十年も経ったらば、自分の発見も、自分の努力 も認められ、私の言うことを文化民族はみんな 人生に対する常識として持つことができる時代 が来るに違いない、そうして、ほとんどすべて の人が私同様、人生に対する理解を正しく持ち、 健康も運命も、万物の霊長たる人間として当然 のものとして、人生を楽しむことになるだろう と思っていた。  ところが二十年経っても、なかなかそんな時 代、来やしません。むしろ、ますます迷って苦 しんで悶えているやつが増えてきたというよう な状態だった。それで、昭和二十年、百八十度 のコンパーション(転換)が、ああいう思いも かけない出来事で、わが国に突発的に生じて、 あれが一つのエポックになって、日本国民の全 体がもっと無邪気な人生観を持つようになりや しないかと思っだのが、これがまた全然あべこ べ。われわれがかつて思いもかけなかったよう な、不純な気持ちを持つ者が逆に囗に月に増え てきた。  ですから、二十年経ったら、もうこんな前置 きは言う必要ないだろうと思っていたのですが、 このぶんですと、百年経ってもおぼつかないか と思っています。  私は文字どおり命がけであります。若乃花 (初代)が三十九度五分の熱でもって、きよう の相撲が取れないから休むというような報道を ラジオで耳にしましたが、かつて私は、毎日毎 日八年間、大抵午後は最高八度五分から時によ ると九度近く熱が出ていた。それでも、真理の 探求をやめたことはありません。それも親から 離れ、故郷から離れてI離れるって言ったっ て、同じ国の中でもって所を異にしたんじやあ りません、何千里、何万里離れたところへ行っ てI真理を求めて歩いていた。  文字どおり命をいつ何どき失うかわからない ようなことを覚悟の上で研究して、人生を考え ている世界の学者たちがまだ発見していない理 論と実際方法をお教えしているのにかかわらず、 その私の経てきた経験の一切を全然頭に置かな いで、大した見識も経験もない、人生に対して きわめて無知で無理解な多くの人が、この苦肉 の発見を批判しようとするのに驚かされている のであります。  そうして、そういう人に限って認識を誤って いますから、鶏がダイヤモンドを見たのと同じ ように、尊いものを尊いと感じないんでありま す。そういう人は、どんなに本当の実際的な効 果を上げる方法としてお教えしても、一応は やってみるかもしれないけれども、信念という ものが伴わないから、本当の効果を上げ得ない でいる。全部が全部じやありませんよ。けれど も、毎回、入会してくる会員のうち、無条件に 教えを受け入れて無邪気に実行することをいっ たん心がけた以上、いつまでも変わらずにやっ ている人というのは、私の目に映る事実からい くてえと、+分のIあるかしらん。  講習会があるたんびにここに来ているにもか かわらず、何年来ても十年一日、旧阿蒙のごと き人(進歩のない人)がいます。これは恐ろし いことですが、なかには毎回の講習会のたびご とに聞かされる言葉の尊さに慣れちやって、そ の方法の持つ価値の尊厳を正しく感じないで、 ただ右の耳から左の耳へとトンネルのように言 葉を通過させてしまっている人さえあるのであ ります。そういう人は、ただ聞きに来るという ことだけを一つの道楽にしているんじゃないか と思う。  本当に初めの意気込みのような熱心さで来て いれば、そりゃもう半年経たない間にびっくり するほどの進歩が事実において出てくるはずな んです。それが出てこないのは、尊さに慣れ ちやつてからに、実行に対してきわめてルーズ な気持ちが出てきたからに相違ないんでありま す。これが恐ろしいんです。同じことをやって ても、そのやる事柄の中に本当に信念というも のが徹底的に注ぎ込まれているのでなくては、 何の効果も上かつてきません。これが新しい人 たちに対する私のご注意です。  もちろん、初めて聞く耳には非常に物珍しい 言葉で響いてくるだけに一所懸命に聞くが、こ の一所懸命に聞く気持ち、それから、聞いたこ とを一所懸命にやる気持ち、それを死ぬまで持 ち続けるという誓いを自分の心に凛として立て なきやだめです。  あなた方の大部分は私と生活を共にしてない から、私かこの教えに対してどういう態度を とっているかということをおわかりにならない。 現在、始終私の身近に接触している幹部にでも 聞いてごらんなさい。初めてここに入門した人 よりも私は爛々たる熱意を燃やしながら、やが てあなた方が教わるであろうところのいろいろ な方法に対しては、ただ鞠躬如として実行に 勤しんでいるのであります。  私か組み立てた方法であり、かつまた、この 方法によって甦った実際の効果を知っているだ けに、導く私か一所懸命に、怠らずにやってい るのではありますが、それを教わった人々の中 に、実行に非常に緩みのある人を見るとき、私 は何とも言えない情けない気持ちを感ずると同 時に、何という罰当たりだろうと思うんであり ます。  求めずして良いえものを与えられたとき、こ れを「恵まれた」という言葉で表現するのです。 あれが欲しい、これが欲しいと志して自分のも のにした場合には、これは「恵まれた」のでは ありません。おそらく、きようからの三日間、 得られるすべてがと言っても決して誇張でない ほど、思いもかけなかったものを恵まれるに違 いないことを、私はあらかじめ申し上げておく。  望んで得たものでさえ大切なのに、況やまし て、望まざるに得た大きなえものは、これは本 当に心の底からの赤誠を披瀝して、その大きな 恩義に対して、天に向かって感謝を忘れちやい けないことですよ。感謝を忘れなかったら、必 ず実行に勤しむはずであります。ですが、こう 申し上げてもなおかつ、怠け心のほうが先に 立って、とかく教えから脱線する人は、もうこ れはご自分で勝手にこの大きな因縁と恩恵とを 足蹴にしている人なのです。  私は一度ぐらいは忠告しますが、二度とはし ませんよ。昔は非常にやかましく、そういう人 には鞭撻を加えたんだが、それは人数の少な かったがためであります。けど、東京あたりは もうすでに非常に多くの会員を持っているので、 いちいち小言を言っていられない。向こうも小 言を言われるのは嫌だろうし、こっちでも嫌な ことを耳に入れるのは嫌だし、こんな罰当たり に言ってみたってしようがない、「いつかまた 再び健康なり運命のほうから、手ひどいおしか りを受けるやつたな」と思っているだけです。  おしかりを受けて、気がついて、立ち上かつ て、立ち上がれりやいいけど、転んで杖を探し てようやく杖を持って立ち上がろうとしたとき に、杖がおっぽし折れちやったんじや、何にも ならないでしょう? だから、私か初めての方 に最初にご注意しておきたいのが、このことな んであります。  もちろん、古い人で、「おれはもう古いから、 あんな言葉聞かなくたっていい」というふうに 思っている人間は横着な人間だ。「痛いなあ本 当に、顧みて大いに反省した」と感じる人は立 派な人間です。  時間がありませんから、小言はこのくらいに して本論に入ります。  「肉体本位」「精神本位」という誤り  私はきのう、天風会説くところの心身統一法 という教義のねらいは、万物の霊長としての本 当に尊い生命を生かすのに必要な資格条件たる 体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力とい う六つの力を現実につくり上げることだと、こ う申し上げたね。それは一体どういうわけかと いうことを、まず最初に科学的にきわめて簡単 に説明して、それから心身統一の理論理解へと お話を進めたいと思う。  心身統一をすると、どういうわけで、そうし た精神的、肉体的な力が非常に豊富になってく るかというと、その説明はきわめて簡単です。 いわく、心身を統一して生きるという生き方が、 人間本来の面目である、言い換えりや、それが 本当の人間の生き方であるがためなんです。と ころが、こうした簡単な理解が、現代のお互い の文化人の頭の中には、はっきり理解されてい ません。  現代人の生き方をじっと見てみると、おおむ ねは肉体本位か、さもなきや精神本位か、いず れかにその生活の重点が傾きすぎているという 傾向がある。心身の統一が人間の本来の面目か 否かということは、常識で考えてもわかるで しょう?  われらの命は、体ばかりで生きているのでも なければ、はたまた心ばかりで生きているので もない。生命要素の中には、見える肉体と見え ざる心があって、この見えるものと見えざるも のが相結合して現象界に躍動するのを生命とい うんでしょう? これぐらいは、子供だって 知っている。どんな慌て者でも、私は肉体だけ だと言う者もなければ、心だけだと言う者もな かろう。  ところが、聞かれれば立派なそういう常識的 な答えをなし得る人間が、いったん人生の実際 生活に取り組むときは、肉体のみに重点を置く か、さもなきや精神の方面にのみ重点を置くと いう偏った生き方を平気でしているのです。ご 自分自身考えてごらん。  肉体のみを本位としてこの人生に生きること を、生き方として間違いないという考え方をし ている人のことを、学問的には、唯物主義的認 識論者といいます。名前が大変立派だから、大 変いいように思ったら違うんですよ。それから、 心の方面のみを本位として、それが生きること の当然の生き方だというふうに考えている大は、 ゆいしんしゅぎてきかんねんろんしや 唯心主義的観念論者といいます。名前は大層立 派だが、両方とも、ただ間違った思い込みから 間違いを言っているだけだ。とくにこの唯心主 義的観念論者というのは、宗教信仰に志してい る人に多いのであります。あるいはまた、ただ 単なる精神修養法に没頭している人に多い。  信仰のない人より信仰のある人が偉いように 思うかもしれないけれども、天風哲学は厳とし て宣言する、どっちも同じだということを。間 違った信仰なら、しない信仰と同じことですよ。 肉体本位に生きることが間違いのない生き方だ というふうに思っている人間も、精神を本位と して生きる生き方が本当だというふうに考えて、 信仰だとか修養に志している人間も、ただ生き 方が違うだけで、間違いの両端に立っていると いうことにおいては、少しも相違はないのであ ります。  とくに現代、多くの人の信仰ぶりを見てみる と、見栄でもって信仰している大が多い。本当 の信仰を持っている人間というのは、どんな場 合であろうと、その心の中に変化は来ないもの です。「神常にわれとあり」「仏は常にわれとと もにあり」といった信念が牢乎として抜くべか らざるものがある者は、病が出ようが、運命が 悪くなろうが、少しも心の中に動揺を感じない はずです。  本当に神や仏が自分と一緒にいるという信仰 があったらば、どんな場合であっても心に汚れ は持つまい、行ないに汚れは持つまいという信 念が揺らぐことはなく、したがって、よくない 病や運命に脅かされることも少なく、脅かされ ても、直ちにそれを乗り越えていけること必 定であるはずです。  ところが、「私はクリスチャンだ」「私は仏教 の信徒だ」と言って、見てくれだけは大層偉そ うに見えても、少しも人格の内容に尊いものが なく、実際の人生生活の機微を詮索してみると、 神経は過敏で、病に弱く、運命に弱くて、神や 仏が一緒にいるという信念をどこかに忘れてき たかのごとく、醜く汚いものがしょっちゅう心 の中を駆けめぐっている、そういう人のほうが 実際には多いんです。  宗教への疑問  私も最初は宗教というものをたどりました。 けれど、私に与えられたものは何もなかった。 現実の人生に望んでいるものが与えられないと きに、夢のようなエクスタシーで人生を生きて、 そこに何かあるんでしょう。私はそれを聞きた いんだ、神や仏を信仰しているという人に。夢 みたいなことを喜んでいて、何もつかまえどこ ろのない事柄でもって人生が救われるように 思っている者は、遠慮なく言えば、これは一種 の信仰マニアです。真理はもっと厳しいもので す。  だから、私のこういう言葉に不満を抱く人は、 あしたからおいでにならないようにお願いした い。そうして夢みたいなことで救われるか救わ れないか、現実を教えられる天風会員とどっち か本当に尊い人生に生きられるかを事実でもっ て試してみなさい。  私は既成宗教も新興宗教も唱えるところの、 いわゆる神なるものに対して非常な疑義を持っ ています。夢みたいなつかまえどころのないも のを、ただひたすらに拝む、信仰する、そして、 そうした信者の心にあるのは、自己本位の欲望 だけじやないか。「どうぞ体が丈夫になります ように」「どうぞ家内安全、商売繁盛」、いろん なことを言ってやがる。ただ、そのお願いの後 にアーメンとかソーメンとか、あるいは南無阿 弥陀仏とか南無妙法蓮華経とかつけているだけ。 つけるとつけないとで、そんなに違いがあるん ですか。  誰でも人間そういうことは考えているんだ、 欲望がある以上。お願いしなくたって、しよっ ちゆう「もっとお金が欲しいな」「もっと幸せ になりたいな」「もっと丈夫になりたいな」と 誰でも思っているわね。「もっと患いたいな」 「もっと貧乏したいな」「もっと困りたいな」と 思っている者いやしません。ただ、信仰のない 人間は、それの後にアーメンとか、南無阿弥陀 仏とか、南無妙法蓮華経とかをつけないだけだ。 それをただつけただけでもって、特別な恩恵が どこからか来るなんて、そんなことあるものか。  天は自ら助くる者を助く。願わなくたって、 祈らなくたって、恵まれている者はいくらでも いる。私みたいに朝晩、「現代のおっさんやお ばさんが考えているような神や仏がこの世にあ るかい」つて言っているやつが、のべつ恵まれ ているじやねえか。  私、今ある宗教というものは、千年も経った らなくなっちやうと思っています。その時代の 人間には、天は自ら助くる者を助くという信念 が甦っていて、正しい宗教を自分の観念の中に 立てるだろうと。そうして初めて理想的な万物 の霊長たる人間の集まっている世界ができるん だと私は思っていますがね。  したがって、常に真理の先端を行こうとする 私は、もう早くから、命がけの仕事をしている 時分から、お守りなんてものは身につけたこと ありやしねえ。「自ら省みて疾しからずんば、 千万人といえどもわれ行かん」、これが私の信 念たった。それで、今日まで一遍でも神仏なん てものに祈ったことはない。  それは、まだ青年期に、「心だに誠の道にか ないなば祈らずとても神が守らん」というあの 歌を、心の底から味わったからであります。そ うして、先祖に対しても、親に対しても、決し て詫びなきやならないようなことは一つもせず に今日まで来ておりますから、命日であろうと、 快く朗らかに思い出して、みんなと語り合って います。  ところが、人間に生まれながら、人間として の生き方をしなけりや、運命なり健康なり、よ くないことがしょっちゅう人生に降って湧いた ように出てきますから、何かにすがらなきや生 きていかれないという気持ちになる。これは何 も現代人ばかりじゃない、未開の時代から今日 に至るまで、そういう人間が多数いた。そうい う人間が何かにつかまっていなきや安心した人 生か生きられないところから考えついたのが宗 教だといわれている。  しかし、人生は人に頼るべからずということ が厳粛な真理だと思いませんか。自分の生命、 自分の人生は、どこまでも自分自身が守るべき 義務のあり、また責任のあるものだと思いませ んか。この考え方が第一にならない限りは、本 当の人間としての自主的精神というものは発現 してこないんですよ。  いつまでも神や仏に依頼するという気持ちば かり持っていれば、勢い、その人間は、憐れな、 ひとり立ちのできない人間で終わることを余儀 なくされてしまう。何事もない囗が続いて死ぬ んならいい。しかし、人生は波瀾重畳です。 思いもよらない出来事ばかりがいつ何どき不意 に湧いてくるかわからないのが人生だ。そのと きに、いちいち「お頼りします」「おすがりし ます」「お救いください」という気持ちで生き ていて、その人は、よく自分の人生を切り開い ていけるかいけないか、若い人にはわかるだろ  かりそめにも本当に価値の高い自分の人生を 生きていこうと思ったらば、頼るな、すがるな。 信仰を持っているやつは、ただひたすらに「神 にすがれ」「仏に頼れ」と言う。だけど、そん なものに改めて「私お頼りします」と言わなく ても、真理は常にあなた方を守ってくれている のです。  フリルの受け入れ態勢をつくる  さてそこで、心身統一の生活に入るとどうな るか。あなた方の考えているような神仏という ようなもんじやない、もつと大きなものが、わ れわれの生命を守る事実を示してくださる。そ れは何たというと、生きとし生けるすべての生 物を生み出し、生かしてくだされている、宇宙 本体の持つ根本孑孑ルギーです。この孑孑ル ギーを近代科学は「フリル」(くR)と名づけ ています。  昔、まだ科学が今日のごとく発達進歩してい なかった時代、何だかわけがわからないけれど も、この現象界に不思議な働きを行なうものが あるということだけはわかった。それはそうで しよう、太陽を見ても、星を見ても、月を見て も、また一年三百六十五日の間に生ずる春夏秋 冬の季節の別を見ても、昼あり、夜あり、昼夜 寒暖温熱水火、時が来りや必ず花が咲いて、時 が来りや必ず花が散ってからに、枯れ枝になる というような不思議な現象を見ると、何かこう 人間の考え及ばないような偉い力を持っている ものがあるんだと考えたんだ、昔の人間が。そ れは何だろうと考えるよりも、その現象に対し て、もうひたすらに恐れ畏んだあげくに考えつ いた名前が、神・仏だ。  要するに科学理智のいまだ未熟の時代の人間 が、考えつかないところから考え出しだのが神 という名、仏という名なんだ。同じものなんだ ぜ、仏も神も。ただ信仰の態度が違うだけなの。 そして、まず初めに神がこの世にあって、この 宇宙をつくったという説を唯神論というんです。 それから、この宇宙ができてから神様が生まれ たんだというのを汎神論という。いずれもこれ は、考え方の上からいくてえと、神なるものを 偉く見せようとするこじつけなんですよ。  初めにあったのは、現在ある宇宙をつくり出 す「気」だけだ。気が凝り固まってできたのが 宇宙なんだ。神でも仏でもありやしねえ。その 気を、近代科学がフリルと名をつけたんです。 すべてのものを生み出す力、すべてのものを生 かす力、これがフリル。  心身を統一する者は、この力を命の中に思う 存分受け入れられる態勢がつくられたことにな るんです。ちょうど放送局から送る電波を完全 に受け取るダイヤルを回したと同じような状態 に命がなるわけです。どんなに精巧に組み立て られたラジオのセットでも、送り来る電波の波 長にダイヤルを合わさなきや、ツーとも力1と も言いませんね。  よし万物の霊長であろうともだ、このフリル を命の中に完全に受け入れられる態勢をつくら なきやだめなんです。いくら信仰してもだめ。 受け入れ態勢はただ一つ、命を形成している二 大要素である心身を、一つのものに結ばなきや だめなんだ。すると、善人だろうが悪人だろう が容赦ない、この当然な資格をつくつた者の命 の中には、思う存分フリルが、求めずしても与 えられるようにできているのが、この宇宙に存 在する真理なんだ。  だから、心身を統一すると、期せずして人生 建設への根本基礎をなすところの六つの力、体 力、胆力、判断力、断行力、精力、能力という 力が増えてくるのは当然でしょう?  朝から晩までキリストと一緒にいるような気 持ちになってアーメン、ソーメン、アーメン、 ソーメンと言ってみたところで、釈迦や如来と 一緒にいるようなつもりで南無阿弥陀仏、南無 妙法蓮華経と言ったって、この力はもらえやし ませんぜ。ぴったりとこれを受け取る受け入れ 態勢が用意されない限りは、どんなにほかの方 法をやったって、この力を自分のものにするこ とはできない。  愚かなるかな、私は最初、一所懸命に神頼み、 仏頼みしていたが、ちっとも何ともなりやしな い。そして、第二弾に行なっだのが医学の研究 で、これがまただめ。そうして苦しんだあげく、 数十年の歳月を費やして人生哲学を専攻した結 果、今あなた方の耳に入れるような、次から次 へと響いてくる真理によって、私は今日あるを 致した。  どんな人間だって、自分の救われた現実に対 してのみ、本当に心からの尊敬を感じるもので す。したがって、私は私の教える方法に対して は絶対の責任を負うと同時に、絶対の信念で もって、この教えを説いているのであります。  ですから、私は「こうしたほうがいいように 思います」とか、「どうもそうすることがいい んじやないかい」とか、そんな生ぬるいことは 言ったことがない。「こうしろ」「ああしなさ い」「そうすりやいいんだ」と、どんな場合が あっても、私は必ずピリオドをつけているで しょう。あいまいなコングルーション(結語) はつけない。  私の言っていることが嘘か本当か、あなた方 が、きようから教わる心身統一法を実行に移し てごらん。五十年信仰に三昧しているよりも、 心身統一法をIヵ月やるほうが、本当にあなた 方の生命の中に、本当の生きがいが生まれてく るのを自覚できるから。何はさておき、今言っ た六つの力が次第次第にボリュームを増し、内 容量を増やしてくる、その事実は、あなた方を 感動せしめずにはおかないのであります。  心身統一のための四箇条  さあ、ここまでわかったら、次に必要なのが、 さらばいかにすれば心身を統一できるかという 重大な理解であります。いかにすれば心身の統 一ができるかといえば、まず心と体という二つ の生命が、生きる場合に侵しちやならない一つ の法則があるということを知らなければならな い。これを知らずに生きている人が多いのであ ります。  何か人間というのは偶然にこの世に生まれて、 偶然に生きているように思っているから、自力 で生きられるはずの人生を自力で生きられず、 わけもわからないものにおすがりしてお力をも らおうなんて計画を正しいもののように思って いたというのが、未開時代から半文明の今日に 至る人間の心理状態なんです。だが、これはと んでもないこった。心にも体にも生命がある。 そしてその生命には侵しちやならない、守らな きやならない法則が厳として存在する。  本当に信仰というものが尊いならば、この法 則を神なり仏なりが教えてくれそうなもんだね。 誰しもが心に持つインスピレーションがある。 そのインスピレーションの中にひらめき出しそ うなものだ。  ところが、よく考えてみりや、神だ仏だって いうのは人間が仮に名づけているものなんだか らね、何も宙にふわふわ舞っているもんじやあ りやしないもの。筋道の違うところから、こい つをいくら自分のものにしようたって、ものに ならないのが当たり前。まして況や、心や体の 生きる道を知らないで、ただおすがり申す、お 頼み申すじや、何の恵みも起こりやしません。 ただ一時的になんとなくこう、爽やかになった ような、気楽になったような気持ちを感じるだ けだ。けど、人生は夢の世界じゃない。ただそ んな気持ちになっただけで救われるもんじゃあ りゃしませんぜ。どこまで行っても、しっかり と精神生命、肉体生命に宿る法則を厳守してい かなきや。  そこで、第一番にどんな法則を必要とするか というと、精神生命の生活態度、易しい言葉で 言うと、心の持ち方、これが第一に厳重に守ら れなきやなりません。ところがどっこい、なか なかもってそんな持ち方なんていうものを心が けている人なんかありやしませんよ。仏壇や十 字架を見たときだけ、何となくこう清らかな気 持ちになったような気がするだけでね、それ以 外のときというのは、犬や猫に対しても恥ずか しいような気持ちを持っている人がずいぶんい るんだから。  人生あくまでも厳しいもんであります。どん なことがあっても、この心の持ち方を第一に注 意しなきやいけない。  第二に、今度は心の使い方だ。肉体のほうは、 やはり同じく生き方が一番先に理解されなきや いけない。そうして第二は使い方。この使い方 というのは、つくり方と言ってもいい、同じ意 味になってくるから。  どうです? 一遍でもこういうことを考えた ことあるかい。大抵はただもう生きられている から生きているという生き方の人生に生きてい る場合のほうが多くない? 生きられているか ら生きているという生き方は、犬や猫だって やってんだ。夜が明けたから目が覚めたんだ。 腹が減つたからものを食つたんだ。飲み食いす りや出さなきやならないものがあるから出した んだ。また夜が来たら眠くなったから寝たんだ。  早く言えば、寝ちや、起きちや、食つちや、 垂れちや、寝ちや、起きちや、食っちや、垂れ ちや、その間いろんな世迷い言や愚痴を言いな がら、大して偉くもならず、一年一年と積み重 ねて、何年か経ってば1つと泡がつぶれるよう にこの世を去っちまうというのが、もう大とい う人の事実じやないでしょうか。危なくすると、 あなた方もその仲間の中に大らないか? もし もここに来なかったならばという言葉を添えま すが。  では、第一の心の持ち方とは、どんな持ち方 か。それは、いかなる場合があろうとも、積極 的な心の持ち方をする。使い方は、常に観念を 集中する。肉体のほうはというと、生き方は常 に自然法則に順応せよ。第二のほうは、使い方。 常に訓練的に積極化せよ。心にも二箇条、肉体 にも二箇条、これが守られれば、何の信仰もす る必要はない。このほうから来る効果のほうが はるかに現実的ですから。さっきも言つたとお リ、ぐんぐん生きる力がボリュームを増してく る。フリルが条件なしに命の中に入ってくるか ら。  講習会で教えることは、この一番先に必要な 心の方面への実際方法。肉体のほうは、やって たらば十日も二十日もかかる。方法は本(『真 人生の探究』『錬身抄』ともに天風会刊)に書 いてあるから、その本を読むとわかります。  ただ、何もかも本を見りやわかるとは思うで しようけれど、未知の世界の消息は、印刷から 得た会得ではいまだし、人格と人格とをぶつけ 合った理解でないと、本当に自分のものにでき ないんであります。ですから、私か生きている 限りは、私の生の人格をあなた方の生の人格と ぶつけ合って、この会得を正しく導く努力をい たします。  心の持ち方の積極化がすべての基礎  そこで、この四つの心と肉体に絡まる各々の 法則の中で、何か一番先に大事か、どれを一番 先に解決することが先決問題か、これが心身統 一の根本義をなすのであります。家を建てる場 合に必要なのは、完全な設計とともに、基礎工 事をまた完全に施すことでしょう? どんな腕 ききの建築屋が来たからとて、基礎工事が不完 全なところにや立派なものは建ちません。けだ し心身統一の理解が根本的に明瞭になっても、 基礎的手段である心の態度の積極化ということ が本当に企てられないと、努力むなしく九仞の 功を一簣に虧く(長年の苦労や努力も最後のわ ずかな失敗から不成功に終わることのたとえ) 恐れがないとも隕らないんであります。  まして、この肉体方面の方法は、聞いても読 んでも、どっちにしても会得しさえすれば、す ぐ実行に移そうと思えば移せる事柄ばかりであ ります。というのも、現在の肉体という形の見 えるものを相手にすることですから。しかし、 できることにはできるけれども、何をおいても この心の持ち方の積極ということが正確に保た れないと、実行するそばから崩されてしまう。  それから、心の態度が積極化されないと、同 じ方法をやるのにも、強い意志がこれをしっか り抱きかかえてくれないから、ともすればその 実行に緩みが出てくる、むらが出てくる。ある ときには非常に熱心にやり、あるときにはやら なかったりする。  日曜行修会といって、日曜日に大勢で集まっ て天風会の教義の実行をする催しが各地にあり ます。ところが、俗物当時の気持ちと同じよう に、日曜ぐらいは朝寝をしたいなと思っている やつは、朝出てきませんわ。そうすると、初め はばかな勢いで行ってたやつが、二回、三回、 五回、十回となると、心の態度が絶対的に積極 的になっていない人間は、「嫌だなあ、こんな 寒い日に朝早く」なんて思いはじめる。さりと て、行くと言った以上、行かなきや、また笑わ れるだろうとか、変な見栄で行くやつも出てく るわけだ。  しかし、そういう気持ちでやると、やるには やっても実績が上かつてきやしません。何をす るにでも、心の態度が積極化されないと、本当 の緩みなぎ力でずうっと一貫してやり遂げるこ とはできないんであります。だから、心身統一 の各箇条を教わって、やることに志してみたと ころで、一番先にこの精神態度、いわゆる心の 持ち方が積極的でないと、初めの感激もいつか 消え去る。  考えてみるというと、天風会に来る前と今と 五十歩百歩、あんまり変わらないような、秩序 のない、系統を無視した、真理から脱線した生 活を行なっている人も、相当あるんじやないか と思う。そういう人はきっと、健康なり運命な りが、また悪くぶり返してきます。それは、そ ういうふうにできているんだもの。  正しきものに従えば、決して歪めるもの、正 しからざるものは出てこない。自分で正しいこ とを行なっているようでも、その行ないの中に 正しからざる不純なものがあり、歪めるもの、 汚れたものがありや、必ず結果においてよくな いものが出てくるのは当然であります。なぜか といえば、この世の中は、すべて蒔いた種に花 が咲き、実がなるようにできているんだ。これ を、コンベンセーション(QOヨー回阯呂)の法 則という。  償いを受ける報い、これがコンベンセーシヨ ンです。ストーンといくと、ホーンとリバウン ドしてくるこの状態をコンベンセーションとい う。打てば響く、それと同じように、心の持ち 方が積極的にならない限りは、どんなことをし ても、ただ心身統一法を一所懸命やったところ でもって、九仞の功を一簣に虧いてしまう。基 礎的工事の不完全。  なぜかということは一目瞭然でわかる。人間 の心は、人間の生命の根本骨子をなしているか らであります。もっと科学的な言葉を使えば、 人間の生命現象の一切は、目に見えない精神作 用に働かされているということを、今の大は知 らない。まったく気の毒なほど考えていません。 現代人の病を治し、人の命のことを考えなきや ならない医者の学んできた医学が、すでにそれ を教えないんですから。  こう言うと、「それはあんたの習った時代の 医学だろう」と言うかもしれないけれど、五十 年前も今もちっとも変わりがない。とくにドイ ツ医学を学んできた人は、より一層、心の存在 なんていうことは考えていません。ただ細胞に 現れた生活現象だけが、医学の対象となってい る。心の持ち方なんていうのは、医学のほう じゃ全然教えやしねえ。  だから、不眠症なんかに罹って、睡眠薬を やっちゃ危険だというような状態になった病人 に、「どうすりゃ、先生、寝られますか」つて 聞かれるのが、医者は一番困る。親切な医者で も、そうなると中っ腹になって答えますよ。  「どうすりや寝られるって、考えてごらんなさ いよ。あんた、もう睡眠薬が効かないんで、こ れ以上睡眠薬をやると死んじまう。医者として、 あなたの命にかかわるような薬はあげられん。 しかしよく考えなさいよ、あんたの命だろう? 赤ん坊だって寝てんだぞ。あんた、眠れない、 眠れないと思うから寝られないんだ。今夜から 眠くなるまで寝なさんな。そのうちに寝られ る」という答えが関の山だよ。  言われたほうの病人、一時は「なるほどもっ ともだ。寝られるときが来ると寝られるだろ う」と思ってうちへ帰る。さあ、床へついて、 それじゃ、医者の言ったとおり、そんなのんき な気持ちになれるかって、なれないでしょう、 普通の人間だったら。またぞろ、そんなこと 言ったって、もしもこのまま寝られなくなっ ちゃったら死にはせんかと思ったら、いよいよ 目がさえてくるわ。  それでまた医者のところへ行って、「きのう 先生が言うとおり思ったんですが、思えば思う ほど心細くなって、どうにもこうにもしようが なくて、今じゃ、気が違いそうになります」つ て言ったら、医者は「もう勝手にしやがれ、私 にはもうどうもこうもできやせん」つて、こう 言います。  実際にそう言わなきゃいられないほど、それ は医者にはわからないことなんだ。正直に言う 医者もある。「これから先は、医学の範囲じゃ ないわ。精神修養しなされ」なんて言って、逃 げちまうやつもあるけど。逃げるほうはそれで 済むからいいけど、逃げられたほうじゃ、困っ ちまうがな。  これは、けだし心の積極化というものが徹底 しない結果に生ずる事実なんです。  心が積極的になってない人というものはね、 実際われわれが見るてえと、ようまあ、あんな くだらないことを考えているわというようなこ とを平気で、平気というよりも真剣に考えてい ますわ。  二十年、三十年、心身統一法を実行している 幹部のようになれば、もう私と話をしていても、 お互いの考えの中に食い違いが出てきません。 けれども、まだ五年や十年ぐらいだというてえ と、こうやって離れて私の話を聞いているとき は、「なるほどな」つて感激しているが、面と 向かってひざ突き合わせてからに、こと人生問 題でも話し合うときになると、「あの先生の 言っていること、われわれの考えと違っている ようなんだが、どっちか正しいんだろう」と思  本当言うと、自分のほうが正しくないんです がね。生きてる層が違うんだ。あんた方が気に することを、私は気にしない。あんた方が心配 することを、私は心配しないんだ。あんた方が びっくり驚くことを、私は驚かない。  今、大きな地震でもあると、いきなりあなた 方は逃げ出すでしょう。逃げ出すときの考えと いうのは、みんな決まっています。「とにかく、 つぶされたら大変だ」。そして、私みたいに じっと立って、皆さんの行動を見ていると、 「あの人ばかだ、何もわざわざ好んで立ってて つぶされなくたってよかろうに」と思う。  つぶされるかつぶされないか、わかりもしね えんだ。それで慌てふためいて出ていきやかつ て、階段から落っこちて腕でも折りや、そのほ うが損だということを知らねえ。こっちのほう は、そういう考え方でいく。  あるいはつぶされるかもしれません。けれど、 つぶされたら死ぬだけじやねえか。しかし、今 までずいぶん大きな地震に遭っだけど、つぶさ れずにいるから、必ずしも地震のためにつぶさ れるとは隕らねえだろう。それなら何も驚くこ とはねえたろう。考え方違うでしょう? あな た方が聞くてえと、「あほかいな」と思うんだ、 この考え方は。私かあなた方に聞くてえと、 「あほかいな」とやっぱり思う。  空襲のサイレンが鳴って、間もなく敵の飛行 機が波状的に入ってくる。すると、大抵の人が、 警戒警報のときはともかく、さすがに空襲警報 が鳴って、頭の上へ敵の飛行機が来たら、早く 壕の中へ入れ入れというのが、あのときの常識 たったね。私のうちでは、私をはじめとして家 族一同、犬まで壕には入らない。入りたくても 壕ねえもん。ない壕には入れませんよ、こしら えないんだから。  人は「何で先生のところにはこれだけの品物 があってからに、先生という大事な人が、空襲 警報が鳴っても壕に入らないんですか」つて言 うんです。しかも、軍の防空司令官が私のとこ ろへ来て忠告したことがある。  「じゃ、壕に入ると、どんな爆弾が落ちても無 事なのか、おい」  「いや、そりゃ、まあ、直撃弾じゃだめだよ」  「そうだろう? 壕に入ったら、壕に入っただ けで何にもできねえなあ。こうやって物干しの 上にいりゃあな、どこに爆弾が落ちたっていう ことがわかるわ。そうしたら、大事に至らない 間に手っ取り早く消すという手段も工夫できる だろう。壕の中に入ったら、あき目は閉ざされ、 何にもわかりゃしねえ。みんな壕に入っちゃっ たら、火事は燃え放題だい。誰が一体全体、本 当に防空事業に努力する?」  「……それもそうですな」  「それもそうじゃねえ、それが本当じゃねえか。 だめだよ、そんな防空司令官じゃ、東京みんな 焼いちまうわ」と言ったら、果たせるかな、焼 いちやったね。  私のうちには、物干しの上にしつらえた物見 台があるんだ、+畳ばかりの広さで。あのとき 私かそれに駆け上がると、うちじゅうの者がみ んな上かつてきやがっだ。「きれいですね、き れいですね」と。水族館のイカが行列してくる ようだ。だから、空襲警報が鳴ったからといっ たって、現に前の町が焼けていたって、恐ろし くも何ともない、われわれは。  恐ろしがっても恐ろしがらなくても死ぬとき は死ぬと思ってりや、恐ろしかないでしょう。 それが、あなた方と少し違うんだが、結果がこ んなに違っちまうから、話が合わないんだ。万 事諸事それなんだ。だから、やはり、遠くから 見ておいで。先生というのは、あんまりそばへ 近寄らないほうがいい。あなた方が偉くなって から近寄ると、本当に味わいがわかるけれども、 あなた方ができないうちに近寄ると、「来てみ ればさほどでもなし富士の山」つていう失望を 感じるよ。  心と肉体は一筋の川の流れ  これだけの親切な話をしているから、さぞか し身の土話を打ち明けたり、苦労煩悶等を言っ たらば、懇切丁寧に先生が相談相手になって慰 めてくれるだろうなんて思って来るやっかある。 昔は一部始終は聞かなかった。「それはわかっ たい。そんな話は、おれ聞きたくないから帰 れ」と、昔は言ったものです。東京では、今で もそうやっています。  神戸のほうには、多くの方々が大変喜んでい るそうですから、私もとめやしないけど、身の 上相談所っていうのがあるんだってね。ぷっ、 東京にありやしねえ、あんなもの。東京で設け ると言ったら、私か黙っていましようか。  しかし、神戸にはぜひ必要なんだってね。忙 しいのに必ず水曜日に行つちゃ、聞いているほ うがノイローゼにかかりゃしねえかと思うほど くだらねえこと聞かされる。すべての答えは簡 単に結論づけられるんですよ。  「もつと修行して心を積極的にしなさい、そう すりゃわかります」  これが一番いい。これは逃げ言葉じゃないぞ。 本当に心が積極的になりや、現在感じている煩 悶や苦痛なんていうものは、まったく朝日の前 の霜のように消えちまう。なぜかといえば、生 命運営の一切の根本中枢が心なんだ。  それを多くの人が知らない。だから、目に見 える肉体だけが、生きる力があって生きている ように思って、何か美味いものでも食って栄養 をとるか、強壮剤でも飲んでりや、人間ってい うのは丈夫に生きられるように思っている。こ れが文明民族たっていうんだから、まったく腹 抱えて笑いたいわ。  簡単な事実であなた方の無明の迷いを覚まし てあげる。人間の肉体が生きているのはどうい うわけかというと、みんな心が生かしているっ ていうことを説明するからね。われわれの肉体、 これ、どうして生きている? これからまず考 えていかなきや。こう言うと、「どうして生き てるって、生きてるから生きてる、答えは簡単 ですよ」。それじゃだめなんで、人間の肉体は、 三つの条件が、この生命を保つ役割を行なって いる。  三つの条件とは何たというと、息をすること と、栄養を吸収して新陳代謝のために燃焼作用 の材料を送り込むこと、燃焼作用に伴って生ず るところの、いわゆる薪でいえば灰だ、生理学 的には老廃物と名づけているが、それを排泄す ること、この三つ。呼吸の作用と、栄養の吸収 作用と、老廃物の排泄作用。この三つの条件の 中に、血液の循環だとか、肺呼吸だとか、ある いは各臓器の運営される作用が含まれているわ けだ。これを肉体生命維持の三大条件という。 だから、この三つの条件が完全に営まれている 限りは、肉体はどこまでいっても完全であり能 うのであります。  ところが、この三大条件は、心がこれを行な わせているんだから、心の態度が積極的でなく なると、この三大条件にも、調子の乱れが出て くる。これが、多くの人たちの気のついてない 消息なんであります。  「何でおれ、このくらいの病が治らないんだろ う」という人、いくらいい医者にかかっても、 どんな薬を飲んでもよくならないような病を 持っている人あるだろう? それで、思案に 余って医者に相談すると、「何しろあんたの体 はアレルギーでね」と、こう言うんですよ。す ると、言われたやつは、わからなくても、「あ あ、そうですか。アレルギーで、はい。アレル ギーつて何です?」つて言うと、「そりゃあ、 素人にちよつと説明できないが、一口に言えば 抵抗力減退だな」。  するともうそれから先、知恵のある質問はし ませんよ。知恵のあるやつなら、「それじゃ、 その抵抗力を強くしてください」と言うだろう。 そうすると、医者は困つちまう。「それは難し い。何しろ、そういう弱い体に生まれついてる のだから」と、逃げちまう。これをね、徳川無 声と柳家金語楼もテレビでやってるけど、「こ んにゃく問答」という。しかし、人生、こん にゃく問答じゃ解決しない。  この三大条件が、どうして心によって行なわ しめられているかということがわかるてえと、 そんな開抜けな問答も起こらない。息をするこ と、老廃物を排泄すること、あるいは栄養を吸 収する作用等、ことごとく直接的にこれを行な うものは五臓六腑であります。ところが、その 五臓六腑がすべての作用を行なうもとをなして いると思う浅はかさに、大抵の人は気がつかな いんですよ。  操り人形がどんなに巧妙な所作をしても、そ れは操り人形の力じやないでしょう? 操る糸 によって動かされているだけなんだ。五臓六腑 というのも人形と同じで、独自的可動性はない んであります。そういう五臓六腑を動かしてい る操りの糸にもたとえるべきものは何たという と、神経系統。これが大事なんだ。  命を完全に生かしていこうとする企てに対し て、動物性神経、植物性神経という二つの系統 別に分かたれる神経が、命の一切の芯をなして いる。丈夫に生きられるのも、また、病の場合 にその病を治す自然良能という尊い力も、みん なこの神経系統の中に人つている。だから、肉 体健康の根本条件は、神経生活機能の強健とい うことが、何よりも見逃すことのできない、侵 すべからざる金科玉条なんてあります。  そもそも大事な神経系統の生活機能を本当に 頼もしい強さにするのには、直接的には中枢神 経が強くならなきやだめ。そうしてさらに、中 枢神経を強くするものが脳髄府であります。脳 髄府とは何たというと、この中に心の働きを行 なうものが入っている。いわく大脳、小脳、延 髄。  この説明によって豁然としてあなた方は悟り を開かなきやいけない。なるほど今まで肉体は 肉体、心は心と別々に考えていたが、生命の生 きている状態をひそかに分析的に解剖的に考え てみると、何だ、一切合財、心が行なっている んじやないかと。  そうすると、目に見える肉体という一つの現 象物体も、じつはその源を訪ねれば、形見えざ る心であったかということがわからなきやいけ ない。そうです、心、肉体と別々の名前で呼ん でいても、その生命のあり方を厳密に検討する と、まこと切るに切れない一筋の川の流れであ る。  さて、一筋の川の流れであるとしたらば、考 えなきやならないのは、この川の全体の流れを 清くするのには、源から清くしなきやいけない ということでしょう。源清からずんば末おさま らん。しかるに、病になったり、運命が悪くな ると、ただこっちの方面(肉体)だけ何とかす りや解決はつくように思うのが、こういう真理 を知らない、いわゆる凡夫という輩の常である。  とくに病のときなんていうのは、心なんて全 然考えやしねえ。そうでしょう? それ薬だ、 それ注射だ、それ転地だ、さあビタミンだ、カ ルシウムだ、さあレントゲンだ、それ医学博士 だ、病院だ、それ何だかんだ、いろんなものに すがるばかりだ。それも効き目がなくなると、 思案に余って、やむを得ずお寺だ、お墓だ、と こうなる。  私は四十年間、幾多の大、とくに難病、不治 の業病にかかっている人の相談相手になってい ます。医者で治る程度の病なら、私のところに 来やしねえもの。まさかにこんな仕事をしよう とは思わなかったよ、お医者とお寺の間の才取 り(仲介)をするとはね。  このあいだも東京で大笑いしちやったの。柔 道五段の心理学者が神経衰弱にかかって、その 上に胃潰瘍にかかった。どうです、念が入って いるでしょう、柔道五段で、心理学者で、神経 衰弱で、胃潰瘍たっていうんだから。それで、 結局私のところへ来て治った。そうしたら、当 人及びその兄なる者の感想の言葉がいいや。  その人、毎日毎日、病院から通っていた(当 時、天風会の講習会は護国寺にある月光殿で行 なわれていた)。普通、病院から寺に行くと言 えば、大抵、人生一巻の終わりとなったときだ。 病院から寺へ行きやあ、その次は焼き場へ行く。 焼き場から今度どこへ行くかと言えば、泥の中 へ入るんだ。それで、兄貴が言うんだ。  「私の弟は、病院から毎日寺へ来ています。寺 へ来て、どんどん生き返っていきます。こんな 不思議な現象を見て、兄弟手に手を取り合って 喜んでいます」  寺に行こうと、焼き場に行こうと、生き返っ ちまいますよ。亘]理によって生命に大きなボ リュームを与えるんですからね。源から生きる 力を流し出すんだもの。  フリルという無限無尽蔵の宇宙孑孑ルギーを、 心を通じて生命全体にずうっと流し出しや、ほ かのことは全然しなくたっていいんですよ。薬 を飲み、医者にかかり、注射をすりや必ず助か るとしたら、現代のように医者が多くて、病院 が多くて、薬が多い時代に生きている人間、風 邪一つひかないはずじやねえか。ところが何と も義理がたいのか、人情があるのか、いたずら に博士や病院の増えるに相呼応して、何ともま あ、病人の多いこと多いこと。すまねえとでも 思っているんでしようね、せっかくああやって 医者もでき、病院もできたのに、丈夫じやあ、 どうも恥ずかしくて往来歩けねえっていうんで、 病になるのかなあ。まことに人々の心理状態を 疑わざるを得ない。しかし、何と思われようと、 丈夫なことが一番いいだろうと思うが、どうだ ろう。  私は丈夫なときと、弱いときと、さんざん味 わってここまで来た。「世界中の金みんなやる から、おまえ、もう一遍昔のような弱い体にな らんか」つて言われても、ならへん、ごめんこ うむるわ。たとえ監獄にぶち込まれても、現在 のように丈夫なほうがいい。  何にしても、本当の丈夫さをしみじみ味わっ たことのない人は、丈夫さの愉快さを知らねえ かもしれないけど、楽しいもんだぜ。どこもど うもないっていう囗ぐらい楽しいものはないん ですぞ。  消極的な心の態度の悪影響  心の態度が本当に積極化されるという決定的 な状態に到達すると、いつ自己を顧みても、明 るく朗らかに生き生きとして勇ましく生きられ るという気持ちになれる。尊からずやこの気持 ち。  あなた方に金をふんだんに持たせたって、地 位をどんなに上げてやったって、どんな自由の できる身分を与えたって、最初の二、三日こそ、 多少明るく朗らかに人生勇ましく生きるかもし れないけれども、慣れればすぐ尊さを価値高く 認識しないような横着な気持ちになるだろう。 「隴を得て蜀を望む」だ。そうすると、すぐ明 るさも朗らかさもなくなり、生き生きとした勇 ましさなんていうのはどこかへやっちまって、 やっぱり、ヘチマが根切られたようになっちま う、しょぼ1んと。  だから何をおいても、この心を積極化するこ とが第一だ。積極化しなきや、その影響はどん どんどんどん肉体に容赦なく現れてくる。しか も、あなた方は、日常の経験でもって、感情が 心に起こると、その感情どおりの変化が肉体に 現れるということは知っているはずだぜ。  腹が立ちや、腹が立ったような様子になるし、 悲しけりや、悲しいような様子になる。どんな に器用なやつだって、いきなり泣いたときに出 るような涙は出せないだろう。胸にぐうっと込 み上げてくるものが涙になるんだもんな。恥ず かしけりや、赤くなるだろう。とぼけた慌て者 が恥ずかしかつているときに涙が出ちやったり、 泣かなきやならないときに、真っ赤になってか らに、恥じらっちまうなんてことないはずだよ。  しかも、感情たるや、そもそもどこに起こ る? 心に起こる。肉体に感情が起こるんじや ありませんぜ。目に見えざる心に、あるフリク ション(摩擦)が起こって生ずる現象を感情と いうんだ。この感情のさまざまによって、肉体 に咄嗟刹那、いろいろな変化が起こるというこ とを知っていながら、人間が消極的な、気弱な、 勇気のない、憐れな、神経過敏な状態になって 怒ったり、泣いたり、怖れたり、憎んだり、嫉 んだりすれば、目に見える肉体の外に現れる事 実よりも大きな恐ろしい変化が体の内部に生じ てくるということが、なぜわからないんだろう。  そのくせ、臆病なやっかびっくりこいて貧血 なんか起こすと、「ああ、ありや、驚いたせい や」なんて、人のことだと平気で言ってるじや ねえか。眠くて臥所へ大っだ。本来なら、眠い からすぐ寝るはず。ところが、何か気にかかる ことをひょいと思い出す。さあ、寝られねえ。 眠いはずなのに、二時、三時までも寝ずにいる という人間さえあるだろう。これを考えてみた ときに、心のあり方がそれはもう微妙な影響を 生命にしよつちゅう与えていることがわかりそ うなものだ。  ただ単にそれだけ考えても、本当に心の持ち 方の重大さがわかる。況やまして、学術的にこ れを研究すると、より一層、どんな事情があろ うとも、心の態度は消極的にしちやいけないと いうことがはっきりわかるんであります。  それはね、人間が怒ったり、怖れたり、悲し んだりすると、すぐ命を守る作用の中でも一番 大事に考えなきやならない血液とリンパという ものが、みるみる劣悪になるんであります。と くに血液の中には、素人でも知っているだろう、 黴菌や細菌を食い殺してくれる尊い作用があり ます。食菌作用という、この作用が衰えちまう。 衰えると憐れ、貴重な人間の生命が、黴菌や細 菌のとりこになっちまうんであります。  近代、若い男女子の間に、本当言ったら、そ れほどまで恐ろしくはない黴菌であるはずの結 核菌に冒され、憐れ短い一生をはかなく終えち まうやつが多かった。薬のパスができた、マイ シンができたといっても、ああいう病にかかっ たら長生きができないと多くの人に考えられて います。  終戦後はとくに十人に八人までが結核に冒さ れていない者はないというようなありさまなの は、人々の心の態度がおしなべて積極化してい なくなったからです。直接的には、細菌に対し て抵抗力を働かし得る血液が、その力を衰えさ せた結果だ。だから、心が積極的で、病に対し ても気強い人間は、仮にああいう病に冒されて も、別に大した手段を施さなくても治ってしま えるという事実を、私は自分の体で体験し、 知っています。この点は、親に対して感謝して います。修養しない前も、普通の人よりいくら か心が強かったために、その強い心が、幾たび か危篤に陥った私を病からすくい上げてきたん だと思う。  若乃花も、生理解剖のほうから言えば、九度 五分も熱があれば、土俵に出て戦ったら、これ は障るかもしれません、医者のほうから言わせ りや。天風哲学から言ったら、勝負にや負ける かもしれないよ、熱があれば、生理的に力が十 あったものが五に減るかもしれないから。勝負 には負けるかもしれないけど、病では死にませ んよ、「くそ11 こんちきちょう!」つて信 念があったら。若乃花の信念が崩れて出ないん じやなく、傍で医者やほかの者が、「出ちやい けない」と言うんでもって、出さなかった。  私は別な意味から、若乃花に休んでほしくな かった。それは、相撲道のために若乃花が出る ということは、ただ相撲道という小さな範囲だ けの問題だけど、心身統一法のほうから言った らば、一つの証明になるから、出したかった。 けれども、出てひょいと鏡里に勝てればいいが、 鏡里に負けると、今度は小さな問題だけども、 私か困る。それは、鏡里が勝つたんびに私のお 小遣いがどれだけ減るかわからないんでありま す。  あなた方は相撲取りをひいきにしたことがな いかもしれないけれど、相撲取り一人をひいき にするのと、芸者を身請けして十人囲っておく のと、どっちか金かかるかと言えば、相撲取り 一人のほうがかかるのよ。ちょいと優勝したと いっても、私の手元からころころっと金が何十 万と飛び出していっちまうんだ。よくできたな あ、偉かったな、それ小遣いやるぞと。だから、 若乃花には休んでほしいし、休まずにいてほし いし、心は二つ、身は一つ(笑)。  まあ、どっちにしても、私かもしも若乃花な ら出ますよ。私は、熱があろうが何かあろうが、 立っている限りはご奉公する。この春なんか修 練会前に、一月に来たときも、三月に来たとき も、五月に来たときも、私ずうっと八度内外の 熱があったんだ。誰も私に熱があるとは知らな かっだろう? 知っていたのは、野崎さんと他 数人の幹部ぐらいのもんよ。だから、一番最後 の月は、やむを得ず私治療しなかった、「お力 (心の積極的な人と接する参照)」をあげなかっ た。私かあげないと言ったんじやない、みんな がやっちやいけないって言ったんだ。「先生が 転げ衰えちや困る」と。  「おれは立っている限りはやるんだ、さわるな い、ばかやろう。おれの真理は、こんなことで おれをへこたらせない」  「だって先生、もうみるみる痩せてきました」  「あたりめえよ、病があって太りや、むくんだ んだ、ばかやろう、痩せるのは当たり前だい。 修練会のとき見てみろ、どんどん太ってみせる から」  そうしたら、大阪の修練会のときから比べて、 今一貫五百匁(約五・六キログラム)も増えて いるだろう?  私のお役目を、天がもう要らないとおぼしめ せば、無論、私の命はなくなるだろう。つつま しやかに真理に沿ってこうやって生きている人 間に、故なくして命を取っていくような大きな 出来事が起きるもんかい。ご奉公できない体に なりや、そのときには、いくら立って演説した くたってできやしない。「立てなくなっちまえ ば立たないだけの話なんだから、うっちやらか しておけ」つて、いつも言っているんです。  実際、心の力がどれだけ大きなものをわれわ れの生命に働きかけるかということは、やがて 私か心の力をつくる方法を教えて実行に移して いくとわかる。どんなに丈夫でも、神経過敏で 心の力ができてない人間が、もし医者なんかに 行って、医者から「あんた、気がつかすにいた んだろうなあ。これ絶対安静にしないといけな い体なんだぜ。気の毒だが、三期になっている よ」なんて言われると、もうカタカタつとなっ て、立ち上がれなくなっちやうんですよ。そう いう経験を持った人もあるだろう?  心の練れている人は、そんなこと言われたっ て、「何をぬかしやがんだい、自分がこしらえ た品物みたいに思ってやがる。医者がそう診た からって、おれはへいちゃらや。生きてる間は 生きるわ」と平然たるものだ。みんな私みたい な気持ちになると、病気にならなくてもいいの に病気になるような間抜けなことはしません。  私なんか、現在医者に診せたらば、これはも う、こんな講演をするどころじゃない、「じっ と座ってなさい」つていう体なんですよ。こっ ちの肺が五分の二、穴があいちゃってんだ。そ うかといって今から肋骨切ることもI切らせ やしませんがI医者はできないでしょう。二 十歳代の人間ならともかく、歳がませてる (笑)。捨て身にかかってご奉公している私には、 何の障害もそこに出てこないんであります。  だから、あなた方から見るとずいぶん無鉄砲 のように思えるかもしれんけれど、無鉄砲じゃ ないんですよ。実際、レントゲンなんか見ても、 こんな体して何てまあ丈夫なんだろうって、自 分でも思いますよ。それには、この心の立て直 しをしなきやいけない。  感応性能を強化する三つの条件  そこで、もう時間がきましたから、急ピッチ で、心の立て直しに対する方法を言っておきま す。今まで多くの人が、心の重大性がわかって いても、心の問題を解決することができなかっ たのは、体をまず丈夫にしてからでなきやいけ ないという間違った考え方をしていたからです。 いわく「健全なる肉体にあらずんば健全なる精 神宿るあたわず」、これが真理のように思って いた。  ところが、これは真理じゃありません。少な くとも絶対的な真理じゃないということは言い 得る。なぜならば、体の丈夫なやつというのは、 少ないけれども、世にいないわけじゃない。相 撲取りや、武術家、あるいはスポーツ選手はみ んな比較的体が丈夫だ。ところが、彼らの気の 弱いこと。  相撲取りなんか、まあ天風門下に入っている 人間は別として、大抵この締め込みに成田山や 摩利支天のお守りを入れて相撲を取るんですよ。 相撲取りが取っているようにおぼしめさろうが、 じつはお守りが取っている。気が弱いからだろ う。出るとき一所懸命神棚上げて、火打ち石を カチンカチンやって、塩花振って出るやつがあ る。向こうのほうから坊主が来るてえと、目を つぶって、そいつが通るまで立っているやつが あるんだ。坊さんに会うと、その囗の土俵が悪 いって言うんです。  こういうのを見ると、結局、「健全なる肉体 にあらずんば」という言葉が第二義的だってこ とがすぐわかるはずだね。  私なんかもはかな話さ、体を丈夫にしなけ りや心が丈夫にならないように思って、体を丈 夫にしようと一所懸命、医学的な知恵絞ってい たんだが、一向丈夫になりやしねえ。なぜなれ ば、真理はそこにあるんじやないもの。体を丈 夫にしようと思ったら、心を丈夫にしなきや。 できはしないんですよ。「健全なる肉体にあら ずんば健全なる精神宿るあたわず」でなくして。 「健全なる精神が健全なる生命をつくる」。しか も、その健全な精神は、肉体をどうこうしたっ てできやしません。  じやあ、どうすりやできるか。心は、心に特 殊の方法を行なわなきやできないの。その心に 行なう特殊の方法とは何か。学問的にいうと、 人間の心の中にサゲスティビリデート ( Suggestibilit at)というものがあるんです。こ れ、誰にでもあるのよ。日本語に訳すと「感応 性能」。これが人間の心をさまざまに働かす原 動力だ。これを使用しないと、たとえどんなに 名僧のお経を聞かされても、お説教を聞いても、 バイブルを朝から晩まで読み通しに読んでも、 宣教師や牧師にどんなに神様が偉いか聞かされ たって、少しも自己自身は甦りやしませんよ。 ただ一時的にいいなあと思うだけだ。いいなと 思っただけでもって人生がよくなるんじやない の。現実に感応性能を強くしなきやだめなんで す。  そのことに気づくまで自力で研究していると、 二十年も三十年もかかるのよ。私は、世界の学 者や識者が、いまだにこの点に気づかずにいる のは、おかしいと思う。心理学者だって、精神 学者だって、うんといるんだぜ。誰でも感応性 能のどんなもんかっていうことは知っていなが ら、この感応性能を強くすることが心を強くす る秘訣だということに考えが及ばないんですか ら、案外学者や識者の研究というものは浅いも のだなといつも思っているんですが。  この感応性能を強くするには、三つの条件が 解決されなきやいけないんです。第一が観念要 素の更改、第二が積極観念の養成、第三が神経 反射の調節。  この三つのことが完全に行なわれない限り、 どんなことをしても感応性能は強くならないん です。したがって、結果において心も強くなら ない。そのかわり、この三つの条件が解決され ると、「あれ、これが自分の本当の心かいな」 と思わざるを得ないほど、打って変わって心に 強さができる。  間もなく実感的にこういうことを感じる。 「なるほど変わってきたわ、今まではこんなこ とがあったら寝られもしなかっだけど、今度は 平気で寝られる」とか、「今まではこんなこと があったらもう居ても立ってもいられないほど 心が騒いだのが、今度は案外落ちついている な」とかいうふうに。  結局どんな難しい事柄でも、正しい真理に 従った方法を行なえば、必ずそれが成就すると いうのは、これは言わずと知れたこっちやあり ませんか。それを私は、誰も教えてくれないた めに、長年研究し、なかには三十年もかかって ようやく発見したものさえあるのを、こうやっ て一つの組織のもとにまとめて、あした、あ さっての二晩にわたってお耳に入れます。  縁あってここに来られた方々は、どんなこと があろうとも、この二日間は休まずにおいでに なって、この好機を逸しないで、生命の尊い立 て直しに、本当に心の底から随喜の涙をこぼし て共鳴なされることをお勧めして、今夜の講演 を終わります。      かんねんようそ  こうかい 第三章 観念要素の更改      −感応性能の強化@ 心の倉庫  方法なき教えに救いはない  きのうまで、私はあなた方に、人間が人生に 生きるとき何をおいても心が重大だということ をお話ししてきました。これは、私のように科 学的な説き方をした人はあまり多くないかもし れませんけど、哲学的ないし宗教的には、何も 今さらのことではなく、遠い何千年の昔から、 西洋でも東洋でも数多く説かれていることです。 心を正しく持て、強く持て、清く持て、尊く持 てと。もういつの時代でも、どんな宗旨の宗教 でも、いかなる修養法でも、必ず人生というも のを考える場合、心を重点とし、わかりやすく 言えば、お題目の中心にしています。  ですから、ある特殊な宗教は心を重大だと考 えていないとか、あるいは、ある時代の教えは 心よりも肉体のほうが大事だと説いていたとか、 そんな形跡は過去のわれわれ人類の世界には一 度もなかったのです。ですから、バイブルを読 んでみても、お経をひも解いてみても、アラー の聖典を読んでみても、ただ言い方の相違、言 い回しの作り方の相違だけでもって、結論は結 局、心を常に清く強く正しく麗しく持てという ところに、いつもその重点が置かれている。  それは、私か昨晩講演したようなことを科学 的には知らなかったかもしれないが、心がどん なにわれわれの人生を支配する重大な役割を果 たしているかということを、先人たちが事実に おいて知っていたがために相違ないのです。  だとすれば、問題はここです。もう何千年も 前から、人生を考える者は心の重大性に感づい ていながら、なぜ私か昨晩あなた方に申し上げ たような、心を本当に正しく強く尊く麗しくす るのに必要な方法というものを考え出していな かったかという点であります。そうした消息に、 あまり人生というものを深く考えない人、案外 ぼんやり人生に生きている人は気がつかずにい るのです。  今回の一連の講演を聞いて、もしも天風説く ところのものよりも、はるかに現実的な実際方 法を説いている人を知っていたら、遠慮なく私 に申し出てください。それがいつの時代でも構 わない。また、どこの人でも構わない。確かな 証拠をもってお申し出くだされば、無条件で、 私は天風会の全財産を即時に差し上げます。こ れは、今回初めて言う言葉じやありません。私、 この仕事を始めて四十年、各地で講演するたび ごとに、必ずこれは言わなきやならないことと して言っております。そして、いつか必ず世界 のどこかにそういう人が現れるであろう期待は 持っているが、今まで一人もそういう人は出て きていません。  私かこの仕事をやりだした当初、これだけ人 生を考えている学者や識者が多いのだし、宗教 も現代の科学理智を持っている青年層にも働き かける努力をして、宗教それ自体をサイェン ティフィツクに研究する学者も出てくるであろ うから、その必然の結果として、天風が逆に教 えを請うようないい方法が現れるに違いない、 また、そうあってほしい、いや、そうあらねば ならないと、こういうふうに考えて、私はその 日が来ることの一日も早からんことを希ってい ました。初めのうちは、二十年や三十年ののち にはと思っだのだが、その二十年も三十年もと うの昔に過去となり、四十年になんなんとして、 いまだ一つもそういうよい方法の出現したこと を聞かないのであります。  このあいた、東京で五十歳ぐらいの紳士と面 会しました。新しい感激を感せしめていただい たお礼にまかり出でました、というような口実 で私に面会を申し込んだのですが、会うとこの おっさん、妙なことを言い出した。  「先生、私最近、外国のある友達から本を送っ てもらいました。その本を読んでいると、先生 の教えとそっくりです」  と言うから、「ははあ、天風会の財産をやる 人が現れたかな」と思って喜んだ。  「そうかい、それはけっこうだが、その本とい うのは?」  「はあ、きよう持ってまいりました」   一通り詳しく読んでいたら時間がかかります が、ざっと見ただけでも大体の内容はわかりま す。  「なるほどね、言っている文句はおれと同じよ うなことだけど、違うところが一つあるな」  「どこでしょう?」  「非常に違うところがある、たった一つだけ」 「私はそれを発見してないのですけど」 「そうかい。そうすると、まだ君は本当に天風 道を理解している人じゃないな」  「参考のために伺いますが、どこが違いま す?」  「これには方法を何も書いてないじゃないか。 心を尊く、麗しく持つべきことを、ただ言葉を きれいに飾って書いてあるだけじゃないか」  朝起きたら、まず何をおいても、きようは断 然自分の人生の幸福を破壊すまいぞとか、きの うまでの自分が犯したすべての失策を再び繰り 返すことは神への冒涜だと思えとか、そんなこ とまで書いてあるのですよ。言葉だけを見ると、 ばかにいい文句ばっかりだ。  文句だけでもって人間が救われるなら、私な んぞが何を好んで、長きにわたり、こういう血 みどろの研究をする必要がありましようか。い い文句だけを読んですぐ人間が助かるのなら、 バイブル一冊読んだって助かるはず。お経を読 んだって助かるはず。『論語』一冊読んだって 助かるはず。そうでしょう? 薄っぺらな気持 ちで読んでいれば助かったように感じるかもし れないけれども、現実の人生に本当に要求を 持っている者が、ああいうものを読んだとき、 非常な感激を感じるより、むしろ非常な煩悶を 感じるに相違ないのであります。  学者や識者の著した名文句を見て、煩悶を感 じないで感心しているやつは、人生に対する考 え方がまだ浅い人間ですぜ。こういう本を見て は「非常によかった」、ああいう本を見ては 「感激した」などと言っているやつは。本当に 人生を考えている人間はすぐ、そのよい文句の とおりの人間にどうしたらなれるのだろうか、 というところにクエスチョンマークをつけるは ずです。そして、「この教えじやよくならない」 と知ったとき、そこに生じてくるのは余人の窺 い知れない、階級の高い煩悶であります。  人をエクスタシーに陥れるような美辞麗句の 並べてある哲学的な教えというものは、それは もうほうきで掃くほどあります、この地球上に は。それをただ読んだだけで感心して、感心し たことによって救われると思っているやつは、 絵に描いた食い物を見てからに腹いっぱいに なったと思っているような慌て者ですよ。そう いうのが天風会員の中にもいる。  私は遠慮なく言う。現実の人生への要求が満 たされない者が、軽はずみに感激したり感心し たりするのは、自分の浅はかさをさらけ出す行 為であると。  名文句に酔うな  本当に深く人生を考えている者は、自分がそ れで救われない限りは、本当の感激は感じない はずです。本当に腹の減っているやつは、絵に 描いてるご馳走を見ただけじゃ腹ば大きくなら ないのです。  今になってみれば幸いであったと思うのです が、私は現実の「救われ」でなきや心が承認で きない土壇場まで追い詰められた人生の中で、 甦りたい一心で研究したために、どんな美辞麗 句に接したって薄っぺらな感激はしなかった。 本当に救われなければ、私は感激しなかった。 もし私か薄っぺらな感激でもって人生に生きて いたら、今日あなた方にも喜んでもらえるよう な現実の方法を探り出すことはあたわずして、 もうとうにあの世に行っていたでしょう。  まだ本当に腹いっぱい苦しまなかった当時は、 美辞麗句を見るてえと、多少感激は感じました よ。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」、 いい言葉だよ。けれど、その言葉を聞いて、す ぐそのとおりになれる? なれる人があったら、 その人はもう幾万人の迷える人々を率いていく だけの貫禄のある人だ。  そんな文句は、われわれにはもう絵に描いた 食い物よりも値打ちがないのです。どうすれば。 「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」とい う気持ちになれるか。その気持ちになれないで、 すぐそういうことに共鳴するのは、軽はずみで 憐れなそそっかしい人間だけです。慎重に人生 を求めている人間だったら感激しないでしょ う? むしろ煩悶が出てきやしないか? 「ど うしたらこんな気持ちになれるかしら」と。  心がいかに重大であるかということを、私は 早くから科学的に考えていた。医学に飽き足ら ない私は、精神科学と生物学と実験心理学を研 究していたので、心の強さ弱さの影響が人生に さまざまな形で現れることを、まだインドに入 る前、すでにフランスにおいて知っていたので す。  それまで私は、ただ単純に自分の心が弱いこ とを非常に口惜しく思って、何とかして昔のよ うな強い気持ち、軍事探偵のとき死に直面して も動じなかったほどのあの心、頼もしい気持ち になりたいと願っていました。最初は人生を考 える考え方がきわめて薄っぺらですから、この くらいのことは日本人は知らなくたって、外国 に行ったら知っている人がいくらもあるだろう と思い、私は外国に出ていった。  丈夫な人間が金を豊富に持って出ていくのな ら、わかりもします。体の弱い人間、しかも結 核という伝染病を患っている私であります。今 でもそうですが、その当時の政府も、この伝染 病を持っている者に外国に渡航する免状をよこ しはしません。やむにやまれず、私は国法を犯 し、いわば手段を変えた密航をして、アメリカ に行ったんだ。さらに、アメリカで飽き足らな いからヨーロッパに行った。そして、有名な学 者、識者に、片っ端から会うチャンスをつくっ ちや、教えを受けた。  しかし、会う学者、会う学者、皆、抽象的で 漠然とした答えしか与えてくれず、どうすれば 心を強くすることができるかということは、一 人も言いやしない。まあ、きよう教える中に たった一つ、その当時教わった方法のいいもの も加えてあります。それは、フランスの実験心 理学者のリンドラーという人の教えた鏡を応用 する方法ですが、このくらいのものでしたかな。 二年間欧米を歩いて得たものは。皆、それは酔 うようなきれいなことを言うのですがね。しか し、強い気持ちになることを教えてくれなけれ ば何にもならない。  「病に悩む心があるならば、その心をいいほう に振り向けて、死なず生きている身の幸いを神 に感謝なさい」なんてことを言ってくれたのは、 世界一の大哲学者、ドイツのドリーシュでした。 もしも私か慌て者なら、世界一の大哲学者の 言っている言葉だから、「ああいいな」と感激 すると同時に、何か自分が急に偉くなったよう に感じたかもしれませんけど、現実を求めてい る私は、そういう言葉を聞けば聞くほど、何と も形容できない苦しさを感じたのであります。  「病に悶える暇があるのなら、死なず生きてい る現在を神に感謝しろ」、これは尊いことです、 いいことですわね、そうできるのであれば。で きましようか、何も方法を知らないで。できる 人があったら手を挙げてくれ。とんでもねえ偉 えやつだ、そいつは。  バイブル一つ見たって、本当に感激する言葉 はいくらも出てきますよ。おそらくバイブルを キリストはつくらなかったろうと思うし、お経 だってお釈迦様がつくったんじやなかろうと思 う。のちの者が寄ってたかってからにつくった に違いないけども、そんなことはどっちでもい いこった。  生きる世界に絶対、敵をつくっちやいけない、 皆愛を持て、とバイブルは教える。はっきり書 いてあるね、「汝の隣人を愛せよ」と。これは いい言葉ですよ。隣人というのは隣の家にいる んじやないのだよ、この世に縁があって自分の 知り人となった者を隣人という。  あなた方ね、これができますか。キリストが できたかできないか知らないけど、少し眉唾物 だぜ、これ。「何もかもを憎まないですべてを 愛そうじやないか」、たしかにそれはいいこと だよ、できればね。しかし、真剣にバイブルの あの文字を見ていると、自分の心に何とも言え ない苦しいものを感じないではいられない人が、 この中のほとんど全部じゃないか、もしもキリ ストを崇拝している人間だったら。  朝晩にアーメンと言っていながら、心の中に は隣人どころか、同じ屋根の下で同じ鍋のもの を食っている家族をさえ憎むときがある。それ どころじゃない、ときによると、天にも地にも 替えがたい自分を憎むことさえあるというよう なことに気づくとき、やるせない悶えが来やし ないか。  あなた方はどうか知らんけど、私のように本 当に嘘偽りのない事実をつかみたいという気持 ちで研究している者には、学者や識者の言うこ とを聞いても見ても、ただ強い悶えが来るだけ だったのであります。  インドに来たてのころ、熱があることを先生 (ヨガの聖者カリアッパ師)に訴えたら、「それ 今、誰が言ってんだい?」と、こう言うのです。  「私かあなたに申し上げているんです」  「神様が言っているんじやないな?」  「はい、私かあなたに申し上げている。私か熱 があるから、熱があるとあなたに申し上げてい るんです」  「おまえが言わなきや、おれもわからずに済む な」 「それはまあ、そうでございます」 「すると、おまえが言わなければ、私かわから ずに済むと同時に、おまえも言ったために、自 分がそういうことを感じている気持ちを、幾重 にも上塗りすることになるな。言わないでいる 間は、忘れられないまでも、少なくとも言った ときほどはっきりとは気持ちの中に浮かんでこ ないな。それなら言わないほうがいいだろう」   これはもう、ごもっとも千万な話なんだ。し かし、「ああ、なるほど、誤った」と思って、 「もう言うまい」という気持ちになったとして、 本当に言わずにいられますか。いかがです? こういう微妙な点に道を求める者の悩みと悶え はある。  ところが、それを考えないで、ただ学者の著 した本や宗教家のものした美文、美辞を見て、 「うわあ、いいな」と思う人は、絵に描いたぼ た餅を見て、「ああうまかった」と言っている 慌て者だ。私はそういうやり方では人生は断然 甦らないということを、長い間、自分自身が体 験してきています。もしもそれで人々の多くが 甦るなら、何も私か骨折って発見した方法を一 所懸命あなた方に説く必要などないのでありま す。  いい文句なら私もいくらでも知っているから、 文字を見ただけでもって、そんなに酔ってくれ るのなら楽なもんだ。もう文字を書いてるだけ でいいんだからね。だけど、それじゃさっきも 言ったとおり、絵に描いた食い物を見せて、 「ほらこれを見ろ、腹が大きくなるぞ」と、だ ましているのと同じことじゃないか。  嫌な言い草でもって気障に聞こえるかもしれ ないけど、ご年配はどうでもいい、若い者よ、 決して名文句なんかに酔わされて、それでもっ てエクスタシーを感じて救われたなんて思うよ うな、ばかげたことをするんじゃないよ。腹が 減ったら、理屈よりもパンの一切れなり握り飯 の一つなり食うがいい。学者の著した本や名文 句でもって人間が甦ることができるなら、人生 はお茶の子さいさいですよ。人生、何の苦労も ありやしねえ。  それでも読まないよりは読んだほうがましだ と思ってる人があったら、これは大間違い、実 行できないことは、むしろ頭の中に考えないほ うが、どれだけましかわからない。心を弱め ちやいけないという教えを聞きながら、片っ端 から心を弱めるような方法で心を救おうとする のは、なんのことはない、死ぬのは嫌だ、嫌だ と言いながら墓の穴を掘っているのと同じこと になりやしませんか?  唯一無二の発見  親が子供に小言を言うとき、先生が生徒に小 言を言うとき、「注意なさいよ」「もっと気をつ けなさい」と言いますね。けど、そのときに子 供でも生徒でも、  「はい、承知いたしました。ところで一つ伺い たいのですが」  「なんだ」  「どう気をつければいいのでしょう」  とは聞かないね。けど、本当は、「どうすれ ば気をつけることになるでしょう」という問い に答えて相手をうなずかせなかったらば、「気 をつけろ」という言葉に本当の値打ちはないは ずだね。そうでしょう?  いつも私はこういうことについて、念を入れ て、あなた方にあなた方の心のうなずきを求め ている。聞いているときには皆さん、よくうな ずいてくださる。しかし私の前を離れ、何か酔 わされるような文句でも書いてある本を見ると、 それに空酔いするのですね。本に書いているよ うな人間になれもしないのに、なれたように感 じるのか、なろうと思うのか、まあその心理は わからないけれども、一種のエクスタシーを感 じるのでしような。  私かもしも自分の知ってる感激した本や文章 を毎朝毎晩読むとしたら、何日あっても読み切 れません。私は、朝起きて自分の実行できるこ としか言わない。天風会の「誓詞」(誓詞参 照)だけが私の金科玉条。それ以外のことは、 決して読みません。実行のできないようなこと は、読まないほうがいい。「火星に住んだら、 さぞいい気持ちだろう」なんていう言葉を読ん で、火星に行ったような気持ちになれる?  最初の晩から幾度も繰り返して言っていると おり、人生というものは現実の世界なの。現実 の世界は、形容の世界でもなければ、空想の世 界でもないのよ。どこまで行っても真実とぶつ かり、取り組んでいかなければならないのが人 生なの。だからかりそめにも天風道に入ったら ば、どこまでも現実に自分を救う方法の中に安 住していくようにしたらどうです。そのために、 私は方法を教えてあげているの、惜しげなく。 恩に着せるようだけども。  本当言うと、私、教え方が早いと言われるこ とがあるんです。東京本部の杉山(彦二天風 会第四代会長)さんも言います。  「実際方法の中には、少なくとも入会後、三年 か五年経ってから教えたほうがいい方法がいく らもあるのですが、先生は、その月に入会した 人に一気呵成に全部を教えるような態度をとら れるために、結局、先生のいつもの囗癖のとお り、鶏がダイヤモンドを見たように、亘]の価値 を認識できない人が多いのですよ」  それは事実かもしれません。しかし、私はそ れぐらい惜しげなく教えてるんです。  さっき五十年配の紳士が「天風先生と同じこ とを言っている」と、外国人−ギリシヤの哲 学者でしたがIの著した本を持ってきたって 話をしましたが、私と同じことを言っている人 はほかにもいるでしょう、そのギリシヤ人ばか りでなく。  なぜかと言えば、私は宇宙真理を言っている のだもの。宇宙真理というのは、私の専売じや ありません。この宇宙の中に実存している真理 の一部分を、釈迦もピックアップし、キリスト もピックアップし、モ(メットもピックアップ している。だから、皆、同じことをただ言い方 を違えて言っているだけなの。この世が終わる ときまで、正しいものはどこまで行っても正し い。この世が終わる囗まで、真理が二つ生まれ る気遣いはない。  だから、私かあなた方に言っている理論方面 の話は、私の専売じやありませんよ。古来、ほ うぼうの人が言っているんだもの。そんなもの を聞くたびに感激してるなら、それはあまりに も薄っぺらな感激だぜ。私か言っているのは、 そんなみんなが感激している理論に対応しうる ような方法を発見したのは、今まで私一人だと いうことです。これは自惚れではなく、確信を 持って言っている。確信があるから、私と同じ かそれ以上の方法を発見した人が、今まで世界 のどこかにあったということを、あなた方が証 拠立てられるなら申し出てくれ、即時に天風会 の財産を全部あげると、こう言っているんです。  そんな人はいないから、安心して申し上げて いるんです。なんで私か論文も出さないのにド リーシュからドイツの哲学者としての学位をも らったか。ロックフェラーがこの九月五日付の 飛行郵便で私に、「われわれ合衆国の道を求め る者たちは、年内にあなたをお迎えする用意が 万全にできています」と、また言ってきたのは なぜか。それは、この方法を発見したのが私だ けだからです。そうでなければ、こういう手紙 よこすはずないじやないですか。  もう私の教えた弟子どもが、アメリカにも十 人ぐらい行っているのだから、それらの人間か ら私か言っているのと同じことを聞こうと思っ たら聞けるのです。けれども、あの人たちはこ の方法をインベントした、創り出した本人の言 葉でなければ、同じことを聞いても感激が少な いというので、「あなた来てくれ」と言い続け ているんです。はなはだ迷惑千万ですから、一 日も早く天風以上にかの人だちから感激をもっ て迎えられる人が出てほしいと願っているので す。そうなると、もう私に催促状は来なかろう から。  なぜ観念要素の更改が必要か  さあ、これだけ申し上げたら、どうすれば心 の立て直しができるかという方法を聞く際のあ なた方の心の構え方が違ってくるだろうと思う。 そう思うのは、多少私の自惚れがあるからです。 これだけの方法を聞けば、現実に必ず自分の心 を立て直しうるのだから、断然、違った心構え で聞いてくれるであろうと。  そこで昨晩も申し上げたとおり、心の立て直 し。何をおいても感応性能を強くしなきやだめ であります。ただ単にいい文句を見た、何とも 言えない酔うような文章を見たといったって、 感応性能は強くなりません。あなた方、今まで たってずいぶんいろいろないい話を聞いただろ うし、人生を求める心が燃えていれば燃えてい るほど、いい教えを聞く機会を多く持っていた に違いない。だけど、感応性能はそんな生ちょ ろいことでもって決して強くはならないのです。  感応性能を本当に強くするには、昨晩、箇条 書きで述べたとおり、まず観念要素の更改をし なきやいけない。さらに積極観念を養成すると ともに、始終感覚や感情の刺激によっていたぶ られる心をいたぶられないように、神経反射の 調節をしなければならないのであります。  今まではどうしてもわからないから手がつけ られなかったのだが、わかってみればそれだけ のことが心を立て直す方法の全部で、それ以外 にないということを私は断言したい。観念要素 の更改も積極観念の養成も神経反射の調節も考 えず、ただ、いい文章やいい文句に酔ってさえ いれば心の立て直しができるなんて思ったらと んでもないことです。  石川素童という有名な禅宗の坊さんが私のお 弟子になって、遷化−死ぬことですよIさ れる一月ばかり前でした、直腸ガンだと医者か ら言われた囗に、ぜひ私に来てくれと言うので、 私、總持寺のある鶴見に行った。そしたらね、 手を取って、涙を垂らしながら、こう言うんで す。  「私かもしあなたの弟子にならないで、ただ僧 としてだけここにいたら、『あなたはガンです よ』と言われたとき、卒倒するほど驚いたかも しれない。しかし、あなたに心の立て直しを教 わって、真剣に観念要素の更改、積極観念の養 成、神経反射の調節ということをやっていたお かげで、経の中に書いてある、死ぬ生きるは人 間が天から与えられた約束だということ、要す るに業というものをはっきり悟ることができて、 少しも私の心の中に動揺が生じていません」  それで私か、「私の弟子にならないで、ただ 坊主で終わってたら、死の宣告を受けたときに 卒倒すると思ったという気持ちは本当です か?」と聞いたら「本当です」と言う。名僧だ けに言うことが正直です。私は「それならあな たは偉い坊主だ」と言いました。  高僧といわれる人は、「ガンだからもうあん ただめだ」と言われても、「ああそうか、死ぬ ときが来れば死ぬからな」つて、平気でいられ そうに見えるが、そうでないのが本当らしいな。  人生は、悟ったように見えるとか、悟ったよ うな気持ちになるというような薄っぺらなこと じゃ、解決がつかないのですよ。どんな場合が あろうとも、牢乎として抜くべからざる強さが 心につくられなきやだめです。  変化変転極まりなき人生の荒海の中を生き行 く際、何かちょいとした健康上、運命上のこわ ばりのあるたびに揺り動かされるような心だっ たら、いくら目に万巻の書を読み、耳にどんな 美しい言葉を聞いたからとて、煙が風に吹かれ ていくようなものです。だから、何をおいても 必要なものとして、あの三つの条件を挙げたわ けだ。  なぜ観念要素を更改しなきやいけないかとい うと、これはきわめて簡単に説明できるから、 匸冐でわからせてあげる。きのうも言ったとお り、人間の心を強くするには感応性能を強くし なきやいけない。ところが、その感応性能とい うのは、人間の心で営まれる思考の状態と しょっちゅう相対比例をしているのであります。 これを忘れちやいけない。何遍も言っているの だが、古い会員の中でこれを忘れちまうやつが ある。だから、煎じ詰めて言えば、心が弱いか 強いかは、その人の思い方、考え方が弱いか強 いかなのです。  何事に対しても、その思い方や考え方が積極 的であり得る場合は、何も修行しなくても心が 強いのです。自然と感応性能がそのとおりに働 くから。けれども、そんな人は百万人に一人い るかいないかだ。何も修行しないで生まれなが らにして、どんな場合でも物事を積極的に思っ たり考えたりするような人はね。  だから、昔のような、あまりわれわれの精神 生命に刺激の多くなかった時代ならともかく、 また、同じ刺激があっても、昔のように積極的 刺激のほうが多分にあった時代ならともかく、 われわれの住むアトモスフィアの中に、ほとん ど消極的な刺激ばかりが充満している現代に生 きていくとき、特別な方法と手段を行なうこと によって、思い方や考え方という心の営みを積 極的にする努力をしない限りは、断然この思考 というものは、積極的になり得ないのでありま す。  なぜなり得ないかというと、消極的刺激ばか りを受けていると、心の思い方や考え方を組み 立てる要素をなす観念要素が、どんどん消極的 になってしまうからです。今の世の中の人々が、 男も女も言い合わせたように非常に神経過敏で 気の弱いのはこのためなの。もちろん、いつ自 分の観念要素が消極的になっちやったかという ことは、自分ではわかりません。知らないうち に入って来ちやうんだもん。物好きに観念要素 を消極的にするものを喜んで受け入れるやつが あったらばかだ。知らないうちに入っちやうか ら、恐ろしいの。  もう少しわかりやすく申し上げると、人間が ものを思ったり考えたりするという働きは、実 在意識領といわれる心の表面の部分で行なわれ ています。実在意識領で何かものを思ったり考 えたりするだけならば、心はもっと御しやすい かもしれないが、そういかないのが今までの話 しぶりでわかったでしょう。  この観念要素というものは、心の奥にある。 この心の奥を心理学は潜在意識領といっていま すが、俗に心の倉庫といわれています。人間が 何かを思う、考えようとすると、この心の倉庫 の中から観念要素がヒラリヒラリと飛び出して 来て、この思考を一つの組織に組み立てるので す。その組織を組み立てるときに、観念要素が 材料になっているのだから、消極的な観念要素 を多分に持っている人は、どうしたって組み立 てられた思考の組織が弱々しいものになってし まうのです。  ときにこういう変なことを言う人かおるね。 たとえば会員のご夫婦の片方が気が弱ったとき に、もう一方が「あんた天風先生のお話をちゃ んと聞いていらっしゃるの」と、こういうよう なことを言う。すると気が弱ったほうは、「先 生のように偉くなりやともかくも、まだ偉くね えんだ、あれだけのまねできるか」と言う。  しかし、私か教えているのは、できている人 間が行なえるような方法じゃなく、できない人 間が行なってできる人間になる方法なんだ。そ の方法をおそらくやっていないから、「まだ偉 くないからできない」なんてことを言ってるの じゃないか。私みたいにやってみろ。教えた方 法をやりさえすれば、私のようになるのはわけ ねえんだもの。  あなた方の一番いけないところは、自分でこ しらえた一つの見えない偶像をあまりにも崇拝 しすぎることですよ。人が偉いというと、自分 が近寄れないほどとびきり偉いように思ってし まう。やれキリストが偉い、釈迦が偉い、マホ メットが偉い、孔子が偉い、イプセンが偉い、 ソクラテスが偉いって、見たこともないくせし やかつて、何かとんでもなく偉いもののように 考えて、自分なんか寄りつけないように思って いる。だから、いつまでだってもあなた方は下 積みでもって、憐れな惨憺たる人生に生きるの だ。  現在、目の前に立って教えを授けている人間 に対しても、自分の心の中でもって、壁をつ くっちまうからいけないんだ。私とあなた方と 大した差はありやしないぜ。ただ、ここに立っ ているか、そっちに座っているかだけなの。裸 にしてみろ、私たってへそは一つだ、二つある わけじやねえんだ。ただ、あなた方の知らない ことをいくらか私か知っているというだけのこ とでもって、偉さにおいちや、あなた方のほう が、はるかに偉い人間がいくらもいるぜ。様子 でも、私よりはるかにいい様子している人があ るじやない。話をさせりや、われわれなんか黙 りこくっちまうしかないほど、くだらないこと 知っている人もいるもの。  だから、及びもつかない、そばにも近寄れな いほど偉いなんて思いなさんなよ。そんなに私 か偉かったら、あなた方、私について来られな いじやないか。あまり変わりはないんだよ。少 しあなた方が了見を入れ替えりや、私のまねぐ らいのことはお茶の子さいさいた。それをまね しないで、満足はしていないけれども、相変わ らず今の自分でいいように思って、観念要素を ちっとも掃除しないという人間がずいぶんいる。 掃除しないから、いざというときに心がなかな か積極的にならない。それを傍から言われると。 「先生のように偉くなりや」と、こう言うので すよね。  偉くなれるがな、心の中を掃除すりゃあ。偉 くなれるように教えているんだもの。観念要素 の更改、つまり心の倉庫の大掃除。心の中の掃 除をしてごらん。「天風さんぐらい偉くなる」 どころじゃない、「天風くそくらえ」になるぜ。 しまいには、「天風来い、たまにはおれが教え てやるから」てなことになるだろうと思う。私 に教えてくれるような偉い人がいりゃあ、喜ん で教えを受けるよ。  だから理屈抜きにして、暇があるなら観念要 素の更改のほうを一所懸命おやりよ、薄っぺら な安価な感激をするよりも。観念要素の更改を して、思考の積極化を無条件で実行できる人間 にならなきや。そうすりや、生涯どんな変化に 会おうと、もう死ぬというようなショックが健 康に起ころうと、運命がどん底に陥ろうと、少 しもそれによって虐げられた心にならない、ま た盛り返していけるという尊さが味わえる。い くら囗で偉そうなことを言い、いろいろな名文 句に感激しているっていったって、いざという ときにペシヤンコになったんじや何にもなんな いぜ。  寝際だけは純真無垢に  さあそこで、しからばいかにすれば観念要素 の更改ができるか。古い大もきよう大っだつも りになって聞きなさい。古い人の中にだって、 ずいぶん情けないのがいるんだから。古くな りや偉くなったように思っている自惚れの強い 人がいるよ。古いからいいんじやない。古くて いいのは石灯籠だけだ。修養の年限がいたずら に古くても、修養これ努めない人間は、年限の 浅い者にだって負けちまう。  では、観念要素はどうすれば更改できるか。 これから易しく説いてあげる。古い人もよく耳 を傾けて聞きなさい。古いからってもうわかっ たような顔をする。それがいけないんだよ。  観念要素の更改は、順序として理論的にいえ ば、われわれの心の持つ暗示感受習性が特別 に旺盛に働くときに実在意識を積極的にすれば いいのです。もう一遍言うよ。新しい人のほう がかえってよく覚えるかもしれない。古い大に もう一遍同じことを言うよ。観念要素の更改と いうことを徹底的にするのには、われわれの精 神生命が持つ暗示感受習性というものが特別旺 盛なときに、われわれの実在意識を積極的にす れば、それで見事目的が達せられる。  なぜかというと、そういう場合には、積極的 になった実在意識のとおりの状態に潜在意識が すぐ感化を受けるからです。ここで思考したま まがパーツと潜在意識に入る。そうすると、積 極的なものが入っだ場合には、消極的なものを 努力して追い出さなくても、どんどんどんどん 出ていってしまう。  たとえば、コップの中で筆を洗ったとする。 すると、むろんコップの中の水はみるみる黒く なりますね。その黒くなったコップを今度は水 道の蛇口の下へ置いておいて、たとえわずかず つでもきれいな水をぽたぽた落としときや、寝 がけに汚かったまっ黒な水も、明くる朝行って みりや、きれいになっているでしよ。それと同 じで、たとえどんな消極的な観念要素が充満し ている潜在意識でも、実在意識のほうから完全 に同化し得る力のある積極観念が送られれば、 その同化し得る力のある積極観念というものは、 消極観念を片つ端から追い出してしまうのです。 それが人間の心の中にある自然現象だ。  ただし、その場合、潜在意識を同化し能う、 力ある積極的観念でなきやだめなのよ。だから、 ただ単に学者や識者の著した本に感激してるぐ らいじやあ、潜在意識が同化しません。  さて、われわれの精神生命の持つ暗示感受習 性の特別に旺盛なときというのはいつだろう。 これを英語ではラッポーターブルのときといい ます。このラッポーターブルとは、ただ一つ、 人間の眠りにつく前の精神生命に発生する現象 であります。いつでもは発生しないのです。  つまり、いざこれから熟睡しようといういわ ゆるトランスに入る直前ほど、われわれの実在 意識は、そのときにちょいと思ったことでも考 えたことでも、無条件にブーツと潜在意識の中 にきわめて力ある同化力を働かせて入り込んで いくというふうにできている。じつにありかた い自然作用が人間の生命にあるものですな。  それをなぜ心理学者がこれだけいながら、 もっと平易に、応用の効く形で世の中に説明し てやらないのかと思うと、私は何とも言えない 不思議さを感じる。  そのくせ昔の人は心理学的教養や理智は持っ ていなかったが、寝際に与えた教え、教訓、あ るいは言葉というようなものが、その人間をよ く感化し得るということを事実で知っていたと みえて、小さい子供の寝際におばあちやんやお じいちやんがおとぎ話を聞かせましたね。日本 でも「桃太郎」「かちかち山」「八幡太郎」のよ うな話を。  この節はだめだ、世の中がだらけちやってい るから。寝かしつけるじいさんやばあさんのほ うが反対に寝ちまうんだからね。子供に野球の 講釈やレスリングのルールを聞いているうちに、 (ツと気がついたら、じいさんが寝ちやってい るなんていうことがあるんだから。  そこいくってえと心理学の国フランスは、不 良に傾いている子供や非常に神経過敏の子供な んかを治すのに、うまいことを考えてやらせて いるね。強い気持ちを持たし得るような言葉を 蓄音機のレコードに吹きこんでおくの。その子 供が行っている学校で子供が一番信頼している 先生に吹き込ませるんだってね。そして、毎晩 のようにそのレコードをかけて、聞かせながら 寝かしつけちまう。すると、非常に感化の効果 が上がるというのですが、これはたしかにそう でありましょう。  寝際の人間の気持ちは、いわゆる実在意識は 批判を乗り越えて、そのときにちょいと思った こと、考えたことは、それを否定する間もなく 肯定する間もなく、たとえて言えば電流の通ず るように素早く、潜在意識に同化力を働かせ ちやうんです。ただ、それは睡眠の直前でな きや、なしあたわざる計画です。つまり睡眠の 直前時における、人間の精神生命に存在する自 然現象なのです。  これは詳しい説明をすると限りがありません けれども、簡単に言うと、これから熟睡すると いうとき、人間は無我の境に入ります。精神動 揺が複雑であっては、無我に入れません。眠気 が出るというのは、乱雑なる精神活動を収束し て、一つのものに束ねて、次第に無我の境涯に 入らしめて眠らせようという自然の作用なので す。だんだんだんだん複雑から単一へと人間の 心は行くようにできている。そのときに実在意 識が念頭に置いたことは直ちに潜在意識に入る。  それによって、人間が精神生命の発達を現実 にし得るようになっている。これまさに万物の 霊長たる人間に与えられたまことにありかたい 意図なのであります。  それを知らないとはいいながら、長年の間、 寝がけというと余計神経過敏にしやがって、昼 間考えなかったような小くだらねえこと考えて、 より一層潜在意識にどんどんヒシヒシ、そうい うくだらねえ弱々しい観念を送り込んでいたか ら見ろ、神経過敏なことだけは、もうおれが世 界一だと威張れるほど、あなた方、皆言い合わ せたように、気が弱くなっちやったんだ。  だから、その反対を行ってごらんよ、今夜か ら。別に難しいことでも何でもない、わずかな 努力でいいんだ。習慣は第二の天性だ。難しく 考えるてえと際限ない。易しく考えて易しくお やりなさい。一番いい方法を教えてあげるから。  寝際に、いろいろな心配や煩悶が起こるのは、 普通の人間なら当然でしょう。況や健康に障害 があったり、運命に障りがあれば、何かと心に 浮かんでくるのは当然でしょう、感覚があり、 神経がある以上は。けれど、枕に頭をつけたら 一切それを心の中に考えさせない努力を習慣づ けることです。努力して習慣づけると言うほう がわかるかな。  「身に降りかかることを考えずにいられるか」 というようなことを言うからいけないんだ。ど んな大事件だろうと、その晩考えなきや解決の つかないというような事柄など、めったやたら とあるものじゃないよ、人間の人生に。まして 況や、心の大掃除をしようとする者は。  もう今夜からこういうふうにしてごらん。消 極的なことが心の中に浮かんできても、それに 一切関わり合いをつけないようにするの。「思 い浮かばせちやいけないぞ」とは言わない。 言ったって出てくるもん。出てきても、そいつ は相手にしないことなの。冷遇しなさい、何も それを優遇する必要はない。あなた方は、どん なことが心の中に出てきても、何かしら大変な 宝物でももらったように大事にするからいけな い。健康上のことであろうと、運命上のことで あろうと、心に出てきたら関わり合いをつけな いんだ。  最初の間は関わり合いをつけない練習なさい よ。関わり合いをつけない練習を効果づけるの には、どんなことでもいいから、思うほどに、 考えるほどに自分の心が何となく勇ましく、微 笑ましくなるようなことだけを考えていりやい い。  観念の世界は自由だ。楽しいこと、面白いこ と、嬉しいこと、自然と微笑まずにはいられな いようなことを考えればいいんだ。そのぐらい のことを考えられる心は持っているでしょう。 明けても暮れても、閻魔さんが塩を舐めたよう な、苦虫を噛み潰したような顔をしてなきゃい られないような気持ちじゃなかろう。おかしい ことがあれば、不完全ながら笑うじゃないか、 あなた方。嫌みなものの言い方だけどもね。  とにかく寝際の気持ちは、神・仏のように清 らかになったらどうたね。自分が神様仏様に なったつもりになればいいじやないか。自分が 神様仏様になったら、これぐらい尊いことはな い。一日ぶっ通しじやあ、とてもなれっこない でしょうが、寝際だけならなれるだろうから。 自分を軽んじ、卑しめ、価値のない自分をつく るという、もったい至極七ないことをやるから 見ろ、わずかな病や、ちょっとした運命に組み 敷かれてペチヤンコにされてからに。そして、 おのれの心の中をますます汚くしている。  長い時間じゃない、寝際の短ければ五分か十 分だけのことだ。そういう心がけを実行に移せ ると、案外寝付きが早い。しまいには私みたい になるよ。枕に頭をつけて、何か考えようと 思っているうちに寝ちまう、ヒョイと目が覚め たら朝だ、そうならなきや。寝際の気持ちをも う少し純真に立ち返らせなさいよ。いくら学問 があって、理屈が言えたって、純真にならな きや何にもならないんだ。生まれたての赤ん坊 のような気持ちになったらどうや。  寝際だけは心に一切の重荷を負わせないとい うこの気持ちこそ、まことに観念要素の更改の 秘訣であります。何か心の表面に飛び上かつて 来ようと、それに関わり合いをつけない。関わ り合いをつけないという努力を習慣づけてしま うと、もう三月、半年経つというと、どんな大 きな事件が起こってきても、心がこれを相手に しなくなるのですよ。  寝際に相手しなきやならない事柄なんて、全 然ないんだ。寝際に相手にすることは寝ること だけなの。床の中に考えに入っだのなら別だよ、 これ。しかし寝床というのは考えるところじゃ ないもんね。寝床は寝床なんだから、どこまで 行っても。寝床に入ったら、ただ寝ることが目 的なんです。  寝床の中の時間は神聖不可侵  それから、安らかに眠ることを心がけること が当然の心構えで、安らかに寝ようと思ったら、 くだらないことに関わり合いをつけないことが 一番いい。そのぐらいのことは子供だってわか りそうなもんじやねえか。これが観念要素の更 改法なんだよ。  それなのに相当理屈の言える歳になっても、 寝ることの重大なことは少しも考えない。科学 的に考えたって、寝ることがいかに重大かとい うことは明らかだ。寝ずにいちやあ死んじまう んだから。まして況や、これを哲学的に考えて ごらん。寝るためにわれわれは目に見えない造 物主、宗教家のいう神・仏から自分の生命がぐ んぐん甦るお力をいただける。「求めよ、さら ば与えられん」じやないけれども、悪人だろう が、善人だろうが、丁心に求める気持ちがあり さえすれば、無限にこの力をくださる用意が自 然界にできているんだからね。何も、遠慮深く 謙遜して分量少なくもらう必要はないよ。これ はもうできるだけの分量を自分の生命の中に頂 戴しなきや。  そうするのには、心というものの態度が、 もっと純な状態に決定されてなきやいけない。 いわゆる実在意識領が完全にそうした純な状態 になったとき、積極的な態度になる。そうする と、積極的な態度が潜在意識に同化して、潜在 意識の中の、自分を苦しめ、あるいは健康を破 壊し、あるいは運命を阻んだ原因であるところ の消極的観念要素はぐんぐん追い出されちまう。  邪なるものは、正しきものに敵することはで きない。あってはいけないものは、なきやなら ないものに負ける。この簡単な真理で観念要素 はみるみる積極的になり得るのですよ。いわゆ る観念要素の中が積極的になってから、いろい ろ昔の偉い人やなんかが言ったことを見ると、 すぐそれを実行に移せる心がもうできているの だから、きわめて簡単明瞭よ。けれど、観念要 素が更改されないうちに、ただ心の表面だけが 感激するようなことを読んだり見たりしたか らって、それは何も手応えがない。厚いゴング リートの壁に水をぶっかけているのと同じこと。 少しも染み込まないのであります。  あなた方だって今まで、天風の話だけを聞い たわけじゃないだろう、いい本も読んだろうし、 偉い人の話も聞いたことがあるに違いない。け ど、それがただ淡い記憶になっただけで、少し もあなた方の心の糧になっていないでしょう。 あなた方の精神生命になってませんわ。それは 結局、観念要素のほうが用意されてないから。  なんのことはない、ざるで水汲みに行っだの と同じことだ。水中に入れたときはいっぱい 入ってる。やれ嬉しやとこっちに持ってくると、 もう水はありやしねえの。それと同じ愚かさを、 知らないで繰り返していた過去の失敗は今夜か ら取り返そう。ことほど寝床の中の時間は、神 聖にして侵すべからざるものなのよ。  このあいだも、私と初めて旅行して箱根に 行った東京の天風会員が、「いや、これは知ら なかった、知らなかった」つていきなり私の枕 元に立って言うから、「何だい?」と聞いたら、 「先生、今寝床に入るとき何かおっしやいまし たね」と言うんだ。  「あ、言った。お世話になりますと言って入っ た」と言うと、  「これは知らなかった、まったく。寝床に入る ときにお世話になりますというこの気分が、も う寝床に入ると同時に神聖な気分に自分自身を せずにはおかない第一の関門だ。これは気がつ かなかったな」つて細君を見て言ったら、細君 も。  「私ね、さっき呆然として感心しちやった。三 千世界を探しても、寝床へ入るときに、寝床に 対してお世話になりますって入るのは天風先生 だけだ」つて言ってたよ。  それ以来、ずっとこの夫婦はやっているそう ですが、神戸におりますか、そういう殊勝な気 持ちを持っている大? 感謝どころか、小言を 言っているやつがいるだろう。  「誰だ、きよう布団敷いたのは、いつもと敷き 方が違うぞ、もう一寸五分下に下げろ」  「枕のあり方が違う。おれはこんなふうに中に 大って寝ないんだよ、枕はすれすれに置け、そ こに」  お世話になるところに行って、苦情を言って やがる。そのくせ、人のところに行って泊まる ときには、人には礼を言ってるね。「おやすみ なさい、それじやあお世話になります」と。人 に礼を言って、寝床には言いやがらねえ。いく ら人に礼を言ったって、寝床が敷いてなかった らどうなるね。  朝起きると、私は必ず「ありがとう。ありが とう」と言いながら寝床を畳んでます。自分で 畳んで何で礼を言うのだと思うでしょうが、私 は床に礼を言うのです。一晩この肉体を温かに 休ませてくれた、ありかたいこっちやと思って、 「ありがとうございます」。あなた方から見ると、 ほかみたいだろう、やり方が。そのほかみたい なところに真理があるんだ。  あなた方は、木の上に寝たこともなきや、地 面の上に寝たこともなきや、穴倉に寝たことも ないだろう。生まれてから今日までずっと、屋 内の温かい布団の中に寝ている人たちにはわか らないだろうな、何年かの間、木の上や地べた の上に寝た経験を持っている者が、床の中に寝 かされたときに感じるありがたさというものを。 本当にそれは胸詰まるような嬉しさでもって、 礼を言わずにはいられないものですよ。  だから、どんな善人でも正しからざること、 歪めることを思うに違いないお互いだが、せめ て寝がけのわずかな時間だけは、今も言ったと おり、神・仏の前に出ても決してひけをとらな いぐらいな美しい心になったらどうたね。なろ うと思ったらすぐなれるんだもの。それには、 心の中でそういった消極的なことに関わり合わ ない習慣を努力してつけなさい。  鏡を使った信念強化法  それから、同時にもう一つ、その努力により 一層の拍車をかけるいい方法として、さっきも 申し上げた、私かフランスで教わった鏡の魔力 を応用する方法を教えてあげる。それは今まさ に臥所に入ろうとするときだ、なるべく直前が いいよ、鏡に顔を映して、映った顔の眉間のと ころをじっと真剣に見て匸言、「おまえ信念強 くなる」、これを言って、床の中へお入りなさ い。ほかのことは何も言う必要はない。「おま え信念強くなる」。  ちょっと考えると不思議です。「おかしいな、 おまえと言ってるけども、鏡に映っているのは おれじやねえか。おれじやなくて、おまえとは これいかに」と思うかもしれないが、それじや あ向こうにいるのがおれなら、こっちは誰や。 物理学的にいったら、こっちか本物で向こうは 映像なんだ。本物から映像は「おまえ」や。映 像のほうからこっちを呼ぶときは、やはり向こ うからこっちを「おまえ」と言うかもしれない けど、向こうは囗利かないもの。「おまえ信念 強くなる」、これ以外のことは何も言わなくて いいのよ。  これがお願いであっちやいけないんだよ、キ リスト教信者なんかがよくやるような。「御心 の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。ず いぶん欲張ったことを言いやがるね。そんなこ と言わなくても、天にましますわれらがお父っ つぁんの心は、ちゃんと地面にもあるの。それ を取り上げて自分だけものにしようと思って、 「御心の天になるごとく、地にもなさせたま え」つて言いやがる。あるから心配するなよ。  そんな世迷言を言わないでさ、ただ、「おま え信念強くなる」、この匸言でまあやっててご らん。十日、二十日、一月、半年続くといつか は知らず、自分の心に牢乎として抜くべからざ る信念が出てくることを発見するから。「今ま でこんなことがあったら、すぐ心ががたついて いたが、今度はがたつかない」とか、「今まで はこういうことをするとき、非常に危ぶむんだ が、今度は危ぶまなくなった」とか。もう早い 人になれば一月かからない。  そう言うと、「私は何年もやってるけどまだ 出てない」なんていうやつが出てくる。やらな いからよ。やるときに真剣な気持ちでやらない からよ。やりながら、何かそこに一つの疑念を 持ってやしないか。「変な顔だな」なんて、そ んなこと思ったんじやだめなの。況や「おまえ 信念強くなる」と言うには言っても、心の中で 「ほんま強くなるかな」と疑っている。言った ことが目の前にすぐ現れてこないものだから、 あやふやなんだ。もう教わったから言わなきゃ ならねえんだけど、疑い深いから「なるかなこ れで」と思うんだな。これじゃだめだ。  信念込めて言わなきや、だめよ。そして、明 くる囗目が覚めたら、あまりあれこれものを言 わないうちに、この鏡に与えた暗示をもう一遍 繰り返してみる。誰に言うとなく、「きようは 信念強いぞ」つて。つぶやきでいい。自分の人 生に対する考え方の決定を、その一語から出発 せしめるんだ。昼間、人生に生き行く際にも何 かで心緩むことがある。何かのことで心が弱っ たように直感したときには、「おれ信念強いん だ」つて言う。  方法はただこれだけなの。寝がけの気持ちを どこまでも積極的にすることの努力を習慣づけ ろ。それにはもう噛んで含めるように今言った とおり、健康上や運命上の事柄が感ぜられる場 合でも、一切これに関わり合わない。せめて寝 がけのときだけは、自分の本然に帰れ。楽しむ こと、喜ぶこと、嬉しいこと、微笑むこと、こ れが人間の本当の本然。なぜかというと、そう いうときが一番楽しいし、一番爽やかだもの、 人間は。  楽しいことや嬉しいことがあったときに、誰 か煩悶する? どんな神経過敏なやつだって、 悶えや悩みや苦しみがあったら、面白くねえだ ろう。生きがいを感じないでしょう。楽しいこ とや嬉しいことがあるときには、生きがいを感 じるだろう。形容できない爽やかさを感じるだ ろう。これまさに人間の本然であるからだ。だ から、生まれたときと同じように本然に帰れ。 私かいつも形容しているように、磨きたての真 珠を薄絹に包んだような気持ちになったらどう だ。  消極的な言葉を使わない  そうして、同時に付加事項として必要なこと は、言葉に常に注意深く、どんなことがあって も消極的な言葉を出さないように、日常の生活 を営む際、自分の言葉を自分白身が取り締まっ ていかなければいけない。弱音、悲観、失望と いうようなものを表現する言葉を使っちやいけ ない。「助けてくれ」「どうにもならん」「悲し い」「恨めしい」なんていうような言葉、「腹が 立つ」「恐ろしい」「おっかない」なんていうよ うな言葉を決して出さない。言葉は自己感化に 直接的な力を持っているのよ。しょっちゅう泣 き言ばかり言ってるやつの人生というのは暗い です。  うかつに用意なくあなた方はしゃべるという 癖をつけているからいけない。まして、正しい 人生、頼もしい人生を建設して生きていこうと いう人間として最も尊い気持ちを持って人生に 生きる人は、どんな場合があっても悲鳴を上げ ないことを第一に自分の心に約束しなさい。何 があろうと「まいった、何とか助けてくれ」な んてことを言わない。言ってどうなるんだ。自 分の卑しさと力弱さをただ表現しているだけ じやないか。そう言うと、すぐ人が助けに来る かい? 言いながら、非常に爽快さを感じます か? 力弱い憐れな存在を表現した言葉で、あ あいい気持ちだと思う者があったら、精神に異 常があるんだよ。  人間というものは、いかなる場合であっても、 運命の主人公であらなきやいけない。運命の主 人公であろうとする場合には、まず第一番に自 己が自己の生命の主人でなきやいけない。主人 が自分の支配下に置かなきやならない生命を悲 しい状態や失望した状態で表現したら、一体生 命は何を頼りに生きる。支配権を放棄するよう なことをしたら、生命は一体どうなる。悲鳴を 上げたらば、心の状態が崩れてしまう。これは 支配権を放棄したと同じことになりやしないか。  雲霞のような百万の大軍でも、これを指揮す る名将が上にあれば、命令一下、手足を動かす ごとく、全軍粛として動く。けれど、指揮官が 腰抜けで臆病でもって、だらしがなかったら、 一兵一卒動かすあたわず、いえ、自分自身が第 一動かないもの。どんな場合でも、言葉は自分 の魂の表れなのだから、どんな場合があっても、 弱音は断じて吐かないぞという、この決心を 持っていなきやだめ。  それには、普段、不平不満を言わないように しろ。これが一番必要なことです。不平不満が、 やがていろいろな価値のない弱音になって、言 葉になって出てくるんだからね。不平不満を言 うやつは罰当りだ。ものに対する感謝が本当に 感じられないからなんだ。心が痺れている。不 平不満を言うやつに限ってからに、おのれを顧 みないで、上ばかり見ていますよ。「世の中に、 おれよりも長生きなやっかある、丈夫なやっか ある」とか、「おれより悪いことをして、税も 取られずにいるやつがある」とか。  下を見てみろ、もっと不幸なやっかどれだけ あるか。現在ただ今死のうとしている者もある。 その死に方も病気で死のうとしている人もある だろうし、殺されて死のうとしている人もある し、自殺しようとしている人もある。いろいろ な重い病でもって苦しめさせられている者もあ ろうし、また、運命やいろいろなことに苛まれ ている者もあるだろう。  それに比較したら、自分が土台どんな病に責 められていようと、どんな運命に虐げられてい ようと、生きていて、かてて加えて、世界の理 智階級のすべての人が求めてなお得られない、 こういう尊い貴重な人生解決の方法まで聞いて いる。この幸いを考えたとき、何の不満を言う ことがあるの。  事あるごとに、「ああ、ありかたい、ありか たい」で暮らしていいわけだろう。病が出よう と運命が悪くなろうと、「ああ、ありかたい、 造物主はまだおれに恩恵を与えたもう手を緩め ていないな。これによって、おれに反省しろ、 これによっておまえの間違いを正しくしろ、と いう示唆を、健康上の問題や運命上の問題で下 されているのか。ああ、ありかたいことだ」と、 こういうふうに考えて、感謝に振り替えたらど うだ。  それを、自分の思いどおりにならないことが 起こるってえと、何だかんだ不平を言って、し まいには神を呪い、仏をけなすようなことまで 言っちまうんだ。罰当りめ、そんな人間が救わ れる気遣いあるか。だから、常にもっとつつま しやかに、自分の心を汚さないような気持ちに なろうと思ったら、何事に対しても感謝、感謝 で行ったらどう。  それから付帯事項として、いつもは言わない、 新しい人を目当てに言うが、古い人もよく聞け。 それらの意味を総合して考えるときに、講習会 には欠かさずに来なきやいけないということも 直感的にわかりやしないか。あなた方の生きて いる世界の中に、この天風会のこのお集まりに 来たときほど、徹底的に自分の心の中を自分が 努力をしないで掃除されるときはないというこ とがわかりませんか。演壇に出てから下りるま で、どんな冗談を言う場合でも、私の囗をつい て出る言葉に消極的なものは一つもない。これ が何十年の私の苦心と工夫をちりばめた講演の 仕方なのです。  「もの言えば唇寒し秋の風」「丸い卵も切りよ うじゃ四角」というが、同じ意味でも、その言 い方によって消極的にもなりや、積極的にもな るんだよ。たとえば、難しいことをするような 場合に、「あなたはだめだ、そんなことおまえ にできるもんかい」とか、「できるとしても、 なかなか大変だよ」とか言うのが普通のあなた 方の会話だ。同じ場合でも、私はそういう言葉 は使いません。  「それはね、今までやらなかったから最初から いきなりパスツとできないかもしれないけど、 やっててみろ、きっとできるから、遅かれ早か れ」  「たゆまざる心にむち打ってやってみろ、でき るから」  こう言うと、結果に千里の隔たりが生まれる の。  子供が薄着して表へ飛び出そうとすると、教 養のないおっ母さんは、頭から子供に余計風邪 ひくような暗示を与えますね。  「だめだよ、あんたは体が弱いくせに、こんな 寒いのに薄着してたら。子供は風の子なんてい うのはよその子のこと。あんたなんて、すぐく しゃみをするくせに。このごろの風邪はペニシ リンがあったってだめなのよ。ペニシリンだっ てうっかり打てるかい、おっかなくて。お母さ ん、あんた一人が頼りじゃないの、死んじゃっ たらどうするの」  死んだらどうするつて、子供を殺すようなこ とを言つてやんの。同じ言うなら積極的な言葉 で言えるじやないか。  「表に出ていくなら外套を着ていくの。そうす ると、風邪なんかひかないわよ」  これでいいじやないの。時間が少なくて済む。 私の講演を聞いているうちに何となくあなた方 の中に勇ましい気が出てくるのは、これあるが ためよ。「来たときは気が沈んでいたけども、 ここへ来たら、もう帰りがけに晴れ晴れとした 気持ちになれた」なんていうのは、私の囗をつ いて出る言葉が、あなた方の魂に積極的に触れ るからなんだ。  だから、「一遍聞いたらわかる」なんてそ そつかしいことを言うな。四十年こういう道を 説いて、しかも五十年以上こういう道を研究し ていても、まだ私にわからないことがいくらも 人生にある。その中で、わかったことだけあな た方に説いている。それなのに、説かれたこと だけわかったからって、全部わかったと思った ら、このぐらいそそっかしい話はなかろうじや ない。また、わかってもいいわ、偉いからわか るだろう。けど、わかった上に、なおかつわ かったら、なおいいじやねえか。わかった顔を して、わからずにいるよりはるかにいいよ。  心の積極的な人と接する  それから、次に必要なことは、常に心の態度 の積極的な人の人格に接触すること。これがあ なた方の心得なければいけない大事なことだよ。 ところが、「友は類をもって集まる」という言 葉のとおりで、あなた方というのは始末に負え ないよ、気の弱いやつは気の弱いやつと仲がい いんだから、「同気相求むる」とばかり。「あの 人は私の話をよくわかってくれる、私か話すと すぐ泣いてくれる」なんてよう言わんわ。おの れよりもはるかに心の積極的な人と常に接触し なさい。  女傑として有名なクレオパトラでも、気の沈 むこともあり、悲しい思いをすることもあった らしい。クレオパトラの言った言葉にこういう のがある。  「不思議なるかな、ジユリアスーシーザーよ、 彼が私を見てにこっと笑うと、たちまち私の心 の中の沈んだ気は晴れ晴れとなる。まして、彼 に握手をされたときには、私の全身全霊は直ち に生まれた本然に立ち返る。私には、ただ単な る恋人としてでなく、それより以上の階級の高 い、あれは私の人生になくてはならない存在 だ」  磁石にただ複数の鉄板を付ける、そして、あ る時間経ってからその鉄板のほうを調べると、 やはり磁気が通っています。心の積極的な人に 接触する、そうすると、自然とその積極的な心 が見えざる電波を伝わって、あなた方の魂に感 化を与える。いつも講習の後で私かやっている 「お力」というのがそれです。瞬間、私かあな た方の額へ手を乗っけただけでも、あなた方の 身の内に力が電流の通うように通っていって、 とみに心の非常な甦りを感じます。心が甦りさ えすれば、フリルを受け取るダイヤルの調子を 完全に合わせたことになる。気の弱いやつばか りが相集まって、泣き言ばかり言う仲間で仲良 くしていたらだめだぜ。  講習会に来ると、私をはじめ、私の教えに よって心の態度の積極化された人間が幾人もい る。女は女同士で握手をするもいいだろう、 「こんにちは」つて。弱い者と握手をすると、 弱くなるよ。強いというのは、ヒステリーが強 い人のことをいうのじゃないんだよ、心の積極 的な大。別に恋愛の気持ちがなかったら男と握 手してもよろしいし、女と握手してもいい。ま た、恋愛の気持ちがあったって、そこまで干渉 しないから、ご安心ください。しかし、いとし さのほうの情ばかり勝ってて両方とも心がだら しのねえ、黒砂糖にお湯ふっかけたようなの じやしようがないよ。健気な、颯爽と溌刺とし た、頼もしい積極的な心がなきや。  常にチャンスのあるごとに自分の心をより もっと引き立てて積極的にするような人間と語 り、握手しというふうに、始終人格の接触を図 ること、これは決して無駄な努力でないことも 申し上げておきます。  さあ、これでもっと説きたいことはいくらも ありますけど、余計説いたって余計わからなく なるだけだから、観念要素の更改という重大な 実際方法をお導きして、きようの私の話を終わ ります。   誓詞 今日一日 怒らず 怖れず 悲しまず、 正直 深切 愉快に、 力と 勇気と 信念とをもって 自己の人生に対する責務を果たし、 恒に平和と愛とを失わざる 立派な人間として活きることを、 自分白身の厳そかな誓とする。 第四章 積極精神の養成     −感応性能の強化A 心の態度  知識と経験よりも人生に大切なもの  きよう私かあなた方のお耳に入れるのは、お 若い方の将来人生に対して、相当価値の高い参 考を差し上げ得ると自信を持って言えるお話で あります。演題は「積極性と人生」というの。  幾多の春秋に富む諸君は、誰もがひとかどの 成功を望み、人生を幸福に生きたいと願ってお られましょう。ところがこの万人に通有な念願 というものが、果たして希望どおりに現実化さ れて人生に生きている人がどれくらいあるかと いう点から観察しますると、残念ながらその理 想である人生を建設し得る人間は、一万人に一 人いませんな。十万人に一人、これもおぼつか ないでしょう。真実の成功を自分のものにし、 真実の幸福を自分の人生に味わって生きてる人 は、さあ、厳密な意味から言ったら百万人に一 人、ありやなしやでしょう。  しかも、現代の文化民族というものは皆、ひ とかどの成功ができ、また、人並みの幸福を受 けられるような教養を知識として身につけてい る人々なのであります。そのわりに、その教養 そのものが自分の人生建設の上に完全な状態で 働きかけていないのはなぜか、その原因がどこ にあるのかということも考えていただきたい重 大な人生問題なんです。  昔、われわれが若かったころ、成功したかっ たら、幸福な人生にしたかったら、学生時代に は、「まず知識を豊富にしろ」、さらに社会人に なったらば、「自分の人生を建設する一番の ファンデーション(基礎)となるべき経験を積 め」、これがもうほとんどの学者、識者の後輩 に対する占有的な教えであり、また訓戒であっ たというのが事実であります。それが現代、人 間の作った衛星が空を飛んでいるような文化時 代でもなお、心の方面の事柄だけは十年一日の マンネリなんです。一向に進歩もなければ変化 もなく、後輩への訓戒といえば相変わらず「ま ず知識を蓄えろ」「まず経験を積め」なのです。  もちろん、何をするにも知識の必要なことは 豈敢て言うに及ばず、また、経験というものが 自己をつくり上げる上で重要な条件であること は間違いありません。けれども、いくら学問を しても、いくら経験を積んでも、自分の心の中 の積極性というものが欠けていたらば、その知 識もその経験も本当にそれが理想どおりにコン クリート(具体化)されないのであります。  だから、ここにお集まりの中で、必ずや自分 は将来、儕輩の群を凌いで人の世のために役立 ち得る立派な大間にならなきやならない、なろ う、なりたいという念願を持っておられる方が おありだったら、これから私か申し上げること を現実にご自分のものにして、それを実行に移 してはしいんであります。  何をおいても自分の心に積極性というものが 失われたら、豈欹て成功ばかりではありません よ、あらゆるすべての運命に対して、自分とい うものをそこから一歩上に進ませることができ ないんであります。これができるのは、学問の 力でもなければ経験の力でもないんです。  お聞きになったでしょうけれども、私も今年、 九十であります。この九十の歳まで私かこう やってとにもかくにも多くの人々に教えを導き ながら、こうやってきわめて満足な人生に生き ていられるのも、これからあなた方にお聞かせ する積極性の心というものを、若いときから失 わずに今日まで来たおかげたといつも私考える んです。  積極性というのは多く言うまでもなく、能動 性のものであって、俗に近頃流行っている言葉 で言えば「ファイトで行こう」ですが、思慮分 別もなく「ファイトで行こう」というんじやな いんですよ。  何事にもベストを尽くす  時間がありませんから、きわめて率直な話で この講演を進めて行きたいと思います。きよう 私かわざわざ弟子の一人の博士である島中(俊 次。天風会第四代理事長)を連れて来ましたの も、この積極性という講演の生きた証人として 適当な人物だと思ったから、忙しい病院の医者 を引っ張り出してきたんです。  あれが私の弟子になりましたのは学生時代な んです。囗大の学生時代、いやまだ大学に入っ てなかったな、高等学校時代から私のところに 来まして、医学に志し、終戦の直後に医者に なったんです。  ご存じじやないかもしれませんけれども、終 戦後は、よほど成績のよい中でもずば抜けてい ないてえと、学校卒業後五年経たないと博士に なれないんです。昔なら金の力でもって、もち ろんそれには成績もよくなければいけませんけ れども、三年四年で博士になれたんです。私の 時代には学校を首席で卒業できたら、無条件で 学位をくれたもんですけども、今はそうはいか ないんであります。それを私は、じつは知らな かったんです。  昭和のたしか二十五年でしたか、彼が医者に なって二年ぐらいのとき、神戸の私の夏の集ま りに、助手としてやってきた。そのときに、そ ういう制度があることを知らないもんですから、 「来年は島中先生は学位を持った立派な博士に なってくるよ」と、みんなにこう言ったんです よ。そしたら宿に帰って、島中青年が言った。  「先生、困っちやったな。あんなこと言われた から、来年博士にならなきや神戸に来られな い」  「なりやいいじやないか」  「今の制度は学校出てから五年経たないとだめ なんですよ」  「制度は五年だろうと、優秀な成績持っていれ ば二年や三年だってなれないことはないじやな いか」  「それがそうはいかない」  「ばか言え、とにかく成績よくしろ、そうす りやおれがきっとなんとしても博士にしてみせ るから」  ここですよ。そのときもしも一般の青年だっ たら、「ずいぶん無理言うな、たとえ高等学校 時代から教えを受けているとはいっても、こと によりけりだ。できないことをできるようなこ と言われたんじや、とてもやり切れたもんじや ない」と、こういうふうに思うでしょう。「無 理もいい加減にしろよ」と。  ところが、そう言っだのが八月ですよ。そし て翌年の三月に学位を取ってくれました。「取 れないことはないから取れ」と言ったら、「取 ります」と言って。  結局、積極性が彼を立派な医学博士にした。 その事実を知ってる私としては、きようのあな た方に対するいい手本として、島中を連れて来 たんです。これはもういわゆる生き情報ですか らね。  くわしく説明しなくってもおわかりになった ろうと思うんですが、とにかく人生というのは ファイトで行かなければだめなんです。昔の儒 学の教えは、「日々に省みて悔い改めながら行 け」というが、私はそういうしちめんどくさい ことでもって人生の解決をすることに不賛成な 一人なんです。どこまでもファイトで行くんで す。  ただしファイトで行くときに、私かあなた方 にとくに言いたいことは、成功したいとか、出 世したいとか、幸福になりたいとか、そういう 希望を胸に描きながら働いちやいけないんです ぜ。これが普通の人が言っていることと違って る点なんです。  「まず目的を定めろ。人生のデスティネーショ ン(目的地)ができなかったらば、あてどもな い旅に出たと同じじやないか。だから目的を定 めて、その目的に向かって勇往邁進しろ」とい うのが、今も昔も学者や識者が後輩を教えると きに必ず言う言い草なんです。私はそれに賛成 しないのであります。なぜかというと、目的を 定めてやると、焦りが来るからです。「まだか、 まだか」という焦りが来ると、ファイトに傷が つくんです。これは大事なところだから聞きな さいよ。普通の学者や識者の言うこととは全然 違いますよ。がむしやらでもいいからファイト で行くんです。  これを言うと、「ずいぶん無茶な講演聞くも んだな」と思うかもしれませんが、とにかくが むしやらに行くんです。われわれの持つてる人 間に与えられた知識の範囲というものは知れて おります。それでとやかく思案していたら、こ の時代に本当のファイトが出ますか。あれを考 え、これを考え、いわゆる右顧左眄してからに、 難しい言葉を使えば逡巡して、グズグズグズグ ズグズグズ躊躇してばかりいると、進歩も発達 もない憐れな自己が出来上がるだけでしよ。で すから、どこまでも目的は定めない、心に従い ながら、がむしやらにファイトを燃やして行く んです。  これをもつと易しい言葉で言えば、「がむ しやらにファイトで行け」というのは「ベスト を尽くせ」という意味です。何をするんでもベ ストを尽くして行くんです。  きわめて古い話ですが、豊臣太閤秀吉という 人の出世物語は、私か少年の時分から大好きな 物語の一つなんです。今と時世が全然違ってい るあの元亀・天正時代は、ほかでも軍閥の家に 生まれれば出世ができたけれども、どんなに才 が優れていようと、権謀術数が巧みであろうと、 軍閥の家に生まれなかったら出世のできない制 度がとくに厳粛にあった時代なんです。しかる にわれらの豊臣太閤秀吉となる大は、尾張中村 の一寒村の水呑百姓の子でしよ。  都会の大に水呑百姓なんて言ったって、どん な百姓かご存じなかろうけれども、おそらく昔 の水呑百姓といったら、今の旦雇い労働者より もまだ憐れでしよう。わずかな賃金で人の持っ ている田畑を耕して、それで無条件で金がもら えればいいんですけど、その田畑の作物の出来 具合でもって報酬が違ってくるんですから、も う一年ほとんど無駄働き同様な状態で働かな きやならないような年もあったに違いないので す。  そういう家の子に生まれた日吉丸、名前だけ は天晴れですが、早い話が乞食と五千歩百歩な んです。それが天下に志を立てて、二十年で日 本六十余州の兵馬の権を手にしたというのは、 歴史に見られない出世ぶりでしょう。この人の 生まれながらにして持っていた積極性が、彼を ああならしめたんだというべき事実があるので あります。  あの人が最初、織田信長に草履取りとして仕 えたということは、盛んに小説や雑文に書かれ ているからご承知のことと思います。そして草 履取りで仕えた人間が十年足らずで、二十五万 石の羽柴筑前守になった。草履取りといった ら下郎の一番最下位の階級、それが十年で大大 名になったんです。  そこで織田信長の親父の時代から織田家に仕 えていて、織田家の総番頭のようになっていた 柴田修理亮勝家が、これは別にやきもちを焼い たわけでもなく、出世を羨んだわけでもないん ですが、木下藤吉郎、羽柴筑前守というように 囗の出の勢いで出世をさせたので、織田信長に あるときそれとなく「お家のためにもいかがか と存ずるが」と忠告した。勝家は織田家の元老 であり信長の後見人同様の立場にいますからね。  人はみんなそのときに藤吉郎を「サル、サ ル」と呼んでいたので、「サルめのお取立て、 釣り合いがちょっと違うように考えますがいか がでござりましよう」と、こう織田信長に言っ た。すると信長が勝家に尋ねた。  「そちもそう思うか」  「いや家中みんなそう思っております」  「そうか、わしの家に幾人もの人間がいる中で、 あの人間を本当に見込んでいるのはわしだけか のう」  「しかし一体いかなる点をお見込みになりまし たのでござりましようか」  すると織田信長がこう言ったんですね。  「あれはのう、何をさせても一心じゃ。何をさ せても真心じゃ」  つまり、「何をさせてもベストを尽くす」と いうのですね。草履取りをさせたら、草履取り としての本分をまったくそつなく傷なくやって くれる。すぐに取り立てて供侍にすれば、供 侍としての職分をこれから先も乱さない。槍一 筋を与えてやれば、槍一筋を与えられただけの 職分を尽くす。大名にしてやれば、大名として 抜かりなく、そつなく仕事をする。何をさせて もあれは嫌だ、これは嫌だということはない。 どんな卑しい仕事をさせても、どんな尊い仕事 をさせても、同じ気持ちでやってくれる。この 人間を見込まずにいられるか、というのです。 そして織田信長はにっこり笑って柴田勝家にこ う言ったそうです。  「おそらくは、わし亡き後の天下はあの男が握 るだろう」  結局、何の軍閥もなきや何の身分もない境涯 から、たちまちに日本六十余州の兵馬の権を手 にする状態になったのも、あの人の真心を失わ ない、がむしやらなファイトがあったからです よ。  あの大が、「群雄割拠の世の中で、今さらお れがチョコチョコしてみたところで、ヘタす りや殺されるのがオチじやないかしら。第一、 金もない、名もない。ここいらで見切りつけち まうか」という気持ちだったら、おそらく足軽 ぐらいがせいぜいの出世でしような。それがま あ、乞食同様の身分から成りも成ったり、天下 を指揮する人間に成り上がった。  こうした尊い事実を過去に持ってるお互い日 本人、ふと考えたらば「おれだって同じ人間だ、 なれるんだ」という信念が出そうなもんですが、 やはり出んでしような。すぐ変な理屈をつける んだよ。「おれなんかだめだ。何しろ意気地が ないから」とか、「積極的といったってファイ トは出ねえよ、この月給でもってこの毎日 じゃ」とかね。すぐ、ネガティブな方面から自 分の人生を考えるから、自分の人生の中に生ま れながら与えられていたはずの積極性の根本で ある勇気というものが挫けちまうんです。人生 も勇気が挫けたら積極性なんて出そうったって 出やしませんよ。  こう申し上げると「一応話はごもっともで もって、たしかに間違いのない話です。できる んなら、おっしゃるとおりしてみたいんだけれ ども、たった今、あんたのおっしやったとおり、 どうも生まれつきおれは弱気で」なんていう人 がこの中に一人や二人おありのようですから、 そこで積極観念の養成法というのをお教えしよ  これをやれば必ず積極的な観念は出てくる。 これが自分の心かと思うようなポジティブーア ティテュードーオブーマインド(積極的な心の 態度)というようなものが自分の心に、自分自 身が自覚ができる状態で発現してきますよ。そ うなると、今までと打って変わった人生が生き られるってことになるでしょう。  たとえば何事かあったとき、「今までならこ んなことがあったらすっかりしょげちまってか らに、もうかなりだらしがないんだが、今度は 違うなあ」という状態になったら、違うなあと 自覚しただけでも非常な喜びを自分の心に感じ るじやありませんか。何をするんだって、どん な些細なことをするんだって。  そこで、この機会に一遍聞いたら忘れられな い実行方法を教えてあげるから、それを本当に 明日と言わず聞いたすぐそばから実行に移して、 自分の実行がやがて自分の人生をつくり上げる 根本になるんだということを忘れないように。  いくら私かこの方法をお教えしても、実行し てくれなきや何にもなりません。しかし、あな た方の社長がここにいるんだから、これだけの 人間の中でどれだけの人が実行したか、社長に はちやんとわかるはずです。あの人間は実行し だしたな、これはだめだな、聞きっぱなしだな ということは、結果でわかってきますから。  内省検討−自分の気持ちを検査す  る  そこで第一に、人生に生きる刹那刹那、些細 な仕事をするときでも、重大な仕事をするとき でも、その仕事に対して白分か今どんな気持ち を持ってるかを自分で検査するんです。「自分 の心の態度は積極か消極か」「あの天風が言っ たような、がむしやらでもいいからファイトで 行けという気持ちが出ているか、出ていない か」「躊躇するしみったれだ気持ちが出ている か、出ていないか」。自分自身のことは自分自 身が一番わかるんだから、自分自身の気持ちを 厳かに自分が試験官になってからに検査するこ とです。英語でいう「インスベクション (F芍り巳目)」ですね。  わずかなこと、些細なことのようでしょう。 けれど、この些細なこと、わずかなことのよう に思われることが、人々の人生でしばしば忘れ られてはいませんか。しばしばというより、ほ とんど考えられていないんじやないですか。  何でもかんでも自分の考えてること、思つて ることはみんな間違いがないように思つちやつ て、意気地のない憐れな力弱い考え方が出てる ときでも、「これはしようがないよ。右見たっ て左見たって、みんなおれと同じ気持ちになる に違いない。これが人間の本当の気持ちだろ う」なんてなふうに、大抵の人は考えちやう。  それで何かこう右も左も一緒になってガーツ てやるようなときがあるってえと、いいも悪い もありやしない、群集心理で自分も一緒になっ てガーツとやるのが現代人だ。そういうのを昔 の東京の言葉で、お調子者といいましたね。こ の節の言葉では、おっちよこちょいっていいま す。  自己判断が何もなくて、他動的に人の気分で 動かされてる人間というものは、これは草木に 群がるアブみたいなもんなんだ。だから何をす るときでも、「自分は今、この仕事に対して躊 躇を感じてるかしら、絶対やり抜くという気持 ちを持ってるかしら」と自分自身を検査する。 このインスベクション、それがあなた方の一番 大事な自分の積極観念を現実にする第一の要領 なんですぜ。  暗示の分析−人の言動に左右され  ない  第二は、人の言葉に動かされないこと。いい 言葉に動かされるならいいけれども消極的な言 葉に動かされたら元気がなくなつちやう。燃え ようとする火に水をふっかけるのと同じ結果が 来ちやう。  世の中にはおせっかいなやっかいて、ものが わかったような顔しやかつて、「おい、おい、 おい、おい、そんな無茶するなよ。天風がなん て言ったか知らないけどよ、そんなことしてや りそこなったら大変だぞ。やめとけ、やめと け」なんて言われると、しかもそれを少しでも 自分の上役だとか、偉そうに見えるやつとかが 言うてえと、せっかく燃えようとするファイト もスーツ。こういう人間は、他人の言葉や行な いのサジェスチョンでもって、自分の心がエレ ベーターみたいに上がったり下がったりするん ですね。  これがまた、人生には非常によくないんです。 断固として自分の心を自分がしっかり堅持しな ければならない。人が歩いてるときに横丁から 知らないやつが飛び出してきて、あんた方に 「あっち向け、こっち向け」と言っても、言う ことを聞くやつはないでしょう。大抵なら怒っ ちまう、「何しやがんでえ」と。  それでいながら、自分の大事な心の方面をウ ロチョロされても腹が立だないで、それが当た り前だと思ってるやつは、ほか以上に人のいい やつなんです。ところがよく考えてみれば、 せっかくある気持ちを持つだのに、他人の言葉 や行ないに動かされて、その気持ちが途中で スーツと消えてしまう、ということがよくある んです。  とにかく縁があってあなた方が今の会社にい るのならば、そこでベストを尽くすんです。ベ ストを尽くすことに対して誰も文句を言う者は ないんだもの。ベストというのはご承知のとお り、いいことに対して一心になって仕事をする ことだぜ。悪いことに対して一心に仕事をする ことにをベストとは言わないはずです。初等の 英語の学力がある人なら、おわかりになるだろ うと思います。  がむしやらなファイトというのはベストのこ となんだ。がむしやらというと言葉が下等にな るけれども、結局、右顧左眄するなということ ですよ。右を見たり左を見たりしていると、躊 躇という心が出てくる。躊躇という心が出てく ると、ベストを尽くそうと思っても、せっかく 燃えようとする心がスーツと下火になっちやう。  対人精神態度−積極的な態度で人  と交わる  第三は、本当に積極性を発揮し、ベストを尽 くす人問になろうと思う者は、他人の気持ちも やはり自分と同じような気持ちにすることを常 に考えなきやだめよ。おのれだけ積極的であれ ばそれでいい、じやいけないんです。その気持 ちで行けば、人の運命や人の境遇に対して、た とえ同情をする場合があっても、その人の気持 ちを消極的にするような不親切な行動は出ない はずです。  働いている仲間の多いところだと、時々そう いう大がいるんですよ。つまり悪気なき誤った 親切でもって、先輩ぶったり、経験者ぶったり して忠告する言葉によって、相手を過つ場合が ある。  だから、自分が人と交わる場合、あくまでも 積極的な態度を崩さないで交わること。これが また非常に必要なことなんです。自分だけ積極 性を発揮してからに、人には「おまえ、やりす ぎちやいけねえぜ」とか、「ここいらで手を緩 めようや」とか、そんなこと言っちやだめなん です。  自分だけではなく、人にもベストを尽くそう という気持ちを持たせる、それが誠心誠意ベス トを尽くすということであります。  今、日本一の電気業者となっている人が若い ときから私のお弟子でいたんであります。その 人はね、まさか今日のような日本一の電気業者 になるつもりでもって、あの仕事をしだしたん じやないんですよ。  一番最初は、裏長屋を三軒借りて仕事を始め た。その時分に裏長屋一軒の家賃が三円五十銭 で、それを三軒借りてたっていうんですから、 十円五十銭だね。それで、当時、徒弟学校とい う職工さんを養成する学校があったんだけど、 その徒弟学校の夜間乙種工業学校というのに夜 通っている学生を、今でいうアルバイトだな、 昼間だけ雇って、電信柱なんかについてる碍子、 あれの荷造りをする下請けをやってたんです。  そのとき、たまたま私のところに来たんです。 まだ私か四十四、五の時代です。今からちょう ど四十五年前か。その人は三十ちょっと出たこ ろです。それで私の話を聞いて、感ずるところ があったんでしような。自分ではそれまではた だもう卑しい仕事をしてるとしか考えてなかっ たらしい。ところが、私か「まず第一番に自分 の仕事に対する本当の尊敬の念を抱かなきやい かん」と言った。  それ、本当ですよ。靴ひとつ磨いたからとて、 桶ひとつ洗ったからとて、自分のしてる仕事に 対しては自分自身が尊敬を払わなきや。ところ が現代人は非常に重要なポストを与えられて、 普通の人よりもはるか上回った仕事をさせられ ると非常に尊さを感じられるけど、たとえば課 長級の人に、「おい、ちょっとおまえ、きよう 受付しろ」とか言っだらしやしませんよ。「ば かにしやかつて、おれは課長じゃないか」と。 ところがこの人は、そうじゃない。この人、し ばしば新聞や雑誌に出るんですが、「今、私は ここの会長ではありますけども、この仕事だけ は営業部長のつもりでやっております」つて 言ってるんです。誠心誠意なんですから、この 人は。  碍子を包装する仕事をしてるときでも、「一 つも荷崩れがあっちやいかんぞ、ここでもって 包んだ碍子に破損があったらおれたちの恥だか らな、みんな一つ一つ自分のもんだという愛情 を持って包みなさい」というようなことを言っ ていたんだ。わずか十人ばかりの職工の卵をア ルバイトで雇っている小さな会社でね。  ところが間もなく、「あそこの品物だけは安 心して使える」と評判になって、それから会社 はどんどんどんどん大きくなったんです。その 人は「自分でも今日、あんなに偉くなっちやっ たとは不思議だ」と言っています。「もう先生 のおかげでもって、先生に教わった気持ち一本 でやってます」と。  まあ、この人ばかりじゃない。いくつかの成 功者はみんなそうですもんね。だから、こう やって話をしながらも、お若い人たちを見るて えと、本当にこの教えを実行したら将来どうな るであろうかと考えながら、お教えする私のみ が知る喜びに今、心燃えているんですがね。  取越苦労厳禁−当たって砕けろ  第四は、取越苦労厳禁。苦労性ってやつは昔 は年寄りに多かったんだが、この節、若い人に も多いのね。「このまま行ったら、自分はどう なるだろう」なんてことを、くよくよ心配して いるのが。あれがああなって、こうなって、こ うなるとこうなって、と考えているうちにぺ しやんこになっちまう。  われわれの若いときなんて、そんなこと考え たことないね。もっとも「おまえさん、少し精 神に異常があったんだろう」とおっしゃるかも しれないけれども。私か十六のとき、時まさに 日清戦争が始まる間際のことです。  「どうだ、どんなに暴れても懲役に行かないで いいところがある。好き自由なことをしても、 どこからも咎められないところがあるが行く か?」  「そんなとこがこの地上にあるんですか?」  「ある」  「どこです?」  「満洲に行け、満洲に。やがて日本とシナが戦 争を始める。おまえのような者が行って、向こ うの様子を探ると、日本の陸軍のためにどれだ け役に立つかわからん、行け。だがしかし、一 応は断っておくぞ、生きて帰れるとは思うな、 戦争の犠牲になることを承知なら行け。しかし よく考えてみろ、男一代、名は末代、生まれ りや必ず一遍は死ぬ。どっちにしても死ぬとし たらば、生きがいのあるところで生きて死ね。 どうだ、行くか」  「参ります」  今の若い人なら、「ちょっと待ってください、 いくらくださる?」これが一番先でしょう。 「金っていっても、向こうで生活する金は決し て困らせるようなことはしないけれども、生き て帰れないんだからね、いくらやるって約束は できないけれどな」  「そうですか、金にならないんですか、やめま すわ」  金にならなくても帰ってから会社の重役にで もするってんならともかく、死んじまうなんて つまんないね、これ。「おれはごめんだよ」つ てことになるでしような、今の若い人なら。  この話をすると、あなた方みんな私の顔を見 て、「精神に異常があるから九十までもあの元 気で生きてられるのかな」と思うかもしれない。 決して私、精神に異常があるとは思いません。 ああやって多くの医者が私の弟子になっている ところを見るてえと、異常のある男とは自分は 思ってませんが、とにかくそんな時代の少年の 気持ちには、今の子供さんの持つてるような、 いやらしいこの苦労性が災いするようなヘンテ コリンな気持ちはなかったんですね。時代の流 れですから、それをいいとか悪いとか批評はし ませんけれども、若いうちは若い気持ちになり たいな。  若い気持ちは炎と燃えてるはずだ。燃えてな い? 燃えてなきや、これ、問題にならないな。 九十の青年でさえ、このくらい炎と燃えてるん ですから。ここにいる人はみんな、私の半分の 半分ぐらいの人ばかりだろ。当たって砕けろと いう言葉が一番いいんだ、若いうちは。ちっと やそっと愚か者と思われてもいいんだ。  石橋を金で叩いてるような、薄い氷の上を おっかなびっくり渡ってるような人生を生きて たら、そのままあなた方の人生は萎縮しちまう ぜ。空気の抜けた風船みたいになっちやう、ど んなに学問しようが、どんなに経験積もうが。  結局、当たって砕けろです。無茶な考えであ るかもしれないけれども、ベストを尽くして行 きさえすれば当だっても、向こうのほうが砕け ちまう。こっちは砕けないもの。  正義の実行−本心良心に背かない  それから最後に必要なことは、どんな場合に あっても本心良心に背かないこと。もう人生に 失敗する人間のほとんど九割九分までは、感情 と感覚の心でもって、自分の心をただもう、あ るがままのわがままな状態に働かせてる人たち だ。  本心良心、これはどんな悪党にも生まれなが ら与えられてあるんですから、もちろん悪党で ない人間にも、もともとある。今まで一遍も見 たことないっていう人があるでしょうけど、人 にすまないことをしたり、すまないことを言つ たりすりや、必ずなんとはなしの後ろめたさを 感じるでしょうが。感じない人は私から社長さ んにお願いしてからに精神病院に入れてあげま す。嘘をついていい気持ちか。悪いことをして 何とも言えない晴れ晴れとした気持ちになるか。 人のいないところでつまみ食いをするのでさえ、 なんとはなし、憚られるのが本当の人間の心 じやないかな。  私はね、昔、軍事探偵をしていた。軍事探偵 というのは、言葉だけ聞くとはかにきれいに聞 こえるでしょう。ここにいるお嬢ちやんたちの 中には、「あれ、天風先生って軍事探偵だった の? 『間諜x27』や『マター『リ』みたい な? よかったでしようね、先生の若いとき は」なんて思う人があるかもしれないけれども、 どういたしまして、日清戦争、日露戦争の軍事 探偵ときたら、乞食だって顔負けするぐらいの 艱難辛苦に耐えなきやならない。もう、ぼろぼ ろのドンゴロス(麻袋に使われる厚手の粗布) の服を着て、頭はシラミの巣みたいなもの、お 風呂には私、三年入りませんでしたぜ。  その軍事探偵をしてるときだって、毎日毎日 がもうただ楽しくて嬉しくて仕方なかった。自 分のしてる仕事が、日本のためにどれだけいい かわからないのだと思うと、することが楽しく て嬉しくて。しかも軍事探偵のすることは詐欺 と泥棒だけなんだから。みんな軍事探偵でない ようにしょっちゅうカモフラージュしなきやい けない。これは詐欺ですね。  私なんか浙江省の奥に生まれた唖の人足だと いうふうにしてた。囗きくとね、たとえどんな に流暢に満洲語がしゃべれても蒙古語がしゃべ れてもだめなんですよ。ロシア人が見れば、こ れはわかりません。けれども満洲人が見ればす ぐわかる。この集まりの中にシナ人や朝鮮人が いたらすぐわかるでしよ。日本で生まれ育った 朝鮮人、シナ人はちょっとわかりませんよ。で も中年でもって日本に来たやつはすぐわかる。 あれ、国籍違うよねって。ですから満洲に行っ て、いかに満洲言葉がしゃべれても、しゃべっ ちゃいけない。自分の腹心の者以外にはしゃべ らんことにしている。だから、唖になるのが一 番。  とにかく、今言ったとおり、することといっ たら詐欺と泥棒。向こうの秘密の書類をこっち に持ってくるのが軍事探偵の仕事ですからね、 泥棒しなけりや持ってこられない。事情を打ち 明けて、お願いして渡してくれりゃ泥棒しなく たっていいんですけども、お互いの国が戦をし ている最中、向こうの人間にお願いするわけに もいかない。  「お大事なものでしょうけれども、それを貸し てくれませんか。私か持って行くと日本の陸軍 のためになるんですが。三日ばかりでよござん す」  「ああ、それじゃ持つといで」  なんて言いませんからね。しようがないから、 取れる手段で取らなければいけません。相手が 肌身につけてりや、やむを得ざる最後の手段と して無条件で渡すような状態になってもらわな きやいけません。そのときはどうにもしようが ありませんから、場合によっては最後の手段で もって大手術を施しちまわなきやいけない。  なんか非常に愉快そうに私か話してるもんで すから、「あの人、殺人鬼みたいな気持ち持つ てるんじゃないか」とおぼしめすかもしれない が、そうではありません。お国のため、民族の 幸福のためという大きなお題目のもとに働いて ても、やはり敵の書類を取ってきたり、取るべ き手段としてやむを得ず大手術を行なったりな んかすると何とも後味が悪い。後味が悪いとい うのは本心良心があるから。大義名分のある行 為でさえ、本心良心というものはちゃんと知っ てるんですよね。  知つてるというのはどういうわけたというと、 たとえ国のため、民族のためとはいいながら、 生きてる人の命を取るなんていうのは、これは もう厳密な真理の上から言えば、大きな罪です よ。ですから本心良心は、理屈を超越して本然 のままで裁くから、決していい気持ちを感じな いんです。  そういうときでさえ、本心良心というのは人 間の行動をちゃんと顧みさせてくれるんですか ら、普段の場合はなおさらです。よろしいか、 どんなことをするときでも、言うときでも、本 心良心の咎めを受けないこと。いい気持ちでベ ストを尽くすこと。それをがむしやらというん です。  がむしやらという言葉を考えてごらん。「が む」とは我を無くしちまえということ。感情や 感覚が我なんですから、これを捨てちまうのが、 がむしやらです。大義に即して本然の自分を生 かしていくことです。  易しかったでしょう。たった五つだもん。  自分自身の気持ちを自分で検査するのが、 「内省検討」。人の言葉に左右されるなというの が、「暗示の分析」ですね。大に対する態度は、 あくまでも積極的で行けというのが、「対人精 神態度」。四番目が、「取越苦労厳禁」です。そ して最後が、常に「正義の実行」。  これくらいのことができなかったら、よくも 学校を出られたなと言いたいくらいですよ。小 学校でも出られた人ならば、これくらいのこと 実行できないはずないですよ。まあ、やってご らん、だまされたと思って。すぐにやる。たっ た今から。こんな机の上を片づけるときでも気 無しで片づけない。ベストを尽くす、何をする のでも。  獅子は兎を殺すときでも全力をふるう。百獣 の王ライオンは、どんな弱い動物を捕えるとき でも、自分と対等の敵と戦うような気持ちで戦 うという。これは事実そうらしいです。野山に 棲むあんな猛獣なんかも手本にしていいな。  あなた方七大事といえば重んじるかもしれな いが、小事というと軽んじる恐れがありやしま せん? わずかなことでも、自分の心に裏腹が あっちやいけないわけだ。ベストというのは裏 腹がないことよ。がむしやらというのは公平に、 ただ一本誠。言われてみれば、もう知ってるこ とばかりだ。あなた方も、知ってることばかり で、実行してなかったことばかりだ。そうで しょう? 実行してごらんなさい。  きょうは社長があそこに控えてて、私かここ で話してるんだから、一年、二年、三年ぐらい 経ってから、「どうでした?」つて聞いてみる わ。あれとあれは大変よござんしたが、これは だめですというのが出てこやしないかと。だめ なほうに入っちゃいけませんぜ。だめでないほ うの人が余計できたら、ただ単に会社の大きな 誇りであり、また力であるばかりじゃない、そ ういう人間が増えるということが、これからの 国家にとって、社会にとって、非常にありかた いこと嬉しいことなんだ。  短時間ではありましたが、申し上げることだ けは十分申し上げたつもりであります。この上 はご実行。ご実行だけを私の最後のお願いとし て、きようのご静聴に感謝して終わりたいと思 います。ありがとうございました。      (本章は、天風会会員向けの講習会では      なく、企業の新入社員を対象に行なわれ      た外部講演会に基づいています) 第五章 神経反射の調節      −感応性能の強化B ヨガの秘      法・クンバ(カ  誤った知覚が心を乱し体を脅かす  今晩は、心を積極化する問題の中の三項目、 神経反射の調節についてお話しします。  普通、多くの人々はおそらくは大抵考えてい ない問題じやなかろうかと思う。なぜかと言え ば、自分の現在感じていること、そこに間違い があろうとは思っていませんもの。ところが、 事実においては、なかなかもってそうではない のです。  感情や感覚のショックや刺激を正当に受け 取っていないのですよ。これは自分じゃ気がつ きません。気のつく道理がないもの。それも自 分の神経生活機能の中に何か急な変化があっだ のであれば、これまでの感じとたった今の感じ が違うということが感じられるかもしれないが、 長い月日の間に神経生活機能の反射作用が非常 に興奮した人は、だんだんだんだんにそうなっ だのですから、そういう心の感覚や感情の ショックや衝動をとらえるときのとらえ方に間 違いがあるとは思いやしません。  ですから、多くの人はやがて私に教わる方法 をやるにつれて、「聞いたときはそう思わな かったけれども、やっぱりそうだったか」と感 ずるに違いないと思うが、今のところは神経系 統の反射作用の調節ができていないために、本 当は五か十ぐらいの感覚や感情のショック・衝 動を、心にそれを知覚せしめるときには百や二 百と大げさにしてしまっているんだよ。もちろ ん、それは気がついていません。気のつく道理 がない。正当な神経系統の反射作用とはどうい うものなのか知らないのですから。現在、自分 の命の中で働いているこの神経系統の反射作用 が正しいものだと思っているのです。神経系統 が乱調子に陥っている人間は間違いを間違いと 感づくはずがないので、本当は五か十程度の感 覚的なあるいは感情的なショック・衝動か、心 に入ってくるときには百、二百と大げさになっ ちまう。  あなた方もこういう経験を持っているに違い ない。非常に心配し、非常に恐れ、あるいは腹 立ちを感じたとき、そのときはもう興奮し ちやって、居ても立ってもいられない。さて、 時間が経って気が静まって考えてみると、さほ ど怒ることでもなかった、さほど恐ろしいこと でもなかったと感じた、こういうことを過去に 何遍か経験していないか。  神経系統の生活機能が正しく調整されて、反 射作用がこれも正確に行なわれている人には、 そういう後から考えて思い直すような滑稽はな いのです。ところが、この神経系統の生活機能 の乱調子に陥った人は、もうだんだんだんだん に感情を大きくしてくる。だから、心がそれを 受け取るときの状態を知覚といいますが、もと は小さくても、知覚のときには大きくなって心 に入ってくるんです。  小さなものを拡大鏡で映すと大きく見える。 ご承知のとおり、レンズの中で光線が屈折する から大きく見えるんですね。拡大鏡がこれを映 していると知らないで、目で見て大きなものが 見えれば、それはたしかに大きなものとして感 じます。映画のスクリーンに映る画は大きくて も、もとのフィルムがきわめて小さなものであ ることは、あなた方ご承知のとおりです。あん な大きな画が回転しているんじやないんです。 映写機の本体の中にあるレンズの屈折によって、 あれだけ大きく見えるだけなんです。けれども、 われわれはあれを見ているときに、もとの小さ いことは考えやしません、そうでしょう。  それと同様に、現在自分が知覚しているもの が感情や感覚の本当の姿だと思っている人生に 今まであなた方は生きていたのです。それがた めに、驚かなくていいことにも驚き、悲観しな くていいことにも悲観し、恐れなくてもいいこ とに恐れて、ずいぶん意味のない、くだらない、 憐れな、惨めな人生の時間を生きていることが しばしばあることを考えなければいけない。  それが、そのままで済めばいいですよ。その ままで済めばいいのだけれども、どっこい、な かなかそのままじゃ済みません。人生に受ける 影響は、このもとの大きさや小ささにはよらな い、心の知覚した分量によるのです。本当は五 か十でも、心が百、二百と受け取ると、その百。 二百と受け取った心の知覚は、心の安定に大き な影響を及ぼす。それで心の安定にぐらつきが くれば、ただちにまた、ものの声に応じたよう に、神経系統に再反射作用というものが起こり ます。  池の中に石を投げ込む、そうすると波立って 周囲に行きます。周囲の岩なり岸なりにぶつか れば、またその波が返ってくるだろう。それと 同じように、すべての感情・感覚が一遍心に知 覚を生ぜせしめると、今度はその心の受けた知 覚に応じた神経系統の状態がそこにこしらえら れるのです。だから、事のいかんを問わず、心 が非常にびっくりしたり、恐れたり、悲しんだ り、怒ったりすると、その程度が高ければ高い ほど、われわれの命をつかさどる大事な役割を 行なっている神経系統が、ごちゃごちゃにかき 回されてしまうことになるのです。  その結果、健全な肉体を保って生きていくこ とができないという、自ら知らないとはいいな がら健康破壊の大きな失策をしでかしてしまう ことになるのです。だから、何をおいてもまず 第一番に考えなければならない問題は、世の中 に生きる刹那刹那、われわれの感覚や感情も絶 え間なくいろいろなショックや衝動を受けてい る、それを正当に心に受け取るにはどうすれば いいかを知ることじゃないんでしょうか。  私か一番初めに、人間の生命の秘密の消息を 知りたい、そのために研究しようという気持ち を起こしたのは、この事柄を感じたからです。 もつとも、このような言葉で理解していたわけ ではないですよ。けれども今にして思えば、そ のとき感じたのは、まさにこれに該当する事柄 なのです。  青年期を過ぎて壮年期に入ろうとする刹那ま で、私は人生に何の悩みも持だない、きわめて 恵まれた幸福な人間であったと言い得るほど、 健康も運命もまことに和やかで、毎日、生きる こと自体が大きな楽しみでした。  傍から見ると、「命がけの軍事探偵なんかし ていて何か楽しみだ」と思うかもしれないが、 ああいう仕事は楽しみに思わなきやできる仕事 じやありませんよ。苦しいことをとくに楽しみ に思うことによって働いていたんじやない、人 が何と思おうと私は、頭から、非常な楽しみと 思ったから行ったんだ。この点はあなた方の常 識と私の常識は違うかもしれない。  「まかり間違えばすぐ死んじまうんじやないか。 それも、非常に贅沢できてからに、三度三度、 食前方丈の贅を尽くし、かゆいところに手の届 くような介抱をしてくれるところの美人でも脇 にいるんならともかく、話を聞いてみるという と、おおむねは野に伏し山に寝て、普通の人間 から考えたら耐えきれない艱苦難渋をあえてし て、しかもそれが楽しみだったのかい」と言う が、それは見ようと考えようだもの。私は、男 としての生きがいのあるこれ以上の仕事がある かと思うくらい、あの仕事を楽しみに思いまし たよ。  もちろん、その根本要素は、普通の人よりも よほど心の態度が積極的であったからに相違な いということは、これは自惚れでも何でもない と思う。あの当時の日本人の精神的態度という ものは、今の日本人とは比較にならん、と言っ ちや現代人を侮蔑したようかもしれないけれど も、実際、比較にならないほど頼もしく、また 積極的でもあったと私は思うのです。少なくと も七十を越した人だと、私の言っていることを 「そうだ」とお感じになるだろう。その前の人 は、その当時生きていないんだから、わかろう 道理もないが。  その仲間の中でも、より心の強い者でなけれ ば、あの厳しい採用試験には及第できなかった のです。とくに胆力の試験のごときは、一ヵ月 の長い間にわたって、手をかえ品をかえて行な われるんですよ。一番これが大事な条件なんで すから。難しい学問の検討なんかしやしない、 三つだけなんです。胆力と注意力とそれから完 全に自分を守るだけの武術の腕前があるかない か、この三つだけなんです。  その三つの中でも一番厳重なのが、この胆力 が本当にあるかないか。武術のほうは二日三日 経てはすぐわかります。陸軍大学には相当腕っ ぷしの強いやつがいる。その腕っぷしの強いや つに負けないだけの腕前があれば、もうそれで 一遍でもって通過します。注意力の検定のごと きも、長くはかからない、簡単にできてしまう。 でも、胆力の一件だけはIヵ月にわたって、毎 日毎日手をかえ品をかえ、いろいろな大が大れ かわり立ちかわりこれを検査するのです。です から、三千人の志願者から選って、選って、選 り抜いて、最後に二百人しか残らなかった。残 された中に入れられた私ですから、自惚れでな く私はほかの者より心が強かったと言い得ると 思うのです。  また、戦地に派遣された百十三人のほとんど が片っ端から殺されちまうなかで、とにかく生 き残ったわずかな人間の一人に私がなり得たこ とも、結局、自分の心の力が非常に強かったた めだろうと思う。大抵の者は我慢しきれなく なっちまうんですよ。追い詰められたとき、生 きる道を見出す時間が待ちぎれなくなって、大 抵は自分の命を落としてしまうようなばかげた ことをやっちまうんです。忍耐力というものは、 結局、胆力と相対比例していますから。  忍耐力が難事を達成させる  あなた方が苦しいときに、天風という人はこ ういうことをしたのかということをひょいと思 い出すと、自分の我慢力を持ち続けていく上で、 少しは参考になるだろう。  地図を見て考えてごらん。私、急に連絡しな きやならない敵の情報が手に入っだので、チチ (ルから牡丹江まで、昼夜兼行で行かなきやい けなくなったんです。日本の鉄道よりも幅が広 くて、速力七日本の現在のつばめなんかよりも 二倍も出るような急行の定期便もありましたが、 チチ(ルから牡丹江までは、どんなに休みなし に急行を走らせても二十八時間かかるのです。 今は飛行機でもって五時間で行っちまいますが、 飛行機なんてものはその当時ありやしません。 さすがに公然と旅客になって急行に乗れば一遍 でわかってしまう。当時の満洲鉄道は露軍の独 占物です。乗務員から罐焚きまで、みんなロシ ア人なのです。  そこで一策を案じ、火薬を送る貨車の中にも ぐり込もうと思ったのです。なぜかというと、 火薬を送る貨車には普通の者はなかなか近づか ないからです。この火薬輸送列車には、輸送当 番下士官と衛兵が、まず多くて十人ぐらいしか いないのです。もちろん、二十台、三十台とつ なかつている貨車です。この貨車の中は、下の ほうに火薬の箱が詰まっていて、その上はみん な秣です。これは、火薬が衝動によって爆発し ても、秣を詰めておくと破裂の勢いが非常に緩 和されるからです。その秣と天井との間に五寸 ぐらいの隙間がある。ここにもぐり込んじやっ たらいいと考えたんです。のべつ顔を横にしな いと鼻をぶつけるような状態です。幸か不幸か、 いくらか私は鼻が高いものだからね。小便は無 論垂れ流しですよ。  軍事探偵になるときから一年間、自分の意志 でもって排泄の時間を統御できるように、必要 でないときは行かないように訓練してあります。 くしゃみ一つ、あくび一つしないようになって いる。あなた方のように盛んにくしやみなんか していたら、一遍で捕まってしまう。軍事探偵 の仕事の中でも一番男らしい離れ技として、わ れわれが楽しみにやっていたのは、円卓会議の テーブルの下にしやがんでいること。これはみ んな大きなスリルとして、喜んでやったもんで す。会議をやっているやつがばかに見えるもん ね、下にしやがんでいると。円卓の周りにやっ こさんたちがみんないるんです。その下にしや がんでいる。このときにくしやみしたらどうな る?  ともかく貨車にもぐり込んだ。小便だけは片 方の大きなほうよりもたびたび出ます。これは 垂れ流しだけど、知れっこない。秣の中を通っ ていけば下は火薬だもの。一番警戒しなきやな らないのは、止まったところで戸を開けられた ときに発覚することです。けれど、チチ(ルか ら牡丹江まで行く間に、たった一遍しか戸を開 けられなかった。戸を開けるといったって、止 まっている間に少し開けて、異常があるかない かを士官立ち合いのもとで見るだけ。異常が あってもわかろうはずがない。中に日本の軍事 探偵が一人寝ているのなんてわからない。「異 常なし」で、また鍵かけて行っちまう。鍵がか かっているんですよ、これは。中からは開きや しない。火薬輸送の貨車ですから、大きな ショックを起こしたらバーンと来る。来たとき は百年目だって覚悟で入っていました。  それで、驚くなかれ三日二晩かかってようや く牡丹江まで来た。火薬ですから、いきなりプ ラットホームに入れません。すべての安全を確 認してからプラットホームに入れる。それに三 時間ぐらいかかった。その間、綿密な護衛をし ているつもりでも、やっぱり手抜かりがあるん です。車の両方で警戒しやしません。大抵一方 のほうには護衛がいない。貨車の中にいて気合 をはかって、出口をこっちと決めておくんです よ。  荷をおろすときには苦力が両側から来て作業 をするんですが、予定の場所に着いてからドア の錠をいちいち外す手間を省くために、衛兵が あらかじめ各車両のキーを外しておくんです。 それから予定の地に貨車を入れる間に逃げな きや、逃げるときはないんです。その間、本当 に二分か三分。私はうまく飛び出したんですが、 そのときに逃げちやだめなのよ。こっちは苦力 の姿をしていて、苦力は何百人といるんですか ら、その中に一人ぐらい変な者が入ったってわ かりやしない。だから、おりてから一緒になっ て秣を片づけて、ひょいとしよって行きやいい んです。  そのときに、もしも忍耐力がなかったらどう なるか。飲まず食わず、食堂車に行けないんで すよ、ありやしないけど。それで二晩と三日、 仰向いたままの姿勢でそのままじっと動かずに 目的地まで行くというのは、今の人にはできな いだろうな。それだけの我慢が続かないだろう と思う。第一やる気にならないだろう。そうい うことも平気で、むしろ楽しい仕事の一つとし てやってきたのです。  牡丹江に着く約十時間ばかり前、名も知れな い小さな駅で止まったときに、私の入っている 貨車を調べに来やがっだ。ガラツと開けて、形 ばかり開けるんですけれども、それでガラツと 閉めていったときに、「ちきしよう、開抜けな やつらめ。ここにおれが入ってるのもわからな いで、異常なしとぬかしやがった。異常大あり じやないか。でも、戦争ってのは面白いもんだ な、こういうスリルが味わえて」と、ただその ときにはスリルを味わったことばかりが嬉しい んです。  こういう話をしたって、あなた方には素直に 受け取れませんよ。「あの男、少し気がおかし いんじやないか。開けられやしねえかと、足音 が近づいたときから胸がどっきんどっきんしそ うなもんだ」つて思うかもしれないけど、そん なことで胸がどきどきしたらこの仕事できやし ません。胸なんてものはそうどきどきする必要 のあるものじゃないんですよ。他人の胸じゃな いんだから、自分の胸だろう。  キリスト教への失望  ところが、語ればあなた方がびっくりするよ うな、あなた方とは違った強さを持っていたは ずの私か、病になってから気が弱くなってし まった。こんな自分を感じるような憐れなとき が来るとは思っていませんでした。もっと率直 に言えば、強かったはずの私か弱い私になって しまうとは思わなかった。そのときの口惜し かったこと。地団駄踏んでもきかないほどの口 惜しさです。「何だ、おれはいつの間にこんな 病に負けてたんだ。全然なっちやいないじやな いか」ということを感じたときの悔しさという ものは、とても形容できません。  ところが、あなた方は悔しく感じないから、 私はおかしくてしようがないのです。「病で苦 しくてのだうち回るのは当たり前じやないか、 やるせなきや悲鳴を上げるのは当然じやない か」と、こう言うのですが、当然でないことを 当然だと思ってりや、当然なことは当然でなく 思えますわね。  そこで、何とかして昔のような、今まさに命 が絶えなんとする瞬間刹那においても、心動か ざること山のごとき大乗盤石であった、おれの あの強さに立ち返りたい。これが結局、真面目 に人生を求めだした一番最初の私の気持ち、心 持ち。それまでは人生なんてものは頭から考え やしない。そして、そのぐらいのことは誰でも 知っているわけのないことだと、こう思ったと ころに、知らない間に今日の私をつくり上げて しまう理由があったわけです。  最初は、こんなことぐらい誰でもへいちゃら で知っているのだろう、ぐらいに思って、日本 のその当時の偉い人という人に、片っ端から チャンスのあるたびに会って、そして、自分の 心の弱った状況を告げて、これを強くするには どうすればいいだろうかと聞いた。誰も教えて くれたりはしないのです。  その当時は今よりも偉い人間がいたのです。 現に、私のおじのごときは、明治維新の際、憂 国の志士として東奔西走し、命をかけて働いて きた人間です。ところが、そのおじに聞いたっ てわかりゃしないんです。「何じゃ、心が弱く なった? 男の恥さらしめ、強う持て」ただこ れだけ。これで持てるなら何も苦労しないのよ。 「持て」と言ったって持てやしないんだもの。 言われたときだけは何かグッと興奮したように 感じても、もうすぐに脈を気にしたり熱を気に したりする。  それで、しまいには、宗教界でその当時、日 本一といわれていた人たちに会った。坊さんの ほうじゃ新井石禅、これは森田悟由という人の 高弟で、生き仏といわれた有名な大、それから、 キリスト教のほうでは海老名弾正、囗本のキリ ストといわれた大。だめだ、こんな大、いくら 会っても。オーバーコートを着てぬるま湯に 大っだような気持ちがしますよ、あの大たちに 会うと。変なたとえだけれども。  海老名弾正のごときは、今考えてもよくあん なことを、道を求めて会いに来た者に平気で 言ったものだと思うんだ。  「おまえはバイブルというものを読んだことが あるか」  「われわれの考え方からすると、あまりに子供 だましみたいなおかしなことばかり書いてある ので、何遍も読みました」  「そうか、子供だましのようでわれわれをばか にしているなんて、もったいないことを言うん じやない」  「けれども、私はもつたいないということを感 じないんです、いくらあれを読んでいても。そ んなにもつたいないものですか」  「もつたいないことじゃ」  「そんなにもつたいないのなら、われわれのよ うなわからずやが読んでいるうちに、もつたい ない気持ちが起こりそうなものですが」  「もつたいない気持ちで読まないからじゃ」  これからして、すでに私にはわからない。本 当にもったいないものなら、わからない者が見 たって、もったいなく感じそうなもんじやない か。でも、ちっとももったいなく感じない。い まだにもったいなく感じない、私は。だって、 あのくらいのことなら私だって言えるんだもの。 それで、おれに、  「アーメンを言ったことがあるか」と言うから、  「言ったことありません」  「そういうおまえは不心得なやつだ。言いなさ い、アーメンを」  「アーメンを言うとどうなりましよう」  「神の救いの手がおまえの命の中に伸ばされ る」  「はあ」  「はあじやないよ。朝に夕べに折りあるごとに アーメン、アーメンと言い続けなさい。言つた だけでも心がきれいになる。天にましますわれ らの父に慈愛のお力をいただく合図をしている ことなんだ、アーメンは。アーメンと言い続け ろ」  それで、ちょっとこういうことを考えたんだ けれども、それを言ったらまた何かぬかしやが るだろうと思ったから言わなかった。私はこう いうことを考えた。  「アーメンと言わないと、天にいるお父っつぁ んだかおっ母さんだか知らないけど、それが こっちに来ないのかしら。天にましますお父っ つぁんつていうのは、悪人だろうが善人だろう が、わかる者だろうがわからない者だろうが、 等しく皆慈愛の手でもって愛の恵みを授けられ ると聞いていたが、アーメンつて言わなきやい けないのか」と。  しかし、とにかく言えというんなら言おうと 思って、「アーメン、アーメン、アーメン、 アーメン」つて、真面目に言ったよ。生まれて から初めてだよ、あんなに真面目に私か「アー メン、アーメン」つて言っだのは。  それで、本郷の中央会堂の高いはしご段をお りて本郷通りに出ようとする角に、今は青い郵 便箱と赤い郵便箱があるけど、その昔は四角い 黒いポストが立っていた。それが幸か不幸か、 ちょうど私のでこちんぐらいの高さなの。こっ ちは夢中だ。とにかく囗本のキリストが言った んだからと、「アーメン、アーメン、アーメン、 アーメン」と言っているうちに、ば1んとポス 卜にぶつかって、嫌というほどでこちんを打っ た。それからもう金輪際、「アーメン」つて言 わないことにした(笑)。  そしたら、後で海老名さんが私の父にこう 言ったって。「信仰の薄い者は不真面目でいか ん。神様の罰が当たった」。「アーメンと言え」 と言われても言わずに、郵便箱に突き当たって こぶこしらえたんなら、神様の罰とも言えよう。 とにもかくにも、神の僕になりたいという気持 ちで「アーメン、アーメン」と言っている者に、 何でそんな罰をくれるんだ、「天のお父っつぁ んは無情だ」と、そのとき思っちやった、私は。  それでもまだ多少の未練はあったんで、囗曜 のたびに行っていたんですが、どうも、西洋人 の言うことや囗本の牧師の言うことが私の常識 や理智にぴったり来ない。で、質問すると「今 にわかる。信仰の浅いうちにいろいろそういう ことを言っちやいけない」つて言うんですね。  そのうちに父が、王子の飛鳥山の渋沢栄一さ んの屋敷の隣に家を持つだので、本郷の中央会 堂に行かなくなっちやったんです。それまでは 本郷の森川町にいたんですが。それで、王子に 教会はないかいなと思ったら、メソジストーエ キスコパルがあったんで、これに行きだしたん です。母も行ったほうがいいだろうと言うから。 それで、ある囗のこと、駒込の追分で向こうか ら松本という中央会堂の牧師さんがやってきた。  「おう、中村さんの若さん、どこまで?」  「学校の今帰りです」  「このごろちっとも会堂においでになりません な」  「家を引っ越したんでございます」  「だけど、ご信仰は緩めちやいかんな。やっぱ り囗曜囗のたびには、おいでにならんと」  「いえ、信仰は緩んでません」  「だって、おいでにならない」 「いえ、私、教会に行ってます」 「見えませんな」 「いえいえ、王子の教会に行っています」 「王子の教会? 王子には中央会堂の派出所は ないはずですよ。中央会堂は本郷だけです」  「いえ、あそこのメソジストに行ってます」  「とんでもない。キリスト教は日本キリスト教 に限ります。そんなところに行っちやいけませ ん」  そのときに私は、「何だこいつら。キリスト 教を信じてりゃ、どこに行ったっていいだろ う」と思った。それを中央会堂じゃなきやいけ ない、日本キリスト教会じゃなきやいけないと 言われて、それからI遍にぱ1んとやめちゃっ だ。そんなキリスト教があるかい。  方法を示せない世界の学者たち  それで、つくづく日本で道を求めたって見つ からないということがわかった。仕方ないから アメリカに行ったわけなんです。また物好きに アメリカに行っだのが、すでに大きな間違い だったのだけれども、雑誌の広告にだまされた んです。『レビュー』という雑誌の広告に。 モーションーモーテイブというニューヨークで 教えている健康法、これがすばらしいんだと書 いてあったんです。「おそらく世界最初の発見 であろう」なんてことが書いてある。行って 習ったら、愚にもつかないんで驚いちやったけ れども。どこも広告というやつは誇大な宣伝を するもんだと思ったよ。  それで、やむなくヨーロッパに行ったと、こ ういうわけなんです。だけど、どこでも誰も私 の求めるところのものを与えてくれなかった。 何のことはない、わけないことだと思ったがと んでもない、これはなかなかもって、ちょっと やそっとの研究じゃ得られない事柄なのです、 弱くなった心を強くするということは。  私か一番先に求めた動機は、結局、この神経 反射の調節ですね、今言えば。感覚があって生 きている人間である以上、丈夫なときにだって、 熱や胸苦しさを感じたことがあったに違いない のに、そのときにはちっとも気にしなかった。 それが今度はわずかなことも気にするように なっだのは、結局心が弱ってきたからだ。それ をもとのように、要らないものは感じないよう な人間になることはわけないと思ったが、わけ ないどころじゃない、これを世界に求めて、誰 も教えてくれる者がなかったのであります。  こう言うと、今の若い人は「それは四十年も 五十年も前の話だろう。今はあるだろう」つて 思うかもしれないが、今でもありません。おと といも申し上げたとおり、ロックフェラーがい まだに私に来い来いと言っているのが、その第 一の証拠(唯一無二の発見参照)。第二は、近 来、一番精神文化に力を注いでいるのはアメリ カですが、アメリカで出ているベストセラーの 本を片っ端から買って読んでごらん。愚にもつ かないことばかり書いてあるから。  「起きたらすぐきよう一日の幸福を祈り、ひた すらにきようの人生に栄光あれと神にすがれ」 なんて、愚にもつかないことを書いてあるので す。食うに困らず、生活に何の障害も感じない 人間なら、これを読んでなるほどなと思うだろ うけど、米びつに米はないは、電気は料金払わ ないから止まっている、ガスなんか敷けようは ずもない、寒空に着がえもないというような人 間にそんなことを言ったって、「何をぬかしや がるんだい、そんなことしてる間に一切れのパ ンをくれ」つて言うがな、そうでしょう。  このごろのアメリカで出てる本は大同小異、 みんなそんなもんだよ。「きょう一日だけでい いから、きようの人生を楽しみましょう」つて、 楽しめることがあれば楽しむだろうけれども、 苦しいことがあれば人間どうして楽しめるんだ、 それはちっとも教えてないんだ。それで、理屈 を言ってやがる。「きよう一日だけならどんな こともできるだろう」つて。書いてるやつは、 何でも好きなこと書けるもん。そんな本ばかり ですぜ。本屋に行けば日本語に訳した本がいく らもあるから買って読んでごらん。  またこのごろ何か新しいのが出ているけれど も、今年の春までは一年三百六十五日をどうし て生きればいいかということを書いた本が出て いたね。一つ一つ読んでたら、いつの間にか吹 き出しちやったよ。こんなことをアメリカのや つは言って喜んでるのかと思って。それじやあ、 ああいうベストセラーが月々に出ているから、 アメリカにノイローゼになっている人間がない かというと、アメリカにはうんといるんですっ てね。もっとも、アメリカびいきの人に「そん なに多くノイローゼができるから、そういう本 をつくろうと思ってるんだ」と言われれば、そ れまでだけれども。  だから、私自身は、最初、簡単にこのぐらい のことは教えてくれる人があるだろうと思って、 これを求める気持ちになった。それが、日本で はもちろん、アメリカにもなきやヨーロッパに もない。英国のロンドンにH・アデントンーブ リユースという人がいまして、この人が一番具 体的なそういうことを教えるヨーロッパでの第 一人者たというんで、この人にも会って聞いた んです。  この人から教わっだのは、「心配事や恐ろし いことや腹の立つことがあったら、忘れちまい な、考えるからいけないんだ。忘れるのが一番 だ」ということです。他人事とはいえ、えらい まだ安直なものの言いようもあるもんだと思っ たよ。忘れられれば誰も苦労しやしない、そう だろう。忘れようと思っても忘れられないので 苦労するんです。たまりかねて私は、講習の翌 日、これだけは聞いてみようと思って、会いに 行きました。別にけんかに行ったわけではない んです。  「ただ今、私、肺を患っておりまして、始終や るせなく、熱、頭痛、虚脱感、いろいろ数えき れない苦しみを絶え間なく感じておりますが、 こういう実際的なものを忘れるのにはどうすれ ばいいでしょう」  「そんなことを言ってるから忘れられないん だ」  「けれども、現在も感じてるの……」  「まだ言ってる、あんたは。ひたすらに正しき 道を行なおうと思う者は、正しからざるものを 行なわざるにしかず。忘れられないと言ってい たら、いつまでだっても忘れられない。忘れよ うと努めなさい」  「でも……」  「でもも何もありません。そのほかにナッシン グ。何にも言う必要ない。私の教えはそれだ」  そう言って、スーツと行っちまいました。け んかにもならない、こんなの。私もそういう教 え方で済むんなら楽だがな。現代人にそんな教 え方していたら、こういう仕事、四十年はおろ か、二年も続きはしない。きわめて打算的で自 己本位な気持ちを持っている日本人にそんなこ と言ったからって、わかろう道理がないんであ ります。  それで最後に私か世界一の哲学者のトリー シュに会ったとき、ドリーシュはきわめて穏や かにこう言った。本当の学者だ、あの人は。  「それはわかっていない問題だよ。みんなわか ろうとして一所懸命研究しているのだろうけれ ども、まだ千古の謎になっている。しかし断念 しちやだめだ。あんたが先に探し出しても私か 先に探し出しても、探し出した者の幸福より、 それを教わる者の幸福がはかり得ない無限大だ としたらば、これは努力しましようよ」  私は、この人なら何でも人生のことは知って いるだろうとの大きな期待を持って会いに行っ だのに、結局、失望させられたんです。それと 同時に、ふっと私の中にある考えがひらめいた。 「真理というものは人々によって受け入れ方が 違うんだ。したがって、どんなに優れた学者で あろうと識者であろうと、経験の違う者に道を 聞いて自分が何ものかを得ようとすることは、 自分の気持ちの中に非常に狡猾なものがある。 もつと苦しんで探すことにのみ一心になろう。 そして、探せなきや、それはおれに運がないん だ。道は人に求むべからずか」と。  救いの手に導かれてインドヘ  私は西暦一九〇九年の春まだ浅い三月に、大 きな望みを持って日本を発ち、越えて二年、足 かけ三年、西暦一九一一年の五月、心に何の希 望もない魂の脱け殼みたいになって、マルセイ ユを発ったのであります。しかし、二週間の後 にはある光を見出し得る大きな運命を与えられ ることになったのです。  この地中海の二週間の旅の間、私は死んだも 同然でした。何も見る気になれなければ、食べ る気にもなれない。食事だって日に一遍食えば いいほう。三日も食わないときがある。食う気 になりやしませんよ、これから死にに帰る旅な んだから。この船はペナンまで行く、ペナンで 乗りかえて上海に行って、上海から囗本に帰る までおれの命はもつかしら、そんなことばっか り考えていると、何も見る気にならなきや聞く 気にもならない。  途中でフィリピン人の罐焚きと、同じ東洋大 だっていうので仲よくなったんだけど、そいつ が「おい、フカ(サメ)が泳いでるぞ、有名な フカだ、見てみろよ」とか「アフリカのヤシの 木が見えだした。何とも言えない景色だ、出て 来いよ」とか、例のイタリーの活火山が火を噴 いているのが見えてくると、「これは死ぬまで 二度と見られない光景だ、来いよ」とか、いろ いろ言うんだけれども、出る気にならないんで す。死にに行く者の目に何を見たって何になる んだと。  しかし、とうとうある救いの手に私か引っ張 り上げられるチャンスが来たわけです。それは 思いもかけないことです。スエズ運河でイタ リーの軍艦が座礁したという理由で、私たちの 乗った貨物船が五日間の航海禁止を命じられて、 アレキサンドリアに錨を入れたのが幸いだった んだな。客船だとポートサイドに入ることに なったんだけど、荷船はアレキサンドリアに 入って、これから五日間、軍艦の引き揚げが済 むまではここを出ちやいけないと命じられた。 そのときに例のフィリピン人が「おい、絵で見 たピラミッド、大した日にちはかからない。ラ クダの背中に乗っかれば一日でカイロに行ける んだ。行こうよ」と言うんです。  それもそうかいなと思って行く気になったと ころに、いまだに運命の不思議を感じる。宇宙 の根本主体が、私を救ってやろう、殺すまいと いうおぼしめしがあったんだろうと思って。ク リスチャンに言わせると「ほら、そこに神様の お慈悲が」ときっと言う。それで、仏教のほう にいくと「如来様のお慈悲でござる」と言う。 とにかく、甲板に出るのも嫌な私は、「何だ、 エジプトの酋長の墓なんか見たってしようがな かろう」と思いそうなものだが、たぶんたぶん 進行しない船の中でもって波に揺られていたっ て曲もない(つまらない)という気持ちになっ たんです。  それで、ピラミッドを見に行く前に、カイロ の宿屋で救われちやったんです、朝大きな喀血 したのがもとで。そのときの話はいずれ折が あったらします、きようは時間がありませんか ら(編集部註一天風はカイロのホテルでヨガ の聖者カリアッパ師に邂逅する。ともにヒマラ ヤ山脈第三の峰カンチェンジュンガの麓にある 村に行き、約三年のヨガ修行に入る)。  その次にインドに行った。もちろんインドに はあんな立派な哲学があるなんてことも知りま せん。第一、私か行っだのがインドだと思いや しないんだもの。どこへ連れていかれるんだか 私は聞きもしなかった。  それも後で褒められたんです。「『おれにくっ ついてこい『べ呂had better follow m乙』とおま えに言ったときに、おまえは『承知しました (Certainly.) J]とすぐ言っだろう。普通の人間な ら、『私たちはどこへ行くんでしょう(Where is our destination?) J]つて聞く」つて言うんだよ。 私は「どこがわれわれの目的地だ?」と聞かな い。捨て身になっている人間です。ただ人生意 気に感ず。「おまえは、まだ死なない運命の持 ち主だということはおれにはわかる。おまえは 立派に自分で自分を救い得る人間だ。おれにつ いてこい」こう言われたんですから。  痩せさらばえた私の姿を見たら、親兄弟だっ てそばに寄りつかないでしょう。そんな死に瀕 している重病人を連れて行く気になることから して、すでにそれはもう並大抵の決心じゃない んですよ。「おれについてこい」と言うんです から。その心意気に私は感じたんですよ。  「救われても救われなくても、そんなことはど うでもいいや。どこに行ったって死んじまう体 なら、救ってやろうという、あの人のよい気持 ちに、たとえ瞬間でも自分の魂を浸すことは愚 かなことじゃない」と、こう思っただけなんで す。  そうして行って、そこにこの神経反射の調節 法があるなんていうことは夢にも思わなかった。 まことインドは神秘の国といわれているが、五 千三百年の長い歴史を伝えているヨガの哲学者 の中には、現在の科学的理智では考えもつかな いような不思議な事実を行ない得る人間がいく らもいるのであります。  生き方のすべてが現代の人間の生き方とは 違っています。また、すべて違って生きられる ような環境も幸いしているのでしょう。そして、 今申し上げたような、ヨーロッパにもアメリカ にもなかった神経反射の調節を成し得る方法が インドにあった。それを私は今夜、あなた方に 教えたい。  ヨガ哲学の目的と方法  これから教える方法は、やるにしたがい、行 なうにしたがい、瞬間刹那、神経反射の調節を してくれる効果がありますよ。驚いたとき、腹 が立ったとき、恐れを感じたとき、憎しみや妬 みを感じたとき、いえいえ、すべての感覚や感 情のショック・衝動を受けるたびに、心に正し い受け入れ方をさせることができるという尊い 実績を上げてくれる方法であります。  ただし、インドではそういう小さな目的でこ の方法が説かれているのではないのです。イン ドのヨガ哲学の目的は、人間というものを、こ の世をつくつた造物主と同じ能力に近づけよう ということです。つまり、科学的な言葉を使え ば、お互いの持つ生命のすべての力をもっと向 上せしめようということです。  その目的のためにやらせることは、一方は学 問の研究、いわゆるヨガ哲学の理論研究です。 いま一方は、難行苦行をさせて、それで肉体の 生きる力を第一義的な積極的なものにすること です。肉体と精神、両方の生命を正しく向上せ しめることによって、人間の生命の中の一切の 力を正しく向上させることができるんだと、こ ういう結論の上に立って難行苦行を必ずさせま す。  難行苦行をするのに普通の体を持っていちや できません。一日だってできやしない。それで 難行苦行のできる体をまずつくっておかなきや ならない。その難行苦行のできる体をつくるた めに、この特別な方法、名は「クンバハカ」と いって、日本語に訳すと「最も神聖なる状態」 という意味ですが、これをやらせるんです。そ れが神経反射の調節を完全に刹那にしてくれる のであります。  何しろこの方法の目的が、肉体の中に霊気を 充満せしめて、肉体のすべての苦痛やその他の ことに対する力をつくろうとすることですから、 現代の科学的な言葉で言えば、このクンバ(カ 密法を行なうと、自然と宇宙根本主体の持つエ ネルギーであるフリルの収受量が増えてくる。 収受量が増えることによって、人間の肉体生命 はもちろん精神生命も驚くべき強さを増してき て、それ自身の持つ本来の力が遺憾なく発揮で きるという結果が来るのであります。  ただし、この方法のみならず、インドにおけ るすべての教えは、方法以外の理論といえども、 絶対にわかる言葉で教えないのです。わかる態 度でも教えない。わかる文字でも教えない。 じやあ、どうして甲から乙に、乙から丙へとそ れが伝わっていくんだというと、それはただ心 から心へ伝えるだけ。  だから、ことごとく教えを覚えるかといえば、 覚えやしません。悟る力のないやつはみんな置 いてきぼりを食っちまう。そのかわり、悟る力 のある者はぐんぐん宇宙真理を悟っていくから、 その偉さも非常にほかの者と隔たりをつくって しまいますが、ただ、極端にエゴイスティック (利己的)な国でありますから、おのれが悟っ ておのれが喜ぶだけで、決して自分の悟りの喜 びを人に伝えないのであります。  もしも、あのインドのヨガの哲学者が、私の 半分でもいい、アルトルイスティック(利他 的)な気持ちを持っているならば、今から何千 年も前にすでに世界はインドの支配下になって いたんじやなかろうかと思われる。ところが、 これも幸か不幸か、あのエゴイスティックな民 族は、自己の喜び、自己の幸福を人に分かとう としないのであります。分かてば神の罰をこう むると思っているのです。与えられた者だけが これを知り得る資格を神によって与えられてい るのだと、開基の梵天が言っております。それ でインドのことを梵天国というのです。  よく考えてみると、これは天にましますわれ らのお父っつぁんと同じ意味だ。梵天をただ片 方じゃゴッドといい、坊さんが如来様といい、 高天原のほうじゃ天御中主尊といい、ヨガの 哲学じゃ梵天と、こういっている。  とにかく、そういうようなやり方ですから、 私も教わったんじやないんです、悟ったんです。 ただ、悟りに対してある手引きはしてくれます よ。手引きはいつも隠語でするのです、隠し言 葉で。ですから、早合点している人は、ヨガの 哲学でもってこの方法が組み立てられているな んていうと、「ははあ、インドでいろいろな方 法を教わってきたな」と、こう思うんです。と んでもない、教えてくれますものか。あなた方 なら私より余計悟ってお帰りになるかもしれな いが、悟る力がなきやあ、行ったってただ毎日 を無駄に過ごすだけだ。  それから、私かあなた方に教えているこの心 身統一法は、ヨガの哲学を基礎としてつくった んじやありません。ヨガの哲学の中の理解がこ の組立の中にある程度の交渉を持っているとい うだけなのです。心身統一法はすべて現代の理 智階級にわかりいいように、科学的組織になっ ているでしょう。  インドにいる間に私の悟り得た事柄は十あり ませんよ。このあいだも自分で考えてみて、現 実には九つだと思った。生命とは何だ、人間と は何だ、人間の持つ生命の力の範囲は、という ようなことを考えさせられるだけなんです。そ れを山の中に入って座禅組んでからに、誰にも 教わることもできやしない、ただ一人でもって 一所懸命考える。正当な答えを言わないと引っ はだかれるだけなんです。正当な答えを言えば、 褒められもしない、「よし、じゃ次の問題」つ て、こうなるだけなんだ。  なかには半年も一年もかかって考えついたこ とを言って、これは褒められるだろうと思うと、 ただ、にこつと笑って「よし、じゃあ次」。た わいないぜ。それで、間違ったこと言えば、い きなり引っはだかれるんだから。それで、「う ん、よし、次」と言われただけのものが現実に は九つあるっきりなんだ。  息の合間合間に尻肩腹三位一体  いろいろな方法は私か自力で組み立てたんだ。 ただ、これから教える神経反射の調節に該当す るクンバ(カ密法だけは、インドにあったのを 私か一年七ヵ月かかって悟ったんだ。そうする と、「ボンクラだね、天風とやら、どんな方法 かまだ聞かないからわからないけれども、簡単 に教えられる方法を一年七ヵ月もかかったんだ。 対しておれたちは偉いんだな、四日目に聞いて ら」なんて思うかもしれないが、それは教わっ てるんじやないか、あなた方。あなた方にこれ を考えさせたら、一年四年は言うも愚かなり。 一生、二生、三生、五生やったってだめだと思 う(笑)。  この悟りを開くために与えられるところのヒ ントを、先にお耳に入れておこう。クンバハカ 密法の第一ヒント、クイズみたいだけれども。 「息の合間合間にひょいと体を水を入れた徳利 のようにして、したと同時に瞬間息を止めろ。 これがクンバ「カだ」というんですよ。わかる かい、これで。  今、アメリカに二千幾つのヨガの学校ができ ている。本場のインド人が行なってこれを教え ている。やっぱり、インド人が教えるんだから、 私かここであなた方に教えるような教え方はし ないの。悟れ、悟れです。それから先はご自分 で悟りなさいと。クンバ(カについても、こう 言っているの。  ” Sto巳n a breath. Holding the b乱y just the water bottle inteヨally a乱externally. Which is called as Kumvaphacca. ”  「息の出し入れの合間合間に息を止めろ」とい うことは、これはわかりますよね。さて、わか らないのが、「水を入れた徳利のように体をた もて」ということなんだ。これが一年七ヵ月か かったんだよ、私。わかった、新しい人? 水 を入れた徳利を目の前に置いてからに、夜も寝 ずに見てたってわかりやしないぜ、これは。隠 語だもの。  結果は、まさに水を入れた徳利のようになる。 どっちからプレッシャーを与えても、水を入れ た徳利のように不平均な圧力を受けるところが ないという状態になる。それを私か一年七ヵ月 かかって悟っだのは、非常に早いんだって。喜 ばせるために師匠が言ったこととは思うけれど も。  「今まで何千人弟子を導いたが、いまだにクン バハカを悟れずにうろうろしている者もずいぶ んいるのに、やっぱり、おれがカイロで会った ときにこの人はものになると思った自分の考え に外れはなかった。おそらく私か死ぬまでに持 つ弟子の中で、このクンバ(カを一年七ヵ月と いうショートタイムでもって正しく悟った者、 悟れる者はおまえ一人だろう」  おだても十分あるとは思うけれども、非常に 喜んじやった、私は。だから、二度と会うこと はできないかもしれないけれども、もしも今後 私かカリアッパ先生に会ったら、こう言ってお こうと思う。  「私は一年七ヵ月でお褒めにあずかりましたけ れども、私の何十万の弟子どもはすでにみんな 四日目で……」  「悟つたか?」  「いいえ、教えてやりました」  「当たり前だ」と言うかもしれない(笑)。  なに、聞いてしまえば簡単なことなのです。 その簡単なことが悟れないんです。  さて、” holding the b乱y just the water bottle 。「水を入れた徳利のように」とはどうするこ とかといえば、何のことはないんですよ。第一 に肛門をキュツと締めるんだ。それと同時に肩 をできるだけ緩める。そして、臍下丹田、おへ その周りのお腹のこと、これにグツと力を込め る。その瞬間息を止める。それを息の出し入れ にやりやあいい。吸って止めて出して止めて、 吸って止めて出して止める。その止めてる瞬間 の状態が、” Which is called as Kumvaphacca. ”  お尻の穴を締めてからに、肩を緩めて、丹田 に力を入れておきさえすれば、水を入れた徳利 のようになっているわけなんだ。どこから圧を 加えても同じことになるのです。  いい方法を教わったな。さあ、腹が立つこと があったり、おっかないことがあったり、悲し いことがあったり、心配があったり、煩悶が あったり、悩みがあったり、あるいはまた人を 憎んだり、妬んだり、嫉んだりするような気持 ちが起こったときは、何をおいてもとりあえず、 まず尻の穴を締めろ。  尻の穴を締めることを一番先に習慣づけな きやだめよ。見えないところだから開けっ放し にしておいてもいいと思うかもしれないけれど も、これは開けっ放しておくべきところじゃな いもの。だから、自然と造物主は括約筋を与え て、普段、用のないときはできるだけ締めるよ うにしてあるんだ。それをいいことにしてから に、括約筋だけにお任せしていると、だんだん 緩んじまう。生理要求のあるとき以外には、こ れは開けるべきものじゃない。  尻の穴の締まっているやつと締まらないやつ は、一目見りゃすぐわかる。そう言ったからっ て急に締めなくたっていい(笑)。どんなに偉 そうなことを言っているやつでも、尻の穴の締 まってない人間っていうのは、目から出る光が 違うんです、オーラが。猛獣毒蛇ならすぐ飛び かかるわ、そういう人に。  人間が、腹が立つとか悲しいとか、あるいは 恐れるとかいった感情表現をするときには、こ のオーラがずっと減っちまうのよ。感情がエキ サイトすればエキサイトするほど、人間の生命 の炎はずっと下火になる。恐ろしいものなんだ けれども、それを知らないんだよ。知らないか らでもあるわけだけれども、これは腹立たずに いられるか、これを悲しまずにいられるかって、 てめえでもって理屈つけたって、造物主はその 理屈に同情しやしねえ。何をおいてもとりあえ ず尻を締める稽古をすれば、習いは習慣、第二 の天性、間もなくいつでもお尻が締まるように なる。  なかには、一所懸命心がけていても、気がつ いたらお尻が緩んでいるという人がある。それ でもいいじやないか、締めないよりは。気がつ いたらすぐまた締めればいいじやないか。いき なり「締める練習をしなさい」「はい」つて やって三日目にもう締まっちやったなんてやつ いやしないよ。私のように一所懸命になっても、 いつ何どき顧みても尻の穴が締まっている状況 に到達するまでに十五年かかったよ。だから、 あなた方だって三年ぐらいかかるよ。  「天風が十五年、それなら遠慮しておれは二十 年」て、どうでもいいわ。とにかく、気がつい たら締めてりやいいじやないか。気がついたら 締めるということが、第二の天性をつくる秘訣 なんだ。普段、何事もないときでもお尻の穴を 締める習慣をつける。何でもなくても気がつい たら締めなさいよ。  そして、いざ鎌倉、腹が立つとか恐ろしいと か悲しいとかいった感情刺激やショックが来た ら、あるいはまた痛いとかかゆいとかの感覚刺 激が来たら、そのときは大体が尻が締められて いるんだからわけないよ。肩をできるだけ緩め て、腹にグッと力を入れて、瞬間息止めりやあ いいんだ。  長く止めてると死んじまうよ、そのままあの 世に行きにけり。瞬間止めといちやまた息を吸 い込んで、またキュッとその状態になることを 二、三遍繰り返していると、慣れてくるってい うと、それでもって感情の襲撃は向こうのほう から手を緩めてしまう。また、二、三遍ででき なきや、何遍でもやってりやいいじやないか、 どうせ息してるんだもの。息止めてやってろと いったら、これは難しくてできやしないけれど も、吸っちやあ、今言ったとおり尻肩腹三位一 体、出しちや尻肩腹三位一体と、刹那刹那に やってさえいればそれでいいんです。  これがクンバ(カの方法よ。毎回私は同じ説 明しているのに、何十年も来ていてからに、こ のあいだも京都で「今まで知らんどしたえ。何 でも朝から晩までおいど締めて、肩落として、 お腹に力入れているのかと思って、これはしん どいわと思っだのが、それならわけないわ」つ て言われたの。私はわけないように教えてるん だよ。それを自分が聞き間違いしてるんじやな いか。「水を入れた徳利のように」だけに重点 を置いて、「息の合間合間に」つてことは忘れ ちやってるんだよ。「実に聡明なるかな、あな た方の頭脳よ」と言いたい。  忘れなさんなよ。しょっちゅう尻の穴を締め る習慣をつけといて、いざ、さらばのときに、 いいか、肩を落として、お腹に力を入れて、 クツと息を止めるんだよ。そして、そのまま、 息の合間合間、引く息にキュツ、出す息に キュツ、そんなことを二、三遍やってりや、慣 れてしまえばもう大抵の感情や感覚の衝動刺激 というものはスーツと緩和できます。  最初からそうはいかないよ。+遍も二十遍も しなきやならないかもしれないけれども、し たっていいじやないか、別に何もやるたびにく たびれるわけでもなきや、やるたびに税金払う 必要があるもんでもないんだから。どうせ息し てるんだから、息の合間合間にやるぐらいのこ とは、少しの注意でできるだろう。まあ、やっ てごらんよ。  クンバ(カからプラナヤマヘ  何のことがなくても、時々はそういう工夫を 実行に移してごらん。そして、実行に移すとき に注意深く、息を少し長く深く穏やかにすると いうことをやるつていうと、それで今度はさら にクンバ(カ応用のプラナヤマ、活力の吸収と いう尊い方法が行なえることになる。そして、 それが十五年、二十年経って私のようになると、 朝起きてから晩寝るまで、寝床の中でひょいと 目が覚めてもプラナヤマをしょっちゅうやって ます。  私の呼吸はもうプラナヤマ以外の呼吸じゃな いんです。なぜかというと、私の体の持ち方は、 始終肛門は締まってますし、どんな場合があっ ても肩を上ずらせません。それで、丹田に しよっちゅう力がこもってますから、今さら改 めて何のクンバ(カの用意をする必要もないほ どクンバ(カで私の体はコンプリートされてい ます。そして、息も始終長く深く穏やかにする 習慣がもう五十年間続いているんですもの、こ れが私の平常の息ですよ。  息をしている状態は同じことなもんだから、 あなた方も私も同じ息をしてると思ってるんだ。 もちろん、私は別にへそで息してるわけじやな いから、見かけは同じように見えるでしょうけ れども、息をするときの体の持ち方と同時に、 やり方の上で非常に相違があるでしょう。だけ れども、あんた方だってまねすりやあすぐでき るんだ。  最初から一時にすべてをやろうと思うと非常 に大きな計画になるから、何はさておき一所懸 命にやりたいことは、いつも肛門を締める気分 を忘れないこと。締める気分を忘れないという ことは、気がついたら締めてればいいんだよ。 最初の間は、気がついたら開いてますからね。 そしたら、「こりゃ、いけねえ」なんて思う必 要ないから、気がつくたびにお尻の穴を締める。  そして今度は、もう朝から晩まで、囗に何十 遍、何百遍となく感情のとりこになりかけるか ら、そのときにはフッと肩を落として、グッと 腹に力を入れる。その気分の静まるまで、出す 息と引く息の間でもってこのクンバ(カ体勢を とる。これは何遍もチャンスがあるから、これ を訓練する。  くたびれも何もしやしない。不思議なんです よ、人間の体は。こぶしに力を入れたり、膝頭 に力を入れたりすりや、すぐくたびれちまう。 だけど、肛門だけはいくら締めてても、ここが 凝ったってことはないんであります(笑)。こ れは特別な筋肉なんだから。  「どないしたんや、ぼんやりして。どっか具合 悪いのか」  「うん。尻の筋が凝った」  そんなのはないよ(笑)。尻の穴と腹だけは いくら力を入れても決してくたびれもしなけ りや、疲れもしない。まして況や、事のあるた びに、息の出し入れの合間合間にそういう体つ きになっていて何でくたびれる? むしろ呼吸 のセクションができて、肺臓それ自身も呼吸か ら受ける刺激が非常に少ないんであります。  ですから、今教えたクンバハカの実行に勤し むと同時にもう一つ、活力の吸収法‥プラナヤ マを、税金も何もかからないから、一所懸命お やり。私は講演しながらでもプラナヤマやりな がら、時々もう一つ大きいプラナヤマをやって るでしよう。現在、何かあなた方に言いながら もプラナヤマでやってるんだが、さらに、ある 事柄をしつかりつかんでいただこうがために、 しばらく、瞬間、あなた方に受け取ったことを 考えさせる暇を与えているときに、じっとある ところを見ながら黙っている間、私、やっぱり 息してるんですよ。縷々綿々とおだまきの糸を 繰るがごとく、心静かにプラナヤマ法をやって いる。  だから、私の話を何時間聞いていても、あな た方はくたびれやしない。私以外の人の話は、 どんな雄弁家が話してもあなた方を休ませない もの。とっとっとっと、とっとっとっと、とっ とっとっと、とっとっとっと、スピードの緩急 がちっともない、やけのやんぱちに回すような フィルムを見せられるのと同じような講演のし ぶりだと、あなた方はすぐくたびれちまうんだ よ。ところが私は、あなた方を休ませるし、私 も「求めよ、さらば与えられん」という造物主 の授けくださる空気を、五臓六腑はもちろん、 四肢末端に至るまでグッと吸い込んでいるから、 いつまでだっても疲れを感じないというわけな んです。  こんなに噛んで含めるように易しく教わって、 なおかつ、できないという大があったら、それ はできないんじやない、しないんだぜ。しよう と思ったらこの世の中にできないことは一つも ない。  「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成ら ぬは人の 為さぬなりけり」(上杉鷹山)です。  今までの生活で実行していなかったことであ るから、非常にトラブルを感ずるように思うか もしれないけれども、これは生活に必要な仕事 である呼吸をする合間合間にできる方法です。 また、呼吸を止めちやってからに、永久にこれ をしてろっていうのでもありません。だから、 何事でも自己を現在よりもプラスの状態に進歩 せしめようと思うならば、その方法をただ無条 件で受け入れて、無邪気に実行しなさい。よろ しいか。 第六章 心の使い方     −何ものにもとらわれず集中す   〈補足解説〉  本章の録音テープ冒頭部分が再生不能のため、 導入として簡単に補足解説をいたします。  幸福な人生を実現するためには、生命の力を 充実させなければなりません。この「人生建設 に必要な生命の力」とはどんなものでしょうか。 それには、次の六つの力が豊富でなければなり ません。六つの力とは体力、胆力、判断力、斷 行力、精力、能力です。現在、病、煩悶、貧困 などに苦しんでいる人は、六つの力のどれかの 内容量が不足しているためなのです。この六つ の力を豊富にする方法を説く教えが心身統一法 です。  さて、その六つの力を充実させるためには、 まず、感応性能を強化しなければなりません。 そのためには、観念要素を更改し、積極観念を 養成し、神経反射の調節を熱心に実行しなけれ ばなりません。これらが天風教義における「心 の持ち方」です。  次に、私たちはこうして積極化された心を正 しく使わなければなりません。本章の講演では、 「心の使い方」について説明されています。  心の使い方の原則は精神統一です。わかりや すく言えば、心を使うとき、分裂することなく、 集中された状態でなければなりません。精神が 統一されると、精神生命の可能性が無限大に向 上するのです。そして、精神を統一するのに必 要なことは、常に意識を明瞭にして物事に接す ること、わかりやすく言えば、いつもはっきり した気持ちで物事に接するということです。  何事にも気を打ち込んで応接する  何をするにでも、はっきりした気持ち、心持 ちでやろうという心がけを実行に移すと、いつ とはなしに、どんな事情があっても心が曇らな くなるのです。ピンぼけが来なくなる。すると その結果、これは当然の到着点ですが、この精 神生命の可能率が非常に増進していくから、め ざましく変わったと直感的にわかることは、物 覚えがばかによくなること、言い換えれば記憶 力が非常に優秀になることです。  だから、物覚えの悪いやつは、結局、心を使 うときに意識を明瞭にするということがおろそ かになっているんだよ。時々、物覚えの悪いの を自慢にしているやつがあるね、「私は覚えが 悪いのですから、そこのところをもう二、三遍 やってください」なんてね。覚えが悪いという ことを平気で言うやつは、「私は少しばかです から、よろしくお願いします」と言っているの と同じことになっちまいやしないかい。  妙なことに、物覚えの悪い人間に限って、 せっかく覚えたことを忘れちまうんだね、忘 れっぽい。かと思うと、覚えはばかにいいのだ けど、すぐに忘れちまう人もいる。普通の人間 の中に、こういう人はちょいちょいいますよ。 もうすぐ覚えてすぐ忘れちまう。それなら覚え なければいいんだ。いくら習っても覚えられな い人間と、ちょいと覚えてすぐ忘れちまう人間 と、結果は同じことだ。決して理想じやないけ れども、覚えるのに非常に手間がかかっても、 いったん覚えたら忘れないほうが、まだいくら かいいわね。  けど、本当の理想は、何も手間をかけないで、 見たり聞いたりしたことを直感的にすぐ受け入 れて、それが永久の記憶になることです。でな ければ、何のためにこの優秀な心を与えられた かわからないってことになるでしょう。だから 常にはっきりした気持ち、心持ちで諸事万事に 応接するということを、心を使うときに何より 必要な根本条件として忘れちやいけないのです よ。  では、そもそもはっきりした気持ちというの は、どんな気持ちなのか。わかりやすく言うと、 心が何ものにもとらわれていないときの気持ち が、はっきりした気持ちなの。何かにとらわれ ていたら、はっきりしてないのだ。たとえば。 こういうところへ来て、こういう話を聞きなが ら、「あ、きよう玄関の鍵をかけてきたかしら」 なんてことを考える。そうなるてえと、気持ち がそのほうにとらわれます。そうじゃなくて、 何ものにもとらわれていない気持ちが、はっき りした気持ち。  ものすごくわかりやすく言えば、いささかも 雑念、妄念がない気持ちがはっきりした気持ち なんだよ。この雑念、妄念のない、とらわれの ない気持ちがはっきりした気持ちなら、それを しつかりそのままにしておくにはどうすればい いかというと、そこまで教えてあげるよ。何を するにでも、よろしいか、気を打ち込んでやる 習慣をつけなさい。うかつにものをしないよう に習慣づけるんです。  私はどんなところに行っても、一遍行ったら その場所を覚えています。一遍パッと会ったら、 この人はどこそこで会ったということを知って ますよ。軍事探偵ですもの。細心の注意を払っ ているかというと、そうじゃないんです。細心 の注意がなくても、はっきりした意識でもって 覚えられるんです。だけどあなた方は、「たし かこの辺だったぜ。そうじゃねえかな、一つ道 を間違えたかな」なんて言って、外をクルクル 回っている。  何をするときもパッパツと気を打ち込んでや るとね、これはもう意識を明瞭にする、すなわ ち、とらわれから離れて、はっきりした気持ち になる。これが最上の手段です。これ以外に手 段はない。  気が打ち込まれるでしょう、すると気が散る ということがなくなるのだよ。気が散るという のは、打ち込まれてないから散るのです。気が 散ったために打ち込まれないんじやなくて、打 ち込まれないから気が散るの。原因と結果を間 違えちやったらだめだぜ。だから、はっきりし た気持ちが長く持ちこたえられるようにしよう と思ったらば、気の打ち込みをおろそかにしな いこと。  ところが人は、非常に大事なことや面白いこ と、別に急ぎ仕事でもないようなときや初めて する仕事のときには、相当気を打ち込むけれど も、心急ぐときや面白みのないとき、値打ちの ないことや馴れ切った仕事だと、気を打ち込ま ないで、うかつな気分でやる恐れがある。  気が散るということぐらい、心の働きを鈍ら せるものはないのですよ。なぜかと言うと、気 が散れば心のまとまりがなくなっちまう。心の まとまりがなければ、その結果、心の力がずっ と減っちまうからなんだ。  たとえば、心の中に百の力があるとするで しょう。このまま気が散らずにいれば、そのま まあるんだ、心の中に。あなた方ともなるって えと、十は食い物に、十はお金に、十は恋に、 十は心配に、十は健康に、十は煩悶に、といっ た具合に気を散らしちまうんだ。すると心には 四十しか残ってねえ。笑いながら、聞きながら、 自分の心の中をじっと顧みなさい。今あなた方、 何か思っている? 心が一筋にこの講演と ギュッと結びついているか否か、自分の心は自 分でわかるだろう。  大抵の人は、どうも普段、何かしらに心が散 らかっている。その証拠に、思いもかけないた くさんの仕事や、ややこしい事件にでもぶつか ると、即座に頭から面食らつちまうのが大抵の 人ですよ。そうなると手も足も出ないで、さな がらタコが釜の中へ放つぽり込まれたように、 ただもう、うろちょろうろちょろするだけ。  ところが、平素何事をするのにも気を打ち込 んで、気を散らさず、気がまとまって人生に生 きている人は、どんな複雑なことに出くわして も、澄み切った気持ちですべてのことを何らの 醜態なく片っ端からパキパキと片づける。  この気持ちを仏教のほうじゃ「不即不離」と いいます。付かず離れずということだな。付い ちゃつたらいけないんだよ。だけど、離れ ちゃってもいけない。付かず離れずのときに初 めて、心がそのものをビューと自分のほうへ取 り寄せたことになるんだ。そうでないってえと、 心が向こうへ持って行かれちまうんですよ。  よく「忙しくて目が回りそうだ」と言う人が ある。忙しくて目の回ったやつは見たことない がね。忙しくて目が回るというのは、結局、心 が向こうにとらわれたときの形容だ。気が打ち 込まれてなくて、気が散るってえと、倦怠感が 出てくる、興味が薄くなっちまう。するとね、 その仕事が何となく嫌で嫌でしょうがない気持 ちが出てきて、もう目が回るようになっちまう。 本当に喜んで仕事をしている人は、「忙しくて 目が回りそう」なんて言わないですよ。  たとえば、傍からマージャンをしている人な んか見ると、皆休む間もなくポン、ポンやって 忙しいだろうと思うけれど、喜んでマージャン をやってる人は、「忙しくてたまらないね、目 が回りそうだ」とは言わないでしょ。  だから、常に何事、何ものに対しても気を打 ち込んで応接するという心がけを実行するよう にしてごらんなさい。その心がけを実行しない と、知らず知らずに不必要な雑念や、くだらな い妄念や、その他のつまらない想像観念が、心 の中に飛び込んで来て、意識を不明瞭にしてし まうんだ。するとその結果、精神生命の可能率 を促進するのに何よりも必要な精神の統一とい う条件が、めちゃくちゃにされちまう。  つまり、それは観念が「集中」しないで「傾 注」されちまうからなんだ。だんだんわかって きたろう話が。心の前に現れたものを、そのま ま心に取り入れるのが集中。英語でいうと 「QOR回喋肚呂」だ。とらわれのあるやっか、向 こうへ自分の心を持って行かれるのが傾注、こ れが概ねあなた方の心の使い方なの。  女の方がデパートへ行って、好ましそうな着 物なんか見たときは傾注。すけべな男が女の子 を見ているときも傾注。欲張りがお金を見たと きも傾注。これじゃあ心に使われている状態で、 心を使っている状態じゃない。  心を使っているという状態は集中なの。付か ず離れずが集中の状態。何ものにも心が持って 行かれていないもの。ちゃんと自分の心の中に、 ものそのものを受け入れている。集中も一心の 状態、傾注も一心の状態で、外観はちょっとわ からないが、傾注の状態は向こうへ心を持って 行かれたI心なんだ。  精神の統一が霊性を発現させる  傾注という心の使い方をしていると、ただ単 に記憶力が完全に働かないとか、忘れっぽくな るとか、人生に生きる場合の過ちが多くなると かいった事柄ばかりでなく、これは多くの人が 気のつかないことですが、万物の霊長たる人間 としての資格の発揮に必要な、霊性の発現とい うのができなくなってしまうのです。霊性の発 現が完全にできる人間こそ、まさに正真正銘の 真人たる資格を持つ人間で、霊性の発現してな い人は形だけの人間よ。  私と非常に近しくしている人はよくご存じで すが、私はどんな身分の人でも、身分が高いか らって頭を下げやしない。霊性の発現している 人だったら、学生にだって頭を下げますよ、 「よく来たね」つて。でも大臣が来ようが、皇 族が来ようが、霊性の発現していないときには、 私の頭、後ろに下がるんだ。自分の頭がそうし ようと思わなくても、天然自然の現象だね、こ れは(笑)。  霊性の発現ができないと、人生に生き行くと きに一寸先は闇の世の中だ。霊性の発現ができ ないやつは、明日、天気か雨降りか、それすら わからない。人と約束して、来るか来ないか、 それもわからない。この手形を受け取っていい か悪いか、それもわからない。この競馬、どれ が一体全体一等になるか、それもわからないん だ。何もかもわからない。そして、「しまった。 こんなこと思いもかけなかった」つて言うけど、 自分が思っていなかっただけのことなのでもっ て、当然そうなることは、霊性が発現していれ ばわかるはずなんだ。  私はよくいろいろなことを聞かれるんだけど、 そのときに私、考えたことはないですよ。私は ものを考える必要がないんです。なぜかという と、霊性の発現している者は、何も考えなく たって、即座に鏡にものを映したと同じように、 刹那断定というものが心の中で働いてくれるか らです。  第二考えたってわからないことが、いくら も人生にはあるじやないか。たとえば、今言っ た明日の天気の良し悪しだとか、競馬でどの馬 が当たるかとか、この株はいつごろになったら 値が上がるかとか、こういうことは理屈ではわ かりやしないもん。理屈で考えようとすると大 抵、逆いっちまいますよ。  妊娠している女の腹を見てからに、子供は男 だろうか、女だろうかと考えたって当たりやし ないよ。産婦人科の医者といえども当たらない。 だけど、霊性の発現している者が見るってえと パツとわかる。なぜわかるかってえと、人間の 心がわかるのではなく、霊性が見分けるからで す。だから、私なんか腹の中の子供ぽかりでな く、何を相談されても、返事をしながら、自分 でその返事を聞いていますよ。  「先生こういうときにどうしたらいい?」  「ああそれね、こうしろよ」  そう言いながら、「おれ、今これからどうい うアンサーするかしら」と、自分のアンサーを 非常に興味深く聞いているんです。そして私の 声を耳で聞いて、「ほうほう、こういうときこ ういうことをするのか」と、他人事のような気 持ちで、何の不安もなく、自分の言葉をその人 に聞かせているの。それが霊性が発現した者の 言葉で、そこにいささかの間違いもないのであ ります。  私か今まであなた方に言った言葉で、間違い があったことあるかい? この前列の端にいる そのご婦人なんか、もう十年になるか、十二、 三年だね。こんな大きな腸満で来たんだよ。も う医者は見捨てちまいます。そのとき私は、こ う言っだの。  「まあ気長に来てりやあ、治っちまうから。ず いぶん余計食ったって、それだけの腹にはなれ ねえの、それだけ大きな腹になっているのだけ でもありかたいことなんだから、来てろよ」  これがね、もしも不幸にして、高等学校に 行って大学を出ている大だったら、助かりませ んよ。けれど、薄生意気な屁理屈がなかったも のですから、私の言うまま、無邪気に来ていて、 もうこのごろは健康そのものです。ちょうどそ のとき脇にね、ちょっと生意気なやっか、神戸 のある有名な医者がいたのですよ。  「あれ大丈夫ですか。先生、気休めに言ってい るのじやないですか」  「人の生命、気休めなんかで言わねえよ」 「どういう理由であれ、大丈夫なんですか」  そう聞かれたけど、それ、わかりやしないの、 霊性が言っているのだから。囗は天風の囗で 言っているけれども、天風の囗から出ている言 葉は、天風の霊性から出ている言葉なんだから。 「どういうわけで」というのを聞いちやあ困り ますよ。ただ霊性が治ると思っているから、そ れで「治る」と言っただけの話です。  しかし、霊性が言ったことは、私に責任があ ります。「先生が言ったんだから」という責任 がある。私か「大丈夫だ」つて言うのに死ん じやったりしたら、私は信用ゼロだろう。  そのかわり死ぬ病のときは、私は日にちまで 言うものね。本人には言いませんよ、本人に 言ったら一遍でだめになっちやうから。どうし てもあらかじめ言っておかなければならない場 合には、これはいつごろだめだよということを 言いますし、ときによっては日にちまで言いま す。けど、言うと家族まで驚くような覚悟のな い宗族だった場合には、私は言いません。覚悟 のほどができてりゃ言いますけど。そういう場 合、私の霊性が言わしめているんです。  これ、理屈じゃ私お答えできない。パッと、 その刹那の断定なのだから。やがて研修科のほ うで、魂のフラッシュライトというお話をする ときがあります。六月ごろの研修科でお耳に入 れることになりゃしないか。そうすると、「あ あ、なるほど、十二月に聞いた霊性発現の動機 はここにあるな」とわかるでしょう。  霊性の発現は、ちょうど電気の発生と同様な 約束と条件があると言えます。電気のほうで考 えてみれば、わかりやすい。  科学的な操作によって、難しい言葉を使うと ’。the equipment of generation of electric pCwer " という特別な装置によって、エレクトロンとプ ロトンの二つが一つになって生ずるのがエレク トリシティ(電気)です。  そして、さらにその装置のエレメントの都合 によって、このエレクトリシティがあるいは力 となり、あるいはかくのごとき光となり、ある いはかくのごとき一種の干不ルギーとなる。し かし、それもこれも一番最初に必要な設備は、 このエレクトロンとプロトンとを一つにしてエ レクトリシティにする完全な発電装置でしょう。 ここらは誰でも知っていることで、この発電装 置はジ子不レーダーという名前がつけられてい ますね。いわゆる発電モーターですよ、ダイナ モともいいます。  人間の心が始終コンセントレーションを行 なっていくというと、発電装置であるダイナモ、 いわゆるジ子不レーダーが完全に用意されたと 同じような状態にわれわれの精神状態がなるの ですよ。われわれの精神生命というものは、考 えてみるとかくのごとき偉大な性能を持ってい るのです。  ですから、普通の人の持ってる精神生命は、 ダイナモの格好はしているのだけれども、事前 条件として必要なコイルの巻き方がめちやめ ちやなんだね。それがために、このエレクトロ ンとプロトンとがアタッチメント(結合)しな いで、空回りしているといった状態なんだ。  これが精神が統一された状態になると、コイ ルが立派に約束どおり巻かれてくるから、そこ にエレクトリシティが次から次へと生まれてく るように、霊性が発現するというわけだ。わ かったろう。  前提は潜在意識の大掃除  だから、わずかな心を使うときでも、あだや おろそかに使つちやいけないということがわか りそうなもんじやないか。それが、こういうこ とを聞かされない人はI聞かされてもそうな んだから、況や聞かされない人はIもうめ ちゃめちゃなのね。ただもう思うが故に思い、 考えるが故に考える。しかも思つちゃいけない ことを思い、考えちゃいけないことを考えて、 思わなきゃならないことは思えない、考えな きやいけないことは考えられない。  人間の心は、一時に二個は出ないんだ。二個 出れば重宝なのだけども、一個しか一時には出 てこないんだ。「嫌い」と「好き」が一時には 出てこない。昔の都々逸にも、「好きと嫌いが 一度に来れば ほうき立てたり倒したり」つて いうのがありますね。これは、好きな客と嫌い な客が一緒に来たときに、一時に両方を相手で きないから、早く帰つてほしいほうにほうきを 立てておくという、まあきわめて粋な話なので すけどね。  だから、悲しいと思うと、悲しくないほうの 気持ちは引つ込んじまうから涙が出てくる。そ のかわり悲しいと思っても、悲しくないぞとい う気持ちのほうが強く出てくると、悲しい気持 ちは引っ込んじまうから、泣いていたのが収ま るというわけ。だからわれわれは常にこの積極 的な気持ちを心の中に充満せしめて、思うべか らざることは思わず、考えるべからざるものは 考えないようにしてるてえと、自然とこの意識 の混濁というのがなくなるんだよ。  結局、はっきりした気持ちになろうとすると き、一番最初の前提として、やはり心の掃除を 完璧にしなきやだめだということだ。観念要素 の更改が厳粛に実行されないてえと、心そのも のの内容にもうくだらないうじ虫みたいなもの がどっさり入っていて、いざ心をまとめて使お うったって、そいつがポンポンポンポン心の表 面に出て来てからに、心をいい加減にかき乱し てしまうから、はっきりした気持ちどころじや ありません。  だから、心の使い方においても、まず根底的 に必要なのは、やはり観念要素の更改だよ。潜 在意識の中の大掃除をしないといけません。そ れで潜在意識の中の大掃除をして、心の中をき わめて尊いもの、強いもの、正しいもの、清い もので充満させておいて、たった今、教わった 順序にしたがって、はっきりした気持ちを常に 心に持たせるために、何事をするにも気を打ち 込んで、いわゆる霊性発現の発電機ともいうべ き精神の状態をかき乱さないようにすることな んだよ。  すると、熟練した技師が精巧な機械をさなが ら手足のように動かすのと同様に、その時その 時の必要に応じて、必要な心だけを実在意識領 に出して、どんな事柄をも快刀をもって乱麻を 断つように処理してくれるという結果が出てく るわけだ。  だから、こういうふうにして心を立派につく られた人間には、めんどくさいとか、物憂いと か、ややこしいとかいう気持ちはないのです。 何事をするときでも、同じ気持ちでやれるんだ もの。  人生、これがめんどくせえ、あれが嫌だ、こ れだけはしとくけどそれはやめとこう、なんて 気持ちになったら、もうこれはこの世をおさら ばするときを、自分では気がついてなくても、 自分でつくつているようなもんだ。やがてほど 遠からぬうちに、焼き場の戸を自分で開きに行 くわけじやないけど、他人に開いてもらって自 分が入り込むときを、そう遠くない将来に持っ ている人なの。  とにかく、心の中を立派に掃除しといてから に、さらに何事をするときも気を打ち込んで心 を使う。一歩足を出すのだって、ゆめ油断ある べからざる心でもって心を使っていると、くだ らない迷いや煩悶に心が苦しめられるというこ とがなくなるのであります。  天風会員になってからに、煩悶や心配に心が 苦しめられるというような人はたんとはいなか ろうけども、たまにいるからね。こういうとこ ろにこうやって毎日毎日立っていますと、一度 皆さんの顔を見れば、「ああこいつ、まだ心配 持っているな」とか、「こいつ、何か腹を立て て来てやがるな」とか、すぐわかります。とき にじっと顔を見てるってえと、きのう別れてか らきょうまでにあったことの中で、とくに著し い出来事なんかがピッとここに映ってくるので すよ。  とにかく、心がしょっちゅう穏やかな状態で、 少しも曇ってない状態で生きなきやね。それが 気を打ち込むという、心を使うときの態度で、 自分じやあ曇らせたくなかろうけれども、心が 曇ってくるのをどうにも防げない。第二この 心がけが緩められると、直接的に困らされるの は、ややともすると肉体の要求やそれに随伴す る自己本位の欲望だけを満たそうと、わがまま いっぱいに振る舞おうとする本能心が、その心 を占領する恐れがあることです。気がつかな かっだろう。  この本能心というやつは、肉体を確保するた めに必要な心だから、これは決して要らない心 じゃないのだよ。要らない心じゃないのだけど、 こいつだけを精神の中にわがままいっぱいに暴 れ回らせるてえと、もう肉体の要求する必要以 上の限度を乗り越えちやってからに、もう生命 全体までをわがもの顔に支配するという、始末 に負えない横暴を振るいだすのですよ。と言っ てもわからないかもしれないけど、あなた方の 現在の心の中にはたぶんそういう心のほうが多 いぜ。  そうすると、子供に甘い親が子供の甘ったれ た無理な要求を聞いても、何とかしてそれに応 じてやろうという気持ちが間違っていないと思 うのと同じように、何でもかんでも肉体生命の 要求に応じることが間違っていないと思う間 違った気持ちが心に現れてくる。そうなったら 人生は地獄だよ。満たされないことによる心の 悶え、鬱勃たる不満が始終消えることはなく、 もう何があろうと、少しも心に豊かな朗らかさ を感じることができないもの。  しょっちゅう何とも言えない不満と不平が自 分の心の中に去来して、月を見ても花を見ても、 思うとおりにならない世の中ぐらい面白くねえ ことはないし、思うとおりにならない世の中を 思いどおりにしようとして、思いどおりになら ないときぐらいつまらない世の中はなかろと思 うけど、どうだい。大抵の人が今、世の中の人 生に生きている刹那刹那を味気なく面白くなく 思っているのは、そういう気持ちが心の中にあ るからだ。  そこにいくってえと、天風会員になって長い 間こうやって真剣に教えを守っている人はあり かたいな。どんなところにいても、そうした気 持ちがいささかも心の中に出ていない。出てい ないのは、ないから出ないんだ。「晴れてよし 曇りてもよし富士の山」、少しも心にとらわれ がないものね。  だけど、自ら顧みて、今あなたたちの心にと らわれがあるとしたら、そのとらわれから抜け 出さなきやだめだよ。とらわれから抜け出すの は難しくないんだ。とらわれから抜けよう抜け ようと思うと抜けきれないが、心を打ち込んで 何事かをする習慣をつけるてえと、今までとら われていたはずのものが、向こうから出ていっ てしまう。振り落とされちまう。  ところが、ただ漫然と何の用意もなく、準備 もなく、反省もなく、思うがままに思う、考え るがままに考えるというような状態でやってい くってえと、この肉体本位のわがままいっぱい に振る舞おうとする本能心だけが心の全体を占 領する。  もちろん理智教養を受けてくると、そこへ ちょいちょい理性心というやつが首を出してく る。「だめだ、そんなこと思っちや」というこ とは言うのですよ。だけど、力のないヨボヨボ の姑が囗やかましく五月雨小言を言っているの と同じでもって、本能心が言うこと聞きやしね え。理性心には、それがいいとか、悪いとか、 間違っているとか、間違っていないとか、そう いうことに気のつく働きはあるのだけど、「だ から、そいつはやめろ」と、やめさせる権能が ない、力がない。  そうなるってえと、理智教養を受けた人と、 受けない人との心の悶えは、理智教養を受けて いる人間のほうがはるかに負担が多くなるわね。 悪いということを知らないときには本能心がわ がままいっぱい働いていても、自責の責め苦に 心は陥らんわね。それが当たり前だというふう に考えているもん。  あなた方が天風会に入るまでは、「食いたい ものを食い、飲みたいものを飲むのは当たり前 だ、人生五十年夢のようなもの、それでくた ぽっちまうんなら、やりたいことをやろう」な んてなことを平気で考えていた場合もあったか もしれないだろう。  天風会に来るにしたがって、その考え方に間 違いがあるぞとわかってくると、その間違いを 訂正しない限りは、何とも言えない煩悶らしき ものが心の中に出てくるわね。幸い、天風会の ほうでは、そういう場合にその煩悶を排除すべ き方法を教えてくれるからいいけれども、そう でない人は、理性心が良い悪いを知っていれば 知っているほど、この本能心のわがままが目 立って見えますから、それがいわゆる理性と感 情の衝突というやつが起こってくる原因になっ て、その結果がノイローゼだ、神経衰弱だとい うことになる。  だから、こういう方面から見るってえと、教 養というものを用意なくして受けた者は、むし ろどっちかというと、不幸のほうを余計味わう わけだ。孔子もそこに気がついたから、二千年 の昔、「学んでいよいよ苦しみ、極めていよい よ迷う」と言ったでしよ。それだけをおっぱな して言うんじやないんだよ、孔子は。「かかる が故に信無くんば能わず」と言っています。 「信念があるとそれがなくなるけれども、信念 がないと、知識が増えれば増えるほど煩悶が多 くなるぞ」と、こう言っている。  その信念というものがまた、出すようにして やらなければ出てこない。幸いあなた方は観念 要素の更改について話を聞いたときに、鏡を応 用して手っ取り早く信念を出す方法を教わって るね。あれはじつに信念煥発には無上の方法で すよ。これだけのことをやっているだけでも、 心の中の掃除がどれだけできるかわからない。  とらわれなき心で生きる  いずれにしても、澄み切った気持ちでもって、 気を打ち込んでやると、その結果というのが実 際ありかたいんだ。聞いてるうちにおわかりに なった人もあるかもしれないけれど、わからな い人が多かろうと思うから言うと、気を打ち込 んで、気を散らさずに心をまとめて、はっきり とした澄み切った気持ちで物事をするとね、人 間の心の能率をぐんぐん上げてくれるのに必要 な有意注意力というものが旺盛になるのだよ。  こんな言葉初めて聞く人がありやしないか? 有意注意力。普通の場合、あなた方の多くの 持っている注意は無意注意というやつ。無意注 意というのは、何も見よう聞こうと思わなくて、 ただボーツと往来を歩いているうちにフッと 横っちょから何か不思議な姿をしたものが出て きたり、あるいは目につくようなきれいな人が 出てきたら、ヒョイとそっちのほうを見るだろ う、これが無意注意。これは犬でも猫でもある。 無意注意は誰でも持っている。  しかし、それじやいけない。有意注意という のは、たとえばここに電気スタンドがあるね、 それでもって、こっちをよく見ようと思うと、 こちらをスタンドで照らす、今度は反対のほう をよく見ようと思うと、そちらにスタンドを向 けて照らす。つまり、自分か思った方向に自在 に注意を振り向けるのが、有意注意です。  無意注意というやつは、いったんある方向を 照らしてしまうと、もう他に向けられないんだ、 とらわれれがあるから。いわゆる円転滑脱無碍 自在たることを得ないのが、無意注意なんだ。 ところが、始終気を打ち込んでやるという習慣 をつけると、変転自在に必要において心を操縦 することができるというありかたい結果さえ来 る。有意注意力も旺盛になるのです。  そうすると、第一心に疲れがないのですよ。 あなた方が何か一つのことをやっていると、 「おお、しんどい」とすぐ言うけども、それは 心機転換がうまくできないからなんだ。これか らそっち、それからあっちと、その時々の必要 に応じて自分の思う方向に心を切り換えること を、心機転換というの。その心機転換ができな い人は、これを思って、それを思う必要がない ときにも、これを思いながらそれを思い、今度 はさらに別なことを思うときにも、思う必要の ないことまで思っているというふうに、何かし ら心の中に捨てきれない思考が残留しているん だね。だから、疲れる。  それが雑念、妄念である場合はどうだい、そ の雑念、妄念がたとえわずかなものでも、 ず1つと大きくなってきて、心の全体をすぐ汚 いものにしてしまう。それがさまざまなよくな い結果をもたらすのだから、何をおいても心を 散らかさないようにしなきやいけない。  心はそのまま自分の心の中に置いておいて、 心の前に出たものはことごとく心の中に取り入 れて、どんなことがあっても、心の前に現れた もののほうへ心を持って行かれないようにしな きやいけないということですよ。わかったか い? 同じ目でものを見ていても、心の用意が 今言ったように十二分な注意で行なわれていな いと、ブーツと心が向こうへ持って行かれちま うよ。  そういう人間が多いから、そういう人間を相 手に特別な営業を行なって、今日の人生を送っ ているやつがあるわけです。スリとか空き巣狙 いとかが皆それだ。たとえば、スリに(ンド バッグの中のものを取られるはずがないと思う だろう。自分が持っているのだからね。スリに これを預けているのなら、持って行かれても しようがないけど、自分が持っているんだから ね。ところが、気がついたら大事なものがない。  それは、目で何か見ていてからに、見ている だけならいいけど、心が一緒に向こうに行っ ちやっているから、取られてもわかりやしねえ んだ。それでさんざん見てからに、向こうへ遊 びに行っていた心が帰って来たときにヒョイと 見たらないの。  つまり隙だらけというのは、そういう意味だ。 隙のない人間というのは、目で向こうを見てい ても、決して心が向こうに行ってないんだよ。 てめえの持っているものを持って行かれる了見 なんかありやしねえ。これは紙一筋の相違だが ね。  時まさに暮れなんとする年の瀬が迫っている この節、あなた方、今おのれの心が金にとらわ れてやしないか? 商売にとらわれてやしない か? 事業にとらわれてやしないか? その他、 人事世事、いろいろなことに心がとらわれてや しないか? とらわれて解決がつくというふう に思ったら大違い。よく他人のことたというと すぐ考えがつくけど、自分のことはなかなか考 えがつかないというのは、結局とらわれがある からなんだ。  他人のことは「それはおまえ、こうしたらい いだろう」なんて利口そうなことを言ってから に、自分のこととなると迷っちやって、どうし ていいんだか、ちっともわからない。それは、 とらわれがあるからなの。  何ものにもとらわれないためには、平素が大 事なんだ。できている人とできていない人とい うのは、この相違だけなんだ。偉そうに見える からできている、偉そうに見えないからできて ないと思ったら大違いですよ。いざ、さらばの ときに、円転滑脱、とらわれなき状態でいられ る人が、本当にできている人なんです。  講談『山岡鉄舟』  さ、だいぶ人数が増えたから、面白い講談を 始めます。講談の面白さにとらわれて、本当の 中身の消息を忘れちゃだめだぜ。とらわれさせ るために聞かせるのじゃない。とらわれとはこ んなことかいなってことが、その講談の中に出 てくる。そのときに事柄は違っても、自分の現 在も何かそんなような状態になってやしないか なって反省しなきやだめだぜ。  古い会員は何遍も聞いた話かもしれない。幕 末維新の際の名剣士として後世の末まで名の高 いのが、ご承知のとおり、山岡鉄舟(通称、鉄 太郎)であります。明治大帝の世になって、華 族に列せられて子爵になりましたが、それは維 新の大業が成った後のこと、元はこの人、徳川 幕府の旗本であります。  若いときから特別荒い気性を持っていただけ にこの男、お玉ヶ池の千葉周作の門下に入ると 「鬼鉄」と呼ばれ、師匠の千葉周作といえども 三本に一本は取られるというぐらいの腕前に なった。  もう道場で相手になる者がないのですから、 これは凡夫凡人の当然行き着くところでしょう が、「まずおれぐらいできるやつはいない。師 匠でさえ一目置いている。師匠はまあとにかく 六十近くで日本一、おれが六十近くなったら世 界一になるだろう」と自惚れていた。人格の内 容ができてない人間が、技だけできるとどうし ても「このおれが」という自惚れが出るのは、 これはもう万人が万人当然ですわな。  そこで道場で自分の相手になる者がないと なった鬼鉄は、「よし、構うことはないから、 夜、町中に出て行って、侍と見たら叩き切って やれ」と物騒なことを考えた。だがしかし、親 もあり妻もあり子もある侍を切っちや後味がよ くねえからというので、出くわす侍に必ず聞く そうだ。  「親はあるか?」  「ない」  「妻は?」  「ない」 「子供は?」 「ないな」 「兄弟は?」 「ない」 「天涯孤独か。申し受ける」  そして、パッと切っていたそうな、大根を切 るように。  何せ、今と治安の状態が違う。今そんなこと をして歩けば、一人二人切るうちに捕まっちま うけど。旗本直参、徳川幕府の息のかかった侍 に対しては、町奉行はこれを取り締まる権限が なかった。  武家政治華やかなりしころの法律というもの は、今の法律とはおよそ格段の違いです。武士 にして初めて人なり、武士にあらざる者は人に あらず、というのですから。武士に対する取り 締まりは寺社奉行が手をつけていたものの、町 方の治安を取り締まっている町奉行は指一本触 れることができない。  だから、むろん町奉行においても、この節、 山岡鉄太郎なる者、辻斬に出ているということ は万々承知をしていても、捕まえることができ ないんだよ。それはたってへたすりや寺社奉行 にこれを頼むと、今度は町奉行の責任を問われ るようなしっぺ返しを受けるものですから。  もう侍が暴れるやつは手がつけられなかった そうです。もっとも浪人の場合は別だけども、 主を持っている侍には手がつけられない。それ をいいことに山岡鉄太郎、さらに辻斬を続けた が、ものの一月二月経たない間に、もう噂が噂 を生んで、夜中に町中を出歩く侍がいなくなっ てしまった。喜んで切られようってやつは誰も いないし、また、こっちから出て行ってそんな 乱暴者と勝負しようとするほどの人間も、元禄 時代以前ならともかく、世の中がすっかり冷め 切っていた幕末にはもういなかったらしい。  それで鉄太郎は考えた、「町中を歩いていて もこのごろいいトリが引っかからねえや、そう だ、今夜吉原に行ってみよう。田舎の勤番侍が 女郎街に行くに違いないから、途中の吉原土手 で待ち受けて叩き切ってやろう」と。  下谷の御徒町に住居を持っていた当時であり ます。亘]の闇夜、月の暇を幸いと、丑三つ時に 家を飛び出した。  今じゃ晦日に月が出る。昔の晦日は月が出な かった。昔の晦日は陰暦だから月は出ない。今 の暦は太陽暦。亘]の闇夜というのを、あなた方 は経験しないでしょう。文化の都に住む人は。 一寸先の鼻をつままれてもわからないという暗 さを味わおうと思っても、なかなか味わえない のですが、われわれはもう電灯もなくガスもな かった時代に生まれて、中年までは、ほとんど 行灯生活をしていましたから、よく知っていま す。本当に暗いとなるってえと、鼻の先も見え ないのです。毎晩のことじやありませんけれど も、月なき夜は。ちょうど満月と逆の裏の夜で すな。昔の晦日というのは、皆そうだった。  そんな闇夜でも、江戸の町中は慣れたもの、 鬼鉄が急ぎ足してちょうど来かかっだのが、上 野の三枚橋。今の人、東京に住んでおられても 三枚橋ってのをご存じないのは、この橋、今は もうないからです。不忍池から流れる川に架 かっていた三つの橋が三枚橋。目当ては吉原土 手ですから、今は円タクでも雇えばスーツと 行っちまうのでしよう。昔はよっぽど早くて駕 籠なんだけど、人切りに行くのに駕籠なんかに 乗って行きやあしない。  左手で鯉口を切りながら、途中で相手になる やつが出たら、一刀のもとに切ってやろうと、 おそらくはその闇夜の中でも目は血走っていた に違いない。地面に足が付くか付かないか、宙 に浮いているような足取りでもって、タッタツ タッタッタッタツと三枚橋にやって来た。その とき、バーンとぶつかったやつがあります。  「誰だ」パツと一刀に切っだのだが手応えがな い。危ないと思って刀を取り直そうとしたとき にヒョイと気がついた。鬼鉄の喉元にピツと剣 気を感じたのであります。とりもなおさず、自 分が一刀払う前に、敵はもうすでに刀を喉元に つけていたことが悟れた。もう動けない。  あなた方だとそれでも「えいっ」てやるから、 ブスッと切られちまいます。そこは剣一筋の毎 日に生きている人間であります。「しまった」 と思ったけれども、もう動かない。そうするっ てえと、闇の中からスイッと深みのある声が、 こう言った。  「どうした鉄、普段のおまえにも似合わねえ じやねえか。かりそめにも武術家が何事だ。人 を切ろう切ろうと、切ることばかり考えてから に、おのれを守る備えがまるでないじやねえか。 ドカーンと突き当てられて、おれに切る気が あったら貴様はもうとうにあの世へ行ってるわ。  おれば貴様を切る気があってやったんじゃな い。どこまでの備えがあるかを試したかったの だが、まるでなっちゃいない。何とか言え、う なっているだけじゃわからねえ。前へ出るな、 出るとすぐ突っ込むぞ。後ろへ行け後ろへ、後 ろへ行きながら考えろ。それでも貴様は武士か。 千葉の道場じゃ、貴様の向こうに立つ者はない かもしれないが、天下に剣客はおのれ一人と自 惚れるんじやないぞ。下がれ、前へ出るとすぐ 突いてやる」  しようがねえ、喉元に刀が来ているのですか ら。どんどんどんどん押されて行きやがる。三 枚橋から不忍池の脇まで少なくとも二十間ぐら いあります。その間、うんともすんとも言うこ とができねえ。とうとう池の際まで追い詰めら れた。  「フフフフフツ。とうとう来るところまで来た な、鉄。こういうことがあるとは夢にも思って いなかったかもしれないが、一刀流の極意に 『斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、身を捨てて こそ、浮かぶ瀬もあれ』というのがあるのを貴 様は知っとるか。知っているなら、これはもう あとは池の中しかないぞ、時は二月の寒空だが。 知ってても知らねえでも、このままじやあおれ は帰らねえ。おれの気合とともにこの刀は前へ 出るんだ。立っていると貴様は団子剌しだ。悔 しかったら払い切りなり、袈裟切りなり、突き 切りなりしてからに、池の中へ飛び込め。死ん じまうぞ、貴様」  困ったよ、鉄太郎。そのままいったら死んじ まうから、「うわ1つ」て言いながら池の中へ 飛び込んじまいやがっだ。水音を聞いて、闇の 中でチャリンと刀を鞘に収める音がする。  「鉄、冷たかろうが辛抱してろ、出てくると叩 き切るぞ。悔しかったらあとをつけて来い。お れはこれから九段に帰る」  言い捨てると、同時にくるっと向こうを向い たが、最後にこう付け足した。  「もう匸言いって聞かせる。腕はいくらできて も、心ができていなければ、きようのように戦 いに敗れるのが必定だ。切ってやらなかっだの は、いささか見どこがあるからだ。その腕より も心を研げ。そうすれば貴様は立派な人間にな れるだろうが、おれの忠告をあだにすると、間 もなくまだきよう以上のことが出来上がるぞ。 そのときは貴様の命はおれがもらう。あばよ」  そのままスタスタスタスタ行っちやった。蓮 の間から首を出して、悔しがっだけど、どうに もしようがねえ。濡れネズミになって岸に這い 上がった。  「ちきしよう、九段のほうへ行くからあとをつ けて来いとぬかしやがった。不意打ちくったか らやむなく負けたんだ。どこの誰だか知らねえ けど、こんちきしよう」  こうなっても、まだ悟り切れねえんだな。足 音を頼りにしてあとをつけて行っだのだが、ど うにも隙がないのであります。坂下までつけた ものの隙がねえ。  「ああ今夜はやめだ。どこのどいつか後から調 べて、正面から差しの勝負を申し込もう」  その夜は諦めて、そのまま家に帰ってば来た ものの、悔しくて寝られやしねえ。一番鳥の声 を聞かねえうちにいきなり跳び起きてからに、 親友の榊原鍵吉の家に飛び込んだ。叩き起こさ れた榊原は眠い目をこすりながら、一部始終を 聞いた。  「ふふん、さすがの鉄も一杯やられたな。しか し、うめえこと言ったねその人、誰か知らねえ けど」  「誰だと思う?」  「誰だと思うって、おれが立ち会ったわけじや ねえよ。その太刀筋、その度胸、ほれぼれする な、男としてよ。誰だと思う?」  「誰だと思うって、わからねえからおれは聞い てんだよ。今この江戸はおろか日本六十余州に、 自慢じやねえが、鬼鉄といわれたこのおれに、 あれだけの捌きをする使い手は、師匠の千葉周 作先生以外にあろうとは思えねえが、ある か?」  「さあ、たんとはねえかもしれねえが、一人や 二人いるかもしれねえ」  「その一人や二人って、誰だ。それは江戸にい るか?」  「いる。たしかにその人とは言わないが、たぶ んその人だろうと思う人」  「誰だ?」  「家は九段だと言つたな?」  「言った」 「浅利の大先生だ」 「お、浅利のご老体まだ生きてるか」 「まだ生きているどころじゃねえ。矍鑠として おられる」  「そうか、わかった。おれもそうだと思ったん だ。よし、これから乗り込んで行って勝負す る」  「まあ待てよ。おめえ九段の先生のところに行 くのか?」 「行く」 「殺されにか?」 「何?」 「殺されに行くのか?」 「殺される義理はねえ。諺に、闇のつぶては逃 れるすべもないという。きのうは闇の夜中の不 意打ちに不覚をとつだが、なあに正面から勝負 すりや負けるはずがねえ。まして相手は老いぼ れた。鉄の腕には筋金が人つているぞ」  「それがいけないんだよ、おまえ。おまえがそ ういうようなことを言っている限り、浅利大先 生と勝負をしても、やかんに豆をぶつけるよう なもんだよ」  「何? 貴様、おれが負けると思うか?」  「負ける、絶対に勝ち目はない」  「勝ってみせる」  「だめだよ」  「なんでだめなんだ?」  「だめなとこがわからねえようだな、じやあ一 言聞かせよう。浅利先生はな、ご飯を食べてい るときも、たばこを吸っているときも、囗なた ぼっこで孫を相手にしているときも、厠へ入っ ているときも、久々の真剣の勝負をしたときも、 いつも同じ気分で、おめえみてえに時と所に よって、怒ってみたり慌ててみたりしやがらね えよ。池の面に映る秋の月のような、澄み切っ たあの大先生に、指一本触れることができる かってんだ。今おめえの話を聞くってえと、浅 利先生が池におまえを放り込んだ後に言われた、 腕はできるが心ができてねえ、の匸言、おれは 他人事でなく聞いたな。それだけの腕に勝るほ ど心を磨いてみろ、立派な人間になる。見どこ があるから助けつかわすと言ったあの言葉、な ぜそれを悟らねえ。それが悟れりやあ、おめえ は立派な人間だが、これから敵討ちに行くとい うなら、殺されに行くようなもんだ、考えろ」  なるほど、将来立派な人間になるだけの山岡 鉄太郎、そのときにこの匸言でパッと目が覚め た。  「悪かった」  「悪いと思ったら心を改めるんだ」  「うん、改める」  それから今度は剣を捨てて心を磨くことばか り。それでしまいには剣禅一致の妙諦に触れて、 剣はあってもなくても、勝てる闘いは心で勝て るという一大真理を発見し、ついに無双剣とい う極意を編み出したという。とらわれから脱却 したときの人の心のなせる偉大な業績、一席の 講談ではありますが、ご参考になれば大変けつ こうだと思います。  これをお土産にして、今年度最後の研修科の 講演を終わろうと思います。ありがとうござい ました。 第七章 体の活かし方     −正しい食生活の基準  。。常識。外れのインドでの食生活  先月と先々月、食生活について、諸君に注意 を与えておいた。そのときに、どんな場合であ ろうと、ただ美味いからというだけでもって、 動物性のものを余計食べたらば、断然、長生き はできないぞということを申し上げた。その理 由をきようは詳しく説明したいと思うから、ど うか相変わらず批判なく、十分に純真な気持ち で聞かれんことを希望します。  西暦一九〇七年にペンシルバニア州の州都( リスバーグ市の顧問医であったところのエド ワードーリバーク博士−これはアメリカの健 康医学連盟会の会長でありますがIは、「人 間が血管の破壊や、あるいはガン性の病に冒さ れないような正しい食生活を行なうことができ れば、人間の寿命は、今より少なくとも五〇 パーセント以上長くなるだろう。だから百歳ぐ らいまでは平気で生きられるに違いない」と、 こう言ってる。  そして、「それにはまず第一に、食生活に対 して正しい理解を持つと同時に、精神の元気を 失わないことが肝心な条件だ。ところが、何を 言っても現代の人々は、いわゆる肉体の本能の 欲望にいつも打ち克て得ずして、とかく動物性 のものを植物性のものよりも余計食うために、 女も早く年をとってしまうし、男も早く老衰す る」と言っているのですが、これはお互いに本 当に気をつけたい問題であります。  私も五十年前にインドの山の中で、初めて食 生活の重大性というものを知りました。インド で私か経験したような食生活をあなた方にしろ とは言わないけれども、ご参考までにそれをI 応お耳に入れておきます。  私はそれまでヨーロッパで生活していた人間 だけに、相当、贅沢な食い物を食っていたんで あります。おまけに自分が病であったために、 さらに自分が医学者であったために、結局、病 を治すにはカロリーの多い食生活をするより他 に方法はないと考えていたのです。  実際、その当時の医学のほうでは、とくに呼 吸器の肺病だとか、あるいは喘息のような病に は、何をおいても、とにかくカロリーの高いも のを食わない限りは栄養負けして病は治らない というのが常識でした。  今考えてみると非常に間違った議論ですけれ ども、その当時は間違っていないと思って、私 かヨーロッパにいる時分には、今思い出しても ぞっとしますが、肉は必ず三十匁(約一一〇グ ラム)、カロリーはとにかく三五〇〇キロカロ リー以上とらなきやいけないという学説のとお りに、毎日ずいぶん贅沢な食生活をしてたんで す。卵は必ず日に六個、ですから三食のたびに 二個ずつ食べていたわけだ。牛乳は日に少なく とも六合(一〇八〇ミリリットル)は必ず飲ん でいたでしょう。  そんな傍の人が見たらずいぶん贅沢な食い物 だなと思うようなものを食っていた人間が、 パッとインドへ入っだわけです。そうすると、 食うものがガラッと変わっちやっだの。一番先 に心細く思っだのは、主食が人間の食うもので はないヒエなんです。ヒエといったら、カナリ アなんかが食ってるものです。あれを水漬けに して、ぐちやぐちやになったところを畷って食 べるだけ。煮もしなきや焼きもしない。副食物 は断然動くものは食わないんですから。  私かいたところがカンチェンジュンガの麓で インダスの上流なんですが、川の深さは深いと ころでも腰ぐらいまでしかなくて、有名なイン ドマスがチョチョチョロッと来ちや、水の中に 立っていると膝小僧なんかにキッスしていくん ですよ。ちっとも人間をおっかながらない。獲 らないから。ああいうものは危害を与えさえし なかったら、断然警戒する気持ちがありません。  殺すときに声を出すもの、それから動くもの は食っちやいかんというのが、インド哲学の修 行者の日々の生活モットーです。朝鮮大やシナ 人の好んで食うニンニクも食いません。私か近 間のインド人に、「なんでこれ食わないんだ、 非常に精分の強いものなのに」と聞いたら、 「あれ、引っこ抜くときにキューと声出すで しょう」と言う。われわれが聞くと、ずいぶん とぼけた話で、迷信以上の愚かさを感じるんで すが、彼らは真面目に考えて食わないんです。  ですからカロリーから言ったら、せいぜい一 五〇〇キロカロリーぐらいなもんでしょうな。 心細くてしょうがないから、一週間ばかり経つ てから、私をインドへ連れて行った人に聞いた。  「他の人とは違って、私はこういうふうな病を 持っている体ですが、食い物、これでいいんで しょうか?」  「これでいいんでしょうかって、これ以外の食 い物がここにあるか?」  「だけど、今申し上げたとおり、この体でこん なものを食ってたら、とても体がもちません」  そう言ったら、「ルックーオーバー・ゼア」 と指をさす。何だろうと思って、指さしたほう を見ると、象が五、六匹いるんですよ、大きな 象がね。これは運搬だの、畑を耕すときに使っ てる象なんです。  「あれはおまえより大きいな」  おまえより大きいどころじゃない、こっちの 目方は象のヒップほどもないんですからね。変 なことを聞きやがると思いながら、「オフコー ス」と言ったら、  「あれ、何食ってる? 一年三百六十五日の間、 ほとんど半分は一年に三度とれる米の藁を食っ て、藁がなくなると、われわれの食っている芋 の尻尾だのゴボウの尻尾を食ってるだけだ。ま だおまえはヒエが食えるからいいけど、象はヒ エを食えない。それだけでもってあれだけの体 が十分に生きてるじやないか。なんだ、耳の重 さもないくせに」  と言われた。なるほど、象の耳の重さもない と言われたが、その当時、私はようやく十貫目 (約三ハキログラム)内外だったんだ。そして、 捨て台詞みたいに、「これでいけなきや、この 国から帰るんだね」と言った。  この国から帰るって、どこへ帰っていいんだ かわかりやしないでしょうが。インドの奥の奥 の山の中に連れて来られて、「いけなきや帰れ」 と言われたって、どうして帰っていいんだかわ からない。なんておれは因果な人問だろうとつ くづく思ったよ。  三年間の戦争中は山の中で、森に住まい、あ るいは谷に住まいというような状態でもって、 もう食うものもろくろく食わないような境涯で いて、戦争が済んでようやく人間並みの生活が できると思ってたら病になっちやって、ともか くアメリカやヨーロッパにいるときは相当な食 い物を食っていたけれども、またぞろここへ来 て、犬よりもまだ劣ったものを食わなきやなら ない。  結局、おれっていうやつは、こういう苦しみ でもって責められ通しに死ぬようにできてる人 間じやないかと思って、他のことは何も知らな い当時ですから、心細いの、心細くないの。  けれども、人間っていうものは、卑しいわけ じやないけれどもI卑しいのもあるだろうけ どもI本能ですな、腹が減りや食わないわけ にいかないもの。嫌だというわけにいかないん ですから。「おれはこんなものは食わない」と 言ったら、死んじまわなきやならない。腹が 減ってりや、食うとやっぱり美味いですよ。他 に食うものがないんですから。  ところがですよ、これは真剣に聞きなさいよ、 カロリーが一五〇〇キロぐらいで、滋養、栄養 なんていうのはほとんどありやしない。そのか わり、果物だけは山にたわわになってますから、 千疋屋でもって一個百円だ、二百円だというよ うな果物もただで食えるんだ。腹が減ったら果 物なら誰も所有者がないんだから、遠慮なく食 えと。  ところが、また人間というのは不思議なもん で、遠慮なく食えと言われると、遠慮なく食わ ないですよ。あれ、いくらいくらという定価表 示がついていると、食いたいと思っていなくて も、つい買って食いたくなる。妙なもんですね、 人情とは。いくら食ってもいいよとなると食わ ないんですよ。  話は違うけども、大阪や神戸のほうぼうに店 出してるある有名な洋菓子屋がありますが、そ この息子が一遍、大阪でもって修練会に入って きた。その時分の修練会にはご飯の後に三時に なると必ずおやつといって、その時々のお菓子 だの、スイカだの、リンゴだのを出して午後の 一時を過ごしたもんだ。ちょうどそのとき、洋 菓子をうんと買って、みんなに振る舞うと、み んな喜んで食べてるのに、一人食べないでつく ねんとしている少年がいたから、「食え」と 言ったら、「こんなもの食えるか」と言う。「こ んなもの食えるかって、これは珍しい洋菓子 だ」と言うと、「おれんところでこさえたんだ。 これ」つて言いやがる。赤ん坊のときからこう いうものを見てるから、もう見るのも嫌だって 言うんだ。そういうもんですよ、人間っていう のは。  だから、食い飽きるほど食ってりや食いたく ないけども、食い飽きなくても腹が減っちまう と、「こんなまずいもん」と普段思うものでも 美味いんですよ。失礼ながら、あなた方は本当 に腹が減ったということを知らないだろう。昭 和二十年の終戦間際の半年ぐらいは、ずいぶん 腹減らすつもりでなく減っちやった、食い物が ないという境涯もあったろうけれども。それで も何にも食い物がないという生活は、あなた方 は一週間としてなかっだろう。けれども、われ われは満洲、蒙古で軍事探偵として働いていた 時分、三日や五日食わないことは一月に何遍あ るかわからない。  そういうときは、普通だったら腐ったものを 食わないんだが、本当に腹が減ると、ちっとや そっと臭いのするもんでも美味いんですぜ。満 洲で雪の夜道を五日間、何も食べずに歩いてあ る町に着いたとき、往来にジャガイモの腐った のが捨ててあった。腐ったから捨てたんでしよ うな。「ジヤガイモー」と思ってとったら、お 尻のほうが腐っちやってる。けど、その腐った ところを手でもってはずしてからに、皮ごとぼ りぼり食ったときの美味さをいまだに忘れない。 今、世界中の金やるから、食えと言ったって食 いやしませんな。そういうもんなんです。  それで一五〇〇キロカロリーぐらいのわずか なカロリーで、インドへ来たときには十貫目内 外に痩せ衰えていた私の体が、三月経たない間 にむくむくむくむく太りだしてきた。初めのう ち、私は「いよいよ死に目が近まったかな。む くんできたわい」と、こう思った。そうじゃな いんだ、太ってきたんだ。  一遍でも太った経験のないやつが太ってきた んならば、今言ったとおり、すぐこれは水気だ なと思うでしょうけど、前に十七貫目(約六四 キログラム)ぽかりあった体が十貫目内外に なって、それからぼちぼち増えてきたから、間 もなく「ああ、これは太ってきたんだな」と 思ったんです。だけども、半年にとにかく五貫 目(約一九キログラム)も増えてごらんなさい、 びっくりするから。嘘かぽんとかわからないほ どびっくりするんですよ。  そういう経験を積んで、「なるほどなあ、カ ロリーじゃないわい。食ってるものの中の成分 を肉体生命が完全にキャッチすると、これだけ の発育力があるんだ」ということを、そのとき 初めて発見したんです。  私かインドにおいて病が治っだのは、もちろ ん精神安定が第一ではありますけれども、同時 に食生活がこういうふうに全然動物性のものを 食わず、野菜と果物だけであったがためだとい うことを、久しくこの肉体で私は経験している んです。  なぜ動物性タンパク質はいけないか  現代の人々はこういう食生活で病が治るとは 思わないでしようね。第二医者が間違ったこ とを言ってますもん。動物性のタンパク質は消 化しやすいから植物性のタンパク質よりも余計 取り入れることは、体の弱い者に対しては最善 の賢い方法だと。  ところが、この考え方は大いに訂正しなきや いけませんよ。昔からの諺にも「預言者は郷里 に容れられず」とありますが、きょうもさっき 日本橋西川の豊生(才次郎)支配人が話したで しょう、昔私の言ったことを今ようやく医者ど もが言い出していると。あの人は以前、医者か ら「白内障ならいいけど、緑内障だから、この 目つぶれちまいます」と言われたんで、驚き慌 てて私のところへ飛んできたんです。  それで私か、「こんなもの、何も心配するこ とあるか。神経性のもんだよ。おれが治しちま うから」と言ったときに、豊生君も偉かったよ。 普通だったら、医者が「緑内障だ」と言ったら、 医者の言った言葉のほうを信ずるのが人情だが、 やっぱりあれだけの人間になるたけあって、純 真なところがあったんでしようなあ。「おまえ、 医者の言ったことに安心しないから、おれのと ころへ来たんだろう。おれは引き受けた。治そ う」と言うと、一、二年、一所懸命に私につい て回るようになりました。  さっきも私聞いた、「このごろ、目はどう だ?」と。すると「いや、若いときよりしっか りしてますよ」と言ってたよ。純然たる神経性 のものだったんだけれども、医者のほうは悪い 症状だけを診てからに、原因は診ませんからね。 それから、あの人にも、今まさにこれからあな た方に聞かせるような食生活をさせて、ぐんぐ んぐんぐん体を治したんです。  なぜ動物性のものがいけないと私か言つてる かということを第一に申し上げよう。  「動物性のものは非常にタンパク質が消化しや すい。そして、消化しやすいということは、言 い換えれば肉体が吸収する率も豊富だから、と くに体の弱い人などは動物性のものを余計食 え」というのが、今までの在来の衛生学や医学 の思想なんだ。  けどね、タンパク質は動物性ばかりじゃない んですよ。植物性のタンパク質もあるのよ。た とえば大豆やゴボウ、ニンジンはもちろん、お 豆腐のようなものやコンニャクや海草の中にも 入ってます。  動物性のタンパク質は、医者の言うとおり消 化しやすい。消化しやすいけれど、消化する際 に副産物として尿酸という酸が生じる。こいつ がおつかないんですよ。たしかに植物性のもの よりも動物性のタンパク質のほうが簡単に吸収 してくれますかわりに、副産物に尿酸という酸 がうんと増える。  植物性のタンパク質の中にもこれは人つてる んですよ。けれど、植物性のものを食べてると、 血液がアルカリ性になってるから、この尿酸を どんどん分解して、体の外へ排泄してくれてし まうんだ。  ところが、動物性の副産物で生じた尿酸に よって、動物性のものを食べると同時に、血液 が酸性になる。アルカリ性でなくなる。これを 医学的にいうと、「アシドーシス」。食べ物それ 自身が血液の内容素をきわめて危険なものにし てしまっていますから、尿酸を排泄する力がな くなっちやってる。そうすると、血液の持って る大事な力がなくなる。  血液の持ってる大事な力というのは、食菌作 用。医学の言葉で「ジヤーミサイダルーパ ワー」といいます。そういう力が血液の中にあ るんです。けど、それは血液が弱アルカリ性の ときに隕るんで、血液がアルカリ性を失って酸 性血液になっちまうと、この食菌作用を行なう 血液でなくなっちまうんです。色はたしかに赤 く見えているけれど、全然形だけの血液で、つ まり血液の偽物が流れ出すんだな。  それも何も害をしなきやいいけれども、害を しないどころじゃない。驚くべき故障を肉体の 中につくってしまう。第一、ものは証拠で、肉 食をしている人はどうしても風邪をひきやすく て、その上やたらに頭痛がしたり、目眩がした り、あるいは切り傷なんかやっても治りが遅い んであります。  睡眠もゆっくり、ぐっすりと寝られないとい うやつが多い。罹ったら、現代の医学じゃどう にもすることができない神経痛やリュウマチス、 さらに肉を食う者だけに限って存在する痛風と いう病がありますわ。足の指先のところが耐え 難い痛みを感じるという痛風。それから水虫。 これなんかも肉食をしている者には多いんだ。 そして病に罹っても治りが遅い。その上、とか く難病に冒されやすい。  そして近来、医学上の大問題になっている、 何か原因かわからないというガンだとか、ある いは心筋梗塞症というような病は、動物性のも のを食べている者が患う病で、その証拠には、 お百姓なんかのように、肉類を食べない生活を している人間にガンはないでしょうが。  同時に、あのおっかない脳溢血ね、それもう まくキュツと死んじまえばいいんだけれども、 半身不随や全身不随になって、死にもやらず、 生きもやらずして、三年も五年七宗中の厄介に なってるというような病になったら、これは傍 の者も迷惑だけども、病んでる自身も大変な苦 痛でしょうが。ああいう病、いわゆる動脈硬化 を促進するのも動物性のものが多いわけだ。だ から、こういう現象を考えてみたときに、尿酸 というものの恐ろしさを警戒しなければいけな いんであります。  ご承知の方があるかもしれないけれども、日 本橋に相当長くいたある医学博士は、現代の医 学でない漢方薬を売つていながら、自分は盛ん に肉食してて、五十にならない前にガンで死ん じやったよ。それで一遍私か言ったんだ、「漢 方薬売っといて、自分でそうやってのべつ年中、 豚肉だ、牛肉だ、マクロは卜口に限るよなんて いうことを言って肉食ばかりしていると、貴様、 それでゴネちまうぞ」と。ところが、「いや、 大丈夫。私は決してそういう病に罹りません。 漢方医で、名の通っている人間ですから」と 言ってるうちに、五十にならないうちにくた ぽっちまいやがっだ。なんで死んだかといった ら、ガン。だから、要するに食い物から来てる 災いですよ。  だから、こういう点を考えて、尿酸というも のが本当に恐ろしいんだということをしっかり 記憶しなきやだめですよ。動物性のタンパク質 の分量が多ければ多いほど、消化されるときに、 副産物の尿酸の分量も多くなるんだから。それ を血液が溶解できりやいいけれども、血液がす でに溶解のできない血液になっちやってるんで すから、血管の中に尿酸がニカワのような状態 になって溜まっちまう。つまり沈殿して流れな いという状態になっちまうんだ。  その結果、なんとしてもそれが体の外へ出て いかないんですから、血液そのものがきわめて 汚い、不純血なものになっちやって、同時に二 カワのような状態になってるから、どうしても 血液の循環を悪くします。循環が悪くなりや、 ますます沈殿する。  後から食わなきやいいけれども、そういう人 間に限って、一週間に三度も四度も食いますか らね。いや、毎晩、毎日のお膳の上に、とにも かくにも、牛なり豚なり馬なり、あるいは魚な りが載ってなきや、飯を食う気がしないという 贅沢なやつも多い。これは絶え間なく自分の血 液の中に尿酸というものをニカワのようにくっ つけてると言ってもいいでしょう。そういう人 は他の養生法をいくらやったって、動脈の硬化 を早めるのは当然です。  だから、この中にお医者さんがいたら考えて ごらん。五十を越した人間で、最高が匸二〇で、 最低が六〇から六五ぐらいの血圧を持っている 者が百人中何人います? 医者の常識になって るんだ、五十越せば、どうしたって血圧は一六 〇から一七〇になりますよと。なるはずないで す。私、この歳になって、まだ匸二〇ですもの。 しかし、これがもしもあなた方のような食い物 を食べてたら、そりゃもうたちまち一六〇、一 七〇になるでしょう。  第一、食べろと言われても、私がなかなか動 物性のものを食べられないのは、動物性のもの を余計食べていると、長い間の講演ができない からであります。もちろん経験のある人はお感 じになるでしょうけれども、この講演というの は二時間講演するのと、二時間駆け足するのと、 どっちか苦しいといったら、二時間講演するほ うが苦しいんだ。駆け足は互い違いに足を出し さえすりやいい。おまけに、特別なクンバ(カ というような方法をやっていれば、息も大して 切れやしません。  けれど、この講演というのは、息が切れるも 切れないも、呼吸というものが断然頭から不規 則に行なわれるでしょう。こうやっていろいろ なことを言ってるときには、ルールとして、肺 臓は息を吐き出しています。そのかわり、息を 吸うときはゆっくり吸ってられないもの。だか ら出すのはゆっくり出して、吸うのは急激に 吸っているんです。出すのと同じにゆっくり息 を吸ってたら、あなた方寝てしまう。  それで、タタタタタタタターツと言うと、肺 臓がきわめて残酷に取り扱われてるの。ですか ら、血液がもしも少しでもアルカリ分か不足し たらば、講演中に脳貧血ぐらい起こすのは当然 であります。  ところが、現代の人々はいずれにしても、こ のタンパク質を尊重しすぎているから、タンパ ク質の副産物の尿酸というものが動物性のもの に余計あるということを、専門の医者でさえあ まり注意深く考えてないんです。だから、素人 諸君が考えないのも無理はないと思いますけれ ども、とにかく一遍しかない命、二度も三度も 生まれ変わることのできない人間が、自分の生 命の大事な一部分である肉体生命の、組織の発 達を妨害するようなことをするのは賢くないこ とだと思いませんか。  「生活の向上」がもたらした文明病  こう言うてえと、「ああ、今夜の講演聞くん じやなかったな。おれはトンカツの大きいのが 好きだ」とか、「おれはビフテキの血の出てる のがいいんだよ」とか思つてる人は、私を憎ら しく思うでしょうけれども、私、別に牛肉屋や 豚屋や魚屋に仇があって言ってるんじやないん だぜ。縁があって、天風会に来た以上は、でき るだけその人たちを真理によって、健康で長生 きさせて、そして良き運命のもとにその一生を 過ごさせてあげたいと思うからこそ、こういう ことを言ってるんだからね。  にもかかわらず、「天風さんはああ言うけれ ども、他の医者という医者はみんな動物性の夕 ンパク質を勧めている。あの人一人でもってあ んなこと言ってるんだけれども、ぽんとかしら ね」と、眉に唾つけるような気持ちを持ってる 人は、気の毒ながら、丈夫になりたい、長生き したいと思っても、そいつはただ空想に終わる 恐れがある。少なくとも、もう二、三十年経っ たら、私の言うことが「ああ、そうだ。たしか にそうだ」と、医者はもとより素人諸君も気の つくときが来るでしょう。  さっきの豊生さんの講演にもあったように、 私かあの人に「神経性のものだ」と言った時代 の医者は、「神経性の緑内障があるかい」なん て言ってた。「なんだ、その天風という男は? 眼科の医者でもないくせに、生意気なことを言 いやがる」と言ったやつがある。「生意気なこ とを言いやがる」と言ったやつのほうが生意気 で、言われたほうが生意気でなかったんだな。 ようやく今になって、あえて眼ばかりでなく、 すべての病のほとんど八〇パーセントは神経性 のものが多いとわかってきた。  牛込の河田町の有名な心臓の大宗、榊さんな んかも、自分のところへ来る患者のほとんど百 人中八十人までは神経性の心臓で来ると言って ますね。本人はそれを神経性だと思わない。そ れは神経性の症状も実質的な症状も、本人が感 じる場合はちっとも変わりないからですよ。む しろ、神経性の病気の人間のほうが、大げさに 感じるでしょう。大体が神経が過敏で感じてる んですからね。  ですから、ことごとくの病が神経性だとは言 わないけれど、多分に神経性のものもあること を考えなきやいけない。神経が過敏になるのも、 タンパク質の採用に重きを置いて動物性のもの を余計食って、それで尿酸を体の中に余計つ くっちまうと、どうしても神経系統の方面が脆 くなって、弱くなっちまうからです。  それにもかかわらず、牛や豚や、あるいは脂 肉の多い魚や鶏肉などというものは貴重な栄養 源だと覚えてるんで、やたらたくさん食ってる と、若いうちはまだいいけど、五十越してから ぼちぼちやってくるんです。人間の生命の肉体 組織の中に、これはどんな人間でも斷るわけに いかない、老化現象が起こってきます。年をと るにしたがって若くなるんじやないんだから。  四十までは、とにかくある程度までの生命の 保衛期がありますから、老化現象は来ませんけ れども、四十越しちまうと、だんだんだんだん に人間の生命には老化現象が起こってくる。で すから、頭が禿げたり、白髪が生えてきたり、 皺が出たり、なんとなく筋肉がこわばってくる ような感じがするのは四十越してからでしょう。 もっとも、ませたやつになると三十ぐらいから、 肩が痛いの、腰が痛いのって言ってるけれど、 これは番外ですわ。  それが非常に食い物に関係するということを 考えなきやいけない。その上、本なんか読んで いたり、あるいは何かの研究をしているときに、 動物性のものを食べていると、早く疲労が来る んだ。つまり耐久力が持てないんですな。それ はさっきから何遍も言った、尿酸が血管の中に 沈殿すると、それが血液とともに流れますから、 脳細胞に中毒性の反応を起こすがためなんだ。  ところが、多くの人々はこの現象をかえって いいように考えてるんだ。肉を寒いときに食べ ると温まるじやないか。これは滋養効果がある からだと。温まるというのは、一種のプトマイ ントキシンの中毒なんですよ。それを現代の文 化民族たちが知らないんだがね。そして、ああ いうものを食べると、やがてまもなく眠気がさ してくるでしょう。眠気というのは疲労したか らこそ出てくるんだ。疲労しなきや眠気は出ま せん、いくらネタンポだったって。  だから、とにかく正しい真理によって人生を 生かそうとする人間は、間違いは訂正しなきや。 遺憾ながら、現代の文化の進歩があまりにも物 質的方面に偏りすぎていますために、日常の生 活の重大な役割を占めている食生活のごときも、 昔とは全然比較にならないほどの進歩がありま す。  ご年配の大だと、この話はわかってくれるだ ろう。少なくとも六十越した人の若いときを考 えてみろよ。僕らの学生時代には今あるがごと き喫茶店なんてなかった。洋菓子なんていうの は横浜まで行かなきや食えなかった。それから 西洋料理を食べさせる店なんて東京中で三軒だ けだったし、シナ料理は、横浜まで行かないと 全然ない。  ところが、今はどうです? 田舎へ行っても シナ料理があるもの。どんな村へ行っても、た いてい喫茶店があるもの。それが文化の進歩だ と言つちまえば、別にそれは悪いことだとは言 わないけれども、それがために昔と今とは全然 比較にならないほど、食生活の内容に変化があ るでしょう。  ところが、この食生活の変化は悪いほうに変 化したのでなく、いわゆる生活の向上というこ とを目当てにして変化しているものだから、ど うしてもご馳走を余計食いすぎる。ご馳走の中 にはどうしても動物性のものが余計人つている わけだ。牛、豚、鶏の肉、あるいは脂肪の強い 魚肉なども多くなってる。そういうものが多く なれば、自然と食うようになりますが、その食 うようになった結果というものが、自分では気 のつかないうちに、自分の血液を酸性化し ちやって、そして自分の体を弱くしちやってる。  昔、われわれの若いときには、天然痘は植え 疱瘡をすれば防げると言ったもんだ。ところが 今は、お医者さんでも、「天然痘に植え疱瘡は ある程度は効くけれども、この節の人間の体に は効かない場合が多い」と言う。これはどうい うわけかというと、血液の中に尿酸が増え ちやつているからなんだ。  ところが、食い物をこさえるほうは、美味い ものをこさえて、売れさえすりやいいんだから、 あなた方の健康だとか寿命だとかは考えていや しない。自分の製品が売れて、経済関係の方面 が相当潤沢になりやいいんですから。それはい ろいろの工夫をして、新しい食い物を食わせる。 それを喜んで買って食う。  そうするてえと、私の言葉としては文明病で すわね、尿酸過剰の。そういう病に冒されて、 そしてさっきも言ったとおり、一遍しか生まれ ない人生を、もったいなくも、まあ、六十や七 十で死んじやってるんだ。それも医者が不足し ているとか、病院が足らないとかいうならとも かくも、世界で日本ほど医者の数が多い国もな けりや、病院の数が多い国もないのに、世界で 日本人ほど弱い国民がないといわれるような現 状じやないか。  アメリカやヨーロッパにこのごろ、菜食主義 が流行りだした、肉を一切食わないというベジ タリアンというのが。これもようやく尿酸が健 康生活に非常な害を及ぼすことがわかってきた 結果だと私は思います。  だから何をおいても、しょっちゅう私か言っ てるとおり、人間の体の命を保っている血液は、 どこまでいっても弱アルカリ性でなきやいけな い。これを酸性にしちまうと、肉体生命のほう に今言ったようないろいろな害が来るように、 精神生活の方面では思索能力に欠点が出てくる んだ。高等数学を考える力なんか出ちやきませ んよ。だから近来、青少年の犯罪が多いのは、 結局、良い悪いの区別の判断が、その刹那でき ないがためじやないかと思う。それは肉類の食 いすぎたと、私は遠慮なく言いたいんでありま す。  たとえて言うと、ちょうど濃厚な肥料を使っ て促成栽培をしている野菜のようなのが、現代 人じやないかと思う。だから昔と違って、今の 人間は比較的みんな体格がいいでしょう。体格 はいいけど、内容は昔の小さい人間のほうがき わめて丈夫ですよ。今はウドの大木みたいなや っか多いんだから。見てくれはばかによくて、 シナの豚と同じように目方はうんとあるんだけ ど、内容はがらんどうのやつが多いから、やた らに病に罹る率が高いわけだ。  子供もこの節は、はしかに罹ると症状が重い そうですな。だから、よ1くこの点を考えなさ いよ。タンパク質は肉体生命に欠くべからざる ものではあるけれど、動物性のタンパク質をと ると、副産物として発生する尿酸がどうしても 健康を害する原因をなすから、これは気をつけ なきやいけないと。  それもね、タンパク質が動物性のもの以外に ない場合は、これはまた別ですわね。だけど、 植物性のタンパク質でも十分立派に自分の生命 を保ってくれるんだから、健康と長寿を念願す るならば、尿酸量の少ない、植物性のタンパク 質を食べりやいいじやないか。  「あら、いやだ。ニンジンだの、ゴボウなんか 食べるよりも、やっぱりビフテキのほうがいい わ」なんていうお嬢ちやん方は、アメリカやフ ランスの女のように三十越すと、皺だらけに なっちまうよ。そのときになって、「天風さん の言うこと聞きやよかった」なんて言ったって 間に合わないぜ。  若い娘さんたち、よく聞きなさい。天風会の おばさんたちが、歳よりみんな若く見えるのは、 私の教えをよく聞いて実行しているからだ。そ うだろう。受付なんかにはもう六十、七十とい う年配のおばさんが幾人もいるけど、みんな五 十か四十ぐらいにしか見えないよ。それという のも結局、尿酸を体の中に流してないからだ。  まずは動物性=三、植物性=七の食  事から  先輩ではありましたが、あの徳富蘇峰さんと いう人は喘息で、しかも牛肉のすき焼きが大好 きだったの。まだ徳富先輩を知らないときに、 たしかあれは尾崎行雄さんの屋敷で私の恩師、 頭山満先生と会ったときに、ちょうど徳富さ んも来ていた。知ってる大はあの人の声を不思 議な声だと思ったでしょう。そのとき話を聞い て、あれはどういう声か、子供の声でもないん だがと、私は不思議たったね。私よりあの大は 十五ばかり歳が上なんだが。  そしたら、「ありや喘息だよ」つて頭山さん が言うから、私か「ああ、肉の食いすぎでしょ う。どうです? 食い物を改正させてくださら んか」と言ったら、「さあ、言うこと聞くかし らん」て尾崎行雄さんが言う。  「だって、あなた方でさえ、私の言うこと聞い て、長生きしてるじやないの。だから白分たち が長生きしてるのは、天風の言うことを聞いた からだと言えば、まさかあの人、まんざらばか じやないから、言うこと聞こうじやないか」と 言ったら、尾崎さんは「そうかな」と言う。  そしたら頭山さんが、「あん奴がふうけ者か、 ふうけ者でないか試してみよう」とIふうけ 者というのは私の国の言葉でばかということだ がIそう言うてからに徳富さんに、頭山さん のほうが年長者ですから、「おい、徳富、肉食 うじやだめぞ。おいどんも肉食いおっだときに は体弱かってんが、今はとても壮健じやけん、 まねせい」と言った。  徳富さんが「そうですか」と言うと、尾崎さ んも「そうしなさい、そうしなさい」と勧めた。 そしたら「それじゃそうしましよう」と言い出 してから、もう喘息の発作が起こらなくなって、 ご承知のとおり九十四まで生きましたね。  これには今言ったとおり、頭山翁と尾崎行雄 さんが与って力があったわけだ。勧めた頭山翁 は八十九、尾崎行雄さんは九十五、みんな早く 私のところへ来てからに、食い物の養生を私の 言うとおりしたからなんだ。  だから、長生きしたかったら、きようから植 物性のものを余計食いなさいよ。たとえ料理屋 へ行って、動物性のものが出たからって、何も 食わなきやならないって義はないんだから。ど うせ金払うなら食わなきや損だというつもりで 食うかもしれないけれど、そういうつもりで 食ったやつのほうが、かえって損するんだぜ。  だから、論より証拠、自分の体の健康度が一 番いいバロメーターだ。この節の人間、憐れ惨 憺たるやっかいるぜ。六十近くなるというと、 道の五町(約五四五メートル)も駆けだすと ビーピー言ってるやつがいる。結局、血液のア ルカリ性がないがためだ。  とにかく、理屈を言い出したら、それは半年 かかったって、その理屈が絶えないくらい、肉 食の悪い害があるんだけども、時間がないから、 とにかく肉食でできた元気は一時的で、疲労の ほうが甚だしいということを考えなきやいけな い。  だから、本当に人間らしい活動を完全にした いと思う者は、肉食を控えなさいよ。断然する なと言いたいけれど、これ、あなた方の現在の 文化生活ではできないことだから、まず比率を 三割にする。若いときは別だけど。肉食が三だ よ、あべこべにしたらだめだ。動物性のものが 三で、植物性のものが七。これをだんだんだん だん年をとるにしたがって、植物性のものを多 くする。八、九、十というふうに。  きよう、私と一緒にご飯食べた人、私の食べ 方見たはずじやないか。私は魚に一切手をつけ なかったよ。何ももったいないから手をつけな いんじやないんですよ。どうせあなた方に招待 されてる席だもの、何食おうと私の勝手で、む しろ変な気持ちから言ったら、食わないほうが 損する。それでも私か食べないのは、いくらた だでご馳走になっても、自分の仕事の邪魔をす るような体ぽっくりたくない。だから食べない のよ。また、食べたいとも思いません、長い間 の生活ですから。  ところが、あなた方のほうは、動物性のもの が栄養上最も良いんだと思い込んでるからいけ ないんだ。だから、肉類を余計食うなと言って も、食いすぎる恐れがある。だからさっきも 言ったとおり、医者も病院も豊富にある囗本に 生まれながら、健康な者も長生きな者も少ない わけ。さっきもちょっと匸言女のことを言って おいたが、女性は早く年をとりたくなかったら、 できるだけ植物性のものを余計食べなさい。  人類はもともと果食動物  私ね、半年、世界の名女優といわれた、サ ラーベルナールと同じ宿、棟で生活しました。 ああいう人は日本にはいませんけれども、十五 分ばかりステージに立つただけでもって、今の お金でいうと二十万円ぐらいギャラをもらった 人なんです。世界一のオペラの女優だけど、あ の人はどうだったかというと、サンドイッチ だって野菜のサンドイッチ、肉類は全然食わな い。  その時分にはまだ私、こういう研究してませ んからね、「はあ1、これは何か宗教的関係か な」と思ったんです。だけど、そうじゃないん です。さっき匸冐触れたプトマイントキシンと いう中毒性の反射作用を恐れてたんです。その 時分には尿酸という研究がなかったんで。  「あなた、肉類お嫌い?」と聞いたら、「嫌い とか好きとかっていうのでなく、私は肉類は人 間の食べるものじゃないと思つてるから食べま せん」と、こう言うだろう。「多くの人、食べ てるじゃありませんか」と言うと、「あの人た ちはプトマイントキシンを知らないからです」 と言う。  生命のなくなった死骸の中にできる毒をプト マインというのよ。動物性の食い物と植物性の 食い物と、結果として比較にならないほど大き な健康上の差があるのは、このプトマイントキ シンのあるか、ないかなんです。でも、まだわ からない顔して、私の顔見てる人があるな。そ れほど肉体組織に対して知識を持だない人がい るのかと思うと、情けないぞ。  じやあ、これから言うことをよくお聞きなさ い。由来、動物というものは、わかりやすく言 えば、みんな生きてるものなんですよ。それで 動いて生きてる動物は、その命の火を燃やすた めに燃料として食い物を食います。つまり、食 い物は石炭のようなものですね。その燃料に よって運転されてるんだが、これは人間であろ うと、サルだろうと、もっと極端に言っちまえ ば、オケラだろうが、バックだろうが同じです。  こうした動いて生きてる動物がこの地球上に は、人間は万物の霊長として生物扱いするとし て、四つ足と鳥のような二本足と、それから虫 類に区別されますね。そして、食い物の上から 分類すると、四種類になる。第一が肉食動物、 第二が果物を食う動物、第三が菜食、第四が混 合食。人間が丈夫で長生きをするのには、こう いう調査を本当にしなきやいけない。  肉食動物、これは生肉ばかり食って生きてい る動物ですよ。カニボワースといいますね。そ れから果食動物、果物ばかり食べているのはオ ルチャニスト(フルージボワース)ですね。そ れから菜食動物は草食動物ともいうけど、草を 食ってる動物で、これは(Iビボワース。それ から混合食がミツクスワースですね。そして、 この四種類のすべての動物はその食い物の種類 で肉体組織の作用まで違っている、性質も。  さあ、そこでこれから私か言うことの一体ど れに、あなた方は該当するか考えなさい。肉食 動物は腸が短い。だから、日に何遍となく大便 をします。病気でもないのに囗に何遍も大便を する人あったら手を挙げてごらん。それは動物 園に行ったほうがいいぜ。それから水を飲むと き、吸うて飲む人は人間だが、猫や虎はチョッ ピングという飲み方をする。舌ですくって飲む。 こういう飲み方する人、いない? いないらし い。それから夏どんなに暑くても汗をかかない 人間。それから歯に牙がある人。上に二本、下 に二本、牙があったら外しておきなさい、みっ ともないから。それから夜、闇夜にものが見え る人。ああ、おっかない。それは肉食動物。  今のに一つでも該当する人があったら、手を 挙げてごらん。それはこういうところへ来て、 こういう話を聞く人じゃない。上野の動物園に 行く人だ。  こういう点からじ1つと考えてみると、人間 はいかなる食物を食う動物かがわかると思うが、 いかがです? 肉体組織の一切から厳格に論定 すると、人間は第二の果食動物なんです。オル チャニストなんです。古代、原始時代の人間は 木の実ばかりを食べてた。  私は見たわけじやないけども、ヘッケルとい う動物学者の本を読んでみると、人間は今から およそ百万年前に、この世に生じたんだそうで すな。ピテカンエレクトウストロプスというら しいが、あべこべに、ピテカントロプスエレク トウスという人もいます。全身毛だらけ、 ちょっとチンパンジーみたいなものでしょう。 そして木にぶら下かつていた。だからその思い 出の残りで、今の人間の腕を見てみろ、毛がみ んな横に向いてるじやないか。家へ帰って見て みろ。それはぶら下かつているときに、雨露が 入ってくるのを防ぐためだ。手先のほうに毛が 向いていると、みんな毛穴の中に吸い込むので、 しずくを外へ流すために、毛の向きが外に向い てたんだと、こう言うんですよ。  それで、ヘッケルは一体何を根拠に言ってい るのか知らないけども、八十万年、お互いの先 祖は木にぶら下かつていたらしい。そして、食 うものは木の実だけだった。もっとも、場所も エジプトを中心とした、あの方面だけしかいな かった。そして、八十万年経ってから、地面に 降りたと、ヘッケルは言ってるんですね。  みんな、今ミニスカート着たり、洋服着たり しているが、これがみんなピテカンエレクトウ ストロプスのなれの果てだぜ。それで地面を踏 んで歩けるようになってから、地面に降り立っ てから、今度は毛が抜けてきたらしいんだ。そ して、木の皮だの、あるいは木の葉っぱだので 着物をこさえることを考えて、だんだんだんだ ん知識が進むにしたがって、防寒の用意ができ るようになってから、だんだん温帯から寒帯へ 人間が入っていったというんだ。  そして、それと同時に食い物もだんだんだん だん人間の知恵が進むにしたがって、いろんな ものを食うようになったんだけれども、ともか くその昔は果物だけだった。  哲学者で、果物の奨励者である、有名なカー リントンがこう言いましたね。  「果物は第一に精力が増進する。頭脳が明晰に なる。耐久力が非常に余計出る。それでよく寝 られるし、諸事万事においてからに果物を食っ てるてえと、体の組織の中の生活力が増進す る」  これは学生諸君に私は忠告する。せめて試験 中でも米の飯は一遍ぐらいにし、あとは果物で もって試験期を過ごしてごらん。勉強からの疲 れもなくなる。元来、試験中に勉強するという のは間違いだけどもね。普段、勉強してりや、 試験のとき何も勉強しなくたっていいけども、 普段は遊びたかろうから、試験中、とにかく早 飲み込みに暗誦を飲み込みたいような場合には、 頭が薄ぼんやりしてちやだめだ。果物でやって いくと、何とも言えず頭が明晰になるよ。  私にも確信がある。さっきも言ったとおり、 インドで経験してるんですから。インドの山の 中で三年間、そういう食い物を食ってなかった ら、おそらくは、今あなた方が毎日聞いて喜ん でる心身統一法というような方法はできなかっ たろうと私は思う。  それから、長い時間の精神労働には果物が一 番いいですよ。雑念、妄念の発作がない。だか ら、そこなんだよ、昔の禅の坊主が肉類食わな かっだのは。実際、私のごときは、こうした尊 いお仕事の関係上、しばしば人生消息に対して 講演したり記録したりするとき、いわゆる刹那 的霊感を必要とします。考えてたら考えきれな いことがいくらもあるもの、人生には。そうい うときに自分のインスピレーションを求める場 合、食い物が非常に関係するんだな。  それは、そもそもどういうわけかということ は、多く言う必要もないほどわかってるでしよ う。果物には大自然の持つフリルが非常に多い。 力の要素が。そして、その要素の中に、プトマ イントキシンが絶対にありません。果物の死骸 から死骸の毒が出る気遣いはない。果物以外の、 とくに動物性のものにはどうしても細胞組織の 中にプトマイントキシンが多い。そして、それ が活力を減退させてしまう。  私は研究中に、各種の食物を一定の期間、続 けて食べて実験してみた。もつとわかりやすく 言うと、牛肉なら牛肉を三月、豚肉なら豚肉を 三月、植物性のものを三月、果物を三月という ふうに食べて、血液を分析してみたら、肉食し ているときが一番いけませんな。やっぱりフ ルーツが一番です、果物が。それから次が植物 性のもの、いわゆる菜食ですね。肉食は全然だ め、血液をみるみる酸化しちまうんです。尿酸 の結果です。  病気をしない食事が結局安くつく  こういう講演を聞いても、講演は講演、食わ ずにいられるかと思って食う。どうしても食う んだという人は、それはおかまいなし。別に一 緒にくっついてって意見するわけにいかないか らね。けれどねえ、これもいつも言ってるとお り、毎月の講習会にここへ出てみて、ああ、あ の人もまだ来てるな、この人も来てるなという のを見るときの楽しさ。けれども、長く来てた のにきようは来てないな、おとといもいなかっ たけども、というので受付で聞くと、  「先月お亡くなりになりました」  「ええっM まだ亡くなる歳じやねえだろう に」 「それがころっと死んじまいました」  なんてことになると、いい塩梅だと思わない よ、私は。そうだろうが……。  こういう説明を聞く前でも、ある程度までは 実際的に体験してるはずだがな。年とってる人 は知ってるはずですよ、こういうことを。マラ ソンの選手でも、スポーツの良い選手はみんな 植物性のものばかり食って、肉食しないでしょ う。それは耐久力に非常に関係があるからです。  再びインドの話をしますと、行きたてのころ、 毎日三貫目から四貫目(約一一〜一五キログラ ム)ある石を背負わされて、山ヘー緒について 来いと言われたんです。先生なる者はロバに 乗って行くんですよ。  こっちは十貫目切れてる痩せっぽちになっ ちやってるときなの。しかし、とにかく最初は 山で何かにこの石使うんだろうと思って、背 負って行った。そしたら、いつも座禅を組むと ころに「それを置け」と言う。石を置いて、夕 方まで座禅して、帰ろうとすると、「それを背 負って行け」。  ああ、きようは使わないのかと思って、また 背負って帰る。そして明くる日、また「あの石 を背負え」。  三日目にとうとうばかばかしくなって聞いた。  「一体、これ何のため背負って行くんです? 毎日、きようは何に使うか、何に使うかと思っ てきたのに、毎日お使いなさらない。使わない くらいなら、使うときに持って行こうじやあり ませんか」  「使ってるじやないか」  「使ってないじやありませんか」  「使ってるじやないか」  「何に使ってるんです?」  「おまえに担がせてるじやないか」  「私、こんなもの担ぎにここへ来たんじやあり ません」  「これも一つの修行だ。おまえはかつて十七貫 あったと言つたな」  インドは貫とはいいませんよね、ムーメとい います。  「そのとき重かったかい?」  そりゃ重かねえやね、自分の体にくっついて るんだもん。  「それで痩せて、今度は三貫目か五貫目のもの を持たせて、重い、重いというのはおまえの気 持ちが重く思ってるんじやないか」  「しかし、これ背負って歩くと息が切れる」  「ま、十日や二十日、息切れてもしようがない。 息が切れてぶっ倒れたら、ぶっ倒れてろ、石と 一緒に。そのうち、それが軽くてしようがなく なるから」  そしたら、十日ばかり経ったら、ちっとも苦 にならなくなっちやった。一つはやっぱり食い 物のおかげですな。耐久力がついてきたわけな んだよ。つまり、果物の生活ばかりしてたため に、孑孑ルギーがついた。  健康のみならず、本当に肉食しないことがど れだけいいことか、囗本の昔の人間を考えてご らん。元亀・天正時代、世は仮のもの、麻のご とく乱れる。朝に戦い、夕べに戦というふうに、 生涯戦って一生を終わった昔の戦国時代の武将 を考えてごらん。彼らが普段、何を食べていた かというと、お茶漬けに沢庵のこうこだよ。  今、あなた方が「おお、腹減った。何かねえ か」と言って、「ああ、あるよ。沢庵のこうこ」 と返事をされたら怒るだろう。「ちくしよう、 ばかにするな、沢庵のこうこなんか」と、こう 言うだろう。戦国時代には食い物がなかったん だ、ちょうど昭和二十年の終戦までのおよそ一 年間と同じことでさ。  私は長い間、満蒙生活してましたから、あの 場合にも困りやしなかっだけど、皆さんはお困 りだったらしいな。お米の飯なんか見るという と、銀飯、銀飯と言って、飢えたる虎が肉の一 片にかぶりつくようにして、米の飯にかぶりつ いたろう。  普段は芋を食うか、コーリャン米を食ってい た。その時分には、みんな余儀なくされてたん だものね、生きなきやならないから。「ああ、 美味いね、白米よりはコーリャン飯が」なんて 言った大はいないでしよ。私は粗食に慣れきっ だ生活していたから、なんでもなかったんだが、 だいぶ困った大も多くいたらしい。  しかし、戦国武士のあの時代の食い物を考え てみたらば、今の大は贅沢ですぜ。今の中流階 級の人の食い物が、昔の貴族の食い物でしよう な。どんな貧乏人の家に行っても、飯は三度 食ってるし、三度食わないと、何か死んじまう ように思って食ってるし、三度のうち二度は必 ず肉食がついてます。それで、食い物の贅沢な わりに、丈夫なやつはあまりいない。幸いに体 が丈夫かなと思うと、頭が少しとぼけてるやつ が多くてね。  戦国時代の武士は、四つ足は武士の食うべき ものでないと言って食わなかった。ところが、 現代人は反対なんだ。だから、どんな場合があ ろうとも、もうこういうふうに聞いた以上は、 できるだけ植物性のものを余計お食べ。  変な話をするようだけど、経済上の問題から いくてえと、動物性のものを食ってるほうが安 上がりなんです。この節、果物なんていうのは びっくりするほど高いもんね。けれど、最後の 締めくくりで考えてごらん。安いなと思って 食ってるもので病気したら、高いものになるね。 普段ある程度の金払って食ってるもので病気し なかったら、そのほうが安かねえか。  自分のお膳の上に、もしも動物性のものが 載ってたら、絶対に食わなきやならない義務は ないんですぜ。もっともそれを勧めて食わせて いる女房もいる。  「それをお食べなさいよ。とても美味しいんだ から。私、あんた好きだから、一所懸命煮て食 べさせてあげるのに、食べてくれないの? 薄 情者!」なんて。  薄情者と言われても食べないほうがいいぜ。  果物は「霊気体」を強くする  植物性の食い物は、そのものを組織する原形 質性のものが違う。プロトプラズマが。さっき のはプトマイントキシンよ。今度のはプロトプ ラズマ。人間の細胞組織の原形質は植物の細胞 組織と相共通している。さなきだに、肉食動物 の細胞組織と人間の細胞組織は全然違う。それ を考えなきやいけませんぜ。そして、果物の 持っている原形質は生命の波長が長くて、強く て、積極的なんです。だから、果物生活してる と、頭がはっきりして、耐久力が余計つくわけ だね。  米国の心霊協会の発表でいうと、「植物性の 食い物はアストラルボディのリズミカルモー ションを調和する」。アストラルボディという のは、きのう私かあなた方に言った、オーラの、 あの体のことなんだ。人間の体に七つの層で光 がある。原色ですから、白、赤、黄色、いろい ろありますよ、七色。それをオーラといいます。 そのオーラのあるこの層をアストラルボディと いいます。  アストラルボディを訳すと、「霊気体」とい いましようか。お医者が大丈夫だと言っても、 私かいけないと言うやつは必ず死ぬでしょう。 それから、お医者がいけないと言っても、私か 引き受けたと治してしまうのは、これを見る。 オーラがはっきりしている人間は、たとえ医者 が何て言ったって死にはしません。  丹波の豊岡の市長の橋本という人、六年前、 まだ会員になる前にガンに罹った。それで河田 町で手術する前に私のところへ来だの。もう明 日手術するというときに。私、電話をかけて河 田町の中山さんに聞いてみた。  「さあ、このあいたちょっとレントゲンで診た 結果で言うと、手術ができるかできないか、開 けてみなきやわからないくらい重いですよ」と 言うから、「そうですか。僕はそう思わないけ ども」と言ったら、「いや、肉眼で見たんじや わからないでしょう」と言う。  それから、私は橋本君に、「おい、医者は 切っていいか悪いかわからないぐらい、あんた のガンはひどいって言ってるけど、おれの見る 目によると大丈夫だ。おまえ、おれに任せる か」と言ったら、「お任せします」と言った。  「とにかく約束したんだから行って、中山さん がどうするか知らないけれども、切るとも突く ともしてもらえ。あとはおれが引き受けるか ら」  私かそう言っだので、橋本君は病院に行って、 中山さんが手術した。  「これ、一回じゃだめだ。もうあと二、三回し なきや、癒着がぽうぽう激しいから」と中山さ んに言われて、最初の手術のときは十日ばかり 入ってました。それから、「第一期は済んだか ら退院していい。一月ばかり経って、またおい で」と言われてたんだけど、私は「行くな。故 郷に帰ってしまえ」と言った。  やっぱり橋本君はえらいな。私の言うことを そのまま純真に聞いて帰った。そして、中山さ  んが一月も経ったらだめだろうと思ってるとこ  ろへ、病院に行かないでしょう。行かないもん  だから、死んじやったと思った。本人死ぬどこ  ろじやないんだよ。それから今度、半年ばかり  経って、私のところに来た。  「市長に推薦されてるんですが、市長になって もいいですか?」  「ああ、いいとも、いいとも」  「この体で?」 「ばか野郎。体で市長するんじやねえや。了見 でしろ。『倒れてのち已まない』という気持ち でやれ」  「わかりました!」と言ってやりだしやがって、 今度再選して、また市長になった。  こんなのがいるんだよ、私の会員に。そうか と思うと、ガンでもないのにガンのまねして死 んじまうやつもある。ガンまで行かない、トン ビでもってガンのまねして死んじまうやつがあ る。  つまり、このオーラというものを見て、オー ラがしっかりしていたら、どんな病に罹ったっ てびくともすることないです。オーラが薄弱に なると、人間の肉体から霊気が消えてしまうん ですから、そのままあの世に行きにけり、にな るわけだ。  だから、そのオーラが、もっと科学的にいえ ばオーラを発しているアストラルボディを形成 する要素が果物の中にうんとあるということを 聞いたら、肉食はできるだけ避けたほうがいい かと思うが、どうだい? 年をとってたら、年 をとってるほど、なるべく食べなさんなよ。  こういうとき、私を睨めているやつは肉屋か 魚屋だな。睨めたって何したってかまわないよ。 長生きさせたいから言ってるんだから。  いいかい、ご馳走というものは一週間に一遍 ぐらいでけっこう。あとはなるべく、その昔の お女中が食べたようなものを一所懸命食べなさ い。けつこうなものがいくらもあるじやないか。 豆がある、納豆がある、コンニャクがある、ゴ ボウがある、ニンジンがある。そして、おまけ に囗本には尊いおこうこというものがあるじや ないか。別に金を貯めるために、そういうもの を食えと言うんじやないんだよ。あなた方の命 を長くしたいがために言つてるんだから、忘れ ないで、一所懸命励行なさいよ。  つまり、ご馳走が滋養分じゃないんだから。 ご馳走になってしまうてえと、「これ、何だ い?」というようなものがあるだろう。元がな くなっちまってるのがあるよ。だから、贅沢な 食い物が体にょいとは言えないということも忘 れちゃいけませんよ。  元来、生物学上から断定すると、動物の原始 欲望は共通的に三つあるんだ。食欲と性欲と睡 眠欲。性欲は系統相伝のために、これはどんな 人間にでもあるに決まってますが、このほうは 文化が進んだからって、別に非常な進歩も発達 もしやしません。私は神代の時代にいなかった から知らないけども、神代の時代も今も、人間 をこしらえるやり方は同じだろうと思う。ただ、 神代の時代には雲の上でもってこさえてたかも しれないけどもね。  けど、食い物のほうは人類の進化と並行して、 どんどんどんどん食品調理の上に変化が来てま すね。もしも木の実ばかりを食べてた人間が今 現れたら、食い物を見て驚くだろうね。こんな もの食えるかと。  それが知識の進歩にしたがって、さっき言っ たとおり、「これ、何だい?」「へえ1、これが そうかい」「ふ1ん、何だかわからなかった」 なんていうものがありやしない? それで、そ ういうものを食うことを何か非常に自慢にする 人もいるけれども。食い物は今言ったとおり、 生命の火を燃やす石炭なんだからな。石炭の良 し悪しでもって器官が早く痛んだり、悪くなっ たりする恐れもあるんです。  でも何はともあれ、さっき言ったように七対 三の割合を逆にしないように。わかった? そ うすると、肉体組織が丈夫になるばかりでなく、 神経系統の方面までが非常に調和してくるよう になるから。そうすると、なんとはなしに、理 由なく、こうやって生きてることの楽しさを感 じるようになる。  毎日毎日生きていながらも、心に言い知れな い負担を感じて、「人生なんていうものはしち 難しいもんだな」と思ってる人が多くない? 結局、考え方の違いなんだから。考え方が違う のも、結局、大脳細胞の中を循環してる血液の 良し悪しに非常によるんだから。  よく年をとるてえと、頭がぼんやりして、言 うこともしどろもどろになって、思考力がはっ きりしないという人がいますけども、嘘ですよ。 頭というものは順当に使っていきや使っていく ほど、多々ますます働くようにできてるんだか ら。  それもこれも、悪い燃料で火を熾したと同じ 結果が来てることが、その人々をそうしちやっ てるんだろうから、きようからひとつ……、 きようはもう食わないだろうけどね。そうかと いって、別に私は酒を飲むなとは言わないよ。 適当に飲むのはいいけれども、食い物のごとき も「腹八分目、病なし」。仰向いて歩かなきや 歩けないほど食っちやだめだぜ。なんか、物珍 しいものを食わされるというと、恥も外聞もあ るもんか、まるで敵討ちにでも行ったような気 持ちで食ってるやつがあるけど。  何もきよう死んじまうんじやねえんだから、 ゆっくり楽しみながら、体に悪いものは食わな いようにしてからに、命を大事だと思って、本 当に守って生きなさい。きようの講演はこれで 終わりにします。  『幸福なる人生』講演テープ出典 第一章 昭和三十二年十二月・神戸 公開講演   会 第二章 昭和三十一年二月・神戸  講習会 第三章 昭和三十一年二月・神戸  講習会 第四章 昭和四十年        外部講演   会(新入社員研修) 第五章 昭和三十一年二月・神戸  講習会 第六章 昭和三十六年十二月・神戸 講習会   (研修科) 第七章 昭和四十三年四月・東京  講習会   (研修科)  本書は、天風会が刊行する『中村天 風講演録CD「心身統一法 入門編」』 全七巻(十三枚)を編集し書籍化した ものです。  本文中、現代の観点からは適切と思 われない箇所がありますが、講演が行 なわれた時代背景、当時の学説等にか んがみ、原文(講演)のまま用いたこ とをお断りしておきます。  [著者紹介] 中村天風(なかむら てんぷう) 1876年(明治9年)7月30日、東京府豊島 郡(現東京都北区王子)で生まれる。本名、中 村三郎。1904年(明治37年)、日露戦争の 軍事探偵として満洲で活躍。帰国後、当時死病 であった奔馬性肺結核を発病したことから人生 を深く考え、真理を求めて欧米を遍歴する。そ の帰路、ヒマラヤの麓でヨガの聖者カリアッパ 師の指導を受け、病を克服。 帰国後は実業界で活躍するも、1919年(大 正8年)、突如感ずるところがあり、社会的地 位、財産を放棄し、「心身統一法」として、真 に生きがいのある人生を活きるための実践哲学 についての講演活動を始める。同年、「統一哲 医学会」を創設。政財界の有力者をはじめ数多 くの人々の支持を受け、天風哲学として広く世 間に認められるようになる。1940年(昭和 15年)、統一哲医学会を天風会と改称。 1962年(昭和37年)、財団法人の設立許可 を受ける(2011年〈平成23年〉、公益財団 法人へ移行)。 1968年(昭和43年)12月1囗逝去、享年92。 著書『真人生の探究』『研心抄』『錬身抄』(以 上、天風会)他。 公益財団法人天風会 〒112‐0012 東京都文京区大塚5‐40 ‐8 天風会館 TEL一〇3−3943−1601 FA χ一〇3−3943−1604 uRL: http://www.tempukai.or.jp 幸福なる人生 −中村天風「心身統一法」講演録 著 者一中村天風 ○公益財団法人天風会 この電子書籍は『幸福なる人生 中村天風「心 身統一法」講演録』二〇匸一年一月十七日第一 版第四刷発行を底本としています。 電子書籍版 発行者一清水卓智 発行所一株式会社PHP研究所     東京都江東区豊洲五丁目六番地五二号          〒←UJ&}Uり          I     製作日一二〇一五年五月二八日 本書の無断複写(コピー)は著作権法上での例 外を除き、禁じられています。