役職定年_荒木源       I  午前七時十分。社員食堂は無人、少なくともそれ に近い状態であるべきだった。  七時からの勤務が認められており、食堂は休憩所 としても位置付けられているから同時に開放される ものの、食事の提供などはもちろんまだだ。  ところが。  エレベーターを降りて入口までやってきた加納英 司の足が止まった。  これかI。  二百人近く入るスペースだが、申し合わせたよう にみな奥のほうに席をとっている。といってぎゅう ぎゅうに集まるわけでもなく、二、三人のグループ がある程度だ。全部で十五人くらいか。  加納が中に入ると、気づいた者たちがいぶかしそ うな、そして迷惑そうな表情を見せた。  構わず近づく。向こうは慌てたように、それぞれ 手にしていた雑誌や新聞、スマホに視線を戻し、も う目を合わせようとはしなかった。  誰のそばに行っても反応は似たり寄ったりだ。時 間を潰すもののほか、持ち込んだのだろう飲食物を テーブルに広げている。  外見だけで確かなことは言えないけれど、おそら く全員五十代以上。ほとんどが男性。もっとも、そ の年代の社員の構成比通りでもあるだろう。  さらに進むと、いくつか先のテーブルから、荷物 をまとめた男がそっと立ち上がった。背中を向けて 遠ざかってゆく。後ろ姿に見覚えがあった。奥地文 則、人事課のシニアだ。  テーブルを回り終わった加納も無言のまま食堂を 出た、ほっとした空気が伝わってきた。エレベー ターホールに奥地はもういなかった。階段を駆け下 りているのかもしれない。  朝日を浴びて輝く大手町のビル群を大きな窓から 眺めながら、加納は、自分に与えられた仕事に思い を巡らせた。  昨日、出社初日の加納は、挨拶に行った常務の 三枝義信から、耳慣れぬ言葉を聞いたのだった。  「妖精さん?」  応接セットの向かいで三枝はこくりとうなずいた。  「朝早く社食に行けば見られますよ。フレックスを 目いっぱい使って、タイムカードを押したらすぐ やってくるんです。ほかの社員が出社してくる九時 ごろには職場に戻るが、しょっちゅう席を離れてど こかぶらついている。三時には退社。なかなか姿を 見られないから『妖精さん』というわけです」  「はあ」  「仕事など何もしていません。言葉は悪いが、給料 泥棒です」  紺の三つ揃いを几帳面に着こなした三枝は悲しそ うに首を振った。  「そういうシニア社員の人件費を本当はI例えば、 海外での拠点整備に充てたいところです。国内市場 の拡大が見込めない中で、これからの生保には最重 要ポイントですから。あるいは業務のデジタル化。 AIも取り入れていかないと。まつたなしですが、 資金がいくらあっても足りません」  「ふうむ」  「加納さんに、彼らを何とかしていただきたいと 思っています。速やかに」  「なるほど」  そう応じたものの、加納には戸惑いもあった。  年度替わりに合わせる恰好で、外資系のクレジッ トカード会社から転職した。  新卒で入っだのは証券会社だったが、どちらでも 多くの期間を人事畑で過ごした。  いわば金融系人事のエキスパートとしてキャリア を積んだところで、大手生保の一つに数えられる永 和生命が、構造改革推進室長という肩書を用意して 迎えてくれたのだ。  新設された部署で当面は部屋も人事課と一緒だけ れど、自由に腕を振るってもらえばいいという、ま だ四十二の年齢を考えれば破格の話たった。  ただ、シニア対策をメインで担当するとは聞かさ れていなかった。加納がやりたかったのは、近年ど の業種でも重要性が高まっている男女共同参画とか、 残業の削減といった仕事だ。面接でも主にそういう 話をして採用されたから、関わらせてもらえると 思っていた。  「もちろんいずれはやっていただきますよ。妖精さ んたちを絶滅させたら」  「絶滅−ですか?」  温厚そうな三枝の口から出た穏やかならぬ言葉に ぎよっとして、加納は訊き返した。  「人件費の問題は大きいと思いますが、生涯現役が うたわれる時代です。政府も定年のさらなる延長を 目指してるわけじやないですか。いずれは六十五歳 定年、いや七十歳ということになってくるのでは」  「だからこそです」  静かな、しかし断固たる口調で三枝は言った。自 い指を顔の前で組み合わせて続ける。  「しがみついてもいいことはないと分かってもらう んです。でないと会社はとことん食い物にされてし まいます」  「能力開発によって、生産性が上がれば妖精さん じゃなくなりますよね」  「能力開発ですか」  苦笑が唇の端に浮かんだ。 「彼らに開発できるような能力が残っているとは残 念ながら思えないのです。時間と労力の無駄でしょ う」  そこまで言われたら加納は黙るしかない。人事担 当役員でもある三枝は、加納を採用してくれた恩人 だ。  「辞めてもらうしかありません。加納さんに期待し ています。まさに当社の将来をゆだねるつもりなん です」  「分かりました。こちらこそ、よろしくお願いしま す」  加納は頭を下げた。  食堂から構造改革推進室、というか人事課の部屋 へ戻ると、奥地がパソコンに向かっていた。  六十二歳とのことなので、二年前に定年を迎えて いる。希望すれば再雇用され六十五歳まで働ける制 度を利用しているわけだ。  若いころから人事、総務畑中心に歩いてきて総務 部の次長までやったように聞いた。そこそこのエ リートだったと言えるだろう。  やや小柄という以外特徴のない体形、自いものが 半分くらい交じった七・三分けの頭。スーツは安物 ではなさそうだが、形が古臭いため、トータルの印 象が年齢以上に老けて感じられる。  「おはようございます」  食堂で見たとは言わずに声をかけると、黙って目 礼だけ返してきた。しかし手が動いていない。画面 をにらみ、いくつかキーを叩くものの、すぐまた固 まってしまう。首を左右に傾け、腕組みをする。  加納は立ち上がってそばへ行った。ワードの画面 には@A、と項目の番号が振ってあるほか何も書か れていない。  わざとらしく「うIん」と唸つてみせた奥地は、 「査定基準の見直し案を出すことになつてるんだけ ど、切り口が難しいなあ」と独り言めかした説明を 始めた。  「その話は聞いてませんでした。いつ見直すんです か」  「いや、時期まではっきり決まつてるわけじゃない んだ」  「狙いは何でしょう。成果主義の強化、なんて今更 ですよね。トレントからいえばやっぱり透明性を高 めるのがポイントになりますか」  奥地はぎこちない笑みを浮かべた。  「何ってことはないらしいよ。全般的に、気がつい たことを言ってくれみたいな話だったから」  査定基準の見直しが本当に計画されているか怪し い。深追いはしないことにした。加納には勉強する ことがたくさんある。人事の基本はまず組織とその 構成員をよく知ることだ。  「資料を社内データベースから引っ張れると聞いた んですが、どうするんですかね」  ひと息ついていた奥地がもじもじし始めた。  「まだ教えてもらってなくて」  重ねて頼むと、おっかなびっくり加納のパソコン を操作し、社内データベースのトップ画面までは何 とかたどり着いた。  「ええと」  自席に戻って引き出しを探り、持ってきた紙切れ を片手にアルファベットと数字を打ち込んだがはね られてしまう。 「おかしいな。前はこれでいけたと思ったがな」 「あまり使わないんですか」 「いやIそんなことはないよ。しょっちゅうやっ てるさ、もちろん」  「パスワードが変わったんですかねえ」  結局、新たに探してきた別の紙に書いてあったの が正しいパスワードだった。  ログインできたものの、奥地は何のデータがどこ に入っているのか分からない。  「ここもI違うか」  傍から加納が見ても間違った方向に進んでいるの が感じられる。奥地は焦りを深めながら、未練がま しく「おかしいな」を繰り返す。  「しようがないですね。そのうち分かる人が来るで しょう」  ぐったりしている奥地に加納は「それにしても、 ずいぶんお早いんですね」と言ってみた。  「年寄りだからね、早く目が醒めてしまうんだよ」  「毎日これくらいに来られるんですか」  「毎日ってことはないよ。週『ニーいやもう ちょっとかもしれないが」  曖昧に答えてから「加納君こそ、どうして」と質 してきた。牽制するつもりなのだろう。  「みなさんの状況をできる限り幅広く、実地に拝見 するところから私の仕事が始まると思っていますの で」  にこやかに返すと、奥地は口の中で聞き取れない 言葉をつぶやいた。自分の席に戻ってしばらくは さっきの続きを考えるポーズをとっていたが、耐え きれなくなったように席を離れて部屋を出た。  前日は加納自身、挨拶回りなどで部屋にいないこ とが多かったため知らなかったが、ずっとこんな調 子なのか。  奥地が戻っだのは二十分近く経ってからだ。ドア を開け閉めするにも、歩くにも気配を消そうとして いる。  もはや構うのも馬鹿馬鹿しく、加納は気づかない ふりで、メールのチェックなど、できる作業を進め ながら早く別の誰かが来てほしいと願った。  八時半になると、おあつらえ向きに池端美紀が姿 を見せた。  池端は今のところ一人しかいない構造改革推進室 員だ。正社員ではなく、派遣会社から来ている。  おいおい増強するから我慢してくれと三枝に言わ れた。もとより加納は贅沢の言える立場ではない。  さっき奥地に尋ねたデータヘのアクセスを、池端 はあっと言う間に実演してくれた。  「奥地さんにも教えてあげてください。忘れちやっ たみたいだから」  奥地の表情が硬くなったのは予想通りだが、池端 まで戸惑うふうで加納ははじめ理由が分からなかっ た。  「奥地さんにですか?」  「必要でしょう。人事−いや永和の人ならみん な」  加納が答えると、池端は苦い薬を飲み込んだよう な顔で奥地の席に向かい、説明を始めた。抑揚のな い説明のあいだに、これまた機械が発しているよう な奥地の相槌がはさまった。  少しあとで加納がトイレに立った時、池端がつい て廊下に出てきた。  「室長」  硬い調子で呼び止められて、加納は振り返った。  「名前でいいですよ」  「では加納さんと呼ばせていただきますI」  自分から声をかけてきたくせに、一瞬ためらうみ たいな表情を見せてから池端が言った。  「奥地さんにパソコンのことお教えするのは難しい です」  「あの人が苦手にしてるらしいのは分かるよ」  加納は、池端と自分、両方に言い聞かせるつもり で言った。  「大変だろうけれど、丁寧に教えたらちょっとずつ でも慣れてもらえるでしょう。理解力がないわけ じゃないだろうし」  「理解しようというお気持ちを持ってらっしゃらな いように思えます。前は奥地さんにどうにかして仕 事してもらおうっていうのがあったんですけど、こ のごろはみなさん諦めて、頼むのをやめてます」   一気に言うと、ぺこりと頭を下げて踵を返した。 廊下に残された加納は、トイレのために出てきたの も忘れて、後ろ姿を見送った。  各部署から情報を集めて、加納英司は永和生命に 棲息する妖精さんたちの全体像をつかんでいった。  中枢の中枢といえる経営企画など、ごく一部を除 いてどの部署も役職のないシニアを抱える。そのほ とんどが妖精さんだ。妖精さんは社内のいたるとこ ろに巣くっていた。  妖精さんにはまず、ITリテラシーをはじめ、今 の世の中で必要なスキルが欠けている。身につけよ うという意欲もない。だから何もやらせられない。 あるいは何もしたくないから身につけようとしない のか。  生産性の柢さそのものに劣らず、周囲に与える影 響が深刻だ。当然ながら、仕事に追われる同僚は妖 精さんにいい感情を持っていない。  「昔次長だったとか、関係ないと思います」  池端美紀はおずむずとつぶやいた。  「正直、いらっしやっても邪魔なだけです。ご本人 も自覚してらっしやるから、出歩かれるのかもしれ ないですけど、だったら会社をお辞めになるべきで すよね」  「やっぱりそうなっちやうか」  「奥地さんが人員として数えられるってことは、実 質一減ですから」  うIんと加納は腕を組む。  それでいて奥地文則の年収は五百万円近い。定年 前の半分以下、五十五歳に設定されている役職定年 の前と比べればざっと三分の一だが、もっと安い給 料でばりばり働く若手もいる。  特にI。  向かいで几帳面にパスタをフォークに巻きつけて いる池端の表情を加納は窺った。  本人がそういう話をしないし、派遣元からいくら 貰っているかはっきり分からないが、二百万円台で はないか。  楽ではないだろう。人事課にいる同じくらいの年 頃の正社員が誘い合わせてランチに行っても、池端 はいつも弁当だ。今日は前もって約束して連れ出し た。もちろん奢るのだけれど、彼女が選んだのは一 番安いセットだった。  まだ数日一緒に働いただけだが、何を頼んでも さっとやってくれる。永和の人事に来てすでに丸三 年ということで、業務には並みの正社員以上に詳し い。  廊下に加納を追いかけてきた時の、思いつめた雰 囲気が思い出された。伝えずにいられなかったのだ ろう。  「不公平は、よくないよね」  「自分のせいなんですけど」  問わず語りに、池端は自分の就活について話した。 広告業界を志望してエントリーも代理店に絞っだの だが全滅、慌てて手を広げるも間に合わず、派遣会 社しか行き先がなかったらしい。  「今の池端さんを見てると能力は相当高いと思うよ。 留年して頑張ったら志望がかなったかもしれない ね」  「−金銭的な事情がありまして」  池端はそれだけ答えた。突っ込むところではない だろう。  加納も就職氷河期と呼ばれた時代に社会に出るめ ぐり合わせだった。池端と違ってなりたいものとて 特になく、手当たり次第に受けたのが幸いしたか、 小さいながら正社員で雇ってくれる会社があり、少 しずつステップアップしてここまで来た。  「池端さんは若いから。まだまだ変われるよ」  気休めに聞こえないよう注意したつもりだけれど、 簡単でないのは分かっている。本人が誰より身にし みているはずだ。   一からキャリアをスタートさせるとなると、二十 八で早いとはとてもいえない。池端の微笑が投げや りに見えたのは心なしだったろうか。  「与えられた仕事を一生懸命やるだけです」  「期待してるよ」  恵まれた者に対する怒りも、今度のプロジェクト を進める原動力になるはずだ。  確かに妖精さんたちは何とかしなければならない。  このままでは組織がぎくしやくし、活力を失うだ ろう。大企業だって内側から錆が広がれば、気がつ いた時は手遅れだったとなりかねない。  けれども、三枝義信の「絶滅させる」とのもの言 いには、なお抵抗を感じた。  この世のものでないような呼び方をしているが、 妖精さんとて人間だ。それなりの扱いをすべきだろ う。まして長く永和に籍を置く者には、今はともあ れ、会社の屋台骨を支えてくれた恩ある存在ではな いか。  今になって加納は、自分が永和に採用された理由 として、首切りにドライな外資にいたことがあった かもと思い始めていた。  確かにクレジットカード会社では、成績の上がら ないスタッフに対して普通に、辞めてほしいと話を した。  しかしそういう会社の場合、勤めるほうも初めか らそういうつもりで就職しているから悲壮感はない。 必要とされないならしようがないと割り切り、需要 がある新たな職場を探すだけだ。  また加納は、これまでの勤め先で、働かないシニ アと関わったことがなかった。いたかどうかさえよ く分からない。  外資だと、そもそも五十代以上が役員を除けば極 端に珍しい。妖精さんなど、もしいたって、それこ そあっという間に追い出されて目に留まる暇がな かっただろう。  証券会社は一定数のシニアを抱えていたが、働い てくれるとかくれないとか、少なくとも人事のテー マにならなかったと思う。  このごろほど高齢化が進んでいなかったろうから 人数は控えめだったにしても、全員にあてがう役職 があったはずはない。  シニアたちが残らず、ばりばり仕事をしていたと も考えにくい。実際「窓際」という言葉はよく使わ れていた。いや、管理職だって、ぐうたら禄だけ食 んでいるのが結構多かった気がする。そんなものだ とみなのみ込んでいたのだ。  時とともに企業の生き残り競争が厳しくなり、許 されていた無駄も排除しなくてはならなくなった。 ひしひし感じることだ。だとしても、人生の先輩を ゴキブリみたいに扱っていいのか。  妖精さんたちだって、自らのあり方をよしとして いるわけではないだろう。向上心を刺激すればやる 気になってくれるはずだ。  能力が残っていると思えないと三枝は言ったが、 若者並みにITを使いこなすまで望んでいるわけで はない。必要最小限さえ押さえてくれれば、経験を 活かす道も見えるI。  だから加納はまず、指示に逆らう恰好になるのは 承知で、妖精さんたちを戦力にする可能性を探った のだった。  最初に検討したのは研修だ。もっとも、研修は人 事部の行事になり、推進室だけで進められない。  人事部長はほとんどお飾りで、大事なことはほと んど三枝と人事課長の山瀬忠浩のラインで決まって いるらしいと加納も理解しはじめていた。その山瀬 がまず立ちはだかった。  「辞めさせるしかないって、常務に言われてるだ ろ?」  山瀬は、スマート、怜悧といった人事のイメージ から外見的にはやや遠い五分刈りの大男だが、肩を すぼめて首を振った。  「ですけど、うまくいけば儲けものですし、妖精さ んたちにも喜んでもらえるんじやないかと」  「みんなが万々歳ってか。確かに理想だ。しかし世 の中、そううまくはいかないもんだよ」  「うまくいくかいかないか、試してみる価値はある と思います」  「試せることはもうあらかた試した」  山瀬はそれまで、加納のやっていることにまった く干渉してこなかった。部署として独立していると はいえ、同じ部屋で席も隣り合わせなのだから、す でに研修などやっていたなら教えてほしかった。一 方で、手掛ける人間が違えば結果は違ってくるとも 思った。  「どんなことをなさったんです?」  「考えられる限り、に近いよ」  山瀬が挙げたのは研修だけでもIT、経済動向か ら若い世代との接し方まで、片手に余った。  「参加してもらうところから大変だ。妖精さんたち、 さぼりようがないとなると病気にだってなっちやう から」  食い下がろうとするのに先に釘を刺し、さらに山 瀬は念を押した。  「常務はスピード感を優先させたいわけだろ。予算 もかかるし。絶対通してくれないよ」  選択肢は与えられていないらしい。  それでも加納は諦めなかった。意地にもなった。 とりあえず手近な奥地を何とかできないか。  池端に頼むわけにいかない。彼女も、口にこそ出 さないが加納の方針に反対なのは明らかだ。だから 自分でやってみた。  「どうです。慣れるとデータベースは便利でしょ う」  例によって席にいないことが多い奥地に、チャン スを捉えてさりげなく声をかける。  「え? ああ、ああ」  案の定のおとぼけだ。しかも加納に慣れたせいか、 焦った様子が前より薄れた気がする。  奥地だって特命のことは分かっているだろうに。 見くびられたか。  「やっぱり難しくてねえ」  「それはどじやないですよ。私はできるようになり ましたよ」  「加納君はまだ若いからねえ」  苛つかないよう、丁寧にと胸のうちで念仏のよう に唱えつつ、このあいだ池端が教えたはずのことを 一から繰り返す。  しかし状況は変えられなかった。理解しようとす る意志を奥地の表情に見出すのは、ラッシュの通勤 電車で席を探すようなものだ。  身につけたかったらメモくらい取るだろう。話を 聴く気すらない。お義理で座っているだけで、早く この時間が終わることしか願っていない。  「ちょっと休憩させてくれるかな」  我慢の限界というふうにつぶやいて奥地が立ちあ がっだ。  「お戻りになったら続きをやりましよう」  懸命に笑顔を作る。 「また今度にしてもらえるかな」 「しかし」 「いいんだよ。加納君も忙しいだろう? こんなこ とに時間を使うなんて勿体ないじやないか」  奥地は小一時間戻ってこなかった。池端が、お分 かりになったでしょう? と言わんばかりに加納を 見た。  そんなことが何度か繰り返された。  飲みにも誘ってみた。若者相手にはこのごろ禁じ 手になっているけれど、妖精さんなら問題ないだろ  「再雇用の身だから余裕がなくてね。だから早く帰 るようにしてるんだ」  いつもそう言う奥地が、数日後、珍しく五時まで 会社にいた。しかし誘いには乗ってこない。  加納は、部屋を出た奥地をこっそりつけた。  会社が入るビルの裏手へ同ってゆく。後に続きか けてはっと身体を引っ込めた。奥地と同年配の男た ちが数人たむろしていた。奥地も加わる。  改めて様子を窺った。作成中の「妖精さんフアイ ル」で憶えのある顔がいくつか見えた。社食にもい た気がする。  さらに一人を加えて一団は移動し始めた。奥地も 普段からは想像できない晴れ晴れとした表情で、談 笑しながら歩いてゆく。気が緩んでいるのだろう、 周りに注意することもなく、十歩ほどの距離まで近 寄っても大丈夫だった。  「加納−だったよな。どうしてんの?」  自分の名前が聞こえて耳をそばだてる。 「熱心だよ。御自ら俺にパソコン教えようとするん だ」  「笑えるな」  「メールが打てりゃ十分だろうっての」  「エクセルは? 人事だって使うだろ。給料の計算 あるもんな」  「紙と電卓でやりゃいいんだ、やるとしたらだけど な」  「算盤じゃないのか?」  「いいねえ。もう見たことない奴が多いかもなあ」  大笑いしながら妖精さんたちは有楽町に到着し ガード下へ消えた。後で奥地のタイムカードを調べ ると、三時から五時までは残業扱いになっていた。 その間の半分、課にいなかったと思う。  追い出されないで済むよう、自分が一生懸命に なっているのに。  気持ちが萎えた。  三枝の言葉が改めて頭の中で響いた。  山瀬、池端もそう思っているのだ。認めるべきか もしれない。五十歳や六十歳で記憶力や認識力がど れくらい衰えるのか分からないが、少なくとも努力 する能力はすでに失われているようだ。  悪戦苦闘を見て見ぬふりのようだった山瀬が囁い てきたのは翌日だった。タイミングを計っていたの だろう。  「気が済んだんじやないか」  自分は恰好をつけたかっただけなのかもしれない。 切る時は切らなきやしようがない。癌みたいなもの だ。  加納は「はい」と頭を下げた。  退職させる方向へ舵を切り、具体的な方策を考え はしめた。  その方面でも、加納英司が来る以前からいくつか 手のついていたことはあった。  退職金の積み増しとセットになった「希望退職」 が何度か募集された。定年より早いほど積み増し額 も多くなる。  結果はというと、シニアでも妖精化していない、 つまり仕事のできる人、場合によっては有望とされ ていた若手、中堅までが、永和を上回る条件の会社 に移ったり、起業したりするケースばかりだった。 つまり妖精さんを辞めさせる目的はほとんど達せら れなかった。  しかし、妖精さんたちに的を絞って働きかけると、 「希望退職」の募集とは法律的な位置づけが異なる 「退職勧奨」になる。外資では一般的でも、パワハ ラだ、退職の強要だと訴えられるリスクがあって簡 単に踏み切れない。  まして一方的にクビにするなど、会社が潰れか かっているなどの場合を除いて認められず、もちろ ん永和生命は当てはまらない。  とりあえず希望退職募集でいくしかない。  「でも、漫然と繰り返してもこれまでと同じになっ ちやいそうですよね」  池端美紀がつぶやく。  もっともな心配だ。募集の告知と別に、五十歳以 上の非役職者を対象に、メールでメッセージを送る ことにした。  三枝義信に計画を話したら、「文章より、あなた が語りかける動画のほうがインパクトがあるんじや ないですか」と言われた。  「動画ですか? 私か?」  ちょっと戸惑った加納に三枝はさらに主張した。  「ここは責任者が、不退転の意思を見せるべきです。 気魄で、あの連中を追い込むのです」  「気魄ですか」  確かに、奥地を見ているだけでも妖精さんの面の 皮は相当分厚そうだ。生半可では効かないだろう。 「分かりました。ガツンとかましてみます」  まずは原稿作りだ。 〈みなさんは会社に貢献できていますか?〉  池端に見せたら「『もちろんです』なんてしれっ と答えられちやいそうな気がします」と言われた。  〈生産性の柢い社員を抱えたままでは、会社は競争 に負けてしまいます〉  これもダメだ。負けようが勝とうがどうだってい いとなりかねない。妖精さんだちからすれば会社に いるのはせいぜい十年かそこら。後は焼け野原で構 わないのだ。  良心に訴えても無駄なら、損得勘定だ。辞めたほ うがプラスと思わせなければ。  〈みなさんは永和で本当に幸せなのでしょうか〉  お、いけそうだ。出だしはこれだ。  〈社会は日進月歩です。永和生命を取り巻く環境も すさまじい勢いで変化しています。残念ですが、み なさんが長年にわたって積み重ねてこられた経験だ けでは、充実した会社員生活を続けることはもはや 難しいのです〉  まずまずではなかろうか。 〈もちろん新しいスキル、知識をこれから身につけ ていただく道もございますが、実際問題としてなか なか難しい事情もうかがわれます。ご無理をなさる より〉  加納の本心としては多少の無理をしてほしい。し かし向こうに気がないわけだから、ことを荒立てず、 望む方向に進めるためこういう筋道にする。  〈みなさんによりふさわしく、輝いていただける場 をお探しになるべきです。そのような場はたくさん あるはずです〉  言い切っていいのか、ちょっと不安になるのを打 ち消した。  永和にいた人間が、そのへんの小さな会社でまっ たく通用しないわけはないだろう。自営で何か始め てもいい。  何といっても年金が出るんだから、かっかつしな いで趣味にでも没頭すればいい。やりたくてもでき なかったことに思い切り時間を費やす。羨ましい話 だ。  〈会社は、みなさんが人生の新しいステージに進ま れるのを全力でサポートすると約束いたします。ど うか今一度、ご自身の将来をじっくりお考えになる よう願ってやみません〉  キャリアコンサルタントの講演会と転職相談セミ ナーを付ければ完璧だ。  人事課長の山瀬忠浩もそこは了承してくれた。  「できたら、希望退職後のモデルになるような方も 紹介したいんですが。心当たりありませんか」  「モデルねえ」   山瀬は眉根を寄せた。   過去、希望退職に応じた妖精さんはゼロに近いの である。  成績抜群の営業マンが業界首位のジャパン生命に 移ったとか、売れ筋の商品開発に関わってきたマー ケターが個人事務所を作ってあちこちと大型契約を 結んでいるとかは、妖精さんとあまりに関係なさそ うで取り上げられない。  「何とか探してみるよ」  「よろしくお願いします」  待つ間に自分の撮影を始めた。  池端にスマホ用の三脚を買ってきてもらった。会 議室を借りてセットしたスマホの前に座り、原稿は 見ず、頑張って憶えたセリフをしゃべった。  原稿を書くのと比べてもはるかに難しい。実を言 うと加納は、テレビ会議などもあまり好きではない。 緊張してすぐ噛んでしまう。  十同以上撮り直した。見返すのがまた恥ずかしい が、ようやく「こんなものかな」と思えるのが出来 上がった。  そのころには山瀬が、注文に沿ったOBの連絡先 をいくつか渡してくれていた。  一人は不動産管理会社で取締役の肩書を持ってい た。永和を辞めたのは五十ちょうど。その時は役付 きだったが上へいける展望がなかったようだ。妖精 さんにも身近に感じてもらえるだろう。  中野にある会社は、もちろん永和と比べようもな いが自社ビルだった。  取締役も、老け込みなど感じさせない精力的な雰 囲気で、加納と、その囗はカメラマン役の池端を応 接室に迎え入れると、「お役に立てて嬉しいですよ。 何でも訊いてください」と言った。  「こちらではどんなお仕事を」  「マネジメント業務全般、という感じですかね」  「大きな組織で学んだことが活かせるわけですね」  「そうです」  取締役は深くうなずいた。  「永和でやっていたという誇りと自信は、やはり貴 重だと思います。実際、幅広い仕事を任せていただ いてますよ。現業部隊の統括から総務、人事的なこ ともやりますし、大局的な経営方針に関しても意見 を求められます」  「すごいですね」  加納は、イメージ通りの人がいてくれたと喜んだ。  「やりがいがあるでしようね」  「もちろん」  胸を張った相手が続ける。  「今の会社では、自分が船を動かしている充実感が あります。隅々まで目が届きますし。もちろんその 分、責任も重いですがね」  自営業、悠々自適系まで、山瀬は抜かりなかった。  次に会っだのはフアイナンシャルプランナーとし て独立した人だ。永和時代に支援制度を使って資格 を取ったというのも、モデルとして好ましい。  「自分のペースでできるのが何よりですね。お客さ んとじっくり向き合いますから、相手のお役に立て ていると肌で分かります」  「一人で新しい仕事を始められることに不安はな かったですか」  「そりゃまあ、なかったと言えば嘘になります」  相手は笑った。  「しかし案ずるより産むが易し、ですよ。たいてい のことは何とかなるものです。年齢も関係ありませ ん。気持ちの問題。チャレンジ精神ってやつですか ね」  那須へも行った。レンタカーで、指示された道順 を進んだ先に現れたのは、いかにも高原の別荘地ら しい自いペンキ塗りの、少々古そうだが可愛らしい 家だった。前には広い庭、反対側に、何かの苗を綺 麗に植え付けた菜園がある。  「すてき」  思わず池端が声をあげた。  オーナーは横浜のマンションを引き払って移住し たという。インタホン代わりに取り付けられている ドアのノッカーを叩くと、口ひげを蓄えた初老の男 が現れた。  「どうですか、田舎暮らしは」  「楽しいですよ」  暖炉のある居間で、何を分かり切ったことをと言 わんばかりに男は答えた。 「畑仕事とゴルフ、近所に温泉もありますしね」 「たまりませんね」 「思ってたより忙しいですが。畑だけでもやること はいっぱいあります。種を蒔くのも植え替えるのも 時期を逃しちやだめだし、無農薬だから油断すると すぐ虫が出る。雑草だらけになる。しかしそれがい いんですよ。自然に従って生きてゆくっていうか ね」  編集し終えた動画を持って、加納は勇んで常務室  へ向かった。  「素晴らしいものが出来たと思います」  三枝はまず、加納が一人語りしている動画に目を 通した。  「これ、ガツンつて感じですか?」  言われて加納も、あ、と思わないでもなかった。 取りかかった時にはそのつもりで、声、表情ともそ こそこ厳めしいが、次第に教えさとすような、場合 によっては懇願っぽい調子にまでなっている。  「遠慮し過ぎじやないですか。いたたまれなくなる ところまで追い込んでいただかないと」  「気分よく会社を卒業してもらえるなら、それがベ ストだと思います。残ってもいいことはないと、そ こははっきり伝えるようにしましたし」  「想像していた以上に甘いんですねえ、あなたは」  「は?」  細いフレームの眼鏡越しに一瞥され、思わず声を 漏らしたが三枝は無反応で、続きを早送りで見た。  「このOBたちは?」  「山瀬課長から推薦していただきました」  「ははあ、そういうことですか」  妙に納得したような三枝は、「まあ必要な手順か もしれません」とつぶやいた。  「やってごらんなさい。思った通りに」  急いで発表した希望退職の募集は、見事なまでに 妖精さんだちから無視された。  これまでと同じだった。講演会、セミナーを含め、 問い合わせをしてきたのは若手、中堅、現職の部長 までいたが、動画のリンクを張ったメールを受け 取った者はゼロだった。  ただ、妖精さんたちが動画を見なかったわけでも ないようだ。数日後に、こんなビラが社内のあちこ ちに張り出されたからだ。  動画から切り取った、カメラに向かって話す加納 の写真。だがほっぺたに赤い渦巻が書き加えられて いる。  〈会社を辞めたほうが幸せになれるよ〉  ハートマークを散らしたフキダシに、ギザギザで 囲まれた突っ込みが重なる。 〈お前がこなけりや幸せだったのだ〉 〈輝ける場、なんて本当にあるならお前がいけばい いのだ〉  〈心配しなくていいのだ。お前がいなくなったって、 誰も残念がったりしないのだ〉  ビラなんて二十世紀かと呆れつつ、加納は荒々し くそれをはぎ取った。  「ひどいです」  池端など涙ぐんでいた。  「一生懸命作っだのに。それにずるい。文句がある なら正々堂々と言うべきです」  確かに甘かった。どこかに残っていた、妖精さん たちへの同情があだになった。もう過ちは繰り返さ ない。  「連中の本性が分かったでしょう」  「身に沁みました」  三枝義信の前で、山瀬忠浩と一緒に頭を下げた。  屈辱的だった。しかし、落ち込むことを忘れさせ てくれるくらい腹立ちも強烈だった。  「じやあどうします?」  三枝に問われて、加納英司は「PIPで行きま す」と即答した。  PERFORMANCE IMPROVEMEN T PROGRAM。  業績改善プログラムなどと訳される。従業員に、 一定期間で達成すべき目標を示し、上司と一緒に進 捗状況を確認しながら業績の改善を図る。  本来はそういう意味だが、リストラの手法として 使われるケースが多い。すなわち業績の悪い従業員 にPIPを適用し、目標が達成できないことを理由 に退職を勧奨する。場合によっては解雇もある。  クレジットカード会社で何度かやった。PIPが 決まった段階で退職届を出す者がほとんどで、でな くてもすぐに諦めた。永和で同じようになるとは思 わないが、強いプレッシャーをかけられるし、先の 段階へ進む名分が立つ。  「悪くないですね」  三枝がやっと満足そうにうなずいた。 「やってみたかったんですが、ノウハウがないので 踏み切れなかった。あなたに来てもらってよかっ た」  自分だってエキスパートというわけじゃない。言 いかかっだのを加納はのみ込んだ。必要なスキルだ。 身につけなければ。  憎しみさえ向けられる相手が現れたのは、壁を乗 り越えるいい機会かもしれない。  「そうおっしゃっていただけてよかったです。必ず ご期待に応えてみせます」  まずは本社に棲息する妖精さんたちを標的にする とその場で決めた。  妖精さんは全国の拠点どこにでもいるのだが、P IPをきっちり実施するには、少なくとも出だしの うち、加納が直接面倒を見なくてはいけないことが 多いだろう。地方まで手が回らない。  また、本社から妖精さんが一掃されれば、情勢を 悟って支社の妖精さんたちも自ら去ってくれるので はないかと期待した。  本社の所属長を集めた会議が開かれたのは五月の 末だ。  いずれ漏れるだろうが、妖精さんたちへの不意打 ち効果を高めるため、テーマはもちろん招集そのも のを公にしていない。  三枝と人事部長も出席した。ただ二人がいたのは はじめだけだった。  三枝は冒頭の挨拶に立って、新設の構造改革推進 室が、会社の生き残りのため極めて重要な役割を果 たす云々といった話の後、加納を紹介した。  「推進室がこれから進めるプロジェクトについて、 室長が説明いたします」  後は外せない別用があったそうで「よろしく頼み ましたよ」と、部長を促して出ていった。  所属長たちはほとんどが課長だから加納より格上 で、年齢も四十代半ばから後半が中心だ。妖精さん 対策の特命を初めて公にすることになるこの場を、 一人で仕切るとは思っていなかった。  加納は緊張しながらマイクを握った。  「みなさんの職場の、役職者を除くシニアの方々に PIPを適用します」  参加者たちは顔を見合わせた。永和生命にはPI Pの規定もない。その言葉からして知らない者が多 そうだ。  生命保険というビジネスは、契約期間が他業種に 例がないくらい長いこともあって基本的に安定して いる。大手かつ老舗の永和は特に保守的な社風と評 される。  どっぷり浸かって階段を上ってきた所属長クラス には、波風立てないのを第一に考える者が多いだろ う。妖精さんたちの存在を許す土壌かもしれない。  三枝などはそこに危機感を抱いて、妖精さんの 「絶滅」を、改革の一歩と位置付けたのではないか。  用意してきたパワーポイントの資料を使ってPI Pの何たるかをざっと説明してから、加納は参加者 たちに、それぞれが抱える妖精さんたちに示す「目 標」を考えるよう要請した。  当然ながら、職種が違えば仕事内容も違う。現場 に詳しくない加納が勝手に設定するのは無理がある。  ただ加納は「手加減のないようお願いします」と 強調した。  所属長たちが遠慮を捨てきれず、やさしい課題を 出したら困る。妖精さんたちの日頃の態度からして、 相当柢い目標でもクリアできるとは思いにくいが、 万が一にも達成されて、お墨付きを得たつもりにな られたらたまらない。  参加者の一人が手を挙げた。  「先般の希望退職募集と、PIPは一連のものと考 えていいんでしょうか」 「とおっしやいますと」 「シニアの退職を促す意図なのかなと」  加納は一瞬迷ったが、はっきりさせるべきだと決 心した。逃げの姿勢は所属長たちの腰も引かせてし まうだろう。PIPの実務は、彼らに担ってもらわ なければならないのだ。  「その通りです」  会議室にざわめきが広がる中、別の挙手があった。  「加納室長は、妖精さん対策のためによそから引き 抜いてこられたと聞いています」  人事の関係者ならみんな知っているが、構造改革 推進室に下された特命はこれまで内々のものとして 扱われてきた。ある程度広まっていると予想してい たものの、隠語に違いない「妖精さん」が相手の口 から飛び出したことにびっくりしたのもあって、今 度は本当に答えに詰まった。  相手は構わず「大いに活躍していただきたいで す」と続けた。  「もちろん、全力で職務に取り組ませてもらいます が」  「できる限り協力いたします。遠慮なんかもうしま せんよ。きつく当たりづらいなって気持ちも確かに あったんですが、考えてみたら事なかれ主義ですよ ね。管理職の役目を果たしていなかったと言われて しようがない。若い部下のことを本気で考えてやら なくちや」  さらに数人が発言を求めた。  「私も同感です」  「何としても妖精さんをウチの課から、いや全社か ら追い払いたい。絶対に無理な目標にしてやります よ。安心してください」  暗黙の支持くらいは得られるだろうと読んでいた が、ここまで熱烈に応援されるのは想像外だ。じん と来た。  別の角度から見れば、妖精さんたちの振舞いには 保守的な課長たちも黙っていられなくなっているわ けだ。  「ありがとうございます。みなさんのお言葉、あり かたく心強いです。百万の援軍を得た気持ちです」  涙声になりそうなのをこらえて加納は言った。  「PIP自体はもちろん合法です。しかしやり方が パワハラにあたるとされてしまうことがあるので注 意してください。絶対に無理な目標、なんていうの はまずいです」  「あ、そうなんですか」  さっきの発言者が頭を掻くのに、加納は「大丈夫 です。私かチェックしますから」と微笑みかけた。  「みなさんは少しキツめくらいの案を出してくださ い。ギリギリの線に調整します。私だって人事のプ ロですから。いい仕事をしてみせますよ」  満場の拍手が湧いた。一人でそれを受けるのが もったいなく思えた。三枝にいてもらいたかった。 当初はアドバイスを無視までした自分だ。三枝がね ばり強く導いてくれなかったら、こうはならなかっ た。  翌日には、妖精さんに設定する目標案が各部署か ら続々と届き始めた。  営業サポート系の各課は共通で「成績不良営業所 の売り上げをIヵ月で二割増やす」。  生命保険会社で顧客と直接接触するのは、基本的 に全国に置かれた支社、さらに言えばそのまた出先 となる営業所だ。  大まかな方針を立てたり、「生保レディ」などと 呼ばれる営業社員の教育システムを作ったりするの が本社の役割で、担当部署の名前にも「サポート」 がつく。一課から五課まであるのは、受け持ちの地 域と対応している。  当然ながら、営業所には売り上げのいいところも あれば芳しくないところもあり、芳しくないほうの テコ入れには各課とも苦労している。それを妖精さ んにやらせるわけだ。  一ヵ月はさすがに短か過ぎると思ったので、そこ だけ加納が三ヵ月に延ばした。しかしIヵ月ごとに 進捗を見て、目標達成がおぼつかない状況なら即、 退職勧奨もできる。  判定の時期は毎月末。他の部署も合わせることに した。  商品開発部で、複数の課から「ミーティングに出 席して、採用されるアイデアを出す」というのが出 てきたのには、笑ってしまうとともに妖精さんを抱 える負担の重さを改めて考えさせられた。  一方で、集めた掛け金を増やすのが仕事の運用部 各課に、運用成績そのものを問う目標がなかったの は、運不運を言い訳にされないため以前に、危なっ かしくて妖精さんにやらせられないからだろう。  代わりに考えられたのが、例えば、世界経済に関 するレポートを出させる、だ。英語の文献も相当量 読みこなさなくてはならない。しかしそれは、機関 投資家に本来求められる能力だ。  お客さまセンターは出勤日当たり二十件の相談・ 苦情処理を課す。一般的な数字だというが、妖精さ んの得意技「社内浮遊」は完全に封じられる。それ だけで音を上げそうだ。自社商品の知識さえろくに なく、一件一件の時間もかかるだろう。  さてうちはどうしようか。  正確には部下といえないが、奥地文則の分は加納 が決めることになった。  「何かいいと思う?」  尋ねると池端美紀は「私なんかが口出しすること じゃ……」と囗ごもっだ。  「遠慮しなくていい。一番奥地さんのことを知って るでしよう」  池端はしばらく考えて言った。  「やっぱり、パソコンを使えないといけないって分 かってもらえるようなのがいいと思います」  あれでいくか。  奥地はこのあいた妖精さん仲間に、エクセルが使 えないのを自慢みたいに話していた。  給与計算は若手の仕事になっていることが多いけ れど、逆にいえば人事課員なら誰でもできなければ いけない基本スキルだ。  昔なら、背丈ほどもある紙の束を机にドンと積み 重ねるという、漫画的な場面になったかもしれない。 だが今は、計算の基になるデータからしてすべて電 子化されている。  加納は、対象者の名簿だけを、それでも情けのつ もりでプリントアウトして奥地に渡した。  「私か?」  「はい、そうです」  笑顔を作ってうなずいてから、PIPの一環であ ることを告げる。  「PIP?」  オウム返しにする奥地は、やはりその言葉を知ら ないようだ。所属長たちにも少なくなかったとはい え、人事マンとして情けなさ過ぎる。  説明すると奥地の顔色は信号機のように赤くなっ たり青くなったりした。  「君にそんな権限があるのかね」  「人事課長の許可をいただいています。もっといえ ば会社としての決定です。お望みなら三枝常務に確 認してください。ご本人との合意が必要とされる ルールは存在しますが、この程度の作業を目標にす るのを拒まれるなら、それ自体、解雇の理由になっ ておかしくないですよね」  奥地はかすれた唸り声を漏らした。額に脂汗が浮 かんでいる。  「とりあえず、見るだけ見てみよう。資料をくれ」  「データベースから引つ張れますよ。このあいだお 教えしましたよね。あ、必要ないっておつしやつた んでしたか」  「いやI」  あI気持ちいい。  ふと周りに目をやると、部屋にいる者たちがちら ちら視線を向けていた。  あえてパソコンの画面から逸らさないようにして いるのもいる。池端もその一人だけれど、耳を澄ま している気配ははっきり伝わる。  「頑張ってください。データ取ったあとどうする かってのもありますけど。紙と電卓じゃ、さすがに 間に合わないんじゃないかな」  向こうもはっとしたようだった。そんな話、加納 にしたことがあったかと考えているふうだ。せいぜ い悩んだらいい。  途方に暮れてパソコンの前で固まる奥地は、マ ニュアルをオンラインで検索することすら思いつか ないみたいだ。部屋にいるあいたはいつも、仕事と 関係ないネットサーフィンばかりしているくせに。  加納は飲み物を買いに部屋を出た。  自販機コーナーは社食と同じフロアだ。その後、 朝の様子を見に行かないが、プチ賑わいもおしまい だろう。よその課のPIPにもどんどんゴーサイン を出すつもりだから、まつたりしている余裕がある 妖精さんはいなくなるはずだ。  ひょっとしたら、PIPの期限を待たず、すぐい なくなってくれるのではと加納は期待したが、さす がに一日や二日のうちに奥地文則が白旗を掲げる展 開にはならなかった。  六月に入ると、また席を離れるようになった。し かし頻度、一回あたりの時間ともこれまでほどでは ない。ずっと座り続けるのに慣れないものだから、 お尻が痛くなっただけかもしれない。   いずれにしても、打開のメドが立っているように とても思えなかった。この期に及んでまだ頭を下げ てこないのは驚くべきだが、そうなっても受け入れ てやるつもりはI切ない。  よその部署も、似たような感じらしかった。  「あとひと押しで落ちそうに思えるんですが」  追い出しにかかっているほうの気持ちがはやるの も同じだ。  「焦る必要はありませんよ」  自分にも言い聞かせるつもりで加納はアドバイス した。  「まだ始まったばかりですし。手順でいったら第一 段階に過ぎないんですから。着実に、慎重に進める のが大切です」  ポカさえしなければ結果は手に入る。一番怖いの はコンプライアンス違反と騒ぎ立てられることだ。  加納としてはプロの誇りをかけて、防御に万全を 期しているつもりだ。実行部隊の所属長たちが無理 をして、妖精さんたちに反撃のきっかけを与えてし まうのは避けたい。  幸い所属長たちはよく理解してくれた。 「今までずっと我慢してきたんだから、二、三ヵ月、 いや半年くらいかかったってどうってことないです よね。そのあいだ、妖精さんがあがいてるのを観察 するのも楽しみですし」  そう、妖精は不死ではない。外国のおとぎ話や伝 説によく出てくるけれど、寿命はあった気がする。  妖精の命が尽きる様子を何かで読んだ。羽根がも げるんじやなかったかしらん。髪が抜け、目が落ち くぼみ、若々しさを保っていた肌もI気にしわく ちやになる。  こちらの妖精さんたちもグロテスクな最後を遂げ るのか。だとしても自業自得だ。  夕方になった。いつもならとっくに帰っている時 間だが、奥地はデスクについて、ぽつぽつキーを 打ってば全部消去するようなことを繰り返している。  今日も終わった、と思った時だった。  内線電話が鳴っだ。かけてきたのは、営業サポー トー課の課長だ。  「来ましたよ」 「え、まさか」 「そのまさかです」  サポーにどんな妖精さんがいるか、思い出すのに 手間はかからなかった。会ったことこそないが、話 に聞く中でもインパクトは屈指だ。  毛利基。まだ再雇用までいっていなかったはずだ。 ファイルを見たら五十八歳だった。  何力所かで支社長をやっている。営業系でも現場 中心のキャリアだ。そのころから、本社の指示を無 視するなど扱いにくさがあり、なかなか東京に戻れ ない原因になったようだ。  妖精さん化した今も、毛利を際立たせるのは鼻っ 柱の強さだ。  お仲間たちみたいな、おどおどした態度は一切見 せない。  フレックスタイムも、早く帰りたい特別の用事が ある時以外は使わないし、気がつくといなくなって いたりもほとんどない。年下の同僚たちの目の前で、 堂々と好き勝手をやっている。  一番よく見られるのはスポーツ新聞を広げている 姿だが、読み物ならましなほうで、プラモデルを 作っていたことがあったそうだ。  パソコンを開いたと思ったら囲碁のネット対局。 後ろに人が立っても意に介さない。ヘッドホンをつ けて、ドラマや音楽にも耽る。  「音は漏れてねえだろ」  たまりかねて注意した課長を睨んでうそぶいた。 それ以上言うと暴れだしそうで、課長は面倒を恐れ てうやむやにした。以後、完全にアンタッチャブル な存在になったという。かなり狂暴な妖精さんらし い。  その毛利が真っ先に音を上げたとは意外だったが、 強面タイプのほうが案外、正面きっての攻撃にもろ いのかもしれない。手を焼くのを覚悟していただけ に、幸先のいい話だった。  「たった今、退職届のことで話をしたいと言ってき ましてね」  加納はPIPを始めると同時に、退職届のヒナ型 を妖精さんたちにメール添付で送り付けておいた。 〈退職届の書き方が分からない、とおっしやる方も  いらっしゃるのではないかと思い、老婆心ながらI  例としてお示しします。参考になさってください〉  そう書き添えたが、本当の趣旨は言うまでもない。 動画を慰み物にされたことへの反撃であり、改めて の宣戦布告だった。  こちらの毅然たる姿勢に毛利も抵抗は無駄と悟っ たのだろう。狙いが的中した。  「お見事でした。しっかリプレッシャーをかけてく ださったからですよ」  「いえいえ。私は加納さんの指示通りにやっただけ で」  互いをたたえ、喜び合った。  「今、毛利さんは」  「私か戻るのを待ってます。私、まず加納さんに報 告しなくちゃと思って部屋から出てきたもんですか ら」  「じゃ、あまり待たせちゃいけませんね」  「気が変わるってこともないでしょうけれど」  「いや、礼は尽くしてあげましょう。第一号ですし。 他の方に気づかれないようにどこかへ連れ出してく ださい」  「分かりました。まあみんな気づいたと思いますが ね。私に話したこともまる聞こえでしたから」  加納はいったん電話を切ったが、首尾を早く聞き たくてデスクから離れず、やりかけだった別の仕事 に手がつかないまま、電話にちらちら目をやってい た。  気持ちが通じたようで、十分もしないうちに呼び 出し音が鳴った。間髪を容れずに受話器を取った。  「はい加納です」  はたしてサポー課長の声が返ってきたが、様子が おかしい。  「どうしました」  「思ってたのとちょっと話が違いまして」  加納は息を切らして教えられた応接室に駆け付け た。  ドアを開けると、奥の一人掛けに、禿頭、身長は 柢そうだが肩のがっしりした男がふんぞり返ってい た。その前でサポー課長がしやっちよこはる。   普通なら課長が奥に座りそうなものだが。遠慮し て毛利を奥へやったか? それとも毛利が勝手に自 分の席を決めたか。  テーブルの紙コップはどうしたのだろう。それも 課長が買ってきたのか。余裕を見せようとしたのが 仇になったか。  「おう」  加納を見るなり毛利はドスの利いた声を出した。  「お前が加納とかいうあんちやんか。ビデオに出て た以上に間抜けな顔してんな」  ひるんではならない。言い返さなければ。  「人によって感じ方が違うでしょうから顔について は何とも申し上げかねますが、確かに加納です」  「今度の、何だっけ、ヒップエレキバーン、みたい なの」  懐かしのコマーシャル集みたいなのを見て親が 笑っていたのがかすかな記憶にある口真似をして、 毛利は「あれ、お前が考えたのか」と畳みかけた。  「私か発明したわけではありません。誰なのかも残 念ながら知りませんけれど、従業員の生産性を高め る一手法として多くの企業で取り入れられているの を、永和生命でも始めることにした、それだけで す」  「生産性を高めるだあ?」  どんぐりまなこを、飛び出すのではないかと思う くらい見開いて、毛利は加納をねめつけた。  「いい加減なこと言うんじやねえ。気にいらねえ奴 を辞めさせるためだろうが」  「決してそんなつもりはありません」  「舐めんな’・」  握りしめた毛利の拳がローテーブルに振り下ろさ れ、紙コップはコーヒーを撒き散らしながら倒れた。 課長が身体をさらに縮こまらせた。  加納は自分に言い聞かせた。  こういう相手をうまくあしらうのも人事マンの仕 事だ。正直、あまり経験したことのない局面だけれ ど、切り抜けなければ三枝の期待を裏切ってしまう。  特命に失敗したら、採用した意味がなかったとな りかねない。自分が永和から追われるのではないか。  とにかく毛利にベースを握られてはならない。  立だされたままでは、怒られている生徒みたいだ。  「座らせてもらいますよ」  わざと返事を待たず課長の隣に腰を下ろす。  「根拠のない決めつけをされては困ります。私もサ ポーの課長さんも、あくまでも毛利さんの能力を引 き出したいと願っているのです」  「だったら、退職届の書き方がどうとかは何なんだ よ。あれも、送り付けてるのはヒラのロートルだけ だよな。分かってんだぞ」  「趣旨はメールでご説明しております。また、対象 者が隕られていたとしても、問題があるとは考えま せん。永和で人生の可能性をすりへらす方がいらっ しゃるのではないか。それを私どもは心配している のです。ピー、アイ、ピー」  加納も、顔を突き出し、口をひょっとこみたいに 尖らしたり、大きく開いたりしながら、二度繰り返 してやった。  「ピー、アイ、ピーも、気づいていただく一助にな れば幸いです。ただし誤解しないでいただきたい。 結果的に、一部の方について著しくかつ改善不可能 な能力不足というようなものが発見されてしまう可 能性はありますが、誰それを辞めさせようなんて、 現段階ではこれっぽっちも頭にございません。法律 にもとることですし、私どもはコンプライアンスを 何より大切にしていますから」  つるつると、口から出まかせではないにしても、 本音でないのも認めざるを得ない建前を並べられた ことに加納は我ながらびっくりした。  成長と言っていいのか。いやそうに違いない。本 音だけでは通用しないと、身体が覚えこんだのだ。  「おしゃべりはそこそこ上手みてえだな」  毛利も認めた。  「お褒めにあずかって光栄です」  息を吹き返したようにサポー課長もようやく言葉 を発した。  「とにかく毛利さん、あなたに因縁をつけられるよ うなことはI切ないんですから」  引き継いで加納が告げる。  「ほかにおっしゃりたいことがないならおしまいに しましよう。こちらの真意はご理解いただけたと思 いますから」 「よIく分かったよ」  しかし毛利は不敵ににやついている。  「何か何でも俺たちを追い出すって、そっちか決意 を固めてるのがな。こっちもふんどし締めてかから にやならねえ」  「どうなさるおつもりなんですか」  「簡単に手の内をさらせるかよ」  まだ抵抗する気か。しかしもうネタはないだろう。 どんな文句をつけてこられようと、粛々と反論し黙 らせるだけだ。手も足も出なくなったところで大砲 を打ち込む。  潰しがいがあるというものだ。邪魔者が現れたこ とにさっきまでは腹を立て、不安にもなっていたが、 スムーズ過ぎてはつまらないようにさえ感じてきた。  「結構ですよ。何をなさるつもりか知りませんが、 準備が整ったらいつでもお声がけください。お相手 いたします。私の連絡先はお分かりですよね」  「ああ。俺以外から言ってくる時もよろしくな」  「PIPのほうもお忘れなく。中断したわけじやあ りませんから」  「忘れやしないさ。心配すんなって」  毛利を先に送り出し、課長には今後気をつけるべ きことを伝えた。恐れる必要はない。ただ冷静さを 失ってばならない。隹蒻て強引になり、向こうに付 け込まれるスキを作らなければいいのだ。  「あの人、PIPで設定した目標にはいちやもんつ けてこなかったでしょう」  「確かに」  成績不良営業所の売り上げを三ヵ月で二割増やす というやつだ。毛利には、東北地方のとある営業所 が割り当てられたそうだ。  「絶対達成不可能な目標とは言えないはずですか ら」  しかし毛利はいまだに、営業所と連絡すらとった 気配がないらしい。やり方が思い浮かばないか、身 体がついていかないのか。  「体力は十分そうですけどね」  「仕事だけはしたくないってわけでしょう。やっぱ り辞めていただくしかありません」  「じっくり構えればいいんだ。つい浮かれて、早合 点で電話してしまいましたけど」  「いや、私も気持ちは同じでした」  苦笑する加納に、サポー課長は「終わったら飲み にいきましようや。ビールが旨そうだなあ。楽しみ にしてますよ」と言った。握手を交わし、肩をたた き合って別れた。  人事課へ戻った加納はやりかけの作業に戻った。 パソコンを開いてログインする。  メールが五件来ていた。三十分ちょっとしか離れ ていなかったわりに多いなと思いながら受信箱を開 けた。  〈通告〉  五件のうち三件に同じタイトルがついていた。し かし差出人は別々だ。どの名前を見ても顔が思い浮 かばないが、字面に憶えがある。  はつとした。一つをクリックする。  〈貴殿が構造改革推進室長に着任されて以来、ベテ ラン社員に対する嫌がらせ、いじめともいうべき施 策が次から次へと実施されています。私は仲間と一 致団結して、それらが違法、無効なものであること を明らかにする所存です。良心がおありならば、そ の前に自ら非を認め、施策を中止されるよう、強く お勧めいたします〉  三人からの文面はまったく一緒だった。  さっき毛利が「俺以外から言ってくる時も」と口 にした時、なぜわざわざと引っ掛かかるものがあっ た。これだったかI。  背中に気配を感じて振り返った。奥地が立ってい た。前日来、砂漠で渇き死にする寸前のロバみたい な顔をしていた奥地だが、久々の薄笑いを浮かべ、 手には一枚の紙を持っていた。  「同じ部屋なんでね。電気信号でやりとりするのも 他人行儀と思って」  渡された紙にも、同じ文面が印字されていた。加 納が言葉を失っているのを楽しみながら奥地は続け た。  「ふわふわそのへんを漂ってるだけの、人畜無害な 存在じやないか。どうして目の敵にされるのか分か らんが、バラバラじやみなさんにやられてしまうか らね」 「妖精同盟ってわけですか」  加納がうめいたのを、奥地はまんざらでもなさそ うに聞いた。  「なるほど。そりゃまた素敵な名前をつけてくれた ねえ」  毛利基、奥地文則以外の同盟メンバーは、営業サ ポート四課に籍を置く篠塚明子、市場運用課の高木 誠司、商品開発課の溝口悟。  加納英司はすぐに面談の場を設定した。こうなっ たら所属長ではなく、人事が前に出て対応すべき だった。  向こうは五人一緒に会いたいと言ってきたが、団 体交渉権は労働組合にしかないと突っはねた。  篠塚は五十七歳。容姿も服装も地味な雰囲気で印 象に残りづらい。食堂で見た何人かの女性の中にい たかもしれないが憶えていなかった。  「介護があるんです」  そう繰り返す篠塚に加納は言った。  「家庭の事情はみなさん抱えておいでです。会社と してもサポートする体制を整えているつもりです。 しかしそれは、きちんと働いていただくためでもあ ります」  残念ながら、相手にきちんと返事をする意思はな いようだった。  「今が私にできる精いっぱいです」  精いっぱいも何も、同じ営業サポートの毛利同様、 PIPの目標に向けて何かをしている様子はまった くない。示し合わせているのかもしれない。  高木は奥地と同じ再雇用組で、さらに一つ年長の 六十三歳だ。  押し出しがいいところは奥地と違う。背も高く、 松平健にちょっと似ていなくもない。梅雨前のさわ やかな季節にふさわしい、細いストライプのジャ ケットを着こんで、自分で指定したカフェに現れた。  高木が多くの時間を過ごしてきた運用部門は、客 から集めたお金を増やすのが役割で、営業とともに 保険会社の両輪だ。特に生保は、兆単位の元手を持 つ巨大投資機関である。  運用マンとしての高木の評価は可もなく不可もな しといったところのようだ。ただ、一緒に働いたこ とがある人は「とにかく楽しい人」と口を揃えた。  「ちょっとくらい損が出ても、次取り返せばいいか らって。ゲン直しだって、下を連れて飲みにいっ ちやうんですよ」  「座もちがよくって。カラオケも上手だったな。確 か、友達とバンドやってるって言ってました」  しかし役職定年を迎えるころから実績ががくんと 落ちた。何より不勉強が目に余り、仕事を任せられ なくなった。  今は、三、四人のチームに加わる形になっている が事実上何もしていない。そうなると周りも、楽し い人だからで済ませてくれなくなる。  「年なんだからしようがないじゃん」  高木は加納に言った。  「開き直られても困りますよ」  「もうしばらくしかいないんだからさ、目をつむっ ててもらえないもんかねえ。迷惑かけてるわけじゃ ないし」  「いや、仕事せずに居座つてらっしやることがすで に迷惑なんです」  「それが年寄りつてもんじやないか」  「とにかくPIPを」  「年寄り、英語力上がんないよ。だいたい昔から苦 手なんだよ。外国人つてさ、絶対発音記号通りに しやべってないよな。聞き取れるほうがおかしくな い?」  のらりくらり、話がかみ合わないまま面談は終 わっだ。  保険会社には、アクチュアリーと呼ばれる人たち がいる。  商品の採算性などを数学的に分析する専門家で、 資格を取れるまでに十年近くかかるのが普通なだめ、 慢性的な人手不足だ。  転職にも困らなそうなのに、妖精さんになってし まっだのが五十六歳の溝口悟だった。  鶴のように痩せ、眼光は鋭い。髪は豊かなままだ がぼさぼさだ。妖精さんぽいとは思えないけれど、 ビジネスマン風でもまったくない。  学者が一番それらしい。実際、溝口は超有名大学 で数学の博士号を取っていた。  「奥さんのことが関係しているのでしょうか」  妻は四年前、がんで亡くなった。その直後、役職 定年にまだ少し聞かあるのに急激に妖精さん化か進 んだことからすると、つながりを推測せざるを得な い。  「答えが見つからないんです」  「何の答えですか」  「問題を解く途中経過をお話しする習慣はありませ ん」  「話していただかないと分からない」  「分かってもらいたいわけじゃないので」  同盟とは、真正面からぶつかるしかないようだっ た。  もっとも、不意打ちをくらっだショックを別にし て、加納はそれほど事態を深刻視していなかった。   まとまったからって何かできる。   妖精さんの歳でも活躍している人間は活躍してい る。妖精さんは競争に負けた落伍者なのだ。恐れる に足りない。  毛利と同期の常務、三枝義信はしかし、一報を入 れた時からひどく不機嫌だった。  「気がつかなかったんですか?」  「済みません」  「済みませんで済まないですよ。不穏な動きは事前 に摘み取る。労務管理の基本でしょう」  頭を下げた加納の前で、爪を噛みながらいらいら 右へ左へと歩き同った。こんな三枝は見たことがな かった。  「前もって、毛利を東京から出しておくべきでし た」  「え、そこまで」  「そうです。しかし、私もあなたがたに注意喚起す べきだったかもしれません。油断があったんですね。 私としたことが」  返事に困っていると、三枝は覚悟を決めたような 口調で続けた。  「今さら嘆いても始まりません。遅かれ早かれ、あ の男とはいずれ対決することになったのです。全力 で息の根を止めるだけです」  「分かりました。心してかかります」  剣幕に顔が引きつる思いで加納はもう一度深々と 身体を折った。  三枝の懸念は、すぐ現実になった。  加納が作った動画がまたイジられたのだ。  今度槍玉に挙がっだのは、動画の後半部分、希望 退職者のモデルとして加納が紹介した人たちだった。  しかもビラを撒くなんてやり方でなく、企業の裏 話を載せるネット掲示板が使われたのが衝撃的たっ た。妖精さんたち、こういうのは苦手と思っていた のに。  思い当たっだのが溝口の存在だ。掲示板に親しん でいたかどうかはともかく、やり方を調べ、自分の ものにするくらい朝飯前だろう。  〈みなさIん、騙されちやいけませんよ〉  〈インタビューに応じてる奴らももちろんろくでも ないんだけどさ。巨悪はやっぱり言わせてるほうだ よね〉 〈金でも掴ませたんだろうなあ〉  他の妖精さんたちが言うことを溝口がアップした のだろうか。 〈私、フアイナンシャルプランナーの人、よく知っ てるのよ。職場が一緒だったことがあって〉  確かに篠塚明子にはそういう経歴があった。  〈辞めるんじやなかったってため息ついてらしたわ。 いくら永和OBだって、それだけでお客が来てくれ るわけないでしよ。辞めたらただの人なのを思い 知ったって〉  〈冷静に考えりやすぐ分かる。けどおだてられると その気になっちやうんだ〉  〈リストラ仕掛ける連中、ぽんと罪深い〉  〈それで貧乏しているのにつけこんで、犠牲者を増 やす片棒担がせる〉  〈人間じやねえな〉  不動産管理会社の取締役についてはこんな具合だ。  〈あの人はねえ、反対に忙しすぎて何回も身体壊し てるらしいぜ〉  〈聞いた聞いた。便利屋みたいに使われてな。取締 役なんて名ばかりだ。下が休んだら自分でシフトに 入って、書類作りから下手すりや掃除までやらされ てるらしい〉  〈かと思うと、オーナー一族の内輪もめの仲裁で大 わらわ〉  〈「大局的な経営方針に関しても意見を求められま す」つてやつか〉 〈金もさ、年中無休で働いて永和の半分だよ。再雇 用と変わんないじやん。内輪もめが響いて業績が落 ちたら責任だけ取らされる。これ以上報酬減らすの かって〉  そこまでは伝聞の形だったから、根も葉もない話 をでっちあげている可能性があった。しかし張り付 けられたリンクをクリックして、加納は愕然とした。  はじめ、こちらが作った動画に細工をしたのかと 思った。映し出されたのが例の那須の家だったから だが、アングルが違う。  開いたドアから出てきた、縁の細い眼鏡をかけた 女性は年恰好からして奥さんか。加納が行った時は いなかったようだが。  「ご無稈冐って済みません」  毛利基の背中が映った。誰がカメラを同している のか分からないが、池端より上手い。  「いいのよ。あたしも夫が言ってること聴いて腹が 立つたから」  やはり妻らしい。何に腹を立てているのだろう。  「あの人は楽しいんでしようけどね。今日もゴルフ だし。でもあたしはできないから」  「奥様はここがお嫌なんですか?」  「決まってるでしよ。近いのはゴルフ場くらいよ。 コンビニまで三キロあるんですよ。スーパーつて いったら十キロ以上。病気になったらどうします? 片道三時間で通えっていうの?」  毛利はうなずきつつも、「上いじりは奥様も楽し めるでしょう」と質問を続けた。反応を予想して、 舌なめずりする音が聞こえてくるようだった。  「土いじりですって?」  妻はとうとう金切声を上げた。  「何か悲しくて爪を真っ黒にして、汗だくになって 紫外線浴びなきやいけないの」  「虫もいるんでしたっけ」  「いるなんてもんじやないわ。家にもいっぱい入っ てくるのよ。クモとかハサミムシとか、あとあれ、 茶色いまだらで、羽根のないぴよこぴよこ跳ねるや つ。寝てる時に顔に飛び乗ってきたの。絶叫し ちやったわよ。思い出すだけでぞくぞくしてきた」  「夏はしようがないですねえ。でも冬は」  「あなた、ここの冬がどんなものか知らないで しよ」  彼女の表情に、絶望の色が差した。  「私は我慢強いから何とか生きてられるの。手でも 顔でもね、空気に直に触れてると痛くなっちやうの よ。耳なんか、耳当て付きの帽子かぶってないとち ぎれそう」  「じやあま、せいぜい家にいて」  「中も寒いの。朝起きたら、台所に霜が降りてる の」  「この家、もともと夏用の別荘みたいですもんね」  「夢だったとか言って夫があれ作らせたんだけど」  妻が指さす先をカメラが追い、暖炉が映し出され た。  「薪っていくらすると思います? ひと束七百円よ。 それを下手したら五束、ひと晩で使うのよ。老後資 金が毎日毎日、灰になって消えていくの」  「奥さん、泣かないで」  「あの人だって分かってきたはずだわ。ゴルフ、ず いぶん減ったもの。私には弱音を吐かないようにし てるけど、不安になってきたんでしよ」  毛利からすればうまく行き過ぎたくらいだろう。  さらに何というタイミングか、表にエンジン音が したかと思うと、がちやりとドアが開いた。さんざ ん罵られていた夫が帰ってきたのだ。  目を白黒させる夫の間の抜けた様子をカメラは容 赦なくとらえた。  「何だ、あんたたちは」  「奥様からお話をうかがってたんです。もちろんご 了解を得て、撮影させていただいております。会社 で作ったビデオにご主人が出演なさいましたでしょ う。奥様はご存じなかったようですが、お教えしま したら、ご自分もおっしやりたいことがあると」  「あなたこそどうしたの」  「いや、休憩中にクラブ「ウスでコーヒーぶちまけ られちまってな。着替えようと思って」  夫は詰問の態度に戻って続けた。  「お前、どんな話をしたんだ」  「いつもあなたに言ってることよ」  不意を衝かれたようだった妻も、開き直って吐き 捨てる。  「あんたたち、撮ったものをどうするんだ」  「しかるべき場所で一般の閲覧に供したいと思って いますがI」  「すぐ消去したまえ」  「いいえ。発表してちょうだい」  「ご本人が、そうおっしやってますんで」  「許さんぞ、絶対。糞。どういう囗だ。せっかく奮 発してコースに出だのに」  アクシデントは偶然だったのか。同盟メンバーの 誰かがゴルフ場で待ち構えていた可能性はないか。 夫をいったん帰宅させ、撮影隊と鉢合わせさせるた めに。  大いにありうる。いや間違いない。  鬱陶しい、憎たらしいとは思っていた。しかし、 恐ろしいものとして妖精さんを捉えたのは初めて だった。  この干不ルギーを仕事に向けてくれたらいいのに  PIPの対象にされた妖精さんたちの様子は、抱 える各部署からほぼリアルタイムで加納英司に伝え られていた。  ところが、同盟の存在が明るみに出たころから、 一部で急に滞ったり、内容が素っ気なくなったりし だした。  探りを入れると、ある課長が「実は」と声をひそ めた。  彼は新人の時、毛利基の下に付いていた。  「お前はまさか、人事のいいなりになんかならない よな」  呼び出され、PIP批判を聞かされた。曖昧に逃 げたが、ある程度調子を合わせざるを得なかった。  「いろいろ面倒みてもらったんです。名刺の出し方 から教わりました」  二人がいたのは法人営業課だった。企業が従業員 にかける団体保険などを扱い、本社にあって直接営 業活動をする数少ないセクションだ。  「全然契約が取れなくて途方に暮れてた時、奇跡的 にうまくいったと思ったら、毛利さんがこっそり相 手に、若いのが行くからよろしくって話通してくれ てたんです」  「へえ」  「説教もしよっちゅうされましたけど。おでん屋で 延々、朝まで付き合わされて、サウナでちょっと酒 抜いて、そのまま得意先回りなんてこともありまし たね」  何にしても頭が上がらない。  所属長たちを集めた会議では、彼も自分の課の妖 精さんをやっつけると高揚していた。年上への遠慮 を捨てる覚悟もあった。しかし、直接仕えた相手と なると簡単には割り切れない。  下手をすると、自分の課の妖精さんから毛利に告 げ口される恐れもある。それでどうなるとも思えな いが、できたら避けたい。  もともと非役職のシニアを配置する時は、縁の深 い後輩となるべく一緒にしないよう配慮している。 ところが妖精同盟のメンバーは、人脈がある管理職 に片端から圧力をかけた。長年会社にいる強みを活 かしたといえる。  同盟メンバーでない妖精さんたちにも働きかけて、 同じような動きをさせているらしい。  はっきり同盟への参加を表明しているのは五人だ けだが、ほとんどの妖精さんが潜在的な味方なのは 間違いない。会社に公然と反旗を翻す勇気がないだ けだ。  指をくわえていれば、PIPが骨抜きにされてし まうかもしれなかった。加納は、所属長たちの督励 に懸命になった。  「心を鬼にしてください。恩ある方の頼みを無視す るのは辛いでしょうけど、妖精さんが、今や会社の 最大の敵になっていることも忘れないでください」  「分かりますよ。よIく分かるんだけど」  なお歯切れのいい返事を引き出せなければ、三枝 義信に指示された通り、PIPをきっちりやりきる かが、彼らの査定にも影響すると匂わせることにな る。  とはいえこのあたりまではまだ、予想の範囲内 たった。  係長クラス、さらに若い社員から、同盟の妖精さ んに「口説かれた」という報告が上がってきたのは 衝撃だった。  加納の事情聴取に、ある主査がぶすりとした表情 で話した。  「ひと握りを別にしたらどうせどっかで切られちま うんだ。だらだらしがみついて、会社から取れるも の取ること考えたほうが得だぞって」  会社の対妖精さん方針に、一緒に異を唱えてほし い旨の勧誘だったらしい。  ぶすりとしていたのは、「ひと握り」には入れな い人間だと決めつけられたわけで、それが面自くな く、すぐチクつたのだろう。  同盟のほうでは、出世が遅れていると見た社員に 声をかけたと考えられたが、本人を前に口にできな い。  状況を客観的に見られる人間であれば、誘いに 乗ったかもしれない。  そこまでいかなくても共感を抱くのではないか。 しかし接触を受けたことは隠すだろう。ほかにも勧 誘された者がいる可能性が高い。  同盟メンバーの動静にはもちろん注意を払ってき たが、いっそう目を離さず、箸の上げ下ろしまで報 告するつもりでやってほしいとそれぞれの所属部署 に頼んだ。  トップに妖精さんネットワークの影響が及んでい る場合は、加納が直接、課員に指示を出した。  場合によっては池端美紀を使った。人事課以外に ほとんど顔が知られていないので好都合だ。  池端は、篠塚明子が三十代の女性社員を誘ってお 茶をするところを押さえ、背中合わせの席で会話を 盗み聞いてきた。  「PIPの前例を作らせちやだめよ、とか言ってま した」  あとで調べたら、相手は篠塚と同じ女子大の後輩 だった。  もう手段を選んでいられない。メールのチェック に踏み切った。会社のアドレスなら中身を見られる。  しかし妖精さんもその可能性に思い至ったらしく、 問題にされそうなメールは発信しなかった。  ただ、プライベートのアドレスを問い合わせる メールが、メンバーからたくさん送られているのが 怪しい。相手を調べると案の定、魔手が伸びたのが 分かった。  向こうも、地下活動は限界と感じたようだ。  「妖精同盟」のホームページが開設された。メン バーの名前も連署されている。  ビラなら回収できるし、迷惑行為として処分する ことも可能だったがとりあえずは手が出せない。  トップページには「妖精のススメ」と人を食った タイトルが掲げられている。毛筆の立派な書で、福 沢諭吉と言われても違和感がないほどだ。  〈みなさんも、ふわふわと会社の中を浮遊してみま せんか〉  本文の一行目から、血圧が上がるのを加納は感じ た。  〈我々はこのごろ「妖精さん」なんぞと呼ばれるよ うになりました。残念ながらメタボの者も多くて、 身が軽いどころじやないんですがIやってみると いいものですよ〉  〈仕事については、無理しないことを最優先にして います。となると、体力、知力、気力、いずれも大 して残っていないわけですからできることは隕られ ます。みなさんの足を引っ張らないようには気をつ けております〉  〈そんなふうでいて、年功序列というありかたい仕 組みのおかげで、十分とは決して申せませんが大き な不安なく過ごしていけるわけですからね、こりゃ、 味を知ったらやめられません〉 〈こんなことを書くとみなさんは、存在そのものが 迷惑だ、などとおっしゃるでしようね〉  認識はあるわけかと思ったが、続くのは開き直り のような、さらなる自己正当化の論理たった。 〈なるほど、我々がもっとよく働く若者と入れ替え られれば、みなさんの仕事の分担は多少減るかもし れない。しかしですよ、現にみなさん、なんとか やってらっしやるじやないですか〉  〈みなさんの給料も上がりません。余ったお金は会 社が持っていきます。競争に勝つにはどうしても必 要、とか言って、結局は自分が太るためだけに使い ます〉  過去の利益変動が、一人当たり業務量や給料にど のように影響したかを示すグラフが載っていた。  さらにそのデータから、役職のないシニアがいな くなった場合、残った場合の将来像をやはり数字で 予想する。複雑な計算式が添えてあり、どこまで信 用できるのか加納にも判断できないが、少なくとも 客観的な感じはする。  〈つまるところ、我々のいるいないは、とりあえず みなさんの待遇に関係ない。ですが今、我々を追い 出すことを会社に許したらどうなります? 何十年 か先、いや十年かからない方も大勢いらっしやるで しよう、みなさんが享受できるはずのおいしい妖精 生活は失われてしまうのです。これはみなさんに とって、大損害ではないですか?〉  彼らも損得で来るわけか。加納が希望退職募集で やった向こうを張っているつもりだろうか。  自分たちの責任を堂々と棚に上げ、会社が諸悪の 根源だと話をすりかえる論法には呆れるはかない。  決定的に忘れられている、あるいは意図的に無視 されているのは、会社が傾いたら社員も一蓮托生と いう当たり前の事実だ。  そして変化の速い今日、業績の悪化は時に身構え る間もなく起こる。悪くすると潰れたり、よそに呑 み込まれたりする。  題目のように唱えていると見えるかもしれないが、 ビジネスの現実を知れば知るほど、競争を意識しな いわけにいかないのだ。  とはいえ巧みな文章だった。  挑発して読み手の関心を惹きつけ、いつの間にか 自分の土俵に引っ張り込んでいる。内容が就業規則 に引っかからないかと思ったが、「無理しない」と 言うだけでさぼると宣言したり、勧めたりしている わけでないから、表現の自由の範囲内におさまりそ うだ。  数字にかかわる部分が溝口悟の手になるのは確実 だが、彼には文才もあるのか?  「奥地さんでしょう」  ため息をつきながらつぶやいた人事課長の山瀬忠 浩によると、奥地文則は学生時代、演劇青年で、台 本もたくさん書いたらしい。  「そういや字も上手だった」  妖精さんだちと手を組むのが得、なんて結論が簡 単に受け入れられるはずはないと信じつつ、興味を 惹かれる者もいそうに思ってしまう。  感心している場合ではない。  妖精さんたちは次々アイデアを繰り出してくる。  いつも通り午前八時半に加納が地下鉄の大手町駅 から地上に出てくると、数十メートル先の会社が入 るビルの前に、揃いの明るい緑色のTシャツを着た 男たちがいた。  歩道の隅をゴミばさみでつついている。丸の内で 吸い殼が落ちているなんてことは滅多にないが、植 え込みの中まで探ってビニールの切れっぱしを見つ け出し、もう一方の手にぶらさげたゴミ袋に入れた。  溝口と高木誠司だ。  少し離れた場所に奥地もおり、裏に同ったら、案 の定残る二人、毛利基と篠塚明子の姿が見えた。  距離を取って観察していると、彼らの注意がゴミ 以上に、通行人に向いているのが分かった。しきり に辺りを窺い、知った顔があるとにっこり会釈する。  「おはようございます」  声を張り上げることもある。永和の社員には誰か れなくそうしているのかもしれない。他の企業も 入っているオフィスビルだが、社章を見れば区別が つく。  妖精同盟の結成は社内で知らない人がいないくら いになっている。  憤る、少なくとも眉をひそめる向きが多いと信じ たい。実際、そういう声は人事にもいくつか届いて いる。しかし数としてそれほどでない。  みんな気にしていないはずはないだろう。腫物に 触るような扱いなのはなぜだ? 共感の輪がそこま で広がっているのか?  共感していると勘繰られたらまずいから、おおっ ぴらに話題にするのを避けているだけだろう。今見 ていても、挨拶された人の大半は困惑気味に見える。  一方で、最終的にはほとんどが笑顔を返すのも事 実だ。これみよがしとはいえ、ボランティア活動に いそしむ同僚への、常識的な態度だろう。  同盟だって、ばしめから尊敬されようとまで期待 していないはずだ。  とりあえず顔を知ってもらい、存在に慣れさせる。 抵抗が薄れれば親しみが湧くまであと一歩。文句の つけようはない振舞いに、好意を持つ者が出てくる のを待つ。  加納もそろそろ会社に入らなければいけない時間 になった。同盟メンバーの目をかいくぐろうとした けれど簡単ではない。  三人いるものの、出入りする人も多いから紛れや すいと考えて正面から突入したが、よりによって奥 地と目が合った。一瞬顔を強張らせた奥地だが、次 の瞬間明るい声を出した。  「室長、おはようございます」  さすがに目は笑っていなかった。それでも口角を しっかり上げて会釈する。  「お、おはようございます」  こちらが動揺を露わにしてしまった。  敵ながら頑張っていると認めざるを得ない。ひと 月前なら、この時間は社食で油を売っていたはずだ。  次の週には、高木が入っているアマチュアバンド が新宿のライブ(ウスに出演した。  ホームページに告知があったほか、加納には案内 が直接メールで送られてきた。  その店は、ライブ(ウスというよリカラオケス ナックみたいなところで、ステージもフロアの奥に ドラムセットと音響機材が置いてあるだけだった。  バンドのメンバーと思しき同年配の男だちと一緒 に高木かおり、機材の調整をしていた。入場料を 払っていた加納を見つけて近づいてくる。  「おお大室長。売り上げに貢献していただいて、あ りがとうございます」  愛想よく言ったそばから、「本当はご招待しない といけなかったんでしょうが、再雇用の身で手元不 如意なもんで」などとジャブをかましてきた。  「いや、敵情視察は大事な仕事ですから」  加納も負けていられない。  「趣味に熱中されるのは結構ですが、PIPを忘れ ないでくださいよ」  ほかのメンバーは、加納と高木のやりとりに注意 を払うでもなく準備を進めている。永和生命の社員 ではないようだ。まあ、高木と並んで人前に立つ勇 気のある社員は珍しいだろう。  あれ、と思っだのは客席に同盟のメンバーが見え ないことだ。絶対来ていると思ったが。  加納が席についてほどなく演奏が始まった。  ビートルズだの、昔のサザンオールスターズだの 昭和歌謡だの、ごちゃまぜだがなかなか上手い。高 木は聞いていた通りボーカルとギターの二刀流で、 一番目立っている。  音楽を楽しみに来たわけではない。自分をいさめ、 改めて高木が案内を送り付けてきた意味を考える。  向こうは純粋に、客を増やしたかっただけなの か?  そんな気さえしばしめてきた曲の合間、高木が 「本日はユニークなゲストの方々をお迎えしており ます」と話し出した。  「実はわたくし、人間ではないんです」  当然ながら客席は、何の話? という空気になっ た。  「妖精です」  真面目くさった表情を崩して高木は続けた。  「いや、私は人間のつもりなんですが、会社が最近 人間扱いしてくれないんですよ。歳とって働きが悪 くなっちやったんですね。じっと座ってるのも辛く てあっちへふらふらこっちへふらふらしてるもんだ から、妖精だと」  笑いが起こった。  「妖精なら、可愛い感じでしよ? マスコットにで もなるのかと思ったら、えらく邪険にされてるんで す。それでもめげず、妖精ライフを全うしようと頑 張っております」  「頑張れ」と客席から声がかかった。  客の大半も高木と同じ世代に見える。改めて店の 中を見同した加納は、後ろのほうに、マスクをして 帽子を目深にかぶった何人かが座っているのに気づ いた。永和の社員かもしれない。しかし同盟メン バーとは違うようだ。  「わたくし、妖精ライフをたたえる歌を作りまして。 お披露目は、職場の妖精仲間と一緒にさせていただ くことになりました」  カーテンがかかっていた厨房スペースから、ぞろ ぞろ人が出てきた。薄緑のひらひらした衣装を着て、 背中に羽根を生やしている。濃いメータ。全部で四 人。  背筋がぞわぞわした。妖精というより妖怪だ。  高木がギターの弦をはじき、ボディから突き出し たレバーを動かした。動きに合わせて音が震える。 同時にキーボードがおどろおどろしい、しかしどこ かユーモラスなメロディーを奏で始めた。  气妖精さんは 早起きだ  目が覚めるから しようがない  せっかくだから 出社して  その分早く 帰ります  ああ楽しいな 楽しいな  妖精さんには 無駄がない 气妖精さんは ついてけない  あまりつぎつぎ 新技術  マニュアルを読む ところから  字が小さすぎ お手上げだ  でも楽しいな 楽しいな  できないことは やらぬだけ 气妖精さんは 気ままだよ  きつい仕事は 人間に  まかせて好きに 囗を送る  それでも給料 もらえるよ  いや楽しいな 楽しいな  やめるわけなど ありません  高木以外の四人も歌いながら、盆踊りのような社 交ダンスのような奇妙な身振りで踊っている。  歌も踊りも控えめに言って恐ろしく下手くそだ。 歌、踊りと呼べるかからして微妙だろう。単純なメ ロディーなのに音程はとっはずれている。毛利の身 のこなしが案外軽いのは意外だったが、他のメン バーは足などろくに上がらない。  だがみんな、歌詞の通りに楽しそうだった。溝口 悟や篠塚にははじめのうち照れが見えたけれど、い つの間にか吹っ切れた様子で表情もほぐれてきた。  歓声が上がった。マスク、帽子の連中は特に熱狂 しているふうに思える。それに同盟メンバーが手を 振って応える。  連帯感のようなものが店の中に充溢して、加納は 一人、浮いているのを自覚した。  曲が終わって厨房へ引っ込む時、毛利がこちらを 見た。  豆タンク形の体形と輝かしい頭頂部。不気味さは メンバーの中でも群を抜く。そのぎょろりとした目 が加納を捉えた。やけに自い歯をのぞかせてから、 毛利はカーテンの向こうへ消えた。  ライブの模様はその夜のうちに、同盟のホーム ページにアップされた。  動画を食い入るように見ているであろう、ひょっ とすると途方もない数かもしれない永和社員たちの 姿を加納は想像した。  下手をしたら妖精さんたちに呑み込まれる。すで に彼らとの闘いは、食うか食われるか、加納の社会 人生命をかけたものになりつつあった。  今からでも同盟メンバーを異動させたらどうか?  閑職に追いやっても意味がない。むしろ喜ばせる だけだ。  地方なら一定のダメージは与えられるかもしれな い。辺鄙とはいわないまでも、東京からのアクセス が悪いところもある。  しかし、あまりに露骨な地方転勤は、対立関係が 隠れもなくなっているだけに、不当労働行為として 抗議されるリスクがどうしても気になる。  病原菌をばらまくに等しい行為ではという疑念も 起こった。ネットを通じた影響はすでに勤務地に関 係なく広まっているはずだが、生身の人間が布教す ればさらに丸め込まれる者が増えないか。  同盟が結成される前にばらばらにしておけばよ かったI。  三枝義信が言った通りだ。しかしもう手遅れだ。  PIPは一応継続されているが、現場からの報告 が滞る状況はなくならない。報告内容そのものも、 始めたころの勢いが薄れている。  〈怯えた様子がなくなった。開き直っているように さえ見える〉  〈以前と同じような勤務態度に戻ってしまった〉  〈立ち歩き、職場放棄が復活した〉  PIP不達成を理由に退職勧奨へ持っていくには 好都合とも考えられるが、向こうにスクラムを組ま れるのは想定外で不気味だった。  労基署への駆け込みや、訴訟といった事態になっ たとしても、ばらばらなら一つ一つ潰していけばい い。しかしさざ波もまとまるとうねりになる。  マスコミが好意的に取り上げるかもしれない。年 寄りに冷たい会社なんてイメージは、生涯の安心を 売り物にする企業にどう考えてもよろしくない。  永和生命の労働組合は経営サイドと協調路線で、 PIPにも異議を唱えてこなかったが、妖精さんた ちの主張を支持する組合員が増えれば無視できない。  状況によっては内紛、分裂といった事態にまでつ ながる可能性がある。会社にとってはガバナンスの 前提が崩れてしまう。  そんな中で六月も下旬にさしかかってきた。月の 変わり目が一回目として設定した評価タイミングだ。  手加減した評価が上かってきたら所属長につき返 すのか。  そうならなかったとして、柢い評価のついた妖精 さんにどの程度強硬な措置をとるのか。  さすがの三枝も慎重にならずにいられなかったよ うで、考えられる選択肢それぞれについてその後の 展開をシミュレーションしたレポートを出すよう指 示があった。  池端美紀は面倒な調べ事をいとわずやってくれる し、頼めば残業にだって付き合うだろうが、非正規 雇用者に残業させるのは好ましくない。レポートの 中身にタッチさせるわけにもいかない。  転職以来ずっと忙しかった加納の帰宅はますます 遅くなった。生命保険業界、特に永和はホワイト企 業と聞いていたはずなのに。  加納は浦安のマンションで、妻の晴美、一人息子 の隆太と三人暮らしをしている。  不妊治療の結果やっと授かった隆太はまだ五歳で 保育園に通っている。送り迎えは晴美と当番制だが、 このところほとんど行けていない。  出版社勤めの晴美も仕事を抜けられないことかあ り、そんな時は近くに住んでいる晴美の親に頼む。 子育てを助けてもらう目論見で、近くに加納たちが マンションを買ったのだ。  その囗も助けを乞うパターンになってしまい、十 時近くになってやっと浦安に着いた加納は、いった んマンションヘ寄って車で妻子を迎えに行った。  「いつもすみません」  すやすや眠っている隆太を抱いて頭を下げる加納 に、義母は「ご飯まだなんじやないの? ありあわ せだけど」とクッパーを出してくる。後ろから義父 も顔をのぞかせている。  「済みません」  これもいつものことだ。晴美と隆太はもちろんす でに食べさせてもらっている。  「ありかたいよな。妖精さんたちに見習ってもらい たいよ。社会への貢献の仕方はいくらでもあるじや ないかって」 「今日も妖精さん?」  加納は「手ごわいよ」とつぶやいた。  最初に妖精さんの話をした時、晴美は「うちにも いる」と言い、呼び名の由来を、見るのが難しいか らと説明したら噴き出した。  「広めてみようかな。受けそう」  その時は一緒に笑えた。今、心に余裕がない。  数日後、なんとかレポートの草案をまとめた。三 枝に出す前に顧問弁護士のチェックを受けたほうが いいと思い、事務所に電話した。  何度かけても捕まらない。朝、飛び出していった きりだと事務員が言った。  普段からちょくちょく連絡をとっているけれど珍 しかった。検事を定年退官した人物で、今は大した 仕事のない会社顧問をいくつかやっているだけだ。 妖精さんみたいなものでも、肩書があれば稼げるん だと思ってしまう。  午後になって加納は待ちきれず、弁護士の携帯に かけた。  「ああ、電話もらったんだってな。すまんが忙しい んだ」  「聞きましたが、こちらも待つたなしでして」  「今やってるのも永和の案件なんだ」  「妖精さんの件より緊急性が高いんですか」  「そうねえ」  曖昧につぶやいた弁護士は「加納さんには教えら れない」とつけくわえた。  やむを得ず、事情を説明しておこうと今度は常務 室の内線番号を押す。出てきたのは秘書たった。   こちらはしばらくして三枝を捕まえることができ た。  「PIPの話ですね」  三枝はせかせかと言った。  「はい。今日にでもと思っていたのですがI」  面会して話すつもりだったが、三枝はいきなり 「今回は詰めないことにします。当たり障りなく流 しておいてください」と言った。  「え。いいのですか」  「残念ですが。しかしもちろん今回限りです。次は 遅れを取り返します」  それだけ告げて三枝は電話を切った。  要するに、妖精さんに対峙する余力がないという ことだ。対決は先送りだ。  弁護士がばたついているのと原因は同じ気がする。 相当なトラブルに違いない。  気になるが知らされていないのは知る必要がない からだ。あるいは知ることが害になるからだ。顧問 弁護士ははっきり、教えられないと言った。  ならば放っておくしかない。  突然暇になった。レポートはいずれ作るだろうが 急がなくていい。  そう伝えると池端は拍子抜けを通り越して不満そ うな顔をした。妖精さんに憎しみを抱く彼女は、問 題の厄介さを改めて認識しつつも、この月末、なに がしかの成果が出ることを期待していたのだろう。  もちろん加納もだ。しかし焦って仕損じては元も 子もない。  「じっくりいこう」  池端だけでなく、自分にも聞かせるつもりでそう 言った。   ひと月猶予をもらったと思って、妖精さんたちへ  の支持を削る方法を考えよう。あるいは、いくら支  持があっても関係なく、問答無用で退場させられる  方法を。  三枝の指示内容は一応、人事課長である山瀬忠浩 に話した。トラブルのことは山瀬も知らないようで、 あえて触れなかった。  「今日はもう引き揚げます」  「そうだな」  山瀬もしようがないなというふうに応じた。  人事課はル上アインの業務に加え、本格化してき た新卒採用関係の仕事で忙しそうだ。滑稽なことに 奥地まで、加納の動きを見逃すまいとしているのか、 このところずっと席にいる。  でもこちらは特命専任だ。役回りが違う。今まで の(Iドワークを考えても後ろめたく感じる必要は ない。  少しゆったり数日を過ごした。やってきた木曜、 加納は以前から心にかかっていたことを実行に移し た。その日は、隆太のお迎え当番からも外れるよう 調整した。  終業後、東京駅へ向かったが、いつもとは違う地 下鉄の改札をくぐる。  中学、高校とバスケットボール部たった。大学で は、あまりに練習がキツそうなので体育会に入るの は日和ったが、友達とサークルを作った。  社会人になってしばらくブランクがあったものの、 クレカ会社の同僚と、会社に近い目黒で活動してい るチームに入っだ。  丸の内からだと行きにくく、どうしようと思って いたら、永和には社員の同好会があると知った。  十分ほど電車に乗って降りた街に、練習場になっ ている貸しコートがある。木曜が週に一回の練習囗 だ。  妖精さん問題が片付くまで、大っても満足に活動 できそうにないけれど、いずれと思っていたので見 学しておいて損はない。何より一度気分を変えた かった。  コートには、すでにボールの大っだ籠が出て数人 の男女がウォーミングアップを始めていた。加納は 一人に近づき、入会を検討しており、見学させてほ しい旨を話した。  「いいですよ。大歓迎です」  錦糸町の営業所にいるという若い男性が笑顔で迎 えてくれた。  「よかったらやってみます? レンタルシューズも ありますよ」  数カ月ぶりなのが心配だったが、勧めに従って コートに立った。ドリブルからのシュートを四、五 本。一本外したほかは決めた。服がワイシヤツのま  まなので一対一では本気を出せなかったが、多少の  見せ場を作れた。  拍手を受けて照れる。しかしクールダウンのつも りのフリースローまで入ってまんざらでもない気分 だ。  「入会希望の方?」  今やってきた男が言った。加納と同じくらいの年 齢だろうか。  「すごいじやないですか。次の試合が楽しみだ」  「とんでもないです。それに、すぐにはご一緒でき ないんです」  「おや、どうしてですか」  構造改革推進室の加納、と名乗ると相手の様子が 変わった。  「あなたが加納さんでしたかI」  不動産投資課の課長補佐だという。営業所の若手 には「室長さんですか。偉い人なんですね」としか 言われなかったが、本社でそれなりの立場にいれば、 やはり反応してしまうようだ。  「会社でも新人です。よろしくお願いします」  冗談めかしたが相手の表情は硬いままだ。  不動産投資課にももちろん妖精さんがいる。過去 の人間関係ほかで、妖精さんと敵対できない事情を 抱えている可能性もある。  加納は自ら「いろんな目で見られるのは分かって います」と言った。  「ご苦労が多いでしようね」  言葉を選ぶようなつぶやきだった。  「こちらにPIPの対象になっているような方 が?」 「いや、活動している中にはいないと思います」  それから思い切ったみたいに言った。  「毛利さんが名誉会長なんですよ。設立者です。心 臓をやられて引退されましたが。たまにここにもい らっしやいます」  今度は加納がぽかんとしてしまった。  病気のほうは人事ファイルに載っていたが、同好 会活動までフォローされていなかった。  豆タンク形の身体とバスケットはつながりにくい が、ライブ(ウスで一人、動きにキレがあっだのは そのせいか。  「今の会員さんにも慕われている?」  「面倒見のいい方ですからねI」  いったん言葉を切って相手は続けた。  「言うまでもありませんが、会員の考え方や立場は いろいろです。私かどうかは申し上げないでおきま す。ただ、バスケ仲間にその件で何か押し付けたり、 頼んだりしたことはありません。楽しくプレーでき なくなってしまいますから」  「正しいご配慮だと思います」  加納は頭を下げた。  「私は入らないほうがよさそうですね」  「申し訳ありません」  「私か転職してこなかったら、面倒もなかったんで しょうけれど」  「加納さんのせいではないと思います」  二人とも言葉が続かなくなって、ぼんやりコート を眺めた。人数が揃ってきてミニゲームが始まって いる。  「一人、インター(イに出たっていうのがいるんで すがね」  相手が問わず語りのように言ったのは、沈黙が苦 しくなったからだろう。  「今日は休みだそうです。仕事のほうで問題発生ら しいんだけど、詳しい話ができないって何ですかね え」  頭のどこかが反応した。 「どこの方ですか」 「サポ三ですよ。担当までは忘れたなあ」  加納は靴を履き替えた。 「お邪魔しました」 「わざわざ足を運んでいただいたのにI」  また詫びを口にする相手を制して、コートから離 れた。  翌朝、出社した加納英司は社内データベースにア クセスして、営業サポート三課が管轄している中部 地方の支社に関する資料を引っ張り出した。  各支社幹部の経歴をざっと眺めたが、みんなきれ いなものだ。もっとも、あからさまなパッテンがあ れば支社だって幹部にはなれないだろう。  数字にとりかかってすぐ気づいたのは、岐阜支社 の好調な業績だった。名古屋を抱えてマーケットが はるかに大きい愛知とさほど変わらない。  さらに岐阜支社に絞って資料を読み進めた加納は 思わず「うわ」と声を漏らした。  「どうかしましたか」  「何だこれ」  指さしたパソコン画面の該当箇所に目をやって、 池端美紀は「ああ、竹内ゆかりさんですよ。つて私 もお目にかかったことないですけど」と答えた。  「ご存じなかったですか。永和じゃ、いや業界全体 でも超有名人のおばあちゃんです」  竹内は一人で岐阜支社全体の三割近い売り上げを 叩き出している。営業社員、いわゆる生保レディで ありながら、支社の特別顧問という肩書を与えられ たのもむべなるかなだ。  レディ歴は半世紀になんなんとし、年齢も当然な がら七十をとっくに超えている。顧客には資産家や、 議員、首長を含む地域の有力者が多く含まれ、大口 の契約を次々取ってくる。  「ユカテリーナつてほうが通りがいいかもしれませ ん」  総合職の社員も竹内にはまったく頭が上がらない。 支社運営のあらゆる方面に口を出して権勢をふるう 様子を、世界史の教科書にも出てくるロシアの女帝 エカテリーナになぞらえてあだ名がついた。  「妖精さんやら専制君主やら、いろんなのがいるん だなあ」  「ですね。でも私はユカテリーナさん、素晴らしい と思います。会社に貢献してるわけじやないですか。 妖精さんと大違いです。年長者は本来そうあるべき です。だったら独裁者だってかまわない」  「そういうことになるのかな」  「仮に問題があるとしても。竹内さんは私たちの相 手じやないですよ」  背中に気配を感じて加納は振り返った。奥地文則 が様子を探りに来たかと思っだのだが、立っていた のは人事課長だった。  「そうだぞ、加納室長」  小さな声で話していたつもりだが、山瀬忠浩には 聞こえたようだ。  「ますやらなきやいけないことがあるだろう。息を 入れるのはいいが、関係ないことに首を突っ込んで 特命をおろそかにするのは許されないぞ」  となると事情を話すしかない。山瀬を部屋の隅へ 引っ張って耳に口を近づけた。  神妙な面持ちで聞いていた山瀬はすぐ課長席から 姿を消し、昼休みの少し前に戻ってきて加納を食事 に誘った。  飲食街をぶらぶら歩いて山瀬が立ち止まっだのは インド料理屋の前たった。  ドアを開けると、よく分からない香辛料の匂いが 漂ってきた。店内は薄暗く、テーブルとテーブルの あいだが衝立で仕切られる半個室の造りで密談には もってこいだ。  山瀬が羊の、加納は鶏のカレーを注文する。  「加納さん、大当たりだ。やっぱリユカテリーナ だった」  「というと」  「認知症の客に高額な保険を売ってた」  ため息が出た。斟酌のしようがない。表沙汰に なったら、本人がアウトなだけでなく経営へのダ メージも必至だ。  「とんでもないですね」  「まったくな。でも、前からなんだ。家族から抗議 されたのも一回や二回じゃない」  「なのにどうして」   皿が運ばれてきて、山瀬はスプーンでカレーとコ メをぐしゃぐしゃに混ぜてから口に運んだ。加納は 手をつける気にならなかった。  「食べろよ。味は悪くないぞ。ちょっと辛いけど」  言ってから、思い出したように加納の問いに答え た。  「もみ消し続けてきたんだよ。謝ってすまないこと もあっだけど、そこは何とかして」  「稼ぎ頭だから?」  「一つの理由ではあるな。しかし最大のってわけ じゃない」  「誰も逆らえないってやつですか。何だかんだ言っ たって営業社員なわけでしょう? 支社長がダメな ら東京で直接」  「社長がバックなんだ」  淡々と山瀬は言った。  「ここだけの話だ。まあ知ってる奴は知ってるけど な。社長が上り詰められたのは、岐阜の支社長だっ た時にすごく成績を上げたのが大きいんだよ。もっ と言うと、二十代にも岐阜に行ってて、ユカテリー ナのツバメだったって説もある」  気分が悪くなってきて、加納は話の方向性を変え た。  「今同はもみ消せなかったんですね?」  「相手が強硬らしい。記者会見するって息巻いてる みたいだ」  「じやあおしまいだ」  「それがユカテリーナも白旗を掲げる気がないのさ。 客と二人っきり、密室の出来事だからな。(ンコを ついてもらった時はしっかりしてらっしやいました、 重要事項の説明もルール通りにいたしましたで突っ 張り通すつもりなんだろ」  最悪だ。  裁判には勝てるかもしれないが、証拠がなかった だけで、やったに決まっているのが誰にでも分かる。 永和のイメージはぼろぼろだ。一斉解約のようなこ とが起こっても不思議でない。  「常務がネタ元ですか」  「ああ。加納さんの話を伝えたらすぐ社長に会って こられた」  「なら、社長を諌めていただけたんですね」  ほっとした加納だが、山瀬はスプーンを持つ手を 止めて難しい顔になった。  「どうだろうな」  「三枝さん、社長の信頼が篤いんでしょう?」  「ユカテリーナがらみとなると社長はおかしくなっ ちまうからな。常務に詰められてむすっとしてたら しいぜ」  絶句した加納に山瀬は重々しく言った。  「週明けにもう一回言ってみるとはおっしやってた が。いずれにせよ俺たちにはどうにもならない」  「そんな」  「もちろん俺に教えてくれたことには大いに感謝し てる。常務に一目置いてもらえた。加納さんの評価 はもっと上がっだろうけどな」  「いや、そんなのはどうでも」  「会社で生き残るには、情報が何より重要だ。すぐ でなくてもいつか役立つ時が来る」  冷めてしまったカレーに目をやった。食欲は依然 としてなかったが、無理に口に入れた。味がよく分 からない。辛さは確かに相当で、すぐ汗が出てきた。 しかし辛さのせいだけだろうか?  会社に戻ると池端がもの問いたげな視線を投げて きた。気づかないふりをして妖精さんのほうの作業 にとりかかるふりをしたものの、どの程度できてい るのか判断することから難しかった。      10 「やっぱりだめだった」  このあいたと逆に、山瀬忠浩のほうから囁いてき た。  「聞く耳なんぞあらばこそって感じだったらしい」  「で、ユカテリーナの言いなりに? 自殺行為だ」  「社長がサポ三を直接動かして、後始末させてる。 金を握らせるとか、受け取ってくれなきや弱みをつ かんで脅すとか」  「むちゃくちゃですよ。何としてもやめさせない と」  「無駄だ」  柢い、しかし有無を言わせぬ調子たった。  「常務も断念された。やましいことはないと、社長 がとぼけてるんだ。証拠がなければ攻めきれない」  「だからって」  「チャンスを待つと常務はおっしやってる。次はユ カテリーナの尻尾をつかむ。そのためには社長のそ ばにいなければならない」  「悠長すぎませんか」  「他に手がないんだ。我慢してくれ。間違っても外 に漏らしたりするなよ。会社を傷つけるだけで誰の ためにもならない。逆に、常務がユカテリーナと社 長に引導を渡す展開になったら、加納さんは相当な 処遇を受けると思うぜ」  「私の話じゃなくて」  山瀬は無視した。  「今は妖精さんだ。そっちに集中するのがいい。ユ カテリーナのことは残念だったが、常務の身体も空 いた」  割り切れなかったが、従うはかないのか。  確かに、三枝に無理をさせたらかえって解決が遠 のくかもしれない。自分が、いずれやりたい人事、 労務施策を進めるにも、三枝の力は借りたい。  気持ちの整理をつけようとしていた二日後、池端 美紀が突然、辞めた。  朝、姿を見せず、どうしたのかと思っていたらほ どなく派遣元から「退社した」と連絡があった。  永和ではないところへ移りたい要望が出され、す ぐには無理な旨返事をしていたが、昨日になって派 遣元宛ての辞表を持ってきたそうで向こうは平身低 頭だ。  人事課の面々がびっくりし、何かあったかあれこ れ推測し合う中で、山瀬と加納には、ひょっとして と引っかかるものがあった。  「漏らしてないよな」  「言われた通りにしました」  はしっこい池端のことだ。勘づかれた可能性がゼ ロとは言えない。その気になれば深掘りする手立て はあるだろう。  だとしても、彼女には無関係ではないか? 責任 もない。放っておけばいいだろうに。  永和を告発する可能性はあるだろうか。  ぼんやりした憶測だけでどうなるものでないのは、 誰がやっても同じだがI。悪くすると彼女のほう が逆に訴えられかねない。  「探りを入れてみてくれないか、念のために」  山瀬に言われて加納はうなずいた。  電話したがずっと話し中。着信拒否されているよ うだ。メールも戻ってくる。  住所は分かったので、手紙を出そうと思った。だ がなるべく時間をかけたくなくて、自分で郵便受け に入れてくることにした。  住所をスマホのナビに入れてたどり着いたのは、 丸の内から電車を二回乗り換えて埼玉に入った、駅 から徒歩十五分の小さなマンションだった。  目的を果たして駅へ引き返し、改札へ向かいかけ た時はっとした。中から池端が出てこようとしてい たからだ。  池端もICカードを仕舞いかけたところでこちら に気づき、凍り付いた。 「何しにいらしたんですか」  「わけを知りたくて。手紙を置いてきたところだっ た」  「お伝えすることはありません。わけなら、見当が ついてらっしやるんじやないですか」  横をすりぬけて足を速めたのに、加納は追いす がった。  「話したくないなら話さなくていい。ただ知ってお いてもらいたいんだ。僕たちはユカテリーナを野放 しにしておくつもりはない。今は手出しできないけ れど、そのうち必ず」  振り向こうとしない彼女の前に出て立ちふさがる。 「お願いだ」 「そんなふうに強引に、思い通りにことを進めよう とするんですか、永和って会社は」  「聞いてくれ」  「なのに厄介な相手が出てくるとすぐ怖気づいて、 許しちゃいけないことに見て見ぬふりしちゃう。我 慢できません」  池端はしゃべり過ぎたというふうにふいに黙った。  懸念は正しい。竹内ゆかりの件を知っていると白 状したも同然だ。  だがかえって開き直ったようで、池端は再び口を 開いてまくしたてた。  「そのうちっていつですか。どうやって? 信用で きませんよ。永和は、お年寄りに好き勝手に食い尽 くされていくんです」  「妖精さんのほうだってちゃんとやる。そうとしか 言えないけど」  「できると思えなくなりました。永和が潰れるの、 たいして先じゃない気がします。元凶の人たちは逃 げ切りかもしれませんけど。加納さんは無理じやな いかな。さっさと逃げ出したほうがいいですよ」  そして付け加えた。  「ご安心ください。何かしようと思ってるわけじや ありません。永和で働くのが嫌になっちやっただけ です」  求めていた情報だった。加納からすれば足を運ん だ目的は達成できたわけだ。  しかし、分かりましたと立ち去ったら、ろくでも ない人間になってしまう気がした。  「ユカテリーナの件がショックだったのは理解でき るけれど、自分の手が汚れたわけでもないのに、 いっときも我慢できないみたいに仕事を投げ打つの は普通じやない気がする」  無視して歩き出した池端の背中になおすがるよう に呼び掛けた。  「池端さんを心強い仲間だと思ってきたんだ。実際 助けられたし感謝してる。力になりたい」  だめかと思ったが、池端は足を止めて振り返った。  ファストフードの二階席で、ぽつりぽつり語られ た話は加納を息苦しくした。  「就活してた時、『面接必勝法』みたいなDVD教 材を売りつけられたんです。焦りで変になってたん だなって今なら分かるんですけど」  五、六万円もしたが、セールスマンが、池端もそ れを売れば代金がいらないばかりか、収入を上げら れると言っだのを信じてしまった。  気づいた時には下宿の押し入れからあふれるほど の在庫と、百万を大きく超す借金だけが残っていた。 入社試験に落ち続けたのはぼろぼろなメンタルが響 いた結果たった。  親に泣きついて借金こそ返したものの、就職浪人 などとても言い出せず、内定の出た会社ならどこで も入らざるを得なかった。  「そんなことがあったんだ」  加納がユカテリーナにただならぬ関心を示し、こ そこそ動き出した時、ただならぬものを感じた池端 は自分でも探りを入れた。方法については口を閉ざ したけれど、同じ派遣会社からサポート三課にも人 が行っており、そのあたりと推測して間違いないだ ろう。  いずれにせよ、竹内があだ名以上の暴君、いや犯 罪者たったことを池端は知った。彼女をマルチ商法 に引きずり込んだ連中の同類だ。  しかも加納は山瀬と一緒に情報を抱え込んだ。永 和生命として竹内を守るというわけだ。  「私、ズルしてうまい汁を吸う人の犠牲になってき ました。妖精さんたちの尻ぬぐいをさせられるのも そうだと思ってます。だから、加納さんと一緒に始 めた仕事にもやりがいを感じてたんです」 「なのに、つてことだな」  加納はため息をもらした。 「確かに、こんな情けない奴の下で働いてられな いって思うよな」  「加納さんだけのせいじやないですよね。失礼なこ と言ってしまってすみません」  「いや、言われても仕方ない。ユカテリーナのほう たってやる気はもちろんあるんだけれど、具体的に どうとなると何も見えていないのが正直なところだ。 三枝常務でさえ簡単にはいかないみたいだから」  加納のほうも、社長が竹内ゆかりを完全ガードし ている状況を説明した。  「だとすると、現場を押さえるくらいじやないとだ めですよね」  「それができたら、会社を変えるきっかけにもなる と思うんだが……」  「ですねI」  二人して言葉少なになってしまった。 「あ」  突然池端が大きな声を出して加納はびっくりした。 「私か岐阜に行きますよ」  何を言っているか分からなかった。  池端の提案はこうだった。  生保レディになって竹内ゆかりのいる営業所に潜 り込む。  新人には研修期間があり、先輩の営業について いったりするらしい。ユカテリーナに接近して先生 になってほしいと頼む。  「うまくいったとして、危ない橋を渡るところを簡 単に実演してくれるとは思えない」  「頑張ります。お金のためなら何でもやる奴だ、同 類だって思わせます」  腕組みをしてしまった加納に、池端はなお「悪い ほうに考えたら何もできません。ほかに方法思いつ かないし、私かやるのが一番いい」と言いつのった。  「加納さんが認めてくれなくても、一人でやります。 もう決めました。邪魔だけはしないでくださいね。 うまくやりとりの録音ができたら提供しますから」  「バレだ時はどうする? 専制君主だぞ。実際相当 な力があるらしい。ひどい目に遭わされるんじやな いか」 「だから、多少のリスクは承知の上なんです」  押し問答の末、加納も腹を括った。  「止めないよ。僕が力になれることはほとんどなさ そうだけれど、責任を取る。僕が池端さんに頼んだ 恰好にしよう」  「必要ありません。黙って見ててもらえば。経過は 適宜報告します」  平行線になりそうなので、加納は「いつ行く?」 と話を変えた。  「早いほどいいですよね。もたもたしてたら同じこ とが繰り返される。被害者が増えます」  「その通りだけど」  「私、ずっと割の合わない目に遭ってきました。弱 い者を踏みつけにしておいしい思いをする人は許せ ません」  感情をここまで露わにする池端は初めてだった。  具体的な手順を二人で考えた。  募集は随時だし、人手不足だから身元の詮索など されるまい。東京暮らしに疲れて、地方に引っ越し てきたとでも言えばいい。勤務地の希望も聞いても らえるはずだ。  まずは住まいを借りる。加納が費用を負担するこ とにした。池端はそれも斷ろうとしたが押し切った。  長い期間いるつもりはないにしても、礼金敷金ま で含めれば結構な額になる。加納だって楽には出せ ないが、隆太の教育資金として貯めていたものを一 部崩すことにした。そのくらいしないと申し訳がた だない。  三枝や山瀬にも伝えるか、頭をよぎったが黙って おくことにした。社内手続き的にはあまりに問題の 多いやり方で、巻き込むに忍びない。  ハードルはいっぱいあるしどれも高い。もはや永 和と無関係の、それも若い女性に挑んでもらうこと 自体、正気の沙汰でないようにも思える。  一方で、わくわくするところもあった。  妻の晴美は敏感に察したらしく「何かいいこと あったの?」と訊いてきた。  残念だが晴美にも当面は話せない。それでいて家 族の資金をつぎ込んでしまうのが心苦しいが、永和 生命を救うためなので許してもらおう。  もっとも、失敗したら本当に、会社の破綻を待た ずして加納が追放されるかもしれない。  うまくいったところで組織秩序に対する反逆に違 いなく、難癖をつけられる可能性は大きい。その時 は仕方ない。また新天地を探そう。  山瀬には、彼にとって必要なことだけを簡単に伝 えた。  「漏れてたのはしようがない。社内に多少広まるの は常務も想定されてる。騒ぎ立てられなきやいいん だ」  ほっとしたように言われた。  加納は、妖精さんに立ち向かう心を新たにしてい た。自分はそちらに全力を尽くす。  池端に「絶対中途半端にしない。安心してくれ」 と啖呵を切ったのだ。約束は守らなければならない。 彼女への、それが恩返しだ。      H  竹内ゆかりの在籍する営業所は、岐阜県では何番 目とかの市にあった。といっても駅前に七、八階建 てのビルが多少並ぶくらいで、その一つにオフィス を間借りしている。  電話で聞いた通り、営業所を訪ねるとその場で ペーパーテストを受け、採用が決まった。中学生レ ベルの一般常識、漢字だったから、ほぼ誰でも受か ると思う。  普通なら、岐阜市の支社で1ヵ月間、保険の種類 や関係する法律について講習を受け、業界共通の資 格テストに合格してから、実践的な研修が始まる。  しかし池端美紀は、講習は不要と言った。早くユ カテリーナに接近したい身としてはまどろっこし過 ぎる。  「前から生保レディになりたいと思って、自分で勉 強してたんです」  人事の経験しかないが、生命保険に関するひと通 りの知識は身につけていた。正社員に負けたくない 気持ちからだったけれど、思わぬところで役立った。 面食らった様子の営業所長も、とりあえず認めてく れた。  うまい具合に、その月のテストが数日後にあり、 受けた結果は見事合格。今後のスケジュールを相談 するため改めて営業所へ行った。  昼過ぎだったのでほとんどのレデイたちは外回り に出ているが、デスクワークやアポ電入れ、あるい は休憩のために時々営業所へ戻ってくる。その都度、 新人として自己紹介した。  「結婚してるの?」  大抵の相手が訊いてきた。年齢が上がるとほぼI ○○パーセントだ。  していると答えたら、子供のありなし、人数、年 齢、性別、夫については年齢、仕事、なれそめと根 掘り葉掘り質問されるのだろう。  「まあ、子供は早くつくらないとダメよ。お相手い ないの? ああ、東京暮らしに疲れてとかだったわ ねえ」  独り合点して、「よかったら紹介するわよ」なん て嬉しそうに言う。  竹内と会えだのはほどなくだったが、実物を目に して度肝を抜かれた。  想像と違ったわけではない。あまりに想像通りと いうか、延長線上の彼方に竹内はいた。  大きな帽子は何帽と呼ぶのだろうか、つばの広さ は麦藁っぽいが天辺が平たい。周りに太いリボン状 のものがうねうね巻き付いている。皇族の女性が 被っておられるようなのに若干似ているけれど、ボ リューム感が数倍だ。  その帽子とスーツすべて、蛍光が入っだような緑。 靴も金色の金具がついたぴかぴかのパンプスだが、 転ぶのが怖いのかぺったんこに近いローヒールだっ た。もちろん、ひと目で分かるパイプランドのバッ グがコーディネートされる。  営業所長らと応接セットで話していた池端を見つ けるなり向こうから近づいてきた。  「まあ、あなたが一発合格の新人さあん? 竹内で すうI」  歌うような節回しで声をかけられ、どぎまぎして とっさに返事ができない。  やっと名乗り返すと、竹内はさらに歩を進めて距 離を詰めた。抱きつかれるかと思つたくらいだ。  「期待してるわあ」  両手で握りしめられた手が痛い。  「すごい方なんだつて、お噂、耳にしてました。一 緒に働かせていただけるなんて光栄です」  「全然そんなことないのよお。年とつてるだけI。 でも分からないことあつたら何でも訊いて頂戴ね え」  下げていた頭を元に戻した時、池端は竹内の後ろ に三、四人のレディかおり、絡みつくような視線を 向けてくるのに気が付いた。全員、すでに挨拶は済 ませていたのだが。  竹内がふり返り、「じやあ行きましようかあ」と 言った。  「はい」  残りのレディたちは声を揃え、手をひらひらさせ て出てゆく竹内に従った。  いつの間にか所長が立ち上がり、腰を九〇度に 折って見送っていた。  本当に偉いんだI。  奇矯ではあるけれど今見た範囲、特別居丈高に振 舞っているわけではない。そもそもあんな調子で保 険など売れるのか? 名士をたくさん客にしている とか、ちょっと信じにくい。  「すごい人なんですよね」  本人に言ったのと同じことを所長にぶつけてみる。  「池端さん、この業界未経験なんですよね。そこま で有名なのか。かもしんないなあI」  考え込むような顔になって、逆に「どんなこと聞 いてます?」と尋ねてきた。  「細かい話は知らないですけど。セールスが全国で もダントツのトップだとか。何十億?」  「まあね」  所長は言った。ほっとしているようにも見えた。 やはり外部に出ると困ることがあるのか。  「どうしたらそんなに売れるんでしょう」  「一朝一夕には無理だなあ。長Iい年月積み重ねて きたものが花開いてるんですよ、長くやれば誰でも 竹内さんみたいになれるってわけでもないけどね」  「違いを知りたいです」 「そうねえ」  所長が薄く笑った気がした。 「貪欲ってことじゃない、何にでも」 「例えば?」 「本人に聞いてみたら。あの通り、気さくな人では あるから」  とりあえず今は深追いしないほうがいいようだ。  翌日から、ロープレと呼ばれる研修が始まった。 ロールプレイング、役柄を演じるということで、先 生が客役、生徒は営業員役になって立ち居振舞いを 学ぶ。  先生といっても専任ではなく、レディの中から選 ばれる。池端についたのは、年齢も池端と十は離れ ていなそうなシングルマザーだった。男の子が一人、 小学二年生だという。  名刺の渡し方だとかも池端には必要なく、すぐ トークのコツに入っだ。  「初めまして、永和生命の池端と申します。お忙し いところ済みません。今日は私どもの新商品を」 「ストップ」  十秒しゃべったかしゃべらないうちに止められた。  「初めてのお客さんに、のっけから商品説明はNG。 カツカツしたら引かれちゃう」  事務処理の仕事しかやったことがないのでそのあ たりの呼吸が分からなかったが、なるほどと思う。  「お住まいの地域を担当することになりましたので よろしく、だけで十分。せいぜい、保険のお悩みが ありましたら何でもお聞かせください、くらいだ わ」  と言ってから彼女は続けた。  「分かってるんだけどね。難しいの、気持ちを抑え るのが」  「先生でもですか?」  「ノルマがねえ」  月二本の契約が取れれば何とかなる。しかし、そ れくらいだったらと思うのは大間違いらしい。  「たいていの人はもう生命保険人ってるもん。受け 持ちエリアが千五百世帯だとしてさ、手つかすのと ころなんてほとんどないわけ。掛け金を増やすので なきや、乗り換えてもらうことになるでしよ。でも よその保険屋さんも同じこと考えて回ってるから ね」  正直なところ、各社の商品に大した違いはない。 とすると結局は客とどこまで仲良くなれるか。  「教科書的には礼儀正しく誠実に、よね。向こうの 情報を集めるのも大切。仕事、家族構成、人間関係、 趣味。話のきっかけになるでしよ」  レディたちが揃って、結婚しているか訊いてきた ことを思い出した。岐阜だからと考えていたが、職 業的習慣かもしれない。あるいは詮索好きがレディ になるのか。どちらかというと後者な気がするが。  「その先は人によっていろいろだわ。とにかくまめ に顔出すとか。手紙書いたり、ちょっとしたプレゼ ントしたり」  折を見て、竹内のことを訊ねてみると先生は間髪 を容れずに言った。  「あの人は神よ」  女帝よりもっとすごいということか。  「このあいだ竹内さんの誕生日パーティがあっだの。 私なんかもちろん出られないんだけど。岐阜のホテ ルで、発起人が前の知事さんだって。偉い人いっぱ い来てさ。五百人くらい集まったとか言ってたか な」  なるほど感心するしかない。  「そんなパーティしてもらおうとは思わないけど、 太いお客さんは羨ましいよねえ」  経営者などだと、個人として高額の保険を掛ける のはもちろん、会社の福利厚生として、従業員を一 括して医療保険に入れてくれることもあり、売り上 げを一気に増やせる。  竹内は、高度成長期と言われた時代からあちこち の会社に入り込んで保険を売ってきた。将来有望そ うな若者には特に熱心に近づいて、しばしば商売抜 きで相談事に乗ったり、相手の仕事を助けてやった りした。  そのうちの少なくない数が実際に出世して、彼女 の今を支えている。有力者は別な有力者を紹介し、 竹内の人脈をさらに強大にする。所長が言う「積み 重ね」だろう。  営業所の枠など関係なく、県外にまで客を持つ竹 内は、契約保険金の合計が年間百億を超えたことが あるらしい。レディの月給は契約保険金の○∴二 パーセントが目安というから、本人も相当な金持ち だ。  もろ手を挙げて褒める気にならないが、ファッ ションにはかなりかかっていそうだ。西洋アン ティークや絵などたくさん持っているという。ほか のレディを集めて奢ることもしよっちゅうだ。  先生は加われていないようだけれど、特に竹内と 近いグループには、さばき切れない仕事を手伝わせ たり、回してくれたりする。それだけに寵愛をめぐ る争いが絶えない。  だからなのかI。  昨日のことを思い出した。  グループのレディだちと待ち合わせてお茶にでも 行くところだったのではないか。竹内が池端に好意 的な態度を示したから警戒したのだ。  この先生からは竹内の悪い話を引き出せなかった けれど、先生はちょくちょく交替した。自分の営業 があるのだから当然だ。  「ユカテリーナつて、若い子をひいきするのよ。使 い道があるからね。それであなたにも目をつけたん じゃないかしら。ひよっ子だととって代わられる心 配もないし。親切なだけじゃないよ」  初対面の模様を話すや、あっさりあだ名のほうを 口にしたのは、この仕事を始めて二十年になるとい う兼業主婦のレディだった。  「ユカテリーナなんて呼ばれてるんですか」  びっくりしたふりをしつつ、「そんなに怖いんで すか」と探りを入れる。  「睨まれたらやってけないよ。あの人が直接なんか してくるわけじゃなくてもさ、取り巻きにいじめら れるのは目に見えてるし。だいたい正社員がみんな いいなりだもの。あたしたちの査定を好きにできる、 生かすも殺すも胸ひとつってことだよ」  「稼いでると、何でもできちゃうんですか?」  「この世界じゃ正義だからねえ」  彼女はため息をついた。  「どこだって同じだろうけど。お金に縁がないのは 惨めよねえ。亭主の稼ぎが悪いからしようがなく働 いてるのに、疲れるぼっかでちっとも儲からない よ」  「そのうちどIんといけますよ。『積み重ね』なん でしよう?」  「あたしなんかだめだわ。人を見る目がないもの。 亭主選びで失敗したのと同じ。昔よくしてやった客 も全然偉くなってくれないし」  苦笑いされて、池端もちょっとがっかりした。竹 内と他のレディの違いが人を見る目では、尻尾を捕 まえる手がかりにならない。  そんなことないでしょう、などと適当に応じてい ると、相手は「ま、ユカテリーナの客筋もだんだん 細ってはきてるんだけどね」と、自分を慰めるよう に言った。  「どうしてですか」  「お客さんが歳を取り過ぎたんだよ。引退する人も かなり出てきてる」  誕生日パーティの発起人は、「前の」知事だった。  「新しい世代の人は、義理や人情のセールスが嫌い なことが多いしね。昔のやり方がどんどん通用しな くなってるじやない。あたしたちを出入りさせてく れる会社なんか、もう少ないし」  昔はどこの会社にも昼休みになると生保レディが 営業にやってきた、なんてことは、池端も永和で働 くまで知らなかった。  「ネット保険には値段で太刀打ちできない。人間の 営業自体、いつまで続けられるんだろうってところ あるよね」  「確かに。でも、そんな中でダントツのトップセー ルスを守り続けてる竹内さんつて本当に」  そこで池端ははっとした。  今まで、竹内にまつわる話を聞くうちに、普通に 能力の高い人なんじやないかと思えてしようがな かった。どうして認知症の客にまで手を出す必要が あるのか疑問が湧くほどだった。  栄華は一度味わったら忘れられないものなのだろ  「必死になってんのよ。ヤバいことにも手を出して るよ。つい半月くらい前、正社員が相当泡食ってた。 いよいよかしらって思ったくらい」  「ヤバいことって?」  「言えない。私だって、会社での立場、自分から悪 くしたくないもの」  思わせぶりな間を置いてから彼女は続けた。  「でも想像できるんじやない。売り上げ、何か何で も伸ばしたいって思ったらどうするか」  夜になり、がらんとしたワンルームに帰ってきた 池端は、唯一の家財といっていい布団に寝転かって、 スマホで加納英司に送る報告メモを作った。   最後にはこう書いた。  〈もう世の中に合わなくなって退場するべき人が、 地位とかお金とかにしがみつこうとするからおかし なことになるんです。ユカテリーナも妖精さんたち もまったく一緒だと思います〉  しばらくして、加納から返信があった。  〈悪くないペースで進めていると思う。無理しない で、着実に迫っていこう。くれぐれも用心を忘れず に。  妖精さんも手強いけれど、必ずやっつけてみせる。 だから池端さんは、ユカテリーナに集中してくださ い〉       12  しばらくぶり、といっても四、五日見なかっただ けだけれど、常務室に加納を迎えた三枝は頬の肉が 少し落ちたみたいに見えた。それくらいの心労が あったのだろう。  「加納さんにもご心配をおかけしますね。私の力が 足りなくて」  不満もあったが、本人に先に切り出されると口に できない。  「とんでもないです。次に期待しています」  自分がその武器を調達すると心に秘めている。  「今はPIPのほうを進めましよう」  「もちろんです。そちらにまで悪影響を及ぼしてし まってまったく申し訳ない」  「レポートは読んでいただいたのですね」  前日にメールで送っておいた。池端美紀を岐阜へ 送り込んだあとベースを戻して仕上げた。  嘘を書くわけにはいかなかった。企業イメージの 低下、社内の反発など、強硬路線を取った場合には 相当大きなものになるのが、調査会社を使ったアン ケートや、他企業での例から予想された。  妖精さんへの支持は予想を上回って広かっている。 戦いが厳しい情勢なのは間違いない。  ただ、管理職に加え、将来のエリート候補層を中 心にした労働意欲の高い層は、妖精さんを一掃して ほしいという要望を持ち続けている。  つまるところどうやっても分断が深まるわけだ。 既存労働組合の幹部は実際、頭を痛めはじめている。  「どちらかを選ばなくてはいけないなら、結論は考 えるまでもないと思います」  「同感ですね」  三枝が大きくうなずいた。  「すでに軋轢が起こっていたわけですから。状況が 悪くなるわけじゃない。企業イメージのほうは、コ スト削減を保険料に反映できればおさまるでしよ う」  経営資源の観点から問題をとらえる三枝としては そうなるのか。加納には第一に、楽においしい思い をしたいという妖精さん根性への怒りがある。しか し目指すところは同じと確認できた。  「であれば、次に問題になるのは、所属長さんたち が気持ちとうらはらに怖気づいてしまっていること です。何とかしないと、退職勧奨に持っていく根拠 を作れない」  「査定に響くと言ってもだめですか」  「効果ゼロとは申しませんが、やはり若いころに受 けた恩義は無視しにくいものです。私も含めてです けれど、所属長さんの年代はまだそういう感覚が生 きていると思います」  不満そうな表情を三枝が浮かべた。  「ここに来られたからには、勝算があるのかと」  「魔法のような妙案は見つかっていません。ここは、 前に常務もおっしやっていた気魄を見せるしかない でしょう」  「と言うと?」  「突撃隊になるんです。所属長さんたちに勇気を出 してもらうために」  人事課で先行して退職勧奨を出す。  気魄というほどのこともない。奥地文則が人脈を 駆使しても、人事課長に手を出そうという妖精さん を見つけるのは簡単でないだろう。  しかもこの件に関しては、加納が事実上、人事課 の所属長だ。山瀬忠浩は汚れ役をばしめから免れて いる。  人事課の部屋に戻ると、奥地はちょうど席を立ち かけていた。月末を乗り切れたことでもう大丈夫と 勘違いしているらしい。 「どちらへ?」 「どこだって」  いいだろうと言いかかったふうな奥地だが、ただ ならない圧を感じたらしい。  「いけないのかね」  「先月、手も足も出ないご様子だったのはとりあえ ず置くとしても、こっちか追及しないのをいいこと に知らんぷりはいかがなものでしょう」  もともと当てにしていなかったから、割り当てた 給与計算も初めから若手の人事課員にやらせていた けれど、悪びれたふうさえなかった。  「知らんぷりってわけじゃないよ」  たじろぐ奥地に加納は畳みかけた。  「このあいだほったらかしになってしまっだのは痛 恨でした。もう手加減しませんよ」  「ずいぶん勇ましいじゃないか。私たちの味方も少 なくないのを忘れてるんじゃないのかね」  「理解してお話ししています。私は、みなさんが好 き放題に振舞っておられては会社が滅ぶと思ってい ます。滅んでもいいと思っている方だちから吊し上 げをくっても構いません。覚悟はできています」  奥地は黙って立っている。  「お引止めしましたね。お出かけじやなかったんで すか」  「いやI」  「構いませんよ。お好きなところへどうぞ。ですが 報いはきちんと受けていただきます」  まだ奥地は高を括っていたかもしれない。ふてく された顔でそのまま出ていって、一時間以上姿を見 せなかった。  その間に加納は新たに給与計算を割り当てる社員 の一覧を、今度は名簿でなく、社員番号で指定して 奥地にメールで送っておいた。名前はもちろん、ど この課にいるのかさえデータベースを使わなければ 分からない。  「しかも、先月より増えてるじやないか」  やっと戻ってきた奥地が気づいて抗議した。  「すぐどこかへ消えてしまわれるのは余裕の表れ じやないですかね。他に仕事をなさっているようで もありませんし」 「やっていないと何を根拠に決めつけるんだ?」 「はっきりさせておきますが」  加納は奥地の目を見据えた。  「成果が出なければ働いていることになりません。 世界標準です。二十世紀の日本では必ずしも適用さ れていなかったかもしれませんが」  「一応訊いておくが、もしIあくまで仮の話だ I間に合わなかったらどうするのかね」  「もちろん、辞めていただくようお願いすることに なります。申し添えておきますが、不達成の程度に よっては即、解雇もあり得ます」  本気をようやく悟ったのだろう、奥地は加納を睨 み返すとどすんと椅子に座った。  パソコンをいじり始めたが、データベースにアク セスしようとしているふうではない。  彼はいまだにほとんど使えないはずだ。ほんの一 時期、習得を試みてはいたが、妖精同盟が結成され て力を発揮しだすとまた放り出し、わずかに憶えた ことも忘れてしまったに違いない。エクセルも同様 だ。  今奥地は、休みなくキーボードの上で指を動かし ている。彼がやるとその音が、機関銃のようという より算盤を弾いているみたいに聞こえるのが笑える が、あんなスピードでできることはいくつもない。  誰かが後ろに近づくとさっとパソコンを閉じる。 加納が「見せて下さい」と言ったら「嫌だね」と拒 んだ。しまいには、パソコンを持ってまたどこかへ 消えてしまった。  予想通りだった。  次の朝、山瀬が、妖精さんの接触を受けたことを 知らせてきた。山瀬の元上司で、自宅に電話してき たという。  「向こうも腰引けまくってるんだけどさ」  それはそうだろう。奥地からすれば動いてくれる 人間が見つかっただけでありかたい話だ。  「奥地さんに言われたから一応伝えとくと」  「分かりました。知らせてくださってありがとうご ざいます」  「どうするんだ?」  「その妖精さんにも少し痛い目を見てもらうことに なりますが、山瀬さんのせいにはなりませんからご 安心ください」  加納はすぐに、全社員への一斉メールを送った。  〈平素より構造改革推進室の業務にご理解、ご協力 いただいておりますこと、心より御礼申し上げます。  さて残念な事案がございましたので、他山の石と していただくべくご報告いたします。  PIP対象者である人事課員、奥地文則氏につき まして、前日夜、山瀬忠浩人事課長の私宅へ架電し て、達成目標が高すぎるのではなどとおっしやった 方がいらっしゃいました。  その方は、山瀬課長の上司だった経歴を持ち、現 在やはりPIP対象者となっておられる〉  実名を出しておいて加納は続けた。  〈PIPの公正性をねじ曲げようとするまことに遺 憾な事案と申すほかございません。  そしてこのようなことが起こった大本の原因とい たしまして、PIPによって職を失うと危惧した奥 地氏が、山瀬課長に影響力を発揮できそうな人物に 不正を依頼した事情が認められます。  奥地氏は、以前よりPIPに反対する立場を公に しておられます。それ自体が処分理由になることは ありません。  しかし今回のような行動は、PIPの結果と別に、 退職勧奨、あるいは解雇の根拠として評価される可 能性があります。  他部署でも類似の事案があるやの情報を把握して います。心当たりの方は、自重、自戒なさいますよ うお願い申し上げます。  なお人事課のPIP業務は、構造改革推進室が委 託を受けて実施しております。そのため山瀬課長は 事案について、室長である私に相談されました。こ のような形で公にすることを含め、全責任を私か 負っていることを付言いたします〉  ついに奥地は震え上がった。  同盟のメンバーも危機感を抱いた。毛利基が目を ぎょろぎょろさせて怒鳴り込んできた。  「脅迫じやねえか」  奥地が「私たちの味方も少なくない」と口にした のは脅迫でなかったのか。  憤りを覚えつつ反論した。 「事実を明らかにしただけです」 「先輩が後輩に意見して何か悪い」 「現在の職制、職務と無関係な人間関係を使って圧 力をかけるのが不正だと申し上げています」  さらに毛利は喚きたてたが、一歩も引かない構え を崩さなかった。  「まずはお膝元で一人、血祭に上げようってわけ だ」  息を荒くしているのに「あんまり興奮なさると心 臓によくないですよ」と言ってやる。  毛利にも、加納が同好会を訪れた話は伝わってい たようだ。  「絶対に入れてやらねえからな。どうせトラベリン グ連発のへぼなんだろうが」  「少なくともフルタイム出場できますよ。じやない から引退なさったんでしょう?」  「ほざけ。ともかくお前の思い通りには絶対させね え」  この経緯を池端に報告できて、やっと少し肩の荷 を下ろせた気分の加納だった。  しかし毛利がああ言ったからには必ず反撃してく るだろう。  どんな手で来るか。またホームページで世論に訴 えるのか。身構えていたら意表を突かれた。  奥地はITツールに改めて取り組みだしたのだ。 それも前回を遙かに上回る必死さで。  ダウンロードしたマニュアルを読んでいるのを目 撃して、加納は人事課員たちに誰かが教えたのか尋 ねた。みんな首を振った。頼まれもしていないとい  溝口悟か。  ちょっと動揺した。毛利は奥地に檄を飛ばすとと もに、同盟メンバーをサポートにつけたようだ。  しかしどう頑張ったって使いこなすところまでは いけないだろう。  社内データベースはともかく、エクセルの表計算 機能はマニュアルを読んだだけで自由自在というわ けにいかない。技能検定もあるくらいで、給与計算 を正確にこなせるようになるには妖精さんでなくと もそれなりの時間が必要だ。  奥地は呪詛めいた言葉をつぶやきながら、それで もプリントアウトしたマニュアルとパソコンの画面 をかわるがわる睨み続けた。  ある時また席を離れたが、パソコンとマニュアル、 両方抱えていった。ということはよからぬメールの ためではない。  池端美紀がいなくなったあと室員は補充されてお らず、加納自ら後をつけた。  奥地はエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まっ てから駆け寄って数字が変わってゆくのを確かめる。 止まっだのは社食のある階だ。次のエレベーターで 追いかけた。  奥のテーブルに奥地がいた。早朝ではないけれど、 ランチタイムにもはずれているから人はまばらだ。 そこにひよろりとした男がやってきて、奥地の隣に 座った。  溝口だ。  パソコンを広げた奥地の横で、溝口が何か言う。 奥地はうなずいたり、頭を掻いたりしながらキー ボードを叩き、マウスを操作する。  ふと顔を上げた溝口に見つかってしまった。  互いに目を合わせたまま固まる。ややあって溝口 が奥地の脇をつついた。  加納は歩み寄って言った。  「人の助けを借りてはいけません。溝口さんも手出 ししないでください」  奥地は憤然と反論する。  「どうしてだ。それで能力が上がるんなら文句ない だろう」  「少なくとも溝口さんにとって、奥地さんの指導は 本来の業務じゃないはずです」  溝口も何か言いかけたが、制して奥地は立ち上 がった。そして加納と一緒に部屋へ戻ると、時間が 勿体ないというように首っぴきの猛勉強を再開した。  何がしかの形でその後も溝口から教わっていたと は思う。だとしても奥地は思ってもみなかった着実 さで習熟を深めていった。   一週間後には、給与計算対象者のデータをエクセ ルに読ませる作業を始めたのを確認した。  バラバラに打ち込んでいたら途方もない作業に なってしまうし、ミスを防ぎきれない。しかしデー タの形式を適切に変換すれば、自動的にエクセルが 取り込んでくれる。  奥地がやっていたのはまさにそれだ。ということ は、アルゴリズムも出来上かっているのだろう。 データが取り込まれた後は、コマンドーつで計算が 終わる。  あとどれくらいかかるか。増やしたとはいえ、通 常、ひと月分とされる量を超えてはいない。  加納は焦った。クリアされたら、奥地は大手を 振って会社に居座ることになる。所属長を集めた会 議で、そうならないようにと注意した失態を自分で 演じてしまうわけだ。  妖精同盟を慌てさせ、溜飲を下げたのは一瞬たっ た。  奥地が作業を進めるスピードは徐々に速くなって ゆくようだ。壁にぶつかってくれるのを祈るしかな い。  突撃隊が討ち死にでは後が続く道理がない。責任 を果たせないだけでなく、大ブレーキになるなんて 面目丸つぶれだ。  七月に入って両手に余る日数がようやく過ぎ、 やっと半分まで来た。  なんとか逃げ切れないかI。  昼間が長い季節の、終業時間が近づいてもまだ高 い夕陽を部屋の反対側にある窓越しにぼうっと眺め ていた時たった。  視界が遮られ、デスクに影が落ちた。 「加納くん」  奥地がそこにいた。いつも行儀よく撫でつけられ ている白髪交じりの七・三分けが、乱れてところど ころ逆立ち、鬼の角みたいに見える。血走った目に、 不気味な光が宿っていた。  「まだ三分の一を超えたくらいだが、終わった分を 先に渡しておくよ。今流だと、メール添付で送らな いといけないのか? ご希望ならそうするが」  汚らわしいもののように指先でつまんだメモリー スティックが差し出される。  加納の頭の中では、奥地の言葉がぐるぐる音を立 てて回っていた。  「君に言いつけられた給与計算だよ。忘れたの か?」  「忘れるなんて」  「そりゃそうだよな」  奥地の口角がわずかに上がった。  「この週末はゆっくりさせてもらうよ。ちなみにお 伝えしておくと、データを入れ始めてから今日で五 日目なんだ。月末までには余裕でおしまいにできる と思うから安心してくれ」  帰り支度をして悠然と出ていく奥地を見送ってか ら、スティックの中身を確認した。  美しく数字が並んでいた。何度見返しても項目に 過不足はなく、フォーマットも完璧だ。  身体中から力が抜けていった。人事課員たちの目 が自分に注がれている。山瀬が出張でいないのがせ めてものことだったが、知られるのが多少遅くなる だけだ。  「見せてもらっていいですか」  本来の給与計算担当である課員に言われて、加納 はメモリーを渡した。何を期待したわけでもない。 拒む理由を思いつかなかっただけだ。  「間違ってますよ」  「え?」  課員が画面の一点、等級による基礎額が表示され ている枠を指した。  「一等級分ずれてるんです」  別の社員の画面に切り替える。  「これもですね。多分、アルゴリズムを書く時に一 列見間違えたんじやないかな。チェックしたらすぐ 分かったはずなんだけど」  「やるべきことをやってなかったってわけか」  顔が熱くなっているのが分かった。失われた力が 戻ってきた。  ITツールをものにできた嬉しさで、奥地は浮か れていたに違いない。  ざまあみろ。細かい数字を扱う時は特に、間違い がないよう万全を期すのが事務の基本だ。  ただ、すぐにミスを指摘したら、週明けにアルゴ リズムの修正をするとして、一からデータを入れ直 しても間に合う可能性が残る。  そのことに課員も気づいたのだろう、探るような 視線を送ってきた。  「黙っていよう。来週いっぱいくらい」  怯えたような表情をよぎらせながら、それでも課 員はうなずいた。      13  加納さん、本当に頑張ったんだなあ。  奥地文則が休職に追い込まれたと知らされて、池 端美紀は頬が緩むのを感じた。  PIPの強化を宣言したことが詳しくメールに書 いてあったものの、その後連絡を取り合う中であま り触れられず、うまくいっていないのか、だったら こちらから尋ねて責めているみたいにとられたら嫌 だし、と控えていた。  達成度チェックのタイミングが迫る中で、給与計 算を終えられないと観念した奥地は、人事課の部屋 で聞くに堪えない罵詈雑言を撒き散らしたあげく、 自ら休職を申し出たらしい。  退職勧奨の前に先手を打ったつもりだろうが、明 確な理由のない休職が長引けばいずれ解雇される。  妖精同盟の一角がついに崩れた。これを機に、永 和が真面目に働く若者に報いる会社に変わってゆく ことを願ゝつ。  私も頑張らなくっちや。  岐阜に来てから1ヵ月近くが経った。当初は、ユ カテリーナに関わるらしいきなくさい匂いを時たま 感じたが、すっかり消えてしまった。本社でもその 件は終わったことにされたのだろう。  しかし、次がいつでも起こりうる状況になったと も考えられる。  研修はロープレから、いよいよ先輩レディの営業 に同行する段階に移った。竹内ゆかりのしっぽを押 さえるというゴールに向けて、スタートラインに 立ったわけだ。  しかし今のところ竹内本人に近づけているとは言 いにくい。  まともに言葉を交わしたのは初日だけだ。あとは 挨拶程度で、仕事を教えてほしいと頼めるような チャンスはなかった。  そもそも竹内は毎日営業所に来るわけではない。 在籍している五十人弱のレディには八時半の朝礼に 出ることが義務付けられているが、遠くまで忙しく 飛び同る竹内をそんなもので煩わせられない。  来たら来たで、いつも例の取り巻きたちが周りを ガードしている。  ド派手な服装のおばあちゃんと後をぞろぞろつい ていく彼女たちを見ると笑ってしまいそうにもなる。  まだ一度も同じ服、帽子を見ていない。それでい て印象はいつも同じなのが凄いといえば凄い。いく つ持っているのか。しまう場所がよくあるものだ。 帽子用のトランクルームでも借りているのだろうか。  しかし、少なくとも表立って揶揄するなど思いも よらない。  支社長が成績優秀者を表彰するため営業所にやっ てきた時も、竹内には膝まずかんばかりに接してい た。そして彼女以外で表彰されたほとんどは、取り 巻きのレディたちだった。   ある日、その一人、安岡玲子が先生になった。四 十を少し過ぎたくらいの兼業主婦だ。  初日に警戒心を露わにした中にもいたが、それか らユカテリーナが特に池端に構うそぶりを見せない せいだろう、「よろしくお願いします」と挨拶した ら案外愛想よく微笑み返してきた。  「東京で何やってたの?」  「事務系いろいろです。派遣会社にいたもので」と だけ答えておく。  嘘ではない。家族関係ほどには向こうも興味がな いようで、やりとりはおしまいになった。  朝礼のあと、安岡の軽自動車で一緒に街に出た。  駅前から少し離れると、ぽつんとそびえる市役所 のほかは柢い建物ばかりになる。畑もちょくちょく 交じる。  「このへんからはじめようか」  住宅街にさしかかったところで安岡が言った。  しかし車を停めたのはさらにずいぶん走った先の コンビニだった。東京と違って建物の五、六倍の広 さがある駐車場付きだから停めること自体に問題は なさそうだけれど、途中でいくつかコインパーキン グも見かけた。  レディたちは、いつも会社の裏のコインパーキン グを使っているのだが。  「あそこは通勤用だから駐車場代出るんだけどね」  他は自腹らしい。安岡は当たり前でしようと言わ んばかりだった。  そうか、営業社員は、社員の名はあるものの雇用 されているわけでなく、永和生命から業務委託を受 けた個人事業主なのだ。  商品説明のパンフレットなどもすべて買い取りと は説明されていた。一枚数十円だけれど、平戸を超 す受け持ちエリアに漏れなく配れば万円単位でお金 が飛んでゆく。  「池端さん、そういうとこちょっと抜けてるかもね。 鷹揚っていうか」  「そうでしょうか」  「そうよ。保険のことよく知ってたってさ、資格試 験前の講習要りません、なんて人まずいないもの。 経験者だって受け直すのが大抵よ。絶対そのほうが 得だから。逆に研修期間だけで辞めようとするのが いるくらいだよ。聞いたことなかった?」  生保レディの実入りは歩合がほとんどだ。しかし 研修期間中は固定給がある。人集めのためだが、( ナから働く気がない手合いは貰い逃げを狙うという。  現場の実情を分かっていなかっだのを改めて自覚 する。  「実家がお金持ちとか?」  「とんでもないです」  「それは残念ね。最初はみんな、家族、親戚に保険 人ってもらって売り上げを作るものよ」  梅雨が明けて半月、気温は朝からぐんぐん上かっ ていた。車の中から見ても、ものの輪郭が歪んで感 じられるくらいで、太陽に焙られながら歩き回るの は正直こたえた。  レディたちは口を揃えて日焼け止めをしっかり塗 るよう池端に注意し、自らも実践している。それで も肌は相当ダメージを受けるだろう。  そして飛び込み営業の成功率の悪さも、さんざん 脅かされた通りだった。いや、覚悟を持たせるには 足りなかったかもしれない。  まず、インタホンを押しても留守のことが多い。  「専業主婦なんて今時滅多にいないから。私か文句 言える筋合いじやないけど」  相手が出てきても、セールスはおろか世間話まで たどりつかない。  ロープレで「最初に会社名を言わない」ようにと は教わっている。「間に合ってます」で瞬殺だから だ。  「こんにちは!・」  精一杯元気な声を作って呼びかける。  「こちらの地区の担当としてご挨拶にまいりまし た’・」と続くわけだけれど、それで素直にドアを開 けてくれはしない。  「どちらの方?」  向こうから聞いてくる。  「永和生命の」  「間に合ってます」  プツリとなる前に「パンフレット、ポストに入れ ときますので、よかったら」と叫ぶ。  「ゴミ箱直行って分かってんだけど」  つぶやきながら安岡は元手のかかったパンフレッ トを取り出すのだ。  やっとドアが開いた家も、木で鼻を括ったような やりとりで追い返された。  「こんなものよ」  安岡はけろっとしている。  「落ち込んでたら保だないから。でもやらないと結 果も絶対に出ない。私はI囗何軒って決めて続ける ようにしてる。ぽんとはもっと回るんだけど」  今日は研修だから切り上げ、別の仕事を体験して みましようとのことでいったんコンビニに戻った。 ちょうどお昼時で、安岡はサンドイッチ、池端はお にぎりを買って車の中で食べてから移動する。  次は車を停める苦労がなかった。駐車場のある酒 屋だったからだ。一応、法人営業ということか。  安岡は店に入っていって、前掛けをした若い男に 「社長はどちらあ?」と尋ねた。 「あ、一時でしたっけ。奥で待ってますよ」  レジの横から入っていくと事務スペースがあって、 社長がスマホを耳に当てていた。手振りで椅子を勧 められたが安岡は座らない。池端も座れない。  数分で電話は終わり、社長が「すまんすまん」と 言いながら立ち上がった。安岡は、岐阜では有名な 洋菓子屋の紙袋からクッキーの詰め合わせを取り出 した。  「いえ、こちらこそお忙しいところにお邪魔し ちゃって。いつもありがとうございますう」  馴染みの客相手だと、しゃべり方が少しユカテ リーナつぽくなるようだ。  「研修中の新人も連れてきちやいましたあ」  池端が挨拶すると、頭頂が少し寂しくなった社長 の表情がかすかにでれっとした。  いつぞやの先生が、若い子には使い道があると 言っだのを思い出した。安岡もそのあたりまで考え ていたのか。さすがユカテリーナの取り巻きだ。  「このあいだちょっとお話ししましたけど、今度の 更新から保険料が結構上がっちやうんですよお。年 齢で決まってるんでえ」  「なんだってな」  テーブルに広げられた契約書を池端もわきからの ぞきこむ。終身保険と定期保険を組み合わせた契約 だ。定期保険のほうが来月で十年の満期を迎える。  「でもですねえ、このあいた社長にぴったりな新商 品が出たんですよお。掛け換えてもらったら、保険 料はほとんどそのままでいけますう。今、すごく人 気があるんですう」  「へえ」  社長はパンフレットを手にとってぱらぱらめくっ た。 「毎月の払いが変わらないのはありかたいねえ」 「病気になった時の保障は新しいやつのほうが充実 してるくらいですよお。入院一日あたり六千円、六 十日まで大丈夫ですしねえ」  「ほんとだ」  池端が「解約返戻金が少なくなるだけですね、デ メリットは」と言っだのはセールスを後押ししたつ もりだった。少なくとも怒られるようなこととは思 わなかった。   しかしその瞬間、安岡のこめかみに青筋が立つの を確かに見た。テーブルの下で足を蹴られた。  「ああ、万が一解約されるようなことがあったら多 少はそうですけどお。終身っていうのは文字通り終 身が基本ですからあ。滅多にそういう方はいらっ しやいませんのでえ」  安岡は必死に何気ない様子を繕っていたが、早口 になり声も上ずっている。  社長は気づかなかったらしい。 「任せるからいいようにしてよ」 「はい、それはもちろおん。一番お得になるように 考えてますからあ」  契約書がすでに用意されていた。必要事項もすべ て書き込まれ、(ンコを貰えばいいだけだ。  社長が無造作に寄越したそれを力を込めて紙に押 し付けると、安岡は池端を促して立ち上がった。こ ぼれんばかりの笑みを店番の若者にも振りまきつつ 出てきたが、車に乗り込み、酒屋の敷地をあとにし た途端、表情が一転した。  「あんた、何言い出すのよ? 私に恨みでもある の?」  アクセルを踏み込み、角を乱暴に曲がる。池端は 助手席で身体を硬くした。  「とんでもないです」  「だったらどうして解約返戻金の話なんかするの よ」  理解できない叱責だった。  終身保険のような貯蓄型保険では、途中解約した 場合払い込んだ保険料の一部が戻ってくる。安岡が 社長に提案したプランで保険料がこれまで通りで済 むのは、今までに潜在的に貯まっていた解約返戻金 を、頭金のような形で保険料に回すからなのだ。  改めて契約を結び直すと、解約返戻金は少なくな る。客の年齢に応じて利率も引き下げられるため、 客が最終的に受け取れる総額としても減ってしまう 可能性が大きい。  そのあたりをきちんと説明しなくてはいけないこ とは、生保レディの資格試験でも出題されていた。 池端はむしろ、安岡の説明不足をフォローしたので はないか。  「やっぱりあんた、おめでたいわ」  安岡は吐き捨てた。 「新しい契約のほうが査定がぜんぜんいいのよ」 「そうなんですか?」 「当たり前でしょう。客に返すお金が少ないほど会 社は儲かるんだもの。私だって、それで給料が上が るんだったら売るわ。あんたがどうしても嫌なら勝 手にしたらいいけど、人の商売の邪魔は止めて頂 戴」  「嫌です」  反射的に口をついた。声が震えるのが分かったが 続けた。  「自分でするのも、先生がするのを見るのも嫌で す」  「優等生には我慢ならないよ」  「優等生ぶってるつもりはありません。ずるしちゃ いけない、人の無知につけこんじゃいけない。当た り前のことじゃないですか」  「誰かが得すりゃ誰かは損する。欲しいものを手に 大れたきゃ誰かを泣かすしかないの」  「世の中はそんなものじゃないと、私は信じてま す」  安岡は車を停めた。  「降りて」  顎をしやくられた。言い返せないか考えていたら、 手が伸びてきて助手席のドアを開けた。  灼けるようなアスファルトの上に池端を残して、 軽自動車が走り去っていった。      14  奥地文則を休職に追い込んだのは間違いなく大き な勝利だった。  もっとも、恰好いい戦い方とは言えないだろう。  巻き返しに苦しめられたあいだだけでなく、勝利 の確定後も池端美紀へのメールに詳しい経過を書く 気分になれなかったのはそのせいだが、空っぽの奥 地の机を見ると、妖精さんの絶滅ヘー歩近づいたと 加納英司は実感できた。  同盟は、しかしなおしぶとかった。PIPを骨抜 きにする動きを止めようとしない。  一部の所属長は影響から脱し、自分の部署の妖精 さんにまた毅然たる態度で接するようになったのだ けれど、そうでない者も少なからず残っている。  結局のところ、形勢をある程度挽回はしたものの 一気に制圧するまでいかず、社内の分裂はさらに先 鋭化の様相だった。  次の手を打だなければならない。  こうなると、圧力をかけて追い出す、というよう なやり方ではもう間に合わないのかもしれない。  確実に、素早く。直接毒を吹きかけて息の根を止 める。  役立つだのは、またも三枝義信の指示だった。  「最後の手段ではありますがね。うまくいけば退職 金も払わずにすむ」  膝を打った加納に、三枝は「人事マンが、思いつ かないほうが問題じやないですか」と厳しい口調で 言った。愛のムチと受け止めておこう。  ドライになるのがためらわれる日本企業でも、こ の方法ならぐうの音も出させず狙った相手の首を切 れる。  まずはやはり残った同盟メンバー。彼らを取り除 けば、肚の据わっていない他の妖精さんはすぐ腰砕 けになるだろう。  四人のファイルを改めて引っ張り出す。すでに何 度も読み返して、暗記してしまったくらいだ。  みんな、若いうちは少なくとも人並み、あるいは それ以上に働いてきたと思える。社内の表彰を受け ている者も多い。  一方で、誰にも処分歴はなかった。  だが、あらゆる規則を厳密に守って生きている人 間など存在しない。残らず取り締まったら、誰もい なくなったとなりかねない。適当に見逃すことで世 の中は成り立っている。  逆に言えば誰からだって叩いてホコリを出すこと ができる。  目をつけたのは経費だ。会計課から伝票を持ち出 して調べた。  残念ながら、四人とも大して使っていなかった。  一応、外回りの業務がある営業サポ、運用の三人 は多少の交通費を請求しているが、使っているのは 専用のパスモだけで、鉄道会社の記録を参照しても 不正は見つからなかった。  飲食関連に期待していたのだけれど、五時より前 に帰るのでは接待と見せかけることからして不可能 だ。  豪胆そうな毛利基も派手な領収書の切り方はして いない。ほかの三人は、目立だないことを妖精さん の心得としてこのあいだまで過ごしていたはずなの でなおさらだ。  妖精さん化する前ならどうか。  昔はみんな普通のサラリーマンだったわけだ。普 通のサラリーマンがやることはやっているだろう。 法律と違って社則に時効がないのはありかたい。  ただ伝票は、七年の保存期間が過ぎれば捨てられ てしまう。  ルーズそうと言うなら高木誠司だが、七年前には もう役職定年を過ぎていた。そもそも生保は機関投 資家として株を買う立場なので、どちらかといえば 接待を受ける側だ。  毛利も、バリバリの営業だったのは七年以上昔 だった。その後お客さまセンターに出されて妖精さ んになった。  誰でもいい。やらかしてくれていないか。  しわくちやだったり、シミのついたものも交じる 小さな紙切れ相手の奮闘が続いた。  同盟メンバーの異動を遡りながら、所属した部署 の伝票を見てゆくわけだが、段ボールに詰め込まれ た中からメンバーにかかわるものを選びだすだけで 大変だ。  詮無い話だけれど、池端がいてくれたらなあと 思ってしまう。後任は、派遣会社と条件が折り合わ ないらしくまだ来ない。来てもどれだけ使えるか。  気にされると困るので、伝票調査のことも池端に 伝えていない。結果が出る前に期待をもたせるとこ ちらが苦しくなると学んだせいもある。  しかし、妻には説明せざるを得なくなった。  いっとき過重気味の仕事から解放された加納だが、 すぐ元に戻り、またまた隆太のお迎えをドタキヤン して義父母の出動を仰ぐ事態を起こしたからだ。  三人で自宅へ戻る車の中で「脛の傷探しか」と晴 美がつぶやいた。  「人事って怖いのね」  「晴美だって、迷惑だって言ってたじやないか」  「そうだけど」  実際、当時「絶滅」まではためらっていた加納を 「手加減しなくていいわよ」などとけしかけたりす らしたのだ。  「あとから晴美のほうが正しかったなって思ったん だぜ」  「確かに共存は簡単じやないけどね」   つぶやいてから晴美は、「うちの親に今度何か 持ってかないとね。お金渡したほうがいいかな」と 言った。  加納はちょっとびっくりした。  「お金まではいいんじやない。お父さんお母さんも 孫に会うのは楽しみだろうし」  「楽しみなのはもちろんだと思うけど、私たちの下 請けみたいなのって、複雑な気持ちもあるんじやな いかしら」  「そうかな」  加納はすぐにうなずけなかった。  「誰だって人に指図されるよりするほうが気分いい でしよ」  「まあね」  「なのに対価もなかったら、長いうちに溜まってく るかもよ」  (ンドルを握ったまま考え込むような加納に、晴 美は笑いかけた。  「英司くんを責めてるんじやないから。何か言われ たのでもない。まあ、それくらいのつもりでいたほ うがいいかなってこと」  「分かった」  運転に集中しようと思ったが、義父母の顔が脳裏 から消えなかった。  彼らは販売のほか修理なども受け付けるふとん屋 を営み、今も仕事を続けている。  量販店に押されてかなり暇になったそうだが、完 全に年金暮らしの加納の両親にはない、気の張りを 感じることは確かにある。  だがそろそろのんびりしたいと思ったりしないの か。それならそれで、隆太の世話が負担になりかね ないが。  自分の父のことも考えた。  市役所に役職定年はなかったはずだし、今年七十 一歳だから、ぎりぎり妖精さん扱いは受けずにすん だ時代の人かもしれない。  だとしても、キャリアのおしまいのほうでは、世 の中の変化についていけないのを自覚する局面が あったのではないか。そんな折、何を感じただろう。  頭がごちゃごちゃしてきたのを振り払って、とに かく今は、永和の妖精さんを退治することだ、と自 分に言い聞かせた。  ようやく攻めどころが見つかっだのは八月に入っ てまもなくだった。  一番可能性が柢いと思っていた篠塚明子が引っ掛 かった。単に篠塚がついていなかっただけかもしれ ない。加納からすればラッキーということか。  彼女は八年前に岡山の支社長になり、二年間勤め たのだが、半分ほどの期間は伝票の保存年限にか かっていた。  支社は営業の前線で当然接待が多い。  一軒のレストランが気になった。多い時は週に数 回行っている。領収書の筆跡は、別に取り寄せた篠 塚のサインと違うが、店がグルならどうにでもなる。  しかし他の伝票との突き合わせでは、日時のかぶ りなど出てこなかった。会社の記録を調べても、出 張中に地元で経費を切るような下手は打っていない。  ほかに支社長の行動を把握する方法はあるか。  頭をひねった末、加納は岡山の生命保険協会と、 商工会議所に問い合わせた。何年も昔に遖って、会 合がいつ開かれ、誰が出席していたか教えてほしい という面倒くさい依頼も、相手が永和生命の本社室 長となれば受け入れられた。  商工会議所の回答に当たりが入っていた。昼食付 きの懇親会に出席した日と、レストランでランチ接 待をしたことになっている日付が重なっていた。紛 れもないカラ接待だ。  加納は小躍りして篠塚を呼び出した。  もちろん理由は伏せた。同盟のメンバーとはし じゆう面接しているから、向こうもまたかと思った だけだったろう。  「あんまり呼び出しかけるの、業績改善プログラム 達成の妨害になりませんか」  篠塚は相変わらすの陰気な声で言った。  無難なだけのグレーのスーツ、化粧も最小限だ。 全身にくたびれた空気をまといつかせている。この ごろは五十後半、いや六十、七十代でも華やかな美 魔女が多いというのに。  今はサポートとはいえ、これじゃ営業の仕事など できっこないと思ってしまう。ライブ(ウスで生き 生きした表情を見せていたのが嘘のようだ。  「少々昔の話を伺いたいんですがね」  加納は切り出した。  「岡山にいらっしゃったころの」  「何ですかほんとに。私、支社長として素晴らしい 数字を残せたわけじゃないかもしれませんけど、昔 の成績を持ち出して改めて査定に使うなんておかし いでしょう」  「査定ならおっしゃる通りですが」  どんな反応が見られるのか。わくわくしながらレ ストランの名前を出すと、果たせるかな篠塚の顔色 はさっと変わった。  「うちのお客ですよ。私か開拓したわけじやありま せんが」  なるほど、当然そういうこともあっただろう。だ が話を逸らそうとしているなら稚拙だ。  「篠塚さんもかなりのお客になってらしたようです ね」  「安くしてくれましたから」  「馴染みになると、いろいろ便宜を図ってもらえる んでしょうね」  「おっしゃりたいことがあるなら、はっきりおっ しやってください」  受け身にも弱い。  調査結果を示すと、篠塚は遠い目で「そこまでや るんですか」とつぶやいた。  「どこまででもやりますよ。非難されるいわれはあ りません。報酬に見合った仕事をしない、する気も ない方には退場していただくのが筋でしょう」  「私たちは」  声が高くなったのを加納は遮った。  「領収書を偽造して、経費を架空請求されたとお認 めになりますね」  唇を噛んだ篠塚が、ややあって「はい」とうなず いた。 「事情があったんです。そうでもしないと」 「たいていのことには事情があります」 「私以外にもいると思います。いるはずです」 「この期に及んで、見苦しいですよ」  加納は苛立ちを感じていた。  「やったのはこの時だけじやありませんね? 一回 や二回じやないでしょう?」  篠塚が睨みつけてきた。  「尋ねたことに答えてください」  「何も申し上げたくありません」  「黙秘なんて、許されると思いますか」  「そっちが、聞きたいことしか聞こうとしないん じやないですか」  「逆ギレですか」  加納は努めて穏やかに続けた。  「みなさんの主張に耳を傾けようとした社員も多少 いたかもしれない。しかし、カラ接待が発覚して開 き直るような方と知ったらがっかりするでしょう ね」  だが以後の篠塚は、何を言ってもうつむいたまま だっだ。  「いいでしょう。好きになさればいい。少なくとも この件については証拠があります。あなたもお認め になった」  篠塚を残して加納は応接室を出た。  「彼女はこれでおしまいですね。暴れたってもう逃 げられない」  三枝も評価してくれた。  「すぐ懲戒手続きにかけますか?」  尋ねてから、加納は同席した人事課長の山瀬忠浩 の様子を窺った。懲戒のことまで自分が口火を切る のは越権だったかもしれない。  しかし山瀬は加納が作った資料に目を落としたま まだ。妖精さん問題は加納の管轄という姿勢を守る ようだ。  三枝もそれでよしとしているのか、山瀬に発言を 促したりはしなかった。逆に言えば、社の盛衰をか けたプロジェクトを任せた加納を、股肱の臣らしい 山瀬と同格、ひょっとするとそれ以上に買っている のだろうか。  結局、三枝が自ら「もう少し数を揃えてからにし ましょう」と引き取った。  「雑魚をI、二匹釣り上げても、向こうは新しいの をスカウトして立て直しを図ってくる可能性があり ます。できれば毛利を仕留めたい」  「経費がらみはこれ以上難しいかもしれません」  「こだわる必要はないでしょう?」  セク(ラ、パワ(ラ。取引先との癒着、あるいは 逆に、永和の力をバックに無理な要求を押し付けて いないか。コンプライアンスに反する営業などなど。 材料は無限にあると三枝は言った。  そのあたりの引き出しの豊富さには、感心するし かない。  「人事は怖いって言われそうですね」  冗談のつもりだったが、三枝が思いがけず神経質 な口調で「誰かに言われたんですか?」と突っ込ん できた。  「そういうわけではありませんが」  咄嗟に嘘をついたのは、妻にしよちゅう仕事の相 談をしているみたいに思われたくなかったからだ。  「やる気さえあれば、人事は何でもできます。力を 使うのにひるんではいけません」  「はい」  素直に加納は頭を下げた。確かに、できることを やらないのは怠慢でしかない。  「下で働いた者に改めて聴き取りをしてみなさい」  意外な指令だ。これまで妖精さんの側について動 くことが多かった人たちではないか。  三枝は説明を続けた。  「逆の見方をしたら、プレッシャーをかけられたわ けでしょう。妖精さんたちの不正を知ったら、嫌気 がさして気持ちを変えてくれると思います」  「なるほど。昔から横暴だった、なんて話が出てく るかもしれませんね」  人事課に戻って聞き込みの対象者をリストアップ していると、気持ちが高ぶった。  篠塚の件はすでに同盟メンバーに伝わっているだ ろう。次は我が身と縮み上かっているのではないか。  今さらPIP達成に舵を切り直しても無駄だから な。首を洗って待っていろ。      15  おしまいだ。  安岡玲子は営業所長や竹内ゆかりに報告するだろ  建前としては、自分のほうが正しいはずだからク ビにまでされないかもしれないが、融通の利かない 厄介者として干されるだろう。  竹内の懐に飛び込むなど無理だ。まして認知症の 客に保険を売りつける現場を押さえるなんて。  我慢すべきだった。頭に血が上っても、安岡に逆 らわず、いや感心してみせなければいけなかった。 それでこそ彼女たちに信頼され、竹内に近づく道が 開けた。  車を降ろされた場所がどこで、営業所からどれく らい離れているのかもさっぱり分からない。  スマホの地図を開いて調べ、バス停まで二十分歩 いた。それから囗よけもない中、四十分近く立ち通 しでバスを待ち、営業所にたどり着いたのは一時間 半後だった。  安岡の車はなかった。挽回できると思えないけれ ど、一応詫びようとビルの外で待った。  「どうしたの」  何人かのレディに見つかって声をかけられた。何 でもないですと答えて待ち続ける。  安岡はその日、直帰したようだった。  翌日は別のレディに付いて研修を受けることに なっていたが、池端は安岡と話す時間を取りたくて 早めに出てきた。安岡のほうは読んだのか朝礼ぎり ぎりまで姿を現さず、朝礼が済むとさっさと飛び出 していった。  ずっと気持ちが上の空で、その囗の講師からも怒 られた。営業所に戻った夕方、所長には「今に一人 で回ってもらわなきやいけなくなるんだからね。 しっかり勉強してね」と注意された。  しかし、所長の言葉に、特別な皮肉やあてこすり が含まれているようには思えなかった。単純に、営 業所の成績に寄与してほしいと願っているだけだ。  竹内の態度にも変化はない。  「こんにちはあI。お元気い?」  それだけだったけれどにこやかに挨拶をされ、取 り巻きたちも倣う恰好だ。  安岡だけが目を合わせようとしない。近づいたら すっと離れてゆく。向こうのほうが逃げているよう だ。  何日かそんなことが続いた。  自分の身は無事なようだけれど、気味が悪くて しようがない。竹内に対する作戦を進めるわけにも いかない。  何とも中途半端たった。はっきり干されたら、辞 めるついでに言いたいことをぶちまけてやろうと 思っていた。レディ稼業などろくでもない、詐欺師、 泥棒同然だと。すっとできるだろうに。  下手をするとずるずる、研修期間が明けてからも 居続ける羽目になりかねない。冗談ではない。  その囗もやる気のまるでおきない同行の研修を終 えて営業所を出た。  マンションまでは歩いて七、八分だが、布団しか ないままで、家で食事を作ることもできない。長く いることになったら、東京に残している部屋からも う少し家財を送らないといけないだろうか。  もっと大きな問題を思い出した。車をどうする? 講師についてゆくのでなく、一人で営業するとなっ たら、車がなくては始まらない。免許を持ってはい るか、実は合宿で取ってから一度も運転していない。  中古でも最低二十万くらいするだろう。また加納 にお願いするのは心苦しい。ユカテリーナ退治のめ どがつかないのだからなおさらだ。  気分が重くなり、飲食店に入る気力も出なくて弁 当を買おうとコンビニを目指した。  ここも例によって駐車場が広いが、建物に入ろう とした時、一番奥の隅に隠れるように停まっている 車に目がいった。  安岡のと車種、色まで同じだ。  しかし安岡は、池端が講師と一緒に営業所に戻っ てすぐ、一時間ほども前に帰った。ここに寄ったと してもとっくに用は済ませただろう。  運転席に人がいる。夕方になっても暑さの緩む気 配がないのに、窓はほとんど閉められ、そこに傾い た太陽の光が反射しているので中がよく見えない。 ナンバーが先に読み取れた。  憶えたわけではないが、こんな感じではなかった か?  近づいて驚いた。本当に安岡たった。  魂が抜けたように虚ろな目をフロントガラスに向 けている。と思うとがくりと首を折ってうつむいた。 よほど経って上げた目は赤く、頬に濡れて光る筋が 引かれていた。  片手に握りしめた(ンカチでそれを拭った安岡が はっとこちらを見た。首を動かした拍子に池端が視 界に入っだようだ。  踵を返した。見てはいけないものを見だのは間違 いない。だが安岡は窓を下げて「待ちなさい」と 言った。  迷ったが足を止めた。改めて近づくと、安岡は力 なく笑った。  「よりによってあなたとはね」  「帰り道だったので」  「そうか。近くなのよね」  うなずいたがあと何をしゃべったらいいか分から ない。  「どうして泣いてたのか訊かないの」  「でも」  「もじもじしてばかりじゃこの仕事は務まらないわ よ。言っとくけど不倫とかじゃないから。あなたに 怒られたせい」  池端は聞き違えたかと思った。  「私か怒られたんじゃないですか」  「乗って」  吹っ切れたように安岡が言った。池端も覚悟を決 めた。  連れていかれたのはファミレスだった。  「一人暮らしなのよね。ご飯食べるんだったら頼ん だら。奢ってあげるわ」  ますますわけが分からない。しかし乗りかかった 船だ。遠慮はなしでいこう。命まで取られはしない だろう。  ウエイトレスにピラフを注文すると、安岡は「そ れだけでいいの?」と笑い、自分はオレンジジュー スにした。帰って家族と食べなければいけないから だそうだ。  「さっきおっしやってたの、どういうことですか」  「あなたに怒られて、昔は私もあなたみたいだった なって思い出したのよ」  「安岡さんが?」  「信じられないわよね。あんなこと言っといて。で も本当よ。ここに来る前の話だけど」  安岡はこの営業所で働きだして六年になる。しか しレディ歴はその倍近い。夫の転勤で岐阜に来たの だそうだ。  「どこにいたかは言わないでおくわ。迷惑をかけ ちやう方がいらっしゃるから」  客に損をさせなければ自分が儲からない。研修中、 先輩に言われて反発した。腹を立て、悲しくなった。  先輩も機嫌を悪くして勝手にしろと突き放したの で、あとは本当に思った通りにやった。  勉強は頑張った。客にとっていい商品を的確に選 べるようにだ。  更新の時期が来たら、どうしたら一番客の利益に なるか考えてアドバイスした。会社がキャンペーン を展開していても、場合によっては裏事情を客に説 明し、乗るべきでないと教えた。  当然ながら客には喜ばれた。ロコミで評判が伝わ り、安岡を指名してくる客まで現れた。  一方で喧嘩した先輩はもちろん、多くの同僚レ ディから疎まれた。受け持ちエリアを荒らされるな ど仕事を邪魔されるのもしよっちゅうだった。  予想していたから我慢できたが、彼らの言う通り と認めざるを得ないことが一つだけあった。  「本当に儲からないのよ。成績が上からないから」  客が増えても、無理な売り方をしないため契約件 数につながらない。  契約件数のほか、売る商品、額、保険期間などで 営業社員は細かく査定される。かつルールのことご とくが、客の損が会社の得であり、それを大きくす るのに貢献した営業社員へ報酬として還元もされる という原理に貫かれている。  営業所、支社レベルでなく、本社から下りてくる ルールだから、営業所長に文句を並べても「どうに もならないんだよ」で片づけられてしまう。所長に、 上部組織に盾突く気概などありはしない。  給料は柢く抑えられたままだっだ。上に言われる 通りに営業するレディは着実に成績を上げる。後輩 にもどんどん抜かれた。  「だから志を曲げてしまったんですね」  とりあえず理解はできる話だった。しかし安岡は 首を振った。  「ううん。その時は自分のやり方を貫けだの」  意外な展開だ。 「どうしてですか」  「素晴らしい人がいたからよ」  腐りかけていたころ着任したその県の支社長が、 安岡を励ましてくれた。安心を売る生命保険業に とって、客との信頼関係は第一に大切にすべきもの との信念を持ち、安岡に「そのままでいい」と言っ た。  ただ、支社長も組織の中では中間管理職に過ぎな い。査定ルールは変えられない。目先の利益を追い 求める流れにやみくもに抗っても排除されるだけだ。  その支社長がやったのは、安岡のようなレディに ボーナスを出すことだった。  一般的な「成績優秀者」には金一封をはじめ食事 会、洋服やアクセサリーのプレゼント、旅行といっ たさまざまなご褒美が用意される。  それと別に、営業所にやってきた支社長がそっと 安岡を呼んで、バッグに封筒を滑り込ませてくれた。  「少なくてご免なさい」  架空の案件で請求した経費が主な財源らしかった。 しかし本社の目をごまかすのには限界がある。支社 長のポケットマネーまで含まれていたようだっだけ れど、実際、ささやかな額たった。  それでも、上がらない給料の貴重な足しになった し、何より認めてくれる人がいることが、営業所内 で孤立する安岡の心を支えた。  一方で支社長は、客に不誠実な営業を厳しく咎め、 ペナルティーを科した。一時的に業績が落ち込んだ ものの、支社管内でレディたちのモラルが向上して ゆくと、少しずつ回復に転じた。  それにしても架空経費がばれたらI。  「支社長が処分されちやいます」   負担を感じずボーナスを受け取ってもらえるよう 出所を話しだのに、かえって心配させてしまったと 支社長は笑った。   一方でこうも言った。  ずるいやり方で儲けたお金だとしても、くすねて いいわけではない。本当は客に返すべきだけれど無 理だから、ましな使い方と思って安岡たちに渡して いる。不正であることまで含めて自分で引き受ける。  「すごい方だったんですね」  「本当に。あんな人はそうそういるものじゃない。 こっちに来てしみじみ分かったわ」  安岡はため息をついた。  「特によくない場所かもしれないけれどね。何もか もが竹内さんに影響されちやってるから」  百億を売り上げるレディがいて、神様扱いされれ ば他の人間も数字に血道を上げざるを得ない。  一人で戦うつもりだったけれど、それまでの恵ま れたと言えば恵まれた環境に慣れていたせいかもし れない、情けないほどすぐ心が折れた。子供が塾に 通い出したりして金が必要になったのももちろん大 きかった。   一度川を渡ってしまうと後戻りできなくなった。 竹内の取り巻きに加われば、いい評価が簡単にもら えた。  乗り越えたと思っていた利益第一主義に、安岡は 飲み込まれていった。  「恩人の支社長も、結局長くは改革を続けられな かったみたい。私かいなくなっていくらも経たない うちにどっかに異動させられちやった」  「そうなんですか」  「業績が回復してきたっていってもゆっくりだった からね。手っ取り早く稼ぎたい人たちにはやっぱり 邪魔だったんだと思う」  「辛い思いされてたんですね」  「自分が悪いんだけどさ」  「お願いがあります」  無意識に池端は口にしていた。  「教えてください。竹内さん、認知症のお年寄りに 保険を売りつけて問題になったんですよね」  「私から教わらなくたって知ってるんでしよ。今回 はかなり騒ぎになったもの」  「それでも竹内さんはお咎めなしたった。ほとぼり が冷めたらまたやるんじやないですか」  「訊いてどうしようっていうのさ」  「ご迷惑はおかけしません」  安岡はふっと口元を緩めた。  「どうしたってかけられちやうと思うけどね」  そして「竹内さんはやるよ」と言った。  「まず間違いない。そんなに先でもないね。何故分 かるっていったら、このあいた私たちの仲間が竹内 さんにネタを上げたからだよ」  「済みません。意味がよく分からないんですけど」  「私たち、竹内さんの腰巾着がさ、カモを探してく るのよ。竹内さんが撃ち落として羽根をむしる。私 たちが自分でやったら、さすがに会社、守ってくれ ないからね」  あぜんとする池端に、安岡は続けた。  「竹内さんは売り上げを作る。私たちは竹内さんか らお駄賃をもらう。営業所も、支社も潤う。逆に 言ったら、そうでもしないと今まで通りの成績を維 持できなくなった。そのあたりの事情も聞こえてる かしら」  返事をしたかったがすぐには声が出なかった。  そんなシステムまで出来ていたのか。なるほど、 いかにユカテリーナでもあの年齢で街を歩き回って 一人暮らしの認知症患者を探すのはきついたろう。 やったとしても割が合わない。取り巻きのレディを 手足にすれば合理的だ。  「うちの営業所以外にも情報を寄越すレディがたく さんいるよ」  「終わりにするには、現場を押さえるしかありませ ん」  [私もお駄賃、何回か盲]つてる」  からかうように言って、しかし安岡は「そういう 考え方で、いつのまにか堕ちるとこまで堕ちちやっ たのよね」と自分で引き取った。  「竹内さんは用心深いよ。よっぽどうまくやらない と」  「方法があるはずです」  勢い込んで身を乗り出した拍子に机が揺れて、背 の高いジュースのコップが倒れそうになった。慌て て押さえたけれど少しこぼれてしまった。  「ご免なさい」  安岡は紙ナプキンで机を拭きながら「大丈夫」と つぶやいた。 「落ち着いて。一緒に考えましよう」      16 「根を詰めすぎないようにな」  帰り支度をした山瀬忠浩が部屋を出る前に言った が、加納英司は「大丈夫です」と答えただけでパソ コンから顔も上げなかった。この仕事は助けなしで きちんと仕上げる。  竹内ゆかりを仕留めるために欠かせない協力者を 見つけたという池端美紀の報告も刺激になっていた。 ユカテリーナ軍団の暗躍などホラー映画のような話 で、突き止めたのは素晴らしい成果だ。  こちらも篠塚明子以外の妖精さんを追い詰める材 料を早く揃え、いいところを見せたい。  とはいえ、いつの間にか時計の針は七時を大きく 回っており、目がかすんできた。  訊き込み対象とする毛利基の元部下たちをリスト アップする作業も半分以上終わった。  隆太のお迎えは免除してもらっているが、今晩の うちに完了させる必要もないだろう。出来た分だけ でも、アポ入れ、聞き取りに数日かかる。  パソコンの電源を落とし、鍵を守衛室に返して通 用口を出たとたん「すみません」と声をかけられた。  「ヒライさんですか? 永和生命人事課の」  目の前に立っているのはかなり若い女性だった。 二十歳そこそこではないか。  「永和の人事課−みたいなものではありますけど、 ヒライじやないです」  「ご免なさい」  女性はうろたえたように頭を下げた。踵を返そう とするのを呼び止める。  「その人を待ってるんですか? うちにヒライつて のはいないけど」  「え?」  振り返った目が見開かれている。  リクルートスーツで見当がついていた通り、彼女 は就活中の大学生たった。ツイッターで永和の人事 課勤務と称するヒライ氏と知り合い、アドバイスし てもらうことになって待ち合わせたという。  「悪い奴なんじやないかな。リクルーターが就活生 に乱暴、なんていうニュースがあったでしょう」  青くなった彼女に加納は「捕まえよう」と提案し た。  「僕が離れて見てるから、このまま待ってて」  「分かりました」  彼女はスマホを操作しはじめたが、小さく叫んだ。  「アカウントが消えてます」  「気づかれたか。一歩違いで来てて、僕たちの話を 聞いたんだ」  さっきから何人もそばを通り過ぎていった。中に ヒライがいたか。  「残念だったなあ。警察に突き出してやりたかった んだが」  「ありがとうございました。先に声をお掛けしてな かったらどうなってたか」  彼女は深く頭を下げた。  「やっぱりSNSは危ないんですね。軽率でした」  「悪いのは騙すほうだけど、自衛したほうがいい な」  「あのIあなたは本物でらっしやるんですね?」  名刺を出して彼女に渡した。  「加納さん。あ、私、桜田っていいます」  それから彼女はおずおず「すごく厚かましいんで すけど、加納さんにアドバイスしていただくわけに いかないでしょうか」と言った。  「僕は採用の担当じゃないんだよ。正確には人事課 でもない。特殊部隊って感じかな」  「どんなことなさってるんですか」  「簡単に言ったらリストラ屋なんだろうな。嫌われ 役ですよ」  「永和のこと、何でも知っておきたいんです。社会 人の先輩としてでもいいです。お話聞かせてもらえ ませんか。これもご縁だと思えてきました」  妙な流れになった、と加納は思った。  しかし採用業務についてまるで話せないわけでも ない。ヒライがどんな手を使ったのか、今後の参考 に聞いてもおきたい。永和として放っておけない話 だ。人事課以外の社員なんてことだったら大変だ。  「分かった。じやあ、どうしようか」  「加納さん、お食事まだじやないですか」  「今から?」  「あ、すみません。ご予定おありですよね」  「そういうわけでもないけど」 結局加納は、食事をしてから帰る旨のラインを妻 の晴美に送って桜田と歩き出した。  外を少し歩くだけで汗が噴き出して、地下飲食街 にもぐりこむとほっとするとともにビールを飲みた くなった。  何度か使ったことのある天ぷら屋に入る。 「飲む?」  尋ねたら桜田は素直にうなずいた。 「拉致しちやったみたいですね」 「まあいいよ」  自分も実は永和に移ったばかりと明かしながら、 同じ部屋でやっている新卒採用の状況や、金融機関 への就職に関する一般論を話した。  桜田は熱心にメモをとっだ。生命保険が第一志望 とのことだった。それをつぶやいたのがヒライの目 に留まったのだろう。  「どこの馬の骨か分からない学生にそんなに親切に するなんて、考えてみたら下心なしにありえないで すよね」  「学生さんは必死だもの。乗っちやうのも無理ない さ。卑劣なやり口だ。許せないよ」  しかし桜田が憶えているメッセージの内容に、ヒ ライを特定できそうな要素は含まれていなかった。 永和の社員かどうかも分からない。  「リストラは順調に進んでるんですか」  意外なことに桜田はそちらへも関心を示した。  「少なくとも簡単とは言えないな。働く気のないシ ニアをなんとかしたいんだけど、居座る気満々だ」  「嫌われ役っておっしやっだけど、大事なお仕事だ と思います。そういう方には早く席を空けてもらわ ないと、就職の門が余計狭くなっちやいます」  「はは、そうだね」  なるほど、社内の若者たち以上に就活生にとって 重大な問題かもしれない。  「意義を認めてもらえるのはありかたい。いや、僕 だってできるなら人生の先輩には敬意を払いたいん だ。でもあの人たち、本当にひどい」  うなずいた彼女だが、急に心配そうな顔になって 尋ねる。  「囗本の法律だと会社を辞めさせるのって難しいん でしよう?」 「まあね。でも手がないわけじゃない」 「そうなんですか?」  彼女は大きく目を見開いた。 「さすがプロですね。どんなやり方なんだろう」 「ちょっと話せないな」 「ですよね。ご免なさい」  しかし引っかかって仕方がないようで、ああでも ないこうでもないとつぶやき続けている。おかしく なってヒントを出した。  「脛に傷のない人間はいないってことさ」  「不祥事を探すんですか」  なかなか勘がいい。  「ご想像にお任せするけど」  得心顔になった桜田がビールを注ぎ足してくれる。 瓶が空になってもう一本追加した。  「刑事さんみたいですね」  「そんなに恰好よくないなあ」  「根気と情熱がないとできないですよ。経費のごま かしとか? あと何だろう」  「ある意味、今はやりやすいかもだね。昔だったら 見過ごされたことが問題になるから」  「なるほどですねえ」  桜田は大きくうなずいた。  腹もいっぱいになってきて、「そろそろお開きに しようか」と言ったのだが、彼女のほうは話を聞き 足りないようだった。  「人事に興味が出てきました。就活のこと別にし て」  「またなんでよ」  「組織のお医者さんみたいなものですよね。やりが いがありそうです」  加納は腕時計を見た。九時三十五分。  「もう少しならいいけど」  「場所変えましようよ」  まったくこの娘は想定外のことばかり言う。  「あなたとどこに行けばいいの」  「ホテルのバーとかどうですか」  知っているところがないではない。  「割り勘で」と桜田が財布を出すのをとどめて、店 員が持ってきた伝票を取り上げた。地上に通じる階 段を上がると、途中からまた熱気がまとわりついて きた。  いきなり腕を取られた。  「酔ってない?」  「大丈夫です」  横顔を観察したが、確かにそうは見えない。最近 の若者には普通の感覚なのか。  シャンデリアの光に柔らかく照らされたホテルの ロビーで、桜田ははしやいだように右へ左へ加納を 引っ張り回した。かと思うとしどけなくしなだれか かったりもする。  さらに驚かされる展開があるのか? 加納は身構 えた。  幸い、自制心を試されることはなかった。数分後 に二人は並んでカウンターに座り、加納がモルトの ロックを、桜田は果物の入ったカクテルを飲んでい た。  彼女のほうははしやぎ過ぎた反動が来たのか、人 事の仕事にからむ質問をぽつぽつするものの、ぼん やりしていることが多い。  加納との出会いが、禍転じて福となる就職の大 チャンスのように見えていたのかもしれない。しか し冷静になればそんなはずもないと分かったのでは ないか。憑きものが落ちた態だ。  折をみて加納は、二度目になる解散の提案をした。 今回は桜田もあっさり従った。勘定は再び加納が 持った。  「ぽんと、すみません」  きまり悪そうな桜田に「就活、頑張って」と月並 みな言葉をかけた。  「送ってば、いかないよ」  桜田は何度もお辞儀をしながら地下鉄の改札をく ぐリホームのほうへ消えた。  翌朝、いつも通りの時間に出勤した加納だったが、 若干身体が重かった。  あれくらいの酒で二日酔いにはならない。家に着 いたのは確かに遅かったが、風呂に入ってすぐベッ ドに入ったから就寝時間はいつもと変わらない。  ただ「飲んできたの久しぶりね」と言った妻の晴 美に、ありのままを話すことができなかった。  何もなかったと斷るのも馬鹿馬鹿しいほどだが、 気分を害するリスクを冒さなくていいだろう。  「会社の人間に誘われてね」  しかしそういう機会は、入社直後に山瀬ほか人事 課員数人で顔合わせの席が設けられたI回きりだっ た。  仕事帰りに同僚と一杯という習慣は、妖精さんく らいの年代を別にして途絶えかかっている。若者だ けでないかもしれない。三枝など酒はまったく口に しないそうだ。  人事系以外となると、加納がリストラ屋であるこ とが誘われにくい原因に加わるだろう。妖精さんに 対する強硬策に賛成でも、あまりおおっぴらにはし たくない人が多いはずだ。桜田みたいな感覚のほう が珍しい。  不自然に受け止められていないか、あれこれ気に なって寝付けなかった結果の睡眠不足だった。      17  ユカテリーナに近づかなくては話が始まらない。  安岡玲子が取り持ってくれることになった。池端 美紀と一緒に営業所でユカテリーナが来るのを待ち、 姿が見えたところに連れてゆく。  「この子、このあいた新人研修で付いたんですが、 とにかく竹内さんに憧れてましてね。いや、誰だっ て憧れますけど、竹内さんみたいになりたいって本 気で思ってるみたいなんです」  さすがレディ、立て板に水で相手の気を逸らさず しゃべる。  「無理だよって言ったんですよ。初日に優しくお声 がけいただいたものだから、勘違いしちゃったん じゃないかと。でも直接お話を聞きたいって、あん まり熱心でしつこいものですから、私もほだされて しまって」  ほら、と池端を手招きしながら、ほかの取り巻き たちにも、仕事を回してもらおうとかいうわけじゃ ない、そこは釘を剌してある旨説明し、警戒心を緩 めさせた。  「勉強したいんだってさ。何でもやりますからとに かく仲間に入れてくださいって話なの。若い子にそ こまで言われたらさ、頑なに追っ払うのも大人げな いじやない」  メンバーの全員が納得したかは分からない。しか しユカテリーナ本人は、少なくとも嫌そうな顔はし なかった。  「ヘーえ、そうなのお?」  「ぜひお願いします」  「このごろ珍しいのよねえ、こういうガッツのある 子」  池端の顔をしげしげ眺めながら言う。  「ありがとうございます」  「私から何を聞きたいのお?」  「稼ぎ方です。それもどうやったら手っ取り早く、 お金を手に入れられるか」  ホーツホッホと、吹き出しの文字が見えるような 笑い声たった。  「欲が深いのねえ」  「はい。お金が大好きですから」  「まあずは信用を得ることねえ。お客さまは当然だ けれどお、私だちからも」  池端は取り巻きレディたちの事務仕事を引き受け ることにし、研修が終わったあと居残って作業した。  営業所でも契約書や説明資料の作成から顧客情報 管理まで、IT化か急速に進められている。  しかしレディたちの多くは機械に弱い。竹内ゆか りがそうなのはともかく、ずっと若い人たちもスマ ホこそいつもいじっているものの、大きな端末が相 手だと悪戦苦闘の態だ。レディとしてしか働いたこ とがなければ当然かもしれない。  重宝されて、取り巻きの視線は和らいだ。もとよ り池端には彼女たちの既得権益に食い込むつもりな どないから、そういう下心は透けようもないのだ。  「ミキちゃんお願い」  「これ頼まれてくれる?」  押し付けてさっさと帰られてもにっこり引き受け る。  逆に、取り巻きでないレディだちから白い目で見 られるようになっだのが辛かった。取り巻きに憧れ ていれば、池端はとんでもないゴマスリ女に映るだ ろう。嫌っているなら唾を吐きかけたくなるかもし れない。  だが一番の試練はその後たった。  スマホに通話の着信があっだので出たらユカテ リーナ本人たった。  「ミキちやあん、頑張ってるみたいねIえ。私も嬉 しいわあ」  番号を教えておいたから不思議はないが、なんだ ろうと緊張する。褒めるためだけにかけてはこない だろう。  「ちょおっと、今晩空けといてえ」  ご馳走でもしてくれるのか。だったらありかたい。 労力を注ぎ込んでいるのだからいい目にもあってい いだろう。  連れていかれたのは想像通り料亭だった。洗練さ れているとは言いかねるけれど、この街だとかなり 高級な店だろう。  灯籠がある庭に面した座敷に通され、ここで一気 に、認知症患者に保険を売りつけてるんですよねと 切り出すのもありそうに思った。  しかし掘りごたつ式の席には箸が三人分セットさ れている。竹内は下座側に席を取り、隣に座るよう 池端に言った。  ほどなく現れたのは、福々しくぽっちゃりした顔 と体形のおじさんだった。おじいさんに近いかもし れない。銀縁の眼鏡の下端が頬に食い込み、産毛に 先祖返りしたような髪がもやのように頭の周りを 漂っている。  「お出ましいただいて、光栄でございますう」  襖が開いた途端、竹内が駆け寄って荷物を持った。 それをまた池端に手渡しながら「ほらミキちやあん、 ご挨拶してえ」と命じる。  相手は市会議員だった。建設会社の社長でもある らしい。  「すごIくお世話になっているのよう」  法人営業の相手としてだけならともかく、議員の 力を借りて第三者に便宜を図らせるなんてことがあ れば問題だ。そちらから竹内を追い込めるかもしれ ない。  期待もあったけれど、お世話の内容はあまり明ら かにならないまま、料理と酒が次々運ばれてきて、 話題はもっぱら池端のことになった。  「独身なの、そう」  竹内が個人情報をばらしまくるのに、議員はうれ しそうにうなずいている。  「二十八? いやあ、素晴らしいですねえ。こんな 美人に営業にこられたら、男どもはイチコロだな、 うん」  悪気はないにしても、今の世の中で人の容貌をう んぬんするのは、褒めるにしてもセク(ラだ。説明 しても分かってもらえないだろうが。  ともかくユカテリーナの機嫌を損ねるわけにいか ない。彼女は自分の客をもてなすために若い女を連 れてきたのだ。期待に応えなければ池端の目的も果 たせない。  どこまでやることを期待されているのだろう。  地方の料亭なら普通なのかもと思っていたが、床 の間の横にスピーカーと、移動式のモニターがセッ トになったカラオケの機械があるのが、にわかに気 になってきた。  歌えるのは、完全防音ということでもある。建物 は和風だけれど新しくがっちりした造りで、よく見 ると障子の外のサッシは二重になっている。  酔わせてしまうのが安全だろう。せっせと酌をし たが相手は思いのほか強かった。  顔がだんだん赤くなってくるけれどろれつに変化 はない。返杯を受けているうちに池端のほうがぼ うっとしてきた。  食事のコースが終わりに近づいたところで、竹内 が「先生、如何です」と水を向けた。言いながらす でに席を出て機械のほうへにじり寄っている。  「あ、私か」  池端も慌てて立ったが追い返された。  「ミキちゃんは先生のお相手お願い」  もちろん議員はすでにその気で、照れるふりさえ しなかった。  「せっかくミキちゃんがいるんだからなあ」  昔のデュエット曲をリクエストする。与えられた 役割を演じるしかない。床の間の前で議員と並ぶ。 幸い歌のメロディーは知っていたから歌詞を見なが らならなんとかなる。  議員はいきなり肩に手を置いてきた。声が出そう になるのを我慢する。  竹内はというと、はしやいだ表情で手拍子を打ち つつ、視線は池端から離れない。この局面でどう振 舞うかチェックしているのだ。  ちょうど仲居が、水菓子を持って入ってきて助 かった。議員の手は下ろされ、曲が終わると席に 戻ってそれを食べた。  ほっとしたのも束の間、仲居に何事か囁いていた 竹内がだしぬけに言った。  「私い、用事が急にできてしまってえ、申し訳あり ませんけど、お先に失礼するわねえ」  池端に向かってにんまりしてみせる。  「ゆっくりしていってねえ。お勘定は済ませてある から心配しないでねえ」  食事は終わったのだからお先にも何もないだろう。 議員だって、じやあわしもと腰を上げてくれればよ さそうなものなのに気配がない。  それどころか「お言葉に甘えさせてもらうか」な んてしれっとつぶやいた。蝠りごたつの下で足がぶ つかってきたのも偶然ではなさそうだ。  ユカテリーナが議員と手を振り合って廊下に出た。 追いかけた池端の耳元でささやく。  「紳士な部類の方よお。お年的にも滅多なことはな いと思うわあ。保証はしないけどお」  池端を押し戻して襖を閉めた。立ち尽くす池端に 議員は座るよう促した。  「ウイスキーでももらって飲み直しますか」  福々しく見えていた顔は、赤みを帯びるとともに 野卑なぎらつきを覗かせるようになっていた。  「まあとにかくこっちへ」  「先生’・」  池端は議員の横で正座して両手をついた。  「私、こちらに引っ越してきたばかりで街のことが よく分かりません。地元に尽くしてこられた先生に ぜひ、いろいろ教えていただきたいのです」  戸惑いと不満が相手の目に浮かんでいた。池端は 続けた。  「建設のお仕事をなさってるんですよね」  「そんなこと、どうでもいいじやないか」  「何を造られました?」  とんでもない女が来たと思ったに違いない。しか し意のままにならないのも分かったのだろう。議員 は渋々答えを考え始めた。  「うちが造ったっていえば、学校なんか多いかな あ」  「思い出に残っているところとかありますか?」  「ああ、そりやあ」  こんどはすぐに出てきた。建設会社を立ち上げて 間もなかった八〇年代前半、他社と共同の形ながら 初めて受注に成功した中学校だという。  「頑張ったよ。うちはこれだけできるってとこ見せ なきやいけなかったしね。わしも毎日現場に行って、 基礎打ちから仕上げまで、ちょっとでも気にいらな いところがあったらやり直させた」  「大変だったですね」  「手間をかけすぎてちっとも儲からなかった」  「そうなんですか」  本当にちょっとびっくりして池端は言った。  「仕事を軌道に乗せるのってちょっとやそっとじや ないんですね」  「分かってもらえたら嬉しいよ」  議員が笑った。  算盤勘定は別にして、竣工した時の高揚感は昨日 のことのように憶えているという。  「そこの生徒さんはみんなうちの子みたいに思えた ね。学校を造る時はいつでもだなあ」  「やりがいのある仕事ですね」  「ろくでもないこともたくさんあるがね」  ろくでもない、というのは役所との癒着とか談合 とかだろうか。無縁ではないと思う。  ただ、その学校を、この人物が誠心誠意造ったの も本当だろう。  「あのころまでは学校がたくさんできてたね。子供 が多かったものな。今は老人ホームばっかりだ」  「どこもそうなんでしようね」  「何とかするのが議員の仕事なんだがね。一応は政 治家だから。考えてないわけじゃないんだ。保育園 を増やしたい。給食費なんとかならないか。子育て 支援員制度作れないか」  しかし彼は続けて言った。  「ただどれも、具体的な方法まで詰めていくと、壁 がいくつもあるんだ。で、結局何にもできない。無 能なんだろうな、そんな議員いらないって、まった く正しいよ」  「そんな」  「本人が言ってるんだから間違いないさ」  冗談ばかりでもない調子たった。 「名誉職でやるもんじやない。若い人が選挙に出な きやいかんよな。しかしその環境を整えてやる力も わしらにはない。困ったものだよ」  ため息をついた議員の顔から赤みはもう消えてい た。  「竹内さんとは長いお付き合いなんですね」  「腐れ縁でしょうな。今となっては切りようがな い」  「今回は、保険料を増やす約束でもされたんでしょ うか」  「もう契約したよ」  なんとまあ。先に獲るものを獲っておいて、池端 は後払いの袖の下だったわけだ。  思わず「申し訳ありません」とつぶやいてしまっ た。  「やらずぶったくりってやつですよね」  「しようがない。あんたも知らなかったんだろ」  「それはまあそうですが」  「わしが悪かったんだ。年甲斐もない。しかしまあ、 あんたみたいな娘さんと話ができてかえって得した ようなもんだよ。特にこんな話はなかなか聞いても らえないから」  あえてコメントしなかったが議員の言葉はありか たく、信頼する勇気を与えてくれた。  「今さらでしようが、必要じゃない分は解約できる と思います」  「そんなことしたら」  議員はもやのかかった頭の上に、人差し指を立て た両手を並べてみせた。  「お客さんも大変な目に遭うんですね」  ユカテリーナの人脈を駆使すれば市会議員一人く らい簡単に干し上げられるのかもしれない。喚き散 らされるだけでも恐ろしそうだが。  「でも、もうちょっとしたら平気になるはずです。 竹内さんには、私かこんな話をしたのは秘密にして おいてもらいたいんですが」  「ずいぶん大胆なことをおっしゃるね」  「大胆さを買っていただけるなら、もっと厚かまし いお願いがあります」 「何だろう」 「それも後で解約してもらえばいいんですが、明日、 もうちょっと契約額を大きくしてください。私じゃ なくて竹内さんを通して。ただ、私かお気に召した からって匂わせてはしいんです」  議員はしばらく考えていた。 「わけは聞かないほうがいいんだろうな」 「お望みなら話します」 「いや、よしとこう」  目を細めてつぶやく。 「聞かないままあんたに賭けることにするよ」 「ありがとうございます」  二人は店を出た。見送った女将は、竹内に言い含 められていたはずだから、早すぎるのをいぶかしむ かもしれない。一台のタクシーに乗って、場所を変 えると思わせることにした。たまたま帰る方向が同 じだったので、効率もよかった。  「あのビルはうちがやりましたね」  「この歩道橋も」  通りかかるたびに議員が教えてくれる。  セク(ラの説明をしても分かってもらえないだろ うと決めつけていたことを池端は反省した。  理解するための知性が欠けているわけではない。 分かり合う手間を厭う側にも問題はある。  先に議員が降り、そこまでの料金を池端に渡そう としたが、後わずかな距離だったから池端は半分近 くを返した。  「すごく勉強になりました。嘘でもお世辞でもあり ません」  約束は守られた。  翌日の夕方、その日の先生と外回りから戻ってき た池端にユカテリーナから声がかかった。待ってい たのだとしたら極めて珍しいことだった。  「昨日はお疲れさまあ」  少なくとも人前ではいつも笑顔を絶やさない竹内 だが、今のそれはとろけるようだ。  「ミキちゃん、やるのねIえ」  「ほめていただけるんですか」  取り巻きたちはぎよっとした表情になった。昨日、 接待に連れていかれたことはみな知っている。ユカ テリーナの期待に応えた意味を推し量ったのだ。  安岡だけには何かあったか伝えておいたが、彼女 もびっくりしたふりをしている。  「ご連絡いただいてえ、さっき会社へ行ってきたの よお。喜んでらしたわあ。私も鼻が高あい」  「それは何よりです」  「ミキちゃんのガッツ、みなさんにも参考になると ころあるわよお」  取り巻きたちを見回しながら竹内が言っだのに、 「とんでもないです」と、ちょっと拗ねたふうに答 えた。  心には傷を負ったとアピールしたほうが、これか らユカテリーナとの交渉に臨む上で有利だろうと考 えたのだ。  「ミキちゃんはあ、私に訊きたいことがあるんだっ たわよねえ」  「はい。ぜひとも」  「かなえてあげないとお、いけないかもしれないわ ねえ」  取り巻きたちに口を挟む余地はなかった。ヤバ過 ぎる娘だ、係わり合いにならないほうがいいと思っ ただろう。  「ちょっとお部屋、使わせていただくわねえ」  一応営業所長に断った竹内だが、返事は待たずに 応接室のドアを開け、池端を手招きした。  「ここでいいわよねえ。外で話すのも何だしい」  「どこでも構いません」  竹内はダッチのバッグから銀色のメッシュの袋を 取り出した。中に入っていたのは煙草と百円ライ ター、そして携帯灰皿だ。ライターの色が、今日の 衣装と同じ安っぽい紫色なのもコーディネートなの か。 「禁煙らしいけどお、これくらい大丈夫よねえ」  池端には返事のしようもない。  もちろん躊躇なく火がつけられ、細い紙巻から立 ち上る煙が帽子の周りを漂った。  「手っ取り早くう、稼ぎたいのよねえ。何か事情が あるのかしらあ」  「まどろっこしいのが嫌いなだけです」  「あら、頑ななのねえ。まあいいわあ。私にだって デエリカシイくらいありますからあ。何でもかんで も根掘り葉掘りしようとはあ、思わないわあ」  「お気遣い恐れ入ります。では単刀直入に申し上げ ます」  ただ声は落とした。  「竹内さんが、コンプライアンス違反の営業をされ るところを見せていただきたいです」  さすがのユカテリーナも一瞬息をのんだようだっ たが、すぐ笑顔を作り直した。  「ほおんとに単刀直入ねえ」  しゃべり方も変わらない。  「でも、どうして見たいのかしらあ。習わないとで きないってものじゃないわよお。簡単、簡単。基本 的にこっちの言うままだものお」  そう言われるのは予想していた。  「保護者になっていただきたいんです。何をしても 会社が尻ぬぐいしてくれるように。私一人じゃ、少 なくともすぐには無理ですから」  竹内はじっとこちらを見つめたままだ。  「でも、いつ見捨てられるか分かりませんよね」  「私そんなに薄情じゃなあいIかどうか自信ない わねえ。確かに」  ようやく答えた竹内は愉快そうだった。  「見せていただけば一心同体でしょう? 安心して 仕事ができます。もちろん、竹内さんのところに集 まってくるカモを横取りしようなんて思ってません。 自分で見つけた分だけで我慢します」  「当面は、でしょお?」  皮肉っぽくはあるが、上機嫌なままの口調だ。  「私だってえ、いつまでもは生きてないものねえ。 死なないまでもお、仕事にはどこかで区切りをつけ なきやいけないわあ。その時までに誰が後釜かはっ きりさせておいてくれってことお?」  「ご明察と申し上げたら?」  竹内は手を叩く仕草で応じた。  「素晴らしいわあ。あなたみたいな人が出てくるの をずっと待ってたのお」  立ち上がって一礼した池端に続ける。  「お客さまあ、あなたの言うカモちゃんねえ、もう 決まってるのお。そのへんのこともお、あなたなら もう分かってるのかもねえ」  「細かいことまではまだ」  「よかったあ。いきなり何もかも分かられちやった らあ、年寄りの立場、なくなっちやうものねえ」  芝居がかった動きで竹内は胸をなで下してみせた。  「いつごろ行かれますか」  「ほおんと、せっかちねえ」  ついにくつくつ笑いだして、「そんなにお待たせ はしないと思うわあ」と言った。  漂ってくる煙も、今の池端には気にならなかった。       18  池端美紀からのメールを読んで、加納英司は思わ ず「よし」と声を上げた。  ゴールが見えた。池端が岐阜に乗り込んでひと月 半。やきもきさせられたが、ずいぶん早くことが進 んだとも言えそうだ。  いよいよ負けていられない。  作業にいそしんでいた十時過ぎ、総務課が郵便物 や宅配便で送られてきたものを運んできた。それが さらに各自のデスクに配られる。  毎朝の決まり事だ。しかし加納は渡された中の茶 封筒が気になった。  メール便のラベルが張ってあるけれど宛名だけで 送り主の欄に何も書かれていない。これでは受け付 けられないはずだ。誰かが社のポストに直接投げ込 んだのではないか。  中身は軽く、薄っぺらい。書類だろう。  しかしカミソリくらいなら入っているかもしれな いと思った。  妖精さん?  まさかそこまではするまい。したって呆れられる だけなことくらい分かるだろう。  テープで封がしてあるのを、一応用心しながら鋏 で開けた。引き伸ばされた写真が何枚か見えた。  引っ張り出してぎょっとする。思わずあたりをう かがった。  「何か?」  そばにいた人事課員に尋ねられ、表情をつくろっ て「いや、別に」と答えた。  五分ほど時間を潰してから封筒を持って部屋を出 た。トイレの個室に入る。  写真には、桜田に腕を取られてホテルのロビーに いる加納の姿が捉えられていた。  別に紙が一枚添えてある。 个水和生命人事部の某室長が、就活の女子大生と一 対一で食事した後ホテルヘー〉  無機質なフォントの文字が並んでいた。  安っぽいスキャンダル記事の見出しみたいだ。し かし写真の絵ヅラと合致しているのは認めざるを得 ない。  やはり妖精さんだった。同盟から手を引け。でな ければこの写真をバラ撒くという脅し。カミソリ以 上に悪質だ。  金を出せば何でもやってくれる便利屋の類だろう か。もはや本名とは思えないが、桜田と名乗った若 い女性を就活生に仕立てて加納に接近させ、それら しい写真を押さえる。  脅しのほかにも目的があった。こちらの手の内を 探り出すことだ。べらべら喋ったとも思わないが、 経費以外の攻め口も考えているのは分かっただろう。  ホテルで一瞬とはいえどぎまぎした自分を振り 返って、馬鹿の見本だったとほぞを噛む。  怒りに震える一方で妖精さんたちが心底、怖く なった。  アイデア、計画力、実行力。そして何より執念。 自分にここまでできるか。  脅しに屈せないのは言うまでもないが、彼らの メッセージを無視したらどうなるだろう。  写真が出回る。加納は嵌められたと弁明する。  妖精さんだちとの因縁や、このところ彼らがアグ レッシブな動きをしていることを知る向きには納得 してもらえると思う。  しかし、社内でもみんなが理解しているわけでは ない。妖精さんに、無気力で無能くらいのイメージ しか持だない人だと、加納の弁明を眉に唾して聞く だろう。まして社外には通りが悪い。少なからぬ人 が写真のキャプションを信じるのではないか。  そうなれば永和全体に大きなダメージとなる。と いって、妖精さんたちを制圧できていない状況を積 極的に広めるのも痛し痒しだ。  晴美はどうだろう。  自分が破廉恥な男でないと妻は知っている。他の 誰が加納を疑っても晴美だけはI。  しかし加納はすでに嘘をついてしまった。隠した 理由を尋ねられたら何と答える。後ろめたいからで はないか。少なくとも、言いにくい心の働きがあっ たことを否定できない。  晴美は猜疑心を膨らませるかもしれない。何を 言っても裏目裏目になる。  正直に話せばよかった。変な女の子だったと、一 緒に不思議かっておしまいだった。今、笑い合うこ とたってできる。  いずれにせよ、拙速な行動は慎むべきだと加納は 結論づけざるを得なかった。  三枝に報告するのも控えた。処分はないにしても、 自分の失態にがっかりするだろうし、怒るだろう。 仕事から外される可能性だって考えなければいけな い。せっかく信用を得たところなのにやりきれない。  当面は一人で抱え、反撃も控えて様子を見るべき だろう。といってそれで済む話でもない。  妖精さんは加納が白旗を掲げたと思うかもしれな い。少なくとも与し易しと見るはずだ。これまでに 増して活発、大胆に「妖精さん万歳」方向の運動を 繰り広げるのではないか。  また席を離れることになってしまうのは目を瞑っ て、社食のフロアへ向かった。自販機で缶コーヒー を買って一口飲んだ。  じとりと甘い液体が腹にしみわたった瞬間、痛み が走った。  脂汗が出るほどだった。歯を食いしばって人事課 にたどり着いた。自分の席に座ったものの、すぐに パソコンを開けない。  「顔色が悪いよ」  隣の席から山瀬が声をかけてきた。  「急に腹が痛くなりまして」  「大丈夫か」  はい、と返事したものの、身体を起こしているこ とさえ辛いほどになって前言撤回に追い込まれた。  「何かに当たったかもしれません。早退させてくだ さい」  「疲れが溜まってんじやないか」 「そんなことはI」 「あるよ」  山瀬に断言された。  「食当たりだとしても、抵抗力が落ちてるからなる んだよ。加納さんがやってる仕事は神経すり減るだ ろうからな。ちょっと休まないと」  反論する気力はもうなかっだ。  山瀬の計らいは確かにありかたかっだけれど、マ ンションに戻っても体調は悪くなる一方たった。  無理にでも栄養をとっだほうがいいかと、台所の 戸棚にレトルトのスープが入っていたのを温めてひ と匙口に入れたら、痛みが激しくなって残りは捨て た。  何年も病気らしい病気になったことがない。 ちょっと熱っぽかったりしても、放っておけばすぐ 直っだのに。  食当たりなら下痢をしそうなものだけれど便意は 感じない。熱もなさそうだ。痛みだけが周期的に 襲ってくる。  ネットで調べて愕然とした。胃がんでこんな痛み が出るらしい。  発見の難しいタイプもある。永和生命に入る時に 健康診断を受けたが、すり抜けたかもしれない。痛 みが出てきたのは、その後かなり進行したのではな いか。  いても立ってもいられなくなった。近所の町医者 では用が足りないと思い、病院を探した。私立だが そこそこ大きく、検査体制も充実していそうで午後 も外来を受け付けているところが見つかった。  いったんタクシーの予約アプリを立ち上げたもの の、ためらってバスにしてしまっだのだから貧乏性 だ。バス停までひどく遠く感じ、昼間だから座れた が、揺れる度に意識が薄れかかった。  やっとたどり着いた病院のロビーはずいぶん混ん でいた。ちょっとしたホールくらいの広さがあるの に、びっしり並んだ長椅子がおおかた埋まっている。  一時間以上してやっと呼ばれた内科の診察室には、 加納より十近く若そうな、イケメンの医者が座って いた。  「よろしくお願いします」  「どうされました?」  明るく尋ねてくる。今朝からのことを話すと、目 にも留まらない指さばきでパソコンのキーボードを 打った。  「お昼、食べてないっておっしやってましたね」  「ええ」  「お時間ありますか?」  さんざん待たせておいてズレだ質問だとむっとし た。だいたいこの状態のまま何かできるというのか。  「会社、早引きしてきましたので」  「じやあ胃カメラやってみましよう」  胃カメラは初めてだ。苦しいと誰かから聞かされ て、胃の検査はいつもバリウムを選んでいた。しか しそれでがんを見逃したなら、後悔しかない。  鼻に水薬を流し込まれ、ヨーグルトドリンクみた いな白い液体を別に飲んでから小さなベッドに横に なる。  「最近はこっちか主流です。口からのと違って、お えっとならないんですよ」  何だか楽しそうに説明しながら、医者は加納の鼻 の穴に黒いゴムチューブのようなものをあてがった。  おい、そんなもの入るのかよ、とびっくりしたが 医者はぐいぐい力を入れ続けた。チューブの先が顔 の中を貫いてゆく。えずきもあった。何かおえっと ならないた。  「はIい、そこ過ぎたら大丈夫ですからねI」  ふむふむ、などとつぶやきながら、医者は握った チューブを出し入れしたり回転させたりする。  「見やすくなるよう胃に空気を入れます。げっぷ我 慢してくださIい」  確かに腹の奥がぷうっと膨れてきた。ストローを 挿し込まれたカエルになった気がした。  「ほら」と医者が示すほうに視線を向ける。  気づいていなかったが枕元にモニターがあって、 ピンクつぽいベージュの色合いのぬめぬめした物質 がいっぱいに映し出されていた。  「赤くなってるとこ。ただれてます」  はい、としか言えなかったが、鼻から胃に異物を 挿し込まれながら話せるのはちょっと驚きだった。  「絵に描いたような胃潰瘍ですね」  「胃潰瘍」  オウム返しするしかなかった。  「あI、ここはかなリキツいな。放っておいたら穴 が開きますよ」  「開いたらどうなるんですか」  「穴から胃の内容物が外に出て腹膜炎を起こします。 かなりの確率で死に至ります」  ぐふっと息が漏れた。  「大丈夫大丈夫」  医者は笑っている。  「そこまでいくには間がありますから。薬で治りま すよ」  カメラが引き出された後も、鼻の違和感が続いた。  「原因は何でしょう」  ベッドから起き上がって加納は尋ねた。  「多いのはやっぱリストレスですかね。胃潰瘍と いったら夏目漱石が有名ですけど、締め切りに追わ れたりしたんじやないかな。心当たりおありです か?」  「大いにあります」  話してきかせたかったが、医者はそれ以上突っ込 んで尋ねようとせず、「お疲れ様でした」と追い出 すように言った。後が支えているのだろう。  癌ではない。とりあえずほっとできたものの、心 が晴れたわけではなかった。  ロビーに戻って会計を待つあいた、改めて周りの 人々を観察した。  大半は老人だ。診察か会計か分からないが、待つ というより、ぼんやり時をやり過ごしている、ある いはじっと耐え忍んでいるように見える。  名前を呼ばれてその後、彼らの何か変わるのか。  入院患者だろう、点滴をぶらさげた移動式の支柱 を押して歩いている人がいた。おぼつかない足取り。 いつか階段を駆け上がれる囗が戻ってくるとは、ど うしても思えない。  ロビーの奥に見える通路を、ストレツチャーが横 切ってゆく。乗せられた人は手術を受けるのか。終 わって病棟に戻るのか。  回復する病気やケガならいっとき我慢すればいい けれど、少しばかり死期を遅らせるだけだったら、 苦痛に立ち向かう気力をどこからひねり出せばいい のか。  これが老いというものだ。  誰にでも必ずやってくる。妖精さんだちならもう すぐそばにいる。毛利基など心筋梗塞で倒れたこと まである。  自分はまだ大丈夫、と思っていていいのだろうか。  四十二歳。平均寿命の半分を超えた。今回はセー フだったものの、いつ、どんな病気に襲われても不 思議と言えない年齢になっだのではないか。  体力、そして気力もこれから増すことはないだろ う。新しい時代の流れについてゆけなくなり、若者 から邪魔にされたすだろう。  さっきの医者の優越感に満ちた態度を思い出す。 加納が抱いたのは無力感と嫉妬、そして怒りだった。 しかし怒ったところで現実がひっくり返るわけでは ない。  妖精さんとI緒じやないか。  遠い存在だと思っていた彼らは、数歩先を歩いて いるだけの同類なのだ。加納の胃に穴を開けかかっ たのが妖精さんたちの怒りだとすれば、何とも滑稽 な話たった。  それでも闘いをやめるわけにいかない。  永和のイメージ低下は、加納がありのままを語れ ば、個人の失態として収められるだろう。  晴美に知れてしまうのはIしようがない。その 時に対処を考える。許してもらえなかったとしても 自業自得だ。最悪の事態も受け入れる覚悟を持とう。  処方された薬をその場で飲んだのが効いたか、痛 みだけは和らいだ。状況がはっきりするまでと連絡 を控えていた晴美にラインを送った。  〈胃潰瘍だって。今病院で、これから家へ帰る。二、 三日休むと思うけど、大したことはないらしい〉  晴美は忙しかったのか、バスに乗ってしばらくし てから返信が来た。  〈ごめん。今見た。大したことないって本当な の?〉  〈もうちょっと進んでたら深刻だったみたいだけど ね。薬で治るって〉 〈妖精さんね〉  晴美はすぐ書いてきた。 〈やっぱりとんでもないわね。社会の害悪だわ〉  話題を変えることにする。 〈お迎え、俺がしようか? できなくはない気がす る〉  〈馬鹿言わないで寝てて。私もできるだけ早く帰る。 もう仕事、だいたい終わったから〉  晴美は本当にいつもよりかなり早い六時過ぎ、隆 太と一緒に戻ってきた。  「パパ、どうしたの」  こんな時間から寝間着でいる父親が珍しい隆太は、 好奇心を前に出して尋ねてきた。胃の説明からしな くてはならない。  「お腹の中に、食べたものを溜めとく袋があるんだ。 食べたものをそこで溶かすんだけどさ、ちょっと調 子がおかしくなって、袋自体を溶かしそうになっ ちやったんだな」  隆太は分かったか分からないかはっきりしない顔 で聞いている。  「どうして調子がおかしくなっだの?」  「うIん。仕事のし過ぎかな」  「迷惑な人たちがいて、パパのお仕事を大変にして るのよ」  横から晴美が口を出した。加納は「そうねえ」と 曖昧な相槌を打った。  病院で考えたことも、結局晴美に伝え損ねた。      19  その日の研修が終わって日誌を書き終え、営業所 を出たとたんに竹内ゆかりから電話がかかってきた。  「明日、行くわよお」  いつかいつかと首を長くしていたけれど、いざと なると虚を衝かれて動転する。  「カモさん、ですか」  路上なのを忘れて声が大きくなったのを慌てて抑 えた。  「そうよお」  竹内がおかしそうに言う。  「ミキちゃんと一緒に、ほかどこ行くのよお」  それにしても竹内は営業所にいなかったのだが。 どこかから見張ってでもいるのだろうか。  また明日は当然、普通の研修があって先生も決 まっている。  「話は通してあるからあ。所長さんにもお」  「ありがとうございます」  「どうしましようかあ。ミキちゃん車、まだ持って なあいのよねえ。まあいいわあ、私ので行くから あ」  「恐れ入ります」  翌朝、竹内は本当に、マンションまで迎えに来た。  彼女の車はピンク色だ。いかにもな色だけれど、 ほかのレディだちと変わらない軽自動車なのが不思 議ではある。  「レディが大きな車乗ってたらおかしいでしよ お?」  普通のレディなら確かに、と思うところだがユカ テリーナがそれでいいのか? いや、レディらしさ を究極まで突き詰めた結果、今の彼女があるのか?  竹内の運転は上手たった。  アクセルの踏み具合、ブレーキをかけるタイミン グ、(ンドルを切る量、どれも過不足がなくなめら かで、たくさんのレディたちの車に乗せてもらって きたけれども、一番かもと思えるくらいだ。  「昔は自転車たったけどお。わたくしはあ、営業所 のエリアに関係なく動くようになっちやっだからあ、 みんなが使いだすより早くからあ、車が必要になっ ちやったのねえ。それで四十年運転してるわけでえ、 県内くらいの道、全部憶えちやったしい」  だから上手になって当然なのだと説明するのに、 池端は「だとしてもすごいです」と、お世辞抜きで 応じた。  「こんな言い方失礼でしようけれど、お歳だけで一 律には区切れないものですねえ」  「まあI嬉しいわねえ」  「私、実はペーパードライバーなんです。面接では ごまかしましたけど」  思わず正直に言ってしまった。  「あらあ、そうなのお?」  「一人で回らなきやいけなくなったら、事故起こす んじゃないかって心配です」  「大丈夫よお。慣れよお慣れ。やってるうちになあ んでも、何とかなってくるものよお」  研修で営業所からそこそこ離れた場所まで回って いたが、ユカテリーナの車はさらに郊外、田園地帯 というほうがよさそうなエリアヘ人った。  「どういう方なんですか」  狩りの対象について尋ねる。八十九歳になるおば あちゃんらしい。  情報を持ってきたレディによれば、夫に先立たれ て一人暮らし。二年ほど前から認知症が始まり、外 出先から帰り道が分からなくなって保護されたこと もあった。  子供たちは地元を離れている。名古屋の娘が一番 近いが、仕事を持っておりあまり来ない。施設に 入ったらという勧めは、本人が頑強に拒むそうだ。  よくありそうな、しかし気の毒な話だ。  そんなおばあちゃんからなけなしのお金を搾り取 るなんて。就活生もそうだが、狙われるのは弱い立 場の人たちだ。改めて怒りがこみあげる。  池端は、よこしまな(ンターのほうを狙っている。  ユカテリーナを仕留めることで、これからの被害 を未然に防げる。同じような連中への警鐘にもなる だろう。  また、彼らの活動を黙認して潤っている、世間的 には立派な組織の実態を明らかにし、まっとうなも のに変えてゆければ、意義は大きい。  竹内の血色のいい横顔を見ながら、気持ちが高 まった。  カーナビの残り距離があとIキロとなったのは、 出発から一時間半ほど過ぎてからだった。  田んぼが広がる中の集落は、どの家も大きさだけ なら東京の大豪邸とタメを張れる。  車は、道路からIメートルほどの高さに石垣が築 かれた、建物もぱっと見、相当に立派な家の前で止 まった。  ただ壁がかなり汚れて、えぐれたような傷も目立 つ、樋が何力所か落ちかかっている。雨戸は開いて いるけれど、大半の窓にカーテンがかかったままだ。  知らなければ空き家と思ってしまいそうな、カモ がいますよと宣伝しているに等しい佇まいたった。 リフォーム詐欺にはまだ遭っていないようだが、こ のままだと時間の問題だろう。  ユカテリーナの情報網に引っかかっだのを幸運に 変えてあげたい。ここの住人に手を出して伝説の生 保レディがキャリアを終えたと広まったら、タチの 悪い営業は近づかなくなるだろう。  そのためにはI。  スマホに録音用のアプリを入れ、ピンマイクを 買った。  どこが一番気づかれにくいか考え、(ンドバッグ の持ち手の付け根にマイクをセットし、上からス カーフを結んだ。  その状態で十分な感度があるのを確認した上で、 操作がスムーズにできるよう練習を繰り返した。昨 晩、おさらいしたのは言うまでもない。  竹内は「ここだわあ」と言いながら、勝手に敷地 の中へ車を進めた。駐車スペースが何台分もあるか ら問題ないだろうが、遠慮のかけらもない。  「土地を担保にしたら、借金も結構できそうねえ」  もちろん、借りさせた金で保険を契約させるのだ。  今のも録音しておけばよかったと思いながら、 メールかラインでも確認する態でスマホを取り出し、 アプリを立ち上げる。竹内は車をバックさせていて こちらには注意を払っていない。  「さIあ、行きましよおねえ」  エンジンを切った竹内が弾んだ声を出した。  池端はシートベルトを外し(ンドバッグを抱えた。 スカーフの上からマイクの形をなぞろうとしたら、 スカーフかすれて一瞬、そのものが露わになった。  はっと竹内の様子を窺った時、目が合った。 「どうしたのお?」 「いや、別に」 「緊張しちやったのお?」  竹内は微笑みかけてきた。だがそれ以上何も言わ ず車を降りる。池端としては続くはかない。  大丈夫だ。気づかれたわけではなさそうだ。  先に進んだ竹内が玄関へ向かった。ドアも下の端 から合板がめくれかかっている。  「インタホン、あるのかしらねえ」  つぶやいてきよろきよろしていたが、急に動きを 止めた。  数歩後ろにいた池端に向かって、唇の前に指を立 ててみせる。  「話し声があ、するのお」  「え?」  耳を澄ませたが何も聞こえない。  しかし竹内は池端も一緒に押し戻すような身振り で玄関から離れた。そのまま車に乗り込む。 「テレビじやないですか」  いや、絶対に生の声だったと竹内は断言した。  「もうじきお盆だからあ、子供が来てたのかもしれ ないわねえ」  「ですね」  うなずいておいたものの、変な気がする。池端た ちが来た時、ほかの車はなかった。  「都会に住んでる人はあ、車持ってなかったりする ものお」  なるほど説明にはなる。  「残念だったわねえ」  「本当に」  「でもお。お盆が明けたらあ、帰つちやうと思うか らあ。もう一回チャレンジしましようねえ」  「はい。お願いします」  池端に疑いを持つたならそんなことは言わないだ ろう。竹内は間違いなく聞いたのだ。後見役がいれ ば好き放題はもちろんできない。  「お盆明けなんてすぐですよね」  「そうよお。ほんのちよつとお預けになっちやつた けどお。契約が逃げてったわけじやないからあ」  来た道を逆に走りながら、竹内は「ラララー、ラ ラララ」と歌いたした。調子が外れていてはじめ分 からなかったが、古いミュージカルと誰かに教わっ た「雨に唄えば」たった。  外は相変わらすのカンカン照りだったのだが。  とにかく加納英司に報告しなくてはいけない。  昨日、いよいよ明日ですと伝えてしまったから結 果を首を長くして待っているだろう。  竹内は池端を営業所まで送り届けるとどこかへ消 えた。その後、通常の研修を受けたが、合間を見て メールを送った。  判明した相手の名前、住所に続けて、玄関前まで 来たけれど、家族か誰か来ているようだったので延 期になったと説明した。  スカーフかすれたこと、竹内と目が合ったことな ど、はじめは書いたが削除した。余計な心配をかけ たくない。      20  加納英司は肩透かしを食った気分たった。  永和生命のがんを取り除く大手術だ。池端美紀が ほとんど単独でやっているのだが、多少なりと助力 をし、何より作戦をただ一人知っている社員として、 期待と緊張は大きかった。  正直なところ、がっかりしたと言っていい。  しかしやむを得ない事情によるものだ。違法営業 を許してしまったとかでもない。  ここは辛抱して次の機会を待つ一手だろう。むし ろ、チャンスが残ったことを前向きにとらえよう。  ユカテリーナ自身、いつごろとまで話しているの なら、予定かすれただけと思えばいい。  自分のミッションに向き合うべく頭を切り替えた。  こちらも少しずつ進んではいる。  毛利基の元部下たちは、毛利に忠誠を誓っている わけではなさそうだった。  世話を焼いてもらったが、ひどい目にも遭ってい る。  四半世紀前だって、朝まで飲みに付き合わされる のは苦痛たった。目標の売り上げに届くまで帰って くるなと会社に入れてもらえなかった。資料の数字 を間違えた女性は、裸で皇居を一周してこいと怒鳴 られた。  そういう話はしてくれる。だが文字通りの昔話で さすがに処分理由にならない。  もっと近い、危ない範疇のエピソードになると、 みんな「きっとあるんだろうけどねえ」と口を濁す。  やられた奴がいる、と言った者に何人か会ったけ れど、被害者本人は出てこない。いや、きっとみん な、証人にされないよう人のことにしているのだろ  腹も立つ。しかし憎み切れない。直接知っている 人間にとって、毛利はそういう存在なのだ。  視点を広くとれば見え方が違う。トータルとして 害悪になっている状況を説明する。一度で分かって もらえなくても、繰り返し証言をお願いし続ける。  PIPの最終期隕として設定した八月末が近づき つつあった。  できればそれまでに、獲れる首を獲ってしまう。 うまくいかなくても、目標の不達成を理由に強硬姿 勢に出る環境を整える。  こちらの強みは、いつでも篠塚明子を懲戒にかけ られることだ。数をまとめたほうがと、とりあえず は泳がせてきたが、見せしめとして、あるいは社内 世論を動かすためにも動いたほうがいいかもしれな い。  考えだした折から、毛利が面会を求めてきたのを、 こちらの肚を読んで焦ったせいではと加納は解釈し た。  いいだろう。毅然とした態度を見せて、もっと焦 らせてやろう。  盗撮事件の一件から加納も揺れてきた。悲壮に なったり、妖精さんたちの心が分からないでもない ように思ったり。  それでも戦うと決めたのだ。自分の決意を確かめ るためにもいい機会だ。  妖精同盟のメンバーをまとめて相手するのは避け ていたが、あえて受けて立った。加納一人であし らって、室長の室長たるゆえんを思い知らせる。室 長といっても、今は部下ゼロなのだけれど。  応接室を押さえ、少し早めに行って窓を背にした 一人掛けに陣取った。束になってきたってびくとも しないぞと自分に言い聞かせる。  なのに妖精さんたちは約束の時間に遅れた。  じりじりしながら五分ほども待っていると、やっ とがちやりとドアが開き、どたどた四人が入ってき た。  「済まん、溝口さんが出がけにトイレから出てこな くてI」  毛利が言い訳をしたがさすがにバッが悪そうだ。   その溝口も「私たちのうち何人が今月末で退職勧 奨を受けるか、計算するための式をトイレで考えて いたら時間が経つのに気がつきませんでした。申し 訳ない」と一応頭を下げた。  しかし高木誠司が横から口を出す。  「で、結果はどうだったの? 何人やられるの?」  「まだ計算できてません。というより始められてい ません」  「時間を忘れるくらい考えたんじやなかったの?」  「計算するための式を考えてたんです」  「よく分かんねえな」  「途中を披露するのは好きじやないんですが、大ま かに言うとですね、計算するためにどういうデータ が必要で、それぞれにどういう係数を」  「もういいや。頭が痛くなってきた」  高木は顔をしかめた。  「俺はてっきり、あんた腹を壊したのかって思って たよ。加納室長が胃潰瘍になったからって、付き合 うこともないだろうにってさ」  これには加納が眉をつり上げる。 「今、そんなこと言わなくても」  自分の立場をわきまえてだろう、一番後ろで控え ていた篠塚がたまりかねたように割り込んだ。  まともなところもあるじやないか、なんて穏やか に構えてはいられない。  「何ですかみなさんは。時間を守れず、いらっ しやったと思ったら本題と関係ない話に脱線して、 あげくに人の病気をからかう」  引き金になった盗撮事件の犯人がよくもぬけぬけ  だいたいなぜ知っているのか。胃潰瘍の件はみっ ともないから極力隠してきた。人事課員には目撃さ れてしまったが、あの時奥地はすでに休職していた。  「俺たちも伊達に長く会社にいるんじやないよ。分 かってきてると思うんだが」  加納の疑問を察したように毛利がつぶやいた。  「とにかく座ってください」  左右の長椅子に二人ずつ分かれた同盟メンバーを 加納は見渡した。  「私からお話ししたいことも山ほどありますが、会 う場をつくれとおっしやってこられたのはそちらだ。 先にどうぞ」  「じやあ言わせてもらう」  毛利が改めて切り出した。  「お前さんのやり方はやっぱり間違ってる。奥地さ ん、頑張ったじやねえか。一昨日様子を見てきたが、 ほんとに抜け殼みたいになってたぞ。詳しく話を聞 いて気づいたよ。お前さん、もっと早くに突き返せ だのに、やり直しの時間がなくなるまで引っ張った だろ」  どきん、とした。  「仮におっしゃる通りだとしても、きちんとチェッ クしなかった奥地さんの責任です」  「そういうとこが冷てえんだ」  ばっさり切り捨てるような言い方だった。  「明子ちゃんの件だってそうだ。どうしてカラ接待 が必要だったか分かってないだろ。理由を説明す るって言っだのに聞く耳持だなかったじゃねえか。 あれはな、心ある営業社員に渡す金を作るためだつ たんだ」  「心ある?」  「そうよ。たいがいの営業社員は、売り上げを伸ば すために客から搾れるだけ搾ることしか考えてねえ。 けど、中には客のためを第一に考えてるのもいるん だ」  加納ははっとした。  「長い目で見りや、客との信頼関係が会社の最大の 財産のはずなのに、ぜんぜん報いられねえ。だから 現場を預かる立場で、ちょろまかしたものを使うん だ」  頭の中を、池端が、今は竹内ゆかりの取り巻きに なっているという営業社員から聞いたという話が駆 け巡った。  「金をしかるべく再分配してるわけだよ。いいこと じやねえだろう。でも、会社がまともな人間をまと もに評価しねえから、誰かが無理してでもやらな きやなんないんだ。それを、支社の成績が悪いって 左遷して、あげくには昔の話をほじくって懲戒にか けようとする」  言葉を失った加納に、毛利はさらに続ける。  「一方でだよ、ユカテリーナみたいなのが跳梁跋扈 してんのに手を出せねえ。それどころか全力で守っ てやってるのはどういうこった? 舐めんなよ。 さっきも言った通り、俺たちの目や耳は会社中にあ るんだぞ」  「その話ならI」  言いかけてやめた。極秘のプロジェクトだ。下手 をすると池端を危険にさらしかねない。  「うちの人事、終わってんな」  吐き捨てた毛利の尻馬に乗るように、高木が言っ た。  「君には人としての心がないのかっ」  さすがにないだろうと思うが、この男には酒が 入っているような雰囲気がいつもまとわりついてい る。  「営業社員が歩合の高い商品を販売する割合と、お 客様センターに寄せられるクレームの件数には明ら かな相関関係があります」  溝口が紙の束を差し出す。  「一枚目が年次ごとのグラフ、三枚目に支社ごとの 一覧があります。篠塚さんがいらした時代の岡山支 社はですね」  「おしまいにしましよう。話かすれるだけです」  遮って加納は続けた。自分の仕事を見失ってはな らない。  「奥地さんに対するPIPは適切に実施されました。 篠塚さんへの懲戒手続きも順次進めて参ります。ご 高説は確かに承りましたが、構造改革推進室長とし ての見解を変えるつもりはありません」  「けっ。政府答弁みたいなこと言いやかって」  かちんと来た。そうだ、一瞬忘れていたが、妖精 さんだちから人間性をあげつらわれる筋合いはない。  「みなさん、聖人君子みたいなことをおっしやいま すが、そんな資格おありなんですか」  「逆ギレつてやつか? おう?」  「胸に手を当ててよくお考えください」  「何言ってんだこいつは」  毛利が同盟メンバーと視線を交わす。高木は肩を すくめるゼスチャーで応じ、残る二人も首を振った。  「おとぼけになるなら申し上げますがね、さっきの 胃潰瘍ですよ。何でそんなものになったのか、心当 たりがないとは言わせません」  「良心の呵責だろ?」  「みなさんの卑劣な罠に引っかかったからですよ’・ 決まってるでしよう」  声を荒らげた。  「色仕掛けでスキャンダル写真を捏造するなんて、 恥知らずな真似がよくもできたもんだ」  また妖精さんたちが顔を見合わせる。  「知らねえよ、そんなの」  「いい加減にしてください。みなさん以外に誰が私 を脅迫するんです」  「見当もつかねえが俺たちじやない」  「お伝えしときますが、私にだってそれなりの正義 感はあるんです。ユカテリーナの件、指をくわえて 見ているわけじやありません。尻尾をつかむべく手 を打ってます」  「おためごかしのポーズじやねえのかい」  毛利に言われてはもう止まらない。  「本気ですとも。調査のため、向こうに人を送り込 みました」  「嘘つけ。絶対にありえねえ。お前は三枝の茶坊主 なんだろ?」  「私にも、常務にも失礼ですね」  憤然となって言い返した。  「確かに三枝さんは社長を説得できなかったようだ が、次こそばと思っておられる。ただ手遅れになっ ちやまずいから私か独断で実行したんです」  毛利はちょっとびっくりしたような顔をしていた が「なるほど」とつぶやいた。 「三枝に知らせてないなら、そこはよかったな」 「なぜ三枝さんをくさしたがるんですか?」 「あのな」  あぐらをかいた鼻のわきをさすりながら毛利が 言った。  「三枝のことなら、俺は少なくともお前さんより よIく知ってんだ」  二人が同期入社だったのを思い出したが、だから よく知っているとはなるまい。今は片や次期社長候 補の筆頭、片や妖精さんではないか。 「話し合いはここまでです。最初から実りなんかあ るはずもなかったですが」  加納が立ち上がると毛利も続いた。  「絶対に負けねえからな」  「こちらのセリフです。今からでも荷物をまとめて おかれるといいですよ。みなさんもユカテリーナも 同じです。有害なお年寄りから会社を守るために、 私は全力で戦います」  その時、ノックもなく扉が開いた。  部屋にいた全員がそちらに顔を向けた。立ってい たのは人事課長の山瀬忠浩たった。  「どうされました」  驚いて加納が尋ねる。同盟メンバーたちには緊張 が走った。  「ここにいるのは聞いてたから。急いで知らせな きやいけないと思ったんだ」  山瀬も顔を強張らせている。  加納は妖精さんたちを「じやあ」とうながした。  「言われなくても出てくよ。三枝の茶坊主同士、ど うせろくでもねえ話をすんだろうが」  歩き出した毛利だったが、山瀬に呼び止められて 怪訝そうに振り返った。  「みなさんにいてもらったほうがよさそうだ」  何の話か見当がつかないのは加納も同じだった。  「とにかく聞いてくれ」  山瀬は、加納が座っていたのと反対側の一人掛け に腰を下ろして、全員がもう一度席に着くのを待っ た。       M]  お盆のあいだ営業所も休みだったが、池端美紀は ほとんどマンションに籠っていた。  冷房もなく暑さにぼうっとなりながら、スマホで 本を読んだり動画を見たり、うとうとしたりして過 ごした。  休み明けのことはあまり考えないようにした。な るようにしかならない。でもやっぱり頭から離れな い。  今度こそと思う分、いっそう力が入ってしまうの だろう。  あの家の住人はどうしていたのか。  子供や孫がやって来ても、「あなた誰?」と言う ようなこともあるのだろうか。  それでも家族には家族の仕事や生活があり、ずっ とついてはいられない。心配しながら、施設入りを 拒むおばあちゃんを一人残して帰るはかない。  いや、おばあちゃんが説得され、あの家から出て 行った可能性はないか。  池端の目的のためには由々しいことだが、危険に さらされる心配も将来にわたってなくなるわけだ。 本当はそちらを願うべきなのに、などとあらぬ方向 へ気持ちが乱れる。  何かで発散できればよかったけれど、方法を思い つかない。  加納英司はこれまで、同盟メンバーの元部下だち と接触した結果をぽつぽつ知らせてよこしたりして いたが、このところ滞っている。  もっとも会社が休みでは伝えるほどの進展もなく て当たり前だ。  加納には保育園児の子供がいるらしいから、家族 との時間も取らなくてはいけないだろう。羨ましく、 自分は何をやっているんだろう、馬鹿じやないかと 思ってしまう時がある。  いや、労力は必ず報われる。失敗する要素などな い。  そう思ったが、四囗ぶりに行った営業所に竹内は 現れず、連絡も来なかった。  次の囗も、朝、昼に一度営業所へ戻った時、共に 期待が裏切られた。  決行はいつなのか。これ以上待たされたら神経が おかしくなるかも。  研修に集中できなくて、先生役に何度も顔をしか められた。しかし厳しい注意を受けるわけでもない。  取り巻きではない人だったけれど、池端が竹内ゆ かりと特別な関係になったのはおそらく営業所中に 広まっていて、すでにアンタッチャブルに近いのか もしれなかった。  スマホが鳴ったのは、先生役のお得意様を訪ねて、 これはおおむね穏当な名義の書き換え手続きをして いた二時過ぎだった。  画面に竹内ゆかりと表示が出ている。数歩離れ、 スマホを手で覆って耳に当てた。  先生役に替わって、と言われた。彼女はお客と話 している最中だったけれど「竹内さん」と告げたら 弾かれたみたいに立ち上がってスマホを受け取った。  はい、ぽいと何度も頭を下げて話を終え、そそく さ書き換えを済ませる。  「あなたを連れてきてはしいんだって」  「ご免なさい、これからの予定もあったんじやない ですか? 私のためにI」 「あなたのためじやないわ」  追い立てられるようにそこを出た。移動中、気が ついて加納にメールを送ったが、「これから行くこ とになった」というだけで精一杯だった。  てっきり営業所でピックアップされると思ったら、 車が向かっだのはこのあいた市会議員と会った料亭 だった。  「人ってて、だって」  それだけ言われ、玄関の前で一人降ろされた。食 事の客が来る時間ではなかったが、音を聞きつけた のか女将が出てきて「いらっしゃいませ。ようこそ ようこそ」と愛想よく笑いかけた。  顔は分かっているにしても、ずいぶん親し気で辟 易する。  案内されたのも、このあいたと同じ部屋だった。 女将が引っ込んだ隙に急いで準備をした。  もちろんマイクは持ち歩いている。迷ったが、や はりここがベストと思ってバッグの持ち手の付け根 に取り付け、スカーフを結んだ。今から録音を始め ておく。バッテリーの残量は十分だ。  ひと息ついて、出された冷たいお茶に手を伸ばし かけたら、竹内が現れた。  「お待たせしちやってえ、ごめんなさあいねえ」  節回しにいつも以上の艶があると思った。猟に臨 む猟犬の心境で高ぶっているのだろうか。  「いや、私も来たばっかりですから」  本当のことだが、竹内は大げさに「ごめんなさあ い」と繰り返した。  「遠いしい、遅くなっちやうといけないからあ、す ぐ出ましよう」  池端としても異存はない。立とうとしたら竹内が 笑った。  「そこまで慌てなくてもいいわよお。お茶くらい飲 んでってえ」  言いながら自分の茶を飲みはしたので池端も倣っ て、改めて立ち上がった。  ピンク色の軽自動車は、このあいだと同じルート で目的地へ向かって走る。  今日はもう、夕方に近い時間だが午前中以上の蒸 し暑さだ。   と思ったら空がにわかにかきくもり、大粒の雨が 落ちてきたかと思うとあっと言う間に土砂降りに なった。気温も一気に下がったようで、懸命に冷気 を吹き出していたエアコンのレベルを竹内が調整す る。  「すごい雨ですねえ」  「すぐやむわよお。ちょうどいいわあ」  「涼しくなりますもんね」  「もちろんそうだしい。雨降って地固まるっていう かあ」   たとえとしてぴったりとは思わなかったが「もう ご家族もいなくなってるはずですよね」と応じてお  施設に出てしまっていたらという例の疑問を口に すると、竹内は破顔した。  「説得されたとしてもお、すぐに行き先が見つかる わけないわよお」  言われればなるほどと思う。 「ですね」 「そうよお。なにもかもうまくいくはずよお」  竹内は、若いころからの自慢話をはじめた。  大手メーカーの新入社員が上司に叱られてしよげ かえっていたのを、励まし、食事も作ってやったり して世話した。  「最初はわざと契約獲らなかったのよう。カツカツ するのはとっても大事だけどお、相手に嫌な印象与 えたら元も子もないからねえ。もちろん、気にしな くていい人もいるんだけどお」  やがてその人物が出世し、時々の部下を竹内に紹 介する。ついには社長になってといういろんな人か ら耳にしたストーリーだ。  のちに市長になった市役所職員。そこからの紹介 で県知事に食い込んだ話。  なかなか会えない厚生部門担当者を捕まえるため 会社の前で張り込みをしたこと。  株、そのほかの資産運用を勉強し、客の相談に乗 りながら保険の販売につなげていったI。  期待しているような危ない武勇伝はないのだが、 次から次へと切れ目なくしやべる。抑揚とゆったり したテンポに、雨の響きが重なるせいか、こんな時 にもかかわらず眠気を催してしまった。  もう一つ不思議に思ったのが、車を走らせるス ピードだ。  妙に遅い。時々後ろの車が追い抜いてゆく。この あいだはほとんど記憶がなかった。今日のほうが、 時間的には急いだほうがいいように思うのだが。  意図があるのか。  考えようとしたけれど、馬鹿に頭が重い。  竹内がちらっとこちらを見る。 「大丈夫う? 眠くなあい?」  「いえ」  慌てて首を振った。  「そんなこと、ありまひえん」  口元がもつれてびっくりした。同時に頭の奥が生 ぬるい水に浸されてゆく感覚が広かった。欠伸がこ みあげ、噛み殺そうとしたが完全には無理だった。  「ひ、ひつれいひまひた」  「もう、録音してるのお?」  はっ、とするのもワンテンポ遅れている気がした。  「バッグにマイクつけてるでしよお? このあいだ と同じってえ、ちょっと芸がないんじやなあい」  やられた。  前回、やはりばれていたのだ。  竹内は何食わぬ顔をしながら、「家族が来ている」 と違法営業を中正し、改めて池端が竹内退治の(ン ターである確実な証拠をつかむ策を巡らせた。  こちらに余裕を与えないよう当日になって呼び出 しをかける。料亭の部屋に監視カメラが仕掛けられ ていたかもしれない。女将もおそらくグルだ。  絵に描いたような返り討ちだ。  「はじめから、変だなとは思っていたのよお」  竹内は得意そうだ。  「おかしなことばっかりだったものお。講習を受け たがらないとかねえ。普通の人間はあ、やっぱり楽 してお金だけほしいのお」  言い訳をと思うが、ますます脳が働かなくなって いる。  竹内の声も、布団を通しているように遠く、かす れてきた。  「私にい、ぐいぐい近づいて来るしい。でもお、議 員さんをたらしこんだところはあ、凄かったわねえ。 感動しちやったしい、だから騙されかかったのねえ。 あんなこともできるのにい、勿体なあい」  奥深いところでは間違いなく怒りが燃えている。 けれど霧が立ち込めてぼやけてしまう。霧は濃くな る一方だ。眠い。目を開けていられない。  「でもお、私か泥水飲まされるわけにもお、いかな いしねえ」  池端が飲まされたお茶に何か混ぜられていたのだ ろう。レイプドラッグみたいなものか。何にしても 相当な強さだ。  「ミキちゃんに黙ってえ、一人で契約獲ってもよ かったんだけどお、それじゃあ面白くないしねIえ。 見せしめ? つていうのにもお、なってもらったほ うがいいしい」  信号で停まることがあるはずだ。  最後の気力を絞り、シートベルトのバックルをま さぐったが手に力が入らなかった。  「大丈夫よお。命まで取るつもりはないからあ。そ んな怖いことお、わたくしとてもできなあい。もっ とも、平気な人もお、いるみたいだけどねえ。ばれ ないやり方、あるっていうしい。例えばあI」  その先は聞こえなくなった。  ほどなく車が停まり、ドアが開けられたがもちろ ん身動きなどできない。  代わりに屈強な腕が伸びてきて、池端を乱暴に抱 え上げた。一瞬、雨粒が顔を打つのを感じたのを最 後に意識を完全に失った。      22  竹内ゆかりが、「カモ」の家に一人で現れ、玄関 前に立った。「雨に唄えば」を音程がむちゃくちゃ な鼻歌で、しかし気持ちよさそうに歌っている。  玄関の柱についていたインタホンを押す。すぐに は反応がなく、もう一度押しかけた時、「はい?」 ともごもごした声が返ってきた。  「竹内ですう」  こういう相手向けのテクニックだ。元々の知り合 いか、友達ででもあるように話しかける。向こうは、 自分が忘れているだけではと不安になって家へ上げ てしまう。  「だけうち、だけうちさんIああ」  狙った通りの反応だ。  「久しぶりですねえ。どうしたんですか」  「たまたまあ、通りかかったものですからあ。 ちょっとお顔を拝見していこうかなあ、と思いまし てえ」  ちょっと待っててくださいよ、といったん接続が 切れた。  かなり経ってから扉の向こうでごそごそ音がし、 また長い時間をかけて鍵が開けられた。  人影がへっぴり腰気味に立っている。  寝ぐせのままかもしれない。乱れ切った髪がそこ そこ長くなければ、男か女かよく分からない風貌だ。  八十九というには顔の皺が少ない気がするが、こ のごろだと栄養だけは問題ないからだろう。  緩んだ口元と濁ったガラス玉のような目は間違い なく認知症患者のものだ。  真夏というのに毛布みたいな生地の長いスカート のほか、手近にあったものを着たというだけのよう な服装からもぷんぷん匂いがした。比喩だけでなく。  竹内は一瞬顔をしかめた。本当はこういう手合い に近づくのも嫌なのだ。  しかし金がむしれるとなれば探して会いに行くし 手だって握る。必要なら抱きしめるだろう。  「ちょうどお話ししたいこともあったんですけどお、 聞いてもらえますう? お時間なかったらあ、また にしますけどお」  寂しくて、話し相手がほしいはずのカモは慌てた ように「そんなことありません、ありません」と繰 り返した。  もごもごしている上、しゃがれた柢い声で聴きと りにくい。  玄関も雑多なものであふれ返っていたが、奥は もっとひどかった。  居間、と呼んでいいのかどうか、家の大きさから してほかに部屋はいくらでもありそうなのに、布団 が敷きっぱなしで周りに服や新聞が散らばっている。 奥に見える台所は近づきたくもないありさまだ。  まあ、盆に家族が来たなんて嘘なのだから当然だ ろう。  そこまで先導してきたカモは突っ立つたままたっ た。  部屋の隅には、布団で真ん中から押しやられた恰 好ではあるが、座卓と、カモの定位置なのだろう座 椅子がある。  竹内は、座卓と角を挟んで隣り合うあたりを少し 片づけて自分のスペースをつくった。  「こちらでお話ししましようよお」  パンフレットなど要らない。いきなり契約書を バッグから出して座卓に広げた。手間をかけず、 さっさと終わらせてここを離れたいのだ。  「おばあちゃんにね、とってもお得になるお話なの お。これひとつでえ、病気とかケガとかあ、万が一 の時までえ、全部安心な保険なんですよお」  「ほお」  「月々ちょっとの掛け金でえ、保障がすっごく充実 してますからあ」  契約書を広げて、適当なところを指さして見せる。  「へえ」  「本当は手続きが面倒臭いですけどお、お任せいた だけたらあ、私か全部やっときますからあ。おばあ ちゃん、銀行の「ンコ持ってるわよねえ?」  「はあ」  「どこにありますう?」  「ええとI確かI」  相手は立ち上がって茶箪笥のほうへよちよち歩き 出した。しかし思い出せていないのは明らかだ。  棚をまさぐり、引き出しを片っ端から開けている が案の定見つからない。銀行印がどういうものなの か理解できているのか怪しい。  「よかったら私かお探ししまあすわよお」  返事を待たずに竹内も茶箪笥のそばへ移動した。 横から勝手に手を伸ばし、そのうちカモを押しのけ て座り込み、徹底的に探した。しかし出てきたのは 写真の束や、腕時計、何かの部品、要するにほとん どゴミたった。  竹内一人での捜索に移る。  次に彼女が目をつけたのは、食堂の壁に作り付け になった棚だ。上のほうは扉付きで食器用だが、中 ほどからオープンになり、固定電話を中心に書類や トレイ、大小の箱が押し込まれている。  通帳はそこにあった。当然のように電子通帳には 切り替えられていない。銀行印の押された古いもの も交じっていた。一致する(ンコが見つかれば保険 料を引き落とす手続きができるが、通帳と(ンコを 一緒に仕舞わないというルールだけは墨守されてい るようだった。  竹内は玄関へ向かう。盆に来なかった家族も、食 べ物などを送っている可能性が高い。宅配便の受け 取りに必要な(ンコは、玄関に置くのが便利だ。  果たして靴箱のわきに積まれた中の一番上、煎餅 のものらしい箱に、十本以上の(ンコが入っていた。 一つずつ通帳と見比べてゆく。  六つ目が当たりだった。  意気揚々と竹内は元の部屋に戻ってきた。カモは 竹内が来ていることすら忘れたように、座椅子にも たれてテレビを見ていた。  「おばあちやあん。あったわよお」  カモは虚ろな目のままたが、画面に向けた顔を動 かさない。カモなりに集中しているようだ。  「じやあ私い、書いときますねえ」  竹内は書類を作っていった。保険証を通帳のそば で手に入れたから、生年月日なども問題なく埋めら れた。そのあいだ、また雨に唄えばのメロディーが 流れていた。  さてあとは。  (ンコに朱肉をなじませ、書類の書定位置に押し 付けようとした時、後ろから腕をつかまれた。  カモがにっこり笑っている。  驚きながらも竹内は笑顔を返し、腕を引いた。し かし相手は指に力を込めて放さない。  「どうしたのお。おばあちゃん」  戸惑いながら言った時、カモの目の焦点がすっと 定まった。  「現行犯ってやつだよ、ユカテリーナさん」  聞き間違いようもない、明瞭な口調だった。しか もぐんと柢くなった。  「男−」  竹内は絶句した。化粧をしていなければ顔色もか なり変わったに違いない。  「ボケてもいないの?」  もはや間延びしたしやべり方などしていられない ようだ。  「あいにくだが、今のところもの忘れがひどいって ほどじやない。新し過ぎることを憶えるのは苦手だ けれどな」  派手なルージュを引いた唇がぱくぱくする。せわ しなくまばたきも繰り返しながら、竹内は虚ろな視 線をさまよわせた。  「情報が間違ってたの? いや、裏切られたってこ とね」  「前からいる取り巻きの方々は忠実だよ。疑っちや あ可哀想だ」  「あなた、誰?」  ついに金切声が響いた。カモのふりをしていた男 は、むしり取ったかつらを帽子のように持ってうや うやしく頭を下げながら答えた。  「本社人事課の奥地って者です。お見知りおきを。 そういえば休職中だったが籍はあるよ」  「市場運用課の高木」  新たな声がして竹内ははっと部屋の入口のほうを 向いた。  別の男たちが立っている。  「溝口です。商品開発課です」  続けて名乗ったひよろりとしたほうは、手にした タブレットを高く掲げた。  「竹内さんがこちらにいらっしやってからの行動、 発言はすべて動画に収めさせていただきました」  やった!・  スマホに転送されていたその動画を、新幹線の座 席で見つめていた加納英司も声に出さずに叫んだ。  ほかの場所だったら声はもちろん、拳を突き上げ ていたに違いない。  今まで息をするのも忘れたみたいだった加納が、 びくりと身体を震わせ、ついで脱力する様子に、隣 の乗客ははっきり気味悪かっている。  耳につけたイヤホンから、続く溝口の言葉が流れ た。  「顧客への商品説明を怠っただけでなく、許可、了 承等一切得ないまま勝手に契約、振替の手続きを進 めようとされていたのは明白です。家の中を勝手に 引っかき回しまでして」  「ま、普通の人間なら黙ってされるがままにはなっ てねえよな」  高木が引き継ぐ。  「あんたは、こいつが認知症と思ってたから付け込 んだわけだよ」  竹内は(ンコを握ったままたったが、ぶるぶる震 え出した。  「初めてでないとも九九パーセント以上の確率で言 えます」  再び溝口が口を開いた。  「ここ数年のあいだに竹内さんが獲ってこられた契 約を分析しました。契約者の年齢や収入から考えて、 元のとれる確率が数学的に極めて柢いヶIスが散見 されます。そんな契約は滅多に結ばれません。あえ て営業社員一人当たりの件数を算出しても、年間 〇・一件にもならないのです。比べると竹内さんは、 百倍以上です。差が偶然であるとするにはI」  「もういいよ、溝口さん」  奥地が遮った。  「要するにユカテリーナはおしまいだってことだ」  うおIと咆哮を上げて、竹内が庭に面したサッシ に突進した。逃げ道があるとしたらそこだけだ。般 若の形相で、ガラスをそのままぶち破るかという勢 いだった。  しかし高木が立ちふさがる。残る二人も追いかけ て後ろから服をつかんだ。帽子が汚れた畳に落ちた 上を何本もの足が踏みつけた。  「痛ててて」  悲鳴を上げたのは高木だ。伸ばした手に噛みつか れたのだ。ひるんだ拍子に脛も蹴られ悶絶している。  男三人がかりでさえすんなりいかなかったが、な んとか取り押さえ、探してきたタオルで手足をし ばった。大声で喚きたてるので、猿ぐつわもかませ なければならなかった。  「すげえばあさんだな」  息を荒くした高木がつぶやいたのに、奥地もうな ずいた。  「これくらいじゃないと、百億は売り上げられない のかもなあ」  「ともかく暴君の退治はできましたね」  引き取ったのは溝口だ。  「あとは最大の功労者が、ちゃんと回復してくれる といいんですが」  そうだ、こちらが片付くと余計に池端の容態が気 になる。  無事な顔が見られるなら何だってする。  とにかく早く岐阜へ。  加納は、時速三百キロ近くで走っている列車のお 尻にさらにムチを入れたい気持ちだった。      23  妖精同盟の面々と話し合い、というより果し合い のような場を持ったあの囗。  篠塚明子のカラ接待が、まっとうな営業社員を処 遇したいというやむにやまれぬ気持ちからなされた ことを知って動揺しつつ、(ニトラまがいを仕掛け られた怒りは収められなかった。  予想通りの喧嘩別れで終わろうとしていた時に、 人事課長の山瀬忠浩が現れて、想像もしていなかっ た真実を明かしたのだった。  「その、就活生のふりしてた若い女を差し向けたの、 三枝常務なんだよ」  加納英司がひっくり返りそうになっだのは言うま でもない。 「信じられませんが」 「だろうな。しかし担いでるわけじゃないんだ」 「だいたい常務が何のために」  山瀬は妖精さんたちへも目を向けながら「加納さ んを怒らせて、シニアにいっそう強硬な姿勢を取ら せるためだよ」と答えた。  その説明によると、三枝義信はもともと、山瀬を 妖精さん対策の指揮官にするつもりだった。  実際、山瀬が担った時期もあるのだが、とりあえ ず手をつけた、再教育主体の穏健なやり方ではほと んど効果が出なかった。  しかしリストラとなると、やるほうにも覚悟が要 る。憎まれるのは避けがたいし、トラブルが発生す れば経歴に傷がつく。  子飼いの山瀬をリスクに曝したくなかった三枝は、 外部からリストラ屋を雇って使い捨てようと方針転 換、選ばれたのが加納だった。  加納が感じていた通り、外資での経歴に目をつけ たのだけれど、加納も思うほど冷酷非情になってく れない。  ようやく動き出した首切り作戦を後退させないよ う、念押しのため仕掛けたのが(ニートラップたっ た。加納が「脅し」に屈せず、戦意だけをたぎらせ ることまで計算していた。  「俺は厄介ごとを加納さんに押し付けて安全地帯に 逃げた上、(ニトラが常務の仕業と知っていたのに 今まで黙ってた。恥ずかしい。毛利さんたちにも、 まったく申し訳のできない態度だった」  山瀬は深々と頭を下げた。  「謝らなきやいけないことは他にもある。想像でき ているかもしれないが、ユカテリーナの件だ」  言われるまで頭は回らなかったけれど、三枝がそ ういう人物だったら、聞かされていたストーリーも 大いに疑わしくなる。  「常務は社長を諌めるどころか、後継指名してもら う約束で、ユカテリーナの護衛役を引き受けたんだ。 チャンスができたら岐阜を大掃除するつもりなんて いうのは、加納さんを言いくるめる方便だ」 「そういうことですか」  ため息が出た。 「俺から加納さんの動きを知らされて泡を食ってた よ。命じられた通りに嘘をついた俺も劣らない悪党 だけどな」  うつむいた山瀬だったが、すぐに必死な目を向け た。  「だがこんな話をゆっくりしている余裕もなくなっ てるんだ。ユカテリーナが気づいた」  「何ですって?」  妖精さんたちもはっとした顔になる。さっき加納 が岐阜に人を潜り込ませたと漏らしたのを思い出し たのだ。  山瀬が確認するように言った。 「池端君がレディになったんだろう?」  竹内ゆかりは、認知症患者から契約を取る場に連 れて行ってほしいと頼んできた新人レディを気に 入って、希望をかなえてやることにしたのだが、土 壇場でレディが隠しマイクを仕込んでいるのを見 破った。  とっさに営業を中正し、身元を社長に調べさせた ら、ついこのあいだまで人事課にいた派遣社員と分 かった。  「たった今、常務から聞いた。加納さんが家賃を出 したこともバレてるよ」  「私はともかく」  加納は舌がもつれそうなほど動揺していた。  「早く池端君を逃がさないと」  「だから急いで知らせに来たんだ。常務の犬だった 俺だけれど、派遣だろうが何だろうが、部下だった 人間に危害が及びそうと分かって震えがきた。目が 覚めた」   スマホを取り出した加納を、しかし山瀬は止めた。 「逃げようとしたら、かえって危ないかもしれな い」  「なぜです」  「ヤバい連中が池端君を見張ってる。おかしな素振 りをしたら即、実力行使してくるだろう」  「そこまでI」  「常務が社長に頼りにされる理由の一つなんだ。総 務の汚れ仕事をやってきたから、裏の世界につなが りがある。「ニトラだって、そういう手合いの仕業 だと思う」  身震いが出た。 「でも放っておくわけにいきません」 「もちろんだ。とにかくこちらからも誰か行って」  その時、毛利基の野太い声が響いた。  「池端ってのは、ユカテリーナ退治のために会社を 辞めたのか」  「結果的にはそう言っていいと思います」  経緯と、岐阜へ赴いてからの働きを加納から説明 されるや、毛利は「俺たちにやらせてくれねえか」 と言った。  「どうだ、みんな」  同盟のメンバーのほうを向くと、宣]つ先に篠塚が 「お手伝いしたい」と応じた。残る二人もこっくり うなずく。  「冗談ならやめてください」  加納は少しむっとした。  「ヤバい連中を相手にしなきやいけないって言って るじやないですか」  「もの憶えは悪くなってるかもしれねえが、体力的 にお前さんだちと大して変わると思えねえ」  「それはそうかもしれませんが」  「加えて俺たちのほうが警戒されにくい。うってつ けじやねえか。だいたい、お前さんたち簡単に動け ねえだろ。何日も職場を離れたらすぐ三枝に感づか れちまう。かといって部下を危ない目に遭わせるわ けにもいかねえ」  反論できない。  「俺だちなら、ヒップエレキバーンに耐えかねて消 えたってことにしときやすむ。いなくなろうが誰も 困らねえだろうし」  「しかし、どうしてそんなことをおっしやってくだ さるんです?」  山瀬が口を挟んだ。  「有体に申し上げてみなさんは、自分の利益を守る のが一番で他はどうでもいいわけでしょう。ユカテ リーナと社長、常務の異常な関係が引き起こした会 社の危機といったって、関係ないんじやないです か」  「そうだ」と加納も突っ込んだ。  「まして私はあなた方の敵じやないですか。池端君 も、ユカテリーナの前は、あなた方の行動を監視し たりしてたんですよ」  「知ってるよ、そんなこたあ」  毛利は怒った口調になった。  「確かに俺たちは、働かなくてもこれまで通りの給 料を貰うと言ってきた。けれども会社が嫌いなわけ じゃない。愛着と、この手で作り上げてきた自負 だってある」  言わずにおれないというふうに高木誠司が続く。  「池端って女の子は、うちの社員でもないのに、永 和生命をまっとうな会社に戻そうと身体を張ってく れてるんでしよう。知らんぷりじゃ男がすたるよ」  「女だって黙っていられません」  つぶやいた篠塚は、人一倍、ユカテリーナ的なも のに厳しい気持ちを抱いているはずだった。  「せっかくあと一歩まで追いつめてたのに。残念だ わ。でも彼女の安全を優先せざるを得ないわね」  「いや、ユカテリーナ退治を諦める必要はないかも しれませんよ」  部屋にいた全員の視線が溝口悟に集まった。 「無理ですよ。認知症患者に注意を促すくらいがせ いぜいだ」  山瀬の言葉に高木もうなずいている。  「でしようなあ。まあ、女の子を逃がせられれば、 ユカテリーナたってしばらくは自重すると思います が」  「逆に言うと、今のままだったら、契約も予定通り に獲りにいくんじゃないですか。目の前のごちそう を我慢できるような人じゃなさそうだ」  溝口がみなを見回す。  「あと、マイクの現物まで押さえられたわけじやあ りませんよね。向こうとしてはしばらく、池端さん を泳がせるはずです。スパイだというはっきりした 証拠を押さえ、捕まえてから、ゆっくり認知症患者 を料理する」  「確かにその可能性は高いですが、だから?」  加納の問いに、溝口はとんちんかんとも思えるこ とを言い出した。  「奥地さんつて、若いころ演劇をやってたんですよ ね」 「聞きましだけど」  語られたアイデアに一同呆然とした。 「狙われているのは女性らしいですが」 「問題ないでしょう。女形ってものもあるわけだ し」  「池端君を救出するほうはどうなります?」  「襲われたところで取り返すやり方を思いつきまし た。彼女にも、我々にも一番安全なはずです。私の 計算による成功率はI」  そちらも聞いてみて、最初の衝撃は溝口への感嘆 の念にとって代わられた。  もちろん懸念がゼロではない。しかしためらって はいられない。  奥地に連絡をとろうとしている毛利に、加納は 「私からも話をさせてください」と言ったのだった。  これからユカテリーナと一緒に行くことになった という池端のメールを受け取り、現地でその時を 待っていた妖精同盟メンバーたちに連絡するととも に、自分も会社を抜け出した。  しかし新幹線に飛び乗る直前、かかってきた篠塚 からの電話は予想外の内容を含んでいた。  加納は自分を責めた。  荒っぽい連中を使うと聞いたのだから、薬を盛ら れるくらいの想定はしておかなければいけなかった。  やはり本人に教えておくべきだったか。怯えが見 えるとかえってユカテリーナの警戒を招きそうな気 がして控えたのだが。  ユカテリーナの捕り物が終わり、動画の転送自体 おしまいになった真っ黒なスマホを、加納は祈る気 持ちで眺めていた。  と、そこに色彩が浮かび上がった。バイブレー ションが作動しはじめる。  本当ならデッキに出てからでないといけないのだ ろうが急ぐ心を抑えられない。  今度は何だと言いたそうな隣の乗客の前をすり抜 けつつ回線をつなぐ。  「目を覚ましました」  先ほどとうってかわり、ばすんだ篠塚の声が耳に 伝わった。  「意識ははっきりしています。お医者さんも大丈夫 だと」  デッキにたどり着いて詳細を聞くうち、緊張から 解放された加納は床にへたりこんでしまった。      24  針を突き立てられるような頭の痛みで、池端美紀 は意識を取り戻した。  そろそろと瞼を持ち上げると、白い天井が見えた。  何かあったんだっけ。考えようとしたら痛みが強 まった。我慢して記憶をたどる。  はっと思い出した。ユカテリーナに一服盛られた。 いよいよ彼女をやっつけられると張り切っていたの に、頭も身体も動かなくなった。  車から引っ張り出された後が分からない。  その時、ユカテリーナの最後の言葉がよみがえっ てきた。  平気で人殺しをする奴もいるI。  とすれば自分は殺されたのか。今いるのは、死後 の世界なのか。これまであまり信じていなかったけ れどI。  「あ、目を醒ましたわ」  声が聞こえた。首を向けようとしたがのろのろと しか動かない。  真上に現れたのは女性の顔だ。続いて男性のそれ もいくつか続いた。  どこかで見たことがある気がする。同世代の友達 とかではない。親くらいの歳の人たちだ。  敵意は向けられていないのが分かった。ユカテ リーナの仲間ではない。  だったらいよいよこの世のものではなさそうだ。 だってあの状況で自分が助かったとは考えにくい。  最後にのぞきこんできた顔にびっくりさせられた。  奥地文則だ’・ 人事課の妖精さんだ。  それで残りの顔についても記憶がよみがえっだ。 篠塚明子、毛利基、高木誠司、溝口悟。間近で対面 こそしていないけれど、顔写真は飽きるほど見たし、 行動偵察のため何度も尾行した。  死後の世界にまで出てくるとはよっぽど妖精さん に祟られているのか。  引導を渡されたのはユカテリーナにだから、年寄 りたちに痛い目に遭わされっぱなしの、思えば短か い生涯だった。  妖精さんだちから敵意が感じられないなんておめ でたかった。  くたぽっちまっだよ、近頃の若い者は弱っちいね え。目の敵にされてたけど、ちょっとは気の毒に なってきたから線香の一本でも上げてやるか、てな ところではないか。  「化けてでてやるう」  うめき声が漏れた。  一瞬の静けさの後、妖精さんたちが笑いを爆発さ せた。顎が外れそうなくらい口を開けている奴、文 字通り腹を抱えている奴、一応堪えようとしている ようだが声を抑えきれない奴、さまざまだがおかし くてしようがない様子は共通だ。  「何かおかしいんですかっ」  怒鳴った。同時に涙が出てきた。  「ありやI、泣いちやったよ」  「助かったのに怒ったり泣いたりしてちやおかしい だろ」  助かった?  「どういうことですか。私、死んだんじやないんで すか」  「死んでてどうして俺だちとしやべってられるん だ」  「みなさんが人間じやないから」と答えたら、また 大笑いする。  医者が呼ばれて池端を診察した。妖精さんたちは 結果を聴き、篠塚が「室長に連絡してあげなきや ね」と部屋を出ていった。  差し出された水が奇跡のようにおいしかった、一 気に飲み干し、三杯おかわりした。頭の痛みが少し ひいた。  「あのなあ、俺たちが助けたんだからいい加減、感 謝のひと言くらいくれてもいいんじやねえか」  毛利に言われた。 「助けていただいたんですか?」 「説明しなくちや分かんねえか。つってもどこから 始めたらいいかな。結構入り組んでるからな」  驚くはかない話ばかりだったが、三枝義信に関す ることは池端にそれ以外と種類の違うショックを与 えた。  三枝常務という人をよく知っていたわけではない けれど、信用できると思った。加納もそうだったは ずだ。三枝は、長期的な視野で会社の経営を考えて、 妖精さんを一掃するためのリーダーシップを取った のだから。  「あいつは会社のことなんか考えてねえよ。自分だ けた、昔から」  毛利と三枝は同期入社だ。新人研修の合宿で、会 社でどんな仕事をしたいか一人ずつ発表することに なったが、順番が先になった三枝は、前夜の飲み会 で毛利が口にしていた話をそっくりいただいた。指 摘したら「僕も考えていたんだ」と、悪びれもせず 答えた。  数年後、本社の総務で一緒に働いた時、三枝が備 品のボールペンを注文し忘れてあちこちの部署から クレームを受けた。彼は、後輩のせいにして係長と 一緒に後輩を叱った。  その手の話は枚挙に暇がないくらいだが、極めつ けは、三枝が経営企画部の課長たった十年ちょっと 前だという。  銀行窓口での保険販売が本格化してしばらく経っ たころで、三枝は条件交渉を担当していた。ところ が銀行をディスるメールを身内と間違えて当の相手 に送ってしまい、交渉は打ち切り寸前までこじれた。  状況を伝え聞いた毛利が、法人営業で親しくなっ ていたその銀行の幹部に働きかけて、結果的に好条 件で提携が実現したのだが、三枝は経緯を表沙汰に してくれるなと毛利に泣きついた。  「どうでもよかったから頼まれた通りにしてやった。 奴が社長に目をかけられるようになったきっかけだ。 見る目がねえっていうか、ろくでもない奴同士くっ つくもんだなって思ったよ。しかし後から考えたら まずかった」  「ヤクザみたいなのを雇うなんて、普通の神経じや ありえません」  「池端さん、冗談抜きでどうなってたか分からない わ」  戻ってきた篠塚が言う。  篠塚は毛利と組み、車を使ってユカテリーナを尾 行し続けていた。  料亭でユカテリーナが池端と合流した段階では、 カモの家に入る時に池端からマイクを取り上げてな らず者に引き渡すと予測した。  「途中で脇道に入って車を停めちゃったでしょう。 しようがないから私たち、いったん離れたんだけど、 別の車が来だのが見えて大慌てよ」  篠塚たちは、警笛とモデルガンを用意していた。 金で雇われた連中はリスクを取りたがらない、警官 と見れば、池端を放り出して一目散に逃げるはずと 溝口が言ったのだ。  「頭では納得してだけれど、いざとなったら怖かっ た。でも勇気を振り絞っだの。おもちゃを振り回し て、叫びながら走ったわ」  そこに関しては大成功だった。しかし池端が地面 に横たわったまま動かない。一服盛られたらしいと 分かった時はまたパニックに陥った。  「大変な目に遭わせちゃったけど、とにかく良かっ た」  「あ」  大事なことを思い出して、池端は上半身を起こし かけた。治りかけていた頭がずきりとした。  「あの家のおばあちゃん、大丈夫だったんです か?」  「前もって避難してもらった。多分このまま家族と 暮らすことになるんじゃないかな」  今度は高木が話し始める。 「ユカテリーナは? 逃げた?」 「心配しなくていい」  タブレットで再生された動画に見入る池端に、 「AV機器なら扱い慣れてるから。音だけじゃなく 映像もあったほうがいいだろ?」などと言う。  「本物の警察に通報して、ユカテリーナを引き渡し たよ。もうすぐ逮捕されるさ。まずは池端さんに やったことのほうでだろうけど、いずれ、違法な営 業も罪に問われると思うよ」  ほっとしたのはもちろんだが、奥地の名演技にも 目を見張らずにいられなかった。  「小道具が全部、おばあちゃん用だったから、そこ がちょっと大変だったな。おばあちゃんの弟から、 保険証やら通帳やらいろいろ借りてさ」  奥地が照れの混じった表情でつぶやいた。  薬からすっかり醒めていたけれど、あまりにたく さんの思いがけない話のせいで、池端はまたぼうっ としてしまった。  「ちょっとは見直してもらえたかな」  「失礼な言い方になってしまいますけどI驚いて います」  質問もせずにいられなかった。  「それにしても奥地さんどうして。よりによって私 のために」  「加納さんにも同じことを訊かれたな」  奥地は鼻の下を撫でた。  「義憤に駆られたのは確かだ。ユカテリーナと一緒 にされてたまるかとも思った。しかし、みなさんが 私たちに腹を立てるわけがよく分かったせいでもあ るかな」  その口調には、照れに神妙さが混じっていた。  「今回、ITスキルつてやつと本気で取り組んでみ て、使いこなせたらすごく効率的だってのが初めて 実感できた。今の世の中、なしじやどうにもならん。 なのに拒んでるのは頑固な怠け者に違いない」  「本気になったら、案外できるのも分かったんじや ないですか」と溝口。  「そうなんだよ。できなさと向き合うのが怖くて、 本気になることから逃げてたんだな」  「俺もそうかも知れねえ」  毛利がつぶやいた。  「完璧には難しいが、まったくできないでもないん だ。なのに頑張ろうとしないんじや愛想つかされる わな」  高木、篠塚もうなずいたところで、ドアをノック する音がした。  「加納か? 早かったな」  しかし顔をのぞかせたのは女性だった。  「先生’・」  安岡玲子は池端の張りのある声を耳にし、血色も 悪くないと見て取って安心したようだったが、続い て部屋の中に視線を走らせたところで驚きの表情を 浮かべた。  「篠塚支社長じやないですか」  「お久しぶりねえ」  篠塚は安岡に近づいて「今度のことではずいぶん お世話になったそうね」と言った。  「お世話だなんて」  「いいえ。あなたがいなかったらこの支社は、いい え、永和生命はずっと同じことを繰り返してたわ。 ありがとう」  「私はただ、篠塚支社長がおっしやってたことを思 い出してIそれにしてもどうしてここに?」  安岡に負けずきよとんとするばかりだった池端も、 事情を教えられて縁の不思議さに思いを致さざるを 得なかった。  確かに安岡から岐阜に来る前の話を聞いた時、篠 塚がカラ接待をしていた件をちらっと連想したもの の、どちらかといえば、そんな立派な動機でやる人 もいるのか、篠塚とはずいぶんな違いたみたいな感 想を持ってしまった。  「済みませんでした」  いたたまれない気持ちで頭を下げた池端に、篠塚 は「お互いさまだわ」と笑った。  それから三十分後、再び病室のドアが、今度は 荒々しく開けられた。  加納は息を切らしながら飛び込んできてベッドに 駆け寄った。  「やっぱり僕は、管理職として失格だI」  「何ともなかったんですから」といってもうなだれ たままで、目まで赤くしている。  「運が良かっただけだ」  「自分が決めてやったことです。加納さんに責任は ありません。それより」  確信していたが、一応加納の口から聞きたかった。  「妖精さん絶滅作戦は中止ですよね?」  「ああ、もちろん」  「私に何かしてくださるなら、今、みなさんの前で 約束してください」  加納はゆっくり立ち上がった。妖精さんたち一人 一人とうなずき合う。  「お聞きになった通りです。これからは、山瀬人事 課長と一緒に、妖精さんとの共存作戦を新たに立案 いたします」  そして、改めて毛利と向き合い「特に折り入って お願いがあります」と言った。  「な、何だよ」  「以上を踏まえまして、バスヶツトボール同好会へ の入会許可、どうぞよろしくお願いいたします」      25  あと少し休息が必要な池端美紀を残して、加納英 司と妖精同盟の面々は病院を辞した。安岡玲子も同 じタイミングで帰っていった。  加納たちが向かったのは駅に近いホテルだ。  毛利基と篠塚明子は岐阜に入ってからそこにおり、 ユカテリーナを待ち伏せるために例の家で寝泊まり していた三人と加納も部屋を取った。  病院のすぐそばというわけでもないが、さほど遠 くもない。夜になって暑さも少し落ち着いていた。 話したいことがなお多いので、ぶらぶら歩くことに した。  病院の周りでは民家の明かりもかなり消えてし まったが、ホテルがある方角は空かまだぼんやり 白っぽい。  「答えは出ないままですか」  加納が溝口悟に尋ねた。  溝口は岐阜に向かう前、四年前に妻をがんで亡く した後、仕事にどんなスタンスで向き合うべきか分 からなくなったと語ったのだった。  アクチュアリーとしての彼には、人の死も保険料 を計算するための一要素でしかなかった。  ところが、それが個人的な意味を持った時、アク チュアリーであり続けることが妻への冒涜のような 気がして耐え難くなった。  一方で、妻を自分が設計した保険に入れていたか ら、命こそ救えなかったが、大金が必要な先端医療 まで、やり尽くしたと納得できるだけの治療を受け させられたのも動かしがたい事実だった。  会社を辞めようと考えながら、やはり保険は必要 だと感じる。混乱した溝口はモラトリアムを選んだ。 選んだというよりほかにどうにもできなかった。  「十分、会社に貢献してきた自信はありましたから。 しばらく働かなくてもひけ目を感じる必要はない。 計算上も、はっきりしていました」  ほかの同盟メンバーも、数字として把握したわけ でなくとも、同じ感覚だと言った。  彼らが若いころ、時短とか働き方改革とかの考え 方すらなく、サービス残業などは当たり前たった。 過労死寸前まで仕事をした。今だったらブラック企 業扱いされただろう。  かつ給料は安かった。年齢が上がれば給料が上が り、コキ使われもしなくなる。社内で重んじられ、 いろいろな決定に参画できる。その時を楽しみに頑 張った。  なのに時代が変わってしまった。給料は上がるど ころか、役職定年なるものができて途中で大幅に減 らされるようになった。  そこにもってきてのゴミ扱い。威張っていられる はずが、若者の顔色を窺わなければならない。  あんまりだ。やってられない。妖精さんと言われ ようが、自分たちにはもう働く義理などない。  「反省することはもちろんあるがな、会社の都合い いようにされるだけじゃたまらねえ。そう思う根拠 もあるはずだ」  毛利が言ったのと同じようなことを、加納は以前、 妻の晴美からも聞いていた。  加納の反論は次のようなものだった。  「下の世代は下の世代で苦労してる。自分たちだけ が被害者みたいな考え方は受け入れられないよ」  「気持ちって、世の中の仕組みよりずっと変わりに くいんだと思うわ。そのずれで争いが起きちやうん じやないかしら」  その晴美ですら、加納が胃潰瘍になった時には妖 精さんたちを悪しざまに罵った。感情がからむとも めごとはますますこじれてゆく。  「厄介なものですよね」  「悪用する奴がいるからますますな」  吐き捨てて毛利はつぶやく。  「三枝の野郎、どうすんだろ」  「役員のことは人事の管轄外ですが、警察沙汰にま でなればさすがに自浄作用が働くでしょう。社長と もどもおしまいですよ」  「今頃震えてやがるのかな」  ホテルの入口が見えてきてほどなくだった。  後ろから音もなく近づいてきた人影が、加納の手 提げ鞄をひったくった。あっと言う間もなかった。  「おい’・ 待て’・」  やっと声が出だけれど向こうが従うわけもない。  鞄には溝口から預かったタブレットが入っている。 ユカテリーナが違法営業をしていた証拠の動画デー タを収めたやつだ。  同盟メンバーもめいめい荷物を持っていたが、向 こうは加納の鞄に的を絞った。その読みは当たって いた。  コピーを取って、分けて運ぶべきだったI。  歯噛みしながら追いかけた。幸い足は加納のほう が速くすぐに追いついたが、捕まえたと思った瞬間、 そいつは鞄を横へ投げた。  投げた先には仲間がいた。慌ててそちらへ走る。 すると鞄がまた別の方向へ投げられた。  相手は三人いて、鞄をパスしながら加納が疲れる のを待っている。  後ろを見た。妖精さんたちも追いかけてくるがま だはるか遠くだ。すでに足が止まりかけているよう でもある。  加納も息が上がってきた。取りに行くのをやめた らすぐに逃げられてしまうだろう。しかしもう限界 だ。   しゃがみ込みそうになった加納の視界に、丸っこ  い身体が砲弾のように飛び込んできた。  妖精さんの人数を一人間違えていた。毛利は見事 なインターセプトを決めて、鞄をがっちりつかんだ。  とはいえ向こうの三人がすぐさま殺到する。囲ま れたらまた奪われてしまう。助けに行こうとした加 納に毛利が叫んだ。  「こっちじゃねえ!・」  「え?」  「ホテルのほうへ」 「なんで?」 「走れええええ」  わけの分からないまま、声に押されて言われる通 りにした。  「いくぞお」  振り返ると、ずいぶん小さくなった毛利の姿が、 ぐんと後ろに反り返った。三枝に雇われた連中が飛 び掛かる寸前、バネを目いっぱい使って腕を振る。   鞄が弦から放たれた矢のように空へ舞い上がった。   何十秒もかかったように感じたが本当はほんのI 瞬だったのだろう。  放物線が地面とぶつかる点に、加納はなんとか一 足早く到着し、鞄をキャッチした。そこはほとんど ホテルの真ん前だった。そのまま建物に駆け込んだ。  ホテルスタッフを引き連れて戻ってくると、妖精 さんたちが奮闘中だった。  奥地と溝口で一人、篠塚と高木で一人、手や足に すがりついて逃さない。毛利は一対一で暴れる相手 を羽交い絞めにしている。  取り押さえてみれば三人ともまだ若かった。高校 生みたいなのも交じっている。  汚い言葉を吐きちらしているけれど、不安や気の 弱さがふとした拍子に表れる。巻き込んだ年長者の 罪深さが苦々しかった。  今日はたびたびの出動となったパトカーのサイレ ン音が響いてきた。  「俺の心臓もなんとか保ったよ」  「同好会、入会テスト合格と思っていいですか?」  肩を叩かれた加納に、溝口が声をかけてきた。顔 に泥がつき、半袖の肘もすりむけている。 「さっきの返事がまだでした」 「はい?」 「答えは出ないかと尋ねられたんですよ、加納さん に」  そうだった。途中から話題が転々としていって、 質問したことを忘れていた。  「出てないです。ずっと出ないかもしれない」  溝口は少し悔しそうだった。  「しかし、だからといって何もしないのはおしまい にしようと思います。考えている途中経過を、人に 伝えることにも意味があるかもしれない」      26  加納英司は、例の(ニトラの一件を妻の晴美に告 白した。  しばらく不機嫌たった晴美だが、欲しかっていた スカーフをプレゼントしたのが功を奏したか、「次 はないわよ」と言いながら許してくれた。  穏やかに済まなかっだのは、ユカテリーナ事件の ほうだった。  竹内ゆかりが逮捕された後、想像を大きく超える 事実が警察の調べで明るみに出た。彼女は、認知症 患者に違法な営業をしかけて契約を取っていただけ でなかったのだ。  たいていの生命保険会社は貯蓄型保険の契約者に 対して、解約返戻金の範囲内で無担保で融資する制 度を設けている。永和もそうなのだが、これが悪用 された。  貯蓄型は売った営業社員の評価とあまりつながら ない。なのに竹内は、認知症患者に積極的に売って いた。  売った後で、制度を使って金を借りさせ、一部、 場合によってはすべてを着服する。銀行印を勝手に 使うことなど朝飯前だから造作もない。  被害者の家族は、保険の契約自体気づいていない ヶIスが多く、融資にいたっては、説明されても状 況をのみ込むのに時間がかかるありさまだった。  歩合を稼ぐなど、比べればまったく可愛らしい。 何百万、場合によっては何千万の金をそっくり巻き 上げる、荒っぽいとさえ言える犯罪だ。  被害金額は二億近かった。囗替わりの帽子を揃え るのにどれほど必死になっていたかの表れだろう。  社長が、何としても隠し通したかったわけも理解 できるというものだ。だが竹内は、自分が逃げ切れ ないと分かるといともあっさり、社長、三枝義信が 黙認していたことを供述した。  永和生命の最高幹部二人は、池端美紀を拉致しよ うとした共犯として、半グレだちとともに逮捕され た。護送される姿はテレビやネットで全国民の目に さらされた。  会社の受けた痛手は言うまでもない。解約が相次 ぎ、外資に買収されるとの噂が流れるくらいだった。  しかし、事件を明るみに出したのも永和の社員 たったことは不幸中の幸いだった。企業イメージの 凋落ははなはだしかったが、破滅的ではなかった。 隠し通そうとしてバレだ場合どうなったか、考える のも恐ろしい。  新社長は当然ながら、前任者とは距離を置いてい た執行役員から選ばれ、事件を生んだ組織の体質に メスが入った。  目玉は、生保レディの報酬システム見直しだった。  コンプライアンス研修などももちろん手厚く行わ れたけれど、道徳や精神論には限界がある。  誰だってたくさん金がほしい。売り上げが給料に 直結するなら、どんな手を使っても売り上げを多く しようとする者が出てくるのは防ぎきれない。  短期的な売り上げではなく、お客のためを考えた 営業活動を評価する。お客の経済、家庭状況をきち んと把握し、最適な商品を提案する、場合によって は何も売らない判断をするレディが報われる。  池端の協力者になってくれた安岡玲子が理想とし ていたことだ。篠塚明子が目指して、十分には果た せなかったことでもある。  そしてこの見直しは結果的に、ネットで保険に入 るのが一般化しつつある時代に、人間による営業を 続ける意義を追求する試みになった。  もう一つ、ユカテリーナ事件が変えたのは、思い がけない力を見せた妖精さんたちに対する社内の見 方だ。  毛利基以下、同盟のメンバーは自前のホームペー ジで、ユカテリーナ退治に協力したいきさつや心情 を明らかにした。加納や池端に語ったことを改めて 書いたわけだが、それが他の妖精さんにも、妖精さ んを敵視してきた層にも響いたようだった。  前者が新しい流れについてゆく努力をしはじめ、 後者は相手の気持ちを汲もうとする心構えを身につ けていった。  構造改革推進室長のまま引き続いて妖精さん問題 を担当していた加納は、PIPを中正しただけでな く、本当の構造改革というべき施策を上層部に諮っ た。役員会で激論になったが、最終的に採用された。  役職定年が廃止されたことで、能力と意欲がある 妖精さんたちの目標ができた。彼らはばりばり働き 始めた。  妖精さんたちを役職につけることは、レディの報 酬システム見直しとも相性が良かった。  客のためになる営業活動を評価すると言っても簡 単ではない。数字で比較すれば一目瞭然な売り上げ と違い、評価する側に高いスキルが必要だし、手間 もかかる。  妖精さんには何といっても長い経験がある。支社 長を経験している者も多く、反省を踏まえられるの は強みだ。  レディの評価業務に特化した、副支社長などの形 で地方に赴任するケースが生まれた。本社でも、評 価マニュアル作りなどに妖精さんの力が発揮された。  それ以外の仕事で活躍する妖精さん、いや、元妖 精さんも出てきたが、一方で加納は、希望退職の募 集も、丁寧なキャリアコンサルティングとセットに した上で引き続き進めた。  みんな同じであろうとすることが軋轢や無理を生 む。個人の事情に合わせて、自由に生き方を選べば よい。見えや思い込みを排すれば、うまく回るやり かたが必ず見つかる。  同盟のメンバーは、さすがというべきか鮮やかに 実践したように思える。  高木誠司は永和を去った。  彼には長男と次男があり、いずれも有名企業に就 職して家庭を構えている。  合わせて三人の孫ともっと触れ合いたい。それが 一番の望みだと気づいて選んだのが、出張しての子 守りだった。  嫁たちも今時らしく働いているから加納のところ と状況は同じだ。保育園への送り迎えほか、やって ほしいことはたくさんある。  もっともはじめは「お義父さんだけじゃ不安」と いう反応だった。高木の妻は友達とのサークル活動 などで忙しく、そうそうは付き合ってくれない。  高木は保育士試験を受けると言い出して周囲を驚 かせた。ただいま猛勉強中らしい。  模試では合格間違いなしの得点を叩き出し、嫁た ちも信頼しないわけにいかなくなった。  「仕事と一緒だよ。相手が大人か子供かだけで」  そんなことを言っていた。音楽が出来るのも保育 士として有利だそうで、ゆくゆくは保育園へ再就職 することまで検討している。  もともと会社にしがみついたのは、バンド活動を はじめ遊ぶ金を稼ぎたかったからだが、孫の世話代 として子供だちから小遣いを受け取って、十分まか なえている。再就職なら、もっと安定するだろう。  もう一人辞めたのが篠塚明子だ。カラ接待のケジ メをつける意味もあったと思う。  こちらは介護に専念することになった。ただ自宅 ではなく、退職金で買った物件でグループホームを 運営し、自分の親も入れる形にした。ヘルパーを雇 い、管理するのに支社長の経験が生きているようだ。  溝口は会社に籍を残したが、商品開発の仕事はで きていない。答えを探す旅がまだ続いている。  しかしアクチュアリーを目指す若手の相談相手と いう役割が新たに生まれた。  資格試験として最も難しい一つと言われるくらい だから、受験対策はもちろんだけれど、溝口の悩み をありのまま伝えることが、いろいろ考えさせられ るきっかけになると評判だ。  篠塚にも、グループホームの利用料金設定などア ドバイスしているらしい。お返しなのか、篠塚が料 理を教えたりすることがあるそうだ。  亡くなった妻への思いは思いとして、独身者同士、 ひょっとするとひょっとしないでもないと他の同盟 メンバーは勝手な憶測を膨らませている。  ついこの間内示が出た四月の人事で、加納は人事 課長に、奥地文則が加納の後任に決まった。  「私は妖精さんの行動原理を知り尽くしていますか らね。私以上の適任はいませんよ」  豪語する奥地に加納も異を唱えるつもりはない。 今の奥地になら、安心して後を託し、加納は念願 だった時短や女性登用の問題に取り組める。  山瀬忠浩は人事部長に昇格する。そして人事部担 当の取締役としてすでに仕事を始めているのが、毛 利たった。  今日は、次期人事セクションの初ミーティングだ。  正社員として改めて永和生命に採用され、毛利付 きの秘書になった池端美紀は、昼休みに秘書仲間と ランチに出た帰り、花屋の前で足を止めた。  小さな鉢植えが飾られていた。梅をひと回り大き くしたような花がたくさんついている。一本の木に 紅白入り交じるのも面白いし、チーム毛利へのプレ ゼントにぴったりな気がする。  ただ名前がI。  〈木瓜〉  洒落が分からない毛利ではないけれど、さすがに キツ過ぎるかもしれない。  一緒にいた仲間を先にやって少し考えた。  名前の書かれた札を手に取り、何気なく裏返す。 花言葉が印刷されていた。  思わず顔がほころんだ。何という偶然だろう。い や必然か。  池端は鉢植えを手にしてレジヘ向かった。  午後、定刻通りに加納が山瀬、奥地と連れ立って 現れ、元は常務室たった部屋へ入っていった。  頃合いを見計らって、池端もドアをノックする。  中では毛利が、加納たちを前に愚痴っていた。  「忙しくてたまんねえよ。同好会の練習を見に行く のもままならねえ。何でこんなことになっちまった かな」  「私かその分、頑張りますから」  冗談を飛ばした加納を睨みつける。 「馬鹿野郎、お前さんが頑張るのは仕事だ。仕事を 山のように押し付けて、ボール触ってる暇なんかな いようにしてやるから覚悟しとけ」  「毛利さん、そんなこと言っちやダメですよ。昔と 違うんですよ」  池端は言いながら応接セットに近づいて鉢植えを 差し出した。  「私から、チーム発足のお祝いです」  ほう、とつぶやいてしばらく眺めていた毛利だが、 「なんて言うんだこれ」と質問し、答えを聞くと案 の定口を尖らせた。  「気に入らねえ名前だな」  山瀬が慌て気味にとりなす。  「いいじやないですか。歳をとっても、病気になっ ても安心して暮らせるように、保険で守るのが私た ちの仕事なんですから」  加納も一生懸命うなずいている横で、奥地がにや にやした。  「本当にこの場にぴったりですよ」  「やだ、奥地さん、花言葉ご存じなんですね。物知 りでらっしやる」  びっくりして池端が言ったのに、まんざらでもな さそうに答える。  「雑学には強いつもりだよ」  「何なんだ一体」  いら立ちを露わにしだした毛利に、池端は隠して 持ってきた例の札を見せた。加納と山瀬ものぞきこ む。  〈妖精の輝き〉  「ふん」  毛利が鼻を鳴らす。しかし次の瞬間、その毛利を 含めた全員、弾けるような笑顔になった。