教養としてのローマ史入門_出口治明_上野真弓 はじめに       「ローマの物語」を一度は書いてみ      たい、そう思っていました。上野真      弓さんという最高の書き手を得て、      夢が実現する運びとなりました。  上野さんと出会ったきっかけば書 評でした。二〇一七年、僕は読売新 聞の書評委員を務めていましたが、 『カラヴアツジョの秘密』(コスタン ティーノードラツツィオ著)を見つ け、「おもしろい本だ」と書評しま した。そして、訳者の上野さんから 丁寧なお礼状をいただきました。  その後、僕は思いがけず大分県別 府市の立命館アジア太平洋大学(A PU)の学長に選任されました。別 府市は上野さんの故郷です。一九八 四年のローマ遊学以来、かの地に暮 らしているという上野さんですが、 毎年のように里帰りはしているとの こと。そこで次の機会に会って話を しました。歴史と美術が好きで、同 じ興味を持っていることが分かり、 意気投合しました。  僕が思いがけず病気を得たそのI 年後の二〇二二年二月、APU東京 オフィスで会いました。その時、 ローマの歴史の本を二人で創ろうと いう話になり、世界文化社の中野俊 一さんを紹介されました。  それから一年、ローマ、東京、別 府で知恵を出し合い(オンライン会 議を含む)、一冊の本が出来上がり ました。感無量です。僕の大好きな ローマ、上野さんが愛してやまない ローマ。三〇〇〇年の物語がここに あります。    立命館アジア太平洋大学学長             出口治明 人口の推移と人物伝でたどるローマ史  本書ではローマの誕生から現代までの歩みを追っ ています。約三〇〇〇年の歴史を一冊の本で語るこ とは無謀なことでしょうか? 私たちはこの挑戦に 臨むために新たな視点でローマを見つめてみました。 ローマの盛衰を人口の推移という客観的な数字で示 し、一四人の歴史上の人物でたどる通史としたので す。  経済学者アンガスーマディソンによる西暦紀元後 の世界各国の推定GDP、歴史家イアンーモリスに よる歴史上の推定都市人口や社会発展指数を見ると、 歴史上の都市は社会や経済活動のピーク時に人口が 最大になっています。西洋の最初のピークは紀元一 世紀から二世紀のローマ帝国の首都ローマで、人口 はI〇〇万人でした。その後は東洋の時代となり、 紀元七〇〇年には長安、一〇〇〇年には開封がI〇 〇万都市となります。西洋でこの規模の都市が再び 出現するのは一九世紀、産業革命の起こった連合王 国のロンドンです。この数字だけで、古のローマ帝 国がどれほど繁栄していたかが分かるでしょう。  都市の盛衰は人口の推移に連動します。人口変遷 を示すことで、ローマの盛衰を具体的にイメージで きるようにしたのが、本書の第一の特徴です。そし て、歴史は人間が作るという視点からローマを築い た一四人の歴史上の人物を選び、彼らが生きた時代 を国際関係・政治・経済・社会・文化芸術を踏まえ て描き、魅力的な人物伝でありながらも通史となる ようにしました。これが第二の特徴です。  構成にあたってはローマの歴史を七つに分けまし た。序章ではローマ建国の伝説からカエサル登場ま でを描いていますが、共和政ローマ誕生の紀元前五 〇九年に推定で約三万人だった人口が、カエサル登 場の頃には四〇万人となるのが分かります。また、 第一章以降、各章の冒頭に時代の概観を記述してい ます。  第1章はローマ帝国の成立、内乱期に帝政の礎を 築いたユリウスーカエサル、ローマを平定し百万都 市を築いた初代皇帝アウグストゥス、第2章は帝国 が変遷していく様子、悪名高き皇帝ネロ、旅する皇 帝ハドリアヌス、衰退が始まる時期の名君アウレリ アヌスを描きました。第3章では、ローマの人口が 三、四万人までに落ち込み荒んでいく中世において、 ローマ教会の教皇国家が成立していく過程を描き、 イスラムの脅威を撃退した教皇レオ四世、個性的な ボニファティウスハ世を取り上げました。  第4章では、ローマを盛期ルネサンスの中心地と した立役者、教皇ユリウスニ世、ラファエッロ、ミ ケランジェロ、第5章では、永遠の都を再建したバ ロックの巨匠ベルニーニ、対抗宗教改革における ローマ教会勝利の象徴スウェーデン女王クリス ティーナを描きました。ローマの人口は華麗なルネ サンス期でも六万人を超えることはなく、美しいバ ロック都市となってようやくI〇万人に達した程度 でした。  第6章では、小国家に分裂していたイタリアを統 一してローマを首都に定めたヴィットリオーエマヌ エーレニ世、ファシズムの独裁者ムッソリーニを取 り上げました。イタリア王国誕生時は二〇万人ほど の人口だったローマは、ムッソリー二台頭時には七 〇万人を超え、その後は急激に増加していきます。  このように人口の推移と歴史上の人物をつなげて、 まったく新しいローマ史の入門書が生まれました。 遠い時代の人たちを身近に感じながら楽しく学ぶ中 で、現代に通じる何かをつかんでいただけることで しょう。なお、読者の皆さまの読みやすさを考慮し て、ラテン語表記の古代ローマの人名は、舌を噛み そうな本来のU音ではなく、V音で記述しています。 人口のデータの参考資料はグラフのページに記載し ています。  さあ、それでは、過去と現在が交錯する「永遠の 都ローマ」の旅へと出かけましよう。   ローマ建国の伝説  幼い双子の兄弟がメス狼の乳を飲むブロンズ彫刻 をご存じの方も多いでしょう。これはローマ建国の 伝説を表したもので、現在もローマのシンボルと なっています。ちなみに東京の日比谷公園にも同じ ブロンズ像のレプリカがあります。一九三八年にイ タリアから東京へ贈られたものです。  どこの国の建国伝説にも神々と交わる美しい物語 があるものです。ローマの場合は、それがギリシア 神話にまでつながっています。ヴェヌス(ヴィーナ ス)を母に持つトロイア王家の英雄アイネイアスが 炎上する都から父と子を連れてイタリアヘたどり着 いたのがその始まりです。アイネイアスの息子アス カニウスが建国したアルバーロンガ(現在のカステ ルーガンドルフォあたり)では、長い年月のあと王 位をめぐって争いが起きます。陰謀の末、先王の娘 が産んだ双子は籠に入れられテヴェレ川へ捨てられ、 運よくパラティーノの丘の麓に流れ着き、そこでメ ス狼に乳をもらって育てられます。その後、羊飼い に拾われ、ロムルスとレムスと名づけられた二人は、 近隣の羊飼いや農民だちと徒党を組んで屈強な集団 を作ります。出自を知った時にはアルバーロンガを 攻めて取り戻し、自分たちの育った場所に新しい国 を作ることを選びます。ところが、国の中心を決め る際に仲違いし、兄のロムルスは弟レムスを殺して しまうのです。そして紀元前七五三年四月二一日、 ロムルスはパラテイーノの丘にローマを建国します。  三〇〇〇人程度の集団で始まったローマは、犯罪 者や逃亡奴隷も受け入れ、ほぼ男性ばかりの「なら ず者集落」でした。結婚相手を求めて隣のサビ二人 から女性を略奪し、戦闘が繰り返されますが、最終 的にローマ人とサビ二人は一つの集団にまとまるこ とになりました。こうしてローマは、テヴェレ川左 岸の七つの丘、パラテイーノ、カピトリーノ、ア ヴェンテイーノ、チェリオ、クイリナーレ、ヴイミ ナーレ、エスクイリーノを中心に国を作っていくの です。  この物語はあくまでも伝説に過ぎません。けれど も人は、伝説と分かっていても、このような建国神 話に心の拠り所を見つけるものなのです。   王政から共和政へ  王政は世襲制をとらずに、ロムルスを含めて七代 続きます。この王政時代も伝説の域を出ませんが、 その中にはいくつかの真実も混ざっているようです。  ローマの王はサビ二人とラテン人が交互に務める ことになっていましたが、五代目以降の三人はエト ルリア人となります。これについては様々な憶測が あって、ある時点でエトルリア人に支配されたので ないかとも考えられています。  当時、イタリア半島の南やシチリアにはギリシア が植民都市(マグナーグラエキア)を次々に建設し 始め、いっぽう中部地方、現在のトスカーナやウン ブリアにはエトルリア人が丘の上に都市を築き、高 度で洗練された文明を持っていました。同じエトル リアの都市同士で一つの国家を作らず、それぞれが 自立していました。建築土木技術と金属加工技術に 優れ、地中海地域で海上交易を盛んに行い、ギリシ アとも深い交流がありました。  ローマは建国後も周辺地域と戦闘を続け、テヴェ レ川河口の町オスティアも攻略しますが、それでも まだ大きな部族というスケールでした。ところがエ トルリア人の王の時代に入ると、急速に都市化して いきます。柢湿地帯だった丘の間の平地にクロア カーマキシマと呼ばれる下水溝を作って干拓し舗装 します。この一大事業で、政治経済の中心フオロ・ ロマーノや、貿易と商業の基点フオローボアーリオ (現在の真実の口広場周辺)が生まれます。粗末な 衣服はエトルリア風の華麗なトーガとマントに変わ り、王冠と王笏の使用も始まりました。凱旋式や宴 会や祝祭、剣闘士の見せ物、鳥占いや臓卜占い(動 物の内臓から神の予兆を読み取る占い)もエトルリ ア人から受け継いだものです。  前六世紀のタルクイニウス家の王たちの治世の間 に、ローマの人口は三万人ほどに増えたと推測され ています。北のエトルリア都市と同じ程度の都市国 家といえる規模でした。  やがて王政が終わる時が来ます。エトルリア人最 後の王の傲慢さに不満を持っていたローマ市民の怒 りが爆発する事件が起こったのです。王の息子が貞 淑な人妻ルクレティアを陵辱しました。彼女はそれ を家族に話し、復讐を誓わせると、自害したのです。  そして前五〇九年、共和政ローマが誕生します。 「S.P.Q.R.」という略号で表されるローマ国 家は、元老院とローマ市民という意味のラテン語の 頭文字をとったもので、国家の主権者を示していま す。  ローマの共和政は、政治上の最高機関である元老 院と一年任期のコンスル(執政官)が二名、非常時 に半年間だけ独裁権を行使できるディクタトル(独 裁官)からなり、官職はパトリキ(貴族)に独占さ れていました。貴族とは各部族の有力家系の人たち です。プレブス(平民)の多くは小規模な自作農で、 戦争の際に重装歩兵として軍の中枢を担いますが、 政治参加はできませんでした。   貴族と平民の身分闘争  やがて貴族と平民の身分闘争が始まり、前四九四 年に聖山事件が起こります。アヴェンティーノの丘 にあったとされる聖なる山で平民が武装ストライキ を起こしたのです。元老院は軍事力の減少を憂慮し、 平民から選出する二名の護民官の設置を決め、つい で、平民のみで構成される平民会も設置しました。 護民官の身体は不可侵とされ、元老院や執政官の決 定に拒否権を発動することもできました。  前四五〇年にはローマ最古の法典「十二表法」が 制定されます。民事訴訟法、家族法や相続法、所有 権、不法行為などの慣習法を成文化したもので、こ れでようやく貴族に独占されていた法知識を平民も 共有することができました。この五年後には貴族と 平民間の婚姻も解禁され、官職も次第に平民に開放 されていきます。前三六七年にはリキニウス法が成 立し、定員二名の執政官のうち一名は平民から選出 されることになりました。この画期的な法律の制定 と貴族・平民間の和解を記念してフォローロマーノ には融和の女神を祀ったコンコルディア神殿が建立 されました。前二八七年にはホルテンシウス法で平 民会の議決が元老院の承認なしで国法となることも 定められ、貴族と平民の身分闘争は、両者が法的に 平等となったことで、ひとまず終わりを告げますが、 これが実現したことでノビレス(新貴族)が生まれ ます。平民から執政官になると一代目はホモーノウ ス(新人)ですが、同じ家系から何人も元老院議員 を出すと名門となります。大土地所有者であり、パ トロヌス(保護者)として多くのクリエンテス(被 保護者)もしたがえ、貴族となんら変わらない支配 階級となっていきます。   侵略戦争とイタリア半島の統一  貴族と平民が身分闘争をしている間も、ローマは 周辺都市を侵略し拡大を続けていました。前三九六 年には、難攻不落といわれたエトルリアの都市国家 ウェイイの攻略に成功しますが、そこに至るまでI 〇年の歳月を要しています。この勝利は莫大な戦利 品と多くの捕虜(奴隷)をもたらし、さらに領土も 飛躍的に増えました。  しかし、勝利のあとには建国後初めての屈辱が 待っていました。前三九〇年にケルト人によるロー マの略奪が起こったのです。ローマ近郊、テヴェレ 川の支流アッリア川での戦いでローマ軍は惨敗し、 ケルト人は無防備となったローマで残虐の限りを尽 くし、町を完全に破壊し、焼き払います。彼らが侵 入できなかったのは、切り立った崖に囲まれ、ロー マの主神ユピテルを祀った神殿のあるカピトリーノ の丘だけでした。ここに一部のローマ市民が避難し ていましたが、丘の上からローマの惨状を見て、停 戦交渉に入ることを決め、千ポンド(約四五三キ ロ)の金塊を支払うことで合意しました。この出来 事は、外敵の侵略に対する恐れをローマ人の中に植 えつけます。これが、攻撃は最大の防御という考え を持った理由かもしれません。  ローマが惨憺たる状況から立ち直るまで時間はか かりましたが、前三三八年にようやく周辺のラテン 諸都市を服属させました。同じ頃、マケドニア王国 のフィリッポスニ世がギリシアの覇権を握ります。 その四年後には息子のアレクサンドロスが東方遠征 で快進撃を始めることになります。  アペニン山脈南東部に暮らすサムニウム人との戦 争が始まると、前三匸一年、アッピア街道が敷設さ れます。元老院は街道が敵に使われる恐れがあるた め反対しましたが、軍隊の素早い移動、食糧や武器 の補給のためには必要なものでした。なお、同時期 にローマ初のアッピア水道も建設されました。サム ニウム戦争は三次にまで及び、カウディウムの屈辱 と呼ばれる敗北も喫しましたが、前二九〇年には勝 利を収めます。そして前二七二年、ギリシアの植民 都市ターラントを支配し、ついにローマはイタリア 半島を掌握したのでした。この頃のローマの人口は 約二〇万人となっています。   ポエニ戦争  前二六四年、第一次ポエニ戦争が勃発します。ポ エニとはラテン語でフェニキア大を意味し、カルタ ゴ(現在のチュニジア北部)は、地中海貿易で繁栄 していたフェニキア人の都市国家です。当時の地中 海は、西をカルタゴ、東をギリシアが支配していま した。豊かな穀倉地帯シチリアも西半分はカルタゴ が領有していましたが、島の南東にあるシラクーサ がカルタゴの支援でメツシーナを攻撃したため、救 援要請を受けたローマが参戦して始まった戦争でし た。  カルタゴとローマには軍事面で決定的な違いがあ りました。海洋民族であるカルタゴは地中海最強の 海軍を擁していたのです。かたやローマは海上交易 よりも農業中心の社会たったため、海軍を持ってい ませんでした。同盟市にカレー船を提供させますが、 航海や海上での戦闘経験のないローマはまったく太 刀打ちできません。けれども、その後ローマは座礁 したカルタゴの軍船を分析して船の建造を始め、短 期間で艦隊を作り上げることに成功します。経験不 足のため苦戦は続きますが、海上で得意の陸上戦を とる戦法を思いつきます。軍船の先端にコルウスと いう渡し板を取りつけて敵船にぶつかり、板を橋に して敵船に乗り込んで戦ったのです。二〇年以上も 続いた戦争でローマ海軍の経験値も上がっていき、 最終決戦では勝利を収めます。ローマは多額の賠償 金を手に入れてシチリアを属州としました。その後、 サルデーニャ、コルシカも領有します。  それから二十数年が過ぎ、前二一八年に第二次ポ エニ戦争が起こります。カルタゴの将軍(ンニバル が七万の兵と三七頭の象を引き連れてアルプスを越 えてイタリアに侵入したのです。ローマが地中海の 制海権を握っていたため海上からは侵攻できず、属 領のイベリア半島から上ってきたのでした。この常 識を超えた侵攻にローマは畏れおののきます。イタ リア半島を南下し戦闘を続けるハンニバルに対して、 ローマの将軍フアビウスは全面対決を避けて持久戦 を選択しますが、その姿勢が臆病だと批判され、執 政官ヴアツロが総司令官となり、前二二(年、有名 なカンナエの戦いを迎えます。兵士の数ではローマ 軍が優位にありましたが、ハンニバルの戦略は意表 をつくものでした。ローマ軍は両端を騎兵で固めた 横一直線の長方形の陣形を取りますが、ハンニバル は三角形に布陣します。そして猛進するローマ軍に 押されているように見せかけて後退し、この間に騎 兵、続いて歩兵がローマ軍の背後に回り込み完全包 囲したのです。目の前の敵を倒すのに必死だった ローマ軍が気づいた時にはすでに遅く、逃げ場のな い壊滅状態となりました。この戦術は、現代でも各 国の軍隊組織が学んでいるそうです。この囗のロー マ軍の戦死者は七万人、うち八〇人が元老院議員で した。  敗残兵を連れてローマに戻った敗戦将軍ヴアツロ は責められることもなく迎えられます。ローマには 敗戦将軍を受け入れる懐の深さがあったのでした。 敗北から学ぶことも知っていました。ハンニバルは 大勝してもローマを攻めませんでした。周辺都市を ローマから離反させたあと、一気にローマをつぶす つもりだったのです。この時期にローマは四次にわ たるマケドニア戦争も起こしています。また、カル タゴ側のシラクーサを攻撃した時、アルキメデスが 亡くなりました。なお、前二一一年には独自の貨幣 制度を整えています。  前二〇二年、一六年続いた第二次ポエニ戦争もつ いに終息の時を迎えます。ローマの若き将軍スキピ オとハンニバルが激突するカルタゴ近郊での決戦、 ザマの戦いです。ここでスキピオはハンニバルの戦 法から学んで構築した戦術を使って大勝します。戦 後の講和条約でカルタゴは開戦前の領土の保有は認 められますが、捕虜の返還、一〇隻を除く全軍船と 象の没収、ローマの同意なしでの交戦不可、五〇年 の分割払いによる一万クラントの賠償金、百人の人 質の提供など過酷な条件を突きつけられました。ス キピオはその名にアフリカを制した者という意味の 「アフリカヌス」という尊称をつけ加えることにな りました。  スキピオーアフリカヌスは人格的にも優れた教養 人で、英雄として絶対的な人気を誇っていましたが、 ギリシア文化に傾倒していたため、ローマ伝統の質 実剛健を重んじる保守的な政治家カトーに嫌われ、 後年、失脚させられます。そこには嫉妬もあったこ とでしょう。  ギリシア文化は退廃を招くと考えていたカトーに とっては残念なことに、マケドニア戦争が終わると、 ヘレニズム文化が一気にローマヘ流入します。ギリ シア風の建築、彫刻、絵画、哲学、文学、演劇の ブームが起こり、オリエントの贅沢趣味も入り、 ローマの生活様式は一変します。中でもスキピオ一 族のサロンはスキピオーサークルと呼ばれ、進歩的 な考えを持つ貴族たちが集う場所として有名でした。  カルタゴは、二度もローマに敗れ、莫大な賠償金 を抱えていたにもかかわらず、すばやい経済回復を 果たします。脅威を感じたカトーは元老院で演説を する時には必ず「カルタゴを滅ぼすべきだ」といっ てしめくくりました。そしてカルタゴが、隣のヌミ ディア王国の度重なる武力侵犯に耐えられず、ロー マとの約束を守らず交戦した時、ローマはこれを口 実にして、前一四九年、第三次ポエニ戦争を始めま す。  ローマ軍の総司令官は、第二次ポエニ戦争でハン 丹ハルを破った英雄スキピオーアフリカヌスの義理 の甥、スキピオーアエミリアヌスでした。同じスキ ピオ一族の将軍を区別するため、前者は大スキピオ、 後者は小スキピオと呼ばれます。カルタゴ市民は絶 望的な徹底抗戦をしますが、四年後、カルタゴは、 町はおろか草木一本残さずに殲滅されました。生き 残った人々は一人残らず奴隷として売られ、旧農地 には作物ができないように塩がまかれました。小ス キピオは、炎上するカルタゴを眺めながら、「いつ の日かローマも同じ運命をたどるだろう」と、つぶ やいています。  前一四六年、コリントスも殲滅させ、マケドニア 戦争とポエニ戦争に勝利したローマは地中海世界を 制覇し、大きな転換点を迎えます。帝国化への第一 歩です。巨額の賠償金や多数の奴隷を得ただけでな く、先進文化も吸収し、通商圏が広がり経済活動も 活発化しました。さらに属州から多額の税金が入り、 徴税請負人となったエクイテス(騎士階級)は富を 蓄えるようになります。しかし、同時に共和政は危 機に陥っていくのです。   グラックス兄弟と内乱の一世紀の始   まり  小農民層は軍の中枢を担う重装歩兵であることか ら、相次ぐ戦争で農地を耕せなくなりました。さら に属州から安価な穀物も大量に入ってきます。彼ら は荒廃した農地を手放して都市部へ移ります。いっ ぽう、富裕層はそれらの農地を吸収し奴隷が耕作す るラティフンディア(大上地所有制)を展開します。 都市部に流れた小農民はプロレターリ(無産者)と なり、自前で装備できないため兵役を免除されます。 したがって、小農民層の没落はローマ軍の弱体化に もつなかったのです。  この危機に際して、土地の再分配で小農民層を救 済しようとしたのがグラックス兄弟でした。父は政 治的にも軍事的にも多大な功績を残した大グラック ス、母コルネリアはハンニバルを破った大スキピオ の娘で、賢母の鑑とされています。グラックス家に 集まる上流婦人たちが宝石で身を飾り自慢する中で、 「あなたの宝石も見せて」といわれたコルネリアは、 「これが私の宝石よ」といって、二人の息子を披露 したのです。スキピオ家とグラックス家の進取と奉 仕の精神、人柄のよさがまさにグラックス兄弟を生 んだといえるでしょう。  前二匸二年に護民官となった兄のティベリウスは、 富裕層が私有化していた公有地を小農民層に分け与 える農地改革法案を民会に提出しました。元老院議 員は大土地所有者ですから当然ながら大反対で、同 僚護民官オクタヴィウスを買収して拒否権を発動さ せます。そこでティベリウスは得意の演説で世論を 動かし、投票によって同僚を解任しました。元老院 は強引な手段をとる独裁者だと反発します。彼はさ らに農具購入資金も与えようと考えます。タイミン グよく同年ペルガモン王国(現在のトルコ西部の都 市)のアッタロス三世が亡くなり、王国をローマに 寄贈すると遺言していたため、王国の財宝を資金に することを提案します。元老院は越権行為だと非難 します。翌年、ティベリウスは改革を実現するため に一年任期の護民官の再任を求めて立候補しますが、 選挙の当日、反対派によって三百人の支持者ととも に撲殺されテヴェレ川に投げ捨てられるという、悲 しい最期を迎えます。  九歳年下の弟ガイウスも理想に燃える政治家でし た。兄の遺志を引き継ぐため、前匸匸二年と前匸一 二年に護民官となります。兄の失敗から無産者層の 支持だけでは政治は動かせないと考え、国の助成で 小麦の価格を安くして市民に提供する法案で、民衆 の圧倒的支持を得ます。また、属州審開所の陪審員 資格を騎士階級に与える法案で、騎士階級からも支 持されます。こうして再任には成功しましたが、三 度目は保守強硬派の陰謀で落選します。その年、執 政官オピミウスがガイウスの法案のほとんどを無効 にしていく中で民衆はガイウス擁護の騒動を起こし ます。些細なことからガイウス派が反対派の一人を 殺害してしまい、元老院が元老院最終勧告を出す事 態となりました。これは殺人許可証のようなもので す。直ちにオピミウスは武装団を組織しガイウスの 支持者三〇〇〇人余りを惨殺しました。そしてガイ ウスも自害に追い込まれるという悲惨な結末となっ たのでした。なお、前九一年に起こった同盟市戦争 の鎮圧後、イタリア半島に住む自由民はすべて市民 権を持つことになりました。これはガイウスが提示 していた法案の一つでした。  グラックス兄弟の改革と挫折は、地中海世界の覇 者ローマが抱え込んだ矛盾、すなわち貧富の差、軍 制の限界、政治家の不正、統治の限界を噴出させた 分水嶺といえるでしょう。ローマ内戦の一世紀はこ こに始まったのでした。  このあと登場するのがマリウスです。彼は平民か ら執政官となり軍制改革を行います。平民の徴兵を やめ、給与の支給、略奪の許可、土地の配分を条件 に志願兵を集めました。これは失業問題と軍事力の 低下を解決しましたが、兵士が私兵化し、軍の統制 がなくなる結果となりました。ユグルタ戦争(前一 一一〜一〇五年の北アフリカのヌミディア王の反 乱)に勝ち、前一〇一年のガリア人侵攻も撃退し、 マリウスは大富豪となりますが、騎士階級の支持も あって平民派の中心となります。いっぽうで元老院 の貴族たちは既得権を守るため閥族派として結束し、 ユグルタ戦争でマリウスの副官だったスッラを中心 に置きます。  マリウスとスッラの権力闘争は血で血を洗う凄ま じいものでした。首都占領、虐殺、報復の繰り返し で、どちらも恐怖政治という点では同じでした。前 八七年に七度目の執政官となったマリウスは翌年 あっけなく死去します。その後、マリウス派を一掃 したスッラは前八二年にローマ初の無期限の独裁官 となります。そしてグラックス兄弟以前の貴族支配 に戻し、誰が殺してもいいという「処罰者リスト」 を作り、粛清を開始します。独裁官制度を専制政治 に使ったのはスッラが最初ではないでしょうか。 スッラの閥族派からはポンペイウスとクラッススが 台頭し、平民派には若きカエサルがいました(図 1)。 T が  一 千 この時期のローマの人口は四〇万人となっていま した。 Iガイウスーユリウスー   カエサル  若きカエサル 紀元前一〇〇年七月、平民派の英雄マリウスが執 政官の年、ガイウスーユリウスーカエサルは誕生し ます。奇しくも伯母ユリアはマリウスの妻でした。 その頃のローマは、平民派と閥族派の血にまみれた 抗争で、道端には首のない遺体が散乱し、略奪、暴 行、放火が日常化していました。  ユリウス氏族はトロイアの英雄アイネイアスの末 裔とされる由緒正しき家柄でした。アイネイアスの 母はヴィーナスですから、この女神を一族の始祖と して大切にしていました。このような高貴な家柄に もかかわらず、カエサル家にはそれに見合った経済 力がなく、ローマの貧民街スブッラに居を構えてい ました。しかし、これはカエサルにはプラスとなっ たはずです。民衆の生活を肌で感じることができた のですから。  内戦で不安定な状況が続く中、マリウスが病死し、 父もごくなると、一六歳のカエサルは裕福な騎士階 級の娘との婚約を破棄し、マリウスの右腕だったキ ンナの娘コルネリアと結婚します。貴族の妻を持つ ことが前提のユピテル神殿の神官になるためでした。 神聖な職務にはいくつかのタブーがあり、その一つ が軍務に就くことの禁止でした。おそらく母アウレ リアと伯母ユリアがカエサルを守るために配慮した のでしょう。スッラが小アジアからローマヘ進軍し ようとしていたのです。そしてローマ奪還後にはマ リウス派への徹底的な粛清を開始します。その対象 となったカエサルは刺客から逃れるため毎晩寝る場 所を変えていました。そんな中、スッラ派のアウレ リウスーコツタが「こんな年端もいかない子どもま で殺す必要はない」と意見し、ヴェスタの神殿の巫 女たちも助命嘆願をしたため、スッラは殺害をあき 撰川韭D ふ一「一」金収しました 。−犬二甲卜。   クルススーホノルム  スッラが終身独裁官となったローマから離れるた め、カエサルは、紀元前八一年、アジア属州に発ち 軍役に就きます。与えられた任務は、ビテュニア王 二コメデス四世と艦隊の調達を交渉することでした。 滞在は長期にわたり、この時カエサルとビテュニア 王は男色の関係を持ったと噂され、生涯にわたって 政敵だけでなく自軍の兵士だちからもからかわれる ことになります。  当時の政治家は、まず二〇代の頃に軍役を務める ことから政界でのキャリアを始めました。カエサル もこれに沿って東方で軍役に就いたわけですが、野 心のある者は必ず政務官の最高官位「コンスル」 (執政官)を目指します。そこに至るまでの道筋を 「クルススーホノルム」(名誉のキャリア)と呼び、 クアエストル(財務官)、アエデイリス(造営官)、 プラエトル(法務官)、コンスル(執政官)、ケンソ ル(監察官)と昇進していきますが、すべての人が 執政官になれるわけではありませんでした。  また、政治家には修辞学(弁論、演説の技術)を 極めることが大切でした。聴衆を説得して魅了する 必要があったからです。政治キャリアを弁論活動か らスタートする場合もありました。原告として訴訟 を起こすことで、自らが相手側の弁護士と対峙する ため高度な修辞学が求められ、成功して名を馳せれ ば道が開けるからです。  前七八年にスッラが死去すると、カエサルはロー マヘ戻り、翌年、マケドニア総督だったスッラ派の ドラベッラを総督時代の汚職で告発します。世論は カエサルの側につき、カエサルの弁論は高く評価さ れましたが、ドラベッラの弁護人は当代一の弁論家 ホルテンシウスでした。結局ドラベッラは無罪とな り、カエサルはローマがいまだスッラ体制にあるこ とを思い知り、ほとぼりが冷めるまで姿を隠すこと にします。ロードス島で修辞学の権威アポロニウ スーモロンに師事しようとしますが、エーゲ海のミ ティリニ(現在のレスボス島東海岸にある町)付近 で海賊に囚われ、彼らしい逸話を残しています。  海賊が二〇クラントの身代金を要求すると聞いて、 カエサルは「私を誰だと思っているんだ。五〇クラ ントにしろ」といったのでした。五〇クラントは約 二五億から五〇億円に相当する金額です。こうして 自分を価値ある人間に思わせて、海賊のもとで安全 に過ごせるようにしたのでした。従者たちが身代金 集めに奔走する一ヶ月以上、カエサルは海賊を相手 に演説や自作の詩を聞かせ、「この次はお前たちを 縛り首にしてやるからな」と冗談めかしていってい ます。当時のエーゲ海には海賊が横行していたのに 何の対策もされていませんでした。カエサルはロー マ貴族の自分が囚われたのは沿岸警備を怠ったから だといって、周辺諸都市に身代金の支払いを求めま す。痛いところを突かれて、彼らは支払わざるを得 ませんでした。しかし、カエサルは解放されると、 船を集めて海賊を追いかけて捕え、彼らの財宝を 奪って身代金をきちんと返済したのです。そして、 海賊を処刑しました。カエサルは冗談をいったわけ ではなかったのです。   借金王  ローマに戻ると、カエサルは前七二年の選挙で初 の勝利を収め、翌年の軍司令官の座を射止めます。 スッラが廃正した平民の権利「護民官」を取り戻そ うと呼びかけ、平民派の星となったのでした。  その頃、ローマは第三次奴隷戦争の鎮圧に手間 取っていました。剣闘士奴隷のスパルタクスが主導 した反乱は、大土地農園で過酷な労働に従事してい た奴隷も加わりI〇万人規模にまでに拡大していま した。二年後、ともにスッラの配下であったポンペ イウスとクラッススによって反乱はようやく鎮圧さ れ、捕えられた六〇〇〇人の奴隷は十字架にかけら れアッピア街道にさらされました。スパルタクスを 討ち取ったのはクラッススでしたが、残党を掃討し たポンペイウスがいち早く元老院に報告したため、 軍功はポンペイウスのものとなってしまい、これが 原因で二人は犬猿の仲になります。  クラッススは武将ではありましたが、何よりも ローマーの大富豪でした。スッラの恐怖政治時代に 没収された政敵や平民派の財産を買い叩き、内戦や 火事で焼けた家屋や上地を買い占め、銀山や広大な 農地も所有し、優秀な解放奴隷に商業活動や銀行業 を任せ、その資産は増える一方でした。政治的野心 のあった彼に欠けていたのは武勲だけだったのです。  いっぽうポンペイウスには抜群の軍事的才能があ りました。シチリアやアフリカの属州で平民派の残 党を一掃し、二五歳という最年少記録で凱旋式を行 い、スッラから偉大なるポンペイウスと称されてい ます。その後も反乱の起こったヒスパニアを制圧し、 巨大な力を持った彼は、元老院から警戒されるよう になっていました。  前六九年、三〇歳でカエサルは翌年のクアエスト ル(財務官)に選出されます。政治にはお金がかか るものですが、特にパトロヌス(保護者)とクリエ ンテス(被保護者)の関係が重要だったローマでは、 莫大な資産がなければ立候補さえできませんでした。 選挙の結果に直結する兵士や民衆が喜ぶものを与え なければならなかったからです。お金がないのに浪 費家で太っ腹なカエサルはあちこちに借金をします が、そのほとんどは大富豪クラッススからでした。 財務官選出時にクラッススから借りた金額は現在の 価値に換算すると約三〇億円です。返済は出世払い なので、貸す方もよく貸したと思いますが、カエサ ルには貸してあげたくなるような可能性、好きにな らずにはいられない人間的魅力を感じていたので しょう。  その年、カエサルは伯母ユリアを亡くし、葬送行 列の最前列に伯母の夫と息子だったマリウス親子の 蝋人形を飾り、民衆はそれを拍手喝采で迎えました。 確実に時代は変わりつつありました。そして、フォ ローロマーノの演壇で追悼演説をする時、母方がア ンクスーマルキウス王(王政時代の四代目の王)の 末裔で、父方の始祖が女神ヴィーナスであるユリウ ス氏族は、人間世界で最高の権力を持つ王の尊厳と 神々の崇高さを持っていると、まるで帝政の未来を 予見させるようなことをいっています。  伯母に続いて妻コルネリアもごくなり、カエサル は翌年、スッラの孫娘ポンペイアと結婚します。同 年、ポンペイウスとクラッススが執政官となり、 スッラ体制を解体して護民官を復活させました。  前六五年、カエサルはアエデイリスークルリス (上級造営官)に就任します。公共事業や祭事、市 民の娯楽を取りしきる重要な役職ですが、官職に報 酬はなく、かかる費用はすべて自費でまかなわなけ ればなりません。同僚造営官ビブルスと折半で野獣 狩りや舞台劇などを催しましたが、カエサルはさら に派手なことをします。単独で、ユピテル神の祝祭 を亡き父を偲ぶ形で盛大に開催したのです。民衆が 最も好む剣闘士の試合を三二〇組も提供したといい ます。こうしてカエサルの人気は不動のものとなり、 民衆と深い絆を結ぶことに成功し、平民派のリー ダーとなったのでした。  前六三年にはポンテイフェクスーマクシムス(最 高神祇官)に就任します。これは異例の勝利でした。 執政官の経験者が選ばれるのが慣例で、まだ三七歳 で要職の経験もないカエサルの立候補自体が無謀で した。しかし当選すれば、終身制で他の官職とも兼 任可能、さらにフオローロマーノの公邸に住むこと ができます。しかもこの地位は、信心深く神事を大 切にするローマでは絶大な権威の象徴でした。この 選挙でカエサルが格上の競争相手を破ることができ たのも、莫大な借金で買収工作をしたからでした。  この年にはカエサルやクラッススも関与を疑われ たカティリナ事件も決着します。二度の執政官選挙 に失敗し破産したカティリナが国家転覆を図ったと する事件で、キケロの弾劾演説が有名です。元老院 で即時処刑の決議をする際、カエサルだけが反対し ています。   不倫スキャンダル  前六二年にプラエトル(法務官)となったカエサ ルでしたが、同年、二度目の妻ポンペイアの不倫ス キャンダルが起こります。最高神祇官公邸で男子禁 制のボナーデア(豊穣と聖処女)の祭りを行ってい る際に女装した男性が忍び込んでいるのが見つかリ 追い出されました。カエサル派の政治家グロティウ スがポンペイアと密会のために侵入したと噂され、 神への冒涜だと告発されます。キケロがアリバイ崩 しの証人として立ちますが、カエサルは「何も知ら ない」を通します。けれども妻を離縁し、なぜかと 問われた際に「カエサルの妻たるものはいかなる嫌 疑も受けてはならない」という名文句を残していま す。結局グロティウスは無罪となりました。彼はの ちに平民の養子に入って護民官となり、市民に無料 で穀物を配給するという法律を成立させています。  ポンペイアが妻の鑑でないなら、カエサルも誠実 な夫ではありませんでした。財務官としての元老院 デビュー時から「借金王」「ハゲの女たらし」と呼 ばれていました。正妻がありながら多くの愛人を持 ち、元老院議員の妻の三分の一はカエサルと関係を 持ったともいわれています。さすがにそれは誇張で しょうが、借金相手クラッススの妻テルトウラ、ポ ンペイウスの妻ムキアとの不倫は事実でした。クレ オパトラ七世とのロマンスもありましたが、最も長 く続いた愛人は政敵カトー(ポエニ戦争時のカトー のひ孫)の異父姉セルヴィリアで、その関係はカエ サルの死まで二〇年余り続いています。頭髪が薄い のを気にしたカエサルでしたが、それが気にならな いほど魅力ある男性だったのでしょう。  法務官の任期が終わると、カエサルはヒスパニア 南西部の属州総督に任命されますが、巨額の借金の 債権者たちが出発前の返済を要求し、ローマに足止 めされてしまいます。頼れる者はただ一人、クラッ ススです。この時の借金は、属州でガリシア州とル シタニアを征服した際に得た莫大な富から返済して います。カエサルは大胆で一瞬のひらめきから勝負 に出る天才肌でした。しかも、軍団兵を前に演説し て士気を上げ、自ら剣や盾の使い方を示して戦場を 指揮する彼は、兵士だちからの人望も厚く、絶対的 な信頼を獲得していました。   三頭政治  前六〇年、ヒスパニアから帰国したカエサルは執 政官に立候補しようと考えますが、民衆と兵士に抜 群の人気を誇る彼もまだ力不足は否めません。そこ で、騎士階級に支持を持ち武勲の栄誉が欲しい大富 豪クラッススと、閥族派でありながら元老院に不満 を持つポンペイウスと三人で、互いの利害のために 非公式の政治同盟を結びます(第一回三頭政治)。 ポンペイウスは、海賊討伐や小アジアーオリェント 征服で偉大な軍功を挙げましたが、元老院が領土を 正式に認めず、自軍の兵士たちに約束した土地の配 分も承認しないことに苛立っていました。翌年、カ エサルは娘ユリアをポンペイウスに嫁がせ、さらに 関係を強固なものとします。ポンペイウスが前妻ム キアを離縁したのはカエサルとの不倫が原因でした から、この時代の人間関係は不思議なものです。そ してカエサルも三頭政治派のルキウスーピソの娘カ ルプルニアと三度目の結婚をしました。  カエサルは、執政官就任後、元老院議事録を毎日 公表する制度を整えました。そして農地法改正を行 い、ポンペイウス配下の退役軍人に肥沃な土地を分 配し、彼が征服したオリエントを東方属州として認 可させました。また、クラッススが望んでいた属州 の徴税請負人(プブリカヌス)の負担軽減も決めま した。共和政ローマには官僚制度がなかったため、 属州では騎士階級の徴税請負人が徴税や公共事業を 行っていました。徴税請負人はおおよその納税額を 見積もりローマ本国に全額前払いした上で、のちに 属州民からそれ以上の税額を徴収し、その差額を属 州総督と自らの収入としていました。こうしたこと からあまりにも前払い金の負担が大きいので、三分 の一を減額とすることにしたのです。  カエサルを腹立たしく思った元老院は報復人事を します。執政官は任期後にローマの属州へ総督とし て派遣される決まりでしたが、カエサルの場合、退 任後に統治する属州をまったく重要性のない南イタ リアの森林地帯としたのです。これには他の二人が 反撃します。護民官を抱え込んで民会にかけ、カエ サルに五年間のガリア(現在のフランス)総督の地 位と軍事指揮権を与えることを決めさせたのでした。   ガリア  前五八年、カエサルはガリア遠征に向かいます。 ガリアの大半はローマの支配下になく、ガリア人の 部族同士でも戦いが続き、一度は帰順した部族の反 乱やゲルマン人の侵攻などもあり、平定には困難が 伴いました。次々に敵対部族を制圧していきますが、 それでも反乱は続きます。優れた文筆家でもあった カエサルは、前線からローマに戦況報告を送り、そ れがまとめられたものが『ガリア戦記』です。  前五六年、ルッカ(トスカーナ北西部)でカエサ ルとポンペイウスとクラッススの三者会談が行われ ます。元老院の先手を取って、三人の結束を高める ためでした。この会談で合意したのは、翌年の執政 官にポンペイウスとクラッススを選出し、任期後ポ ンペイウスにはヒスパニア属州の統治権、クラッス スにはパルティア(アルサケス朝)遠征の指揮権を 授与し、カエサルのガリア総督の任期を五年延長す ることでした。  ガリアに戻ったカエサルは征服戦争を続けますが、 気候が異なる地で遠征が長期化し、ガリア人部族の 抵抗も激しく、苦戦します。前五五年にはゲルマン 人がガリアヘ侵入、それを追って初めてライン川も 越えます。また、ブリタニア(ブリテン島南域の古 称)へ二度侵攻しますが、これは偵察と勢力誇示が 目的でした。前五二年には最大の危機が訪れます。 ヴェルキングトリクス主導のガリア人連合との戦い です。最大規模の包囲戦が展開されますが、苦戦の 末に勝利を収め、カエサルはついにガリア全体を ローマの属州とします。  ガリアでの戦利品は莫大で、カエサルは百万人の 捕虜を得て各兵士に一人ずつ配ったといわれていま す。戦場での略奪と分配は認められていましたが、 過度の略奪が問題になることもありました。また、 カエサルは恭順する者には寛容でしたが、はむかう 者は誰でも殺すというやり方を取っており、女性や 子どもも含めて大量に虐殺していました。政敵カ トーは弾劾裁判にかけるべきだといい出しますが、 元老院で却下されます。カエサルはガリア征服で、 権力と富だけでなく軍団兵からの圧倒的な忠誠心も 獲得し、強大な力を持ちます。そのため元老院と閥 族派はますます警戒を強めるのでした。  カエサルがガリアにいた前五四年、カエサルの娘 でポンペイウスの妻ユリアが産褥熱で亡くなり、ポ ンペイウスとの間に微妙な空気が流れ始めます。さ らに前五三年には、東方遠征に向かったクラッスス がパルティアで戦死し、三頭政治のバランスが崩れ てしまいます。軍を率いてローマヘ入り執政官選挙 に出たいカエサル、それを阻正したい元老院、その 狭間でポンペイウスはカエサルにふさわしい解決法 を模索していましたが、結局は元老院に丸め込まれ てしまいます。   賽は投げられた  カエサルは交渉を重ねますが徒労に終わり、前五 一年、カエサルのガリア属州総督解任と本国帰還を 命じる元老院最終決議が出されます。この状況で官 職の地位もなく自軍もなしでローマへ入ることは自 殺行為に等しく、政治的に失脚させられるのは目に 見えています。軍を維持するならば国家の敵と見な すとまで通達され、カエサルは自分の尊厳が侮辱さ れたように感じました。そして、前四九年一月、精 鋭の一個軍団のみを率いてローマ本土と属州の境界 線、ルビコン川を越えるのです。もう後戻りはでき ないという意味で「賽は投げられた」といったと伝 えられますが、本当は、運を天に任せるという「賽 が投げられるに任せよう」だったようです。  再びローマ内戦の始まりです。これまでと違って いたのは、地中海世界全体が戦場となったことでし た。カエサルのイタリア半島南下を知って、ポンペ イウスはローマを離れ、東方属州で軍を再編するた めギリシアヘ向かいます。カエサルはローマを無血 で制圧後、閥族派の牙城ヒスパニアとマッシリア (現在のマルセイユ)を平定し、執政官に就任する とギリシアヘ向かいます。前四八年、ファルサロス の戦いでポンペイウス軍は敗れ、その後アレクサン ドリアヘ逃れようとしたポンペイウスは、プトレマ イオス朝の宰相の命により上陸用の小舟の上で殺害 されます。数日後に上陸したカエサルはポンペイウ スの首を見て涙したといいます。その後、カエサル は王位継承問題で争っていたクレオパトラ七世を支 援して女王の座に就け、彼女とのロマンスでカエサ リオンという息子を授かり、のちに二人をローマヘ 連れていきます。  ローマ内戦のすきを突いて小アジアのポントス (黒海南岸の地域)の王フアルナケスニ世が反乱を 起こします。カエサルは直ちに平定に向かい、わず か四時間の戦いで勝利を収めます。この時ローマの 腹心に送った手紙が「来た、見た、勝った」で、こ れほど簡潔で見事に状況を説明した名文はないで しょう。その後は閥族派の残党を北アフリカに追っ て撃破、政敵カトーはカエサルの勝利を悟ると自害 しました。また、ヒスパニアに逃れていたポンペイ ウスの息子たちを中心とする閥族派はなかなか手強 く、カエサルは、前四六年にローマで凱旋式を挙げ たあと自ら出兵しています。前四五年三月、ムンダ の戦いで勝利を収めて、ようやく内戦は終結しまし た。   民主的な独裁者  ローマで凱旋後、カエサルは自軍の兵士たちに約 束通りの現金と土地を与え、市民へも大盤振る舞い します。ローマ市民各人に、小麦約六五キロ、約三 リットルのオリーブ油、三〇〇セステルティウスの 現金(四人家族がI〇ヶ月暮らせる額)を支給し、 宴会へ三度招待し、食肉を供給し、さらに剣闘士の 試合や演劇などの見せ物、戦車競技、模擬海戦など を開催しました。民衆の大半は、ローマの風土病と もいえる失業者で、穀物配給を受けて見せ物を楽し むだけの寄生状態でしたから、大喜びだったのはい うまでもありません。戦争で莫大な富を得ても、カ エサル自身は贅沢に興味がなく、もっぱら民衆や被 保護者のために尽くしていました。  ガリア遠征後、内乱となり、カエサルがローマに いたのはわずかな期間ですが、前四六年、一〇年の 任期で独裁官に就任すると様々な改革に取り組んで いきます。まず、元老院議員の議席を騎士階級や属 州の有力者にも与えて、定員を六〇〇から九〇〇名 に増やし、元老院を自分の支配下に置いて改革を進 めやすいようにします。次にユリウス暦を制定しま す。エジプト滞在中に知った太陽暦を導入し、一年 を三六五日、四年ごとの閏年を設定したのです。そ して新たな都市計画にも着手します。裁判所バシリ カーユリアもこの年に完成しますが、フォローロ マーノのそばに元老院と新しい広場カエサルのフォ ロ、そこに隣接する始祖ヴィーナスの神殿の建設を 始めました。これらの事業で失業者に仕事を与える のも目的の一つでした。それから、八万人の無産市 民を属州に入植させました。こうして、穀物の無料 配給を三二万人から一五万人に削減したのです。ま た、ローマ市民権をガリア全域、属州の有力者にも 与え、属州のローマ化にも努めました。  四四年一月、カエサルは終身独裁官に就任します。 それ自体はスッラと同じですが、閥族派は危機感を 抱きます。貴族が支配するローマの共和政では、支 配者層において権力の共有意識が強く、傑出した軍 功を挙げて名声を得た個人は、権力構造と衝突する か、失脚させられるかのどちらかでした。マリウス とスッラは前者にあたり、ポエニ戦争の英雄スキピ オーアフリカヌスは後者です。ポンペイウスも実態 はカエサルと同じでしたから、もし内戦で勝ってい れば、元老院は同じ問題を抱えることになったで しょう。  閥族派は、「カエサルは王になろうとしている」 という風評を流し続けます。カエサルにも誤解され るような言動があったため、それらをうまく利用し たのです。ローマ人は王政から共和政へ移行した時 から、王という言葉に異常な拒否反応を示します。 頭の切れるカエサルがそのリスクを冒すでしょうか。 実際、民衆が彼を王と呼んだ時に「私はカエサルで 王ではない」と答えています。ただ、巨大化する ローマを統治するには、政治的にも行政的にも軍事 的にも、都市国家体制ではもはや限界であること、 きちんとした官僚組織と軍制組織を持つ中央集権的 な国家の必要性を感じていたことは確かで、そのた めに権力を自分一人に集中させたのでしょう。それ でも、この時点では共和政のシステムの中にいまし た。カエサルの支持母体は民衆と軍人であるため、 彼らに寄り添った民主的な独裁官であろうとしたの です。   白昼夢  前四四年三月一五日、カエサルは暗殺されます。 元老院議会の開催場所ポンペイウス回廊で席につい たところでした。一〇万人の軍隊を率いてクラッス ス親子の仇討ちを兼ねたパルティア遠征の出発を三 日後に控え、その日はカエサル不在中の防衛と統治 を議題にした重要な会議が行われる予定でした。元 老院会議では武器の携行は禁止、しかもカエサルは 元老院議員から身体の安全に関する誓約を得た上で 独裁官の護衛隊を解散していました。腹心アントニ ウスは暗殺集団の一人が議会入り口で引き止めてい ました。  会議が始まる前、まだ議員たちが行き交う中で、 まず一人がカエサルに嘆願するふりをして近づき、 カエサルの足元にひざまずきました。それが合図と なって、暗殺者たちがカエサルを取り囲み、あらゆ る方向から次々に短剣で剌していったのです。カエ サルは事の次第を察すると、品位ある死を迎えるた めトーガで頭を覆い、左側の裾を足首まで下ろして 倒れました。ポンペイウスの立像のそばでした。二 三ヶ所、剌されていました。  前日の夜、カエサルは副官マルクスーレピドウス 邸での晩餐の席にあり、客人の一人が「いかなる死 が望ましいか」という話題を出した時、「予期せざ る死、迅速な死」と答えていました。皮肉なことに、 それが現実となったのです。話題提供者は暗殺計画 を知っていて、この問いでカエサルに危機を暗示し ようとしたのかもしれません。  暗殺の首謀者は、カエサルの愛人セルヴィリアの 息子マルクスーブルートウスとカッシウスーロンギ ヌスで、二人ともポンペイウス派の共和主義者でし たが、寛容なカエサルから許され、属州総督にまで 任命されていました。暗殺者の中にはカエサル派の 七人もいました。そのうちデキムスーブルートウス は、カエサルの遺言状で第一相続人が相続を辞退し た場合の相続人に指名するほど期待していた腹心で した。  「ブルートウス、お前もか」のブルートウスは、我 が子のように可愛がっていたマルクスーブルートウ スだとされていますが、特別に目をかけていた腹心 デキムスーブルートウスだと考える研究者もいます。 どちらをさしたのかは謎のままですが、いずれにし てもカエサルは信頼していた者だちからも裏切られ たのでした。  カエサルを殺害して自由を取り戻したと思ったの は、暗殺者だちと閥族派だけでした。民衆は、暗殺 者たちへの怒りで爆発したのです。  この暗殺は、まったく無益なものでした。  暗殺者たちは、形骸化した共和政の擁護者として 自由を標榜し、何のヴィジョンもないまま暗殺を実 行しました。短絡的で考えが甘いとしかいいようが ありません。彼らのいう自由は、しょせん特権階級 の自己中心的な考えに過ぎず、貧困にあえぐ民衆は かやの外にありました。彼らのしたことは、共和政 ローマの問題を残したまま、再び内戦を引き起こし ただけだったのです。  元老院も自分たちの利益と権力を守ることしか頭 になく、その先を見つめていませんでした。グラッ クス兄弟以来一〇〇年も続く内戦から分かるように、 もはや共和国に政治能力はなかったのです。  「共和国は白昼夢。もはや名前だけで実態も外観も ない」とは、カエサルの言葉です。  カエサルが遺言状で後継者に指名したのは、まっ たく無名の青年ガイウスーオクタヴィアヌスでした。 そして、彼はまだローマに到着していませんでした。  2アウグストゥス  カエサルの後継者  カエサルが暗殺された時、一八歳のオクタヴィア ヌスは、予定されていたパルティア遠征の準備でギ リシア西岸アポロニアにいました。大伯父の暗殺を 知ると、軍団の指揮官たちには危険だと反対されま すが、生涯の盟友アグリッパと少数の供を連れてイ タリアヘ向かいます。  カエサルの遺言状には、姪の息子オクタヴイアヌ ス(図3@)を第一相続人とし、相続の際にはカエ サルの養子となリカエサルの名を継ぐこと、ローマ 市民一人につき三〇〇セステルテイウスの贈与、カ エサル所有の庭園を市民に寄贈することなどが書か れていました。遺言執行者となったカエサルの腹心 アントニウスは、自身が後継者に指名されなかった ことに深く失望しますが、ローマ不在で何の実績も ない無名の一八歳の若者など相手にもならないと見 くびり、自分が実権を握ろうと画策します。そして カエサルの私財を預かり、元老院や暗殺者側と妥協 を図り恩赦に同意するのです。しかし、暗殺から 一ヶ月が過ぎてもローマの民衆とカエサル配下の退 役軍人の怒りは収まらず、報復を求めて今にも暴動 が起こりそうな状態が続いていました。そんなとこ ろヘカエサルに後継者指名された青年が現れたので す。  オクタヴイアヌスはローマ入りの前にナポリ近郊 の別荘にいたキケロを訪ねます。キケロは、優れた 弁論家、文筆家、哲学者として知られ、反カエサル の野心的な政治家でした。彼自身は暗殺には加担し ていませんでしたが、暗殺者を賛美し、事を丸く収 めて共和政ローマを取り戻そうとしていました。し かしカエサル暗殺への民衆の怒りは凄まじく、キケ ロさえもローマ市内にいるのは危険な状況となり。 一時的に別荘に逃れていました。そんな時にオクタ ヴイアヌスがやってきたのです。敬意あふれる青年 の態度にキケロは気を良くし、これなら自分が操れ るかもしれないと思うのでした。  オクタヴイアヌスはローマに着くと同じようにア ントニウス邸へ挨拶に出向き、カエサルの私財を返 却するよう求めましたが、アントニウスは渡しませ んでした。遺言状にある市民への贈与は、遺産のほ とんどを占める巨額なものです。オクタヴイアヌス は後継者として贈与金を準備しなければならない上、 大伯父の追悼記念競技会を催す慣習も果たさなけれ ばなりません。苦境に陥った彼は、義務を果たすた め、財力のあるカエサルの友人に資金援助を頼みま す。この時、キケロはこの友人に援助しないように 要請する手紙を書きましたが、拒否されます。オク タヴイアヌスは七月に全市民を招待した競技会を見 事に主催して大成功を収めることができました。七 日目の最終日には、偶然、夜空に大きなほうき星 (バレー彗星だったそうです)が流れ、市民にはカ エサルが天上の星、ひいては神になったかのように 思えたのでした。  オクタヴイアヌスは虚弱体質でまったく軍才があ りませんでした。いざという時には体調を崩して寝 込んでしまうタイプです。それなのにカエサルがこ の青年を後継者としたのは、妹の孫という血縁だけ でなく、何らかの資質を見出していたからでしょう。 カエサル暗殺後のオクタヴィアヌスの行動を見れば、 無名であろうと若過ぎようと怯まずにあきらめない 強い意志が見てとれます。幸運にも、軍事的才能の 欠如は同年齢の盟友アグリッパが補い、外交、政治、 文芸ではもう一人の盟友マエケナスを頼ることがで きました。また、彼は、虫の好かないキケロにさえ 表面的には敬愛の情を示せたように、偽善者でもあ りました。しかし、この偽善こそが、のちに帝政を 築く礎となるのです。   復讐  オクタヴイアヌスはカエサルの古参兵や軍団から 支持を集めて次第に力を持つようになります。しか し、これは彼自身の実力というよりは、カエサルの 名前が大きな影響を与えたものです。カエサルを愛 し忠誠心を持っていた人たちが後継者と指名された 青年を無視できるはずがありません。オクタヴイア ヌスは執政官選挙へ立候補します。本来、執政官に 立候補できる年齢は四〇歳と定められており、異例 中の異例でしたが、キケロは彼をまだほんの子ども だと侮っていたため反対もしませんでした。  八月に一九歳で執政官に選出されると、オクタ ヴイアヌスはそれまでアントニウスに妨害されてい たカエサルとの養子縁組を正式なものとします。出 自が騎士階級だったため、名実ともにカエサルとな ることが必要だったのです。それから、同僚執政官 の名を冠した「ペデイウス法」を制定します。これ は、独裁官カエサルが護衛隊を解散する際に身体の 安全を保証する誓約を求めた時、署名していながら 暗殺を決行した元老院議員を有罪とする法令でした。 軍事的政治的経験がほとんどなかったI〇代の青年 が短期間でここまで到達したことは驚くべきことで す。  いっぽうカエサル派の軍司令官たちはオクタヴイ アヌスとアントニウスの対立を望みませんでした。 そこで、カエサルの腹心だったレピドゥスの仲介に より、前四三年一一月、ボローニャでオクタヴィア ヌス、アントニウス、レピドゥスの三頭政治(第二 回)が成立します。これは私的同盟だったカエサル の時とは異なり、五年間の公式な政体となります。 この時、政治的同盟を確固たるものとするため、オ クタヴィアヌスはアントニウスの妻フルヴィアの最 初の夫との娘クロディアと結婚します(床入りもせ ずに二年後に離婚)。  そして、復讐が始まるのです。寛容のカエサルと は正反対の路線です。カエサル暗殺者の逮捕を名目 に閥族派の排除をするため、かつてのスッラのよう な粛清を開始しました。懸賞金をつけ、殺害は誰で も可能、首だけ打ち取ってくればいいという恐ろし いものでした。「処罰者リスト」にはキケロの名も ありました。弾劾演説で散々罵られたアントニウス は深い恨みを持っており、首だけでなく演説原稿を 書いた右手も切り落とすように命じました。冷酷な オクタヴイアヌスはキケロを救おうともしませんで した。フォローロマーノの演壇にはさらし首が並び、 元老院議員約三〇〇名、騎士階級約二〇〇〇名が殺 害され、没収された財産は国庫に収められました。  翌、前四二年一月には元老院がカエサルの神格化 を決定します。ローマ史上、人間が神になったのは 初めてのことでした。これによってオクタヴィアヌ スは神の子となり、復讐の総仕上げに臨むのです。 デキムスーブルートウスは北イタリアでアントニウ ス派がすでに殺害しており、残っていたのは、恩赦 を受けてギリシアにいた暗殺の首謀者、マルクス・ ブルートゥスとカッシウスーロンギヌスの二人です。 レピドゥスにローマを任せ、オクタヴィアヌスとア ントニウスの軍勢は属州マケドニアに侵攻し、同年 一〇月、フィリッピの戦いを迎えます。この時オク タヴィアヌスは持病の腹痛で寝込んでいます。この 戦いで勝利に最も貢献し、ブルートゥスとカッシウ スの自死を導いたのはアントニウスでした。   オクタヴィアヌスの恋  冷酷無比な粛清とフィリッピの戦いを経て、カエ サルの暗殺者たちへの復讐が終わり、共和政主義者 たちを一掃したあと、アントニウスはパルティア遠 征の野心から東方に残り、そこでクレオパトラ七世 に出会います。アレクサンドリアでアントニウスが クレオパトラと夢のように豪奢な日々を過ごしてい る間、ローマに戻ったオクタヴィアヌスは困難な問 題に直面していました。フィリッピの戦いの退役軍 人へ報酬の土地を分配しなければなりませんでした が、内戦で戦利品がなかったため、イタリア国内の 中小農民の土地を没収するしか方法がありませんで した。苦渋の選択で兵士を優先しますが、この時、 土地を奪われた地主を助けるという名目で、アント ニウスの妻フルヴィアと弟ルキウスーアントニウス が反乱を起こします。前四〇年三月、ペルージャ包 囲戦でオクタヴィアヌスが勝つと、二人はギリシア へ逃げ、彼らと結託していた元老院議員や騎士階級 の三〇〇人余りは処刑されました。フルヴィアはア テナイでアントニウスと再会したのち、病に倒れて 亡くなりました。  オクタヴィアヌスはイタリア南端のブリンディジ でアントニウスと会談し、不毛な戦いを中止する協 定を結び、あらためてローマを含む西をオクタヴィ アヌス、東をアントニウス、アフリカをレピドゥス が統治することを再確認します。同盟関係を強化す るため、妻フルヴィアを亡くしたアントニウスは、 オクタヴィアヌスの姉、寡婦だったオクタヴィアと 結婚します。彼はエジプト出発後にクレオパトラが 双子を産んだことを知っていましたが、それでもオ クタヴィアとの政略結婚を選ぶのでした。  いっぽうヒスパニアやシチリアではポンペイウス の次男セクストウスーポンペイウスが勢力を拡大し ており、海上封鎖で穀物が届かず、ローマでは民衆 の暴動が起こっていました。そのため、前三九年、 ナポリ近郊のミセヌムでセクストウスと協定を締結 します。セクストウスにはシチリア、サルデーニャ。 コルシカの領有を認め、彼のもとへ亡命していた 「処刑者リスト」の元老院議員たちに恩赦を与えま した。また、関係強化のためオクタヴィアヌスはセ クストウスの親戚スクリボニアと結婚します。彼は この結婚から唯一の実子ユリアを得ますが、その誕 生と同時に離婚します。  情熱的だったカエサルと異なり、オクタヴィアヌ スは冷静で感情には左右されない男でした。そんな 彼が激しい熱情に駆られて前代未聞のスキャンダル を起こします。現代でいう略奪婚です。前三八年、 三歳の息子を持ち第二子を懐妊中の人妻リヴィアー ドルシッラと結婚するのです。お腹の大きな花嫁の 持参金を用意したのも、結婚式で花嫁の介添人を務 めたのも前夫のクラウディウスーネロでした。なぜ これほど結婚を急いだのか、懐妊中の第二子がオク タヴィアヌスとの不倫の子ではないかとも噂されま したが、真相は分かりません。  ただ、この結婚は互いにメリットがありました。 オクタヴィアヌスは元老院で力を持つ名門貴族クラ ウディウス氏族とつながることで閥族派の貴族層と の軋轢を解消でき、いっぽうクラウディウスーネロ もミセヌムで恩赦を受けた「死刑者リスト」の元老 院議員でしたから一族の栄達のためには好都合でし た。ちなみにリヴィアの父はブルートウス派として フィリッピの戦いで自死しています。この時代、結 婚は政治の手段に過ぎず、女性は自分の意思とは関 係なく、家父長により結婚を命じられ、持参金を 持って嫁ぐのが当たり前だったのです。スキャンダ ルを起こした結婚の裏側には、実は様々な思惑が あったのでした。とはいえ、オクタヴィアヌスがリ ヴィアに恋をしたことだけは間違いないようです。   政権獲得へ  前三七年、三頭政治は五年間の延長が決定されま す。セクストゥスーポンペイウスが再びイタリア半 島への小麦の運搬船の妨害を始めたため、前三六年、 ついにアグリッパ率いる軍勢が制圧します。このあ と、レピドゥスがシチリアを手に入れようと蜂起し て失敗し、失脚します。これにてローマは東のアン トニウス、西のオクタヴィアヌスに分かれました。  アントニウスは、念願のパルティア遠征のため、 妻のオクタヴィアと二人の娘、前妻との息子をアテ ナイからローマヘ送り返し、東方へ向かいます。し かし惨敗という結果に終わり、ここから彼の運命の 歯車は狂っていきます。失意のアントニウスはクレ オパトラの援助で前三四年、アルメニアを攻略し、 アレクサンドリアで凱旋式を挙げたのち、東方属州 をクレパトラとカエサリオン、自分との間にできた 子どもたちへ贈与することを宣言します。さらに妻 のオクタヴイアには離縁状を送りつけ、正式にクレ オパトラと結婚しました。  オクタヴイアヌスはアントニウスを弾劾し、宣戦 布告の決議案を提出しますが、これだけでは元老院 は動きませんでした。そこでアントニウスの遺言状 を不法に手に入れ、弾劾に好都合な部分だけを元老 院で読み上げるという手を使います。遺言状には、 カエサリオンをカエサルの息子として認め、クレオ パトラとの子に財産のほとんどを残し、自分が死ぬ 時はアレクサンドリアに埋葬してほしいなど、ロー マ人の自尊心を傷つけるようなことが書かれていま した。そして、前三二年末、オクタヴイアヌスは ローマ大アントニウスではなく、クレオパトラに宣 戦布告するのです。こうして、オクタヴイアヌスと アントニウスの個人的な政権闘争をローマ対エジプ ト王国という国家間の戦いへと変えたのでした。  前三一年九月、ギリシア北西部の岬でアクティウ ムの海戦を迎えます。クレオパトラーアントニウス 連合軍は大型船中心で投石機で石弾を放ついっぽう、 アグリッパ率いるオクタヴィアヌス軍は小回りの利 く小型船で敵船に近づき火器を投げ込む戦法を取り ました。炎上する軍船を見て状況が不利だと思った のか、突然、クレオパトラの乗った船が撤退を開始 し、それを見たアントニウスも追って戦線を離脱し ます。残された軍船が降伏したのはいうまでもあり ません。歴史を左右した海戦はあっけなく終わり、 オクタヴイアヌス軍の勝利となりました。  翌、前三〇年八月、オクタヴイアヌスはアレクサ ンドリアで決着をつけます。アントニウスは自死、 捕虜になることを嫌ったクレオパトラも毒蛇によっ て自殺、カエサリオンも亡命先で処刑されます。ク レオパトラとアントニウスの三人の子どもたちは ローマヘ送られ、前妻オクタヴイアが養育し、アン トニウスと元妻フルヴイアの子どもたちは長男のみ 処刑し、次男はオクタヴィアが育てます。オクタ ヴィアほどローマの美徳を体現した女性はいないで しょう。   事実上の帝政へ  こうして、グラックス兄弟以来続いていた長い内 戦は終わりを告げました。そしてこれを境に、それ まで冷酷な顔を見せていたオクタヴィアヌスは豹変 します。カエサルのような寛容さでアントニウス派 を処刑せず赦免し、元老院やローマ市民に古きよき ローマの価値観を提示するようになるのです。共和 国を一人の人間が支配する専制政体に変えるため、 養父カエサルの過ちを繰り返さないよう、慎重かつ 巧妙に動きます。独裁をイメージするような言葉は 決して使いませんでした。  プトレマイオス朝の莫大な財宝は、退役軍人に与 える土地の購入に充て、イタリア半島各地に退役軍 人のため二八もの植民都市を建設します。また、肥 大化した軍隊も五〇万人から二〇万人以下に縮小し、 一〇〇〇名近くにまで膨れ上がっていた元老院議員 を六〇〇名に削減します。  前二九年、オクタヴイアヌスは元老院よりローマ 市民の第一人者を表すプリンケプスの称号を得て、 実質的元首制に入ります。そして七度目の執政官を 務めていた前二七年一月、突然、元老院で自分が持 つ特権を返上して共和政への復帰を宣言します。偽 善とも呼ばれる慎重さで、すべてを計算し尽くした 上でのことです。この時、実際に放棄した特権は三 頭政治権など有名無実化したものだけで、執政官職、 凱旋した軍司令官を意味するインペラトールの尊称、 プリンケプスという称号は手放していません。しか し、元老院は真意に気づくことなく歓喜します。そ して三日後にはアウグストゥス(尊厳ある者という 意味)という尊称を贈ることを決め、国の全権を委 ねることを提案するのです。こうして三五歳のイン ペラトールーカエサルーアウグストゥスが誕生し、 共和政は終わりを告げ、実質的帝政が開始されます。  アウグストゥスは、誰も気づかぬうちに古い政治 体制を変更することに成功しました。そして軍事作 戦が進行中で管理の難しいヒスパニア、ガリア、パ ルティアとエジプトなどを自分の管轄とし、それ以 外の全属州の管理を元老院に返します。またもや元 老院は大感激です。しかし実際には、管理の難しい 属州は重要な地域であり、ローマ軍の大半はこの地 にありました。この方法でアウグストゥスは重要地 域の総督命令権と軍司令権を手中に収めたのです。  さらに前二三年には、連続就任していた執政官職 を元老院へ返還し、その代わりに護民官職権と上級 属州総督命令権を終身付与されます。これもまた、 実に巧妙なやり方で手にした絶大な権力でした。な ぜなら、護民官職権は平民から選出される護民官と 同じ権限を持ち、法案を直接民会にかけ、拒否権を 行使できるからです。さらに上級属州総督命令権は、 自分の管轄以外の元老院属州でも総督の命令権と軍 司令権を行使できます。これら二つの終身付与は、 事実上、独裁政治ができることを意味したのです。  アウグストゥスは、ローマを一四の行政区に分割 し、市民の登録、財産や所得の把握、税金の査定を 行う行政改革を行いました。また、イタリア半島を 一一の州に分割し、州内だけでなくローマでの政務 官の選挙にも投票できるようにしました。さらに、 公共建築管理官、街道管理官、水道管理庁長官、穀 物配給庁長官などの新しい官職も創設しました。  一番の問題は首都ローマと平民でした。最下層の 民衆は飢餓から暴動を起こすことが多く、それを穀 物配給で抑えていましたが、それでも治安維持が必 要でした。前二六年に元首不在時の代理となるロー マ首都警察隊長官を常設で設置することを決め、共 和派の重鎮メッサッラを任命しますが、彼は「この 仕事をする自信がない」という理由で六日後に辞任 します。本当の理由は、この職務が元首の命令での み暴動を鎮圧する警察機能であるため、非合法な権 力だと見なしたからです。元老院には独裁体制に不 満を持つ議員が少なからず存在していたのでした。  ローマは非武装地帯でしたが、元首を守る親衛隊 は認められ、この頃は一万人ほどになっていました。 これにローマ首都警察隊の六〇〇〇人を加えると、 アウグストゥスは実に巧妙なやり方でローマに総勢 一万六〇〇〇人の兵を有していたことになります。 紀元六年には、これに、警察機能も持たせた夜警消 防団の七〇〇〇大が加わります。  前二〇年には宿敵パルティアとも講和し、交渉の 中でかつてクラッススが失った軍旗を取り戻すこと ができました。また、北方の深い森に覆われたゲル マニア(現在のドイツ)は制圧が難しく、エルベ川 を防衛線として守ることに専念しました。しかし、 紀元九年にはケルスキ族のアルミニウスによって ヴァルス率いるローマ軍が全滅し、防衛線をライン 川まで引き下げることになります。   イメージ作戦  アウグストゥスは、ローマ発祥の地パラティーノ の丘に居を構えていました。これは戦略的に選んだ 場所で、屋敷の裏にはロムルスのあばら家が残り、 庭の隅のカークスの階段を下りればルパルカーレ、 すなわち双子の兄弟がメス狼に育てられた洞窟があ りました。新生ローマを築くのはロムルスの末裔で あるユリウス氏族だという正当性を、住まいによっ ても強調したのです。屋敷は非常に質素で、そこで 妻リヴィアが奴隷だちと機織りする姿を公開し、地 味で堅実な生活をアピールしてプロパガンダの一環 としました。隣には自身の守護神アポロンの神殿を 建立し、その横には公立図書館を新設してローマ市 民に開放しました。アウグストゥスの屋敷は今も残 り、美しいポンペイ様式の壁画を見ることができま す。  自ら綴った『神君アウグストゥスの業績録』の中 で「私は煉瓦の町ローマを大理石の都に変えた」と 自雨自賛しているように、アウグストゥスは火事や 洪水の多いローマの生活環境を向上させ、世界の首 都にふさわしい壮麗な都にするための都市整備にも 取り組みました。国家元首となる前から、既存の水 道施設や下水道、ポンペイウス劇場などの修復、新 たなユリア水道や憩いの場・オクタヴィアの列柱廊 などを建造していましたが、前二九年、フォローロ マーノにカエサル神殿を建立し、前二八年にはマル スの野に自身と一族のための巨大な霊廟を建てまし た。これもプロパガンダの一つでした。アントニウ スが、死後はアレクサンドリアに埋葬してほしいと 遺言したのに対抗して、彼は自分とローマとの絆を 強調したのです。霊廟の入り口は南側に位置し、そ こから舗装された一本道が野の中をまっすぐに延び て万神殿パンテオンの入り口に続いていました。二 つの建造物は距離を隔てて向かい合っていたのです。 その間には、エジプトから運ばれたオベリスクを 使ったアウグストゥスの日時計とパクスーロマーナ (ローマによる平和)を記念したアラーパキス(平 和の祭壇)もありました。日時計は、アウグストゥ スの誕生日、九月二三日には平和の祭壇の奥まで影 を落とすように設計されていました。  アウグストゥスはコロッセウムのモデルにもなっ たマルケルス劇場や百万都市ローマに必要な新しい 広場アウグストゥスのフォロも造りました。今もこ の広場の北側には高さ三三メートルの巨大な長い壁 がありますが、それは背後の貧民街スブッラで頻繁 に起こる火事から守るためでした。  武将アグリッパも多くの公共建造物を作ります。 カエサルが着手していた民会の投票場サエプターユ リアを前二六年に完成させ、その隣には万神殿パン テオンとローマ初のアグリッパ公共浴場を建造しま す。なお、サエプターユリアは剣闘士の競技場とし ても使われ、のちに火災で消失したパンテオンは八 ドリアヌスが再建しています。アグリッパは南フラ ンスに残る美しい水道橋ポンーデューガールも建造 しています。  文化面では盟友マエケナスがパトロンとして文人 たちを庇護します。このため、彼の名は現在のメセ ナ活動の語源となりました。アウグストゥスは文学 もプロパガンダに活用します。ヴェルギリウスの 『ア干不Iイス』でローマ建国の物語を語らせるこ とで、自身の神性を強調し、アウグストゥス体制は 神が定めたことだという刷り込みをするのです。そ して、自分の横顔を刻印した貨幣を流通させ、同時 に自分の彫像も帝国中にあふれさせ、アウグストゥ スの公的イメージを拡散させました。彫像を見ると、 実に整った顔立ちで美形そのものですが、それだけ に人間的魅力の希薄さを感じざるを得ません。   複雑な後継者問題  アウグストゥスは自分の周りの人間を政略結婚で 固めました。それに伴う強制離婚、再婚、再々婚、 養子縁組、さらに同族間には同姓同名が多いため、 ほとんど理解不能といえるほどの複雑怪奇な系図を 描く結果となりました。妻リヴィアとの間に子はな く、前妻との娘ユリアとリヴィアの連れ子ティベリ ウスとドゥルススがいるだけでした。連れ子の二人 は優秀な軍人に成長していましたが、アウグストゥ スは自分の血に異常な執着があったため、ユリアが 産む子に期待をかけ、姉オクタヴィアの息子マルケ ルスに嫁がせます。そして二年後にユリアが一六歳 で未亡人になると、最も信頼できる盟友アグリッパ と再婚させます。ちなみに、ティベリウスはアグ リッパ(と最初の妻)の娘と結婚させ、ドゥルスス にはオクタヴィアとアントニウスの娘を妻に与えて います。  ユリアとアグリッパには三人の息子と二人の娘が 生まれ、アウグストゥスは長男ガイウスと次男ルキ ウスを養子に迎え、後継者として育てます。けれど もアグリッパが亡くなると、ユリアに三度目の結婚 を強要します。相手は幸せな結婚生活を送っていた ティベリウスでした。リヴィアの画策だといわれま すが、当の二人は望まぬ結婚を強制され、うまくい くはずもなく、不幸な結末を迎えます。同じ頃、 ティベリウスの弟ドゥルススがゲルマニア戦線で死 亡し、二人の息子、ゲルマニクスとクラウディウス を残します。  その後ユリアは姦通罪で流刑にされ、後継者候補 のガイウスとルキウスも二〇歳前後で次々に亡く なってしまいます。ティベリウスを帝位につけるた めのリヴィアの陰謀が疑われましたが、真相は定か ではありません。アウグストゥスはユリアの三男ア グリッパーポストゥムスとティベリウスの二人を養 子にしますが、この三男も粗暴な性格を理由に流刑 にされてしまいます。また、ユリアの長女も姦通罪 で流刑となります。ユリアの子で唯一生き残ったア グリッピナは戦死したドゥルススの息子ゲルマニク スの妻となっていました。ゲルマニクスは、アウグ ストゥスの命でティベリウスの養子後継者になるこ とが定められていました。  紀元一四年八月、七七歳の誕生日を迎える一ヶ月 前、アウグストゥスは南イタリアの別荘で持病の腹 痛を訴えて亡くなります。ティベリウスヘの皇位継 承がスムーズにいったのは、リヴィアの狡猾な采配 のおかげです。死が迫った時点でティベリウスを呼 び、死の公表を遅らせ、その間にアウグストゥスの 血を引く最後の男子、流刑地のアグリッパーポス トゥムスを暗殺したのです。こうして、自分の血に 執着したアウグストゥスの後継者は、皮肉なことに 血縁のない、しかもかつては敵たったクラウディウ スーネロの息子ティベリウスとなりました。そのた め、アウグストゥスからネロまで続く血統はユリウ スークラウディウス朝と呼ばれます(図31)。  最期の日、アウグストゥスが友人にいった言葉は、 「私かこの人生の喜劇で自分の役を最後までうまく 演じたと思うなら、どうぞ拍手を」でした。 この時代のローマ   ユリウスークラウディウス朝  ユリウスーカエサルは、巨大化するローマをより 良く統治するため、一人の人間が支配する専制政体 の構築を目指しましたが、道半ばにして暗殺されま した。カエサルの果たせなかった夢を実現させたの が養子となった大甥オクタヴィアヌスで、事実上の 帝政を始め、初代皇帝アウグストゥス(在位紀元前 二七〜紀元一四年)となります。平和で壮麗な都を 築きますが、最後まで彼を悩ませたのが後継者問題 でした。結局、血縁のない妻リヴィアの連れ子ティ ベリウス(在位一四〜三七年)が第二代皇帝となり ます。彼は軍事的才能も行政手腕もありましたが、 陰鬱な性格で市民にまったく人気がありませんでし た。治世の後半一〇年間は南イタリアのカプリ島に 隠棲しています。  ティベリウスの後継者とされていたゲルマニクス は不審な死を遂げていました。そこで、その息子ガ イウスが皇位に就きます。市民がこよなく愛した英 雄の息子は熱狂的に迎えられ、第三代皇帝カリグラ (在位三七〜四一年)となります。カリグラは小さ な軍靴という意味で、父のゲルマニア遠征に幼い頃 から同行し、軍靴をはいて兵士だちと遊んでいたこ とから呼ばれる愛称です。帝位に就いて半年後に病 を恣ってから性格が変わったといわれ、残忍さや放 蕩ぶり、狂気の逸話が多々ありますが、同時代の史 料がほとんど消失しているため、実際のところは謎 のままです。在位四年後に親衛隊の将校たちによっ て暗殺されました。  第四代皇帝は、ゲルマニクスの弟(カリグラの叔 父)、クラウディウス(在位四一〜五四年)でした。 親衛隊がたまたま宮殿内にいたクラウディウスを担 ぎ上げたのです。彼は身体に障害があり、母親さえ 「人間の姿をした怪物」と呼び、誰からも愛されず に蔑まれていました。ところが帝位に就くと為政者 として高い能力を示します。解放奴隷を行政に登用 して官僚制を推進し、ブリタニア南部を属州としま した。女性好きで四度結婚し、多くの問題を起こし ています。  ユリウスークラウディウス朝最後の皇帝は、第五 代のネロ(在位五四〜六八年)でした。ネロはクラ ウディウスが禁断の叔姪婚で最後の妻としたアグ リッピナ(カリグラの妹)の連れ子です。母親の殺 害やキリスト教徒の迫害などで悪名高く、暴君と呼 ばれていますが、実は繊細な性格で、芸術を愛し、 民衆には人気がありました。ローマの大火後は懸命 に復興に努めています。最後は自害に追い込まれま した。  アウグストゥスはユリウス氏族、ティベリウスは クラウディウス氏族の出身で、三代以降の皇帝には ユリウス氏族とクラウディウス氏族の血が流れてい ます。そのためユリウスークラウディウス朝と呼ば れています(図31。)。   フラヴィウス朝  血縁による世襲の皇位継承が終わると混乱が生じ、 一年で四人もの皇帝が軍によって次々に擁立されま した(四皇帝の年)。  四皇帝最後のヴェスパシアヌス(在位六九〜七九 年)は、ネロ治世下の六六年にユダヤ属州での反乱 鎮圧のためパレスティナに派遣されていました。各 地の属州総督が軍事力で皇帝位に就いては殺されて いく混乱の中で、彼は事を急がず、各地の軍団の支 持を広げたあとで皇帝に即位し、フラヴィウス朝を 開始します。七〇年にはユダヤ属州に残してきた息 子のティトゥスがエルサレムを陥落させます。ヴェ スパシアヌスは財政の健全化政策で公衆トイレの設 置と尿の有料化を始めます。毛織物の染色や洗濯に 不可欠な尿を集めて業者に売ることで巨額な税収に 変えたのです。市民の娯楽のためには、ネロの黄金 宮殿の人工池を埋め立て、約五万人収容の円形闘技 場コロッセウムを建造しました。完成はティトゥス (在位七九〜八一年)の時代、八〇年です。ティ トゥスが即位した七九年には、ヴェスヴィオ火山の 噴火でポンペイが壊滅し、ローマでは大きな火災も 起こりました。善良な皇帝でしたが二年半の治世で 亡くなります。続く弟のドミティアヌス(在位八 一〜九六年)は残虐な悪帝だったため、暗殺後はド ムナティオーメモリアエ(記憶の抹消一存在の痕 跡をすべて消されること)に処せられました。キリ スト教徒を迫害したことでも知られています。   五賢帝時代  フラヴィウス朝の終焉後、優れた人物を養子にし て後継者指名するシステムが生まれ、五人の賢帝が 続き、ローマ帝国は最盛期を迎えます。  いわゆる五賢帝時代の始まりは、元老院に推挙さ れた家柄も人格も優れた長老、ネルヴァ(在位九 六〜九八年)でした。高齢で実子がいなかったため、 属州ゲルマニアの総督トラヤヌス(在位九八〜一一 七年)を養子に迎えて後継者に指名します。ヒスパ ニア生まれの初の属州出身の皇帝です。トラヤヌス は二度にわたる遠征でダキア(現在のルーマニア付 近)を属州とし、これを記念してトラヤヌスの広場 を作り記念の円柱を建てました。その後もアルメニ アを攻略し、ローマ帝国の版図を最大にしました。  次の(ドリアヌス(在位一一七〜匸一八年)はト ラヤヌスの従兄弟の息子でした。ギリシア好きで文 学と芸術を愛し、武勇にも優れていましたが、トラ ヤヌスが拡大した領土の一部を放棄し、国防と属州 の安定化を図ります。治世の三分の二は属州視察の 旅をしました。再建したパンテオンや自身の霊廟・ 聖天使城など、今もハドリアヌス由来の建造物が ローマに残っています。続くアントニヌスーピウス (在位匸一八〜一六一年)は、先帝と異なりずっと ローマで過ごしました。慈愛に満ちた「賢帝の中の 賢帝」と呼ばれ、戦争もなく特に大きな事件もない 最も平和な時代を築きました。  五賢帝最後の皇帝マルクスーアウレリウス(在位 匸(I〜一八〇年)は「哲人皇帝」と呼ばれるほど ストア哲学に傾倒していました。治世の末期は、気 候変動の時期にあたり、洪水や飢饉、異民族の侵入 に悩まされ、東方からの帰還兵が持ち込んだ天然痘 が流行し、経済の不振や財政の行きづまりが現れ始 め、厳しい時代を送りました。ゲルマニアの戦場で 自己を深く内省して『自省録』を書き始めますが、 戦争は長引き、ウィンドボナ(現在のウィーン)で 病死しました。後継の実子コンモドゥスはローマ史 上最悪の皇帝となります。なお、ルキウスーヴェル ス(在位二(I〜二(九年)は、二(九年に病死す るまでの八年間マルクスーアウレリウスとの共同皇 帝でした。   セヴェルス朝  コンモドゥス(在位一八〇〜一九二年)はひどい 悪政で社会を混乱させ、その暗殺後は内乱となり、 軍事力がものをいう時代になります。そんな中で前 代未聞の帝位競売が起こりました。つまり親衛隊に 最も高い報酬を約束した者が帝位に就くということ です。これによって皇帝となったのがディディウ スーユリアヌス(在位一九三年三月〜六月)でした。 しかし、こんなやり方で皇帝の座に就いて民心を得 られるはずがありません。元老院も民衆も反発し。 これを好機として有力な属州総督三人が動き始めま す。ユリアヌスは在位六六日間で親衛隊によって暗 殺されました。  次に帝位に就いたのは、属州パンノニアの総督 だったセプティミウスーセヴェルス(在位一九三〜 二一一年)でした。カルタゴ出身で初の非ヨーロッ パ人皇帝です。強大な軍事力でセヴェルス朝を開始 し、軍人を優遇するようになります。後継者は二人 の息子でしたが、兄のカラカラ(在位一九八〜ニー 七年)は、弟ゲタ(在位二〇九〜二一一年)を母ユ リアードムナの目の前で殺害してダムナティオーメ モリアエ(記憶の抹消)に処します。カラカラ浴場 や帝国全土の自由民にローマ市民権を授与した「ア ントニヌス勅令」つ二二年)で知られています。 アントニヌスはカラカラの本名です。カラカラとは ケルト人のフードつき軍用マントのことで、これを 好んで着ていたことから、この名で呼ばれるように なったのです。  その後カラカラは暗殺され、暗殺の首謀者だった 親衛隊長マクリヌスが帝位に就きますが、ユリアー ドムナの姉ユリアーマエサが、孫でシリアの太陽神 エルーガバルの神官、一四歳のヘリオガバルス(在 位二一八〜二二二年)をカラカラの落胤と称して担 ぎ上げ、軍の支持を受けてセヴェルス朝を復権させ ます。しかし、女装して性的放縦に耽るヘリオガバ ルスは尋常でなく、母親とともに親衛隊に殺害され ます。新帝は、ヘリオガバルスの従兄弟、わずか一 三歳のアレクサンデルーセヴェルス(在位二二二〜 匸二五年)でした。穏やかな少年で、母親や祖母に 操られてはいましたが、乱れた風紀を正し、平穏な 統治を行っていました。しかし、ササン朝ペルシア が侵入すると苦戦を強いられ、さらにガリアに蛮族 が侵入します。ガリアでの戦況はよかったものの、 和平交渉をしようとしたことが軍の不興を買い、暗 殺される結果となりました。   軍人皇帝時代(三世紀の危機)  アレクサンデルーセヴェルスの暗殺後、属州の軍 団がそれぞれ皇帝を擁立しては暗殺されるという軍 人皇帝の時代に大ります。二八五年のディオクレ ティアヌスの即位まで続き、五〇年間で二六人とい う数の皇帝が即位しています。これを三世紀の危機 と呼びます。ゲルマン民族の侵入、ササン朝ペルシ アとの戦乱で帝国の混乱は深まり、ローマの凋落を 象徴するような大事件が起こります。皇帝ヴアレリ アヌス(在位二五三〜二六〇年)がペルシアに惨敗 して捕虜となり、悲しい最期を遂げるのです。二六 二年、東方の同盟国パルミラの君主オデナトウスが ペルシアの進軍を食い止めますが、その死後、妃の ゼノビアが王位を継ぐとローマ帝国東部の属州と皇 帝直轄領エジプトへ侵攻し、パルミラ帝国として分 離独立してしまいます。すでにガリアもこの混乱に 乗じて独立を宣言していました。  こうしてローマ帝国は三つに分かれてしまいまし た。これを再統一したのが「世界の修復者」と呼ば れる名君アウレリアヌス(在位二七〇〜二七五年) でした。五年という短い在位期間中に東へ西へと駆 けめぐって蛮族の侵入からローマを守り、今もロー マに残るアウレリアヌスの城壁を築きました。アウ レリアヌスはペルシア遠征に向かう途中で部下に殺 害され、非業の死を遂げました。  最後の軍人皇帝ディオクレティアヌス(在位二八 四〜三〇五年)は帝国を東西に分け、それぞれに正 帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置き、 四分割統治(テトラルキア)を始めます。自身が東 の正帝で、副帝にガレリウス、西の正帝に戦友マク シミアヌス、副帝にコンスタンティウスークロルス を置きました。軍備を増強し、帝権を強化し、ロー マの政治形態は、元首政(プリンキパトス)=市民 の第一人者から、東方の君主国のような専制君主政 (ドミナトゥス) へ移行します。ディオクレティア ヌスはキリスト教を弾圧したことでも知られていま す。   いわゆる「西ローマ帝国」の滅亡  三〇五年、二人の正帝ディオクレティアヌスとマ クシミアヌスが引退後、副帝たったガレリウスとコ ンスタンティウスークロルスが正帝となります。そ して東西の副帝にはガレリウスが自分の娘婿と親友 を置きます。この選定に不満を持ったのが、正帝の 息子なのに副帝になれなかった二人、マクシミアヌ スの息子マクセンティウスとコンスタンティウスー クロルスの息子コンスタンティヌスでした。こうし て覇権争いの内乱が始まります。  コンスタンティヌス(在位三〇六〜三三七年)は、 父の死後、副帝に収まりますが、マクセンティウス は軍事行動でイタリアと北アフリカを支配下に置き、 勝手に皇帝を名乗ります。一時は同盟関係にあった 二人も戦うことになり、三匸一年、ローマのミル ヴィウス橋の決戦を迎えます。勝利を収めたのはコ ンスタンティヌスで、西の単独皇帝となりました。 さらに三二四年には東の正帝となっていたリキニウ スを倒してローマ帝国の単独皇帝となり、帝国再統 一を果たします。  しかし異民族の侵入と戦乱は止まず、軍事力維持 のために課される重税は市民を圧迫し続け、貧困の ため都市部から大農園へ移住して小作人(コロヌ ス)となる人が増加します。皇帝は、小作人の移動 を禁じ下層民の職業を世襲化し、完全な階層社会を 築きます。三三〇年にローマからビザンティオン (現在のイスタンブール)へ遷都し、コンスタン ティノープルと改称しました。  ちなみにコンスタンティヌスは、リキニウスとと もにキリスト教の公認をしています。自身も死の間 際に洗礼を受けました。  三七五年以降、ゲルマン人の大移動により帝国は ますます混乱に陥ります。三九五年、テオドシウス はキリスト教を国教化し、帝国を東西に分割し、息 子二人に与えます。コンスタンティノープルを首都 とする東のローマ帝国は一四五三年まで続きますが、 西のローマ帝国は、四一〇年の西コート王アラリッ クと四五五年のヴアンダル族によるローマ略奪がと どめを刺し、四七六年、ゲルマン人傭兵隊長オドア ケルによって少年皇帝ロムルスーアウグストウルス は退位させられ、いわゆる「西ローマ帝国」は滅亡 します。  なお、西ローマ帝国、東ローマ帝国などの呼称は 後世に生まれたもので当時の正式名称ではありませ ん。同様に、西方正帝の廃止は西ローマ帝国の滅亡 を意味するわけではありませんが、一般的にはこの ように受け止められています。  3ネロ  母アグリッピナ  第五代ローマ皇帝ネロは、「暴君ネロ」の異名で 極悪非道ぶりが語り継がれています。けれども、ネ ロの死後、その墓に季節の花や果物の供え物が絶え なかったように、民衆には愛されていました。伝承 は必ずしも史実とは隕らないのです。出来事が事実 を上回り、誇張され、創作が混ざって伝えられるこ とはよくあります。ネロの物語は複雑怪奇なユリウ スークラウディウス朝の話から始めなければなりま せん。  初代皇帝アウグストゥスから第二代ティベリウス ヘと続き、その次の後継者にはティベリウスの亡き 弟ドゥルススの長男ゲルマニクスが予定されていま した。ゲルマニクスはローマ軍団や市民に絶大な人 気を誇る英雄でした。ところが突然不審な死を遂げ、 妻アグリッピナはティベリウスの陰謀だと非難しま す。彼女はアウグストゥスの孫でもありました。 ティベリウスはアグリッピナを国家反逆罪で流刑と し、三年後、彼女はその地で亡くなります。彼女の 六人の子どものうち、長男は流刑の上、自死。次男 は監禁され餓死に追いやられます。けれども三男が 第三代カリグラとなるのです。カリグラの妹が、ネ ロの母親、亡き母と同名のアグリッピナです。母親 と区別して小アグリッピナとも呼ばれます(図31。)。 しかし、彼女は兄カリグラから謀反の罪で流刑にさ れます。  母アグリッピナが流刑となった時、ネロは二歳で した。父親も亡くなっていたため、父方の叔母に愛 情深く育てられます。戦車競技の遊びが好きで、従 僕が舞踊家だったため、幼い頃から音楽や演劇に憧 れていました。約一年後にカリグラが暗殺され、ゲ ルマニクスの弟クラウディウスが帝位に就くと、ア グリッピナはローマに戻され、裕福な元老院議員と 再婚します。ネロの教育に力を入れ、ギリシア人の 家庭教師からギリシア語、ラテン語、文学、数学、 修辞学の基礎を学ばせました。  クラウディウスは難病のため身体に障害があり吃 音障害もあったため、自分の母親アントニアからも 「人間の姿をした怪物」と呼ばれ、一族から自い目 で見られてきました。けれども実は教養深く、皇帝 になってからの政治的手腕もなかなかのものでした。 ただ一つの弱点は女性でした。色情狂として有名な 三番目の妻メッサリナが、夫不在中に浮気相手と正 式に結婚するという愚行を犯して処刑されたあと、 四番目の妻におさまったのがネロの母アグリッピナ です。すでに再婚相手は亡くなっており、禁断の叔 父姪婚も元老院議会で承認されます。紀元四九年、 ネロが一一歳の時でした。  アグリッピナは、両親や兄弟が次々に非業の死を 迎えたせいか、勝ち気で野心的でした。叔父クラウ ディウスとの結婚も息子ネロを帝位に就けるための 手段に過ぎず、その布石として、流刑にされていた 哲学者セネカを呼び寄せネロの家庭教師とし、親衛 隊長官ブッルスを後見人とします。さらに同年、ク ラウディウスの娘オクタヴィアとネロを婚約させ、 翌五〇年には、嫡子ブリタンニクスを差し置いてネ ロを養子にさせます。そして五四年にクラウディウ スを毒殺し、その後ネロが一六歳で第五代皇帝に即 位するのです。  ちなみに、ゲルマニクスとクラウディウスの母親 アントニアは、アウグストゥスの姉オクタヴィアと 二番目の夫マルクスーアントニウスとの間に生まれ た娘なので、三人の皇帝、クラウディウス、カリグ ラ、ネロにはユリウス家やクラウディウス家だけで   民衆寄りのネロ  ネロは、幼少時から音楽と演劇に親しみ、ギリシ ア人の家庭教師の影響でギリシア文化に傾倒してい ました。利発で教養があり、セネカも太鼓判を押す ほど修辞学にも優れていましたが、彼が最も情熱を 抱いたのは芸術でした。詩を作り、チェトラと呼ば れる竪琴を奏で、歌を歌い、舞台で演じることをい つも夢想していたのです。母親の野心が重くのしか かり、図らずも皇帝となってしまいましたが、本人 が望んでいたわけではなかったのです。  セネカが補佐官を務めた最初の五年間だけは善政 だったといわれますが、近年では在位期間全体を通 じて優れた為政者だったと再評価する声も聞かれま す。確かにネロの時代は比較的平和で、経済的にも 繁栄し、大火後のローマの都市整備や貨幣改革など でも優れた実績を残しています。  持てる者と持たざる者の格差が増大した時代に、 ネロは常に弱者の側に立っていました。これが理由 で元老院との対立が深まっていきますが、舞踊家や 歌手、俳優、戦車競技の騎手などの仕事に就く下層 階級の人々は、ネロには身近に感じる人たちでした。 ネロは庶民の中に入って普通の生活をするのが好き で、皇帝となってからも、奴隷の帽子をかぶって変 装し、親友のオト(のちの皇帝)と一緒に夜の繁華 街へ出かけて居酒屋に通っていました。解放奴隷ア クテに激しい恋をし、母親に邪魔されながらもこの 関係を続けました。アクテは生涯ネロを愛し、ネロ の死後、葬儀も行っています。  母アグリッピナは権勢欲が強く、すべてに介入し、 ネロは常に抑圧されていました。公式の場でネロの 隣に座り、息子と自分が向き合う図柄の貨幣を発行 させ、元老院会議を盗み聞きしようと画策し、その 振る舞いは度を越していました。側近のセネカや ブッルスにとっても問題でした。彼らが距離を置こ うとする微妙な空気を感じとった彼女は、先帝の息 子ブリタンニクスにも帝位継承権があることをほの めかし、圧力をかけ始めます。このタイミングで、 五五年、ブリタンニクスが宴席で急死したため、ネ ロによる毒殺が疑われていますが、もしそうであれ ば側近たちも絡んでいたはずです。また、暗殺では なく、持病のてんかんの発作から突然死したという 説もあります。   母親殺害  ネロは親友オトの妻ポッパエアに恋をして、オト を属州ルシタニア(現在のポルトガルおよびスペイ ン西部)総督に任命して離婚させます。正式な結婚 を望むポッパエアのためにネロは妻オクタヴィアと の離婚を考えますが、母アグリッピナは断固として 反対します。先帝クラウディウスの養子となり、そ の娘と結婚したことで皇帝の地位を確立していたか らです。また、控えめで地味なオクタヴィアは市民 の間では人気がありました。  ネロは、母親を疎ましく思う反面、誰よりも怖れ ていました。そして排除するしかないと思い詰める のです。おそらく側近のセネカとブッルスも同意見 だったのでしょう。殺害方法はミセヌム海軍長官ア ニケトスの案が採用されます。彼女を乗せた船を沈 没させて偶然の事故を装うというものです。そうし て、五九年三月、ミネルヴア祭りの夜、ネロはナポ リ近郊の美しい入江バイアエにある離宮での晩餐に 母を招待します。風光明媚な温泉地バイアエは共和 政時代から上流階級の別荘地として有名で、アグ リッピナもバイアエとミセヌム岬の間の海辺に別荘 を持っていました。帰りは細工した船で送ることに なっていました。晩餐は終始和やかで、列席者も微 笑むほど親しげで温かい雰囲気のうちに終わりまし た。あたかも母と子の確執は終わったかのようでし た。夜半に離宮の船着場で船に乗り込む母をネロは 心を込めて抱きしめます。最後の別れのつもりだっ たのでしょう。  海は波もなく静かでしたが、予定通りに船は沈み ます。ただ、陰謀を知らない乗員もいたためスムー ズに行かず、加えてアグリッピナは水泳が得意だっ たのです。別荘に戻った彼女は何もかも察しました が、気づかぬふりをして、解放奴隷に無事を伝える 手紙を持たせます。ネロは驚いてブッルスとセネカ を呼び、今後の対策を考えます。「ゲルマニクスの 娘に手を下せる兵士はI人もいない」ため、親衛隊 を送ることはできません。結局、失敗の責任をとる 形でアニケトスが刃を向けることになりました。  アグリッピナ殺害は、セネカが国家反逆罪による 死として発表しました。どれだけの人が信じたこと でしょう。しかしアグリッピナは尊大な性格から人 気がなかったため、さして大きな噂にもなりません でした。市民の反応に戦々恐々としていたネロは安 堵しますが、その後は良心の呵責から母の亡霊に悩 まされることになります。  なお、妻のオクタヴィアは三年後の六二年に姦通 罪で流刑の上、謀反の罪で殺害されます。でっちあ げの罪状でした。何の非もないオクタヴィアの処刑 は人々の同情を集めましたが、ネロはポッパエアと 結婚し、三年後には亡くしています。   ネロの治世  ギリシア好きのネロは、オリンピック競技をロー マに導入しようと、五年ごとの競技会、ネロ祭の第 一回目を六〇年に開催します。皇帝でありながら競 技に参加するネロを元老院は苦々しい思いで見てい ましたが、市民には大好評でした。体操競技だけで なく、四頭立ての戦車競技、さらには詩や音楽の競 技も行い、参加者も無料招待の観客も大いに楽しん だのです。  同年、ブリタニアで反乱が起こります。イングラ ンド東部の王が亡くなり、彼はローマとの良好な同 盟関係を維持するため財産の半分をローマに遺しま した。ところが、当地のローマ人が遺産のすべてを 略奪し、未亡人ブーディカを鞭打って二人の娘を陵 辱したのです。これに憤怒したブーディカが中心と なった反乱でした。結局、属州総督が軍を率いて鎮 圧し、総督や統治体制を変えるという適切な戦後処 理かされたため、その後は平穏が続きました。ちな みに、セネカはこの地で高利貸し業を行って莫大な 富を築いています。支配者層は、高潔に見える人も 自らの利益を追求していたのです。  また、五四年にパルティア王ヴオロガセスがアル メニアに侵攻し、ローマの傀儡政権を倒して弟ティ ダテスを王位に就けるという事件が起こりますが、 ネロの派遣した名将コルブロは準備に数年かけたの ち、五八年にアルメニアに親ローマ派の王を擁立す ることに成功します。ところが、六一年に親ローマ 派のアルメニアがパルティアヘ侵攻したため、ロー マはパルティアと全面戦争の危機に陥るのです。こ こでコルブロの慧眼がものをいいます。戦乱を避け て両者に都合のいい解決法に至ったのです。それは、 ティダテスのアルメニア王位を認めてローマで皇帝 ネロによる戴冠式を行うことでした。こうして、パ ルティアーアルメニア問題も平和裏に解決しました。 この時すでにネロの側近ブッルスは亡くなり、セネ カも引退していましたが、ネロの善政は続いていた のです。  芸術家として舞台に立つのを夢見ていたネロは。 ついにナポリで公式デビューします。かつてギリシ アの植民都市たったナポリなら、民衆の前で自分の 実力を試すことが可能に思えました。派手な衣装を 着て歌う芸人姿の皇帝にナポリ市民は大喜びで、デ ビューは大成功でした。ネロは発声訓練のため日頃 から体操に明け暮れていました。上半身は小太りで したが、脚が細かったので丈の短いギリシアの衣キ トンがよく似合っていたようです。きれいな声では あるけれど、声量が足りなかったといわれています。   ローマの大火と都市整備  六四年七月一八日の深夜、ローマの大火が発生し ます。火が出だのは戦車競技場チルコーマッシモの 一階部分で、商店や居酒屋、売春宿がひしめき合う 場所でした。おそらく火の不始末が原因でしょう。 火は風に煽られ燃え広がり、町は六日間にわたって 燃え続け、いったん消火したあとも、残り火から再 び発火して、さらに三日間燃え続けました。石造建 築とはいえ、住居には床や梁や天井部分、窓枠に木 材が使われていたため、それが燃えると建物が崩れ 落ちてしまいます。さらに百万都市ローマでは、イ ンスラと呼ばれる高層の集合住宅が密集し、路地も 狭かったため燃え移るのが早かったのです。消防隊 も存在しましたが、炎にかける毛布や水の入ったバ ケツを備える程度で、延焼を防ぐためには周囲の家 屋を取り壊す以外に方法はありませんでした。大理 石の公共建造物で埋まるフオローロマーノと神殿の 並ぶカピトリーノの丘は無事でしたが、皇帝宮殿の あるパラティーノの丘も全焼し、他の地区も全焼か 半焼という大惨事となりました。  火事が発生した時、ネロは海辺の保養地アンツィ オの別荘に滞在していました。ローマの火災を知る と直ちに駆けつけ、被災者対策を先頭に立って指揮 します。延焼しなかった区域にあるパンテオン、そ の隣の投票会場サエプターユリア、ポンペイウスの 回廊などを避難場所として開放し、空き地にはテン トも張らせました。食糧供給も忘れず、ローマの外 港オスティアの倉庫にある小麦をすべてローマヘ運 び、小麦粉かパンにして被災者に無料で支給しまし た。  ネロは、大火後のローマの都市整備に確かな手腕 を見せます。ローマは複雑に入り組んだ細い路地に びっしりと住居が密集していました。これを防災機 能のある快適で美しい町並みにしようと、道幅を広 くし、住居用建物の高さを制限し、住居前には柱廊 (柱の並ぶ玄関スペース)を置き、建物の梁に石材 を使い、新しい町づくりを始めたのでした。  そして貨幣改革を行います。アウレウス金貨とデ ナリウス銀貨の重さをほんの少し変え、銀貨の銀の 含有量を若干減らし、貨幣価値と物価を柢くしたの です。これは経済的に苦しくなった中下層の人たち を助けるためでした。   黄金宮殿とキリスト教徒の迫害  ネロは、都市の整備と同時に以前から計画してい た新しい宮殿、ドムスーアウレア(黄金宮殿)の建 設も始めます。広大な緑の庭園の中、現在コロッセ ウムのある場所に人工池があり、新宮殿の立つエス クイリーノの丘と従来の宮殿のあるパラティーノの 丘は大列柱廊で結ばれました。素晴らしい眺望を誇 る新宮殿はローマンーコンクリートを使った画期的 な建物でした。廊下の天井の高さはI〇メートルも あり、美しい壁画と彫刻で飾られ、床には大理石の モザイクが施されました。現在ヴァティカン美術館 にあるヘレニズム彫刻の傑作「ラオコーン」もこの 近くから見つかっています。  黄金宮殿の遺跡は今も残り、ラフアエッロをはじ めとするルネッサンス期の画家たちが地中に埋もれ た遺跡に入るために掘った無数の穴が天井に見えま す。一番の見所は八角形の間で、パンテオンのよう なドームと丸い天窓があります。この部屋でネロは ゲストを招いて竪琴を奏で自作の詩を歌っていたと 考えられています。  この宮殿の広大な庭園は、ネロー人のためではな く、ローマ市民の憩いの場として作られたのですが、 その意図は理解されませんでした。豪奢な宮殿、し かも、その場所がローマの大火で焼失した一帯だっ たことから、火をつけたのはネロだという噂が出ま した。まことしやかに、マエケナスの塔(ミリツィ エの塔)から炎上するローマを眺めながら竪琴を奏 で、ホメロスの『イーリアス』の燃え上がるトロイ アの場面を詠ったという風評まで出ましたが、これ は事実ではありません。実際にネロが火をつけたと 考える歴史家は古代にも現在にもいません。  これまで民衆のために尽くし愛されていると思っ ていたネロは、この噂に衝撃を受け、自分が放火犯 でないことを証明するため真犯人を見つけざるを得 なくなります。それをキリスト教徒にしたのは、信 仰の自由を認める多神教のローマで、彼らが一神教 を信じて他人にもそれを押しつける急進的な思想を 持ち、市民に忌み嫌われていたからです。ユダヤ教 も一神教ですが、信仰を押しつけないため問題とは なりませんでした。  また、終末を信じる一部の狂信的なキリスト教徒 が実際に火をつけたという説もあります。ローマは、 ヨハネの黙示録に登場する悪徳と退廃の町であり、 ソドムのように火で滅ぼすべきだ、そう考えたとい われていますが、証拠はありません。  ネロは首都警察に捜査を任せてキリスト教徒を断 罪しますが、信仰の弾圧ではなく放火犯を罰する目 的だったため、信者全員を処刑したわけではありま せん。二、三〇〇人ほどが磔刑や火刑、猛獣の餌食 にされ、残酷な公開処刑となりましたが、当時の処 刑はそれが普通だったのです。ネロがキリスト教徒 を処刑したのはこの時だけで、他の時期にはローマ でも外地でも迫害はいっさい行っていません。キリ スト教徒を迫害した皇帝は多くいますが、ネロだけ が悪者となったのは、彼らを集団処刑した初めての 皇帝だったからでしょう。のちに西洋世界を牛耳る ローマ教会が作り上げた虚像なのかもしれません。 たとえばキリスト教を公認したコンスタンティヌス は妻も息子も殺害しましたが、それに触れられるこ となく美化されています。   ギリシアへ  六五年、二回目のネロ祭が開催され、ネロは音楽 部門に出場します。ギリシア風の短衣をまとい竪琴 を奏でて歌う皇帝に民衆は熱狂しましたが、元老院 議員や貴族は、皇帝が下賤な芸人に成り下がるのを 苦々しく見ていました。  同年末、元老院議員だったピソによる「ピソの陰 謀」が発覚し、ネロは衝撃を受けます。暗殺計画に 加担した者のほとんどが、身近な人間も含む親しい 間柄にある人たちだったからです。セネカの名前も ありました。陰謀は失敗に終わります。  六六年には「ペネヴェントの陰謀」と呼ばれる軍 関係者による陰謀の芽がつまれます。問題だったの はアルメニアーパルテイア問題の功労者、名将コル ブロの娘婿ヴイニテイアヌスが首謀者だったことで した。彼の父親はカリグラ暗殺も主導し、クラウ デイウスヘの謀反も計画した人物でした。この時、 計画加担者一〇人余りを処刑しましたが、コルブロ については慎重に対応することにしました。  同じ年にユダヤ属州で反乱が起こりますが、ネロ はヴェスパシアヌス(のちの皇帝)を派遣しただけ で、九月には少年の頃からの夢ギリシアヘの長い旅 に出ます。一年以上に及ぶものでしたが、この間に、 コリントスにシリア総督コルブロを呼びつけて自死 を命令し、ゲルマニア属州総督二人にも同じような 措置を取りました。三人とも優れた武将でした。彼 らが「ベネヴェントの陰謀」への加担者だという確 信があったのでしょうが、詳細な記録が残っていな いため、真相は闇の中となっています。  ギリシア訪問は、他の皇帝たちのような属州視察 ではなく、純粋に芸術家としての武者修行でした。 アウグスティアーニと呼ばれる応援団を引き連れて、 オリンピアの競技会、コリントスの競技会、その他 各地での競技会に出場し、芸人の皇帝見たさで集 まった観衆は大喝采でした。ネロが優勝して手にし た月桂冠は一八〇八に上りました。  コリントスではイオニア海とエーゲ海をつなげる 運河の工事に取りかかりましたが、その後、ネロの 死で中断されました。この工事が再開されたのは、 一九世紀になってからです。  ネロがローマに戻ったのは六八年二月頃でした。 そして、なんと凱旋式を行ったのです。先頭には一 八〇八の月桂冠、続くプラカード、そして、金箔を 縫い込んだ真紅のマントをひるがえして頭上にオ リーブの冠を載せたネロが、凱旋将軍のごとく四頭 の白馬が引く戦車に乗ってローマヘ入城したのです。 ネロ不在が長く、娯楽に飢えていた民衆は歓声を上 げて迎えましたが、元老院の貴族階級や知識人は呆 れるばかりでした。   白鳥の歌  ネロは元老院を挑発し続け、ことごとく対立して きました。民衆寄りの政治、ギリシア文化への熱愛、 芸人としての活動は、当時の支配階級からは容認で きないものでした。そもそも支配階級は下層の民衆 を見下し、パンとサーカス(見せ物)さえ与えてお けばいいと考えていたのです。皇帝が下賤の仕事で ある戦車競技の騎手や歌手や俳優となり、その姿で 民衆の前に立つことは言語道断でした。また、質実 剛健を美徳とするローマの伝統には美を追求するギ リシア文化は合致しませんでした。ギリシア人は体 操競技で美しい肉体と精神を作ろうとしましたが。 ローマ人は軍事訓練を通して強い身体と心を鍛えた のです。修辞学さえ、ローマでは文学よりは政治目 的の弁論術として使われました。ネロは若さゆえに 理想を追求したのでしょう。  ネロの本質は楽しくて愉快なことを求める子ども のような無邪気さです。その心が、母親からの抑圧 と皇帝としての重圧、陰謀に満ちた現実世界と衝突 し、自分でもどうすればいいのか分からない時が あったのでしょう。母殺しと妻殺しは最大の汚点で すが、常に民衆とともにあったのがネロでした。  前代未聞の凱旋式後、ネロはギリシアの思い出に ふけって、三月にはギリシア的な町ナポリヘ行きま す。その間にガリア属州リヨン総督ヴィンデクスの 反乱が起こり、彼は属州ヒスパニア北東部総督ガル バを皇帝に擁立しようとしました。ネロの旧友、属 州ルシタニア総督オトもガルバ支持に同ります。そ こからのネロの凋落はあっという間でした。一度は ガルバを国家の敵と決議した元老院も、密かに通じ るようになります。頼りの親衛隊長官ティゲリヌス もいつの間にかいなくなり、宮廷からは次第に人が 消えていきます。そして、ついに元老院はネロを国 家の敵としてガルバ擁立に動くのです。ネロのそば に残ったのは解放奴隷の召使いが三人と亡き妻ポツ パエアに瓜二つの男妾スポルスの四人だけでした。  召使いの一人が所有する郊外の別荘へ逃れてしば らくすると、騎兵の蹄の音が、「生きて捕らえよ」 という声とともに聞こえてきました。不名誉な死か ら逃れるため、ネロは自ら命を断ちました。紀元六 八年六月九日のことでした。  「偉大な芸術家がこの世から一人消える」。亶]偽の ほどは定かでありませんが、ネロの最後の言葉だと いわれています。芸術家の最後の傑作を白鳥の歌と いいます。白鳥は死ぬ間際に甘美な声で鳴くという 言い伝えがあるからです。ネロの白鳥の歌はどのよ うなものだったのでしょうか。  4(ドリアヌス  疑惑の皇位継承  権力の大きな問題の一つは後継者問題でした。初 代アウグストゥスは一族で帝位を引き継いでいくこ とを望んでいましたが、計画通りには行かず、ネロ の死でユリウスークラウディウス朝は終焉を迎えま した。その後は一年の間に四人の皇帝が次々と擁立 され、四人目のヴェスパシアヌスでフラヴィウス朝 が始まり、息子のティトゥス、ドミティアヌスと続 きます。  この間に皇帝に即位したのは全員、貴族ではなく 地方の名士で、軍事力を背景にしていました。それ 以前もカリグラ暗殺とクラウディウス擁立には親衛 隊が大きな役割を果たしており、属州駐留軍や親衛 隊の影響力が大きくなりつつありました。それでも 軍事力だけでは皇帝の座を確実にすることはできず、 この時期の帝位を継ぐ正当性は、軍事力の他に舞台 裏での策略、周りからの引き立てと誘導、何よりも 適切な時に適切な場所にいることが鍵となっていま した。  フラヴィウス朝が終わると、一八世紀の英国の歴 史家エドワードーギボンが「人類が最も幸福な時 代」と称した五賢帝(ネルヴア、トラヤヌス、ハド リアヌス、アントニヌスーピウス、マルクスーアウ レリアス)の時代が始まります。ここで、皇位継承 は新たな段階に入ります。血統や軍事力に関係なく、 優れた人物を養子縁組した上で指名し、元老院の承 認を得るというシステムです。この時期のローマの 人口はI〇〇万人を超え、まさに世界の首都と呼ば れるにふさわしい繁栄と安定を享受していました。 初めて属州出身の皇帝も生まれました。属州ヒスパ ニア、セビリア近郊イタリカ出身のトラヤヌスです。 その治世において、ダキアを攻略し、ローマ帝国の 版図を史上最大にしています。  それを引き継いだのが、一一七年に第一四代皇帝 となった(ドリアヌスでした。彼は一一四年に始 まったパルティア戦争で軍司令官に任命されて優れ た結果を出し、属州シリア総督となったばかりでし た。自身が後継者として養子に迎えられたことをア ンティオキアで知りますが、実はここには不透明な 疑惑があります。もともと二人は同郷の出身で遠縁 にあたり、トラヤヌスは父を早くに亡くしたハドリ アヌスの後見人を務め、姪のサビーナと結婚させて いました。しかし、この結婚はうまくいかず、ハド リアヌスは外に愛人を求め、その一人がトラヤヌス 皇妃プロティナだという噂があったのです。ハドリ アヌスは文武両道で背が高く眉目秀麗でしたから、 皇妃が惹かれたのも無理はありません。トラヤヌス は領土拡大の遠征中に健康状態が悪化し、そのまま 崩御します。実子はなく、事前に後継者指名もして いなかったため、今際の際の皇帝の遺志を証言でき るのは皇妃プロティナだけでした。二人の関係は世 間で評判でしたから、(ドリアヌスの指名は本当に トラヤヌスの遺志だったのかという疑惑が生じたの です。   統治初期  ハドリアヌスは領土拡大政策を取らず、先帝トラ ヤヌスがパルティア戦争で獲得していたアルメニア、 メソポタミアを放棄し、国防と属州の安定化路線に 転換します。軍人として前線にいた彼は、これ以上 の拡大と戦線維持は困難だという現実的な判断を下 したのです。しかし、この方針は元老院と軍の大き な反発を受けます。  そんな中、「四元老院議員処刑事件」が起こりま す。全員が貴族で執政官経験者、軍の中枢を成す将 軍でもあった四人の元老院議員が、新帝の暗殺陰謀 を企てたという嫌疑で裁判もなく処刑されたのです。 その時ハドリアヌスはアンティオキアにいましたが、 直ちにローマに戻ると身の潔白を主張し、表向きに は後見人の一人だった親衛隊長官のアッティアヌス が首謀したということで落ち着きました。けれども、 皇帝の指示なしで粛清が行われるはずもなく、元老 院とローマ市民の不信感を払拭することはできな かったのです。ハドリアヌスには治世の始まりから 汚点がついたのでした。  ここから人気回復政策が始まります。兵士ヘー時 金の支払いをし、民衆の好きな見せ物、コロッセウ ムでの剣闘士の試合やチルコーマッシモでの四頭立 ての戦車競技を連日開催します。次に、市民の借財 の帳消しをします。税金を滞納していた市民の名前 と金額が記された文書を広場で燃やすというパ フォーマンスつきでした。さらに階層を超えた経済 的困窮者への援助もしました。  ある程度、人気が回復すると、(ドリアヌスは行 政改革に取り組みます。解放奴隷や騎士階級にも官 吏への道を開き幅広い人材を集めました。さらに職 務の分担や権限などをはっきりさせて、官僚制度を 構築したのです。法律も体系的に整理しました。こ うして数年間はローマにとどまって帝国の統治体制 を充実させたのでした。   ギリシア人への憧れ  ハドリアヌスの肖像彫刻を見ると長いあごひげが あります。それまでの皇帝であごひげがあったのは ネロだけです。長く豊かなあごひげをたくわえるの は、昔からギリシア人の習慣でした。実は、ハドリ アヌスはネロと同じように子どもの頃からギリシア 文明に傾倒していたのです。ギリシア語はローマの 支配者階級の子弟にとって必須の教養科目でしたが。 (ドリアヌスもまた、語学だけでなくギリシア文明 全般に魅せられていました。ともに学ぶ仲間だちか らは「グラエクルス」(小さなギリシア大)と呼ば れていたほどでした。しかも、竪琴を奏で、詩を書 き、哲学を論じ、また、東方の君主たちが好んだ狩 りを愛好していました。一一一年から一二一年にか けてアテナイのアルコン(九人の第一執政官)とい う役職を得た時にギリシアの市民権も獲得していま す。ただし、ローマにいる間は、ギリシア風の嗜好 を見せないようにしていました。すでにネロの時に 述べたように、質実剛健が伝統のローマでギリシア 風は軟弱だと見なされていたからです。  (ドリアヌスは、優れた資質と実行力で帝国統治 を安定させ、政治、軍事、文化の面で高い評価を受 けている皇帝の一人です。旅を愛し、教養にあふれ、 建築にも造詣が深く、自ら設計した素晴らしい別荘 や建造物が今も残っています。その反面、非常に複 雑で矛盾を抱えた人間であったことは否めません。 感情の起伏が激しく、皇帝にふさわしくないような 言動も多々ありました。それがゆえに、その功績に もかかわらず、支持はされても、心から愛される皇 帝にはなれませんでした。  ハドリアヌスの複雑な性格がいっそう浮かび上が るきっかけとなるのは、匸一〇年のI〇月、愛人 だったギリシア人の美少年アンティノウスがナイル 川で溺死した事件でしょう。この悲劇から浮かび上 がるのは、ハドリアヌスという大物の欠点ともいえ る暗部です。人間の心のうちを覗くのは不可能です が、万華鏡のように変わるハドリアヌスの様々な顔 から、つかみどころのない難しい性格が透けて見え てきます。   旅する皇帝  ハドリアヌスの治世は二一年に及びましたが、そ のうちの三分の二を旅に費やしています。旅とは いっても、広大な属州を視察、現状把握、維持する ための問題解決が主な目的で、遊びに行ったわけで はありません。もちろん好奇心旺盛な彼は、様々な 土地に暮らす人々の生活習慣や芸術、信仰に興味も あったことでしょう。軍事目的ではなかったため軍 団も率いず、大がかりな宮廷集団を引き連れるわけ でもなく、随行要員は建築技術者が主で、時折、皇 妃サビーナや友人の詩人を呼ぶくらいでした。属州 各地にあらかじめ訪問を知らせたわけではなかった ので、属州のありのままの現状を知ることができ、 各地を訪れる度に記念の貨幣が発行されました。  即位後のローマで内政の充実に勢力を傾けたのも、 安心して旅に出るための準備だったのでしょう。八 ドリアヌスは、元老院や市民の支持が安定した頃を 見計らって、匸一一年、まずは西へ向かいます。ガ リアからゲルマニアへ入り、ライン川防衛線を視察 し、翌年にはブリタニアへ船で渡ります。そしてカ レドニア人(現在のスコットランドに住んでいた 人々)との紛争が続いていたブリタニア北部に「「 ドリアヌスの長城」を築きました。これは一一ハキ ロに及ぶ、高さ四〜五メートル、幅三メートルの石 造りの防壁で、一マイル(一・六キロ)ごとに城塞 があり、防壁の北側には九メートルもの深さの濠を 掘っていました。こうして政治軍事上の境界線と ローマの権力が及ぶ範囲を誇示し、国防を整備し、 国境を安定させたのでした。  このあと訪れたヒスパニアでは庭園を散策中に刃 物を持った奴隷に襲われますが、単独で押さえつけ、 その者が狂人だと知ると医者に治療するよう命じた だけで罪を問いませんでした。そこから東へ向かい、 シリア、カッパドキア、ビテュニア、小アジア、そ して匸一四年、ハドリアヌスはギリシアに到着しま す。ギリシアには半年以上も滞在し、荒廃していた アテナイ復興のため数々の古代神殿の再建に努めま す。そして完成を見届けるため、このあと二度も訪 れています。また、この時、エレウシスの秘儀にも 入信しています。この秘儀は、アテナイ北西の小都 市エレウシスで始まった農業崇拝を基盤とした密儀 宗教です。豊穣の女神デメテルの娘ペルセポネが冥 府の神ハーデスに誘拐され一年の半分だけ地上に戻 れたことから、死と再生の神として永遠の生命の象 徴となったのです。入信者は密儀によって死後の幸 福が得られると信じられていました。密儀には守秘 義務があったため全貌は今も不明のままです。  ハドリアヌスは、ギリシアからシチリアを経てよ うやくローマに戻ってきたかと思うと、一年も経た ないうちに再び旅に出てしまいます。匸一八年、北 アフリカのカルタゴヘ向かい、ギリシア、小アジア、 シリア、ユダヤ王国、エジプトと、東方属州を同っ ています。  ローマ帝国の巡察で旅に出てばかりのハドリアヌ スを、友人の詩人フロルスが冗談めいた風刺詩でか らかいます。  「皇帝になんてなりたくないよ。ブリタニア人の間 を歩き回って、ゲルマニアに潜んで、凍てつく寒さ に震えるなんて」  詩人でもあったハドリアヌスも、負けずに詩で返 します。  「フロルスにはなりたくないね。貧民窟を歩き回っ て、安宿に逃げ込んで、丸ぽちやの蚊に剌されるな んて」                   訳/上野真弓   美少年アンティノウス  古代ギリシアの市民階級では、成熟した男性が少 年を心身ともに愛し、一人前の男性として育てると いう習慣がありました。ただし、それは少年にひげ が生え始める一八歳頃までです。ローマの上流階級 でも男色の嗜好はありましたが、ギリシアの少年愛 とは異なり肉欲的傾向が強かったようです。基本的 には私的範囲内、ベッドの中での秘密でしたが、た とえそれが表に出ても致命的なスキャンダルとはな りませんでした。  ハドリアヌスは小アジア北部のビテュニア(現在 のトルコの都市ボル)で出会った美しい少年アン ティノウスに夢中になります。ローマ型の少年愛 だったようです。出会って以来ずっと自分のそばに 置き、ハドリアヌスの長年の夢たったライオン狩り にも一緒に行っています。  アンティノウスについては謎が多く、ビテュニア のギリシア人だということと、生年不明の一一月二 九日生まれであることしか分かっていません。出 会ったのは、おそらくハドリアヌスが匸匸二年にビ テュニアを訪れた時ではないかと考えられています。 官能的な顔立ちをした青年の彫像が数多く残ってい ますから、知り合った当初はこの官能性に思春期の あどけない純朴さが加わって、ギリシアの理想的エ ロスを体現していたのでしょう。  匸一〇年夏のエジプト旅行には皇妃サビーナも友 人だちと同行していました。ナイル川を船で遡る楽 しい旅の中で、ある囗、悲劇が起こります。アン ティノウスが船から川に落ちて溺死してしまったの です。なぜそんなことが起こったのかは何も分かっ ていません。誤って落ちた事故なのか、誰かが突き 落としたのか、それとも自殺なのか、謎のままです。 ハドリアヌスの治世が長く続くことを祈って自ら犠 牲となり身を投げたとか、大人になってしまったた め皇帝の愛を失うのではないかと絶望して自殺した とか、諸説ありますが、どちらも納得できるような 理由にはなりません。  ハドリアヌスの悲嘆は大変なものでした。ローマ の史家たちは「女のように泣き崩れた」と伝えてい ます。二人の関係を知らない者はいませんでしたが、 問題となったのは、関係そのものではなく、悲劇の あとのハドリアヌスの尋常ではない言動でした。皇 帝権の乱用ではないかと顰蹙を買うのです。まず、 アンティノウスを神格化してナイルの岸辺に神殿を 建てます。そして、その周辺、ナイル川東側に新し い町を築き、アンティノポリスと名づけます。さら に、現在はわし座の一部となっている五つの星にア ンティノウス座という名称さえつけるのです。加え て、多くのアンティノウスの彫像も制作されました。  匸一二年、アンティノウスを失ったあとのギリシ アで、ハドリアヌスは大ギリシア主義を謳う都市同 盟「パンヘレニオン」を創設します。アテナイが盟 主的位置に置かれ、ギリシア世界の中心へ発展させ ることが目的の機関でした。この年にはアテナイ南 東部にオリュンピエイオンと呼ばれるゼウスの聖域 も完成しています。非ギリシア圈出身のハドリアヌ スがこれほどアテナイにかかわったのは、自らの憧 れとアンテイノウスヘの想いからだったのでしょう か。  同年、ユダヤ戦争が勃発します。これはハドリア ヌスのユダヤに対する宗教的不寛容から始まったも のです。彼は、一神教のユダヤ教徒の聖地にユピテ ル神殿の建立を計画しただけでなく、ユダヤ教徒の 宗教儀式、割礼を禁正しました。ユダヤの律法学者 であるラビの書いた文献にはハドリアヌス批判が書 かれており、その中にはいくつかの逸話もあります。 「どのような理屈で人々を厳しく罰するのか」と尋 ねた時、(ドリアヌスは、「ひょっとして、お前は、 余の敵の殺し方に助言でもするつもりなのか」と答 えたそうです。匸一五年に戦争が終結した時には、 ローマ側の犠牲も甚大なものでしたが、エルサレム は完全に破壊され、ユダヤ王国は消滅し、五八万人 が死に、一五〇万人が奴隷として売られました。ユ ダヤ人の離散(ディアスポラ)がまた一つ、加わり ました。  (ドリアヌスは、その時々で寛容だったり不寛容 だったり、言動が一貫しておらず、つかみどころの ない人でしたが、アンティノウスの死後はとりわけ 不寛容になっていきます。不仲だった皇妃サビーナ は結婚当初に「人類の幸福のために、私はこの人と の子どもは産まない」と宣言したと伝わっています ので、もともと気難しい人間だったのでしょう。   アモールーローマ  ハドリアヌスはローマでも素晴らしい造営事業を 行っています。建築に造詣の深い彼は自分で基本的 な設計アイデアを出すことがありましたが、それは 実に奇抜なものでした。  フォローロマーノの東端、コロッセウム側に建立 した「ヴィーナスとローマの神殿」はこの筆頭に挙 がります。外観はアテナイの伝統的な神殿形式でし たが、内部構造が新奇でした。ヴィーナスはローマ 建国の始祖の女神であり、ローマは都市ローマを人 格化した女神で帝国の庇護と永遠性の象徴です。こ れら二人の女神像を並べて祀るのではなく、神殿内 部を二つに分け、それを隔てる壁に女神の坐像が背 中合わせになるように配置したのです。これはハド リアヌスの詩人的発想を物語っています。なぜなら、 この配置は洒落の利いた言葉遊びから誘発されたも のだからです。ヴィーナスは愛の女神であり、ラテ ン語でアモール、アルファベットの語尾から反対に 読むとローマとなるのです。一つの神殿でありなが ら、出入り口がそれぞれ別になるのは不便ですが、 これほど詩的な神殿は他にはありません。先帝トラ ヤヌスのために広場や記念柱などを造った当代一の 建築家ダマスカスのアポロドロスは、この神殿の設 計図を見た時に酷評し、短気なハドリアヌスは激怒 して彼を追放し、のちに処刑したと伝えられますが、 矛盾点が多いので史実ではないでしょう。  パンテオンは今も完全な形で残る円形の美しい古 代建造物です。もともと初代アウグストゥスの右腕 だったアグリッパが建立した万神殿でしたが、一一 〇年の火事で崩壊し、ハドリアヌスがアポロドロス の知恵を借りて再建しました。パンテオンの構造は 巨大な球体が基盤となっています。完全な球体を円 筒に内接させて収めた形で、上半分は球体のまま ドームとして残し、下半分は円筒状で建設したので す。ドームの直径は四三・四四メートルで、頂上の 中央にオクルスと呼ばれる丸い天窓が開いています。 そして、床から天窓までの高さも四三・四四メート ル、黄金比と呼ばれる絶対美が展開されているので す。これほど完璧な建造物はありません。ルネサン ス期にブルネレスキがこれを参考にして大きなドー ムのあるフィレンツェの大聖堂を建設しましたが、 当時の建築技術では内径四三メートルのドームを建 造するのは難しく、二重構造のドームを考案してい ます。パンテオンのドームはローマンーコンクリー トで建造され、高さによって素材と厚みを変えてい き、上に行くほど軽量化し、見事なバランスを保っ ています。なお、雨が降っても頂上の天窓から内部 に雨粒は落ちないという都市伝説がありますが、事 実ではありません。  ハドリアヌスは、ローマ郊外のティボリにある別 荘もこだわり抜いて造り上げました。緑豊かで温泉 のある広大な敷地に、各地を旅した際に気に入った 場所と建造物を再現したものですが、彼が実際にこ の別荘で過ごした時間はそう多くはありませんでし た。三〇もの建物と九〇〇に及ぶ部屋があったとい われています。というのも、この別荘は、皇帝の私 的な楽しみの場であるだけでなく、公務も行う宮廷 も併設されていたからです。敷地はポンペイの町よ り大きく、巨大な運河、湖のように大きな池、浴場、 哲学の広場、図書館、アンティノウスの神殿やナイ ル川のデルタの町を再現したカノプスもありました。 水上劇場が有名ですが、これは円形の濠に囲まれた 小さな島にある(ドリアヌスの私的な居室で、誰に も邪魔されたくない時にここへ籠り、小島に渡る橋 を取り外していたそうです。これらの遺跡は今も残 り、静かに古代に想いを馳せるには格好の場所と なっています。  禹‘ 細 S。。`   聖天使城  テヴェレ川のほとり、ローマ歴史地区の対岸に威 風堂々とした円筒形の聖天使城があります。六世紀 後半にペストが流行した際、城の上空に大天使ミカ エルが現れ、剣を鞘に収めてペストの終焉を告げた という逸話から、このように呼ばれるのですが、も ともとはハドリアヌスが自分のために造った霊廟で した。のちにローマが教皇の都になると、ヴァテイ カン宮殿と秘密の通路で結ばれ、要塞や牢獄として 使われるようになったローマ最強の城塞です。一六 世紀初頭のローマ劫掠で当時の教皇クレメンス七世 はここへ逃げて一命を取り留めています。  (ドリアヌスがローマで造営した建造物を見ると、 実用より美に重きを置いたような印象を受けます。 ハドリアヌスは気難しい人間だったかもしれません が、即位後の四元老院議員処刑事件を除けば、その 治世で一度も謀反が起こっていません。長い旅がで きたのも、彼が作り上げた行政制度が機能していた からでしょう。元老院からは嫌われましたが、優れ た皇帝だったといえるのではないでしょうか。後継 者に指名したアントニヌスーピウスは慈愛に満ちた 皇帝となり、ハドリアヌスの神格化を拒否した元老 院をも説得し、これを認めさせました。神格化後に 建立されたハドリアヌスの神殿は、現在ローマの証 券取引所となっています。  匸一八年、不治の病に冒されていたハドリアヌス はナポリ近郊の入江バイアエの離宮で死を迎えます。 六二歳でした。最後に、次のような詩を残していま す。  途方に暮れる、甘く小さな魂よ  私の肉体に宿り、ともに生きた友よ  今、お前が降りて行こうとしているのは  無色で冷たく何もない場所  そこではもはや、慣れ親しんでいた楽しみを味わ うことはないだろう                   訳/上野真弓  5アウレリアヌス  外国人皇帝と軍の力  五賢帝時代に優れた人物を養子として後継者指名 をするシステムが生まれたのは、皇帝が実子に恵ま れなかったという事情もありましたが、五賢帝最後 のマルクスーアウレリウスには息子がいました。哲 人皇帝と呼ばれ『自省録』を書くほど高潔な人物 だった彼も、自分の子ども可愛さに息子コンモドゥ スを後継者に指名するという過ちを犯します。コン モドゥスは奇行が多くローマ史上最悪の皇帝の一人 と評され、最後は親衛隊に暗殺されます。  その後は、首都長官だったペルナティクスが擁立 され、三ヶ月も経たないうちに親衛隊に暗殺されま す。すると、親衛隊によって前代未聞の帝位競売が 起こります。つまり彼らに最も高い報酬を約束する 者を帝位につけるということです。これを競り落と したのが名門貴族出身で出世街道を着実に歩んでい たディディウスーユリアヌスでした。しかし、お金 で帝位を買ったことを蔑まれて民衆からは支持され ず、それに乗じて属州総督三名が帝位を狙って動き 始め、在位六六日間で親衛隊に暗殺されます。次に 帝位に就いたのは初の非ヨーロッパ人、属州パンノ ニア総督でカルタゴ出身のセプティミウスーセヴェ ルスでした。強大な軍事力でセヴェルス朝を開始し ます。後継者は息子カラカラで、豪奢な公共浴場を 建造し、帝国全土の自由民にローマ市民権を授与し た「アントニヌス勅令」の制定で知られています。 彼は共同統治の弟ゲタを母親の目の前で殺害するよ うな残虐な皇帝でしたが、軍を優遇したため兵士に は人気がありました。彼らのために自身も入信して いたミトラ教の神殿をカラカラ浴場下に建立しまし たが、皮肉なことに兵士によって暗殺されました。 セヴエルス朝は外戚のシリア人、ヘリオガバルス、 その従兄弟のアレクサンデルーセヴエルスと続きま す。ヘリオガバルスの女装や性的放埒がかなり脚色 されて伝わっていますが、現代では性同一性障害 だったと考えられています。二人ともI〇代前半で 即位し、野心家の母親や祖母に操られたのちに、親 衛隊や軍によって暗殺されました。五〇年あまり続 いたセヴェルス朝は終わりを告げ、三世紀の危機と 呼ばれる軍人皇帝時代(匸二五〜二八四年)に入り ます。もはや元老院は形だけで、軍が皇帝を生む時 代となるのです。   三世紀の危機  五賢帝時代のローマが平和だったのは、温暖な気 候に恵まれていたことも大きな理由の一つでした。 しかし二世紀半ば頃から気候は寒冷化に向かい、東 から西へ、北から南への民族の移動が活発になりま す。そのため、広大なローマ帝国の国境が不安定に なり、五賢帝最後のマルクスーアウレリウスもライ ン川、ドナウ川沿いの防衛線(リーメス)に押し寄 せる蛮族と戦っていました。東のパルティアや北の ゲルマニアからの蛮族の侵入、属州ガリアの反乱と、 軍の重要性は高まるばかりでした。  匸二五年から始まる約五〇年余りの軍人皇帝時代 には、なんと六〇人もの皇帝が軍隊によって擁立さ れ、そのうち元老院が承認した正式な皇帝は二六人 にのぼります。彼らはイリュリア地方と呼ばれたバ ルカン半島西部の下層階級出身者が多く、いずれも 短命政権に終わり、そのほとんどが暗殺されていま す。  ローマは、国家予算の三分の二をレギオン(ロー マ軍)の維持に使い、残りの三分の一で貧困層への 穀物配給、インフラ整備とメンテナンス、行政を担 う官吏への給与を賄うという厳しい財政状況にあり ました。不況と財政難から貨幣価値もどん底に落ち ていました。  そんな時、ローマ帝国の凋落を象徴する未曾有の 大事件が起こります。二五九年、現在のトルコ南東 部壬アッサで、時の皇帝ヴァレリアヌスがササン朝 ペルシアのシャープールー世に惨敗を喫し、七万人 の兵士とともに捕虜となり、奴隷の身に落とされて しまうのです。共同統治していた息子のガリェヌス は父の奪還をあきらめます。  ローマ帝国の権威は地に堕ちました。それを機に、 二六〇年、属州ガリアの総督が独立し、ガリア帝国 の皇帝を名乗ります。ガリアとIロにいっても、そ の先に続くヒスパニアやブリタニアも含まれていま す。もはや全軍をまとめることは困難で、各地で軍 による僭称皇帝が次々に現れますが、東方では、幸 いにもローマに忠実だった同盟国パルミラのオデナ トウスが、ペルシアを撃退した上に、エメサで僭称 皇帝を討ち取ってくれます。ところが、この武将が 暗殺され、後妻のゼノビアが幼い息子を後継者とし て実権を握ると、ローマに反旗をひるがえします。 パルミラ帝国として独立し、エジプト、パレスティ ナ、カッパドキアを奪い取り、息子に皇帝を名乗ら せたのです。ガリェヌスは未曾有の国難の中で対処 すべきことが多く、疫病の流行で兵士の間に多くの 犠牲者が出たこともあり、ガリア帝国とパルミア帝 国の問題を放置してしまいます。  ローマ帝国は三つに分かれてしまったのでした。   戦うために生まれてきた男  多くの皇帝が軍に擁立されては消えていく中で、 綺羅星のような存在だった皇帝が一人います。二七 〇年に即位した名君アウレリアヌスです。彼こそが、 ローマ帝国未曾有の危機を救ってくれた「世界の修 復者」なのです。アウレリアヌスはバルカン半島北 西部、属州パンノニアのシルミウム(現在のセルビ ア共和国ミトロヴィツツア市)出身で、父親は退役 軍人で農業を営む柢い身分だったともいわれていま す。母親が太陽神を祀る神殿の巫女だったという伝 承は、のちにアウレリアヌスが太陽神を正式な信仰 とした時にあとづけされたものでしょう。  アウレリアヌスは一兵卒から軍のキャリアを始め てローマ軍騎兵隊の総司令官にまで出世した有能な 軍人でした。規律正しく厳しい面もありましたが、 政治的手腕があり、何よりも行動が早く、将来への 展望にも長けていました。教養はなくとも思慮深い 賢人でした。  アウレリアヌスが元老院に帝位を承認されローマ に滞在していた時、属州パンノニアにヴアンダル族 と黒海北方のサルマシア人が侵入します。直ちに当 地へ向かったアウレリアヌスは、これを制圧して和 睦します。ところが、新たな脅威の知らせが入るの です。今度はかなり深刻な蛮族侵入でした。直ちに イタリアヘ駆けつけますが、ゲルマン系のアルマン 族とマルコマンニ族はすでにアルプス山脈を越えて イタリアに侵入していました。アウレリアヌスは北 イタリアのポー平原から強行軍でポストウミア街道 を進みますが、ピアチェンツァ付近の深い森の中で、 蛮族連合軍による夜間を狙った卑劣な待ち伏せ攻撃 を受け、大敗を喫します。蛮族は南へと進みアドリ ア海沿いの様々な町を略奪していき、ファロに達し ます。ファロはフラミニア街道で首都に直結してい ました。元老院はローマ侵攻も近いと恐怖に慄き、 シビュラの神託に頼ろうとしたほどでした。アウレ リアヌスは軍を立て直して蛮族を追い、ファロの少 し先、フラミニア街道沿いのメタウロ川の岸辺で追 いつき、撃退することに成功します。そして北へ逃 げた残党を壊滅させるため追いかけ、ミラノの南三 〇キロ、パヴイア付近で最終決戦をして完勝し、ピ アチェンツァの雪辱を晴らしました。   貨幣改革  いっぽう首都ローマでは深刻な貨幣問題が起きて いました。軍事的影響力をなくした元老院は公的機 関を牛耳り、汚職が蔓延していました。造幣所もそ の一つでした。金貨の重さは軽くなり、銀貨の銀含 有量は基準値を大幅に下回り、品質、重量ともに粗 悪な貨幣が濫造されていました。鋳造過程で金や銀 が抜き取られていたのです。黒幕には元老院議員が いたはずですが、証拠はありませんでした。アウレ リアヌスは鋳造所所長フェリキシムスと職人たちの 不正を摘発します。すると彼らは一部の市民を巻き 込んでチェリオの丘で反乱を起こすのです。皇帝は 厳しく対処して武力で鎮圧します。職大たちの数は 数百人、参加した市民が1000大程度と考えられ るため、七〇〇〇人の死者が出たという伝承は大げ さでしよう。  のちの二七四年にアウレリアヌスは貨幣改革を実 施します。通貨への信認を高めて帝国の経済を活性 化するため、一・五%以下にまで落ちていた銀貨の 銀含有量を五%に戻し、貨幣の重量も新たに設定し ます。また、造幣所も幾つかを閉じるなどして再編 します。そして造幣所のイニシャルを刻印し、貨幣 の発行管理をよりよく行える体制にしました。銅貨 の鋳造は廃止されたため、SC(セナトウスーコン ソルトウム=元老院発行)と刻印の入った銅貨は姿 を消すことになりました。   アウレリアヌスの城壁  アウレリアヌスの在位はわずか五年でしたが、そ の名はローマで永遠のものとなりました。彼の築い たローマを守る城壁が一七〇〇年以上を経た今もな おローマの旧市街を取り囲んでいるからです。全長 一九キロ、厚さ三・五メートル、高さ六・五メート ルで、ローマで最も重要だった北の入りロフラミニ ア城門に隣接する一部の区間では、その後の修復工 事によって一五メートルの高さにも及びます。  この城壁を築いた時、ローマは歴史的な分岐点に ありました。それまでローマはローマが攻略される わけがないという確信に満ちて生きてきました。比 類なき覇権者として優位を保つ町だと信じ切ってい たのです。しかし、この時、凋落の兆しが現れ始め、 異民族の襲撃に打ち負かされるのではないかという 懸念を抱くようになっていました。異民族の概念は 変わりつつありました。ローマ人にとって、かつて 軍事的征服の対象だった異民族は、今では脅威その ものになっていたのです。  壮大で堂々とした新しい城壁は、不滅の強国を感 じさせるようなものでした。ローマには紀元前の王 政時代に築かれたセルヴィウスの城壁がほんの一部 残っていましたが、二つの城壁には根本的な相違が ありました。セルヴィウスの城壁は、城壁の中に暮 らすローマ人のアイデンティティを示す役割の方が 大きく、内側を見つめていました。いっぽうアウレ リアヌスの城壁は、蛮族の脅威、つまり外側を見つ めていたのです。  巨大な事業を遂行するにあたって、時間とお金を 節約するために工夫されたことは、城壁の通る道筋 にある建造物をそのままの形で組み込んだことでし た。水道橋、ヘリオガバルスの円形闘技場、ガイウ スーケスティウスのピラミッドなどを、今も城壁と ともに見ることができます。ちなみに、四一〇年の ローマ略奪で、西ゴート王のアラリック一世は、内 通者によって開かれたサラリア街道の城門からロー マ入城を果たしています。アウレリアヌスの城壁を 打ち破ったわけではないのです。   ダキア放棄  城壁の建設が始まると、アウレリアヌスはパルミ ラ問題を片づけるための準備に入りますが、予期せ ぬことが起こります。コート族が属州ダキアに侵入 したのです。ダキアはトラヤヌスが征服した土地で ローマ化か進んでいた場所でした。現在はルーマニ アとなっていますが、ラテン語系の言語を話すルー マニア人は、ローマ化されたダキア人が祖先だとい われています。  アウレリアヌスがダキアに到着した時、ドナウ川 周辺地帯は略奪されたあとでした。蛮族を攻めてド ナウ川の向こうに追いやり、後背地で打ちのめしま したが、彼は、講和の段階で、侵略を続ける蛮族を 食い止めるには戦略を変える必要があるのではない かと考えました。首都を守るために城壁を築くのな ら、帝国を守るためにダキアを犠牲とすることもあ り得るのではないか、そうすればドナウ川防衛線に かかる莫大な費用を抑えることができると考えたの です。  こうしてアウレリアヌスはドナウ川北側に広がる 属州ダキアをコート族に譲渡し、ドナウ川南岸のモ 于ソアの一部とダルマティアの一部を併せて属州新 ダキアを新設しました。そしてダキアにいたローマ 市民を南岸に移住させたのでした。  ダキアを放棄するという決断は、軍事上の問題を 軍人らしいひらめきで解決したものです。ドナウ川 防衛線の確立で、これまでより防衛線が狭まり、警 備に必要な兵士は以前より少なくて済みます。こう して、防衛線に常駐していた軍の一部をパルミラ攻 略のための戦争に連れて行くこともできました。ア ウレリアヌスは、短期間で状況を把握し、最も有益 な方法を考えて、即座に実行に移すことができる、 極めて優秀な皇帝でした。   ゼノビア女王  パルミラの勢力はエジプト、シリア、小アジア、 東方全体に拡大していましたが、それをローマがI 〇年あまり黙認していたのは、蛮族の侵入の対策に 追われていたことに加えて、表面的にはパルミラが ローマ帝国の下にあることを明示していたからでし た。しかし、ゼノビアが息子を皇帝(アウグストゥ ス)、自身をアウグスタ(アウグストゥスの女性形) と称すると状況は変わります。アウレリアヌスは降 伏するよう呼びかけますが、ゼノビアが抗戦の意思 を示したため、ドナウ川防衛線から軍を率いてパル ミラ領となった小アジアへ向かいます。各都市へ解 放者として進軍し、降伏後は寛大な処置を取ったた め、無駄な血を流すことなく、属州シリアのアン テイオキアヘ着き、オロンテス川そばの平原でパル ミラ軍との一回目の本格的な戦闘を行います。パル ミラ騎兵隊は人も馬も鎧をつけた重装騎兵隊で、見 ただけで威圧感がありました。しかし軽装のローマ 騎兵隊は、相手を挑発しては追わせることを繰り返 し、暑さの中で彼らが疲れ果てたところを全力で攻 撃し、見事に勝利を収めます。かつてローマ騎兵隊 の総司令官だったアウレリアヌスの戦略勝ちでした。  ゼノビアは残った軍を率いて二〇〇キロ先のエメ サヘ退却し、そこで別の騎兵隊を加えて、第二戦と なりました。パルミラ騎兵隊は数の上でも攻撃の点 でもローマ騎兵隊を上同っていましたが、アウレリ アヌスはここでも新たな戦略を使います。ローマ騎 兵隊を追ってきたパルミラ騎兵隊の隊列が崩れる時 を狙って、横からローマ歩兵団が棍棒で襲ったので す。思いがけない襲撃に混乱して倒れたり逃げ惑っ たりする彼らを打ちのめすのは簡単でした。この時、 ゼノビアの息子も戦死しています。  ゼノビアは側近だちとパルミラに戻り籠城します。 彼らは、砂漠の中ではローマ軍の兵糧補給は難しい と踏んでいましたが、アウレリアヌスはエメサから の補給網を確保し、敵が降伏するまでの持久戦に持 ち込みます。そして、ゼノビアが夜の闇に紛れて重 臣とともにラクダに乗ってペルシアヘ向かった時、 ローマ軍はユーフラテス川の手前で彼女らを捕えま した。ゼノビアは、大きな黒い瞳と真珠のように自 い歯を持つ絶世の美女といわれましたが、男性の君 主と同じように甲胄を身にまとう勇敢な女性でもあ りました。けれどもクレオパトラに憧れていた彼女 が、クレオパトラになることは決してありませんで した。ローマへの反逆行為を重臣たちのせいにして 命乞いをし、ローマヘ捕虜として連行されることを 選んだからです。  その後、パルミラではアウレリアヌスの寛容さを 逆手にとった反乱が起こり、二七三年、パルミラは 完全に破壊されます。   ガリア奪回とソルーインヴィクトス   (無敵の太陽神)  パルミラ帝国を滅ぼして東方を取り戻したアウレ リアヌスは元老院とローマ市民に熱狂的に迎えられ ますが、凱旋式を挙げるのは待つことにします。ガ リアの分立問題を解決する必要があると考えたから です。二七四年、アウレリアヌスは西のガリア帝国 へ進軍します。  その頃のガリア皇帝は裕福な元老院議員の家系に あるテトリクスで、同名の息子を共同皇帝としてい ました。ゲルマン人の侵入やガリアーベルギカ(現 在のベネルクス三国)総督フアウステイヌスの反乱 に悩まされていましたが、テトリクスはアウレリア ヌスの侵攻を受けてライン軍団を南方へ移動し、現 在のシャンパーニュ地方にあたる平原でカタラウヌ ムの戦いに臨みます。ローマ軍が圧倒的な勝利を収 め、テトリクスと息子は捕虜としてローマヘ連行さ れました。ちなみにテトリクスがアウレリアヌスと 事前交渉して、身の安全を確保した上でガリア帝国 を引き渡したと伝える史料もありますが、史実では ないと考える研究者が多いようです。  いずれにしても、アウレリアヌスは西方属州のガ リア、ゲルマニア、ヒスパニア、ブリタニアをロー マ帝国に取り戻したのです。  古来、太陽神信仰は各地に存在していました。 ローマにもギリシア神話のヘリオス(アポロン)、 ローマ神話のソル、ローマの軍人に信仰された東方 由来のミトラ神、ヘリオガバルスがシリアのエメサ からもたらしたソルーインヴィクトス(無敵の太陽 神)などがありました。アウレリアヌスは、エメサ でソルーインヴィクトスの恩寵を受けてパルミラを 下すことができたとして、ローマ帰還後に神殿を建 立することを明言していました。  二七四年末、アウレリアヌスは、神殿の落成式を 機にソルーインヴィクトスをローマの正式な信仰と します。目的は、ローマ帝国の全市民に連帯感をも たらすことと皇帝権力の絶対化でした。太陽神信仰 は形を変えて各地に存在していたため、その中心に ソルーインヴィクトウスを置くことで宗教的一体感 を演出したのです。そして、太陽神が人類普遍の神 であるのと同様に、神に選ばれ恩寵を受けた皇帝は 全世界の支配者であるというイデオロギーを構築し ようとしたのでした。   世界の修復者  二七四年のアウレリアヌスの凱旋式は、まるで ローマがかつての栄華を取り戻したかのように華々 しいものでした。行列はエキゾチックな動物集団、 象や虎やキリンなどで始まり、八〇〇組の剣闘士、 多くの宝物を掲げた多様な征服地の捕虜、鎖で手を 縛られた蛮族の捕虜へと続き、パルミラ帝国の女王 ゼノビア、ガリア帝国の皇帝テトリクスとその息子 も見せ物となりました。  ゼノビアは、ローマ人が見たこともないような豪 奢な姿で、たくさんの大きな宝石を身につけ、その 重さで身体を支えることができないほどでした。足 元は黄金に包まれ、手と首には黄金の鎖がかけられ、 ペルシアの小姓がそばについていました。いっぽう テトリクスはガリア風のズボンをはき、緑の単衣を 着て、鎖につながれていました。  凱旋将軍アウレリアヌスは、凱旋車の上で真紅の マントをひるがえしてフオローロマーノの聖なる道 をカピトリーノの丘へ向かって進みます。戦車は四 頭の白馬ではなく、見事な角を持った四頭の大雄鹿 で引かれていました。この大雄鹿はユピテル神殿の 祭儀で神に生け贄として捧げられましたが、捕虜た ちには寛大な措置がとられました。伝承では、ゼノ ビアは元老院議員と結婚し、ローマ郊外のティボリ の邸宅に暮らしたそうです。いっぽうテトリクスは チェリオの丘に屋敷をもらい、南イタリアのルカニ ア地方(現在のバジリカータとサレルノ)の総督と なり、息子にも元老院の議席が与えられたといいま す。  アウレリアヌスは、三つに分裂していたローマ帝 国を再統一した功績で「世界の修復者」という称号 を受けました。   非業の死  二六〇年にヴアレリアヌスが受けた屈辱的な出来 事以来、ローマはペルシアと直接対決をしていませ んでした。辺境では常に小規模な争いが生じていた ため、アウレリアヌスはまず北のガリアでアレマン 族を抑え、そこから東へ下ってバルカン半島でゴー 卜族と戦闘したあと、大軍団を率いてペルシアヘ向 かいます。この危険に満ちたペルシア遠征の動機は、 おそらく最初に自分を認めてくれたヴアレリアヌス の仇を打ち、ローマ帝国の威信を取り戻し、属州メ ソポタミアとレバント(地中海東岸地域)諸国の奪 回だったのでしょう。しかし、それを果たすことは できませんでした。  アウレリアヌスはビザンティオンの手前の町で将 校たちに殺害されます。二七五年一一月のことでし た。属州の将校たちの汚職を厳しく罰していたから だともいわれますが、一般的にはエロスという名の 秘書官が企んだことだとされています。自身が犯し た過失を咎められ、極刑を恐れた彼は、自分の身を 守るため一部の将校たちを騙すことを考え、皇帝の 筆跡を巧みにまねて彼らの名前を書き入れた処刑者 リストを偽造しました。それを見せられて恐れ慄い た彼らは、事実かどうかも確かめず、途中休憩した 町で護衛がいない時を狙ってアウレリアヌスを殺害 したのです。  ローマ帝国の人々は口が利けなくなるほどの衝撃 を受けます。この謀反に無関係だった将校たちも兵 士たちも、一兵卒から皇帝にまでのぼりつめ、「世 界の修復者」として栄誉を受けた尊敬すべき総司令 官の死に泣き崩れ、市民たちも心からの涙を流しま す。  わずか五年の在位でしたが、アウレリアヌスは歴 史に煌めく痕跡を残した最後の皇帝だったといえる でしょう。 この時代のローマ   イタリア史における中世  西洋史は、古代、中世前期、中世後期、近代、現 代と時代区分されますが、これは便宜的なもので学 者によっても意見が分かれています。イタリアでは、 中世前期はいわゆる西ローマ帝国の滅亡(四七六 年)の五世紀からI〇世紀まで、中世後期は一一世 紀(一〇〇一年)からコロン(コロンブス。本書で はイタリア名コロンボをスペイン宮廷に仕えたこと を考慮してスペイン語表記にしています)が新大陸 へ到達する一四九二年までをさします。  中世は、かつて暗黒時代と呼ばれていました。こ の概念は、ルネッサンス期に中世を古典文化の衰退 期ととらえて「無知と迷信の時代」と見なしたこと から生まれたものですが、現在では誤解を招くよう な言葉は使わないようになっています。経済や文化 活動が低迷した中世においても、ビザンティン、カ ロリングールネッサンス、ロマネスク、ゴシックと、 個性的で独自の文化が花開きました。   ゲルマン人の移動とローマ  ゲルマン人は、三世紀の軍人皇帝時代以降、フォ エデラティ(ローマ帝国が金銭を与えて傭兵の供給 を受ける蛮族との取引)によって帝国領内に共存し ていましたが、四世紀後半から民族の大移動が始ま ります。気候変動が原因でフン族が西へ移動を始め、 ゲルマン系の諸部族が圧迫されて南下を始めたので す。大移動は約二〇〇年にわたって続き、西コート、 東コート、ブルグント、フランク、ヴアンダル、ア ングローサクソンの建国が続きます。五六八年、ラ ンゴバルド王国が北イタリアに成立すると、ようや く民族の大移動は落ち着きました。  ローマは、四一〇年の西コート、四五五年のヴア ンダル、五四六年の東コートと、三度の略奪を受け て辛い時代に入っていました。百万都市だったロー マの人口は十分の一以下となり、蛮族による水道施 設の破壊でローマ市民はテヴェレ川の水を頼る生活 になりました。ローマ市の運営はローマ教皇の役割 となっていきます。六世紀末には大洪水に見舞われ、 ペストも流行しました。この頃の教皇グレゴリウス 一世は大教皇として知られています。高潔な人物で、 貧者を助け人々を導き、聖圉や音楽(グレゴリオ聖 歌)を使って文字の読めない異民族に布教活動を続 けました。   教会と修道院  西ヨーロッパの中世はキリスト教の時代です。信 仰は、人々の誕生から死まで人生の節目となる儀式 だけでなく、戦乱や天災など不安の多い時代の心の 拠り所にもなりました。ローマ教会はすでに遺贈や お布施で莫大な資産を所有していました。教皇庁が 国家機能と文化的役割を果たす反面、聖職者の腐敗 が見られるようになります。いっぽう世俗を離れた 修行の場であり荘園も所有する修道院は、信仰、学 問、経済活動で重要な存在となります。六世紀にベ ネディクトゥスがモンテーカシーノに創設したベネ ディクト修道会は厳しい戒律と「祈りと労働」を モットーにヨーロッパ各地に広がっていきました。 学問は神学が最高とされ、当時の知識人は聖職者や 修道士で、ラテン語が共通語でした。   ゲルマン国家と教皇領  ゲルマン諸国家の大半は短命でしたが、着実に領 土を広げたのがフランク王国でした。四八一年にフ ランク王となったメロヴィング家のクローヴィスは アリウス派キリスト教(キリストは救世主だが人間 だという教義)からアタナシウス派(キリストは神 の子で、神と精霊と三位一体だという教義)に改宗 し、ローマ教皇と密接な関係を築くようになります。 メロヴィング朝が衰退すると、宮宰力−ルーマルテ ルがイベリア半島のイスラム軍のフランス侵入を押 さえて西方キリスト教世界を守り、その息子ピピン 三世が七五一年にカロリング朝を開きます。ちょう どその頃、東のローマ帝国の総督府のあったラヴェ ンナがランゴバルド王国に攻略され、時の教皇ステ ファヌス三世は、宗教的権威としてピピン三世の王 位の正当性を認める代わりに、ランゴバルドを追い 払うよう求めます。七五六年、ピピン三世はランゴ バルトを追い払うと、そのまま教皇ステファヌス三 世に寄進します(ピピンの寄進)。これが教皇領の 始まりで、ローマ教皇は世俗君主の顔を持つことに なったのです。   東方と西方のキリスト教会  本書では、カトリック教会をローマ教会、東方正 教会を東方教会と記述しています。カトリックとい う言葉には「普遍的な」という意味があり、正教と いう言葉には「正統な」という意味があるので、中 立の立場を取るためです。  ローマ教会はフランク王国と結託して西方キリス ト教世界を形成していきます。もともと五本山 (ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキ ア、エルサレム、アレクサンドリア)と呼ばれるキ リスト教会があり、当時は使徒ヘテロの墓を抱く ローマ教会よリコンスタンティノープルの東方教会 のほうが上の立場にありました。  七二六年、東のローマ帝国のレオン三世が聖像崇 拝禁止令(イコノクラスム)を発布します。しかし 文化度の高い東方と異なり、文字の読めないゲルマ ン人に布教活動をしていたローマ教会には聖像が不 可欠でした。二つの教会の対立は決定的なものとな ります。東方教会でイコン制作をしていたギリシア 人修道士たちはローマヘ逃れ、七八二年、教皇ハド リアヌス一世はギリシア人居住区にあるサンターマ リアーインーコスメディン聖堂(現在の真実の口広 場にある教会)を彼らに与えました。  ローマ教皇レオ三世は、八〇〇年、ピピンの息子 カールをローマ皇帝に戴冠(カール大帝の戴冠)し、 東のローマ帝国および東方教会と決別します。カー ルの死後は内紛が起こり、八四三年のヴェルダン条 約と八七〇年のメルセン条約で、西フランク王国、 東フランク王国、イタリア王国に分かれ(図9)、 その後、東西のフランク王国は滅亡し、西フランク はカペー朝フランス、東フランクはザクセン朝ドイ ツとなります。九六二年、ドイツのオットー一世が マジャール人の侵入を撃退すると、教皇よりローマ  なお、一〇五四年に東西教会は相互破門して分裂 しました。   ローマ帝国とは?  ローマ帝国、西ローマ帝国、東ローマ帝国、ビザ ンツ帝国、神聖ローマ帝国、様々な呼称について説 明しておきましよう。  初代皇帝アウグストゥスによって始まったローマ 帝国は、コンスタンテイノープルヘの遷都後も、い わゆる西ローマ帝国の滅亡といわれる西方皇帝の廃 位後もローマ帝国であり続けます。東西に分けるの は便宜上、後世の人間が作り出したもので、当時の 人々にとってローマ帝国はあくまでも一つで、そこ に暮らす人々にはローマ人という意識がありました。 ビザンツ帝国は、八世紀以降、東のローマ帝国が体 質も文化も本来のローマ帝国からかけ離れてしまっ たために使われる呼称です。  カール大帝の誕生は、西方にローマ帝国が復活し たことを意味しますが、フランク王国=ローマ帝国 ではなく、王と皇帝を兼任するという形でした。い わゆる神聖ローマ帝国も新たな国家の誕生ではなく、 西方のローマ帝国がカール大帝のフランク王国を経 てドイツ王に継承されただけです。神聖ローマ帝国 という国号は、一三世紀半ばのホーエンシュタウ フェン朝斷絶後の大空位時代から用いられるように なりました。その後、イタリア王権を失い、一五一 二年以降は、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」とい う国号になりました。   封建社会と叙任権闘争  長く混乱が続いた西ヨーロッパでは、八世紀頃か ら農業中心の封建的主従関係が発展します。貨幣よ りも現物が価値を持つようになり、弱者が身近な有 力者に庇護を求めたからです。領主の荘園で働く農 民は農奴と呼ばれる自由のない身分で、これは古代 ローマ帝国時代のコロヌスに由来します。荘園は各 地の大司教や修道院も所有しており、ローマ教会に 莫大な富をもたらします。また、有力者同士の政治 的な結びつきも始まりました。  八四六年、急激に勢力を広げたイスラムがローマ を襲撃します。アウレリアヌスの城壁のおかげで旧 市街には侵入できませんでしたが、城壁の外のサ ンーピエトロ大聖堂やサンーパオロ大聖堂は略奪さ れました。教皇レオ四世はヴァティカンを守る 「ムーラーレオニーネ」(教皇レオの城壁)を築き、 「ローマの修復者」と呼ばれます。  一〇世紀前半のローマ教会は堕落し、教皇と愛人 関係にあったといわれるマロツイアという女性が教 皇庁を思いのままに操りました。息子のアルベリコ の善政時代も含めて、六〇年あまり続く時代は「ポ ルノクラシー」と呼ばれています。  皇帝は高位聖職者に世俗の人間を任命することで ローマ教会に介入し、教皇選出に影響を与えるよう になります。世俗権力の介入は聖職売買の土壌にも なりました。そこでフランスのクリュニー修道院が 中心となって教会改革運動を始めましたが、教皇グ レゴリウス七世も改革を押し進め、聖職売買や聖職 者の妻帯を禁じ、聖職者の任命権(叙任権)をめ ぐって皇帝と熾烈な争いを行いました(叙任権闘 争)。  グレゴリウス七世は教皇の優位性を主張して、一 〇七六年、ローマ皇帝(インリヒ四世を破門します。 帝権の強化を懸念していたドイツ諸侯たちは、破門 が解除されなければ廃位すると皇帝を脅したため、 一〇七七年、皇帝は教皇に謝罪します(カノッサの 屈辱)。しかしI〇八四年、皇帝は勢力を立て直し てローマを攻め、これに対してグレゴリウス七世は ノルマン人のグイスカルドに援軍を頼み、ローマの 略奪を招いてしまいます。  皇帝と教皇の権力闘争にはバローネと呼ばれる ローマの貴族たちもかかわり、二派に分かれて激し い抗争を始めます。中でも皇帝派のフランジパニ一 族は権勢をふるい、ローマの主要区域を支配しまし た。  なお、叙任権闘争は一二二一年のヴォルムス協約 で妥協を迎えます。  十字軍  一一世紀後半、トルコ系セルジューク朝が小アジ アや聖地エルサレムを支配下に置き、脅かされた東 のローマ皇帝アレクシオスー世は、教皇ウルバヌス ニ世に援軍を要請しました。教皇はI〇九五年のク レルモンの宗教会議で聖地回復の聖戦を提唱し、一 ○九六年から各国の諸侯や騎士で構成された十字軍 遠征が始まります。匸一七〇年まで全部で七同行わ れますが、聖地回復の目的は達成されませんでした。 けれども十字軍遠征がきっかけで中継地となった ヴ子不ツィアなどのイタリア諸都市は繁栄し、東方 との交易や交流が盛んになっていきます。また、第 一同十字軍のあと、中世ヨーロッパの騎士修道会で ある聖ヨ(ネ騎士団(現在はマルタ騎士団)、テン プル騎士団、ドイツ騎士団などが誕生します。   コムーネと教皇国家  一一世紀に入ると西ヨーロッパの気候は温暖にな り、三圃式農業(農地を三つに分け、春蒔き耕地、 秋蒔き耕地、休耕地として年ごとにローテーション で利用して三年で一巡する土地利用法)の普及や農 業技術の進歩により農業生産が増大します。余剰生 産物は商工業の発展を促し、人々は豊かになり、封 建領主の支配から自由になろうとします。こうして イタリア各地にシェナやフィレンツェなどの自治都 市(コムーネ)が次々に生まれるのです。また、商 業圈の発展はアマルフィ、ピサ、ヴ子不ツィアや ジェノヴァなど海洋都市の繁栄を導きました。  ローマは教皇国家という特殊な都市だったため、 イタリア半島の諸都市とは状況も発展過程も異なり ますが、一一四三年、ローマでも自治権獲得のため 元老院再建運動が起こります。教皇とバローネはこ れをつぶそうとしてローマは動乱状態に陥り、そこ ヘパリの神学者アベラールのもとで学んだ修道士ア ルナルドーダーブレツシヤが現れ、この運動を先導 します。彼は教皇の世俗権力を否定して人気を得ま すが、最終的に異端判決を受けて処刑されました。 一一八八年、教皇クレメンス三世が自治政府を認め、 ローマのコムーネは匸一九八年まで続きます。   聖年1アヴィニョン捕囚1ペスト  一三世紀は西ヨーロッパ経済の高度成長期でした。 イタリアの自治都市は商業活動で飛躍的に発展し、 商業圈を東方や西方にも広げます。これに伴い貨幣 経済と金融業が発展し、フィレンツェやヴ子不ツィ アなどは莫大な富を蓄積します。経済の発展はその ままローマ教会の増収につながりました。  ボニファティウスハ世が教皇に登位した匸一九四 年は、まさにその絶頂期にありました。その頃、フ ランス王フィリップ四世がイングランドとの戦費調 達のため教会にも課税を始めます。フランス教会か らの献金は教皇庁の大切な収入源たったため、教皇 は教会課税禁止の勅令を出して対抗します。さらに 一三〇〇年を聖年として、この年にローマを巡礼す れば神の赦しが得られるという、史上初の大恩赦の 年を制定します。その結果、教皇庁の財政はますま す潤いました。しかし教会課税問題はあとを引き、 フィリップ四世は三部会で国内の支持を得た上で、 教皇の政敵コロンナ家と共謀し、匸一〇三年、ア ナーニの別邸に滞在中の教皇を襲撃します(アナー ニ事件)。教皇は救出されますが、憤死してしまい ます。  匸一〇九年、フィリップ四世は教皇庁をフランス のアヴィニョンヘ移転させます。これをユダヤ人の バビロン捕囚にたとえてアヴィニョン捕囚と呼びま す。約七〇年続き、教皇庁のローマ帰還後も、フラ ンスはアヴィニョンに対立教皇を立て続け、教皇庁 が二つ並ぶという異常事態が続きます(教会大分 裂・大シスマ)。この分裂は、一四一七年、コロン ナ家出身の教皇マルティヌス五世がローマに戻るま で続きました。  アナーニ事件に続く教皇のアヴイニョン捕囚で、 教皇の権威は地に落ちてしまいます。そして、匸一 四八年にはヨーロッパ全土をペスト(黒死病)が襲 います。一四世紀に入って寒冷化か始まり、飢饉で 飢えた人々には病原体への抵抗力がありませんでし た。一三五一年まで流行を繰り返し、ヨーロッパの 全人口の約三分の一が死んだといわれます。  6レオ四世  イスラムの脅威  七世紀初頭にムハンマドが創始したイスラム教は 瞬く間に広がり、イスラム教徒は七世紀半ばから大 規模な征服活動を行います。エルサレム、シリア、 エジプトを制覇し、東のローマ帝国も領土の大半を 失いました。八世紀に入るとイベリア半島を掌握し、 地中海の制海権も確保します。さらにピレネー山脈 を越えてフランスに侵入しようとしますが、七三二 年、フランク王国メロビング朝の宮宰力−ルーマル テルがトゥールーポワティエの戦いで撃退します。 しかし、地中海世界は政治的・文化的統一を失いつ つあり、東西教会は聖像崇拝禁止令(イコノクラス ム)で対立していました。  ローマ教会はカールーマルテルの息子ピピン三世 のカロリング朝フランク王国を承認することで教皇 領を得て、以後、フランク王国と西方キリスト教世 界の形成に努めます。ピピンの息子カール大帝 (シャルルマーニュ)は外敵を次々に打ち負かして 西ヨーロッパ統一を成し遂げ、八〇〇年、教皇レオ 三世よりローマ皇帝として戴冠されます。けれども 大帝の死後、王国は分裂して弱体化し、西方キリス ト教世界の統一はひと時の夢に終わってしまいまし た。  そうして、再び無秩序な世界へ戻っていきます。 北方のバイキング、ノルマン人やデーン人が西ヨー ロッパやイングランドヘ侵入し、東ヨーロッパは蛮 族マジャール人に壊滅状態にされます。何にもまし てイスラム勢力は脅威でした。イスラム世界と海を 隔てるだけで西方キリスト教世界の最前線にあった イタリア半島とローマは、彼らの標的となります。 この頃すでにイスラムは軍事力だけでなく、経済的 にも文化的にも高度な水準に達していました。   イスラムのローマ略奪  サラセン人(中世ヨーロッパにおけるイスラム教 徒の呼称)はシチリアと南イタリアのプーリアを征 服したあと、ナポリ北部のカステルーヴォルトウル ノを攻略します。そして八四六年八月、七五隻の小 艦隊を率いてローマの外港オスティアからテヴェレ 川を遡リ、ついにローマヘ、ポルトウェンセ城門近 くのリーパーグランデ港へ到達するのです。しかし 頑強なアウレリアヌスの城壁に阻まれて、彼らはど うやってもローマへ侵入することができませんでし た。そこで城壁の外に位置するヴァティカンのサ ンーピエトロ大聖堂を襲撃することにしました。そ こにはコンスタンティヌス以来、五世紀にわたって 集められた芸術品や数多の君主や教皇たちが奉納し た財宝があり、彼らはそれらのすべてを略奪します。 聖圉を破壊し、聖堂の扉を覆った金や銀をもはぎと り、黄金の主祭壇が最大の戦利品となりました。さ らに聖ヘテロのクリプタ(地下聖堂)も破壊して宗 教的冒涜も行います。この場所はローマ教会の聖性 を象徴していました。それが汚された事実は、キリ スト教世界全体に大きな衝撃を与えました。サラセ ン人はサンーピエトロの略奪が終わると、近くにあ る聖堂も同じように略奪して火をつけました。それ から船の停泊している方へ戻り、そこから近い城壁 の外のベネディクト会の修道院やサンーパオロ大聖 堂も同じように略奪し、冒涜したのです。  時の教皇セルギウスニ世(在位八四四〜八四七 年)は、皇帝ロクールー世に救援を要請しますが、 彼らは何のアクションも起こしませんでした。カー ル大帝の後継者たちには大帝のような実力もカリス マ性もなく、フランクの勢力は弱体化していたので す。その代わり、ローマの北にあるランゴバルド系 のスポレート公国のグイードー世が駆けつけ、サラ セン人をローマ北西の沿岸チヴイタヴェツキアまで 敗走させます。一部の海賊たちは陸路から南へ逃げ ましたが、ナポリ公の息子チェザーリオ率いるナポ リ軍が迎撃して打ち勝ち、略奪品の一部を取り返し てくれました。  八四七年一月、セルギウスニ世は、ローマを襲っ た悲劇にひどく心を痛めて亡くなります。   教皇レオ四世の奇跡  後任の教皇レオ四世(在位八四七〜八五五年)は ローマ出身ですが、俗名もはっきりしていません。 分かっているのは父親の名前で、そこからランゴバ ルド系であったと推測されています。ヴァティカン のベネディクト会サンーマルティーノ修道院で学び、 教皇グレゴリウス四世に高い評価を受けて副助祭と なり、満場一致で新教皇に選出された時は、チェリ オの丘のサンティークワトローコロナーティ聖堂を 名義教会(枢機卿に与えられる教会)とする枢機卿 でした。  ローマは数ヶ月前にサンーピエトロ大聖堂などを 略奪されたばかりで非常事態にありました。切迫す るサラセン人への危機感から、皇帝の正式承認まで とても待てる状況にはなく、セルギウスニ世が亡く なったその日(一月二七日)に選出後、直ちに登位 しました。ロタール一世がこの件に関して憤慨する ことはありませんでした。おそらくサラセン人の襲 撃の際にローマを守らなかったことを自覚していた からでしょう。いずれにしても四月一〇日に皇帝に よる任命式を行っています。  新教皇が選出された八四七年、ローマ市民はサラ セン大が再び来るのではないかという不安に苛まれ ていました。その上、ローマで大きな地震が起こっ たのです。それはコロッセウムの一部が崩落するほ どもので、ヴァティカンそばのボルゴ地区では地震 による火災が発生しました。おりからの強い風で火 は燃え広がり、サンーピエトロ大聖堂の柱廊にまで 迫る勢いでした。火災の知らせを受けたレオ四世は、 急いで現場に駆けつけると、激しく燃える炎を前に して神に祈り始めました。そして、十字架を切った その瞬間、不思議なことに広範囲で燃え上がってい た火は消えていきました。この出来事は、レオ四世 の奇跡として、ヴァティカン宮殿(現在のヴァティ カン美術館)のユリウスニ世の教皇居室「火災の 間」にラフアエッロによって描かれています。   ローマの修復者  サラセン人はローマ近海で海賊行為を続けていま した。八四六年の略奪でローマが受けた傷は大きく、 レオ四世はヴァティカンの丘を防御する城壁の必要 性を痛感します。三世紀後半に築かれたアウレリア ヌスの城壁は頑強でしたが、建造された当時は、 ヴァティカンの丘にはカリグラの競技場(ローマの 大火でネロがキリスト教徒を処刑した場所)があっ ただけで、住む人もなく、城壁の内側には組み込ま れていませんでした。キリスト教が公認される前の ことでした。  けれども、それから五世紀が過ぎると、聖ヘテロ の墓所の上にはサンーピエトロ大聖堂が立ち、ヴァ ティカン宮殿も建てられ、周辺には外国人居住者も 含めて多くの市民が暮らしていました。それまでに もローマはコート族やヴアンダル族の略奪を受けて いましたが、彼らは西方キリスト教世界の聖地であ るヴァティカンを冒涜することはありませんでした。 皮肉にも市民は、かつての蛮族による略奪で荒廃し たローマの中心部からテヴェレ川沿いやヴァティカ ン周辺に移り住んでいたのです。  教皇はローマの安全を第一に考え、八四八年、 ローマ再建と防御体制の構築を開始します。もちろ ん苦境にあった市民への食糧供給も忘れませんでし た。  破壊されたサンーピエトロ大聖堂とサンーパオロ 大聖堂の修復にとりかかり、略奪された貴重な装飾 を再び施します。サンーピエトロの主祭壇は宝石を ちりばめた金で覆われ、その上には純銀製の聖体容 器が置かれ、壺、香炉、燭台、聖杯も銀で覆われ宝 石がちりばめられていました。東方からは絹や真珠 や宝石の寄贈も届きました。サンーパオロ大聖堂も 同様に貴重な進物でいっぱいになりました。  アウレリアヌスの城壁の修復では、教皇自らが徒 歩や馬で工事現場を見守り、工事に従事する労働者 を元気づけます。城門の扉部分を補強して要塞化し、 破壊された一五の塔を修復し、テヴェレ川のリー パーグランデ港に近いポルトウェンセ城門にも二つ の塔を建てました。港も要塞化しています。  教皇は、ローマ近郊の町の再建も忘れませんでし た。八匸一年にサラセン人の襲撃を受けていたチ ヴィタヴェツキアの港を修復し、破壊された町から 少し離れた場所に要塞化した新たな町を築き、住民 全体を移住させました。そして、海賊の略奪にあっ た内陸部、トウーシア、オルテ、アメリアなどの町 の再建にも努めました。  レオ四世が行った最も輝かしい事業は、ヴァティ カンを取り囲む城壁でしょう。「ムーラーレオニー ネ」と呼ばれる城壁を築いたのです。この事業にあ たって、教皇は皇帝ロクールー世に事業の計画を伝 え、皇帝から承認されて支援金を受けました。さら に、教皇領全土の都市国家やローマ教会、修道院か らも義援金をもらいます。  城壁は、テヴェレ川沿いの聖天使城から始まり ヴァティカンの丘をぐるりと取り囲んで弓状に曲 がって再びテヴェレ川沿いのサントースピリト門ま で続いていました。その内側にサンーピエトロ大聖 堂、ヴァティカン宮殿と庭園、居住地区ボルゴが包 まれているのです。城壁は凝灰岩とレンガで築かれ、 高さは匸一メートルもありました。二四もの塔も備 え、城壁から内側への入り口は三つありました。聖 天使城の裏にある小さな「聖天使の城門」、皇帝が 入城する正式な「聖ヘテロの城門」、ヴァティカン とトラステヴェレを結ぶ「サントースピリトの城 門」ですが、のちに城壁の拡張とともに城門の数も 増えていき、聖天使城とヴァティカン宮殿を結ぶ秘 密の通路「パセット」も造られます。  八五二年六月二七日、城壁の完成を祝って厳かな 祭典が行われます。七人の枢機卿が聖水をまきなが ら、教皇を先頭に枢機卿や司教、修道士、ローマ貴 族、続いて市民たちが行列を作り、聖歌を歌いなが ら城壁の周りを練り歩きました。  それまでにもローマの防御体制を向上させようと した教皇はいましたが、広範囲にわたる事業でロー マの君主としての統治権を具体的に示すことができ たのはレオ四世が初めてでしよう。当時、城壁に囲 まれたヴァティカンとローマ近郊チヴィタヴェツキ アの新たな要塞都市は、前者を「キヴィタスーレオ ニーナ」(レオの都)、後者を「レオポリス」(レオ の都市)と呼んでいました。こうして、レオ四世は 「ローマの修復者」となったのです。   オスティアの海戦  レオ四世の偉大さは、これだけではありませんで した。ヴァティカンを守る城壁だけでなく、近隣の 同盟国と連合海軍を構築します。防衛だけでなく、 沿岸一帯の商業航路を確保するためでもありました。 ガエタ、ナポリ、アマルフィ、ソレントなどの君主 とともにサラセン大に対抗する強大な艦隊を形成す るのです。  八四九年、サラセン人の海賊船がローマの外港へ 向かうのに気づいたナポリ海軍の司令官チェザーリ オは、直ちに教皇庁に知らせると、ナポリ、ガエタ、 アマルフィの連合海軍とローマヘ向かいます。レオ 四世もローマの外港都市オスティアまで出向きます。 そして、グレゴリウス四世が要塞化していたオス ティアの町(グレゴリオーポリ)の教会で兵士たち を前にミサを挙げ、彼らを祝福しました。  翌朝、オスティアの沖合にサラセン海賊の船団が 見えてきました。チェザーリオ率いる連合海軍は直 ちに攻撃を始め、敵の船団の一部を沈没させます。 神のご加護でしょうか、やがて天候が変わって嵐と なります。これによってサラセン海賊の船団は大敗 し、連合軍はまったく被害を受けないまま勝利しま した。  オスティアの海戦での勝利は、レオ四世が起こし た奇跡、聖ヘテロと聖パウロのご加護による結果だ とされましたが、真の主役はチェザーリオでしよう。 一五七一年のレパントの海戦以前に、イスラム教徒 との海戦でこのような大勝利を収めたことはありま せんでした。画期的な勝利だったのです。この海戦 の様子も、ヴァティカンの教皇居室の壁にラフア エッロ(工房)が「オスティアの海戦」というタイ トルで描いています。ただし絵の中の教皇レオ四世  」⊃よ。。竺。諾 眤一一……・  ちなみに、この海戦で生き残ったサラセン人は ヴァティカンの捕虜となり、一部は縛り首、残りは 奴隷として城壁の建設に従事させたといわれていま す。   エゼルウルフ王  対イスラムにおける諸都市との同盟では手腕を発 揮したレオ四世でしたが、教皇領のラヴェンナとそ の周辺の都市の支配権をめぐっては難しい問題を抱 えていました。ロマーニヤ地方における教皇の権限 をめぐってラヴェンナ大司教ジョヴアンニと対立し ていたのです。ラヴェンナには、ランゴバルド王国 に征服されるまで東のローマ帝国の総督府がありま した。大司教はその時代に特権を獲得しており、ピ ピンの寄進で教皇領になってからも、自分を総督の 後継者と見なして、ラヴェンナの管轄権と独立教会 の地位を手放そうとしませんでした。大司教は教皇 領の管理に来た教皇代理使節団の仕事さえも邪魔し、 教皇はこれを告発したほどでした。一番の問題は領 地でした。領地は所有権の問題だけでなく、支配の 道具でもあったからです。  レオ四世の八年という短い治世の間に大司教との 対立は激化するいっぽうでした。八五二年、ラヴェ ンナ側か教皇代理使節の一人を殺害します。教皇は すぐさまラヴェンナヘ向かい、殺人犯を逮捕し、 ローマに連行して裁判にかけます。犯人の一人は大 司教の兄弟でした。裁判では死刑の宣告を受けます が、皇帝ロタール一世の介入で減刑されました。  八五〇年、レオ四世は、ロタール一世の長男でイ タリア王のロドヴイコニ世を父親との共同皇帝ルド ヴイクスニ世として戴冠式を行います。彼らとの関 係は、張りつめたものではなかったものの、晴れや かな関係でもありませんでした。ローマがサラセン 人の攻撃にさらされた時に皇帝が救援しなかったこ とが、両者に重くのしかかっていたのです。そして、 まさにそれを利用して、八五五年、教皇軍の高位武 官ダニェレはルドヴイクスニ世のもとへ行き、司令 官グラツイアーノを告発します。それは、グラツイ アーノが「ローマのために何もしなかったフランク よリギリシア人(東のローマ帝国)と結んだほうが マシだ」といって、東のローマ帝国に近づこうとし ているというものでした。皇帝は激怒して軍を率い てローマヘ向かいました。教皇はいつものように丁 寧に迎えて皇帝の苦情を聞くと、優しくなだめます。 それは事実無根の中傷でした。数日後、法廷が開か れますが、結局、誹謗中傷であることが明らかにな り、墟をついたダニエレの処罰はグラツイアーノの 手に委ねられます。ダニエレは皇帝の介入で死刑を 免れることができました。  同じ頃、レオ四世はイングランドのウェセックス 王エゼルウルフと末の息子アルフレッド(のちのア ルフレッド大王)に謁見します。エゼルウルフは悲 願のローマ巡礼を果たすため、西フランク王国に通 過許可を得て、はるばる辺境の島からやってきたの でした。王はローマ教会に金や銀の豪奢な贈り物や 献納金を奉納し、本人の切望によリレオ四世より戴 冠されます。敬虔なキリスト教徒だったエゼルウル フはフランク族のように教皇から額に聖油を注いで もらう聖別の儀式を受けることを願っていたのです。 王の来訪はローマに居住していたサクソン大にとっ ては思いがけない幸運でした。彼らはボルゴの火災 (「教皇レオ四世の奇跡」)で家を失っていました。 ローマに一年ほど滞在したエゼルウルフは、彼らの 家の再建に努め、サントースピリト聖堂のそばにサ クソン人の巡礼者のための宿泊施設も完成させてい ます。   女教皇ヨ(ンナの物語  レオ四世は八五五年七月一七日に亡くなります。 前任の教皇セルギウスニ世は貪欲な兄弟のいいなり になってネポティズム(縁故主義)と聖職売買で負 の印象を残していました。それとは対照的にレオ四 世は清く正しい聖職者であリ続け、ローマ教会と ローマ市民のために尽くした教皇でした。のちに列 聖されています。  次の教皇はベネディクトゥス三世でしたが、ここ に一つ中世の伝説があります。レオ四世とベネディ クストゥス三世の間に「女教皇ヨ「ンナ」が存在し ていたというのです。それは次のようなお話です。  ヨ(ンナはイングランド出身の女性でドイツのマ インツで教育を受けました。彼女は愛する修道士の そばで暮らすため、男装してヨ(ンーアングリクス という名で修道士となります。二人で様々な町へ移 り住み、アテネで恋人を亡くすとローマヘ行きます。 彼女は学識が高く人望もあったため、枢機卿の推薦 を受けてレオ四世の死後、八五五年に教皇ヨ(ネス ハ世として登位します。ある囗、サンーピエトロ大 聖堂で復活祭のミサを終えてラテラーノ宮殿へ戻る 途中、行列がサンークレメンテ聖堂あたりを通る頃、 教皇は急に産気づいて出産します。沿道にいたロー マ市民は、男性であるはずの教皇が突然子どもを産 んだことに驚いて、石を投げつけて彼女を殺してし まいました。  公式の記録には残っていませんし、レオ四世とべ ネディクトウス三世の間には彼女が在位したという 二年数ヶ月の空白もありません。それは、同じ年の 九月に亡くなった皇帝ロタール一世の名で発行され た貨幣でも証明されます。歴史家は後年の創作だと しています。確かに、この伝説が初めて年代記に記 されたのは匸一世紀半ばで、同時代ではありません でした。もしこれが本当のことなら、四〇〇年も 経ってから初めて記述されたことになり、しかも、 それ以前には伝承レベルでも存在していませんでし た。ヨ(ネスハ世は実在の教皇ですが、八七二年の 登位で時代が少しずれており、このような出来事と は無縁です。  一〇世紀のローマにポルノクラシーと呼ばれ、教 皇との愛人関係によって教皇庁を擽ったマロツイア という女性が権勢を誇った時代がありました。これ に影響を受けて創作した風刺物語ではないかと考え る研究者が多いようです。この伝説はローマ教会と 対立する側には格好の材料でしたから、のちのア ヴイニョン捕囚から宗教改革の時代まで、ヨーロッ パ中で拡散されていきました。そして、ローマの面 自いところは、女教皇ヨ(ンナが出産して殺された とされる場所に小堂が建てられているのです。ただ し一五世紀のものですが。ローマ教会には迷惑な話 でしょうが、本当だったら面白いと思うのは、いつ の世も同じで、こうして都市伝説は形成されていく のです。  レオ四世の治世は、イスラムによる襲撃でローマ を再建したり海戦を交えたり、また、皇帝やラヴェ ンナ大司教とも問題を抱える大変な時代でした。女 性が男装して教皇位へ登れるような、のどかな雰囲 気はありませんでした。だからこそ、生まれた伝説 なのかもしれません。  フボニフアティウスハ世  ダンテが『神曲・地獄篇』に描いた  憎むべき敵  人生の道半ばで深い森に迷い込んだというダンテ は、著書『神曲』の中で古代ローマの詩人ヴェルギ リウスに導かれて、彼岸の国、地獄、煉獄、天国を 遍歴します。地獄の第八圈・悪徳の巣窟・第三巣窟 に到達した時、そこには岩盤の地面に開いた丸い穴 の中に頭を突っ込み、腿から先の脚を地面から出し て足の裏を炎で焼かれる罪人たちがいました。ダン テはその中で誰よりも苦しむ者がいるのに気づきま す。  私は尋ねた。「師よ、他の罪人よりはるかに赤い 炎で焼かれ脚をばたつかせて苦しんでいる、あの睨 われた者は誰でしょうか?」(ダンテ『神曲・地獄 篇』第一九歌三三 訳/上野真弓、以下同)  師は私にいった。「もし、下まで行きたいなら、 壁に沿ってそれほど急ではない坂道を下りよう。そ して、その者が誰なのか、どんな罪を犯したのかを 本人に聞くがよい」(ダンテ『神曲・地獄篇』第一 九歌三六)  そうして狭苦しい穴がたくさんある地面にダンテ は師と下りていき、脚をハタハタ動かしながら苦し む罪人のいる穴までたどり着きます。  「頭を地面に突っ込んだお前が何者であるかは知ら ないが、棒くいのごとき悲しき魂よ」と私は問いか けた。「できるなら、何か喋ってくれ」(ダンテ『神 曲・地獄篇』第一九歌四八)  その者は叫んだ。「お前はもうそこにいるのか? お前はもうそこにいるのか? ボニファティウスよ。 予言の書に記された時よりずいぶん早いようだが。 お前はあれだけの富に早くも飽きてしまったのか? それを手に入れるために何のためらいもなく美しい 婦人(ローマ教会)をペテンにかけて、そのあと台 無しにしてしまったくせに」(ダンテ『神曲・地獄 篇』第一九歌五二〜五七)  ダンテの問いに答えたのは、聖職売買の罪に堕ち たオルシーニ家出身の二コラウス三世、ボニファ ティウスハ世(在位匸一九四〜匸一〇三年)の五代 前の教皇でした。逆さになって上半身が地面の穴の 中に入っているため目で見ることができず、声を聞 いて、ダンテを教皇ボニファティウスハ世だと勘違 いして答えたのです。ダンテが『神曲』の中で彼岸 を旅したのは一三〇〇年という設定で、その頃ボニ ファティウスハ世は存命中でしたから、まだ彼を地 獄に堕とすことはできませんでした。巧みな仕掛け によって、ダンテはこの教皇が地獄の住人になるの は当然だということを描いたのでした。ダンテに とってボニファティウスハ世は憎むべき敵でした。 二人の因縁を語る前に、この教皇がどんな時代のど のような人物であったのかをお話ししなければなり ません。   一三世紀末のイタリアとローマ  匸一世紀は西ヨーロッパ経済の高度成長期でした。 封建諸侯を基盤とした農業経済は終焉に近づき、そ れに代わって自治都市を基盤とする商業活動が飛躍 的に発展しました。ミラノやジェノヴァ、特にヴェ ネツィアの隆盛は凄まじく、東方貿易を独占し、 『東方見聞録』で有名なマルコーポーロの冒険もそ の中で生まれたものです。フィレンツェも毛織物業 で繁栄し、西ヨーロッパ各国に商業圈を拡大してい きます。これに伴い、貨幣経済と金融業が発展して いき、ヴ子不ツィアの銀行は東方へ伸び、フィレン ツェの銀行は西方を押さえ、莫大な富を蓄えるよう になりました。さらに商業経済の発展は、陸路、水 路、海路のインフラ設備も進めます。  この経済発展の恩恵を最も受けたのがローマ教皇 庁と高位聖職者でした。修道院は大農園と工場を経 営し、莫大な収益を上げながら税金を払う必要もな く、かつての厳格な風紀もゆるんでいました。教皇 庁はヨーロッパ全教区から十分の一税を徴収してい たため、経済の発展はそのまま巨額の増収となった のです。とはいえ、当時のローマの人口は三、四万 人ほどで、大半のローマ市民は貧困にあえいでいま した。  いっぽう政治的には、匸一五四年にホーエンシュ タウフェン朝が、皇帝フリードリヒニ世の息子の代 で滅び、ドイツ人皇帝のイタリア支配は終わりまし た。そして皇帝が兼任で治めていた南イタリアを含 むシチリア王国もフランスのシヤルルーダンジュー に奪われたのち、アラゴン家のシチリア王国とアン ジュー家のナポリ王国に分割されました。匸二世紀 末のイタリアは限りなく分裂し、ミラノ、ジェノ ヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ、そし て教皇領のローマがせめぎ合っていました。また、 自治都市体制は崩れ始め、独裁体制に移っていく時 期でもありました。  ローマ教会の権威は高まるばかりで、その絶頂期 に教皇となつだのがカエターニ枢機卿でした。   大拒否  カエターニ枢機卿は、ローマ南東のアナーニに領 地を持つバローネ、カエターニ家の出身で、法学と 教会法を学び、聖職者の道へと進みました。匸一六 四年にはアンジュー家のカルロ(シヤルルーダン ジュー)のナポリ王への即位をめぐって外交団の一 員としてフランスに行っています。匸一六五年から 六八年まではイングランドに滞在しました。この時 はイングランド王ヘンリー三世と諸侯たちの紛争を 調停するのが目的でした。途中でロンドン塔に幽閉 されるという(プニングもありましたが、数日で解 放されました。  匸一九二年四月に教皇二コラウス四世が死去する と、様々な思惑が入り乱れて新教皇がなかなか決ま らず、教皇空位という状態が二年も続きました。こ のような場合は誰の害にもならない病弱か高齢の枢 機卿が選出されるのが普通で、つなぎ役となっだの は八〇歳を超えた修道士ピエトローダーモントーネ でした。本人は教皇になる気などまったくなく、自 分がそんな器でもないことを知っていたため辞退を 望みましたが、周りに説得されて教皇ケレスティヌ ス五世として登位しました。  修道院で瞑想にばかりふけっていた新教皇に政治 的能力があるはずもなく、ケレスティヌス五世はナ ポリ王カルロニ世を無条件で頼るようになります。 いわれるままに教皇宮殿をナポリのカステルーヌオ ヴォに移し、教皇庁の要職もカルロの息がかかった 人物に与えます。たとえば、新たに任命した匸一名 の枢機卿のうち、六名がフランス人、三名がナポリ 人でした。また、わずか二一歳のカルロの息子をリ ヨンの大枢機卿に任命しています。これはローマ教 会にとって憂える事態でした。  ケレスティヌス五世もそれを十分認識しており、 瞑想にふける中でますます退位の意向が深まってい きました。伝承によると、そのうち教皇は夜な夜な 聞こえる天使のささやきに悩まされるようになりま す。  「私は情け深い神の命により遣わされた天使です。 直ちに教皇位を辞退して、隠者の生活に戻りなさ い」  天使の声は、カエターニ枢機卿が教皇の寝室に伝 声管を引いて毎晩ささやいたものだといわれます。 にわかには信じがたい話ですが、もしそれが本当な ら、ケレステイヌス五世には気の毒ですが、少し笑 えるエピソードです。彼は臆病で気が弱い上に、教 皇という大任に憔悴しきっていましたから、天使の ささやきは、あるいは幻聴だったのかもしれません。  いずれにしても精神的に追いつめられたケレス テイヌス五世は、教会法に詳しいカエターニ枢機卿 やビアンキ枢機卿に相談して助言を受け、教会法に 教皇辞任の規定を作り、自らそれに従ってわずか 五ヶ月で退位するのです。ダンテは、この教皇退位 を「大拒否」と呼び、ケレステイヌス五世を臆病者 だと非難して地獄の玄関へ置いています。  教皇位は終身制であるため、存命中の教皇退任は 滅多にありませんが、それ以前にも罷免による教皇 退任はありました。教会法に辞任が制定されたヶレ スティヌス五世以降は、一四一五年の教会大分裂収 束のため辞任したグレゴリウス匸一世、二〇匸一年 の健康上の理由から辞任したベネディクト一六世が 知られています。   ボニファティウスハ世  匸一九四年、カエターニ枢機卿がボニファティウ スハ世として教皇に登位すると、まず教皇宮殿をナ ポリからローマに戻し、ナポリ王カルロニ世の影響 下で教皇庁に入った者たちを罷免します。そして、 フランス派の枢機卿たちが前教皇を担いで対立教皇 に置くのを避けるため、ケレスティヌス五世をア ナーニに所有するフモーネ城に幽閉することにしま す。この時、前教皇は、おそらくボニファティウス ハ世へ向けたのでしょう。「キツネのように教皇位 を得て、狼のように統治し、犬のように死んでいく だろう」と、予言めいた言葉をつぶやいています。  ボニファティウスハ世は次にシチリア問題にとり かかり、匸一九五年にアナー二条約を調印します。 これは、シチリア王(イメ(ジヤコモ)二世がシチ リアを教皇に寄進し、それを教皇が、父の代からシ チリア奪還を悲願としていたナポリ王カルロニ世に 授けるというものでした。しかしシチリア人が(イ メニ世の弟をフェデリーコニ世としてシチリア王に 擁立したため、シチリア(アラゴン家)とナポリ (アンジュー家)の間で再び戦争が起こる結果とな りました。この戦争は匸一〇二年まで続きます。  この頃のローマのバローネの勢力図は変わってい ました。かつて最も勢いのあったピエルレオーニ家 とフランジパニ家は没落し、代わってカエターニ家、 コロンナ家、オルシーニ家、アンニバルディ家が繁 栄し、互いに反目するようになっていました。ボニ ファティウスハ世が教皇に登位して以来、カエター ニとコロンナの対立はいっそう激しく深刻になって いました。コロンナはボニファティウスハ世を不正 行為と聖職売買で教皇の座に就いたと執拗に非難し、 それは暴力の応酬に発展します。ボニファティウス ハ世はコロンナ家当主と一族を破門し、彼らの本拠 地パレストリーナの城を破壊します。コロンナ一族 はフランスへ亡命せざるを得なくなりました。  匸一九四年、フランス王フィリップ四世は、フラ ンドルやフランス南西部ガスコーニュをめぐってイ ングランド王エドワード一世と戦争を始めました。 莫大な戦費を調達するためフランスで初めて全国的 課税に踏み切り、その対象は教会にも及びました。 教会課税はフランス教会からの献金が減少すること を意味し、ローマ教会にとって大きな痛手でした。 ボニファティウスハ世は、匸一九六年に世俗君主に 対して聖職者への課税を禁正し、従わなければ破門 とする教皇勅書を公布します。フィリップ四世は。 これに対してフランスから外国への送金を禁止する 法令を発布して対抗します。さすがのボニファティ ウスハ世も譲歩するしかなく、翌年、条件つきの課 税を認め、フィリップ四世の祖父ルイ九世を列聖し ます。フィリップ四世は外国送金禁止令を取り消し ました。  ボニファティウスハ世は、教養深く、野心家でエ ネルギッシュ、政局に常に注意を払い、自分の考え を臆することなく口にしました。そのため誤解され やすく、悪い噂を招いたり厳しい批判を受けたりし ています。もちろん、そこには真実もあったことで しょう。贅沢が好きで美食家、美しい女性や若い男 性と戯れていたといわれています。また、魔術や錬 金術を愛好し、最も大切な信仰の原則である霊魂の 不滅を否定したという噂もありました。これは当時。 匸一一五年に世界の終末が来るという予言の書があ リ、教皇の主治医で占星術家でもあったヴィツラ ノーヴアも一三七六年から一三七八年の間に世界の 終末が訪れると予言したことに対して、教皇の発し た次の言葉が原因だったようです。  「世界の終末を待っている愚か者だちよ、誰にとっ ても、死ぬ時に世界は終わるのだ。そんなことも知 らないのか?」  教皇の身でこんなことがいえるとは、なかなかの 人物ではありませんか。  聖なる年  匸一〇〇年のローマは、再び「世界の首都」に なったかのような賑わいを見せました。ボニファ ティウスハ世の発案で、史上初の大恩赦の年「聖 年」が制定されたのです。この年にローマを訪れ、 サンーピエトロ大聖堂と城壁の外のサンーパオロ大 聖堂へお参りし、ゆるしの秘跡(洗礼後に犯した罪 を司祭に告白すること)とミサを受ければ、すべて の罪が許されるというものです。教皇の才気煥発ぶ りがうかがわれる発想ではないでしょうか。大恩赦 はすべてのローマ教会の信者に有効でしたが、ボニ ファティウスハ世はコロンナ家の人間を除外するこ とを忘れませんでした。  人種や習慣、言語の異なる大勢の人々が、救済の 希望を胸にローマ巡礼にやってきました。その数は 二〇万人から三〇万人だったと伝えられます。宿泊 施設、飲食店、商人たちは大儲けでした。ローマの 町は活気に満ちて経済が潤い、それはローマ教会も 同じでした。わずかなお布施しか置けない信者もい たことでしょう。それでも二つの大聖堂の主祭壇の 前にある賽銭箱はすぐにいっぱいになって、そばに 立つ二人の助祭はせっせと熊手でかき集めていまし た。  なお、聖年は、現在でも二五年に一度、開催され ています。直近では教皇フランシスコ一世が二〇一 六年にいつくしみの特別聖年を実施しました。  ボニファティウスハ世は初の聖年にあたって、多 くの聖堂を修復し、ジョットをはじめとする芸術家 を招いて美しく飾りました。もし、破壊の歴史がな かったなら、ローマはルネサンスやバロックだけで なく中世美術の宝庫としても決定的な役割を果たし たことでしょう。サンージョヴァンニーインーラテ ラーノ大聖堂にはジョットが描いた壁圉がありまし たが、今ではIメートル四方の小さなカケラが残っ ているだけです。そこには、聖年を宣言するボニ ファティウスハ世の姿が描かれています(図11)。  教皇は、芸術だけでなく、教育や聖職者の育成も 重要視し、匸一〇三年にローマ大学「ラーサピエン ツア」を創設しています。   フイレンツェとダンテ  フィレンツェでは教皇派が二つに分裂して、暴力 と流血の惨事が続く激しい抗争をしていました。商 人として財を成したチェルキ率いる自派は自立政策 を掲げ、由緒ある貴族のドナーティ率いる黒派は教 皇との結びつきを重視していました。ダンテは自派 に属し、匸一〇〇年の選挙で自派がフィレンツェの 実権を握ると、自派最高行政機関プリオラートの三 人の統領(プリオーレ)の一人に選出されます。そ れでも暴動は相次ぎ、これを機にボニファティウス ハ世はフィレンツェの政治に介入します。フランス 王の弟シヤルルードーヴァロワ率いるフランス軍を 送るのです。おりしもシチリア問題でフランスに援 軍を頼んでいたため、その前にフィレンツェへ入城 するよう要請したのでした。そうして一三〇一年末 には教皇の息のかかった黒派のドナーティが政権を 奪還し、自派粛清を開始するのです。  その頃ダンテは、教皇を牽制するため教皇庁へ特 使として派遣されていましたが、ボニファティウス ハ世は交渉を巧妙に引き延ばし、ダンテは虚しく 日々を重ねるだけでした。そしてローマにいたダン テは、黒派による欠席裁判で「国外追放、帰国すれ ば死罪」という判決を受けるのです。フィレンツェ の家屋も破壊されました。こうしてダンテの長い流 浪生活が始まります。ダンテは、自分に不幸をもた らしたのはボニファティウスハ世だと、恨みを募ら せるようになりました。  しかし、その恨みの本質は政治的理念の相違に あったのではないでしょうか。教皇権の拡大に突き 進むボニファティウスハ世の教皇至上主義は、市民 による自立した政治を理想としたダンテには相容れ ないものでした。ボニファティウスハ世の息のか かった黒派に敗北して流刑となったのはあくまでも 結果であって、個人的な恨みはそれに付随するもの です。  政争に敗れ、政治の場で自己実現の道を絶たれた ダンテは、詩人として思索を深めていきます。自ら の辛い経験を通して人間存在について考え、精神的 な愛による魂の浄化を求めます。それらをすべてつ ぎ込んで書いたのが『神曲』なのです。聖書や哲学 書からの引用も多く、さらに古代ギリシアやローマ、 同時代の実在の人物を登場させており、優れた構成 と描写となっています。当時としては珍しく、ラテ ン語ではなくトスカーナの方言で書かれたことも特 徴の一つです。イタリアでは高等学校の国語で必ず 学ばなければならない古典文学の最高峰に位置して います。  ダンテが『神曲』を書き始めた時期ははっきりし ませんが、著書の中で彼岸の旅へ出るのが匸一〇〇 年の聖金曜日ですから、着想自体は聖年祭の頃から あったのでしょう。完成したのは、流浪生活最後の 地ラヴェンナで落ち着いた日々を送っていた頃です。 冒頭には序として第一歌があり、地獄篇三三歌、煉 獄篇三三歌、天国篇三三歌、合計一〇〇歌の長編叙 事詩となっています。三という数字にこだわったの はキリスト教の三位一体説に奉じたためです。地獄 で永遠の罰を受ける罪人の姿、煉獄で罪を清めるた めに苦行する人々を見たあとで天国へ昇り、その至 高天で三位一体の神の姿を見ることになります。  もしボニファティウスハ世が、『神曲』の中で自 分が地獄行きのチケットを手にする者として描かれ ていると知ったなら、いったいどんな反応をしたで しょう。きっと笑い飛ばしたに違いありません。こ の教皇は地獄や天国は存在しないと信じていたよう ですから。   アナーニ事件  ボニファティウスハ世とフランス王フィリップ四 世の関係は、一筋縄ではいきませんでした。シチリ ア問題とフィレンツェ丁作で協調体制にあった関係 にも暗雲が立ちこめ始めます。教会課税の問題が再 燃したのです。さらにフランスに亡命していた教皇 の政敵コロンナ一族が宮廷に迎えられ、事態は複雑 な様相を見せ始めます。教皇と対立する中で、匸一 〇二年四月、フィリップ四世は国民の支持を得るた めに聖職者、貴族、平民で構成される三部会をパリ のノートルダム寺院に設けます。これに対し、ボニ ファティウスハ世は「ウナムーサンクタム」という 教皇勅書を発令し、教皇権の優位性を宣言し、破門 を宣告します。フィリップは臆することなく、コロ ンナ一族を証人とする教皇弾劾の公会議を開くよう 求めます。そしてレジスト(法曹官僚)のギョー ムードーノガレに教皇を拘束するよう命じるのです。  匸一〇三年九月、ボニファティウスハ世は出身地 アナーニの離宮に滞在していました。ノガレは、 ジヤコモーコロンナ(通称シャルラ)と共謀して襲 撃します。彼らは「フランス王ばんざい’・ 教皇に 死を’・」と叫びながら宮殿に乱入したため、騒動を 耳にしたボニファティウスハ世は教皇衣に着替えて 司教座にすわり、二人の枢機卿を従えて反逆者が来 るのを待っていました。教皇退位を迫り、弾劾公会 議に出席するよう求める彼らに、誇り高い教皇は決 然と答えます。  「余の首を持っていくがいい」  この時、シャルラが教皇に平手打ちをくらわせた と伝えられますが、真実かどうかは分かりません。 ただ、今でもアナーニ宮殿には「教皇ボニファティ ウスハ世が平手打ちを受けた場所」という案内板が あります(図12)。監禁は三日間続き、ローマから フィエスキ枢機卿が四〇〇人の騎士を連れ、アナー ニ市民とともに教皇を救出しました。   ‐‐・’     認作  翩一J}゛…… 韭渋川坤韭 した。これを人々は憤死と呼んでいます。  アナーニ事件後に選出された教皇はベネディク トゥス一一世でしたが、八ヶ月後に急死します。毒 殺の噂もありました。その後、約一年もの空白を経 てフィリップ四世の介入でフランス人の新教皇クレ メンス五世が選出されます。さらに匸一〇九年には 南フランスのアヴィニョンヘ教皇庁が移されてしま います。  ついに、教皇の権威がフランス王権に屈してし まったのです。教皇庁の移転とともにローマの財源 はなくなり、巡礼者も来なくなります。教皇庁は腐 敗の巣窟ではありましたが、ローマにとっては金の 成る木で、文化の担い手でもあったのです。町の荒 廃とともに人々の心も荒んでいきます。暴力が支配 し、至るところで抗争が起こり、治安も悪化します。 追い打ちをかけるように、一三四八年にはペスト (黒死病)がヨーロッパ全土を襲いました。  結局、ボニファティウスハ世もダンテも時代の潮 流にのみこまれてしまったのです。そして、ローマ も同じく。 番外編フランジパニ一族   フランジパニ、香りの魔法  本書では、大まかなローマ史をたどりながら、永 遠の都ローマを作った一四人の物語を紹介していま す。ここでは、その番外編として、中世ローマで権 勢を誇った貴族、フランジパニ一族の物語をお伝え しましょう。  花やお菓子の好きな方なら、フランジパニという 名前を一度は聞いたことがあるかもしれません。こ の、聞き慣れない名前を持つ中世ローマの貴族は、 いったい花やお菓子とどんな風に関係しているので しょうか。  太平洋の島々でレイに使われる、愛らしくて香り 高いプルメリアの花は、別名フランジパニといいま す。プルメリアという名称は一七世紀のフランスの 植物学者シャルループルミエにちなんでつけられた といわれますが、実はもう一つの伝説があります。 一四九三年にイタリア貴族のムツィオーフランジパ ニが西インド諸島のアンティグアを旅した時にこの 花を見つけ、それ以来、この花はフランジパニと呼 ばれるようになったというのです。けれどもアメリ カ大陸への到達が一四九二年であることから、その 翌年にかの地を旅行するというのは、どう考えても 無理があります。実際には、ムツィオはプルメリア の花の香りによく似た香料を生み出したようです。 さらに、ひ孫が、靴や手袋に使われるなめし皮の匂 いを消すためにアーモンドのエッセンスをベースに した香料を作ったといわれます。この香りはパティ シエに愛され、そこからフランジパニ家とのコラボ が始まり、有名なフランジパンークリームが生まれ たという伝承もあります。  フランジパンークリームとは、カスタードクリー ムとアーモンドペーストのクリームを混ぜ合わせた ものです。フランジパンークリームを使った最も有 名なお菓子は、フランスのガレットーデーロワで しょう。このお菓子は、フランジパンークリームが 人ったパイ菓子の上に紙の王冠をのせたもので、パ イの中にはフェーヴと呼ばれる陶製の小さな人形が 入っています。一月六日の公現祭(主が姿を現した ことを祝う日)に切り分けて食べ、フェーヴが当 たった人はパイにのせた王冠をかぶって祝福を受け、 幸運が一年間続くといわれる縁起のいいお菓子です。 ロワはフランス語で王たちを意味しますが、誕生し たばかりのイエスを訪問して礼拝した東方三博士を さしています。  フランジパンークリームは、フランスでどうして これほど有名になったのでしょう。実は、このク リームは、ヱ(世紀にメディチ家のカトリーヌー ドーメディシス(カテリーナーデーメディチ)がフ ランスのアンリニ世へ輿入れした時に伝えたものだ といわれています。そのレシピはフランジパニ家の チェーザレから贈られたものだったそうです。当時 のイタリアは文化的先進国だったため、料理のレシ ピだけでなく、ナイフとフォークを使って食事をす る習慣(当時のフランス人は手づかみで食べていま した)なども、メディチ家のカトリーヌがフランス に伝えています。  香り高い花やお菓子にその名を残したフランジパ ニ一族。一一世紀後半から匸一世紀、中世のローマ で権勢を誇った彼らは、いったいどんな人たちで、 どんな時代を生きたのでしょうか。   ローマのバローネ  西暦一〇〇〇年頃から西ヨーロッパの気候は温暖 になり、各地で農業生産が増大し、それに伴い商工 業が発展して人々は豊かになっていきますが、ロー マは同じようにはいきませんでした。これといった 産業がなく、巡礼客相手の商売で生計を立てる人が 多く、市民は貧困にあえいでいました。ローマ教会 や修道院は信者からの寄進や、所有する領地や農園 から莫大な富を得ており、バローネと呼ばれる中世 貴族もローマの外に領土を持つ特権階級でした。 ローマは貧富の差が激しい格差社会となっていたの です。  ローマ教皇とローマ皇帝は、権威の優位性をめ ぐって対立を続けていました。バローネも教皇派と 皇帝派に分かれて、武力を伴う激しい権力闘争を続 けます。不安定な政治問題が解決するのは、教皇が 確固たる地位を獲得する一五世紀まで待たなければ なりません。ローマ市民は殺伐とした世の中に生き ていたのです。  バローネは古代ローマの由緒ある貴族とは異なり、 急激に財を成した地方の豪族(中世貴族)です。 ローマの中で小さな国家のような共同体を作り上げ、 そのほとんどは私兵を抱えていました。彼らは支配 する区域に威嚇的な砦を築いて塔を建て、自らの豊 かさと権力を示し、支配区域の住民を庇護します。 ローマ特有の封建社会といえるでしょう。のちに揺 るぎない地位を築くカエターニ、コロンナ、オル シーニなど、ローマには二〇あまりのバローネがい ましたが、この時期に最も権勢を誇ったのはフラン ジパニ (イタリア語ではフランジパネ)とピエルレ オーニでした。   フランジパニのローマ  伝承によると、フランジハニは古代ローマの貴族 アニキウス氏族のアニキア家の血筋であるといわれ ますが、フランジハニの家名の由来については別の 逸話が残っています。八世紀初頭、ローマが大洪水 に見舞われ深刻な食糧危機に陥った時、ピエトロと いう財を成した大商人が、小さな舟でローマ市内を くまなく周り、パンとビスケットをローマ市民に 配ったそうです。人々は彼の姿をみると、「フラン ジェレーパーネ」(パンを分けてくれ)と叫びまし た。この言葉がフランジパニという家名となったの です。  フランジパニは、ローマの南に位置するマリーノ、 ニンフア、テッラチーナ、ネミなどを領地に持つバ ローネでした。フランジパニという名前が初めて公 文書に登場するのはI〇一四年のフアルフア大修道 院に関連する司法会議の記録です。フアルフア大修 道院はヨーロッパで最も有名な修道院の一つですか ら、ここに署名が残っているということは、この時 すでに彼らがある程度の権力を持っていたことを意 味します。一一世紀後半から匸一世紀にかけては、 レオーネーフランジパニとチェンツィオーフランジ パニの名前がローマ中世史に頻繁に登場するように なります。二人は兄弟でした。  彼らは、チルコーマッシモを含むパラティーノの 丘からティトスの凱旋門、コロッセウムまでを支配 し、マルスの野やエスクイリーノの丘にも拠点を置 いて多くの塔を建てていました。ローマの塔の多く は地震で崩壊しましたが、今でも五〇あまり残って おり、後世の建築物の一部に取り入れられたものも あります。  フランジパニはローマの主要地点を押さえ、三つ のファミリーに分かれてそれぞれの地区を治めるこ とで、ローマ支配の絶対的優位を獲得していました。 フオローボアーリオ(現在の真実の口広場)にある ヤヌスの門を要塞化し、そのそばにある古代ローマ 最大の戦車競技場チルコーマッシモの南端にも砦を 築きました。砦にはモレッタの塔があり、ここから オスティエンセ街道やアッピア街道から入ってくる 敵を見張ったのです(図13)。モレッタは水車の挽 き臼という意味で、当時このあたりには水の流れる 堀があり、水車小屋で小麦粉を挽いていました。お そらくパンもたくさん焼いていたのでしょう。そし て砦の周辺の斜面には市民の住居や商店が集まって いました。今では巨大な野原と化したチルコーマッ シモですが、往時の観客席や通路の一部がモレッタ の塔とともに残り、公開されています。  一一三〇年頃、フランジパニはコロッセウムも要 塞化します。四階建ての二階までのアーチを閉じて 四階の頂上に巡回通路を築きました。ここからは、 教皇のラテラーノ宮殿も含めたローマの南方面、さ らにオッピオの丘も監視することができました。 ローマのシンボルともいえる古代の巨大建造物は、 強固な砦として転用するのに便利だったのです。一 三世紀半ばにコロッセウムの支配権はア丹バルディ 家へ移ります。  いっぽうライバルのピエルレオーニは、もともと ユダヤ系の金融業者でしたが、改宗して教皇庁と密 接な関係にありました。彼らの縄張りの中心は、ア ウグストゥスが建造させ、夭折した甥であり娘婿で もあったマルケルスの名をつけたマルケルス劇場で した。この古代劇場は一八世紀にオルシーニ家が優 雅な居城に改装して現在に至りますが、ピエルレ オーニはここを要塞化していたのです。マルケルス 劇場は戦略上重要な位置にありました。フランジパ ニの支配領域と境界を成すだけでなく、テヴェレ川 の小舟の往来や砂州にあるテイベリーナ島を監視す ることができたからです。この島と川の対岸も彼ら の支配領域だったため、島には要塞化した居城と塔 がありました。   過激派チェンツィオーフランジパニ  フランジハニは基本的に皇帝派でした。けれども、 最初は教皇グレゴリウス七世が始めたローマ教会の 改革を擁護していました。一一〇八年に教皇パスヵ リスニ世(在位一〇九九〜一一一八年)が南イタリ ア視察のためローマを離れる際には、ローマ市政長 官ピエトロ、レオーネーフランジパニ、レオーネー ピエルレオーニの三人にローマの統治を任せたほど でした。  ところが、一一一八年一月、パスカリスニ世が死 去すると、フランジハニの過激な方向転換が起こり ます。レオーネの弟チェンツィオが、ゲラシウスニ 世(在位一一一八〜一九年)の教皇選出を阻止する ために暴力行為で騒乱を起こすのです。教皇選挙会 場のサンーセバステイアーノ修道院の扉を壊して乱 入すると、新教皇の首元をつかんで引きずり倒し、 踏みつけ、罵倒しながら外へ引きずり出しました。 その間、手下たちは枢機卿たちを殴りつけていまし た。そして、フランジパニ所有の塔の一つに鎖でつ ないで幽閉したのです。  ピエルレオーニは教皇派のバローネを集めて救出 しようとします。さらにローマ市民も教皇を支持し ました。レオーネは事態を収拾させるために教皇を 解放せざるを得なくなり、その足元にひれ伏して赦 しを請うたといわれます。ゲラシウスニ世はフラン ジパニを赦し、歓声をあげるローマ市民の中を自い ラバに乗ってラテラーノ宮殿へ向かいました。  ところが、その一ヶ月後、チェンツイオは皇帝( インリヒ五世をローマに呼びます。皇帝は、叙任権 問題の解決をめぐって前教皇と皇帝側に都合のいい 協約締結の合意をしていました。チェンツイオは、 協約の正式な承認を得るためにローマに来るよう皇 帝を誘ったのです。(インリヒ五世はわずかな兵を 連れて急いでローマヘ向かい、三月二日の夜中に到 着します。パニックになったのは教皇とその宮廷で す。彼らは直ちにラテラーノ宮殿を出て聖天使城付 近の砦へ逃げました。皇帝は使者を送りますが、教 皇はこれを信用せず、テヴェレ川から船で南のガエ タヘの逃避を決めます。不運なことに嵐が起きます が、教皇一行はなんとか脱出に成功しました。  皇帝は激怒して、対立教皇グレゴリウスハ世を擁 立したあとでドイツヘ戻ります。その後、ゲラシウ スニ世はローマに帰還しましたが、対立教皇はサ ンーピエトロ大聖堂と多数の聖堂を支配下に置いて いました。城壁の外のサンーパオロ大聖堂だけが教 皇ゲラシウスニ世の擁護者によって守られていまし た。  同年七月、ゲラシウスニ世はサンタープラツセー デ聖堂の枢機卿から聖女プラツセーデ(聖プラクセ デイス)の祝祭の式典に招かれます。この地区がフ ランジパニの支配区域であるにもかかわらず、教皇 は勇気ある従者とともにそこへ行き、ミサを挙げま す。けれども、そのミサが終わることはありません でした。チェンツイオーフランジパニ一派が襲撃し たからです。聖堂内には石や小石が雨あられのよう に降り、逃げまどう信者と負傷して血を流す人々で 混乱を極めました。ゲラシウスニ世はなんとか逃げ ることができましたが、再度の襲撃に恐怖感を募ら せてフランスへ亡命します。そしてクリュニー修道 院でごくなりました。   レオーネーフランジパニ  次の教皇は、ブルゴーニュ伯爵家出身のカリス トゥスニ世(在位一一一九〜二四年)でした。教皇 は一二二一年に皇帝(インリヒ五世とヴオルムス協 約を結び、叙任権闘争に終止符を打ちました。これ により、教皇が司教や修道院長の任命権(叙任権) を持ち、土地所有などの教会の俗権は皇帝が付与す ることが定められます。カリストゥスニ世はバロー ネの横暴さにブレーキをかけていましたが、その死 後、フランジパニとピエルレオーニは後任候補をめ ぐって再び抗争を始めます。  レオーネーフランジパニは、少し前からフランス 人のアイメリコ枢機卿に近づいていました。アイメ リコは、グレゴリウス七世の教会改革に反対の立場 をとっており、フランスの神学者クレルヴォーのベ ルナールと近しい関係にありました。一二一四年、 レオーネはアイメリコと申し合わせた上でフランジ パニ一族の力を結集してオスティアの司教ランベル トを教皇に登位させようとします。狡猾にも表面的 にはピエルレオーニの推すテオバルド枢機卿の支持 を公言していました。しかし、テオバルドが後任の 教皇に選出されてサンーパンクラツイオ聖堂で正式 に承認されようかとする時、弟のチェンツイオと口 ベルトに襲撃させて、これを阻正します。そしてレ オーネの介入でランベルトの教皇就任を強要し、ホ ノリウスニ世(在位一匸一四〜三〇年)が誕生する のです。この騒乱のあと、レオーネとアイメリコ枢 機卿は、ローマ市政長官ピエトロとピエルレオーニ と会談し、前者にフラミニア街道沿いのフオルメツ ロ城を、後者にテッラチーナの領土を提供すること で、ホノリウスニ世登位の是認を得ました。  一匸一〇年、ホノリウスニ世の死が近くなると、 枢機卿たちは新教皇の選出で再び同じような騒乱が 起きないように、事前にフランジパニとピエルレ オーニを呼び、誰が教皇に選ばれても受け入れるよ うに要請します。それにもかかわらず、同年二月。 二人の教皇が擁立されます。アイメリコ枢機卿の推 すインノケンティウスニ世(在位一匸一〇〜四三 年)、そしてレオーネーピエルレオーニの息子ピエ トロ(対立教皇アナクレトゥス一世)です。枢機卿 も両派に分裂して激しい抗争が繰り広げられ、最初 はインノケンティウス側についていたレオーネーフ ランジパニも、状況が不利になるとアナクレトゥス 側に寝返ります。しかし、これも長くは続かず、イ ンノケンティウスがフランス王ルイ六世、イングラ ンド王ヘンリー一世、ドイツ王ロタール三世から支 持されると、再びインノケンティウス側に立ち、一 二匸二年の皇帝ロタール三世の戴冠式を率先して準 備します。要するに、自分の利益のために風見鶏の ようにふるまったのです。  匸一世紀のローマは、教皇、皇帝、バローネによ る陰謀と暴力に支配された時代でした。そんな状況 にうんざりしたのか、一一四三年、ローマ市民は 「元老院再建運動」を起こします。ローマの君主は ローマ教皇ですから、当然ながら教皇とローマ市民 の関係は難しくなっていきます。この年に登位した 教皇ケレステイヌスニ世は、身の危険を避けるため、 フランジパニの保護下で暮らし、六ヶ月後には亡く なります。  いっぽう刷新された元老院は、ジョルダーノーピ エルレオーニを独裁権のある市政長官に据えます。 教皇派の家から反教皇を唱えて自治政府の樹立を目 指すコムーネ派が登場したのです。この時の教皇は フランジパニが推したルキウスニ世(在位一一四 四〜四五年)でした。一一四五年二月、教皇は軍を 率いて元老院のあるカンピドリオ(カピトリーノ) の丘を包囲しますが、暴動の中で頭に投石を受けて 意識不明となり、数日後には帰らぬ人となりました。  この運動には、パリの神学者アベラールのもとで 学んだアルナルドーダーブレツシヤも参加します。 フランスでアベラールが独自の解釈をした三位一体 論が問題となり、彼は師とともに異端判決を受けま した。そして悔悛のためにローマ巡礼に来たのです が、元老院再建運動に身を投じ、最後は絞首刑の上、 燃やされ、遺灰はテヴェレ川に流されました。   フランジパニ一族  フランジハニ一族は、常に皇帝派たったわけでは ありません。一一五九年、二人の教皇擁立で再び抗 争が起きた時、ローマ皇帝フリードリヒ一世(バル バロッサ)が擁立したヴィクトル四世(対立教皇) ではなく、教皇派が擁立したアレクサンデル三世の 側についています。フリードリヒ一世は教皇領内へ の勢力拡大を目指し、それが理由で先代の教皇ハド リアヌス四世と反目し、自分に都合のいい教皇を擁 立しようとしていました。そのため教皇アレクサン デル三世は、在ローマの皇帝の代理人、バイエルン のパラティーノ伯爵オットーによって囚われの身と なっていました。これを他のバローネとともに解放 したのがエットレーフランジパニでした。彼は教皇 をローマの外へ逃すと、その安全を確保しました。  他にもフリードリヒー世に対抗した果敢なフラン ジパニ家出身の女性がいます。ロマーニヤ地方ベル ティノーロ伯爵に嫁いで早くに未亡人となったアル ドルーラーフランジパニは、匸一世紀のイタリア貴 族社会で卓越した女性として知られています。一一 七三年、自領のアンコーナが、フリードリヒー世に 仕えるマインツの大司教クリスティアンーフォンー ブツフの命令で包囲された時、彼女は自軍を率いて 皇帝軍と戦い、町を解放することに成功したのです。  また、匸一世紀には、恥すべき行為の結果、家名 を汚した者もいます。ローマ近郊アストウーラの小 君主ジョヴァンニーフランジパニは、匸一六八年に ホーエンシュタウフェン朝のシチリア王コツラ デイーノを裏切るのです。コツラデイーノは二歳で 父を亡くしシチリア王となりますが、幼少のため叔 父のマンフレーデイが摂政としてシチリアを治めて いました。匸一六六年、教皇クレメンス四世にそそ のかされてフランス王ルイ九世の弟シャルルーダン ジューがイタリアヘ侵攻します。この戦いでマンフ レーデイが敗死すると、シャルルーダンジューがシ チリア王位を奪ってカルロー世となりました。そこ でコツラデイーノは居住先のドイツからイタリアヘ 侵攻しますが、匸一六八年、タリアコツツオの戦い で敗れ、皇帝派を頼ってジョヴアンニーフランジパ ニのアストウーラの城塞へ逃げ込みます。しかし、 ジョヴアンニに裏切られ、敵に引き渡され、その後 ナポリのメルカート広場で斬首されてしまうのです。 この裏切り行為は、ホーエンシュタウフェン家に忠 実だったシチリア艦隊の司令官ベルナルドーサッリ アーノによって報復されます。アストウーラの城は 占領され、ジョヴアンニの息子ミケーレは殺害され ました。  時は流れ、フランジパニ家はいくつもの分家に分 かれ、また婚姻によって各地に広かっていきます。 イタリア北部のフリウリ地方のフランジパニ伯爵家、 南イタリア、ミラベッローサンニーテイコのフラン ジパニーアレグレツテイ公爵家、モントーロのフラ ンジパニ侯爵家、しかし、最も大きな広がりを見せ たのはクロアティアのフランコパン(フランジパ 已伯爵家でしよう。そして、なんと、あの詩聖ダ ンテもフランジパニ家の子孫であると、『デカメロ ン』で有名な一四世紀初頭の文学者ボッカッチョは、 『トラッタテッローインーラウデーディーダンテ』 という本の中で述べています。第二次十字軍で戦死 したダンテの高祖父カッチャグイダがローマのフラ ンジパニ家出身だというのです。  ローマの血筋はネミ侯爵家フレンジパニで続いて いましたが、二(五四年、マリオで断絶します。彼 には後継者がいなかったため、遺言状で資産のすべ てをアントニオーバルベリーニ枢機卿に残しました。 ローマのフランジパニ家の礼拝堂はコルソ通りのサ ンーマルチェツロ聖堂にありますが、マリオはネミ の町の教会に埋葬されることを望みました。  過激な武装集団のようだったバローネのフランジ パニ家も、時とともに貴族らしくなって、花を愛で、 香りやお菓子を楽しむようになっていったのでしょ うか。生きる時代、環境によって人間の生き方が変 わるのは当たり前なのかもしれません。 この時代のローマ   ルネサンスー古代文化の復興  四七六年のいわゆる西ローマ帝国の滅亡後、ヨー ロッパでは民族の大移動や戦乱が続き、経済的にも 貧しくなりました。また、キリスト教の思想的支配 もあって古代ギリシアーローマの高度な文化や知識 は異教のものとして忘れ去られました。それらを しっかりと受け継いで書物に残していたのは東の ローマ帝国とイスラム帝国で、彼らは西方よりはる かに豊かで高度な文明を繁栄させていました。一一 世紀末に始まった十字軍遠征は、ヴ子不ツィアなど の都市国家に商圏拡大と富をもたらすのと同時に、 知的衝撃も与えました。ヨーロッパよりはるかに高 度な文化に触れる機会となったからです。  ルネサンスは、フランス語で「再生」という意味 ですが、「文芸復興」とも呼ばれます。それは、東 方に伝わり保存されていた古代ギリシアーローマの 文化がイタリアに逆輸入され、教会に独占されてい た知識を人々が共有し、現世を楽しむ人間らしい古 代文化の復興がこの時代に起こったからです。キリ スト教的価値観から解放され、自分の頭で考え始め たのは、一四世紀半ばのペストの流行も関係したの でしょう。ハタハタと多くの人が死んでいく中、ど んなに祈っても、神は無力だったからです。ちなみ に、「再生」(イタリア語でリナッシタ)という言葉 を初めて使ったのは匸(世紀半ばから後半にかけて 『芸術家列伝』を書いたヴァザーリですが、ルネサ ンスというフランス語が広がったのは、後世におい て、この文化現象の意義を研究し定義したのがフラ ンス人だったからです。  社会全体が経済的に豊かになって文化を楽しむ余 裕ができると、文化事業に資金を提供する君主やパ トロンが各都市国家に現れます。こうして、芸術、 科学、学問の新たな展開が始まり、人文主義の知識 人が増え、芸術の花が咲き、科学技術も発達してい きます。火薬、印刷、羅針盤の三大発明は、もとも と中国由来のものでしたが、ヨーロッパで格段に発 達したものです。火薬によって戦争の形態も変わり、 印刷は聖書や思想の普及や版画を生みます。そして 羅針盤は航海技術の進化をもたらすのです。   プロトールネサンス  実は、古代文化の復興はこれ以前にも見られてい ました。一三世紀、ゴシック末期のプロトールネサ ンスです。ホーエンシュタウフェン朝の皇帝フリー ドリヒニ世(在位匸匸一〇〜五〇年)はシチリア王 (フェデリーコニ世)でもありました。生まれ育っ たイタリアを心から愛し、イタリアに統一国家を築 き上げるという夢を持っていました。当時のシチリ アはイスラムとキリスト教文明が共存する独自の文 化を誇り、フェデリーコも六カ国語を操り、あらゆ る学問に通じた最高の知識人でした。フェデリーコ の宮廷ではすでにアラビア語やギリシア語の文献が ラテン語に翻訳され、古代文化を復興させようとし ていたのです。フェデリーコは、学問や知識が聖職 者階級に限定されていた時代に世俗の知識人を育成 するため、匸匸一四年にはナポリ大学も創設してい ます。  また、匸匸一八年の第五回十字軍を率いたのは フェデリーコでした。アラビア語も流暢に喋りイス ラム文化も理解していた彼は、武力を使わずにアイ ユーブ朝のスルタン、アルーカーミルと外交交渉を し、聖地エルサレムでキリスト教とイスラムが共存 する平和的解決をします。このような偉業を成し遂 げたのに、フェデリーコはローマ教皇から破門され ます。戦わずに和平を結ぶのは悪魔(イスラム教) と手を結ぶことだととらえられたのです。自由で合 理的な精神を持ったフェデリーコは早く生まれ過ぎ たのかもしれません。   ルネサンスの都市国家  一五世紀をイタリアでは愛情をこめてクアトロ チェント(一四〇〇年代)といいます。国際ゴシッ ク様式の中世末期から、一四二五年頃に始まるルネ サンス初期、盛期ルネサンスの始まりとされる一四 九二年頃までをカバーする一世紀です。  この頃からイタリアの都市国家で次々にルネサン スの花が咲きます。学芸を愛し、芸術家たちのパト ロンとなったのは、フィレンツェ共和国のメディチ 家、ミラノ公国のスフォルツァ家などが有名ですが、 その輝きの中心にあったのはフィレンツェでした。 レオナルドーダーヴィンチ、ミケランジェロ、ラ ファエッロという三人の天才が同時代を生きたとい うのは奇跡のようなことです。その後、ルネサンス の中心地はフィレンツェからローマヘ移り、盛期ル ネサンスの頂点を極めます。ルネサンス教皇と呼ば れるパトロンたちが数多の芸術家を招聘し、衰退し ていたローマを美しく変えていくのです。同じ頃、 一四五三年のコンスタンティノープル陥落以来、オ スマン帝国の脅威からイタリアを守っていたヴ子不 ツィア共和国では美しい色彩を特色とする独自のル ネサンス絵画が展開しました。  初期のルネサンス教皇たち  一五世紀初頭のローマは、長年にわたる教皇庁の 不在から人口が三万人程度の寂れた田舎町となって いましたが、再び教皇庁が戻ってくると徐々に元気 を取り戻していきます。ルネサンス期の教皇は、一 般的に一五世紀半ばの二コラウス五世からヱ(世紀 半ばのユリウス三世をさします。  最初のルネサンス教皇と呼ばれた二コラウス五世 (在位一四四七〜五五年)は、フィレンツェから画 家フラーアンジェリコを招き、ヴァティカン宮殿の 教皇の私的礼拝堂「二コラウス五世の礼拝堂」の天 井と壁面全体にフレスコ画を描かせています。また、 一四四八年には自らが収集していたギリシア語やラ テン語の写本を基にヴァティカン図書館を設立しま す。さらに古代ローマのヴィルゴ水道を建築家レオ ンーバティスターアルベルティに修復させてローマ 市民に水をもたらしました。一四五〇年の聖年には チフスが流行し、そして巡礼客でごった返す聖天使 橋に暴走馬が突っ込み、死者数一六二人という大事 故が起きます。これを機に橋の上の土産品屋を撤去 し、聖天使広場が作られました。  システィーナ礼拝堂を建立したシクストゥス四世 (在位一四七一〜八四年)は、二つの顔を持つ教皇 でした。失われたローマの栄光を取り戻すかのよう に文化・芸術面で多大な業績を残した反面、政治的 には迷走し、メディチ家当主ロレンツォとジュリ アーノの襲撃事件「パッツィ家の陰謀」にかかわっ ています。   一四九二年の二大事件  一四九二年は、ヨーロッパとイタリアで大きな事 件が続きました。  まず、アメリカ大陸への到達です。一五世紀半ば から豊かなアジアの富と文化に関心が高まり、航海 技術も進歩したため、大航海時代が始まりました。 ポルトガルが先行し、いち早くインド航路を確立し ましたが、スペインのイサベラ女王がジェノヴァ生 まれのイタリア人コロン(「イタリア史における中 世」)の船団をインドへ向けて派遣しました。コロ ンは地球球体説を信じ、大西洋を西に進むのがイン ドヘの近道だと考え、インドならぬ新大陸へ到達し ます。  次にグラナダ陥落です。イベリア半島からイスラ ム勢力を追い払うレコンキスタという国土回復運動 が続いていましたが、最後のイスラム国家、ナスル 朝グラナダ王国が滅亡しました。最後の君主はアル (ンブラ宮殿を去る時に涙を流したといわれていま す。  イタリアでは、フィレンツェの栄華を築いたロレ ンツォーイルーマニフィコが死去し、ローマではア レクサンデル六世(在位一四九二〜一五〇三年)が 教皇に登位しました。   一四九四年のイタリア戦争  一四九四年は、イタリアにとって悪い意味での転 換期となります。ロレンツォの後継者ピエロは愚鈍 でした。ナポリ王国の継承権を主張するフランス王 シャルルハ世の軍事侵攻の際に独断でフイレンツェ 入城を許可してしまい、共和政府から追放されます。 そして狂信的な修道士サヴォナローラの神権政治が 始まるのです。  一四五四年のローディの和でイタリアの五大国 (ヴ子不ツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、 ナポリ)が協定を結んで以来、四〇年間平和が続い ていましたが、フランスの侵攻により平和は壊され、 イタリア戦争が始まります。教皇アレクサンデル六 世は教皇領の支配権を確立するため息子チェーザ レーボルジアを教皇軍総司令官として軍事遠征させ ますが、諸都市国家の思惑と野心、フランスとスペ インーハプスブルグ家(神聖ローマ帝国)によるイ クリアの覇権争いが絡み合い、乱世へと向かいます。 傭兵頼みだったイタリアの都市国家は強大な国軍を 持つフランスやスペインに太刀打ちできませんでし た。  ルネサンス期は華やかな文芸が円熟するいっぽう で、戦乱の世の中でもあったのです。   盛期ルネサンスの教皇たち  アレクサンデル六世は、スペインのボルジア家出 身で、悪徳の代名詞のように伝えられます。教皇位 を初めてお金で買った教皇とされ、好色で多くの愛 人から子を得ており、政略結婚に利用した娘のルク レツィアと教皇軍総司令官だった息子のチェーザレ がよく知られています。しかし、ローマの美化と大 学の発展や、激しい抗争を続けるローマ貴族のオル シーニ家とコロンナ家の排除にも努め、フランスや スペイン・神聖ローマ帝国の勢力の狭間をうまく 渡っていきました。ボルジアの間と呼ばれる教皇居 室はピントウリッキオの美しい壁画で飾られていま す。サヴォナロ圭フを破門して処刑を許可したのも この教皇です。  ローヴェレ家のユリウスニ世(在位一五〇三〜一 三年)とメディチ家のレオー○世(在位一五二一〜 二一年)はまったく異なるタイプの教皇でしたが、 彼らがローマの華麗なルネサンス文化の立役者とな ります。ユリウスニ世が始めた新たなサンーピエト ロ大聖堂の建立、システィーナ礼拝堂のミケラン ジェロの天井画、ラフアエッロの間と呼ばれる教皇 居室の壁画など、唯一無二ともいえる至高の傑作が 生まれました。レオー○世はメディチ家出身だけ あって贅沢が好きで湯水のようにお金を使います。 継続するサンーピエトロ大聖堂造営資金を得るため にドイツで贖宥状(罪の償いを軽減する証明書)の 販売を行い、一五一七年のルターの宗教改革を招く ことになります。   ネポティズムと愛人たち  ルネサンス教皇たちは、ローマ教会の精神的指導 者というよりは、政治や軍事に力を入れ、芸術家の パトロンになるなど、主に世俗君主の役割を果たし ました。ネポティズムと呼ばれる縁故主義で、一族 や派閥の友人知人たちまでも引き立てて枢機卿の位 や教皇庁の要職を与え、出身家系の繁栄のために教 皇位を利用します。  たとえば、ルネサンスの理想郷ピエンツァ(世界 遺産)を築いたピウスニ世(在位一四五八〜六四 年)は、シェナ出身の人文主義者で優れた外交官で したが、在位中に枢機卿に任命した甥は、のちに教 皇ピウス三世となっています。ヴァネツィア宮殿の 建設を始めたパウルスニ世(在位一四六四〜七一 年)もエウゲニウス四世(在位一四三一〜四七年) の甥でした。カリストゥス三世(在位一四五五〜五 八年)は在位中に二人の甥を枢機卿に任命し、その うちの一人がロドリーゴーボルジア、のちの教皇ア レクサンデル六世です。同じようにユリウスニ世も シクストゥス四世の甥でした。  この時代は、愛人を持だなかった教皇を探すのが 難しいくらいモラルが欠如しており、愛人関係者や 庶子には教皇庁での要職が約束されました。アレク サンデル六世は、ファルネーゼ家のジュリアを愛人 にし、そのおかげでジュリアの兄は枢機卿となり、 のちに教皇パウルス三世として登位します。   ローマ劫掠とルネサンスの教皇たち  クレメンス七世(在位一五二三〜三四年)はメ ディチ家出身で、パッツィ家の陰謀で殺害された ジュリアーノの息子、教皇レオー○世の従兄弟にあ たります。イタリア戦争やルターの宗教改革運動で 不安定な国際状況の中、見通しが甘く優柔不断だっ たため、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール五世の 軍勢とドイツの傭兵ランツクネヒトによる一五二七 年五月のローマ劫掠を招きます。クレメンス七世は 側近と聖天使城に逃れますが、その際、教皇を守る スイス兵一八九人が死んでいます。ランツクネヒト はルター派プロテスタントだったためローマ教会を 憎んでおり、略奪だけでなく、聖堂も破壊し火を放 ちました。あらゆる階層の市民、聖職者、逃げ遅れ た文化人や芸術家が殺戮され、女性は修道女さえも 陵辱されます。しかも劫掠は翌年二月まで続きまし た。五、六万人くらいに増えていた人口は三万人に まで激減します。ローマ壊滅の知らせにヨーロッパ 中が衝撃を受けます。ローマを守れなかったクレメ ンス七世、自分の責任ではないと弁明するカール五 世。一五二九年、両者はバルセロナ条約で和解しま す。その内容は、教皇領のラヴェンナをヴ子不ツイ ア共和国へ、モデナをフェツラーラ公国へ移譲する こと、スフォルツァ家のミラノ復帰、メディチ家の フィレンツェ復帰、皇帝のナポリ王国の支配権の保 持、さらにローマ劫掠にかかわった者は教皇によっ て赦免されるという、屈辱的なものでした。クレメ ンス七世は、死の直前にミケランジェロに「最後の 審判」を描くことを依頼しています。  ファルネーゼ家出身のパウルス三世(在位一五三 四〜四九年)は、ネポティズムで長男をパルマ公に し、三人の孫を枢機卿にしましたが、政治面でも文 化面でも有能な教皇でした。教会改革に熱心でトリ エントの公会議を召集し、イエズス会の認可もして います。教皇は人文主義者でミケランジェロを高く 評価していました。サンーピエトロ大聖堂造営主任 建築家に任命し、カンピドリオ広場とそこに続く緩 やかな石段のある坂道コルドナータの整備、さらに 壮大で堂々とした私邸ファルネーゼ宮殿の設計の一 部も任せました。何よりシスティーナ礼拝堂の祭壇 圉「最後の審判」を完成させたことで知られていま す。ファルネーゼ家がカラカラ浴場跡から持ち出し た古代美術の収集は有名ですが、その多くはブルボ ン家に相続されてナポリにあります。一八世紀にパ ルマ公女エリザベッターフアルネーゼがブルボン朝 スペイン王フェリペ五世に嫁ぎ、彼らの息子が、パ ルマ公カルロ、ナポリーシチリア王カルロ七世、ス ペイン王カルロス三世となって受け継いだからです。  最後のルネサンス教皇ユリウス三世は芸術の擁護 者としてその名を残しています。音楽家パレスト リーナをローマに招いて礼拝堂音楽監督に任命し、 建築家ヴィニョーラの設計で美しい中庭のある別邸 ヴィツラージュリアを建設しました。この別邸は現 在ではエトルリア博物館となっていますが、当時ほ とりまきと享楽的な生活を繰り広げる場所でした。 教皇は男色家として知られ、パルマで出会った美少 年に夢中になり、縁者の養子として引き取ります。 のちにこの子を枢機卿に任命して大きなスキャンダ ルも引き起こしています。  ローマのルネサンスは、想像を絶する「ローマ劫 掠」という悲劇で終わりを告げました。けれども、 破壊と再生を繰り返すのがローマだといえます。そ の芽はすでに育まれていたのです。  8ユリウスニ世  デッラーローヴェレ家  一五世紀に入ったばかりのローマは見るも無残な 様相を呈していました。匸一〇〇年に四万人いた人 口は三万人にまで減っており、数多の聖堂や家屋は 崩れ、食糧不足で民衆は飢え、街路は泥や汚物にま みれ、治安が悪い上、冬場の夜間には狼もうろつい ていたといいます。教会大分裂終了後、一四二〇年 にローマヘ帰還した教皇マルティヌス五世は、聖ヘ テロの墓所を守る都市ローマの再生を目指して、 ローマの秩序回復と大聖堂や公共建造物の修復に努 めました。やがて一四四七年に登位した二コラウス 五世がルネサンスの花を咲かせ始めます。  ローマにルネサンス最盛期をもたらしたのはデッ ラーローヴェレ家出身の教皇ユリウスニ世(俗名 ジュリアーノーデッラーローヴェレ)ですが、その 前に同じルネサンス教皇だった伯父のシクストゥス 四世を語らなければなりません。  シクストゥス四世(在位一四七一〜八四年)、俗 名フランチェスコーデッラーローヴェレは、ジェノ ヴァ共和国のサヴォーナ出身で、フランシスコ会に 入り優れた神学者として尊敬されていました。先代 のパウルスニ世の時代に枢機卿となり、その四年後 に教皇に選出されます。教皇になると怛例のネポ ティズムでデッラーローヴェレ家とリアーリオ家の 縁者をとりたて、甥のジュリアーノはのちに教皇ユ リウスニ世となります。  シクストゥス四世は、ロマーニヤ地方の教皇領拡 大政策でメディチ家と対立し、教皇庁の金融管理と トルフアの明礬専売権をメディチ家からパッツィ家 に移管させました。これを機にフィレンツェの反メ ディチ勢力がパッツィ家を中心に「パッツィ家の陰 謀」(一四七八年)を企てます。この動きには、教 皇や甥のリアーリオ枢機卿、ピサの大司教サルビ アーティも同調していました。花の聖母大聖堂でリ アーリオ枢機卿がミサを挙げる最中に襲撃が起こり、 メディチ家当主のロレンツォーデーメディチ(イ ルーマニフィコ)は難を逃れますが、弟のジュリ アーノーデーメディチが殺害されます。しかし民衆 がメディチ家を支持したため陰謀は失敗し、メディ チ側の凄まじい復讐が始まりました。ピサ大司教ま でもが処刑され、窓から逆さ吊りで遺体をさらされ ます。高位聖職者に対する暴行に激怒したシクス トゥス四世は、フィレンツェを破門しました。  シクストゥス四世は政治的には迷走しましたが、 文化芸術面での功績は偉大でした。ヴァティカン図 書館を拡充し、メロッツォーダーフォルリやギルラ ンダイオに壁画を描かせ、教皇庁所有の「棘を抜く 少年」などの古代彫刻をローマ市民に寄贈する形で、 世界最古の美術館であるカピトリーノ美術館を創設 します。そして、古代ローマの名将アグリッパが架 けた橋の土台を利用して美しいシスト橋を築き、一 二世紀のサントースピリト病院や数々の聖堂の修復 をさせました。アルテンプス宮殿やカンチェレリア 宮殿も建造しています。何より特筆すべきことは、 自分の名を掲げるシスティーナ礼拝堂の建立です。 礼拝堂の素晴らしい壁画は、メディチ家と和解後、 フィレンツェからボッティチェリやペルジーノらを 招聘して描かせたものです。この礼拝堂にはのちに、 甥のユリウスニ世がミケランジェロに天井画「創世 記」を描かせることになります。  ジュリアーノーデッラーローヴェレは、伯父の影 響でフランシスコ会の修道院に学び聖職者の道を進 みました。一四七一年に伯父が教皇に登位すると、 二八歳で枢機卿に任命され、伯父の名義教会だった サンーピエトローインーヴインコリ聖堂を受け継ぎ ます。一四八〇年にはアヴイニョンの大司教となり、 教皇使節としてフランスへ赴き、四年滞在しました。  ジュリアーノはシクストゥス四世のカルデイナ ルーニポ上ア(甥の枢機卿)でした。これはこの時 代に始まった慣習で、教皇の実務的秘書を務める国 務長官のような役割です。実際、彼には抜群の外 交・政治能力と際立った軍才がありました。たとえ ば一四七三年に教皇領ペルージャで反乱が起きた時 には軍の指揮をして鎮圧しています。やがて枢機卿 の中でも強い影響力を持つようになり、伯父の死後 の枢機卿選挙でインノケンティウスハ世(在位一四 八四〜九二年)の選出に決定的な役割を果たし、 ローマ市民に「教皇より教皇らしい実力者」と呼ば れます。   打倒ボルジアー・  ジュリアーノはインノヶンティウスハ世の死後、 以前からライバル関係にあったスペイン出身のロド リーゴーボルジアと教皇位を争います。しかしボル ジアが巨額の賄賂で枢機卿を買収し、アレクサンデ ル六世として登位したため、フランスに亡命します (図14)。  ″・ 匸  レ/ ! 一四一二 `ド】 J售駄] ヴスーy2ラ ノ {四汐’作・謡 宍ぶぺ  アレクサンデル六世は、殺人や強盗は当たり前と いうほどに治安が悪化していたローマに秩序を取り 戻そうとしますが、聖職売買、愛人と庶子、派手な 生活など、教皇としての品行の悪さが仇となって退 廃の象徴とされ、在位中からあらゆる誹謗中傷を受 けます。歴代の教皇も同じようなことをしていたの にボルジアだけが悪徳の権化とされたのはスペイン 人だったことが関係するのかもしれません。ボルジ ア家には近親相姦や毒殺の噂が絶えませんでしたが、 これは都市伝説のようなものでしょう。教皇自身は 明るい性格で何をいわれても気にしなかったといい ます。一五〇〇年には大聖年を迎え、聖年に大聖堂 の聖なる扉を開くという慣例を開始しました。  一四九四年、フランス王シャルルハ世がナポリ獲 得のためイタリア半島へ侵攻します。仕掛け人は、 ミラノ公国のルドヴィーコースフォルツア(レオナ ルドーダーヴィンチのパトロンの一人)とフランス 宮廷に亡命していたジュリアーノでした。ナポリ王 国は本来フランス系アンジュー家の所領でしたが、 前世紀半ばからスペイン系アラゴン家の支配下に あったため、フランスはナポリの王位継承権を主張 していました。そこでジュリアーノは当時ナポリ王 国と結んでいた政敵ボルジアを戦乱で苦境に落とし 入れるため、シャルルハ世にイタリア半島の南下を たきつけたのです。いっぽう、もう一人の仕掛け人 ルドヴイーコには複雑な理由がありました。彼は甥 の後見人という立場でミラノを治めており、自分の 妻エステ家のベアトリーチェと甥の妻ナポリ王女の イサベラが、それぞれの息子を正式な後継者にしよ うと争っていたため、自己の野心のために外国勢力 を利用しようと考えたのです。さらに別の理由もあ りました。ルドヴィーコの曽祖父、初代ミラノ公 ジヤンーガレアツツォーヴィスコンティは、ヴアロ ア朝フランス王女イサベルとの婚姻の際、直系の男 子が途絶えた場合にはミラノ公国の相続権をイサベ ルとの娘に与えるという契約をしていました。その 娘はヴアロア朝の分家オルレアンのルイと結婚して おり、当時のミラノ公国は女系となっていたため、 フランスに正当な相続権があったのです。つまり、 フランスの関心をナポリに向ける必要があったので す。  フランスはすでに国家統一を果たしており、その 軍隊は最強でした。無血開城でいとも簡単にイタリ ア半島を南下してナポリを手に入れます。この状況 を見てルドヴィーコは後悔し、フランスの強大化を 阻止するため、ヴ子不ツィアなどの諸侯軍、スペイ ン王国、神聖ローマ帝国とヴ子不ツィア同盟を結び、 本国へ帰還中のフランス軍を攻撃します。フランス 軍はミラノ郊外で惨敗し、シャルルハ世の軍事侵攻 は失敗に終わりました。しかし、これ以降、諸侯や 外国勢力のイタリア半島をめぐる戦い、「イタリア 戦争」が続くことになります。  この経験を通して、アレクサンデル六世は軍事的 自立と教皇領の支配権確立の必要性を痛感しました。 そこでヴアレンシア枢機卿だった息子のチェーザレ を還俗させて教皇軍総司令官とし、シャルルハ世の 後継者ルイ匸一世に近づいて取引をします。教皇が ルイの離婚を認める代わりに、ルイはチェーザレに ヴアレンティーノ公として公爵領を与え、ナヴアラ 国王の妹との結婚をお膳立てし、フランス軍の提供 を約束したのです。娘のルクレツィアはすでにイタ リア半島の有力者との政略結婚に使っていました。  チェーザレは冷徹非情な政治家・軍人でした。口 マーニヤ地方に侵攻して快進撃を続けます。傭兵隊 長兼領主たちの反乱に対する「シニガリアの騙し討 ち」での徹底した冷酷さは、マキヤヴェツリを感心 させ、チェーザレにイタリア統一の可能性を見出し ます。一五〇二年、チェーザレはレオナルドーダー ヴィンチを軍事技術者として同行させています。し かし、一五〇三年八月に父親がごくなるとチェーザ レは窮地に陥ります。自身も父親と同じマラリアに かかっていました。つなぎ役の新教皇ピウス三世が 一ヶ月で死去して次の教皇選挙が始まると、スペイ ン系枢機卿の票を握っていたチェーザレは、教皇軍 総司令官の地位と自己のイタリア中部の支配権の保 持を条件に政敵ジュリアーノと取引をします。それ は守られるはずのない約束でした。そして破滅へと 向かうのです。   カエサルのように  第ニヱ(代ローマ教皇ユリウスニ世の教皇名ユリ ウスは、四世紀の教皇、聖ユリウスー世にオマー ジュを捧げたわけではありません。敬愛してやまな いユリウスーカエサルから取ったものです。ユリウ スニ世は、教皇というより世俗国家の君主、あるい は軍人として生まれるべきだったのかもしれません。 軍隊を自ら率い、カエサルと同じように戦場で兵士 たちに戦闘の仕方を教え、彼らと同じ釜の飯を食べ、 果敢に軍事行動を行いました。古代ローマ帝国の皇 帝以来、優れた政治家であると同時にカリスマ的な 軍の指揮官であることを両立させた初めての為政者、 それがユリウスニ世でした。ユリウスニ世はアレク サンデル六世と同じように教皇領拡大政策を取りま すが、ボルジアが自らの家系の繁栄を目的にしてい たのとは異なり、あくまでも教会国家の権力拡大を 目指したものでした。  教皇軍は寄せ集めの傭兵からなっていました。そ れは教皇軍総司令官たったチェーザレーボルジアの 時も同じで、だからこそ裏切りや騙し討ちが発生し たのです。一五〇五年、ユリウスニ世は常備軍を設 置することにし、ヨーロッパで最強とされていたス イス傭兵を使うことにします。今もスイス衛兵が ヴァティカン市国と教皇を守っているのは、この伝 統が続いているからなのです。  ところでヴ子不ツィアは、コンスタンティノープ ル陥落以降、東地中海の商圏をオスマン帝国に奪わ れ、海外貿易から国際金融に重点を移し、チェーザ レ失脚のどさくさに紛れて教皇領ロマーニャ地方の リミニやファエンツァなどを支配下に置き、北イタ リアで勢力を拡大していました。一五〇六年、ユリ ウスニ世は自ら軍隊を率いて教皇領内でありながら 半独立状態にあったペルージャやボローニャを攻め、 再征服します。そしてヴ子不ツイアにロマーニャ地 方の諸都市の返還を要求しますが、これを拒否され たため、一五〇八年、ヴ子不ツイアの拡大戦略に反 発していた神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世とフ ランスのルイ匸一世、スペイン王フェルナンドニ世 とともに反ヴ子不ツィアのカンブレー同盟を結成し、 戦争を起こします。  ところが翌年、ルイ匸一世が指揮する同盟軍が ヴ子不ツィアを大敗させると、ユリウスニ世はフラ ンスの影響力の強さを危惧して、ロマーニヤ地方の 諸都市の返還を条件にヴ子不ツィアと和平を結びま す。これに神聖ローマ皇帝もスペイン王も追従し、 カンブレー同盟は崩壊します。憤懣やるかたないル イ匸一世は、ユリウスニ世を教皇の座から引きずり 下ろすため宗教会議の開催を宣言しますが、失敗に 終わります。これに激怒したユリウスニ世も負けて はいません。ラテラーノ公会議を開催してルイ匸一 世を破門し、ヴ子不ツィア、ドイツ、スペイン、さ らにイングランド王ヘンリーハ世も巻き込んで反フ ランスの神聖同盟を結成して対仏戦争を始めます。 スローガンは、「外国勢力をイタリア半島から追い 払え’・」でした。  ユリウスニ世は、「パパーグェッリェロ」(戦士の 教皇)の呼称にふさわしく、優れた政治的駆け引き で外国勢力を巧みに操り、たぐい稀な行動力で、戦 い続けました。この対外政策がのちのスペイン・神 聖ローマ帝国のイタリア侵攻の種を蒔いたという見 方もありますが、それをいうのは酷ではないでしょ うか。   偉大なパトロン  カエサルのように有能な政治家であリ軍人だった ユリウスニ世は、ローマを再び壮麗な都にするため の明確なヴィジョンも持っていました。公共建造物 の建設を含む丹念な都市計画を立て、多くの芸術家 のパトロンにもなります。ローマをルネサンスの都 に変えた第一人者といってもいいでしょう。その点 では初代皇帝アウグストゥスを意識していたのかも しれません。そしてローマは、政治と文化の中心地 となっていくのです。  ユリウスニ世は、「恐るべき教皇」と呼ばれただ けあって、意欲的で実行力はありましたが、高圧的 で激しい気性をしていました。短気で思い立ったこ とはすぐに実行しないと気が済まず、思い通りにな らないと杖を振り回して怒りました。  教皇は、迷路のような中世の町並みを変えて行政 組織を合理的に配置しようと考えます。そこで、建 築家ブラマンテを起用します。彼はすでに聖ヘテロ の殉教地に古代建築から着想を得た美しい礼拝堂 「テンピエット」を建造し、名声を博していました。  ヴァティカン宮殿のベルヴェデーレの中庭を設計 させ、ローマ市内にはシスト橋を底辺として長方形 になるような直線道路をテヴェレ川の両岸に造らせ ます。現在ではトラステヴェレ側をルンガラ通り、 旧市街側を教皇の名にちなんでジュリア通りと呼び ますが、道幅が広い直線道路の建造は実に画期的な ことで、共和政ローマ時代以来といっても大げさで はなかったのです。  ジュリア通りに沿って各行政機関を建設する予定 でしたが、頻繁に氾濫するテヴェレ川に近い不安定 な地盤の安定化に時間がかかり、そのうち教皇も亡 くなったため、ブラマンテが裁判所の建物の土台を 築いたところで工事は中断されました。大きなトラ ヴァーティン石の土台は今もベンチのような形で残 り、これをローマつ子は愛情を込めて「ソファー」 と呼んでいます。  ユリウスニ世は老朽化したサンーピエトロ大聖堂 の問題にも取り組みます。過去の教皇のように構造 の補強や拡張にとどめることもできたはずでしたが、 コンスタンティヌスの古い大聖堂はローマの栄光に はふさわしくないと考え、取り壊して新築すること に決めました。計画では、白い大理石を使ったギリ シア十字形の大聖堂で、聖ヘテロの墓の上に主祭壇 を作り、上方にはパンテオンのような巨大ドームを 置く予定でした。さらに主祭壇のそばにはミケラン ジェロの彫刻に飾られた自身の墓廟を作る計画もあ りました。教皇は短期間で建設できると楽観してい ましたが、一五〇六年に開始された大事業は完成ま でに匸一〇年の歳月を要し、本来の計画とは異なっ ていきます。教皇の墓廟も完成せず、ミケランジェ ロのモーゼ像を中心とする小さなものとなり、サ ンーピエトロ大聖堂ではなく、ローヴェレ家枢機卿 の名義教会サンーピエトローインーヴィンコリに置 かれることになります。   ユリウスニ世とミケランジェロ  ところでミヶランジェロもユリウスニ世に負けず 劣らず気難しく激しい性格をしていました。彼は、 墓廟制作のために買った大理石の支払いで揉めたあ と、怒リのあまリフィレンツェヘ戻っていました。 誰がなだめても教皇と和解しようとせず、ついに フイレンツェ共和国との政治問題にされ、最終的に はボローニャまで軍事的偉業を達成したばかりの教 皇に会いに行く羽目となります。  ユリウスニ世は散々嫌味をいいながらも、すべて のボローニャ市民の目に触れる聖ペトロニウス聖堂 の正画扉の上に教皇の銅像を作ってほしいと、ミケ ランジェロに依頼します。制作にあたって、教皇が 片手で市民を祝福し、もう片方の手に何を持だせよ うかと思案していたミケランジェロが、「教皇聖下、 書物を持たせましようか?」と尋ねると、ユリウス ニ世は「書物? 余が無知だとでもいうのか? そ れより剣だ」と答えるのでした。一五〇七年に完成 したブロンズ像は、残念ながらボローニャが再び独 立を勝ち取った一五一一年に撤去され、フェツラー ラ公に贈られた挙句、溶かされて臼砲となってしま いました。  一五〇八年、ユリウスニ世はミケランジェロを再 びローマに呼ぶと、システイーナ礼拝堂の天井画を 描くよう依頼します。彫刻家のミケランジェロに絵 の経験はあまりなく、最初は断りますが、ブラマン テの鼻を明かそうとこれを受けます。たった一人で 身体がボロボロになるほど大変な苦労をして天井画 の半分ほどを描き上げた頃、様子を見にいったユリ ウスニ世はその出来栄えに感嘆し、喜びのあまりこ こまでの仕事を皆に見せたいといい出します。ミケ ランジェロが拒否すると、教皇は怒って「それでは いつ仕事が終わるのだ?」と大声を上げました。相 手が教皇でも負けてはいないミケランジェロは「私 かできる時です」と答え、ユリウスニ世の怒りを増 幅させます。「私かできる時? 私かできる時だ と?」。教皇はこういって杖でミケランジェロの身 体を叩き「余の言葉は命令だ」と、いいわたしまし た。一五一〇年に完成したシステイーナ礼拝堂の天 井画「創世記」は、西洋美術史上あらゆる意味で後 世に影響を与える至高の傑作となります。   ユリウスニ世とラファエッロ  ユリウスニ世は、敵対していたアレクサンデル六 世が使っていたボルジアの居室を使うのに我慢なら ず、その上階にある二コラウス五世が使っていた居 室を整備することにします。そこには素晴らしいピ エローデッラーフランチェスカの描いた壁画があり ましたが、これを一新させるために著名な画家たち に壁面装飾の仕事をさせていました。ところが突然、 彼らを解雇してしまいます。  教皇は、ローマに来たばかりの新参者ラファエッ ロの雨風に魅せられてしまったのです。当時のラ フアエッロはまだ二五歳と若く知名度が柢かったた め、教皇は試し描きをさせました。そして、まるで 生きている人間がそこにいるかのように描くラフア エッロの優美な世界に震えるほどの感動を覚え、 すっかり心を奪われてしまったのです。すでにこの 事業に従事していた圉家たちを解雇してラフアエッ ロー人に任せることは大きな賭けでしたが、教皇は 戦場で素早い決断をするのと同じように臨んだので した。  「署名の間」に描かれた「聖体の論議」ではローマ 教会の三位一体の教義とローマ教会の勝利が巧みな 構成によって描かれ、「パルナッソス」ではアポロ ンやミューズが佇む丘の上で古代の詩人たちが集う 姿が優美に表現され、「アテネの学堂」では古代ギ リシアの哲人賢者たちが描かれ、ルネサンスの古典 的精神を見事に具象化しています。プラトンのモデ ルがレオナルドーダーヴィンチであるように、実在 の人物をモデルに描いたのは偉大な芸術家に対する オマージュでもありました。ローマ教会の歴史を彩 るエピソードを描いた壁画には、過去の偉大な教皇 に重ね合わせてユリウスニ世が描かれました。  ユリウスニ世はラフアエッロに公式肖像画も描か せます。この絵の教皇は、いつもの闘争的な誇り高 い姿ではなく、白いひげを長くのばして物思いに 耽った表情をしています。絵が描かれたのは一五一 一年頃で、ボローニャがフランス軍の庇護のもと教 皇領から独立した頃でした。ユリウスニ世は辛い時 期にあったのです。あるいは、イタリア半島の未来 を憂いていたのかもしれません。ラフアエッロは教 皇の内面までも見事に表現したのでした。   ユリウスニ世の果たした役割  ユリウスニ世は即位後すぐに教皇領をめぐる都市 国家や外国の勢力を一掃しようと考え、政治的駆け 引きと行動力でその考えを実行しました。また、 ローマでもボルジアが排除しようとした貴族たち、 オルシーニ家やコロンナ家との関係改善に努めまし た。その政治的手腕は教皇国家の世俗的君主として は傑出した存在だったといえるでしょう。その反面、 芸術を愛し、多くの芸術家を起用してローマにルネ サンスの最盛期をもたらしました。しかも、芸術作 品にはローマ教会のプロパガンダを巧みに表現させ たため、ある意味、精神的指導者としての役割も果 たしたといえます。大げさにいえば、古代ローマの 栄光を取り戻そうとした人なのかもしれません。人 口も五万人を超えました。  いわゆるネポティズムも他の教皇に比べるとかな り少なく、即位後に縁者を三人ほど枢機卿に任命し ただけでした。また、女性関係の派手だった歴代の 教皇に比べて、ユリウスニ世には浮いた噂があまり 出てきませんが、愛人はいたのでしょうか?  実は、枢機卿時代、四〇歳前後で娘を一人もうけ ています。彼女の母親はローマ貴族の出であるルク レツイアーノルマンニ、娘はフェリーチェーデッ ラーローヴェレで、もし男性に生まれていたならカ ルデイナルーニポ上ア(甥の枢機卿)として教皇庁 で国務長官となっていたところです。  彼女は歳の離れたオルシーニ家のジヤンージョル ダーノと結婚し、オルシーニ家を仕切ります。そし て父ユリウスニ世だけでなく、レオー○世、クレメ ンス七世の治世にも大きな影響を与えたといわれて います。彼女の二人の娘、ジュリアはサンセヴェ リーノ公、クラリスはカラファ公と結婚し、その子 孫はイタリア半島の名家、スフォルツァ家、ボル ゲーゼ家、ボンコンパーニールドヴイシ家と縁戚を 結んでいます。  一五一三年二月、市民に絶大な人気を誇ったユリ ウスニ世は、病で亡くなります。ミケランジェロに よる墓廟が完成するのは、その三二年後、一五四五 年のことでした。  9ラフアエッロ   ルネサンス絵画  ルネサンス芸術は絵画抜きには語れません。けれ ども、どの時点からルネサンス絵画が始まるのかを 線引きすることは難しくもあります。ヱ(世紀後半 に活躍した画家ヴァザーリは、著作『芸術家列伝』 の中でジョット(匸一六六年頃〜一三三七年)をル ネサンスの黎明期に位置づけしています。それまで の絵に比べると、画面に奥行きが感じられ、作中人 物の表情や身ぶりに感情の表出が見られるからです。  ルネサンス絵画は、中世のキリスト教的価値観か らタブー視されていたものを解放しました。具体的 には、神を人間的に描くこと、異教のギリシアー ローマ神話の神々や裸体を描くことなどです。聖母 子を美しい人間の母子で描いたフィリッポーリッピ の「聖母子と二人の天使」、異教の女神を裸体で描 いたボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」などが よい例です。  さらに絵画技法も進化します。一五世紀前半には、 建築家ブルネレスキとレオンーバッティスターアル ベルティが透視図法(遠近法の一種)を理論化し、 これを使って多くの画家が奥行きのある空間を描く ようになっていきます。ピエローデッラーフラン チェスカ(一四匸一〜九二年)がウルビーノの宮廷 で描いた「キリストの鞭打ち」が傑作として知られ るのは、透視図法によるリアルな描写と完璧な幾何 学的構図が画期的だったからです。ピエロは高度な 数学や幾何学を熱心に研究した最初の画家でした。 レオナルドーダーヴィンチも空気遠近法(遠くのも のは色が変化して境界線がぼやける)とスフマート (輪郭をぼかして描く技法)と呼ばれる新技法を案 出し、一点透視図法とあわせて用い、描写しました。  そしてネーデルラント地方(現在のベルギーと ネーデルラント)から油彩画技法も伝わります。そ れまでは黄卵を使ったテンペラ画が主流で、湿気に 弱く絵の具がはがれやすいという難点がありました が、油彩を使うと何度でも塗り重ねることができ、 表現に深みが増すようになりました。また、船の帆 布を木枠に張ったキャンバスも登場します。ヴ子不 ツィアの画家たちが使い始めたといわれ、それまで の板絵から徐々に移行していきます。   神に愛された画家  ルネサンスを代表する天才芸術家というと、真っ 先に思い浮かぶのは万能の天才と呼ばれるレオナル ドーダーヴィンチでしょう。次に、彫刻家でありな がらシスティーナ礼拝堂に驚くべき天井画「創世 記」を描き上げたミケランジェロ、そして三番手が ラファエッロでしょうか。三人の天才は、ある時期 フィレンツェに居合わせ、その後もそれぞれ異なる 時期にローマヘ来ています。  レオナルドは不遇の時代が長く、ミラノで名声を 得たあとフィレンツェヘ偉大なマエストロとして凱 旋帰国しますが、ローマで活躍することはありませ んでした。工房は抱えていたものの、名のある弟子 は生まれていません。ミケランジェロは彫刻家とし て若いうちからフイレンツェとローマで絶大な成功 を収めましたが、その人生は苦痛に満ちたものでし た。気難しく偏屈で、狭量な性格から人望がなく、 弟子を育てたことはありません。  いっぽうラフアエッロは容姿に恵まれ、その物腰 は貴公子のようでした。性格もよく、誰からも愛さ れ、努力家ではありましたが大した苦労をすること もなく、若くしてローマで栄光をつかみます。ロー マ教皇や大富豪、洗練された知識人や美しい女性た ちに囲まれ、当代一の大工房を構え、弟子にも恵ま れました。  ラフアエッロの生きた一四八三年から一五二〇年 までの年月は、そのままイタリア美術における盛期 ルネサンスの時期に一致します。ラフアエッロはそ の画業において非の打ちどころのない理想美を完成 させ、ルネサンスの頂点を極めました。そして、彼 の作り上げた様式は一九世紀半ばまで西洋絵画の鑑 であり続けるのです。  ラフアエッロは「神に愛された画家」と呼ばれま す。二人の絶対的天才をさしおいて、末っ子のラ フアエッロが特別な存在として神話化されたのはど うしてなのでしょう。   ウルビーノ宮廷  ラフアエッロは、一四八三年四月六日にウルビー ノで生まれました。ウルビーノは、イタリア中部の 山の上に位置し、一五世紀の半ばから洗練された初 期ルネサンスの宮廷文化が栄えた小都市国家です。 ルネサンス建築の傑作ドウカーレ宮殿と大聖堂を中 心にした都市は今も当時のままの姿が残り、世界遺 産となっています。  名君フェデリーコーダーモンテフェルトロ(一四 二二〜八二年)は優れた傭兵隊長であると同時に大 変な教養人で、宮廷に多くの文化人を集めました。 多くの古典書を収めた寄木細工の美しい書斎には圉 家ピエローデッラーフランチェスカや数学者ルカー パチョーリも出入りしていました。  ラフアエッロが生まれた時にはフェデリーコの息 子グイドバルドの時代になっていました。グイドバ ルドに仕えたバルダッサーレーカスティリオーネは、 ウルビーノ宮廷を舞台に宮廷人の社交術や備えるべ き教養を説いた『宮廷大』を書いています。この本 は大ベストセラーとなりました。カスティリオーネ はラフアエッロの親しい友人でもあり、パリのルー ヴル美術館に肖像画が残っています。「この絵に皆 が挨拶する」とカスティリオーネが語ったほど、生 身の本人がいるかのようなリアルな作品です。  ラフアエッロの父ジョヴアンニはウルビーノの宮 廷画家で、洗練された教養人でもありました。宮殿 に近い坂道のメイン通りに工房を備えた立派な家を 構え、おそらくラフアエッロも幼い頃から父親に連 れられて宮廷に出入りしていたのでしょう。そうで なければ、貴族階級でもないのに優雅で上品な立ち 振る舞いが自然に身につくわけがありません。ラ フアエッロにとって宮廷は身近な存在で、数多の傑 作に触れられる場でもありました。ピエローデッ ラーフランチェスカの絵も見ていたことでしょう。  八歳で母を亡くしたラフアエッロは、一一歳の時 に父親も亡くします。その後は父の遺した工房で絵 の仕事を始めたようで、一五〇〇年にはわずか一七 歳でマエストロの肩書きを得ています。チッター デイーカステロの豪商からの注文「バロンチの祭壇 圉」が評判となり、しだいに活動の場を広げていき ますが、一五〇四年にフイレンツェヘ現れるまでの 正確な足取りはよく分かっていません。  おそらくウルビーノの政治情勢も関係するので しょう。一四九四年にフランス王シャルルハ世がイ タリアヘ軍事侵攻して以来イタリア半島では戦乱が 続いていましたが、一五〇二年、教皇アレクサンデ ル六世の息子チェーザレーボルジアがウルビーノを 占領したのです。翌年、ボルジア失脚後にグイドバ ルドが復帰すると、ラフアエッロは一五〇四年に公 爵家の人々の肖像画を描いています。そして、この 年の終わりにグイドバルドの姉ジョヴアンナの推薦 状を得てフイレンツェヘ向かうのです。  ちなみに、ジョヴアンナの夫は教皇ユリウスニ世 の弟で、グイドバルドに後継者がいなかったため、 彼女の息子フランチェスコーマリアーデッラーロー ヴェレが一五〇八年に公爵位を継いでいます。   先輩に学び、凌駕する  ラフアエッロは、フイレンツェヘ向かう前に、中 部イタリアで名声を得ていた画家ペルジーノのもと で仕事をしていました。師弟関係というよりは共同 制作者に近い形だったと考えられていますが、この 時、ラフアエッロはペルジーノの雨風を完全にマス ターし、あっという間に凌駕してしまいます。ほぼ 同時期に同主題で二人がそれぞれ制作した、まった く同じ構図の「聖母の結婚」という作品があります が、ペルジーノが線遠近法を用いながらも静正した 型通りの美と感情表現をしたのに対して、ラフア エッロは背景をより広く奥行きのある空間にし、前 景の人物像も生きた人間であるかのように自然で生 き生きと描きました。並々ならぬ才能が表出し始め たのです。  ラフアエッロがフィレンツェに着いた一五〇四年 末は、すでにメディチ家が追放され、サヴオナロー ラも火刑にされたあとでした。ジョヴアンナーデッ ラーローヴェレの推薦状は共和国行政長官ソデリー ニに宛てたもので、ラフアエッロは公的作品の注文 を狙っていました。けれども当時のフィレンツェに はレオナルドとミケランジェロがいたのです。ラ フアエッロは富裕層や貴族のための聖母子圉や肖像 画を制作するにとどまりますが、二人の巨匠の作品 を模写した素描が多く残っていることから、彼らか ら多くを学んだことが分かります。  ミケランジェロとは同じパトロンの邸宅で会う機 会もあり、彼の作品からは主に筋肉描写を学びまし た。しかし最も大きな影響を受けたのは、なんと いってもレオナルドでした。学んだことはすぐに自 分の作品に取り入れます。レオナルドがアトリエで 公開して大変な評判を博した、今では失われてし まった「聖アンナと聖母子」のカルトンからはピラ ミット型の構図を取り入れ、この上なく美しい聖母 子画「牧場の聖母」(ベルヴェデーレの聖母)を描 き、「モナーリザ」の構図を生かした肖像画「一角 獣を抱く貴婦人」や「マッダレーナードーニの肖像 画」が残っています。さらにレオナルドが宙で静正 した手の描写に用いた短縮法やスフマート技法も学 び、自分のものとしました。  しばしばラフアエッロは剽窃の画家といわれます が、それは正しい評価ではありません。画家はまず 優れた芸術作品の模写から始めるものです。偉大な マエストロの作品に刺激を受けない画家はいません。 ただ、それを吸収して独自に消化し、より美しく昇 華できるのは隕られた人間だけです。フイレンツェ 以降、ラフアエッロの聖母子画や肖像画の雨風は すっかり変わります。レオナルドからの学びを通し てラファエッロ独自の様式を築くのです。ラフア エッロの絵にレオナルドの神秘性を見出すことはで きませんが、その代わり彼の描く人物像には天真爛 漫さがあり、背後の風景も優しく穏やかになってい ます。そこには、誰にも表現できない特別な何かが 秘められています。洗練された色彩の美しさや卓越 した表現力という技術力では説明かつかない特別な 何かです。優美で品格があり、完璧な調和に満たさ れた悦びの世界、プラトン的にいえば、不完全な地 上の世界を完全な天上の世界に描いた理想美とでも いえばいいのでしょうか。   アテネの学堂  一五〇八年後半、ラフアエッロは突然、フイレン ツェからローマヘ移ります。ウルビーノのデッラー ローヴェレ家の縁を頼ったとも、同郷のサンーピエ トロ大聖堂造営主任建築家ブラマンテの推挙ともい われますが、一五〇九年一月には教皇庁からの支払 いの記録が残っているため、ローマで直ちにユリウ スニ世に仕える立場になったことが分かります。当 時、ミケランジェロはすでにシステイーナ礼拝堂の 天井画制作に取りかかっていました。  ユリウスニ世は、天上的なラフアエッロの雨風に すっかり魅せられ、教皇居室の壁面装飾を彼に任せ ることにします。ラフアエッロはわずか二五歳でし た。最初の装飾は、現在「署名の間」(一五〇八〜 一一年)と呼ばれる教皇の私的図書室で、「神学」 「哲学」「法学」「詩学」という、四つのジャンルに 分かれた教皇の蔵書を各壁面に収めることになって いました。ラフアエッロはまず天井に四つの学問の 擬人像を描き、それに呼応するような壁画「聖体の 論議」「アテネの学堂」「枢要徳(最も重要な美徳)」 「パルナッソス」を展開させます。ルネサンス人文 主義が理想とする真善美の探求における、古代文化 とキリスト教の真理、そして宗教と世俗の英知の融 和がテーマでした。図像プログラムはヴァティカン 宮廷第一級の知識人インギラーミの示唆があったよ うですが、ラフアエッロ自身がそれを完全に理解し ていなければ到底表現できるものではありません (図15)。  神学の壁「聖体の論議」では、まず画面中央に上 から下へ直線でつなぐように父なる神、キリスト、 聖霊を象徴する(卜、祭壇の上の聖体を描いて基軸 とし、三位一体の概念(キリストが神や精霊と同質 であること)を示します。さらに画面を上下二つ、 雲の上の天上の世界と地上の世界に分け、天上の世 界はキリストを中心に聖人たちを置いた「勝利の教 会」、地上界には教会博士たちが祭壇上の聖体の秘 跡(祝福されたパンがキリストの肉体へ変質するこ と)を論議する「戦う教会」を描きます。この壁画 でラフアエッロは、ローマ教会の教義と神学によっ て真理を探求することを示したのです。  向かい側の哲学の壁「アテネの学堂」は対になっ ています。哲学が真理を探究するもう一つの方法だ からです。ここでは、フォローロマーノのマクセン ティウスのバシリカ、あるいはブラマンテ構想の新 たなサンーピエトロ大聖堂をモデルにしたといわれ る壮大な古代風建造物の中に、二大思想体系を代表 するプラトンとアリストテレスを中心に哲人賢者が 集い、六〇人あまりの人物が自由に動いています。 ラフアエッロは深い尊敬と感謝の念をこめてプラト ンにレオナルドの顔を与えました。哲人賢者の中に はプラトンの師ソクラテス、快楽主義者のエピクロ ス、コンパスで図形を描くユークリッド、和声を発 見したピタゴラス、天文学者プトレマイオス、さら にラフアエッロ自身も署名がわりに登場しています。 ラフアエッロは卓越した美で、見事に古代文化の本 質と真理への到達を理想とする知的世界を視覚化す ることに成功したのです。  法学の壁には、三つの場面を描きます。上部に正 義を軸とする美徳(節制、剛毅、賢明)の擬人像 「枢要徳」、窓を挟んだ両側には歴史的出来事、左側 にローマ皇帝ユスティニアヌス(在位五二七〜五六 五年)が『学説彙纂』(ローマ法大全)を受け取る 場面、右側にローマ教皇グレゴリウス九世(在位一 二二七〜四一年)が『教令集成』(教会法)を受け 取る場面です。グレゴリウス九世はユリウスニ世の 顔で描かれています。  詩学の壁「パルナッソス」では、美の霊感を与え るパルナッソスの山にアポロンとミューズ、その周 辺にホメロス、ヴェルギリウス、ダンテなどの詩人 たちを置きます。有名な「ベルヴェデーレのアポロ ン」像がユリウスニ世の中庭の古代彫刻コレクショ ンに加わったのは、ラフアエッロがここで壁画制作 をしていた頃でした。  「署名の間」で劇的デビューを果たしたラフアエッ ロは大きな名声を得て、ローマの美術界を征服して いきます。また、上品な物腰と裏表のない性格のよ さは人々を魅了し、誰からも愛されるのです。   実業家ラファエッロ  ラフアエッロは、次の教皇レオー○世からもロー マ随一の画家として絶大な信頼を得て、寵愛を受け ます。  レオー○世はメディチ家の出身でした。同い年の ミケランジェロは少年時代にロレンツオーデーメ ディチに見出されメディチ邸で住み込みの修業をし ていたため、二人は旧知の仲でした。しかし、それ だけに教皇はミケランジェロの気難しい性格を熟知 しており、彼を好まず、大きな仕事は与えませんで した。  ロレンツォの息子レオー○世は、フイレンツェの 文化的成熟を経験しており、享楽的で贅沢好きな人 間でした。費用を顧みず、派手な祝宴や祭典を催し、 教皇登位の際に公言した「神が与え給うた教皇の座 を大いに楽しもうではないか」という言葉をそのま ま実践します。そのため教皇庁の国庫は空っぽにな リ、ユリウスニ世から引き継いだ新サンーピエトロ 大聖堂の工事費用を捻出するためにドイツで贖宥状 の販売をし、それがルターの宗教改革につながって いきます。  ラフアエッロは、教皇居室「火災の間」の装飾や システィーナ礼拝堂を飾る華麗なタペストリーの原 画制作の注文を受けます。一五一四年にブラマンテ が亡くなると、サンーピエトロ大聖堂造営主任建築 家にも就任します。多くの肖像画や聖母子画の注文 もあり、シェナ出身の大富豪アゴスティーノーキー ジ邸の装飾、サンターマリアーデルーポポロ聖堂の キージ家礼拝堂の制作など、あり得ないほど多くの 仕事を抱えていました。  ラフアエッロがこれらの仕事を全部こなせたのは、 大きな工房を持っていたからです。この頃になると、 構想や素描はラフアエッロ自身が行っても、実際の 制作は助手や共同制作者に任せることが増えてきま した。そのため、教皇居室の「火災の間」や「コン スタンティヌスの間」は、ユリウスニ世時代の二つ の居室に比べると、出来栄えがずいぶん違っていま す。  また、作品制作にあたって多くの素描を描いたラ フアエッロは、これを利用して当時のヨーロッパで 成長していた版画ビジネスを大々的に始めることを 思いつきます。優秀な版画家マルカントニオーライ モンデイと組んで、ヨーロッパ中で版画の販売を始 めるのです。これは、富を増やしただけでなく、ラ フアエッロの名声を広げることにもなりました。天 才画家は、優れた実業家でもあったのです。   古代への情熱  ラフアエッロがローマで魅せられたのは、古代 ローマの遺跡でした。時間があると友人だちと散策 し、古代建造物を研究しています。地下に埋もれた 洞窟のようなネロの黄金宮殿の跡にも共同制作者の ジョヴアンニーダーウディネと一緒に下りています。 内部には色鮮やかな壁画やスタッコ装飾があり、人 間と植物を組み合わせて曲線でつないだ不思議な文 様がありました。いわゆるグロテスク文様です。洞 窟をイタリア語でグロッタということから、洞窟内 の文様をグロテスクと呼ぶようになりました。ラ フアエッロはこれをヴァティカン宮殿の「ラフア エッロの回廊」の装飾やジュリオーダーメディチ枢 機卿の依頼で建造していた別邸ヴィッラーマダーマ の装飾に使っています。  一五一五年には古代遺跡監督官にも任命され、 ローマに残る古代遺跡を調査の上、測量しました。 二(年には三人の友人とティボリのハドリアヌスの 別荘の遺跡を調査旅行しています。このあとラフア エッロはバルダッサーレーカスティリオーネととも にレオー○世に手紙を書きます。古代建造物が破壊 され建築資材に使われるのに心を痛めていた彼らは、 古代遺跡を保護するよう教皇に直訴するのです。残 念ながら、その後も古代遺跡の資材転用は続きます が、五〇〇年以上も前にラフアエッロがこのような 近代的な考えを持っていたことには驚かされます。   女性への情熱  ラフアエッロは、誰にも実現できなかった優美な 人物像を描きましたが、それが特に表れるのが女性 像です。彼の描く聖母マリアや女性の肖像画には、 美しさだけでなく、たおやかな品格があり、輝くよ うな肌を持っています。まさにルネサンスが理想と する女性美です。ラフアエッロは、「美しい女性を 描くには、より美しい女性を見る必要がある」とカ スティリオーネにいっています。レオナルドやミケ ランジェロと違って、ラフアエッロは多くの女性と 恋愛を楽しんでいたため、それだけ女性というもの を分かっていたのかもしれません。  「ラフアエッロはたいそう情愛の深い女好きで、い つも女性たちの機嫌をとっては奉仕していた。性愛 の楽しみにふけってばかりの彼は、いささか大げさ なほど友人だちから尊敬され羨まれていた。親しい 友人のアゴスティーノーキージが自邸の第一の開廊 に絵を描かせた時、ラフアエッロはある女性への熱 情のあまり、長時間の仕事に身が入らないように なった。困り果てたアゴスティーノは、他の者の力 も借りて手を尽くし、ラフアエッロが仕事をしてい た部屋に件の女性がいつも一緒にいられるように取 り計らった。そのおかげで、この仕事は完成に至っ た」  ヴァザーリの伝えるこの話は、「ラーフォルナ リーナ」伝説、つまリキージ邸の近くにあったパン 屋の娘マルゲリータールーティがラフアエッロ最愛 の女性だったという伝承を生みました。「ラーフオ ルナリーナ」は、ラフアエッロの死後に見つかった 注文主のいない絵です。この絵の女性はふくよかで 庶民的な雰囲気があり、乳房をあらわにしながらも 恥じらいを感じさせ、健全な官能性を漂わせていま す。マルゲリータと同一人物なのかどうかは分かり ませんが、ただ一つ確かなことは、ラフアエッロが この絵の女性を愛していたことです。女性の腕には 腕輪があり、そこには彼の名前が記されているので す。しかもこの絵を隠し持っていたわけですから、 謎が謎を呼びます。「ラーフォルナリーナ」は、レ オナルドの「モナーリザ」のようにまぼろしの女性 なのでしょうか。   ミケランジェロとの確執  ミヶランジェロもまた、システィーナ礼拝堂の天 井画「創世記」(一五〇八〜匸一年)によって、絶 大な名声を得ていました。それは比肩するものはな いほどの傑作で、多くの画家たちに影響を与えてい ます。その独創性、革新性、解剖学に基づく人体表 現には、ラフアエッロは及ばないかもしれません。 けれどもルネサンスの精神を具象化し、理想美を表 現する画家という点において、当時のローマではラ フアエッロに軍配が上がっていました。彫刻家とし てのミケランジェロは天才でも、絵画においてはラ フアエッロのほうが優れているという意見が多数を 占めていたのです。フイレンツェでは良好な関係に あった二人ですが、ミケランジェロは嫉妬心からラ フアエッロを憎むようになります。  ラフアエッロ最後の作品は、高さが四メートル以 上もある巨大な板絵「キリストの変容」です(図 16)。この作品は、フランスのナルボンヌ大司教 だったジュリオーダーメディチ枢機卿が、当地の大 聖堂に送るため一五一六年にラフアエッロに注文し たものでしたが、ミケランジェロの入れ知恵で、セ バスティアーノーデルーピオンボにも「ラッザロの 蘇生」を描かせて、二人に競合させることになりま した。この競合は、実際にはミケランジェロとラ い琵言言回付ド匸い オンボヘ素描を提供したからです。 lf”一’J一。一 冫t犬一 。’ぎ Ry一’J  一一 ラフアエッロは¨この対ドために二〇年近い圉 業で培った技量のすべてをつぎ込み、構想と制作に 四年の歳月をかけて完成させます。画面上部に、夕 ボル山で神に変容したキリストがモーゼとエリアに 挟まれ、光に包まれて中空に浮かぶ場面を描き、ま だ神の救済が届いていないため闇に包まれた下部に は、悪魔にとりつかれた少年と絶望する人々や使徒 たちがひしめく様子を、多様なポーズや手ぶりで劇 的に描きました。  ナルボンヌの大聖堂に送られたのは「ラッザロの 蘇生」でしたが、ピオンボ(ミケランジェロ)が対 決に勝ったわけではありませんでした。枢機卿は 「キリストの変容」の素晴らしさに言葉も出ないほ ど感嘆し、フランスヘ送る気持ちをなくしてしまっ たのです。  「キリストの変容」は、ラフアエッロ芸術の最後の 到達点といえる最高傑作なのかもしれません。彼が 得意とした、人をうっとりと優しい気持ちにさせる ような絵ではありませんが、劇的な場面、光と影、 大げさな身ぶりは、ルネサンスを超えてバロックに 通じるものがあります。ラフアエッロは常に変化を 続ける画家だったのです。   ラファエッロ伝説  一五二〇年四月六日、生まれた日と同じ、復活祭 の聖金曜日、ラフアエッロは三七歳の若さで亡くな ります。三一歳も年長だったレオナルドがフランス のアンボワーズで亡くなった翌年のことです。ミケ ランジェロはラフアエッロよリハ歳年上でしたが、 ラフアエッロの死後、四四年も生きています。高熱 が出た原因はマルゲリータールーテイとの過度な情 事だとヴァザーリは伝えますが、これも本当のとこ ろは分かりません。  ラフアエッロは、生前の希望通りパンテオンヘ葬 られました。盛大な葬儀が営まれ、教皇レオー○世 もその死を悲しみ、涙にくれました。弔問客の一人、 美術収集家の貴族マルカントニオーミキールは、友 人への手紙の中でラフアエッロの死を悼むのと同時 に、ラフアエッロの死の前に不吉な前兆が生じたこ とを伝えています。ヴァティカン宮殿に亀裂が入り、 見る見るうちに天候が崩れていったというのです。  これは、当時、神のごとき画家と呼ばれ、最高の 名声を得ていたラフアエッロに関して同時代人の多 くが抱いた考えを反映しています。神のごときラ フアエッロは、キリストの生まれ変わりにたとえら れたのです。亡くなる前に描いた「友人との自画 像」(一五一八〜二〇年)のラフアエッロは、頭髪 の分け目が真ん中で直毛の長い髪とひげを持ち、多 くの画家が描くキリストにそっくりでした。しかも、 若くしてキリストと同じ聖金曜日に死んだのです。  こうして、ラフアエッロ伝説は完璧なものとなり ました。  ラフアエッロは、神に愛され過ぎて、少しばかり 早く天上に呼ばれてしまったのかもしれません。  10ミケランジェロ  絵画と彫刻はどちらが優れている  か?  ルネサンス期には、パラゴーネーデッレーアル ティと呼ばれた芸術比較論、中でも絵画と彫刻ほど ちらが優れているかという論争が盛んに行われまし た。レオナルドーダーヴィンチは、「絵画は自然を 的確にできるだけ真実に近く表現する科学である。 模倣することは再び創造することと同じだ。画家の 仕事は神が創造する行為に最も近い」と、絵画の優 位性を公言しました。いっぽうミケランジェロは、 彫刻作品はその周りを歩くだけで多種多様な視点か ら対象物の真価を理解できる唯一のものとして、大 理石彫刻の優位性を支持しました。  レオナルドは「手稿」に芸術比較論を書き残して おり、自身も絵画と彫刻を扱うことを明記した上で、 絵画と彫刻の相違について書いています。「彫刻は 肉体的努力で、絵画は知的努力で創造する。彫刻家 は大理石を削るのに腕力を要し大汗をかく。身体も 住居も粉塵にまみれて汚れる。いっぽう画家は綺麗 な身なりで作品の前に座り美しい顔料を使って筆を 走らせる。住居も美しい絵にあふれ清潔である」 「絵画は彫刻より知的探求が必要で、自然法則を理 解し、自然の様々な様相をとらえなければならない。 光と影、遠近法を用いて目に映る自然を描写しなけ ればならない。彫刻家は細工をせずにありのままの 自然を見せるが、画家は空気の色合いの変化から距 離を示し、霧や雨、背景の山や谷、雲も描写できる。 戦闘やそれによって起こる埃、水面と水底の藻や色 とりどりの光景、頭上の空や星さえも表現できる」  ミケランジェロも絵を描きましたが、あくまでも 自身を彫刻家だと考えており、彼の描く絵は人体の 表現を重視した極めて彫刻的なものでした。二人は、 芸術比較論だけでなく、世界観も宗教観も違ってい ました。レオナルドが科学的、宇宙的スケールで世 界を見つめていたのに対して、ミケランジェロはキ リスト教的世界観の中に生きていました。絵画と彫 刻のどちらが優れているかの比較論は現在ではあま り意味のないことです。二人がイタリアールネサン スを代表する天才であることは間違いありませんし。 レオナルドの絵だけでなく、ミケランジェロの彫刻 や天井画を見れば、一人の人間が生み出した奇跡の ような芸術に感嘆せざるを得ません。   ミケランジェロという人  ミケランジェローブオナッローテイは、気難しく 頑固で無鉄砲、誰とでも衝突する情動的な人でした。 偏屈でうまく人間関係を構築することができなかっ た彼は、たった一人で作品に向き合い、傑作を生み 出しました。芸術家同士の競争が激烈だった時代の せいで、他人を信用することができなかったのかも しれません。友人ができても、多くの場合、その関 係は破綻しています。ミケランジェロは、被害妄想 的な思い違いからレオナルドやラフアエッロに対し て敵意をむき出しにしていましたが、それだけ強い 自意識を持っていたのでしょう。あるいは彼の歩ん だ人生が過酷なものだったからかもしれません。芸 術家として栄光をつかみながらも、政治や権力者の 気まぐれに翻弄され続け、父親や家族の問題に苦し み、晩年は宗教的葛藤もありました。  一四七五年三月六日、ミケランジェロは父ルド ヴィーコが役人をしていたアレッツォ近郊のカプ レーセという小さな町に生まれます。ルドヴィーコ はトスカーナ女伯マティルデーデーカノッサ(「カ ノッサの屈辱」でローマ教皇グレゴリウス七世を保 護していた女伯)の末裔だと自称していましたが、 真偽のほどは定かではありません。ただ、貴族とま ではいかなくても手を汚すような仕事をしたことが なかったのは事実のようで、ミケランジェロが美術 の道を進もうとした時に猛反対をしています。当時 の画家や彫刻家は肉体労働の職人扱いをされていた のです。  ルドヴイーコは役人の職を失うとフイレンツェへ 戻り、生後まもないミケランジェロをセッテイ ニャーノ村の石切り工の家に里子に出します。ブオ ナッローテイ家は貧しく、わずかな地所から上がる 収入を頼りにしていました。母フランチェスカはミ ケランジェロが六歳の時に亡くなってしまいます。 ミケランジェロは五人兄弟の次男坊でしたが、父親 も兄弟も不甲斐なく、経済的困窮から父親はミケラ ンジェロを一家の働き手として羊毛組合で働かせよ うとします。  しかし美術に対する思いが強かった匸一歳のミケ ランジェロは、父親に引っ叩かれても我を通し、当 時のフイレンツェで名声を博していた画家ギルラン ダイオの工房で見習いを始めます。そこで得た給料 はすべて父親に渡しました。  ルドヴイーコは常に文句しかいわず、自分の望ま ぬ道に進んだミケランジェロに罪を償わせるかのよ うにブオナッロ上アイ家全員を養う義務を負わせま す。口を開けばお金の無心ばかりで、ミケランジェ 口が出世すればするほど金銭的要求はエスカレート していきます。ミケランジェロは彼らを養うだけで なく、家屋敷や土地を買い与えもし、生涯にわたっ て甥一家の面倒まで見ています。   ミケランジェロの若き日  ミヶランジェロは工房で徹底的に素描を学び、そ の並々ならぬ才能は師匠のギルランダイオを嫉妬さ せるほどのものでした。そして一年後に転機が訪れ ます。メディチ家当主ロレンツオーイルーマニフィ コがサンーマルコ庭園に開いた彫刻学校に推薦され たのです。庭園には古代彫刻のコレクションが並び、 彫刻家の卵たちには天国のような場所でした。  ある囗ロレンツォは、最年少のミケランジェロが 彫った年老いた牧神ファウヌスに目をとめて、声を かけました。  「君は、この年齢の老人は歯がいくつか欠けている ことを知らないのかい?」  ミケランジェロは、ロレンツォが去るとすぐさま 穴あけ機でファウヌスの歯を引き抜きました。しば らくしてそれを見たロレンツォは少年の素直さに大 笑いし、彫刻の才能を感じたためメディチ邸に寄宿 させることを決めます。ミケランジェロが一五歳の 頃でした。  ちなみにミケランジェロの鼻がつぶれているのは、 この時期に三歳年上の徒弟がミケランジェロを嫉妬 して顔を殴り、鼻の骨が折れてしまったからです。 つぶれた鼻はミケランジェロの才能の証といえるの かもしれません。  ミケランジェロがメディチ邸で世話になることを 父ルドヴィーコは喜びませんでした。給料をもらえ るわけではないからです。けれども実際にロレン ツォに会うと、彼は態度を変えてフィレンツェの支 配者の下にひれ伏しました。  「我が息子ミケランジェロだけでなく、ブオナッ ロ上アイ家の者全員がその命と財産とともに殿下に お仕えいたします」  ロレンツォがルドヴィーコに望みの仕事を与える ことを約束すると、ルドヴィーコは税関吏の職を望 みます。ロレンツォは微笑みながらいいました。  「ルドヴィーコ、お前はいつまでたっても貧しいま まだろう」  ミケランジェロはメディチ宮廷の一員となり、彫 刻の勉強をしながら、ロレンツォの私的サークル、 プラトンーアカデミーで当代一の人文主義者や詩人 だちと交流します。食事や祝宴の席でもロレンツォ とその家族、客人だちと一緒でした。彼はここで多 くのことを学び、いくつかの作品を制作しました。  メディチ邸に寄宿を始めて二年後の一四九二年四 月八日、ロレンツォが亡くなると、ミケランジェロ はメディチ邸で知り合ったサントースピリト修道院 長の計らいで、修道院附属病院で死んだ人たちを解 剖させてもらい、人体の勉強をします。そして修道 院長のために木彫の「キリスト磔刑像」を制作しま す。  いっぽうロレンツォの後継者ピエロは、イタリア に侵攻したフランス軍のフィレンツェ入城を許可し たため市民の怒りを買い、フィレンツェを追放され ます。代わってサヴオナローラの神権政治が始まり ました。ミケランジェロの長兄レオナルドは、この 前年サヴオナローラの属するドメニコ会修道士に なっていました。  ミケランジェロは政変の前にすでにボローニャヘ 逃れており、メディチ邸で会ったことのある貴族と 再会し、サンードメニコ聖堂の彫刻の仕事を受けま す。何もかもがうまくいくかに見えましたが、ボ ローニャの彫刻家たちの凄まじい反発を受けてフィ レンツェヘの帰還を余儀なくされます。フィレン ツェでは大した仕事もなく、メディチ家傍系の通称 イルーポポラーノに古代ローマの発掘品に見せかけ る細工をした彫刻を依頼されて制作しますが、これ を買ったユリウスニ世の甥リアーリオ枢機卿に偽物 だと見破られました。けれども枢機卿は彫刻の出来 栄えに感心してミケランジェロをローマヘ召喚する のです。   至高の名作ピエタ  一四九六年、二一歳のミケランジェロはローマヘ 行き、リアーリオ枢機卿に「古代彫刻と同じくらい 美しいもの」を依頼され、「バッカス」を彫ります が、枢機卿に受け取りを拒否されるという屈辱を受 けます。幸いミケランジェロを自邸に泊めて工房ま で用意してくれた銀行家ガッリがきちんと報酬を支 払い、作品を引き取ってくれました。さらにガッリ は、かつてフランス大使だったラグロラ枢機卿から 「ピエタ」の依頼を取りつけてくれます。「ピエタ」 とはイタリア語で「哀れみ」「同情」「深い信仰心」 という意味ですが、美術においては十字架から降ろ されたイエスの遺体を抱いて悲しむ聖母マリアの姿 をさします。  今もサンーピエトロ大聖堂を訪れる人を魅了して やまない「ピエタ」が完成したのは、ミケランジェ ロが二四、五歳の頃で、それはまるで大理石に生命 を吹き込んだかのような美しい古典的な彫刻でした。 聖母が十字架から降ろされたばかりのイエスの遺体 を膝の上に抱き、目を伏せています。美しいドレー プが幾重にも重なる衣服の下には聖母の肉体が感じ られ、イエスの遺体はぐったりとして右手をだらり と垂らしています。聖母は息子の亡骸の重さをまっ たく感じていないように見えます。下ろした左の掌 は上向きで、そこに人間的な感情、悲しみが凝縮さ れています(図17)。  J一騾  →迪一心な 悶  「ピエタ」はミケランジェロの実質的デビュー作で す。この傑作で彼の才能は注目されるようになりま すが、批判の声も上がりました。聖母が息子より 若々しいと非難されたのです。ミケランジェロは自 分の信念で弁明します。  「貞節な女性がそうでない女性に比べてはるかに 瑞々しさを保つことを知らないのか。みだらな欲望 とは無縁の高潔な処女であれば、なおさらだ」  ミケランジェロがまだ若くて有名でなかったこと から、「ピエタ」がロンバルディア出身の彫刻家の 作品だという噂が流れました。それを知って激怒し た彼は、彫像によじ登って聖母の肩から胸にかかる 飾り帯に「この作品はフイレンツェのミケランジェ ローブオナッローテイが制作した」と刻みます。ミ ケランジェロの署名が入った唯一の彫刻となりまし た。   レオナルドとラファエッロ  サヴオナローラ処刑後、ミケランジェロはフイレ ンツェに戻ります。彫刻家として大きな収入が入る ようになっても、何の贅沢もしませんでした。家族 のことだけを考えて、自身は衣服にまったく構わず、 少食で短時間の睡眠しか取りませんでした。この生 活スタイルは、裕福な家庭で育ち優雅な振る舞いが 身についたレオナルドやラフアエッロと正反対で、 その点でもミケランジェロは二人に反感を持ったの かもしれません。当時のフイレンツェには三人が居 合わせていました。 「ピエタ」で名声を得たミケランジェロは、一五〇 一年、フィレンツェ共和国政府から公的作品の依頼 を受けます。そして、もう一つの古典美を極めた傑 作「ダヴィデ」が誕生します。それは四メートル以 上もある巨像で、ダヴィデが巨人ゴリアテに石を投 げる直前をとらえたもので、落ち着いた外見の中に も激しい緊張感を感じさせます。誇り高く勇敢で、 何者にも屈服しない強い意志を感じさせる「ダヴィ デ」は、フィレンツェ市民のアイデンティティとな りました。  一五〇四年一月、ダヴィデ設置委員会が開催され、 レオナルドーダーヴィンチやボッティチェリなど 錚々たるマエストロたちが集まり、「ダヴィデ」を どこに設置するかが話し合われました。政庁舎シ ニョリーア宮殿の前か中庭かという案の他、レオナ ルドが悪天候から彫刻を守るためにランツィのロッ ジヤ(宮殿前の屋根つきの彫刻開廊)への設置を提 案しました。それを知ったミケランジェロは、レオ ナルドが嫉妬から「ダヴィデ」をロッジヤの他の彫 刻の中で目立だなくさせようとしていると思って、 深い恨みの気持ちを抱きます。結局、「ダヴィデ」 は市庁舎前に設置されることになったのですが、ミ ケランジェロは最初の機会にレオナルドに仕返しを します。  トリニタ橋の上で、「ミケランジェロ殿、この若 者たちがダンテの『神曲』の一節について助言を求 めているのだが、君が解釈してくれないだろうか」 とレオナルドに呼び止められた時、「あなたが解釈 したらどうですか。ミラノでブロンズ像の設計をし ながらも鋳造することができず、恥ずかしさのあま りに投げ出したあなたが」と、レオナルドを侮辱す るのです。二三歳も年上の偉大なマエストロに対し てなんという言葉でしょう。  また、ラフアエッロとは、毛織物の交易で財を成 した美術愛好家タッデオータッデイを同じパトロン としていたため、タッデイ邸で出会っています。そ の時ミケランジェロは、若く美しく上品で人を褒め るのがうまいラフアエッロに好感を持ちますが、の ちにローマで実質的ライバルになると、勝手な思い 込みから憎むようになります。  天才ミケランジェロは、かなり屈折した性格たっ たようです。   墓廟の悲劇  フイレンツェ共和国はシニョリーア宮殿の大会議 室に壁画装飾をすることに決め、レオナルドに「ア ンギアーリの戦い」、ミケランジェロに「カシーナ の戦い」を依頼します。しかし完成することはあリ ませんでした。レオナルドは壁に描く段階で取り返 しのつかない間違いを犯して仕事を放棄し、ミケラ ンジェロは下絵が終わって宮殿で描こうとする時に 教皇ユリウスニ世から召喚され、仕事を断念するか らです。教皇の召喚は大変な名誉でしたが、同時に 有無をいわせない強制力がありました。こうして フイレンツェは二つの偉大な作品を得る機会を失っ てしまったのです。  一五〇五年二月末、ミケランジェロはローマに到 着し、ユリウスニ世と墓廟制作について打ち合わせ をします。それは、等身大より大きなI〇あまりの 大理石の彫像で装飾され、四方から見ることができ る壮大な建造物でした。ミケランジェロは五月に大 理石購入のためカッラ圭フヘ行き、石を選ぶため ハケ月も滞在します。  しかし、この仕事はミケランジェロがいうところ の「墓廟の悲劇」となり、完成まで四〇年を要して しまうのです。  まず、大理石の代金がなかなか支払われず、激怒 したミケランジェロはフイレンツェヘ戻ります。結 局、教皇とはボローニャで和解しますが、今度はユ リウスニ世の心変わりが起こります。システィーナ 礼拝堂の天井画制作に興味が移ってしまうのです。 そして天井画を描き終えたあとでいざ取り組もうと いう時に、教皇は崩御してしまいます。遺族と墓廟 制作の契約が新たに交わされますが、教皇の代が変 わると、先代の教皇の契約は優先されなくなります。 次の教皇レオー○世はミケランジェロにフィレン ツェのサンーロレンツォ聖堂のファサード(正面) の建設を依頼し、カッラ圭フではなくピエトラサン 夕で大理石発掘をするように命じます。ところがミ ケランジェロが苦労の末に大理石運搬路を開拓した ところで教皇は心変わりをし、この計画は破棄され ました。レオー○世の死後、ユリウスニ世の遺族は 墓廟遅延を提訴しますが、ミケランジェロは新教皇 クレメンス七世から「メディチ家礼拝堂」と「ラウ レンティアーナ図書館」の建設を依頼され、断わる ことができません。いつまでたっても墓廟制作に戻 れず、再びユリウスニ世の遺族から訴えられます。  政治的にも翻弄されました。一五二七年に起こっ たローマ劫掠の影響でフィレンツェでも政変が起き、 復活していたメディチ家は再び追放され、共和政府 が樹立します。ミケランジェロは共和政府のフィレ ンツェ防衛を担当する委員に選ばれます。三年後に メディチ家が復活した時、ミケランジェロは日和見 主義者だといわれ、メディチ家の刺客に狙われ、メ ディチ家礼拝堂の地下に潜伏することになります。 結局、クレメンス七世のとりなしで事なきを得て 「メディチ家礼拝堂」の仕事を続けますが、ユリウ スニ世の墓廟が完成したのは、その次の教皇パウル ス三世の時代にシスティーナ礼拝堂の「最後の審 判」とパオリーナ礼拝堂の壁画を描き終えたあとで した。   システィーナ礼拝堂天井画「創世   記」  一五〇八年初頭、ユリウスニ世の命でシスティー ナ礼拝堂の天井画「創世記」を描き始めます。ヴア ザーリやコンデイヴイの伝記によると、ミケラン ジェロは、この件は彫刻家の自分に絵を描かせて恥 をかかせようとするブラマンテとラフアエッロの陰 謀だと考えたようですが、これはミケランジェロの 一方的な思い違いではないでしょうか。  二〇メートル以上の高さの天井の下に作った足場 は、夏は死ぬほど暑く冬は凍えるほど寒い環境でし た。ミケランジェロは着衣のままで眠り、ブーツも 脱がず、ひげも剃らず、倒れない程度の食事をとる だけで、制作に没頭します。足場の上で上を向いて、 顔や目に絵の具の滴がたれ落ち、大変な作業を続け ました。描き終えた時、ミケランジェロの身体はボ ロボロで、長い間、目を天井に向けていたため、目 を下に向けることができず、しばらくは手紙などを 読む時には頭の上にかざさなければ読めなかったそ うです。  ミケランジェロは天井全体を多くの区画に分け、 それぞれの区画を見せかけの建築モティーフで立体 的に描きました。天井四隅の大スパンドレル(天井 隅の局面部分の三角形)には旧約聖書の四つの物語、 中央帯には、旧約聖書の「創世記」の九場面、その 周辺には旧約聖書の預言者や異教のシビュラ(巫 女)を描き、側壁にはキリストの祖先たちを描きま した。中央の九場面「光と闇の分離」「太陽と月の 創造」「水と地の分離」「アダムの創造」「エヴアの 創造」「原罪/楽園追放」「ノアの燔祭」「大洪水」 「ノアの泥酔」の中で最も有名なのが「アダムの創 造」です。右側の大きなマントの中でたくさんの天 使に支えられた神が右手を伸ばし、その人差し指が、 左側の岩に横だわった最初の人間アダムの差し出す 左手の指と触れ合おうとしています。創造主が被造 物へ生命の干不ルギーを伝える瞬間です。人間は神 の似姿として作られたというルネサンスの理想が表 現された素晴らしい作品です。   なぜ喋らない’・  ミケランジェロのローマの住まいは、ユリウスニ 世の遺族デッラーローヴェレ家に提供された家屋で、 マチェルーデーコルヴイ(ガラスの虐殺という意 味)という、いわゆる貧民街にありました。ローマ の公衆便所と呼ばれるゴミ捨て場のような場所でし た。ここにミケランジェロは生涯の最後の囗まで暮 らします。  ユリウスニ世の墓廟計画案は最終的に壁の一面だ けに縮小され、墓廟はサンーピエトロ大聖堂ではな く、ユリウスニ世の枢機卿時代の名義教会だったサ ンーピエトローインーヴインコリ聖堂に収められま した。  モーゼ像をはさんで左右にヤコブの妻だった二人 の女性像(観想的人生の象徴ラケルと活動的な人生 の象徴レア)、上部にユリウスニ世と聖母子、左右 にシビュラ(巫女)と預言者を配置しています。本 来は、二人の女性像の場所に現在ルーヴル美術館に ある「囚われ人」二体を置く予定でしたが、あまり にも官能的で墓廟を飾るには時世的に不謹慎だと判 断され、変更を余儀なくされました。「囚われ人」 は、ミケランジェロが古代彫刻「ラオコーン」を見 て受けた衝撃から得た信念、つまり、石を攻撃して 従わせるのではなく、すでに石塊の中にある彫像を 引き出すという考えに沿って彫られたものでした。  「モーゼ」は力強い彫刻です。腕の下に十戒の石板 を抱えて座っており、身体のねじれに沿って胸の上 で曲がりくねるひげに片手で触れています。突然、 顔を横に向けたようで、眉をひそめた厳しい顔で、 目を見開き怒ったような視線を放っていますが、ど こか悲しみも感じさせます。左足はうしろへ下がり、 今にも立ち上がろうとするかのようです。自分で彫 りながらもあまりにリアルな「モーゼ」に、ミケラ ンジェロは度々「なぜ喋らないんだ’・」といったそ うです。   ミケランジェロの恋  ミケランジェロは男色家といわれますが、それが 精神的なものなのか肉体を伴ったものなのかは分か りません。ただ、貴族出身の弟子トンマーソーデー カヴァリェリに夢中になったことは確かです。一五 三二年頃、ミケランジェロが五七歳の時に出会った トンマーソは二〇歳を過ぎたくらいの美しい青年で した。詩人でもあったミケランジェロは、彼に激し い情熱を抱き、愛のソネット(十四行詩)を書き、 三枚の素描を贈っています。そのうちの一枚は、ゼ ウスが鷲に変身して美少年のガニュメデスを背後か ら抱きかかえて誘拐する場面で、性愛を思い起こさ せる体勢にあり、ガニュメデスはまったく抵抗して いません。きわどい素描ですが、トンマーソはとて も気に入っだそうです。ただし、男性から男性へ 送った愛のソネットは世間的にはスキャンダルとな りました。  一五三六年頃、貴族の未亡人で有名な詩人たった ヴィットリアーコロンナに出会った時も、ミケラン ジェロは同じ情熱を抱きました。ヴィテルボの修道 院に入る前にローマに滞在していた彼女は、文学者、 開放的な精神を持つ知識人、高位聖職者と集まり、 ミケランジェロも参加していました。彼らは教会改 革の必要性について討論し、イエスと直接深くつな がる原始キリスト教の精神に立ち戻ることが必要だ と考えていましたが、それは異端告発ギリギリの線 でした。ミケランジェロは彼女の精神的強さと知性 に心を奪われ、ソネットと二枚の素描を贈っていま す。ヴィットリアとの交流は、彼女が修道院に入っ て亡くなるまで続きます。   システィーナ礼拝堂祭壇画「最後の   審判」  一五二七年のローマ劫掠から七年が過ぎ、ローマ は再建の熱気にわいていました。復興を加速させた のは、一五三四年に教皇に登位したファルネーゼ家 のパウルス三世でした。  パウルス三世は、前教皇がミケランジェロに注文 していたシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」を引 き継ぎ、この仕事を続行させます。「最後の審判」 はこれまで、キリストがアーモンド形の光の中央に そびえ立ち、天使や聖人の集団がそれぞれのグルー プのヒエラルキーによって順番に配置され、キリス 卜の右側に祝福された者たち、左側に地獄に堕ちた 者たちが描かれてきました。  ミケランジェロが六〇歳の時から五年かけて完成 させた「最後の審判」は、同じ配置をとりながらも、 革新的でルネサンス芸術を超えるものでした(図 18)。全体的に混沌とした終末的な雰囲気ですが、 ミケランジェロの心のうちが反映されたのかもしれ ません。 辻川説愁我m すかのようです。作中人物は裸体で自由自在に動い ています。天使には翼がなく、代わりに受難の道具 を持たせています。聖人からは光輪を取り、殉教の 道具を手に持たせることでそれと分からせています。 聖バルトロマイはばかされた自身の皮を手に持って いますが、この皮にミケランジェロは自画像を描い ています。現在ヴァティカンで見られる「最後の審 判」は陰部に布を加筆したものですが、ナポリのカ ポディモンテ美術館には当時のままを模写した絵が 残っています。それを見ると布の加筆だけでなく、 きわどい体勢にあった聖人たちも修正されているこ とが分かります。  このように尋常ではない描写は多くの批判を巻き 起こしました。教皇が儀典長に意見を求めた時、彼 は「教皇聖下の礼拝堂にふさわしいフレスコ画では ありません。公共浴場か居酒屋にぴったりのように 思えます」と答えました。それを聞いたミケラン ジェロは復讐を誓い、地獄の入り口に立つミノスを 儀典長の顔で描きました。ミノスはロバの耳を持ち、 身体に巻きついた蛇が彼の生殖器を噛んでいます。  パウルス三世はミケランジェロを批判から守り、 さらに自分の個人的礼拝堂(パオリーナ礼拝堂)の ために一辺が六メートルもある二つの壁画を描くよ う命じました。ミケランジェロは六七歳になってお り、体調もよくありませんでしたが、八年かけて 「聖パウロの回心」と「聖ヘテロの磔刑」を描き上 げました。また、一五四六年にはサンーピエトロ大 聖堂造営主任建築家にも抜擢されます。  一五四九年、最大の理解者たったパウルス三世が 亡くなると、ミケランジェロは激しい非難にさらさ れるようになります。かつての友人、詩人のアレ テイーノは、ミケランジェロとトンマーソは淫らな 関係にあると言及して、「最後の審判」を徹底的に 糾弾しました。著名な詩人の言葉はイタリア中に広 まっていきます。そして、トリエント公会議でこの 絵の人物像の陰部を布で覆うことが決まったのでし た。  ミケランジェロは、対抗宗教改革の最中にあった ローマ教会に多くの疑問を持ち、キリスト教徒とし て精神的苦悩にありました。それを解決するため ヴイツトリアーコロンナを訪ねて対話を続けていた のです。しかし、教会はもはや、ローマ教会への信 仰心と教義の規範を守るかどうかを裁く司法機関と なり、共感を持てない体制となっていました。そん な状況から自分が人生をかけて取り組んできた芸術 にも無力感を感じていました。「最後の審判」には ミケランジェロのそんな心情も込められているのか もしれません。  ミケランジェロが最後に残しだのは未完の「ピエ タ」(ロンダニーニのピエタ)でした。もはや手を 動かせる健康状態ではなかったのに、ノミを持ち、 亡くなる直前まで彫り続けました。最後の「ピエ タ」では聖母とイエスは直立の体勢にあり、聖母が 背後からイエスの亡骸を必死で抱き上げようとして います。母と息子がまるでただ一つの存在であるか のように溶け合っています。ミケランジェロは、六 歳で失った母フランチェスカを思っていたのでしょ うか。  「ピエタ」に始まり「ピエタ」で終わるミケラン ジェロの人生は、八九歳で幕を閉じました。 この時代のローマ  宗教改革の始まり  ローマ教会の堕落と腐敗を批判する教会改革運動 は、すでに一四世紀前半から見られました。教会大 分裂の時代(「聖年〜アヴイニョン捕囚〜ベスト」)、 イングランドの神学者ウィクリフはローマ教会の教 義と教皇の権威を否定し、聖書を信仰の基礎と考え。 匸一八二年に史上初の英文の聖書を出版しました。 これに影響を受けたベーメン(ボヘミア)のフスも、 十字軍の遠征費用を捻出するため贖宥状の販売を始 めたローマ教会を批判し、改革論を発表します。贖 宥状とは、買うだけであらゆる罪から逃れられると いう証明書です。フスは破門され、一四一四年のコ ンスタンツ公会議で有罪判決を受けると、翌年、火 刑に処されました。しかし、一四一九年、第一次プ ラハ窓外放出事件(フス派がローマ教会派のプラ( 市参事会員を市庁舎の窓から突き落とした事件)が 起こり、フス戦争(一四一九〜三四年)が始まりま す。  一五一五年、教皇レオー○世は、サンーピエトロ 大聖堂造営費用を調達するためドイツで大々的に贖 宥状を販売しました。十字軍の遠征時に始まり、聖 年のローマ巡礼者にも販売され、手っ取り早い集金 手段として乱用されるようになっていたのです。  贖宥状がドイツで販売されたのは、ドイツが神聖 ローマ帝国内で諸侯領に分裂していたため、「ロー マの雌牛」と呼ばれるほど教皇の干渉や搾取を受け やすかったからです。また、バイエルンで金融業を 営む富豪フッガー家の存在もありました。レオー○ 世と販売独占権を得たマインツ大司教アルブレヒト はフッガー家に多額の負債を抱えていました。贖宥 状の売上金から借金を返済する目的もあったのです。   マルティンールターとカルヴァン  一五一七年、ドイツ中部ザクセンのヴィツテンベ ルク大学の神学者マルティンールターは、贖宥状の 悪弊を糾弾し、「九五ヵ条の論題」を発表します。 聖書が信仰の基盤であり、信仰によってのみ人は救 われるという福音信仰を提示したのです。この主張 がグーテンベルグの印刷技術でドイツ各地に広がる と、教皇庁の搾取に反発する諸侯や市民、農民たち に支持されるようになります。これが宗教改革、プ ロテスタントの始まりです。  一五二一年、ルターは教皇に破門されますが、ザ クセン選帝侯フリードリヒ三世の庇護下で新約聖書 をドイツ語に訳して出版します。これによって民衆 は自国語で聖書を読み、直接キリストの教えに触れ ることができるようになりました。なお、プロテス タントの呼称は、皇帝カール五世が一五二六年に認 めた信教の自由を二九年に取り下げた際に、ルター 派諸侯が抗議したことに由来します。  一五三六年、スイスではフランス出身のカルヴァ ンがプロテスタントの教義を体系化した『キリスト 教綱要』を出版して、独自の宗教改革を行いました。 人が神の救済にあずかれるか否かはあらかじめ神に よって予定されており、善行に励もうと教会に寄進 しようと、それが変わることはないという予定説を 唱えました。これは、救済を定められた人間は天命 (職業)を務める者だという思想につながり、商工 業者の心をつかみます。ルター派が司教制度を維持 したのに対して、カルヴアン派は信仰心の厚い長老 を選び、牧師を補佐させる長老主義をとりました。 カルヴアン派はフランスでユグノー、イングランド ではピューリタンと呼ばれました。  一五五五年、アウクスブルクの和議が成立し、 カール五世はドイツ諸侯のルター派の信仰を認めま すが、領民は諸侯の宗派に従わなければならず、自 ら選ぶことはできませんでした。  ルター派プロテスタントは、ドイツ北部や北欧諸 国に広がっていきます。いっぽうイングランドでは ヘンリーハ世が王妃離婚問題から一五三四年に国王 至上法を発布し、英国国教会の首長となりました。 フランスとスペインはローマ教会にとどまりました。   対抗宗教改革とイエズス会  ローマ教会は、従来の教義の正当性を確認した上 で聖職者の風紀を正し、教会のあリ方を改め、さら に勢力を挽回するためローマ教会の布教に力を入れ るようになります。これを対抗宗教改革と呼びます。  ミケランジェロのパトロンだったパウルス三世は、 芸術を擁護したことからルネサンス教皇の一人とし て数えられますが、本格的な教会改革を始めた教皇 でもありました。一五四五年にトリエント公会議を 開きます。  イグナテイウスーデーロヨラとフランシスコーザ ビエルらが一五三四年にパリで設立した男子修道会 イエズス会も、一五四〇年、パウルス三世が正式に 認可しました。ロヨラが初代総長となり、高い学識 を持った彼らは、厳しい規律のもと、ヨーロッパ各 地で教育事業(学校や神学校の設立)と新たな布教 活動を開始します。非ヨーロッパ諸国へも積極的に 宣教師を派遣し、一五四九年にはザビエルが日本を 訪れています。彼らは、対抗宗教改革の原動力とな りました。   トリエント公会議  ローマ教会の教義を明確にして教会改革を打ちだ すためのトリエント公会議(一五四五〜六三年)は、 終結するまで一八年かかります。三回の会期に分か れて断続的に続き、一五六四年、ピウス四世がそれ までの会議で決議されたことを承認しました。当初 はプロテスタントとの分裂を回避して妥協点を見出 そうとしましたが、教義の再確認をするうちに主張 の違いは決定的となりました。この公会議で決まっ たことが二〇世紀までローマ教会の基本となります。  再確認されたローマ教会の教義は次のようなもの です。教皇の至上権、ウルガタ訳聖書(ラテン教父 ヒエロニムスによる標準ラテン語訳の聖書)の権威、 原罪、義認(罪から善に移行させる神の行為)は神 の恩寵と人間の自由意志との協働であること、七つ の秘跡(洗礼、ゆるし、聖体、堅信、叙階、婚姻、 終油)の重要性などです。ゆるしは告解、聖体はパ ンとワインがキリストの肉体と血に変化する実体変 化をさし、堅信は確固たる信仰の表明、叙階は貞潔、 清貧、従順の三つの請願を立てた聖職者の任命、終 油は臨終の床にある病人のゆるしにおいて塗油を行 うことです。また、巡礼、聖人や聖遺物の崇拝、聖 母マリアヘの信仰や聖圉もあらためて認めました。  教会改革面では、聖職売買と贖宥状の販売が禁止 され、司教の役割を明確化しました。教皇はネポ ティズムによって縁者を司教に任命し、複数司教区 を兼任させたため、司教が司教区に定住せず代理司 祭に任せるという事態が多発していました。これを 禁正したのです。さらに、宗教裁判所の設置や禁書 目録の作成、芸術作品の表現には厳しい規則を課す ことも決まり、ミケランジェロの「最後の審判」も 裸体の人物像の陰部に腰布を加筆することになりま した。   対抗宗教改革の教皇たち  パウルス四世(在位一五五五〜五九年)は対抗宗 教改革の強硬派でした。反ユダヤ主義でユダヤ人を ゲットーに押し込め、異端告発を日常化するととも に禁書目録を制定して恐怖政治をしきます。一五五 九年にはイタリアを舞台にフランスとスペインーハ プスブルグ家が覇権を争ったイタリア戦争が終結し ました。そして、次の教皇ピウス四世(在位一五五 九〜六五年)の代でようやくトリエント公会議が再 開し、決議承認に至ります。  ピウス五世(在位一五六六〜七二年)は異端審開 所を強化し、『神学大全』で知られるスコラ学のト マスーアクィナスを教会博士に認定します。また、 オスマン帝国対策ではスペインへ呼びかけて連合艦 隊を組み、七一年にはオスマン帝国艦隊をレパント の海戦で破りました。  グレゴリウス匸二世(在位一五七二〜八五年)は、 ユリウス暦と実際の暦日のずれを修正してグレゴリ ウス暦を制定し、司祭の教育機関を創設しました。 今もヴァティカンの最高学府はグレゴリアーナ大学 と呼ばれています。一五八五年、天正遣欧使節が ローマへ来訪し、この教皇に謁見しました。使節団 は世界布教活動の成果として大歓迎されましたが、 彼らは日本へ帰国後、悲惨な運命をたどります。  シクストゥス五世(在位一五八五〜九〇年)は、 劫掠後のローマを本格的に復興させた立役者です。 俗名フェリーチェを冠したフェリーチェ水道を引き、 水道の終着点にはモーゼの泉を作ります。さらにサ ンーピエトロ大聖堂のドームを完成させ、オベリス クや記念柱を広場の中央に建てて直線道路で結ぶと いう都市計画を推進しました。また、教皇庁の制度 改革にも取り組み、聖省を設けて官僚制度を整えて います。   バロック芸術  ルネサンスで完成された調和に満ちた理想美は、 ラフアエッロが最後の作品「キリストの変容」(図 栩)で、光と影や大げさな身ぶりを駆使して劇的な 場面を構築したように、変化が現れていました。ミ ケランジェロの「最後の審判」(図捐)も厭世的で 混沌としており、ルネサンスの理想美とはほど遠い ものでした。新たな芸術様式の芽はすでに生まれて いたのです。このあとの社会的・精神的危機の時代 には、盛期ルネサンスの巨匠たちの手法をまねなが らも自由に多彩な技巧を凝らしたマニエリスム様式 が流行し、ヱ(世紀末にはイタリア文化の頂点とも いえるバロック芸術がローマで花開きます。ルネサ ンスは古典への回帰で自己完結性の高い理想美を追 求し、宮廷という閉ざされた世界の中にありました。 いっぽうバロックはダイナミックで華々しく劇的で 民衆に開かれた芸術で、非現実な何かを本当にあり 得ることのように説得する目的から始まりました。 つまり虚像の世界を現実世界へ投影したのです。し たがって、バロックの芸術家には何よりも想像力と 写実性が要求されました。  バロック芸術は対抗宗教改革の一環としてローマ 教会のプロパガンダ的役割を果たします。教会建築 や天井画で神とローマ教会の栄光を謳い上げて民衆 を圧倒し、美しい絵や彫刻で文字の読めない民衆を 教化するのです。  イエズス会を認可したパウルス三世の孫、アレッ サンドローファルネーゼ枢機卿は、イエズス会の総 本山イルージェズ聖堂の建立に出資しました。一五 八四年に完成したヴイニョーラ設計(ファサードは デッラーポルタ)の聖堂には側廊がなく、広々とし た一つの空間の中で、天井を見上げればガウッリの 描いた「イエスの御名の勝利」が広がっています。 遠近法で描かれた天上の世界は浮き上がり、今にも 下に迫ってくるかのようなイルージョンの世界です。 このような舞台装置の中でロウソクの火がゆらめき、 香がたかれ、厳かなミサが行われると、信者の心は 高揚します。つまり視覚イメージを通して、理性で はなく感覚に訴え、神と人間が一つになる祝祭の空 間を作り出したのです。  祝祭の空間は、建造物の内部にとどまらず、町中 に造られた広場も同じでした。宗教的目的に隕らず、 貴族の婚姻や戦勝記念などの祝典、民衆の行事や楽 しみのためにも使われ、聖と俗の両面で祝祭性が好 まれ、劇場化したのです。ローマは、実に開放的な バロック都市となりました。  一七世紀のローマで活躍したのは、画家で建築家 のピエトローダーコルトーナ、彫刻や建築で圧倒的 な存在感を示したジャンーロレンツォーペルニーニ、 そのライバルのフランチェスコーボッロミーニです。 絵画でいえばカラヴァッジョが分岐点でしょう。カ ラヴァッジョはありのままの人間の姿を写実的に描 きながらも光と影で聖性を劇的に演出し、ヨーロッ パの多くの画家に影響を与えました。また、歴史画 の二コラープッサンや風景画のクロードーロランや 弟子のガスパールーデュゲはフランス人ですが、生 涯のほとんどをローマで過ごしています。  ローマにはすでに多くの芸術家が集まるように なっていましたが、バロック芸術は国際的な広がり を見せ、一八世紀半ばまでヨーロッパを席巻します。 フランスの宮廷や貴族が好んだロココ様式もこの流 れです。  ちなみに、バロックという名称は一九世紀に生ま れたものですが、この言葉には否定的なニュアンス があり、本来不完全な形をした真珠に使う用語でし た。この頃はバロックを奇抜で悪趣味なものと過小 評価していたのです。けれども二〇世紀以降は再評 価されています。   一七世紀の危機とローマ  一七世紀前半、凶作や疫病、人口増加の停滞で経 済成長が止まり、危機の時代に入ります。不安定な 経済状況は社会や政治にも影響を与えました。一六 一八年、第二次プラ(窓外放出事件(プロテスタン トを弾圧する(プスブルク家のボヘミア王に反発し てプロテスタント勢力がプラ(城を襲撃し、王の側 近を窓から突き落とした事件)が起こり、これを機 にチェコの民族運動や宗教戦争にとどまらずヨー ロッパ諸国が介入する国際戦争へと発展します(三 〇年戦争、ヱ(Iハ〜四八年)。いっぽうローマで は貧富の差が激しく、乞食と娼婦の数が膨大なもの となっていました。その上治安も悪く暴力が支配し ていました。それでも、ローマ劫掠後に三万人ほど に減少していた人口は、一〇万人前後にまで回復し ていました。  クレメンスハ世(在位一五九二〜一六〇五年)は、 有徳の人物だと評価されていましたが、一五九九年 九月、サンタンジェロ広場でベアトリーチェーチェ ンチとその家族を処刑したことでローマ市民の信頼 を失います。家庭内暴力で追い詰められた貴族一家 が父親を殺害した事件で、二二歳の美しい娘ベアト リーチェに同情が集まり、多くの助命嘆願書が出さ れました。それでも教皇は処刑を強行し、チェンチ 家の財産を没収しました。また、聖年の年、一六〇 〇年二月には、異端判決を受けたドメニコ会の修道 士ジョルダーノーブルーノをカンポーデーフイオリ 広場で火刑に処しました。これも大きな汚点となり ました。  ボルゲーゼ家出身のパウルス五世(在位一六〇 五〜二一年)は、再構築されていたヴイルゴ水道と フェリーチェ水道に加えて、パオラ水道を建設し、 ローマに再び豊富な水をもたらします。匸(I五年 にはサンーピエトロ大聖堂を完成させ、同年、ロー マに到着した慶長遣欧使節の支倉常長らに謁見し、 彼らの姿をクイリナーレ宮殿の謁見の間の壁に描か せました。また、甥のシピオーネーボルゲーゼ枢機 卿は芸術愛好家で、若き彫刻家ベルニーニの才能を 独占し、「プロセルピナの略奪」や「アポロンとダ フネ」を彫らせ、ラフアエッロやカラヴアツジョな どの絵を手に入れます。これらの美術コレクション が現在のボルゲーゼ美術館の核となりました。二( 二(年、ガリレオーガリレイは第一回異端審問で地 動説を唱えないよう注意を受けます。  グレゴリウスー五世(在位一六ニー〜二三年)の 甥、ルドヴイコールドヴイシ枢機卿も美術のパトロ ンとして活躍します。カラヴアツジヨのパトロン だったデルモンテ枢機卿から邸宅を買い取ると、グ エルチーノに有名な天井画「アウロ圭フ」を描かせ、 数多の古代ローマ彫刻を収集しました。これらはル ドヴイシーコレクションと呼ばれ、現在ローマ国立 博物館アルテンプス宮殿に展示されています。   バロック黄金期のローマ  ユリウスニ世がラフアエッロとミケランジェロを 起用して盛期ルネサンスを開花させたように、バル ベリーニ家出身のウルバヌスハ世(在位二(二三〜 四四年)はベルニーニとともにローマに華麗な花を 咲かせ、美の都を作っていきます。ただ、派手な都 市計画で、レオー○世のように巨額の負債を抱える ことになりました。それに続くのが、パンフィーリ 家出身のインノケンティウスー○世(在位一六四 四〜五五年)とキージ家出身のアレクサンデル七世 (在位一六五五〜六七年)です。  ピエトローダーコルトーナはバルベリーニ宮殿に、 まるで天空へつながるかのような錯覚を起こさせる 壮大な天井画「神の摂理」を描きます。ベルニーニ は、サンーピエトロ大聖堂のバルダッキーノ(大天 蓋)や美しい列柱廊で囲まれたサンーピエトロ広場、 トリトーネの噴水や四大河川の噴水、聖テレサの法 悦、サンタンドレアーアルークイリナーレ聖堂など を制作しました。ライバルのボッロミーニも多くの 作品を残しています。特に、隕られたスペースに建 立したサンーカルローアツレークアットローフォン ターネ聖堂は、波打つ壁面と幾何学格子のドームが 素晴らしく、見る者を驚かせてくれます。  ところでウルバヌスハ世のバルベリーニ家の紋章 はミツバチ、インノケンティウスー○世のパン フィーリ家の紋章は(卜で、彼らが依頼した作品に は必ずこの象徴が刻まれました。サンーピエトロ大 聖堂内のミツバチと(卜の数を数えると、意外にも (卜の数が多いそうです。  ウルバヌスハ世の時代、一六三三年にはガリレ オーガリレイが第二回異端審問で有罪判決を受けて います。また、アレクサンデル七世の在位中には、 ルター派プロテスタントを国教とするスウェーデン のクリスティーナ女王が退位してローマ教会に改宗 し、ローマに移り住みました。これは、対抗宗教改 革の最中にあったローマ教会にとって大きな勝利で した。彼女はローマでその生涯を終えます。  一八世紀半ば、啓蒙主義や自然科学の時代が到来 すると、イタリア美術の頂点で輝いたバロック芸術 は終焉を迎えます。けれども、バロック都市ローマ は今もその輝きを失っていません。訪れる人を誘惑 し続けるのです。  11ベルニーニ  広場と噴水 「羅馬(ロオマ)に往きしことある人はピアツツ アーバルベリイニを知りた碣べし。こは貝殼丗弌る トリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井あ る、大なる広こうぢの名なり。貝殻よりは水湧き出 でてその高さ数尺に及べり。」(訳・森鴎外)  森鴎外の名訳で知られるアンデルセンの「即興詩 人」の冒頭の文章です。ローマのバルベリーニ広場 とトリトーネの噴水で始まるこの小説には、アンデ ルセンが訪れた一九世紀前半(一八三三〜三四年) のローマとイタリアが生き生きと描かれています。 古代、中世、ルネサンス、バロックという異なる時 代が一つの町に混在し、今も生き続けていることを 実感させられる物語です。  ローマの美しい広場と噴水はバロック期の賜物で、 それは主にこの時代の天才芸術家ベルニーニに負っ ています。「ベルニーニはローマのために生まれ、 ローマはベルニーニのためにある」とは、教皇ウル バヌスハ世の言葉ですが、一人の芸術家と一つの都 市がこれほど深く結びついた例は他にはないでしよ  バルベリーニ広場の中央にある「トリトーネの噴 水」は、一六四三年、ウルバヌスハ世の死の前年に ベルニーニが完成させたもので、特異なデザインが 人目を引きます。半神半魚のトリトンが一人、四頭 のイルカに支えられた貝殻に座って上を向き、ホラ 貝を口にあてています。ホラ貝からは噴水の水が一 直線に吹き上がり、余計な装飾は何もありません。 とりまきの妖精や仲間のトリトンもいません。異教 の神話が詩を奏でるかのような、噴水の概念を変え た優れた彫刻です。広場の入り口には貝の形をした 石板にバルベリーニ家の紋章である三匹の(チを刻 んだ「「チの噴水」もあり、通りすがりの人々が泉 で手を洗ったり水を飲んだりする姿が見られます。 また、広場のそばには教皇の実家バルベリーニ宮殿 があり、これもベルニーニが完成させたものです。  これより前の一六二九年、ウルバヌスハ世はスペ イン広場にも「小舟の噴水」を作らせていました。 ベルニーニが手がけた最初の噴水です。楕円形の水 盤に半ば沈んだかのような小舟があり、舟にたまっ た水が水盤に流れ出るようになっています。イタリ ア語の名称「バルカッチヤ」(おんぼろの小舟)に ピッタリです。この広場は駐ヴァテイカンースペイ ン大使館があったことからスペイン広場と呼ばれま すが、当時はまだ、トリニターディーモンティ聖堂 へ続く大階段(一七二五年完成)はありませんでし た。  ベルニーニは、一六四〇年にヴィルゴ水道の終着 点「トレヴィの泉」の装飾も任されますが、アッピ ア旧街道の遺跡からの大理石調達に反対が起こり、 加えて教皇庁の財政悪化で中止を余儀なくされます。 二コラーサルヴィによる「トレヴィの泉」が完成す るのは一七六二年、匸一〇年のちのことでした。  ところで古代ローマのドミティアヌスが一世紀末 に作った競技場は、シクストゥス五世によってきれ いな長方形のナヴォーナ広場に整備され、広場の両 端にはグレゴリウス匸一世の時代に噴水が二つ作ら れていました。この広場の中央に噴水を作らせたの がパンフィーリ家のインノケンティウスー○世でし た。一六五一年、ベルニーニは「四大河川の噴水」 を見事な着想で完成させます。中が空洞になった岩 山の台座にオベリスクを載せ、その周りを四大河川 (ドナウ、ナイル、ガンジス、ラープラタ)の寓意 像や動物(馬、ライオン、蛇、アルマジロ)などで 飾りますが、これは四つの大陸に君臨するローマ教 会を意味しました。さらにオベリスクの頂上に十字 架ではなく、オリーヴの小枝をくわえた(卜を置き ます。(卜は精霊の象徴ですが、パンフィーリ家の 紋章でもありました。ベルニーニは従来の伝統を 破ってローマ教会とパンフィーリ家を称賛したので す。  一六六七年には、アレクサンデル七世の命でサン ターマリアーソプラーミネルヴア聖堂前の広場に小 さなオベリスクを背中に載せた子象の装飾プランを 練ります。実際の制作は弟子に任せたため出来栄え の点では少し劣りますが、着想は一四九九年の小説 『ポリフイルス狂恋夢』で主人公がオベリスクを支 える石の象に出会う場面から得たといわれます。ア レクサンデル七世の「確固たる叡智は頑強な心で支 えられる」というラテン語の碑文が刻まれているこ とから、象は頑強な心を表しているとも考えられて います。ユーモアあふれる可愛らしい子象の彫像は、 当時から現在に至るまでローマつ子に愛され続けて います。また、二(三三年の異端裁判で有罪判決を 受けたガリレオは、この聖堂で地動説を撤回しまし た。   神童ベルニーニ  ローマを再び永遠の都に作り変えた天才芸術家 ジャンーロレンツォーペルニーニ(一五九八〜二( 八〇年)は、いったいどういう人で、どんな人生を 歩んだのでしょう。  ベルニーニはフイレンツェ出身の彫刻家ピエト ローベルニーニの長男としてナポリに生まれます。 母はナポリ人でした。父ピエトロがナポリでの仕事 を終えると、一家は一六〇五年にローマヘ戻ります。 ピエトロは優れた彫刻家で、息子ジヤンーロレン ツオも幼い頃から父の仕事を見よう見まねで覚えて 遊んでいました。ピエトロは教皇パウルス五世と甥 のシピオーネーボルゲーゼ枢機卿の庇護を受けて 様々な仕事に従事していましたが、そのうち美術愛 好家の枢機卿はジヤンーロレンツオの早熟の才能に 目をとめるようになります。  ベルニーニ最初の作品「雌山羊アマルテア」(幼 児ゼウスに乳を与える山羊)は、ヘレニズム時代の 作品と間違うほど完璧なものでした。伝記作家とベ ルニーニ自身の言葉で一一〜匸一歳頃の作品だとさ れていましたが、その年齢で彫れるとは思えない出 来栄えだったため、現代の美術史家は一七歳頃の作 品だと考えていました。しかし、最近の研究で本当 に子どもの頃の作品だったということが分かりまし た。ベルニーニがI〇代の頃から古代彫刻を学んで いたことは間違いなく、それはこの時代の他の小品 にも表れています。  ベルニーニは肖像彫刻でもその才能を発揮しまし た。本人と見間違うほどの写実性だけでなく深い内 面性も表現できるほどの腕前でした。ボルゲーゼ枢 機卿は二〇歳を過ぎたばかりのベルニーニに次々と 彫刻を注文します。「ア于不イアスとアンキセス」 二六一八〜一九年)、「プロセルピナの略奪」(一六 ニー〜二二年)、「アポロンとダフネ」(一六二二〜 二五年)、「ダヴイデ」(二(二三〜二四年)、いずれ も、「アマルテア」や肖像彫刻とともにボルゲーゼ 美術館で見ることができます。  この中で最も有名なものは、メタモルフォシス (変身)を詩的に表現した「アポロンとダフネ」で しょう。ここで表現されたのは、人を好きになる黄 金の矢を射られたアポロンが、人を嫌いになる鉛の 矢を受けたダフネを追い求めるというオウィディウ スの『変身物語』のクライマックスの瞬間です。恋 焦がれるアポロンが逃げるダフネを追い詰めて、ま さにその手で彼女に触れた瞬間に月桂樹に変わり始 めるダフネ、窮地にあったダフネの恐怖心と助かっ たという安堵、月桂樹に変わっていくダフネに驚き、 彼女を永遠に失ったことを知るアポロンの落胆、こ れらのすべてが見事に表現されています。まるで、 ルネサンス期の「絵画と彫刻のどちらが優れた芸術 か」という論争を笑うかのように、ベルニーニは彫 刻で物語を絵画のように視覚化したのです。躍動す る身体の動きはリアルで、風にゆれる髪の毛まで繊 細に彫られ、大理石は柔らかな肉体のように見えま す。奇跡としかいいようのない作品です。アポロン の顔は古代彫刻「ベルヴェデーレのアポロン」に類 似していますが、印象はかなり異なります。これは ベルニーニが古代彫刻から学んだことを自由自在に 応用したという証でしょう。二七歳の頃にこの作品 を完成させたベルニーニは、名声をほしいままにし ます。   バルダッキーノの謎  ウルバヌスハ世はベルニーニに噴水だけでなく 様々な仕事を注文し、同時に建築と絵画の勉強に励 むようにいいました。ベルニーニもまたルネサンス 期の天才だちと同様に、彫刻、建築、絵画に才能を 発揮しますが、なんといっても彫刻が彼の本領でし た。サンタービビアーナ聖堂の建設と聖女の彫像の 制作、同時にサンーピエトロ大聖堂内部の装飾を手 がけ、主祭壇を覆うバルダッキーノ(大天蓋)では ブロンズ彫刻に挑戦しています(図19)。 m章 浙白白 二(教皇の家名)がやった」という落首が生まれて います。四つの大理石の台座の上にねじれたブロン ズの柱が立ち、柱の装飾には、金で月桂樹をからめ、 (チが飛び、トカゲが這っています。月桂樹は人文 主義者ウルバヌスハ世を讃えたもの、(チはいうま でもなくバルベリーニ家の紋章、トカゲは再生を意 味します。ブロンズは重いため上部は軽量化し、頂 上には十字架だけを置き、周りを天使やブットーな どで装飾しました。至るところに(チがちりばめら れています。二(三三年に完成したバルダッキーノ は、ブロンズが大理石の中で映え、ドーム下の巨大 空間にふさわしい作品となりました。ベルニーニは またしても大変な成功を収めたのです。  ところで、このバルダッキーノの台座の部分には 不思議な装飾があります。柱を支える巨大な大理石 の四つの台座にはそれぞれ四つの面がありますが、 外側に面した二つの面、合計で八つの面に装飾があ るのです。中央にバルベリーニ家の紋章・三匹の( チが刻まれた盾があり、その上部に聖ヘテロの鍵と 教皇冠が彫られていますが、よく見ると鍵と盾の間 に小さな女性の顔があり、盾の下にも小さな仮面の ようなものがあります(図19‐B)。正面右の側面か ら八つの面を反時計回りに見ていくとこれらの装飾 は変化していきます。女性の顔は次第に苦痛で歪ん でいき、最後の八つ目は子どもの顔になります。盾 にある三匹の(チは、女性の身体にたとえるなら、 二匹が乳房、その下の一匹はヘソのあたりにあり、 真横から見ると次第に厚みが増して膨らんでいき、 最後は元通りになっています。いっぽう仮面の頬や 口やひげは女性器そのものになって次第に開いてい く様子を示し、最後は閉じています。つまりこの装 飾は女性が陣痛で苦しみながら出産する過程を表し ているのです。  ローマ教会の総本山であるサンーピエトロ大聖堂 にどうしてこのような装飾がされたのでしょう。 様々な解釈があって、中にはベルニーニ個人の恋愛 事情だという都市伝説レベルのものもありますが、 彼が独断でこのような装飾を制作することは不可能 です。おそらく、ウルバヌスハ世の姪が無事に出産 を終えたことを感謝するエクスーヴオート(病や難 産の無事を祈願し、それが叶えられると奉納する絵 や装飾)で、そこにマ上アルーエクレツシア、つま り聖母マリアを教会の母とする概念を象徴させたの ではないかと考えられています。   スキャンダル  サンーピエトロ大聖堂で仕事をしていたこ(三八 年、ベルニーニは大事件を起こしています。コスタ ンツアはベルニーニの下で働く彫刻家の妻でしたが、 ベルニーニと愛人関係になります。男性ばかりの宮 廷で仕事をしていたベルニーニは女性の肖像を滅多 に彫りませんでしたが、コスタンツアの胸像(フイ レンツエーバルジエツロ美術館所蔵)は自分のため に彫っています。また、彼女はサンーピエトロ大聖 堂内のウルバヌスハ世の墓を飾る「慈悲」のモデル だともいわれますが、可能性は否定できないものの、 確証はありません。  胸像を見る限りコスタンツアは官能的な美貌の持 ち主ですが、どうやら身持ちの悪い女性だったよう で、ベルニーニの弟とも関係を持っていました。そ の噂を聞いたベルニーニは真偽を確かめようと待ち 伏せし、決定的瞬間をおさえます。そして激怒のあ まり、弟を鉄の棒で投打して大怪我させるのです。 さらに、コスタンツアの顔を傷つけるため召使いを 送ります。情熱の裏返しとはいえ自分の愛した女性 に危害を加えて復讐するとは、ベルニーニはなんと いう人なのでしょう。  この事件は裁判沙汰となり、ベルニーニは罰金を 課せられますが、教皇は彼を無罪放免とします。そ して独身だった四〇歳のベルニーニに結婚を勧めま した。翌年、ベルニーニはローマーの美女といわれ た弁護士の娘カテリーナと結婚し、その後は穏やか で幸せな生活を送りました。一一人の子どもにも恵 まれています。ちなみにコスタンツアは事件後、修 道院へ送られましたが、夫の嘆願でそこを出ると、 美術商を始めて大成功を収めました。   挫折  ベルニーニはローマやサンーピエトロ大聖堂での 事業を大勢の同業者を使いながらこなしていきます が、二(四一年、マデルノの引き継ぎで進めていた 大聖堂の鐘塔の建設で窮地に陥ります。亀裂が見つ かり、工事が中断されてしまったのです。ローマの 芸術界に君臨していたベルニーニを快く思っていな かったライバルたちは、ここぞとばかりにベルニー ニを糾弾し、誹謗中傷します。中でもボッロミーニ は執拗に攻撃しました。ベルニーニの立場はウルバ ヌスハ世が在命中は安泰でしたが、一六四四年、パ ンフイーリ家のインノケンテイウスー○世が登位す ると風向きが変わります。  教皇庁の財政難は救いようのないほど悪化してい ました。インノケンテイウスー○世はウルバヌスハ 世と対照的に学問や芸術に興味がなく、反バルベ リーニたったことから前教皇に寵愛を受けたベル ニーニを冷遇します。ベルニーニは、重要な仕事を すべてライバルたちに奪われ、その上、鐘塔が取り 壊しとなり、その費用のため財産の差し押さえとい う屈辱も受けるのです。バロックの寵児ベルニーニ の挫折の始まりでした。   ベルニーニ劇場  しかしながらベルニーニは、人生で最も辛い挫折 の時期にあっても最高傑作を生み出すのです。それ は、サンターマリアーデッラーヴイツトリア聖堂内 にあるコルナーロ礼拝堂の「聖テレサの法悦」でし た(図20)。この聖堂はアヴイラの聖女テレサが創 設した跣足カルメル会のものでしたが、ヴ子不ツイ アの大司教だったフェデリーコーコルナーロが自分 の墓所として礼拝堂の権利を取得しており、ベル ニーニに礼拝堂の建築と装飾を依頼したのです。 日嗣 義川宍難川灘 験を自伝に書き、「金の長い矢を持った天使に何度 も心臓を射られた。矢を抜かれる時に感じる痛みは 激しかったが、この苦しみがもたらす快さのほうが 強く、それは神と霊魂と一体化した愛の交換だっ た」と述べています。  法悦の聖女テレサと金の矢を持つ天使が雲の上に 乗って浮かんでいます。左手の天使は微笑みながら テレサの衣をつかみ、再び矢を彼女の心臓に突き剌 そうとしています。目と口を半開きにして法悦の中 にいるテレサは身体が麻痺したかのように動けずに います。テレサの頭上には金色の彫刻で表現された 神の光が降り注いでいます。しかも、その光は隠れ 窓から入る本物の光で輝いているのです。さらに、 彫刻の上部の天井にはフレスコ画で天国が描かれ、 それを取り囲むアーチには白いスタッコの天使たち が舞っています。この礼拝堂には建築と彫刻と絵画 が一体化した劇場のような美しいイルージョンの世 界が広がっているのです。  さらに、ここに劇中劇が発生します。礼拝堂の左 右の壁面はあたかも劇場のバルコニー席であるかの ように作られ、そこに注文主フェデリーコとヴ子不 ツイア総督を務めたフェデリーコの父親や高位聖職 者のI族たちが四人ずつ座り、聖女テレサの幻視を 眺めながら議論する姿が彫られているのです。遠近 法で彫られた背景も見事なものです。見る者を幻の 世界へ巻き込んでしまう、バロック芸術の魔力がこ こにはあります(図20‐B)。  一六五二年にコルナーロ礼拝堂が完成すると、さ すがのインノケンテイウスー○世もベルニーニの偉 大さを認め、数年後にナヴオーナ広場の「四大河川 の噴水」を注文するのです。   アレクサンデル七世とベルニーニ  アレクサンデル七世が登位した時、ローマは経済 状況のさらなる悪化とペストの流行で、厳しい時代 にありました。しかし学問と芸術を愛する新教皇は、 何よりローマを美しくすることに熱意を持っていま した。教皇はベルニーニにすべてを任せ、すでに五 ○歳半ばに達していた彼もまた、それにしっかりと 応えるのでした。二人はウルバヌスハ世の時代から 旧知の仲で深い信頼関係にありました。  この年、ベルニーニは早速、サンターマリアーデ ルーポポロ聖堂のキージ家礼拝堂の整備を依頼され ます。アレクサンデル七世は、ラフアエッロのパト ロンだったアゴステイーノーキージの子孫でした。 ベルニーニは、ラフアエッロが設計した盛期ルネサ ンスの傑作である礼拝堂に二体の彫刻「ダニエルと ライオン」「「バククと天使」を加え、聖堂内部の 整備もします。  同じ年の終わりには、退位したスウェーデン女王 クリスティーナがプロテスタントからローマ教会に 改宗し、ポポロ門からローマに入城します。これに 際してベルニーニはポポロ門の装飾を手がけ、今も そこにはキージ家の紋章(六つの山と星)とクリス ティーナ女王の紋章(麦)のついた花飾り、女王を 歓迎する教皇の簡潔な銘文を見ることができます。   聖堂建築の最高峰  ベルニーニは数多くの聖堂を建築しましたが、彼 の持ち得るすべての力を出し切った最高傑作は、一 六七〇年に完成したサンタンドレアーアルークイリ ナーレ聖堂でしょう。本人もこの出来栄えに満足し、 心より愛したそうです。ただ、建設にあたっては問 題がありました。すでにイエズス会の修練院(修道 士になるため修行をする場所)があったため、狭い 横長の敷地しかなかったのです。しかしベルニーニ は、この厳しい条件で前例のない大胆な試みをしま す。横長の楕円形の聖堂を建設するのです。  ファサードは最小限に抑え、両側から聖堂本体の 円形がはみ出しています。そして玄関部分に末広が りの階段を作り、その両脇に前方を包み込むように カーブを描く壁を置きました。こうして実際より 広々とした空間を演出し、聖堂の中へ誘い込むよう な雰囲気を作り上げたのです。  中に入ると、横長の楕円形であるため、すぐ目の 前に主祭壇があります。色とりどりの大理石を使っ たバロックらしい絢爛豪華な内部には、建築と彫刻 と絵画が一体化したベルニーニ劇場が見事に演出さ れています。サンタンドレア(聖アンデレ)の殉教 シーンが描かれた祭壇画の上方には、同じ聖人の彫 刻があります。雲の上で両手を天に向かって広げ、 天国を目指して昇っているかのようです。そして、 その上には天井、楕円形のドームが続きます。ドー ムの入り口には白いスタッコの天使が無数に並び、 聖人を天国へ歓迎しています。ベルニーニは完全に 調和のとれた世界を作り上げたのです。なお、二階 にはポーランドの聖人コストカを祀った部屋があり、 一八世紀初頭の彫刻家ピエールーレグロスの傑作が あります。そこは非常に精神性の高い場所で、信者 でなくても聖なる空気を感じることができます。  この聖堂のある通りには、もう一つの傑作があり ます。犬猿の仲だったボッロミーニが一六四六年に 完成させたサンーカルローアツレークアトローフオ ンターネ聖堂です。絢爛豪華なベルニーニ作品と異 なり、ボッロミーニ独自のスタイル、波打つ形状が 見られるシンプルな聖堂ですが、幾何学と象徴学を 駆使して緻密に計算された作品で、一見の価値があ ります。なお、神経症だったボッロミーニは、剣で 自殺を遂げています。   永遠のローマ  アレクサンデル七世はサンーピエトロ大聖堂の整 備にも情熱を傾けました。大聖堂前にはオベリスク とマデルノ制作の噴水が一つあっただけでした。そ こでまず、この広場の整備をベルニーニに任せます。 彼はまたしても独創的なプランを構築します。広場 は教皇の祝福を受けるために集まる大勢の信者が入 る大きさが必要で、宗教的行事の行列が通れる場所 がなければなりません。そこで大聖堂前に四角形の 広場を作り、それに続く広場本体を楕円形にし、周 りを四列の柱廊で囲んだのです。そしてオベリスク を楕円の中央に位置させ、噴水を移動させて対にな る新たな噴水を作り、左右に配置しました。  この広場は実際には楕円形ではなく円形を二つ重 ねたもので、円の中心点からそれぞれの柱廊を見る と四列の柱は放射線状にまっすぐ並んでいます。し たがって、他の地点からはバラバラに見える列柱も、 それぞれの円の中心(オベリスクと噴水の中間点) に立つと、四列が重なって一列になるという奇跡の ような光景が生まれるのです。柱廊の円柱は二四〇 本、角柱は四四本、そして柱廊の上には一四〇体の 聖人像を飾るという途方もないものでした。完成ま で一一年かかったサンーピエトロ広場は、壮大なベ ル ありました(図21) 漣  ベルニーニは、大聖堂後陣の聖ヘテロの司教座も ブロンズで制作します。司教座とは司教が座る椅子 のことで、聖ヘテロはローマ初代の司教でした。ち なみにローマ教皇は伝統的にローマ司教でもありま す。ヴァテイカンには聖ヘテロの木製の司教座が聖 遺物として保存されていたのです。これは、実際に は九世紀に西フランク王国のシャルルニ世から贈ら れたものでしたが、この古い司教座を収める巨大な ブロンズの司教座をベルニーニは作り上げます。色 大理石の台座に立つ四人の教会博士が司教座を支え、 司教座の上にはアラバスター石で作った精霊の象徴 (卜のステンドグラスを中心にブロンズの天使たち が栄光を讃えています。劇場的効果を重視したベル ニーニは、見え方にも注意を払いました。大聖堂に 入った時に、まるで絵画のようにバルダッキーノの 中に司教座がきれいに収まって見えるようにしたの です。  ベルニーニは聖天使橋も天使像で飾ります。二体 のみベルニーニが彫り、他は弟子たちに任せました が、ベルニーニ作品は、屋外で傷まないようにサン タンドレアーデッレーフラッテ聖堂に置かれ、橋に は模刻が飾られています。かつての(ドリアヌスの 霊廟、聖天使城と、その前にかかる天使の橋の情景 には、永遠のローマを感じずにはいられません。そ して、ローマを再び永遠の都にしたのは、ベルニー ニなのです。  12クリスティーナ   ローマ教会の勝利の象徴  サンーピエトロ大聖堂を訪れる人は誰でも、ミケ ランジェロの「ピエタ」を鑑賞することでしょう。 けれども、そのそばに一人の女性の記念墓碑がある ことに気がつく人がどれだけいるでしょうか。彼女 は神に仕える身でもなければ、ましてや聖女でもあ りませんでした。それなのに、大聖堂内の記念墓碑 だけでなく、彼女はヴァティカンの地下墓地にも歴 代の教皇だちとともに埋葬されています。  それはなぜなのでしょう。  彼女の名はクリスティーナ、ルター派プロテスタ ントを国教とするヴァーサ朝スウェーデンの女王 (在位一六三二〜五四年)でした。激動の一七世紀 のヨーロッパで、よくも悪くも名の知れた存在でし た。  宗教が政治に直接結びついていた時代、一国の君 主の改宗は由々しき問題でした。君主の改宗は国全 体を左右するからです。そこでクリスティーナは、 ローマ教会へ改宗するため退位しました。ローマヘ 居を移し、この地で生涯を終えたクリスティーナは、 対抗宗教改革の最中にあったローマ教会にとって勝 利の象徴でした。サンーピエトロ大聖堂より他に、 彼女の墓所にふさわしい場所はなかったのです。   グスタフニ世アドルフの娘  クリスティーナが生まれたのは、ヨーロッパ最後 にして最大の宗教戦争、三〇年戦争の最中でした。 父親は「北方の獅子」と呼ばれたスウェーデン国王 グスタフニ世アドルフ(在位ヱ(I一〜三二年)。 北方の小国スウェーデンがバルト帝国となる礎を築 いた英雄でした。  三〇年戦争は、二(Iハ年の第二次プラ(窓外放 出事件(「一七世紀の危機とローマ」)を機に神聖 ローマ帝国(ドイツ)で起こったローマ教会派の( プスブルク皇帝軍とプロテスタント派の諸侯軍の宗 教的内戦でしたが、スペインが皇帝派、ネーデルラ ントがプロテスタント派を支援し、国際的な戦争に 発展しました。二五年にはデンマークがイングラン ドとネーデルラントの資金援助を受けてプロテスタ ント擁護を旗印に直接介入し、やがて傭兵隊長ヴア レンシュタイン率いる皇帝軍に撃退されます。三〇 年、スウェーデンもフランスから資金援助を受けて 戦争に介入します。デンマークもスウェーデンも本 音はバルト海の覇権でした。けれどもこの戦争には もう一つの対立軸があったのです。本来は同じロー マ教会派であるはずのフランスのブルボン家と神聖 ローマ帝国のオーストリアー(プスブルク家のヨー ロッパ覇権をめぐる対立です。フランスの宰相リ シュリューは建前より本音の道を選んだのです(図 22)。  グスタフニ世は優れた君主であると同時に名将で もありました。これまでと同じように、この時も先 頭に立って軍を指揮して勝ち進みます。ミュンヘン を陥落させて皇帝軍を追い詰めますが、三二年、 リュツツェンの決戦で勝利を得ながらも戦死してし まいます。スウェーデンは国王を失い、六歳の一人 娘クリスティーナが王位を継承しました。なお三〇 年戦争は、このあとも十数年続きます。   神経症の母親  クリスティーナの母親はブランデンブルク選帝侯 の娘マリアーエレオノ上フでした。美貌の人ではあ りましたが、結婚後、死産と幼な子の夭折を経て、 夫も戦地にいることが多く、何の楽しみもない異国 の地で精神を病んでいました。グスタフニ世は結婚 前の愛人に産ませた息子グスタフーグスタフソンの 存在を公にしていたため、王妃は男児を熱望してい ました。二(二六年匸一月、クリスティーナが誕生 した時、一瞬男児に間違えられて喜んだのも束の間、 女児だと分かると彼女は悲嘆にくれ育児放棄をしま す。クリスティーナはファルツ公に嫁いでいた国王 の異母姉カテリーナに育てられました。国王は娘を 後継者にすることを決め、ドイツに出陣する前、信 頼する宰相オクセンシエルナにクリスティーナの教 育について細かい指示を与え、肉体的にも精神的に も王子として教育するよう命じていました。  ところが、夫の死で王妃はますますおかしくなり、 それまで見向きもしなかった娘のクリスティーナに 異常な執着を見せ、ほとんど軟禁状態にしてしまい ます。亡くなった夫の心臓を小箱の中に入れてベッ ドに置き、一緒に寝るように強要します。宰相オク センシェルナが母親から引き離すまでに三年半かか りました。   男装の女王  クリスティーナヘの帝王教育と乗馬、狩猟、剣術、 射撃など、男性による男性的な教育が始まりました。 彼女は本質的に男装に近い服装を好み、普通の女の 子がするようなことには興味を持ちませんでした。 本格的な教育が始まる前から、すでにドイツ語とフ ランス語を話していましたが、スペイン語も習得し。 一〇歳になるとラテン語の読み書きや会話もできる ようになりました。古典はすべて原語で読み、加え て数学や神学、天文学など、一日に匸一時間の勉強 をするというストイックな生活を送りました。誰に 強制されたわけでもなく、本人が好きで行ったこと でした。  女王が幼いうちは宰相オクセンシェルナを中心と する摂政が行われていましたが、彼女が一八歳にな ると女王としての親政が始まります。国務にたずさ わるようになってからも学問を続け、睡眠時間をけ ずって早朝と深夜に古典や哲学の勉強を続けました。 彼女の学問への情熱と教養の深さは瞬く間にヨー ロッパ中に広がっていきました。男装の若き女王で あることも人々の好奇心をくすぐったのでしょう。  クリスティーナには初恋の人がいました。母親代 わりだった伯母の息子力−ルーグスタフです。三〇 年戦争は、この従兄弟がスウェーデン軍の総司令官 として活躍してプロテスタント側の勝利を導き、一 六四八年のウェストファリア条約で終了します。条 約の締結を主導したのはクリスティーナでした。ス ウェーデンは和平交渉で膨大な要求を突きつけてい ましたが、いつまでたっても交渉が進まないことか ら、彼女が大幅な譲歩をすることで講和が成立した のです。この譲歩にスウェーデン国内では批判が起 きますが、キリスト教世界の平和のために二二歳の 女王は意志を貫きました。しかし、バルト帝国の拡 大化を目指す宰相オクセンシェルナとは軋轢が生じ ます。   文化政策と財政困窮  クリスティーナは学問を続けるうちに自国の文化 的貧困を痛感しました。そこで文化政策に力を入れ、 教育制度を整備し大学の発展、図書館の充実に寄与 します。彼女自身、学問と教養のない人間にはいっ さい興味がなく、上流婦人だちとの社交を蔑視し、 学識のある男性や学者とだけ交流を続けました。著 名な人文学者を宮廷に招聘すると、誰もが彼女の深 い学識に感嘆したといいます。  女王は芸術にも多大な情熱を持っていました。三 〇年戦争の戦利品が到着して以来、ストックホルム 宮廷は貴重なタペストリー、家具、絵画や彫刻で飾 られていましたが、さらにフランスやイタリアヘ代 理人を派遣して美術品や古文書を収集します。  クリスティーナは自身の衣服や食事には無頓着で したが、他人には気前がよく、王室の儀式や客人の 来訪には贅をもって尽くし、学者たちを援助しまし た。  スウェーデンは強国にはなりましたが、資源が少 なく国家収入が少ない上に戦争が続き、かつてない ほど財政が困窮していました。それにもかかわらず、 女王は学者の招聘や美術品の収集で自国の能力を超 えた支出を続けます。彼女には経済観念が欠落して いたのです。王室財産は乏しくなるばかりでした。   結婚への嫌悪  クリスティーナは、容姿や声、趣味、嗜好、行動、 思考のすべてが男性的たったことから、ヘルマフロ ディートス(両性具有)ではないかと疑われました が、死後の調査で女性たったことが判明しています。 クリスティーナは一五〇センチと小柄でしたが、 がっしりした体格をしており、父親譲りの顔立ちで、 額が広く、大きな目と大きなわし鼻が特徴でした。 長いドレスを着て髪を結えば、それなりに綺麗だっ たでしょうが、風変わりな男装を好み、外見をまっ たく気にしなかったため、美しい女性という印象は 与えませんでした。けれども女王の威厳を感じさせ るに十分なオーラを放っていたようで、彼女に謁見 する誰もが緊張で言葉も出なくなるほどでした。  当然ながら若きスウェーデンの女王には結婚問題 が浮上します。元老院はクリスティーナと従兄弟 カールーグスタフの結婚を視野に入れていました。 カールーグスタフはクリスティーナに献身的に尽く し、彼女もまた思慕の情を持っていました。  けれども三〇年戦争末期に彼を総司令官としてド イツヘ送る時、クリスティーナはいいました。「結 婚の希望を奪わないが与えもしない。しかし、もし 結婚するなら貴方以外の誰とも結婚しない。もし結 婚しないなら貴方を後継者とする」と。傲慢な言葉 です。けれども彼女は、支配するために生まれてき た女王は何者にも隷属しないがゆえに、男性に隷属 する結婚をすることはできない、と考えていたので す。何より、子どもを産むことを女性の使命とする 結婚に嫌悪感を持っていました。この感情は生涯変 わることなく、「農民が畑を耕すような関係に、男 性と自分を置くことはできない」という言葉を残し ています。  一六四九年、スウェーデン国民がクリスティーナ とカールーグスタフの結婚を望む中、彼女は元老院 で結婚しないことを宣言し、カールーグスタフを王 位継承者に定めることを提案しました。   デカルト  クリスティーナは二〇歳の頃から退位と改宗を考 えていたと回想しています。女王として生まれたこ とを神の恩寵だと認識していた彼女が、どうして女 王の座を捨てたいと思ったのでしょう。伝記作家は 動機として結婚問題や財政破綻の危機、あるいは気 まぐれとまで記していますが、一般的には宗教的葛 藤とされています。後年自ら語るように、彼女は、 素朴な疑問を封じて従順を強制したルター派の説教 師に幼い頃から不信感を持っていました。改宗後、 その説教師に「なぜ改宗したのか」と問われ、「貴 方の説教ゆえに」と答えています。  若いだけに自由を求める気持ちもあったでしょう。 フランスやスペインの文化人と交流するうちに文化 的先進国で豊かな南に憧れる気持ちも芽生えたこと でしょう。そして一六五〇年にはポルトガル大使館 付きの司祭マセド経由で、ローマのイエズス会と連 絡を取り合うようになっていました。  フランス大使シャニューは女王が早くから心の内 を打ち明けていた友人でした。デカルトの友人だっ た彼は、哲学者との対話を勧めます。クリスティー ナは何度か親書でやりとりしたあと、軍艦を派遣し てデカルトを迎えにやります。  近代哲学の父デカルトはフランス人でしたが、 ネーデルラントに移り住んでいました。彼はその地 で一六三七年に『方法序説』をフランス語で刊行し、 誰もが理性を備えており、疑うことを方法として理 性を正しく導けば真理に到達することができると説 きました。「徹底的に疑っていくと、確実な存在は 何もない、けれどもすべてを疑っている自分は確実 に存在している」、これを「我思う、ゆえに我あり」 という言葉で表し、自分の存在こそが絶対的真理だ としたのです。そして、すべてを疑う自分(人間) は不完全だが、完全な神の恩寵で作られた世界の真 理は、理性と自分の意志でつかむことができると考 えたのです。  クリスティーナにはデカルト哲学を学べるだけの 知性と学識がありました。しかし、厳冬の水の国で、 女王の政務時間の前、早朝五時からのレッスンはデ カルトには堪えました。部屋には暖房もなかったと いいます。女王は寒さにも早起きにも慣れていたで しょうが、五四歳の高名な哲学者に対する配慮のな さは、彼女の自分本位な性格が表れています。デカ ルトは三ヶ月後に風邪をひき、肺炎を起こして亡く なります。クリスティーナはデカルトが(ローマ教 会の)信仰告白をして亡くなったことに大きな印象 を受けました。   退位と改宗  デカルトが死んだ年、二(五〇年のI〇月、戦争 と財政困窮のために延期されていたクリスティーナ の戴冠式が行われました。そして翌年のI〇月、退 位を表明し、王位をカールーグスタフヘ譲ることを 議会で告げますが、宰相オクセンシェルナの説得に 胸を打たれて翻意しました。  二(五一年末、クリスティーナは、宮廷の歴史記 述家アーノルドーヨ(ンーメツセニウスとその息子 を処刑します。父親は斬首、息子は残酷な車輪刑で した。息子が反クリスティーナの風刺詩を書いたこ とが謀反とされ、拷問による自白の末のことでした。 無惨な遺体は車輪の上に置かれたまま十字路にさら され、勇気ある牧師が説教壇から女王の非道さを非 難しました。君主は時に冷酷になることも必要です が、クリスティーナの場合は、強情で一度思い込む と聞く耳を持たず、自尊心が傷つけられると過剰に 反応する傾向がありました。  クリスティーナは政務過多でたびたび病に臥しま すが、一六五二年二月、フランス人医師ブールドロ の治療で元気になりました。ところが政務にも学問 にも身が入らなくなり、フランス趣味の宮廷で享楽 的な毎日を送るようになります。財政危機とメツセ ニウス親子の処刑で女王の人気はすでに下落してい ましたが、さらに国民の顰蹙を買うことになりまし た。  二(五四年二月、クリスティーナは再び退位を表 明し、六月に退位式典を行います。そして、今後の 生活を維持するため、年金が二〇万ターレルになる よう自身の領地を保有することを承認させました。 在位年数は長かったものの、まだ二八歳でした。  クリスティーナは秘密裏にローマのイエズス会総 長やフランス大使シャニュー、スペイン大使ピメン テルと連絡を取りながら改宗の準備を整えていまし た。ローマ教会側の国々も援助の態勢にありました。 スウェーデン女王の改宗はそれほど大きな出来事 だったのです。クリスティーナは退位式典を終える と直ちにスウェーデンを脱出します。男装してデン マークヘ入り、(ンブルクやアントワープに滞在し たのち、匸一月初旬にブリュッセルヘ招かれ、レオ ポルト大公の宮殿にある個人礼拝堂で神父を前に ローマ教会への信仰告白をします。けれども、この 時点で女王の改宗は公にはされませんでした。  一年ほどブリュッセルで享楽的な日々を送ったあ と、一六五五年九月、ローマヘ向かいます。この年 の一月にインノケンテイウスー○世が崩御し、アレ クサンデル七世が登位していました。一〇月三〇日、 インスブルックでクリスティーナの公式の改宗式が 行われます。教皇領に入ってからは各地で花火が打 ち上げられ、舞踏会や音楽会や演劇が催されて大歓 迎を受けました。   ローマ入城  クリスティーナの改宗とローマ入城は、対抗宗教 改革の最中にあったローマ教会にとって勝利のトロ フィーでした。彼女は匸一月一九日にローマヘ入り、 公式のローマ入城まで例外的措置としてヴァティカ ン宮殿に滞在します。匸一月二三日、公式入城時の クリスティーナは、灰色の乗馬服にジャケット、そ の上に短いマントをはおり、金モールの羽根帽子を かぶった騎馬姿でした。スイス衛兵に囲まれてベル ニーニが装飾したポポロ門から入り、枢機卿だちと 合流してサンーピエトロ大聖堂へ向かいました。沿 道では窓やバルコニーからタペストリーが垂らされ、 ローマ中が歓喜の声を上げて歓迎しました。  匸一月二五日、サンーピエトロ大聖堂で堅信式が 執り行われ、クリスティーナは教皇アレクサンデル 七世の手から初めて聖体を拝領します。そして教皇 の名にちなんだマリアーアレクサンドラという洗礼 名を拝受しました。ファルネーゼ宮殿が女王の住居 として提供され、教皇庁から女王に一日一〇〇〇ス クーディの生活費が三ヶ月間支給されることになり ました。ローマの貴族たちもクリスティーナを歓待 し、豪華な歓迎式典、祝祭や演劇、音楽会、舞踏会 が次々に開催されました。  退位後も「女王」を名乗り続けたクリスティーナ は、世間の慣習には順応しない、非常に個性的な女 性でした。彼女の高い学識と教養には誰もが感嘆す るものの、服装は風変わりで、立ち振る舞いは傍若 無人でした。教皇は模範的な改宗者として彼女が修 道院に入ることを期待していましたが、彼女は宗教 的談話を好まず、聖遺物や聖人に対しても皮肉をい い、嫌いな説教には耳を傾けようともしませんでし た。高慢な彼女は、イルージェズ聖堂で自分に十分 な敬意が払われなかったと怒り、世話になったイエ ズス会とも不仲になります。歓待したローマ貴族に 対しても、それが当然のことだと尊大な態度を取り ました。貴婦人だちとの交流を忌み嫌い、常識的な 行動ができないクリスティーナをローマの人々は次 第に不快に思うようになります。   生涯の人  クリスティーナはローマで生涯の人に出会います。 男装の女王がデコルテのフランス風ドレスを着るよ うになったほどでした。アッソリーノ枢機卿は高潔 な人物で、教養深く、クリスティーナと同じく学問 と科学、文学や芸術を愛する同志でもありました。 互いに尊敬しあい、最後までクリスティーナのそば にいた男性です。あまりにも親密だったため、愛人 関係が疑われましたが、真の友情で結びついた精神 的な愛でした。教皇も二人のつきあいを認めていま す。ただ、二人の間で交わされた膨大な書簡は愛の 言葉であふれていることから、根底には恋心があっ たのでしょう。誰のいうことも聞かないクリス ティーナでしたが、アッソリーノの忠告にだけは素 直に従いました。  クリスティーナはいつものごとく財政難にありま した。経済観念がなく、高価な書籍や美術品の購入 や惜しみなく与える贈り物に限度がないのは、ス ウェーデン時代も同様でしたが、退位後は収入があ りません。スウェーデンはポ圭フンドと戦争を始め、 自分の領地から入るはずの年金も当てにできない状 況となっていました。財政難で従者たちにも報酬が 払えなくなり、彼らの一部が問題も起こしました。 アントワープや(ンブルクの銀行には大きな負債も ありました。アッソリーノは高潔な人物だっただけ にいわゆる貧しい枢機卿で、彼女の生活を援助する ことはできませんでしたが、様々な形で力になって くれました。  一六五六年、ナポリでペストが発生します。イタ リアを離れることにしたクリスティーナは、金策も 兼ねてフランス行きを決めました。三〇年戦争中に フランスがスウェーデンに約束していた戦費九〇万 ターレルを自分の収入に振り替えるつもりでした。 フランスヘの旅費は、馬と馬車の売却金、宝石を抵 当にした借金、そして教皇からの贈与金でまかない ました。   おぞましい事件  クリスティーナは知性と教養を備えた女王だと評 されますが、自尊心をくすぐられると乗せられやす く軽率な面がありました。スペインとの戦争を継続 中だったフランスは、彼女にスペイン支配下のナポ リの王位獲得計画を持ちかけます。退位して現実を 思い知ったクリスティーナはナポリの王冠に目が眩 んだのでしょうが、なんとも浅はかです。狡猾なフ ランス宰相マザランがこの計画に本気だったのかど うかは分かりません。おそらく複数の計画を同時進 行していたのでしょう。実際、スペインとの戦争は。 一六五九年にピレネー条約が締結され、フランス王 ルイー四世とスペイン王女マリアーテレサが結婚す ることで終結します。  クリスティーナはいったんパリを出てイタリアの ペサロでナポリ遠征の司令とフランス軍の到着を待 ちます。しかし、その間にフランスの政策は変わり、 彼女はすでに好ましくない人物となっていました。 パリヘ向かおうとした彼女は、フランスに来ないよ うに促されても聞く耳を持たずフォンテーヌブロー まで行きます。そして、そこで全ヨーロッパを震撼 させるおぞましい事件を起こすのです。  二(五七年一一月、クリスティーナはフォンテー ヌブロー宮殿でスウェーデン時代からの側近、イタ リア貴族のモナルデスキを処刑しました。その場に 呼ばれた修道院長ルーベルが繰り返し助命嘆願をし ましたが、頑なな彼女の心が変わることはありませ んでした。彼女はモナルデスキがスペイン側にナポ リ計画を密告したと信じていましたが、真相は定か ではありません。ルーベル修道院長とクリスティー ナの従者チェーザレーカピトーネの証言が残ってお り、彼女の負の部分が伝わる史料となっています。  フランスという異国で、司法の手に委ねずに凄惨 な処刑が行われたことにヨーロッパ中が衝撃を受け ます。フランスではクリスティーナが野蛮で気味が 悪いという評判が立ち、誰もが避けるようになりま す。それはローマでも同じでした。  教皇は「残忍で好ましくない人物」として、クリ スティーナにローマヘ戻らないように伝えますが、 それを素直に聞くクリスティーナではありません。 しかしローマに戻っても以前のファルネジーナ宮殿 は与えられず、彼女は宰相マザランの私邸に滞在す ることになりました。マザランはローマ出身のイタ リア人枢機卿だったのです。  こんな状況にもかかわらず、アッソリーノは力を 尽くしてクリスティーナと教皇の関係修復に努めま した。さらに賃貸物件を探して、トラステヴェレ地 区にあるリアーリオ宮殿(現在のコルシーニ宮殿) の契約を彼女の名前を出さずに行いました。   問題児クリスティーナ  二(六二年二月、クリスティーナの後継者ス ウェーデン国王カールー○世が戦地で亡くなります。 三八歳という若さでした。彼の息子はまだ五歳で、 王妃の後見の下で寡頭政治が始まりました。クリス ティーナはまたもや借金をして旅費を作り、ス ウェーデンヘ向かいます。自身の退位協定の更新と 未成年の国王が後継者なしで死んだ場合、自分の王 位継承権を認めてもらうためでした。グスタフニ世 アドルフの娘という栄光がまだ通じると思っていた のです。  一〇月、ストックホルムに入ったクリスティーナ は現実を知ることになります。退位協定は更新され ましたが、王位継承権が認められるはずもなく、冷 やかな対応をされるだけでした。しかし年金問題が 解決しないため、いったん(ンブルクヘ戻ったあと、 交渉のため再びスウェーデンを訪れます。故国は背 教者クリスティーナに冷たく、彼女は再び屈辱を受 けました。  一六六二年より四年ほどローマで幸せに過ごした あと、再度スウェーデンヘ行き、(ンブルク滞在中 の二(六七年、クリスティーナはまたもや問題を起 こします。アレクサンデル七世が崩御したあとクレ メンス九世が教皇に登位したことを知り、プロテス タントの地で派手な祝宴を開催して、それが暴動に つながり、八名の死者と多数の負傷者を出してしま うのです。また、翌年、ヴァーサ家出身のポーラン ド王ヤンニ世が退位した時には、国王自由選挙に立 候補します。これも失敗に終わりました。  退位後のクリスティーナは聡明な女性とは思えな いような言動を続けますが、結局のところ、彼女に は、知識人と交流しながら好きな学問や科学、芸術 や文学を楽しみ、ローマの社交生活を楽しむほうが 似合っていたのでしょう。突き詰めれば、彼女の退 位もそういう人文主義者的な生活を望んだからかも しれません。一六六九年以降のローマでは、豊かで 平穏な日々が始まります。   バロックの女王  失意のクリスティーナをローマは温かく迎えまし た。クレメンス九世は、ネポティズムの廃止に取り 組む、稀にみる高貴な精神を持つ人物でした。教皇 はアッソリーノの進言でクリスティーナに匸一〇〇 〇スクーディの年金を与えることにします。年金問 題でスウェーデンと合意に達していなかった彼女に はありかたい支援でした。  六三年一月から居住していたリアーリオ宮殿は、 スウェーデンから運んでいた父ルドルフニ世の戦利 品を中心とする彫像や絵画で飾られ、ラフアエッロ、 ティツィアーノ、ルーベンスなどの作品もありまし た。タペストリー、メダル、コインのコレクション、 蔵書を収める三つの図書館、玉座の間、当時の流行 だった錬金術を行う実験室もありました。美しい噴 水のある広大な庭があり、二九の馬車、一六頭の乗 馬用の馬、八頭のラバを所有していました。学者に は惜しみない援助をし、天文学者や数学者も迎え、 芸術家では特にベルニーニと親しくつきあいました。 一六七四年には文学を研究するアカデミーも創設し ました。宮殿には学者や科学者、芸術家や音楽家が 常に出入りし、舞踏会や音楽会、演劇が開催される 数少ないローマの社交場の一つとなりました。相変 わらず経済的には困窮していましたが。  クリスティーナは、歳を重ねるうちに人間も丸く なりました。トラステヴェレ地区の住民に愛され 「我々の女王様」と呼ばれ、リアーリオ宮殿は娼婦 や犯罪者が逃げ込む避難所になりますが、何よりも ローマを訪れる旅人たちが必ず訪れる名所中の名所 となりました。  ローマという舞台で最後まで女王の役割を演じた クリスティーナは、実にバロック的な劇場型人生を 送つたといえるでしょう。「バロックの女王」をい びつな形をした「バロック真珠」と呼んだら、クリ スティーナは怒るでしょうか。  一六八九年四月、バロックの女王は、最愛の友 アッソリーノに看取られて、六二歳で亡くなりまし た(図23)。 この時代のローマ   ヨーロッパの勢力図の変遷  三〇年戦争(「一七世紀の危機とローマ」)で敗北 したオーストリアーハプスブルク家の神聖ローマ帝 国は、実質的所領がオーストリアとハンガリーだけ となり、かつての勢いをなくしました。ドイツでは ブランデンブルク選帝侯国と結びついたプロイセン 公国が急成長を始めます。フランスースペイン戦争 で敗北したスペインも落ちぶれ、代わって覇者と なったフランスでは太陽王ルイー四世が絶対王政を 確立し、ヴェルサイユ宮殿を建造して宮廷文化の花 を咲かせます。一六六五年、ベルニーニもルーヴル 宮殿改築計画でフランス宮廷に招聘されましたが、 実現には至りませんでした。  ネーデルラント、イングランド、フランスなど ヨーロッパ諸国が主権国家を確立し、重商主義政策 で富国に努める中、イタリア半島は都市国家に分裂 したままでした。ミラノ公国やナポリ王国、シチリ ア王国はスペイン支配下にあり、最強の海軍を誇っ たヴ子不ツィア共和国もオスマン帝国に敗れて弱体 化し、ローマ教会は宗教的権威を保ちながらも政治 力は弱まっていました。唯一フランスとの国境にあ るピエモンテのサヴォイア公国だけがヨーロッパ列 強の狭間で独立を保っていました。   スペイン継承戦争  一七世紀末、スペイン王カルロスニ世は死の淵に ありました。血族結婚を繰り返したスペインーハプ スブルク家最後の王には先天性疾患があり、子ども はいませんでした。この家系が途絶えるとヨーロッ パに混乱が生じるのは目に見えていました。スペイ ンは、スペイン本土の他、ナポリ王国やシチリア王 国、サルデーニャ王国、ミラノ公国、ベルギー、植 民地の中南米など広大な領土を有していたのです。 これを列強の一つが手にしたら、ヨーロッパの勢力 均衡は崩れてしまいます。  相続権を主張できるのは、縁戚関係にあるオース トリアー(プスブルク家と、カルロスニ世の異母姉 マリアーテレサがルイー四世の王妃となっていたフ ランスでした。一七〇〇年、カルロスニ世は遺言で ルイー四世の孫フィリップを後継者に指名して崩御 します。フィリップはフェリペ五世として即位し、   (入竹 。朝始まりました で  オーストリア、イングランド、ネーデルラントは、 ヨーロッパ最強のフランスがスペインを手にしたこ とに危機感を抱き、対仏同盟を結んで戦争を始めま す(スペイン継承戦争、一七〇一〜一四年)。オー ストリアの神聖ローマ皇帝レオポルト一世はドイツ のプロイセン公に援軍を要請し、その代わりプロイ セン王位を授けました。こうしてプロイセン王国が 誕生します。  同じ頃、東ヨーロッパでは、北方戦争(一七〇 〇〜二一年)が始まっていました。バルト帝国ス ウェーデンで年少のカール匸一世が王位に就いたた め、ロシアのピョートル大帝はポーランドとデン マークと結んでスウェーデンを攻撃したのです。最 初はスウェーデンが優勢でしたが、最終的にロシア がバルト海の覇者となり、強国の一翼を担うように なります。  なお、スペイン継承戦争中の一七〇七年、イング ランドとスコットランドが合併しました。   ユトレヒト条約とサヴォイア公国  スペイン継承戦争でサヴォイア公国は密接な関係 にあったフランスから寝返って反仏同盟側につきま した。孤立して苦境に陥ったフランスは各国と和平 交渉を始め、一七コ二年、ユトレヒト条約が結ばれ てスペイン継承戦争は終わります。これによって フェリペ五世のスペイン王位は認められましたが、 フランスの王位継承権は放棄させられました。  講和条約では、オーストリアにベルギーとミラノ 公国、ナポリ王国、サルデーニャ王国を、サヴォイ ア公国にシチリア王国を、イングランドにはジブラ ルタルとメノルカ島を割譲します。イングランドは フランスから北米の植民地の多くとアシェントも得 ました。アシェントとはアメリカ大陸スペイン領に アフリカの黒人奴隷を売り込む権利のことで、これ を手にしたイングランドは奴隷貿易を独占すること になり、のちのヨーロッパ覇権につながっていきま す。  また、シチリア王位を得たサヴォイア公国の ヴィットリオーアメデーオニ世は、一七二〇年に オーストリアと、シチリアとサルデーニャの交換を 果たしてサルデーニャ王となります。このサルデー ニャ王国がのちのイタリア王国です。   グランドツアー  一八世紀のヨーロッパは戦争で幕を開けましたが、 自然科学の研究が進み、合理的な知を重んじる啓蒙 思想が広がった時代でした。イングランド、フラン ス、オーストリア、プロイセン、ロシアが列強とし て台頭し、富国に努め、近代化を進めました。  ローマは、平和の中に眠っていました。一七世紀 より始まった都市整備を続け、スペイン階段やトレ ヴィの泉が作られたのもこの頃です。一七五〇年に は一五万人ほどの人口となり、行政区の再編成をし て教区を定め、社会事業の構築にも努めました。  古代ローマの遺跡が残り、ルネサンス、バロック の美しい建造物や芸術品であふれるローマは、イン グランドの上流階級の師弟が古典的教養を習得する ために長期滞在するグランドツアーの目的地として 賑わっていました。グランドツアーは一九世紀初頭 まで続き、フランスやドイツ、北欧からも多くの文 筆家や芸術家が訪れます。  ローマのコンドッティ通りにあるカフエーグレコ は一七六〇年創業の老舗で、優れた紀行文を残した スタンダールやゲーテ、バイロンやキーツ、アンデ ルセンなどの文人たち、彫刻家のトルヴァルセン、 音楽家のフランツーリストやメンデルスゾーンが 通ったことでも知られています。  ナポレオン戦争  一七八九年、フランス革命が起こります。九三年 には国王ルイヱ(世と王妃マリー・アントワネット が処刑台の露と消え、ヨーロッパ全土を震撼させま す。この少し前の一七七六年七月四日にはアメリカ 合衆国が独立宣言を行い、同じ頃、イングランドで は産業革命が起こっていました。  一七九六年、フランス革命政府の司令官ナポレオ ンがオーストリア攻略の一環で北イタリアヘ侵攻し ます。自由・平等・友愛という、フランス革命の理 念拡大を大義名分にしていましたが、周辺諸国に とっては侵略戦争以外の何ものでもありませんでし た。  ナポレオンは、トリノ、ミラノ、教皇領のエミリ アーロマーニヤ地方を次々に攻略し、ヴ子不ツィア 共和国を滅ぼします。九八年にはローマヘ侵攻して ローマ共和国を樹立し、捕虜となった教皇ピウス六 世はフランスで失意のうちに亡くなります。次の教 皇ピウス七世が登位すると、一八〇一年、ナポレオ ンはコンコルダート(政教条約)を結んで、教皇国 家が復活します。なお、同じ年に、イングランドに アイルランドが加わって連合王国となりました。  一八〇四年、ナポレオンがフランス皇帝となると、 ナポリ王国を兄ジョゼフ(のちに妹婿のミュラ)に 委ね、教皇の破門も意に介さずローマも占領し、ピ ウス七世は捕えられました。こうしてイタリア半島 を完全に掌握し、自らイタリア王位に就きます。  ナポレオンはイタリアのみならず、ヨーロッパの 大半を征服しますが、それでも落日の時が訪れます。 まず、スペインの反乱の鎮圧でつまずき、大陸封鎖 令で失敗し、さらにロシア遠征で大敗し、失脚する のです。一八一三年、ヨーロッパ諸国連合軍がパリ ヘ入城し、翌年、ナポレオンはエルバ島へ送られま す。その後、脱出して一時的に復権しますが(百日 天下)、ワーテルローの戦いで敗北を喫し、一八一 五年、絶海の孤島セントヘレナ島へ流刑となりまし た。  ナポレオンの登場は近代化への移行ととらえられ ています。ナポレオン法典は、法の前の平等、私的 所有権、経済活動の自由、信教の自由など近代的な 価値観を取り入れた民法典で、近代社会の法の基盤 となりました。また、フランス革命で生まれた国民 国家(ネーションステート)の意識を広め、国民軍 を誕生させました。封建的な旧支配体制を脱する第 一歩を示したのです。  ところでナポレオンはヨーロッパ各国から美術品 を略奪しましたが、最も被害を受けたのはイタリア で、その数は五〇六点にのぼりました。一八〇二年、 新古典主義の巨匠、彫刻家のカノーヴアが外交使節 としてパリヘ渡り、一五年に古代彫刻「ベルヴェ デーレのアポロン」や「ラオコーン」、ラフアエッ ロの「キリストの変容」を含む半数を取り戻しまし たが、いまだに残りの半数はパリのルーヴル美術館 に所蔵されたままとなっています。イタリアにとっ てナポレオンは侵略者であっただけでなく、大泥棒 でもあったのです。   リソルジメント(イタリア統一運   動)  ナポレオン失脚後のウィーン会議で、ヨーロッパ の地図は元に戻りますが、政治も旧体制に戻ってし まいます。フランスではブルボン朝の王政が復活し、 イタリアは再び都市国家に分裂し、ヴェネツィア共 和国やミラノ公国はオーストリアの属国に戻りまし た。  やがてウィーン体制に対して自由を求める運動が ヨーロッパ各地で起こり始めます。イタリア半島で もイタリア統一、独立、自由への意識が強くなって きます。急進派の共和主義者マッツィーニやガリバ ルディ、穏健派の自由主義者カヴール、この三人が イタリア統一に大きな貢献をすることになります。 このイタリア統一運動をリソルジメントといいます。  一八四八年革命(ヨーロッパ各地でウィーン体制 の崩壊を招いた革命の総称。一八四八年は諸国民の 春、あるいはヨーロッパ革命の年とも呼ばれる)が 起こると、イタリアでもヴ于不ツィアとミラノが オーストリアに反乱を起こし、サルデーニャ王国も これを援護して軍事介入をします。しかし反乱は鎮 圧され、サルデーニャ王国軍も敗北します。敗戦の 責任をとって国王カルローアルベルトは退位し、長 男のヴィットリオーエマヌエーレニ世に王位を譲り ます。そんな中、ローマでは急進派共和主義者らが ローマ共和国を樹立します。しかしこれも、教皇庁 の独立を守ろうとしたフランスの軍事介入で失敗に 終わります。結局、この時にヨーロッパやイタリア で起こった革命は実を結びませんでした。  ヴィットリオーエマヌエーレニ世は、卓越した政 治家カヴールを宰相とし、急進派共和主義者のガリ バルディらも巧みに利用しながら、イタリア統一を 着実に進めていきます。一八五八年、サルデーニャ 王国はフランスと結んでオーストリアを攻撃し、口 ンバルディアを奪還し、さらにイタリア中部の併合 にも成功します。その際、フランスにサヴォワと ニースを割譲しました。  一八六〇年、ガリバルディが1000人の義勇兵 (赤シャツ隊)を率いてシチリアに上陸し、両シチ リア王国(一八一六年よリブルボン王家の同君連合 下にあったシチリア王国とナポリ王国)を軍事占領 しました。そして、イタリア統一のため自らが占領 した地域をサルデーニャ王ヴィツトリオーエマヌ エーレニ世に献上したのです。  イタリア王国の成立  一八六一年、統一国家イタリア王国が誕生します が、まだヴェネツィアとローマが欠けていました。 六六年のプロイセンーオーストリア戦争でプロイセ ン側についたイタリアは戦勝国としてヴェネツィア を手に入れます。七〇年にはプロイセンーフランス 戦争が起こったため、教皇庁を守っていたフランス 軍がローマから撤退しました。これを機にイタリア 王国軍はローマへ進軍して占領します。教皇領は廃 止され、翌七一年、ローマはイタリア王国の首都と なりました。同年、ドイツが統一され、フランスと の戦争に勝ったプロイセン国王がドイツ帝国の皇帝 を兼任することになりました。  教皇領とローマを失ったピウス九世(在位一八四 六〜七八年)は、イタリア政府と国交を断絶します。 そして、自らを「ヴァティカンの囚人」と呼び、 ヴァティカン宮殿に閉じこもるのでした。この問題 は、一九二九年にファシスト政権下のムッソリーニ が教皇庁とラテラーノ条約を締結するまで続きます。   未回収のイタリアと第一次世界大戦  国家統一を果たしたイタリアは、首都ローマの整 備に努めます。しかし工業が発達した北部に比べて 南部は貧しく、経済格差は開くばかりでした。また、 未回収のイタリア問題もありました。イタリアが自 国の領土と主張する地域、南ティロルとトレン ティーノ、トリエステとイストリア半島、ダルマ ティア地方(クロアティアのアドリア海沿岸部)な どはオーストリア領内に残っていたのです。イタリ アはドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいま したが、国民の間には反オーストリア感情が根強く 残っていました。  一九一四年六月、オーストリアー(ンガリー帝国 の帝位継承者フランツーフェルディナント夫妻がサ ラエヴォでセルビア人の民族主義者に暗殺され、こ れが世界中を巻き込む第一次世界大戦(一九一四〜 一八年)に発展していきます。オーストリアがセル ビアに宣戦布告すると、多くの国が同盟・協商関係 に従って参戦しました。オーストリア、ドイツ、オ スマン帝国の中央同盟国側と、セルビア、ロシア、 フランス、大英帝国の連合国(協商国)側に分かれ て戦いました。のちに、日英同盟を結んでいた日本 やアメリカ合衆国も連合国側で参戦することになり ます。本来は中央同盟国側のイタリアは、最初は中 立の立場をとっていましたが、翌年、ロンドン密約 で「未回収のイタリア」の返還を約束され、連合国 側で参戦します。  第一次世界大戦は、初の総力戦でした。各国が全 国力を戦争に向け、政府が軍需優先の労働力と兵士 の動員、食糧配給制など国民生活のすべてを統制し たのです。航空機や潜水艦、戦車、化学兵器などが 使用され、死者は1000万人を超えたともいわれ ます。また、戦争末期の一八年からはスペイン風邪 が流行し、死亡者数は世界中で四〇〇〇万人以上で あったと推定されています。なお、一九一七年には ロシア革命でロマノフ王朝が倒され、世界初の社会 主義国が生まれ、一八年にはドイツ革命で帝政から 共和政へ変わり、ヴァイマル共和国となりました。 この大戦で、ドイツ、オーストリアー(ンガリー、 オスマン、ロシアの四帝国が崩壊し、アメリカ合衆 国大統領ウィルソン提唱の民族自決主義による新し い国々が生まれました。イタリアは戦勝国となり、 未回収地のほとんどを取り戻しますが、ダルマティ ア地方は新しい国ユーゴスラヴィアの中に組み込ま れてしまいました。   ムッソリーニとファシズム  第一次世界大戦後のイタリアは、インフレで国民 生活が困窮し、経済危機にありました。工場労働者 は、社会党の指導でストライキを起こして工場を占 拠し、貧しい小作農は地主に反乱を起こして土地を 占拠していました。これに危機感を抱いた支配者層 は、社会党を除名されたムッソリーニが創設した暴 力的な「戦闘ファッシ」(一九二一年にファシスト 党と改名)と連携するようになります。一九二二年、 ムッソリーニは政権獲得のため、ファシスト党によ る「ローマ進軍」を組織して政府に圧力をかけ、国 王ヴィットリオーエマヌエーレ三世から首相に任命 されました。その後、二八年にはファシズム代表議 会を正式な国家機関として権力を集中させると、一 党独裁体制を確立しました。  ムッソリーニは、国民の自由や人権を無視して強 権的に国家を統合する全体主義をとりますが、その 一方で社会福祉事業や干拓事業、首都整備を行い、 二九年には断交していたローマ教皇庁とラテラーノ 条約を結んで和解します。  二九年に世界恐慌が始まり、三〇年代になると、 ドイツにヒトラーがナチス政権を確立し、日本も全 体主義的国家体制をとるようになります。三七年、 イタリアはドイツや日本と日独伊防共協定(のちの 日独伊三国同盟)を結び、三国枢軸を作りました。  第二次世界大戦  一九三九年、ドイツのポーランド侵攻で、大英帝 国とフランスはドイツに宣戦布告します。こうして 再び戦争が始まりました。四〇年にはイタリアもド イツに呼応して参戦します。ヒトラーはヨーロッパ 大陸の大部分を支配するようになり、占領地から工 業資源や食料を奪い、数百万の外国人を強制労働さ せ、人種差別主義で多数のユダヤ人やスラブ人を強 制収容所に送って殺害しました。  フランスがドイツに敗北すると、日本はフランス 領インドシナ侵攻を開始しました。アメリカは日本 の南方進出を牽制するため石油供給を停正し、これ に大英帝国も同調します。四一年匸一月、日本は( ワイの真珠湾にある米海軍基地を奇襲攻撃して太平 洋戦争を始めました。こうしてファシズム陣営の枢 軸国と反ファシズム陣営の連合国との戦いは世界規 模へと拡大したのです(第二次世界大戦)。  一九四三年七月、連合軍がシチリアヘ上陸すると、 ムッソリーニは失脚して幽閉されます。新政権のバ ドリオが連合軍と休戦交渉を始めると、ドイツ軍は 速やかにイタリアへ侵攻して軍事占領し、さらに ムッソリーニを救出して北イタリアにドイツの傀儡 政権を成立させます。  イタリア本土は、連合軍とドイツ軍の戦場となっ てしまいます。ドイツ軍占頷下でパルティザンは果 敢なレジスタンス活動を展開しました。イタリアは 南から順次解放されていきますが、過酷な戦いが続 きました。  一九四五年四月二五日、パルティザンがミラノを 解放し、拘束されたムッソリーニは処刑されました。 翌四六年六月、ファシスト政権を許した国王の責任 を問う国民投票で王政廃止が決定し、イタリア王家 は国外追放となり、イタリアは共和政に移行しまし た。 13ヴイツトリオーエマヌ   エーレニ世  行け、想いよ、黄金の翼に乗って フランス革命で生まれた自由・平等・友愛という 理念は、ナポレオン一世の帝政を経ても、ウィーン 体制という保守反動が生じても、消え去ることはあ りませんでした。ヨーロッパ各地で自由のための運 動や革命を目指す地下組織が誕生します。  ジュゼッペーマッツィーニニハ〇五〜七二年) もその一人でした。彼はカルボナーリという秘密結 社に所属していましたが、組織に限界を感じ、一八 三一年、亡命先のマルセイユで「青年イタリア」を 結成しました。民衆の蜂起によってイタリア半島を 統一して共和国を作ることを目的としていました。 しかし、三三年のピエモンテでの蜂起も三四年の ジェノヴァでの蜂起も失敗します。ジェノヴァでの 蜂起にはジュゼッペーガリバルディ(一八〇七〜八 三年)も参加し、彼は欠席裁判で死刑判決を受けて 南米に逃亡しました。また、北イタリアのオースト リアからの独立を模索する穏健派ナショナリストも 台頭し、やがてカヴール(一八一〇〜六一年)も登 場することになります。  中世以来、都市国家が乱立し、フランスやスペイ ン、その後オーストリアの支配で分断された状態が 続くイタリアで、統一国家を持つことは夢でした。 その夢は、リソルジメント(イタリア統一運動)で 大きな役割を果たすマッツィーニ、ガリバルディ、 カヴールによって、ヴィットリオーエマヌエーレニ 世(在位一サルデーニャ王一八四九〜六一年、イ タリア王一八六一〜七八年)の治世下で果たされる ことになります。  一八四二年三月九日、ミラノのスカラ座で若き音 楽家ヴェルディのオペラ「ナブッコ」が初演を迎え ました。ナブッコは、ネブカドネザルというバビロ ニア王のことで、ユダ王国を属国としてユダヤ大を バビロンに連行した旧約聖書の挿話「バビロン捕 囚」をもとに作られたオペラです。聴衆は、祖国を 奪われたユダヤ大にオーストリアに支配された自分 たちを重ねて舞台に見入りました。そして、第三幕 二場の合唱曲「行け、想いよ、黄金の翼に乗って」 が始まり、「おお、失ってしまった美しき我が祖国 よ’・」の部分に達すると、観客の興奮は最高潮に達 します。イタリア統一への思いとともに、「行け、 想いよ、黄金の翼に乗って」がイタリア人の第二の 国歌となった瞬間でした。   ヴィツトリオーエマヌエーレニ世の   都市伝説  スペイン継承戦争(「スペイン継承戦争」)後、サ ルデーニャ王位を得たサヴォイア家は、イタリア北 西部、現在のヴアツレーダオスタ州とピエモンテ州、 フランス東部ニース、サヴォア、スイスのフランス 語圈を領土に持ち、首都をトリノに置いていました。  サルデーニャ王国三代目の国王ヴィツトリオーア メデーオ三世の息子たちは男子に恵まれず、兄弟間 で王位継承したのち六代目のカルローフェリーチェ (在位一ハニー〜三一年)でサヴォイア本家は断絶 してしまいます。代わって即位したのが傍系サヴォ イアーカリニャーノ家のカルローアルベルト(在位 一八三一〜四九年)でした。トスカーナ大公(トス カーナー(プスブルク家)フェルディナンド三世の 娘マリアーテレサと結婚し、二人の間に生まれたの が、のちに祖国の父と呼ばれるヴィットリオーエマ ヌエーレニ世です。  実は、ヴィットリオーエマヌエーレニ世の素性に ついては都市伝説があります。一八二二年九月一六 囗、二歳たったヴィットリオは母方の実家フィレン ツェのピッティ宮殿でゆりかごの中で眠っていまし た。その時、乳母はロウソクの火で蚊を追い払って いました。これが火事を誘発してしまうのです。ゆ りかごの蚊帳に火が燃え移り、ゆりかごは焼けてし まいました。乳母の必死の救出でヴィットリオは無 傷で助かったといわれますが、彼女自身は重傷の火 傷を負って数日後に亡くなります。  ここに、ヴィツトリオは焼け死んで、身代わりの 子どもが立てられたのではないかという都市伝説が 生まれました。父カルローアルベルトが一九〇セン チを超える長身で白い肌に金髪で上品な風情だった のに、ヴィツトリオが父親とは似ても似つかない容 貌で、外見も中身も庶民的だったことから、火事と 同じ日に突然姿を消した肉屋の子どもではないかと いうもっともらしい噂が広がっていきました。この 噂は断固として否定されましたが、当時の火事の調 書を調べて、乳母は死んだのに幼児だけが無傷で助 かったのは無理があると、替え玉説をとる研究者も いまだに存在します。  確かにヴィツトリオーエマヌエーレニ世は粗野で 品もありませんでしたが、当時、母マリアーテレサ は第二子を懐妊中で、二ヶ月後には弟も生まれてい ます。もし替え玉なら、替え玉の子孫がサヴォイア 王家を継承することを避けるため、何らかの手段を 使うはずです。それがなかったということは、やは リヴィットリオは本当の子どもだったのではないで しょうか。   一八四八年革命とイタリア  一八四八年、全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れ ます。フランスでは二月革命が起こり、王政復古し ていた国王ルイーフィリップを倒して共和政が宣言 され、サルデーニャ王国も、三月四日、国王カル ローアルベルトがトリノ市民の要求に応えて憲法を 公布し、立憲君主制となります。その数日後には オーストリアで三月革命が勃発して宰相メッテルニ ヒを亡命に追い込みます。このニュースが伝わると、 オーストリア支配下のロンバルディアとヴ子不卜で 反乱が広がります。ヴ子不ツィアで独立共和国が宣 言され、ミラノのオーストリア駐留軍も撤退します。  この事態に急進派の共和主義者マッツィーニとガ リバルディも亡命先からイタリアヘ戻って戦います。 穏健派もカルローアルベルトに軍事介入を求め、第 一次イタリア独立戦争が始まりました。イタリア半 島各地から義勇兵が集まり、教皇ピウス九世も援軍 を送ったほどでしたが、教皇はすぐに手を引きます。 オーストリア国民もローマ教会の信徒であり、一つ の民族に肩入れすることはできないというのがその 理由でした。そこには、教皇領のあるイタリアに強 力な統一国家はいらないというローマ教会の伝統的 政策もあったのでしょう。  オーストリアは国内の動乱を収拾すると北イタリ アへ援軍を送り、七月にはサルデーニャ王国軍を破 リ、八月に休戦となります。翌年三月、カルローア ルベルトは戦争を再開しますが、三日後にはノヴア ラの戦いで完敗を喫し、敗戦の責任をとって退位し ます。そして長男のヴィットオーエマヌエーレニ世 に王位を譲ると、ポルトガルヘ亡命しました。  いっぽうローマでは、四九年二月、マッツィーニ ら急進派の共和主義者がローマ共和国を樹立します が、フランスで大統領に就任したルイーナポレオン (ナポレオンの甥でのちの皇帝ナポレオン三世)が 教皇庁の独立を守るため軍事介入します。この時、 ルイーナポレオン軍がジャニコロの丘から放った大 砲がコロンナ宮殿に命中しました。大砲弾は歴史の 証人として今も宮殿の大広間の階段にそのまま残さ れています。その後、フランス軍はローマに駐留す ることになりました。  八月には共和国を宣言していたヴ子不ツィアも オーストリアに降伏しました。結局、イタリアにお ける一八四八年革命は失敗に終わりましたが、サル デーニャ王国は新国王のもとで立憲君主制を維持し、 イタリア統一へ向かう中心軸となります。   宰相カヴール  イタリア統一運動で大きな役割を果たした宰相カ ヴールの本名はカミッローベンソで、カヴールは伯 爵の爵位名です。イタリア統一の夢を持つ自由主義 者で、急進派のマッツィーニや武闘派のガリバル ディとは分かり合えない仲でした。また、反教権主 義者(ローマ教皇の権力を認めない立場)でもあリ ました。一八五〇年に政界に入ってからは、サル デーニャ国王ヴイツトリオーエマヌエーレニ世とこ とごとく対立しましたが、卓越した政治力と外交術 を持つカヴールに匹敵する政治家は他にいなかった ため、一八五二年に宰相になって以来、半年間の空 白以外は、死ぬまでその地位にいました。  一八五三年、ロシアとオスマン帝国が戦争を始め ると、ロシアの南下を危険視したフランスと連合王 国がオスマン側に参戦し、クリミア戦争に発展しま す。カヴールはこれをイタリア統一への支援を得る 好機ととらえ、英仏側での参戦を国王に求めます。 これに同意した国王は英仏支援の遠征軍を派遣して 勝利に貢献しますが、その後のロシア側の奇襲攻撃 で、明確な戦勝国はなくなってしまいました。しか しカヴールは、五六年のパリの講和条約でイタリア 問題をヨーロッパ全体の問題にすることに成功しま した。  オーストリア支配下にあるロンバルディアとヴェ ネトを奪還するためにはフランスからの軍事支援が 必要でした。一八五八年七月、カヴールは、成功の あかつきにはサヴォアとニースをフランスに割譲す る密約をナポレオン三世と結びます。これだけでは ありません。国王も同意の上で、女性をうまく利用 するのです。まず、先の講和条約の前に当時ヨー ロッパーの美女として有名だったカヴールの従姉妹、 カスティリオーネ伯爵夫人をパリヘ送りこみました。 彼女はナポレオン三世の愛妾となり、スパイのよう な役割を果たし、フランスのイタリア政策に影響を 与えたといわれています。女性に目がなかった国王 も、のちに短期間ですが彼女と愛人関係を結んでい ます。さらに、五九年一月には国王の娘、ヱ(歳の マリアークロテイルデを二〇歳も年上のナポレオン 三世の従兄弟、ナポレオンージョゼフと政略結婚さ せました。   ヴィヴァーヴェルディ(ヴェルディ、   ばんざい)!・  いっぽう音楽家ヴェルディは、いっの間にかサル デーニヤ王によるイタリア統一のシンボルとなって いました。「ヴェルディ」(くm河ロー)という名字が、 偶然とはいえ、「イタリア王ヴィツトリオーエマヌ エーレ」(く町医omヨanuele £ ea一EF)の頭文字と なっていたのです。一八五九年二月、ローマのアポ ロ劇場で新作オペラ「仮面舞踏会」を披露した時、 観客は熱狂して、「ヴィヴアーヴェルディ(ヴェル ディ、ばんざい)’・」を繰り返しました。もちろん 素晴らしい作品を作ったヴェルディを讃えるためで したが、そこにはイタリア統一を目指すサルデー ニャ国王ヴィツトリオーエマヌエーレニ世に重ねる 想いもあったのです。  「ヴィヴアーヴェルディ’・」という言葉は、「行け、 想いよ、黄金の翼に乗って」の歌のように、イタリ ア国民に愛され、誰もが口にするようになりました。  一八五九年四月、対オーストリア戦(第二次イタ リア独立戦争)が始まり、サルデーニャ王国はロン バルディアを奪還しますが、七月、フランスがオー ストリアと単独講和を結んだため、ヴ子不ツィア奪 還はなりませんでした。翌一八六〇年、イタリア中 部の都市国家、トスカーナ、モデナ、パルマが住民 投票によリサルデーニャ王国への合併を表明します。 フランスはこれを承認することで、密約のニースと サヴオアを手に入れました。  同年、両シチリア王国で起こった反乱を機に、ガ リバルディは義勇兵を集めて千人隊(赤シャツ隊) を結成しました。そしてジェノヴァからシチリアヘ 上陸し、各地の反乱軍を吸収しながら進軍し、シチ リアの大部分を手中に収めたのです。ナポリヘ入城 すると、共和勢力拡大を恐れたサルデーニャ王国軍 も南下し、ガリバルディ軍とともに決戦に臨みまし た。  ガリバルディは共和主義者で、生まれ故郷のニー スをフランスに割譲したカヴールの外交政策に反感 を持っていました。けれども共和派と王党派で対立 するよりも、サルデーニャ王国のイタリア統一に力 を貸すことを選びます。そして、自らが占領した地 域をすべてヴォツトリオーエマヌエーレニ世に献上 したのです。  一八六一年三月、ヴィツトリオーエマヌエーレニ 世を初代国王とするイタリア王国が誕生しました。 ヴェルディは政治にはまったく興味はありませんで したが、カヴールの度重なる要請で国会議員となり ました。しかしカヴールはイタリア王国初代首相に 就任すると、三ヶ月後に亡くなります。  英雄、色を好む?  ヴイツトリオーエマヌエーレニ世は、若い頃から 乗馬と狩りに熱中し、文化的なことには興味があり ませんでした。けれども君主としては、知的で洗練 されていた父カルローアルベルトよりはるかに有能 でした。父王には憲法を公布したという功績はあり ましたが、ぐずぐずした性格で、確固たる信念を持 たず次から次へと方針を変えました。いっぽう ヴイツトリオは品性には欠けるものの社交的でユー モアがあり、決断力がありました。政治において、 自分の考えは横に置いても、何をすればいいか、何 を民衆が望んでいるかを見極める能力がありました。 たとえば、気の合わない宰相カヴールと何度もぶつ かりましたが、彼以上の政治家がいないことを知っ ていたため、喧嘩しながらも宰相を任せ続けました。 同様に、イタリア統一という目的のためには、主義 主張がまったく異なるマッツィーニやガリバルディ もうまく利用することができました。また、父から 王位を継いだ時、彼は二九歳という若さで、サル デーニャ王国はオーストリアに敗戦して最悪の状態 でした。それにもかかわらず独立と立憲君主制を守 り抜いたのです。これだけでも名君と呼ばれる理由 になるでしょう。  ヴィツトリオは二二歳の時に従姉妹のマリアーア デライデ((プスブルクーロートリングン家)と結 婚しますが、病的なほどの好色家でした。彼ほど性 的に放縦だった君主もそういないでしょう。愛人を 持つだけでなく、ふと出会った女性、友人や政府関 係者の妻、あらゆる階層のあらゆる種類の女性だち と性愛を楽しみ、落胤と称する者が次々に現れたと いいます。正妻にも八人の子どもを産ませ、もとも と身体の弱かった彼女は八人目を産んだあと亡く なっています。  当時のサヴォイア宮廷はとても地味で退屈でした。 母マリアーテレサと妻マリアーアデライデは敬虔な ローマ教会の信徒で、晩餐のあとは祈りを捧げる 日々だったのです。  ヴィツトリオは多くの愛人を抱えていましたが、 その中で特別な存在が一人だけいました。一八四七 年、まだサルデーニャ王位に就く前の二七歳の時に 出会ったローザーヴェルチェツラーナ、通称ロジー 夕です。当時の彼女は一四歳たったため、サルデー ニャ王国の法律(ヱ(歳以下の女性を家族から引き 離すことを禁止)に触れ、父王にも反対されました が、ヴイツトリオは意にも介さず、狩猟用のストウ ピジニ宮殿に彼女を囲います。彼はすでにラウラー ボンという有名な美しい女優を愛妾にしていました が、彼女はしばらくの間ロジータの存在に気がつき ませんでした。  ロジータは文盲で粗野な女性でしたが、ヴイツト リオは、自分と同じように大食いで、下品な言葉を 平気で使い、ベッドの上で大騒ぎをする彼女がまさ に好みのタイプだったようです。ロジータとの間に 子どもが二人生まれ、それを知った気の毒なラウラ は激しいショックを受けます。のちに彼女も娘を一 人産みますが、結局別れることになり、彼女は贈ら れたすべての宝石類を返し、慰謝料や娘の養育費も 拒否します。  正妻マリアーアデライデはすべてを知った上で 粛々と過ごしていました。ロジータたちに宮殿で出 会うこともあったようで、子どもたちが「あの婦人 の連れている子どもはパパの子どもなんだって」と、 母に話すようなありさまでした。マリアーアデライ デは女優の愛妾ラウラが慰謝料も受け取らずミラノ ヘ戻ることになった時、彼女の娘を引き取って責任 を持って淑女として育てることを提案したほど優し い女性でした。いっぽうラウラとロジータは正反対 の性格をしていました。ラウラはロジータの存在を 知って以来、めそめそと悲しげに嘆いてばかりでし たが、ロジータはラウラに対する嫉妬とヴイツトリ オに対する怒りをありのままにぶつけて大喧嘩を繰 り返し、そのあとベッドで和解するような女性だっ たのです。  カヴールは、国王とロジータを別れさせようと 様々な計略を図りますが、その度に失敗します。 ヴィットリオは、一八五五年に妻を亡くしたあと、 ロジータと再婚しようとしますが、この時もカヴー ルの大反対で見送っています。けれども五九年、口 ジータに継承可能な爵位と城を与え、さらに六九年 には教会で結婚します。しかし、この頃はまだ教会 婚に法的効力はありませんでした(図25)。 。j7{ 疹 イタリア王国は成立しましたが、イタリア半島の 統一にはまだヴ子不ツィアとローマが欠けていまし た。一八六六年六月、プロイセンがオーストリアと 戦争を始めると(普墺戦争)、これをヴ子不ツィア 奪還の好機と考えたイタリアはプロイセン側で参戦 します(第三次イタリア独立戦争)。イタリア軍は オーストリア軍に敗れますが、この戦争に参加した ガリバルディの義勇兵団はオーストリア軍を打ち 破って進軍しました。プロイセン軍は勝ち進み、決 戦に勝つと、プロイセン首相ビスマルクはオースト リアと休戦協定を結びます。イタリア軍の働きはそ れほど大きくありませんでしたが、約束通り、悲願 のヴ子不ツィアを手に入れました。けれども南ティ ロルとトレンティーノ、トリエステとイストリア半 島、ダルマティア地方などはオーストリア領内に残 されたままでした(未回収のイタリア)。ローマで は、教皇領の大半を奪われ、ローマさえ失いかねな い状況にあったピウス九世が一八六四年にすべての 近代思想や文化を誤りだとするシラブス(誤謬表) を公布していました。  一八七〇年七月、フランスとプロイセンが戦争を 始めます(普仏戦争)。ナポレオン三世も自ら戦地 に赴きますが、九月には惨敗し捕虜となります。こ れによってフランスの第二帝政は崩壊し、第三共和 政が始まります。この時、ローマに駐留していたフ ランス軍はすでに撤退していたため、イタリア王国 軍はローマヘの進軍を開始します。ヴイツトリオー エマヌエーレニ世は、事前に教皇へ使者を送り、教 皇の保護を名目とする進軍を提案しましたが、ピウ ス九世はこれを拒否していました。イタリア王国軍 はアウレリアヌスの城壁にあるミケランジェロ設計 のピア門からローマ入城を果たし、一八七〇年九月 二〇囗、永遠の都を占領しました。  ピウス九世は、国王をはじめとする政府関係者を 破門に処し、イタリア政府と国交を断絶しました。 教皇は、就任当初は近代化に理解があり、歴代教皇 が拒否した鉄道の開設も認めたほどでしたが、教皇 領を奪い取られて以来、頑迷となって、自らを 「ヴァティカンの囚人」と呼び、残りの人生をヴァ ティカン宮殿に閉じこもって過ごしました。  一八七〇年一〇月、住民投票が行われ、その結果 を受けてローマはイタリア王国へ併合されました。 そして七一年七月一日には、ローマを首都と定めま す。初代国王ヴイツトリオーエマヌエーレニ世は、 クイリナーレ宮殿をサヴオイア王宮として、ロジー タには離宮を与えました。  一八七七年、ヴイツトリオはロジータと正式な貴 賤結婚(身分の柢い女性が夫の身分や財産を継承し ない約束で交わす結婚)をしますが、決してクイリ ナーレ宮殿には入れませんでした。その点ではきち んと線引きできる人でありました。   首都建設  イタリア王国の首都となった当時のローマは人口 が二〇万人を超えるくらいで、バロック期のシクス トゥス五世が整備した町並みがそのまま残っていま した。アウレリアヌスの城壁の内側は、三分の一が 市街地で、三分の二は美しい庭園やブドウ畑を併設 した貴族の別邸や田園でした。フオローロマーノは 「雌牛の野」と呼ばれ、遺跡が半分埋もれた野原に 牛が放牧されていました。古代遺跡や美しい聖堂や 芸術品で飾られたローマは、のどかな風情もあわせ 持つ独特の美しい都だったのです。  首都として都市整備をするために急ピッチでロー マの破壊と建設が始まりました。国を運営する役人 や軍人が大勢やってくると、役所や官舎を確保しな ければならず、また、世俗の高等学校や大学などの 教育施設の整備も不可欠です。貴族の宮殿や修道院 も転用されましたが、とても足りない状態でした。 また、氾濫の多いテヴェレ川の護岸工事も始まりま した。鉄道に関してはピウス九世によってテルミニ 駅を中心とする路線が一八六七年に開通していまし た。  美しい庭園やブドウ畑を破壊して、ナツィオナー レ通り、ヴィットリオ通り、ヴ子不卜通りなどの主 要な大通りが建設され、その周辺には官庁や政府高 官の邸宅が築かれました。建設現場で働くためにイ タリア南部から貧しい農民たちもやってきました。 彼らは建設現場での寝泊まりやバラック小屋での生 活を余儀なくされました。首都の建設には約三〇年、 護岸工事には五〇年の歳月を要することになります。  一八七八年一月九日、ヴィツトリオーエマヌエー レニ世は、五七歳で崩御します。サヴォイア家の霊 廟はフランスのサヴォア、オートコンブ修道院にあ りましたが、ローマ教会との対立から埋葬を行うこ とができませんでした。そこで、古代ローマの万神 殿パンテオンに埋葬されることになりました。その 七年後に亡くなったロジータは王妃でなかったため パンテオンに眠ることができず、子どもたちがトリ ノにパンテオンを小さくした墓廟を建設しています。   ウンベルト一世とヴィットリオーエ   マヌエーレニ世記念堂  息子のウンベルト一世(在位一八七八〜一九〇〇 年)が即位してまもなくすると、通称ヴィツトリ アーノと呼ばれるヴィツトリオーエマヌエーレニ世 記念堂の建設が始まります。ローマつ子が醜悪な建 造物、ウェディングケーキと揶揄する白亜の殿堂で す。この建造物は、カンピドリオの丘を背後にして ヴ子不ツィア広場に位置していますが、そもそも。 この一帯はローマの心臓部で中世以降の美しい建物 が密集していました。それが記念堂建設のためにす べて破壊されたのです。その中には有名なトルロニ ア宮殿やミケランジェロの暮らした家もありました。 カンピドリオの丘にあったアラチェーリ修道院も破 壊されました。この計画には当然ながらローマ市長 をはじめ大勢の文化人が反対しましたが、政府は近 代的な首都のイメージと統一後のイタリアの誇りを 示すため、この計画を遂行しました。記念堂は一九 一一年に落成し、第一次世界大戦後には無名戦士を 祀った「祖国の祭壇」が作られることになります。  ウンベルト一世は、オーストリア、ドイツと三国 同盟を結び、これを基軸とした外交政策を展開させ ました。そして出遅れていた植民地獲得を積極的に 進めます。一八八五年、エリトリア戦争を起こして 初めての植民地を得ます。さらにエチオピアにも侵 入しましたが、九六年のアドワの戦いで敗れました。 ローマ教会とは絶縁したままで、父と同じく強硬路 線を取りましたが、教皇レオ匸一世は一八九一年に レールムーノヴァールムという教書を発表していま す。ピウス九世の『誤謬表』以来、ローマ教会には 近代社会と相容れないイメージがつきまとったため、 信仰と近代思想や科学が共存し得ることを表明した のです。しかし、「ヴァティカンの囚人」の立場は 崩しませんでした。  統一間もないイタリアには問題が山積みでした。 近代国家を目指して急成長する中で、工業化は北部 に集中し、南部は取り残され、格差は広がるばかり でした。また、王制の廃止を求める共和派だけでな く、社会主義者や共産主義者、無政府主義者、多く の反体制派も出てきました。一九〇〇年七月二九日、 ウンベルト一世は、モンツアで無政府主義者の銃撃 を受けて暗殺されます。  イタリアは悲願の国家統一を果たしましたが、激 動の二〇世紀が始まろうとしていました。  14ムッソリーニ   ニ〇世紀の始まり  二〇世紀前夜にウンベルト一世が暗殺され、 ヴィツトリオーエマヌエーレ三世(在位一九〇〇〜 四六年)が三〇歳で即位しました。そして、二〇世 紀に大っだ一九〇一年一月には、イタリア統一の象 徴でもあったヴェルディが死去しました。イタリア 各地で追悼式典が行われ、ミラノではトスカニーニ の指揮で八二〇人の合唱隊が「行け、想いよ、黄金 の翼に乗って」を歌って大勢の市民がその死を悼み ました。いっぽうロマーニヤ地方のフォルリンポポ リという小さな町では、市民劇場で師範学校の推薦 を受けた一七歳のベニートームッソリーニがヴェル ディの追悼演説を行いました。翌日の社会党機関紙 『アヴアンティ’・』には追悼演説を巧みな政治演説 に変えた少年ムッソリーニを称賛する記事が出て、 少年とその父親を喜ばせました。  ペニートームッソリーニが生まれたのは一八八三 年七月二九囗、中世以来ローマ教皇領たったロマー ニヤ州フォルリのプレダッピオ村ドヴイア集落でし た。統一国家となったばかりのイタリアが急ピッチ で近代化を進めていた頃です。近代化には莫大な支 出を要し、増税という形で国民を苦しめていました。 特に国民の大半を占める農民層の貧困は深刻でした。 封建的な大地主制は変わらず、工業に従事する労働 者階級の待遇だけが改善される傾向にありました。  ロマーニヤ州は何世紀にもわたってローマ教皇領 でした。その反動から社会主義思想を受け入れる土 壌があり、実際、社会主義者としてイタリア初の国 会議員となって一八九二年にイタリア革命社会党を 創設したのは、ロマーニヤ州イモラ出身のアンドレ アーコスタでした。ムッソリーニの父アレッサンド ロは鍛冶屋を営む熱心な社会主義者で、ムッソリー ニのペニートという名前も、当時のメキシコの革命 家ベニートーフアレスにあやかったものです。家計 を支えていたのは小学校の教員だった母ローザでし た。  ムッソリーニは父と同じく無神論者で社会主義に 傾倒し、匸一歳で社会党に入党しました。学業が優 秀だったため義務教育終了後、ファエンツァのサレ ジオ修道会が運営する寄宿学校に進学しますが、こ の学校の学費は生徒の階層によって異なり、貴族と 金持ちの子は、その他の子とは区別され、部屋や食 事の待遇にも差がありました。ムッソリーニは社会 の不平等さを身をもって感じ、学校で様々な問題行 動を起こします。そして貴族の子弟をナイフで剌し てしまうのです。退学処分となったムッソリーニは、 宗教色のないフォルリンポポリの寄宿学校へ移り、 そのあと師範学校へ進学します。そして最終学年時 に成績優秀な学校代表としてヴェルディの追悼式で 演説をしたのです。   正義と暴力  その年の夏、ムッソリーニは師範学校を卒業して 教員資格を得ました。小さな町の小学校で一年教え たあと、一九〇二年七月、スイスヘ行きます。スイ スでは肉体労働に従事するいっぽうで、亡命中の口 シアの革命家アンジェリカーバラバーノフと出会い、 彼女からマルクスーレーニン主義を徹底的に学び、 様々な思想や哲学の書物を読んで勉強しました。こ の時期にフランス語やドイツ語なども身につけてい ます。そして、イタリア人労働組合の書記長を務め。 ストや暴動を起こしたり小さな新聞記事を書いたり していました。  ムッソリーニは兵役義務年齢に国外にいたことで、 母国の欠席裁判で有罪となっていました。一九〇四 年一一月、サヴォイア王家に皇太子ウンベルトニ世 が誕生して恩赦が行われ、それを機にイタリアへ戻 ります。自ら兵役に就きますが、その間に最愛の母 を亡くしました。除隊後は、フランス語の教員資格 も得て再び教職に就き、反体制の新聞に記事も書き 続けました。  一九〇八年、故郷のプレダッピオに戻ると、地主 と農民が対立する危機的状況を目にしました。彼は、 フォルリンポポリの学生時代、農民が徒党を組んで 地主を襲い、農機具や食料を奪うのを何度も目撃し ていました。「労働者ファッショ」と呼ばれた運動 でした。「ファッショ」は斧の周りに木の束を結び つけたもので、古代ローマのファスケス(高位公職 者の護衛官リクトルが捧げ持った束桿)に由来しま す。斧は権力、木の束は団結する人々を象徴し、団 結や結束を意味しました。  農民の権利が改善されるどころか、より深刻なも のとなっているのを見て、ムッソリーニは故郷の農 民のために立ち上がります。得意の演説で農民を扇 動し、ストライキを起こして地主に暴力行為も行使 しました。「正義のための暴力」だと正当化しなが ら。ムッソリーニは逮捕されて有罪判決を受けまし た。そして出獄後は、農民団体と社会党から若き りIダーとして賛辞されるようになったのです。   未回収のイタリア  一九〇九年、トレンティーノの労働組合の書記長 に抜擢され、『労働者の未来』という新聞の編集長 を務めます。  トレンティーノは、イタリアが自国の領土と主張 する「未回収のイタリア」の一部でした。  ムッソリーニは、州都トレントで未回収地回復運 動をする愛国者チェーザレーバッティスティと出 会って薫陶を受け、愛国者として目覚めます。バッ ティスティが編集長を務める『イルーポポロ(人 民)』紙でも記事を書くようになり、反オーストリ アの過激な論調で煽るムッソリーニは、ついにオー ストリア政府から国外追放処分を受けます。  ところで未回収地回復運動には、三島由紀夫も多 大な影響を受けた文学者ガブリェーレーダンヌン ツィオも熱心に取り組んでいました。耽美主義文学 の象徴だった彼は愛国主義者でもあり、のちに未回 収地フィウーメを軍事占領することになります。   社会党の新星  故郷の県都フォルリに戻ると、ムッソリーニは社 会党ロマーニヤ州の代表となり、機関紙『ラーロッ ターディークラッセ(階級闘争)』を立ち上げます。 この頃、互いの親の反対を押し切って恋人のラケー レと結婚しています。一九一一年、イタリアがオス マン帝国領リビアへ侵略戦争を始めると、政治集会 が開かれ、ムッソリーニは演説で「ゼネストばんざ い’・ くたばれ戦争’・」と訴えました。そして数日 後には同志のネンニ率いる三〇〇〇人あまりのデモ 隊とともにフォルリ駅周辺に集まり、兵隊輸送の鉄 道線路を破壊し、逮捕されます。一年の禁固刑を受 けますが、五ヶ月半で出所しました。  そのあと開催された社会党全国大会で、彼は巧み な演説で党内の穏健派を攻撃し、反王政、反教会、 反軍国主義の革命の必要性を説きます。匸一年に社 会党の全国機関紙『アヴアンテイ’・』の編集長に抜 擢され、得意の攻撃的な文章で平均発行部数を五万 部までに伸ばします。さらに匸一年のイタリア総選 挙で急進派主導の社会党が約百万票を集めて五三の 議席を得る成功を収めると、ムッソリーニの党内で の立場はますます強くなりました。  第一次世界大戦とムッソリーニ  ー九一四年、第一次世界大戦(「未回収のイタリ アと第一次世界大戦」)が始まり、多くの国がオー ストリア側の中央同盟国とセルビア側の連合国に分 かれて戦います。  一八八二年以来、イタリアはドイツ、オーストリ アと同盟関係にありましたが、「未回収のイタリア」 問題でオーストリアと対立していたため、最初は中 立の立場をとっていました。しかし未回収地をこの 際奪還しようという参戦派が増え、世論は二分され つつありました。  社会党は反戦の立場をとり、ムッソリーニも反戦 を看板にしてきた急進派だったため、紙面で「反戦 に立ち上がれ’・」と訴えます。しかし数ヶ月後には 「絶対的中立から実践的中立へ」というタイトルで、 絶対的中立が社会党にもたらす政治的孤立の危険性 を説き、つまるところ参戦しろという記事を書くの です。二日後、ムッソリーニは編集長を罷免されま すが、直ちに自分の新聞『イルーポポローディタリ ア(イタリアの人民)』を発行します。これは絶大 な成功を収め、あっという間に発行部数は三万部か ら八万部までに伸びます。ムッソリーニは社会党か ら除名処分を受けます。  ムッソリーニが反戦から参戦へ変わったのはなぜ でしょう。社会党の政治路線をすべて支持していた わけではなかったとか、さまざまな思想体系を取り 入れる政治的立場(政治的シンクレティズム)を とっていたとかいわれますが、歴史家のデーフェ リーチェによると二つの要因があるそうです。一つ は、ドイツが中立国ベルギーを攻撃したことで、 ムッソリーニが絶対的中立の弱さを認識して現実的 に政治を見つめるようになったこと。もう一つは、 参戦派が、大衆に絶大な人気を誇っていたムッソ リーニを取り込もうと口説いていたことです。実際、 ムッソリーニがすぐに自分の新聞を発行することが できたのも、参戦によって利益が生じる財界や産業 界から資金援助を受けたからでした。  一九一五年、イタリアは「未回収のイタリア」の 返還を約束する英仏とロンドン密約を交わし、連合 国側で参戦します。愛国主義者の詩人ダンヌンツィ オもムッソリーニも持論の責任を果たすため従軍し ました。ムッソリーニは塹壕内で爆発した榴散弾で 負傷し、入院中にヴィットリオーエマヌエーレ三世 の訪問を受けています。   戦後の混乱と戦闘ファッシの誕生  誕生して半世紀の新興国イタリアは、大戦で大き な代償を払いました。多くの人命を失い、経済も社 会も壊滅状態でした。軍需産業だけが繁栄し、民需 産業は落ち込み、さらに軍事産業を優先するあまり 工場労働者が優遇され、農村から多くの若者が召集 されて戦死していました。地主対農民、資本家対労 働者の対立だけでなく、工場労働者と農業労働者の 反目も生まれていました。そして失業者の増大です。 帰還兵の半数は失業者となり、大学を出た若者に仕 事はありませんでした。工場労働者の賃上げ要求の ストは、仕事のない帰還兵からすると贅沢に映り、 彼らは突撃隊を結成して労働者のデモやストを襲う ようになります。  イタリアは、戦後のヴェルサイユ条約で大半の未 回収地域を取り戻しましたが、最も大切なフィウー メを含むダルマティアの獲得には至りませんでした。 戦勝国とは名ばかりの結果に国民の政府不信は高ま る一方でした。  ヨーロッパ列強に比べると、そもそもイタリアと ドイツは後発国でした。戦勝国となっても社会・経 済が壊滅状態にあったイタリア。アルザスーロレー ヌという資源地帯をフランスに割譲し、かつ天文学 的な巨額の賠償金を支払わなければならなかった敗 戦国のドイツ。この二つの国は、戦後の立場は違っ てもゼロからの出発を強いられたのです。ここに、 全体主義のファシズムとナチズムが生まれる土壌が あったのでしょう。  一九一九年三月、ムッソリーニは政治グループ 「戦闘ファッシ」を創設します。新聞で参加者を募 集すると、戦時中の突撃隊員や学生など多彩な人た ちが集まり、その中には世界的に有名な芸術家マリ ネッティや指揮者トスカニーニもいました。戦闘 ファッシの突撃隊は社会党が主導する労働者のスト が起こるたびに、暴力で介入して乱闘を起こしまし た。  同じ年の夏、愛国の詩人ダンヌンツィオが義勇軍 を率いてフィウーメ占領事件を起こします。外交問 題にまで発展し、結局フィウーメは自治都市となり ますが、ダンヌンツィオの撤退まで一年以上を要し ました。のちにムッソリーニはこの派手な手法をま ねることになります。  一一月には大戦後初の総選挙がありました。ムッ ソリーニは戦闘ファッシの政界進出を目論み、マリ ネッティやトスカニーニという著名人の候補者を立 てますが、惨敗に終わり、一議席も取れませんでし た。結果は社会党の圧勝で、第二党が人民党でした。 しかし、この選挙結果はムッソリーニに大きな機会 を与えるのです。   保守政党のファシズム支援  社会党は反教権主義(ローマ教皇の権力を否定す る考え)で、人民党はローマ教会を後ろ盾にしてい ました。したがって両者は連立することはできませ ん。しかし、いずれの政党もサヴォイア家の王制を 認めないという点では一致していました。そのため、 これらの党の躍進は、これまで政治を主導してきた 自由主義勢力や支配者層・中間層に危機感を与えま した。これが、サヴオイア家や自由主義の政治家が ムッソリーニに近づいていく動きを作ったのです。 また、目的のためには手段を選ばないムッソリーニ も、のちに反教権主義や反王制の立場を変えていき ます。  ムッソリーニは、労働者による工場の占拠や小作 農による農地強奪に対してファシスト行動隊による 「懲罰遠征」を行うようになります。そして農村で 自作農が自衛のために作った私的民兵組織をファシ スト行動隊として取り込んでいきます。  ムッソリーニの戦闘ファッシには地主や企業経営 者が資金を提供するようになり、暴力行為が正当化 される行動隊への入隊を志願する若者も多くなりま す。当時の首相ジョリッティは、社会党指導の労働 争議や農民の暴動に悩まされ続け、社会党を弱体化 するためには、左派から転向して社会党に暴力で対 峙するムッソリーニを取り込むことが武器になると 考えたのです。  黒シャツ隊  一九二一年一月、社会党も分裂します。最左派勢 力が離党してイタリア共産党を結成し、二二年には 穏健派も、労使協力を訴えた社会党最右派のジヤコ モーマッテオッティらがコミンテルン(国際共産主 義運動の指導組織)の批判を受けて除名処分され、 統一社会党を結成しました。  かつて社会主義者だったムッソリーニはますます 極右的立場をとり、資本主義を擁護します。戦闘 ファッシの武装集団は、社会党や共産党の支部や左 派の労働組合などの襲撃を続けます。二一年五月、 総選挙が行われ、ジョリッティの要請でムッソリー ニの戦闘ファッシも与党の統一会派、国民ブロック に加わりました。結果は、国民ブロックが過半数を 制し、ムッソリーニも他二四名のファシストと一緒 に当選しました。このときムッソリーニは三八歳で した。  しかしムッソリーニはジョリッティの期待を裏切 り、政権与党には入りませんでした。五度も首相を 務めたジョリッティは政界の支配的立場にありまし た。ファシストの暴力を許したのも政局に利用する ためで、ファシストの暴力は正式な政党となれば収 まるだろうと考えていました。ムッソリーニを軽視 し過ぎていたのです。選挙の二ヶ月後、首相はジョ リッティからボノーミに変わりました。  同年一一月、戦闘ファッシはファシスト党と改名 します。そして、かつてダンヌンツィオがガリバル ディの赤シャツ隊にヒントを得て義勇兵に黒シャツ を着せていたことをまねて、黒シャツをファシスト 党の制服にします。ファシスト党員であれば自己の 利益につながる、そんな理由で党員はどんどん増え ていきました。   ローマ進軍  黒シャツを着たファシスト党の私兵組織は黒シャ ツ隊と呼ばれ、その行動はイタリア各地でエスカ レートしていきました。労働者のストを邪魔するだ けにとどまらず、社共系の労働組合がゼネストに入 ると、死傷者を出すほどの攻撃をし、ミラノやジェ ノヴァなど多くの都市の市役所の占拠まで行います。 もはや政府は無力でした。ファシスト党を抑えきれ ないボノーミ首相は退任し、ファクタ政権に代わり ますが、この時ムッソリーニは政権を獲得するため のクーデターを計画します。作戦本部をイタリア中 部のペルージャに置き、イタリア各地から武装蜂起 した黒シャツ隊がローマヘ進軍しながら主要都市の 県庁、警察、郵便局、放送局などを占拠し、ローマ 占拠後、ムッソリーニを首相とする計画でした。政 府もこの計画を察知していましたが、閣僚や軍部の 意見が分かれ、右往左往するばかりで正しい対策を 取ることができませんでした。  一九二二年一〇月二八日早朝、「ローマ進軍」が 開始されます。ムッソリーニはミラノの党本部から 指揮をし、イタリア各地からトラックや列車、ある いは自転車や徒歩で数万人の黒シャツ隊がローマを 目指しました。進軍が始まると、ファクタ首相は緊 急閣議で戒厳令の発動を決めます。それを知った ムッソリーニや党幹部は、失敗を覚悟しました。も しローマの正規軍と正面衝突したら勝つ見込みはな いからです。  ところが事態は急変します。ヴィットリオーエマ ヌエーレ三世が戒厳令の発動を拒否して、布告令に 署名しなかったのです。さらに国王はムッソリーニ を首相に任命して組閣を命じます。この時、なぜ国 王はムッソリーニを選んだのでしょう。ファシズム 支持者の従兄弟アオスタ公による王位剥奪の動きを 懸念したとも、ファシスト党寄りのディアス陸軍参 謀総長やディーレヴェル海軍提督に説得されたとも いわれますが、真相は今も不明です。第一次世界大 戦後のロマノフ王朝のような運命を避けたかったの でしょう。しかし、彼がファシズム政権の台頭を許 したことは間違いありません。   ファシズム政権誕生  ムッソリーニはドウーチェ(統帥どフテン語に 由来する指導者という意味)と呼ばれ、二〇年以上 にわたるファシスト政権が開始します。首相官邸は ヴェネツィア宮殿です。翌年、ヴァイマル共和政下 のドイツでアドルフーヒトラーがローマ進軍を参考 にしてミュンヘン一揆を起こしますが、このクーデ ターは未遂に終わります。  政権の座に就いたムッソリーニは首相、内相、外 相を兼任します。新閣僚には、先の陸軍参謀総長と 海軍提督をそれぞれ陸、海相に、他はファシスト党 だけでなく、自由党や人民党、社会民主党などの他 政党からも任命し、連立体制を取ります。しかし、 着々と一党独裁の礎を築いていくのです。  一九二二年匸一月にはファシスト党の政策を匸兀 化して調整するファシズム大評議会が設立されます。 匸二年二月には、黒シャツ隊を国防義勇軍とするこ とが決まり、ファシストの武力集団が公的組織とな り、武器や給料が支給されるようになりました。こ れにより、ファシスト体制が強化され、反対する者 への懲罰は激化していきます。  また比例代表制の改革でアチェルボ法が定められ ます。これは、最も得票数が多く全体の二五パーセ ント以上を獲得した政党に下院議席の三分の二を与 え、残りの三分の一を野党に比例配分するというも のでした。この法案審議にあたって、議会の傍聴席 には多くの黒シャツ隊が待機して無言の圧力をかけ ました。  二四年の総選挙では、黒シャツ隊が野党の政治家 や反ファシズムの言論人を襲撃し、投票囗には反 ファシストに投票用紙を渡さないなど、様々な妨害 と不正工作を行いました。投票結果はファシスト側 の大勝でした。   マッテオッティ事件  いつの時代にも自分の命をかけて正義を貫く人が いるものですが、統一社会党の書記長ジャコモー マッテオッティはそんな一人でした(図`一)。二四 年五月三〇囗の議会で彼は証拠を挙げながらファシ スト党が暴力的手法で行った不正を糾弾し、総選挙 の無効とやり直しを求めました。一時間の演説予定 はファシストの野次と罵声で四時間にまで延びまし た。怒号が飛び交う中で演説が終わると、マッチ オッティは同じ党の仲間に「いいたいことは全部 いった。僕の追悼演説を考えておいてくれ」といい 鵬 犬水難ゾレル士 マ郊外の森の中に埋められました。ムッソリーニは マッチオッティの失踪事件を闇に葬るつもりでした。 しかし拉致現場近くの住民が、長時間停車している 車を不審に思って控えていた車両ナンバーを警察に 伝え、これによって車の所有者が分かり、関係者が 逮捕されたのです。犯行はチェカと呼ばれる元ミラ ノの突撃隊のドウミニ一味でした。  流れは一気に反フアシストヘと進みます。匸一七 人の議員が、不正選挙で成立した議会の解散かムッ ソリーニの解任を求めて議会を欠席するアヴェン ティーノ運動を始めました。これは古代ローマ時代 に平民が貴族に対して起こした聖山事件(「貴族と 平民の身分闘争」)にならったものです。失踪から 二ヶ月後、マッチオッティの遺体が発見されました。 この時点で国民のファシスト支持は地に落ち、ムッ ソリーニは総辞職するかしないかの瀬戸際にありま した。ところが、ここで再び国王がファシスト政権 の議会を容認するのです。こうしてムッソリーニは 息を吹き返し、ファシストの勢いは止まらなくなっ てしまいます。   民主主義の終わり  議会の内外からファシスト政権への批判は続いて いましたが、年が明けた一九二五年一月、議会の再 開演説でムッソリーニは独裁制に移行することを宣 言します。イタリア全土で国防義勇軍(黒シャツ 隊)による反ファシスト狩りが始まり、逮捕、投獄、 関連施設などの閉鎖、各報道機関への監視を強化し ました。暗殺や逮捕を恐れた反ファシストの政治家 たちは亡命を始めます。  二五年匸一月、ムッソリーニは従来の首相より権 限の強い「政府首班および国務長官職」を創設する と自ら就任し、執行権と立法権を得ます。反ファシ ストの公務員を解雇できるようにし、反ファシスト のジャーナリスト排除と言論の統制も始めます。二 六年には、政府首班の立法権が拡大され、これ以降 ムッソリーニの決めたことが法律となります。地方 自治体の首長は選挙ではなく中央からの任命で選ば れることになり、労働組合も労使の一体化と協調が 図られストライキを違法としました。さらに国家防 衛法によってファシスト党以外の他政党を非合法化 し、一党独裁制を確立させます。そして二八年には、 党の最高諮問機関にすぎなかったファシズム大評議 会を正式な国家最高機関とし、ファシズム独裁体制 を完成させたのです。   ムッソリーニはいいこともした?  二〇年代前半のイタリア経済は自由経済路線で全 般的には好調で、ローマの人口も七〇万人を超えて いました。国民所得が増えて失業者も激減しました が、後半はインフレと貿易赤字が増え、農作物の不 作もあり、行き詰まってきました。そこで経済面で も政府の統制が始まりました。  労使の一体化と協調で、労災、疾病、年金などの 保険制度を整え、出生率を上げるため報奨金も出し ました。農業では食料の自給自足を目指し、小麦の 耕地面積を拡張するため干拓事業を進めます。ロー マの南にはマラリアの原因ともなる沼地が広がり、 古来、干拓事業に取り組んでは失敗していましたが、 ムッソリーニはこれに成功し、一九三三年には小麦 の自給自足という目標を達成します。  これに伴って道路や高速道路も拡充させ、労働者 のために多くの公共住宅も建設しました。古代ロー マの栄光を夢見たムッソリーニは、古代遺跡の発掘 と整備もしています。アウグストゥスの霊廟やア ラーパキス(平和の祭壇)を整備し、三三年には ヴ子不ツイア広場のヴイットリオーエマヌエーレニ 世記念堂からコロッセウムまで諸皇帝の大通りを開 通させます。この時の工事でまたもや中世の町並み は破壊されましたが、その下から多くの古代遺跡が 発見されました。  ローマ郊外では新都心EUR(エウル)の建設に も着手します。エウルとは四二年に開催予定で第二 次世界大戦の勃発で中止となったローマ万国博覧会 の略称で、万博会場として築いた地区です。一般的 にファシズム時代の建築は無機質で威圧感があり醜 悪とされますが、エウルの合理主義建築群は古典趣 味が入った美しい建築といえるでしょう。特に四角 いコロッセウムと呼ばれるイタリア文明宮(図一″) は一見の価値があります。また、国立映画撮影所チ ネチッタも設立しました。 一「   一一 徊 鈿 j糜   謚7  ムッソリーニはマフィアなどの犯罪組織を徹底的 に取り締まったことでも知られています。犯罪組織 はイタリア経済の障害となり、特にマフィアはシチ リアの分離主義運動に結びついていたため、国家警 察によってほとんど壊滅状態にまでしています。  これらのことから、イタリアでは今も彼を評価す る声があるのです。しかし、個を国家という枠組み に閉じ込める全体主義を肯定することはできません。  ナチスードイツとの結びつき  一九二九年二月、イタリアは断交していたローマ 教皇庁とラテラーノ条約を結び、和解しました。教 皇庁が教皇領の廃止を受け入れてイタリア王国を承 認する代わりに、イタリアは巨額の補償金を教皇庁 に支払い、ヴァティカン市国が独立した国であるこ とを承認しました。  同年、ニューヨーク株式市場で株価が暴落し、世 界恐慌が始まります。イタリアでも大企業が倒産の 危機に瀕し、失業者が増大します。その対策として。 三三年、ムッソリーニはイタリア産業復興公社を設 立します。政府の出資で破産寸前となった銀行を救 済し、国の基幹産業の国有化で経済の立て直しを 図ったのです。また、対外侵略で国力を増大させよ うと、三五年、エチオピアに侵攻しました。三六年 の征服後、エチオピア帝国の帝位はサヴオイア家が 兼ねることになり、三八年、ムッソリーニは大元帥 職を創設して国王と共同で就任し、それまでは国王 のみが持っていた統帥権(軍の最高指揮権)を持つ ことになりました。  ドイツでは三三年にヒトラーがナチス政権を確立 しました。ヴェルサイユ条約で定められていた軍備 制限を破って軍備の拡張を始め、三六年にはフラン スとの国境にある非武装地帯ラインラントに進駐し ました。同年、スペインでは内戦が始まります。左 派の人民戦線政府とフランコを中心とする右派の反 乱軍の戦いです。人民戦線側はソ連が支援し、欧米 の知識人が義勇兵として参戦し、ファシズム陣営の フランコ側にはドイツとイタリアが直接参戦しまし た。ピカソは、ドイツ空軍によるゲルニカ村への無 差別爆撃の惨状を「ゲルニカ」に描いています。  民主主義国家と対立しながらファシズムとナチズ ムという二つの全体主義国家が勢いを増していく中 で、ヒトラーとムッソリーニは、三六年にローマー ベルリン枢軸を成立させ、翌三七年にはローマ・ベ ルリン・東京の日独伊防共協定(のちの日独伊三国 同盟。イタリアでは三都市の頭文字をとってロベル 卜と呼ばれます)を結びました。これを記念してイ タリアは三八年にメス狼のブロンズ像を日本へ贈っ たのでした。  第二次世界大戦  一九三八年、ヒトラーはオーストリアを併合しま す。ウィルソン提唱の民族自決論を持ち出して同じ 民族の統合だと正当化しました。そしてチェコスロ ヴァキアも併合(東半分に保護国、西半分を保護 領)します。これを見たイタリアもアルバニアに軍 事侵攻し、併合しました。三九年九月、ヒトラーが ポーランド侵攻を始めると、大英帝国とフランスは ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦(一九三九〜 四五年)が始まります。  四〇年、ヒトラーはデンマークーノルウェー、 ネーデルラントーベルギー、フランスヘ侵攻し、勝 ち進んでいきます。この快進撃を見てムッソリーニ は短期間で戦争は終わるという見通しを立て、勝ち 簽 犬づド難川 ワイの真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカとの全面戦争 に突入します。こうして枢軸国(ドイツ、イタリア、 日本)と連合国(大英帝国、アメリカ合衆国、フラ ンス、ソ連、中国)との世界大戦となっていきまし た。  この大戦がどれだけ悲惨だったかはいうまでもな いことです。ナチスの組織的なユダヤ人殺戮(ホロ コースト)、日本への原子爆弾の投下など、倫理的 にあってはならないことも起こりました。   ムッソリーニ失脚とレジスタンス  一九四三年春、北アフリカ戦線でイタリアの敗北 が決定的になると、厭戦ムードが一気に高まります。 それでなくともイタリア国内は壊滅的状態にありま した。爆撃による工場操業停止、資源の枯渇、食糧 難に加え、兵士の士気も低下していました。七月一 ○日、連合軍がシチリアヘ上陸すると、イタリア国 王と軍部、そしてファシスト党幹部はムッソリーニ を排除することを決め、準備します。二四日のファ シズム大評議会でムッソリーニの統帥権を国王へ返 却することが決議され、翌日、ムッソリーニは、 ヴイットリオーエマヌエーレ三世に報告のため謁見 すると、その場で身柄を拘束されました。国王は陸 軍のバドリオ元帥を首相に任命しました。  九月八日、連合軍と休戦交渉中であることが明る みになると、ドイツ軍は速やかにローマ以北のイタ リア半島を軍事占領します。バドリオ政権とサヴオ イア王家は南へ逃げ、この時イタリア軍に何の指示 も与えなかったため、取り残された彼らは連合軍に 合流するのかドイツ軍と一緒に戦うのかが分からず、 混乱に陥ってしまいます。  九月匸一日、近づくのが困難な場所に幽閉されて いたムッソリーニはドイツ軍特殊部隊により救出さ れました。もはやムッソリーニはヒトラーのいいな りで、北イタリアにドイツの傀儡政権、イタリア社 会共和国を成立させます。  こうしてイタリアは悲惨な内戦へ入っていきます。 南部から上陸した連合軍と北部から進軍したドイツ 軍の戦いがイタリア本土で始まるのです。そこにイ タリア軍やファシスト傀儡政権軍、レジスタンス運 動のパルティザンも絡まります。  連合軍は南から順次解放していきますが、ドイツ 軍占頷下にある地域ではパルティザンが命もかえり みずに勇敢に戦いました。パルティザンは社会党や 共産党など左派の傘下にある組織で、軍人ではなく、 銃を持つ普通の市民でした。元共産党員の映画監督 ルキノーヴィスコンティや戦後大統領となったペル ティーニもパルティザンでした。ヴィスコンティは ローマで刑務所に入り処刑される寸前で助かるとい う経験もしています。この頃のローマの様子は、口 ベルトーロツセリーニ監督の傑作『無防備都市』に 描かれています。  四四年三月二四日、ドイツ占領下のローマで「ア ルデアティーネの虐殺」が起こります。前日にトレ ヴィの泉近くでパルティザンの仕掛けた爆弾により 三三名のドイツ兵が死亡したことへの報復で、ドイ ツ軍が無作為に選んだ三三五名の民間人と政治犯を アルデアティーネーポソラン採掘場で虐殺したので す。うち七五名はユダヤ人でした。  ローマは、ヴァティカンを抱え、貴重な古代遺跡 や芸術品が多かったため、休戦交渉で無防備都市宣 言をしましたが、駐留のドイツ軍が武装解除しな かったため連合軍に認められず、五一回の爆撃を受 けました。それでも永遠の都がほぼ無傷で残ったの は奇跡のようなことでした。  新たな旅立ち  一九四五年四月二五日、ついにドイツ軍占頷下の 最後の都市ミラノがパルティザンによって解放され ました。したがって、この日がイタリアの解放記念 日(終戦記念日)となっています。拘束されたムッ ソリーニは、最後まで一緒にいた若い愛人のクラ ラーペタッチや側近とともに公開処刑されます。そ の後、ロレート広場でクララの遺体もムッソリーニ の隣で逆さ吊りにされましたが、一緒にいた愛人と いうだけで一般人だった女性まで銃殺し、逆さ吊り にして見せ物にする必要はあったのでしょうか。憎 しみは憎しみしか生まないというのが戦争なので しょう。  余談になりますが、ムッソリーニの家族は一人も 処刑されていません。息子の一人、ロマーノームッ ソリーニはジャズピアニストとして活躍し、ソフイ アーローレンの妹と最初の結婚をしました。彼女と の間の娘はのちにネオファシスト「イタリア社会運 動」(一九九五年に党名変更)の国会議員となりま した(二〇二〇年に政界を引退)。また、二番目の 妻との間の娘も二〇一六年にネオファシスト「イタ リアの同胞」のローマ市会議員となっています。  一九四六年五月、ファシスト党と協調関係にあっ た国王の責任を問う国民投票の話が出ると、ヴィツ トリオーエマヌエーレ三世は王制を守るために退位 し、息子のウンベルトニ世を即位させます。しかし 翌月、六月二日の国民投票で王制廃止が決定し、イ クリア王家全員が国外追放となりました。  その後イタリアは共和政に移行します。この時、 ローマの人口は一五〇万人を超えていました。   これから  イタリアは、五〇年代から六〇年代にかけて奇跡 の経済成長を遂げて復興し、一九七一年のローマの 人口は二七〇万人に到達しました。しかし、七〇年 代後半から八〇年代初頭にかけて、「赤い旅団」と 呼ばれる極左テロ組織によるテロ事件が頻発するよ うになり、一九七八年にはキリスト教民主党の党首 アルドーモーロ元首相が誘拐され殺害されました。 この時代のことを「鉛の時代」と呼んでいます。  ニー世紀に入ってからも、世界のどこかで紛争や 戦争が続き、貧富の差は拡大し、アフリカからヨー ロッパを目指す移民や難民の姿はあとを絶ちません。 環境問題は切羽詰まり、コロナウィルスによるパン デミックも発生し、イタリアはロックダウンという 未曾有の経験もしました。  これからどんな世界を作って、どう生きていくか を決めるのは私たち一人一人の意思にかかっていま す。  二〇二二年九月のイタリア総選挙ではネオフアシ スト「イタリアの同胞」が第一党となりました。古 代からあらゆる政治形態が生まれては消えていった イタリアはどこへ行くのでしょう。長い歴史を見つ めてきた永遠の都は、懲りない人間たちを笑ってい ることでしょう。 おわりに       子どもの頃から本を読むのが好き      でした。ジャンルは問わず何でも読      みましたが、トロイアやミケーネを      発掘したシュリーマンやクレタ島の クノッソス宮殿を発掘したエヴアン スの物語を読んでからは、西洋文明 に憧れ、ギリシア神話の遠い世界に 想いを馳せるようになりました。中 学生になるとレオナルドーダーヴィ ンチの画集で西洋絵画に出会い、大 学では西洋美術史を学びました。  イタリア美術は私の専門ではあり ませんでしたが、ローマで出会った バロック芸術に衝撃を受けて以来、 イタリア語とイタリア美術史を学び、 この地に暮らして早くも三九年目に 入りました。  古代、中世、ルネサンス、バロッ ク、近代の建造物や芸術品が共存し、 過去が現在につながって生き続ける ローマは、世界のどこにもない類ま れな美を織りなしています。尽きな い魅力を放つローマ三〇〇〇年の歴 史を、立命館アジア太平洋大学(A PU)学長の出口治明さんとともに 語ることができて、本当に幸せです。  本書は、出口治明さんと世界文化 社の中野俊一さんと私の三人四脚で 出来上がったものです。お二人に出 会わなければ、この本は生まれませ んでした。また、中野さんと出会う きっかけを作って下さった東京藝術 大学教授の佐藤直樹先生、都市ロー マの人口について的確な書物をご紹 介して下さった成城大学名誉教授の 石鍋真澄先生、そして、カラヴアツ ジョに関していつも親身なご意見を 下さる神戸大学教授の宮下規久朗先 生、恩師である成城大学名誉教授の 手足伸行先生、六人の皆さまに心か らの感謝を申し上げます。  この本を通して、私の暮らす「永 遠の都ローマ」の魅力を少しでも多 くの方々にお伝えできるなら、これ ほど嬉しいことはありません。      ローマにて 上野真弓