教養としての金融危機_宮崎成人 まえがき 国際金融危機には「人間ドラマ」がある  囗本には歴史の好きな方が数多くいます。しかし、 「国際金融危機の歴史が好き」という方は少ないで しょう。それはとても残念なことです。なぜなら、 過去100年間に世界経済の運命を変えかねなかっ た(あるいは木当に変えてしまった)危機を見ていく と、そこには「人間ドラマ」があるからです。  国際金融危機は人知を超えた出来事ではありませ ん。多くの人間が感じる欲求や、良かれと思って下 した判断の予期せぬ結果が積み重なったときに、思 わぬ形で立ち上がってきます。過去の危機のエピ ソードには、経済的な苦境に陥ってしまった方々の 苦しみがある反面、危機の解決に粉骨砕身した人々 の叡智と勇気も見て取れます。それらの人々の結集 体である国と国の協力やライバル関係も重要な要素 です。残念ながら、すべての危機が思い通りの形で 解決されたわけではありませんし、未来の危機をす べて未然に防ぐこともできません。そうした挫折も、 人間ドラマの一部だと思います。  加えて、国際金融危機の面白さ(と言ってば語弊 がありますが)は、ミステリー小説を読む楽しみに 通じると思います。危機に至る経緯は、事件現場の 状況証拠です。危機のトリガーを引くのは、いった い誰でしょうか? 為替レートか財政赤字か、イン フレか金融セクターか、不良偵権か土地バブルか、 まさに犯人搜しの趣です。もし問題があるとすれば、 犯人候補の数がそれほど多くなく、しかも毎回似た ような候補者が出てくることです。ですから、本当 のミステリーにはなり得ませんが、意外に早く犯人 が見つかるので、満足度は高いと思います。 「100年」「九つの危機」「ストーリー」  国際金融という言葉のイメージは硬いし、専門的 な用語や理論的分析等、ハードルが高いことは否定 できません。そこで本書では、過去100年間の国 際金融危機の歴史をストーリーとして描き、人きな 流れとその背景に集中できるようにしました。   なぜ「100年」なのでしょうか?  それは本書の扱うような現代の国際金融危機は、 第一次世界大戦後の状況にその起源があると筆者が 考えるからです。  19世紀後半に現代的な国民国家が成立したとして、 そうした国家が第一次世界大戦後本格的に、固定相 場制、経常収支の黒字と赤字、対外偵務の支払い不 能、緊縮政策と国民の不満、銀行の破綻と公的支援 への批判といったテーマに立ち向かいます。そして それらのテーマは、時代によって装いを変えつつも、 本質的には不変のまま、今に至るまで繰り返し登場 してきます。それが国際金融の面自いところです。  では、なぜ「九つの危機」なのでしょうか?  たしかに過去100年間には、無数の危機や混乱 がありました。当事者にとっては、筆舌に尽くしが たい苦難もあったと思います。しかし、世界史的な 大きな流れを理解する上で意味のある出来事は、や はり限られています。その影響力が特に広範囲に及 び、世界経済の行方を左右したと思われる代表的な 危機を選んだ結果、「九つの危機」と、将来を見据 えた「10番目の危機」の可能性という構成となりま した。  最後に、なぜ「ストーリー」なのでしょうか?  どんな歴史も同じだと思いますが、国際金融危機 の歴史も、細部に入り込むと迷路にはまって出てこ られません。事実関係を肯定・否定しているうちは まだよいのですが、ある事実をどう解釈するかとい うことになると、百家争鳴でとてもすべてに目配り はできません。特に経済理論が関わってくると、も うお手上げです。正直に申し上げれば、本書を執筆 するために資料を参照するたび、知らなかった話が 次々と現われてきました。それではいつまでだって も書けませんので、ストーリーを提示することで大 きな流れを共有する方針としたのです。  その結果、もしかしたら、細部どころか重要な心 柱ですら割愛しているかもしれません。その代わり 「なるほど、そういう話だったのか」という「大ま かな真実」で話を紡いでいったつもりです。もし、 本書が入り口となって、読者の皆さんをより深い迷 路に誘い込むことができたなら、大変嬉しく思いま す。ぜひ、数々の専門的名著に挑戦してみてくださ い。 国際金融の仕組み  国際金融は、国境を越えて行き来する資金の流れ によって形作られる、非常に洗練されたシステムで す。我々の日常は国際金融システムの円滑な機能に 支えられているとさえ言えるでしょう。うまく働い ているなら問題は起こらないはずですが、我々は、 ほぼ10年に一度くらいの頻度で、国際金融システム が人きな機能不全(危機)に陥ることを経験則とし て知っています。なぜ、こういうことになるので しょうか冫・  一つ具体的な事例を、極端に単純化して考えてみ ましょう。  インバウンド観光客が京都でお土産を購入すれば、 それだけ海外から囗本にお金が流入することになり ます。政府の誘致策が成功して、仮に、ものすごく 多くの観光客が囗本に押し寄せ、買い物してくれた らどうなるでしょうか?  日本国内は好景気になりそうですが、同時に海外 から膨大なお金(外貨)が流入して円に交換される ので、為替レートが円高になります。そして円高に なると、為替の安い海外に比べて相対的に日本の物 価が高くなりますから、海外からの観光客はやがて 減少するでしょう。また日本企業の輸出競争力が低 下するため、一部の企業は国内工場を閉じて海外に 生産拠点を移しますので、失業が発生します。一方、 日本への石油や食料の輸入が増えて国際価格が上昇 し、一次産品を産出しない低所得国では貧困層のた めの価格補助金が増加し財政赤字が増えるでしょう。 それ以外にも、数々の波及効果がありそうです。  つまり、表面的には問題なく動いているシステム でも、少しずつ、色々な歪みが蓄積している可能性 があるのです。  よく言われるたとえですが、箱の中に風船を入れ ようとして1ヵ所を押すと、別なところで風船が膨 らんでしまって、なかなか箱に入りません。同様に、 インバウンド観光客の増加という点で国際金融の風 船を押してみると、為替レートとか一次産品価格と か海外景気とか、様々なところで影響が出てくる (風船が膨らんでしまう)わけです。たまたま押す場 所が悪かったり、必要以上に強く押したりして歪み が累積していくと、思わぬところが暴発して風船が 割れる可能性が高まります。割れてしまった後から 見れば、「あそこの押し方が悪かった」と明自に指 摘できても、実際に押している時に経済が調子よく 回転していれば、「押すのをやめろ」と自信をもっ て断言するのは専門家といわれる人々でも難しいで しょうし、国民の支持も得難いでしょう。  国際金融の歴史は、「割れてしまった風船をどう やって修復するか、次は割れないようにどこを補強 するか」の手探りの歴史だったと言っても過言では ありません。  国際金融危機は「人間ドラマ」だと申しました。 突然襲う天災とは異なります。しかし、我々が防災 に心を配るように、国際金融危機への心の準備をし ておくのは大切なことです。まして、世界が未曽有 の新型コロナウイルスのパンデミツクに直面してい る現在、先を見据えて考えることの価値はますます 高まっています。そしてそれは、「専門家」と呼ば れる人々だけに任せておけばよいような事柄ではな く、国際金融の恩恵を受けている我々一人ひとりが、 主体的に関心を持ち続けていくべきテーマなのだと 思います。  本書が、そうした努力の一助となれば、望外の喜 びです。  最後に、本書の記述の基となったデータは、特に 断りのない限り、IMF、世界銀行、OECD、財 務省、日本銀行、セントルイス連邦準備銀行等、公 的機関のウェブサイトから取っています。米国の連 邦準備制度理事会は、囗本の慣習に従って「FR B」と略しています。また、参考文献として掲げた 本や論文以外にも、これまで筆者が読んだ無数の文 献やかわした会話等が、本書の議論に溶け込んでい ます。もちろん、それらの解釈を含め、本書の記述 に関するすべての責任は筆者のみが負うものです。 人名は敬称略とします。  序−国の黒字・赤字とはどういう意  味か?  −国際金融の仕組み 資金の流れを診断する  国際金融は国境を越える資金の流れのシステムで す。身体の血行が悪くなって、ある時点で血栓がで きて血流が止まると大事に至るように、国際的な資 金の流れが滞ったり逆流したりすると、危機の可能 性が高まります。  本書で扱うような人規模な国際金融危機は、危機 の主因から、経常収支危機、通貨危機、債務危機、 金融危機等いくつかのパターンに分類できます。そ れらに一貫するのは、国際的な資金の流れが変調す ることです。これまで「所与」としていた資金の流 れが大きく変化し、政府・企業・家計・金融機関等 の行動の前提が変わってしまうと、その変化に順応 する過程で危機となる場合があるのです。  そこで、国際金融危機を考えるには、まず、資金 の流れを観察する必要があります。もし変調が見つ かった場合、その原因を特定すれば、危機を予防で きるかもしれません。あいにく危機となった場合に は、資金の流れをどの程度回復させるべきか、とい う判断の材料を提供するでしょう。こうした観察の ためのツールが国際収支統計です。  政府でも、企業でも、家計でも、日々資金が出入 りしています。黒字と言えば「入ってくるお金が出 ていくお金より多い」ことを示します。赤字は、そ の反対です。国際収支統計は、政府から、企業、 個々人まで、日本という国家の領域内に基盤を置く すべての経済主体が、海外と取引する資金の出入り の集計です。つまり、国際収支の黒字・赤字は、日 本に入ってくる資金と出て行く資金の大小関係を見 ているわけです。  国境を越えて発生する資金の流れにはどのような ものがあるでしょうか?  まず、貿易に伴う売買代金の決済や、投資家によ る外国株式の購入等が思いつきます。さらには、留 学中の子供への送金、海外旅行先でのホテル代の支 払い等、個人レベルの場面もあれば、低所得国への 開発援助供与等の国家レベルの案件もあるでしょう。  国際収支統計は、毎日、様々な理由で様々な主体 が行う無数の資金移動を集計し、国際的に統一され た基準でその全体像を示している定点観測です。ひ とつひとつの資金移動が集まり、環境の変化に応じ てその全体像を変化させていきます。長期間かけて 動くトレントや、急な変化等をキャッチできるのが、 定点観測のいいところです。  例えば、東日本大震災の後に貿易収支が赤字に なったと報じられました。そのままでは単なる事実 ですが、なぜ赤字になったのかを調べていくと、原 子力発電所が操業を停正したため急遽原油・天然ガ ス・石炭など火力発電のための輸入が増えたことが 要因の一つであると分かります。同様に、新型コロ ナのため海外への出稼ぎが難しくなったので労働者 送金が激減した国があるとか、政治的混乱の生じた 国から急速に資金が流出している、といった世界中 の状況を国際収支統計によってビビッドに裏付ける ことができます。  食料品の価格が高くなった、株式市場が下落して いる、インバウンド観光客が増えている、難民の ニュースをよく耳にする、等々、我々の日常を取り 巻く出来事の多くは、世界中のどこかで、国境を越 えた資金の移動の原因あるいは結果として国際収支 統計に反映されています。少し大げさですが、国際 収支統計を見れば世界が分かると言っても良いで  では、具体的に国際収支が何を教えてくれるのか 見ていきましよう。 国際収支の区分  国際収支は、国境を越えて移動する資金の種類に よって、別々に計算されていますが、その二本柱は 経常収支と金融収支です。この両者は、コインの裏 表のような関係にあります。概念的には、経常収支 が黒字の国は、その黒字相当額を海外に貸し出すの で金融収支が赤字(マイナス)になるし、経常収支 が赤字の国は資金不足を賄う額を海外から借りてく るので金融収支が黒字(プラス)になる、というこ とです。  経常収支は、資金移動の原因によって四つに細分 化されます。  (I)貿易収支  最も直感的に理解できるのが貿易収支でしょう。 貿易収支はモノ(財)の売買に伴う資金の流れを見 る統計です。例えば日本が原油を輸入して自動車を 輸出する場合、輸入代金をサウジアラビアに支払い、 輸出代金をアメリカから受け取る、といった具合で す。  (2)サービス収支  モノではなくサービスの取引の場合はサービス収 支となります。貨物や旅客の運賃、特許の使用料等 のやり取りを集計します。近年話題のインバウンド 観光ですが、日本を訪ねた外国人旅行者が日本国内 で使ったお金と、日本人旅行者が海外で使ったお金 の差を旅行収支と呼び、サービス収支の一部と位置 付けられています。  (3)第一次所得収支  これは過去の投資や貸し付けに対する利子や配当 金のやり取りです。海外の株式や偵券への投資に伴 うリターン(収益)ですが、親会社が海外子会社か らの利益を配当の形で受け取るのもここに入ります。 日本企業の海外進出が進むにつれ、第一次所得収支 の受け取りが増えています。  (4)第二次所得収支  これは対価を伴わない資金の流れを示します。典 型的には外国に対する無償援助や、海外で働く労働 者が母国に送金する場合が当たります。  モノやサービスの輸出と輸入の差が黒字か赤字か、 というのは直感的にわかりやすいと思いますが、そ れに加えて、投資収益や労働者送金の出入り等も総 計すると、経常収支になるわけです。仮に貿易収支 が黒字でも、他の収支がそれを上回る赤字であれば、 経常収支は赤字になります。つまり、経常黒字(赤 字)国が必ずしも貿易黒字(赤字)国とは限りませ ん。  経常収支に対して金融収支は、日本企業が海外に 工場を建設する直接投資、日本の居住者が海外市場 で株式を購入する証券投資や邦銀が海外に行う融資 等、投資行動の際の元本の移動を集計します。外貨 準備の増減についても金融収支に計上されます。経 常収支の過不足が、投資や融資の形で国外に出たり、 海外から流入したりするわけです。  国際収支統計には、これら以外に資本移転収支 (外国政府に対する債務免除等で、通常は少額)や誤差 脱漏(データ上の不突合等の残差)が計上されていま す。 経常収支赤字から経常収支危機へ  経常収支の黒字は海外に貸し出され、赤字は海外 からの借り入れで穴埋めされる、と述べました。こ の穴埋め(フアイナンシング)が円滑に行われないと、 問題になり得ます。資金流入が不足する場合、外貨 準備からの流出で経常収支赤字をカバーしたり、為 替レートが変動して両者のバランスを取ったりしな いといけません。  それでは、国の経常収支が赤字になるのはやはり 望ましくないのでしょうか? 家計の場合と同様に、 国でも黒字の計上を目指すべきでしょうか? 赤字 が長期化する場合は特に問題でしょうか?  この問いに対しては、いくつかの考え方があり得 ます。  第一の考え方は、経済の動きは市場活動を通じて 自然に均衡していくので、なるべく政府が関与せず、 何事も市場に任せることが、経済のパフォーマンス を高める道だというものです。この信念を持つ人々 の意見では、経常収支の黒字や赤字は市場に任せて おけば自然に均衡に戻るので、赤字だからといって 特に気にする必要はなくなります。こうした考えは、 1980〜1990年代以降、米国を中心に大きな 影響力を持っています。  しかし、現実には長期間にわたって経常収支の赤 字や黒字が継続することが明らかになってくると、 これらの人々は、不均衡がそのように長期間継続す るのは、市場の力が働くのを妨げている政策要因が あるからだと考えました。例えば、本来黒字国の通 貨は自然に強くなるはずなのに、黒字国は人為的に 為替レートを安く維持する操作をしているのではな いか、黒字国は輸入品に不利な国内規制等を使って 不公正な貿易を行っているのではないか、といった 批判です。つまり、経常赤字それ自体は一時的な現 象に過ぎないが、長期化するのは相手国政府が「悪 い」政策を採っているからだ、ということになり、 そこに政府間の対立が生まれてきます。米国が 1980年代前半に日本を、2000年代以降中国 を主なターゲットにこうした批判を展開し、摩擦が 頻発しました。  第二の考え方は、長期的に経常収支の不均衡が継 続しても、それ自体が不適切ということはなく、そ の国のマクロ経済政策、経済や産業の構造、あるい は人口構成の変化等を反映しているに過ぎない、と いうものです。例えば、発展途上国は、国内での富 の蓄積が十分に進んでおらず、経済発展のための投 資に向ける資金が不足しています(貯蓄不足)。その ため、海外から産業機械やソフトウェアを輸入する 間は経常赤字が継続し、それを埋めるために海外か ら資金を借り入れることは、むしろ当然のことです。 他方で、成熟した経常黒字国(貯蓄過剰)は、黒字 で得た資金を海外に投資して国内よりも高い収益を 得ており、将来必要に応じて、海外資産を切り売り して生活水準を維持する準備をしているということ ができます。19世紀の英国や、現在の日本に当ては まるでしよう。  とはいえ、経常収支の赤字や黒字が過度に大きい 場合は、国内の貯蓄と投資のバランスが適切でない ことを示しているので、バランスを変化させるよう な政策を意図的に実行するべきだ、との主張も行わ れます。1980年代後半の日本やドイツに対する 米国の批判は、経常黒字を生み出している国内の構 造自体にも向けられました。しかし、経済・社会構 造に絶対的に正しい基準があるわけではないので、 こうした議論は政府間の対立につながってしまいま した。  第三の考え方は、もっと現実的なアプローチです。 経常収支赤字は、その同額の資金流入でファイナン ス(穴埋め)されますので、海外投資家が喜んで資 金を貸してくれるうちは赤字であっても特に問題は ないが、資金流入が細まってきたら問題だ、という ものです。  投資家としては、貸し付けたお金がリターンとと もに戻ってくることが肝心なので、返済可能性に疑 問符がつくほど借金が累積した(経常赤字を出し続け た)国や、借りた資金で成長・発展への道筋をつけ られない(GDPが伸びないので経常赤字/GDP比が 上昇する)国への投資に、だんだん二の足を踏むよ うになるでしょう。借入国(赤字国)は、投資家へ の魅力を高めるために金利を引き上げたり、投資優 遇措置を採ったりするかもしれませんが、どこかの 時点でファイナンスに困難をきたすことになりそう です。つまり、投資家の信頼感(信認)が失われる ような規模や期間の経常赤字は、その国のためにな らないという意味で「悪い」赤字と言えるでしょう。 従って、そうなる前に経常赤字を縮小するための政 策努力が必要となりますが、その努力が遅れたり不 十分だったりした場合、ファイナンスが滞り、赤字 国はいわゆる「経常収支危機」に陥ります。  「調整」とは何か  経常収支危機は、赤字がファイナンスできないこ とによって起こります。世界中のどこかの国で、毎 年このような危機が何件か起こっています。その国 の国民にとっては大問題ですが、ほとんどの場合、 国際金融システム全体を揺るがすような(すなわち、 本書で扱うような)大きな危機にはなりませんので、 個別ヶIスごとに国際機関や友好国政府、関係する 民間企業・金融機関等で対応しています。  対応策としては、投資家からより多くの資金を出 してもらうか、経常赤字自体を小さくして穴埋めに 必要な資金を小さくするか、それらの組み合わせか Iこの三つです。とはいっても、無条件に追加資 金を出す投資家は、そうはいないですから、いずれ にせよ赤字額の縮小が不可欠となるでしょう。その ための政策努力を「調整」と呼びます。  経常赤字を減らすためには、例えば緊縮政策(金 利引き上げや財政支出削減)によって国内景気を減速 させて輸入を減らすことが考えられます。あるいは 規制緩和等で国内産業の投資を盛んにして競争力を 高め、輸出を増やすこともあり得ます。為替レート の変更も調整の一つです。本来、調整は危機になる 前に行われるのが望ましいですが、緊縮政策にせよ 構造改革にせよ、国内的には痛みを伴いますので、 政府はできるだけ避けようとします。が、先延ばし するほど、後になってより大きな調整を強いられる のが通例です。 米国の経常赤字  米国は長期間にわたり経常赤字を計上しており、 しかもその赤字額は世界最大です。IMFによれば 2020年の米国の経常赤字は約6200億ドルで、 世界第2位の英国の赤字額(約730億ドル)の8・ 5倍という驚くべきレベルです。なぜ米国は経常収 支危機にならないのでしょうか?  米国が危機的な状況になったことも過去になかっ たわけではありません。ただ、米国は世界最大の経 済国であり、ドルは世界経済の中心にある基軸通貨 ですから、いくら米国に経常赤字が累積しても、常 に喜んで融資や投資をする(ドル資産を購入する)海 外投資家がいます。投資家が信認を失わない以上、 借り入れにより円滑に赤字をファイナンスできるの で、調整の努力を迫られることがほとんどない、と いうわけです。  なお、米国は近年、貿易赤字を縮小する目的で、 一方的に中国からの輸入品への関税を引き上げまし た。この一方的措置はすでに世界貿易機関(WT O)のパネルによってWTOルール違反と判定され ていますが、それはともかく、そもそも中国からの 輸入品に高関税をかけることは貿易赤字の縮小に効 果があるのでしょうか? 仮に高関税の対象となる 輸入品が米国内で製造できなければ、輸入元が中国 から例えばベトナム等へ移るだけですので、米国の 貿易赤字の全体額は変化しません。また、もし中国 が当面唯一の供給元であれば、単純に輸入品の価格 が上昇して国民に負担を負わせる結果となります。 本当に対中国の貿易赤字を減らしたいのであれば、 対象となる製品を国内で生産できるように企業に対 して優遇措置を与えるとか、その製品への国内需要 を減らす政策を採る、といった措置が必要になりま すが、そこまでやる気がないのであれば、貿易赤字 にはほとんど影響しない政治的なポーズにすぎない と言えます。  国際収支の仕組みを確認しましたので、いよいよ 100年間の国際金融危機の歴史を眺めていきま   コラム 日本はこれからも経常収支黒字です か?  日本は過去何十年も経常収支黒字国です。 貿易立国といったスローガンもありましたの で、ずっと貿易黒字を出し続けていると思っ てしまいそうですが、現実は異なります。た しかにかつては財(モノ)の貿易が黒字を稼 ぎ出していましたし、それが日米貿易摩擦の 原因となっていました。しかし、現地生産が 進んだことや、日本企業がいくつかの分野で 競争力を失ったこと等もあって、貿易黒字は 徐々に縮小し、2011年の東日本大震災以 降、貿易収支は赤字ないし無視できる程度の 黒字しかありません。  他方、日本が過去の貿易黒字を積み上げた 巨額の対外資産からのリターン(第一次所得 収支)は、着実に増えており、現在は海外子 会社からの配当が第一次所得収支の半分を占 めます。つまり、日本はモノを売って稼ぐ国 から、投資収益で稼ぐ国に変わったのです。 トランプ政権の際に、米国が日本の経常黒字 を問題視し「もっと輸入を増やせ」と言った ことがありますが、日本側は困惑して、日本 の経常黒字は、米国で工場を作って雇用を増 やした結果である、というような反論をした はずです。  日本は今後も経常収支黒字国であり続ける のでしょうか? それは、貿易赤字がどのく らい増加するかによるでしょう。例えば、地 球温暖化対策の国際公約の下で、再生エネル ギーの国内生産が思うように伸びず、海外か ら高額のエネルギー輸入を強いられたような 場合、投資収益を上回る貿易赤字が継続する 可能性があります。経常赤字が長期化すると、 いずれかの時点で調整(引締め)政策を採ら ざるを得なくなると考えておくべきです。  第1の危機 なぜ史上最悪の危機は  起きたのか?  −金本位制、大恐慌、ドイツを巡る資金の  流れ 放置されて失敗に終わった危機  ちょうど100年前の1920年代は、第一次世 界大戦の余波で欧州諸国が苦しむ中、米国が繁栄を 享受して株式バブルヘと突き進んだ時代でした。そ してバブルが崩壊した後の1930年代は、大恐慌 と戦争に象徴される、世界史上最悪の悲劇的な時代 となりました。後世から振り返ってみると、大小 様々な困難は一つの大きな危機を形作るパーツであ り、危機はどんどん拡大して、経済・金融から政 治・軍事に至る複合危機となって、ついに世界は第 二次世界大戦へと突入します。その意味で、第一の 危機は、放置されて失敗に終わった危機でした。第 二次世界人戦後、現在に至るまで、このような失敗 を繰り返さないことが、国際社会の共通認識となっ ています。  国際金融の観点から見ると、危機の原因は、大き く以下の三つにまとめられます。  (I)国際金融システムを支える制度が硬直的だっ    た (2)米国から欧州に向かう資金の流れが逆流した (3)各国が自国第一主義に立って、国際的リー    ダーが不在だった 「金本位制」とは何だったのか  まず、当時の国際金融制度の基盤であった金本位 制の仕組みを見ていきましよう。  19世紀の金本位制は、金貨を発行・流通させる代 わりに紙幣(兌換紙幣と呼ばれます)を発行し、その 紙幣と金との交換を約束するものです。紙幣を保有 するすべての人が金との交換を求めるわけではない ので、紙幣の発行量は必ずしも金の保有量と完全に 一致しなくてもよいのですが、例えば米国では発行 紙幣量の最低40%をカバーする量の金の保有が法律 で義務付けられていました(士。従って、個々の 国の通貨発行量は金の保有量の増減に影響され、究 極的には、世界中の金の産出量の増加と、世界全体 の通貨発行量の増加が連動することになります。金 本位制下では通貨発行量が無規律に拡大することは ないので、ハイパーインフレーション等は起こりに くい反面、成長の可能性がある分野に十分な通貨が 供給されるとは隕らないため、成長力が抑制される 側面があります。  金本位制を採る国の間では、金を媒介にして為替 レートが固定されています。例えば、Iポンドは純 金113グレーン(Iグレーン‥1/480トロイオ ンス‥約64・8ミリグラム)、Iドルは23・22グ レーンと定義されていたので、為替レートはIポン ド=4・86ドルとなります。事実上、金本位制は 主要国間に単一通貨があるのと同じため、基本的に 為替リスクは極小化され、国境を越えた貿易や投資 が促進されました。実際、第一次世界大戦前夜の 1914年時点で、貿易が世界経済全体に占める割 合はM]%であり、ブロック経済化が進んだ第二次世 界大戦前夜(1938年)の9%に比べると、いか に国同士の相互依存が進んでいたか分かります。も ちろん、そのように相互依存の進んだ国家間でも戦 争が起こったことも事実です。  金本位制の理論では貿易収支の不均衡は自動的に 調整されると考えられました(2)。むしろ、赤字 国における恐慌や倒産・失業、それによる労働者の 惨状は、輸出競争力を回復するために必要かつ望ま しいプロセスである、というのがその時代の常識で あったと言えます。英国では1918年の改革まで 男性の一部とすべての女性に選挙権がありませんで したので、弱い立場の人々の声が政治に十分反映さ れなかったことも、こうした非人間的なプロセスが 維持される一因となったのかもしれません。 停止した金本位制の「戻り方」  金は、国家にとって最後の決済手段ですから、危 機時に軽々と手放すわけにはいきません。第一次世 界大戦勃発とともに、各国が金の流出を禁止し、金 本位制を停止しだのは当然です。では、「総力戦」 を経て国民全体の国家への貢献を重視する風潮と なった戦後に、硬直的で非人間的な金本位制ではな く、新しいシステムを作っていこうという気運は盛 り上がったのでしょうか?  残念ながら、そうではありませんでした。終戦と ともに、各国は金本位制への復帰を考え始めます。 当時の感覚では、金本位制が常態であって、戦時に 一時的に停止しだのだから、終戦後はまた常態に戻 るのが当たり前ということだったのだと思います。 しかし、多くの国では戦争中にインフレが進んでお り、通貨の実質的価値は戦前から相当目減りしてい ますから、問題は戻り方です。  英国を例にとると、当時の正統派の議論は、英国 の威信にかけて旧平価(以前の金価格。実質的には、 ポンドの為替レートを示す)で金本位制に復帰すべき であり、そのためにインフレ退治が不可欠だから、 健全な金融政策(引き締め)を採って国内不況を甘 受し物価を引き下げるべきだ、というものでした。 ボールドウィン内閣の蔵相チャーチルが、この政策 を推進しました。インフレで地代収入や投資収益が 実質的に目減りした貴族・富裕階級の利益を図る意 図もあったのかもしれません。  一方、新進気鋭の経済学者ケインズは、現状の実 力相応にポンドを切り下げ、戦前よりもポンド安の 形で金本位制に復帰すべきだと主張します。特に米 ドルとの関係を見ると、米国のインフレ率の方が英 国よりも低かった(すなわち、ポンドの実質的価値が 対ドルで目減りしていた)ので、ケインズは、10%程 度低い金価格(すなわちポンドの10%切り下げ)で金 本位制に復帰すべきだと論じました。正統派の主張 するような金融引き締め政策で一般的物価水準を10 %程度引き下げるとすると、それは失業の増加をも たらすので社会正義に反する、とも主張しました。 英国の「離脱」  ケインズの反対にもかかわらず、1925年に英 国は旧平価で金本位制に復帰し、案の定ポンド高か らくる競争力の低下と為替レート維持のための高金 利に苦しむことになります。各国でも、金本位制復 帰後は固定為替レートの維持が金融政策の大目標と なりますので、国内経済の動向にかかわらず、厳し い引き締めが行われることも珍しくありませんでし た。  大恐慌の影響で失業率が15%程度まで上昇し、欧 州大陸の銀行危機によって金が流出した1931年、 英国はついに金本位制を離脱します。同様に、米国 はルーズベルト大統領就任直後の1933年3月に 金本位制を停止し、1928年に戦前よリフラン安 のレートで金本位制に復帰したフランスも1936 年には離脱しました。なお、日本は1930年に旧 平価で金本位制に復帰(いわゆる金解禁)しました が、大恐慌の嵐の中で窓を開けたようなものであり、 翌1931年に金本位制を再停止しました。各国で は金本位制からの離脱に応じて、ようやくデフレー ションが終息し、物価が上昇していきます。  金本位制は硬直的な制度ですから、平時における 安定的な経済環境には適しているかもしれませんが、 ショックに対して柔軟に対応することはできません でした。戦後復興や、大きなバブルとその崩壊とい う経済の激動を、金本位制という制約の中に押し込 もうとしても無理な相談でした。各国は、戦前の常 態に戻ろうとして、国民に多大の犠牲を強制したの みならず、かえって経済基盤に自らダメージを与え、 それをリカバーすべく自国の利益を優先する利己的 行動に陥って、国際金融システムの崩壊に加担して いきました。 ドイツ賠償金問題  戦争が終わると、敗戦国が戦勝国に対して賠償金 を支払うのが当時の常識でした。1904〜 1905年の日露戦争の際に、日本側が賠償金を獲 得できなかったことを知った国民が、怒って暴徒化 したことはよく知られています(日比谷焼き打ち事 件)。  第一次世界大戦がドイツの敗北で終結すると、国 境を接するフランスは、将来の脅威を低減するため にも多額の賠償金を主張し、総選挙を控えて国内の 強硬論に目配りする必要があった英国も同調します。 米国のウィルソン大統領は当初、懲罰的な賠償に反 対の立場を表明していましたが、英仏が「多額の賠 償を得ないと米国から借りている戦時偵務の返済が できない」と主張したため、英仏の立場を容認して いきます。ウィルソン大統領自身が、ヴェルサイユ 講和会議期間中にいわゆるスペイン風邪に感染して、 指導力を発揮できなかった事情もあるのかもしれま せん。結局1921年に、ドイツが1320億金マ ルク(3)を37年間分割して外貨で支払うことで決 着しました。  これに対し、英国代表団の一員で英大蔵省の若き 職員であったケインズは、怒りのあまり講和会議の 途中で帰国して、著書(邦訳『平和の経済的帰結』) で賠償金問題を激しく批判します。ケインズの主張 は、ドイツが外貨で賠償金を支払うためには十分な 貿易黒字を確保して海外から外貨を獲得する必要が あるが、すでに賠償の物納によって炭鉱をフランス に割譲し、商船や工場・鉄道施設等も戦勝国側に引 き渡している以上、工業製品を輸出して黒字を獲得 する能力はドイツに残っていない、という現実的な ものでした。しかも工業製品の輸出は、英国の製品 と直接競合しますので、ドイツが大きな貿易黒字を 出すことは、英国が輸出市場で敗れることを意味し ています。もし輸出拡大に限界があるなら、輸入を 減らせばいいと考えるかもしれません。しかし、戦 前には貿易赤字国であったドイツが、輸入を削って 黒字を絞り出すために国内経済を引き締めても、相 当な食糧難と社会不安をもたらすだけです。従って、 物納分を含め100億ドルを上限に賠償金を大幅に 減額する必要があり、賠償金減額の障害となってい る戦勝国間の戦時偵務を帳消しにする一方、ドイツ に対して当面の経済復興のため借款(ローン)を供 与すべきだ、と主張しました。  戦時債務のキャンセルで損をするのは誰でしょう か? もちろん、連合国に戦費を貸し付けて最大の 偵権国となっていた米国です。当然、米国は一貫し て戦時偵務のキャンセルに強く反対し続けます。英 国も偵権国ですが、ケインズは、どうせロシアに対 する偵権は回収の見込みがないのだから、思い切っ てすべての債権をキャンセルすべきと述べます。米 国に対する英国の債務もキャンセルになれば、差し 引きでそれほど大きな負担にならないと考えたのか もしれません。 ドイツを襲った「悪夢」  いずれにせよ、ケインズの著書は大ベストセラー となり、彼は多額の印税収入を得ます。ケインズは 金持ちになりましたが、その素材を提供したドイツ は悲惨な状況となりました。ケインズの予想通り賠 償金支払いが困難となったドイツは、1922年に 支払いの一次猶予を求めますが、新たに成立したフ ランスのポアンカレ政権は強硬な立場をとってベル ギーと協調し、ついに1923年から工業地帯ルー ル地方を占領するに至ります。これに対しドイツ国 内では強い反発が起こり、ルール地方ではゼネスト が起こります。中央銀行のライヒスバンクは労働者 への支払いを行うために紙幣の増刷に踏み切り、イ ンフレのタガが外れてしまいました。1923年春 頃からインフレは激しく上昇していき、ピークの10 月には1ヵ月の物価上昇率が3万%に達しました。 商品の価格は一日の間にどんどん上昇し、喫茶店で 1杯5000マルクのコーヒーをお代わりしたら2 杯目の値段は8000マルクだったという話が残っ ています。パンの値段は10ヵ月ほどの間に8億倍と なり、買い物に行く際はカゴいっぱいの紙幣を運び、 燃料の代わりに紙幣を燃やした方が安いという状況 でした。マルクは通貨としての価値を失い、 1922年初にIドル=160マルクだった為替 レートは、1923年H月にIドル=4・2兆マル クとなりました。  貯蓄や年金は無価値となり、偵権者は大損します。 この悪夢に、国民は連合国への怨みを強め、極右が 勢力を拡大しました。バイエルン州の地方政党だっ たナチスは、ヒトラーの指導の下1923年H月に ミュンヘンでクーデターを起こして失敗しますが、 全国で知名度を高め、後の躍進の契機となります。 借金に頼る脆弱な体質に  さすがに戦勝国側も現実的になり、1924年の いわゆる「ドーズ案(4)」によリドイツに課せら れた賠償金が減額されるとともに、ドイツに対して 借款が供与されました。それにより、(I)米国か らドイツへの貸し出し、(2)ドイツから英仏への 賠償金支払い、(3)英仏から米国への戦時債務の 返済、という資金の流れが確立されました。新通貨 の導入でドイツのハイパーインフレーションは急速 に終息していき、経済活動も再開しました。もっと も、借り入れが容易となったドイツは、借金に頼る 脆弱な体質になっていきました。1925〜 1930年に借り入れたおよそ280億マルクのう ち約半分が3年未満の短期債務であり、そのうち 100億マルクほどしか賠償支払いに回らなかった と試算されています。その意味するところは、賠償 支払いの有無にかかわらず、ドイツは短期の対外借 り入れに過度に依存するようになったということで あり、資金流入が減少するようなことがあれば、債 務返済はもちろん、経済活動自体が回らなくなるリ スクが高かったということです。  多額の賠償金によって、戦勝国は国際的な資金の 流れを再構築することを目指しましたが、その過程 でドイツ経済は崩壊し、米国からの借款や投資資金 によってようやく資金の流れを確立しても、流れが 止まるや否や経済は再度混乱します。ドイツでは国 民の不満は極右やナチスの人気につながってしまい ました。 資金の流れの中断  米国↓ドイツ↓英仏↓米国という資金の流れに基 づいた、世界経済の一時の安定は長続きしませんで した。米国の投資家が、ドイツに投資する以上に有 利な投資対象を見つけたからです。  ニューヨーク株式市場は、1927年に38%上昇 した後、1928年には44%上昇します。1928 年の上昇は配当の増配と乖離しており、バブルの域 に達したと言って良いでしょう。市場の行き過ぎを 恐れて1928年初めからニューヨーク連銀は金利 を引き上げており、米国の投資家は、株式であれ金 融商品であれ、国内に資金を向け始めます。その結 果、米国から海外への資金流出が1928年第2四 半期の5億3千万ドルから第3四半期の1億2千万 ドルヘと激減しました。ドイツヘの貸し付けは、第 2四半期の1億5千万ドル以上から第3四半期には ほぼゼロになったと言われます。こうして、海外か らの資金流入に依存していた欧州経済(特にドイツ) への米国からの資金が突然干上がります(サドンス トップ)。 最大の銀行に始まる金融危機  オーストリアでは大きな企業グループに属する銀 行が金融セクターを牛耳っていましたが、1929 年に政府の肝入りでそのいくつかが、最大の銀行で あった「クレジットアンジュタルト」に救済合併さ れました。同行は、資金調達の35〜40%を海外から の資金流入に頼っていたため、1928年以降の資 金流入の減少と、人恐慌による企業グループの業績 悪化から損失が拡大し、ついに1931年5月に破 綻します。オーストリア政府は同行の債務を保証す ると宣言しますが、当時のオーストリア政府の歳出 額が約18億シリングであるのに、同行の負債は12億 シリングに上ったと言われますので、保証の実行可 能性はほとんど絵に描いた餅に過ぎず、単に政府の 財政と銀行の命運を一蓮托生に結び付けたのみでし た。  政府の支援能力に懐疑的な預金者は、預金を引き 出して金に交換したため、金準備が減少し、10月に は通貨と金の交換が制限されます。また、クレジッ トアンジュタルトに債権を有する他の銀行に対して も、取り付け騒ぎ(預金の流出)が起こりました。 主要国の中央銀行はオーストリア中央銀行に資金を 融資しますが、それが枯渇した後にはフランスが追 加融資に反対する等、協調体制は脆弱でした。  金融危機は国境を越え、隣国ドイツでも国民が預 金引き出しに走り、銀行危機が発生しました。国民 は通貨(ライヒスマルク)を金に交換したので、 1931年5月末時点の金準備の半分以上が6月半 ばには失われてしまいました。ドイツ政府は、銀行 セクターを支援する財政余力を維持すべく危機の最 中に財政を引き締めますが、恐慌が悪化して失業者 が街にあふれるのみで、銀行危機は収束しません。  フーヴァー米大統領は、ドイツ↓英仏↓米国の資 金の流れを1年間停止する提案を行い各国の同意を 得ますが、本当に必要なのは現在の資金の流れを止 めることではなく、金準備を急速に失っているドイ ツに対して新規の融資を行うことでした。しかしフ ランスは融資に政治条件(5)を付けようとし、英 米は新規融資自体に賛成しません。  欧州諸国は、自国の金準備を強化するため、保有 するポンドを金に交換します。また、オーストリア やドイツヘの投資の多い英国に危機が及ぶのを懸念 して、民間投資家もポンドを敬遠したため、イング ランド銀行は金流出を避けようと金利を引き上げま すが、そうすると他国も固定相場制維持のために利 上げに追随せざるを得なくなります。その結果、金 融引き締めが連鎖し、危機の最中にデフレ圧力を高 めていく結果となりました。結局英国は9月に金本 位制を停止し、その後のポンド暴落を放置します。 問題未解決のまま第二次世界大戦へ  米国からの資金流入が激減し、銀行危機の波及で 金が流出した結果、ドイツはいわゆる「ヤング 案(6)」(1929年)で確定していた賠償金の支払 いを停正します。戦勝国側は、1932年にドイツ の賠償責任をキャンセルし、各国はドイツからあと I回だけの支払いを受けることで一応合意します (ローザンヌ協定)。米国↓ドイツ↓英仏↓米国とい う流れの最初の矢印が消えてしまったので、その次 である第二の矢印が消えるのもやむを得ない、と受 け入れたわけです。しかし米国は、ドイツの賠償支 払いがなくなっても英仏から米国への戦時債務返済 のキャンセルは認めないとしました。前の矢印が全 部消えても、最後の英仏↓米国の矢印だけは維持し ろ、と主張したことになります。英仏にしてみれば、 「どこから資金を持ってくればいいのか?」という 話ですから、当然納得するわけにはいきません。そ の間ドイツでは1933年にヒトラー政権が成立し て、以後の対外支払いを拒否しますので、結局ドイ ツの賠償金問題と米国の戦時偵権の問題はうやむや なまま第二次世界大戦に突入することになりまし た(7)。  1920年代後半の資金の流れは、米国↓ドイツ の借款(貸し付け)を起点としていましたが、それ が途絶えた段階でドイツが資金繰り(ファイナンシ ング)の危機に陥るのは不可避でした。そして、そ れは、英仏の資金繰りの危機へと連鎖していきます。 そもそも、気まぐれな民間投資家からの投資資金に 頼った国際金融秩序は、サドンストップに対して脆 弱で、潜在的に大きなリスクを抱えていたのです。 ブロック経済化  危機の際には、政府は自国優先の政策を採りがち です。それはある程度やむを得ないものの、各国が 揃って自国第∇王義に走ると、世界経済は全体とし て停滞していきます。  大恐慌の影響で国際貿易は激減しましたが、それ に加えて、英米等は意図的に域外からの輸入を減ら そうとしました。米国はスムートーホーリー法 (1930年)で関税を引き上げましたし、英国は 1932年のオタワ会議で英連邦の内部に特恵関税 を設けることとしました。なるべく外国にはお金を 渡さずに、必要なものは自国や関係国で作るブロッ クの中で自給自足していこうという考えです。フラ ンスも貿易赤字を避けるために、多くの商品を輸入 禁止としました。一方、金本位制を停止して固定相 場制から脱した国々は、競争的に為替レートを引き 下げ、あるいは下落を放置していきます。それによ り他国に比べて低価格での輸出を目指したもので、 こうした為替引き下げ競争は一般的に「近隣窮乏化 政策」と呼ばれます。  1931年のドイツやオーストリアヘの融資が失 敗したことや、1933年の世界経済会議開催中に ルーズベルト米大統領が為替安定への協力を拒否し たことに典型的に現われているように、経済恐慌や 金融危機の渦中に、国際金融システムを円滑に機能 させるためのリーダーが不在であったことが、危機 にブレーキを掛けられなかった大きな理由です。 危機の残したもの  1929年の株式市場暴落だけでなく、その前後 20年ほどに世界中で頻発した危機を、全体として国 際金融史上最悪の危機と呼ぶことへの異論はないと 思います。戦同期の出来事のすべてが国際金融上の 問題から発生したわけではありませんが、大小様々 な問題が国際金融システムの機能不全によって増幅 されてしまったことで、壊滅的な戦争に向かう不可 逆的な流れが強まっていったと言えます。国際金融 システムの機能を取り戻すために、二度目の世界大 戦を経なければならなかったとは、悲劇以外の何物 でもありません。  国際的な資金の流れが途絶する中、厳格な固定相 場を維持し、かつ戦時偵務や賠償金支払いのために デフレ政策(調整)を遂行する欧州と、巨額の貿易 黒字を背景として国際的な資金の出し手の地位につ きながら、株式バブル崩壊後は国際協調に背を向け た米国の双方が、この危機の責めを負うべきでしょ う。危機が最も先鋭化したドイツでは、わずか10年 の間にハイパーインフレーション、デフレ政策、脆 弱な短期借入依存、銀行危機、そして恐慌下の大量 失業を経験した結果、既存の政治家が信頼を失い、 国民は1932年7月の選挙でナチスを第一党にし てしまいました。その破滅的な結末は、言及するま でもありません。  戦闘期の国際金融危機は、その後の危機の重要な 論点を先取りしています。  (I)固定相場制(金本位制もその一種)の硬直性と 脆弱性が明らかになりました。固定相場制は、変動 相場制と異なり、各国の経済パフォーマンス(イン フレ、貿易収支、資金の流出入)の違いをタイムリー に為替レートに反映できません。ショックが起こっ た際に、外貨準備(金や有力国の通貨)の流出を避け るため、金融を引き締めて国内経済の苦境を一層悪 化させることは、その後何度も繰り返されます。さ らに、結局為替レートの下落を容認したとしても、 外貨建て債務の実質的な負担が高まるので(自国通 貨に換算すると、債務負担が大きくなってしまう)、問 題解決とは言い切れません。  (2)サドンストップは海外からの資金を突然干上 がらせ、経済活動に打撃を与えます。特に銀行セク ターが海外からの資金流入に依存している場合には、 急速に資金繰りが悪化して金融危機となりがちです。 預金者・債権者や取引のある金融機関は、問題の銀 行のみならず、その取引先の健全性にもリスクを感 じるため、銀行危機は国内外の金融機関に波及しま す。当局による金融機関の救済は不人気となりがち ですし、救済によって国家財政への信認が低下して しまうこともあります。  (3)大恐慌の時期、多くの一次産品の価格が低下 しましたので、それらの輸出国は収入が減って借り 入れの返済に苦しむことになりました。戦後、発展 途上国の多くが一次産品の輸出を開発戦略の中心に 据えましたが、一次産品価格の下落に見舞われると 経常赤字が拡大して、やはり債務問題に苦しむこと になりました。  (4)本来健全な銀行であったとしても、預金の流 出が継続していくと、いつかは破綻してしまいます。 国内であれば中央銀行が最後の貸し手として流動性 を供給して、市場が落ち着くのを待ちますが、大恐 慌の時代には国際的にそのような行動をとる存在は ありませんでした。むしろ、ドイツやオーストリア の銀行危機の際に見られるように、国際的な最後の 貸し手の不在が大恐慌の原因だとする見方が信じら れています。第二次世界大戦後は、国際的な資金の 流れを維持する必要性が認識され、IMFを中心と する国際協調がその役割を果たすことが期待されま したが、常に満足いく結果となっているわけではあ りません。  金本位制と聞くと、文字通り前世紀の遺物という 印象があります。ごく一部の人を除いて、金本位制 を復活すべきと考えている人はいないでしょう。し かし、それは金本位制下の危機から学ぶものがない ということではありません。むしろ、現代にまで続 く為替レートの安定性と柔軟性のバランス、為替や 国際収支を優先する国内調整の在り方、銀行の資金 調達構造と健全性、サドンストップヘの対応、国際 協調の重要性等の論点は、すでに100年前から存 在していました。これらの論点への対応を誤って大 恐慌と世界大戦をもたらした反省から、戦後の国際 金融システムの試行錯誤が始まっているのです。   コラム あなたの国の経済的トラウマは何?    一人ひとりに嫌な思い出があるように、国   民全体としても二度と繰り返したくない過去 があるようです。それが共有された記憶と なって、現在に至るまで長く国民の思考の基 盤となっているのではないでしょうか。  ドイツの場合、最大の経済的トラウマは第 一次世界大戦後のハイパーインフレーション でしょう。ハイパーインフレーションの混乱 に加え、それが最終的にヒトラー政権誕生に 至る10年間の幕開けとなったという記憶が、 強烈な恐怖心となって集団心理に埋め込まれ たのかもしれません。  第二次世界大戦後、西ドイツそして統一後 のドイツの中央銀行となったブンデスバンク は、主要国の中でも最も独立性が高く、イン フレに対して極めてタカ派的な姿勢を採り続 けますが、そうしたブンデスバンクの姿勢は 国民から強く支持されていました。  ユーロ導入の際も、インフレが抑制される 保証がなければ、ドイツはユーロヘの参加を 拒否したでしょう。そのためECB(欧州中 央銀行)は、物価の安定を第一義的な政策目 標として発足し、「物価安定に反しない限り において」、完全雇用や均衡ある経済成長の 実現といったEUの経済政策目標を支援する こととしています。ただし、最近はECBに も、物価上昇を一時的に容認するようなハト 派的な姿勢が見られるようになり、ブンデス バンクとの対立が目立っています。  他方米国では、大恐慌とデフレが国民のト ラウマになっています。従って、経済成長と 雇用の確保が国民の最大の関心事です。米国 の政治家は、政策を売り込む際に「これに よって○○人の雇用を創出する」と言うこと が普通ですが、ドイツの政治家がそういう言 い方をするのを寡聞にして聞いたことがあり ません。  それを受けて、FRBの任務は「物価の安 定」と「維持可能な最大規模の雇用」の2本 立てとなっており、両者間に優劣はありませ ん。  このように、ドイツと米国では恐れるもの が微妙にすれ違います。例えば米国は、景気 停滞期にある国に対して景気刺激的な政策を 採るよう求めることが多々あります。他方ド イツでは、多少失業者が増えたとしても、社 会保障のシステムがありますし、下手に景気 刺激策を出し入れするよりは安定的に経済運 営を行うことを好むように見えます。米国と ドイツ(及び一部の欧州諸国)との議論が噛み 合わないことがあるのは、こうした歴史的要 因も寄与していると思われます。  日本はどうでしようか? 国民はどちらか といえば米国のように成長を重視するように 見えます。高度成長期やバブル期を経て、そ うした高成長の時代が本来の姿であり、不景 気は例外だから早く高成長に戻りたい、とい う感覚があるのかもしれません。また、集団  心理としてのトラウマは、円高です。現実に  は円高は国民の購買力を上昇させるので、必  ずしも悪いことばかりではないはずですが、  プラザ合意以後の円高不況で多くの企業が苦  しんだこともあり、現在でも円高進行には本  能的恐怖感があるようです。 (I)1910年時点での実際のカバー率は、英国44%、    ドイツ47%、フランス71%、ベルギー38%、オラ    ンダ54%、スイス68%、ロシア78%、オーストリ    ア=ハンガリー71%等(Arthur Bloomfield「    亅く【onetary Policy Under the Inteヨational Gold    Stands乱二880-1914")° (2)赤字国が輸入決済のために保有する金を用いると    金が流出し、国内の通貨流通量が連動して減少す    るので、赤字国の国内がデフレとなって物価や賃    金が下がるため、結果として輸出品が安くなって    輸出が増えていくだろうという理屈です。 (3)1320億金マルクは、当時の為替レートで    330億ドルにあたり、その後の米国のインフレ    率をもとに計算すると、現在の価値で約5000    億ドルとなります。なお、主要国の経済規模を長    期にわたり推計しているマディソンプロジェクト    によれば、1919年当時のドイツのGDPは現    在の約3000億ドル程度と試算されますので、    賠償金額はGDPの約1・67倍となります    芬【addison Historical Statistics】0 (4)米国の銀行家チャールズードーズを委員長とする    国際委員会が提案した、ドイツの賠償金負担軽減    案。 (5)ドイツとオーストリアが関税同盟を作る提案の撤    同や、巡洋艦建造の中止等の条件を付けたフラン    スに対し、ドイツはそれを拒否します。 (6)米国の財界人オーウェンーヤングを委員長とする    国際委員会による提案で、ドイツの賠償金負担を    軽減し、その残高を確定しました。 (7)東西ドイツの統一を受け、ドイツ政府は賠償金関    係の対外債務を2010年に完済しました。  第2の危機 なぜブレトンウッズ体  制は崩壊したのか?  −固定相場制、ドルの垂れ流し、ニクソン  ショック 新しい国際金融システムをつくる  国際金融システムの機能不全が大恐慌と第二次世 界大戦につながったとの反省に立ち、新しい国際金 融システムについての議論が、すでに戦争中から、 連合国側の中心をなす英米で開始されました。ただ し、英国と米国の間には、それぞれの置かれた状況 に従い、大きな意見の相違がありました。  概ね米国の主張に沿って構築されたブレトンウッ ズ体制は、戦後復興、旧植民地の独立、日本をはじ めとするいくつかの国の高度成長、といった世界経 済の激動を支えました。他方で、(I)英国の破産 の回避、(2)各国が貿易決済に用いるドルの不足、 (3)ドルが過剰に供給されたことによる信認の低 下、という三つの課題に次々に直面しました。世界 の金融・経済秩序の比類なき存在となった米国は、 (I)の課題に対しては一定の支援を行い、(2)の 課題に対してはリーダーシップを発揮して対応しま したが、(3)の課題はほぼ放置します。米国白身 の政治的優先順位が優先されたからです。(3)の 課題は危機へと転化し、結果的にブレトンウッズ体 制は、体制の生みの親である米国白身の手によって、 1971年8月に一方的に葬られました(ニクソン ショック)。米国以外には、体制に内在する矛盾を 体制の破壊によって「解決」する自由を持った国は ありませんでした。  ブレトンウッズ体制崩壊に至る危機は、(I)固 定相場制という硬直的な制度の下で金融自由化を行 うリスク、(2)基軸通貨の役割を一国の通貨が担 うのは適切か、(3)経常赤字国と黒字国のどちら が不均衡調整の責任を負うか、といった、その後に も継続的に議論される問題を未解決のまま残してし まいました。また、国際金融システムにおける絶大 な地位を享受していた米国は、その後、一方的な行 動への衝動を抑えて、徐々に国際協調的な行動を採 る場面が見られました。 英米の対立  まず、ブレトンウッズ会議の背景である英米の対 立について見ていきましよう。  現在、英米間の関係は、両国のリーダーやマスコ ミによって「特別な関係(スベシヤルリレーション シップ)」と呼ばれています。言語や文化の類似性 に加え、経済や軍事面でも緊密な関係を築いていま すし、政治的にも国際会議等では、往々にして席が 隣であるのをよいことに、こそこそ相談して互いの 主張を支持し合ったりします(8)。EUから離脱 した英国が、今後ますます米国に接近しようとする のは想像に難くありません。そうした現在では想像 しにくいのですが、第二次世界大戦当時、英米の主 張はよく衝突していました。いったい、なぜでしょ うか?  まず歴史的経緯が指摘できます。もともと英国の 王権や宗教からの解放を求めて新大陸に移住し、独 立を勝ち取った意識のある米国人にとって、英国に 対する思いが複雑なのは当然です。イデオロギー的 にも、そもそも反植民地主義・反帝国主義を標榜す る米国と、依然として世界中に植民地を持ち帝国主 義を体現する当時の英国は、水と油と言って良いで しょう。さらに言えば、米国は世界の新たなリー ダーとして勃興しているところであり、旧リーダー の英国との間で陰に陽に覇権争いをしていたのも事 実です。  しかし、第二次世界大戦末期の英米を考えると、 それぞれの置かれた経済的な事情が、意見対立の最 大の理由と思われます。  米国が理想とするのは、やがて戦勝国となるであ ろう連合国が協調を維持して、ブロック経済を終了 させ、自由貿易に基づき、市場での競争を基本とす るシステムでした。しかし英国は、それでは困るの でした。英国は、第一次世界大戦ですでにその経済 力に大きな打撃を受けており、第二次世界大戦中は 米国からの「レンドリース」と呼ばれる借款に完全 に依存していましたし、戦後も米国からの借り入れ が生命線であり続けるのは明らかでした。さらに、 ブロック経済の仲間である英連邦諸国との取引は英 ポンドで決済されていましたが、ポンドの価値が明 らかに低下している状況でも英連邦諸国はそのポン ドを保持していました。しかし戦後になると、ポン ドからハードカレンシー(米ドル)や金への交換要 求が出ることが明らかに予想されます。戦時中に外 貨準備の枯渇した英国は、その瞬間に破産するで しょう。従って、英国としては、英連邦との間に優 先的な経済関係を維持しながら、英連邦諸国が保有 するポンドを時間をかけて処理する必要がありまし た。  換言すれば、英国が目指すのは、米国の嫌う植民 地体制とブロック経済を維持して、米国の求める自 由貿易を避ける一方、ポンドが自由にドルや金貨に 交換されず、かといってポンドの持つ決済通貨の地 位は失わないまま、借款や投資を通じて戦後も米国 から継続的に資金を導入する、という状況です。米 国が「良いとこ取り」と反発したのも当然でしょう。 ブレトンウッズ会議  連合軍がノルマンディー上陸を果たした1944 年6月から1ヵ月後、米国ニューハンプシャー州の 山間のリゾート地ブレトンウッズにあるマウントワ シントンホテルで、44力国が参加して戦後の国際金 融システムの在り方を議論する国際会議が開かれま した。この豪華ホテルは、ボストンから約260キ ロ、現在は車で約3時間の距離にあります。当時は 北東部の富裕層が、汽車等を使って避暑に訪れたよ うです。今でも往時の姿を保って営業しており、客 室のドアには、ブレトンウッズ会議の際、どこの国 の代表団の誰がその部屋に宿泊したかを示すプレー トが打ち付けてあります。  会議は、英米が議論を主導しました。英国の代表 団長はジョンーメイナードーケインズ、米国代表団 は実質的にハリー・デクスター・ホワイトがリード しました。 英国案(ヶインズ案)  ケインズが考えたのは、外貨が乏しい国でも輸入 ができ、経常赤字国が金本位制下のように厳しい 「調整」を課されないシステムでした。  ケインズは、国際収支の不均衡は特別の事態では なく、各国は年によって赤字になったり黒字になっ たりするのだから、赤字が円滑にファイナンスされ るのが人事だと考えました。各国の貿易を相互に清 算する清算同盟を作り、清算の際は「バンコール」 という単位を使います。ある国が赤字になったとす ると、一定の額まで自動的にバンコールが付与され、 赤字国はそれを黒字国に支払うことで貿易を決済し ます。ちょうど銀行口座の残高不足の時に小切手が 不渡りとならないよう、銀行が一定金額まで自動的 に貸し付けを行ってくれるようなイメージです。そ のおかげで、赤字国は外貨不足であっても、国内の 失業増を甘受して輸入を制限する必要がなくなりま す。国際収支による成長制約がなくなる、というわ けです。  もし、ある国が事前に国ごとに定められた一定の 金額を越えて赤字になった場合、バンコールの超過 額に対して利子の支払いが発生し、さらに為替レー トが変更(切り下げ)されます。それでも慢性的に 赤字が続く場合、為替切り下げに加えて、バンコー ルの借り入れに対する利子が上昇し、金の売却等の 義務も発生します。そのように段階的なステップを 踏んでいるうちに、経常赤字を解消することが期待 されたのです。興味深いのは、黒字が慢性的に一定 の金額を越えた場合、その国は為替切り上げに加え て、その超過額について利払いの義務が発生すると したことです。つまり、国際収支の不均衡は、黒字 国・赤字国双方の責任であり、双方の負担で不均衡 解消を目指すべき、との考え方です。  ケインズ案は、赤字国が自動的にファイナンスを 受けられる点、厳しい国内調整をしなくて済み、外 貨を調達しなくても貿易を継続して成長を図れる点、 赤字が拡大したら容易に為替レートを変更できる点 等で赤字国に有利な内容です。当時の英国が、当面 国際収支の赤字に悩まされると見込まれていたこと を考えると、自国の利益も踏まえた提案となってい たわけです。 米国案(ホワイト案)  ホワイトは、為替の安定を通じた自由貿易の促進 を目指します。各国は安定化基金に加盟し、赤字国 は自己努力で赤字が縮小しなかった場合、基金から の融資を求めることができます。ただし、基金が融 資を行うかどうかは基金の裁量に任せられました。 融資する場合でも、金額に上限があります。国際的 な貿易の決済通貨はドルであり、為替レートの変更 は厳しく制限されます。つまり、赤字国はドルの融 資と引き換えに、失業増を伴う国内調整が期待され、 黒字国には調整の責任はありません。  言うまでもなく、ホワイト案は、当面国際収支黒 字を継続することが予想された米国の利益に沿った ものとなっていました。  当時の国力の差を反映し、最終合意はホワイト案 に近いものになりました。3週間の議論の後、国際 通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD、 いわゆる世界銀行)の創設が合意され、国際貿易機 関(ITO)創設が原則合意されます(9)。しかし ながら、参加44力国の一部であったソ連とその衛星 国の東側諸国は、結局ブレトンウッズ合意から抜け ることを選びます。 ブレトンウッズ体制の骨格  こうしてブレトンウッズ体制が開始されました。 その骨格は以下の2点です。  一つ目は、金・ドル本位制です。第二次世界大戦 終盤の各国は十分な金準備を持だなかったので、戦 後に金本位制に戻るのは現実的ではありませんでし た。そこで各国は、自国の通貨をドルと固定し(固 定相場制)、金本位制下で金との交換を保証したよ うに、自国通貨とドルとの交換を約束しました。こ れを「交換可能性」と言います。そして、世界全体 の金準備の約7割を保有していた米国は、1トロイ オンス=35ドルで金とドルの交換を約束していまし た。すなわち、各国通貨はドルを経由して金との交 換が可能であったので、「金・ドル本位制」と呼ば れます。  英国の立場から見ると、この仕組みはどう見えた でしょうか? まず、第二次世界大戦までは世界の 基軸通貨として君臨していたポンドの地位が、単な るローカル通貨になってしまったのは明自でした。 これ以降、各国が入手したいのはドルであって、ポ ンドではありません。しかも、ポンド自身は、交換 可能性を満たせません。交換可能にした瞬間に、ド ルとの交換を求める要求が殺到してしまうからです。 誇り高き大英帝国のプライドが傷ついたことは想像 に難くありません。  二つ目の骨格は、経常赤字国の調整責任です。I MFの加盟国は、経済規模等に応じて一定の数式に 基づきIMFへの出資額を割り当てられます。出資 額は「クォーク」と呼ばれ、その25%は金によって 払い込まれましたので、加盟国は経常赤字になった 際に、25%分を上限に外貨(ドル)を自由に引き出 すことができました。しかし、クォークの25%分を 上回る資金を引き出したい場合、IMFの了解を得 ることが必要となり、金額に応じて段階的に条件が 厳しくなります。また引き出した額には、利子を支 払います。  つまり、赤字国は、IMFの勧告する国内政策の 調整を行う約束と引き換えに、IMFから融資を受 け取ることになります。こうした政策条件(コン ディショナリティー)は借り入れを行う経常赤字国に しか課せられませんので、国際収支不均衡の是正は 赤字国の責任と断言されたわけです。 英国の破産をどう回避するか  第二次世界大戦終結直後、英国はほぼ破産状況で した。ポンド保有者に与える影響を考えると、戦争 直後の課題は、どうやって英国の破産を回避するか でした。  英国は、戦時中にはレンドリースという名の実物 支援で、米国から食糧、航空機、車両、船舶等を受 け取っていました。その総額は約300億ドルで、 インフレを勘案すると2018年価格で4000億 ドル以上にも達します。現在の英国に当てはめると、 GDPの約15%にも上る巨額な支援でした。  しかしこの支援は終戦とともに廃止され、それ以 降は、当然ながら物資の輸入は代金を支払って即時 に決済することになりますが、英国にはそれだけの 外貨(ドル)がありません。すでに戦時中から、 チャーチル英首相はルーズベルト米大統領にドル借 款の供与を懇願していましたが、前向きの返事は得 られず、戦後にケインズを代表とする交渉団をワシ ントンに送ったものの、英国の希望はほとんど相手 にされませんでした。米国は厳しい条件を譲らず、 結局1946年に、英国がIMF協定を批准するこ とと、1年後にポンドを外貨と自由に交換できるよ うにすることを条件に37・5億ドルの二国間ローン を供与しました。約束通りポンドは1947年7月 15囗に交換可能となりますが、瞬時にポンドを外貨 に交換する要求が殺到し、外貨が大量に流出したた め、8月20囗に「交換可能性」を再停止し、 1949年9月には為替レートの30%切り下げを余 儀なくされました。  その後、ポンドの危機は何度も繰り返されること になります。1956年のスエズ危機から1971 年のニクソンショックまでの間、英国は1956年、 10yrD7年、10yrD(X)年、10yxn)1年、10yxn)つ`年、 10y゛n)Q‐゛年、10y゛n)4年、10yxn)7年、10yxn)Oy年 と毎年のようにIMFからの融資合意を重ねていき ます。必ずしも毎回実際に資金を借り出したわけで はありませんが、経常収支赤字のファイナンスがで きなくなる事態に備えた行動です。同時に、国外へ のポンド持ち出し規制等の資本規制により資本流出 を何とか回避していましたが、それでも1967年 には14%の切り下げに追い込まれました。こうして、 英国がかつてのように世界中にプレゼンスを持つ大 国として振る舞うことは、もはや政治的にも、軍事 的にも、経済的にも不可能であることが、自囗の下 に曝されていきました。ただし、IMFがバック アップしていたのに加え、英国自身の相対的な地位 低下もあって、ポンド危機が国際金融システム全体 の危機につながることはありませんでした。  こうして、英国にとっては屈辱的なプロセスを経 て、英国はグローバル大国からローカルな中くらい の国へと縮んでいきました。米国の支援で終戦直後 の破産を免れたのは幸運でしたが、その後は長い時 間をかけて資産の切り売りを余儀なくされました。  「ドル不足」という最大の問題  戦後、西側陣営の経済体制は自由貿易を基盤とし ましたが、海外から商品を輸入するには貿易決済に 使われる米ドルが手許にないと話になりません。 いったい、ドルをどこから入手すればよいのでしよ うか?  終戦直後から1950年代は、まさにドル不足こ そが、国際金融システムの直面する最大の問題でし た。米国への輸出でドルを稼ぐと言っても、戦禍か ら復興しつつある産業が、世界最強の経済国である 米国の市場で競争するのは容易ではありません。ま して、ドルがなければ、輸出に必要な原材料や部品 の輸入すらできません。  では、引き締め政策(調整)で輸入を減らして、 黒字を絞り出すべきでしょうか? しかし終戦直後 は各国とも国内での資金需要が高まっています。イ ンフラ等の再建に加え、復員軍人への手当や、英国 のように労働党政権で社会政策を充実させた例もあ ります。とても不況と失業を国内に強制できる環境 ではありませんでした。  米国以外の国にとって、ドルが圧倒的に不足して いること、従って外貨との交換可能性を回復するの は尚早であることは明らかでした。つまり、ブレト ンウッズ体制は作ったものの、そのための要件(ド ル決済に基づく白山貿易と経常赤字国による調整責任) が欠けていたわけです(10)。実際、若干の例外は ありますが、1950年代を通じて、IMFは開店 休業状態であったと言えます。  IMFに代わって、終戦直後の国際金融システム を支えたのは「マーシャルプラン」でした。これは、 冷戦の激化を受けて、当時のマーシャル国務長官の 提唱で始まったもので、1948年から1951年 までの間に欧州の西側諸国に対し、120億ドルの 資金を供与します。その9割は返さなくていいお金 (グラント)であり、これによって欧州諸国は、国内 で調整政策を採ることなしに、輸入決済のためのド ルを手にすることができました。  1940〜1950年代の国際金融は、米国↓欧 州/アジアの資金の流れをいかに構築するかが大問 題でした。ちょうど1920〜1930年代に、米 国↓ドイツに資金が流れ始めるまで国際金融システ ムが機能しなかったのと同様です。その解決は、ブ レトンウッズ体制の外側で、米国からのグラントマ ネー支給を通じて行われました。1920〜 1930年代に民間投資家の資金に頼ってサドンス トップに陥った経験からか、今回は市場主義という イデオロギーを離れて、公的な無償資金という現実 的な解決が採られました。米国がそのコストを引き 受けたおかげで、国際的な資金の流れが循環し始め、 国際金融システムは終戦直後の不安定な時期を乗り 切ることができました。 ドル過剰  1950年代末から欧州諸国は外貨との交換可能 性を回復させていき、その結果、IMFもブレトン ウッズ会議で想定された役割を果たすようになって いきます。欧州諸国や日本は米国への輸出で経常黒 字を計上するようにもなりました。  他方で資本規制の緩和も進み、国際的な金融取引 が盛んになっていきました。米国は政策的に低金利 を続けていたので、米国の投資家は、内外の金利差 に注目して対外投資を増加させていきます。また、 米国は世界中に軍事基地を展開し、1960年代後 半にベトナム戦争への介入を深める等、軍事支出や 軍事支援の形でもドルの流出が継続しました。  一方、米国内ではジョンソン大統領の下で、公民 権運動を受けた「偉大な社会」プログラムが推進さ れて政府支出が拡大し、インフレが加速していきま す。 トリフィンパラドックス  ある商品が市場にあふれると、価格はどうなるで しょうか? 豊作の年の農作物のように、価格が下 落するのが普通です。同様に、世界中にドルが流出 してドルが過剰となると、ドルの価格が下がる、す なわちドルの為替レートがドル安方向に向かうこと になるはずです。しかし固定相場制下ですので、各 国当局がドルを購入して為替レートを守りました。  その結果、各国の外貨(ドル)準備が増強された のは良いのですが、ドル安圧力に負けてドルが切り 下げられる可能性がある状況では、各国は外貨準備 に含み損を抱えていることになります。  ドルの価値は究極的には米国当局が保有する金に よって担保されていましたが、米国の保有する金の 量は、ドルとの交換要請に応えたため、1960年 からの10年間で、約2万トンから約1万トンヘと半 減していました。金本位制下のように、ドルの流通 量が米国の保有する金の量とリンクしていれば、 1960年代を通じてドルの発行量も減少していた はずですが、ブレトンウッズ体制下では、米国政府 がドルと金の交換を約束している限り、ドルの発行 量に制約を課す必要はありません。米国政府に「規 律」をもたらす仕組みがなかったのです。ドルを受 け取った側からすると、本当に金に交換してもらえ るか、疑念が生じても不思議はありません。  このように、本来は皆が保有したいドルであって も、供給量が増えすぎるとかえってドルに対する信 認が低下してドル保有を躊躇してしまう、という矛 盾(パラドックス)を明らかにしたのが、エコノミ ストのロバートートリツインでした。 途方もない特権  とはいえ、国際金融システムは依然としてドルに 依存しています。他のすべての国の通貨はドルに よって価値を与えられます。  通常であれば、資本流出に直面する国は、為替 レート防衛のために金利引き上げ等の措置を採らざ るを得ないでしょう。しかし、米国は通常の国では ありません。米国だけは、為替への信認低下を意に 介さず、国内政治の優先順位に従った政策を採り続 け、そのまま貿易や投資の決済を自国通貨(ドル) で行うことができました。他に選択肢がない以上、 各国はドルを受け取り、ドル資産に投資します。  フランスのジスカールーデスタン蔵相(後に大統 領)は、国際的な準備通貨(ドル)の発行主体であ る米国だけが持つこの特権を「途方もない特権」と 呼んで批判しました。 慇懃なる無視  しかし、米国にその特権を手放すつもりはありま せんでした。その特権を手放したとたんに、ドルの 信認を維持するための調整政策を採らざるを得なく なりますが、国内の政治情勢のみならず、海外での 軍事的コミットメントからして、引き締めは論外で した。  そうはいっても、米国にも困ったことがあります。 それは、世界中で潤沢となったドルの保有者から、 金との交換を迫られることです。法的にはもちろん 交換に応じざるを得ません。しかし、金の保有量に は限りがあり、無限に応えられるわけではありませ ん。米国が経常黒字を増やすことでドルが国外から 還流してくればいいのですが、各国とも産業の競争 力がついてきていますので、米国からの輸出を増や すのはそう簡単ではありません。  米国はドルの流出を抑える努力を行います。欧州 に兵器等を売ったり、途上国に開発援助資金を供与 する際に物資を米国から輸入するよう求めたりして、 経常赤字の縮小を目指しました。また、金価格が上 昇(ドルの価値が下落)したらロンドン市場で主要国 が共同で金を売って、事実上ドルを買い支える仕組 み(金プールと呼ばれます)を構築したり、ケネ ディー政権の下では、資本規制(利子平衡税)も導 入しました。さらには、より直接的に、保有するド ルを金に交換するよう求めないでほしい、と個別国 への要請も行います(H)。  こうした努力もあって、米国からのドルの流出が 抑制された年もありました。しかし、米国がニクソ ン政権の下で、国内経済優先の姿勢を一層強めるに つれ、資本流出が増加しドルの信認低下が進みまし た。ドルの実質的な価値が目減りするのを放置した 米国の姿勢は、「慇懃なる無視」と呼ばれました。 貿易決済の新たな手段  1960年代末になると、ブレトンウッズ体制が そのまま存続するのは難しいことが明らかとなって いました。米国からドルが大量に流出すれば、貿易 決済も容易になり、世界経済は高成長となりますが、 ドル自体の実質的価値が目減りします。他国はドル を金に交換したいところですが、米国の金保有量は 不十分です。他方で、米国の資本流出規制等が効果 を上げて、ドルの供給が減少すると、ドルの借り入 れコスト(金利)が上昇しますし、世界経済の成長 率は低下します。問題の根源は、米国のナショナル カレンシー(ドル)が、事実上唯一の決済通貨であ り、その供給の増減と価値の上下が米国の政策に よって大きく左右されることでした。  この問題の解決策として、1969年、IMFは 新たな準備資産である「特別引出権」(SDR)を 創設します。これは一言でいえば、IMF加盟国の 特別多数決によって創出できる、ドルと同価値の資 産(ISDR‥Iドル)です。SDRはIMF加盟国 の経済規模等に応じて対価なしに配分されるので、 各国の外貨準備が配分額だけ増加したのと同じ効果 があります。ドル不足で世界経済が低成長となる見 込みがあれば、SDRを新たに創出して貿易決済を 容易にすることができます。一方、SDRは通貨で はなく、ましてドルではないため、金との交換はで きません。従って、SDRの創出がただちに米国の 保有する金への交換圧力につながるわけではありま せん。  SDRを創設したのは、国際金融システムがドル 供給の増減に依存する度合いを少しでも下げようと したからです。しかし、赤字国がすでに配分された 額以上のSDRを用いて貿易の決済をする際には、 SDRを入手するための手数料(金利)が必要です ので、ドル供給が潤沢な時にはSDRをわざわざ使 うメリットはありません。1970年前後は米国か らの資本流出が増加していましたので、SDRは創 出されてもほとんど使用されず、この後長期間にわ たって、ほとんど忘れ去られてしまいました。 ニクソンショック  米国が1969年に就任したニクソン大統領の下 で再度緩和的な政策を推進した段階で、ブレトン ウッズ体制の矛盾に改めて焦点が当たります。国際 金融システムは、潤沢なドル供給に依存する一方で 基軸通貨(ドル)の価値がいつか暴落することを受 け入れるか、ドルの供給を絞って価値を維持する代 わりに低成長を甘受するか、との岐路に立ちますが、 当時の米国政府にとって選択肢は明らかでした。  1971年8月15日、ニクソン大統領は突然、ド ルと金との交換を停止することを発表します。いわ ゆる「ニクソンショック」です。同時に、10%の輸 入課徴金、90日間の賃金と物価の凍結、減税といっ た措置を発表し、貿易赤字・インフレ・不景気に一 気に対応しようとしたのです。  米国は、ドルの固定レートの維持、金との交換義 務の維持、国内での引き締めの回避、ドル流出の放 置、等々の複合的な矛盾から脱却するため、一方的 にブレトンウッズ体制の屋台骨を否定する道を選び ました。当然、その直後からドルは世界中の市場で 売り浴びせられ、ドルのレートは激しく下落します。 しかし東京市場では、ドルの買い支えに協力してき た民間企業・金融機関がドルを売る機会を奪うわけ にはいかないとして、2週間市場を開け続け約40億 ドルをIドル=360円で買い支えました。その結 果、外貨準備が大きな含み損を抱え、さらに円の過 剰流動性をもたらして後のインフレの萌芽になった との見方もあります。  いずれにせよ、ドルと金のリンクが断ち切られた 以上、ブレトンウッズ体制の基盤が失われたことに なります。現体制の手直しをするのか、新しい体制 を作るかにかかわらず、ドルの役割を再定義する必 要がありました。しかし米国はあまり協調的ではあ りません。本来、米国が協力を頼む立場にある欧州 や囗本に対し、米国のコナリー財務長官は、「ドル は我々の通貨だが、お前たちの問題だ」と言い放ち ました。  1971年12月にワシントンのスミソニアン博物 館で行われた国際会議で、各国の通貨とドルの間の 為替レートを再度固定することが最終的に同意され ました。その際、黒字国である日本は16・9%、ド イツは3%強の切り上げを受け入れました。ドルと 金との交換は復活されませんでした。それ以降、ド ルの価値を担保するものはなくなり、米国政府に対 してドル供給を形式的に制約する要因(金の保有量) もなくなりました。 危機の残したもの  スミソニアン合意は、すでに壊れてしまった国際 金融システムの延命策に過ぎず、1年少々たった 1973年2月には主要国はフロート(変動相場制) に移行します。それに合わせて、IMFも新しい国 際金融システムに適合した役割を担うように変貌し ていきます。  30年弱のブレトンウッズ体制は、固定相場で自由 貿易と高度成長に対応しつつ、ドル不足・ドル過剰、 ポンドからドルヘの基軸通貨の移行、国際通貨とし ての金の位置づけ等、難しい問題に取り組みました が、現代の目から見ると、矛盾を弥縫策で先延ばし にしてついに力尽きたように思われます。  (I)ニクソンショック以降の国際金融システムは、 システムとして制度化されていない「ノンシステ ム」とも言われます。固定相場制に比べて柔軟性が 高まったのは良いのですが、経常収支赤字のファイ ナンシングが容易になったこともあり、赤字を避け るための、規律を持った政策運営を行うインセン ティブが低下してしまったと言えるでしょう。その ため、調整を強いられずに経常収支赤字を長期間継 続する国が現われてきます。その中には、経常収支 のファイナンスに行き詰まり、危機に陥る国も少な くありません。  (2)基軸通貨国の米国では、金とドルとの交換義 務がなくなったことで、ドルの発行量にますます制 約がなくなります。その結果、米国でも経常収支の 不均衡が長期間継続しますが、ドルが依然として国 際金融の中心的な役割を果たしているため、「途方 もない特権」を享受し続けます。  (3)固定相場制が求める「規律」がはずれたため、 外国為替市場や金融市場、不動産市場等が大きな振 幅を見せ、時に行き過ぎる(オーバーシュート)こと が、異例なことではなくなりました。システムが柔 軟になったことで、かえって危機発生の芽が増えた と言えるでしょう。  (4)ブレトンウッズ体制は、根本的には、国際金 融システムがある一国の通貨(ナショナルカレン シ士に頼って運営されていたところが最大の脆弱 性でした。世界経済の発展を下支えするドルの供給 はドル自体への信認を低下させましたが、他に選択 肢はありませんでした。もし米国が、基軸通貨ドル の信認を保つために通貨発行量を抑えたら、世界経 済の成長スピードは抑制されて戦後復興は遅れ、日 本やアジアの輸出主導の高成長は不可能だったで  第二次世界大戦終結後の25年間、米国は国際金融 システムで圧倒的な地位を占め、自らの国益に基づ いて行動しました。自らが構築した戦後システム (ブレトンウッズ体制)すら、都合が悪くなったら捨 て去ってしまったほどです。それ以降のノンシステ ム下で大小の危機が発生しますが、他方で米国は他 の主要国と協力しないと国際金融Lの諸問題に対処 できないことを学んでいきます。それに伴い、危機 が曲がりなりにも「解決」されるケースが増えてい くことになります。   コラム 人民元がドルに代わって基軸通貨に   なるのですか?  基軸通貨というのは日本独自の言い方です が、外貨準備として保有しておきたいような 通貨(準備通貨)の中でも最も優越的な立場 にある通貨を意味します。  ある通貨が準備通貨と受け止められるため には、メンジー・チンとジェフリー・フラン ケルが挙げている次の4条件が参考になりま す。 (I)その国の経済力と貿易量 (2)その国の金融市場の成熟度 (3)その通貨の価値への信認 (4)ネットワーク外部性  たしかに、その国の通貨の取引量が多いほ ど、人々はその通貨を保有したいと思うで しようし(1)、その国の通貨の調達や運用 が容易で、しかも自由に持ち出しができるこ と(2)は必須条件です。インフレ等で価値 が毀損しないことはもちろん、その通貨への 投資が急に没収されたりしないとの信頼 (3)が大切なのは言うまでもありません。 さらに、他の人々が使っていれば自分もその 通貨を使うと便利です(4)。準備通貨とし て受け止められる通貨は頻繁に変化すること はなく、習慣と化して長く受容されます(慣 性)。  戦後75年以上が経過し、ドルの力は相対的 に低下したとはいえ、依然として圧倒的です。 例えば、IMFに報告される各国の外貨準備 の構成通貨の内訳を見ると、直近(2021 年第1四半期)でもドルが約6割を占めてい ます。第2位のユーロは約M]%、続いて円か 約6%、ポンドが約5%、人民元が約2%で す。  貿易の通貨建てでもドルが多く使われてい ます。2018年にEU28力国が域外から輸 入した品目の56・2%がドル建てで、ユーロ 建ては35・3%でした。EUから域外への輸 出では48・7%がユーロ建てですが、ドル建 ても34・4%あります。2020年下半期、 日本への輸入は64・8%がドル建てで円建て は27・8%、日本からの輸出でも円建ては 37・7%に過ぎず、ドル建てが48・5%を占 めます。第三国間の貿易の多くがドル建てで 行われているのは、まさにドルの基軸通貨と しての地位を示しています。  BIS(国際決済銀行)のデータでは、 2019年に行われた為替取引の88%にドル が関わっており、ユーロは32%、円は17%、 人民元は4%に過ぎません(売買の双方をカ ウントするので合計は200%です)。国際的な 銀行間の決済に用いられるスイフト(SWi ft)で用いられる通貨では、ドルが約38%、 ユーロが約37%(2021年1月)と拮抗し ています。しかしそれ以外の通貨では、ポン ドが約7%、円か約3%、人民元が約2%に 過ぎません。  このように現状ではドルの一人勝ちですが、 近い将来ドルに代わって人民元が基軸通貨と なる、と予測する声も聞かれます。そうした 見方をどう考えればよいでしょうか?  まず、経済規模ですが、民間シンクタンク の多くは2030年までに中国が世界最大の 経済大国になると予測しています。これはた しかに大きな変化ですが、経済規模や貿易量 だけが準備通貨の地位を決めるわけではあり ません。  中国の金融市場は規制緩和が続いていると はいえ、依然として国境を越えた自由な資本 移動が確保されてはいません。金融市場の透 明性にも課題があり、人民元を保有する外国 人(非居住者)が、元を安心して運用する手 段は限定的でしょう。インフレで価値が毀損 されるリスクは低いように思われる一方、上 場している民間企業にも党や政府が突然指示 を出す場合がある等、海外投資家には不安を 与えかねません。もちろん、ネットワーク外 部性をもたらすほど人民元が既に広く用いら れているわけではありません。従って、中国 と深い貿易関係にある周辺国や、政治的に米 国と距離を置きたい国々を除き、外貨準備に 占める人民元の割合を増加させていくメリッ トは、まだ感じられないでしょう。  もし中国当局が元の基軸通貨化を狙うので あれば、金融市場の規制や党・政府の経済へ の介入など多くの改革が必要です。デジタル 人民元の導入が、その第一歩になるかもしれ ませんが、それでもドルの基軸通貨の地位は 長期間揺るがないでしょう。  しかし、ドルの地位が絶対安泰とも言えま せん。それは、逆説的ですが、米国が敵対す る国や集団に対してのみならず、友好国の企 業や金融機関に対しても、金融制裁や罰金等 を積極的に課すようになったためです。米国 の法律の強制力は原則として国外には及ばな いはずですが、ドルという米国のナショナル カレンシーを用いた取引の決済は最終的に米 国の金融機関が関わるため、それを理由に事 実上国外にまで米国法の管轄を広げているの です。そのような状況では、テロリストや犯 罪者だけでなく、普通のビジネスに従事する 主体もリスク回避のためにドル以外の通貨を 用いようという誘因を持ちかねません。一部 の国が外貨準備をドルからシフトして、結果 として世界の外貨準備に占めるドルのシェア  は徐々に下かっていますが、その背景にもこ  うしたリスク回避の考慮があるのかもしれま  せん。ここにも、ナショナルカレンシーであ  り同時に国際決済通貨であるというドルの両  義性が現われています。 (8)席次がアルファベット順の場合、英国(The   United Kingdom)と米国(The United States)が隣    り合わせになることが多いのです。 (9)その後の交渉で合意が得られず、ITOは創設さ    れないまま暫定的な貿易取り極め(GATT)が    結ばれましたが、その後1995年に世界貿易機    関(WTO)が設立されます。 (10)そうした状況も予見して、IMF協定には、貿易    決済に使われるある通貨(ドル)が不足している    場合、その通貨の国との貿易を一時的に制限でき    る、という白山貿易の例外条項が設けられていま    した。 介11)当時黒字基調の定着していた日本やドイツは、安    全保障を米国に頼っていることもあり、この要請    に従いましたが、フランスは要請にもかかわらず    保有するドルを金に交換したと言われています。  第3の危機 なぜドルは大暴落した  のか?  −変動相場制、オイルショック、インフレ なぜ米国はドル安に直面したのか  米国に対するイメージは、世代によって様々だと 思います。第二次世界大戦直後の世代は、米国の圧 倒的なパワーと豊かさに対する憧憬の念を覚えたで しょうし、現在の若者はGAFAに代表される最先 端技術やスタートアップのダイナミズムに心震える 思いを持つでしょう。他方で、地球温暖化問題への 取り組みや国内人種問題への対応等に幻滅する人々 も少なくありません。  1970年代の米国は、同時代の人々にはどのよ うに映っていたでしょうか? 文化的な発信力は依 然として強力でした。何しろ、「スター・ウォーズ」 が封切られ、イーグルスが「ホテルーカリフォルニ ア」を歌っていたのですから。しかし、政治・経済 的には、底の見えない深みにはまっていくような、 閉塞感漂う時期でした。  政治面では、ウォーターゲート事件によるニクソ ン大統領の辞任(1974年)、南ベトナムの崩壊を 受けたサイゴン(現ホーチミン)からの不名誉な撤 退(1975年)、イラン革命の際の大使館占拠事件 (1979年)、アフガニスタンヘのソ連侵攻 (1979年)等、米国の威信を傷つける事件が次々 と起こりました。経済面では、オイルショックによ るインフレと不況を背景に、投資の低迷や規制の増 加を受けて製造業の競争力が大きく低下しました。 自動車をはじめとする工業製品で、「メイドーイ ン・USA」という言葉が、品質への疑問と同じ意 味に使われ始めます。  そうした中、1970年代後半に米国は経常収支 赤字の拡大とドル安に直面します。ブレトンウッズ 体制下では経験していない状況です。なぜそのよう な事態に陥ったのでしょうか?  ブレトンウッズ体制下では、ドルの為替レートが 固定されていますので、米国の経常収支が赤字に なったとしても、それがただちにドル安につながる わけではありません。決済通貨としてのドルヘの需 要もあるので、各国でドルの買い支えが起こるから です。もちろん、各国が保有するドルの実質的な価 値と、固定されたドルレートとの乖離が覆い隠せな くなったときに、危機(ニクソンショック)となりま したが、それまでは少なくとも表面的にはドルの為 替レートは変動しませんでした。ところが、 1970年代には変動相場制になっているため、ド ルヘの信認低下はそのままドルの為替レートに反映 されて、ドルが暴落してしまったわけです。  価格が先行き一層下落すると見込まれる商品を、 すぐに買う人は限られます。もう少し安くなってか ら買おうとする人が多いほど、今は売れ行きが悪く、 今の価格も下がります。当時のドルも同じことで、 今後もドル安が続きそうであれば、米国以外の国・ 企業は、当面必要なドル資金だけ借り入れておき、 後日さらに安くなったドルを買うのが合理的です。 経常収支赤字が増大し、ドルが国外に流出するにつ れ、ドル安が続くとの予想が一層のドル安を招くこ とになりました。その悪循環を断ち切るため、カー ター政権は空前絶後の思い切った手を打ちました。 それに加えて、皮肉なことに米国自身の弱さが、ド ル安反転の推進力ともなりました。 変動相場制の時代  固定相場制(さらには金本位制)の時代には、外貨 準備高が減少してくると、好むと好まざるとにかか わらず、引き締め政策を採らざるを得ないのが通常 です。日本では、「国際収支の天井」とも呼ばれま した。天井が近づくと(すなわち外貨準備が一定の額 まで減っていくと)、頭がぶつからないように姿勢を 低くしなければいけない、というわけです。しかし、 スミソニアン体制崩壊後の変動相場制下ではそうで はありません。外貨準備が底をつく前に、経常赤字 国の為替レートは下落して、赤字が自然に縮小する はずですから、経常収支の動向を心配して経済運営 をする必要はないと信じられました。  しかも、1970年代には海外からの資本流入が 容易になっていきます。特に、産油国が獲得したド ル(オイルダラー)が欧州の銀行等を通じて大量に 発展途上国への融資に回りました。経常赤字になっ ても、フアイナンシングが容易に行われる見込みが あれば、少なくとも相当の期間は、調整政策を考え ずにすみます。主要国を含む各国は、国内の経済成 長(より直接的には失業の減少)を主たるターゲット にした経済運営へと舵を切っていきます。安定を目 指す経済運営の指針を「規律」と呼ぶとすれば、国 際収支を基盤とする規律が政策運営上軽視されるよ うになったと言えるでしょう。  その結果、経済の潜在的な力を制約なく発揮でき ることになったと評価することは可能です。「国際 収支の天井」が近づくたびにブレーキを踏まされた のでは、なかなかスピードも出ないでしょう。しか し同時に、この動きは、経済運営における政治の勝 利をもたらしてしまう恐れをも意味します。という のも、経常収支をそれほど気にせず、政府・与党が なるべく好況を維持し雇用を増やすような拡張的な 経済運営を行えば、結果的に自らの政治基盤の強化 につながり、次の選挙でも有利になることは否定で きないからです。こうして、変動相場制下で、海外 からの資金借り入れが容易な状況においては、経常 収支が赤字であってもそれを軽視するインセンティ ブが働くようになってしまいました。 オイルショックとインフレの破壊カ  インフレ(物価上昇率)と言われて思い浮かぶ数 字は何%くらいでしょうか? 世界の主要な中央銀 行は2%のインフレ目標を立てていますから、最大 でもその程度でしょうか?  日本に住む人々は、過去20年以上にわたり物価が ほとんど上昇しない環境に慣れています。日本ほど ではないにせよ、ここ10年ほどは、主要国のインフ レ率も1〜2%台の比較的低い水準で推移していま した。新型コロナ危機からの回復過程では先進国の 一部でインフレ率が上昇していますが、それでも二 桁に届いていません。そのような状況と比較すると、 オイルショックがもたらしたインフレの破壊力は、 別次元のものでした。囗本の消費者物価上昇率 (1974年)は23・2%です。  1973年の第四次中東戦争の際、石油を産出す るアラブ諸国は、非友好国に対する「武器」として、 石油の禁輸や価格引き上げを行い、その結果、石油 価格はIバレル当たり3ドル前後から12ドル前後へ と、4倍も上昇しました(第一次オイルショック)。 また、1978年にイランで革命が起こると、Iバ レル当たり13ドル前後から35ドル前後へと石油価格 が再度上昇しました(第二次オイルショック)。  日常生活や経済活動の基盤となっている石油価格 が突然上昇する危機に直面し、世界中でパニックが 起きました。日本では、国民の間にトイレットペー パーが不足するとの風評が広まり、買い占め・買い 急ぎが起こって品不足となりました。車社会の米国 では、ガソリンスタンドに給油を求める長蛇の列が できました。景気は急降下し、1974〜1975 年にかけて、主要5力国はすべてマイナス成長に陥 りました。      y’‘…… 宍   鉢 、、`‘、’………宍      .‘ ゛ 四   英米岬{…………  四      乍ヽ.『匸  一三回  19     气 ¨’‘ヽ`.回      仏佳日  .一`『・‐’       貿    ……`…、一、、』一 匸  ‐‐‐‐匸一 ・.い’¨’..’  19 19匹   △一`≒`ヽ`ヽ二    渮孑 に作   AD・一一・.・‘y・一  四い       い.『・『’ EJ  E』ラ   犬J・……… 卜一 一二脳⊇  ヽX輿/.、、  ⊇ 膓S252015 D50  Eご?で…;E 国際協調に向けた努力  この状況を受け、フランスは他の先進工業国5ヵ 国を招いて初めての主要国首脳会議を開きます。 1975年の「ランブイエサミット」です。翌年に は米国が同様の会議を主催し、以後いわゆるG7サ ミットが定着します。首脳レベルで主要国が経済問 題を毎年議論するスタイルが誕生しました。  ランブイエでは、インフレを抑え、成長同復を維 持して失業を減らすこと、エネルギー供給問題に対 処すること、貿易自由化を進めること等が合意され ました。しかし、政治的な合意が各メンバー国をど の程度拘束するのか、という現在につながる問題は 当初からつきまとっていました。例えば、英国労働 党政権は、国内で労働組合の圧力に抗しきれず、緊 縮政策が採れずにむしろインフレの激化とポンド危 機を招きました。とはいえ、主要国が問題意識を共 有して対応策を共同声明として発する形式は、 1980年代後半の「政策協調」の時代の端緒と なったと言えます。 機関車論  ただし、政策協調への道は決してスムースなもの ではありませんでした。しかも、国際的な協調の結 果、個別国にとって事態は一層悪化した、との解釈 も広がりました。  米国では、第一次オイルショックの不況から回復 するにつれ輸入が増加し、1977年には経常赤字 に転落します。しかし、ブレトンウッズ体制下と同 様、赤字縮小のための調整政策ではなく、ドルを用 いた赤字の穴埋めを選択します。ドルと金との交換 義務がなくなった以上、心置きなくドルの流通量を 拡大できるわけです。「途方もない特権」の継続で す。  米国は他方で、経常黒字国である他の主要国には、 景気刺激を求めました。それにより黒字国が輸入を 増やして、世界経済を牽引してほしい、という意味 で「機関車論」と呼ばれました。1978年7月に 西ドイツが議長となって開催された「ボンサミツ ト」では、ドイツは国民総生産(GNP)の1%規 模の需要追加措置を採ること、フランスは財政赤字 をGNP比O・5%拡大すること、イタリアは 1979年の成長率を1978年に比べて1・5% 高めること、日本は1978年度の成長率を 1977年度に比べて1・5%上回ることを公約し ました。英国は景気刺激のためにすでに採られてい る追加措置に言及しました。一方、米国が経常赤字 縮小に向け、現在進行中の減税の規模縮小や政府支 出削減を指摘したところをみると、調整のための引 き締め政策を採るつもりがあったのかもしれません。 ただし実績で見ると、1979年の米国の財政赤字 二般政府)は、1978年と比べて微減にすぎず、 1980年からはむしろ激増していきます。  図らずも、主要国の景気刺激は第二次オイル ショックと重なりました。そのためもあって、石油 価格の再上昇にもかかわらず、主要国の1979年 の成長率は悪くありませんでした。ドイツでは4・ 2%と1978年(3・O%)を上回りますし、イ タリアも1978年の3・7%から1979年は 6・O%へ、日本も4・5%から5・4%へと、ボ ンサミットでの目標を上回るかそれに近いレベルを 実現しました。しかし、石油価格が上昇する中での 景気刺激ですから、必然的にインフレが上昇します。 1980年には米英はマイナス成長に、日本やドイ ツの景気も大きく減速しました。  この状況を受け、ドイツでは、一時的な効果は あったものの、景気刺激は結局のところインフレと 財政赤字を残しただけだった、という見方が強まり ます。日本でも、景気刺激策で増加した財政赤字を 削減しなければならないという使命感から大平内閣 は増税(一般消費税の導入)を打ち出すに至りまし た(12)。日独には、米国からの圧力に屈して過度 な景気刺激を行った結果、国内経済を必要以上に不 安定にしてしまった、という印象が残ってしまいま した。 ドル危機に対する前代未聞のパッケージ  ー977年に発足した米国のカーター民主党政権 は、景気刺激に軸足を移した結果、財政拡張からイ ンフレの再上昇を招き、経常赤字が拡大するととも に資本流出に直面しました。ドルは1977年9月 から1978年10月までの約1年間に、対円で約35 %、対西ドイツマルクで約20%暴落します。変動相 場制の威力の前に、ドルがなすすべもなく暴落に追 いやられた姿は、1970年代の米国の退潮を象徴 しています。事態は「ドル安」のレベルを超え、 「ドル危機」となりました。  当初、米国政府は、市場のドル売りはドルの実力 から乖離した投機的なものだ、と口頭で主張してい ただけでしたが、急激なドル安の継続は、米国内外 の経済発展と、米国のインフレ対策の見通しを危う くする、として1978年H月に政策転換を発表し、 実力行使に切り替えました。その主な内容は、 ・巨額の市場介入を行うとの約束 ・金融の引き締め(金利引き上げと預金準備率の引き  上げ) ・外貨建て国債の発行 ・保有する金の市中売却規模を2倍に増加 などです。ドル防衛のためにこうしたパッケージを 発表するのは初めてです。その後、現在に至るまで ドル安が進んだ局面は何度かありますが、米国政府 がこのようなパッケージを打ち出したことはありま せんし、外貨建て国偵を発行したことも一度もあり ません。  突然かつ前代未聞の強力なパッケージは大きなサ プライズであり、市場は非常に好意的に受け止めま した。ドルは発表直前のIドル=190円前後から 翌1979年H月のIドル=240円前後まで、1 年間で約25%上昇し、ドル危機がドル崩壊へとつな がる事態は回避されました。 ドル安からドル高へ  世の中が不安に満ちているとき、人々はどのよう に行動するでしょうか? なんとなく安心できるも の、価値が維持できそうなものを手許に置いておき たいと考えるのではないでしょうか? 「寄らば大 樹の陰」と言い換えてもいいかもしれません。為替 市場や金融市場では、不安感が増すときに人々が購 入したくなる資産を、嵐を避けて船が暫く停泊する 「安全な港」(セイフヘイブン)と呼びます。こうし た資産は、不透明感が高まると価格が上昇する特徴 かあります。ドルはその代表格です。  実際、1979年末に始まるソ連のアフガニスタ ン侵攻により、米ソの対立が激化し、地政学的な緊 張が高まったことで、有事の際の安全資産であるド ルヘの資金流入が増加して、ドルはさらに上昇しま した。米国の弱さが、ソ連による大胆な行動を招い たところがありますが、それが結果としてドルの再 評価につながったのは皮肉なことです。  同時に、1979年8月にFRB議長に就任した ポールーボルカーが、インフレ退治に断固たる姿勢 を示すため厳しい引き締め政策を開始したことも、 ドルを下支えしました。引き締めによって、短期金 利は1980年4月に平均17・6%、1981年6 月には平均19・1%にも達しました。その結果、 1980年に13・5%まで上昇したインフレもそれ 以降急速に低下して、1983年には3・2%と落 ち着きを取り戻しました。他方で、高金利がもたら す景気後退は避けられず、1980年と1982年 にはマイナス成長となりますが、輸入が減少したこ となどから経常収支はほぼ均衡に戻りました。実質 的に、経常収支赤字に対処する調整政策を採ったこ とになります。  こうして米国は、スタグフレーション(高インフ レと経済停滞が同時に進行すること)・ドル安・経常赤 字拡大という状況から、高金利・低インフレ・低成 長・ドル高・経常収支均衡という状況に移りました。  しかし、経常収支の均衡は長続きしませんでした。 1981年1月に就任したレーガン大統領は、対ソ 連強硬姿勢に基づく国防予算の拡大と「小さな政 府」を目指す大減税によって、急速に財政赤字を拡 大させ、景気の回復に伴って経常赤字は大きく増加 します。一方、財政赤字の拡大(国債発行の増加) を嫌って長期金利が上昇したため、ドル高が一層進 みました。高成長・ドル高・経常赤字拡大という組 み合わせです。経常収支赤字拡大は好景気の反映 (輸入増大)でもあるので、米国は経常赤字を放置し ます。ドルヘの信認が維持されてドル高になってい るため、経常赤字の増加によるドル安を心配する必 要もありませんでした。 危機の残したもの  (I)ドル危機になったとはいえ、変動相場制下で の政策運営に関し、基軸通貨国である米国とそれ以 外の国との間にある歴然とした差が改めて明白にな りました。  すなわち、規律を軽視した経済運営を行っても、 米国は他国よりも長期間危機を回避していられるだ ろう、ということです。それは、繰り返しになりま すが、ドルが基軸通貨であり、人々が喜んで受け取 るので、信認がなかなか低下しないからです。もし 「普通の国」が米国と同程度の経常赤字を出し続け たら、危機に至る可能性はずっと高くなるはずです。  1970年代末のドル危機は、その意味で非常に 稀な出来事でした。経済的要因だけでなく、政治 的・地政学的な要因が複合的に積み重なったからで すが、もちろん今後そのような事態が再発しないと は限りません。  (2)主要国はインフレを克服し、中央銀行は自信 を深めました。  FRBが強烈な引き締め政策でインフレを終息さ せ、その後に米国の景気が力強く回復したことから、 インフレ抑制が経済政策の基本であるとの認識が一 般化しました。やがて1990年代になると、中央 銀行の政府からの独立が重要である、インフレは国 民が今後の物価動向をどのように予測するか(イン フレ期待)に大きく関わる、中央銀行がインフレ目 標を設定することが有効である、といった考えが理 論的に整理され、通説として受け入れられました。 その後、日本を筆頭に主要先進国が徐々に低インフ レ、そしてデフレ状態に陥るにつれ、主要な中央銀 行の役目は高すぎる物価を引き下げることから低す ぎる物価を引き上げることに移りましたが、その成 果は一様ではありません。  他方で、新興市場国や発展途上国ではインフレが 十分コントロールできず、その結果経済運営に困窮 する例が依然として見られます。インフレは通貨価 値の毀損ですから、特に貧困層の購買力を低下させ ますし、企業の投資意欲も喪失させます。国際金融 の面から言えば、高インフレ国の通貨の名目為替 レートが十分に下落しなければ、むしろ実質的な為 替高になって輸出競争力を損ないます。といって、 名目為替レートが大きく下落すれば、それは輸入品 の価格上昇、すなわち輸入インフレを招いて、国内 インフレ率をさらに上昇させますし、外貨建ての偵 務負担を実質的に重くしてしまいます。  (3)1970年代の経験は、マクロ経済運営の在 り方にも影響を与えました。  「不景気の際には、中央銀行が金利を下げ、政府が 減税や公共事業を行って、民間需要を喚起すること で景気回復を図るべきだ」という主張は、通常ケイ ンズ政策(ヶインジアンポリシー)と呼ばれます。こ の考えは「常識」と言ってよいでしょうか?  1970年代のスタグフレーションは石油の供給 ショックが契機になっていたこともあり、需要追加 を重視するケインズ政策で解決することができませ んでした。その結果、マクロ経済政策の基本的な考 え方が多様化し、世界的には、ケインズ主義は「常 識」の地位を滑り落ちたと言って良いと思います。 1980年以降には、インフレを解決するために通 貨量に注目するマネタリズムや、市場を通じて経済 の供給面の効率性を取り戻すべきだとする新古典派 の考えが強くなった一方、ケインズ主義も形を変え て支持者を増やす等、百家争鳴の様相を呈していま す。ドイツでは、裁量的な政策運営でなく、ルール に基づき財政規律を重視するスタイルが確立されま した。そのため、国際的な政策論争では、様々な立 場に立つ参加者の間でコンセンサスを形成するのが 難しい場面も見られます。  1970年代末、米国が各国と協調したドル防衛 に転換したおかげで、基軸通貨ドルの崩壊は免れま した。しかしその後も、米国の姿勢は、経常収支赤 字の解消をドル安の放置と経常黒字国の内需拡大に 求める対応が基本で、ドル安が臨界点に近づいた際 にのみ、国際協調に転換しました。それは、ドルに 頼る国際金融システムの危うさであると同時に、世 界経済が米国の大幅な経常赤字に頼って成長してい る状態の避けられないコストでもあります。ドル (ひいては米国政府)に規律を課そうとする国際的な 動きはほとんど成功しませんが、仮に成功してし まったら他国は低成長を甘受せざるを得なくなる恐 れがあります。このパラドックスは、現在まで継続 しているのです。   コラム 経常収支の赤字や黒字は国内政策で   是正できますか?  貯蓄投資バランス(日本ではISバランスと も呼ばれます)は、経済の各部門が貯蓄超過 か投資超過(貯蓄不足)かを見るものです。  最終的に国内で使われなかった分は海外と の取引に使われますので、その関係を整理す ると、  経常収支=(民間貯蓄‐民間投資)十(税  ‐政府支出) という式に表わせます(なぜ最終的にこの式の 姿になるのかは、インターネットで容易に検索で きます)。  この式の意味するところは、経常収支と、 国内の「民間部門の貯蓄と投資の差」及び 「政府部門の収支」の合計が等しくなるとい うことです。  例えばIMFは、経常収支赤字国に緊縮政 策を求めますが、それはこの式に基づいて、 民間投資と政府支出の双方を小さくして右辺 をプラスにしようとしているわけです。  同様に、1980年代の日米貿易摩擦の際 には、米国側が「日本の経常収支黒字を縮小 するために民間部門の貯蓄を減らして消費や 投資を増やすか、さもなければ財政支出を拡 大するべきである」という主張を行い、日本 側も反論として「米国の経常収支赤字が大き いのは貯蓄不足のせいだから、財政赤字を縮 小すべきだ」と主張しました。  もっとも、各部門の貯蓄投資バランスを変 更しても、必ずしも望んだような結果となる とは限りません。財政赤字が拡大したら、将 来の増税を予想して国民が貯蓄を増やしてし まうかもしれません。また、1980年代の 囗本のように、民間部門の消費と投資の拡大 を推し進めた結果、税収が伸びて財政が黒字 になる一方、民間部門はバブルとなって後に 禍根を残すかもしれません。米国でも。 1990年代後半〜2000年頃に財政赤字 が縮小して一時黒字になりますが、民間部門 は緊縮していませんので、経常収支赤字はか なり拡大しています。財政再建だけで経常収 支を均衡させることはできなかったわけです。  「民間部門の貯蓄と投資の差」及び「政府部 門の収支」が大きく崩れているような場合、 それらの是正を政策目的とするのは当然です が、両部門を力ずくでコントロールして経常 収支を一定の状態に維持するのは計画経済で でもなければ困難です。結局のところ、経常 収支の赤字体質や黒字体質と呼ばれるものは、 まさに「体質」なので、人口構成や産業構造 等、長期にわたる経済構造の変化によって両 部門のバランスが変動し、それが経常収支に 時間をかけて反映されるものなのです。  IMFは経常収支危機国に対して、力ずく で両部門の緊縮を求めるではないか、と言わ れそうですが、それはIMFの想定している のが、経常収支赤字のファイナンスを再度回 復することを目的とする、本来短期的な措置 だからです。恒常的な赤字国では、一時的な 危機国とは異なり、体質改善のための長期的 な措置が必要である例が多々あります。IM F・世銀等の国際機関は、そうした国々への 構造改革のアドバイスも行っていますが、な かなか効果が上がらないのが実情です。 (一‥一一)1979年10月の総選挙では、選挙戦の間に増税    公約を撤同したにもかかわらず与党は敗北し、翌    年の衆参同時選挙期間中には大平首相が急死する    事態となりました。  第4の危機 日米・米独貿易摩擦は  乗り越えられたのか?  −プラザ合意、円高パニック、バブル発生 日本の想定外の「敗戦」  自国の経常収支赤字に対する米国の典型的な姿勢 は、調整(引き締め)政策の拒否、ドルによるフア イナンス(赤字の穴埋め)、そしてドル安の放置でし た。もう一つの典型的なパターンは、黒字国が不公 正な貿易を行っているとの非難です。米国の優れた 製品が売れないのは、相手国に米国製品を不利に扱 う規制や慣行があるからに違いない、というわけで す。1980年代は、この二つの姿勢が交互に現わ れました。その矛先は、多くの場合、当時米国が最 大の貿易赤字を抱える日本です(当時、米国の貿易赤 字の4割前後が対日赤字でした)。日本はその試練を なんとか乗り切りましたが、その先に待っていたの は日本の思いもよらぬ「敗戦」でした。  第一期レーガン政権(1981〜1985年)は、 市場重視のイデオロギーに主導された政権でした。 日本でも、資本主義を奉じている以上、市場の論理 を大切にします。しかし同時に、安全や環境に関す る規制や社会保障・景気対策等の面で、政府の役割 も重要であるとの認識が一般に受け入れられている のではないでしょうか?  レーガン政権は違いました。なにしろ、「政府の 存在自体が問題だ」というのが基本のスタンスです から、なるべく政府の介入を排するのが正しいと確 信しています。規制緩和を推進したのみならず、 「小さな政府」を実現するためには財源である税収 を減少させて「兵糧攻め」にすればよい、との理屈 で大減税を行います。他方で、「強いアメリカの復 活」を打ち出して、ソ連に対して強硬な姿勢をとり、 大規模な軍備拡張を行いました。その結果、財政赤 字が激増(国債発行の増加)したため、長期金利が 上昇し、ドル高が一層進みます(13)。しかしレー ガン政権は、市場によって決まった為替レートは 「正しい」レートと考え、さらにドル高を強いアメ リカの象徴と見ていたこともあって、それほどドル 高を気にしていない様子でした。  他方で、日本の経常黒字が大きいことには特に強 い不満を表明します。黒字国の日本は本来円高にな るはずなのに、円安になっているのは日本国内に存 在する規制のおかげで市場の力が十分に機能してい ないからだ、と激しく批判しました。日本にしてみ ると、円安はドル高の裏返しに過ぎず、ドルのレー トが正しいのなら円のレートも正しいはずなのです が、そういう議論はかみ合いません。  こうして、その後十数年間にわたる日米間の厳し い交渉が始まりました。その間、世界経済は大きな ショックや転換点を経験しますが、日本では財政金 融政策が後から見ると過度の緩和・引き締めになっ ていたり、方針転換のタイミングが早すぎたり遅す ぎたりして、結局バブルの発生と崩壊という人きな 混乱を招いてしまいました。日本経済は、現在もそ の後遺症から十分脱却できていません。 日米貿易摩擦  囗本にとって最大の貿易相手国はどこでしょう か? 2007年に米国を追い抜いて以来、中国が 最大の相手国であり、現在では2割以上の貿易(輸 出十輸入)が中国と行われています。そのため今日 では想像しにくいかもしれませんが、かつては米国 が圧倒的な貿易相手国であり、日本からの輸出の約 4割が米国向けでした。第2位以下のアジア諸国や ドイツヘの輸出がそれぞれ数%ほどですから、いか に米国の存在が大きかったか分かります。米国との 貿易に障害が出ることは、日本経済の生死を決する 大事件だったのです。  日米貿易摩擦は、1960年代あるいはそれ以前 からありましたが、日本の対米黒字が急増した 1980年代になると、日本は不公平(アンフェア) な国だ、という主張が米国内で公然と行われるよう になりました。自動車産業の労働者が日本車をハン マーで壊すパフォーマンスが各地で行われる等、日 本に対する世論の風当たりは強く、連邦議会では対 日報復法案が次々に提出されました。1985年に は日本を不公正貿易取引国と認定する上院決議が全 会一致で採択されるほどでした。  日米交渉により、個別の品目に関する規制緩和や 関税引き下げ等が合意され、また自動車各社は輸出 の自主規制を行いました(14)。しかし、米国の貿 易赤字は増加を続け、日本への圧力も高まる一方で した。官民ともに、強い危機感を持って、米国との 貿易摩擦の解消を真剣に模索していたのです。 なぜドル高が続いたのか  1970年代末と比較すると、米国の1980年 代の経常収支赤字(GDP比)は約5倍も大きい一 方、ドルは暴落せず、むしろドル高が続きました。 なぜでしょうか?  第一に、長期金利が高かったことです。投資家は、 金利の低い通貨より高い通貨で運用した方がリター ンが増えると考えるので、ドルの人気が高かったの です。第二に、米国の景気が良く、企業収益や不動 産価格の上昇が見込まれたため、海外投資家はドル を買ってこうした資産に投資しようとします。第三 に、米ソ対立です。カーター政権時代は、米国の弱 さが米ソの地政学的対立を招き、投資家を不安にさ せましたが、レーガン政権時代は米国が軍備を拡張 して好戦的な姿勢を採ったことから、やはり米ソ間 の緊張が高まり、ドルは安全資産として、買われま した。  ドル高ですから、輸出競争力の回復(為替安によ る輸出品の価格下落)を通じた貿易赤字の縮小は期待 できません。経常赤字を問題視するなら、輸入拡大 とドル高をもたらしている根本原因、すなわち巨額 の財政赤字を縮小する必要がある、というのが日本 等の考えでしたが、第一期レーガン政権は市場主義 なので、市場の力が貫徹するようにすれば経常赤字 は自然と小さくなると主張して、対立は解消しませ ん。対立解消の機会は、第二期レーガン政権 (1985〜1989年)に訪れました。  第二期レーガン政権で財務長官に就任したジエー ムズーベイカーは、イデオロギーに縛られず、現実 的に結果を出していく実務家タイプでした。彼は、 米国の貿易赤字を減らすことを最大の目標とし、そ のために日本や西ドイツの協力を得ることを優先し、 日独等が主張するように米国自身のマクロ経済政策 にも歪みがあることを認めました。具体的には、財 政赤字の放置とドル高です。一方で、日独が輸出を 減らして輸入を増やすために、日独もマクロ経済政 策を変更して内需を拡大するように求めたのです。 特に日本については、1980年代前半の財政再建 努力(15)の一方で民間需要が力強さに欠けたこと もあり、内需拡大要求を強く主張しました。市場万 能主義のイデオロギーに縛られないゆえに、結果が 出るまで追加的な政策対応を執拗に求める傾向があ りました。  1985年9月22日、ベイカー長官は日、独、英、 仏の4力国の蔵相と中央銀行総裁をニューヨークの プラザホテルに招いて、主要5力国で大きな政策転 換を行う合意をまとめて発表します。「プラザ合意」 です。会合自体が事前には秘密であったため、記者 発表は大きな驚きをもって受け止められました。そ の内容はどんなものだったのでしょうか? プラザ合意の中身  まず、参加国はドル安を目指すことを宣言します。 コミュニケ(声明)では「主要非ドル通貨の対ドル レートのある程度の一層の秩序ある上昇が望まし い」と持って回った言い方ですが、米国内にドル高 (強いアメリカ)を容認する市場不介入派が根強くい るため、米政権としては「ドルを弱くしたい」とは 言いにくいので、ドル以外の通貨を対ドルで強くす べき、と書いたものです。5力国は、そのために共 同で為替市場に介入する用意があることを示唆しま した。  実際、プラザ合意後から各国は積極的な市場介入 を行い、短期間でドルは下落しました。円の対ドル レートでみると、プラザ合意直前の9月20囗にIド ル=242円であったものが、2週間後の10月4囗 にはIドル=211円、3ヵ月後の12月にはIドル =200円前後、半年後の1986年3月にはIド ル=180円程度と急速に円高が進みます。ちょう どレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長との 間で米ソの建設的な議論が始まって米ソ対立が緩和 していたこともあり、市場にはドル売りへの安心感 もあったのでしょう。  その時点では、日米貿易摩擦回避を最優先とする 日本政府も、国際収支不均衡是正に賛同し円安によ る輸入インフレを警戒する日本銀行も、真剣に円高 を目指していました。そのため、当初の雰囲気は、 円高をもたらしたプラザ合意は大成功だったという 評価でした。  コミュニケでは、続いて5力国それぞれが、今後 どのようなマクロ経済政策を採っていくつもりかが 示されます。当然、赤字国は経常赤字の縮小、黒字 国は経常黒字の縮小の目的と整合性のある政策でな ければなりません。  米国は、財政赤字の削減や民間貯蓄の促進を謳い ます。  日本は、市場開放、規制緩和、内需拡大です。し かし大きな問題がありました。当時日本政府は、財 政再建を大目標として掲げていたので、内需拡大の ために財政支出を拡大することは受け入れられませ ん。といって、日本が内需拡大を打ち出さない限り、 米国や他の参加国の支持は得られません。どうすれ ばこの難問を解けるでしょうか? 日本はまず規制 緩和の実施を約束します。それによって民間の経済 活動が活発化して、内需拡大が期待できるからです。 加えて、中央政府は財政赤字削減を継続するけれど、 地方政府が公共投資を追加的に行えるようにします、 と約束しました。内需拡大を地方財政を通じて行う ことで、中央政府の財政再建との両立を目指したの です。  他方で西ドイツも、連邦政府の歳出抑制を維持し、 むしろ規制緩和に注力すると宣言しました。ボンサ ミットで機関車論に与したことへの反省があったの か、内需刺激策には距離を置き、具体的な言及は避 けていました。  各国の約束した政策は、すでに行われていたもの や計画中のものを改めてリストにして示したにすぎ ず、新味がないという指摘もありました。しかし、 国際金融上の課題について、主要先進国が具体的な 政策パッケージを一斉に公約する、という方式は本 当に画期的でした。それまでの国際金融の「常識」 では、米国が単独で一方的な発表を行つても不思議 ではなかったところです。ニクソンショックも、 カーター政権時のドル防衛も、米国単独で発表され ました。しかし今回は、米国は参加国の一つという 地位に甘んじました。それは、米国自身の相対的な 地位の低下の象徴であると同時に、意味のある結果 を出すには国際協調こそが一方的措置より効果的だ という現実的な判断だったのでしょう。日本や西ド イツに内需拡大をしてもらうには、米国が一方的に 発表しても意味がなく、両国自身に「その気」に なってもらわないといけないからです。  もっとも、主要国が共通の目的の達成を目指すた めには、現状の問題点とそれに対する処方箋につい て共通の理解がなければなりません。それは簡単な ようで意外と難しく、プラザ合意でも日米と欧州で は温度差がありました。それでも、曲がりなりにも 先進5力国が当面の経済政策を擦り合わせて公約で きたのは、米国の日独への批判を放置すれば国際金 融システムの動揺を招く、との危機感が共有されて いたからです。 円高パニック  それにしても、円の上昇幅とそのスピードは人々 の予想をはるかに超えていました。プラザ合意の際 に日本代表団が想定していた円の上昇幅は10〜15% と言われていますが、1986年6月までの9ヵ月 間の上昇率は約32%です。マルクの上昇も急速でし たが、同期間の上昇率は約22%ですので、円の急騰 ぶりが際立っています。  海外市場で競争している輸出企業にしてみると、 9ヵ月で3割も円高というのは、とてもコスト削減 などでは吸収できないレベルでしょう。もちろん輸 入材料等の円建て価格は下落しているわけですが、 国内コスト(人件費等)は不変ですので、多くの企 業は利益を削って、なるべく輸出価格の上昇を抑え たはずです。それでも円高の影響は甚大でした。新 潟県燕市で製造された洋食器の輸出額が、1984 年の約320億円から1986年の約200億円へ と4割近く激減したのが象徴的でした。  囗本にしてみると、為替レートは十分に円高に なったから、これ以上の円高は必要ないだろう、と いう意見でした。ところが、欧米は違う意見です。 当初は、Jカーブ効果(16)や原油価格の低下を反 映して囗本の経常黒字が増加を続けていたので、実 際に経常黒字が縮小し始めるまで円高ないしは囗本 の内需拡大を続けるべきだ、と主張されると、有効 な反論が難しかったのは事実です。欧州にとっては、 欧州通貨以上に円か上昇すれば、相対的に欧州産品 の輸出競争力が上がるという計算もあったことで  1986年になると景気は目に見えて停滞してい きます。輸出企業やその下請けの中小企業に幅広く 影響が及び、有効求人倍率も低下していきました。 景気を下支えするため、日本銀行は米国FRBと協 調して利下げを行い、政府は経済対策を打ち出しま す。  日本国内では「円高不況」への怨嗟の声が高まっ ていましたが、円高と財政再建を両立させようとす る政府の方針に対する批判の急先鋒の一人が宮澤喜 一自民党総務会長でした。当時、中曽根総理大臣の 後継者の地位を竹下蔵相らと争う立場にあったので、 竹下の「手柄」のプラザ合意が引き起こした円高を 批判することで、ライバルにダメージを与える意図 があったのかもしれません。もっとも、筋金入りの ケインジアンである宮澤としては、国際収支不均衡 の是正のための為替レート変更は(変更幅はともか くとして)当然受け入れているはずであり、むしろ 黒字国の責務として財政支出を大幅に拡大させるべ きだと考えていたのかもしれません。  中曽根総理大臣は、1986年7月に宮澤を蔵相 に任命します。そんなに批判するなら、お手並み拝 見、というわけです。 ルーブル合意  日米貿易摩擦が日本経済の存立を危うくするとい う認識は官民で一致しています。プラザ合意直後は、 その解決を為替レート調整(円高)に求めましたが、 急速な円高で、経常収支黒字が縮小する前に国内が 不況になってしまいました。不況で輸入が減ったの では、貿易黒字が逆に増えてしまいます。そこで、 次の手は、円高を止め、不況対策で景気を下支えし つつ、内需拡大を進めて輸入を増やし、経常収支黒 字の縮小を目指そう、ということになります。それ はすなわち、政府の進めていた財政再建努力に真っ 向から反対する方針でした。  就任直後から宮澤蔵相は積極的に動き、1986 年10月にベイカー財務長官との二国間合意に漕ぎつ けます。これは匸言でいえば、日本が一層の内需拡 大のための財政・金融政策を約束するから、米国は これ以上の円高を求めないでほしい、という交渉で した。ベイカー長官にしてみれば、「大国としての 責任を果たすべく、経常収支黒字縮小のために円高 を求める」と言っていた日本が、いまだに経常収支 黒字が縮小していないのに円高抑制に協力してくれ、 と言ってくるのは虫が良いと思ったかもしれません。 日本側が米国の財政赤字が減らないのは米国政府の 努力不足だと感じていたのと同様、米国側も、日本 の経常収支黒字が減らないのは日本政府の努力不足 だと感じていたのではないでしょうか。  ただし、西ドイツにとっても、マルクの現状水準 での安定は悪い話ではありません。主要な欧州通貨 は相互の為替レートが大きく変動しないようにする 枠組み(EMS)を作っており、マルクが対ドルで 大きく上昇すると、他の欧州通貨の対ドルレートも 上昇してしまうので、それを避けるため、マルクの 対欧州通貨のレートは既に1986年と1987年 初の2同にわたって切り上げられていました。西ド イツの主要な輸出先は欧州域内ですから、これ以上 のマルク切り上げはぜひ避けたいところです。  こうして利害が一致したことから、1987年2 月にパリに集まった主要国はいわゆる「ルーブル合 意」を発表します。その最人のポイントは、「為替 レートを現在の水準の周辺に安定させることを促す ために緊密に協力する」と宣言したことです。つま り、一層のドル安・円高・マルク高は目指さない、 との宣言です。むしろ「各通貨間における為替レー トのこれ以Lの人きな変動は」望ましくない、とま で断言しました。  各国ごとの政策の公約では、米国が財政赤字削減 を目指すこと、競争力を高める政策を導入すること 等を示し、西ドイツは既に立法された減税の規模拡 大を検討すること、構造調整政策を進めること等を 約しました。  これに対し日本は、その時点で国会審議中の予算 が成立したら、すぐに経済対策を準備すると明言し ました。予算審議中に成立後の補正予算策定を対外 公約とするのは極めて異例のことです。また日本銀 行はルーブル会議翌日から公定歩合を引き下げるこ とを明言しました。米独に比べて、より具体的なコ ミットメントであったのは、円高抑制と引き換えに 内需拡大に最大限努力するとの姿勢を示したかった からでしょう。 ブラックマンデー  ルーブル合意後、各国は協調介入を行いますが、 円高ドル安はその後も継続します。ベイカー長官は 特に意に介する風もなく、引き続き日独の内需拡大 を求めつつ、一層のドル安を求めているような発言 も行いました。市場参加者は、安心して更なるドル 安に賭けることができたはずです。  何とか円高を止めたい日本は、ルーブル会合の 4ヵ月後に開催されるベネチアサミットで、内需拡 大に向けた努力不足を批判されないよう先手を打ち、 当時としては史上最大の経済対策(6兆円)をルー ブルでの約束通り発表します。これにより、国内の 不況と、内需拡大要求への対応から、財政再建方針 は事実上一旦棚上げされました。後になって判明し ますが、実際には日本経済は1986年末に底を 打って、1987年からは回復に向かっているとこ ろでした。ですから、これほど巨額の財政パッケー ジは、その時点では必要なく、かえって景気に過度 の刺激を与えてしまったのです。  一方西ドイツでは、経済も好調であり、徐々にイ ンフレ圧力が高まっていたことから、独立性の高い ブンデスバンクがむしろ金融引き締めにスタンスを 移していきます。米国は、それでは内需が冷えてし まうと批判的でしたので、市場では主要国間の協調 体制にひびが入ったとの見方が広がります。また、 ドルが一層下落するのを避けるために、米国自身も 利上げに動くのではないか、との疑念も広がりまし た。こうした動揺から1987年10月19日にニュー ヨーク株式市場が22・6%も暴落します(ブラック マンデー)。この一日の下落率の記録は、いまだに 破られていません。  市場のパニックを抑えるために、主要国は市場に 流動性を供給して、市場金利を低めに誘導しました。 株価も徐々に回復したため、翌1988年の春頃か ら米独は徐々に金融政策を引き締めていきますが、 日本では円高が進んでいたため、金融引き締めでさ らに円高となることを警戒して、低金利が継続され ます。  日本の低金利状況の長期化は、人幅な財政支出と、 内需を促進する規制緩和と相まって、不動産や株式 への投機を喚起してバブル発生の原因となりました。 経常収支黒字の縮小という国際公約のために、財 政・金融・規制緩和と政策を総動員した結果、日本 経済が暴走を始めてしまったのです。 危機の残したもの  1980年代の日米貿易摩擦は、対米輸出に大き く依存していた日本にとっては、まさに生死に関わ る危機でした。その二国間の危機をコントロールす るのに、多国間の為替調整とマクロ経済政策協調と いう方策を見つけたことは素晴らしい成果でした。 日米の二国間で対峙するよりも多国間で交渉する方 が、各国の利害が打ち消し合って、より建設的な議 論となりました。  では、政策協調の約束は果たされたのでしょう か?  (I)ドルの為替レートは大きく下落しました。  (2)日本では1987年以降、内需(消費、設備 投資等の民需と公共事業等の公需)主導の成長軌道に 乗りました。好景気で税収が伸びたため、いわゆる 赤字国債の発行は減少していきます。ドイツも、内 需・外需ともに好調で、財政が均衡する中で高い成 長を実現しました。  (3) 一方、米国の財政赤字の削減はあまり進展し ませんでした。連邦政府の赤字は、1986年度 (1985年10月〜1986年9月)の約2200億ド ルから1987年度には約1500億ドルヘと減少 しますが、その後数年間は横ばいで、1990年度 から再拡大を始めます。日独は、財政赤字削減が進 まないことを議会のせいにする米国政府が責任逃れ をしていると感じて、不満を述べました。  公平のために付言すれば、米議会も何もしなかっ たわけではありません。1985年12月には、今後 5年間で財政赤字をゼロにするという、いわゆる 「グラムーラドマンーホリングス法」が成立しま す(17)。しかし、景気動向にかかわらず機械的に 歳出を削減するのは賢明でないという異論や、削減 に至る手続きの違憲判決等もあり、一度は改正法が 作られるものの、結局実質的効果を上げないまま、 うやむやに終わってしまいました。  政策協調の目的である、経常収支赤字・黒字の是 正は実現したでしょうか?  (4)米国の経常収支赤字は1980年代末に縮小 し、景気停滞に伴い1991年には小幅の黒字とな ります。物価の影響を除いたデータで見ると、 1980年からプラザ合意のあった1985年まで は輸出がほぼ横ばいの反面、輸入が増加していまし た。1985年から経常黒字となった1991年ま では、輸入の伸びが鈍化する一方、輸出が大きく伸 びています。政策協調で実現したドル安と日本等で の内需拡大(米国からの輸出増加)がある程度効果を  (5)同様に、日独の経常収支黒字は縮小します。 日本の場合は、バブル景気により1980年代末に 輸入が大きく伸びたこと、ドイツの場合は1990 年の東西ドイツ統一後しばらくの間、輸出競争力が 低下したこと等が影響したと思われます(18)。  総合的に見ると、政策協調の直接的な成果とは断 言できないにせよ、日米独三力国の経常収支不均衡 が曲がりなりにも縮小しました。そして、1989 年の冷戦終結以降、世界経済のテーマは、先進国間 の経常収支不均衡から、旧ソ連圈諸国をいかに市場 主義経済に組み込んでいくかに移りました。G7各 国の関心も、各国がそれぞれ経済成長の潜在能力を 高めることへと移り、1990年代は構造改革が時 代のテーマとなっていきます。  日本は1980年代の危機を脱しましたが、思わ ぬ形でそのコストが返ってきました。  (I)経常収支黒字の縮小のため、円高と内需拡大 を国際的に公約した日本ですが、1980年代後半 の急速な円高による不況を経験したため、官民に強 烈な円高恐怖症が根付いてしまいました。そのため、 日本は円高の回避と引き換えに、より積極的な内需 拡大に向かうことになります。  (2)例えば、1990年に合意された「日米構造 協議」において、日本は10年間に430兆円の公共 投資を行うと約束しました。もちろん、バブル絶頂 期ですから、一挙に生活インフラをアップグレード しようという日本側の意図(幻想?)は理解できま すが、当時の日本の公共投資(公的資木形成)は年 25兆円ほどだった一方、経常収支GDP比はピーク 時の半分以下まで下がっていたので、経常収支黒字 縮小のための内需拡大という理屈では正当化できな い規模の対外公約であることは間違いありません。 そのため、日本政府は米国からの外圧に弱い、との 印象がますます内外に広まってしまいました。  (3)バブルの崩壊後、金融機関の不良債権処理が 遅れたこと、人口構成等の構造的変化とタイミング が合ってしまったことなどから、日本経済は長期に わたる低迷期に入ってしまいます。1980年代後 半の内需拡大の対外公約がもう少し控えめであった ら、あるいは多少の円高を覚悟してでも、もう少し 早めに金融引き締めが行われていれば、バブルがそ れほど巨大化することもなく、崩壊後の影響も小さ くなったのかもしれません。しかし、バブル期には、 土地価格の上昇を問題視した声は多かったものの、 株式市場の上昇や好景気の継続を批判した声は皆無 と言ってよく、バブルを警戒して早めに政策転換を 行うことは、内外からの圧力を考えると極めて困難 だったと思われます。  1980年代後半、米国はドル安(円高)の放置 をテコに、日本に内需拡大を強く要求し、それに応 えた日本経済は、円高を避けるための政策でバブル を発生させてしまいました。バブル崩壊後は、不況 が長引き、経常収支黒字が高いレベルで推移しま す(19)。その間、日本では、景気の下支えや、米 国からの内需拡大要求、円高対策、銀行危機への対 応といった大義名分の下、財政拡大に歯止めがかか らなくなり、財政状況が急速に悪化しました。  一方、日本国内の経済低迷に直面した製造業は海 外生産に傾斜して、いわゆる「空洞化」が進み、若 者はほぼ10年間にわたる就職氷河期で、職場での人 材育成の機会を失いました。1980年代の危機、 すなわち経常収支不均衡問題は、良くも悪くもそれ 以降の日本経済の姿を形作ったと言えます。  他方、1990年代後半に米国経済は絶好調とな りました。高成長に伴い経常収支赤字が増加します が、それを上回る巨額の資金流入を得て、財政も黒 字化します。ドルによる経常赤字のファイナンスに もかかわらず、ドルの信認低下が起こらずに、ドル 資金が円滑に循環し、1990年代の国際金融シス テムは順調に機能しているように見えました。しか しその陰で、新しい形の危機が芽生えていたのでし た。   コラム 為替市場介入に意味はあるのです   か?    為替市場では常に様々な組み合わせの為替   取引が行われています。その市場全体の流れ を反映して、その時点における為替レートが いわば市場のコンセンサスとして形成される わけです。そうした中、市場におけるレート の形成に影響を与える意図をもって、当局が 行う為替売買を市場介入と呼びます。固定相 場制では、市場の動きが固定レートから大き くずれないように日常的に行われますが、変 動相場制下でも行われることがあります。プ ラザ合意の際のように、いわば無理やり為替 水準を変更していく場合もありますが、ほと んどの場合は為替の一方向への行き過ぎた動 きを減速させる、あるいは乱高下の振幅を縮 小する目的です。  為替政策は金融政策と密接な関連を持つの で、多くの国では為替介入は中央銀行の仕事 です。しかし日本と米国では、外貨準備を政 府(財務省)が管理していることもあって、 為替介入は政府の判断で行われます。その際、 中央銀行は政府のエージェントとして為替市 場に注文を出すことになります。  例えば円高ドル安への動きを牽制したい場 合、政府のエージェントである日銀は為替市 場参加者(主に銀行)に円を売ってドルを買 うことになります。売るための円は政府が短 期証券を発行して市場から調達し、購入した ドルは外貨準備に入ります。反対に円安ドル 高を抑えたい時には、政府は外貨準備で保有 するドルを売って円を買います。概念的には 日本政府・日銀が供給する円の量に制限はあ りませんから、円売り介入は無限にできるこ とになります。他方、外貨準備で保有するド ルには限りがありますので、ドル売り介入に は上限があります。一般に新興市場国・発展 途上国では外貨準備に限界があるため、自国 通貨安に介入で対応するのは困難とされてお り、外貨準備が枯渇する前に為替の切り下げ を選択するのが通例です。  市場介入に効果はあるのでしょうか? 従 来の研究では、効果がないとするものが多数 です。たしかに、1囗当たり6・6兆ドル (2019年4月)も行われている為替取引の 中で、公的部門が行う売買は大海の一滴です から、その程度で市場参加者の価格形成に影 響を及ぼすはずがありません。ポイントは、 心理的な影響をどう考えるかです。  市場の動きが一方向に傾いたり大きく混乱 したりするとき、市場参加者は介入リスクを 警戒します。介入で市場レートが反対方向に 動けば損が出るからです。政府・中央銀行側 は、サプライズ効果を狙ったり、あるいは予 想外に大量の注文を出してみたり、場合に よっては介入と同時にその事実を公表したり して、トレーダーに心理的な影響を与えよう とします。その観点から、複数の国が同時に 介入を行う協調介入は、心理的な効果が大き いと言えます。特に、基本的には市場介入に 消極的な米国が加わった協調介入は、往々に して大きな効果をもたらすようです。  変動相場制下、為替レートは市場に任せる べきですが、すべての介入が不適切だという ことにはなりません。実力不相応の水準に為 替レートを持っていこうとするような介入は 資金の無駄ですし、効果も期待できませんか らやるべきではないですが、市場が薄い場合 や、何らかの理由(ショック)で無秩序な動 きをしている場合に、オーバーシュートを抑 えたり、市場の動きをなだらかにしたりする 目的から限定的に市場介入を行うことはむし ろ妥当なことだと考えます。プラザ合意後、 日本経済は急速な円高に適応できずに苦労し ましたが、長期的には各企業の努力で円高へ の耐性を強めていくことができました。世界  経済の中で囗本の政治的・経済的地位が変動  するにつれて、為替レートが(名目値で)大  きく動くことは今後も起こり得ます。その際  に、適応の時間を稼ぐ意味でも、限定的な市  場介入のオプションは保持しておくべきで (13)減税により好景気となるため税収がむしろ上昇し    て、軍事費をはじめとする歳出の財源が十分に得    られるとの触れ込みでしたが(提唱者の名を採っ    て「ラッファーカーブ」と呼ばれました)、現実    には財政赤字の激増を招いたのみでした。 (14)「自主規制」と言いつつ、米国への輸出が実質的    に制限されたため、自動車業界は米国での現地生    産を進める道を選びました。 (15)当時は1984年度(昭和59年度)に、赤字国債    の発行から脱却するのが日本政府の目標でした。 (16)為替レート変動が貿易数量に影響を与えるまでの    間、貿易収支が予想と反対方向に動く現象のこと。    当時の円高では貿易黒字が減るはずなのにしばら    くの間むしろ貿易黒字が増加しました。 (17)各年度に赤字目標を設定して、実際の予算の赤字    見通しがこれを上同る場合には、その超過額の半    分を国防費から残り半分を非国防費のうちの裁量    的経費から機械的に削減するというドラスティッ    クなものでした。 (18)旧西ドイツ地域は、旧東ドイツ地域に巨額の財政    移転を行います。一方、旧東ドイツの経済の実力    を無視して、東西のマルクを同価値と設定したた    め、生産性と賃金レベルが適合せず、コスト高に    苦しむようになりました。 (19)クリントン政権は、特に自動車や自動車部品で厳    しい要求を行う一方、ドル安を放置したため、    1995年4月に円は史上最高値(Iドル=79・    75円)まで上昇しました。  第5の危機 発展途上国の債務危機  はなぜ同時多発したのか?  −ラテンアメリカ大混乱、−MFプログラ  ム、ブレイディープラン  「借りたお金は返す」は人間社会の基本ですが、返 済が遅れてしまうことがあるのも事実です。もし借 金が少額であれば偵務者が金策に走るだけですが、 偵権者の死命を制するほど借金が巨額であったらど うでしようか? 債務者が返済を再開できるように、 偵権者も必死でアドバイスしたり、場合によっては 一部の返済を猶予したりするのではないでしょう か? 1980年代には、まさにそうした事態が発 展途上国(当時は新興市場国という呼び方がまだ定着し ていません)を舞台に同時多発的に発生しました。  偵務が返済不能となると、途上国に貸し込んでい た大銀行の健全性を直撃しますので、これらの銀行 の監督者である先進国の政府・中央銀行は先頭に 立って危機解決に奔走することになります。途上国 偵務危機が先進国の銀行危機につながるのをギリギ リで食い止めつつ、偵務国の経済を立て直していく にはどうしたらいいか、G7と国際機関は衝突しな がらも知恵を絞っていきます。そうした中、経済大 国としての責任感から国際金融の課題に積極的に発 言するようになっていた日本は、画期的な提案を行 いました。日本の提案が各国に反対されたのは想定 の範囲内でしたが、結果的に各国の合意を得た案は、 日本にとって大きなサプライズでした。 発展途上国で債務危機が起きた背景  途上国が国内に不足する資本や技術を国外から導 入して経済発展を実現していくのは、至極当然のこ とであり、むしろ発展のために不可欠とも言えるで しょう。従って、途上国の対外債務がある程度多額 になるのは普通のことですし、途上国は往々にして 名目成長率が高いため、債務残高のGDP比がそれ ほど上昇しない例も多く見られます。  では、なぜある国々ではそれが危機となって、他 の国々では危機にまで至らないのでしょうか?  第一に、通常、途上国の民間企業が海外の銀行等 から資金を直接借り入れるのには限界があり、国家 (あるいは国有企業)が債務者となるか、国家保証を 付けるかして、国家の信用力を動員して信用リスク を下げる必要があります。そこで、借金をするにあ たっては、国家財政の将来見通しに基づき、余裕を 持って返済できる額にとどめておく必要があります が、身の丈以上に借りてしまって財政危機に至って しまう国が、残念ながら多いのです。  第二に、借り入れた資金を有効に活用できている か否かが重要です。将来の発展につながる投資(人 材やインフラ)ならよいのですが、往々にして大統 領の意向に沿った大プロジェクト(20)や、増税を 避けるため単純に財政赤字をファイナンスするよう な案件が見られ、偵務返済のために必要な歳入が得 られないまま債務負担だけが残ることになりかねま せん。  第三に、為替レートが安定しているかどうかです。 最近でこそ、自国通貨建てでも海外の投資家から借 り入れられる途上国が少数現われていますが、途上 国は一般的に外貨建てで借りざるを得ません。返済 するまでの間に自国通貨の為替レートが下落してし まった場合には、外貨による借金の返済のため自国 通貨をよりたくさん集める必要があります。つまり、 自国通貨建てで見たときの実質的な債務負担が上昇 してしまうわけです(21)。 なぜラテンアメリカだったのか  2回のオイルショックで大量の黒字を計上した産 油国が、入手したドル(オイルダラー)を主に欧州 の銀行に預けたので、世界的にドルが潤沢となって、 途上国は比較的容易に先進国の銀行からドル資金を 借りることができました。しかし、1980年頃か ら、途上国を取り巻く環境が変化し、偵務返済に困 る国が次々に現われることになります。  第一の変化は、金利の上昇です。米国のボルカー FRB議長の大胆な利上げ政策により、ドル金利は 20%近くまで上昇しました。第二に、ドル高による、 返済負担の上昇です。第三に、一次産品価格の下落 です。途上国の多くは一次産品の輸出に大きく頼っ ているので、価格下落により獲得できる外貨が減少 します。第四に、先進国(特に米国)の不況です。 輸出の減少をもたらすので、ますます外貨獲得が困 難になります。  1980年代に偵務危機に陥ったのは、ラテンア メリカ諸国に限られませんが、国際金融システムに 与えた影響から考えると、ラテンアメリカの三大国 であるメキシコーブラジルーアルゼンチンが震源地 です。  なぜ、ラテンアメリカー特にこれら三国−で、 特に激しい偵務危機が起こったのでしょうか?  まず、ラテンアメリカ諸国の債務の多くが、短期 債務で変動金利だったため、米国の利上げの影響で、 利払い費が急速に上昇してしまいました。借金で調 達した外貨も財政赤字の穴埋めに使われることが多 くヽ成長の芽となりません(22)。加えて、三力国 の経済は、メキシコの原油、アルゼンチンの農作物、 ブラジルの鉱物資源等、一次産品の輸出に頼ってい たので、価格低下が直撃します。また、インフレに よって自国通貨の信認が下がり、国民は自己防衛の ために自国通貨をドルや実物資産に交換(資本逃避) するので、ますます自国通貨の為替レートが下落し て、外貨建て偵務の返済は困難になりました。  さらに、フォークランド(マルビナス)戦争も挙 げられます。1982年4月から、英国とアルゼン チンが、アルゼンチン沖の島の領有を争った戦争に より、アルゼンチンは銀行団への偵務返済を停止し ましたが、先進国の銀行はアルゼンチン及び周辺の 国への新規融資を停止・減額したので、それらの国 への外貨供給が滞りました。  外部環境が悪化する中、1982年段階で、対外 偵務のGDP比はアルゼンチンとメキシコで50%以 上、ベネズエラやブラジルでは40%前後と、数年前 に比べて数倍にも達し、偵務危機は一触即発でした。 ラテンアメリカ諸国の負っていた偵務の偵権者の シェアを見ると、米国の銀行が約35%、欧州の銀行 が30%、邦銀が15〜20%ですので、ラテンアメリカ の偵務危機は、米国の銀行危機と裏表だったので す(23)。  1982年8月、メキシコが偵務元本の返済不能 を宣言したことで、偵務危機が幕を開けます。 債務返済が困難な国への対応策  家計で借金返済が難しくなった場合、人々はどの ような手段を採るでしょうか? 支出を削ったり、 副業収入を増やしたり、場合によっては別な人から 当座の返済資金を借りたりするのではないでしょう か? 返済期日を延ばしてもらうことも可能かもし れません。  国家の偵務でも基本的な対応は同じです。偵務国 が偵務返済に必要な外貨を調達できないのがそもそ もの問題ですから、外貨を捻出するために経常収支 赤字を縮小する、輸出や借り入れで新しく外貨を獲 得する、偵務の返済スケジュールを変更して返済を 容易にする、といった手法を組み合わせることが基 本です。  債務返済に困った国は、なるべく自助努力でこの ような対応を行いますが、自国だけではどうしよう もなくなると、IMFの支援を求めることになりま す。IMFは融資の条件として、IMFの処方する 政策(コンディショナリティー)を列記した「調整プ ログラム」に同意することを求めます。コンディ ショナリティーは通常の場合、財政・金融の引き締 め政策(国内景気を減速させて輸入を減らす)と為替 レートの切り下げ(輸出品の価格を下げて輸出競争力 の同復を目指す)の組み合わせになります。また引 き締めによって、通貨への信認を回復して、資本逃 避を防ぐ効果も期待されます。  IMFプログラムの実行は、借り主の信用リスク を下げるので、友好国、国際機関、民間投資家等が 新規融資に応じるインセンティブとなります。換言 すれば、新旧の偵権者にとって、IMFと偵務国が プログラムを組むことが偵務返済の担保となるわけ です。融資に加え、必要に応じて、返済期間の長期 化といった偵権債務契約の変更(債務のリストラ) が行われます。  偵務国への国際社会の支援は、その国がIMFと プログラムを結んで、そのコンディショナリティー を守ることが大前提です。逆に、その国がIMFと の約束を守れなくなると、IMFからの融資がス トップし、連動して他の貸し主からの資金も止まっ てしまいますので、偵務国は往々にしてデフォルト (債務不履行)に陥ることになります。  メキシコーアルゼンチンーブラジルは、それぞれ IMFとのプログラムに合意しますが、財政赤字の 縮小やインフレ抑制に失敗してプログラムの条件が 守れず、3力国ともIMFからの融資がストップし てしまいます。3力国の政策は迷走し、ブラジルは 1987年、アルゼンチンは1989年に偵務返済 を停正しました。その過程で国民生活は大きな打撃 を受けました。1980年と1990年の一人当た り実質GDPを比較すると、メキシコでマイナス3 %、ブラジルでマイナス6%、アルゼンチンでは驚 くべきことにマイナス23%も生活水準が低下してお り、この10年間が残した傷跡は明らかです。 債務問題への考え方の進化  例えば企業や家計で借金の返済が滞ると、債権者 は最初に何を考えるでしょうか?  おそらく、それが一時的な資金繰りの問題なのか、 より根本的な返済能力の問題なのかをまず考慮する でしょう。前者であれば、債務者に時間の余裕を与 えるため、返済条件の長期化や、担保を取って追加 融資をするのが合理的です。もし後者であれば、偵 権者も一定の損失を被った上で、偵務の一部帳消し 等に応じるのが一般的です。  他方、「国家は倒産しない」(シティバンク元CEO ウォルター・リストンの言葉)というのが、その時点 の常識であり前提でした。従って、国家の偵務危機 は一時的な資金繰りの問題に過ぎない、という確信 から出発した上で、その国が今後債務支払いを継続 するためにはどのくらいの外貨の流入が必要であり、 そのためにはどの程度の緊縮政策と新規融資が必要 となるか、という試算を行います。この作業は多く の場合IMFのプログラム策定の過程で行われ、そ の推計を柱としてプログラムが形作られることにな ります。  しかし、ラテンアメリカの偵務危機に関しては、 国家の偵務問題は場合によっては返済能力不足の問 題として扱わざるを得ないのではないか、という認 識を徐々に広げました。もちろん融資を行った各国 政府や民間銀行には受け入れがたい考えです。危機 に陥った要因には、米国の高金利政策や一次産品価 格の変動等、危機国のコントロールの及ばない事情 もありましたが、危機国自体のマクロ経済政策に大 きな問題があったのも事実ですから、それを棚に上 げて債務削減を求められても、債権者として受け入 れがたいのは理解できます。一方、危機国の国民に 厳しい緊縮政策を強いて貧困を拡大することの倫理 的な問題も無視できません。ある国家について、返 済能力がないと断言することは極めて難しいですが、 ラテンアメリカの債務危機をきっかけに、少なくと も現実的なアプローチを採るべき場合があるのでは ないか、との認識が国際社会に広がっていきました。 いくつかの債務戦略  偵務危機の対応に奔走した先進国や国際機関は、 危機国それぞれの事情を勘案して、当初は各国ごと にケースバイケースアプローチで対応策を策定して いましたが、やがて、包括的なアプローチが提案さ れるようになりました。  (I)ベイカープラン。米国のベイカー財務長官が 1985年10月に発表したもので、15力国の重債務 国(後に2力国を追加)を対象に、経済改革を加速さ せるのと引き換えに民間銀行が3年間で200億ド ルの追加融資(ニューマネ士を供与し、世界銀行 等の国際機関も3年間に対象国への融資を増額する ことを約束する、という内容でした。初の包括的な 提案であり注目を集めましたが、すでに個別国の対 応の中でニューマネーの供与等が盛り込まれる例も あり、ベイカープランが全体として国際社会で採用 されたということにはなりませんでした。  (2)宮澤構想。1988年9月、囗本の宮澤蔵相 は「宮澤構想」を発表します。それは、債務国がI MFの構造調整プログラム(構造改革を盛り込んだ比 較的長期にわたる調整プログラム)を着実に実施して いることを条件に、銀行からの債務の一部を証券化 して投資家に売るとともに、残りをリスケ(返済期 間の長期化)するが、その際銀行団の了解の下で金 利の減免を含み得る、というものでした。これは危 機国の債務支払い能力を考慮して、債務返済の負担 そのものの軽減に踏み込んだ初めての提案で、極め てドラスティックなものでした。また、偵務国は外 貨準備をIMFの管理する勘定に移して、債権者に 対する担保とする、という工夫も盛り込まれていま した。  この提案に対し、米国は激しく反対します。不適 切な政策を採り、身の丈以上に借り過ぎた偵務国に 対して、偵務負担軽減のオプションを与えるのは、 今後適切な政策を採る意欲を低下させるというモラ ルハザードを惹起する、という理屈でした。米国の 支持を得られなかった宮澤構想は、他国の好意的反 応にもかかわらず事実上黙殺されました。  (3)ブレイディープラン。宮澤構想発表の半年後 の1989年3月、就任早々のブッシュ(父)大統 領政権のプレイティー新財務長官はブレイディープ ランを発表します。その内容は、債務国がIMFの 構造調整プログラムを着実に実施していることを条 件に、債務国に広範なメニューを提示し、その中に は債務元本の削減、金利の減免、ニューマネーの供 与等を含む、というものです。また、偵務国は米国 のゼロクーポン国債を購入し、それを担保として転 売可能な新しい偵券(プレイティーボンド)を発行し て旧偵務と交換することになっていました。二白で いえば、あれほど批判した宮澤構想をさらに進めた ものでした。  ブレイディープランは国際社会に歓迎され、主と して米国の中小銀行や米国以外の銀行が新旧偵務の 交換に応じました。アルゼンチン、ブラジル、メキ シコをはじめ、ラテンアメリカを中心に多くの国が プレイティーボンドを発行し、徐々に危機国への信 認が回復して、債務危機の大波が静まっていきまし た。  日本にしてみれば、せっかく出したアイディアを 横取りされたような経験でした。しかし、客観的に 見れば、宮澤構想は従来の正統的な考えからほんの 半歩先にしか出ていなかったのに比して、プレイ ディープランは従来の常識から数歩先の大胆な提案 でした。日本は、この貴重な教訓を学んで、次の機 会には極めて大胆な提案を行うようになります。 危機の残したもの  1970年代以降、経常収支赤字国でも容易に対 外借り入れが可能になりましたが、その副作用とし て安易な借り入れも増加しているように思われます。 借り入れの形態や債権者の多様化が、こうした傾向 を助長しているかもしれません。その結果、現在に 至るまで、債務問題は繰り返し発生し、1990年 代後半のブラジルやロシア、2000年代以降のア ルゼンチン、2010年代の欧州諸国等、国際金融 システムを動揺させる例も見られます。  (I)銀行融資が主だった1980年代と異なり、 その後は国債発行による資金調達が通常になってい ますので、関係者の数が圧倒的に増加し、債務のリ ストラの際に債権者の合意を得るプロセスが複雑に なりました。  (2)2000年代後半から、一部の新興市場国が 途上国に対して相当規模の貸し付けを行うようにな りました。特に中国による貸し付けの規模は群を抜 いています。世界銀行によると、2020年末時点 で、中所得国・低所得国122力国(中国自身を除 く)が中国に対して負う債務残高は1700億ドル で、2011年の水準の3倍以上に増えました。 2018年のデータでは、低所得国72力国のうち 51力国で中国が最大の偵権者と言われていま す(24)。世界銀行のような国際機関や、G7等の 先進国は、途上国への融資に当たり、環境アセスメ ントや社会的弱者への配慮等、種々の条件を付ける のが普通ですが、中国等はこうした条件を付けずに、 融資決定までの期間も短いと言われますので、途上 国側からすれば、非常に借り易い相手と言えるで しょう。その一方、中国から供与されるローンは、 その条件等が非公表のものが多く、債務国の債務負 担の透明性が確保されていない問題がありま す(25)。また中国やサウジアラビア等、新しく債 権国としての地位を確立した国は「パリクラ ブ(26)」に加盟していないため、債権国間の情報 共有もスムースではありません。  (3)国家の債務返済能力の判定を客観的に行う目 的で、IMFは2001年に、企業の倒産法制に類 似した国家の債務再編手続きを提案しました。つま リ、資金繰りの問題か返済能力の問題かの判断を、 IMFの場で各国が議論して決めるというアイディ アですが、主権国家に対してIMFのような国際機 関が一種の司法権を及ぼすことへの反対等が根強く、 結局、同提案は放棄されました。そのため、資金繰 りの問題か返済能力の問題かの判断は、個々のケー スに応じて考えざるを得ない、という状況が依然と して継続しています。後のギリシヤ危機の際には、 IMFとEUの間で、ギリシヤの偵務返済能力につ いて意見が一致しないことにもなりました。  (4)アフリカを中心とする低所得国が債務返済の 負担に苦しみ、それが国民を貧困にとどめている、 との批判が1990年代末にNGO等から行われた 際には、主要先進国や国際機関は返済能力の有無の 議論に深入りせず、IMFとのプログラムがきちん と実施されていることを条件に、重債務低所得国へ の広範な債務削減に合意しました。債務負担が軽減 したこれら諸国は、その後、主に中国からの借り人 れを増やしたため、偵務残高のGDP比が再上昇し ています。  途上国の偵務は増加を続けています。従来の経験 から推察すると、おそらく相当な金額の借金がそれ ほど効果の高くない目的に使われているでしょうし、 一部では汚職も引き起こしているでしょう。借金に よって実行されるプロジェクトには、社会的弱者や 人権・ジェンダーヘの配慮が十分でないものや、地 球環境に害を及ぼすようなものもあるでしょう。こ うした懸念に実効的に応えるにはどうしたらよいで  また、偵務の増加は、債務返済が滞るリスクを高 めます。幸い現在のところ、主要国の低金利のおか げで外貨建て偵務の金利負担が極めて低いため、偵 務危機にまで至っている国はないようです。しかし、 今後新型コロナ危機からの回復の過程で主要国の金 利が上昇していくと、債務返済に困る国が出てきて も不思議ではありません。その際、1980年代以 来主要先進国(旧来の債権国)が積み重ねてきた対 応策に、中国等の新しい債権国が同意するかどうか は、全く不確実です。偵権国が早い者勝ちで自らの 偵権への返済を確保しようとすれば、国際協調が失 われるのみならず、先進国政府や民間投資家から今 後途上国に新規融資を行うインセンティブが下がっ てしまいます。どうすれば、そのような事態を避け られるでしょうか?  これらの懸念に立って、G20やIMF・世界銀行 は、途上国債務の透明性(金額、融資条件等)を高め ることを強く訴えています。また、途上国のマクロ 経済情勢を分析して、どの程度の債務返済リスクが あるかを算定し、公表しています。まだ十分とは言 えませんが、国際社会が一丸となってこうした地道 な努力を続けることで、債務危機の発生リスクを低 減し、発生しても早期に対応策が採られることを期 待するしかありません。 コラム 発展途上国の貧困問題は解決できま すか?  貧困の中で暮らす人々は、世界中にどのく らいいるのでしょうか? 世界銀行では、 2011年の購買力平価(個々の国の物価水準 を考慮した為替レート)でI囗I・9ドル未満 で暮らすことを貧困と定義しました。これを 絶対的貧困と呼ぶこともあります。それは。 一国の中で、他の人々に比べて所得が低い大 たちを示す相対的貧困と区別するためです。 相対的貧困は、国民を可処分所得の順番に並 べた際、ちょうど真ん中の人の所得の半分以 下の所得しかないことと定義され、先進国に も当然存在し、日本では相対的貧困率が比較 的高いと指摘されています。  絶対的貧困層が世界人口に占める比率であ る貧困率は、1990年には約36%でしたが、 着実に低下して2017年には9・3%にま で下がりました。これは国際社会が誇れる、 歴史的な進展です。しかし、この劇的な改善 をもたらしたのは人口14億人の中国の驚異的 な経済発展であり、それ以外の地域での進展 は限定的です。たとえば、サブサハラ諸国の 貧困率は2018年時点で依然として40%を 上回っています。その結果、世界の貧困人口 の約3分の2がサハラ以南のアフリカ諸国に 集中しています。つまり、持続可能な開発目 標(SDGS)の第一の目標である貧困の撲 滅のためには、アフリカの貧困問題に取り組 むことが不可欠なのです。  絶対的貧困を削減するには、その国の経済 が発展し、その果実が国民の中の貧困層に及 んでいく必要があります。では、どうすれば 経済が発展するのでしょうか?  農業の生産性向上のため新品種を推奨する、 道路や橋といったインフラを整備する、天然 資源開発のため外資を導入する、国民の教育 レベル向上のため学校建設を進める、市場を 通じた民間活力を活用するため規制を緩和し 民営化を進める、政治家や官僚の腐敗を追及 する、法制度を改革してビジネス環境を整え る、特に女性の起業家に小口融資を供与する 等々、様々な提案が学会や政策サークルの議 論を経て実行されてきました。それぞれが極 めてもっともな提案であり、相応の効果を発 揮してきたはずですが、中国のように劇的な 変化をもたらした例は、今のところアフリカ のサブサハラ地域には見られません。  途上国の側から見ると、多数の人間を一定 の所得水準に短期間で引き上げるのは、当面 やはり製造業以外には考えられないと思いま す。従って、サブサハラ地域で製造業を誘 致・振興できれば、経済発展が急速に進むか もしれません。  現在、政治的要因やサプライチエーン多様 化の要請から「チャイナ+1」戦略を採る企 業が増えています。これまでのところ「+ 1」は大体がベトナムやバングラデシュ等、 東南アジア・南アジアの中から選ばれている ようですが、サブサハラ等アフリカ諸国で あっていけない理由はありません。しかもア フリカ諸国は欧州市場に比較的近く、歴史的 にも深い関係がありますから、製造業誘致に は潜在的な可能性があると考えられます。  加えて、欧州を筆頭に主要国が気候変動対 策に真剣に取り組んでいる中、製品の研究・ 設計をする方が、製造をするよりも温室効果 ガスの排出が低いので、気候変動に真剣な先 進国は、ますます製造業を海外に依存するは ずです。  他方で、中国に比べてサブサハラ地域が不 利な点は、第一に中国と違って多くの国が分 立しているため、統合的な戦略を作るのが難 しいことでしょう。中国ではまず深馴に経済 特区を作ってそこを自由化の拠点としました が、サブサハラ諸国の中で、ある一国の一地 域を選んでそこに人的・経済的資源を集中す るような決定は、該当しない国にとってなか なか受け入れがたいでしょう。といって、一 つの国だけでは、中国が供給した10億人を超 える労働力を動員することは不可能です。第 二に、アジアでは域内にすでに工業化に成功 したロールモデルが多々存在しました。いわ ゆる「雁行モデル」です。しかし残念ながら、 サブサハラ地域では、他国が真似できるよう な成功例がないのが実情です。  もちろん、製造業の誘致と言っても、地理 的条件や歴史的制約等もあり、中国モデルを そのまま輸入すればいいというような単純な 話ではありません。中国を含め、他の途上国 も潜在的ライバルです。残念ながら、サブサ ハラ諸国の経済発展・貧困撲滅は、簡単な道 のりではないのです。  最後に、サブサハラ諸国などの国々が貧困 を削減していくことに反対する人はいません が、そうして世界中の人間がより豊かになっ た未来には、どのように資源や環境を守り食 料や資源の不足を防ぐか、一層進展するグ ローバリゼーションの中でどのように感染症 などのパンデミツクを防ぐのか、増加するで あろう経済的対立や政治的紛争をどのように 予防し解決できるのか、といった新たな問題  で人類の叡智が試されることになるでしょう。 (20)1980年代に、コートジボワールのウフェボワ   ニ大統領は、バチカンの聖ピエトロ教会を模した   世界最大の教会を白身の故郷に建設し、国民の生   活向上を後回しにしたと批判されました。 (21)為替変動リスクを引き受けて外貨建てで借りざる   を得ない途上国の宿命を、キリスト教の教えで人   類が誕生以来抱える罪になぞらえて、途上国の    「原罪」と呼びます。 (J一)もともとインフレ体質のため、給与や年金等がイ    ンフレに連動しており、インフレ上昇がすぐに財    政赤字の増加につながりました。 (23)大手米銀は、資本金を超えるような多額の融資を    行っていました。 (24)日本は7力国、サウジアラビアは6力国で最大の    債権国となっています("Putti.ng a E)Oliar Amount    O{‘(いnina s Loans to tne ueveiopi.ng World"「 The    Diplomat」。 (25)スリランカは、中国からの債務と引き換えに、八    ンバントタ港を99年間運営する権利を中国系企業    に供与したと報道されています。 (26)先進国政府はパリクラブというグループを作り、    定期的に会合しています。そこでは、特定の債務    国からの返済が滞った、といった情報交換が行わ    れると同時に、危機国に対して債務のリストラが    行われる場合には、誰も抜け駆けしないように、    リストラ条件等を横並びで揃える合意を形成しま    す。  第6の危機 アジア通貨危機とはI  体何だったのか?  −サドンストップ、パニックの伝播、アジ  ア通貨基金 世界をリードしようとした日本  1990年代、日本はバブル崩壊の後遺症に苦し む一方、クリントン政権下で一層激化した日米貿易 摩擦への対応にも追われました。円高が強烈に進ん だ結果、円ドルレートは1995年4月にIドル= 79円台をつけ、日本経済は大きく傷つきました。日 本企業は、輸出競争力を維持するため、アジア諸国 を中心に拠点を設けて海外生産を進めます。邦銀も、 アジア地域への融資を拡大していきました。そうし た中でアジア危機が起こり、当事者のアジア諸国は もちろんのこと、日本経済も大きな影響を受けまし た。ラテンアメリカ諸国の債務危機に米国が主体的 な役割を果たしたように、日本はアジア危機解決に 向けて、国際社会をリードしようとします。しかし、 日本の考えは、市場原理を信奉する当時の正統的な 考えを打ち崩すことができませんでした。 サドンストップ  通貨危機は、為替レートが暴落することで発生し ます。政府・中央銀行は、固定レートを防衛するた め(あるいは、変動レートであっても変動幅を小さくす るため)に為替市場で外貨を売って自国通貨を買い 支え、金利を引き上げて自国通貨への信認を維持し ようとします。こうした防衛策が奏功すればよいの ですが、往々にして外貨準備が枯渇して防衛をあき らめざるを得ないことになりがちです。通貨危機に 見舞われた後には、国民がインフレ・失業・景気後 退等に直面することが通常です。  こうした通貨危機をもたらすのは、その国の通貨 を売って外貨に交換しようとする大きな動きです。 従来その国に投資をしていた海外投資家が資金を回 収する場合や、投機的なプレーヤーが空売りを繰り 返して、レート暴落後に買い戻して巨利を狙う場合、 また国民自身が資金を海外に持ち出す場合(資本逃 避)等が考えられます。  海外投資家からの資金の流れが、突然激減したり 逆流したりすることをサドンストップと呼びますが、 そのようなことは、どうして起こるのでしょうか?  資金を受けていた国で政変があったとか、インフ レが加速して国内経済が混乱したといった場合、海 外投資家がその国から資金を引き上げるのは、ある 意味当然のことでしょう。他方で、その国の抱える 問題がそれほど大きくないのに、投資家が自らの判 断で資金を引き上げる場合もあります。しかも、A 国が危機になったので近隣のB国も危ないのではな いかとの連想で、B国からも資金を引き上げるとい うパニック的な行動が発生してしまうと、B国に とってはお手上げです。資本移動に主導されて、あ たかも伝染病のように、危機がA国からB国に伝播 してしまうわけです。 メキシコ‥1994年12月1  メキシコの通貨危機(テキーラ危機)は、投資家 の動きによって生じたタイプの最初の危機と言われ ました。というのも、危機に至るまで、メキシコは 経常収支赤字を上回る外国資本の流入を得て、外貨 準備が順調に増加していたからです。ただし、メキ シコの経済政策が適切であったかと言えば、そうで はありません。1990年代前半の経常収支赤字が GDP比5%前後と大きく、インフレ率も米国より ずっと高いにもかかわらず、通貨ペソはドルとペッ グ(固定)されていました(27)。財政支出の拡大は 止まらず、財政赤字は、実質的にドル建ての国偵を 海外投資家向けに大量に発行して穴埋めしていまし た。経済の土台がそのように脆弱なので、政治的混 乱(大統領候補の暗殺)をきっかけにペソヘの信認が 低下したことで、強烈なペソ売りアタックと資本逃 避に見舞われたのです。二日間で外貨準備は半減し、 当局はペソ防衛をあきらめてフロート(変動相場制) に移行したので、一週間でペソの価値は約50%も暴 落してしまいました。  危機に対処するため、IMFの調整プログラムと それを補完する国際的な支援パッケージ(総額 500億ドル)が米国を中心に組成され、為替レー 卜の下落は数力月で底を打ちました。しかし、イン フレと不況で一人当たり実質GDPは1年間で約8 %低下し、最貧困層は人口の7・5%(1994年) から18・1%(1996年)に跳ね上がってしまい ました。  海外投資家が資本を引き上げたことで、これほど 急速に壊滅的な為替の暴落が発生したのは、大きな 驚きであり、当時IMFの専務理事だったカムドウ シュはこうした状況を「21世紀型危機」と呼びまし た。規制緩和等で国境を越えた資金の移動が容易に なったことが、その背景にありました。実際メキシ コも、1994年1月の北米自由貿易協定(NAF TA)発効や、1994年5月の経済協力開発機構 (OECD)加盟を受けて、資本の自由化や金融サー ビスの開放を促進し始めたところでした。 アジア危機  メキシコの危機は、その後に起こったアジア危機 の前触れでした。  東南アジア各国もメキシコ同様、対ドルの為替 レートを事実上固定した上で、海外からの投資を呼 び入れる政策を採っていました。また、1980年 代後半の円高に対応するため、日本企業が海外生産 拠点として東南アジアを選んだことから、輸出主導 の発展を謳歌しました。後に危機に陥るタイ、イン ドネシア、マレーシア、韓国は、いずれも1990 年代前半に高成長を続けており、絶好調と言える状 況でした。  たしかに危機の直前には、日本企業が次第に、よ り低コストの中国へと生産拠点を移したことや、米 国が「強いドル」政策に転じてアジア諸国の通貨も ドルとともに上昇した一方で、中国が元の公定レー トを大幅に切り下げたことから、徐々に輸出競争力 に陰りが生じていました。また、メキシコと異なり ほとんどの国で財政は黒字でしたが、経常収支は大 幅な赤字(28)でしたので、脆弱性を抱えていたこ とは否定できません。それでも、大規模な危機を予 想した人は皆無でした。  危機に対応するため、IMFを先頭に国際社会が 支援の手を差し伸べます。しかし、当時は市場の力 を信奉し、自由化を優先する考え方が主流であった ため、支援の条件もそれに沿ったものとなりました。 すなわち、それぞれの経済構造の「歪み」を正して、 規制緩和や自由化を進めれば、投資家の信認が高 まって資金が戻ってくる、という論理が強く打ち出 されたのです。日本は、危機の際にはまず消火に努 めるべきで、時間のかかる構造改革は危機が収まっ てからにするべきだと指摘し、改革についても自由 化が常に最適解とは限らないと主張しましたが、少 数派でした。  ここでは、危機の及んだ中で比較的大きな国であ るタイ、インドネシア、韓国について危機の概要を 説明した上で、なぜこれほど大規模な危機がアジア 地域で続発したのか、考えてみます。 タイ‥1997年7月1  タイでは、国内よりも規制を緩和したオフショア 金融市場を通じて海外から流入した巨額の資金で、 不動産市場がバブル状態となった後に崩壊したため、 ノンバンク(29)の不良債権増加に注目が集まって いました。そうした中、タイーバーツ売りの投機的 アタックが行われます。中央銀行はパーツ防衛のた め市場介入しますが、先物市場で大量のドル売りを 行って外貨準備がほぼ枯渇したため、7月2日に パーツのフロート移行(固定相場の放棄)に追い込 まれました。発表直後から、パーツは底なしに下落 し、1998年1月までの半年間で、パーツの価値 は対ドルで半分になってしまいました。  この危機に緊急に対処すべく、メキシコ同様、I MFのプログラムと国際的支援パッケージが組成さ れました。アジアの友好国ということで、日本が多 額の支援を表明している一方、米国が支援に参加し ていないことが注目されます。テキーラ危機の際に、 米財務省が議会の了解を待たずに為替安定化基金 (外貨準備)を用いて支援を行ったのが批判されたた め、今回は躊躇したのだと言われています。  IMFプログラムの融資条件は、伝統的な国際収 支危機に対応するもの、すなわち緊縮政策でした。 通常、大きな経常収支赤字を抱える国は財政支出の コントロールができていないことが多く、メキシコ の危機でもそうでした。しかしタイは、危機までの 10年間にわたって財政黒字を計上していたので、経 常収支赤字の原因は他に求めるべきでした(30)。 具体的には民間部門の過剰投資です。  支援パッケージの最大の問題は、支援総額が、危 機を乗り切るのに必要な金額に達していないことで した。先物のドル売りポジションが234億ドルに 上り、さらに短期民間偵務が300億ドル以上ある ことが明らかになったことで、172億ドルの金融 支援では当面の外貨支払い必要額に対して不十分で あることが自囗の下に曝されてしまいました。不安 になった海外投資家が、資金回収に一層励むのは、 やむを得ないことでした。 インドネシア‥1997年10月1  危機前のインドネシアの経済状況はタイよりも良 好でした。経常赤字のGDP比はタイの半分以下で、 財政も黒字であり、既にタイ危機の直後にフロート 制に移行していたため、通貨ルピアの下落に対して も、固定レートを防衛しようと外貨準備を枯渇させ る必要はありませんでした。それでもタイ危機後に ルピアの為替レートが徐々に下落したため、インド ネシア政府は、念のためIMFプログラムを導入し て信認を高め、投機筋からのアタックを予防しよう とします。ところが、厳しい内容のIMFプログラ ムに合意してしまったため、それが遵守できないこ とでかえって投資家の信認を失い、命取りになって しまいました。  IMFの融資条件で大きな問題となったのは、経 営難に陥った小規模な銀行16行の閉鎖です。金融セ クターの改革自体は望ましかったのですが、一般的 な預金保険が存在しない状況で閉鎖を強行したのは 失敗でした。16行以外の預金者が、自分の取引先の 銀行も閉鎖されたら預金が保護されないのではない か、との不安心理に駆られることを想定していな かったのでしょう。その結果、他行でも取り付け騒 ぎが発生してしまいました。  他方、国際的な支援パッケージを見ると、各国か らの支援(今同は米国も参加しました)は「第二線準 備」と位置付けられました。その含意するところは、 第一線である国際機関からの資金(及びインドネシ ア自身の資金)を投入してもルピア売りアタックが 沈静化しなければ、各国からの資金を投入する、と いうことですが、そうなると実際の資金支援額がい くらになるのかが不明確です。インドネシアが当面 得られる外貨支援の額が確定していなければ、投資 家が安心して資金をルピアにとどめておくのは難し かったと思われます。実際、IMFによれば、 1997年第4四半期と1998年第1四半期の 6ヵ月間で、民間資金はGDP比約25%の流出 (400億〜500億ドル)となった一方、公的資金 の流入は5%程度にとどまったと推計されています。  IMFプログラムと国際支援パッケージの策定に もかかわらず状況が安定しないことから、スハルト 政権とIMFの意見の違いが表面化し、それにつれ てルピアヘの信認はますます低下していきます。 1998年1月には、予算案とIMFの経済見通し の齟齬を材料に、一日でルピアが25%も暴落したほ どです。  ここに至り、投資家からの信認の回復には劇的な 市場自由化措置が必要との主張が米国を中心に強ま り、IMFプログラムはその方針に従って改定され ました。具体的には、スハルト大統領の子息や友人 が利益を得ていたクローブ、合板、紙、セメント等 の流通独占の廃止が盛り込まれたのです。投資家は 自由な競争市場を求めており、権力者の取り巻きが 寄生的に経済を牛耳って大金持ちとなっている「ク ローニー資本主義」の構造を改めないと、投資家が 戻ってこないという主張でした。たしかに原理はそ うでしょうが、インドネシアのそうした寄生構造は、 危機が起こるまでも長期間にわたって存在して周知 の事実であったにもかかわらず、以前は問題なく大 量の資金が流入していた事実との矛盾は説明されま せんでした。  改定プログラムの署名式では、IMFのカムドウ シュ専務理事が腕を組んでスハルト大統領が合意文 書に署名するのを見下ろしている写真が世界中に配 信されました。良し悪しは別として、これまでの経 済運営の在り方を劇的に変えて自由化しようとする プログラムですから、まるで降伏文書にサインさせ ているようだと、アジア諸国で怒りの声が上がった のももっともでした。  投資家の信認回復のために構造改革の条件を呑ん だインドネシア政府ですが、難しい改革ほど実現に 時間がかかるものであり、国内からも反対派の突き 上げが出てきます。その結果、政府は構造改革をや る気がない、やる能力がないとの印象が広まりまし た。政府もIMFプログラムの枠外で危機解決を模 索する等したため、信認は一層低下し、ルピア売り の投機も継続します。補助金削減による物価上昇が 庶民の暴動を招く等、国内が混乱した挙げ句、スハ ルト大統領は1998年5月に退陣を余儀なくされ ました。  1998年の実質GDP成長率はマイナス13%に 達し、最貧困層は人口の44%(1996年)から63 %(1998年)へと上昇しました。 韓国‥1997年11月1  韓国では、1990年代から国境を越えた資金の 移動が徐々に緩和され、1996年にOECDに加 盟したこともあり、金融市場の自由化も進めていま した。ちょうどメキシコと同様に、短期の投資資金 が容易に出入りできる状況となっていたのです。  そこで韓国の銀行は、外貨建ての短期資金を調達 して国内で長期融資を行うビジネスモデルをとって いました。調達が短期ですから、頻繁に偵務を返済 しなければならない一方、融資は長期なので手許に 債務の返済資金がありません。結果として、債務の 返済時期が来るたびに同額の資金を借り換える (ロールオーバー)方式を採りました。  ところが、タイ危機の後、海外投資家(主に銀行) は短期資金のロールオーバーを拒否して資金を引き 上げ始めます。たしかに韓国の景気は減速を始めて いましたが、それでも実質GDPは6〜7%で成長 し、財政も均衡していました。経常収支は1996 年こそGDP比4%の赤字ですが、それ以前は1〜 2%程度です。つまりマクロ経済環境は、決して悪 くありません。  では、どうしてサドンストップに見舞われてし まったのでしょうか? 表面的には、その頃いくつ かの財閥が倒産したことから、企業統治(コーポ レートガバナンス)の在り方や、銀行の不良偵権に 注目が集まっていたので、投資家が韓国経済の将来 展望に不安を持つたという説明も可能でしょう。し かし、どちらかと言えば、タイやインドネシアの危 機に直面した投資家がパニック的に資金を引きLげ、 それに便乗して投機筋がアタックを仕掛けたとみる 方が、真実に近いと思われます(31)。  きっかけばどうであれ、サドンストップによる外 貨流出の穴埋めに、中央銀行が外貨準備を人量に国 内銀行に供給したことで、本当に外貨繰りの危機に なってしまいました。1997年末の時点で、自由 に使える外貨準備は91億ドルまで減少した一方、銀 行部門の抱える短期偵務は492億ドル、経済全体 では638億ドルに上っていたからです。  万策尽きた韓国は1997年H月にIMFに支援 を求めます。IMFのプログラムは、定型の緊縮政 策に加え、金融セクターの監督強化といった改革、 コーポレートガバナンスの透明性向上、貿易自由化 等を盛り込んでいました。これを補完すべく、多く の先進国が資金支援をコミットしますが、インドネ シアの時と同様、その位置付けは「第二線準備」と され、実際に外貨がどのくらい流入するかはっきり しませんでした(32)。  1997年12月、G7は声明を出して資金支援の 前倒しを表明するとともに、海外の銀行に対して短 期融資の引きLげを1ヵ月間猶予するよう強く要請 しました。1ヵ月の間に交渉が成功し、韓国の銀行 が抱える短期債務のほとんどが長期化されたため、 資金流出が止まり、頻繁なロールオーバーの必要性 もなくなりました。年末に底を打ったウォンの対ド ルレートも回復して、1998年春頃からは安定す るようになりました。 なぜアジア危機が起こったのか  改めて、なぜアジアでこれほど大きい危機が次々 と起こったのか、考えてみましよう。  アジア諸国のマクロ経済の基礎(「ファンダメンタ ルズ」と呼ばれます)は、硬直的な為替政策、資本流 人に依存する開発戦略、金融セクターの不良偵権、 透明性の欠如等の問題を抱え、さらに国によっては かなり大きな経常収支赤字を記録していました。海 外投資家がこれらを問題視して資金を引き上げたり、 資金をとどめる代わりにより高い金利を要求したり するのは、十分に合理的な行動です。しかし、これ らの問題は、例えばメキシコなど他の新興市場国と 比較して、特にひどいというわけではなく、しかも 危機前からずっと存在していたものですから、投資 家が急に問題に気付いて多くの国から一斉に資金を 引き上げた、と解釈するには無理があります。  また、過去の経験から見ると、米国の金利や株価 が上昇した際に、投資家が資金を米国に振り向ける ために、サドンストップが生じることがあります。 しかし1990年代半ばには、米国の金利は安定し ており、ニューヨーク市場の株価上昇は継続的で、 株式投資の魅力が突然高まったようには見えません。  こうしたことから、ファンダメンタルズに比較的 人きな問題があったタイが人きな混乱に陥るのを見 て、アジアの他の国や地域にも同じようなリスクが あるのではないか、と連想した投資家が群集心理に 駆られてパニック的に資金回収に向かったことと、 それを好機と見たヘッジファンド等の投機的なプ レーヤーがアタックを仕掛けたことの両者が相乗的 に働いて、「取り付け騒ぎ」が次々と発生した、と 考えるのが自然だと思います(33)。パニック的に 発生した危機ですから、事前に想定していた大がい なかったのも、無理はありません。  実際、危機の前後を通じてアジア諸国への直接投 資の金額は減っていませんので、実際のビジネスの 観点からはこれらの国は引き続き魅力的だったこと が分かります。他方で偵券投資や株式投資は 1997年に急激に減少し、また銀行も新規融資で なく偵権回収に走っている等、投資家がパニック的 に反応している状況を示しています。  加えて、IMFの対応が危機を拡大させていった 側面も否定できないでしょう。それは第一に、IM Fのプログラムが伝統的な緊縮政策に傾いていたた めです。財政赤字が経常収支赤字の原因になってい なかったにもかかわらず、財政緊縮が投資家の信認 回復に不可欠だ、という前提でプログラムを作って しまいました。実際に必要だったのは、投資家が資 金を回収するのに十分な外貨の手当てがあることを 示して、投資家のパニックを鎮めることだったので す。  第二に、市場原理の強化と自由化を重視して、そ れに沿った構造改革を性急に求めたことです(34)。 たしかに、アジア諸国の経済構造には不透明なとこ ろがありましたし、政治との癒着等、正すべきとこ ろがあったのは事実です。しかし、そのような改革 をしなければ投資家の信認は戻ってこないとの前提 には疑問がありましたし、良し悪しは別として、長 い間に形成されたそのような仕組みを、危機が燃え 盛っている最中に一挙に改めようとするのは非現実 的でした。日本は、難しい融資条件をつけたがため に、国内調整の遅れが政府の改革意欲の不足と見ら れて、かえって市場の信認を低下させ、危機の収束 を遅らせたと厳しく批判しました。IMFとのプロ グラム締結自体が状況悪化の原因となりかねない、 との囗本の意見に対し、アジア諸国からは賛同の声 が聞かれましたが、市場原理を重視する国際世論の 前では多勢に無勢でした。  その意味で、やはり危機に見舞われたマレーシア の例は極めて興味深いものです。マレーシアは、夕 イ危機の直後に通貨リンギットをフロートに移行し てレートの下落を容認した後、1998年9月にリ ンギットをドルに再度固定させた上で、資本規制を 導入しました。これは、投資家や投機筋が海外に送 金するのを、いわば実力で阻止する措置であり、ワ シントンコンセンサスに逆行するものです。当然、 米国政府やIMFはマレーシアを強く非難しました が、マレーシアはIMFから融資を受けていなかっ たため、IMFとしては手が出せませんでした。囗 本は、マレーシアの成功を好例として、「資本規制 が常に正しいわけではないが、資本規制が有用な場 合も認めるべきだ」と主張しました。 危機の残したもの  タイで始まった危機は、燎原の火のごとく次々と 域内の国々や地域に広がり、人々は景気後退、失業、 金融システムの動揺等に苦しみました。当然、アジ ア諸国を生産拠点や輸出先としていた日本企業や、 融資先を抱えていた邦銀にも大きな影響が及んだ結 果、バブル崩壊後の低迷から回復しつつあった日本 経済の新たな足枷となりました。幸い、アジア諸国 は折からのITブームに乗って、数年で輸出主導の 回復を果たしましたが、日本は銀行危機の発生も あって、停滞がさらに長期化することとなりました。  国際金融システムの観点からは、サドンストップ を防止するためにどのような改革が必要か、という 議論が行われました。   」ご }  {   尚繭   }   国‐   (  一my        匹   漂 「  」 四        四  二  」一}    ]  } 匸」」 匸づに  ≒三回  ‐4 ⊇三 J140J100闃s40200昌でJ。‐5‐10‐15作  (1)自分のお金が口座から引き出せないと心配し た預金者が銀行に押し掛けて、手遅れになる前に預 金を引き出しておこうとするのが取り付け騒ぎです が、預金者はどうすれば安心するでしょうか? そ の銀行は大丈夫ですよ、という言葉だけでは不十分 で、銀行に十分なお金があって、預金者の引き出し に完全に対応できることが具体的に示されたときの はずです。実際、取り付け騒ぎになると、大量の現 金を預金者の見えるところに積み上げるのが通例で す。同様に、パニック的なサドンストップに対して は、国際社会から十分な額の支援が供与されるから、 慌てて投資を引き上げなくても大丈夫だ、と海外投 資家に思わせることが有効でしょう。  そこで日本は、パニック的な「取り付け」の再発 を防止するため、ある程度の資金を近隣国でプール しておいて危機時には緊急に資金支援を行う「アジ ア通貨基金」の構想を打ち出します。十分な外貨が あることを早急に海外投資家に見せることが目的な ので、当初は危機国の緊縮政策や構造改革を条件と しません。しかし、IMFの存在意義を低下させて しまう、経済構造の歪みを温存させるのは不適切だ、 地域的な対応でなくグローバルな対応とすべきだ、 といった理由で米国、ドイツ、また中国等が反対し た結果、日本の大胆な構想は日の目を見ませんでし た。  (2)ただし、アジア域内で何らかの資金融通の仕 組みを作るという基本的な考えはアジア各国の賛同 を得ていたので、アジア通貨基金をトーンダウンし た形で「チェンマイイニシアティブ」という仕組み が構築されました。これは、普段から域内諸国が互 いの経済状況等をモニターしておき、危機時には最 初に少額のみをIMFの関与なしに支援するという ものです。それ以上の金額が必要な場合は、原則に 従ってIMFプログラムを導入する必要があります。  (3)IMFの中でも、ファンダメンタルズに特に 大きな問題がないと評価されていた国に危機が伝播 した場合、早急に大量の資金を供与して投資家の不 安心理を抑えることは有効だろう、という議論が広 まりました。その結果、事前に健全性を認めた国が 危機に陥った場合、融資条件を簡便にして迅速に大 量の資金を支援できるような新しい融資制度が設け られました。また、金融セクターが脆弱なうちに自 由化を闇雲に進めるのは危機のリスクを高めるとし て、「資本自由化の際は改革の順番に留意する必要 がある」との見解を打ち出しました。あれほど批判 していた資本規制についても、「適切なマクロ経済 政策が採られている場合、資本移動の管理に意味が ある場合がある」と容認しました。こうして「ワシ ントンコンセンサス」は、危機の経験によって、少 しだけ現実的な方向に修正されました。  (4)他方で、投資家にサプライズを与えるとパ ニックを引き起こしかねないとの観点から、新興市 場国の経済・金融データの透明性を向Lさせること が世界的な課題となりました。また、金融規制の強 化や、ヘッジファンドの扱い方等についても議論が 行われましたが、そのような議論の場には新興市場 国の代表もいた方が望ましいので、先進国だけのG 7とは別に、新しく20力国蔵相・中央銀行総裁会議 (G20)を創設しました。アジア危機後の改革は、 国際金融システム(土台)そのものの改変ではなく。 システムの機能を向上させるための改革であるとの 趣旨で、「アーキテクチャー(建築)改革」と呼ば れました。  アジア通貨危機は、それまで好調の経済であって も、突然大波に呑まれ崩壊する可能性があることを 示しました。といっても、今さら国際金融の時計の 針を戻して、国境を越えた資金の流れを制限したり 禁止したりすることは不可能です。資金の自由な移 動が認められなかった最後の時代は、第二次世界大 戦直後にドル不足で貿易もままならなかった時代で す。そうした環境に戻ることを、ほとんどの人は望 まないはずです。  アジア通貨危機後、現在までのところ、特定の新 興市場国から資金が流出して為替レートが下落する ような例は依然として散見されるものの、通貨危機 が次々伝播するような例はないようです。アーキテ クチャー改革の成果かもしれません。  一方、投資家が、国内の特定の金融機関からパ ニック的に資金を引き上げる行動については、国際 的な改革の視野の外でした。国内金融セクターの話 として、各国の金融監督当局に任せられていたので す。ところが、世界的影響力の人きい米国の金融セ クターで金融機関同士の「サドンストップ」が生じ ると、国際金融の危機となってしまいます。次の危 機は、まさにそのような姿を採りました。   コラム 固定相場制が守れないのはなぜです   か?  経済学者のロバートーマンデルは、(I) 各国間の資本移動の自由、(2)各国の為替 レートの安定(固定相場制度)、(3)各国独 自の金融政策−この三者を同時に満たすこ とはできない、という有名な議論を展開しま した。これを「国際金融のトリレンマ」ない し「不可能な三位一体」と呼びます。  例えば、(ア)A国が資本移動に制限を設 けず為替レートを対ドルで安定させようとす ると、米国と自国の金利政策を整合させてい く必要があります。米国が利上げをしたのに 自国が動かなければ、資金は米国に移動しま すので自国通貨が対ドルで下落して為替の安 定は図れません。(イ)為替レートを安定さ せたまま、自国の事情に応じた金融政策を追 求するのであれば、米国との金利差に反応し て資金が流出入して為替レートを動かさない ように、資金移動を制限する資本規制をかけ る必要が出てきます。(ウ)そして、金融政 策のフリーハンドを維持したまま資本移動も 自由にしておきたければ、為替レートの変動 も容認しなければなりません。  具体的には、多くの国が主要な貿易相手国 等との為替レートを安定させるために、(ア) の道を採っています。米国やかつての西ドイ ツの中央銀行が政策金利を上下させると、周 辺国等が一斉に追随しました。これを突き進 めると、固定相場制やカレンシーボードと いった形で為替の安定を制度化することにな りますし、さらに進むとユーロのような単一 通貨になります。他方で、アジア危機当時の アジア各国では、ドルとの為替レートを安 定・固定させた上で、資本の自由な移動を推 進し、しかも独自の金融政策は放棄していま せんでしたので、危機は起こるべくして起 こったと言えます。危機を経て多くのアジア 諸国は為替レートの柔軟性を高めます。  (イ)はかつてのブレトンウッズ体制が典型 です。ただし、戦後しばらくして各国が資本 の自由化を進め始めると、固定相場制の維持 が難しくなりました。現在の人民元は、制度 的には市場の需給動向を考慮して毎日レート が発表される形をとっていますが、為替レー トを完全に市場に任せているわけではありま せん。それが可能なのは資金移動をすべて自 由化していないためです。  そして、現在ドル、ユーロ、円、英ポンド 等の主要通貨は相互に変動して、(ウ)の状 態にあるのが分かります。  非常によくできたモデルですが、これは短 期的な動きを説明するというよりも、金融政 策・為替レート・資本移動という必ずしも同 一レベルではない三者の大局的な関係性を捉 えたところにその普遍的な価値があり、当局  者・市場関係者を問わず、大切な指針として  重視しているものです。 (27)1990年前半、米国のインフレ率が年率3〜4   %のときに、メキシコでは10〜20%でしたから、   本来はペソがドルに対して下落するべきでした。 (28)タイではGDP比約8%、マレーシアでは約10%   にも達していました。 (29)銀行免許はないが、住宅ローン等の銀行業以外の    金融サービスを提供する会社。 (30)1997年は財政赤字が見込まれていましたが、    景気減速からくる歳入不足が原因であり、財政支    出をコントロールできない状況にあったわけでは    ありません。それでも景気が急速に悪化している    巾で財政引き締めを行ったため、景気はさらに悪    化します。IMFはこの誤りに気付いて、数力月    後に小幅の財政赤字を認めることに修正しました。 (31)韓国国民は、経済や金融の状況が悪化していると    いう認識を持っていなかったため、政府がIMF    支援を求めたことを聞いて驚いたそうです。IM    Fが来たことが危機の始まりと意識されて、現在    でも韓国では「IMF危機」と呼ばれています。 (32)韓国では国民が自発的に金の指輪等を供出し、そ    の売却収入も外貨資金繰りを助けました。 (33)ヘッジファンドは既に1992年に欧州通貨間の    固定相場を守れないと見込んで、英国のポンドと    イタリアのリラに対する大量のアタックを仕掛け、    巨額の利益を出しました。アジアでその再現を   狙ったものと思われます。 (34)当時の経済学界の主流に従い、米国政府やIMF   は市場原理の徹底のために白由貿易、規制緩和、   資本自由化を強く推し進めていました。こうした   考えは、米財務省とIMF・世界銀行の所在地か   ら「ワシントンコンセンサス」と呼ばれました。  第『/の危機 米国発金融危機はなぜ  起こらなかったのか?  −ヘッジファンド、質への逃避、FRBの  介入 危機解決の「成功」  サドンストップと投機筋によるアタックが国単位 で起こったのがアジア通貨危機でした。国際社会は、 危機国の破綻(債務不履行上アフォルト)を避けるた めに、支援を行い、国際金融システムの機能強化を 目指して改革を図りました。  ところが、投機的なプレーヤーの一つである、L TCM(ロングタームーキヤピタルーマネジメント)と いうヘッジファンドが、相場の読み違いにより、突 然破綻の瀬戸際に追いやられます。このままでは、 取引相手の金融機関にも大きな損害が及んで、金融 システムが動揺する恐れがありました。取引相手は 主に米国の金融機関ですが、欧州の金融機関もかな り多額の取引をしていますので、LTCMの破綻は 世界中に波及し、世界経済を恐慌に陥れかねません。 偵権を抱える金融機関が損失を避けようとすると、 最悪の場合、金融機関同士の「取り付け騒ぎ」に なってしまいます。  国レベルの通貨危機が、一国の金融セクターのレ ベルに縮小されたLTCM危機は、米国の金融当局 が異例の措置を採って封じ込めました。しかし、そ の成功体験は、10年後の「リーマンショック」では 通用しませんでした。世界経済の崩壊が現実的可能 性として出現した「リーマンショック」を解読する 前に、LTCM危機解決の「成功体験」を見ておく ことが有意義だと思います。 ヘッジファンドの隆盛  一般に、少数の富裕層や機関投資家を顧客として、 投資やリスク管理に先進的な手法を用いつつ、レバ レッジ(借り入れ)で運用資産を嵩上げして高リ ターンを目指すような投資ファンドを「ヘッジファ ンド」と呼びます。その歴史は意外に古く、 1920年代に初期のファンドが現われたとも言わ れます。しかし、一世を風靡したのは1990年代 です。1992年に大量の空売りで英ポンドのペッ グ崩壊(欧州諸国間の為替レートを固定する取り極めか らの脱退)をもたらしたジョージーソロスは、巨額 の利益を得だのみならず、イングランド銀行(中央 銀行)を屈服させた男として、ヘッジファンドの実 力を世に知らしめました。  ヘッジファンドは、一般大衆を顧客としていない ので、比較的緩い金融規制が課せられていました。 富裕層や投資のプロは、リスクを十分に理解した上 でヘッジファンドに運用資金を預けているはずだか ら、通常のような投資家保護の対象とする必要はな い、との判断でした。そのため、ヘッジファンドの 投資戦略や負っているリスク等は公開されず、謎の 多い存在でした。マレーシアがリンギット売りのア タックを受けた際にマハティール首相(当時)が ヘッジファンドを非難したのは、まさにこうした不 透明性に守られて利益のみを追求する投機筋、とい うイメージが強かったからでしょう。 「ドリームチーム」の投資戦略  ヘッジファンドの中でLTCMは特別な存在でし た。それは、オプション価格の算定式(ブラック‥ ショールズ方程式)に関する業績で1997年に ノーベル経済学賞を受賞することになるマイロンー ショールズとロバートーマートンが経営陣に加わっ て(35)ヽその投資戦略に高い信頼感をもたらして いたからでした。  LTCMの基本的な投資戦略は、「本来あるべき 価格から乖離している資産は、やがてあるべき価格 に収斂する」との前提に立って、比較的高いものを 売り、安いものを買う、というものでした。当たり 前のことのようですが、何か「本来あるべき価格」 なのかを見極めるのがLTCMの腕の見せ所たった わけです。しかも、そのような乖離は頻繁に発生す るわけではないし、乖離に気が付いた投資家は我れ 先に売買注文を出すので乖離は小さいうちにふさ がってしまうでしょう。そこでLTCMは、コン ピューターを使って素早く乖離を見つけると、多額 の借り入れで一回当たりの売買額を増やす手法(レ バレッジ)で、利益を大きくしたのです。LTCM のレバレッジは、運用資金を預かり資産の25倍以上 にも膨らませて、運用リターンを向上させました。 ファンドは1994年の創設以来、1995年と 1996年には40%のリターンを挙げ、「ドリーム チーム」とまで呼ばれていました。  アジア通貨危機を見た投資家の心理として、新興 市場国への投資に躊躇したくなるのはよくわかりま す。では、投資はどこに向かったでしょうか? 危 機になりそうもないところ、すなわち先進国の債券 や株式の人気が高まりました。一般的に、市場で投 資リスクが高まると、リスクが低そうな(安全そう な)資産に資金が向かうことを「質への逃避」と呼 びます。リスクを避けて、質の高い資産に資金を避 難させておく、というイメージです。  LTCMは、一時的に先進国に向かった資金がや がて新興市場国の債券や株式に戻ってくると予測し ました。先進国の資産が買われ過ぎて、本来あるべ き価格より高くなっており、新興市場国の資産は逆 に安くなっている、という見立てです。当然、先進 国資産を売って、新興市場国資産を買うポジショ ン(36)を作っておいたのですが、その投資戦略が 完全に裏目に出てしまいました。  原油価格の下落で財政が悪化していたロシアは、 1998年8月に偵務不履行(デフォルト)を宣言 します。それを受けて、投資家の「質への逃避」が 収まるどころか一層進展してしまいました。新興市 場国の資産はさらに値を下げ、先進国の資産でも 「買われ過ぎ」のはずのドイツ国偵がさらに買われ て値を上げました(37)。その結果、LTCMは 1998年7月末の資本41億ドルに対して、8月の 1ヵ月で18億ドルの損失を出してしまいます。9月 になっても損失は続きますがLTCMのポジション は市場の規模に比べて大きいので、売買注文を巻き 戻そうにも取引の相手方が見つかりません。また取 引件数は6万件にも上り、契約期間や担保の有無等 が異なる複雑なものでした。投げ売りしたくても、 買い手がいない状態で、9月22日には資本が6億ド ルまで減少してしまいます。LTCMのポジション は、偵券の売買で1000億ドル、先物で5000 億ドル、スワップ等のデリバティブ取引で7500 億ドルと巨額で、それに加えて多額の融資も受けて いますから、このままでは立ち行かないのは明らか でした(38)。 超異例の救済策  危機的な状況に気付いたニューヨーク連銀は、主 要な金融機関を集めてLTCM救済策の検討を要請 します。ヘッジファンドは、富裕層等投資のプロが リスクを十分認識して運用資金を預ける前提で、軽 い規制を享受してきたのですから、本来であればL TCM破綻の損失は、リスクを承知していた投資家 と、取引相手(LTCM)の信用リスクに目を光ら せていたはずの金融機関に負わせてしかるべきでし た。しかし、LTCMのポジションのうち、デリバ ティブ取引はバランスシート外で行われているため に、取引相手が把握していない可能性がありました し、LTCM自身のリスク管理も、ポジションの全 体をカバーしていませんでした。従って、予想して いないところでデリバティブ契約の不履行が連鎖し たり、想像以上の損失が金融機関に降りかかるなど して、金融市場が混乱する現実的な可能性がありま した。  FRBの要請を受け、結果的に、14の金融機関が、 LTCMの運転資金として36億ドルの資本を注入す ることで合意しました。投資家は運用資金の9割の 損失を受け入れます。LTCMはその後、新規の投 資は行わず、既存のデリバティブ取引の執行だけを 淡々と行い、すべてのポジションが整理された時点 で清算されました。恐れられた金融システムの混乱 は生じずに済んだのです。  ニューヨーク連銀が一つのヘッジファンドの救済 のため、金融機関に圧力をかけたのは極めて異例で したが、それはLTCMが無秩序に破綻したら世界 中の金融システムに及ぼすであろう混乱を重視した ためです。加えて、金融市場の動揺を抑えるため、 FRBは9月末、10月、11月と3ヵ月連続で金利を 引き下げました。何としても、LTCMの件を契機 に金融危機を起こさない、との強い危機感を持って いたことが分かります。 危機の残したもの  LTCMの興亡は、金融市場のたった一つのプ レーヤーでも、巨大金融機関を動揺させ、場合に よっては金融システム全体の機能不全をもたらしか ねないという現実を自囗の下に曝しました。そうし たことがないよう、本来は金融規制が機能し、金融 機関は取引相手方の健全性に注意してリスク管理を 徹底していたはずでした。しかし、規制の外のプ レーヤー(ヘッジファンド)が、取引相手からは見 えにくい(バランスシート外の)デリバティブ取引を 積み上げていたために、想定外の事態となったので す。さらに言えば、金融市場のプレーヤーたちに、 リスク管理よりも利益(リターン)を重視するよう な風潮が蔓延していたことは否定できません。LT CM危機は、FRBの介入で寸前に回避されました が、LTCM危機をもたらした金融市場の構造や文 化はそのまま温存されました。その結果が、10年後 の「リーマンショック」でした。  (I)1980年代から金融規制の緩和が進み、実 体経済と離れたマネーゲームを通じて金融機関が巨 額の利益を上げるようになりました。高い報酬や ボーナスに惹かれて、優秀な大学の卒業生が金融セ クターに就職するようになり、特に数学に強い理系 の卒業生の人気が高まりました。ニューヨークの ウォールストリートやロンドンのシティーは、金融 街というだけでなく、米国や英国が金融業の発展を 推し進める産業政策の象徴となりました。英米政府 の政策は金融業界の利害を反映するようになり、金 融業界からは多くの人材が政府の要職に就いて、両 者の一体感が強まります。  (2)金融業界では数学を活用した金融工学が普及 しました。その結果、デリバティブ取引が一般化し、 リスク管理の手法も精緻化したはずでしたが、実際 にはLTCM危機のようにモデルで想定していない 事態が生じると、大きな損失につながる危うさも抱 えていました(39)。しかし、LTCM破綻にもか かわらず、こうした複雑なモデルに基づく取引や投 機がますます行われたのは、それが巨額の利益をも たらすからでした(40)。  (3)金融業がマネーゲームで巨額の利益を上げる 状況は、英米にとどまりませんでした。例えばLT CM救済に加わった14の金融機関のうち5つは欧州 大陸系です。国際金融市場の中心がニューヨークや ロンドンであるとしても、それらの市場では国際的 なプレーヤーが積極的に取引しているので、一つの 市場での動揺は世界中に伝わってしまいます。後に 「リーマンショック」がグローバルな危機となった のはそのためです。  (4)ヘッジファンドのように規制が軽いプレー ヤーや、デリバティブのように透明性の低い取引が 危機の震源となったのですから、規制が強化されて もよいはずですが、そうはなりませんでした。それ は、プロの投資家が顧客なので規制で保護する必要 はない、盛んなデリバティブ取引は市場に流動性を 追加するのでかえって相場が大きく変動するのを抑 える(41)ヽといった建前に加え、やはり金融業の 利益追求を制約すべきでないという、産業政策的な 本音があったからだと思います。  (5)LTCMの救済にFRBが乗り出したことに 対しては、モラルハザードを助長するとの批判があ りました。それに対しFRBは、市場の中での解決 に向けて関係者に交渉を促しただけであり、公的資 金を入れたわけではないと反論しました。たしかに。 モラルハザードを重視するあまり、LTCMが無秩 序な破綻に追いやられても放置すべきだったという 主張であれば、それは極端に過ぎると思います。危 機が金融システムを動揺させ、場合によっては世界 中に拡散する恐れがあるときは、まず危機を阻止す るのに全力を尽くすべきでしょう。ただし、それは モラルハザードを軽視してよいということにはつな がりません。実際、市場のプレーヤーたちは。 1987年のブラツクマンデーに続いてLTCM危 機でも、市場が動揺したらFRBが金融を緩和して 市場を下支えするという前例が成立した(42)と解 釈しました。そして、ITバブルが崩壊した 2000年代初頭にも同様の措置が採られたことか ら、その後の投機的な動きを増幅した恐れがありま す。  従来、国際金融の危機は、国家レベルの危機でし た。経常収支赤字の穴埋め(ファイナンス)、為替 レートの暴落、財政破綻による対外債務のデフォル ト等が典型的なパターンだったはずです。ところが、 金融業が巨大化した結果、一つの金融機関やヘッジ ファンドの動揺や破綻ですら、金融市場の混乱を招 き、国際的な資金の流れを阻害する可能性があるこ とがはっきりしました。LTCMの際には、米国当 局がリーダーシップを発揮して、その危険な芽を未 然に摘み取りました。しかし、その後も金融業の活 動に大きな自由が与えられていた結果、未曽有の国 際金融危機が迫っているのに米国政府や金融界は気 が付きませんでした。   コラム (ゲタカファンドに勝つにはどうし   たらいいですか?  ヘッジファンドと総称される投資ファンド には、色々なタイプのものがありますが、最 も悪名高いのはハゲタカファンドと呼ばれる ものでしょう。自分でそう名乗るファンドは ありませんが、行動様式を見て他人が非難気 味に呼んでいるのです。パフォーマンスの悪 い企業に出資して経営陣を一掃し、リストラ を徹底した上で株価を上げて売り抜けるのが 典型的行動です。それによって企業が立ち直 り、資源の効率的配分が実現するのであれば、 その行為自体が批判に値することはありませ ん。ただ、出資やリストラの際に非常に攻撃 的(アグレッシブ)な行動を採ることがある ので敬遠されるのでしょう。  ハゲタカファンドは国家もターゲットにし ます。最も有名な例はアルゼンチンです。  2001年のデフォルトによって、アルゼ ンチンは元本約800億ドルの偵務につき民 間債権者と交渉します。その中には円建ての 偵務もあり、日本人の偵権者も無縁ではあり ませんでした。2010年には偵権者の約93 %が、元本を70%以上削減した新偵券との交 換に合意します。しかし、いくつかのヘッジ ファンドは合意に加わらず、特にエリオット マネジメントというヘッジファンドは、非常 に激しい法廷闘争を選びました。  ワシントンポスト紙によると、エリオット は、デフォルトに陥ったアルゼンチン国偵 (額面6億1700万ドル)を市場において1 億1700万ドルで購人した上で、アルゼン チンには十分な支払い能力があるとして、全 額の支払いを求めてニューヨークで提訴しま した。加えて、アルゼンチン海軍の練習船が ガーナに寄港した折にガーナの裁判所に訴え て船を一時的に差し押さえたほか、アルゼン チンの衛星打ち上げ契約2件の差し押さえを 求めることまでしました。簡単に言えば、嫌 がらせを繰り返して、アルゼンチン政府が面 倒を避けるために支払いに応じるのを待つ戦 略でした。これに対し当時のクリスティー ナーフェルナンデス大統領は徹底抗戦し、一 切の妥協を拒否したのでした。  しかし2012年に、ニューヨークの連邦 地裁がエリオットの主張を認め、すべての偵 務者に利払いをするのでなければ、合意済の 偵権者に利払いを行うことは、偵務者を公平 に扱う原則を示した平等条項(パリパス条項) に反しているので認められないとしました。 2014年に米最高裁が地裁判決を支持した ことから、アルゼンチンはまたもデフォルト に陥ることになりました。  次の大統領にマウリシオーマクリが選ばれ ると、外国資本との和解によって外資導入を 図るとの方針から、エリオット等のファンド との合意が2016年に結ばれます。その結 果エリオットは24億ドルの支払いを受けまし た。額面の約4倍、購入額の約20倍ですから、 濡れ手に粟と言っても過言ではないでしょう。  なぜこのようなことが起こったのでしょう か? 直接的には、エリオット等のファンド が、他の偵権者とアルゼンチンとの間の合意 に従わずに元本の完済を求めることが可能 だったからです。ロンドン市場で発行される 国偵には、集団行動条項(コレクティブーアク ションークローズーCAC)が付されている のが普通であり、偵権者の特別多数決で合意 された決定はすべての偵権者を拘束します。 ところが、ニューヨーク市場で発行される国 偵ではCACは一般的ではありませんでした。 だからこそ、エリオット等のファンドが93% の偵権者の意思を無視して法廷闘争を続ける ことができたのです。  一部の銀行団が融資を行うのと異なり、偵 券は流通市場で自由に売買できるため、小口 の債権者も含めれば関係者の数は膨大であり、 そのすべての人が納得するような合意は困難 です。従って、アジア危機以降、G7等はC ACの普及を訴えてきました。国偵を発行す る側は、CACを含めると発行条件が悪くな るのではないかと懸念して、ニューヨーク市 場ではなかなか普及しませんでしたが、エリ オットとアルゼンチンの攻防を見て、最近で はCAC付きの国債発行が増加しているよう です。  2012年以降、ユーロ圈諸国の満期1年 以上の国偵ではCACが義務付けられました が、そこでは「偵券保有者の75%以上」か 「発行額の3分の2以上を保有する偵権者」  による賛成が想定されています。これが概ね  グローバルスタンダードだとすると、やはり  93%の賛成でもリストラができなかったアル  ゼンチンのケースは、国際金融システムの円  滑な機能の観点から問題があったと思われま  す。 (35)方程式に名を遺したフィッシャー・ブラックは    1995年に死去。 (36)売買の契約をして、そのまま未決済にして一定期    間保有している取引。 (37)LTCMは、先進国の資産の中では、ドイツ国債    が値下がりし、イタリア国債が値を戻すだろう、    と見込んでいました。 (38)ポジションの中には相殺できるものも多いので、    これらの合計が直ちに損失になるわけではありま    せん。 (39)LTCMのモデルによると彼らが破綻する確率は    「シックスーシグマーイベント」とされていまし    た。標準偏差の6倍ということですから、統計学    的に言えば、5億同に1同程度の確率となります。 (40)著名投資家のウオーレンーバフェット等、当時か    らこうした傾向を批判する声はありました。    「リーマンショック」後に明らかになったのは、    金融機関の経営陣も規制当局も、十分にモデルを    理解していなかったことでした。 (41)相場の動きに「逆張り」して賭ける投資家がいる    と、市場が一方向に動くことがないとの考え方。 (42)当時のFRB議長の名を取って、「グリーンスパ    ンプット」と呼ばれました(「フット」とは、価    格が下がった資産を、事前に定めた金額で買い    取ってくれる取引の約束のことです)。  第8の危機 世界金融危機を引き起  こした複合的要因とは?  −リーマンショック、金融工学過信、群集  心理 住宅バブル崩壊から「世界金融危機」へ  2000年代初頭のITバブル崩壊や9∴11同時 多発テロ事件を乗り越え、2000年代半ばに米国 は比較的高い成長を回復します。同時に、経常収支 赤字は過去最高となり、GDP比で約6%にも達し ました。米国は、いつも通りの対応をします。すな わち、ドルの発行による赤字の穴埋めと、経常収支 黒字国への不公正貿易是正の要求および内需拡大要 請です。他方で、米国内では、金融業が開発した新 たな手法に基づく住宅ローンの供給システムが一世 を風靡し、住宅ブームが膨張しました。  住宅バブルの崩壊は、新たな手法を駆使して巨利 を得ていた金融界を直撃し、米国発の金融危機が、 国際金融危機へと転化しました。主要な金融機関が、 取引相手方を信用できなくなって立ちすくむ中、資 金の流れを維持しようと国際社会は必死の努力を行 います。米国は弱体化した銀行を統合し、生き残っ たところに公的資金を投入して資本を増強します。 しかし、結局パニックを鎮めたのは、当局はこれ以 上銀行を潰さないつもりだ、との意向を市場が汲み 取った瞬間でした。  日本ではこの一連の危機を、2008年9月の大 きなショックのきっかけとなったりIマンブラザー ズの破綻から、「リーマンショック」と呼ぶことが 多いですが、危機はその一つの出来事から発生した わけではないので、国際的には「世界金融危機(グ ローバルーフアイナンシヤルークライシスーGFC)」 と呼ぶのが普通です。本書では、両方の言い方を用 いています。  これだけ大規模な危機ですから、その原因も複合 的です。ここでは、主な要因を整理してみましょう。 いわゆる「金余り」  米国は史上最大の経常収支赤字を、ドルを垂れ流 して穴埋めしていましたが、黒字国(中国、産油国、 日本、ドイツ等)は受け取ったドルをどうしたで しょうか? 現金で置いていても無駄ですから、当 然ドル建ての資産の購入(投資)に回します。特に 最大の安全資産である米国偵です。  偵券は人気が高まって購入者が増えると、流通価 格が上昇し、それに伴い利回りが低下する性質があ ります(43)。つ`OOO年代半ばには、まさに米国 偵がたくさん買われたので米国偵(10年物やそれよ り長期の物)の金利が上昇せず、それに引きずられ て他の長期金利も上昇しませんでした。実はその頃、 ITバブル崩壊後長期にわたって金融緩和を続けて いたFRBが、引き締めに転じており、短期金利 (FFレート)の目標は1%から5%まで引き上げら れました。しかし、通常は短期金利に合わせて上昇 するはずの長期金利が全く横ばいで推移し、 2005年にはグリーンスパン議長が、なぜ長期金 利が上昇しないか「謎(コナンドラム)だ」とまで 発言したほどです。それどころか、2006年夏以 降は長期金利が短期金利のレベルを下回ってしまい ました(いわゆる「逆イールド」)。  いずれにせよ、長期金利が上昇しないことから、 住宅ローンを含む長期融資の借り入れが容易になり ました。換言すれば、米国が経常収支黒字国に供給 したドルが米国に還流してきたおかげで、米国が 「金余り」となり、借り主に有利な環境が作られた のです。 安定ゆえの気の緩み  1980年代から、米国の景気変動の振幅が小さ くなったことが注目を集めました(「偉大なる安定 (グレートモデレーション)」と呼ばれました)。その理 由には諸説ありますが、安定的な経済環境が人々に 安心感を与えたのは間違いありません。  またFRBも、「グリーンスパンフット」に加え、 株式市場がバブルであってもあえてバブル退治はし ないと公言して(44)、投資家に安心感を与えてい ました。  そうした安心感が、人々のリスクに対する感覚を 鈍くして、より大きなリスクを許容してしまうこと につながったのです。それは、当時は全く忘れられ ていたハイマンーミンスキーという経済学者が、す でに1970年代から提唱していたモデルに沿った 動きでした(45)。 持ち家政策の推進  米国では銀行等が供与した住宅ローンを投資銀行 等が証券化して投資家に売却するのが普通です。そ うした証券化を専門に行う機関として、フアニーメ イ(連邦住宅抵当公庫)とフレディーマック(連邦住 宅金融抵当公庫)の2社があります。これらは法律 によって設立された特殊法人が後に民営化された民 同会社ですが、これら2社の買い取る(あるいは保 証する)住宅ローンについては、2000年の法改 正で、その50%が中・低所得者の住むエリアのもの でなければならないとされました。  持ち家取得の推進という政策自体は、各国で行わ れています。ただ米国の場合は、白人層と非白人層 の間に経済的・社会的な格差があるため、持ち家促 進政策の意味合いがやや独特です。格差が簡単に解 消できない現実を前に、中・低所得層(その多くは 非白人層)の住宅ローンヘのアクセスを容易にする ためフアニーメイやフレデイーマックを活用するこ とは、社会的な緊張緩和を目指す社会政策の側面が あったというわけです。  もちろん、低い長期金利の恩恵を受けて借金に 走ったのは、中・低所得者層だけではありません。 すでに持ち家を所有する人々の中にも、住宅ローン の借り換えや、自宅を担保にした借金(借りた資金 はリフォーム等に使うのがそもそもの趣旨ですが、やが て単なる消費に同るようになります)が大流行しまし た。2軒目、3軒目に投資する人も出てきます。当 時米国人の知人が、ゴルフ場のキャディーから、 行ったこともない西部の州に実物も見ないで3軒の 家を投資用として購入したと聞かされて仰天したと 語っていましたが、そのような例は多々あったよう です。  低所得者層は信用リスクが比較的高いため、銀行 は本来慎重に融資を行うはずです。しかし当時の銀 行は、当初数年間だけ低めの金利にしてその後金利 か高くなるような仕組みのローンや、場合によって は融資条件がほとんどないようなローン(46)を 次々に供与していきました。借りる方は、1〜2年 たって住宅価格が上昇したところで家を売ったり、 より多額のローンに借り換えたりすることを当初か ら予定していました。  借り主の方が、住宅価格の上昇に目がくらんでこ うした高リスクの融資に手を出してしまうのは、理 解できなくもありません。では、なぜ銀行など貸し 主の方も、こうした融資を行ったのでしょうか? それは金融工学を用いた、新たな仕組みを使うこと で、高リスクのローン債権が飛ぶように売れたため でした。 新たな金融商品  住宅ローンや自動車ローン、学生ローンにクレ ジットカードのリボ払い等、米国ではあらゆる口1 ンを束ねて証券化して投資家に売るのが一般的です。 束ねられたローンは、例えば東海岸、中西部、西海 岸など様々な地域の住宅ローンからなり、東海岸が 不況となっても西海岸では住宅ローンの返済がきち んと続くといった形で、リスクが分散されています。 それが証券の形になっているので、市場で簡単に売 買できるわけです。  偵務者が毎月ローン返済分を支払うと、それが証 券を購入した投資家に支払われて、証券に対するり ターン(運用益)になります。ローン返済が滞ると、 投資家のリターンが少なくなりますので、返済が滞 りそうな債務者の多いローンを束ねた証券は、格付 け(47)が低くなるのが普通です。  ところが、2000年代に盛んに活用された、債 務担保証券(CDO)と呼ばれる証券では、この常 識が破られました。最も返済が滞りそうな偵務者で ある、低所得者の住宅ローンを束ねた証券なのに、 トリプルAという最上位の格付けを得たのです。ど うしてそのようなことが可能だったのでしょうか?  低所得者層の住宅ローンはサブプライムローンと 呼ばれました。プライム(優良借り主)の下位(サ ブ)に位置する層へのローンという意味です。CD Oは、サブプライムローンを束ねた上で、偵務者か らのローン返済があったら、その返済分を一番最初 に受け取れる権利の証券、2番目に受け取れる証券、 最後に受け取れる証券、と区分しました。一本一本 のサブプライムローン(低所得層向け住宅ローン)の 信用力は高くないのでローン金利は高めです。が、 例えば千件のサブプライムローンを束ねて、さすが に500人くらいはきちんと毎月返済するだろう、 という見込みを立てたとします。その上で、第一の 証券は返済してきた最初の300件からの返済だけ を受け取り、第二の証券は次の300件、最後の証 券は残りの400件と区分したとすると、第一の証 券は毎月ほぼ間違いなくリターンを受け続け、第二 の証券は月によってリターンが上下し、第三の証券 はリターンがあればラッキーという感じになります。 この第一の証券がトリプルAを得たのです。  最上位の格付けでありながら、超優良企業の社債 等と比べればリターンが高いことから、CDOは爆 発的な人気を博しました。作れば売れる、という状 態となって、材料であるサブプライムローンが大量 に必要になります。信用力の怪しい借り主にも、か なり基準の緩いローンが次々に貸し出されては、C DOの材料として売却される状態でした。米国のみ ならず欧州の投資銀行もこれらのローンを購入して CDOにまとめて市場で売却し、あるいは自らそれ らのCDOを購入・所有しました。フアニーメイと フレディーマックも同様です。  こうして市場はサブプライムローンとCDOに席 巻されました。本来公正な審査機関のはずの格付け 機関が、CDOを組成する投資銀行に対し、トリプ ルAとなるためにどういうサブプライムローンを組 み合わせるべきかアドバイスしたり、保険料を取っ てCDOの利払いを保証する保険会社も現われまし た。CDOの恩恵を受けて少しでも利益を得ようと、 多くの金融機関が狂奔したのでした。  しかし、CDOが成り立つのはサブプライムロー ンが曲がりなりにも返済されている限りにおいてで す。他方、当時の住宅ローンは右利上がりに住宅価 格が上昇することを前提にしていました。高くなっ た住宅を売って、次のローンに乗り換えるのが通常 のパターンだったのです。では住宅価格が下落を始 めるとどうなるでしょうか? 持ち家を売っても ローン偵務を完済できないのでは、次の家に移るど ころではありません。そうこうするうちに、住宅 ローンの当初優遇期間が終わって金利が上昇したら、 サブプライムローンが想定通りに返済されなくなっ てしまうことが容易に想像できました。  当然、欧米の金融機関の中にも、あるいは当局者 の中にもリスクに気が付いている人々はいたはずで す。しかし、高い収益を求める株主の圧力と、高い 報酬を得たい貪欲さと、群集心理に流されてしまい ました。 群集心理  2007年7月、シティグループのチャールズー プリンス会長兼CEOは「流動性という名の音楽が 止まってしまったら、物事は複雑になるが、音楽が 流れている限りは立ち上がって踊らないといけない。 我々はまだ踊っているのだ」と発言します。市場が 一方向に流れている限り、一緒に流れるのが正しい というわけです。あえて市場と異なる選択をして利 益が下がったら、おそらく株主から批判を受けるこ とにもなるでしょう。しかし、この時点では既に住 宅価格は下落を始めており、サブプライムローンの 返済が滞って金融機関が損失を負う状況が明らかに なりつつありました。それでも踊り続けていたプリ ンスは、4ヵ月後のH月に数十億ドル規模の評価損 を追加計上して退任します。その数日前には、メリ ルリンチのスタンレー・オニールCEOが、やはり サブプライムローンからの巨額損失の責任を取って 辞任しています。いよいよ音楽が止まったのが誰の 目にも明らかになってきました。 危機の展開  住宅価格は、2006年夏をピークに下落を始め ます。ただ、囗本のバブルが崩壊したときもそうで したが、価格下落が始まってもしばらくの間は、下 落は一時的でまた価格は上昇に転じるだろう、と信 じる人が多数でした。しかし、住宅価格の下落に伴 い低所得層のサブプライムローン返済が滞ったこと で、徐々に金融システムが動揺していきます。当初 は小さな動きでしたが、だんだんボリュームが上 がって、最後には耳をつんざく轟音となりました。 CDO価格の下落  住宅価格の上昇が止まってサブプライムローンの 返済が滞ると、それを束ねたCDOの所有者に約束 したリターンの支払いも怪しくなってきますので、 当然市場で取引されるCDOの価格は下落します。 また、金融機関同士の取引の際に担保としてCDO が差し入れられていれば、その評価額が下がるため に追加の担保(信用力のある国債や社債等の資産)を 要求されることにもなります。CDOの評価額がど んどん下落する中、保有するCDOを早く売ってし まおうという市場参加者が増えていきますので、さ らにCDOの価格が下落する結果、ますます大量の 投げ売りを惹起する悪循環に陥りました。  金融機関は相互に取引相手の健全性に疑念を持ち 始めます。平時であれば、銀行は無担保で翌日まで 資金を融通し合うのが普通ですが、もし相手方が大 量のCDOを保有していたらどうでしようか? 巨 額の評価損に耐えられず、夜の間に突然倒れてしま うかもしれません。銀行同士が資金を出すのを躊躇 した結果、銀行が資金を調達するコストが上昇しま したし、同様に、事業会社が発行するコマーシャル ペーパー(CP)市場でも借り換えが難しくなって いきました。  資金調達コストの上昇は、市場からの資金に依存 する割合が高い銀行の経営を直撃しました。 1931年のクレジットアンジュタルト、1997 年の韓国金融危機等と同じことが起こったのです。 ノーザンロック  英国の北部を地盤とするノーザンロックは、もと もと小口預金を積み立てて住宅購入時にローンを受 ける信用組合のような組織でしたが、その後業態変 更して銀行となり、市場からの資金調達で事業を拡 大していました。しかし、市場が住宅融資を主要業 務とする銀行に資金を出すことを不安に感じ始める と、あっという間に資金繰りに行き詰まってイング ランド銀行への資金支援要請を余儀なくされます。 2007年9月の報道によってノーザンロックの苦 境を知った預金者は、預金引き出しのために列を作 ります。英国では130年ぶりに起こった取り付け 騒ぎでした。 ペアスターンズ  2007年7月、ウォールストリートを代表する 投資銀行の一つ、ベアスターンズ傘下の二つのヘッ ジファンドが、多額の損失のため投資家に資金を返 還できないと発表します。それから1年もたたない 2008年3月、ベアスターンズ本体も資金調達に 行き詰まり、JPモルガンチェースに救済合併され ました。  ニューヨーク連銀は救済合併を助けるために 290億ドルの融資を行いました。銀行と異なり、 決済機能保護や預金者保護という大義名分がないま ま、投資銀行に公的支援が行われたのです。LTC M危機の際には行わなかった公的支援にあっさり乗 り出したことは、当局の危機感を示していました。 しかし、連銀が直接損失を被りかねない公的融資に 対し、議会を中心に批判が高まります。 運命の2008年9月  2008年9月は、毎日が危機でした。金融シス テムはほぼ機能を停止し、世界経済は回避できない 終末に向けてスローモーションのように進んでいま した。主な事例を見ていくことで、リアルタイムで 感じられた恐怖が実感できると思います。 破綻の連鎖  9月7囗、住宅ローンビジネスの中心にいたフア ニーメイとフレディーマックが実質的に国有化され ます。  15囗には、英バークレイ銀行への身売りが最終的 に不成立となったりIマンブラザーズが破綻する一 方、同じくウォールストリートの名門メリルリンチ がバンクオブアメリカに救済合併されました。  翌16日には巨大保険会社グループのAIGの株式 の79・9%を政府が取得して事実上国有化するとと もにFRBが資金支援をします。  M]日にはFRBからの資金繰り支援を受けられる ように、ゴールドマンサックスとモルガンスタン レーが銀行持ち株会社に転換します。直後の23日に 著名投資家のウォーレンーバフェットがゴールドマ ンサックスに50億ドル、29日に日本の三菱UFJ銀 行がモルガンスタンレーに90億ドルの出資を行いま した。  リーマンブラザーズ破綻以降預金の引き出しに直 面していた貯蓄金融機関のワシントンミユーチュア ルは25日に米国史上最大の銀行破綻を起こし、JP モルガンチエース銀行に吸収されました。破綻時の 総資産は約3000億ドルで、2008年の米国の GDPの2%に当たる規模でした。 政府による支援の失敗  こうした底なしの金融危機に対処しようと、ハン クーポールソン財務長官は、7000億ドルの財源 を得て、金融機関が抱えるサブプライムローン関連 等の不良資産を政府が買い取ることを目指します。 緊急事態なので、きちんと詰めた議論なしに、議会 に対して歳出権限を求めたのは、ある程度やむを得 ませんでした。しかし、どの資産を買うのか、また 市場で価格のつかない不良資産をいくらで買うのが 適切なのか、といった詳細はすべて曖昧なまま、わ ずか3ページの法案で7000億ドルの支出権限を 得ようとしたのは、さすがに連邦議会の怒りを買い ました。9月29日に同法案は否決されたため、先行 きの希望が無くなったと感じたニューヨーク株式市 場は7%の暴落を記録しました。おそらく、第二次 世界大戦後、世界が最も大恐慌に近づいた日であっ たでしょう。 ギリギリ間に合った政府支援  財務省は法案を修正し、議会は10月3囗に金融安 定化法を可決しました。同法の下で得られた 7000億ドルの支出権限は、具体的に何に支出す るかについて政府の裁量を広く認めていたため、政 府は不良資産の買い取りよりもむしろ金融機関への 公的資金注入を行います。さっそく10月末に大手8 行に総額1150億ドルの資本が注入され、その後 個別金融機関に必要に応じて支援が行われました。 大手行では、例えば、シティグループはH月に 200億ドルの追加資本増強を受け、バンクオブア メリカも2009年1月に200億ドルの追加を受 けました。 銀行への信認の回復  個別行への資本注入が散発的に続いている状況で、 市場参加者は安心して銀行との取引を再開できるで しようか? これだけの危機の後ですから、この銀 行は本当にもう大丈夫かな、と疑い深くなるのが自 然ではないでしょうか?  米国政府とFRBは、「打ち止め感」を出すため に、2009年2月にストレステストを行います。 これは、主要19行に対して、経済動向や住宅価格等 について一般想定に基づくベースラインと、それ以 上に悪化するケースの二つのシナリオで、自己資本 がどのくらい不足するかを試算させ、それに応じて 資本注入を行う仕組みでした。その結果、19行のう ち10行について資本増強が必要と判定され(48)、 それらの銀行は金融市場から資本調達するか、公的 資金を受け入れるかの選択を迫られました。  ストレステストのシナリオがかなり厳しかったこ とに加え、政府・FRBがこれ以上の資本不足はな い、すなわち事実上これ以上の銀行破綻は許さない と宣言したことで、銀行への信認は反転し、金融シ ステムは徐々に安定を取り戻しました。 危機後の対応  GFCで金融システムが混乱したことで、米国で は、実質GDP成長率が2009年第1四半期に前 年比マイナス5・2%を記録し、2008年初まで 5%を下回っていた失業率は、2009年10月には 10%に達しました。1980年代前半以来、25年ぶ りの高い水準です。2009年前半に、クライス ラーとGMという米国製造業のシンボルが相次いで 破綻、国有化されたのは、米国経済の苦境を象徴す るものでした。  米国を含め、主要国は景気下支えのために大胆な 政策を採ります。 金融政策  金融市場に蔓延する不安を取り除くため、中央銀 行は金融を緩和し、市場に流動性を大量に供給しま した。震源地である米国では、FRBが、2008 年12月に金利をゼロとするとともに、3回にわたり 量的緩和(QE)を実施しました(49)。  国際金融システムを安定させる観点では、FRB が設定したドルースワツプ取り極めが大きな効果を 持ちました。これは先進国と一部の新興市場国の中 央銀行に対して、FRBが必要に応じてドルを供給 する仕組みです。金融機関相互が疑心暗鬼を抱える 中、米国外でもドル資金の調達コストが上昇しまし たが、海外の中央銀行は外貨準備の額を超えてドル 資金を国内に供給できません。国全体でドルの資金 繰りが困難となっては、アジア危機の再来です。中 央銀行間のスワップ取り極めのおかげで、6000 億ドル近いドル資金が外国の中央銀行に供給され、 潜在的なドル危機を未然に防いだことは特筆に値し ます。 財政政策  成立直後のオバマ政権は、10年間で7870億ド ル、2008年GDP比で5・4%という大規模な 財政刺激を成立させます。同様に、日本では 2009年4月に15・4兆円(2009年GDP比 3・2%)、英国では2008年秋に250億ポン ド(2008年GDP比1・6%)の財政刺激を決め ました。しかし、世界を驚かせたのは中国でした。 2008年11月、2年間で4兆元(2008年GD P比13%)のパッケージを発表しましたが、それは 約2・5兆元の財政支出と銀行融資の組み合わせで した。数年後になると、積極的な融資(特に地方の 開発プロジェクト)に焦げ付き等の問題が発生しま すが、少なくとも危機の直後には、中国の財政刺激 が世界経済を救ったと高く評価されました。  ただし、主要国は比較的早期に財政刺激を巻き戻 しました(50)・エコノミストの中には、景気がま だ脆弱である間に財政赤字を削減するのは時期尚早 だったという意見が多く見られます。2013年当 時も、ラリー・サマーズ元財務長官が「長期停滞 論」を主張して、むしろ大胆な財政刺激継続を訴え ました。他方、特に欧州諸国は、2010年以降の 欧州財政危機を乗り越えるため、各国とも財政健全 化を急ぐ必要があると考えていました。 金融規制  GFCは、米国の金融界がリスク管理をしっかり 行っていなかったことを暴露しました。グリーンス パンFRB元議長も「銀行は株主資本を守るのが自 己の利益に沿うものだと思っていた我々にとって、 信じられないようなショックだった」とガーディア ン紙に語っています。きちんとリスク管理ができて いることを前提にして金融規制の緩和が行われ、そ れが金融機関のビジネスチャンスを広げて膨大な利 益(そしてバンカーたちの多額の所得)を可能にして きましたが、実はその前提が狂っていたため、巨額 の公的資金を用いて銀行を救済せざるを得なくなっ たのですから、一般大衆が怒るのも当然でした。  米国では、規制を再度強化するドッドーフランク 法が2010年に成立しました。そこでは、ノンバ ンク等を新たに金融規制の対象としたり、定型的な デリバティブ取引の決済を1ヵ所にまとめて行わせ たりすることが定められました。また銀行による投 機的取引を抑えるため、自己勘定取引やヘッジファ ンド等への投資制限が盛り込まれましたが、これは 提唱者であるボルカー元FRB議長の名を取って 「ボルカールール」と呼ばれました。さらに、公的 資金による銀行救済への国民の怒りを反映して、金 融システム全体を危機に陥れるような場合を除き、 公的資金による金融機関の救済は原則禁止する、と の規定も盛り込まれました。  国際的には、いわゆるバーゼル資本規制が強化さ れ(バーゼル3)、資本に占める普通株式の比率を高 める等、資本の質を向Lさせることが求められまし た。また、グローバルに活動する人銀行が破綻する とその影響が人きいので、こうした銀行に追加的な 資本のクッションを求めました。つまり、銀行の脆 弱性を低下させ、損失を資本で吸収できる余地を拡 人させようとしたわけです。 危機の残したもの  GFCは、米国の金融技術の先進性、金融監督体 制の強固さ、政策構築能力の高さ、ビジネス環境の クリーンさ、規制緩和・自由化の利点を説く経済学 説の説得力といった「神話」を打ち砕きました。 2000年前後に日本が銀行危機とその後始末に苦 しんだ際、なぜ自明の政策をすぐに遂行できないの か、と批判したクルーグマンやサマーズといった著 名な経済学者は、米国でも自明な政策が必ずしもす ぐに遂行できるわけではないことを目撃して、囗本 に対して失礼だったと遅ればせながら謝ったほどで す。  (1)金融規制の緩和は、金融業の利潤を高めるの で、産業政策としては意味があったかもしれません。 巨額の給与やボーナスを受け取る人々が政治的なパ ワーやコネを使い、あるいは学説の力を借りて規制 緩和を進めていこうとするのは当然です。しかし、 規制緩和には、滅多に発生しないかもしれないが発 生したら壊滅的な社会的コストをもたらす側面があ ることが明らかになり、一定の規制強化が図られま した。本来、残すべき規制と緩和すべき規制のバラ ンスを取るべきなのですが、どうしても議会内の勢 力分布等を反映して、時期によって規制緩和あるい は規制強化のどちらかの方向に政治的なエネルギー が向かってしまいます。その意味では、将来再び、 規制緩和が政策目的の中心となり、金融業の危機リ スクを高める状況となる恐れは否定できません。  (2)「なぜリーマンブラザーズを救済せずに破綻 させたのか」という問いに対しては様々な答えが提 示されています。直接的には、民間金融機関や投資 家の中にあえてリーマンブラザーズを救済合併しよ うという者がいなかったためであり、その時点の資 産の質を考えると当局が(損失となることが明白な) 資金支援をする選択肢はなかった、ということです。 さらに、ゴールドマンサックス出身のポールソン財 務長官とリーマンブラザーズのリチャードーフルド CEOの間の人間関係が微妙だったという説もあり ます。しかし、より重要なのは、失敗した企業を救 済することへのモラルハザード批判と思われます。 その頃イングランド銀行のキング総裁はモラルハ ザードを防ぐことを重視するべき、と強く主張して いましたし、ベアスターンズの救済の際に批判を浴 びた記憶がFRBや財務省を慎重にさせたものと思 われます(51)。金融システムを守るためにはモラ ルハザードに目をつぶらなければいけない場合があ るという理解は、ドッドーフランク法にも盛り込ま れて一応コンセンサスとなりましたが、実際に適用 するのは依然として政治的に難しい問題でしょう。  (3) 一般に、普通の不況よりも金融危機の後の不 況の方が、回復が遅れるとされています。金融機関 が危機によって傷むので、景気回復に必要な信用供 与が十分に進まないためですから、できるだけ早く 金融機関の健全性を高める政策的措置が必要です。 この考えに基づいて、米国では公的資金の注入によ る資本増強等により、欧州よりも比較的早期に金融 機関が健全性を取り戻したと言われます。  (4)それでも、2008年以降の米国経済の回復 は力強さに欠けたものでした。IMFの計算では危 機後10年たった2018年になって、ようやく実際 のGDPが、経済の供給力から推計した潜在的なG DPを上回ったとされています。そのため、危機の 後は長期にわたって財政支出で経済を支えるべきだ、 という考え方が学会の主流になりました。ただし、 新型コロナ危機における米国議会の議論を見ると明 らかなように、財政支出の規模のみならず、どのよ うな支出を行うべきかについても、政治的コンセン サスが得られていません。  (5)ドルの金利がゼロとなると、少しでも有利な 投資先を求めて投資家が新興市場国等に投資を行い ますが、その後投資家が資金を引き上げると、これ らの国の為替が暴落する可能性があります。現に、 2013年にFRBが将来のO、E縮小の見込みを示 したことから一部の新興市場国の為替が暴落しまし た。新興市場国が不安定化するとその影響は米国に も及ぶ可能性があり、その観点からFRBはQEな ど金融政策の手仕舞いに際して慎重な対応を採るよ うになりました。  (6)国際金融の面では、米国による経常収支赤字 のファイナンス(ドル供給の増加)が回りまわって 米国自身の金余りを招く状況に変化は見られません。 他方で、危機が起こった際に、FRBが海外にもド ル供給を行ったのは画期的でした。新型コロナ危機 の際にも、同様の措置が採られて、パニックを未然 に防ぎました。  GFCは金融業主導の経済モデルの限界を示しま した。資金が国境を越えて瞬時に自由に移動する世 界で、コンピューターの力を使って利益を上げてい くのは未来的ではありましたが、それに従事してい る人々も内在するリスクを十分に把握していなかっ たことが明らかになりました。うまく行っていると きの利益は業界内で分配し、リスクが顕在化して金 融危機が生じたら、そのコストは社会全体で負担す る(失業、倒産、財政による銀行救済等)のは不合理 だという意見が強く出された一方、そうしたモラル ハザードを避けるために銀行への公的支援をため らっていては経済的ロスがどんどん拡大してしまう という現実もありました。しかし、国によっては、 金融セクターが肥大化しすぎて、公的支援で救済し きれない場合もあります。そうなると、金融セク ターに国家財政が引きずられ、一蓮托生となってし まいます。ユーロ危機では、まさにそれが起こりま した。   コラム 国際金融は誰が運営しているのです か?  主権国家の集まりである国際社会において 拘束力のある決定を行うためには、影響を受 ける国自体の合意が不可欠です。一方、国際 金融の分野では、経済力や市場規模等の大き な国々の行動が事実上他国に影響してしまう こともありますし、民間企業の行動が実質的 なスタンダードとなることもあります。  法的な拘束力があるのは、国際機関での決 定です。国際機関に加盟している国々は、そ の機関が正式に決定した事項に従う義務があ ります。  例えば、IMFや世界銀行のガバナンスは 3層構造になっています。最も権威が高いの が総務会です。これは各国を代表する総務 (財務大臣や中央銀行総裁等)が集まって重要 事項を議論し、投票を行う場です。すべての 加盟国(株主)が参加するという意味で、企 業における株主総会に当たります。最重要事 項(増資、協定改正等)は多数決のハードルが 上がるため、最大株主の米国に事実上の拒否 権が与えられています。  決定事項の全てを大臣や総裁の投票にかけ ていてはとても効率的ではありません。そこ で、総務会は多くの事項の決定を理事会に委 任しています。理事は加盟国間の選挙で選ば れますが、投票シェアの大きい国(大株主) は一国で一人の理事を選ぶことが認められ、 小国は数力国が集まって理事を出します。24 人(IMF)ないし25人(世界銀行)の常駐の 理事会は、週に複数回会合して、例えば融資 プロジェクトの承認や予算の承認等、機関の 日常業務の決定を行います。理事会は、企業 における取締役会に当たるものですから、機 関の職員(スタッフ)が作成した提案を議論 し決定すると同時に、機関の業務遂行を監視 します。  理事会の議長は職員の長です。IMFでは 専務理事、世界銀行では総裁と呼ばれ、会長 兼CEOといったところです。専務理事・総 裁は、立候補者の中から理事会によって選ば れ、組織のパフォーマンスに責任を持ちます。 なお、総務会と理事会の中間的な存在として、 理事を出している国々の総務が集まる会合が ありますが、決定権限はありません。  加盟国の投票シェアは基本的に出資シェア を基に決まり、出資シェアは数年ごとに行わ れる増資で、加盟国の経済規模を重視しつつ、 各機関に重要と思われる要素を加味した計算 式に基づいて決められます。最近では中国が 急速な経済成長を反映してシェアを増やして いますが、かつては日本が同じ立場にありま した。多くの国は、シェアが相対的に低下し て発言権を失うことに抵抗するので、増資額 の配分は常に厳しい交渉を伴います。  国連総会が一国一票なのに対して、国際金 融機関は加盟国に出資額に応じた発言権(投 事ソエア)を認めています。それは、金融機 関である以上、より多くの資金を提供してい る国が融資の適切な遂行により大きな関心を 払うのは当然である、という考えに立ってい るからです。言い方を変えれば、借り手の声 が大きくなるほど、信用リスクに十分配慮し ない融資が行われかねない、との懸念に応え るガバナンスの仕組みです。他方で、一部の 地域開発銀行では、域内国(ほとんどが融資 対象国)の投票シェアが過半数を上回ってい るものがあります。また、2015年に発足 したアジアーインフラ投資銀行(AIIB) では中国が30%以上の独占的な投票シェアを 持ち、しかも理事会が常駐ではありません。 こうした国際機関では、政治的な配慮からの 決定が行われないよう、業務の監視に一層の 注意が必要になるでしょう。  いくつかの国が集まって議論をする場とし て、蔵相・中央銀行総裁クラスでは、 1960年代に既にG10(米、英、独、仏、日、 伊、加、蘭、自、スウェーデン。1984年より スイスも参加)というグループで国際通貨問 題に関する意見交換が行われており、やがて G5(米、英、独、仏、日)そしてG7(米、 英、独、仏、日、伊、加)が形成されていきま した。アジア危機の後になると、新興市場国 も含めた場で国際金融の諸問題を議論するの が適当だろう、との考えからG20が創設され ました。現在は先進国の相対的な地位が低下 していますので、G20の持つ意義がますます 高まっています。2007〜2009年の世 界金融危機の際には、G20の首脳会議も創設 されました。  その他にも、特定の技術的な問題を話し合 う専門家のグループ(例匸パーセル委員会、 FATF)や地域的な会合(ASEAN+3) 等があり、参加国はいろいろな場で恒常的に 議論を重ねています。会議が多すぎるとか、 会議の参加者が多いと効率的な議論ができな い、といった意見は常に出されていますが、 国際金融の諸問題を「民主的」に解決してい こうという傾向は今後とも強まることはあっ ても弱まることはないでしょう。従って、ま すます多くの会議が生まれるだろうと予測す るのが妥当なようです。 (43)単純な例を挙げると、額面100ドルで金利5%    の国債を、流通市場において110ドルで買った    とすると、支払われる5ドルの金利分は、5.1.    110=4・5%の利同りとなります。 (44)グリーンスパン議長は、何かバブルかを事前に判    定することは不可能なので、当局はバブルが崩壊    してから後始末するのが正しいやり方だ、と主張    していました。 (45)安定的環境の中で人々がリスクを取り続ける↓あ    る時点で限界点に達して資産価格が下落を始める    ↓人々は資産を投げ売りする↓金融機関の経営が    傾く↓当局が金融機関を救済する↓経済と市場が    安定する↓人々が安心してリスクを取り始める、    というサイクル。GFCの後、安定が危機に転化    する限界点が「ミンスキーモーメント」と呼ばれ    るようになりました。 (46)借り主に所得(ぽOヨ乙、職ご呂)、資産(―皿)    の有無すら尋ねないという意味で、No Incoヨタ    No Job「 No Assetの頭文字を取ってニンジヤ    (NINJA)ローンと呼ばれたりしました。 (47)債券の信用リスクを「AAA」「AA」等の記号    で表わし、投資の安全性の判断材料とするもの。    こうした判定をする会社を格付け機関と呼びます。    s&P、ムーディーズ、フィッチ等が有名です。 (48)例えば、バンクオブアメリカは約340億ドルの    資本増強を求められました。 (49)市場から国債やモーゲージ債(住宅ローンを証券    化したもの)等を購入して、市場にドル資金を供    給するもの。日銀はゼロ金利を、イングランド銀    行は金利をO・5%まで引き下げるとともにOヽE    を導入しました。ECBはインフレ警戒で    2008年7月に利上げを行いましたが、危機後    は利下げと、一定規模の債券購入も行いました。 (50)すでに2010年2月のG7財務大臣・中央銀行    総裁会議で、刺激策からの出口戦略を考えること、    持続可能な財政への移行を指向し始めることが合    意されています。 (51)もしそうだとすると、大恐慌時の再現です。    1932年6月に復興金融公社(RFC)が行っ たシカゴのセントラルリパブリック銀行救済のた めの融資が強く批判されたので、その翌年、ミシ ガン州のユニオンガーディアン銀行の危機の際に は支援を行わずに破綻させたと言われています。  第9の危機 絶体絶命のユーロを  救った「一言」とは?  −単一通貨導入、ギリシヤ危機、ドラギマ  ジック ユーロ危機と究極の選択  1999年に導入された単一通貨ユーロは、ドル に並ぶほど強力で国際的に活用される通貨(準備通 貨)を創設するとの政治的な意図の表明でもありま した。しかし、わずか十数年後に空中分解の危機に 直面してしまったのは、一体なぜでしょうか?  危機に直面したとき、自国通貨を捨ててユーロ参 加を選んだ諸国は、ユーロが崩壊して再度自国通貨 に戻らざるを得ない事態を恐れました。移行過程の 混乱もさることながら、自国通貨に戻ると、欧州通 貨の「強者」(ドイツ等の北部諸国)と「弱者」(南欧 諸国等)がはっきりと区別されてしまうからでしょ う。統一感が薄れれば、欧州の政治的・経済的な統 合が後退するリスクがあるのです。  しかし、ユーロ圈の国々が次々と危機に陥ると、 ついにスペインやイタリアといった大国からも投資 家が離れ始めました。大国がサドンストップに直面 して資金繰りが困難となってしまったら、他のユー ロ参加国や国際機関等が公的に支援するのは不可能 です。何しろ、支援に必要な額が大きすぎます。資 金繰りを回復するには、自国通貨に戻るのが早道で すが、それはユーロの解体に他なりません。究極の 選択が近づく中、国際社会が投資家をつなぎとめる ため懸命な努力を払います。ところが、ユーロ崩壊 の絶体絶命のタイミングでユーロを救ったのは、大 量の資金でも厳しい緊縮政策でもなく、ECB総裁 のたった一言でした。 欧州通貨統合に至る道  まずは、欧州諸国間の経済関係を密接不可分なも のとするプロセスの帰結として、ユーロが位置付け られていたことを想起しましよう。 スネーク(ヘビ)  ブレトンウッズ体制下では、他の通貨間同様、欧 州諸国通貨間の為替レートは相互に固定されていま した。ブレトンウッズ体制が崩壊した後も、欧州諸 国間は貿易や投資等の経済関係が密接だったので、 為替レートが相互にあまり変動しない方が望ましい との理解が共有されています。そこで、スミソニア ン合意ができると、当時の欧州経済共同体(EE C)加盟国(ベルギー、フランス、西ドイツ、イタリア、 ルクセンブルク、オランダ)はそれぞれの通貨の対ド ルレートの変動幅よりも、相互の為替レートの変動 幅を小さくすることに合意しました。この仕組みは、 大きなレンジ(対ドル)の中に、小幅のレンジ(対 EEC通貨)があるという意味で、「トンネルの中の ヘビ」と呼ばれました。  その後スミソニアン合意の崩壊とともに各国は変 動相場制に移行したため、対ドルのレンジのなく なったEEC通貨間の取り極めは「トンネルから出 たヘビ」と呼ばれることになりました。いずれにせ よ、EECは、各国通貨が対外的にはほぼ一体の塊 として動くことを選びました。 単一通貨参加条件  EECが拡大して欧州共同体(EC)となり、通 貨間の取り極め(ERM)への加盟国も増加します が、1992年に調印されたマーストリヒト条約で は、欧州連合(EU)への移行を定めるとともに、 各国が単一通貨を含めた経済通貨同盟の創設に同意 しました。そのために参加国は経済パフォーマンス を収斂させることにコミットします。各国の経済動 向かパラパラでは、強い通貨と弱い通貨が現われて、 固定相場が維持できないからです。これが有名な マーストリヒトークライテリア(収斂基準)で、具 体的には次の条件ですが、その中で最もよく知られ ているのが(2)の財政条件です。  (I)インフレ率が、参加国の中でインフレ率の低 い3力国の平均値プラスー・5%を上回らないこと。  (2)財政赤字がGDP比3%を上回らず、債務残 高がGDP比60%を上回らないこと。  (3)為替レートが過去2年間ERM内の通常の変 動にとどまっていること。  (4)長期金利が、参加国の中でインフレ率の低い 3力国の平均値プラス2%を上回らないこと。 ユーロ導入  ひとかたまりのEC通貨の価値を計算して、 1999年、ユーロが会計上の単位として導入され、 2002年からはユーロ紙幣とコインが発行されて 各国の独自通貨は姿を消しました。二度と欧州国家 間で矛を交えないという理念に基づいて開始された 欧州統合プロジェクトは、前進や後退を繰り返した ものの、ついに単一通貨創設の目標を達成したわけ です。マーストリヒト条約当時、フランスのミッテ ラン大統領は、「共通通貨のシステムがなければ。 ヨーロッパも存在しない」と発言したそうですから、 政治的リーダーたちの不退転の信念を感じさせます。 問題は、ユーロの制度設計が適切であったか否かで す。 最適通貨圈  政治的理念としての単一通貨導入は理解できます が、それでは経済的な合理性はどうでしようか。そ の問題を考えるときに参考になるのが、経済学者の ロバートーマンデルが提唱した「最適通貨圈」の概 念です。  例えば米国のように広大な国では、州や郡によっ て産業構造が違いますし、労働者の量や質も異なり、 自然災害で一部地域だけ経済的打撃を受けることも あるでしょう。このような地域による相違にもかか わらず、米国が単一の通貨(ドル)と単一の金融政 策を用いて発展しているのは、四つの条件が満たさ れているからだ、とマンデルらは考えました。第一 に、域内での労働者の自由な移動です。不景気な地 域から好況の土地に労働者が移動することで、失業 が一部地域に固まらないようにできます。第二に価 格や賃金が柔軟に動いて、域内での市場原理かきち んと働くことです。第三に、中央政府による財政移 転です。好況地域で徴収した税財源を不況地域で支 出することで、地域間の景気や失業の格差を縮小で きます。第四に、景気循環のサイクルが似ているこ とです。  ここで含意されているのは、大きな経済圏の中の 一つの地域は好況で、失業率が低く、物価も上昇傾 向にある一方、別な地域が不況で、失業率が高く、 デフレ傾向にあるような場合、両者の相違をならす (均質化する)ような力が働かなければ、一つの為替 レートや金融政策が両者双方にとって適切というこ とはない、ということです。換言すれば、相違をな らす仕組みがなければ、こういう場合には好況地域 と不況地域がそれぞれ独自の通貨と金融政策を持ち、 不況地域の金利を下げ、為替を切り下げて産業の競 争力を川復するのが望ましい、ということになりま す。  単一通貨導入を目指す欧州のりIダーたちも、当 然こういう道理は理解していました。そのため、通 貨統合に向けて時間をかけて進む過程で、労働力の 欧州域内での移動の自由を確保し、マーストリヒ トークライテリアで域内のインフレ率の収斂を狙い ました。域内は単一市場となり、資本や商品が自由 に移動できます。経済的に遅れている地域には補助 金も支給されます。実際、英国やドイツには南欧や 旧東欧地域出身の多くの労働者が見られるようにな りました。  もっとも、いかに労働者の移動が自由であっても、 欧州各国間の文化や言語の違いを考えると、人々が 好不況の波の合間に簡単に移動する状況は想像しに くいものでした(52)。また、財政規律の弱い国で は、マーストリヒトークライテリアに即した財政改 善がなかなか起こらず、何度も例外措置が採られま す。各国の経済構造の相違は継続していますし、後 発地域への補助金の規模も小さく、それによって景 気循環のサイクルが各国で一致してきたとも言えま せん。自国の税財源が他国で景気刺激に使われるこ とを国民が受容するには、事実上の連邦制に移行し なければなりませんが、それには各国間の意見の隔 たりが大き過ぎました。むしろ大国の間では、EU の共通予算はなるべく小規模にしたいという力学が 働いていました。  ユーロが導入されてからも、こうした状況に大き な変化はありません。それどころか、2000年代 前半にドイツが厳しい構造改革を行い、製造業の賃 金水準を労働生産性にあわせて輸出競争力を回復し たのに比して、南欧諸国等は生産性を上回る賃金レ ベルを享受して競争力を失っていきました。その結 果、大きな経常黒字国(ドイツ)と大きな経常赤字 国(南欧諸国等)が一つの通貨で併存していました が、その双方に適した為替政策や金融政策は存在せ ず、結局中途半端になってしまいます。つまり。 ユーロ圈は最適通貨圈の条件を満たしていなかった と思われます。  一方で、単一通貨導入への市場の期待は高く、大 きな財政赤字を抱える南欧諸国の金利水準が劇的に 低下します。一つの通貨を使っていると言っても、 財政状況の異なる国々の発行する国偵の金利はそれ ぞれの国の信用度に応じて定まるのが原則です。し かしながら、単一通貨発足後にある国が財政危機に 陥ったとしたら、ドイツをはじめとする財政の健全 なメンバー国が支援してデフォルト回避に動くだろ う、と市場参加者が想定した結果、南欧諸国の国偵 も積極的に買われて、金利の低下につながったので す。  また、競争にさらされていた中小の銀行が、為替 リスクがなくなったことを契機に欧州内で少しでも 高リターンの投資を探して、南欧諸国等での活動を 増大させたことも、それらの地域での金利水準を低 下させました。つまり、急激な金利の低下は、決し て財政赤字国で規律が改善した結果ではなく、か えってこれらの国の借り入れを容易にして、財政赤 字をむしろ増やしてしまう結果にもなりました。ま た流人した資金が生産設備や教育といった未来への 投資ではなく、むしろ不動産ブームを引き起こす等、 経済のファンダメンタルズを悪化させることにもな りました。 ユーロ危機  2010年のギリシヤ危機は、財政危機でした。 巨額の財政赤字を嫌った海外投資家がギリシヤ国偵 の購入をストップし、その他の資産からも資金を引 き上げたことで危機となりました。それは、過去何 度も繰り返されたサドンストップのパターンです。 違いがあるとすれば、従来は新興市場国や低所得国 がサドンストップに見舞われていたのに、今回は先 進国が危機になったということです。その共通点は、 どちらも外貨で借り入れていたからです。  そう言うと、ユーロは外貨でなく、ギリシヤの通 貨ではないか、と指摘されるでしょう。全くその通 りですが、ユーロはユーロ圈の共通通貨であるので、 ギリシヤが単独でユーロに関する決定を行うことは できません。ギリシヤ国偵が海外投資家に不人気に なったから、ギリシヤの金利を引き上げようとか、 為替レートを安くしようとか、極端な場合には国偵 を中央銀行に購入して買い支えてもらおうといった、 普通の主権国家であれば何でもないことがギリシヤ にはできませんでした。ユーロに関してギリシヤに 通貨主権がなかった以上、外貨で借り入れていたの と同じことだったのです。  ギリシヤ危機は、ユーロという通貨の存在と、そ の設計・運営への疑念を投資家の間に広め、ユーロ 圈内の比較的脆弱な国々に伝播していきます。サド ンストップの連鎖と言っても良いでしょう。金融機 関は資金繰りの悪化と不良偵権増加に苦しみ、政府 は公的資本の注入で資本増強を図ります。同時に、 危機に陥ったユーロ圈諸国は、厳しい調整(緊縮) と外部からの資金供与という、「伝統的な」対応を 行いました。単一通貨のユーロは、究極の固定相場 制ですから、危機対応も固定相場制時代と同じにな るのは当然です。つまり、ユーロ危機は、「古臭い」 危機でもあったのです。ギリシヤでは、それに加え て、偵務削減が行われました。  要するに、これまでお話ししてきた100年間の 国際金融危機の要素がすべて顔を出す、危機の総決 算の様相を呈したわけです。まず、各国ごとの危機 の概要を眺めた上で、危機が最終的にどうやって収 束できたのか、今後再度危機が発生する恐れはない のか、という点を考えていきましよう。 ギリシャ危機  ギリシャは伝統的に左右対立が激しく、頻繁に政 権交代が起こる国でした。その際、新たに政権に就 いた勢力は支持者を公職に就けるので、公務員の数 が非常に多いと言われていました。公務員が全員出 勤すると机の数が足りない、とまことしやかに語ら れました。加えて、一般的に定年年齢が低い、各種 の年金制度は支給水準が高い、非効率な国有企業が 多い、納税意識が低い等、財政基盤は脆弱でした。  そうした中、米国発のGFCで市場のリスク警戒 度が上がり、「金利スプレッド(53)」が上昇し始め ていましたが、2009年10月に成立した左派政権 は、いきなり市場を激震させる爆弾発言を行いまし た。前政権は財政赤字を粉飾しており、同年の財政 赤字見通しは前政権の言うGDP比3・7%ではな く12・7%に上る見込みであるというのです。これ は金融市場にショックを与え、国外の銀行や投資家 は資金の引き上げに動きました。おそらく、国際金 融史上、最悪のオウンゴールでしょう。  ギリシヤは資金繰りに行き詰まり、2010年5 月、IMFとプログラムを組んで、欧州内および ユーロ圈諸国の支援を受けました。ECBも資金供 給で助けます。IMFのプログラムは厳しい緊縮財 政を中心に、規制緩和や民営化という構造改革を盛 り込んだものでした。通常のIMFプログラムでは 為替の切り下げと金融引き締めが含まれるのですが、 ユーロ圈に属するギリシヤでは、そのどちらの措置 も単独で採ることができません。その分、財政面の 条件が厳しくならざるを得ませんでした。国内のデ フレ政策によって為替切り下げと同じ効果を生み出 すことを「インターナルーデヴァリュエーション」 と言いますが、まさに金本位制下で貧しい労働者を 犠牲にして経常収支赤字を削減したのと同じことを、 現代の先進民主主義国家で行おうとしたわけです。  他方で、IMFや欧州諸国からの支援は、結局欧 州の銀行の偵権回収を助けているだけだ、との批判 もありました。実際、フランスやドイツの銀行は急 速に融資額を減らしていました。お金に色目はあり ませんが、欧州諸国やIMFといった公的債権者か ら供与された「外貨」(ユーロ)が、偵権者の外国 民間銀行への融資返済に実質的に充てられて、それ 以降の財政赤字は公的偵権者によって支えられるよ うになったと言うことができます。  強烈な緊縮政策のため、実質GDPは26%も縮小 します。これは大恐慌時の米国の景気後退に匹敵す る規模です。ストライキが頻繁に起こり、約束した 構造改革は遅々として進まず、分母のGDPが縮小 するので偵務のGDP比も思ったようには減りませ ん。そこで2012年3月に民間偵権者の保有する 国偵を、額面がほぼ半額の新しい国偵と交換する形 で偵務削減が行われました。  こうした状況で、緊縮政策の継続を拒否する極左 政権が2015年に誕生します。しかし国民はギリ シヤのユーロからの離脱(「グレグジット」と呼ばれ ました)は支持しなかったため、結局緊縮財政が継 続されました。 アイルランド危機  もともと農業国で比較的貧しかったアイルランド は、低い法人税や英語を公用語とする有利さ等で海 外企業を誘致し、1990年代後半より高成長を遂 げてきました。その過程で生じた不動産バブルが 2007〜2008年をピークに崩壊すると、銀行 セクターに不良偵権が累積しました。投資家が銀行 の健全性に疑問を持ったため、銀行は資金調達に苦 しみ、銀行からの新規融資が急速に減少した結果、 実体経済が悪化します。  アイルランド政府は、銀行の信認を高めるため、 銀行のすべての債務を保証し、銀行を国有化して資 本注入します。その結果、投資家や預金者にとって、 銀行の健全性を信じるのは、アイルランド政府の保 証を信じるのと同義になりました。つまり、銀行の サバイバルが国家財政のサバイバルと事実上一致し たわけですが、銀行の総資産合計はピーク時にGD Pの5倍にも達していたので、とても国家保証の手 に負えないのは明らかでした。黒字を続けていた一 般政府の財政も、2008年にGDP比7%の赤字 となり、2010年には32%まで赤字が拡大します。 2010年12月、アイルランドはIMFと欧州諸国 の支援を受け入れるしか選択肢がありませんでした。 スペイン危機  スペインでも不動産バブルが崩壊し、銀行が民間 向け融資残高をほぼ半減させたため、急速な景気後 退が起こります。失業率は25%を上回りますが、ス ペインでは労働市場が正規労働者と主に若年層から なる非正規労働者に二分されており、24歳以下の若 年労働者の失業率は55%(2013年)という驚く べきレベルに達しました。スペインはIMFに対し、 銀行セクター改革のアドバイスを求めつつ、資金支 援は欧州内からのみ受けることにしました。 ドラギマジック  ここに挙げた以外にも、ポルトガル、キプロス等 で財政・金融危機が発生し、IMFとユーロ諸国が 支援しており、イタリアでは危機までは至らないも のの国偵の金利スプレッドが急上昇する状況で、ま さに南欧諸国は火だるま状態になりました。ギリ シヤのみならず、イタリアもユーロ脱退を余儀なく されるのではないか、とのうわさが広まる一方、ド イツ等の北部諸国がユーロから脱退して小グループ で新たな単一通貨を作るべきではないか、との意見 も出されていました。ユーロの将来は極めて悲観的 にならざるを得ないものでした。  そのように危機が先鋭化していた2012年7月 26囗、ECBのドラギ総裁は記者会見で、ユーロを 救うためにECBは「(権限の範囲で必要なことは) 何でもやる」(whatever it takes)と発言しました。取 り付け騒ぎのパニックを鎮めるには、十分なお金が あることを見せるのが肝心ですが、ドラギ総裁が見 せたのは中央銀行のすべての能力でした。市場参加 者はこの発言を信じたので、これ以降スペインやイ タリアのスプレッドは急速に縮小していき、ユーロ は危機を脱し、落ち着きを取り戻しました。ギリ シヤの債務・財政問題は継続しますが、パニックは 収まったのでした(54)。 危機の残したもの  ユーロ危機の源泉は、通貨統合のイメージが先行 して、南欧諸国で財政状況からは正当化されない金 利の急速な下落が起こり、それによって生じた好況 と住宅バブルが崩壊したことです(55)。しかし、 そもそもその状況は、政治主導で通貨統合を性急に 進めたことによって作り出されたのでした。単一通 貨に至る統合の道はとても美しいですが、統一のだ めの経済的条件は整っているか、各国の国民レベル で通貨統合のもたらすプラスとマイナスについて政 治的な合意ができているか、仮に統合がうまくいか なかったときの「逃げ道」は用意されているか、と いったあたりの詰めが甘かっだのではないでしょう か。  通貨統合を具体的に検討している国は欧州以外で は極めて少数ですから、ほとんどの国にとって、 ユーロ危機の経験から学ぶ教訓はないと言って良い でしょうか?  それは、やはり違うでしょう。もし学ぶことがな いと言ってば、数年間にわたり必死に危機を回避・ 解決しようと努力した国際社会と、不況に苦しんだ 危機国の国民に失礼だと思います。では、我々は ユーロ危機から何を学んだでしょうか?  (I)政治的理念は極めて重要ですが、やはり情熱 が先に立っては危険な場合があると思います。EU のガバナンスについては、EU本部(ブリュッセル) の官僚組織が理詰めで考えた計画を、各国首脳が政 治的バーター取引で決めていって、民意が反映され ていない、という批判がしばしば寄せられています。 これは、通貨統合に民衆の同意がなかったというこ とではありません。ユーロが現在でも高い人気を得 ているのは事実です。しかし、マーストリヒトクラ イテリアの遵守が参加条件だったのに、いつの間に か特例措置を乱発して南欧諸国のユーロ参加を許し てしまうように、政治的便宜で経済的合理性が捻じ 曲げられたことが、ユーロの危機につながり、ひい ては政治的リーダーとブリュッセルへの信頼低下に つながっていると思います。リーダーには先に立っ て世の中を引っ張るイメージがありますが、謙虚に 庶民と歩みを合わせるのも、「急がば回れ」の危機 回避かもしれません。  (2)ユーロ圈は日本や米国に比べると、はるかに 財政規律を重視します。危機国への財政支援は加盟 国全体のコンセンサスが必要ですが、ドイツやオラ ンダ、北欧等の財政規律を極めて重視する北部諸国 では、南欧諸国やアイルランドは規律に欠けた経済 運営を行っていたのだから危機になったのは自業自 得だという、倫理的な見方が広がっていました。ド イツ語で「偵務」を表わす「?i瓦」という単語に は、「罪」という意味もあるほど、ドイツ語圏では 偵務を忌避する感覚が強いそうです。財政に対する 考え方が全く異なる二つのグループがユーロ圏内に 存在するので、危機国への支援を機動的に行うのは 困難でした。  こうした意見の相違はユーロ圈に限りません。市 場と政府の役割、社会保障のあり方、格差への対応、 規律と成長の優先順位、金融規制の強弱、財政赤字 への抵抗感等のテーマヘの考え方は国内でも往々に して意見が分かれていますから、まして国と国との 間では様々です。いかに米国が世界最大の経済大国 とはいえ、米国の考え方が常に勝つわけではありま せんし、米国の考え方も政権や時代によって移り変 わります。そもそも、各国の意見が一致する方が珍 しい、という中で危機対応を行うのは簡単ではない のです。  (3)米国や日本でも同様ですが、銀行への公的資 金による資本注入に対しては、バブルに乗って調子 よく儲けていた銀行を、一般大衆が苦労して支払う 税金で救うのか、という極めて大きな反発に直面し ます。加えて、失敗したときに公的資金で救われる のであれば、次回以降も高リスクのギャンブルを促 しかねないというモラルハザードヘの心配も、もっ ともなことです。  しかし、金融システムに影響が及ぶような重要な 銀行が傾いたら、批判を乗り越えて資本注入や国有 化を行わざるを得ません。救済しないコストがあま りに大きいからです。もっとも救済の財政コストも 大きいのが悩ましいところです。財政の持続可能性 と銀行の健全性が一蓮托生となってしまうと、銀行 を支援すればするほど国家の信用力が下がることに なります。国民生活は、いずれにせよ大きな打撃を 受けるでしょう。  (4)ユーロ圈では、一国の危機が単一通貨の信認 を直撃しますので、他の参加国が(仮に渋々であっ ても)公的資金を用いて危機国を支援しました。よ り一般的に考えても、単一通貨であるか否かにかか わらず、危機国に近接する地域の友好国が支援を行 うのが自然のように思われます。危機の伝播の可能 性を考えると、隣国の危機を早期に収束できれば、 自国の利益にもかないます。  アジアでチェンマイイニシアティブが作られたよ うに、ユーロ圈でも危機の最中に作られた組織を統 合して、2012年10月に「欧州安定メカニズム」 (ESM)が設立されました(56)。アジアと欧州の モデルにならって、今後同様のメカニズムが他の地 域でも作られていくのではないでしょうか。  (5)ユーロは崩壊を免れましたが、ユーロ参加国 が経済的にも政治的にも文化的にも一枚岩でないこ とが誰の目にも明らかとなりました。メンバー間の 経済力格差は継続し、ギリシヤ等は今後数十年にわ たって緊縮政策を行って、支援を受けた国々に債務 を返済することが義務付けられています。しかも、 「危機が起こらないように平時から財政規律を維持 しておくべきだ」という考えと「危機の原因は問わ ず、危機の際にはユーロ圈全体の利益を考えてすべ ての国の負担で危機国を支援すべきだ」とする考え 方の間の溝は依然として埋まっていないのが実態で す。仮に再度危機が発生したら、インターナルーデ ヴァリュエーションがもう一度強制されるでしょう。 こうして考えると、ユーロは当分の間、脆弱な巨人 であり続け、ドルに代わる基軸通貨への道のりは遠 いものと思われます。  ユーロ危機は、先進国でもサドンストップに直面 し得ること、硬直的な為替制度は問題を悪化させる こと、肥大化した金融セクターはそれ自体が大きな リスクとなること、投資家の信認が危機解決のカギ であり、そのためには当局の肝の据わった対応が不 可欠なこと等を改めて示しました。  さらに言えば、危機になってからそれを解決する のでなく、危機を未然に防ぐことの方が、はるかに 重要であることも再確認しました。残念ながら、未 然に防いだ危機は国民の目には見えません。危機予 防のため、事前に財政・金融政策を引き締めたり、 規制を強化したりすることは、おそらく不人気で しよゝつ。  2000年代前半にはドイツに匹敵する生活水準 二人当たり実質GDP)であったイタリアは、その 後生活水準が1割以上下落し、現在でもユーロ危機 以前の水準を回復できていません。また、長期にわ たって緊縮財政の継続が求められているギリシヤの 生活水準は、2000年代半ばのピークから2割以 上低下し、その後も独仏との差が開くばかりです。 こうした数字を見ることで、ユーロ圈のみならず世 界中の国が、平時から危機予防を真剣に考えるよう になったと信じたいところです。   コラム EUは連邦国家に向かっているので   すか?    新型コロナはEUでも猛威を振るい、特に イタリアやスペインでは多くの犠牲者を出し ました。そして、旧東欧諸国や南欧諸国が医 療体制の整備等の多額の財政資金についてE Uの北部諸国からの支援を求め、北部諸国は 自らの税財源が南欧等に移転するのを警戒す るという、いつもの対立が現われました。し かし、今回がいつもと異なったのは、ドイツ が東欧・南欧に歩み寄ったことです。  2020年7月、5日間にわたる首脳会議 の後、EUは欧州復興基金の設立を発表しま した。これは欧州委員会が偵券発行で調達し た資金で、3600億ユーロの融資と。 3900億ユーロのグラント(返済の必要が ない補助金)からなり、地球温暖化対策やデ ジタル化を進めながら、新型コロナからの復 興にあたる資金を、すべてのメンバー国に供 与するものです。スペインとイタリアがそれ ぞれ700億ユーロ程度を得る一方、ギリ シヤ、ブルガリア、クロアチア等も、実額は 小さいものの、それぞれの国のGDP比で10 %程度と相当な規模のグラントを得ることに なります。グラントですから、各国の偵務G DP比を悪化させることはありません。  今回の決定が画期的と評価されたのは、財 源がEU全体の偵務なので、北部が東欧・南 欧への大規模な財政移転を事実上容認したと 受け取られたからです。一部には、アメリカ 独立に際して13州の偵務を連邦全体の偵務と して統合したアレキサンダー・ハミルトン初 代財務長官になぞらえて、EUのハミルトン モーメントと評価する声もありました。ただ、 実態を見るとそうとも言い切れないようです。  第一に、ドイツ等の北部では、今回の措置 は一回限りの例外的なものと考えている人が 多く、簡単に恒久化できるとは思われません。 EUという狭い地域で、一部の国々の新型コ ロナ対策が遅れれば、当然他のメンバー国に も感染が広がってくるでしょうから、今回は やむを得ない、という考えも理解できます。  第二に、グラントに充当される偵券の償却 財源は、欧州委員会が独自財源を新たに導入 することになっています。現状では、リサイ クルされないプラスティック容器への課税、 デジタル企業への課税、C02排出規制の緩 い国からの輸入品への課徴金等が候補となっ ていますが、北部諸国の税財源を移転すると いうよりは、外国企業への課税等、追加的な 財源のように思われます。北部諸国の納税者 に、税を負担しているという意識をあまり感 じさせないように工夫している印象です。  第三に、EU諸国の国家予算のGDP比は 平均で46%ですが、欧州委員会が執行する共 通支出はEU各国の国民所得の合計の1%程 度に過ぎず、各国からの拠出金と、一定の独 自財源によって賄われています。今回発行す る偵券の償還のために追加される独自財源は、 国民所得比O・6%なので、規模からいって 財政の連邦化というには無理があります。  第四に、今回の決定はドイツが融和的だっ たので可能になりましたが、それでも首脳会 議が5日間も紛糾しています。今後同じよう な仕組みが議論されても、簡単に財政移転が 容認されるとは思われません。  そうはいっても、今回の基金設立等の経験  が積み重なって、将来さらなる財政移転のメ  カニズムが受け入れられていく可能性は当然  にあります。そうした進展次第では、ユーロ  圈が最適通貨圈に近づいていくこともあリ得  るでしょう。 (52)EU内の比較的貧しい国から比較的豊かな国に移   動した労働者の中には、金融業や医者等のプロ    フェツショナルな人材が多く含まれており、これ    らの人々は長期的に移住するので、景気循環の波    をならす目的には適合しません。また、高スキル    人材が出て行ってしまった地域は、かえって経済    成長の潜在能力が低下した側面があります。 (53)安全資産と目される資産との利同りの差。この場    合は、ギリシヤ国債とドイツ国債の市場での評価    の違いを反映して、ギリシヤ国債の利同りがドイ    ツ国債よりもどれくらい高いか、という数値です。 (54)スペイン政府は民間コンサルタントを雇って銀行    セクターの資本不足を計算させますが、2012    年9月に発表された報告で不足額が欧州からの資    金支援額の範囲で収まっていたことも市場の安心    感を高めました。 (55)アイルランドの金利も1990年代後半に下落し    ますが、アイルランドは財政の黒字化に成功して    いたので、金利低下が全く正当化されないという    わけではありません。 (56)ESMは市中借入れを基に危機国に融資を行い、    財政移転は行いません。  第10の危機? 次の危機はどこで起  こるのか?  −新型コロナ、債務累積、資産価格高騰 次の危機は必ず起こる  ここまで、過去100年間の大きな危機を眺めて きました。これからは、将来について考えていきた いと思います。  我々は100年間にわたって、危機の原因とパ ターン、有効と思われる対処法を学んできました。 本を開く前から「危機ミステリー」の犯人の目星が ついているようなものです。  では、世界経済を崩壊させかねない大規模な危機 はもう起こらないのでしょうか? フランシスーフ クヤマの「歴史の終わり」ではありませんが、我々 は「危機の終わり」に立っているのでしょうか?  100年間の経験が我々に教えるのは、「必ず次 の危機は起こる」ということです。それがどのよう なものか、いつ、どこで起こるのか、は分かりませ ん。しかし、経済活動の中で、「新しい」金融技術 が生まれ、「新しい」財政支出が正当化され、「新し い」経済理論が普及していけば、思わぬ形で信認の 低下やサドンストップが出現してくる可能性が高ま ると思います。  あるいは、次の危機はそのように劇的なものでは ないかもしれません。時間をかけて歪みが累積し、 人々の生活水準が停滞・下落する状況は、1990 年代からしばらくの間日本が経験した姿です。各国 の少子高齢化の進展で世界の「日本化」を恐れる声 が上がることがありますが、一方で、再生エネル ギーへの移行過程ではエネルギー価格上昇、官民の 投資増からくる高金利や増税等により、景気停滞が 続く可能性が小さくありません。長時間かけて進行 する生活習慣病のように、こうした停滞の方が解決 の難しい、怖い危機と言えるでしょう。  本書を締めくくるにあたり、次の危機の姿につい て、いくつか大胆に考えてみたいと思います。 新型コロナ危機  新型コロナのパンデミツクが世界史に残る出来事 であるのは間違いありません。それは多数の人々の 生命を奪った社会的危機であり、国民の間に分断を 生む政治的危機であり、そして移動の自由の制限か ら経済活動を急減速させた経済危機でした。これか ら人類は、新型コロナと共存する「ウィズコロナ」 の時代に入ると言われていますが、その過程で国際 金融危機が起こるとしたら、どのようなものとなる でしょうか?  新型コロナ危機勃発後、主要国はそれが経済・金 融上の危機とならないように政策を総動員しました。  金融政策では、各国で市場からの債券購入や企業 の資金繰り支援が行われ、FRBやECBはインフ レ目標の定義を変更して、一時的に2%を超えるイ ンフレを容認する姿勢を打ち出しました。なお、F RBは、GFCのときと同様、主要国の中央銀行に ドルを供給するスワップ取り極めを発動しました。  財政政策では、医療体制の強化や失業対策、企業 への補償等を行って、世界的な恐慌を防ぎました。 財政赤字は急拡大しましたが、世界的な金融緩和の おかげで国偵の消化に大きな問題は生じていません。  また、G20では、2020年5月から、貧しい偵 務国からの公的偵務の返済を一時的に免除していま す。適格73力国のうち40を超える偵務国が、 2021年末までに100億ドル以上の偵務返済を 先延ばしする恩恵を受けました。  これらの政策的なサポートは、「ウィズコロナ」 に向かって、段階的に後退していくはずです。その 過程では、どのようなリスクがあるでしょうか? ドルヘの資金回帰  金融緩和が強力なほど、そして長期にわたるほど、 そこから円滑に「正常化」していくのは難しくなり ます。その実例が、2013年夏のいわゆる「テー パータントラム」です。その年5月の議会証言で バーナンキFRB議長は、このまま国際金融状況が 改善したら今後数回の政策会合において偵券購入 ペースの減速(テーパー)に向かえるかもしれない、 と発言します。それまで超低金利で調達したドルを 海外投資に振り向けていた投資家は、急速にドルに 同帰します。その結果、経常収支赤字が大きい等の 理由で脆弱と思われたブラジル、インド、インドネ シア、南アフリカ、トルコの5力国の通貨が大きく 下落しました。  現在米国では、足下の物価上昇が賃金上昇につな がって、インフレが定着するリスクがあります。市 場では2022年中にFRBが複数回利上げをする だろうと予想していますが、利上げが遅れると、 後々より大規模な引き締めを強いられることになる ので、一般的には、遅れるよりは早めの「正常化」 の方が望ましいと言えます。そうなると2013年 と同様、新興市場国や発展途上国の通貨に下落圧力 がかかるのは避けられないでしょう。  過度な為替下落を嫌う各国が利上げを迫られると、 財政の維持可能性や金融機関の健全性に影響が及び ますし、ドル建ての債務を負っている国々は債務危 機にまで至りかねません。その結果、内戦や難民問 題が深刻化する可能性もあるでしょう。また先進国 であっても、銀行のドル資金繰りが難しくなると、 国際金融危機に一歩近づくかもしれません。 資産価格の下落  超低金利環境で、人々は収益機会を求めて様々な 資産に投資しています。典型的には株式市場です。 ニューヨーク株式市場の指数(ダウジョーンズ、S& P、ナスダック)はいずれも新型コロナの世界的拡 大が明らかになるとともに暴落しましたが、その後 ほぼ2倍の水準まで上昇しています。富裕層だけで なく、一般大衆が小口のオンライン投資に参加して おり、レバレッジ(資金を借りて投資すること)も一 般化していると言われています。一方、住宅価格指 数(S&P/ケースシラー)も同期間に十数%の上昇 を示し、現在の水準はサブプライムローンによる住 宅バブルがピークだった2006年のレベルを3分 の1以上上回っています。  金融環境の「正常化」の過程で資産価格が下落す る可能性は非常に高いので、その際に投資家が損失 を吸収できるか、また住宅ローンや証券投資のため の融資が不良債権化して金融機関の健全性を脅かさ ないか、が重要なポイントです。FRBは、資産価 格の下落幅を抑えながら「正常化」を目指すはずで すが、それが成功する可能性はまずないと思ってお いた方がよさそうです。市場の振り子は過度に振れ る(オーバーシュート)のが普通ですので、おそらく 大規模な株価と住宅価格の調整が起こるものと思わ れます。価格下落に直面して再度の金融緩和を余儀 なくされる可能性がありますが、それは将来により 大きなバブルを先送りするだけです。特にニュー ヨーク株価の下落は国際的な影響も大きいので、実 体経済は動揺すると思いますが、大手金融機関の破 綻がなければ、国際金融危機までは至らないのでは ないかと思います。 民間債務全般  新型コロナ禍により、サバイバルのために偵務に 頼った企業や家計は多々あったはずです。例えば米 国の非金融法人の偵務(債券及び融資)残高は、 2019年末から2020年央までの半年で約10% 上昇してH兆ドルを上回りました。マイナス成長に よるGDP(分母)の縮小と偵務残高(分子)の増 加の両方の効果で、多くの国の偵務GDP比率は上 昇しています。今後景気が回復すればGDP比は 徐々に低下していくと想定されますが、同時に金利 の上昇が予想されるので、債務返済の負担は必ずし も軽減しない恐れがあります。  政策サポートの終了や、部品不足等から、これか ら企業倒産が増えていくと予想されますが、GFC 以降銀行の資本が厚くなっていることを考えると、 民間債務↓銀行破綻↓投資家のパニック↓サドンス トップというルートのパニック的な国際金融危機の 可能性は低いものと思われます。  他方で、偵務を負っている企業や家計は、偵務残 高の減少を目指すでしょうから、今後しばらく新規 投資の停滞を招く可能性が高いと考えられます。そ の結果、民間設備投資が数年間力強さに欠けること となり、景気回復ペースが遅れるとともに、長期的 なイノヴェーションにも悪影響が及ぶでしょう。そ れは、停滞を長引かせる形の「危機」をもたらすか もしれません。 中国の民間債務  中国の国内偵務残高は、2021年6月末にGD P比約265%で、2年間で約20%ポイントと急速 に上昇しています。内訳を見ると、非金融法人が約 160%ですが、家計偵務の上昇(約60%)が目立 ちます。他方、対外偵務はGDP比約20%程度です ので、特に問題となるレベルではないでしょう。  最近、民間不動産会社の巨大債務が話題になりま すが、銀行に対する債務はあまりないようです。不 動産業が中国のGDPに占める割合は高いので、不 動産会社の清算等は景気の足を引っ張るでしょうが、 直接的に金融システムの動揺は招かないと思われま す。一方で、特に地方政府が設立した第3セクター が銀行融資を基に土地開発等を大規模に進めていま したので、それが不良資産化すると、銀行セクター に影響が及ぶかもしれません。ただ、いずれにせよ 中国の銀行は、国際金融市場でのプレゼンスがまだ それほど大きくなく、また中国政府の財政余力を考 えると、中国の民間債務が発端となる国際金融危機 は考えにくいと思います。 公的債務  新型コロナ危機対応の財政支出は、その規模にお いても期間においても、前例を見ないものとなりそ うです。  特に米国では、ハイテン大統領が積極的な財政支 出パッケージを提案していますが、その前から、新 型コロナ対応によって連邦純偵務のGDP比は20% ポイントほど上昇して100%を上回っていました。 最終的にハイテン大統領の提案がどの程度議会の同 意を得るか分かりませんが、しばらくの間、米国の 連邦債務が100%を超えて推移するのは間違いな さそうです。それは第二次世界大戦直後以来の高水 準です。  日本でも、2020年度中に新型コロナ対策等の ため3回の補正予算で70兆円以上の歳出を追加し、 その結果一般会計歳出の6割以上を借金(国債発行) で賄うという戦後最悪の状況です。  財政状況の悪化は主要国に共通しており、IMF は一般政府ベースの債務残高GDP比は、G7のう ち6力国で2020年以降100%を超えて推移す ると見通しています。米国は130%程度、日本は 250%程度です。国の保有する資産を相殺した純 偵務残高のベースでみても、カナダとドイツ、イギ リス以外の4力国で100%を超えて推移し、米国 は110%程度、日本は170%程度です。  新興市場国及び発展途上国の財政も悪化していま す。IMFによれば、これら諸国全体の一般政府偵 務残高GDP比は2019年に54%でしたが、 2020年に63%に急上昇し、その後2025年に は70%を上回ると見込まれています。これは 2008年時点の比率の2倍以上に相当します。  各国の財政赤字の状況は、今のところ問題となっ ていません。世界的な低金利で債務返済負担が比較 的軽いこと、先進国では中央銀行が市場で国債購入 を行っていること、途上国の一部は債務返済猶予の 恩恵を受けていること等が要因です。しかし、将来 金融政策が「正常化」していき、特にドル資金が米 国市場に回帰していくと、債務返済が困難となる新 興市場国や途上国が現われるのはまず間違いないで しょう。散発的な財政危機は、従来同様IMFを中 心とした支援で乗り越えられるはずですが、規模の 大きな新興市場国がデフォルトを起こしたり、ある いは財政危機が広範囲に及んだりすると、それが国 際金融危機へとつながる可能性が出てきます。その 場合、大規模な債務削減といった対応に発展するこ ともあり得ます。  先進国が財政危機に陥るか否かは、発行する国債 を購入する主体がいるかどうかにかかっています。 ギリシヤの危機の際は、それまで発行額の3分の2 程度を購入していた非居住者が、国債購入額をピー クの4分の1以下に激減させた一方、居住者の購入 額は半減程度でした。つまり、一般的には非居住者 よりは国内居住者の方が国債購入を継続してくれる のではないか、と推測できます。その意味で、国内 に一定の貯蓄が存在する先進国の方が、海外への依 存度の高い途上国よりは財政危機に陥りにくいのか もしれません。もちろん、居住者でも国偵を購入す る気にならないほどの財政危機であれば、こうした 推測は意味を成しませんし、逆に何かあっても必ず 非居住者・居住者が国偵を買ってくれるような国で あれば心配無用でしょう。他方で、どのような財政 状況となっても自国通貨建ての国債を中央銀行が市 場から購入し続ける限りは財政危機にならない、と いう見方もありますが、コンセンサスは得られてい ません。理屈では大丈夫でも、海外からパニックが 伝播する可能性もあります。最悪のリスクは、米議 会の政治対立で米国偵がデフォルトすることですが、 さすがにそれを避けるくらいの正気は残っていると 信じたいところです。  先進国の財政危機は、いわゆるテールリスクで、 可能性は低いけれど発生してしまったら甚大な損害 をもたらす種類のリスクです。その場合、まず間違 いなく、国際金融危機に至るはずですが、起こる可 能性が低いことから、危機を未然に回避する措置に 国民の支持を得るのは困難でしょう。 貧困問題  パンデミツクによる世界的な経済活動の減速で、 貧困率の再上昇は避けられません。世界銀行の試算 では、2020年に世界の貧困人口は8000万人 ほど増えて7億3000万人程度となってしまった ようです。これは概ね2015年頃の水準ですので、 貧困削減の進展が約5年分逆行したことになります。  貧困は人道上の考慮は当然として、経済的・社会 的な分断を悪化させ、世界経済を不安定化させる潜 在的な要因です。新型コロナ対策の面では、先進国 からのワクチン供給や医療体制支援等、十分とはい えないまでも一定の努力が続けられています。しか し先進国自体が、自国の新型コロナ対策に忙殺され ている中では、財源の捻出は簡単ではないかもしれ ません。  世界経済が再び順調な回復軌道に乗って、途上国 経済が発展していくのが貧困削減の王道ですので、 まずは先進国はじめすべての国々が経済再建に努め るのが重要です。合わせて、途上国のインフラや人 材開発等への支援を透明性高く続けていくことが求 められます。低所得国の経済規模は小さいので、そ れらの国の混乱が直接国際金融危機につながること は考えにくいにせよ、世界全体の福利厚生の向上と いう意味で、すべての国の利益につながります。 米国の「調整」  現在、米国の経常収支赤字はGDP比で約3%で す。これは2000年代前半の不動産バブルに向か う時期よりはずっと小さいですが、日米貿易摩擦が 燃え盛ったプラザ合意前後のレベルと同程度です。 新型コロナ危機のため貿易が混乱していることもあ り、米国政府が経常収支赤字の大きさを問題視して いるようには今のところ見えませんが、政治的なス ケープコート探しがいつ起こっても不思議ではあり ません。  経常収支赤字に対する米国の伝統的な姿勢は、調 整(緊縮)の拒否と黒字国の批判でした。では今回 は誰を批判するのでしょうか?  実は中国は、最近経常収支黒字が急速に縮小して います。2018年には黒字はほぼゼロであり、直 近でもGDP比2%弱です。日本は3%強、ドイツ は7%ですから、仮に米国が黒字国批判に乗り出す 場合には、中国のみならず、日独もターゲットにな ると覚悟しておく必要があります。  もし円高や内需拡大を求められたとしたら、日本 は耐えられるでしょうか? 現在の円の価値は、実 質実効為替レート(円ドルのように二国間ではなく、 貿易相手国全体との関係で試算した円の強さ)で見ると、 1970年代半ばのレベルに匹敵する円安ですので、 円高に転換する根拠は十分ありますが、国民の支持 は得られるでしょうか? 内需拡大にしても、金融 政策の戦線は伸び切っていますし、財政余力もそれ はどない中で、成長をもたらす構造改革を再度推進 できるでしょうか?  しかし、より大きな「危機」は、米国が「調整」 をしてしまったときに来ると思います。過去100 年間の国際金融の歴史のほとんどの時期は、米国の 需要が世界中から輸入を引き寄せることで世界経済 の成長と発展を実現していました。裏を返せば、米 国の経常赤字のおかげで、世界経済は繁栄していた のです。1970年以降、米国は第一次石油ショッ ク前後、1980年前後、及び1991年前後に経 常収支をゼロないしほぼ均衡させます。いずれも、 米国が不景気となって輸入を減らした時期です。そ して、世界経済の成長率は、これらのタイミングで O・4〜1・4%程度まで下落しています。  理屈から言えば、巨額の経常収支赤字を長期間継 続する国は調整をすべきです。しかし、米国が調整 をしたら、それに代わる需要を作って世界経済を支 える国は出てこないでしょうし、米国以外の国がそ れはどの経常収支赤字を出したら即座に為替レート が暴落するでしょう。つまり、米国の調整は望まし いものの、それはほぼ必然的に世界経済の成長率低 下をもたらします。移行過程でパニック的な危機が 発生する可能性は高く、世界的な低成長に移行した 後は、停滞による「長い危機」が起こるかもしれま せん。 次の危機は?  新型コロナ対策の政策サポートがなくなったから と言って、すぐに国際金融危機の可能性が高まるわ けではありません。しかし、未曽有の政策サポート が巻き戻されるのですから、何らかの動揺がないと 思う方が楽観的でしょう。本章では、いくつかの危 機候補を考えてみました。もちろん、全く予想外の ダークホースが出てくるかもしれません。それらが 本当の危機に至らないようにするのが、当面の国際 社会の役目だと思います。  より長期的には、米国の経常収支赤字に頼った世 界経済の在り方を見直すべきでしょう。というより も、成長のために規律を軽視する我々の姿勢に反省 が必要かもしれません。規律と成長は二律背反では ありません。成長重視で行って10年に一度の危機で 後退するか、規律重視で着実に成長するかは選択の 問題です。もちろん、高成長と規律が両立できれば、 それに越したことはありません。  他方で、規律の回復した社会では、どうやってイ ノヴェーションを維持し、「長い危機」に陥らない かが大問題です。一つの答えは、気候変動のような 人類共通の課題に取り組むことだと思いますが、口 で言うほど簡単でないのは当然です。  いずれにせよ、国際金融危機の観点からは、米国 のマクロ政策に規律が戻り、国境を越える投資がリ スク管理を強めていけば、世界経済の平均速度は少 し下がるものの、同時に「交通事故」は減るはずで す。  では、事故はゼロにできるでしょうか?  それは次の100年間が決めることです。 あとがき  ここまでお読みいただいたことに、感謝申し上げ ます。  「国際金融危機」と聞くと、ほとんどの人は何とな く怖く感じて、敬遠したくなるでしょう。でも同時 に、どこか海の向こうの遠くの方で起こることで、 自分の生活には関係ないだろう、という妙な安心感 もあるのではないでしょうか。  本書をお読みいただいた方々は、国際金融危機は 訳の分からない魔物ではなく、フーテンの寅さんの 言葉をもじれば、「それをやっちやあ、おしまいよ」 というくらい、原因がはっきりした出来事だと納得 していただけるのではないでしょうか。そして、 「それ」をやっちやうのは途上国に隕らず、国際金 融秩序を先頭に立って引っ張っていたはずの先進国 も同様なのです。その意味で、日本だけが「それ」 をやらずに済む、と考えるのは楽観的でしょう。  最終章では、当面考えられる「危機の犯人候補」 を大胆にリストアップしてみました。この種の予想 の常として、必ず外れるとは思いますが、危機の予 想ですから外れる方がありかたいと、心から思って います。ただ、想定外の「犯人」が現われるのも、 この種の予想によくあることですので、そのような ことにならないよう、国際社会が一丸となって、適 切なマクロ経済政策運営、金融セクターのリスク管 理、そして経済構造の不断の改革に努めていっても らいたいと強く願っています。  本書の骨格になったのは、筆者が縁あって 2016年以来受け持っている東京大学での講義で すが、技術的な要素や理論的な考察を減らして、大 きな流れを捉えることに全力を尽くしました。また、 執筆にあたって改めて「危機の本質」について考察 したエッセンスも盛り込んだつもりです。国際金融 についてご関心のあった方も、初めて国際金融に触 れる方も、「ふ〜ん、そういう視点もあるのか」と 思っていただければ幸いです。  本書執筆にあたり、講談社の佐藤慶一氏に大変お 世話になりました。氏の的確なアドバイスと温かい 激励のおかげで、ようやくゴールラインが切れまし た。  最後に、数力月にわたる執筆期間中、全面的にサ ポートしてくれた妻と応援してくれた二人の娘に感 謝します。   2021年12月  東京都内にて                  宮崎成人 主要参考文献 書籍 Barry Eichengreen「 ”Hall of Mirrors”0xtord University  Press「 2015 Benn Stei.1「 ”The Battle of Bretton Woods” Princeton  University Press「 2013 Charles r. Kmdleberger气'The World in Depression「  1929-1939" Allen Lane「←973 J. M. Keynes「 ”The Economic Consequences of Mr’  Churchill” The Hogarth Press「 1925 j. m. Keynes气The Economic Consequences of the  Peace” IぐIacmillan & Co.「 1919 行天豊雄『円の興亡 「通貨マフィア」の独白』朝  囗新聞出版、2013年 塩田潮『一〇〇〇囗の譲歩 円はドルに勝つだの  か』新潮社、1988年 船橋洋一『通貨烈烈』朝日新聞社、1988年 論文等 Congressional Research Service「 ”Systemic Risk And  The 」ong-Term Capital Management Rescue” June  1999 Kihwan Kim≒The 1997-98 Korean Financial Crisis:  (Causes「 Policy Response「 and 」essons” J巴y 2006 Stephen Grenvi.lie气'The IMF and the Indonesian Crisis”  IMF Independent Evaluation Office「 May 2004 飯島寛之「『ドル危機』の基本性格とアメリカ為替  政策の展開−景気循環の視点からI」立教経  済学研究、第58巻第4号、2005年3月 伊藤隆敏「1997年アジア通貨危機 原因と深刻  化の理由」国際問題N0.563、2007年  7・8月