日本人の9割が知らない遺伝の真実_安藤寿康 はじめに  最初にお断りしますが、これは当たり前のこ とを当たり前に書いた本です。ですから、本書 のタイトルに騙されて、ぜんぜん知らないこと が書かれていると思った人は読むのをやめた方 がいいでしょう。  だったらなんでこんなタイトルの本を書いた のか。それは、みなさんがうすうす当たり前と 感じながら、それに科学的な根拠があることが あまり知らされていないので、それがほんとう に科学的に当たり前であることを伝えたかった から。  それはたとえばこんなことです。  才能には遺伝がかかわっていること、収入に も遺伝がかかわっていること、才能に気づき育 てるには経験と教育が必要であること、しかし それはいまの学校教育の中で必ずしもできるわ けではないこと、それは知能や学力に遺伝の影 響が大きいからだということ、学校は遺伝的な 能力の個人差を顕在化させるところだというこ と、でもこの世の中は学力がすべてではないこ と、学力とは異なる遺伝的才能を生かした人た ちでこの世界は成り立っていること、才能のな いところで努力してもムダだということ……。  世界はしばしば厳しくて理不尽だけれど、案 外捨てたものではありません。その理由ばたつ た二行で説明できます。  ひとは幸福になるようにデザインされている わけではないけれど、現実には幸福を感じて生 きている人もたくさんいる。それは遺伝的才能 を生かす道がこの社会にひそんでいるから。  この本を支えている科学的根拠は行動遺伝学 という、まだあまり世間では知られていない学 問です。それは見えにくい能力や性格への遺伝 の影響を明らかにする科学ですから、ときには 不愉快な真実を明らかにすることもありますし、 それが世間一般にいわれていることに反するこ ともあります。しかしエビデンス(証拠)がそ れを真実だと示した以上、それを前提として認 めたうえで、幸福を感じられるように、いまあ る社会の人的・物的・情報的資源を利用し、そ して多くの人が幸福を感じられるように社会を 変えていかざるをえません。  私は行動遺伝学者であると同時に教育心理学 者でもあり、最近は「進化教育学」という新し い看板も掲げはじめていますので、この本は教 育についても多くのことを語っています。期待 と理想と裏切りに満ちた教育を、遺伝や進化と いった生命科学の目で科学的に見直してみると どうなるか。それがわれわれ自身の生き方や社 会のあり方についての理解をどのくらい深めて くれるのか、そして少しでもましな未来像を描 けるか、それをこの本で試みてみました。  ごいっしよに考えていただければ幸いです。  「かけつこ王国」の物語  あるところに「かけっこ王国」と呼ばれる小 さな国があります。  ちょっと変な名前ですが、それはこの国が 「かけっこ」によって成り立っているから。  むかしむかし、大きな戦に巻き込まれたこの 国は、足の速い1人の勇者によって救われまし た。細かい事情は不明ですが、この勇者が伝令 となり部隊の間を走り回って命令を伝えたこと によって、この国の軍隊は敵の侵略を防ぐこと ができたのだそうです。救国の英雄はやがて王 となり、彼の治めるこの国は長く繁栄すること になったのです。めでたし、めでたし。  そういうわけで、この国では短距離走に強い 人がりっぱな人、優秀な人と考えられるように なりました。  年に1回、18歳になった国中の男、女は競技 場に集まり、「かけっこ」で勝負します。  ルールは極めてシンプルです。「よ1い、ど ん」でスタートして100メートル走り、その タイムによって順位が決まります。  かけっこが速い人ほど、その後の進路を自由 に選ぶことができます。  脚の速さを活かしてそのままプロのランナー になる人もいます。短距離走ではなくてもマラ ソンに転向する大もいますし、走り幅跳びや棒 高跳びに転向する大も。走ることとはあまり関 係のない競技を選ぶ大もいて、(ンマー投げや 円盤投げなどの投擲はまあ陸上競技つながりで わからなくもないですが、格闘家を目指す大も いますし、野球やバスケットボールのチーム競 技を始める大も少なくないのです。  でも、かけつこで上位10%に入る優秀な成績 を収めた人の多くは、スポーツの道には進みま せん。この人たちは官僚や研究者、経営者を養 成するための特別な学校に進むことを許されま す。その学校でもさらにかけっこで優秀な成績 を挙げた人は、官僚となって国を支えたり、科 学者となって未知の現象を研究したり、大きな 会社に入ってビジネスパーソンとして働いたり します。かけっこの速い人は、とても選択肢が 多いんですね。  それにしてもなぜかけっこの能力だけで、そ んなにいろんな仕事の能力をみきわめられると 思われているのでしょう? それはかけつこの 能力が、それ以外のいろんな能力の目印になる と考えられているからです。かけつこ王国で高 い社会的地位に就いている人は、「かけつこが 速い人は、辛いトレーニングにも耐える精神力 がある」とか「よ1いどんの合図にすばやく反 応できる人は、どんな仕事を任せても安心でき る」などと、かけつこを判定基準にすることの 意義を強調します。なるほど、そういわれれば そんな気がしてきますね。一芸に秀でている人 は、きっとほかのことでも人並み以上に優れて いるにちがいありません。  家柄やコネとは関係なく、かけっこですべて が決まる仕組みはとても明快です。上流階級に 行きたければ、短距離走で優秀な成績を収めれ ばよいのですから。その大きな戦の前は、この 国では家柄だけで将来が決められていました。 お百姓さんの家に生まれたら、子どもはいくら かけつこが速くてもお百姓さんにしかなれませ んでした。殿さまの家に生まれれば、どんなに かけつこが遅くてもいずれ殿さまになれます。 そういうのはひそかにバカ殿と呼ばれ、その政 治の下で人々は不平等に苦しんでいました。そ れがいまや誰でもかけつこの能力さえ優れてい ることを示すことができれば、好きな仕事を選 ぶことができ、豊かになることができるのです。 誰もがいまの世の中を正しいと思うようになり ました。  では、18歳のときにかけっこで遅かった人は どうでしようか。子どもの頃にマラソンが大の 得意で、将来もマラソンランナーになりたいと 思っていた人も、途中でちょっとほかのことに 興味が出て寄り道してしまい(なにしろ若いこ ろはいろいろ誘惑が多いですからね)、かけっ このトレーニングをなまけたために、18歳のか けっこで勝てなければ、才能なしとレッテルを 貼られ、専門のトレーニングは受けづらくなり ます。それでも、自分なりにトレーニングを積 んでマラソンランナーとしてのし上かつてくる 人もいることはいますが、その道は厳しいもの になります。  大変なのは研究者などになりたいと思ってい た人たち。運動が苦手でも、研究者養成学校に 進むためにかけっこの猛特訓をして少しでもよ い成績を挙げようとします。それでみごと夢を かなえられる人もいますが、たいがいの人はか けっこがダメなんだから自分には研究者の素質 はないんだ、どうせなにをやってもダメな人間 なんだと思い込むようになり、自分からあきら めて、18歳のときかけっこが速かった人たちに 対して、一生のあいた劣等感を抱きつづけなが ら人生を歩むことになります。  はたして、かけっこ王国の未来はどうなって いくのでしょうかI。 生まれつきの才能で決まる不条理  かけっこ王国の物語はいかがでしたか? た いていの方は、こんな仕組みは不条理だと思わ れたのではないでしょうか。  「マラソンが得意な人を、短距離のかけっこで 選別するのはおかしくないだろうか」  「学問の得意不得意と、かけっこは無関係で は」  「かけっこが苦手だって、学問や商売や音楽の 得意な人はいるのでは」  「男と女でかけっこをしたら、たいていは男の 方が速いのでは」  「短距離走の得意、不得意は、生まれつきの才 能があるのでは」  世の中にはさまざまな才能があります。例え ば料理の才能。そこにも包丁さばきの才能、味 付けの才能、美しく盛り付ける才能……さまざ まな才能がかかわっています。さらに料理の素 材となる野菜を上手につくる才能、野菜をつく るために便利な農具をつくる才能、とれた野菜 を市場で売りさばく才能、市場で買った野菜を 安全に清潔に料理人のもとに届ける才能、作っ た料理を気持ちよくお客さんの前に出す才 能……。料理に加えるひとつまみの塩にも、そ れが盛り付けられた器にも、あなたの目の前に ある料理のひと皿の背後に、いったいどれだけ の人たちのどれだけの才能がつぎこまれている ことでしょう。  その才能を発揮してくれた人たちの中には、 18歳のときのかけっこでいい成績を出せなかっ た人たちもたくさんいます。その人たちがそれ ぞれの場で、かけっことは違ういろいろな才能 を磨いてくれたからこそ、いまその料理をおい しく、気持ちよく食べることができるのでした。 しかし、かけつこ王国の多くの人たちはそのこ とに気づかずに、その料理を何気なしに食べて います。そして依然として、かけつこが速いこ とがいちばんすぐれた才能なのだと信じていま す。ですから実際においしい料理をつくる人や おいしい野菜をつくる人が目の前にいても、そ れつくつた人が18歳のときにかけつこの成績が 悪かったと聞くと、なあんだ、かけっこが遅い から料理をつくってるんだ、野菜をつくる人は かけっこが遅い劣った人なんだと、ひそかに馬 鹿にするようになってしまっているのです。  誰でもクラウチングスタートの仕方を教われ ば、それを教わらない人よりもいい成績を出せ るようになります。だからといって、みんなが 同じようにクラウチングスタートを学べば、同 じように成績が上がるとは限りません。そこに 「生まれつきの才能」があるということは、 薄々みなさんも感じていることでしょう。走る ことについていえば、持久力を担う遅筋線維と 瞬発力を担う速筋繊維の混在率は、かなりの部 分が遺伝で決まることがわかってきています。 速く走るのに適した骨格や呼吸器系の機能も関 わっているでしょう。そこにもやはり持って生 まれた条件は少なくなさそうです。  しかしかけっこ王国では、そういってしまっ てはみんなの希望がなくなるので、かけっこの 能力に遺伝は関係ないとされています。そのか わりこんな風にいわれています。  「かけっこの能力が遺伝だけですべてが決まる わけではない。かけっこは遅筋線維と速筋繊維 の混在率だけではなく、集中力や厳しい訓練に 耐える能力など、意識の持ちようや工夫次第で 変わる部分がたくさんある。また同じかけっこ の能力といっても、それぞれの競技によって 「優秀」の定義は異なる。同じ足の速さがもの をいう競技でも、野球やサッカーではチームプ レーをするうえで協調性が重要になってくるし、 長距離を走りぬかねばならないマラソンでは ペース配分を考える力が勝敗を分けるだろう。 コートを前後左右素早く走らねばならないテニ スでは、足の速さ以外にもサーブを正確に打つ 能力や相手の動きを瞬時に判断する能力での優 秀さが問われる。だからまずはすべての基本と なるかけっこの能力を最大限伸ばしてから、自 分の素質にあった競技を選べばいいのだ。か けっこの練習はいつからやったらいいのかだっ て? いまでしよ!」  だから子どものころからかけっこ塾が大はや りです。なにしろ、クラウチングスタートのコ ツを上手なコーチから教わると、早く走れるよ うになった気がしますからね。  ただこの国では不思議なことに、ほとんどの ひとは社会の中の居場所が決まると、一部の人 を除いて、みんなかけっこをしなくなってしま うのだそうです。かけっこが速いことがそんな にすばらしいといわれているのに、いったいな ぜかと問われると、子どものころからかけっこ で競争することに疲れてしまい、うんざりして しまったからなのだそうです。これはちょっと やばくないでしょうか。  運動能力や体格といった事柄について、か けっこ王国の住人ではない私たちは「生まれつ き」「遺伝」といった概念を自然に受け入れて います。誰もがオリンピックに出場するトップ アスリートになれるとは思っていないでしょう。 それでも、めいめい年齢や自分の好みに合った やり方で、いつまでも気持ちよくランニングや スポーツを楽しんでいる人たちがたくさんいま す。私たちはなんて幸せな世界に住んでいるこ とでしょう。  生まれながらの差があるにもかかわらず、短 距離走の成績によって社会的な地位が決まって くる。しかも、進路が短距離走の能力とはあま り関係がなさそう人に対してもその基準が適用 される。そのあたりが、たとえ家柄やコネで決 まるよりはマシだとしても、かけっこ王国の仕 組みを不条理に感じる理由だと思います。  かけっこで決めるのはそんなに悪くないとい う人でも、身長で社会階層が決まる「のっぽ王 国」があったら、さすがに文句をつけたくなる のではないでしょうか。のっぽ王国で自分の身 長が低かったらどうかなるかを想像してみてく ださい。「自分の背が低いのは自分のせいじや ないのに不平等だ」。そう愚痴ることでしょう。 悪名高い優生学  運動能力や体格といった事柄については遺伝 の影響があることを受け入れている私たちです が、知能や性格といった「心」について論じよ うとすると、途端にややこしい問題に直面する ことになります。 「知能は遺伝する」といわれれば、多くの人は 「親の頭がよくないと、子どもは勉強をしても ムダなのか」と感じて心穏やかではいられない でしょうし、逆に一部の人は強い優越感を持つ かもしれません。  知能の遺伝と聞いて、悪名高い「優生学」を 連想する人も多いでしょう。  1822年に生まれたフランシスーゴールト ンは、進化論で知られるチャールズーダーウィ ンの親戚です。ゴールトンは、ダーウィンの進 化論などに影響を受けて優生学を唱えました。 天才や才能といったものは遺伝する、そして人 間の文明が本来であれば自然淘汰されたはずの 弱者を保護しているというのです。  こうしたゴールトンの優生学を、人種政策の 正当性を主張するために取り入れたのが、ナチ スードイツのアドルフーヒトラーでした。ヒト ラーは、アーリア人こそが遺伝的に優れた人種 であると考え、「劣等人種であるユダヤ人」や 精神病、遺伝病の人々を血続から取り除くべき だと考えるようになります。ナチスの優生政策 があの恐るべきホロコーストにつなかっていっ だのはご存じの通りです。  ナチスによる社会政策の理論的背景になった ことで、優生学は「人権」をおとしめる危険な 思想であるというレッテルを貼られることにな りました。  しかし、第二次世界大戦後も優生学を連想さ せる知能についての研究は、多くの研究者に よって行われ、しばしば物議を醸してきました。  イギリスの高名な心理学者サー・シリルー バートという人は、双生児の知能検査の研究 データを1955年、1958年、1966年 の3度に渡って少しずつ数を増やしながら発表 しました。そして別々に育てられたとしても一 卵性双生児の形質は、いっしよに育てられた きようだいや二卵性双生児のそれよりも圧倒的 に類似性が高い。つまり、心理的な形質は遺伝 的な要因によるところが大きいと主張したので す。  バードの死後、データの捏造疑惑が持ち上が りました。3度にわたってデータを追加したに もかかわらず、類似の度合いを示す相関係数が 小数点第3位まで一致していたことや、共同研 究者がなかなかみつからなかったところから、 バードの研究の信頼性は失墜。テレビや新聞な どのメディアも、有名な心理学者による捏造と して大きく報道したことにより、知能の遺伝は 怪しいという印象が世間に広がりました。  その後、ロバートージョインソンとロナル ドーフレッチャーは別々に「バード事件」を調 査し、「バードによるデータ捏造の客観的な根 拠はなく、事件はメディアによって不当に誇張 されている」と結論づけています。しかし今で も知能の遺伝に触れたくない多くの人たちは、 バードはデータ捏造をしたと信じているようで す。  優生学をめぐる騒動は、これだけに留まりま せん。  アメリカの行動学者リチャードー(Iンスタ インは、1973年の『IQと競争社会』にお いて、知能が遺伝する以上、環境を平等にして も逆に遺伝的な差異が広がると主張。バーンズ タインとチャールズーマレーが1994年に書 いた『ベルカーヴ』では、知能の優劣によって アメリカ社会が階層化されていることを膨大な データを使って論じています。  この本は、白人と黒人の知能の差は遺伝的な ものであるため、黒人の進学などを優遇するア フアーマティブーアクション(人種宥和政策) や、恵まれない子どもへの教育投資は打ち切る べきといった差別主義を主張していると批判さ れました。  こんな主張は自由と平等をうたうアメリカで は毛嫌いされると思いきや、5センチほどの分 厚い本にもかかわらずベストセラーになりまし た。この本の焦点は人種差でも知能遺伝説でも なく、むしろ人種に関わらず知能が階層差と関 係していることは事実なので、人種でアフアー マティヴアクションをしても効果はない、知能 の差はなかなか変えられないものなのに、社会 はどんどん知能重視になり知的エリートに有利 になっている、だから知能の低い人も生きやす い社会をみんなでつくろうと論じているのです が、ベストセラーを買っても本棚に置いただけ で安心した人が多かったのか、その真意はあま り伝わっていないようです。「知能が低い人」 がいることを認めること自体が受け入れがた かったのかもしれません。  2016年秋のアメリカ大統領選での驚愕の ドナルドートランプ当選が、「知的エリート層」 ばかり優遇するこれまでの政権に対する反逆だ という分析が一部でなされているようです。ア メリカ社会の根深い階層問題の根底に横たわっ ている抑圧された人々の意識、いくら頭でっか ちのきれいごとの政策をしても救われない現実 をいやというほど味わされた人々の本音が、オ セロゲームのように世界を反転させた思いがし ました。ここに「知能の高低」や「遺伝」の話 を持ち込むことは明らかに政治的に不適切です。 しかしひょっとしたらアメリカも一種の「か けっこ王国」として突っ走ってきた挙句、か けっこに負けて理不尽な不平等に苦しんでいる 人たちによって、かけっこ王国の価値観にNO をつきつけられたのかもしれません。  進化生物学者のスティーヴン・J・グールド は、バードからバーンスタイン、マレーに至る 知能をめぐる議論に対して、『人間の測りまち がい』というこれまた分厚いむずかしい本を書 いて徹底的に反論を加えています。そもそもI Q、知能指数などというのは統計学によって人 工的につくられた、実体のない概念だというの です。いわば「野球の打率も市場の株価平均も、 数値をこねくり回してつくった意味のない数字 で、野球選手の実力や経済状況の実態とは無関 係だ」といっているようなものです。この主張 自体、統計学者が読んだらトンデモ本のはずな のですが、政治的に心地よい主張につながるの で、これまたあまり読まれないまま、こちらは 賞賛されているようです。  「人間は生まれながらにして平等であり、すべ ての才能は環境によって決定される」という考 え方は、とても魅力的で美しく聞こえます。優 生学に対する批判は、「遺伝的な優劣によって 人間を差別しようとしている」ことに対する義 憤から来ているのは確かでしょう。この義憤は 私も正しいと思います。それは科学の問題では なく人倫の問題です。また私自身にも遺伝的に 劣っているところがいろいろあるので、自分が それを理由に差別される側に回ったときの恐れ からも、遺伝による差別を学問的に正当化する ことには断固対抗します。  これに対抗する最も強力な方法は、「遺伝の 影響はない」と主張することでしょう。遺伝な ど関係ないことを前提とすれば、環境を平等に 整えることで、すべて丸く収まります。環境の 差別だけを糾弾すればいいのです。  ではもしその前提が崩れ、知能を始めとした 才能が遺伝によって大きな影響を受けることが わかったら、どうでしようか? 遺伝的な差異 があるなら、差別してもよいということになる のでしょうか? それこそまさに優生思想に繋 がりかねない危うさを感じます。 遺伝の影響を実証的に調べる行動 遺伝学  私自身は元々、強固な環境論者でした。「才 能は生まれつきではない」「人は環境の子なり」 をスローガンにしたヴァイオリンの早期教育、 スズキメソッドの創始者鈴木鎮一氏の思想に深 く傾倒し、教育学の卒業論文テーマに選んだほ どです。  環境によって人間はつくられるということを 科学的に示そうと、私は1981年に大学院へ と進学しました。そして遺伝と環境の問題につ いて、双生児や養子の膨大なデータに基づいて 分析を行う「行動遺伝学」と出あうことになり ました。  「人間の才能が環境によって決定される」とい うのであれば、科学者はそれをデータによって 実証的に示さなければなりません。こうあって ほしいという期待に基づいて、遺伝の影響を軽 視し、環境の影響を重視するというのは、科学 的な態度とはいえず、イデオロギーに過ぎない からです。  遺伝と環境の影響を分離して実証的にその大 きさを示すことのできる行動遺伝学は、まさに この問題にイデオロギーや先入観なしに科学的 な態度で臨むことのできる理論と方法を持って いました。この方法ならば、遺伝によらない能 力、環境によって決まる能力があることを証明 することができるはずです。  こうして来る囗も来る囗も行動遺伝学の研究 論文を読み進めていくうち、人間のほとんどす べての心理的側面には遺伝が無視することので きない大きな影響を与えていることがわかって きました。自分で双生児のデータを集めて調べ てみても、同じ結論に至りました。そして気づ かされたわけです。人間も遺伝子の産物であり、 顔や形が遺伝子の影響を受けているのだから、 能力も同じように遺伝子の影響を受けるのは当 たり前のことじやないか、と。  そうです。「知能は遺伝の影響を受けている」 のは、かけっこの能力が遺伝の影響を受けてい るのと同じように、当たり前のことなのです。 それは本来センセーショナルな言い方でもなん でもないはずです。  しかし、この知見は誤解を招くため、取り扱 いに注意を要します。  「知能は遺伝」というと、「親がバカなら、勉 強してもムダ」、「遺伝の影響は一生変わらな い」、「才能は遺伝ですべて決まってしまう」 −そう思い込んでしまう人がいますが、これ らはすべて誤解です。  最近、橘玲氏の書かれた『言ってはいけな い 残酷すぎる真実』という本がベストセラー になりました。行動遺伝学と進化心理学の知見 をふまえて、『ベルカーブ』と同じように現代 社会の格差や不平等の根底に生物学的な根拠が あることを、『ベルカーブ』ほど分厚くない新 書の形でわかりやすく描いています。  この本を読んだ人は少なからず、遺伝の影響 の大きさを知ってショックを受けているようで す。知り合いにもこれを読んだ人たちがたくさ んいました。その中で私の書いた本もそのエビ デンスを示しているものとして紹介されていま したので、「あれって本当なんですか、やばく ないですか」と心配してくれました。  その心配には、このように答えねばなりませ ん。  「本当です。そのことを知らないと、もっとや ばいです」  橘さんがおっしゃりたいのも同じことだと思 います。「かけっこ王国」のお話を読んだ読者 は、そのやばさをうすうす感じていることで しょう。  行動遺伝学のもたらす知見とは、遺伝的な差 異によって大を差別するためのものではありま せんし、人の才能がすべて遺伝で決まるといっ ているのではありません。  私たちは、行動遺伝学が導き出した知見とど うやって付き合っていくべきなのか。本書では それを明らかにしていきます。 知能を計測する知能検査  「知能が遺伝する」ことを説明する前に、そも そも知能とは何なのかについて述べることにし ましよう。  心理学の教科書を見ると、知能とは「問題解 決能力」、「観察した事柄から法則性を抽出し、 それを別の事柄に適用する論理的な能力」など と説明されています。何となくわかったような 気がしますが、では具体的にどのような能力か といわれると答えに窮してしまいます。  心理学の分野では、「頭のよさ」をいかにし て定量的に計測するかが大きな課題であり、そ のために試行錯誤が繰り返されてきました。19 世紀には、知能を構成する要素を抽出し、それ らの要素を実験で計測するということが行われ ていました。  感覚の鋭敏さは、知能を構成する要素の1つ ではないか。では、ノギス(長さを精密に測定 する測定器)を腕に押し当てて、どれくらい開 けば、別々の2点と判別できるか計測しよう。 刺激への反応の速さも、知能の構成要素ではな いか。では、被験者に何らかの刺激を与えて、 それに対してどれくらいの時間で反応するかを 計測しよう……。  このような試験がたくさん考案されましたが、 これらによって世の中で実際に「頭がいい」と されている人の能力が測定できているとはとて も思えませんでした。  1905年、アルフレッドービネーとテオ ドールーシモンは、「知能測定尺度」を作成し ました。ビネーたちが画期的だったのは、知能 の構成要素を考えるのではなく、世間一般で 「頭がいい」と考えられている能力をできるだ け多くピックアップし、それをテストの形式に したという点です。まさにコロンブスの卵とで もいうべき発明といえるでしょう。  誰かの話を聞いて記憶できる。語彙が豊富で ある。小さい子どもであれば、数を正確に数え ることができる。絵に示したとおりにパズルを 組み上げることができる……。図1に大人向け の知能検査の例を挙げました(ちなみに知能検 査は手品と同じで、タネがばれると意味がなく なるので、一般には門外不出です。この例はよ くある知能検査に似せて私がつくつたもの、あ るいはインターネットで紹介されていたもので す)。  被験者の反射速度を計測するより、こうした 頭を使う課題をたくさんこなしてもらって採点 した方が、学業成績や社会的な成果との相関が ずっと高いことがわかってきました。  現在、世界中で使われているのが、ビネーら の方法を元にデビッドーウェクスラーが改良を 加えた知能検査です。知能検査の結果は知能指 数(IQ: Intelligence Quotient)として表され、 得点の分布は平均値を100とした正規分布を 描きます(図2)。ウェクスラーの知能検査に は「アメリカの人口は何人でしょう?」といっ た常識問題も含まれていますが、これらは国や 時代に合わせて調整されており、世界中、ある いは違った年代の人々の知能を同じ次元で比較 することが可能です。  教育の現場では、知能検査の結果は子どもの 学習指導に利用されています。IQが高いのに、 学業成績が振るわない子どもは「アンダーア チーバー」と呼ばれ、家庭問題等の事情によっ てモテイベーションが勉強に向かなくなってい る可能性があります。こういう子どもは伸びし ろが大きく、教え方を工夫すれば成績が伸びる 可能性があります。  逆に、IQがそれほど高くないにもかかわら ず、学業成績がよい子どもは「オーバーアチー バー」と呼ばれ、ものすごく無理をして勉強に ついていこうとしており、メンタルヘルスに注 意を払う必要があるのではないか。また、知能 指数が極端に低い場合は社会適応性に問題を抱 えているケースが多く、教師や臨床家が子ども たちのケアを行う上での1つの指標となってい ます。臨床心理の世界では、知能検査のトレー ニングは今でも必須科目です。 「一般知能」という概念  知能検査にはウェクスラーを始めとして色々 な種類があり、それぞれ課題の内容は異なりま す。言語能力にフォーカスした検査もあります し、図形から法則性を見つけ出すといった非言 語的な能力を中心に調べる検査もあります。  知能は、言語や特定の文化、勉強で学んだ学 力に関わりなく、もっと基本的な知的能力と考 えられていますから、そうしたいろんな種類が 必要なわけです。「いまの囗本の人口は何人?」 フ灯台下暗し”とはどういう意味?」、こう いった知識はもちろん学校でも教わりますが、 そうでなくとも、およそその社会に生きるちや んとした知的な大人であれば、おのずとわきま えているはずの知識と考えられます。ですから 知能検査の問題に含まれる場合があります。  ならば、異なる知能検査は、異なる能力を調 べているのでしょうか?  心理学者の間でも、これについては大きく分 けて2つの考え方があります。  1つは、(ワードーガードナーらが中心と なって唱えている多重知能理論(Multiple ぼelligence)。知能には複数の種類があるとい う立場です。多重知能理論では、言語的知能、 内省的知能、視覚・空間的知能、博物学的知能、 論理・数学的知能、対人的知能、音楽的知能、 身体・運動感覚知能という8つの知能が別個に 存在すると考えます。検査によって子どもがど の分野に才能があるのか、あるいはどの分野が 劣っているのかを見極め、特性に応じた教育を 施そうというもので、教育分野では非常に人気 があります。  もう1つが、一般知能理論(9召邑 ぽelligence)です。頭のよさのベースとなる 「一般知能」が存在しており、この能力に大き な個人差がある。そして、一般知能を装飾する ような形で、文学的な能力や数学的な能力、博 物学的な能力など特殊知能がくっついていると いう考え方です。  私は、教育に関心を持つものとして、多重知 能理論を一応尊重しますが、進化理論や行動遺 伝学のエビデンスからは一般知能理論を支持す る立場です。こういうと、いかにも優柔不断な、 妥協的な意見のように聞こえるかもしれません。 しかし、そもそもこの2つの考え方は対立する ものではなく「程度問題」、あるいは波と粒子 の2つの側面をあわせ持った光の性質のように 両方の特質をもつものです。ですから、議論の 目的に応じて、それぞれの立場を使い分ける必 要があります。  一般知能理論の立場からすると、どんな種類 の知的課題も、その知的課題に特化した1つの 独立した能力で解決できるわけではありません。 例えば、言語を使い推論したり記憶したりする 能力は、図形や数字を使った課題でも使われま す。数学的な課題において言語能力がまったく 測定されていないということはありえず、いろ いろな種類の能力を統合させて使っています。 このようにいろんな分野の能力を統合させる能 力、それこそが知能だというのが一般知能理論 です。  そもそもヒトの知能が創造的なのは、脳がい ろいろな分野の知識を結びつけることができる ように進化したからで、それが一般知能だと考 えられます。そして、行動遺伝学のデータは能 力の間の遺伝的なオーバーラップが大きいこと を示しているのです。  多重知能理論を支持する人たちは、脳の言語 野に損傷があると、知能そのものはそれほど低 下しないのに言葉だけが話せなくなるといった 脳の機能分化の事実を一つの根拠にします。一 方、一般知能理論を支持する人は、どんな領域 の問題を解く場合も、さまざまな情報処理の全 体を統合させている前頭の連合野が賦活してい る、あるいは前頭葉と頭頂葉のむすびつきが重 要であるというエビデンスに重きを置きます (後述)。領域固有性と一般性、機能の分化性と 統合性、そのどちらも正しく脳の働きをとらえ ているのでしょう。  ここでひとたび能力の個人差を問題にしよう としたとき、一般知能理論は頭のいい奴は何を やらせても頭がいい、頭の悪い奴は何をやらせ ても頭が悪いという、身も蓋もない見方を示さ ざるを得なくなります。  実際、言語の成績がいい人は数学の成績もよ い、音楽の成績もおしなべてよいというデータ をみたスピアマンが、数学的にそれを説明する ために「一般知能」という概念をつくりました (それをグールドが、数値をこねくり回しただ けの実体がない人工物と批判したわけです)。 能力を国語、数学、理科、芸術や道徳など分野 ごとに育てようとする教育関係者の間で、一般 知能理論の人気が芳しくないのは当然のことで しょう。 知能検査で測れる能力が知能  あれこれ知能とは何かについて述べてきまし たが、知能の本質や概念を議論する以前に、 もっと重要なことをお話しする必要があります。  心理学者エドウィンーボーリングは、知能と は何かという問いに、次のように答えました。  「知能とは、知能検査で測られる能力である」  この定義を聞いて唖然とした人もいるでしょ う。これでは、たんなるトートロジー(同義語 反復)であって、何も説明していないではない か。  しかも、こんなつまらない(ご良兵)定義を した人物の名前がボーリング(啣―品)という のは、実にシヤレが効いています。  けれど、一見無意味に見えるボーリングによ る定義には、非常に重要な意味があります。そ れは心の働きを操作的に定義しようという提案 なのです。  知能検査では、「頭がよいと思われる人の能 力」をピックアップして計測していると述べま した。その際、「問題解決能力」ととらえたり、 「法則を抽出し当てはめる能力」ととらえたり、 「言語的、論理・数学的、空間的……などの能 力」ととらえたりすることを、知能の概念的定 義といいます。  一方それを、どのようなことができる人が問 題解決能力があるのか、論理・数学的能力があ るのか、確認のための具体的な手続きによって 定義したものが操作的定義です。これはものご とを実証的に検証するときに絶対に必要なこと で、特に目に見えない心を科学的に扱う心理学 にとっては重要です。心理学は、なにか心の働 きをただもっともらしい名前をつけてお話をつ くればいいのではなく、きちんとその働きがあ ることを形で示す操作的定義が必要なのです。  心理学の中でも知能や認知能力の研究が発達 しているのは、それを測るためのテストが世界 中の研究者によって吟味され、つくられ研究さ れているからですが、それはとりもなおさず概 念的定義だけにとどまらず、操作的定義までき ちんとっくり、それが概念的定義に見合ってい るか、そのテストの信頼性と妥当性を検証する ための膨大な労力が払われているからにほかな りません。  「推理能力」「短期記憶能力」「外向性」「神経 症傾向」「不安傾向」「内発的動機づけ」「自尊 感情」……ゝ心理学者が使うこうした専門用語は、 なんとなく日常使う言葉で表されていますので、 心理学者が思いつきでつくつたいいかげんな概 念と思つていらつしやる方もいるかもしれませ んが、その概念を「世に売り出す」ために、そ の概念的定義と操作的定義をきちっとし、たく さんのデータでその概念を操作的に確かめると いう開発努力をして、これならひとさまに出し ても責任が取れると判断された段階で、論文に して世に出しているのです。それは確かに退屈 (ご良兵)といっていいほど地道な作業ですが、 それこそがプロの仕事師の面目躍如なのです。 それを指摘してくれたボーリング先生はさすが です。  さて、そのことをふまえた上で、あらためて 知能について考えてみましょう。そもそもなぜ 知能が問題になるのでしょうか。  私たちの社会において頭がよい人は高く評価 されます。つまり現在の社会において優れてい ると考えられる能力が知能ということになりま す。注意していただきたいのは、どんな能力も 社会的に認知されて初めて「能力」として定義 されるということです。その意味では、多重知 能理論で言われる言語・語学的、内省的、視 覚・空間的、博物学的……といった分野も、社 会的に、文化的に認められている能力です。  しかしこのことは逆に言えば、社会的に認め られていない能力、何らかの形で測る基準と方 法を持だない能力は、能力としては認知されな いことを意味します。  例えば、偏差値の高い大学の卒業生で、道路 工事といった肉体労働を一生の仕事として選ぶ 人はほとんどいないかもしれません。しかし、 道路工事をきちんとやるには、そのための特別 な能力が必要になります。まず求められるのは、 肉体的に頑健であることでしょうが、土や岩の 扱い方や安全性への勘なども必要かもしれませ ん。  知能検査が測っているような、さまざまな知 識を理屈をこねまわして結びつけ、抽象的な概 念に仕立て上げて論理を構築する能力ではなく、 頭の中から理屈を取り去り、目の前にある地面 と工作機械の動きに体を一体化させ、余計なこ とに気を散らされずに、1つの作業に専念する 能力が大事かもしれません。しかし、学校教育 ではそれは教科にもならなければ、その能力を 測るテストもありません。  仮に、道路工事能力を測定するテストを作成 して実施したら、結果はおそらくIQと同様に 正規分布を描くことになるでしょう。それがI Qと関係があるのかないのかは、テストをつ くつて調べてみないとわかりませんが、ちょつ と違いそうだということは想像がつきます。工 作機械を器用に操る力だけなら、そのコンテス トがあるそうなのでそれなりの物差しがあるし、 その能力で秀でるための訓練もしようと思えば できるでしょう。しかしもつと総合的な「一般 道路工事能力」など聞いたことはありません。 つまり道路工事全般をうまくやり遂げる能力を 表す概念がないわけです。概念がないと認知さ れにくくなり、そして評価されにくくなります。 しかしその能力を発揮してくれている人たちの おかげで、私たちは平らで安全な道をスピード を出して車を走らせることができます。そして その能力の存在を知るのは、未熟な工事のおか げでデコボコの道を走ることになったとき、あ るいは整備された道路がほとんどない開発途上 の国を訪れたときかもしれません。  2007年に発覚した年金記録問題や、最近 の新国立競技場の設計費用問題、そして豊洲市 場の盛り土問題など、官僚はじめ公共の仕事に かかわる人たちが市民から預かった巨額のお金 を管理・運用する際の公的責任感のなさや判断 の甘さからくる大問題の発生があとをたちませ ん。高い学歴を持ち、難しい試験に合格して、 しかるべき立場に立ち、しかるべき仕事を任さ れている人だちなら、最低限ちゃんと考えて ちゃんとしてくれていたと信じていたことが、 まったくのぼろぼろスカスカだったことに唖然 とするばかりです。中にはちゃんとしようと尽 力してくれた人もいたのでしょうが、それが巨 大な組織の中では機能しなかったのかもしれま せん。このときの官僚たちの「公的資金責任運 用能力」は、どうやらIQや学力とは別物のよ うです。  もちろんこんな問題が発生すれば、国も組織 もなんとかしようと努めます。そして言葉だけ なら「公的責任能力」でも「研究倫理能力」で も「危機管理能力」でもなんでも、適当にイ メージし、それらしい名前を付けることはでき ます。そしてそれを測るテストをつくり、その トレーニングプログラムまであっというまに仕 立て上げて、みんなを合格させて、問題を解決 した気になっています。  これは社会のあらゆる分野についていえるこ とです。確かに私たちの社会は、無数の能力に よって支えられています。そのことに気づいた からなのかどうかわかりませんが、いま「○○ 力」が大はやり。「コミュニケーション能力 (コミュカ)」はいうに及ばず、「女子力」「恋愛 力」「老人力」「転職力」「癒す力」「聞く力」 「斷る力」、名づけるのに事欠いて「新しい学 力」まで登場する始末。  ほら、その気になればどんな「能力」概念も つくることができますよ。「リア充力」「キモオ タカ」「勘違い力」「KY力」「草食男子力」「痛 い女力」……なんでも「○○力」をつければそ れらしく感じられます。そうそう「わが社力」 や「わが街力」、「わたし力」だってできます (この本は最終的に「わたし力」を伸ばせとい う趣旨になりそうです)。  しかしそのほとんどの能力については、知能 検査のように綿密な概念的定義と操作的定義の 検討の上に、その能力を測定するテストを開発 し、人口全体を代表する膨大なデータをもとに その信頼性と妥当性を検証したものではありま せん。実のところ、心理学者のつくったテスト の中にもそこまでしっかりとできているわけで はないものも少なからずあります。いま世の中 に出回っているテストの中でその条件を満たす のは、知能検査やいくつかの性格検査や能力適 性検査のほかには、TOEFL、TOEICな ど英語の検定試験、そして大学センター入試く らいでしょう。  こうしてつくられたテストの得点には大きな 個人差があり、たいていは正規分布し、多くの 人はふつうで、平均から離れるにつれて優れた 方でも劣った方でも少しずつ数が減り、そして 両端にごくわずかの超すぐれた人と超劣った人 がいる。そしてそこにはたいてい多かれ少なか れ遺伝要因がかかわっています。  正規分布はノーマルーデイストリビューショ ン(回目邑94弓三目)の訳なのですが、集団 の中に必ず両極端のアブノーマル(異常)な人 がいることがノーマル(正常)だということを 示唆する、この分布の含蓄には深いものがある と思いませんか。  一方で、名前や概念がない以前に、能力とし て気が付かれていないものもたくさんあるので はないでしょうか。そういう能力の中には、 ひょっとしたら遺伝の影響よりも環境の影響の ほうが大きいものもあるかもしれません。なぜ なら、その知識を教えてもらったかもらわな かったかで、できるできないがはっきり分かれ るからです。  例えば「ベケモコソ」というすごい技がある のをご存じですか? これは私しか知りません。 ですから「ベケモコソカ」は、私から習った人 しか持っておらず、生まれつきの能力など無関 係です(もちろん「ベケモコソ」なんてウソで す、念のため)。  いま私たちの世界で、学校で大事なものとし て誰もが知る名前で呼ばれ、測られているのが 知能、あるいは学力です。その主たるものはア カデミックで抽象的な知識、そしてそれを論理 的に操るための概念操作能力です(…という言 い方自体が、すでに抽象的ですね)。スピネー らが知能検査を発明したのも、もともとふつう の学校に適応できる子どもと特殊教育を受けさ せたほうがいい子どもを客観的に区別できる物 差しをつくろうとしたからでした。しかしもつ とさかのぼれば、学校教育が普及するようにな り、知能がそのように扱われるようになっだの は歴史的なわけがあります。 産業革命以降、社会のあらゆる分 野で抽象的思考が求められるよう になった  産業革命以前、ほとんどの人々にとって世界 はとても具体的でわかりやすいものだったはず です。  農家は作物や家畜を育てる、漁師は魚を捕る。 大工は家を建て、鍛冶屋は道具をつくる。これ らはみな、具体的な事物を自分の体を使って働 くことで成り立っていました。もちろん、宗教 やお金、政治といったように、目に見えない世 界を想像したり、品物を交換するときにその価 値を数字におきかえて損をしないように計算し たりと、やや頭を使わねばならない抽象的な概 念もありますが、たいていの人にとってそれら の概念も具体的なモノやコトガラと強く結びつ いていました。正直に働けばどこかで神さまが 見ていてくれていつか報われる、リンゴを売れ ばお金をもらえ、そのお金でパンを買える、バ カ殿が死ぬと世の中がよくなる……といった具 合に、身近なことがらとして簡単に理解できた のです。  けれどヨーロッパに産業革命がおこった18世 紀以降は、複雑で抽象的な概念を扱う必要が多 くなってきました。産業革命時代の代表的な科 学的発明といえば蒸気機関ですが、現代でも蒸 気機関の原理をきちんと説明できる人はそれほ ど多くはないでしょう。  科学技術の背後には、膨大な知識が存在して おり、それを理解して使いこなすには抽象的な 概念を扱える知的能力が必要になってきます。 見ればわかる具体的なモノを扱うのとは違い、 抽象的な概念を効率的に学び、扱うためには論 理的な推論などを行うことが不可欠です。  産業革命とほぼ同時期に市民革命が起こりま した。市民革命を支える「自由」「平等」「人 権」などという考えも、とても抽象的な概念で す。科学技術の発達と市民の台頭が巨大な資本 主義社会を生みます。「資本」「株式」「手形」 なども、もはやリンゴをつくって売って得たお 金でパンを買うレベルではない、抽象的なしく みです。確かに安くたくさんの毛織物が手に人 るようになっだので豊かになっだのかもしれな いけれど、昔は正直に働いたら報われるはず だったのに、いまやよくわからない理由で金持 ちと貧乏人の差が大きくなる。法律の手続きも 気がついたら、やたらに複雑になってしまっ た……。  かくして科学技術に隕らず、産業であれ、政 治であれ、経済であれ、法律であれ、日常生活 のあらゆる分野で抽象的で目には見えない知識 を扱うための能力が要求されるようになり、そ の能力の高い人ほど社会階層の上に行きやすく なっていきました。逆にその能力が低いと社会 に適応することが困難になっていったのです。  そして人々にあまねく知恵と知識を普及させ ようという動きが生まれたのも、ちょうどこの ころでした。それが啓蒙主義であり百科全書の 編纂です。子どものための教育をきちんとしよ うと孤児院や幼稚園をつくったペスタロッチや フレーベルがでてきたのも同じ時期にあたりま す(日本では明治維新とともに急激な知識革命 が起こりました)。  もっとさかのぼれば、よその世界の人々と交 易をしていた古代ローマのときから、すでに目 の前の具体的事物の背後にある見たこともない 世界の人々のことを推理し想像する必要があっ たことでしょう。しかしそれは隕られた範囲の 隕られた人々のことでした。  大航海時代以降、世界がひとつにつながるよ うになったころから、おそらく知能の使われ方 の転機が訪れたと思われます。丸い地球の裏側 にある異なる土地に住む異なる風俗、異なる言 葉、異なる宗教、異なる経済を営む人たちの文 化が、なだれ込むように目の前に出現したので す。この遠く離れた見も知らぬ人たちの頭の中 はどうなっているのか、この人だちと商売をす るにはどうすればいいのか。頭を使わねばなら なくなりました。幸いヒトの脳はそれをこなす だけの能力を備えていました。やがてルネサン スを迎え、そしていよいよ啓蒙主義・市民革 命・産業革命の時代、さらに資本主義の時代へ 突入します。  今日の世界を生きる人々は、普通の市民生活 を送るにも、膨大で煩雑な知識を扱わねばなり ません。お役所から求められるさまざまな手続 きの仕方や書類の書き方、医者から告げられる 病気の説明、何十年後かに受け取れるらしい年 金や保険の仕組み、食べ物や化粧品に含まれて いる成分の効能、旅行へ行った先々で手にする パンフレットの解説、新聞に書かれた世界各国 の情勢や数々の事件、たくさんの人々の住む大 都会の暗黙の社会的ルール……。私たちは子ど ものころから、それがなぜどのようにして出来 上がっだのかがよくわからない文化的知識の産 物の大海に投げ込まれ、常に知識を学び、抽象 化し、隠れた規則を推理し、それを別の場面に あてはめ、その正しさを確認しながら、おぼれ ずに泳いで生きてゆかねばなりません。これら がすべて知能検査で測られるような知能とかか わりがあると考えられます。  さらに、20世紀後半には膨大な情報を処理す るコンピュータと、世界を結ぶインターネット が登場し、グローバル化した生活圏を生きるた めに抽象的な概念を処理する能力の重要性がま すます高まっています。そして、もはや一人の 知能ではとうてい扱えないビッグデータを前に、 人工知能のお世話になる必要性がささやかれる ようになりました。それによって人間の自然知 能の問題は救われるようになるのか、それとも それを使うためのもっと高度な知能が私たち一 人ひとりに必要とされるようになるのか、まっ たくわかりません。  昔の人がみな抽象的な概念を扱うのが劣って いたのかというと、そうではなかったはずです。 例えばエジプトのフアラオなリアレキサンダー 大王なり、当時の傑出した人物は、現在の知能 検査でも高い知能を持っていると判断されるで しょう。彼らは各地から寄せられる膨大な情報 を整理して、足りない部分を推測し、部下に的 確な指令を出す。さらには、人を感動させる印 象的なパフォーマンスまで行っていたのですか ら。ソクラテスやアリストテレスやピタゴラス、 キリストや釈迦や孔子の知能の高さはいうまで もありません。  大昔から世界各国の書物に描かれた優れた人 の基準は、「強いこと(身体的強さだけでなく 勇気などの精神力も)」、「美しいこと(女性美 だけでなく男性美も、顔だけでなく身体も)」、 そして「賢いこと」でした。これはいまでも通 じる基準です。逆にいえば、人々に語り継がれ るほど傑出した能力として社会的に評価される ことの基準が、特に強さ、美、賢さの3つに あって、それがもって生まれた能力であること が認められており、それを発揮して人々を幸せ にしてくれた人物をほめたたえ、記憶に残す気 持ちがあったのでしょう。  現代は、かつては天才やエリート層にしか求 められていなかった賢さ、つまり知的能力が、 あらゆる人に要求されるようになった時代だと いえます。昔なら帝王になる人しか学ばなかっ たその国の歴史や世界の歴史・文物の知識を、 昔なら医者になる人しか学ばなかった体の仕組 みや植物・動物の知識を、昔なら数学者しか知 らなかった微分・積分の知識まで、いまやあら ゆる国民が学んでいます。昔はそれを学ぶ境遇 にあったかなかったかが、そうした知的能力の 個人差の決定因でした。誰もが学べるように なったいま、その能力の個人差に遺伝の差が はっきりと表れるようになったのです。 脳科学が示唆する知能の正体  「知能とは、知能検査で測られる能力である」 というボーリングの定義を紹介しましたが、急 速に進歩する脳科学によって、知能の正体が少 しずつ明らかになってきています。  脳科学においては、大脳皮質に運動野、言語 野、感覚野といった領域が、それぞれ違う機能 を担っているという考え方があります。さきほ どの多重知能説を支えるエビデンスです。  fMRI(磁気共鳴機能画像法)やPET (ポジトロン断層法)、NIRS(近赤外線分光 法)といった技術によって、脳の活動を、手術 して脳細胞に電極を差し込んだりしなくとも、 リアルタイムに観測できるようになってきまし た。fMRIやPETならカプセルホテルをさ らに狭くしたような装置の中に入って、NIR Sなら水泳帽みたいなものをかぶって、指を動 かしたり、画面に出された絵を見たり、問題を 考えたり、場合によっては何もしない何も考え ない、でも寝ないでボーつとしていたりすると きの脳の血流などを測る。すると、何をしてい るとき脳のどの部分がそれ以外のことをしてい るときと比べて強く働いているか、何もしてい ないとき自発的にどことどこが連動しているか などがわかるわけです。  では、これまでお話しした「知能」とはどこ の領域が担っているのでしょうか?  よく頭を使うときには前頭前野が活発に働く といわれます。これは脳トレなどの話で、ご存 じの方も多いでしょう。  前頭前野は一般に外側、内側、眼窩(底部) に分けられます。外側前頭前野は情報の意識 的・論理的・計画的な操作、内側前頭前野は自 己と他者の葛藤の調整、眼窩前頭前野は報酬へ の反応や意思決定がその主な働きと考えられて います。これでいくと情報処理に深くかかわり のある外側前頭前野が知能と最も関係ありそう ですが、他者の気持ちや考えをおもんぱかって 自分の行動を調整する内側前頭前野も無視でき ません。それになるべく損せず得するように行 動をコントロールする眼窩前頭前野の働きのよ し悪しも賢さにつながるでしょう。  そもそも前頭前野は脳のほかの部分からの情 報が集まってきている中央官庁のようなところ です。頭を使うときは、こうしたさまざまな機 能がどれも重要性を発揮します。国が栄えると きは中央官庁だけがしやかりきになっていても ダメで、国の隅々まで、すべての国民が生き生 きと働いていてくれねばなりません。そのとき、 中央の司令部が全体をうまくまとめるための調 整役を果たすことで、国全体が機能的に動く、 それと同じことが脳にもいえるでしょう。つま り知能をつかさどる特定の部位があるわけでは なく、まさに脳全体が知能にかかわっています。  しかしそれでも、特に重要な部分がIQと関 連していることが示されています。それは頭頂 葉と前頭葉の結びつきです(図3)。この ちょつと離れた部分が同期して働いている人ほ どIQが高いようなのです。  論理性に優れた人は数学的な能力にも優れて いるなど、知能は匸兀的にまとまる傾向が高い というのが一般知能理論ですが、「頭頂部と前 頭葉の連携性」のように、脳の異なる部位の ネットワークこそが知能の本質であるとすれば、 それも納得がいきます。一般知能の存在を科学 的に支持する結果といえるでしょう。  ただし、それ以外にも言語野や角回の灰白質 の厚さとIQとの間に相関があるという報告も あります。それどころか、脳全体の容量とIQ とも相関するといいます。この関連は決して大 きいものではありませんが、やはり脳全体が知 能にかかわりがあることを示す証拠かもしれま せん。 人間の性格を表す5要素  人の心、つまり精神活動に関して、知能と並 んで重要なのが性格です。内気だったり社交的 だったり、勤勉だったリルーズだったり、人の 性格はさまざまですが、心理学において性格は 複数の要素の組み合わせによって構成されると 考えられてきました。どんな要素かは研究者に よって異なり、16もの要素で性格を分析する有 名な心理学者もいました。  現在主流となっているのは、「ビッグ5」と 呼ばれる5つの要素によって性格をとらえる考 え方で、1980年代にルイスーゴールドバー グはじめ多くの研究者によって提唱されました。 5つの要素とは、次の通りです。 ■ upe弓ess to experience(経験への開放性、  または好奇心の強さ) ・∩〇コscienti〇usness(勤勉さ) ■ Extroversion(外向性) ■ Agreeableness(協調性) ・zeuroticisヨ(情緒不安定性)  略してocEANです。なお、ビッグ5以外 の尺度として有名なアイゼンクの「ジャイアン ト3理論」にもExtroversion(外向性)と ブ「euroticism(情緒不安定性)が含まれています (あと1つはPsychoticism(精神病質))。この 2つは性格を構成する大きな2要素といえるで しょう。  世界中の心理学者が知能検査と同じように信 頼性と妥当性のあるテストをつくって調べてみ たところ、どのような言語や文化においても5 つの要素はほとんど存在するらしいということ になりました。このうち「経験への開放性」を 除いてIQとの相関もほとんどないことがわか りました。ビッグ5は有意義な指標と考えられ、 これを元に数多くの研究が行われてきました。  その結果、情緒不安定性が高い人はうつ病に なりやすい、勤勉さと好奇心の強さが高い人は、 社会的な業績を上げやすいといったことがわ かってきています。意外かもしれませんが、学 業成績は外向性が低い、つまり内向的な人の方 が少し高い傾向にあります。内向的というと内 気で暗い大というイメージがあるかもしれませ んが、本来は心の孑孑ルギーを内に向ける大が 内向、外に放つ大を外向というのです。ほかに も協調性が高い大は、寿命が長いといった傾向 もあります。  このように性質の異なる5つの要素を立てて 種々の性格を表せるのがビッグ5ですが、実は これらのデータを数学的にいじれば(これもま たグールドが憤慨した統計学者の手法ですが)、 もつと少ない要素から、例えば3つでも2つで も、どんな性格も表現できることが証明されて います。理屈は一般知能理論に似て、大きなま とまりをもつ上位の因子に、さらにそれに色を 添える特殊因子を加えればよいだけです。問題 はその上位の性格因子がいくつ、そしてどのよ うなものがあるかということです。  私か支持しているのは、プレイという人のB IS/BASと呼ばれるモデル。BISは Behavioral Inhibition System(行動抑制システ ム)、BASはBehavioral Activation System(行 動活性化システム)の略であり、アメーバのよ うな単細胞生物も含め、すべての動物は行動を 抑制(ブレーキをかける)/活性化(アクセル を入れる)する仕組みを備えているという考え 方です。人間の場合は、BISはセロトニン、 BASはドーパミンの分泌によって規定されま す。この2つは数学的にちょっと変形すれば、 先の二大性格因子、外向性と情緒不安定性と同 じになります。  人間のように社会的な動物では、それに加え て社会性(ビッグーフアイブ理論では Agreeableness(協調性)と同じ、ジャイアント 3では精神病質がそれに近い概念です)という 要素も加わってきます。社会性は、他の個体と どういう調整を行うかという指標であり、人間 の場合は愛想のよさや社交性として表現される わけです。  この3つの要素にそれぞれ重み付けをして、 組み合わせれば、どんな性格をもつくり出すこ とが可能です。それはあたかもシアン、マゼン タ、イエローの三色を混ぜ合わせればどんな色 でもつくり出せるインクジェットプリンターの ようなものです。私はこれをひそかに「カラー プリンター理論」と呼んでいます。ちなみにプ リンターには大事な「ブラック」があります。 これが一般知能にあたるというわけです。 性格は一次元の値で表せる?  2013年頃からGFP(General Factor of Personality)、つまり一般性格因子という考え方 が注目を集めるようになってきました。  GFPとは、いってみればIQのような一次 元の値によって性格を表そうという考え方です。 大ざっぱにいえば、情緒不安定性をマイナスの 値、それ以外はプラスの値として足し合わせた ものが、GFPになります。つまり、外向的で 心が安定していて勤勉で、人とうまく協調でき て知的好奇心も強いというオールマイティな 「いい人」因子です。  最初にGFPに関する論文を読んだとき、私 はこんなものはナンセンスだと笑い飛ばしまし た。このときばかりは、IQを笑い飛ばした グールド同様、さすがにそんなのは数字をこね くり回した実体のない人工物だと思ったのです。  IQの場合は、論理性や推論能力、計算の速 さといった要素が足し算されています。言語能 力の高い人は、だいたいにおいて論理性や計算 能力も高く、一般知能という一次元的な値に落 とし込めるわけです。これに対して、性格を構 成する要素は質的に異なります。独立して存在 しているはずの値を、無理矢理足し算して人工 的につくり出した値など無意味だと考えたから です。ところが、実際に自分たちでデータを集 めて検証したところ、GFPの存在を無視する ことができなくなりました。  GFPの高低とさまざまな社会的な適応度に は相関があることが見えてきたからです。この 相関はO・3ほどであり、GFPによって社会 適応度をすべて説明できるほど高くはありませ んが、無視できるほど低くもありません。  例えば、職業満足度や離婚率です。GFPが 高い人ほど、現在就いている職業についての満 足度が高く、離婚しない傾向がありました。当 然のことながら、結婚は人間関係の一形態にす ぎず、離婚しないのがいいとか悪いということ ではありません。ですが、現在の社会において 離婚せずに結婚生活を維持している人の方が社 会に適応していると見られることが多いのは確 かでしょう。GFPの高い大は、社会の多数派 がよいと思うことに自分を合わせられる大とも いえます。だからでしょうか、主観的幸福感と もプラスの相関があります。一方で、GFPが 低い大は犯罪を犯しやすく、うつ病にもかかり やすい傾向が出ています。  IQとGFPの間にはほとんど相関はありま せん。IQが高ければ社会的に適応できる度合 いは高まりますが、IQが低かったとしてもG FPが高ければ社会とうまくやっていけるとい うわけです。  GFPに関しては研究者の間でも激しい議論 が続いています。実際に調査を行うまで私自身 も信じたくなかったのですから、それも無理は ありません。極論すれば、人間は頭のよし悪し と、性格のよし悪しという2次元の値によって 分類できるという、何とも身も蓋もないことに なってしまうわけですから。そのどちらかでも よければまだ救いがありますが、その両方が低 い人だって世の中にはそれなりにいることにな ります。そんなやばいことを科学の名のもとに 世にいいふらしていいものでしょうか。  実のところいまでもGFPはいやな概念で、 その存在は半信半疑、使うのには躊躇がありま す。もともといろんな要素からなるものをブレ ンドしたのがGFPなのですから、いろんなも のに相関があるのはあたりまえ、そもそもそれ を単一という生物学的根拠はあるのか。  ところが、GFPをどうとらえるかはさてお き、GFPの遺伝率が高いこともまた自分たち のデータから明らかになってきました。しかも 一般知能の遺伝要因とは違い、GFPの遺伝要 因には進化的に重要な意味があるとされる「非 相加的遺伝要因」の成分があるのです。  さあ、いよいよ知能や性格が遺伝するとはど ういうことなのか、詳しく説明する必要が出て きました。 すべては双生児研究から始まった  知能や性格といった、人間の心ははたして遺 伝するのか。遺伝するとしたら、どれくらいの 影響を与えているのか。  これを科学によって明らかにするのが行動遺 伝学という学問分野であり、中心となる手法が 「双生児法」です。第1章でも取り上げたイギ リスの心理学者バードも双生児を用いて心理的 形質の遺伝について研究を行いました。双生児 法によって、どのように遺伝の影響を調べるの か。前著『心はどのように遺伝するか』、『遺伝 マインド』、『遺伝子の不都合な真実』、『遺伝と 環境の心理学』でも紹介しましたが、ここでも 改めて簡単に説明しておくことにしましよう。  双生児法の基本的なアイデアはとてもシンプ ルで、一卵性双生児と二卵性双生児の類似性を 比較するというものです。  一卵性双生児は同じ1つの受精卵から生まれ た双生児であり、遺伝子まで完全に同一の、い わば天然のクローン人間。一方、二卵性双生児 は2つの受精卵から生まれた双生児で、遺伝子 レベルでは普通のきようだいと同じ程度に似て います。ですから、一卵性のようによく似てい る二卵性もいれば、同じ親から生まれたとは思 えない二卵性もいます。もちろん性別が異なる こともあります。  二卵性双生児や普通のきようだいの場合、お 互いに共有している遺伝子は半分程度。そうな るのは、父と母から子どもが生まれるときに減 数分裂という現象が起こるからです。  人間の遺伝子は23組の染色体という構造体の 上に乗っています。精子や卵子がつくられると きには、ベアになっている染色体のどちらか1 つがランダムに選ばれる減数分裂が起こります。 つまり、父と母がペアで持っている遺伝子の半 分が子どもに受け継がれることになるわけです。 ある遺伝子を二卵性双生児の片割れやきようだ いが持つ確率は約50%。このことはあらゆる遺 伝子について当てはまりますから、全体として 見ると二卵性双生児やきようだいの遺伝的類似 性は約50%ということになります。  遺伝子が100%同じ一卵性双生児と、50% 類似している二卵性双生児。同じ環境で育った 一卵性双生児と、二卵性双生児の類似性を比べ て、もし一卵性双生児の方が似ているのであれ ば、それは遺伝の影響によるものだと考えられ ます。  類似性を比較するとはいっても、1組や2組 の双生児を比べたところで統計的に意味のある データは得られません。一卵性双生児であって もお互いにあまり似ていないペアもあれば、非 常に似ている二卵性双生児もいるでしょう。重 要なのは、全体的な傾向としてどれくらい類似 性があるか調べることなのです。そのため、双 生児法の研究ではできる限り多くの被験者に参 加していただくことが重要になります。  世界的にみると、国や地方の自治体が研究の 趣旨を理解して協力してくれて、戸籍や出生届 の電子記録から双生児の個人情報を使えるよう にしてくれるところが少なくありません。国民 すべてをIDで管理するシステムが昔からある 北欧では、生まれてすぐに別々になったふたご も含めて、その国のすべての双生児が、いわば 自動的に、登録することができ、行動遺伝学や 遺伝疫学の重要な情報源となっています。  しかし、わが国では残念ながら個人情報の管 理が絶望的に厳しいため、苦労します。私たち はというと、首都圏(東京都、神川県、千葉県、 埼玉県)のほぼすべての自治体の市役所、区役 所に足を運び、住民基本台帳から双生児とおぼ しき同じ住所と生年月日の人を肉眼でつきとめ、 一人ひとり、氏名・住所・性別・生年月日を紙 に書き写すという作業によって、4万組あまり を集めました。  そんなことしていいの? といぶかしく思わ れた方もいるでしょう。この作業自体は個人情 報保護法が改訂して厳しくなるよりも前のこと でした。そのときですら、自治体ごとに研究の 目的、個人情報の管理の仕方、配布物などにつ いて審査があり、誓約書を書いて許可をとって、 そうした個人情報をいただいています。そして インターネットからは切り離されたシステムに 入力し、個人情報を取り扱うことを専門とした 方に管理をしてもらっています。  かくして、私たちの双生児研究プロジェクト の調査を受けていただいた双生児は、総数で1 万組に達しています。その中にはたった1回だ け、匿名で協力してくださっだペアもたくさん いらっしやいますが、半数近くは何年にもわ たって繰り返し調査に協力すると個人情報の利 用を認めてくださった方々です。研究を始めて かれこれ18年、いまでも協力をしてくださって いるのは子どもから青年までのグループで 500組、成人のグループでやはり500組ほ どです。 双生児ペアの結果から相関係数を 算出する  双生児法の調査では、被験者には各種能力検 査や性格検査、精神疾患、アルコールやタバコ の依存など、さまざまな側面についてアンケー トや行動観察などを行い、結果を点数で表しま す。  次に、これらアンケート項目ごとに一卵性双 生児ペアのグループ、二卵性双生児ペアのグ ループに分け、X軸にきようだいの一方の点数、 y軸にもう一方の点数として、それぞれのペア をプロットしていきます(図4)。ちなみにこ の図4は私たちの双生児プロジェクトでとられ たIQのデータです。  どのペアについても、点数が完璧に同じであ れば、プロットした点数は斜め45度の直線上に 位置することになります。しかし実際は、こん な感じでばらけます。つまりきようだいの一方 が高ければもう一方も高くなる傾向はあるけれ ども、それは程度問題で、中には一方が高いが 他方は低いケースもあるという感じです。ただ この図で一卵性と二卵性を比べると、一卵性の ベアのほうがきようだいの間の類似性が高そう だということは読み取れますね。  その類似性の高さを数値で表すのが相関係数 です。もし完璧に類似していて、きようだいの 数値がまったく同じなら(年齢なんかはそうで す)、相関係数は「1」、つまり双生児の類似性 が最も高い状態です。  実際にはプロットした点はばらけますが、ば らけ方が大きいほど相関係数は低くなっていき、 まったく相関のない状態が相関係数「O」とい うことになります。相関係数の計算の仕方はこ こではご紹介しませんが、統計学の教科書には 必ず登場するおなじみの数式で、エクセルでも 関数が組み込まれていますので、簡単に計算で きます。この図4の場合、一卵性双生児の相関 係数はO・72、二卵性双生児はO・J一となりま す。ちなみにこの相関係数を発明したのが、第 1章で紹介したフランシスーゴールトンです。 彼こそが行動遺伝学の創始者でもあったのです。 相関係数から遺伝と環境の影響を 算出する  指紋数や体重、10、(知能)や学力のテスト 得点、さまざまな側面の性格をアンケートで調 べた得点、それにうつの程度や自閉症、そして 反社会的行動の程度について、たくさんの双生 児のペアのデータを集めて一卵性双生児と二卵 性双生児で相関係数を出してみると、図5のよ うにおしなべて一卵性の方が二卵性より「似て いる」ことがわかります。  それでは、遺伝の影響がどの程度あるのかは どうやって調べればいいのでしょう?  ここで思いだしてほしいのが、一卵性双生児 と二卵性双生児の遺伝子の共有率です。一卵性 双生児では遺伝子の共有率は100%、一方、 二卵性双生児では約50%と、2一1の関係に なっています。  例えば、指紋の線の数の相関係数を調べると、 一卵性双生児の相関係数はO・98、二卵性双生 児はO・49です。相関係数を比較すると、遺伝 子の共有率と同じ2一1になっていることか ら、遺伝の影響が極めて大きいことがわかりま す。たしかに何かを食べると指紋の線が増える とか、指紋の線の数を増やすトレーニングなん て、考えられませんよね。環境の影響がほとん どないことは不思議ではありません。ただし、 指紋は遺伝の影響が大きい形質とはいえ、それ でも遺伝以外の影響を受けており、一卵性双生 児といえども完全に同じにはなりません。AT Mの指紋認証でもI卵性のきようだいはきちん と区別されます。「遺伝以外の影響」によって 相関係数は1ではなく、O・98になっているの です。  もう1つ遺伝の影響が大きい例としては、体 重が挙げられます。体重についての、一卵性双 生児の相関係数はO・卯、二卵性双生児はO・ 46。一卵性双生児の相関係数は指紋の線に比べ ると低くなっており、遺伝以外の影響がより大 きく働いていることが示唆されています。しか し、一卵性双生児と二卵性双生児の相関係数の 比率は、指紋の線の数と同じく、ほぼ2一1 になっています。つまり、体重についてもきよ うだい間の類似性は遺伝でほぼ説明できてしま うのです。  こう聞くと、「いっしよに暮らしているのだ から、食事内容も同じだし食習慣も似通ってい るはず」と思われるかもしれません。その通り なのですが、似たような食習慣を持っていると いうこと自体が遺伝の影響であると、行動遺伝 学では考えます。  もし、遺伝以外の影響が働いているのだとし たら、一卵性双生児と二卵性双生児の相関係数 の比は2一1ではなく、もっと二卵性双生児 の相関係数は高くなっているはずです。  では、IQはどうでしようか?  IQの相関係数は発達とともに変化すること が知られていて、図5では児童期、青年期、成 人期初期について、全部で1万組近くの双生児 のデータをまとめた数値を紹介しています。こ こでは青年期の値を見てみましよう。一卵性双 生児でO・73、二卵性双生児でO・46です(こ れは図4で紹介したわれわれのデータとほぼ同 じ値になります)。  一卵性双生児の相関係数が二卵性双生児より もずっと高いことから、遺伝の影響が働いてい ることがわかりますが、相関係数の比は2一 1ではありません。もしIQの類似性が遺伝だ けで説明できるのであれば、二卵性双生児の相 関係数はO・73の半分、O・36程度になってい るはずです。にもかかわらず、二卵性双生児の 相関係数がO・46とやや大きいということは、 遺伝の影響以外に、「より似させようとする何 らかの影響」があると考えるのが妥当というこ とになります。  行動遺伝学においては、遺伝以外の影響とは 環境です。そして家族のメンバーを「似させよ うとする環境」のことを「共有環境」といいま す。つまり10、には共有環境の影響があるわけ です。  逆に宗族のメンバーを「異ならせようとする 環境」のことを「非共有環境」といいます。こ れが遺伝も共有環境も同じ一卵性双生児でも似 ていない理由です。  指紋の線の数では、ほとんどが「遺伝」に よって説明され、わずかな「非共有環境」の影 響によって微妙な差異が生じていると考えられ ます。体重の場合も、直感に反して「共有環 境」の影響はまったくなく、「遺伝」と「非共 有環境」の影響で説明されるわけです。そして 知能指数には、きようだいを似させる要因に 「遺伝」だけではなく「共有環境」の影響があ るけれども、指紋や体重には共有環境の影響は ないと考えられることがわかります。  ここで双生児の相関係数から遺伝、共有環境、 非共有環境の効果量の相対的な大きさを求める 簡単な方法をご紹介しておきましよう(ここか らは中学1年生の連立方程式を使う計算が入り ますので、数字が苦手な方は飛ばして読んでく ださつてもかまいません)。  IQの相関は一卵性双生児でO・73、二卵性 双生児でO・J一の相関でした。  ベアの調査結果が完全に一致していれば相関 係数は1になるわけですが、一卵性双生児です らO・73しか類似していません。遺伝も生育環 境も同じ一卵性双生児ですら、似させないよう にする要因、それが非共有環境でした。非共有 環境の寄与率は、完全な一致である1から、一 卵性双生児の相関係数を引くことで求められま す。  }‐()’J=只七  つまり27%が非共有環境で説明されるという わけです。  一方、類似性には遺伝と共有環境の両方が関 わっています。  ここでは、仮に遺伝による寄与率をX、共有 環境による寄与率をyとしておきます。  一卵性双生児の相関係数はO・73ですから、  0.73 = x十y  と表せます。  また、二卵性双生児において遺伝の寄与率は、 一卵性双生児の50%になりますから、次のよう に表せます。  0.46=0.5x十y  この連立方程式を解くことで、  M=0.54「 y=()’}C  となります。  つまり青年期の10、の個人差は、遺伝54%、 共有環境19%、非共有環境27%によつてつくら れているということがわかります(図6)。  同じようにして、指紋だと遺伝率98%、共有 環境はゼロ、非共有環境2%となり、体重だと 遺伝率は88%、共有環境2%、非共有環境10% となります。 共有環境や非共有環境とは何なの か?  では、共有環境や非共有環境の中身はいった い何なのでしょうか?  宗族メンバーを似させようとするのが共有環 境なら、親がどうしつけるかは共有環境でしょ うか? あるいは、宗族メンバーを異ならせよ うとするのが非共有環境なら、家庭の外での友 だち付き合いや学校のクラスのちがい、一人き りでする経験はすべて非共有環境ということに なるのでしょうか?  行動遺伝学において、共有環境、非共有環境 はあくまでも統計処理によって算出された値で あり、具体的にどんな実際の環境が共有環境と して、あるいは非共有環境として影響をおよぼ しているのかは、この値からうかがい知ること はできません。  被験者に対するアンケートで、共有環境や非 共有環境が何かを具体的にたずねているわけで はないことに注意してください。  何か共有環境として働き、何か非共有環境と して働くのかは、状況によって異なります。家 庭内で複数の子どもに対して、同じようにしつ けをしていたとしても、それがどのように働く のかは状況によって変わってくるからです。  例えば親が子どものいたずらに対して厳しく 怒ったとします。怒られた子ども自身にとって、 「そんなに厳しく怒らないでもいいのに。あの とき僕にはそうしなきやならない理由があった んだし……」と思い、理由も聞かずただ怒るば かりの理不尽な親と映っているかもしれません。 しかしその様子を見ていたI卵性のきようだい には、怒るべきときはきちん怒るけじめをつけ てくれる信頼できる親と映っているかもしれま せん。同じ親が怒るという環境も、二人にとっ ては非共有環境として働いているのです。  さらにI卵性のきようだいの間には、ほんと うに共有されない環境、例えば一方だけが病気 にかかった、一方だけがクラスにいじめつ子が いた、一方のクラスがいい担任の先生に当たっ た……などなど、さまざまにちがう状況やイベ ントが無数にあります。環境は無限に多様であ るため、どんな要素がどう働いているのか数え 上げることは現実的には不可能です。そうした それぞれにちがう状況やできごとによって、 まったく異なるイベントの連鎖がおこります。  一卵性のきようだいは顔かたちや基本的な能 力・性格が誰よりも似ているとはいえ、それぞ れはちがった経験をし、一見同じ場に居合わせ て同じものを見ていても、ちがった意味づけを しているかもしれない。そうした数えきれない ほどの個性的な経験の総和としてつくられたち がいが二人の間にうまれます。そうした数々の 一卵性ペアのきようだい間のちがいのばらつき 全体が、調べられたすべての一卵性の双生児た ちのばらつきのなかで、相対的にどの程度の大 きさかを数値にしたのが、非共有環境の大きさ です。  一方、共有環境は、ただ単に環境を共有して いるだけでなく、家族を類似させる効果を持っ た環境のことです。そしてそれは家族と宗族の 間を異ならせている環境でもあります。例えば 山田さんのうちと田中さんのうちとで家にある 本の数を比べたら山田さんの家のほうが多かっ た。この蔵書数のちがいによって、山田さんの うちの双生児たちのほうが、田中さんのうちの 双生児たちよりも、卵性にかかわらず賢い子に 育っていたとしたら、それは共有環境の影響と いうことになります。  ただこれも、単に本の数だけで子どもの知能 に山田家と田中家の間の差ができたというより も、それ以外の環境のちがい、例えば親自身が 読書している姿を子どもが見る機会や、親が本 から得た知識を子どもと話す機会、子どもを美 術館や博物館に連れて行く機会など、もろもろ の環境のちがいも連動していて、それらが総合 的にかかわって子どもの知能に影響しているこ とでしょう。そして子どもの知能にかかわる環 境要因のあり方は、家庭ごとに異なり、知能の 高い子どもが育っている山田さん以外の家庭で は、また別の要因が子どもの知能の発達に影響 していることでしょう。そうした宗族ごとに異 なり、宗族の中ではその類似性を高める環境の 影響の総体が共有環境の影響として双生児の相 関パターンに現れるのです。  実際の共有環境や非共有環境がどうなってい るのかは、環境1つひとつの項目について掘り 下げ、別途調査をしなければわかりません。も し蔵書数、家庭内の知的会話数、美術館などに 行く回数などが、ほんとうに子どもの知能にか かわる環境要因なのであれば、その数をそれぞ れ調べて統計的分析にかければ、それが具体的 な共有環境の1つであることを確かめることは 可能です。しかし調査を行っても個別の環境要 因の影響は極めて小さく、寄与率が1%に達し ないヶIスがほとんどです。「親が××をした ら、子どもの○○が△%向上した」と明快に説 明できることはまずありません。  共有環境も非共有環境も、双生児の相関係数 だけからは、その効果量の総体の相対的な大き さしかわからず、その実体は何だかわからない というのが、もどかしいところではあります。  このもどかしさは、遺伝についても同じです。 一卵性の類似性が二卵性の類似性より大きいこ とから、遺伝の影響があることまではわかりま すし、それが環境の影響と比べてどの程度なの かも読み取ることはできます。しかし、どんな 遺伝子が具体的にかかわっているかまではわか りません。それをつきとめるためには、分子遺 伝学の方法論も使わねばなりません。  またここで注意していただきたいのは、ここ で求めた遺伝や環境の説明率は、集団レベルの ものであり、個人にあてはめることはできない ということです。それは調べたサンプル、また はそのサンプルを抽出してきたもとの集団が持 つ全体の個人差のばらつきを、遺伝や共有環境、 非共有環境の各要因が何%ずつ説明するかを示 したものであって、その割合は一人ひとりにつ いていっているわけではないのです。  例えば体重の遺伝率が80%だからといって、 体重60sの人の80%分の48sまでが遺伝ででき ていて、残り12sが環境でつくられたという意 味ではありません。これは日本人の平均体重が 60sだからといって、日本人がみんな60sだと いう意味ではないことと似ています。その集団 にはいろんな体重の人がいて、その体重のばら つきの原因は、一人ひとり異なる遺伝要因のば らつきと、それぞれに異なる環境要因のばらつ きが合わさったものです。そのとき体重のばら つき全体のどの程度の割合がそれぞれの要因に よるばらつきで説明できるかをあらわしたのが、 この数値なのです。  それじやあ、一人ひとりの遺伝と環境の状態 については、何も考えていないのかと思われる でしょう。決してそうではありません。  例えばあなたの体重が75sだとしましょう。 そしてあなたと同じ年齢と身長の平均体重は65 sだとします。平均より10s重いわけです。ほ かにもあなたと同じ条件で10s重い人たちがた くさんいるとしましょう。その人たちがみんな あなたと同じ遺伝的素質と環境で育ったとは限 りません。あなたは本来、ふつうに食べていれ ば遺伝的には70sになる素質なのに、食べすぎ がたたって5sオーバーして75sなのかもしれ ない。またある人は遺伝的素質は本来80sにな る人だけれど、ダイエットして75sなのかもし れません。またもともと75sの素質の人がふつ うの食生活を送っているのでありのままに75s かもしれません。  このように同じ75sの人の遺伝的資質と環境 にはそれぞればらつきがあり、その総和として それぞれの人の体重があるわけです。そして実 際は遺伝的素質も環境も、それぞれさまざまに ばらついているので、表現型としての体重七人 によってばらばらに違う。このときの遺伝のば らつきと環境のばらつきが、相対的にどの程度 なのかを示しだのが、ここで表した遺伝と環境 の説明率なのです。  この考え方は、とりもなおさず多くの人が遺 伝の影響を無視して、環境の影響を重視したが るわけを物語っています。あなたの遺伝的素質 は、原則として一生変わりません。ですからあ なたの体重やIQが変わったとしたら、その理 由は環境の違いにしかないわけです。それは個 人「内」差の原因に過ぎないのですが、それこ そがあなた個人にとってはすべて、つまり環境 は100%なのです。  世の中にいる人たちは、みんな遺伝的素質も ちがいます。しかし、そのちがいは目で見ても わからない。実際は遺伝的素質のばらつきと環 境のばらつきの総和から、世の中のばらつき (個人「間」差)が生まれているわけですが、 実感として理解できるのは個人内環境のちがい だけです。だから環境こそが個人差の唯一の原 因のように感じてしまうのです。  さて、体重の遺伝率が88%、環境が共有・非 共有合わせて12%ということは、体重のばらつ きをつくり上げている遺伝のばらつきのほうが 環境のばらつきよりも7倍以上大きいことを意 味します。道理で、ダイエットしてもなかなか 痩せられないわけですね。一方、IQでは遺伝 が54%、環境が残りの46%ですから、若干遺伝 が大きいものの、遺伝と環境はほぼ半々程度と いうことになります。  なお、上で示した算出方法は、遺伝子による 影響が相加的(足し合わさって形質が表に出て くる)であると仮定しています。遺伝子の効果 は必ずしも足し合わせで出てくるとは隕らず、 組み合わせによって新しい効果が出てくること もあります。これが非相加的遺伝という現象で す。これらについては、次の章でもう少し詳し くお話しします。  なお、私たちが実際に遺伝や環境の関係を双 生児のデータから分析するときは、必ずしも先 述のように単純な方法で算術的に計算している わけではありません。なぜなら得られた数値は あくまでもある1つのサンプルから推定された 値に過ぎず、知りたいと思っている母集団のす べてではないからです。サンプルですから、次 に同じ母集団から別のサンプルをとったら、値 が少し違ってくるかもしれない。これは誤差で す。その誤差の範囲はサンプルの大きさによっ て異なりますので、それもサンプルの大きさか ら勘案しなければならなくなります。  そこで行動遺伝学では、構造方程式モデリン グという手法を使ってこの問題を解決していま す。構造方程式モデリングはかなり複雑な手法 であるため、詳細な計算原理はここでは割愛し ます。ただ手法をイメージで大まかに説明する ならば、サンプルの大きさによる誤差まで考慮 し、考えられる複数のモデル(遺伝十共有環境 十非共有環境で説明するモデル、遺伝十非共有 環境だけで説明し共有環境はないことを仮定し たモデル、共有環境十非共有環境だけで説明し 遺伝はないことを仮定するモデルなど)が実際 のデータにどの程度適合しているかを調べ、最 適なモデルを選ぶということになります。 人間の行動のほとんどは、遺伝十 非共有環境で説明できる  知能や性格といったパーソナリティについて、 遺伝や環境はどのように寄与しているのでしょ うか。図5で示したデータを構造方程式モデリ ングで分析し、遺伝、共有環境、非共有環境が それぞれどの程度の割合で説明するかを表した のが図7です。ご覧のとおり、すべての行動に 遺伝要因が人つているのがわかるでしょう。  例えば私たちの研究室では、一卵性双生児 470組と二卵性双生児210組について、性 格に関するアンケートを行い、相関係数を算出 しました。神経質、外向性、開拓性、同調性、 勤勉性の、いわゆるビッグ5については、だい たい30〜50%が遺伝によるもので、残りは非共 有環境です。これ以外にもいろいろな性格のと らえ方がありますが、ほとんどの性格特性は、 遺伝と非共有環境によって説明されるというこ とがわかっています。  また認知能力について、一般知能はおおむね 5割以上が遺伝の影響で説明され、共有環境の 影響もあることが図7からわかります。そして 遺伝の影響力は成長とともに徐々に上がること もわかります。ふつう長く生きていれば、それ だけ環境の影響が大きくなりそうな気がするの に、実際は逆です。環境にさらされる時間が長 くなるほど、逆に遺伝的素質があぶりだされて くるようです。学業成績も遺伝の影響が50%以 上あり、一般知能と同様に共有環境の影響も見 られます。  先ほど、共有環境や非共有環境の中身を知る ことは難しいと述べました。ただ、別の研究か ら学業成績に影響を与えていそうな環境要因が 1つ明らかになっています。  それは、物理的あるいは時間的な秩序の度合 いを示す、「nxyoJ」という尺度です。要する に、家の中が散らかっているとか、時間にルー ズといったことを指します。ただ、学業成績と nxyoJには相関関係はありますが、CHAOS が低いから学業成績の向上につながるという因 果関係があるかどうかについてはよくわかって いません。学業成績とCHAOSの間に因果関係 があるかどうか明らかにするためには、被験者 の家庭状況を時系列で調査する必要があり、こ れは今後の課題です。現段階ではっきりしたこ とはいえませんが、もしかしたら整理整頓や時 間厳守のしつけは、学業成績の向上につなかつ ている可能性もあります。  図7のように各種才能については、遺伝の影 響が強く出ています。特に、音楽や執筆、数学。 スポーツの才能に関しては、軒並み遺伝の寄与 率が80%を超えています。外国語の才能につい てのみ、共有環境の影響が現れています。これ は、家庭で共通に話されている言語が影響を与 えているものと考えられます。しかしそれ以外 には共有環境の影響が現れていません。ただし このデータは、実際の才能をパフォーマンスで 測っだのではなく、それぞれの分野で「4一 プロかプロ並みにできる」、「3一人並み以上 にできる」、「2一ふつう程度にできる」、 「1一できない、またはやったことがない」の 4段階で自分で評定してもらった得点で分析し たものですので、あくまでも目安にすぎません。  精神疾患や発達障害についても、図7に見る ように遺伝の影響が強く出る結果となりました。 統合失調症や自閉症、ADHDについては80% 程度が遺伝によって説明されます。  共有環境の影響が大きく見られたのは、物質 依存に関する調査です。アルコールや喫煙、マ リファナに関しては、特に共有環境が強くなっ ていますが、これは実際にモノが家に置かれて いる状況が共有環境として働いていると考えら れるでしょう。 見えてきた遺伝の真実  ここまでの結果から、知能や性格、そしてさ まざまな分野における才能についても、遺伝が あまねく、そして無視できないほど大きく影響 していることがわかりました。  もう1つ注目すべきは、外国語の才能や物質 依存などを除けば、共有環境の影響がほとんど 見られず、個人差の大部分は非共有環境によっ て成り立っていることです。共有環境は基本的 には家庭環境や親の影響ということです。  先述したとおり、共有環境の中身については、 個別の項目ごとに調査をして明らかにしていく 必要がありますが、家庭における親の子育ての 仕方は子どもがどう育つかにあまり影響を与え ていないと考えられます。  これは人によってはかなりショッキングな事 実かもしれません。  次章では、行動遺伝学がもたらした知見をど う解釈していけばよいのか考えていくことにし ましよう。 親を見たら、子はわかる?  知能や性格、そしてさまざまな分野での才能 に、遺伝が大きく影響しているI。  こう聞くと、たいていの人は「親の特徴がそ のまま子どもに受け継がれる」と考えてしまい ますが、これは誤解です。  簡単なモデルを使って、遺伝の仕組みを説明 しましよう。  大前提として、先にも述べたように、何らか の形質に関わる遺伝子は2本1対の染色体上に 乗っており、精子や卵子がつくられる際、染色 体のどちらか片方がランダムに選ばれます。そ して、精子と卵子が受精して、相手の染色体と 新しいペアをつくり、受精卵となります。何ら かの形質に関わる遺伝子は、父と母それぞれか ら半分ずつ受け継がれます。  どのような遺伝子のペアを親から受け継ぐか によって、子どもの形質は変化します。ここで は、5対の染色体上に5対10個の対立遺伝子が 載っており、その組み合わせによって形質が決 まると仮定します。さらに、それぞれの遺伝子 には、形質を「並」み(つまり平均)に留める ものと、平均より「高」くするもの、そして平 均より「低」くするものの三種類があります。 それを、平均を基準値のOとして、「バ」と 「‐1」とします。これら遺伝子の効果の合計量 が形質(この場合は遺伝的な素質)になると考 えます。これを「相加的遺伝効果」といいます。  父親、母親の遺伝子が、次頁の図8のように なっているとします。  この5対10個の遺伝子の値の合計量がその人 の遺伝的資質(遺伝型値)ですから、父親は 「2」、母親は「5」です。  この2人が結婚して生まれた子どもの形質は どうなるでしょうか? 遺伝子のペアからどれ か1つが選ばれ、片割れの遺伝子と新しいペア をつくるのですから、子どもの形質は一番効果 の少ないパターンだと左側の組み合わせ、一番 効果が増えるパターンで右側の組み合わせとな ります。このように子どもの遺伝型値は、‐1か ら8の範囲になります。一番低ければ両親のど ちらよりも低く、また一番高ければ両親のどち らをも上回るわけです。この一組の両親から生 まれる可能性のある子どもの遺伝的資質のバリ エーションは、この範囲の中で散らばり、どん な遺伝型値の子が生まれるかはババ抜きのよう な確率現象です。その確率は、いわゆる二項分 布に従います。  実際の形質には5対どころではない多数の遺 伝子がかかわっていると考えられます。「多数 の」は英語で名て(ポリ)といい、「遺伝子」 は9泥(シーン)なので、このような遺伝様 式をポリジーンといいます。ポリジーンでは何 十、何百もの遺伝子がかかわっていると考えら れ、しかも環境の影響もさらに加わると考えら れているので、子どものバリエーションはかな り幅広くなります。その分布はさらに滑らかな ものになり、正規分布に近いものになるでしよ  子どもの形質がどうなるかはあくまでも確率 であり、両親の値を足して2で割ったくらいの 子どもが生まれる可能性が一番高いのは確かで す。そのため、両親の値が両方とも高ければ値 の高い子ども、両方とも低ければ値の低い子ど もが生まれやすくはなります。しかし重要なの は、同じ親からさまざまな遺伝的素質の子ども が生まれるということです。  さらに注意してほしいのは、単純に遺伝子の 効果を足し算するだけでは形質は説明しきれな い場合があるということです。その代表例が、 有名な「メンデルの法則」です。メンデルの法 則では、「丸」と「しわ」のエンドウ豆を掛け 合わせると、すべて「丸」になるというケース が起こり得ます。遺伝子に「A」と「a」の2 種類があり、優性と劣性の関係がある場合がこ れに当てはまります。例えば、親の遺伝子が 「尅」と「皿」たった場合、子どもの遺伝子ペ アはすべて「尨」となり、優性である「丸」の 形質が発現するというわけです。もしこれが相 加的な効果だとしたら、「尨」は「丸」と「し わ」のちょうど真ん中くらいのゆるい「しわ」 加減になりそうなものですが、このように一方 の形質が優勢になって表れる。これは血液型で もそうです。「田」でも「80」でも、同じよう に血液型はB型になります。このように単純な 足し合わせではない遺伝の仕方を「非相加的遺 伝」といいます。  メンデルの法則では非相加的遺伝は一対の対 立遺伝子の間での話でした。これがポリジーン ではたくさんの対立遺伝子の間での話になりま す。つまりたくさんの遺伝子の組み合わせがど のようなものかによって、その効果が異なると いうものです。たとえていえば、ポーカーの役 のようなもの。ポーカーは5枚のカードの数字 の合計点で競うのではなく、どんな組み合わせ かで競います。一枚でも異なれば、役がつかな いか、別の役になります。それと同じように、 いくつもの遺伝子がセットで意味を持ち、その セットの中の遺伝子が1つでも異なるとちがつ だ機能をもつような遺伝様式です。  この遺伝様式は、進化の過程でなぜ適応に不 利になるような遺伝子が今に至るまで生き残つ ているかを説明する1つの可能性を示唆してい ます。アフリカや地中海沿岸には鎌状赤血球貧 血症という遺伝病があります。これは一対の遺 伝子のペアが、「皿」だと発疱し「尅」だと健 常です。発疱すると成人までに死に至るほどの 重い病気です。そんな重い病気にかかわる遺伝 子ならば、進化の過程でこの「a」は淘汰され てなくなってしまいそうなものです。ところが なぜ今も残っているのか。それは「尨」という 組み合わせでaが使われると、この地域に多い マラリアにかかりにくくなるからなのです。  このように非相加的遺伝効果があると、ある 遺伝子の意味を多義的に考えねばならなくなり ます。鎌状赤血球貧血症の遺伝子は、同時に抗 マラリア遺伝子でもあるわけです。まさに評価 が白黒正反対になる場合すらある。適応に不利 な遺伝子かと思っていたら、それが別の遺伝子 との組み合わせによっては適応に有利な遺伝子 として働いているのかもしれない。  第2章で「一般性格因子」の話をしたときの ことを思い出してください。性格のビッグ5を 組み合わせて1つの数値にしてあらわした「一 般性格因子」です。これは外向的で心が安定し ていて知的好奇心も協調性もあり、そして真面 目な傾向のことで、これが高い人は見るからに 「よい性格」、これが低ければ「悪い性格」とい うことになりそうです。こんな「よい性格因 子」の物差し一本で人を序列化するなんてとん でもないと思いつつも、統計的にはこれがさま ざまな社会的適応性と相関があるので、無視で きなくて困っているといいました。  非相加的遺伝の効果は、一卵性双生児では同 じになります。すべての遺伝子のセットが同じ ですから。しかし親やきようだい、二卵性双生 児では、遺伝子の組み合わせが異なりますので、 遺伝子を50%共有しているとはいえ、その類似 性は一卵性の半分にはならず、それよりも類似 性が低くなります。ですから双生児法では、二 卵性の相関係数が、相加的な遺伝効果で予想さ れる一卵性の相関の半分よりも小さい場合に、 この非相加的遺伝効果があると考えます。脳波 のスペクトラムや統合失調症、そしてパーソナ リティなどにしばしばこのパターンが見られま す。  そして一般性格因子にもこのパターンが見い だされるのです。私たちのデータでは一卵性の 相関がO・5、二卵性がO・2.構造方程式モ デリングによって適合度の高いモデルを探索す ると、ビッグ5の1つひとつの性格得点は、相 加的遺伝と非共有環境から成り立っているので すが、これらを合わせた一般性格因子得点だと 非相加的遺伝の効果があることがわかりました。  これはとても興味深い結果です。ひょっとし たら、遺伝の不平等の問題を解決できる素晴ら しい結果かもしれないのです。  相加的遺伝効果だけだと、それは得点を高く する遺伝子をたくさん持っていれば持っている ほど適応に有利になります。「かけっこ王国」 のかけっこの能力や、どこかの国の知能などは その傾向が強い。その状態が長く続くと、それ を低くする遺伝子は淘汰されてしまうかもしれ ません。しかし非相加的遺伝の効果があると、 ちょうど鎌状赤血球貧血症の遺伝子のように、 ある条件では不利だけれど、別の条件では有利 になっているのかもしれないわけです。  これを示唆する出来事はいろいろあります。 例えば統合失調症には非相加的遺伝効果が見ら れます。もしこの疾患がただ不適応なだけなら ば、進化の過程で淘汰されてしまったでしょう。 しかしいまなお100人に1人といわれるくら い多いのは、この遺伝子が別の遺伝子と組み合 わさるとなにか有利な働きをするのかもしれな い。天才といわれる人の中に、この疾患を持っ ていると思われる大がいます。統合失調症とI Qとは必ずしも相関がないことが示されてはい ます。しかしもしこの疾患が示すある種のイ メージ統合の「非凡さ」が知能や好奇心、完成 するまで作業に取り組み続ける勤勉さなどと結 びつけば、人類にとっての宝となるような天才 的な業績を生むかもしれません。  同じような意味で、一般性格因子をつくりあ げる5つの性格で、例えば内向的で情緒も不安 定、知的好奇心も狭いうえに愛想も悪い、だか ら一般性格因子得点は決して高くないのだけれ ど、勤勉性だけはそこそこ高かったとします。 そういう人は大都会で営業マンになるには向か ないでしょう。しかし山奥で一人こつこつと木 工細工だけに没頭する仕事には向いているかも しれません。長い間その仕事に携わる中で、木 の特性についてだけは深い知識を学び、本を加 工する技術も磨き、誰にもつくることのできな い素晴らしい家具をつくるようになるかもしれ ません。その気難しさから、とっつきにくくて、 お世辞にもいまはやりの「コミュカ」があると はいえないその偏屈な職人さんは、しかしその 偏屈な勤勉さのおかげで、なまじ外向的で愛想 のいい人よりも安定した信頼できる仕事ぶりを 発揮し、世間で高く評価されるようになるかも しれません。そうなると、愛想の悪さや内向的 であることが、決して適応的でないとはいえな いわけです。  性格というものには、そうした非相加的な意 味があるのではないでしょうか。私のカラープ リンター理論が表しているように、性格は3つ かせいぜい5つの特性を組み合わせることで無 限の色あいを持った性格をつくり出せます。橙 色が群青色よりも優れているわけでもなければ、 黒が白より劣っているわけでもない。それぞれ の色がそれぞれの働きをし、ほかの色との組み 合わせの中で、それぞれに重要な意味をもって 絵画の中で生かされている。そういうことが遺 伝子レベルでもあるからこそ、非相加的遺伝効 果が表れ、そして一見、適応的でないと思われ る遺伝子も、今に残っているのではないかと推 察されるのです。もしそうだとすれば、遺伝的 な不平等と思われることも、実は不平等ではな いといえるかもしれない。  このように遺伝には、相加的遺伝と非相加的 遺伝があり、さらに個々の形質には多数の遺伝 子がかかわってくるとなると、親とまったく同 じ特徴を持った子どもが生まれることは極めて まれだということがわかります。わたしが「遺 伝は遺伝しない」という所以です。 家庭環境がどの程度子どもの才能 に影響を与えるか?  親が芸術家やスポーツ選手で、子どももその 道に進んだというヶIスは、みなさんも身の回 りで見聞きしたことがあるでしょう。有名人の 自叙伝などを読んでも、親もプロだったり、ア マチュアでもすごく活躍していたりという話が たくさん出てきます。  子どもが親と同じ道に進んで、活躍できるか どうかは、遺伝なのでしょうか。それとも、家 に代々伝わる文化の伝達なのでしょうか。  私たちの研究チームでも、スポーツ、音楽、 美術、読書、そして学業の5領域について、親 が子どもに直接教えたこと、あるいは間接的に 教えたことが、子どものそれぞれの領域への好 みや、それに費やす時間などに影響をどう与え るかについて双生児法を用いて調査したことが あります(未発表)。  スポーツならば、親といっしよにスポーツ観 戦をしたとか、キャッチボールをしたかどうか、 音楽ならば子どもと音楽鑑賞をしたり、親が楽 器を習わせたりといったことが直接的なかかわ り、自分自身が本を読んだり音楽聞いたりする 姿を子どもに見せているというのが間接的なか かわりです。それが子どもからみてどの程度か を、子ども自身の好き嫌いや実際にする時間と いっしよに尋ねたわけです。するとまずそのほ とんどで、親の行動を子どもがどうとらえてい るかという点では一卵性も二卵性も変わりがあ りませんでした。つまりその意味では、これら は確かに「共有環境」でした。  ところが、子ども自身がそれぞれのことがら を好きか嫌いか、それらにどのぐらい時間を費 やしているかについては、ほとんどが遺伝と非 共有環境だけで説明できてしまい、共有環境と して効いていないものが多いという結果でした。 その環境の強さが子どものそれぞれのことがら についての好き嫌いや費やす時間といった子ど も自身の側面に対しては関係せず、「共有環境」 として効いてはいないようなのです。かろうじ て共有環境の効果が見られたのは、母が子ども に間接的に示す環境が娘のスポーツ観戦にかか わること、あるいは父親が自分で本を読んでい る姿を見せると息子が読書を好むようになるこ とぐらいでした。  親と子どもがいっしよにキャッチボールをす る、サッカーをする、あるいはバイオリンを習 わせるといったことで、子どもが持っているボ トムラインの能力を引き上げる可能性はそうで ない家庭より高まることはありえます。しかし、 子どもがそれを本当に好きになり、それに時間 をかけてやるようになるかどうかには、それほ ど影響していないようなのです。むしろ子ども 自身の遺伝的素質と、一卵性きようだいでも異 なる一人ひとりに特有な何かの環境が、その源 のようです。もちろんその一人ひとりに特有な 環境が家庭の中で、あるいは親のふるまいの中 にきっかけとしてあった可能性は大いにありま す。ですから親が不要とか家庭は意味がないと いっているわけではありません。ただ、その親 に育てられれば誰でも野球好きになるとか読書 が嫌いになるというような単純なものではない ということです。 勉強するのはムダか?  学力や知能は遺伝的な影響力が大きいわけで すが、そうなると勉強することはムダなので しようか?  誤解を招きやすいのですが、ここまで述べて きた学力や知能といった能力は、私たちが住ん でいる知識社会と教育を前提にしています。私 たちの社会は、自分一人の力だけでは学べない 膨大な知識の上に成り立っており、社会はつね に解決しなければならない問題に満ちています。 その社会に適応し、自分が直面する社会の問題 を解決するためには、その社会をつくりわれわ れを生かしてくれている知識を誰かに教えても らわなければなりません。そうでなければ社会 的生活を営むことは不可能です。その意味で、 教育は人間が生きる上で不可欠な学習様式であ り、人間は教育によって学習すること、つまり 勉強することは、生きる上で絶対に必要なこと です。ですから、学習や勉強はムダであるどこ ろか、必ずみんながしていることであり、しな ければならないことです。  そのことを前提としたうえで、学力や知能に 遺伝的な影響があるというのは、同じように教 育を受けたとしても、どの領域でどの程度のレ ベルに行けるかどうかが、各人の遺伝的な素養 によって、ある程度規定されているということ です。  スポーツでオリンピックに出場できる、世界 的なコンクールでバイオリンを演奏する。そう した能力とは違い、学力は、教育さえ受けて、 ちゃんと努力すれば平等に伸びていく……。こ れはいまでも親に、教師に、行政や企業の人々 に、そして誰よりも学習者自身に、信仰のよう に信じられているように思われます。  確かに誰でも鉄棒があればぶら下がり体を揺 らすことは学べます。しかし逆上がりができな い人がすでにおり、大車輪は多くの人ができま せん。バイオリンを手にしたことのない人はた くさんいると思いますが、ただ肩に抱えて弓を 当て、弦をおさえてギーギーときらきら星を弾 くだけなら、教わればだれでもできるでしょう。 私も心酔した鈴木メソッドなら、ほとんどの人 がヴィヴァルディのコンチェルトですら、弾け るようになります。しかし誰でも五島みどりに なれるかといったら、そうでないことは、これ も誰でも認めると思います。にもかかわらず、 努力して、工夫して勉強さえすれば、誰でもい い大学に受かることができる。その能力だけは 万人に平等に与えられているという信仰に、し がみついている人がいまでも少なくないのはな ぜなのでしょう。残念ながら、行動遺伝学の研 究結果は、その信仰を否定することになりまし た。 すべては生まれながらの才能で決 まる?  才能が遺伝することに関する大きな誤解の1 つは、何もしなくても才能が発現すると考えて しまうことです。  外国語の成績に遺伝の影響があるからといっ て、一度も聞いたことのない外国語を滑らかに 話せるはずはありません。どんな才能であれ、 未知のことを学んだり、鍛錬したりすることな しに、発現することはないのです。  それでは結局のところ、大事なのは環境とい うことになるのでしょうか? 遺伝的な才能が どうであっても、環境によって人間は変えられ るといえるのでしょうか?  人間の持っている能力には、膨大な数の遺伝 子が複雑な形で関係しており、あなた自身を環 境に適応させようとしています。環境が変化す れば、適応の仕方も変わってきます。  逆にいうと、同じ環境に置かれても、遺伝子 が異なれば、異なる適応の仕方をするというこ とになります。例えば、学校で同じ科目を習っ ても、飲み込みの速さや正確さであるとか、や る気のあるなし、努力しようという気になるか ならないかなど、人によってまったく異なって いるのが当たり前です。遺伝と環境の両要因が ともに働きあって才能は発現するわけですが。 一見同じ経験をしたとしてもそこから何か引き 出されるのかは人によって違ってきます。そこ に遺伝のちがいがかかわってきます。さらに一 卵性双生児であっても、100%完全に同じ経 験をすることはできませんから、才能がどう発 現するかにもまた違いが出てきます。これが非 共有環境です。ですから、ほとんどの形質は、 遺伝と非共有環境によつてつくられているとい えるのです。 才能がある人は何が違う?  遺伝の影響があるとはどういうことなので しょう。天才に関するエピソードを読んでいる と、彼らには「先が見えている」と思わされる ことが多々あります。これは必ずしも科学的エ ビデンスに基づく話ではないのですが、遺伝的 才能について私なりに思うことです。  自分がどこまで行けるか、そのためには何を したらよいのか。まだだれもやったことがある のを見たことがない、実現されたものを見たこ とがない、その意味で環境の中にないにもかか わらす、彼らにはそういうことが何となく見え ている。そしてそこにたどり着くために、強い ストレスをかけて努力をし(本人は努力と思っ ていないことも多いのですが)、さまざまなア イデアと工夫を凝らし、それを成し遂げてしま  野球選手のイチローもおそらくそうでしょう。 よい成績を出すために必要な能力がどういうも のか彼の中では明確に見えており、それを実現 するためにどういうトレーニングや栄養管理、 日々の行動管理をする必要があるのかがわかっ ているのではないでしょうか。モーツァルトや アインシュタインもそうだったのではないかと 思います。  私の高校時代の同級生に、スーパーコン ピュータ「京」の開発責任者として知られる井 上愛一郎氏がいます。彼が新入社員たった頃、 冗談交じりに「ぼくが使っているパソコンを設 計したのは君かい?」と尋ねたことがありまし た。彼は「ばかをいえ。僕はあんなまぬけな 演算装置より、もっとずっと美しいものを考え ているんだ」と答えました。自信家の彼らしい 答えだと思いましたが、その後、彼は本当に 「京」を完成させてしまいます。  「京」の完成後、井上氏に話を聞いたところ、 「僕は未来の記憶を持っている」とのたまい、 「京」ですら彼が考えているコンピュータを実 現する通過点にすぎず、お金や技術的な制約が あるからあの程度なのだというのです。彼には 「コンピュータはこうなるのが当たり前」とい うビジョンが見えているのですが、他の人には それがまったく見えていません。  科学的な表現とはほど遠いのですが、遺伝的 に突出した才能がある人は、他人が外から気づ く前に自分の中で「見えている」のだと思いま す。  天才と呼ばれるような人でなくとも、自分に はわかる、できるという感覚を持ったことがあ る人は多いでしょう。私自身、大学院に進んだ とき、「自分は遺伝のことを解明できる」とい う感覚を持っていました。ほとんどの学生や教 授は遺伝の影響なんてものは解明できるわけが ないからテーマにするのはやめておけというの ですが、私にはどうしてそんなことをいうのだ ろうと不思議で仕方ありませんでした。  自分にはこれができる、これが好きだ、逆に これは向いていないからやめておけ。そうした 内側から沸き上かつてくる感覚というのは、自 分が生まれ持っている遺伝をもとに、環境が出 会ったときに生じるのだと私は考えています。 そういう内なる感覚に導かれて、人は何かに専 念し、そこにリソースを集中的に投入すること で才能が発現していくのではないでしょうか。 遺伝的な素質はあとから変化する こともある?  遺伝的な素養が環境を選択し、適応しようと することで才能を発現させる。そうはいっても、 内的な感覚だけに基づいて環境と遺伝の関係を 説明されても、いまひとつ納得できないという 人もいるでしょう。  しかし、近年の分子遺伝学の進歩によって、 環境と遺伝がどのように作用しているのかも分 子レベルで分析できるようになりつつあります。  カギとなるのが、「エピジェネテイクス」で す。  生物学においては、DNA上の遺伝情報(= 遺伝子)を元にタンパク質が合成され、さまざ まな形質が発現するという、セントラルドグマ 説が中心的な原理とされてきました。  ところが、同じ遺伝情報を持ちながら、細胞 や個体のレベルで違う形質を現れることがあり ます。こうした現象を調べていくと、DNAメ チル化やヒストンのアセチル化等の化学的修飾 といった反応が起こり、それによって、遺伝子 の発現の仕方が異なってくる。こうした現象を 総称して、「エピジ子そアイクス」と呼びます。 まだ緒についたばかりの研究領域ではあります が、すでに母親が妊娠期に極端に栄養の乏しい 環境やストレスの強い環境にさらされると、胎 児の遺伝子にエピジ子不ディックな変化が生じ、 肥満や神経質さを増すという現象が、ネズミや、 人間でも報告されています。つまりエピジ子不 ディックな変化が環境によって引き起こされる 可能性があるわけです。しかもこの変化が孫の 代まで伝わる可能性すら示唆されています。  ある遺伝的な性質が特定の環境を媒介として 発現する仕組みが、分子レベルで解明されたの は、非常に画期的です。  双生児によるエピジ子不テイクスの研究も進 められています。どこにどの程度のエピジ子不 テイクスな変化が起こるかの個人差が、ある程 度遺伝的に制御されていることが、双生児法を エピジ子不テイクスに当てはめることでわかり ました。さらに最近特に注目が集まっているの は、まったく同じ遺伝配列を持つ一卵性双生児 でありながら、片方は病気を発疱し、もう片方 は発疱しない。こういう不一致一卵性双生児の ケースにおいて、どの部位にエピジ子そアイク スな変化が起こるのかを調べるわけです。エピ ジ子そアイクスな変化を捉えることができれば、 仮に遺伝的な糖尿病のリスクを抱えている人で あっても、発疱を抑えられる可能性があります。  知能や性格などについてはあまりにも環境要 因が複雑であるため、エピジ子そアイクスな変 化を簡単に捉えられるとは思いませんが、 ひよつとしたら数十年後にはそうした技術が生 み出されるかもしれません。 収入と遺伝に関係はあるか?  知能や性格を始めとしたさまざまな心的な能 力は、遺伝の影響がおおむね50%程度あること がわかっています。  となると、人生もまた遺伝によって大きく左 右されてしまうのではないか。遺伝の影響と聞 いて多くの人が心穏やかでいられないのは、社 会的な格差が遺伝によって生まれながらに固定 され、一方的に不利益を被ることになる、そう 恐れるからでしょう。  それでは、人生において誰もが気になるお金、 より具体的に「収入」に遺伝の影響はあるので しようか?  人が得る収入は、その時代の景気やタイミン グといった個人ではどうしようもないことに大 きく左右されます。また、親が資産家であれば、 事業を興すにしても有利になるかもしれません。  もし、前者の影響が大きいというのであれば、 非共有環境が大きいと考えられますし、後者の ように親の資産や社会的地位が影響するなら、 共有環境が大きくなってくるはずです。  アメリカの行動遺伝学者ロウらは、きようだ いと半きようだい(片親が同じきようだい)に 対する研究により、収入のJ一%が遺伝、8%が 共有環境、50%が非共有環境によって説明でき ることを示しました。  また、スウェーデンのビョルクルンドらは、 双生児ときようだいのデータに基づき、収入へ の遺伝の影響は20〜30%、残りは非共有環境で あると算出しました。意外なことに、どちらの 研究からも共有環境の影響は大きくないことが わかります。  しかし山形や中室らによる囗本の20歳から60 歳までの1000組を超す大規模な双生児デー タからは、もっと興味深い結果が出ています。 この研究でも全体でみると収入に及ぼす遺伝の 影響は約30%でした。ところが年齢まで考慮し てみると、就職し始める20歳ぐらいのときは遺 伝(20%程度)よりも共有環境(70%程度)が はるかに大きく収入の個人差に影響しているこ とが示されました。ところが年齢が上がるにつ れ、その共有環境の影響はどんどん小さくなり、 かわりに遺伝の影響が大きくなって、最も働き 盛りになる45歳くらいが遺伝の影響のピーク (50%程度)になり、共有環境はほぼゼロにな るのです(図9)。若いときの初めの就職囗は、 しばしば親や親族のコネやツテ、助言などに影 響を受けますので、収入もその影響を受けます。 しかしそんな親の七光りが通用するのも初めの ころだけで、だんだん独り立ちして自分の実力 が問われるようになるにつれて、その人自身の 遺伝の影響が強くなるというのは、非常にもつ ともらしいと思いませんか。  ただしこれは男性に限っての傾向です。女性 については、既婚、未婚を問わず、収入に対す る遺伝の影響は、生涯にわたりほぼゼロのまま という、これも驚くべき結果でした。遺伝の影 響がゼロというのは、一見よさそうにも見えま すが、これは裏を返せば、女性は自分の潜在能 力がまったく収入に反映されないことを意味し ます。  前記の研究から、収入に対する遺伝の影響は とりあえず2〜4割ということにしておきま しょう。それでは、この遺伝の影響とはいった い何なのでしょうか。  ロウは、収入と10、および教育年数の相関を 調べ、その結果、収入に与える遺伝の影響のう ち、IQや教育年数によって29%が説明できる ことを示しました。しかし、逆にいうと(遺伝 要因のうちの)71%はIQや学歴では説明でき ないということです。山形らの囗本の研究でも、 学業成績や教育年数の遺伝要因によって収入の 遺伝的影響のおよそ半分が説明されましたが、 残る半分(15%程度)はそれ以外の遺伝要因で す。つまり、勤勉性などのパーソナリティと いった形質や、まさにそれぞれの職業に直結す る能力の遺伝要因も収入に影響を与えていると 考えられます。 貧乏な家に生まれたら、もう諦め るしかない?  先述したように、収入には遺伝の影響が2〜 4割程度あるということがわかっています。こ の遺伝の影響を私たちはどうとらえればよいの でしょう。遺伝の影響によって収入が変わるの であれば、収入が低い家に生まれた子どもには 明るい将来がないのでしょうか? 注目すべき は、共有環境の影響があまり大きくないという こと。親の資産や社会的地位は、どうやら大き くなったときの子どもの収入にはあまり関係が ないようなのです。  一方、遺伝の影響は、環境の条件によって異 なってくることも、最近の研究からわかってき ています。例えば、青年期の知能についていう と、社会階層が高いと遺伝の影響が大きく、低 いと共有環境の影響が大きいのです。なお、こ こで述べているのは遺伝や共有環境の個人差の 影響が大きいか小さいかであり、知能の高低で はないことに注意してください。これは次のよ うに解釈することができるでしょう。  まず、家が金持ちでも貧乏でも、遺伝的に知 能の高い人もいれば低い人もいます。親が金持 ちの家では、子どもはおしなべていろんな環境 にアクセスする機会が増えます。知的能力を必 要とする活動から、あまり必要としない活動ま で、子どもの接する環境の選択肢が増えること で、その子が本来持っていた遺伝的素養が発現 しやすくなるわけです。  貧しい家の場合、環境の選択肢はどうしても 少なくならざるをえません。親が知的でない趣 味を好むのであれば子どももそれに引きずられ ますし、知的な活動に投資する親であれば、や はりその影響を受けるでしょう。子どもが選べ る環境の選択肢が少ないため、遺伝的な素養 (それがどんな素養かはわかりません)が発現 する確率が金持ちの場合よりも低くなるわけで す。  これは別の見方をすれば、まさにトルストイ が『アンナーカレーニナ』の冒頭に置いた有名 な一句「幸福な家庭はどこも似通っているが、 不幸な家庭はそれぞれに異なる」が、行動遺伝 学的にどういう意味かを示しているように見え ます。裕福な家庭はアクセスできる環境条件の 豊かさという点でほぼ均質なので、相対的に遺 伝のばらつきが目立ってくるが、貧困な家庭は それぞれに異なった環境条件なので、共有環境 のばらつきが目立つというわけです。  悲観的な気持ちになるかもしれませんが、逆 にいえばこれはとくに貧困階層に対する社会的 な政策が重要であることも示唆しています。つ まり、貧しい家庭でも知的な活動が行えるよう な補助を行うことで、遺伝的な知的才能を発現 させるチャンスを増やせる可能性がある、とい うことです。 優秀な家系は存在する?  知能を始めとする形質が遺伝するというので あれば、「優秀」な形質を持った人同士の結婚 を繰り返すことで、「優秀」な家系が生まれる のでしょうか?  遺伝の影響を考えるとこれは当然出てくる疑 問です。ゴールトンの優生学を思想的な背景と したナチスは優秀な家系、民族をつくることは 可能だと考え、種々の優生施策を実行に移しま した。優秀と目された人は子どもをつくること を奨励されたり、劣っていると判断された民族 は不妊実験の対象となったり、中絶を強制され たりしたのです。  もちろんこんなことは倫理的に許されません し、ここまで読んでいただいた方にはお分かり のように、優秀な親から優秀な子どもが生まれ るとも限りません。それでは、倫理的な是非は 別にして、優秀な家系というものは存在しない のでしょうか?  1960年代頃から、行動遺伝学ではマウス を使った交配実験が行われてきました。中でも 有名なのが、ディフリースらの行った実験です。 ディフリースらは、活動性の高いマウスと低い マウスの2グループに分け、グループ内で交配 を行いました(図10)。  活動性の高いマウスから生まれた活動性の高 いマウス同士を掛け合わせ、一方では低いマウ ス同士を掛け合わせるようにしたのです。そう して世代を重ねると、生まれながらにして活動 性の高いマウスと、低いマウスができることが わかりました。ただし、はっきりと形質が区別 できるようになるまでには、約30世代かかって います。人間の30世代といえば、1000年以 上にはなるでしょう。また、このネズミの実験 では平均への回帰が見られます。活動性の高い、 いわゆる優秀な親ネズミからは、親よりも優秀 な子ネズミが生まれる一方で、それほど優秀で はない子ネズミも生まれました。一方、活動性 が平均より低い親ネズミからは、親よりも劣る ネズミも生まれますが、優秀なネズミも生まれ るのです。世代を経るほど、親ネズミから生ま れる子ネズミの形質の分散は大きくなっていき ます。  これだけ聞くと、掛け合わせによって平均的 には「優秀な家系」をつくることも不可能では ないように思われるかもしれません。しかしば らつきもまた大きくなる。不平等感を生むのは、 むしろばらつきです。  しかもディフリースらの実験で検証されたの は、あくまで活動性の高い、低いという比較的 単純な形質です。  人間の「優秀さ」の尺度はIQだけではあり ませんし、関係してくる遺伝子も膨大。さらに、 環境要因によって遺伝的な素養が発現する条件 も多様ですから、ネズミの実験ほど単純化する ことはできません。仮にIQの高い男女が結婚 して子どもを産んだとしても、多数の遺伝子が かかわるポリジーン遺伝では形質は分散して子 に伝わることになります。  ポリジーン遺伝の場合、子どもの形質は両親 の平均値を中心に分散します。さらに、平均へ 回帰しようとする効果が働きますから、高い形 質同士の親から生まれた子どもの形質は両親の 平均よりも下に、低い形質同士の親から生まれ た子どもの形質は両親の平均より上になること が、確率的に高くなるといえます。  平均に回帰する度合いは、遺伝と共有環境の 割合によって変わってきます。遺伝率が高く、 共有環境の影響が少ない形質であれば平均への 回帰は小さく、比較的親に近いところに留まる でしょうが、遺伝率が低く共有環境の影響が大 きい形質ならば大きく平均に回帰すると思われ ます。  ほとんどの形質は遺伝率がだいたい半分で共 有環境の影響はほとんどありませんから、平均 への回帰はそこそこ。IQや学力に関しては、 さらに共有環境の影響が見られますから、平均 への回帰は他の形質に比べて少なくなります。 しかもポリジーンによって、それぞれの形質に ついて同じ親からもいろんな遺伝的素質が生ま れうる。それらが組み合わさるわけです。いま より子だくさんだった時代には、誰しもこんな ことは当たり前のように実感していました。同 じ両親から生まれても、子どもの形質はパラパ ラたったわけですから。  ネズミの活動性の高低という形質が世代を重 ねることで強化されることを示した点において、 ディフリースらの実験は大きな意味を持ちます が、それをそのまま人間に当てはめるのはナン センスでしょう。社会階層が遺伝に影響を受け ていたとすれば、一番上の階層から生まれた子 どもが一番下の階層に行く可能性は非常に低い わけですが、それでも結局のところ平均へと回 帰していきます。逆に低い階層であったとして も、子どもが上の階層に行くことは確率的に大 いにありえます。高いにせよ低いにせよ、ある 階層の男女から生まれた子どもの形質は分散し、 一定の確率で別の階層へ飛び出していくのです から、遺伝によって階層が完全に固定化される とは考えにくいのです(図11、図12)。 家柄のいい男、才能がありそうな 男、結婚するならどっち?  優秀な家系といわれる家があります。代々、 学者や政治家、企業人や芸術家を輩出している ような家庭です。優生学と行動遺伝学の祖、フ ランシスーゴールトンが着目したのもそこでし た。それは遺伝なのか、環境なのか。いわゆる 良家では結婚相手も代々慎重に選んできている でしょうし、社会的なパフォーマンスを高く維 持する何らかの心理的な形質、健康に関する形 質があっても不思議はありません。また、蓄積 された文化的な資産やコネクションもあるで しょうから、その家から生まれた子どもは下の 社会階層に落ちにくい、というのは考えられる ことでしょう。  では、あなたが結婚する場合、相手を家柄で 選ぶことに意味はあるのでしょうか?  行動遺伝学を持ち出すまでもなく、世の中は 実に多くの要因で構成されています。人間に限 らず、生物であれば自分が利用できる「よき要 素」「よき資源」は最大限活用するのが最適解 でしょう。しかしこれでは何とも身も蓋もない 話です。  同じくらい好きな男性(女性でもかまいませ んが)が2人いたとして、両方とも大した才能 があるようには見えない。片方には強力なファ ミリーのネットワークがあり、もう片方には何 もないというのであれば、前者と結婚する方が 高い社会階層、金持ちになりやすいのはいうま でもありません。  それならば、片方は凡庸なぼんくらだけど強 力なファミリーが背後についている、もう片方 は家柄は大したことがないけれど何らかの才能 があるように見える。こういう場合は、どちら を選ぶべきでしょうか?  今だけ考えれば前者のほうが安牌でしょう。 しかし結婚候補の相手が若いのであれば、そし て末永く相手と添い遂げたいと思うならば(そ してお金持ちになりたいならば)、後者を選び なさい。私ならそうアドバイスします。  知能に及ぼす遺伝と環境の影響を、児童期、 青年期、成人期に分けてプロットしてみると、 図13のようなグラフになります(これは図5の 知能の部分だけを折れ線グラフに書き換えただけで す)。グラフを見ると、年齢が上がるほど遺伝 の影響が大きくなっていくことがわかります。 図9で示した収入についてのグラフでも、遺伝 の影響は壮年になるにつれて大きくなります。  この結果は、意外だと思われるかもしれませ んね。人間は年齢とともに経験を重ねていくわ けですから、環境の影響が大きくなっていきそ うなものですが、実際は逆なのです。  つまり、人間は年齢を重ねてさまざまな環境 にさらされるうちに、遺伝的な素質が引き出さ れて、本来の自分自身になっていくようすが行 動遺伝学からは示唆されます。  グラフで取り上げているのは知能に関してで あり、他の心理的な形質や才能全般についても 同じことが当てはまるかどうかまではわかりま せんが、他の才能についても同じような傾向が 出てくることは大いにありそうです。  もちろん、若いときに「光る才能」がわかり やすく見えるかどうかはわかりませんし、それ が本当の意味での才能になっていくかどうかは もっとわかりません。しかし、遺伝はその人の 一生を通じて影響を与え続けますが、環境が影 響を及ぼすのはあくまでもその環境が周りにあ るときだけです。  いずれにせよ、人はいずれ親の七光りが通用 しない社会の中で生きていかなければなりませ ん。遺伝か環境か、どちらかに賭けろというの であれば、私は遺伝を選びます。 遺伝子検査でどこまで予測でき る?  親の遺伝子がどのような形で子どもに受け継 がれるのか、それを親の遺伝子から正確に予測 することは困難です。  それでは、子どもの遺伝子を調べることで、 将来的にどんな風に育つのかを予測することは 可能でしょうか?  遺伝子の変異による発病のリスクについては、 いくつかの病気については原因遺伝子が特定さ れているものもあります。例えば、(ンチント ン舞踏病を引き起こす遺伝子は優性であり、両 親のどちらか一方からこの原因遺伝子を受け継 ぐと発疱のリスクが格段に高まります。  最近では、女優のアンジェリーナージョリー が遺伝子検査を受けた結果、両方の卵巣・卵管。 および健康な両乳房を切除する手術を受けて話 題になりました。彼女の場合は、ガン抑制遺伝 子に異常があり、87%の確率で乳ガン、50%の 確率で卵巣ガンになると診断されたためでした。 こうした特定の遺伝子が原因で、その効果が非 常に大きく、なおかつ治療法が確立されている 病気について、きちんと遺伝子検査を受け、専 門家による診断や治療を受けることには意味が あります。  最近急速に市場に出回ってきたさまざまな遺 伝子検査サービスでは、さまざまな遺伝子を調 べて、「××になる確率は**%」というレ ポートを出してくれます。こういうタイプの サービスについては、決して予測率が高いとは いえません。遺伝的な素因があるかないかに よって、被験者が本当にその病気を発疱するか しないか、確約は得られないのです。その意味 で現段階においては「科学的な装いの占い」く らいに捉えておくのが無難でしょう。  とはいえ、遺伝子検査の結果を元に、自分の 生活や日ごろの行動を見直して、自分にとって よいと思えることに本気になって取り組むきっ かけとなるのであれば、有意義ではあります。  遺伝子検査の基礎研究は急速に進んでおり、 将来的には社会に大きなインパクトをもたらす ことも十分に考えられます。  数年前、ホールゲノムスキヤン、つまり自分 の持っているすべての遺伝子を読み解くために かかる費用は数百万円でしたが、現在では20万 円以下で行うことができます。この値段は今後 劇的に下かつていくでしようし、それに伴って、 遺伝サンプルを集めたデータベースも幾何級数 的に拡充されていくことは確実です。  そうなってくると、多数の遺伝子(ポリジー ン)が、トータルとして特定の形質の発現の程 度を、ある程度の確率で予測することのできる 「ポリジェネテイツクスコア」が実用化される 可能性はあります。  遺伝子検査によって形質のすべてを説明でき るようにはならないでしょうが、遺伝の影響力 の強い形質については予測精度は上げられるで しょう。  例えば、ADHD(注意欠陥多動性障害)。 ADHDの遺伝率は80%ということがわかって いますが、遺伝子の配列を調べることで、その 半分程度は説明できるようになる可能性があり ます。そうなると、「ADHDになる傾向は、 平均よりも何%程度は高い」かは算出できるこ とになります。  同じことは、知能など他の形質についても当 てはまります。一般知能における遺伝の影響率 は70%を超えていますが、その半分、35%につ いてポリジ子不ディックスコアが算出できたと したら、知能指数を正確に予測することは無理 にしても、格段に低いか、平均レベルか、格段 に高いかくらいはわかるようになるでしょう。 私たちの知能は年々向上してい る?  現生人類である私たちホモーサピエンスの先 祖は、180万〜20万年前に、近縁種のホモー エレクトスの共通祖先から分岐したと考えられ ています。20万年というのは長い年月ではあり ますが、生物進化の観点から見れば一瞬です。 (Iドウェアである私たちの身体は20万年前か らほとんど変化していません。  ある意味でその認識を覆したのが、ジェーム ズーフリンです。1980年代にプリンは世界 各国の知能検査の結果を分析し、1年あたり O・3ポイントのペースでスコアが伸びている ことを示しました。その後も、キングスーカ レッジーロンドンやウィーン大学などの研究者 が調査を行っており、過去100年近くにわ たってIQのスコアは伸び続けており、その伸 びは現在も続いていることがわかっています。 このように後の世代ほど知能検査の結果が向上 することを「プリン効果」と呼びます。  最初にプリン効果に関する話を聞いたとき、 私はそんなことがあるはずはないだろうと思い ました。知能検査の結果であるIQは、あくま でもグループ内の相対的な能力の違いであり、 絶対的な能力を表しているわけではないからで す。1年にO・3ポイントということは、30年 で約10ポイント。lqが10ポイント違うと、人 格が変わって見えるくらいのインパクトがあり ます。親の世代と子どもの世代で、そんなに知 能が違ってくるということがはたしてありえる だろうか?  しかし、『なぜ人類のIQは上がり続けてい るのか?』(ジェームズーフリン)を読み、腑 に落ちました。知能テストの問題は毎年更新さ れていきますが、すべてがいっぺんに入れ替わ るわけではありません。前の年と共通する問題 をブリッジにして統計処理を行うことで、新し いテストでのスコアが以前のテストでいくつに 相当するかを算出することができるのです。  明らかになっだのは、抽象的推論に関するテ ストのスコアが向上しているということでした。 これは、本人が経験したことのない問題をどう やって解決するのか、その能力を調べるための ものです。  『なぜ人類のIQは上がり続けているのか?』 には、面白いエピソードがいくつも登場します。 人種差別論者たったプリンの父親を諭すため、 プリンは「もしお父さんの肌が黒い色で生まれ てきたらどう思う?」と問いかけました。これ に対して父親は「バカも休み休みに言え。今ま で肌の色が変わった奴を見たことがあるのか」 と答えたそうです。  現代の社会はグローバル化、高度情報化して おり、自分が実際に経験していないことについ ても推論を巡らせて考える必要が、あらゆる状 況で起こっています。数十年前、たいていの人 はそんな問題に悩まされることはありませんで した。  先にも述べたように、ハードウェアとしての 人間が100年のオーダーで進化することはあ りません。しかし、社会的に求められる能力が 変化した、つまり環境が変化したことで、それ に適応するために遺伝的な形質が発現している ことは考えられます。その結果、知能検査のス コアが見かけ上高くなっているというわけです。  プリン効果はさらに重要な問題を提起してい ます。それは「世代による格差」です。家庭の 経済力による「教育の格差」ではないことに注 意してください。子ども世代は、30年遅く生ま れたという理由で、IQが10ポイント高くなる。 これだけ聞くと荒唐無稽に聞こえるでしょうが、 今のべたような理由で、若い世代はそれだけ異 なる知的世界に適応しなければならなくなって いるということが示唆されるわけです。IQが 高いというといいことづくめのように思われる かもしれません。しかしそれが抽象度の高い論 理的情報処理能力を意味するとすれば、逆に見 れば、具体的事物に即し、体で学び、個別の状 況の微妙なちがいを感じ取って反応するような、 たとえば昔ながらの職人の知恵や短歌や俳句に 感じ入る能力がおろそかになっている可能性が あるのかもしれないのです。 親の子育ては無意味か?  世の中には、たくさんの子育て本が出ていま す。  フ×した時は、もつと褒めるようにしましよ う」など、さまざまな子育てテクニックが紹介 されていますが、そうしたテクニックの効果は、 行動遺伝学の立場から考えると、あまり期待で きません。  行動遺伝学の研究から導き出された重要な知 見の1つは、個人の形質のほとんどは遺伝と非 共有環境から成り立っていて、共有環境の影響 はほとんど見られないということです。共有環 境をつくる主役は親でしょう。つまりどんな親 かということが、子どもの個人差にはほとんど 影響がないということなのです。  しかし、これは親が何もする必要はないとい うことではありません。親が子どもに対して直 接・間接に示す家庭環境が、子どもの個性を一 律に育てるわけではないということが示されて いるだけに過ぎません。行動遺伝学が説明する のは、あくまでも「個人差」要因です。子ども にとって、親や家庭(あるいはそれに相当する 人や環境)が大事で意味があることはいうまで もないことです。親や家庭は、子どもの居場所 であり、安全基地であり、最初に出会う社会で す。そして食事や身の回りのしつけを通して、 一人前の大人になるのに必要な体づくりやさま ざまな社会ルールについての知識を学びます。  ここで大事なのは、子育て本のパターン通り に誰にでもあてはまる教科書のようなかかわり をするのではなく、自分が経て来た経験に根差 す価値観に基づいて、子どもの中にある形質を 見つけるように努力することだと思います。  幼い頃からエースで四番、楽器を弾かせたら 人並み以上、本を片つ端から読む、ひょうたん の美しさを見抜ける(志賀直哉の『清兵衛と瓢 箪』の話)というように、初めからすごい子ど ももいますが、そういう子は勝手に才能を開花 させていきます。  「うちの子どもにはあまりパツとしたところが ない」、そういうときこそ自分の経験や知識を 総動員して、どんなことに向いているかを真剣 に考えてあげる。ある分野に通じた人に子ども を会わせたり、いろんな体験をさせたりして、 社会的・文化的に価値あると親が考える刺激を 与えるといったことが大事だと思います。お金 をかけなくともできることはたくさんあります。 親にできるのは、本来そういう当たり前のこと だけだと思われます。 教え方や先生によって学力は変わ る?  よい学校に通い、教え方のうまい先生に出会 うことで、子どもはやる気を出し賢くなってい くだろう……。  親であれば、当然このように期待することで しよう。  私たちが行った英語教育の実験では、一卵性 双生児、二卵性双生児のペアにそれぞれ文法中 心の授業、会話中心の授業を受けてもらい、文 法と会話のテストを行いました。その結果は、 文法中心の授業をうけたきようだいは文法テス トの成績がよく、会話中心の授業をうけたきよ うだいは会話テストの成績がよいという、当然 のものでした。遺伝的に同じ一卵性双生児でも、 教え方によって成績は変化したのです。  また、一卵性双生児の方が二卵性双生児より も成績の類似度は高く、遺伝の影響がみられま した。  さらに一卵性双生児のペアで興味深いのは、 遺伝的に言語性知能の高いペアは文法中心の授 業を受けた方が成績がよく、遺伝的に言語性知 能の低いペアは成績の類似度が低かったり、会 話中心の授業を受けた方が成績がよいケースが 多かったということです。つまり、誰にとって もよい教え方があるのではなく、異なる遺伝的 な素養が異なる環境に出会うことで、異なる結 果を導き出す、といえます。おそらく一人ひと りに適した教え方があるのだと思われます。  一方、こうした教育環境の影響はどうやら一 過性のようです。この実験では、終了してから 2ヵ月後に再度テストをしてみました。すると 教え方の違いは消えてなくなり、遺伝の影響だ けが残っていました。  またイギリスの双生児7000組を対象した 調査では、学習動機つまりやる気や自分で感じ る学力感が、同じクラスや同じ先生で教わった 場合と異なるクラス・先生とで教わった場合で 異なるかを調べています。その結果はといえば、 学習動機に及ぼす先生の違いからくる影響力は、 あっても2〜4%程度、つまりほとんどありま せんでした。他の心的形質と同様、学習動機の 遺伝率も概ね40%ですが、教え方やクラスのち がいよりも遺伝の影響の方がずっと大きかった のです。学力については共有環境が20%程度で、 遺伝の影響は他の形質よりも低い30%程度です が、やはりこの実験では先生や学校の影響は出 ていません。  先生や教え方の影響が子どもにまったくと いっていいほど影響を与えていないというのは、 教師としてはかなりショッキングなデータだと 思います。しかし誤解してはいけないこと、そ して強調せねばならないことは、これらの結果 は、すでに先生たちがそれぞれにそれなりの教 育を子どもに与えてくれているからだというこ とです。中にはトンデモ教師がいるかもしれま せんが、多くはそれぞれの力量の中できちんと 教育をしていることを忘れてはなりません。  最近、やり抜く力とか粘り強さ、自己制御能 力といった「非認知能力」が、IQのような認 知能力以上に仕事の成功に影響を及ぼすという 話題に注目が集まっています。ノーベル経済学 賞を受賞したベックマンは、幼少期の教育的介 入が成人してからの人生にどのような影響を与 えるのかについて、アメリカの幼稚園でランダ ム化コントロール実験により40年にわたって調 査しました。その結果、就学前の子どもにきち んと学習をするような勤勉な態度を身につけさ せると、学力そのものが長期的に維持されるわ けではないけれど、その後の人生で犯罪を犯さ ず、きちんと仕事をしてそれなりの収入を得ら れ、貯蓄も持ち家も多いことがわかりました。 勤勉な態度を身につけたか否かで、人生が変 わってくることを示したのです。アンジェラー ダックワースはこの心理的資質を「グリッド ((いR)」と名づけています。  この結果をどう考えればよいのでしょう?  ベックマンの研究では、大学院レベルの児童 心理学を収めた先生が、幼稚園で子ども6人に 対して1人の少人数制で、読み書きや歌などさ まざまな学習を2年間も指導し、さらに家庭で の教育の質も上げようと、週に1回対象家庭に 通って1・5時間、親にも訓練を施すなど、相 当なコストをかけた高レベルの介入を行ってお り、これをどこまで一般的な事象といえるのか は判断が難しいところです。ベックマンの研究 は、そのように通常実現できないようなきめ細 やかな教育を長期にわたって施すことで、ただ 子ども自身のグリッドだけではない、長期的な 効果をもたらすような生育環境の変化、たとえ ば親の養育態度の変化や仲間関係の変化などが おこって、きちんとしたふるまいをしつづけら れる環境にさらしつづけられるようになり、本 来であれば一時的にすぎない環境の効果とそこ からの恩恵を絶え間なく受けるようにしたこと によって、長期的な効果を出しだのではないか と考えられます。このことを統制実験によって 証明したことの意義が大きいことはいうまでも ありません。  しかしながら、ダックワースやベックマンの 主張に救いを見いたされた方が少なくないであ ろうところ、まことに恐縮なのですが、双生児 法の研究からは、グリッドも自己制御能力も勤 勉性もほぼ同じ形質で、ほかの性格一般同様に、 その個人差は遺伝と非共有環境からなっている という結果が得られています。つまり、環境が 形質に与える影響はあくまでも一時的であり、 長期的な持続性は遺伝の影響の寄与が大きいと 考えられるのです。  この一見矛盾する結果をどう考えればいいで しょう。  ここで双生児法による行動遺伝学の結果は、 あくまでも集団中の性格の個人差を説明する要 因に関するもの、しかもその集団とはふつうの 集団です。中にはすばらしく良い環境や著しく 悪い環境もあるにはありますが、それは正規分 布の両端に位置する少数派で、大部分はふつう の範囲内におさまる人たちで構成されている集 団についての結果です。一方、ベックマンらの 研究では、特に良い環境群(実験群)と特に悪 い環境群(統制群。この実験はアメリカの低所 得者層の子どもが対象でした)を比較していま す。このように実験群が特別で劇的に大きな環 境条件の変化を与えるものであれば、統制群と の間に顕著なちがいが生じる可能性は否定でき ないでしょう。また実験群・統制群にそれぞれ あてられた子どもたちの間の個人差を考えれば、 そこに遺伝的差異が見いたされるかもしれませ ん。  それに個性的な遺伝的素質にぴったり合った 独特な先生との出会いが、それまでにない劇的 な変化を生む、いわば「ビリギャル」効果も、 その生起確率が低いというだけで、絶対にない とはいい切れません。これは行動遺伝学では 「遺伝と環境の交互作用」といいます。 英才教育に効果はあるか?  幼児の頃から、英語を学ばせる、スポーツを させる、プログラミングをさせる、そうした英 才教育が盛んになっていますが、これによって 子どもの才能を伸ばすことは可能なのでしょう か?  例えば、オリンピックに向けて、各種競技が 得意な小、中学生を選抜し特別なトレーニング を施すといったことが行われています。選抜さ れた子どもは、もともと人並み以上のパフォー マンスを示す才能のある子どもたちである上に、 選ばれたということでモテイベーションも上が りますから、当面のところ、どんどん能力が上 かつていくということは大いにありえるでしよ  ただ注意が必要なのは、小学生の場合、遺伝 的な資質はまだ発現途上にあり、成人したとき の遺伝的資質を必ずしも十分に予測しきれてい ない可能性があるということです。運動能力の 場合は、体格の遺伝的変化がまず影響すること はいうまでもありません。しかしそれだけでな く、認知的な要因もこの間に変化することが、 図13で示したIQへの遺伝的寄与の変化からう かがえます。本当に優れた選手になるのは、こ うした遺伝的条件が変化してもなお、その競技 に対して恵まれた資質を発現できている人です。 あるいは仮に遺伝的変化が必ずしも適応的でな い資質をもたらしてしまったとしても、それを 補うための訓練に成功できた人なのでしょう。 遺伝的条件は、一人ひとり異なりますから、与 えられた遺伝的条件をその競技に適応させるた めには、その選手にしか感知できないさまざま な問題を克服する必要があるはずです。  そのとき優れたコーチがいれば、その時点で の補うべき欠点を見つけてくれ、その克服やこ れまでの長所の伸長を手助けしてくれる可能性 があります。子どものころから活躍しているス ポーツ選手が、成長過程で往々にして直面する こうした問題は、そのようにして一つひとつ克 服され、さらなる高みへと羽ばたいていく、あ るいはその努力の末に敗れてゆく、その姿を私 たちは感動とともに味わっているのです。  同じことは、音楽、美術、囲碁や将棋、そし て、学業にもありうることです。「+で神童、 十五で才子、二十過ぎればただの人」は、図13 に示されるこの時期の知能にみられる遺伝的変 動、もう少し正確には、子どものころに現れな かった新しい遺伝的資質の発現、すなわち「遺 伝的革新」が起こることによって、ある程度説 明されるでしょう。ですから小学生くらいの時 点の能力でエリートコースへ子どもを振り分け るなどというのは、危険が大きいと思われます。  幼いときに知的英才教育のための特別な塾や 幼児教育に高額の投資をすることが、将来の高 い知的パフォーマンスを約束すると信じるとす れば、裏切られる可能性が高いといわざるを得 ません。そのとき子どもがその教室に進んで出 かけ、生き生きと楽しんでいるのなら、それも よいでしょう。しかし将来の知的能力ために、 早くから訓練しようとすることの効果は、先の ヘックマンの研究ですら、見いたされませんで した。ベックマンが示しだのは「地道」で「ま じめ」な生き方への効果です。それができずに 身を持ち崩す人が少なくないことへの福音でし た。特に子どもに好きでもないことを、これは 「やり抜く力」を育てるためだといって強制的 にさせることは、危険ですらあります。ちょう ど「かけっこ王国」の大人が、子どものころに かけっこ競争ばかりさせられて、大人になって からうんざりしてかけっこをしなくなってしま うようなことが起こりうるからです。  もし子どものころに、ある程度、好きなこと や得意なことが、親や周りの大人から見てはっ きり現れているのだとしたら、それは大事にし てあげる必要があるでしょう。それすらも、将 来、遺伝的革新によって変化する可能性はあり ます。しかし、いま、そのとき、夢中になれる ものならば(そしてそれが大人の目で見て明ら かに望ましくないものでない限りは)、そのこ とを中心に学習できる状況づくりをしてあげる ことの方が良いと思われます。  英才教育とは少し違いますが、アメリカのボ ストン発祥のサドベリー・バレー・スクールが あります。この学校に通う生徒は、下は4歳か ら、上は16、7歳。あらかじめ決められた授業 はなく、生徒は自分の好きなことを自由に学べ、 教師はそれをサポートする役割に徹しています。 好きなことが見つからない子がいたら、まわり の生徒でサポートするという仕組みです。  これは素晴らしい仕組みのように見えます。 のびのびと自発的に自分の好きなことを伸ばし ていく姿は理想的とすら思えますし、それに よって自分の才能を見出していく子どもたちが いるのは間違いありません。  ただ、注意していただきたいのは、こうした 英才教育によって見つけられる才能の多くは、 芸術やスポーツなど、ごく限られた個人プレイ による才能だということです。  私たちの社会は、子どものときに見出すこと のできる個人の傑出した才能だけで成り立って いるわけではありません。社会に出て他人と協 力しあい経験を積みながら、その中で出会った 一見目立だない細部の中に自分の遺伝的才能を 見出して、それをし続けることで何かをなしと げることの方が圧倒的に多いのです。「英才教 育で見出しやすい才能」にこだわって、一喜一 憂するのはナンセンスでしょう。 子どもの才能は、友達付き合いで 決まる?  心的形質の多くは遺伝と非共有環境によって 説明される。これが行動遺伝学によって得られ た知見です。  先述したように、共有環境や非共有環境の中 身は、単純にこれだと決めることはできません。 家族メンバーを似させる方向に働く環境が共有 環境であり、異ならせようとするのが非共有環 境です。家庭の外であっても、きょうだいで同 じ友人を持っているのであればそれが共有環境 として働くこともあるでしょう。ただ、家庭外 の方が環境の多様性は増しますから、友達関係 は非共有環境として働くケースが一般的です。  偶然できた友達との関係が、子どもの世界観 に大きな影響を与えることがあります。特に思 春期に入っだ子どもにとっては、親に認められ るより友達に認められる方が重要ですから、友 人関係から排除されないように振る舞うように なります。年齢が上がるにしたがって、家庭を 中心とした共有環境の影響は低下し、非共有環 境の影響が増していくことになります。  ジュデイスーリッチー(リスは、『子育ての 大誤解』(原題”The Nurture Assumption”)の中 で、非共有環境のなかで重要なのは仲間環境と 述べています。重要な友達に認められること、 彼らとともに社会関係を築けるようになること、 そこから大人になっても役に立つさまざまな社 会的役割能力を身に着けること。これは先住民 社会の子どもから現代社会に生きる子どもまで、 共通して、重要な環境であると考えられ、ハリ スの主張はそれなりにうなずけます。  ただ、この話を聞いて「うちの子は、内気で 外の友達をつくろうとしない。大丈夫だろう か」と心配される親もいるのではないでしょう か。  友人関係が子どもの成長に重要な役割を果た すとはいえ、非共有環境=仲間環境とまでいい 切るのは、単純化しすぎでしよう。友達は、必 ずしも人間とは限りません。本を読んだり、絵 を描くことに熱中しているのであれば、それも また子どもにとっての友達であり、非共有環境 となりうるからです。  では、親が「よい友達」を選ぶべきかどうか についてはどうでしようか?  「あの子は勉強しないから、付き合っちやダ メ」「あそこのうちの子と友達になってはいけ ません」ということは、子どもにとっていいこ となのでしょうか?  確かに、その子が明らかに評判の良くない札 付きの不良だとしたら、こういうのも仕方がな いでしょう。しかし一般論としてこのように子 どもに教えることの危険性は、「人間を能力や 家柄など、特定の属性によって選別し、排除し てもいい」という価値観を子どもが学習してし まうことです。さらにその価値観は、自分だけ は差別されない側にいると思い込む傲慢さ、あ るいは逆に潜在的に自分自身が、差別される側 に回りうるという恐怖心・猜疑心を学ぶことに なります。その意味で、「あの地域の子どもと 付き合ってばダメ」、「よその国から来たあの子 とは縁を切りなさい」と圧力をかけるのはいい ことではありません。  また、ものすごく状況を単純化し、頭も性格 もよさそうなグループと、そうでないグループ があった場合を考えてみます。普通に考えれば、 子どもも前者のグループを選ぶでしょうし、親 もそうでしょう。しかし、もし子どもが後者の グループを選ぶとしたらどうでしようか? 前 者のグループを選ぶよう、子どもに強制するべ きなのでしょうか?  ここで親が考えるべきは、子どもが後者のグ ループを選ぶ何らかの理由があるのではないか ということです。もしかしたら、前者とは話が 合わないけれど、後者では認められるというこ とがあるのかもしれません。グループの選別に、 子どもの遺伝的素養と環境の相互作用が現れて いるとも考えられます。  あるグループはlqが高いから子どもにはこ ちらと付き合わせよう、そう単純に考えてしま う前に、その子自身の特性と、その子がかか わっている文化や人間関係について、慎重に考 える必要があると思います。 犯罪者の子どもは犯罪者になる?  一口に犯罪といっても、暴力を伴う犯罪から、 詐欺などの知能犯罪まで、極めて多岐に渡りま す。犯罪者の精神的な形質も多様なわけですが、 IQが低く、自制心が弱くて衝動的な人間は確 率的に犯罪を起こしやすいことがわかっていま す。暴力的な犯罪の場合は、それに加えて体力 も必要になってくるでしょう。  犯罪に関係する心的形質も、他の心的形質と 同じくだいたい50%の遺伝率がありますが、そ れ以外は非共有環境によります。犯罪の傾向が そのまま子どもに伝わるという単純なものでは ありません。  ただ、まだ未成年のときの非行や、ドラッグ などの物質依存については、共有環境の影響が 大きいことがわかっています。それは未成年の 悪い行いが、それ自体「仲間関係」にとって意 義があること(タバコや飲酒、麻薬ですら、 カッコイイと思える時代があるものですから)、 そして依存性のある物質が目の前の手に入りや すいところにあるという現実が生み出した現象 であると考えられます。  また、犯罪傾向やうつ病については、遺伝と 環境の交互作用という現象があります。  つまり、何らかの素質を持っている人(例え ばIQが低い、衝動的である、さらにはセロト ニンやモノアミンオキシダーゼ酵素の遺伝子が 特定のタイプなど)が悪い環境(虐待やストレ スの多い環境に置かれるなど)にいる場合、環 境の影響を特に強く受けて、犯罪を犯したり、 うつ病になりやすくなるのです。精神疾患や発 達障害になりうる素質を持っている人でも、健 康で健全な環境であれば、その素質がそれほど 大きくは発現しません。また素質のない人は悪 い環境にあっても犯罪やうつ病の表現型を示し にくい。両者の出会いがそれを生み出すのです。 ですからもし遺伝的素因が疑われるような人に 対しては、ストレスの少ない環境を特に注意し て与えることが有効である、とはいえるでしよ あらゆる文化は格差を広げる方向 に働く  これまで明らかにしてきたように、行動遺伝 学の知見によって、人間のあらゆる形質に遺伝 が大きな影響を及ぼしていることがわかってき ました。  そうであるならば、教育の役割とはいったい 何なのでしょうか?  この章では、教育の役割を見直し、あるべき 教育の形を考えていきます。  ふつう、教育の役割は、知識のない人に知識 を、能力のない人に能力を身に着けさせること と考えられます。それはそれで間違いはないで しょう。文字を知らない人たちに文字を教え、 計算のできない人に計算能力を身に着けさせ、 宗教を、思想を知らない人に、それを説いて聞 かせる。するとそれを持だなかった人たちは、 それを同じように身につけ、成長してくれ る……。これを図にすれば、単純に図14のaや bのようなイメージになります。  しかし忘れられがちなのは、人々のばらつき、 個人差です。ふつうはこの上の図のように、み んなが同じように一斉に能力や知識を身に着け て、能力の個人差はもとの個人差を維持したま ま、平均が上がる(a)と考えます。あるいは ほとんどなくなる(b)と思うでしょう。  たしかに全体としての知識や能力は上がりま す。しかし同時に、教育は往々にして個人間の 格差を拡大させる方向に働くということです。 教育だけではありません。一般にあらゆる文化 的な仕組みは、それまで潜在的であった知識や 能力の個人差をあからさまにし、図14のCのよ うにそのばらつきを広げることに寄与している のです。  教育が一部の人にしか与えられないときは、 能力や知識の個人差は、その教育を受けたか受 けなかったかという環境の差で説明される割合 が大きいでしょう。しかし教育があまねく行き 届いたとしたら、そのときに顕在化するのが遺 伝的な差なのです。  小規模な家族や部族で活動していた狩猟採集 民の社会では、個人間の格差はそれほど大きな ものではなかったはずです。  当然のことながら、獲物を追い掛けられる体 力や、瞬時の判断力、生き延びるための方策を 覚えている記憶力など、個人の能力には差があ ります。飛び抜けて獲物を狩るのが上手な人も いれば、不器用でいつも獲物を逃がしてしまう 人もいる。獲物を捌くのが上手な人もいれば、 そうでない人もいる。けれど、小さなコミュニ ティの中ではお互いが顔見知りで、だいたいど んなことができるかもわかっており、各人が自 分の役割を担っていました。そうした社会の多 くは、いわゆる原始共産制を営んでいますので、 捕ったものはみんなで平等に分け合うことを常 としていました。獲物の捕り方や食べられる植 物といった知識は、大人と子どもの間の日常的 なコミュニケーションの中で、特に組織的にで も計画的にでもなく、自然に教育されていたで しょうが、それによって伝えられるのは身の回 りにあるモノと密接に関連したあたりまえの具 体的な知識ですし、文化内容に広いバリエー ションがあったわけではありません。  やがて、定住生活が始まり、国家が生まれる と、個人の認識能力を超えた数の人間同士が繋 がるようになります。イギリスの進化生物学者、 ロビンーダンバーは、安定した社会関係を結ぶ ことができる人間集団は平均150人程度だと 主張しましたが、それをはるかに超える人数が つながるようになってきたのです。  それでも近代までであれば、一般庶民は小さ なコミュニティの中で生きていました。生まれ た時からどんな仕事をするかはほぼ決まってい て、親の手伝いをしながら仕事の仕方や、コ ミュニテイ内で守らなければならないルールを 学んでいきました。  第2章でも述べたように、18世紀に産業革命 が起こり、それと歩調を合わせて近代国家が台 頭してきます。身の回りのモノを対象にしたわ かりやすい知識さえ学べばよかった時代から、 科学技術や高度な思想や複雑な社会制度のよう に目に見えない抽象的な知識を活用できる人材 が求められる時代になっていったのです。  世界的にそうした知的能力が必要とされ、教 育においても知的能力を増幅することに重点が 置かれるようになりました。  「教育する」というぷ汢畠气という英単語は、 ラテン語の「導き出す」”educatus”に由来する といわれています。底上げするというより、 元々備わっていた能力を引き出して、増幅する というイメージでしょうか。生まれつきの素養 がある人は教育によってぐんと伸びる、そのI 方、素養がほとんどない人はあまり伸びないと いう、残酷な事実を告げているともいえます。 ほとんどの人が、科学的に不当な 頑張りを強制されている  「能力」は、社会的に認知されて初めて能力と なります。知識社会において求められていたの が、一般知能として現在認知されている能力 たったわけです。しかも一般知能は、知能検査 によってIQという一次元の値として表現する ことができるようになりました。  学力は高い方がいいですか、低い方がいいで すか。収入は高い方がいいですか、低い方がい いですか。  このように二択で尋ねられたら、誰たってが 高い方がよいと答えるでしょう。収入や学力と いうわかりやすい指標が設けられたことで、こ の指標を上げることが自己目的化していきまし た。これは英検でもTOEFL、TOEICで も、いまはやりのご当地検定でも同じです。  人間が持っている能力は多種多様なのですが、 社会的に特定の能力がフォーカスされ、そこに 教育資源が投入されることで、遺伝的な差がよ り顕在化していくこととなったのです。  その結果、ほとんどの人間が不当な頑張りを 強制されることになりました。  IQは70%以上、学力は50〜60%くらいの遺 伝率があります。生まれた時点で配られた、子 ども自身にはどうすることもできない手札に よって、それだけの差が付いているわけです。 残りは環境ということになるわけですが、学力 の場合、さらに20〜30%程度、共有環境の影響 が見られます。そして、共有環境というのは家 族メンバーを似させるように働く環境のことで すから、大部分は家庭、特に親の提供する物質 的・人的資源によって構成されていると考えら れます。親が与える家庭環境も子どもはどうす ることはできません。  つまり、学力の70〜卯%は、子ども自身には どうしようもないところで決定されてしまって いるのです。  にもかかわらず、学校は子ども自身に向かっ て「頑張りなさい」というメッセージを発信し、 個人の力で何とかして学力を上げることが強い られているのです。  これは、科学的に見て、極めて不条理な状況 といえるのではないでしょうか? 求められる能力は、時代や状況に 応じて変化する  18世紀以降の知識社会において知能という能 力が求められてきたのは世界的に共通していま すが、時代や地域、状況によって求められる能 力は変化し続けています。  例えば、第二次世界大戦後の高度経済成長期 の日本は、学力に加えて、勤勉さのパーソナリ ティが求められ、それらの形質を持っていた人 が報われた社会だといえます。  あの頃の世界状況において、朝の定刻に職場 に行き、いやなことでも、上司に怒られながら も、責任感をもって真面目にやり遂げて成果を だそうと黙って勤勉に働くパーソナリティを 持った人たちが、組織のために一丸となって働 いたことは、日本全体にとって非常に有利に働 きました。私たちにとって、いわば当たり前の、 まさに「グリッド」な資質が、しかし世界の中 では必ずしも当たり前ではなかったのです。も ちろん、そんなときでもそれとは異なる資質の 人はいたわけですし、だからこそ植木等の扮す る「日本一の無責任男」のようなギャラが画面 の中で人気を博したのかもしれません。  ただ、状況は大きく変化しており、ただ勤勉 で「グリッド」で内向的なパーソナリティの日 本人は、現在の世界的なビジネスネットワーク の中に入り込めなくなっているように思われま す。それがひょっとしたら日本の成長の足かせ になっている可能性は大いにありそうです。  21世紀以降の世界で、最も大きな影響を与え ている文化は、やはり情報通信技術(いわゆる IT)、そしてそれに乗りやすい情報コンテン ツでしょう。  ダンパーが述べたように、人間は平均150 人程度の集団であればお互いにリアルに認識し 合うことができ、安定したコミュニティを築く ことができます。  しかし、ソーシャルメディアの登場によって、 誰でも世界中の数千人、いや数百万人とバー チャルにつながれるようになりました。生物と しての認知限界を超えたつながりに哂されてい るわけですから、それを不安に感じる人がいる のは当然といえます。そうなると属性の異なる よく知らない大だちと繋がるよりも、同質な大 だちとつるんだ方が居心地はよいですから、異 質な存在を排除しようとする動きも現れます。  その一方で、グローバルに拡大したつながり に適応し、能力を向上させる大たちも出てきま す。ツールを使ってネット上の情報を集めて論 理的に推論を行い、見たことのない相手を想像 し、数百万人の人々が好むようなコンテンツを 提供する。これは、20年前には認知されていな かった能力だといえます。  そして急速に進化している人工知能技術。コ ンピュータプログラムが囲碁の世界チャンピオ ンを負かすなど、人間ならではの知的能力とは 何かが改めて問い直されるようになってきてい ます。従来人間が行っていた作業が機械化され るのと同時に、人工知能によってまた新たな才 能を発現させる人も増えてくるはずです。  その意味で、行動遺伝学的にも、新しい遺伝 的資質が顕在化する時代なのかもしれません。 私たちはいま、人類史の中の新しい二つのBC とADの境目を生きています。爾き3 n町政(キリスト以前)とy呂oしoヨ回(神の 御年)は、2000年たったいま、汐き3 noヨ名耳(コンピュータ以前)とy呂o {}芭邑(デジタルの時代)、そして汐き「り n耳o∃osome(染色体以前)とAnno DNA(D NAの時代)の境目にいるというわけです。  難しい課題を解決するための能力は時代に よって変わってきます。例えば、検索サービス やソーシャルメディアが発達している状況では、 自身の演算能力や論理的推論能力よりも、サー ビスを使いこなして情報を調べたり、人に尋ね てまとめ上げる、といった能力の方が重宝され ることもあるでしょう。人工知能が一般化して きたら、うまく人工知能に学習させる能力が求 められるようになるかもしれません。さらに人 工知能が発達して、たいていの知的作業を人間 より上手にこなすようになったら、人間に求め られるのは愛想のよさとなることたってありえ ます。  いずれにせよ、文化的な仕組みによって人間 の遺伝的な差はさまざまな方向へと増幅してい くと考えられます。 子どもから大人への転換点は12歳  学力や知能は遺伝する、そして教育は遺伝的 な格差を拡大する方向に作用する。そうである ならば、教育とはどうあるべきなのでしょう か?  それについて語る前に、まずは人間がどのよ うに成長していくのか、その過程を見てみるこ とにしましよう。  私たち人間と類人猿であるチンパンジーの成 長過程は一見するとよく似ていますが、脳の発 達という観点からは大きな違いがあります。  京都大学霊長類研究所の研究(図15)により、 妊娠16週の時点でチンパンジー胎児の脳容積は ヒト胎児の約半分の大きさであることがわかり ました。ヒト胎児の脳容積は妊娠32週ころまで 急速に増加していきますが、チンパンジー胎児 の脳容積の増加は妊娠22週以降頭打ちになりま す。ヒトはその後、生まれてからも脳の大きさ を増やし続け、子ども期が終わる12歳くらいに なって、ようやく大人の大きさになります。  人間は新生児の段階で数十億個の脳細胞がで きあかつているわけですが、人間とチンパン ジーで生まれたての赤ん坊を比べてみると、チ ンパンジーの赤ん坊の方がはるかに運動能力に 優れています。チンパンジーは誕生直後から手 足を動かすことができ、母親のおなかにぶら下 がることもできるほどです。それに比べると、 人間の赤ん坊は文字通り頭でっかちな状態で生 まれ、一人では何もできません。運動能力につ いていえば、チンパンジーの新生児の段階に達 するまでに、人間は1年もかかってしまうので す。  人間の赤ん坊はその後3年ほどかけ、脳細胞 の配線を急速に発達させていきます。やがて6 歳くらいまでに脳の配線は80〜卯%ができあが り、だいたい10〜13歳くらいで大人とほぼ同等 の脳ができあがります。  子どもの成長は驚くほど早い。そういわれた らみなさんは納得するでしょうが、身体の発達 を他の動物と比べてみると人間の子どもの成長 はそれほど早くはありません。むしろ一人前の 大人になるまでの時間は、あらゆる動物の中で 最も遅いのが人間なのです。  人間の子どもの成長はチンパンジーに比べて ゆっくりしていますが、男なら12〜14歳頃、女 なら少し早い10〜14歳頃に第二次性徴期、いわ ゆる思春期スパートを迎えます。この時期に、 身体は一回り大きく成長し、男は男らしく、女 は女らしく変わっていきます。このような成長 のパターンを取る動物は人間だけのようです。 なぜ生まれてから、十数年も経っていきなり身 体が大きくなり、性機能も発達するのか?  どうやら人間は、第二次性徴期までは脳の発 達に孑孑ルギーを振り向け、脳がある程度完成 したところで身体の方に孑孑ルギーを向けるら しいのです。  現代日本では20歳から「成人」ということに なっていますが、歴史的に見てこれはかなり異 例でしょう。日本でもかつては数え年で12〜14 歳になると男子は元服の儀式を行い、それ以降 は大人として扱われるようになりました。戦場 での初陣や丁稚奉公を始めるのもだいたいこの くらいの時期です。文化によって年齢の幅はあ り通過儀礼を10歳くらいで行う民族もいますが。 8歳で成人扱いすることはありません。12歳く らいを境に、子どもから大人へと移り変わるの が、人間という生物の特徴です。  教育の意味も、この時期を境にがらりと変わ ることになります。12、13歳くらいまでの教育 の目的は、子どもを大人にすること。それ以降 の教育は、大人として社会にどう適応させるか が目的となります。それが小学校教育と中学校 教育の大きなちがいなのです。  親以外に子どもの面倒を見る大人がいるとい うのも、他の動物には見られない人間ならでは の特徴でしょう。年を取って生殖能力をなくし たら、たいていの動物はやがて死んでしまいま す。チンパンジーですらそうなのですが、人間 は生殖能力をなくしてからも長く生き続けます。 これは近代医療によって寿命が延びたからでは ありません。  人間の脳は他の動物に比べて格段に大きいた め、胎内で成長しきってから生まれることがで きません。自分では何もできない弱々しい存在 として生まれ、他者の助けを借りて成長してい くというやり方こそ、人間の適応戦略だったと いえるでしょう。  生殖能力を失ってからも生き続けて、下の世 代の面倒を見ることが、適応進化だったと考え られます。子どもの面倒を見るおじいさん、お ばあさんがいることで、親は働くことができま すし、もっと多くの子どもを産んで遺伝子を残 せるわけです。また、子ども期が12歳までと長 いため、先に生まれた子どもが後で生まれた子 どもの面倒を見ることもできます。  12歳までの教育は、親が養育者として行う仕 事を外部に発注していると見なせます。親がい ないときは、おじいさんおばあさん、地域の大 人たち、そして保育園や幼稚園や小学校の先生 が子どもの養育を肩代わりしてきたのです。そ ういう意味では、囗本の都市部で起こっている 待機児童問題にしても、退職した高齢者の活用 がカギになってきそうです。また、保育士や幼 稚園・小学校の教員の待遇ももっと改善すべき でしょう。こういう職業の人たちが子どもたち の面倒を見てくれているからこそ、親は仕事を して稼ぐことができているのですから。 その入らしさが発現するタイミン グ  12歳頃を境に、子どもは大人へと変わってい きます。  身体は急成長して、男らしく女らしくなり、 生殖活動も行える。大脳についても、(Iド ウェアのレベルではほぼ完成形になる。  明確なエビデンスがあるわけではなく、行動 遺伝学の研究を通じての推測になってしまうの ですが、「その入らしさ」はどうやらこの時期 に出始めているようなのです。  それ以前の子ども期では、まだその人が持っ ている遺伝的な形質や素養といったものは具体 的な形を取っていません。いわば空の雲のよう なものであり、ふわふわと不定型で曖昧です。  思春期の始まる12歳頃から20歳くらいまでの 間に、雲は次第に何らかの形を取り始めます。 第4章の図13で紹介した知能の遺伝率の増加が それを示唆しています。形とはいっても、必ず しもわかりやすい形になっているとは限りませ ん。不定形の雲を見て、何となくクジラのよう。 ソフトクリームに見える、帽子そっくり……な どと思うのと同じように、音楽が得意かも、人 を引っ張る力がありそう、お笑い向きじゃ ね冫・・・・・・・など、大それぞれにその大らしさが見 え隠れしてくる。それが才能の芽生えかもしれ ません。でもまだ文化的に洗練されていません。 それでもその形は人の一生を通じて持続するよ うに思われます。  この時期に知識を得る、誰かと知り合う、何 かと出会う、そうした環境の作用を受けると、 遺伝的な形質は文化的に増幅され、才能として 発現することになるのでしょう。  教育とは白紙に絵をかきこむことではなく、 もともと内在する資質をあぶりださせ、適切な 方向付けをすることなのだという主張です。人 間は一人では生きていくことはできず、社会的 な関係が不可欠です。社会的な関係の中で一番 の基本は職業(この中には専業主婦/主夫など も含みます)であり、社会の中に居場所をつく るというのは自分が生き続けていけるニッチを 職業のなかに見つけることと同義といえます。  形を取り始めた雲が、どういう風に職業へと つなかつていくのか。12歳以降の子ども、いや すでに大人期に大っだ人間を教育する立場の大 は、「この人間はこれからもっと変わっていく」 と考えるのではなく、「この人間にはどういう 形質が出始めているのか」という視点で見るこ とが求められます。  ただ、いうのは簡単ですが、「こうすれば人 の持っている才能がわかる」などというやり方 があるのであれば苦労はありません。  英才教育の項目で述べたように、芸術やス ポーツなど個人プレイが求められる分野で傑出 した才能を見出すのはそれほど難しくはありま せんし、逆に、極端に何かの能力が劣っていた り、犯罪に走る傾向がある大も比較的容易に見 つけることができます。  難しいのは、傑出しているわけでもなければ、 極端に劣っているわけでもないふつうの人の 持っている素質や性向といったものをどうやっ て見出すかでしょう。  一見、役に立だなそうなことが、自分の身を 助けることにつながることもあります。少し前 であったら、テレビゲームがいくらうまくても 何の役にも立だないと考えられていました。し かし、今では国際的な大会で活躍するプロゲー マーや、ゲーム実況を配信して人気を愽する YouTuberのような人も現れています。  私の大学の学生の一人に、格闘系のテレビ ゲームの大変上手な学生がいました。東日本大 震災が起こった時、彼は自宅で津波に巻き込ま れました。家は流され、窓から見える景色は、 漂流物がぐるぐると回っているとんでもない状 況でしたが、そのときなぜか彼はとても冷静に なりました。頭の中に周りの状況がゲームのよ うに立体的に思い浮かび、どちらの方向にどう やって逃げればいいのかがわかったといいます。 ゲームをずっとやり続けていたことによって空 間把握能力が研ぎ澄まされており、その極限状 況でみごとに生かされたということなのかもし れません。  もっともっとささいなこと、例えばついこだ わってしまうもの、繰り返し繰り返しそれを見 たり訪れたくなる事柄や風景、なぜか絶対人に 譲りたくない価値観、そのときには才能など呼 べるたいそうなものとはとても思えない、見過 ごしてしまうような癖であっても、それがすで に才能の素材となりえます。それがまったくな い人はいません。ないと思っている人は、そう 思い込まされているか、その人にとってあまり に当たり前すぎて、その特異性に気づいていな いだけです。その意味で、才能の発見とは、ま だ発現していないものを発現させることよりも、 すでに発現しているものの中に文化的・社会的 価値を見出していくことだと思うのです。 過去の栄光に溺れるな、いまの不 幸を嘆くな  12歳頃に形を取り始めた「その入らしさ」は、 教育を始めとした環境の影響を受けて増幅され、 能力として発現していく。どのように能力が伸 びていくかは、その人が本来持っていた遺伝的 な素養によるところが大きいI。  先の章でも取り上げましたが、双生児の研究 によって、学校や先生が違っても学力や知能は たいした影響を受けないということがわかって います。となると、子どもを「よい学校」に行 かせることに意味はないのか、すべては生まれ 持った素質で決定されてしまうのか、子どもを 持っている親は悩むところだと思います。  ものすごく教え方のうまい先生と、その先生 と相性のよい子どもが出会い、子どもの中に隠 れていた遺伝的才能がぐんと引き出される…… そういうビリギャルのようなケースが皆無とま ではいいませんが、滅多に起こることではあり ません。  子どもがある先生に出会い、ぜひともこの人 に習いたいと思った、この学校の校風や教育方 針にぞっこんなど、個人的な事情で進学先を決 めるのはよいでしょう。けれど、偏差値が高い とか世間的な評判がいいとか、そうした理由で 学校を選んでも大した違いはありません。  そんなはかな、と思うでしょう。じやあ、な んで一生懸命勉強して偏差値の高い大学に入ろ うとするのか、と。しかし教育経済学の双生児 研究はこのことをものの見事に説明してくれて います。一卵性双生児でもちがう大学へ行く きょうだいがいます。中にはレベルの違う大学 に行くことになってしまったケースもあります。 一卵性双生児は遺伝要因も共有環境も同一です から、その二人の差は、いわば同一人物が環境 の違いだけでどのくらい異なる結果をもたらす のかという、絶対にすることのできない統制実 験が、自然に成り立っているのです。  それによると差がありませんでした。もちろ ん通常は偏差値の高い大学の卒業生のほうが生 涯賃金は高くなります。しかし偏差値の高い大 学と低い大学に別れ別れに通うことになったI 卵性双生児で収入を比較すると、その間に差は なかった。おかしいじやないかと思われるで しょう。からくりはこうです。収入の差は、 通った大学のレベルによるのではなく、もとも との能力によるものなのです。このような双生 児は、ここでいう非共有環境(そこには偶然も 含まれます)によって、たまたま行く大学のレ ベルがちかってしまった。しかし遺伝的素質や 共有環境は同じ。それが7〜9割の能力を規定 しています。大学ごとの一般的な能力水準は、 偏差値の高い大学のほうが高いので、大学間で 比較すると、偏差値による収入の格差が生まれ ます。しかしそれはそもそも学生の能力水準が もともと異なるからであり、大学が異なるレベ ルの教育をしたからではないのです。  このことから、学歴や大学のレベルは、実質 的にどんな教育を受けたかの指標ではなく、ど の程度の能力を持っているかの指標(シグナ ル)にすぎないというシグナリング理論が成り 立つわけです。  これが教育本来の機能として健全ではないこ とは事実です。  経験を積んだ教え方のうまい先生と、新米の 下手くそな先生では、生徒が授業に向かうモ ティベーションはちがってきます。また、先生 によっては授業崩壊を引き起こしたり、イデオ ロギーに凝り固まって間違ったことを生徒に教 えるケースもあり得るでしょう。そのときクラ ス間で成績が大きく異なることもよくあります。  先生のちがいによって生徒の学力差や適応差 は出てくるのですが、その環境の効果の持続性 はそれほど決定的ではないのです。ある人が何 らかの環境に置かれれば、遺伝的な形質はその 環境の影響を受けて発現します。しかし、その 人が別の環境に移れば、新しい環境の影響が一 番大きくなり、以前の環境の影響はほとんど残 りません。同じ形質について時系列的に何時点 か双生児のデータをとって分析すると、ほとん どの場合、非共有環境はその時点のときにしか 効いておらず、別の時点では同じ形質でも別の 種類の非共有環境がかかわっていることが明ら かになります。環境の影響で一番大きいのは、 「いま、ここで」なのです。  仮に、一卵性双生児の片方を、やる気のない 先生しかいない学校へ入れ、もう片方は教え方 のうまい先生だらけの学校へ入れたとしましょ う。幼少時から成人するまで、ずっと同じ環境 にいなければいけないというのであれば、学習 する内容も変わってきますから、遺伝的な能力 の発現に差は出てくるでしょうが、いまの教育 環境はよくも悪くも流動的で、学年や学校が変 わるごとに環境も大きく変化します。先生の出 来不出来によって、生徒が大変な迷惑を一時的 に被ることはあるかもしれませんが、小中学校 の9年間、高校まで含めれば12年もの間、ひど い環境に居続けなければならないということは めったにないでしょう。  なにか、だまされたような気がするって? それはあなたの思い出のせいです。自分自身の 記憶に残る思い出は、そのころの嫌な気持ち、 楽しかった感情とともに、心に残ります。思い 出はその人にとってかけがえのない大事なもの。 いい思い出も悪い思い出も、それこそがその人 の人生そのものになります。その意味で同じ家 庭で育った一卵性双生児ですら、異なる人格に なります。しかし、あなたがいまのあなたの居 場所で発揮する能力の内容やレベルとはまた別 の問題なのです。  だから、私は学生たちにも常々、「過去の栄 光に溺れるな、いまの不幸を嘆くな」といい聞 かせています。 スクールカーストは実社会の縮図 ではない  環境の影響は一時的なものとはいいましたが、 過酷なスクールカーストが存在して陰湿ないじ めが横行しているとか、完全に学級崩壊してい るような状況だとわかっているのであれば、そ こに子どもを行かせるべきではないのは当然で す。  スクールカーストは社会の縮図という人もい ますが、学校が現実の社会から切り離された極 めて特殊な環境だということを理解すべきで しょう。  中学校や高校における生徒の年齢の幅は、わ ずか3年。実社会からは隔離されており、社会 的責任を伴う生業にかかわっているわけではな い。その社会の構成員のほとんどは未成年の生 徒で、そこにいる大人は教師しかいない……。 実社会は異年齢集団と異なる役割の人々のネッ トワークから成り立っています。  確かに実社会においても、陰湿なパワ(ラや セク(ラのような形で、理不尽な力の上下関係 の中で苦しんでいる人はいます。そのために不 幸にして自殺に追い込まれることすらあります。 さらに戦争のような極限状態で強制収容所やホ ロコーストのような事態になれば、こうした状 況に陥る可能性は増します。しかし、これは法 的、政治的に対処すべき事態であり、教材にす べきことではありません。  特殊な状況をバックグラウンドにして起こっ ている、スクールカーストやいじめを体験させ たところで、実社会では何の役にも立ちません。 強制収容所やホロコーストの悲劇を教材として 学習することに意味はあるでしょう。またその ような状況に陥ったとき、どのように対処する か、それに気づいたときどのように助けてあげ るか、その対処法を教育の対象とすることも有 意義です。しかし、その経験すらも教育だとい うのは欺瞞だと思います。  ですから、もし子どもがそういう不合理な環 境にいることがわかったのであれば、転校させ るなどして、そこから逃がすのは親のつとめで す。行動遺伝学を持ち出すまでもない、あまり にも当たり前のことではありますが。 日本の学校はがんばつている  学校や先生によって学力はそれほど変わらな いと述べましたが、それは中学校や高校の先生 が役に立っていないということではありません。 むしろ事実はその反対です。  難関大学に何人生徒を入学させたかは世間的 な関心が高い話題ではありますが、現場の先生 はそういう単純な尺度だけで生徒を見ているわ けではないことを強調しておきましよう。  囗本の学校における活動は、諸外国に比べる と多様です。授業以外にも部活動や文化祭、体 育祭、修学旅行等のイベントもあり、いろいろ な才能を発揮できる場が用意されています。と りわけ日本の学校が用意するたくさんの種類の 部活動は、学校がさまざまな分野の文化的活動 に、生徒の特別な境遇や経済事情にかかわりな く、基本的に誰でもかかわらせることのできる 素晴らしい環境を提供してくれている、世界に 誇るべき教育文化といえるでしょう。学校の先 生は、ただ教科の知識を教えるだけでなく、教 育を通じて社会に目を開かせ、他人とのつなが りを考えさせ、健康や安全についての心構えを 教えます(近年社会問題となっている子どもの 貧困問題に対して、貧しくても部活動がいろい ろな文化に自由に平等にアクセスできる環境を 提供してくれているか、貧しいと学校の中でも いろいろな文化へのアクセス権を奪われている かは、きちんと見極めねばいけません)。  子どもの能力に遺伝的個人差があるのと同じ ように、教える能力にも遺伝的個人差があり、 先生という職業についているからといって、み んなが遺伝的に優秀な先生でないことは当然で しよう。中には教え方が絶望的に下手だったり、 人間性に欠け先生として不適格という人もいる にはいるでしょう。これはいかなる職業につい てもいえることです。同時にこれもいかなる職 業についてもいえることですが、ダメな先生が 多数派とは考えられません。むしろ、囗本の先 生の質は、かなり良いところでそろっていると いえます。  それは2つの証拠から推測されます。  まずその証拠として、PISA調査の結果が 挙げられます。PISAというのは、国際的に 実施されている15歳児を対象とした学習到達度 調査のこと。2012年の結果を見ると、数学 的リテラシーは7位、読解力は4位、科学的リ テラシーも4位と、いずれの分野でも世界で トップレベルの成績です。教育の現場がきちん としていて、できない生徒もそれなりにケアで きているからこそ、これだけの成績が出ている のでしょう。  もう1つの証拠が、皮肉なことですが、学業 成績への遺伝率の高さ、そして非共有環境の小 ささです。学年にもよりますが、日本人の学業 成績の遺伝率は欧米と比べてやや高く、非共有 環境は少な目です。これは先にも述べたように、 教育環境が学校や先生のちがいはあっても、あ る程度均質でそろっていることの間接的証拠に なります。  学校によっては深刻なスクールカーストやい じめといった問題が存在するのは確かであり、 これらへの対処は考えなければなりません。け れどいまの学校生活が、子どもを奴隷状態にお いて、偏差値だけを基準にひたすら学力だけを 上げさせる過酷な環境であるとか、囗本の学校 の先生の質は低いとはいえないでしょう。  ただ、児童期から思春期の長い時期、生物学 的にはおとなになるための準備期間と大人に なってからの社会適応期間を、学校という単一 の機関の中だけで完結させているいまの学校教 育制度は、長い人類史から見るときわめて特異 であることは認識すべきでしょう。狩猟採集社 会から近代学校制度が始まってしばらく経つま で(中学までの義務教育が終わると多くの子ど もが社会に出ていた時代まで)の、人類史の99 %以上を占める長さの中の子どもの成育条件を、 現代社会と比較したとき、明らかに異なる生物 学的に不自然な特質が三点あることを指摘しな いわけにはいきません。  第一に、ヒト特有の長い子ども期に特徴的な 異年齢集団が、学年制によって崩壊したこと。 第二に、生物学的に成人と同じ条件に達した思 春期の人たちが、本来直面する大人社会への適 応という課題が、社会の不透明化のために、成 立しにくくなっているということ、そして第三 にヒト特有の長い老年期にいる人たちが子ども との間で成立させていた養育と教育の機会が奪 われていること、この三点です。  「考える力」を持つていないのは 誰か?  社会で求められる能力が多様化していること は、教育関係者も理解していますが、それを教 育の現場に落とし込もうすると途端におかしな 提言をすることになってしまいます。  その最たる例が、「自ら考える力を養う」で しょう。問題を見つけ、自分で考えて問題を解 決する……。そんな曖昧で抽象的な能力に勝手 な名前を付けてそれを向上させようなど、これ 自体が「自ら考える力」のなさの露呈です。 いったいこの世の中のどこに、「自ら考える力」 などという抽象的な能力を「学習」した人がい るのでしょう。それを人から教わった天がいる のでしょう。「自ら考える力」は学校で訓練し ないと身につかないものだと、ほんとうに信じ ているのでしょうか。政府の役人や学者に促さ れて、「自ら考える力」を学校教育で教えられ る、教えねばならないと、もし真面目に信じて それに取り組もうとしている先生がいたとした ら、それこそ教育という柔軟な発想を求められ る仕事に対して、その能力を持だない天たちが 受けもたされていることの不幸を表しています。  そもそも現場の「自ら考える」ことのできる 先生たちは、「自ら考える力」だとか「アク テイブラーニング」などといわれずとも、いま ある教材を使って、子どもたちに考えさせよう としてきました。また子ども自身が、つねに必 要に応じて「自ら考えて」生きています。もし 「自ら考えて」いなさそうに見えるとしたら、 その方がその状況では適応的だから、あるいは 別のやり方で適応した方がよいと子ども自身が 「自ら考え」ているからです。  いま注目を集めているアクテイブラーニング というのは、生徒を能動的に授業に参加させて (「能動的」に「させる」という表現自体が自己 矛盾ですが)、グループで議論しあったり、共 同で作業するといった学習方法を指します。ア クテイブラーニングが授業のバリエーションの 1つとしてあるのはよいでしょうが、それはか りを強調して一律に実施すると、かえって学習 の多様性が損なわれてしまう可能性があります。 例えば、一人で本を読むことは受動的な学習に 見えますが、自己と対話しながら知識を吸収し ていくのは重要な活動ですし、これによって自 分の才能を開花させていく生徒も確実にいるわ けです。何かが「流行る」ときは、その流行に よって光の当たらないものにこそ、注意を払い、 光を当てる必要があります。 小さな教育改革と大きな教育改革  では、教育のあり方はまったく変える必要が ないのかといわれれば、そうではありません。  先ほど述べたように、生物学的に考えて、今 日の教育状況には不自然と思われることがいく つかあります。また教育の最終的なアウトプツ 卜が、一次元の学力と学歴としてしか社会的に 認知されていない状況はやはり改革が必要で しょう。  教育改革には2つの道があると私は考えてい ます。  1つは、いまの教育制度の大枠はそのままに して運用を変える、小さな教育改革。  もう1つは、働き方も含めた大きな教育改革 です。  「無理のない」勉強をする  私たちが生きているこの社会、文化は、膨大 な知識の積み重ねで支えられており、そこで生 きるためには知識を学ぶことが欠かせません。  囗本の学校で学習する教科、そこで使われる 教科書などの教材は実によくできています。科 学、数学、歴史、社会、言語、思想、芸術、運 動など、人類が蓄積してきた多様で代表的な文 化を、上手に要約しています。ですから高校ま での、いや中学までのすべての学習内容が本当 に自分に身についていれば、世界がなぜこのよ うになっているのか、不透明たった社会の仕組 みに洞察を与えてくれる手がかりになり、世界 のどこにいっても通じるといっても過言ではな いでしょう。文部科学省をよいしょするわけで はありませんが、これらを支える学習指導要領 の志の高さには感服の匸言です。これ自体、多 くの識者の知恵の結晶です(もちろん、ヶチを つけ始めれば、これまたいくらでもヶチはつけ られますが、その前にこのような教育制度その ものの意義は認めなければなりません)。  しかし問題は、中学や高校を卒業するまでに、 あれだけの内容をきちんと身につけられる人が ほとんどいないということです。  いったい学生時代、学校の授業を完璧にマス ターしたと胸を張れる人がどのくらいいるとい うのでしょうか? これはその目で見ると実に 奇妙で不気味なことです。ほとんどだれにもで きないことを、あたかもできるのが当たり前の ように扱われている。  大学の教師になって、初めて入試の採点をし たときのショックはいまでも覚えています。合 格ラインは、ほとんど50点かそれ以下なのです。 なんだたった半分できればいいのか。それすら できない人がこんなにいるのか。ましてや完璧 な人など、ほとんどだれもいない、それが現実 だったのだ、と。  このとき、「ならば誰もが100点をとれる ような教育に」というかつてのゆとり教育の時 代にいわれたスローガンが頭をよぎります。し かし行動遺伝学的に、そんなことはあり得ませ ん。能力にはもともと遺伝的な個人差があるの ですから。  私自身、大学受験のために日本史と世界史を 勉強したのですが、勉強した内容は恐ろしいほ どに何も残っていません。これは私だけの話で はないでしょう。もし、学校で教えている内容 を誰もが完璧に身につけられるのなら、みんな 英語はペラペラでしょうし、微積分を使った課 題も難なくこなすはずです。  多岐にわたる受験科目を難なくこなして東大 や京大に入る人もいますが、多くの人は授業に 関して多かれ少なかれ敗北感を感じているので はないでしょうか。あまりにも授業についてい けなくて、学校そのものがイヤになり、卒業し てからは、もう勉強そのものがうんざりと感じ ている人も少なくありません。まさに「かけつ こ王国」のようです。  ちょつと話はずれますが、ここ10年ほど、私 は近所のスポーツクラブに通っています。初め てそのスポーツクラブに行った時、私は少なか らぬショックを受けました。ストレッチや筋力 トレーニングの説明をしているインストラク ターが、「気持ちのいいところで、止めてくだ さい」といったのです。  学校では、頑張って勉強しろ、ベストを尽く せといわれます。それは社会に出てからも同じ です。仕事でも最高のパフォーマンスを出すこ とが求められます。  「気持ちのいいところで止めてください」とい うインストラクターの言葉を聞いて、私は「あ、 これでいいんだ」と思いました。  その後もスポーツクラブは続けていますが、 私は別にプロのアスリートになろうとか、オリ ンピックに出ようなどとは考えていません。も う少し痩せたいと思いながら適度に筋肉に負荷 をかけ、気持ちよく汗をかきながら、なぜ痩せ ないんだろうと感じているだけです。  学校での勉強がそうであってはいけないので しょうか?  先生は生徒のレベルに合わせてある程度調整 してはいるでしょうが、基本的には教科書の内 容をすべてできるようになることを要求します。 そして、できるようになった者から順にいい大 学に入れるという仕組みです。  けれど、誰もが三角関数や微積分を使って、 高度な問題を解かなければいけないわけではあ りません。「微積分や三角関数というのは社会 の中でこんな風に使われているのか、なるほ ど」とわかったような気がするというだけで、 十分だという人もいるはずです。それでも、モ ノの動きや構造を理解するときに、それを知ら ないよりも深い理解ができるようになります。  歴史についても、みんなが年号を丸暗記して、 起こった出来事をすべて理解しようとしなくて もいいでしょう。関ヶ原で徳川家康に敗れた石 田三成の志に共感したり、明治の民権運動でこ こまで民衆の意識が高まったのかというように 興味を感じた方が、歴史そのものが嫌いになる よりよほど有意義なはずです。  教科書の内容をすいすい理解できて、勉強が 苦ではない人は、どんどん勉強していけばよい でしょう。もちろん、そういう勉強ができる人 と、何となくわかった気になった人では、学業 成績に差は付きます。でも、スポーツクラブで 100s以上のバーベルを持ち上げる人もいれ ば、軽い運動で健康を保っている人がいるのと 同じように、いろんな形での知識との接し方が あることを認めた方がいい。誰もがオリンピッ ク選手を目指さなくてもいいのです。むしろ重 要なのは、それぞれの生活の中で、何かをずっ と学び続けていられることです。  「本物の知識」は専門家にしか教 えられない  そもそも、中学校や高校の先生が教えている のは、往々にして「本物の知識」ではありませ ん。  先に、人間はD一歳頃を境に、子どもから大人 へと変わっていくと述べました。12歳頃までの 教育は子どもを大人にすることが目的ですが、 それ以降の教育は社会にどう適応させるかが目 的となります。  現代社会は高度な知識の集積によってできて いるのですから、その知識を伝えられるのは、 本来なら専門家だけのはずでしょう。にもかか わらず、不思議なことに中学教師、高校教師と いう職業が存在し、専門家でもない彼らが生徒 に知識を伝えようとしています。  今世の中で起こっていることを歴史の中に位 置づけて考えて生徒に伝える歴史家だとか、数 学に人生を捧げた数学者だとか、世界中の人と 英語で渡り合ってきたビジネスマンだとか、そ もそも論でいうなら、そういう「本物の知識」 を体現している人しか、知識は教えられるはず がないなのです。  しかし国民のすべてを専門家が教えられるは ずはありません。また専門家が教えることが上 手であるとも限りません。かくして教育者とい う職業が生まれました。そして教える人によっ てレベルや内容に差があってはまずいというこ とで、教えるという行為を規格化し、現在の教 育制度がつくられています。  それでも、12歳以降の「大人」に対して教え るべきは社会とつなかった本物の勉強であるべ きです。実際スポーツや芸術の分野で一流を目 指す人は、専門家から教わります。ところが公 教育のなかでふつうそれはあり得ません。その 結果、学校で教えているのは偽物とは言わない までも、あくまでも代替物でしかなくなってい るのです。 学校は「売春宿」である  そのように考えを進めていくと、学校がなに をしているのかが見えてきました。これは言葉 にするのもはばかれる表現ですが、あえて言い ましよう。  「学校教育とは売春宿である」  これは性教育を充実させろといった類の話で はありませんから、誤解なきよう。  人間には生きる上での三大欲求があると言わ れます。食欲、性欲はたいてい入っていますが、 3番目は睡眠欲だったり、金銭欲だったり、権 力欲だったりと、人によってまちまちのようで す。私は、3つ目の欲ば「知識欲」だと考えて います。  知識といっても、学校でする「お勉強」のこ とばかりではありません。捕まえたポケモンが どんな性質を持っているのか、野球でボールを どうやったらもっと速く投げられるのか。知り たいという欲求はすべて立派な知識欲です。  食べ物やセックスが不足すれば食欲や性欲が むらむらと沸き上かつてきますが、同じように 何かを知りたくて仕方がないという欲もむらむ ら湧いてくるものです。ふと湧いた疑問を誰か に尋ねだり、本やネットで調べたり。頻度や強 度、内容は人によって違いますが、誰にでも知 識欲は備わっています。  知識欲が性欲と似ていることに、最初に気づ いたのはプラトンでした。  プラトンの対話箍の1つ『饗宴』の中では、 エロスについて議論されています。美しい完全 なるイデアを肉体が求めてセックスするのと同 じように、真・善・美という徳を得るために人 間の魂の中で生殖をする。それが、つまり哲学 なんです。そして教育も魂の生殖として描かれ ます。  ピタゴラスの定理しかり、相対性理論しかり、 農作物の栽培法しかり、人権思想しかり、最初 にそれらの知識を生み出した人は、間違いなく 知に対する愛を持っていました。何かを面白い と感じ、もっと知りたいというエロス。その知 によって理想を実現したいというエロス。その エロスによって、人間の文明は成り立っている のです。学校ではそのエロスで生み出された知 識を生徒に伝え、生徒のエロスに火をつけよう とするわけです。しかし誰もがエロスを持つよ うになれるわけではありません。  もう一方の「エロス」を考えてみてください。 無理矢理、風俗店やホストクラブに連れて行か れて、そこそこ気持ちのいいことを味わったと しても、そこで本当の恋人が見つかるわけでは ないでしょう。いや、たまには本当の出会いも 起こるかもしれません。でも、たいていはそう いうところでの愛は擬似的で、本当の恋人は、 自分自身が本当に生きる世界のどこかで出会い、 愛情を育むものではないでしょうか。  学校で感じるのも、知識に対する擬似的なエ ロスです。そこで多少なりとも気持ちのよさを 味わうことで、本当の愛を求めに旅立つIば あいもある。しかし本当の愛か見つかるのは、 多くの場合、その人自身が生きる場です。とこ ろが知識に関しては、私たちの社会は、初めか らすべての人を「売春宿」に閉じ込めようとし ています。  授業に対するモテイベーションを調査した研 究があります(図16)。この調査によると、小 さいころにあった難しい課題への挑戦心とか好 奇心、一人で成し遂げてやろうという気持ちが、 学年が進むにつれてどんどん下かつてゆき、テ ストのために勉強しようという気持ちが高まつ ていく様子がわかります。  売春宿で出会った相手ととりあえずつきあい 始めたものの、本当の恋には至らずに別れてし まう……。そういう悲劇が学校中で起こってい ることがよくわかります。  この比喩を偽悪的だと思う人は少なくないで しょう。特に真面目な学校の先生であれば、自 分の仕事を侮辱されたと思っても不思議ではあ りません。確かに学校をあえて偽悪化し、デ フォルメしています。もしこの比喩が不適切で あるならば、それは学校にはしばしばホンモノ がいるということでしょう。江戸時代の花魁が、 ただ性的な魅力だけでなく、芸技と教養を最高 のレベルにまで高め、男が本気で自分のものに したいほどの本物の女性であったように、学校 の先生の中には、教師としての存在そのものが、 生徒にとって本当に魅力的な人もいるというこ とです。  「本物」に会わせることの重要性  ならば、本当のエロスを見つけるには、どう すればよいのでしょうか?  結局のところ、生徒に「本物の知識を学ばせ る」、「本物に会わせる」ということに尽きるの でしょう。  テストでよい点を取る、いい学校に入るため に勉強する、生徒がそう考えた途端、勉強は二 セモノになってしまいます。  自分の中にある「好き」や「得意」を活かし て、社会で活躍している大人は本物です。そう いう形で先生になっていれば、それは本物であ るといえるでしょう。しかし本物の大人がいる のは、主に実社会です。それが「プロ」です。 そういう大人になるためには、どうすればいい のか、どんな知識が必要になってくるのか。そ れを知ることが必要なのではないか。  プロの現場を見るために学校をサボつても、 いいではないか。怠けるのではなく、学びたい ことがある生徒なら、そういうサボりを許容す る緩さが教育環境にあってもよいと私は思いま す。実際、昔はそれを許す緩さが学校にも教師 にもありました。しかし最近はお役所が厳しく、 真面目にやらないと叱られるようになってきて います。学校や先生が許してくれないなら(ま あ公然と許しばしないでしょうが)、自分の責 任でプロに会いに行けばいい。私白身は大学で、 学生が世の中で魅力的だと思う人のところに 行って、その人の人生の「聞き書き」をすると いう授業を、専門の行動遺伝学や教育心理学と はまったく別に、行っています。学生は、とも すればメディアでも知られる有名人に会いに行 こうとします。もちろんそれはそれで貴重な経 験です。しかし本当にしてほしいのは、もっと 身近にいる、もっと普通の人が放つ魅力に気づ き、それが何かを知ることです。  結果の出ないところで、嫌々努力をするより も、気持ちのいいと感じることをやった方がよ ほど能力が発現する可能性は高いはずです。好 きなことをひたすらやっていては、世間一般で いうよい学校には入れないかもしれません。け れど先にも紹介したように、収入も含めて年を 重ねるごとに遺伝の影響が増していくことを考 えると、自分なりの能力を磨いていった方が有 効な戦術だといえるのではないでしょうか。身 近な普通の人の魅力の中に、そういう能力が潜 んでいるはずだと思うのです。  教育それ自体でクリェイテイビテイをつくり 出すことはできません。しかし、生徒が学んだ 知識を活かせる場があれば、それは本物の勉強 へとつながり、クリェイテイビテイを引き出す 可能性があります。  ここまで述べてきたのが、私の考える小さな 教育改革です。改革というよりも、今現実にあ る教育制度の中で、ちょっと考え方を変えるだ けで実現できること、あるいはすでに実現され ていることの価値を再認識することです。  では大きな教育改革とはどんなことでしょう か。 社会を「キッザニア化」せよI 社会の中を泳ぎ回って、自分の適性を 探す  自分が遺伝的に持っている素質を活かせる場 所を探す。  とても美しい言葉ではありますが、そんな場 所が簡単に見つからないのは誰しもわかってい ることでしょう。環境との出会いは、ランダム であり、学校やキャリア教育プログラムでシス テマティックに用意できるものではありません。 結局のところ、実際の社会の中でさまざまな出 会いを繰り返し、自分で見つけるしかない。そ のために、社会の中で自分の「好き」や「得 意」を活かして働いている人と、子どもを触れ 合わせることが重要だと先の章では述べました。  「社会的に成功」や「自己実現」という言葉を 聞くと、私たちはどうしても集団内のトップを イメージしてしまいがちです。野球だったらイ チロー、ミュージシャンなら誰それ、ビジネス マンなら……。そういう一握りのトップこそが 勝者であり、それ以外は敗者である、そういう 思い込みが素質の発現を妨げます。  すべてのレストランがミシュランや食ベログ の星の数で評価されるわけでもありません。あ なたの街のお気に入りのレストランで働いてい る人々を思い浮かべてみてください。量と価格 で高い満足度を提供していたり、近所の人たち が過ごしやすいことを売りにしている店もあり ます。競合店の登場など状況変化によって潰れ てしまう店もあるでしょうが、たいていの店は 独自の工夫を打ち出し、従業員を雇い、日々の 営業を続けています。小さな食堂の店主は、そ れなりの味のセンスや、何気ない心のこもっだ 接客、従業員のマネジメントといった能力を、 何かしらうまく活かしていると思いませんか。  有名人ではなくても、自分の「好き」や「得 意」や「こだわり」を仕事の中で発揮し、他人 にささやかな幸福を与えながら、ちゃんとお金 を稼いで生きている。こういう当たり前のこと を、子どもの頃からきちんと理解していれば、 より幸福度を感じやすくなるのではないでしょ うか。  そのために向かうべき方向として、「社会の キッザニア化」を私は夢見ています。先の章で は、学校教育の一環として社会とつながる小さ な教育改革を挙げましたが、それをもっと社会 全体に拡張していく大きな教育改革です。  職業体験テーマパークで成功しているキッザ ニアでは、子どもたちは面白そうだと思った職 業を次から次へと自由に渡り歩けるようになっ ていますが、これを実際の社会において実現す るわけです。キッザニアは、本物の企業が提供 するそれぞれの仕事のエッセンスを、その意義 や仕事の手順のたいへんさまできちんと説明し たうえで、子どもに実体験させてくれます。 キャリア教育の一環でここを利用する学校も少 なくないようですが、子ども自身にもとても人 気があり、リピーターも少なくないそうです。  これを単なるアミューズメントのためのイベ ントに終わらせるのではなく、社会そのものが、 そのリアリティを子どもに見せる取り組みに発 展させることはできないだろうか。それによっ て、人類史の99%がそうであったように、現代 では不透明となってしまった社会の仕組みを、 子どもや、すべての人々に対して可視化するこ とはできないだろうかというアイデアです。  学校教育では、平成10年になるころからキャ リア教育の必要性が認識されるようになり、平 成13年度から学習指導要領に職業体験を取り入 れました。近年、多くの中学で3日から5日程 度の職業体験学習、高校ではインターンシップ 制度、そして社会人派遣講師の取り組みがなさ れています。またさまざまな企業や自治体で、 主に小学生を対象にした「子ども参観囗」に積 極的に取り組んでいるところが出てきています。 親が自分の子どもに自分の働きぶりを見せるそ の取り組みは、それまでの工場見学以上に、子 どもが社会の仕組みの一端に触れながらそれを 理解し、親もまた自分の仕事への誇りを感じる きっかけになっているようです。  ただ多くは、短期間のイベントどまりのよう です。またそのための特別なメニューを用意し ているのが普通で、しかも職域もいまの社会の きわめて多様な職業形態と比してあまりに隕ら れています。やはりよそいきの、ショーウィン ドウの中のイベントなのです。ですから、文科 省や学校、そしてさまざまな企業の思いや努力 に比して、期待されたほどの効果が挙げられて いないのが実情のようです。実際に学生に聞い ても、それは学校のカリキュラムのなかで、 とってつけたように「10年後の私」「私の夢」 「なりたい職業」「将来のキャリアプラン」を描 かされ、介護体験や工場労働、農作業など、い くつかのお決まりの職業体験のメニューをこな して、ひと夏の思い出に終わってしまう。実際、 キャリア教育を体験し、いま仕事についている 若者への調査でも、中学や高校のときの職業教 育が役立ったと答えている人は2割から3割し かいません。  それはそうでしょう。本来、長い経験と学習 の末に習得される不可視な知識や技能で支えら れているこの社会を、1日からせいぜい数日の、 可視的な体験だけで理解し、自分の人生とかか わらせることなど無理に決まっています。特に 中学生では、自分白身の遺伝的資質がようやく 形になり始めた、まだ不定形な雲の段階、また 一方で職業形態は今日極めて流動的で、現在あ る職業が10年後に同じようにある保証がまった くなく、自らも将来、非正規雇用やフリーター (これらの言葉自体が10年後にあるのかどう か…)になるかもと予想している若者が多い時 代です。そして何よりも、キャリア教育があく までも学校教育のカリキュラムの中に位置づけ られたままです。  とはいえキャリア教育の方向性は決して間 違ってはいないと思います。これが雇用保険の 無駄遣いと批判され、ぼやぼやポシャつてし まった『私のしごと館』のようにならないよう、 学校教育の枠を取り外して、社会全体で取り組 むべき課題だと思います。特に中学校を卒業し てから、脳が完成し、性的成熟を迎え、生物学 的には一人前の大人になった人々に、流動的で 多様な、そして世界のすべてとつなかつている 本物の社会を可視化する仕組みをどうつくれば よいのか。  そのために、社会全体が、いつでも、あらゆ る世代の人たちに対して、よそいきではないあ りのままの姿を、その不可視な知識や技能の部 分まで自由に経験させ、才能の芽生えた子ども には実際にかかわらせられるようにすること。 そのとき社会的責任を担わせながらも、ある程 度の未熟さや失敗を許容し、その未熟さや失敗 から次の学習目標に撓めるようにすること。そ して特定の企業・職域の知識・技能の習得に限 定されることなく、社会と人とのつながりまで 可視化すること。それが社会のキッザニア化で す。  遅くも高校生の年齢になったら、「これだ!」 とひらめいた仕事にインターンとして参加し、 何らかの手応えが掴めるまで、あるいは思った ような手ごたえが得られないことを身をもって 知らされるまで、仕事をしてみる。それを社会 的に許容する制度や文化を醸成していくべきで しょう。  高校の授業もまともに受けていないで使い物 になるのかと思われるかもしれませんが、いま でも高校の授業を完全にマスターしている人な どほとんどいません。実際、社会人になってか ら本当に稼げるようになるまでは、数年はかか るといわれています。  また一方で、高校生が本気になって何かに取 り組んだときのレベルの高さには驚くべきもの があり、大人顔負けどころか、完全にプロとし て通用する域に達していることすらあります。 芸能・芸術やスポーツなどの世界には、昔から 「天才少年・少女」がいましたが、最近ではI T技術を活用して起業している子どもも出てき ています。そのような才能は、多くは小学生の ころからなにか光っていた場合が多いようです。  なぜこうした能力に「天才」が生まれやすい かといえば、こうした領域は初めからその社会 の本物の姿に接し、不可視な知識や技能への道 が開かれているから、そして個人で到達できる 領域だったからにほかなりません(先に紹介し たサドベリー・バレー・スクールでそのような 領域に関心を持つ子が多いのもそのためでしょ う)。ならば、その仕組みを社会のあらゆる職 種で実現させることができないか。少なくとも。 子ども期から青年期にかけて育つ才能を子ども 扱いし、学校教育でテストのためのテスト、入 試に受かるための学習に費やされているいまの 仕組みは、人類史上の大いなる不条理、能力の 浪費としか思えません。  ある程度の年齢になったら、一人前になって 自分の食い扶持を自分で稼げるようになっても らわないと困ります。近代以前はそれが12歳前 後であり、それは社会的な条件からではなく、 生物学的な仕組みがそうなっているからでした。 いまでも、才能に気づいたのなら、高校や大学 などに行かないでもいつでも仕事を始められる、 そして必要が生じたら仕事も移れる、一方、高 校・大学で学ぶ知識も含めて必要な知識を必要 なときに学べる仕組み(これについては、通信 制教育課程や放送大学、最近ではオンライン大 学講座のM00Cなど、さまざまな取り組みが すでに実現されていますが)は、どんな年齢の 人間も利用できるようにしておくべきでしょう。  このことは、やりたいこと、好きなことが見 つかるまで仕事を先延ばしすることを奨励する ものではありません。また、いやなことでもゴ ツゴツやることの重要性を否定するものでもあ りません。才能は環境にさらされなければ顕在 化しませんから、一定の年齢になったら、いか なる仕事でも、それが嫌いで自分に合わない仕 事であったとしても、まずは社会に出ること。 社会のキッザニア化では、他方でそうした認識 が並行して成り立っていなければなりません。  ただ、社会のキッザニア化を実現するために は、具体的にどのような法整備や仕組みが必要 になるのかを詳細に述べるのは、私の守備範囲 を大きく超えてしまいます。  雇用についていえば、解雇規制の撤廃や正社 員・非正規雇用の別をなくすことであるとか、 仕事を乗り換えやすくするために北欧型の高福 祉高負担が必要ということになるかもしれませ ん。いずれにせよ、日本社会全体を揺るがす改 革になるでしょう。  ですが、「食べるためには仕方なく働かなけ ればならない」といった悲観論ではなく、「自 分の素質を社会の中で活用する」というポジ ティブな方向性を打ち出すことは、将来に大き な不安を抱えるいまの日本人が最も求めている ことかもしれません。 本当に使える能力検定テストと まつ・ 1  社会のキッザニア化を実現するために必要な 要素は極めて多岐に渡りますが、教育分野にお いて比較的進めやすい制度改革はいくつか考え られます。それは、「学年制から能力制への転 換」と「能力検定テストの創設」です。  現在の日本では小学校から高校まで、基本的 にすべて学年制で運営されていますが、能力に は大きな遺伝的差異があるのですから、これほ どナンセンスな制度もないといっていいほどで す。それがまかり通っているのは、行動遺伝学 の知見を許容できていないからでしょう。教育 の目的の1つは知識を習得させることにあるは ずですが、残念ながら我が国の学校教育制度は、 そのような習得主義に立っていません。だから 入学や卒業が形式的、儀式的なものになり、卒 業できれば、あるいは入学できればそれで目的 は達したことになっています。しかしひとたび 習得主義に立てば、学年制というのはまったく 不適なのです。同じ年齢であっても、運動能力 や知的能力に大きな個人差があるのはみなさん もご存じでしょう。まったく能力の違う人たち に、同じ内容を教えたところで知識が定着する はずがありません。  例えば、これが自動車学校だったら、どうで しよう? 知識や技能を学んでいない生徒を、 形式的に進級、卒業させたら交通事故の件数は 問違いなく跳ね上がります。1つひとつの知識 をちゃんと覚えたか、技能が身についているか を生徒ごとに確かめ、できていない生徒がいた らできるまで指導する。知識を教えるとはそう いうことです。  いまの学校で教えている知識は、自動車の運 転と同じくらい、いやそれよりも重要ではない のでしょうか?  現代社会をつくり上げている重要な知識を取 得することもなく、不要な劣等感だけを抱かさ れて自動的に卒業させられてしまうI。こう したナンセンスな学年制はやめて、個々人の能 力、進度に応じた能力制への転換が求められま す。  能力制といっても、学力順に1番、2番、3 番……と順位を付けて、クラスを分けるのでは これまでと同じです。  そうではなく、この社会をつくっているさま ざまな領域の知識の習得度を科学的に測定でき るきちんとした測定法を開発し、それに関して、 年齢にかかわりなく、どの程度の水準までその 人が習得しているかを教育の程度とみなす、一 種の検定テストに根差した教育制度をつくって みてはどうでしようか。  この検定テストの形式は、英語で行われてい るTOEFLやTOEICをイメージするとわ かりやすいと思います。これらETS (Educational Testing Service)が開発し提供して いる英語リテラシーのテストは、項目反応理論 という心理測定の高度な統計学的手法をもとに、 個々のテスト項目が図る潜在的な能力のレベル を推定し、項目の組み合わせが変わっても一定 の信頼できる得点を出すことができます。です から同じ時期に受けた異なるTOEFLの得点 はほとんど変わりませんし、TOEFLとTO EICの得点換算もかなり正確です。つまり英 語の理解能力と運用能力という目に見えない抽 象的な「力」を、客観的・具体的に測定してい るのです。このようなテストの開発には、たく さんの適切な問題の作成、膨大なデータの収集 とその統計的な分析研究に相当な労力がつぎ込 まれています。もちろんそれですら、TOEF LやTOEICの点数が実社会における英語の 運用能力を完全に表しているわけではありませ ん。しかしどの程度、英語を使えるかどうかの 現実的な指標にはなります。  これは世界的にある程度権威あるものですの で、どの国で測られてもTOEFLの点数は世 界中で通用します。そのため大学などの入学資 格の情報として、入学試験と同等、あるいはそ れ以上に使われています。  これと同じようなテストを、この社会をつく り上げている多様な知識の理解と運用について つくり上げるのです。その種類は、学校で教わ る教科、たとえば物理、化学、生物、医学など 科学の諸分野や数学、歴史、経済、法律、文学、 芸術、情報、さらには営業、経理、接客マナー や調理、安全管理、メディアリテラシー、行政 など職能域も、検定テストになりえるでしょう。  ここで大事なことはテストの生態学的妥当性 と十全性です。  生態学的妥当性とは、そのテストのために学 習することは、ただテストのためのテスト勉強 ではなく、そのテストのために学んだ知識や技 能が、生の社会や人生のなかで本当に使われる ようなテストであることです。あるいはその領 域の知識をきちんと使って生きている人から見 て、そのテストはその知識の理解や運用がまさ にリアリティがあるようなテストだということ です。  また十全性とは、そのテストで満点を取れれ ば、その文化領域について、みんなが共有すべ き必要にしてとりあえず人並みに十分な知識が 獲得されていることを保証できているというこ とです。「人並みに」の十全性という所がミソ です。それはその知識領域の最高ランクを狙う コンテストではなく、あくまでも検定テストで す。知識そのものは生きている限り学び続け、 洗練させ、それによってローカルな(そして場 合によってはグローバルな)それぞれの社会の 問題を解決できるように利用されねばなりませ ん。その使われ方は個人によって異なり、また わざわざテストで測られなくとも、実際にその 知識を用いて人々に貢献できているという点で、 あるいは自分自身の人生を豊かにできていると いう点で、もはやきちんと使われているといえ るでしょう。テストはそこにたどり着くまでの 必要条件を満たしていることの確認でよいので す。それが十全性とここで呼ぶ基準です。  検定テストは、年齢を問わず、何回でも受け られるようにしなければなりません。その時の 得点は、あくまでもその時の実質的な水準の指 標です。それを学習の深度の目安、メルクマー ルにすればよい。テストの結果を見て、自分の 得意分野を知ることができますし、これからど んな分野の知識を身につければよいかも把握す ることができるわけです。大事なことはテスト の点を取ること自体でなく、学習し、その学習 で得た知識を実際の人生の中で使うことの方で あることを見失ってはなりません。  ここまで述べてきたように、遺伝子は親から ランダムに受け継がれ、遺伝的な素質も経験で 発現するかはランダムです。10代で学校の勉強 が全般的にできるようになる人もいれば、仕事 をして始めて知識欲に目覚める人だっています。 本人が必要を感じたときに、いつでも教育機関 に戻って学習できる仕組みが整っていれば、才 能を伸ばせる可能性は高まるでしよう。  なお検定テストはオフィシャルで権威のある ものでなければなりません。これもTOEFL やTOEICと同じです。これをつくったET Sは国家機構ではありませんが、国際的に信用 されている権威のあるテストです。誤解される ことがしばしばありますが、教育によって学ば れる知識はオフィシャルなもの、つまり共同体 の成員で責任を持って共有されるものでなけれ ばなりません。決してプライベートなもので あってはならないのです。プライベートでいい なら、自分で自己流に好きに学べばよい。  ヒト以外のあらゆる動物は、知識をプライ ベートに学んでおり、教育を必要としません。 ヒトという動物が、言語をはじめとしたわざわ ざ他人に知識を教える能力を進化的に獲得した のは、教えられる知識が個人にとどまらない公 的性格を持ったものだからに他なりません。だ からこそ、権威をもって他者に教える責任があ るのです。  教育における「権威」が、上からの押しつけ だとか、学習者の自発性を損ねるなどの理由で 忌み嫌われ、教育の世界から排除されねばなら ないもののように扱われるようになって久しい ですが、それが知識の公共性という性質を忘れ、 知識を教えることへの公的責任の放棄を意味す ることにどうして気づかないのでしょう。その ときの権威の主体は、国家でも共同体でもあり ません。そういう抽象的なエージェントではな く、生徒にとっての教師、子どもにとっての親、 教わる人に対する教える人が権威の主体です。 そのときの親、教師役はすでにオフィシャルな 存在なのです。  学年制から能力制への転換を行うには、かな りの年数がかかると予想されますが、さまざま な分野の共通テストをつくることはそれほど困 難ではありません。人間の持っている能力は単 純に匸兀化できるものばかりではありませんが、 できるものについては積極的に定量化を行って いくべきです。  小学校から中学校あるいは高校までの9年間、 12年間かけて授業を受けても、たいていの人は それがほぼ何の血肉にもなっていません。それ ならば、一生の間に自分に適したタイミングで、 学べるようにすればいい。「それでいい」とい う空気が世間に広まってくれば、受験や就職に おける学歴偏重の状況をずいぶん改善できるの ではないでしょうか。 生存戦略を考えるI「好き」や 「得意」がない人はどうすれはいいの か?  教育改革について私の持論を述べましたが、 それでも納得できない人は多いでしょう。 「どの科目の勉強も理解できなくて、当然成績 も悪い。好きなことや得意なこともない。社会 がキッザニア化していないのに、そんな人間は どうすればいいんだ?」と。  成績が悪いというのは、一種の「シグナル」 だと私は考えています。  あらゆる生命は、経済的合理性にしたがい、 自分の持っている有限のリソース(資源)を配 分して生き延びようとするものです。自分の体 力や感覚もリソースですし、自分か住む土地の 地理や気候、あるいはかけられる時間やお金も リソースといえます。これらはすべて「有限」 です。遺伝的才能も有限なのです。  人間がこの社会で生きていくのも同じこと。 自分の持つ有限のリソースをできるだけうまく 使い、周りの環境に適応して生きているのです。  ところが学校の教育では、こうした生物とし ての前提が無視されリソースが無限大に見積ら れています。その人によって遺伝的な素質も違 えば、時間やお金の制約があるにもかかわらず、 中学校や高校の卒業までにカリキュラムを無理 やり一通り学ばせて一人前に仕立て上げようと するのです。  ロールプレイングゲームで例えてみると、こ れがいかに無茶なことかがよくわかります。 ゲームを始める際のキャラクターメイキングで、 主人公には体力や魔力などの能力値がランダム で割り当てられるとします。経験を積めばそれ なりに各能力は向上するにしても、時間やお金 が限られているのであれば、すべての能力値を 最大にすることはできません。体力や戦闘力が 高いなら戦士にするとか、魔力が強いなら魔法 使いにするとか、そういうリソースの最適配分 を考えるはずでしょう。  つまり、何をどうしても成績が悪いというシ グナルが出ているのであれば、あなたにはその 分野の才能がない、あるいは適切な環境と出 会っていないために発現していない。だから時 間やお金といったリソースを別のことに振り向 けて生存を図るべきではないでしょうか。  いまの教育の現場には、「勉強をしなくても いい」というメッセージを出す仕組みがなく、 教育学にも勉強しなくてよいことを正当化する 理論がありません。それがあらゆる「良いこ と」を教育に取り込み、『千と千尋の神隠し』 の「カオナシ」のように教育を肥大化させてい る元凶でしょう。教育の名のもとにすべては 「良いこと」とされますから、その肥大化をも はや誰も止めようがないわけです。しかし素質 が「ない」ことに無理にリソースをつぎ込むよ り、別のことにリソースをつぎ込んだ方がよほ ど合理的です。さもないと落ちこぼれという烙 印を押して劣等感を植え付けるだけになってし まいます。素質がないことに気づくこともまた 素質の発見なのです。 顔の見える規模のコミュニティで、 仕事を探す  「好き」や「得意」の見つけ方を定式化するこ となどできませんが、人間も動物である以上、 環境に適応して生き延びるために能力を発現さ せます。  では、どういう環境が好ましいと考えられる のか?  いまの社会において、自分の置かれた環境に 完全に満足している人はそれほど多くないで しょう。理由の1つは、日本全体あるいはグ ローバルにおける自分の立ち位置が可視化され るようになってきたからかもしれません。  大学の偏差値はいくつ、世界ランキングで何 位、勤めている会社の年収ランキングは何位、 付き合っている彼氏彼女はテレビに出ているア イドルと比べてどれくらいイケているのか、 ソーシャルメディアのフォロワーは何人いるの か……。  安定した関係を築けるというダンパー数 (100人から230人程度)をはるかに超え た人々と、私たちは日々つながり、その中での 自分の立ち位置を確かめては優越感を感じたり、 劣等感を感じたりしています。全員がチャンピ オンになれるわけがないし、なる必要もないの に、世界ランキングを見て一喜一憂しています。 そしてどのランキングにも自分は入れないと思 わされてしまう。しかし人間はもともともっと ローカルなコミュニティで自分を活かして生き るようにできているのです。  それは大企業のような大きな組織ではなく、 数十人から100人程度、それこそダンバー数 に収まるコミュニティです。町工場だったり、 チェーン店ではない中堅の飲食店、活気のある 商店街にある何かの店、農村や漁村といったと ころが該当するかもしれせん。要するに、どう いう人間かお互いが把握しており、リアルな仕 事の存在する、そこそこの規模の(なおかつ経 済的にもうまく回っている)コミュニティとい うことです。考えてみれば、何千人の大企業で あってすら、実際に仕事をする仲間はその程度 の数ではないでしょうか。  そういう場において、周りの人と協力しなが らできる仕事を、多少嫌でも我慢して何年かす る。古くさく聞こえるかもしれませんが、「石 の上にも3年」というのは、意味のある格言で はあります。そこでいろいろな仕事をまかされ、 いろいろな人とのつながりができる中で、徐々 に手ごたえが感じられるようになる。それが才 能です。  堀江貴文氏は下積みや修行を重んじる考え方 は間違っているという趣旨の発言をして、議論 を呼びました(http://weblog.horiemon.com/100blog/ 日J咨)。「寿司アカデミーで数ケ月でノウ「ウ を学べばいい」、「センスがある人は独学で学べ る」という彼の意見はもっともではあります。 私か検定テスト制度をもっと普及させ、それに 沿った教育システムを考えるのも、それに近い イメージはあります。、それで数力月で技術を 身につける器用さや「センス」といった才能が ある人に、人並みレベルの知識や技能まで「技 は盗め」と下積みや修行を儀式的に行わせる必 要はないわけです。実際に寿司職人の修行を数 力月やってみて才能を自分の中に見出したので あれば、さっさと海外に出るなりして店を立ち 上げるのもよいでしょう。  しかしそれは仕事のはじまりにすぎません。 寿司職人に求められているのは、必ずしも寿司 を握るスキルだけではないようです。有名な寿 司屋の板前さんがおっしやっていたのは、「寿 司を握ることができるようになってからがむず かしい、寿司を握りながらお客さんと気の利い た会話をしたり、店をトータルでプロデュース したり、複数の職人をマネジメントするといっ たことも、きわめて重要な仕事だ」ということ でした。寿司店に隕らず、仕事はたくさんの要 素から構成されていますから、突出した才能を 持だない人が他と比較して優位性のあるレベル にまで技能を高めるためには、やはり数年単位 の時間が必要になってくると思われます。 絶対優位と比較優位  さて、私か「そこそこの規模の」コミュニ ティといったことには理由があります。キー ワードとなるのは、「絶対優位」と「比較優位」。 どちらも経済学の用語です。  これはもともと19世紀初頭の経済学者リカー ドの概念ですが、ノーベル経済学賞を受賞した 経済学者のポールーサミュエルソンは、弁護士 と秘書の比喩を使ってこれらの概念を次のよう に説明しました。  有能な弁護士Aは、弁護士の仕事に加えて、 タイプを打つのも得意です。彼の秘書Bは、弁 護士の仕事はできず、タイプもAに劣ります。 AはBに対していずれのスキルについても絶対 優位にあるわけですが、タイプも得意だからと いってAがタイプをすると、高額な弁護士報酬 を逃すことになります。Aが弁護士の仕事に専 念し、Bがタイプすることで、両者は最も利益 を上げられます。この場合、Bのタイプのスキ ルは比較優位にあるといえます。  最適な仕事を選ぶ基準とは、「得意」か「好 き」のどちらかです(もちろん好きで得意なこ とができれば一番よいのはいうまでもありませ んが)。  「得意」とは絶対優位のこと。誰よりもよくで きること、日本一、世界一の水準に達している ようなことです。もしもそれが自分にとっては つまらないことでも、誰と比較しても優位な能 力を持っているのであれば、それで世の中に貢 献することができます。しかしそんなものを 持っている人はごくごく一部です。  絶対優位にある「得意」なことがないとき、 あなたの中で「好き」なことを選ぶ。あなたが これまで生きてきた経験から、あなたのしてき たこと、できること、しなければならないこと のうち、あなたの中で一番「好き」だと感じて いること、それが比較優位です。それを絶対的 な基準でもっとうまくこなす人はいるでしょう。 しかしそんなことにはお構いなく、比較優位の 能力としてやはり貢献することができます。  あなたにとっての比較優位は「ローカルな絶 対優位」になりえます。  全国レベルの絶対優位ではないにしても、職 場や家庭などローカルなコミュニティにおいて、 一番の才能というものは結構あるものです。職 場の中で一番几帳面に計算できる、部屋の整理 整頓が上手、人を和ませる、宴会を盛り上げる のがうまい等々。  グローバル化し世界中すべてがつなかった社 会、巨大資本に物をいわせた大企業が世界に君 臨する現代社会でも、そこで働く人たちが実際 にかかわっているのは「そこそこの規模のコ ミュニティ」です。それがあれば、人はその中 でローカルな絶対優位の能力を発現させ、自信 を持って仕事をしていくことができます。  私たちの社会は、社会の隅々にまで張り巡ら されたローカルな力のネットワークによって支 えられており、そのなかで一人ひとりがローカ ルな優位性を発揮している……。この見方は世 の中を理想化しすぎていると思われるかもしれ ません。しかしこれは理想化どころか、むしろ ヒトという種のもつ生物学的な意味での実態だ と思います。このことがきちんと評価されない と感じた人々が、歴史に革命をもたらしました。 ローマ法制定しかり、市民革命しかり、一揆や 打ちこわししかり、民権運動しかり。アメリカ 大統領選でのトランプ当選もそうなのかもしれ ません。  さらに私か考えているのは「潜在優位」です。 いまはまだ実現された絶対優位でも比較優位で もなく、ひょっとしたら取り組んでもいないけ れど、将来できそうだ、いつかやってみたい、 これをやらずに死にたくない、その実現のため に、いまちょっとばかりの労力をかける気持ち になれそうな、そういう能力や知識や技能のあ りかのことです。この世の無限ともいうべき仕 事の中で、そんな特定のものが心に芽生えただ けでも、これは才能の兆候としての優位性があ る。そうは思っても、どうせできそうもないや、 ほかにすごい人がすでにたくさんいる、自分な んてその程度なんだ……、と思って「平凡」な 自分に甘んじる前に、それこそが自分の人生を 自分のものにする入口だと考えられないでしょ うか。 遺伝を受け入れた社会−新しい 技術によって、社会の求める才能は多 様化する  急速に進む技術の進歩が社会の求める才能を 多様化する、そう私は期待しています。  確かに現代の知識社会において、一般知能の 高い人間が高い社会階層へ進みやすいのは確か でしようし、その傾向が今後も進むとは思いま すが、一方で従来にはなかった仕事も次々と現 れてきています。  例えば、YouTubeなどの動画サービスを 使って、個人でコンテンツを配信することは20 年前には考えられませんでした。  マッチングサイトによって、才能を活かせる 機会も拡大しています。例えば、KitchHikeと いう、料理をつくる人と食べる人をマッチング するサービスがあります。プロ並みとはいかな くても料理や人をもてなすのが得意な人が、レ ストラン経営というリスクを取らなくてもサー ビスを提供できるわけです。中には障害を持っ た人でも活躍している人がいます。自閉症特有 の、1つのことへのこだわりをうまく生かした 仕事をしている人もいます。その障害の比較優 位をローカルな絶対優位、場合によっては本当 の絶対優位にまで増幅することも可能なのです。  従来であれば、特殊なマネタイズ能力を備え た人が会社経営者になり、そうした能力を持だ なければ会社に雇われるというのが一般的でし た。何らかの才能があっても、それだけで食べ ていくことは難しかったのです。現在は、マッ チングサイトやアフィリエイトなど、マネタイ ズの手段が増えてきたことにより、会社経営の ような能力を持っていない人でも自分の才能を 活かす機会が増えてきています。  それは一人だけでできるものではありません。 その人の比較優位をローカルな絶対優位にする ためには、そのローカルな大たちの理解と協力、 そのためのシステムづくりが必要不可欠です。  話題の人工知能も、社会に大きな影響を与え る可能性があるでしょう。人工知能によって、 論理的な推論能力や外国語の翻訳能力の生身の 人間への需要はいまよりも低くなるかもしれま せんが、どういうデータを人工知能に与えるの かよいかを考えたり、悩める人工知能の相談に 乗るといった仕事が生まれてくることもありえ ます。  第2章で私は、「どんな能力も社会的に認知 されて初めて『能力』として定義される」と述 べました。  知能や運動能力など、人の備える能力のほと んどは50%程度の遺伝率があり、いずれも成績 を並べれば正規分布を描くことがわかっていま す。これまでは社会的に認知されていなかった 能力も、テストをつくって測定すればやはり正 規分布となるでしょう。  どんな能力についても遺伝による差が生じる ことは避けられませんが、評価する基準軸が多 様化すれば人々の幸福度は向上すると考えられ るでしょう。 制度による保障は必要  イノベイティブな技術が登場することで、多 様な才能が社会で活用されるようになるとは思 いますが、その一方、職業の賞味期間が短くな り、不安定性が増していることにも注意する必 要があります。  30年前であれば、家電のエンジニアとして働 き始めた人は、そのまま定年退職するまで働く ことができたでしょう。けれど現在の家電を開 発するには電気回路だけでなく、半導体やソフ トウェア、ネットワークの知識も必要ですし、 家電という事業分野が丸ごと消えてしまうこと も珍しくありません。  マネタイズの手段が多様化しているとはいっ ても、安定してずっと稼いでいける職業はそれ ほど多くはないのかもしれません。  もう1つ、遺伝にまつわる見逃してはならな い非常に本質的な問題があります。  能力が発現するにはそれが社会的に認知され ることが必要ですが、いまの世の中で、社会的 に認められる能力を備えていない、そういう人 も一定数必ず存在します。「世界に一つだけの 花」という歌がありますが、すべての人が花に なれるとは隕らないのです。「みんなが同じよ うに輝けますよ」というのは欺瞞でしょう。社 会における評価基準が多様化してこれまでにな かった才能が見出されるようになったとしても 不遇な大は常にいる、それは絶対に忘れてはな りません。  自己責任論を声高に主張する大もいますが、 人の能力の半分は遺伝、残り半分は非共有環境 によって形づくられていることを改めて思い起 こしてください。どんな遺伝子を持って生まれ てくるか、そしてどんな環境に出会うかも、す べては「運」なのですから。  個人の努力を超えた問題に関しては、やはり 社会保障の仕組みをつくって対応することが不 可欠です。例えば、近年世界的に注目されるよ うになった「ベーシックインカム」のような制 度は検討に値するでしょう。ベーシックインカ ムとは、あらゆる個人に対して、国が毎月一定 額のお金を給付するという制度です。年金も含 めてベーシックインカムに一本化することによ り、行政のシンプル化を図れるともいわれてい ます。仮にこうした制度が導入されるとすれば、 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生 活を営む権利を有する」という囗本国憲法第25 条が本当の意味で実現されることになるわけで す。  いまの社会では、マネタイズも含めた才能を 発揮するか、誰かに運良く雇われるかしないと、 生きていけません。何らかの素質を潜在的に 持っていたとしても、それを発揮するチャンス は隕られています。自分の持っている遺伝的な 素質とはまったく適応しない環境の中で無理や り働き、それでも月に10万円を稼ぐこともまま ならない、そんな理不尽な状況はやはり許され るべきではないと考えます。社会保障が充実す れば、先述した「そこそこの規模のコミュニ ティ」も維持しやすくなるでしようし、各人の 才能を活かせる機会は増えるでしょう。  ベーシックインカムを実際に導入した政府は 世界のどこにもまだ存在せず、財源も含めては たしてこうした制度がうまくいくかどうかはま だ誰にもわかりません。ベーシックインカム的 な制度に対する大きな批判の1つとして、「ほ とんどの人が働かなくなって、制度にただ乗り するフリーライダーになる」というものがあり ますが、この点について私は楽観的です。 ホモーサピエンスはじつとしてい られない  いかなる生物も、環境に適応し、努力しなけ れば生きていくことはできません。  では、人間は最低限の衣食住が保障されたら、 何もしなくなるのでしょうか?  ある程度の割合でそういう大も出てくるで しょうが、多数派にはならないと思われます。  生きる上でのお金の心配がなくなったとして も、格差がなくなるわけではありません。何も しない大よりも、あれこれ活動している人の方 が社会的な評価は高まります。目の前にそのよ うな能力の勾配があれば、個々人が幸福感を高 めるためにも、結局は「好きなこと」、「得意な こと」で評価を得ようとすることになるはずで す。  どうやら私たちホモーサピエンスは、じっと していられず、変化を求める生き物らしいので す。  35万年前に登場し2万数千年前に絶滅した、 ヒトの近縁種、ホモーネアンデルターレンシス、 いわゆるネアンデルタール人。なぜネアンデル タール人は滅びて、私たちホモーサピエンスは 生き残ったのでしょうか?  ネアンデルタール大は、ホモーサピエンスに 匹敵する知的能力を持っていたといわれます。 脳容量だけを見れば、ネアンデルタール人の男 性平均は1600dであるのに対し、ホモーサ ピエンスの男性平均は1450dと、ネアンデ ルタール人の方が上回っています。彼らとわれ われの先祖が同居していた時代の石器を見ると、 その違いはほとんどなく、専門家でも区別でき ないといいます。  その一方、ネアンデルタール大は身体が大き く、生命を維持するためにホモーサピエンスの 倍のカロリーを維持する必要があり、それが不 利に働いたと推測する研究者もいます。多くの 獲物を早く捕れるようになるため、ネアンデル タール人の成長速度は速く、子ども期が短かっ たようです。  彼らの文化を見てみると、ホモーサピエンス と大きく異なる点がありました。ネアンデル タール人や彼らと同時代のホモーサピエンスが 石器をつくるのに用いていた技法は、ルヴアロ ワ技法と呼ばれます。ルヴアロワ技法では、材 料となる石の周囲を割って形を整えてから、 端っこを叩いて割り、鋭い形状の剥片をつくり ます。ネアンデルタールは20万年の間、技法を 進化させることなく、同じような石器をつくり 続けました。  しかし、ホモーサピエンスの石器はそのあと どんどん形が変わっていき、用途が分化したり、 芸術的な要素を持つようになりました。やがて 石器に留まらず、青銅器や鉄器を作るようにな り、スーパーコンピュータまでつくってしまっ たわけです。  この違いは何なのでしょうか?  ここからは私の推測というか空想になるので すが、ネアンデルタール人とホモーサピエンス では、脳のワーキングメモリーが違っだのでは ないか、それが両者に大きな知的能力の差を生 んだのではないかとと考えられます。ワーキン グメモリーとは同時に処理できる概念の数を示 しています。  チンパンジーのワーキングメモリーは基本的 に1つで、同時に1つのことしか考えられませ ん。道具をとりあえずつくることもできるし、 他者のやっていることをある程度真似真似るこ ともできますが、2つの概念を結びつけて考え ることができません。  ネアンデルタール人はチンパンジーよりも ずっと複雑な概念を扱え、ワーキングメモリー は2つあったと推測されます。ネアンデルター ル人には死者を埋葬するという文化がありまし た。ワーキングメモリーが1つだけなら目の前 で死んでいる存在をどう処理するかしか考えら れませんが、2つあることで霊魂のような概念 を想定することができたわけです。  ネアンデルタール人が石器をつくるのに使っ たルヴアロワ技法もなかなか高度であり、いま の私たちが教えられてもI朝一夕では習得でき ません。彼らは手元にある石と、その完成形の 2つを同時にイメージすることができたからこ そ、高度な石器をつくれたのでしょう。  しかし、ホモーサピエンスは、目の前の石と その完成形に加えて、これを応用したらどうな るかということまで考えることができます。こ れはワーキングメモリーが3つ以上ないと不可 能と思われます。  「太郎は花子が好きだ」という文章は、ワーキ ングメモリーが1つでも理解できます。これが 「『太郎は花子が好きだ』と次郎がいっていた よ」、「『太郎は花子が好きだ』と次郎が言って いたと、三郎は聞いたそうだよ」と複雑になる ほど、必要なワーキングメモリーは増えていき ます。人間(ホモーサピエンス)の子どもは、 言葉を話し始めた頃はワーキングメモリーが1 つしかありませんが、すぐに3つくらいになり ます。  ネアンデルタール人のワーキングメモリーが 2つなのかどうか確実なことはいえませんが、 チンパンジーのようにワーキングメモリーが1 つの動物と、3つ以上のホモーサピエンスの間 には、中間の存在がいたのではないかと私は考 えています。エネルギー消費が少なくて自分の ことだけを考えていればすむワーキングメモ リーーつか、複雑な概念を扱える3つ以上かの、 どちらかが生存する上で有利だったのかもしれ ません。  ワーキングメモリーを3つ以上持っているこ とで、人間は新しい概念を次々に思い付くこと ができ、さらに自分の知識を他者に教える「教 育」が可能になりました。  チンパンジーも子どもに何かを教えているよ うに見えますが、詳しく調べてみると、チンパ ンジーの親は自分で勝手に動作をやってみせる だけで、子どもが真似できるようにゆっくり動 いてみたりだとか、相手の理解度を確認すると いった行為は行っていません。チンパンジーは いってみれば、自分にしか関心が向いていない のです。  いま手元にあるものだけでなく、存在しない ものまで空想する。それを他者に伝える。その ためには、いまやっていること、相手のこと、 そして相手に知識を伝えようとする自分、の最 低3つのことがらを同時に処理しなければ、教 育はできないわけです。それがワーキングメモ リー2では、できなかったのではないかと思う のです。  一方、ほとんどの人間はワーキングメモリー を3つ持てたことで、人に教えないではいられ なかった、そして他人から教わりたくて仕方が なかったからこそ、私たちは今日のような文明 を築いてきたのではないでしょうか。 かわいい子には旅をさせよ、そし て自分も  繰り返しになりますが、知能を含め、人間の あらゆる能力は半分程度が遺伝によって規定さ れています。現在の知識社会において、知能が 特に重視され、それが社会階層や収入とも大き く関わっているのは確かでしょう。  しかし、それを以て「遺伝だから仕方がな い」と諦めるのは早計です。私たちの社会を構 成している無数の才能の、豊潤な可能性を見逃 してしまいます。  あらゆる能力が遺伝することをきちんと認め、 多彩な才能を評価する文化をみなでっくり上げ ていく。小規模なコミュニティを維持、活性化 できる社会的な制度をつくる。そうした取り組 みによって、遺伝的な素質が発現する可能性は 大きく高まります。  素質を高められる環境を探求し、適応し、生 存する。そして旅をしながら私たちは、「本当 の自分」になっていくのです。  「かわいい子には旅をさせよ」といいますが、 それは大人も同じ。私たちはみな死ぬまで旅を し続けるのです。 あとがき  2016年4月に橘玲氏の出された『言って はいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)が 30万部を超すベストセラーとなりました。  これには驚きと当惑の気持ちを隠せませんで した。なにしろ私たちが長年取り組み、それな りに世の中に発信してきたつもりなのに、ほと んど届いていないと感じていた行動遺伝学の メッセージが、こんな形で取り上げられ、地方 の小さな書店でも平積みにされ、電車の中吊り 広告にもなるような扱いになっているのですか ら。しかも私の書いた本がエビデンスとして紹 介されています。  善人ぶっても仕方がありませんので正直に白 状しますが、この本はそのベストセラーに便乗 した本です。橘氏とは昔も今も全く面識があり ませんので、もしお読みになられたら、行動遺 伝学の成果(の一部)を世に知らしめてくだ さったことへの感謝と、そこまで偽悪的に書か なくてもいいのに……という当惑の気持ちを、 この場を借りてお伝えいたします。お気づきに なられていると思いますが、「まえがき」は橘 さんの本のまえがきのパロディです。  便乗出版しなければならない企画だったので、 急いで書き上げる必要がありました。ですので、 ライターの山路達也さんにご協力いただきまし た。山路さんご自身がITはじめ現代社会の最 先端技術に関する著書をたくさん出版されてい る作家ですので、SBクリエイティブ株式会社 の編集者、依田さんと三人の10時間以上に及ぶ 聞き取り、というよりディスカッションはとて もクリエイティブで刺激的でした。おかげで。 これまで漠然と思っていながら文字にできてい なかったことまで一気に語ってしまい、それが そのまま活字になった部分も少なくありません。  もちろん出てきた原稿には大幅な加筆修正を 加えましたが、その作業も一人だけで執筆した ときには味わえない面白さがありました。ここ に書かれた中身の責任のすべては私にあります。 山路さん、依田さんにも心からお礼申し上げま す。  そんな経緯で出版させていただく本ですが、 やはり最も重視したのは、この本自体のオリジ ナルの情報と意義です。ですから決して便乗に 堕したつもりはありません。これまでに出版さ せていただいた本の内容と重複する部分が出て きてしまうのは、この本で初めて行動遺伝学に ついて知っていただく方も少なくないことを考 えると仕方がありませんでした。しかし遺伝と 教育とのかかわりを前著以上に考えたいIそ れはその後の私自身の研究の展開でもあります Iと、その部分を膨らませました。新しいエ ビデンスもできるだけ紹介しようと努めました。  未熟だと自分でも思うところは多々あります が、現時点での行動遺伝学の紹介と、それをふ まえた教育と社会に関する論考の里程標として、 本書を上梓させていただけることをありかたく 思っています。  本書を書き上げるにあたり、双生児プロジェ クトを長年にわたり支えてくれてきた共同研究 者やスタッフのみなさん、プロジェクトに協力 いただいている多数の双生児とそのご家族のみ なさん、教育について日ごろからざっくばらん にディスカッションしてくれる大学の同僚たち、 そして人生を共に語らいながら歩んでくれてい る妻・敬恵に心より感謝いたします。  2016年H月                 安藤寿康 参考・引用文献(出現順) ■第1章 }wに罸(い’冖‘(1955) The evidence for the concept of intelligence’  British Journal of Educational Psychology「 25「 158-177. 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