明日の僕に風が吹く_乾ルカ もしもあの囗がなかったら、世界はどう変わるだ ろう? 僕の世界は。      1  今囗もなにも変わらない。  川嶋有人は、腰かけていたベッドにそのまま背 を預けた。天井の白い壁紙が、緩くたわんで見え る。右手のスマートフォンからは、ゲームのBG Mが流れている。ゲームアプリを終了させていな いのだ。はらはらと雪が舞う中に佇む、無人の小 さな家からの脱出を目的としたそのゲームは、そ れこそ雪夜のように静かで閉じられた世界を再現 していた。  だから、サウンドも慎ましやかだ。  それに、三分後には自動的にロックがかかる。 ロックがかかれば、音も消える。  今日も脱出できなかった。夏にインストールし てからずっと、有人は石造りの小さな家から出ら れないでいる。家の各所に仕込まれた様々なギ ミツクはおおむね解き明かし、三つあるエンドの 二つまでは見た。だが最後のトゥルーエンドだけ には、どうしても行き着けないのだった。  タイトル画面からリンクで飛べる攻略掲示板を 覗けば、すぐにでも答えはわかる。  でも有大は、そうしたくなかった。脱出ゲーム は得意だという自負がある。だから、人の力を借 りる時点で負けた気がしてしまうのだ。またこの ゲームは、謎解きのフェアさが高評価を得ている。 フェアならば、考えればわかるはずだ。  結果、無駄な時間を積み重ねてしまっている。 同じところで動けない。昨日もその前もずっとそ うだった。今日も。  明日もそうだろうか。  有人は目を瞑った。  そうだろう。変わらない。なにも変わらないの は、時間が止まっているみたいなものだ。つまり、 明日なんてないのだ。  明日がないのなら、昨日もなくなればいいのに。 「有人」  階下から母の呼び声がした。怒っているような、 呆れているような、ほとほと情けないというよう な口調。  「下りておいで。せっかく雅彦叔父さんも来てい るんだから」  正月なのだった。有人は階下のリビングのにぎ やかさを思うIうちは本家だから、それなりに 親戚が集まる。久しぶりに親戚が集まったとき、 話題は互いの家族の近況だ。特に幸子伯母はその 手の話題を好む。  -お兄ちゃんの和人くんは、筑駒よね。今年 はうちの加奈と一緒で受験でしょ? すごいわ、 どこを受けるの? やっぱり医学部? ここを継 ぐんでしょう?  -加奈はお茶の水よね。頑張んなさいよ。  -有人くんのほうは今何年生? 筑駒の…… 違うわね、ごめんなさい。どこの私立中だったか しら。高等部へはエスカレーターで行ったんだっ だ?  想像しただけで頭髪の毛根がちりちりして、い たたまれないのだから、リビングに顔を出すなど 言語道断たった。幸子伯母は心配してくれている のだと父はかばうが、有人には言葉の裏の本音が 透けて見える。  うちの子が登校拒否にならなくて良かった、引 きこもりにならなくて良かった、ああいうふうに ならなくて良かった。  出席日数不足で高等部には進めなかったことも、 承知のはずなのに。  有人はうつ伏せに体勢を変え、床に左手を下ろ した。閉め切ったカーテンの向こうが、いつもよ り明るい気がする。客が帰る夕方までには、一度 は顔を見せたほうがいいのだろうが、動き出す元 気が出ない。そのまま意味もなく、左手の人差し 指でフローリングの床板をなぞる。  でも、今年は雅彦叔父さんも来ているのか。あ の叔父さんが。  雅彦叔父には、ちょっとだけ会いたい気もする 有人たった。就学前はよく遊んでもらった。父と は十歳近く年の離れた叔父は、研修医として福井 の大学病院へ赴任するまで、同じ食卓を囲んでい た。当然と言えば当然だ。ここは叔父の実家なの だから。  有大にとって、雅彦叔父は叔父というより兄の ような存在だった。二つ年上の和人よりも、親し みと頼りがいを感じるほどだ。和人は近すぎて、 コンプレックスを刺激される。たとえば受験。和 人が合格した私立中に有大は落ちた。兄と同じよ うに頑張ったつもりだったから、ショックも大き かった。有人の中学受験以降、両親の期待ははっ きりと和人に注がれるようになった。  その点、雅彦叔父は違った。叔父はけっして兄 弟を比較しないし、優劣もつけない。今まで送ら れてきたお年玉も、ずっと同じ額だ。  なにより、叔父は憧れの対象だった。  しかし皮肉なことだが、叔父への憧れが、あの 囗を招いたとも言える。  有人は頭を抱えた。すべての音がこもって聞こ える。飛行機に乗っていると、時々耳がおかしく なるように。  飛行機。あのときの叔父があんまり格好良かっ たから、自分も叔父のようになりたいと思ってし まったのだ。  -ただいま当機内におきまして、急病人が発 生しております。お客さまの中に、お医者さま、 または看護師の方がいらっしゃいましだら、お近 くの客室乗務員までお声がけをお願いいたします。  一瞬で張り詰めた機内の空気。ざわめき。探り 合うような気配。そんなものを一掃するように、 叔父は立ち上がった。通路を歩いていた客室乗務 員に言った「私は医師です」との声は、ごく普通 の挨拶みたいに落ち着き払っていた。八つだった 有人は、乗務員に先導されていく白いセーターの 背を、ベルトを緩めて見送った。  叔父と和人と有人、三人での冬休みの旅行たっ た。子どもの長期休暇に付き合えない開業医の両 親に代わって、当時大学病院に勤務していた叔父 が、休暇をねん出してニセコヘスキーに連れて 行ってくれたのだ。ドクターコールは、新千歳か ら羽田への帰途だった。  若い客室乗務員が兄弟の席へやってきて、叔父 は着陸まで席には帰って来られないと謝った。  -ごめんね。なにかあったら、そのボタンで 呼んでね。君たちの叔父さんは、とってもすごい のよ。すごいから、助けてもらっているの。もう すぐ飛行機は高度を下げるから、おトイレに行き たかったら今のうちに行っておいて。着陸したら そのまま席で待っていてね。  羽田空港に着陸し、ポーティングブリッジが接 続されるや、救急隊員が乗り込んできて、急病人 を搬送していった。それから、他の乗客が降りた。 さっきの客室乗務員がやってきて、叔父がいるは ずだった席に座り、もうちょっとここにいてねと ジュースをくれた。  -叔父は今どこですか?  有人の頭越しに和人が尋ねた。  -一緒に救急車までついて行っているの。申 し送りをしなくちやいけないって。  -急病の方はどうなったんですか?  -大丈夫。搬送されるときは意識がはっきり していたから。君たちの叔父さんのおかげよ。  客室乗務員の顔には安堵の色が浮かび、瞳は僅 かに潤んでいるようにも見えた。  やがて叔父が姿を現し、いつもの笑顔で有人た ちに降機を促した。荷物を持つという客室乗務員 の申し出は、必要ないと柔らかく断った。  -少しでもお役に立てたのなら、私も良かっ たです。  有人たちが機内を出るとき、客室乗務員のみな らず、パイロットの制服を着た二人の男性も見送 りに出てきて、深々と頭を下げた。ネクタイを締 め左胸に胸章を飾り、袖口に複数の金のラインが あるパイロットは、まるでテレビに出てくる俳優 のようだった。  でも有人の目には、なんでもない白のセーター にジーンズ姿の叔父のほうが、はるかに格好良く 映った。  叔父みたいになりたい。こんなふうになりたい。  小さな憧れの花が、その囗有人の心に咲いたの だ。  叔父がどれほど格好良かったか、有大は両親に 話した。意外なことに両親、特に父はあまりいい 顔をしなかった。父は深夜バスで帰るという叔父 を掴まえ、苦言を呈した。  -客として乗った航空機内だぞ。応召義務違 反には問われないだろう。今回はたまたま患者が 軽症だっただけだ。ろくな機器もない環境で、一 歩間違えば寝覚めの悪いことになる。  叔父は穏やかに言い返した。  -知識や技能があっても、生かせないなら、 ないのと同じだよ。次も俺は名乗り出る。これは 医師の心構えとか、そういう問題じゃない。生き 方の問題なんだ。  その叔父が。  「有人。いるんだろう?」  ドア越しに声をかけてきた。  「少し話をしたいんだが」  有大は獲物に狙われた小動物のように身を硬く して、気配を殺した。  「有人の気持ちもわからなくはないよ。辛いよ な」  憐れまれている自分がやりきれなくて、沈黙す るしかない。  「一つ教えてくれないか」再び話しかけてきた叔 父の口調は、昔となんら変わらなかった。「有大 はどうしたい?」  頭を抱える手に力を込める。  「引きこもり続けるのが、おまえのしたいことな のか?」  責めているのではない。純粋に尋ねている。  「有人。ちよつと未来の自分を想像してみない か」  首の後ろがざわりとなり、続いて首から上の毛 穴がぶわっと開いた。睨みつけるフローリングの 木目に、白目を剥く少女の顔がよぎった。  「どうしても話したいことがある」  叔父の声が滑るように降りてくる。上から聞こ えていたのが、有人の頭と変わらぬ位置まで。ド アの向こうで腰を下ろしたのだ。  「七時の飛行機で帰るけど、ぎりぎりまでここで 待つから」  -未来の自分を想像してみないか。  どうしてそんなことを言うんだろう? 三十歳 になっても四十歳になっても引きこもり続けてい るなんて惨めだから改心しろ、ということか? 叔父は、僕が四十になっても引きこもっているだ ろうと見立てているのか。  悲しくて、有人は枕に顔を埋めた。どうしよう もないのだ。昨日も今日も変わらない。明日も きっとそうだ。だったら、未来なんて。  そんなものないのに。  あの日、消えたのに。  今日、暑くね? と誰かがぼやいた。 「暑いって言っても涼しくなんてならないぜ」 「暑いんだから暑いって言っていいだろ」そいつ は制服のネクタイを緩めて、汗が光る顔や首筋を ノートで扇いだ。「九月ももう終わるってのに」  「弁当を食べた後だから暑いっていうのもあると 思うよ」有人はさりげなく囗を挟んだ。「食事を した後は、安静にしていても代謝量が増大する。 栄養が分解されて、体熱となって消費されるんだ。 だから体が熱くなって汗が出たりする。食事誘発 性熱産生っていうんたって」  「……さすがは川嶋。病院の息子」  「将来の夢は医者、だっけ」  小学校の卒業文集に書き記した内容は、有人と 同じ私立中学に進んだ一人が触れ回ったせいで周 知の事実たった。有人も別に隠してはいなかった し、実家の病院もそれなりに知名度があった。だ が、医者というストレートな単語の前に、有大は うんちくを語った自分を急に恥ずかしく思った。 「……継ぐのは兄さんだろうけど」  「ねえ、体育館に行かない? 今日はうちら二年 生が使える日だよ」  女子の声に、有人の顔は自然とそちらへ向く。 声の主は女子の中でも華やかでトップのカースト に君臨する上原だ。白いブラウス。微かに透ける その中の線に、ついつい目を凝らす。  「トスバレー、しようか」  「いいね」  「道下さんも行かない?」  道下と呼ばれた少女は、一瞬戸惑ったかに見え た。だが、彼女はすぐに嬉しそうに笑った。前歯 に装着された目立だない矯正器具が光った。  「行きたい」  「じゃ、行こう。昼休み終わっちゃう」  「あ、待って。エネルギー補給」上原の取り巻き の一人が、小さなものを配った。「お父さんのお 土産。ベルギーのチョコレートだって」  道下を入れて八人の女子が教室を出て行った。 彼女らの姿が消えたとたん、教室内の空気が不味 くなった。  あの子たちの誰かは、さっきの僕をどう思った だろう? 物知りだ、かっこいいと思ってくれた のなら嬉しいが、出しゃばりだと軽蔑されている 可能性も否めない。後者ならさっきの一分をな かったことにしてしまいたいと、有人は冷や汗を かく。それにしても、女の子には不思議な力があ る。男子に背伸びさせる力が。  「俺らも行かねえ? バスケしねえ?」  最初に暑いとこぼした奴が切り出した。  「いいな、30N3」  女の子たちのあとを追いたい男子たちは、次々 に賛同した。 「道下も誘われてたよな」 「おまえ、道下いいとか思ってる?」 「うっせ1わ。馴染めてきて良かったってだけだ わ」  「道下誘った上原、マジ天使じゃね」  「女の子ポーチ持ってたな、道下」  「そういうこと言ってやんなって」  有人は先ほど彼女-道工蓖奈が見せた表情の 変化を思った。戸惑ってからの嬉しげな笑顔。素 直な気持ちの表れだろう。彼女は夏休み明けに やってきた新顔たった。有人の私立中学には転入 生を受け入れる制度があったが、現実に転入して きた生徒は、入学以来道下が初めてだった。  しかも道下は、ニューヨークからの帰国子女 たった。  日本語でのコミュニケーションに不自由しては いなかったが、クラスメイトは彼女を遠巻きにし、 様子を窺う態勢を取った。予告なく登場した異分 子が、どういった個体なのか判別できるまでは、 態度を決めかねる、という空気たった。道下は一 人で教室を移動し、一人でトイレに行き、一人で 弁当を食べ、一人で帰宅する毎日を送っていた。  そんな彼女がとうとう誘われたのだ。びっくり して、次に歓喜があふれただろう。様子見されて も毅然とした態度で、こびへつらいはしなかった が、内心は早く誰かと親しくなりたかったはずだ。 学校生活においてどこかのグループに所属するの は、安心を得られるから。  体育館に着いた。入り囗から遠いステージ側で、 女子八人が輪になってバレーボールを回していた。 上原があらぬ方向へはじいたボールを、道下が追 いかけて上手く戻した。道下は一番活発に動き、 汗をかいていた。  30N3をやる際、七人以上メンバーが集まっ たときは、どちらかがシュートを決めるごとに、 決めた者はあぶれた者と交替するのがローカル ルールだった。有人は最初あぶれ、交替順が二番 目になった。順番を待ちながら、目の前の30N 3ではなく、女子のバレーボールを眺めた。道下 は相変わらず多くボールに触っていたが、若干息 が上がってきたようでもあった。  二つ目のシュートが決まって、有人がコートに 入っだ。バスケットボールはあまり得意ではなく、 ブロックしようとした手の上を相手側のパスが通 り、シュートを決められた。次はボールを奪って シュートを入れてやる。そう思っだのと同時たっ た。  「道下さん?」上原の声が聞こえた。「どうした の、大丈夫?」  見ると、トスバレーをやっていた女子が、一つ 所に固まっていた。  「女子、どうしたんだ?」  ボールを持っていた奴がプレーを止めて、待機 組に訊いた。  「いや、よくわかんないけど」そいつは両目を細 めて女子たちを凝視した。「道下がさっき抜けて、 横で座って休んでたんだ。そしたら、なんか急に バタつて」  「倒れたのかよ?」  「貧血?」  集まる女子が砦となって、道下の姿は見えな かった。  おろおろする砦の一角で、上原がこちらを振り 向いた。  目が合った気もした。それは、男子のみんなが 同じかもしれなかった。でも誰も動かなかった。 有人もだ。男子を背伸びさせる不思議な力も、場 にみるみる満ちる異常な気配には勝てなかった。 「嫌っ」  女子の一人が一歩退いた。 「ねえ!」上原が叫んだ。「ちょっと!」  助けて、とは続かなかった。女子の砦が悲鳴と ともに崩れだし、隙間から床に投げ出された道下 の手が見えた。  男子は動かなかった。動けないのだ。竦んでい た。  -お客さまの中に、お医者さま、または看護 師の方がいらっしゃいましだら……。  そのとき有人のまなうらに、かつて、自分の心 に憧れの楔を打ち込んだ叔父の背中が浮かんだ。  とたん、有人は女子の一団へと走り出していた。 かっこよかった叔父。急病人を助けた叔父。あん な風になれたらI憧れとともに、とにかくなに かしなければ、誰も行かないなら誰かが行かなく てはという思いが、床をひと蹴りするごとに膨ら んだ。女子が持つ不思議な力が有人を動かしてい るのではなかった。背伸びとかはどうでも良かっ た。  駆け寄ってくる有人に気づいて、女子は砦に入 り囗を開けた。  体育館の床に仰向けになっている道下が、目に 飛び込んできた。一見して、ただ事ではないと血 の気が引いた。顔や首、腕、脚。露出している肌 が赤らんでいた。発疹のようなものも出ていた。 呼吸するごとに喉の奥からヒューヒューといった 音を発した。  「……先生、呼んでくる」  誰かが言ったとき、道下が手を動かしながら、 囗をパクパクさせた。動かしている手は、ステー ジ側たった。なにかを探しているとも取れる動き に有人はそこらを確認したが、男子の一人が面白 かったポーチが転かつているだけだ。  呼吸はいよいよ苦しそうになった。息が吸えて いないように見えた。  こんなとき、叔父ならどうするか。  有人は道下に駆け寄り、顎を上向けて囗を開け させた。鼻をつまんだ。そして。  道下の囗に自分の囗を押し当て、息を吹き込ま なければ、人工呼吸をしなければI機内の叔父 に憧れを抱いて以降、有人は救急救命のいろはを 独習していた。  けれども、鼻をつまんだところで止まってし まった。状況が状況とはいえ、みんなが見ている 中で囗と囗をつけることに、ためらいを覚えたの だ。加えて、道下はキスしたことがあるのかとい うのも気になった。なかったら初めての相手が自 分になってしまう。有人にとってもそれは同じ だった。  ふいに、道下が顔を背けた。  あっと思う間もなく、吐物が有人の手にかかっ た。女子が悲鳴をあげ、有大もとっさに手を引っ 込めた。悪臭が鼻を突いた。道下はミルクセーキ に似た胃の内容物を嘔吐しながら変な咳をし、体 育館の床に爪を立てた。  吐物が詰まったかもしれない。いよいよ呼吸が 止まったかもしれない。道下は意識がなかった。 白目を剥き、顔は嘔吐したものでべたべただっだ。  囗が吐物で詰まっているなら、きれいにかき出 して、今度こそ息を吹き込まなければ。  しかし、目の前の光景と異臭に胃がせり上がっ た。  直後、有人も堪えられずに一緒になって吐いた。 周りがいっそうやかましくなった気がしたが、そ れどころじゃなかった。とにかく気持ち悪くてた まらなかった。ここにいたくない、爽やかな香り のする清潔な空間に、自分だけ瞬間移動したいと 思った。  ヒューヒューと風を切るような音は、そういえ ばどうしたんだろう? 断続的にこみ上げてくる 嘔気と嘔気の僅かな合間に、そんなことを一度だ け思ったかもしれない。  「どけ」  有人は乱暴に押しのけられた。自分の吐物の中 に手をついた。押しのけたのはクラス担任たった。 続いて白衣の裾が翻った。養護教諭も来ていた。  「道下さんならアナフィラキシーかもしれませ ん」中年女の養護教諭がまくしたてた。「エピベ ン、携帯しているはずです」  担任は目ざとく道下のポーチを見つけ、飛びつ いた。躊躇せずファスナーを開けて、中から器具 を取り出した。  それは大きいサイズの液状のりに、よく似た形 状をしていた。白いシールが巻かれた細長い筒状 のプラスチック容器に、黄色いキャップ。なぜの りなんか、というぼんやりした疑問が芽を出すか 出さないかのうちに、養護教諭が「それです」と 叫んだ。担任は養護教諭に容器を手渡した。  「打っていいのか」  「打ちます、打だないと。救急車を呼んでくださ い」  担任はその場で携帯電話を取り出し、養護教諭 は道下のスカートを下着が見えそうになるほどだ くし上げた。道下の太腿には失禁の痕跡があった。  黄色のキャップは、回して取り外すタイプでは なかった。養護教諭の親指一つで、それは押し開 かれた。中身が出てきた。中身はいっそう液状の りみたいだった。のりを塗る先端部がオレンジで、 尻の側には青いキャップがついていた。胴体には 外の容器とは異なる黄色いラベルが貼られてあっ た。  養護教諭は青のキャップを外した。ああ、外れ たと有人が他人事のように眺める前で、白衣の腕 が動いた。剥き出しになった道下の白い太腿の外 側に、オレンジの先端部が押しつけられた。  カチッという小さな音を聞いた。  そのまま数秒間押しつけたのちに、養護教諭は のりみたいなものを離して、あてかつていた太腿 の部分を右手でマッサージした。  養護教諭の手に残ったものの、オレンジ色の先 端部が、伸びて長くなっていた。  いつの間にか、他の教員たちも数名集まってき ていた。  「他の生徒は体育館の外へ出なさい、教室に戻り なさい」  有人だけがその場に留まるよう、担任に言われ た。  「川嶋、どういうことだ? こうなる前の道下の 様子を詳しく説明してくれ」  わけもなく怒鳴られているように感じた。へた り込んだまま、有人は囗の中の唾を飲んだ。胃液 のきつい酸味が喉の粘膜を剌した。  「僕は……き、救急救命を……人工呼吸を」  「道下は訴えていなかったか? エピベンを取っ てくれと」  あの、手を動かして囗をパクパクさせたのが、 そうだったのか?  「なにかやっていましたけど……全然わかりませ んでした。だって、声も出てなかったし……」  養護教諭の白衣の向こうで、道下が身じろぎし た。救急車のサイレンが近づいてきた。  別の教師に促されて、有人は立ち上がった。サ イレンはすぐそばまで来て静かになった。報せを 聞いたのだろう、汚物処理の清掃セットを持った 事務職員が二人、使い捨ての手袋にマスク、プラ スチックエプロンの姿でやってきて、吐物で汚れ たところを隠すように、ペーパータオルを敷き詰 めた。塩素の臭いがした。  有大はその場で汚れた服を脱ぐように指示され た。替えとして渡された備品の制服は、有人の体 には大きかった。脱いだ自分の服はビニール袋に 入れられて返された。それから体育館を出てすぐ の手洗い場で、皮膚が擦り切れるほど長い時間を かけて手を洗わされた。  手を洗う有人の後ろを、ストレッチャーに乗せ られた道下が運ばれていった。養護教諭も一緒 だった。道下の顔は、ストレッチャーのやかまし い音とともに、あっという間に去った。脳裏に焼 きついた残像は、生きているか死んでいるかどっ ちつかすのものだった。  昼休み後の五時間目の最中、有人は制服が入っ たビニール袋片手に教室へ戻った。後ろ側の扉か らそっと入っだのに、クラスの全員が、教壇の数 学教師ですら、板書の手を止めて有人を振り返っ た。√の途中で白のチョークが折れた。  授業内容は、一つも頭に入らなかった。  五時間目が終わるや否や、聞こえよがしの嘲り が飛び交った。  「臭くね? くっせ1んだけど」  「てか、ださすぎ」  「なにしに行ったわけ」  「助けるつもりだったんだろ、無理だったけど」  「一緒にゲロ吐くとか、ギャグかよ」  「将来の夢は医者じゃなかったっけ」  「そうなんですよ、彼、医者なんですよ」  止めろよという制止も聞こえたが、ボルテージ を上げる嘲りの声にかき消された。  「ずっと思ってたけど、医師を目指してるとか、 ヤバくね」  「目指しててあれなら、全然駄目だろ」  自分の席で硬直する有人に、嗤笑が降り注いだ。  女子の話題も、昼休みの事件一色たった。 「道下さん、大丈夫なの?」 「あれなに?」  「気持ち悪かった。今夜眠れないよ」  倒れた道下へ向ける彼女らの言葉は、心配より 嫌悪感が前面に出ていた。上原が言い切った。  「だって、川嶋くんまで吐くし。マジ最悪」  30N3をしに行こうと口火を切った生徒が、 席までやってきて、椅子の脚を蹴った。  「肛門科の息子はおっさんのケツだけ見とけよ」  たまらず有人は、鞄とビニール袋を持って席を 立った。 「どこ行くんだよ」  教室以外ならどこでもよかった。自分の失態を 誰も知らないところを目指して、有大は逃げた。  廊下を走る有人の背に、だっせ、という声が投 げつけられ、無数の棘となって刺さった。  JR中央線の中で、有大は下を向き続けた。 肩幅も袖丈も余り、裾を引きずる制服を着たうえ、 大きなビニール袋を抱える自分を、見知らぬ乗客 のみんなが見ている気がした。  あ さ  がや  阿佐ヶ谷駅で降車して、裾が汚れるのも構わず 十分ほど歩いた。暑さのせいだけではない汗が、 首の周りを濡らした。父親が院長を務める病院の 前を早足で過ぎ、隣にある自宅に辿り着いて玄関 扉の鍵を開けた。誰もいないのをいいことに、汚 れた制服を全部洗濯機に突っ込んで、適当に回し た。洗濯機をいじっだのは初めてだったが、気に しなかった。とにかく痕跡を消したかった。  冷蔵庫の中にあった炭酸飲料を飲んだ。弁当を 吐いて胃の中にはなにもないはずなのに、飲み物 しか囗にしたくなかった。  リビングの時計の針は、午後三時半になろうと していた。  自室にこもろうとしたら、母が姿を見せた。母 も父と同じく女性肛門科医師として勤務している が、常勤ではない。母は「早退したの?」と単刀 直入に訊いた。 「……ゝつん」 「具合でも悪いの? それより有人、制服借りた の?」  答えなかった。母は洗濯機の音に気づいたよう で、「どうして回っているのかしら」とランド リールームへ足を向けた。  有人はその隙に階段を駆けのぼって自室に入り、 備品の制服を脱ぎ捨てた。階下からなぜ制服を 洗っているのかと声がかかったが、答えなかった。 その後も何度もドア越しに呼ばれ、問われた。具 合は、ご飯は、お粥を炊いた、お風呂はどうする、 今日なにがあったI沈黙を貫いた。あったこと は誰にも教えたくなかった。あのときあの場にい た人は、全員消えてくれと祈った。  道下はIストレツチャーに乗って運ばれてい く彼女の顔を思い出したIどうしただろう。有 人は最悪の事態を想像し、震えた。自分が責めら れるに決まっているからだ。  午後七時を回って、籠城の理由はあっけなくば れた。学校から電話があったのだ。無断早退した ことから、昼休みの出来事の一部始終、すべてが 親に伝えられた。  一部始終といっても、養護教諭らがまだ来てい ない時間帯のあれこれは、体育館にいた生徒から の聞き取りだ。有人の行動がどう伝えられたかは、 五時間目終了後のクラスメイトの態度で、容易に 推測できた。  父の厳しい一喝で籠城を断念し、ともにリビン グに下りると、母親と兄までもが揃って難しい顔 をしていた。  「有大。うちはおまえの祖父の代から、病院を経 営している。父さんも母さんも医師だ」父はまず 釘を剌した。「だが、おまえはただの中学生で素 人だ。医療行為を甘く見てはいけない。うぬぼれ るな」  うぬぼれ。その単語は有人の脳天に深々と突き 刺さり、体の芯を貫いた。  「女の子のご両親とは、父さんがきちんと話をす る」  「命は助かったって」母の言葉はため息まじり だった。「でも、少しだけ障害が残るかもしれな いそうよ。長い時間じゃなかっだけれど、脳への 酸素供給が止まったようだから」  「念のために弁護士には連絡を取っている。その へんは余計な心配をしなくてもいいが」  父は一度腕組みをして目をつぶり、ゆるゆると 頭を横に振ったのち、一転睨みつける眼になった。 それは眼窩から今にも飛び出してきそうなほど、 強く有人を射た。  「おまえは、救急車を呼ぶだけでよかった。それ が正しい判断たった。医師はミスが許されない仕 事だが、おまえは今日間違えた」  知らず、嗚咽が漏れてきた。父は「もう行って いい」と有人を解放した。優しさからというより は、さじを投げたといった感じであった。  有人は自室に戻って泣いた。  翌朝待ち受けていたのは、登校という最大級の 困難だった。エベレスト登頂と登校、どちらを選 ぶかと問われたら、有人は間違いなく前者を選ん だ。それでも、洗い替えの制服に袖を通し、重石 が括りつけられたような足をなんとか動かして、 学校へ行った。  教室に入ると、雑多な絵の具をぶちまけたよう なざわめきが寸時静まった。永遠にも思われた静 けさののち、また教室は徐々にざわめいていった。 しかし沈黙の前、てんでばらばらの色彩たったそ れは、有人の顔を見て同じ色になった。有大を蔑 み、せせら笑い、眉を顰め、邪険にするIいじ めの標的に向ける色に。  スマートフォンにメッセージが大った。『よく 来れるな』。  トイレから戻ってきたら、机に落書きがあった。 『誤診王』『医師適性なし』。  女子の潜めた囁きが鼓膜を震わせた。「川嶋く んがお医者さんになるとか、すごく怖くない?」  下校まで耐えられなかった。昼食時のどさくさ に紛れて、有人はやはり早退した。  それから有人は登校しなかった。できなかった のだ。制服を着ようとしたら、心臓が暴れ馬さな がらに飛び跳ね、汗が噴き出し、間髪容れずに寒 気が襲った。吐いた。両親が処方した精神安定剤 も効かなかった。つてがある心療内科にも連れて 行かれた。変わらなかった。  有人は生活のほとんどを、自室内で送るように なった。両親と兄が病院と学校へ行ってからベッ ドを出て、誰もいないダイニングで冷えた朝食を 食べた。昼ごはんはカップ麺など、適当にあるも のをあさった。夜は家族が寝静まるのを待って、 やっぱり冷えた夕食を食べ、シャワーを浴びた。 トイレは極力我慢し、自室に近い二階のものを 使った。まれに、夜中の二時を回ったころに近所 のコンビニに行って、お菓子やジュース、漫画雑 誌、そのとき必要なものがあればそれを買った。 お金は、貯めていたお年玉を使った。  和人がたまにドア越しに話しかけてきた。  「道下さん、退院したみたいだよ」  「今日、父さんと弁護士が道下さんのご家族と話 したってさ。向こうはおまえのこと怒ってないっ ぱい」  「リ「ビリ通っているって聞いた。ちょっとだけ 言語障害残ったみたいだな」  「でも、来週から学校行くって」  なぜ道下の近況を教えるのか、有人には和人の 意図が汲めなかった。伝えられる情報は、有人を 安心させようとしているようでも、逆に引きこも る有人を咎めているようでもあった。  「道下さん本人は、もらい物を安易に食べるべき じやなかった、自己責任だって言ってるって」  兄が勝手に語るのをとりとめもなく聞いている うちに、道下の事情はわかった。  幼少時から小麦やピーナッツ等、複数のアレル ギーがあること。  重篤なアレルギー症状を起こしたときに用いる アナフィラキシー補助治療剤、エピベンを携帯し ていたこと。  体育館へ行くときにもらったチョコレートの中 に、アレルゲンのナッツペーストが含まれていた こと。  包装は確認したが、読み取れない言語だったこ と。  ナッツの味には気づいたが、ちょっとなら大丈 夫と思って飲み込んだこと。  「だから、自分が悪いってさ」  言語障害が残った道下が、それらをどのように 言葉にしたのか、想像もしたくなかった。自己責 任を認めているとしても、適切な対応を取らな かった有人を恨まないはずはない。後遺症が残っ たのだ。道下の未来を奪ったようなものなのだ。  和人の声になにか返すことは、一度もなかった。 そのうち和人も、あまり話しかけてこなくなった。 両親とも最低隕のやりとりしかしなくなった。ど うしてもというときは、家族間でのLINEを 使った。  時が過ぎ、季節が巡って新しい年度になった。 中学三年生に進級するはずだった有人は、あの囗 以来なにも変わらず、部屋の中で一日の大半を過 ごしていた。時間潰しにパソコンで動画を見、ス マートフォンのゲームをする毎日たった。髪の毛 は伸びるにまかせて、いよいよ我慢の限界を超え たら、文房具のはさみを使って自分で切った。  紫陽花のころ、和人が久しぶりに声をかけてき た。  「よう、ゲームは楽しいか?」  ほとんどコミュニケーションをとっていないの に、和人は有人の行動を読み切っていた。  「いいエロ動画見つけたらLINEくれよ。童顔 寄りの可愛い顔で、おっぱいでかい子のやつ」  兄弟は女の好みも似るのかと思った。和人の声 はとても普通たった。腫れ物に触るような調子も、 閉じこもる弟を軽蔑するニュアンスも聞き取れな かった。  あまりにも普通だったから、続いた言葉も警戒 のガードを抜けて、するりと有人の中へ大ってき てしまった。  「あの囗、おまえさ。女の子を助けたかっただけ か? それとも、下心とかあったりしたのか? 本当はどうしたかったんだ?」  あの囗。すべてが変わった、あの囗。  「……僕は」有人は掠れた声を引き絞った。「僕 はただ……」  そこまでだった。抵抗感の塊が喉をふさいだ。  しばらく続きを待っていたようだったが、和人 は静かに立ち去って行った。  「……僕はただ」  叔父みたいになりたかった。  あの日、有人は十四歳たった。それから今日、 十六歳で迎えた元日まで、有人は閉ざされた世界 にいる。  「有人、俺はそろそろ行かなきやならない」  ドアの向こうで、叔父が立ち上がる気配がした。 囗はとっくに落ち、部屋の中は暗かった。有人は スマートフォンのホームボタンを押した。液晶の 光が、こちらを見るなと言わんばかりに目を襲っ た。顔をしかめて時刻表示を確認した。叔父は二 時間近く寒い廊下で粘っていた。  「おまえにしたかった話というのは、高校のこと なんだ」  高校という単語は、耳にしたくなかった。あの 日さえなければ有人は今、高校一年生のはずだか らだ。中等部で学校を放り出されて以降、どこに も行けないまま一人取り残され、日一日ごとに身 動きができなくなっていく感覚が、高校という一 言で明確になる。  「今年、受験してみたらいいんじやないかと思う 高校がある」  今さら受験? 合格したところで、同学年の中 で浮きまくるに決まっている。忘れようとしても 忘れられない嘲りの声が、有人の脳内を飛び交っ た。  「おまえが気にしていることなんて構わず受け入 れる学校が、俺のいる島にあるんだ」  我知らず有人の体に力が入り、ベッドが軋んだ。 叔父は北海道の離島にいたはずだ。島の名前 は……亡心れた。  「聞いてくれているんだな」軋みの音を聞きとっ たのだろう、叔父の声は幾分弾んだ。「その高校、 今のおまえにはいいんじやないかと、俺は思うん だ。遠方から入学する生徒向けの寮もあるし、寮 が嫌なら俺と一緒に住んだっていい」  今の自分-有大はドアに阻まれて見えない叔 父を振り返った。今の自分? 高校生にもなれな かった、ただの引きこもり以外になにかあるのか。  「善きサマリア人のたとえ話は知っているか?」  そんな話は知らない。有大は無言を貫いた。叔 父も「いや、知らなくても構わないんだ」と言っ た。そのうえで続けた。  「あの囗おまえがしたことは、俺は間違っていな いと思っている」  有人は囗の中の肉を噛んだ。叔父がそのように 自分をかばってくれていることは、兄から伝え聞 いていたが、直接言葉を受け取っだのは、このと きが初めてだった。七年前に島の診療所に赴任し てからというもの、叔父は盆や正月にも帰省して いなかったのだ。  「だから、ここで終わらせないでほしい。未来を 考えてみてはしいんだよ」  また未来というワードが出た。やっぱり悲しく なった。叔父はわかっていないのだ。一つの躓き がすべてを変えてしまうことだってある。しかも、 有人が躓いた先には急勾配が待っていた。なすす べなく転がり落ちて、今自分は奈落の底でうずく まっている。  真っ暗だ。鼻の先も見えない。わかるのは、最 悪だということだけ。  「できれば、有人の顔を見て話をしたかったんだ が」  叔父の声がやや遠ざかった。体の向きが変わっ たのだ。つまり、去ろうとしている。  「受験のこと、検討してみてほしい」  どうにもならないのだ。 「帰ったら電話する。そのときは出てくれよ」   控えめな足音が小さくなっていく。   有人はそこから五分待った。そして、そろそろ とベッドから出て、ドアノブに手をかけた。実は 三十分ほど前から尿意を覚えていたのだが、叔父 が張りついていたので行けなかったのだ。  そっとドアを開けて、有人は飛び上がる。あや うく漏らすところだった。  「よ、驚いたか?」  煌々と電気がついた廊下に、叔父がまだいた。  「こうでもしないと、出てこないかと思って」機 内で立ち上がったあの囗とほとんど印象が変わら ない、年齢よりも若々しい顔は、してやったりと いう笑みを浮かべている。「飛行機は最終便にし たんだ」  「なんで」  「顔が見たかったって言っただろう?」叔父はす べてお見通しのようだった。「見られてよかった。 ところでトイレは大丈夫か?」  大丈夫ではない。有人は二階のトイレに急いだ。 叔父もついてきて、こともあろうにトイレのドア の前に立った。  「叔父さん、そこ」  「さっきの話、本当に考えてほしい」  「じゆ、受験のこと?」  「うん」意地悪な叔父は、そこで笑みを引っ込め、 真摯な表情になった。「俺がいる島にあんな高校 があるのも、なにかの巡り合わせなんじやないか と思う。それくらい、ぴったりなんだ」  有人は脚をもじもじさせたが、叔父はしっかと こちらを見つめてくるだけだ。  「どうしても合わなかったら、退学したっていい。 でも一度だけ、試してみないか」  ドアは目の前にあるのに、叔父のガードで開け られない。膀胱は脳に緊急信号を送り続けている。 叔父がこんなえげつない攻撃を仕掛けてくるとは。 しかし向けられる眼差しは、正真正銘有人へ寄り 添う色なのだ。  「有人、試してみるだけ……」  「わ、わかった」有人は早口で答えた。「叔父さ んがそうしろって言うなら、してもいい」  「そうしろとは言っていない。命令ではないよ」  「うん……ゝつん」できることなら自分が叔父にそ こをどいてくれと命令したい。「じゅ、受験する だけなら……」  叔父の顔がはっきりと輝いた。「本当か?」  「は、本当。受験勉強とか全然してないけど」も はや一刻の猶予も許されない。「ごめん、そこ」  有人が押しのけようと腕を伸ばす直前、叔父は すっと身を退けた。間一髪たった。個室の中で安 堵の息をついていると、叔父の明るい声がした。  「じやあ、進めておくな。ありがとう、その気に なってくれて。思う存分、放尿してくれ」  その気にはなっていないが、訂正する前に、今 度こそ叔父は去ったようだ。  用を足して、有人は部屋に戻った。なりゆきで 受験することになってしまい、混乱と動揺で動悸 がした。今さら普通の道に戻れるわけはない。 やっぱり止めると駄々をこねようかとも思った。 だが、引きこもりの期間で身に染みついた諦めが、 しだいに混乱と動揺を鎮めてもくれた。まだ合格 すると決まったわけでもない。むしろ、落ちる公 算が大きい。また、万が一受かっても、八方ふさ がりでどうにもならない現状なら、ここだろうが 叔父のところだろうが同じだ。  誘った以上、叔父は一室与えてくれる。部屋の 外が変わっても、出なければ問題ないのだ。今日 日、コンビニくらいはどこにでもある。今までど おり必要なときだけ、深夜に足を運べばいい。  有人はベッドに横になった。  物事はとんとん拍子に進んだ。有人はベルトコ ンベアに載って流れる、大量生産のお菓子みたい だった。自分という生地が勝手に成形され、ロー ストされ、チョコレートをつけられ、箱詰めされ、 叔父のいる島に向けて出荷待ちの状態になった。  もちろん、なにもかもに関わらなかったわけで はない。入学試験の前には、叔父が勧める高校の 校長や管区の教育委員会職員と、保護者を含めた 面談があった。自宅に来た彼らは、島と高校のパ ンフレットを示しながら地域や学校のことを説明 した。有太は俯きがちに尋ねられたことだけに答 え、パンフレットは見なかった。  久方ぶりの夜間以外の外出となった試験囗は、 大気を押し潰しているような分厚い黒雲が空を覆 い、息苦しかった。会場に指定された公共施設ま では、母の車で行った。面談のときに会った教育 委員会職員と、今度は教頭が、有人一人のために 上京してきて、小さな一室での試験を監督し、問 題と解答用紙を回収していった。中学二年生の途 中で勉強を止めている有人は、時間が余って仕方 なかった。  落ちてもいい、別に行きたくないんだからと、 有人は心の中で繰り返した。  しかし有人のもとに届いたのは、合格通知たっ た。  あれで受かるなんて、どんな学校なんだI有 人は逆におののいた。本当に掃きだめのようなと ころなのでは。通信教育のほうがまだマシだった のでは。  高等部に進めなかったとき、両親からは通信制 の高校という選択肢を提示された。あのとき親の 言いなりになっていれば、北海道の離島の高校な んか受験しなかった。とはいえ、通信制高校に籍 を置いていたとしても、今と大差ない日々を送っ ていただろうが。  あの日の前の、叔父のようになりたかった自分 なら、医大を目指して勉強したはずだけれども。  家を出だのは、三月最後の日曜日、早朝だった。 叔父はわざわざ前日から迎えに来てくれた。  「兄さん、義姉さん、和人。有人は俺がしっかり 預かるから」  タクシーに乗り込む有人を、両親はもとより、 和人までもが見送った。兄は両親が卒業した医大 に合格を決めていた。長い前髪の隙間から視線を やると、兄はにっと笑って親指を立てた。  能天気なもんだと、有人はリュックを膝に置い てシートに背中を預けた。非生産的な引きこもり からようやく脱却して、明るい未来に一歩前進し たと信じているような顔たった。  明るくなどない。天気だって雨だ。叩きつける 激しさで降ってくれれば、いっそ爽快なのに、細 かく密に落ちるだけの雨滴は、人を濡れさせるよ り不快にさせたいかのようだった。  羽田から新千歳へ飛び、快速電車で札幌まで出 る。北海道はさすがに肌寒く、有人は移動中に丸 めて持っていたダウンを慌てて着込み、黒のマフ ラーを巻いた。  灰色の空からは、雨ではなく、重そうな牡丹雪 が降っていた。  「こっちは五月でも降ることがあるから」  叔父の言葉に耳を疑った。  札幌駅直結のバス発着所から長距離バスに乗っ た。約三時間かけて、ようやくバスは後茂内とい う町のフェリーターミナルに着いた。ほとんど朝 一の飛行機に乗ったというのに、この時点で午後 一時を回っていた。小さなフェリーターミナルは 思いのほか新しく、床もきれいで、なぜか美少女 の萌えギャラが描かれた大きなパネルが、改札の 隣に立っていた。いつしか雪は止み、かわりに冴 えない薄雲が地に蓋をしている。海から吹く風は 強く冷たく、波しぶきの音が間断なく聞こえた。  出航まであまり時間はなかった。  「酔い止めを飲んだほうがいいな」  叔父はターミナルの食堂でおにぎりを買ってき て、有人に一つ食べさせてから、カプセル状の薬 を飲ませた。  「眠くなるはずだから、寝ていけ。一時間半かか る」  フェリーに乗り込むときに、甲板の手すりを 触った。潮でべたべたしていた。男女兼用のトイ レのドアがあったので開けてみたら、古めかしい 和式で、よほどのことがなければ我慢しようと決 意した。叔父は三層ある船室の中段を選んだ。靴 を脱いで上がるカーペット式の空間には、既に何 人かの乗客が無防備に寝ころんでいた。  「あら、川嶋先生だ」しわがれた女の声が片隅か ら飛んできた。「いやあ、帰ってきてくれた。良 かったわ」  たちまちその場にいたほぼ全員が、叔父を取り 囲んだ。有人はなにごとかと戸惑い、とっさに顔 を伏せる。  「上日でどこに行っていたのさ?」  「いねえんだもん、心細いわ」  「そっちの子が例の?」  叔父は有人に「船首のほうを頭にするといい」 と囁き、離れていった。喧騒は叔父のあとについ ていった。  もしものときのためにビニール袋を傍らに置き、 リュックを枕に有人は目をつぶった。船のエンジ ン音と船体に波が当たる音がうるさいと思ったが、 叔父がくれた酔い止め薬が効いたのだろう、気分 が悪くなる前に眠りに落ちた。  「じきに着くぞ」  揺り動かされて有人は目覚めた。叔父の顔がよ く見えなかった。眩しいのだ。  「下船の用意をしろ」  上体を起こすと、一瞬眩暈がした。ビニール袋 をダウンジャケットのポケットに突っ込み、枕に していたリュックを背負う。  「お、ケイマフリだ」  窓に顔を近づけた叔父がひとりごちた。つられ るように、有人も外を見た。  いつの間に晴れたのか。波の一つ一つが陽光を 反射し、海面は光の欠片の集まりのようだった。 その上を、黒っぽい鳥が飛んで行く。水かきのあ る足が鮮やかに赤い。しかも一羽ではない。眩し さを堪えて目を凝らせば、近くから遠くまで、あ ちこちに鳥の影が行きかっている。  「あれはウミウだな。ウトウもいるかな」叔父は 有人の肩を引き寄せた。「パンフレットにもあっ ただろ? これからおまえの暮らす島は……なん だった?」  ページすら開いていないなどと言えず、視線を うろつかせていたら、助け舟が入った。  「海鳥の楽園、だよ。ね、先生」叔父の背後から 少女がひょっこりと姿を見せた。「君が先生の 甥っ子の有人くんだね?」  少女は紺色のダッフルコートを着込んでいた。 胸のトグルがはち切れそうだ。愛らしいリスを思 わせる丸い目の彼女は、屈託のない笑顔で「よろ しくね。君、髪長いね」と軽く手を振った。肘に 下げているローソンの大きなビニール袋を揺らし ながら、少女は先に船室を出て行った。  同年代の異性に話しかけられるなど、久しくな かった。しかも彼女は、いきなり叔父との間に 大ってきた。鼓動が速い。気づいたら有人の両手 は、変な汗で濡れていた。  島影はいよいよ迫ってきた。想像していたより もちっぽけだ。船の側面にある丸窓から見ると、 左手側が高く、右手に行くにしたがって低くなる。 片側が潰れた今川焼が浮いているみたいだ。高い 側はまだ白っぽい。雪が残っているのだ。船は低 い方へと向かった。人家らしき建物は潰れた側に 集まっていて、港付近がもっとも低い。  逆に言えば、島の高いほうは、なにもない。な にもないのだ。  船室の扉が開くたびに、凄まじい冷気とカモメ の騒ぎ声が飛び込んでくる。有人は船体側面の丸 窓から、正面側の窓へと移動した。皮肉なことに ここへきて天は晴れ上がり、有人の行き先を容赦 なく見せっける。防波堤、古い灯台。奥行きのな い狭い港に、まばらな人影が動いている。経年劣 化も甚だしい、フェリーの待合所と思しき建物。 掘っ立て小屋のような土産物屋。なにもかもが色 褪せている。それでもこれが島の玄関口なのだ。 発展している部類の場所なのだ。  車幅のない道路が一本、港から島の周囲を沿う ように走っている。道路は港の脇を過ぎると、す ぐに急勾配となる。その勾配の側面、到着する フェリーに宛てるように、補強コンクリートに文 字が書かれていた。風雪ですっかりベンキがかす んだ、寂れ切ったメッセージが。  『夢の浮島 照羽尻 ようこそ』  有人の膝から力が抜けていく。  奈落の底は真っ暗で、なにも見えなかった。あ たりの景色がわからなかった。でも今、光が射し て、すべてを照らし出した。  なんて寒々しい。  こんなところへ来てしまった。  ここが、奈落の底だ。  もしもあの囗がなかったら、こんなところにい ないのに。  「有人、飯だ」叔父がドアをノックしながら誘う。 「野呂さんからいただいたタラ鍋だぞ」  叔父のノックはだんだんと大きくなる。クレッ シェンドがつけられた部分を調子づいて叩くティ ンパニ奏者みたいだ。部屋のドアは薄い。放って おくと確実に蝶番が壊れるか、穴が開く。有人は ドアを開けた。  「一緒に食おう。鍋はみんなで囲むもんだ」  ティンパニ作戦が発動したら、有人は部屋を出 る。ドアが壊れては、自室に引きこもる以前の問 題になってしまうからだ。そしてどうやら叔父は、 承知の上で作戦を実行している。  トイレ妨害作戦から、なにもかも叔父の手のひ らの上だIやたらと急角度の階段を下りながら、 有人は前髪をかき上げた。  タラちりのいい匂いが鼻先をくすぐる。食卓の 上には簡易コンロが設置され、土鍋がふつふつと 煮立っていた。鍋底から浮かび上がる小さな気泡 で、だし汁の中の豆腐や水菜、長ネギ、キノコ類 が軽やかなリズムを刻んでいる。  「鍋ごと持ってきてくれたんだよ、野呂さん」  中身が入っだ土鍋持参で診療所を訪れる患者な んているのかと訝しんですぐ、いるから目の前で 鍋が煮えているのだと思い知る。  「前の道を港のほうへ行ったら野呂旅館ってある だろ? あるんだよ。そこの奥さん」叔父は野呂 さんとやらの説明を始めた。「娘さんとは、島に 来るフェリーで会ってる。覚えてるか?」  ダッフルコートの少女を、有人は思い出した。 向かいに座った叔父の背後に目をやる。壁にはカ レンダーが貼られてある。あの日から今日でちょ うど一週間たった。  「あの子は今年度から照羽尻高校二年生だよ。登 校すればまた会えるな」  有人は「そうなんだ」と呟き、煮えた具を片っ 端からとんすいに取った。  照羽尻島の叔父の家に同居するようになって。 一人でご飯を食べることはなくなった。叔父の診 療所は、午前が八時半から十一時半まで、午後は 一時から四時半までで、朝食夕食は叔父のティン パニ作戦で付き合わされるし、昼も今のところ、 診療所の休憩時間に帰ってくる叔父と軽いものを 食べている。照羽尻島診療所に赴任する医師のた めに用意された戸建ては診療所と隣接していて、 行き来は三十秒もかからないのだ。上日は診療所 も休みだが、叔父は平日と変わらぬ時間に起床し、 書斎で文献を読んだり、調べ物をしたり、パソコ ンでなにかの文書を作成したりして、めったに出 かけない。訊けば診療所用の携帯電話を一台持っ ていて、夜中だろうが休日だろうが、鳴れば対応 する構えなのだそうだ。  ほろほろと崩れるタラの白身を黙って囗にして いたら、叔父が言った。 「有人。鍵はかけなくていいんだからな」  箸が止まった。叔父は白滝をすすって長ネギを 噛み、とんすいとセットのレングで、そのままご 飯を頬張った。  「野呂さん、鍵がかかってたから、診療所に持っ てきたってさ」  「でも」  「なにも起こりやしない。この島で家に鍵をかけ る人はいないよ」  勝手に玄関のドアを開けて、声をかけて、返事 がなかったら上がり框に鍋を置いて、ただそれだ けだっただろうと叔父は笑った。  施錠について最初に指摘したのは、田宮という 島の配送業者だったらしい。らしいというのは、 有人が直接言われたわけではないからだ。部屋に 引きこもっているため、島民たちの言葉はすべて 叔父を介して伝わってくる。  ともあれ、田宮はこう言ったそうだ。  -川嶋先生さ、玄関の鍵、なしてかってるの よ? アマゾンからの荷物、入れとけないべ。  大手の配送業者は、離島の中までの配達は受け 持だない。一日に数便しか運航のないフェリーで 島内にやってきた荷物は中継業者の田宮が引き継 いで、各戸へと配達する仕組みだ。  一般的に荷物の配達は、配達員がドアチャイム を鳴らし、荷物と引き換えに受取人が伝票に印を 押す。不在であれば再配達だ。しかし、照羽尻島 ではその不在時の対応が違った。  もし在宅していなくても、田宮は玄関のドアを 開けて、荷物を家の中に置く。それが島では当た り前たった。誰も鍵をかけないからできるやりか ただ。玄関といえば、ポーチの部分が温室のよう にガラスで覆われた造りになっている。寒さや風 雪をしのぐためのもので、玄関フードというのだ と叔父に教えてもらった。島に隕らず、北海道で は珍しくないらしい。無論、玄関フードの戸も施 錠するなと釘を剌された。  ここは東京と違いすぎる。  「俺も最初は驚いたけど、今はそれだけ島民同士 信頼し合っているんだって思うよ」叔父はご飯を 平らげ、薄く澄んだ鍋の汁を飲んだ。「郷に入っ てば郷に従え、だ。鍵がなくても大丈夫だなんて、 平和じやないか」  先に食べ終わっても、よほど急ぎの用事がない 限り、叔父は席を立だない。有人に話しかけるこ ともあれば、ただ自然にそこにいるだけのことも あった。今日の叔父は後者たった。ゆったり微笑 んで有人がちまちま箸を囗に運ぶ様子を眺めたり、 背を丸めたり伸ばしたり、「明日の気温は何度だ ろう」などと独り言をこぼしたりした。  それから、ふいに体をねじり、背後のカレン ダーを見た。  「じきに入学式だな」  照羽尻島の風景写真がついたカレンダーの、三 日後のマス目に『有人 照羽尻高校入学式』と叔 父の字で書き込みがされている。  「……僕、行かない」  「わかった」叔父は咎めなかった。「おまえが本 当にそうしたいなら、休めばいい」  {……}』めん」  有人は食卓を立った。  照羽尻島へ来てから一週間、有人がなにをして いたかというと、実家から送られた衣類やごく簡 単な身の回りの物の片づけと、スマートフォンに 入れていた脱出ゲームだ。とはいえ、相変わらず 脱出の糸口はひらめかず、他のゲームをインス トールしようにも、叔父の家にWi-Fiルーターは なく、必然常時通信を要するゲームは諦めるしか なくなり、すぐに時間を持て余した。せめて漫画 雑誌でもと思い、コンビニで買つてきてほしいと 叔父に頼んだら、島内にコンビニはないと言われ て絶句した。 「商店なら二軒あるけどな。漫画も……まあ売っ ていたとは思うけど、なにがいいんだ?」  やっぱりいらないと撤回するのが精いっぱい だった。  朝刊も朝には来ない。配達されるのは昼近くだ。  四月なのに、島は東京の冬よりも寒かった。日 本海を渡ってくる風が強く吹きつけ、ときには雪 も舞った。部屋に備えつけの石油ファンヒーター は、就寝時以外稼働していた。東京なら花見の季 節だというのに、時間が二ヶ月遅れている感じ だった。  島の各所にスピーカーが設置されており、東京 では考えられないようなことでアナウンスが流れ る。たとえば『今日は燃えるゴミの日です』など。  叔父が診療所へ行って一人になると、有人は そっと部屋から出て、家の中をチェックした。保 護された野良猫が人気のないときを見計らって、 あたりの様子を確かめるように。叔父の住まいは 三角屋根の古ぼけた二階建てで、一階に茶の間、 風呂などの水回りに和室が一つ、二階は叔父の寝 室と有人にあてがわれた六畳間の二部屋たった。 和室は叔父が書斎として使っており、医療関係の 専門書籍やLANケーブルが挿さっだデスクトッ プパソコンがあった。どの部屋にもストーブがあ るかわりにエアコンはなかった。湯沸かしのガス ボイラーは、操作の仕方がわからなかった。トイ レは一見水洗だが、汚水槽で溜めているようだ。  茶の間のローテーブルの上には、受験に際して の面談時にもらった照羽尻島と高校、二種類のパ ンフレットがあった。あのときは見向きもしな かったそれに、有人は今さら遅いという苦みを飲 み下しながら目を通して、島についての大まかな 知識を得た。  北海道の北西部の後茂内港から日本海沖約三十 キロに位置する離島。島の周囲は約十ニキロ。人 口約三百二十人。基幹産業は水産業。小中学校は 一つで同じ校舎。高校も当然一つだ。  北海道本島とを繋ぐ交通手段はフェリーのみ。 そのフェリーの船窓から島を認めたときの印象は、 片側が潰れた今川焼だったが、俯瞰した全体像は、 なまくらな矢じりみたいだ。矢じりの根元の北海 道本島側に港があり、海岸沿いを道路がぐるりと 周回している。診療所も含めて、人の生活エリア は北海道本島側の道路周辺にとどまり、それも、 途中からは人家のない区域になるらしく、矢じり の先端方面は冬期車両通行止めになるとあった。 つまり先端側半分と、北海道本島とは逆のユーラ シア大陸側一帯は、人ではなく鳥の棲む場所なの だ。むしろ、鳥が主役の島の一部に、人が住みつ いている。  パンフレットによると、島では叔父が囗にした 『ケイマフリ』『ウミウ』『ウトウ』を含め、八種 類の海鳥が繁殖している、とある。  絶滅危惧種のウミガラスが、日本で唯一繁殖し ている島。  五月の末から七月上旬の繁殖期に見られる、ウ トウの帰巣シーン。  ケイマフリの国内最大の繁殖地。  鳥に興味のない有人にとっては、一つも胸に響 かない文句が並んでいた。  高校のパンフレットは、島そのものを紹介する それよりは薄かったが、写真をふんだんに使った フルカラーだった。しかし写真の多用は、それだ けリアルをつまびらかにする。  最初の見開きで写っている校舎は、木造の平屋 だ。屋根は水色のトタン。一目見て「古い」と思 わない人間はいないだろう。校内を紹介するペー ジでは、体育館の床がたわんでいるのがわかった。  カリキュラムの中に全学年で一緒に学ぶ『照羽 尻学』なる島の郷土学習と、実際に島で獲れた海 産物を使用し、加工して製品化する水産実習が組 み込まれているのが、普通の高校とは異なる特色 だが、有人はどうしてもそれを魅力的とは思えな かった。  最後のページに、生徒全員のコメントが顔写真 付きで載せられていた。  一年生は二人。  三年生も二人。  四人だけだった。  二年生はそっくりおらず、年度が替わった今、 三年生の二人は卒業している。つまり今年度は三 年生かいない。一年生の二人が二年生になり、一 年生は……何人なんだ?  今年に限って劇的に入学者が増えるはずがない。 自分を入れても間違いなく一桁だ。  こんな奈落の底に、東京から来た、しかも一年 遅れた生徒が入学したら、興味本位の目で見られ るだろう。好奇の目が万が一にも過去を見つけた ら、また嘲りが待っている。  やっぱり駄目だ、登校なんて無理だ。有人はそ の思いをますます強固にしたのだった。  入学式の囗、有人は宣言どおり家から出なかっ た。八時前に叔父が診療所へ出勤したあとで、茶 の間にまだ残されている照羽尻高等学校のパンフ レットを開いた。裏表紙を一枚めくった最後の ページを。  もう学校にはいない三年生二人はどちらも男子 だ。一人は短髪で凛々しく男らしい顔つきを哂し ており、もう一人はやや髪の毛が長めで大人しげ である。卒業後の二人の進路は不明たった。  一年生のほうは、男女の取り合わせたった。男 のほうは細面の黒縁眼鏡だ。神経質そうな顔立ち だが、髪型はトップがやや長めではあるもののス ポーツ刈りで、なんだか意外な感じがした。  そして、有人が見たかった唯一の女子生徒、野 呂涼。丸みを帯びた輪郭につぶらな瞳。鼻と囗が 小さめなので、瞳の大きさがなおのこと際立つ。 男子生徒が軒並み真面目腐って写っている中、彼 女だけが自然な笑顔だ。肌は隣の黒縁眼鏡よりも 程良く囗に焼けた色をしていて、健康的な明るさ が窺えた。  旅館の娘だと聞いた。ということは、この離島 で生まれ育った地元の子だろう。  偏見も甚だしいが、寂れた島にこんなに可愛い 子がいるのかと驚いた。フェリー内で会ったとき は、他人と目を合わせたくない気持ちが先に立ち、 しげしげと彼女の顔を見なかったのだ。  しかし有人は首を横に振った。この子一人のた めに登校するのは、馬鹿馬鹿しい。明るそうなこ の子なら、話しかけてくる。東京でのことを訊い てくるかもしれない。詳しい説明は囗が裂けても したくない。  有人は深々とため息をついた。引きこもるのな ら東京の自室でも叔父の家でも同じと、来てみる 前は思ったが、同じなら頑として突っぱねたほう がよかった。コンビニもない、朝に新聞も来ない、 Wi-Fiもないなんて、まるで流刑地だ。  有大は自室へ戻り、ファンヒーターの温度設定 を二十度に下げて布団に潜り込んだ。昼寝は日課 のようなものになっていた。 「いないのかなあ?」夢うつつの中、有人の耳は 聞き覚えのある声を捉えた。「川嶋有人くん、い ますか? いますかあ?」  「涼ちゃん、無理っぽくね1かな」制したのは少 年の声だ。「俺、親父から聞いたけど、先生の 甥っ子さんつてさあ……」  「そんなの、私だって知ってるけど。マコトくん は会いたくないの?」  「なまら会いて1.同級生だぜ?」  そこに、もう一人の声が加わった。「とりあえ ず、今日は止めておこう」やや高めだが、落ち着 いたトーンだった。「来なかっだのには理由があ るはずだ。それは僕らにはわからない。具合が悪 くて欠席したのだとしたら、起こすのは申し訳な い」  「そっか。そうだね」  「涼ちゃん、「ル先輩の言うことなら聞くよな あ」  「だって、一番間違いないでしよ」  彼らの声が遠ざかっていく。  有人は布団の中で完全に目を覚ましていた。小 さくなる声のあとを追うように、窓に顔を近づけ る。二重窓の内側を開け、外側の窓ガラスの結露 を一部分手で拭き取り、そこに片目を押し当てた。 四つの人影が、道路へ向かって歩き去っていくの が見えた。彼らは二手に分かれた。一人がまだ車 両通行止めになっているはずの海鳥の居住区方面 へ、あとの三人は港のほうへ。  三人の真ん中で歩いている子は、紺色のダッフ ルコートを着ていた。  野呂涼。二年生に進級したはずだ。  それでは、一緒にいた彼らは、照羽尻高校の生 徒だちなのだろうか?  叔父のティンパニ作戦が開始される前に、有人 は茶の間に下りた。夕食の支度をする叔父を突っ 立って見ているのもどうかと思い、配膳の手伝い をする。  「助かるよ、有人。冷蔵庫に岸さんからもらった ニシン漬けがあるから、出してくれないか」  叔父が焼いているポッケも、いただき物だとい う。叔父がなにも手にしないで帰宅する囗は、ほ ぼなかった。  ご飯をよそい、豆腐とわかめの味噌汁を並べ、 叔父が焼いたポッケに大根おろしが添えられた皿 をテーブルに載せる。 「ありかとうな」  律儀に礼を言われて、有人は面映ゆくも情けな い気分になる。幼稚園児の手伝いみたいだ。  「……叔父さん。高校の新入生って、何人いるか 知っている?」  「三人だな」叔父は訊きもしない情報まで教えて くれた。「斎藤誠くんは、照羽尻島で生まれ育っ た子だ。三月に卒業したお兄さんと入れ替わりだ な。東村桃花さんは札幌から来た子で、寮に入っ たと聞いた。なかなかのスレンダー美人だぞ。そ しておまえだ」  マコトと呼ばれていた少年も確かにいた。 「じやあ、全校生徒は五人?」  「ある意味贅沢だ」叔父はポッケの身を骨からき れいに外した。「教師の目が行き届くのが売りに なる時代たしな。照羽尻高校なら、ほとんどマン ツーマンの授業ができる。なにせ、教員の数のほ うが多いんだ。だからといって、彼らの質を疑う のは失礼だぞ。俺はみんなを知っているけれど、 実に熱心で生徒思いだよ」  できない課題やわからない問題を、他の二名の 前で明らかにされて、手取り足取り指導されるの を見守られるのか。公開処刑じやないか。想像し て、有人はぞっとする。 「今日、四人がここに寄ったらしいな」 「なんで知ってるの?」 「診療所にも顔を出していったから」叔父はホッ ケに醤油を垂らした。「残念がってた。おまえに 会いたかったって」  有人は黙っていた。  「やっぱり、行かないか?」  無言を続け、箸でポッケをひと切れつまむ。  「そうか。じやあ明日から診療所の手伝いをして くれないか」  ポッケが箸からこぼれて、床に落ちた。  「猫がいたら食われているかな」叔父はお経のよ うに淡々と言葉を継いだ。「ここの診療所、案外 忙しいんだ。もちろんやってもらうことは法に抵 触しない範囲。昼休みと診療終了後、そうだな、 それぞれ三十分でいい。おまえが待合室の掃除や 本や雑誌の片づけをしてくれたら、助かるんだけ どな」  他の時間は今までどおりにしていていいからと、 叔父は引く気配がなかった。あげくの果てには 「白衣の俺も見てくれよ」とウインクする始末だ。  「……わかった」  有人は根負けした。  高校に登校するかわりに、有人は一日に二回、 午前と午後それぞれの診療時間終了に合わせて照 羽尻島診療所へ行くこととなった。  掃除といっても、ごく簡単なものだ。本式の清 掃は、診療所が開く前に、通いの看護師、桐生が 済ませている。桐生看護師は六十代半ばの女性で、 午前十一時半過ぎに訪れた有人を見るや「あんた が先生の甥御さんね。いやあ、会いたかった。嬉 しい」と、笑いながら肩を叩いてきた。  待合室にはまだ二人の患者が残っていた。どち らも年配の女性たった。そのうちの一人の手には、 薬の紙袋があった。  「あなたが有人くん?」 「照羽尻高校に入学したんでしよ?」  見ず知らずの人間に、高校のことを知られてい るのが理解できず、有人は首を前に突き出すよう な会釈をして、すぐさま目を逸らした。  診療所の内部は、実に簡単な造りだった。道路 側に面したすリガラスの引き戸から入ると、普通 の一軒家よりはやや広めの玄関があり、そこでス リッパに履き替える。そのまま進むと、十二畳ほ どの待合室だ。入り囗側から見て待合室の右手に はレントゲン室とトイレのドアが、左手には診療 室と処置室のドアがあった。診療室と処置室のド アは開け放たれていて、奥の窓越しに叔父と有人 の住む家が見えた。小さく細長い事務室が玄関脇 にあり、待合室とは受付カウンターで仕切られて いた。二階はなかった。  待合室に残っていた二人のうち、一人が受付カ ウンターで会計を済ませた。もう一人は順番待ち かと思っていたら、二人は叔父に病人とは思えぬ 明るい挨拶をして帰っていった。患者らがいなく なると、医療事務員らしき四十路がらみの男が、 カウンターの向こうから有大に笑いかけてきた。  「俺は森内。よろしく」  人のいなくなった待合室を、しげしげと見やる。 壁の掲示スペースには、血圧管理や食生活、生活 習慣病予防など、健康管理を啓蒙するパソコンで 作ったらしい貼り紙が複数あった。暇潰しに眺め るテレビがないかわりに、大きく育ったベンジヤ ミンとパキラの鉢が目を引いた。  ともかく、父が営んでいる病院とは、比べもの にならないささやかさだった。とりあえず、『診 療所はあります』という既成事実をつくるために 存在しているように見えた。ここでもし、一分一 秒を争う、命に係わる患者が発生したらどうする のか。離島だ。救急車すらないのだ。  道下が昏倒している光景が脳裏をよぎった。 「有人、来てくれたか」叔父が診療室から出てき た。「まずはそこらに出ている雑誌類をラックに 揃えてくれないか」  「助かるわ」  桐生は言ってくれたが、そんなに散らかっては いない。有人はのろのろと手近な女性週刊誌に手 を伸ばした。  桐生はお喋りだった。有人はなにも話さず、相 槌もろくに打だなかったが、彼女は構わないよう だった。だから、待合室の長椅子に置きっぱなし の雑誌や一日前の新聞を整頓している間に、彼女 の来歴はおおむね頭に入っだ。  照羽尻島出身で、独身。後茂内町内で下宿しな がら高校へ通い、看護専門学校で看護師の資格を 取ったこと。ずっと旭川市内の総合病院に勤務し ていたこと。六十歳で退職し、のんびり余生を送 るつもりで島へ帰ってきたこと。  「でもね、道から派遣される看護師が産休に入っ ちやって。後任も決まらなくて、それで」  離島の診療所でも、医師一人だけではさすがに 上手く回らない。一月から急きよ駆り出されたの だと、桐生は嫌味なく笑った。  「この歳で必要とされるのは嬉しいものよ」  薄い水色のナース服に、紺色のカーディガンを はおる桐生は、小太りな体型で口数も多かったが、 身のこなしは機敏たった。  雑誌類の片づけを終えた有人に、叔父は「観葉 植物の葉っぱを拭いてくれ」と、どうでもいい作 業を押しつけてきた。約束した三十分を満たして いなかったので従う。桐生と森内は、いったん島 内の自宅へ戻った。  『……y』y』で、たとえば心筋梗塞とかくも膜下出 血とか大動脈解離とか、そういう病気の人が出た らどうするの?」  叔父はいい質問だというように頷いた。 「119番だ。救急車が来ないかわりに、ドク ターヘリが来る。ヘリだったら直接旭川医大に行 くから、受け入れ先が見つからず救急車で札幌市 内をたらい回しにされるよりも、むしろ速いぞ」  叔父はヘリ搬送の速さを強調したが、それだと  一番の手柄をドクターヘリに取られるみたいな印 象を受けてしまい、有人は話題を変える。  「……さっきの薬持つてたオバサンたちつて」  「島には薬剤師がいないから、俺が処方して調剤 して説明もして渡してるんだよ」  「いや、そうじゃなくて」有人はベンジヤミンの 葉っぱを一枚ずつ拭いていく。「僕のことを知っ てた。高校に入学したとかも」  「島のみんなが知ってるぞ、おまえのこと」  「えっ……そうなの?」  なにもせず、ずっと部屋に引きこもっているだ けなのに? 動揺する有人に、叔父はふと真面目 な顔になった。  「ここは小さな離島だ。みんなが顔見知りなんだ から、大抵のことは伝わってしまうよ。誰が風邪 をひいた、誰がどこの店でなにを買った、どこの 旅館にどんな客が泊まっている……あっという間 さ。高校だって一つしかない。新入生は三人。う ち二人は島外から来る。どんな子だろうって興味 を持たれて当然だ。おまえは俺の甥っ子たしな」  「叔父さんが言っだの? 甥の有人が来ますっ て」  「受験に際して校長先生には相談した。でも、東 京から来ている同姓の子が入寮もせずに俺の家に いるんだから、そりゃ言わなくても親戚だってバ レるだろう」  入寮しないと決まってからは、新入生の一人は 甥であることを隠さなかったと、叔父は言った。  「必ずバレることなら、最初から話しておいたほ うが潔いだろ。まあ、なにはともあれだ」  この島は一つの宗族みたいなものだ。びっくり するほどお互いを良く知り合っている。東京と同 じには考えないことだと、叔父は忠言した。  「そういうところもあるってことだ。大丈夫、住 めば都だよ」  閉じこもっている部屋の壁が、急に頼りないも のに思えてきた。ドアを閉めて膝を抱えて小さく なっていたところで、この島の人たちにはその姿 が見えている、知られている。SNSで爆発的に 拡散される情報より速く、この島内でのあれこれ は島民に行き渡るのだ。  翌日有人は、島内での情報伝達力のものすごさ を改めて突きつけられた。  昼の時間帯に診療所を訪れると、待合室には十 数名の島民が残っていた。昨日顔を見た二人の女 性、それから彼女らと同年代の人々。  今日はこんなに体調不良者が発生したのかと思 いきや、彼らは元気いっぱいで、口々に有人に声 をかけてきた。  「いやあ、有人くんなの。初めまして。やっと顔 見れた」  「川嶋先生には本当にお世話になってるのよ」  「何年もうちらを診てくれてありかたいわ。前の 先生たちはみんなすぐ辞めてったのに」  「若いのに大した先生だ。本島にお弟子さんがい るくらいだもんな。あの医大生の」  「なしたの、その髪。うちで切ってあげるからお いで」  「高校は行かんくていいの? 先生のお手伝いす るの?」  硬直していると、叔父がやってきて助け舟を出 してくれた。  「皆さん、昼休みです。彼もこれからここの掃除 なので、いったんいいですか?」  叔父の一声は驚くほど効果的たった。 「そうね。先生もお昼食べなくちや」 「また来るから」  誰一人気を悪くした様子もなく、帰って行った のだった。  「有人、やることは昨日と同じだ。頼むな」  「叔父さん、今の人たちは……」  患者じゃなかったのかと言葉にするまでもな かった。叔父は一つあくびをしてから答えた。  「具合が悪くなくても、来てくれるんだ」  「川嶋先生、島のみんなから大人気だから」看護 師の桐生が囗を挟んだ。「元気だから、診療所ま で先生に会いに来るの。今日は有人くんにもね」  事務室からも森内の声が飛んできた。「おば ちやんやお年寄りのいい社交場になっているんだ。 いつも来る大が来ないと、逆に心配になる」  「でも、今日はひときわ多かったのよ。有大くん がお掃除に来るって島のみんなの耳に大ったから。 用事があるって仕方なく帰った大もいるくらい。 会いたかった、残念だって言ってたわ」  帰った人の名前を数大桐生は連ねたが、覚える 気にはならなかった。 「でも、また来るって。良かったねえ」 -逃げ場がない。 有人は思い知った。 -ここでは一人になれないんだ。 五月になった。 囗陰に残っていた残雪もほぼとけ、港の反対憫 人家のない区域へ至る道路の冬期通行止めも、既 に解除された。解除された日、有人はその報せを スピーカーからの大音量で聞いた。  相変わらず一度も高校へは登校しておらず、診 療所の片づけめいたことを続けているだけの毎日 たった。  この作業がはたして必要なのか。有人は甚だ疑 問たった。観葉植物の葉も、一日ではそうそう埃 もかぶらないし、雑誌類の散らかりは、日を追う ごとになくなっていった。かわりにいつも誰かし ら有人の来所を待っている島民がいて、島の暮ら しはどうだとか、学校のみんなはどうだとか、聞 きたくもないことを喋りかけてきた。  学校といえば、先日は照羽尻高校の生徒たちも、 診療所の受付が終了する午後四時半を狙いすまし たかのように訪れたのだったI。  先陣を切って戸を開け、診療所に大ってきたの は、野呂涼たった。  「川嶋有人くんだよね? 私、野呂涼。覚えて る? フェリーで会ったよ」  涼はてらいのない笑顔を振りまき、後ろからつ いてきていた他の生徒を紹介しだしたので、有人 は照羽尻高校全校生徒を覚えてしまった。  「おう、よろしくな」と明るく片手を上げたのが、  一年の斎藤誠たった。申し分のない上背に筋肉を 感じさせる体躯、短髪は、まるでエリートスポー ツ選手を思わせた。直線的な眉や力のある目つき に既視感を覚え、次に彼の兄の写真をパンフレッ トで目にしたためだと気づいた。誠の手は大きく、 そしてなぜか小さな傷がいくつもあったが、本人 にそれを気にしている様子はまったくなかった。  二年の八木陽樹は「初めまして」と礼儀正しく 一礼し、有人の横をすり抜け、「少し時間過ぎて いますが、お願いできますか?」と森内に声をか けてから、受付で手続きをし始めた。黒のロング ダウン姿でも厚みを感じられない体型は、有大と 似通っていた。正面からは証明写真のテンプレー トみたいに特徴のない顔貌だが、黒縁眼鏡を乗せ る鼻筋は存外しゆっと通っていて、横顔に近くな ればなるほど端整な印象に変わった。  一年の東村桃花は「で、この子が桃花ちゃん ね」と涼に言われたときも、有人にこくりと頭を 下げただけで、なにも言わなかった。切れ長の目 にショートカット。シャム猫を思わせる小さくて 整った顔が、細身の上に乗っている。トレンチ コートを着て立つ姿は、モデルも裸足で逃げ出す ほどスタイルが良かった。踵のある靴を履けば誠 とほぼ変わらない身長の彼女に、無言のまま見下 ろされ、威圧感を覚えた有人は、思わず床に目を 落とした。  「(ルくんが診療所に寄るっていうから、みんな で来たんだ。あ、ハルくんと桃花ちゃんは札幌か ら来てるの」  陽樹の(ルなのだろうなと考えながら、有人は 自分が履いているスリッパの爪先に視線をやって、 涼先輩-本来は同学年なのだがIの言葉に小 さく首を縦に動かした。  「有人くん、なにしてるかなあって、うちらでい つも話してるんだよ」  不在の場で自分が話題になっていることには、 マイナスの想像しかできなかった。有人がますま す顔を俯かせると、(ル先輩は用事を終えたらし く、薬の入っだ白いビニール袋を手に他の三人の ところへと戻り、四人は帰って行ったI。  とにもかくにも注目され、話のタネになってい る。こんな離れ小島に来たというのに、東京にい るときよりよほど人の気配が肌に剌さる。たまら なく息苦しかった。  だから有大はその日、昼休みの手伝いを終える や部屋には戻らず、島に来て初めて日中の道を自 分の足で歩いたのだった。港のほうではなく、矢 じりの形をした島の突端、海鳥の住むほうへ。  叔父の家と診療所から動かぬうちに季節は進み、 晴れた空から降り注ぐ日差しは強く、有人の目は くらんだ。雪に隠れていた片側一車線の道は、今 やすっかリアスファルトが出ていて、道脇には緑 も萌えていた。道路は緩い上りで、進むごとに本 当に人家はなくなっていった。左手には海が見え、 さらにその先には、海岸沿いに風力発電の大きな 白い風車が並ぶ、北海道本島の沿岸までが認めら れた。  右手は低木の樹林帯たった。樹高は高いもので も五、六メートル程度だ。こちらもうっすらと萌 黄色の靄が裸の枝を包んでいて、陽光を柔らかく 受け止めている。樹林帯の中へ続く踏みしだいた 細道の脇に、『マムシに注意』と書かれた看板が 斜めに倒れ掛かっていた。  運動不足で衰えた脚をなんとか動かす。カモメ が騒いでいる。上り道だから当然なのだが、有人 はいつしかかなり高い場所に来ていた。海が下に 見える。風はそう強くないが、遮るものもないの で、有人の長い髪の毛はひどく乱れた。  そのうちに、ようやく展望台の入り囗らしきと ころへ辿り着いた。板張りの小さな平屋の横に、 車が数台停められるスペースがある。建物内は無 人のようだ。駐車スペースにも車はなかった。奥 の方に灯台に似た白い塔があり、そちらへと進む。  手すりがついた細長いコンクリートの通路が現 れた。通路は地面よりもやや高めに造られていて、 ところどころ鳥の糞が落ちていた。通路の脇を見 やると、ソフトボール大の穴が地面にびっしり穿 たれており、ぎょっとする。手すりのすぐ外側に は、木でできた案内板が複数あった。それらには 『ウミガラス』『ウトウ』といった海鳥の解説が書 かれていた。さすがに風を強く感じた。ジグザグ に折れた通路と、いくつかの段差を経て、最後は 長い下り階段を踏破し、有人はとうとう四角いバ ルコニーのような展望台へと出た。  一番前まで行って、手すりを掴む。風が有人の 髪をなぶる。海鳥があちこちを飛んでいる。  展望台は海に突き出るようにあった。矢じりの 切っ先に位置するのだろう。階段を下ってきたは ずなのに、海面までまだ百メートル近くはありそ うだった。恐る恐る身を乗り出し真下を覗くと、 崖の岩肌に波が打ち付けているのが見えた。濃い 青色の海は、島に近い岩礁のあたりで深い藍色に 変わり、インクを滲ませたような模様をつくり上 げている。さらにその藍色の周囲には、青よりも 緑に近い色が漂っているのだった。  有人は通路を逆に戻り、さらに周回する道路の 道なりに足を延ばした。今度の道は、矢じりの ユーラシア大陸側を少しずつ下る。しばらくする と、海鳥観察舎なる掘っ立て小屋に辿り着いた。  北海道大学の研究室が毎年海鳥の調査に訪れて いることを、叔父がなにかの折に話していたかも しれない。だが今、掘っ立て小屋は無人たった。 中の壁には照羽尻島の海鳥についての情報が書か れた図表がいくつか、さらには窓の外へと向けら れた望遠鏡が設置されていた。  覗き込んでみる。鳥よりも、鳥が巣づくりをす る断崖絶壁に目を奪われた。レンズの先に見える のは、まるで人の手が大っていない景色たった。 人家に近い道端では少しずつ生え始めていた緑で すら崖は頑として拒み、荒々しく鋭い岩肌をもっ て「近づくな」とあたりに睨みを利かせている。 そこに行けるのは、海鳥だけなのだ。  誰も触れない。まるで、最初から人がいなかっ たかのようだ。照羽尻島の断崖は、人がこの世に 出現する以前で時が止まった太古の光景たった。 ただその日を、海鳥が生きているだけだ。  昨日も同じ。今日も同じ。おそらくは、明日も 変わらない。  時が止まっているのなら、未来も考えなくてい い。  有人はその場にへたり込んだ。  風と波のハーモニーに合わせて、海鳥も鳴き交 わしていた。天上に抜けるような高く澄んだ鳴き 声たった。いまだかつて聞いたこともないその声 に、有人は目を瞑って聴き入っだ。  「あれ1、有人くんじやん?」  振り向くと、そこにいたのは涼先輩ら照羽尻高 校の四人たった。  「こんなところまでお散歩? 自転車なかっだけ ど使わずに来だの? すごいね」  なんで高校生の一団が連れ立ってここに来たの か。尋ねたいが気後れしてしまう有人は、下を向 くしかない。(ル先輩は有人などそっちのけで、 望遠鏡の接眼レンズに眼鏡を押しつけた。涼先輩 はそんな(ル先輩を指さして、「今日は(ルくん についてきたの。いい天気だし、桃花ちゃんも展 望台まだ行ったことがないって言うから」と勝手 に説明してくれた。  「おまえ、見かけによらずアクティブなんだな」 横から話しかけてきたのは誠たった。「やっぱ海 鳥に興味あんの?」  海鳥に興味があるのではなく、人の気配から逃 れたくて、たまたま辿り着いた場所がここだった などとは言えない。しかし、だんまりを決め込む 有大をものともせず、涼先輩と誠は親し気に話し かけてくる。  「鳥が好きなら、「ルくんと話が合うんじやな い?」  「おまえもオロロン鳥の鳴き声聴いてみたいと か?」  「海鳥つてね、一夫一妻で仲いい種類が多いんだ よ」  有人はひたすらうなだれる。  「オシドリ夫婦つて言うけど、オシドリはむしろ 相手を変えるんだって。(ルくんに教えてもらつ た。ね、そうだよね」  (ル先輩は望遠鏡にかじり付いて、返事をしな かった。涼先輩も気にしていない。だが有人は自 分の態度を棚に上げて、無視された形の涼先輩を 気の毒に思った。だから、なけなしの勇気をかき 集めた。  「……学校に行かなくていいし、お腹が空いたら 適当に魚獲っていればいい」声が上ずり、意図せ ず大きくなった。「気楽に自由に生きてる。そう いうところは羨ましい」  すると、ハル先輩がいきなり振り向いた。  「鳥、舐めるな」  黒縁眼鏡を通しても、今の発言は不愉快だと はっきりわかる眼差しに、さすがの有人もいい気 はしなかった。好きなときにものを食べて、好き なときに眠る。クラスメイトからの白眼視もない。 気楽以外のなにものでもないじやないか。自分の 意見は間違っていない。  だが、反論はしなかった。反論七人と人とのコ ミュニケーションだ。そういったことから遠ざ かって久しい有人は、ただ黙って海鳥観察舎を後 にした。  「有人くん、待って」涼先輩が追いかけてきた。 「あのね、ウトウの帰巣って知ってる?」  先はどの気まずい空気を引きずったまま帰らせ ないという、涼先輩の優しさが酌み取れたので、 有人は少し顔を上げ、長い前髪越しに彼女の愛ら しい顔を見る。あの感じの悪い眼鏡よりも自分を 選んでくれたのが、少し嬉しかった。  「……。パンフレットに書いてあったかも」  「それ必見だよ! それ目当てに来る観光客もい るんだ。うちの旅館七時季になると予約混むもん。 ね、有人くんも見においでよ。絶対見たほうがい いよ。展望台のあたりがめっちやいいスポットな んだよね。うちらも毎日は行かないけど、たまに は行くし。なんなら一緒に行かない?」  「ウトウの帰巣? ああ、あれはいっぺん見とい たほうがいいわ。この島じゃなきや見れないもん だもん」  「あれだ、涼ちゃんの同級生。陽樹。去年陽樹は 何回通ってたべかな」  桐生も森内も、帰巣シーンは見るべきだと言っ た。  叔父によると、ウトウの子育てのピークが一番 見ごろで、五月だと末でもやや早いかもしれない とのことだったが、そのぶん観光客も多くないか ら、ゆっくり観察できるだろうと、メリット面の 補足も忘れなかった。  -一緒に行かない?  涼先輩がわざわざ誘ってくれた。有人はその事 実を宝物のように胸の内にしまい込み、ときおり こっそり取り出しては磨きをかけた。なんだかん だで部屋の中で一人でいるのが一番楽だし、自分 に対する涼先輩の距離の近さにもいささか戸惑う が、それでもこの島で唯一好意めいたものを抱く 相手は彼女だけだ。  一度だけなら、見ていいかもしれない。  心が傾き始めたころ、叔父が田宮さんから聞い たんだがという前置きのあとに教えてくれた。  「早いところでは雛が孵り始めたらしい」  配送業のかたわら、田宮は観光客を車に乗せて 島を案内する副業をしているのを、有人はこのと き知った。  「つまり、ウトゥの帰巣が見られる。もし行くな ら、その日は夕方の片づけは休んでいいぞ」  それから数日後、小雨降る中、診療所に涼先輩 と桃花がやってきた。  「誠くんのお父さんが言うには、明日、天気いい みたいなんだよね。で、桃花ちゃんにも例のあれ を見せに明日展望台に行くんだけど、有人くんも 来ない? 一緒に見ようよ」  しぶしぶと泣く空か明日笑うとは思えなかった が、涼先輩は何度も「行こう、行こう」と誘う。  一度だけだI有人は意を決して頷いた。長い 前髪がばさりと揺れた。  承諾したことに、涼先輩は有人が瞠目するほど 喜んでくれた。桃花に無理やり両手の(イタッチ を仕掛け、「放課後迎えに来るね」と弾む声を残 して帰って行った。  誠の父親の読みどおり、当日は朝から見渡す限 りの青空たった。午後四時近くに涼先輩がやって きて、玄関から「有人くん行くよ」と呼ばれた。  俯き加減で玄関を出ると、涼先輩と桃花のほか に誠もいた。自転車で来ている。  「「ルくんは先に海鳥観察舎のほうへ行ってるん だ。帰巣が始まったら見に来ると思う」  「川嶋先生、チャリ持ってないよな。おまえ、俺 の後ろに乗れよ」  有人は自転車の二人乗りをしたことがなかった。 ぐずぐずしていたら、「早く座れって。これ、電 動アシスト付きだから、おまえみたいなひょろガ リ余裕だから」と手ひどい言葉で促された。  恐る恐るリアキヤリアに跨ると、誠は元気に立 ち漕ぎを始めた。涼先輩と桃花も続く。誠は見た 目そのままに体力には自信があるようだ。電動ア シスト付きとはいえ、後ろに人一人という荷物を 載せて、緩く上る坂道をリズム良く漕いでいく。  「なんまらいい天気! やっは、親父すげ11」  空に向かって誠が吼えた。どうやらこの誠とい う奴は、高校生にもなって父親に心酔しているら しい。有人は自分の父親をすごいと思ったことな ど一度もなかった。  誠の父親はなにをしている人なのか。芽生えた 疑問も、言葉にはできない。怯んでしまう。有人 はそれを風と自転車のせいにする。どうせ風を 切って走る音で聞こえやしないと。  展望台が見えてくる。  潮の匂い、若い緑の匂い、土の匂い。誠のウイ ンドブレーカーの匂い。カモメの鳴き声。ペダル を踏むごとに唸るチェーン。太陽の方角を見る。 囗はまさに展望台からそのまま真つ直ぐ先を目指 して、隠れる準備を始めている。落ちていく陽は、 光の中に少しずつ金を含ませる。夜が忍び寄りつ つある東の空は、真昼より青が濃い。青とも紺と もつかぬ、闇と晴天のはざまにある色は、かつて 叔父と乗った飛行機から見た空を思い出させた。  宇宙が少しだけ透けている色だ。  展望台の駐車場に着いたとき、さすがの誠も少 し息が荒かったが、スタンドをロックする足さば きは軽快だった。白いバンが一台停まっていた。 涼先輩が「うちの旅館に泊まってる人だと思う。 田宮さんに案内してもらうって言ってたから」と ウィンドウの中を覗き込んだ。  ウトウの帰巣はもう少し囗が暮れてからだと涼 先輩が言うので、それまで展望台で時間を潰す。 老夫婦を伴った田宮が先にいて、あれこれと解説 をしている。  「土にいくつも穴があるでしょう? あれ、全部 ウトゥの巣穴なんです。あの中で卵を産んで孵す んです。親鳥は日中海に出て、雛のための小魚を 獲ります。その親鳥たちが、日が暮れるころ、一 斉に自分の巣穴へ戻ってくる。たっぷりの小魚を 咥えてです」  「こんなにいっぱい穴があるのに、迷わないのか しら」  心配そうな夫人に、田宮は我が事のように「大 丈夫です」と胸を張った。  風は徐々に強くなってきている。有人の伸びた 髪がメデューサの蛇のごとく暴れ回り、目や頬を 叩く。水平線に迫る太陽は、いよいよ黄白を帯び た金と化し、輝きの帯を海に横たわらせる。東か らは夜が迫る。  いつの間にか、(ル先輩もやってきていた。片 手で手すりを握り締め、天を仰いでいる。  「あ、あそこ」  涼先輩が指をさした。最初の一羽は、ほんの小 さな黒い影たった。それが宵闇の群青を抜け出し て、こちらへと飛んでくる。その影がはっきり海 鳥だとわかるころには、他の個体も空に舞ってい るのだった。  まるで、空から生まれるように、ウトウはみる みる彼方から現れ、こちらへと近づいてくる。鳥 目という言葉を疑うほど、彼らの飛翔は速かった。 そうして島の近くまで来ると、自らの巣の位置を 見定めるように、しばし空に弧を描く。  暮れる空を仰いで彼らの動きを追っていると、 眩暈のような感覚に襲われる。それほど空か広 かった。  「きやっ」  桃花の声を初めて聞いた。想像していたよリ( スキーだなと思うと同時に、なにが起こったのか と身構える。桃花は長身を竦めていた。田宮と一 緒にいる老夫婦も、驚いた顔をしている。  理由はすぐにわかった。ウトウだ。巣に戻る彼 らは、信じられないほど無鉄砲たった。普通の鳥 のように着地直前に羽ばたきでスピードを落とす などしない。ウトウたちはまるで地面に自ら激突 するかのように地に降りるのだった。  「ウトウは着地が下手なんですよ」  田宮が老夫婦に説明している。  「怪我しないのかな?」  桃花の呟きに、誠がすぐさま答えた。「案外平 気なんだってさ」  また一羽、地面に突つ込んだウトウが、素早く 身を立て直し、自らが帰るべき巣穴に向かって歩 き出す。くちばしの限界まで小魚を咥えた彼らに、 カモメがちよつかいを出す。獲物を掠め取ろうと いう気だ。  「オオセグロカモメは、巣穴の中の雛も狙うんだ ぜ」  誠が桃花にあれこれ教えている間にも、ウトウ はひっきりなしに落ちてくる。  爆弾みたいだ。有人がそう思ったときだった。 どすん、という音が近くでした。  「「ルくん?」  涼先輩が声をあげた。さっきからずっと黙った ままたった(ル先輩が、棒のように倒れている。 もはや、僅かな残光しかない夜のはしりの中でも、 雪みたいな顔色が窺えた。彼は具合が悪そうに囗 に手を当てた。その姿に道下が重なる。  「こりゃまずい」田宮が駆け寄る。「車で診療所 に運ぶべ。すいません、いいですか?」  老夫婦は「もちろんです」と田宮に続いた。( ル先輩は田宮に担がれ、老夫婦とともに展望台を 去った。涼先輩が「大丈夫かなあ」と心配顔をし ている。「いつものアレだろ? 死にはしね1よ」 と誠が返す。その声が遠い。道下。彼女は今どう しているだろう? 自分と一緒にまともな未来を 失った道下。  あの囗さえなかったらI。  と、有人の頬を衝撃が襲った。無様に尻もちを つく。なにごとかとあたりを見やると、一羽のウ トゥがよちよちと歩き去ろうとしていた。  「えっ、有大くん?」しゃがんだ涼先輩の顔が間 近だ。「もしかして、ウトゥに激突された?」 「おい、大丈夫か」誠からも声がかかった。「こ こがわかるか?」  「……わかる」  痛かったが、どうやら血は出ていない。ただ、 頬から髪の毛がべたべたした。意識が明瞭だと知 ると、薄情なことに誠は大笑いした。  「マジかよ、マジかよ。ウトウにぶつかられたっ てか? だっせ1」  -だっせ。  あの囗背中に投げかけられた棘を、誠の朗々と した爆笑が吹き飛ばす。  「鈍くせ1な、おまえ!」力強い腕が有人を引き 起こした。「今すぐ風呂入れよ。くっせ1わ」  -くっせ1んだけど。  またしても思い出される言葉の刃を、誠の陽気 さが引つこ抜いて海に放り投げる。「海鳥はく せ1んだよ。脂くせ1の。ほら来いよ」  確かに、なんとも言えない独特な臭みが、頬と、 頬を触った手からする。  自転車の後ろに有人を乗せた誠は、来た道を全 力で下った。あまりに飛ばすので、リアキヤリア から手が離せなかった。振り返ると、遠くに二つ のライトが追ってきていた。涼先輩と桃花だ。  診療所には明かりが点いていた。念のためだと 誠は言い、そのまま診療室に行かされる。横の処 置室のベッドでは、(ル先輩が点滴を受けていた。  叔父は一目見てIいや、嗅いでだろうかI なにが起こったのかを察したようだ。簡単な診察 を受けたのちに、ただの打撲で大したことはない と、太鼓判を押した。  「腫れてくるようなら、風呂上がりにでも冷やし とけ。誠、悪いがボイラーやってくれないか。有 人はここでガスをつけたことがないんだ」  「え、マジで? 了解。じゃ先生ありがとう。先 輩お大事に」  誠はそれぞれに一声かけて、有人を引っ立てた。 そして叔父の家の玄関を勝手に開けて、我が家の ように中へと入り、有人をボイラーの前に立たせ た。  「……図々しくない? 人んちだよ?」  「じやあ水風呂入るのかよ。見とけよ、こうやる んだよ」  誠は手順を指南しながらボイラーを稼働させて くれ、有人は無事体と髪をきれいにすることがで きた。海鳥の脂と臭いを落として、湯を浴びて温 まると、人心地がつくとともに、夕刻から自身が 見たもの、聴いた音、五感で受け止めたすべてが のしかかってきて、疲弊を感じた。しかしそれは、 嫌な感じではなかった。有人は頭を振り、伸びた 髪を後ろにやって風呂場を出た。誠はもういな かった。  部屋に戻ってパジャマを着て、髪の毛を乾かそ うともう一度階下へ下りる。  「うっそ」  涼先輩たった。やっぱり玄関の戸を当たり前に 開けて、たたきまで入ってきている。  「大丈夫だったかなと思って、来てみたんだけ ど」涼先輩は濡れた髪の毛をオールバックのよう にしている有人を見て、目を輝かせたのだった。 「有人くん、かっこいいじやん! 前髪長いのよ りずっといいよI イケてる! めっちやイケて る! ねえ、髪切りなよ。絶対そのほうがいいよ。 うちの旅館のすぐそばに吉田理容店ってあるの。 私、安くしてあげてって言っとくね!」  かっこいい。イケてる。有人は頬が熱く火照る のを感じた。打撲のせいではない熱たった。涼先 輩はひとしきり有人を褒めたあと、怪我の具合は 大したことないと判断したのか、「またね」と手 を振って帰って行った。  翌日、有人は髪を切った。誠ほどにはできな かったが、(ル先輩のスポーツ刈り程度にはなっ た。短いサイドに比べて少し長めに残したトップ を整髪料で整えると、吉田理容店の店主は「イケ メンー丁上がり」と笑った。  理容店を出て少し歩くと、『野呂旅館』という 看板が掲げられた二階建ての民宿を見つけた。登 校している涼先輩がいるわけがなかったが、有人 はそこで少し立ち止まった。無落雪の屋根にレン ガ色の外壁は、島の建物の中では新しい部類に見 えた。入り囗の横にふきんやタオル類の洗濯物が 干されてあった。五月の風に吹かれてはためくそ れらは、庶民的な光景ながら、晴れ晴れと清々し くもあった。涼先輩の明るい笑みがふっと思い出 されて、有人は目を細めた。  照羽尻高等学校の実物を通りすがりに見た。小 中学校も近くにあった。こちらは高校とは違い、 二階建ての鉄筋コンクリート造りだった。小中学 校の前の道路に、ぽつんと押しボタン式の信号機 が設置されていた。交差点もなく、交通量も僅か なこの島では、横断する子どもも利用するかどう か怪しい。なんの意味もなさそうな車両側のシグ ナルは、誰が見ずとも青く灯っていた。  出会った島民はみんな、有人が髪を切ったこと に気づいて話しかけてきた。  叔父はこの島を一つの家族みたいなものと言っ た。ならば、自分が一年遅れていることだって、 誰もが知っているに違いない。知っていてあんな に気さくで親しげだったのだ。  夕食時、いただき物のタコの刺身をつつきなが ら、叔父が言った。  「どうだ? そろそろ島にも慣れたか?」  有人は「……ゝつん」と頷いた。  「良かったか? ここに来て」  その問いはあまりにさりげなかった。このタコ 美味いな、と取り替えても違和感がないほど、自 然に食卓に放たれた。有人はタコを二切れ頬張っ た。ワサビがツンと鼻に来た。  良かったとは答えられなかった。悪かったとも。 有人はワサビの刺激から来る涙を堪えながら無言 でご飯を食べた。ただ。  -有人くん、かっこいいじやん!・  一度学校に行ってみてもいいかもしれないと 思った。  照羽尻高等学校には制服がない。生徒数五人で は制服の意味もないだろう。でも、有人にとって は気楽なことだった。制服に着替えるだけで具合 が悪くなっていた時期があっだのだから。  とはいえ、最初の登校囗の前夜は緊張でよく眠 れず、有人は午前五時前に布団から出た。六月初 めの太陽は既に結構な高さにあり、かんかんと世 界を照らしている。顔を洗って、さて服をどうし ようかと自分の衣類を検めてみるが、大したもの は持っていない。有大は部屋にこもり続けていた ときと変わらぬパーカーとジーンズに着替え、洗 面台の鏡と向き合った。  「悪くないぞ」眠そうな顔をした叔父が、有人の 背後から鏡越しに目を合わせてきた。「髪もさっ ぱりしたしな。まあ気楽に行けばいい。どうして も駄目だったら、早退したっていいんだ」  鍵はかかってないしなと、叔父は有人の横で髭 を剃り始めた。  早退したっていいという言葉は、意外にもすと んと有人の胸に収まり、緊張をほぐしてくれた。 思い返せば、ここは奈落の底なのだ。これ以上悪 くなることはない。それでも、朝食はあまり喉を 通らなかった。  お弁当には、叔父がおにぎりを二つ用意してく れた。それをリュックに入れ、背負う。  叔父の家から港の方向へ歩く。晴れていたが向 かい風が強く、海は白波が立ち、対岸の北海道本 島は見えなかった。途中、照羽尻小中学校を左手 に通り過ぎた。誰一人注意を払わないだろうシグ ナルは、やっぱり車両側が青たった。その車両自 体、家を出てからまったくすれ違わない。  五分ほどで照羽尻高等学校に着いた。高校の建 物は、道路から十メートル程度奥まった場所にあ る。パンフレットで見たのと同じ、寂れた校舎だ。 校舎の手前には一見物置小屋みたいな建物があっ た。H形のトップがついた煙突が立っている。窓 から中を覗いてみた。食品加工の施設のようで、 見慣れない機械が並んでいた。機械はどれも施設 の規模に見合ったコンパクトなサイズだ。水産実 習の授業で使うのだろう。  手の汗をジーンズの太腿部分で拭いながら正面 玄関に近づくと、面談のときに会った校長先生が いた。  「おはよう、川嶋くん」  表情も声も柔和たった。不登校の生徒がやっと 来てくれたという大げさな歓迎はI切なかった。  正面玄関の広さは、有人が以前通っていた私立 中学の、来客用玄関程度しかない。昇降口左側の 壁に木枠の下足入れが一つあった。マス目は縦五 段、横五段。教師と生徒を合わせても二十五人分 で足りるのだ。  校長がマス目の一つを指さした。二十五マスの ど真ん中だ。なにも入っていないマスの上部には、 『川嶋有人』と書かれたネームプレートが貼られ てあった。  有人は持ってきた上履きに履き替え、外靴で空 白のマス目を埋めた。  「おはよう、有人くん」  後ろから声をかけてきたのは、涼先輩たった。 ボーダーの長袖カットソーにジーンズ。どちらも 適度に体にぴったりしていて、有人は思わず胸に 目をやってしまい、慌てて視線を外す。  「一年の教室、こっちだよ」  涼先輩は明るい声で手招きをした。遊園地を案 内するみたいだ。有人は小さく「はい」と返事し。 ついていった。涼先輩は島には慣れたかだの、川 嶋先生はお弟子さんのことをなにか話していたか だの、答えにくいことや意味のわからない質問を 投げかけながら、校内全体をつぶさに見せてくれ た。それぞれの学年に教室は一つずつ。実験室、 情報処理室、職員室、体育館、トイレ。図書室は なく、廊下に書棚が並んでいる。小ちんまりとし た校舎は、あっという間に回れた。  「じやあまたね、有人くん」  一年生の教室に入る。三つの机が、教壇に対し て緩く弧を描くように並んでいた。  どこが自分の席なのかわからずに突っ立ってい ると、「おまえはここ」と登校してきた誠が窓側 の一席を指し示した。  「真ん中が俺。廊下側か桃花な」誠は自らの頑健 な体格を誇るようにTシャツの胸を張りつつ、人 懐こい笑顔を見せた。「わかんないことあったら 俺に訊けよ。あ、勉強以外でな」  六月になったばかりのこの島は、有人の感覚で はまだまだ涼しいのだが、誠は半袖だ。二の腕の 筋肉が逞しい。やはり彼の指には小さな傷が目立 つ。新しい紙で切ったようなものもあれば、縫い 針を剌してしまったようなものもある。  「あ」  戸口付近から(スキーな声がした。桃花だ。白 いブラウスに黒のスリムパンツというシンプルな いでたちなのに、とてもおしゃれな感じがした。 彼女は軽く会釈をして、席に着いた。「よろしく」 と小さな声がしたかもしれない。有大は「どう も」と囗だけを動かした。  八時四十分に朝のホームルームが始まった。教 壇に立つだのは教頭たった。二重にした大きな紙 袋を手にしている。教頭はそれを有人の机に置い た。  「君の教科書だよ。あと時間割や今までに配付し た印刷物も」  有人は机にプリントされた木目模様に目を落と しつつ、頭を下げた。こんな大荷物を高校が預 かっていたのが意外たった。荷物は勝手に玄関を 開けて置いていくものではなかったのか? どう してこれはそうしなかったのか。  もしもされていたらI有人は想像してみる I登校の催促とも、逆にどうせ来ないと突き放 されたとも、そのときの気分で受け取っただろう。 どちらであっても、学校への足は遠のいた。  「今日の三、四時間目は照羽尻学と水産実習だか ら、三年の教室に移動だ」  教頭の言葉に、黒板の横に貼られた時間割を確 認する。全学年一緒の授業だったはずだ。  ということは、涼先輩がいるのか。海鳥観察舎 で感じが悪かった(ル先輩も。  有人はまた出てきた手汗をジーンズに押しつけ た。  一時間目の数学Iと二時間目の英語Iは散々 だった。年単位で勉強が遅れている以上、予想で きた現実とはいえ、有人が微妙な表情を浮かべる たびに授業の進行が止まるのは、肩身が狭かった。 早退したっていいという叔父の言葉が、何度とな く思い起こされた。しかし、そのうちに教師が自 分だけを相手にしているのを、誠と桃花はあまり 気にしていないこともわかった。特に誠は桃花に 対して、これ幸いとばかりにあれこれ話しかけて は、教えを乞うている。どうやら桃花がここでは  一番成績が良いようだ。  どの教師も実に丁寧に、中学の修学範囲までさ かのぼって、有人の疑問に付き合ってくれた。  二時間目が終わると、誠が「おう、行くべ」と 有大を促した。  「筆記用具とノート、それからこの冊子が授業で 使うやつ」  B4サイズの紙を二つ折りにして、ホチキスで 中綴じをした冊子は、朝に渡された紙袋の中に あった。表紙に照羽尻島の全景写真と『照羽尻 学』の大きな黒い文字が印刷されている。教師が 手作りしたものだというのは、一目瞭然たった。  「あと、弁当も。てか、リュックごと持ってくん だよ」  その言葉どおり、誠は有人のものより大きく頑 丈そうなリュックを背負っていた。  「教室の場所は知ってるから」  一人でも大丈夫だと言外にはのめかしたが、誠 は「俺も知ってるぜ」と意に介さない。どうやら 彼は、新入りの世話焼き係を自任し、実行に移し ているようだ。  誠に連れられて、本来は無人であろう三年生の 教室へ行くと、五つの机が二列に並んでいた。前 列は三席、後列が二席だ。  「俺らが前列。俺の左がおまえ」  一年生の教室での席順と同じだ。有人はそこに 座り、お手製のプリント教材を眺めた。  「なあ有人」誠はすんなりと有人を下の名前で呼 んだ。「おまえ、ウニ食っだことね1だろ」  今までの人生で食べたことがあるか否か、とい う問いだろうか? ならあるに決まっているI 答えようとした矢先、誠は言葉を足した。  「照羽尻島のウニのことだかんな?」  「なら、ない」  「やっぱりな。じやあ今度先生のところに持って くわ。その日親父が獲ったばかりのやつ」  なるほど、この話の流れでわかった。誠の父親 は漁師なのだ。見事に翌日の天候を当て、高校生 にもなった息子にすげ1と叫ばせた人は。  「ウニ漁は期間隕定なんだよ。例年六月半ば過ぎ くらいに解禁になんの。解禁されても、ちょっと でも波が出たら船出せね1し。でも親父はすげ1 から。なまらウニ獲るから」  「売り物にするのにもらっていいの?」  「そりやあ、一級品とはいかね1けど、それでも 美味いから。本当は獲ってすぐ磯の塩味と一緒に 食うのが一番なんだけどさ」  誠の熱い照羽尻島のウニ推しに、特段好物でも ない有人は適当に頷くしかない。ウニならば中学 受験を終えた週末、ねぎらいに家族で行ったイタ リアンレストランで食べた、ウニのクリームパス 夕が美味しかったことを思い出した。本命のその 中学には受からない未来も知らず、舌鼓を打った、 あの囗は良かった。  なんでもそうだ。手元からなくなってわかる。 そして、良かったもの、大切なものはたいていな くなる。せいぜい惜しめと、己の価値を主張する かのように。  涼先輩と(ル先輩も教室に来た。半袖の誠と対 照的に、(ル先輩は毛玉がついた紺のセーターを 着ていた。  『照羽尻学』の授業には、校長のほか、配送業者 の田宮がやってきた。驚いたが、副業で観光客の 案内もしているとのことだったから、彼以上の適 任はいないのだろう。島外への異動がある教師よ りも、ずっと島に詳しいというわけだ。  田宮はプリント教材を使いながら、島で獲れる 海産物とその加工品の、ここ数年にわたる売り上 げ、経済効果をざっと話した。あくびの気配に横 を窺うと、誠は退屈そうだった。漁師の息子に とっては、どれも目新しくない情報なのかもしれ ない。  と思っていたら、  「そこで、ここからは水産実習も兼ねるんだが」  校長が田宮の隣で手を叩いて言った。  「水産実習で作った缶詰を、七月の北海道高校生 物産展に出品しようと思うんだ」  校長いわく、商業高校、農業高校などの生徒が 開発、製作した食材の加工品を、一堂に集めて販 売する催しがあるのだという。  「そこで光る商品を出して話題になったら、島と 高校、双方のPRにもなる。売り上げのいい商品 は、物産展終了後も、期間限定で提携店に置いて もらえる」  田宮も腕組みのポーズで、うんうんと首を縦に 振った。「材料調達なんかは、漁協も協力してく れるぞ」  「味はもちろん、どんな商品を目指すかのアイ ディアも鍵になる。これから五人で考えてほし い」  面倒くさいことをやるのだなと頬杖をついてい たら、誠が机の向きを逆にし、二年生組と向き合 う形をとつだ。桃花の机も動かして、ありかとう と礼を言われ、だらしなくにやついている。  「おまえも早くしろよ。頭の後ろに囗があんの か?」  緩んだ顔をごまかすかのような誠にせっつかれ て、有人も机の向きを変えた。斜め前になった涼 先輩が、笑って手を振ってきた。  「どんなのがいいかなあ?」  ディスカッションの先陣を切っだのは、その涼 先輩たった。続いたのは誠だ。  「兄貴が二年のときも、なんか出品してたぞ。 やっぱ授業で作ったやつ」  「一昨年はタコの燻製を出した」田宮が割り込ん だ。「それなりにいけると思ったんだが」  だが、ということは、期待したほど評価されな かったのだ。だから去年はこの手の企画に参加し なかった。参加していたら涼先輩が話すはずだと、 有人は読む。  「本当は島に来て、獲れたてを食ってもらうのが 一番なんだよ」  誠が言えば涼先輩が「加工したものを食べて美 味しかったら、島にも来てもらえるんじやない? うちも観光客が多くなってくれたら嬉しい」と、 旅館の娘らしい意見を述べた。  (ル先輩がぼそりと「予算はいくらで、製作個 数はいくつなんだろう?」と眩いた。校長が「も ちろん学校側が費用を出す。授業の一環だが、採 算度外視というわけではない。材料費、加工費 諸々でおよそ十万円。個数だが、最低百は欲し い」と言った。  「一つあたり千円で作んのか」 「誠くん、それだと儲けが出ないよ」 「……利益はなにに使うの?」 「だよな、桃花。そこだよな」誠が初めて発言し た桃花にすり寄る。「今、桃花が大事なこと言っ たぞ」  さっきのにやけ顔もそうだが、わかりやすいと 有人は思った。誠は桃花に好意を持っている。桃 花のほうはどうか知らないが。  「利益は学校に還元じゃないの。それより先に材 料決めない?」  「タコが駄目ならウニがいい、ウニなら間違い ね1から」  「それは誠くんの主観じやない?」  ディスカッションは、島出身の涼先輩と誠が九 割方喋り、残りの一割を桃花と(ル先輩が受け 持った。有人は水産加工なんて肌に合わないと椅 子に座りつつ、ここでみんなをあっと言わせる意 見が出せたら、四人、特に涼先輩に自分を認めて もらえるのでは、という野心めいた思いも抱いた。 しかし、なにも思いつかなかった。結局、ウニを 使うということ以外は決まらなかった。  誠が弁当も全部持って移動しろと言った意味が わかった。昼休憩の時間は、二年生の二人も一緒 になって、三年生の教室で食事をとるのだ。  「寮生は寮に戻って昼食っていう選択肢もあるん だけど、(ルくんも桃花ちゃんもお弁当だよね。 あ、有人くん。寮はね、ここから歩いて五分くら いの場所にあるの。うちの旅館のすぐ隣」  そう楽しげに言う涼先輩の弁当は、実家が旅館 なだけに豪勢な内容だ。焼き魚、揚げ物、漬物、 サラダ、フルーツと色とりどりながら、「お客さ まのおすそ分けちらつてるみたいなものなんだ」 と、あっけらかんとしている。  誠の弁当は量重視だ。大きい弁当箱二つに、白 飯とおかずを分けていた。寮生の桃花と(ル先輩 は同じもので、三種類のサンドイッチだった。  有人はもそもそとおにぎりを食べた。  「兄貴の年の失敗は、兄貴だからってのもある ぞ」誠が水産実習の話題を蒸し返した。「島を捨 てて出ていくような奴だからな」  「至くんのこと、悪く言わないであげてよ」  「涼ちゃんはいっつも兄貴をかばうよな」  「悪い? かっこいいお兄ちゃんいて羨ましい よ」  誠は涼先輩に『先輩』づけしない。島で育った 二人は、多少の年齢差を気にしないようだ。  「俺以外みんな一人っ子だもんな1.あ」そこで 誠は有人に箸の先を向けた。「おまえは? おま えも一人っ子だったりするのか?」  四人の視線が集中して、だんまりを押し通すの は難しかった。有人は白状した。  「……僕にも兄が一人いる」  「マジ? やった、弟同盟。何歳違い? うちの 兄貴はさ、漁師なんてやらね1、パテイシエにな るとか啖呵切って、札幌の専門学校行ったんだぜ。 どこで覚えたんだよ、そんな職業」  「いいじやん、パテイシエ。私、マカロン好きだ よ」涼先輩は一度可愛らしく囗を尖らせてから、 無邪気に有人の返答を促した。「有大くんのお兄 さんはなにやってるの?」  涼先輩に訊かれては、答えるしかない。「二つ 違いで……医大生」 「医大? お医者さん? すごいね!」  涼先輩の感嘆に、誠も続いた。「川嶋先生みた いになんの? かっけ1な!」  ドクターコールに応えた叔父の姿が、有人の眼 前に像を結ぶI叔父みたいになりたい、誰より もそう願っだのは、兄じゃなくて僕だI有大は おにぎりを包んでいたアルミホイルを握りつぶし た。  叔父みたいになりたかったのに、今、こんな寂 れた島で、五人しかいない高校にいて、これから 缶詰を作ろうとしている。  「俺は漁師になりたいけどさ、ばりばり頭良かっ たら、医者になって島に尽くすってのもアリだっ たな。川嶋先生みたいに……」  「こんな環境で、医者とか無理だよ」気づけば、 否定の言葉が囗を突いて出ていた。「離島で塾や 予備校もないし、学校は水産実習とかやってる し」  「あ? おまえ、その言い方はね1んじやね1 の」  誠も声を荒らげた。有人の体は硬くなった。だ が、つい囗に出たとはいえ、間違えてはいない。 有大は机に目を落として唾を飲んだ。  「二人とも駄目’・ ご飯のときに言い争うの良く ない。ご飯、美味しくなくなるよ」涼先輩が二人 を窘め、敢えてだろう、話題の的を逸らした。 「ところでさ、医大生と言えば今日から柏木さん が泊まるんだ。午後には来ているはず」  もしかして、朝に言われたお弟子さんのことか と、有人はそれとなく耳を傾けた。  「去年も来島した人か」(ル先輩は柏木さんを 知っていた。「ご挨拶に行ったほうがいいかな」  「こいつの叔父さん超名医だから、医大からわざ わざ修業に来る学生さんがいるんだ」さっきの荒 い声はどこへやら、誠が桃花に屈託なく説明して いる。「柏木さん、半年ぶり三回目」 「甲子園みたいだね」  桃花はクールに返した。  柏木さんにからめて、叔父がどれほど島にとっ て素晴らしい医者なのかということが涼先輩と誠 の囗から熱っぽく語られ、島外出身者は囗を挟ま ずそれを聞いた。先ほど思わずかっとしてしまっ た有人も、涼先輩の声を聞いているうちに冷静さ を取り戻した。事実叔父は格好いいし、診療所の 様子からも慕われているのは明白だ。  誠も叔父のことが好きだから、安易に医者に なって、などという言葉も出たのだろう。  そっと誠を見る。偶然なのか気配を感じたのか、 誠も有人を見たので、視線が合ってしまった。有 人はすぐさま横を向いた。先ほど諍いになりかけ たばかりで気まずさが先に立ったのだ。初日から 失態を犯してしまったが、今さら仕方がないと諦 め、思考の標的を桃花と(ル先輩に変える。  自分と同じく黙って聞き手になっている二人は、 どういう経緯でここに来たのか。二人は札幌出身 だ。東京とは比較にならないが、札幌市も大都市 である。高校だって数ある中から選べたはずなの に、なぜこの離島なのか。  しょせん他人事だ。でも、よほどの事情がある に違いない。自分がそうなのだからIそんなこ とを思い巡らせているうちに、休憩は終わった。  一年生の教室に戻るとき、誠がすっと横に来た。 「さっき、ごめんな」思わず彼の顔を見ると、バ ツが悪そうな照れ笑いが返ってきた。「俺、単純 だからさ。頭に血い上ったらああなっちまうんだ。 んで、あとで後悔すんだ。親父からもよくドヤさ れる。天気と過去は変えられね1んだぞ、つて」  天気と過去は変えられない。  その言葉は有人の頭のスクリーンに、昏倒する 道下の姿をまざまざと映し出した。意識せずとも 体は強張り、歩幅が狭くなる。だが、誠は有人の 変化に気づいていないのか、照れ笑いを浮かべた ままで「ごめんな、マジ短気で単純でさあ」と繰 り返した。  単純、つまり裏がないとすると、この照れ笑い もごめんの言葉も、心の中そのままなのか。有人 は小学生からのクラスメイトらを、思い出してみ る。ここまであけっぴろげな奴はいなかった。素 直に謝る奴も。なんとなく、先に謝ったほうが負 け、みたいな感覚があった。  有人はあまりにあっさり自分から非を認める誠 につられて、「……僕もごめん」と返していた。  「全然。さ、午後も張り切って行こ1か’・」  しばらく気まずいだろうと、有人が考えた直後 にこれだ。誠はまるで尾を引いていなかった。驚 くほど大らかな態度は、有人のわだかまりをみる みる小さくさせた。  我知らず、有人は誠の大きな歩調に合わせてし まっている。  結局その後も誠に構われて早退はできず、有人 は午後三時半にその日最後の六時間目を終えた。  「じゃ1な!・ 有人また明日な!・ ハル先輩 も!・」  誠は自転車に乗って港のほうへと下って行った。 陽気と元気をまとめて高校生男子の形にしたら、 誠になるだろうと有人は思った。  有人と叔父の家は、港とは反対方向である。診 療所へ行くという(ル先輩と帰途が一緒になって しまった。(ル先輩は寡黙だった。有人も黙って いた。そもそも有人は、海鳥観察舎の一件から、 (ル先輩には苦手意識があった。寮にまで入って 照羽尻高校へ進学した理由については若干の興味 が芽生えたものの、尋ねるわけにはいかない。訊 けば、同じ質問を返されても文句は言えないから だ。  道中(ル先輩が話しだのは、一度きりだ。小中 学校の真ん前にある、無意味な押しボタン式信号 機のところでたった。  「この信号、意味ないと思うよね」  心を見抜かれたみたいだった。有人の頭の中で 警戒のアラームが鳴る。この神経質そうな大は想 像以上に鋭いのかもしれないと身構え、返事が遅 れた。微妙な空気が二人を包んだ。  そんな有人の不自然さを気にかける様子もなく、 (ル先輩は続きを話した。  「でも、これがないと、島で生まれ育った子ども は、本物の信号を見ないまま島外へ出る。最悪、 事故に遭うかもね」車両側の青シグナルを一瞥し て、(ル先輩は歩調を速めた。「意味があるから、 あるんだ」  有人は目だけを動かして(ル先輩を見た。信号 が存在する理由は明かされたが、先輩が言いた かったのは、それだけだろうか?  東京から来たことから、(ル先輩も有人につい て複雑な事情があると見込んでいるに違いない。 そういう推測をもとに、なにやら人生訓めいた言 葉を、島生活の先達としてかけてきたのではI そんなたくらみを疑った。だが、数列みたいに整 然とした(ル先輩の横顔からは、なんの感情も読 み取れなかった。これは拍子抜けだった。有人は 他人の独り言を聞いてしまったような気分になっ た。  (ル先輩とは診療所の前で別れた。 「じやあ、また明日。さよなら」  定型文みたいな挨拶に、有人は口先で「さよな ら」と返した。そうしてすぐさま家に飛び込んだ。 自分のテリトリーに戻ると、急に疲労感が押し寄 せてきて、有人は昼寝をしてしまった。  目覚めると、階下に叔父の気配を感じた。おそ らく夕食を作っている。ああ、診療所はもう終 わったのだと枕元の目覚まし時計を確認すると、 午後六時を少し過ぎていた。  のそのそと起き出し、台所へ行くと、叔父が味 噌汁の火を止めたところだった。食卓の真ん中に は醤油で煮つけられたタコと大根が、大皿に盛ら れている。  「それ、野呂さんからいただいた」  ケンタッキーフライドチキンを差し入れてくれ る島民がいればいいのにと、有人は思った。島に 来てからというもの、海産物を囗にする割合が圧 倒的に多く、肉は減った。 「ごめん。寝てて手伝いに行けなかった」 「今日は疲れたか?」いただきますと手を合わせ てすぐ、叔父が訊いた。「でも、頑張ったな」  「……別に頑張ってはいないよ」  帰るチャンスがなかっただけだ。誠が四六時中 そばにいて、あれこれと世話を焼かれ、付きまと われ、ちょっとした言い争いもあったけれどすぐ に向こうから詫びてきて、果てはトイレまでつい てこられたと話すと、叔父は笑った。  「誠は嬉しいんだよ。同性の同学年が初めてなん だ」  「……僕、本当は二年なんだけど」  「そんなことどうでもいいのさ。うん、この煮つ け、美味いな。隠し味はタラ魚葭かな」  そんなこと、という五音を、有人はタコととも に噛みしめる。そんなことなのか。とんでもない ことじゃないのか。煮つけは、食べ慣れたものと はどこか違う複雑な味がする。   -全然。さ、午後も張り切って行こ1か’・   あの明朗さ。知らないうちに合わせてしまった 歩調。疲れたのは確かだ。でも、もう学校に行き たくないという、東京で嫌というほど味わった気 持ちはないのだった。逆に、もう一度疲れてみた いとなぜか思っている。  「診療所の手伝いだけど、これからは四時半過ぎ だけでいいからな。今日はまあ、仕方ない」  「そういえば、涼先輩が叔父さんのところに弟子 が来ているって言ってた。柏木さんとかいう」  「柏木くんか? 彼は弟子じゃないぞ。研究テー マに沿う他の医師のところにも話を聞きに行って いる。俺はその中のI人ってだけだよ」  「去年も来ていたって聞いたけど。「ル先輩が挨 拶に行ったよね?」  「ああ。彼は柏木くんの研究に協力してくれたん だ」  研究に協力と言っても、人体実験的なあれじゃ ないぞと、叔父は冗談めかした。  「一種のインタビューだな。柏木くんの研究テー マに陽樹のデータが合っていたのさ」  ウトウの帰巣を見に行った囗、(ル先輩は倒れ たのだった。薬も受け取っていたことがあるから、 なにか持病があるのだろうが、あのあと札幌に 帰って治療したとは聞いていないし、そもそも離 島に進学している時点で、深刻な病気とは考えに くい。もしかしたら、転地療法で離島に来ている のかもしれない。今どき転地療法なんて時代錯誤 なイメージだが。  とにもかくにも、柏木さんという人が離島にい る叔父を何度も訪ねて来ているのは、研究のため だけではなく、自分と同じく憧れもあるのかもし れないI有人は味噌汁を飲み終えて、空の茶碗 と重ねた。叔父はまだ食べ終わっていなかった。 有人は自分の食器を先にジンクに下げて、自室に 戻った。  医学部卒業後、博士課程基礎医学コースに在籍 中という柏木は、三十歳前後の男性一万人を集め て平均化したような、当たり障りのない容貌だっ た。際立って頭が良さそうにも見えない。彼は白 衣を身に着けていなかった。ワイシャツとスラッ クスという普通のサラリーマンみたいないで立ち で、叔父のそばに控えている。医師国家試験には 受かっているだろうに、医師然としたなりを敢え てしないのは、叔父を立てているようにも、診療 医としているのではないという主張のようにも見 えた。午後の診療時間終了後、有人が待合室の片 づけや観葉植物の葉をきれいにしている間、柏木 は診療室や処置室で、使用した器具の消毒や廃棄、 薬剤のチェックなどをしていた。  カタリとなにかが開く音に、いったんは離した 視線を再度送ると、柏木が鍵付きの棚に今日納品 されたと思しき薬類をしまっているところだった。 彼の手には、あの囗以降忘れたくても忘れられな いエピベンが二本あった。有人は目を向けたこと をものすごく後悔し、二度とそちらを見るまいと、 心を固めた。  柏木がいる間、有人と叔父の夕食はいつもより 若干遅かった。通常の業務を終えた診療所で、叔 父と柏木が話をするからだ。自分の研究のために、 叔父の意見が必要なのだろう。  柏木は五日間島に滞在して、週末に北海道本島 へと帰っていった。挨拶に毛が生えた程度の言葉 は交わしたものの、特に膝を突き合わせて話し込 むことのなかった有人は、彼個人に対して特別な 感情も抱かなかった。帰る前日までは。  島を離れる前日、柏木は有人に言った。  「先生がここで医師を続けていることには、とて も大きな意味があるんだ。だから、先生の家事の 負担を減らしてほしい。積極的にお手伝いをして あげてください」  君は怠けていると言われたみたいで、柏木の印 象は少し悪いほうへと傾いた。家事の分担なんて、 島に誘った当の叔父からは匸冐もないのだ。有人 は不承不承領いた。  わざわざ北海道本島から叔父を頼って三度も やってきた医学研究生の存在は、既に高かった島 内での叔父の名声を、さらに押し上げた。やっぱ り川嶋先生はすごい、すごいから遠路はるばる学 生か教わりに来ると。  「先生がいるから、照羽尻にいても安心なんだわ。 有人くんの叔父さんは神様みたいだよ」  甥というだけで、有人は叔父への称賛を嫌とい うほど聞かされた。  叔父自身は、誰になにを言われても変わらずに いた。そんな様子は、乗務員が総出で感謝の意を 表明してもひょうひょうとしていた、かつての姿 を思い起こさせた。  柏木が帰っていった週末、叔父は傍らに難しそ うな文献を開きながら、パソコンで診療所の待合 室に貼るポスターを作っていた。そんな叔父に、 有人は本音を囗に出した。  「……上日くらい、休めばいいのに」  「俺は研修医のとき、救急救命室でも修業させて もらったんだが」叔父は顔を上げて微笑んだ。 「いろんな患者さんに会えた。そこのERは、基 本的に受入要請があったら断らないのがモットー で、どの患者さんが重篤なのか優先順位を見極め なければならなかった。早く的確な判断が必要 だったよ。検査が必要なら、その検査機器の空き 状況も考えて患者さんを診ていく。CTで異常が 見られなかったが、どうしても気になるから、今 度は造影剤を入れてMRIを撮りたい、なんてい うパターンも珍しくない。すると、もう帰りたが る患者さんも出てくる。検査費用がかさむと言わ れたりね。でもそこで、帰してしまっていいの か……」  叔父は当時を思い出すような遠い目をして、窓 越しの青空に視線を移ろわせた。  「迷う時間も惜しいんだ。そんなとき、不勉強は 致命傷になる」  耳が痛かった。有人は引きこもっていた時間も、 学校に通い出した今も、特段勉強はしていない。 しかしながら、今それを責める叔父でないことも 承知していた。  「どんなに最善を尽くしても、患者さんやその家 族に恨まれることはあり得る。臨床医はそういう 仕事だ」叔父は椅子に座ったまま背を丸め、腰を さすった。「でも、そういうケースを限りなくゼ ロに近づける。そのための努力を止めてはいけな い。ここはERと似ている。時間が勝負になる患 者さんが、いつ担ぎ込まれてもおかしくない。 日々勉強するのは、当然のことなんだよ」  恨まれることはあり得る。  有人の眼前に過去の映像が浮かんだ。倒れてい る道下だ。ドア越しの和人の声もよみがえった。  -ちょっとだけ言語障害残ったみたいだな。  道下は絶対に普通の未来を奪った相手を恨んで いる。  こびりついて離れないと承知しつつも、有大は 過去を払い飛ばすように頭を激しく振り、階段を 駆け上かつて自室に引っ込んだ。  あの囗さえ過去から消えれば、僕と道下の未来 も違っていたのに。  スマホを手に取る。和人からLINEメッセー ジが来ていた。  『よう。そっちはどうだ? 俺は正直毎日キツ い』  キツいとはあるが、ひょうきんなスタンプも押 してあった。志望の大学に進学した上でのキツさ を、やりがいに変えて楽しんでもいる、そんな ニュアンスだ。  先の見通しが明るいから、キツくても進んでい けるのだ。  有人はスマホを布団の上に投げて、爪を噛んだ。  六月中旬の土曜日、ウニ漁が解禁になった。そ して週明け、月曜だというのに誠は朝から上機嫌 たった。  「おまえ、帰りにうちに寄ってけよ。親父に言っ てあるから。先生とおまえんとこにやるウニ、 取っといてくれって」  その囗の水産実習の授業では、校舎の隣にある 加工施設へ初めて足を踏み入れた。家庭科で使う 一般的な調理台の他、缶詰加工ならではの各種機 械が取り揃えられていた。実際に間近で見た機械 類は、最新鋭のそれとは言い難かったが、大切に 使い込まれたものが持つ、落ち着いた頼もしさが あった。それらは十数年前、業務を畳んだ島の水 産加工会社から譲り受けたものだと、実習担当の 森先生は説明した。  「工程は大まかに、搬入した原料の選別洗浄、調 理、缶への詰め込み。そこからこの機械で脱気密 封する。缶の巻き締め作業だ。脱気には二つの方 法がある。ホットパック脱気と真空巻締機を使う 物理的脱気。うちにあるのは後者のバキューム シーマーだ。そして、殺菌、冷却と続く」教師は それぞれの工程に使う機械を、相棒でも紹介する ように軽く叩きながら、一つ一つ示していった。 「冷却が終わったら、検査だ。缶を叩いて音を聞 いたり、外観に凹みなどがないかどうか確認する。 重要な作業だ。それが終わって、ようやくラベリ ングだ」  「それらの機械は、一度に何個の缶を処理できる んですか」  (ル先輩が質問した。  「種類にもよるが、五缶程度だ。大工場じやない からな」  「調理しちやうってのがな」自分がウニを推した くせに、誠は恨めし気に調理台を見やる。「加工 するのは勿体ね1よなあ」  「でも加工しなきやうちらの存在意義はないんだ よ?」  「てか、まだどう加工するか決まってね1よな」  腕組みをした森先生が「考えろ、考えろ」と檄 を飛ばす。  「獲れたてそのままが最高なら、敢えて加工する 理由とメリットがないと。囗持ちがするだけじゃ、 ありきたりだ」  (ル先輩が言うと、それまで黙っていた桃花が 発言した。  「ウニつて美味しいけど、なんかちょっと味、独 特だと思う」  「それは、添加物のせいもあるな」森先生が唇を 少し曲げた。「ウニは生殖巣の部分を食するが、 殼から出すとすぐに形が崩れてとけてしまう。 よって、形を保つためにミョウバン水につけるの が一般的だ。このミョウバンが薬臭いんだな。形 を保つのみならず、保存料としてアルコールとと もに添加している缶詰もある。すると、どうして も味がつく。敏感な人は嫌がる」  涼先輩が軽く右手を上げた。「加えなくても製 造できますか?」  「できなくもないが、ここでは作ったことがない な」  「有大くんは、なにか意見はない?」  ずっと黙っていたら、涼先輩に発言を求められ、 有人の心拍数が跳ね上がった。  「え、あの」冴えたアイディアはI湧かない。 「その」  「言いたいことがあるなら言えよ。ほら」  誠からせっつかれ、ますます有大は困ってしま 「やっぱ、生か最高ってことだよ」  実習の趣旨を全否定する誠の言葉が、その囗の 授業の締めとなってしまった。  放課後、誠の自転車の後ろに乗せられ、さらわ れるように彼の自宅に行った。彼の自宅は、港の すぐそばだった。港への道は途中まで緩い下り坂 が続き、いよいよ間近というところでぐっと落ち 込むような急勾配になる。しかもカーブしている。 なのに誠はスピードを落とさない。むしろ「イ エーイー」「ヒュー」などと奇声を上げ、ペダル を踏み込むのだった。風の音なのかスピードの音 なのか、とにかく空気を切る音が凄まじくて、有 人は生きた心地がしなかった。  自転車をすっ飛ばしたせいか、誠の自宅、斎藤 家に到着するまで、+分もかからなかった。二階 建ての斎藤家は、間口があまり広くなく小ぢんま  りとした印象であるものの、道路を挟んですぐ漁  港という、漁師にとって抜群の立地にあった。誠  は係留されている漁船の一つを指して、「あれ、  親父の船」と言った。並ぶ船の中でも、大きめの  一艘たった。  「九・七トンある。冬場はあれで船団作ってタラ とか獲るんだ。ウニ獲る磯舟は別」  「そうなんだ」  「一人で獲るからな、ウニは」誠は玄関フードの 戸に続いて、ドアも勢いよく開けた。「たったい ま1.有人連れてきた」  小声で「お邪魔します」と言いながら、誠につ いて中へ入ると、沓脱からすぐの茶の間はドアが 開け放たれており、中が丸見えたった。日焼けを した中年男性の顔がこちらを向いた。精悍な顔つ きは誠にそっくりだ。  「有人。これが俺の親父。この島一の漁師で、照 羽尻高校の先輩」  なんとなく中卒ですぐ漁師になったのだろうと いう先入観があっだので、高校の先輩というのは 意外であった。  「またおまえは、この島一とか適当なこと言いや かつて。他の漁師に失礼だべ」  誠の父はシャツにステテコというラフすぎるス タイルで、座布団の上で片膝を立て、鮭とばを 誓っていた。体格は誠より一回り小柄だが、全身 にがっちりと筋肉がついている。  「あんたが川嶋先生んとこの有人か。先生には世 話になってる。よろしく言っといてくれや」  島内で叔父リスペクトは挨拶言葉みたいなもの なのだ。それだけ慕われている叔父を誇らしく思 うのと並行して、有人は『その叔父の甥』である 自分自身への評価が気になってくる。東京にいた ころの比較対象は兄だったが、島ではまさか、叔 父に比べてあの甥は、となっているのか。  しかし、誠の父は思いがけなくも破顔したの だった。  「有人。ありかとうな。おまえが来たって誠がえ らい喜んでるんだわ」  「親父、余計なこと言うな」  「なんも余計なことでねえべ。おまえ毎囗言って るべ。やっと同じクラスに男友達ができた1つて。 ええ?」  突っ立ってないで座れ座れと座布団を渡され、 有人はちんまりと正座する。木製の丸い座卓を中 央に配した茶の間はいささか狭く、テレビやサイ ドボードなどの一般的な家具家電のほか、ラジオ、 ファックス付き電話機、新聞紙、書類といったも のが床の上に転かつている。雑然としていて、お 世辞にも片づけられているとは言えない。しかし、 港に向いた窓からは、先刻教えられた誠の父の船 がよく見えた。それがこの漁師の心意気を物語っ ているように感じられた。  隣の台所から、鼻歌が聞こえた。聞いたことが あるようなないような歌だ。夜明けの来ない夜は 無いとかなんとか繰り返すのを、誠の父はふんと 笑った。  壁には額に入っだ表彰状が幾つもあった。人命 救助の表彰だ。  「海難事故があったら、船持ってる人間が助ける のは当たり前だべ。他の漁師の家にだっていくら もある。俺らは救命講習も受けてんだ」表彰状を 見つめる有人に誠の父がこともなげに言い、台所 に声をかけた。「母ちゃん。下手な歌、歌ってね えで、有人になんか出してやれや」  「今持って行く」  明るい声が返ってきたのとほぼ同時に、オペラ 歌手を思わせる、恰幅の良い女性が現れた。漁師 の夫よりも大きい。誠の体格は、どうやら母親似 のようだ。  「有人くん、よく来てくれたわね。おばちゃん、 嬉しい」  誠の母は、コップに入っだ炭酸飲料と菓子を 盛った器、それから洗って水を切ったサクランボ をザルごと座卓に置き、それぞれにおしぼりもく れた。  「すっげ!・ サクランボなんていつぶりだよ」  [そりやあ、有人くんが来るんだもん。冒]つとく わよ。さあ、食べて食べて。有人くん細っこいか らいっぱい食べて」  「親父、有人にやるウニは?」  「ちゃんととってある。さっき母ちゃんかさばい たばっかりだ」  あれも食え、これも食べろ。有人は今まで友人 の家に行ってこれはどの歓待を受けたことがな かった。そもそも東京では、友人の家に遊びに行 くこと自体、ほとんどなかった。小学校低学年の ころにあったかもしれないが、それきりだった。  この島は一つの家族みたいなものだと叔父が 言っていたのを、思い出した。有人は勧められる がまま炭酸飲料を飲み、菓子を食べ、合間にサク ランボを目にした。自分しかいない部屋と、風の 音と海鳥の鳴き声しかしない断崖絶壁の光景を、 救いを求めるように思い起こしながらも、斎藤家 に歓迎されている事実は消したくなかった。お せっかいで距離が近すぎて面倒くさい。一人に なったらどっと疲れるだろう。でも、自分が受け 入れられていることは嬉しかった。  「ウニも食ってけよ。一口、一口でいいから」   調子づいた誠が台所に駆け込み、すぐさまス プーンを手に戻ってくる。スプーンには鮮やかな みかん色のウニがすくわれていた。  「醤油とかいらね1から」  差し出されて拒めるわけもなく、子どものよう に囗に入れられる。  「どうよ。なあ、どうよ?」  「……美味しい」  自然に出た言葉たった。誠の父が獲ったウニは、 濃厚なうま味の塊たった。同じウニでも、東京で 食べるものとはまるで違う。セントバーナードと チワワみたいに。  「だろ? ほらな!・」  誠はスプーンを手にガッツポーズした。  「ミョウバン使ってないの」誠の母が言った。 「塩水に漬けるんでも、形は崩れないのよ。ミョ ウバンほどは持だないから産地だけの味ね」  有人は、たぷたぷの塩水に浸けられた生ウニが たっぷり入っだクッパーを持だされ、斎藤家を辞 した。誠が帰りも自転車の後ろに乗せて送ってく れた。港を過ぎてすぐの急勾配も、彼はものとも せず立ち漕ぎで乗り切った。  電動アシスト付きとはいえ、自分にはできない だろう。誠がペダルを踏み込むごとに、彼はもう 数えきれないほどこの坂を自転車で上ったのだろ うなと思った。  その囗、有人は診療所の片づけを手早く済ませ て家に戻った。そして、叔父が帰って来るころを 見計らって、ウニをテーブルに並べた。大根でつ まを作ることもせず、ただクッパーから出して適 当な皿に盛り付けただけだが、量が量だけに牡観 であった。ふと、ウニ丼にしたら美味しいかもし れないと思い、叔父と自分のご飯を丼によそい、 その上に手で不器用にちぎったのりを散らしてみ た。そして、ウニの皿にスプーンを添えた。好き なだけ丼の上に載せ、さらにウニだけを味わいた ければそのまま刺身で食べられるように小皿も置  -積極的にお手伝いをしてあげてください。  柏木の言葉に屈したわけではないが、今日の有 人はなにかしたい気分たった。インスタント物な どを入れている棚を覗くと、お湯を注ぐだけでで きるタイプの味噌汁があっだので、それを二つ取 り出し、ガスコンロで湯を沸かした。  「お、やっておいてくれたのか」叔父の弾む声が した。「すごいな、斎藤さん。今日も豊漁だった のかな」  有大はお椀にインスタント味噌汁を入れて、熱 い湯を注いだ。  「……叔父さん、ウニ丼と味噌汁だけでいい?」  そのまま手を洗って座ってほしい、今日くらい は。栄養的にはいただけないかもしれないけれど I有人の気持ちを、叔父は正しく受け取ってく れた。  「有人。用意、ありかとうな」  生ウニを箸でつまんで、醤油をつけずにそのま ま囗に入れる。潮の香りが濃く、しっかりと形が あるのに、舌の上ではとろりととけて、美味しさ が広がる。語彙力のないグルメレポーターが、な にを食べても馬鹿の一つ覚えのように「甘い」と 言うのを目にするたび、有人は興醒めしていたが、 もらった新鮮なウニは、本当にどこか甘みがある のだった。  -やっぱ、生か最高ってことだよ。  誠は正しいと思った。この島の生ウニの味をも し知っていたら、缶詰や瓶詰はもちろん、折のウ ニたってまったくの別物だ。そして誠はこの新鮮 な味を知っている。間違いなく涼先輩も。  あの二人しか主に発言しないディスカッション が上手く進まないのは、道理だったのだ。  「どうした、有人」  有人は考え込んでいた。はっと我に返り、なん でもないとばかりにウニ丼を囗に掻っ込む。  美味しい。でも、これを缶詰にしなくてはいけ ない。この味は諦めたうえで、どうにかしなけれ ばならないのだ。  次に行われた水産実習のディスカッションで、 有人は思い切って囗を開いた。  「誠んちからもらったウニ食べて思ったんだけ ど……」  生ウニの味には絶対勝てない。だったら、加工 を逆手に取るのはどうかと提案したのだった。  「獲れたて生ウニの味は絶対に無理だ。でも生ウ ニの形状に近いものを出したら、逆に期待させて しまう可能性がある。だとしたら、いっそうんと 加工して、最初からペーストにするとかだと、形 は無くなってもいいから、ミョウバンは使わずに 行けるかもしれない。使うとしても、最低限で済 むかなって……」  有人は東京で食べたウニのクリームパスタの話 をした。手汗が滲む。  「これは、パスタにあえるウニクリームソース だって、もう用途をこっちで決めてしまえば…… そうしたら、囗にする人は生ウニの味を絶対期待 しないし、こういう調理に使うってわかってたら、 買う人も買いやすいし、調理のときに好みで味付 けするだろうし、もちろんこっちでも買った人が アレンジできる程度でベースの味を付けると、ア ルコールとかの味も紛れるし……とにかく添加物 を極力少なくできる」  どういうふうに話すか、前夜から頭の中でシ ミュレーションしたはずなのに、全然上手くいか なかった。有人は何度もつっかえ、声を上ずらせ、 言葉を途切れさせた。  『ベースの味は……y』ないた涼先輩のお母さんか らもらったタコの煮つけが、なんかヒントになる かなって……並日通に東京で食べてたのと違う味が して。深みがあったというか。魚蒻っていうのを 使っているんじやないかって、叔父に聞いた。そ の……ダーツを使った魚葭を隠し味にしているんだ ろうって。漁協で作ってるんだよね、タラ魚醤。 それ、こっちの味付けに使えないかな」  途切れ途切れの言葉なのに、他の四人は茶々の 一つも入れず、ずっと真剣に有人の話を頷きなが ら聞いた。  「だから……ウニのクリームパスタソースつて限 定するのはどうかなって」  少しの沈黙ののち、誠が言った。  「ウニのクリームパスタ? なんだそれ。美味い のか?」  「美味しいよ」桃花たった。「私も札幌で食べた ことある。好き」 「マジ? 桃花が言うならいいんじやね?」 「僕は食べたことないけど、ペーストにするのは いいと思う」(ル先輩が淡々とメリットを指摘し た。「ミョウバンの点はもちろん、最初から崩れ ていてもいいなら原価を安く抑えられる」  「え、有人くんの意見、普通に良くない?」涼先 輩も賛同してくれた。「ウニのクリームパスタと か、めっちゃおしゃれじゃない? これで行こ う? めっちゃ行けそう!・」  誠、(ル先輩、桃花はためらわず頷いた。  「良かった、やっと方針が決まったね。有人くん、 すごい」  涼先輩が胸の前で可愛らしく拍手する。誠も 「やるじやんか」と親指をぐっと立てる。  「パッケージのデザインはどうするの?」  (ル先輩が一歩立ち止まれば、涼先輩が桃花の 手を取り「私たち二人がめっちや可愛いの考え る!・ 男子はキヤッチコピーみたいなの考えて」 と、三歩先に進む。  注がれている視線に気づいて、有人はそちらに 顔を向けた。  教室にいた校長と森先生が、そろって恵比須の ような笑顔で有人らを見守っていた。  「有人、すげ1なおまえ」隣の誠が肩を叩いた。 「おまえじやなきや出ない意見だぜ。俺もそれ 食ってみて1」  おまえじやなきや。  誠の言葉は小さな火花を有人に飛ばした。飛ん できたそれは有人の心に届いて、ささやかではあ るが、確かな熱を与えた。  熱。熱があれば、なにかが芽を吹く。もう寒々 しいだけじゃない。  今までとは違う。変わるかもしれない。そんな 予感に、有人の胸は高鳴った。  漁協へ行ってウニを安く譲ってもらい、高校の 水産加工施設で殼をむく。殼むきは誠の独壇場 だった。ただ、二つ三つつまみ食いをして、涼先 輩に怒られていた。  調理の工程では涼先輩と桃花が主に活躍したが、 味付けはみんなの意見を取り入れた。  「はい、これでどうかな?」  試作第一号のソースに、涼先輩は自信ありげ だった。スプーン一杯ずつ五人で味を確認し、頷 きあったが、試しにアルコールとミョウバンを入 れると、リトマス紙のように味は変わった。誠は 顔をしかめて舌を出し、桃花は対照的に表情を無 くし、(ル先輩は水道水をがぶ飲みした。森先生 は爆笑した。  今までの照羽尻高校生は作ったことがない無添 加の缶詰を、五人は目指した。森先生は反対しな かった。  材料の分量を逐一メモしながら、調整を繰り返 しては味見し、意見を言い合う。自然と放課後も 居残るようになった。診療所の片づけができない ことを叔父に電話で伝えたら、むしろ嬉しそうに 「いいぞ、思う存分作業してこい」と返された。  漁協はしばしば「売り物にならねえやつだか ら」と、ウニをおまけしてくれた。森先生は研究 材料だと、全国から無添加を謳ったウニの缶詰を、 何種類も取り寄せてくれた。  「これくらい塩気があったほうが保存にはいいか な。殺菌と脱気の工程があるとはいえ、ミョウバ ンとアルコールは使っていないんだし」  割烹着が絶望的に似合っていない(ル先輩が、 二十何度目かの試作でやっとそう言った。  「あんまり味を濃くすると、取り返しがつかなく ならない?」  「でもこのあとパスタに絡めることを考えると、 こころもち濃いめのほうがいい。レトルト食品や 出来合いのものは、家庭での料理より味は濃く仕 上かつている」  「そっか。ねえ桃花ちゃん、パッケージに『お好 みに合わせて牛乳やコーヒークリームなどで伸ば してください』とか入れようか」  「うん。ただ、まだちょっとコクが足りない…… 気がする」  「桃花がコクが足りないって言ってるぞ」  「じやあ、もう少し魚蒻を足してみよう。そのぶ ん、お塩を気持ち減らそう」  とろりと黄色いクリームソースが載ったスプー ンが、有人の鼻先に来た。  「有人、食ってみろよ」  誠がくいくいとスプーンを動かす。有人はその まま囗は開けず、スプーンを受け取って自分で囗 に入れた。  「どうよ。東京の味か?」  有人は懸命に記憶を辿り、言葉にする。『食べ たのとは違う……y』つちのほうがウニの風味がす る。ただ東京のは、なんていうか、パンチがあっ たというか……もっと微妙にピリツと」  「微妙にピリツと? ピリツとって微妙じゃね1 じゃん。唐辛子か?」  「胡椒は入れてるよね」  誠の横で桃花が言った。「粒胡椒かな……カル ボナーラとか、クリーム系には仕上げに振ってる ところ、多い」  「仕上げかあ」涼先輩が迷いを見せた。「今、こ の工程の中で入れちゃっていいかなあ?」  (ル先輩が一番冷静たった。  「いずれにせよ、ここからまた味は変わるよね。 殺菌処理で加熱するから」  「うお1、それがあったかよ」  誠が天を仰いだ。試行錯誤は続いた。  森先生の指導のもと、白い衛生帽とポリエステ ル地の作業着を着こんだ有人たちは、地道に作業 を進めていった。一度に多数できないので、放課 後の作業は続いた。  殺菌、検品を終え、涼先輩と桃花がデザインし た、明るい色合いのパスタが描かれたラベルを貼 り終えるころには、七月に入っていた。定期試験 も間近に迫っている中、五人は試食分も含めて百 三十個の缶詰を作り終えた。  作業小屋の外はとうに囗が暮れていた。窓ガラ スの外の闇を見て、有人はまるでランタンの中に いるようだと思った。 「手作りって感じするね」  パッケージの照羽尻高等学校の校章をつついて、 涼先輩が笑った。当たり前に並んでいる企業製品 とくらべたら、見劣りするのは否めない。でも、 有人は百三十個の缶詰を売ってしまうのが不思議 ともったいなく思えた。  (ル先輩がスマホを取り出し、完成して積み上 げられた缶詰を写真に撮った。すると涼先輩と桃 花、誠も続いた。  「ちょっと待って、撮ってあげるよ」  「じゃあ次は俺が桃花と涼ちゃん撮ってやる」  「有人くんも撮ろう?」涼先輩の誘い方はとても 自然たった。「貸して、誠くんと並んでみて」  有人はおずおずと自分のスマホをカメラモード にして渡した。  「俺たちみんなで写りて1な」  誠は最後まで付き合った森先生を見た。森先生 は「先生は入れてくれないのか?」とわざとらし い渋面を作ってから、笑顔で五台のスマホを引き  「じゃあ次は俺が桃花と涼ちゃん撮ってやる」  「有人くんも撮ろう?」涼先輩の誘い方はとても 自然たった。「貸して、誠くんと並んでみて」  有人はおずおずと自分のスマホをカメラモード にして渡した。  「俺たちみんなで写りて1な」  誠は最後まで付き合った森先生を見た。森先生 は「先生は入れてくれないのか?」とわざとらし い渋面を作ってから、笑顔で五台のスマホを引き 受けてくれた。五人で一塊になる。有人の右隣は 涼先輩だ。左からは誠が「もっと詰めろよ」と力 任せに押してくる。  涼先輩と肩が触れ合う。柔らかかった。なんと なく、春の花のようないい匂いがした。実習中は もちろん、普段でも先輩は香水なんてつけていな いのに。水産加工施設の中なのに。  最後は先生七入っだ六人で、できる限り腕を伸 ばして自撮りした。  パスタ用ウニクリームソースの缶詰は、試食し てくれた田宮や漁協の人々にも好意的に受け止め られた。  「なんだかハイカラだな」  「ウニつつったらよ、こっちじゃ丸まんまぺろっ といくのが当たり前だもんな」  「今年の五人はやるなあ」  最初にパスタソースにしたらどうかとアイディ アを出しだのは有大だということも、いつの間に か島民に知られていた。  「有大おまえ、大したもんだなあ」  思いがけないほど、有大は島民らに褒められた。  引きこもっていた長い日々はもちろん、それ以 前も、ここまで自分を認められたことはなかった。 有人の前にはいつも和人が立ちはだかり、その陰 から出られなかった。  学校や漁協に関係のない島民も、有人たちを見 かければ呼び止め、缶詰の一件を持ち出しては目 を細めた。彼らの表情は運動会で一等賞をとっだ 孫に対するようだった。なぜいろんな人に知られ ているのかは、もう疑問に思わなかった。この島 でのあれこれは、SNSで爆発的に拡散される情 報より速く島民に届く。  こんな離島の、五人しかいない水産実習で、た またま出した意見なのに。水産実習なんて、興味 の欠片もなかっだのに。  それでも、有人はかけられた言葉をすべて覚え て、何度も何度も頭の中で反芻した。反芻するた びに、心の隅っこに宿った熱はちょっとずつ育っ ていく。  嬉しい。  有人は自分の気持ちを受け入れ、さらにもう一 つ気づきを得た。  パスタ用のウニクリームソースという意見は、 この離島だから認められたのだ。新鮮な生ウニを もっとも美味しく食べられる島であるがゆえに、 わざわざ手を加えたものを出す店がなかった。だ から、有人が真っ先に思いつけた。  この島にいるからこそ、自分は認められた。  そう思うと、奈落の底でしかなかった照羽尻島 も、少し変わったように感じられた。  みんなで撮りあった写真を眺める。涼先輩と二 人のものも何枚かあった。有人はそれらにお気に 入りマークをつけた。みんなで撮った一枚も隣は 涼先輩たった。有人は自分と涼先輩の部分だけト リミングしたものを、別に保存した。  それから、ずらりと並ぶアプリのアイコンを見 て、未クリアの脱出ゲームをしばらくプレイして いないことに気づいた。  タップはしなかった。  缶詰作りの水産実習が終わり、数日経った日の 夕刻。  有人は叔父と食卓を共にしながら、初めてその 思いを囗に出した。  「……一剛にさ、叔父さん訊いたじやん。良かった か? ここに来てって」  叔父は箸を止めた。「訊いたな」  「それさ」味噌汁の椀をテーブルに置く。「もし かしたら……」  良かったかも。  すんでのところで気恥ずかしくなり、言葉を変 えた。  「それよりあのさ。僕も自転車が欲しいんだ」  「自転車?」  「……一ふ口あると移動に便利だし、誠の後ろは怖 いから」 「わかった。注文してやるよ」  叔父は片目をつぶり、ご飯を一口食べた。その 叔父の表情で、最初に言いたかったことは伝わっ ているのだとわかった。  二人で一緒に「ごちそうさまでした」と手を合 わせた後、叔父は新たな問いを投げてよこした。  「これからここでどうしたいかは、考えている か?」  有人は正直に答えた。「それはまだわかってな い。全然」 「わかってないのがわかっていれば、今はいい さ」  「うん」  「そういえばおまえ」叔父は唐突に『それ』を思 い出したようだ。「子どものころは医者になりた いと言っていたな」  飲み干した味噌汁の椀に目を落とす。言ってい た。なりたかった。叔父は正しい。  ただし、あの囗までだ。  「叔父さん。それは諦めた」  有人はちょっと笑って、「これ、僕が洗う」と 眩いた。  『有人、そっちの生活はどうだ? そろそろ慣れ たか?』 『叔父さん、元気か?』 『島の話、聞かせてくれよ』 『たまには返事くれ』  起床すると、充電しておいたスマートフォンに 兄の和人からLINEメッセージが来ていた。有 人は手作りの問題集の上にあったそれを読み流し、 レスポンスをせずに身支度を整え、涼先輩と写っ た写真を眺めてから、顔を洗いに一階に下りた。  「叔父さん、おはよう」  挨拶を投げかけると、洗面所の鏡を覗き込むよ うにしていた叔父は、姿勢を正した。  「おはよう、有人」 「目にゴミでも入っだの?」 「いや、なんでもない。どうだ? 問題集の進捗 具合は」  「まあまあかな」  先日有人は照羽尻高校の校長から、後れを取っ ている内容についてのお手製テキストと問題集を 受け取った。叔父に言わせると、インプットは必 要最低限にまとめ、問題を解くことで細かな部分 を補完し、応用力をつける構成になっているそう で、「教材として販売されていてもおかしくない くらいだ」と感心していた。  有人は少しずつ勉強を始めている。  入れ替わりで顔を洗いだした有人に、「聞いた ぞ」と含み笑いまじりの声が降ってきた。  「木曜日、取材されるそうじやないか。新聞社 に」  つい、冷たい水で濡れたままの顔を上げると、 滴がぼたぼたと床に落ちた。叔父は「拭いておけ よ」と言った。  「なんで知ってるの」  訊いて、すぐに有人は愚問だったと悟る。この 島では、内緒事などあり得ない。ことに、島民の 健康を守る診療医の叔父は、圧倒的な人望を誇る。 診療所に集う患者はおおむね元気で、噂話を持ち 寄るために集まっているふしがある。叔父の耳に 入るのは当然だった。  「誰から聞いたの?」  質問を変えた有人に、「野呂さんの奥さん」と 二一に答え、叔父は背中をさすりながら居間のほう へと行ってしまった。  涼先輩のお母さんだ。  「お父さんたちには話さないで」  居間に向かって叫び、有人は顔と、水滴の落ち た床を拭いた。  おそらくは涼先輩の家が営む野呂旅館に、取材 班が宿泊の予約を入れたのだ。  照羽尻高等学校及び生徒に新聞社の取材が入る と校長から聞かされたのは、先週たった。ウニの クリームパスタソースを加工し終え、定期試験 -まだ遅れを取り戻す過程にいる有人の出来は、 芳しくなかったがIも終わり、あとは夏休みを 待つばかりといった囗のホームルームで、それは 告げられた。  -道内の小規模学校を特集する企画に、うち も取り上げたいと取材依頼があった。先方は、生 徒一人一人へのインタビューも希望している。な ぜ照羽尻高校を選んで進学したのか、ここでの学 校生活や暮らしはどうか。もちろん、答えたくな いことに答える必要はない。正直にありのままで いいから、取材に協力してほしい。  取材自体は中学時代もあったが、直にコメント を求められるのは初めてとのことで、誠は「イン タビューとかすっげ1’・」と単純に興奮していた。 桃花はクールな横顔を崩さなかった。  有人の胸に最初によぎっだのは、「できれば避 けたい」という気持ちだった。誠は能天気に喜ん でいるが、取材対象になるということは、つまり 『普通』ではないのだ。特殊な学校があり、そこ に通う生徒がいますよと、その実態を根掘り葉掘 り調査され、暴かれるのだ。地方紙でも、今は一 部の記事をデジタル化し配信する。もしも取材内 容がデジタル化されたら、宗族はもとより、かつ て自分を白眼視したクラスメイトらの目にも、触 れてしまうかもしれない。  一方で、これは自分を見つめ直すいい機会にな るかもしれないとも考えた。パスタソースに関す るアイディアへの評価や、みんなで缶詰を作り上 げた達成感は、有人に多少の自信を与えていた。 そして思った。この島に来たからこそ、自分も認 められ、居場所らしきものもできたのだと。  だったら、最初は奈落の底と思ったここも、そ うそう悪くないのではないか。こうやって自分を 受け入れてくれているのだし。  東京で私立の学校に通って、兄の和人のように 医大に進学するのは、エリートコースだが、それ だけでは取材対象にはならない。  取材されるだけの価値があるのだと、有人は思 い直した。照羽尻高校の五人は、選ばれたのだ。  そして自分も少しは変わったIはずだ。  天気のいい休日や放課後、有人は叔父に買って もらった自転車に乗り、周囲約十ニキロの島を 巡った。誠が持っているのと同じ、電動アシスト がついている自転車だったが、それでも展望台方 面への上り坂はきつかった。有人はよろよろと左 右にぶれながら漕ぎ進め、途中で何度も止まって 息を整えた。  なんとか突端の展望台まで辿り着くと、もう遮 るものがなにもないそこは、いつだって風が強く 吹いていた。  スマホのカメラで飛ぶ海鳥を撮ったりもした。 海鳥目当てに島を訪れる観光客もいる。ならばあ の鳥たちにも、それだけの価値があるのだと思い ながら。  あれほど誰にも会いたくなくて部屋に引きこ もっていたのに、港のほうの、それなりに人がい る区域にもたまに行った。有人は必ず声をかけら れた。  島には慣れたか。今日はウニがいっぱい獲れた ぞ。少し日に焼けたな。先生によろしく。  なにもかもが一変したあの囗、中央線の電車内 でも、阿佐ヶ谷の駅から自宅に戻る途中でも、丈 の合わない制服を着た有人に誰も話しかけてはこ なかった。  本当に違うと、改めて痛感する。  おそらく多くの場合、東京での対処が普通なの だ。  自分は今、特別な場所にいる。  自分と同じ次男のくせに、学校ではやたらと兄 貴面で世話を焼きたがる誠だが、自転車での島巡 りには、あまり付き合わなかった。  「俺、実は仕事があっからさ」  帰り際、自転車に跨りながら誠は言った。  「仕事? バイトのこと?」  小さな離島で、なんのアルバイトをするのか。 コンビニもないのにと訝しむ有人を気にすること もなく、誠は胸を張った。 「親父の手伝い」 「なんだ」拍子抜けだった。「お金もらってる の? もらってないなら仕事とは言わないと思 う」  「金がもらえるかどうかなんて、どうでもいいん だよ。今は」誠は自転車のブレーキを握ったり緩 めたりした。「確かに金をもらえてないから、仕 事とは違うのかもな。でも俺は、仕事と思って やってる。将来漁師になりたいから、今からそう いうつもりでやってる。金がもらえないのは、俺 が未熟だからだ。仕事じゃないから、じゃない」  誠は自転車を飛ばして港の方面へと下っていっ た。  午後から夕方にかけて漁に出ることもあるのだ ろうか?  涼先輩と桃花が二人で校舎を出てきたので、 ちょっと髪の毛の具合を手で探ってから、涼先輩 に話しかけた。先輩からは、やっぱりいい匂いが する。  「あの……一保先輩」  「なに1? 有人くん」  「誠って、お父さんの船に乗って手伝ったりして るんですか? 漁って、夕方からも出たりするん ですか?」  すると涼先輩は、ころころと可愛らしい笑い声 をたてた。  「船に乗って? そんなのあのおじさんが許すわ けないでしよ」  「でも、手伝ってるって」  「有人くん。漁師さんにはね、船に乗らない時間 もやることがいっぱいあるんだよ」  誠くんは小さなころから頑張ってるよと涼先輩 が褒めたから、有人は妙に気にかかり、叔父の診 療所の片づけに行く時間まで、意味もなく島の道 路を自転車で行ったり来たりした。   有人も診療所の片づけという手伝いをしている。 ラックに収まっていない雑誌や本を整えたり、観 葉植物の葉を拭いたりだ。居候の身分なので、生 活費を労働という形で補っているわけだが、当然 お金はもらっていないし、もらおうという発想も なかった。ましてや、あれを仕事と呼ぶなど、完 全に頭の外たった。  誠だって、船に乗らないでできる手伝いなら、 さして変わりないのでは。小中学生が風呂の掃除 をしたり、窓ガラスを磨いたりするのと、どう違 うというのか。  -金がもらえないのは、俺が未熟だからだ。  有人の頭の中で、誠の言葉が繰り返されて消え ない。おそらく、仕事についての言葉だからだ。  あの囗の前までは、自分にも就きたい職業が あったことを、有大はどうしても思い出さずにい られない。  仕事を考えることは、大人になった己を考える ことだ。  あの日までは、自分も未来のことを考えられて いた。  木曜日、新聞社の取材班三人が高校に来訪した。 前日には島に入っていたようで、午前中の早いう ちに姿を見せた。取材班は、三十代くらいの男女 二人と、校長と同年代の男性カメラマンという構 成たった。  三人は授業中の有人たちの教室にも入ってきた。 校長が彼らと一緒だった。そのときは世界史Aの 授業中だったが、歴史担当の石川先生は、取材が 入るのを承知していたのか驚く様子もなく、教科 書の『16世紀の西ヨーロッパ』の章に書かれたル ネサンスと宗教改革について、かみ砕いた解説を 語り続けた。取材班は授業の邪魔にならないよう に配慮しているらしく、声をたてずシヤッター音 もなかった。なのに誠はてきめんに彼らを意識し て、トイレを我慢しているみたいに落ち着かなく なっだので、有人はそっちのほうが気になった。  微かなシヤッター音が聞こえたのは、彼らが廊 下に出た後たった。教室後方からで、生徒の顔は 絶対に見えない角度たった。  取材班は二年生の二人も加わるお昼どきに、ま た現れた。校長もまだ連れ立っているところを見 ると、取材の最初から最後まで行動をともにする のだろう。  「インタビューとは違うけれど、今、みんなが 揃っているから」校長は穏やかに切り出した。 「少し話しかけてもいいかな?」  島外組の有人、桃花、(ル先輩は無言だったが、 誠と涼先輩が気さくにOKを出した。  「俺たち全然大丈夫っす’・」  「私もいいです」涼先輩は島外組にこう請け合っ た。「すごく優しい記者さんたちだから」  取材班は涼先輩の家、野呂旅館に宿をとってい る。優しいという評価は、旅館内で既に言葉を交 わしているためと思われた。  「ごめんね、ご飯食べているときに。私は北辰新 聞社社会部の赤羽といいます」  囗を切っだのは女性記者たった。落ち着いた柔 らかな声たった。この声を聞けと主張するわけで もなく、かといって消え入りそうに乏しい声量で もない。オレンジ色の間接照明みたいだと有人は 思った。  「全校生徒でお昼食べるの、いいね。みんな、仲 いいんだね」  有人は他の四人の反応を窺った。仲がいいとい う言葉に嬉しげな表情になっだのは誠と涼先輩で、 桃花は涼先輩に視線を送り、(ル先輩は我関せず とばかりにエビフライをぱくりとやった。  「インタビュー、五時間目と六時間目にお願いす るの。授業中に申し訳ないけれど、なるべく手早 く進行するから許してね」  その時間は、体育の授業だった。照羽尻学と水 産実習の他にも、体育は生徒数の関係で二学年ま とめて行われる。インタビューに五、六時間目の 授業時間が割かれることは、朝のホームルームで 聞いていた。  「堅苦しくならないでね。私たちもみんなとお喋 りできるのが楽しみなの。まずはね、五人全員に いくつか同じ質問をしたいから、私たちが体育館 に行きます。その後、個別に少し時間をもらえる かな。一人一人に校長室でインタビューさせて」  赤羽は校長と同じことを言った。答えたくない ことは、答えなくてもいいと。  「じやあ、体育の時間にまたね」  取材班と校長は教室を出ていった。  「お昼ご飯、あの人たち『ブラックバード』で食 べるよ」いったん校舎から出て、貸し自転車に 乗って消えていく三人を見送りつつ、涼先輩が言 い切った。「ここら辺でランチ食べられるお店訊 かれたから、私かそう答えたの。囗替わりランチ か、海鮮ラーメンがおすすめだって」  『ブラックバード』に有人はまだ入っだことはな いが、店自体は自転車での島巡りで何度も見てい る。島を周回する道路沿いにぽつんとある、レス トランと表現するにはあまりにささやかな、平屋 の一軒家を改造したような造りの店だ。申し訳程 度に出ている屋外用の電飾スタンド看板-薄型 の箱みたいな看板部分の中に蛍光灯が仕込まれて いて、スイッチを入れると内側から光るやつだ Iは、なんとなく場末の飲み屋を思わせた。実 際夜になると酒を出すらしく、看板に印刷された 『ブラックバード』の屋号の上には、『お食事処& スナック』とあるのだった。  東京なら、おそらくやっていけないだろうその 店も、島内ではそれなりに客足があり、観光案内 のパンフレットにもしっかり載っている。  しかし、海鮮ラーメンが美味しくても、ウニク リームパスタの存在を店が島民に知らしめること はなかった。素材そのものが良すぎると、その先 に進まないこともある。必然現状に留まり、取り 残されていく。  東京や札幌との差が生まれる。  札幌に本社を構える新聞社から来島している三 人が、この島にどんな印象を持つたか、有人には わかった。続いて、だからといって軽んじられた くないと思った。  島外の人に島を馬鹿にされたら、せっかく味 わった充足感も、島民からの肯定も、無に帰して しまう。なぜならそれらはすべて島で得たものだ からだ。  昼休みが終わり、誠と(ル先輩と三人で体育館 に行った。トイレでジャージに着替えた涼先輩と 桃花は既におり、二人でバレーボールをトスし 合っている。  バレーボールを見ると、道下のことがどうして も思い出される。有人は目を背けた。涼先輩が 「さすがに桃花ちゃん、上手いね’・」と言った。 「フォームとか本当にきれい」  パンフレットの写真にもあったが、体育館の床 は一部たわんでいる。板と板の合わせ目が盛り上 かつて山脈みたいになっていたり、逆にへこんで いたりする。冬の寒さと建物の老朽化が作り出し たうねりだと、最初の体育の授業の際に誠から聞 いた。  校長と体育教師、取材班もほどなく姿を現し、 さっそくインタビュー開始となった。生徒五人は 体育館の隅に、めいめい好きなように座った。有 人はステージに向かって右端に、その隣が誠、中 央に涼先輩、涼先輩の隣が桃花、左端が(ル先輩 となった。赤羽は五人と向き合い、床に膝と爪先 をつけて、踵に尻を乗せるという姿勢をとっだ。  「レコーダー回すけれど、いいかな?」  駄目だと言う生徒はいなかった。  「お昼にも話しだけれど、ここではみんなに同じ 質問をしますね。じやあまずは、学校生活につい て。どう? 楽しい? 普通の学校より人数が少 ないけれど、だからいいとか、不便だとか、感じ ることはあるかな?」  赤羽が(ル先輩に視線を合わせた。左端から順 番にという考えのようだ。(ル先輩は「三十人い た中学のクラスに比べたら、かなり違うけれど、 それは違いであって、いい悪いの問題だとは思っ ていません」と、憎たらしくなるほど優等生的な 回答をした。  桃花も「……私は少人数のほうが合っているみ たい」と肯定的な匸冐で終わった。  逆にデメリットを囗にしたのは、島出身の涼先 輩と誠たった。  「人数が少ないと、一部の球技やブラスバンドな どはどうしてもできないので、そういうところは 不便かもしれません」  「やれるスポーツはマジで限られる。俺、バスケ とかすげ1才能ある気がするんだけど、やれない。 どんなにやりたくても」  「なるほどね。じやあ、川嶋くんは?」  赤羽は有人の名前と顔を一致させていた。その ことに有人は身構えた。やはり東京から来ている 自分が一番注目されているのではと。  「僕は」有人は赤羽が膝を打つようなコメントを 目指した。「中学のときに不登校になって、この 学校に来ました」  その場にいる全員の目が有人に注がれた。  「ここは確かに東京とか普通の学校とは違います。 でもそれは、言い換えれば特別だってことです。 いいことも不便なこともあるけど、そういうのは 全部ここでしかできない特別な、価値ある体験だ と思っています」  言い切ると、赤羽が「すごくしっかりしている ね」とにっこりした。誠は「おまえ囗うまいな あ」と茶々を入れた。気を良くした有人は、言葉 を足した。  「ここに来なかったら、僕は今でも東京で引きこ もっていた。水産実習は大きな転機でしたが、そ んな授業は普通の学校にはない。島に来た選択は 正しかったです。勉強は東京のようにはいかない かもしれないけれど、人生にはそれ以上に大事な ことがあるはずなので」  有人はいつになく饒舌になっていた。  ひときわ熱い視線を感じてそちらを見やると、 校長が感極まったような顔で、何度も有人に頷き かけていた。その反応に、なぜか有人は抱えた膝 に目を落としてしまう。照れ臭さもあったが、そ れだけではなかった。  赤羽の質問は、いくつか続いた。照羽尻高校に 進学を決めた理由、宗族の反応、これからの高校 生活でなにをしたいか。ありきたりではあったが。 つど「ここで答えづらかったら、個別インタ ビューのときにでもいいよ」と逃げ道をくれた。 逃げ道を多く使っだのは桃花たった。彼女は進学 を決めた理由のところで、しばらく黙った。その 沈黙は、やはり自分と同じく『訳あり』なのだと 有人に思わせるに十分たった。同じ質問で有人は、 『訳あり』の詳細には触れずに、「叔父が勧めてく れたから」と答えた。当たり障りなく、嘘でもな い。赤羽も突っ込んでは来なかった。暗い事情を 抱えていない島外組などいない、そう思っていた ら、(ル先輩が自ら調べて積極的に照羽尻高校を 選んだと答えたので、驚いた。赤羽は、後の個別 インタビューで詳細を聞きたいと言い、先輩も同 意した。そのやりとりを、涼先輩が嬉しそうに聞 いていたのにも、もやもやした。  「では、みんな同時の質問は次ので最後にします ね。個別のときにも詳しく聞くので、簡単でいい ですから」  赤羽はそう前置きして、ラストクエスチョンを 提示した。  「ここを卒業したら、進学するか、就職するか、 道は分かれると思うけれど、もしも進学で島の外 に出たとしても、いつかは戻って来て島で暮らし たいかな? どうかな」  質問を聞いて、有人は内心ひどく動揺した。考 えることをとうにやめた未来について訊かれたた めだ。だが、生徒に進路を尋ねるのはごく当たり 前だと、思い直すこともできた。赤羽の問いに深 い意味はない。  ただ、ちょっとした引っ掛かりも覚えた。  島に戻って暮らしたい? 大人になっても島で 暮らすとは? ここで働いてここで好きな人と結 婚して、子どもをつくって……ということか? そこまで考えている生徒なんているのか? 好き な人がいるかはともかく。  有人は横目で涼先輩を見た。涼先輩は(ル先輩 を見ていた。そのハル先輩が真っ先に返答を促さ れた。  すると、(ル先輩は初めて囗ごもったのだった。 あの、最初の質問に離島留学生のお手本みたいな 答えをさらりと言ってのけ、東京でにっちもさっ ちもいかなくなってここへやって来た有人を尻目 に、敢えて自分で選択して進学してきたと返した 人が。  自分と同じ点が引っ掛かって、それで返答に窮 しているにせよ、とりあえずは進学か就職かを答 えておけば済むのではないか。先輩はなにに困っ ているのか、困った顔はどんなだろうかと、若干 下世話な興味をかきたてられてそちらを向くと、 (ル先輩は体育座りの姿勢で俯いていた。有人は 怪訝に思った。困っているというよりは、悲しげ だったからだ。  (ル先輩を見つめる涼先輩の目は心配そうだ。  妙な雰囲気がその場に漂った。赤羽は変わった 空気をきちんと察知して、質問を切り上げた。  「今の質問については、個別インタビューに回す わね。答えても構わないっていう人は、答えてく れたら嬉しいわ」  そうして校長と取材班、個別インタビューの一 人目として、(ル先輩が体育館を出ていった。涼 先輩は体育館を後にする彼らの背を、黙って見 送っていた。いつもの明るい愛らしさは影を潜め、 ちょっとだけ唇を尖らせた横顔は、仲良しの友達 に置いていかれた子どもみたいだった。  残った四人は、体育教師が出してきた卓球台で、 ちまちまとピンポン玉を打ち合った。やがて(ル 先輩が校長と戻って来て涼先輩と入れ替わり、桃 花、誠と続いて、最後が有大たった。  有人の順番がやって来たときは、もう六時間目 に入っていた。  校長室まで校長と一緒に歩いた。校長は「気負 わなくていいからね。体育館のときみたいで大丈 夫」と繰り返し、「さっきの受け答えを聞いて、 よくぞ短期間にここまで成長したと感慨深かった よ」などと言いながら目尻に皺を寄せた。  赤羽らは、校長室の一角にある応接コーナーに いた。カメラマン以外は応接ソファに座っており、 有人は校長とともに向かいに座った。赤羽は改め てレコーダーを回す許可を取り、単刀直入に切り 込んできた。  「川嶋くんは、東京から来たのよね。さっき聞い た話によると、不登校たった」原因を尋ねられる だろうと覚悟した有大に、赤羽は和やかに笑った。 「辛かったね。でも、さっきの君の答えを聞いて 思った。乗り越えたんだね。強いね」  有人の首から上が、かっと熱を持った。水産実 習の一件でもそうだったが、自分を肯定してくれ る言葉は麻薬のようだ。一度耳にしたらもっと欲 しくなる。  「どうして引きこもったのかは訊かないね。ただ、 そうしていたときって、どんなことを考えていた のかな? 宗族とは話をしていた?」  有人は隠さなかった。隠さないほうが強さの証 になるからだ。  「なにも考えていなかったです。宗族とも、やり とりはほとんどLINEで済ませていました。兄 は……たまにドア越しに話しかけてきましたが」  「お兄さんがいるんだね。大学生?」  『……y』の春、医大に入学しました」  「島に来てからは連絡をしている?」  「兄とは……わりとしょっちゅうLINEをくれ るので」  赤羽は一度大きく首肯した。それからの質問は 主に、照羽尻高校進学の詳しい経緯についてたっ たが、合間に飛び道具も仕込んできた。  「正直、一年後れを取ったって思わない?」  「昔のクラスメイトが羨ましくなるときってある かな」  このような飛び道具を、有人は上手くかわした。  「後れを取っだのは間違いありませんが、ここの 先生たちは僕をフォローしてくれています。すぐ に追いつけると思います」  「羨ましくはありません。僕はここで、彼らには できない経験をしているから」  有人はいつしか薄い胸を張るように腰かけてい た。  「……体育館で聞きそびれた質問をするね。ここ を卒業したら、どうしたいかな。島に戻って来て 暮らしたい?」  有人は軽く顎を引いた。やはり、やや引っ掛か るが、高校生に結婚を意識させる質問はしないだ ろうと思い直す。単純に『進路』、ありていに言 えば『将来の夢』について尋ねられているのだ。 離島の高校に進学した訳あり生徒たちが未来への 夢を語る。記事にまとめるには、うってつけだ I理解した有人は、きっぱりと言い切った。  「それって、広い意味で将来の夢を訊いているん ですよね? 僕は、夢って子どもが見るものだと 思います。プロ野球選手になりたいとか、ユー チューバーになりたいとか。僕は三ヶ月とちょっ としかまだここにいないけれど、東京ではできな い経験をして少しは変わった、大人に近づいたと 思っているから、今、夢っていうのはないです。 将来についても具体的に決めていないけれど、こ こでなら自然と自分にふさわしい道も見えてきて、 自然に行きつけるんじやないかなって思います」  赤羽の唇から、感嘆の吐息が漏れたような気が した。  「ありがとう。きちんと話してくれて、とても助 かった。いい記事になりそう」  レコーダーのスイッチを切る間際、赤羽が言っ た。  「夏休みは久しぶりにご家族に会えるね。お兄さ んとも」  それは、もっとも予期しない方向からの飛び道 具たった。それで、有人は気づいた。  夏休みに帰省しようなんて、一つも考えていな かった。  赤羽は無言の有人に一笑して、レコーダーを バッグにしまった。  「桃花や「ル先輩はもちろん、先生たちだって北 海道本島に帰ってんのにな」誠が絡んだ延縄を解 く手を止め、ペットボトルのお茶を飲んだ。「お まえが残るとは思わなかったわ、マジで」  「だから、言ったとおりうちは開業医だから、別 にお盆とかもないし、むしろお盆休みに手術した がる人いるし……帰ってもやることないし」  「確かにうちなら、やること山ほどあるけどよ」  暑い暑いと、Tシャツの袖をまくり上げながら、 誠はトイレに立った。がっちりと筋肉がついた腕 は、まくってあらわになった肩まで日焼けしてい た。  「誠から聞いたぞ、有人」誠がトイレに引っ込む のを待っていたかのように、誠の父から声がか かった。「おまえ、あれたってな。取材のときに 大した立派なこと言ったんだってな」  「全然です。ただ普通に思ったことを」  とたん、延縄の針が指先に刺さって、有人は一 瞬言葉を途切れさせた。  「大丈夫か。ほれ、ティッシュ」  「ありがとうございます。取材のあれは、普通に 答えただけです」  「ふうん、そうかい」漁師の器用な指が、するす ると網のもつれをなくしてゆく。「親御さんにも その囗で同じこと言ってやりやあ、大して安心さ したべな」  ほどいた網を畳んで箱に納めた誠の父は、にっ と笑った。  「……おまえがなんぼ気に病んだところで、どう にもならんもんはある。天気と過去は変えられね えんだからよ」  以前、誠からも聞いた言葉が、漁師の囗から出 た。  「時化てるときは船を出さねえ。命にかかわるん だ。でも、凪いだら沖に出る。出なきやおまんま 食えねえからな」トイレから水を流す音が聞こえ た。「取材ではお利口さんなことを言えても、親 御さんには言えねえなら、有人の海はまだ荒れて んのかもしれねえな」  誠が濡れた手を振りながら戻ってくる。誠の父 は黙った。有大も作業に戻った。  きわどいところを突いてきながら、過去のあの 囗については訊いてこなかったことが、意外でも あり、救いでもあった。  夏休みになったが、有大は実家に戻らなかった。 叔父には休みに入る前日の夕食時、帰る気がない ことを告げた。叔父は有人の目をじっと見てから、 「おまえが決めたことなら、家にちやんと連絡を 入れて、そうしたらいい」と頷いた。そういえば 叔父も理由は追及しなかった。  「いいんだが、この島でなにをして過ごすつもり なんだ?」  なにも考えていなかった有人は囗ごもっだ。叔 父はご飯を少し残して茶碗を置いた。  「勉強し始めたことは知っているよ。でも、せっ かく残るなら、他のこともしたらいい」  「アルバイト、とか?」  「正直、この島には高校生がやれるようなバイト は、ほぼないんだが……そうだな」  叔父は誠と話をしてみたらどうだ、と助言した。  「漁師さんのところは、海に出るだけが仕事じゃ ないからな」  涼先輩と同じようなことを、叔父七言っだ。  そんな流れで、有人は誠と一緒に平日の午後、 誠の父の仕事を手伝っているのだった。作業内容 は、スケソウダラを獲るために使った、延縄とい う仕掛けの手入れだ。無給だと聞かされたときは、 不満を飲み下すのに多少の苦労をした。ただ、毎 日誠の母が冷たい飲み物を差し入れに来たし、帰 り際に魚などをもらえた。誠の母はいつも上機嫌 で、家にお邪魔したときみたいに、たいていなに か囗ずさんでいた。  有人は、港へ下る急勾配の手前に、斎藤家の作 業小屋があることを知った。  初めての手伝いの囗、作業小屋に入っだ有人は、 少したじろいだ。六畳間が二つ繋がった小屋は、 ひどく雑然としていた。古びたテレビとラジオ、 座卓、タオル、ティッシュ、グーツーボックスの 他、所構わずといった感じで、卜口箱というのだ ろうか、高さのあまりない木箱が積まれており、 その中にガラスとプラスチック、二種類の浮きと 石の重しがついたロープが、うねうねととぐろを 巻いている。ロープにも太めと細めの二種類が あった。太めのロープに細めのロープが子分のよ うに何本も結わえられ、その細めのロープの先に、 返しのある金属針がついていた。人差し指ほどの 長さの針は、互いに引っ掛かり合い、もみくちや の状態だった。  このもみくちゃの延縄を一つ一つきれいにほぐ して、来年の漁で使える状態にするのだと、誠は 言った。  「こういうのを陸仕事っていうんだ。陸に上かつ てやるから」  「前に誠が言ってた仕事って、これ?」  「これだけじゃね1よ、タコ漁とかの網もあるよ。 で、きちんとなってんのがこっちな」  絡まりが解かれた延縄の卜口箱を覗いて、有人 は目を見開かずにはいられなかった。作業前のも のは、なにがどうなっているのかわからないロー プと針と浮きと重しのごった煮だったのに、こち らの卜口箱では、長いほうの縁にすべての針が一 列に引っ掛けられており、いつでも船に載せられ る状態なのが一目瞭然たった。針は想像以上に多 く、優に百個はある。解かれたロープと網の上に、 重しと浮きが載せられていた。中央に並んだガラ スの浮きは、窓から入る光で薄緑の水晶玉みたい に見えた。  この状態にするまで、どれほど時間がかかるの か。想像して有大は気が遠くなった。そして実際 の作業は、想像以上に根気強さが必要たった。誠 の父から手順を教えられ、そのとおりにやるもの の、延縄は長く大きく、絡まりの元を辿ってロー プを追ううちに迷子になる。縄に括りつけられた 針はたびたび有人の手に食い込み、思わぬところ から皮膚を切った。流れる血をティッシュで押さ えながら、有人はようやく誠の手に傷が絶えない 理由を知った。  お金をもらっていないなら仕事じゃない、とい う主旨の言に返された、誠の言葉を思い出す。  -金がもらえないのは、俺が未熟だからだ。  誠の父はもちろん、誠も、当たり前だが有人よ りはるかに手際が良かった。お金がもらえないこ とを知ったときに覚えた不満は、いつしか消えて いた。誠の父は、有人などいなくても問題ない。 お金の代わりに居場所を与えてくれているのだ。  作業小屋にはエアコンがなかった。北海道の離 島といえど、夏の晴れた囗はやはり暑い。こもっ だ熱気を逃がすために、小屋のドアから窓から全 部開け放して作業をした。すると、風は必ず海の ほうを向いた窓から入ってくるのだった。海の上 を滑りぬけてくる風は、ほのかな涼しさと潮の香 りを含んでいた。  誠は「休み中、沖でも手伝わせてほしい」と毎 囗せがんだ。有人をだしにしようともした。  「有人も船に乗ってみたいよな? なあ?」  「いや、僕は絶対酔うから無理」  「酔い止め飲めよ。一番効くやつ教えるからよ」  誠は粘ったが、誠の父は厳しかった。  「船の上で働けねえ子どもは乗せられん」  「子どもじやね1し」  「有人と一緒なら乗せてもらえるとでも思った か? はんかくさい。だから子どもだっつってん だ。ほれ、手を動かせ」  「……有人にも親父をかっけ1つて思ってばしい んだよ」  誠の父は、ふんと鼻で笑った。「どこの誰に かっこいい悪い思われても、俺は漁師やるだけ だ」  むくれる誠をよそに、有人は漁船に乗らずに済 むと、内心安堵の息をついた。  漁船なら、北海道本島とを繋ぐフェリーや高速 船などより、よほど揺れるだろう。人前で吐くの はごめんだ。あの囗の体育館みたいじやないか。  でも、船で酔うことが嫌だから帰らないのでは ない。  有人は規則正しい生活を心がけた。午前中は遅 れを取り戻すための勉強をし、診療所の待合室の 整理整頓もサボらずやった。夜も独習をした。そ して、スマホの中で笑う涼先輩を見つめたり、空 いた時間があれば、自転車を漕いで野呂旅館のそ ばまで行ったり、長期休暇ですっかり人気が無く なった学校や教員住宅付近をうろうろしたり、港 とは反対側の、太古から時が止まったままのよう な島の端に足を延ばしたりした。崖の岩肌と、日 差しを照り返す海と、その輝きの上を飛び交う海 鳥を目で追いながら、自分はどうして島に残った のか、根幹の部分を考えた。  -特別な、価値ある体験だと思っています。  -島に来た選択は正しかったです。  インタビューで確かにそう言った。嘘をついた つもりもない。この島で僕は認められた。あの体 験は実際の出来事だ。  けれども、東京には帰れない。  もしも東京で普通の高校二年生、ましてや医大 に通う兄を見てしまったら、同じ言葉も囗の中で 凍りついて、出てこなくなる気がした。  なぜそんな気がするのかは、わかるようでもあ り、わからないようでもあったが、その先はもう、 考えたくなかった。  首根っこを掴んで「帰らない理由を話せ」と迫 らなかった叔父と誠の父は、有人が目を逸らすそ の先までお見通しなのだろう。  和人からは何度かLINEが届いた。帰省しな い理由を尋ねてきたのは最初だけだった。以降は、 家族の近況を伝え、有人、叔父の健康や暮らしぶ りを気にかける内容に変わった。大学生活の話題 もなかった。 『だから、たまには返事くれって』  何度目かの催促に、有人は夏休みの終わりまで には周りに追いつくべく勉強に励んでいる、叔父 の診療所の片づけも続けている旨の返事をし、つ いでに展望台でたまたま上手く撮れた海鳥の写真 も送った。そして、和人には彼女はいるのかなど と思った。  もし自分と涼先輩が付き合うことになったら I手前勝手な夢想に、有人は一人顔を赤らめた。 でも、可能性はゼロではない。ウトウと激突した あの囗、額を出した有人を見て「かっこいい」と 言っだのを忘れていない。あれ以来、髪の毛は短 く切るようにしている。  夏休みも終わりに近づき、桃花と(ル先輩も寮 に戻ってきた。こういう情報は、望むと望まざる  とにかかわらず、島民から教えられる。  有人はようやく一つの延縄を再度使える状態に 復元した。誠と誠の父が、一日もかからずにやっ てのけることだ。相変わらず針は両手に刺さりま くり、いつもどこかがじくじく痛み、作業も遅く なるという悪循環たった。  「最初は俺もそんなもんだったぜ」  「誠も傷あるけど、痛くないの?」  「慣れてるし。てか、こんなに引っ掛けてるうち は駄目なんだよ」  親父なんか、全然無傷だもんなと誠が声をかけ るも、誠の父はにやりとしただけだった。  その囗、作業小屋を涼先輩が訪れた。手にはコ ンビニのビニール袋を持っていた。有人は涼先輩 と初めて会ったときのことを思い出した。フェ リーの中でも彼女は、コンビニの袋を持っていた のだった。 「元気? 差し入れたよ。お土産」  夏休みで旅館も書き入れどきではあったが、そ れまでの手伝いをねぎらう意味合いで、親戚がい る旭川に遊びに行くのを許されたのだという。  「それでね、これを北海道本島で買っだの」  袋の中から取り出されたのは、薄緑、黄、赤の、 三色のマカロンたった。洋菓子メーカーのブラン ドではない、コンビニのスイーツコーナーで当た り前に見かけるやつだ。  「うわ、涼ちゃんサンキューー・」誠が(イテン ションでそれに飛びついた。「旭川に行ったって 聞いたときから、期待してた」  「おじさんも食べてくださいね。ちょうど三つあ るし」涼先輩は誠の父から有人にくりくりした瞳 を向けた。「有人くんも。あ、マカロン嫌い?」  戸惑い顔をしていたのだろう。慌てて首を横に 振った。  「好きです」  ただ、驚いたのだ。コンビニに普通に売られて いるものが、お土産として珍重されている現実に。 島にコンビニがないのだから実際もの珍しいのだ ろうが、この差異は東京との差異でもあり、また 自分とかつてのクラスメイトだちとの差異なのだ と、有人は改めて複雑な思いを抱いた。  とはいえ、コンビニスイーツを無邪気にお土産 だとふるまう涼先輩は、相変わらず可愛いとも 思った。なにより、自分に買って来てくれた。出 先でも気にかけてくれていたのだ。有人は赤のマ カロンを誓った。  「でね、桃花ちゃんとハルくんも帰ってきたこと だし、夏休み終わる前にみんなで花火しない?」  誓っていたマカロンが喉に引っ掛かり、有人は 咳き込んだ。  「大丈夫?」  「……だ、大丈夫」  あまりに青春じみた提案がなされたので、びっ くりしたのだった。クラスメイトと一緒に花火な ど、言うまでもなく有人はしたことがない。  「お、やろうやろう。場所はいつものあそこ?」  「うん、うちの裏手の海岸」  二人はさっさと日取りを決めてしまい、明日の 夜七時からということになった。  「有人くんは、五分前くらいにうちに来て。案内 するから」  島をそれなりに回ったつもりだったが、花火を やる場所は知らないとみなされている。なぜだろ うかと訊く前に、涼先輩は答えを言った。  「あそこ、海岸に下りる道がないんだよね」  なるほど、自転車では行けないところなのだ。 有人は得心して、すべてを了承した。  診療所で花火のことを言おうとしたら、叔父の 姿がなかった。看護師の桐生が、「先生は今お手 洗いなの」と教えてくれた。叔父は五分ほどで出 てきた。やや難しい顔をしていたが、有人と目が 合うと、いつもの笑顔になった。  「そりやあいい」叔父は花火をすると聞いて、笑 みの色を濃くした。「おまえ、想像以上に勉強も していたしな。そろそろ追いつけるめどが立った んじやないか? 目いっぱい楽しんでこい」  「うん」  「それはそうと、昼の新聞読んだか?」  昼の新聞とは、この島では朝刊のことだ。読ん でいないので、首を横に振ると、「おまえたちの 記事、明日出るみたいだぞ」と、おどけたように 眉を上げた。  「今日から始まった特集の最後に、明日は照羽尻 高等学校です、つて予告があったからな」  花火の日、昼休みの診療所でその日の新聞を読 んだ。叔父の言ったとおり、夏休み前の取材がま とめられて、記事になっていた。赤羽の名前も出 ている署名記事たった。  『東京からの離島留学生Aくん(一年)』とされ た有人の受け答えに関しては、余計な装飾や演出 もなく、話したことが正しく書かれてあった。お そらく他の生徒もそうなのだろう。  有大はその記事で、今まで知らなかった高校の 歴史を知った。  北海道立照羽尻高等学校は、人口減少に伴う生 徒数の激減で、存続が危ぶまれる時期があった。 子どもが少ないことに加え、将来を考えて北海道 本島の高校を選択する生徒がほとんどで、入学者 がゼロという年が続いたのだ。そして昭和の終わ りごろ、いよいよ廃校が目前に迫り、ついに一部 の島民が立ち上がった。  高校がなくなれば、ますます子どもは島を出て 行く。老いるばかりになれば、島は死に体となる。 入学者がいないのなら自分たちがと、大人が入学 したのだ。中卒で漁師となったもの、漁師を引退 したもの、中高年の主婦などが高校一年生となり、 学校を延命させた。  以前、誠の父も照羽尻高校の先輩だと聞いてい た。高校存続のために入学した大人の一人だった のだろう。  そのうちに教育委員会も助力しだした。島内の 子どもの数に限りがあるのなら、都会の学校に合 わない子どものために寮を完備し、広く全国に募 集をかけたらどうかとなり、現実として有人も入 学したというわけだ。  限界集落化に歯止めをかけるための、高校存続 及び離島留学の受け入れという事実には、ある種 の期待がちらつく。  よそから高校に入学した生徒が、もしも島を気 に入ってくれたら、大人になっても島で暮らす選 択をしてくれるかもしれない。島で世帯を持って、 新しい世代を作ってくれるかもしれない。  赤羽が「島の外に出たとしても、いつかは戻っ て来て島で暮らしたいかな?」と尋ねた真意が、 この経緯を知ってわかった。生徒、特に留学生組 は、ただの生徒としてだけではなく、『もしかし たら将来島の人口を維持し、増やしてくれるかも しれない存在』としても見られていたのだ。絶滅 危惧種の海鳥みたいだと考えた矢先、その質問だ け返答に窮していた(ル先輩を思い出す。  記事中に『二年生のDくん』として登場してい る(ル先輩が、照羽尻高校に敢えて進学した理由 は、『オロロン鳥(ウミガラス)の鳴き声を聴い てみたかったから』たった。  盛大に拍子抜けし、続いて眉唾だと思った。と にかく鳥が好きらしいことは海鳥観察舎での言動 や、涼先輩らの言葉でわかってはいたものの、だ からといって照羽尻島まで来るとは、有人の常識 を超えていた。  また、みんなの前で言いよどんだ将来の展望は、 『進学して、海鳥の研究をしたいです』たった。 こんなつまらないことが即答できなかったのかと、 有大はすぐに読み飛ばし、他の生徒たちI記号 化されていても、たった三人を特定するのはたや すかったIの将来、未来についての部分を読ん だ。  『島を出る気はない。この島で、親父みたいな漁 師になりたい』  『子どもが好きなので、保育士さんはどうかなっ て思いますが、まだはっきり決めていません』  『結婚して旅館を継ぐのかなあ。結婚できなかっ たらどうしよう?』  桃花が子ども好きなのは意外たった。また涼先 輩が結婚という単語を出しだのは、照羽尻高校存 続のエピソードにも繋がる、島の高齢化、限界集 落化問題を意識してだろう。有人はスマートフォ ンで記事の全文を写真に撮った。別に和人に送ろ うと思ったわけでもないが、自分がインタビュー されたという証は残しておきたかった。  問題なく文字が読めるかどうか、画像を開いて チェックする。有人は改めて自分が答えた部分に 目を通した。  上手く受け答えできている。校長も褒めてくれ た。でも、ざらついた違和感を覚えてしまう。  -親御さんにもその囗で同じこと言ってや りやあ、大して安心さしたべな。  同じことを東京で言えないのは、なぜなのか。 一度は考えるのをやめたその先を考えてみる。そ もそもどうしてここまで肯定的な意見を言ったん だろう? 初めて目にしたときに奈落の底だと絶 望した港の風景は、今もそのままだ。水産実習な どの経験で成長して、自分の視点が変わったから か? だったら胸を張って東京でも言えばいい。  嘘をついていないと思うところから、実は間 違っているのだろうか?  そんなこと考えるのはよせと、有人の中の有大 が忠言する。暴いたところでいい思いはしない。 だから、考えるのをやめているんだ。自己嫌悪の 苦い味は、東京で散々舐めただろう?  もうなにもするな、深みを覗くな。  有人は警告に従った。  花火は楽しもう、せっかく涼先輩と一緒なのだ から、という思いを胸に、まだ微かな明るさが西 空に残る午後七時五分前、有人は野呂旅館の玄関 を開けた。玄関はそれなりに広く、靴人れの上に は色紙が十枚ほど飾られてあった。テレビ番組の 企画などで照羽尻島を訪れたタレントやアナウン サーのものだろうと思われた。  玄関の脇には受付のガラスの引き戸があり、そ こから涼先輩の顔がにょきっと出てきた。  「待ってて。今行くね」  デニムの半袖ワンピースに薄手のカーディガン を羽織った涼先輩は、大きなビニール袋と懐中電 灯持参である。ビニール袋の中身は、花火セット とガスライターだ。彼女がスニーカーの紐を結ん でいる隙に、有人はそれらを手に持った。先輩は 「ありがとう。でも、懐中電灯は案内人の私か持 つね。有大くんはついて来て」と笑った。  軽トラックがぎりぎり一台走行できる幅の、舗 装されていない私道を挟んで、木造二階建ての建 物がある。長い時間焙煎されたコーヒ上豆の色を した外壁のその建物が、照羽尻高校の寮なのだっ た。ちょうど玄関からハル先輩と桃花が出てきて、 合流する。右手下方に波音を聞きながら、四人は 私道を少し進んだ。そのうちに、西の空も暗く なった。  「ここから海岸に下りるから、足元、気を付けて ね」  涼先輩は斜面に分け入った。丈の短い雑草が顔 を出す斜面は、思いのほか急で、おまけに石がご ろごろしている。有人はスマートフォンのライト 機能をオンにし、注意深く歩を進めた。  海岸まで下りると、誠が水の入っだバケツと駄 菓子類、ジュースを用意して待っていた。  「早くやろうぜ’・ ほら、桃花。ここ来いよ」  誠がそれぞれにお菓子や飲み物を、涼先輩が花 火を配る。誠は棒状のスナック菓子を囗いっぱい に頬張ると、懐中電灯を消して、ロケット花火に 火をつけた。  青みがかった銀色の光が、闇を切り裂いて飛ん でいく。  涼先輩も線香花火に火をつけた。ほとばしる火 花がやたらと煌めいて見える。  有大は空を仰いだ。恐ろしくなるほど星が瞬い ていた。下ってきた斜面が、もともと数の少ない 人家の光を遮り、海岸はほぼ真っ暗たった。北海 道本島の明かりも、ささやかなものだ。こんな闇 は東京にはない。どんな小さな光もまばゆかった。  線香花火の火花で、涼先輩の笑顔が浮かびあが る。  有人の心臟はばくばくし、手に汗がじんわり滲 んだ。  赤羽らには言えなかった、島に来て良かったこ とが確実に一つある。有人は鼻から息を強く吸い 込んだ。煙や火薬の臭いの中に、水産加工施設で 写真を撮ったときにも嗅ぎ取った、甘く華やかな 春の花みたいな香りが紛れている。  -涼先輩は僕のことをどう思っているんだろ う? もし、付き合うみたいなことになったら、 やっぱリデートは島の外で……。  五人はお菓子と花火が底をつくまで、海岸で遊 んだ。誠は桃花の隣をキープし続け、有人は夜空 と花火と涼先輩の顔ばかり見ていた。  線香花火の最後の火花が落ちたとき、五人の誰 もが、誠までもがため息をついた。  門限がある寮生の二人を先に帰らせるために、 涼先輩の先導で桃花と(ル先輩が斜面を上ってい く。有人は誠と花火の後片づけをしながら、遠く なっていく懐中電灯の光に、ちらちらと視線を 送った。  「は1.夏休み終わっちまうな」  「……桃花と毎日会えるようになるから、誠は嬉 しいんじやないの?」  誠の気持ちなんてとっくにお見通したとはのめ かしてみたのだが、彼はじたばたせず、「お、そ うだな。じやあ夏休み終わっていい」と一転目尻 を下げた。  「好きなんだ、やっぱり」  「桃花すげ1良くね? 俺、ああいうクールでき れいなのが好きなんだよ」  「告白とか、しないの?」  涼先輩に対してそうする勇気がまだ出せそうに ない己を棚に上げて尋ねる。誠は二つの袋にまと めたゴミの重そうなほうと、汚れた水が入っだバ ケツを、軽々と持ち上げた。有人はお菓子の包装 などが詰め込まれた袋を受け持った。  「本当に言いたいことは言葉にしね1の。態度と か行動とかで語るんだ。それが海の男ってもん よ」  にもかかわらず、桃花の態度に変化がないこと は平気なのかと、多少意地悪な問いかけをするか 否か迷ったその矢先たった。  「好きって言ったら、涼ちゃんは「ル先輩なんだ よな1」  「え」有人はゴミ袋を取り落としそうになった。 「「ル先輩? なんで?」  あんな、なんの取柄もなさそうな海鳥オタク を? 確かに涼先輩は(ル先輩の花火を切らさな いよう、気を配っていたが、有人にだって手渡し てくれた。前髪を上げた顔を見て、かっこいいと 言ってくれた。加工施設で写真を撮ったときは隣 にいた。  「なんでって、そんなの知らね1よ。とにかく去 年の秋いっぺん告って速攻振られて、それでも好 きなんだって。好みなんじやね1の? ああいう 白衣似合いそう系。あ、でも違うか?」誠は片方 の鼻の穴をふさいで、もう片方をふんとやり、穴 の中のなにかを飛ばした。「涼ちゃん、中学のと きは、うちの兄貴が好きだったんだよな。兄貴と ハル先輩、全然顔似てねえ。そういや兄貴も涼 ちゃん振ってたな。なんか、ガキの頃からI緒 だったから、今さら彼女とかそういうふうに見ら れないとかってさあ」  「ええ……」思わず漏れた声は、裏返っていた。 「……ひどい」  「わりと惚れっぽいんだよな、涼ちゃん。ただ、 まだハル先輩は好きなんだから、そこらへんは一 途だな」  涼先輩にほのかに抱いていた恋心が、無残に砕 け散った瞬間たった。しかし、一度振られてもま だ好きだとは。横顔はまあまあかもしれないが、 それ以外のどこがいいのか。オロロン鳥の鳴き声 が聞きたいから照羽尻高校へ進学したというの だって、言い方を変えれば変人だ。ウトウの帰巣 を見た囗は、みっともなく倒れていたし、缶詰実 習だって、特別活躍してもいなかった。  「有人、どうした? 腹痛いのか? え? おま え……」  誠の言葉を、「違うって、なんでもない」と有 人は早口で遮り、野呂旅館のところでゴミ袋を押 しつけると、猛烈に自転車を漕いで家に帰った。 叔父はもう就寝している気配だった。隣室で寝て いる叔父を気にしながらも、有人は自分の枕に何 度もパンチをくれた。  薄い壁を隔てて、叔父が呻きながら寝返りを打 つ音がした。  有人は最後に思いっきり拳を叩き込んで、よれ よれになった枕に顔を埋めた。  -速攻振られて、それでも好きなんだって。  有人が一番応えたのは、涼先輩がハル先輩のこ とをまだ想っていることだった。自分がまだ島に いないとき、誰かを好きになるのは仕方ない。で も、有人と出会ってからも、有人以外の、しかも 一度振られた相手を好きでい続けているというの は、悲しかった。あんなに優しくて、いつも笑い かけてくれていたのに、マカロンのお土産だって くれたのに、まるで眼中になかったのだ。  スマホの中の、涼先輩と写った写真を見つめる。 そういえば、花火のときは写真を撮らなかった。 写真を撮るのも忘れて、夢中で涼先輩を見ていた。  写真を削除しようと、ゴミ箱マークに指を伸ば す。  タップはできなかった。  夏休みが明けてすぐ、テストがあった。失恋の ショックを引きずりつつも、休み中にこつこつ勉 強した成果を有人はそれなりに出せた。英語と数 学では、誠を僅かながら上回った。  「うっそだろ、おまえ。マジ? うっそだろ、や べ1」  「先生たちが作ってくれた教材が良かったんだと 思うよ」  「だからってよ……」  頭を抱える誠の向こうで、いつもはクールな桃 花が笑いを堪えていた。  とはいえ、有人はまだ落ち込んでいた。涼先輩 のことは、出会ったときから意識してはいたが、 水産実習を経て気持ちはかなり膨らんでいたのだ。 もしデートするときは北海道本島へ行かなければ、 などと夢想するほどに。それが完全な独り相撲 だったと知り、しかも他に好きな相手がいたこと にも気づかなかった事実を前に、有人は打ちひし がれてしまったのだった。  テストの結果が出た囗、有人は診療所に寄る八 ル先輩と帰途が一緒になった。  先輩は初めて帰り道を共にした六月の囗のよう に、特に話しかけてこなかった。それが妙に癪に 障った。勝者の余裕という言葉が、有人の頭の中 で明滅した。  「……一保先輩に告白されて、振ったんですって ね」  だからつい、腹立ちまぎれのように囗にしてし まった。囗にしてしまってから、失敗したと悔い たが、一度出してしまった言葉はもう飲み込めな い。  (ル先輩の声は、死人に取りつけられた心電図 みたいに平坦だった。「君もそういうことに興味 あるの?」  「興味っていうか……」  「誰から聞いたの? 斎藤くん?」  黒縁眼鏡の奥の目が、心なしか鋭くなった気が して、怯んだ有人は地べたに視線を落とした。そ れでハル先輩は納得したようだ。  「そうか。そうだよね。君の耳にも入るよね」  有人が診療所の片づけを始めた翌日、大勢の島 民が診療所で待ち構えていた。この島は大体の情 報がオープンだ。高校生の恋愛事情なんて、きっ と特に。(ル先輩もそれはわかっているのだ。  わかっていて振ったのか。涼先輩はきっと泣い た。想像して、有人も泣きたくなった。顧みられ ないのは、惨めだ。  (ル先輩の歩調が速まる。 「こんな狭い島で、かわいそうだ」  それは、有人の独り言たった。(ル先輩に聞か せるつもりはI切なかった。だからこそ、言えた のだ。なのに、そのときに限って、風がいたずら をした。有人の呟きは海から吹きあがってきた風 に乗って、先輩のむき出しの耳に届いてしまった らしい。  (ル先輩がいきなり足を止めた。  やばい、と有大は冷や汗をかいた。海鳥観察舎 でもそうだったが、(ル先輩は静かにキレるタイ プだ。涼先輩がかわいそうだというのは嘘ではな いが、君には関係ないと一刀両断されても文句を 言えない立場に有人はいる。  先に謝っておこうかと(ル先輩の顔色を窺って、 ぎょっとなった。  (ル先輩はそれほど暗い表情だったのだ。『沈 鬱』というタイトルで額縁に入れたいくらいに。  「……そうだね」  声は表情以上に暗澹たるものだった。(ル先輩 は有人を置いて、診療所に行ってしまった。  -そういえば。  赤羽のなんでもない質問に困っていただけでな く、悲しそうだった。あれは将来について、暗に 島に残って世帯を持つか、というようなニュアン スを秘めた問いだった。  あの反応はおそらく、涼先輩とのことを思い出 して気まずかっただけではない。気まずい以上の 別な理由が、(ル先輩にはある。  (ル先輩が島に来た事情は、鳥の他にもあるの かもしれない。有人は思ったが、すぐにどうでも いいことだと足元の小石を蹴った。彼の事情とや らが、自分の過去や今まさに抱えている失恋の痛 手より辛いものだとは、どうしても思えなかった。  休みが終わっても、有人はしばしば誠と一緒に もつれた網を解く手伝いをした。なにかしていた ほうが、気が晴れると思ったからだ。夏休みの終 わりごろよりよほど、手に針を引っ掛けてしまっ た。小一時間ほど作業をしてから自転車を漕いで 診療所へと戻り、雑誌類を片づけ、観葉植物の葉 を拭いた。  気は晴れるどころかまぎれもしなかった。なに をしても涼先輩の明るい笑顔や触れ合った肩の柔 らかさ、ふんわりした甘く優しい香りが記憶の海 から浮き上がってきて、そこに「まだ「ル先輩は 好きなんだから」という誠の声の高波が襲いかか る。  涼先輩の写真は、やっぱり削除できない。未練 がましい自覚はあったが、どうにもならなかった。 せっかく追いついた勉強のほうにも、身が入らな かった。叔父との食事どきも、ほとんど会話しな かった。  九月が目前に迫ったある朝、和人から偶然デジ タル記事を読んだというLINEメッセージが 入っていた。  『インタビューとかすげ1じやん』  有大はそれを、既読スルーしてしまった。  九月一日の朝たった。起床して居間に下りると、 叔父が有人の分だけトーストを焼いていた。  「おはよう。話があるんだ」  改まったふうに切り出され、有大は叔父を久々 にまじまじと見た。そして、やや顔色が悪いと気 づいた。花火の夜以来、自分が抱えるやるせなさ とがっかりで手いっぱいだったが、知らぬうちに 少し痩せたのでは、と思った矢先、叔父は言った。  「急なんだが、俺は島を出なくちやならなくなっ た」  青天の霹靂だった。恋心が砕けたショックも吹 き飛ぶほどの。叔父は「ごめんな」と悲しそうに 笑った。  「な、なんで?」  叔父は理由を囗にせず、ただおもむろに有人の 肩に手を置いて、しみじみと言った。  「誰のせいでもない。おまえのせいでも。こうい うこともあるのさ」  「こういうことって……」  「ああ、少し筋肉ついたなあ」  休日だって携帯電話を肌身離さず持ち歩き、急 患に備えていた叔父なのだ。年始に有人の家へ来 たのだって、しばらくぶりだった。なのに島を出 る? 到底信じられなかった。  だが一週間後、叔父は本当に照羽尻島を出て 行ったのだった。有人の入寮手続きを勝手にやり、 代理の医師が赴任して来るのも待だなかった。  叔父の乗る船を見送るため、港にはほとんどの 島民が詰めかけた。  甲板で手を振る叔父の姿を呆然と眺め佇む有人 の隣で、誠の父が言った。  「これほど港に人が集まつだのは、俺も初めて見 たな」  別れを惜しむすすり泣きが、あちこちから聞こ えた。  「改築したときに、断熱剤もしつかり入れている から、見かけほど寒くはないのよ」  教えてくれたのは、照羽尻高校の寮の管理人、 後藤夫妻のおばさんのほうだった。  「もともとは、建築会社の社屋だったの」  潰れてしまったあと、放置状態たった建物を、 教育委員会が寮として造り替えたのだという。  叔父が島を出ていってしまい、勤務医用の住宅 に一人で住むわけにもいかず、有人は入寮するし か道がなくなったのだった。  寮は想像していたよりも近代的たった。生徒用 の七室はすべて個室で、Wi-Fiが使える。男子と 女子の居住区域は一階と二階で完全に分離されて おり、一階に女子と後藤夫妻、二階に男子の部屋 があった。風呂とトイレも男女別で、トイレは温 水洗浄便座だ。玄関から一階の食堂と談話室まで が男女共同で使えるエリアで、屋内では必ずス リッパを履く決まりだった。  食事は一日三食付き。管理人になる前は民宿を 営んでいたという後藤夫妻が腕を振るう。日曜日 だけ各々自炊するのだが、寮生が自由に使える キッチンや冷蔵庫もちゃんとあった。小型の冷蔵 庫を自室に置くのも許されるのだそうだ。  寮費は月額四万円。十一月から四月までは灯油 代として別途八千円かかかるが、叔父は手続きの 際に今年度分をすべて支払っていったと、後藤夫 妻は話した。  「それにしても川嶋先生、急にどうしたの? よ ほどのことがないと島を離れる人じゃないのに」 「有人くん、なにか聞いていないかい?」  後藤夫妻に尋ねられたが、首を横に振るしかな かった。  有人があてがわれたのは、二階廊下を挟んで海 側に三室、道路側に二室あるうちの、海側の真ん 中たった。奥隣が(ル先輩で、他は言うまでもな く空室たった。  二重窓の向こうには、海と北海道本島、そして 手前には花火に興じた場所もぎりぎり見えた。野 呂旅館はすぐ隣だが、方角が違うために見えな かった。  叔父と住んでいた家からは、身の回りのものの ほか、テレビと布団、叔父の書斎にあったパソコ ンを持ち込んだ。たったそれだけなのに、もとも と備え付けられているストーブと机があるため、 六畳の部屋は、たちまち手狭な印象になった。  叔父のパソコンは、次に有人が使うのを想定し ていたのだろうか、初期状態に戻っていた。叔父 がどうして急に島を離れたのか、日記めいたもの もなかった。  島民は有人を見かけるや、こぞって叔父の離島 の理由を知りたがったが、一番教えてほしいのは 有人自身たった。  ただそれも間もなくわかった。叔父が島を離れ た翌々日、兄の和人からLINEが来たからだ。 『雅彦叔父さん、こっちで検査入院したぞ』 『おまえ、なんか気づいてたか?』  検査入院を要するほどの体調不良など、当然寝 耳に水たった。いくら記憶を掘り返しても、叔父 は普通の生活を送っていたように見えた。だが、 最近は思い返せる叔父の姿がさはどないのも、も う一つの事実たった。登校を開始し、水産実習で 知恵を絞り、夏休みに入ったら勉強と誠の家の手 伝いと自転車を漕いでの島巡りに多くの時間を割 いた。そうして、いきなりの失恋。道を歩いてい たら物陰から飛び出してきた暴走ダンプに轢かれ たみたいに、有人の世界は大きく変わり、必然叔 父との対話も減っていたのだ。  ただ、言われてみれば、叔父の食欲は落ちてい た気がする。食べるのが遅かったり、ご飯を残し ていたり、朝食のトーストを有人の分しか焼いて いなかったり。  診療所のトイレから出てきたとき、難しい顔を していたこともある。寝ている叔父の呻きも何度 か聞いた。洗面所の鏡を覗いていたのは、目に黄 疸が出ているか確認していたのかもしれない。  全部考えてみれば、だ。健康な人でも、そんな 日はあるだろう程度の『ささやかな異変』だ。  でも叔父の身に起きていたのは、本物の異変 だった。  さしあたっては、週に二日、北海道本島から臨 時の医師がやってきて、半日診療をすることに なったが、島の空気は落ち着かなかった。  離島に医師がいない。それがどんなに島民を不 安にさせるのかを、有人は肌で感じ取った。  誰もが叔父の帰島を待ちわびていた。有人は寮 の食堂の壁にかけられてある、叔父の家のと同じ カレンダーで、検査入院の報せがあった囗から勘 定した。検査は一週間程度で終わるだろう。それ からもし治療が必要だとして、一ヶ月くらいは不 在を覚悟しておくのがいいかもしれない。叔父が 帰ってきたら、寮を出てまた一緒に住み、今度こ そは、柏木さんに言われたとおり、できるだけ家 のことを手伝おうIそう有人は考えた。  有人と食卓を囲むのは、桃花と(ル先輩になっ た。ときには後藤夫妻も一緒だった。食事はおか ずの種類も豊富で美味しく、高校生の舌に合うよ うに工夫されてもいた。叔父の家では食卓に上ら なかった(ンバーグや豚の生姜焼き、鶏のから揚 げなどが、魚料理と交互に提供された。  後藤夫妻は気さくでお喋りで世話焼き、言い換 えるといささかおせっかいだった。たとえば有人 が入寮して間もなくの夕食どき、おばさんのほう がこんな話題を食卓に投げ込んだ。  「「ルくん、涼ちゃんを振っだのは惜しいわよ。 あんないい子、お嫁さんにしたらいいのに」  涼先輩と(ル先輩のことが後藤夫妻に知られて いるのはまだしも、そんなデリケートな話題が食 事の場に放り込まれる事態に、有人は大変な気ま ずさを覚えた。人によっては立腹するか、いただ まれなくなって席を立ってもおかしくない状況で、 (ル先輩はなにも言わずに箸を止めてうなだれた。 また、桃花が「涼先輩はもう全然気にしていませ んので、そういうことを言うのはやめてあげてく れませんか、おばさん」と毅然として物申したの には、驚かされた。日ごろ口数の少ない桃花の、 知らない一面を見た一幕だった。  このように、寮生活を送るようになって、(ル 先輩や桃花との距離は、少しばかり縮まった。  他にも(ル先輩については、一つ秘密を知った。 彼は食後に薬を飲んでいるのだが、普通の錠剤の ほか、朝食後には透明な水薬も服用していた。( ル先輩はその薬がとても嫌そうだった。いつもだ らだらと一番遅くまで食事を続け、飲むところを 見られたくない様子たった。一度食卓にスマホを 忘れて取りに戻ったら、ハル先輩はその囗飲む分 量の水薬を流しに捨てていた。そして、有人に見 られたことに気づくと観念したように天を仰ぎ、 「後藤のおじさんおばさんには言わないでほしい」 と手を合わせた。  「この薬、すごくまずいんだ。飲むと具合が悪く なるんだよ」  「それは本末転倒ですね。でも、出されてるなら 飲んだほうがいいんじやないですか」変な薬を叔 父が処方するはずはないという確信のもとに、有 人は言った。「飲まないからウトゥの帰巣のとき も倒れたんじやないんですか。せっかく叔父が出 したのに。子どもみたいだ」  図星を突かれたのか、(ル先輩は黙った。有人 は涼先輩を振り、叔父の労力も無駄にした彼へ、 一撃を食らわせてやったことにほのかな満足を覚 え、同時に満足を覚えた自分を嫌悪した。最近の 身の回りの激変で溜め込んだストレスを発散した くて、八つ当たりをした自覚があったからだ。  登校初日に誠とやり合ったときは、先に向こう が謝ってくれて事なきを得たが、(ル先輩とはそ う上手くいきそうにもない。なのに今回は一つ屋 根の下の相手だ。その日一日、先輩が話しかけて くるのを待ったが向こうからはなにもなく、入浴 を済ませて部屋でため息ばかりついていたら、L INEメッセージが入っだ。  『おまえの学校の二年に、すごく成績いいやつい る?』  和人からだった。なぜそんなことを尋ねてくる のか不思議で、有人はそれに返事をした。 『二年生は二人しかいないけど、いきなりどうし たの?』  『模試の成績優秀者に照羽尻高校のやつがいる。 俺が家庭教師やってる生徒もそれ受けた』  和人はその部分の画像も送ってきた。夏休み中 に行われた、大手予備校主催の模試たった。理系 総合で偏差値69・7の位置にいる一人の在籍高校 名が、確かに照羽尻高等学校だ。  有人はびっくりした。こんな離島の高校から全 国模試の成績優秀者に食い込むなど、あり得るの か。そしてこれは(ル先輩だ。涼先輩が夏休みに 島を出だのは、旭川に遊びに行ったときだけだが、 ハル先輩はずっと帰省していた。  話しかけるきっかけ作りというより純粋に真偽 を質したくて、スマホを片手に部屋を訪ねた。ド アを開けてくれたハル先輩は、タブレット端末を 持っていた。右耳だけにイヤホンを差し込んで。  「先輩、これ」  画像を見せると、先輩は「どうしたのそれ」と 首を傾げた。タブレットには、なにかの講義風景 が映し出されていた。  (ル先輩は寮のミ{白をフル活用し、この離島 で大手予備校の通信講座を受けていたのだった。  「君は以前こんな環境で医者になれるわけがない と言っだけれど」初登校の囗に誠といきなりやり 合ったときのことだと、有人はすぐに思い至った。 「勉強する手段はあるよ。医大や医学部への入学 レベルに到達できるかどうかは、保証できないけ れど。通信は本人次第のところもあるし」  (ル先輩は自分の成績を自慢するふうでもなく、 また有人にやり込められたこともなかったかのよ うに、いつもの調子で淡々と話した。  有人は自室で(ル先輩が受講している予備校の サイトをチェックした。医学部受験に特化した コースが存在していた。通信でも受けられるのか、 ほんの少し画面をスワイプすれば解決するささや かなクエスチョンを、有人はそのままにした。仮 に通信があったとして、どうするのか。この島で 受講するのか。かつての夢をここで追いかけるの か。ひどく無駄で、むなしいことのように思えた。  (ル先輩が離島に来たくせに本格的な受験勉強 をしている意味もわからなかった。取材で明らか になっだのは、『オロロン鳥の鳴き声を聴いてみ たかったから』照羽尻島に来て、将来の展望は 『進学して、海鳥の研究をしたいです』というこ とたった。でも研究者になれば、鳴き声くらい聴 き放題だろう。ならば目先の進学を優先的に考え るのが普通だ。予備校を利用するにしても、札幌 にいたほうがずっといい。  自分の意思で照羽尻高校を選んだという積極性 の裏に、しばしば違和感が見え隠れする。これで 訳ありじやないはずがない。  桃花も過去を隠している。インタビューでもお 茶を濁していた。  寮は訳ありな島外組の避難小屋だ。  だからといって、同病相哀れむみたいな感覚で 馴れ合うつもりもない。過去については自分が一 番悲惨だと、有人は思っていた。それに叔父が 帰ってきたら、どうせ退寮する。病み上がりの叔 父のために、今度こそ家事を手伝うと決めたのだ から。  だが、そんな決意を打ち砕く報せが、有人のも とに届いた。  十月に入ってすぐ、叔父が島を出てひと月も 経っていなかった。夕食前にスマートフォンへ着 信があった。兄の携帯からだった。LINEでは ないことに、胸騒ぎを覚えた。  受話器のマークをスライドさせる。一瞬の間を 挟み、兄の声が聞こえた。久しぶりに耳にする彼 の声は、とても緊迫していた。  『有人、落ち着いて聞け。すぐ帰ってこい。叔父 さんが危篤だ』  まるで事故だと、フェリーの中で有人は思った。  危篤だとの連絡は有人を激しく動揺させた。す ぐに後藤夫妻に説明し、夕食を取らずに帰り支度 をした。最終のフェリーは出てしまっている、明 日の朝一番に乗るしかないから、なにか食べなさ いと言われたが、断った。動揺は吐き気を誘発し ていた。  そして、日付が変わる直前、また兄から電話が 来た。  叔父の死を伝えるものだった。  翌朝、後藤夫妻が作ってくれたおじやを少しだ け囗にして港まで送ってもらい、その日最初に出 るフェリーに乗り込んだ。叔父の訃報はまだ誰も 知らないようで、港にいる大人からは、「有人、 学校休んでどこ行くんだ?」と問いかけられた。 有人は答えなかったが、送ってくれた後藤のおじ さんが、声を低めてそれに応じていた。  島へ来るときに叔父がくれた酔い止めと同じも のを飲んだのに、眠気は来なかった。北海道本島 へ行く何人かの島民は、後藤のおじさんが漏らし た情報を聞いたのか、そばに来て「大変なことに なったな」「頑張って、気を落とさないで」と声 をかけてきた。有人を気遣いながら、泣いている ものもいた。  それらの言葉に、有人は返事もろくにできな かった。とにかくなにがなんだかわからず、目の 前がゆらゆらして気分が悪かった。  来たときとそっくり逆のルートを辿って、有大 は夕方羽田空港に着いた。和人が迎えに来ていた。 久しぶりに顔を合わせた兄は、「おかえり」のI 言ののち、有人の肩を軽く叩いた。  [通夜に着るスーツ、冒]いにいくぞ」  はじめはなんでもない口調だったのに、兄は声 を詰まらせた。それを聞いて、有人の目の周りも たちまち熱くなった。  和人と叔父の関係性より、自分と叔父の関係性 のほうが密だと、有人は決めてかかっていた。叔 父のようになりたいと願い続けている有人と違い、 和人にはどうなりたいかという明確なビジョンな どなく、単に父の跡を継ぐために医大に進学した のだと思っていた。  和人がそんなふうに声を詰まらせたのを、有人 は初めて聞いた。だから返事も、俯いて「うん」 と絞り出すのが精いっぱいだった。  紳士服チェーン店で買った、つるしの黒いスー ツと靴で、有人は叔父の通夜と葬式に参列した。 葬儀は身内だけのものだった。叔父が強く望んだ のだそうだ。それでも参列を希望する知人、友人 が多く斎場に訪れた。照羽尻島からも問い合わせ があったと漏れ聞いた。  驚くほど早く叔父の命を奪った正確な病名を、 有人は聞かなかった。ただ、非常に予後の悪いガ ンであったことと、体調不良を押してぎりぎりま で島で頑張ったのだろうことは、大人たちの会話 で窺い知れた。  白い花に囲まれた棺の中の叔父の顔は、島を出 た囗と比べても、あまり痩せていなかった。骸骨 に皮を貼り付けたように面変わりをしてしまうの は、ある程度長患いした人で、叔父はそうなる間 もなかったのだ。ただ、キャラメルみたいな色を した生を感じさせない質感の皮膚に、有人は息を 呑んだ。  感情を大雑把に表現するのであれば、ありきた りだが「信じられない」になるのだろう。しかし、 その「信じられない」の中には様々な構成要素が あった。混乱、悲しみ、やり場のない怒り、無力 感。なぜ、叔父はこんなことになったのか。ご飯 を一緒に食べ、弁当も作ってくれ、診療所の観葉 植物の葉を拭けと言い、土囗もたゆまず文献を読 んで、島民の健康を思ってポスターを作り、島民 のために尽くしていた叔父が、二度と目覚めず、 二度と話もせず、動かない。それが、どうしたっ て受け入れがたいのだった。  「自覚症状が出てから苦しい治療を始めても、一 年長らえたかどうかたったはずです。自分でもわ かっていたから、せめて限界まで医師として診療 する道を選んだのだと思います」  喪主を務めた父が、通夜の挨拶で言った。通夜 のあとの食事の場では、こうも漏らした。  「離島という環境じゃなければ、もう少しなんと かなっていただろう」  都会の勤務医なら、設備の整った施設での定期 検査で、早期発見に繋げられた。繋げられたらこ んなに早く死ぬことはなかったIそんな意味だ と有大は理解した。  上日で行われた通夜と告別式のあと、遺骨は有 人の家に持ち帰られた。父は四十九日法要までの 小さな祭壇を和室に作り、その祭壇に叔父の遺骨 と遺影、お菓子や果物、仏花などを整えた。  幸子伯母をはじめ、数名の親類七家に寄った。 突然すぎる叔父の死は親類一同に衝撃を与えたが、 一連のセレモニーを経るにつれて、彼らの会話に は少しずつ雑談もまじりはじめていた。  「有人くんは雅彦と一緒に照羽尻島にいたんで しょう?」  親戚が集うリビングの隅で、目立たぬように身 を小さくしていたのに、まず銃口を向けてきたの は、噂話が好きな幸子伯母たった。  「小さな離島なんでしよう? 一緒に住んでたの よね。どんなところなの?」  叔父と生活していた有人は、それまでも嫌とい うほど病気の兆候や、生活の様子を尋ねられてい た。十分な答えを得ている幸子伯母の興味は、東 京の学校をドロップアウトした有人が、離島でど んな高校生活を送っているのかにシフトしたよう だ。  「そんな小さな島に高校があるなんて。雅彦が入 学の橋渡しをしてくれたんですってね。生徒は何 人? 二十人くらい?」  「こう言っちやあなんだが、有人の顔を久しぶり に見たな」  「今年の正月も、部屋にずっといたから」  引きこもっていた事実が、当たり前のように話 題に上り、有大は一目散に自室へ逃げたくなる。  「雅彦もこんなことになってしまったし、東京に 戻ってくる気はないの?」問いを重ねるほどに、 幸子伯母の舌は回った。「勉強だって、離島じゃ ままならないでしょう。大学への進学を考えたら、 帰ってきたほうが……」  「伯母さん。有人の先輩にはとても優秀なのがい ますよ。俺が家庭教師やってる子よりも、はるか にできるのが」  和人が助け舟を出してくれた。幸子伯母は怪訝 な顔になった。  「そうなの? 離れ小島の高校に?」  「予備校の通信講座で勉強しているみたいで。そ うなんだろ、有人」  有人は頷いた。まさか(ル先輩がここで救世主 になってくれるとは。とはいえ、離島の高校での 学力向上については、幸子伯母に限らず、その場 にいる親戚全員が懐疑的たった。  「その子はどうか知らないけれど、普通は不利よ ねえ」  「特別な授業はあるのかい? 受験用の補習のよ うな」  特別な授業は、郷土を学ぶ照羽尻学と水産実習 だIとは言えなかった。その水産実習で作った パスタ用のウニクリームソースは、有人に大きな 自信という輝きを与えたが、この親戚たちを前に つまびらかにすれば、せっかくの輝きもたちまち くすんでしまいそうだった。  「その学校ならではのメリットはあるの? 推薦 入学枠とか」  -全部ここでしかできない特別な、価値ある 体験だと思っています。  -島に来た選択は正しかったです。勉強は東 京のようにはいかないかもしれないけれど、人生 にはそれ以上に大事なことがあるはずなので。  赤羽らの取材の際に答えた言葉が思い出され、 それに誠の父親の匸言が突き剌さる。  -取材ではお利口さんなことを言えても、親 御さんには言えねえなら、有人の海はまだ荒れて んのかもしれねえな。  答えられないまま、有大は俯いてトイレに行っ た。出てもリビングには戻らず、二階の自室にこ もっだ。  島に行ったあと、母が掃除をしてくれたのだろ う。引きこもっていた当時より清潔に片づけられ た自室のベッドに、有大はスーツのままで腰を下 ろし、上体を横に倒した。  正月と同じだ。あれこれ訊かれたくなくて親戚 から逃げ、安全地帯から出ない自分。  なぜ夏休みに帰省できなかったのか。胸を張っ て親の前で、赤羽らに言い放つだのと同じことを、 なぜ言えない気がしたのか。考えようとして、自 然とストッパーがかかったその命題を、心を決め て一人静かに考える。ついにさっき水を向けられ、 本当になにも言えなかった。  赤羽らが昼食に出かけたとき、なんて思ったの だったか。  軽んじられたくない。  そうだ、そう思った。だから、自分を認めてく れた島や学校を肯定しないと、自分自身の価値も 道連れになり、しぼんで消えてしまうように感じ たのだ。  ことさらに良く言っだのは、全部自分のためな のだ。特別な場所にしておかなければ、そこにし かいられない、そこでしか認められない自分が いっそう惨めになる。東京に帰れば、自分にとっ て真に輝かしいもの、たとえば医大に通う兄の姿 などがあるから、帰れなかったのだ。  あれは、自己欺瞞から生まれた言葉たった。  導き出された答えに、有人は脱力感を覚えるほ ど情けなくなった。ストッパーがかかって当然だ。 こんなこと、直視したくない。でも、心の奥底で は気づいていた。  奈落の底は、奈落の底でしかないのだ。  そう認めると、夢から覚めたような気分になっ た。  島で生活した約半年間で、結局なにも変わって いなかった。パスタソースで褒められてちょっと いい気分になったのも、遅れを取り戻そうと勉強 にいそしみ、延縄のもつれをほどいて手にたくさ んの傷をつけた夏休みも、五人で遊んだ花火の夜 も、涼先輩への思慕でさえ、なんだか馬鹿らしく なった。  どうせ変わらないのなら、もう無理に島へ行か なくてもいいのではないか。ここで時を止めて動 かずにいれば、失敗することも傷つくこともない。 どうせ未来はあの囗になくなっているのだ。  このまま東京に残ったら、誠はどう思うだろう。 涼先輩は、桃花は、(ル先輩は、島のみんなは I階下の親戚だちと同じく、不在をいいことに、 好き勝手な噂話をされるのか。それとも。  有人はスマートフォンを眺めた。誠だちとはL INEをしていなかった。日常で一緒にいる時間 が多すぎて、SNSで繋がる必要性を感じなかっ た。ただ、携帯の番号は教えていた。四人は ショートメッセージをくれていた。  『親父は昨日と今日、手に針を剌した。おふくろ は泣いてる。でもおまえが一番辛いよな』  『有人くん。うんと泣いちやえ。そのほうがすっ きりするよ。無理に元気出さなくていいよ。気温 差あるから、風邪ひかないでね』  『先生とはあまりお話ししたことなかっだけれど、 ご冥福をお祈りします』  『心よりお悔やみ申し上げます。僕はお世話に なっていたから、参列できないのが残念です』  ここから動かなければ、彼らとも、もう会うこ とはない。水産加工施設の中で撮った写真を、一 つ一つ表示させては、お気に入りのマークを外し ていく。トリミングして涼先輩と二人だけにした 写真が出てきた。こんなことをして、浮かれてい た己を恥じる。寒々しい奈落の底に小さな熱を感 じて、なにかが変わるような気がしたあれも、た だの錯覚だったのだろう。  スマホの画面に並ぶアイコンの中に、懐かしい アプリを見つけた。クリアできずじまいで放置し ている脱出ゲームだ。久々に立ち上げてみた。  しばらくプレイしたが、まるで進展はなかった。 ひらめきの欠片も落ちてこない。  やっぱり変わっていないと思うと、全然可笑し くないのに、乾いた笑いが漏れる。  有大はスマホを枕元に置いて目をつぶった。  そのとき、階下で固定電話が鳴った。  叔父の訃報を知った誰かが電話をかけてきたの か。父は、故人の遺志により葬儀は身内で行う旨 の死亡広告を、今日付けの朝刊に出していたの だった。  足音が階段を上ってきて、誰かが有人の部屋の ドアを叩いた。  「有人、おまえに電話」  兄の声に面食らった。なぜ自分に? 家に電話 をかけてくる友人など、いやしない。しかし、驚 きはもっと先にあった。  「あのな、道下さんからだ」  「びっくりした?」  道下の言葉は、ラ行の発音が若干不明瞭だった が、聞き取れないほどではなかった。  「……びっくりした」  同じ教室にいた短い間、道下と挨拶以上の会話 をしたことはなかった。有人はテーブルに置いた グランデサイズのダークモカチップフラベチーノ のストローで、クリームの頂をつついた。  「なんで連絡をくれたの?」  道下はキャラメルフラベチーノのトールサイズ たった。  「言語リ(ビリの先生が、川嶋くんの叔父さんを 知ってたの。朝刊にも出ていたし、だから、帰っ てきてるんじやないかなって」  言語リ(ビリという言葉が、ウニみたいなとげ とげの形状になって、有人の心にぶつかってくる。 まともに道下の顔が見られなかった。きれいに渦 を巻いていたクリームは、どんどん形を崩してい  「……帰ってきてるってことは、僕が今どこにい るのかも知ってたんだ」  「川嶋くんのご両親、今でも私の家に折に触れて いろいろと贈ってくれるの。その節は申し訳あり ませんでしたって。こっちの不注意なんだからお 気遣いなくって斷っているのに」  両親が詫び続けているのを、有人は知らなかっ た。  「お手紙も添えてくれるの。それに書いてあった。 川嶋くんは照羽尻島の高校に進学したって。今年 のお中元だったかな」  ストローをいじる有人の手が止まった。道下は 逆に、キャラメルフラペチーノを一口飲んだ。  二人は荻窪のスターバックスにいた。  電話で今から会えないかと言われ、有大は驚き のあまり毛髪が抜け落ちるかと思った。加えて、 有人のほうは会いたくなかった。しかし、道下に は負い目がある。あの囗以降、顔を合わせてもい ない。自分の目で詫びていないのだ。  荻窪の駅で待ち合わせることとなり、普段着に 着替えて出かけた。  道下が先に来ていて、有人を見つけてくれた。 有人はこちらに手を上げた少女が道下だと、すぐ にはわからなかった。ワンピースにデニムジャ ケットを羽織った彼女は、記憶の中の顔よりきれ いだった。口元の輪郭が整い、薄く化粧もしてい る。そういえばあの囗の道下は、前歯に矯正器具 をつけていたのだった。(Iフアップにした長い 髪がなびいて、その動きが行きかう人の目を彼女 に向けさせた。  中学のときには上原という少女が男子の人気を 集めていたが、今の道下の容姿なら、その上を行 くに違いない。  それだけに、ラ行の発音というちょっとした傷 が、致命傷みたいに思えてしまう。これさえなけ ればと悪目立ちする。  なのに道下は、なにを喋るのにもためらいを見 せなかった。  「高等部に医学部進学コースが新設されるんだっ て。前からできるらしいとは小耳に挟んでたけど ね。来年度からスタート。川嶋くんは知って た?」  知るわけない。有人は黙って首を横に振った。  「川嶋くんつて、お医者さんになりたいんだった よね。少しの問しかI緒にいなかっだけど、覚え てる。あの囗も確か、男子たちでそんな会話をし てた」  道下の記憶力は大したものだった。言葉のとお り、体育館に行く前に、有人はクラスメイトの男 子とそのようなやりとりをした。  今なら、あのクラスメイトは内心冷笑していた のだとわかる。  有人はつつきすぎて崩れたクリームを、スト 口1でぐちやぐちやにかき混ぜた。  「最初に全部混ぜちやう派?」道下が自分のコッ プを持ち上げた。「フラベチーノつて美味しいよ ね」  照羽尻島ではこんなのは飲めない。涼先輩や誠 は飲んだことがないかもしれない。  「川嶋くんのダークモカチップフラベチーノ、私 は飲めないの。小麦が原材料に含まれているか ら」道下はI囗飲んでから、言葉を継いだ。  「キャラメルフラベチーノは、乳と大豆。これは  大丈夫。キャラメル味、大好き」  そこで有人は俯き、両手を膝に下ろした。  謝らなければ。今この流れに乗らなければ、機 を逸してしまう。有人は握り込んだ手のひらに爪 を食い込ませた。  『……y』めんなさい」  「なに、川嶋くん?」  「僕が……あの囗よけいなことをしたから」  ぐっと喉が詰まって、言葉が途切れた。空咳を 繰り返し、詰まりを取り除こうとするも上手くい かない。目尻が熱くなってくる。  「僕の……せいで。なにもわかってないのに…… 出しやばって」顎先が胸元につくくらいに、ます ます深く頭を垂れた。「み、道下に取り返しのつ かないこと……」  聞こえよがしの大きなため息がテーブルに落ち た。  「やめてくれないかな」微かにではあるが、怒気 を帯びた声たった。[あのとき、亘]つ先に駆けつ けてくれたこと、私は感謝してるよ。それについ ては全然怒ってないの。親を通して、何度も言っ てるんだけどな。聞いてない? 一番の落ち度は 私にあるの。自己管理できる年齢たったもの」  有人は顔を上げられない。道下が長く喋ってい る間、ラ行の不自然さを数えてしまう。  「ねえ、聞いてるの?」華奢な指が、テーブルを 叩いた。「私か川嶋くんに会いたかったのはね、 あの囗のお礼を直接言いたかったからなんだよ」  世界の動きがすべて静正した気がした。道下は 繰り返した。  「聞いてる? お礼を言いたかったの、あの囗の こと。だから、どうしても会いたくて、電話しま した」  「……お礼?」  「そうだよ。女子たちが気味悪かつて遠巻きに見 ているとき、川嶋くんが走ってくるのが見えた。 川嶋くんだけが、あのときの私に近づいてくれた。 それがどんなに嬉しかったかわかる? わからな いよね。わからないから謝ってるんだよね。でも、 本当に嬉しかったんだ」  「でも……エピベンはわかんなかったし、先生や お父さんにも怒られたし……」  「エピベンが伝わらなかっだのは、仕方ないと 思ってる。転入してきて間もなかったし。私の体 質が周知されていたら、違ってたかもね。先生、 怒ってた? 誰? 担任の先生? いつ?」  「担任……救急車を待ってるとき。怒鳴られた」  「意外だな。病院にお見舞いに来てくれたけど、 川嶋くんを怒っている雰囲気なんてなかったよ。 救急車待ちのときなら、焦ってただけなんじやな いかな。そういうとき、声が大きくなる入って多 いでしよ」  言われてみればそうかもしれない。だが、あの 囗のことは極力思い出したくないのだった。うな だれたままでいると、道下の指がひときわ強く テーブルに打ちおろされた。  「私は怒ってるけどね」  びくりと肩が震えた。有人の前のフラペチーノ に刺さったストローまでが、ころりと動いた。  「もちろん、あの囗についてじやない。ついさっ き別のことで頭にきた」  下を向きながら、恐る恐る視線だけを上げて道 下を窺う。  道下は、小さくなっている有人を、その場に縫 い留めるような目をしていた。  「川嶋くんが、勝手に私の人生決めたことを怒っ てる」  「……僕、そんなこと」  してないという弁解も、道下は許さなかった。  「してるよ。さっき言ったでしよ。取り返しのつ かないこと、つて。思わず遮っちやったけど、あ れ、取り返しのつかないことしちやって、ごめん なさいって言いたかったんだよね。文脈からし て」  そのとおりである。有人は頷くしかなかった。 道下はまたため息をついた。それからキャラメル フラベチーノのストローの先を咥えて、ついばむ ように飲んだ。  「川嶋くん、あの囗を境に学校に来なくなったん だよね。正確には、次の囗登校したけれど早退し て、それ以降ずっと。引きこもってるっていうの も聞いてたよ。川嶋くんのご両親が最初にお詫び にいらしたときに、教えてくれた」  道下は声を荒らげなかったが、特別低めもしな かった。引きこもってる、という響きが有人に突 き刺さり、次に周りの視線の棘が続いた。まさに 針のむしろたった。だが道下は一切の忖度をしな かった。  「私は学校に戻ったよ。正直、結構厳しかった。 最初はみんな、体育館で気持ち悪い姿になって倒 れた子が来たっていう顔をした。みんな、あんな の見たくなかったよね。わかる。私だって見られ たくなかったし。しかもあのころは、今よりもは るかにろれつが回らなかった。だからなおさら、 気持ち悪がられた。でも私は、休まなかった。早 退もしなかったし、黙りもしなかったし、まして や引きこもるなんて。ふふっ、笑っちやうね」  有人は顔を上げた。道下はきれいなラインの顎 を上げて、挑発めいた微笑みを浮かべた。  「川嶋くんが、いつまでもあの囗のことを引き ずっているなら、私は感謝してるんだってどうし ても言いたかった。けれど、ここに来てもっと言 いたいことができたよ。言っていい?」  微笑みながらも、道下の瞳の奥には憤りの炎が 揺らめいていた。  「私と川嶋くんをI緒にしないで。取り返しがつ かないお仲間に、私を巻きこまないで。引きこ もっちやった川嶋くんは、あの囗が自分の人生を 変えたくらいに思ってるかもしれない。取り返し がつかない、つまり、順当に過ごしていれば未来 に得られるはずだったものを、あの囗のせいで永 遠に失ったと思っているのかもしれない。私の言 語障害も、一生私の足を引っ張るものだと決めて かかってるんでしよ? おあいにく様、違うから。 こんなことで人生狂ったなんてへこたれるほど、 弱くないの」  柔らかそうな頬っぺたをすぼめて、キャラメル フラベチーノを一気に飲み、道下は空になった コップをとんとテーブルに置いた。  「私はちゃんと生きてるし、やりたいことだって いっぱいある。駄目になったなんてIミリも思っ てない。でも川嶋くんは、自分と一緒に私の未来 も駄目になったって決めつけた。それってすごく 失礼だよ。まるで私か死んじゃったみたい。勝手 に殺さないでくれる?」  店内の客がこちらを見ている。道下もだ。四方 八方から照射される視線は、虫眼鏡で集められた 光みたいだった。当たったところから有人の体を ちりちりと焦がしていく。焦げ目は内部まで到達 して、ずっと頭にこびりついていた核の部分をあ ぶりだす。  -未来なんてない。  思い続けてきたそれは、確かに死んでいるのと 変わらない。  「決めつけるなら自分だけにしておいて。私は引 きこもりするほど暇じやないから」  圧倒されながら、有人は一つ尋ねた。  「……なんか将来のこととか、考えたりしてる の?」  「私は子どものころから同時通訳者になりたいと 思つてるの。米原万里さんのエッセイをニュー ヨークにいたときに読んで、それからずっと変わ らない。今もね」  同時通訳者。喋る仕事だ。ラ行はどうするのか。 しかし道下は前を向き続けている。  「誰に言われたわけじゃない。私かそうなりたい んだから、怯んでなんていられない。ラ行は逆風 だけど、私の推進力のほうが勝つって信じてる」  道下はこんなに強い子だったのか。転入してき てからろくに関わりを持たないまま、あの囗を迎 えてしまった。道下の人となりも把握しきれてい ないのに、有人は確かに、自分と同時に彼女の未 来も奪われたと思い込んでいたのだった。  「当ててみようか。私か電話をしたとき、後ろに 人が何人かいる感じだった。親戚の方がいらして たんじやない? 告別式のあとだもんね。で、電 話は結構保留にされた。ということは、川嶋くん はそういう集まりと離れて、自分の部屋にいた。 違う?」  頷くと、道下は「やっぱりね」と無感動に言っ た。  「また引きこもっちやうの? そんな雰囲気だね。 なにも変わってない感じ。少なくとも、ここにい る川嶋くんは」  道下の言葉は鋭い槍となって、ことごとく有人 の弱い部分に突き刺さった。  「それもお似合いかもね。どうせお医者さんには なれそうもないし」  道下は自分のトレーを手に立ち上がった。  「本当は、お礼を言うだけで終わりたかった。心 から感謝してるんだもの。でも、それ以上に腹が 立っちやったから。ごめんね。まあ見てて。+年 後には、私は同時通訳者になっててみせる。取り 返しがつかない、とかいじけちやってる川嶋くん は、ご自宅のお部屋にいるかもだけど」  じやあね、と並びの良い白い歯をこぼして背を 向けた道下は、唖然とするほど颯爽としていた。 デニムジャケットを着た背は伸び、顔は進む方を 向いたまま、一度も振り返らなかった。彼女ほど んどん離れて、すぐに見えなくなった。  置いていかれたと有人は痛感した。  もう、影も形も見えないほどに差をつけられた。 一緒に未来を失ったと思っていた相手に。  しかし、だ。有人は道下が飲めないと言った ダークモカチップフラベチーノを、猛烈な勢いで すすった。本心から悪かったと頭を下げたのに、 ひどい言われようではないか? 気に障った内容 はわからなくもないが、ああまでこき下ろされる 必要もない。特に最後なんて、ひどかった。  有人にとって、道下は『あの囗』の大いなる負 を唯一共有する存在だった。それなのに、失態を 馬鹿にして散々嘲ったクラスメイトよりも、よほ ど厳しい言葉を投げかけてきた。  -私と川嶋くんをI緒にしないで。  道下に嗤われたくない。  あの囗と絶望を繋げていた糸の一本が、ぷちん と切れた気がした。  道下に会った翌々日、初七日の法要を待たず、 有人は照羽尻島へと発った。  和人が空港までついてきた。  「一人で大丈夫なんだけど」  「おまえとあんまり話せなかったし」  兄は自分と話したかったのか。そのわりには、 せっかく座れた移動の電車の中でも、あまり囗を 開かなかった。開こうとしては、走行音や車内ア ナウンスを気にしてか、それを止め、いつしかぼ んやりと車窓を眺めだした。兄の髪は以前よりも 長かった。多忙な大学生活に加え、叔父のことも あり、散髪に行く機を逸しているのだ。三月に家 を出たときは自分のほうが長かったなと、吉田理 容店で整えているスポーツ刈りの頭を軽く撫でて、 有人はリュックを腹に抱え、兄の横で目をつぶっ た。  兄は医大で彼女ができただろうかと、ちらりと 思った。  少しばかり時間に余裕をもって羽田空港に着い た。  「お土産、買えば?」  和人が並ぶ店舗を指さしたので、夏休みの終わ り、涼先輩がコンビニスイーツのマカロンをお土 産にしていたのを思い出した。ならばマカロンで も探そうかと洋菓子を売るお上産屋に歩み寄りか けたときだった。  「おまえさ、覚えてるよな。叔父さんにニセコに 連れて行ってもらった帰り。飛行機の中でさ」  自然と足が止まった。振り向くと、兄は笑った。  「あのときの叔父さん見てから、おまえ、医者に なりたいって言うようになった」  どうして今、こんな話をするんだろう。医者に なりたいと無邪気に吹聴していた過去など、蒸し 返してほしくなかった。有人は自分の顔が強張る のを感じた。  「……五日の話だよ」  「叔父さんみたいになりたいと思ったんだろ」兄 は聞き入れてくれず、初めて耳にすることを言っ た。「わかるよ。俺もそうだし」  空港でしか聞かないチャイム音が鳴った。  「俺さ、叔父さんが死ぬ二日前にお見舞いに行っ たんだ。そのとき、有人と同じで、俺も本当はす ごく格好いいと思ったって伝えたんだよ。そうし たら叔父さん、もう結構話すのもキツそうだっだ けど、こんなこと言ってくれた。和人が医者にな りたいのは、俺が格好良かったからか? 俺以外 の誰かが同じことをしても、格好いいと思った か? つて」  兄の言葉が叔父の声に聞こえた。和人の囗を通 して、叔父が問いかけてくる。  「叔父さん以外の誰か……」  考えたこともなかった。和人は前髪をうるさそ うにかき上げた。  「叔父さんじゃなくても、俺はたぶん格好いいっ て思ったって答えた」  リュックのショルダー(Iネスを、有人は両方 握った。「そしたら?」  「叔父さん、それでいいってほっとしていた。そ う思うならいい。おまえが格好いいと感じたのは 俺じゃないんだって」  「じゃあ、誰?」  「誰でもない。行動、考え方、生き方に対してそ う受け取ったってこと」  -生き方の問題なんだ。  余計なことをしたと苦言を呈す父に、叔父がそ う返していたのを思い出す。  「叔父さんみたいに、つてのは、なにも医者にな ればいいってわけじゃないんだよな。俺はなるつ もりだけどさ」  またチャイムが鳴った。和人は続けた。  「たださ。あのとき叔父さんが呼びかけに応じて、 席を立って行動してくれなきや、それもわかんな かったんだよ。だからさ、有人。俺が言いたいの は」  和人がリュック越しに背を叩いた。堪え切れず 前にのめった有人がつい睨んでも、悪びれずに親 指を立てた。  「東京だろうが島だろうが、動け。行動しろ。動 けるくせに止まったままは、マジで意味ない。動 かないで留まっている時間だって、取り返しがつ かないものの一つだぞ」  もちろん、公序良俗に反しない行動だからな、 と付け加え、最後に「おまえ、ちょっと筋肉つい たな」と言って、和人は踵を返した。お土産を買 うのを勧めたくせに、見とどけもしなかった。  道下みたいに和人も振り返らず、すぐに雑踏に 消えた。  「……なんだよ」誰にも聞こえないほど小さな眩 きを足元に落とし、有人は掴んだままのショル ダー(Iネスを強く握り締めた。「こっちはこれ から離島なのに」  正月に有人がトイレに出てくるまで廊下で粘っ た叔父と、今日、来なくてもいいのに空港までつ いてきた兄が、不思議と重なる。  兄はいつの間にか、叔父に似てきていた。  もしかしたら、本当はもっとずっと前、有人が 島に暮らしを移す前から、兄と叔父は似ていたの かもしれない。気がつかなかっただけで。  確実なのは、二人とも自分を心に留めおいてく れていたということ。  有人は垂れてきた洟を一度すすり、出発便案内 の電光表示板を挑むように見上げた。  それから、洋菓子を売るお上産屋に入り、学校 のみんな、一人に一つ行き渡るだけの数が入っだ マカロンの詰め合わせを買った。  フェリーのエンジン音が変わる。舳先では乗組 員が太いロープを準備しだした。  照羽尻島の港が近づいている。船と一緒になっ て飛ぶカモメの鳴き声がうるさい。だが、三月に は多く飛んでいた黒っぽい海鳥は、めっきり数が 減っていた。繁殖期を終えて島を離れたのかもし れない。  客室で一緒になった数人の島民は、みんな涙ぐ みながら、叔父へのお悔やみを言ってくれた。  「川嶋先生かいないと、本当に寂しいよ」  甲板に出ると、潮風が有人の顔面を叩いた。風 が強いのはいつものことだが、この囗はとりわけ 強く感じられた。  港には何人かの人影があった。目を凝らすと、 その中に涼先輩もいるようだ。時刻はもう放課後 だ。旅館に泊まる客の出迎えに、女将であるお母 さんとともにきているのかもしれなかった。  やっぱり島はすたれていて辺鄙だ。荻窪のス ターバックスがここにあったら、UFO以上にそ ぐわない。  フェリーが接岸しタラップがかかると、有人は 一番に下りた。 「有人くん」涼先輩が駆け寄ってきた。「……お かえり」  有人は「おかえり」を噛みしめた。この島が僕 の帰るところなのかという自問には、まだ大きく 頷けない。でも、帰ってきた。  涼先輩はいつもよりも気遣わしげだった。「お 疲れさまたったね」  「大丈夫です、ただいま」心からのただいまを言 えなかった罪滅ぼしのように、有人は手に提げて いる紙袋を上げてみせた。「みんなにお土産あり ます。マカロン。明日学校に持ってきます」  「本当? めっちや嬉しい。ありがとう」  涼先輩の声色も、めっちゃ嬉しいというほどの ものではなかったが、笑ってくれた。  「そういえば、寮に郵便物が届いてるみたい。桃 花ちゃんが言ってた」  「僕に?」  涼先輩のお母さんが、野呂旅館に宿泊する老年 夫婦の観光客に話をつけてくれた。老年夫婦も鷹 揚だった。有人は送迎の車に同乗させてもらい、 寮に戻った。  「おかえりなさい」  玄関まで出迎えた後藤夫妻が、囗をそろえて 言った。有人は視線を下に向け「ただいまです」 と応じた。古いがよく磨かれてきれいな床板だな と、ぼんやり思う。  「有人くん」後藤のおじさんが、大きな茶封筒を 差し出した。「いない間に届いたものだよ」  「ありがとうございます」  封筒は二つあった。しかも一つは、叔父宛で あった。  「これは?」  叔父宛のを示して問うと、今度は後藤のおばさ んがいきさつを説明してくれた。  「そっちは、有人くんが東京に行った囗に届いた の。川嶋先生、もういらっしゃらないでしょう? だから、島で一緒に暮らしていた有人くんにとり あえず、つて配達が回ってきたの」  他の地域なら差出人に戻されるヶIスだろうが、 ここは照羽尻島である。配送の荷物も玄関の中に 置かれるのだ。同居していた身内がいるのならと いう判断も、島でならあり得る。  「もう一つは、今日届いたばかりよ」  そちらは速達で、ちゃんと有人宛たった。内側 に緩衝材が付いたクッション封筒だ。  宛名のラベルシールは、どちらも同じ字体に見 えた。裏返すと、やはり差出人も同じだった。  柏木道大。  六月に、叔父の診療所を訪れていた医大生の名 が、そこにあった。  【川嶋雅彦先生御侍史  拝啓  仲秋の候、先生におかれましては、ますますご 清栄のこととお喜び申し上げます。  さて、昨年来ご協力賜りました件ですが、研究 論文の草稿がまとまりましたので、お送りいたし ます。川嶋先生のお言葉も一部引用しております ので、不都合がございましたらご連絡いただけれ ば幸いです。  その後、ご体調の方はいかがでしょうか。お元 気に過ごされていることを、切にお祈り申し上げ ます。                    敬具 北海道大学医学部医学研究科博士課程三年 柏木                     道大]  東京から戻って来てすぐ、有人は寮の自室で、 先に届いていた叔父宛の封筒を開いた。  同封されていた草稿の表題を読んで、初めて有 人は柏木の研究テーマを知った。 『様々な疾患における転地療法の有効性と無効性 の検討』  転地療法、つまり療養のために住み慣れた場所 から離れて環境を変えることだ。だから柏木は、 離島の診療所にやってきたのだ。持病のある(ル 先輩と話をしていたらしいのも頷ける。  そこで、ふと有人の胸がざわついた。  引きこもっていた時分、両親に連れられて心療 内科を受診したことがあった。柏木は今年の六月 で三度目の来島たったはずだ。  叔父はなぜ、照羽尻島に自分を誘った?  有人はホチキス留めされているA4サイズの草 稿をめくった。  「有人くん、おにぎり作ったから。少しでも食べ て」後藤のおばさんが、ドア越しに声をかけてき た。「ここに置いておくね」  しばらくしてドアを開けてみると、ラップがか かった皿に、たくあんが添えられた小さなおにぎ りが二つ並んでいた。有人は自室でそれを齧った。  夕食は要らないと断ったのだった。柏木が書い た草稿の内容は、有人から健全な欲求をすべて 奪った。東京からの道中で、カロリー補給のゼ リー飲料を一つ飲んだきりなのに、空腹を感じな いばかりか、てんぷらを揚げる脂っこい匂いに胸 がむかむかした。  夜食のおにぎりも、数口で限界になってしまっ た。少しでも食べたのだから努力は認めてくれる だろうと、有人は残したそれを台所へ下げにいっ た。  後藤のおばさんが、水を切った皿をしまってい るところだった。  {……}』めんなさい、残して」  「具合が悪いのかい? 風邪かねえ……川嶋先生 なら、この時間でも診てもらえたけど」  有人は猛然とかぶりを振った。「大丈夫、疲れ ただけです。今日はもう寝ます。お休みなさい」  有大は二階に駆け上かつて、自室に飛び込み鍵 を閉めた。  今、有人の中の叔父は、その姿を変えた。柏木 の草稿によって。  机の上に置いたその草稿が、ドブネズミやゴキ ブリの死骸みたいに思える。  読まなければよかったI有大は布団を乱暴に 敷き、着替えもせずに中に潜ったI叔父さんが あんな風に僕を見ていたなんて。  柏木の草稿の中には、(ル先輩だけではなく有 人もいた。  一患者として。  十六歳の少年、東京での不登校、抑うつから来 る引きこもり、心的外傷、離島に来て約ニケ月で 登校可能状態まで回復。  要点はそんな感じだった。  これに該当するのは、有人しかいない。 『北海道の離島・照羽尻島に医者として常駐勤務 しつつ、一次予防医学の観点から、地域医療を支 え続けている。』と紹介されている叔父のコメン トまであった。  『東京から離島という思い切った環境の変化が、 彼にとって良い方向に働いたのだとしたら、好ま しい結果に相違ない。』  叔父は僕を患者と見ていたのか? 島に誘った のは純粋に僕のためを思っだのではなく、症例と して観察したかったからか?  -未来の自分を想像してみないか。  あの言葉はなんだったんだ。  確かに東京で心療内科にかかった。薬だって飲 んだ時期がある。けれども、なんの解決にもなら なかった。病気とは違うのだ。  機内でドクターコールに応える叔父を見たとき から、丁心に憧れ続けた。叔父みたいになりだ かった。あれが別の誰かたったとしても、やっぱ り兄と同じく格好いいと思っただろう。だが、別 の誰かは仮定でしかない。名乗り出だのは叔父、 たった一人。それが事実だ。  だというのに。  また、上日の休みも勉強にあて、緊急時にも対 応できるよう常に携帯電話を離さずにいた叔父に、 有人は地域医療に携わる使命感を見て取っていた。 しかし、純粋にそうとは言い切れないのもわかっ てしまった。  草稿には取材を受けた医師たちへの、地域医療 に対するインタビューの章もあった。有人の目に 留まっだのは当然、叔父の言葉たった。  『休日であっても、島を出ることはためらわれま す。島民が抱く医師像は、都会のそれとはまった く異なるのです。プライベートはなく、すべての 時間、島民のための医師であることが求められ、 通常の勤務医とは違うプレッシャーや、束縛を覚 えることも少なくありませんが、そのような内情 や私の心情について、島民が理解してくれること を期待してはいません。地域医療とはそういうも のです。』  みんなと親しく接し、ウニやら晩御飯のおかず やらをもらい、先生先生とあれほど慕われていた のに、叔父は内心では、彼らの無理解にため息を ついていたのか? 休日でも文献に目を通し、携 帯電話を肌身離さずにいたのは、島民の無言の圧 力に屈していたからなのか?  理解を期待していないと言う草稿の中の叔父は、 知らない人みたいだった。しかし、真意を問いた だそうにも、叔父はもうこの世にはいない。  他の医師たちも、地域医療の難しさをそれぞれ の言葉で語っていた。その中では、叔父はマイル ドなほうだった。それでも有人は失望した。  今、憧れは踏みにじられた。叔父を羨望してき た日々はI体なんだったのか。  尊敬と人望を一身に集めながらも、裏では甥の 自分を患者とみなして島に呼び、島民の勝手さを 嘆く。そんな叔父の姿は知りたくなかった。  加えて、島や島民にも改めてがっかりした。島 や島民に対する叔父のネガティブな独白は、有人 が島に来た当初に感じた『寒々しい奈落の底』と いう印象の正しさを、がっちりと補強したのだ。  島に戻っだのは、なりゆきだ。久しぶりの東京 の自室で、もう帰らなくてもいいと折れかけた心 を、道下がバットでプルスインクした。有人の弱 い部分を真っ芯で捉えたから、こんな遠くの島ま で跳ね返った。とはいえ、叔父がぎりぎりまで頑 張った場所でもある。長年の憧れだった叔父の 『生き方』を考えるとき、照羽尻島はもはや外せ ない。  空港での兄の言葉は、おまえもそこでなにかを 見つけてみろと言わんばかりだった。  なのに、帰った早々これである。叔父を思って 己を奮い立だせようとしても、こうして内幕を 知ってしまえば、気分は逆に萎えるばかりだ。い つしか「おかえり」と迎えられるようになった場 所で、有人はひどく心もとなく、孤独を感じた。  もう一つのクッション封筒のほうには『ワレモ ノ在中』と書かれていた。触ると薄く硬いものが 中にあるのがわかる。ケースに入っだCDかDV Dの類と思われた。  それを、有人は開封しなかった。  草稿で患者扱いされているのだ。もしも記録媒 体の中身が心身の治療や健康を指南するものだっ たら、いよいよやりきれない。そして、十中八九 そうだと思う。なぜなら自分宛だから。  「……E取悪」  涙を懸命にこらえながら、有人は布団の中でひ とりごちた。 『あの囗』に匹敵するかそれ以上の最悪の囗が今 囗だと、有人はきつく唇を噛んだ。  気分がすぐれないから学校を休みたいと寮の後 藤夫妻に訴えると、また特別におじやが用意され、 学校にも連絡を入れてくれた。  「叔父さんのことや長旅で、疲れたのかもしれな いけど」後藤のおばさんは、平熱が表示された体 温計を眺めてなお、有人の額に手を伸ばしてきた。 「診療所で診てもらおう、念のために」  「ゆっくりしていれば治ると思います」  気分が悪いのは、草稿の内容にショックを受け たからだ。病気ではない自覚がある有大は遠慮し たのだが、後藤のおばさんは首を縦に振らなかっ た。  「ちゃんと診てもらわなくちゃ心配だから。週明 けから、新しい先生が来てくれているの」  有人は後藤のおばさんに連れられて、午前九時 過ぎに診療所へ行った。お土産のマカロンは桃花 に託した。  診療所の待合室には、既に十名以上の島民がい た。看護師の桐生、医療事務の森内の姿もあった。 違うのは、診療室にいるのが叔父ではないことだ けだった。だが、そのたった一つが大きかった。 叔父がいたころは和やかたった待合室の空気は、 静電気をはらんでいるかのようにぴりぴりとして いた。  「星澤先生が来だの、八時四十五分だったのよ。 それもなんだか陰気でねえ。おはようございま すって言って、すぐに診療室に引っ込んじゃっ た」  叔父がいた時分から診療所の常連たった熟年女 性が囗を切ると、他の島民も続いた。  「川嶋先生よりずっとお爺ちゃん。私と同じくら いかねえ」  「カルテを見て、お変わりないですか、つて三言 三言の問診で、お薬診療終わらせたんだもの」  「言ってやったわ。前の川嶋先生は、八時には診 療所に来ていたし、もっとずっと丁寧で親切で、 お喋りも弾んだって」  「川嶋先生なんて、来島したその日に、急に具合 悪くした子を診てくれだってのにね。ほら、斎藤 さんとこの誠くん」  「まだ呼ばれていないから、無愛想だったら言っ てやるわ」  彼らの話で、新しい医師の名前は星澤で、老齢 に片足を突っ込んでいる男性ということがわかっ た。さらには、すでに不興を買っていることも。  「川嶋先生、本当に残念だわ。有人くん、ご愁傷 さま。おばちやんたちも悲しい」  お悔やみの言葉をくれた吉田理容店のおばさん の顔を、有人はしっかりと見られなかった。  -私の心情について、島民が理解してくれる てやるわ」  彼らの話で、新しい医師の名前は星澤で、老齢 に片足を突っ込んでいる男性ということがわかっ た。さらには、すでに不興を買っていることも。  「川嶋先生、本当に残念だわ。有人くん、ご愁傷 さま。おばちやんたちも悲しい」  お悔やみの言葉をくれた吉田理容店のおばさん の顔を、有人はしっかりと見られなかった。  -私の心情について、島民が理解してくれる ことを期待してはいません。  あの、島民と自分との間に黒々と太い境界線を 引くような叔父の言葉を知らないから、理容店の おばさんも悲しんでいるのだ。その重い秘密が有 人を俯かせた。  「具合悪いんだね。ほれ、ここ。ここで少し横に なりなさい」  待合室のソファに座っていた元気そうな何人か が、腰を上げて有人に場を譲ってくれた。森内が 体温計を持ってやってきて、測り終えたあとに回 収していった。  やがて、桐生が有人を呼んだ。診察の順番が来 たのだ。有人は後藤のおばさんに付き添われて、 診療室に入っだ。  星澤医師は小太りで老眼鏡をかけていた。後ろ に撫でつけている髪は乏しくなりかけていて、か つ不自然に黒い。老眼鏡を下げてフレームの上か ら様子を窺う視線に、有人はあまり好感を抱くこ とができなかった。  「……川嶋先生の甥御さん、だね」  星澤医師の第一声は、体調を尋ねるものではな かった。  「先生にはずいぷんと信者が多かったようたね。 お悔やみ申し上げます」  信者というのは島民のことに違いない。星澤医 師は手で患者用の椅子に座るよう促した。  「で、今日はどうしました? 平熱だけれど」  「気分が悪いって、食欲もないみたいなんです よ」有大が答えるより先に、後藤のおばさんが説 明をした。「親代わりと思って預かっているもの だから、心配で」  星澤医師は有人の喉を触った。冷たい手たった。  「囗開けて」  言われたとおりにする。星澤医師はすぐに「腫 れは無いね」とデスクを向いて、カルテに書き込 みをした。  「疲労でしょう」星澤医師の見立ては、後藤のお ばさんと同じだった。「近親者との死別は大きな ストレスになりますからね。特に薬は必要ないで す。今日明日はゆっくり休んで、消化の良いもの を食べてください。病気じやないから、悲しくて も日常生活を送ることが大事だよ……」  もういいですよと、星澤医師は診療の終了を告 げた。五分とかかっていなかった。  「なんだか、そっけない先生だわね。川嶋先生と 大違い」  診療室を出てすぐ、後藤のおばさんは有人に耳 打ちした。耳打ちにしては大きな声たった。星澤 医師に聞こえていても、なんの不思議もなかった。  川嶋先生のほうが。  川嶋先生だったら。  川嶋先生がいれば。  叔父が他界して四十九日も過ぎていないのに、 それらの言葉は照羽尻島島民の合言葉みたいに すっかり浸透していた。  「おまえ、帰ってきてからずっと元気ないな」  誠にそう言われたのは十一月のはじめ、叔父の 死からおよそひと月という頃合いたった。  「気落ちするのはわかるけどさ。俺だって寂しい し。てか、みんなそうだし」  同じ一年の教室には、桃花もいた。桃花は二人 の会話に耳を傾けているふうだったが、囗を挟ん ではこなかった。  「星澤先生、金曜日の午後休診にしてるじやん? なんでだか知ってっか?」質問の形を取りつつ、 誠は自分で答えを言ってしまった。「帰ってん だって、北海道本島に。金曜夕方の最終フェリー で。で、日曜の最終フェリーでこっちに来る」  「……単身赴任で島に来ているみたいだし、自宅 に戻ってんじやないの」  「後茂内のスナックで飲んでるとこ見たって、海 老原のおっちやんが言ってた」  海老原のおっちやんとは、誠の父とタラ漁の船 団を組む島の漁師の一人だ。三十代後半で独身で、 少しお腹が出ている。  「話しかけたら、すげ1嫌そうな顔して店出て いったってさ」  むっつりとした星澤医師も、それを語る海老原 の口調も、有人には簡単にイメージできた。  -新しい先生、本当に無愛想だなあ。川嶋先 生とは大違いだべや。  一度診療されているから、有人にも星澤医師の 愛想のなさはわかる。着任早々だったにもかかわ らず、あのときすでに星澤医師は、前任の叔父と 比較されることにうんざりしていた。  兄の和人や叔父がそばにいた有人は、比べられ るのがどれほど嫌なものなのかがわかる。  さらには、星澤医師がこの島に来てどんなこと を思っだのかも、わかってしまうのだ。  -奈落の底。  ある程度の予備知識はあったとしても、実際に 離島の光景を目にすれば、やはりインパクトが違 う。潮の匂い、海鳥の鳴き声、風の強さ。フェ リーから迫る港を目にしたとき、星澤医師は離島 の現実に直面した。とんでもないところに来てし まったと思ったはずなのだ。そこで、最初から叔 父と同じレベルを求められたとしたら。  有人も、毎日島民に話しかけられる。新しい先 生より叔父のほうがずっと良かったと、あたかも 日常の挨拶のように。  そのたびに、柏木の草稿が思い出されて、地べ たを見てしまう。地べたには、かつて煌めいてい た憧れが粉々になって、薄汚く散らばっている。  抱えてしまった秘密を誰かと共有したいと、有 人は思う。もしもその誰かが「川嶋先生にぽかっ かりだな」と言ってくれたら、患者扱いされた自 分も救われるに違いなかった。  でも、囗をつぐんでいる。死してなお評判が上 がり続けている叔父への愚痴をこぼしても、同意 は得られそうにない。下手をすれば、そんなはず はない、嘘をついているのではないかと、こちら が否定されてしまいそうだ。そうしたら状況は今 より悪くなる。  「久保のおばちゃんとか、すげ1やきもきしてた わ。あそこ、翔馬ちゃんいるからな」  港近くで旅館を営む久保一家の大人たちが、目 に入れても痛くない翔馬は、まだ一歳の誕生日を 迎える前だ。島内に三人しかいない乳幼児の名前 は、さすがに有人も把握していた。  「たぶんね、上日も島にいてくれるようになると 思う」五人そろっての昼食時にそう言っだのは、 涼先輩たった。「この前の日曜日、先生が帰って きたところを捕まえて、港で直談判したって聞い たもん」  「直談判って?」  有人は思わず尋ねた。桃花と(ル先輩も、後藤 のおばさん特製カツ丼弁当を囗に運ぶ箸を止める。 誠が横から答えた。  「ああ、なんか俺も聞いた。翔馬ちゃんが金曜の 夜から熱出したんだろ。星澤先生いないから、桐 生さんのところに連れてったって」  「そう。だから久保のおじちゃんおばちゃんとか、 まだ小さいお孫さんがいる村雨さんとか、松本さ んとかが家族みんなで港に行って話をしたんだっ て。川嶋先生なら上日もいて携帯も通じたから安 心だったのに、子どもになにかあったらどうする んだ、つて」  「それを港で?」ハル先輩が淡々と確認した。 「日曜日の最終便が着くのを大勢で待ってたの? 星澤先生、びっくりしただろうね」  「うん、びっくりしてたって聞いた。桃花ちゃん、 オレンジあげる」涼先輩が、くし形切りのオレン ジが並んだクッパーを、桃花へと差し出した。 「翔馬ちゃんは熱が下がったからよかったけれど、 もしも一刻を争う病気だったら怖かったよ」  「……お医者さんがいないって、困るよね」桃花 がオレンジを一つとっだ。「札幌なら、休みの囗 や夜も当番の病院があるし、救急車も呼べるけ ど」  「ま、いざというときは救急車のかわりにヘリ来 るけどな」  以前、叔父が言っていたことが、誠の声で再現 された。  「でもな。翔馬ちゃんが具合悪くした囗って、天 候荒れてたからな。親父も船出してなかったしさ。 そういうときは、マジやばい」  「誠くんもあったよね。小学三年? 四年生たっ たっけ」  「あ1あれな。あのときは川嶋先生かさ……」  待合室で小耳に挟んだ話が当人の口から語られ るのを、有人は聞き流した。半分以上の土地が海 鳥に占拠されているこの島で、今自分と一番気持 ちが近いのは、星澤医師なのではないかとすら 思った。  「有人」ふいに誠に名前を呼ばれた。「おまえ、 どうした? 腹でも痛いか?」  からかう口調ではなかった。  心配してくれているのはわかった。誠に草稿の ことを話したらどうかとも思った。だが有人は 「別に……」と答えてしまった。  誠は島で生まれ育っている、島側の人間だ。そ の事実がためらわせた。  照羽尻島診療所の入り囗に、一枚の紙が貼られ たのは、それから間もなくのことだった。 『北海道立照羽尻島診療所の体制について  現在勤務している星澤医師が、十一月二十日を もって退職することとなりました。  後任の医師につきましては、現在、確保に向け て努力しており、それまでの期間は、派遣の医師 により診療を実施する予定です。  なお、星澤医師退職後の診療日時につきまして は、派遣医師が決まりしだい、改めてお知らせい たします。  島民の皆様には、ご不便をおかけしますが、ご 理解とご協力をお願い申し上げます。           北海道立照羽尻島診療所』  「うちら島民のことをなんだと思つてるんだべ」  「最初つから、嫌々来ているつて顔していたも の」 「したって、こんなにすぐ辞めなくても」 「川嶋先生が懐かしい。川嶋先生は、いつだって 島の味方たった。神様みたいだったもん」  例の紙が貼られてからというもの、島民は星澤 医師への不満をもはや隠さなかった。そして、そ の不満と叔父への賛辞は、シーソーの両端のよう だった。一つのものとして語られ、片方が下がれ ば下がるほど、もう片方が上がる。  星澤医師の退職囗が間近となったある囗の放課 後、有人は診療所を覗きにいった。島は駆け足で 冬へと向かっており、ダウンを着ていても寒く感 じる。特に耳が冷たかった。薬を処方してもらう という(ル先輩が一緒だった。(ル先輩は耳あて に手袋までして、完全防備たった。不味い薬を捨 てる悪癖を続けているのか、顔色も冴えない。  柏木の草稿で、有人は図らずも(ル先輩の病名 を知ってしまった。あの草稿の内容は、今もって 誰にも言えていない。孤独感を募らせる有人は、 同じく患者として記されていた(ル先輩なら、多 少は理解を示してくれるのではと思った。寮とい う一つ屋根の下で暮らしながら、親しみまでは持 てずにここまで過ごしてしまっているが、彼もま た島外から来た一人でもある。  彼は星澤医師と島民の軋轢をどう見ているのだ ろう?  「あの……」  低めた声で呼びかけてみたが、黙殺された。 やっぱり感じが悪いなと思った次に、偶然知った 彼の病名と耳あてをしている姿が、芽生えた軽い 苛つきを流し去る。  診療所の屋根が見えてきたころ、先輩から逆に 話しかけられた。「あの郵便物がどうかしたの?」  「はっ?」  見事な不意打ちだった。軽く受け流すなど到底 できず、有人は変な声を出して立ち止まってし まった。  「柏木さんから来ていたあれのせいで、具合が悪 くなって、次の囗学校を休んだんだよね?」  「なんでそのこと……」  「ああ、やっぱりそうなんだね」  かまをかけたのか確信があったのか。いずれに せよ(ル先輩は、「なにが書いてあったの?」と 尋ねてはこなかった。尋ねてくれないから、有人 も話せなかった。   どうして詳しく話せと言ってくれないんだろ う? 水を向けられたら喋る用意はあるのに。  先ほど、(ル先輩なら理解者になってくれるか もしれないと思っだのに、差し伸べられた手が 翻ってしまったようで、不満の火種が胸に燻ぶる。  「じやあ、僕はここで。海鳥観察舎に寄っていく けれど、夕食の時間までには帰るから」  診療所の中へ消えていく薄情な背を眺めつつ、 有人は中の様子を擽った。叔父が診療室にいたと きは島民でごった返していた待合室に、人影はI つもなかった。  後日、星澤医師が島を後にするときも、誰も フェリーを見送らなかったと、噂で聞いた。  医師のいない島は、不穏な空気に包まれていた。 島民は有人を見るや、星澤医師を引き合いに出し て、叔父を懐かしんだ。有人はまるで、星澤医師 の悪口を投げ込まれるポストになった気分たった。  ポストに一つ悪口が投函されるたびに、そんな に悪い医師だったか? と擁護したくなった。医 者だって人間だ。休みの囗は好きにくつろいでも、 文句を言われる筋合いはない。この島にくつろげ る場所がないなら、北海道本島に戻るのは当然だ。 共に医師である両親も、休診囗は自分の時間を 持っていた。都会ではそれが普通だ。だがそれを、 島の人は「自分たちのことをないがしろにしてい る」と責めるのだ。フェリーで帰ってきたところ を取り囲むまでして。  あの話を聞いたとき、有人はぎょっとなり、続 いて離島の閉鎖性を思い知った。家に鍵をかけな かったり、配達の荷物が玄関の中に置かれたりす るのを、一つも疑問に思わないのと同じだ。  戻ってきたのに、島がどんどん嫌いになってい く。島が嫌になると、島に来るしかなかった自分 自身の無価値さも痛感する。兄は空港で行動しろ と励ましてくれたが、こんなところでなにをすれ ばいいのか、こんな自分が行動してなにになるの か、有人にはもはや一つも見えなかった。  気づけば有人は、島に誘った叔父を恨んでいた。 誘ったのも叔父として良かれと思えばこそならま だしも、草稿のせいでただのサンプルだったと 知ってしまった。島を出ると伝えられたときの 「誰のせいでもない」という言葉ですら、こうな ることを見越しての自己弁護に思えてくる。  恨みがないぶん、部屋に引きこもっていたころ のほうがまだマシたった。今は奈落の底にさらに 穴を掘っている。  この、延縄以上にこんがらかつてどうしようも ない気持ちを、誰かに理解してもらいたい。味方 がいれば、少しは救われる。でも、星澤医師と叔 父に対する島民の言動からして、その望みがかな うとは思えないのだった。  十一月の末、体育の授業前たった。  「あ、痛っ」  桃花とバレーボールをトスし合っていた涼先輩 が、右手を胸の前に抱え込んだ。桃花が真っ先に 駆け寄って尋ねた。  「どうしたの?」  「突き指したみたい」  「見せて」桃花は涼先輩の右手を取って、顔を曇 らせた。「人差し指だね。腫れてきてる。骨折し ていないといいけれど」  「涼ちゃん、なした?」  誠と一緒に、有大も二人の女子に近づいた。涼 先輩は「骨は大丈夫だと思うよ」と、腫れた人差 し指を曲げたり伸ばしたりして見せた。  「それができるなら、少しは安心だけど……」桃 花は体育館の入り囗を振り向いた。「先生のとこ ろに行こう。早めに湿布貼って冷やそう」  「無理に動かさないほうがいい」一人隅に座った ままの(ル先輩が忠告した。「切れかけている腱 が断裂するかもしれない」  「「ルくん、怖いこと言わないでよ」  体育館を出ていく涼先輩と桃花を見送ったあと、 誠がぼそりと言った。  「レントゲン撮りたくても、医者がいね1からな。 まさか一ヶ月でトンズラするとかね1よな。ひ で1よ、いくらなんでも」  次は叔父への賛辞が来る。聞きたくなくて、時 間が止まればいいと有人は一瞬願った。だがもち ろん、止まらなかった。  「川嶋先生はいつもいてくれて、優しくて頼りが いあっだのに」  もういい加減にしてほしい。誰もわかってくれ ない。  そんな気持ちが、ついに声になってこぼれた。 「……本当の叔父さんを知らないくせに」 「え?」誠は聞き逃さなかった。「だってマジで そうだったじやん。ていうか、本当の叔父さんつ てなんだよ。嘘の川嶋先生とかいるのかよ?」  有人は目を泳がせた。「言葉の綾だよ。ただあ んまり」乾いてきた唇を舐める。「あんまり島の 人が、叔父さんのことすごいってべた褒めだか ら……なんでそこまで評価されるのかって」  「いや、だってマジで先生普通にすごくね? お 医者さんだから、自分の病気のこと、うすうすわ かってたと思う。でも、ほとんど最期まで島にい てくれたんだぞ? 星澤先生なんて週末になった ら北海道本島に行って酒飲んでたのに」  誠は叔父の擁護一辺倒だ。島外組の(ル先輩に 視線を向けると、彼は青白い顔でこう言った。  「なんでそこまでと君が思うほど、島の人たちに 必要とされていたのでは?」  そこに、応急手当てを施された涼先輩と桃花が 帰ってきた。  「涼ちゃん、大丈夫かよ?」  「うん。中指をギプスがわりに固定したから。湿 布で楽になった感じするし」涼先輩はその場の空 気に敏感たった。「なになに? なんかあった の? 私なら平気だよ?」  誠が有人を顎でしやくって示した。「こいつが 変なこと言うからさ。なんでみんな川嶋先生を褒 めまくるんだって。でも、星澤先生と川嶋先生な ら、雲泥の差じやん? マジでさ」  「……叔父さんが褒めまくられたら、嫌なの?」  桃花の呟きが痛いところを突く。誠は当然のよ うに桃花を後押しした。  「そうだよな、嫌みたいに聞こえるよな。本当の 叔父さんとかなんとか言つてさ」  「あのね、有人くん。私、ここにずっといるから、 川嶋先生が来る前のことも知つてるんだけど」  包帯が巻かれた痛々しい右手を、涼先輩は軽く 自分の頬に当てた。考えるようなポーズだが、患 部を下にしていると、痛いのかもしれない。  「昔もこんな感じだったの。島にお医者さんがい なくて……みんな具合悪くてもできるだけ我慢し てた。医療事務の森内さんいるでしよ? 森内さ んのお父さんつて心臓発作で亡くなっだの。ちょ うどお医者さんが島にいないときに倒れて、ドク ターヘリを呼んだけど間に合わなかった。それに、 どんなに長くてもお医者さんは一年くらいで出て 行っちやうのが当たり前だったんだ。でも、川嶋 先生は違った。結果的に……七年かな? いてく れた。お母さんもあんな先生は初めてだって言っ てたよ」  「俺も親父から聞いたけどさ、川嶋先生がここに いるの、最初は一年の予定だったらしいんだ」  有人はそのことを知らなかった。「任期とか、 そういうこと?」  「任期っていうのかどうか知らね1けど、一年で 次の医師に交替するって、赴任当初は先生本人が 言ってたってさ。親父が聞いたんだから確かだ。 親父も離島の診療所に勤務するなら、そういうも んだろうっつってたな。でも、次の医者が決まん なかった」  つまり、後任を募ったものの誰も手を挙げな かったのだ。  「川嶋先生は、ここは海産物が美味しいからとか 言ってくれてたけど、本当は島民のことを思って 残ってくれたんだって思ってる。そんなん、尊敬 されるの当たり前じゃね?」  だからそれは上っ面なのだ。草稿を読んだ有人 だけが知っているのだ。島民側もどうせ「任期満 了になったら島に医者がいなくなる」などと、懇 願の皮を被った脅しの言葉を投げたのだろう、島 の常識のもとに。言いそうな顔は、いくらでも思 い浮かんだ。  「ちょっと遅れたな、始めるぞ」  体育教師がやってきて、有人は囗をつぐんだ。 誠はしばらくの間、じっと有人を見ていた。(ル 先輩が教師に見学したい旨を申し出た。そういえ ば弁当も残していた。体調が悪いのだろう。涼先 輩が彼の隣に座り、心配そうにこんな言葉をかけ た。  「診療所が開いてたら点滴してもらえるのにね」  結局(ル先輩は早退した。歩くのもままならず 誠に背負われて体育館を出て行った。  「おまえ、なんかあったんじゃね1の?」放課後、 帰寮する有人に誠がついてきた。「島に帰ってき てから。あったろ?」  鋭く切り込んできた誠に、有人は狼狽を隠して わけを尋ねる。  「なんでそう思うの?」  「マカロン」即答だった。「おまえ、俺たちにわ ざわざお土産買ってきただろ。コンビニのやつ じゃない、なんかすげIマカロン。涼ちゃん、マ ジビビつてた」  「確かに羽田でお土産は買っだけど」  「それ、明日学校に持ってくって港で涼ちゃんに 言ったんだろ。つまり、港まではちゃんと学校に 来る気満々だったってことだ。ちょっと疲れたっ ぽい顔はしてだけど寝込むとは思わなかったとも、 涼ちゃん言ってた。おまえが急に体調崩しだのは、 寮に帰ってからなんだ」   指摘してくる点がいちいち正しくて、有人は相 槌も打つ気になれない。誠は郵便物のことも知っ ていた。  「おまえに川嶋先生宛の郵便物が来てたはずだ。 あと、もう一つおまえ宛にも同じ人から時間差で なんか届いたんだろ。それ持って部屋に戻って、 もう夕飯食べに出てこなかったんだってな。その 郵便物になんか書いてあったのか?」  「……誠って意外と冴えてるんだな」  「八割、「ル先輩の受け売りだけどな」  どうもこのところ有人の様子がおかしい、どう 思うかと、誠は先輩をおんぶしながら尋ねたのだ と言う。  「先輩へ口へ口だったのに」  「でも答えてくれた。なあ、なんか腹に溜めてる ことあるなら聞くぞ。頭悪いから、アドバイスと かは無理だけど、ぶちまけてすっきりするってこ ともあるからさ。親父も船酔いしたときは、ゲロ 吐いたらとりあえずはすっきりするって言って た」  「嫌なたとえするなよ」  顔をしかめつつも、有人は誠の言葉がありかた かった。確かに自分は島のみんなが知らない叔父 の顔を抱え込んで、にっちもさっちもいかず、ス トレスを溜めるばかりだった。誰かに聞いてほし かった。  「じやあ……話す。寮に来てくれる?」  後藤夫妻に許可を取って誠を寮に入れ、来客用 のスリッパを履かせる。有大は自室から二つの郵 便物を持ってきて、誠と談話室にこもっだ。  「あのさ、実は……」  そして、柏木の草稿で知った叔父の横顔を話し だした。  はじめは誠の様子を窺いながらたった。誠は真 剣な顔で聞いてくれた。そうすると、だんだんと 有人の囗も滑らかになった。抑え込んでいた感情 を言葉に変えて自分の外に出す作業は、叔父の隠 されていた一面を客観視することでもあった。有 人はその叔父の姿に改めて傷つき、ときおり言葉 をつかえさせたが、とにかく草稿に書かれていた 内容すべてを打ち明けた。  「……ゝ凡、それって」話し終わった有人へ誠が返 してきた第一声は、聞きたかったものではなかっ た。「川嶋先生の悪口?」  「悪口じゃない、本当のことだ。照羽尻高校への 入学を勧められたとき、叔父さんは未来の自分を 想像してみないか、とか、なんかむずむずするよ うなことを言った。それでも引きこもる僕のため に誘ってくれてるのかなと思ってた。でも違った んだ。あれ、病人相手の言葉たった。このまま じゃ再起不能だから……治療しようっていう意味 だったんだ」  「先生がおまえを転地療法のサンプル患者として 見てたって? いや、ないない。先生はそんな人 じゃね1し。おまえが悪い方に考えすぎなんじゃ ね1の? 被害妄想だよ」  晩秋から初冬に足を踏み入れた島は、囗の入り がとても早くなっている。外は既に薄暗く、談話 室の中はもっと暗かった。  「川嶋先生が、嫌々島にいたとは思いたくね1 よ」誠は肩をいからせた。「嫌だ嫌だと思ってる 人が、あんな風にみんなに慕われるわけない。そ ういうのほどっかで漏れる。おまえの様子がおか しいって、俺にわかったみたいに」  「だったら、実際草稿を読んでみたらいい。ほ ら」全部話して否定されたらI危惧していたこ とが現実になりそうな予感を前に、有人も必死に なる。「叔父さんの見方が変わるはずだ。はっき り言わせてもらうと、誠が叔父さんをかばうのは 照羽尻島の島民だからだよ。島のみんなの星澤先 生への接し方、正直ないなって思った。星澤先生 はなにも悪くない。あれが普通なんだ」  「川嶋先生がそれだけ特別だったってことだろ? 俺たちはずっとそう言ってる」  「その特別を押しつけてるじゃん。草稿のほら、 ここ」有人は叔父が地域医療について語っている ページを開いた。「休日にも島は出られない、都 会とは違うけれどそれについての理解は期待しな いって言ってる。叔父さんはなにも聖人君子じゃ ない。内心では思うところがあっだけど、閉鎖的 な環境を考慮に入れて黙っていただけだ。処世術 だよ。これが本当の叔父さんなんだ」  「俺はおまえの言うとおり照羽尻島で生まれて 育ったよ。おまえからしたら、信じられないほど 田舎者なんだろうな」誠は凛々しい眉を悔しそう に寄せて、とっぷりと闇に沈んだ海を睨んだ。 「俺は小学生のころから、なにかあったら川嶋先 生に診てもらった。おまえがなんて言おうと、俺 の中には俺だけの川嶋先生がいる。その先生は、 自分の甥をサンプルにしない。島のために責任を 持っていてくれた人だ。おまえの言うことがもし 本当だとしたら、俺は俺個人としても、島民とし ても、すげ1悲しい」  北海道本島の方角に、小さな明かりが灯りはじ める。  「もう一つのほうは、なんで開封しないんだよ」  「……CDとかDVDとか、そういうのが入って るみたいだ。大体中身はわかる」心を病んだ患者 向けのなにかだ。「いらない」  「もしかして取材音源か?」  有人は意表を突かれた。「インタビュー内容と かをレコーダーで録音してた、つてこと? 赤羽 さんみたいに」  「え、おまえはなに想像してたんだ? 書き起こ ししてんだから、あり得るだろ」  「そうだとしても、いらない」  自分が負ったトラウマや、引きこもっていたこ と、島に来てから登校に至るまでの心身の状態を、 『病人の症例』として語る叔父の肉声。そんなも のは絶対に聞きたくなかった。耳にしたら、それ こそ心のどこかが深いクレバスみたいに傷ついて、 生涯折に触れその声が亀裂からあふれ出し、自分 を悩ませるだろうと思った。有人は封を切ってい ないクッション封筒を、談話室のゴミ箱に叩き入 れた。  「なげんのかよ」  「僕に来たものだ。僕が勝手にしていいだろ」  「なげたんなら、もう誰のものでもないよな」誠 はそれを拾った。「じやあ、俺が聞く」  有人は青ざめた。自分という患者に宛てたメッ セージであれ、取材音源であれ、その中で消した くても消せない体育館での出来事-あの囗の行 動に触れている可能性がある。ひた隠しにしてき た恥部を知られてしまう。  「ちょっと待って、僕のプライバシーが」  「だったら俺の目の前であんなふうになげるな」 誠は返してくれなかった。「おまえのプライバ シーなんて興味ない。川嶋先生の声が聞きたいだ けだ。俺だって先生が好きだったんだ。ガキのこ ろ、死にかけだのを助けてもらった。先生が島に 来た囗たった。命の恩人だと思ってる。こっちの データで、川嶋先生がマジで島の悪囗言ってるの を聞くまで、俺は信じない」  おまえが嫌なら他の誰にも聞かせないと断り、 誠は本当に大事そうに封筒をリュックに入れ、寮 を出て行った。  十二月に入ると、いよいよ雪も頻繁に降るよう になった。風が強く、積もる前に飛ばされるせい で、道路はまだアスファルトが見えていたが、一 面白の世界になるのも時間の問題に思われた。  船団を組んで行うタラ漁も始まった。冬の時期 の漁だ。夏休みに手を傷だらけにしてほどいた延 縄が、誠の父親の船にも積み込まれた。  「あれ、やっぱ音源データだった」誠は持ち帰っ たものをちゃんと聞いたようだ。「おまえも聞け よ」  「……僕になにがあったか、もうわかったんだ」 有人は封筒を渡そうとする誠と、目を合わせられ なかった。「あの囗の僕のこと」  「あの囗? いや、そんなことは話してなかっ た」  「えっ、ぽんと?」  「昔、おまえになんか大変なことがあったんだ なってのは、わかった。でも、話しているのはそ のことじゃなかった」  拍子抜けして、すぐにほっとする。訳ありなこ とくらいは、島に来ている時点で周知の事実だか らだ。  「善きソロモンの秘宝? だったっけか、正直俺 の知らない単語も出てきたけど、おまえならわか るんじゃないかな」  「いや、全然知らないし」  本当は、かつて似た響きの言葉を聞いた気がす るが、有人は否定する。  「とにかく、おまえに聞いてほしくて送つてきて る、これ」  「勝手に送つてきたんだ。僕が頼んだわけじゃな い」  誠はそれでも聞いてみろとしつこかった。そん な誠の態度から、あからさまに島の悪口を言って いたのでもなさそうだと判じられた。だからと いって有人が救われる内容だという確証などない。 聞いてみると応じる決心もっかず、差し出される クッション封筒を突っぱねるたび、有人は自分の 周りに孤独という名の積み木を積み上げているよ うな気分になった。  北海道本島から照羽尻島にやってくる臨時の医 師が、時化によるフェリーの欠航で来られなく なったのも、十二月頭のことだった。冬期運航期 間に入り、フェリーは朝夕の二往復しかなく、医 師も週に一度しか来島しなくなっていた。本格的 な冬になれば今以上に欠航が発生し、医師不在の 時間が増えることは、有人でも予想がついた。  照羽尻高校では毎日のように「風邪をひかない ように」と言い含められた。なにかあっても診て くれる医師がいない。とりわけ持病のある(ル先 輩は注意されていた。姿の見えない不吉な影に身 構えるような雰囲気が、島全体を覆った。  その影をさらに濃くする出来事が起こった。  看護師の桐生が怪我をしたのだ。自宅のカーテ ンを洗濯しようと、椅子を踏み台にして取り外し ている最中、転倒して肩を強打したという。桐生 は苦痛に耐えつつフェリーで北海道本島まで行き、 脱臼骨折と診断され、そのまま入院となった。  アクシデントは、たちまち島中に知れ渡った。  「翔馬ちゃんのときは、桐生さんがいたからまだ 良かっだのに」  医療という点において、照羽尻島は丸裸になっ たのだ。  このタイミングを計ったかのように、地元紙に 記事が出た。  [照羽尻島の常勤医不在 診療所の医師H月中旬 辞職]  社会面の、そう大きくない扱いではあったが、 長く務めた叔父の死、後任の医師が一ヶ月ほどで いなくなったこと、臨時の医師がフェリーの欠航 で予定囗に島に来られなかったことまで、過不足 なく書かれてあった。  「お母さん、ショック受けてる」昼休み、三年生 の教室でお弁当を食べながらぼやいたのは、涼先 輩たった。「お客さまが減るかもしれないって。 オフシーズンだけど、冬休みに来る人もいなくは ないし。こういうの、風評被害っていうのかな」  医師不在の記事が、ネット掲示板やSNSなど で話題になってしまったのだった。  『田舎はこれだから』  『よそ者の医者をいじめて追い出すの、他県の村 でもあったな』  『おそらく前任の亡くなった医師も、辞めるに辞 められなくて手遅れになったのだろう。田舎に殺 されたみたいなもの』  照羽尻島と検索ボックスに打ち込めば、候補に 『医師いじめ』と出てきてしまう。島民はネット 通販をよく利用するので、外部の人が考えるより はるかにインターネットを活用していることは、 有人も島に来て知った現実の一つだった。  「こっちの事情も知らないで、言いたい放題なの がなまらムカつく」誠は憤っていた。「僻地だっ て馬鹿にしてるだろ、こいつら」  すると、桃花が囗を開いた。  「……私も札幌にいて記事だけ読んだら、ネット の人だちと同じふうに思ったかもしれない」  誠がショックを受けた顔になった。涼先輩は大 きな瞳を少しだけ伏せた。  「そうなの? 桃花ちゃん」  「うん……。星澤先生を港で取り囲んだ話も、あ まり印象は良くなかった。表面だけ見たら」  日ごろ口数の多くない桃花だからこそ、言葉の 一つ一つが重く教室に落ちた。さすがの誠も黙り こくった。  一方で桃花の発言は、有人が自分で抱え込んだ 孤独を一部壊した。星澤医師に対する島民の行動 に、ついに疑問を呈する人が出てきた。有人はど ん底の中で微かな光明を見いたした気になり、そ れにすがって追従した。  「はっきり言うと、僕もあの話には引いたよ。東 京じやありえない。島のみんなは被害者みたいな 顔をしているけれど、早くに辞めていった原因は、 正直島のみんなの無理解にあると思うよ」  星澤医師をかばいながら、自分自身が抱える叔 父や島への不満を吐き出しているみたいだIそ んな思いが胸をかすめた次の瞬間、桃花の冷やや かな眼差しが飛んできた。  「私、そういうことは言ってないよ、有人くん」  桃花の目と物言いは、明らかに「自分とI緒に しないでくれ」と訴えるものだった。顔貌も声も 全然似ていないのに、スターバックスで向かい 合った道下を彷彿させた。  暖房のせいだけじゃなく、有人の顔がぶわっと 熱くなった。どこをどう取り違えたのか、これっ ぽっちもわからず、サンドイッチが大っていたバ スケットに食べ残しを入れて、蓋をかぶせた。  「有大くん、あのね」  涼先輩が場を取りなすような口調で話しかけて きた。だが、有大は席を立ち、荷物をまとめて無 人の一年生の教室に戻った。  窓際に立ってガラス越しに外を見る。夏よりも 黒く沈んだ色をした海の上は、白波が筋雲のよう に連なっていた。水産実習で缶詰を作った作業小 屋も、道路も住宅の屋根も空も、全部の色彩が薄 かった。そのうちに吐息で窓ガラスが曇った。  「有人」  誠の声が背後からした。振り向くと、誠の手に は何度もつき返した封筒があった。  「……しつこい」  「おまえになにがあったのかは、ぽんとわかんね えし、別に知らなくていい。でもおまえがそのこ とを今もすげ1気にしてるのはわかる」  「……だから? それを聞いたらなんとかなる の?」  「いくら考えたって、天気と過去はどうにもなら ない」  「おじさんの受け売りか……じやあ僕はなにをし ても無駄だ」 「でも俺は、か……」 「ごめん、説教は聞きたくない」  続きを言いたそうな誠を遮り、有人は顔を背け て席に座った。  過去はどうにもならない。まっだくもって、そ れは正しい。その過去のせいで、自分はこんなと ころにいるのだ。  翌日は土曜日で学校が休みだった。寮生各々が 自分の時間を過ごす中、有人は朝食を食べた後、 自室にこもってインストールしてしまったパズル ゲームで暇をつぶした。  クリアしたゲーム、飽きたゲームは削除してい る。その中で、東京からずっと持ち越しているア プリが一つある。  脱出ゲーム。たまにタップして数分考えてみる が、やはり出る方法はひらめかない。脱出ゲーム にはそれなりに自信があった有人は、必要なアイ テムが表示されないバグを疑い始めていた。  冬の陽に黄昏の気配が早くも潜み始めたころ、  「有人くん、一階に来てくれないか」  ドア越しに後藤のおじさんに声をかけられた。 スマホの時刻表示を見ると、午後三時少し前だ。  「桃花ちゃんが下で呼んでいるんだ」  有人は耳を疑った。桃花が自分になんの用だ? 同じ寮生になったものの、大して親しくないのは 変わらない。ましてや昨日は昼食中に険悪な雰囲 気になったばかりだ。  「まかなっておいで」  外に出る格好をして来いということだ。有人は 首を傾げながらも従い、階下に下りた。  食堂では桃花が光沢のある白のロングダウンに マフラー、ニット帽といういで立ちで待ち構えて いた。その桃花が、帽子とマフラーでは隠れない 目を、鋭く有人に注いでくる。見下ろされている 気がした。 「有人くん。ちょっと一緒に来てくれない?」 「え、今から? どこに? 話があるなら」  談話室でもいいんじやないの、という言葉を、 桃花は継がせなかった。  「海鳥観察舎まで。今ならそこに、「ル先輩もい るから」  似ても似つかぬ道下の顔が、またしても桃花と 二重写しになる。問答無用の迫力が桃花から感じ られた。  逆らえなかった。有人は桃花とともに自転車に 乗った。  冷たい向かい風を押し分けるように、凍てつく 一歩手前の道路を、二人は進んだ。  寒風に抗うように自転車を漕ぎ進める。道は途 中で冬期通行止めとなっていた。鉄パイプで作ら れた簡素なゲートを無視してその横をすり抜け、 路面が乾いた場所を選びながら、ようやく海鳥観 察舎まで辿り着く。ユーラシア大陸側の断崖の上 に建つ観察舎は、冬の暗い海の色を背景に頼りな くちっぽけで孤独に見えた。  吐息がかかった口元のマフラーが、薄く凍りつ いている。桃花の息は有人ほど荒くなかった。振 り向きもせず、さっさと観察舎の中に入っていく。  中では(ル先輩が一人で望遠鏡を覗いていた。 どこからか持ち込んだパイプ椅子の上で両脚を体 育座りのように折り畳み、黒いダウンコートの中 に収めて丸くなっている姿は、それこそ寒さに羽 毛を膨らませる鳥みたいだった。両手に使い捨て カイロを持ち、耳当てを外した耳たぶも赤かった。  「あれ? 君たちどうしたの?」(ル先輩がもぞ もぞと脚を下ろした。「僕、ここにいていいのか な。もしかして邪魔?」  「いてください。「ル先輩にも話に加わってほし いし」  きっぱりとした桃花の口調に、有人は驚いた。 (ル先輩は姿勢を正す。 「寒いし、単刀直入に言うね」海鳥観察舎の中央 で、桃花が有人を見据えた。「有人くん、この島 や島の人たち、今大嫌いじやない?」  そう切り出した桃花に、有人はまたもや道下の 面影を重ねた。  「東京から帰ってきてずっと悩んでない? そ れってたぶん、川嶋先生のことと、ここがものす ごく辺鄙な離島ってことに関係してる。違うか な」  図星だ。有人は(ル先輩の顔を見た。誠のとき と同じく情報源なのかと疑ったからだ。  「私、頼まれたの。涼先輩に」有人の疑りを、桃 花がすぐさま否定した。「有大くん、絶対なにか 抱え込んでるって。だから、相談に乗ってあげ てって」  「涼先輩が?」  だったらどうして自分で直接訊かないのか? その疑問にも、桃花は先回りして答えた。  「私じゃきっと上手くいかないって言ってた。誠 くんともやり合ったっぽいし、照羽尻島の人には 無理だって」  桃花は(ル先輩を見ずに、有人だけに視線を向 け続けている。  「有人くんつて、七月の取材のときは結構島びい きのことを言っていたけど、今はそう思ってない でしよ? 川嶋先生のことも……嫌いになるよう ななにかがあったんじやないかな。だから島の人 たちが先生を褒めると、辛くなる。昨日、星澤先 生に対する島の人たちの態度に引いたって言って たよね。島のみんなは無理解だって」桃花は丁寧 に、なぜ海鳥観察舎まで呼び出しているのか、説 明を続けた。「だから、涼先輩は寮の子たちで話 を聞いてあげてって。自分や誠くんじや駄目、 きっと照羽尻島や島の人たちのことを嫌いになっ てるから……でも、外から来た私やハル先輩にな ら、もしかしたらって」  有人は下を向いた。「……それで、僕がここで 二人になにを話すの?」  島や叔父に対してのもやもやを言葉にしたい気 持ちはある。しかしあくまで、後に同意と共感が 待っていればだ。わかってもらえなければ、いっ そうの孤独にさいなまれる。誠に打ち明けて思い 知った。  「悩み事って、強制して打ち明けさせるものでは ないと思うな」  使い捨てカイロを揉みながら(ル先輩が続けた 言葉は、手を差し伸べてこなかった言い訳に聞こ えた。  「誰にだって話したくないことがあるのは、わ かっています。でも、涼先輩が本当に心配してい るから……」桃花は意を決したようにふうと息を 吐いて目をつぶった。「だから、とりあえず私の 話をする。有人くん、良かったら聞いて。私かど うして、島に来たのか。気になったことあるん じやない?」  寮生。島外組の三人。つまりは、訳あり。  桃花も(ル先輩も、札幌にはいられない事情が あるから島に来たと睨んでいた。有人自身、道下 が倒れたあの囗がもしもなかったら、こんなとこ ろにはいない。だが、それは叔父のことよりいっ そう囗にできない。それこそ屈辱的で惨めで、 「なるほど、それは未来がないね」などと第三者 からとどめをさされたら、いっそ死にたくなるに 決まっていた。事情を話すのは危険が付きまとう。 桃花にだって。  「中学のころ、私は」  でも桃花は、本当にそれを話しだしたのだった。  「バレーボールで実業団に入るつもりだった」  彼女にとっての『あの囗』の話を。  バレーボールを始めたのは小学四年生のとき。 身長を見込まれて、地元のクラブに勧誘されたの。 身長は校内で一番だったと思う。六年生よりも高 かった。テレビ塔って呼ばれてた。札幌の大通に あるやつ。スカイツリーだったら、もう少し様に なっだのにね。  スポーツ選手ってフィジカルも才能なんだ。そ の点で言えば、私には才能があったと思う。それ に、運動はもともと得意だった。クラブ自体は全 国レベルの強豪じやなかったからそのまま地元の 公立中学に進んだけれど、すぐにサイドアタッ カーでレギュラーを取れた。それで、一年生の中 体連地区大会で、春高バレー常連校の監督に話し かけられた。そう、スカウト。卒業までまだ二年 あるから具体的な話はしないけれど、うちでやっ てみることを頭の片隅に入れておいてほしいって 言われたの。  すごく嬉しかった。部活の仲間も先輩たちも、 喜んでくれた。  あの学校の監督から声をかけられるなんてすご いね、一年なのに、つて。  だって、中学校のチームはそんなに強くなかっ た。地区大会でベスト8に入れたらいいかな、つ て感じ。私以外は単なる部活でしかなかった。大 人になったらバレーボールの選手になりたいなん て、できたら日本代表チームに呼ばれたいなんて 思っているの、私しかいなかったから。  でも、二年の中体連では、違うスカウトに声を かけられたの。  その人は芸能事務所のスカウトだった。中学を 卒業したら上京してモデルにならないかって言わ れた。名刺だけじゃなくて運転免許証も見せても らった。ああいうのって、身分証明書も一緒に提 示するんだってね。  みんながいるところで呼び止められたから、全 部聞かれた。  そういうの興味もなかったから、びっくりして その場で断った。  なのに、みんなは変わった。バレーのスカウト に声をかけられたときとは、反応が全然違った。 私はなにも変わっていないのに、モデルのスカウ トが来たからっていい気になってる、お高くと まってるって、一瞬でいじめられるようになった。 いつの間にか学校中に広まって、部活だけじゃな くてクラスでも陰口叩かれた。誰がどう話したの か知らないけれど、良く話さなかっだのは確実だ よね。断ったのももったいつけてるだけだって。 本当は嬉しいくせに、本当は裏でコンタクト取っ てるくせにって、勝手に決めつけられて。ジャー ジやユニフォームをぼろぼろにされたし、シュー ズは一ヶ月で三度買った。無くなるの。たまに再 起不能の状態でゴミ箱から出てきた。  だから、がむしやらにバレーボールをやった。 誰も相手にしてくれないから一人で。絶対高校の 推薦取ってやる、いくらプレーで足を引っ張られ ても、そのぶん自分が引き立つと思って意地張っ だの。  そうしたら、怪我しちやった。三年の中体連地 区大会の直前たった。腰椎分離症。要は腰の疲労 骨折。  試合の日は病院にいた。入院したから。  推薦取って実業団に行ってみんなを見返してや りたくて必死にやっだのが、あだになった。大会 にも出られないし、怪我をしたことはすぐにばれ ちやう。そうしたら、一年のときに声をかけてく れた監督は、きっと別の子を選ぶ。それでも最後 まで望みを捨てられなくて、病院に来てくれるの を待ってたけど……やっぱり来なかった。  いじめられるとか、無視されるとか、そんなこ とくらいなら我慢できたけど、夢見てきたことが 全部駄目になったんだと思ったら、気持ちが切れ ちやった。  退院しても学校を休みがちになった。部活引退 したら、嫌がらせも無くなったんだけど、なんか もう、どうでも良くて。受験勉強する気にもなら なかったな。  札幌にいたくないって思った。なにかの拍子に 行きたかった高校の制服見たり、いじめられてた 中学校の制服見たり、いじめた子たちに会ったり したら、耐えられないなって。  進路指導の先生が親に照羽尻高校の話をしたの は、三度目の進路相談のとき。私はその場にいな かったけど、話を聞いて……進学を決めた。  照羽尻島なら絶対に、私の見たくないものを見 ないし、会いたくない大に会わないから。  「逃げてきたんだ」腹を括っているのか、桃花の 口ぶりは落ち着いたものだった。「正直ここって、 なにもないのに来るところじゃないよね。みんな 訳あり……」桃花と有人の視線が、自然と(ル先 輩に向いた。「だから、「ル先輩が好きで来たっ ていうのがいまだに信じられないんです」  (ル先輩は面接中の学生みたいに居住まいを正 したまま、黒縁眼鏡の奥の目をうろつかせた。  「クラスにいじめはあっだけど……僕じゃなくて 同じクラスの女の子がされていた」歯切れが悪い のに早口でもあった。「彼女が照羽尻高校を知っ たら受験したかな……夏休みが明けたら転校して て、いなかった」  いつもの彼らしからぬ口調に、有人は自分や桃 花とは逆の、いじめる側だったのでは、という疑 念を抱いた。しかし、その仮定もしっくりこない。  「先輩はオロロン鳥の鳴き声を聴きたいから来た んでしたよね。赤羽さんの記事を読んで、なんか お爺さんみたいだなって思いました」  桃花もやはり(ル先輩の理由に首を傾げたのだ。 有人も疑問たった。なぜそれが今でなくてはなら ないのかと。(ル先輩は鳥の研究者になりたいと、 記事中で語っていた。研究者になれば聴き放題の はずなのにI。  そこで有人は、柏木の草稿にあった(ル先輩の 病名と、今でなくてはいけない理由が、ようやく 結びついたのだった。  「もしかして、病気のせいですか?」  彼には持病がある。ウトウの帰巣を見に行った 折も、みんなの前で倒れた。  (ル先輩は、囗をついて出てしまった有人のぶ しつけな質問にも動じなかった。  「うん。中学二年の六月に発病した」  三人とも転機が訪れたのは中学二年生だ。奇遇 だと有人は思う。  「ぐるぐる眩暈がする病気なんだけど、これね、 原因は内耳にあるんだ。だから、耳の聞こえが悪 くなる。いろいろ検査して病名がわかったとき、 すごく珍しがられた。普通はもっと大人、三十代 くらいが好発年齢なのに、中学生の男子かつて」  諸説あるが、ストレスが引き金になることもあ る病気だと、有人は草稿を読んだ後に調べて知っ ていた。  「たいていの人は片耳だけが悪くなるんだけれど、 僕は最初から両耳が悪くてね。確定診断がついた とき、担当の先生かおっしゃったことは、今でも はっきり覚えている」  「なんて言われたんですか?」桃花はわきまえて いた。「差し支えなければ」  「差し支えないよ。君、このままじゃ失聴する よって言われたんだ」  (ル先輩は、話しかけられても返事をしないこ とが、まれにあった。あまり感じのいいものでは なかったが、実のところは単に聞こえていなかっ たのだ。  聴力を失う可能性をはっきり指摘された(ル先 輩は投薬治療に励んだものの、一度悪くなった聞 こえは元に戻らず、むしろ眩暈を起こすたびに悪 化していったらしい。  「だから僕は、将来的に失聴もやむなしと考えて、 今のうちにいっぱいいろんな音を聴いておく方向 にシフトチェンジした。聴きたいもののリストを 作ってみたら、一番上がオロロン鳥の鳴き声に なった。だから来たんだ。三年もいれば、忘れな いくらいには聴ける。問い合わせたら寮はWi-Fi 完備だったし、勉強も自分次第でやれると思っ た」  「親は反対しなかったんですか?」桃花が尋ねた。 「私みたいに札幌がどうしても嫌な理由があるな ら、親も認めるだろうけど、持病があるのに離島 に進学って」  有人もこれには頷いた。普通の親なら、いくら 本人の希望でも諸手を挙げて賛成とはいかない。  「僕には父が三人いるんだ。みんな生きてる」( ル先輩は唐突にそう言った。「三人目の父と母が 結婚したのは受験の年だったから、僕が家を出る のは歓迎だったんじやないかな。ずっと一人っ子 だったけれど、そのうち歳の離れた弟か妹ができ るかもね」  つまり、(ル先輩のお母さんは、二度離婚して 三度結婚したのだ。  「先輩のお母さんつて、涼先輩に似ていたりしま すか?」  有人の質問に、(ル先輩はぽかんとなった。 「どうして?」  有大なら、自分の母親に似た女の子は、ちょっ と避けたい。「お母さんに似ているから、振っだ のかなって」  「顔は全然違うけど……」  答えながら(ル先輩は、少し前までは伸ばして いた背を丸め、奥歯が痛むみたいに右頬に手を当 てて俯いてしまった。この人は、あんなに愛らし くて明るい涼先輩を袖にした。最初は信じがたく て嫉妬めいた感情も覚えたが、こういうふうに妙 に沈んだ顔を見ると、ハル先輩はそのことに、必 要以上の負い目を感じているのではと思えてくる。  「涼先輩は全然気にしていませんよ」桃花がフオ 口1した。「ばかりか、誠くんのお兄さんと先輩 に連続で振られて、将来を考えるきっかけになっ たって言っていました」  島のことが有人くんを悩ませているなら、全部 話してもいいと言ってくれたのだと、桃花は断り を入れるのも忘れなかった。  -二人に振られてみて、初めて私、結婚でき ないかも、だったら自立して働かなきやって考え たんだ。そうしたらね、照羽尻島って女の人が働 くところ、めっちやないの。診療所か保育園くら い? アルバイトならもう少しあるかもだけ ど……あとは自分でお店をやるとか、私なら旅館 を継ぐとか? 私はたまたま旅館の娘だから、そ のへんはラッキーだけど、自営業向いてなかった ら……厳しいね。仕方ないんだよね、漁業メイン の島だから。でも女の人で漁師ってここでは聞い たことない。私、ここが大好きだから、死ぬまで 暮らしたいんだけど、もし正規のお仕事しながら 一人で生きていくとしたら、めっちやキツいんだ よ。  「有人くんや(ル先輩は知らないかもしれないけ れど、島のおばさんたちって、誰それのお嫁さん になっちやえば、つてよく言うの。もちろん、悪 気はないし冗談っぽい。でも言われるたびに、自 分が求められてる役目って、ここではお嫁さんな のかなって思っちやう。知ってる? 漁師の奥さ んつて、島の外から来た人が多いの。誠くんちも そうだよね。観光で来た人と知り合って、みたい なパターン」  島外から来た高校生には、過疎にあえぐ島の次 代を担う期待もかけられていると、赤羽が書いた 記事をきっかけに知った。その期待は、女子の方 が大きいのかもしれない。自立しようと思えば、 女子は働く場を求めて島を出ていかざるを得ない。 おそらく今までもそうだった。逆に漁師を継ぐな どして島に残る道がある男子は、そのぶん相手が いない。  「この島、生きづらいよ。逃げてきたけど、札幌 にはなかった生きづらさがある」  桃花が言い切り、核心に迫ってきた。  「有人くん、最初の質問に戻るね。七月の取材の ときにはかなり島びいきの発言してだけど、今は そう思ってなくない? なにかがあって、それ で……y』の島、最悪って思ってない?」  もはや否定する意味はなかった。  「思ってるよ。照羽尻島は『奈落の底』だって」 有人は二人と順に目を合わせて答えた。「ここの 人たちは外の世界を知らないで、島の常識が正し いと信じ切ってる。やたら距離が近くてなれなれ しいのに、そのくせひどく閉鎖的だ。窮屈で狭い。 来なきやよかった、東京の部屋に留まってたほう がマシたった」動かなければ現状維持で済んだの に。「……一一人も最悪って思ってる?」  「今はともかく」いつもは涼しげな桃花の目元が、 寒さのせいかうっすらと赤みを帯びていた。「島 の人だちと、外から来た私たちの感覚は違う、相 容れないことも多いって、ここに来てすぐ思った よ」  (ル先輩も頷いた。「閉ざされた環境で交雑が 無いまま、独自の進化を遂げた感があるね」  「有人くんがドン引きしてうんざりしているあれ これって、有人くんだけのうんざりじやないよ。 島外組はみんなそう。有人くんがまだ登校してな いとき、私も正直外歩くの嫌たった。みんな話し かけてくるし、見られてる感じしたし、息が詰 まった。でもだよ」  海鳥観察舎に来る前は、見下ろされていると感 じた桃花の視線が、いつの間にか自分と同じ高さ になっているように思えた。  「有人くんの力になってって言っだのは、涼先輩 なんだよ。島で育った人なんだよ」  有人ははっとなった。  結局は決裂してしまったが、最初に事情を聞く と手を差し伸べてくれたのも誠たった。  「距離が近くてなれなれしい、確かにそうだと思 う。でもそれ、裏返してみて。近いから涼先輩は 有人くんが悩んでるって気づいたんだし、私に頼 んだってことは、島外組と島育ちの相容れない部 分も、ちゃんとわかってる。最初のころに、外歩 きたくない、むやみに話しかけられたくないと 思ってた私にも、涼先輩は気づいたの。それでね、 自分から誠くんのお兄さんと(ル先輩に振られて、 しかもそのことをお母さんにこぼしたら、いつの 間にか島民みんなが知ってたって話をして、キツ いところあるよねって寄り添ってくれた……だか ら、さっき私か自分の話をまずしたのは、涼先輩 の真似なの」  聞いていると、桃花の声は意外に心地よく優し いものだと気づく。 「昨日私か、星澤先生のことでそういうことは 言ってないよってI緒にしないでほしいみたいな 態度とっだのはね、有人くんが、悪い面だけしか 見てなかったから。ぽんと、港で待ち構えてって あり得ないんだけど、あれ、翔馬ちゃんを思って のことなんだよね。自分のためじゃなくて、他の 誰かのためにああいうことをしたの。誰かのため ならなにをやってもいいわけじゃないけど、そう いうのを上手く裏返したら、涼先輩みたいにもな ると思うの。私、涼先輩みたいな人、ここに来る まで会ったことなかった」  桃花の言葉と声は、春の雨粒みたいだった。  「有大くんが考えているよりは、最悪じゃない。 決めつけて閉じこもるのは自由だけど、もし話し てくれたら、なにか変わるかもしれない」  桃花が紡ぐ言葉の雨粒は、一つ一つ根気よく有 人の心を叩いた。  それは今度こそ有人の周囲に築き上げられた孤 独の壁に、確かな一穴を穿ったのだった。  道下といい、桃花といい、なんで僕はきれいな 女の子にぐうの音も出なくされるんだろう? し かも桃花の境遇は自分と似ている。理不尽ないじ めに遭い、夢破れ、逃げて島に来た。いじめられ たときも怪我したときも待ち続けたスカウトが来 なかったときも、どれだけ心が痛かったことか。 なのにこの強さはなんなんだ。  かなわない。いや、道下の言ったとおり僕は本 当に弱いのかもしれない。なのに、見捨てられて いない。手を差し伸べてくれる人たちがいるのだ、 ここには。  一種の敗北感を覚えつつも、桃花や(ル先輩に 対して仲間意識という若芽が吹いた。  「……東京から帰ってきたら郵便物が届いていた のは、二人も知っていると思う。その中身のこと、 もう暗くなってきてるけど、聞いてくれる? あ とで涼先輩にも教えていい」  そうして有人は、草稿の内容の一部始終と、誠 との喧嘩のこともすべてありのままを二人に打ち 明けた。  桃花と(ル先輩は、真面目に耳を傾けてくれた。 誰が悪いとも正しいとも言わなかった。ただ先輩 は「そんな内容だったんだ」と納得顔になり、桃 花は「話してくれてありがとう」と微笑んだの だった。  とっぷりと囗が暮れた道を、三人は自転車を漕 いで寮へと戻った。寮の玄関を開けると、温もっ だ空気が迎えてくれた。寒さで強張った顔が解け ていく。ちょうど夕食の時間で、食堂からは少し 懐かしい匂いが漂ってきた。  「今日はみんなが作ったウニクリームのパスタな の」後藤のおばさんの声が明るく響いた。「あと、 カボチャのシチューと手羽元の煮つけとサラダ。 早く着替えて手を洗ってらっしやい」  桃花と(ル先輩が、スリッパに履き替えて寮内 へと入っていく一方、有人は玄関で今一度漂って くるパスタの匂いを嗅いだ。  こんなにいい匂いだったのか。  叔父の死以来、長いこと忘れていた健康的な空 腹感が体の中から生まれて、囗の中に唾がわく。 お腹がぐうっと鳴った。  ダウンのファスナーを下ろしながら部屋へ戻り、 手洗いうがいを済ませて食堂へ行く。桃花や(ル 先輩と一緒に配膳を手伝い、後藤夫妻も一緒に テーブルについた。パスタにフォークはなかっだ けれど、箸で十分たった。  お腹を鳴らしながら、有人はウニクリームのパ スタの一口目を、ゆっくりと目に運んだ。  「有人くん、どう? おばちゃん、美味しく作れ てるかい?」  後藤のおばさんが笑うと、右の犬歯の奥に銀歯 が見える。ずいぷんと野暮ったいけれど、今は無 性にその輝きが好ましい。噛むごとに頷く。  桃花と(ル先輩も、「美味しいです」と目を揃 えた。  有人は食卓に並ぶすべてのものを、一口一口 いっぱい噛んで大事に飲み込み、久しぶりに心か ら美味しいと思いながら食事を終えた。出された ものはすべて食べた。パスタは少しおかわりもし た。後藤のおばさんは嬉しそうに笑い、また銀歯 を光らせた。  食器類を台所に運んだあと自室へ戻ろうとする と、ハル先輩に呼び止められた。  「草稿だけど、できたら読ませてもらえないかな。 僕のことも書かれているんだよね?」  失聴するとまで宣告されている(ル先輩は、当 たり前だが病人扱いされたことをなんとも思つて いない様子だ。有人はハル先輩らしき患者につい てどんなことが書かれていたか、記憶をたどつた。 転地療法にからめた内容で、先輩が読んでショツ クを受けそうな、たとえば病状は悲観的だとか、 そういった記述はなかったはずだ。  「わかりました、貸します」  「ありがとう」   一緒に二階に上がり、廊下で少し待っていても らって草稿を封筒ごと渡した。  渡してしまうと、隣の部屋から紙をめくる音が しないか、隔てる壁につい耳を寄せたくなる。有 人は昨日までよりはるかに近く感じるようになっ た同じ年齢の先輩のことを、布団の上に寝ころん でつらつらと考えた。桃花がここへ来た理由は納 得のいくものだった。だが彼に関しては、もう少 しなにかある気がするのだ。  病気になった原因-おそらくは大きなストレ スーについては、はっきりと話さなかった。自 分や桃花と同じくいじめか、それに類する弱者側 にいたと考えたほうがわかりやすいのだが。  とはいえ、叔父や照羽尻島、島民へのわだかま りと、その原因となった草稿については打ち明け たものの、ここに来る原因となった『あの囗』に ついては有人もまだ黙している。そこまではため らわれたし、時間もなかった。  と、ドアがノックされた。ハル先輩だった。  「もう読んだんですか?」  三十分と経っていなかった。  「僕と君と先生に関係あるところしか読まなかっ たから。ありがとう」  有人の手に返した草稿の角を数秒見つめてから、 (ル先輩は踵を返した。  「あの」  呼び止めた有大に、(ル先輩はちゃんと反応し た。「なに?」  【あの……目】((に、どうですか? 最近)  「すごく良くはないけど……」先輩は黒縁眼鏡の ブリッジを軽く押さえた。「どうして? ああ、 そうか。それに僕の病名が書いてあったね。病気 について調べた?」  「なんかたまに、芸能人とかがなってるやつです よね。少し調べました、すいません」  「いいよ、本当にみんな知っているし。よく君の 耳に入らなかったな」そこで先輩は得心したよう に笑った。「そうか、だから最近君の声が聞き取 りやすいのか。今までより大きな声で喋ってくれ てるんだね」  特に低い音が聞き取りづらいだろうからと、声 自体も少し高めに出すように心がけていた。頷く と、ハル先輩は「ありがとう」とまた言い、自室 へ帰りかけていた足を止めてしばし考えた。  「……立日源データは、斎藤くんが持っているん だったね。僕も聞きたいな。君さえ良ければ貸し てもらえないだろうか」  自分について語られている部分があるなら聞き たいからと、(ル先輩は説明した。  「君宛てだからカットされているかもしれないけ れど、一応」  誠に聞かれているのだから、もう秘密でもなん でもないことだ。道下との一件に触れていないの も確認している。加えて(ル先輩がなにかを聞き たいと望んでいるなら、斷るのも申し訳ない。有 人は「僕は構いません。誠から直接借りてくださ い」と答えた。  (ル先輩は三度目の「ありがとう」を残して、 部屋に戻った。  戻ってきた草稿を開き、有人は自分ではなく( ル先輩について書かれている箇所を読んだ。  『十六歳少年。札幌市生まれ。十三歳五ヶ月時に 両耳メニエール病発疱。低音域に顕著な難聴。照 羽尻高等学校に進学し環境を変えて以降、眩暈発 作の頻度はやや減少。』  最初に読んだときは自分のことで頭がいっぱい になったが、比べると(ル先輩の記載のほうがは るかに字数を取っていた。質疑応答の要約もあっ た。先輩は聞き取り調査にも応じていた。  環境や生活習慣の変化を問われ、札幌にいたと きよりもよく歩き、自転車にも乗るようになった と答えていた。(ル先輩はよほど天気が悪い日で なければ、海鳥観察舎に行く。  叔父はこんなコメントをしていた。  『この疾患に限らず、適度な運動は健康保持に重 要である点から、転地による生活習慣の変化は好 ましいといえる。また、神経質でストレスを感じ やすい性格傾向だが、現在の環境下で当患者の趣 味である野鳥観察が日常的に行えるのは、良い気 晴らしとなっているはずであり、病状の安定に繋 かつていると考えられる。睡眠の質にも改善がみ られる。』  自分や桃花は望んだ未来を諦めたが、(ル先輩 は失聴の可能性について楽観視できないにもかか わらず、研究者を目指し続けている。有人は自分 の身に置き換えてみた。片耳ならまだしも両耳が 聞こえなくなるなら、道が閉ざされたと感じるだ ろう。姿の見えない鳥をさえずりで探す場面を想 像すれば、小学生でも無理だとわかる。  この違いはなんだ? 先輩は自分の将来をどう 捉えている?  -未来の自分を想像してみないか。  もしも(ル先輩があの言葉を聞いたら、なんて 思うだろう。  入浴するらしい彼が、隣室から出ていく音がし た。  海鳥観察舎での一件は、有人が自ら、草稿のこ とも含めて涼先輩と誠に話した。桃花と(ル先輩 に立ち会ってほしかったから、昼食の時間にそう した。涼先輩にはきっかけをくれたことへの礼と、 誠には行き違ってしまった際の「ごめん」も忘れ なかった。  涼先輩は「なんもだよ!・」と白い歯をこぼして、 大きなみかんを半分くれた。誠は照れ笑いをしな がら、机の下から軽く脚を蹴ってきた。それから、 なにごともなかったかのように父親のタラ漁が今 季いかに豊漁かということを自慢しだした。父親 への憧れを隠さない、いつもどおりの誠たった。 有人は初めて誠と言い合いになった六月の囗のこ とを思い出した。誠はこういうやつなのだ。後を 引かない。  そうだとしたら、音源を聞けと勧めるのも、友 人として本気で良かれと思うゆえだろう。  「柏木さんの音源データだけど」ちょうど(ル先 輩が誠に切り出した。「僕に貸してくれないかな。 川嶋くんの許可は取ってある」  「有人がいいって言ってんなら」  誠はリュックの中から封筒を取り出し、(ル先 輩に手渡した。そして口元は笑ったまま、目つき だけに真剣な色合いを漂わせて、繰り返した。  「これ聞いてさ」食べ終わった弁当箱を藍色のラ ンチクロスに包み、ぎゅっと縛る。「俺、先生 かっけ1つて思った」  格好いい叔父。心の水面にさざ波が立つ。  「……そうなんだ」  有人は桃花にさりげなく視線をやった。桃花な らばここで「じゃあ自分も、ちゃんと聞く」と頷 けるのではないか、自分よりも一歩先を行ってい る彼女ならと、羨望めいた思いを抱きつつ、有大 はまだ「聞いてみる」とは返せなかった。  (ル先輩は音源データを聞くのも早かった。そ の囗の午後十時過ぎには返却しに有人の部屋を訪 れた。  「ありがとう。これ、君に返していいよね」  誠に返してくれと言うのも大人げないと思い、 クッション封筒を受け取ると、(ル先輩の手に ポータブルDVDプレイヤーがあるのに気づいた。  「プレイヤーがないならこれを貸すよ」  有人はパソコンがあるからと、封筒だけを受け 取った。  「確かに返したよ。じやあ、おやすみなさい」  「あの、先輩」草稿のときに続き、またも素直に 呼び止められてくれたハル先輩に、有人は思い 切って尋ねた。「なんで、鳥の研究者なんです か?」  「鳥が好きだからだけど」  「このままじゃ失聴するって言われたとき、駄目 だって思わなかったんですか? 研究するのに、 鳴き声も聴かなきゃならないこと、ありますよね。 なのになんで」  レンズ越しに見える先輩の目の周りに、力が 入っだようだ。彼はそのままの難しい顔で、口元 に握り込んだ手を当てて考え出した。  「あの、すいません。変なこと訊いて」ストーブ をつけている室内よりも廊下の温度は低く、ドア を開けていると冷気が入ってくる。「忘れてくだ さい」  しかし、(ル先輩はしばらくそこを動かなかっ た。  やがて、  「……部屋の中で話していい? ここ、寒いん だ」  先輩はそう言って、室内を指さした。有人は振 り返って六畳問をざっと検め、彼を部屋に入れた。 多少の散らかりは仕方ない。  有大は椅子を勧めたが、(ル先輩は敷きっぱな しの布団を避けて、床に正座した。  「君は野呂さんが好きなの? 斎藤くんが言って たけど」  いきなりの剛速球に、有人の顔が一気に熱くな る。「いやそれ、今関係ありますか?」  「あるんだ」先輩の表情が一転暗くなった。「君 の質問に関係ある」  全然繋がらなさそうですけど、と言いたくなっ たが、言葉にはできない。それほど彼は思い詰め た顔たった。  コアコイつてわかるかな」  「崖に設置されている海鳥の模型ですか? あれ があると仲間がいると思って鳥が寄ってきて、繁 殖地になるんですよね」  「そう。有名なのはアホウドリの繁殖プロジェク 卜だね。そのプロジェクトで、特定のデコイに執 着した個体が現れた。名前はデコちゃん。九年も デコイナンバー22に求愛のダンスをし続けたんだ よ。相手は求愛なんてわからないのにさ」  「そんな名前、つけられちゃったんですか」  「アホウドリは、一度相手を決めたら死ぬまで添 い遂げる。僕はデコちゃんの話を知って、鳥、特 に海鳥に興味を持った。なんでかというと……」  僕もデコイなんだと、(ル先輩は言った。  「わからないんだ、好きとか付き合いたいとかそ ういうの。今まで誰にもそういう気持ちを持った ことがない」  あっけに取られていると、先輩は「なんだこい つ、つて顔してるね」と目を伏せた。  「嘘じゃないんだ。でも、アーティストは恋愛の ことばっかり歌うし、恋愛映画はヒットするし、 漫画や小説も恋愛扱うし、芸能人の熱愛とか ニュースになるから、みんなは興味あるんだよね。  「わからないんだ、好きとか付き合いたいとかそ ういうの。今まで誰にもそういう気持ちを持った ことがない」  あっけに取られていると、先輩は「なんだこい つ、つて顔してるね」と目を伏せた。  「嘘じゃないんだ。でも、アーティストは恋愛の ことばっかり歌うし、恋愛映画はヒットするし、 漫画や小説も恋愛扱うし、芸能人の熱愛とか ニュースになるから、みんなは興味あるんだよね。 彼女もそうだった」  「彼女? 涼先輩ですか?」  「いや、中学のときの同級生。ちょっといじめっ ぽいことをされてた。僕、その子から告白された んだ。中一のバレンタインデーに」  自慢かと白けかけるが、(ル先輩はどんどんう なだれていく。  「いや、わかんないからって即座に断ったら、彼 女すごく泣いてた。しかもそこ、見られてたみた いでさ。女子たちはこぞって、塩対応された発情 期のブタつて彼女をからかった。僕は気にしな かった。理解できない気持ちを向けられたこっち だって困ったんだ」言葉は悪いけれど、と前置き をし、(ル先輩は自分の感覚をこう表現した。 「頭の中に恋愛がある入って、僕にしてみたら宇 宙人みたいなんだよ。根本から世界が違う。だか ら僕は、彼女に対してなにもしなかった。もうど う見てもからかいじやないってレベルになっても、 本当になにも……その子は五月に教室の窓から飛 び降りた。二階だったから踵の骨折で済んだけれ ど、学校には来なくなった。誰かが、おまえが付 き合ってやってたらこんなことにならなかったか もなって言った。あり得ないって返したら、いな い彼女がまた嗤われた。それから少しして、何度 も夜に目が覚めるようになって、ある朝起きたら、 世界が高速回転してた」  「ああ……そうだったんですか」   いろんな要素がまじっているものの、これが( ル先輩のストレス要因なのだと、有人は合点が いった。繕わずに言えば、恋愛がわからないと主 張する先輩のほうが意味不明だが、それはお互い 様で、彼も他人にとっては自分が宇宙人側だとい うことくらい百も承知だろう。  「涼先輩には言ったんですか? 先輩のそ の……」 「言ったよ。おそらく僕は一生、誰とも付き合わ ないって」  「やっぱ、びっくりしてました?」  「わからない。でも僕が想像するよりずっと、彼 女を傷つけたと思うようにしてる。いろいろ考え させたみたいだし」  にもかかわらず、彼女の態度が変わらなかった ことに救われたと、(ル先輩は微笑んだ。  赤羽の取材時に、(ル先輩が一つだけ返答に窮 した質問があった。進学で島の外に出たとしても、 いつかは戻って暮らしたいか。質問の裏に隠れて いた島の事情を知って、島外組は絶滅危惧種の海 鳥みたいだと思った。同じことに(ル先輩も思い 至っていたのなら、答えに困るのも頷ける。島に 戻ろうが戻るまいが、先輩は個人の事情で、どう したって期待には応えられない。  「いつのころからか、周りはあの子が可愛いとか、 かっこいいとか言いだすし、付き合いだすし、好 きな子教えろとかしつこいし、母親は男の人を とっかえひっかえするし。宇宙人の中で困惑して たら、デコちゃんのことを知った。人間のあれこ れはさっぱりだけど、鳥のことなら興味を持てた。 一途にデコイに想いを寄せるデコちゃんのことだ けは、面白くて好きだと思えたんだ」  そう言いつつ、(ル先輩は黒縁眼鏡の位置を正 して背を伸ばした。  「前置きが長くなったね。さっきの君の質問に答 えるよ。聴力の問題が浮上したとき、僕は確かに 鳥類研究の道は無理かもと思った。そこで、もう 一度自分と相談したんだけど」  いつしか口調も、普段どおりの落ち着いたトー ンに戻っていた。  「どんな仕事ならできるか、じゃなくて、どう生 きたら満足かなって考えたんだ。耳がどうなろう と、僕が僕なのは変わらない。そうしたらやっぱ り鳥は外せなかった。たとえば鳥類学者という職 業がなかったとしても、僕は彼らの近くにいて、 観察したり調べたりしたい。欲を言うなら、鳥の 研究を通じてもっと大きなことを知れたらいいね。 地球環境の変化とかさ。そういうふうに周囲と関 われたらいい……耳のことは、僕が本当にやりた いことを導きだすきっかけになったと思ってる。 だから、無意味じゃないんだ。小中学校前にある、 あの信号機と同じで」  -意味があるから、あるんだ。  存在意義がわからなかった島唯一の信号機につ いて、彼はかつてそう言ったのだった。  「鳥はいいよ。鳥を見ていると、周りとの違いな んて些細なことに思えるんだよね。思い煩いが些 細なことになったら、周りにもきっとより良く振 る舞える。そういう大らかな自分でありたいと 思った……だからここにいるんだ」  「東京から帰ってきたとき思ったんですけど、今 海鳥少ないですよね。なのにまだ観察舎に通って る……本当に鳥が好きなんですね」  春の海鳥観察舎で投げかけられた「鳥、舐める な」というきつい言葉が、懐かしさとともによみ がえる。  「南に行つちやつた海鳥も多いけど、ウミウとか は残つてるよ。それに今の時季は、オオワシが見 られるんだ。あとは(ギマシコ、シノリガモとか も。全然飽きないよ。それに彼らは空を飛ぶから ね。宇宙に一番近い。それも魅力的だと思う」  「海鳥はあまり高く飛ばなくないですか」  先輩は「それはそうだね」とにこやかに同意し、 足がしびれた様子も見せずに立ち上がった。  「じやあ、おやすみなさい。居座ってごめんね」  「先輩、意外にお喋りだったんですね。知らな かった」  すると(ル先輩は、先はどの笑みを嘘のように 消して眩いた。  「ずっと考えてるんだ。彼女は宇宙人だったけれ ど、もし僕がなにか……クラスメイトのからかい を止めるとかしてたら、ちょっとは違っていたの かなって」  しゅっとした横顔に、有人は悔いの翳りを見た。  「……口出ししてたら、先輩もいろいろやられて たと思います」  「君が悩んでいるときも僕は傍観者たった。だか らさっき呼び止められたとき、もしここでスルー して君の様子がいっそうおかしくなったら、僕は この先今晩のことも、後悔まじりに考えるに違い ないって思った。だから、いっぱい話したんだ」  「そうだったんですか」  デリケートな告白をした理由が、腑に落ちる。 いち早くなにかあったと気づきながら、昔と同じ くなにもしないことに、彼は一人で葛藤していた のだろう。顔色が悪かったり、早退したりしてい た(ル先輩の姿を、有人は思い出した。  行動を起こさなかった過去を抱える人が、目の 前にいる。彼は後悔の末、今夜動く道を選んだ。  羽田空港で別れた兄の顔と言葉が、寸時よぎっ た。  「きっかけをくれてありがとう」(ル先輩は有人 が手にし続けている封筒を視線で示した。「…… それのせいもあるかも」  「これ?」  「うん。それと、もう薬は残さないよ。聞こえな くなってもいいと思ってるわけじゃないんだ」  先輩は部屋に戻った。  一人になると、有人はクッション封筒からCD ケースを出した。CDケースと一緒に、『川嶋有 人様』とだけ宛名が書かれた白封筒を見つけた。 封は切られていなかった。  有人はCDケースから中身を取り出し、パソコ ンの前に座った。  冬休みに入って、最初に帰省したのは(ル先輩 だった。年末に行われる予備校の短期集中講義に 出席するためだった。桃花は(ル先輩の次の日に 帰った。  「おまえはいつ帰んの?」桃花の出航を見送った 帰り、誠が訊いた。「寮、閉まっちやうだろ?」  「明日、二十九日に帰るよ」  三十日から年明け三日までは、後藤夫妻も年末 年始の休暇なのだ。  星澤医師の一件がネット上でちょっとした炎上 を呼んだにもかかわらず、島には僅かながら観光 客が訪れだしていた。宗族連れもいる。  「照羽尻島で年越しするっていう人、すっげ1少 ないけどいるんだよ。天文マニアが休み使って冬 空の撮影に来たり」  有人は誠とともに斎藤家の陸仕事を手伝ってい た。年末ギリギリまで島に残るのは、夏休みのと きとは違う意味で、帰るのがためらわれるせい だった。  不愉快だと決めつけてきた島のあれこれにも、 見えていなかった面がある。自分が考えているほ ど最悪じゃないと、桃花の言を認めるのはやぶさ かでない。でも帰って、島で暮らすより引きこも りの巣のほうがやっぱり楽だと再確認したら、甘 えてしまうかもしれない。  -弱い。  海鳥観察舎で島外組と話をした一件以来、有人 は自分のことをとみにそう思うようになった。つ らつら振り返れば、東京での引きこもりも、島に 来てからの自己欺瞞も、すべて弱さから生まれて いた。  今の有人に具体的な弱さを突きつけているのは、 柏木が送ってきた音源データだ。パソコンのDV Dドライブにセットしたはいいものの、結局再生 はできないでいる。何度となく再生ボタンをク リックしようとした。誠や(ル先輩の言葉から、 興味も芽生えている。有大が傷つく内容なら、こ のデータは有人の手に返ってこなかっただろう。 にもかかわらず、二人は気がつかない、有大にだ け剌さるような矢が潜んでいるのではと、土壇場 で怖気づく。同封されていた手紙も、開封してい ない。  ため息をつきつつタコ網を解いていたら、作業 小屋に誠の父が大ってきた。  「明日っからしばらく時化るぞ」  風が積もっだ雪を吹き上げてはいるか、空は快 晴である。スマートフォンで確認したが、出てい るのは晴れ時々曇りのマークだった。  しかし、誠の父が正しかった。翌日からフェ リーは欠航になり、有人は帰省の足を失った。後 藤夫妻は「寮にいていい」と言ってくれたが、誠 からも誘いが入っだ。  「なんならうち来いよ。陸仕事手伝うなら泊め るって親父とおふくろも言ってる」  誠には一つ目論見があるらしかった。二十九日 の午後に斎藤家へ向かう道すがら、こんな耳打ち をしてきた。  「このまま欠航が続いたら、おまえ俺んちで年越 しするだろ? もしそうなったら、一度でいいか ら海の上で御来光を見てみたいって親父に言えよ。 おまえが言ったら折れるかもしれね1」  父親の船に乗りたいと言い続けている誠は、ま た有人をだしに使う気なのだ。 「時化てるなら漁船も出せないんじやないの」 「そこだよな1.天気にだけは勝てね1からな」 「天気がこの世のラスボスみたいだね」  有人のたとえに、誠は「ははっ」と軽やかに 笑った。  その囗の夕食は、あれも食べろこれも食べろと 胃袋の限界までごちそうを勧められた。寮ではあ まり出なかった刺身-しかも寒ヒラメだIと タラ鍋、ニシン漬けなどをみんなでつついた。誠 「時化てるなら漁船も出せないんじやないの」 「そこだよな1.天気にだけは勝てね1からな」 「天気がこの世のラスボスみたいだね」  有人のたとえに、誠は「ははっ」と軽やかに 笑った。  その囗の夕食は、あれも食べろこれも食べろと 胃袋の限界までごちそうを勧められた。寮ではあ まり出なかった刺身-しかも寒ヒラメだIと タラ鍋、ニシン漬けなどをみんなでつついた。誠 の父は酒を飲み、母は鼻歌を歌いながら鍋に具を 足し入れた。  「母ちゃん、その歌やめれや。下手糞だぞ」  「いいじゃない。好きな歌くらい歌わせてよ」  夜明けの来ない夜は云々という、なじみの歌を 囗すさみ、食器を洗う誠の母は明るかったが、有 人はその脂肪のついた背に、ささやかな寂しさが 張りついているのを見て取った。  誠には至という兄がいたはずだ。涼先輩を振り、 パテイシエになると言って家を出た至は、帰省し ていない。有人が帰れないように、北海道本島側 で時化が治まるのを待っているのか?  誠ですら、兄貴のあの字も囗にしない。  「有人、おまえ家に電話しろや」  晩酌で顔を赤黒くした誠の父が切り出した。  「そうね、おばさんもご挨拶しなくちや」  フェリーの欠航が決まった時点で一度LINE は送っているものの、有人は素直に受け入れ、斎 藤一家の前で実家に電話した。取つだのは和人で、 荒天のニュースは東京でも報じられていることを 教えてくれた。  『年明けまで続くつて。ついてなかったな。今、 母さんに代わる』  有人は母に今一度、欠航が解消され次第帰るつ もりだと伝え、スマホを誠の父に渡した。  アルコールで少しとろんとしていた誠の父の目 は、スマホを受け取るといつもの精悍さを取り戻 し、大きめのはっきりした声で話し始めた。浜言 葉はそのままたが、はたで聞いていても頼もしさ を覚える挨拶だった。有人は母を思い、内心 ちょっと笑った。たぶん母は、誠の父のような人 と話したことはないだろう。  誠の母は気を遣わせない語り囗で、フェリーが 出るまで責任を持って預かると請け合ってくれた。 有人に戻ってきたスマホの向こうでは、母がひど く恐縮し、親切なご家族だ、なにか贈らなければ、 住所を教えろと繰り返したのちに、こう言い含め た。  『あなた甘えてお年玉もらっちや絶対に駄目よ? お母さんからも甘やかさないでくださいって頼ん でおいたからね』  斎藤家の夜は更けていった。有人は一番風呂を いただいた。誠の兄からは、知る限り一度も連絡 が無かった。誠の父は早々に就寝した。  有人の布団は、二階の誠の部屋の床に敷かれた。  「屁とか俺気にしね1から、おまえも好きにやれ よ」  誠は言い放つと、彼の体格には狭苦しいベッド の中で、本当に放屁した。  「臭いよ」  「俺の屁は臭くない。いい匂い。フローラルの香 り」  「誠つて馬鹿だろ?」  笑って言うと、誠は逆に真面目な声になった。 「有人が来てくれて、なんか良かったわ」 「なんで? 一家団欒に迷惑すぎじゃん」 「兄貴が帰ってこないの、親父あれですげ1気に してるからさ。おまえがいるから気が紛れてんだ。 親父は俺と兄貴で漁師を継いでほしかったみたい なんだよな。俺も兄貴と船に乗るつもりだったし。 う1ん、俺だけじゃ頼りないんかな1」  「誠はなんで漁師になりたいの?」  「やっぱ親父を近くで見てたからかな」誠が脚や 腕を動かすたびに、暗がりに布団が擦れる音が広 がる。「島の外で生まれ育ってたら、パイロット とか野球選手とか言ってたかな。でも俺はやっぱ ここが好きだし、どうせ歳食っておっさんになる なら、親父みたいなおっさんがいいんだ」  「そっか」有人は心から言った。「似合うと思う よ」  「俺は酒好きじやないけどな。ガキのころこっそ り飲んで、死にかけた。助けてくれたのが、川嶋 先生。島に来たその囗たった」  大いに呆れ、次に大笑いした。叔父のこの島で の最初の患者が、急性アルコール中毒の小学生 だったとは。  「死にかけたって、そんな原因だったの」  「いやマジでヤバかったんだって。先生いなかっ たら、俺ここにいない」  酔っぱらって意識朦朧となりながらも、誠は白 分を助けてくれた叔父に、格好いいと憧れたかも しれない。最初に照羽尻高校へ登校した囗、もし も頭が良かったら、医者になって島に尽くすのも アリだと言っていたのだ。  だとしたら、同じだ。叔父への憧れという同じ 気持ちを持っている。  ほんのりと温かいものが胸の奥に生まれると同 時に、叔父の姿が思い出される。草稿を読んで以 降のもやもやが風に流されるように薄らぎ、現れ た記憶の中の叔父は、こちらを見つめて優しく晴 れやかに笑っていた。  明日、一緒に御来光見たいってお願いするぞと、 誠は拳骨を伸ばしてきた。その拳骨に自分の拳を 軽く合わせて、有人はリュックの中に忍ばせてい るクッション封筒にいっとき思いを馳せてから目 をつぶった。  三十日と大晦日もフェリーは欠航だった。常時 強い海風が斎藤家に吹きつけ、茶の間の窓から見 えるはずの海も見えない。吹雪と積もっだ雪が風 に巻き上げられる地吹雪で、島はホワイトアウト の状態だった。  元日も居候することになってしまった有人は、 斎藤家の陸仕事はもちろん、正月料理の準備をす る誠の母も手伝った。掃除が終わると、慣れない 手つきながら誠と台所にも立った。  いつもの歌を口ずさむ誠の母が、ふいに有人に 訊く。「おばちゃんの歌つてる歌、知つてる?」  「聞いたことはあるような気がします」  まっだせいこ   るり  「松田聖子の『瑠璃色の地球』つていうの。若い ころ大好きたった。今も好きだけど」  誠の父はラジオを聴きながら漁協に連絡し、 ファックスで取り寄せた天気図を睨んでいた。  「親父、明日の朝どうよ?」誠は何度目かのジャ ブを繰り出している。「沖から見る御来光。せっ かく有人もいるんだしさ。いい機会だと思うんだ よな」  はんかくさいこと言うんでねえ、と今までの ジャブは却下されてきたが、このときは違った。  「有人」誠の父が意向を尋ねてきたのだ。「おま えはどうだ。見たいか?」  -有人はどうしたい?  叔父の言葉が浮かび上がって重なる。 「僕は……船酔いしたらご迷惑かなって」  誠の父が唇の片側を吊り上げた。「答えになっ てねえな」  そのとき、電話が鳴った。無意識に時計を見る と、そろそろ正午だ。誠の父が受話器を取った。  「なんだおまえか」  その匸言で、誠と彼の母も動きを止めて聞き耳 を立てた。誠の父は低い声で「ああ、ああ」と相 槌を打ち、最後に「わかった」と言って切った。  「兄貴?」  誠の問いに、誠の父は「ああ」と肯定してから 鼻で嗤っだ。  「後茂内まで来たはいいけど、船が出てないから 帰れねえっつってたな。でもあいつ、はなから帰 る気なんてねえのさ。後ろでJRのアナウンスが 聞こえたからな」  首を傾げる有人に、誠が事情を教えた。「後茂 内にはJRが通ってね1の。つまり、こっちに来 てない、札幌から動いてないってこと」  「いいさ。至は至で、自分の船の舵取りしてんだ からよ」誠の父はまた天気図に目を落とした。 「馬鹿だな。つかなくてもいい嘘ついてよ」  「だったら有人くん、至の部屋使うかい?」誠の 母が弾むように言った。「誠、いびきうるさいで しよ。この子、小さいころから寝相が悪いし」  誠の両親の胸の裡を思うと、とても部屋は借り られなかった。  大晦日の夕食はいつもよりも時間が早かった。 しかも食卓にはもうおせちが並べられた。有人は 驚いたが、斎藤家の面々はなぜ驚くのかという顔 をした。  「東京ではなに食べんのよ」  「え、普通にお蕎麦とかです」  照羽尻島や北海道の一部では、大晦日からおせ ちとともにごちそうを食べ始めるのだと、有人は 教えられた。  「刺身盛りもあるの。こっちは手巻き寿司と毛が 二よ」  たらふく食べた後に風呂に入り、紅白歌合戦を 見、小腹が空いてきた午後九時ごろに年越し蕎麦 をすすった。  蕎麦を平らげると、誠の父は大あくびをした。  「寝るわ。おやすみな」  大晦日なのに漁師の習慣は崩さない。体の中に 睡眠リズムができあかつているのだろう。食器を 片づけ、お目当ての松田聖子を見終えると、誠の 母も紅白の決着を待たずに寝室へ行った。  有人は誠と一緒にチャンネルをザッピングしな がら時間を潰し、日付が変わった瞬間、「去年の 紅白はさあ」などととってつけたように言って、 笑いあった。それから就寝した。  「……きれ。ほれ、起きれ、おまえら」  漁師のだみ声が響き渡り、有人は顔をしかめた。 薄目を開ける。部屋は暗いが、開いたドアから廊 下に点いた電灯の光が入ってきている。ドアのと ころに、大柄ではないが頑健な体躯の男の影が、 仁王立ちしていた。その男は、手にしていたもの をどさりと床に放った。  「御来光見るんだべ。さっさと起きて着替えれ。 一番上には、そいつを着れ」 「えっ、マジ?」  誠が飛び起きた。有人も一気に覚醒する。枕元 のスマホで時刻を確認した。午前四時十八分。  「寒いぞ。死にたくなけりや暖かくしろ。着替え たら来い。海、出るぞ」  暖房を切っている部屋は寒い。だが誠はパジャ マを脱ぐのをためらわなかった。  「やっと沖に出られる」  筋肉をまとった腕に、鳥肌が立っている。少し 声が震えているのは、寒いのか武者震いか。  「おまえも早く着替えろ」  部屋の電気を点ける前に、誠の父は去っていっ た。床に放り出されたものは、上下揃った防寒服 がニセット。青とオレンジだ。  冬の海に出るときに漁師が着るやつだと誠が言 い、サイズを見た。  「オレンジのほうが小っちやいからおまえだ」  誠に言われるがまま、ピートテックの長袖肌着 長袖シャツと重ねた上に一番厚いセーター、それ からジーンズを身に着ける。首にはいつもの黒い マフラーを巻いた。誠は有人が持っていない耳当 てと帽子を貸してくれた。  最後にオレンジの防寒服を着込む。水と風を通 さない素材だった。生まれてこのかた、こんなに 厚着したことはない。だが、思ったほど動きづら くはなかった。  居間には誠の母がいた。いつもよりも少し上等 なカーディガンとズボン姿たった。「なにかお腹 に入れたほうがいい」と、有人と誠に小さなおに ぎりと温かいお茶を出してくれ、食べ終えたら酔 い止め薬も飲ませてくれた。それからペットボト ルに入っだ水と、使い捨てカイロを、それぞれの 手に握らせた。  「トイレは船の中にもあるからね。気をつけて。 元気に帰っておいで」  玄関に用意されていたゴム長靴を履いて表に出 る。夜明けの気配は遠い。吹雪は嘘みたいに治 まっていたが、そのぶん外気は冷えていて、むき 出しの頬がぴりぴり痛んだ。  真っ暗な中、港に停泊している一艘の船だけが 煌々と明るい。その船に向かって、誠と走った。 雪を踏むと、聞き慣れないキュッキュッという音 がした。  誠は左舷の後方から、ためらいなく飛び乗った。 反動で船が揺れる。思わず立ち止まった有人に 「しや1ね1な」と手が差し出された。引っ張ら れるように、波止場と船の間にある数十センチほ どの暗闇を跨ぎ越える。  「いくぞ。寒いから中人ってれ。救命胴衣つけ れ」  操舵室から声がかけられ、有人たちは言われた とおりにした。操舵室後方には電車の一部を切り 取ってさらに縮小したような、人が数名向かい 合って座れる小部屋があるのだ。  「この船、定員九人だからよ」  誠が自分の船のように鼻を高くする。右手の舳 先を向けば操舵室に誠の父の頭が見えた。  見よう見まねで救命胴衣をつけると、それを 待っていたかのようにエンジン音が変わった。有 人の心臓もどくりと高鳴る。  船が沖へと動きだした。首を回して背後の窓を 振り向く。外の闇が窓ガラスを鏡面に変えて、有 人は心細げな自分の顔と鉢合わせした。  船底に意識を向ける。凪いでいるのか、ほとん ど揺れずに進んでゆく。  しかし、平穏は束の間たった。港を出て防波堤 の庇護を外れたとたん、漁船はうねりと戦いはじ めた。波が船体の横で弾け、細かなしぶきが窓ガ ラスに撥ねる。有人は唾を飲み、防寒服の前とマ フラーを少し緩めた。 「ビビつてんの、おまえ」  からかうような誠の口ぶりに、むきになって返 す。「少し暑いだけだ。重ね着しすぎた。救命胴 衣もつけてるし」  「冬に着ふくれして困ることなんてね1よ。暑け りや脱ぎやいい。寒くて着るものが足りないより は、命にかかわらね1」  「命とか大げさだね」  誠の目つきが真面目になった。「海を舐めんな よ」  有人は思わず囗を一文字に結んだ。  と、船体が斜めに傾いだ。誠は後ろに反り、有 人は前につんのめる。今度は逆だ。帽子をかぶっ た後頭部が、窓ガラスの枠にぶつかった。  操舵室を見やる。誠の父の後ろ姿は、なにも変 わった様子がない。  「適当に掴まってろよ」  誠が早口で言った。揺れはどんどんひどくなっ ていく。航空機なら客室乗務員が「飛行には影響 がない」となにをおいてもアナウンスする場面だ が、漁船の中では誰も安心をくれない。  「親父を信じろよ」誠の言葉は有人の心を読んだ かのようだった。「こんなん、普通だ」  「乗ったこと、あるの?」  「ないけど、親父たちの話聞いてりや、わかる」  そうだろう。誠の父は気象予報士よりもずっと 正確に天気を読む。年末、彼は天気図と首っ引き だった。航海に危険があるなら船なんて出さない。 ましてや、有大という他人の家の子どもを乗せて など。  そう、大丈夫だ。転覆や沈没はしない。どんな に海に翻弄されても、誠の父の背には余裕が感じ られる。  しかし、もう一つの問題が差し迫っていた。  「……外に出たい」  酔い止めを飲んだのに、早くも生唾が囗に溜 まってきている。小さな頭痛の種火は、船が揺れ るごとに増幅され、それと連動して吐き気も増す。  冷たい風に当たれば、マシになるはずだ。有人 は甲板に出ようとドアノブに手をかけた。  「そっちの甲板から船尾側にトイレがある」  そう言いつつ、誠もついてきた。  「濡れるど」誠の父から声がかかった。「気をつ けれ。動くときは船のどっかに絶対掴まってれ。 離すなよ。誠、有人を頼むぞ」  「わかってる」  誠が吼えるように返した。  甲板に出ると、海の匂いが強い潮風に乗って、 氷のつぶてみたいに襲いかかってきた。うねりを 乗り越えて進むごとに、海水が甲板を洗う。外は まだ暗かったが、目が暗さに慣れると海の様子が 捉えられてきた。有人は甲板の手すりをしっかり と掴んで、舳先を見た。  船が進む先には、てっぺんに白い泡を載せた黒 い小山のような波の塊が迫っていた。それは、有 人が知る波の形ではなかった。港に係留されてい た他の船と比べてもけっして小さくはなかった誠 の父の船は、大海原の中であまりに頼りなかった。  しかし、それでも進んでいく。  黒い小山に乗り上げるときは、体の中身が踵か ら出ていくような気持ち悪さを覚える。  下るときはいったん出ていった中身が、新たな 嘔吐感を拾って戻ってくる。  その小山が、延々と続くのだ。  乗り上げる角度や波の具合で、上下に揺さぶら れながら、横にも揺れる。重力を感知する体の感 覚がパニックを起こして悲鳴をあげる。  有人は囗を押さえながらなんとかトイレのドア を開け、小さな洋式便器に嘔吐した。せっかく食 べさせてもらったおにぎりや、おそらくは酔い止 めも全部戻してしまった。  吐いてしまうとすっきりしたが、別の心配が頭 をもたげた。  どうしよう、こんなに揺れているのに、もう酔 い止めはない。  しかし、愕然としてはいられなかった。  「どけ」  誠が短く言う。ドアに掴まりながら身を避ける と、誠も便器に向かって吐いた。  「なまら気持ち悪い」  誠はいったん船室へ戻り、ペットボトルを持っ てきた。水を口に含んで口内をゆすぎ、ぺっと海 に吐き捨てる。自分も倣おうと船室に戻りかけた ら、誠は黙ってペットボトルを差し出してきた。 受け取って同じようにやる。  「撒き餌したか」操舵室の窓から漁師の顔が覗き、 大声で笑われた。「辛えなら、こっから帰ってい いぞ」  「撒き餌じゃね1し」誠が叫び返す。「こんなん 屁でもね1わ!」  「バケツにやれや。椅子の下は収納だ。座面動か してみれ」 「それ早く言えよ」 「おじさん、前見なくていいの?」 「この船には、自動操舵ってもんがあんだよ」  誠と二人、船室に戻った。外より暖かいが、強 い風に吹かれていたほうが吐き気は薄らぐ気もす る。誠の父が言ったとおり、座面は跳ね上げ式の 蓋になっていて、中にはあつらえたように青の掃 除バケツが二つあった。それぞれバケツを膝に抱 えていると、誠の手が伸びてきて、乱暴に頬を擦 られる。  「なにするんだよ」  「顔がヤバい」  「船酔いしてるんだ」  「違う。そこだけ妙に赤っぽいんだ。ジンジンし ないか? 凍傷になりかけてるとそうなるんだ。 顔は自分では見えね1し、具合悪いとジンジン気 にするどころじゃね1から、周りのやつが気づい て教えてやれって、親父言ってた」   あとは自分でやれと言われ、そうする。凍傷。 考えもしなかった。手で擦るのは、冷たくて血が 通わなくなったところを外から剌激して、通わせ てやるためだろう。  「自動操舵だから、こんなに揺れるの?」  「関係ない。どんなに凪でも海は絶対動いてる」  「でもこれ」有人は囗の中の酸っぱい唾を持て余 す。「想像よりずっとひどい」  「親父は天気には逆らわない。出したなら大丈夫 なんだ」  また船体が傾く。有人はバケツを抱えて吐き気 をやり過ごす。  「……誠も、漁師になったら、逆らわない?」  「当たり前だろ。天気に喧嘩売るなんて自殺行為 だ。でも」  漁船が連続で波の小山を越えて下る。頭が死に そうに痛い。  「それでも、こうなったら命懸けでも船出すって 決めてるのが、俺には一つだけある」  「どんなとき?」  「誰かが沖に出なきや、親父やおふくろや桃花や おまえが絶対死ぬってとき」  波が窓ガラスに当たって砕ける。  「……なんで?」  「後悔して生きるくらいなら、命懸けだろうが俺 は出る」  きっぱりと言い切って、誠はバケツに顔を突っ 込んで吐いた。  有人と誠は何度も吐いた。吐くたびに誠は囗を ゆすぎ、水をちびちびと飲んだ。なにか胃にあっ たほうが吐きやすいし、脱水症状も起こさないと、 青白い顔で彼が笑うので、有人もそうした。  操舵室からは、ときおり視線を感じた。ベテラ ンの漁師からすればみっともない姿に違いないだ ろう。でも、恥ずかしさはあまりなかった。それ より、見守られているのだと落ち着けた。いつし か有人と誠は舳先側を頭に、狭くて長細い椅子の 上で横になった。マフラーが臭くなっだので、外 して丸めてしまう。  目をつぶって数分うとうとし、大きな波の揺れ で目を開けてはバケツを引き寄せることをどれだ け繰り返しただろうか。エンジンの音が変わった。 出力を下げたようだ。  誠と同時にはっと起き上がり、眩暈と頭痛と吐 き気に身を硬直させたのち、窓ガラスの外に目を やる。  まだ暗い。しかし、微かに色がある。限りなく 闇に近い群青。その中にばら撒かれた無数の星々。 有人は星にも色を見つける。青つぽいもの、赤み がかっているもの、橙を帯びているもの。  「出てこい、おまえら」  船が止まり、誠の父が呼んだ。  臭いマフラーを首にかけて適当に結び、有人は 甲板に出た。風はトイレに行ったときよりやや弱 い。誠と二人して操舵室の窓に近寄る。大きな波 はもう来ていないが、浮遊感を伴う揺れは続いて いる。誠の父は窓から腕を出し、一方向を指し示 した。  「あの方角から太陽が昇る。島もちょうどあっち だ」  示された方角に目を凝らす。空と海の境目もあ いまいな中、最初島影は見つけられなかった。し かし、星々の境界線を辿っていくうちに、ごくご く小さな盛り上がりが海に浮かんでいるのが認め られた。  その盛り上がりが、夜を集めたように黒さを増 していく。  周りが明るくなってきているのだ。  陽が昇るたった一点から、色彩が広かつていく。 まだ水平線の向こうの太陽が、光の先駆けを世界 に放ち、夜を有人の背後へと追いやってゆく。目 に見えるなにもかもが目まぐるしく色を変える。  やがて、島が黄金に縁どられた。  同時に、有人は鳥の鳴き声を聞いた。  もう、飛んでいるのか。餌を探しに。正月もな にも関係なく、ただ生きるために。  あれはなんという種類だろう。黎明の空を横 切った一羽は、島から来たことを誇るように、体 の輪郭線を金色にしていた。  世界が輝いていく。  「……初日の出」  有人が思わず呟くと、背後の漁師がふんと鼻を 鳴らした。  「うまい塩梅に見える日の出は、いつだってこん なんだ」  海に合わせて船がゆらりとなる。  「俺はよ、母ちゃんがいつも歌ってる歌、好き じゃねえなあ」  誠が訊き返す。「夜明けの来ない夜は、つてや つか?」 「ああ、それよ」  漁師は苦笑いしながら、内緒だぞと前置きをし、 こう言った。  「照羽尻高校が廃校になるかもしらんつつうとき、 俺もちょっと授業に行ったのよ。時化で船が出せ ないときとかよ。そうしたら、あれだ。地球って のは白転ってのをしてんだろ? 理科で習ったん だ」  誠が先を促した。「だからなんだよ。そんなん、 俺だって知ってる」  「俺が言いたいのはよ。朝が来るのは地球が回っ てっからだ。ただ夜明けの来ない夜はないからっ て、黙って待ってるのはよ、人任せだなあ。地球 が自転を止めちまったら、夜んところはず1つと 夜だぞ。夜明けなんて来やしねえ」  「地球がそんなことになったら、人類生きてね1 から」  「そういうことを言ってんじやねえんだ、誠」誠 の父はちっと舌を鳴らした。「本気でいっとうき れいな夜明けが見たいんだったら、自分から動い ていかなきやならねえんだ。待つもんじやねえ。 進んだ先にあるもんなんだよ」  -動け。行動しろ。  「……羽田空港で兄が、おじさんみたいなことを 言っていました」  誠の父の目が三日月のように細められた。「兄 ちゃんによ、今度遊びに来いって伝えれや」  そして、さっきは誠も。  -俺は出る。  朝日はすっかりその姿を現した。空は、澄んだ 鐘の音が響くように青い。  「さ、見たな。じゃあ、帰るぞ。朝飯食わなきゃ な」  有人と誠が甲板の手すりにしっかり掴まってい るのを確認して、誠の父はふたたびエンジンの出 力を大きくした。  漁船が朝日に向かって海原を切る。  舳先からの風をまともに浴びて、有人の首のマ フラーがほどけた。  「あっ」  手を伸ばしても届かなかった。黒いマフラーは 後方へと飛び去り、航路の跡の泡に落ちて見えな くなった。  有大は舳先を振り返った。真正面から風が来て いる。勢いよく航行する船が、その風を生みだし ているのだ。そのまま手すりを掴みながら、前へ と進んだ。誠もついてくる。  舳先の突端に二人で立った。  そうして、体が濡れるのも構わず、強い向かい 風を全身に浴び続けた。  「すげ1風」寒いだろうに、誠もなぜかマフラー を取った。「顔面叩かれてるみて1.痛え、痛く ねえ?」  前に進めば、風は生まれる。  「痛いよ……当たり前だ」  そんな当たり前を、有人は胸の裡で繰り返し噛 みしめた。  すっかり明るくなった港に帰り、汚してしまっ たいろんなものを洗ったり片づけたりしてから斎 藤家に戻ると、誠の母が「お風呂が沸いてるわ よ」と言ってくれた。  「有人くんから入っといで」  その言葉に甘えて、一番風呂をいただく。誠た ちも待っているのでできるだけ急いだが、ほんの 数分でも温かい湯に浸かると、体も、体の中で凝 り固まっていたものも、静かにほぐれていった。  斎藤父子が風呂を済ませるのを待ち、朝ご飯と なる。まだ波に揺られている感覚は残っていたも のの、吐き気と頭痛はほぼ治った。ニューイヤー 駅伝の二区を走る選手をテレビで見ながら、おせ ちと雑煮に舌鼓を打つ。すまし汁に角餅の雑煮は 東京と同じだが、斎藤家のそれにはエビやらホタ テやら、とにかく海産物がごろごろと入っていて、 出汁がでており絶品たった。  お腹が膨れると、有人は急に眠たくなってし まった。誠の部屋に行こうと思ったが、布団に入 ると夕方まで寝入ってしまいそうだ。行儀を気に して周りを窺うと、お屠蘇から始まって本格的に 飲み始めた誠の父がストーブの前で上半身シャツ  一丁になっていた。有人は免罪符をもらった気に なり、その場にそろそろと横になった。  目を閉じると、すぐにまどろみがやってきた。  誰かが近づいてきた。丸っこい雰囲気で誠の母 だとわかる。肩に暖かいものが掛けられた。  「……(フ囗はありかとうな、親父) 「えらくゲーゲーやってたな」  夢うつつの中で、有人は誠と彼の父の会話を聞 いた。  「どうだ。船は懲りたか」  「ていうか……なんで乗せてくれたんだよ。ずっ と駄目だの一点張りだったのによ」  ぐい呑みで酒をすする音。  「去年……じやねえな。一昨年だ。おまえは修学 旅行でいなかった。そのとき、あいつをよ。船に 乗せた。あいつはあれで、ちょっとは興味持って たからな」  「兄貴をか?」  肯定の気配がした。  「至もよ……大した波でもねえのに、出てから 帰ってくるまでゲーゲーやり通したった……それ からってもの、あいつは船が嫌いになっちまった。 あのとき乗せなきや、パテイシエの学校になんて 行かなかったかもしれねえな」  温めたお酒の匂いがそこら中に漂っている。  「本当はな。高校に入学したら、おまえも乗せる つもりでいた。でもよ、至は乗せたらそっぽ向き やがっだ。だからよ……先延ばしにしてたんだな。 情けねえな」  「……だったらよけい、なんで乗せてくれたか教 えてくれよ」  「そっぽ向かれてもいいと腹括ったのよ。おまえ の人生はおまえのもんだ。俺にできることっつっ たら、沖の海を教えることくれえた。誠。いっぱ い時間使って考えれ。それで至みたいに島出るな ら、それだっていいのよ」  誠は小さく笑ったようだ。  「今朝、乗せてもらって俺も決めた」  一年くらいゲーゲーやるかもしれね1けど勘弁 な、と誠が言うと、  「臭え船になんなあ、おい」  漁師はひとしきり哄笑してから、洟をかんだ。  二日も天候は穏やかたった。有人は午前のフェ リーに乗って、東京の実家に帰った。  そして、自室のプレイヤーで、長いこと聞けず にいた叔父の声を聞いた。  草稿と音源データの存在を知った兄の和人は、 読みたがり、聞きたがった。有人は迷わず渡した。 そして、返却を待たずに七日の朝、島への帰途に ついた。 「俺が持ってていいのか?」  構わないと答えた。兄も叔父の生き方に憧れた 一人だ。それに、叔父の言葉の一つ一つは有人の 細胞に染み大って、もう聞き返す必要などなかっ たのだ。   二号句思い出せるばかりか、叔父と柏木が話 している様が目に浮かんでくる。有大は診療所の 観葉植物に姿を変えて、その場にいたかのような 錯覚を覚えた。それほど聞いた。  音源データは、柏木の声から始まった。声の後 ろでは、お茶を淹れる音がしていた。  「甥御さんには、なにも処方していないんです ね」  「する必要がないからね。東京にいたころ、心療 内科から薬を処方されていた時期もあったが、解 決の道はそれじゃないと俺は思う。ありがとう」  ことりという音は、柏木がデスクに湯呑みを置 いたのだろう。  「環境を変えて、心身を健康にするために、島へ 呼んだのでは?」  「そもそも、健康ってなんだろうね。なにも悩み なく日々を過ごすことが、心身ともに健康と定義 されるなら、完璧に健康な人なんていないよ。俺 は会ったことはない。みんな大なり小なり問題を 抱えている。俺も、君もね」  叔父はお茶をすすったのか、「ああ、美味しい ね。ありがとう」と言った。  「ただ、自分の部屋から出てほしかったんだ」湯 呑みの中を眺めながら、優しく笑う叔父が見える 気がした。「まずは息を継がせたかった。少し余 裕が出たら、個性豊かな人々に、あっけらかんと 構われてほしかった。大と大との間に生まれる感 情を、たくさん味わってほしかった。人の気配の ないところにも行ってほしかった。海鳥の生息地 に一人でいると、自分がいてもいなくても、世界 は回ってきたし、これからも回るだろうと思わさ れるんだ」  「自分がいなくてもいいというのは、悲観させて しまいませんか?」  「人は誰しも無力だよ、自然の中ではね。そうい う世界の大きさを知ってほしかった……そう。大 きいんだ。どんなに世界に絶望したとしても、そ れが世界のすべてじゃないと、この島で気がつい てはしかった」  椅子の脚が床を擦る音。柏木が叔父の近くに自 分の椅子を動かしたのか。  「甥御さんのお話を、一症例として聞いてしまい ましたが、先生はそう思ってはいないのですね」  叔父の回答は明快たった。  「医師としての君の目が彼を患者と捉えるなら、 それも一つの見方だ。でも俺は違う。病気じゃな くてそういう性格なだけだ」  「彼が幼いときには、同居されていたんですよね。 だからよくご存じなんですね」  「いい子だよ。ただ、少し変わってほしかった。 なにかあったときに、俯いて足元だけをじっと見 てしまうのではなくね。彼が直面した出来事は、 人ひとりの人生を変えるのに十分なインパクトが あった。たった一日で未来を悲観しても当然だと 思えるほどのだ。だからといって、一生一人で閉 じこもってしまうのは、心底もったいない。彼に はここで自由に、どう生きるのか、本当は自分が どう生きたいのか考えてほしかった。俺はね、 『治る』んじゃなくて『成長』してほしいと思っ たんだ。医者じゃなく、叔父としてね」  いったん音声は途切れる。別の囗の会話が始ま る。この日も叔父と柏木は、和やかにお茶を飲み ながら話をしていた。  「先生は島の皆さんにすごく慕われ、尊敬されて いますが、七年間、ご苦労もあったことでしょう。 任期満了後も島に残っだのは、なぜですか。一年 の任期の間に、地域医療や予防医学にご興味を持 たれたとか?」  「そうだね……」叔父はお茶を一口飲んだようだ。 「先端医療に関しては大学にいたほうが有利だが、 ここでしかできない学びもある。取り組んでみた ら、なかなか興味深くてね。君が研究している転 地療法というと、都会から自然あふれる場所へと いうパターンが一般的だが、こちらはこちらで、 都会より多く見られる疾患もあるんだ。地域住民 の食の傾向をはじめ、生活全般と健康の関わりの 基礎を学び直すことができる。あと、大学病院だ と専門に特化してしまうが、ここでは多少浅くて も広い知識が必要だ。健康を維持する働きかけも ね。俺はここで必要なことをしているだけだし、 そういう医師の姿も個人的に性に合っている」  柏木は少し声を落として、次の質問をした。  「任期満了前、無言の圧力的なものは感じません でしたか? 島に医師がいなくなるのは困るとい うようなことをこぼされる方も、いたのではない ですか? 以前、島民の理解は求めていない、と もおっしやっていましたよね」  その質問を、叔父は朗らかに否定した。  「任期満了が迫っても後任の医師が決まらない、 そんな時期、島民は確かに不安そうではあった。 でも実はね、面と向かって残ってくれと言われた ことは、一度もなかったんだ。着任当初、休日に 北海道本島へ行ったときは、先生に島を空けられ るとおっかないと、はっきり伝えられたんだけど ね……あのときばかりは誰一人として、いなく なったら困ると訴えてはこなかった。本当はどん なにか訴えたかったろうと思うよ。でも彼らは俺 の人生を尊重したんだ」  このとき叔父は、晴れ晴れと、かつ柔和に笑っ たに違いない。叔父はそういう表情をする人たっ た。年末、誠の思い出話でよみがえっだあの笑顔 だ。  「島に残っだのは、島民を気の毒に思ったからと か、崇高な使命感にかられてとかではないんだ。 気の毒なんてとんでもない、彼らは強いよ。俺は 自分で考えて、自分の意思で残った。地域医療特 有の労苦も全部納得ずくで、好きでそうした。理 解を求めないというのは、そういうことだ。俺一 人で決めて今ここにいることに、島民たちにはな んの責任もないからなんだ。俺が好きで残ったよ うに、彼らも彼らのやりかたで診療所や俺を利用 すればいいんだよ」  「残ることに決めたのはなぜですか?」  「昔、甥二人……有人とその兄だが……と一緒に 旅行したことがあるんだ。彼らの冬休みにね。そ のとき、帰りの機内でドクターコールがあった」  柏木が餌に食いつく魚のように、すぐ反応した。 「名乗り出たんですか?」  「出たよ」  「僕はためらいます。器具も満足にありませんし、 聴診器を使ってもエンジン音にかき消されると聞 きました。日本では善きサマリア人法的な法整備 はなされていません。名乗り出ても、なすすべな く、逆恨みされるケースも……訴訟や損害賠償の リスクは考えませんでしたか?」  誠が言っていた知らない単語はこれだろう。有 人ははっきり思い出した。聞いたのは正月、廊下 から話しかけてきた叔父が囗にしていた。  「もちろん、全部承知の上たった。だから、怖さ も感じていた。でも、もしも最悪のヶIスになっ て、自分が責めを負うことになってもいいと思っ たんだ」  叔父はとつとつと語った。  「なにかを決めるとき、岐路に立ったとき、俺は 未来の自分を想像してみるんだ。十年後の自分な んかをね。十年後の自分を想像して今を振り返っ てみる。今、これをしたら、あるいはしなかった ら、この道を選んだら、選ばなかったら、未来の 自分はどう思うだろうかってね。そうして、一番 悔いがないだろう選択をすることにしている。ド クターコールのときもそうした。名乗り出なかっ たら、一生その判断が心に残るだろう……端的に 言えば悔いるだろうと思った。上手くいかなくて も、十年後の自分は悔いていなかった。だからド クターコールにも応じたし、同じようにこの島に も残って、今に至っている」  「未来の自分になって、今を振り返ってみる…… ですか」  「理想とする生き方に沿えているか、とでも言う のかな。僅かでも助けられる可能性があるにもか かわらず、保身でそっぽを向くのは、どうにも好 きじゃない。そういう意味では、甥とは気が合う かもしれないね……」  -未来の自分を想像してみないか。  道下のことで出しやばったあの囗に、未来は潰 えた、引きこもったままでなにも変わらず歳だけ 取って生きていくのだと諦めていた。だから、最 初にその言葉を聞いたときは悲しくなった。叔父 も有人の未来の悲惨さに、そんな忠言をしたのだ と思った。  だが、叔父の言葉の核は違った。音源データを 聞いてそれがわかった。  このまま時を過ごしたらどうなる? ではない。  このまま時を過ごしたと仮定した自分が今を振 り返って、その生き方を後悔しないか? と問う ていたのだ。  ヒントはあった。  -生き方の問題なんだ。  ドクターコールに応えたことに父が渋い顔をし たとき、叔父ははっきりそう返していた。死を目 前にして、兄に「俺以外の誰かが同じことをして も、格好いいと思ったか?」と尋ねた。  叔父は生き方にこだわった人たった。  音源を聞いた(ル先輩と誠も、後悔という言葉 を使って意思を示した。  -僕はこの先今晩のことも、後悔まじりに考 えるに違いないって思った。  -後悔して生きるくらいなら、命懸けだろう が俺は出る。  二人も叔父の生き方や心をしっかりと受け止め、 理解したのだろう。  同封されていた手紙は、こんな文面たった。  『草稿は僕が研究のためにまとめたものなので、 戸惑われたかも知れません。有人さんの手に渡っ てしまったと知り、取り急ぎこちらをお送りしま す。川嶋先生の本心は、こちらのほうが酌みやす いでしょう。また、今思えば、先生は当時から体 調が思わしくなさそうでした。川嶋先生が、死に 瀕した自分を想像しなかったとは思えません。想 像してなお、先生はご自分の生き方を貫き、可能 なかぎり島にいることを選んだのでしょう。』  島を離れる前日、家事を手伝ってほしいと有人 に言った柏木の真意が、今になってわかる。叔父 の不調に誰より早く気づいていだからこその、あ の頼みだったのだ。  名刺も添えられていた。そこにあった大学のア カウントのメールアドレスに、有人は簡単な礼を 述べるメールを送った。本当はたくさん書きたい ことがあった。なぜ今になったのかという理由や 草稿だけ読んでショックを受けていたことなど。 でも、言葉にするには難しすぎた。だから、せめ て感謝の気持ちだけは伝わるように、シンプルに それだけを書いて送った。  北海道本島から照羽尻島へ向かうフェリーの中 には、年末年始を函館の親戚の家で過ごしたとい う吉田理容店の夫妻がいた。彼らは目ざとく有人 を見つけ、くだけだ年始の挨拶をしてきた。有人 も挨拶を返した。他には観光客と思しきカナダ ダースの黒いダウンにジーンズといういで立ちの 男性が一人だけだった。  「お兄ちゃんもあれかい、島で星空を写すのか い?」  吉田夫妻の奥さんのほうが、船室のカーペット に腰を落ち着けた男性に、気安く話しかけていた。 男性は咳き込みながら、大きな荷物の中から一眼 レフを取り出していじっていたのだ。有人は年末 に誠が言っていた「天文マニア」という単語を思 い出した。  「そうです」男性は明るく返した。「国内有数の スポットだと聞いているんで、楽しみです」 「どこに泊まんの」 「野呂旅館です」  男性がまた咳をし、喉を押さえた。 「風邪かい?」 「ちょっと扁桃腺が腫れちやって。でもフェリー に乗る前に病院に寄って薬をもらったんで、大丈 夫です」  フェリーは少し揺れた。以前の有人なら、ビ ニール袋を握り締めたかもしれない。しかし、小 山を乗り越えては下るような漁船の揺れにくらべ れば、鏡の上を進んでいるみたいなものだった。  「あらあら、おかえり」  寮の玄関から声をかけると、管理人の後藤夫妻 が揃って顔を出した。  「早く戻ってきてすみません」  冬休みが明けるまで、あと一週間以上ある。北 海道は東京より冬休みが長いのだ。桃花とハル先 輩はまだ戻ってきていなかった。  「なんもさ。三が日過ぎたら、おばちやんたちも 寮にいる決まりだもん。有大くんが帰ってきてく れて良かったよ。温かいココア飲むかい?」  食堂でココアを飲んで、荷物を整頓してしまう と、有大は一人で島を歩いた。小中学校のグラウ ンドでは、島の子どもたちが数人雪つぶてを投げ 合って遊んでいたが、学校自体は静かたった。照 羽尻高校もだ。教師や職員は教育委員会の辞令を 受けて、島外から島に来ている。長期休みでは、 島を出て自宅に帰っているのだ。校長先生らが住 んでいる教職員住宅も、夏休みと同じくひっそり かんとしていた。有人はふと、宅配はどうするの かと思った。さすがに帰省時は戸締まりするだろ うから。  診療所の戸には、常勤医不在の旨と、北海道本 島から医師がやってくる曜日と時間帯が記された 紙が貼られてあった。毎週火曜日の十時から十四 時半。今日は火曜日ではない。桐生看護師は、ま だ北海道本島の病院に入院中だ。こちらも内部に 人の気配は感じられなかった。  働く場所がとても少ないという涼先輩の言葉を 思い出す。診療所がこの状態では、医療事務の森 内も患者とは違うことで困っているだろう。正規 職員として雇用されていたなら収入は保障されて いるだろうが、仮に臨時職員だとしたら。  医師が一人いるだけで、診療所という職場は形 を成し、患者を助けるだけではなく、健康な誰か の生活も支えられるのだ。もっと広く見れば、旅 先で急に体調を崩したとき、その地区に医師がい ない現実は大きな不安要素になる。旅行をためら う人も出るだろう。フェリーに乗り合わせた天文 マニアは、病院に寄ってきたと言ったが、大事を とって引き返すことだって十分あり得た。となる と、野呂旅館の客は一人キャンセルとなり、損失 が出てしまう。  叔父を含む歴代の医師たちは、漁業に次ぐ照羽 尻島の産業の柱の一つである観光業も、間接的に 支えてきたのだ。  有人は海の彼方から来る風に吹かれながら、そ の場で目を閉じた。  後藤夫妻と三人だけの夕食を終え、入浴も済ま せて、布団の上に寝転がる。生乾きの前髪が、ほ んの少しだけうるさかった。それをかき上げて、 明日にでも吉田理容店へ行こうと思う。和人から はLINEで『叔父さんのやつ、聞いた。サン キュー』とだけメッセージが入っていた。有人は それにスタンプを使わず『うん』と言葉で返した。  涼先輩や誠、桃花、(ル先輩は、今ごろなにを しているのかと、ぼんやり天井を眺めながら考え、 ゆっくりと時間は過ぎていった。  静かたった。カーテンを閉め切ったこの部屋が、 世界から切り離されて宇宙を漂っているのではな いかと思うほどだった。しかし、うんと注意する と、波の音が聞こえるのだった。波音はすっかり 有人の耳に馴染んで、聞こえていても静寂の中に いるようだった。  その漆黒の静寂を、涼先輩の大声が破った。  「誰か来て!」  はっと飛び起きて時刻を確認した。午後十時を 過ぎている。パジャマのまま急いで一階へ駆け下 りると、後藤夫妻もダウンをはおって外に出よう としていた。  有人も二人に続く。寮から目と鼻の先にある野 呂旅館の玄関は、開け放たれていた。内部からの 明かりは、やけに明々としていて、逆に胸が騒ぐ。  涼先輩の母がまず出てきて、送迎に使う車にエ ンジンをかけた。玄関を覗くと、涼先輩と彼女の 父が、それぞれ頭部と足を持って、一人の男性を 運び出そうとしていた。  カナダダースのダウンですぐにわかった。フェ リーの中で居合わせた天文マニアの観光客だ。た たきに一眼レフや三脚が転かつている。  狭い穴を抜けるような、ヒユーヒユーという音 が聞こえた。聞き覚えのある音たった。それは男 性が苦しげに呼吸するたびに発せられている。  「どうしたの」  後藤夫妻が男性の腰の部分を受け持ちながら尋 ねた。早口たった。答える涼先輩の口調も早くて、 切羽詰まっていた。  「外から戻って気分が悪いって言って、すぐにこ こで倒れたの」  「119番は」  「した。ヘリが来る。でも、それまで黙って見て られない」  「島内放送だ」後藤のおじさんがおばさんに指示 した。「漁師、漁協の連中は救命講習受けてる」  後藤のおばさんは靴を脱ぎ散らかして、旅館の 中へと入っていった。玄関の横にある部屋に勝手 に入り、どこかへ電話をかける。  有人は竜巻みたいに荒れ狂った目の前の光景に 立ちすくんだ。みんなはそんな有人に構わず、観 光客を運び、車に乗せた。  運ばれていく観光客の顔が見えた。  赤みがかった皮膚。発疹。むくんだ瞼。  ヒューヒューという音とともに、あの日の記憶 が鮮明によみがえる。  -道下のときと同じだ。  車はすぐに発進した。続いて、島内放送が本当 に流れた。  『急病人が発生しました。救命講習を受けている 方は、小中学校のグラウンドに大至急来てくださ い』  電話を終えた後藤のおばさんが「風邪ひくから 寮に戻ってなさい」と促す。  「なんでグラウンド?」  「ドクターヘリはそこに着陸するから。さ、早く 戻って」  背中を押されるが、有人の足は動かなかった。 そこへ、港近辺の地区から一台の車が猛然とやっ てきて、有大たちの前で停まった。助手席の窓が 開いた。誠たった。運転席には誠の父がいた。  「有大、なにしてんだよ!」  「僕は」  「おまえも来い」  「ドクターヘリはそこに着陸するから。さ、早く 戻って」  背中を押されるが、有人の足は動かなかった。 そこへ、港近辺の地区から一台の車が猛然とやっ てきて、有大たちの前で停まった。助手席の窓が 開いた。誠たった。運転席には誠の父がいた。  「有大、なにしてんだよ!」  「僕は」  「おまえも来い」  誠の父の声は、有無を言わせぬ強さがあった。 有人は後部座席に乗り込んだ。その間にも車は 次々とやってきて、停車中の車の横を通り過ぎて いく。  誠も、誠の父も、上半身は船に乗ったときと同 じ防寒服をはおっていたが、下はパジャマで、裸 足に靴をつっかけていた。  街路灯がまばらなかわりに、フロントガラス越 しに、車のテールライトがいくつも目に入っだ。 いつもはこんな時間、車なんて走らない。凍りつ いた路面が黒く光る。  「親父、あれ」  誠が路上を走る誰かを発見した。森内たった。 誠の父は迷わず森内も車に乗せた。  森内は診療所の鍵を手にしていた。  「AEDが中にあるからそれ持っていきます」  「有人は急病人を見たか」  誠の父が尋ねた。有人は「見ました」と答えた。 喉で声が絡んだ。  「どんな様子たった。息はしてたか。心臓は動い てるみたいだったか」  「息はしてました」道下みたいに。「心臓はわか んないけど、動いてたと思います」  森内を診療所に送り届けて、小中学校のグラウ ンドへ向かう。診療所の中がすぐに明るくなる。 森内はAEDを持って駆けつけてくるだろうか。  有人の耳には、あのヒューヒューという呼吸音 がこびりついている。もしかしたら、道下と同じ かもしれない。でもわからない。道下のときには、 父は救急車を呼ぶだけでよかったと言った。 119番はしている。あとはドクターヘリを待つ だけでいいのだ。素人は。  小中学校のグラウンドでは、十台以上の車が隅 に停車し、中央に向けてヘッドライトを照らして いた。中央には野呂旅館の車があった。涼先輩の 父が、スマートフォン片手に大きな声を出してい る。どうやら北海道本島の救急医と話をしている ようだった。  「夕食はうちで出したものを。外でなにか囗にし たかはわかりません。え?」一月の夜なのに、涼 先輩の父の額は汗でてらてらしていた。「いや、 そんなはずは」  「お父さん、なんて?」  「アレルギー発作じやないかと言ってる」  その場にいた島民がざわめく。  「そんなわけねえべ」  「旅館や民宿は、そういうのみんなはじめに訊 く」  「野呂さんとこたって、いつも訊いてるだろ う?」  「お父さん」涼先輩が叫ぶ。「苦しそう、どうし よう」  数名の島民が駆け寄っていく。漁師や漁協の人 だ。誠の父もいた。 「人工呼吸ならできるど」 「心マも教わってる」  森内もAEDを持ってきた。涼先輩の父が通話 先にいっそう大声で問い返した。  「え? エビ? エピペン?」  有人の心臓が硬く縮まり、続いて一気に膨らん だ。あの囗覚えた、忘れようがない単語。ス テイツクのりみたいな形状のあれ。めくられたス カート。養護教諭の白衣。  「……保健の先生」有大は呟いていた。「学校の、 保健の先生は」  あのとき道下に処置をしたのは、養護教諭たっ た。しかし、誠が即座に首を横に振った。  「島の外から来た先生たちは、みんないない」  そうだった。教職員住宅には人の気配が無かっ た。冬休みが明けるまではまだ一週間あるのだ。  「エピベンつてのを使えばいいのか?」涼先輩の 父が、森内にがなる。「診療所にエピベンつての はあるか? エピベンだ」  森内の答えのかわりに、有人は過去の音を耳に した。棚の戸を開ける音だ。診療室にあった薬剤 を保管する棚に、六月に来島していた柏木が、二 本のエピベンをしまっていた。  もし、あの囗と同じなら。あの人が道下と同じ なら。でもわからない。間違えるかもしれない。 黙っていても誰も責めない。  なにも、しなくてもいい。 なにも勣かなければ。 -有人。 -未来の自分を想像してみないか。 そのとき有人は、叔父の声を聞いた。 -進んだ先にあるもんなんだよ。 -動け。行動しろ。 誠の父と和人の声も。そして。 -俺は出る。 誠。  突如、凄まじい向かい風が吹きつけてきた。息 もできないくらいの風だ。それを真正面から受け る。  前に進むときに感じるのは、必ず向かい風だ。  元旦の海に消えたマフラーがまなうらをよぎる。  有人は足を踏み出していた。  観光客の男性は、小西さんといった。ヘリで搬 送される際、同乗の医師に名を問われ、自分で答 えた。  「エピベンを打つだのは君?」小西のバイタルを 確認した医師は、小さく頷いた有人に大きく頷き 返した。「ありがとう、頑張ったね」  やりとりはあっという間たった。ヘリはすぐに 小西を乗せて、北海道本島に飛び去った。  ドクターヘリのライトが星に紛れてしまうと、 有人はどすんと雪の上に尻もちをついた。  「なした、有人」  大人たちが訊いてくるが、なにも答えられない。 キャパシティを超えた緊張からようやく解放され、 力がすっかり抜けた有人は、立ち上がることなん てできなかった。  怖かった。今になって震えが有人を襲う。  「でも、よくやったなあ、有人」  「あの、カチッてやるやつの使い方、よく知って たな」  大大たちが囗々にねぎらう中、涼先輩が涙ぐん で有人の前に膝をついた。  「有大くんが帰ってきてて、本当に良かっ た……」  「涼ちゃんも大変だったな。さ、帰るべ帰るべ」 誠の父が有人の頭にぽんと手を乗せた。「今夜の ヒーローも帰るど」  「……僕は」  「そんな格好で雪の上に座ってたら風邪ひくべ。 カタカタやってるしよ」  集まっていた人々は、三々五々帰りはじめてい る。こんな大騒動があっても、数時間後には船に 乗って海に出る人だちなのだ。涼先輩も両親に連 れられて去っていく。何度も名残惜しそうに有人 たちを振り返りながら。  「親父。先帰ってろよ。俺、ちょっとここで一休 みしてから、有人を寮に送ってく」  「そうか」誠の父は深追いしなかった。「なら、 そうせ」  自分が着ていた防寒服を有人に投げてよこして、 誠の父は車で去っていった。  さっきまでの暄騒が嘘みたいに静かなグラウン ドだった。誠が兄のように防寒服を有人にはおら せた。有人は少し魚臭い温かみに包まれながら、 空を見上げた。月は削がれたように薄く、そのぶ ん満天に広がる星の光は強い。  「小西さん、写真ちょっとは撮れたかな」誠が隣 に腰を下ろした。「こんな空、俺らには普通だけ どな」  『……y』y』、すごくきれいに……は、星が見える よ」歯の根が合わず、声にも力が入らない。「夏 の……花火のときも……そう思った」  「ふ1ん」誠は天を仰いだ。「全然関係ないけど、 さっきのおまえ、おまえじやないみたいだった」  誠の爪先が、器用に雪を有人へと蹴り上げてく る。目をやると、誠はにかっと笑った。  「すげ1な、有人」  「……す、すごくないよ。全然」言葉が夜に白く 漂う。「全然すごくないんだ……だって、あれを 知っていたのには……わけがある」  あまりに気が抜けて、心のガードも緩んでし まっている。有人は両手で顔を覆った。  「僕は……医者になりたかったんだ」  星の下で、雪の上で、有人は叔父への憧れを抱 いた幼い囗のこと、それから、悔やみ続けたあの 囗の一部始終を話した。  すべて聞き終わるまで、誠は囗も挟まず、寒そ うなぞぶりも見せなかった。話し終えると、有人 の震えも治まっていた。  「そっか」誠は立ち上がった。「その道下さん、 元気になってよかったな」  「……ゝつん」 「今夜のこと、教えてやれよ」 「え、なんで?」 「いや、なんとなく。その子なら喜ぶんじやない かと思った」  スターバックスで振り返りもしなかった背中が、 幻のように雪のグラウンドに浮かぶ。有人は雪玉 を作ってそれに投げようとして、やめた。  「もしもあの囗がなかったらって、ずっと思って た」手の中の雪玉を、握って潰す。「こんなこと になってないのにって」  「でも、もしもあの囗がなかったら、小西さんは ヤバかったな」誠は尻についた雪を素手で払い落 とした。「今はどうなのよ」  「今?」  「今はあの日のこと、どう思ってんだよ? やっ ぱ、なかったほうがいいか?」  有人はもう一度雪玉を作って、今度は誠に投げ つけた。誠がやり返してくる。  「なあ、なんで今夜は行ったんだよ! あのと き! 涼ちゃんと小西さんのところにI エピベ ンのありかと打ち方知ってるって!」  打ち方なんて、一度見ただけだった。しかし、 脳裏に焼きついていた。もちろん、電話で的確な 指示を出し続けてくれた医師のサポートは大きい が、ともかく有人は名乗り出てやり遂げた。  「涼ちゃんのことが好きだからかよ!」  「ま、誠って馬鹿だろ!」  誠は笑いながらグラウンドを駆けだした。 「……誠だってわかってるくせに」  叔父の言葉を知っている誠なら。  あのとき有人は、一瞬で未来の自分を考えた。 十年後、二十年後の自分を想像して、今を振り 返った。黙って突っ立っている己を後悔しないか 考えた。  次に思い出した誠の父、兄、それからなにより 誠の声。  号砲みたいだった。  「あのさ、有人! 救急車のかわりにドクターヘ リがあるとか言うけどさ、俺や親父含めて島に住 んでる人は、どっか覚悟してるところあんだよ」 誠は飛び去ったヘリが雪面に残した跡の上に立っ た。「なんかあったら、しゃ1ない。駄目なとき は駄目だって。都会じゃもしかしたら助かるかも しんなくても、ここじゃどうしようもないときが ある」 「……ゝつん」 「それでもさ1.俺らだって人間だから、せめて 医者がいたら、あわよくばすげ1医者だったら、 もしかしたらって思う」  「……ゝつん」  「俺ら、川嶋先生ならいいやって思えてたんだ。 なんかあって結局駄目でも、診てくれたのが川嶋 先生なら諦めつく。最善を見つけてくれる、絶対 それをやってくれるって信じられた」  土日もたゆまず資料に目を通していた叔父の姿 が思い起こされる。「うん……わかる」  「おまえの『あの囗』つてのは、変えられね1よ な。過去は変えられね1んだ。何度も言つてるだ ろ。天気と過去はどうしようもね1つて」  「うん」  「でも、過去をどう思うかってのは変えられるよ な、今の自分で」  そんな言葉が誠の囗から出てくるとは予期して いなくて、有人は息を呑んだ。  「やっぱ説教くせ1な、悪い!」  「もしかして誠……」  音源データが入っだ封筒を差し出して、なにか 言いかけた誠を、説教は聞きたくないと遮ったこ とがあった。  過去の失態がどんなものだったかも知らないう ちから、誠は僕を信じて寄り添おうとしてくれて いたのかI有人は冷たい手の甲で頬を拭い、少 し顔を横に向けた。初めて目にしたとき、意味が ないと思った信号機が見えた。  誠の声がどんどん大きくなる。  「川嶋先生、やっぱすげ1よ。その、善きサマリ ア人の法? ヤバい状態の大を救うために最善を 尽くしたら、結果が伴わなかったとしてもおとが めなしみたいな決まり、囗本にはないのに、機内 で名乗り出て助けたんだろ?」  有大は懸命に首を縦に振る。  「俺、そのときの川嶋先生、どんなだったかわか る。小西さんのとこに向かってったおまえだ。お まえ、川嶋先生に似てた」  まるで、全世界に自慢するように、怒鳴る。  「おまえ、あのとき、すっげ1、かっこ良かっ た!」  かつて一度は消えた灯が、その瞬間、もう一度 生まれた。  冬休みが明けてすぐ、小西からは丁寧な礼状と 菓子折りが届いた。小西のアレルゲンは、島に渡 る前、病院で処方された抗生物質だったという。 今までは平気でも、急に症状が出ることもあるの だと、搬送先の病院で受けた説明のあらましも書 かれてあった。野呂旅館にはなんの過失もなかっ たのだ。  小西は全国紙の読者投稿欄に、照羽尻島でのア クシデントと、そのとき島民総出での対応に助け られた旨を送って採用された。有人のことも、 『東京からの離島留学生』という表記で出ていた。 文面は純粋に感謝の意を表すもので、『この場を 借りて島の皆さんにお礼を言いたい』と結ばれて いた。  それはごく小さな出来事たった。星澤医師が島 を出た際の中傷のほうが、インターネット上など では話題になった。それでも、照羽尻島のみんな は嬉しそうだった。  涼先輩からは何度も礼を言われた。  桃花と(ル先輩からは感心された。  島民は有人に声をかける。あのときは頑張った な。今日も元気に勉強しろよ。  兄や両親からも連絡が来たが、一番驚いたのは 道下からのものだった。ショートメッセージでそ れは届いた。  『和人さんにお願いして番号を教えてもらった。 新聞見た。やるじやん』  やるじやん  たった五文字の道下の言葉が、とてつもなく嬉 しかった。  それから、スターバックスでのやり取りを、改 めて振り返る。  -どうせお医者さんにはなれそうもないし。  有人は未来の自分を想像する。未来の自分は、 今日を振り返ってどう思うだろう。たとえば、三 十歳、五十歳の自分は。  胸の裡に再び灯ったこの小さな炎に、目を瞑る ことだってできる。むしろそのほうがたやすい。  たやすいが、その選択を後悔しないか?  仮に目を瞑らなかったとして、この炎が華々し く燃え盛ることなく終わったならI夢を追いか けてみたものの叶わなかったら、なにもしなけれ ばよかったと悔いるだろうか?  有人は久しぶりに、ずっと放置していた脱出 ゲームのアプリを立ち上げた。しばらく探索した が、トゥルーエンドへのプロセスがひらめかない のは同じだった。  誰かの助けを借りるのは、負けた気がする。だ から、攻略情報の掲示板を一度も利用したことが なかった。  その掲示板のリンク先に、有人は初めて飛んだ。  掲示板には多くの書き込みがあった。画面をス ワイプしていくとすぐに、有人と同じ状況のプレ イヤーを見つけた。  それへの返信もあった。直接的に解法を教える のではなく、最終局面までプレイした人でなけれ ば理解できない、婉曲表現のヒントが書かれてい た。有人はその意味がわかった。  特定の場所で、通常なら別のエンドを迎えてし まう行動をとる。それが突破口たった。  この行動について、ゲーム内でヒントはなかっ た。どんな人がノーヒントで辿り着けたのか。よ ほど頭が柔らかいのか。世の中には冴えた人がい るものだ。  感心とともに、そんな人ばかりではないかもし れないとも思う。これはたとえひらめきがなくて も、ひたすら根気よくいろんなところであらゆる 行動を試し続ければ、時間はかかるかもしれない が辿り着けるエンドだ。  有人は見知らぬ先人の知恵を借りて、雪降る中 の小さな家からようやく出た。Hμ{2乱の文字を 感慨深く眺め、クリアしたそのゲームを消去せず に、新しい画面へと移動させた。  それからパソコンへと向かい、(ル先輩が利用 している予備校のサイトを見た。以前もスマホで チェックして、医学部受験に特化したコースがあ るのは知っていた。でも、通信で受講できるかど うかは調べなかった。今度はそれをやった。通信 はあった。それから、かつて自分が通っていた東 京の学校のホームページも見た。医学部進学コー スが新しくできると、道下は言っていたのだ。  「今日、陸仕事の手伝い、休んでいい?」  朝、そう切り出すと、誠はふっと真面目な表情 になった。  「なんかあんのか?」  「電話でだけど、話をする用事があるんだ」相手 まで言う必要はなかったが、有人は秘密にしな かった。「柏木さんと」  その名前で、誠はなにかを察したふうだった。  「……そっか。わかった」  音源データの礼をメールで送ってから、柏木と は数往復やりとりをしていた。その中で有人は、 柏木が照羽尻島ではないものの地方出身者である こと、受験に際しては苦労したことを知った。  兄の和人は現役で合格している。有人は和人よ りも柏木の体験談を聞いてみたいと思った。  多忙なのだろう。日時は指定されたが、柏木は その願いに応じてくれた。それが、今日なのだ。  電話は柏木からかかってきた。折り返さなくて いいとも言ってくれた。川嶋先生にはお世話に なったからというのが理由だった。  柏木は有人に対して、とても真摯に応じてくれ た。彼と直接会話することで、有人は知りたかっ  兄の和人は現役で合格している。有人は和人よ りも柏木の体験談を聞いてみたいと思った。  多忙なのだろう。日時は指定されたが、柏木は その願いに応じてくれた。それが、今日なのだ。  電話は柏木からかかってきた。折り返さなくて いいとも言ってくれた。川嶋先生にはお世話に なったからというのが理由だった。  柏木は有人に対して、とても真摯に応じてくれ た。彼と直接会話することで、有人は知りたかっ た情報を知り、アドバイスを受けた。  医学部は多浪が珍しくない。社会人を経て入学 してくる学生もいる。柏木白身も二浪した。  浪人時代は実家を出て、札幌にある予備校の寮 に入って勉強した。  『通信という手段も考えたけれど、あれは向く人 と向かない人がいるね』  有人は核心に迫った。「向かない人を教えてく ださい」  『自分に甘い人、弱い人は向かない。言い訳を考 えるのが上手い人もね。勉強に気乗りがしないと きは誰にだってあるけれど、言い訳を考えるのが 上手いと、そのままやらずに遅れてしまう。あと、 そういう人は、結果が伴わなかったときに必ず、 通信だから駄目だったと言い訳をする』  環境のせいにするのは簡単だからと、柏木は断 じた。  『それから、これはあくまでも私見だけれど、よ ほど自分を律することができる人じゃないなら、 ちょっと居心地が悪いところで勉強するくらいが いいと思う。医大に入れなくても許してくれそう な大らかで優しい環境だと、甘えてしまうよ。 きっとね』  自分の決意について、最初に打ち明けた相手は 誠たった。放課後、二人での帰途で。二月の風は まだ冷たかったが、陽光には力が感じられた。  「春から東京の学校に行こうと思う。医学部進学 コースがある学校を、受験し直す」  誠はっと立ち止まった。「やっぱ、医者になん のか」  「できたら。でも、医者になりたいというより は」若き囗の叔父も、同じ気持ちを抱いて自分の 道を定めたのだろうと思う。「僕は僕なりに、誰 かの役に立ちたい。困っている人がいたら、助け たい。そういう生き方をしたいんだ」  「ふ1ん。そっか」  誠はそれきりなにも言わず、目を細めて海を見 た。  涼先輩、桃花、(ル先輩には、次の囗のお弁当 の時間に話した。涼先輩は寂しがり、(ル先輩は 「東京で僕と同じ予備校に通うの?」と尋ね、桃 花は匸言「ちょっと変わったね」と微笑んだ。  誠は無言たった。  LINEをしようと言いたしたのは、桃花たっ た。その場で五人は『照羽尻高5』というグルー プを作って、互いを登録した。  涼先輩が訊いてきた。「島はいつ出るの?」  「受験の日の四日前です。二月の末」  「終業式まで少し日数あるけど……」涼先輩は寂 しさを振り払うように、愛らしい笑顔を作った。 「新生活の準備、あるもんね。仕方ない。うちら みんなで、港まで見送りに行くね」  「たぶん、授業が……」  「サボつちやえ。ていうか、先生たちもみんな来 るつて」  本当に、学校を空にして先生たちも見送りに来 そうな予感がした。もしそんなことになったら I有人の喉の奥で切なさが膨らみ、涙腺に圧力 をかけるIそんな大たちが周りにいたら、やつ ぱり自分は甘えるだろう。  自分の矜持にかけても、彼らとこの島を言い訳 にしてはいけない。  ここに来たからこそ、もう一度進もうと前を向 けた。  教室の窓の外を見る。二月は光の春、そんな言 葉がふと思い出される。奈落の底たったはずなの に、見える景色はあまりにすべてが眩しすぎた。  -今度ここに来るときは。  何年先になるかはわからない。でもその未来を、 有人は想像する。  -後悔だけはしていない。  任期が過ぎても、島に残ることを選んだ叔父の 気持ちが、今ならわかる。  ただ、気にかかるのは誠たった。自分の決意を 誰より先に話した相手なのに、誠も察してくれて いた様子なのに、なにも言ってくれない。励まし の言葉が欲しいわけではなかったが、ここに来て そっけなくされるのは辛かった。  もしかして、島を捨てていくと怒っているの か? いや、誠に限ってそれはない。誠にはもう なにもかも、過去を含めて全部話した。誤解はな いと信じている。ならばなぜっれないのか?  初夏のころはトイレにまでついてきたのが嘘み たいだった。みんなとのお弁当の時間はことさら 明るいが、有人とはあまり目を合わせない。放課 後も「じやあな’・」とあっさり先に帰ってしまう。 「じやあな!」の声は高校野球の選手宣誓なみに 大きく、おまえと話すことはもう無いと先を遮断 しているみたいでもあり、去っていく誠の後ろ姿 を見ると、みぞおちのあたりが疼いて喉の奥が詰 まったようになる。  この感覚はなんだろうと胸に手を当てて、しっ くりくる答えを一つ導き出す。これは、寂しさだ。 離れるのは寂しい。別れを前に話ができないのも 寂しい。こんな気持ちは知らなかった。東京で引 きこもっだとき、クラスメイトに会えなくなって も、なんとも思わなかった。  受験勉強はもちろん、荷造りもしなくてはなら ないのに、誠の態度を思うと集中するのも難しい。 そんな日が重なり、ついに翌日帰京という日に なってしまった。  有人はさっさと帰宅した誠を見送り、寮に帰っ て最後の荷造りをした。荷造りの合間、ゴミ箱に は洟をかんだティッシュが溜まっていった。じき に夕食という時間、有人はLINEで誠に『話が したい』とメッセージを送った。すぐに既読に なったが、五分待っても十分待っても返事はな かった。  「有人くん、どこ行くの? そろそろご飯よ」  後藤のおばさんには申し訳なかったが、有人は 寮を飛び出し、斎藤家へ向かった。漁師の家の夜 は早い。訪ねるなら、ためらってはいられなかっ た。   泊めてもらった部屋の窓は、カーテンが閉じら  れていた。  チャイムを鳴らすと、中から誠の父が「なに鳴 らしてんだ、人ってこいや」と応じたので、言わ れたとおりにする。  「誠に会いたいんです」  「ああ、あいつか」誠の父は二階に向かって声を 張り上げた。「有人が来てっぞ」  「具合悪いから寝てる!」  具合が悪いとは思えぬ大声が降ってきた。誠の 父は苦笑いした。  「有大。許してやってくれや。至が出てくってと きも、あんな感じだったんだわ。顔見せねえのは、 あいつもあれだ、男だからよ」  「どういうことですか?」  「赤くなってる目ん玉なんて、見られたくねえだ ろ」漁師の武骨な手が有人の頭に優しく乗せられ た。「でも、おまえはその目ん玉で来てくれてん のにな。誠のほうが肝っ玉小せえなあ」  有人は斎藤家の外に出て、カーテンが閉まった 窓に向かって、わめいた。  「誠! 僕がなにを言いに来たかわかってんのか よ!」  港の明かりがガラス窓に反射している。  カーテンは動かなかった。   港は島民で黒山の人だかりだった。叔父が島を 出たときと同じか、それよりも多くの人々が、有 人を送りに来てくれた。校長や高校の教員も、本 当にやってきた。 「元気でやれよ」 「遊びにおいで」 「ウニ、送ってやるからな」 そう言っだのは、誠の父たった。 一人ひとりにはとても挨拶できなかった。有人 は「ありがとうございます、お世話になりまし た」と腹から声を出し、きっちりと頭を下げた。  涼先輩、桃花、(ル先輩の姿は見つけた。スマ ホにLINEが入ってくる。  『なんかあったらここで愚痴ってOKだよ!』  『受験、頑張って』  (ル先輩からは、海の上を飛ぶウミガラスの写 真が送られてきた。スタンプがわりのようだ。  出航時刻が近づき、有人は三人に手を振って は「ありがとうございます、お世話になりまし た」と腹から声を出し、きっちりと頭を下げた。  涼先輩、桃花、(ル先輩の姿は見つけた。スマ ホにLINEが入ってくる。  『なんかあったらここで愚痴ってOKだよ!』  『受験、頑張って』  (ル先輩からは、海の上を飛ぶウミガラスの写 真が送られてきた。スタンプがわりのようだ。  出航時刻が近づき、有人は三人に手を振って フェリーに乗り込んだ。有人は誠を探した。誠だ けが姿を見せない。どこにいるのか。  あの日-未来が消えたあの日ではなく、もう 一つのあの日-もう一度未来へのともしびを得 た夜も、背中を押す大きな力になった初日の出を 見た朝も、誠と一緒だった。  誠の顔が見たい。  有人は船室に入らず、甲板を移動しながら探し 続けた。人だかりの中にはいない。いればわかる 自信がある。  有人はスマートフォンを取り出した。LINE で誠に話しかけようと思った。どこにいるのかと。  出航の汽笛が鳴る。  見送ってくれている人たちに手を振るために、 有人はスマートフォンを再びポケットにしまう。 誠はいない。  LINEではなく、きちんと言葉で伝えたかっ た。  誰よりも、ありかとうと伝えたかった。  もしもいつか叔父さんみたいに医師になれたら、 僕は。  僕は必ずもう一度……。  船が岸壁を離れる。ゆっくりと確実に、島民た ちは小さくなり、声も遠くなっていく。  『夢の浮島 照羽尻 ようこそ』  崖の補強コンクリートに書かれた、色褪せた文 字。  黒い海鳥が海面すれすれを切って飛ぶ。  奈落の底だと思っていた。  でもここに来なければ、今こうしていない。  有人は寒風に顎を少し引き、フェリーの前方へ と向かった。  風とともに細かなしぶきが頬を濡らす。岸壁を 打つ波は火花みたいに弾ける。  火花-有人は立ちすくんだ。夏休みの花火の 夜、あの夜誠は、言っていた。  -本当に言いたいことは言葉にしね1の。態 度とか行動とかで語るんだ。  だから、いないのか。  「誠の馬鹿野郎」有人は声を絞り出す。「これが おまえの本音かよ」  伸びてしまった前髪がなぶられ、額が丸出しに なる。悔しくてやるせなくて、有人は港から顔を 背け、船首のほうを向いた。船首の部分はロープ や機材が置かれてあり、乗組員以外立ち入ること ができない。有人はとにかくぎりぎりまで前方へ 進んで、甲板の手すりを掴み、沖を見据えながら 身を乗り出した。  目を見開く。近づいてくる防波堤の突端に、誰 かが立っている。誠だ。  「誠!」  叫んだ。波音、エンジン音、風、すべてにかき 消されようと、もう一度声を張った。  顔が見える。遠くても、瞼が腫れているのがわ かる。その目が赤いのもわかる。でも、誠は笑っ ていた。力強く励ますように。  「誠! 僕はいつか必ずI」  たった一度の大きな頷きが返ってくる。  誠は首に巻いていたマフラーを取った。そして それを握りしめ、有人へとぐっと突き出した。  マフラーが激しくたなびく。  風の形が見えた。 かる。その目が赤いのもわかる。でも、誠は笑っ ていた。力強く励ますように。  「誠! 僕はいつか必ずI」  たった一度の大きな頷きが返ってくる。  誠は首に巻いていたマフラーを取った。そして それを握りしめ、有人へとぐっと突き出した。  マフラーが激しくたなびく。  風の形が見えた。 謝辞 執筆にあたりましては、一般社団法人天売島おらが島活性化 会議齊藤暢さま、公益財団法人はまなす財団小倉龍生さま、 北海道天売高等学校校長(取材当時)上田智史さま、北海道 天売高等学校の生徒の皆さま、教職員の皆さま、ならびに、 天売島の皆さまに多大なるご協力をいただきました。こころ よくお話を聞かせてくださった皆さまに、心から感謝申し上 げます。                         著者