月とコーヒー_吉田篤弘 卜くないヶIキ  その町には広大な私鉄電車の操車場がありました。  夜になると、列車という列車がすべてここへ帰っ てくるのです。月あかりに照らされた各駅電車のガ ラス窓が銀いろに光り、車庫におさまっだ特急列車 は走り疲れた豹のようにひっそりと眠っています。  この操車場から北へ十分ほど歩くと、〈第三変電 所〉に突き当たります。変電所の向こうは、手つか すの樹木がそのままになった鬱蒼とした森です。  彼の祖母はその森のそばに住んでいました。ある とき、格安の一軒家が売りに出され、祖母は貯金を はたいてその家を手に入れたのです。  そのあたりは、祖母の家の他にはほとんど何もあ りませんでした。「米と酒」と看板を掲げた小さな 食料雑貨店があり、変電所の所員が寝泊まりをする 無愛想な施設があるだけです。  いや、もうひとつありました。このような何もな いところへ、空から落ちてきた星のように〈ゴーゴ リ〉という名の喫茶店があるのです。そんなところ に店を構えて、はたして客はあるのだろうかと心配 されるのですが、空の上から眺めてみると、周辺に はかろうじて人家が点在し、そうした家に住む人た ちが自転車に乗って、〈ゴーゴリ〉ヘコーヒーを飲 みにくるのです。  「それにしても、ここはさみしいところだよ」と、 かつて祖母は彼に云いました。「でも、さみしいと 感じるのは、少しでも人が住んでいるからでね、そ もそも、誰も住んでいなかったら、さみしいと感じ ることさえないんだろうね」  祖母はまたこうも云いました。  「わたしは、さみしいことなんてちっとも苦じゃな いんだ。長いことひとりで暮らしてきたからね。そ の方が楽なくらいなんだよ。なにしろ、物語を書く 時間がたっぷりあるしねI」  祖母は彼がまだ子どもだった時分から「物語」を 書いていました。  「とても長い物語よ。だから、完成するまで、すご く時間がかかると思う」  祖母はその「物語」を革の表紙がついた特製の ノートに鉛筆で書いていました。虫眼鏡で覗かない と読めないくらい細かい字でびっしり書いてあり、 そのノートにしてもそうでしたが、彼には祖母が遺 したものを整理する使命がありました。  何より家を処分すべきかどうかを決められず、何 年ものあいだ、彼はその決定を先延ばしにしてきた のです。  ただ、この1ヵ月あまり、彼は祖母の家で暮らし、 〈ゴーゴリ〉に通ってば、コーヒーを飲みながら祖 母のノートを読んでいました。勤めていた活版印刷 所が廃業となり、さしあたって仕事をなくしてし まった彼は、祖母の書いた長い長い「物語」を読む ことを当面の仕事としたのです。  喫茶店〈ゴーゴリ〉の歴史は、彼の祖母がこの上 地に移り住む前から始まっていました。いまは、深 緑いろのセーターを着た無口な若い女のひとが主人 ですが、少し前までは、この場所に店をひらいた彼 女の祖父がひとりで営んでいました。  (もう、やめてしまいたい)  一ヵ月前のことです。声には出しませんでしたが、 彼女は切実にそう思いました。  (こんなさみしいところで、お店をつづけていくな んて耐えられない)  彼女は〈東町図書館〉の臨時雇いに採用が決まっ ていたのです。しかし、働きはじめて一週間と経た ないうちに祖父が他界し、  「あなたにお願いしたいの」  母に云われて、とりあえず〈ゴーゴリ〉を引き継 ぐことになりました。  とはいえ、あまりに急だったので、図書館で働く ことに未練がのこり、祖父が書きとめていたレシピ をもとに、なんとか店をつづけていましたが、(そ ろそろ限界かな)とコーヒーをいれる手が止まるこ とが度々ありました。  それでもつづけていたのは、自転車に乗ってずい ぶん遠くからコーヒーを飲みにきてくれるお客さん がいて、  「さみしいところだからこそ、つづけなくてはいけ ないと思うの」  母の言葉に気持ちが揺らいで、見切りをつける決 心がつかなかったのです。  いえ、じつはもうひとつ理由がありました。  一ヵ月ほど前から、毎日、午後一時にあらわれる 青年−というのはまさしく彼のことですIがい て、毎日、同じ席に座り、毎日、同じノートをひら いて、虫眼鏡をあてかっては熱心にノートの文字を 読んでいるのです。  彼もまた口数が少なく、無口な彼女が少しずつ話 を聞き出して、彼がいま何をしているのかようやく 理解しました。  「では、あの家にひとりで暮らしているのですね」  「そういうことです」  「お食事はI」  「一応、自分でつくっていますがI」  「もしかして、お腹がすいています?」  「ええ、じつを云うと」  「うちは簡単なサンドイッチしかできないんです が」  その「簡単なサンドイッチ」を彼もまた毎朝自分 でつくっていて、  「今朝も食べたので、サンドイッチはもうたくさん です」  「そうですか」  彼女は申し訳なさそうにテーブルを離れ、カウン ターの中に戻ると、祖父が書きのこしたレシピの束 を取り出しました。  (何かつくることはできないかしら)  じつは、レシピの束の中に、ひとつ気になるもの があったのです。〈甘くないケーキ〉という名前が 祖父の字で書いてあり、しかし店のメニューにそん なものは見当たりません。おそらく、試しにつくっ てみたものの、実際に提供することはなかったので しょう。  (でも、なんだかおいしそう)  祖父のレシピは祖父らしいごつごつとした字が並 び、きわめてそっけなく材料の分量と不親切な手順 が書きとめてあるだけでした。なんとなく、(おい しそう)などと思ったものの、さて、どんなものが でき上がるのか見当もつきません。  メニューにのらなかったということは、まったく の失敗作であったとも考えられ、ちょっとした冒険 ではありましたが、彼女はつまり、青年の空腹を充 たすためにそれをつくってみたのです。  「試食ですから、お代はいただきません」  いい具合に焼きあがったそれは、なんともこうば しい香りがして、色といい艶といい、いかにもおい しそうでした。一見、手のひら大の、丸くて平たい パイのようです。  「いいんですか?」  そう云いながらも彼は目の前にあらわれたそれを、 さっそくナイフで切り分けようとしたのですがI、  「やっぱり、硬いですよね」  彼女はすでに試食をしていたので、容易に切り分 けられないことを承知していました。でも、味はす こぶるよかったのです。  硬い皮の中に、甘くはないけれど、さまざまな味 が見つかり、そのいくつもの味が口の中で重なり 合って、言葉では云い表せないおいしいものになる  彼もようやく切り分けて口に運び、ミートパイの ようでありながら、アップルパイのようでもあり、 さらには、南瓜やアーモンドやチーズの味まで感じ られ、それらが口の中にあらわれては消えてゆくさ まに、(祖母の物語にそっくりだ)と感じ入ったの です。  虫眼鏡で丹念に拾いつづけた祖母の文字は、これ まで彼が読んだことのない、さまざまなものが入り 混じりながらも新鮮な味わいをのこす物語を醸して いました。  想像していたよりずっと濃密で、想像していたよ りはるかに長い物語でした。  発見もありました。  ノートのところどころに、直径四センチほどの円 状の染みがあるのです。  色は茶褐色で、完全な正円を描いているときもあ れば、半分欠けていたり、わずかな円弧だったり。  さて? と虫眼鏡で観察するうち、ふと気づいて、 テーブルの上の飲みかけのコーヒーカップを染みの 上に置いたところ、寸分違わず〈ゴーゴリ〉のカッ プの底と同じ大きさなのでした。  (この店で書いていたのかI)  ふいに祖母とつながる感覚を彼は感じとりました。  と同時に、それまで読みすすめてきた物語が、ど のような結末を迎えるのか、あともう少しでノート のいちばん最後のベージにたどり着こうとしていた のですが、彼にはすっかりわかってしまったのです。 読み終える前に、物語の終わりが体の中にふつふつ とわき上かってきました。  これはきっと彼が印刷所で働いてきたことと無縁 ではありません。  彼はこれまで、さまざまな物語を印刷してきまし たが、いつからか、試し刷りを読むうちに物語の先 行きを云い当てられるようになり、いつか自分も物 語を書いてみたいと思うことがありました。  しかし、いざ書き出そうとすると、何をどう書い ていいかわからないのです。  一方、店主の彼女はといえば、祖父があたらしい メニューを模索していたことを身をもって知り、 (自分なりに改良してみよう)と心ひそかに決めて いました。  彼がノートをすっかり読み終えたのは、その夜の ことです。  空にはノートの染みによく似た完全に円い月が出 ていました。  最後の一行はノートのいちばん終わりのページの 五行目に書いてあったのですが、それは文章の途中 でI物語の途中で、突然、息切れするように終 わっていました。  (ちがう)と彼は首を振りました。  (これで終わりじゃない。僕はこのつづきを知って いる)  彼は自分のノートをひらきました。  月の光に照らされて、それは途方もない予感に充 ちてどこまでも真っ自でした。  「完成するまで、すごく時間がかかると思うI」  祖母の声がどこからか聞こえてきました。       ― 映了技師の・夕食  彼女はアオイという名の十七歳の女の子で、これ までにいろいろと問題があって人生がつまらなくな り、いまはモリナガという町で出前の仕事に就いて いるのです。  出前というのは西洋の言葉におきかえると、「デ リバリー」ということになるでしょうかI。  モリナガという町はことごとく昔のままで、彼す なわちイノウエは、この町のそんな風潮が肌にあっ て、この秋からモリナガに住み暮らしています。  イノウエは自転車を直すのが若いときからの生業 でした。  彼はタバコを吸うときにマッチを擦るのを、こと のほか小気味よく感じており、モリナガヘ来るなり 自分の店の宣伝用マッチをつくって、そこに〈イノ ウエ自転車病院〉と店の屋号を刷り込みましたI。  あ、ちょっと待ってください。イノウエの話はひ とまずどうでもいいのでした。急いで話をアオイに 戻しましょう。  彼女は〈出前協会〉に登録している、いわゆる 〈自由出前人〉です。これはようするに特定の洋食 屋や中華料理屋に身を置くのではなく、そのときそ のときで店の注文に応じて、ピザを運んだり、焼き 飯を運んだり、ストロベリー・パフェを運んだりす るのです。西洋の言葉におきかえると「フリー」と いうことになるでしょうか。  ついでに申し添えますと、アオイは登録をすると きに「昼」と「夜」のどちらかに○をつけよ、と用 紙に書いてあるのを読み、彼女は夜が好きでしたか ら、迷うことなく、「夜」の方に○をつけて提出し ました。  しかしこれは、出前の仕事に際して、昼食専門を 希望するか、夕食専門を希望するかという二者択一 で、無事に面接にも合格して出前の免許をもらい受 けたとき、アオイは身分証明カードの右上に「夜」 と青い判子が捺してあるのを見つけて、ようやくそ の意味を理解したのでした。 「いいじやないか」とイノウエはアオイの自転車を 診ながら笑みを浮かべました。  「私も昼か夜かと訊かれたら、夜に○をつけてしま うだろうね。現にこうして夜中まで店をひらいてい るわけだしI」  「でも」とアオイは首を横に振りました。「わたし は女ですし、まだずいぷんと若いですし、夜のモリ ナガを自転車で走りまわるのは心細いのです。この あいだも、ミズシマさんに、『それはとても危険な ことですよ、お嬢さん』と云われました」  「ほう」とイノウエは油で黒ずんだ指で、鼻からず り落ちたロイド眼鏡を正しい位置に押し上げました。  「そのミズシマというのは誰のことだろう?」  「映写技師さんです」  今度はアオイが笑みを浮かべました。  映写技師のミズシマは、モリナガのはずれにある 三本立て映画館で働いています。三本の映画を一日 に二度も三度も上映するので、朝から晩までフィル ムを回しつづけなくてはなりません。  それで彼は夕食を食べに行く間がないのです。致 し方なく出前を注文し、これを届けにくるのが決 まってアオイなのでした。  ミズシマは大変に大人びた青年で、礼儀正しく、 言葉づかいもふざけたところがありません。アオイ のことを「お嬢さん」と呼び、そんなふうに呼ばれ たのは初めてだったので、アオイはすっかリミズシ マに恋をしてしまったのです。  でなければ、あのように困難なところベザント イッチを届けようとは思いません。「無理です。わ たし、できません」と〈出前協会〉に申し出て、別 の出前人にチェンジしてもらうことも可能でした。  しかし、アオイは行くのです。毎日、行くのでし た。なぜなら恋をしているからで、いえ、もちろん それだけではなく、ミズシマが驚くばかりに小さな 部屋で、誰にも知られることなくこつこつと仕事を している様子に、(わたしが救いたい)と思ったの です。(あのひとの空腹を充たしてあげたい)と  午後六時十五分。  それが映写技師ミズシマの夕食の時間です。その 時間きっかりにアオイはミズシマが所望する「簡単 なサンドイッチ」を届けにいきます。それは決して エッグーサンドやハムーサンドではありません。何 かはさまっているかはどうでもいいのです。  「とにかく、簡単に食べられるものにしてくださ い」  ミズシマの注文はその一点に尽きました。  オーダーを受けたサンドイッチ屋のヤマモトは、 「ふつうのサンドイッチよりかなり小ぶりで、全体 的にもたつきのないものにしてある」とアオイに説 明しました。  「すごく、きりつとしたサンドイッチなんだよ。そ れでいて、適度に水分を保つてる。簡単だけど簡単 じゃない。自分で云うのもなんだけど、これこそ最 高のサンドイッチだと思う。でも、君がもたついて しまつたら元も子もない。六時十五分までにかなら ず届けておくれ」  「はい」とアオイは自転車に飛び乗り、サンドイッ チをいれた自くて華奢な箱が動かないよう、背中の 〈安心箱〉にしっかりとホールドしました。  しかしです。  ミズシマのいる〈映写室〉には「映画館の裏口か ら入るように」と館主にきびしく云われており、こ の裏口を目指すためには、ほとんど迷路と云ってい いビルとビルのあいだの細い路地を行かなくてはな りません。右へ曲がったり左へ曲がったりもあわた だしく、地図ではなく体で覚えないと逆に迷ってし まいます。  それで、アオイはまだ陽の暮れない昼のうちから 何度もその迷路を走りまわり、体に順路を記憶させ て夕方の出前に臨みました。  想像を絶するような狭い路地です。自転車は無論 のこと、人かすれ違うこともままならず、ただでさ えビルの狭間は陽が当たらなくて、六時を過ぎると 真っ暗です。  東西南北もわからなくなり、わずかな手がかりと なるビルの窓からこぼれた光と、ビルの表側で輝く ネオンサインの照り返しを頼りに走りました。   到着までおよそ十二分間−。   修練の甲斐あって、アオイは一度も迷うことなく 映画館の裏口にたどり着き、どこで引っかけたのか、 ジーンズの裾に破れが生じているのを見つけて肩を 落としました。そもそも、おめかしなどできないの です。ほとんど男の子が着るような服ばかりで、か ならずどこかがほつれていたり薄汚れたりしていま す。  「ああ」と嘆いている間もありません。  しかも、難関はこれだけではなく、じつのところ、 「裏口」というのは名ばかりで、そこが出入口に なっていると知らなければ誰もが見過ごしてしまう ような壁の亀裂なのでした。亀裂がひろがって壁が 崩れ落ち、修繕が必要なのにそのまま放ってある、 といった風情です。  しかし、この亀裂に体をねじ入れてどうにか向こ う側へ抜け出ると、そこから先はほの暗い廊下に なっているのでした。廊下の奥に十五ワットの裸電 球がぶらさがり、それがミズシマのいる「映写室」 の目印です。  子どもの体しか通れないような扉をあけ、 「おまたせしました」  アオイは部屋の中へ向けて控え目に声をかけます。  すると、「どうぞ、おはいりください」とミズシ マの声がして、声を目指して梯子を四段ほどのぼる と、そこがもうミズシマの仕事場なのでした。いか にも謎めいた機械が音をたてて動き、光と埃と上映 中の映画の音が部屋を充たしています。  しかし、あまりに狭い部屋なので、アオイがサン ドイッチの自い箱を手渡すときは、ミズシマの顔が 眼前まで迫り、  「ありがとう」  と彼はくぐもった声で云うのでした。  「それにしても」とアオイは毎日同じことを口にし ます。「ここは本当に狭いですね」  「うん」とミズシマは頷くと、フィルムが正確に 同っているのを確認しながらサンドイッチの箱をひ らき、小さく切り分けられたひとかけらを手探りで つまんでは、映写機を気にしながら無言で口に運び ます。  アオイはジャケットの内ポケットから小型の保温 ポットを取り出し、自分でいれてきたコーヒーを ポットのふたに注いで、湯気と一緒に差し出しまし た。  「ありがとう」  ミズシマは礼を云いながらコーヒーを飲み、サン ドイッチを食べ、コーヒーを飲み、サンドイッチを 食べ、を繰り返し、  「ここは狭間ですから」  ようやくそう答えました。それは「狭いですね」 と云ったアオイの言葉に対する返答であり、  「狭い必要があるのです」  彼は毎日同じ言葉を繰り返しました。アオイはそ れを毎日聞いているのです。  「ここから投影しているのを、お客さんに意識させ ないのがぼくの仕事です」「理想を云うと、どこに 映写室があるのかわからない方がいい」「ここは フィルムとスクリーンの狭間にある、あってないよ うなところ」「狭ければ狭いほどいいんです」  そしてI、  「ごちそうさまでした」  彼は空になった箱と空になったポットのふたをア オイに返し、ひとしきリハンカチで口をぬぐうと、 ただちに仕事に戻って、身をひそめました。  イノウエはアオイの話をひととおり聞くと、夜ど おし走りまわっだ自転車の傷の手当をして、ねぎら うように薄くなめした鹿革で磨きをかけました。  「これでいいだろう」  「ありがとうございます」  アオイは修理代を払うと、すっかり輝きを取り戻 した自転車のハンドルを握って、雲間に見え隠れす る月を見上げました。  「どうして、自転車はこんなかたちになったと思 う?」  イノウエも月を見上げながらアオイに訊きました。  「さあ」とアオイが首をかしげると、  「とびきり狭い道を走るためにだよ」 イノウエはタバコをくわえてマッチを擦りました。 子 犬川☆……… 黒口を数える..人の屶  頭の上を旅客機が飛んで行くのを見上げ、こんな 山奥でも飛行機は飛ぶのだな、とタナカはいまさら のように気づきました。  そこは仙人が住んでいるような山奥だと物の本に は書いてあるのです。誰も近寄りません。昔からこ の山には魔物が棲みついていて、特別に用事がない 限り、立ち入ってばならないと云い伝えられてきま した。  しかし、特別な用事があれば話は別です。示し合 わせたわけではないのに、東と西から二人の男が山 へ入り、たまたま同じ頃合いに山の北側にある禅寺 にたどり着こうとしていました。タナカは東から山 に入っだ三十三歳の少々くたびれた万年青年で、も うひとりの西から入った立派な体躯の中年男はフル タと呼ばれていました。  フルタもまた飛行機の音に空を見上げ、「なんだ よまったく、夢を壊してくれるじやないか」とつぶ やきました。  二人はそうして別々のけもの道をたどってきたの でしたが、フルタの云う「夢」とはすなわち、この 寺で修行することによって得られる「魔法」を指し ていました。  仙境とでも云うべき山奥できびしい修行に励むの だと、まるで別世界に参入する意気込みでのぞんだ のです。しかし、頭上に見なれた国内線の機影がよ ぎり、フルタは少しばかり興ざめしてしまいました。  「せっかく、魔法使いになろうっていうのにI」  フルタはそう口走りましたが、「魔法使い」とい う言葉をその禅寺では使いません。ここで、その道 をきわめる者は「魔法修行者」と呼ばれ、魔法を自 在にあやつることが重要ではなく、それを修得する までの時間を尊ぶことに主眼があるのでした。  タナカもフルタもそうした事情は承知のうえで、 巷では尋常ならざる修行の日々を送ることになると 聞きおよんでいました。  しかし、二人にはそれぞれ理由があり、どうにか して魔法を身につけたいと強く願っていたのです。  寺の主であり、魔法をつかさどる老師でもある大 坊という人物は、その名前とは裏腹に小柄な老人で した。街のうわさでは大坊の魔術は何かできるとか できないとかではなく、およそ、あらゆる不可能を 可能に転じることができると、まことしやかに語ら れていました。  陽の暮れかかった禅寺にたどり着いたタナカとフ ルタは、しばらく、お互いを血走った目で見合って いましたが、大坊はめったに訪れない修行者が同じ 囗の同じ刻限に二人もあらわれた椿事に、目を細め て「ようこそ」と迎え入れました。  しかし、大坊が目を細めたのはこのときだけです。  その夜からさっそく修行が始まり、タナカとフル タは自由な飲食を禁じられて四畳半の相部屋に押し 込められました。薄っぺらな布団がふだ組と、子供 が習字をするときに使う小机がふたつあるきりです。 部屋の真ん中に三十ワットの裸電球がぶらさがり、 就寝時には電球そのものをひとひねりすることで消 灯となるのでした。  真っ暗になった部屋にフルタの声が響きます。  「お前さんは一体どうしてここへ来たんだ」  「そちらこそ、どうしてなんです」とタナカがすか さず訊き返すと、  「おれは、じつを云うと殺し屋なのだ」と凄みのあ る声でフルタは答えました。  「しかしまあ、こわがることはない。おれとしても、 こんな寝ざめのよくない仕事をつづけたくないんだ。 ここはひとつ魔法を修得し、手品師みたいに、何も ないところから札束を取り出そうって寸法だ。で、 あんたはどうなんだ?」  「ええ」タナカは少し間をおいてハナをすすりまし た。「アオという名前の小さな鳥にもういちど会い たいのです」  「青い鳥?」  「いえ、そうではなく、アオという名前で、僕がつ けたのです。いい鳥なんです。とても頭がよく、と きどき、人間のようにくしゃみをしました。しかし、 アオは自分がくしゃみをする鳥であることを恥じて いて、それである囗、部屋の窓から飛び去ってし まったのです」  「おい」とフルタは話をさえぎるように声を大きく しました。「あんたは、そんな鳥のために魔法を覚 えようっていうのか。もういちど会いたい? 会え るんじやないか、そのうち。頭がいいなら、きっと 帰ってI」  「もう二年になります」  しばしの沈黙が流れました。暗い部屋の真ん中に ただひとつ、すきま風にあおられた電球が振り子の ように揺れていました。  それから一週間あまり、二人はひたすら修行に励 みました。と云っても、さて、こんなことが一体何 になるのか、というようなことばかりです。中でも、 最も長い時間をかけて繰り返されたのが、黒豆の数 を数えるというものでした。  大坊の弟子にミズキという女がいて、二人が修行 を始めてしばらくすると、どこからともなく姿をあ らわし、大坊の代わりに指示を出したり、二人の面 倒を見たりしていました。ミズキは黒い箱の中に山 となった黒豆を適当に柄杓ですくい、黒い皿の上に ざっと音をたてて散らします。  「その数を一瞥で数えなさい」とミズキは云うので すが、この黒豆は寺の近くに密生するめすらしい植 物の種子で、外見からして非常に深い黒さを持ち、 そればかりか、豆の中までもが同じような漆黒なの でした。  皿に黒豆がまかれた瞬間、その数を当て、当てた ぶんの豆がミズキによって調理されて、その夜の二 人の食事となります。朝の食事は同じ豆を粥にした もので、つまり、この一週間あまり、二人はこの黒 豆だけを食べてしのいできました。  「おれはもう逃げ出したいよ」  フルタが裸電球を見上げながら小声で訴えました。  「腹が減って仕方がない。食いものの夢ばかり見る。 とりわけ、肉鍋の夢だ。あんなにうまいものはない。 おれば肉鍋を食うことによって、おれという人間を 維持してきたんだ。ここへ来て、それがよくわかっ た。だから、一刻も早く肉鍋を食わないと、おれは おれでなくなっていく。あんたはどうだ?」  「僕は」とタナカはしばらく考え、「湯気のたつ熱 いコーヒーとドーナツですね」  「ドーナツ?」  フルタはあきれ顔になりながらも、すっかり頬の 肉が落ちたタナカの顔をしげしげと眺めました。  「あんたはまだ子供なんだな。しかし、それでいい のかもしれん。魔法なんてものは子供たちが夢見る もので、おれのように世の中のいちばん底をうろつ いてきたヤツには、まるで似合わない」  「そうでしょうか。僕はそう思いません。フルタさ んが本当にそのいちばん底から逃れたいと願ってい るなら、そういう人にこそ、魔法は宿るのではない ですか」  「へっ」とフルタは笑っているような泣いているよ うな怒っているような顔になりました。  「知ったようなことを云いやかって」  二人は、毎日、黒豆を数えつづけました。  人間というのはじつに大したもので、そうしたこ とでも、毎日つづけていると、次第にコツをつかみ、 いつのまにか、難なく数を当てられるようになって いました。それにしたがって、夜の食事の黒豆の数 も少しずつ増えていきI。  「おれは、ただでさえ腹黒い男だ。腹の中に黒い タールがたまっている」  フルタは裸電球を見上げながらタナカに訴えまし た。  「そのうち、おれの腹から石油がとれるだろう。そ こへ持ってきて、この黒豆だ。おればもう、自分の 黒い海におぼれて、どうにかなってしまいそうだ よ」  その夜おそく、とうとうフルタはたまらなくなっ て寺を逃げ出したのです。山をおりて街へ戻り、頭 の上をひっきりなしに飛行機が飛び交う路地裏の屋 台で肉鍋を食べるのだと胸がおどりました。  一人のこされたタナカは、次の囗から調子が上が りません。黒豆を数えるのも、フルタと競い合うこ とで上達していたのだと思い知りました。  「いえ、本来、修行は一人でするものです」  ミズキに諭されました。  「ここからが、あなたの正念場ですよ」  タナカはひたすら一人で黒豆を数え、一人で裸電 球をひねっては寝床につきました。「正念場か」そ う念じて眠りについたのですが、その夜の夢にフル タがあらわれ、彼は妙にこざっぱりとした服を着て、 自い小さな箱をいくつも抱えていました。  「街に戻って、ドーナツ屋を始めたんだよ」  自い箱の中に色とりどりのドーナツが詰め込まれ、 タナカは、さあどれを食べようかと迷っているうち に目がさめてしまいました。ああI。  また一日が始まって修行の時間となり、タナカは ひとつとして黒豆の数を当てられなくなりました。 そうなると、夜の食事はわずかに白湯を一杯いただ くだけです。  (逃げ出したい)  裸電球の下でしばらく正座し、タナカはついに思  いを決めて、よろよろと立ち上がりました。電球を  ひねって部屋を暗くし、そろりそろりと部屋をぬけ  出ると、月あかりが水を張ったように廊下をみたし  ています。  少しずつ暗さに目がなじんできたとき、そこに思 わぬ人影が生じて、  「これをどうぞ」  人影はミズキの声でそう云いました。 「フルタさんからの差し入れです」  ふいにタナカの鼻先に湯気がひろがり、こうばし いコーヒーの香りが、笑っているような泣いている ような怒っているようなフルタの顔を呼びさましま した。  コーヒーと一緒に自い小さな箱が手渡され、「も しや」と思ってふたをひらくと、夢で見たとおりに ドーナツが入っています。ふたの裏には、子供みた いな拙い字で、「あんたはもういちど、アオに会え る」と書いてありました。  「なんだか、魔法のようです」 タナカは口を結んで目を閉じました。 匸・广口に卞址   几  アーノ心卜のしない一枚  彼らはなるべく静かな終の住処を選んだのです。 条件はそのひとつだけで、入居に際して「他に望む ことはありません」と明言しました。  このシニアハウスには十二人の老大たちが暮らし ているのですが、都会のはずれにある柢層マンショ ンを改築したものでした。大通りから離れ、木立ち に囲まれて、夜になれば周囲に人通りもありません。  「陸の孤島というやつたな」  老人のひとりが云いました。彼らはIまったく の偶然なのですがI皆同じようにシニカルで、厭 世的で、他人と仲良くしようという意識がないので す。  「もう、この歳になったらね」と彼らは云います。  「他人のことなんて、どうだっていいんだよ」  静かに余生を送ることができたらそれでいい。望 みはそれだけだねI口を揃えてそう云うのですが、  「毎日のお食事は、ちゃんとしたものがいいわね」  七十八歳の園子さんが云いました。  これは十二人の共通した意見でもあります。  ハウスの経営者は彼らの希望になるべく応えてあ げたいと考え、歳若い男の料理人を雇って、朝昼晩 の三度の食事を、他のどのハウスよりも充実したも のにしました。  「ただし、料理人は常駐ヘルパーでもありますので I」  語尾がにごされましたが、これは恒常的なヘル パー不足のあらわれでした。  二十一世紀の後半にはいってから、こうしたコン パクトータイプのシニアハウスの中には常駐は皆無 というところもあるのです。それに比べれば、シェ フが本職なのでいささか心もとないとはいえ、何か あったときに若い男の力が借りられるのは得難いこ とでした。  料理人の彼は、ハウスの厨房をまかされる以前、 フランス料理店でシェフの見習いをしていました。  「道理で料理がこじやれてるわ」と八十二歳の真奈 美さんが云いました。  「バターを控えめにしてほしいな」と八十三歳の哲 郎さんが云いました。  「見ばえより味よ」と七十九歳の光代さんが云いま した。  こうした彼らの意見にもいちいち耳をかたむけ、 若い料理人は、毎日、彼なりに工夫をこらしておい しい食事を老人たちに提供していました。  彼の上の名前は安藤というのですが、老人たちは Iとりわけ御婦人たちはIはたして本当に耳が 遠いのか、それとも若い彼をからかっているのか、 「アーノルド」とその名を聞き間違え、以来、老人 たちの誰もが彼を「アーノルド」と呼ぶようになり ました。  ある夜のことです。  食事は一階にある食堂で、皆一緒に食べるならわ しになっているのですが、その夜もアーノルドは腕 をふるいIいや、いつもより余計に奮闘して大変 に手の込んだ料理をつくったのでした。  しかし、揃って皮肉屋である老人たちは、  「こりゃ一体、なんだい?」「ちまちましていて、 ちっとも食べた気がしないね」「あたしは塩鮭が食 べたいんだよ。こんな訳のわからないものは食べた くないよ」  口々にそんなことを云うのです。  「ごめんなさい」とアーノルドは丁重に詫びながら も、老人たちが全員揃っているのを確認すると、 「すみません、じつは」と打ち明けたのです。  「ぼくは明日、故郷に帰りたいのです」  楊枝で歯の隙間にはさまった食べかすを掃除した り、食後のコーヒーを飲んでいたりした老人たちは、 一斉にアーノルドのいかにも申し訳なさそうな顔を 見ました。  「ひと晩で戻ります。でも、明日の晩御飯だけ、ど うしてもむっくりすることができません。もし、簡 単なものでよかったら、つくり置いておきますが I」  「ふうん」と八十四歳の光男さんが首を横に振りま した。「それはまた、自分勝手な話だね。簡単なも のなんか食べたくないよ。冷えたスープ? 冗談 じやない」  「この先、そんなことが何度もあると、わたしたち は餓死してしまうのよ」−八十二歳の里菜さんが そう云いました。彼女はいつも云うことが大げさな のです。  「すみません」とアーノルドは何度も頭を下げまし た。「じつは妹が体をこわして入院してしまったの です。幸い、悪い病気ではないと検査の結果も出た んですが、ずいぶん心細い思いをしているようなの で、顔を見に行きたいのです」  「それを云うなら、顔を見せに行くだろう」と誰か が意地悪く指摘しました。  「お前さんの、そのしけた顔をかい」と誰かが鼻を 鳴らしながら云いました。  「本当にひと晩だけだろうね」「約束できるなら仕 方ないけどさ」「妹思いの兄さんつてわけか」「こっ ちだって、いつお迎えが来るかわからないんだけど ね」「まあ、好きなようにしたらいいよ」  どうにか理解を得られ、アーノルドは翌日の朝、 老人たちの朝食と昼食を準備すると、小さな旅行鞄 ひとつで郷里に向かいました。  「ふん」「いい気なもんだ」「まっだくもって」  老人たちはいつもの温かい食事ではなく、とっく に冷えてしまった料理を食べながら、何度も文句を 云いました。アーノルドの書き置いたメモには「温 めなおしてください」と指示があったのですが、  「そんな面倒なことができるかい」  老人たちはメモを無視して冷たい料理を味気なく 食べたのです。  「やっぱり、夜の分もつくっておきますよ」  出発前にアーノルドは何度もそう云っだのですが、  「いいよ」「一度、冷たくなっちまったものなんて うまくない」「勝手に好きなものを食べますよ」 「カップ麺の買い置きがあるし」「デリバリーの方が よほどうまいね」  老人たちの誰もが拒否したのです。  昼食のあと、しばらくいつものように静かな時間 が流れました。誰も自分の部屋に戻りません。食器 を片づけると食堂の椅子に腰をおろし、十二人の老 大たちは口をとざしたまま動きませんでした。  「本当は秘密にしておきたかったんだけどね」− 見かねたように哲郎さんが云いました。「僕は昔、 ヨコハマで洋食屋をひらいていたことがある」  「ほう?」と七十七歳の新一さんが顔を上げ、哲郎 さんの顔をまじまじと見なおしました。「なんとい う店ですか?」  「〈壬アン〉といいましてI」  「ああ、あの店ですか。私もヨコハマだったんで、 よく行きましたよ。そうでしたか、じやあ、あの店 のクリームーシチューはあなたがI」  「ええ。僕がつくっていました。あれはうちの看板 メニューでしたからね」  「そうなの?」と里菜さんが興味深そうに身を乗り 出しました。「じつは、わたし、調理師の免許を 持ってるの。友だちのお店を手伝っていたことが あってI」  「シチューくらいなら、私だっておいしくつくれま すよ」「あたしだって」「ほう、そうかい」「そうな んだ?」と見合わせた顔がしだいに増えてゆき、そ のうち十二人の老大たちは気づいたのです。身寄り のない彼らは、ここへ入居するまで、自らの食事を 毎日毎日、一日も休むことなくつくりつづけていた のだということをI。  哲郎さんの指示に従い、何人かは厨房の中に入り、 何人かは食堂のテーブルの上で晩御飯の支度−ク リームーシチューをつくる準備をばしめました。  彼らがこんなにも饒舌に言葉を交わし、こんなに も身軽に動きまわり、その合間に知恵をしぱったり、 若いときの記憶をたどったことはかつてありません でした。  それまでお互いに相手が何者であるか知りません でしたし、特に知りたいと思ったこともなかったの です。なにしろ、皆、意地悪で、皮肉ばかり云って、 とても仲良くできるわけがないと思っていたのです。  「じつを云うと、私はねI」  「いままで云わなかったけれど、僕はさあI」  食事の準備をしながらの打ち明け話は、見事なク リームーシチューが完成し、「おいしい」「うまい」 と子供のように喜んで食べたあともつづきました。  窓の外には月が見えています。彼らは好物のコー ヒーを飲み、  「ねえ」  と誰かが云いました。  「このことは、アーノルドには内緒にしておきま しよう。だって、あたしたちがこんなにおいしい御 飯をつくれると知ったら、彼はきっと気を抜いて、 また、いついなくなってしまうとも隕らないから I」  「そうね。なんだかんだ云って、わたしは彼の料理 はなかなかのものと思ってるし」  「そのとおり」  「彼はいい料理人だよ」  彼らはまるで証拠を隠滅するように鍋や食器をき れいに洗って元どおりにし、食べのこしや食材のあ まりを袋にまとめると、翌朝、すみやかにゴミの集 積所に出しておきました。完璧でした。  「こう見えて」と九十一歳の達夫さんが云いました。 「わたしは数々の犯罪を成功させてきたんでねI」  ルパン気取りで銀ぶちの眼鏡を光らせました。  「ごめんなさい。皆さん、お待たせしました」  アーノルドは朝の食堂に駆け込むようにしてあら われ、「急いで朝食をつくります」と素早く白衣に 身を包みました。  「皆さん、お腹が空いたでしょう」  「ああ」と誰かが、むすっとして答えました。「あ んたが留守にしたおかげで、われわれはもうI」 「本当にね」「もう二度とこんなことはないようにお 願いしますよ」  そのあたりで誰かが笑い出し、笑いはすぐに老人 たち全員に伝染しました。  そんなことは初めてで、アーノルドは訳がわから ないと思いながらも、つられて皆と一緒に笑いまし た。   七 自い星と眠人の彫  戸/一  午後になって雲が流れ、空一面が青く晴れわたっ たところに、その自い大きな星が姿をあらわしまし た。  これまで昼の空にはシスクという名の小ぶりな惑 星がひとつ浮かんでいるだけでしたが、そのあたら しい星は、おそらくシスクの何千倍、何万倍もの大 きさでした。表面の陰影が、ひとつひとつ確認でき るのではないかというくらい近くに感じられるので す。  ハブカはその囗、ガレージで自転車を磨いていま した。  そのうち、なにやら辺りが騒がしくなってきたの で通りへ出てみると、街の人々が一様に空を見上げ、 その視線の先に途方もなく大きな自い星が浮かんで いました。 「とうとう、サイロンが来てしまったよ」  背後でなじみ深い声がしたので振り向くと、友人 のミカリが青白い顔をして立っていました。  ハブカとミカリは大学の同級で、卒業後にミカリ は宇宙学の道を進み、ハブカは父親の仕事だった肖 像彫刻師を引き継ぎました。  「サイロンつて?」  「流動星のひとつだよ」  ハブカの問いにミカリは深刻な顔で答えました。  「二十年ほど前からその存在は確認されていたんだ が、われわれの星とは無縁だと思っていた。しかし、 流動星と呼ばれているとおり、あの星は移動に法則 性がない。子供みたいに予測不可能な動きをする。 一応、僕の計算ではこれから一年間ほど、われわれ の頭上に居座りつづける」  「ふうん」とハブカはあまり興味がなさそうな生返 事をしました。ミカリは、「笑いごとしやないんだ」 と深刻さを深めて云います。  「すでに、引力に乱れが生じている。このままだと I」  ミカリがめすらしく悲しげな顔を見せたので、八 ブカはそこで初めて事の重大さを知りました。  「このままだと、どうなる?」  「われわれの体が縮み始める。これまでの事例によ ると、年齢によって個人差があり、一斉に縮小が始 まるわけじゃない。最初は気づかない程度の縮小だ けど、数日後には八十パーセントくらいに縮み、一 週間後にはわずか三パーセントにまで縮小される。 そしてI」  「そして?」  「消滅する」  ハブカは言葉を失いましたが、ミカリは、 「僕らには大事な仕事がある」  と悲しげな顔を自ら追い払いました。  「縮小が始まった人を訪問し、消えてしまう前に形 に残そう」  「どういうこと?」  「縮小が始まった人は四日目くらいから眠りに入る。 いったん眠り始めたらもう目覚めない。だから、眠 りに入る前に最後の晩餐を準備し、眠りに入ったら、 君が肖像彫刻にとどめる」  「でもI」  「君の云いたいことはわかってる。われわれの星は すでに多くの人たちを失った。残っているのは、今 日現在でわずか二百三十人だけだ。僕の計算では、 あの星が一年間居座りつづけたら、間違いなく僕ら は全員いなくなる」  「じゃあ、なぜ彫刻にとどめる?」ハブカは少し声 が大きくなっていたかもしれません。「みんないな くなってしまったら、面影を偲ぶ人もいなくなる。 残しても意味がないじゃないか」  「宇宙に生きているのは、われわれだけじゃないよ。 われわれには計り知れない宇宙の彼方に、われわれ によく似た生命と文明が芽生えるかもしれない。い や、すでにもう存在している可能性だってある。も し、彼らがこの星を発見したら、彼らは、われわれ が見たこともないようなマシーンとシステムを駆使 して、この星を隅々まで調査するだろう。そのとき、 彼らは君が彫った精巧な肖像彫刻を発見する。それ が、僕らがここにいた、せめてもの証しになる。は たして、二百三十人のうち何人まで残すことができ るかわからないがI」  「そうか」とハブカはそこでようやく自覚しました。 「僕が消えてしまったら、そのあとの人たちは形を 残せなくなるのか」  いったい、何人、残せるだろう?  胸のうちにつぶやいた自分の声にハブカは鼓舞さ れました。  「縮小が始まった人を見つけるにはドクターとの連 携が必要になる」  ミカリは自い大きな星を仰ぎ見て目を細めました。  「コーヒーでも飲みながら急いで策を練ろう」 「やはり、神様というのはいるんだね」  ハブカは笑いたいような泣きたいような思いでし た。  「ああ」とミカリは深々と息を吸い、「われわれ二 人が残るなんて」と、ゆるゆると息を吐き出しまし た。  ミカリの計算どおり、自い星は一年間居座りつづ け、この星の住民たちは皆ことごとく縮小し、最後 にいちばん食べたいものを口にして眠りにつくと、 数日後にきれいさっぱり消滅しました。  ハブカは、なるべくすみやかに、しかし、その人 のすべてを保存する思いで姿かたちを写しとりまし た。色や質感はもちろん、肌のつやの具合や髪の毛 の一本一本まで精査し、自い髪は自く、黒い髪は黒 く、きわめて正確に再現しました。  皆、美味しいものを食べたあとなので、大変、幸 福そうな笑みを浮かべて眠っていました。生涯でい ちばんと云っていいくらい穏やかな表情で、誰ひと りとして苦しそうな顔や悲しげな顔ではありません。  むしろ、最後に残されたハブカとミカリの方が悲 嘆に充ちていました。  「もし」とハブカは云います。「もし、本当に神様 がいるのなら、次は、君ということになる」  「僕のことはいいんだ」ミカリは首を振りました。 「僕の形など残らなくてもいい。それよりも君の I」  「いや、肖像彫刻師は自分の姿を彫ることができな い」  「そうなのかI」  「もし、僕の縮小が先に始まってしまったら、君を 残すことができなくなる。だから、いまのうちに君 を彫っておきたい。目を閉じてそこに横になってく れ。あるいは、座ったままでもいいけどI」  完成した彫刻−二百二十八体の眠りの様子はさ まざまでした。老若男女、思い思いの格好で眠って います。   ハブカは愛用の自転車に乗り、ミカリの報告にし たがって縮小の始まった人の家を訪ねてまわりまし た。  自い大きな星との関わりや、縮小の先に消滅が訪 れることなどは説明しませんでしたが、皆、事情は よくわかっているようでした。誰もあわてず騒がず、 楽しそうに最後の食事をし、その食事も十人十色で した。  グラタン、オムレツ、トマトーシチュー、チャー ハン、サーロインーステーキ、コーンフレークー。  「黒パンにマーマレードを塗ったのがいいな」とス ザマは云いました。  「マルゲリーターピザ。あれ以上のものはないね」 とイェンジは云いました。  「ドライカレーを所望したい。うんと辛いやつだ」 とモディラは云いました。  彼らは食後にコーヒーや甘い酒を飲み、子供のこ ろの話をしているうちに、ぷつりと糸が切れるよう に眠りにつきました。ハブカは眠りを確認すると、 すぐに仕事を始め、ほとんど食事もとらずに彫りつ づけて、完成するころには、モデルとなった彼や彼 女はあらかた消滅して形を失いました。  代わりに、ハブカが彫り上げた彫刻が彼らの部屋 に残されます。  最後の仕上げに、ハブカは彫刻の右足の裏に彼や 彼女の名前を彫り込みました。  イズノ、サイロ、スタンバード、モリアルノ、イ マジバー、キヤロンー。  彼らは皆、そうした名前を持っていたのだという ことを、姿かたちと共に残したのです。 「そうだ、いいことを思いついた」  ミカリが指を鳴らしました。  「彫刻の技術は君だけのもので、僕にはとうてい真 似できない。そのうえ、君が君自身を彫ることがで きないとなると、そんな残念なことはない。君こそ、 未来に語り継がれるべきなのだ。でも、いいことを 思いついた。いや、いつもどおり、そのまま再現し てくれればいいんだがI」  そう云ってミカリは自らの左足を投げ出し、おも むろにマジックーペンを取り出しました。  「間違いないね」  ヒラソ隊員が報告書に書き込みながら肩をすくめ ました。  「ここもまた自い星にやられてしまったようだ」  「残念だな」とイブ隊員が首を振って舌打ちしまし た。「この星は、かなり文明が発達していたような のにI」  「調査のしがいがあるね」  「本当に残らず消滅してしまったんだろうか? 誰 か一人でもI」  「いや、正確なところはわからないが、おそらく自 い星がここに居座っていたのは、三百年以上前のこ とだI」  「そうか。そんなに経っているのか」  「いまにも、誰かあらわれそうだが」  二人の調査隊員がそんな会話を交わしながら、と あるアパートの一室に足を踏み入れるとI、  「おい、誰かいるぞ」  「いや、そうじゃない。それはルビコン樹脂でつく られた〈眠り彫刻〉だ」  「すごい技術だな。まるで生きているようじやない か」  「じつに安らかな顔で眠っているよ。きっと平穏な 暮らしを営んでいたんだろう」  「これは一級の資料になる」  「彫刻師のただならぬ執念を感じるね。たしか、前 にも他の星でこんなことがあったよな?」  「ああ。あのとき、われわれが知っだのは、これだ けの仕事をしていながら、肖像彫刻師はその存在を 残せない、ということだ」 「名前すらねI」 「うん?」とイブ隊員が何かに気づきました。右足 の裏に彫り込まれた名前です。  「なるほど、こんなところに名前を彫るなんて、気 の利いた彫刻師だ」  二人はそのアパートのいくつかの部屋に〈眠り彫 刻〉を見つけ、そのたびに右足の裏にトランスー レーザーを当てては、どんな響きを持った名前なの か聞きとりました。   イズノ、サイロ、スタンバード、モリアルノ、イ マジバー、キヤロンー。  「おい、この彫刻は他のものよりひとまわり大きい ぞ。まるで、縮小が始まつていない完全体みたい だ」  右の足の裏にレーザーを当てると、  「ミカリ」  翻訳された文字が音になつてよみがえりました。  「ミカリかIいい名前だ」  「おい、待て。よく見ろ。この彫刻には左足にも名 前が彫られているぞIなんだか、マジックーペン で書いたような文字だが」  二人が首をかしげながらレーザーを当てると、  「ハブカ」  ミカリの思惑どおり、三百年の時を経て、その名 が再生されました。   卜卜.yO  4Ay{゛{‥}パ 隣のごちそう     ⊃白  長らく空いていたアパートの隣の部屋に誰かが 引っ越してきたのを、マキは大家さんから聞いてい ました。  しかし、何の物音もしないのです。  「大学の食堂で働いているそうよ」  大家さんの情報は唯一それだけで、  「だから、朝早くに出かけて行くんじやないかし ら」  そこのところは大家さんの憶測でした。  マキはひと月ほど前に化粧品売場の売子の仕事を やめ、かねてより憧れていた「自由の身」を味わっ ていたのです。  「ねえ聞いて、私いま、自由の身なの。仕事もして ないし、彼氏もいないし、好きな時間に起きて好き なところへ出かけて、何にも縛られてないの」  友人たちにはそう云ったものの、本当を云えば、 「次の仕事を探す」という大事な宿題を抱えていま した。  しかし、そう簡単に見つかるものではなく、早く 探さなくてはと思いながらも、ただ漫然と一日を 送ってしまうのでした。今日は昨日の繰り返しで、 明日は今日の繰り返しです。  「なんとかなる」がマキの口ぐせでした。それに、 お金は少しばかり蓄えがあります。おそらく、その こともマキが仕事探しに積極的になれない理由のひ とつでした。  アパートの家賃はその界隈でとびきりの格安で、 壁は薄いし窓もガタついているのですが、大家さん の管理と掃除が行き届いているので、相当に古びた 建物であるにもかかわらず、気持ちよくこざっぱり しているのが気に入っていました。  ただし、駅からはかなり遠く、少し汗ばむくらい の急ぎ足で歩いて、ゆうに十五分はかかります。こ れが災いして、隣の空き部屋は、なかなかあたらし い居住者を迎えられませんでしたI。  大学の食堂で働いているというけれど、どんな人 だろう? 男か女か、若い人かそれとも、けっこう 歳をとっている?  いずれも考えられました。大家さんに訊けばいい のでしょうが、なんとなく隣人をあれこれ詮索する のは行儀が悪いのではないかとマキは躊躇したので す。  マキはおおよそ朝の十時ごろに目を覚まします。 その時間に布団の中で耳を澄ましても、隣の部屋か らは何も聞こえてきません。  マキの部屋は二階の端にあり、もし、何かしら声 や音が聞こえてくれば、それは隣人によるものと考 えてまず間違いありません。  「朝は早い」とIそれが憶測であるとしてもI 大家さんがそう云っていたのだから、もう仕事へ出 かけてしまったのだろう。  マキは天井のしみを眺めながらぼんやりと過ごし ました。  働いているときは、こうした自由な生活を夢見て いたのに、いざ、そうした身の上になってみると、  「今日は何をしよう」  という自分のつぶやきを、それ以上、展開できま せんでした。  「お腹すいたなあ」  切実なため息は空腹に関わることばかりです。  とはいえ、マキは食事に対してまったく無頓着で、 何か食べたいとか、何を食べようといった食に対す る積極性が欠如していました。  空腹ではあるけれど、食べるものは何でもかまわ ない。カップ麺があれば、それで充分だし、コンビ ニで適当に買ってきた菓子パンやおにぎりを何の考 えもなしに食べていました。  異変が起きたのはある夜のことです。  午後八時くらいのことだったでしょうか。マキは 昼の時間に外へ出かけ、公園の池のまわりを何周も したり、図書館で本の背表紙を眺めたりして部屋に 帰ってくると、ちょうど八時くらいに猛烈な睡魔に 襲われて死んだように眠ってしまうのです。この一 週間ほど、それが習慣になっていました。  しかし、その囗は天気が悪かったので公園にも図 書館にも出かけることはなく、一日中、家でぼんや りと過ごしていました。  ふと気づくと夜の八時になっていて、時計を見て 時刻を確かめたのは隣の部屋からあきらかに人の気 配が感じられ、台所の流しの水の音が聞こえてきた からです。  マキは布団の中で息をひそめました。  あくまで想像ですが、隣の大は少し前に帰ってき て、服を着替えるとすぐに台所に立ち、自分が食べ る食事の準備をしているI。  やかんを火にかける音や、陶器と陶器の触れ合う 音、ナイフやフォークがたてるかすかな金属音、さ らには、ガラスボウルの中で何かをかき混ぜる軽快 な音が聞こえてきました。  料理をしているIとマキは確信しました。  マキ自身はこの部屋で料理らしい料理をしたこと はありませんが、実家に住んでいたころ、母親が台 所で料理をしている音を聞くともなく聞いていたの がよみがえってきました。  マキはまな板を持っていません。包丁もパン切り ナイフで済ませ、かろうじて食器はひと揃いありま したが、鍋やフライパンの類は持ってはいても棚の 奥にしまい込んだきりでした。  「料理か」  マキは布団から起き上がりました。  どうしたことでしょう。いくら壁が薄いとはいえ、 壁越しに聞こえてくるのはいかにも不明瞭な音で、 にもかかわらず、その音は何か心地のよい音楽のよ うにリズミカルに響きました。そのリズムにマキの 体が動いたのです。  そういえば、マキの友人−軽食堂のシェフをし ているNさんが云っていました。  「料理はリズムが命なんだよ」  どうしたことか、その快いリズムに刺激され、マ キは眠気に誘われることなく、むしろ覚醒して、な おも耳を澄ましました。  フライパンがコンロの上に置かれた音がします。 次にIそんな音は聞こえないのですがIフライ パンに油が引かれたのがわかりました。  そしてついに、じゅっ、と決定的な音が聞こえ、 それは壁越しに響いただけではなく、窓の方からも 聞こえてきました。  マキは息を殺し、にじり寄るようにして窓辺まで 行き、できる限り耳に意識を集めました。  すると、たてつけの悪い窓のほんの数ミリほどの 隙間から、甘い香りをともなった何かが焼ける匂い がマキの鼻孔まで届きました。おそらく、隣人の窓 も事情は同じで、隣の隙間から漏れ出た匂いが、こ ちらの隙間に入り込んでマキの鼻まで届いているの です。  マキは音と匂いから、それが卵焼きの焼ける匂い であると察知しました。と同時に、自分はいったい 卵焼きというものをいつ以来食べていないかと振り 返り、急に居ても立っても居られないおかしな衝動 に駆られたのでした。  「卵焼きをつくりたい」  小さな声ではありましたが、マキは心からそう思 いました。この期におよんでも「食べたい」ではな く、「つくりたい」とつぶやいたのがマキらしいと ころです。  しかし、マキには満足な道具も材料もないのでし た。  彼女はその夜、コンビニの袋の底にのこっていた メロンパンを味気ない思いで食し、もどかしい夜を 明かすと、世の中が動き出すのを待って街へ繰り出 しました。  まずは足りない調理道具を買い込み、書店でさま ざまな料理のつくり方が載ったレシピ集を何幵かも とめ、最後にスーパーマーケットに寄って、卵焼き に必要な材料を揃えました。匂いの印象からしてお そらく甘い卵焼きに違いありませんでしたので、上 等な砂糖と醤油を買うことも忘れませんでした。  マキは、今日がこれまでの人生でいちばん時間が 流れるのが速いと感じました。これまでそんなこと を考えたこともなかったのですが、人は夢中になる と時間が足りなくなるということを身をもって知っ たのです。  部屋に戻ると、レシピを暗誦できるまでじっくり 読み、それから手順にしたがって、つくり始めまし た。  ボウルにといた卵をフライパンに流し入れると、 じゆっ、という音がして、昨日とそっくり同じ匂い がたちのぼりました。  その嬉しさを何にたとえたらいいでしょう。  自分のような漫然と日々を送っていた者が、たっ たこれだけの道具と材料を揃えるだけで、あの美味 しい卵焼きをつくれるI。  実際、驚くほど簡単につくれました。  敷きっぱなしだった布団をたたみ、ひさしぶりに ちやぶ台を出してくると、マキはその上に自い皿に 盛った卵焼きをのせて右から左から眺めました。自 分が焼いたなんて信じられません。  しかも、本当に美味しかったのです。  それはそれは、ごちそうでした。  それからは、毎晩、隣の部屋から聞こえてくる音 と匂いに刺激を受け、「あ、これは生姜焼きだな」 「うん、今日は鯖の味噌煮に違いない」「今夜はコ ロツケか」という具合に隣人が何をつくっているか 推理し、それをもとに翌日、買い出しに出かけては、 同じものを、ひとつまたひとつと、つくりつづけま した。  隣人は月曜日から土曜日まで判で押したように朝 早くに出かけて夜の七時半に帰ってきました。日曜 日は休日のようでしたが、やはり朝早くに出かけて 夜まで帰りません。料理をする音と匂いは身近なも のになりましたが、隣人はくしやみひとつしない物 静かな人でしたので、相変わらず、マキはその人が どんな人物であるかわからないままでした。  十日間、マキは隣人の晩御飯を推理し、翌日、自 分でつくつて食べました。  ところが、十一日目に隣人はいつもよりずっと遅 い時間に帰宅し、おそらく外で食事を済ませてきた のでしょう、その夜は料理をしませんでした。 「さてI」  マキは腕を組んで考えました。 「明日は何をつくったらいいんだろう?」  マキはレシピ集のページをめくり、ああでもない こうでもないと考えあぐねるうち、窓の外が白々と してきました。  その結果、その囗は昼過ぎに起き出し、それから スーパーに出かけたので、いつもよりずいぷんと時 間かすれ込んでしまいました。何を食べるかなかな か決まらず、ようやく、自分は「カレーが食べた い」と気づきました。「つくりたい」ではなく「食 べたい」と、初めてそう思ったのです。  時間かすれてしまったうえに、思いのほか玉ねぎ を炒めるのに時間がかかり、完成したのは夜の八時 近くでした。部屋にはカレーの匂いがたちこめ、こ もっだ匂いを逃すために窓をあけると、そのついで に隣の食事も探ってみました。  しかし、カレーの匂いがまさり、なんら手がかり が膕めません。いずれにしても、カレーを山ほどつ くってしまっだので、隣人がどうあれ、明日もカ レーで決まりでした。なにより、自分でつくったと は思えないほど美味しくできたのです。  そんなわけで、翌日は買い物に出る必要もなく、 昼を過ぎたころに昨日のカレーを食べてぼんやりと 過ごすうち、いつのまにか夜の八時になっていまし た。  隣から音が聞こえてきますI。  隣人はいつものようにリズミカルに料理を始め、 その途中、ふいに、大きなくしゃみをしました。本 当のところはわかりませんが、マキにはそれが若い 男のひとのくしゃみであるように聞こえたのです。  「ふうん、そうなんだ」  ほどなくして、窓の隙間から隣の料理の匂いが入 り込んできました。  「ん?」とマキは窓辺に近づき、窓を少しあけて、 鼻をひくつかせました。  間違いありませんI。  カレーでした。 二心 ジョーカーのサンドイッチ  彼はトランプのカードから抜け出して、いまここ にいるのでした。  どうしてそういうことになったのか彼自身にもわ からないのですが、カードの中で日々を送りながら、 トランプーゲームに興じる男たちが片手間に食べて いたサンドイッチがしつに懐かしくも美味しそうだ と感じたのです。  いや、より正確に云うと、彼らの食べているサン ドイッチを自分なりにアレンジしたら、さらに美味 しいものになるのではないかと夢想していました。  おそらく、その夢が叶えられたのでしょう。  ちょうど、男たちはストリップを観に出かけたば かりでした。ここからニキロほど離れたにぎやかな ところに虹色のネオンが輝く歓楽街があるのです。  男たちは長引く不況で仕事にあぶれ、次の仕事に ありつくまで、暇を持て余していました。ビリヤー ドをし、ダーツをし、釣りをし、ある男はこの機会 にボディービルディングを試み、またある男はトラ ンペットを吹いてみたりしたのですが、どれも長つ づきしません。  「結局、ポンドに愉しめるのは、トランプとスト リップ見物だけだな」  ほんの一時間ほど前まで、男たちはトランプの 〈ラストージョーカー〉で遊んでいました。同じ数 字のカードを二枚ずつ揃えてゆき、最後に一枚の こったジョーカーを持っている者が負けとなる、こ の上なくシンプルなゲームです。  負けた男が「ちっ」と舌打ちをしてジョーカーを テーブルに投げ出し、  「よし、そろそろ時間だ」  飲み残しのビールをあおり、男たちは溜まり場で あるこのカフェから出て行きました。しばらくは 帰ってこないでしょう。  きっと神様はこうした状況を鑑みて、テーブルに 投げ出されたジョーカーのカードから、「ジョー カー」と呼ばれるその男をカードの外に解放したの です。  ジョーカーは男たちがいなくなったテーブルにつ き、彼らが食べ残していったサンドイッチをむさぼ るように頬ばりました。  彼はそのままの姿でカードから抜け出してきたの で、トランプの絵柄どおりの身なりです。奇妙な帽 子をかぶり、黒ダイヤの模様が入っだシャツを着て、 スリムな縞のズボンにつま先が反り返った赤いバレ エーシューズのような靴をはいていました。  無論のこと、彼の元いたカードはJOKERの文 字があるばかりの自いカードになっています。 「ふむ」と彼はうなずきました。「そういうことか」 (俺があんまリサンドイッチを食べたがっだものだ から、神様がチャンスを与えてくださったのだな)  彼はカードの中にいたときから、自分の記憶をし きりに探っていましたが、サンドイッチを口にする なり、すぐに思い出されることがありました。  (俺は、このサンドイッチという食べものを、ずっ と昔によく食べていた)  どんな生活を送って、どんな仕事をしていたのか は思い出せなかったのですが、サンドイッチが何よ りの好物で、自分でつくって夜食か何かに食べてい たIと、そこだけスポットライトが当てられたよ うに記憶がよみがえりました。  (美味しくつくるコツがあるんだ)  ひとことで云えば、「大胆にして繊細に」です。  たとえば、肉や卵は大胆にざっくりと切ってパン にのせます。  一方、きゆうりや玉ねぎや林檎は繊細に細く切っ てのせてゆきます。  これに加えて、バターやクリーム、マスタードや 蜂蜜といったものを適量加え、最後の塩と胡椒の振 り方で味が完成します。その微妙なさじ加減も、彼 は入念な研究の結果、これぞという分量を割り出し ていました。  彼はそうして少しずつ思い出しましたI。  (そうだ、俺は昔、サンドイッチ屋だったのだ) (自慢のサンドイッチを何種類もメニューにのせ、 行列ができるくらいの人気店だった)  いえ、それは本当のことではありません。  彼が大変に美味しいサンドイッチをつくれること は事実なのですが、サンドイッチ屋であった、とい うのは彼の夢想です。  二年前−不況が始まって男たちが工場の仕事を 失ったとき、彼もまたその一人で、さてどうしよう か、と途方に暮れながらこのカフェにたどり着きま した。  夜です。彼が窓辺の席に座ってコーヒーを注文す ると、注文をとりにきたカフェの女の子−彼女の 名前はシルヴイアというのですがIが彼に優しく 微笑みかけました。窓の外には空高く小さな月が見 えています。  彼はシルヴィアにひとめぼれをしてしまい、彼は 独り身だったのですが、これまでにこれほど強い思 いを抱いたことはありませんでした。  (そうか、そういうことか)  彼は運命を感じました。  (俺は店をひらくのだ)  隅の方の席でみすぼらしいなりをした老人がサン ドイッチを食べていました。  (じいさん、そのサンドイッチはうまいのかい? 俺にはそう見えないけどね。一度、俺のサンドイッ チを食べてほしいよ)  自信はありました。工場の食堂で定食を食べるよ り、自分でつくっていったサンドイッチの方がよほ ど美味しかったのです。現に彼が包みをひらいて食 べ始めると、仲間の男が横から手を出してひと口つ まみ、  「おい、これは売りものになるぞ。素晴らしいサン ドイッチじやないか」  真顔でそう云ったのです。  「お前はサンドイッチ屋になるべきだよ。きっと繁 盛する」  そうか、そんな人生もあるのか、とそのとき彼は ぼんやり思いました。そのときの思いが一挙によみ がえってきたのですI。  「お待たせしました」  シルヴィアが彼のテーブルにコーヒーを持ってき て、笑みを浮かべながらそっと置きました。これは 彼の錯覚ではありません。シルヴィアは彼に隕らず 店のお客たちの誰にでもそうして微笑みかけるので す。  彼は香ばしいコーヒーをひと口飲んで心に決めま した。(店をひらいたら彼女に手伝ってもらおう。 行く行くは一緒に暮らすことだって考えられる)  彼は「ニヤリ」と音が聞こえるくらい口を三日月 形にして笑みを浮かべ、店の奥のテーブルでトラン プーゲームに興じている男たちに目をとめました。  そのときはまだ不況が始まったばかりだったので、 男たちはかなりの大金を賭けてゲームをしていたの です。(なるほど)と彼は自分の運命を信じました。 (俺は賭けに勝って、店をひらく資金を手に入れる のだI)  「俺も仲間に入れてくれ」  彼は男たちのテーブルに加わり、最初は調子よく 勝っていたのですが、最終的には大敗してしまいま した。  「すまない。俺は金がないのだ」  ジョーカーのカードを握りしめた彼は男たちに詰 め寄られ、するりと身をひるがえすと、テーブルの 上に散らばっていた札をひったくって走り出しまし た。  −いえ、走り出そうとしたのですが、その途端 に消えてしまったのです。  「あ?」「どうした?」男たちは困惑しました。「消 えたぞ」「まさか」「そんなわけが」「しかし、姿が ない」「ふうむ」「どうやら、ビールを飲みすぎたら しいな」  しかし、消えたのではなかったのです。身勝手な ふるまいの罰として、彼はトランプのカードの中に 閉じ込められてしまったのでした。 (あんな人いたかしらI)  シルヴィアが彼に気づきました。  (残りもののサンドイッチを食べてる)(それにし ても、おかしな格好)(ああ、わかった。大道芸人 ね)(お腹がすいているんだわ)(きっと、お金のな い可哀想な人に違いない)  「あの」とシルヴィアに声をかけられ、彼はさらに 記憶を刺激されました。  (俺はこの女を知っている)(もしかして、俺の妻 か?)(いや、きっとそうだ)  「あのさ」と彼は云いました。「もっと、美味しい サンドイッチをつくらなきや駄目だよ。こんなこと では店がつぶれてしまう」  (それは本当にそう)とシルヴィアは心の中で同意 しました。サンドイッチの味もそうですが、店主も 調理人も、皆、この時間になるとストリップを観に 行ってしまい、そのあいだはシルヴィアー人で賄わ なければならないのです。  「厨房を借りていいかな」  彼はシルヴィアの返事を待たずに店の厨房には いってゆくと、シャツの袖をまくり上げて、さっそ くサンドイッチをつくり始めました。彼はカードの 中にいたときから考えがあったのです。この店のサ ンドイッチをどう改良すれば美味しくなるか、具材 やスパイスの量をどのくらいに配分すればいいか、 すでに頭の中には完璧なレシピができあかっていま した。  「すごい」とシルヴィアは彼の手際よさに感嘆しま した。  大胆にして繊細。いかにも無骨な男の手がつくっ たサンドイッチでしたが、ナイフで切り分けられた 美しい断面は、美術館に飾られた絵画のように見と れてしまうものでした。  シルヴィアは我慢ができずに勢い込んでサンド イッチにかじりつくと、  「美味しい」  「そうだろう」  ジョーカーは(こういうことだったのだ)と大い に満足しました。(いますぐ、というわけにはいか ないが、いずれ俺は店をひらいて、彼女と幸せに暮 らすのだ)  男たちがストリップを観終えて帰ってきました。  「よし、ゲームのつづきだ。今度こそ勝ってやる」  先のゲームに負けた男がテーブルの上に散らばっ たカードをひとまとめにし、シルヴィアにビールを 注文してカードをシャッフルしました。  「あ?」  男はカードを切りながらふと気づきました。  「このジョーカー、こんなに笑っていたっけ?」    シヶブ   磁千    卜刊ドム   寸寸に   ノレ 青いインク    参斗轄  インクをつくる仕事というものがあって、それも、 青いインクだけを何年も何十年もつくってきた小さ な工場がその町にはあるのでした。  この町は電車やバスの駅もなく、役所や銀行や郵 便局すらもない非常に小ちんまりとした町です。  町のまわりには、大きなビルが並んでいたり、立 派な病院や、きちんと整備された公園や、バイキン グが名物の驚くほど大きなレストランなどがあって、 小さな町は、そんな大きな町に包囲されるようにし てあるのでした。  この小さな町の一番はずれに住んでいる或る御婦 人は、アキレスという名前の外国の車を購入して、 自分の家の前に停めていました。  しかしです。いつのまにか大きな町がさらなる発 展を遂げて小さな町を侵食し、この御婦人の家のま わりにあった路地が、役所や私鉄電車の車庫がつく られたことによって消滅してしまったのです。  それで、アキレスは進むべき道を失い、どこにも 走り出せなくなりました。  この小さな町の細い路地の突き当たりには、そう いうわけで、身動きのできなくなった宇宙の色をし た外国の車がひっそりと停められているのです。  このように小さな町であるわけですから、インク をつくる工場もまた細い路地の奥にありました。  驚いてはいけません。工場とはいっても大変に小 さいのです。以前はもう少し大きな工場に何人かの 男たちが働いていたのですが、いまは山崎という青 年が先代の技術を引きついで、ただひとりでつくっ ているのでした。  いえ、より正しく云えば、工場があまりに小さい ので、山崎ひとりしか働くことができないのです。  でも、いいのです。この工場では青いインクをつ くるだけで、それもただひとつ、コバルトーブルー と呼ばれる、とっておきの青い色を、山崎は毎囗毎 囗つくりつづけていました。  つくられたインクはおかしな形をした壜に詰めら れて、大きな町の大変に歴史のある文具店の店先に 並びますI。  大事なことを云い忘れていました。山畸のつくる インクは万年筆のインクであり、したがって、文具 店の万年筆売場に並べられます。  この大きな文具店の万年筆売場に戸島という若い 女性が勤めていて、彼女は世界中から集められた 様々なインクを取り扱い、店先で購入を検討するお 客様に、どのインクがいいか、お勧めするのが仕事 でした。  ですから、彼女は世界中のあらゆるインクを熟知 していましたし、仕事をはなれて家に帰ってからも、 夜の静かな時間に日記帳をひらいて愛用の細身の万 年筆を使うのです。そして、このとき、これこそ夜 の帳面に走らせるのにふさわしいと思われる、一等 なめらかで、他のどれよりも深みのある色あいをも たらすインクを使うのですが、その「一等」のイン クが山畸のつくった青いインクなのでした。  戸島は思うのです。  どれほど高級な舶来物のぴかぴかした万年筆で あっても、インクが凡庸なものであったら台無しで す。  逆に云えばIこれは決して売場で話してはなら ないことですがI仮に万年筆が最高級でなくても、 インクが上等であれば、多くのひとがI男も女も、 老いたひとも若いひともI誰もが満足できる「本 当の字」が書けるのです。  戸島はまた思います。  「本当の字」というものを、ひとは書くべきだし、 「本当の字」というのは、つまり、そのひとの、そ のひとそのものが表れるものです。  ですから、できれば多くのひとたちに「本当の 字」というものを知っていただき、自分というもの をI自分そのものをですI万年筆のペン先から 外に解放してほしい、と願うのでした。  戸島は考えました。  山畸のつくったインクを使うたび、このインクを つくっているひとは「本当の字」を知っているひと ではないか、と。  そして、そのひともまた多くのひとたちに「本当 の字」を書いてほしくて、このようなインクをつく りつづけているのだI戸島はそう信じました。  五月のある晴れた午後のことです。雲はありませ んが、空の一番高いところに半透明の自い昼の月が 出ています。  戸島はその囗、仕事が休みで、かねてより計画し ていたことを実行に移そうと決めていました。それ は、山崎のインク丁場を見学し、どのようなひとが、 どのようにして、あのインクをつくっているのか、 この目で見ておこう、と思ったのです。  工場の住所はわかっていました。  山畸のつくるインクはボール紙でつくられたココ ア色の箱におさめられていて、その箱に、誰にも読 めないくらい小さな字を使って、工場の所番地が印 刷されているのです。戸島は箱の隅に虫眼鏡をあて がい、住所を確認すると、父親がよく使っていた大 判の地図をひろげて、自く細い指先を地図の表面に すべらせました。  小一時間ほどもそうしていたでしょうか。  ようやく、工場のある小さな町を見つけ出しまし た。あまりに小さいので、地図の中のどこにあるの か、なかなか見つけ出せなかったのです。  さて、ちょうどそのころですI。  山崎は工場の二階にある小部屋で体を休ませてい ました。  ここのところ、山崎は気力というものを失くして いたのでした。  自分は、このように小さな町の小さな工場で、小 さなインク壜に、毎日毎日、インクを詰めて過ごし ている。さして希望も持たずに人生を前へ進め、こ れが、明日もあさっても、この先ずっとつづき、 たったひとりで暮らしながら、旅に出ることもない。 きれいなシャツを着て、映画館や遊園地や美術館へ 出かけることもなく、ただ、青いインクをつくりつ づけてカレンダーをめくっているI。  それに、世の中のひとたちが自分のつくったイン クをどのような思いで使っているのか、さっぱりわ からない。  ああ、このインクの青色は品があっていいね、と か、控えめで押しつけがましさがなくて、でも忘れ がたい色だねIとか、自分の理想であるそのよう なブルーを認めてくださっているのかI。  そうしたところが、皆目、わからないのです。  山崎は小部屋に寝ころんで林檎をかじりました。  林檎は故郷から毎月送られてくるのです。  段ボール箱の中には、林檎と一緒に山崎の母親の 手紙が入っていました。  「都会に染まってはなりませんよ。いつでも心は故 郷の林檎畑と共にありなさい」  便箋にはいつもそう書いてありました。  しかし、その母親の字はあきらかにボールペンで 書いたもので、山崎は少し前に、母親へ自分のつ くったインクと安物ではありましたが(ロルド社の 万年筆を贈ったのです。  しかし、便箋の字はボールペンでした。  こうした、ひどくがっかりしてしまうようなこと の連続に、山崎はただ林檎ばかりが積まれた小部屋 でぐったりしているのです。  山崎は自分の指を見ました。  一年、三百六十五囗、いつでもインクづくりをし ている山崎の指先はあざやかな青に染まっています。 いくら洗っても、どれほど強力な洗剤を使っても、 しみついた青ば抜けません。これはもう一生もので しょう。  艶のある赤い林檎が積まれた小部屋で、ただ山崎 の指先だけが、どうしようもなく青いのでした。  そうした事情などいっさい知るよしもなく、戸島 は父親の形見である大きな地図を片手に小さな町に 足を踏み入れました。  これは、戸島の人生において初めてのことです。 知らない町へたったひとりで潜り込んでゆくこと自 体、経験のないことでした。  戸島はおとなしい女の子として育ち、おとなしい 少女時代、おとなしい思春期を経て、いまは、おと なしい万年筆売場の店員なのです。  しかし、それだけつづいたおとなしい時間の中で、 戸島は他のひとより、ずっと沢山のことを考えてき ました。  そうした考えを自分の外に出すことが「書く」こ とであり、書くための道具が戸島にとっては万年筆 でした。そして、その万年筆が「本当の字」を書け るように導くのがインクなのだと、考えが行き着い たのです。  しかもですI。  小さな町の山崎がつくる青いインクだけが、世界 でただひとつ「本当の字」を実現するインクである と戸島は結論しました。  しかし、これまでおとなしい人生を送ってきて、 あまり外に出たこともなかった彼女は、この小さな 町のあまりに密集した路地に戸惑いました。  これは「迷宮」と云うものではないか、と思った のです。  ひとたび迷ったら、生涯、迷いつづけてぬけ出せ なくなるIあの古くから云い伝えられてきた、ひ とを惑わす迷路−。  こういうときのために、戸島は肩からさげていた 携帯式魔法瓶の中に、自分でいれたコーヒーを詰め ていました。  いえ、こういうときのためだけではなく、ちょっ とした考えがあったのですI。  無事に工場にたどり着いたら、きっと工場は広く て沢山の人たちが働いているだろうから、その中か ら青いインクを担当しているひとを見つけ出し、そ のひとに、まずは自分が日ごろ感じていたことを伝 えよう。  そして、そのついでに、自分のいれてきたこの コーヒーを飲んでいただく。ささやかではあるけれ ど、ほんの少しのあいだ、くつろいでもらい、そし てまた、あの素晴らしい青いインクづくりに勤しん でいただくIそう考えていたのでした。  その分のコーヒーは大事にとっておくとして、い ま、戸島はこの困難な迷路をくぐり抜けるために、 とにかく自分を落ち着けようと魔法瓶から一杯だけ コーヒーを飲みました。           ♂♂  r″            / 一ノ/ ’ヽ・ヤンザソーキートン  ‐、ご’  ミヤンザワーキートンという六十二歳になる医師 がいて、この人は顎関節の治療を専門とし、わかり やすく云うと、アゴがはずれてしまった患者を、な るべくすみやかに元どおりに治す熟練者にして専門 医なのでした。  ミヤンザワーキートンが院長をつとめる〈ミヤン ザワ顎病院〉は大変な人気を誇り、連日、アゴをは ずした老若男女が朝から夕方まで列を成しています。  この異様なまでの需要には秘密がありました。  まずは、アゴをはずしてしまう人が非常に増えた こと。これはもう驚くばかりの数字が〈サワンジリ 統計学会〉から発表されており、五年前は一年に二 千人ほどであったのが、現在はじつに三万人もの人 たちが、日々、アゴをはずしているのでした。  理由はさまざまな説が挙げられていますが、最も 有力なのは、この国に暮らす皆さんが、とてもおい しいものを、とてつもなく沢山、一時に食してしま うからでした。  平たく申し上げれば、どう見積もっても、いっぺ んでは口の中におさまるはずのない大量の五目炒飯 やナポリタンやドライカレーといったものを、はや る気持ちをどうしても抑えられず、一挙に口の中に 放り込もうとします。  その結果、この暴挙に対処すべく、通常のI・五 倍から二倍にまで及ぶ大きさに口がひらかれ、その 不当と云うしかない開口に、アゴの関節が耐えきれ なくなって、はずれてしまうわけです。  無論のこと、はずれたものは元どおりにしなくて はなりません。そして、その道における最高の知識 と技術を持ったドクターがミヤンザワーキートン院 長なのでした。  さらに申し上げれば、〈ミヤンザワ顎病院〉には 他の医院にはない、ある特別な装置が用意されてい ました。これは〈顎関節矯正ベルト〉と呼ばれてい るもので、院長はこの名称の面倒な部分を大いに省 略し、誰にでもわかるよう「ベルト」と簡潔に呼ん でいます。  「わたしは若いころ、青春のすべてを捧げてこのベ ルトを発明したのである。それはひとえに、アゴが はずれて苦しんでいる人たちを、すみやかに救いた いという思いからなのであった」  院長は話をするときに、常に自分の自叙伝を書く ようにして話すのが特徴でした。たとえばI。  「わたしは自分が六十二歳になったとき、わたしの 医院から歩いて二分ほどの距離にある洋菓子店で昔 ながらのエクレアを購入するのが習慣となっていた。 あれはたしか六月二十六日の午後三時ごろのことで あったが、わたしはその日も休憩の時間にエクレア を購入し、濃い目にいれたお茶と共に大変おいしく いただいたのであった」  と、そんなことをほとんど独り言のように、六月 二十六日の午後三時ごろに申し述べ、「では」と医 院を出て、歩いて二分の洋菓子店へ向かうのでした。  いえ、待ってください、そんなことはどうでもい いのです。いまは、院長がおやつとして食したエク レアが、どれほど素晴らしいものであったかはさて おき、院長が青春のすべてを懸けて発明した「ベル 卜」の偉大さをご理解いただきたいのです。  それはもう、大変に驚くべき威力を発揮する人智 の結晶であり、おそろしいばかりにとてつもなく目 ざましい効果をあげる最上の装置です。  一見、幅十センチ、長さ三メートルほどのゴム製 のベルトが、ハンモックを吊るす要領で天井からぶ らさかっているように見えます。実際、ただそれだ けのことなのですが、患者はそのベルトにアゴをの せ、しかるのちに、ベルトは電気の力によって激し く振動を始めます。それ以上のことは何ひとつあり ません。ただ、それだけです。  しかし、この単純きわまりない装置がしつに絶大 な効果を発揮し、わずか三十秒ほどで、見事、はず れたアゴは、元どおりの「はずれていないアゴ」に 戻ります。  「なによリシンプルであることが肝要ではないかと、 わたしはそう思ったのである」  院長は患者の皆さんひとりひとりにそう説明する のでした。なぜなら、医院を訪れてベルトを目にし た人たちは、誰もがその単純きわまりない仕掛けに、 あからさまな不審を示すからです。  「一見、ただのゴムベルトであるように見せかけ、 その実、本当にただのゴムベルトであるという驚き。 これこそ、わたしが皆さんに仕掛けた、いわゆるど んでん返しなのであった」  院長の説明は、もうひとつ何を云っているのかわ かりませんでしたが、とにかくはずれたアゴがすぐ に治るので、患者たちは、皆、大いに満足して、院 長を褒めたたえるのでした。  しかし、院長の人生は、来る囗も来る囗も、アゴ をはずした皆さんのアゴを元に戻すことに終始し、 旅行に行くことはおろか、ぶどう狩りに出かけたり、 野外コンサートを観に行ったり、家電量販店にあた らしいジューサー・ミキサーを買いに行くことすら 許されません。  「青春のみならず、中年期も老年期も含む人生のす べてを、わたしは顎関節の治療に捧げるのであっ た」  ある日の夕刻、治療を終えた診療室で院長は大き なため息をつき、これまでの日々と、のこされた人 生の意味について思いをめぐらせていました。  「いや、やはりこれでいいのだ、とわたしは思った のであったI」  そう結論したときです。急患でしょうか、医院の 呼び鈴を猛烈に鳴らす者がいて、しかし診療時間は 終わっていましたから、助手もナースもすでに帰宅 をして誰もおりません。  「それでわたしは致し方なく医院の玄関まで出向き、 その猛烈に呼び鈴を鳴らす者を自ら出迎えたので あった」  そう云いながら、院長が玄関のドアをあけてみる と、そこに立っていたのは、アゴをはずして苦痛に 顔をゆがめている院長自身でした。  これは一体、どういうことであるのかI。  混乱を来たしそうですから、整理をして簡潔に申 し上げますと、院長はこのとき、もうひとりの自分 を出迎えたのでした。思わぬ事態に、たいていのこ とには動じない院長もさすがに大変驚き、驚きなが らも、ひとつ心当たりがあったのです。  じつを云うと、院長は医院を開いたばかりのまだ 若いころ、自分のくはんぶん〉を医院の外に送り出 していました。来る日も来る日も、エクレアを買い に行く時間を除けば箱の中に閉じ込められたような 毎日を送り、それがどうにも嫌になって、院長の くはんぶん〉は独立した意志をもって箱の外へする りと脱け出したのです。  解放されたくはんぶん〉は、外の自由を謳歌し、 言葉づかいも「自叙伝を書くような」堅苦しいもの ではなく、きわめて奔放な若々しい話しぶりです。  (やあ)とI実際にはアゴがはずれているので明 快な言葉は発せられないのですがI〈はんぶん〉 は数十年ぶりの再会を喜んでいるような、いないよ うな、複雑な表情を見せました。  「そのときわたしは、まずは治療からだ、と云った のでした」  院長はそう云って、〈はんぶん〉を診療室に連れ てゆき、いつもどおリベルトを使ってくはんぶん〉 のアゴをただちに元に戻しました。  「ああ、よかった」とくはんぶん〉は大きく伸びを し、「一時はどうなることかと思っだけど、君がこ の病院をつづけていたので助かったよ」と明るい声 で云いました。  「わたしは、何ひとつ変わらないのだった」  院長がそう云うと、  「そう? こっちは、いろいろあってね」  〈はんぶん〉は意外にも一転して苦渋をあらわす顔 を見せました。  「人生というのはじつに面倒なものだよ。僕はあれ から本当にいろいろな仕事をして、たくさんの人と 出会ったり別れたりI」  〈はんぶん〉はそこで目を閉じました。  「喧嘩もしたし、じつは、殺されかかったこともあ る。親友と云っていい男がいたんだけど、そいつと  一緒に事業を始めて、すごくいい業績をあげた。 びっくりするような大金が転がり込んできて、そこ までは良かったんだけど、そのお金を相棒が丸々持 ち逃げした。絶望したよ。この世でいちばんつらい ことは、信用していた人間に裏切られるということ だ。これは、僕が外での経験で得たいちばんの真実 だと思う」  〈はんぶん〉の目尻に涙がたまっていました。  「僕は人が信じられなくなって街から離れ、山あい の村で自給自足の生活を送ることにした。ところが、 そんなところにまで魔の手は忍び寄ってきて、ある 囗、女が訪ねてきたんだ。すごく優しい人で、生命 保険の人だった。僕にはそんなもの必要ないと云っ たんだけど、結局、彼女のために僕はそれに加入し た。そうしたら、ひと月も経たないうちに、彼女は 若い男を連れてきて、力ずくで僕の家を乗っ取って、 そのうえ食事に毒を盛りI」  〈はんぶん〉は苦笑いをしました。  「結局、僕が彼女を信じたのが、いけなかったI いや、もちろんそんなひどいことばかりじやなく、 楽しいこともあって、最近、行きつけの喫茶店に常 連の仲間ができた。コーヒーにいちばん合うケーキ は何だろうという話になり、それはやっぱリムーン ケーキじやないかということになって、それで、こ のI」  とくはんぶん〉は両手に抱えていた紙袋の中から バスヶツトボール大の自く丸いものを取り出しまし た。  「このムーンヶIキのホールを味見しようというこ とになったんだけど、あまりにおいしそうなので、 つい独り占めしたくなって、それで、ひと口で食べ ようとしたところI」  「君はいま幸せなのか、とわたしはそのときそう 云ったのである」と院長がくはんぶん〉の話を断ち 切るように云いました。  「わからない」とくはんぶん〉は首を振り、「ただ、 自分の欲望が野放しになっているようで、段々こわ くなってきたI」  そう云って目を逸らしました。  すると、院長は何も云わずに天井から吊りさがっ だベルトを外し、  「ふたつに分かれた自分の体をベルトで結んで目を 閉じると、次に目をひらいたときには元どおりのひ とりのわたしになっていたのだった」  そう云って、院長はひとりの自分に戻ったのです。  両手で持っていたムーンケーキを机の上に置き、 体に巻きついたベルトを天井に吊るしなおすと、院 長はケーキを右から左からじっくり眺めました。  「わたしはそれを、正しい食べ方でゆっくり心ゆく まで味わうことにしたのである」  そう云って目を細め、戸棚の奥から、おやつを食 べるときに使うナイフとフォークを取り出してきま した。 ゲレ カマンザの朝食  カマンザは男のような女のひとで、とても怖い思 いをして、ひとりだけ生きのこったのです。  あれから十数年が経ち、いまは町はずれで帽子を つくって生計をたてています。  朝は六時に起き、やかんでお湯を沸かすと、白湯 を一杯だけいただき、それで朝の食事は終わりです。  昼にはくよくできた食パン〉を一枚、赤いジャム を塗っていただきます。  〈よくできた食パン〉というのは、カマンザの家か ら歩いて十五分ほどのところにあるくいいパン屋〉 という名前の店から買ってくるものです。  その店のパンはどれもくよくできたロールパン〉 であるとかくよくできたバゲット〉などと値札に書 いてあるのですが、〈うまくいかなかったクロワッ サン〉という失敗したパンが販売されることもあり、 これはくよくできたパン〉の、じつに四分の一の値 段で店に並ぶのです。  カマンザはいつでもお金がありませんでしたから、 本当はこの失敗したパンを購入したいのです。  しかし、この世の中には同じようなことを考える 者が最低でも二人はいて、この場合においても、二 人の女がカマンザと同じ考えを持っていました。  すなわち、失敗したパンを店に並べる時間に、ど こからともなく風のようにあらわれ、ガラスケース の中にひとつふたつと並べられるのを意地の悪い鷹 のような目を光らせて狙っているのです。  カマンザはいつも出遅れました。  「そろそろいいのではないか」とパン屋へ出向くと、 かならず、鷹の目の女が二人、店内にいて、そこへ、 毎囗くりかえされるお芝居のように店主があらわれ、 悲しげな顔で失敗したパンを並べていきます。  「ああ」と嘆く店主のことなどまるで構うことなく、 鷹の目の女二人は並べられたパンを根こそぎ買い占 め、それで仕方なくカマンザは失敗したパンではな く、〈よくできたパン〉を購入するのでした。  パンは失敗していなくても、カマンザのもくろみ は失敗です。  しかし、このようなことでくよくよしてはいけな い、とカマンザは思います。  毎日、失敗するので、毎日、思います。  なにしろ、自分は生きのこった者であり、このく らいの失敗は何ほどのことであるか、と思うのです。  そうしたある日のこと、カマンザは郵便局で切手 と葉書を選んでいるときに大変なことを聞いてしま  いました。局員の若い女が二人、小さな声でひそひ  そと話をしていたのです。ちょうど風向きの具合が  よかったのでしょう、すぐそばで話しているかのよ  うにカマンザの耳に二人の会話が飛び込んできまし  た。  「ねえ、知ってる? ビバリダイの駅をおりて、し ばらく歩くと、山ぎわの古い家でおいしい朝食が食 べられるって」  「ビバリダイ?」  「貨物列車の駅だそうよ。だから、普通のお客は行 けないんだって。でもね、その朝食は、この世でい ちばんおいしい朝食なんだとかI」  そこまででした。そこで風向きが変わり、あとは カマンザの耳まで届かなかったのです。  カマンザは郵便局の中を見まわし、自分の他には 誰もいないと知って、局員の顔を確認しました。ど うやら、先のひそひそと話す二人しかいないようで す。  カマンザは急いで切手と葉書を買いもとめ、受け 取るときに、いつもより余計に笑顔を返しました。 そうしたくなる何ごとかが胸の奥から、じわじわと 立ち上がってきたのです。  カマンザは家に帰る前に隣町の商店街にある書店 に立ち寄りました。誰にも見つからないよう慎重に 書店の棚を探り、およそ半時間をかけて、ついに見 つけました。  それは『貨物列車時刻表』という表題が付いたと ても小さな薄い本で、薄いわりに二千円もしたので すが、  (これは特殊な本で発行部数も非常に少なく、だか ら値段も高くなっているのだ)  とカマンザなりに解釈をして、迷わず手に入れま した。  一応、家に戻るときは少し遠まわりをし、隣町の 書店でこのようにめすらしい本を買ったことを誰に もさとられないよう注意深く家路を急ぎました。  無事、家に帰り着くと、カマンザは心を落ち着け るべく、果物屋で買ってきた枇杷の皮をていねいに 剥いて食べました。  子供のころからひとりで暮らしてきたカマンザは、 何か気持ちが落ちつかないことがあると、こうして 果物を剥いて食べるのです。自い皿の上にのせ、色 が変わってしまわないうちにすっかり食べ尽くしま した。  食べ終えるとカマンザは深呼吸をひとつして、机 の上をきれいにしてから、『貨物列車時刻表』をひ らきました。  その小さな冊子には、驚くなかれ、この国に走る ありとあらゆる貨物列車の時刻表が青いインクで印 刷されていました。青いインクが少し薄めで、それ ゆえ、いくつかの列車は肝心の時刻がうまく読めな かったり、駅名がところどころかすれたりしていま す。  しかし、カマンザは見つけました。  ビバリダイ。  たしかにその駅は存在し、カマンザの住んでいる 町から十キロほど離れた山あいを走る貨物専用鉄道 の終点でした。  カマンザはもうひとつ深呼吸をしました。  そしてそのとき、誰かがそっとカマンザの背中を 押しだのを感じたのですI。  (これはわたしにとって、あれ以来、初めての冒険 になる)  (もう二度と冒険には出ない、と決めていたのに)  (わたしは女の子なのに男の子にあこがれ、男の子 たちにまじって、あの冒険に出た)  (そして、ただひとり、わたしだけが帰ってきた I)  時刻表によると、ビバリダイに向かう貨物列車が 始発駅のマエジマを出発するのは毎週木曜日の午前 四時十五分でした。  カマンザはコーヒーをいれた水筒と、昼間のうち につくっておいた赤いジャムを塗ったパンをリュッ クサックにしまい込み、時計が午前三時になると、 自転車に乗ってマエジマ駅を目指しました。  空には切り落とした爪のような細い月が出ていま す。  マエジマ駅は初めて行く駅でした。地図で何度も 確かめたのですが、おそらく一時間はかかる距離で す。夜が明ける前ですし、大きな川を渡って、込み 入った迷路のような街区を通り抜け、最後に植物園 と映画撮影所の広大な敷地を迂同しなければなりま せん。  カマンザはこれまで自転車で一時間も走りつづけ た経験がなく、途中どこかで休憩を取ろうと考えて いたのですが、夜のあまりの暗さに、思い出したく ないことが甦ってきそうで、何度か地図を確かめな がら、休まずに走りつづけました。  そうしてマエジマ駅に着いだのは貨物列車が発車 するしつに五分前でした。  この列車は云うまでもなく貨物を運ぶためのもの であって人間が乗るものではありません。それゆえ、 乗車券は用意されておらず、それでも強引に乗車し たい者は飛び乗るよりはかないのです。カマンザも 無論のこと他に選択肢がなく、躊躇する間もなく、 身をおどらせて飛び乗りました。  正確に云うと、たまたま鍵のかかっていなかった 貨物車両のドアを力まかせにひらき、ひどくカビく さい上に灯りひとつない暗い車内に潜り込むように 乗車しました。  このとき、カマンザはいま一度あたりを見まわし、 鷹の目の女たちがいないことを確認するのを忘れま せんでした。  飛び乗って間もなく列車は発車し、その荒々しい 走行にカマンザは頭を抱えて、  (どうして、こんなことをしてしまったのだろう)  と自分に問いかけました。  しかし、答えは見つかりません。  ひとつだけ、わかっていることがありました。  自分で答えられない問いがあるということが、カ マンザを前へ進ませる唯一の力なのですI。  カマンザは貨物車のドアをニセンチメートルほど ひらき、その隙間からか細い月を見上げて、水筒の コーヒーを飲みました。気持ちが急いていたからで しょう、コーヒーはいつもよりずっと苦く感じられ ました。  到着したのはこの世の果てのような静かで何もな いところです。  カマンザは貨物列車の乗務員に見つからないよう 素早く下車し、線路脇の草むらに駆け込むと、あと は後ろを見ずにひたすら走りました。  時刻は六時三十分。すっかり朝でした。  木立の向こうに朝陽を浴びた野山が見え、鳥のさ えずりは盛んに聞こえても、人の姿はまるで見当た りません。  もっとも、運良く誰かに出くわしたとしても、カ マンザは口をきくことができませんから、郵便局で 耳にした「この世でいちばんおいしい」朝食をどこ で食べさせてくれるのか尋ねることは叶いません。  (いえ、そうじゃない)  カマンザは首を振りました。  (紙に書いて訊けばいいI)  こうしたときのために、カマンザはリュックの中 に自い紙の束とボールペンを常備していました。こ こぞとばかりに勇んで取り出したところ、ふいに指 先から紙がすべり落ち、風にあおられたのか、足も とから生きもののように走り出しました。  (あっ)  カマンザは紙きれを追いかけ、さて、どれほど 走ったでしょう。  突然、紙きれは地べたにへばりついて動かなくな り、しゃがんで拾って顔を上げると、眼前に古びた 大きな屋敷があらわれたのです。  風がひと吹きし、どこかしら気味の悪い心持ちが しました。その一方で、自分は長いあいだここへ来 たかった、ようやくたどり着いたのだ、と心から安 堵する思いが胸の真ん中にじんわりと灯りました。  玄関はあらかじめひらかれています。あたかも、 「どうぞ中へお入りなさい」と誰かが云っているよ うで、  (ここまで来て迷っても仕方がない)  カマンザは見えない何ものかに誘われるまま屋敷 に足を踏み入れました。  いい匂いがしています。  何かとても温かい、甘みを孕んだ大いに食欲を刺 激する匂いです。  カマンザは匂いをもとめて屋敷の中をさまよい、 やがて、いちばん奥のひときわ大きな引き戸をひら きました。  中は二十畳ほどの広間で、その真ん中にひとつき り置かれた黒光りのする座卓のかたわらに、もう若 くはない、しかし老人とも云えないひとりの女がカ マンザを待ちかねたように座していました。 「どうぞ、こちらへ」  しきりにカマンザを手招いています。  カマンザは向かい合わせで女の前に座り、(あの) と声をかけたかったのですが、やはり声が出ません。  「いいのです」と女は云いました。「わかっていま すよ」と優しく頷いています。  「よく、ここまで来ましたね。とても長い夜だった でしょう」  カマンザは女の言葉にどうしてか涙があふれてき ました。  「もう心配はいりません。もう長い夜は終わったの です。あなたはこれからI」  女はカマンザの目を見て云いました。  「これから、ゆっくり温かい朝食をいただくので す」 (ナナ会議心皿づ  どんなふうにバナナを食べるかという話になった わけです。  「それはもう、それぞれでしょう」といちばん賢い 猿が云いました。  「いや、だからね」といちばん若い猿が手をあげま す。「それはそうなんだけど、一度、話し合ってみ るっていうか、バナナに対してどんな思いを抱いて いるか、そのあたりも含めて意見を交換してもいい んじゃないかな、と」  「バナナはバナナだよ」といちばん性格の明るい猿 が云いました。「甘くてやわらかくてすごく旨い。 皮もむきやすいしね」  「そういうことじゃないんだろ」といちばん性格の 暗い猿がつまらなそうに云いました。「自分にとっ てバナナとは何か、とかそういうことだよな?」  「まあ、そう」と若猿。  「だからさ」と明猿。「甘くてやわらかくてすごく 旨い。皮もむきやすいしね。ぼくにとつてバナナは そういうものだよ」  「そういう話じゃないだろ」と暗猿。「たとえばさ I」  「たとえば?」と若猿。  「いや、わかんないけど」と暗猿。  「じゃあ、訊くけどねI」  賢猿が森の方を見ながら云いました。  「はたして、バナナはわれわれにとつて、なくては ならないものなんだろうか?」  「なくてはならないね」と明猿。  「ふうむ」と若猿。「ぼくはまあ、そこまでのもの とは思っていないけどI」  「ああ、そうだな」と暗猿が同意しました。「本当 に必要なものなんて、この世に存在しないよ」  「でもさ」と明猿。「バナナを食べないと、ぼくら は生きていけないわけだし」  「本当にそうなのかな?」と暗猿。「バナナ以外の ものを食べればいいんじやないか?」  「たとえば?」と賢猿。   そこで一同は口をとざしてしまいましたI。   この森で長らく猿生をおくってきた彼らは、バナ ナ以外のものを食べたことがなく、皆、この森に生 まれてからずっとバナナだけを食べて生きてきたの です。  「可能性はあるんじやないかな?」と若猿。  「たとえば?」と、いまいちど賢猿。  「そうI」と若猿はしばらく考えてから云いまし た。「コケモモとかさ」  「ちょっと待って、あんな赤いものを食べるのか い?」明猿が目を見張って云いました。「ぞっとし ないね。それにコケモモの実はひと粒が小さいから、 たくさん食べないと腹がふくれない。採集するのも 時間がかかるし、すごく面倒だよ。そこへ行くと、 バナナはもぎとりやすいし、一本食べれば、腹持ち がいいからしばらくしのげる」  「じやあ、林檎はどうかな?」と若猿。  「おい」と暗猿が歯をむいて若猿をにらみつけまし た。「君はいまの話を聞いていなかったのか? ぼ くらは赤いものを食べるのに恐れを抱いているんだ よ」  「いや、問題はまさにそこなんだな」と賢猿が静か に云いました。「これは私の憶測だけどね、どうも 赤いものっていうのが、ああ見えて、じつはとんで もなく美味しいものなんじやないかと思うんだ」  「そうかな?」と明猿。「ぼくはそう思わない。と いうか、赤いものが美味しいというのは、もし、仮 にそれが本当だったとしても、じつは、われわれを 欺く罠なんじやないかと思ってる」  「というと?」と賢猿。  「だってね、怪我をしたら血が出るだろう? 血は 赤いよね。あれはつまり、危険だぞって、いちばん 鮮やかな色で教えてくれているんだよ」  「誰が?」  「誰かってI神様かな」  「いや、ぼくはね」と若猿が賢猿と明猿のあいだに 割ってはいりました。「ぼくが赤いものに懐疑的な のはねI」  「あれ? 君も懐疑的なんだっけ?」と暗猿。  「そうだね。ぼくが思うに、赤いといえば、僕らの 尻だよ。熟れた桃を見てごらん。まったくわれわれ の尻そのものじやないか。いくら旨いからといって、 尻によく似たものを口にするのはぼくのプライドが 許さない」  「なるほど」と賢猿。「それは説得力がある」  「そう云う君はどう考えているんだ? なぜ、赤い ものが美味しいんじやないかと思ったんだ?」  暗猿が目を細めて賢猿を問い質しました。  「いや、多くの果実が最初は自や黄色や緑だったの に、いつのまにか、みるみる赤くなってゆくだろ う? あれを私は成熟と見ているんだよ。子供が大 人になるのと同じでI」  「ほう?」と暗猿。「じやあ、君は子供より大人の 方が味がいいと云いたいんだ?」  「まあ、そういうことになるかな」  「じつに君らしい考え方だよ。若はどう思う?」  「ぼくはもちろん若々しいのがいちばんだと思うね。 バナナもさ、ちよつとまだ若くて青いやつ、あれが いちばん美味しいよ。熟れすぎたバナナは、なんと いうか、接着剤みたいな鼻につんとくる感じがあ る」  「ほう?」と暗猿。「君は接着剤を食べたことがあ るのか」  「昔ね。それこそ子供のころ。街へ出たときに、ゴ ミ捨て場にころかっているのを見つけてI」  「まさか、君はあんなものに噛じりついたのか」  「いや、子供のころの話だよ? 子供のころは何で も食べちやうじやない?」  「いや、おれば子供のころからバナナしか食べたこ とがないぞ」暗猿が毅然として云い放ちました。 「うちは親父がきびしかったから、そのへんにころ かっているものは決して食べてはいかんつて、こっ ひどく云われて育ったI」  「ああ」と若猿。「ぼくは物心ついたときにはもう 親がいなかったからさ、そこんところは自由にして る。というか、ぼくのような自由な猿こそが次の可 能性を見出すんじやないかと思ってる」  「ほう」と暗猿。「それじやあ、おれにはまるで可 能性がないみたいじやないか」  「そうだね」と若猿。「悪いけど、一理あるかもし れない。思うに、食べることは冒険のひとつでさ、 動物に冒険はつきものなんだよ。だから、あたらし いものにチャレンジするのは悪いことじゃないと思 う。ただね、赤いものは、なにしろぼくらの尻の色 だからI」  「そう考えるとさ」と明猿。「やっぱリバナナつて すごいよね。たいていの果物は赤くなっていくのに、 バナナは中身も皮も黄色いままだもの。安定してる よ」  「そうだよ」と暗猿。「親父がよく云ってた。バナ ナくらいいいものはないぞって。とにかくバナナさ え食っていれば何とかなるって」  「そう」と若猿。「栄養もあるしさ、カリウムが豊 富でI」  「カリウム?」と皆が一斉に若猿の顔に視線を集め ました。  「あれ?」と若猿。「カリウム、知らない? この あいたの三日月の夜に街に出たときにね、ちょっと 人間の家の中を窓の外から覗いてみたら、居間って 云うのかな? テレビが置いてあって、テーブルの 上には飲みかけのコーヒーが置いてあって、家のひ とは誰もいなかったんだけど、テレビがつけっぱな しでさ、よくわからないけど、どうやら、何か体に よくて、何か体によくないかみたいなことを、すご く頭のよさそうな人間の男のひとがIテレビの中 のひとがね、ぼくの方を見て丁寧に説明してくれた んだよ」  「君の方を見て?」と明猿。  「そう。あれは明らかにぼくに話しかけていたと思 うね。たってさI」  一同は若猿の言葉にじっと聞き入っていました。  「だって、そのひとはバナナの効用について話して くれたんだから」  「本当に?」と明猿。  「偶然だろ」と暗猿。  「いや、偶然だとしても、それはすごくいい偶然 たったね」と賢猿。  「だよね」と若猿。「だから、耳をすましてさ、そ の男のひとが話していることを懸命に記憶しようと がんばったんだけどね、覚えるそばから半分くらい は忘れてしまってI」  「ああ、残念」と明猿。  「しょせん猿だからな」と暗猿。  「いや、しかし、半分だけでも記憶しているなら大 したものだ」と賢猿。「で、カリウムつていうのは、 どういうものなんだろう? バナナの中に含まれて いる?」  「そうみたい」と若猿。「カリウムを摂取すると、 血圧が安定したり細胞が安定するとか云ってた」  「あ、それ、聞いたことある」と明猿。「森のはず れのIあの自い毛の先生」  「医猿だろ」と暗猿。  「そうそう、あの先生が云ってた。われわれが健康 を維持できているのは、バナナを食べることで血圧 と細胞の状態を維持しているからだって」  「すごいな」と暗猿。「もしかして、バナナばっか り食べているおれたちって、怖いものなしなんじや ないか?」  「うん」と若猿。  しかし、その「うん」がどことなく歯切れが悪く、 何やら云いにくいことを後ろ手に隠しているような 印象がありました。  「おや?」と賢猿が気づきました。「何かまだある んだね」  「うん」と若猿。「じつは、その男のひとが云って たんだけど、バナナはカロリーがそれなりにあるか ら、一日に何本も食べたりすると肥満につながるお それがあるって」  「え?」と明猿、暗猿、賢猿が揃って声をあげまし た。  「一日に一本、せいぜい二本が適量だってその男の ひとは云ってた」  「ちょっと待って」と明猿は衝撃を隠しきれず、寒 気におそわれたように唇を震わせていました。「ぼ くはIあのI最低でも一日にIそうだなI 二十本くらいは食べているんだけど」  「おれは、毎日二十三本と決めている」と暗猿。  「私も十五本は確実だな」と賢猿。  「肥満か」と暗猿。「それだけは勘弁してほしいね。 親父がよく云ってたんだよ。猿が木から落ちるよう になったらもうおしまいだって。だから、とにかく 肥満だけには気をつけろって」  「運動がいいらしいよ」と若猿。  「そうなんだ?」と明猿。「でも、運動って?」  「ジグザグ飛びがいいんじやないかな」と若猿。  「ああ、あれはきついよね」と明猿。  ジグザグ飛びというのは、樹木の枝から枝へ飛び 移って移動していく際に、まっすぐではなく、あえ てジグザグに飛ぶことで追走者を攪乱する技なので す。  「あれはきついけど、あれをやったあとは、ものす ごくお腹がすいてI」  「そうそう」と若猿。  「いつもに増してバナナが旨い」と暗猿。  「そうそう」と若猿。  「つい食べすぎて、いつもは十五本なのに、二十本 は軽くいける」と賢猿。 「旨いんだよなあ、ジグザグ飛びのあとのバナナつ てI」と一同。  「考えただけでもお腹が鳴ってくるね」と明猿。  「よし」と若猿。「では、そろそろ行こうか」  はやる思いをおさえながら一同はうなずき合い、 次の瞬間、素早く身をひるがえすと、一目散に森を 目指しました。 口叫 戸】二 世外の火てのコインランドリー  本当を云うと、この世界に「果て」と呼んでいい ところがあるとは思えないのです。ですが、そのコ インランドリーがある場所へ行ってみますと、そこ が間違いなく世界の果てであり、コインランドリー の先にひろがる風景は、この世界の外であると感じ られます。  もう少していねいに説明をしますと、そこから先 にはもう電線が来ておりません。コインランドリー に供給されている電線がこの界隈の最後の電線で、 それも何か非常にくたびれた電線なのでありました。  いちおう、そのあたりは町のはずれであり、電信 柱もしっかりと立っているわけですが、道路はコン クリートがあちらこちらでひび割れ、どこから運ば れてきたのか、石ころや塵芥といったものが堆積し ております。  塵芥から雑草が生えて自い花を咲かせ、ときおり 吹いてくる風の力に耐えて、どうにかそこに留まっ ている次第です。  人の気配は感じられません。  これでも昔はそれなりの数の住民がいたのです。 ついこのあいだのような気がいたしますが、数えて みますと、すでに五年か六年か七年か八年ほどは 経っているかもしれません。  そのころの町はにぎやかで、商店なども繁盛して、 いろどり豊かなものが町を輝かせていました。  でも、ここから数キロはなれたところにつくられ た〈ニュータウン〉に、皆さん、行ってしまわれた 〈ニュータウン〉は、それはそれは、いいところで、 なにしろ、便利なのであります。買いたいものや食 べたいものがすべて揃っていて、そこに住んでいれ ばI生なにも困らない。そういう大きな船のような 町があらわれ、皆こぞって、そちらへ移り住んでし まったわけです。  では、いまこの世界の果てにあるコインランド リーは誰も利用していないのか、営業していないの か、下着や服やタオルを洗うことはできないのか −そう思われるかもしれません。  しかし、そうではないのです。このランドリーは 電気も供給され、たった一台だけではありますが、 マシーンも普通に動いて、洗濯と乾燥のセット料金 は二百円ということになっております。  とはいえ、誰も住んでいないところにそのような 機械があっても仕方がないではないか、と思われる かもしれません。  たしかに誰も住んでいなければそのとおりです。  ところが、ただひとり、この界隈に住んでいる男 がいて、彼はいつからか「トカゲ男」と呼ばれるよ うになって、いまはもうすっかリトカゲ男そのもの でした。  似ていたのですI。  のんびりぼんやりとした善良な生きものであると ころの、あのトカゲに。  風貌であるとか、体の動かし方であるとか、誰か が「トカゲ男だ」と云い出したら、それ以外のなに ものでもないということになり、彼自身も、それは 納得のいくところで、ちょうどそのころ彼は有名な 懸賞に応募をして、見事、「一生分のインスタン トーカレーライス」に当選したのでした。  これは決して宣伝文句だけではなく、この先、彼 の人生がつづく限りIもう少していねいに説明を しますと、インスタントーカレーライス会社に彼の 死亡報告書が届けられるまで、毎月、百食分のイン スタントーカレーライスが彼のアパートに送られて くるのです。  彼の父親はそのアパートの大家であり、いまはも うこの界隈に父親はいないのですが、代わりにトカ ゲ男が大家をつとめているのでした。ただし、もう 五年か六年か七年か八年ほど前から誰もいなくなっ てしまったわけですから、アパートにはトカゲ男だ けしか住んでおりません。  つまり、彼は食う寝るところに困ることはなく、 そのうえ、父親の銀行口座から、ある程度の金額が トカゲ男の口座に振り込まれているので、あくせく 働いて、お金を稼ぐ必要がないのです。  それで彼は、アパートのI階のいちばんひんやり とした一角を選び、そこに、いまやほとんどトカゲ そのものと化した自らの体を横たえていました。  「おうふ」  と、ため息をついて一日が終わることもあり、好 きな詩集をゆっくり繰り返し読んで一日が終わるこ ともあります。  しかし、いくら自分の他に誰もいないからと云っ て、ただ怠惰にだらしなく過ごすことをトカゲ男は よしとしません。彼は常に清潔であることを好み、 掃除や洗濯といったものを欠かさないのでした。  洗濯というのは、寝床のシーツや枕カバーである とか、あるいは、自身が身につけているシャツやズ ボンを洗うことを意味しています。トカゲなのだか ら、服など着ないで裸で過ごしたらいいじゃないか、 とおっしゃる方もいるでしょうが、  (自分はトカゲ男ではあるけれど、本物のトカゲで はないのだから服は着ます)  彼は胸のうちにそうつぶやくのでした。  しかし、彼が長いあいた愛用してきた洗濯機が壊 れてしまったのです。  それはスター印の大変に古い洗濯機でありました が、トカゲ男にとって洗濯機はその機種以外に考え られず、どうにか直して使いつづけたいと願ってお りました。  ところが、町にはもう電器店というものがないの です。それに、もし電器店が健在であったとしても、 スター印の洗濯機を製造していた会社が倒産してし まったので、壊れた部品を取り替えることは不可能 でした。  「おうふ」  そうした事情があって、トカゲ男は世界の果ての コインランドリーに通うことになったのです。  コインランドリー。  そのように便利なものがこの世にあることをトカ ゲ男は知らずに生きてきたのですが、  (たぶん、あそこに行けば洗濯機がある)  直感でそう思いました。  しかし、はじめてコインランドリーを訪れたとき、 それはまさに「世界の果て」にふさわしいほど朽ち 果てているように見えました。窓ガラスにはひびが はいり、ほとんど物置のような簡素な建物は全体が 右に傾いていました。  トカゲ男は慎重な性格でしたから、まずは窓から 覗き込んで中の様子を確認してみました。  すると、中は予想に反してトカゲ男が好む清潔感 が保たれており、何より驚いたことに、そのコイン ランドリーにたった一台置かれていた洗濯機は、他 でもないあのスター印の洗濯機だったのです。 「トカゲ男?」  コインランドリー管理事務所の所長は眉をあげて マエソノの顔を見なおしました。  「何をふざけたことを云ってるんだ? あの町の住 民は、皆、〈ニュータウン〉に移住したんだぞ? もう誰も住んでいない。だから、あそこのコインラ ンドリーは廃止すると云っただろう? どうして、 メンテナンスをつづけている?」  「ええ、ですから、あそこにはまだトカゲ男さんが 住んでいてI」  マエソノがそう云いますと、所長はものすごい剣 幕で、  「なんでもいいから、即刻、撤去しろ」  事務所の机を拳でゴンゴン叩きました。  「上からきびしく云われてるんだ。あのあたりは、 いずれ〈第ニニュータウン〉として開発される」  「そうなんですかI」  「もう決まったことなんだよ」  マエソノは「わかりました」と小さな声で答える と、肩を落として事務所をあとにしました。彼は栄 養の足りていないひよろりとした青年で、この仕事 を始めて、まだ間がないのです。  以前は、インスタントーカレーライス会社の事務 を担当しておりました。その会社では、毎年、応募 者の中から一名を選んで、「一生分のインスタン トーカレーライス」をプレゼントしていたのですが、 その企画の担当者がマエソノなのでした。  マエソノには覚えがあったのですI。  二年前の当選者の名前が自分と同じマエソノで、 名前のあとに括弧でくくって(トカゲ男)と書いて ありました。住所はサルスベリ町とあり、聞きなれ ない町名だったので、マエソノは地図をひらいて確 かめてみたのです。  すると、まったく小さな町ではありましたけれど、 サルスベリ町は確かに存在し、となると、トカゲ男 という名前もあながち冗談ではないのかもしれない、 とマエソノは自分だけの空想にひたりました。  マエソノは子供のころから夢見がちな少年で、医 者に診てもらったこともあるくらいなのです。症状 はいろいろあるのですが、省略して申し上げれば、 ようするに頭の中に描かれる世界を本当のことであ るかのように思い込んでしまうのです。  「コーヒーを飲みなさい」  マエソノのかかりつけの医者はそう云いました。 このドクターというのが、「おれはもう医者をやめ たい」が口癖で。  「すぐにでもやめて、あとは南の国で暮らしたい よ」  遠い目になって、たびたびそう云うのです。  すでにもう白衣は着用しておらず、心は南の島に ありましたから、ヤシの木があしらわれた派手な色 のアロ(シャツを着ていました。  「みんな、どうかしてるよ。こんな寒々しい国で暮 らすなんて」  そういうおかしなことを云うドクターなので、 「コーヒーを飲みなさい」という処方が正しいもの であるかどうかは大いに疑わしいわけです。  しかし、マエソノはきわめて礼儀正しい青年で、 ドクターに丁重に礼を云うと、次の囗からさっそく コーヒーを飲む習慣を自らに課しました。  これにはしかし、ちょっとしたからくりがあった のです。  アロ(Iドクターの医院の隣がコーヒ上豆を焙煎 して販売する店になっており、その店のヒゲの店主 とドクターは「一人二役ではないか」と近隣の人た ちは噂しておりました。  しかし、ドクターはそうした人たちに対しても、  「何を寝ぼけたことを云っているんだ。コーヒーで も飲んでしやっきりしなさい」  と診断を下すのでした。  マエソノはインスタントーカレーライス会社の事 務を辞め、コインランドリー管理事務所で働くよう になったときに、自分がメンテナンスを担当してい る地区のひとつにサルスベリ町があるのを発見しま した。  実際にメンテナンスに行ってみると、町はおそろ しいほどの静寂に包まれ、頭の上を雲が流れてゆく 音だけが聞こえてくるようです。コインランドリー のまわりには雑草が生い茂り、自い小さな花が風に 吹かれて咲いていました。その花と呼び合うように、 空の上のいちばん高いところに自い昼間の月が出て います。  マエソノはいつも携帯しているブラックの缶コー ヒーを作業着のポケットから取り出し、プルタブを 引き起こすと、口をつけるなり顔をしかめました。  マエソノはじつを云うと、コーヒーが好きではな いのです。しかし、かかりつけのドクターが云うの ですから、無視するわけには参りません。  マエソノは軽く頭を振ってランドリーの中にはい りました。  しんとしています。  すべてが綺麗に整えられ、一見、誰かが使用した 形跡はありません。  しかし、マエソノは見つけました。  洗濯機のスタートボタンのあたりに白い小さな紙 片がテープでとめてあり、  「いつも、ご苦労さまです。 トカゲ男」  とボールペンで書いてありました。    乱  Aブりい 鳴らないオルゴール う  むかしの話で恐縮なのですが、街からずいぷんと 離れた小さな村のはずれに、タクトという名の男が 住んでおりました。この男、生まれながらの人間嫌 いで、なるべく、人の住んでいない静かなところで 暮らすことを望んでおりました。  職業はオルゴールを直す仕事で、毎日、ゴツゴツ とつづけるのが自分の性格に合っていましたし、何 より静かな環境を必要とする仕事であるのが気に 入っていたのです。  オルゴールを直してほしいという依頼は、毎月 ちょうどよくありました。彼のようにオルゴールだ けを専門としている修理屋が他にいなかったからで しょう。  隣村から、「直してほしい」とはるばる訪ねてく る者もありましたし、聞いたこともない遠いところ から郵便で送られてくることもありました。  包みをひらくと壊れたオルゴールがあらわれ、 「あなたのような人は大変めすらしい。オルゴール だけを直しつづけているとは、なんと素晴らしいこ とでしょう」と心のこもった手紙が添えられている こともありました。  しかし、タクトは遠くからわざわざやってきた客 人に対しても、心のこもった励ましの手紙をくれる ような人に対しても、本当の意味で心をひらくこと はありませんでした。  「そうですか」「わかりました」「一週間で直しま す」「ありがとう」  話す言葉はその程度で、なにしろ、静かであるこ とを第一に望んでいましたから、彼にとっては、自 分の話す声もまた静けさの妨げとなるのです。  このような彼でありましたが、ただ一人だけ、一 緒にいると気持ちが落ち着く女性がいて、その人は ミントという名前で、彼女もまたタクトにオルゴー ルの修理を依頼していました。  ただ、どうしたことでしょう、大抵のオルゴール は一週間もあれば直してしまうのに、ミントのオル ゴールだけはいっこうに直らないのです。他のオル ゴールを直しながら、夜の一番静かな時間にミント のオルゴールを直す作業をつづけていたのですが、 どうしても直りません。直らないということは、つ まり音が出ないということです。  タクトは毎晩、腕を組んで、どうして直らないの かと考えました。  直せないはずはない。ということは、直そうとい う意志が自分にないのか。どうしてだろう? どう して、直したくない?  それはもしかして、直してしまったら、それきり 彼女に会えなくなってしまうからではないかIそ んな気がしました。いえ、きっとそうです。  しかし、そんなことではよくないのです。  彼はあまりに考えすぎて、考えることに疲れてし まうと、コーヒーをいれてパンを焼きなおし、黒い 木べらで黄色い粒入りマスタードを塗って食べまし た。  タクトはそのマスタードを塗ったパンが何よりの 好物なのです。それさえ食べていれば他のものは必 要なく、実際、来る囗も来る囗もマスタードを塗っ たパンだけを食べつづけてきました。朝も昼も夜も です。  ミントは一週間に一度、歩いて三十分ほど離れた 自分の家からタクトの様子を見にきていましたが、 自分のオルゴールはいつまでたっても直らず、その うえ、タクトは無口でほとんど物を云いません。け れども、ミントもまたタクトの仕事部屋で静かな時 間を過ごしていると、どういうものか妙に心が落ち 着いてくるのでした。何かどうと訊かれても答えら れませんが、どことなく、彼に魅かれるところがあ るのです。  ただ、彼が常にマスタードを塗ったパンだけを食 べていることは感心しませんでした。それでミント は、一週間に一度、タクトの小屋を訪ね、自分の畑 で収穫した野菜を酢漬けにしたものと、街から売り にくる一番安い骨付き(ムを持参するのです。  「同じものばかりじゃなく、いろいろなものを食べ ないと体によくないです」  ミントが静かな声でそう云うと、タクトは「わか りました」と素直に頷き、その囗ばかりはマスター ドを塗ったパンの上に(ムをのせて食し、小皿に 盛った野菜の酢漬けをおいしくいただきます。かな らず、ミントも一緒に同じものを食べ、ひとまずは 「よかった」と彼女はそう思うのでしたが、毎週毎 週、同じものを食べていると、さすがに飽きてくる のでした。 「他のものを食べてみたいと思わないのですか?」  タクトにそう訊いてみると、彼は首を横に振り、 「ぼくはこれで充分なのです」  小さな声でそう答えるのみでした。  ミントはタクトよりも幾分か街に近いところに住 んでおりましたが、彼女もやはり長いあいだ独り住 まいで、生計をたてるために小さな布を縫い合わせ る仕事をしていました。「小さな布」というのは、 街にほど近い工場でつくられている大きな布の余り もので、ときどき、工場へ出かけてわけてもらうの です。それは色も模様も手触りも違うさまざまな布 きれでした。  「パッチワーク」と世間ではそう呼んでいるようで したが、ミントは独自な考えのもとに自由にその布 きれを縫い合わせ、テーブルの敷物やエプロンや シャツといったものを思いつくままつくっていまし た。  最初はまるで売れなかったのです。しかしあると き、遠いところから一人の男がミントを訪ねてきて、 「あなたのつくるものは、じつに見事です」と称賛 したのでした。  「ついては、定期的に買い取りたいのです」  素性を訊くと、男はフェザーという名の旅商人で、 以来、フェザーは月に一度、ロバをひいてミントの 家を訪ね、まとめて買い取ったものを遠い街の洋品 店で販売するようになりました。  フェザーとしては、それが大して儲けにならない ということは承知していたのです。ですが、ミント のつくるものを世の中に広めたいという思いがあり ました。  「あなたのような人が、このようにさみしいところ で暮らしているのはどうしてなのでしょう?」  フェザーは何度目かの買い付けの際にミントにそ う云いました。  「いえ、わたしはちっともさみしくなんかありませ んI」  ミントはそう答えながら、フェザーが着ている色 鮮やかなジャケットや、腕に巻いた飾りものや、い かにも質の良さそうなツイードの帽子に見入ってい ました。  「どうです?」とフェザーがすかさず云いました。 「私と一緒に街へ引っ越しませんか。じつを云うと、 私もそろそろ旅をしながら商うのをやめて、街なか に自分の店を持ちたいと思っているのです。もし、 その店であなたのつくるものを常備できたら、間違 いなく繁盛すると思うのです」  「街ですかI」とミントは遠い目になりました。  「ええ、街にはなんでもありますよ。最新式のテレ ビや自動洗濯機や部屋の空気を整える機械まで。そ れに、おいしいものが毎日食べられるんですIそ うだ、今日はいつものお礼にと思って、ちょっとし たおみやげがあるんです。まさに街で仕入れたもの なんですがI」  そう云ってフェザーは荷車に積んだ氷室から肉の かたまりを持ち出してきました。  「今夜はこれをステーキにしたらどうですか。その 味が街の味です。いいですね? この次までに私の 提案について考えておいてください。よい答えを 待っています」  そう云って、フェザーは街へ戻っていきました。  (ああ)とミントはため息をつきました。(街での 生活。華やかで、快適で、にぎやかな街の生活 −)  彼女はその夜、うまく仕事がこなせませんでした。 同じ布を二つも三つも繋げてしまったり、針で指先 を突いてしまったり。  (そうだ、わたしはきっとお腹が空いているんだ。 それで、どうかしているのよ)  ミントはフェザーが置いていった肉のかたまりを 切り分け、分厚いひときれをフライパンにのせて焼 きました。そんなご馳走はいつ以来でしょう。初め て自分のテーブルクロスが売れたときに小さな鹿肉 のステーキを食べて以来かもしれません。  しかし、フェザーが街から持ってきたその肉は 「忘れられない味」と思っていた鹿肉のステーキの 何倍も何十倍もおいしいものでした。このようなも のがこの世の中に存在していたのに、それをいまま で知らずに生きてきた。はたして、それでいいのだ ろうかIミントは初めてそんなことを考えました。  その翌日、ミントはタクトの様子を見に行く日に なっていました。しかし、じつを云えば、いつから か期待はしていないのです。今日こそ、オルゴール が直っているのではないかと、以前はタクトの小屋 を目指すときに小走りになったこともあるのですが、 そうした期待はもうしないようになっていました。  もっと云うと、直らなくてもいいとすら思ってい たのです。本当にオルゴールの音色を耳にしたいの なら、街へ出てあたらしいオルゴールを買えばいい のですI。  案の定、その囗もオルゴールは直っていませんで した。  「申し訳ないです」とタクトは頭を下げ、「でも、 かならず直ると思うので、もう少しだけ時間がほし いのです」と頭を下げたままそう云いました。口数 の少ないタクトが、そんなふうに話をつづけるのは 稀なことでしたが、「ええ」とミントはタクトから 視線を外し、「わたし、あのI」と目を伏せて口 ごもりました。  「もう少しだと思うんです」  「ええ、きっとそうなんでしようね。でも、わたし、 今日はそのIオルゴールを引き取りにきたんで す」  「ちょっと待ってください」タクトはあきらかに動 揺していました。と同時に作業台の上に乗せられて いたミントのオルゴールを両手で抱えると、胸の中 に抱きしめるようにして、「もう少し待ってくださ い」と最後の力を振り絞るようにして云いました。  二人は黙って向き合っていました。静かであるこ とを望んだ二人であっだのに、その静けさが、とて もおそろしく長く感じられました。  「お腹が空きましたね」とミントが云いました。 「食事をしましようか」  「すみません」タクトの声はひどく掠れていました。 「またいつものI」  「わたし、あれが好きです。マスタードを塗っただ けのパン。正直に云うと、少し飽きたときもあった けれど、どうしてだか、少し経つとまた食べたくな るI」  「本当ですか」  タクトが自分でも驚くばかりの大きな声をあげた とき、ふいに抱えていたオルゴールが震え出し、ほ とんど聴きとれないほど小さな音で、かすかな旋律 を響かせました。  二人は立ち尽くしたまま、その小さな音に耳を澄 ましていました。 空から祐ちてきた男   纈」」」  母親がいなくなってから、彼女は父親とまともに 話をすることがなくなっていました。そう思えば、 母は父と自分の仲を取り持つ存在であったのだとい まさらなからに感じ入り、その存在の欠落はなかな か埋められないとイチゴ牛乳を飲みながら窓の外を 眺めました。  彼女は毎朝、学校へ行く前に父親と二人でその簡 易食堂に寄ります。  (ムとチーズとレタスをはさんだサンドイッチを 食べ、決まって一緒にイチゴ牛乳を飲むのがならわ しでした。  学校というのは服飾を学ぶところで、いずれイタ リアにでも行って、ファッションに関わる仕事に就 くのを目標にしていました。  彼女が身につけているものはいちいち派手で、そ のにぎやかな色あいの服を彼女はアルバイトで得た お金で購入していました。  しかし、そうすると、イタリアに行くための資金 がなかなか貯まりません。それで彼女は、ときどき お金を払わずに店から勝手に服を持ってきてしまう ことがありました。それはもちろんいけないことで す。犯罪でした。見つかったら、父親が激怒するこ とは間違いありません。  父親は大変に強面なのです。もし、自分の父親で なかったとしてもIいえ、父親でなければなおさ らですがI激怒した顔に恐れをなして震え上がる でしょう。   父親は口数が少なく、常にこの世に対して恨みを 持っているような様子でした。  実際、彼は(つまらん、つまらん)と胸のうちに 常につぶやき、娘が生まれる前からIいやそれど ころか、妻と知り合う前からゴム手袋の工場で働い ていました。  「ゴム手袋?」と彼の仕事を聞いた人は必ず確かめ ます。  「ゴム手袋って、あのゴム手袋?」  (他にどんなゴム手袋があるんだ)−彼は胸のう ちにつぶやきました。  決して口に出して云うことはありません。しかし、 云わずに我慢しているのが顔に出てしまうのかもし れません。それが余計に彼を強面に見せているので した。  娘が父親とこの食堂で朝食を食べるようになった のは、母親が世を去った次の囗からです。娘も父親 も食事をつくることが苦手で、父親はそもそもこの 食堂で食事をするのが若いときからの習慣でした。 娘はなんの考えもなしに父についてきただけで、な により、一緒に食事をすれば、父親が食事代を払っ てくれるのです。  父親は例によって黙々と食事をするのみで、食べ るものは若いときから決まっており、辛口のチリシ チューにクラッカーを添えたものと熱いブラック コーヒーでした。それ以外は食べたことがありませ ん。ですから、娘がサンドイッチやイチゴ牛乳を口 に運んでいるのを、他の星からやってきた異生物を 見るような目で眺めていました。  娘は娘で父親の食べているものが得体の知れない ものに見え、トマトとスパイスの入り混じったいい 香りが漂ってくるのに、見た目からはまるで食指が 動きませんでした。それに父親はタバコを吸いなが ら食事をするので、せっかくのいい香りも台無しに なってしまいます。  この二人にただひとつ共通していたのは、食事の ときにラジオを聴くことでした。とは云っても、そ れぞれ別の放送を聴いているので、二人は食事のあ いだ中、イヤホンを耳に挿して、当然のようにひと ことも口をきかずにラジオを聴きながら食事をして います。  父親はローカル局の〈グッドーモーニングープラ ネット〉という誰も聴かないような地味な音楽番組 を聴いていました。朝のこの時間帯は情報番組を聴 くのが一般的なのですが、父親の選んだこの番組は 音楽中心のIそれもブルースやソウルばかりの選 曲で、しかし、朝の番組らしく、ときどきはニュー スや交通情報などを流していました。  一方、娘の方はといえば、ネットーラジオの 〈フー・ラブズーユー〉という番組を愛聴し、こち らは流行りの音楽をかけながら、やはりニュースや 天気や今日の占いといったものを織り交ぜて放送し ていました。  ひとつのテーブルをはさんで血のつなかった親子 が差し向かいで朝食を食べているわけですが、二人 は別々のラジオを聴き、会話は皆無で、お互いがお 互いをどんなふうに思っているのかもわかりません。  そんな二人が突然、食事をしていた手をとめ、  「どういうこと?」  と口を揃えて云いました。  これはまったくの偶然だったのですが、それぞれ が聴いていた番組がちょうど同じ時間にニュースを 流し、ちょうど同じニュースを同時に伝えていたの です。  それは「一人の男が空から降ってきた」というも ので、男は背中に羽根を持ち、薄汚れた白い寝巻の ような服を着て、体中に傷があるとのことでした。 どちらのニュースもそれ以上の詳細は伝えず、それ で二人は期せずして。  「どういうこと?」  と口を揃えてしまったのです。  翌日の朝、二人はまたいつもどおり簡易食堂の窓 ぎわの席で向かい合わせに座り、いつもの食事をし ながら、いつものラジオを聴いていました。  いつもと違っていたのは父親が新聞を読んでいた ことで、娘が知る限り、この父親は新聞というもの を憎んでおり、破り捨てているところは何度か目に していましたが、熱心に記事を読んでいる姿は一度 も見たことがありませんでした。  そんな父親が何をそんなに夢中になって読んでい たのかというと、それは「空から降ってきた男」の 続報で、記事の見出しには「空から落ちてきた男」 とありました。それを見て、娘は思わず声をあげた のです。  「落ちてきたって、どういう意味?」  父親はイヤホンごしに娘の声が聞こえたような気 がして、新聞を半分だけ折りたたんで娘の顔を見ま した。  「うん?」  ほとんど声にならない声を発しIなにしろ、娘 とほとんど会話をしていなかったので、どんなふう に話していいかわからなかったのです。  「落ちてきた、てことは、その男は空の上に住んで いたとか?」  今度は娘の声がはっきり聞こえました。それで父 親は、  「どうも、そうらしいぞ」  そう答えました。  云い方が少しぎごちなかったかもしれません。娘 と話すときはこういう口調でよかったのかどうか思 い出せなかったのです。  「それってどういうこと?」娘はさらに訊きました。 「そのひと、天使か何か?」  「ああ」と父親は記事を読みながら答えました。 「そういうことらしい」 「まさか」 「いや、男自身がそう云っているそうだ」  二人はいつのまにかイヤホンを外して話していま した。  「自分を天使だって?」  「そう」父親は娘に記事を見せながら云いました。 「ここにそう書いてある。『自分は失墜した天使であ る』とI」  「ちょっと待って」と娘が声を大きくしました。 「天使って、自分で『失墜』とか云うんだ」  「そうみたいだな。失墜とか失速とか云ってるし、 天使のくせに『罪を犯しました』なんてことも云っ てる」  父親がそう云いながらかすかに笑うと、娘も笑い かけて自分の罪を思い出しました。父親も何か思い 出したのか、笑いかけた顔を元に戻すと、  「おかしな天使がいたものだ」  そう云って、わざとらしく新聞をバサバサと折り たたみました。  それから一週間して、また父親が食堂で新聞を読 んでいると、  「今度はどんな記事?」  と娘が訊きました。  「このあいたの天使が博物館で公開されることに なったみたいだ」−父親は興奮を抑えながら答え ました。「今日から公開らしい」  「本当に?」  「見に行ってみるか?」  「だって、仕事は?」  「それどころじゃないだろう」父親は腰を浮かせて 云いました。「今日は学校を休んでいいぞ。これは もう学校どころじゃないI」  しかし、同じように思った人はたくさんいたよう で、父と娘が博物館に到着したときには、すでに長 い行列が出来ていました。  「なにこれ?」  娘は驚きました。  「前に天使が公開されたときはこんなじゃなかった のに」 「あのときの天使は自分からおりてきたんだよ」  父親は父親らしい話し方を取り戻しつつありまし た。  「今回のは空から落ちてきたんだ。じつに興味深い 話しやないか」  同じように思った人はあとを絶たないようで、父 と娘が並んだあとにも、さらに長い行列がつづきま した。  それからおよそ二時間ののち、ようやく順番が やってきて、博物館の一角に設けられた特別展示室 に二人は足を踏み入れました。  そこには虎や熊を入れるような太い鉄格子でつく られた檻があり、その檻の中に、みすぼらしいなり をした一人の中年男がひざをついて肩で息をしてい ました。どう見ても、中肉中背の人間の男にしか見 えません。  しかし、背中には羽根があり、この世のものでは ないような白い半透明の生地でつくられた衣服を身 にまとっていました。それが天使であると云われれ ば、そうなのかもしれず、「空から落ちてきた」こ とを証明するように、顔や手の甲に生々しい傷が何 本も走っていました。  檻のそばには注意を促す看板が立っていて、「声 をかけないでください」と書いてありましたが、父 親は若いときからこうしたことに反発したくなる性 質で、看板が目に入らないふりをして、  「おい」  と天使に声をかけました。  すると、檻の中の天使は上体を起こして顔をあげ、 声をかけた父親に、その悲しげな血走った目を向け ました。  天使は泣いているようでした。透明な月の光で出 来ているような涙を流し、父親の目をじっと見て、 何ごとか訴えているようでした。  翌日、父と娘はいつものように簡易食堂の窓ぎわ の席につき、それぞれの食事をしながら、それぞれ のイヤホンでラジオを聴いていました。窓から見え る空には白い雲がのんびりと流れていますI。  しかし、二人とも天使のことはすっかり忘れてし まったのか、娘は手鏡をのぞいて髪をなおし、父親 は面白くなさそうに窓の外を眺めてタバコの煙を吐 きました。「ねえ」と云った娘の声も耳に届かず、 「ねえ」ともう一度云ったのがようやく聞こえて、 「なんだ、どうした?」と父親はイヤホンを外しま した。  「その、チリシチューつて、おいしいの?」  父親は灰皿にタバコを押しつけ、 「交換してみるか?」  娘のサンドイッチを指差しました。 「いいよ」  皿を交換し、父は初めて娘の食べていたサンド イッチの味を知り、娘は父がずっと食べつづけてき たシチューの味を知りました。  「なるほど、悪くないね」  口を揃えて云い合いました。 胎 賺 美しい星に還る人 〈一日目〉  わずか四日間の滞在でした。  それは彼女の星の決まりで、彼女というのは地球 から遠く離れた星から「見聞」にやって来たリルと いう名の女性です。  その星に住む彼らや彼女たちには、地球の人間と 同じく男性と女性があり、顔つきや姿かたちもきわ めてよく似ていました。  「遠いところ、お疲れさまでした」  〈到着ゲート〉で、リルを迎えたのはカシワギとい う青年です。  「あの」とリルはあたりを見まわしながら小さな声 でカシワギに云いました。  彼女の星では、この数年の「見聞」によって、 すっかり、地球の言葉をマスターしている人が数多 くいるのでした。彼女もそのひとりです。  「あの、わたしじつはIピンチーヒツターという んでしょうか」  「ピンチーヒツター?」  カシワギは首をひねりました。何か別の言葉と間 違えているのではないか、と思ったのです。  「ええ」とリルは頷きました。「代打というかI じつを云うと、代わりに来たのです。本当は別の女 の子が来る予定で」  「ああ、そういうことですか」とカシワギは理解し ました。「ということはI」  「はい。ほとんど予習をせずに来てしまいました。 ですから、わたし、地球の言葉はひととおり話せる のですが、言葉以外のことはあまり知らないのです。 いわば、新米です」  カシワギは彼女の「新米」という言葉に笑い出し そうになりました。でも、考えてみれば、自分もま さにそうなのです。  「僕もですよ」とカシワギは包み隠さず云いました。 「僕もじつは、ガイドの仕事を始めてまだ間もない んです。リルさんのガイドも、本当は僕の先輩が担 当する予定だったんですが、急病で入院してしまい まして、それで急遽、僕が担当することになったん です」  「そうでしたか」とリルはカシワギの目をまっすぐ に見ました。カシワギは頬を赤らめ、「すみません」 と、あらかじめ謝っておきました。「そんなわけな ので、僕の方こそ新米なんです。ですから、充分な ガイドができないかもしれません」  「いえ、どうぞお気になさらず」リルは顔の前で手 を振りました。「正直に云いますと、この星のこと はあまり興味がなくIだから、わたし、本当に何 も知らないのです。でも、到着してすぐに驚きまし た。この空の青さと雲の白さです。このような青と 白のもとで生活をしているなんて、どんなに素晴ら しいことでしょう。さっそく感激しました」  「そうですか」とカシワギはゲートを出て空を見上 げました。  (昔の空はもっと青くて、雲はもっと白かったんで す  そう云おうとしましたが、やめておきました。  「余計なことは云わないように」と上から重々注意 されていたのです。  〈二日目〉  リルは地球のことをほとんど知らないようでした が、カシワギは自ら望んでガイドの仕事に就いたわ けですから、彼女が住んでいる星のことは、ある程 度、マスターしていました。  カシワギは未経験でしたが、先輩たちの何人かは、 実際に、リルの星へ「見聞」に出向いていました。 「美しい星だよ」  先輩の誰もが、口を揃えて云いました。  「言葉にならないね。あればかりは、実際に行って みないことにはI」  そう云ったきり言葉を詰まらせました。  その「美しさ」については立体映像などで、カシ ワギも少しは知っていました。それで彼は、一体、 どんなところへ彼女をガイドすればいいのか迷って いたのです。  「電車というものに乗りたいのです」  宿舎に迎えに行くと、リルは真っ先にそう云いま した。  「わたしたちの星には電車はありません。移動する ときは、皆、ひとりきりです」  カシワギは彼女を宿舎のそばの駅へ連れて行き、 「これはこの街で最もポピュラーな路線です」と説 明しながら、〈中央環状線〉に乗り込みました。  「あれはなんですか? みんな、何を見ているので すか」  リルは車内の乗客をそれとなく指差しながらカシ ワギに訊きました。  「あれは携帯送受信機です」とカシワギは答えまし た。「電網機関を通じて情報が得られるんです」  「それは、どんな情報でしょう?」  「そうI」とカシワギはしばし考えました。「あ らゆる情報です。天気やニュースといったものから 政治や芸能のことまで。ただ、ああして皆が夢中に なっているのは個人的な情報の交換です」  「個人的な?」  「ええ。今日、朝食に何を食べたとかI」  「わたしは今朝、宿舎でトーストとコーヒーをいた だきました。大変に美味しいものでした。そのあと にいただいたバナナとストロベリーも素晴らしく、 色も味も申し分ないものでした」  「そうでしたか」  カシワギはそれを聞き、(それならば)と、昼食 は予定どおりくいたりあ食堂〉へ彼女を連れて行き ました。  「ここはですね」とカシワギは解説しました。「日 本的イタリア料理の店なんです」  「それはつまり」−リルはじつに勘のいい異星人 でした。「つまり、ふたつの料理がミックスされて いるということですか」  「いや、そうではなく」カシワギは首を横に振りま した。「まだ本格的なイタリア料理店が日本に少な かったころ、アメリカ経由で伝わってきたものを日 本風に定着させたのが、このナポリタンというもの です。ナポリタンのナポリはイタリアの都市の名前 ですが、ナポリにナポリタンはありません」  説明しながら、(やはりわかりにくかったか)と カシワギは後悔していました。やはり、ここは順当 に飴か天ぷらを選ぶべきだった。いくら自分の好物 だからと云って、ナポリタンのような複雑な背景を 持った食べ物を選ぶべきではなかったIカシワギ の後悔は彼女が白い皿にのってあらわれたナポリタ ンを口に運んだときに決定的なものになりました。  彼女は途端に無口になり、眉をひそめて小さく首 を振ると、ついには天を仰ぎ、最後まで「美味し い」とか「素晴らしい」といった感想は述べません でした。 〈三日目〉  カシワギは昨日の失敗を帳消しにするべく、でき るだけ短時間のうちにさまざまなものを「見聞」し てもらうよう、過密スケジュールを組みました。  動物園と博物館へ行き、図書館へ行き、デパート へ行き、そうして地球上に存在するさまざまなもの を見せては、ひとつひとつ説明しました。  リルはいちいち興味深そうで、何を見ても「素晴 らしい」「面白い」「いいですね」を連発しました。  のみならず、移動中に目にしたものにも注目し、 「あれはなんでしようか」とビニール傘を指差しま した。あいにく、急な雨が降り出し、道行く人たち が透明な簡易傘をさしていたのです。  リルは思いもよらないものを示しては、「あれは なんでしよう?」「これはどういうものですか」と カシワギに尋ねました。  銅像、カレンダー、スカート、刺青、帽子、マス ク、避雷針、コーヒーー。  「あの人たちは何をしていますか?」  博物館でのことです。静かな館内で若いカップル が顔を寄せ合って、ひそひそと話していました。声 になるかならないか、というぎりぎりの小さな声で した。  「あれは、ひそひそ声、もしくは内緒話というもの です」とカシワギは答えました。  「どうして、あのように小さな声を?」  「そうI」カシワギは自分でもなぜだろうと思い ながら答えました。「大事なことは、時に小さな声 で語る方がいいのです」  「そうなのですか?」  リルは不審そうに眉根をひそめました。  「大事なことは大きな声でしっかり伝えるべきでは ないのですか」  「ええ、もちろんそうなのですがI」  カシワギはなんと云っていいかわからず、やはり 自分はまだ「新米」で、あるいはガイドには向いて いないのかもしれないと気持ちが沈みました。  〈四日目〉  早くもリルが帰る囗になりました。  カシワギはこの囗も万全の準備で臨みました。  より深く地球および地球人の営みを知ってもらう ために、映画館へ行って映画を一本鑑賞し、さらに は、遊園地へ連れて行って、次々とアトラクション を体験してもらいました。この地球上には「楽し い」と感じることが沢山あり、それをひとつでも多 く彼女に知ってもらいたかったのです。  ジェットコースターに乗ったあとに、観覧車に乗 りました。   本当を云うと、カシワギは高いところが苦手なの です。ジェットコースターも生きた心地がしなかっ たのですが、観覧車がいちばん高いところへ到達す ると、いよいよ恐怖心から足が震え出し、抑えよう と思ってもどうにもなりませんでした。  「どうしましたか」  リルは敏感に察知しました。困惑した顔でカシワ ギの様子を見守っています。  「いえ、すみません」  どうにかカシワギはそう云いました。  「僕はそのI高所恐怖症というIなんというか I病気なのです」  「急病ですか」とリルは心配そうにカシワギに手を さしのべました。  「いえ、そうではなく」  カシワギは目をつむりました。  「そうではなく、僕はただ怖いのです」  「そうなのですか」とリルはやや驚いたような表情 になりました。「この星の人たちは、恐怖という感 情が少ないのだろうと思っていました。電車に乗っ たときにそう思ったのです」  「電車?」とカシワギはリルの真剣な目を見返しま した。「電車は怖くないです」  「ええ。しかし、あのプラットホームというものは、 乗客の数に対してあまりに狭いです。簡単に落ちて しまいます。それは空の高いところから落ちてしま うことと同じくらい危険なことだとわたしは思いま した。それにI」  リルは遊園地のさまざまな乗り物を見おろしなが ら云いました。  「この星の皆さんは恐怖を楽しんでいます。それが わたしにはいちばんの驚きでした。でも、あなたが 『怖い』と云ったのを聞いて、少し安心しました」  〈ゲート〉で別れるとき、彼女の生まれ育った「美 しい星」は、一体どれほど美しいのだろう、とカシ ワギは考えました。彼女はその美しい星に還ってい くのです。また、ふたたび地球に来ることはあるの だろうかI。  「また、来ます」とリルは云いました。  「本当ですか」とカシワギは声が大きくなりました。 「何か一番よかったですか」  「ナポリタン」と彼女は迷わずそう答えました。 「それからI」  彼女はカシワギの顔に自分の顔を寄せ、カシワギ の耳もとに口を近づけると、彼にだけ聞こえる小さ な声で答えました。  内緒話でした。 亠鳥なか 青いインクの話のつづき  自分はいま、長い物語の途中を歩んでいるところ なのだと、戸島はこれまでにも何度かそう思ったこ とがありました。  肩にさげてきた携帯式魔法瓶のコーヒーを、気持 ちを鎮めるために口にすると、迷宮を思わせる路地 の中で、さて、わたしが歩んでいくこの物語はこの 先どうなるのだろう、と深呼吸をひとつしました。  彼女は何か困難なことや悲しいことに出会うと、 ひとまず深呼吸をするのです。彼女はそれを父親か ら教わりました。  「私は若いころ、とても恐ろしく悲しい経験をした のだI」  目を閉じると、父親の声がよみがえりました。  「一度や二度ではない。そういうとき、まずは深呼 吸をした。私はそれを母に教えられた。お前のおば あさんだよ」  おかしなことです。  というのも、戸島はいつからか父親の顔を正確に 思い出すことが出来ないのでした。どうにか思い出 そうとしても、顔の中のどこか一箇所が必ずぼんや りとかすんでしまいます。  しかし、声はくっきりと鮮やかに思い出され、父 親が話してくれたいくつもの言葉と共に、声はいま すぐそこで話されたかのように彼女の耳に再生され ました。  「お前のおじいさんは大変な無口だったんだ」  父親は繰り返し、そう云っていました。  「というより、ほとんど何も喋らなかった。それで、 私は父親の声を覚えていない。とても残念に思うよ。 だから、私はお前にたくさん話してやろうと思って いる。私かこの世からいなくなっても、この声がお 前の耳の中にしっかり残るようにI」  まさにそのとおりになりました。  「父が無口たったせいで、母はIお前のおばあさ んは、とても苦労したのだ。なにしろ、意思の疎通 というものができなかったからね。そういうとき I孤独でつらいとき、母は深呼吸をすることで気 持ちを落ち着けた。囗に何度も深呼吸をしたと云っ ていたよ。しかし、それでも父の無口はなおらない。 もしかして、病気なのかもしれないと思い、喉の中 を医者に診てもらったが、特に問題はなかった。そ れに、父はまったく喋らなかったわけではなく、と きどき思い出したように、『白いパンを食べたい』 と云ったそうだ」  戸島はその言葉−父親の声を通して聞こえてく る祖父の言葉を、ときどき誰かに耳打ちされるよう にして聞くのです。  「白いパンを食べたい」−と。  いまもそうでした。父親が遺した地図を広げ、戸 島はその言葉を聞きながら、路地の奥を見据えてい ました。  地図によれば、目指しているインクエ場はもうす ぐそこのはずです。  ですが、とても「工場」と呼べるような建物は見 当たりません。そのうえ、町はおそろしいほど静ま り返り、白い月が映える青空の高いところを、名前 も知らない小さな鳥が飛んで行くその羽ばたきが聞 こえるようでした。  「空か青いのは海が青いからだ」  父親がそう云っていたのが思い出されました。  では、どうして海は青いのかI戸島はそこのと ころも訊いておくべきだったと空を見上げて首を振 りました。  どうしてなのかI。  理由はわかりません。  しかし、戸島はとにかく青い色に惹かれるのです。  もし、万年筆のインクにブルーやブルーブラック がなかったら、自分は万年筆売場で働くこともな かっただろう。  ましてや、こうして万年筆のインクをつくつてい る工場を訪ねてみようとは思わないI祖父の声に 応えるように、彼女はそうつぶやきました。  戸島がそうしてインクエ場を探し歩いているとき、 当の工場でただひとり働いている山崎は、休憩がて ら、母に手紙を書いているところでした。定期的に 送られてくる林檎の礼をまずは書き、それから、い まいちど念を押すように。  「僕は毎日、インクをつくって暮らしています」  そう書きました。  「そのインクと新しいぴかぴかの万年筆をこのあい だ小包で送りました。でも、林檎と一緒に送られて くる便箋の文字はI母上さまIその文字はあき らかにボールペンで書かれたものです。どうか、一 度でいいですから、僕がつくったインクを使ってみ てください。このとおり、いまこうして書いている この文字の、このインクがそうですI」  そこまで書いて、山崎は便箋を破り取り、丸めて ゴミ箱の中に放り投げて頭を掻きました。そして、 自分はこんな路地の奥で誰にも知られることなく一 生を送るのだろうかと気持ちが暗い方へ引きずられ ていくのを自覚していました。  (大体、自分のインクを使っている人がこの世にい るのか。いや、母でさえ使わないというのに、まっ たくの赤の他人が、自分のような者がつくったイン クを使ってくれると考える方が間違っている)  山崎がそうつぶやいたとき、不意をつくように、 工場の入口の呼び鈴を鳴らす音が聞こえました。  「誰だろうI」  山崎は首をひねりながら「はい」と呼び鈴に応え ました。  つい昨日、送られてきたばかりなのに、一体、ど うしたことなのか。  呼び鈴はいつもの配送の人で、母親からまた大量 に林檎が送られてきました。配送の人まで、  「また林檎ですか」  と、けだるそうに云いました。それはどの量なの です。もう置くところがありません。ただでさえ小 さな工場に林檎が山と積まれていました。  「参つたな」  山崎が母親から送られてきた箱をあけると、箱の 大きさなど関係なく、無限とも思えるほど、次から 次へと赤い林檎があふれ出てきました。  それは山崎の青く染まった手を赤く染めなおすの ではないかという勢いです。  山崎はあふれ出る林檎の中に母からの封書を見つ け、赤い氾濫からすくいあげるように白い手紙を手 にしました。と同時に、  「ああ」  と、おかしな声をあげて立ちすくみました。  封筒のおもてに書かれた自分の名前が、まぎれも なく山崎のつくった青いインクで書かれていたので す。  山崎は箱からあふれ出る林檎もそっちのけで、餌 に食らいついた青い魚のように母からの手紙をひら きました。  (拝啓−)  便箋に並ぶ母の字も、山崎が送った万年筆を使っ ていて、隅から隅まで青いインクで綴られていまし た。  (このあいた、いつもの林檎を送ったあと、母は失 敗したと気づきました。せっかく、お前のつくった インクと万年筆まで送ってもらっだのに、母は机の 上にころかっていたボールペンで手紙を書いてし まった。郵便局から帰るときに気づいて、それでま たこうしてあらためて手紙を書いています。すまな かったね)  山崎はその整然とした文字に驚嘆しました。  いつものボールペンで書かれた母の字とは、まっ たく違う字なのです。なんというか、初めて母の地 声に触れたようで、文面は相変わらずなのに、思わ ず居住まいを正していました。 (母は決してお前の仕事を否定していません。ただ、 このごろはお父さんも体がしんどそうで、こうして いつまで林檎づくりをつづけられるか心配です。こ れまで一度も手紙に書かなかったことですが、本当 を云うと、お前に林檎づくりを手伝ってほしい。そ うしたらどんなにいいだろうと思います)  山崎は字を追うのではなく、間違いなくすぐそば に母親の声を聞いていました。  一方、戸島は路地裏の迷宮をさまよい歩き、路地 のつきあたりに一台の黒い車を見つけるなり、吸い 込まれるように車に引き寄せられました。車が戸島 を呼んだかのようでした。  「アキレスー」  戸島は車のボディに取り付けられた銀色のプレー ト文字を読み上げました。  アキレスはギリシア神話の英雄です。戸島は子供 のころから神話を読むのが好きで、それゆえ、悲し かったのです。  あの英雄がこんな路地のつきあたりで身動きでき なくなっているI。  (そうなのね)と戸島は理解しました。この入り組 んだ路地の迷宮は、あの神話に出てくるラビュリン トスなのだと。一度迷い込んだら二度と脱け出せな くなる。  (でもI)  そうです。あの神話ではアリアドネーという娘が 命綱のかわりに「赤い糸」を自分の通った道にのこ していきます。  戸島は振り向きました。  振り向いて、自分の足もとI細い路地のひび割 れたアスフアルトーに目をこらしました。  すると、そこに赤い糸ではなく、点々と青い何か がちょうど自分の歩いてきたとおりに打たれている のに気づきました。と同時に、遠目には黒に見えた かたわらの「アキレス」が、しだいに青みを帯びて、 宇宙の色にI青の中でもっとも深遠なものを秘め た群青色に変化していくのがありありとわかりまし た。  戸島は路地にしやがみ込み、路上に打たれた青い 点のひとつに自分の白く細い指先を近づけました。 どういうわけか、アスファルトまでもが青みを帯び、 次の瞬間、ついに戸島の指先までもが青く染まるの を確かに見ました。  インクでした。  戸島にはすぐにわかりました。  それは戸島がこの世で最も美しい青であると信じ て疑わない山畸がつくった青いインクに違いありま せん。  「あっ」  と戸島は声をあげました。その声もまた青く、い まやこの路地の迷宮は有象無象の何もかもが青いの ではないかと戸島には感じられました。  しかし、路上の青い点々の正体はじつにあっけな いものだったのです。  戸島の背負っていた子供用の小さなリュックサッ クからその青はしたたり落ち、あわてて戸島が リュックの中を覗き込むと、携えてきた山崎のイン クのふたが外れていました。インクの箱を青く染め、 リュックの底を青く染め、その青が行き場を失って、 リュックからしたたり落ちていたのでした。  青い点々は、いわば戸島の足跡です。  (なるほどね)  戸島はただちに理解しました。  これは、わたしの赤い糸で、この青をたどってい けば来た道を戻ることができる。この迷宮から脱け 出すことができる。  でも、わたしが望んでいるのは脱け出すことでは なく、この青い点々の源までたどり着くことI。  戸島は深呼吸をひとつしました。 (お願い、アキレス。わたしをこの青の始まりのと ころへ連れて行って)  そのときでした。  陽がかげって青い空気に支配されていた路地の向 こうから、赤い小さなものが転かってくるのがI それも次々と果てしなく転かってくるのが見えまし た。  林檎でした。 厂∧り仁  熊の父親が旗の店を営んでいることは、皆、知っ ていたのでした。  ただ、その店というのが実際のところ、商店街の どこにあるのか、どのような店であるのか、いえ、 そんなことより、なぜ、彼が皆から「熊の父親」と 呼ばれているのか、何ひとつ判然としていません。  しかし、熊の父親はいつのまにか、東商店街にそ の名も〈旗屋〉という店を登録し、新聞の折り込み 広告で、  「どんな旗でもつくります」  と宣伝していました。  広告に住所はなく、ただ電話番号があるばかりで、 その番号に電話をかけてみると、「もしもし」と、 いかにも熊の父親といった声色で応対するのです。  「こちらは〈旗屋〉でございます。どんな旗をつく りたいのでしょうか」  いきなり、単刀直入に訊いてくるのでした。 「ええと、あのI」  電話をかけた依頼者が、どんな旗であるか説明し ようとすると、  「お話は五丁目の空き地でいたしましよう」  依頼者の話をさえぎるように、熊の父親は柢くく ぐもった声で云うのでした。  五丁目の空き地というのは、東商店街の近くに住 んでいれば誰もが知っている広大な空き地です。も とは小学校が建っていたのですが、いつからか町に 子供たちがいなくなり、ある囗突然、更地になって しまったのです。  「荒野−」  と誰かが云いました。  「あそこは空き地というより荒野だな。いつも風が 吹き荒れて、木の一本も生えやしない」  そのとおりでした。  そんな荒野の片隅に熊の父親は、「ここが〈旗屋〉 の受付です」と書いた旗を掲げ、その白い小さな旗 が荒野に吹く風に音をたてて、はためいていました。  「あのI」  と依頼人が訪ねてきます。  「電話をした者です。旗を注文したいのですが、こ ちらでいいのでしょうか」  「無論、そうです」  熊の父親は焦げ茶色のジャケットを着て黒い帽子 をかぶり、古びた黒ぶち眼鏡をかけた本物の紳士で した。  「熊−ではないのですね」と依頼人が確かめます  「ええ。私は熊ではなく、熊の父親です」 少々、憤慨したように熊の父親は答えました。 「こんなところに、お店があるなんて驚きました」  依頼人が周囲の荒野を見わたしながら云いますと、 「いえ、ここは店ではなく受付なのです」  熊の父親は、さらに憤慨して云いました。  「見ればわかるでしょう。ここには旗をつくる道具 も机も材料もない。そういったものはすべて商店街 の店にあるのです」  かならずそう説明していましたが、実際には商店 街に旗の店はなく、これまでに熊の父親に旗を依頼 した誰もが、  「荒野の受付には行ったけれど、店には行かなかっ たね」  と証言するのでした。  「でも、そんなことは、どうでもいいんだよ。とに かく、できあがった旗が素晴らしかったからね」  誰もが旗の出来栄えを賞賛しました。  そのほとんどは商店街に軒を連ねる店々の旗でし たが、最初に酒屋の大将が熊の父親に自分の店の旗 をつくってもらい、それがあまりに素晴らしかった ので、米屋も魚屋も肉屋も花屋も本屋もクリーニン グ屋も、皆、競い合うように熊の父親に旗をつくっ てもらいました。  意匠はそれぞれでしたが、「われわれは同じ東商 店街で商う仲間である」と、思わずそんな意識が芽 生えてしまうような、絶妙な統一感がありました。  この東商店街に、あたらしく店をひらくべく、一 人の男があらわれました。  山田という名のひどく痩せた男で、無口で愛想も なく、家族も友大もいない、どこからどう見てもさ みしい男です。  山田は大変な「雨男」で、アパートの部屋にいる ときはいいのですが、ひとたび、どこかへ出かけて 行くと、その先々でかならず恐ろしいばかりの雨が 降ります。  その自分の背負い込んだ雨によって、山田は家族 を失い、友人を失い、自らの希望すらも失ってしま いました。まずは、いいところのない山田なのです が、彼はしかし青年のころより、非常に美味なる 焼売をつくる手技を持っていました。  誰に教わったわけでもありません。  山田は焼売というものを、さまざまな面から好み、 もちろん食べ物としても申し分ないと思うのですが、 焼売というのはまず蒸すもので、蒸しあがったとき の湯気であるとか、香りであるとか、顔に湯気を浴 びて眼鏡がくもる感じであるとか、そうしたものを すべて愛おしく感じていました。   山田は、さまざまな中華料理店で修業をし、さま ざまな焼売のつくり方を習得したうえで、結局、誰 に教わったわけでもない自分なりのつくり方が一番 であると確信しました。それで、ようやく店をひら く決心をしたのです。  「旗をつくったらいいよ」  肉屋の主人が山田に助言しました。  「この商店街では、店の名を書いた旗を店先に立て るのが、いつからか暗黙のルールになってる」 「旗−ですか。どこでつくればいいのでしよ う?」  「熊の父親に頼んだらいい」  「熊の?−」  「ああ。番号を教えてやるから電話をかけてごら ん」  それで山田はさっそく熊の父親に電話をしたわけ です。  「もしもし」と熊の父親はいつもの柢い声で電話に 出ました。  「もしもし」と山田もまた柢い声を出し、「あの」 と云いかけると、  「こちらは〈旗屋〉でございます。どんな旗をつく りたいのでしょうか」  そう訊かれて山田は、「それが、よくわからない のです」と正直にそう答えました。  「そうですか、ではとにかく受付まで来てください。 五丁目の空き地で待っていますから」  「いますぐですか」  「ええ、いますぐですI」  「では」と山田は電話を切り、そそくさとアパート の部屋を出ると、すぐに雲行きが怪しくなってきて 雨が降り出しました。  五丁目の空き地に到着するころには本降りとなり、 小さなテントを張っただけの受付を容赦なく激しい 雨粒が叩きつけていました。  「すみません」と山田はすまなそうに頭をさげまし た。  「いや、なんのこれしき」と熊の父親はかぶりを振 り、「それより、どんな旗をつくりたいのか、どん な店をひらきたいのか、ひととおり話してごらんな さい」と柢い声で云いました。  「そうですね」−山田はしばらく考えてから、途 切れ途切れに話し始めました。  「ぼくは、ただ焼売の店をひらきたいのです。他に は何も売りません。ただ焼売だけを蒸して、ただ焼 売だけを売る」  「なるほど」と熊の父親は山田の話を〈旗屋〉の折 り込み広告の裏に書きとめました。  「つまり、焼売の専門店というわけです」  「なるほど。では、種類などはどうなっているので しよう? たとえば、蟹焼売であるとか、海老焼売 であるとか」  「いえ」と山田は大きく首を横に振りました。「焼 売はただ一種類だけです。というのも、自分はその 一種類だけしかつくれないのです」  「ほう」と熊の父親は山田の言葉を漏らさず書きと めました。「でも、ただの焼売だけではどうも面白 みがありませんね」  「いえ、ただの焼売−しいて云いますと、山田焼 売でいいのです」  山田がそう云ったとき、ちょうど雨が激しくなり、 「山田焼売」という名前が熊の父親には聞きとれま せんでした。  「なんですって?」  「山田焼売です」  「山田−焼売ですか」  「そうです」  「なるほど。では、旗はどうしましよう」  「それだけでいいのです。〈山田焼売〉と四文字だ けでI」  熊の父親は〈山田焼売〉とボールペンで書きとめ ました。  「よくわかりました」  しかし、本当のことを云うと、あまりに簡潔すぎ て、どのような旗をつくったらいいのか、何らひら めくものがなかったのです。  もっと云うと、熊の父親は焼売というものにさし て思い入れがなく、ただ一種類のみの、おそらくは シンプルきわまりない焼売を売るというのが、はた してうまくいくものかどうか大いに案じるところが ありました。  「一度、見せてください。山田さんが焼売を蒸して いるところを」  山田はそのとき、さて、どうしたものかと考えま した。  これまで誰にも焼売を蒸すところを見せたことが なく、そもそも見せるものではないと思っていたの です。にもかかわらずI、  「いいですよ」  どうしてなのか、そう答えていました。  三日後に、熊の父親は山田の店を訪ねてきました。 開店準備中でありながら、すでに隅々まできれいに 整えられ、厨房には所狭しと蒸し器が並べられてい ました。  というより、蒸し器を並べるためにあまりに面積 をとってしまうので、客の座るところがほとんどあ りません。  「ですから、持ち帰り専門店にしようかと思うので す」  「なるほど」  熊の父親は山田の言葉を持参した折り込み広告の 裏に書きとめ、その胸中において、いよいよ、この 店はうまくいかないのではないかと感じました。  しかし、それでは駄目なのです。  旗をつくるからには、旗によって皆に知らしめる ものを、旗の作り手である熊の父親が、「これはな んとしても世間に知らしめたい」と強く願うようで なければうまくいきません。  十五分か経過しました。  次第に厨房のあちらこちらから湯気がたちのぼり、 ほどよい甘さを孕んだいい香りが熊の父親の鼻腔ま で届きました。  それは熊の父親がこれまで認識してきた焼売の香 りとはまったくの別もので、懐かしいような、安ら ぐような、温泉につかるときのような心地よさを孕 んでいました。なんというか、これさえあれば他に 何もいらないのではないかという安心感が熊の父親 の体にしみわたり、その湯気だけで、〈山田焼売〉 の美味しさと奥深さを感じとったのです。  熊の父親は、船が転覆したとき以来、はじめて大 粒の涙を流しました。  大事に育ててきた仔熊を船で動物園に運ぼうとし ていたのです。しかし、遂行できませんでした。以 来、救命ボートの上で振りつづけた白い旗−自分 を救った「旗」というものに関わる仕事をしようと 思い決めました。  湯気の中で二人は黙っていました。  湯気に隠れて互いの姿は見えません。  しかし、何かが始まるのだと、二人は湯気の中で それぞれに予感していました。    熨斜    {『心’一一詐    瘋J    一塵諢 っづきに宍明日 ご餝稈勦 〈ツアー〉を申し込んだのは彼の姉でした。  姉は彼が休みの囗に家にとじこもって本ばかり読 んでいるのを憂い、彼に内緒で、「映画鑑賞旅行」 に応募したのです。  大変な倍率でした。しかし、その難関をくぐり抜 けて、見事、当選したわけです。  チケットが彼のもとに送られてくると、それは昔 風の意匠で、用紙もインクもざらつとして、映画の タイトルはシルクスクリーンで刷られていました。  『狼は月を見た』  これが今回の〈ツアー〉で上映される映画のタイ トルです。  『古い映画であるということ。  二、モノクロ作品であること。  三、ヨーロッパの、とある小さな国でつくられた 映画であること。  以上がチケットと共に鑑賞者に伝えられたわずか な情報で、これ以外のことは何ひとつわかりません。  ただ、基本的な規則があり、上映される映画は、 紛失してしまったもの、あるいは意図的に破棄され たものに隕られていました。そうしたいわゆる「失 われたはずのフィルム」が、どこからか発掘され、 〈ツアー〉では発掘後の世界初上映が行われるので す。  〈ツアー〉というのは、この発見された映画を鑑賞 するための小さな旅行のことでした。チケットは映 画の鑑賞券と旅行券を兼ねており、三泊四日の宿泊 券もセットされています。  こうしたことは、この〈ツアー〉が世界に先駆け て考案したもので、映画を鑑賞するために旅行をし、 おいしい食事をしたり、街での愉しみを交えたりし て、少しずつ三夜に分けて観ていくという趣向です。  具体的に云うと、三つの地方都市をまわり、それ ぞれの街にある、あらかじめ指定された映画館で夜 の一時間ほど映画を観るのです。その他の時間の過 ごし方は鑑賞者の自由で、つまり、自由な旅をしな がら、夜の一時間だけ映画を観る。およそ三時間の 映画を、三つの街で連続ドラマのように観ていくわ けです。  彼は郵便局の仕事を休み、小さな旅行鞄に着替え の衣服と読みかけの本を詰めて旅立ちました。  チケットに示された午後の最初の特急列車に乗り 込み、二時間ほどかけてD町に到着したのですが、 彼は列車の窓から外の風景を一度も見ることなく、 読みかけの本を読みつづけていました。  駅に到着すると、彼はまっすぐ指定されたホテル に向かいました。  チェックインを済ませて三階の部屋にはいるなり、 姉から贈られた腕時計をじっと見つめ、映画の上映 まで、あと四時間あることを確認しました。  窓にさがった力上アンの隙間から外の様子を見お ろしたところ、にぎやかな街には多彩な服を着た人 たちが行き交っています。  彼はカーテンを閉じ、耳の奥で姉の声が再生され るのを聞きました。  (いい? 街に出て旅を楽しまないと)  彼はいま一度、力上アンの隙間から街路を眺め、 なるべく人のいないところを見きわめると、読みか けの本をコートのポケットに入れてホテルを出まし た。  彼は郵便局で働いてきた経験から、街を把握する のが得意で、窓から見た印象だけで、人のいないと ころの見当がつくのです。  そのあたりは大きな通りから二筋離れていて、商 店がまばらで、コーヒーを飲ませるところも地味な つくりでした。  彼はそのコーヒー店のカウンター席に座り、メ ニューを吟味すると、いちばん安いコーヒーに、シ チューとロールパンがセットされたものを注文しま した。ひと息つくと、カウンターの隅に座っている 先客に気づき、ちらりとそちらを見て、ポケットか ら本を取り出しました。  先客は彼と同じ年ごろの青年で、やはりカウン ターにもたれて本に読みふけっていました。ふいに 本から顔を上げて彼の方を見やり、次の瞬間、お互 いに相手の読んでいる本と自分の読んでいる本が同 じものであることに気づきました。  (ふうん)  それぞれに思いました。  しかも、先客は彼が頼んだシチューのセットと コーヒーをすでに頼んでいて、まったくの偶然なの か、それとも趣味嗜好が似ているのか、なんとなく 居心地がいいような悪いような、妙な心持ちになり ました。  映画はタイトルからあらかた予測してはいたので すが、若い雄の狼が主人公で、群れから離れて、た だ一匹で荒野や森林地帯をさまよう旅に出るところ から始まりました。放浪の途中で大きな川に行く手 をはばまれ、途方に暮れた場面で、一日目の上映は 終わりました。つづきはまた明日です。  館内に明かりがつき、それとなく彼が客席を見渡 していると、自分が座っていた列の端に、コーヒー 店で見かけた「先客」が座っているのに気づきまし た。  この上映は〈ツアー〉の参加者だけに向けた特別 なものでしたから、「先客」もまた難関をくぐり抜 けてチケットを手に入れたのでしょう。  「先客」もまた彼に気づき、用心深そうな視線を向 けるその様子が、  (なんだか、自分に似ている)  と彼はそう思いました。  翌日は朝早くにチェックアウトし、まっすぐ駅に 向かって予定どおりの特急列車に乗り込みました。 およそ二時間をかけて次の街に到着し、彼は早々に ホテルに直行して、部屋で本のつづきを読みました。  しかし、どういうものか、昨夜観た映画のイメー ジが頭にこびりつき、本の内容と混同して、いっこ うに読み進めることができません。  彼はまたカーテンの隙間から街を見おろし、昨日 と同じように見当をつけて街へ繰り出しました。 コートのポケットに本だけを入れ、路地裏のそのま た裏にあるコーヒー店のカウンター席にたどり着い て苦笑しました。  (どの街にも、似たような店があるものだ)  胸のうちにそうつぶやいたとき、カウンター席に 昨日と同じ「先客」がいて、昨日と同じく本に読み ふけり、そのかたわらにはコーヒーとシチューと皿 に載ったロールパンがありました。  彼は少し迷いましたが、やはり同じものを注文し、 ポケットから本を取り出して、つづきを読みました。 しかし、どうしても頭にはいってきません。首を振 り、それから観念したように本を閉じると、「先客」 に向かって、「あの」と声をかけました。  「つかぬことをうかがいますがI」  「はい」と先客は青年らしい声で応じました。  「あなたはIそのI弟でしょうか?」  「はい?」と先客は一瞬、彼の質問に戸惑い、しか し、すぐに理解すると、「ええ、そうです。僕には 姉がいますから、僕は弟ということになります」と 答えました。  「やはり、そうですか」  それで彼はひとまず満足しました。なんとなく、 そんな気がしたのです。  「となると、もしかして」と彼はさらに訊ねました。 「今回の〈ツアー〉に応募したのはI」  「ええ、姉です。姉は僕が本ばかり読んでいるのを 気にして、僕に内緒で応募してくれたのです」  「そうでしたか」  彼は目の前に運ばれてきたコーヒーに口をつけ、 妙な充足感を覚えると、「そうでしたか」ともうい ちど繰り返し云いました。  二晩目の映画館は築百年をこえた古びた建物で、 壁に反響する狼の遠吠えが切なく身に沁みました。 白い息を吐きながらスクリーンを横切る狼は群れか ら離れてしまったことを後悔しているらしく、彼に はその思いが手に取るようにわかりました。  (この狼ははたしてどうなるのだろう? 群れに戻 るのか、それとも新しい仲間を見つけるのか)  行く末を案じるうち、二日目の上映が終わって、 つづきはまた明日となりました。  終映後、彼は自分の列の端に「先客」の姿を探し ました。しかし、そこには見当たらず、「先客」は いちばん後ろの列のいちばん端にいました。  「ああ」と彼の視線に気づくと手をあげ、「また明 日」と会釈するなり、いかにも身軽そうに立ち去り ました。  彼はその後ろ姿を見送ってホテルに戻ると、本を ひらくことも忘れて部屋の天井を眺めながら、これ までにあったことを脈絡なく思い返していました。  子供のころの時間がなぜあんなに長かったのか、 なぜあんなに空気が冷たかったのか。またその一方 で、なぜ本を読むときは胸のあたりがあたたかく なったのか。  考えはとめどなく縊れてきました。  最後の囗も同じ繰り返しです。ホテルを出て昼の 特急に乗り、次の街に到着して部屋の窓から街はず れの静かな区域を見つけ出しました。  コートを羽織り、場末と云っていいところをうろ つき、コーヒーが飲める店にたどり着くと、カウン ター席には、やはり「先客」がいましたI。  「ああ」と二人はどちらからともなくそう云い、躊 躇なく隣り合わせの席に座っていました。コーヒー を飲み、ロールパンをちぎってシチューにひたして 食べ、  「今日で終わりですね」  彼がそう云いました。「先客」は黙ってうなずき、 それから、  「どうなると思いますか、あの狼」  映画のつづきについて推測しました。  「狼はきっと群れに戻りません。僕もです」  突然、「先客」がそう云いました。  「というと?」  「僕はここでコーヒーを飲んだら、今夜の映画は観 ずに、次の知らない街へ行こうと思います。もし、 映画を終わりまで観てしまったら、それで僕の旅も 終わりです。僕はそれを望みません。このまま、ど こまでも旅をつづけたいのですI」  「でも、それでは、お姉さんが悲しむのではないで すか」  「いえ、姉はきっと僕がそうすることを望んでいる と思います」  (そうなんだろうか)と彼は考えました。  その問いは「先客」と別れて部屋に戻ったあとも 反復され、ついに映画を終わりまで観たあとも繰り 返されました。  映画の中の狼は夜の丘で月を見上げますI。  月の光は透明な水のようにあたりをひたし、狼は 自らの足もとに果実がひとつ転がっているのに気づ きます。モノクロの映画ですから、果実の色はわか りません。しかし、それはおそらく月と同じ色をし ているのでしょう。  飢えた狼は果実をかじりました。  その顔には空腹が潤された喜びがあらわれ、にも かかわらず、狼は苦いものを口にしたときのように 顔をしかめていました。  その最後の場面を思い出しながら、彼はホテルの 窓から街を見おろしていました。  空には果実のような月が浮かんでいます。  (このたったいま、あの月をどれほどの人たちが見 上げているのだろうI)  夜行列車の汽笛の音が遠くに聞こえました。         t‐In卩         tI几         tI’n几 三人の年名いた泥棒  泥棒です。  月の光を浴びていました。  三人組なのです。  いつからでしょう、もう長いあいだ、この三人で 泥棒をしてきました。  そして、三人は年老いたのです。年老いた泥棒と いうわけです。  泥棒というのは、世間の皆さまに顔を見せてはな らないのです。そう胸に刻んで長い時を過ごしてき ましたので、三人には、もう顔というものがなくな り、頭部のかたちはそこにあるのですが、目鼻や口 といったものは、最早、判然としません。  若いときは、三人それぞれに体の特徴というもの がありました。  痩せていたり、太っていたり、背が柢かったり、 髪が短かったり長かったりI。  しかし、いつからか三人は同じ体つきの同じ背丈  の同じ髪型をした三人になりました。はっきり云っ  てしまうと、ただ黒いばかりの三つの影になってし  まったのです。  手足がひょろりとして、申し訳程度に頭に小さな 帽子をのせ、まったく同じ姿かたちの影が三つ、月 の下で何やら話し合っています。  「さあ、今夜はどうしよう」  「いったい、何を盗んだらいいのやら」  「いや、もう盗みたいものなど、ひとつもないよ。 もう沢山だ」 「いや、しかしI」 「われわれは泥棒なのだから」 「そう。泥棒であるからには、何かしら盗まなけれ ばI」  「それが仕事だからね」  三人は疲れきっていました。  彼らはすでにこの世から、ありとあらゆるものを 盗んでおり、「ありとあらゆる」というのは、この 世のすべて、という意味で、そのとおり、彼らはこ の世のすべてを手に入れ、もう何も盗むものがない のです。  のみならず、何かが「欲しい」とか、何かを「手 に入れたい」とか、「自分のものにしたい」、「所有 したい」といった欲望そのものが消えていました。  ですから、単に自分たちが泥棒でありつづけるた めに盗む仕事をつづけているというのが本当のとこ ろなのです。 「じやあ、こういうのはどうだ」  三人の泥棒のうちの一人が云いました。  「美術館に展示された絵の中から、夜空にまたたい ている星だけを盗みとる」  「なるほど」ともう一人。「絵を盗むのではなく、 絵の中の星だけを盗むのだな」  「いいね」ともう一人。  「よし、決まりだ」  さっそく、三人は町はずれにある美術館へ向かい ました。  彼らはこれまでに、この美術館からさまざまな絵 画や彫刻を盗んでいましたから、警備の目を盗んで 忍び込むことはお手のもので、絵の一枚や二枚なら、 鼻唄まじりで持ち去ることができました。  しかし、絵をそのまま持ち去るのではなく、星だ けを取り出して盗みとっていくのですから、これま でと少し勝手が違います。  三人はするりと館内に侵入し、まずは何か展示さ れているのかを確認しました。  すると、現在は、  〈D町の画家たちによるD町の百年〉  という展覧会がひらかれていて、〈D町〉という のは、この美術館のある、まさにこの町のことです から、この町に生きるIあるいは「生きた」− 画家たちが、自らの町を描いた絵画展のようでした。  「悪くないね」と泥棒の一人が満足そうに云いまし た。  「うんうん。つまりさI」  「絵の中に描かれているのは、この町の百年という ことになる」 「そのとおり。そして俺らがいただいていくのは」 「この町の百年の空に輝いたI」 「百年分の星というわけだ」 「いいね」  彼らは三つの影となり、展示室を隈なく歩きま わって、特殊な眼鏡で展示してある絵を一枚一枚確 認していきました。  この特殊な眼鏡は暗闇の中でも昼間のように明る く見える魔法の眼鏡で、これもまた、どこかの科学 研究所から盗み出してきたものでした。  「見えるか?」  「ああ、見えるよ」  「しかし、ざっと見た感じでは夜空を描いた絵は、 そうあるものではないね」  「ふむ。確かに」  「しかし、沢山あったらあったで困りものではない か」  「それもまた確かにI」  そうなのでした。  たとえば、「満天の星」などという絵があったら、 その絵の中に描かれた星は数えきれないほどの数に なります。それをひとつひとつ取り出さなくてはな らないのですから、大仕事です。  「全部、盗まなくてもいいんじやないか?」  「いや、それでは面白くないよ。俺たちはいつだっ て、狙った獲物は根こそぎありったけいただいてい くのが流儀だ」  「そうだな」  「そうだよ」  しかし、いざ取りかかってみると、それは予想以 上に大変な仕事なのでした。  まさか、こんなことになるとは思っていなかった のですが、D町というのは、その昔、「星降るとこ ろ」などと呼ばれ、大変に星がきれいに見える町 だったのです。ですから、画家たちもここぞとばか りに腕をふるい、空にひろがる数えきれないほどの 星を、数えきれないほど、しっかり描いていました。  「おい、夜空を描いた絵は、そうあるものではない と云ったのは誰だよ?」  「すまん。入口の方にあったのはどうやら最近の絵 で、どうも、会場の奥へ行けば行くほどIつまり、 百年前に向かって、さかのぼればさかのぼるほど、 夜空の絵が多くなっていく」  「なるほどね。ようするに、昔は星が沢山見えて、 夜空がきれいだったわけだ」  「そういうことだな」  「みんな、気づいていないんじやないか?」 「気づいてないよ、たぶん」  三人は苦笑しました。 「おかしな話だね」 「まったく」 「泥棒の俺たちしか気づいていない」 「いや、ちっともおかしくないだろ。泥棒っていう のは、この世の価値あるものを誰よりも知っている んだから」  「直観でね」  「そう、直観だよ。理屈じゃない。しかも面白いこ とに、価値は移り変わっていく。誰も見向きもしな かったものが、突然、高く評価されたり、信じられ ないほど高値で取り引きされていたものが、二枚に して二束三文に成り下がる」  「しかし、俺たちの直観はいつでも、世間の先を 行っていたI」  そうなのです。彼らが盗んだものの多くは、盗ま れた当初、  「なんで、あんなガラクタばかりを?」  と美術館や博物館の学芸員が失笑するくらいであ りました。  ところが、それから数ヶ月経つと、突然、盗まれ た展示品の価値が世界的に高まり、結果として、三 人の泥棒は大きな賭けに勝ったような喜びと利益を 得ることができたのです。  「でも、今夜のこれはどうなんだろう」  「本当に価値あることなのか」  「いや、すでに驚くべき発見だと思うね。絵の中か ら取り出した星は本物の星と同じように光っている I」   この現象は、まだ世界中の誰も知らないことでし た。  絵の中から絵に描かれたものを取り出すには大変 な技術を要し、それゆえ、長いあいた「盗み出すこ と」を仕事にしてきた彼らにしかできないことでし た。しかも、絵から出てきたものは、絵の外に出た 途端、本物になるのです。  「本当にそうなんだろうか」  「よし。試しに、この『テーブルの上』という絵に 描かれているコーヒーをカップごとこちらに取り出 してみよう。取り出した星が輝くように、取り出し たコーヒーは湯気をたてるのかどうかI」  結果は湯気をたてました。人れたてのコーヒーの いい香りが漂い、  「飲んでみるか」  おそるおそる飲んでみると、味もしっかりとコー ヒーのそれなのでした。 「これは大変な発見じやないか」 「俺たちにしかできないことだI」 「そう。長年、泥棒をつづけてきた俺たちにしかで きないことだよ」  美術館に展示された夜空が描かれた絵の中から、 すべての星をそっくり取り出すまで、およそ二時間 を要しました。途中、取り出したコーヒーを飲みな がら休憩し、取り出した洋梨を取り出したナイフで 皮をむいて食べました。  「こいつはいいね」 「世間の皆さまに教えてあげたいよ」 「この技術を習得すれば、みんな、この先、食うも のに困らなくて済む。何か食べたくなったら絵に描 けばいい」  「いや、しかし、技術を習得するのは簡単じゃない だろ?」  「そうだな。なにしろ、俺たちみたいに何十年も泥 棒をつづけなくてはならないんだからI」  彼らは影にしか見えない体のどこかから、自分の 分身のような黒い大きな袋をそれぞれに取り出しま した。そして、その袋の中へ絵の中から盗みとった さまざまな色かたちをした星を詰め込み、  「では、引きあげよう」  影のように美術館から退散し、その五分後には電 波塔のパノラマ窓から町を見下ろして空を見上げま した。  「こりゃ、ひどいね」  「絵の中とは雲泥の差だ。いつから、どうしてこう なった?」  「欲望の結果さ」  「じやあ、俺だちと同じじやないか」  「そういうことだ。みんな泥棒なんだよ。おのれの 欲望を優先して、この町でいちばん美しいものを百 年かけて盗みとった。この町の夜空から、美しい星 をひとつ残らず消し去った」  「いやはや、まったくI」  「ま、仕方がない。今夜は俺たちがお返しをしてや ろう」  「そうだな。さんざん、奪い取ってきたんだ。たま には、お返しするのもいいだろう」  そう云って三人の泥棒は絵の中から盗んできた、 この町の百年の星々を、黒い袋の中から空へ向けて 放ちました。  百年ぶりの晴れやかな満天の星です。   y昜れ 冬の少千  冬になりました。  いや、まだ冬にはなっていないよ、と笑っていた 人たちも、クローゼットから取り出してきた樟脳の 匂いがのこるコートを羽織り、背中を丸めて白い息 を吐きながら街を歩いています。  博物館で働いているヤマコシも、そのひとりでし た。  彼は市営博物館の特別調査記録係に任命され、毎 日、博物館の倉庫に保管されているさまざまなもの Iそれは、ほとんどこの世のすべてと云っていい のですがIを、ひとつひとつ確認してはノートに 記録する仕事をつづけていました。  かれこれ、八年ほどつづけてきたでしょうかI。  ですから、すでに仕事には慣れていましたし、博 物館のいちばん奥にある誰も訪れることのない小部 屋で、ひとり黙々とノートをとっていくのは、(自 分に合っている)とヤマコシはいつからかそう感じ ていました。  ただ、ひとつだけ残念なことがあり、それはヤマ コシの暮らしているアパートから博物館までが大変 に遠いのです。  まずはアパートから駅まで二十分ほど歩き、決 まった時間の汽車に乗って、一時間と十五分の距離 にある〈タチバナ〉という駅に向かいます。 〈タチバナ〉は、非常に大きなターミナル駅で、駅 の南側から北側まで十五分をかけて歩き、そこから 市営地下鉄に乗り換えて、二十分後にようやく〈博 物館前〉に到着します。  しめて二時間十分。  午前九時の朝礼に間に合うためには、朝の四時に 起きる必要がありました。  いえ、普通に考えると、いくら遠いとはいえ、四 時に起きるのは早すぎるように思われます。しかし、 これには理由があるのでした。  ヤマコシはこうした通勤の日々を重ねるうち、汽 車の中で過ごす時間が重要であると気づきました。 往復でじつに四時間二十分か費やされるわけですし、 その時間の中で、何かひとつでも自分にとって大事 なことをできないものかと考えたのです。  (食事だ)  ヤマコシは早々に結論に至りました。  (食事こそ、仕事の次に大事なことだよ)  もちろん、他にも小さな楽しみはあります。  たとえば、書き心地のいい万年筆とインクを使っ て、故郷の家族や、ただひとりの友人に手紙を書く 時間は、ひとりきりであることを忘れさせてくれる 愛すべき習慣でした。  けれども、そうした小さな楽しみの中で、最もヤ マコシを幸福な心地に誘うのは、食事をすることで した。  食材を吟味するところから始まり、少しずつ買い 揃えた調理器具を使って、自分で料理をしていく Iその過程のすべてが喜びであり、当然ながら、 その先には食べる喜びがありました。その美味しさ に、思わず「ああ」と感嘆のため息がもれてしまう ことも、しばしばです。  ヤマコシは友人に送った手紙にこんなことを書い たことがありましたI。  ぼくはこの街に来てから、ずっとひとりで暮らし てきた。ここには知り合いはいても、友人と呼べる 者はいない。これは、君もよく知っているぼくの性 格によるものだろう。ぼくは、見知らぬ人と話すの が苦手だし、ぼくの方から話しかけない限り、誰か がぼくに話しかけてくるということもない。きっと、 これが生涯つづくのだ。  となると、ぼくは自分で自分を楽しませるより他 ない。その結果、「料理」というものに行き着いた。  自分で料理をして自分が美味しいと思えるものを 食べること。  これ以上、確実に、そして日常的に自分に喜びを 与える術はないと思われる。  そうしたわけで、彼は毎日午前四時に起床し、顔 を洗って熱い紅茶と一緒にクラッカーを食べると、 おもむろに出勤途中の汽車の中で食べる弁当をつく り始めました。その弁当はつまり朝食ということに なるわけですが、昼食ならともかく、朝食の弁当を つくる者はあまりいないかもしれません。  これにもまた理由がありましたI。  ヤマコシが乗る汽車は、発車してから三十分ほど はそれなりに混んでいるのですが、三十分を過ぎて 到着する〈オオジカ〉という駅で、ほとんどの客が 降りてしまいます。車内に残るのは、ほんのひと握 りの人数で、したがって、弁当の包みをひらいて食 事をしても、周囲の視線を集めることは、まずあり ません。  というより、いつからかヤマコシは車中でどのよ うに過ごしたらいいのかわからなくなっていました。  (それなら、自分がいちばん喜びを感じる「食事」 をするのがいいだろう)  そう考えたわけです。  それにしても、ヤマコシはとても丁寧に弁当をつ くりました。  メニューはおよそ決まっていて、じっくり時間を かけて野菜と肉の煮込み料理をつくり、それを自分 で焼いた白く大きなパンに挟んで完成です。簡素と 云えば簡素なものですが、毎日、繰り返しつくるう ち、(どうすれば、より美味しくつくれるだろう?) と考察を重ね、日々、完成度が増しているのでした。  別の云い方をすれば、毎日、違う味がして、それ が日に日に美味しくなっていくのです。実際、ヤマ コシは繰り返される一日の中で、弁当を食べる時間 に最も充実感を覚え、これこそ自分にふさわしいさ さやかな幸福なのだと満足していました。  月曜日の朝は雪が降っていました。  降りしきる雪の中を汽車は走り、窓の外に白い風 景がひろがっています。  車内は暖房装置によって、ほどよくあたためられ ていましたが、ヤマコシが窓ぎわの席で息を吐くと、 車内であっても、息がはっきりと白く見えました。  ヤマコシはこのようにして、自分の住む小さなア パートと、そこから時間にして二時間十分離れたと ころにある古い博物館とを往復し、行きの汽車の中 で自前の朝食をとるという生活を、五年間、繰り返 していました。  苦ではありませんでした。  不思議なもので、きちんと毎日そっくり同じよう に繰り返されていくことがヤマコシには快く、むし ろ、思いがけないことが起きると、わけもなく心臓 が高鳴って、どうしていいかわからなくなってしま うのです。  その月曜日に、そんなことが起きましたI。  それはちょうど〈オオジカ〉の駅を過ぎて乗客の あらかたが下車し、いつものようにヤマコシが革鞄 の中から弁当の包みとポットに詰めたコーヒーを取 り出そうとしたときでした。  視界の隅に一人の少年の姿がありました。  ヤマコシのいる席から見て、逆の側の窓ぎわに少 年は座っていて、おそらく学生なのでしょう、それ らしい紺色の制服を着ていました。  しかし、よく見ると、制服はアイロンがかかって いないのか、ずいぷんと皺だらけで、ひじのあたり の生地が薄くなって、いまにも抜けてしまいそうで す。  少年はI人きりで四人がけの椅子のひとつに座り、 すぐに鞄から本を取り出してページをひらきました。 少年の手の中にちょうどよくおさまる小さな本で、 なんという題名なのか、ヤマコシの座っているとこ ろから少しばかり距離があるので読み取ることはで きません。少年は本をひらくなり夢中になって読み 始め、ヤマコシの視線に気づくこともなく、ひたす ら本を読みつづけていました。  その様子にヤマコシは目を奪われました。 (どうしてだろう)  少年が本を読んでいる、ただ、それだけのことな のにI。  (雪が降っているせいだろうか)  少年の向こうには、ただ白いばかりの風景がひろ がっていました。  汽車は〈オオジカ〉であらかたの客を降ろすと、 節電のために車内灯の半分を消すのが習わしになっ ていて、車内が薄暗くなって、より白い背景が際立 ち、少年のシルエットを輪郭の隅々までくっきりと 浮かび上がらせていました。  汽車はひたすら白い景色の中を走っていました  どのくらい時間が過ぎたでしょうか。  それまで、ひたすら本を読みつづけていた少年が ふいに顔をあげ、窓の外の景色に初めて気づいたと いうふうに見入っていました。  長いあいだ、少年はそうしていましたが、そのう ち、身支度を整え始めると、〈タチバナ〉のふたつ 前の駅で汽車を降りていきました。  少年の座っていた席は、なにごともなかったかの ように空席となり、ヤマコシはしばらく頭がぼんや りとして、弁当を食べることさえ忘れていました。  翌日の火曜日は博物館の休館日で、ヤマコシはい つものように早い時間から起き出して、二年ぶりに 母親に手紙を書きました。  ヤマコシの母はしきりに彼に見合いを勧めていた のです。  (こちらにいいお嬢さんがいるから、一度会ってみ ない?)  母親はたびたび手紙にそう書いてきました。  その返事をヤマコシは二年間もやり過ごしていた のです。当然、郷里に帰ることもありませんでした し、電話で話すことも避けてきました。  (今度、春に帰ったときにI)  ヤマコシは母への手紙に書きました。  (そのお嬢さんにお会いできたらと思っています)  それは体の底から立ち上がってきた偽りのない思 いでした。  ヤマコシは、汽車の中で本を読んでいた少年を見 かけたことで、この街へ来たばかりのころの自分を 思い出していたのです。  (あのころは行き帰りの汽車の中で自分も本を読ん でいた。いったい、いつから読まなくなってしまっ たんだろうI)  ページをひらくことは世界をひらくことでした。  ヤマコシはひとりで暮らし、ひとりで考えて、ひ とりで問題を解決することに慣れていましたが、そ のかたわらには、いつでも本がありました。たとえ、 日がな一日、誰とも話すことはなくても、本を読め ば、そこに誰かがあらわれ、自然と彼や彼女の声を 聞くことになりました。  (本が素晴らしいのはI)  ヤマコシは少年が本を読む様子から、単純ではあ るけれど、ひとつの大きな発見をしていました。  (ページをひらけば、すぐに別の世界があらわれ、 ページを閉じれば、こちらの世界の音や匂いが戻っ てくる)  (どうも、自分はいつからか自分以外のものを閉め 出していたようだ)  ヤマコシは母への手紙を投函したあと、以前よく 行っていた街角の書店に立ち寄りました。  「ずいぶん、顔を見なかったね」  店主が声をかけてきました。  「どうしたかと思っていたよ」  「いぇI」  次の囗からヤマコシは汽車の中で買ったばかりの 本を読み始めました。  ときどき、ページから顔を上げて窓の外の景色を 眺め、それからまた本を読み、その合間にいつもの 弁当を食べてまた窓の外を眺めました。  ついでに、汽車に乗っている人たちの様子も観察 していましたが、世の中にはじつにさまざまな人が いるものだと感心しました。  (あの少年にまた会えるだろうか)  ヤマコシの目は少年を探していましたが、彼の姿 を見かけることは二度とありませんでした。  き一……` セーターの袖の小さな穴     づ  ぼくは仕事を失ったのでした。  ずいぶん長いあいだつづけてきた仕事でありまし たが、ある囗、  「もう、やらなくていいんだよ」  と云い渡されて、それで終わりでした。  ぼくはしかし不思議と悲しくはなく、少しのあい だであれば蓄えがあるし、これまで一度も休暇とい うものを経験したことがなかったので、次の仕事を 見つけるまで、旅行にでも出て、しばらく何も考え ずに過ごすのはどうだろうかと考えました。  ぼくは子供のころから楽天的な人間でした。楽天 的であるというのはどういうことかと云うと、苦境 に陥ったときに、その苦境の中に、何かしら楽しめ るものを見つけるということです。  仕事をしなくていいのなら旅に出ようI。  そういうことです。  ぼくは毎日決まった時間に起きて、決まった時間 に仕事場へ行き、朝から晩まで休みなく働いていま した。ですから、旅行というものと縁遠く、具体的 に云うと、飛行機にも船にも特別急行列車にも乗っ たことがないのです。  「さてI」  ぼくは自分に訊きました。  「お前はいま、どこへ行きたいのだ?」  遠いところか?  たとえば、飛行機に乗って地球の裏側まで行くこ とだって、いまならできる。  このことはよくよく肝に銘じなくてはならない。 「いまならできる」ということだ。いずれまた仕事 をするようになったらI楽天的なぼくは、きっと そうなると信じているのですがIそのときはもう 旅行に出ようなんて思わなくなる。  そういう性格なのです。  仕事をしているときは仕事のことだけを考え、旅 行をしているときは旅行のことだけを考えていたい。  だから、いましかない。  いまならできます。  丸二日間考えて、ぼくの出した結論は、旅先は 「遠いところ」ではなく、「特急列車に乗って三時間 くらいで行けるところ」というものでした。  それも、山奥や海べりではなく、いま住んでいる 街とさして変わらない街へ行ってみたいI。  というのも、ぼくは仕事に集中するあまり、ほと んど引っ越しというものをしたことがありませんで した。これまでの人生の大半を、いま住んでいる街 で過ごしてきたのです。ですから、他の街というも のに興味がありました。  それに、旅先が普通の街であれば、何も持って行 く必要がありません。  いつも使っている鞄にいつも持ち歩いているもの を入れ、つまりは仕事に出かけるときと同じ装備で 出かければいい。必要なものがあればIたとえば、 新しいセーターが欲しくなったら、その街の洋品店 で買えばいいわけです。  じつは、セーターの袖に小さな穴があいていて、 こういう小さな穴から始まって、いつのまにか取り 返しのつかない壊滅に至るという経験がこれまでに 何度かありました。  ですから、セーターはそろそろ買い替えた方がい いと思われました。  いや、どうせ買い替えると決まっているのなら、 いますぐ買い替えた方がいいかもしれません。  ぼくは自分のアパートからすぐそこの駅前商店街 に出ると、以前、ワイシャツを買ったことがある 〈オノダ洋品店〉に向かいました。  ところがです。  ぼくが仕事に集中した日々を送っていたあいだに、 どうやら〈オノダ洋品店〉は壊滅してしまったよう でした。たしかここにあったはず、という場所は更 地となり、おそらく、〈オノダ洋品店〉は最初の 「小さな穴」に気づかなかったのでしょう。  (よし、それならI)  こういうときは気持ちの切り替えが大切です。  ぼくはそのまま駅へ向かい、私鉄電車に乗って、 三駅離れた〈真倉〉という隣街に向かいました。  それは、ぼくが仕事場に通うのとは逆の方向で、 じつを云うと、ぼくはそちら方面に向かう電車に 乗ったことが一度もありませんでした。何の用事も なかったのです。買い物はすべて駅前の商店街で済 ませていましたし、趣味は読書ですから、自分の家 か商店街の喫茶店などで本を読むのみです。  車にも自転車にも乗らず、スポーツやギャンブル といったものにも興味がありません。友人はいます が、彼はいま外国の大きな会社で働いているので、 もう何年も会っていないままです。仕事以外で誰と 会うこともありませんし、そうなると、本当にどこ へも行く必要がない。たとえ、それがすぐ近くの隣 街であってもI。  しかし、〈真倉〉駅を降りて駅前のロータリーに 立ったとき、(そういえば)と子供のころに一度だ け歩いて〈真倉〉まで来たことがあっだのを思い出 しました。  街の様子はそのときと比べてだいぶ変わっている ようでしたが、風景のそこかしこに記憶の底に埋も れていたものが反応し、何の変哲もない商店街が、 いちいち感慨深く目に映りました。  そうしてぼくは、あたらしいセーターを手に入れ たわけです。  〈真倉〉の商店街の中ほどに〈スガヌマ〉という洋 品店を見つけ、その店のマネキンが着ていた黒色の セーターを購入しました。  帰宅するなり、その黒いセーターに着替え、それ が驚くばかりに自分の体にフィットしたとき、いわ ゆる天の声というものを耳にしたのです。 (旅に出る必要など、ないのではないか)  天の声がそう云いました。  (特急列車に乗って三時間のところにある街と、す ぐそこの三駅のところにある隣町とのあいだに、さ て、どれほどの違いがあるというのかI)  そのとおりでした。  いわゆる観光地などには出かけず、普通の街へ旅 に出るというのが自分ならではの発見ではないかと 自負していたのです。  しかし、どうせ普通の街に旅に出るのであれば、 たしかに隣町で充分です。  それに、隣町であれば宿泊所を予約しなくてもい いI。  毎日、自分のアパートから隣町まで旅をする’・  まずは自分なりの地図をつくろう。旅といえば地 図とガイドブックです。  しかし、隣町のガイドブックなどあるはずもなく、 であるなら、自分でつくるしかありません。最初の 一週間はその作業に費やされ、隣町の街路を隈なく 歩き、公共施設や商店の所在を書きとめて一枚の地 図を完成させました。  この作業を経たことで、ぼくは〈真倉商店街〉の あらゆる店舗に精通し、商店街のいちばんはずれに ある〈チケット〉という喫茶店が自分にとって理想 的な居場所であることを発見しました。  店内は広くも狭くもありません。そして、暗くも 明るくもない。  さらには、空いているわけでもなければ混んでい るわけでもなく、朝早くから夜遅くまで営業してい ます。  そして、なにより大事なことは余計な音楽が流れ ていないことですI。  あらかた一人で来店している客ばかりで、騒がし くする者などまずいません。およそ店内は適当な静 けさが保たれ、当然のようにコーヒーがおいしく、 いや、コーヒーに隕らず、紅茶やココアやジュース やケーキといったものが、ことごとく質が高いので した。  ぼくは毎日、〈チケット〉に通いました。  隅の方の席でノートをひらいて〈真倉〉のガイド ブックの草稿を書き、二杯目のコーヒーを飲みなが ら持参した本を読みました。  もし、遠い街へ旅に出ていたらどうなっていたか。  おそらく、居心地のいい喫茶店を見つけ、そこへ 毎日のように通ってば本を読んでいたに違いありま せん。  あるいは、もし、この世に自分のような人間がも うひとりいるとしたらI。  彼はここから特急列車で三時間のところで暮らし ていて、その彼が仕事を失って、どこか遠い街に旅 に出ようと思い立つ。そこで選ばれたのが、他でも ないこの〈真倉〉であったとしたらI。  「遠い引っ越し」のような旅をしてみたい、という 自分なりの考えに従って云えば、遠くへ行くことも、 すぐ隣町へ出かけていくことも、何ら変わりない Iそう実感することができました。この実感が得 られれば、この旅はもう九分九厘、成功したような ものです。  ぼくは一日も欠かさず隣町への旅をつづけました。  発表するあてのない幻のガイドブックの草稿を添 削し、二杯目のコーヒーと共に本を読みつづけまし た。  それは外国の作家が書いた非常に長く平坦な物語 がつづく小説でしたが、二週間をかけて読み終える と、その読書もまたひとつの旅のようでした。どこ までもつづく平坦な物語は変わりばえのしない風景 のようで、しかし、その風景の中に、こちらの記憶 を促すものが見え隠れしているようで、何度も本を 閉じては忘れていた記憶をたどり直すことになりま した。  しかし、とうとうその本を読み終えてしまったの で、次に読む本を探すべく書店へ行ってみよう、と 〈チケット〉を出て商店街を歩き出したところで気 づきました。  この街には本屋がないI。  いえ、昔はあったのです。  そうでした。ぼくが子供のころに〈真倉〉まで歩 いてきたのは、欲しかった本が近所の書店で見つか らなかったからです。そのとき、「〈真倉〉に小さい けれど本屋が一軒あるよ」と誰かから聞き、自分で 探して商店街の途中に見つけたのでした。たしかに 小さな書店でしたが、面白そうな本がたくさん棚に 並んでいました。  おぼろげな記憶と共にいまいちど現在の商店街を 歩き、(たしか、このあたり)と見当をつけたとこ ろに記憶のままの小さな店がありました。  ただし、シャッターがおりています。  書きかけのガイドブックで「保留」とした店のひ とつでした。  その隣の店が黒いセーターを買った洋品店の〈ス ガヌマ〉で、ぼくが黒いセーターを着て店先に立っ ているのに〈スガヌマ〉の店主である菅沼さんが気 づきました。  「どうしたんだい?」  「ええ」とぼくはシャッターのおりだ店を指差しま した。「ここは、昔、本屋さんでしたか」  「ああ、そうだよ」  「もう、営業していないのですか」  「そうねえ。ご主人が亡くなって、二年くらい経つ かな」  「そうでしたか」  「さみしいもんだよね、本屋がなくなるとさ。なん というか、セーターの袖に小さな穴があいちまった みたいなI」  「ええ」とぼくは同意しました。「よくわかります」  「あれ?」と菅沼さんは話の途中で急に身をひるが えし、「ほう」などと云いながら道のはずれに移動 して空を見上げました。  「いい月が出てるじやないか」  「はい?」  菅沼さんが見上げているあたりに目をやると、ま だのぼってきたばかりの大きなまるい月がかろうじ て見えました。  「月がさ、いいんじやねえか、と云ってるんだよ」 −菅沼さんはそう云いました。  「なんのことです?」  「じつを云うと、おればアンタがその黒いセーター を買ったときから見抜いていたんだ。アンタが隣の 本屋を再開してくれるんじやないかって。どうだい、 図星だろ。アンタは本屋をひらきたい。だよな?」 思いもよらないことでした。 ぼくが本屋をひらく? 月を見上げました。 (いまならできるよ)  天の声がそう云いました。  九九9 一臨゜虎」ヴ 亀今″ 〈中山先生〉というのが、その店の名前です。 〈中山先生〉の主人である中山太郎氏は、その昔、 学校の先生をつとめており、皆から「中山先生」と 呼ばれていました。  先生は先生の仕事のあとに校正の仕事に就き、そ のあと、少しのあいだ文具店などをひらいたときも あって、しかるのち、先生の母親から教わったくた まごのヶIキ〉を街の皆に食べていただきたい、と いう思いから店をひらいたのでした。  〈たまごのヶIキ〉は、まるく平らに焼いたパイの ようなヶIキを三角に切り分けて売っています。そ の断面はさまざまな黄色にいろどられ、甘い卵の味 と、少しばかり塩気をはらんだ卵の味と、濃厚な味、 やさしい味、ミルクのような味、チーズのような味 −と、卵からつくられたじつにさまざまなクリー ムやら餡のようなものが層になって詰まっています。  それは中山先生の母親が外国で教わってきたもの でした。  外国というのは、とても遠いところで、大きな暗 い森があり、森の中には、いにしえより伝えられて きた大変に頭のいい一頭の虎が棲んでいたというこ とです。  中山先生の母親は、その国に若いときに滞在し、 語学の勉強をしながら庭師の仕事を手伝っていまし た。  庭師の名前はマリオンといって、かたちのいい帽 子をかぶった寡黙な老人でした。老人でしたが体は きびきびと動き、朝から夕方まで働いて、仕事が終 わると、夜の始まりの食卓で、シェリー酒を小さな グラスに一杯飲むのでした。  中山先生の母親は、ただ一度だけでしたが、仕事 の手伝いのあとにマリオン老人の家に招ばれ、小さ なグラスに注いだ冷たいシェリー酒をいただいたこ とがあります。  掌の中に隠れてしまうような小さなグラスで、細 かい花の模様が彫り込まれていました。そっくり同 じものがふたつあり、ひとつはマリオン老人が夕方 にシェリー酒を飲むときにかならず使っているよう でしたが、もうひとつのグラスはよく磨かれて、そ の表面に真新しい艶を残していました。  中山先生の母親は、そのグラスに自分のシェリー 酒を注いでもらい、ああ、これはマリオン老人のい まはもういない伴侶−奥様が使っていたものに違 いないと直感しました。  「ああ」  マリオン老人は頷きました。 「若くして逝ってしまったのだよ」  老人は窓の外を見ていました。窓の向こうには深 緑色の森がひろがっています。  「彼女はとても絵が上手だった」  老人は森を見つめたまま絵を描く仕草をしてみせ ました。  「二階にね、彼女の描いた虎の絵がある」  そう云って、頭の上を指差したのです。  しかし、マリオン老人の家は平家ですから二階な どありません。  中山先生の母親はその国の言葉をまだ充分に習得 していなかったので、きっと自分は聞き間違いをし たのだろう、とそのときはそう思いました。  ある囗、マリオン老人が庭の仕事の合間に手提げ 鞄の中から白い箱を取り出し、中山先生の母親に 黙って差し出しました。  午後のお茶の時間でしたI。  二人は依頼を受けて大きな庭をもっだ屋敷に来て いたのです。庭のはずれにあったベンチに二人は腰 掛け、老人から受け取った白い箱のふたを中山先生 の母親はひらきました。  すると、三角に切り分けられた柔らかそうなパイ のような菓子がふだ切れおさめられていて、水筒に いれた紅茶を飲みながら、その菓子を「食べなさ い」と老人は勧めるのでした。  中山先生の母親は云われるまま、その麗しく甘や かな黄色い菓子を口に運びました。そして、その夢 のような甘さと、ねっとりしたクリームの味わいに 驚き、それまで食べたことのない美味しさに、文字 どおり身を震わせました。  まるで、天国へやって来て、昔、一緒に遊んだ友 達やいとこだちとお茶の時間を過ごしているような、 うまく言葉にできない喜びを感じました。  「妻はそのケーキのつくり方を彼女の母親から教 わったと云っていた」  老人はIおそらくIそう云っているのだと中 山先生の母親は理解しました。  「そして、これが、母から娘へと代々つたえられて きたI」  マリオン老人は胸のポケットから皺だらけの紙き れを一枚取り出し、中山先生の母親に「レシピだ」 と手渡しました。  その二日後です。  マリオン老人は「森へ行く」と書き置きを残し、 目撃した人の証言によると、  「全身に銀色の鎧をつけて、よろよろと森に大って いった」  とのことでした。 それきり帰って来なかったのです。 「きっと、虎に会いに行ったんだろう」 「長い冒険になると、知っていたんだろうね」 「虎はアレだからな」 「みんなのねI」 「そう。みんなの魂だから」  近隣の人たちは口々にそう云いながら、暗い森の 入口にたたずんでいました。  中山先生の店は誰もが驚くばかりに繁盛しました。  小さな店の店先で、〈たまごのヶIキ〉だけを販 売しているのですが、常に行列ができ、街の人たち はこぞってその麗しくもやさしい甘さのヶIキをも とめました。  五年間−。  客足が絶えることはありませんでしたが、五年目 の秋の夕方に、先生は自分の兄の娘である姪のシズ カに、「私はもう引退したい」と小声で漏らしまし た。  「私は自分の役割を充分にまっとうしたと思う。あ とはシズカー君に引き継いでもらいたい」  先生はこれまで誰にも見せたことのなかったくた まごのヶIキ〉のつくり方を記したレシピを胸のポ ヶツトから取り出しました。  「これは母親から教わったものだ。このレシピのと おりにつくればいい」  シズカは半年ほど前から店の手伝いを始めていま したから、じつのところ、先生がヶIキをつくると ころを、後ろからそっと見てきたのです。ですから、 手順については、空で云えるほど熟知していました。  ただ、先生のいないときに試しに自分でつくつて みたところ、先生のつくったヶIキと何かが違うの でした。何かとても大切な、このヶIキのいちばん 真ん中にあるものが、  (抜け落ちている)  とシズカはそう思いました。  (何か足りないんだろう)  常々そう考えてきましたから、シズカは飛びつく ようにして、そのレシピに目を通し、先生のきれい な字で書かれた手順を、ひとつひとつ噛みしめるよ うに読みました。  どれも、自分の思っていたとおりで間違いありま せん。  しかし、ただひとつだけ、ヶIキの生地を作る工 程の前に、「二階の虎の絵」と一行だけ書いてあり ました。  「これはどういう意味?」  シズカが訊くと、先生は、 「ああ、それか」  と視線を上に向けました。  「うちの二階に虎の絵があるんだ。その絵のことを 考えながら生地を練るんだよ」  (二階に?)  シズカは店の二階には部屋がふだつしかないこと、 そして、そのふたつの部屋のどこにも絵など飾られ ていないことを知っていました。  「みんな、あの絵の中にいるからね」  先生はそう云いました。  「このヶIキを何百年にもわたってつくってきた人 たちがね、みんな、あの絵の中にいるんだよ」  「そうなの?」  「いずれ、私もそこへ行く。母もそこにいるし、マ リオン老人もいる。彼の若い細君と、その母親もね。 さらにはその母親と、そのまた母親もね」  その二日後に中山先生は厨房で胸をおさえてうず くまり、なぜか、口の端に清らかな笑みを浮かべた まま帰らぬ人となりました。  また夕方が来ました。  今日もまたくたまごのケーキ〉は売り切れとなり、 夕方に店を閉めたあと、シズカは店の奥の厨房で明 日のケーキの下ごしらえを始めようとしていました。  始める前に、まずは小さなグラスに一杯、冷蔵庫 で冷やしておいたシェリー酒をいただきます。自分 に元気を与えるために。あるいは、自分をもうひと りの別の自分に変身させるための、これはちょっと した儀式です。  先生が遺したレシピのいちばん最初にそう書いて ありました。  手順その匸  まずは気持ちを落ち着けて、小さなグラスに一杯、 透明なシェリー酒をいただきなさい。  そこには先生の声だけではなく、男や女たちの老 いた声や若々しい声−知っている声と知らない声 が、いくつも折り重なっていました。  外は風が吹いています。  厨房の窓ガラスが風に音をたて、シズカは風の向 こうから何か聞こえてこないものかと耳を澄まして いました。  時計の音しか聞こえません。  いえ、時計の針が刻む一秒と一秒のあいたに、あ たかも別の時間がまぎれ込んできたかのように、ひ たりひたりと足音が聞こえてきました。夕方のアス ファルトを歩きまわった冷たい肉球が、重たい体を ゆっくりと運んでくる音です。  シズカはそれが、酒に弱い自分が一杯のシェリー 酒に酔って見た夢のようなものだろう、とわかって いました。  ここは森ではないのです。  車や人が行き交う街の真ん中で、ただ、夕方にな ると、いっとき車も人も途絶えて、しんと静まりか える十五分ほどの時間がありました。  その十五分のあいたに、虎は街を歩いて店にやっ て来るのでした。  なるべく目立たぬよう、息が荒くならないよう気 をつけながら、店の裏手の木戸を鼻で押しあけ、シ ズカのいる厨房にそっと入ってきます。  ひたりひたり、と冷たい肉球が厨房の床を歩いて 来る音が聞こえ、シズカがシェリー酒を飲んでいる、 そのすぐ横を悠々と通り過ぎてゆくのです。  もう何度も繰り返されているので、虎は二階に上 がる階段の位置も知っており、迷うことなく階段を のぼって、二階のふたつある部屋のうち外の通りに 面した幾分か広い方の部屋にたどり着きます。その 部屋の壁に、誰にも見ることのできない一枚の絵が 飾られているのでした。  シズカは虎がしばらくのあいた部屋の中を歩きま わる音を頭上に聞き、やがてそれが静まり返ると、 虎は今日も無事に自分の絵の中に帰ったのだと、虎 ではなくシズカの胸の内が安らかになるのでした。  「さて」  飲み干したグラスを置き、シズカは明日のヶIキ の生地をつくり始めました。      愀0い    皆    /y   d4     ’‐‐’−’−’ヘ マーちゃんの眼鏡  大踏切の向こうに〈カドヤ〉という店があること は知っていました。  でも、ミナミは行ったことがありません。  ただ、〈カドヤ〉の通信販売のチラシを眺め、写 真入りで並んだいくつかの商品の中からオーブンー トースターを注文したのです。  チラシはミナミの住むアパートのポストに投げ込 まれていました。  ミナミはこのごろ目が悪くなり、チラシの細かい 文字がよく見えないのです。  けれども、「安売り」と大きく印刷された三文字 がミナミを脅かすように迫ってきました。そのトー スターは評判の品でしたし、ひとり暮らしを始める ときに母親が買ってくれた旧式トースターは、ある 囗突然、パンを黒焦げにしてしまったのです。パン が焦げてしまうくらい悲しいことはありません。  その点、〈カドヤ〉から送られてきたあたらしい 方式のトースターは、じつにちょうどよくトースト を焼き上げました。  それで、しばらくは何の不安もなく美味しくトー ストを食べていたのですI。  ところが、さてどういうわけか、ある朝突然、あ たらしいトースターがパンを黒焦げにしてしまいま した。  ミナミは取扱説明書と保証書を引き出しから取り 出してくると、「おといあわせ」と何故か平仮名で 印刷されている注意書きを確認しました。  そこには大踏切の向こうの住所と電話番号が記さ れていて、ミナミは迷わず「もしもし」と電話をか けてみたわけです。  「はい」  電話機の中から快活な若い女の声が聞こえてきま した。  「こちらは、お客さま相談係でございます」  「あの」とミナミはいざとなると何をどう云ってい いかわからず、「パンが焦げてしまうのです」とよ うやくそう伝えると、電話の向こうの彼女は、  「それでは、お客さまのお名前とご住所をお願いし ます」  綺麗な声でそう云うのでした。  その声に惹かれて、ミナミが住所と名前を告げま すと、しばらくの沈黙のあと、  「ミナミ?」  その女のひとが綺麗ではない普通の声で訊いてき ました。  「あたし、豆腐屋のマーだよ」  「え、マーちゃんなの? 本当に?」  ミナミは急に別のところへ連れ出されて、あたり の空気が一気にやわらいたような心地になりました。  「いつぶりだっけ?」  「そうね」とマーちゃんは記憶をたどっているよう でした。「たぶん、中学の卒業ぶりかな」  「ずいぶん前だよね」  「ずいぶん前」  「どうしてI」  「うん。こっちへ来だの。昨年、ようやくね」  「大踏切を渡って?」 「そう。部屋も引っ越してI」 「そうなんだ」 「そうなの。いま仕事中だから詳しいことは会って 話さない? 夜の七時に〈バンザイ酒場〉で。あた し、久々にそっちへ帰るから」   大踏切というのは本当の名前ではありません。   本当はIさて、何と云うのでしょう。きっと誰 も知りません。  特別な踏切ではなく、遮断機の長さも通常のもの で、警報音を響かせるあの赤い目をした例のものも、 ごく普通の大きさでした。  では、なにゆえ「大踏切」と呼ばれているのかと 云えば、こちらからあちらへ、もしくは、あちらか らこちらへ渡ってくるその距離が、あきれ返るくら い大変に長いのでした。誰もが途中で引き返したく なるような長さで、向こう側かまるで見えないくら い圧倒的に絶望的に長いのです。  そのうえ、無事に渡りきったひとは二度と戻って くることがなく、そのうち、こちらからあちらへ行 き着くこと自体がおそろしくなって、ミナミのいる こちら側の住民は、いつからか誰も大踏切を利用し なくなりました。そもそも、そのあたりは電車の車 庫が連なっているばかりで、陽が暮れるとぼんやり と電車のあかりだけが見えるさびれたところなので す。  しかしですI。  そのような大踏切の端に、ただひとつ〈バンザイ 酒場〉というおかしな店があり、白い暖簾に「笑い ながらバンザイをする男」が描かれていました。店 の中にはその絵の男にそっくりの店主がいて、絵と 違うのは、どんなときも、まったく笑顔を見せない のでした。むしろ常に怒っているようで、何か大変 に不満を抱いた様子で名物の肉団子を黙々とこしら えています。  この肉団子は軽く揚げてあるので表面がカリッと しており、一見、とても美味しそうには見えないの ですが、ひと口食べると、中から泉のように肉汁が あふれ出すのでした。その美味さには余計なソース など必要ありません。わずかばかりの塩が皿の端に 盛られていますが、それですら、まじないのような もので、塩をつけて食べる客は皆無でした。  大踏切を渡ろうとする者はいませんけれど、この 肉団子を目当てに客はそこそこ訪れ、客はすべてこ ちら側の者であって、あちら側から大踏切を渡って 肉団子を食べに来る者はありません。  (きっと来ないだろうな)  ミナミはそう思っていました。  マーちゃんはああ云っていたけれど、あれはク レーマーである自分をいなすためのマーちゃん流の やり方で、たぶんこちらに帰ってくるつもりはなく て、明日また電話をしてみると、「ごめん、今日こ そ会おうよ」と誘ってくるIマーちゃんにはそう いうところがありました。  ミナミはマーちゃんと特別仲が良かったわけでは ないのです。マーちゃんは女の子なのに黒ぶちの大 人がかけるような分厚いレンズの眼鏡をかけ、つま り、とっても目が悪いのでした。 「あたし、眼鏡がなかったら、なあんにも見えない の」  そのくせ、マーちゃんは少々−というかかなり お転婆なところがあり、はしやいで走りまわって、 大事な眼鏡をどこかに落としてしまうことが度々あ りました。そういうとき、ミナミは誰ひとリマー ちやんを助けようとしない級友たちに辟易し、「大 丈夫?」と声をかけて一緒に眼鏡を探してあげたの でした。  そういう仲ではあったのですが、いずれにしても、 それはもうずっと昔のことです。 〈バンザイ酒場〉の前に立ち、大踏切の向こうを見 据えていると、「いつか」とミナミはもう何度口に したかしれない思いを、またつぶやいていました。  「いつかきっと、向こうへ行こうよ、わたし」  子供のころからそう唱えてきたのです。  けれども、この大踏切は先に申し上げたとおり、 そう簡単に渡り切れるものではありません。無茶を して特急列車に轢かれ、白いシャツが散り散りに宙 を舞って命を落とした者もありました。電車の側も、 いつからか大踏切を渡る者などいないだろうとタカ をくくり、まるで踏切など存在していないかのよう に、思いきりスピードを上げて通過して行きます。  「でも、いつかはねI」  時計の針がまわって約束の時間の七時を十五分過 ぎたとき、「やっぱり来ない」とミナミは待つこと をやめて大踏切から離れようとしました。  そのときです。  ずっと遠くからIもはや彼方と云っていい遠い 向こうから、ゆっくりしているような急いでいるよ うなおかしな足どりでマーちゃんはやって来ました。 間違いありません。なぜって、マーちゃんは子供の ころと寸分違わないあの黒ぶちの眼鏡をかけていた からです。  マーちゃんは決然とした面持ちでこちらへまっす ぐ歩いてきて、ミナミの顔を認めるなり、「ひさし ぶり」と手を挙げました。  「お客さま相談係はアルバイトで、週に二日だけな の」  マーちゃんはそう云いました。 〈バンザイ酒場〉のいちばん奥の席に二人はおさま り、肉団子を口にしたマーちゃんは「ひさしぶりで、 これすごく美味しい」と目を見張っていました。二 人の他に客はなく、店主はひたすら黙々と肉団子を つくりつづけています。  「そんなことより」とミナミはマーちゃんのあちら での生活が知りたくて仕方がありませんでした。 「アルバイトをしていないときは何をしてるの?」  「そうね。日曜日はお休みで、あとの四日間は眼鏡 をつくってるかな」  「眼鏡?」  「あたし、それが本職なの。眼鏡づくり。ひとりで ね。全部、自分で考えて自分でつくってる。有難い ことに人気があって、予約が三年先まで埋まってる の」  というのも、マーちやんのつくる眼鏡はまたとな い特別仕様で、本当にうまくできたときは、眼鏡を かけたひとが寿命を迎えるまでに見るすべての光景 がいっぺんに見えてしまうというのです。  「気づいちゃったのよ、あたし」とマーちゃんは声 をひそめて云いました。「この世でいちばん困るの は自分がいつ終わってしまうかわからないってこと でしよ? だから、その終わりの風景がどんなもの なのか、レンズごしにすっかり見えるような眼鏡を つくろうと思ったわけ」  ミナミにはマーちゃんの云っていることがもうひ とつわかりませんでした。そうした夢を描いている という話なのか、それとも本当に自分の寿命がわ かってしまう眼鏡をつくっているのかI。  「ミナミもつくってみない? だって、知りたいで しょう? それがわかっていれば、いたずらに急い で大踏切を渡ることもないし」  (それは確かにそう)とミナミは自分の頭の中に青 空がひろがるのを感じました。(それさえわかって いれば、きっと不安を感じることもなくなる)  「じやあ、つくろうね」  「−うん」とミナミは頷いていました。これはも しかして、またとないチャンスを神様が授けてくだ さったのかもしれません。  「でも、どうやって?」  「わけないわ」  マーちゃんは自分のかけていた黒ぶち眼鏡をはず すと、ミナミの目を裸眼のままじっと見つめました。 マーちゃんの目は深い水の底のような色をしていて、 その目と自分の目がひとつになり、自分の目がマー ちゃんの目になって、いつのまにか自分で自分の目 を覗き込んでいました。 「わかった」  マーちゃんは云いました。  「どんな眼鏡をつくればいいか、隅から隅まですっ かりわかりました」  かしこまった口調でそう云うと、〈バンザイ酒場〉 の箸袋に何か記号のようなものをいくつも書きつけ ました。  「できあがったら、すぐに送るから」  そう云って、マーちゃんは静かに自分の眼鏡をか け直しました。  それからもうずいぶん経つのですが、眼鏡はまだ 送られてきません。  マーちゃんにはそういうところがありました。と いうか、そんな眼鏡は本当のところ存在していない のでしょう。  夕方になると、大踏切のあたりにだけ風が吹き、 かんかんかんと警報音が鳴って、急行列車が通過し て行きます。  〈バンザイ酒場〉の暖簾が風にあおられ、暖簾の中 の笑顔が大きく歪んで、ミナミの背中をじっと見 守っていました。 n‥ ヒイラギの青空  ヒイラギというのが彼の名前で、年齢はと云えば 二十九歳です。  彼を知る女たちは、皆こう云うのでしたI。  「見た目はいい男なんだけど、とにかく何を考えて いるのか、よくわからない」  それもそのはずでした。ヒイラギ自身、自分が何 を考えているかわからないのです。  「でも」  彼はそのひとことだけを声に出してつぶやきまし た。あとは声に出すことなく、  (でも、自分がいま何を考えているか正確にわかる 者などいるんだろうか?)  誰に向けてでもなく、そう問うのです。  彼は窓拭きでした。  高いところからぶらさかって、高いところにある 窓を拭く仕事です。六年間、ほぼ毎日働き、つまり、 ヒイラギはこの六年間のほとんどの時間を宙ぶらり んになって過ごしてきました。  (それはたぶん、いいことじゃない)  彼は自分に云いました。  (そろそろ地上に戻って、地上で息をして、地上で 生活をしないとI)  窓を拭くのは良いことです。人は皆、一生に一度 は窓拭きの仕事に就くべきで、窓をきれいにするこ とが人々の生活や仕事をどんなにより良いものにし ているか知りません。  (でも、僕はもう窓拭きをやめて、あたらしい仕事 をする方がいい)  ヒイラギは長いあいた窓を拭きつづけてきて、だ からこそ、そのような結論に至りました。  辞表を書きました。  空中の世界から離れて地上に戻り、ヒイラギは歩 くたび自分の足の裏が地面に貼りついてしまうよう な気がして、重力の強さに辟易すると同時に畏敬の 念を抱きました。  (重力は偉大だ。どんな人間も平等に地上につなぎ とめてくれる) 「でも」 (どこへ行ったらいいのだろうI)  足が迷いました。地上はあまりに広く、広すぎて 頭がくらくらしてきて、どちらへ行けばよいかわか りません。  彼はこれまでさまざまなビルにぶらさがり、地上 に広がるいくつもの町を見おろしてきました。そし て、そうした日々をつづけるうち、ある日、大変に 混み入った、まるで迷路のような路地をもった街区 を見つけたのです。  (もし、あの町で暮らしたら、どんな人生を送るこ とになるだろう)  (もしかして、あの迷路のような路地からぬけ出せ なくなってしまうんじやないか?)  「でも」  とヒイラギはつぶやきました。  (いつか、あの町に行ってみたいIいや、きっと 行くことになるだろう)  それで彼は地上をさまよい歩いて、その町にやっ て来たわけです。  (ついに)と彼は云いようのない喜びに浸っていま した。  「でも」  (いったい、この町でどんなふうに暮らしていけば いいのか。まずもって仕事があるのか、もし、あっ たとして、はたしてそれが窓拭きよりも自分にちょ うどよく合った仕事であるのかI)  路地は昔のままでした。  といって、ヒイラギはその町の昔のことなど知ら ないのです。ただ、その入り組んだ路地のひとつひ とつが昔から変わらずそこにあることが直感でわか りました。  ヒイラギは直感で行動する男です。  彼がしばしば「何を考えているのかわからない」 と評されるのは、彼が自らの直感に従って行動して きたからです。  (僕はこういう町が愛おしい)  彼はそのとき初めて町というものに対してそう感 じたのでした。空中にいるときは区別がつかなかっ たのです。どんな町が自分にとって好ましく、どん な町を自分は望んでいないかI。  「でも」  彼は路地を歩きながら考えました。  (まったく迷路のようで、どちらへ行けばいいかわ からない)  「でも」  彼は立ちどまって首を振りました。 (自分は迷うことが嫌いだ。だから、空中で仕事を つづけてきた。空中にいる限りは、右へ行くか左へ 行くかで悩まずに済む。でも、ここではいちいち右 か左かを選びながら路地を進んで行かなければなら ない。なのに、なぜ魅かれるのか。この町が昔のま まであることが好ましいのか)  どうやらそのようでした。  昔のまま街路が混沌として整理されておらず、迷 路のごとき路地で迷いながら生きていくことはI、  (そんなに悪いことじゃない)  彼の直感がそう思いなおしました。 「でも」 (さて、とりあえずどちらへ行ったらいいものか)  そのときです。  何か赤いものがひとつ、彼の足もとに転がってき ました。いや、ひとつではなく、ふたつ、みっつ、 よっつ、と少し傾斜した路地の高いところから次々 転がってきます。  林檎でした。  川をさかのぼるように、林檎が転げ出てくる源を 探っていくと、路地の奥の他より幾分か高いところ にある小さな工場にたどり着きました。  門があり、門柱の看板には〈山崎インク製造所〉 とあります。  (インク?)  ヒイラギは足もとに転がった林檎をひとつ拾い上 げ、彼を誘うようにひらかれている門の中に足を踏 み入れました。  頭の上には青空がひろがっています。白い月が空 のいちばん高いところに浮かんでいました。  門の中の敷地には古びた二階建ての建物がひとつ あるだけで、建物には大きな扉があり、扉は半分ほ どひらかれていましたが、外から窺う限り、中はし んと静まり返っています。  しばらくヒイラギがそこにそうして立っていると、 扉の隙間から、  コロリー。  またひとつ林檎が転がり出てきました。  間違いありません。林檎はこの建物の中から転げ 出てくるのです。  「あの、すみません」  彼は建物の中の暗がりに向かって声をあげました。 彼にしてはめすらしく大きな声です。  「誰かいらっしゃるでしょうか」  すると、ややあって、  「いますよ」  男のひとの声が返ってきました。それからさらに 少し間を置いて、  「います、います」  女のひとの声も聞こえてきました。  ヒイラギが声のする建物の中ヘーひらかれた扉 から中を覗き込むようにしておそるおそる入って行 くと、その建物の中の全体が青いもので充たされて いるのを彼は直感で感じとりました。  それは目に見えない青です。  目には見えないのですが、きっとかならず青であ り、青いものが快く彼の全身を包み込んでいるのが、 目に見えているものより確かに感じられました。  「青い」  ヒイラギは感じたままそう云いました。  「ほう。君は青い色が好きなのか」  ふいに声が近くから聞こえ、見たことのない男の ひとが目の前にあらわれました。ずいぶん歳をとっ ています。少なくとも若くはありません。手が青く 染まり、いえ、手だけではなく、そのひとは両腕の 全体が青く染まっていました。  「そうですねI」  ヒイラギはそのひとの問いにしばらく考えてから 答えました。  「いまわかったんですが、僕はたぶん青い色がこの 世でいちばん好きです」  「それはどうして?」  今度は女のひとの声が近くに聞こえたかと思うと、 やはり歳をとった女性がどこからともなくあらわれ ました。  「どうして、青が好きなの?」  「そうですね」  ヒイラギはヒゲを剃ってさっぱりした自らの顎を ひと撫でし、 「空か青いからでしょうか」  自分でもおかしな答えだと思いながら、他にどう 云ってよいかわかりませんでした。  「それはつまり空か好きということ?」  「ずっと空に近いところにいたのでI空の青さが 自分の身近にあるいちばん美しいものだったんで す」  そんな彼の答えを聞き、彼の前に立った老いた男 女は顔を見合わせて微笑みました。  「わたしは、もともと万年筆を売っていたの。もう ずいぶん昔のこと。そのとき、いちばん素晴らしい 青いインクをつくっていたのが彼で」−と隣に 立っている老いた男を指差しI「わたしは、その 青さに感激して、この小さな工場を訪ねました。そ して、そのまま彼と一緒になって、ずっと二人で青 いインクをつくってきたんです。とてもとても長い あいだ。そして、そんなふうに長くつづいたものは ね」と老いた女のひとは、そこでしばらく黙り込み、  「いつか終わりがくる」  小さな声でそう云いました。  「でも、そう思いたくない。ずっとつづいてほしい。 万年筆を使うひとがいる限り、うちの青いインクも 使いつづけてほしい」  ヒイラギは老いた女のひとの話を黙って聞いてい ましたが、  「僕は万年筆というものを使ったことがありませ ん」  口が勝手にそう動いていました。 「それは、とても残念なことです」  老いた女のひとは云いました。  「万年筆を使ったことがないなんて、人生の中でい ちばん大切なものを経験していないということで す」  「そうなんですか」とヒイラギは素直に驚きました。  「そうですよ。うちのインクを使って文字を書けば、 あなたの中にあるあなたにもわからないものが、ペ ン先からにじみ出てきます」  −このとき、いったん奥の小部屋に引っ込んで いた老いた男のひとが戻ってきて、その手には小ぶ りな魔法瓶が握られていました。  「どうです? 喉がかわいたでしょう」  蓋をはずしてカップ代わりにし、魔法瓶をかたむ けると、湯気と香りをふりまくコーヒーが注がれま した。  「どうぞ」  老いた男のひとはヒイラギにカップを差し出し、 ヒイラギが受けとって促されるまま口をつけると、 それはこれまでに飲んだことのない、森の奥に湧き 出る水をそのまま口に含んだような心地がするコー ヒーでした。              ’」Sy 1・士       へ」、‐‐・@               ″丶       丶              言匸  一日の終わりの寝しなに読んでいただく短い お話を書きました。先が気になって眠れなく なってしまうお話ではなく、あれ、もうおしま い? この先、この人たちはどうなるのだろう Iと思いをめぐらせているうちに、いつのま にか眠っているというのが理想です。  ここに並べられた小説が、そうした役割を果 たせるものかどうかわかりませんが、作者とし ては、そのような思いで書いたのです。  掲載されたメディアからのリクエストで、 「食」がテーマのひとつになっていました。し かしそういうわけで、寝しなに読んでいただく ことを想定していたので、あまりこってりした 味にならないよう塩加減を調整しました。その とき頭の中に立ち上がった人と情景を、なるべ くそのまま味わっていただけるよう、凝った料 理をつくるのではなく、新鮮さを心がけてシン プルに仕上げたつもりです。  ひとつのお話が、原稿用紙に換算しておよそ 十枚ほどで、この十枚という隕られた枚数が、 なかなかいいのです。できれば、毎日、十枚く らいのお話を書いて暮らしていきたいです。  ただ、この小さなお話がきっかけとなって、 もう少し長い話−場合によっては数百ページ にもなる長い長い物語に化けていくことがあり ます。  今回、こうして単行本にまとめるにあたって、 いくつかの話をひさしぶりに読みなおしてみた ところ、細かいところを忘れていたものがあり、 読みながら、その話で語られなかったことや、 「その後」や「その前」や、同じ街の別の人物 の話が浮かんだりしました。  たとえば、「美しい星に還る人」は、この設 定で連作短編を書いてみたいと思いました。 「世界の果てのコインランドリー」は長編小説 に発展する可能性があります。「青いインク」 「青いインクの話のつづき」「ヒイラギの青空」 の三作は、すでに十枚という規定を超えて、飛 び飛びの連作に拡大していきました。  「月とコーヒー」というタイトルは自分が小説 を書いていく上での指針となる言葉のひとつで す。おそらく、この星で生きていくために必要 なのは「月とコーヒー」ではなく「太陽とパ ン」の方なのでしょうが、この世から月とコー ヒーがなくなってしまったら、なんと味気なく つまらないことでしょう。生きていくために必 要なものではないかもしれないけれど、日常を 繰り返していくためになくてはならないもの、 そうしたものが、皆、それぞれあるように思い ます。場合によっては、とるにたらないもので あり、世の中から忘れられたものであるかもし れません。  しかし、いつでも書いてみたいのは、そうし たとるにたらないもの、忘れられたもの、世の 中の隅の方にいる人たちの話です。  この本に収められた二十四篇のお話は徳聞書 店の野間裕樹さんの導きによって書くことがで きました。野間さんはこれらの話がひとつ書き 上がるたび、心のこもった丁寧な感想文を送っ て下さったのです。野間さんは万年筆の愛好家 で、ときには青いインクで手書きによる感想が 届くことがありました。「青いインク」という お話が期せずして連作になっていったのは、そ の影響によるものです。  思えば、万年筆という筆記具も、いつからか 「月」の側へ移行しつつあるものかもしれませ ん。  次は万年筆とインクをめぐる物語で一冊、書 きたいと思います。    二〇一九年 初春                  吉田篤弘 初出 − 2016年12月15日〜2018年12月20日 ※単行本化にあたり加筆・修正しました 吉田篤弘(よしだあつひろ) 1962年東京生まれ。 小説を執筆するかたわら、クラフトーエヴイング商會名義によ る 著作とデザインの仕事を続けている。 著書に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考 えて暮らした』『レインコートを着た犬』『ソラシド』『イッタイ ゼンタイ』『電球交換士の憂鬱』『あること、ないこと』『雲と鉛 筆』『おやすみ、東京』『おるもすと』などがある。 装幀=吉田浩美・吉田篤弘[クラフトーエヴィン グ商會] 装画・挿絵=吉田篤弘 この電子書籍は単行本『月とコーヒー』(2019年2 月・徳間書店刊)を底本として制作されました。 月とコーヒー 2024年7月31囗 電子書籍版発行 著 者 吉田篤弘 発行所 株式会社 徳間書店     〒14118202     東京都品川区上大崎3‐I‐1 日黒セン     トラルスクエア TEL 031540314349(編集)      03−5403‐4986(お問い合わせ      先) EAtsuhiro Yoshida 2024 ●著作権に関して 本作品の内容の全部又は一部の無断複製・複写(コ ピー)は「個人的に又は家庭内その他これに準ずる 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