本当のことを言ってはいけない_池田清彦 I 生と死の意味について   「物事にすべて意味がある」は妄想だ  意味という病  小学生の頃から昆虫採集と標本蒐集を続けてい るが、よく聞かれたのは「虫を集めてどうするんで すか?」という質問である。ベトナムやラオスで虫 を採っていると、子供ばかりか大人までも珍奇動物 でも見るような眼をして集まってくる。ベトナムの タムダオといった有名採集地では、虫の標本は売れ るということが分かっているので、現地の人が標本 を持って売りつけに来る。だから彼らにとってみれ ば、虫を採るのは売るためだ。僕らが彼らの持って きた虫を買うのは、もっと高く買ってくれる誰かに 売るためだと思っているのだろう。では、最後に 買った人は何のために虫を買ったのか。そこまでは 思い至らないのかもしれない。昆虫蒐集という趣味 は理解不能に違いない。  滅多に外国人が来ない田舎であれば、虫を採って いて不審そうな顔をされたら、虫をつまんで口の中 に放り込むそぶりをすれば、にっこり笑って納得し てくれる。食べるために虫を採るのは理解できると いうことなのだろう。人間は何であれ、行動に意味 をつけなければ納得しない動物のようだ。働くのは 金を稼ぐためであり、運動するのはダイエットのた め、ボランティアは誰かに喜んでもらうためという わけだ。  翻って虫採りを鑑みるに、虫採りは金を稼ぐため にするわけでも、やせるためにするわけでも、他人 を喜ばせるためにするわけでも、ない。機能主義に 頭の髄まで侵された人たちは無意味なことに耐えら れないのだろう。ホモーサピエンスがかかる最も普 遍的かつ重篤なビョーキだ。  病が膏肓に入ると、死ぬことにさえ意味を求めな ければ気が済まなくなるようで、国のために死ぬの は尊いなどと、バカなことを言うようになる。機能 主義的に言えば、国というのは人々が生活しやすく なるための装置に過ぎないのだから、これは本末転 倒であって、この議論が成り立つためには、機能主 義を捨てて、国の存在自体が尊いということにしな ければならない。しかし個人は実在するが国は幻想 であるから、幻想より実在の方が大事だという普通 の人の常識からすれば、人間社会にとって最も根源 的な存在は個人である。そう考えれば、個人の存在 に意味を求めるのは倒錯ということになる。  個人は何かの役に立つために生きているわけでも なければ、意味を求めて行動しているわけでもない。 しかし、意味という病に頭を侵された大は、無意味 な存在を許すことができず抹殺したくて仕方がなく なるようだ。昆虫蒐集が無意味だという妄想が高じ ると、趣味のための昆虫採集は禁止と言いたくなる ようだし、寝たきり老人や認知症の人や知的障害者 は生きていても無意味だと信じると、早く殺してし まえという話になるのだろう。  国家権力がこういう妄想に取り憑かれるとナチス になるし、個人が取り憑かれると「津久井やまゆり 圉」で2016年に起こった相模原障害者施設殺傷 事件になる。個人の妄想で殺されるのも、国家権力 の妄想で殺されるのも、勘弁してもらいたいと思う。   「あるものはあり、あらぬものはない」  人間以外の生物は、何のために生きているかと いった妄想とは無縁で、別に理由もなく生れ、子孫 を残し(残さない奴もいるけど)、時が来れば死んで いく。生物が生きる目的は子孫を残すことだと、頑 なに信じている人もいるが、それはそう信じている 人がそう思っているだけで、当の生物は何とも思っ ていないことは明らかだ。そう主張すると、野生生 物自身は何も思っていなくても、自然選択の洗礼を 潜り抜けて、子孫を残し続けた生物だけが存続して いるのだから、野生生物は結果的にではあれ、子孫 を残すために生きていると言っても過言ではない、 と反論されるかもしれない。  中には「この世の中に存在するものに無意味なも のはありません」という言い方で、寝たきり老人や 知的障害者の存在を擁護する人もいる。一見極めて 人道的な言説のように見えるけれども、「無意味な ものはありません」と言った時点で、無意味なもの は価値がないというイデオロギーに取り込まれてい ると私は思う。私はなぜ、存在するものに意味がな ければならないのか、それがそもそも分からない。 存在するものは存在するだけで別にいいじやねえか。 「あるものはあり、あらぬものはない」という名言 を吐いたのは古代ギリシヤの哲人パルメニデスだ。 あるものが気に入らないからといってなきものにし ようというのは間違っている。パルメニデスはそこ までは言わなかったけれどね。  アミメアリという日本で普通に見かけるアリは、 通常巣を構成するすべての個体が単為生殖する働き アリ(2nのメス)で、卵を産むことだけに特化し た女王アリはいない。稀にnのオスアリが現れるが、 働きアリは交尾器が退化しているので、このオスは 繁殖には全く関与できずにただうろうろして死ぬだ けだ。子孫を残すためという観点からは無意味な存 在だ。でも、意味があろうがなかろうが「あるもの はある」のである。  アミメアリの巣の中には働かない働きアリもいて、 これも単為生殖をしていて、子供たちも親と同じく 働かない働きアリになる。働かない働きアリは、自 分の世話も子供の世話も、すべて働く働きアリにさ せて、自身は子作りに専念するのだから、子孫を残 す(自分の遺伝子を残す)という観点からは、当面は 極めて機能的である。しかし、働かない働きアリの 数がある閾値を超えて増大すると、アミメアリの巣 は崩壊するので、巣の存続のためという観点のみな らず、自分たちの子孫の安定的な存続という観点か らも、まったく有害な存在なのだ。しかし「あるも のはある」のである。  機能主義的観点からもっと不思議なのは、働かな い働きアリの面倒を見ている働く働きアリである。 働く働きアリの博愛行動の結果、最終的に巣は崩壊 して、自分たちの子孫も滅びてしまうわけだから、 自分たちの子孫を残す(遺伝子を残す)という利己 的な観点からも、巣の存続のために命を懸けるとい う利他的な(全体主義的な)観点からも、まったく 有害な行動だ。しかし、機能主義的観点からは理解 不能なことでも、存在する限りは「あるものはあ る」としか言いようがないのだ。   「食うために働け」のウソ  個人が自分の存在に意味をつけたがるのは人間と いう存在に固有の病気だという話はしたが、意味に は個人が生きた(生きている)時代というバイアス がかかる。その時々に支配的なイデオロギーの影響 を受けると言い換えてもいい。  すでにあちこちに書いたように、「食うために働 け」という言説は、人類が農耕を始めて以来、今日 までずっと支配的なイデオロギーであった。狩猟採 集生活をしていた頃も、餌をとるために体を動かし たに違いないが、それは今我々が考えている労働と は随分ニュアンスが違っていた概念であったろう。 きようI囗の食べ物が採れれば、それ以上働かない のが当たり前の生活と、少しでも多く収穫するため に働く、あるいは少しでも多くお金を稼ぐために働 く、という生活では、同じ「働く」でも意味合いは 全く違う。  「食うために働け」という言説は、時代時代の権力 者に都合のいいように言い換えられ、「主君のため に」「天皇のために」「みんなのために」「会社のた めに」「家族のために」「自分のために」と様々な バージョンを生み出し、ついには「グローバルー キヤピタリズムの存続のために」というところに辿 り着いたが、そこに通底するのは「権力者のために 働け」という愚にもつかない妄想である。  グローバルーキヤピタリズムが存続するためには、 安い労働力が提供され続けることと、生産コストよ りも高く買ってくれる消費者が増え続けることが必 須である。だから少子化を問題視しているのは、権 力者とその走狗である御用言論人であって、多くの 一般国民は子供を作りたくない人は作らなくてもい いよと思っているに違いない。しかし、近未来にA Iが多くの単純労働を肩代わりできるようになると、 この構図は全く違ったものとなると思う。  近未来にAIによる労働コストが極めて安価にな ると、安い労働力は不要になる。労働者は基本的に 要らなくなるので、この観点からは人口が増える必 要は全くない。しかし、一方で人口が減ると消費者 数も減少するので、物を作っても誰に売りつけるか が問題になる。さらに大きな問題は、ある程度の人 口があっても、ほとんど働かずにお金を稼いでいな いとなると、物を買いたくとも買えないという話に なる。  そうなった時に社会はどうなるのだろう。一つ目 の可能性はベーシックーインカムが制度化されて、 人々は働かなくとも収入が保証されるようになるこ とだ。こうなると、個人はお金を使ってものを消費 するために存在することになり、働いて金を稼ぐの は善というイデオロギーにコペルニクス的転回が起 こることになる。お金を使って物を買わないと経済 が回らないので、ベーシックーインカムで支給され た金額の半分以下しか使わないときは、ペナルティ が科されるようになるかもしれない。  二つ目の可能性は、労働力として役に立だない人 は存在する価値がないという旧来のイデオロギーを 死守する権力が、ベーシックーインカムなどでこの 人たちの生存を保障せずに見捨ててしまうことだ。 自給自足の人が増えてくる、不妊手術をした人だけ にベーシックーインカムを保証して長期的には役立 たすの一般人を抹殺する、暴動が起きる、といった 様々なバージョンが考えられるが、詳述するには紙 幅が足りない。いずれ稿を改めて論じたい。  老化に進化論的な意味はない  いかがわしい老化の究極原因  前回は存在するものにいちいち理由や意味などな い、という話をした。今回は「なぜ老化をするの か」という問は、そもそも問が間違っているという 話をする。  「どのように老化が起こるか」という問に関しては、 解剖学的、生理学的、分子生物学的な見地からの山 ほどの答えがある。それに対して「なぜ」という問 に対しては、「老化は自身の遺伝子を残すのに有利 だから」というネオダーウイニズム的な答えに、現 代生物学は汚染され続けてきた。  最近『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する 人間』(集英社インターナショナル)と題する本を読 んだ。著者はジョシューミツテルドルフとドリオ ンーセーガン。原題はCracking the aging code(老化 遺伝子を解読す亘。ミツテルドルフは老化の究極原 因をネオダーウイニズム的な解釈に求めないで、 「集団選択」すなわちコミュニティにとって有利だ からという立場をとる現時点では異端の学者である。 共著者のセーガンは天文学者のカールーセーガンと 彼の最初の妻である生物学者のリンーマーギュリス との間に生まれた長男で、マーギュリスと何幵もの 共著がある。マーギュリスが反ネオダーウィニズム の急先鋒であったことを思えば、セーガンが本書の 出版に協力したのも頷ける。  しかし、私は老化の究極原因をネオダーウィニズ ム的な「個体選択(遺伝子選択)」や反ネオダーウィ ニズム的な「集団選択」に求めるのはどうも胡散臭 い気がする。大体、究極原因という考え自体がそも そもいかがわしい。地球上に生命が誕生したのは約 38億年前のことだ。どのようなプロセスで誕生した かについてはいずれ答えられるようになるにしても (今のところ、このプロセスの詳細は分からないが)、生 命が誕生した究極原因などはないわけで、別に生命 が誕生しなくてもかまわなかったわけだ。  ごく乱暴に言えば、生物とは「自分の力で外部か ら干不ルギーと物質を取り入れて代謝を行い、熱と 老廃物を外部に捨てている伸縮可能な閉鎖空間シス テム」のことで、DNAはこのシステムを動かす装 置の一つに過ぎない。構造主義生物学の用語ではこ の空間を限定空間と呼び、限定空間が増大すること (成長)、分離すること(生殖)、崩壊すること(死)、 システムのルールが変化すること(進化)が生物の 特徴であることは周知の通りであろう。  すべての生物は生殖をするが、生殖をしない生物 があってもいいわけで、一つの限定空間を維持しな がら、長期にわたって生き延びることも原理的には 可能であるが、限定空間内の生物のルールは、物理 化学法則から必然的に決定される安定したものでは なく、物理化学法則に矛盾しない範囲でその一部だ けを恣意的に選んで構築したものなので、何かの加 減で破綻して基底のルール(物理化学法則)だけが 支配する空間に戻ってしまう(という意味は、限定空 間と周囲の空間の区別がなくなるということ、すなわち 死ぬということ)可能性が常にあり、生殖をして、 限定空間を拡大再生産した生物だけが生き残ったと いうわけなのであろう。  多くの場合、一つの限定空間のシステムは徐々に 不調になることが多く、これが老化であるが、生殖 の結果作られた新しい限定空間のシステムをリ ニューアルするメカニズムがあれば、老化をしても 限定空間の系列は存続し続けるというだけの話で、 老化が限定空間の系列の存続のために何らかの役割 を果たす必要はないのだと思う。  米国ユタ州、フイツシュレーク国有林にあるアメ リカヤマナラシの森は一つの種子から発生して、巨 大なクローンとして生き延びている一つの大きな生 命体(限定空間)で、一つにつながった根と4万本 以上の幹から成り、その樹齢は8万年とのことであ る。バンドと呼ばれるこの植物は、我々の感覚で言 えば、ほぼ無限の寿命を持つと言えそうだ。すなわ ちこのクローンは老化しないのだ。アメリカヤマナ ラシは当然有性生殖もするわけで、老化は子孫の繁 栄のために意味があるという考えはこの種にとって は間違いであることが分かる。  もちろん老化をしないということは不死というこ とではなく、生息環境が悪くなれば、死を免れない ことは言うまでもない。アメリカヤマナラシの巨大 クローンも、近年、野生動物や家畜の食害にさらさ れたり、背の高い針葉樹の樹が繁殖して、光が届き にくくなったりして、衰退の兆しがあるため、米農 務省林野部は保護活動を推進しているとのことだ。  カギを握る細胞の分裂と変化  ある種の植物が老化しないメカニズムはほぼ分 かっていて、動物の体細胞では細胞分裂ごとに短く なるテロメアが、植物の体細胞では短くならないこ とが最も大きな理由である。よく知られているよう に細胞分裂の際に染色体の末端にあるテロメアとい う部位がほんのわずかずつ切れて短くなって、人間 では約50同分裂するとテロメアがなくなって、細胞 分裂ができなくなり、新陳代謝が不能になって組織 は死んでしまう。もっと正確に言うと、体性幹細胞 のテロメアがなくなると、組織の細胞が死んでも新 しく細胞を作ることができずに、体は急激に衰えて しまう。  切れたテロメアを延ばすにはテロメラーゼという 酵素が必要だが、動物の体細胞ではテロメラーゼ活 性がごく柢いのに対し、植物細胞では非常に高く、 細胞の分裂能力が衰えず、故に植物は老化しづらい のである。もちろん植物でも個々の細胞は老化して しばらくすると死んでいくが、幹細胞から分裂して できた新しい細胞系列はほぼ不死だと考えてよさそ うだ。  もう一つ植物には多くの動物にみられない能力が あり、分化した細胞から別のタイプの細胞に簡単に 変化することができるのである。今、自宅の庭には 金時草という草が茂っている。茹でて食べると結構 おいしい野菜だ。この草は茎だけ10センチくらいの 長さに切って地面に挿しておくと、茎のわきから新 芽が出て、上の中の茎からは根が出て、立派な個体 に育っていく。茎の細胞が葉や根の細胞に簡単に変 わることができるのだ。これは植物が簡単に死なな いで長生きする一つの理由である。高等動物は脚を 切って挿しておけば個体が生じるといった芸当がで きないため、体内の一つの器官の不調が命取りにな る。  動物でもほとんど老化がみられない種もあり、カ メやロブスターは年をとっても老化しないで、若い 時よりも繁殖力がある。ハダカデバネズミやアホウ ドリは生きている間は老化せずに、時が来るといき なり死ぬらしい。2006年にアイスランドの沖で 採れた8・6センチのアイスランドガイの年齢は 507歳であった。人間に捕獲されなければ、あと どのくらい生きたのだろうか。  プラナリアは真ん中で切ると前方からは後方が再 生され、後方からは前方が再生することで知られる 下等動物(扁形動物、無体腔の最も原始的な三胚葉動 物)で、餌を豊富に与えると余り長生きしないよう だが、餌を与えないと自分の体を栄養源にして生き 延びるという。前述のミッテルドルフの本によると、 まず生殖器を食べ、次いで消化器を食べ、最後に筋 肉を食べて、脳と神経細胞だけになってしまうよう だ。この段階で餌をあげないと当然餓死してしまう が、ぎりぎりで餌を与えると成長をはじめ、失った 器官を次々に再生させて、若返って元気を取り戻す という。  驚くべきことにこの実験は何回も繰り返すことが でき、そのたびにプラナリアは若返るようだ。プラ ナリアの体の中には全能性幹細胞が存在し、ここか ら分化した細胞が作られる。全能性幹細胞は老化し ないので、クローンで生き延びている植物と同じよ うにプラナリアも再生し続ける限り老化しないので あろう。一度縮まって再生したプラナリアを、元の プラナリアと同じ個体と思うので不思議な気がする のだが、よく考えれば、高等動物も全能性の生殖細 胞から発生した仔は若返るわけだから、個体という 概念に縛られなければ、さして変わらないのであろ  怪しい「お祖母さん仮説」  動物(特に哺乳類)が特殊なのは、ほとんどの種 では、生殖細胞以外の体細胞の集団である個体が、 ある年齢に達すると不可避的に老化して、個体その ものは若返ることができないことだ。多くの哺乳類 は、繁殖年齢を過ぎると急激に老化して死んでしま う。ネオダーウイニズム的な考えによれば、繁殖年 齢が過ぎて生きていても、自分の遺伝子を残すこと に貢献しないばかりか、自分の子孫の食料を奪って、 子孫の死亡率が上がり、結果的に自分の遺伝子を残 すためにはマイナスなので、自然選択は老化を止め なかったというよりも、むしろ推進したというわけ だ。  この話はゴリラやチンパンジーをはじめ多くの哺 乳類に当てはまるが、最たる例外は人間だ。人間の 女性は50歳前後で閉経しても、その後、何年も生き 続ける。人類史上最も長生きした人はジヤンヌーカ ルマンさんという女性で122歳5か月まで生きた。 自然選択はなぜ、繁殖不能な女性をかくも長く生か し給うのか。そこで登場するのが「お祖母さん仮 説」だ。人間は自分の子供や孫を認知することがで きるので、自分で子供を産まなくても自分の遺伝子 を25パーセントの確率で受け継いでいる孫の面倒を 見て生存率を上げれば、結果的に自分の遺伝子を残 すことに貢献するという説だ。  人間以外にも繁殖年齢を過ぎても生き続ける哺乳 類がいる。ソウとクジラだ。もしかしたらこれらの 動物も、孫の世話をしているのかもしれない。しか し、グッピー、ミジンコ、センチュウなどの動物が 繁殖年齢を過ぎても生き続けることを知れば、「お 祖母さん仮説」が怪しい考えだとわかる。自分の子 供ですら見境なく食べてしまうグッピーが、孫の面 倒を見ることはありえないからだ。  現在生残している生物種に関して言えば、ある種 は個体が年齢を重ねて老化するという性質を持って いても滅びなかったし、ある種は個体が年齢を重ね ても老化しないという性質を持っていても滅びな かった。ただそういうことではないのか。老化とい う現象に進化論的な意味はないと私は思う。  老人になって生き続けるのも大変だ  シニアビジネス先進国日本  高級老人ホーム(入居時自立介護付有料老人ホーム) が主催した講演会で、入居を検討している人たちに 向けて、楽しい老後を過ごすためのヒントなどを話 してほしいと頼まれて、1時間足らずの講演をして きた。会場には65歳頃から80歳前と見受けられる 400人近くの方がお見えになっていて、主催の説 明を熱心に聞かれていた。私は、老人には未来がな いのだから、未来のことは考えない方がいいですよ、 といった身も蓋もない話をしたのだが、話をしなが ら考えていたのは、団塊の世代が古希を超えて、こ ういった高級老人ホームはこれからしばらくが儲け 時だなということであった。  高齢化社会は待つたなしで、日本ばかりでなく中 国でも老人問題は深刻になっているようだが、反面、 シニアビジネスのチャンスと思っている人もいるは ずだ。小金持ちの老人は必要なものもあまりなく、 お金をあまり使わず経済が回らないことを考えれば、 高級老人ホームにお金を落とすのも、金持ち老人の ノブレスオブリージユと思えないでもない。  2020年に中国の65歳以上の人口は1億 7000万人と推定されている。日本は3600万 人強で、中国は日本の4・7倍である。シニアビジ ネス先進国の日本が、この分野で中国その他の外国 に進出して儲けるチャンスでもある。完全に失敗し た原発の輸出などといった馬鹿げた妄想にしがみつ いてないで、シニアビジネスを輸出した方がはるか に賢いと思う。  この高級老人ホームは入居時の自立が条件で、マ ンション型の個室を終身利用でき、介護が必要にな れば介護サービスが受けられ、食事は3食用意して くれ、Iか月にI同健康管理サービスがあり、外出 も外泊も出入り時間も自由、館内に大浴場や娯楽設 備もあり、入居者のサークルもある、と至れり尽く せりであるが、入居時の料金(終身)は一人で入居 の場合は約2500万円から8000万円、二人の 場合は約4000万円から9500万円、月額利用 料は一人利用で約14万円十水光熱費、二人で約23万 円十水光熱費とかなり高額で、ある程度蓄えがなけ れば入居できないだろう。  独身や夫婦二人で子供もおらず、そこそこの貯え もあり、財産を遺しても国にとられるだけという人 たちにとっては、こういった高級老人ホームに入る のは悪い選択ではないのだろう。自宅に書籍や標本 が山のようにあり、健康管理などされたくもない私 は、勘弁してもらいたいと思うけれどね。そうは いっても、これからどんどん下り坂になる体力と脳 力を鑑みれば、女房と二人でいつまで自立して暮ら していけるかしらと思わないでもない。  老人の病気は自然選択の枠外  50歳代までは、不治の病気になるのも、交通事故 に遭うのも、本人にとっては青天の霹靂みたいなも ので、本人でない多くの人は自分でなくてよかった と思い、親しい人は首尾よく回復してくれればよい のにと思い、中にはザマア見ろと思う人もいるかと 思うが、どのみち稀な出来事であることは確かであ る。それが60歳を過ぎる頃から、がんになるのも、 痴呆になるのも、脳梗塞になるのも、むしろ当たり 前の出来事になってくる。  しかしこの頃から体や頭の具合の良し悪しは個人 差が大きくなり、特に痴呆に関しては70歳頃には すっかり呆けてしまう人もいれば、90歳や100歳 になってもしっかりしている人もいる。認知症の割 合は、65歳から69歳までは約3パーセントだったも のが、年齢が5歳増すごとにほぼ2倍ずつ増加して、 85歳から89歳までは40パーセント、卯歳から94歳ま では60パーセント、95歳以上は80パーセントになる。 不思議なことに、痴呆率は80歳代までは女性の方が 多少高いくらいであるが、卯歳代になると、女性の 方が圧倒的に高くなり、男性の痴呆率は卯歳代を通 してほぼ50パーセントなのに対し、女性は卯歳から 94歳まで65パーセント強、95歳以上は84パーセント に激増する。  なぜ女性の方が痴呆率が高いのか不思議な気がす るが、男性は卯歳を過ぎて認知症になるとすぐに死 んでしまうが、女性は痴呆になってもしぶとく生き ているのかもしれない。平均寿命と健康寿命の差す なわち死ぬまでの要介護の年数は2016年の統計 で男性が8・84年なのに対し、女性は12・35年 ということも関係しているのであろう。団塊の世代 がすべて75歳以上になる2025年には、65歳以上 の高齢者の19パーセントが痴呆になるとの推計もあ る。  高齢になるほど認知症の割合が増えるので、当然、 超高齢化社会の囗本の全人口に対する認知症の割合 はOECD加盟国一で、2017年の統計では2・ 33パーセントであった。年金の財政が破綻するこ とが分かっている政府は、平均寿命が100歳にな るとウソをついて、高齢者を働かせようとしている けれど、認知症の人を働かせるのは難しい。  認知症のなかで一番多いアルツハイマー病は、有 効な治療法もなければ、有効な予防法もない。卯歳 過ぎてもアルツハイマー病にならないで、生き続け られるのは、余程の僥倖である。生物としての人間 の繁殖可能年齢は大体50歳なので、50歳を過ぎてか ら子孫を残すことはまずない。繁殖期が終わるまで に身心の具合が悪くなる遺伝的な性質は、直接的な 遺伝病でなくとも、特定の病気にかかりやすい性質 といったものも含めて、自然選択による淘汰圧がか かり、人類の集団から除去されてきたと考えられる。  しかし、繁殖期を過ぎて発疱する多少とも遺伝子 が関与している疾患は、自然選択による淘汰圧がか からず(遺伝子はすでに子供に伝わっているので)、人 類の個体群から除かれないのだ。別言すれば、自然 選択は老人の病気を減らすことに何の味方もしな かったので、老人になって、あちこち体や頭の具合 が悪くなることは仕方がないのである。遺伝的な組 み合わせがたまたまいい人だけが、致命的な疾患に ならずに長生きができるのである。  誰でも努力をすれば、世界一長生きしたジャン ヌーカルマンさんのように122歳5か月まで生き られるということはあり得ない。105歳まで生き た囗野原重明さんの睡眠時間は4時間半ということ だが、囗野原さんの真似をしても100歳を過ぎて から1時間もの講演ができるものでもない。普通の 人は卯歳を過ぎて4時間半しか眠らせてもらえな かったら死んでしまうと思う。私は毎日8時間くら い眠らないと具合が悪い。  乗り越えられない試練  歳をとったらうまいものを食って今日明日の楽し みだけを考えて、適当に生きているのが一番幸せで、 死病になったら諦めるほかはないと思う。そうは 言っても煩悩に支配された凡人はなかなかそうもい かないことは、私も凡人の一人としてよく分かって いるが、歳をとれば、がんが発疱するのは仕方がな いのだ。毎年、律義にがん検診を受けて、がんが発 見されると医者の言いなりに治療を受けても、生き 延びられるとは隕らない。私はもう20年以上、がん 検診を受けたことはない。  近藤誠の言うように何もせずに放置しておいた方 が長生きできる場合も多いと思う。前立腺がんの治 療を受けた後の5年生存率は98パーセントを超える という。30年程前まではこの率は50〜60パーセント くらいだった。早期発見、早期治療で予後が良く なったと思われるかもしれないが、その間、同様に 早期発見、早期治療が進んだ大腸がんの5年生存率 はほとんど変わらない。前立腺がんの場合は、放っ ておいても死なないがんもどきを見つけて無理に治 療をしているのだ。それで見かけ上の5年生存率が 上がったわけだ。欧米では前立腺がんば無理に発見 しようとしないで、発見してしまった場合も無治療 で様子を見るのが一般的だ。囗本のように無理やり 治療に誘導するのは医者の利権である。  年寄りになってからの全身麻酔を必要とする手術 は、痴呆を加速させることが多い。体は元気になり ましたが頭は呆けました、というのが一番始末が悪 い。完全に呆けてしまえば、本人は苦しくないかも しれないが、介護する家族は大変である。それで、 元気なうちに本項冒頭に記したような老人ホームに 入居しようかということになるのだろう。  完全に呆けてしまえば、無敵になってしまうのか もしれないが、呆け始めたことを本人が自覚してい ると、かなり恐ろしいらしい。特に、若年性アルツ ハイマーの発疱期は、本人にとっては相当な恐怖で あるようだ。つい最近まで、何気なく出来たことが、 どうも上手く出来ない。近くのスーパーから自宅へ の帰り道が分からなくなった。今日が何曜日かよく 分からない。こうなると、頭が真っ自になって、気 が狂いそうになるというのはよく分かる。最近も、 呆けてしまった妻の呆け始めた頃の手帳を見たら、 子供の名前や孫の名前を毎日毎日書いていたという 話を聞いた。少しでも呆けを遅らせようと涙ぐまし い努力をしていたのだと思うと切なくなる。  しかし、残念ながら努力をしてもアルツハイマー 病の進行を止めるのは難しい。白血病を発疱した若 い水泳の選手が「神様は乗り越えられない試練は与 えない」との聖書の言葉を引用して話題になってい る。この選手はまだ若く、恐らく治癒すると思うし、 治癒してほしいと思う気持ちに偽りはないが、乗り 越えられない試練もあるのだ。特に歳をとってから の試練は、はっきり言って十中八九は乗り越えられ ない。  この世で乗り越えられない試練でも、神や仏を信 じて、あの世に行けば乗り越えられると思って、心 の平穏を得る人は幸せで羨ましい限りであるが、神 も仏もあの世も信じていない私にも死期は刻々と近 づいてくる。さてどうしたものか。とりあえず酒で も飲むか。  記憶と死の恐怖  エピソード記憶と意味記憶  今から15年以上前に書いた「人は死ぬ」という エッセイがある(『やがて消えゆく我が身なら』角川ソ フィア文庫収載)。メインテーマは「人はなぜ死ぬの が怖いのか」というもので、自我の喪失(自己同一 性の喪失)こそが恐怖の源泉だといったことが書い てあった。他人事みたいな物言いだけれども、自分 で書いたエッセイと雖も、読み返さなければ、何か 書いてあるのか分からないのだ。呆けてきて昔のこ とは忘れてしまうのが原因の一つ。沢山書きすぎて どこに何を書いたか分からなくなるのが二つ目の原 因。考えが変わって昔書いたことと違うことに頭が 占拠されるのが三つ目の原因だ。  私を含めて、ほとんどの人は過去の経験や出来事 のうちほんの少しだけを覚えていて、ほとんどのこ とは忘れてしまう。楽しかったこと、怖かったこと、 驚いたことといった感情と強く結びついている経験 の記憶はエピソード記憶と呼ばれ、一度だけの経験 でも呆けない限り覚えているような記憶である。こ れに対して歴史の教科書に載っているような事項や、 理科のテストに出るような科学的事項の記憶は意味 記憶とよばれる。意味記憶は通常、繰り返し思い出 さないと忘れてしまうことが多い。  昔自分で書いた文章を覚えているとしたら、この 二つの記憶のどちらだろう。これは微妙な問題で、 書いている時の特別な状況と強く結びついている文 章はエピソード記憶と考えても差し支えないだろう が、ほとんどは意味記憶であろう。だから大抵忘れ ている。自分の書いた文章だから読み返せば思い出 すが、空で再現できるものではない。しかし、中に は自分の経験や知識をすべて覚えている人もいるよ うだ。  ヘレンートムスン『9つの脳の不思議な物語』 (仁木めぐみ訳、文藝春秋、2019)に紹介されてい る完全記憶者は、過去の出来事を完璧に覚えている。    「ただどうにかして助けてほしいのです。私は 三四歳なのですが、過去を思い出す、信じられ ないような能力が一一歳のときからあります。 それはただ思い出せるというだけではなくて、 日付も、一九七四年以降ならすべてわかります。 そしてその出来事が起こった曜日がわかります し、何か重要なことが起こった日については、 その日自分か何をしていたのかもわかります。 テレビで何か日付が映ると、私は無意識に、そ の日に戻って自分がどこにいたか、何をしてい たか、それが何曜日だったかと思い出します。   自分では止めることも、どうすることもできま   せん。とても疲れるのです」                 (前掲書33ページ)  昔の記憶が頭の中を常に飛び交っているのは大変 疲れるという話はよく分かる。しかし中には、昔の 出来事をいつでも思い出せるけれども別にそのこと で疲れたりしない大もいるようだ。ヘレンートムス ンの本にもそういう事例が載っている。恐らく疲れ る大と、疲れない人の違いは、思い出そうと思わな くともほとんど自動的に思い出してしまう大と、思 い出そうと思った時だけ思い出すことができる人の 違いなのだと思う。いずれにせよ、エピソード記憶 も意味記憶も脳に焼き付けたように覚えている大は 一種のサヴアンである。  海馬の重要な役割  不思議なことにこういう大でも、記憶力コンテス トですごい成績を上げられるわけではないのである。 時々出ている「ホンマでっかりTV」というテレビ 番組で、記憶力日本選手権大会6度優勝の池田義博 さんとご一緒したことがある。ランダムに並べたト ランプの札の順番を2分間で記憶して、それを再現 するというテストを完璧にこなして、並み居る出演 者をびっくりさせたが、これはサヴアン的な能力で はなく、訓練によってある程度身に付く記憶術を 使っているのである。ヘレンートムスンの本にも、 池田義博さんと同じテストで52枚のトランプの順番 を21・5秒で記憶した世界記憶力選手権の優勝者の 話が出ていた。  「よく知っている現実の景色を心の中に思い浮 かべ、物事を記憶する方法だ。選ばれるのは自 宅の中や職場に向かう道のりであることが多い。 トランプや買い物の品など多くの事柄を覚える ために、この記憶の宮殿の中を歩きながら、そ れぞれの品目のイメージを特定の場所に置いて いくのだ。思い出すときは、覚えたときの道の りを辿り、記憶を回収すればいい」             (前掲書35〜36ページ)  ほぼ同じことを池田義博さんも言っていた。しか しサヴアンの人はそういうやり方で記憶しているわ けではないようだ。記憶力選手権で記憶したトラン プの順番はチャンピオンでもすぐに忘れてしまうが、 サヴアンの記憶は消えないのでメカニズムが異なる のである。  記憶には海馬という大脳辺縁系に存在する脳領域 が関わっていることが分かっている。アルツハイ マー病でまず真っ先に縮退していく領域は海馬であ る。海馬が完全に壊れると、新しい記憶を構成する ことができなくなる。我々は直前の出来事を整理し て、そのうちのいくつかを記憶として脳に蓄えてい くが、この機能を担っているのが海馬である。記憶 そのものは海馬に蓄えられるわけではないので、海 馬が壊れてもすでに蓄えられている記憶は消えない。 アルツハイマー病になると、昔のことはよく覚えて いるのに、少し前のことは何一つ覚えていないのは この故である。  アルツハイマー病の病変はもちろん海馬にだけ起 こるわけではなく、脳の様々な領域にアミロイドp という物質が蓄積して、脳細胞を破壊していくので、 進行していくと長期記憶も消えていくし、日常の生 活にも支障をきたすことになる。しかし中には、外 科手術などが原因で海馬だけを喪失する人がいる。 この人は、昔のことはよく覚えていて、運動能力や 計算能力も正常であるが、海馬喪失後の新しい経験 を記憶として蓄積することができない。海馬喪失後 の経験は昨日とほぼ同じ経験でも常に新しい経験な のである。この人からは少し以前のことを想起する という能力が消えてしまっているので、頭の中には 遠い昔の記憶と現在しかない。近過去の記憶からく る不安とは無縁なストレスレスな人生なのではない だろうか。もしかしたら、未来の不安とも無縁なの かもしれない。  死ぬのが怖いのは健康の証拠  さて、先に海馬は記憶を構成する機能に関係する と述べたが、その意味は、偽りの記憶を捏造するこ ともあり得るということだ。養老孟司の『唯脳論』 (ちくま学芸文庫)に述べられているように、本人に とっての現実とは脳内の現実なので、偽りの記憶も ひとたび固定されると、本人にとっては現実の出来 事の記憶と区別ができなくなるのだ。特に繰り返し 想起されると、そのたびに記憶が強化されて、本当 の経験よりさらに本当のように思われてくるのだろ  先ごろ、乳腺外科医が手術直後の女性患者の胸を 舐めたとして、準強制わいせつ罪に問われていた裁 判の判決が東京地裁であり、女性の訴えはせん妄の 結果だとして無罪が言い渡されたが、全身麻酔から 覚めた直後や、金縛りの最中には時々せん妄が起こ り、本人にとっては極めてありありとした記憶とし て脳内に固定されることがある。  かつてアメリカで、UFO騒ぎが盛りだった頃、 寝ている最中に宇宙人が現れて、宇宙船に連れてい かれ、様々な性的ないたずらをされて、気が付くと ベッドに帰されて寝ていたという経験を、微に入り 細に入り語る女性に、マスコミが翻弄されたことが あるが、これも金縛りの最中に起きた典型的なせん 妄である。先の胸舐め裁判の女性の証言も、実際に 経験した人間にしか語れない極めてリアルなもの だったというのが、検察の起訴理由の一つであった と聞くが、せん妄の際の偽りの記憶は、本当のそれ よりもリアルなことが多いのである。  舐められたと主張する女性の胸から被告人(手術 医)のDNAが含まれる唾液や口腔内細胞が検出さ れたというのも検察の起訴理由の一つのようだが、 警視庁科搜研は、鑑定の際のデータやDNA抽出液 の残りをすでに廃棄しているというのだから、これ は意図的に行われなかったとしたら致命的なミスで あり、意図的ならば、鑑定の信憑性が乏しかった可 能性を認めているの同じであろう。病室は4人部屋 で当日は満床で、看護師らが頻繁に出入りしていた とのことで、事件は状況的にあり得ないという弁護 側の主張は尤もだと思う。  被告人は一貫して犯行を否認していたというが、 105日間も身体拘束を受け、職を失い、社会的信 用や、悪乗りしたネット上の中傷に苦しめられたと いう。コーンの逮捕の時もそうだが、有罪を認めて 自白するまで、釈放しないという日本の検察は異常 である。一定期間以上勾留を続けた後の自白は、精 神的拷問による自白なので、証拠能力としては無効 であるという判例を作るべきだと思う。検察が推定 有罪にした被告を裁判前に長期間拘束することは人 権侵害であって、日本は民主主義国家ではないこと を世界に向けて発信しているようなものだ。  ところで話は記憶である。冒頭で、多くの人が死 ぬのが怖いと感じるのは自我の喪失(自己同一性の 喪失)に起因すると述べたが、自己同一性は、近過 去の記憶、現在の状況の把握、未来の予想、という 時間の流れを感じないところでは、はっきりと意識 できない。自己同一性とは時間を孕む同一性だから だ。海馬を喪失して近過去の記憶を構成することが できない人は、だから、恐らく死ぬのが怖くないと 思う。アルツハイマー病が進行した人も恐らく死ぬ のが怖くないに違いない。基本的に現在がほぼすべ てのイヌやネコも死ぬのが怖いという感情を抱くこ とはないと思う。  死ぬのが怖いのは人間として正常な感情であり、 むしろ寿ぐべきことで、頭が健康な証拠なのだ。人 生は死ぬのが怖いと思っているうちが華なのである。  ヒトは酒だけの食事でも生きていける冫  3食全部酒は羨ましいり‥ 『現代思想』2019年8月号の特集は「アイン シュタイン」で、興味深い論考が並んでいるが、私 か一番びっくりしたのは、アインシュタインがらみ の話ではなく、最終ページに載っている「研究手 帖」という小文である。砂野唯さんという方が書か れた「フィールドワークの中毒性」を引用させて頂  「私かはじめてフィールドワークを実施したエ チオピアの村では酒が主食であり、それ以外の 食事をほとんど口にしない。朝起きると朝食と して酒を飲み、日中は畑に居ようが村に居よう が喉が渇くと酒を飲んで喉を潤し、お腹が減る と酒を飲んで腹を満たす。夕方、家に帰ると固 形食をつまみながら、酒を飲んで夕食とするの だ。日本人である私の常識では、食事は主食の   ご飯やパンと副食の肉や魚、野菜料理であった   し、酒は嗜好品で食事ではない。しかし、酒ば   かり飲んでいるにもかかわらず、彼らは酩酊す   ることはなく健康かつ長寿であり、酒ばかりの   食生活に飽きている様子はなかった」   (「現代思想」第47巻第10号、246頁、2019)  にわかに信じられない話だけれど、続きを読むと 「科学的・社会学的な調査を進めるうちに、彼らの 主食とする酒が柢アルコール濃度で高栄養価な食材 であり、厳しい気候の中でエクステンシブな農法を 行う彼らの生業・生活に適した食事であることが判 明した」(同書)と分かったような分からないよう なことが書いてあった。ちなみにエクステンシブな 農法とは、単位面積当たりの土地に資本や労力をあ まり投下せず、自然に任せて営む農業のことで、こ の反対が集約農業である。私流に解釈すると、あま り真面目に働かないので、朝から酒飲んでいても暮 らせるということなのだろうか。  酒飲みの私としては実に羨ましい暮らしだけれど、 日本で同じことをしたら、家族の鼻つまみになり、 うっかりすると病院送りになりかねない。所変われ ば品変わるとは言え、朝昼夕の3食が全部酒という のは、さすがに驚いた。いくら柢アルコール濃度で 高栄養価の食事であったとしても、酒だけで健康か つ長寿を保てるのであれば、日本で巷間叫ばれてい る、酒はほどほどに、週に2日は休肝日、といった 標語は、いったいどうなっているのだろうね。  一つ考えられる理由は、この村のような食習慣が 確立すると、アルコールに弱い遺伝的素質を持った 人は、徐々に淘汰され、残っだのはアルコールに強 い人だけだというもの。もう一つ考えられるのは、 血中のアルコール濃度がごく柢ければ、ほぼ常にア ルコールが血液中に存在しても、健康には影響がな く、適度な栄養分を取っていれば、ヒトは生きられ るというものだ。実際、醸造酒(日本酒、ワイン、 ビール)には炭水化物、タンパク質のほか、豊富な ビタミンやミネラルが入っている。脂質はほとんど ゼロだが、脂質は炭水化物から合成できるので、酒 だけ飲んでいても生きられると言われれば、そうか もしれないと納得できる。  おせっかいな人の尤もらしい理由  大体、ヒトはどんなものを食っていてもそこそこ の歳まで生きられるのではないかと思う。野菜をほ とんど食べなくて、肉と魚と酒だけで80歳過ぎまで 生きた人を知っている。ビタミンC不足で壊血病に ならなかっだのは、魚を生で食べていたからだろう。 ほとんど、アザラシの生肉しか食っていなかった時 代のイヌイット(エスキモー)の人々も生きていた わけだから、多種類の食品をバランスよく食べなく ても、生きるには恐らく問題はないのであろう。  そうはいっても、毎日同じものばかり食べろと言 われれば、勘弁してもらいたいと私ならば思う。衣 食住が足りている多くの現代人も、私と同じ考えだ ろう。私は32年間、毎日酒を欠かしたことはないが、 3食、酒だけ飲んで暮らせと言われたら、気が狂い そうになるな。  いろいろなものを食べるのは、健康や長寿のため ではなく、楽しいからである。しかし、単に楽しい ためというのは何となく後ろめたいので、尤もらし い後付けの理由をつける。健康や病気の予防のため というのが最も流行っている言い訳だが、すると今 度は、おせっかいな人が、これこれの食べ物は体に 悪いなどと言い出す。酒はその最たるものだが、酒 だけ飲んで生きている人々の存在は、こういった言 説に対する強烈な反証である。  尤もらしい理由をつけるのは食品の摂取について だけではない。財務官僚の利権と大企業の私利私欲 のために存在する消費税は、国民の福祉のためとい う名目で導入されたが、福祉にはほとんど使われて いないのは周知の事実である。山本太郎は実はその ほとんどは法人税の減税の補垠に使われていること を暴いて見せた。  話が横道にそれた。健康・長寿は、食材の種類と いうよりも、炭水化物、脂質、タンパク質、ビタミ ン、ミネラルが過不足なく摂取されるかどうかにか かっているわけで、特定の食材が特に健康にいいわ けのものではないのだ。何を食っても寿命にさして 差が出るわけのものではない。但し、放射性物質が 人っている可能性があるものと農薬漬けのものは避 けた方が無難である。  ドツボに嵌っていく日本  多国籍バイオ化学メーカー・モンサントが開発し た除草剤のグリホサート(商品名ラウンドアップ)を、 長年使用していたため悪性リンパ腫(非ホジキンリ ンパ腫)を発疱したとして、同社を訴えていた複数 の裁判で、2018年8月に出た2億9000万ド ルの損害賠償金の支払い命令に次いで、2019年 3月にも、8000万ドルの支払い命令が出て、 2018年6月にモンサントを買収したドイツのバ イエルは窮地に立だされて、株価が急落した。訴訟 は1万8000件を超えており、泥沼になることを 恐れたバイエルは、和解のために80億ドル (8500億円)を支払う方針だというニュースが最 近になって伝わってきた。  EUではこれを受けてグリホサート禁止の動きが 加速している。あろうことか日本では、2017年 12月にグリホサートの使用規制を大幅に緩和し、ソ バで従来の150倍、ヒマワリの種子に至っては 400倍に緩和した。家庭用のラウンドアップは 100円ショップなどで売られていて、安全だと信 じ込まされている人も多い。囗本のマスコミはそう いう国民の安全に関する重要情報は全く流さない。 国民の健康よりも大企業の儲けの方が重要だと思っ ているようだ。  EUで福島第一原発のような事故が起きたら、訴 訟ラッシュで原発の会社は何兆円にも及ぶ賠償金の 支払いを命じられると思う。原発を推進した政府自 民党も、東京電力も、一切責任を取らない国は異常 である。口を開けば、食べて応援とか、風評被害と か言って、一般の消費者のせいで福島の復興が進ま ないかのような言説を流す政府と、その広報機関の マスコミに支配されて、日本はどんどんドツボに 嵌っていく。  訴訟しても政府の奴隷に成り下がっている裁判所 は、政府と大企業に有利な判決しか出さない。三権 分立が機能していない点では、日本は中国や北朝鮮 と選ぶところがない。大法院(最高裁)が政府の方 針と異なる判決を出しても、政府が判決には従わざ るを得ないと言っている韓国は、日本よりはるかに 民主的だということが分かっている人が日本にどれ だけいるのだろうか。日本すごいと浮かれているネ トウヨも、何も考えず、投票にもいかない馬鹿な人 たちも、後20年も経って気が付けば、最貧国に転落 している現実の前に唖然とするのだろうか。それと も日本すごいと叫びながら飢え死にするのだろうか。 私は生きていないからいいけれどね。  日本で大量に使われている除草剤以外の二つの恐 ろしい農薬はネオニコチノイドとフイプロニルで、 EUでは現在、基本的に使用禁止である。これにつ いてはすでにあちこちに書いたので繰り返さないが、 ともかく、日本(やアメリカ)の農作物が危険なこ とに変わりはないわけで、冒頭に記したエチオピア の村人のように、一日中、安全な食材から作った酒 を飲んでいたほうが、おかしな病気にならないで済 むかもしれないね。  平均寿命100歳の内実  健康長寿に一番関係するのは、食材の種類よりも、 遺伝的な因子と、どの遺伝子が発現しているのかと いうエピジ子不ディックなプロセスであろう。SR Y(精巣決定遺伝子)以外の遺伝子がほぼ同じでも、 男性が女性より短命なのは、思春期になり、男性ホ ルモンが働きだして、女性より代謝が活発になり、 活性酸素の分泌量が増え、これが細胞を傷つけるか らである。  2018年の日本人の平均寿命は男性が81・25 歳、女性が87・32歳で、約6年の差がある。これ は食べたものの差ではないことは明らかである。歳 をとると認知疱の人の割合も増えてくるが、どうや ら女性の方が呆ける割合は多そうである。アルツハ イマー病の平均余命は発疱後8年と言われているに もかかわらず、女性の方がはるかに長生きするのは、 他の病気で死ぬ確率が少ないからであろう。  同年齢の人口に占める認知疱の人の割合は75歳ま では女性の方が多少多いくらいであるが(70〜74歳、 男性3・9パーセント、女性4・Iパーセント)、そこ から差はどんどん開き、卯歳以上の女性では、認知 疱でない人の方がはるかに少なくなる(90〜94歳、 男性49・Oパーセント、女性65・Iパーセント、95歳以 上、男性50・6パーセント、女性83・フパーセント)。 こうなると、卯歳以上の高齢女性では、認知疱の大 が正常で、認知疱でない大は異常だ。  卯歳以上で、認知疱の割合が男女でこれほど差が ある一つの理由は、認知疱を発疱した後の余命が男 性の方が短いからではないだろうか。アメリカの データでは確かに男性の余命は女性より30パーセン トほど短い。もう一つの原因は、そもそも、発疱確 率が女性の方が2〜3倍高いからだ。更年期を過ぎ て女性ホルモンが出なくなると、アルツ(イマー病 の発疱確率が高まる。男性は高齢になっても男性ホ ルモンを多少は分泌する。男性ホルモンのテストス テロンは容易にエストラジオール(女性ホルモンの 一種)に変換されるので、高齢男性の方が高齢女性 より、女性ホルモンの量が多いのである。  現在、囗本の85歳以上の人口は570万人(男性 176万人、女性393万人)、卯歳以上は219万 人(男性54万人、女性165万人)である。そのうち の約五割は認知症である。平均寿命が100歳にな るといって喜んでいる場合じゃないと思うんだけど ね。毒食って早く死んだ方がいいと言っている訳 しゃありませんよ。 H AIと私たち  AIの未来  一割の金持ちと九割の貧乏人  AI(Artificial Intelligence人工知能)の発展により、 将来多くの職がAIにとって代わられるに違いない という話は、今や常識になった。中には、ついには 人間の知性を超えてしまうのではないかと夢想する (あるいは危惧する)人たちもいる。確かにマニュア ル通りにやる仕事はAIの方が早くしかもミスが少 ないので、しばらくすると、単純労働はAIにやら せた方がコストパフォーマンスがはるかにいいとい うことになるだろう。例えばレジ打ちのような単純 な仕事をこなす労働ロボットの価格がどんどん下 がって、最低賃金を下回ることになると、レジ打ち の仕事はロボットにとって代わられるようになり、 この世からレジ打ちという職種はあらかた消えるこ とになる。  自動運転の車が普及して「自動運転車の車両価格 十維持費」が、「非自動運転車の車両価格十維持費 十ドライバーの給与」より安くなればドライバーと いう職業は、やはりこの世からあらかた消えてしま うだろう。そうなった時、人々の暮らしはどうなる のかしら。ホリェモンはAIにはできないスキルを 身に付ければ、何も恐れることはないという意見の ようだが、そういうことができるのは一部の大だけ で、大部分の人々は、努力をしてもAI並みかある いはそれ以下の仕事しかできないと思う。AI以上 の能力がある大とそうでない人の所得格差は拡がり、 今以上に所得の二極化か進むだろう。一割の金持ち と九割の貧乏大といった社会になっていくに違いな い。  そうなった時に九割の貧乏人の暮らしはどうなる のだろう。多少バラ色の話をすれば、AIの導入に よって製造コストが安くなった製品を、今までと同 じ価格で売れば、儲けは莫大になるから、儲けの一 部(大部分)をベーシックーインカムの原資にして、 製品を買ってもらおうという選択肢がある。社会の 大部分の大が貧乏になれば、製品を買ってくれる大 は激減し、企業は潰れてしまうので、ある程度以上 の価格で製品を売るためには、こうせざるを得ない わけで、これは、企業にとっても貧乏人にとっても ウィンーウィングームとなる。私は、近刊の『ほど ほどのすすめ 強すぎ・大きすぎは滅びへの道』 (さくら舎、2018)と題する拙著で、こういう未 来を構想したが、社会システムをベーシックーイン カム社会になるべく早く切り替えないと、この構想 は頓挫するだろう。  AIの導入によって、製品の製造コストが下がれ ば、自由競争を旨とする資本主義社会を前提とする 限り、製品は製造コストに呼応して安くなり、独占 企業は別として、企業は巨大な利益を上げることが できなくなる。これはベーシックーインカムの原資 がなくなることを意味する。  ベーシックーインカムが制度化されなければ、職 を労働ロボットに奪われた人々は暮らしていけない ので、仕方なく、労働ロボット以下の柢賃金で働か ざるを得なくなるかもしれない。理屈では、必需品 の価格が半分になれば、賃金が半分でも暮らしてい けるはずであるが、労働ロボットが作り出せない高 級品を買うとか、上質なサービスを受けることは不 可能になり、ぎりぎりの生活をせざるを得ない労働 奴隷のような生活になるかもしれない。これは楽し くない未来図だな。  問題はその先である。AIが加速度的に進歩して いけば、AI以上の能力のある大は減少してくる。 もし、AIがすべての人の能力や知性を超えれば、 究極的にはすべての仕事はAIにさせて、生身の人 間の出る幕はなくなる、といった社会になってもお かしくない。病気の診断や治療は言うに及ばず、い かなる社会制度が最も適切かといった判断までAI に任せてしまえば、人間はすべての義務的な仕事か ら解放されて、後は他人に迷惑を掛けない限り、自 由に生きてよいというある意味でユートピアのよう な社会になるのだろうか。果たして、AIは人の知 性の限界を突破できるのか。   「フレーム問題」の壁  ところで、かつてAIブームは2同あって、今が 3回目のブームである。最初は1950年代から60 年代で、コンピュータに「推論と探索」をさせて正 解に辿り着かせるものであった。厳密なルールと ゴールが決まっており、ルールにのっとって正解を 導くことがこの時代のAIだった。AIが迷路をう まく抜け出したり、数学の定理を証明したり、ジグ ソーパズルを解いたりできるのは、コンピュータを 単なる計算機だと思っていた当時の人々には驚きで あっだろう。  第2次ブームは1980年代に起きた。専門家の 思考をシミュレーションする所謂「エキスパートシ ステム」を開発して、AIに人間の思考を真似させ ようとのアイデアだ。日本でも結構なブームになっ て1985年の12月には「AIジャーナル」なる雑 誌も刊行された。私はAIの専門家でも何でもない が、この雑誌に「構造主義生物学はなぜそう呼ばれ るのか」と題する論文を寄稿し2同に分けて掲載さ れた。いかなる理由で「AIジャーナル」から構造 主義生物学の論文の依頼が来たかはよく知らないが、 懐かしい思い出である。しかしこのブームはあっと いう間に過ぎて「AIジャーナル」も1987年の 12月の第12号をもって廃刊になってしまった。  ブームで終わってしまう大きな理由は、AIは 「フレーム問題」を解決できないからだ。フレーム 問題とは、有限の処理能力しかないAIはすべての 事態に対応した解を導くことができない、という考 えてみれば当たり前の問題のことだ。例えば、児童 生徒の模範になるような学習ロボットを造ることを 考えてみよう。授業のある囗は遅刻せずに学校に来 て、先生の講義を聞き、先生に教わったことを完璧 に覚えるロボットを造ることは可能だろう。テスト の問題も模範解答もロボットに作らせれば、先生の 手間が省ける。  時間を守ることと講義の学習能力は完璧だが、プ ログラム以外のことはできない。登校時に川でおぼ れている人がいても助けない。緊急事態が発生した ときは、学校に来ることや学習を放棄してもいいよ という普通の人間なら当たり前のことを覚えさせよ うとしても、緊急時とは何かというあいまいな命令 は理解できない。緊急時に相当することは無数に あって、そのすべてをプログラムに組み込むことは 不可能だからだ。おぼれている人は助けなさいとい う命令一つをとっても、これをプログラムに組み込 むことは結構難題だ。川で水浴びしている人を、 片っ端から引きずり上げないとも隕らない。  そこで、おぼれている人だけ助けて、泳いでいる 人は助けないでよい、といった指示を組み込んだ口 ボットを作ると、川でバシャバシャしている人に向 かって、あなたは泳いでいるんですか、おぼれてい るんですかと聞きまわり、泳いでいる人からは「バ カ野郎、見りやわかるだろう」と怒られ、その間に 本当におぼれている人は溺死してしまうという事態 になりかねない。  AIに対して、あるルールの枠(フレーム)の中 の限られた問題だけに限って解を出せばよく、当面 関係ない事柄は無視せよ、という指示を出しても、 関係があったり関係がなかったりする事柄は無数に あり、すべてを考慮するには無限の時間がかかる。 AIは正解が一意に決まっている問題を高速で解く には有効だが、何か正しいのかあいまいな問題を解 くのは難しいのである。  未来には正しい選択などない  その問題を統計的に解決しようとしているのが、 現在流行している第3次AIブームである。AIの 処理能力が格段に速くなって、ビッグデータの解析 が容易になったことが、このブームを支えている。 今までの膨大な経験を集積して、一番正解(成功) 確率が高い解を選べば、それが厳密に正解かどうか わからなくとも、とりあえずいいじやないかという 考えである。こういうコンセプトで作られた将棋や 碁のソフトは、今やプロ棋士を凌駕している。  例えば、将棋の戦いは、序盤、中盤、終盤に分け られるが、序盤の指し手は大体決まっており、プロ でもAIでも少し強いアマでもそう変わらない。終 盤が圧倒的に強いのはAIである。終盤になって相 手の玉に詰みが生じた局面になれば、AIはまず間 違えない。ある厳密なルールの下で、正解が一意に 決まっている場合、高速処理が可能なAIはごく短 時間で正解(詰み)を見つけることができるからだ。 問題は中盤である。プロは大局観とか直観とかいっ たあいまいな基準で指し手を決める。可能な指し手 はほぼ無数にあり、すべてを計算することは今の段 階ではAIでも不可能だ。  そこでAIはどうしたかというと、例えば過去の プロ棋士の棋譜をサーベイして、最も勝つ確率が高 かった手を選ぶといった手法を開発したのだ。もち ろんそれ以外にも、駒の損得とか玉の位置とかを数 値化して、確率的に最も有利になる指し手を選択す るといったことをして、多少あいまいでも勝つ確率 が高い手を選べるようになったのだ。その結果、プ 口でもAIに勝てなくなったのである。ゲーム理論 を信じれば、有限回で決着がつくゲームは、先手必 勝か、後手必勝かのどちらかだということなので、 AIの計算スピードがさらに速くなれば、AIは必 勝で、人間は誰も勝てなくなる。  羽生善治(永叶‥七冠)は桂馬が横に跳べるといっ たようにルールを変えれば、人間の方が強いと主張 したらしい。確かに、新しいルールに対応した棋譜 は全くないので、ビッグデータを解析して確率的に 最も正しそうな指し手を探すという戦略は無効にな るため、当面は人間の方が強いかもしれない。しか し、しばらくすれば、やはりAIの方が強くなるだ ろう。どんなに複雑でも、ルールが決まっていて 「フレーム」がはっきりしている問題では、人間は AIにかなわない。  そうやってAIが進歩して、ある臨界点を超える と、AIは人間の知性をも超えるという所謂「シン ギユラリテイ仮説」を唱える人もいる。そうなると、 先に記したように、生産活動もサービス活動も政策 決定もすべてAIに任せてしまえばいいことになる が、幸か不幸かそうはならないのだ。なぜかという と、AIはある決まったルールに基づいたシステム の中での最適解しか導くことができないからだ。A Iがすべての局面において正解を導けるというのは 所謂「ラプラスの魔」に代表される古典力学的世界 観であって、一寸先は闇(未来は非決定)という現 実世界では、AIは正しい選択肢を提示することは できない。というよりもむしろ、未来に正しい選択 肢などないのだ。ヒトが生きるということは、AI に隕らず、他者の提示した選択肢に従うのではなく、 自分の意志で選択肢を選ぶことにあるのだから。長 くなったので、今回はこの辺で。  AIは人間を超えるか  肉体は親でもA−として生き続けられるり‥  今回は前項とは少し別の観点からAIについて考 えてみよう。「AIの未来」では、AIの発達に 伴って、単純労働は生身の人よりAIの方が上手に こなせるようになる未来に何か起こるかを考察し、 併せて、AIの限界についても論究した。本項では これらの議論をさらに進め、極めて高度になったA Iはついには人間を凌駕するのかについて考えてみ たい。  デカルトは生物は複雑な機械に過ぎないと考えた (動物機械論)。これをさらに徹底させたのはラーメ トリの人間機械論で、現代のAIもこの線上にある と言ってよいだろう。デカルトは、しかし自分のこ とをつらつら考えるに、自分の精神だけは機械論的 に説明するのは無理ではないかと考えるに至り、人 間の心(精神)は物体(物質)から独立した存在だ と主張した。  デカルトは松果体を研究し、魂は松果体に宿ると 考えた。松果体は左右の脳の真ん中に位置する器官 で、現在では概囗リズムをコントロールするメラト ニンの分泌器官として知られている。発生学的に見 ると松果体はヤツメウナギやムカシトカゲなどにみ られる頭頂眼(光を感じることができる第3の眼、高 等動物では退化している)と相同である。最近、松果 体が石灰化するとアルツハイマー病を発疱し易くな ると言われており、松果体を魂の座と考えたデカル トの考えもそれほど的外れではなかったのかもしれ ない。余談だが、カルシウムのサプリを飲むと松果 体が石灰化し易くなるという報告もあり、心当たり の人は気を付けた方がよさそうである。  脳科学が急速に進歩してfMRIなどの装置によ り、生身の人間の脳の活動を分析できるようになっ てきた。視覚、聴覚はもちろんのこと、言語や論理 的な能力をはじめ喜怒哀楽などの情動を司る脳の部 位が明らかになり、人間の精神活動も、脳の神経系 の電気的な活動と、それを助ける脳内の神経伝達物 質の働きに、還元できることが分かってきた。我々 の脳内の働きをそっくリコピーしたAIを作れば、 それは我々そのものではないかという考えが生まれ ても不思議はない。すなわちついに肉体は死んでも、 人間はAIとして生き続けられるというわけだ。  所得と余命の相関関係  そうなると、人間を完全にコピーしたAIにも人 権を認めるべきかといった問題が生じてくるが、そ の前にAIとバイオテクノロジーの進歩は人間をど こまで改造できるかという話をまずしてみよう。が んの治療法も日進月歩で、そのうち外科手術といっ た物理的な手法に頼らなくても、多くのがんは治療 可能になってくるだろう。医療用のナノロボットが 開発されれば、このナノロボットが体内をくまなく 廻ってがん細胞を見つけ次第攻撃して除去すること や、別のタイプのナノロボットが血管壁にこびりつ いたアテロームを取り除いたり、脳の神経細胞内の アミロイドpを取り除いたりして、心筋梗塞や脳梗 塞あるいはアルツハイマー病などの発疱を防いでく れるようになるかもしれない。  しかし、最先端の医療は大変高価で、保険診療が 可能でなければ、貧乏大には無縁な治療法であるこ とが多い。今の日本は、金持ちだからといって特別 に長生きするわけではなく、資産と寿命の間にそれ ほど大きな相関はないが、アメリカでは所得と寿命 の間には現在でもはっきりとした相関があり、金持 ちになればなるほど、平均余命が長いことが分かっ ている。  例えば、ブルッキングス研究所のボズワース氏の 2万6000人の米国人を対象とした分析によれば、 1940年に生まれた大が55歳になった時の平均余 命は、働き盛りの時の所得上位10パーセントに入る 金持ちでは、男性34・9年、女性35・3年だが、下 位10パーセントの貧乏大では、男性24・2年、女性 25・8年と驚くほどの差があるという。  最先端の医療は益々発達し、それに伴い医療費も 益々高額になっていくことが予想され、金持ちと貧 乏人の平均寿命はどんどん開いていくだろう。AI が多くの人々の仕事を奪っていけば、しばらくたつ と、ごく少数の金持ちと大多数の貧乏大という構図 になるに違いない。ごく少数の特権階級と大多数の 平民ということでは、中世と選ぶところはないが、 大きく異なるところは、この分極化した二つの階級 の間の平均寿命の乖離が圧倒的に大きくなっていく ことだ。中世では、王様や貴族と雖も、平民と同じ ような病気で死んでおり、効果的に病気を治す術は なかったので、金と権力があっても長生きできると は隕らなかった。  最先端のバイオテクノロジーは最初のうちこそ、 病気を治すといったネガティブな属性を除去するこ とに専念するであろうが、いずれ、人体を改良して、 スーパー人間を作る夢に向かって走り出すに違いな い。私はかつて「サイボーグーオリンピック」(『虫 の目で人の世を見る』平凡社新書所収 1999)と題 するエッセイで、改造人間が生身の人間を運動能力 で凌駕する時代が来るという、当時は荒唐無稽と思 われた話を書いたことがあるが、今やこの話は現実 味を帯びてきた。そのうち運動器官ばかりでなく、 人工臓器も生身の臓器の機能を上回るものが開発さ れて、脳以外はすべてAIで動く機械のような人間 が出現するだろう。  貧乏人がこの世から消滅するり‥  AIに職を奪われた圧倒的多数の貧乏人にはこう いった恩恵は廻ってこないかもしれない。そればか りか、働く必要がない圧倒的多数の人々の群れが、 社会システムにとってどんな意味があるのかを考え ると、場合によっては面倒な世の中にならないとも 隕らない。中世の帝国にとって、人民は食料の生産 者として、あるいは戦争の際の兵士として、欠くべ からざる存在だった。グローバルーキヤピタリズム が跋扈している現代においても、人々は労働者や消 費者として、やはり社会システムにとって欠くべか らざる存在である。グローバルーキヤピタリズムの 走狗となった権力が、少子化に目くじらを立ててい るのは、柢賃金の労働者と大勢の消費者を確保した いためである。  しかし、ほとんどすべての労働がAIに任せられ るということになったら、労働者は不要になり、子 供を沢山作ることは生産に従事しない人口が増える ことだから、社会システムにとって大きな負担とな るだろう。丁度、年金生活者の老人が増大している 現代と同型の問題に社会は直面することになる。も ちろん過渡期では、AIを導入するコストより安い 労賃で人々を働かすことは可能だろうが、AIのコ ストがどんどん下がれば、正確さで劣る生身の人間 の労働力はいらないということになるだろう。  この時点で、ベーシックーインカムが導入されて いれば、子供を産まなければ満額のベーシックーイ ンカムを保証するが、子供を産むと減額するといっ た話が出てくるに違いない。子供を産まない人が多 くなれば、徐々に人口が減少して、ついには貧乏人 はこの世から消滅するかもしれない。子供を産んで 育てるのが喜びだという人は、それでも子供を作る だろうが、そのうち、子供を育てることに喜びを感 じないように脳を操作されるかもしれない。  A−内蔵アンドロイドばかりの世界  一方、ごく少数の金持ち連中は、自分の脳のシス テムをAIにコピーすれば、生身の人間ではなく、 AIとして生き続けられるという話に飛びつく可能 性が高い。ベストセラー『サピエンス全史』の著者 ユヴァルーノアー(ラリは近著『ホモーデウス』 (河出書房新社)の掉尾で次のように述べている。   「I 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないの     か? そして、生命は本当にデータ処理に     すぎないのか?   2 知能と意識のどちらのほうが価値があるの     か?   3 意識は持たないものの高度な知能を備えた     アルゴリズムが、私たちが自分自身を知る     よりもよく私たちのことを知るようになっ     たとき、社会や政治や日常生活はどうなる     のか?」        (『ホモーデウス 下巻』246ページ)  私とそっくり同じに見えるアンドロイドを作って、 脳の神経システムをそっくリコピーしたAIを作れ ば、私の知人はこのアンドロイドを私だと看做すだ ろう。喋り方も趣味も嗜好も私にそっくりで、何か 新しいことに出会っても、過去の私の経験として集 積されたビッグデータに基づいて、最も私らしい行 動をするだろう。楽しい映画を見たら私と同じよう に笑うし、悲しい小説を読めば同じように涙ぐむだ ろう。外から見る限り、このアンドロイドは心を 持った人間に見えるに違いない。  金に糸目をつけない人たちがこの状況を見れば、 自分が死ぬ前に自分の脳システムをコピーしたアン ドロイドを作って、生身の自分の脳が死んだ後もア ンドロイドとして生き続けたいと思うだろう。社会 の上層階級の人々が死ぬ前にそうやってどんどんア ンドロイドに化けていき、貧乏人はアンドロイドに なれずに死ぬはかないという状況が続けば、理不尽 だと言って暴動が起きるかもしれない。もしまだ貧 乏人たちにも選挙権があれば、社会は現在生きてい る人に限り、新たに子供を作らないという条件の下 で、アンドロイドとして生き延びるための資金を提 供する決定をするかもしれない。そうやって生身の 人間は絶滅していくというのは全く考えられないシ ナリオではない。  ところで、私かまだ生きているうちに私の脳シス テムをコピーしてやれば、他人から見れば、私か二 人いることになる。しばらく別々に行動して、数年 後に再会すれば、様々な事柄に対する意見は全く 違っているということはありうる。AIに支配され たアンドロイドは過去のビッグデータに基づいて、 私にとって最適な決定をするに違いないが、生身の 私は過去のデータなど無視して、破滅的な決定を下 すことはありうる。しかし、時にこの決定は素晴ら しいイノベーションの始まりかもしれない。AI内 蔵のアンドロイドばかりの世界はつまらない社会に なりそうである。  過去のデータなど無視して出鱈目な決定を下すの が、人間が心を持っている所以だとすれば、AIに は心は宿っていないのではないかと私は思う。  AIは格差を固定する冫  A−が決める商品の質と量  アマゾンで書籍を買うようになって、しばらくし た頃からお薦めの本があります、といったメールが 届くようになった。私か過去に買った本の傾向を分 析して購入しそうな書籍を紹介してくれるのだ。便 利だと思う人もいるだろうが、私としては余計なお せっかいだ、という思いの方が強い。  こういう芸当ができるのは過去のデータを集積し て、適当なアルゴリズムを働かせて、私の読書傾向 を推定することが可能になったからである。AI (人工知能)のデータ集積能力と計算能力がひと昔前 に比べけた違いに高くなったおかげで、商品の販売 戦略は、テレビや新聞といったマスメディアを使っ て、不特定多数の人に向かって行う宣伝よりもむし ろ、個々人に直接働きかけるやり方がメジャーに なってきつつあるようだ。  最近話題を集めている無人スーパーは、省力化を 進めて、人件費を削減するといった企業にとっての メリットは大きいと思われるが、逆から見れば、レ ジ係はクビになる訳で、AIは雇用を奪うという巷 間ささやかれている話が、現実になってくるという ことでもある。客は専用のアプリや会員カードを携 行しなければ入店できず、商品についているバー コードを読み取って決済しそのまま退店できる。24 時間いつでも営業していることや、店員と話さなく てもいいといったことをメリットと感じる客には有 難いかもしれないが、どんな商品を購入したかとい う個人情報は筒抜けになる(AIのビッグデータに集 積される)ことを覚悟する必要がある。  AIで管理すると、どんな商品がどれだけ売れた かがリアルタイムで分かり、発注も自動的に可能に なるが、しばらく店頭にあってあまり売れなかった 商品はAIの判断で撤去されるといったことが起こ り、余りポピュラーでない商品を買いたい客にとっ ては、有難くない事態になることもあるだろう。A Iは過去のビッグデータの統計解析によって店頭に 並べる商品の質と量を決めるであろうから、客層が 異なる地域では品ぞろえも異なってくる。但し品ぞ ろえを決めている最も正しいアルゴリズムがアープ リオリにあるわけではないので、適用するアルゴリ ズムを変えたら、売り上げも変動するに違いない。 アルゴリズムの良し悪しが、売り上げによって検証 されるわけだ。  売り上げを左右する因子はものすごく沢山あるの で、どの因子にどれだけの重みづけをするかで、売 り上げは異なってくるだろう。平日と休日の品ぞろ えを変えたり、天気予報によって変えたり、試行錯 誤しながらアルゴリズムは進歩していくに違いない。 AIはある因子と売り上げの相関を調べ、アルゴリ ズムに組み込むだろうが、相関は因果関係ではない ので、過去のデータから見たらそうなりそうだとい う話に過ぎないわけで、根本的な状況が変われば、 話は全く違ってきてしまう。これはAIで未来予測 をするときに注意しなければならない重要な問題と なる。  アルゴリズムの良し悪しとは  過去のビッグデータを統計解析する能力において。 AIは生身の人間の能力を超えてしまったため、将 棋では最高峰のプロもAIに勝てなくなってきた。 野球では、例えば個々のバッターの過去のデータを 分析し、守備陣の位置をバッターごとに変えること が普通に行われるようになってきた。あるいは、あ る状況でバントをさせるべきか打たせるべきかの判 断までAIが行えるようになってきた。7同表の攻 撃で現在2点差で負けているとか、ピッチャーと バッターの過去の相性とかのデータを分析して最適 と思われる選択を決定するわけだ。  野球はもちろんのこと将棋も今のところ決定論的 なゲームではないので、常勝のアルゴリズムは存在 しないが(ゲーム理論によれば有限回のやり取りで勝負 が決するゲームは先手か後手のどちらかが必勝あるいは 引き分けということなので、もし将棋がこの範疇のゲー ムであれば、最善のアルゴリズムが存在することになる が、将棋は千日手があるので有限ゲームではない)、過 去のビッグデータの統計処理技術が進歩すれば、勝 率を上げられるという点ではよく似ている。但し、 将棋ではある局面で指される同一の指し手は、AI を含めて誰が指しても同一の価値を持つが、野球で はAIが強打せよ、あるいはバントをせよと命じて も、選手によって結果が違うので、偶有性の度合い はより強いという差がある。  いずれにせよ、これらのゲームではアルゴリズム の良し悪しは勝負の結果により判定されるので、一 番良い結果を出すアルゴリズムの信頼性は高いとい うことになる。先のスーパーの品ぞろえを決定する アルゴリズムや、アマゾンが顧客の購買リストを分 析して、購買意欲をそそる商品の宣伝文を送り付け るアルゴリズムも結果により判定される点では同じ である。これは、AIの使い方としてはしごく真っ 当であると言える。ところがそうではない場合があ るのだ。  未来は予測できるが作れない  例えば、アメリカでは従業員を雇用する際に、応 募者の個人情報をAIに解析させて、雇用するかし ないかを決定する企業が増えているという。このA Iによる決定システムは、一見好ましく見える。従 来はコネとか雇用者の好みとか容姿とか口の利き方 とかといった、かなり恣意的な方法で決めていたの が、客観的なやり方に改まったので、より合理的に なったように思えるからだ。  しかし、AIが利用できる個人情報は有限の過去 のデータから、あるアルゴリズムに従って導いた推 論にすぎず、その有効性は事後的に確かめられない という根本的な問題点を孕んでいる。AIに競馬の 勝ち馬の予測をさせれば、血統や過去の戦績、脚質、 騎手、他の出走馬との比較、などの様々な因子に適 当な重みづけをして、あるアルゴリズムに基づいて 勝ち馬を予想するだろう。そして重要なことはこの 予想が当たったか外れたかは、レースが終われば直 ちにわかることだ。外れてばかりいるアルゴリズム は棄却されて、より精度の高いものにとって代わら れるに違いない。  翻って、雇用決定システムでは、決定が正しかっ たかどうかを知るすべはない。運良く採用された人 と、運悪く不採用になった人がAIというブラック ボックスで決定されるだけだ。異なる会社で同じア ルゴリズムが使われると、不採用になった人は、ど の会社を受けても不採用になり、就職の機会を奪わ れてしまう。AIは様々な個人情報に重みづけをす るので、例えば、高級住宅地の出身の人と、貧乏人 が多く住む町の出身の人とで、アルゴリズムに組み 入れる際の重みづけが異なれば、他のすべての因子 が等しくても、前者が採用になり、後者が不採用に なるといったことが起こるだろう。  AIは厳密な因果関係ではなくて、相関関係によ る統計操作をするので、高級住宅地の出身であるこ とと、より高い社会的信用力や知性が強く相関する というデータがあれば、これを決定プロセスに組み 込むことを躊躇しない。あるいは、ある国における 人種的マイノリティがマジョリティよりも社会的信 用力が柢いというデータがあれば、AIはより正確 な決定のためという大義名分に従って、このデータ を考慮するだろう。かくしてAIの無批判な利用は 社会的格差を固定することに貢献するようになる。  ほんのわずかな差異で就職できなかった人や、 うっかリミスで銀行口座からカードで買った品物の 代金の引き落としができなかった人は、この個人 データがAIに蓄積されるため、以前に比べてより 就職が困難になったり、アパートを借りられなく なったり、ローンを組めなくなったりして、この情 報がAI上のスコアをさらに柢くして、一度、負の スパイラルに落ちると、社会的な上昇は困難を極め るようになってくるだろう。  もちろん、人間の判断によって、出身や性別や人 種などの因子はAIのアルゴリズムに組み入れない ことはできるが、健康診断の結果とかその他もろも ろの個人情報の重みづけはブラックボックス化しや すく、AIのビッグデータを適正に運用するのは容 易ではない。さらに問題なのは、政治権力が監視 ネットワークシステムを張り巡らせて国民の個人情 報を集積して、個人の信用スコアを計算して、様々 な差別を行うことができるようになる点だ。  中国ではこのようなAIによるスコアリングの結 果、融資を受けられないといったトリビアルな差別 から、ビザの取得が困難になったり、移動の自由が 制限されたりといった重大な人権侵害までが生じて いると言われ、独裁化か進行中の日本でも対岸の火 事と言って済ますわけにはいかない日が来るかもし れない。  紙幅が少なくなってきたが、重要なのは、AIの ビッグデータの統計処理から導ける結論は、過去の システムが基本的に変わらないという前提の下でし か機能しないことだ。AIは未来を予測することは できるが、未来を作ることはできないのである。  AIがもたらす不労社会  生き残れる職業とは  前回は、AIは格差を拡大するという話をしたが、 今回は将来、AIで代替できる仕事が大半になった 時、人々の生活はどうなるのかについて考えてみよ う。オックスフォード大学のAIの研究者が、アメ リカ労働省のデータに基づいて、702の職種がど れだけAIに代替されるかを分析した結果、今後10 年〜20年の間に、総雇用者の照パーセントの仕事が AIにとって代わられるだろう、との論文を発表し て世界に衝撃を与えたのは2014年のことであっ た。  当時はまだ半信半疑だった人々も、その後5年近 くの歳月が流れ、アメリカのみならず、ほとんどの 先進国では、多くの仕事が徐々にAIに代替される であろうことをほぼ自明と考えるようになった。前 回、話題にしたレジ係のような単純な仕事は言うに 及ばず、定まったマニュアルに基づいてデータを処 理して結果を出す、といった仕事は相当複雑なもの でもAIで代替可能になる。その結果、税理士や会 計士といった知的職業もそのうち消える可能性が高 い。  高度な経験や知識が必要とされる内科医のような 仕事も、そのうちAIにとって代わられるだろう。 AIは過去のビッグデータの統計解析は得意とする ところなので、患者の血液検査のデータや患部の画 像から、最も確度の高い病名を推断する能力におい て、生身の人間を凌駕することは間違いない。それ は将棋のトッププロがAIに勝てなくなったのを見 れば分かるであろう。  もちろん将棋のプロはAIに負けたところで廃業 にはならないが、AIに比べて病気の診断技術が劣 る内科医は生き残ることが難しくなるだろう。診断 はAIに任せて、患者の悩みやこれからの生活設計 を共に考えるといった医者だけが生き残れるだろう が、これを医者と呼べるかどうかは微妙な問題だ。 いずれにせよ、普通の職業で生き残れるのは、マ ニュアルにない問題に直面した時に、臨機応変に対 処しなければならない職業だけとなろう。  介護や整体師といった生身の人間相手の仕事は、 マニュアル通りでは上手くいかないところが出てく るため、しばらくはAIは熟達した専門家にはかな わないだろうが、そのうち汎用AIが出現すれば、 これらとてもどうなるか分からない。結局、消えて なくならない仕事は、さらに高度なAIを考案する といった、最先端の科学研究など、ごくわずかに なってしまうかもしれない。  それで、AIにとって代わられた仕事をしていた 人は当然失業することになる訳だが、その時社会は いったいどうなるのだろう、というのが今回のテー マである。一番ありそうもないのは、多くの人がA Iが代われない仕事に転職するという未来だ。AI に代替できない仕事は知的能力以外にも、経験と技 能が必要で、30歳代くらいまでの人ならばともかく、 中高年の人はこれらを身に付けて転職するのは難し いと思う。さりとて、無収入では本人も困るし、社 会全体にとっても大きなリスク要因となって、安定 的な社会を築けなくなる。大半の人が無収入では、 企業は製品を作っても買う人がおらず、グローバ ルーキヤピタリズムは破綻する。  AI化はまず先進国で始まり、途上国では遅れる であろうから、最初のうちは、AIで作った製品を 途上国に売って、資本主義は何とか機能するだろう が、このままでは、先進国の失業者は飢えに直面し てしまう。最悪の場合は暴動が起きたり、治安が極 めて悪くなったりして、社会は崩壊に直面する恐れ なしとしない。膨大な失業者を何とか生かしておく ためには、食物を現物支給する、生活保護あるいは ベーシックーインカムといった形で、一定の現金を 国民に配分する、などといったことをせざるを得な くなるに違いない。  しばらくたてば、途上国でもAI化か進んで、世 界的規模で、製品を作っても買える人がほとんどい ないという状態になり、グローバルーキヤピタリズ ムは完全に崩壊するので、延命のためには、好むと 好まざるとにかかわらず、ベーシックーインカムあ るいは類似の制度を導入せざるを得なくなる。  ベーシックーインカムの原資  多少ありそうな未来は、ごくわずかなベーシッ クーインカムを支給して、生活のインフラを全員に 保証して、それ以外に収入がない大半の国民は田舎 で自給自足の生活をするというものだ。都会のビル で事務仕事をするよりもこちらの方が健康的で楽し いという人もいるだろうから、ベーシックーインカ ムだけでなんとか暮らせるようになっても、田舎で 農業をする人口は増えるかもしれない。現在、田舎 には限界集落と称される、人口が減って崩壊寸前の 集落が結構沢山あり、ここに移住すれば、なんとか 暮らしていけるだろう。  私個人としては、すべての国民に一律に同額の現 金を支給する、本当のベーシックーインカム (universal basic income)が最も好ましいと考えている (生活保護、雇用保険、強制加入の年金制度や健康保険制 度などは廃止)。過渡期の問題や、抵抗勢力が沢山 あって、現実的にはなかなか難しいと思われるだろ うが、現状のシステムに適応している大半の抵抗勢 力も、AI化か進めば失業を余儀なくされ、抵抗勢 力も現状のシステムも共に崩壊するので、新しいシ ステムを構築するのはさほど困難なことではないと 思う。例えば、年金制度にディペンドしている厚労 省の一般官僚や、健康保険制度で食っている多くの 医者は、AI化か進めばともに失業する。  問題はベーシックーインカムの原資である。中に は、社会保障給付費(年金、医療、福祉等)をベー シックーインカムにすべて同すとして、2018年 度の給付費の総額は121兆3000億円で、これ を囗本の総人口1億2644万人(2018年10月 1日現在)で割ると、年額約96万円(月額約8万円) となるので、増税しなくとも、月額8万円程度の ベーシックーインカムが可能だと主張する人がいな いわけではないけれども、これはもちろん前提が間 違っている。20年後に大半の国民が失業するという 状態では、この数値自体が意味をなさなくなってく るので、他に原資を考える必要がある。  AI化か進めば、人件費はごく安くなるので、製 品を以前と同じ値段で売れば、企業の儲けは膨大に なる。企業の黒字の例えば八割とかをベーシックー インカムの原資として徴収すれば、企業も、国民も 共に生き延びることができる。問題は企業間で自由 競争をすると製品の価格がどんどん下がり、その結 果ベーシックーインカムの原資が減って、国民の購 買力も落ちることだ。国際競争力をどう担保するか というややこしい問題を、とりあえず措くとすれば、 負のスパイラルに陥らないためには、ベーシックー インカム時代においては、経済に関する常識をひっ くり返す必要が出てくるだろう。  例えば、製品の最低価格を設定して、それ以上安 く売ってはいけないことにする。企業の黒字を担保 するため、役員や従業員の報酬の上限を決める。経 済を同すためにベーシックーインカムの半分以上 (例えば七割以上)は必ず消費することを義務づける、 等々。現状では、馬鹿げた考えに思われるだろうが、 少し前まではベーシックーインカムはもちろんのこ と、民主主義も男女平等も机上の空論だと思われて いたわけで、現在は馬鹿げていると思われる制度で も、将来は当たり前になることはあり得るのだ。  かなりの子供たちが勉強をしなくなる  ベーシックーインカムが上手く機能すれば、働き たい人は働き、趣味に生きたい人は趣味を極め、ボ ランティアが生きがいの人も、孤独を愛する人も、 どんな生き方も可能なので、自分の好きなように人 生を送れるわけで、理想の社会になると思いたいが、 実際はそうもいかないだろうという不安要素もいく つかある。  まず、すべての個人に支給すると、誕生したら即 貰えるわけで、子供の数がどんどん増えて少子化か 止まるどころか、多子化に反転しかねない。少子化 か困るという言説は安い労働力を確保したい、旧来 型のグローバルーキヤピタリズムの願望であって、 労働力をAIに代替させた方が儲かる未来型の資本 主義から見れば、少子化は少しも怖くないし、むし ろベーシックーインカム時代には適合的なのである。 従って、ベーシックーインカムを満額支給するのは 18歳以上と決めて、なるべく人口を増やさないよう な政策が望まれる。  恐らく一番の問題は、かなりの子供たちが勉強を しなくなることであろう。現在は、働かなければ食 えない、そのためには高校や大学を卒業しなければ ならないというイデオロギーをたたき込まれている ので、多くの子供たちは嫌々勉強して、学校に行っ ている。働かなくても暮らしていけるということに なれば、AIに代替できない仕事を目指す人は猛勉 強するが、それ以外の人は好きなことしかせずに、 かなりの人は高等教育を受ける意欲をなくすかもし れない。  そうなると、国民の平均的な知的レベルはどんど ん落ちて、ごく一部の高収入のエリートと大半の柢 収入の知的能力に欠けた国民に分極する可能性もな くはない。もちろん、定職にはつかすに学問を究め る柢収入の知的エリートも出現するであろうが、そ ういう人はわずかだろう。  今の日本人を見る限り、大半の国民は無教養の烏 合の衆になりそうな気がする。政治にも国際情勢に も興味を示さず、芸能人のスキャンダルや、オンラ イングームにうつつを抜かして、人生を棒に振って しまう人も今よりもっと増えそうだ。さてその先は どうなるのか、あまり考えたくないな。尤も私はす でにその頃鬼籍の人なので、考えても仕方がないけ どね。  遺伝子とAI  (ンチントン病はなぜ消えていかないか  ここでは遺伝子とAIが将来どう切り結ぶのか、 といった話をしてみたい。  かつて13年の歳月と30億ドルの費用を費やして行 われたヒトのゲノムの解析(全DNA配列の解析)は、 今や数日間1000ドル以下でできるまでになった。 とはいえ、全DNA配列が分かったところで、どの ような形質が発現するのか、どんな病気になりやす いのか、どの程度の寿命が見込めるのか、などが正 確に分かるわけではない。  比較的簡単に分かるのはI遺伝子の異常が主たる 原因の単一遺伝子病くらいであろう。単一遺伝子病 には優性のものと劣性のものがあり、最もよく知ら れている優性の単一遺伝病は(ンチントン病であろ う。原因遺伝子は4番染色体の短腕上のHTT遺伝 子で、この遺伝子の第1エクソン(通常、遺伝子は、 エクソン、イントロン、エクソン、イントロン、エクソ ンといった具合にエクソンとイントロンが互い違いに並 んでいて、エクソンだけがタンパク質をコードする遺伝 情報を担っている)にあるCGA(グルタミンをコー ドする遺伝暗号しソトシン、グアニン、アデニン)の 繰り返し配列が、37以上あると発疱するとされる。 通常はH〜34のコピー数である。中には800以上 のコピー数を持つ患者もおり、コピー数が多ければ 多いほど、若年で発疱し、かつ重症である。両親の どちらかがこの病気であると、子は50パーセントの 確率で発疱する。  遺伝病の多くは劣性で、父母のどちらからも原因 遺伝子を受け継いだ時に発疱する。よく知られてい る劣性の単一遺伝病は鎌型赤血球貧血症、嚢胞性繊 維症、テイ=サックス病などで、比較的若年で死亡 するため、子孫を残せることは稀である。そうなる と、自然選択により、これらの病気は徐々に集団か ら消えていってもよさそうなのに、なぜ無くならな いかというと、ヘテロ接合体(片方が病原遺伝子で片 方が正常遺伝子)が、昔流行していた感染疱に抵抗 性があるからだ。  ヘテロ接合体は、鎌形赤血球貧血症ではマラリア、 嚢胞性繊維症ではチフス、テイ=サックス病では結 核に対して抵抗性を示し、病気が流行するとむしろ 適応的になる。昔、これらの病気が流行っていたと ころでは、今も病気の原因遺伝子の頻度が高い。そ れでは、(ンチントン病がなぜ消えていかないかと 言えば、多くの患者は繁殖年齢を超えてから発疱す るため、遺伝子が子孫に受け継がれてしまうからで ある。  体外受精が主流になって、受精卵の段階で病原遺 伝子を簡単に発見できれば、この受精卵は棄却して、 正常な遺伝子を持つ胚だけを育てることができるの で、遺伝病を徐々に減らすことが可能になる。場合 によっては、ゲノム編集によって正常な遺伝子に置 き換えてしまうこともできるようになるだろうが、 正常な胚を見つけて育てる方が簡単なので、こう いったゲノム編集は流行らないだろう。  中国で、去年、ゲノム編集を施した双子が造られ たという事件があった。誰でも考えるのは、素晴ら しい遺伝子をゲノム編集の手法で次々にゲノムに人 れて理想の人間を造ったらすごいということだろう。  残念ながら、これは難しい。一つの遺伝子と一つ の形質(あるいは病気)が、一対一対応しているこ とは稀で、多くの遺伝子は多面発現(一つの遺伝子 がいくつもの形質発現に関与している)しているか、 あるいは一つの形質が多くの遺伝子の関与の下で発 現することが普通だからだ。遺伝の法則を発見した メンデルのエンドウ豆の実験が余りにも見事だった ので、多くの人は遺伝子と形質は一対一対応をして いると誤解していることが多いが、そういう遺伝子 はむしろ稀で、遺伝子たちは相互に関わりあって、 様々な形質を発現させているのだ。  例えば、HTT遺伝子(ハンチントン病の原因遺伝 子)は大脳の線条体尾状核を冒し、進行性の不随意 運動、情動障害、認知障害などを起こすが、同時に この遺伝子が作るたんぱく質は有力ながん抑制遺伝 子のp53と結合して、がんの発疱を抑制するのでは ないかと言われている。これも多面発現の一種であ ろう。  保険の常識が変わる  個人のゲノム情報が集積しだすと、このビッグ データを解析するのにAIが使われるのは時間の問 題となる。そのうち解析が進むと、ある特定のDN A配列と、個人の形質や行動パターンや発疱しやす い病気等々との相関が判明してくるだろう。AIが 導き出すのは相関だけで、原因ではないが、未来の 予測には役に立つ。もちろん相関が100パーセン トであれば、HTT遺伝子とハンチントン病のよう に因果関係があると考えられるだろうが、相関が有 意であっても、様々な因子が関係している場合は、 真の原因は簡単にはわからない。  但し、個々人にしてみれば、遺伝子解析の結果、 将来かかりやすい病気が分かり、この病気の予防が ある程度可能であれば、ゲノムを解析してもらうこ とにはメリットがある。あるいは個人の余命の期待 値も分かるかもしれない。そこまではよい。問題は その段階に止まる保証はないことだ。このデータを 一番欲しがるのは生命保険の会社だろう。病気にな り難い人や、余命の期待値が長い人にはどんどん保 険に入ってもらいたいが、反対の人はご免こうむり たい、というのが保険会社の本音だ。  個人のゲノム情報は携帯電話の番号と違って究極 の個人情報であるから、本人以外の人には知らせな いとしても、自分のゲノム情報を知った本人は、将 来がんになり易いとか、早死にしそうとかが分かれ ば、高額の生命保険やがん保険に入ろうとするだろ う。反対に、しばらくは病気になりそうになく、長 生きしそうな人は、障害保険以外の保険には入らな くなるかもしれない。そうなると、保険会社は困っ たことになる。保険はもともと相互扶助の精神から 発したものだ。困った人をみんなで少しずつお金を 出して助けようという精神から始まったに違いなく、 リスクの柢い人が抜けてしまったら、保険は成り立 だない。  保険会社は仕方なく、最も危険な集団に準拠して 保険料を設定せざるを得なくなるだろうが、それで は保険に入る人はいなくなり、保険会社は潰れてし まう。どうなるかというと、任意でゲノム情報を提 出してくれた人には、AIが推定するリスクに基づ いて保険料を値下げする、という商売を始めるだろ う。もちろんゲノム情報は保険料の算定に使う以外 は使わないという約束をすると思うし、現実的には ゲノム情報をAIに放り込んで、AIが保険料を算 定するのだから、保険会社の人は誰もゲノム情報を 見られないような仕組みになると思う。尤も、生の ゲノム情報を見てもそれだけでは何もわからないの で、見てもしようがないけれどね。  個人のゲノム情報と保険料の間にはAIというブ ラックボックスが介在するだけで、なぜこの保険料 になるかは保険会社にもわからないので、納得でき なければ、契約しないでください、ということにな るに違いない。ゲノム情報に関するビッグデータが 集積してゆけば、同じゲノム情報でもリスク基準は 変化するので、時々別の保険会社に算定し直しても らえば、保険料が安くなることもあり得る。賢い人 は、安くなれば契約を変更して、高くなればそのま ま継続という選択をするだろう。  気が付けばA−の奴隷に‥  問題は保険料が分かれば、この大が抱えている健 康リスクも同時に分かってしまうので、個人情報を 保護すると言っても、これはなかなか難しい。ゲノ ム検査の結果、自分の健康リスクが少ない人の中に は、就職や結婚に際し、その情報を有利に使おうと いう大も現れるだろうし、偽りの情報を流す大も出 てくるだろう。だから、本人と雖も、予防可能な病 気以外の情報は知らせないといった規制が必要にな るかもしれない。どんな病気になるかいつ死ぬかは 神のみぞ知るといった時代から、推定余命からアル ツハイマー病になる確率まで、AIが推定できる時 代になると、人々はいらぬストレスにさらされ、ど んどん不幸になっていくような気がするね。  もちろん、いいこともないわけじゃなくて、ゲノ ム情報、年齢、ある病気の治療方法による治癒率の 相関が、ビッグデータの集積によりある程度分かる ようになると、どんな治療法が最適かをAIに調べ てもらうことなどができるようになるだろう。ある いは、ゲノムの情報に基づき、タバコを吸って肺が んになる確率とか、酒を飲んで食道がんになる確率 とかが、個々人によって異なることなども分かるだ ろう。肺がんになる確率が柢い人はタバコを吸って ストレスを解消する方が長生きするとAIが予言す れば、禁煙原理主義の馬鹿げた運動も少しは沈静化 するかもしれない。  しかし、そのうち何でもかんでもAIにお伺いを 立てて行動するような人も増えて、気が付けばAI の奴隷のような生活になってしまう人もいるかもし れない。人は確率のみで生きているわけではないの で、これは面白くない人生だな。 V 市場原理と成果主義  教育に市場原理を持ち込む愚行  学生を教育しようと思ったことは一度もない  大学を定年になって講義から解放されて、心が晴 れるかと思ったけれど、そういうこともないみたい だ。講義がなくなって寂しくないですか、と時々聞 かれるけれど、もともと講義は余りやりたくなかっ たので、寂しいということもない。かといって嬉し いということもないのだ。  なぜだろうとつらつら考えるに、大学で講義をす るのは、私の人生にとって虫採りや理論書の執筆に 比べれば、些事だったからだろう。こういうことを 公言すると怒る人がいるのは承知している。「全身 全霊で講義をするのが大学教授の義務だろう」とか 「学生のために全力を尽くすのが教師たるものの務 めだろう」などといったことをしたり顔でのたまう のだろうね。  私か中学生や高校生の頃にもこういう熱血(のふ りをしている)教師がいたが、なるべく関わらない ようにしていた。今にして思えば、軽蔑していたに 違いない。実のところ、私にとって、そういう先生 は迷惑以外の何者でもなかったのである。精魂込め て教えれば、学習効果が上がるというのは幻想であ るし、学生のためと思って行動しても、迷惑なこと も多いのだ。独学の方が効率がいいので、放ってお いてくれないか、というのが率直な気持ちだった。  好きな先生や、尊敬できる先生もいたが、私自身 にとっては、教師から口頭で教わるといった意味で の、教育の効果は全くなかったと断言できる。もち ろん、この話が一般化できるとは思わないが、少な くとも、教師の教育熱心さと、生徒や学生の学習効 果がパラレルになるとは隕らないことは確かである。  学問を志すつもりなら、講義を聞くより本を読ん だ方が手っ取り早い。私は自分自身の楽しみと知的 後継者(ほとんどは知らない人だ)のために、いくつ かの理論書を心血を注いで書き、思索にふけった (そのために本もよく読んだ)。講義はそういった楽し みの副産物だったわけで、講義の準備のためだけに 干不ルギーを注いだことはほとんどなかった。だか らといって、でたらめな講義をしたわけではなく、 その時々で一番面白そうなトピックを交えた話をし たけれども、学生が理解してくれたかどうかは知ら ない。そういうことには興味がなかった。  私は学生を教育しようと思ったことは一度もない。 学生が教師から何を学ぶかは学生自身の問題であっ て、私の講義を聞いてゼミに出ても、何も学ばない 学生もいるし、私の本を読んで何か悟るところが あったらしく、私を師と仰ぐ学生や私に私淑する人 もいるし、ただの飲み友達のジイサンだと思ってい るゼミ生もいる。いろんな学生がいた方が面白い。 今流行りの多様性という奴だが、世間ではこういう のは多様性と言わないのかもしれないね。  万人にとっての最適な教育方法はない  言語の習得、読み書きそろばん、犯罪者にならな いための行動規範は、子供の時に教育しないと、ま ともな大人になれないけれども、高等教育は、能力 も個性も違う人々の間のコミュニケーションである ので、万人にとっての最適な教育方法はない。最近 の大学教育の最大の問題は、誰に対してもコストを 掛ければ、それに見合う教育成果が上がるに違いな い、という本当は誰も信じていない建前に、文科省 をはじめ教育界が侵されたことだ。  アメリカの物まねだろうが、1年間の講義内容の 予定を詳しく書けというシラバスと称するものがあ る。予定を立ててその通りに講義をやれば、教育成 果が上がるに違いないという短絡思考のなせる業だ。 教育がプラモデルを組み立てたり、家を建てたりす るのと同じように、設計図を作ってその通りにやれ ばうまくいくと思うのは、好コントロール装置たる 権力の考えそうなことだけれど、唾棄すべき妄想で ある。人間は機械ではないので、予定通りにはなら ない。  講義でも講演でも一番面白いのはその場で考えた 話、二番目に面白いのはつい最近仕入れて自分が面 白がっている話なのだ。日進月歩の科学分野では1 年前に仕入れた話はもう古くなっていることもある わけで、シラバス通りにやらずにアドリブでやった 方が断然面白い。それで、私は、シラバスを書かず に抵抗したかというと、そういう根性は全くないの で、毎年、すべての講義のシラバスを書いてきちん と期限までに提出していたのだ。  まあ、書いたのは最初の年だけで、毎年コピペし て同じ内容のシラバスを提出していただけだから、 あまり手間はかからなかった。大学からは一度も文 句を言われなかったところをみると、誰も読まな かったのだろう。あるいは、形式的に何か書いてあ れば、中身はどうでもよかっだのかもしれない。だ からシラバスなどに何の価値もないのだ。無駄の極 みである。しばらくすると、私自身もシラバスに何 か書いてあったかうろ覚えになってしまっだので、 シラバスからはるかに離れた講義をしていたに違い ない。  もう一つ、コストを掛けて行っても何の役にも立 だないのが、学生による授業評価である。学年の終 わり頃になると、授業評価(学生授業アンヶIト)と いうのがあって、講義の前に学生に対してアンケー ト用紙を配って、講義の評価をさせて、しばらくす ると結果を担当教員に知らせてくる。アンケート用 紙やマークシートや集計費用にかなりのコストがか かるだろうに、何のためにやっているのだろうと思  例えば、I.教員の話し方は適切だった、2.板 書、プロジェクターなどはわかりやすかった、3. 教員は学生の理解を深めるための工夫をした、4. 教員は効果的に学生の参加を促した、5.教員は授 業課題や学生の参加に関して効果的なフィードバッ クを行った、6.教員は学生のレベルや理解度を把 握して授業を進めた、7.シラバスで示された到達 目標が達成されるように授業が行われた、8.総合 的に見てこの授業は有意義たった、といった項目に 対して学生が何段階かで評価するもので、最後に感 想を記入する欄もある。後で、当該講義の担当教員 に知らせて、講義を改善する参考にしてくださいと いう建前でやっているらしい。  本当のことを言えば、私はどんな項目が並んでい るか知らなかった。この原稿を書こうと思って今調 べたのである。なんとなれば、アンヶIト用紙を配 るときにも何か書いてあるのか読まなかったし、ア ンケートの集計結果が返ってきても見たことがな かったからである。  アンケートには何の興味もなく、いかなる意義も 見出せなかっだけれど、トラブルを起こすのが面倒 くさいので一応実施したが、実質的には完全スルー を決め込んでいたのである。そうやって省干不を図 り、自分にとって重要なことだけに時間とコスト (情熱、思考力)を注ぎ込んでいたのだ。「愚かの人 にはただ頭を下げよ」というカールーポラニーの箴 言を半分くらいは守っていたわけだ。人生の持ち時 間には限りがあるので、こういう些事に神経を使う と、あたら人生を棒に振ってしまうことになる。  そもそも、I.適切に話し、2.わかりやすい板 書をして、3.学生の理解を深めるための工夫をし て、4.効果的に学生の参加を促し、5.学生に対 してフィードバックを行い、6.学生の理解度を把 握して講義を行い、7.シラバス通りの講義をして も、学生が何のインパクトも受けない講義もあるの だ。講義は車の運転ではない。マニュアル通りに やっても首尾よくいくという保証はない。学生が、 講義の何に魅力を感じ、何に触発されるかは、こう いった表面的な形式の彼岸にある問題なのだ。  私のようにアンケート結果など見ないで、ごみ箱 に捨てる教員もいると思うが、中にはアンケート結 果を見て腹を立てる人もいるようだ。つい最近も、 医学部で教鞭をとっている人が、フェイスブックで 怒っていた。彼は臨床医で、急に診なければならな い患者が出て、講義を遅刻したという。当然事務方 から学生に知らせがあるかと思っていたところ、学 生は何も知らされず、彼もエクスキューズをせずに 講義を始めたのだろう。後で、送られてきたアン ケートを見たら、「金を払っているのだから、ちゃ んと講義をしろ」と書いてきた学生がいたという。  近い将来、エリート層は国外に逃亡する  いつの頃から、教育もまた、金の多寡と教育成果 は比例すべきだという妄想に多くの人たちが取り憑 かれ始めたのだろうか。もともと、近代以降の公教 育は国民国家の国力を高めるためのものだった。初 等教育は一人前の国民として生きていくために、高 等教育は国家有為の人材を養成して公益に資するた めに行われたに違いない。国力とは最終的には国民 総体の知的レベルなので、そのために国家は多くの 予算をつぎ込んだわけだ。もちろん、日本では国民 総体の知的レベルの高さは、国民総体の幸せのため でなく、侵略戦争遂行のために使われたこともあっ たにしても、国民の知的レベルがある程度高くなけ れば、侵略戦争すら起こすことはできなかったはず だ。  私か大学生の頃、国立大学の授業料は年間1万 2000円(現在の貨幣価値に換算すると5〜6万円く らい)であった。私立大学も文系なら7万円くらい であったと思う。今は国立も50万円を超え、私立は 100万円をはるかに超えている大学が多い。  なぜ大学の授業料はかくも急上昇したのか。尤も らしい理由は、国立大学の授業料が私立大学に比べ 安すぎるので、不公平だという嫉妬心をうまく利用 して、大蔵省(現在の財務省)が値上げを要求した からということになっているが、ならば私学の授業 料を少し下げるべく、助成金を出せばよかったでは ないかと思うが、そうはならなかった。当初、文部 省(現在の文部科学省)は国立大学の授業料値上げに 抵抗した(ふりをした?)が、結局は1972年度 から3倍の3万6000円になり、その後も止まる ところなく上昇し続け、私学の授業料も呼応するよ うに上昇したのである。  本当の理由は、高等教育は国家有為の人材の養成 のためという建前から、本人のキャリアアップのた めなのだから、本人が金を出すのが当然だと、政府 (あるいは世間一般)の考えが変わったからである。 私か学生の頃、休講になっても授業料を返せ、など という学生はいなかった。私自身は大学の講義には ほとんど出なかったし、在学していた期間の大半は ストライキとロックアウトでそもそも講義がなかっ だけれど、学問は独学でやるものと思っていたので、 何の文句もなかったし、授業料返せとも思わなかっ た。なんせ、月額1000円だったので、自分のバ イト代からちょいと出せば、払える額だったのだ。  大学の授業料がバカ高くなって、どうなったかと いうと、エリート層は、自分の金で得た知識と資格 なのだから、自分自身が得をすれば、国民国家がど うなろうと知ったことかという心性になり、本来、 大学に進学する知力がないのに、みんなが行くので、 自分も行かなければ、という落ちこぼれ層は、高額 な授業料に見合う成果が得られずに、金返せと言い たくなったわけだ。大金を出せば、高級車は買える けれど、大金を出して大学に行っても馬鹿が利口に なるわけじゃない。そういう当たり前のことを隠ぺ いして、コストを掛ければいい教育が受けられると いうのはペテンである。高等教育に潤沢な国家予算 をつぎ込まず、市場原理に任せれば、国力は衰退す るに決まっている。もしかしたら、最初から日本を グローバルーキヤピタリズムに売り飛ばす算段だっ たのかもしれないね。  もう手遅れかもしれないけれど、簡単にできる奥 の手は、国立大学の授業料をタダにすることだ(定 員も18歳人口の減少にスライドさせればいい)。外国で もドイツやフランスの国立大学の授業料は原則無料 である。北欧諸国も原則無料。高いのはアメリカ、 イギリス、オーストラリア、カナダなどだが、これ らの国は補助制度が充実している。独り日本だけが 国立大学の授業料が高いにもかかわらず、補助制度 は全くお粗末である。  私か意見をしても始まらないが、このままでは、 近い将来、国力が中国や韓国の下になり、エリート 層は国外に逃亡すると思う。私か生きているうちに、 そうならなければいいけれどね。  何事もほどほどに  気候変動には予防より適応を  2018年9月に角川新書のI冊として『いい加 減くらいが丁度いい』と題する拙著を上梓した。 「いい加減」と「丁度いい」は同じような意味なの でトートロジーみたいな題だけれど、私か考えたわ けではない。  私にとって、自著の題は書肆(あるいは編集者) の専決事項みたいなものなので、口を出すことは滅 多にないのだ。本の売れ行きは、かなりの割合で題 に左右されると言われているので、編集者はなるべ く売れそうな題を考えてくださるわけで、世事に疎 い当方は、ほぼお任せすることにしているのである。 時々、この題では売れないだろうと思うものもあっ て、案の定売れないのだけれども、もともとどんな 本もさほど売れないので、あまり気にしないのであ る。  前にも述べた『ほどほどのすすめ』(さくら舎)で も似たようなことを、いつも愚痴っているのだけれ ど、一部の人は真面目なのか馬鹿なのか(たぶん両 方なんだろうけれど)、良い(と思った)ことはとこと んやるべきだと信じているみたいで、どうしようも ないな。どんなことでもやり過ぎれば、良くないと いう当たり前のことを忘れてしまうのかもしれない。  最近、ひどいのはメガソーラーである。太陽光発 電はカーボンフリーなので、地球温暖化対策として 有効であるという掛け声で始まったのだろうけれど も、最近の状況を見ていると、どう考えてもやりす ぎである。都市部が猛暑に見舞われると、地球温暖 化は真実で、その原因は二酸化炭素の排出にあると いう、政府とマスコミと御用学者挙げてのインチキ なプロパガンダを、多くの人が信じてしまうのは無 理もないけれども、都市部が猛暑に見舞われる最大 の原因は、四六時中ク圭フーを使うからである。  太陽の黒点数はこのところほとんどゼロなので、 マクロに見れば地球は寒冷化すると思う。ここ数百 年の地球の平均気温と太陽の黒点数の間には顕著な 相関があり、黒点数がゼロの時期が続くと地球が寒 冷化する。歴史上一番有名なのは1645年から 1715年の70年間、黒点がほぼ消えてしまったマ ウンダー極小期である。この時期は地球の平均気温 がこの前後に比べ、かなり柢下した。  一方、地球の平均気温と大気中の二酸化炭素濃度 には有意な相関はない。20世紀になってから二酸化 炭素濃度はコンスタントに上昇を続けており、地球 の平均気温も上昇基調にあるが、細かく見ると 1940年から1970年にかけて摂氏O・2度柢 下しているし、1997年以降も、二酸化炭素濃度 は爆発的に増加したにもかかわらず、平均気温はご くわずかに柢下している。  都市部に住んでいると、夏の猛暑ばかり気になる が、田舎や離島は猛暑とは無縁である。例えば、東 京都三宅島の平均気温はここ100年くらいほぼ一 定であり、2018年の最高気温は摂氏30・3度で ある。観測史上I位は2013年8月の摂氏32・6 度。都心に比べればはるかに涼しい。鹿児島県の枕 崎や阿久根、青森県の深浦などでもここ20年くらい 平均気温はごくわずかだが下がっている。とまれ、 地球が温暖化するにせよ、寒冷化するにせよ、それ は自然現象なので、人間がコントロールすることは ほぼ無理だと思った方がいい。  気候変動を予防するよりも変動した気候に速やか に適応する政策をとっだ方が賢いと思う。ほとんど、 予防にならない二酸化炭素削減策に膨大な税金をつ ぎ込むより、気候変動に対応するシステムを作った 方がはるかに現実的だ。そのためにはもちろん、資 源が必要だ。最も重要なのは干不ルギーである。原 子力発電は欠陥技術であることは明らかで、長い目 で見れば、速やかに廃炉にした方がいいことはもち ろんだが、短期的な利益しか考えていない人は、と りあえず今儲かればいいと思っているのだろう。  メガソーラーがもたらす悪夢  今儲かりさえすればいいと思っているのは原発ば かりでなく、ソーラー発電も同じである。将来、化 石燃料もウランも枯渇してしまって、核融合技術が 実用化されなければ、自然干不ルギーに頼るほかは ないというのは理屈としてはその通りである。しか し、ここから、ソーラー発電は太陽光という自然エ ネルギーを使った発電なのでどんどんやろうという 話になると、一寸待てと言いたくなる。  ソーラーパネルを屋根の上に設置するくらいは可 愛いけれど、山を削って林を伐採したり、広大な湿 原を潰して設置したりすれば、自然環境に与える影 響はすさまじく、メリットよりもデメリットの方が 大きくなるに決まっている。例えば千葉県の鴨川市 では山林の樹木10万本を伐採して、約146ヘク タールの山を削って47万枚のソ圭フーパネルを設置 する計画が進んでいるが、これはどう考えてもやり すぎだろう。メガソーラーで発電した電力は固定価 格買取制度で、高く売れるので、発電効率がいいう ちは儲かるに違いない。逆に言えば、メガソ圭フー が普及すればするほど電力料金は上がる。ドイツは それで失敗して、買取制度の見直しを余儀なくされ ている。とりあえず自分にとって短期的なメリット があれば、他国で失敗したとわかっていても導入し ようというのは、正気の沙汰ではない。  太陽光や風力に発電を大幅に頼るのは、もう一つ 大きな問題があって、曇天の囗が続いたり、風がほ とんど吹かない囗が続いたりすると、発電効率が落 ちて、電力が不足する恐れが高まることだ。従って、 これらの電力の利用割合が高くなれば高くなるほど、 いざとなった時のバックアップが必要になる。バッ クアップは火力発電が一番簡単なので、メガソー ラーや風力発電所が普及すると、それに見合った普 段は稼働しない火力発電所が必要になる。そうなる と、メガソーラーなど造らずに、最初からこれらの 発電所を稼働させておいた方が賢い。  メガソーラーは設置後10年から15年たてば、パネ ルがほぼ瓦礫となって、撤去するには設置する以上 の金がかかり、撤去する金がない設置者はパネルを 放置して、日本全国にメガソーラーの醜い爪痕だけ が残ることになるだろう。儲かると騙されてメガ ソーラーに飛びついた一般人の収支が、赤字になる ことだけは保証する。二酸化炭素の削減が金科玉条 になってしまった人は、原発を遂行するか自然干不 ルギーに賭けるかの二者択一しか考えられなくなっ て、何事もいい加減にやらなければ破滅を早めるだ けたという、当たり前のことを忘れてしまうのだろ う。二酸化炭素の増大が地球温暖化の元凶だという 馬鹿げた話を信じさえしなければ、今のところ最も 安全で効率もよく、環境破壊が少ないのは、石炭か LNG(液化天然ガス)による火力発電なのである。  日本以外の先進国で健康診断を義務付けてい  る国はない  体の具合が悪くなると、病院に行って診てもらう のが当たり前というのも困った風潮である。ひどい 感染症や大怪我、クモ膜下出血や梗塞といった、一 刻を争う病状の時は、早く病院に行った方がいいけ れども、大概の病気はしばらく様子を見ていても手 遅れになることはない。むしろ、ほとんどの病気は 勝手に治る。一寸熱が出たくらいで病院に行くと、 別の感染症を移されないとも隕らず、家で寝ていた ほうが賢い。病院に行くのは、時間を使う、金を使 う、病気を移されるという三重のデメリットがある ことを知るべきだ。  日本には、企業に従業員の健康診断を受けさせる のを義務付ける悪魔のような制度があるが、これは 医者と厚労省の利権以外の何物でもない。健康診断 を受けたからといって、受けない人に比べて寿命が 延びるというエビデンスはないので、日本以外の先 進国で健康診断を義務付けている国はない。しかし、 健康診断で儲けるシステムがひとたび作られてしま うと、たとえ健康診断を受けても無意味(あるいは 有害)ということが分かっても、このシステムで 食っている人はシステムを死守すべく厚労省に圧力 をかけ、厚労省にとってもこのシステムを維持する ことが利権の源泉なので、このシステムを終わらせ るのは極めて難しくなる。  私は早稲田大学に勤務していた14年間、健康診断 を受けたことはない。皆さんも受けるのは血液検査 くらいにして、レントゲン検査などは、最近受診し たばかりだからとか言って、なるべくスルーした方 がいいと思う。無症状なのに、毎年胃カメラを飲ん だり、大腸の内視鏡検査をしていたら、かえって具 合が悪くなる。検査は具合が悪くなってからすれば 十分である。毎年人間ドックを受けていたにもかか わらず、手遅れのがんで死んだ人を私は何人も知っ ている。  ちなみに、無症状の時に、がん検診を受けても受 けなくても、当該のがんによる死亡率に差はない。 人口が減ればそれに比例して病人が減る。患者が減 れば、医者の儲けも減る。健康診断というのは、健 康な人を病気かもしれませんよと恫喝して、金を巻 き上げるシステムなのである。医者に行くなとは言 わないが、ほどほどにしておいた方が長生きするの は間違いない。  ほどほどにしておいた方がいいのは、他にも沢山 あって、酒やタバコもほどほどがいい。酒やタバコ を絶対悪だと信じている大は、絶対ダメとヒステ リックに叫ぶかもしれないが、そういう大よりも酒 やタバコをほどほどに嗜んで二コニコしている人の 方が長生きすると思う。運動も健康食品もトクホも 健康にいいといって、やり(とり)過ぎれば寿命は 縮まる。ほどほどにしておいた方がいいのは政治家 も同じで、ウソつき安倍もほどほどにしないと、本 人も自民党も日本もそのうちクラッシュすると思う。 年寄りのだわごとだと思っているでしょうけれどね、 アホにつける薬はないのでしょうがないか。  国民の知的レベルの二極化  根本原因は中間層の減少  「アステイオン」という雑誌がある。政治的なプロ パガンダの色合いも薄く、センセーショナルな記事 もない地味な雑誌であるが、本格的な論考が多く、 なかなか読み応えがある。商業誌としては成り立た ないのではないかと心配になるが、公益財団法人サ ントリー文化財団・アステイオン編集委員会編との ことなので、サントリーが財政的なバックアップを しているのだろう。  2018年5月刊の88号には待鳥聡史(京大教授) が「学術言語としての日本語」と題すショートエッ セイを載せており、これが面白かった。大衆民主主 義がポピュリスムと紙一重になった結果、日本やア メリカも含めて民主主義国家の政治が激しく劣化し ているのは衆目の一致するところであろう。  トランプや安倍が、少し考えればウソと分かる言 説を操って、国民を煽動しても失脚しないのは、自 ら考えることを放棄した多数の国民のおかげである。 その理由の一つは、専門家向けの学術的成果が一般 の人に共有されづらくなってきたからだ、というの が待鳥の見立てである。  純粋な学術書ばかりでなく、多少とも硬派の本の 出版を引き受けてくれる書肆が少なくなった。売れ 行きがある程度見込める一握りの著者は措くとして、 有名大学の教授クラスでも、多少とも難解な学術書 を出版してもらうのは容易ではない。まして無名の 若手が心血を注いで大作を書いても、よほどの幸運 に恵まれない限り出版してもらうことは不可能だ。 難しい本を読もうとする知的スノビズムが衰退した というのが大きな原因だろうが、そもそも、論理を 駆使した本を読んで、理解できる少数の知的エリー トと、それ以外の人々の、知的レベルの乖離が激し くなった、すなわち知的レベルの二極化か進み、中 間層が少なくなったことが根本的な原因であろう。  学者は(自然科学系の学者でも人文系の学者でも)、 業績を積み上げて昇進していく。自然科学系では ずっと以前から、名のあるジャーナルに論文を載せ るのが、最も評価される業績である。科学にとって 最も重要な価値は「サムシングーニュー」というこ とであるので、ほんのわずかでも新しい知見を盛り 込んだ論文を書かねばならない。すでに評価の定 まった知見を分かりやすく書いて本にしても、業績 としては認めてもらえない。しかし、次々に出版さ れる「サムシングーニュー」を旨とする論文は玉石 混淆であり、中にはSTAP細胞のような捏造論文 も含まれることとなる。  画期的な新知見や新理論として後世に残る論文は ごくわずかで、日々量産される論文のほとんどは10 年も経ては、誰にも見向きもされなくなる。それで も、学者として組織の中で昇進してゆくには論文数 を増やさなければならない事情に変わりはない。論 文の本当の価値は当該分野の専門家にしか分からな いため、理学部や工学部であっても、昇進審査をす る教授会メンバーのほとんどは、業績の質を判断で きない。いきおい、判断の基準は、名のある査読付 きのジャーナルに何本論文を書いたかといったこと になってしまう。  学術言語としての日本語の地位低下  狭い専門分野で、論文作成競争に明け暮れている と、教授になって多少とも論文作成競争から解放さ れても、よほど、脳のキャパシティに余裕がある人 を除いて、I幵の本を日本語で書くことは難しくな る。理由は主に二つあり、一つは論文はほとんど英 語で書くため、日本語で科学的な文章を書く習慣が なかったこと、一つは周辺分野の勉強をする余裕が なかったことだ。周辺分野の基本的な知識がないと 一般向きの教養書も、当該分野の包括的な解説をす る学術書も読者の興味を引くようには書けない。  もちろん、現在の市場に良質の一般科学書や学術 書がないというわけではないが、それ以上にジャン クな本が縊れている。一般の人にはこの二つの違い を見分けることが難しい。アマゾンのカスタマーレ ビューを見ても、なかなかの名著を理解不能な故に 酷評しているものや、ジャンクに近い本をべた褒め しているものが結構多いことからもそれが分かる。   一般国民の平均的科学リテラシーが劣化したので、 レベルの高い本が読めなくなったのか、レベルの高 い科学読本が少なくなったので、国民の科学リテラ シーが劣化したのかは定かではないが、少なくとも、 良質の科学書が売れる状況でなくなったことだけは 確かである。そしてそれは、国民の科学リテラシー の劣化に拍車をかけることもまた確かであろう。自 然科学の業績審査にあたっても、日本語の学術書や 一般向けの科学書を評価するシステムを作れば、こ の傾向は幾分かは和らぐであろう。  先に挙げた待鳥によれば、最近この状況は自然科 学から人文社会系に拡がってきているという。かつ ては、人文社会系の論文は日本語で書くのが普通で、 いくつかの論文をまとめてI冊の学術書にすること が多かった。しかし近年、経済学や政治学の分野で は自然科学系に準拠して、英語で論文を書く方が評 価が高くなり、この傾向は法学や歴史学にも及びつ つあるという。論文は英語で書いて学術書を日本語 で出版するのは、研究者にとって負荷が大きく、ま してや、日本語の学術書があまり評価されないとな れば、日本語で学術書を出版する意欲は薄れる。日 本語で学術書が出版されなくなると、学術言語とし ての日本語の地位が低下するに違いない、と待鳥は 危惧する。  専門性が極度に強い自然科学と違って、人文社会 系では、かなり高度な学術書でも、知的レベルの高 い人であれば、たとえ非専門家でも、日本語で書い てありさえすれば、読みこなせる人は少なくない。 日本語で書かれた人文社会系の学術書が減少すれば、 この人たちの人文社会のリテラシーは低下すること になる。待鳥の予測によれば、そうなると、新書な どの形式で専門外の読者に体系的な学識を伝える試 みも次第に弱まっていくだろう。  くりかえすが、一般向けの本を書くためには、自 分の専門分野の知識だけではなく、周辺分野の知識 や学問動向についても勉強する必要があり、その際 に日本語で書かれた学術書は頼りになるのだ。学者 と雖も、日本語のネイティブにとって、周辺分野あ るいはさらに遠い分野の知見を外国語から得るのは 容易なことではないからだ。  絶滅しつつある知的ジェネラリスト  世界に通用するように論文は英語で書けという圧 力は、結果的にこのようなプロセスを通して、国民 の知的レベルの二極化をもたらすと同時に、知的エ リートの内部においてさえ、自分の専門ばかりでは なく、周辺分野の知識や動向も、大凡把握している という知的ジ予否フリストを、絶滅危惧種に追い込 むのである。国力とはつまるところ国民の知的レベ ルの総体であるので、囗本の国際化という掛け声で 始まった英語帝国主義への隷属は、皮肉なことに囗 本の国力の衰退をもたらすことになる。  しかし、待鳥によれば知的レベルの二極化はアメ リカでも同じように進行しているらしい。アメリカ の人文社会系の学者でも、一般書を書くよりは査読 付きのジャーナルに論文を書く方が、出世の近道だ からであろう。待鳥は先の論文で次のように述べて いる。    「現在の先進諸国で目につくのは、存在しない 根拠、あるいは極めて薄弱な根拠に基づいて繰 り広げられる政治的対立である。そこには様々 な背景的事情があるのは確かだが、少なくとも 一因として、専門家向けの学術的成果が一般の 人々に共有されづらくなっている知的状況があ ることは否定できない。トランプ大統領の虚言 や暴言を非難し、それを信じてしまう支持者を 嘲笑することは簡単である。だがそれは、専 門家向けにひたすら純化することで最も先鋭的 な発展を遂げてきたアメリカ社会科学の敗北で   あり、自らの学術的成果を専門外の人々に届け   る努力を怠ってきた専門家に浴びせられた冷や   水であることを無視すべきではない」     「デステイオン」88号、191頁、2018)  国民の知的レベルの二極化と、知的エリートから 知的ジ子不ラリストが絶滅しつつあるという状況が、 最終的に何をもたらすかは予断を許さないが、国民 が根拠のないスローガンのもとに、危険な選択をす る可能性が高くなったことは確かであろう。学術書 の出版が困難になったもう一つの理由はSNSに代 表されるネット社会の浸透であろう。少なからぬ 人々が本を読んで論理的思考を鍛えることを放棄し て、好悪と情緒の世界に安住できるSNSという名 の麻薬に耽っている。  知的レベルの二極化は貧富の二極化をもたらし、 知的レベルの柢い貧乏人は、貧乏な自分の現状を改 革する方途を考えられず、罵詈雑言を吐くことで憂 さを晴らすしか術がないという悲惨な状況になって いる。果たしてこれは、ネット社会の発展の必然的 な結果なのか、あるいは、グローバルーキヤピタリ ズムに国民を労働奴隷として売り飛ばす権力の陰謀 だったのだろうか。  効率第一主義は国を亡ぼす  ジャガイモ飢饉による政治的対立  国家にせよ大学にせよ会社にせよ、落ち目の時は 多様性を担保する余裕がなく、効率第一主義の改革 に走ることが多く、改革すればするほど泥沼に落ち 込んでいくというのは、歴史が我々に教える教訓で ある。資源を一点に集中すると、短期的には上手く いくこともあるが、長い目で見るとまず失敗に終わ ると思って間違いない。  19世紀の半ばにアイルランドでジャガイモ飢饉と 呼ばれる大規模な飢饉が発生した。当時のアイルラ ンドは連合王国の直接的な支配下にあり、大部分の 土地はアイルランドに住んでいない大地主のもので、 半分以上の住民は小作農であった。彼らは地主に地 代を納めなくてもよい自分たちの狭い土地でジャガ イモを栽培して、それを主食としていた。ほとんど の小作農は最も収量の多い品種を栽培していたので、 栽培されているジャガイモはほとんどクローンに近 かった。このジャガイモが最も効率が良かったので ある。  ここに襲ってきたのがPotato late blight(ジャガイ モ疫病)という病気であった。現在はこの病気は Phytophthora infestansというフ(イカビの一種に よって引き起こされることが分かっているが、当時 はまだ原因は定かでなかった。1845年に始まっ たこの病気の流行は1846年には全土に蔓延して、 ほぼすべてのジャガイモは病気にかかって壊滅状態 になった。栽培されていたジャガイモに遺伝的多様 性がなく、すべてのジャガイモがこの病気に対する 抵抗性を持っていなかったのが原因である。  この惨状に対して連合王国は救援の手を差し伸べ ずに、アイルランドで生産されているジャガイモ以 外の穀物(小麦、大麦、燕麦、ライ麦)のほぼ全量を イングランドに運び、餓えた小作農を見殺しにした。 グレートーブリテンに住むアイルランドの不在地主 は、アイルランドで生産された穀類を売れば儲かる わけで、資本主義の世の中ではこれを止める術はな いが、政府がこれを買い上げて小作農に無料で配る ことはできたはずで、飢饉を多少とも軽減させるこ とは可能であったに違いない。  イギリス本国政府のこの冷たい仕打ちが、この後 長く続くイングランドとアイルランドの政治的対立 の原因になったと言われている。1997年、アイ ルランドで開かれた追悼集会で、時の首相のト ニー・フレアは飢饉のときのイギリス政府の責任を 認めて謝罪の手紙を読み上げた。当事者でないフレ アが心の底から謝罪したとも思われないが、政治的 なセレモニーとしては多少の効果はあったかもしれ ない。いずれにせよ、政府が公式に謝罪したという ことは、ジャガイモ飢饉がすでに歴史的な出来事に なったことを示している。  飢饉が始まる前の1841年のアイルランドの人 口は817万人であったが、1851年には655 万人に激減した。当時のアイルランドの人口増加率 から考えると、もし飢饉がなかったら、1851年 の人口は900万人に達していたと推定され、とい うことはこの10年間で250万人近くの人がアイル ランドから消えたことになる。餓死者50万人、栄養 失調による病死者50万人、移民150万人と言われ ている。  移民のうちアメリカ合衆国に渡ったアイルランド 系住民の数は今や2000万人とも4000万人と も言われるほどに増加して、現在アイルランドに住 むアイルランド人約380万人をはるかに凌駕して いる。ジョン・F・ケネディやロナルドーレーガン も移民の子孫である。子孫の繁栄という観点からは ラッキーだったと言えないこともないが、当時のア イルランド大が不幸であったことに変わりはない。  失敗した時のことを考えない人  多くの生物が最も繁殖効率が良い単為生殖を採用 せずに有性生殖をしている理由も、単為生殖で遺伝 的多様性がない生物の個体群や種は、環境の急激な 変動や病気の大流行によって絶滅してしまったから だろう。単為生殖をしている個体群は現在は効率が 良くて大繁栄していても、長い年月の間にはクラッ シュを起こす可能性が高いに違いない。  今マダガスカルで猛威を振るっているザリガニは、 スルーザリガニ(ProcambarusR氈)から変異した単 為生殖をする3倍体のザリガニ(P. virginalis ミステ リークレイフィッシュ)で、繁殖効率がすさまじく良 いので在来種のザリガニを駆逐して増え続けている らしい。日本でも記録があり環境省は神経をとがら せているようだが、私見ではいずれクラッシュを起 こして絶滅すると思う。幸か不幸か人類を含めた哺 乳類はゲノムーインプリンテイングというメカニ ズムがあるために単為生殖は不可能である。  人間社会でも深慮遠謀が足りない指導者がいる社 会は、効率第一主義に走って、目先の成果を求める あまり、結果的にドツボに嵌ることが多い。例えば 原子力発電所は首尾よく運転している限り効率がい い発電装置で、発電単価も安い。しかし、ひとたび 大事故を起こすと、ジャガイモ疫病に罹ったかつて のアイルランドのジャガイモと同じで、収拾がつか なくなってしまう。  効率第一主義の欠点は失敗した時のことを考えな いことである。だからまともな組織であれば、多少 の効率を犠牲にしてもリスクヘッジを行うわけだ。 自動車の任意保険に入らない人は稀だと思うが、事 故さえ起こさなければ、保険の掛け金は無駄なのだ から、保険に入らない方が効率はいい。しかし、ひ とたび大事故を起こすと保険に入っていない場合は 悲惨になる。原発を稼働するのは、保険を掛けない で高速道路を制限速度をはるかに超えて運転するよ うなものだ。  一人が画期的研究成果を出せば元は取れる  ところで、効率第一主義が最もなじまないのが研 究と教育である。国立大学は2004年の法人化以 来、国から支給される運営費交付金(主として人件 費と研究費)を2010年度まで、毎年Iパーセン ト強ずつ減らされてきた。運営費交付金は2016 年以降ほぼ横ばいになったが、2004年度に1兆 2415億円であったものが2016年度は1兆 971億円にまで削減された。H・6パーセントの 削減率である。  私は、法人化の少し前に山梨大学の評議員をして いて、悲惨になることが分かっていたので法人化か 始まる2004年度に早稲田大学に移ってしまった。 一部の人たちは法人化で大学はより自由になるなど と能天気な夢を語っていたが、制度を変えればメ リットもデメリットもあるわけで(ほんのわずかの メリットと多大なデメリットがあるのが普通である)、 メリットしか見えない人は、善人だけれども度し難 い。安倍も安倍のフオロワーも同じようなものかも しれないけどね。  さらに悪いことに、文科省は交付金を一律に配ら ずに、効率重視というまたぞろ悪魔の理屈を持ち出 して、役に立ちそうな研究には手厚く、そうでない 研究には資金を回さないと言い出したのである。こ の時点で、囗本の国立大学の転落は決まったといっ てよい。予算の削減策と傾斜配分がスタートして以 来、囗本の論文生産力が他の先進国に比して下降線 をたどり始めたのは周知の事実である。ノーベル賞 学者を含む多くの科学者や知識人が、このままでは 囗本の知的生産力は三流国に転落すると警告してい るにもかかわらず、研究費の恣意的な差配という権 力を手放したくない文部科学省には馬耳東風のよう である。  知的イノベーションはあらかじめ凡人には分から ないからイノベーションなのであって、文部科学省 の役人や御用学者が選んだものは、少し近未来から 見ればすでに終わっている研究に過ぎないものが多 い。例えば、20人の研究者に対して、1億円の研究 資金があるとして、一人に9000万円渡して、残 りの1000万円を19大に分配するよりも、500 万円ずつ均等に分配した方が、あっと驚く知的イノ ベーションが起こる確率は高くなるのである。  仄聞するところによれば、地方の国立大学では理 系であっても、年間の研究費が10万円〜20万円程度 のところもあるという。これではさすがにまともな 研究は難しい。国立大学の教員が何人いるのかは知 らないが、交付金を5兆円くらいにして、教員の数 を増やして、雑用と講義の数を減らし、実験系の理 系であれば、最低、年間150万円〜200万円く らいの研究費を保証すれば、10年後、20年後に囗本 の大学の知的レベルは大幅に上昇して、世界各国か ら優秀な若者が蝟集してくるだろう。何度も言うよ うに、究極的な国力とは国民の知的能力の総体なの であるから、防衛費に5兆円注ぎ込むより、交付金 に5兆円注ぎ込む方が国力は上がる。  大学の先生は余り働かないで給料もらって、けし からんというしようもない嫉妬心から、研究費をケ チつて講義を沢山させているという風景は、私には、 レースに出せば何億も稼げるサラブレッドを牧場で 飼い殺しにしている風景とダブつて見える。もった いないことである。10人の研究者のうち、9人は駄 馬かもしれないが、一人が画期的な研究成果を出せ ば、元は取れるのである。あらかじめ、その一人が 分からない以上、海のものとも山のものとも分から ない研究者に、自由な研究ができる時間と、それな りの研究費を渡しておくといった、一見非効率的な 方法の方が、結果的なパフォーマンスは良くなるに 違いないのである。  無駄働きの強制が日本を滅ぼす  世間が世知辛くなった  大阪府茨木市にあるエビ加工・販売会社「パプア ニューギニア海産」では十数人いるパート従業員の 勤務形態をフリースケジュール制、即ち、出社の時 間も退社の時間も自由、断りなく休んでもいいとい う制度にして、さらに35〜36項目に分けられる分業 のうちで、好きな仕事だけすればよく、嫌いな仕事 はしなくてよいという制度を導入したところ、パー ト従業員の定着率もよく、人件費をかなり削減でき たという。  この会社のこの制度はパート従業員に隕られてい るようだけれども、同じ労働時間であれば、管理し て働かせるよりも、本人の好きな時に最も得意な仕 事をしてもらう方が成果が上がるという、当たり前 の事実を示していて、大変興味深い。現行の囗本の 企業、官庁、学校の働き方を見ていると、これとは 真逆なやり方をしているように思える。成果が上が らないのは当然だ。  私は企業や官庁に勤めたことはないので、そこで の働き方は詳らかにはできないが、仄聞する限り、 無駄なことや本人が不得意なことに時間と干不ル ギーを費やしているのだろうと想像できる。私か良 く知っているのは学校である。都立高校の定時制に 3年間、国立大学(山梨大学)に25年間、私立大学 (早稲田大学)に14年間、教員として勤務していたの で、学校というところがいかに無駄なことに時間と 干不ルギーを費やすかについてはよく知っている。 悪いことに、私か教員として勤務していた42年間を 通してこの傾向は年とともに強まって、それと呼応 して教育成果と研究成果はどんどん情けなくなって きたように思う。  私か都立高校の正規の教諭になっだのは、都立大 学の博士課程に在学中の1976年であった。今で はたぶん、大学院の正規の学生で、公立高校の正規 の教諭という2足のわらじは許してもらえないと思 う。公務員なのだから、公務に専念しろという建前 がきつくなったのである。専念しろと言っても、無 駄なことに専念しているだけでは、かえってマイナ スなのだけれども、要するに世間が世知辛くなった のである。  今と比べれば、大分ましたったけれども、当時も 時間の無駄以外の何物でもない公務が結構あって、 私はなるべくスルーして、最低限必要なことしかし なかった。都立高校の「生物」の非常勤講師は大分 長いことやっており、正規の教諭になっだのは28歳 であったが、一応新人なので、新人研修というのが 年に15回ほどもあり、なるべく出席するようにと校 長から指示があった。「なるべく」ということは出 席しなくてもいいんだなと即座に判断した私は、研 修はすべて欠席した。研修の項目を見る限り、役に 立つとはとても思えなかったからだ。  半年くらいたったところで、校長に呼ばれて、 「研修に行かないと、教頭や校長になれないよ」と 諭された。校長はとてもいい人で、恐らく善意で 言ってくれたのだろうけれど、私は、二コニコ笑っ て「生涯、一兵卒として頑張ります」と答えた。校 長はきっと呆れたのだろう。それ以上何も言わな かったので、私はその後の研修も全部さぼって、新 人研修全欠という記録保持者となった。当時は、試 用期間というのがなく、建前としては新人教諭への サービスとして行っていた研修をさぼったくらいで は、正規の公務員を馘首することはできなかったの だろう。  余談だが、全欠の記録は他にもあって、早稲田大 学に勤務していた14年間、大学から指示された健康 診断を一切受診しなかった。新人研修も健康診断も、 私にとっては(恐らく私以外のほとんどの人にとって も)、頭や体に余計なストレスがかかって健康を損 ねる、貴重な時間の浪費である、という二重のデメ リットばかりで、メリットは何もないことは間違い ない。  何の役にも立たない無駄な書類  かつて内田樹は「権力とは無駄なことを強制させ る装置である」という名言を吐いたが、これは、閉 鎖的な組織(会社、学校、官庁、国家)の内部におい て権力に反抗する者の芽を摘むことには素晴らしい 効果を発揮するが、外部と競争する段になると、激 しいマイナス効果を発揮することになる。  太平洋戦争中の大日本帝国の軍部はまさにこの典 型で、例えば、ばしめから成算がなかったインパー ル作戦や、初期はともかく、途中からは単に若いパ イロットを死なせるだけに終わった特攻隊などは無 駄の極致で、これでは勝てるわけがない。今また、 教育現場では無駄なことを教員や児童・生徒・学生 に強制させて、あたら才能を潰して、国力を衰退さ せているわけで、文部官僚は威張っていられて楽し いかもしれないが、これでは諸外国との技術競争に 敗れるのはほぼ必然であろう。  学校では通信簿とは別に指導要録というものがあ り、児童生徒の「学籍に関する記録」と「指導に関 する記録」を書いて、かつては20年間保存すること になっていた(現在は「指導に関する記録」は5年間 保存に短縮された)。「学籍に関する記録」は学校に 在籍していたことを証明する原本みたいなもので、 必要なのはよく分かるが、問題は「指導に関する記 録」である。評点は書かなければならないが、それ 以外にもこまごまとした欄があって、担任の教師が 適当なことを書くわけだけれども、公開するわけで も本人に見せるわけでもなく、何の役にも立だない 無駄な書類である。  それでも、無駄なことを強制させる権力(直接的 には校長)からは空欄はだめだとのお達しが来る。 私も担任をしていたので、指導要録を書かねばなら ぬ。しかし無駄な時間は使いたくない。どうしたか というと、まず担任をしている生徒の数だけの指導 要録の用紙をそろえて、評点をつける以外の欄には すべて「特記事項なし」という(ンコを押して、そ の後で生徒の氏名と評点を記入して、サインと押印 をして終わりである。それで文句を言われたことは ない。言われたのかもしれないが、右の耳から左の 耳にスルーして覚えていないだけかもしれない。指 導要録など書くより生徒と遊んでいる方が私は楽し かったし、生徒たちにとってもその方が有意義だっ たと思う。  私は3年で定時制高校の教諭をやめて、運よく国 立大学の常勤講師になったが、小中高の教員に無駄 なことをさせようとの圧力はこの頃からどんどん強 くなっていったと思う。ちょうどいいタイミングで やめられてラッキーだった。  国立大学が独立行政法人になった2004年頃か らこの波は国立大学にも押し寄せてきた。2004 年に私立大学に移ることができ、これもラッキー だった。そしてついにこの波は私立大学にも怒濤の ように押し寄せてきた。酷くなる前に定年になって これまたラッキーだった。  本当に「すごい」のは日本の凋落速度  研究と教育に何の役にも立だないことに時間を使 うのはアホの極みだと私は思うが、教員を奴隷のよ うにこき使うことに喜びを見出した世間は、教員の 研究時間と教育時間を奪って嬉々としているように 見える。今や、学校はほぼ最悪のブラック職場にな りつつある。  都立高校では私か勤務していた頃は研修日という 制度があって、日曜とは別にウィークディに1日学 校に行かなくてもいい日があった。実質、週5日制 であった。もちろん夏休みは日直にあたった日以外 は学校に行く必要がなかった。そのため教員にはか なりの自由時間があり、郷土史の研究、動植物の分 類や生態研究、文学研究等々で、学界でも一目置か れる大も結構いた。実際、高校の教員から大学の教 員に転職する大もいた。もちろん、研修日にただ遊 んでいる人の方が大多数であったかもしれないが、 無駄な仕事をしているより、遊んでいる方が精神衛 生上いいに決まっているわけで、そういう自由時間 があったため、安月給でも教員を志望した人は多 かったはずだ。  世間が世知辛くなって(嫉妬深くなって)、そうい う自由を許さなくなり、研修したなら報告書を出せ だの、夏休みも学校に来て研修をしろだの、と言う ようになって何か起きたかというと、一部の優秀な 人材が馬鹿々々しくなって早期退職したり、教員が 人気の職業でなくなって志望者が減少したりして、 教員の平均的な質は柢下したのだ。怒る人もいるだ ろうが、本当だから仕方がない。  それで研修と称して何をしているのかといえば、 模擬授業だの指導法の向上だのと愚にもつかないこ とに時間を費やしている。優秀な生徒は先生の知的 レベルに魅力を感じるのであって、教え方などは些 末な問題なのだ。教員が自分で研究したことや、教 科書に載っていない最新の学説を熱く語るのを聞い て、魅力を感じた生徒のうちから、将来日本を背 負って立つ人材が育つということはあるのだ。  無駄な労働をさせて小中高の教員ばかりでなく、 大学の教員にも自由を与えなければ、上の言いつけ 通りに動く教員ばかりになり、文科省のコントロー ル通りに学校現場を縛れるかもしれない。しかしそ れでは出鱈目な教員も現れなければ、素晴らしい教 員も現れず、活力のある教育は期待できない。自由 にさせておけば、出鱈目なことをする教員も出現す ると同時に、ごくわずかでも素晴らしい教員も現れ ることは間違いない。  将来の日本を支えるのは、上の言いつけ通りに動 くイエスマンではなく、傑出した知的イノベーショ ンを発揮する才能だということに思い至れば、ブ ラック職場になり果てた教育現場が続く限り、日本 は諸外国との知的イノベーション競争に勝つことは ないだろうと思わざるを得ない。日本は政府と国民 が朿になって自分の首を絞めている愚かな国だ。 「日本すごい」と馬鹿の一つ覚えみたいに叫んでい る人も、本当に「すごい」のは日本の凋落の速度だ ということが分かる日が、もうそこまで来ていると 思う。 W 動植物散策  多摩動物公園に行ってみた(I)  目玉の動物あれこれ  別に暇というわけではなかったのだが、気分が良 かったので女房と一緒に多摩動物公園に行ってきた。 時々出演している「ホンマでっかりTV」というテ レビ番組で「動物ランキング」というコーナーがあ り、小学校低学年の子供をつれて動物園や水族館に 行って、その時々で一番気に入っだ動物を紹介する という他愛のない企画で、数年前に訪れて以来であ る。  この企画で訪問したのは、上野動物園、横浜市立 よこはま動物園(よこはま動物園ズ上フシア)、千葉 市動物公園、八景島シーパラダイス、アドベン チャーワールド、そして多摩動物公園である。それ ぞれ目玉の動物がいて、どこの動物園も水族館も飽 きるということはない。  上野動物園はコンパクトにまとまっていて、動物 の種類も多いが、大型の動物にとってはちょっと窮 屈な感じがする。ホッキョクグマなんかは見ていて 可哀そうだ。小さな草食獣は動物園で飼育されてい れば、捕食者に食われることもなく、餌不足で餓死 する心配もなく、野生で生きるよりも幸せかもしれ ないが、大型の知能が高い動物はノイローゼになり そうだ。  ズーラシアではオカピが素敵だ。3世代にわたっ て繁殖に成功しているということで、飼育員の腕が いいのだろう。動物園で繁殖させるのに一番大事な のは、繁殖をさせようとする動物の雌雄の相性で、 それと同じくらいに重要なのは飼育員と動物の相性 である。上野動物園ではやっとジャイアントパンダ の赤子が生まれたが、南紀白浜のアドベンチャー ワールドでは何頭も生まれており、飼育員とジャイ アントパンダの信頼関係が強固なのだと思う。  千葉市動物公園ではレッサーパンダの風太君が有 名だが、人間で言えば七〇歳くらいということで (2019年現在、16歳)、さすがにすっくと立つとい うわけにはいかないようだが、数年前に見た時も歳 相応に元気そうだった。日本最高齢のレッサーパン ダは秋吉台自然動物公園サファリランドで飼われて いたバウバウだが、2018年の1月に23歳で死ん だという。人間に当てはめると100歳超とのこと で、小型の哺乳類の寿命は短い。千葉市動物公園で 一番びっくりしたのはフクロテナガザルである。大 きな声を上げながら長い手で、オリンピックの鉄棒 の選手をはるかに上回るテクニックとスピードで、 パイプの間を飛び回るさまは見ていて飽きない。本 人(本猿?)たちも楽しそうだ。それで歳をとった らどうなるのかしら。  八景島の水族館は他の水族館と同様にイルカ ショーが人気のようだが、私はどうもイルカショー を見た後は何となく物寂しくなるので、あまり見た くない。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」とい う芭蕉の句があるが、ショーが終わって去ってゆく イルカたちの背中は心なしか寂しそうで、本当は大 海原で自由に泳ぎたいと思っているのかな、と想像 して切ない気持ちになる。イルカがどう思っている のかは知らない。  蒙古の馬ではなくて蒙古野馬  それで、女房と久しぶりに行った多摩動物公園で ある。老人割引でお一人様入場料は300円、正門 前の駐車代金が500円、締めて1100円である。 金がない老人が1日遊ぶにはもってこいだ。平日と あって園内はカラカラで、老人ばかりかと思ってい たら、子供を連れたお母さんや、さらにはお父さん も結構いる。休暇を取って子供のために来ているの だろうか。それとも、私みたいにほぼ自由業なのか しら。身なりがきれいなのでリストラされている訳 じゃなさそうだ。テレビのロケと違って女房と二人 で来るのは気ままで良い。  敷地面積は広大で上野動物園の4倍近く60ヘク タールもある。ズーラシアも広いが、多摩動物公園 は全体が山の斜面を造成して造られているため、坂 がきつく老人にはちょっとこたえる。あと何年自力 で歩けることやらと思いつつ、歳をとっだ動物たち を眺めている。南側のアジア園の一部が造成中で、 園内を走るシャトルバスの運行経路が制限されてい るが、初めてだからと乗ってみる。老人優先という ことだが、乗っているのは私たち夫婦だけだ。結構 な急坂を登って行って、モウコノウマの飼育場の前 が終点である。  バスを降りると小さな蛾がいっぱい飛んでいる。 クロスジフユエダシャクだ。晩秋から初冬に出現す る蛾で、オスは活発に飛び回るがメスは翅が退化し ていて飛べない。フェロモンでオスを惹きつけて交 尾をする。所謂フユシャクの一種である。沢山飛ん でいるのだが、なかなか止まってくれないので、写 真に撮るのに苦労する。メスもどこかに隠れている はずだが、動物園に来て動物を見ないで、フユシャ クのメスを探して時間を潰すのは酔狂なことこの上 ないし、何といっても女房と一緒なので、メスの探 索は諦めて、モウコノウマを見る。  モウコノウマは蒙古の馬ではなくて蒙古野馬で、 つい最近まではシマウマと同じように野生種だと考 えられていたが、DNA解析の結果、約5500年 前にカザフスタンで飼われていた家畜馬が野生化し たものと分かり、現存する野生のウマはシマウマの 3種(グレビーシマウマ、サバンナシマウマ、ヤマシマ ウマ)とノロバの3種(アフリカノロバ、アジアノロ バ、キヤン‥チベットノロバ)だけである。隣では家 畜のウマが飼われており、動物園という雰囲気では ないが、ウマは目が可愛い。ウマは大きな図体に似 合わず、寿命が短く長くても40年だ。通常の競走馬 はせいぜい30年くらいしか生きられない。ほとんど の競走馬は寿命を全うできずにレースに出られなく なると殺処分にされるという。それに比べれば、動 物園で飼われている動物たちは多少は恵まれている のかもしれない。  オオカミの導入によるメリット  家畜のウマの反対側にはオオカミがいて、眼付が 鋭くてなかなか怖い。オオカミを家畜化したのがイ ヌだということは分かっているが、セントバーナー ドやシェパードはともかく、チワワやプードルとオ オカミが同じ種に属すると言われてもにわかに実感 がわかない。ここのオオカミ舎で飼われていたメス のオオカミ2頭が2018年相次いで死んだという。 12歳とH歳だという。オオカミの寿命も短いのだ。 東京農工大の丸山直樹名誉教授はシカの食害で日本 の山林が荒廃していく現状を憂えて、日本オオカミ 協会を立ち上げ、オオカミを日本の野山に復活させ て、シカ害から林を守ろうとの運動をしているが、 オオカミの鋭い目つきを見ていると、一般の理解は なかなか得られそうもない。  アメリカのイエローストーン国立公園ではオオカ ミが1920年代に絶滅した後、ワピチ(アメリカ アカシカ)が増加しはじめ、植生に甚大な影響を与 え、生物多様性も減少したため、1995年と96年 にカナダからオオカミが再導入された。再導入にあ たっては、当然ながら牧場主から強い反対があった が、導入派はオオカミによって家畜の被害がでた際 に補償をするため、「オオカミ補償基金」を立ち上 げて、導入を進めたところ、現在イェローストーン 国立公園には約100頭のオオカミが生息し、ワピ チの数も抑えられて、生物多様性も回復基調にある という。今のところ、オオカミが家畜を襲った例は 少数に止まり、人を襲った例はなく(人がオオカミ を殺した例はある)、導入はほぼ成功したと言ってよ い。  このところ日本ではシカの食害がすさまじく、森 林の下草や低木や若木を食べてしまうため、森林の 乾燥化か進み、森林性の昆虫の数も激減している。 人為的に駆除するには莫大な金がかかるので、確か に、日本オオカミ協会の主張のように、オオカミの 導入によるデメリットよりもメリットの方が大きそ うだ。但し、もし万一人を襲って殺すようなことが 起きると、だれが責任を取るのだという話になるの は必定で、環境省は導入を渋っているようである。 しかし、自動車を走らせれば、ある確率で必ず交通 事故が起きて人は死ぬわけで、オオカミに襲われて 死ぬ確率がごく小さければ、まあ仕方がないんじや ないだろうかと言えば、烈火のごとく怒る人がいる のだろうね。  囗本に生息していたトキの野生個体群が絶滅した 後、中国産の種を移入して、トキ復活を手放しで喜 ぶ風潮をあおるマスコミも、オオカミ復活に関して は沈黙を守っているようである。中国のトキは外来 種であるという意見に対して、環境省は種は同じな ので外来種ではないと主張しているようだが、予算 がついて環境省の利権が増えるというのが本音だろ う。トキは人間に害を与えないので、一般の人の賛 同を得やすいということもこの事業を推進できる大 きな理由に違いない。しかし、生態系にとってトキ が復活したところでさしたる影響を与えるとは思え ないので、この面からは税金の無駄遣いである。税 金は有効に使った方がいいと思うけれど、日本政府 に意見しても聞く耳は持だないか。  オオカミも元来日本に生息していたわけで、今も 生息していれば、稀には人がオオカミに襲われる被 害がでるであろうが、シカ害による森林の荒廃は防 げたわけで、オオカミを絶滅させろという人は少数 派に止まっていたに違いない。日本オオカミ協会は、 絶滅したニホンオオカミは、北半球に広く分布する (イイロオオカミの亜種であり、トキの移入がOK でオオカミはNGというのは理屈が通らない、と主 張しているようだが、一般の理解を得られるのには 時間がかかりそうだ。  私もかつてはオオカミの再導入よりも、シカを捕 獲して食べた方がいいと思っていたが、猟師は高齢 化して少なくなり、人為的にシカ個体群をコント ロールすることは難しいと思うようになった。まず は地域を限ってシカ害が激しい奥山にオオカミを試 験的に導入してみたらどうだろうか。  多摩動物公園に来て見学した、最初の3種の解説 で紙幅が尽きてしまった。続きは次回で。  多摩動物公園に行ってみた(2)  珍奇動物の見世物小屋  前回は多摩動物公園に行って最初に見た、3種の 動物にまつわる話で終わってしまった。見た動物は 他にも何種類もいるので、いちいち解説していると、 紙幅がいくらあっても足りないので、後でおいおい 考えるとして、まず動物園とはいったい何なんだろ うという話から入りたい。  人間には異国の珍しい動植物を見たいという好奇 心がある。昔であれば、衣食住が足りて多少余裕が ある人々、すなわち王侯貴族や大商人にとっては、 入手困難な異国の動植物を所有していることは、好 奇心を満足させるのみならず、権力や、富の象徴で もあった。中国・明の武将・鄭和は、中国から南海 への7回の大航海を試み、珍しい異国の特産品を中 国にもたらしたが、とりわけ有名なのは、第5次の 航海(1417年〜1419年)で、ライオン、ヒョ ウ、ダチョウ、シマウマ、キリンなどの生きた動物 を連れ帰ったことである。  時の皇帝・永楽帝はキリンをことのほか気に入り、 動物名を訊ねたところ、「これが伝説の麒麟です」 と答えたので、それ以降この動物をキリンと呼ぶよ うになつたという話がある。中国では麒麟は神聖な 想像上の動物(キリンビールのラベルを飾っている) で、オスを麒、メスを麟と呼ぶが、麒麟は実は実在 した動物だつたという話になったのであろう。  西洋でも、異国の珍しい動植物を集める趣味人は、 もちろん古くから存在したであろうが、私的なコレ クションで、一般に公開するといったものではな かったようだ。一般の人も見学できるようなタイプ の動物園は18世紀後半に作られた神聖ローマ帝国の 首都ウィーンのシェーンブルン動物園とされる。フ ランツー世が皇后のマリアーテレジアのために 1752年に小動物を集めて開設したが、一般に公 開されたのは多少後になる。  フランスでは革命の後の1793年にパリの自然 史博物館内にソウ、キリン、シカ、鳥などが飼育展 示されて一般にも公開された。この動物園の運営に はラマルクも関与したとされ、単なる見世物施設で はなく、研究のための施設でもあったようだ。  最初の近代的動物園は1828年にロンドン動物 学協会が研究資料収集施設として設立したロンドン 動物園をもって嚆矢とする。1847年に一般公開 された。英語で動物園を意味するNOOはNOOlogical Gardenの略で、当初はロンドン動物園を指す固有 名として使われた。ともかく、動物園の関係者とし ては、動物園は珍しい動物の単なる見世物小屋では ないぞという気概を示そうとしたわけだが、一般の 人にとっては、動物園は昔も今も、珍奇動物の見世 物小屋であることに変わりはない。だからいけない、 と言っているわけではないが。  見世物小屋と言えばサーカスで、サーカスではし ばしば動物がショーを盛り立てる生きた道具として 使われるが、近年は動物虐待だという声が強くなっ たためか、余り過激な演技はなくなってきたようで ある。調教師が鞭でもってライオンを従わせると いったショーはそのうちなくなるかもしれないね。  動物虐待を告発する人々の基本的な立場は、野生 動物は自然の中で生活するのが一番だということだ ろうが、これもケースバイケースで、人間の下で育 てられ本来の生息環境を知らない動物は、もはや野 生動物とは言えず、本来の生息環境に放したら、す ぐに死んでしまうかもしれない。動物がサーカスで やりたくもない芸をさせられているのが動物虐待な ら、サラリーマンが朝から部屋の中に閉じ込められ てやりたくもない事務仕事をさせられているのだっ て、人間虐待に違いないよね。  コアラの餌代は年間1000万円以上  動物を飼うのにも大義名分が必要な面倒な世の中 になった。珍しい野生動物は世界的にどんどん減少 してきて、絶滅に瀕しているものも多くなった(だ から、珍しいんだけれどね)。そこで、動物園は珍し い動物を見世物にする大義名分として、絶滅危惧種 の繁殖を手伝って、絶滅の淵から救いましようとい うキャンペーンを張るようになった。  多摩動物公園も例にもれず、トキやコウノトリの 繁殖に力を入れている。コウノトリはかつては日本 各地に普通に見られたが、岡山県で生息していたの を最後に絶滅し、現在では中国から移入した個体を もとに飼育下で繁殖させ、増殖した個体を野外(岡 山県)に放鳥して、野外でも繁殖に成功するように なった。多摩動物公園は国内で初めて飼育下での繁 殖に成功した動物園であり、現在約50羽の個体を飼 育しており、この種に関しては最も飼育が上手な動 物園である。  トキに関しても、多摩動物公園は飼育が上手で、 2018年は8羽(4ベア)の飼育個体から8羽の ひなが育っているようだ。トキやコウノトリを上手 に繁殖させる腕利きの飼育員がいるのだろう。多摩 動物公園では今のところトキは非公開だが、コウノ トリは公開されている。しかし見学している人は多 くなく、お世辞にも人気があるとは言えない。人気 があるのは大きな動物やコアラやネコ科の動物だ。  多摩動物公園のコアラはかつては沢山いたが、現 在は3頭しかいない。動物園で飼育されている珍獣 たちは、近親交配の悪影響を避けるため、繁殖に参 加させる個体を沢山の動物園参加の下で貸し借りし て、元気な子孫を増やそうとしている。多摩動物公 園でも最近コアラの数が減ったため、コアラを他の 動物園から借りて(譲ってもらって?)、繁殖を試み ているが、どうもうまくいかないようで、このまま ではコアラ舎は空っぽになりそうだ。  1984年にシドニーのタロンガ動物園から、鳴 り物入りでコアラが来園して一大ブームを巻き起こ したのは、私の中ではまだ記憶に新しい。立派なコ アラ館を建てて、広いユーカリの圃場まで作つだの にコアラがいなくなっては大変だと、動物園では慌 てているに違いないが、コアラは極めてデリケート な動物のようで、凄腕の飼育員がいないと上手く繁 殖させるのは難しいのではないかと思う。他の動物 園でもコアラの数は減ってきており、この20年の間 に日本で飼育されている頭数は半減して約50頭に なった。  ご存じのようにコアラはユーカリの葉を食べるの だが、その日の気分や体調によって、食べるユーカ リの種類や葉っぱの状態が微妙に違い、ユーカリな ら何でもいいというわけにはいかないらしい。多摩 動物公園では常時8〜9種類のユーカリの葉を用意 して、好き嫌いの激しいコアラの食事に備えている という。気に入らないと、(ンガーストライキもす るようで、食いたくないものは死んでも食わないみ たいだ。  ユーカリの葉は市販されていないので、動物園の 圃場で栽培しているだけでは足りない時は、契約農 家で栽培したものをその都度、トラックで運んでく ることもあるようで、コアラの餌代は年間I頭あた リ2000万円もかかり、コアラ以外の動物の全餌 代に匹敵するということだ。餌代がかかりすぎるの で、全国の動物園の中には今いるコアラが死んだら、 もう飼わないと決めているところもあるという。原 産国のオーストラリアでは、生息地によっては増加 傾向にあるようで、絶滅に瀕した動物を動物園で繁 殖させるという大義名分を盾に飼育し続けるのは難 しい。見世物としての人気がなくなったら、お払い 箱になるかもしれないね。  本来の生息地とは  ネコ科の動物は人気者である。家ネコも人気だけ れども、野生のネコ科の動物は小さい時は真に愛ら しく、長じては孤高の気品を漂わせていて、いつも 卑屈にしか生きられない多くの人間にとって、羨ま しい存在なのだろう。もう15年近く前に、友人がこ の動物園の飼育員をしていて、まだ子供のサーバル キヤットの檻の中に入れてもらったことがある。動 物園で生まれて人工保育で育つたということで、人 間慣れしていて、見知らぬ人間が入ってきたので、 新しい遊び相手と思ったのか、じやれつかれて、 買ったばかりのコンパクトデジカメを床に落とした ことがあった。今は、サーバルキヤツトはチータの 隣に展示されているが、その時の個体は生きていな いだろうね。  隣の檻のチータは多摩動物公園ではユキヒョウと 並ぶ人気動物で、いつも柵の前にはカメラマンがた むろしている。2018年10月に、五つ子の赤子が 生まれたようで、お母さんは落ち着いて世話をして いるとのことなので、もうしばらくすれば、お客さ んの前にお目見えすると思う(これを書いているのは 2018年11月)。チータは動物の中で最速というだ けあって、ほれぼれするほど見事な肢体をしていて いるが、動物園の中では全速力で走ることはないの で、ちょっと残念ではある。コアラなどに比べれば、 飼育は比較的容易なようで、多摩動物公園でも繁殖 率は高いみたいだ。  今一番人気はユキヒョウで一眼レフのカメラをぶ ら下げたおじさん連中が檻の前を占拠していて一寸 うっとうしい。2017年に生まれた子供がいて、 動きが激しく見ていて飽きないのだろう。野生のユ キヒョウならともかく、一日中檻の前に張り付いて、 動物園のユキヒョウを撮影して何か楽しいのだろう と思うけれど、人それぞれだから、別に文句はない。 ただ、私か見ている前に無理やり割り込んできて撮 影するのは勘弁してもらいたい。  ユキヒョウの本来の生息地は、ヒマラヤ山脈、チ ベット高原からカラコルム山脈、パミール高原、天 山山脈、アルタイ山脈を経てバイカル湖の西南端ま での、標高600メートルから6000メートルの 岩場、草原、潅木帯である。動物園で生まれ、動物 園で死んでゆくユキヒョウは本来の生息地を知らな いはずだが、まれに雪が積もったりすると楽しそう に転げまわっているようだ。本来の生息地を知らな いなんて可哀想ね、と話している人間だって、病院 で生まれ、昼は大きな建物、夜は小さな建物の間を、 電車や自動車で往復しているだけで、本来の生息地 を知らないまま病院で死んでゆく、という点では変 わりはないのにね。  ネキを採りに沖縄に行く  趣味と仕事の違い  定年後、何のかんのと忙しく、遠方に昆虫採集に 行く暇がなかった。やっと少し時間が取れるように なって、5月5囗から10囗まで沖縄に虫採りに行っ てきた。虫採りに限らず、何事も癖のようなもので、 しばらく遠ざかっていると、いざ出陣となっても、 なんだか億劫になって、メンドクサイなという気分 になる。もともと、何をするのもメンドクサイ質な のだが、現役の時は講義などの仕事は義務だったの で、メンドクサクともやるしかなかったわけで、な るべく無駄な干不ルギーを使わずに効率を優先する ように心掛けた。仕事は時間をかければかけるほど うまくいくというものではないのだ。  囗本の世間では、特に学校では、仕事の質よりも 一所懸命さを評価する風潮が強くて、生徒も先生も 居残りや残業を厭わず、時間をかけて努力をする姿 勢は貴いと評価され、手際よくさっさと仕事を済ま せる人は、とっぽい奴だと言われて非難された挙句、 余計な仕事を回されたりする。それで、賢い人はノ ルマをさっさと済ませ、後は一所懸命やっているふ りをする。それが、周囲の嫉妬を回避する最も簡単 な方法だと心得ているのだろう。教育という分野は 成果がはっきりしないので、無闇に時間をかけても、 一所懸命やっても、成果が上がらなければ無駄だ、 という言説が通りにくい。  虫採りは全く反対で、どんなに一所懸命でもI頭 も採れなければイモと言われて馬鹿にされ、いい加 減にやっていても沢山採れば、天才と褒められ、つ いでにI頭下さいとねだられる。虫採り仲間の友人 の中にも、ものすごく虫採りが上手い人もいれば、 イモ代表のような人もいる(今や、私はどちらかとい うと後者に近い)。それでも、皆さん嬉々として虫採 りに出かけるのは、虫が採れる採れないはともかく、 虫採りという行為自体が楽しいからだろう。  もちろん、仕事が楽しい人もいるだろうが、それ は仕事をすれば成果が上がったり、その結果、給料 が上がったりするからだ。成果が上がらずに収入も どんどん下かって、それでも仕事が楽しい大はまず いないと思う。虫採りも沢山採れた方が楽しいには 違いないが、採れなくても、鬱になって落ち込むこ とはない。趣味と仕事の違いである。若い人の中に は、趣味を仕事にできればどんなに楽しいことだろ う、とのたまう大がいるが、勘違いをしているとし か思えない。趣味の虫採りはボウズでも楽しいが、 生活が懸かっていたら、おまんまの食い上げになる。  まだ定職を持っている虫屋(虫採りの趣味人を仲間 内で呼ぶ言葉)連中に聞くと、早く定年を迎えて虫 取り三昧の生活をしたいという人が多いが、定年に なって数年もすると、虫採りが昔ほど、楽しく思え なくなったという人が結構いる。現役の時は仕事の 合間に虫採りに行くので、楽しさが際立つだのだが、 毎日いつでも虫採りに行ける身分になってみると。 ワクワク感が減退することは仕方がないのであろう。 それで、私も定年になって、虫採りに行くパトスが 減衰したのかもしれないが、現役の時もそれほど真 面目に仕事をしていたわけでもないので、単に歳を とって根性がなくなっただけなのかもしれない。  ネキ採集に必要な技術  それで、沖縄には、オキナワホソコバネカミキリ のメスを採りたくて行ったのだ(オスは採ったことが あるのだ)。このカミキリは沖縄のやんばるの森に ゴールデンウイークの前後にだけ出現する珍種で、 2013年の5月5囗に沖縄在住の玉城康高君が採 集するまで、その存在を知る人間は誰もいなかった のだ。ホソコバネカミキリ属(ぶ口皀咳、愛好家はネ キと呼ぶ)はカミキリムシの中で最も人気のあるグ ループで、採集者が沢山訪れるやんばるの森で、な ぜこの時まで見つからなかったのか不思議な気がす るが、実はゴールデンウイークの頃の沖縄本島は、 春もの(春出現)のカミキリと夏もののカミキリの 端境期で、めぼしいカミキリムシはほとんどいない ので、航空券も宿泊費も高いこの時期にわざわざカ ミキリムシを採りに行こうという酔狂な人はいな かったのだ。  多くのカミキリ屋は沖縄にもネキがいると思って いたに違いないが、だれもこの時期に出現するとは 思っておらず、この時期に真面目に探す人はいな かったのである。というのは、屋久島に棲息するヤ クシマホソコバネカミキリの出現期は7月中旬で、 奄美大島に棲息するアマミホソコバネカミキリの出 現期は6月下旬〜7月上旬で、奄美大島とさして気 候が変らないやんばる(沖縄北部)では、早くとも 6月上旬以降に出現するに違いないと私を含めた多 くの虫屋たちは信じていたのである。  私は2010年〜2011年にサバティカル(大 学の研究休暇)で沖縄に滞在していたが、6月の中 旬頃に、フェンチヂ岳の頂上で、何日聞か新種のネ キが飛んでくるのを信じて、立ちんぼをしていたこ とがあった。しかし、もちろんネキは飛来せず、飛 んできたのは普通種のチョウや甲虫だけであった。 フェンチヂ岳ではその後、ゴールデンウイークの頃 にはネキが採れているので、私の考えもあながち的 外れではなかったのだけれどね。  最初に採った玉城君はカミキリムシの採集を始め てまだ日が浅く、そういう先入観がなかっだのが、 快挙に繋がったのだろう。採っだのは、大きなメス で、私と松村雅史君が玉城君の名を冠して新種 (Necydalis tamak巳として記載した際にホロタイプ (種を代表するただ1頭の標本)に指定して、現在は 琉球大学の博物館(風樹館)に収まっている。この メスはシバニッケイの花に来ていたというが、ネキ の採りかたで最も一般的なのは飛んでいるのを採る ことである。  発生木が分かっている場合は、この木の前で待っ ていれば、木から新成虫になって脱出してきたり、 産卵や交尾のために飛んできたりするので、捕える ことができるが、発生木が分からない場合は、偶然 飛んでいるのを採るしか良い方法がない。ヤクシマ ホソコバネカミキリもアマミホソコバネもオキナワ ホソコバネもほとんどの個体は飛翔中を捕えたもの だ。飛翔中の個体はほとんどオスなので、メスは滅 多に採れない。  オオホソコバネ、クロホソコバネ、ヒゲジロホソ コバネ、トガリバホソコバネ、アイヌホソコバネ、 オニホソコバネなどといった本土産のネキは、発生 木あるいはその周りで採れることが多いので、オス もメスも同じくらいの数が採れる。唯一の例外はカ ラフトホソコバネカミキリで、オスは珍品で滅多に 採れない。屋久島に棲息するオニホソコバネカミキ リは発生木が分からないことが多く、飛んでいるの はほとんどオスでメスは大珍品である。  それで、屋久島、奄美、沖縄などの南の島のネキ を採集するためには、飛んできそうなポイントで網 を構えていつ来るかわからない獲物を待つことにな る。こういう虫採りは、努力すれば採れるというも のではなく、運と腕が必要である。経験や勘は飛ん できそうな場所の選定くらいにしか役に立だない。 立ち枯れの産卵木を探して採るオオホソコバネやヒ ゲジロホソコバネの場合は、沢山飛んでくる木かど うかの判断には経験と勘が必要だが、飛んできて木 に止まっているネキを採るのに、大した技術はいら ない。  しかし、飛んでいるネキを採るには動体視力、瞬 発力、捕虫網を捌く技術などが必要で、年寄りが捕 えるのは容易ではない。日本産ネキの中でも最珍品 のヤクシマホソコバネカミキリを最も沢山採った、 ネキ採りの名人・伊藤正雄君は20メートルも先を飛 んでいるネキが見えるという。体長が2〜3センチ のハチに擬態したカミキリである。普通の人はネキ が飛んでいても、小さい虫が飛んでいるということ くらいしか分からない。  私も若い時は、10メートル上方の椎の花に止まっ て交尾をしているヶズネチビトラカミキリ(体長5 ミリくらい)が見えたくらいの視力(3・5くらいは あったと思う)の持ち主だったのだが、今では目の 前にネキが来るまで気が付かず、気が付いた時には 網を振る間もなく飛び去っている場合が大半で、こ れでは沖縄に行っても無駄かもしれないなあ、と思 いつつやってきたのである。  ネキより頻繁に飛んでいた米軍の飛行機  4月から入って採集している人に聞くと、今年の 発生のピークは例年よりかなり早く、4月下旬だっ たという。それでもまだいないわけはないだろうと いうわけで、数年前にやっとIオスだけ採ったポイ ントに行ってみた。原生林を見下ろす尾根筋で、飛 んでいるのはキオビエダシヤク(日本産エダシヤク巾 の最美麗種であるが、イヌマキの大害虫であるため、嫌 われている。珍種であれば、蒐集家垂涎の種として、蛾 屋の憧れになったろうに)ばかりで、ネキはおろか、 カミキリムシは全く飛んでいない。Iメス採れれば 御の字だと思ってきたのだが、これでは目撃すら難 しいかもしれないと、最初から諦め気味である。  結局3日間ポイントに通って目撃したのは2頭だ け、そのうちのI頭はふり逃がした。同じ場所で ちゃんと採った人もいるのだから、やっぱリイモだ な。歳ほとりたくないとしみじみ思うが、生きてい るだけでもめっけもんか、とネキより頻繁に飛んで いた米軍の飛行機を見ながら呟くしかなかった。  ところで、オキナワホソコバネカミキリはいった いいつからやんばるの森に棲息していたのだろうか。 沖縄が大陸から切り離されたのは約200万年前と 推定されているので、オキナワホソコバネ(あるい はその祖先種)はこの頃から沖縄に棲息していたの だろう。沖縄本島から見つかった最も古いホモーサ ピエンスの化石(山下洞人)は3万2000年前で、 米軍の飛行機が沖縄の空を飛び始めてからは高々70 年少ししかたっていないことを思えば、悠久の年月 だと思うが、基地やソーラーパネルを造ることにし か興味がない人たちには、馬の耳に念仏か。  2019年7月に、『もうすぐいなくなりますI 絶滅の生物学』と題する本を新潮社から出版したが、 人類とネキとどちらが先に絶滅するかと問われれば、 人類が絶滅した後もオキナワホソコバネカミキリは やんばるの森を飛んでいる方に賭けたいな。もちろ んその頃は、ネキあるいはやんばるという言葉を理 解する主体はどこにもおらず、世界はずっと平和に なっていることだろう。  生物の進化パターンは予測可能か  グールドが主張した悲運多数死 『生命の歴史は繰り返すのか?』(ジョナサン・B・ ロソス著、化学同人)を読んで、少しく思うところが あるので、今回はそのことを書いてみたい。進化は 偶然の産物なのか、それともある程度予測が可能な のかという悩ましい問題があって、ほとんどの生物 学者は、カンブリア紀にさかのぼって生命の歴史を やり直しても、まったく同じ軌跡を辿ることはあり 得ないだろうと考えていると思われる。  ただ進化は偶然だと考える論者にも多少のあるい は大いなる温度差があって、一番過激なのは 2002年に亡くなった古生物学者のスティーヴ ン・J・グールドで、ベストセラー『ワンダフルー ライフ』で、カンブリア紀の動物の異質性は史上最 大で、非運多数死を生き延びて、その後の動物たち の祖先になれたか、ならなかったかは単に偶然にす ぎず、歴史をやり直せば、まったく異なる動物たち が進化しただろうと述べている。  異質性というグールドの用語は、高次分類群の多 様性のことで、グールドはカンブリア紀には動物の 門の数は100くらいあり、異質性が極めて高かっ たと主張した。ちなみに生物のヒエラルキー分類に 従えば、分類群は高次から柢次に、主なものだけを 挙げれば、ドメイン、界、門、綱、目、科、属、種 となる。例えばHomo sapiensは、査]核生物(ドメイ ン)、動物界、脊索動物門、哺乳綱、霊長目、ヒト 科、}{o∃o(ヒト属)Homo sapiens(ヒト、種)とな る。  多様性ではなく、わざわざ異質性というコトバを 使ったのは、門といったような生物の大きな枠組み は、新しく生じることがなく、一度絶滅すると復活 しないとグールドが考えたからだ。一方、種は分岐 していくつかの種に分かれたり、二つの種が交差し て新しい種が出来たり、時には絶滅したりと、栄枯 盛衰を繰り返すことが普通だ。柢次分類群の多様性 は増えたり減ったりするのである。それに対して、 高次分類群の多様性は減るばかりで、これに対して は別のコトバを当てた方がいいというグールドの考 えは首肯できないこともない。  グールドが非運多数死という考えを固める基に なった根拠は、カンブリア紀のバージェス頁岩の化 石である。今は、ケンブリッジ大学の教授職に収 まっているサイモンーコンウェイ=モリスは、若き 頃、バージェス頁岩の化石を研究して、現在の動物 の形とは全く異なる動物たちが生存していたことを 明らかにした。アノマロカリス、(ルキゲニア、オ パビニアといった奇妙奇天烈な動物の復元図を見た 人も多いだろう。  グールドはこういった動物たちの多くは、現在の 生物とは異なる門に属していたと主張したのだ。も ちろん現在の生物と同じ門に所属する動物(例えば、 ピカイアは原始的な脊索動物と考えられている)も多く、 そうなると、門の数は現在の動物界の37門(分類学 者の見解により多少前後する)よりはるかに多いこと になる。たまたま絶滅した門はもはや復活せず、例 えば、脊索動物の祖先種が運悪く絶滅したとすると、 ヒトは現れなかったに違いない。グールドが過激 だったのは、多くの場合、絶滅するかどうかは自然 選択(すなわち環境に適応できなかった種は絶滅して、 適応した種だけが生き延びた)の結果ではなく、運次 第だと主張したことにある。  これに対し、バージェス頁岩の化石を実際に研究 したコンウェイ=モリスは、グールドの門の数の見 積もりは大げさで、実際にはカンブリア紀の門の数 と現在のそれは、ほぼ同じくらいだったのではない かと主張した。そうだとすると、カンブリア紀に出 現した沢山の門の非運多数死ということはあり得な い話になる。それどころか、コンウェイ=モリスは、 進化をやり直しても、進化プロセスは繰り返すので、 ほぼ同じような生物が出現するはずだと主張して、 グールドの考えに真っ向から反対したのだ。  進化は予測可能か  冒頭に紹介したロソスの本の帯には「進化は偶然 か、それとも必然か」と記されているが、時間が一 方向にしか流れない現実世界では、この二者択一の 問いは意味をなさない。「進化は予測可能か、それ とも不可能か」という問いならば、答えようがある。 1億年後にどんな動物が地球上を闊歩しているかと いった問いには、ペテン師以外の誰もが答えられな い。進化が必然だとしても、進化の法則が分からな い限り、どんな新奇な生物が出現するかの予測は不 可能だからだ。  しかし、同じ遺伝子組成の生物を異なる複数の環 境に放してしばらくたつと、この生物が環境の違い に応じて、どのように変化するかを予測することは できるかもしれない。過去の例を調べて、変化パ ターンに共通性があれば、同じように変化する可能 性は高いだろう。もしそうであれば、局所的、短期 的な進化は繰り返す場合があると言えるだろう。  ロソスの本には収斂の例が沢山出てくる。収斂 (生態学的収斂)とは同じような環境に暮らす系統の 異なる動物たちが同じような形になることだ。旧大 陸の有胎盤類とオーストラリア大陸の有袋類の収斂 はよく知られている。オオカミとフクロオオカミ、 ネコとフクロネコなど、枚挙に暇がないが、カンガ ルーによく似た有胎盤類の動物は旧大陸の草原には いない。同じようなニッチに進出して、同じような 形になって環境に適応しようとする動物もいれば、 まったく違うやり方で、適応しようとする動物もい るということだ。同じようなやり方で、解決してい る動物たちを見る限り、局所的な進化は繰り返すよ うに見えるが、それは可能なやり方の一つを選択し ているだけで、必ずしもそれ以外のやり方がないわ けではないことがわかる。解決の仕方に何らかのパ ターンがあることは、それが不可避であることを意 味しない。  ロソスの本で一番面白かったのは、局所的、短期 的な進化が反復するかどうかの、実験を伴った議論 である。トリニダードの渓流に棲息するグッピーの 体色は、そこに棲息する捕食者の存在と強く相関し ていた。強力な捕食者のいる渓流ではグッピーはオ スもメスも極めて地味だが、捕食圧の高くない渓流 ではオスは大変派手な体色になる。理由は単純で、 目立つ派手なグッピーは捕食者に見つかりやすく、 真っ先に食べられてしまうため、地味な個体ばかり 生き残る。一方、メスのグッピーは派手なオスを好 み、捕食圧が弱ければ、オスはどんどん派手になる。  これを検証するための実験が面白い。野外から採 取したグッピーを全部一緒にしてしばらく飼育して から、200匹ずつランダムに選んで、実験室に設 置した同じ条件のいくつかの人工渓流の区画に放流 し、その後で、ある区画には捕食者を放し、別の区 画には捕食者を入れないでおく。捕食者が入れられ た人工渓流のグッピーの体色は世代を繰り返すごと にどんどん地味になるが、捕食者がいない区画のオ スの体色はどんどん派手になっていったのだ。  というわけで、自然選択の結果適応的な形質を 持ったグッピーは生き残り、非適応的なグッピーは 淘汰されるというネオダーウィニストが喜びそうな 結果が導かれ、個体群の遺伝的な条件や環境条件が 同じならば、局所的、短期的な進化は繰り返す場合 がある。しかしそうでない場合もあって、フラスコ の中の大腸菌の実験では、今までの実験結果からは 予測できない新形質が現れることもあるという。本 来の意味での進化は新しい種や新しい形質の出現と いうことだから、本当の進化は予測不能なのである。 そもそも予測可能な出来事は進化ではないのだ。  人類が再び出現する確率  コンウェイ=モリスは『進化の運命』の中で、進 化をやり直してもほぼ同じようなプロセスを辿り、 したがって人類の出現も不可避な出来事だと主張し ている。生物が取り得る形質の安定点はあらかじめ 決まっていて、何回繰り返しても結局はこの安定点 に収斂してしまうという考えは面白いが、長期的な 進化では、この考えは当てはまらない。確かにある 枠組み(例えば硬骨魚類)の中では、安定点は大ま かには決まっているかもしれないが、進化の途中で 別の枠組みに進化してしまえば(例えば、硬骨魚類か ら四足動物)、安定点はその時点で新しく出来るので ある。  恐らく硬骨魚類から両生類への進化は予測不能で 繰り返すことはないので、あらかじめ決まっている 安定点への収斂という概念装置では説明できない。 可能な選択肢はいくつかあって、その一つが両生類 への進化だったのだろう。この時点まで歴史を戻す として、別の可能な選択肢を選んでしまえば、また 別の局面に入ってしまい、進化が繰り返すことは不 可能だ。  生物の進化の歴史上、こういったクリティカルな 分岐点は無数とは言わないまでも非常に多数あった ことは、間違いない。とすれば、進化の歴史を戻し たとして、人類が再び出現する確率はほぼゼロに近 いだろう。自然選択は常に働いているので、グール ドの言うように非運多数死はすべて運次第というの も間違っていると思うが、生物の長期的な進化が繰 り返すというコンウェイ=モリスの主張も間違って いると思う。ロソスの本の結論は、短期的な進化は ある程度予測できるが、長期的な予測は不可能だ、 という穏当なもので、そういう意味では真っ当な本 である。  外来種は悪者なのか  思い込んだら百年目  {外来種は本当に悪者か? 新しい野生 H}{詢 ZMギギ冖{}』(フレツドーピアス著、藤井留美訳、草思 社)と題する本を読んだ。日本では外来種というだ けで、悪の権化のように言われているが、事情は外 国でもさして変わらないようだ。著者のピアスは 様々な具体的な事例を引いて、外来種というだけで 忌み嫌う風潮を批判している。私は、10年以上前か ら外来種というだけで、闇雲に排除しようとする風 潮を外来種排斥原理主義といって批判してきたが (『外来生物辞典』池田清彦監修、DECO編、東京書籍、 あるいは『底抜けブラックバス大騒動』池田清彦著、つ り人社)、基本的に私と同じ考えの著書が翻訳され 日本語で発行されるのは嬉しい。  ピアスの本は具体的な事例を沢山収録してあり、 さらに生態系がスタティックなシステムでないこと を述べている点でとても良い参考書であるが、理論 的かつ包括的な観点から生物多様性並びに外来種問 題について考えたい大は私か2012年に出版した 『生物多様性を考える』(巾公選書)も合わせて読ん でいただきたい。  アマゾンの売り上げランキングを見るとピアスの 本はかなり売れているようだが、生物多様性の専門 家と称する大も含め、外来種は排除すべきだという 教義に頭を占拠されている人の考えは変わらないだ ろう。「思い込んだら百年目」というのは、どうや ら、大多数の人間の脳に染み付いた性のようで、大 類滅亡の囗まで改善されることはないのでしようね。  唯一の救いは、自然は人間の思い込み通りにはな らないことだ。ブラックバスは外来種だからI匹残 らず殲滅しようといくら頑張っても、ブラックバス は排除できないだろう。少なからぬお金と労力と時 間を使って、結局ブラックバスは排除できないと分 かって、やっと、ブラックバス殲滅運動は収まるの だろうね。なんて愚かなのだろうと思う。断言して もよいが、人類が滅びても、ブラックバスは囗本の 湖沼を元気で泳いでいるに違いない。自然は、人間 が思い通りにコントロールできるほど、やわではな いのである。  イネは「侵略的外来生物」  ピアスの本は南大西洋のアセンション島の記述か ら始まる。アセンション島は約100万年前に大西 洋の海底から出現した絶海の孤島である。人類がこ の島と関わりを持つ前は、海岸沿いはアオウミガメ と海鳥の天国であったが、植物はトウダイグサ科の 固有種が海岸に生えている以外は、コケとシダしか 生えていない荒涼とした地であったという。この島 を緑の楽園にしようと構想したのは1843年に島 を訪れたジョセフーフッカーであるという。ダー ウィンの友人で著名な植物学者であったフッカーは、 この島の緑化計画を実行すべく、南アフリカの国立 植物園や、自身が園長をしていたロンドンの キュー・ガーデンから沢山の植物を導人した。  特に相性が良かったのは、タケやウチワサボテン の一種で、10年も経たないうちに、はげ山は鬱蒼と した雲霧林に変わり、グリーン山と呼ばれるように なった。山頂が859メートルのグリーン山は、い までは標高600メートルを超えたあたりから約 300種の種子植物が豊かに育っている。もちろん すべて外来種だ。外来種の導入前はコケとシダしか 生えていなかったのだから、植物の種多様性は著し く増大したわけだ。それでも、頑迷な外来種排斥原 理主義者はグリーン山の外来植物を排除せよと主張 するかもしれない。ピアスは言う。「外来種を『抑 制と根絶』しようものなら、固有種のシダも含めて 絶滅する在来種が出てくることは明らかだ」。かつ ては、丸裸の山腹に張り付いていた固有種のシダは 今では外来種の苔むした枝にしか見られないという。  同じような事例はグリーン山のような極端な場所 でなくともみられる。例えば、囗本の固有種である クロサワヘリグロ(ナカミキリの幼虫は、かつては キ(ダという植物を食べていたが、今では外来植物 の(リエンジュをも食べるようになった。キ(ダの みを食べていた頃、このカミキリは大珍品であった が、(リエンジュを食べるようになって普通種に なった。(リエンジュは全国の河川の河原にはび こっている優占種であるため、食料が爆発的に増え たためである。(リエンジュを排除したら、このカ ミキリは激減してしまうだろう。尤も、ハリエン ジュを人為的に排除することは不可能だと思われる ので、クロサワヘリグロ(ナカミキリもさしあたっ ては安泰である。  もっと極端な例は、オオフサモと2種のサルソウ ムシの関係である。クロホシクチブトサルソウムシ とヤマトクチブトサルソウムシは、環境省によって、 「特定外来生物」に指定されているオオフサモのみ を食草とし、現在のところほかの食草は見つかって いない。この2種のサルソウムシはオオフサモの導 入以前に記録があり、日本の在来種と推定されるが、 元来何を食べていたかはわかっていない。現在は完 全にオオフサモに依存している。オオフサモを除去 したら、絶滅するだろう。  2500年前に日本列島に導入されたイネは、日 本の低地生態系を徹底的に改変した「侵略的外来生 物」であるが、そのおかげで、日本列島の人口は激 増したに違いない。人間にとってのイネは、先に挙 げた2種のサルソウにとってのオオフサモと同じで ある。外来種排斥原理主義の主張を徹底すると、外 来種のイネも排除対象になってしまうため、この人 たちは、畑で栽培されている作物は外来種と言わな いのだ(外来種の定義から外れるので排除しなくていい という理屈であ亘、といった自分たちの主張に都合 がいい定義を捏造しているが、畑で栽培している外 来作物を排除してしまったら、生活が成り立たない のでそのように言わざるを得ないのだ。2種のサル ソウムシもまたオオフサモを排除してしまったら、 生活が成り立だないので、在来種の生活を支えてい るものはたとえ人為的に持ち込まれたものでも、外 来種と言わない、と定義し直してくれ。言葉が喋れ たら、そう主張するだろうね。  外来生物排斥主義者の無根拠な言い分  外来種排斥原理主義者に限らず、ナイーヴな自然 保護論者は残り少なくなった自然生態系を人為的な 介入からなるべく守りたいと思っているのだろうが、 そう思っているのは、自然保護論者の脳であって、 生態系の成員たる生物たちはそんなことは露ほども 思っていない。故に、外来種排斥原理主義は、本人 たちはそう思っていないだろうが、人間中心主義の 一形態なのである。人は人間中心主義を排除したら 生きていけないのだから、それはそれで、よろしい のだけれど、問題は外来種排斥原理主義を擁護する 超越的な根拠も論理的な根拠もまったく存在しない ところにある。  外来種排斥原理主義者がよく言う言葉に、「永い 時間をかけて種・亜種分化してきた自然の営みを、 人為的に変革してしまうのは許されない」というも のがあるが、現在の地球上に人間が介入していない 生物の営みなどはないのだ。現在の地球上に人跡未 踏な地はないとピアスは言う。ならば、人為込みの 生物多様性の保全を考えなければ仕方がない。  アセンション島は、昔のままのコケとシダしか生 えていないはげ山であった方がいいのか。それとも 外来植物で覆われた緑の島の方が好ましいのか。頑 迷な外来種排斥原理主義者以外の多くの人は、たと え外来種であっても緑の島の方がいいと思うだろう。 ましてや、在来のコケやシダが外来種によって絶滅 していないのであれば、なおさらである。ピアスは、 外来種は悪者ではなく、むしろ生態系の種多様性を 増大させるプラス面の方が大きいと主張する。  例えば、囗本には最近、アカボシゴマダラとホソ オチョウという2種の外来種のチョウが人為的に導 入されたが、これによって絶滅したチョウはいない ので、種の多様性が増大したことは確かである。手 つかすの自然を守ろうとしても無理だ。むしろ、外 来種の活力と侵略本能を活かして自然の再生を目指 すべきだとのピアスの考えは、頑迷な保全論者には 受け入れられないだろうが、謙虚に現実を見つめれ ば、首肯できる主張である。  原題の『THE NEW WI』I)』というのは人為的で あれ、自然災害であれ、生態系の環境変化にしぶと く適応して生き残って、繁栄していく生物種たちの 活力を示す標語である。この「新しい野生」で中心 的な役割を果たすのは外来種である。環境が激変し たとき、在来種は多少なりとも新しい環境に非適応 的になるが、その環境に適した外来種が入ってくれ ば、生態系は活力を取り戻すというごく当たり前の 考えだ。  私はかねがね、生物は同じ場所に住みながら環境 変化に受動的に適応するというよりも、自分にとっ て最も生きやすい環境に進出することによって適応 という現象が起きるのだ(能動的適応)と主張して きた。能動的適応を加速させるためには、人為的に 様々な種を放した方がいいという主張は、結構ワク ワクするね。囗本の外来種排斥原理主義者たちがど んな反論をするか見ものだね。私か『生物多様性を 考える』を出版したときのように、論理的な反論が できずに、ひたすら無視を決め込むのかもしれない が、ベストセラーになって無視できなくなったらど うするのでしょうかね。  ピアスの本の中に「野生生物の天国、チェルノブ イリ」という項があり、人間が撤退したチェルノブ イリでは、野生動物が放射能をものともせず、繁栄 を謳歌している様子が書かれている。生物たちのし たたかさは感動的だ。 V 短絡的正義がもたらすもの  遅きに失した国際捕鯨委員会脱退  捕鯨は儲かる商売ではなくなった  2018年の暮れも押し迫った頃、日本がIWC (国際捕鯨委員会)を脱退するとのニュースが飛び込 んできた。IWCは1946年12月、ワシントンで 国際捕鯨取締条約が採択され、48年に発効したのに 伴い設立された国際機関である。1949年に第1 同の会合を開いたのを皮切りに、委員会の本会議は 毎年開かれ(2012年からは隔年開催)、国際捕鯨 取締条約に基づき、鯨資源の保存と捕鯨産業の秩序 ある発展のために、加盟国に様々な勧告をすること ができる。日本は1951年に加盟した。  しかし、設立後しばらくしてから、捕鯨から撤退 する加盟国が出はじめ、IWCは捕鯨産業の秩序あ る発展という当初の目的から徐々に逸脱して、最近 では国際捕鯨禁止委員会と名付けた方がいいような 機関になってきた。20世紀中葉までには、アメリカ、 オーストラリア、イギリス、オランダなどが相次い で捕鯨からの撤退を表明して、反捕鯨国に宗旨替え をし、それに呼応して反捕鯨を標榜する加盟国が増 加したのが大きな理由である。  アメリカ、オーストラリアなどが捕鯨から撤退し た表向きの理由は、鯨資源の保全あるいは希少種の 保護といったものであったろうが、実際は、捕鯨の 採算が取れなくなったからだ。これらの国は鯨肉を 食べるためではなく、油を採るために捕鯨をしてい たわけで、鯨資源の減少に加え、化石由来の油が安 価で供給されるようになり、捕鯨は儲かる商売では なくなったのである。日本では1950年代から70 年代にかけて、鯨肉は重要なタンパク源であったた め、捕鯨は採算が取れる産業であり、捕獲規制をし ようとする反捕鯨国とIWCの会議で抗争すること になった。  しかし、IWCに加盟する反捕鯨国は増え続け、 1982年に「商業捕鯨モラトリアム=商業捕鯨一 時停止」が採択された(一時停止とは名ばかりで実質 的にはほぼ永久停止である)。日本は「科学的正当性」 を審議するIWC科学委員会の審理を経ていないと して、この採択は無効であると頑張ったが、紆余曲 折を経て、このモラトリアムを受け入れる代わりの 「調査捕鯨」を行うことで妥協をして、1988年 に商業捕鯨から撤退した。  捕鯨国に友好的たったカナダは、自国内の先住 民・イヌイットの捕鯨をIWCの許諾とは独立に行 いたかったという理由からか、あるいはIWCの非 科学的な議論がばかばかしくなったのか、モラトリ アムが採択された1982年にIWCをとっとと脱 退してしまった。カナダは京都議定書からも 2011年に正式に脱退しており、国際的なペテン に引っかからない真に賢い国である。日本も、 1982年にカナダと歩調を合わせて非科学的なI WCから脱退すればよかったものを、今頃になって 脱退するとは、世界情勢を見るに真に鈍である。  捕鯨禁止のポピュリスム  すでにあちこちで書いているように、最も環境に 負荷をかけない食料調達の方法は、野生の動植物を 持続可能な方法で利用することだ。従って鯨の資源 量を調査して、持続可能な範囲で捕鯨を行うことは 真に合理的なのである。もちろん、野生動物を持続 可能な範囲で利用するためには合理的なルールが必 要だ。もともとIWCはそのための機関であったは ずだ。例えば、南半球(主に南氷洋)のクロミンク クジラはIWCによれば少なくとも50万頭を超えて おり、多少捕獲しても資源が減少する懸念はない。 従ってIWCの商業捕鯨モラトリアムは非科学的だ という囗本の主張は、そこだけを見る限り真に尤も である。しかし、後述するように話はそう簡単では ないのだ。  日本の鯨肉の消費量は1960年代の半ばまでは 多い年で年間20万トンを超えたが、60年代後半から 徐々に減り始め、IWCが商業捕鯨モラトリアムを 採択した1982年前後には5万トン弱まで落ち、 1988年に商業捕鯨を中正して以来、数子トンの 水準で推移している。鯨肉を日常的に食べる人がほ とんどいなくなって、5000トンくらいの鯨肉が 備蓄されている。商業捕鯨を再開しても鯨肉の消費 が増える見込みは薄い。商売としては成り立だない と思う。  IWCに参加していれば「調査捕鯨」という名目 で税金をつぎ込むことはそれなりに理屈が通るが、 商業捕鯨に補助金を注ぎ込むというのは筋が通らな い。それにもかかわらず、政府は捕鯨対策として 2019年の予算に51億円を計上したとのことだ。 政府自ら、補助金なしには商業捕鯨は成り立だない ことを認めているようなものだ。IWCを脱退して 商業捕鯨を再開しても経済的なメリットは全くない。 それではなぜIWCを脱退したのだろうか。  IWCは本来の目的を逸脱して、単に捕鯨を禁止 するだけの機関に成り下がったというのは表向きの 理由であり、これは首肯できる。しかし、これもま た後述するように日本国内には「種の保存法」とい う名の希少な野生動植物を保全するための法律があ るが、この法律も本来の目的を逸脱して、科学的な 根拠もなしに単に採集を禁止するだけの悪法に成り 下がってしまったのだから、日本政府がIWCを非 科学的だと非難するのはダブルスタンダードなので ある。  IWCの脱退を推進した二階自民党幹事長の選挙 区の中に、捕鯨の町として知られる太地町があり、 地元に対する政治的配慮が働いたというのが、一番 尤もらしい理由であろうが、国際社会に対する政治 的な配慮は働かなかったようだ。わずか半世紀前ま で、捕鯨を行っていたアメリカ、イギリス、オース トラリアなどの諸国は、捕鯨が産業として成り立だ なくなってしまえば、「捕鯨禁止」を掲げた方が、 政治的には有利である。「鯨を殺すのは可哀そうだ」 という声は、鯨を食べない人や、捕鯨で生活してい ない人にとっては、まことに心地よく響く。大衆民 主主義社会では、この手のポピュリスムは避けがた い。  いつの囗か、人工肉が、牛肉や豚肉よりはるかに 安価で美味になり、今行われているような牧畜業が 産業として成り立だなくなれば、「生きた牛を殺し て食うとはなんと野蛮なんだ」という美辞麗句で世 界は覆われるに決まっている。そういう社会で、牛 は沢山いるのだから、持続可能な範囲で利用しても 良いではないかという正論は、政治的には真に不利 になる。今、IWC脱退で日本が世界に発信してい るメッセージは、まさにこの手の正論で、捕鯨をめ ぐる世界の趨勢を見るに、世界の大半となった反捕 鯨国の一般大衆の動物愛護という情緒を逆なでする 決定であることは間違いない。  自らの正義だけを言い立てる日本政府  いくら論理的に説明しても、情緒で頭を侵されて いる一般大衆を説得することは不可能だ。日本は野 蛮だという風評を覆すことは難しい。ましてや、鯨 愛護という情緒に肩入れしているのが国家権力であ るとすると、捕鯨という正義を標榜する国は、政治 的、経済的に相当なデメリットを覚悟しなければな らないだろう。もちろん、日本国内向けには、不条 理な条約を押し付ける国際社会に敢然と立ち向かっ て、正義を貫いた日本というメッセージは、「日本 すごい」という妄想に取り憑かれているネトウヨや そのフォロワーたちの幼稚なヒロイズムを満足させ るかもしれないし、これらの支持層を頼りにしてい る安倍政権の支持率アップに多少は貢献するかもし れない。しかし経済力、国力といった意味での実益 は全くない。  本項の冒頭に記したように、まだ経済大国であっ た頃に脱退すれば、国際社会に与える影響もかなり あり、捕鯨国を組織して新しい国際機関を作ること も可能であったろうが、ここまで国力が下がってか ら、尻をまくって脱退しても、負け犬の遠吠えに過 ぎない。ちなみに日本の一人当たりのGDPは 2000年には世界第2位であったが、この5年間 くらいは20位以下に低迷している。日本はここの所、 韓国の元徴用工裁判でも、コーンの裁判でも、自ら の正義だけを言い立てる、夜郎自大が目立ってきた。 国外に仮想敵を作って、憲法を改悪して戦争ができ る国になったところで、国民の生活は向上しない。  ところで、日本はIWCで主張しているように、 科学的調査に基づいて持続可能な範囲で採取しても 問題ないという立場を常にとっているかというと、 そんなことは全くなく、国内の野生動物保護では、 科学的調査などは全く行わずに、多くの昆虫を採集 禁止や養殖禁止にして、さらには標本の譲渡も禁止 して分類学的調査を妨害しているのだから、私のよ うな昆虫愛好家からしたら、IWCよりはるかに悪 質である。オキナワマルバネクワガタやヨナグニマ ルバネクワガタやヤンバルテナガコガネなどは、養 殖技術が確立されているので、養殖をして増やして 市場に流通させれば、密猟もなくなるし、種の絶滅 確率も極めて小さくなるのに、採集も養殖も譲渡も ダメで、生息地の環境破壊だけは進んでいくという のではいずれ絶滅は免れないだろう。  なぜそうなるかというと、「虫を採集するのは可 哀そう」という情緒は昆虫採集に何の利害関係もな い圧倒的多数の人たちにいとも簡単に受け入れられ やすく、環境省は自然保護に熱心だというプロパガ ンダができるからだ。辺野古に基地を造るために、 サンゴ礁を破壊する大浦湾の埋め立てに異議を申し 立てない環境省が自然保護に熱心だというのは笑止 だけれどね。  日本がいくらIWCは科学的でなく無茶苦茶な決 定をすると息巻いても、日本政府は日本国内ではI WCと選ぶところがなく、国内のマイノリティに対 し、同じことをやっているわけだから、衆寡敵せず、 圧倒的な反捕鯨の国際世論の前には蟷螂の斧で、努 力と金は水泡に帰すというくらい分かりそうなもの だけれどね。  未来展望なき虚勢による日本の衰退  1世紀前なら戦争  ここのところの囗本の政治状況を見ていると、 様々な局面でヒステリックになって、ほどほど、い い加減、ダマシダマシ、適当に、といった大人の知 恵を喪失して、自らの正義のみを言い立てる不寛容 さが目立ってきた。IWC(国際捕鯨委員会)の脱 退然り、元徴用工裁判や火器管制用レーダーの照射 問題も然り。アメリカやロシアには恐ろしくて盾つ くことはできないが、IWCや韓国の不正義に対し ては、声を限りに言い立てて、日本すごいという幼 稚な自己満足に浸っている安倍やそのフォロワーた ちは、日本の近未来を正視することが、きっと恐ろ しくてできないのだろう。  IWC脱退問題や、韓国の元徴用工の裁判につい ては、論理的に考えれば、日本の主張の方がどちら かというと筋が通っていると思うけれど、国際政治 は自らの正義を言い立てて、相手を言い負かしても、 物事は解決しないばかりか、かえってややこしくな ることの方が多いのである。そのことを分からない で、意地を通そうとすると、少し前の時代だと、た いていは戦争になって、碌なことにならなかったの は、歴史が我々に教える教訓である。  国と国の間の意見の齟齬や利害の対立は、個人間 のそれらとは位相が異なるのだ。例えば、個人と個 人が対立すれば、裁判を起こして決着を図れる。囗 本のように、裁判所が実質的には政権の隷属機関に 過ぎないということはあるにしても、最高裁の判断 には強制執行力があり、これには従わざるを得ない わけで、負けた方は諦めるほかはない。しかし、現 在の国際的な政治システムでは、国家より上位の強 制執行力のある審級はない。制度的には国家間の紛 争を解決する「国際司法裁判所」があるが、これは 強制執行力がある機関ではない。  結局、国と国が意地を張り合うと、先に書いたよ うにI世紀前だと戦争ということになるが、現在は 多少大きな国同士が戦争をする事態になることは、 よほど為政者がアホでない限りあり得ない。負けた らもちろんのこと、勝っても得なことはほとんどな い。大企業はほぼ多国籍企業で、戦争やそこまでい かなくとも国交断絶という事態になると、大や物や 金の行き来が不自由になり商売が成り立だなくなる からだ。  国交断絶にはならなくても、近隣の諸国と感情的 な対立が激しくなれば、互いに経済的な損失も大き くなる。日本が、韓国や中国は理不尽なので制裁を すると息巻いても、これらの国と日本は経済的には 持ちつ持たれつの関係なので、資本や人の行き来が 少なくなれば、日本も中・韓も得をすることは何も ない。例えば日本の観光業は韓国人と中国人で何と か息をついているので、これらの2国からの観光客 が来なくなったら、あっという間につぶれて、景気 はかなり悪化するだろう。1年間に日本を訪れる外 国人観光客はほぼ3000万人。その4分の3は韓 国、中国、台湾、香港からの人たちだ。韓国と中国 は特に多く、2018年には中国838万人、韓国 754万人で、併せて1600万人近くに上る。日 本に来る外国人観光客の半分を占める。  大阪の心斎橋などに行ってみれば分かるが、この 界隈は韓国人と中国人の方が日本人より多いくらい である。ちなみに2017年に大阪府を訪れた外国 人客は1100万人、消費額は1兆1731億円と のこと。その半分が韓国と中国からの観光客だとし て、これらに人が落とした金は単純計算で6000 億円近い。周知のように大阪市の吉村市長は、サン フランシスコに建っている慰安婦像の撤去をサンフ ランシスコ市が拒否したことに腹を立て、サンフラ ンシスコ市と大阪市の姉妹都市を解消すると一方的 に通告して、韓国バッシングに余念がないが、韓国 人観光客が来なければ、大阪の繁華街は火が消えた ようになるということは、考えたことがないようだ。 事実を直視できず、虚勢を張ることしかできない無 能な政治家の典型である。  真の意味での国力とは何か  中・韓の観光客が増えたということは、これらの 国が裕福になったということでもある。どんどん墜 ちてゆく日本と、どんどん上昇してゆく中・韓そし て台湾。日本の一人当たりの名目GDPは、 2017年度は世界で25位、香港は15位、韓国は29 位、台湾は36位、中国は74位である。もうしばらく すれば、韓国や台湾に抜かれるだろう。今まだ少し 余裕のあるうちに、東アジアの国と友好関係を結ば ないで、日本すごいという妄想に耽っているだけで は、そのうちだれも相手にしてくれなくなると思う。  外交の安倍とか言って、日本国内向けには御用マ スコミを使って、いかにも上手く立ち回っているか のごとく宣伝しているが、よその国にお金を貢いで 歓心を買っているだけで、各国首脳が集まって、歓 談をしている写真などを見ると、完全に蚊帳の外だ ということがよく分かる。安倍政権が成長戦略の柱 として推進してきた原発輸出は、アメリカ、ベトナ ム、台湾、リトアニア、トルコ、イギリスとことご とく失敗しており、計画推進に税金を使っただけと いう真に無残な結果に終わった。世界が汎用型のA Iの開発にしのぎを削っている中で、原発などと いった時代遅れの技術にしがみついていては、世界 の科学技術の発展から取り残されて、益々貧乏国に なっていくだろう。  干不ルギー資源も鉱物資源もない日本にあるのは 人的資源だけだ。人口が減れば、日本の風土は農業 には向いているので、国民が食うだけならばなんと かなると思うが、科学技術を発展させなければ、先 進国の仲間から脱落していくだろう。今はまだ、科 学技術立国日本の余韻が多少残っているが、国民の 科学リテラシーの向上と、トップ科学技術者の養成 に力を入れなければ、日本は東アジアの中において すら、他国の後塵を拝することになりかねない。  数十年先のことを考えれば、日本が世界の中で、 ある程度の繁栄を維持するためには、東アジアの近 隣諸国と密接な関係を保つ東アジア共同体を構築し て、アメリカ、EU、ロシアと政治的、経済的な均 衡を築くほかはない。その時に東アジア共同体の指 導的な立場に立てるかどうかは、宣]の意味での国力 があるか否かにかかっている。国力とは、最終的に は科学技術力を含めた国民の知的リテラシーの総体 のことだ。  そのために重要なのは教育への投資である。 2015年の統計によれば、日本はGDPのうち小 学校から大学までの教育機関に対する公的支出の割 合が、OECD(経済協力開発機構)加盟国34か国の 中で最低であった。OECD加盟国の平均は4・2 パーセント。日本は2・9パーセントだった。最も 高かったのはノルウェーの6・3パーセント、以下 フィンランド、ベルギー、スウェーデン、イスラエ ル、ニュージーランド、オーストリア、フランス、 カナダ、イギリスが平均値超えで、イタリア、ドイ ツ、アメリカ、韓国、オーストラリアなどは平均値 以下だが、3パーセント以下の国は日本だけだった。  日本は教育や科学技術に投資するやり方が近視眼 的で、将来の発展についての展望が全くなく、それ が科学技術が衰退している大きな原因である。例え ば、高等教育についていえば、2004年に国立大 学が法人化されて以来、日本の学術論文数は主要国 の中では、ただ独り右肩下がりで減少している。国 立大学の運営交付金が毎年Iパーセントずつ削減さ れた。教官の事務量が増大した。研究費の傾斜配分 を行って研究費をわずかしかもらえない研究者が増 えた。これらが主たる原因であることは間違いない が、その根底にあるのは、最小のコストで最大の成 果を上げろ、という株式会社と同じ発想である。  効率重視がイノベーションの芽を摘む  株式会社でコストパフォーマンスを上げるには、 人員を削減して、少ない従業員を沢山働かせればよ い。仕事がルーティンワークならば、労働時間と成 果は比例するかもしれない。しかし、科学研究は ルーティンワークではないので、働いた時間と成果 は比例しない。運営交付金を削減して、効率重視の 政策を教育や研究に持ち込むと、お金を削減した以 上のデメリットが生じてくる。  前にも述べたが、役に立ちそうな研究には手厚く お金を支給して、役に立ちそうもない研究には金を やらないという傾斜配分は、一見よさそうに見える が、文科省の役人や研究費の支給を審査する学会の ボスが、役に立ちそうだと考える研究テーマは、ほ とんどの場合、さして画期的な研究にはならないこ とが多いのだ。宣]に新しい研究は既存の学者には理 解できないことが普通で、審査などせずに、研究費 を広く薄くばらまいた方が、画期的な研究成果が生 まれる確率は高くなる。今の制度だと、お金をもら いたい研究者は、文科省や審査員に気に入られんが ために、申請書類の作成に知恵を絞ることになり、 研究に割く時間が減って、本末転倒になる。  傾斜配分は、研究費を差配する文科省にとっては 権力の源泉なので、研究者を下に見て嬉しいことこ の上ないのであろうが、科学技術の振興にとって最 悪の制度である。研究は研究者がするのであって、 文科省の役人がするわけではない。さらに、短期間 で成果を出せという効率主義は、あらかじめ首尾よ くいく研究に主力を注ぐことになって、結果的に、 現在は海のものとも山のものともつかないが、将来 的には大きなイノベーションを起こすかもしれない 研究の芽をつぶすことになりやすい。  とにかく日本は税金の使い方にも、対外的な交渉 にも長期的な展望がなく、その場限りの受け狙いの 政策が多く、あたら税金を湯水のように使って、後 進国を目指しているかのようだ。国立大学の授業料 をタダにしても、年間3000億円の税金を使うだ けで済む。アメリカから何兆円ものお金をかけて戦 闘機を買うより、はるかに将来の国力は上がるはず だ。日本のエスタブリッシュメントは国民の知力が 上がって、自分たちのアホさ加減がばれてしまうの が怖くて、国民を馬鹿のままにする制度を維持した いのかもしれない。これでは日本が潰れるのは時間 の問題だ。  優しくていい人ばかりの国は亡びる  変わり者を許容しない社会  少し前に『同調圧力にだまされない変わり者が社 会を変える。』(大和書房、2015)と題する本を書 いたが、最近、世間一般の風潮から外れるのを嫌が る傾向がさらに激しくなって、これは社会がクラッ シュに向かう兆候なのではないかと危惧している。 画一的な義務教育と高校教育の結果、目立った行動 はマイナス評価に繋がるというイデオロギーをたた き込まれてしまったのだろうか。他人と違ったこと をやる大が現れないと、科学も経済も社会も国家も 衰退を免れないのだけれども、目立つ人の足を引っ 張って、みんなで仲良く下降したいのだろうか。  大学の入学式や卒業式も、みな同じようなスーツ を着て羊の群れみたいだ。強制されているわけでも ないのに、ほとんどすべての大が自主的に目立つこ とをしたくないというのは、余り良好な社会とは言 い難い。昔はもう少しいい加減な学生が多かったよ うな気がする。私自身は自分が入学した大学の入学 式にも卒業式にも出なかったけれども(卒業式はそ もそもなかった)、昔はそういう学生も結構いた。  早稲田大学は少なくとも私か勤めていた頃はいい 加減な大学で(もちろんこれは誉め言葉だ)、私は入 学式にはほとんど出席しなかった。見たこともない 新入生の前に座っているのは苦痛だつたからだ。反 対に、卒業式はサバティカルで沖縄に滞在していた 時以外は皆勤である。私と一緒に写真を撮りたいで あろうゼミの学生諸君は、私か出席しないとがっか りすると思ったからだ(単なる私の思い込みかもしれ ないけれど)。  かつて、儀式に魅せられた人類といった記事がネ イチャー誌に載っていたような気がするが、ダン パー数(お互いに相手と親密な関係を築ける上限。約 150人くらいだと言われている)を超えた人数の集 団を統制するのに儀式は有効な手段だったのだろう。 みんなでそろって同じことをする(同じ行動や同じ 歌を歌う)と脳内麻薬が分泌されて陶酔状態に陥り 易くなるに違いない。  昔から権力者(特に独裁者)が儀式を好んだ所以 である。しかし、変わり者を許容しない社会はシス テムが硬直化して、状況が変化しても修正が効かず、 多くの場合クラッシュして終わりになる。ファシズ ム下のドイツやイタリア、15年戦争下の日本など、 枚挙に暇がない。この伝で行けば、今の北朝鮮も遠 からずクラッシュを起こして崩壊するであろう。北 朝鮮化か進む日本も他人事ではないと思う。  成人式もひと昔前まではよく荒れて、来賓が怒っ て祝辞も述べずに帰ってしまったなんてことがあっ たが、今はそういう話を聞かないところをみると、 最近は随分おとなしくなったのだろうか。はっきり 言って、成人式で羽目を外す若者が少しはいる社会 の方が、活力があって未来に希望が持てる。国民を 奴隷にしたい権力者にとっては、都合がいい社会に なりつつあるけれども、国力はじり貧になる。この 傾向は諸外国に比べ日本で特に顕著である。  国際基督教大学の学生部長の加藤恵津子さんが新 入生の99パーセント以上が黒スーツと白シャツだっ たと呆れていたが、入学式ばかりでなく、今世紀に 入る頃から、就活をする学生諸君の服装は黒のリク ルートスーツ一色になってしまった。その頃を境に 囗本の国力は急下降し始めたが、これは単なる相関 ではなく、深い因果関係があるに違いないと、私は 思っている。  短パンにゴム草履の天才  無理に奇抜な格好をしろとは言わないが、そうい う人を排除しない社会の方が健全である。ソウルオ リンピックの前後だったと思うが(とすると 1988年前後か)、当時、まだ東大の教授だった村 上陽一郎をはじめ、黒崎政男、山脇直司、森岡正博 などが参加していた異分野横断的な研究会が定期的 に東京で開かれていたことがあった。誰か面白い人 はいないかということだったので、私か神戸大の助 手になって間もなかった郡司幸夫を推薦して、来て もらったことがある。  郡司幸夫は30歳になったばかりで、まだペギオと いうミドルネームを使っていなかったが(現在は郡 司ペギオ幸夫と称している。私か聞いたところでは、男 の子が生まれたらペギオという名前を付けようと思って いたが、女の子が生まれたのでペギオは自分のミドル ネームにしたという話だった。それで女の子の名前は花 子にしたという。不思議な人だ。大津真幸の話では単に ペンギンが好きだったからということだが、真偽のほど は知らない)、既に天才のオーラが漂っていた。  暑い囗で、短パンにゴム草履というかつてのヒッ ピーのようないでたちで現れた郡司は、数式を駆使 した数理生命学の話題を矢継ぎ早の早口で話し、参 加者の大半は理解不能だったと思う。話の内容はと もかくとして、その格好で新幹線に乗ってきたのか と、私はちょっと呆れたが、当時、囗本における科 学哲学の第一人者と目されていた、バリツとした スーツ姿の村上先生を目の前にして、短パンーゴム 草履姿で、滔々と自説を展開する郡司を見て、これ は大物だわと舌を巻いたのを覚えている。  温厚な村上先生もさすがに気分を害されたような 感じもしないわけでもなかったが、もとより、そん なことに気が付く能力を持だない天才郡司は、講演 の後、みんなと和気藹々と酒を飲んで散会となった。 その頃には、村上先生も他の参加者も、郡司幸夫の 服装のことはどうでもいいような雰囲気になってい た。理論生命学の最先端を走り続ける郡司は、その 後神戸大学の教授となり、現在は早稲田大学の教授 である。短パンーゴム草履姿で新幹線に乗るような 奴は教授にしないという偏狭な社会であったならば、 郡司の才能は埋もれてしまったかもしれない。  ネット上に溢れる匿名の悪口  制服というのは、奴隷養成の装置のようなものだ と思っている私は、どんな服装でもいいじやないか と思うが、奴隷になっていたほうが気が楽だという 人が多い日本では、男子の制服はこれこれ、女子の 制服はこれこれという慣例に従う義務はないという 考えはなかなか広まらない。山梨大学に勤めていた 頃、余りに暑い日はスカートを穿いて通勤したら涼 しかろうと思いついて、一応、女房の許可を取って からにしようと話したところ、恥ずかしいからやめ なさいと怒られて、私の素晴らしい計画はお釈迦に なった。スカートを穿いて通勤してもクビにはなら なかったと思うけれどね。今の山梨大学は相当イカ レているみたいなので、今だったらクビになるかも しれないな。  東大教授の安冨歩は女装をしているという。20年 ほど前、鷲田清一などと一緒に研究会をやっていた 頃はまだ男装をしていたが、5年前に女装をした方 が気分がいいことに気づいたのだという。自分の中 の女性性を抑圧していたことに気づき、女装をして、 女性として扱われると不安が消えるのだという。素 敵じやないか。人はそれぞれなのだから、どんな服 を着てもよろしいのである。  それで、思い出しだのは、イギリスの学校で暑い 日に男子生徒50人がスカートを穿いて登校して、 「この暑いのに長ズボンを強制されるのは、アン フェアだ」と校則を変えるようにアピールした話だ。 2017年のことである。学校側は折れて次年度か ら校則を変更することにしたという。恐らく、今の 日本ではこういったことは決して起きないだろう。 そのことだけを考えても、日本が、国力の下降線を 反転させることは難しいだろうと思わざるを得ない。  他人と異なることをするのを無闇と恐れる人の多 くは、落ちこぼれたくないという恐れが、上昇した いという願望を抑えて、なるべく目立だない方がリ スクが少ないと思っているのだろう。その反動で、 リスクをとって目立っている大への羨望とその裏返 しとしての嫉妬もものすごく強く、公の場では大勢 の意見に従って、他人と同じ言動を取るが、裏では 悪口を言って憂さを晴らす大が極めて多い。  先日、女房とさる有名な季節限定の有料公園に花 見に行った。こんなちやちな公園でこの入場料は高 すぎだよと私は思い、「これはちょっとぼり過ぎだ な」と大声で女房に話しかけ、彼女も同意していた が、聞き耳を立てていると、グループで来ている人 たちの多くは、グループの誰か一人が素晴らしいと 言うと、他の人たちも口々に同意して、反対意見を 言う人はいないようであった。みんな優しいいい人 だちなんだろうけれど、優しくていい人たちに占拠 された国は、遠からず亡びるのだ、という歴史の教 訓は書きつけておかなければならない。  現在の日本を見ていると、多くの人は多数意見 (多くはマスコミによって作られた虚像)に実名で反対 することを忌避する傾向が強い反面、匿名の悪口は ネット上に縊れかえっている。欧米ではネットは匿 名よりも実名の方が主流だという。最近欧米では、 ネットの匿名性が抹殺されつつあるらしい。この流 れはいずれ囗本にも大ってくるだろう。そうなると、 匿名のネット右翼やネット左翼は滅びるのだろうか。 私は、匿名で意見を表明したことがなく、匿名で意 見を表明する人の心性を心の底から軽蔑しているの で、匿名の言説が減るのは健全な社会への第一歩だ と思っているが、権力に迎合的な意見ばかりになっ て、滅亡への道をさらに加速するかもしれないな。  老人を無理やり働かせるのはやめよう  30年前から分かっていた破綻  年金の財源が破綻することはもはや自明なので、 政府は、近い将来、平均寿命が100歳になると いったウソ話を吹聴して、高齢者を働かせて、なる べく年金を支払わないで済むような制度を作ること を画策しているようだ。現行法では、企業は60歳か ら65歳までの希望者全員に雇用義務がある。企業の 選択肢としては、I.定年延長、2.定年廃止、3. 契約社員などでの再雇用、の三つがあるが、企業も 義務というので、仕方なく政府の言うことを聞いて いるだけで、実は雇いたくない人もいるだろうし、 雇用するにしてもなるべく安い給料で雇いたいだろ う。働く方も年金が思うように出ないので、嫌々働 いている人も多いと思う。企業が、高給を支払って も雇用したいという人はごく少数だろう。  私の多くの虫友達は、定年になって、自由時間が 増えて、好きな時に好きなところに虫採りに行きだ い、という天が大部分で、定年になっても、働きた いなんておかしな天はまずいない。年金がもらえな いので働かざるを得ない天が大部分だ。余裕のある 天は定年前にとっととやめて虫採りに専念している。 そういえば『バカの壁』(新潮新書)の養老さんも定 年前の57歳で東大教授を辞めてしまった。私は70歳 の定年まで勤めたが、ほとんど、自由業に近い勤務 形態だったので、ストレスを感じなかっただけで、 普通の人から見れば例外である。  いよいよ財源が逼迫することが目前に迫ってきた からか(国民年金と、厚生年金の財源を株を買い支える ために注ぎ込めば、そのうち破綻するわな)、65歳では 足らず、70歳まで年金を支払わないようにするため の布石として、上記した定年延長などの3項目に加 え、4.他企業への再就職支援、5.フリ圭フンス で働くための資金提供、6.起業支援、7.NPO 活動などへの資金提供、の7項目を企業の努力義務 とする法改正を行う方針だという。  最初は、努力義務でもしばらくすれば、努力が抜 けて義務になるのは現行法を鑑みれば大いにあり得 るだろう。企業としては、本人が希望したからと いって役立たすの老人を雇用するのは勘弁してもら いたいと思うだろうし、他企業への再就職支援と いっても、そういう人を他の企業が雇ってくれると は思えない。そうかといって、フリーランスで働き たい人に資金を提供しても、上手くいかなくて資金 回収もままならなくなる恐れの方が強いだろうし、 60代の後半になって起業する老人もそんなにいると は思えない。NPO活動への資金提供に至ってはほ とんど絵に描いた餅だ。  年金の財源が破綻するのは30年も前から分かって いたわけで、今頃になって泥縄式に解決策を探って も、上手い方法があるわけがない。老人を雇用して 働かそうといっても、今までのように、決められた 仕事を正確にこなす、といったタイプの仕事はしば らくたてば不要になり、こういったタイプの働き方 に適応している大部分の老人は、実は企業の戦力と しては完全に不必要で、雇用すればお荷物になるこ とは目に見えている。企業に負担をかける老人雇用 義務より、少ない雇用人員で企業の効率化を進めて 黒字を膨らませて、法人税率を値上げしてその金を 年金の財源にする方が、企業も老人も(ツピーにな れる。  学校は最悪のブラック企業  そもそも、労働時間と労働場所を拘束して、一斉 に働かせるようなやり方は、もはや時代遅れなので ある。囗本の労働生産性や国際競争力が急速に柢下 し始めたのは1990年代半ばである。この頃IT 革命が勃発して、企業の経営スタイルが大きく変 わっていった。単純な労働はロボットがこなせるよ うになり、社員全員にコンピュータが支給され、労 働場所に拘束されずに働けるようになった。  しかし多くの企業は従来通りの労働形態にしがみ つき、定時に出社してオフィスや工場の中で、横並 びで終業まで働くというやり方を変えようとしな かった。社員一体となって一生懸命働くという工業 社会で成果を上げたやり方は、今や企業の業績に とってマイナス要因にしかならないのに、工業社会 型の思考に縛られた多くの経営者は、企業に忠誠を 誓わせ、上意下達を徹底しようとの方針から、抜け 出ることができなかった。  その結果日本企業の業績は悪化し、国際競争力は 加速度的に柢下したにもかかわらず、経営者の多く は社員をもっと奴隷のように働かせれば、業績は回 復するとの妄想から解放されることはなかった。か くして一部の企業は(もしかしたら大部分かしら)ブ ラック企業へと転落したのである。  多くの国民も、個性を発揮して会社の営業に貢献 しようという考えよりも、言われた通りに一生懸命 働けば、未来は開けるという従来型の思考パターン から抜け出ることができず、日本企業は、労使一体 となって転落への道を進んだわけだ。国民がこう いった思考パターンから抜けられないのは、すでに あちこちに書き散らしたように、教育の画一化の弊 害である。ちなみに、工業社会型の組織形態をます ます強めて、時代に逆行しているのは小学校、中学 校、高等学校が最たるもので、今や大学もこの列に 加わろうとしている。日本で、最悪のブラック企業 は学校といっても過言ではない。  文部科学省は、国民が権力者の奴隷になるような 教育を行うように、教育現場に指示を出すことに余 念がない。世界標準から見たら完全に時代遅れの工 業社会適応型の教育を推し進めている。上の命令を よく守り自分で考えようとしない国民は、権力者に とっては都合がいいが、ポストエ業社会(情報化社 会)の企業では使い物にならないことは自明である。 権力者は威張っていられて満足かもしれないが、国 の経済力はじり貧になって、多くの国民の生活水準 は凋落する。それは北朝鮮を見れば分かる。日本は 北朝鮮化への道を驀進しているとしか思えない。  最近になって、学校はブラック企業だという認識 が広まってきたのであろう。2018年度の教員採 用試験の倍率は過去最低に落ち込んだようだ。 2000年に12・5倍たったものが、2018年は 3・2倍だったという。東京都に隕れば、I・8倍 たった。授業がない夏休みにも、学校に出てきて勤 務時間が終わるまで拘束されるような無駄の極みの ような職場に未来はないのは明らかで、向上心のあ る若者は、ここまでつまらなくなった先生という職 業は選ばなくなるのは当然である。  いいアイデアは一見無駄と思えるときに閃く  職場にやってきて、熱意などあってもなくても勤 務時間をよく守り、勤勉でありさえすれば、仕事の 効率が上がるわけでもないのは当たり前で、イノ ベーションをもたらすアイデアは、場所も時間も選 ばない。ポスト丁業化社会では、単なる勤勉は評価 されず、いかに面白いアイデアを出すかだけが勝負 となる。  PCR(Polyヨ〜se Chain Reaction : ポリメラーゼ連 鎖反応)法を開発して、DNAの塩基配列の解析速 度の向上に画期的な進展をもたらせて、1993年 にノーベル化学賞を受賞したキャリー・マリスは、 1983年に当時の彼女を乗せて(イウェイをドラ イブしていた時に、このアイデアを思い付いたとい  DNAの塩基配列の解析にはまず二本鎖のDNA を高温で一本鎖にしなければならないが、その際、 DNAを増幅して塩基配列を解析するのに必須の、 DNAポリメラーゼが高温で壊れてしまうという難 点があった。そこで、マリスはよく彼女とデートを していたイェローストーン国立公園の間欠泉を思い 出し、ここに棲息する好熱菌のDNAポリメラーゼ なら、高温でも壊れないだろうと閃いたというわけ だ。彼女とデートをする暇があったら仕事をしろと いった工業化社会のスタンスでは、マリスのような アイデアは生まれなかったであろう。  いいアイデアはオフィスの机に座っていたり、工 場や実験室で働いていたりしている時よりも、一見 無駄と思えるときに閃くものである。1981年に ノーベル化学賞を受賞した福井謙一は「メモしない でも覚えているような思いつきは大したものではな い。メモしないと忘れてしまうような着想こそが貴 重なのです。」との名言を残しているが、この名言 を実行すべく、枕元にも常に紙と鉛筆を用意してい たという。いいアイデアはいつ閃くかわからないか らだ。余談だが、この話を聞いた某東大教授は、 「なぜ俺がノーベル賞を取れないかがわかったよ。 枕元には紙しか置いてないものね」と言ったという。  ともあれ、ポストエ業化社会で成果を出すために は、表面に表れている態度や行動(コンプライアン スをよく守るとか、上司の指示を良く理解して実行する とか、無断欠勤が少ないとか)で社員を評価したり、 管理したりしても無意味であって、勤務時間や勤務 場所を拘束せずに、仕事のアウトプットの質だけで 評価した方が企業の業績は上がるだろう。  会社に出勤しなくても会社に貢献できるとあらば、 型破りだけれど、知的イノベーションを生み出す潜 在力を持つ社員が集まってくるはずだ。私か勤務し ていた早稲田大学は私か勤めてしばらくたった頃、 理工系の総長が、週に5囗の出勤を義務付けるとい う校則を作ろうとしたことがあった。私を含めて多 くの教員は猛反対をして、結局、勤務時間内は勤務 に専念すること、但し、講義(実習、ゼミ)以外の 時はどこで勤務していてもよろしいということで決 着した。それで、私は基本的に週に2囗しか大学に 行かずに、定年を迎えることができたわけだ。早稲 田大学に勤務していた14年間に出版した単著は52幵。 週5囗も大学に行っていたら、52幵も本を出版でき なかったろう。  加藤典洋『戦後入門』を読む  元同僚の死  集英社の季刊誌「r{oF}の2019年9月発売 号で「新しい古典を探せ’・」という特集を組むので、 2000年以降刊行された本で、50年後にも読み継 がれているであろうものを2、3幵挙げてほしいと の依頼があり、加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書、 2015)と団まりな『細胞の意思 〈自発性の源〉 を見つめる』(NHKフックス、2008)を推薦し た。  団まりなの本は、構造主義生物学とも多少は関係 するので、いずれ稿を改めて論じたい。ここでは加 藤典洋の本について多少の偏見込みで論じてみたい。 ご存じの方も多いと思うが、加藤典洋は2019年 の5月16囗に亡くなった。亡くなる2か月前に見舞 いに行ったとき、根を詰めてSヰoga乱(論争の的 になる)本(『9条入門』)を書いてストレスが溜まっ たのが、病気の原因だと思うと言い、これからは池 田清彦みたいに軽く生きるつもりだ、と笑っていた。  もう少ししたら退院できそうだとのことで、見て くれは結構元気そうだったが、既に病はターニン グーポイントを超えていたのだろう。早稲田大学の 同僚だったときは研究室が隣たったこともあって、 早稲田の教授連の中では比較的懇意にしていたが、 すごく親しいというわけでもなかった。病に倒れて からは、最近書き始めたという詩を見せてくれたり、 病気の善後策を相談されたりして、メールでのやり 取りが以前より頻繁になった。退院したら、志木 (加藤さんの住んでいたところ)の家に、俺の持って いる一番いい酒をもって遊びに行くよ、と言って、 握手をして別れたのが最後になってしまった。加藤 典洋と握手をしたのは後にも先にもこの時だけだ。 握手なんかするもんじやねえな。酒の方は加藤典洋 亡き後、あっという間に飲み干してしまった。余談 が長すぎたようだ。本論に入ろう。  戦後日本の非常に奇妙な状況 『戦後入門』は新書というには余りにも分厚い本で、 あとがきを含めると635ページになる。それでも 元は1200枚あった原稿を3分の2に削ったのだ という。大学の講義準備、雑務から解放されたので、 これだけ大部の本が書けたといったようなことがあ とがきに書いてある。加藤さんは定年まで数年残し て辞めてしまったが、大学に勤務するのがストレス だったのだなと、改めて思う。いかにも真面目な加 藤さんらしい。何事にも手を抜くことができない性 分なのだ。『戦後入門』も全力投球の本で、大きく 二つの主題を扱っている。一つは戦後の囗本の非常 に奇妙な状況(実質的にはアメリカの属国でありなが ら、一般国民は独立国であるという幻想を抱いてい亘 がなぜ生じているかについての極めて説得力のある 分析で、二つ目は、アメリカの属国を抜け出す方途 についての提言である。  太平洋戦争に敗れた日本は米軍による占領を経て、 表面的な見てくれは民主主義的な独立国になる訳だ が、戦争中に鬼畜米英を叫んでいた政府に追従して いた多くの国民は、B29による空襲や広島と長崎へ の原爆投下で、無辜の日本国民を虐殺したアメリカ に対して、さしたる憎しみを抱くことなく、あたか も自然災害であるかの如くこれをやり過ごして、涼 しい顔をしているのはどうしてなのか、というのが、 加藤典洋が戦後の日本に抱いた大いなる疑問だった。  B29による大規模な空襲も非人道的な虐殺である ことに違いはないが、とりあえずこれは措くとして、 戦争末期、このままでも日本の敗戦は時間の問題で あった時期に、広島と長崎への原爆投下は、勝敗に 関係のない無意味な虐殺であったにもかかわらず、 日本政府は原爆投下直後こそ、原爆投下は国際法違 反だとの抗議声明を出したが、GHO、に占領されて 以来、公的な抗議をしておらず、アメリカもまたほ おかぶりをして、公的な謝罪をしていない。不思議 なことに被爆者も一般国民もまた、アメリカへの怒 りを口にすることはほとんどなく、52年に広島市の 平和公園に作られた原爆死没者慰霊碑には、「安ら かに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と 刻まれているだけである。あいまいな言葉で責任を うやむやにするのは、日本人の得意技とはいえ、原 爆投下に関する限り、過つだのはアメリカに決まっ ているのにね。  3・IIの原発事故もそうであったが、余りにも 大規模な人為的な被災に対して、日本人は怒りを感 じない民族なのかもしれないと思いたくもなる。仮 に今、アメリカがイスラム教徒の国と戦争を起こし、 原爆を投下したと仮定してみよう。被爆国はアメリ カヘの報復を誓った人々で縊れ、大変な状況になる に違いない。戦争に負けた日本人のほとんどは、な ぜアメリカへの報復の炎を滾らせることがないのだ ろうか。「日本すごい」といった妄想に耽っている ネトウヨなどの疑似右翼も、口を開けば中韓の悪口 ばかりで、アメリカの悪口を言わないのも不気味な ほど不思議だ。  一つの答えは、長く続いた15年戦争の結果、多く の日本人は戦争疲れで疲弊しており、戦争が終わっ て内心ほっとしていたので、今更アメリカの原爆投 下を非難しても始まらないという思いがあっだので はないか。これは加藤も指摘している。それに、私 見を付け加えれば、この戦争は元はと言えば、日本 が仕掛けたものだという幾分後ろめたい気持ちも あったに違いない。  しかし、加藤の見立てでは、もっと大きな原因は、 ある大きな力の下で、批判が封じ込まれたのではな いかというものだ。加藤の論点を私なりにざっくり 言うと、日本の降伏は本当は無条件降伏でなかった にもかかわらず、アメリカは原爆投下とセットで一 切の文句を言わせない無条件降伏と言いなして、占 領中は原爆の投下を含めて、アメリカへのあらゆる 批判を封じ込めた。  日本が形式的な独立を遂げた後も、日米安保条約 とそれに付随した日米地位協定により、実質的に日 本を属国の地位に留めるとともに、経済的な成長を 助けて、日本の不満が噴出しないように腐心した。 この辺りの事情を説明するために加藤が提出した仮 説は「戦後型の顕教・密教システム」で、この仮説 は見事に日本の戦後の状況を言い当てていて、『戦 後入門』の白眉である。  加藤によれば、戦後型の顕教とは、日本と米国は よきパートナーで・日本は無条件降伏によって戦前 とは違う価値観の上に立ち・しかも憲法9条によっ て平和主義の上に立脚しているとみる解釈、密教と は、日本は米国の従属下にあり・戦前と戦後はつな かっており・しかも憲法9条のもと自衛隊と米軍基 地を存置しているとみる解釈を意味する。  具体的には、国民全体に対しては、日本は平和主 義の独立国家であるとの認識をゆきわたらせ、権力 が国政を運用する秘訣としては、対米従属の下、戦 前と戦後はつなかっているという政治的感覚ほとり あえずカッコに入れて、自衛隊と米軍基地によって 軍事的負担を減らして、もっぱら経済大国化を目指 すという、ダブルスタンダードシステムこそが、日 本の戦後を支えてきたというわけだ。  アメリカの属国から抜け出す方法  このシステムのおかげで、日本は経済大国になる ことができ、多くの国民は、日本がアメリカの属国 であるという事実を忘れて、経済的繁栄を謳歌する ことにより、民族的自尊心を満足させた、というの が20世紀の終わり頃までの日本の状況であった。し かし、ここに来て、このシステムを支えていた日本 経済の繁栄は音を立てて瓦解してきた。経済はドツ ボで、政治はアメリカに完全従属では、いったい、 日本人の自尊心をどうやって保つのかという課題が 喫緊の問題になってきた、というのが加藤の現状分 析だ。  ネトウヨは中韓を叩いて、日本すごいとの自己満 足に耽って、虚妄の自尊心を満足させているようだ が、もちろんそれで、経済力が回復するというもの ではない。暫くして、経済力も抜かれたら、さらに みじめになるだけである。ネトウヨの頭目の安倍は、 元徴用工問題で囗本の意のままにならない韓国に対 して経済制裁をすると息巻いているが、自分の支持 母体を喜ばすために、危険な政治的賭けをしている ことに気づいているのだろうか。経済制裁をして、 韓国がさして困らなかったら、囗本の経済的地位は さらに下落する。囗本の一人当たりの名目GDPは 今や先進国の中でほぼ最低レベルで(2018年度 は襾界の26位、ちなみに韓国は28位、香港は17位)、こ れ以上、下落すると、開発途上国並みになってしま う。正確には凋落途中国だな。  民族的誇りを取り戻すためには、日米地位協定を 廃棄してアメリカから独立する必要があるが、今の 安倍にそんな勇気があるとは思えない。しかし、い くらマスコミをコントロールして安倍のパフォーマ ンスを宣伝しても、いずれ化けの皮は剥がれる。支 持母体の日本会議が標榜する「誇りある国づくり」 と「対米従属」は水と油で相いれないからだ。加藤 典洋の見立てのように、化けの皮の剥がれた安倍政 権が続くと、日本会議の路線に沿って、対米独立を 果たし、軍事大国の道を目指して世界の孤児になる か、あるいは徹底的にアメリカに従属して奴隷国家 の道を選ぶかの選択を、いずれ迫られることになる だろう。前者の道は経済的な疲弊をもたらし、後者 の道では国民の自尊心は全く満たされない。いずれ にせよ国民が不幸になることには変わりはない。  そこで、加藤典洋の提案は、憲法9条を改正して、 自衛隊の一部を国土防衛と災害救助に当て、残りの 全戦力を国際連合待機軍として国連の指揮下に入れ てしまうというものだ。これならば、米軍の基地を 完全撤退しても、国際的には孤立しないはずである し、日本人の自尊心も担保できるというわけだ。い かにも真面目な加藤典洋らしい提案だ。現実的でな いと言って冷笑を浴びせる人が恐らくいっぱいいる だろう。しかし、革新的な提案は、どんなものでも 最初は現実的ではないのだよ。  もしこの案が実現したら『戦後入門』は21世紀初 頭の古典として、長く語り継がれるだろう。人は死 んでも本は残る。  さよなら、加藤さん。ごきげんよう。