東京輪舞_月村了衛  なんだか廊下の方が騒がしいなとベッドの中で 思っていると、六人部屋の病室に突然聞き慣れた だみ声が響き渡った。  「君イ、どうかね、怪我の具合は」  驚愕のあまり、砂田修作はベッドから飛び上 がりそうになった。  この声を知らない日本人はおそらくいまい。  卵形の大きな顔に分厚い唇。せかせかとした足 取りで病室に入ってきた声の主は、やはり田中角 栄だった。  まさか、そんなI  慌てて起き上がろうとした砂田を、角栄が制止 する。  「何をしとる。起きんでいい。怪我人はそのまま 寝とれ」  「しかし総理−」  動転しながらも砂田は角栄の背後に視線を走ら せる。  すぐ後ろに控えた眼鏡の人物は早坂茂三秘書官。 病室の入口近くから眼を光らせているのは警備部 警護課のSPだ。  「わしがいいと言っとるんだ、おとなしく寝とっ たらいい」  「は、はあ……」  砂田はやむなくベッドに戻った。横たわっては いるか、緊張のあまリシーツの上で直立不動の姿 勢になっている。  大塚署に配属され、田中邸詰所で勤務していた 砂田は、昨夜邸内に侵入しようとした不審者を発 見し、これを取り押さえようとして盛大な格闘と なった。激しく抵抗する相手をなんとか組み伏せ て現行犯逮捕したものの、左足首を骨折してしま い、そのため大塚の東京病院に入院するはめに なったというわけである。  不審者の正体は単なる酔っ払いの工員だったの だが、ボクシングの経験があった。思想的政治的 背景等はI切なく、雑司が谷のバーで飲んだ挙句、 「近くに角栄の家があるから行ってみよう」と押 しかけてきたらしい。なにしろ酔った勢いなので、 本人は何も覚えていなかったと聴取を担当した同 僚から聞かされていた。  「いやあ、君がいてくれんかったら女房や眞紀子 の身に何かあったか知れたもんじやない。本当に よくやってくれた」  たとえどんないきさつがあろうとも、現職の総 理が一介の巡査の見舞いに訪れるなど常識ではあ り得ない。想像を絶している。  しかもここは個室ではなく大部屋である。同室 の患者や見舞い客達が全員硬直して角栄を凝視し ていた。  「君のような警察官が体を張ってくれているから こそ、我々政治家も安心して全身全霊、国のため に働けるというものだよ。いや、ありがとう」  人庁五年目でしかない砂田の目を見つめて角栄 は言った。  なんの衒いもない、子供のように素直な言葉で あった。そして何より、温かい。  平巡査の見舞いにやって来て、そんな言葉をか けられる。誰よりも繊細でありながら信じ難いま でに天衣無縫。それが『田中角栄』という人物な のだ。  一国の総理に万一の事があってはと、張り詰め た心地で門前に立っていた日々。  黒塗りの公用車で出かける角栄をいつも最敬礼 で見送った。  自邸の庭園を娘の眞紀子さんとともに語らいな がら散策している姿を遠くから見かけた。父親の 話を聞いている眞紀子さんは、普段の快活さを示 しながらも、どこか神妙で、また少し緊張してい るようでもあった。  そうだ、角栄が池のほとりで見せた笑顔は、天 下国家を論ずる国会中継とはまるで異なり、ごく 普通の父親らしいものだったI  角栄邸での記憶が胸に去来し、もう何も言えな くなった。  「ゆっくり養生してくれよ、砂田君。なあに、大 塚署の署長にはよく言っておくから心配せんでえ え」  知ってくれていたのか、立ち番でしかない自分 の名前をI  感激する以前に、驚きが大きすぎてどこか他人 事のように感じられた。  病院へ来る前に名前を聞いただけかもしれない。 またかねてより、田中角栄は一般の庶民にまで気 を配る人だという評判を耳にしてもいた。それで も自分自身が経験することになろうとは思っても いなかった。  何か答えねばと思ったが、匸冐も発することが できない。  「総理、急ぎませんと」  人ってきたときから周囲を気にしていた早坂秘 書官に促され、  「じやあ砂田君、わしはこれで失敬するよ。くれ ぐれも大事にな」  そう言い残し、角栄は来たときと同じく、慌た だしく出ていった。  時間にして一分から二分の間。  たったそれだけの時間が、ベッドの上の砂田に はたとえようもなく重く、嬉しく、誇らしかった。  昭和四十九年初夏のことだった。    I  昭和五十年、昇進試験に合格し巡査部長となっ た砂田は、警視庁公安部外事第一課五係に配属さ れた。  初出勤は三月一日の土曜日であった。  「本日付をもちまして配属となった砂田修作です。 よろしくお願い申しI」  直接の上司である馬越保班長に挨拶しようと した途端、大声で命じられた。  「ちょうどいい、おまえ、間組の本社に行ってこ い」  「は?」  わけが分からず聞き返そうとすると、馬越警部 補は苛立ちを隠そうともせず、  「おまえ、警察官のくせに昨日の事件を知らんの か」  知らないわけがない。昨年八月三十日の三菱重 エビル爆破に始まる連続企業爆破事件が昨夜また も発生した。  二月二十八日午後八時に突発した開組本社と大 宮工場の同時爆破である。  「本部じゃ人が足りなくて大騒ぎだそうだ。おま えはすぐに現場の応援に行ってくれ。仕事を覚え るにはちょうどいいだろ」  連続企業爆破事件の捜査では刑事部と公安部の 合同態勢が取られている。  仕事を覚えるも何もない。こちらは公安刑事を 拝命して初めての出勤なのだ。右も左も分からな いと言っていい。  「なにしてんだ、とっとと行け」  それでなくても赤黒い馬越の顔色がさらに濃く 剣呑なものになった。  否も応もない。砂田はその場から同れ右をして 所轄署の特別捜査本部に直行した。  出勤初日は開組本社周辺の地取(聞き込み)捜 査の手伝いで終わった。なんのことはない、単な る刑事部の使い走りである。  翌日も、またその翌日も、命じられた仕事は同 じであった。これでは公安部の捜査員になったの か、刑事部の捜査員になったのか分からない。  失望を覚えなかったと言えば嘘になる。  こういうとき、砂田は必ずと言っていいほど くあの人〉のことを想う。自分などとは比較にも ならない、巨大で途方もない喪失感に、今あの人 は耐えているに違いないと。  前年の十二月九日、いわゆる『田中金脈問題』 批判を受け、田中内閣は総辞職していた。  立花隆の執筆した記事「田中角栄研究−その 金脈と人脈」が掲載された『文語春秋』は、砂田 も話題になると同時に購人した。読んでいる間中、 胸が締めつけられるような息苦しさを感じた。そ んな体験は初めてだった。  これは本当なのだろうか。それとも何かの間違 いか。  警察組織の末端に身を置いてはいても、この問 題に関して砂田の知り得る情報は一般人と大差な い。  政治とは金のかかるものであるIそれくらい は理解できる。身の回りの人々にも心付けを絶や すことのなかった角栄だ。金のばらまきがあった としても不思議ではないし、それには当然資金源 が必要となる。  いずれにせよ、すべては自分のはるか頭上、雲 の上の出来事だ。  砂田の知る田中角栄は、あの囗せかせかと病室 に入ってきた、愛嬌縊れる「オヤジさん」のま まだっだ。  三月中旬になって、刑事部の手伝いからようや く解放された。  警視庁庁舎に出勤した砂田は、公安部のフロア に通じる廊下で思いがけず背後から声をかけられ た。  「砂田さんじやありませんか」  懐かしい声だった。 「あっ、阿久津さん」  反射的に応じてから、慌てて言い直した。 「ご無沙汰しております、阿久津課長補佐」  阿久津武彦は大塚署時代の同僚で、一時は同じ 交番で勤務していたこともある。ともに昭和二十 二年生まれで、人庁も同じ昭和四十五年。ただし キャリアである阿久津は、警察庁への人庁で、階 級は最初から警部補だった。  その後阿久津は、神奈川県警の刑事部に捜査二 課長として異動したはずだがI  怪訝そうな砂田の顔色を察したのか、阿久津は 快活な口調で言った。  「このたび外事一課担当管理官を拝命しまして」  「あっ、そうだったんですか」  まるで知らなかったが、それだけに喜びは大き かった。  管理官ならば、階級は警視か。  「またご一緒できて嬉しいです」  「こちらこそ。砂田さんが公安に引っ張られたっ て話は聞いてましたから、やっぱリデキる人材は 目をつけられるのが早いんだなと」  「よして下さいよ。公安に来て間もない上に、例 の連続企業爆破事件、つい最近まであれの手伝い に駆り出されるばっかりで」  「腕の振るいようもなかったってわけですか」  「腕も何も、こっちはただの新米ですから」  阿久津は親しげな笑みを見せ、  「お互い積もる話もありますし、どうです、近い うちにまた一杯」  「ええ、ぜひ」  それじゃ、と軽く会釈して、阿久津は廊下を 去っていった。  その後ろ姿を見送りながら、砂田は胸が少し軽 くなったような高揚を覚えていた。  人庁した頃から「警察庁の石坂浩二」と呼ばれ ていた阿久津は、キャリアらしからぬ気さくな人 柄で、同年齢ということもあり、大塚署時代は警 察の在り方について大いに語り合った仲であった。  青臭いと言えば青臭いが、これからは阿久津の 下で働けるのかと思うと、今までの不満が急に払 拭されたようにも感じられた。  五月十九日、東アジア反日武装戦線の主要メン バーが一斉に逮捕された。それを以て、連続企業 爆破事件は一応の終結を見た。  その四日後の夜、砂田は池袋西口の居酒屋『さ る清』で阿久津と落ち合った。大塚署時代によく 来た馴染みの店だった。  「久しぶりだなあ、ここに来るのも」  おしぼりで手を拭いながら、阿久津は嬉しそう に店内を見回す。管理官ともなれば、こんな路地 裏の店に入る機会も自然と減っていくのだろう。  当時のようにとりあえずビールで乾杯してから、 つまみの選択にかかる。厳しい一日を終えた社会 人の楽しみだ。  「ウチでも何人か騒いでるのがいますが、あれ、 本当ですか」  二、三杯飲んだ後、砂田は意を決して切り出し た。  「あれって?」  阿久津が聞き返してくる。こちらが何を言おう としているか、察している証拠だ。  「連続企業爆破事件ですよ。公安は実行犯の面子 をかなり早い段階から特定してたって話……だと すると、刑事部は言うまでもなく、ウチから手伝 いに行ってた連中も、ずっと無駄働きをさせられ てたってわけじやないですか」  「僕に聞かなくても、みんな分かってるんでしよ う、それくらい」  「そうかもしれませんが……」  コップに残っていたビールを干してから、阿久 津は声を潜めて言った。  「犯人グループに気づかれないようにしながら一 網打尽にするには、他に手はなかった。結果とし てその手法が成功したわけですから、問題ないと いうのが上の評価です」  「本当にそう思ってるんですか、管理官も」  阿久津は黙った。  「それじゃ刑事部だけでなく、公安の身内まで騙 していたことになる。他に手はなかったって、そ れは一網打尽にこだわったからでしょう。言って みれば単なる派手好みだ。そんなこと、決して I」  「いいわけありませんよね、現場にとっては」  ため息をつくように阿久津が漏らす。  「この件は後々まで警察内部に禍根を残すでしょ う。実際、刑事部と公安部の確執はこれまで以上 に深刻化している。でもね、今の僕らには何もで きない。そうしやありませんか」  今度は砂田が黙る番だった。  「これをなんとかしようと思ったら、少しずつで も僕らが力をつけていくしかない。またそうしな ければ、近い将来、警察は取り返しのつかない道 を歩むことになる。だからこそ、今は黙って力を 蓄えるしかないんですよ」  大塚署の頃と少しも変わらず、阿久津は熱く雄 弁だった。  砂田は黙って瓶を取り上げ、上司となったかつ ての同僚のコップにビールを注いだ。  「飲みましよう、管理官。今夜はとことん付き 合ってもらいますよ」  「望むところです」  警察庁の石坂浩二は、爽やかに微笑んでコップ を取った。  発端はアメリカ議会上院チャーチ委員会に持ち 込まれた一箱の段ボールだった。  ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤン グ会計事務所が誤って発送したものらしい。  その中から発見された極秘文書に、ロッキード 社が日本政府高官に対し大規模な政界工作を行 なっていたという記述があった。  年が明けた昭和五十一年二月五日、朝日新聞の 朝刊に【ロッキード社 丸紅・児玉氏へ資金】の 見出しとともに特ダネ扱いの記事が掲載された。  以降、『ロッキード事件』はマスコミ各社に連 日大きく取り上げられ、日本中を席巻した。  ロッキード社の航空機売り込みに関して「黒い ピーナッツ」、すなわち賄賂を受け取っていた 「灰色高官」は果たして誰か。  砂田もまた興味津々で事件の成り行きを眺めて いた。  公安の最上層部がなにやら不穏な動きをしてい るらしいという噂もあったが、少なくとも警視ク ラスは何も把握していないようだった。ましてや 砂田のような末端の搜査員にはなんの情報も流れ てこない。まったくの傍観者である。  七月二十六日。スパイ事案との関連が疑われる オランダ人貿易商の基礎調査を終えて帰庁した砂 田は、自席で大あくびをしながら安物の腕時計を 見た。午前零時近かった。  公安における基本的な仕事にもやっと慣れてき た頃だった。  いいかげん上がりにするかI  椅子から立ち上がったとき、五係の先輩である 矢島が顔色を変えて駆け込んできた。  「角栄逮捕だ’・」   矢島の叫びを、砂田はすぐには理解できなかっ た。  何を言ってるんだ、この人はI?  矢島は立ち止まって息を吸い込み、再び大声で 叫んだ。  「検察にやられた’・ 連中、田中角栄を逮捕する 気だ!・」  【田中前首相を逮捕】  翌る七月二十七日。新聞各紙の号外や夕刊には ほぼ匸冐一句違わぬ大見出しが打たれていた。  前夜に矢島のもたらした情報通り、地検特捜部 は早朝田中角栄邸に向かい「受託収賄罪」と「外 国為替及び外国貿易管理法違反」の容疑で任意同 行を求めた。  実名を挙げてはいなかったが、朝刊で角栄逮捕 の可能性をほのめかしていたのは毎日新聞だけ だった。検察はそれほどまでに保秘を徹底して事 を進めていたのだ。  仕事の合間に入った新橋の大衆食堂で、砂田は 息が詰まる思いで各紙の記事を読み込んだ。  元首相が逮捕される。国民にとって、これほど 衝撃的な事件があるだろうか。しかも逮捕された のは極貧の中から這い上がった経歴ゆえ〈今太 閤〉と持てはやされ、多くの人に愛されたあの田 中角栄なのだ。  到底信じられなかった。だが、これは現実だ。  カウンターの上に置かれた映りの悪い小型テレ ビも、入店したときから同じニュースを繰り返し 流している。 「砂田、行くぞ」  ショートヒースを吹かしながらテレビを眺めて いた先輩刑事の逢沢が、短くなった煙草を灰皿に 押し付けて立ち上がった。  「あっ、はい」  その囗砂田は、逢沢と組んで内偵中であるオラ ンダ人貿易商の取引先を当たっていた。不審な点 はどこにもなく、予想された通りオランダ人はス パイ事案とは無関係である可能性が濃厚となった。  調査が意外と早く終わっだので、逢沢が一服し ていこうと言い出した。彼もまた、角栄逮捕に関 する報道が大いに気になっていたのだ。  新聞を畳んでレジ横のラックに戻し、砂田は慌 てて先輩の後を追った。  ロッキード事件の捜査は地検特捜部が主軸であ り、警察では捜査二課が担当している。  公安には公安の仕事があり、他にどんな重大事 件が起こっていようと関係はない。  店の外はすっかり暗くなっていた。新橋駅前の ネオンも、心なしか普段より光を失っているよう だった。  蒸し暑い風が吹きつけ、駅前に散らばっていた 「角栄逮捕」の号外が砂田の足許をかすめて飛び 去った。  田中角栄の逮捕から一週間後の八月三日、馬越 班のメンバーは西新宿の寂れた雑居ビル内に設け られた〈分室〉に集められた。  分室とは、公安部が極秘裏に〈業務〉、すなわ ち捜査活動を進める際の拠点であり、多くは一般 の会社や事務所を装っている。西新宿の分室は、 『イースタンーカンパニー』という業種すら定か でない社名をカモフラージュとして掲げていた。  馬越班に所属する十二人の捜査員は、目立たぬ よう細心の注意を払い、それぞれ時間をずらして 集まってきた。会議室では、馬越班長の他に阿久 津管理官も列席して待っていた。  阿久津までいるのを見て、砂田は少なからず驚 いた。  国際スパイ事案をも担当する外事一課の主戦場 は、言わば社会の〈裏〉である。その最前線とも 言うべき分室に、〈表〉の管理官が足を運ぶこと などあり得ないと聞いていたからだ。  だがその驚きを顔には出さず、上座の二人に目 礼して末席に座る。  全員が集合したことを確認すると、馬越は紙製 のファイルケースを配布した。有名メーカーのご く一般的な製品だが、許可が出るまで開封するこ とは許されない。  「開けてよし」  馬越の許可を待って、全員同時に中身を取り出 す。外国人男性の写真数葉と彼の経歴を記した英 語の資料が入っていた。  砂田は素早くそれらに目を走らせる。  写真の外国人はヘンリー・ワイズ。アメリカ国 籍。年齢は五十一歳。痩せ型の長身。細長い顔。 丸眼鏡。髪はダークブラウン。  馬越が一同に向かい、  「ヘンリー・ワイズ。五十一歳。元ロッキード社 の社員だ。現在は日本に潜伏中らしい。来日の目 的等は不明。この男を捜し出して確保する。容疑 は発見時の状況に応じて検討することとする」  元ロッキード社の社員。するとこれは、ロッ キード事件に関する業務なのか。  しかしなぜ公安がI班長と管理官以外の全員 が首を傾げる。  「CIAから調査依頼があった。はっきり言やあ、 CIAの下請け仕事だ」  先回りするように馬越が言った。  公安がCIAからの要請で動くことは決して珍 しくはない。逆に公安からCIAに依頼する案件 も多い。要するに持ちつ持たれつの関係だ。しか し厳密にフィフティーフィフティであるとはとて も言えない。力関係としては常にCIA、つまり アメリカが上位にあるからだ。  「CIAの下請けはいいとして、ロッキード絡み なら自分達でやりそうなもんじやないですか。あ れはアメリカの議会でも問題になってるはずだ。 なのにどうしてウチなんかに出すんでしょう」  捜査員の笹倉が発言する。  分室でのミーティングは正式な捜査会議ではな い。時間の無駄を省くためにも、率直な意見交換 が慣習となっていた。  「知らん」  苦虫をまとめて噛み潰したような顔で、馬越が 率直すぎる回答をよこした。  「例によって説明はナシで仕事だけ押し付けてき やがっだ。こっちか聞きたいくらいだよ」  「ロッキード事件との関連は」  矢島の突っ込みに、馬越はまたもそっけなく、  「それも分からん。ま、普通に考えれば関連がな いはずはないんだが、だとすれば日本側に任せる 意味が分からん」  「それにしても、このワイズつて男、何者なんで すか」  馬越の近くに座っていた柿本というベテラン捜 査員が訊いた。班長の馬越よりも三つ年上である という。  「だからロッキードの元社員だって言ってるだろ う。資料にある以上のことは一切不明だ。それを 解明することも今回の仕事のうちだと思ってく れ」  つまり馬越は、できればアメリカが隠そうとし ている事情まで洗い出せと言っているのだ。  それを把握することができれば、CIAに対し て有利な取引材料となるかもしれない。情報機関 特有のロジックであり、発想である。  「皆さんも知っての通り、田中元総理の逮捕に よってロッキード事件は過熱の一途を辿っていま す」  それまで黙っていた阿久津が口を開いた。  「この案件は先々どう転ぶか、現段階では想像も できません。それだけに業務にはくれぐれも慎重 を期して頂きたい。万一ロッキード事件に直接関 わってくるようであれば、政局に大きな影響を与 えかねない。その場合、事が大きすぎて我々だけ では処理し切れない事態となる可能性もあります ので」  管理官が同席していた意味を全員が理解したよ うだった。  これではまるで、闇の中で爆弾を手探りで探す ようなものだ。それは破滅に至る核爆弾かもしれ ないし、見かけ倒しの不発弾かもしれない。  見つけ出すまで中身が分からないというのも夕 チが悪いI  最後に阿久津が大まかな方針を指示し、馬越が 全員の分担を決めた。  新人である砂田は、逢沢の助手として資料に書 かれている事項の確認に当たることとなった。  来たときと同様、砂田は他の捜査員と間隔を空 けて分室を退出した。  背中に途轍もなく重い荷物を背負わされたよう な気分であった。新宿駅に向かって歩きながらも、 足取りは自ずと重くなる。阿久津も言っていた通 り、この事案はただでさえ窮地にある角栄の首を、 さらに締め上げるような結果となる危険をはらん でいる。  それでなくても世間は角栄叩き一色である。角 栄が有罪なのか無罪なのかは別としてIいや、 たとえ有罪であったとしてもI自分までそんな 風潮に荷担する気にはなれなかった。  だが任務は任務だ。警察官である限り、個人の 感情とは関係なく、与えられた任務は全力で遂行 せねばならない。  それにしても、と砂田は思う。  こいつはどうにも得体の知れない話しやないか I  翌日は逢沢から九時に分室へ来いと言われてい たので、パチンコ店『新宿メトロ会館』の二階に ある純喫茶『珈琲西武』に入った。ステンドグラ ス風照明の真下の席でモーニングセットを注文す る。  運ばれてきたコーヒーをIロ飲んでから横の椅 子に目を遣ると、前の客が残していったと覚しき 新聞かあった。七月三十一日付の古新聞だった。  一面は当然の如くロッキード事件だ。情報はす でに古い。それでもトーストを頬張りながら読む。  [日本共産党が『自由と民主主義の宣言』を採 択】という記事が目に入っだ。公安ではマスコミ に出る前から把握していた内容だ。  時代の流れを考えれば妥当なところだと思う。 高度経済成長を通り過ぎた今の日本人には、ソ連 のような共産主義国家の在り方など受け入れられ るはずもない。あさま山荘事件を経た後ではなお さらだ。一部の過激派を除き、革命の夢など誰も 見ない。共産党も生き延びるために必死なのだ。  公安もこれからどうなっていくのだろうI  ゆっくりと時間をかけてコーヒーを飲み終えた 砂田は、九時十分前に分室へと入っだ。  「早かったな。もっとゆっくりしてくりやいいの  に」  逢沢が涼しい顔で言った。  彼はすでにロッキード本社をはじめとする関連 施設の電話番号を調べ上げていた。それくらいの 基礎資料はさすがに公安でも用意しているし、容 易に入手できる。  「ところでおまえ、英語の方もなかなかいけるん だってな」  「先輩方ほどじやないですよ」  謙遜しつつ相手を持ち上げると、逢沢はにやに やしながら言った。  「じゃあ、その英語力を見せてもらうとするか。 時差を考えると、アメリカじゃまだ仕事中のはず だ」  机上の電話機を差し出してくる。  砂田にかけろと言っているのだ。いきなり新人 には荷の重い仕事を押し付けられた。  ここで泣き言を言うわけにはいかない。肝を据 えて受話器を取り上げ、国際電信電話株式会社に 電話する。交換台経由で、ロッキード本社の人事 課につないでもらった。  やがて年配の女性らしい担当者が応答した。英 語で実在の人材マネジメント企業社員を名乗り、 元社員ヘンリー・ワイズの退職理由や現住所につ いて問い合わせる。  〈ワイズのスペルはW・I・S・Eで間違いあり ませんか〉  「はい、間違いありません」  〈年齢は五十一歳、退職時期は昨年の八月。退職 時の役職は国際第二営業部第四課のサブーマネー ジャー〉  「その通りです」  昨日渡された資料を再確認してから答える。  〈申しわけありませんが、それらしい人物が当社 に在籍した形跡はありません〉  「えっ?」  自分達の通話をヘッドホンで聴いている逢沢と 顔を見合わせる。  「そんなはずは……」  〈もしかしたら支社か営業所とお間違えになって いるのでは〉  「そうかもしれません」  〈少々お待ち下さい〉  五分近く待だされた後、再び担当の女性が出た。  〈お待たせしました。調べてみましたが、やはり 該当する人物は見当たりませんでした〉  「本当ですか」  〈ええ。御社は人材のマネジメントや仲介をして おられるのでしたわよね?〉  「はい」 〈失礼ですけど、ヘンリー・ワイズと名乗る御社 の顧客は経歴を詐称しておられるのでは?  再 就職を少しでも有利にしようと、当社のような企 業を経歴欄に付け加える人は決して少なくありま せんからね〉  「そうかもしれません……ありがとうございまし た」  呆然として電話を切る。  念のためロッキード社の主な支社や営業所、関 連企業等にも電話してみる。  結果はいずこも同じであった。  「どうなってやがんだ」  頭からヘッドホンをむしり取って逢沢が叫ぶ。  「CIAがよこした情報じやなかったのか。それ が初手からデタラメだなんて。一体俺達にどうし ろって言うんだ」  「待って下さい、逢沢さん」  砂田は考え込みながら言う。  「いくらなんでも、調べればすぐに分かるような デタラメをCIAがこっちに投げてくるなんて、 そんなことあり得ますか」  「少なくとも、この世界ではない話じゃない。そ れだけ日本はナメられてるってことだよ、アメリ カさんに」  「考えられる可能性は三つです。一つは、ロッ キード社が嘘をついている可能性」  「さっきのおばちゃんはそんな感じじゃなかった ぞ」  「記録がすでに廃棄されていて、人事課では確認 できないのかもしれません」 「まあいい。それで二つめは」 「CIAが本当に知らなかった可能性」 「三つめは」 「CIAがデタラメと知りながらウチに投げてき た可能性です。いずれの場合も、その理由はヘン リー・ワイズーこの男が実在するとして、です がI彼の抱えている秘密に関わっていると推測 されます」  逢沢はまじまじと砂田を見つめ、次いで大きな ため息をついた。  「覚悟はしてたが、思ってた以上に厄介なネタら しいな、こいつは」おもむろに立ち上がり、ドア の方へと向かう。「班長に知らせてくる」  その背中を見つめながら考えた。  ヘンリー・ワイズとは何者なのか。  なぜわざわざロッキード事件の渦中にある囗本 に入国し、且つ行方をくらませたのか。  アメリカは、自分達に何をやらせたいのか。  分からない。だが、一つだけはっきりと身に染 みて分かったことがある。  そうした疑問が猥雑に混じり合い、奇怪な様相 を呈しているIそれが「公安」の日常であり、 「外事」の顔だということだ。  各々業務に飛び同っていた馬越班の全捜査員が 招集され、午前十一時、分室で急遽ミーティング が行なわれた。さすがに阿久津管理官は顔を見せ ていない。  「つまり、この資料に書かれているヘンリー・ワ イズの情報はまるっきり役に立たんというわけ だ」  班長の馬越はいまいましげに英語で記された書 類を放り出し、  「課長からCIAに問い合わせてもらった。する とどうだ、向こうさんは『資料に間違いはない、 オーダーは続行』と来たもんだ」  仮にCIAの言うことが正しいとすれば、やは リロッキード社が〈ヘンリー・ワイズ〉なる人物 の存在を隠蔽しようとしているということになる。 どう考えても普通ではない。  「これはもう単なる人捜しではあり得ない。ワイ ズは何かとんでもないネタを握ってる。それも ロッキード絡みの大ネタだ。CIAが何を考えて るか知らんが、ウチとしてはとことんまでやる」  馬越は俄然やる気になったようだ。  馬越班の面々も、昨日より格段に鋭い顔つきで 自分達の指揮官を注視している。  「資料にある情報が使えないとなった今、オペ レーションの方針はゼロから練り直しということ になる」  「退職時期や部署名まで判明しているわけですか ら、ワイズが社員だったかどうか、現地で調べれ ばすぐに分かるんじやないでしょうか」  今回も真っ先に発言したのは笹倉だった。のっ ぺりとして目立だない、典型的な〈公安顔〉をし た男だ。  「それができたら苦労はないよ」ベテランの柿本 が応じる。「捜査員を派遣するわけにもいかんし、 内調(内閣調査室)に頼むこともできん。そんな ことをすりやあ、ただでさえロッキードで大騒ぎ している霞が関や永田町からどんなバケモノが飛 び出してくるか知れたもんじやない」  捜査員達が黙り込む。  現総理の三木武夫は二月、フォード大統領にア メリカ側の資料提供を求める親書を独断で発送し たほか、三月には密使平沢和重をキッシンジャー 国務長官と会談させてやはリアメリカの資料提供 を促している。これに対し「ロッキード事件を政 争の具にするものである」として自民党の椎名悦 三郎副総裁と田中派が反発、いわゆる「三木おろ し」が始まった。一旦は終息したかに見えたこの 動きが、七月の田中角栄逮捕により再び活発化し ていた。  迂闊な動きをしてそんな状況に巻き込まれでも したら、公安どころか警察全体が面倒なことにな るのは目に見えている。  「そもそもがだ、それくらいは百も承知だからこ そ、CIAも外注に出したんだろ。裏に何かある にせよ、つまるところ国内でワイズを確保するし かないってわけだ」  それもまた首肯できる意見であった。  「入管の記録では、ヘンリー・ワイズは確かに囗 本に入国しています」  矢島だった。全員が驚いて視線を向ける。偽名 ではなかったのか。  「いつだ」  馬越の問いに、矢島は即答した。 「七月二十六日です」 「角栄逮捕の前日だな」  髭の伸びてきた顎をさすりながら馬越が呻く。  その日付に意味はあるのか。砂田には見当もつ かない。  「また年齢等の記録もCIAの資料にあった通り です」  いよいよわけが分からない。  「まあいい。こうなったらウチはいつもの手法で やらせてもらうまでだ」  班長はテーブルに置かれたワイズの写真を指で 叩き。  「名前と面が割れてるんだ。やりようはいくらで もある。ただし元ロッキードの社員だなんて匸冐 も口にするんじやないぞ。ネタ元が知ってたら、 初めて聞くような間抜け面でも見せてやれ。それ と検察には勘づかれんよう注意しろ。奴ら、ロッ キードと名がつきや全部てめえらの縄張りみたい に思ってやがるからな。ウチが動いてることに気 づいたらどんな横槍を入れてくるか分からんぞ」   全員が無言で頷いた。   馬越の言う「いつもの手法」。基本的に外事の 捜査員はSと呼ばれる捜査協力者を〈獲得〉し、 彼らを〈運営〉しつつ情報を得る。しかし馬越班 の場合は、捜査一課の伝統的な事件捜査の手法や、 捜査二課の知能犯捜査の手法をも臨機応変に採り 入れている点に特徴かあった。 「柿本さんはな、元捜二(捜査二課)なんだよ」  夜の銀座通りを歩きながら、逢沢はそう教えて くれた。  「だから頭の切れる詐欺師や仕手集団の絡む経済 事案に強い。班長の懐刀、参謀役と言ったところ だ」  「へええ……」  柿本の冴えない風貌を思い出し、砂田は意外の 感に打たれた。  「矢島は班長が捜一 (捜査一課)から引っ張った んだ。足で稼ぐタイプだな」  それはなんとなく察しがついた。『太陽にほえ ろ’・』など、テレビ局がゴールデンタイムに競っ て放映している刑事ドラマに必ず一人はいそうな、 いかにも刑事といった面構えだ。そういう強面の 刑事は実際の捜査一課や所轄署にも結構いる。  「それで、おまえさんの特技はなんだい」  「え、自分ですか」  いきなり話を振られて困惑した。  「さあ、公安を希望したのは確かですけど、特技 なんて、別に……」  「なんでハム(公安部)を希望したんだい」  すかさず突っ込まれた。  公安部を経験することは警察官の出世コースの 一つとされている。希望が通れば儲けものくらい に考えていたのだが、さすがにそのまま口にする のはためらわれた。  「まあいいさ」  欠けた前歯の間にショートヒースを挟んだまま、 逢沢は狐のようにきゅっと笑った。何事にも冷笑 的でありながらどこか人懐こい、この男特有の笑 いであった。  「逢沢さんは」  思い切って訊いてみると、逢沢はあっさりと答 えてくれた。  「俺か、俺はね、これなんだよ」  逢沢は片手で酒を呷る仕草をしてみせた。  「なんですか、それ」  「すぐに分かるよ」  やがて目的の店に着いた。通りに面したビルの 二階に入っている『青い枝』という会員制のクラ ブだ。 「よう」 「あ、これは加藤さん、お久しぶりで」 「あいつ、来てる?」 「はい、先ほどからお待ちになっておられます」  店のボーイは逢沢の顔を見るなり愛想笑いを浮 かべて言った。この店では〈加藤〉と呼ばれてい るらしい。  「どうぞ、こちらへ」  ボーイに従って歩きながら、逢沢は英語で砂田 に囁いた。  「俺はね、銀座や六本木では外国人専門のトップ 屋ってことになってんだ。実際に加藤の名で英字 新聞の囲み記事も書いてる」  「ぽんとですか」  「ああ。もっとも最近じゃルポライターつて言う ようになっだけどね」  ボーイは逢沢と砂田を半個室のようになった ブースヘと案内した。  「どうぞ、ごゆっくり」  中では三十代半ばと思われる白人が上機嫌で水 割りのグラスを傾けている。  「よう、ランディ」  「遅いぞ、加藤」  二人は互いに英語で呼びかけながら親しげに抱 擁する。  ランディと呼ばれた男の左右にはホステスがつ いていたが、男の目配せで別のテーブルへと去っ た。  逢沢は白人の向かいに腰を下ろし、  「こいつは俺の後輩で宮田、こっちはフェルドマ ン投資信託のランディーフェルドマンだ」  「よろしく、宮田」  「こちらこそ」  フェルドマンの差し出してきた大きな手を握り 返し、砂田は逢沢の隣に座る。〈宮田〉という偽 名を勝手に付けられた。忘れないようにしなけれ ば。  「ランディはなかなかのやり手でな、アメリカ人 ビジネスマンのコミュニティでは結構な顔だ。そ れだけじゃないぞ、あっちの方もとんでもないや り手なんだ」  逢沢がおだてると、フェルドマンはいかにも好 色そうな笑みを浮かべ、  「囗本のレディ達を待たせるのは失礼だ。仕事の 話を先に片づけよう」  「そうだな」  逢沢はヘンリー・ワイズの写真を取り出して フェルドマンに渡す。 「こいつは?」  怪訝そうなフェルドマンに、  「ヘンリー・ワイズというビジネスマンだ。日本 にいるらしい」  「君のことだ。金になるんだろうな?」  「もちろん」  「詳しく話してくれ」  フェルドマンはすぐに食いついてきた。いつも 二人でこういう密談を交わしているのだろう。  「某大企業のコンサルタント会社から仕事を請け 負ったという情報がある。どうやら秘密裏に日本 での提携先を搜しているらしい。今はそこまでし か言えない」  「なぜだ」  「情報を嗅ぎつけた奴が他にもいる。それでなん とか先に契約しようと競合する各社がこいつを搜 してるってわけだ。ワイズは警戒して身を隠しち まった」  「分かった。こいつを見つければいいわけだな。 それで俺の取り分は」  「いつもの通りさ」  「もう少しなんとかならないか。実はこの店の払 いが溜まっててね」  「分かった。無事契約にこぎつけたときはマージ ンに色をつけてもらえるよう交渉してみる」  フェルドマンは破顔してグラスを掲げた。  「我々のビジネスに乾杯だ」  「俺達の友情にも」  逢沢が笑みを浮かべてグラスを合わせる。砂田 も慌ててそれにならっだ。  それから女の子達をテーブルに集めて一時間ば かり飲んでから、逢沢と砂田はフェルドマンを残 して店を出た。  「つまり、あのフェルドマンという男が逢沢さん のSというわけですね」  歩きながら話しかけると、逢沢は新しいショー トヒースをくわえながらまたも狐のように笑った。  「Sというほど緊密な間柄じやないが、まあそん なもんだ」  Sを獲得、運営するには「基礎調査」「接触」 等の複雑な段階を経てから警察庁警備局警備企画 課に登録しなければならない。逢沢はそんな面倒 を避けたのだ。馬越班だからこそ黙認されている 〈手法〉なのだろう。  「ああいう緩い関係の相手が他に何人もいる。そ いつらと飲み歩くのが俺の仕事ってわけ」  こともなげに言っているが、そこまでの信用を 得るには相当な時間と労力がかかっているに違い ない。それに経費も。  「だが、実を言うとそろそろ潮時じやないかって 気がしてるんだ」  「潮時?」  「CIAやKGBが俺の正体を把握していないは ずはない。今はまだ放置してくれてるが、痛い目 を見る前にそろそろ別の顔を用意しとかないと な」  「はあ」  砂田には間抜けな相槌しか打てなかった。外事 としての皮膚感覚がまだまだ逢沢のようには身に ついていないせいだと密かに恥じる。  己の未熟を歯がゆく思う一方で、そんな感覚に 慣れてしまうのが怖くもあった。名前を変え、身 許を偽り、自己と他人を欺き続ける。そんな外事 に身も心も染まり切ってしまえば、二度と普通の 暮らしに戻れないような気がしたからだ。  「それでな、おまえさんには俺の後を継いでもら いたいと思ってるんだ、宮田さんよ」  思わず逢沢を振り向いた。  「俺もいいかげん警察なんかとは縁を切りたいし な」  煙を吐きながら呟く逢沢の横顔からは、感慨め いたものは何も読み取れなかった。『警察と縁を 切りたい』。それは逢沢が二言めには口にするお 決まりの文句で、到底本心とは思えない。  「おまえ、酒は強いだろう」  「え、まあ、はい」  「それも立派な特技だよ」  「そんなもんでしようか」  「そうさ。単純なだけに役に立つぞ、その特技は。 俺はもうだいぶ弱くなっちまった。やっぱり潮時 なんだろうなあ」  自分が公安、しかも外事に引っ張られた理由は そんな単純なことではないだろうと思ったが、他 に思い当たる節もないので黙っていた。  その夜はさらに三軒の店を同って五人の外国人 と会い、同様の会話を交わして解散となった。砂 田にとっては、新人ルポライター〈宮田〉となっ て逢沢の手法を間近で学んだ印象深い二枚であっ た。  八月十六日、田中角栄は東京地検により起訴さ れた。翌日、角栄は二億円もの保釈金を払い目白 台の私邸へ戻っている。  そして二十日に佐藤孝行元運輸政務次官、二十 一日に橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕された。  まさに日本中が「ロッキードの夏」のまっただ 中にあると言ってよかった。  八月二十二日、砂田は逢沢と赤坂プリンスホテ ル一階のバー『ナポレオン』で在日米人親睦会の 理事と話した。経済誌の取材を装った聞き込みで あったが、めぼしい収穫はなかった。  落胆をまったく顔に出すことなく理事と別れた 二人は、無言で正面出入口に向かった。  ロビーを横切っていたとき、口髭を蓄えた背の 柢い白人がさりげなく近づいてきた。こちらは接 触する前から気づいている。  「ルポライターの加藤さんですね」  英語で話しかけてきた相手に、逢沢が怪訝そう な態度を装って応じる。  「そうですけど?」  「私はガルフオイルの専属調査員でアルバートー カーティスという者です。よろしければ、少しお 話しできませんか」  よろしければ、と口にしながら男には有無を言 わせぬ気配があった。  ガルフオイル。アメリカの石油メジャーだ。  その調査員がどうして自分達にI  砂田は身を固くして逢沢の反応を待った。 「ガルフオイルの調査員ですか。そいつは凄い」  逢沢は大仰に目を見開いて、 「さぞかし上物のネタをお持ちなんでしような」 「いえ、むしろ加藤さんがお持ちの情報の方に興 味がありまして」  丁寧な口調のカーティスに、  「石油メジャーがフリーのルポライターに投資の 相談でもなさるおつもりですか」  「まあ、そんなところです。詳しくはどこか別の 場所で」  「では、あっちのバーにしましよう」  すかさず逢沢は出てきたばかりの店を指定した。 相手の指定する場所へ不用意に同行したりすれば、 どんな危険が待ち受けているか分からないからだ ろう。  「結構です」  二人は肩を並べてバー『ナポレオン』に向かう。 砂田も当然逢沢の後ろに従った。  席について注文を済ませてから、逢沢はおもむ ろに切り出した。  「ところでカーティスさん、あんたが本当にガル フオイルの調査員だという証拠は」  カーティスは懐からカードとメモを取り出し、 逢沢へ差し出した。  「どうぞ」  砂田も逢沢の横から視線を走らせる。カードは 写真入りの社員証だった。メモの方には電話番号 らしい数字がいくつか書き付けてある。  「そのメモはどうぞお持ち下さい。日本支社や本 社、それに調査部の番号です。社員証が本物かど うか、確認に必要でしょう」  「またずいぷんと用意がいいですな」  逢沢の皮肉に、カーティスはにこやかに応じる。  「加藤さんは用心深い方だと伺っておりますの で」  力上アイスは〈加藤〉の正体を知っているのだ ろうかI  「これはお返ししときましよう」  逢沢は社員証と一緒にメモを押し返し、  「ガルフオイルの番号ならこちらですぐに調べら れますから」  偽の番号をつかまされるのを警戒しているのだ。  「そうですか」  カーティスはこだわることなく社員証とメモを 懐に戻し、  「早速ですが、あなたはヘンリー・ワイズという 男を搜しているそうですね」  前置き抜きでいきなり来た。  砂田は緊張を隠しつつ逢沢とカーティスの会話 −いや、攻防かIを見守るしかない。  「それが何か?」  「理由をお聞かせ願えませんか」  「待って下さいよ。初対面のあなたからそんなこ とを訊かれましてもねえ。こちらとしてはちょっ と……」  「加藤さんはとぼけ方も一流だと聞いておりま す」  「参つたな。褒められてんだか、貶されてんだか 分かりませんな」  「どちらかと言うと前者ですよ」  石油メジャーの調査員を名乗る男は、隙のない 微笑みを絶やさず逢沢を見据え、  「少なくともヘンリー・ワイズの身許はご承知と いうことですね」  「否定はしません」  何食わぬ顔で答える逢沢に、砂田は内心の驚き を隠すだけで精一杯だった。  とんでもないハッタリだI  カーティスは小さく息を吐き、  「これからお話しすることはご内密にお願いしま す」  「もちろん」  「弊社のある社員が、ワイズと不自然な接触を繰 り返していた。私どもとしては、当然背任を疑わ ざるを得ないケースでした。そこで内部調査を開 始した矢先、彼は自宅で自殺してしまいました。  一方のワイズは、ロッキードを退職して囗本に向 かい、そのまま行方をくらませたというわけで す」  「背任とは具体的にどんな?」  「次はあなたの番ですよ、加藤さん」  「おっと失礼」  逢沢はおどけたように肩をすくめ、 「実はワイズが何かとんでもないネタの売り込み 先を探しているという噂を耳にしましてね、あた しならその売り込み先を紹介できるんじやないか と思いまして」  「そのマージン目当てでワイズを搜している、 と」  「そういうことです」  呆れるしかなかった。  逢沢はなんの情報も持っていないにもかかわら ず、絶妙としか言いようのない間合いで相手の話 に合わせている。  「では、一つ提案させて下さい。ワイズの行方に ついてあなたがなんらかの情報を得た場合、最初 に私に連絡して頂きたい。その場合、あなたには 当社より充分な謝礼をお支払い致します」  「お断りした場合は」  「ワイズの共犯者としてアメリカと囗本の司法当 局に告訴します」  「ほう。しかし現状では起訴されない可能性の方 が高いと思いますが」  「私もそう思います。しかし、あなたは当面厄介 な立場に置かれることになる。それだけで充分な 効果があるんじやないですか」  「ありますよ。叩けば埃の出る身ですから」  逢沢はカーティスに向かって掌を差し出した。  怪訝そうな表情を浮かべた相手に、  「さきほどのメモ、やっぱりお預かりしときま しよう。連絡先が必要になりそうですから」  カーティスは満足げに笑い、メモを取り出しな がら立ち上がった。  「ビジネス成立というわけですね」  「ええ。お互いうまくやれるといいですな」  逢沢と握手を交わし、カーティスは束の間の飲 み代にしては多すぎる紙幣を残して去っていった。  その姿が完全に見えなくなってから、逢沢は片 手につかんだメモを握り潰した。  「あっ」砂田は驚いて顔を上げる。「いいんです か」  「必要ない。本物だ。奴も、この番号も」  「しかし……」  「大丈夫だよ。番号はもう覚えた」  逢沢はいつもの笑みを浮かべ、  「奴は俺の正体を知らない。それだけは確かだ。 CIAやどっかの機関員ならこんな回りくどいこ とはしねえよ」  「じやあ、今の話は」  「本当かもしれないし、嘘かもしれない。だが少 なくともガルフオイルがこの件に興味を持つて るつてのは確からしいな」  「どうしてアメリカの石油メジャーが」  「そこまでは分からんよ」  そう言いながら逢沢が片手を上げる。  すぐにやってきたウェイターにカーティスの紙 幣を渡し、  「勘定だ……あ、領収書お願いします。宛名は 『加藤』で」  「この上さらにガルフオイルの調査員か」  西新宿の分室で、馬越は眉間に皺を寄せて呻い た。  逢沢と砂田の前に、他の捜査員達がそれぞれ 〈ヘンリー・ワイズ〉を巡る右翼、経済ゴロ、暴 力団関係者等の不審な動きを報告している。  一体何かどうなっているのか。  情報を総合すればするほど、事態の全貌は見え なくなる一方だ。  ガルフオイルもワイズをロッキードの元社員だ と認識していることは判明したが、それだけであ る。  「他にもワイズを追ってる連中がいるってことが はっきりしたんだ。こうなったらとにかくこっち か先にワイズのガラ(身柄)を押さえるしかな い」  馬越はしかめっ面で砂田達に命じたI引き続 きワイズの確保に全力を挙げよと。  捜査に進展の見られぬまま八月が終わり九月に なったが、暑さは依然として続いていた。  東池袋に借りた安アパートで休んでいた砂田は、 疲労による倦怠感に輾転した挙句、少し前の雑誌 を手に取った。  忙しさにかまけて買ったきり放り出していた雑 誌であった。勾留中の角栄のスクープ写真がグラ ビアを飾っている。望遠レンズが捉えた、拘置所 の中庭で壁際に立つ角栄の盗撮写真。わずかに覗 くその横顔からは、〈塀の中の人〉となっていた 元総理の胸中など窺うべくもなかった。  相変わらず公安、しかも外事の末端にはなんの 情報も流れてこない。  マスコミの報道に接するたび、砂田は複雑な感 慨を抱くばかりであった。  二億円という保釈金の額は、砂田に想像できる ものではない。  壊れかけた扇風機はあるが、冷房のない室内は やたらと蒸した。汗で湿った布団に身を投げ出し、 ぼんやりと思い出す。  国会図書館の中にある立法考査局という調査部 門の職員を別の事件で聴取したときに聞いた話だ。  自民党の議員は調べ物があると役人に任せるこ とがほとんどなのに、角栄だけは自ら足を運んで 熱心に本を調べたり、若手調査員に親しく声をか けて質問したりしていたという。  そんな総理大臣は他にはいない。またこれから も現われることはないだろう。  たとえ汚れた金を受け取っていたとしても、角 栄が己の政務に全力で取り組んでいたことだけは 信じられる。  しかしそう考えると、砂田はますますやりきれ ぬ想いに囚われるのであった。  九月六日、函館空港にソ連軍戦闘機ミグ25が強 行着陸した。パイロットのヴィクトルーイヴァー ノヴィッチーベレンコ中尉は、アメリカへの亡命 を希望していた。  ソ連の最新鋭戦闘機となれば素人考えでも最高 機密である。日本中が騒然となった。  さすがに公安にはマスコミで報道されている以 上の情報が集まっており、一時は砂田ら若手が緊 急招集されるなど緊張が高まったが、結局遊軍捜 査員の出番はないままうやむやに終わった。  機体のみならず、事件そのものがどこの管轄に なるのか、警察、自衛隊、法務省、外務省、その 他さまざまな省庁間で果てしない議論が続いてい るらしい。まったくの茶番だ。  何もかもが現場を置き去りにして進んでいく。 ただ命じられるままに日常の業務をこなす日々が 続いた。  その囗も砂田は逢沢に連れられ都内の繁華街を 歩き同っていた。  中野四丁目の居酒屋でトップ屋仲間数人と会っ た二人は、ひとしきり歓談したのち、先に店を出 ると中野サンプラザの前を通って駅へと向かった。  三年前にできたばかりの中野サンプラザは、雑 然とした中野の景観にそぐわぬモダンな光を放っ ていた。周囲の舗道も新しく整備されていて、ゴ ミの転がる路地を歩くよりよほど快適だった。 「加藤ちゃん」  逢沢の偽名を背後から小声で呼びかける者が あった。  振り返ると、居酒屋で別れたばかりのルポライ ターの一人が早足で近寄ってきた。  「どうしたの、梅さん」  梅さんI梅井は、ほろ酔い加減であった先ほ どとは打って変わった無表情で、逢沢にハイライ トの紙箱を差し出した。  「これ、忘れ物」  逢沢が愛飲するのはショートヒースで、ハイラ イトは吸わない。  「あっ、うっかりしてたよ」  自然な素振りで紙箱を受け取った逢沢の耳許で、 梅井が囁く。  「この煙草、高くつくぞ」  「大丈夫、本社が払うから」  「ならいいけど。じゃ、また」  「おう」  梅井はせかせかと店の方へと戻っていく。  逢沢は振り返りもせず、歩きながらハイライト をポケットに入れる。砂田も心得ているから何も 言わない。  中央線に乗ってから、逢沢は(イライトの紙箱 を取り出し、中に入っていた紙片をつまみ上げた。 一瞥してから掌の中に隠すようにして、こちらに も見せてくれた。鉛筆の走り書きが記されている。  【ケーシーオリエンタル 東陽3倉庫】  逢沢の話によると、梅井は以前からロッキード の関連会社−末端ではあるがIに出入りして いたらしい。  この情報に真っ先に反応したのは元捜査二課の 柿本であった。捜二時代につちかったコネと手腕 を生かし、たちまち『ケーシーオリエンタル』に ついて調べ上げた。  同社は北米企業『ハーフラインーコープ』が香 港の代理店と会計事務所を通じて設立した日本法 人であるが、肝心の経営実態についてはどうにも はっきりしない。なんらかの非合法な目的のため に設立された疑いが濃厚であった。ただ、ハーフ ラインーコープ社とロッキード社との間には、昭 和四十五年から四十六年にかけて取引を行なって いた痕跡がわずかではあるが残されていた。  ケーシーオリエンタル社の倉庫は、江東区東陽 三丁目に建つ小さなビルの一階に設けられている。  ヘンリー・ワイズの潜伏先である可能性大− そう判断した馬越班は、ただちに現地へと向かっ た。  捜査員達が周辺を固める中、若い砂田が不動産 会社の営業を装って中の様子を確認するI  手筈に従い、砂田は単身ビルに入っだ。右端に 薄暗い階段があり、その横の廊下を回り込んだと ころに『ケーシーオリエンタル』と曇リガラスに ペンキで記されたドアがあった。  ノックしようとした砂田は、ドアがわずかに開 いていることに気がついた。  瞬時に決断してドアを開ける。  中に立っていた人影が驚いたように振り返った。  小枝のように細い手足。うら寂しい蛍光灯の光 を受けて控えめに煌めく金色の髪。  外国人の少女であった。  さして広くもない、コンクリートが剥き出しに なった倉庫という閉ざされた空間に在りながら、 その姿は森の中に儚く佇む精霊のように見えた。  情けないことに、声が咄嗟に出なかった。  淡いオレンジ色のワンピースを着た少女の背後 には、乱れた毛布がそのままになった簡易ベッド や、散乱する缶詰の空き缶が見えた。何者かがこ こに潜伏していたことは明らかだ。  それにしても、この少女は一体−  突然の闖入者に、少女も声を失っているよう だった。  奇妙な沈黙ののち。  「あの……父のお知り合い、ですか」  最初に口を開いたのは相手の方だった。  明瞭な日本語。しかしイントネーションはかな り怪しい。  「ええと……あなたは?」  混乱した素振りでI演技ではないところがま た情けなかったI少女の問いにはあえて答えず、 こちらから質問を発する。  「アンナ……アンナーワイズ。ヘンリー・ワイズ の、娘です」  ワイズの娘だって?  「昨日、父から連絡があって、会いたいから、今 日ここに来てくれと……十分、いえ、二十分ほど 前に来ました……でも、誰もいませんでした。ま さか、こんな場所だなんて……」  アンナは気味が悪そうに倉庫内を見回す。それ なりのホテルかアパートだと予想していたのだろ  「ドアは開いてたんですか」  少女はこくりと頷いた。明らかに怯えている。 どう考えても普通ではない。  「ノックしても返事、なかったので、ノブ、同し てみたら、鍵、掛かってなくて……あの、あなた、 どなたですか」  再度問われた。答えないわけにはいかない。  「宮田といいます。仕事の関係でお父さんを搜し ているんです」  用心して偽名の方を名乗り、普段持ち歩いてい るルポライターの肩書きが入っだ名刺を渡した。  それを見てアンナの表情がさらに曇った。やは り思い当たるところがあるに違いない。  「父に、一体、何かあったんですか」  「待って下さい、私にも何がなんだか分からなく て……もしよかったら、近くの喫茶店でお話を聞 かせて頂けませんか」  「え……」  さすがに躊躇してこちらを見ている。信用して いいものか迷っているのだ。  「不安に思われるのはもっともです。しかし、私 だってあなたのことを全然知らない。それに、い つまでもこんな所で話すのはどうも……」  埃と異臭の立ちこめる周囲の様子に顔をしかめ てみせると、案の定、アンナも心を決めたらしく、  「分かりました。でも、ちょっと待って下さい」  手にしていた安物のハンドバッグから手帳を取 り出し、ボールペンで何か走り書きを始めた。  書き終えたページを破り、簡易ベッドの上に置  砂田はさりげなく文面に目を走らせた。  [愛する父へ 不在でしたので今日は帰ります。 また寮に連絡して下さい。とても心配しています。 アンチ】  そう英語で書かれていた。父ヘンリー・ワイズ 宛のメッセージだ。  「お待たせしました」  振り返ったアンナは、砂田の後について足早に 倉庫を出た。  五、六メートルほど先の電話ボックスで矢島が 通話中のふりをしている。その姿を横目で確認し、 心持ちはっきりした声で言う。  「確か駅前に手頃な店があったはずです。そこへ 行きましよう」  周辺に潜んでいる同僚達に聞かせているのだ。  アンナは小さな声で「はい」と答えた。  永代通りに面した『純喫茶しやるだん』は、看 板とは裏腹に、カレーやスパゲッティなどの軽食 メニューが店内の至る所に貼り付けられた、なん とも垢抜けない店たった。厨房の奥から、ラジオ の音声であろう、森田公一とトップギャランの 『青春時代』が小さく流れてくる。  外からよく見える窓際の席に座った砂田は、二 人分のコーヒーを注文し、道々即興で考えたス トーリーを話し出した。  「ルポライターつて仕事はご存じですね? 実は 私、ある筋からお父上のワイズ氏がとんでもない ネタをつかんでるって話を耳にしまして。詳しい ことは分かりませんが、もしかしたら売れる記事 になるんじやないかとピンと来ましてね。ともか くワイズ氏に会ってみようとあちこち搜した挙句、 さっきの倉庫に行き着いたってわけです。そこに ワイズ氏ではなく、お嬢さんがいようとは、いや、 驚きました」  すぐにコーヒーが運ばれてきたが、アンナは手 を付けようともしない。  後から店に入ってきた同僚の島崎が素知らぬ顔 で少し離れた席に座り、ウエイトレスにレモンス カッシュを注文している。  「父のつかんだネタとは、どういうことでしょ う?」  顔を上げたアンナは、まっすぐに砂田を見つめ て訊いてきた。  深く澄んだその瞳の蒼さに、砂田はなぜか柄に もない動揺を覚えつつ、それを押し隠して応じる。  「さあ、投資絡みという説もありますし、政治絡 みだという噂もあります。とにかく滅多にない大 ネタつてくらいしか……私よリアンナさん、むし ろあなたの方が何かご存じなんじやないですか」  「それは……」  言い淀んだアンナに畳みかける。  「さっきの状況、親子にしてはちょっと変なん じやないですか? よかったら話して頂けません か。もちろん秘密は守りますし、場合によっては 力になれるかもしれない。ルポライターですから マスコミにも伝手があります。何か厄介なことに 巻き込まれてるんなら、こっそり調べることだっ て可能ですよ」  「厄介なことだなんて、そんな、私……」  蒼い目に不安の小波が広かった。  もう少しだI  「私は自分の身許についてお話ししました。次は アンチさんの番ですよ」  「私、オーストリアから来ました。留学生です」  「どちらの学校ですか」  「中央大学です」  砂田は少なからず驚いた。あまりに繊細な外見 から、高校生ぐらいかと思っていたからである。  「父と母、ずっと前に離婚しました。私、十一歳 でした。母は私を連れて母国のオーストリアに帰 りました。それ以来、父とは会っていません。母 は一人で私を育ててくれました。けれど、父と会 うことだけは、許してくれませんでした。二年前、 私は政府の留学プログラムに応募して、合格しま した。それで囗本に来たのです。今は飯田橋にあ る『スワニー女子学生ハウス』という寮に住んで います」  そこで彼女は膝の上でハンドバッグを開け、写 真入りの学生証と、スワニー女子学生ハウスのパ ンフレットのような冊子を取り出した。  「ここにあるのが、私の連絡先です」  パンフレットの裏に大きく印刷された電話番号 を指で示す。小枝のように細い指だった。  「ハウスの管理人室にある電話です。どの部屋に も電話はありません。外からの電話は、管理人が 取り次いでくれることになっています」  「その番号、メモさせて頂いていいですか」  「どうぞ」  ハウスの住所と電話番号は一目で覚えたが、素 人を装って手帳に書き写す。  「昨日、父から寮に電話がありました。突然でし た。人づてに私か留学したと聞き、日本に来たと 言ってました。どうしても一目会いたいと。なん だか様子が変だったので、いろいろ、訊いてみた のですが、直接会って話すからと……」  「それであの倉庫に出かけたというわけですね」  「ええ」  ワイズが日本に来だのは、娘に会うためだった I  「しかし、どうしてお父さんは普通のホテルに泊 まらずにあんな所で身を隠していたのですか」  「私にも分かりません。父は、電話では本当に、 何も、教えてくれませんでした」  「お父さんの仕事は」  「父と母が離婚する前……アメリカにいた頃は、 確か飛行機を製造しているメーカーに勤めていた はずです。父の机に、いつも飛行機のカタログが 置かれていたこと、覚えています。でも、今も同 じ仕事をしているかどうかまでは……」  「そうですか。では仮に仕事関係のトラブルが あったとしてもあなたはご存じないということで すね」  「はい」  アンナは身を乗り出すようにして、  「やはり父は、何か、大変な事件、巻き込まれて いるのでしょうか。もしそうだったら、私、どう すればいいのでしょうか」  「さあ、私にはなんとも……」  「警察に届けるべきでしょうか」  それは困るI外事として。  「いや、この段階では事件性があるとはっきりし ているわけではありませんから、警察に行っても 無駄でしょう。それに万一、お父さんが本当に厄 介なことに巻き込まれていたとしたら、警察に言 うとかえってお父さんが危険だ」  「そんな……」  今にも泣き出すかと思われるくらい思い悩んで いる少女を目の前にすると、職業意識を超えた決 意が湧き上かってくるのを感じる。  「ともかく、私は差し当たってあの倉庫の持ち主 や管理者について調べてみることにしましよう。 そのあたりからお父さんとのつながりが判明する かもしれません。何か分かり次第、すぐに連絡し ます。大丈夫ですよ、お父さんはきっと捜し出し てみせます」  「本当ですか」  「ええ。でもその代わり、またお父さんから寮に 連絡があればI」  「分かっています。必ず宮田さんにも連絡しま す」  少し安堵したせいか、アンナは弱々しい微笑み を見せた。窓から差し込む夕陽を受けて、その笑 みは一層脆く淡いものに感じられた。  店を出てタクシーを拾い、飯田橋のスワニー女 子学生ハウスまで同乗した砂田は、彼女が寮の中 に入るのを車内から確認し、運転手に「新大久保 へ」とだけ告げた。  新大久保駅から山手線に乗り、新宿で降りる。  西新宿の分室に戻ったときには、馬越班の半数 はすでに集まっていた。残りの半数は東陽三丁目 の倉庫を今も監視しているのだ。  班長の馬越以下、全員が状況を把握していた。 喫茶店内で聞き耳を立てていた島崎がすでに報告 したということだった。  阿久津管理官も顔を見せている。  砂田が報告し終えるのを待って、水戸捜査員が 立ち上がった。  「人管にはすでに確認済みです。それから中央大 学にも。オーストリア人留学生のアンナーワイズ ニ十歳は確かに在籍しています。外資系企業の人 事課を装って話を訊いたところ、同人は大変真面 目で優秀な学生であるということでした。またス ワニー女子学生(ウスは民間の運営による留学生 専用のアパートで、三名の管理人が交替で詰めて おり、外部からの電話は必ず取り次ぐことになっ ているそうです」  それらの報告を黙って聞いていた馬越が、砂田 と同じ考えを口にした。  「現社員か元社員かはともかく、ヘンリー・ワイ ズはやはりロッキードの関係者で、来日の目的は 娘に会うためだつたってことか」  さすがに班長の馬越は慎重に付け加えた。  「目的がそれだけだという保証はない。むしろ娘 との再会は本来の目的のついでと考える方が自然 だろう」  山浦捜査員が発言する。  「スワニー女子学生ハウスの電話を盗聴すべきで は。そのアンナつて娘が砂田に必ず電話してくる とは限りません」  砂田ははっとして山浦を見た。  たとえ捜査に必要であっても、盗聴は言うまで もなく脱法行為である。しかし警備局公安第一課 が極秘裏に所管する警察庁現場執行部隊−通称 『サクラ』が盗聴を含む非合法活動を行なってい ることは、公安関係者にとっては決して口外の許 されぬ了解事項であった。  「それは困ります」  阿久津管理官が即座に却下する。  「よほどの確証がある事案でない限り、そうした 行為は避けて下さい。第二苦労して許可を申請 しても、上が認めるわけありませんから」  「こっちはCIAに頼まれてやってんですよ。な のに上は知ったこっちやないってわけですか」  ベテランの山浦が嫌みたらしく言う。公安では あり得ぬ態度である。馬越班独特の無頼な空気の せいか。  「下手したら管理官の経歴にも傷がつきますもん ねえ」 「そういうことです」  若い阿久津が平然と返す。  「それくらいにしとけ、山浦。仮に許可が出ると しても、申請してから何日かかるか知れたもん じやない」  馬越が苦い顔で部下をなだめ、  「砂田、おまえ、今夜にでもその娘に電話を入れ とけ。用件は、そうだな、あの倉庫の実質的な所 有者が北米企業だと分かったとか、まあそんなと ころでいいだろう。目的はあくまで電話が娘に取 り次がれることの確認。次に娘との間に極力信頼 関係を築いておくこと、だ」  「信頼関係、ですか」  思わず聞き返すと、馬越は呆れたように、  「当たり前だろう。おまえ、娘との間に接触の理 由を作っだのは上出来だと思ってたが、狙って やったんじやなかったのか」  「いえ、その通りですが……」  上司に指摘され、砂田は今さらなからに自問す る。  自分は本当にそこまで考えていたのだろうか。 それとも、まさかI  「ワイズはどうして倉庫からバックレだんでしょ うか。こっちは気づかれるようなヘタは打ってな いはずですが」  柿本だった。確かにこちらが動き出してから時 間もほとんど経っていないはずである。  「分からん。それについては、水戸、おまえが当 だってみてくれ。まずは柿本の調べた経路を逆に 辿ってみるといい」 「分かりました」  即座に水戸が了解を示す。  馬越は一同を見同して指示を下した。  「ケーシーオリエンタルの倉庫の監視は当面続行 する。しかし、ワイズが戻ってくることはまずな いと考えていい。現状ではワイズが娘に連絡して くるのを待つしかない。娘に会いに現われたとこ ろでガラを押さえる。まず任同(任意同行)、文 句でも言おうもんなら公妨(公務執行妨害)だ。 娘のコントロールは砂田の担当。しっかり頼む ぞ」  「はいつ」  大声で答えながら、砂田は釈然としないものを 感じていた。  つまり、あの娘を囮に使うということかI  分室には全部で六本の電話回線が引かれている。 砂田が出かけようとしたとき、その一本に英語で 応答する逢沢の声が耳に入ってきた。  「はい、イースタンーカンパニー……ああ、これ は力上アイスさん、加藤です。よくこの番号が分 かりましたね。あなたには確かお教えしてなかっ たはずですけど」  足を止めて振り返る。受話器を耳に当てた逢沢 が、目でくそのまま待て〉と言っている。  「……ゝ凡ゝ凡、もちろんですよ……そうですね、分 かりました……では一時間後に」  受話器を置いた逢沢が立ち上がった。 「カーティスが会いたいと言ってきた。例のガル フオイルの調査員だ。何してる、行くぞ」  「え、自分はアンナの担当にI」  「ヒゲのおっさんよりも若い美人の方がいいか」  からかわれて少しむきになった。何か反論しよ うとしたが、どうにも言葉が出てこない。  「娘の視察(監視)は他の連中がやってるはずだ。 いいから来い」  仕方なく逢沢の後に従った。しかしカーティス が接触してきた目的に興味がなかったと言えば嘘 になる。  逢沢が向かった先は、銀座八丁目の資生堂パー ラービルだった。三年前に資生堂会館を全面改装 してできたビルで、カーティスはその中にある喫 茶室『サロンードーカフエ』を指定してきたのだ という。  早めに着いたにもかかわらず、カーティスはす でに待っていて、こちらに気づくと軽く片手を挙 げた。  「いやいや、お待たせしました」  飄々とした調子で逢沢は力上アイスの向かいに 腰を下ろす。砂田も愛想よく挨拶しながら逢沢の 隣に座った。  「イースタンの番号をどこでお聞きになったか、 まずはそのあたりから伺いたいですな」  それぞれ注文を済ませると、逢沢はいきなり切 り出した。先制攻撃というわけか。  「簡単ですよ。だってあなたは有名じやないです か、その〈筋〉で」  「よして下さいよ。それじゃまるで犯罪者みたい じゃないですか」  「しかし犯罪者と極めて近い世界にいる人だ。少 なくとも日常的に犯罪者と接してる。ああ、日本 には防諜法に類する法律はないんでしたね。法 自体がなければそれを犯す者も存在しないという わけだ」  「ただの調査員にしてはなかなか面白いこと言い ますね」  逢沢はショートヒースを取り出して、欠けた前 歯の間に押し込んでいる。  力上アイスは落ち着いた物腰で続けた。  「あなたは私かCIAだと疑ってる。違います か」  「モサドつて可能性もあるかなあと」  真面目なのかふざけているのか、まるで明日の 天気の話でもしているかのように逢沢は答えた。  またしても砂田には口を挟むことなど思いも寄 らぬ攻防であった。  「確かに私はユダヤ系ですが、れっきとしたアメ リカ人ですよ」  「国籍と所属機関に相関性はないそうじやないで すか。週刊誌の記事によると」  「加藤さん」力上アイスの両眼が、それまでとは 別種の光を放っていた。「私は本当にガルフオイ ルの調査員です。だからこそ、とは思えません か」  [だからこそCIAなんかと違って、亶]剣にワイ ズの行方を搜している、と」  「企業体の熱意は怠慢な公務員の忠誠心に優ると いうことです」  「分かりませんね。私もまた、あなたの言う怠慢 な公務員かもしれない」  「私は一介の調査員で、いわゆる現場の人間です。 つまり、あなたと同じということです」  「なるほどねえ」逢沢は前歯の隙間からショート ヒースを外し、灰皿に置いた。「率直にいきま しよう。ワイズの行方は不明のままです。しかし 手がかりらしきものは押さえた」  「具体的にお願いします」  砂田は声を上げそうになった。逢沢は捜査情報 をIアンナの存在を漏らす気か。  「私か言わなくても、いずれはCIAから伝わる と思いますけど」  「彼らこそが怠慢の極みなのです。しかも不誠実 極まりない。連中はミスを犯しながら、そのこと に気づいてもいない。また仮に気づいたとしても、 認めることは決してない。彼らの態度には本社も かねてより大変立腹しています」  「こちらのメリットは」 「私からの友情です」 「そりやあいい」 「友情の証しとして、我が社から毎年クリスマス カードを贈らせて頂きます。加藤さん個人宛にね。 とても美しいカードで、中にはさまざまな機密情 報がびっしりと記されているはずです」  「なるほどねえ」逢沢はさっきと同じ言葉を繰り 返してから、目をすがめるようにして言った。 「なんだか、あなたのことが好きになってきまし たよ」  「私もです、加藤さん」  「分かりました。言える時期が来れば必ずあなた にお伝えしましよう。ただしそれは、怠慢な公務 員の出方に左右されてしまう。それだけはご理解 下さい」  「結構です」  差し出された手を、逢沢が握り返す。  人間味縊れる笑みと多すぎる紙幣を残し、カー ティスは去った。  「なるほどねえ」  やはりそう呟いて、逢沢は灰皿からショート ヒースを取り上げた。  「どういうことですか、今のは一体−」  新人の身には、徹頭徹尾、混乱するばかりのや り取りであった。  「つまりさ」ショートヒースをくわえ直し、逢沢 はマッチを擦って火を点けた。「俺達はCIAの 尻拭いをやらされてるってことだよ」  「本気で教えてやるつもりなんですか。あいつに、 アンチのことを」  「だから言つたろ、そいつはCIAの出方に左右 されるつて」  うまそうに煙を吐いて、逢沢は静かに目を閉じ た。  「俺としちやあ、公務員は徹底して怠慢であつて ほしいところだが、連中、そこまで甘くはないだ ろうな」  「しかし、どうして我々に……カーティスはこつ ちか囗本の警察官だと承知してるわけでしょ う?」  「いいか、よく考えてみろよ。この取引で奴と奴 の雇い主に何かリスクやデメリットがあるか? 自分で言ってたろ、企業体の熱意がどうとか。そ れだけ本気だってことさ、ガルフオイルは」  逢沢の言う通りであった。  九月十五囗、三木武夫改造内閣が発足した。  三木総理は本来、年末に迫っていた衆議院任期 満了の前に解散総選挙を狙っていたのだが、「三 木おろし」を合言葉とする田中派及び反主流派の 抵抗により、解散を断念せざるを得なかった。そ の妥協の産物が内閣改造であり、結果的に反田中 色を前面に打ち出した人事となったのである。  その同じ日に、砂田は千疋屋日本橋本店ビルの フルーツパーラーでアンナと会っていた。  電話で不安を訴えるアンナを落ち着かせるため、 直接会うのが効果的だと判断したからだ。もちろ ん彼女から電話がかかってくるたび上司に報告し ているし、飯田橋のスワニー女子学生ハウスは笹 倉達によって常時監視されている。  その囗のアンナは、水色のカーディガンを羽 織っていた。学生らしい安物なのは砂田の目にも 明らかだったが、そうした質素な装いが彼女の魅 力をかえって際立たせているように感じられた。  「父は、本当に、大丈夫なんでしようか」  フルーツパフェを前にして、アンナは同じこと を繰り返した。  「何かあったら、きっと私の耳に入ってくるはず です。心配しすぎるのも体に毒ですよ」  そんなありきたりの文言しか口にできない自分 が腹立たしかった。一つには、情報を相手に伝え すぎるわけにはいかないという事情がある。また  一つには、若い女性を慰めるすべなど、警察学校 では教えてくれなかったということもある。先輩 の逢沢に訊いたら「そんなの、てめえで勉強する もんだ」と嗤われた。  「宮田さん、正直に、言って下さい。父は、何か 危険な仕事、してたんじやないでしょうか」  「どうしてそんなふうに思うんですか」  コーヒーをブラックで口に運びながら、努めて さりげなく尋ねる。  「宮田さんも見たでしょう、あの倉庫……あんな 所に隠れてたなんて、どう考えても普通じやない です。お願いです、何かご存じなら、どうか隠さ ないで、教えて下さい」  「隠してなんかいませんよ」  微笑んで見せたつもりが、ぎこちないものに なったような気がする。  「この前もお伝えしましたが、私の調べた限りで はワイズ氏は最近までロッキード社にお勤めだつ たようです。アンナさんの記憶していた通りです よ。もっとも、退職した理由まではまだつかめて いません。なにしろアメリカでの話ですから、日 本で調べるにはどうにも限界がありまして」  あらかじめ許可を得た範囲の情報のみ伝える。 情報をまったく出さないでいると逆に疑いを招く からだ。  「そのロッキード社というのが気になります。 だって今、日本ではI」  「それは……いくらなんでも考えすぎじやないで しようか」  「そうとでも考えなければ、父の行動、不自然す ぎます」  「分かりました。ワシントンーポストに友人がい ます。厳密には友人の友人ですが。彼に頼んで、 ロッキード社退職の経緯とその後の足取りについ て詳しく調べてもらうことにしましよう」  アンナが初めてほっとしたような表情を見せた。 「ありがとうございます」 「いえ、ロッキード事件に関係があるとはのめか せば、彼も喜んで飛びついてくるでしょう」  すべてでまかせである。しかし、ここはなんと してもアンナの不信感を払拭しておかなければな らない。  「宮田さんには、感謝、しています」  「やめて下さい、感謝だなんて」  その言葉だけは本心だった。長年音信不通だっ た父を案じる異国の娘。目の前にいるそんな女性 を欺かねばならない自分がたまらなく恥ずかし かった。  「ちょっと外を歩きませんか。今日はいい天気だ し、気分転換が必要なようです。私にも、アンナ さんにも」  「そうですね」  アンナは微笑んで立ち上がった。  自分の偽りの笑顔とは違う、木漏れ日のような 微笑みだと砂田は思った。   千疋屋本店ビルを出て日本橋の方へと並んで歩  彼女と東京の街を散策するのは今日が初めてで はない。それでも砂田は、平静とは言い難い己を 自覚していた。  東陽三丁目の倉庫で最初に出会った日の夜を皮 切りに、こちらから何度かスワニー女子学生(ウ スに電話した。そのつど外国人の管理人が応対に 出て、七号室のアンナーワイズに取り次いでくれ た。彼女の話は嘘ではなかったのだ。  また彼女の方からも電話をくれることがあった。 今日のように調査の進展具合を尋ねる電話がばと んどだったが、それでも砂田は、次第に彼女から の電話を待ち遠しく感じるようになっていった。  公安、しかも外事の自分が、よりにもよってマ ル対(対象者)にI  まったく以て未熟と言うよりない。班長や先輩 達に知られたらどんな叱責を食らうことか。新人 であるだけに弁解の余地はなかった。  いっそ任務から外してもらえるならまだいいが、 こればかりは自分が担当するしかない。 「本当にいいお天気」  空を見上げてアンナが微笑む。  普段は沈みがちな彼女の瞳が、蒼穹を映して明 るく広がる。そんな落差が一つ一つ砂田の胸に染 み通った。  「アメリカにいた頃、父とよく散歩したのを覚え ています。いつもこんなお天気だったわ。近所に は大きな犬を何頭も飼っている家があって、最初 は怖かっだけど、みんな優しい子達で、絶対に吠 えたりなんかしないの」  小鳥のさえずりにも似た彼女の述懐は、いつの 間にか英語になっていた。  「家に帰ると、お母さんがパイを焼いてくれてい て、玄関のドアを開ける前から香ばしい匂いがし たわ」  アメリカ映画で見た、典型的な中流家庭。目に 浮かぶようだった。  「あの頃の両親はとっても仲がよくて、家族が離 れ離れになるなんて、想像したこともなかっ た……」  アンナの横顔に再び愁いと紛う影が差す。日本 橋の上−首都高の下に差しかかったのだ。  砂田は日本橋本来の姿を見たことがない。  小樽商科大学を卒業して警視庁に人庁したのが 昭和四十五年。オリンピックの前年に一部開通し た首都高速道路都心環状線によって日本橋川はす でに蓋をされていた。縊れ出んとする東京の汚泥 を無理やり押さえつけるかのように。  東京人ではない砂田の目にも、それはどこか歪 で不条理な光景に映った。  足を止めずにそのまま進む。  頭上の黒々とした大きな影が、自分達を完全に 包み込んだ。  「砂田」  分室で執務中の馬越が突然話しかけてきた。他 の全員が出払っていて、二人きりで黙々と書類仕 事をこなしていたときだ。  「なんでしよう」  そう応じると、馬越は机から顔を上げずに続け た。 「おまえ、あの娘をどう思う」 「アンナですか」 「そうだ」 「いい娘ですよ、とても」  忙しげにペンを走らせていた手を止め、馬越が 初めて顔を上げた。  「馬鹿、おまえI」  何か言いかけて絶句する。その顔色がみるみる うちにどす黒く染まる。  怒鳴られると思った。それも特大級の雷だ。  班長は何を訊こうとしていたのか。いずれにし ても、迂闊な返事をしてしまった。後悔するが、 もう遅い。硬直したまま、上司の言葉を待つ。  だが予期に反して、馬越は何も言わず席を立っ た。そして部屋の隅に置かれていた小型冷蔵庫を 開けた。中から何かを取り出して戻ってくる。  それは、棒が二本付いたソーダ味のアイスキャ ンデーだった。どのメーカーの商品であってもダ ブルソーダと呼ばれることが多い。そこらの駄菓 子屋や売店で売っているありふれたものだ。  馬越はダブルソーダを袋越しに両手で二つに 割ってから開封し、一本を砂田に向かって差し出 した。  「ほら」  意図を察しかねて上司を見つめる。  「何をしてる。溶けちまったらどうするんだ」  「はあ」  我ながら間抜けな声を上げて、仕方なくアイス キャンデーを受け取った。  馬越は机の端にもたれかかって、ダブルソーダ の片割れにかじりついている。  「これ、班長の私物なんですか」  「当たり前だ。他人の物を勝手に食うほど落ちぶ れてねえよ」  そう言ってから、少し首を傾けるようにして、  「いや、この前の泊まりのとき、夜中に腹が減っ て笹倉の机にあったあんパンを頂いたことがあっ たっけな」  「あ、あれ、班長だったんですか」  またも間抜けな声を上げたとき、馬越が怒鳴っ た。  「ほら、言わんこっちやねえ」  「え……あっ」  溶けたアイスキャンデーが一筋、指に伝い落ち ている。  慌てて(ンカチを取り出して指を拭い、ダブル ソーダの片側を口に運ぶ。  「なあ、砂田」  食べ終わったアイスキャンデーの棒を屑かごに 投げ捨てながら、馬越が厳しくも穏やかな口調で 切り出した。  「おまえがあの娘に気があるのはみんなとっくに 知ってるよ」  アイスキャンデーの欠片を危うく口から取り落 としそうになった。  「そんな、自分はあくまでI」  弁解しようとした途端、馬越の言葉が鋭い怒気 を含んだ。  「俺達をナメてんのか」  各国の諜報員と渡り合う天下の外事一課五係だ。 そのメンバーにしてみれば、自分のような若僧の 内面を見透かすことなど容易だろう。  「すみません……」  小学生のようにうなだれてアイスキャンデーを 頬張るしかなかった。  馬越はため息をついて、  「おまえ、自分がどうして外事に引っ張られたと 思ってるんだ?」  少し考えてみる。  「ぱっとしない外見で、その、目立だないから じやないでしょうか」  「馬鹿、そんな奴はいくらでもいる」  返す言葉もなかった。  「逢沢はおまえを自分の後継者にと思ってるよう だな。後継者と言やあ聞こえはいいが、あいつは おまえを身代わりに残して外事から足を洗うつも りでいやがるんだ。ま、今日まで長いことよく やってくれたからな。後釜を残してくれるだけで も御の字だ」  確かに逢沢はそんなことを言っていた。  「逢沢の魂胆は置いとくとして、ぱっとしない外 見てのは当たってるな」  遠慮のない物言いは馬越の専売特許だ。  「ただし、ぱっとしないわりにはずいぷんと理想 家だそうじやないか」  返答せずに黙っていた。否定してもまた叱られ るだけなのは目に見えている。  「阿久津さんも言ってたぞ。おまえとは昔から気 が合うって。あの人も結構な理想家だからな。お まえを将来的に自分の腹心にしようとでも考えて るのかもしれん」  「では阿久津管理官が自分を?」  公安に配属されたのは阿久津の方が後だが、以 前から彼の公安入りが決まっていたということも 充分にあり得る。  「そうかもしれんが、確証はない。そもそも俺は、 あの人とは相性が合わん」  「えっ」  意外であった。しかもここまでデリヶIトなこ とを、班長が不用意に口にしようとは。  「理想家なのは結構だが、キャリアの理想と現場 の理想は根本的に違うんだ。まあ、そんなことは どうでもいい。分かりたくなくても、そのうち嫌 でも分かるようになる。もっとも、それまでおま えにウチの業務が務まればの話だがな」  そこで馬越は砂田をまっすぐに見据え。  「ぱっとしない理想家。成績は優秀で仕事はでき る。実行力も胆力もある。おまえ、田中角栄の屋 敷に押し入ろうとした暴漢を体張って阻正したん だってな」  その記録は自分の経歴として残っているはずだ。 公安では誰にも話したことはないが、馬越が知っ ていて当然である。むしろ知らない方がおかしい くらいだ。  「それでいて当世流行りの繊細な感性って奴があ る。今の外事にはちょうどそういう人材がいな かったんだ。そこで試しにこいつを採ってみよう という話になった。少なくとも俺はそう聞いて る」  心なしか、馬越は心配そうに、  「その感性という奴が問題だ。俺が古いせいかも しれんが、今の若い連中の考えることはどうにも 分からん」  班長は一体何を言おうとしているのだろうI  「いいか砂田、上層部と書いて無責任と読むんだ。 上がどう考えようと、現場で情に流されすぎると 痛い目に遭うのはこっちなんだ」  「彼女の……アンナのことでしょうか」  かろうじてそれだけ発した。  馬越は頷いて、  「マル対はどこまで行ってもマル対だ。それだけ は忘れるな」  何か言おうとしたとき、笹倉と矢島が手拭いで 汗を拭きながら入室してきた。  「まったく、毎日毎日、こう暑いとやってらんね えなあ」  冷蔵庫に直行した笹倉が、「あれえ?」と頓狂 な声を上げて振り返った。  「班長、ここに入れといた俺のアイスキャンデー、 知りませんか?」  馬越の言葉を思い出しては寝返りを打つ夜を過 ごした砂田は、翌朝見事に寝過ごしてしまった。  自宅アパートで身支度をしていると、茶箪笥の 上に置いた電話が鳴り出した。  Yシャツのボタンを朦朧と嵌めながら受話器を 取り上げる。  〈宮田さんですか、アンナーワイズです〉  一瞬で目が覚めた。  「宮田です、どうしましたか」  落ち着いて問うと、アンナはこれまでにない早 口で告げた。  〈たった今、父から連絡、ありました。私と会い たい、これが最後のチャンスだって〉  ついに来たI  片手で鉛筆を取り上げる。  「場所と時間を教えて下さい」  〈午前十一時に早稲田大学、大隈重信像の前、で す〉  鉛筆を走らせながら、咄嗟に腕時計を見る。八 時十四分。  「分かりました。私もすぐに向かいます」  〈やめて下さい’・〉  悲鳴のような声が受話器から迸った。  〈父は、私一人で来てほしいと、何度も言ってま した。知らない人が一緒だと、父はまた……〉  素早く考えを巡らせる。都内主要大学周辺の飲 食店とその営業時間は、公安の実地研修の際、頭 に叩き込んでいた。  「では、早大南門の真正面に『高田牧舎』という レストランがあります。そこでお待ちしています から、お父さんが納得してくれたら一緒に来て下 さい。きっとお力になれると思いますので」  五、六秒ほど間があって、 〈分かりました。感謝します。それでは〉 「あっ、ちょっと待つI」  通話は切れた。  砂田はすぐさま分室に電話する。馬越が直接出 た。 〈はい、イースタンですが〉 「砂田です。たった今アンナから連絡がありまし た」  得たばかりの情報を余さず伝える。  〈よりによって大学か……考えやがったな〉  電話の向こうで馬越が呻く。  四年前のあさま山荘事件を契機に、学生運動は 急速に勢いを失ったが、それでも各大学にはまだ まだ多くのセクトが残っている。公安が張り込む には最も不向きな場所であった。万一学生に正体 がばれたら、収拾のつかない騒ぎになってしまう。  〈どっちにしてもウチだけじゃ手が足りない。お まえは今アパートなんだな、東池袋の〉  「はい」  〈こっちは応援を頼んで早稲田に配置する。方法 はなんとか考えるから、おまえは飯田橋の女子寮 に直行してマル対を追尾しろ〉  「えっ、どうしてですか」  〈マル対には確実に早稲田まで行ってもらわにゃ ならんからな。今女子寮に張り付いてるのは矢島 だけなんだ。とにかく人手が足りない。矢島と組 んでマル対が早稲田に入るのを確認しろ。絶対に 校内には入るなよ。それだけでいい。後は高田牧 舎でワイズを待て。ワイズと娘が別方向に向かう ようならこっちで即座に確保する。十一時の約束 なら、今から行けば娘が寮を出るのに間に合うだ ろう。ぐずぐずするな、急げ〉  受話器を置いて上着をつかみ、部屋から飛び出 た。  有楽町線で飯田橋まで行き、駅を出て外堀通り を急ぐ。  まだ九時にもなっていない。早稲田で十一時の 待ち合わせだからアンチが寮にいる可能性は高い が、かなり早めに出かけていることも考えられる。 父を思う彼女の心理を考えれば、むしろその可能 性の方が高いように感じられた。その場合は追尾 を矢島一人に任せ、自分は高田牧舎に直行すれば いい。  東京理科大神楽坂キャンパスを過ぎて右に曲が る。アンナの住まうスワニー女子学生ハウスの正 確な住所は、新宿区若宮町だ。若宮公園を抜ける とすぐの位置にある。  砂田は公園の木々の合間に身を隠して寮の方を 窺う。そこからなら気づかれることなく出入りす る人間をチェックできる。監視チームからの情報 だった。矢島も近くにいるはずだ。  ちょうど五分後、スワニー女子学生ハウスから 誰かが出てくるのが見えた。  アンナだった。  際どいところだった。彼女はやはり早めに出る ことにしたようだ。  そのとき、左方向からアンナに早足で近寄って くる人影があった。  あれはI  日本人ではない。蒼白い顔色をした長身の白人。 丸眼鏡。やつれてはいるか、間違いなくヘン リー・ワイズだった。  接近する父親に気づいて振り向いたアンナが、 驚いたように足を止める。  「どうしてここにI」  その言葉と表情から、アンナもまた予期してい なかったことが分かった。  「アンナ、アンナー・」  駆け寄ろうとして不意に立ち止まったワイズが、 しげしげと娘の顔を見つめている。  九年ぶりの再会だ。感激に浸っているのかと 思ったが、どうも様子がおかしい。怪訝そうに首 を傾げているようだ。  砂田には彼の横顔もはっきりと見えたが、何か 起こっているのか理解できない。  それまで湧き上がる情愛に突き動かされていた ようなワイズの表情がにわかに曇り、嫌悪も露わ に英語で言った。  「誰だ、おまえは」  次の瞬間、砂田は若宮公園から飛び出していた。  状況は不明−だが今はとにかくワイズを確保 するI  こちらを振り向いたアンナが、やはり英語でワ イズに叫んだ。  「逃げて’・ あの人は囗本の警察よ’・」  えっI?  ワイズはもと来た方へと猛然と駆け出した。  同時にその反対方向から矢島が駆けつけてくる。  なぜなんだ、アンナー  しかし体は全力でワイズを追っていた。  アンナは身を翻してスワニー女子学生ハウスに 駆け戻っている。  「矢島さん、アンナを頼みます!」  それだけ言い残してワイズを追う。状況は不明 だが、こうなってはアンチも確保しておく必要が ある。  「止まれ、警察だっ」  背後から呼びかける。ワイズは止まる気配も見 せない。  若宮八幡神社を過ぎ、二〇メートルほど行った あたりで距離を詰めた。  襟首に手を伸ばすと、後ろ手で強くはたかれた。  公妨だIこれで逮捕の口実ができたI  飛びついて道路に押し倒す。 「ヘンリー・ワイズだなっ」  白人の男は、片頬をアスファルトに押し付けら れた状態で頷いた。  ワイズの身柄は、所轄の牛込署ではなく、警視 庁に移送された。  それと同時に、早稲田大学の内外で配置に就い ていた馬越班と外事一課各係の面々が引き上げて きた。戸塚署と牛込署の警備課にも応援を要請し、 学生に見える若い警察官を中心に苦労して布陣を 終えたところだったらしい。その徒労感は容易に 想像できる。  休む間もなく、全員がすぐさま本部会議室に集 められた。  正面の雛壇には、公安幹部の面々が並んでいる。 阿久津管理官も険しい面持ちで座っていた。  緊急の会議は馬越による状況の概要説明から始 まった。  あまりに予想外の事態に、幹部達が一様に顔を 見合わせている。  「それでは、個々の詳細について担当者から報告。 まず、アンナーワイズを追った矢島から」  指名を受け、矢島が立ち上がって報告する。  「スワニー女子学生ハウスの当直管理人スーザ ンークリフトンに身分を明かして許可を求め、寮 内に入りました。管理人の話では、寮には裏口等 はなく、出入りするには必ず管理人室の前を通ら ねばならないとのことでした。アンナーワイズが 中に入ってからまだ一分も経っていません。本職 はすぐにアンナの居室である一階奥の七号室に直 行し、ドアをノックしました。すると中から出て きたのは、年恰好こそアンナに近いものの、まる で別人の若い外国人女性でした。氏名等を尋ねま したところ、アンナーワイズと名乗りました」  室内から驚きの声が上がった。  末席に座った砂田は、そんな声すらも発するこ とができなかった。  「本職は驚いて管理人に質しましたが、彼女もま た女の主張を肯定したのです。『この人がアン ナーワイズに間違いない』と。『では、さっき寮 を出入りした女は一体誰なのか』と訊きますと、 『十六号室のミシェルーグリーンだ』ということ でした。十六号室は管理人室の横の階段を上った 二階にある部屋です。すぐに引き返して階段を上 り、十六号室に向かいました。ノックしましたが 返事がありません。ドアには鍵が掛かっていたの で、管理人にマスターキーで開けさせました。室 内には誰もおらず、窓は内側から施錠されていま した。仮に開いていたとしても、窓のすぐ下には 材木が不安定に積まれており、とても飛び降りら れる状態ではありませんでした。つまり、寮に 戻ったミシェルーグリーンは一旦二階の自室に戻 り、私か管理人と一緒に七号室に向かっているわ ずかな隙に階段を下りて寮を出たものと推測され ます。その後の足取りについては不明。以上で す」  着席する矢島の顔は、憤怒とも恥辱ともつかぬ 複雑な色に染まっていた。  「次、山浦。ミシェルーグリーンについて」  「はい」  立ち上がった山浦が手帳を広げ、  「ミシェルーグリーンがスワニー女子学生ハウス 十六号室に入居したのは八月四日。我々がCIA からヘンリー・ワイズ確保を依頼された翌日です。 入居時の保証人は米国籍の個人貿易商ロバートー コンウェイとなっていますが、同人は八月五日に カナダに向け出国しており、連絡が取れません。 肝心のミシェルーグリーンなる人物ですが、入居 時に提出された書類には『国籍・アメリカ 留学 先・青山学院大学文学部』と記入されています。 実際、寮の隣人には青山学院大学の留学生だと話 していたそうです。しかし、同大に問い合わせた ところ、該当する学生は存在しないとの回答を得 ました。これは、スワニー女子学生ハウスに青学 の留学生か入居していないことをあらかじめ調べ た上での計画的な嘘ということです。それだけで なく、入管に入国の記録はI切なし。ミシェルー グリーンは完全に架空の人物で、その名を名乗っ ていた女は、一方で我々に対しては『アンナーワ イズ』と名乗っていたというわけです」  そんな馬鹿なI  砂田はテーブルの下で拳を握り締める。  何度も寮に電話して、彼女にIアンナーワイ ズに取り次いでもらったんだI  「次、水戸。スワニー女子学生ハウスの管理人に ついて」  「はい」  度の強い眼鏡を掛けた水戸が立ち上がる。  「スワニー女子学生ハウスの管理人は全員が女性 で次の三名。エリザベスーニコルスン。スーザ ンークリフトン。金小麗。いずれも留学生のア ルバイトで、この三名が交替で管理人室に詰めて います。言い換えれば、管理人室にかかってきた 電話は必ずこの三名のうちの誰かが取ることにな ります。全員に任意で同行を求め聴取したところ、 案の定、〈特別なアルバイト〉を持ちかけられて いたことを自供しました。それぞれの経緯は省き ますが、彼女らは『七号室のアンナーワイズにか かってきた電話は、すべて十六号室のミシェルー グリーンに取り次ぐように』と命じられていたの です。三人に相互の交渉はなく、全員が同じ密命 を受けていたことはまったく知りませんでした。 また彼女らに命令と報酬を与えていた人物は、聴 取した限り年齢や風貌、さらには性別さえもパラ パラであり、別人であったことが判明しました。 以上です」  室内は寂として声もなかった。  最初に口を開いたのは阿久津管理官だった。  「これは組織的なスパイ事案であると断定してい いと思います」  そして馬越に向かい、  「アンナーワイズ、いや、アンナーワイズと名 乗っていた女は、我々をペテンにかけたというこ とですね」  「その通りです」  班長が苦々しげに応じる。  「女が寮に出入りするのは監視していましたが、 留学生専用の女子寮ということもあって中には 入ってもいませんでした。その女はワイズが娘、 つまり本物のアンナに電話をかけてくると踏んで、 スワニー女子学生ハウスに入り込んだのです。実 際にワイズは電話をかけてきた。十年近く前に別 れたきりの娘です。声だけで別人と見抜けなかっ たとしても不思議じゃない。ワイズは娘のふりを した女を、東陽三丁目の倉庫に呼び出した。女は 言われた通りに倉庫へ向かったが、どういうわけ か、ワイズは逃げた後だった」  そこへやって来だのが俺だったというわけか I  「さらにはウチの砂田が顔を出した。逃げるわけ にもいかず、女は咄嗟にアンナの演技を続けた。 うまく立ち同れば、警察の情報を取れると考えた のかもしれない。管理人の証言によると、今朝再 びワイズから電話があった。本当の待ち合わせ場 所がどこだったのかは分かりませんが、女は砂田 に連絡して『早稲田の大隈重信像』というデタラ メを教えた。我々を攪乱する目的です。スワニー 女子学生ハウスが監視されていることくらい充分 に承知していたでしょうが、途中で尾行をまく自 信があったに違いない。そのため女は早めに寮を 出た。しかし、そこで予想外のことが起こった。 ワイズが寮の前に姿を現わしたのです。おそらく 盗聴を警戒し、最初から寮の前で娘と接触するつ もりだったのでしょう。女は動揺したが、即座に 最善の道を選択した。すなわち、なんとしても警 察の手から逃れること。あの局面で走って逃げた りせず、躊躇なく寮に駆け戻ったのは大した判断 力だとしか言いようはありません」  俺はどこまで間抜けだったんだI  叫び出したい衝動を懸命にこらえる。同時に砂 田は思い出していた。   日本橋を二人で歩いた日。秋の日差しを浴びて 彼女が微笑む。  −本当にいいお天気。  アメリカでの思い出。父親との散歩。母親が焼 くパイの匂い。  何もかもが嘘だったのだ。  「それで、ヘンリー・ワイズとはI体何者なんだ ね?」  苛立たしげに堀口課長補佐が問う。 「分かりません」  正面の幹部達に向かってそう答えてから、馬越 は決然と付け加えた。  「これよリヘンリー・ワイズを徹底的に聴取しま す」  ワイズヘの聴取は馬越班長自ら行なうという。 砂田は進んで補佐兼書記役を志願した。  「おまえは引っ込んでろ」  柿本が呆れたように怒鳴りつける。  だが馬越は、さほど普段と変わらぬ様子で砂田 を一瞥し、「まあ、いいだろ」とだけ呟いて取調 室へと向かった。砂田は急いでその後に従った。  外事の班長を務めるだけあって馬越の英語はネ イティブと言ってもいいレベルにあったが、慎重 を期して通訳が一人同席することになった。  「名前は」  「ヘンリー・ワイズ」 「年齢は」 「五十一」  馬越の質問に対し、ワイズは存外素直に答えた。  蒼白い顔に伸びた無精髭が逃亡生活の惨めさを 物語っている。しかし丸眼鏡の奥に覗く灰色の双 眸は、茫洋としているようで、どこか隙を窺うイ タチに似たしたたかさを感じさせた。  そんな相手をどう捉えているのか、馬越はまっ たく外面に表わさない。ワイズ以上に茫洋とした 面持ちで、どこまでも事務的で無愛想な態度を貫 いている。  「職業は」  「今は無職だ」  「前の仕事は」  予想された通り、すぐには答えようとしなかっ た。  「前の仕事は」  無感動な表情で、馬越が同じ質問を繰り返す。  ワイズはやはり答えない。  砂田は固唾を呑んで双方を見守る。  「前の仕事は」  三度目に問うたとき、ワイズが応じた。  「会社員」  「勤め先は」  「返答を拒否したい」  それが聞こえなかったかのように、馬越は繰り 返す。  「勤め先は」  「言いたくない」  「勤め先は」  ワイズは観念したように目を閉じた。  「ロッキード社」  吐いたI  「所属部署と役職」  「上級執行役員付特別監査室室長代理」  馬越は手許のファイルに右手を置いたが、中を 見ようともせず人差し指でゴツゴツと二度叩き、  「ロッキードにそんな部署はない」  ワイズは無言で肩をすくめただけだった。  「退職した理由は」 「待遇に不満があった」 「具体的には」 「報酬が釣り合わないと思った」 「解雇されたんじやないのか」 「社がそう言っているのか」  返答がまたも途絶えた。今度は馬越が無言とな る。  ワイズはため息をついて、  「違う。クビなんかじやない。もっとも、記録で はどうなっているか知らんがな」  どういう意味だI? 「囗本に来た理由は」 「娘に会うためだ」 「アンナーワイズだな」 「そうだ。会わせてほしい。もう九年も会ってな いんだ。会いたくてたまらない。分かるだろう? もし君に娘がいるのなら」  その質問も馬越は無視した。  「ケーシーオリエンタルの倉庫に娘を呼び出して おきながら逃げた理由は」  「周辺が監視されていた。すぐに逃げないと危険 だと思った」  監視? 自分達が倉庫に向かったときには、ワ イズはすでに逃亡した後だった。少なくとも五係 のことではない。  「誰に監視されてたんだ」  「分からない。でも確かだ」  逃亡者特有の神経質さを示し、ワイズは苛立た しげに言った。  「心当たりは」  返答なし。馬越は気にする素振りもなく質問を 変える。  「今朝は自分から呼び出したにもかかわらず、ス ワニー女子学生「ウスまで行つたな」 「ああ」 「なぜだ」  ワイズは自嘲と自虐の入り混じる笑みを浮かべ、 「娘が私を嫌っていたからだ」  なんだって?  砂田は驚いている自分自身に言い聞かせるI あの女は偽物だった。父親を心から心配していた あの女は。本物が父親を憎んでいたとして、なん の不思議もありはしない。  「離婚したとき、娘は迷わず妻に付いていった。 妻はずっと娘に吹き込んでたんだ。私か家族など 少しも愛していない冷血漢だとな。私か仕事に打 ち込んだのは家族のためだ。忘れたことなど一度 もない。なのに娘は、手紙の返事さえ一度もよこ さなかった」  「しかし娘は会うと約束してくれたんじやないの か」  「だから不安だったのだ。娘の気が変わるんじゃ ないかとね」  上背のあるワイズの体が、急に縮こまって見え た。  「それで寮の前まで行ったというわけか」  「そうだ。だが、娘じゃなかった……ちょうど寮 から出てきた女の声が電話と同じだったから、私 はてっきり……だが違った’・」  そこでワイズは急に昂ぶり、机を叩いた。  「嵌められたんだ、私は、最初から’・」  「嵌められた? 誰に?」  馬越が機を捉えた。  「あんた、何を知ってる? なぜ追われてる?」  一気に核心に持っていく気だI  室内がやけに蒸す。ボールペンを握った手が じっとりと汗ばんでいた。  「それは……一一一一に‘凡ない」  「言ってしまえ。娘さんに会いたくないのか」  ワイズがびくりと顔を上げる。 「会わせてくれるのか」 「あんた次第だ。協力してくれるなら、こっちも できるだけのことをする」  温情を見せているようで、馬越は具体的な言質 を一つも与えていない。  〈できるだけのことをする〉ということは、〈で きないことはしない〉ということだ。  「分かった……」  落ちたかI  深く深呼吸をしてから、ワイズは覚悟を決めた ように口を開いた。  「私は、ロッキード社で特別な案件に関して の……」  突然、ノックもなく取調室のドアが開いた。室 内にいた全員が振り返る。  福田公安部長と日向外事一課長たった。  「聴取をただちに中断する」  公安部長が抑揚のない声で告げた。  何もかもがそれで終わった。  ワイズー人を取調室に残し、他の全員が廊下に 出る。  公安部長は何も言わずにそのまま去った。  「本日はご苦労様でした」  通訳に礼を述べて先に帰した日向一課長は、立 ち尽くす馬越と砂田に向き直り、  「アメリカ大使館から内調を通して連絡があった。 ただちにワイズの身柄を回収に向かうので、それ まで彼に触れてはならんそうだ」  我が耳を疑った。  「どういうことですか。こっちにワイズを押さえ るように頼んでおきながら」  「だからその身柄を引き取りに来ると言ってるん だろう。君達はよくやってくれた」  [納得できません。こっちは聴取の亶]つ最中なん ですよ。せめてあと少しI」  食い下がろうとした砂田の肩を、馬越が押さえ た。  「おまえは黙ってろ」  そして課長を見つめ、 「部長も納得してるというわけですね、上がCI Aとその線で合意したと」  「そういうことだ。すまん」  課長が頭を下げる。  馬越は唇をへの字に結んだまま何も言わない。  通路の向こうから三人の白人が大股で近づいて くるのが見えた。CIAだ。  専用駐車場でワイズはCIAのセダンに乗せら れた。  砂田は馬越とともに、彼を最後まで見送った。  CIAの三人は、こちらに説明どころか挨拶さ えしようとはしなかった。ただ不快そうに、後か ら付いてくるこちらを一瞥しただけである。  車に乗せられる寸前、ワイズは馬越を振り返っ て呟いた。  「アーサー・ヤング……」  次の瞬間、ひよろ長いワイズの体躯は黒塗りの 公用車に押し込められた。  聞き返す暇もなく、急発進した車は瞬く間に砂 田の視界から消え去った。  アーサー・ヤング。どこかで聞いた名前であっ た。  誰であったか尋ねようとして傍らを振り向くと、 上司の姿はすでになかった。  「何をしてる。早く来い。仕事はいくらでもある んだ」  背後から馬越の怒鳴り声がした。 「あっ、はいっ」  砂田は慌てて走り出した。  本物のアンナーワイズは任意での聴取に応じて いた。  髪はくすんだブラウンで、ブロンドの偽物とは まるで似たところのない容姿であった。  十六号室の住人ミシェルーグリーンとは寮内で すれ違ったことはあるが、親しいどころか話した ことさえないと供述した。彼女が自分の名を騙っ ていたと知り、驚きを隠せない様子であったとい  また父親の仕事については、なんの情報も持ち 合わせておらず、関心さえ抱いていなかった。  自らの境遇に関する彼女の証言は、ヘンリー・ ワイズの供述を部分的に裏付けるものだった。た だし、父親が自分に会うために来日していたこと はまったく知らず、嫌悪感も露わに「今さら会い たいとは思わない」と言い捨てた。偽物のアンナ が父親に思慕の情を示していたのとは対照的に。  たとえ電話線を通した会話だけではあっても Iそして偽りではあってもIワイズは一時的 に娘からの愛情に触れることができたわけである。  これは皮肉と言っていいのだろうか。独身の砂 田には分かるはずもなかった。  ワイズの魂にとって、その記憶はささやかな慰 撫となるかもしれないし、同時により深い絶望の 源となるかもしれない。  飯田橋のスワニー女子学生ハウスに赴いた砂田 は、封鎖された十六号室に入ってみた。  ここもすでに徹底した捜索が行なわれた後であ る。夕刻の薄暗い室内に、容赦なくかき同された 痕跡が見て取れた。  ミシェルーグリーンと名乗っていた女の指紋は 採れたが、他に有力な手がかりとなるような品は 何も残されていなかったと聞いている。実際に 入ってみても、生活の気配すら感じられなかった。 不時の退去をあらかじめ想定していたに違いない。  プロの手際だ。アマチュアではあり得ない。  部屋の真ん中に立って、砂田は生々しく散ら かった周囲を見回す。  偽者のアンナの髪が放っていた眩しい光が、一 瞬窓辺に煌めいたように思った。  錯覚だI残照が最後の光を投げかけただけな のだI  暮れゆく窓の外をちらりと見て、砂田は十六号 室を後にした。  西新宿の分室は時を移さず閉鎖された。  砂田はイースタンーカンパニーの名刺を偽のア ンナに渡している。そこが公安の分室であること はすでに〈機関員〉に知られているのだ。  警視庁に戻った砂田を最初に出迎えたのは、自 席でショートヒースを燻らせていた逢沢であった。  「よう、また一段としょぼくれたな」  にやにやと笑いながら言う。  馬越班、いや、外事一課全体が殺気立っている ときに、この男だけは普段のペースを崩さない。   一瞬怒りを覚えたが、これが外事のあるべき姿 なのかもしれないと考え直した。  無言で席に着いた砂田の目の前に、逢沢は三枚 の写真を投げ出した。  いずれも外国人の写真である。  「これは?」  顔を上げると、逢沢はいつものように欠けた歯 の隙間から煙を吐き出しながら答えた。  「女子寮の三人の管理人がいるだろ。あいつらに 金を渡していた相手、つまり運用していた機関員 だが、三人の供述からそれらしいのを特定した」  驚いて写真を手に取った。  「詳しい資料はこっちだ」  逢沢がファイルの束を投げてよこす。  「割り出すのは簡単だったよ。三人とも一課で前 からマークしていたKGBのお客さんだ」 〈お客さん〉とは、〈機関員〉などと同じく、外 国人諜報組織の工作員を指す公安独特の用語であ る。  するとI  砂田はその事実を容易に呑み込むことができな かった。  するとアンチはIミシェルーグリーンは− KGBだったのか。  アーサー・ヤング。  自席に積み上げた資料に片端から目を通す。答 えはすぐに見つかった。あまりにも呆気なく。  『アーサー・ヤング会計事務所』。ロッキード事 件の発端となった誤配事件を引き起こしたロッ キード社の監査法人である。  二月五日の毎日新聞夕刊に、【ワシントン5日 毎日支局】発の記事が小さく掲載されている。そ れによると昨年夏、ワシントンにあるアメリカ上 院外交委員会多国籍企業小委員会、すなわち チャーチ委員会事務所に小包が届けられた。開梱 してみると、ロッキード社の極秘書類が詰まって いた。二月四日にチャーチ委員会はロッキード社 の贈賄を裏付ける同社とアーサー・ヤング会計事 務所の重要書類を含む四十六ページの報告書を公 表したが、それらの書類はほとんどがその小包に 入っていたものと見られる。  それだけだった。  誰が、なんのためにそんな物をチャーチ委員会 事務所に送りつけたのか、まったく触れられてい ない。  もちろん現在では、もっと具体的な状況が一般 でも報じられているし、公安の資料には砂田が閲 覧できる範囲でもより詳細な記述がある。  アーサー・ヤング会計事務所はチャーチ委員会 からの文書提出命令に抵抗を試みようとニュー ヨークの著名な法律事務所ホワイト&ケースに依 頼していたが、〈二人の搬送人〉が提出しないは すの文書を〈誤って〉配達してしまった。  昨年九月十五囗、ウォールーストリートー ジヤーナルがその不可解な出来事を初めて報じた。  書類の入っだ箱の宛先は『フィンドレー会計事 務所』となっていた。フィンドレーとはアー サー・ヤング会計事務所に所属する会計士ウィリ アムーフィンドレーのことである。アーサー・ヤ ングにおいて長年ロッキード社の監査役を担当し ていたのが彼だった。これが本当に誤配達であっ たなら、フィンドレーかアーサー・ヤングに転送 するのが普通ではないか。なのにチャーチ委員会 はなぜ開封してしまったのか。  そうした経緯が、「ロッキード事件謀略説」の 生まれる原因の一つとなったことは間違いない。  これだ、と思った。  すべてつながる。ウィリアムーフィンドレーが アーサー・ヤング会計事務所のロッキード担当で あったように、ヘンリー・ワイズがロッキード側 のアーサー・ヤング担当であったなら。  ワイズは自分の役職をなんと答えた? 「上級 執行役員付特別監査室室長代理」だ。いかにも怪 しげな肩書きではないか。何をやらされていたか 知れたものではない。しかもCIAの資料では 「国際第二営業部第四課サブーマネージャー」と なっていた。どちらを信じるべきか。言うまでも ない。自分はあのときのワイズを直接見た。世界 の裏切りと不条理に対する諦念に肩をすくめた五 十男。  興奮のままに立ち上がっていた。  「アーサー・ヤング会計事務所だ’・」  机を並べる同僚達に向かい、  「前に言いましたよね、ほら、ワイズが連行され る前に言い残した言葉。あれはアーサー・ヤング 会計事務所のことだったんだ。ワイズはロッキー ド事件の端緒になった機密文書誤配事件に関係し てたんですよ」  しかし顔を上げようとする者は一人もなかった。  笹倉も、矢島も、山浦も、砂田の声など聞こえ ぬが如く、黙々とデスクワークに励んでいる。  わけが分からない。  「ねえ、どうしたんですか、アーサー・ヤング会 計事務所ですよ、ほら、あのI」  狼狽しながらも懸命に説明しようとする砂田に、  「それくらいみんな知ってるよ」  逢沢だった。  砂田は相棒でもある先輩刑事の机に駆け寄り、  「文書の配達に手を貸しだのがワイズだったとす れば、CIAに確保されたのもI」  「それも分かってる」  書きかけの報告書から顔も上げずに応じる逢沢 に、砂田は言葉を失った。  「だったら、どうして……」  「砂田’・」  副長格の柿本が鋭くたしなめた。  「その件はもう終わったんだ。いつまでも引き ずってないで仕事しろ」  もう終わった?  「納得できません」  憤然と柿本に詰め寄った。  「どういうことですか。柿本さんはこのままでい いとI」  「おまえ、それでも外一かっ」  これまで以上に声を荒らげた柿本が、持ってい たノートを机に叩きつけて立ち上がる。  他の者達は振り向きもしない。班長の馬越さえ も。  砂田は義憤に駆られて叫んでいた。  「分かりました。だったらI」  そのとき、阿久津の朗らかな声がした。 「相変わらず元気がいいですね、砂田君」  今度は全員が振り返った。  柿本は何事もなかったように着席して仕事に 戻っている。  「お仕事のお邪魔をしてすみません。いえね、そ こを通りかかったらなんだかにぎやかな声がした もんだから」  にこやかにそう言いながら、阿久津は机の列の 合間に踏み入ってきて、  「砂田君、よかったら近いうちにまた付き合って くれませんか。どうです、久々に餃子でビールと か」  「え……」  砂田の返事を待たず、馬越に向かい、  「馬越さん、そんなところで、ここは一つ」  顔を上げた馬越は、阿久津に目礼だけをして、 大儀そうに再び机上の書類に視線を落とした。  「じゃ砂田君、こっちから改めて連絡します。楽 しみにしてますんで、また」  それだけ言うと、阿久津は飄々とした足取りで 離れていった。  その後ろ姿を眺めながら、砂田ははっきりと 悟っていた。  自分は今、阿久津管理官に救われたのだと。  振り返ると、ちびた鉛筆を舐めながら書類を チェックしている馬越の大きい頭部が目に入っだ。  班長は最後まで匸冐も発しなかった。  十月二十二囗、文化大革命を推進した江青ら 「四人組」の逮捕が公表され、華国鋒が中華人民 共和国首相の座についた。  それに関連して外務省アジア大洋州局と公安部 外事二課では慌ただしい動きが見られた。  外事一課にもまんざら関わりのないことではな かったが、五係馬越班の日々の業務にこれと言っ た変化は特になかった。  しかし砂田は、個人的に中国の動静を興味深く 注視していた。  興味深く、と言うと少し違うかもしれない。実 際には、安堵にも似た感慨を抱かずにはいられな かったからだ。  中国との国交回復は田中角栄の成し遂げた業績 の一つである。その中国が、文革による長い混乱 をようやく脱することができたのだ。  所縁の深い中国でのこのニュースを、角栄はど んな思いで受け止めているのだろうか。  いずれにしても、砂田には窺い知るすべもない ことではあったが。  十月も終わりになって、阿久津から連絡があっ た。  「今夜あたりどうです、ほら、この前約束した、 餃子にビール」  午後八時、新大塚の中華料理店『明珍飯店』で 落ち合った二人は、畳が茶色く変色した奥の座敷 に上がり込み、早速ビールを注文して乾杯した。  明珍飯店も大塚署時代に二人でよく入っだ店 だった。この店に来る警察官が他にいなかったの も常連になった理由の一つだ。  「今夜は日本酒の熱燗がよかったかもしれません ね」  コップを一息で干してから阿久津は笑った。そ の夜は急に冷え込んで、確かに燗酒が恋しく思わ れた。  「この前はありがとうございました、管理官」  砂田は神妙に頭を下げた。  よして下さいよIかつての阿久津ならそう 笑っていただろう。  だがその夜の阿久津は違っていた。乾杯したと きに浮かべていた微笑みさえも消えている。  いつもと異なる空気を察して緊張する砂田の目 をじっと見つめ、  「クラーラーエラストヴナールシーノワ。それが アンナーワイズになりすましていたKGB機関員 の名前です」  驚きのあまり、咄嗟になんと言っていいか分か らなかった。  クラーラールシーノワー  「備局(警備局)の方にこっそり教えてくれる人 がいましてね。言うまでもありませんが、今僕が 話していることは今夜限りで忘れて下さい」  はいともいいえとも答えられなかった。それが 阿久津の厚意であると分かっていても。  阿久津は構わず続けた。  「実際の年齢は本物のアンナーワイズと同じだっ たようです。日本語が堪能で、日本の諸事情に明 るかったという事実からすると、対日工作要員と して特別に養成されたのでしょうね。詳しい経歴 はもちろん不明です。サクラでも把握していな かったそうですから、日本に派遣されてそう間が ないのでしょう。ことによったら、作戦に投入さ れたのは今回が初めてだったのかもしれない」  サクラー  〈備局の方〉とは警備局公安第一課か。  「CIAは当初、ヘンリー・ワイズの重要性を認 識していなかった。だから囗本の外事に任せてし まった。彼らが事の重大性に気づいたのは、皮肉 にもKGBが動いていることを察知したからです。 ヘンリー・ワイズが東陽三丁目の倉庫から逃げ出 しだのは、CIAではなく、KGBの監視に気づ いたせいでしょう」  「待って下さい」  砂田は身を乗り出して、  「ワイズは例の誤配事件に関係していた。つまり、 ロッキードの機密文書がチャーチ委員会に届けら れるよう工作した、実行犯でないにしても、なん らかの形で関与していたIそう考えていいわけ ですよね?」  〈警察庁の石坂浩二〉改め〈公安の石坂浩二〉は、 その二つ名に似つかねしい誠実そうな表情を見せ、  「買い被らないで下さいよ。いくら私だってそこ までは知りません。ただ想像するだけです。本当 はそんな想像も口にしない方がいいんですけどね。 反論だっていっぱいあるわけじやないですか。 チャーチ委員会のあれは誤配なんかではなく、 れっきとした法令に基づく証拠の提出であるとか。 でもまあ、仮にそういうことにしておきましよう か。この店を出るまでは」  「ワイズはそもそもロッキード社の人間ですよね。 そんな男がわざわざ自分の会社を追い込むような 小細工をした。だとすると、背後にいるのはCI Aだ。ほら、例のロッキード陰謀説ですよ。田中 角栄を嵌めるためにアメリカが仕組んだっていう。 なのにCIAが把握していなかったなんて変じや ないですか。百歩譲ってもですよ、ワイズがCI Aの捕捉から逃れて日本に入国したとして、少な くとも捜索を日本側に任せるはずがない。矛盾し てますよ、最初から」 「その通りですね」  阿久津は落ち着き払った様子で、 「しかし、組織が巨大になればなるほど末端に目 が届かなくなる。末端もまた人間であると認識で きなくなると言い換えてもいい。そういうもので しょう、社会って。ワイズはあまりに小物だった。 しかも出番はとっくに終わってる。もともと彼は 事態の全容など知らされてもいなかったはずです。 けれど彼は馬鹿ではなかった。自分の細工が国際 的な大問題を引き起こしたと知り、怖くなった。 勘違いしないで下さいよ、僕は今、自分の想像を 話しているだけですから」  そのとき、若い店員が大皿一杯の餃子を運んで きた。  「お待たせしました、特大明珍餃子四人前っ」  阿久津は口をつぐみ、店員が去るのを待つ。聞 いている者がいないことを確認してから、  「ともかく彼は、ロッキードを退社した。そこで 自分の人生を振り返る時間を得たんじやないで しょうか。今までほったらかしにしておいた、別 れたきりの娘に会いたくなった。それで娘が留学 中だという囗本にまで会いに行ったが、用心して 普通のホテルには泊まらず、身を隠すことにした。 昔のコネを使ってね。一方のロッキード社は、後 ろ暗いところが山ほどあるからワイズの存在その ものを消すことにした。消すと言っても物騒な意 味じゃない。もともとロッキード社は汚れ仕事を すべて押し付けるつもりで彼を雇ってたんでしよ う。もしそうだとすれば、在籍した痕跡を消す準 備くらいはしてただろうし、一般の社員が彼を知 らなくても筋は通る」  阿久津の論理はどこまでも明晰だった。  そしてそれは、砂田自身の推測と限りなく一致 していた。  「さてCIAはと言うと、その段階に至ってもな おラングレー(CIA本部)は事態の重要性を認 識していなかった。末端の協力者がコントロール から外れた、くらいの報告しか上がってなかった んじゃないかな。そこで囗本の警視庁に尻拭いを 委託したというところでしょうか」  そのとき、カウンターの向こうから店の老主人 が声をかけてきた。  「どうしたい兄ちゃん達、忘れたの、ウチの餃子 は熱々で食べるのが一番なんだから」  しばらく来ない間にすっかり皺の増えた主人が こちらを睨んでいる。  「それともウチの餃子、そんなに味が落ちだって の?」  「すみません、仕事の話に夢中になって」  愛想よく答えた阿久津が割り箸で餃子をつまむ。  「うん、やっぱりおいしいですよ、ここの餃子 は」  だが砂田はどうしても食べる気になれず、ごま かすようにビールを口に運ぶことしかできなかっ た。  大皿の餃子を半分ほど平らげ、阿久津は箸を置 いた。  「そろそろ出ましようか」  「ええ」  砂田もビールが半分ほど残ったコップを置いて 立ち上がった。  「兄ちゃん達もトシとっだねえ。昔は四人前どこ ろか八人前くらいぺろっと食べてたのにさ」  店を出るとき、老店主が憎まれ口を叩くのが聞 こえた。  時刻はまだ八時半を過ぎたばかりである。  「少し冷えますが、池袋まで歩きませんか」  阿久津が誘ってきた。話の続きということか。  「いいですね」  横に並んで春日通りを歩き出す。しばらくどち らも無言であった。  時刻は早いが、十月も末の夜は確かに冷えた。  「KGBは先にワイズを確保してアメリカの謀略 の証拠を握ろうとしたのですね」  自分の方から口火を切った。  「さっきの仮説が当たっていたら、の話ですけど ね」  阿久津は慎重に付け加える。  「どっちにしても、公表したりはしなかったで しょう。ソ連にしてみれば対米、対日工作のカー ドが一枚増える、それだけのことです」  「ワイズの娘のふりをして電話を受けた、そ の……」  「クラーラールシーノワ」  「クラーラは指示された通り東陽三丁目の倉庫に 向かった。他の機関員が先に乗り込まなかっだの は、まず説得によってワイズを穏便に懐柔しよう としたからだ。しかし裏の仕事を手掛けてきただ けあって、ワイズは予想以上に用心深かった。監 視されていることをいち早く察知し、KGBの目 を欺いて逃亡した。クラーラが倉庫に入っだとき にはすでに誰もいなかった。そこへ後からやって きた間抜けが私だった」 「よくないですよ、そんなふうに思ってば」 「いや、間抜けも間抜け、大間抜けです。自分は ルポライターだ、君の力になろうなんて……全部 お見通しだったわけだ、彼女には」  殺風景な倉庫の中、蛍光灯の光を浴びて怯えた ように羽を縮める金色の小鳥。  今でもまざまざと目に浮かぶのがよけいに悔し くてならない。  無垢とも純粋とも思えた蒼い双眸は、突然現わ れたルポライターと称する日本人が公安の刑事だ と即座に見抜いた。そして一瞬で奸計を巡らせた。 この男を利用しようと。  ワイズと同じく、日本警察にも娘のアンナだと 思わせておけば、かえって自分の正体を探られる ことはない。日本警察にワイズの居所を調べさせ、 その情報を手に入れる。さらには、重要な局面に おける攪乱工作も容易となる。  果てしなく苦い自嘲の思いを噛み締めるI彼 女にとって、自分はいいように操れるデクノボウ でしかなかった。  あのとき、東陽三丁目の倉庫周辺にはKGB、 それに外一という二重の監視網が敷かれていたこ とになる。いくら倉庫に気を取られていたとは言 え、馬越班の誰にも気づかれることなく撤収した KGBの技術はさすがと言うはかない。  「砂田君もさっき言ってましたよね、ロッキード 陰謀説」  砂田は思わず阿久津の方を振り向いた。  その横顔は、対向車線を流れ去る車列のヘッド ライトで自と黒とに瞬いて見えた。  ロッキード事件陰謀説。それは事件発覚の当初 から囁かれていたものである。それこそさまざま な立場の人間がさまざまな説を唱えていて、混乱 に拍車をかけている。  中国と国交を開いた田中角栄をアメリカが排除 しようとしたという説。  田中角栄の政治手法に反感を抱く政治的勢力が 仕組んだという説。  三木武夫首相が内閣の延命を図り、検察が田中 逮捕に動くよう仕向けたとする説。  対潜哨戒機P3C導入を巡る軍用機の問題を、 民間の航空会社である全日空の旅客機トライス ターの話にすり替えて世間の目を逸らせるため だったとする説。  特にP3Cに関しては、ロッキード社による政 界工作開始の一因ともなった次期対潜哨戒機(P XL)の国産化が白紙撤回された件について、二 月九日に当時防衛事務次官だった久保卓也が、 ロッキード社の要請によって田中元首相が方針を 転換したためと取れる発言をし、大きな問題と なった。いわゆる『久保発言』である。だが久保 は後に発言が誤りであったとして戒告処分を受け、 涙を滲ませながら謝罪の記者会見を行なっている。  そうした不可解な事実があまりにも多いため、 陰謀説は単なるデマとも憶測とも言い切れぬ信 憑性をまとい続けることとなった。  説によって陰謀の黒幕や目的は異なっているが、 その多くは「田中角栄はアメリカに憎まれてい た」ことを根拠に挙げている。  「そうか……石油か……」  アルバートーカーティス。ガルフオイルの調査 員を名乗って自分と逢沢に接触してきた男。  夜の冷気か、あるいは排気ガスに咽せたのか、 阿久津は少し咳をして、  「石油メジャーも、なんとかワイズの身柄を押さ えようと焦っていたのかもしれませんね」  だとするとI  「だとすると、やはりロッキード事件は……」  田中角栄はアメリカへの石油依存を脱するため、 ソ連やアラブ諸国に接近し、独自の干不ルギー調 達ルートの開拓を試みていた。アメリカ政府と石 油メジャーはなんとしてもそれを阻正しようとし ていたというのだ。  「推測ですよ、あくまでも。証拠なんてどこにも ありませんから」  駄目押しのように言う阿久津に、砂田はあえて 食い下がった。  「管理官が今夜自分を誘ってくれたのは、それを 教えてくれるためだったんじやないんですか」  阿久津は否定も肯定もせず、六ツ乂陸橋を渡っ て豊島区役所の方へと向かった。  「これではっきりしたじやないですか、阿久津さ ん」  「何かです?」  意外なまでに冷静な声で阿久津が聞き返してき た。  「だって、ワイズの役目も、CIAやガルフオイ ルの動きも、これで全部説明がI」  「つきませんよ、そんなもの」  「えっ」  「ワイズの容疑はI体なんですか。我々はCIA から『ワイズの行方を捜索してくれ』と言われた だけだ。確保の理由はこっちの後付けですしね」  「しかし、結果としてワイズは誤配事件に関係し ていた」  「だからそれが想像だと言ってるんです。アメリ カは知りませんが、少なくとも日本側にはヘン リー・ワイズに関する資料どころか、調査記録も 残ってないはずですよ。ええ、破棄するようにと の命令がありました。理由なんて知りません。私 には訊くことさえ許されてませんから」  「自分達が証人です。ヘンリー・ワイズは実在し たんだ」  「そう名乗る白人男性を保護したのは確かです。 しかし彼は、CIAによってどこかへ移送された。 今後彼が表に出てくることはもちろん、その名が 公的な場で言及されることもないでしょう。地上 から完全に消えたわけだ、ヘンリー・ワイズとい う幻は」  どう答えていいかさえ分からない。  阿久津もさすがに気まずい顔で、ただ黙々と足 を運んでいる。  池袋駅周辺の喧噪が聞こえてきた。  豊島区役所の前を過ぎたところで、阿久津が再 び口を開いた。  「今夜君を誘っだのは、早まったことをしやしな いか心配したからですよ」  いつもの温和な口調であった。  「そうです、確かにクラーラールシーノワの名前 だけは伝えようと思いました。だって君は、ずい ぶん思いつめてるようだったから。馬越さんは何 か言ってくれませんでしたか」  その問いに胸を剌される。  馬越班長は確かに言ってくれたI「マル対は どこまで行ってもマル対だ」と。  「このまま君が、外一で不適格の評価を受け、放 り出されたりしたらどうするんですか。力を合わ せて理想を実現するんじやなかったんですか」  池袋駅東口に着いた。  阿久津は足を止めて砂田を振り返り、  「僕はね、砂田君、僕はいつか、納得できる答え を正々堂々と要求できるようになりたいと思って います。でも、それは今じゃない。この先のいつ かです」  それだけ言うと、阿久津は地下街への階段を駆 け下りていった。  その後ろ姿が見えなくなっても、しばらくその 場に立ち尽くした。  不意に頭上を巨大な飛行機の機影がかすめたよ うな気がして、砂田は夜空を振り仰いだ。しかし いくら目を凝らしても、そこには星の一つも見え なかった。  十一月に入ってすぐの二日に、法務省が灰色高 官として、二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運 輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤 六月元運輸政務次官らの名前を公表した。しかし、 いずれも起訴されなかった。  ヘンリー・ワイズ。チャーチ委員会。ホワイト &ケース法律事務所。アーサー・ヤング会計事務 所。誤って届けられた段ボール箱。CIAoKG B。そしてクラーラールシーノワ。  漠然と砂田は思う。  ロッキード社から出たという五億円を角栄が受 け取ったかどうかは分からない。しかしそのカネ 自体が、いやロッキード事件そのものが、アメリ カーことにキッシンジャー国務長官−が仕掛 けた罠だったのではないか。田中角栄という生意 気で目障りな日本人を排除するための。  中国との国交正常化。脱アメリカの干不ルギー 戦略。対潜哨戒機P3C導入を巡る闇。理由はい くらでもある。日本国内における反田中派勢力の 暗躍もあったろう。  そう考えると、砂田は己の頭を殴りつけたくな る。  自分は、もしかしたら角栄の無実を証明できた かもしれなかっだのにと。  少なくとも、角栄を嵌めた謀略の証人を一度は この手で確保したのにと。  「どうしたの、宮田ちゃん」  赤坂のバーで突然声をかけられ、砂田は努めて 自然に振り返った。  丸い大きな禿頭に、人懐こいようで狷介さをも 窺わせる眼光。トップ屋の竹中労だった。もっと も今は、時流に合わせてルポライターと名乗って いる。反骨の士として知られるが、平岡正明、太 田竜とともに「新左翼三ハカトリオ」と呼ばれる こともある。  「一人で飲んでるなんて珍しいね。加藤ちゃん は?」  「引退したんですよ、あの人」  「えっ、加藤ちゃんが? なんでまた急に?」  「さあ、詳しくは知りませんけど、故郷へ帰っ たって聞きました。でも、前から考えてたみたい ですよ。東京はもう飽きた、田舎でのんびりした いなんて時々漏らしてましたから」  「へええ、加藤ちゃんがねえ。ちっとも知らな かったな。じゃあ、これからは宮田ちゃんが一匹 狼でやるわけか」  「狼ってほどかっこよくないですけど、よろしく お願いします」  嘘ではない。  〈加藤〉こと逢沢は、異動願いが受理されて日野 署に移った。本人の希望もあって、送別会は特に なかった。ただ砂田と最後に飲んだときには、奥 多摩で気楽に釣りをやるんだと語っていた。  例によってにやにやと笑いながら言うその口振 りからは、本気とも冗談とも判別はつかなかった。 それでも逢沢は、まんまと自分を後釜に残して外 事を去ることに成功したのだ。  「ところで竹中さん、その後キネ旬の方とは」  さりげなく話題を変える。  竹中は「キネマ旬報」で日本映画史についての 連載を持っていたが、ライターとしてのスタンス や生来の性格もあって、かねてより編集部を批判 するような言動を繰り返していた。  「いやあ、相変わらずだね。このままじゃ連載の 方もどうなるか知れたもんじゃねえよ……おっと 宮田ちゃん、それよりさ」  急に思い出したように、竹中は手にした大きい 鞄の中から分厚い新刊書籍を取り出した。  「これ、今月出した新刊。絶対に面白いから読ん でくれよ」  書名に目を走らせる。『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』。どうやら嵐寛寿郎の評伝ら しい。  映画に興味はなかったが、大仰な仕草で受け 取った。  「お、こいつはありかたいや。なかなか面白そう なご本ですね。謹んで頂戴致します」  十二月五日。第三十四回衆議院議員総選挙が行 なわれた。「ロッキード選挙」とも揶揄されたこ の選挙で、自民党を離党していた角栄は無所属で 新潟三区から立候補した。  その一部始終を中継するテレビ報道を、砂田は 外一のフロアで、出先の大衆食堂で、自宅のア パートで、食い入るように見つめた。  〈今、ロッキード問題などという話題を提供し、 大変ご心配を頂きましたが、明確に申し上げる。 この問題は、私は関係ないっ。いやしくもね、囗 本の総理大臣たる私やニクソンさんが、民間の航 空機を購入するような問題を話し合ったり、関係 することがありますか。これはあり得ないのであ ります〉  選挙期間中からこう演説していた角栄は、ヱ( 万八五二二票を獲得し、二位に大差をつけてトッ プ当選を果たした。  砂田の自室にあるテレビは、カラーではあるが 質流れの中古品だ。ときおり色の濁るブラウン管 の中の角栄は、地元選挙民の盛大な歓呼に満面の 笑みで応じている。  だがその笑顔は、以前とはどこか違っているよ うに見えて仕方がなかった。    I  おっ、ダブルソーダがあるじやないかI  野方署近くのコンビニエンスストアに立ち寄っ た砂田は、アイスクリームの類が並べられた冷凍 庫を一瞥し、心の内で呟いた。  「班長、そういうのお好きなんですか」  手にしたカゴにダブルソーダを放り込んだ砂田 を見て、部下の眉墨圭子が驚いたように言った。  「まあな」  曖昧に答えて、レジに向かう。  ちょっとした思い出なんだI元班長の馬越さ んとのI  長くなるので話さなかった。たとえ話したとし ても、新人の若い圭子には面白くもなんともない 話だろう。  十年ほど前に出現したコンビニエンスストアは、 瞬く間に日本中に広かった。三十代も終わり近い 砂田にとっては、つい昨日のことのようであった が、気がついてみるとこの十年で日本中の景観が 激変している。古くからの商店に取って代わるよ うに広まったコンビニは、まるで昔から在ったと 言わんばかりの佇まいでごく自然に街の中に溶け 込んでいた。またそれを当たり前のこととして受 け入れている自分がいる。ましてや圭子にとって は、空気よりも自然でことさら言及すべき事象で もないに違いない。  なるほど、駄菓子屋もなくなるわけだI  昭和五十六年、砂田は公安部外事第一課五係か ら第一機動隊に転属となった。今からもう五年も 前になる。その間に五係の班長だった馬越も小松 川署警備課の課長に栄転している。  二年間に及ぶ機動隊勤務ののち警部補に昇進し、 外事一課四係の主任を拝命した。すなわち、砂田 班の班長となったのである。眉墨圭子はこの春に 配属されたばかりの部下であった。  その囗砂田は、ちょっとした所用があり、圭子 一人を連れて野方署を訪れたのだ。  「ほら」  最寄りの中野駅に向かって歩きながら、ダブル ソーダを外袋の上から二つに割って一本を圭子に 差し出す。かつて馬越が自分にしてくれたように。  圭子が呆れたように自分を見上げる。  「どうした、早く取ってくれ」  「はい」  逡巡していた圭子が思い切ったようにアイス キャンデーを取り、口に運ぶ。  「危ない危ない、もう少しで溶けるところだっ た」  「すみません」  俯く圭子に、  「謝ることはないよ。それにしても暑いな、今日 は」  「ええ」  ダブルソーダをIかじりして頭上を見上げた。  八月の太陽は容赦なく地上のすべてを熱してい る。そのせいか、歩行者の数も目立って少ない。  二人はもう何も言わず、ダブルソーダを舐めな がら駅に向かって足を運んだ。  警視庁本部庁舎は、建て替え中の一時的な仮庁 舎であった物産館を経て、昭和五十五年に落成し た新庁舎となっている。砂田には未だ馴染めぬ新 たな砦だ。まだ新しい庁舎内に踏み入るたび、旧 庁舎が思い出されてならなかった。  「班長」  公安部外事課のフロアに戻った砂田に、部下の 和泉が近寄ってきた。  普段と少しも変わらぬ無表情だが、その顔を一 目見ただけで、彼がなんらかの〈特別な〉情報を つかんだらしいことが分かった。  「小会議室は」  「空いてます」  心得ているという口調で和泉が答える。  踵を返して小会議室へと向かう。和泉だけでな く、さりげなく立ち上がった青野も付いてくるの が分かった。和泉とよく似た〈公安顔〉の部下だ。  その一方で、何も聞かなかったような顔で自席 に戻る圭子を横目に捉える。外事には花も紅一点 も必要ない。外事に配属されただけあって、圭子 は極めて優秀だった。誰に教わらずとも外事の不 文律を身につけたようだ。  小会議室に入り、砂田は奥の椅子に腰を下ろし た。  「それで?」  目の前に青野と並んで立った和泉が、表情を まったく変えることなく報告する。  「お客さんが妙な動きをしています」  この場合、〈お客さん〉とは当然KGBの工作 員を意味している。  三か月ばかり前の五月には東京サミットが無事 終了し、警備部と公安部、それに外務省他関係省 庁が一息ついたところであった。しばらく息を潜 めていた共産圏のスパイが再び蠢動し始めたとい うことだろうか。  「具体的に言え」  ぼそりと命じる。その言い方が、かつての上司 である馬越に似てきたことが自分でも気になって いる。  「接触している相手が、東芝の社員なんです。そ れも東芝本社だけでなく、子会社の東芝機械に も」  「それだけじやありません」青野が口を挟む。 「同じグループと見られる連中が、伊藤忠にも接 触しているようなんです」  「伊藤忠?」  「はい」  日本を代表する大商社の一つである伊藤忠なら、 当然東芝とも取引はあるだろうし、KGBに目を つけられていてもおかしくはない。しかし三社同 時にというのが不可解である。  「接触のレベルは」  再び和泉が答える。  「初期段階のB。東芝も伊藤忠も、自分達が機関 員からの接触を受けているなんて意識はまったく ないと推測されます」  ならば気のせいだろうとは思わない。和泉も青 野も、なるべくして外事になったような男達だ。 彼らが自分に報告すべきであると判断した。そこ には事態を冷徹に観察する機械的な厳密さしかな い。  「いつからだ」  青野が即答する。  「先月の後半からだと思われます。それ以前は確 認できません」  「狙いは東芝の技術か」  「おそらくは。しかし東芝の場合、接触の相手が 技術担当だけではないんです」  「ターゲットの傾向は」  「それが、営業や総務の人間も含まれていて、ど うにも傾向が特定できなくて……」  珍しく和泉の歯切れが悪くなった。  「なるほど、確かに妙だな」  東芝。東芝機械。伊藤忠。この三社に一体どう いうつながりがあるのか。  「分かった。おまえ達は引き続き業務に当たって くれ。必要なら何人か同す。報告書がまとまった 段階で俺から課長に話してみる」  和泉と青野は一礼して退室した。砂田班の両輪 とも称すべき逸材の二人である。また彼ら自身も、 そのことを互いに意識し合っているのが後ろ姿か らも見て取れた。  小会議室は冷房が効いていたが、砂田は不意に 外の暑さを思い出してネクタイを緩めた。  そして視線を見慣れたはずの室内にさまよわせ る。新庁舎落成時には新品だった冷暖房機は、煙 草のヤニですでに見る影もなく真っ黄色に染まっ ていた。  三日後、砂田は資料と報告書の束を持って公安 部外事一課長の執務室に入っだ。  一課長の阿久津警視正は、十年前とほとんど変 わらぬ端整な顔に真剣な色を浮かべ、砂田の持ち 込んだ資料を熟読している。  彼もまた警察庁刑事局刑事企画課の課長補佐な どを歴任し、砂田と軌を一にするように外事一課 長として警視庁に戻ってきたのだ。  十年前と変わらぬどころか、歳とともに温和さ と円熟味を増し、新たな魅力を身につけていた。 未だ独身である自分と違い、結婚生活がうまく いっているせいかもしれない。  長年のつながりから、砂田は特に保秘を要する 案件については係長の大山を通り越して課長の阿 久津と直接やりとりできる関係にあった。  「これは今までにないパターンですね」  資料から顔を上げた阿久津に、  「でしょう? モスクワも夏は暑いですから、案 外エアコンの買い付けかもしれません。だがそれ ならKGBが大挙して接待に動く必要もない。な んでしようね、これは」  「最初に観測されたのは先月でしたね」  「ええ」  「東芝と伊藤忠か……」  そこで阿久津は、こめかみに人差し指と中指を 押し当てて目を閉じた。  何か思い当たることでもあるらしい。砂田は忍 耐強くじっと相手の発言を待った。  長い付き合いである。阿久津の癖は大概呑み込 んでいる。  思い出せないのではない。正確性を欠くためか、 あるいは支障でもあるのか、阿久津は発言を躊躇 しているのだ。  「ちょっと気になる噂を聞いたような記憶があり ます」  阿久津は目を開けて話してくれた。相手が自分 であるからこそだと砂田は密かに自負している。  「はっきりした関連は分かりませんが、時期的に は符合します」  だが、それ以上は何も言わなかった。  「関係があるのかないのか、なんとかこちらで確 認してみましよう」  裏を取ってから話すということか。  「この件は砂田班の担当とします。速やかに専属 チームを編成して下さい。予算は私の方で手配し ます」  公安警察の活動費はすべてを中央が握っている。 予算の額や内訳については一部の関係者以外には 知りようもないシステムだ。砂田とて例外ではな い。しかし警備局幹部との間に巧妙にパイプを構 築した阿久津は、予算面からも砂田の捜査に肩入 れしてくれていた。  阿久津課長の承認を得た砂田は、すぐさま渋谷 区神泉町に分室を設置した。カバーとなる社名は 『多摩川インフォメーション』。  「東芝の担当は和泉、島、盛岡。東芝機械は串田、 勝野、三沢。伊藤忠は青野、中江、伴。嶋木と野 村は随時各方面のフォローに当たってくれ。眉墨 は情報の整理と分析。いいな」  集まった部下全員の分担を決める。  「今回はいつもと違い、何か起こっているのか、 まったく見当もつかない。分かっているのは、K GBが何かを仕掛けようとしているということだ けだ。こちらの動きに気づかれぬよう、慎重に事 態の把握に努めてほしい。以上だ。行け」  部下達が間隔を空けて散っていく。かつて馬越 の下で学んだやり方だ。  四十五分後。室内には砂田と圭子だけが残った。  資料を繰る砂田の目の前に、冷たい緑茶と水羊 羹の載った盆が差し出された。  怪訝に思って顔を上げる。ここは一般企業では ない。圭子には日頃からお茶汲みの真似事など無 用だと告げてあったからだ。  「お礼です」  心なしか、照れたように圭子が言った。  「お礼?」  「ほら、野方で頂いたこの前のアイスキャン デー」  ああ、と頷いて砂田は緑茶のコップを手に取っ た。  触れ合う水の音が耳に心地好く、緑茶は喉に沁 み入るようにうまかった。  圭子はすでに自席で仕事に集中している。その 横顔からはいかなる感情も読み取れない。  上出来だ。砂田は満足して残りの緑茶を飲み干 した。  砂田班による業務開始から五日後。本格的な調 査の結果が集まり出した。 「東芝側でKGB機関員による接触を受けている のは資料Iにある四名。部署、役職、業務内容等、 一貫性は見られません。一方、接触しているのは ヴィクトルーテヴェレヴィツチとワシーリー・デ メンコフ。両者ともにこれまで外一全体でマーク してきた機関員です」  分室でのミーティングで、和泉が資料を示しな がら報告する。  テーブルの上には、二人のロシア人の写真が広 げられている。どちらも砂田だけでなく、全捜査 員にとって馴染みの顔であり、名前であった。  次に串田が報告する。砂田より五つ年上のベテ ランだ。  「東芝機械で接触を受けているのはこの七人です。 各人の経歴と写真は資料2を参照して下さい。技 術者が四人と過半数を占めますが、営業が二人、 総務が一人と、敵の狙いを絞り込むには無理かあ ります。対してKGBはボリスーモイセーエンコ とアレクサンドルーブイチコフの常連組と、ゲン ナージー・ラチコ。こいつは新顔で、肩書は三等 書記官てことになってます」  ソ連に隕らず、各国の大使館や領事館には、情 報機関の関係者が多数まぎれ込んでいる。その比 率の高さは、一般人の想像をはるかに超える。  砂田はうんざりとした思いでラチコなる〈ルー キー〉の写真を手に取った。  「伊藤忠ですが、接触があったのは三人。いずれ も東芝との窓口と言っていい役員です」  さすがに伊藤忠の場合は役職が限られるようだ。 しかし、東芝の何を扱っているのかまでは依然と して不明である。  「伊藤忠に継続して接触している機関員は一名、 それも女です」  「女? 「ニートラップか?」  報告中の青野に和泉が鋭く問う。  「そこまでは未確認だが、とにかくえらい美人な んで、可能性は高いだろうな」  (ニートラップとは工作員が異性の対象者を性 的に誘惑して情報を奪取したり、脅迫の材料とす る情報機関の手法を言う。要は色仕掛けであり、 美人局の類だ。元はイギリスの著名な小説に出て くる造語らしいが、今では世界中の法執行機関で 実際の用語として定着している。  「へえ、写真はないんですか」  わざとおどけるように言ったのは若い嶋木だ。  「あるよ。ちょっと待て……ああ、これだ」  青野がファイルから数葉の写真を取り出し、 テーブルの上に広げる。  いずれも隠し撮りだが、群衆の中に在っても一 際浮き立つような女の顔は、この上なく鮮明に 写っていた。  それを目にした瞬間、砂田は我知らず立ち上 かっていた。  手前にあった一枚をつかみ上げ、凝視する。  この女はI  間違いない。十年前、アンナーワイズと名乗っ ていたKGBの女。  クラーラールシーノワであった。  当時、確かクラーラはアンナーワイズと同じ年 齢だったと聞いた。  だとすると、今はちょうど三十歳かI  写真の中のクラ圭フは、もちろんすでに繊細な 少女ではない。成熟した大人の女性だ。  いや、当時も充分に大人と言える年齢であった が、砂田の記憶に棲むクラ圭フはやはり少女の印 象が強かった。若く見える体質なのか、それとも よほど化粧がうまいのか、撮影されたクラーラは 二十代の、しかも前半くらいにしか見えなかった。 それでいて、どこかコケティッシュな雰囲気さえ も感じさせる。完璧だ。  「どうしたんですか、班長」  写真を手に立ち尽くす上司の姿に不審を抱いた のだろう、和泉が心配そうに声をかけてきた。  「名前はクラーラ・子フストヴナールシーノワ。 年齢は三十歳」  かろうじて感情を抑え、極力平静な口調で告げ る。  全員が驚いたような声を漏らした。  「知ってるんですか、この女を」  串田がさりげないふうを装いながら訊いてくる。 「五係の新人だった頃に出くわした。痛い目に遭 いましたよ」  「相当なやり手ってことですね?」  「ええ」  「変ですなあ。外一謹製のファイルは何度も見て ますが、こんな女は載ってなかった」  さすがに串田は鋭いところを衝いてきた。  「オペレーションそのものがなかったことになっ てるからですよ。この女の写真や資料は、二段階 ほど上の機密ファイルにしまわれてるはずです。 よほどのことがない限り、我々には閲覧すらでき ない」  「ははあ……」  串田はようやく思い当たったらしい。  「班長が五係の頃というと、もしかしたらアレで すか、ロッキード絡みの」  外事一課全体を巻き込んだ騒ぎの噂を耳にした ことがあるのだろう。  「まあ、そんなところです」  曖昧に肯定してみせると、部下達はそれ以上訊 いてはこなかった。皆外事の〈掟〉が身について いるのだ。  ただ一人、圭子だけは皆と違う視線を向けてい た。はっきりとこちらを見つめていたわけではな い。それどころか目を逸らしてさえいる。しかし その視線は、砂田自身も忘れていた過去の想いを 見通しているかのように感じられた。  「十年間行方のつかめなかったクラーラが再び囗 本に現われた。この案件には思っていた以上に大 掛かりな裏があると考えた方がいいだろう」  取り繕うように椅子にかけ直し、指示を下す。  「当面は従前の業務を続行。ただし保秘にはこれ まで以上に徹底して留意のこと。今後の方針につ いては、課長と相談して決める」  それだけ言って立ち上がろうとしたとき、思わ ぬ声が飛んできた。  「係長には?」  圭子だった。  「係長には報告しなくていいんですか」  和泉や青野達が叱咤するように圭子を睨む。ど ういうわけか、圭子はそれでも怯まなかった。  当時関東管区警察局に出向していた大山係長は ヘンリー・ワイズを巡る一件についてIクラー ラと自分とのことについてI何も知らない。  「まず課長に会う。話はそれからだ」  我ながら言いわけがましく、且つなんの説明に もなっていないと思ったが、普段と変わらぬ素振 りを装って出ロヘと向かう。  全員のとまどいと、そして圭子の疑念を背中に はっきりと感じながら。  クラーラールシーノワの写真を目にして、阿久 津もまた驚愕を露わにした。  「あのときの女か……」  しかし、すぐにその感情を押し隠し、  「一機関員が再び日本で活動を開始した。もしか したら我々が捕捉していなかっただけで、これま でにも何度か入国していたのかもしれない。いず れにしてもそれだけのことです」  「それだけとは」  思わず聞き返すと、阿久津は執務用のデスクか ら顔を上げ、  「まさか君は、彼女のことを未だに引きずってい るとでも?」  「馬鹿なことは言わんで下さい」  憤然として言った。  「だったらいいじやありませんか。彼女について は私から報告を上げておきます。君達は与えられ た業務に専念すればいい」  「いいんですか、本当に」  「何かですか」  「この女を聴取することにでもなったら、何を話 すか分かりませんよ。あのときのことについて」  「だから私か報告を上げると言ったのです。仮に 君達が彼女を確保するような事態になったとして も、聴取は別の誰かが担当することになるでしょ う」  「誰です、それは」  「ですから、別の誰かです」  砂田は目の前に座す上司をまじまじと見た。   一課長として外事に戻ってきた阿久津の言動は、 以前とは微妙に異なるものとなっていた。少なく とも、新大塚の中華屋から池袋まで一緒に歩いた 十年前とは明らかに違う。  日頃薄々は感じながらも、できれば否定したい 変化であった。  こちらの勝手な失望を察知したのか、阿久津は ため息をついて、  「こう見えてもね、私にも立場というものがある んです」  昔は〈僕〉であった阿久津の一人称が、今は 〈私〉に変わっている。社会人として当然の変化 だが、そんなことを今さらなからに感じさせられ た。  「課長のお立場は理解しているつもりです。自分 だって、課長にはもっともっと上まで行ってもら いたいと思っています。いや、行ってもらわない と困る。警察の将来のためにです。しかし、現場 には情報が必要です。情報がなくてはいくら我々 でも戦えない」  「分かりました」  阿久津は肚を決めたように、  「先日、私か心当たりがあるようなことを言った のを覚えていますか」  「ええ。ですからここに来たんです」  「それについて確認しました。その結果、ある事 実が判明しました。よくない話です」  ほとんど無意識のうちに身構えて続きを待つ。  「昨年の十二月、『和光交易』という中堅商社の 元社員が、自らの氏名と連絡先とを記した上でパ リのCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)事務 局にある告発状を郵送しました。それによると、 東芝機械は伊藤忠を代理店としてCOCOMに違 反する機械をソ連に輸出しているというのです。 その機械はソ連の潜水艦建造に使用されている。 明らかな利敵行為であり、東芝機械の親会社であ る東芝もそのことを把握していると。しかも告発 状には、詳細な証拠書類が添付されていたという 話もあります」  それだI  東芝、東芝機械、そして伊藤忠。三社が見事に つなかっている。  しかし、と思った。  そんな話、聞いたこともないがI  「COCOMには加盟国の国内における調査権限 はありません。そこで議長のラニェリータラリゴ 氏は通常の手続きに従い、囗本の政府代表を呼ん で説明を求めました。所轄官庁である通産省は、 外務省を通じてこの告発状を受け取ったそうで す」  阿久津は口中に残る苦さを噛み締めるような表 情で、どこまでも淡々と続ける。  「日本におけるCOCOM関係省庁は外務、通産、 大蔵、防衛庁、そして警察庁。この五省庁の連絡 会議は毎月第一木曜日に開催されることから『一 木会』と呼ばれています。今年一月、この一木会 の席上で本件が報告されました。すると警察庁の 担当官は『そんなタレコミ情報などいちいち捜査 する必要はない』と切り捨てた。通産省では一応、 東芝機械と伊藤忠の当事者を呼んで聴取したので すが、両社ともに『そんな事実はない』と否定し た。通産省による聴取も単なる形式だけのもので あり、それで終わったということです」  「その、通報者への事情聴取は」  阿久津はゆっくりと首を左右に振って、 「行なわれませんでした」 「なんですって」 「通報者への聴取は行なわれなかったのです」 「どうして。告発状には住所氏名が書かれてたん でしょう?」  「知りません。上の判断したことです」  信じられないI  「日本政府はCOCOMに『問題はなかった』と 回答した。タラリゴ議長もそれを他の加盟国、 はっきり言えばアメリカに報告しなかった」  「それが問題化したわけですね」  「その通りです。しかも最悪の形で。通報者− 熊谷という元商社マンですI熊谷氏は、決死の 思いで通報したにもかかわらず、一向にCOCO Mからの反応がないことに業を煮やし、在日アメ リカ大使館にも通報した。そして先月、つまり今 年の七月になって、CIAが調査を開始した」  確かにくよくない話〉だIそれも最上級の I  「私か聞いた噂とは、警察庁がCOCOMへの対 応を誤ったらしいという話でした。それでCIA が介入してきたと。時期的にも符合すると言っだ のはそのことです」  「だったら!・」  砂田は声を荒らげた。  「だったらどうしてこっちに教えてくれなかった んですか。前に相談したときは知らなかったとし ても、その後課長は確認したわけでしょう、噂の 中身を。今だって私か突っ込まなければ話してく れなかったかもしれない。背景がとっくに判明し ているとも知らず、現場の部下達は延々とI」  「口止めされているんです。この件に関しては」  「誰からです」  阿久津は答えなかった。その沈黙を以て回答に 代えているのだと砂田は判断した。  「さっきの〈立場〉という奴ですね。いいでしょ う。けれど、状況を知らされないままウチが業務 を続けていれば、もっとまずいことになったとは 思いませんか」  「そこですよ、砂田君」  椅子を軋ませつつ阿久津はわずかに身を乗り出 し、  「いきなリオペレーションの中止を命じられたら、 君達はかえって不審を抱いたでしょう」  「それは、確かに」  「現に四係を抑えろという声もありました。しか し、こっちのオペレーションはあくまでKGBの 動きだ。仮にCOCOM違反が事実だったとして、 証人を消しているのなら話は分かる。もっとも、 全員消すには数が多すぎますけどね。また問題の 機械はすでにソ連へ渡っている上に、アメリカも とっくに察知しているわけだから今後の取引の話 でもない。彼らはI体なんのために東芝や伊藤忠 に接近したのか」  「口止めの恐喝か……いや、違いますね。それ だったらああいう接触はしない。しかもうわべの 雰囲気は今も友好的なままだ」  「彼らの真意を探るのはウチとして決して無駄で はない、そう考えたわけです」  砂田は自らの阿久津に対する考えを訂正した。  見かけの温和さと洗練だけではない、この十年 で阿久津は警察官僚として最も大事な資質をも身 につけた。老獪さという奴だ。  「だとしても、肝心のCOCOMについて現場が 知っているのと知らないのとでは大違いだ」  「だから話したのです。私の判断で」  一際強い語調で阿久津は言った。  「責任は私か取ります。やってくれますね」  信じていいのだろうか、この人をI  「条件があります。業務に必要な条件です」  「言って下さい」  「不正輸出を解明しないことにはこの件は始まら ない。上層部は調査しないことに決めたかもしれ ませんが、ウチがやる以上、触れないわけにはい きません。いいですね?」  「構いません。ウチはあくまで対ソ防諜活動を行 なっているだけですから。単なる通常業務です。 その過程でどういう事実が判明しようと、それは あくまで副次的なものです」  「課長も心を決めてくれたということですか」  「ただし、秘匿の基本方針は忘れないで下さい」  「もちろんです。こう見えても外事ですから」  阿久津は笑った。〈公安の石坂浩二〉に似つか ねしい、爽やかな笑顔だった。  「報告は私に直接お願いします。大山係長にも内 密に。大山さんには私からうまく言っておきま す」  「お願いします。では」   一礼してドアに向かう。  ノブに手を掛けてから、急に思いついたふりを して振り返った。  「ああ、もう一つ条件を忘れてました」  「なんでしよう」  「万一クラ圭フールシーノワを確保した場合、聴 取はウチに任せて下さい。別の誰かじやなく、 ね」  阿久津の答えを待たずにドアを開けて外に出た。  分室に戻った砂田は、再び全捜査員を招集した。  砂田の話を聞いた部下達は、異口同音に柢い声 で不満を漏らし、後は一様に黙り込んだ。  すべて予期した通りの反応だった。刑事部など の捜査員のように大声で喚かないのは、外事特有 の習性だ。  「必要があれば身内であっても平気で騙す。それ が俺達の仕事だろう」  言うまでもないことを砂田はわざと口にした。 部下を抑える最低限の空疎な儀礼だ。  「その必要が分からないから、こっちはたまらな いんですよ」  意外にも三沢が言い返してきた。普段は誰より も無口で目立だない男である。  「だったら俺が教えてやる。俺達は知らない方が いいと上の誰かが考えた。それだけのことだ」  「班長はそれで納得してるんですか」  「俺が納得していようといまいと関係ない。そう 言ってるんだ」  「関係ないって、そんなI」  「その辺にしとけ、三沢」串田がやんわりと年下 の同僚をたしなめる。「俺達は駒だ。それも将棋 で言うと一番弱い歩だ。けどな、最前線に並べら れるのは角でも飛車でもない、歩なんだよ。常に 最前線に立つ。俺達の誇りって奴だ。それでもま だ不満だって言うんなら、とびきりの手柄を立て て成金になれ」  さすがに年の功だ。うまいことを言ってくれる。  三沢も今日まで外事を務めてきた男だ。素直に 頭を下げた。  「すみませんでした」  「よし、では今後の方針について。上は俺達が知 る必要はないと考えてる。その一方でオペレー ション自体に変更はない。つまり業務の最中に偶 然知ってしまう可能性もあるわけだ。言わば不可 抗力だ。こればっかりはどうしようもないな」  三沢をはじめ、全員がはっとしている。  「班長も人が悪い。最初からそのつもりだったん ですね。あIあ、たまに俺がカッコいいこと言う とこれだもんな」  串田のぼやきに、一同が小さく笑った。  砂田は構わず、 「方針の匸東芝、東芝機械、伊藤忠の視察続行。 周辺にはKGBもCIAもうじやうじやいるはず だ。心してかかれ。次、方針の二。内部告発者で ある熊谷氏の基調(基礎調査)。告発が真実だと すると、KGBに命を狙われている可能性がある。 直接の聴取は避けた方がいいだろう。察庁(警察 庁)に知られたら〈不可抗力〉のチャンスも吹っ 飛ぶ」  部下達は全身を神経に変えたような様子で聞い ていた。不用意にメモを取る者がいないことに密 かな満足を覚える。  「方針の三。告発内容の詳細。東芝はどんな手口 で、何をやったのか。こいつが分からんことには 話にならない。最後に、方針の四だ」  そこで言葉を切り、部下達の顔を一人一人見渡 す。全員が表情を殺した外事の顔を取り戻してい る。その中で人一倍の真剣さが感じられる分だけ、 圭子の顔が浮き上がって見えた。  「方針の四。それはアメリカの逆鱗に触れること が分かっていながら、五省庁がどうして告発を無 視したかだ。俺達はそれを明らかにする。不可抗 力でな。言うまでもないが、五省庁の中には察庁 も含まれる。必要があれば身内をも欺くのが外事 だ。遠慮はするな。ただし、こっちの気配を気づ かれたら最後だと思え」  部下達が一斉に立ち上がった。  その囗の夜、砂田は圭子を連れて四谷署の警備 課を訪れた。  「おう、元気そうじやないか」  快活に迎えてくれたのは、五係馬越班時代の先 輩であり、今は四谷署警備課の係長を務めている 矢島であった。  「これが元気そうに見えますか」  くたびれた声を出してみせると、矢島は明るく 笑い、  「今にもくたばりそうだな、なんて言うわけにも いかんだろう」 「そりゃそうでしょうけどね」 「なんだ、また厄介な事案でも抱えてるのか」 「ええ、まあ」  曖昧に答える。矢島もそれ以上は訊いてこない。 こういうとき、公安同士は気が楽だ。  矢島を訪ねたのは以前から決まっていた予定の 一つであり、用件自体は早々に片づいた。  「今日は手が放せない用事があってな。お互い一 段落したら、どっかで一杯やろう」  帰り際、矢島はそう声をかけてくれた。一旦異 動すると互いに交流を避ける傾向にある外事の中 で、矢島は数少ない例外であった。彼のそんな性 格が、今の砂田にはこの上なく嬉しく、慕わしい ものに感じられた。  「いいですね。楽しみにしてます」  四谷署を出た途端、急に一杯飲んでいこうと思 い立った。矢島の笑顔に元気づけられたせいかも しれない。  「俺はちょっと飲んでから帰る。おまえも来る か」  圭子に声をかけると、一瞬意外そうな顔をした が、すぐに「はい」と頷いた。  三丁目交差点から新宿方面に向かって少し歩い たところにある『ヶイオス』というバーに向かう。 数年ぶりだが、少しも変わらず営業していた。  店に入っだ途端、亶]正面から声をかけられた。  「おっ、宮田ちゃんじゃないの」  岡本という初老のルポライターだった。一目で 水商売と分かる女を連れている。トップ屋全盛期 からの生き残りの一人だ。ちょうど帰るところ だったらしい。  「あっ、どうもご無沙汰してます」  瞬時にルポライター〈宮田〉の顔を作り、挨拶 する。  「ずいぶん見ないと思ってたけど、商売替えでも したの?」  「そういうわけじゃないんですけど、恥ずかしな がら仕事がめっきり減っちゃいまして」  岡本は「分かる、分かる」と頷いて、  「ボクも近頃はヒマでさあ。毎日この店で飲んで んの。ま、お互い生き残るのが第一よ。ところで、 そちらのカワイコちゃんは宮田ちゃんのガールフ レンド?」  〈カワイコちゃん〉などという言葉を聞いたのは 十年ぶりくらいだろうか。死語もいいところであ る。  「そんなんじゃありませんよ。香川つて後輩なん ですけど、最近ではフリーライターつて言うみた いですね」  その場で思いつくままに喋ると、圭子が咄嗟に 調子を合わせる。  「フリ圭ツィターの香川です。よろしくお願いし ます」  「ふIん、香川ちゃんか。ボク、岡本。オカモつ ちゃんでいいよ。センセイなんて言われるの、嫌 いだから。最近はウワシンとかで書いてるの。 知ってるよね、『噂の眞相』」  名刺を差し出す岡本に、  「すみません、名刺を切らしておりまして」  「いいのいいの、気にしなくて。宮田ちゃんてさ、 ホモじゃないくせに女っ気ないでしよ? モテな い男は将来性もないからさ、香川ちゃんもこんな 先輩はさっさと見切りつけた方がいいよ。じゃあ ね」  一方的に喋った岡本は、連れの女に促されるま ま上機嫌で帰っていった。  「〈香川〉が私のコードネームですか」  テーブル席に着いた圭子が皮肉めかして言う。  砂田はかつて先輩の〈加藤〉こと逢沢によって、 〈宮田〉なる名前を勝手に付けられた話をした。  「じやあ、私か三代目というわけですね」  薄暗い明かりの下で、圭子が愉快そうに笑う。 彼女のそんな顔を見だのは初めてだった。  スコッチウイスキーのバランタインを二人して ロックで飲む。  四、五杯も飲んだ頃、圭子が突然訊いてきた。  「さっきの岡本さん、班長に女っ気がないって 言ってましたよね。ぽんとですか」  「俺の話じゃない。〈宮田〉の話だ」  「でも、実際に班長も独身じゃないですか」  あくまでも軽い口調。しかし砂田は、そこに潜 む微妙な詮索の気配を察知した。  心地好く酔いかけていた頭が急速に醒めていく。  「早めに身を固めた方が出世にもいいって、周り からもよく言われたよ。機動隊の頃はやたらに見 合いを勧めてくる上司もいたし」  「なのにどうして結婚しなかったんですか。班長 ならいくらでもいい人がいたでしように」  「もてなかったんだよ。そこだけは岡本さんの 言った通りさ」  これ以上は危険だI  「よし、そろそろ切り上げるとしようか。さすが に今日は疲れたよ」  砂田は片手を上げてウェイターを呼んだ。  「チェックお願いします。領収書の宛名は『宮 田』で」  圭子は不満そうな翳を面上から跡形もなく隠し、 笑顔で言った。  「ごちそうさまです。とってもおいしかった」  「契約の調印は昭和五十六年四月二十四日、場所 は伊藤忠商事モスクワ支店。出席者はソ連側から 技術機械輸入公団筆頭副総裁をはじめ十名、日本 側から東芝機械輸出部長をはじめ十名。計二十名 が立ち会っています」  分室に集合した砂田班の捜査員達が報告する。  今、分厚い資料を繰りながら話しているのは和 泉だ。  「この契約によリソ連に輸出された機械の正式名 称は『九軸同時制御可能な大型船舶推進用プロベ ラ切削加工機』。分かりやすく言うと、船舶のス クリューを削り出すための大型装置です。金属加 工工作機械で同時に三軸以上の制御機能を持つも のは戦略物資に該当し、COCOM規制や貿易管 理令でソ連などの共産圏へ輸出することが禁止さ れています。これらをすり抜けて輸出を実行する にはいくつかの手口があります。本件はそのうち、 『サイドレター』『第三国経由』それに『ドッキン グ』と呼ばれる三つの手口を合体させたものでし た」  淀みのない話しぶりで和泉が続ける。  「サイドレターとは、輸出品の仕様書を実際の性 能より柢く記入して規制をすり抜ける一方で、正 確な仕様書を裏契約として密かに相手国に渡し性 能を保証する。本件では二軸制御の機械として許 可を取っています。工作機械はコンピューターを 使って入力した数値の加工を自動的に行ないます が、これをNC、つまり数値制御と言います。東 芝は規制の緩い第三国であるノルウェーのコング スベルグーバーペンフアブリック社から二軸用の NC装置を輸入して機械に組み込み、ソ連へ輸出 する。たとえ途中の税関でチェックが入ったとし ても、二五〇トンにも及ぶ機械を組み立てて機能 を確認することは事実上不可能です。一方、コン グスベルグ社経由で九軸制御用のプログラムをソ 連に輸出、バルチック造船所に搬入された機械の NC装置を九軸制御用に書き換え、接続する。こ れがドッキングの手口です。この打ち合わせのた めでしょう、コングスベルグ社の担当者が五十七 年に来日していることを確認しました」  和泉の話に耳を傾けつつ、砂田は手許の資料を めくる。  そこには今回使われた手法以外にも数々の巧妙 な手口が列挙されていた。  「付け加えておきたいのは、こうした事例は東芝 に隕らず、ソ連貿易を行なっているほとんどの会 社で恒常的に行なわれているという実態です。K GBの出先機関を通したソ連側の働きかけももち ろんありますが、あえて違反に手を染めなければ 生き残れないという業界の事情もあるようです」  「技術的なことは今イチよく分かんねえけど、そ の九軸ナントカつて機械を使うと一体何か作れ るってんだい。いや、潜水艦のスクリューだって のは分かってるけどさ。わざわざ禁止するほどの もんかねえ」  普段と変わらぬ呑気そうな様子で串田が尋ねる。  「CIAの言い分によると、ですが」和泉は心な しか緊張した様子で、「ある囗を境に、それまで はオンボロ洗濯機のようにうるさかったソ連潜水 艦のスクリューが探知不能なほど静音化したと」 「それが東芝の売った機械のせいだって言うのか い」  「ええ」  頷いた和泉に、さすがの串田も目を剥いた。  砂田は資料を閉じて嘆息する。  道理でアメリカが激怒するわけだI  和泉に代わり、青野が報告を始めた。  「告発者の熊谷一男氏は、共産圏専門商社『和光 交易』元モスクワ支店長で、問題の仕事を成功さ せて帰国しました。しかし、会社のためにかなり の危険を冒した熊谷氏に対して、和光交易はあま りに冷たかった。結局それで退社に至ったのです が、自らも当事者である事件の告発には、相当な 葛藤があったと思われます。なにしろ自分も罪に 問われるわけですから。また退職後にKGBが複 数回にわたって接触を繰り返しており、熊谷氏は 大変な恐怖を抱いたようです。暗殺の危険を感じ た同氏は、当局に申し出た方が安全だと判断した。 以上のことをモスクワ時代の友人が聞かされてい ます」  「なのに、察庁や他省庁が門前払いを食らわせた 理由は」  砂田が問うと、青野は珍しく吐き捨てるように、  「熊谷なる人物は人格に問題があったため馘首さ れた、それを逆恨みしての行動である、そんな人 物の言動など調査に値しないIというのが各省 庁の一致した言い分です。ちょっと調べれば分か ることですが、告発内容は事実だった。つまりは そこが問題だったんでしょう」  青野の父は中小企業の元経営者で、官僚から理 不尽ないじめを受けて苦労したと聞いている。普 段は冷静で外事の申し子のような青野が、いつに なく感情的な側面を見せている理由も理解できた。  「日本は西側陣営に身を置きながら、ソ連相手の 商売で稼いでいた。日本の輸出管理体制に問題は ないという建前が、現場の商社マンからの内部告 発で崩れ去ろうとは、誰も予想すらしていなかっ た。後はまあ、役人の面子のために強弁を続けて いるというところでしょうか」  「分かった。次は伊藤忠について」  砂田は部下に自らの感情を見せず会議を進行さ せる。  「はい」  担当の伴が発言する。  「この案件は、本来は和光交易が単独で進めてい たものでした。ところが、契約書の原案を作成す る段階になって、突然『伊藤忠を売手代表にした い』と東芝機械を通じて申し入れがあったそうな んです」  「ごり押しの介入か。それにしてもいきなりだな。 和光交易がよく納得したもんだ」  「それなんですけど、伊藤忠側も必ずしも乗り気 じゃなかったみたいなんです。しかも、ソ連側の 代表であるアラベルドフ筆頭副総裁も突然の変更 に抗議をよこしてきたくらいです。それでもまあ、 伊藤忠の線で話はまとまったと」  「どういうことだ」  妙な引っ掛かりを感じて突っ込むと、伴は肩を すくめて答えた。  「裏でいろいろ動いてたらしいんですよ、伊藤忠 の元会長が」  その返答は、鈍く重い衝撃となって砂田を打っ た。  伊藤忠の元会長にして現相談役。  瀬島龍三だ。  もっと早く気づくべきだったI  迂闊であったとしか言いようはない。伊藤忠と 聞いた時点で、どうしてその名を思い出さなかっ たのか。  元帝国陸軍中佐である瀬島龍三は、関東軍作戦 参謀として満州で種々の活動を行なった。敗戦と 同時にソ連軍の捕虜となり、シベリアで十一年間 に及ぶ抑留生活を送る。帰国後、伊藤忠商事に入 社した瀬島は、いわゆる賠償ビジネスに深く関わ り、瞬く間に頭角を現わした。  その経歴から政財界にも確固たる人脈を持つ彼 については、常にさまざまな噂が囁かれていた。  曰く、「ソ連との停戦交渉時、囗本兵捕虜抑留 についてソ連側と密約を交わした」。  曰く、「瀬島はソ連の意を受けた工作員である」。  前者に関しては信憑性に欠け、どこまでも噂の 域を出ないが、後者は少し違う。  昭和二十九年のラストボロフ事件や五十七年の レフチェンコ事件においてもその名が取り沙汰さ れている。ことにアメリカに亡命した元KGB少 佐スタニスラフーレフチェンコによる米下院情報 特別委員会秘密聴聞会での証言は、日米両国に大 きな衝撃を与えた。  ソ連の週刊誌『ノーボエーブレーミヤ』東京特 派員として来日したレフチェンコは、積極工作部 門担当者として政財界やマスコミ関係者を取り込 んでいたという。彼は二百人に及ぶ日本人協力者 の実名を供述した。  日本警察も警察庁警備局外事課と警視庁公安部 外事一課から担当官を派遣し、極秘裏にレフチェ ンコの事情聴取を行なっていた。三年前のことで ある。  その結果、警察はレフチェンコが直接運用して いた工作員は現職の国会議員やジャーナリストを 含む十一名であるとしたが、いずれも公訴時効を 迎えていたり物的証拠が得られない等の理由で立 件は見送られている。  レフチェンコが直接には接触していなかった日 本人工作員の中に、『グラズノフ』なるコード ネームを持つ大物財界人がいたという。その実名 は現在確認できるいかなる資料にも記載されてい ない。このグラズノフこそが瀬島龍三ではないか というのが、外事警察の中で今も囁かれる〈噂〉 であった。 「まさかとは思ったが、出てきましたねえ、奴が。 大物すぎて、私もそこまで頭が回りませんでした よ」  皆の気持ちを代弁するように串田がとぼけた口 調で言う。その表情とは裏腹に、彼の細長い顔に は粘り付くような汗が浮いていた。  「どうします、班長」  伴が指示を請う。他の者も一様に砂田を見つめ ている。  比較的若い捜査員で構成されている砂田班の 面々も、外事であるからには瀬島龍三の名とその 〈噂〉について耳にしている。また瀬島の圧倒的 影響力についても。  黙考の末、砂田は己の決意を口にした。  「やる」   一同の間に無言の緊張が走る。  「伊藤忠、及び瀬島龍三に関する業務は続行。た だし分室以外での本件に関する会話は厳禁とする。 いいか、このメンバー以外には絶対に言うんじや ないぞ。外一の誰にもだ」  「課長には報告しないんですか」  鋭く訊いてきたのは圭子であった。  一瞬詰まったが、砂田ははっきりと答えた。  「折を見て俺から話す。心配するな」  瀬島龍三が中曾根康弘現総理のブレーンである ことは広く知られている。総理就任後間もない時 期に戦後初の公式訪問となる中曾根訪韓が実現し たのは瀬島の力あってのことと言っても過言では ない。それだけでなく、全斗煥大統領の来日や 天皇との会見実現にも大きく関与している。  レフチェンコ事件その他のスパイ疑惑で捜査の 手が瀬島に及ばなかっだのは、背後に中曾根総理 が控えていたからだと考える外事の現場捜査員が 多いのも以てゆえなしとばしない。  だが、それが正鵠を射ているとは言えないこと も砂田はよく知っている。  なぜなら瀬島は総理の陰に隠れているわけでは ないからである。少なくとも瀬島本人は、自分の 方が中曾根を操っていると考えているに違いない。 それほどまでに堂々とした態度であり、存在で あった。  不快な疲労を抱えて高島平の団地に帰宅した砂 田は、熱気の籠もったダイニングキッチンの窓を 開け、着替えもせずに椅子に腰を下ろした。  外事一課復帰と同時に入居した四階2DKの部 屋である。すでに時代遅れの物件で、エレベー ターも付いていない。それでも十年前に住んでい た木造アパートや警視庁の独身寮に比べるとずい ぶんましに感じられた。独り暮らしには充分な広 さだが、ほとんど寝に帰るだけの味気ない場所だ。  開け放たれた窓から吹き込む夜の風に身を晒し ながら考える。冷蔵庫からビールを出すのも億劫 だった。  太平洋戦争の戦後補償として日本はインドネシ アや韓国に多額の賠償を行なった。しかしそれは、 被補償国の政府が必要な物資やインフラの建設を 日本企業に発注し、支払いを日本政府が保証する というものである。商社にとっては、代金を回収 し損ねることの決してない極上のビジネスだ。し かも巨額の利権が黙っていてもついて同る。そし てその金の一部、いや、一部と言い切るのがため らわれるほどの莫大な金が当事国双方の闇に消え た。  戦時中は主任参謀として数々の作戦を立案した 男。  シベリアの捕虜収容所では、過酷な環境下で強 制労働に使役される部下の日本兵達を横目に、敷 地内で優雅に散歩していたという男。  そして今は政財界の重鎮として表社会の栄誉を 一身に浴びながら、裏社会にも睨みを利かせ、警 察の手の届かないところに安閑としている男。  ふざけやかってI  関東軍の戦費も、被補償国への賠償金も、すべ て国民の税金である。  面倒ではあったが、とうとうたまらなくなって 立ち上がり、冷蔵庫からビールを出して開栓する。 一度座ってから舌打ちして再度立ち上がり、作り 付けの小さな食器棚からコップを取り出してビー ルを注ぐ。  それまでインドネシア政府と接点のなかった伊 藤忠をつないだのは瀬島だが、彼にスカルノ政権 とのパイプの在処を教えたのは参謀本部作戦課時 代の先輩である辻政信だ。戦時中は「作戦の神 様」とまで言われた人物で、ノモン(ン事件の責 任者でもある。辻もまたその責任をうまうまと逃 れている。  そして、KCIA幹部だった崔英沢に瀬島龍三 を引き合わせたのは児玉誉士夫だ。  砂田は飲み干したコップをテーブルに叩きつけ て呻く。  上海で児玉機関を組織し、主に海軍物資調達の ため活動した。アヘンの密売で得た巨額の資金を 囗本に持ち込み、A級戦犯に指定されながらも起 訴を逃れた右翼の巨頭。  そうだ、ロッキード事件の児玉誉士夫だ。  苦いビールを黙々とコップに注ぐ。この時季に しては夜の風が冷たくなった。そのせいか、一向 に酔いが回らない。いや、夜風のせいではないだ ろう。  昨年二月、竹下登が創政会を結成し田中派を 割って出た。それに激昂した田中角栄は脳梗塞で 倒れ、事実上影響力を失った。金権政治の報いと は言え、それが闇将軍ともキングメーカーとも呼 ばれた人の現在である。ロッキードで狂った歯車 は、取り返しのつかない悲劇をもたらした。  その一方で、第二次防衛力整備計画の裏で暗躍 していた瀬島は今も政財界に君臨し、勲一等瑞宝 章まで授けられている。  悔しかった。自分が角栄贔屓に過ぎることは自 覚している。それでも砂田は悔しかった。  頭を振って立ち上がり、冷蔵庫から二本目の ビールを引っ張り出しにかかる。  そのとき、茶箪笥の上に置いてあった電話が鳴 り出した。東池袋のアパートからそのまま持って きた数少ない家具だ。  冷蔵庫を閉めて受話器に飛びつく。たとえ意識 が朦朧となるほど酔っていたとしても、すぐに電 話に出るのが警察官に共通した習慣である。また 同時に必ず時刻を確認する。午後八時十一分。  盛岡だった。公衆電話だ。  〈今、東芝の対ソ貿易担当役員を視察してるんで すが、例の女、伊藤忠に接触していたクラ圭フー ルシーノワが現われました〉  「どこだ」  〈芝公園のクレツセントです〉  「すぐに行く」  受話器を置いて飛び出した。港区芝公園の高級 フレンチ『クレツセント』は、英国風煉瓦造りの 老舗レストランだ。予約なしで入れる店ではない。 かつての先輩による薫陶の賜物で、銀座をはじめ 東京中の著名な飲食店は今でもあらかた把握して いる。もっとも当の先輩−逢沢は、「俺もク レツセントで飯が食える身分になってみたいよ」 と嘆いていたが。  団地のドアを施錠しながら、着替えずにいてよ かったと思った。  地上五階建ての威容を誇るクレツセントの正面 入口から五〇メートルほど離れた場所でタクシー を降りる。そぞろ歩きを装いつつ向かいの舗道を 進んでいると、芝公園の木立の合間から、一瞬掌 が突き出されるのが見えた。盛岡の手だ。  さりげなく近寄って、そのまま木立の後ろに身 を隠す。そこからはクレツセントに出入りする客 がはっきりと視認できた。しかも夜なので、よほ ど注意しない限り通りからは見えない。  「人数は」  囁きよりも微かな小声で問う。 「三名。マル対の役員二名とK(KGB)の女」 「入店した時刻」 「マル対二名が七時五十二分に先着。八時四分に Kの女。少し様子を見てからあそこの電話ボック スまで走りました。その間の出入りはありませ ん」  盛岡の返答に無駄はなかった。砂田は満足し、 指示を下す。  「分室に電話して追尾用の車輛を用意させろ」  盛岡が無言で電話ボックスヘと移動する。その 間も砂田はクレツセントの出入口から目を離さな い。  ソ連は今回の事件を隠蔽したいと考えているは ずだ。だがKGBはこれ見よがしと言っていいほ ど公然と関係者に接触している。その狙いがI体 なんなのか、見当もつかない。  一方の東芝側は、警戒している様子が微塵も感 じられない。COCOM違反に関して内部告発の あったことは関係省庁からの連絡で知っているに もかかわらず、反省の色などどこにもない。官僚 に言われた通り、事件は落着したと思い込んでい るのだろうか。それとも最初から罪の意識などな かったのだろうか。いずれにしても呆れるしかな い傲慢さであり、無防備さだ。  そんな彼らにとって、今店内で食事している相 手がKGBの機関員であろうとは、想像を絶する ことに違いない。  あのときは若かったとは言え、この俺が騙され たほどの女だI民間企業の手に負える相手じゃ ないI  盛岡が戻ってきた。  「分室には眉墨がいました。カローラでこちらへ 急行するとのことです。他は全員視察中で連絡が 取れないそうです」  盛岡と一緒になってクレツセントに出入りする 客を監視する。盛岡は新たに来店する客、また帰 る客の人相風体をそのつどすばやく手帳にメモし ている。  砂田が到着してから五十七分後、店の前に(イ ヤーが停まった。  勘で分かる。砂田は両眼を見開くようにして店 の出入口を凝視する。  案の定、店から三人の客が出てきた。顔を赤く した壮年の男二人と、金髪の白人女性。  間違いないIクラーラだ。  写真で見た通りの美貌であった。十年前、最初 に会ったときの儚さは、華やかな色香へと変化し ている。  マネージャーとウェイターに見送られ、三人は ハイヤーに乗り込んで去った。  その瞬間、砂田は彼女がIクラーラがこちら を見たように思った。確証はない。気のせいかも しれなかった。冷静を保っているつもりだが、今 の自分は、少なくとも普段通りであるとはとても 言えない。  追尾用のカローラは間に合わなかった。おそら く都心の渋滞に巻き込まれたのだ。この場所では 簡単にタクシーは拾えない。これ以上の追尾はあ きらめるしかなかった。ハイヤーのナンバーは記 匳した。  盛岡とともにその場で待つ。四分後、徐行して くるセダンのヘッドライトが見えた。圭子だ。  木立から出てカローラに近寄り、すばやく後部 座席に乗り込む。後から乗った盛岡がドアを閉め ると同時に、圭子がアクセルを踏み込んだ。  「申しわけありません」  圭子はすでに状況を察している。 「気にするな。このまま分室まで戻ってくれ」 「はい」  車中、珍しくためらいがちに盛岡が口を開いた。 「班長」 「どうした」 「写真よりも断然いい女でしたね」 「馬鹿」 「すんません」 盛岡は慌てて謝った。 砂田は憮然として胸の内に呟くしかない。 馬鹿−今のはおまえに言ったんじやないI バックミラーの中で、圭子の視線が微妙に動い た。  その三日後。警視庁公安部外事一課に、砂田宛 ての郵便物が届けられた。  ありふれた事務用の封筒に、達筆な毛筆で「砂 田修作殿」と記されている。差出人の名前はな かった。  職員からそれを渡された砂田は、はさみを使っ て慎重に開封した。  中にはレターパッドが一枚だけ入っていた。  そこに記されていた、たった一行のメッセージ。  ボールペンのぎこちない文字。宛名を書いたの とは明らかに違う人物の手によるものだった。  それを目にした砂田は、思わず呻き声を洩らし そうになった。  【またあなたと、あのフルーツパフェを食べたい わ】  神泉の分室に砂田班の十三人全員が集合し、会 議が始まった。 「レストラン『クレツセント』でKGB機関員ク ラーラールシーノワと接触した東芝役員二名につ いては、その後の行動に目立った変化は見られま せん。東芝周辺から探ってみたところ、問題の役 員二名は、財界のパーティーでポーランド人の女 性実業家カタジーナーシマンスカと知り合ったと のことで、なにしろ相当な美人ですから、鼻の下 を伸ばしに伸ばして女の持ちかけてきた事業の話 を聞いているようです」  持ち前の砕けた口調で盛岡が報告する。  「Kのスパイが、今度はそんな名前を名乗ってや がるのか」  吐き捨てたのは伴であった。彼の同期であり親 友でもあった捜査員は、ソ連の大使館員を視察中 轢き逃げに遭い死亡した。事故として処理された 彼の死が、本当に事故であると思っている者は外 事にはいない。  間を置かず串田が発する。  「「ニートラップの仕込みかな」  「今のところその兆候は見られませんが、この先 についてはなんとも言えません。と言うのも、シ マンスカの事業ってのがポ圭フンドヘの機械輸出 に関する話で、亶]つ当に進めば立派なもんですが、 例のCOCOM違反、あれと同じビジネスを狙っ ている可能性があります。もっとも、通産省から 内々に指導があったはずですから、この時期に東 芝がそんな怪しい話に乗るとも思えません」  「東芝社内では調べてないのか、その女の素性 を」  盛岡の報告にじっと耳を澄ませていた砂田が質 問を発する。  「ええ、役員の案件なんで、どうも遠慮してるみ たいですね。もちろん商談がもっと具体化すれば、 当然調べることになるだろうとは思いますが」  どういう神経をしてるんだ、東芝はI  砂田には到底理解できない巨大企業の体質で あった。  続けて伊藤忠社員、及び告発者熊谷氏について の報告があった。  彼らの周辺では、いずれもKGBの機関員が跳 梁しているらしい。ただし熊谷氏は依然暗殺を怖 れているようで、極めて用心深く彼らとの接触を 避けているという。  部下達の報告を真剣に聞きつつも、ともすれば 思い出さずにはいられなかった。  自分宛てに届けられたあの〈手紙〉のことを。  会議の終わりに、砂田は五人の部下に声をかけ た。  「和泉、青野、眉墨、嶋木、それに串田さんは 残って下さい」  他の七人が退室するのを待って、砂田は例の封 筒を取り出し、中のレターパッドを五人に見せた。  【またあなたと、あのフルーツパフェを食べたい わ】  たった一行の奇妙な文言。  「なんですか、これは。暗号のようにも思えます が」  嶋木が当然の質問を投げかけてくる。  「クラーラールシーノワからの手紙だよ」  五人が一斉に顔を上げる。  「若い頃の恥は口にしたくもないが、十年前、俺 はアンナーワイズと名乗っていたルシーノワと接 触を繰り返した。その話は前にしたな? 彼女と 一度、日本橋の千疋屋本店に入っだことがある。 俺にだけは通じると思ってそんなものを送ってき たんだろう。しかも俺が来るものと決めてやがる。 大胆不敵という奴だが、それだけ俺が舐められて るとも言えるな」  「ここまであからさまな罠もないんじやないです か」  青野が呆れたように漏らす。 「まったくだ」  そう答えるしかないIまったくだ。  「単なる挑発の可能性は。つまり、店に呼び出し たつもりも、自分が行くつもりもないってことで す」  考え込みながら言う和泉に、  「その可能性はないとは言えない。しかし俺は違 うと思う」  どうしてそう思うのか、と聞き返してくる者は いなかった。日夜現場で各国のスパイと直接渡り 合う外事捜査員に共通する、皮膚感覚とでも称す べきものへの信頼である。  「もしかして、班長はこの誘いに乗るつもりなん じやないですか」  圭子だった。その視線には詰問するかのような 光があった。  「鋭いな。そのつもりだ」  「どうかしてます。相手はKで、しかも罠だと分 かってるんでしよう?」  普段は外事の顔を身につけているはずの圭子が、 今はわずかながらも女の顔を見せている。  優秀でもまだ新人かI  内心でため息をついたとき、串田が砂田に代 わって答えてくれた。  「考え違いをしなさんな。ここは外事だぞ、眉 墨」  それだけで圭子はすべてを察し、瞬時に普段の 顔を取り戻した。  「私の考えが足りませんでした。お詫びします」  砂田は微かに頷いてみせ。  「俺は一旦本部(警視庁)に戻り、二時間後に千 疋屋へ直行する。これが俺を誘い出すための罠な ら、KGBのアルバイトが千疋屋を監視している はずだ。俺が店に入るのを確認次第、ルシーノワ に連絡が行く手筈になってるんだろう。どっちに しても不確実な、腹の探り合いみたいな罠だ。何 日か続けていればなんらかのアタリがあるに違い ない」  そして五人の顔を見回し、  「嶋木と眉墨はアベックのふりをして俺より十五 分以上先に入店しろ。着替えの時間を考えても充 分間に合うだろう。嶋木、おまえは若いわりには 私服がどうも年寄り臭い。もっとヤングらしい服 を眉墨に見つくろってもらえ」  「はあ、すんません」  嶋木が大仰に頭を掻く。その仕草に先輩の和泉 達が軽く笑った。  「残る三人は店外で待機。KGBも駆けつけてく るはずだから見つからんように注意しろ。ルシー ノワが店を出たら即追尾だ。ただしKに気づかれ たら速やかに離脱。おまえらが拉致されたら取り 返しがつかん」  すると和泉が急に不安を覚えたように。  「大丈夫ですか、我々だけで。逮捕容疑はありま せんし、十年前の身分詐称もとっくに時効になっ てますが、場合によってはルシーノワや他の機関 員を確保する状況も想定されます。上の合意を取 りつけてから動いた方がI」  「構わん」  意図せずしてそっけない返答になった。  「これはウチとルシーノワとの駆け引きだ。あく まで現場判断でやる」  部下達にはそう断言しながら、密かに心の中で 訂正するIこれは俺とクラーラとの駆け引きだ  午後四時を少し過ぎた頃、砂田は千疋屋日本橋 本店ビルのフルーツパ圭フーに入っだ。  時間帯のせいか、店内は比較的空いていた。ア ベックを装った嶋木と眉墨が奥の席に居るのを確 認する。  出入口がはっきりと視認できる位置に空席を見 つけ、腰を下ろしてコーヒーを注文した。  女性客かアベックばかりの店内で、中年男の一 人客はさぞ目立っていることだろう。通常のオペ レーションと違い、今の場合は目立ってくれた方 が好ましい。  ここに来るのは十年ぶりだ。あの日、アンナ ークラーラと訪れたとき以来である。  内装は当然変わっているはずだが、どこがどう 変わったのか、さだかには分からない。はっきり と覚えているのは、クラーラが水色のカーディガ ンを着ていたこと、店を出てから秋の日差しの中 を二人で歩いたことくらいである。  そして何より、彼女がフルーツパフェを注文し たこと。  あの女がよく覚えていたものだI  その事実がなぜか妙に胸をざわめかせる。悔し くてたまらないはずなのに、どこか嬉しくもある。 外事の警察官として失格というはかない。  喉を鳴らしてコーヒーを半分ほど一気に飲んだ。 己の未熟さが腹立たしい。  この十年、あの女のことなど思い出す暇もなく ひたすら仕事に打ち込んできたはずなのに、一体 なんだ、このザマはI  腕組みをしてじっと待つ。たとえ今日が空振り に終わったとしても、数日以内に必ずなんらかの リアクションがあるはずだ。根拠のないその確信 に揺るぎはなかった。  四時五十分を過ぎた頃。  出入口の方向を見ずして視界の隅に捉えていた 砂田の鼓動が急激に高まった。  来たI  水色のカーディガンではもちろんない。サマー ウールのパンツスーツ。エルメスのパーキンまで 手にしている。外事に配属されなければ、一生縁 もなかったであろうファッションの知識だ。  うっすらと笑みを湛え、彼女はテーブルの向か いに腰を下ろした。  すぐに近寄ってきたウエイトレスにフルーツパ フェを注文してから、なんのためらいもなくまっ すぐに砂田を見つめる。まるで昨日別れたばかり のように。  錯覚だ。時間は確実に過ぎている。目の前にい る女は、羽化する前の幼生でもなければ開花する 前の蕾でもない。完璧な〈女〉であった。  砂田は思わず苦笑を漏らすIきっと自分は、 彼女よりもずっと長い年月を過ごしたように見え ることだろう。  その笑みをきっかけと捉えたのか、彼女は紅く 光っているような唇を開いた。  「ちっとも変わってないわね、宮田さん」  十年前とは明らかに違う、滑らかな日本語だっ た。あのたどたどしかった発音の痕跡は欠片も 残っていない。いや、当時の発音も擬装だった可 能性さえある。  彼女はこちらをあえて〈宮田〉と呼んだ。本名 などとっくに把握しているはずであるにもかかわ らず。  そのことが、かえって砂田に余裕と闘志を与え た。  「そうかい。だいぶ老けたつもりだったが」  「あなたはチャーミングなままよ。今も昔も」  チャーミングと来たか。 「十年前は世話になったな」 「こちらこそ」  「お互い皮肉はやめにしよう」  「皮肉じゃないわ。ワイズの確保に失敗して、私、 懲罰の再教育を二年も受けさせられたの。ガ ツィーナの訓練施設で。辛いなんてものじゃな かったわ」  知らなかったIしかし、それはそっち側の I  「信じてもらえないかもしれないけど、あのとき は本当に愉しかった。おいしかったわ、ここのフ ルーツパフェ。だからこのお店を指定したの」  「俺が覚えてなかったらどうするつもりだったん だ」  クラ圭フは明るく微笑んだ。このときだけは、 十年前へと戻ったように。  「分かってた。あなたは絶対に覚えてるって。 だって、今も第一線にいる情報員が忘れるわけな いじやない」  この女は自分をおだてているのか、それとも馬 鹿にしているのか。容易に判別はつきかねた。  「実を言うとね、あなたが覚えててくれてほっと しているの。いえ、本当は嬉しかったのかもしれ ない。そうよ。私は今とってもI」  そこヘウエイトレスがフルーツパフェを運んで きた。  クラーラはすぐさまスプーンを取って生クリー ムを口に運ぶ。  「おいしい。十年前とおんなじ味だわ。ずっと ずっと夢に見てた味」  またあの笑顔だ。  「俺を呼び出した理由は」  本題に入る。いつまでも敵にサーブ権を与えて おくわけにはいかない。  「あなたに教えてあげたかったの」  「何を」  「あなたが見当違いをしてるってこと」  見当違い? なんのことだ?  「瀬島龍三よ」  声を失い、相手の顔をまじまじと見つめる。  身なりのよい外国人女性。今は天真爛漫な笑顔 でフルーツパフェを頬張っている。  アイスクリームやフルーツを上品に平らげてい るその口から、瀬島龍三の名前を聞くことになろ うとは。  「瀬島龍三は『グラズノフ』じゃないと言うの か」  クラ圭フは何も答えず、真っ赤なチェリーを口 に含んだ。  その沈黙さえもが耐え難かった。 「答えろ」 「どっちだろうと、この件には無関係よ」  「瀬島は伊藤忠の相談役だ。関係ないわけないだ ろう」  「だからそれが見当違いだと言つてるの」  「伊藤忠がか」  「ええ」  耳を疑う。売手代表である伊藤忠は当事者もい いところではないか。  「信じられない」  「信じてくれなくてもいいわ。十年前の私かデー トを愉しんでたつてことだけ信じてくれれば」 「あれはデートなんかじやなかった」 「あなたがそう思っているのならそれでもいいわ。 でもね、私にとっては大切なデートだったの。私 の心の中までは誰にも否定なんてできやしない」  「君は俺を騙していた」  「あなたもね」  クラーラに会ったなら言ってやろうと思ってい たことが山ほどあった。なのに一つも出てこない。 もはやそれどころではなくなっていた。  役者が違うI  認めたくはなかったが、これが現実だ。嘘と欺 瞞は美しい顔をして、フルーツパフェを食べ終え た。  クラーラは満足そうにスプーンを置き、  「ああ、私にはやっぱり日本がいいわ。よかった、 また戻ってこられて。私達には任地を選択する自 由なんてないから。ご存じだったかしら、日本で の勤務はお給料も待遇もとてもいいから、私達の 間では人気が高いの」  知っている。KGB機関員の過酷な実情は。  「奥にいるアベック、あなたの部下でしょう? 女性の方はかわいいけれど、もう少し視線に気を つけるように注意してあげた方がいいわ。なんだ か怖い目をしてるもの。それと、私を尾行するつ もりで準備してきたと思うけど、私は大使館の車 で狸穴(ソ連大使館)に帰るだけだから」  黙るしかなかった。  優雅な微笑みを浮かべてクラ圭フが立ち上がる。  「またお会いしましょう、砂田警部補さん」  出ロヘと向かう彼女の背中を見つめながら、砂 田は完全に打ちのめされていた。  またしても手玉に取られたI四係班長のこの 俺がI  クラーラールシーノワとの接触は散々な結果に 終わった。  去り際に明言した通り、彼女は店の近くに待機 していた公用車に乗り込んでソ連大使館に直行し たという。KGBの機関員であることをすでに把 握されているので、何も隠す必要はないと開き 直っているのだろう。ともかく、和泉らの追尾は 完全に無駄となったわけである。  正体を知られて国外に脱出した諜報員が再び派 遣されてくることは、前例がないわけではないが、 かなり特殊なケースとなる。  クラ圭フの場合はまさにそれだ。組織内で重要 なポジションに就いていることは疑いを容れない。  ガツィーナで再教育を受けたと彼女は言ってい た。辛いなんてものじゃなかったとも。  『ガツィーナ』とは、地図にも載っていないとい うソ連のスパイ訓練都市である。きっと血の滲む ような努力の末に這い上がってきたのだろう。  そんなことを考えながら分室に入っだ砂田に、 部下達の視線が問いかけてくる。  あの女とどんな話をしたんですかI  あの女の目的はなんだったんですかI  あの女からネタを引き出せましたかI  恥辱の苦痛を押し隠し、あえてぶっきらぼうに 説明する。ただし、クラーラとの心理的駆け引き を巡る微妙なニュアンスは省いているが。  「それじゃまるで禅問答じゃないですか」  概要を聞いて、若い嶋木が呆れたように言う。  「伊藤忠からウチの目を逸らすための陽動では」  和泉の意見に、青野が賛同する。  「その線が一番ありそうだな」  「待て待て、それだと逆効果じゃないかねえ。か えって伊藤忠が怪しく思えてくるぞ」  串田はさすがに懐疑的だった。 「じやあ串田さん、すべてこっちを煙に巻くため の攪乱だとすればどうです」  新たな仮説を述べる和泉に、  「なんのための攪乱なんだい。相手の目的が読め ない以上、仮説の立てようもないんじやないかな あ」  若手を相手に串田は慎重な意見を述べている。  圭子一人が無言でいるのが、なぜか砂田には特 に応えた。  「串田さんの言う通りだ。現状ではどんな仮説も 単なる予断でしかない」  部下達の議論を遮るように砂田は言った。千疋 屋での失態−いや、醜態かIはなんとしても 取り返さねばならない。それが自分の責任である と思った。  「じやあ、どうするおつもりなんですか」  圭子が初めて口を開いた。 「俺が直接当だってみる」 「当たるって、何にです」 「瀬島龍三にだ」  予想した通り、全員が黙り込んだ。  翌週の木曜、砂田は五反田の都立環境文化セン ターに向かった。その囗、同施設の小ホールでは 「シベリア抑留体験者の集い」が開催される。瀬 島龍三も出席し、スピーチするという情報は以前 から把握していた。  入場には招待状が必要だが、砂田は受付には向 かわず、その横にある職員室のドアを開けた。 「ちょっとすみません」 「なんでしよう」  怪訝そうに顔を上げた職員に警察手帳を開いて 示し、受付の方にも聞こえる大声で、  「ご苦労様です。警視庁の砂田と申します。内々 に警備のお手伝いを命じられまして参りました」  「え、あの、そういう連絡は聞いておりません が」  「私も急に上から言われましてね。なんでも今日 は偉い人達がだいぶ列席されるとか。何かあった ら大変だから、おまえ行ってこい、と」  「ああ、そうでしたか」  特に政治的な催しでもないため、防犯意識の薄 い都職員は簡単に納得してくれた。本物の身分証 の威力でもある。  「じやあ、控室の方に……」  「いえ、私は場内で警戒に当たります。進行の邪 魔にならないようきつく言われておりますので、 どうかお気遣いなく」  「分かりました。ではよろしくお願いします」  「はっ、失礼します」  ドアを閉めた砂田は、受付にいる職員に「ご苦 労様です」と声をかけ、会場内に入っだ。  目立たぬよう、最後列の左端に座る。三百席程 度の小ホールはすでに満席に近かった。  ほとんどの席を埋める老いた男達はシベリアか らの帰還兵だ。他は彼らの家族だろう。関連団体 の支援者もいるはずだ。  クラ圭フはこの件に瀬島龍三は無関係だと言っ た。  嘘か本当か、あるいは和泉の言うようにただの 攪乱か。  この場合できることは、可能性を一つ一つ潰し ていくことだけだ。また外事の警察官として、瀬 島龍三という人物を確かめておくのは決して無駄 にはならない。  瀬島に関する資料はすべて頭の中に入っている。 戦没者の慰霊や数々の社会事業を支援しているの は厳然たる事実だ。その功績を称える声も多い。 今日の催しに招かれるのも当然と言えた。  また同時に、砂田には個人的に気にかかってい ることがあった。昭和十六年、アメリカの禁輸措 置を受けた軍部は石油資源確保のため東南アジア に侵攻し、ついには太平洋戦争の開戦に至った。 そして四十六年、当時通産大臣だった田中角栄に、 石油を米国に依存するのは危険だと吹き込んだの が瀬島龍三だというのだ。そのことは二人の面談 に同席した元秘書官の小長啓一が証言している。  アメリカが角栄を危険視するきっかけとなった 石油政策。その発端が他ならぬ瀬島龍三だったと したらI  やがて来賓のお歴々が登壇し、それぞれの座に 着席した。政治家や財界人。通産省の高官もいる。 砂田はその中に瀬島龍三を確認した。  誰よりも温和な表情で会場を見渡している。写 真や資料から受ける印象とは微妙に異なる、初め て視認する元参謀の姿であった。  マイクを握った司会者が挨拶の言葉に続き、最 初の講演者として瀬島龍三を指名した。  湧き起こる拍手の中、立ち上がった瀬島が中央 にしつらえられた演壇の前に立ち、マイクに向 かって口を開きかける。  そのときI  「瀬島中佐殿」  大きな声を発し、最前列の席に座っていた老人 が立ち上がった。  「無礼は承知しております。この場での発言をお 許し下さい」  突然の椿事に瀬島も驚いたようだったが、それ を一つの演出と見たか、余裕の笑顔で応じた。  「なんでしよう」  「自分も中佐殿と同じ「バロフスクの収容所にお りました」  「ほう、それはお互い苦労をI」  「いいえ」  目許を一層綻ばせた瀬島の言葉を、老人は容赦 なく遮った。  「自分は中佐殿を同じ抑留者であると思ってはお りません」  瀬島の顔から表情が消える。  「(バロフスクで自分達は毎日恐ろしい労役に駆 り出され、多くの戦友が死にました。しかるに特 別待遇の中佐殿は、労役に出る自分らをただ気楽 に見送るだけだった。そんな人に、戦友達の死に ついて語って頂きたくはありません」  会場を埋め尽くした人々は、今や一人残らず凍 りついている。砂田もまた例外ではなかった。  「ただそれだけをお伝えすべく、自分は今日この 場に参りました。あの地獄から生還された抑留者 の皆様とご家族を愚弄するつもりは毛頭ございま せん。それでは失礼致します、中佐殿」  老人はそのまま後方の出ロヘと向かった。右足 をわずかに引きずっていたが、毅然として力強い 足取りたった。  会場のあちこちで、彼の主張に同調したとおぼ しい数人の老人がためらいつつも立ち上がり、後 を追うように退出していった。  瀬島はそれを無言のまま見送っている。その顔 には依然として表情らしきものは浮かんでいない。 憎悪も、憤怒も、悔悟もない。  観察には絶好の機会とも言える特異な状況に遭 遇しながら、砂田には瀬島龍三という人物の内面 が読み取れなかった。  こいつはI体なんなんだI  黒か白かのレベルではない。そうした価値観を 超えた何かだ。砂田はただ混乱した。  「砂田さん」  突然背後から呼びかけられた。振り向くと、砂 田の退路を断つような油断のない体勢で二人の男 が立っていた。警察官であることは一目で分かつ た。   一人の顔には見覚えがあった。もう一人はまっ たく知らない顔だった。左の目許に大きなほくろ がある。  見覚えのある男が背後の出口を顎で示す。外に 出ろという意味だ。  立ち上がった砂田を、男達が左右から挟み込む。  小ホールを出てから、知った顔の男が冷静に告 げる。  「同行をお願いします」  「任意か」  冗談で言ってみたが、男は何も答えなかった。  「警察官が警察官を拉致か。監察に目をつけられ るようなことはしてないはずだが」  ほくろのある方が怒気を浮かべて凄んだ。  「なんであんたがこんな所にいるんだよ」  「山崎豊子の影響でね、シベリア抑留に興味があ るんだ」  「ふざけんな」  知った方の顔が、相方を目で制する。その目の 動きで思い出した。  「あんた、野方署にいた峯だな。ずいぶん前に どっかへ異動になったと聞いたが」  男はやはり答えない。もう一人の男もむすりと 黙り込んでしまった。  二人は砂田を駐車場へ連行し、そこに駐められ ていたトヨタークラウンの中に押し込んだ。ほく ろの男が砂田の横に座る。  運転席に乗り込んだ峯はすぐに発進させた。  「どこへ行く気だ」  峯は答えなかったが、横の男が面倒臭そうに 言った。  「あんたもよく知ってる所さ。俺達の勤め先だ よ」  大方はそれで見当がついた。  「峯、おまえ、『サクラ』だな」  (ンドルを握った峯は無表情のままだっだ。し かし横の男が無言のうちにも驚いたような反応を 示した。  「やっぱりそうか。道理でずっと見かけなかった はずだ」  サクラに選抜された公安警察官は、警察内部に おいてもそのことを堅く秘し、警備局公安第一課 理事官の指令によってのみ動く。公安委員会さえ 彼らの活動を把握できないようになっているのだ。  峯の運転するクラウンは、警視庁新庁舎の駐車 場に入っだ。思った通りだ。砂田は二人の指示に 素直に従い、庁舎内の一室に案内された。峯とも う一人の男はすぐにドアを閉めて去る。  そこで、予想もしていなかった人物が待ってい た。  「課長……」  応接セットのソファに座っていたのは、上司の 阿久津警視正であった。  「馬鹿なことをしてくれましたね、砂田君」  親しさなど微塵も感じられない口調で阿久津は 言った。  「私か命じたのはCOCOM違反に絡むKGBの 不審な動きを解明することだった。なのによりに もよって瀬島さんに手を出すとは」  「手など出していませんよ。講演を聴きに行った だけです」  「君は外事の人間なんですよ。それだけで充分不 適切じやないですか」  「分かりませんね。瀬島さんが潔白なら、何も問 題ないはずでしょう」  「そんなことは関係ありません」  関係ない?  「瀬島さんは総理のブレーンだ。今もさまざまな 案件に関わっておられる」  「だとすれば、公安にとってはよけいに気になり ますね。万一瀬島さんがスパイだったらI」  「だからそれはウチが関知することじゃないと 言ってるんだ」  ついに阿久津は声を荒らげた。  「仮に瀬島さんがソ連のスパイだとしても、サク ラに任せておけばいい。それより君は会場内で眼 を光らせていたサクラに見つかった。公安は自分 の業務に余所者が首を突っ込んでくることを何よ りも嫌う。まがりなりにも公安の一員なら、それ くらい百も承知でしょう。今日の件は、取りも直 さず私の失点となるんですよ」  「もしや課長は、サクラと何か関係がI」  「だったら苦労はしませんよ」  その言い方に、警察内部における曖昧模糊とし た暗闘がなんとなく察せられた。  「サクラはあくまで警備局の管轄です。私レベル では触れるもんじやありません」  そこで阿久津はわざとらしいため息をつき、  「君はもう少し頭のいい人だと思っていました。 だから公安に引っ張ったんです。ゆくゆくは私の 右腕になってもらおうとI」  「待って下さい」  思わぬ話に砂田は身を乗り出した。  「馬越さんの話では、私の、その、若い感性が必 要とされていたと……」  「そんな甘い理由で、国家にとって大事な仕事を 任せられるものですか」  鼻で笑われた。  相手が昔と変わらぬ端整な外見をしているだけ に、その態度や表情との落差には、自分でも意外 なまでの落胆を覚えていた。  警視庁新庁舎を出た砂田は、歩きながら考えた。  瀬島龍三はこの件には関係ないIクラ圭フは そう言っていた。  それは正しかったのだ。  瀬島の周辺にはサクラが眼を光らせていた。一 見大いに関係があるように思えるが、本当にそう だったとしたら、クラーラがそんな見え透いた嘘 をわざわざ自分に告げに来る意味がない。  サクラは瀬島を護衛していたのではない。監視 していたのだ。  瀬島龍三は大物中の大物だ。政府にとって欠か せない人物だ。スパイの疑いもあるが、それはあ くまで噂であって、本当のところは分からない。 少なくとも警察には手が出せない。だからサクラ は〈監視している〉というメッセージのみを伝え るにとどめていた。  クラ圭フがなぜそのことを自分に教えたのかと いう謎は残るが、今は措いておくしかない。  瀬島龍三は無関係だ。サクラも現状を維持した いし、必要以上に剌激したくない。そこへのこの こ自分が現われたのだ。  笑わずにはいられない。十年前の東陽三丁目の 倉庫といい、自分はよほど間の悪い巡り合わせに あるらしい。  峯もほくろの男も激怒するはずだI  砂田の足が止まった。心の中で我が眼の節穴ぶ りを罵倒する。  ほくろの男−  踵を返し、出てきたばかりの新庁舎へ取って返 す。  間に合えばいいのだがI  刑事部のフロアから順番に覗いていく。自分の 勘に間違いがなければ、警務部でも保安部でもな い。刑事部だ。  (ンカチで顔の汗を拭い、ちよつとした所用で 立ち寄つたかのような素振りでフロアを横断しな がら周囲に視線を走らせる。  もう戻つちまつたかI  捜査一課から二課へ。焦る心を抑えつつ、少し ずつ足を速める。  いたI  ほくろの男が、二課のフロアに。  係長の小野田や数人の捜査員と何事か話してい る。  捜査二課は、詐欺、選挙違反、贈収賄、背任、 脱税などの金融犯罪や知能犯罪を扱う部署である。  さりげなく視線を逸らし、自然な動作を装って フロアから出る。  階段か、エレベーターか。どちらを使うか分か らない。廊下の端で背を丸め、煙草に火を点ける ふりをしながら待つ。  ほくろの男がすぐに出てきた。一人だ。早足で エレベーターの方へ向かっている。  後ろから接近し、親しげな笑顔とともに左腕を 抱え込み、耳許で囁く。  「ちょっと付き合ってくれよ」  「砂田か」  「こっちのネタも提供する。あんたに迷惑はかけ ない」  「迷惑ならとっくにかけられてんだよ」  「その件に関しては申しわけないと思ってる。だ がそれも俺が何も知らされてなかったせいだ」  微かなため息をついて、ほくろの男は存外素直 に従った。  「分かった」  男を連れ、空いていた会議室に入り込んでドア を閉める。  「峯と一緒にいたからサクラかと思ったが、あん たの顔、そう、そのほくろだ、そいつは特徴があ りすぎる。追尾には最も不向きなタイプだ。公安 にいないわけじゃないが、少なくともサクラじゃ 考えられない」  「少しは使えるようじゃないか」  開き直ったように言い、男はパイプ椅子の一つ に腰を下ろした。  「あんた、新顔だな? それとも他県からの出向 か? いくら外事が普段庁舎にいないといっても、 すれ違うことくらいあるだろう。なのに俺はあん たを知らなかった」  「前は八王子署にいた。こっちには先月からだ」  「名前は」  「五十部だ。いいか砂田、このことは正式に抗議 するからI」  「分かってる。もう散々叱られた。処分は覚悟の 上で言っている」  威嚇にかかった相手を遮り、  「教えてくれ五十部さん。サクラでもない二課の あんたが、峯と一緒に瀬島を張ってた理由はなん だ」  「その前にそっちのネタを渡せ」  右手の指で大きなほくろをこすりながら、五十 部が抜け目なく要求してくる。  「瀬島龍三は東芝のCOCOM違反には関係して ない。KGBがそう連絡してきた」  「KGBが?」さすがに五十部も目を剥いた。 「本当か」 「ああ」 「なんでそんな……あちらさんの狙いは」 「ウチはそれを含めて調べてたんだよ」 「そういうことか」 「こっちは話した。次はあんたの番だ」  五十部はほくろとともに唇の端を吊り上げて、 「やっぱりおまえは間抜けだな。俺は瀬島を張っ てたんじやない。そもそもあの会は、瀬島の講演 会でもなんでもない」  「じやあ誰を張ってたんだ」  「それくらい自分らで考えろ。俺が話せるのはこ こまでだ」  「五十部さん’・」  「考え違いすんじやねえよ。ここまで話しただけ でも精一杯の厚意なんだ」  面白くもなさそうに立ち上がり、五十部は会議 室を出ていった。  神泉の分室に戻った砂田は、急遽招集した全捜 査員に事の次第と経緯を告げた。  「つまりこの事案の本質は、公安事案ではなく、 捜二の管掌になる経済事案だっちゅうこってす か」  串田が呆れたように言う。  「その可能性が高いというだけです。断定はでき ない」  それから砂田は、シベリア抑留体験者の集いに 列席していた要人の名前を残らず黒板に書き記し た。  政治家。財界人。高級官僚。瀬島龍三を除くと 全部で九名。現役、OBを問わず、公安なら名前 を知っていて当然の人物ばかりであった。  「手がかりはこの中の誰かが持っている。もしく はその大物の周辺にある。それを徹底的に調べ上 げろ。壇上ではなく客席にいたのかもしれないが、 そこまでは俺も見ていなかった。まずはこの九人 だ。責任は俺が取るから心配するな。頼んだぞ」  例によって部下達が間隔を空けて退室していく。  最後に残っだのは圭子であった。時間が来ても 席を立たず、何か言いたそうにしている。  「どうした、早く行け」  そう声をかけてみると、圭子は意を決したよう に、  「班長」  「なんだ」  「もしかして、クラーラールシーノワは捜査をこ こへ誘導するために班長に接触したのでは」  「それは俺も考えた。しかし、俺がシベリア抑留 体験者の会に顔を出すことまでは推測できなかっ たはずだ」  「でも、きっかけさえあれば、班長ならいずれは 事案の本質に辿り着いたのでは」  「あんまり買い被らないでくれ」  「買い被っているのは私ではありません。ルシー ノワです」  驚いて圭子を見つめる。 「すみません、変な言い方をしてしまいました」  俯いた圭子は、しかしまたすぐに顔を上げ、  「仮にルシーノワの目的が私の仮説通りだとして、 彼女に、いえ、KGBにとって一体どんなメリッ トがあるんでしょうか」  「俺達はそれを調べてるんだ。業務の目的を見失 うな。俺達の仕事ではな、懸命にスパイを追って いたつもりが、ある囗気づいてみたら追ってたの は自分の尻尾だったってことがよくあるんだ。自 縄自縛って奴だな」  「自縄自縛……」  圭子はなぜか胸を衝かれたような表情を浮かべ た。  「そうだ、それがこの世界だ。分かったら、さあ、 早く行け」  「はい」  立ち上かって出口に向かいかけた圭子は、足を 止めて振り返り、思い詰めた面持ちで言った。  「おっしやる通りです。自縄自縛に陥っているの かもしれません。私も、ルシーノワも」  どういう意味だIそう尋ねようとして、やめ た。  意味は、分かる。しかし今は何も言うべきでは ないと判断した。  その判断が〈逃げ〉でしかないこともまた承知 している。  こちらの反応を窺うように立ち尽くしていた圭 子は、落胆とも軽侮ともつかぬ表情を浮かべ、静 かに去った。  情けない、我ながら。  無性に酒が飲みたくなってきた。だが胸襟を開 いて飲む相手など、外事の捜査員には望むべくも ない。  かつての上司である馬越や、先輩の逢沢がたま らなく懐かしかった。二人にも癖や欠点はあった と思う。しかし、彼らは皆大人であった。それに 比べて、この歳になっても自分は今も子供でしか ない。  砂田は打ちひしがれた気分で立ち上がった。  六日後、砂田班の捜査員がそれぞれの成果を携 えて分室に集合した。  「そもそも本事案で最も不可解な点は、通産省が なぜCOCOMからの警告を無視するかのような 態度に出たかということでした」  意気込んで報告したのは青野であった。  彼が担当していたのは、通産省の高級官僚であ る。  「調べてみればそれも道理で、要は通産省自体の 責任問題につながる秘密かあったからです」  「それは東芝機械と伊藤忠が出した輸出申請書が 虚偽だと見抜けなかったということか」  砂田の問いに、青野はさらに語勢を強め、  「もちろんそうした行政上の責任もあります。で もそれだけじやありませんでした。防犯部生活経 済課の捜査では、どうやら通産省機械情報産業局 の職員が東芝機械の接待を受けていたようなんで す」  全員が腑に落ちたといった表情を見せる。  それは確かに捜二の管轄となるものであった。  「自分の同期に防犯部の男がいて、こっちの借り ということでネタをもらいました。共産圏への輸 出に際しては、貿易局輸出課への申請前に機械情 報産業局でCOCOMの規制に抵触しないかどう かを審査し、『非該当証明』を出す仕組みになっ ているのですが、東芝機械から押収されたメモに よると、機械情報産業局の職員がどうすればこの 非該当証明か得られるか、事前に詳細な説明を行 なっていたというんです。今回の事例に関して言 うと、九軸と五軸の機械をCOCOM規制枠内の 二軸と偽って規制を逃れる手口。つまり東芝機械 は、通産省からその手口を教わっていたという構 図になります」  とんでもない話である。通産省がなんとしても とぼけ通そうとするわけだ。  「接待の事実について具体的な証拠はあるのか」  自らの興奮を抑えつつ質問を発する。  「はい、自分のネタ元によると昭和五十六年前後 に、機械情報産業局の複数の職員が伊豆西海岸で 豪華ヨット『フローティングホテルースカンジナ ビア』で接待を受けたそうです。しかも、工作機 械輸入のため訪日していたソ連の技術者も同席し ていたということです」  ソ連の技術者−  部下達の顔が一転して強張っていくのが分かる。 思いもよらなかった不正の構図が浮上してきた。  青野に次いで、和泉が報告する。彼の担当は外 務省だ。  「COCOM事務局への通報を受け、タラリゴ議 長は日本側に問い合わせを行ないました。これが 六十年の年末。関係書類は外交文書として外務省 を通じて届けられるわけですから、その時点で、 外務省は事態を把握していた。実は、外務省では 密かに警視庁に問い合わせていたそうなんです」  なんだってIさすがに部下達の間から声が漏 れるI俺達はまた蚊帳の外かI  それらの声に関係なく、和泉はあくまで冷静に、  「これは外務省側から仕入れたネタですが、警視 庁でも実はサンズイ(汚職)として立件を検討し ているらしいということです」  汚職なら完全に搜二の縄張りだ。ほくろの五十 部が動いていたのも筋が通る。  青野と和泉の話を裏づける報告が続いた後、最 後に串田が数枚のコピーをテーブルの上に投げ出 した。  だいぶかすれて読みにくくなっているが、英文 の文書であることは分かった。  「このCOCOM違反、日本側の対応があまりと 言えばあんまりなんで、アタマに来たアメリカが CIAに命じて調査を始めた、ということでした よね。だったら今回、ウチとCIAは利害が一致 しているわけだ。かと言って、捜査協力できるほ ど仲よく連絡を取り合ってもいないし、上を通さ ず勝手に協力を申し入れたりすることもできない。 そこでちょいと非公式に」  「串田さん、まさかI」  驚いて腰を浮かしかけた砂田に、人を食ったよ うな笑みを浮かべて串田は続けた。  「ご心配なく。もう引退して日本で隠居してる元 CIAの爺様かおりましてね。なにしろ日本贔屓 だから手土産に豆大福持ってご機嫌伺いに行った ところ、喜んで相談に乗ってくれました。あくま で個人的にです。その結果がこのコピーつてわけ で」  コピーを取り上げ、貪るように読む。  「ワシントンのKストリートに近い場所にある囗 本の業界団体『MIPRO』、こいつは製品輸入 促進協会の略称ですが、事実上通産省の出先機関 で、囗本の情報中継地点でもあります。そのコ ピーの元は、NSA(国家安全保障局)がMIP ROのファックス通信を傍受したもんだそうで す」  普段は謹厳でしかつめらしい顔をした伴が頓狂 とも言える声を上げた。  「そりゃ滅茶苦茶ヤバいじゃないですか、串田さ ん。もしバレたら我々全員−」  「それがそうでもないんだよ」  串田はあくまでとぼけた口調で、  「爺様が言うには、入手にはほとんど苦労しな かったって。アメリカも黙認してくれたんだろう な。それだけ本気で囗本に怒ってるってこと」  「しかしですね……」  食い下がる伴に、串田はさらに衝撃的な言葉を 発した。  「大丈夫だって。そこに書かれてる内容に気をつ けろって日本側に注意してくれたのは、ほかなら ぬアメリカ当局だそうだから」  新宿三丁目のバー『イノセンテ』のカウンター で、砂田は一人グラスを傾けていた。  モルトウイスキーのバルヴェニー。(Iフロッ クで飲んでいるが、マッカランよりも濃厚な味わ いは意外と砂田の嗜好に合った。  午後八時を過ぎた頃、カウンターの隣に男が 座った。  「よう宮田ちゃん、しばらく」  サマーセーターにスポーティーなチノパン。フ リージャーナリストの甘地だ。  「待たせちゃったかな」  「いや、俺もさっき来たばっかりだ。珍しいな、 あんたの方から誘ってくれるなんて」  「最近干されてるって聞いたもんでさ。一丁励ま してやろうと思ってね。久々に顔も見たかった し」  「そいつは嬉しいが、別に俺は干されてるわけ じゃない。単に仕事が減っただけさ」  甘地は砂田と同じバルヴェニーをオーダーし、  「新人類じゃないと駄目なのかな、最近は。浅田 彰とか泉麻人とか、ずいぶん売れてるもんな」  「若いのにはもう敵わねえよ。こっちはロートル もいいとこだ」  「別にサブカルやニューアカ始めようってわけで もないだろう」  「まあな。あっちは俺なんかにやもうわけが分か らん」  「ロートルつたって、宮田ちゃん、四十になった んだっけ」  「まだだよ」  「そうか。でも老けて見えるぞ」  「あんたに比べると誰だって老けて見える」  柢い声で甘地は笑った。若々しい活力に満ちた 笑いであった。砂田と同年輩だが、昔から女を切 らしたことがないという。  スコッチのグラスが出された。二人で乾杯する。  バーテンが離れるのを確認した甘地が、前を向 いたまま小声で囁く。  「Kの方だが、モイセーエンコやブイチコフの動 きに変化はない。新顔のラチコもだ」  「そうか」  視線を合わせず、グラスを口許に運ぶ。  甘地は情報提供者の一人であった。  「じやあ後は適当に飲んでくれ。これ以上あんた のにやけた顔を見てたら胸やけしそうだ。俺は十 分後に出る。勘定は済ませとくよ」  「まあ待てよ。それだけならわざわざあんたを呼 び出したりしない」  グラスを置いた砂田の気を持たせるように、  「Kとは別の筋のネタが入ったもんでね」  「言ってみろ」  「CとNだ」  CIAとNSAかI  驚いて横に座る甘地を見る。  その横顔にはいつものにやけた笑みがなく、代 わりに怯えにも似た緊張が窺えた。  神泉の分室に戻った砂田は、自席から電話をか けた。室内には他に誰もいない。  相手はすぐに出た。  「あ、串田さん、こんな時間にすみません……そ うですか、よかった、実は昨日伺ったCIAの御 隠居、私にもぜひ紹介して頂きたいと思いまして ね……ゝ凡ゝ凡、できれば今すぐに……もちろん事情 は説明します……では、私は分室で待機しており ますので」  およそ一時間後、串田が分室に顔を出した。  「何かつかんだんですね、班長」  「それをこれから検証しようと思いまして」  砂田は甘地から入手したばかりの情報をかいつ まんで説明する。  串田はすぐに全体像の察しがついたようだった。 「分かりました。じやあ早速」  旧山手通りまで出てタクシーを拾い、元CIA の老人が住まうという八幡山に向かう。  古いしもた屋を改造したような戸建てであった。 老人−ジョージーカークウッドはその家に独り で暮らしているという。  玄関チャイムを鳴らす前に引き戸が開けられ、 砂田よりずっと体格のいい老人が顔を出した。夕 クシーの停まる音でこちらの到着を知ったのだろ  「よく来てくれた。老人にとって客人は何より嬉 しいものだ。たとえ夜中であってもね」  夜の訪問者に対し、さすがに警戒しているよう ではあったが、串田の話してくれた通りの好々爺 であった。日本での長いキャリアからか、彼の日 本語は実に流暢で美しかった。  砂田の話を聞いたカークウッド老は、その場か ら電話してくれた。サミュエルーパターソンなる 人物の自宅へである。  「……ありがとう、感謝するよサム……ああ、ま た近いうちに」  通話を終えたカークウッド老は、砂田と串田に 向かい、  「パターソンは君達との面談を承知してくれた。 明日午前九時、帝国ホテル。ただし、あくまで非 公式にだ」  「感謝します」  頭を下げる二人に、  「構わんよ。日米の安全保障に役立つならば本望 だ。そんなことより……」  顔中の皺を柔らかく丸めて串田に言った。  「先日君が持ってきてくれた豆大福、あれはとて も美味だった。芸術品と言ってもいい。よければ どこで売っているのか教えてくれんかね」  翌日の午後二時、分室に集合した部下達に向か い、砂田は状況説明を行なった。  「ソ連原子力潜水艦の航行音が明確に静音化した のは、昭和五十四年のヴィクター3型からである。 東芝機械による工作機械の納入はこのずっと後だ。 COCOM違反を行なっているのは日本だけでは ない。スウェーデン、イタリア、イギリス、西ド イツ。西側の各国が恒常的に行なっている。その 一つがフランスのフォレスト社だ。ヴィクター3 型の静音化に寄与しているとすれば、同社がバル チック造船所に納入した三台のスクリュー製造用 工作機械である公算が大きい。また、潜水艦の静 粛性はスクリューの成型技術だけではなく、原子 炉やモーター部分に関わる技術も大きく影響す る」  串田を除く全員が唖然とした顔で聞いている。  「伊藤忠によって納入された東芝機械の九軸制御 工作機械は、もちろん今もソ連原潜の製造に使わ れているだろう。だが事実はこうだ。東芝の参入 以前からソ連原潜は静音化されていた。つまり、 東芝の技術によってソ連原潜が静音化されたとい うわけではないということだ」  最初に質問を発したのは例によって和泉であっ た。  「そこまで把握していながら、アメリカは日本だ けを非難している。ということは、COCOM違 反を利用したアメリカの謀略であるとI」  砂田はゆっくりと首を左右に振り、  「それがそうでもないんだよ」  話すだけでもため息が漏れる。  「以上の情報は、NSA東京支局のサミュエルー パターソンが非公式に提供してくれたものだ」  「NSAが?」  和泉が首を傾げる。他の部下達も。  「そうだ。アメリカ議会には確かに日本の対応を 声高に非難する勢力がある。その一方で、安全保 障上の観点から日本に正しい対応を取るよう促し てきた勢力もある。CIAやNSAは後者に当た る。将来的なFSX(次期支援戦闘機導入計画) の日米共同開発を見越しているから当然だ。とこ ろが官民問わず日本の硬直した組織が妙なところ で自縄自縛の醜態を哂してしまった。通産省も察 庁も道理で動きたがらないわけだ。特に通産省は 外務省とは犬猿の仲だからなおさらだ。またそう でもなければ、NSAのパターソンが俺なんかと 会ってくれることもなかっだろう」  盛岡が何事か考え込みながら無言で挙手する。  「なんだ、盛岡」  「NSAの対応自体が罠という可能性は」  「大いにあり得る」  砂田は即答した。  「しかし俺の感触からすると、パターソンは嘘を ついているようには思えなかった。まあ待て。諜 報関係者がアカデミー賞も真っ青の名優揃いなの は百も承知だ。しかしこの場合、どう考えてもN SAやCIAがぐるになってウチを引っ掛ける理 由はない。それにNSAならもっと〈上〉を狙う だろう。パターソン氏はほとほとうんざりしたっ て感じだった」 「分かりました。そうなると、最後は元に戻って 一番肝心な謎だけが残ることになる」 「その通りだ」  俺はつくづく部下に恵まれたI  そう喜ぶ反面、砂田は彼らの鋭さを少々恨めし くも思った。  「それに関しては、ある人物の調査から始めるこ ととする。そうだな、盛岡、おまえと眉墨に任せ る」  「はい」  二人が同時に頷いた。  砂田がイノセンテの店内に入っだとき、甘地は すでにカウンター席に着いていた。いつもながら の垢抜けたいでたちで、バーで飲む姿も俳優さな がらにどこまでもサマになっている。  「悪い、今夜はこっちか待たせちまったな」  隣に座ると、甘地はグラスを掲げて微笑んだ。  「勝手にやらせてもらってたぞ、あんたのボト ル」  「いいさ、好きにやってくれ」  「早すぎる再会に乾杯だ。宮田ちゃん、朝日 ジャーナルで連載やるって、凄いな、おい。本当 かよ」  「嘘だよ」  そう答えると、甘地はぎよっとしたように言葉 を失い、こちらを凝視する。  「……どういうつもりだ」  かすれたような声を漏らした相手に、  「そうでも言わなきや、あんたが来てくれないと 思ってさ」  「馬鹿言うなよ、俺はいつだってI」  「今度に限ってそうは思えなかったんでね」  「どうして」  「この前あんたのくれたネタ、大当たりだった よ」  「だったらもっと盛大に奢ってもらいたいもんだ な」  「それが当たりすぎだったんだ」  甘地の手にしたグラスの中で、水が微かな音を 立てて崩れた。  「自慢じやないが、俺は元来運の悪いタチでね、 ツキすぎると不安になる。そこであんたの周辺を 洗い直した。俺は見た通りの間抜けだが、俺の部 下は優秀でな。たちまち〈原稿〉を上げてくれた。 見出しはこうだI『フリージャーナリストのA 氏にソ連スパイの疑い』。どうかな?」  甘地は正面に向き直り、グラスに残った酒を一 息に呷る。  「馬鹿馬鹿しい。俺がデスクなら真っ先にボツだ な」  「じゃあ見出しを変えよう。『スパイの疑い』 じゃなくて『A氏はスパイ』。斷定形の方が訴求 力も高まるしな」  「冗談はそれくらいにしてくれよ。こっちは宮田 ちゃんのお祝いのつもりだったんだぜ」  ボトルを取ってウイスキーを注いでいる甘地に、  「冗談じゃないんだよ、残念ながら」  「訴訟になるぞ。そんな〈記事〉は」  グラスを持つ甘地の手が震えている。  「いつからだ、ダブル(二重スパイ)になっだの は」  「ダブルなんかじゃない。あんたに渡したネタは 本物だった。問題はないはずだ」  「問題は仕人先なんだよ。最近あんたが買った新 車、支払いは狸穴にある会社で、中にいるのは全 員ロシア産の狸だ。言っただろう、俺の部下は優 秀だって。あんたはあのネタをKGBから渡され たんだ。俺に伝えろとな」  「罠でもトリックでもない。ちゃんとした事実だ。 どこに問題がある」  甘地は同じ弁解を繰り返した。  砂田は黙ってそれを聞く。  やがて、ボトルを空けた甘地がぽつりと言った。 「俺はどうなる」  「聴取に応じてもらう。任意だが、断ると何か起 きるか責任は持てない」  「あんたらの役に立ちそうなことはほとんどない ぞ。なにしろ連中は抜け目がないからな」  「そんなことは知っている。少なくともあんたよ りは」  「それからどうなる。それから先は」  「どうもなりはしない」  「え?」  「あんたと俺は今から互いに見知らぬ間柄になる。 あんたはこれまで通り生きればいいさ。ただし道 で遇っても声はかけるな。それと、また狸の巣に 近寄ったりしたらそのときこそ最後だと思え」  立ち上がりながら短く囁く。  「行こうか。表に車が待っている」  甘地の供述から得られたものは予想通り皆無に 等しかった。  KGBはスパイ丁作の物証となるようなものは 何も残していなかった。甘地と接触する際も極め て慎重であり、担当者も毎回違っていたという。  その囗の朝、砂田は一人分室で報告書を作成し ていた。阿久津課長に提出するためのものである。  部下達は全員がそれぞれの任務で外に出ている。 平穏で静かな朝だった。  資料をまとめながら、ふと思ったI阿久津は すでに知っているのではないかと。  そんな考えが無意味であることは、経験的に 知っている。  上層部が何を知っていようと関係ない。自分達 は日々の業務をこなせばそれでいい。  外事ではそれぞれの担当案件や情報が隠されて いることが極めて多い。それだけ各人の裁量に任 されている部分が大きいとも言える。またそうで なければ外事は成り立だない。その反面、〈逸脱〉 すればただでは済まない。  NSAとの接触は明らかに逸脱だった。しかし そのことをどう判断するかは阿久津とその上にい る雲上人に委ねるしかない。それが自分の立場で ある。  最悪の場合は自分が責任を取ればいいI  使い慣れた万年筆を走らせていたとき、デスク の上の電話が鳴った。いつもの習慣で即座に受話 器を取り上げている。 〈甘地が動きました。今、代々木公園のイベント 広場にいます。誰かを待っている様子です〉  圭子だった。  念のため甘地の視察を続行させていた。根拠の 薄い勘でしかなかったが、どうやら当たっていた ようだ。  代々木公園なら車ですぐだ。  「そっちへ行く。俺の到着前に甘地が移動したら 追尾を続行。連絡は分室の留守電に入れろ」  〈了解しました〉  受話器を置いて立ち上がった。  代々木第二体育館駐車場にカロ圭フを駐め、東 側からイベント広場に入る。  もうとっくに移動しているだろうと思ったが、 圭子の姿が目に入っだ。売店の裏に並ぶ自販機の 側に立っていた。  財布を取り出して自販機の一つに向かう。ドリ ンクを物色しているふりをする砂田に、圭子が視 線を合わせず報告する。  「マル対は野外ステージの前。動きはありませ ん」  財布をしまい、売店の外壁に沿ってさりげなく 表側に同る。身を隠したまま野外ステージの方を 見ると、確かに甘地が不安そうな面持ちで立って いた。  時折周囲を見同している様子からしても、接触 相手がまだ姿を現わしていないことは一目瞭然で あった。だいぶ待だされているようだ。  妙だI  すでに情報提供者としての価値は失われている とは言え、甘地をここまで待たせている理由は何 か。  もしかしたらI  ある可能性に思い至った砂田は、圭子を振り 返って言った。  「すぐに離脱する」  そのまま歩き出そうとしたが、前方に立ってい る人影を見て足を止めた。  クラーラールシーノワであった。  背後で圭子が息を呑む気配を感じる。彼女がク ラーラと正面から対峙するのは初めてだ。  「あなたが現われることまでは期待してなかった けど、いいときに会えたわね」  そういうことかI  甘地にはなんの意味もない。KGBの目的は、 自分達が甘地と接触していることをこちらに見せ つけることだったのだ。それも極力不可解な状況 下で。だからわざと時間を守らずに甘地を待たせ、 外事の目を引きつけるだけ引きつけた。  「のこのこ現われたのがまた俺だったってわけだ な」  苦々しい思いでそう言うと、クラーラはおかし そうに笑った。遠い囗に耳にした、小鳥のさえず りにも似た笑い声。プッチのブラウスをごく自然 に着こなした今の姿は、より色鮮やかに成長した 南国の鳥だ。  不可解な状況−それは今回のKGBの動きす べてに共通する要素であり、謎であった。  「黙って離脱してもよかったのに、わざわざ俺の 前に出てきたってことは、さしずめ作戦の終了宣 言というところか」  クラーラはそれでなくても大きな眼を一際大き く見開いたかと思うと、次の瞬間、心から満足そ うに微笑んだ。  「嬉しいわ、砂田さん。あなたが聡明な人で」  「『思ったよりは馬鹿じゃなかった』、ヤセネヴォ (KGB第一総局)への報告書にそう書いてくれ るのか」  「とんでもない。『砂田修作は最高の情報指揮官 であり、祖国にとって要注意人物である』と書く わ」  「どっちにしても、君の掌の上で踊らされていた ことには違いない」  クラーラは声もなく笑った。先ほどのものとは 違い、十年前は決して見せることのなかった狡猾 そうな笑いだ。  「すべてはまやかしにすぎなかった。俺達が追っ ていたのは、東京砂漠で揺らめいた蜃気楼だ」  東京砂漠かI我ながらえらく古い言葉を使っ ちまったI  しかしロシア人であるクラーラは素直に感心し たようだった。  フド[のDの口rt]‘の、{’n凶}‘oD]叫}{? })叫内コ凶り口Hn凶コ叫丿叫?叫臼y k a T 51 H e T B Bony”  あどけなさと妖艶さとが不可思議に同居する唇 から、詩篇のような言葉が漏れた。ロシア語だ。  −『白鳥は雲に向かってははたき、ザリガニ は後ずさり、カワカマスは水の方へと引っ張る』。  ロシアの慣用句かことわざだろうか。砂田の語 学力ではそこまでは分からなかった。  こちらの困惑を面白かってでもいるのか、ク ラーラは悪戯っぽい笑みを浮かべて付け加えた。  (あなたにはこの言葉も贈りましよう。。JI K) 6 〇b l≫ He KaPTOmKa”  ふざけるなIそう言おうとしたとき、クラー ラは身を翻して足早に歩み去った。  追うことも確保することもできない。彼女には 具体的な犯罪容疑など何もないからだ。  ため息をついて砂田は背後を振り返る。  圭子が自分を見つめていた。彼女も当然ロシア 語はできる。  「引き上げるぞ」  間の悪い思いでそう告げる。何も言わずに圭子 は自分の後に従った。  最後に野外ステージの前に視線をくれると、途 方に暮れたような甘地の横顔が見えた。  いつまでも待つがいいさ、二度と来ない白鳥を I  砂田もまた甘地を放置して、圭子とともに駐車 場へと引き返した。    10  分室に戻る圭子と別れ、砂田は一人警視庁に向 かった。  公安部外事一課の壁際に並んだスチール製の書 棚からロシア語に関する書籍や辞書を何幵か抜き 取り、自分のデスクの上に積み上げる。  いつものように、外事のフロアは閑散として他 に人はほとんどいなかった。  デスクライトを点し、ページを繰りながら細か い文字を追う。  十分後、探していた文言を発見した。 「已のaの戸」‘t}‘の、{’{い画}‘〇aXp}{?}) 叫内コ凶弓口弓n凶コ叫丿叫?叫臼y内叫弓 凶コのりままo口鬯。−白鳥は雲に向かっては はたき、ザリガニは後ずさり、カワカマスは水の 方へと引っ張る。  やはりロシアの格言たった。出典はイヴアンー クルイロフの寓話『白鳥とカワカマスとザリガ ニ』。  荷車を引くため白鳥とカワカマスとザリガニが 集まったが、それぞれが勝手な方向に引っ張った ため、荷車は少しも動かない。転じて、統率の取 れていない集団が無駄な動きに時間ばかり空費し ているさまを言う。  何もかも推測した通りであった。  ソ連原潜の静音化と、日本を含む各国のCOC OM違反とを、アメリカは早くから察知していた。 同時にそれは、KGBの知るところでもあった。  しかしノルウェーなどが迅速に対応策を進めた のに対して日本はI日本の官僚組織と大企業は I言を左右にして責任逃れに終始し、初手から 対応を誤った。  このまま日米間に亀裂が入ってくれれば、ソ連 にとっては極めて好ましい展開となるはずだった。 ところが一向にそうはならない。日本の各省庁の 隠蔽体質、迷走ぶりはそこまで甚だしいものだっ たのだ。  痺れを切らしたのはアメリカだけでなく、KG Bも同様だった。そこで彼らは一計を案じた。外 部から刺激を与え、無理やりにでも事態を動かす。  それがKGBの目的だったのだ。だからこそわ ざと不可解な動きをしてみせた。  真っ先に引っ掛かった間抜けがこの俺だった I  本来なら即座に消されていてもおかしくはない 告発者をKGBはなぜ放置したのか。そのことの 意味をもっと考えるべきであったのだ。  次いで。已乙voirコの内ptHo日内 胱・についても調べる。これはことわざか成句の ようだ。 『恋はジャガイモにあらず』。日本語に訳すとこ うなるが、果たしてその意味は。  厳密には。已乙ふoirコの内ptHo日内 町。は前半で、後半が続く場合もあるらしい。 「已robOBb He KaPTOmKa「He bli 6 P 0 CH巨」≫ B OKOUIKO”  『恋はジャガイモにあらず、窓からは捨てられ ぬ』。叶わぬ恋もそう簡単には忘れられないとい う意味たった。  −あなたにはこの言葉も贈りましよう。  どういうつもりでクラーラは自分にそんな言葉 を残したのか。  十年前から自分に恋をしているとでも?  これで自分をからかったつもりなのだろうか。 情報機関員の間で『恋』ほど空疎な言葉はない。 空疎で、限りなく無意味だ。  文頭のJIk) 6 o b h『恋』という単語は間 違いなく圭子も聞き取っている。  彼女は自分とクラーラとの関係をどう思っただ ろうか。  普通に考えれば〈関係〉などあるはずもないこ とはすぐに分かる。  しかし、圭子はI  砂田は頭を抱えるしかない。  分かっていた。分かっていながら、自分は彼女 を部下として扱うことしかできなかった。  それ以外に、一体何かできただろうI  「砂田警部補」  背後で声がした。いつの間にか三人の男が自分 を取り巻くように立っていた。  「監察の本庄だ。一緒に来い」  中の一人が有無を言わさぬ態度で命じた。他の 二人は無言でこちらを睨みつけている。  警務部かI  本を閉じて立ち上がる。充分に予想できたこと だ。  先に立つ本庄監察官の後に従い、庁舎内を移動 する。二人の男達が砂田の左右を固めている。三 人の〈臭い〉は、砂田には馴染みのものだった。 全員が警視以上の階級を持つ監察官には公安出身 者が多い。この三人は間違いなく元公安だ。  庁舎内にこんな場所があったのかI  これまで足を踏み入れたこともないような通路 を抜けて、本庄は砂田を会議室とも取調室ともつ かぬ殺風景な小部屋へと案内した。  「座れ」  命じられるまま奥のパイプ椅子に腰を下ろす。 本庄もデスクを挟んだ向かいの椅子にかける。  残る二人のうち、一人は外に出てドアを閉めた。 もう一人は閉ざされたドアの前に立ち、じっとこ ちらを見つめている。   一般の刑事事件に比して、監察の取り調べは格 段に厳しい。黙秘権も存在しないし、弁護人を頼 むこともできない。また準抗告等の不服申し立て 手段も使えない。何もかもが警察という黒い箱の 中で行なわれるのだ。  本庄は手にしていたファイルを開いて、 「なぜ呼ばれたか分かってるな」 「はい」 「言ってみろ」 「東芝の件です」  監察官は顔を上げて砂田を見る。  「外事の人間がそんな曖昧な回答をするのか。わ ざとはぐらかそうとしていると疑われてもしよう がないぞ」  「COCOM違反の事案です」  「私の忠告が聞こえなかったのか」  その言いように、砂田は己が極めて危険な立場 にいることを改めて実感した。  警務、いや、その上にいる連中は間違いなくす べてを把握している。  だが、何もかも覚悟の上でしたことだI  「四係砂田班はKGBの不審な動きを察知して業 務に着手しました。その結果、伊藤忠の納人した 東芝機械の製品がCOCOMの定める基準に抵触 していたという事実に突き当たりました」  「いいかげんにしろ、砂田」  構わず続ける。  「しかし、それだけではKGBの動きは説明でき ません。そのことを解明すべく、NSAに接触し ました」  本庄はようやく頷いて、  「その行為がどういう意味を持つか理解している な」  「あくまで非公式な接触です」  「そんなことは関係ない」  にべもなかった。  「すべて自分の判断でやったことです。責任は自 分にあります」  「本当にそうかな」  「えっ……」  嫌な予感がした。  「和泉、青野、串田、盛岡、伴、それに眉墨。彼 らの聴取はすでに終わっている。供述に目立つよ うな齟齬はなかったが、追及すればいろいろ出て きそうな感触もあったと聞いている」  「自分が命じたことです。部下に責任はありませ ん」  「子供じやあるまいし、そんな恰好づけが通る か」  「監察官’・」  反射的に立ち上かっていた。 「座れ、馬鹿」  一喝され、我に返っておとなしく座り直す。  本庄はゆっくりとファイルを繰りながら、  「君達は真実に到達した。知ったところでどうし ようもない真実にだ。褒められるとでも思ったの か、え、砂田班長」  「思うわけがありません。我々の業務の大半はそ んなもんです」  即答すると、本庄は薄い唇に初めて笑みらしき ものを浮かべた。  「資料の通り、君は根っからの外事だな」  それまでとは一転して穏やかな口振りだった。  「言いたいことは分かる。しかし、どうにもなら ないことはあるんだよ。君も私も、警察という組 織に奉職する公務員でしかない。分かるな?」  「はい」  「よろしい。君が本当に外事の人間なら、今日ま でのことはきれいに忘れて明日からまた新たな業 務に取り組めるはずだ。その理解で間違っていな いな?」  「間違っておりません」  本庄警視はぱたんと音を立ててファイルを閉じ た。  「阿久津課長に感謝するんだな」  「どういうことですか」  驚きのあまり、砂田は再び腰を浮かしかけた。  「阿久津君の聴取は君達の前に終わっている。彼 は君達よりずっと厳しく追及されたが、すべて自 分の立案したオペレーションであると一貫して主 張したそうだ」  阿久津課長がI  「さすがに城内公安部長は関与していないことが 明らかだったが、場合によっては城内さんもまず い立場に置かれるかもしれなかった。ともかくも 阿久津課長への聴取に基づき、上が判断を下した。 監察の結果、四係の業務内容に問題はなかったと いうのが結論だ。現段階では予定だが、決定と考 えてくれていい。君への聴取は最後の確認だっ た」  砂田は口にすべき言葉を見出せなかった。  そんな砂田の内心など、ことごとく見透かした ように本庄は続けた。  「まかり間違えば阿久津はおしまいだった。彼が そんなリスクを冒したのは、本当に君をかばうた めだったのか。私には分からんよ。ま、いずれに しても彼はこの先、私なんかよりもずっと上に行 くだろうし、君が彼に救われたのは間違いない」  ファイルを手に立ち上がり、  「ご苦労だった。帰っていい」  ドアに向かった本庄は、見張りの部下を伴って 退室した。  一人残された砂田は、しばらく立ち上がること もできなかった。  外事課のフロアに戻った砂田は、デスクに積み 上げてあったロシア語の辞書や書籍をのろのろと 片づけた。  東芝。伊藤忠。通産省。  官民一体となった構造的な不正。その責任は瞹 眛なまま問われない。それは、関東軍作戦参謀か らシベリア抑留を経て囗本の表舞台に返り咲いた 瀬島龍三の経歴と似てはいないか。砂田にはそう 思われてならなかった。これが囗本の姿なのだと、 痛感せずにはいられなかった。  最後の一冊を書棚に戻して振り返る。机の横に 阿久津課長が立っていた。外事特有の無表情で。  この人はこんな顔をする人だったろうかI  そんなことを考えながら自席に戻り、椅子に座 る。阿久津は疲れたような動作で隣の席に腰を下 ろした。  「申しわけありませんでした」  座ったまま、阿久津の方を見ずに頭を下げる。  「私の見通しが甘かった。それだけのことです」  自嘲的に阿久津が答える。そんな口調も、彼に は珍しいことだった。  ひとけのないフロアに、自分達の話を聴く者は いない。  俺をかばってくれたそうですねI  その言葉が喉まで出かかった。はっきりと相手  に質したかった。自分をかばったのは、上司とし  ての責任感か、それとも冷徹な計算に基づく演技  なのか。  どちらであっても、訊いてしまえば二人の間の 何かが終わるということだけは分かっている。ま た、阿久津の返答が真実であるとは限らないとい うことも。  「砂田君」  「はい」  「新大塚の中華屋、あそこ、まだありましたっ け?」  「明珍飯店ですか。さあ、どうでしようかね。オ ヤジさん、結構な歳だったし」  「最後に行ってからもう十年だもんなあ」  「そうですねえ」  相槌を打って顔を上げる。  突出した自分を、この人はかばってくれた。お かげで危ういところを救われた。その事実に違い はない。  「近いうちに行ってみましようか、砂田君。なん だか久々にあそこの餃子が食べたくなった」  「ああ、いいですね」  笑顔で応じながら、砂田はその日が決して来な いことを予感していた。    11  KGBの不審な動きは前触れもなくやんだ。深 山の日没よりも静かな撤収ぶりだった。  美貌のポーランド人女性実業家が突然姿を消し たことに、東芝の役員達はしきりと首を捻ってい るという。  カタジーナーシマンスカことクラーラールシー ノワはすでに帰国しているかもしれないし、名前 を変えて依然日本国内に潜伏しているかもしれな い。  砂田班にとっては、もはやどうでもいいこと だった。  和泉も、青野も、そして圭子も、何事もなかっ たような顔をして日々新たな業務に取り組んでい る。何もかも以前のままだ。  だがI本当にそうだろうか。  自らに問うまでもない。分かっている。クラー ラの出現は、自分にある変化をもたらした。その 変化は決定的なまでに不可逆だ。  運命とは思わない。諜報の世界にそんな不明瞭 で詩的な概念など存在しない。無機的な作戦と幼 稚な思惑とが重なった、ただの結果だ。あらゆる 状況の結果として、今の現実がある。  それだけだ。  十月二十七日、小佐野賢治が死んだ。二年前の 昭和五十九年には児玉誉士夫が亡くなっているか ら、ロッキードの記憶はいよいよ遠いものとなっ た。  感慨があると言えばあるし、ないと言えばない。 ただ年月の過ぎゆく速さを思うばかりであった。  その一か月後に当たる十一月二十七日、公安警 察の秘密部隊『サクラ』が日本共産党国際部長で ある緒方靖夫宅の電話を盗聴していた事実が発覚 した。  事件は社会的に大きな議論を呼び、警察庁警備 局長、公安第一課長、同課理事官の他、神奈川県 警本部長、同警備部長が辞任等に追い込まれた。  盗聴の実行犯として事情聴取を受けた警察官の うち、ある者は取り調べ中に急死し、ある者は取 り調べの直前に自殺した。それ以外にも、何人か の警察官が不審死を遂げた。  瀬島龍三をマークしていたサクラの峯がその後 どうなったのか、同じ公安である砂田にも知るす べはなかった。  昭和六十二年三月二十日、『ワシントンータイ ムズ』が東芝COCOM違反事件をスクープ記事 として掲載した。どうやらアメリカ海軍による りIクらしい。  事件に関する情報の一切は関係政府による公表 まで極秘扱いとなっており、機密漏洩に該当する。 日本政府はアメリカに抗議し、東芝機械は「その ような事実はない」と全面的に否定した。この期 に及んで日本側がそういう態度を取ったことは、 アメリカ側の不信感を煽るだけでしかなかった。  日本での第一報は朝日新聞の記事だった。これ により、一般の日本人は事件について初めて知る こととなった。  四月二十七日、内部告発者である熊谷氏は通産 省貿易局輸出課の呼び出しを受け、形ばかりのも のとは言え、初めての聴取を受けた。告発から一 年四か月が過ぎていた。  翌る二十八日、通産省は警視庁に告発。それを 受けて、警視庁では東芝機械に対し強制捜査を行 なった。  そうした一連の動きを、砂田と部下達は冷やや かな目で眺めていた。  大まかな真相は半年以上も前に判明している。 すべては茶番であり、猿芝居である。滑稽を通り 過ぎて吐き気さえする。しかし外事は顔には出さ ない。何もかも胸の内に呑み込んで、淡々と目の 前の業務をこなす。自分達と同じメンタリティを 持ち、上層部の愚劣さをともに嗤い合えるはずの スパイを追う。  「サンナナ案件、業務終了しました」  圭子が砂田のデスクの上に報告書を置く。  『サンナナ案件』とは圭子のつかんだある情報の コードネームで、この三月七日に防衛庁官房文書 課職員の夫人がタス通信のロシア人記者と銀座の 松坂屋で買い物をしていたというものである。目 撃者の証言は正確であり、機密漏洩が疑われるこ とから、砂田は圭子に業務を一任していた。  報告書を手に取って素早く目を通す。職員夫人 による機密漏洩は阻止。また防衛庁では同職員を 降格処分の上、近々に異動させる予定。同職員は 問題発覚後、夫人と別居。タス通信記者は取材中 の仕事を放棄して昨日帰国した。  スパイ防止法のない日本では、機関員に外事の 能力を知らしめ、警告を与えた上で日本から追い 出すしかない。事案処理としては上々の出来であ る。  「よくやった」  深い満足感とともに圭子を慰労する。  心なしか得意げに一礼した圭子は、頭を下げた 姿勢で囁いた。  「東芝の捜査、タイミングが見え見えですよね」  中曾根総理の訪米に合わせて、警視庁が慌てて 捜査を開始したことを言っているのだ。  アメリカで東芝の件についての厳しい質問が出 ることは避けられない。レーガン大統領との首脳 会談の前に、総理はなんとしても弁解の材料を用 意しておく必要がある。  「冷や汗を拭く「ンカチを警備局長から総理に差 し入れして頂いた方がいいかもしれんな、一ダー スくらい」  小声で言うと、圭子は共犯者めいた笑みを浮か べた。  「一ダースで足りますかね」  五月二十七日、警視庁は東芝機械の材料事業部 鋳造部長林隆三、及び工作事業部工作機械第一 技術部専任次長谷村弘明の二名を逮捕したほか、 東芝機械の工作機械担当取締役ら四名、和光交易 のソ連担当取締役ら三名を書類送検した。  だが結果的に起訴されたのは、事件当時現場責 任者であった林、谷村の二名と、法人としての東 芝機械のみであった。  東芝本社と伊藤忠商事が送検に至ることもなく 終わった囗本流の幕引きは、アメリカ議会をさら に激昂させ、今後両国間の大きなしこりとなるこ とが予想された。  「そもそもですよ、あの事案が表面化した政治的 タイミング自体が変じゃないですか」  四谷のケイオスで、カウンターに座った圭子は いつになく饒舌たった。  「アメリカの企業が輸出した機械でソ連のミサイ ル誘導システムが作られた事例さえあるっていう のに、東芝だけが大きく取り上げられたのはどう してですか。そりゃ囗本の対応があんまりだっ だってのもあるでしょうけど」  ブラディマリーをちびちびとやりながら、砂田 は黙って聞いている。  「つまりですよ、国務省は現実的な輸出管理を目 指していたわけでしょう。ペンタゴンにしてみれ ば国防上とんでもない話ですよね。だけど議会で はペンタゴンが劣勢だった。そんなときに事件化 したわけで、陰謀論者のバカバカしいこじつけは 論外としても、何かあったと考えるのが普通じや ないですか」  酔っているようで、その洞察は当を得ている。 圭子の聡明さには感嘆するばかりだ。  しかしアメリカ議会内の対立が背景にあること は、最初から見当がついていた。  「今夜はだいぶ飲みすぎたようだな」  軽くいなしたつもりが、思わぬ反撃を食らった。  「班長もたまには飲みすぎたらどうですか」  「どうして」  「私、班長の本音が聞きたいんです」  「本音? どんな?」  「クラーラと亡命したいとか」  冗談を言っているのだと思った。圭子が酔って いるのは間違いない。しかし彼女の目は真剣だっ た。まるで機関員を尋問しているかのように。  「共産国はまっぴらだね。それに味噌汁のない生 活は考えたくもない」  「言い方が悪かったですね。亡命じやなくて、駆 け落ちだったらどうですか」  「クラーラに味噌汁が作れるとは思えないな」  「作れるとしたらどうです」  「仮定の質問には答えられない」  「質問を変えましよう。班長は味噌汁ではなく、 ボルシチの生活に耐えられますか。それがクラー ラの手料理であることを前提として」  窮地は突然に訪れる。今がまさにそうだった。  冗談では逃げられない。叱りつけるのは下策で ある。  「お互いに外事だ。端的に行こう」  「はい」  横を向いて圭子の顔を正面から見据える。 「確信してるんだな」 「はい」 「理由は」  「不要と考えます。失礼ですが、班長は分かりや すすぎます」  「自覚はあるが、そんなにか」  「はい。外事としては珍しいタイプだと思います。 けれど……」  「けれど、なんだ」  「けれど、それが班長の……その、武器なのだと 思います」  〈武器〉と言う前に、圭子は一瞬言い淀み、別の 言葉を探したようだった。  本当はなんと言おうとしたのか。想像はつくが、 あえて触れない。  「俺がまだ新人たった頃、上司だった馬越って人 に言われたよ、確か、『流行りの繊細な感性が外 事にも必要』とかなんとか、そんな感じだったか な。それで上が俺を外事に引っ張ったんだと」  「目に浮かぶようです」  圭子が微かに微笑んだ。  「だが、去年阿久津さんに否定された。瀬島龍三 に手を出して怒られたときだ。『そんな甘い理由 で外事を任せられるわけないだろう』つてね」  「課長らしいですね」  昔の阿久津を知らない圭子は素直に頷いている。  「確かに俺は分かりやすいかもしれないが、おま えも相当分かりやすいぞ」  「でしようね。分かるようにふるまったつもりで すから」  こともなげに言う。  砂田は今さらなからに舌を巻くIこいつは俺 より外事に向いてる。 「どうするつもりですか、これから」 「どうにもならんよ。クラ圭フはKの機関員だ」 「それでいいんですか」 「いいも悪いもない。それが現実だ」 「だったら、私……」  圭子が再び言い淀んだ。続く言葉をじっと待つ。  グラスの中の水が溶けてカランという音がした。  言葉はついに発せられなかった。  代わりに、圭子の双眸がじんわりと潤み出した。 「お1つ、宮田ちゃんじゃない。いやあ、しばら く」  振り返ると、ルポライターの岡本が入ってくる ところだった。去年と同じく、水商売らしい女を 連れているが、前とは別の女たった。  「あ、ご無沙汰してます、岡本さん」  圭子が反射的に挨拶する。  「えIと、キミ、確か香川ちゃんだっけ、嬉しい なあ、またここで会えるなんて」  そこまで言って圭子の様子に気づいた岡本は、 連れの女を振り返って、  「アケミ、やっぱり別の店にしよう」  「え1つ? なんでえ?」  不満そうな女に構わず、岡本は砂田の耳許に顔 を寄せて囁いた。  「その方が話しやすいでしよ、宮田ちゃん」  「そんな、どうかお気遣いなく」  「いいのいいの。それより宮田ちゃん、ダメじゃ ない、こんなカワイコちゃんを泣かせるなんて さ」  「いえ、これは」  「またどっかでゆっくり飲もうよ。じやあね」  それだけを言い残し、岡本は女とともに飄然と 出ていった。  細長い枯木のような彼の後ろ姿を見送って、圭 子の方に向き直る。  圭子は白い(ンカチで慌てて涙を拭っていた。  その仕草を眺めながら、ぼんやりと砂田は思っ た。  自分はこの女とI緒になるのだろうなと。    I  砂田は辛い肩凝りをこらえつつ膨大な報告書を チェックしていた。  大半はたわいもない案件だが、その中にどんな 貴重な情報がまぎれているか分からない。重大ス パイ事案の摘発につながる可能性のある微かな兆 候を見逃さず、書類の処理を迅速に進めるのはい つもなからに骨が折れた。  平成三年五月。時代は変わった。ベルリンの壁 はすでになく、ペレストロイカ、グラスノスチと、 東側では予測不可能な状況が続いていた。必然的 に外事もそのつど対応策の刷新に迫られる。煩雑 な仕事ばかりが増えて、心身ともに疲弊する一方 だ。  先月はゴルバチョフがソ連の最高指導者として 初めて来日し、海部俊樹首相と会談した。議題は 主に北方領土問題や日ソ平和条約締結についてだ が、いずれも合意には至らず、成果はなかった。  上の都合で、現場だけがいたずらに振り回され る。末端の苦労には西も東も関係ない。  望んだはずの出世であったが、心は囗に囗に沈 んでいく。  デスクワークが性に合わないだけではない。鬱 屈の真の理由は分かっている。  一つには、己の〈出世〉の経緯がある。  もう一つにはI  重要度の高い報告書からきりのいいところまで チェックを終え、午後五時、外事第一課係長であ る砂田は課長の執務室に向かった。  ノックをしてからドアを開ける。  デスクに向かい執務中たった外事一課課長− 阿久津武彦警視長が顔を上げた。  加齢により皺が増え、頬が少々弛んできている が、それでも二の線は充分に保っている。砂田を 本庁警備局へ引っ張り上げてくれた恩人だ。皮肉 にもそのことが、砂田に要らぬ屈託を抱かせた。  「本日分の報告書です。着手中の案件に関する進 展は特になし。念のため課長にご確認頂く必要が あると思われるものだけまとめてお持ちしまし た」  持参したファイルの束をデスクの端に置く。今 ではそれが毎日の恒例行事となっている。  「ご苦労さん」  短く答えて、阿久津は再びデスクの上の書類に 視線を戻す。それもまた日々のしきたりである。  一礼して、砂田は課長の部屋を後にした。  やりきれない。何もかも。  退庁し、桜田門駅から有楽町線に乗る。三駅目 の新富町駅で降りた砂田は、新大橋通り沿いにあ るバー『ロンギン』に入っだ。  立地の割には洒落た店で、ひと月にI、二度は 必ず寄っている。それ以上の頻度で通わないのは、 現場にいた頃の名残で、生活習慣を特定されない ためである。  新宿や銀座の店だと、知った顔に出会う可能性 が大きい。フリージャーナリストの〈宮田〉を知 る人間には、今はできるだけ会いたくなかった。  いつもの通りカウンターの端に座り、アーリー タイムズをロックで飲む。  上司である阿久津とうまくいっていないわけで はない。むしろ波風のない良好な関係と言えた。 だがそれは、ひとえに自分が萎縮しているせいだ と砂田は自覚している。  肚の読めない阿久津をどこかで警戒しつつも、 恩人には逆らえない。むしろ率先して忠誠を尽く す。警察官として当然の身の処し方だ。阿久津の 方でもそれを察しているようで、だからこそ砂田 を一層重用する。閉塞感がさらに募る。  どうしてこうなっちまったんだろうI  一度狂った歯車は、もう二度と噛み合わない。 誰のせいであろうと関係ない。  しかし圭子はそうは思っていない。すべてこち らが悪いと信じている。それがあながち間違いで もないあたり、砂田にはよけいに痛い。  四年前、砂田は部下たった眉墨圭子と結婚した。 二人の結婚生活はしかし三年しか続かず、一年前 に離婚した。  それこそが、この耐え難い鬱屈のもう一つの理 由であった。  圭子は俺を愛してくれていた。それだけは間違 いない。そして自分もまた。  結婚前、年長の部下だった串田が忠告してくれ た。  −班長、こんなこたあ言いたかないけど、あ の子だけはやめといた方がいいですよ。いえ、別 に悪い子だとは思ってません。それどころか、頭 はいいし、仕事はできるし、近頃珍しいくらいに できた子だ。だけどねえ……  −だけど、なんですか。  そう問い返すと、串田はますます言いにくそう に、  −できすぎるんですよ、仕事が。  −いいじやないですか、それくらいの方が。  −普通の商売ならそれでいいかもしれません けど、なにしろ私らの商売はねえ。  砂田には反論の言葉はなかった。また反論する つもりもなかった。  串田が厚意で言ってくれていることは分かって いたし、何より、圭子の特質については言われる までもなく承知していた。この結婚が極めて危な げなものであることも。  圭子は結婚を機に退職した。警察官の夫婦は珍 しくはないが、さすがに二人揃って外事は無理だ。 圭子も納得した上での退職であったし、少なくと もその時点では、家庭に入ることが彼女の望みで あったはずだ。  悪い予感は往々にして当たる。いや、必ず現実 になると言っていい。  結婚した瞬間から幻滅が始まる。結婚というシ ステムの原則である。どこかでスイッチが入るの だ。それにより、幻滅は刻々と機械的に進行する。 例外はない。人によって多少進行速度の違いがあ るだけだ。  それでも夫婦が一緒に暮らすのは、生きるには 現実との妥協が不可欠だと、どこかの時点で知る からだ。もちろん妥協を拒む者もいる。圭子がそ うであったように。 〈私らの商売〉。  互いに人の裏を探ること。それが習いの外事警 察官。そんな二人が夫婦になれば、互いに傷つけ 合うことは想像できた。しかし一度火の点いた男 と女を押しとどめるのは想像だけでは不可能だ。 ましてや理性や常識などは役にも立だない。  分かっていたはずだったのにI  今でも悔やまれる。分かっていたはずだったの に。だからこそ自分達ならその危機を乗り越えら れると安易に信じた。  串田以外にも、この結婚を危ぶむ者は大勢いた。 しかし、阿久津は数少ない賛成派であった。  −君もいいかげん落ち着くべきだと思ってい たんだ。  阿久津は上機嫌でそんなことを述べていた。将 来自分の右腕となるべき人間は、社会的にも真っ 当であらねばならないとでも言うように。  二十代の半ばで身を固めた阿久津は一男一女を もうけていた。長男は高校生、長女は中学生。夫 婦仲は極めて円満と聞いている。何事にもそつの ないのが阿久津という人物だ。非の打ち所のない 〈円満な家庭〉を維持するため、人知れず相当な 努力をしているのだろう。砂田にはそれができな かった。  −結局、あなたは忘れられなかったのね。  離婚話を切り出しながら、圭子はぽつりと呟い た。  それが何を指しているのか、二人の間では言葉 に出さずとも明らかだった。  悔恨の苦さを喉の奥へと押し込むように、砂田 はグラスに残ったバーボンを干した。  もう一杯注文しようとしたとき、スーツの内ポ ケットでポケベルが鳴った。  勘定を手早く済ませ、外に出た。一番近い公衆 電話の場所は頭に入れてある。  幸い空いていた電話ボックスに飛び込み、テレ ホンカードを挿入してから警察庁外事第一課の番 号をプッシュする。 〈外事一課です〉  部下の和泉警部補がすぐに出た。かつて砂田が 四係の班長だった頃、青野とともに班の両輪と なって支えてくれた男だ。阿久津が自分を引き上 げたのと同様に、砂田は本庁への異動に際して和 泉を係長心得として付けてくれるよう希望した。 誰か信頼できる者に側にいてほしかったからだ。 警察庁警備局が、他省庁のどの部局にも劣らぬ伏 魔殿であることなど最初から分かっていた。  「砂田だ、どうした」  〈十九時十七分、新宿区原町二丁目テュルコワー ズ社で銃声あり、視察中だった青野班が突人した ところ、同社役員のジヤンージヤツクーオービニ エと高岩光雄が死体で発見されました〉  「マル被(被疑者)は」  〈それが見事に出し抜かれまして。単独犯らしい んですが、完全にプロの仕事ですよ〉  普段は冷静な和泉もさすがに興奮している。  フランス系貿易会社『テュルコワーズ』に共産 圏の秘密資金が流入していることを察知した警視 庁外事一課は、同社の内偵に四係青野班を投入し た。  和泉と同じく最も信頼できる部下であった青野 は、今では砂田の後を引き継いで四係の班長を務 めている。  「課長には」  〈報告済みです。ご自宅からこちらに向かうとの ことです〉  「すぐに行く」  受話器を置き、度数の残り少ないテレホンカー ドを引き抜いた。  タクシーで合同庁舎に戻る。警備局のフロアは いつになく騒然としていた。  電話中たった和泉は、人ってきた砂田の姿を見 つけると、受話器を置いて走り寄ってきた。  「マル被と思われる男が現場から逃走。人着(人 相着衣)不明、緊配(緊急配備)中ですがまだ 引っ掛かっていません」  「消されたのはオービニエと高岩だけか」  「それがですね」  和泉が周囲を憚るように声を柢めた。  「生き残りが一人、いたそうです。外傷なし、現 在牛込署で保護されています」  「社員か」  「いえ、仕事の打ち合わせか何かで来社中だった ようです」  「たまたま巻き込まれたってわけか」  「それが、そうとは思えないんです」和泉はさら に声を低め、「青野の話によると、生き残ってい たのはクラーラールシーノワだと」  まじろぎもせずに眼前の部下を見つめる。  白い額にうっすらと汗を浮かべた和泉は、ただ 無言で頷いた。  「牛込署へ行ってくる」  「あっ、待って下さい」  身を翻した砂田を和泉が呼び止める。  フロアから出て階段の方へ向かいかけたとき、 前方に立ちふさかっている人影に気づいて足を止 めた。  阿久津課長であった。  「どこへ行く」  「牛込署です」  詰問するような阿久津の表情に、自ずと言い返 す口調になった。  「君が行く必要はない。車載電話で報告を受けた。 クラーラールシーノワが現われたんだってな」  「ええ、ですからI」  「いい歳をして、なんだ、そのざまは」  「お言葉ですが、本事案は極めて重大なI」  「そんなことは誰だって分かる’・」  阿久津が声を荒らげた。滅多にない彼の様子に、 フロアにいた全員が振り返るのが分かった。  「君には君の仕事があると言ってるんだ。それく らいのことが分からずに国家の治安が保てるか」  弁明の余地はなかった。しかも衆目に哂された 中での醜態だ。  「申しわけありません」  その場で謝罪する。  阿久津は深い息をつき、  「私は局長と話してくる。君は和泉君と手分けし てテュルコワーズ関連情報の再点検、それに関係 各所との調整を頼む」  「はい」  言われるままに自席へと戻る。周囲の視線が全 身に刺さった。歯を食いしばって恥辱に耐える。  「係長はこっちをお願いします。残りは自分がま とめますので」  和泉が機敏にファイルの束を差し出してくる。 すでに何事もなかったような顔をしていた。単に 優秀なだけでなく、つくづく外事に向いている男 だ。  気持ちを切り換え、渡されたファイルを繰る。  テュルコワーズ社。代表取締役アンリーフオー トレル。取締役専務ジヤンージヤツクーオービニ エ。取締役常務高岩光雄。取締役デジレーゴー ベール。資本金八百万円。一九八五年一月十日設 立。所在地、新宿区原町二丁目マンデービルニ階。  役員の身上調査の結果もある。目立った犯罪歴 こそないが、いずれも外事の要注意リストに記さ れている海外の灰色企業と過去になんらかの接点 を持っていた。  長年外事に携わってきた砂田の目には、グレー と言うよリブラツクそのものにしか見えなかった。  テュルコワーズ社はどこかの諜報機関−おそ らくはKGB−のカバーに使われているダミー 会社。そう断定して間違いない。  警視庁も同じ見解に至ったからこそ、外一の青 野班に視察を命じたのだ。  そのテュルコワーズ社が何者かに襲撃され、役 員二名が射殺された。法治国家たる囗本において。  事態は極めて深刻だった。砂田は改めて慄然と する。迂闊な動きを見せれば公務員として命取り となりかねない。阿久津の忠告は圧倒的に正し かった。  テュルコワーズ社で一体何かあったのか。  次々とページをめくっていく。しかし考えは一 向にまとまらない。  「係長」  和泉の声に振り返る。 「なんだ」 「牛込署に詰めている青野から連絡が入りまし た」  何か調整の必要でも生じたのだろうか。  「青野が直接聴取したところ、クラーラールシー ノワは本人であることを認めたそうです」  そうかIついに彼女がI  さまざまな感慨が胸をよぎる。  「ですがルシーノワは……」  先ほどとは打って変わって、和泉の面上に隠し ようもない困惑が見て取れた。  「どうした。はっきり言え」  不審を覚えて促すと、和泉は思い切ったように 言った。  「ルシーノワはこう言っているそうです、『それ 以上は砂田修作にしか話さない』と」  クラ圭フールシーノワの身柄は極秘裏に牛込署 から警視庁庁舎に移送された。  極秘と言っても、牛込署員は銃撃事件の現場で 保護された外国人女性の存在を知っている。彼ら には警察庁警備局から厳重な箝口令が敷かれた。  総務審議官から出頭を命じられた砂田は、和泉 を伴ってただちに指示された会議室に向かった。  ノックして入室する。警察幹部達が険しい表情 で待ち構えていた。  長官官房の大森総務審議官。  警務局の関根首席監察官と八戸監察官。  刑事局の多賀刑事企画課長と北本国際捜査課長。  警備局からは直接の上司である阿久津外事一課 長。  「和泉君、君はドアの外で待っていてくれ。会議 が済むまで誰も通すな」  「はっ」  阿久津の指示により退出した和泉がドアを閉め ると同時に、正面に座した大森総務審議官が切り 出した。  「現場で確保したクラーラールシーノワは、君で ないと聴取には応じないと言っている。この件に ついて説明してほしい」  直立不動の姿勢で砂田は答える。  「説明できません」  「どういう意味だ」  「本職が説明してほしいくらいだからです」  「分からんと言うのか」  「はい」  警務の関根首席監察官が手許の資料を開きなが ら、  「先ほど阿久津君から説明を受けた。クラーラ・ ルシーノワなる女はソ連のスパイだそうじやない か。それもかなりの筋金入りだ。そんな女が君を 指名している。何かあると考えるのが普通じやな いかな」  「これは本職の監察ですか」  「場合によってはそうなるな。心して答えた方が いいぞ」  「そうですか。しかし、知らないものは答えよう がありません」  「君はルシーノワに恋愛感情を抱いていた。眉墨 圭子元巡査部長と結婚してもそれは変わらなかっ た。その結果、離婚に至った。違うかね」  −結局、あなたは忘れられなかったのね。  嫌な汗が全身を伝い落ちる。お歴々の前で、こ んな公開処刑に哂されようとは。  「どうした。答えられないのか」  「……ふに定はしません」  「感情だけではなく、もっと直接的且つ肉体的な 接触もあったのではないか」  「あるわけがありません」  「本当か」  「もしそんなことがあったら、お手許の資料に とっくに記されていると思いますよ」  八戸監察官が激昂した。  「なんだ、その言い草は。君は自分の立場が分 かっているのか」  「八戸君、彼の性格は資料と寸分の違いもない。 阿久津課長が予想した通りの反応じやないか」  関根が落ち着いた口調で部下をなだめ、  「さすがだな、阿久津課長」  「はい。彼がスパイ行為に荷担していたなら、 まったく違うリアクションを取っているはずで す」  「根拠が薄弱だ。君は自分の監督責任を逃れよう としているんじやないのか」  多賀刑事企画課長が追及する。  「もし私の見解に誤認があった場合、上司として 当然ながら全責任を負うつもりです。砂田警部は 優秀な外事捜査員であり、敵国ないし第三国と内 通している可能性は皆無であると考えます」  阿久津はきっぱりと言い切ったが、総務審議官 は冷ややかに、  「残念ながら、君一人で責任を負えるような事態 ではないんだよ。だから刑事局からも多賀課長や 北本課長に来てもらった」  多賀と北本が無言で砂田を睨めっけた。  会社員が二人も射殺されている。これは重大な 刑事事件でもあるのだ。刑事局としても早急に方 針を決めておかねばならない。  「状況は理解しております。その上で申し上げま すが、クラーラールシーノワはこれまで我々外事 を挑発することにより、オペレーションの攪乱を 企図する傾向にありました。すべて報告書に書か れている通りです」  「その直接的接点が砂田警部であったということ だね」  ファイルを繰る関根に、阿久津が応じる。 「その通りです」  大森が阿久津に鋭く問う。 「つまり、今回もそうだと言うのか」  「そう考えております」  「多賀君、ルシーノワー人が生き残ったのが偶然 でない可能性は」  刑事企画課長が即座に答える。  「現場の状況からすると、その可能性は柢いと考 えざるを得ません」  そして阿久津と砂田を横目に見ながら、  「警視庁外一の報告を信じるとすれば、ですが」  大森はしばし考え込んでから、  「どうもこれは、要求通り砂田警部に聴取を任せ るのが最善のようだな」  「総務審議官、しかしそれではI」  「まあまあ」  気色ばむ多賀を穏やかに制し、  「諜報に関しては警備局が専門だ。もちろん聴取 の一部始終は他の者にも監視させるし、録音と録 画も行なう。いいかね、砂田係長」  この俺がクラーラを聴取するIそれもあの女 のご指名でI  とんでもない蟻地獄へと引き込まれかけている ような感覚たった。  罠かIそれともI  「どうした砂田。やるのか、やらんのか、早く答 えろ」  苛立たしげに多賀が促す。  「分かりました。やります」  他に道はなかった。この流れで斷れば、かえっ て疑いを招きかねない。  何より、自らの好奇心を抑えられる自信はない。 「よし。では刑事局や警視庁の担当官と調整を行 ない、ただちに聴取に入れ。結果は細大漏らさず 報告するように。以上だ」  総務審議官が立ち上がる。  砂田は反射的に阿久津を見た。  二枚目の上司はこちらの視線から意図的に目を 逸らすようにして、退出する幹部達の後に続いた。  「何をしてる、砂田。ぼうっとしてないで早く来 い」  多賀課長が怒鳴った。  午前零時近く、久々に警視庁の庁舎に入った砂 田を、四係青野班の青野が出迎えた。  「ご無沙汰してます、砂田さん」  「挨拶してる暇はない。状況を直接訊きたい」  大まかな報告は受けているが、現場にいた捜査 員から詳細を直接確認しておく必要がある。犯行 現場を覗いている余裕はなかった。  「こちらへ」  青野は、砂田や和泉達を公安部のフロアにある 一室に案内した。警察庁警備局の阿久津課長、刑 事局の多賀課長と北本課長、それに警視庁公安部 外事一課の福永課長、刑事部捜査一課の仲谷課長 も後に続く。  室内では、青野班の伴と盛岡がテユルコワーズ 社事務所の見取り図を広げて待機していた。  「始めてくれ」  砂田の指示で、盛岡が図面を指差しながら説明 を開始する。  「テユルコワーズ社はマンデービルニ階全体を借 り切っています。えらい老朽ビルでエレベーター のない四階建て。視察中だったのは自分と伴。ビ ルの正面入口が自分で、伴は裏口。出入口はこの 二か所だけです。昨夜十九時十七分、銃声が聞こ えました。すぐに踏み込んで階段を駆け上がり、 中央のこの廊下を曲がった瞬間、逃げてきた女と ぶつかり、二人とも倒れました。ぶつかった瞬間、 奥にいたマル被が発砲し、銃弾は間一髪で外れま した。倒れたまま女をかばい、『警察だ、銃を捨 てろ』と叫んだところ、マル被は身を翻して北側 に逃げました。廊下の奥は暗がりになっていて、 突然だったこともあり、人着は確認できませんで した」  「マル被がわざと狙いを外した可能性は」  「あり得ません。自分と女がぶつかっだのは本当 に偶然で、誰にも予想できないことでした。しか も銃弾は背後の壁にめりこんだ状態で発見されま した。詳しい弾道検査の結果はまだですが、その 位置からしても女の頭部を狙っだのは明らかです。 倒れ方によっては、自分に当たっていたかもしれ ません」  「分かった。続けてくれ」  「はい。マル被が侵入した手口は簡単で、夕方に 堂々とビルヘ入り、屋上に上かって夜を待ったも のと思われます。一階、三階、四階にはそれぞれ 別の会社が入っていますが、いずれも社員以外の 出入りはなかったと証言しているからです」  次いで伴が報告する。  「裏口を張っていた自分は、一足遅れて盛岡と合 流しました。今の話にあった通りの状況でした。 それで女を確保したまま、奥の役員室を覗くと、 二人の男が倒れていました。オービニエと高岩で した。女を盛岡に任せ、すぐに北側へ向かいまし た。小部屋の窓が開いており、窓枠に足を掛けた 痕跡が残っていました。マル被はそこから隣のビ ルとの隙間に飛び降りたものと思われます」  「ビルの入口は視察中だったわけだから、マル被 は少なくとも入るときに目撃されてるはずじゃな いのか」  「それが……」  盛岡は気まずそうに顔をしかめ、  「その時間帯に視察していたのは新人の二人で、 自分達は十九時前に交替したんです。他の階の会 社に出入りする人間も大勢いることから、新人二 人は何も……」  「弛んでるんじやないのか、青野」和泉が憤然と して、「新人とは言え、外事の基本ができてない じやないか。どういう教育をしてるんだ」  「すまん。俺の責任だ」  苦い顔で青野が詫びる。  「クラーラはいつ入った」  砂田の問いに盛岡が答えた。  「十八時三十五分。外人女性、しかもあれだけの 美貌ですから、さすがに新人も覚えてました。で すが……」  「Kのルシーノワとまでは気づかなかったってわ けか」  「はい」  今度は福永外一課長が色をなした。  「KGB機関員のリストに普段から目を通してな いからこういうことになるんだ。いくらペレスト ロイカと言っても、こっちまで気を抜いてどうす る」  「福永課長、今は状況の把握が先です……主目野 君」  阿久津の取りなしで、青野が引き継ぐ。  「テュルコワーズ社では、役員の三人が集まって 十九時から何か重要な会議を行なう予定であった ようです。このタイミングでそれまで接触のな かったルシーノワが来社したのは、会議に参加す るためだったのではないかと推測されます。しか しゴーベールだけはなぜか出社しなかった。また、 社長のフオートレルとは現在も連絡が取れない状 態が続いています。テュルコワーズ社の実態につ いては、これまでに情報を上げた通りですので、 すでに把握しておられることと思います。以上で す」  幹部達が互いに無言で目を見交わす。  まず口を開いたのは捜査一課の仲谷課長だった。  「物盗りや怨恨の線を捨てるわけじやありません が、やはりこれは公安事案でしような」  多賀課長も頷いて、  「私も同意見だが、場合によっては国際捜査課の 協力が必要になるかもしれない」  「分かりました」  それまでほとんど発言しなかった北本課長が同 意を示す。  次いで多賀は砂田を振り返った。  「頼んだぞ、砂田君」  「はい」  いよいよかI  庁舎内にある取調室に、クラ圭フは悄然と座っ ていた。  大胆不敵な女スパイも、消されかけた上に警察 に拘束されては、さすがに意気も消沈するだろう。  もっとも、クラーラは逮捕されたわけではない。 あくまで殺人事件の重要参考人であり、任意の聴 取である。彼女がソ連大使館への連絡を要求しな かっだのは、やはり切迫した事情があるからだ。 また近年では異例とも言える深夜の聴取を強行す る理由として、事態の早期解決を図るためという 名目が用意されている。  三十五歳になったはずだが、砂田の目には、五 年前と少しも変わっていないように見えた。  服は汚れ、髪は散々に乱れている。それでも彼 女は美しかった。  −あなたは分かりやすすぎるのよ。  取調室の天井から、圭子の冷笑が漏れ聞こえた ような気がした。   クラ圭フが顔を上げる。まっすぐに砂田を見た。 魅惑的な蒼い双眸に、今は謎めいた光が宿ってい る。  こちらが口を開く前に、明瞭な日本語で彼女が 言った。  「二人きりで話したいわ。遠慮してちょうだい」  砂田ではなく、背後の和泉に、そして壁面の鏡 に視線を巡らせ、  「どうせ大勢で見物してるんでしようけど」  和泉を振り返って命じる。  「隣の部屋に移ってくれ。取調補助者は必要ない。 彼女の希望だ」  「しかし、係長」  「同じことだ。隣からはすべて見えるし、話も聞 こえる。録画していることも承知の上で言ってる んだ、そうだろう?」  「ええ」  クラーラはにっこりと笑った。  「分かりません。ならばこっちにいたって違いは ないはずじやないですか」 「よく分からんが、彼女にはあるらしい」  そして壁面のマジックミラーを見遣り、  「それに隣から文句を言ってこないところをみる と、上も認めてくれてるようだぞ」  不満そうな面持ちで一礼し、和泉は退室した。  「さて、と」  砂田はクラーラに向き直る。初手からずいぷん と疲れた気分だ。  「これで二人きりだ。見物人は大勢いるのに、和 泉を追い払った理由を知りたいね」 「それが理由よ」 「え?」 「せめて舞台の上だけは二人きりでいたいの」 「二人芝居ってわけか。なるほどな」  軽い口調で応じるが、内心は気が気でない。隣 室で監視されているからこそ、疑惑を招きかねな い会話もまだできる。しかしそれとても保証の限 りではないし、後で叱責を受ける可能性も大きい。  「ではクラーラ・子フストヴナールシーノワさん。 その名前で間違いはないですね」  「はい」  「人が二人も殺されてる。緊急を要する事案なの で形式的な質問は略させてもらいます。いいです ね」  録画を意識してはっきりと口に出して言う。  クラーラもそれは理解しているようで、  「構いません。お願いします」  「あなたはテュルコワーズ社とどういう関係です か」  「調査を命じられました」  「どういうことです? 前後の事情が分かりませ ん。具体的にお願いします」  「PGU、つまりKGB第一総局からの命令よ」  いきなり来た。  思わず鏡の方を見る。  しかし鏡面にはみっともなく狼狽した己の間抜 け面があるばかりで、なんの変化も示さなかった。  「命を狙われたのよ。忠誠を尽くせるような局面 じゃないわ。それに日本警察には私の資料が山ほ ど蓄積されてるんでしよう。そのくらいはこっち でも把握している。シラを切り通せるとは最初か ら思ってないの」  「いいだろう。じやあこっちも本音で行かせても らう」  「どうぞ」  「命令された調査の内容は」  「それもご存じのはずよ」  「君の口から聞きたいな」  「テュルコワーズ社は事実上、社長と役員だけの 会社で、輸出に見せかけ生活必需品等の物資を購 入して祖国へ送っていた。我が国は物資が不足し て人民は大変苦しい生活を強いられている。みっ ともないけど、それが実情。そんなこと、今さら 言うまでもないわよね」  その通りだ。しかしKGBの機関員がそんな身 も蓋もないことを供述しようとは、いくら殺され かけたとは言え、驚き以外の何物でもない。  鏡の向こうにいる幹部達もあんぐりと口を開け ていることだろう。  「続けてくれ」  「そのテュルコワーズ社の資金が不正に流用され ている疑いがある。それを察知した私は調査を命 じられた。だけどその時点で、社長のフオートレ ルは新潟への出張を理由に姿を消していた。そこ で直接テュルコワーズ社に乗り込むことにしたの。 三人の役員を聴取し、関係資料を押さえるために ね。そのことはもちろん三人には秘密よ。彼らに は定期的な監査だと伝えてあった。KGBの関連 組織、特に末端ではよくあるの。それも知ってる わね? 時間は午後七時。念のために三十分ほど 早めに行った。案の定というか、役員のうち、 ゴーベールは約束の七時を過ぎても現われなかっ た」  今のところ判明している事実との齟齬はない I今のところは。  「オービニエと高岩の二人は真っ青になってあち こちに電話していたわ。ゴーベールの行方を搜す ためよ。役員室には電話が二台しかなかった。私 も同志に指示を出すため電話がある別室に移動し たの。そこで受話器を取り上げたとき、役員室の 方から銃声が聞こえた。受話器をそっと戻して、 ドアの隙間から様子を見ると、マガロフを持った 男が役員室から出てきて他の部屋を調べ始めた。 知らない男よ。そいつが廊下の奥へ向かった隙に 急いで逃げ出しだの。そしたら、誰かと思い切り ぶつかった。あれ、あなたの部下だった人でしょ う? 後で気づいたわ。お礼を言っといてね。お かげで命拾いしたって」  「七時にテュルコワーズ社で君が役員達を聴取す るIその情報が漏れていて、殺し屋が役員の揃 う時間を狙ってやって来たってことか」  「私はそう思ってる」  「役員室にいた二人を射殺したが、ゴーベールと 君がいなかったため、実行犯は他の部屋を捜し 回った。そして君を見つけ、躊躇なく発砲した」  「そういうこと」  クラーラが自嘲と疲労感の入り混じる吐息を漏 らす。  長年祖国に尽くした挙句がこれだ。無理もない。  「君の仲間について教えてくれ」  「KGB日本駐在部は大使館の参事官をチーフと して四つのセクションに分かれてる。政治情報部 から十二人、科学技術情報部から十二人、対外諜 報部から四人、それに非合法活動支援担当が二、 三人。全部で三十人前後がKGBの将校。他にG RU(ソ連軍参謀本部情報総局)が約二十人てと こかしら」  「それくらいは把握している。この期に及んでは ぐらかすと不利になるだけだぞ」  「この状況で不利も有利もないわ」  「じやあこれまでの失礼を丁重にお詫びして、ソ 連大使館までお送りしようか」  クラーラの余裕が消えていく。まるで潮が引い ていくように。  「私達が怖いのは囗本警察なんかじやない。KG Bが最も怖れるのはKGBよ。普段顔を合わせる 同僚の目ほど恐ろしいものはない。何を密告され るか知れたものじやないから。真実はどうでもい いの。密告されたらそこでおしまい。たとえ友人 であっても、家族であっても、誰も弁護はしてく れない。そんなことをしたら今度は自分が疑われ るだけだから。私は日本警察に捕まった。その事 実だけで充分よ。私はすでに裏切り者も同然な の」  こっちはそれも知ってるよI  疑心暗鬼のあまり、ことに近年のKGBが本末 転倒としか言いようのない状態に陥っていること は、公安部が収集した情報からも分析できた。極 度に腐敗した官僚体制のなれの果てだ。  「君の所属は」  「私は四つのセクションのいずれにも所属しない。 強いて言えば、非合法活動支援担当に近い。特命 で動く遊軍の指揮官」  「要するにイレギュラーだな」  「そう」  「部下は」  「いない。任務に応じて担当者を集め、命令を下 す。それだけ」  「ずいぷんと偉いんだな」  「それ、皮肉?」  「いや、本気で言った。これまでの活動パターン からしても納得がいくからさ」  「私だって命令を受ける立場に違いはない。私よ り上位の将校はいくらでもいるわ」  「その中の誰なんだ、今回の命令を下しだのは」  「分からない」  「とぼけるな。同じ話を繰り返す気か」  「違うの。本当に分からないのよ、第一総局の誰 が立案した作戦なのか。私はそれが知りたいだ け」  そうかIそういうことだったのかI  隣室の幹部達にもはっきり聞こえるように、 ゆっくりと言う。  「君は俺達を利用するつもりなんだな。君がKG Bに復帰するのはすでに不可能だ。それどころか 帰国すれば君はもう陽の当たる世界には出られな い。しかし、一つだけ手があった。亶]の裏切り者 を見つけ出して証拠とともに告発することだ」  クラーラの双眸に狡猾な光が宿る。  「利用だなんてとんでもない。協力したいと言っ てるの」  「俺を指名した理由はそれか。たとえ監視されて いようとも、二人の方がやりやすいと。そして俺 は君の思惑通りにI」  「やりやすかったのは確かよ。だって、たとえ取 り調べであっても、日本の警察官の中で私か話し たいと思うのはあなただけだから」  「やめろ。俺が疑われるように仕向けたいのか。 KGBほどじやないにせよ、日本警察の監察も甘 くない。それとも、これが君の仕掛けた罠なの か」  クラーラは目を丸く見開いて唇に手を当てた。  「まあ、なんてこと」  そして鏡の方に向かい、  「いいわ、はっきりと言ってあげる。砂田が優秀 なのはあなた達が今ご覧になった通りよ。そして、 日本警察の中で私か信用できるのは砂田だけ。だ から砂田を担当につけること。それが私の条件 よ」  条件だとIこの女は自分の立場を理解してい ないのかI  砂田はもう声もない。  「取り調べに砂田を指名したのはそのことをあな た達に手っ取り早く伝えるためよ。どう、お分か りになった?」  「いいかげんにしろ」  慄然とする思いで怒鳴りつける。  「君は自分の言っていることが分かっているの か」  「ええ、分かっているわ。私は西側への亡命を希 望しない。アメリカに亡命してもCIAやFBI に軟禁されて連日聴取されるだけ。待遇を少しで もよくするためには何か取引材料を渡すしかない んだけど、それを持ち出されたら困るのはあなた 達しやないかしら。なにしろ私は日本での仕事が 多かったから」  鏡の向こうの警察幹部達が息を呑む音が聞こえ たような気がした。  クラーラは間違いなく日本政財界の薄暗い秘密 を握っている。それは東芝COCOM違反の一件 でも明らかだ。  彼女は本気だ。そして何より、必死なのだ。  したたかな女スパイが、生き残りを懸け、頭脳 を振り絞って考えた捨て身の一手。囗本の硬直し た体制下では、上層部と直接交渉しようとしても まず不可能だ。仮に実現したとしても恐ろしく時 間がかかる。複数の警察幹部を最短で集め、自分 の話を聞かせるにはどうすればいいか。  それが『砂田修作の指名』の理由であったのだ。  「考えている時間はないわ。解決への最短の道は 社長のフオートレルと役員のゴーベールを見つけ 出すこと。私はそのために必要な情報を持ってい る」   一息で言い切った。まさに舞台の上の名女優だ。  砂田は静かに息を吐き、  「やっぱり俺を利用したんだな」  「こうは考えられないかしら。私はあなたに実績 を挙げるチャンスをあげた。同時に私は、あなた に助けてほしいと思ってる」  「それがロシア人の考え方なのか」  不意にドアが開いた。  「砂田、ちょっと」阿久津課長たった。「ルシー ノワさんはそこでしばらくお待ち下さい」  クラーラを残し、砂田は阿久津に従って取調室 を出た。あえて後ろは見なかった。  隣室では、警察庁の多賀、北本、警視庁の福永、 仲谷が深刻な表情で額を寄せ合っていた。青野と 和泉は蒼白になって録画機材を確認している。  砂田を連れて入ってきた阿久津がドアを閉める と同時に、全員が振り返った。  最初に口を開いたのは多賀刑事企画課長であっ た。  「ご苦労だった、砂田君」  「いえ……」  砂田は曖昧に頷いた。他にどう答えていいか見 当もつかない。  「この件に関してクラーラールシーノワはあくま で被害者であり、任意の参考人でしかない。聴取 が終われば身柄を押さえ続けることはできないが、 解放した途端、ソ連かアメリカ、あるいはその両 方が彼女の拉致に動くだろう。我々としてはどち らにも渡すわけにはいかん」  まさに八方塞がりだ。今さらなからにクラーラ の老獪さに舌を巻く。  「いずれにしても、我々だけで判断を下せる問題 ではない。ここは一旦−」  仲谷捜査一課長が考え込みながら、  「しかし多賀さん、あのロシア女の言う通り、解 決には今すぐにでも手を打だないことには」  「仲谷君、君はKGBの女の要求に従えと言うの か」  声を荒らげた多賀に、  「いえ、私はあくまで刑事捜査の観点から申した だけです」  「外事の現場としてはどうなんだ」  多賀から話を振られた福永は、「そうですなあ」 と曲者らしく顎をさすり、  「こいつは下手を打てば外交問題になりかねない 事案ですから、ウチとしては正直言ってI」  ノックの音がしてドアが開き、見覚えのある顔 が入ってきた。  「失礼します」  刑事企画課の係長であった。上司である多賀の 耳許で何事か囁いている。  「……分かった」  一同を振り返った多賀は、苦渋に満ちた顔で告 げた。  「状況が変わりました。テュルコワーズ社社長の アンリーフオートレルが、先ほど死体で発見され たそうです」  翌朝、警察庁で秘密裏に会議が行なわれた。大 森総務審議官、警備局担当の垣見審議官、吉野警 備局長ら主たった幹部が出席している。警視庁の 前田公安部長らも顔を見せていた。  当事者としか言いようのない立場に置かれてし まった砂田も、阿久津課長に伴われて末席に着い た。  警視庁公安部外事一課の福永課長が状況を簡潔 に説明する。  アンリーフォートレルの死体は、石神井池の岸 辺近くに浮かんでいるのを帰宅途中の会社員に よって発見された。通報時刻は前日の午後十一時 二十六分。石神井署によると、遺棄された時間帯 は午後八時から十一時の間。死後約二十四時間。 頸部の索条痕から絞殺と思われるとのことであっ た。現場の状況からすると、犯人には死体を隠匿 する意図はなかったらしい。  会議は終始大森総務審議官がリードした。本来 は警備局長の方が年次は上なのだが、警備局、刑 事局にまたがるデリヶIトな案件であるため、長 官官房が調整に入る形で総務審議官に情報が集約 されることとなったのである。  深刻な議論の末、何を思ったか、大森は突然砂 田に発言を促した。  「砂田係長、君の意見は」  即座に立ち上がって考えを述べる。  「一刻も早くデジレーゴーベールを確保すること が解決への近道なのは明らかです。そのためには クラーラールシーノワの協力が不可欠であると考 えます」  落ち着いた声で大森が問う。 「君はKGBの女と取り引きしろと言うのか」 「取り引きではありません。協力です」 「これが罠でないとどうして言い切れる」 「証拠はありません。ですが昨夜の聴取の模様を ご覧頂ければI」  「録画テープなら観たよ。なかなか興味深いもの だったのは確かだ」  「これは一刻を争う非常事態であり、且つ、ル シーノワを効率的に動かすには他に手はないと考 えます。それに、彼女が日本政財界の秘密をいく つも握っているのは疑いようのない事実です。彼 女の提案を拒否すれば、それらを公表されるおそ れがあります」  「資料によると君とその機関員とはなにやら因縁 浅からぬ関係にあるようだが、よもや本当に I」  「自分は外事の世界で生きてきた警察官です。今 のご質問に関しても、昨夜の一部始終を見ておら れた方々なら信用して頂けるのではないかと愚考 します」  総務審議官が刑事局の多賀課長や北本課長らの 方を見る。  彼らは一様に蒼い顔で頷いた。  大森は深い息を吐き、全員を見渡した。 「他に意見のある者は」 「はい」  真っ先に挙手したのは阿久津であった。 「阿久津課長」  大森の指名を受け、阿久津が起立する。 「クラーラールシーノワは奸智に長けた筋金入り の機関員です。彼女の言をそのまま受け入れるの は常識的に考えても無謀であるとしか言いようは ありません。警備局の理念からも、そのようなリ スクは避けるべきと考えます」  砂田は愕然とした。ここに来て阿久津が反対し ようとは。  なぜだI  阿久津の言い分はまったくの正論だ。しかし、 それを今この場で表明する意味は。  「課長」自らを抑え切れず発言していた。「常識 に囚われていては外事の業務は回せない。それく らい、課長だってよくご存じのはずじゃないです か。クラ圭フは確かに一筋縄でいく相手じゃない。 それだけにこっちが踏み込まねば絶対に協力なん てしやしません。敵が罠を仕掛けていたのならそ れを逆手に取って有利なカードを手に入れる。そ れこそが外事の基本でしょう。なのにどうして I」  「砂田’・」  吉野警備局長が叱責する。  「阿久津君の発言は警察庁の一員たる精神と立場 をよくわきまえたものだと私は思う。君はいつま で現場の気分を引きずっているんだ」  警備局長の言葉はさらに真っ当なものだった。 反論の余地はまったくない。  「は、申しわけありません」  不本意な思いを胸に隠して謝罪する。  阿久津は視線を逸らして上座の方を向いている。 その横顔から、発言だけでは窺いようもない別の 意図が透けて見えた。  直感するIアリバイだ。  〈自分は反対した〉。その事実を公の場で明らか にしておく。失敗したときのために。  警察官僚として完璧な処世術だ。  正論であるがゆえに、上層部がどういう判断を 下そうと、そして結果がどうなろうと、誰からも 非難されることはない。  しかし、今は事案の解決を第一に考えるとき じゃないのかI  膨れ上がる憤懣を懸命に抑えつける。今この場 でそれを口にすれば、自分は破滅だ。それだけは 分かっている。  しばし考え込んだ末、顔を上げた総務審議官は 穏やかな口調で指示を下した。  「新宿区牛込テュルコワーズ社での射殺事案は各 部署が連携を取りつつ捜査を進めること。マスコ ミにはあくまで〈押し込みによる強盗殺人事件〉 として発表する。その一方で、KGBのクラー ラールシーノワにはゴーベール捜索に協力させる。 担当は砂田係長。もちろん女の監視役を兼ねてだ。 極めて異例ではあるが、防諜という職務の特殊性 を考慮すればやむを得ない。言うまでもないが、 本オペレーションは極秘である。クラ圭フール シーノワの協力が漏洩すれば彼女に危険が及ぶば かりか、日本政府にとって極めて厄介な事態とな りかねない」  総務審議官がファイルを閉じて立ち上がる。  会議は終わった。  警視庁庁舎に向かう公用車の中で、後部座席の 砂田は運転する青野に声をかけた。  「すまんな、貧乏くじを引かせちまって」  「気にしないで下さい。もともとウチがやってた 事案ですから」  砂田はサポートの実働部隊として外事一課四係 青野班を指名したのだ。  「下手しだらおまえらにもとばっちりが行くかも しれん」  青野はどこか楽しげに、  「それは他の事案でも同じですよ。そんなことよ りまた砂田さんと働けると思うと、なんだか昔み たいな気がして。なあ、和泉」  「そりゃそうだが……状況を少し甘く考えてるん じゃないのか。おまえらしくもない」  助手席に座った和泉は、苛立ちを隠せない様子 であった。  確かに彼の言う通り、楽観できる状況ではまっ たくないが、昔に比べて青野と和泉の性格の差が はっきり出てきているように砂田は思った。  自分が四係の班長だった頃から、和泉に官僚的 な素質があっだのは確かである。  警察庁に引っ張っだのが裏目に出たのか。だと してもそれがいいことなのか悪いことなのか。今 はまだどちらとも言いかねた。  警視庁庁舎に到着した砂田達は、総務部留置管 理課員に命じて女性用の留置場からクラーラを取 調室に連行させた。クラ圭フは被疑者ではないが、 警護の必要から昨夜は留置場で保護したのである。  通常の手続きとしてはあり得ない、まさに異例 中の異例だが、外事において〈異例〉とは〈通 例〉の一種にすぎない。また警備上の問題だけで なく、保秘の観点からも、彼女を極力外に出すわ けにはいかなかった。民間のホテルなど問題外で あり、検討の結果、留置場に宿泊させるという決 定か下されたのだ。  本人も特に異議は唱えなかった。それだけ身の 危険を感じているのだろう。  「君の提案が受け入れられた。今日から俺が君の 相棒だ」  パイプ椅子に座ったクラ圭フに向かい、砂田は 言った。  「だが言っておく。逃げようとしたり、俺を嵌め ようとしたりすれば、こいつらが即座に君を拘束 し、その場でソ連大使館に連絡する」  背後に控える青野と和泉を顎で示し、  「狸穴からすぐに大使館員がすっ飛んでくるだろ う。君はソ連大使館に連行され、そのままご帰国 というわけだ。後はどうなるか、君の方がよく 知っているだろう」  「それで脅しているつもり?」  呆れたように彼女は言った。  「今の状況で逃げたりしても、私にメリットは何 もない。昨夜も言ったじやない」  「そうだったな」  「安心して。私も必死なのよ。あなたの手柄にも なるように行動するわ」  「そう願いたいね」  青野が用意した紙袋を差し出す。  それを受け取ったクラーラは、中を一目見て突 き返した。  「なに、この趣味の悪い服は。こんなの着てたら 目立ってしようがないわ」  「君の好きなブランド品よりは目立だないと思う がな。それに下着は他人には見えない」  クラ圭フは不承不承に頷いた。  「こんな服を着るなんて、なんだかもうソ連に 戻った気分」  再び紙袋を受け取って顔を上げる。  「ここで着替えろって言うの」  「まさか」  砂田は苦い顔で和泉と青野に目配せする。  二人はクラーラを左右から挟み込むようにして 立ち上がらせた。  「さあ、行こうか」  青野班の分室『オフイスーゴタンダ』は東五反 田のマンション内にあった。地下に専用の駐車場 がある大型物件で、人目を避けて出入りするには 好都合だ。  青野の運転する車で駐車場に入り、エレベー ターで分室のある五階まで上がる。砂田も中に入 るのは初めてだった。  本来は3LDKのファミリー向けマンションだ が、借り手がなく事務所用に改装したものだとい う。もちろんエアコン完備である。  砂田が新人たった頃、所属していた馬越班に女 性の捜査員はいなかった。だが青野班には女性が 四人もいる。三十代が二人、二十代が二人。  「世の中は変わってるんだなあ」  明るくモダンな事務所内部を見回している砂田 に、青野は苦笑をこらえ切れないようだった。  「もう九〇年代ですからね。そりやあ七〇年代と は違いますよ」  青野班の女性捜査員達が、クラーラを脱衣所と 洗面所が一体となった広い浴室スペースヘ案内す る。全員で中へ入り、鍵を掛ける。  五十分後、浴室から出てきたクラーラの金髪は 黒く染められていた。フランネルのシャツにゆっ たりとしたカーディガン。少し若者ふうの装いで あったが、クラーラが実年齢よりも若く見えるた め、かえってしっくりと似合っていた。メイクも ナチュラルに変えられている。  「どう?」  留置場での態度とは打って変わって、クラーラ もまんざらではないようだった。  「まあまあだな」  なにげなくそう答え、砂田は既視感とも異なる 微妙な動揺を覚えた。  その正体はすぐに分かったI圭子だ。  −どう?  新宿三越で婦人服売場の試着室から出てきた圭 子に、砂田は答えた。  −まあまあかな。  −そう。  圭子はどこか不服そうだった。  −やっぱり、別のにしようかな。  −それでいいじやないか。悪くないよ。選ん でたらきりがない。  −じやあ、これにするわ。  試着室のカーテンが再び閉じられる。  その日は結婚一周年の記念日で、砂田は圭子に 好きな服を買ってやると約束したのだ。  嘘でも「最高だ」と答えるべきだった。後でそ う悔やんだものだ。  仕事柄、服飾に関する知識はあっても、似合っ ているかどうかまでは自信がない。自分にそんな センスがあるとは思えないのだ。それにどう答え ようとも、圭子は瞬時に嘘を見抜く。彼女の能力 を評価すればこその対応だと考えていた。  間違いだった。  嘘が分かっているからこそ、圭子は自分に嘘を 期待していたのだ。  圭子の選んだ服は、砂田の給料に見合ったもの だった。  支払いを済ませ、予約したレストランに向かう。  高くもなく安くもなく、そこそこのフレンチー レストラン。それでも圭子は満足していた。  −おいしいわ、とっても。  珍しく機嫌がいい。砂田はほっと胸を撫で下ろ す。  −ソースが濃厚で、ほら、私か作るのって、 なんだか薄味ばっかりじゃない? だからたまに こういうのをいただくと新鮮で……ねえ、あなた はどう?  −まあまあかな。  当たり障りのない無難な答え。自分ではそう 思っていた。自分では。  圭子の表情が再び曇った。  −どうかしたか。  何も言わなくなった妻に問いかけると、  −なんでもないわ。胸やけかな。  にっこりと微笑んでそう答えた。  それが単なる欺瞞でしかないことは、砂田にも 圭子にも分かっている。  二人はともに外事であるから。  人の心を見抜くプロであるから。  なのに。  砂田は自分の心に無関心だった。それは取りも 直さず、妻の心にも関心を払っていないというこ とでもあったのだ。  砂田の関心は、常に仕事にしかなかった。  外事一課の仕事は、主にソ連に対する防諜活動 である。つまりI対KGB。  砂田はKGBを追っていた。いつ、いかなると きも。あらゆる意味で。  昼も、夜も。警察でも、家庭でも。デスクでも、 ベッドでも。  デザートとコーヒーが運ばれてきた。二人して 言葉少なにそれを平らげ、結婚記念日のディナー が終わった。  レストランを出て駅に向かって歩き出したとき、 圭子がぽつりと口にした。  −今夜はロシア料理にすればよかったかな。  クラーラの供述に基づき、デジレーゴーベール の立ち回り先には青野班を中心に、五係から応援 に駆り出された捜査員も協力して徹底した監視態 勢を敷いた。  しかしクラ圭フの供述がどこまで信頼できるも のなのか、砂田にも確信はなかった。彼女が手の 内をすべて明かしたとは到底思えない。ゴーベー ルの立ち回り先には、KGBのカバーも当然含ま れるはずだからだ。命を狙われたという事実があ るにせよ、自組織の前線基地を残らず日本警察に 漏らせば、クラ圭フが本国で復権を果たすという 道は完全に閉ざされる。警察に保護されたという 一事だけを以てしても、KGBの過酷な尋問に哂 されるのは避けられない。一生投獄されるか、流 刑もしくは死刑ということも充分にあり得る。  クラ圭フが自らの安全を担保するための策を用 意していないはずがない。少なくとも、真に重要 なKGBの拠点は巧妙に秘匿するような供述を行 なったと考えるのが妥当である。  それを前提に全員が動いている。並行して、砂 田はクラーラとともにゴーベールが潜伏している 可能性の高い場所を回った。  「日本警察はいつからテュルコワーズ社に目をつ けてたの」  青野の運転するカローラの後部座席で、唐突に クラーラは隣に座った砂田に訊いてきた。  青野と助手席の和泉が緊張するのが分かった。 「さあてねえ。俺はもう現場じやないからな」  わざとらしくとぼける砂田を横目に見て、ク ラーラはなにげない口調で続けた。  「そう。私達、協力関係にあるんじやなかった の?」  「だったら情報を聞き出そうとするような真似は やめてくれよ」  「あら、そんなつもりなんてないわ。だって、一 昨年あたりからなんだかKGBはおかしかったか ら。私か言うのも変な感じだけど、こんな時代だ し。日本側でも把握してたはずよ」  さらりと発せられたその言葉に、青野と和泉が 一層あからさまに硬直する。  ペレストロイカ以後、バルト三国では反ソ運動 が激化している。二年前グルジアではソ連軍が反 ソ独立運動を鎮圧した『トビリシ事件』が起こっ ていた。今年の一月十三日には、リトアニアでソ 連軍の侵攻により十四人の市民が死亡した。『血 の日曜日』事件である。  〈こんな時代〉。その通りだが、いくらグラスノ スチとは言え、クラーラの発言は大胆すぎた。  協力関係と言いながら、勝負を仕掛けているの だ、自分に対してI  千疋屋での手痛い記憶が甦る。  手痛い? 確かにそうだ。しかし今となっては、 あの記憶はもう別の衣を纏っている。切なくてほ ろ苦い、淡く薄れた色の衣だ。 「いいだろう、受けて立ってやる」 「係長’・」  振り返った和泉に構わず、 「異変は察知していた。KGBの動きはどう見て もおかしかったからな。そうだ、君の言う通り だ」  「その分析はどこまで進んでるの」  「なに?」  「あなた方は状況をどう理解しているの」  気がつけば、クラ圭フはじっとこちらの顔を覗 き込んでいた。  その視線が、魔法のようにこちらの唇から秘密 の言葉を引き出そうとする。  「それは……」  抵抗するのがやっとであった。  「君の行動は細大漏らさず報告せよIと命令さ れてる。そういう発言は疑惑を招くだけだと思う がね」  「今は協力関係にあるって言ったでしょう? 日 本語でなんて言ったかしら……そう、『一蓮托 生』」  「『攪乱工作』つて言葉もあるぞ」  ふっと笑ったクラーラがシートに背中を預ける。  「事態を打開するには、情報を共有し、状況を理 解する必要がある。そう思ったから言ってみたの。 でもやっぱり危険ね、お互いに。やめましよう」  運転していた青野が口を挟んだ。  「そろそろ着きます」  最初の目的地は上板橋二丁目にある『上板交 易』の倉庫。同社はKGBのカバーの一つで、ク ラ圭フも商用を装って何度か出入りしたことがあ るという。大まかな内情は調査済みで、今回の事 案にはほぼ無関係であることも判明している。ク ラーラの供述もそれを裏付けるものだった。社屋 から離れた雑居ビルの一階にある同社の倉庫は半 年前から使われていないが、賃貸契約は未だ解除 しておらず、誰かを匿うには絶好の場所だった。  気づかれぬよう青野は倉庫から少し離れた場所 にカローラを停めた。先行した青野の部下数名が すでに万全の態勢で倉庫を監視下に置いている。 彼らの報告では、普段は無人のはずの倉庫内部に 人の気配があるという。  車から降りたクラーラが倉庫へと向かう。内部 にいる人物を特定し、できる限りの情報を引き出 すためである。この役は他の者に替えることはで きない。彼女が警察に保護された事実を相手が 知っていた場合は、「被害者であり、犯罪容疑は ないためすぐに釈放された」と答えることになっ ている。  青野と和泉は車内に積載した音響機材のスイッ チを入れる。彼女の洋服には最新型の小型マイク が仕掛けられているのだ。それはただ会話を盗聴 し、録音するためだけではない。クラ圭フが何か 小細工をしないか、チェックするためのものでも ある。発見されることを怖れて録画装置までは持 たせていないので完璧とは言えないが、ないより はましだ。  万一クラーラが逃亡を図った場合は、青野班の 捜査員がすかさず確保する手筈となっている。  倉庫のドアは開いているようだった。内部に消 えるクラーラの姿に、砂田はかつて東陽三丁目の ケーシーオリエンタル倉庫で彼女と初めて会った ときのことを思い出した。  こんなときにI  倉庫というロケーションのせいであろうか。そ れとも当時と変わらぬクラ圭フの後ろ姿のせいで あろうか。  いずれにしても、そんなことを考えてしまう自 分自身がいまいましくてならない。  −私も仕事してたほうがよかった?  −え?  −そしたら、私もあなたの役に立つかなと 思って。  クラーラではない。圭子だ。それも結婚間もな い頃の。  −分かってるはずだろう。どうしてまた今に なって。  どうしてまた今になって。その問いに、記憶の 中の圭子は答えなかった。  −変なこと言うなよ。それでなくても疲れて るんだから。  自分の言葉に苛立ちが滲んでいたことを悔恨と ともに自覚する。  −ごめんなさい。  俯いた圭子に、  −辞めるって言い出しだのは君の方だろ。確 かに俺も賛成したよ。それでなくても外事は危険 な仕事だ。いつどこでどんな目に遭うか知れたも んじやない。君にそんな危ない思いをさせられる ものか。  −私を心配してくれてるの?  −当たり前だろう。  −嬉しい。  嬉しい。あのとき圭子はそう言った。だがそれ は、彼女の本心だったのか。そして自分もまた、 本心から圭子にそう言ったのか。  不意に悟った。自分は今、クラーラを心配して いる。  彼女の身に何かが起こることを恐れている。  落ち着け。心配して当然だ。彼女は武器を持っ ていない。万一のことがあれば、それはそのまま 自分の責任となる。警察官としての人生がすべて 終わってしまうのだ。 〈誰かいるの〉  車内のスピーカーからクラーラの声が流れ出し た。  砂田は青野達とともに集中して耳を澄ます。  〈あれ、もしかしてクラーラさん?〉  応じたのはしやがれた老人の声たった。  〈まあ、高木さん。お久しぶり〉  〈誰かと思いましたよ。髪、染めたんですね〉  〈ええ、ちょっと気分を変えようと思って。ここ で何をやってらっしやるの〉 〈社長から片づけと掃除を言いつかりましてね。 定年後のアルバイトですよ。こんな仕事でも使っ てもらえるだけ大助かりだ〉  〈そうだったの〉  どうやら元社員のようだ。しかも機関員ではな く一般人らしい。  〈クラーラさんはどうしてこんなとこに〉  〈以前御社にお渡しした商品サンプルがこちらに 保管されてると聞いてきたんです。どうも旧商品 だったみたいで、すぐに調べてこいって言われま して〉 〈ああ、それならとっくに本社の方に戻しました よ。ここは半年前から使ってなくて。とんだ無駄 足でしたね〉 〈えっ、そうなの? 本社の人に聞いてきたんだ けど、そんなこと言ってなかったわ〉 〈誰に聞いたんです?〉 〈さあ、知らない顔だったわ。最近人っだ人かも しれない〉 〈じやあバイトの誰かかなあ。すみませんねえ、 お手間かけちやって〉  〈いいえ、こちらこそお邪魔してすみません〉  倉庫から出てくるクラーラの姿を確認し、青野 が録音機材のスイッチを止めた。  どうやら空振りであったようだ。  無意識のうちに安堵の吐息を漏らしていたこと に気づき、慌てて指示を下す。  「上板交易は当分視察続行。クラーラの来訪に反 応する奴がいたら要注意だ」  「了解。五係から何人か回させます」  和泉が即座に反応する。  「時間が惜しい。次に行くぞ」  クラーラが車に戻ると同時に、あえてそっけな く告げた。  その囗だけでなく、次の囗も〈空振り〉が続い た。  ゴーベールの行方は杳として知れない。  砂田は焦った。元来が異例のオペレーションだ。  一刻も早く結果を出さないことには、上層部が方 針を変更するおそれが大いにあった。  何か他に手はないかI考えるんだ、他に何か I  三日目の夕刻、疲れ切った一同はクラーラを東 五反田の分室オフィスーゴタンダに送り届けた。  人目を避けて彼女を護衛しながら宿泊させるの は一般のホテルでは不可能だし、かといって警察 施設に泊めるわけにもいかない。そこでオフィ スーゴタンダの間取りが3LDKのファミリータ イプであったことを幸い、二部屋に簡易ベッドを 搬入して、一部屋をクラ圭フの個室、もう一部屋 を護衛兼監視役の青野班女性捜査員達の待機室と したのである。窮余の策ではあったが、考え得る 中では最善とも言えた。他の部屋には常に数名の 外事課員が詰めているから、クラーラの護衛と監 視には申し分ない。もちろん、重要な捜査資料は クラーラに見られないよう金庫にしまって充分に 注意を払っている。  クラーラと女性捜査員が浴室に入るのを確認し、 砂田は青野に小声で話しかけた。  「押収したテュルコワーズ社の財務資料はこっち にあるな?」  「はい。しかし全部かどうかは分かりませんよ。 殺されたフォートレルかゴーベールがすでに処分 した可能性があります。残されていたものも分析 が難航してまして……一アユルコワーズの資金は海 外に流れてますから、ウチだけではどうして も……」  「コピーをくれ。直近の三か月分でいい」  頷いた青野は、リビングの隅にある金庫を開け、 一束の資料をつかみ出した。効率的な捜査のため 押収した資料はすぐにコピーを作成する決まりに なっているのだ。  差し出されたコピーを受け取り、分室を出た。  警視庁に赴いた砂田は、捜査二課のフロアを見 渡した。  その男が在籍していることは知っている。一度 所轄へ異動になったが、課長補佐として戻ってき たのだ。  いたI  その男は、デスクに向かってペンを走らせてい た。報告書でも書いているのだろう。  近寄って声をかける。  「ご無沙汰してます、五十部課長補佐」  その男−捜査二課の五十部は小さな目を見開 いて振り返った。左の目許の大きなほくろは以前 のままだ。 「砂田……いや、砂田係長」 「ちょっといいですか」 「いいけど、なんだ?」 「ここじやなんですから、会議室の方へ」  声を潜めて促すと、五十部は黙って立ち上がっ た。  二人で空いている会議室に移動する。  「懐かしいな、砂田さんよ。前にもあんたと二人 でここに人つたな。いや、別の部屋だったか。ま あ、どっちでもいいか」  「早速ですが五十部さん、ちょっとこれを見ても らえませんか」  鞄からコピーの束を出して五十部に渡す。  「へえ、こいつは……」  捜査二課の課長補佐だけあって、五十部は数枚 めくっただけでそれがどんなものであるか察しが ついたようだった。  「詳しいことは言えませんが、そもそも外事は共 産圏の資金からその会社に目をつけたわけで I」  「ははあ、あれだな、外国人が射殺された牛込の 事案だな。確か社長も殺されてる」  「ええ、あれです」  「で、こいつを俺にどうしろってんだ」  「事案の解決には資金の詳細な解明が必要だと 思ったんですが、ウチだけじゃどうにも手が足り ない。餅は餅屋って言うじゃないですか」  階級は同じ警部だが、砂田はあくまで下手に出 る。金のことなら捜査二課が専門だ。  「外事の方の事情は知らんが、ありゃあ相当ヤバ い案件じゃねえのか」  「だから極秘でお願いしてるわけですよ。ご存じ の通り、警察は横の連携が難しい。特に外事は秘 密主義だ」 「こっちのメリットは」 「ありません」 「ふざけるな」 「今回はウチの借りということでお願いします。 なんだったら、妙な資金を流してるゼネコンを二、 三教えます。海外の納入業者筋の情報なんですけ どね。全部五十部さんと搜二の手柄にしてもらっ て構いません」  束の間考え込んでいた五十部は、指でほくろを 撫でながら用心深そうに言った。 「分かった。だけど変なゴタゴタにだけは巻き込 んでくれるなよ。いいか」  「恩に着ます」  コピーを五十部に託して会議室を出る。  やれるだけのことはやっておかねばI  ほっとした思いでエレベーターホールの方へ向 かっていた砂田は、前方の廊下を足早に横切った パンツスーツの女を目にして足を止めた。  驚愕のあまり声が出ない。   一瞬ではあったが、女の横顔はまぎれもなく圭 子のものだった。  我に返って駆け出した。  女の後を追って廊下を曲がる。エレベーター ホールだ。  ちょうど一基のエレベーターのドアが閉まった ところであった。  遅かったI  周囲を見回す。誰もいない。やはりこのエレ ベーターに乗ったのだ。  噴き出た汗を掌で拭い、改めて下降ボタンを押 す。  どうして圭子が警視庁にI  落ち着いて考える。見間違いではなかったか。 他人の空似という奴だ。  すぐにその可能性を否定する。まがりなりにも 自分は警察官として二十年以上勤めてきた。しか もかつて部下であり、妻たった女だ。見間違いな どでは決してない。  圭子の服装は女性警察官としてごく標準的なも のだった。他業種の人間が刑事部のフロアを単身 闊歩しているとは考えにくい。  もしかして、自分の知らない間に復職していた のか。  だったらなぜ自分に知らせてくれなかったのか。  上昇してきたエレベーターはそのまま上層階へ と向かっている。階数の表示を眺めながら黙考す る。  もし復職していたのなら、いずれ自分と出くわ すことは充分に想定できたはずだ。しかし圭子は そのこと自体を重要視していない。つまり自分は どうでもいいのだ。  また復職した経緯は。他の職ではなく、あえて 警察に戻ってきた理由は。誰かの引きがあったの か。  今ならまだ間に合うかもしれない、このフロア にいる者全員に聞いて回ればI  さすがにそこまではためらわれた。別れた女房 について警視庁内で身も世もなく尋ね回る警察庁 の係長。考えただけでもぞっとする。これはどの 醜態はないだろう。  エレベーターのドアが開いた。表示ランプはい つの間にか下降へと変わっている。  重すぎる疑念を抱えたまま、砂田はエレベー ターに乗り込んだ。  四方を工場に囲まれた豊洲の賃貸マンションに 帰宅した砂田は、六畳間の布団の側に置かれた電 話機を前に考え込んだ。  圭子の住所と電話番号は知っている。沼袋のマ ンションだ。別れた直後、事務的な打ち合わせの 必要から互いの連絡先を教え合った。  結婚当初は、久我山の新築マンションに入居し た。そこで光に満ちた新生活かスタートするI 人並みにそんな夢を思い描いた。夢は醒めるから 夢である。人よりも脆く儚く、夢は瞬く間に破れ た。人を疑うことしか知らない外事の警察官同士 −厳密には警察官と元警察官だがI素朴に寄 り添って暮らせると思う方がどうかしている。気 がつけば、セキュリティだけはしっかりしている ILDKのマンションで、砂田は独り暮らしの 日々に逆戻りしていた。もっとも、久我山でもす れ違いが多く、二人で過ごした時間は決して長く はなかったが。  思い切って受話器を取り上げ、圭子の番号を プッシュする。 〈おかけになった番号は現在使用されておりませ ん〉  自動音声が流れてきた。番号を変えたか、転居 したのだ。  圭子の親族に電話してみようかと思ったが、や めた。離婚以来、先方とは没交渉になっている。 どう切り出せばいいか、考えるのも苦痛であった。  このまま無為に座り込んでいても仕方がない。 立ち上がろうとしたとき、不意に電話が鳴り出し た。反射的に受話器をつかみ上げる。  「はい、砂田です」  〈青野です〉 「どうした」 〈クラーラが係長と話したいそうです〉 「分かった。代われ」 〈それが、電話ではなく、できれば直接話したい と……〉  「どういうことだ」  〈分かりません。何か今後の方針に関係あること のようです〉  「分かった。すぐに行く」  心のどこかでほっとしていた。  仕事に専念している限り、圭子のことは後回し にせざるを得ないIそう自らに言いわけできる。  翌日の午前十一時。大森総務審議官の執務室に 集まった警察幹部に対し、砂田はクラーラの〈提 案〉を告げた。  沈思する者、冷笑する者、あるいは激昂する者。 幹部達の反応はさまざまたった。阿久津は表情を 完全に消している。  「つまり、ルシーノワを囮にゴーベールを罠に掛 けて誘い出す。ルシーノワ自身がそう言い出した ということだな?」  「はい」  吉野警備局長の確認に、砂田ははっきりと答え た。  「このまま時間が経過すればゴーベールが逃亡、 もしくは殺害される可能性は高くなる一方です。 オペレーションの抜本的な見直しが必要だという 点については自分も同意見であります」  「それこそがルシーノワの罠であり、目的である 可能性は」  「ないとは言えませんが、少なくとも現状を鑑み る限り、ルシーノワがこちらに罠を仕掛ける理由 が見つかりません」  「現状とは具体的に何を指しているのか」  「ソ連の現状、KGBの現状。さらには何より本 事案の現状です。解決が遅れれば遅れるほどル シーノワの立場は悪化する一方であり、そもそも 協力態勢を申し出た彼女の当初の意図が達成され る望みは薄くなります。本人もそのことを強く懸 念しています」  幹部達は黙り込んだ。  早期解決という一点においては、全員の意思が  一致している。  「現場としてのリスクは」  大森総務審議官が警視庁の前田公安部長に向 かって尋ねた。  「大いにある、としか申しようはありません」  慎重に前田は答える。  それはそうだろう。「リスクがない」などと安 易に返答できる局面ではない。それでなくても外 事の極秘オペレーションに、危険の伴わぬものは ほとんどない。  皆が頷いている中、前田は決然と続けた。  「ですが、やってみる価値もまた大いにあると考 えます。外事、諜報の世界の要諦は常に敵の狙い を逆手に取ること。それにより想定以上の結果が 得られれば成功、すなわち勝利です。このオペ レーションでは、思わぬ付加的情報を得られる可 能性が大きい。それは先々囗本の防諜作戦におい て重要な意味を持つこととなるでしょう」  剛胆な発言である。さすがに外事の全体を指揮 する公安部長だ。  大森がまっすぐに砂田を見つめ、  「現段階ですでにルシーノワの生命は常に危険な 状態にある。実行するとなると囮役のルシーノワ は今以上の危険に哂されることになる。彼女に万 一の事があっても、本件は当然公にはできない。 砂田係長、君はそれでも実行すべきと考えるの か」  砂田は躊躇した。今ここでそれを述べるという ことは、すなわち責任を負わされるということで ある。  いや、それだけではない。  −私を心配してくれてるの?  クラーラの声なのか。それとも圭子の声なのか。 まるで判然としなかった。  −ねえ、私か心配じゃなかったの? ねえ、 答えて。  心配に決まってるさIだけど、君の方から −  自分は一体、誰に答えているのだろう。  「どうなんだ、砂田」  吉野警備局長の叱咤が聞こえた。  覚悟を決めて立ち上がる。  「やらせて下さい」  吉野と大森が顔を寄せ合い、他の誰にも聴き取 れないほどの小声で何事か相談している。  そして最終的に大森が斷を下した。今回の件は 総務審議官マターとされているためである。  オペレーションは認可された。  東五反田の分室で、砂田、和泉、それに青野班 の面々が注視する中、クラーラは特別に用意した 携帯電話を使って電話をかけた。この四月にNT Tから発売されたばかりの小型携帯電話mova である。  発信先は『六星インフォメーション』。  気配を悟られないよう、全員クラーラから適度 に距離を取っている。緊張をはらんだ皆の視線を 浴びながら、クラーラは相手の応答を待った。  「クラ圭フールシーノワです。塩崎さんをお願い します」  秘書が出たらしい。クラーラは日本語で伝えた。 通話はもちろん別の機器で録音している。  ややあってから、今度はロシア語で話し出した。  「お久しぶりね……ゝ尺ゝ尺、無事よ。ありがと う……`一一『察の事情聴取は型通りのものだった わ……』  この場にいる者は全員がロシア語を理解できる。  『分からないの、なぜ襲撃されたのか……y』のま まじゃ誰も信用できないし……それで身を隠して るんだけど……そう、だからどうしてもゴーベー ルと連絡を取る必要があるの……メッセージは 『テュルコワーズ社の裏帳簿を持っている』…… ええ、それだけ。返事はこの携帯に。番号は分か るわね……ゝ心配しなくていいわ、必ず振り込むか ら。まだそれくらいの資金はあるの……ありがと う」  クラーラが通話を終えた途端、一同の間からだ め息が漏れ聞こえた。  「とりあえず〈オーダー〉は受けてもらえたわ」  さすがにクラーラもほっとしたように告げた。  『六星インフォメーション』とは、紀尾井町にあ る会社である。その実態は、一台の電話機が置か れているだけの〈伝言屋〉−いわゆるメッセン ジャーで、顧客は主に諜報機関の関係者であると 言われている。この会社のユニークな点は、一切 のイデオロギーを問わず、東西両陣営の諜報員か ら仕事を受ける点にある。  システムは単純だ。依頼人からメッセージを預 かると、必ず相手に伝えてくれる。相手が見つか らないときは、〈近い筋〉に情報を流して相手が 問い合わせてくるのを待つ。ただしその場合は、 依頼天にとって好ましからざる人物や組織にまで 情報が伝わるリスクがある。それでも諜報の世界 には、そんなリスクを承知の上で依頼してくる客 がいる。特殊な〈仕事〉であるからこそ、不測の トラブルからのっぴきならない窮地に追い込まれ、 緊急手段として利用する諜報員が絶えることはな いのだろう。  公安部でも外事を中心に以前から目をつけてい たのだが、どうしても明確な証拠をつかむことが できず、これまで摘発できずにいた。  厳密に言うと摘発できなかった理由はそれだけ ではない。六星インフォメーションは囗本の政界 からも仕事を受けていたと覚しき痕跡があり、無 用なトラブルとなることを警察幹部が恐れたとい う経緯もある。  結野という名の女性秘書以外に社員を抱えず、 六星インフォメーションをただ一人で維持してい る社長の『塩崎』は、ロマンスグレーの老紳士だ が、その前歴は不明である。一説によれば大陸浪 人であったともいうし、また別の説によれば瀬島 龍三と同じシベリア抑留者−しかもソ連軍に協 力を約束して引き揚げてきた『誓約引揚者』で あったともいう。  どちらかと言うと後者の信憑性が高いと外事で は見ている。六星インフォメーションは確かに東 西両陣営の仕事を受けてはいるものの、数からす るとソ連側の利用者が圧倒的に多かったからであ る。その上、警察上層部が及び腰であるのも瀬島 龍三に近い存在だからではないかと憶測する向き もあった。もっとも、確認できる引揚者リストに 塩崎の名は記載されていない。偽名である可能性 も考えられた。  たとえ不成功に終わったとしても報酬はマカオ の銀行口座に振り込むことが、六星インフォメー ションに発注する際の必要条件である。  今クラーラは、この塩崎にゴーベールヘのメツ セージを預けた。  ゴーベールがクラーラと同じく、状況が分から ずに身を隠しているのなら、六星インフォメー ションに探りの電話を入れてくる可能性は大いに ある。  餌ば『テュルコワーズ社の裏帳簿』。もちろん そんなものは押収されていない。ゴーベールの興 味を惹きつける文言となることが期待された。  だがそれは、あまりに大きなリスクを伴ってい る。クラーラの抹殺を命じられている人物、ある いは組織が、メッセージの存在を嗅ぎつけ、逆に 罠を仕掛けてくるかもしれないからだ。  「私の安全は保証してくれるんでしようね」  念を押してくるクラーラに、  「それが大前提のオペレーションだ。第一、立案 者は君じゃないか」  「そうだけど、警察官はいつ裏切るか知れたもの じゃないわ」  「日本警察はモスクワ民警とは違うんだ」  「あら、本当にそうかしら」  場にそぐわぬ皮肉な笑みを浮かべる。汚い金を 受け取る警察官が日本でも決して少なくはないこ とを熟知しているのだ。  「ともかく、これでもう我々は退けなくなりまし た。後はゴーベールが引っ掛かってくれるのを待 つだけです」  和泉が冷静な口調で言った。  全員がクラーラの手にした携帯電話を見る。  その携帯が鳴るとき。それはゴーベールが食い ついたときなのだ。  明日か。それとも明後日か。  身を焦がすような神経戦の始まりである。電話 が鳴るまで、こちらの神経が保つだろうか。  不意に、鳴った。  一同がびくりとして顔を上げる。  クラーラの携帯ではない。ドアのチャイムだ。  青野班の富永が玄関ドアに向かい、ドアスコー プから外を覗く。  「阿久津課長です」  振り返って小声で告げる富永に、砂田は青野、 和泉と顔を見合わせる。警察庁の課長が現場の最 前線である分室を訪れるような事例など聞いたこ ともない。異常事態と言ってもいい。  だが、警察幹部をまさか追い返すわけにもいか ない。  砂田は富永に向かって頷いた。目で応じた富永 が解錠してドアを開ける。  無言で阿久津が入ってくる。  その背後から現われた人物に、砂田は唖然とし た。  圭子であった。  困惑と不審とが静寂の波紋となって室内に広 かっていく。  和泉と青野が互いに目を見交わしている。伴や 盛岡らも。  クラ圭フさえも驚きの表情を隠せずにいた。  彼らは皆、圭子が砂田の元妻であり、現在は一 般人であることを知っているからだ。  新人の中には知らない者もいるかもしれないが、 青野達の様子からただならぬ気配を察知して黙っ ている。  「課長、これはどういうことですか」  己の感情を努めて抑制し、砂田は阿久津に問う た。  何についての質問か、阿久津は問い返すことも せず、  「彼女は警視庁公安部公安総務課主任の眉墨圭子 警部補だ。前田公安部長の指示により、警視庁、 警察庁と現場との調整役を務めてもらうことに なった」 「眉墨です。よろしくお願いします」  圭子はごく自然に挨拶した。  捜査員達は目礼を返したが、和泉や青野達に とってはそうはいかない。もちろん砂田も。  「待って下さい」  詰め寄る砂田に、阿久津は重ねて、  「外事の最前線に調整役を配置するのは確かに異 例である。しかし本オペレーション自体がそもそ も極めて異例である上に、情報の扱いにも慎重を 要するものだ。その点を考慮して上層部が特別に 決定した。調整役に公総(公安総務課)の人間を 充てることは適材適所であると言えるし、彼女の 能力については諸君もよく知っていることと思 う」  「そんなことを訊いているわけではありません」  のうのうと言う阿久津に腹が立った。 「個人的な話でも聞きたいのか」 「ああ、聞きたいですね」 「捜査には関係ない」 「そうは思えません」  しばし無言で睨み合う。  「……そうだろうな」  それまで強圧的な態度を取っていた阿久津が、 意外にもため息を吐いて呟いた。  一方の圭子は、まるで他人事ででもあるかのよ うな外貌を保っている。  「この中には君と眉墨主任とのいきさつについて 知らない者もいると思う。全員に知られることに なるが、それでもいいか」  「構いません。知られる恥よりも、知らないこと による不信感の方が現場にとっては大きな障害と なるでしょう。それでは万一の事態が起こった場 合、現場指揮官として対処できません」  「分かった」  頷いた阿久津は、一同に向かい、  「彼女は砂田係長の元部下であり、元配偶者であ る。離婚後、彼女は警視庁に復職した。再就職に ついて元夫に報告する義務はない。公安という部 署の性格上、この人事は内密になされた。砂田係 長が驚くのも無理からぬことと思う。またそうい う因縁のある人物を現場に配置することに不安を 覚える向きもあろうと承知している。しかしこれ はすべて上層部の決定したことであり、私の立場 としては従うよりない。以上だ」  以上だとIそれだけじゃないだろうI  阿久津の説明は、何も説明していないに等し かった。  「”I n e nePTHe cjiannT「Tyna 6 a 6 y no巨jt e號。」  全員が振り返る。  クラーラたった。  −『悪魔は手に負えない所には女を送る』。  またロシアのことわざらしい。意味は知らない が、言葉の通りとしか思えない。  「私は別に構わない。我が国の官僚はもっと意味 不明で矛盾した命令を下す。それに比べると充分 に受け入れられるものだわ」  一同を煙に巻くように、今度は日本語で言った。  ソ連の官僚組織と比べられてもなI  命令を受け入れると言いながら、その実、あか らさまに嘲笑している。  だがその発言で、場に圭子を受け入れる流れが できた。  「よろしくお願い申します、ルシーノワさん」  機を逃す圭子ではない。すかさずクラ圭フに頭 を下げる。  「クラーロチカ(クラ圭フの愛称)で結構よ」  「いえ、私は現場ではありませんので、協力者と 親密になる必要はないと考えます」  隠し切れない圭子の挑発的な視線を、クラ圭フ は余裕で受け止める。  「この近くのビジネスホテルに部屋を取りました。 私は当面そこに詰めておりますので、状況に変化 がありましたらポケベルに連絡をお願いします。 番号はここに書いておきました」  圭子はテーブルの上に紙片を置き、  「青野班で共有して下さい。ただし必要最小限で。 漏洩には充分に気をつけるようお願いします…… 阿久津課長」  「そういうことだ。大変だとは思うが、オペレー ションの成功に向けて頑張ってほしい」  圭子に促され、阿久津はいかにも型通りの激励 を残して分室を出ていった。圭子もその後に続く。  心なしか、砂田には阿久津の視線に一同に対す る同情や後ろめたさに類するものが含まれている ように感じられた。  閉ざされたドアを見つめ、残された全員が言葉 を失っている。  「変じやないですかね」  ややあってから、最初に口を開いたのは和泉で あった。  「何かだ。変なことだらけでどれを言っているの か分からん」  投げやりな気分で応じた砂田に、  「奥さん、いえ眉墨主任の態度です」  「おい、和泉……」  青野が制正しかけだのは、それが元夫婦の間の 微妙な問題に触れると思ったからだろう。  「違うんだ青野、俺は今、何か違和感のようなも のを感じた」  「違和感だと? それなら俺だってIから十まで I」  「そうじゃない。眉墨主任の阿久津課長に対する 態度だ。なんだか階級が逆転しているように感じ た。たとえ元のご主人である砂田係長に対する感 情的しこりがあったとしてもだ」  「言われてみれば……」  青野が腑に落ちたように呟く。  「それは俺も感じました」「自分もです」  以前の圭子を知る盛岡と伴も口々に発した。  和泉の指摘は確かに鋭い。警察組織において階 級は絶対だ。  阿久津は警視長であり、圭子は警部補にすぎな い。復職してすぐに警部補というのも通常では考 えられないが、なんにせよ、警視長よりはるか下 の階級であることに変わりはない。  にもかかわらず、それが覆っていたような印象 を受けた。  どういうことだI  圭子の出現にはさまざまな謎がある。第一、復 職の経緯がよく分からない。いきなり公安総務課 の主任とは、誰かの引きがなければまず不可能だ。  しかし圭子と阿久津の関係は、それらの謎すら 霞ませるものだった。阿久津は確かに女性に優し いが、女性に甘いわけでは決してない。 「どうやら囗本の警察も我が国と同じようね」  クラ圭フだけは何かを理解したようだ。 「つまり二重構造よ。何も不思議ではないわ」 「官僚機構のことを言っているのか」 砂田の問いに、クラ圭フは微笑みを浮かべる。  「ええ」  KGBの、そしてソビエト政府の内部には、常 に複雑な力学が働いているという。そのため、 往々にして外国人には理解し難い政治的現象が発 生する。  「言いたいことは分かる。しかし日本の警察にお ける上下関係とはI」  言いかけて、やめた。  それくらい、クラーラは先刻承知のはずだ。口 シア人と日本人との間には、どうにも超え難い文 化と考え方の違いが厳然として存在する。そのあ まりの違いに、諜報戦でやり合う双方が互いに驚 くこともしばしばたった。ことに日本での活動歴 が長いクラ圭フは、そうした経験を何度もしてい るに違いない。日本警察の内情と精神構造につい て、理解はできないまでも、把握していて当然と 言えた。  案の定、クラ圭フの笑みには興味津々といった 色がある。これも当然ながら、日本警察について の興味ではない。  舌打ちして振り返ると、全員が自分を注視して いた。元妻の唐突且つ不自然な介入。興味の在処 は共通している。  初手からこの上ない恥辱であった。それも重大 なオペレーションの最中にだ。  上層部は自分にこんな茶番を演じさせるために 圭子を送り込んできたのか。  「係長」  青野が圭子の残した紙片を差し出してくる。 「番号は全員メモしました。係長にお預けしま す」  救われた思いで、紙片を受け取った。  「ああ、すまない」  いかにも情けない風情を醸しているであろう自 分を一瞥し、クラーラは浴室に向かった。  「お先に失礼させて頂くわね」  女性捜査員二名が慌てて一緒に入る。洗面所内 で何か小細工をしないか監視するためだ。  クラーラ。そして圭子。  途轍もなく重い荷物を背負わされた気分であっ た。  瞬く間に五日が過ぎた。  ゴーベールからの連絡を待って待機するだけの 毎日は苦痛以外の何物でもなかった。  広めの3LDKとは言え、外事の捜査員が常時 詰めていると息苦しさが募るばかりだ。それでな くても、並外れた精神力、特に忍耐力が要求され るオペレーションである。  ことに伴の精神状態が気にかかった。親友をK GBに謀殺された彼が、KGBの女と常時顔を突 き合わせている状況にいつまで耐えられることか。  一方で頻繁に顔を出すかと思われた調整役の圭 子は、ほとんど分室に現われなかった。ビジネス ホテルで待機しているのだろうが、姿が見えない 分、その心底はいよいよ以て分からない。過去の 圭子を知っている者も知らない者も、内心ではあ れこれ勘ぐっていることだろう。  クラーラまでも、圭子のことをあれきり話題に もしないのは不気味としか言いようがなかった。  それでなくても砂田には他にも気がかりなこと が山ほどあった。とりわけ懸念されるのは上層部 の変心と真意である。  一刻も早く結果を出さねば、警察幹部がいつオ ペレーションの中止を言い出すか知れたものでは ない。さらには、圭子を秘密裏に復職させて公安 の要職に就け、現場へと送り込んできた真の理由 だ。  ソファで仮眠を取りながら、焦燥にうなされる 毎日たった。  ゴーベールは本当に引っ掛かるのか。引っ掛 かったとしても、狙い通り確保することができる のか。  刻々と神経をすり減らす消耗の日々が続いてい る。  −もう耐えられない、こんな毎日。  興奮した口調では決してない。冷静に、そして 淡々と圭子は言った。  離婚を切り出される少し前だ。  −そう言うなよ。今度休みが取れたら一緒に 旅行にでも行こう。  我ながら陳腐な文言だった。その場を取り繕う だけの口先の約束。決して実行されることはない。 これではかえって自分には誠意がないと告白して いるに等しい。まがりなりにも外事の人間だ。そ んな心理は知悉しているはずなのに、妻に対して だけは適用も応用もできない。  −仕事が忙しいのは分かっているわ。私だっ てあなたと一緒に働いてたんだもの。でも、心が ないのは耐えられない。  −どういう意味だ。  −せめて心は残していってほしいの。この家 に。あたし達の家に。  −それくらい分かってる。俺だってやってる つもりだ。  分かっていなかった。やってもいなかった。今 になってようやく分かる。  −そうは思えないけど。  圭子はどこまでも冷静だった。対して自分は、 圭子の言い分を理不尽に感じ、我を忘れた。  仕事を辞めるべきは自分の方だったのかもしれ ない。圭子はそれほどまでに外事の資質に恵まれ ていた。  だから誰かが彼女に目をつけた。  誰だ、それはI  −そんなこと、あなたに言う必要はないわ。  記憶ではない、幻影の圭子が冷酷に告げる。  なぜだ、教えてくれ、圭子−  −私のことは私か決める。あなたはあなたの 好きにすればいいでしょう。  待てよ、圭子−  突然の音に飛び起きた。ソファの前のサイド テーブルに置いたポケベルだ。  毛布をはね除け、ポケベルをつかんで表示に目 を走らせる。  これはI  起き上がった砂田は、同じくサイドテーブルの 上に置かれた電話の受話器を取り上げ、表示され た番号を押す。汗に濡れたシャツの首筋が不快 だった。  〈はい、捜二五十部〉  「砂田です」  〈おう、早かったな〉  連絡してきたのは捜査二課の五十部だ。  「なんでしよう」  まだ寝惚けているのか、そんな間抜けなことし か言えなかった。  〈この前預かった財務資料な、調べてみたら面白 いことが分かったよ〉  急速に覚醒するのが自分でも分かった。  「どんなことです」  〈今本庁なんだ。電話じゃまずい。出られるか〉  「それは、ちょっと」  獲物が網に掛かるのを待ち受けている最中であ る。分室を離れるわけにはいかない。 〈こっちから行ってもいいぞ〉 「では、五反田駅前の『ネイチャー』つて喫茶店 で」 〈分かった。三十分で行く〉  通話を切って立ち上がる。和泉と青野がこっち を見ていた。  「二十五分後に出かける。三十分以内には戻るつ もりだ」  きっかり三十分後に指定した店に入り、奥まっ た席に陣取った。  その二分後に五十部が入ってきた。  近寄ってきたウェイターに、二人同時に「ホッ ト」と注文する。  「……で、なんなんです、面白いことって」  こちらから切り出すと、五十部は皮肉めいた口 調で、  「頼み事をしときながら挨拶も抜きか」  [業務の宣]つ最中なんですよ」  それだけで通じた。贈収賄などの知能犯を扱う 捜査二課では、証拠保全等のため一分一秒を争う 捜査が少なくない。  特にこだわる様子もなく、五十部は持参のくた びれた鞄から書類の束を取り出した。  「この前預かった資料だ。ちゃんと返したぞ」  「確かに」  コピーくらいは取っているだろうが、構わずに 受け取る。  「それと、これ」  五十部は数枚の紙片を差し出して、  「面白いことってのはそいつの方だ。全部書いと いた」  急いで目を通す。英語とロシア語、それに細か い数字が入り乱れている。何か専門用語らしきも のまで。  「テュルコワーズつて会社は貿易のフリをして生 活物資をソ連に送ってるって話だったが、財務資 料をちょいと見ただけでもあからさまに収支が合 わねえ。それに会社の規模からすると取引先が多 すぎる。俺達から見りやその意味は大概一つだ」  「ダミーですか」  数字の列に目を走らせながら言う。  「そうだ。あちこちに商品を送っているように見 せかけて、本命を隠してやがる。ソ連の指示通り の送り先ならこんなしち面倒臭いことをやる必要 はない。つまり、本国の金で商品を仕入れ、それ をこっそり別のところへ送ってるってわけだ」  「密輸、ですね」  「面白いってのは実はここからなんだ」  続きを待ったが、五十部はすぐには言わなかっ た。  資料から視線を上げると、焦らすように笑って いる。  こっちはいつゴーベールからの連絡があるか分 からない。すぐにでも分室に引き返したいところ なのだ。  「頼みますよ、五十部さん」  「取引先は外国だ。国内ならともかく、さすがに ウチも外国まではそう簡単に調べられない。そこ でだ。実は俺の中学の先輩で村一番の秀才って言 われてた人がいるんだが、この人が今、大蔵省の 国際金融局にいるんだ。海外の金融機関ともそれ なりに連絡を取り合ってる。国際金融調査の連携 態勢を構築中だとかなんとかって言ってよ」  「その人に調べてもらったってわけですね」  「待て待て、この人は俺のとっておきのパイプだ。 ここぞというときでもない限りお願いなんてでき るだけしたくねえ。この件はウチの〈起こり〉で もなんでもねえし、どうしたもんか、散々迷った よ」  「分かりました。先にこっちのネタを言います。 海外へ不正送金を行なっており、外事が以前から 目をつけていたにもかかわらず、諸事情から手つ かすのままになっている会社があります」  用意していた三つの会社名を口にした。  五十部は小粒のどんぐりのような目を剥いて、  「マジか。結構な大企業ばっかりじやねえか。そ れが本当ならウチにとっちやあ盆と正月がいっぺ んに来たようなネタだぜ。課長に言ったら心臓発 作か脳卒中でイツちまいそうだ」  「納得してもらえましたか」  「よし、分かった。国際金融局を通して調べても らっだ結果、テュルコワーズ社のブツは香港経由 で最終的にオデッサの『ソバーカ』つて会社に流 れてる。ここがどういう会社かまでは俺達には分 からねえ。むしろあんた達の方が得意だろう。具 体的な数字だけはその紙に書いてある通りだ」  オデッサだってI  呆然としている砂田を急かすように、 「どうした、急いでるんじやなかったのか」  我に返ってそそくさと立ち上がる。 「ありがとうございました。それでは」  そのまま店を出ようとした砂田を、五十部が鋭 い声で呼び止めた。  「おい、待て」  「なんでしようか」  警戒しつつ振り向くと、五十部は黙って伝票を 差し出した。  聞こえないように舌打ちし、砂田は伝票を受け 取ってレジに向かう。  財布を取り出し、現金で二杯分のコーヒー代を 支払った。 〈外事が目をつけていたにもかかわらず、諸事情 から手つかずたった〉。  自分は確かに五十部に伝えた。この場合の〈諸 事情〉とは当然警察上層部の意向である。  それは事実上のアンタッチャブルということだ。 そうと知ったら五十部は地団駄踏むか、激怒する か。  もしかしたら、捜二なら金脈を辿って権力の壁 を突破できるかもしれない。田中角栄を逮捕した 東京地検特捜部のように。  いずれにしても約束は果たした。自分としては 搜二の健闘を祈るばかりだ。  分室に戻る。外に出ていたのは移動時間を合わ せても二十分弱だ。幸いにも異状はなかった。 ゴーベールからの連絡がなかったということだか ら、幸いと言うより不幸と言った方がいいかもし れない。  厳密には一つだけ変化があった。外出したとき にはいなかった圭子が室内にいた。調整役と称し つつ、実質的にオペレーションを監視する目的で 現場に配置されたのだ。いない方が不自然と言っ ていい。  「最重要オペレーションの最中に現場を離れた理 由を報告して下さい」  早速詰問してきた。  「君、いや、眉墨主任もさっきまでいなかった じやないですか」  「ごまかさないで下さい。私はシフトに従い、時 間通りホテルからここに直行しました」  「そうですか。自分はイレギュラーな接触の必要 から時間を限定して離脱しました。その間の指揮 は青野班長に任せました」  「接触の相手は」  「保秘の必要からお答えできません。いずれ上司 である阿久津課長に報告しますので、そちらから お聞きになられてはいかがですか」  部屋の隅から失笑が聞こえた。優雅なポーズで ソファに座っていたクラーラだった。  圭子が無言でクラーラを睨むが、強者の女スパ イは平然とティーカップの紅茶を口に運んでいる。  圭子の存在は、分室内に異様な緊張をもたらし ていた。特にクラーラとの間に。  「青野、和泉、それに伴。ちょっと来てくれ」  小声で三人を呼び集め、浴室に移動する。ドア を閉める寸前、クラ圭フと圭子が同時に視線を向 けてきたが、気にしている場合ではない。  ドアに鍵を掛け、彼らに五十部の話を手短に伝 える。三人ともその意味をすぐに理解した。  砂田は伴に五十部の作成した資料を渡し、  「この『ソバーカ』という会社について大至急調 べてくれ。何人か付けてやりたいところだが、現 状ではおまえに任せるしかない。いいか、誰にも 知られるな。すべて極秘裏にやるんだ」  伴が緊張した表情で資料を受け取ったとき。  ドアの外から携帯電話の着信音が聞こえてきた。  同時にドアが激しく叩かれる。  「着信来ましたっ」  盛岡たった。言われる前にドアを押し開け、四 人ともリビングに飛び出している。  鳴り続ける携帯電話を手にしたクラーラがこち らを見る。  大きく頷いてみせると、クラ圭フは応答ボタン を押して電話に出た。  「はい」  砂田はクラーラの頬に触れるほど耳を近づける。 硬貨の落ちる音がした。公衆電話だ。  音量は最大に設定してあるので相手の声は明瞭 に聞き取れた。 〈六星インフォメーションの伝言を聞いた〉  ロシア語たった。混乱と焦燥が感じ取れる。 〈一人か〉 「当たり前よ」  砂田はもちろん、捜査陣は全員が息を殺してい る。 〈どこにいる〉 「言えるわけないでしょう」  切迫した態度でありながら、呆れたような口調 でクラーラは応じる。完璧な演技だ。  「少なくとも携帯電話の通じる場所とだけ教えて あげる」  〈テュルコワーズの裏帳簿を持ってるんだって な〉  「ええ」  〈内容は〉  「電話では言えないわ」  〈殺されたオービニエのものか〉  「さあ、そこまでは分からないけど、裏帳簿をつ けてたのがオービニエだとしたらそうでしよう ね」 〈俺を搜してるんだろう〉 「テュルコワーズの役員だけじゃなく、私まで狙 われた理由を知りたいの」  〈そうだろうな〉  「知ってるのね」  〈ああ、だからあの囗、出社せずに身を隠した〉  「早く教えて」  〈なんで俺があんたを信用できるんだ。罠じゃな いのか〉  鋭いI  「そっちこそあたしを嵌めるつもりじゃないの」  〈聞け。表の帳簿なら俺も持ってる。コピーだが な〉  青野班が押収した資料と同じ物だ。  〈それだけじゃ足りない。俺達が助かるには証拠 がいる。あんたの持ってる裏帳簿だ。両方を突き 合わせれば、ルビヤンカ(KGB本部)も納得し てくれる〉  「じゃあすぐにどこかで会ってI」  〈待て〉  「このままじゃ二人ともI」  〈待てと言ってるだろう’・〉  電話の向こうでゴーベールが怒鳴った。  クラーラは口をつぐむ。 〈……ダメだ、考えがまとまらない。また連絡す る〉  通話は切られた。  深い吐息が室内のあちこちから聞こえる。  携帯をテーブルに置き、クラーラが皆に告げた。  「切れたわ。話の内容はI」  「それは俺から説明する」  砂田が通話の内容を詳細に再現する。  「とりあえず引っ掛かったってわけですね」  額の汗をタオルで拭いながら青野が言う。  「だが逃げられた。奴も相当参ってるようだ」  手帳にメモを書き付けている圭子を横目に見な がら、砂田は一同に指示を下した。  「次に食いついてきたときが勝負だ。青野」  「はい」  「テュルコワーズの裏帳簿を用意しろ。形態が不 明だから、コピーの束の方が言い抜けが利きそう だ。それらしく見えれば内容はどうでもいい。そ こらの外資系企業の帳簿を参考にしてでっち上げ ろ」  「分かりました」  「次回の連絡でゴーベールはおそらくルシーノワ と会う場所と時間を指定してくるはずだ。五係、 場合によっては一課全体に協力を要請する。眉墨 主任」  「なんでしようか」  ペンを止めて顔を上げた圭子に、  「〈調整〉よろしくお願いします」  「はい」  皮肉を正確に理解したらしい。心持ち苦々しげ に頷いた。やはり頭のいい女だ。  その他にも各員に細かく指示を与える。青野班 全員が一斉に動き出す。  伴の姿はすでに室内から消えていた。  上層部の指示により警視庁公安部外事一課三係、 五係との合同態勢が組まれた。  クラーラがゴーベールと接触し、情報を取得す るのを待って確保する。  相手がどんな場所で、どんな接触を要求してく るのか予測できないため、クラーラの衣服に盗聴 器を仕掛けることとする。接触時に身体検査をさ れる可能性もあることから彼女の危険は増大する が、本人が同意した。並行して対象者を広く緩や かに包囲する人海戦術でフォローする。尾行用の 人員や車輛は充分に手配した。  階数は異なるが、『オフィスーゴタンダ』の 入っているマンションの空室を警視庁で二部屋借 り上げ、応援部隊の詰所とした。青野班の捜査員 は、すし詰め状態になっていた分室がこれで少し は涼しくなると喜んだ。  こうして急遽対応策を整えたにもかかわらず、 その後三日もの間、肝心のゴーベールからの連絡 はなかった。  もしこのまま連絡が途絶えたらI  さすがに砂田も焦り始めた頃、再びクラーラの 携帯が鳴った。午後十一時三分たった。  「はい」  応答したクラーラに、ゴーベールの声は告げた。  〈明日の午後五時、帝国劇場前で待て。一人でだ。 帳簿を忘れるな。携帯電話もだ〉  それだけで一方的に切れた。  全員が黙り込む。  捜査員のデスク上にある電話の一つを取り上げ、 圭子がどこかへ連絡している。阿久津か、あるい はその上の誰かに報告しているのだろう。  なまじ周囲が沈黙しているだけに、声を潜めて いるはずの圭子の通話は部屋中に響いた。  そんな声など聞こえぬ如く、クラーラがぽつり と呟いた。  「いよいよね」  翌日の午後四時、すべての配備が完了している ことを再確認したのち、砂田はクラーラと捜査車 輛の黒いカローラに乗り込んでマンションの地下 駐車場を出た。指定された帝国劇場の近くまでク ラーラを移送するためである。例によって運転す るのは青野。助手席には和泉。現場ではこの車が 指揮車輛となる。  ゴーベールが携帯電話の所持を指示してきたと いうことは、電話でクラーラをどこかに誘導する 手口が予想される。地下や建造物内に入ると携帯 電話はつながらない可能性が高い。従ってゴー ベールの接触は地上、しかも屋外であると推測さ れた。  その囗は朝からどんよりとした鬱陶しい天気で、 のしかかる厚い雲が、気分を一層重苦しいものに していた。  マンションを出てしばらくしてから、クラーラ が唐突に発した。  「。。『いHptp画』}()ひ〇}‘y}‘のご’{p}‘の e號。」  −『古い愛は錆びない』。  例によってロシアの成句らしいが、今それを口 にする意味は分からなかった。  クラーラは続けて言った。 「。。(りepnuy He nPHKaie日已。)  −『心には命令できない』。 「なんのつもりだ」  不審に感じて日本語で質す。 「”C mhjilim paii h b hi a ji a日已。」  −『好きな人となら掘っ建て小屋も天国』。 「時間がないわ。駆け引きは抜きで率直に答えて ほしいの」  「だからどういうことなんだ」  「言った通りよ」  唖然とするしかなかった。  彼女の言葉の通りだとすると、どう考えてもそ の意味するところはI  相手は真剣な眼差しでじっとこちらを見つめて いる。  もしかして本気なのかIだがどうして今に なってI  「日本もソ連もだめ。アメリカもよ。ヨーロッパ がいいわ。伝手があるの。心配しないで。もちろ んこの作戦が終わってからの話よ」  「一体なんの冗談だ。青野と和泉も聞いてるんだ ぞ。こいつらだってロシア語は分かる」  二人が前を向いたまま凍りついているのが分か る。そしてじっと聞き耳を立てているのも。息さ え止めているかもしれない。  「だから言ってるの」  クラーラの態度は冷静そのものだった。考え抜 いた末の発言であることを窺わせる。  「最初は二人きりになる機会を待っていた。でも そんな機会なんてないうちにとうとう……私、 思っだの。聞いている人がいた方がかえっていい んじやないかって。あなたのためにも、私のため にも」  「『チェーカー(ロシアの諜報関係者)は死ぬま でチェーカーだ』。それが君達の信念だと聞いて いる」  「その通りよ。でも今なら……」 「今ならどうだって言うんだ」 {”He Kopornac BPeMeHeM.a OOt〇冖yIyぶ}{O斗。。}  −『時で大事なのは時間ではなく機会』。  「それこそが時間稼ぎのごまかしに聞こえるがね。 駆け引きは抜きじゃなかったのか」  「前にもこの車の中であなたに尋ねたわよね、日 本はKGBの動きをどう分析してるかって」  それがどう関係していると言うんだI  心臓が重い何かに圧迫されているようだった。 耳鳴りと頭痛が同時に襲いかかってくる。  −あなたは決められない人よ。  クラーラではない。圭子だ。  −仕事のことじゃないわ。それ以外のこと。 あなたには決して決められない。そうよ、決して。  「やめろ」  考えがどうしてもまとまらない。  「君はこれまで散々俺達を翻弄してきた。攪乱は 君の常套手段だ。信じられると思うのか」  (K〇冖〇JI K) 6 JI K)「 T〇r o h 6110”」 −『ぶちたくなるのは好きな人』。 「いいかげんにしろ」  最後まで俺をからかう気かI 「係長、作戦の直前です。これ以上は」  和泉が強い口調で諌言する。  言われなくても分かっているI  だが、〈直感〉があった。〈予感〉と言った方が 正しいかもしれない。なんとか思考と感情をまと め、クラーラに返答しておかねばという理屈を超 えた感覚。そしてそれを妨げるどうしようもない 焦りと怒り。  何か答えなくてはIクラ圭フに、今−  「着きました」  運転している青野が事務的に言った。  予定された地点。外堀通り、有楽橋交差点たっ た。  時間切れだ。  路肩に停められたカロ圭フから、クラ圭フが何 事もなかったかのような顔で降りる。  このまま彼女は、有楽町駅のガード下を潜り抜 け、徒歩で帝国劇場へ向かうことになっている。  −答えずに済んでほっとした?  圭子の声か、クラーラの声か。もしかしたら自 分の声かもしれない。  青野が再び車を発進させ、外堀通りを北上する。  「こんなときに何を言い出すかと思えば……」  苦々しげに和泉が吐き捨てた。  「やはりあの女は信用できません」  「そうかな。俺にはなんだか本音を語っているよ うに感じられた」  (ンドルを握った青野が反論する。  「正気か、青野」  「ああ」  「だったら、なんでわざわざロシア語のことわざ なんか使うんだ。最も効率的に伝えるのが諜報員 の基本じやないか。なのにあんな分かりにくい言 い方で……攪乱だよ、あの女得意の」  「だからこそ、かえって信じられるような気がし ないか」  「あえてことわざに託したってことか。照れとか、 女心とか」  「まあ、そんなところかな」  和泉は呆れたように青野の横顔を見つめる。  「おまえ、班長になってから頭がどうかしたん じやないのか。あの女がそんなタマか」  「ルシーノワを従来のパターンに当て嵌めて考え ることの危険性は、おまえだってよく知ってるだ ろう」  「俺達のその認識を逆用するのがこの世界だ。違 うか」  「じやあ逆に訊くが、この局面で彼女が俺達を攪 乱しなければならない理由はなんだ」  「だから信用できないと言ってるんだ。土壇場で あの女がどう動くか知れたもんじやないぞ。いず れにしても機関員としては考えられない行為だっ た」  「その点については同意するよ。しかしI」  「二人とも、その辺にしておけ」  口論になりかかった二人を後部座席からたしな める。  「考えるだけ無駄だ。彼女の真意など誰にも分か らない。今はそんなことよリゴーベールだ」  もっともらしいことを口にしながら、砂田は極 めて居心地の悪い思いを味わっていた。  そもそもこれは自分とクラーラのごく個人的な 問題なのだ。偉そうに部下を説教できる立場では ない。  いや、果たしてそうだろうか。青野と和泉の見 解はそれぞれ大いに首肯できる。どちらも間違っ てはいないとさえ思う。だが仮に和泉の意見の方 が正鵠を射ていたとしたら、クラーラの思いつめ たような突然の告白は、入念に考え抜かれた演技 である可能性が高い。つまりそれは、〈個人的な 問題〉などではあり得ない。すべてがなんらかの 工作の一部を形成しているはずである。  一方で青野の言う通り、この局面でそんな小技 を仕掛けてくる必然性がどうしても考えつかない。  そんなことよリゴーベールだI部下達に言っ たばかりの文言で、自分自身の空転する思考を頭 の中から追い払う。  無意味な葛藤に囚われてミスを犯したら、それ こそクラ圭フの攪乱に嵌まっだのと同じことに なってしまう。  考えるだけ無駄だI彼女の真意などI  千代田区丸の内三丁目、帝国劇場の周辺では、 四係と五係の捜査員が多数配置についている。  呉服橋交差点を左折した青野は、永代通りを西 に向かい、再び左折して丸の内ビルヂングの近く に指揮車輛を駐めた。帝国劇場からは離れていて クラーラは視認できないが、ゴーベールに発見さ れるリスクを考えればやむを得ない。 〈マルキユー、所定位置に到着〉 〈マルゴーらしき人物は見当たらず〉  午後四時五十五分。指揮車輛に現場からの無線 通信が入ってきた。マルキユーはクラーラに、マ ルゴーはゴーベールに付けられたコードネームだ。  クラ圭フは打ち合わせ通り大きめのバッグを 持って帝国劇場の前に立ち、人待ち顔を装って左 右に目を配っていることだろう。もっとも、人を 待っているのは演技でもなんでもないのだが。  カローラの車内で、砂田は和泉、青野とともに 息を詰めてじっと待ち続ける。一分が十分にも二 十分にも感じられる。  「携帯電話の所持をあえて指示しだのは実はこち らを引っ掛けるための策で、本当の狙いは地下な んじやないでしょうか」  青野が言う。額にうっすらと汗が浮いていた。  「たとえば携帯電話で東京駅まで誘導し、地下街 に誘い込んでそこで接触するとか」 「それは充分にあり得るな」  和泉も頷いて、  「東京駅の地下街に潜り込まれると厄介だぞ」  それでなくても駅が最も混雑する時間帯である。 加えて、六月二十日には東北新幹線の乗り入れが 開始されたばかりだ。ゴーベールはそこを狙って この場所を指定してきたとも考えられる。  砂田は通信機を睨みながら二人に言った。  「東京駅の近辺には三係から特別に人を出しても らってる。連中もそこら辺は心得てるよ。地下へ 入る前に確保してくれるだろう」  午後五時。  〈マルゴー、未だ現われず〉  午後五時五分。  〈マルゴーの姿なし。マルキューは所定位置動か ず〉  和泉も青野も、今はもう匸冐も喋らない。ひた すらに捜査員からの無線連絡に耳を澄ませている。 冷房の止まった車内には、息苦しいまでの不快な 蒸し暑さが籠もっていた。  午後五時十分。  ゴーベールはまだ来ない。  砂田は急に喉の渇きを覚えた。  作戦は失敗かIしかし、まだI 〈不審車輛がマルキューの前で停車。ブルーのス カイライン〉  興奮した声が無線機から飛び出した。  〈助手席のドアが開かれました。運転者が乗れと 言っているようです。マルキューは車内を覗き込 んでいます〉 砂田はマイクをつかみ上げ、 「運転者の顔は視認できるか」 〈マルキュー乗車します〉 「運転者の顔はっ」  大声で繰り返す。  青野が指揮車輛を急発進させる。 〈……マルゴー確認。運転者はマルゴーです’・〉  和泉と顔を見合わせる。  ゴーベールは車で来た。携帯電話はやはり攪乱 であった。 〈スカイラインは日比谷通りを南下していきま す〉  帝国劇場の周辺には車での接触を予期して捜査 車輛を数台待機させてあった。  〈こちらソト三号車、追尾開始〉  〈ソト二号車、追尾開始〉  青野が(ンドルを切り、日比谷通りへと向かう。  突然、車内のスピーカーがロシア語を発した。 男の声。クラ圭フの服に仕込んであった盗聴器だ。 声の主はゴーベールか。 〈裏帳簿は持ってきたか〉 〈ここに入っているわ〉  手にしたバッグを示したのだろう。 〈よこせ〉 〈だめよ、デジレ〉  クラーラがゴーベールのファーストネームを口 にした。盗聴器を通してこちらに接触の相手を知 らせるためだ。  〈あんたの持っている帳簿のコピーは。それを見 せてもらわないと〉 〈ここにはない〉 〈なんですって〉 〈心配するな。肝心の情報は頭に入ってる〉 〈あんたの頭に? 急に心配になってきたわ〉  ゴーベールを挑発している。情報の中身を喋ら せるつもりだ。  〈本当の取引先はオデッサーネットワークさ〉  『オデッサーネットワーク』。その言葉がゴー ベールの口から出た。クラーラが聞き返さないと ころからしても、彼女がその意味を熟知している のが分かった。  〈オデッサとつなかっているのは誰なの。最も私 腹を肥やしていた裏切り者は〉  危険だI性急すぎるI  〈裏帳簿を見てないのか〉  砂田の危惧した通り、ゴーベールはそこを衝い てきた。 〈見たわ〉  クラーラは平然と答える。 〈だけど分析までしてる余裕はなかった。つまり、 これを調べれば分かるってことね〉  〈そうだ。もう時間がない。八月は目の前に迫っ ている。連中はそれまでに全部の証拠を消すつも りなのさ〉  〈八月? 八月に何かあるって言うの?〉  左折して日比谷通りに入り、青野がアクセルを 踏み込む。 〈日本支局は知らなくて当然か〉  ゴーベールが鼻で笑うように言った。  クラーラと同じ問いを砂田は心に発する。  八月に一体何かあるって言うんだI  〈マル対(対象車)は西新橋交差点を右折、外堀 通りを西へ向かっています〉  指揮車輛には逐次追尾車輛からの報告が入って くる。そして、クラ圭フの盗聴器からの音声も。 〈俺はビジネスでオデッサと接触してる。それ で……から聞いた。偶然だがな〉  ノイズで一部が聴き取れなかった。  「おい、今なんて言ったんだ」  思わず前の二人に訊いていた。 「聴き取れませんでした」「私もです」  和泉と青野が同時に答える。  悔しさに奥歯を噛み締める。今のノイズは酷 かった。録音を再生しても聴き取りは不可能だろ う。もし人名か組織名たったとすれば、事件解明 の有力な手がかりとなったであろうに。  まあいいI確保した後でゴーベールに直接訊 けばI  〈マル対、虎ノ門交差点を右折。桜田通りを北上 中〉  「舐めやかって」  追尾車輛からの報告に青野が呟く。  そのまま行けば、ゴーベールの運転するスカイ ラインは桜田門に突き当たる。そのすぐ手前は、 警視庁だ。しかもそこに至るまでには、左右に警 察庁や東京高裁などの入る合同庁舎が建ち並ぶ。  「ゴーベールめ、自首でもするつもりか」  「青野、急げ」  「分かってるよ」  和泉が青野を急かす。こちらはまだ追いついて もいない。 〈……ですって? すると命令したのはS局 の……〉 〈……の通りだ、奴らは焦って……〉  受信状態がどんどん悪くなっている。肝心の部 分がどうしても聴き取れない。S局とはKGB第 一総局S局のことだろう。 〈……実を言うと、本当に八月なのか、俺もそこ までは知らな……でも連中は必ず……〉  必ず? 必ず何をしようとしているのか?  砂田は身を乗り出して盗聴音声に耳を澄ます。 〈それまでに証拠を消そうとしたわけね〉  不意にクラーラの声が明瞭に聞こえた。  いいぞ、その調子で頼むI  そこへ報告が入った。  〈ソト二号車より指揮車へ。マル対は桜田門交差 点を右折〉  愕然とした。  「まさか皇居に突っ込もうとしてるんじやないだ ろうな」  たとえそんなことを目論んでいたとしても到底 不可能だろうが、もうしそうであった場合、突入 を阻正したところで、皇居前でそこまでの騒ぎを 起こしては秘匿を以て第一とする外事、いや公安 全体の存在意義が木っ端微塵になってしまう。  〈こちらソト二号車、マル対は日比谷交差点を左 折する模様〉  予感は外れた。ゴーベールは祝田橋を渡らな かった。だが日比谷通りを進んでいる限り油断は できない。  「追尾の確認か」  大きく(ンドルを切りながら青野が言った。  日比谷公園の周囲を大まかに一周する形でゴー ベールはもと来た道に戻ったのだ。尾行の有無を チェックする場合の典型的な手法である。  追尾されていることをすでに察知しているに違 いない。皇居や官庁街から遠ざかってくれるのは ありかたいが、しかし一体どこへ向かっているの か。  〈どこへ行く気なの〉 〈驚くなよI〉 〈待って〉  突如激しいノイズが鼓膜を打った。スピーカー が完全に沈黙する。  「あの女、盗聴器を壊しゃがっだ’・」和泉が激昂 する。「最初からそのつもりだったんですよ、ル シーノワは!・」  そうとしか思えなかった。  〈ソト二号車より指揮車、マル対は帝国劇場角を 右折〉  秘匿追尾はすでに無効である。砂田はマイクを 取り上げて指示を下した。  「こちら指揮車輛。全車、ただちにマル対の確保 に移行。マル被は武器を携行している可能性あり。 充分に注意されたし」  指揮車輛は白山祝田通りの手前で引き返し、再 び日比谷通りに向かった。内幸町交差点を左折し て日比谷通りを直進し、帝国劇場の角で右折する。  「あれだ」  前方を走るカローラを指差し、和泉が叫んだ。 追尾車輛だ。砂田もすでに目視している。  「なんだか変だぞ」  青野が蒼白になって呟いた。  猛追しているはずの追尾車輛が有楽町駅のガー ド下あたりで二台ともスピードを落としていた。  まさかI  最悪の想像に胸が圧迫される。  反対車線からやってくるのは、急行してきた三 台目の追尾車輛だ。  「おい、まさか見失ったんじやないだろうな」  和泉がその想像を口にした。 〈ソト二号車より指揮車へ、マル対をロスト’・〉 〈こちらソト三号車、マル対見当たりません’・〉 「バカ野郎’・」  立て続けに入ってきた悲鳴のような報告に、砂 田はマイクに向かって叱咤していた。  「走行中の車が消えるわけがあるか’・ 逃げ込む のに恰好の場所があるだろう’・ おまえらのすぐ 横だ’・ そこしかない’・」  青野と和泉が同時に「えっ」と視線を左前方に 向ける。  帝国劇場から匸フロック挟んだ先。有楽町駅の すぐ西側には、今年の四月にすべての業務を終え た旧都庁が佇立していた。  第一本庁舎、西一号庁舎、西二号庁舎、そして 西三号庁舎。いずれも窓に明かりはなく、ただ静 かに解体の時を待っている。  JRのガードに隣接する部分は、西側庁舎の駐 車場だ。進入口は封鎖されているはずだが、前方 の追尾車輛はそのまま突入していく。やはり進入 口が開いていたのだ。  「急げ、青野」  「はいっ」  旧都庁前に到達した指揮車輛が駐車場内へと入 り込む。殺到してきた他の追尾車輛も後に続く。  閑散とした広い駐車場の片隅にスカイラインが 停まっていた。  その側で停車した追尾車輛から次々に飛び出し てきた捜査員がスカイラインの内部を覗き込む。  同じく急停正した指揮車輛から駆け下りた砂田 に、捜査員が叫んだ。  「誰も乗っていませんつ」  「係長、あそこです」  和泉の指差す方を見ると、通用口らしいドアが 夕刻の微かな風に揺れていた。  業務はすでに新都庁に移って無人の建造物と なっているが、完全に放置されていることはあり 得ない。管理者や警備員もいるはずである。敵は 管理担当者の目を盗んであらかじめ駐車場や非常 口を開けておいたのだ。無理に鍵を破壊した痕跡 はない。音のしないよう、巧妙に解錠したものと 思われる。  何もかも最初から計画されていたI  砂田を先頭に開いていた通用口から内部へと踏 み込む。  照明も点いておらず静まり返った旧都庁内は、 死んだ巨鯨の体内を思わせた。ゴーベールとク ラーラがどちらへ向かったのか、見当もつかない。  「緊急配備。旧都庁西側庁舎全体を包囲。絶対に 外へ出すな」  振り返って叫んだ。数人の捜査員が駆け去って いく。  「和泉は眉墨主任に連絡。至急応援を要請しろ。 旧庁舎の管理責任者にも眉墨から連絡させろ」  「はいっ」  「あの、係長」  青野が一層蒼ざめた顔で声を発した。  「なんだ」  「京葉線の東京駅は、確かここのほぼ真下にでき たはずです。もしかしたら、すでに地下でつな がっているのかも」  全員が絶句する。  京葉線東京駅は去年の三月に開業したばかりだ。 もともとは成田空港に直行する成田新幹線の起点 駅として予定されていたのだが、用地の買収が進 まず、昭和四十九年に着工された工事は昭和五十 八年に凍結されている。JRがまだ国鉄であった 時代である。その予定地に建設されたのが京葉線 東京駅なのだ。確証はないが、工事用のトンネル が旧都庁の地下とつながっている可能性は充分に ある。そうしたトンネルは、埋め戻す手間と費用 を省く意味もあり、後々地下道や補修点検用の通 路とするために残しておくことが多いと聞いた。  やはり地下を使うつもりなのかI  「工事の全容を調べている時間はない。青野、お まえは何人か連れて京葉線東京駅に急行し、東京 駅につながる地下道を押さえろ」  「はいっ」  「二人を残して後は俺と来い。手分けして内部の 捜索に当たる。残った二人は警戒しつつこの場で 待機。応援を待って状況を伝えろ」  「はっ」  事態は一刻を争う。何を企図しているのかは分 からないが、クラ圭フは途轍もなく危険な橋を 渡っている。一つ間違えばゴーベールに殺されて しまう危険も依然として存在するのだ。  非常口の内側は三メートルほど先で左右に分岐 していた。そこでまず二手に分かれ、それぞれ先 へと進んだ。  かつてはモダニズム建築の粋と称えられた建物 も、今は落日の中に往時の幻影を偲ばせるのみで ある。  すでに廃屋特有の湿気さえ感じられる内部を往 く。廊下のそこかしこに、廃棄すらされなかった 古い事務机や椅子などが積み上げられていた。い ずれもうっすらと埃を被って、過ぎ去った年月の 寂寥が空間の全体を包んでいる。  砂田もここに足を運んだことは何度もあるが、 内部の様子までは正確に覚えていない。半ば以上 は当てずっぽうだ。  対して、さほど価値のない一般情報でも、さも 重要な機密であるかのように機関員が競って上役 に報告するのがKGBの官僚主義だ。都庁の内部 をクラーラやゴーベールが把握していたとしても 不思議はない。  旧庁舎とは言え、少し前までは東京都の行政を 担ってきた城である。隕られた人数で捜索するに はあまりに広すぎる。しかも、西側敷地内には複 数の庁舎が林立しているのだ。  おまえは俺を裏切ったのかI  黄昏の旧都庁は刻々と光を失っていく。汗まみ れになって夏の廃墟を進んでいると、嘲笑にも似 た女の声が天井部に反響する。  −裏切った? あなたにそんなことを言う権 利があるの?  −分からない。しかし俺は。  −言いわけなら聞きたくないわ。もっとも、 あなたは言いわけする必要があるなんて思ってな いでしょうけど。  −そうかもしれない。  −ほら、やっぱり。  −どうしてこんなことをする。どこまで俺を 苦しめる。  −私も生きていかなければならないの。それ くらいは分かるわよね、あなたでも。  −教えてくれ。おまえはクラーラなのか、そ れとも圭子なのか。  −あなたが決めて。  −ふざけるな。  −そうよね、あなたには決して決められない。 決してね。  「ちょっとあんたら、そこで何をやってるんです か」  右手の通路から紺色のキャップに同じく紺色の 制服を着た四人の男達が駆けつけてきた。どうや ら警備担当者らしい。全員が初老以上の年配だっ た。公務員の再就職組だろう。  砂田は立ち止まって身分証を示し、  「警察です。旧庁舎内部に逃げ込んだ二人組を 追っています」 「えっ」  四人は驚いたようだった。今まで何も気づかな かったらしい。  「そんな、鍵は全部閉まってるはずですが」  五係からの応援組である捜査員が怒鳴りつける。  「開いてたぞ。駐車場も非常口もだ」  その剣幕に、警備員達は一様に黙り込んだ。  無理もない。無人となった巨大な廃墟に入り込 む者など、帰る家のない浮浪者くらいしか想定し ていなかったはずだ。警備員達の日々の勤務は緊 張とはほど遠いものだったろう。  「私ら、ちゃんと規則通りの点検はやってます し……」  くどくどと弁解しかけた警備員を遮り、砂田は 早口で言った。  「それより、庁舎内の案内をお願いします。東京 駅に通じているようなトンネルや地下道はありま せんか」  リーダーらしい老人が答える。  「さあ、点検用の通路なら何本かあるみたいです が、どこに通じているかまでは、私らも聞いてま せんので……」  絶望を感じつつも、さらに詳しく尋ねようとし たとき。  遠くで音がした。庁舎の中、谺のような反響と なって廃墟全体に伝わってくる。  銃声だ。  捜査員達とともに砂田は反射的に走り出してい た。  もはや案内は不要たった。音のした方角に向 かってひたすら走る。  階上ではない。地階でもない。一階だ。  およそ二分後。息を切らせて通路を駆け抜けて きた砂田達は、がらんとした一室で、血を流して 倒れている人影を発見した。  ゴーベールたった。駆け寄って調べる。すでに 死亡していた。  「これは……」  砂田は呻いた。  ゴーベールの胸にある傷は銃創ではなく、明ら かに鋭利な刃物による刺し傷たった。  死因は射殺ではない。刺殺だ。  では、さっきの銃声はI  クラーラの姿はどこにもなかった。  現場である旧都庁に駆けつけた警視庁と丸の内 署の捜査員達により、二時間後にはかなりの程度 まで状況が判明した。それらの多くは、砂田の立 場を一層悪化させるものであった。  ゴーベールの死体が発見された部屋には、ゴー ベールとクラーラ、それに砂田をはじめとする捜 査関係者のものを除き、三人分の新しい足跡が残 されていた。  つまりその部屋にはゴーベールとクラ圭フの他 に、三名の人間がいたことになる。残念ながら部 屋の外の廊下はすでに大勢の関係者によって踏み 荒らされた状態であったため、部屋にいた者達が どちらの方向に逃走したかまでは判別できなかっ た。  また出入口のドア脇に新しい弾痕があり、そこ から銃弾が発見された。9×18mマガロフ弾で、 砂田達が耳にした銃声は一回であったことから、 少なくともクラーラールシーノワは被弾していな いと推測された。  ではクラーラはどこに消えたのか。  当初は京葉線東京駅に通じる地下道があるので はないかと危惧されたが、実際には人が通れるよ うな状態のものはなかった。その代わり、ガス、 電気、水道などの保守点検用に使われていた通路 が数多く発見された。旧都庁建設時に敷設された ものから、その後増設されたものまで、無数の通 路が入り乱れていて、すぐには全体を把握できる ものではない。管理会社や東京都の担当者に問い 合わせても明確な回答は得られなかった。  それらの通路の中には、旧都庁の敷地内だけで なく、外部のマンホールに通じているものまで あった。その一つを使ってクラ圭フや被疑者グ ループは外部へと脱出した可能性が考えられた。 だが旧都庁の周囲は警察官によって包囲されてい たはずである。  そこへ丸の内署から動員された刑事課の捜査員 が、口ごもりながら驚くべき報告をもたらした。  〈現場に到着した直後、旧都庁の側に駐まってい たセダンに外国人一人を含む三人の男性が乗り込 むのを見かけ、職質(職務質問)をかけようとし たが、ソ連の大使館ナンバーであることに気づい てやめた。車輛はすぐに有楽町駅のガードを抜け て走り去った〉  それを聞いた捜査幹部は、口々にその捜査員を 怒鳴りつけた。なぜもっと早く報告しなかったの かと。  すると彼は、開き直ったような態度で言いわけ したI「自分は刑事部で、そもそもこれが公安 事案だなんて匸冐も聞いてませんでしたから」と。  長年にわたる公安部と刑事部との根深い確執が、 最悪のタイミングで表出したのだ。  砂田は丸の内署の捜査員を責める気にはなれな かった。たとえ公安に対する感情的なこだわりが なかったとしても、大使館ナンバーの車に手を出 したりしたら重大な責任問題となる。決して許さ れぬタブーである。  また警備担当者達が普段詰所として使用してい る一室から、警備員用のキャップと制服がI揃い 紛失していることが判明した。突発した事件に全 員が出払って、詰所は一時的に無人となっていた のだ。旧庁舎内では事情を知らされぬまま動員さ れた警察官や都職員などの関係者が多数出入りし ていた。廃墟はすでに夜の中に在る。暗がりの中、 キャップを目深に被っだ警備員が現場を離れたと しても、気に留める者はいなかったであろう。  砂田は確信するIその警備員こそがクラーラ だったのだ。  そもそも、公安部外事課以外の捜査員にはク ラ圭フの顔どころか存在さえも知らされていない。  そうした事情を熟知しているクラーラは、大胆 にもすべてを即興で利用し、見事に現場から逃亡 したI  「砂田係長」  現場の指揮に忙殺されていた砂田は、背後から 呼びかけられて振り返った。  圭子だった。十分ほど前に臨場したのは知って いた。  「現在までに判明している状況の説明をお願いし ます」  周囲に構わず、詰問するような口調で言う。  砂田は立つたまま手短に自分の推理を述べた。  「……では、やはリルシーノワは最初からKと共 謀していたということですね」  「違うな」  「根拠は」 「銃声と弾痕だ」  自らの考えをまとめながら答える。  「Kがゴーベールを操っていたことは間違いない と思う。奴らの狙いはゴーベールを囮にしてル シーノワをも始末することにあった。不意を衝い てまずゴーベールをナイフで刺殺した。音を立て ないに越したことはないからだ。続けてルシーノ ワも刺殺するつもりだったのだろうが、薄々それ を予期していた彼女は瞬発的に逃げ出した。Kの 機関員は慌てて発砲したが、弾丸は当たらなかっ た。後を追おうとしたが、我々の駆けつけてくる 足音が聞こえたため離脱を余儀なくされたIそ う考えると辻褄は合う」  「辻褄は合う、ただし証拠はない。そういうこと ですか」  「そうだ」  圭子の皮肉に、苦い思いを噛み殺して応じる。  「阿久津課長には私から伝えます。砂田係長は今 夜中に報告書をまとめて下さい。すべてあなたの 主観にすぎないこと、またその主観には、ルシー ノワに対する個人的な感情が含まれる可能性の存 在を排除できないことを正確に記すようお願いし ます」  「待て圭子」  かっと頭に血が上った。  「それこそ俺に対する個人的感情じゃないのか」  歩み去ろうとしていた圭子が振り返る。  「そんなものを持ち出して、私になんのメリット があるとおっしゃるのですか」  わずかな照明の中に、圭子の顔が白く浮かんだ。  完全に外事の顔たった。冷徹ではなく、どこま でも〈無〉に近い。長年外事の飯を食っている自 分が未だ到達できぬ顔。  「あてつけだとでも言いたいのでしょうけど、 自惚れないで下さいね」  咄嗟に言い返す言葉が見つからぬほどの羞恥で あった。  「以後本事案の処理はすべて私か引き継ぐよう命 令されています。砂田係長、ご苦労様でした」  「おい、それは一体−」  「私はいかなる事案においても、捜査指揮官が感 情に目を曇らされて方針を誤り、国益を損なうこ とがあってはならないと考えています」  それだけを言い残し、圭子は去った。  砂田の周囲に立っていた青野や和泉は、どう 言っていいのか分からずIあるいは要らぬ関わ りを避けようとI視線を逸らして離れていった。  他の者達も、あまりにも状況にそぐわぬ異様な 空気を察したのか、遠巻きにした状態で黙ってい る。  捜査員達に向かい、必要以上の大声で質す。 「緊配の方はどうなってる」  まだ何も引っ掛かっていませんIそんなこと を誰かがぼそぼそと口にした。  訊く前から分かっていた。今の自分によい知ら せが舞い降りるはずもない。またクラ圭フが検問 に引っ掛かるようなヘマをすることもあり得ない。  そして改めて分かったこと。  自分は思っていた以上の間抜けであり、部下達 もすでにそれを知っているということだ。  翌日、東五反田の分室『オフィスーゴタンダ』 はひっそりと撤収された。  徹夜で仕上げた報告書を提出した砂田は、警備 局の自席で出がらしの緑茶を啜りながらその日の 朝刊を読んだ。各紙とも旧都庁での殺人を外国人 浮浪者同士のいさかいによるものとして小さく報 じていた。すべて警察発表の引き写しである。  新聞を投げ出し、立ち上がる。当直室で仮眠を 取ることにした。夜には会議という名の吊し上げ が待っているが、それまでもうすることはない。  昨夜と同様、周囲にいる者がみんな自分を遠巻 きにして眺めているのが感じられた。声をかけて くる者さえいない。  当然だろう。自分はもう終わったも同然の人間 なのだ。  処理はすべて自分が引き継ぐI圭子は確かに そう言った。そう命令されていると。  一体誰の命令なのか。  興味があると言えば大いにあるし、ないと言え ばもう欠片もない。  おそらくそれは、圭子を警察に呼び戻した者、 あるいは集団の命令だろう。  当直室に向かい、勝手に布団に潜り込む。規則 など知ったことではなかった。  糊の利いた白いシーツに包まれた布団を頭まで 引っ被って考える。  自分はまたもクラーラに出し抜かれた。  同時に安堵する。クラーラがとりあえずはKG Bの凶手を逃れたことに。  「係長、起きて下さい、係長」  枕元の囁き声で目を覚ました。  側に伴が屈み込んでいる。  室内はすっかり光を失って、黄昏のようにも明 け方のようにも見えた。  「今何時だ」  「六時です」  「そうか」  欠伸をしながら起き上がる。疲れはまるで取れ ていない。  「『ソバーカ』の正体、分かりました。昔の先輩 がずいぶん助けてくれましたよ」  伴の同僚がKGBによって殺されたとき、同じ 班にいた捜査員の名と現在の所属部署名を、砂田 は密かに把握していた。彼らの結束が今でも特別 に強固なことも。  「オデッサーネットワークの一つに『ヴィウ ツヤー』という組織があります。アンドリー・ド ブジェンコつて男がボスなんですが、ソバーカは このヴイウツヤーと関係してます」  「テュルコワーズから発送された荷はソバーカを 通してヴイウツヤーに流れてるってわけだな」  「ええ」  伴は一段と声を潜め、  「ソバーカのオーナーは単なる名義人で、実質的 にはピョートルーヤロシェンコの会社と言って間 違いありません」  ヤロシェンコかI  KGB対外諜報部は諸外国と往き来できる一種 の特権階級である。そのため腐敗した多くの高官 は、オデッサやクリミアを拠点とする犯罪組織を 通じて麻薬や生活物資等の密輸を行ない、私腹を 肥やしている。諜報関係者の間では常識とも言え る事実であった。  そのうちオデッサのマフィアと海運業者の密輸 ネットワークを『オデッサーネットワーク』と呼 ぶ。  会議までにはまだ時間があった。  「伴」  しわくちやのシャツのまま立ち上がってドアに 向かいながら言った。  「飯を食いに行こう。付き合え」  合同庁舎地下にある食堂で、カツ丼を二人分注 文し、伴と差し向かいで食べる。  「うまいな」  そう呟くと、衣だけがやたらと厚いカツを口に 運んでいた伴が、呆れたように顔を上げた。  「ぽんとですか」  「うん。うまいよこれ。前にも頼んだことはある はずだが、こんなにうまかったっけかなあ」  「腹が減ってるからしやないですか」  「そうかもしれん」  振り返れば、昨日の昼からほとんど飲まず食わ ずであった。緊張と、その後の急激な展開で、空 腹など覚えている余裕さえなかった。  「しかし、それをさっ引いたとしてもうまいよ、 こいつは」  「そうですかねえ」  同意しかねるといった様子で湯呑みに白湯のよ うな茶を注いだ伴が、ふと真面目な顔で訊いてき た。  「係長、眉墨主任と一緒に暮らしてたとき、手料 理とか食べることありました?」  いきなり変なことを訊くものだと思ったが、  「そうだなあ、俺は帰る時間が遅かったから、毎 日というわけじやないが、仮にも夫婦だったんだ、 そりやあ何度も食ったことはあるよ」  「そのとき、今みたいに『うまい』つて言ってや りましたか」  胸を衝かれた。  言ったはずだI言わなかったはずがない、し かしI  いくら記憶を探ってみても、圭子の手料理の味 を思い出すことはできなかった。  妻となった女が夫のために作ってくれた料理な のだ。  なのに俺はI  無言で箸を置いてしまった自分の挙動に、伴は すべてを察したようだった。  「お茶、飲みますか」  「ああ、もらおうか」  湯呑みを差し出しながら伴に言った。  「そんなところがうまくいかなかった原因か」  「さあ、自分は独りもんですから」  昭和の遺物のようなポットから茶を注ぎながら、 伴はしみじみとした口調で言った。  「追及をかわすには恰好の口実だな」  わざと嫌味に言ってやると、伴は、ふふ、と軽 く笑った。  「所帯を持とうって考えたことはないのか」  「ないですね。少なくともあいつが死んでから は」  〈あいつ〉というのは殺された同僚のことだろう。  砂田もそれ以上は何も言わなかった。  午後七時三十分。砂田は会議室の末席で審判の 時を待った。  大森総務審議官を筆頭に、警察庁、警視庁の関 係する幹部が顔を揃えている。全員が砂田の報告 書を繰っていた。  警視庁公安部公安総務課からは圭子も出席して いる。現在は事案の処理を担当しているそうだか ら当然と言えば当然だ。  やがて、総務審議官が報告書を閉じて言った。  「この報告書には不明瞭な点が多すぎる」  身を固くして次の言葉を待つ。  「今回のオペレーションは、クラーラールシーノ ワを囮にデジレーゴーベールをおびき出すという ものだった。しかし、ゴーベールはすでにKGB の手中に落ちていた。KGBはこちらのオペレー ションを逆用し、ゴーベールを餌にしてルシーノ ワを処刑する作戦に打って出た。自分も殺される とは知らず、予定通り旧都庁内に逃げ込んだゴー ベールはそこで刺殺された。だが途中で敵の計画 に気づいたルシーノワは寸前で逃げ出したIそ の理解で合っているかな」 「合っております」 「では訊くが、ルシーノワがこちらに戻らず行方 をくらませたのはなぜかね」  報告書には書かなかったI書けなかったI 部分だ。  「我々を信用していなかったからだと思います」  嘘たった。  クラーラは日本警察などもちろん最初から信用 していなかった。  あのとき彼女が逃亡を決意した真の理由はI この俺だ。  「報告書によると発端はオデッサの『ソバーカ』 にあるようだな」  総務審議官が核心部分について触れてきた。  「はっ、ソバーカの実質的オーナーはKGB第一 総局S局のピョートルーヤロシェンコ少将です。 彼はオデッサーネットワークの犯罪組織と結託し、 テュルコワーズ社から不正に輸入した物資を横流 ししていました。今回の事案は、ヤロシェンコが すべての証拠を徹底的に隠滅しようとしたことか ら始まったものと思われます」  「こんな無茶をしてまでヤロシェンコが証拠隠滅 を焦った理由は」  「日本国内の関係者が全員死亡し、ルシーノワが 逃亡した今となっては、国内だけの捜査で解明に つなげるのは困難であると言わざるを得ません。 ただ、ゴーベールが口走った言葉の断片から、ヤ ロシェンコ周辺で八月になんらかの動きがあるも のと推測されます。大規模な人事異動か、組織改 編か、あるいは粛清か。いずれにしても、原因は そのあたりにあるのではないかと」  「そうか……」  考え込んだ大森総務審議官に、吉野警備局長が 目配せした。  大森は頷いて。  「本件の捜査はこれまでとする。ただしゴーベー ル殺害の実行犯、及び逃亡したルシーノワの捜索 は続行。旧都庁での殺人事案はすでにマスコミの 報道した通り。もちろんテュルコワーズ社での事 案とはなんの関係もない。保秘の徹底は改めて言 うまでもないだろう。最後に、旧都庁での殺人を 阻止できなかった責任については、追って処分を 決定する。それまで各人は従来の職務に専念して ほしい。以上だ」  会議は終わった。あまりにも呆気なく。  最初から結論ありきであったのだろう。  阿久津も、圭子も、砂田の方を見ることもなく 退出していく。  総務審議官は「追って処分を決定する」と言っ ていたが、処分されるのはおそらく自分だ。  砂田は椅子に張り付いたようになっている腰を 座面から引き剥がし、一番最後に会議室を退出し た。  うなだれた恰好で合同庁舎を出て歩き出す。駐 車場から出てきたらしいトヨターコロナが、すぐ 横の車道を走り抜けた。  対向車の(イビームを受け、一瞬、コロナの内 部が見えた。  驚きのあまり、砂田は舗道に立ち尽くす。  助手席に座っていた女は圭子だった。  そして運転していたのは、峯−相応に老けて いたが、かつて瀬島龍三をマークしていた『サク ラ』の男だ。  共産党幹部宅盗聴事件の発覚により、その存在 が露見した公安一課の秘密部隊−通称サクラは、 この春に警備局警備企画課の管轄下に入り、コー ドネームも『チョダ』と改められている。  いくつかの疑問が突然氷解した。  誰が圭子を警察に復帰させたのか。  なぜ圭子が調整役として外一の現場へ強引に配 置されたのか。  圭子はチョダの一員となったのだI  それですべて説明がつく。圭子を復職させたの は間違いなくチョダだ。KGBの女スパイと因縁 浅からぬ砂田修作という間抜けの元女房である。 しかも外事の資質には大いに恵まれている。いず れ利用する機会があると踏んだのだろう。そして その機会は意外に早くやってきた。自分がクラー ラによってテュルコワーズの事案に否応なく巻き 込まれたからだ。だから外事の現場へ割って入る ように配置された。圭子が逐一報告を上げていた のは公安総務課の上司にではない。チョダに直接 上げていたのだ。ソ連との外交問題にも発展しか ねない事案である。チョダとしても随時把握して おく必要を感じていたに違いない。  そのことを阿久津は知っていた。知っていなが らあえて秘した。阿久津と圭子の立場が逆転して いるように感じられたのも合点がいく。しかし自 分達には決して阿久津を責められない。なぜなら、 上層部の意向には絶対に逆らわないのが警察官の 本能だからだ。  上層部の意向。警察官の本能。  そんなものに踊らされた自分達のI自分と圭 子の感情はI体なんだ。  合同庁舎前の舗道に立ち尽くし、砂田は自嘲の 笑みを浮かべる。  上層部の介入以前に、自分達夫婦はすでに終 わっていた。警察を恨む筋合いはどこにもない。 警察という生き物は、警察官という飼い葉を喰ら いながら生きているから。また何より、自分も圭 子も、警察官であると同時に外事の人間であった から。    10  八月十九日、ゴルバチョフ大統領がソ連邦を構 成する十五の主権共和国代表と新連邦条約を調印 する前日、ヤナーエフ副大統領をはじめとする守 旧派がゴルバチョフを軟禁した上で『国家非常事 態委員会』と称し、クーデターを起こした。  いわゆる『ソ連八月クーデター』である。  その第一報に接したとき、砂田は立ち上がって 叫んでいた。「ゴーベールが言いかけだのはこれ だったのか」と。  ロシア共和国大統領エリツィンはいち早く 「クーデターは違憲であり、国家非常事態委員会 は非合法である」とする声明を発表し、クーデ ターは無惨な失敗に終わった。  −だって、一昨年あたりからなんだかKGB はおかしかったから。私か言うのも変な感じだけ ど、こんな時代だし。日本側でも把握してたはず よ。  −あなた方は状況をどう理解しているの。  −前にもこの車の中であなたに尋ねたわよね、 日本はKGBの動きをどう分析してるかって。  クラーラはソビエト共産党が瓦解しつつあるこ とを正確に予測していたのだ。  悔やまれてならない。彼女はそのことを自分に 伝えようとしていた。  あのとき、もっと真剣にクラーラと向き合って いれば。  だが、いくら日本支局の中で重要な任務を任さ れていたとは言え、末端の機関員にすぎないク ラーラには共産主義体制の崩壊までは予測できて も、クーデター計画までは知り得るはずもない。  クーデターを計画したのはクリュチコフKGB 議長である。KGB第一総局のヤロシェンコ少将 は、新政権において重要な役職に就くためにも、 計画実行前に自らの悪事を一旦清算する必要に迫 られたのだ。不正に気づいたクラーラもろとも。  オデッサーネットワークを介してヤロシェンコ 周辺と接点のあったゴーベールは、八月のクーデ ター計画を察知していた。だからこそチュルゴ ワーズ社襲撃を回避することができた。  旧都庁に向かう車中で、クラーラはゴーベール からヤロシェンコの名を直接聞いたはずだ。自分 達がノイズで聴き取れなかったあの部分を。  彼女はテユルコワーズ社の真の取引相手−ソ バーカ社の背後にいた者の名を知った。クーデ ター計画についても。  クラーラならば、きっとその情報を有効に活用 したことだろう。改革派に流したのか、それとも 守旧派に売ったのか。そこまでは分からない。も し守旧派に味方していたとすれば、彼女はもう生 きてはいまい。  黒幕であったヤロシェンコはと言えば、卑劣に も単身軍用車でソ連国内から逃亡を図ったが、検 問に引っ掛かり、ウクライナの国境近くで射殺さ れたことが確認されている。  ソ連官僚組織の腐敗につけ込み、栄耀栄華をほ しいままにしてきた男の末路である。因果応報と いうしかなかった。  囗本にも外務省やCIAを通して、途切れるこ となくさまざまな情報が入ってきた。砂田は警察 庁警備局外事一課係長として日々それらの情報に 目を通した。  膨大な関係資料を見れば見るほど、KGB、ひ いてはソ連がぼろぼろに腐食していたことが分か る。まるで白蟻に食い荒らされた巨木のようだっ た。  これが自分達の戦ってきた相手かI  虚しさに近い感慨を抱いて書類を眺める。  そのときチェックしていたのは、重要度、及び 確度の最も柢いレベルEの資料であった。クーデ ターに直接荷担していないものの、関与の可能性 が疑われるKGB下級職員のリスト。  その中で、一枚の写真がわけもなく砂田の目を 惹いた。  三十八歳。暗い鬱屈を湛えたその横顔は、同レ ベルの地位や職にある機関員の中で、一際深く沈 んでいるように見えた。  名前の欄を見る。  ウラジーミルーウラジーミロヴィツチープーチ ン。  クーデターの翌日に当たる八月二十日に辞表を 提出し、受理されているらしい。他に注目すべき 点は見当たらない。掃いて捨てるほどいるチェー カーの一人だ。たとえKGBの職を辞したとして も、チェーカーは死ぬまでチェーカーである。K GBの亡霊は、還るべき祖国を失っても永遠に地 上をさまよい続けるのだ。  疲労でかすみかけた目をこすりながら、砂田は 半ば義務的にページを繰り続けた。  十二月八日。エリツィンはベロヴェーシの森で ベラルーシ、ウクライナの指導者と秘密会合を 持った。この『ベロヴェーシ合意』により、二十 五日、ソビエト社会主義共和国連邦は崩壊した。  皮肉にも、八月クーデターがソ連の崩壊を加速 させる結果となったのである。  外交関係者、公安関係者は連日の超過勤務を余 儀なくされた。なにしろ長年の〈敵〉であった東 側陣営の大本営が突然消えてなくなったのだ。世 界を二分した一方の巨像は、中身のない虚像でし かなかった。  これから世界はどうなっていくのか。政府機関 だけでなく、民間でも多くの人が情報収集に追わ れる日が続いた。  全世界の目が旧ソ連へと注がれる中、砂田は依 然として合同庁舎に籠もり、資料の分析に明け暮 れた。  多忙を極める日々の中で、喪失感のようなもの を不意に感じる。ソビエト連邦という巨大な 〈敵〉が本当にいなくなってしまったという寂寥 の想いだ。  それは同時に、自分が失ってしまったものすべ てへの想いではないかIそうと気づいて砂田は 慌てて首を振り、目の前の仕事へと戻る。  他の一切を考えずに集中できる仕事のあること が、今は無性にありかたかった。  何も考えたくはない。圭子のことも。クラ圭フ のことも。  ベロヴェーシ関連の資料に目を通していたとき、 砂田はページをめくりかけた手を止めて、ある部 分を凝視した。  ベロヴェーシ合意の前後に不審な会合を持って いたチェーカーの名前だけが列記してある。  ヴイターリークニャーゼフ、ゴルジェイーナシ ノフスキー、ウラジーミループーチン、エヴグ ラーフーニクーリン……  〈ウラジーミループーチン〉。どこかで見た名だ。  冷め切った湯呑みの茶をゆっくりと啜りながら 考える。徐々に記憶が甦ってきた。八月クーデ ター関連の資料だ。レベルはE。暗い鬱屈を湛え た目。  写真がないため、同一人物である保証はない。 しかし砂田は確信していたIあの男だ。  資料を隅から隅まで熟読したが、ウラジーミ ループーチンなる男がベロヴェーシ合意において どのような役割を果たしたかまでは記されていな い。つまり、なんの役にも立たないというわけだ。  その資料を放り出し、砂田は別の資料に取りか かった。  チェックすべき資料は山ほどある。幸いにも。  年明けの一月七日に公表された人事異動は、さ まざまな名目のもとに後回しにされていたテュル コワーズ関連事案における処分の意を含むもの だった。  砂田は警視庁公安部公安第四課係長に異動。担 当は資料整理。事実上の左遷と言える。  予想の通り、処分されたのは砂田だけであった。 すべての責任を押し付けられた恰好である。  和泉と青野班の面々に累が及ばなかったのは不 幸中の幸いだった。砂田は独り安堵の息を漏らす。  資料整理なら今までと変わりはない。このまま 倉庫に引き籠もるのも悪くはないさI  そう自らに言い聞かせたが、阿久津の異動先を 知って複雑な気分に囚われた。  警備局警備企画課長。同課は警備局の中でも筆 頭課と言われている。まぎれもない栄転だ。  −僕はね、砂田君、僕はいつか、納得できる 答えを正々堂々と要求できるようになりたいと 思っています。でも、それは今じゃない。この先 のいつかです。  池袋の東口で阿久津は言った。あれから十五、 六年になるだろうか。  あのときの言葉など、阿久津はもう覚えてもい まい。砂田もまた、改めて阿久津に問うつもりさ えなかったI自分達の理想を実現するのはいつ になるのかと。  順調に出世を重ねる警察官僚に、そんなことを 尋ねるのは徒労以外の何物でもない。それどころ か、警察内部でますます自分の居場所をなくして しまいかねなかった。  追い打ちをかけるかのように、圭子の異動が聞 こえてきた。  警備企画課係長心得。すなわち阿久津直属の部 下である。  阿久津は自分ではなく圭子を選んだ。いや、も しかしたら圭子が阿久津を選んだのかもしれない。  圭子がチョダであることを阿久津は間違いなく 知っている。チョダとの接点を維持することは、 警察組織での出世にとって確実にプラスとなる。  もはやどうでもいいことだった。  独り暮らしのマンションから警視庁に通い、資 料室に籠もって一日を過ごす。  埃臭い昔の資料を片づけていると、時折耳許で 囁くような声がする。  −(いt a p a 51 jiioSobl He ptkxb e e t(古い愛は錆びない)。  そんなとき、砂田はいつも資料を置いて耳を澄 ます。  −(いepiiuy He nPHKaie巨r (心には命令できない)。  今なら分かる。クラーラは真実を語っていた。  −時間がないわ。駆け引きは抜きで率直に答 えてほしいの。  答えるべきだった。あれが自分にとって唯一無 二の機会であったのだ。  だがI体なんの機会だ? 答えていれば、ク ラ圭フと幸せに暮らせる可能性があったというの か?  ロシアは酷い状況だ。マフィアと結託したオリ ガルヒ(新興財閥)が台頭し、官僚の腐敗はます ます悪化した。  たとえクラーラが生き延びていたとしても、ま ともに暮らせるような世界ではない。  −}{の口Ot〇冖冖{叫(い)Wtのと{の}{の冫へ[’ a Hopor y jt y h k〇斗(時で大事なのは 時間ではなく機会)。  その機会は永遠に失われた。  耳をふさいで悔恨に呻く。  左遷などに意味はない。これこそが自分に下さ れた〈処分〉なのだと。       j″y」I     ツ プヘ    I  その人は往時とさして変わらぬ茫洋とした外見 を維持しながらも、決して平坦ではなかったはず の歳月を経た風格のようなものを身につけていた。 ある意味それは、警視庁公安部でも部長に次ぐ参 事官という役職にふさわしいものであり、また視 点を変えれば、必須とも言えるものであった。 「思ったより元気そうだな、砂田」 「班長の方こそよっぽどお元気そうじやないです か」  馬越参事官は、砂田が公安一課に配属されたと き直接の上司であった人物だ。当時の印象があま りに強いため、今でも会うとつい「班長」と呼ん でしまう。  あの頃の自分は、気力と体力だけが取り柄の何 も知らない若僧たった。そんな自分を、馬越は見 放すことなく指導してくれた。なのに今は、なけ なしの取り柄さえも失い、埃まみれの資料室で無 為な時間を過ごすばかりの毎日である。  事情を知る馬越が自分を気遣ってくれている。 ただそれだけで嬉しかった。  平成六年十二月。公安四課で資料整理を担当し ていた砂田は、馬越警視正から突然の、しかも極 秘裏の呼び出しを受けた。  「まあ、座ってくれ」  不審に思いつつ参事官執務室を訪れた砂田に着 席を促し、壮年の頃よりはしゃがれた声で馬越は 予想もしていなかったことを尋ねてきた。  「オウム真理教というのを聞いたことはあるか」  「はい」  オウム真理教。強引な勧誘や教団施設周辺の住 民トラブルで最近耳にするようになった宗教団体 だ。もちろん知っていたが、警察は基本的に宗教 団体には手を出さない。厄介事からは目を背ける というのが警察の組織的本能である。  実を言うと、一部の公安関係者がオウム真理教 になにやら重大な関心を持っているらしいという 話は察知していた。しかしながら単なる資料の整 理係でしかない今の砂田には、具体的に誰がどう 動いているのか、知るすべなどあるはずもなかっ たし、一片の関心すらなかった。  「今から俺が話すことはすべて極秘だ。いいな」  かつて馬越班の一員であった自分にそんな念押 しをするほど重大な案件なのかI  砂田は改めて姿勢を正す。  「先日、連中の総本部がある山梨の上九一色村で 異臭騒ぎがあった。科警研(警察庁科学警察研究 所)が付近で採取した土壌を分析した結果、サリ ンの製造過程で発生する物質が検出された」  サリンだってI  一般市民、いや、たとえ警察官であっても、日 常生活において耳にすることなどないはずの名称 だ。しかし今は日本中の誰もがその恐ろしい毒ガ スの名称を知っている。五か月前の六月二十七日 に長野県松本市で発生した『松本サリン事件』の ためだ。死者八名、重軽傷者六六〇名を出したこ の重大事件では、第一通報者である会社員が聴取 されているが、真相は未だ明らかになっていない。  そのサリンが検出されたI  砂田はようやく馬越が極秘であると念押しした 理由を理解した。  「まさか、オウムは……」  馬越はさすがに皺の増えた眉根を寄せて、  「連中は途方もない資金力で教団の武装化を進め ているらしい。毒ガスまで自前で製造しているく らいだ。信じられるか。この日本で毒ガスを作っ てるんだぞ。正気じゃない。明らかに何かとんで もないことをしでかす気だ。察庁の山川公安一課 長らは早急に対処しなければ取り返しのつかない 事態になると危惧している。かく言う俺も同意見 だ。しかし、どういうわけか部長の加倉井さんや 総務課長の尾ヶ瀬は動こうとしない。山川さんは 尾ヶ瀬をすっ飛ばしてその下に極秘捜査を直接指 示したそうだ」  「本当ですか」  「ああ。そのとき山川さんはこう言ったらしい、 『尾ヶ瀬は公安の人間じやないから』とな」 「どういう意味ですか」 「知らん」  馬越は言及を避けた。公安総務課は警視庁公安 部の筆頭課であり、その課長は公安部内でもナン バースリーの地位に当たる。それはどのポストに ある人物が『公安の人間ではない』とはただ事で はない。  確かに尾ヶ瀬は人庁以来傍流とも言える道を歩 んできた人物で、公安の経験はない。しかも前の ポストは警察庁通信総務課理事官である。特に優 秀であると評価されていたわけでもない彼がなぜ 公安部の要たる公安総務課長に抜擢されたのか、 その経緯は不明としか言いようはなかった。  「ともかく三担(公安総務課業務班)の捜査員が オウム内部に擬装入信し、Sの獲得作業を開始し たが、未だにこれといった成果は上かっていない。 なにしろ予算も人員も最低限だから話にならん。 そこで連中はことあるごとに本格調査の必要を 尾ヶ瀬に進言したらしいが、奴はオウムが宗教団 体であることを理由に動かなかった」 「待って下さい」  慌てて馬越の話を遮った。 「どうしてそんな話を自分にI」 「おまえしかおらんからさ、信用できる人間が」  いかにも苦々しい顔で馬越は答えた。どうやら 本気で言っているらしい。  「極秘捜査の段階では俺も表立って人員を割けと 命じられる立場にはない。だからおまえに頼んで るんだ。四課長には俺から話を通しておく。しば らく砂田を貸してくれってな」  現在の警察組織の中で、馬越はどちらかという と中立的な立場にある。少なくとも主流派ではな い。その意味において、馬越の苦衷は理解できた がI  「納得できませんね。公安は公安でも、自分は外 事です。そんな業務なら他にも適任者はいるはず でしょう」  「砂田」  馬越の声が一際重々しさを増した。 「オウムは武器をロシアから仕人れてる。ことに よったら、サリンの製造に必要な資材もだ」  息を呑んで目の前の元上司を見つめる。  「いいか砂田、俺はこう睨んでる。こいつは戦後 最大の外事事案になるかもしれんとな」  馬越の見立て通りであるならば、確かにその可 能性はある。  「俺の元部下でロシア事情に精通しており、現在 単独で自由に動ける人間。しかも信頼するに足る 元外事の男。おまけに当年とって四十七歳の働き 盛りと来た。そんな奴はおまえしかいない」  「しかし班長、いえ参事官−」  「それだけじゃない。自分ではどう思つてるか知 らんが、おまえにはどこか公安や外事、それどこ ろか警察自体に対して距離を置いて眺めているよ うなところがある。ソ連崩壊以後は特にそうだ。 違うか」  違つていない。そのことは薄々自分でも感じて いた。だがそれは自分のせいではない。自分は誰 よりも警察官であろうと努力してきた。少なくと も、田中角栄邸の門前で背筋を伸ばし警備に当 たっていた頃は。  その背筋も今はすっかり曲かってしまった。自 分を変えたのは警察だ。今の自分は、意気地もな く組織にしがみついている小役人にすぎない。  「そんなおまえだからこそ、この件を任せられる んだ。こいつは俺の勘でしかないが、加倉井さん や尾ヶ瀬の動き一つとって見ても、この件にはい ろいろややこしい事情が絡んできそうな気がして る。最悪の場合、警察は返上のしようもない汚名 を背負うことにもなりかねん。もしそうなったと き、下手な恫喝や目先の損得勘定に取り込まれず に踏ん張れるのはおまえみたいな人間だ」  ロッキードの頃、この人とダブルソーダのアイ スを食ったっけI  唐突にそんなことが思い出された。  昔から人を乗せるのがうまい人たった。だから こそ参事官にまで昇進できたとも言えるのだが、 それにしてもI  「俺もあと二年で定年だ。間違いなくオウムは俺 の最後の仕事になる」  ソファから立ち上がった馬越は、辛そうに腰を 伸ばし、大きな頭を下げた。  「頼む、砂田。俺に力を貸してくれ」  昔と変わらぬようでいても、そんな仕草をまの あたりにすると、この人もまた老いたのだと思う。 警察で過ごした長い年月のうちに溜まった澱を、 残りの二年で振り払おうとでも言うのだろうか。  あのとき食べたダブルソーダは、緊張に強張っ た体に沁み入るほどうまかったI  若き囗の思い出に、砂田は逆らうことができな かった。  砂田はまずオウム真理教という団体の調査から 着手した。  教祖である麻原彰晃以下、教団幹部のプロ フィール把握。教義の概要、組織図、指揮系統を 可能な限り確認する。すでに明らかになっている 事実もあれば、教団内部に潜入した三担からの情 報もある。  調べれば調べるほど〈信じ難い〉事実の連続で あった。こうなるまで警察は一体何をしていたの か。面倒を怖れ放置した責任は誰にあるのか。砂 田は自分を含め警察の怠慢、無関心、そして不甲 斐なさを改めて恥じた。十年一日の如く左翼過激 派を追い回している間に、時代はまるで異質なも のへと変貌していたのだ。  理解できないのは、知性も学歴もある若者達が かくもたやすくオウムを信じていることだ。連合 赤軍の再来かとも考えたが、やはり釈然としない。 根本の部分で両者は決定的に異なっている。そん な気がしてならなかった。  また皮肉なことに、己の全身を流れる血が久々 に躍動し始めるのを感じてもいた。  やはり自分は現場がいいI  管理職でもなく、ましてや資料整理係でもなく、 事案を追いかけ、事実を解明する現場の一捜査員 だ。  忘れかけていた感覚が甦る。馬越から与えられ た密命が、擦り切れかけていた己の魂を際どいと ころで救ってくれたようにさえ思った。  オウムに関する一通りの知識を得た砂田は、教 団幹部にして最古参メンバーである早川紀代秀に 目をつけた。理由は、その海外渡航歴である。  法務省入国管理局から提供された早川の渡航歴 を一読した砂田は、驚愕を通り越して呆れるより なかった。平成四年から現在まで、異常なまでの 頻度でロシアに渡航している。その足跡は、ウラ ジオストクから旧ソ連のウクライナ、ベラルーシ、 アゼルバイジャンなど、ありとあらゆる地域に及 んでいた。またそれだけではない。日本とロシア を往復する合間に、インド、タイ、シンガポール、 中国、フランス、オーストリアなどに飛んでいる。  すべてがくある情報〉を裏付ける。  すなわちI「早川こそオウムによる武器購入 の責任者である」。  同時にくある仮説〉が浮かび上がる。  すなわちI「ロシアは積極的にオウムに武器 を売りつけようとしていた」。  その証拠を固めることさえできれば、警察は強 制捜査に踏み切ることができる。  オウムがロシア進出の準備を始めたのは平成三 年秋頃。だがサンクトペテルブルグでは支部作り に失敗したらしい。そして最近になって、ロシア 連邦構成主体の一つである北オセチア共和国の首 都ウラジカフカスに支部を開設しようとしている。 ウラジカフカスはモスクワから南東に約手五百キ ロも離れており、チェチェン紛争におけるロシア 軍の拠点でもある。専門家によると武器密売の中 心地で、金さえ出せば手に入らない武器はないと いうことだ。  早川がウラジカフカスで暗躍している可能性は 限りなく高い。だがそのことを立証するためには、 どうしても現地へ行く必要がある。  現状ではロシアヘの出張など到底無理だ。  これはどの大事件だというのにI  歯がゆい思いを押し殺して考える。  思い出せIこんなとき、外事はどういう手を 使ってきたかI  やはりだいぶ勘が鈍っていたようだ。  砂田はかつて〈運営〉していた旧ソ連系の人脈 を辿ることにした。  一時は大きく勢力を後退させたかのように見え たKGBは、結局死に絶えはしなかった。それど ころか名称を変え、いくつもの組織に枝分かれし、 ロシアの隅々にまで浸透してかつてより強大な力 を蓄えつつある。  チェーカーは死ぬまでチェーカーだ。それが彼 らにとっての不変の真理だ。  ならば自分は、その真理を追えばいい。具体的 には、ある〈筋〉を。  闇資金の流れに通じる筋。馬越班時代に仕込ま れた捜二由来の捜査手法である。  把握している電話番号の大半はすでに不通と なっていた。それでも、現在も生きている番号の 主から、新たな番号をいくつか探り出すことがで きた。それらの番号を一つ一つ丹念に追う。そし てまた新たな番号を探り出す。  やがて砂田は『露囗大学』に辿り着いた。  大学と称しているが、教育機関としての実体は なく、その正体はエリツィン大統領の側近でもあ るロシア国家安全保障会議書記のオレグーロボフ が総裁を務める基金で、平成三年十一月にロシア 側によって創設された対日利権の拠点である。こ の露日大学を通じてロシアは日本企業から五千万 ドルもの出資を募ろうとしたらしいのだがうまく いかなかった。そんな頃、教団のロシア担当信者 がロシア大使館経済担当公使アレクセイーゼレー ニンを紹介された。  そこで日本からの出資を求めるロシアと、ロシ アヘの進出を目論むオウムの利害が一致した。平 成四年二月に来日したロボフは、ホテルオークラ で麻原彰晃と面会。このときから、オウム真理教 のロシアコネクションが確立したのだ。  ゼレーニンかI  真昼の路上に立ち尽くし、砂田は深い感慨に囚 われた。  アレクセイーゼレーニン。その名はよく知って いる。ロシア大使館公使という肩書はセオリー通 りのカバーにすぎない。ゼレーニンこそ外事一課 がマークするSVR(ロシア対外情報庁)の機関 員であり、砂田は彼の住所まで知っていた。荒川 区南千住の高層マンション『アクロシテイ』D ポートニ階。砂田の住居とは比較にもならない高 級マンションだ。  馬越参事官が自分を選んだのは間違っていな かった。  SVRは旧ソ連で対外諜報を担当していた第一 総局の後継機関である。砂田にとっては旧知とも 仇敵とも言える間柄だ。外事の血はいよいよ沸 き立った。  しかしゼレーニンはSVR機関員の中でもガー ドが固いことでも知られている。それを突き崩さ ねば、ここから先へは進めない。  外一がこれまでどうしても突破できなかった ガードである。自分一人では到底無理だ。  考えた末、砂田は〈ボランティア〉を頼むこと にした。砂田の知る限り、こういう状況に最も強 い外部の助っ人だ。  午後十時、渋谷道玄坂にあるバー『ミロク』に その男は現われた。  「よお、しばらくだったね、宮田ちゃん」  カウンターで飲んでいた砂田は、グラスを置い て立ち上がった。  「ご無沙汰してます、加藤さん」  〈加藤〉こと元外一の逢沢は、昔と同じ、狡猾な 狐のような笑みを浮かべて近寄ってきた。  頭髪はすっかり白くなっているが、それでも丁 寧に撫でつけられたスタイルは少しも変わってい なかった。  八年前に警察を早期退職した逢沢は、公安時代 のカバーであったはずの〈加藤〉という偽名をそ のまま筆名としてライター稼業にいそしんでいた。 意外なことに扱っているジャンルはかつてのよう な政治や外交関係ではなく、趣味を活かした釣り である。『月刊釣り人マガジン』を中心に活躍し、 全国の釣りファンに親しまれているという。  公安、外事出身者としては極めて稀な例と言え るが、現役時代から半ば冗談のように口にしてい た「警察とは縁を切る」という文言を、いともた やすく、且つ飄々と実現したところがいかにも逢 沢らしい。  「聞いてるよ、おまえさん、香川ちゃんと結婚し たのはいいが、その後捨てられたんだってなあ」  〈香川〉とは砂田が圭子に付けた偽名である。そ のことを逢沢に教えた記憶はなかったし、そもそ も彼は圭子と面識はなかったはずだが、それくら いは当然把握しているということか。警察を離れ ても、そうした情報は生まれた川に戻るサヶの如 く逢沢の元に集まるようになっているらしい。  「捨てられたんじやありませんよ。協議離婚で す」  「それを捨てられたって言うんだよ」  「違いますって」  口を尖らせた砂田に、  「いいからいいから。圭子って子はおまえさんと 別れてからえらく出世したそうじやないか。相当 なやり手だったんだな」  「まあ、そうでしようね」  その点に関してはさすがに肯定するしかなかっ た。現在圭子は、警備局警備企画課係長という役 職に就いている。階級こそ同じ警部だが、公安警 察官としては四課で資料整理をしている砂田より はるか上位にいると言っていい。  「その子にとっちやあ、別れて大正解たったわけ だ」  「もうその辺で勘弁して下さいよ」  逢沢はにやにやと笑いながらジムービームをス トレートで注文し、  「それで今日はロートル釣りライターの爺様にな んの用だい。渓流釣りを始めようって気にでも なったのか」  砂田はオウムと露囗大学を巡る特殊事情につい て手短に説明した。  グラスを傾けながら話を聞いていた逢沢は、表 情を完全に殺して言った。  「つまり、俺にボランティアをやれってわけか」  〈ボランティア〉とは、諜報用語で引退した諜報 員が一時的に現役復帰すること、もしくは古巣の 組織に協力することを指す。  「自分は馬越さんの特命により単独で動いていま す。外一に協力を求めるわけにはいきません」  「警察を辞めてからもう何年も経ってる。第一、 ソ連自体が消えてなくなった。俺が運営していた Sも国に帰ったか、引退したかだ。死んだ奴だっ て大勢いる。生きてたとしても俺の顔さえ覚えて ないんじやないか。ロシア人はアル中が多いから な」  「ソ連という国はなくなってはいません。ロシア と名前を変えただけですよ」 「チェーカーは死ぬまでチェーカーか」 「逢沢さんは確か以前、タス通信のKGB支局員 と接触してましたよね」  「ああ、メリニコフか。覚えてるよ。なかなかの 奴で、最後まで隙を見せずに帰国しちまった」  「当時メリニコフの上司たったニキーチンはヤセ ネヴオでロボフとつなかっていたという情報があ ります。日本では裏の取りようがありませんが、 確度は高いと思われます」   グラスを置いて振り向いた逢沢に、ゆっくりと 告げる。  「ソ連崩壊後、ニキーチンはタス通信を解雇され ました」  「それで」  「今は東京にいます」  「本当か」  「ええ。民間の旅行会社に勤めていて、年に四、 五回は日本とロシアを往復しています。そこまで は突き止めたんですが……」  逢沢はじっとこちらを見つめている。獲物を見 つけた古狐の目で。  「ゼレーニンの周辺を洗うには、その線から攻め るしかないというのが自分の結論です。そのため にはI」  「分かった。任せろ。馬越さんには俺も世話に なったからな」  「助かります」  「それで、俺の報酬は」  「今夜の飲み代でどうです」  「やっぱやめようかな」  「釣り人マガジンに毎月アンケートはがきを送り ます。『加藤さんのコラムは面白い』つて」  「ちゃんと定期購読しろよ」  「もちろんです」  逢沢は唇を狐のように大きく吊り上げて笑い、 ショートヒースをくわえた。  「来たぞ」  午後十時十一分。大久保のガード下でショート ヒースを燻らせていた逢沢は、一〇メートルほど 離れたオフィスビルから出てきた人影を見て呟い た。  そして暗がりから出て歩き出す。砂田も急いで その後に続いた。逢沢の身のこなしは昔通りの敏 捷さで、砂田はまるで新人の頃に戻ったような錯 覚を覚えた。  「よう、アンドリューシェンカ」  逢沢はアンドレイの愛称で呼びかけた。  怪訝そうに足を止めたアンドレイーニキーチン は、相手が逢沢と知って驚きの声を上げた。  「逢沢か。いや、加藤と言った方がいいかな。生 きていたのか」  「あんたと同じだ。死ぬ前に引退した。信奉する イデオロギーもなし、かと言って政府に命を捧げ るほど馬鹿でもない」  「変わらんな」  「そっちはだいぶ太ったようじやないか」  「囗本の料理はうまいからな」  「そいつは気をつけた方がいいぜ。俺達のトシ じやあ昔のように飲み食いしてるとどうもいけね え」  「忠告に感謝するよ。医者にもよくそう言われる が、あいにく囗本の酒には目がなくてな」  かつての宿敵同士が、世間話でもするかのよう にごく自然に語らっている。  「じやあ、そこらへんの小料理屋で一杯どうだ」  大兵のニキーチンは、苦さと親しみとが同居す るような微笑を浮かべ、  「大変に心惹かれる誘いだが、それだけは遠慮し ておこう。君に嗅ぎつけられて帰国を余儀なくさ れ、失意のうちに死んでいった部下が何人もいる んだ。共産主義体制が崩壊しようとも、私だけが 君と酒を酌み交わすわけにはいかない」  決して上質とは言えないコートを羽織った二 キーチンの丸い背筋が、そのときだけはまっすぐ に伸びたようだった。  「そうか、なら仕方ねえな」  あっさりと引いた逢沢に、  「それに、君が私を待っていたのには理由がある はずだ。健康よりもそっちか怖い」  逢沢は愉快そうに笑ってから、  「実を言うとね、俺に目をつけられて帰国しなが ら、くたばるどころか、かえって出世した奴につ いて知りたくてね」  「そうか、メリニコフだな」  ニキーチンは逢沢と砂田を交互に見つめ、  「確かに奴は私と違って抜け目がなかった。しか し、モスクワにいる男の動向を私か知っているわ けはないだろう」  「こっちもそこまでは期待してない。俺の今の仕 事は釣りのライターでね。いや、マジで。竿をこ う、気長に構えてアタリがあればめっけものくら いに考えてる」  「悪いが釣り場を変えてくれ」  「分かった。じやあ『ポリス』か『イシドル』に 当だってみることにするよ」  JR中央線が轟音を上げて高架線路を走り抜け た。その光でニキーチンの顔色が変わるのかはっ きりと分かった。   コードネーム『ポリス』も『イシドル』も旧ソ 連の機関員であり、同時に外事への情報提供者で もある。砂田はその二つのコードネームを把握し ていたが、彼らを運営していたのが逢沢とは知ら なかった。  「彼らは私と違って今なお微妙な立場にある。接 触するのはやめてほしい」  「言っだろう、本業は釣りのライターだって。今 の俺はボランティアでしかない。あんたの頼みは 分かるし、聞いてやりたいと思う。昔のよしみだ。 皮肉じゃない。あの頃を知る者同士の、なんて言 うかな……まあいいや、そんな気分だ」  すまなそうに言いながら背後の砂田を指差して、  「決定権は俺にはない。分かってくれ」  「……『ドミトリー』だ」  ニキーチンは呻くように言った。  「メリニコフにつながる可能性があるとすればそ の線だ」 「助かったよ。礼を言う」 「逢沢」 「分かってる。『ポリス』と『イシドル』には触 らせない。約束する」  頷いたニキーチンは、再び背を丸めて駅の方へ と歩き出した。  その背中に向かって逢沢が声をかける。  「会社に大吟醸を送っとくよ。あんた一人で飲っ てくれ」  老いたロシア人は振り返らずに片手を挙げ、夜 の中に消えた。 『ドミトリー』からメリニコフヘ。そしてメリニ コフからゼレーニンヘ。  点から点へ線を引く。そして次の点を探す。  砂田は逢沢とともに業務を進めた。方位を示す 磁石は逢沢のかつての情報提供者達で、地図は 〈加藤〉が築き上げたコネクションだ。  それは二人にとって、過去へ過去へと遡る旅の ようでさえあった。一緒に組んでいた頃の情熱と 高揚感。一線を退いたスパイ達との再会。そして、 旧ソ連からロシアヘとつながる無数の糸。  そうだ。KGBは確かに滅んではいない。その 赤く黒い糸は、社会の裏側で幾重にも絡み合い、 今も多くの人の魂を縛り上げている。  砂田は自らの辿ってきた道を人生の峠から改め て俯瞰する思いだった。曲がりくねったその道の 所々には、『クラーラールシーノワ』という名の 道標が立っている。  「悪いけど加藤ちゃん、今の俺には力になれるこ とはなんにもない。嘘じゃないよ。ソ連がポ シャつたとき、俺は完全に見捨てられた。消され なかっただけめっけもんだと思ったよ。あれ以来、 〈そっち〉とは関わらないようにしてきたんだ」  銀座七丁目の『銀座ライオン』で、ジョッキを 一息で飲み干した丘が言った。逢沢の〈昔の仕事 仲間〉たった男である。今は小さい広告会社に勤 務しているという。  砂田はピーナッツをかじりながら心の中で落胆 の吐息を漏らしていた。  年月の壁は想像以上に厚かった。メリニコフの 先まではなんとか辿ることができたが、そこから 現在のロシア公使であるゼレーニンにはどうして も手が届かない。逢沢のコネクションの中では、 丘が最後の望みであった。  こうしている間にもオウムは着々とロシアから 武器を買い付け、教団の武装化を進めているはず だ。猶予はない。  「俺、今でも読んでるんだよ、加藤ちゃんのコラ ム。『釣れても釣れなくてもイイー囗』」  「へえ、読んでくれてんの、釣り人マガジン」  砂田と同じく落胆しているはずの逢沢は、そん な色を少しも表に出さず、丘の話に応じている。  「うん、俺も最近始めたんだ、釣り。加藤ちゃん さ、せっかく生き延びたんだから、変な内職なん かしてないでライターに専念しなよ」  「年寄りの冷や水ってわけか」  「まあ、そんなとこ。俺、あのコラム楽しみにし てるんだ。味があって、昔より筆がノつてるよ。 だいぶ前に流行ったろ、椎名誠の『あやしい探検 隊』。あれみたいで面白いよ」  「そいつは嬉しいこと言ってくれるね」  適当に飲んで丘と別れ、砂田は逢沢と夜の中央 通りを新橋駅に向かって歩いた。  「またエサだけ持ってかれちまった」  逢沢がこぼす。飲み代の経費のことだろう。 「参つたな。これで完全にラインブレイクだ」 「なんですか、ラインブレイクつて」 「釣り糸が切れちまったってことさ」  釣り雑誌に連載を持っているせいか、逢沢はや たらと釣り用語を使う。  糸が切れた。今の場合、その表現はあまりにも 捜査の状況と一致していた。  「そうかと言って、ボウズのままってわけにもい かないしな」  二人ともしばらく無言で足を運ぶ。  ボウズー手詰まりだ、完全に。 「こうなったら仕方ないか……」  逢沢が呟いた。 「え、なんです?」  聞き返した砂田に、逢沢は決意したように告げ た。  「おまえにある人を紹介する。俺が直接その人を 知ってるってことは、警察の誰にも報告していな い。チョダさえ把握してないはずだ。今までずっ と秘密にしていた。できれば墓まで持っていきた かったがな」  逢沢がそこまで言う人物とはI  「誰なんです」  「塩崎だ」  「塩崎……冫・」  反射的に繰り返した砂田は、次の瞬間、はっと して顔を上げた。  「『六星インフォメーション』の塩崎ですか」  各国の諜報員が利用する〈伝言屋〉。砂田自身 も平成三年、KGBのカバーであったテュルコ ワーズ社役員殺害事案の際に六星インフォメー ションを利用している。だが同社とそのオーナー である塩崎は、当局にとって限りなくアンタッ チャブルに近い存在であったはずだ。  しかも塩崎は一年前に会社を畳み、引退したと 聞いている。  「逢沢さんがどうして塩崎と」  「俺の親父も警察官だったって話、知ってるか」  「聞いたことはあります」  逢沢の父親は戦時中の満州で警察官として奉職 していたという。敗戦後、内地に引き揚げて警視 庁に復職し、所轄の副署長で退官した。  「俺も詳しいことは知らない。たぶん満州で親父 と組んで何か〈仕事〉をやってたんじやないかと 思う。俺は戦後の生まれだが、ガキの頃、親父に 連れられて塩崎と二、三度会ったことがあるんだ。 奴が六星インフォメーションを起ち上げるずっと 前の話さ。それで連絡用の〈回線〉を渡されてた が、仕事で使ったことはない。そんな羽目になる 前に警察なんて辞めちまおうと思ってな。それが 今になって……」  「すみません」  ため息をついている逢沢に、砂田はただ頭を下 げるよりなかった。  「いいさ。もう大昔の話だ。今はオウムの方が先 決だ」  ショートヒースを取り出してくわえ、逢沢は口 調を一変させた。  「馬越さんの睨んだ通りだと思う。オウムはこの 先の囗本にとって厄介な敵になるぞ」  南房総の明るい海を望む療養所に、彼はいた。  逢沢について特別室に入ると、車椅子に座った 老人が振り返って微笑んだ。  それが塩崎たった。  公安の資料で写真は何度も目にしていた。ロマ ンスグレーの洒落た老紳士。しかし今は、素人目 にも病状のよくないことがはっきりと分かった。  「年月の流れには驚かされるばかりだ、この歳に なってもな」  逢沢を見つめる塩崎の目は、成長した息子に対 する父親のそれだった。  「あの頃の君は、まだ小学生だったかな。よほど 私か怖かったのか、親父さんの足許に隠れるよう にしていた。いかにも利発そうな少年でね、それ でいてあどけなさも残っていた」  「やめて下さいよ。俺ももうジジイなんで」  さすがに逢沢も照れたように言って、見舞いの 花をサイドテーブルの花瓶に生けた。  「何十年もご無沙汰して、今さらお詫びのしよう もありませんが」  「気にするな。むしろ私は、君が距離を置いてく れたことに感謝している」  満州でのことを言っているのか。逢沢の父と塩 崎とは、何か口外できない仕事に携わっていたと いう。そしてそれは、ご多分に漏れず戦後囗本の 闇とやらにつながっているのだろう。  「君が砂田君か」  塩崎の視線がこちらに向けられた。  「はじめまして、砂田です。ご挨拶が遅れて申し わけありません」  「いいんだ、挨拶なんて。君の情報もときどき私 の耳に入ってきたよ。〈加藤〉の後輩の〈宮田〉。 今は冷や飯を食わされているようだが、警察も見 る目がないな……と一一一一にゝつより、相変わらず官僚ど もの派閥に支配されているのだろう」  驚いた。自分如き取るに足らない捜査員のこと まで把握しているとは、さすがは六星インフォ メーションの塩崎だ。全盛期の彼には、外事の動 きなど掌中に在るも同然であったに違いない。  「それより話を進めようじやないか。私に残され た時間は少ない。君達は露囗大学に流れ込んだ金 の流れを追っているそうだね」  いきなり核心に切り込んできた。塩崎は末期癌 だと聞かされていた。本人も自らの余命をはっき りと理解しているのだ。  「ソ連崩壊後、KGBはFSK(ロシア連邦防諜 庁)やSVR、FPS(ロシア連邦国境庁)など いくつもの組織に分裂したが、その本質は変わっ ていない。ゼレーニンの周辺には『新品のカーテ ン』が張り巡らされている。誂えたのはSVR。 それだけの理由があるからだ」  塩崎は視線を窓の外に広がる海に向けた。海面 で跳ねる陽光に、眩しそうに目をすがめる。  「この世界では、口の堅さが何よりも求められる 重要な資質だ。私は単なる〈伝言屋〉に徹してき た。預かったメッセージの内容を他人に漏らすな ど考えもつかない。もしそんなことをしていたら、 私はもっと早く死んでいた。少なくともこれほど 恵まれた場所で死を迎えられはしなかっだろう」  もっと気を強く持って下さいIそんな形式的 な励ましすら口にはできない。それを許さぬ峻厳 さが、一見穏やかな塩崎の表情に潜んでいた。  「だが私にも悔いはある。それは逢沢君、君の亡 き父上と袂を分かったことだ」  逢沢はもう一切の無駄口を叩かず塩崎の話に耳 を傾けている。いつも唇に薄笑いを貼り付けたよ うな逢沢の、初めて見る真剣な表情であった。  「実にささいな理由からだった。今となってはね。 大げさに言うと、戦後囗本に対する考え方の違い だ。そして私達は互いに別の道を往くことを選ん だ。同じ諜報の世界でも、君の父上は現場の一警 察官として外事の基礎を築き、私は裏のメッセン ジャーとなった。君の父上が私の仕事に介入せず 放置してくれたことについて、私は恩義を感じて いる」  砂田は自らの感情を隠し、眼前の老人と逢沢と を交互に見る。  長年外事に奉職しながら、そして新人時代に逢 沢の薫陶を受けながら、初めて聞く話ばかりで あった。  振り返ってみれば、過去に逢沢が自分の家族や 家庭環境について話すことはほとんどなかったと 言っていい。彼が警察を早期退職した真の理由が、 なんとなく察せられたような気がした。  「こうして死を前にするとね、先に逝った友人の ことばかり考えるようになる。逢沢君、君が今に なって砂田君と私を訪ねてくれたのは、それだけ オウム真理教を脅威と感じているからだろう。公 安の敵はすでに共産主義などではない。あれは組 織防衛、いや自己防衛を第一とする官僚が唱え続 けているだけの虚しいスローガンだ。私にはもう この世界に対する義理はない。〈業界〉には充分 に尽くしたし、六星インフォメーションも整理し た。私は喜んで〈業界〉の不文律に背こうと思 う」  秘密の厳守を身上とする〈伝言屋〉が、死を前 にして自らいましめを捨て去ろうとしているのだ。  握り締めた両手に力が籠もるのを砂田は抑える ことができなかった。  「ロシアはオウムに武器を売っている。それは間 違いない。だが今の私の力では、ゼレーニンを包 む『新品の力上アン』は破れない。君達はオウム とロシアの関係を立証しようと私に……」  そこで塩崎は激しく咳き込んだ。  駆け寄ろうとした砂田と逢沢を片手で制し、( ンカチで口許を拭って話を続ける。  「会社を整理する直前のことだった。FSKの奇 妙な動きが伝わってきた。彼らは『ヨーシフ』と いうコードネームのエージェントを搜していると いう」 「『ヨーシフ』?」  逢沢が反応した。何か知っているらしい。 「そりゃ変じゃないですか」  塩崎は頷いて。  「そうだ、ヨーシフはソ連崩壊前にKGBが使っ ていた工作員だ。旧ソ連のスパイ訓練都市である ガツィーナで破壊工作、暗殺技術を叩き込まれた 最精鋭。アジア系で見た目は日本人とほとんど見 分けがつかないらしい。それが彼に災いしたと言 われている。ソ連崩壊時の混乱で彼は本体から切 り離され、日本に取り残された。一方で死亡説も ある。いずれにせよ、奇妙なのは彼を搜している のが対外諜報を担当するSVRではなく、ロシア 連邦の防諜対策を扱うFSKであることだ。私の 知る限り、FSKとヨーシフの接点はない。当然 SVRは反発する。ゼレーニンを含むSVRの日 本支局がな」  「なるほど、突破口になり得るとすれば、その ヨーシフつてわけですね」  逢沢の言葉に、しかし塩崎は重苦しい顔を見せ た。病のせいもあるだろう。  「残念ながら私の知っていることはそれだけだ」  砂田はすかさず礼を述べる。 「いいえ、助かりました。感謝します」 「もし何か分かったら改めて連絡する。楽しかっ たよ、逢沢君、砂田君」  そう言って、塩崎は視線を再び海へと向けた。  その後ろ姿に挨拶を伝え、二人は特別室を後に した。  ドアを閉めようと、砂田はもう一度室内を振り 返った。  車椅子の老人は、身じろぎもせず海を見つめて  いる。いや、海ではない。過ぎ去った遠い日々を、 友と過ごした満州の幻影を見ているのだ。少なく とも砂田にはそう思えた。また疑問をも感じた。  戦前の満州と、戦後の日本と。塩崎老人にとっ ては果たしてどちらが幻影であったのだろうかと。  南房総から戻った砂田は、新たな手がかりを元 に捜査を続けた。  手がかりは『ヨーシフ』。生死すら定かでない、 亡霊の如きエージェントを捜し出す。それもFS Kより早く。  ヨーシフがロシアとオウムの武器取引につなが るという保証はない。それでも他に有力な手がか りがない以上、彼を見つけ出すしか方法はなかっ た。  外事捜査員としてつちかってきたノウハウとパ イプを使い、ヨーシフの発見に全力を投人した。  予期した通り、はかばかしい結果は得られな かった。  年齢も容姿も、また性別すらも不明。日本人と 見分けがつかず、日本で活動していたということ は、日本語が堪能ということである。これでは容 易に捜し出せるものではない。現在活動中である ならばまだ手はあるが、何年も消息が途絶えたま まである。  ヨーシフが過去に関わったと思われる事案を辿 り、砂田は日本中を駆け回った。  その間にも警視庁に顔を出し、馬越参事官に報 告を行なった。逢沢と塩崎の関係についてはぼか したが、馬越もそれと察してくれたのか、深くは 尋ねてこなかった。  「オウムについて、年明け早々にも警視庁で公安 関係者の会議が開かれることになった」  馬越は声を潜めて砂田に告げた。  「察庁からの強い要請で、加倉井部長も尾ヶ瀬総 務課長もさすがに承服するしかなかったらしい。 なんにせよ、これで少しは公安の意識も変わるだ ろう」  どの程度の変化が期待できるのか不明だが、よ い兆候と思える話はそれくらいであった。  他に収穫のないままその年が終わり、平成七年 を迎えた。  一月三日、砂田のマンションに電話がかかって きた。逢沢からだった。  〈塩崎が死んだよ。昨日の夜だそうだ。さっき療 養所から連絡があった〉  呆然としたまま礼を言って電話を切った。  長くはないと聞いていたが、それにしてもI  落胆に流れかけ、我と我が身を叱咤する。  無意識のうちに塩崎をそこまで頼っていたとは、 情けないにもほどがある。  自分の始末は自分でつける。ほかならぬ塩崎が その生涯を以て示してくれたように。  仕事始めに警視庁へ登庁したその囗のうちに、 砂田は馬越から呼び出しを受けた。  「年明けに予定されていた対オウムの公安会議だ が、一月下旬に延期となった」  この上なく苦々しい顔で馬越は言った。  「出席が予定されていた幹部のスケジュールも一 旦全部ばらすことになる。せっかくの調整が水の 泡だ」  「事実上の白紙というわけですか」  「そうだ」  砂田も馬越と同じく、腹立たしい思いでその決 定を受け入れるしかなかった。  これはどの危機が迫りつつあるというのに、公 安はどこまで現実から目を逸らし続けようという のか。  また極めて不明瞭なその理由も、砂田には理解 し難いものでしかなかった。  転機は一月十日に訪れた。  ランチの客も一段落した『新宿中村屋』本店二 階で逢沢と落ち合った砂田は、一通の封書を渡さ れた。  「釣り人マガジンの編集部気付で届いたんだ」  逢沢の言う通り、宛先は確かにそう書かれてい る。宛名は「逢沢様」。繊細な水茎で、女性の手 によるもののようだった。  裏返して差出人を見る。住所はなく、ただ「結 野」とのみ記されていた。  六星インフォメーションで塩崎の秘書を務めて いた女性の名前であった。資料によると年齢は四 十五から五十。塩崎と同じで素性は把握されてお らず、砂田も直接には会ったことがない。六星イ ンフォメーションの残務整理を済ませた後、高円 寺のマンションに引き籠もっていると聞いていた。  すでに開封されていた封筒の中身をそっと取り 出す。  【神戸市長田区 ΞOQ口母】  ありふれた便箋に横書きでたった一行、そう記 されていた。  驚いて顔を上げる。  「逢沢さん、こいつは」  「そうだ、おそらくヨーシフの居場所だ」  運ばれてきた中村屋純印度式ガリーを口に運び ながら、逢沢は言った。  「大したもんだ。死ぬ間際にその情報を秘書に託 したんだろう。区名までしか分からなかったよう だが、なあに、それだけ分かれば上等だ。後はな んとでもできる」  旺盛な食欲を見せてガリーを頬張り。  「実はもう編集長に言ってきたんだ、神戸の釣り 場特集をやりましようよってね。南薦屋浜とか、 垂水漁港とか、いいスポットがあるんだよ、あっ ちには。取材費は値切られたが、編集長も乗って くれた。取材の名目で早速神戸に行こうと思って る」  「待って下さい」  砂田は熱いガリーポトフをスプーンにすくって 冷ましつつ、  「こっちは課長に出張を命じられたところなんで すよ。群馬県警であさま山荘当時の捜査資料が新 たに発見されたから全部確認してこいって。かな りの量があるらしくて、一日や二日じゃ帰れそう もないみたいなんです。なにしろ本来の仕事です から、馬越さんもさすがにしようがないだろう と」  「分かった。じゃあ俺が先乗りして調べておく。 せっかくの情報だ。ヨーシフに逃げられでもした ら元も子もないからな。おまえは群馬の用事が片 づいてから来ればいい」  「すみません」  「謝ることはない。乗りかかった釣り船って奴だ な」  面白くもない冗談を言って、逢沢は名物の印度 ガリーを平らげた。明るくふるまってはいるか、 塩崎の死の重みは自分以上に感じているだろうと 砂田は思った。  翌る十一囗、逢沢は兵庫県神戸市へ、砂田は群 馬県前橋市へと出発した。  それぞれの宿泊先で、毎日定期的に連絡を取り 合うなどの手筈は遺漏なく打ち合わせている。  退職したとは言え、逢沢は外事で鳴らしたベテ ランである。区まで判明していれば、相手に悟ら れずにその先を絞り込むのは決して不可能ではな いはずだ。  群馬県警では資料の整理に想像以上の労力を取 られた。自分がこうして手間取っている間にも、 逢沢は着々とヨーシフに迫りつつあるに違いない。 埃だらけの資料に目を通しながら、砂田は焦燥に 駆られるばかりであった。  そして十五日の夜。神戸市役所に近いビジネス ホテル『ニューフラワー』に泊まっている逢沢か ら、前橋の旅館に定時連絡があった。  〈ヨーシフを確認した。やっぱり生きてやがった んだ〉  「本当ですか」  〈ああ、間違いない。確かにどう見ても日本人だ。 今となっちやあ、本人も自分が日本人だと思い込 んでるんじやないかな〉  「概要お願いします」  メモと鉛筆を取り出しながら訊く。  〈神戸市長田区御蔵通五丁目、神蔵荘四号室。 長身で痩せ型。見た目は三十代半ばくらい。『島 原正』の偽名を使っている。島原の乱の島原に正 しいの正だ。詳細はこっちで話そう〉  「分かりました。こっちは明日の夜には東京に戻 ります。明後日の始発でそっちに向かいます」  〈了解した。ニューフラワーで合流しよう。六〇  一号室だ〉 「逢沢さん」 〈なんだ〉 「くれぐれも先走らないで下さいよ」  電話の向こうで逢沢は軽く笑った。人を食った ようないつもの笑いだ。  〈心配するな。ここでドジを踏むような俺か〉  十六日の午後八時すぎ、報告のため一旦警視庁 に登庁した。それから豊洲の自宅マンションに 戻った砂田は、すぐさま翌日の神戸行きの準備に 取りかかった。  新神戸まで行く新幹線の始発には午前五時に起 きても充分に間に合う。その夜は念のため早めに 寝て翌日に備えた。  一月十七日。五時きっかりに起床し、すばやく 身支度を済ませる。旅行鞄一つを持ってマンショ ンを出た。  午前六時十分。東京駅に着いた砂田は、改札の 前の人だかりを見て困惑した。  どうやら新幹線が止まっているらしいが、ホー ムには入れた。  地震?−地震だってIどこでI相当大き いらしいわよI  そんな声が耳に入ってきた。  関西方面への下りホームでは新幹線が停車して いるが、どの列車もドアは閉ざされたままであり、 一向に動き出す気配がない。  駅員を呼び止めて状況を訊こうにも、皆蒼ざめ た顔で走り去るばかりである。  不安そうに囁き交わしていた乗客達の声が、次 第に苛立ちを含んだ大きなものとなっていく。  困つたなI  頭上から不意にアナウンスが流れ出した。  〈乗客の皆様に申し上げます。兵庫県南部で地震 が発生しました。現在、被害状況の確認を行なっ ております。まことに申しわけありませんが、詳 しい状況が判明するまでしばらくお待ち下さい〉  平成七年一月十七日午前五時四十六分、明石海 峡を震源として発生した兵庫県南部地震はマグニ チュードフ・3に及ぶ大規模なもので、のちに阪 神淡路大震災と命名されたその被害の全貌が明ら かになるにつれ、日本中を未曾有の混乱に陥れた。  関西方面への交通網は随所で寸断されており、 砂田はその後一か月以上が経過するまで現地へ入 ることすらかなわなかった。それには全国の治安 を守るべき警察組織の混乱も大きく与っている。 資料整理担当の砂田でさえ連日対応に追われ、単 身神戸へ赴くことなど許される状況ではなくなっ てしまったのだ。  地震発生の当日、やむなく警視庁に戻った砂田 は、炎上する神戸市街の様子を中継するテレビ画 面に呆然と見入るしかなかった。  地獄絵図。そんな言葉が頭をよぎった。この光 景を他になんと称すればいいのだろう。  いつまでも衰えることのない永劫の炎。崩れ 去ったビル群。断末魔のうねりを哂して死んだ蛇 のように横たわる高速道路。  炎の中に、瓦礫の下に、一体何人の人がいるこ とか。  刻々と、また断片的に入ってくる情報によれば、 広範囲に激しく燃え盛っているのは長田区のあた りであるという。ヨーシフが偽名で入居している という御蔵通五丁目のアパートは、間違いなくあ の業火のまっただ中だ。朝の六時前という地震の 発生時刻を考えれば、ヨーシフはアパートで寝て いた可能性が高い。  逢沢が宿泊しているビジネスホテルのある中央 区でも、多数のビルが倒壊しているらしい。  逢沢さんI  同僚の警察官達とテレビを見つめながら、そし て逢沢の無事を祈りながら、砂田は何もかもが狂 おしく渦巻く炎の中に没し去っていくように感じ ていた。戦後の闇。謎の手がかり。かそけき望み。 そうした一切を含む人の営為の何もかもが。  被災地に縁者がいる同僚達は、あちこちに電話 をかけて安否を確認しようとしていた。多くは不 通のようだったが、ある者は安堵の吐息を漏らし、 またある者は受話器を持つたまま鳴咽していた。  そんな同僚達を横目に見ては、逢沢からの連絡 をひたすら待った。  一月末に予定されていたオウム真理教対策の警 察関係者会議は、当然の如く中止となった。それ だけではない。オウムの公安捜査を主張していた 警察庁公安一課の山川課長が、二月一日付で福井 県警本部長として異動となった。さらに不可解な ことには、公安一課長という要職がその後約一か 月もの間、空席のまま放置されたのだ。その理由 は誰にも分からない。警察人事の不条理さを象徴 する人事と言うはかない。  逢沢からの連絡はついになかった。  砂田がようやく神戸を訪れることができたのは、 二月末になってからだった。  真っ先に中央区の神戸市役所近くへと向かった。 逢沢の宿泊していたビジネスホテルは倒壊して瓦 礫の山と化していた。耐震基準を大きく下回る老 朽化したビルだったらしく、人ならぬ何か巨大な ものの手で真上から押し潰されたように見えた。 あらかじめ兵庫県警から情報を得ていたが、自分 の目で確かめることが逢沢に対する礼儀だと思っ た。  申しわけありませんI  瓦礫を前にして手を合わせ、黙祷する。  悔やんでも悔やみ切れない。  自分が〈ボランティア〉などに引っ張り出した ばっかりにI  宿泊客や従業員の中には運よく助かった者もい たが、逢沢はその中には含まれてはいなかった。  次いで長田区御蔵通に向かう。古い木造住宅が 密集していたそのあたりは、一面の焼け野原と化 していた。立入禁止のままになっている場所も多 い。写真や映画で何度も見たことのある敗戦直後 の焼け跡のようだった。『島原正』の偽名でヨー シフが暮らしていたという御蔵通五丁目の木造ア パート『神蔵荘』も完全に焼失している。  灰燼に帰した神戸の街に立ち尽くし、砂田は一 切の言葉を発することができなかった。  帰京した砂田は、見たままを馬越に語った。  暝目するように聞いていた馬越は、デスクの引 き出しからイチゴ大福を二個取り出し、黙って一 個を砂田に差し出した。砂田がそれを受け取ると、 大きな口で残る一個にかじりついた。  イチゴ大福を頬張りながら、馬越はぽつりと 言ったI「捜査は続けろ」と。  三月に入って、元東アジア反日武装戦線『大地 の牙』のメンバーであった浴田由紀子がルーマニ アに潜伏中であるとの噂が砂田のもとへも流れて きた。公安はすでに逮捕状を取っているとも。  『大地の牙』が引き起こした連続企業爆破事件は、 公安に配属されたばかりの砂田が馬越の命令で応 援に駆り出された思い出深い事案である。公安独 自の手法で成功した唯一の刑事事件でもあったが、 刑事部を欺いた上層部の行為は、もともと確執の あった刑事部と公安部との間に決定的な亀裂をも たらし、今日に至る。  あれから二十年の歳月が流れ、オウムという まったく新しい敵が現われた。しかし公安の体質 は変わらぬどころか、自己保全的な性格の陰湿さ を増している。  感慨に耽る余裕すらなく、砂田はただ二十年の 疲労を背負った身でオウムとロシアとの接点を追 い続けた。厳密には、接点の立証につながる新た な手がかりを。  だが逢沢とヨーシフの死により、すべては振り 出しに戻ってしまった。かつてのように手足とし て指揮できる部下もいない。今度こそただ一人で やるしかなかった。  神戸とは対照的に、それまでと変わらぬ姿を見 せる東京を歩きながら考える。  手がかりをどこに求めるべきか。原点に立ち返 れば立ち返るほど、疑問が次々と湧き上かってく る。そもそも、アレクセイーゼレーニンとオウム の接触を外一がなぜ見逃してしまったのか。  少なくとも自分が現場捜査員であった頃には考 えられないミスである。不可解としか言いようは なかった。  三月二十日、月曜日、午前八時四十分。  いつものように豊洲駅から有楽町線を使い、出 勤途中にあった砂田は、突然の車内アナウンスに 嫌な予感を感じた。それは有楽町から千代田線、 日比谷線への乗り換え不可を知らせるものだった。 何かあったのかは分からない。警視庁最寄りの桜 田門駅で下車したとき、予感は最悪のものに変 わった。通常の事故とは空気が決定的に違ってい る。蒼白になった駅員が制服警官と一緒に走って いくのが見えた。尋常でない〈何か〉が起こった のだ。  庁舎内に入っだ砂田は、「地下鉄駅構内におけ る爆発物を使用したゲリラ事件発生」により、警 戒態勢が発令されていることを知った。  警視庁通信司令部に第一報が入っだのは午前八 時二十一分。最初は「異臭がして病人が出た」 「車輛にガソリンが撒かれた模様」という断片的 で曖昧な情報であったが、急行した警察官達から 刻々と入ってくる報告は、被害の甚大さを伝える ものだった。情報は錯綜し、何か起こったのか、 その時点で把握している者はいなかった。  だが砂田はすでに確信していた。「鼻を刺すよ うな強烈な異臭」。そして「意識不明となった大 量の被害者」。  サリンだIオウムがやったのだI  通勤通学ラッシュの地下鉄内でサリンを撒くと いう無差別大量殺戮。想像すらできなかった狂気 の大犯罪だ。  目眩がした。憤怒と自虐の入り混じる悪寒。警 察はオウムの危険性を把握しながら、この凶行を 阻止できなかった。いや、阻正しようともしな かったのだ。  砂田は馬越のいる公安部参事官室へと走った。  悔恨が全身をさいなむ。魂を焼く。正気を切り 刻もうとする。  しかし馬越を含む警察幹部は、いずれも緊急の 対策会議で会うことはできなかった。  参事官室の閉ざされたドアを叩き、砂田は絶望 に呻いた。  午前九時、警察庁が警備局と刑事局合同の事案 対策室を設置。  午前九時四十五分、警視庁の要請により陸上自 衛隊の医師ら六人が飯田橋の警察病院に派遣され る。  同時刻、亀井静香運輸大臣が緊急対策本部設置。 また亀井大臣は全国の交通機関に厳戒態勢を取る よう指示。  午前十一時過ぎ、警視庁捜査一課長が記者会見 を行ない、毒物はサリンの可能性が高いことを明 らかにした上で、殺人容疑で捜査を開始すると発 表した。  正午頃、患者を収容した駿河台日大病院の矢崎 誠治救命救急部長は「サリンなど有機リン酸系化 合物による中毒の可能性が高い」とする見解を示 した。  午後○時五十分、鈴木俊一東京都知事から防衛 庁へ災害出動要請。これにより、陸上自衛隊東部 方面隊第一師団は化学防護小隊五名と除染車一台 を地下鉄霞ヶ関駅へ派遣した。  死者十三名。負傷者六千名以上。  阪神淡路大震災という名の悲劇に打ちのめされ たばかりの日本人が、等しく白昼に二度目の悪夢 を見た日であった。  地下鉄サリン事件で使用されたサリンの副生成 物は、前年の六月二十七日に発生した松本サリン 事件の現場から検出されたものと酷似していた。  三月二十二日未明、警視庁を出発した大部隊は、 夜明け前に山梨県上九一色村富士ケ嶺地区に集結 した。  午前六時過ぎ、警察はオウム真理教に対し、目 黒公証役場事務長拉致監禁容疑で静岡県富士宮市 の富士山総本部や東京都内及び山梨県内の教団関 連施設への一斉家宅捜索を開始した。  遅すぎた、何もかもI  心にどこか自棄的な感覚を抱きつつも、砂田も また強制捜査に参加した。  上九一色村教団施設での強制捜査で警察官が着 用していた防護服は自衛隊からの借り物で、カナ リアの籠を手にした異様な風体は、禍々しくもあ リ、どこか滑稽でもあった。  公証役場事務長拉致事件の実行犯がオウム信者 であるとの証拠を得て逮捕状を取ったのは刑事部 の功績である。一方公安部は、砂田にも馬越にも 理解し難い動きを続けるばかりだった。  これが組織の動脈硬化というものなのだろうと 砂田は思った。あまりにも長い年月、公安は共産 党や過激派ゲリラとの戦いのみを成功体験とし、 また自らの存在理由としてきた。そのため時代の 動きに誰よりも敏感であらねばならぬはずの公安 が、時代に対してまったくの無頓着となっていた。 そのツヶがこの大惨事を招いたのだ。  そうとでも考えなければ、到底理解し得ぬ公安 の迷走ぶりであった。  ともあれ砂田は、警察組織の一員として強制捜 査からの一週間を不眠不休で働いた。  肝心の麻原彰晃は未だ発見されていない。囗本 中の目が警察とオウム真理教との戦いに注がれて いる。そのことを自覚しない警察官はいなかった と言っていい。  その間にもマスコミは、オウムが関係している と見られる数々の重大犯罪を連日のように報道し ている。  坂本堤弁護士一家失踪事件。信者のリンチ殺害 事件。VXガスやホスゲンによる襲撃事件。常軌 を逸した凶悪犯罪の数々に、日本全土が文字通り 震撼した。  遅すぎたんだI  砂田は同じ言葉を繰り返す。心の中で。警察官 として。自分に対して。自分以外のすべての警察 官に対して。  そしてオウムは、名実ともに新たなる〈国家の 敵〉となった。  強制捜査の開始から八日後の三月三十日。  午前八時四十分、砂田は早めに登庁した馬越参 事官の執務室に赴き、打ち合わせを行なっていた。  通常の登庁時間は砂田も馬越ももう少し遅いが、 なんといってもかつてない非常事態である。幹部 を含めたすべての警察官が残業や早朝出勤を余儀 なくされていた。  とりわけ砂田には、馬越から与えられた特命が ある。オウムとロシアとの関係を立証することは、 オウムによる犯罪の全貌を明らかにする上でもま すます重要度を増している。  オウムの正体が公然のものとなった今、公安部 外事課として正式に人員を割き、捜査を広げるこ とができる。そのとき砂田は、これまでに得られ た情報をもとに馬越と今後の捜査方針について検 討していたのだ。  突然馬越の背後で電話が鳴った。 「ちょっと待て」  そう言って応接用のソファから立ち上がった馬 越は、自分のデスクから受話器をつかみ上げた。  「馬越です」  次の瞬間、馬越が示した表情は、砂田がこれま でに見たこともないものだった。  驚愕を通り越した何か。悪夢が実体化して動き 出すのをまのあたりにでもしたような。   かと言って、地下鉄サリン事件以上の悪夢など 砂田には想像もできない。   一体どうしたというのだろうI  馬越はその厳めしい顔に似つかねしい大きな口 をあんぐりと開いたまま、無言で相手の話を聞い ている。  そして大きな音を立てて受話器を置き、まだ夢 の中にいるような声で告げた。 「長官が撃たれた」  何を言っているのか理解できなかった。  わけが分からず黙っていると、馬越はかすれ声 でもう一度繰り返した。  「國松長官が撃たれたんだ」  それでもまだ理解できなかった。  國松長官−警察庁の國松長官かIその人が、 撃たれたI  破断したような頭の回線がようやくつながり、 聞いたことの意味がおぼろげながら浮かび上がっ た。  「まさか」  口をついて出だのは、情けないほど凡庸な感想 であった。  「そんな、まさか」  どこか呆けたような馬越の顔が告げている。そ れが嘘でも冗談でもないと。  「南千住の自宅マンションを出たところを狙撃さ れたらしい。マル被は現場から逃走。長官は病院 に搬送されたが意識不明の重体だ」  自分はまだ夢を見ているのか。自宅の万年床で。 警察の寮の煎餅布団で。圭子と同衾するベッドで。 過去と幻影とが交錯する。どこにも現実の欠片を 見出せない。  警察組織のトップである警察庁長官が狙撃され た。  衝撃に思考がようやく追いついたとき、最初に 思っだのは一つだった。  「オウムでしょうか」  馬越はすぐには答えなかった。  「やっだのはオウムでしょう。このタイミングで すよ、他には考えられません」  「どんな捜査であっても予断は禁物だ」  自らに言い聞かせるように語気を強めた馬越は、 コートを取って足早にドアヘと向かった。  「俺はすぐに南千住署へ行く。できれば現場も見 ておきたい。砂田、おまえも来い」  言われる前に、砂田は元上司の背後に付き従っ ている。  悪夢の中で見る悪夢。目覚めの夢とは違うその 夢に、終わりも覚醒もないことを漠然と予感しな がら。    1  日本医科大付属病院のICUに搬送された長官 は、今も意識不明の危篤状態が続いているという。  荒川区南千住六丁目の高層マンション群『アク ロシティ』の狙撃現場では、鑑識課、機動捜査隊、 捜査一課、捜査四課、さらに公安機動捜査隊、公 安一課、公安三課が一見無秩序とも見える捜査を 展開していた。  その周辺を取り巻く報道陣と野次馬、そして彼 らを押しとどめる警察官達は互いに大声で罵り 合っている。  馬越とともに一旦南千住署に顔を出してから現 場に入った砂田は、傘を反らして頭上を見上げた。  雨に佇立する巨大なマンション。その下で口々 に喚き、悲嘆し、放心する群衆。そこはさながら、 バベルの塔の麓であった。  互いの言語が突然通じなくなってしまった太古 の人々以上に、砂田はどうしようもなく混乱して いた。  アクロシテイEポート。まさかとは思った。長 官の自宅は、ロシア連邦経済担当公使の肩書を持 つSVR機関員アレクセイーゼレーニンの住むD ポートと同じ敷地の中にあったのだ。  これはただの偶然なのかI  「馬越さん、こっちです」  先に臨場していた神原参事官が振り返って手を 挙げた。  公安部にはナンバーツーの参事官が二人いる。 キャリアとノンキャリアの二人だ。キャリアの警 視長が神原で、ノンキャリアの警視正が馬越で あった。  「長官は特Aじやなかったんですか」  馬越の問いに、神原は広い肩から雨の粒を滴ら せながら大声で答えた。  「長官自身がSPの警護を固辞なされたそうです。 私も知りませんでした」  警察庁長官と警視総監は、通常『A−I』と呼 ばれるレベルの警備対象とされている。しかし地 下鉄サリン事件以降、警視庁は言わば戒厳令下に あり、警察庁長官と警視総監の警備レベルは最高 ランクの『特A』へと引き上げられていた。最重 要警備対象者である特Aに対しては、常時SPが 身辺警護に当たることになっている。それを長官 自ら拒否したというのだ。  「しかし、それにしたって……南千(南千住署) は一体何をやってたんだ」  馬越が怒りの目で周囲を見回す。  長官の警護に当たっていたのは、警備車輛の中 で待機していた二人の警察官のみ。しかも犯行時、 実行犯を見てもいないIそうした情報はすでに 耳に入っている。  地下鉄サリン事件の直後だというのに、あまり にも杜撰且つ無責任な警備であった。  「責任の追及は後からいくらでもできます。今は それより……」  何事かを言い淀んで、神原は視線を再び煙雨の 彼方へと向けた。  今はそれより捜査だIそう言おうとしたのだ ろうが、そんな単純な解釈が許されるような状況 ではなかった。  犯人はこれほど大胆な犯行計画を実行に移した のである。事前に警備状況についての情報を入手 していた可能性さえあるではないか。  もしそうだとしたら、情報の漏洩源はI  砂田は頭を振って捜査員達の中へと分け入っだ。 現場指揮に当たっている寺尾捜査一課長の近くで 目を凝らし、耳をそばだて、状況を頭に叩き込む。  狙撃地点はFポート南東植え込みの陰。ター ゲットまでの距離はおよそ二〇メートル。目撃情 報などから推定される凶器は銃身の長い大口径の 拳銃。  普段の習慣とは違う行動を取った標的に対し、 動揺することなく冷静に、それはどの距離から三 発もの拳銃弾を命中させている。どう考えても相 当な訓練と経験を積んだプロの犯行だ。  目撃者によると、狙撃犯は犯行後、自転車に 乗ってアクロシテイの敷地を抜け、西の方向へと 走り去った。年齢は三十歳から四十歳くらい。身 長は一七〇から一八〇センチ。痩せ型。黒もしく は黒に近い帽子とロングコートを着用。顔には大 きめの白いマスクをしていたという。  「行くぞ、砂田」  馬越に促され、砂田は現場を後にした。  捜査本部が設置された南千住署は、現場から たった五〇〇メートルほどしか離れていなかった。 犯行の恐るべき大胆さがいよいよ切実に感じられ る。  南千住署には警視庁捜査部門の幹部がほぼ全員 集まっていた。異例ではあるが、また当然とも言 えた。警察トップヘの襲撃を許すという警察史上 空前の大失態を演じてしまったのだから。  詰めかけた記者団に対し、事件の概要について 説明を行なったのは刑事部の寺尾捜査一課長で あった。犯行の性格からしても、刑事部が捜査に 当たるのが筋と言える。報道各社も、刑事部担当 記者を中心に取材チームを編成し始めたようだっ た。  十一時十五分。寺尾一課長から記者達に発表が あった。  「本事案を要人テロ事件と断定し、公安部が捜査 指揮に当たります」  全員が耳を疑った。公安部の砂田さえも。  捜査開始後に捜査主体が変更されるなど、考え られない事態である。  「十一時三十分から記者会見だ’・」「場所は’・」 「署長室だって’・」  近くで署員達が叫んでいた。彼らに交じって砂 田も署長室へと走った。  第一回記者会見の席上で、神原参事官は記者達 に対し事務的な態度で説明を行なった。  長官は依然危篤状態にあること。緊急配備を敷 き自転車で逃亡した犯人を捜索中であるが、未だ 発見できていないこと。そしてI  「事件の早期解決を図り、南千住署に百十名の体 制で捜査本部を設置致しました。本部長には加倉 井公安部長が就任します。副本部長には私と南千 住署の羽登署長、加えて寺尾捜査一課長が就任し、 刑事部の応援を得て捜査に当たります」  詰めかけた記者達の間から矢継ぎ早に質問が飛 んだ。  「公安が刑事事件を捜査するなんて変じやないで すか」「理解できません、理由をお願いします」 「刑事部は納得してるんですか」「オウム真理教と の関係は」「これはオウムの犯行と考えていいん でしょうか」  報道関係者で縊れ返る署長室の入口近くに立っ ていた砂田の横で、記者達が顔をしかめて話す声 が聞こえてきた。  「公安は秘密主義の瑰だ。この取材は並大抵には いかないぞ」  異論はない。その通りだと思った。  その場を離れ、通りかかった若い署員を捕まえ た砂田は「帳場はどこだ」と尋ねた。  「とりあえず講堂に設置されました」  「そうか、ありがとう」  礼を言って講堂へと向かう。 『帳場』とは特別捜査本部を指す警察独特の符 牒であり、その入口には同じく符牒で『戒名』と 呼ばれる捜査本部の名称が掲げられている。  講堂入口の前に立ち、墨痕も乾き切っていない ような戒名を暫し眺める。  そこには『警察庁長官狙撃事件特別捜査本部』 とあった。  〈銃撃〉ではなく、はっきりと〈狙撃〉と記され ている。どちらでも違いはないようだが、警察関 係者にとっては微妙な差異がある。  確かに自分も事件について初めて聞いたときは 咄嗟にオウムを思い浮かべた。同じ予断が、この 命名者になかったと言えるだろうか。  不安に似た何かが胸の内に広かっていく。だが 砂田は、その何かを表する言葉を持だなかった。  警視庁に戻った砂田は、先に帰庁したはずの馬 越を搜した。  馬越参事官は神原参事官の執務室で会議の最中 であるとのことだった。  会議が終わるまで廊下で待つ。やがて真っ先に 出てきた馬越は、こちらに気づくと何も言わず目 で付いてくるよう促した。  憤然と歩む馬越の後に続き移動する。  空いている会議室に入ってドアを叩きつけるよ うにして閉め、馬越は砂田を振り返った。  「言いたいことは分かってる。神原さんに加倉井 部長から電話があったらしい。この事案は公安で やるからとな」  「どういうことですか」  馬越は諦観とも虚無とも見える笑みを漏らし、  「神原さんもそう尋ねたそうだ。すると部長は 『総監の決定事項だ』とだけ言って電話を切った」  警視総監の決定−  「刑事部は地下鉄サリン事件の捜査で手一杯だ。 とても余裕はない。そこで公安部に回ってきたと いうのが表向きの建前だ」  建前だと言い切るからには、その裏がある。容 易に想像できる裏が。  それでなくても先の地下鉄サリン事件により、 テロを未然に防ぐべき警備公安警察の面子は呆気 なく潰え去った。さらに自分達のトップである長 官までもが襲撃され、意識不明の状態にある。今 ここで捜査の中心的役割を刑事部に奪われたら、 公安の存在意義は完全に失われてしまう。  しかし、だからと言ってI  「刑事部と公安部では捜査手法が異なります。公 安には刑事捜査に必要なノウ「ウの蓄積がまった くない。これは普通の事案じやないんですよ。本 当に大丈夫なんですか」  「総監がやれと言ってるんだ。やるしかないだろ う」  馬越は懸命に己の怒りを抑えているようだった。  「こうなった以上、最善を尽くすしかない。帳場 の主任捜査官には矢島を推薦した。それが俺にで きる精一杯だ」  「矢島さんを……」  警視庁公安一課の理事官を務める矢島警視は、 外事一課五係馬越班時代の先輩であった。  あの人ならI  砂田は精悍で快活だったかつての先輩を思い浮 かべる。最後に会っだのは、矢島が四谷署警備課 の係長だった頃か。  「だが、俺達にできることは他にもある」  馬越は一際厳しい口調で言った。  「南千の方は矢島に任せて、砂田、おまえはこれ まで通りオウムのロシアルートを探れ。ロシア側、 日本側の双方で利権に群がった連中がいる。そい つらを特定し立証できれば、オウム捜査は大きく 進展する。言わば外事の本分だ。頼んだぞ」  「はい」  我に返って頷いた。  この四月にFSKはFSB(ロシア連邦保安 庁)に改称していたが、しなやかでありながら一 切の光を通さぬ『新品の力上アン』は健在だ。  オウムの闇と分かち難く結びついたロシアの闇。 今はその闇こそが、懐かしく心地好い安寧の地で あるかとさえ思われた。  翌日もアクロシティの現場に顔を出した砂田は、 そこで忙しげに立ち働く矢島の姿を見出し、遠く から目礼した。  矢島もすぐにこちらに気づいた。側にいた制服 警官に何事か指示を残し、大股で歩み寄ってくる。  「しばらくだなあ、砂田」  精力的な態度は昔のままであったが、年齢以上 に老けていた。それは自分も同じであると自覚し ている。警察官であり続けるということは、生命 の根源と言えるようなものを急速に失っていくこ とと同義なのかもしれない。  「おまえの特命については馬越さんから聞いてい る」  周囲に気を配りながら、矢島は声を潜めて言っ た。  「重信房子が帰国するんじやないかって情報が あってな、俺は昨日までそっちの方にかかりきり だったんだ。それがいきなり主任捜査官をやれっ て言われてもさ」  矢島にしては弱気であるように感じられた。歳 のせいもあるかもしれないが、長官狙撃という事 件の重大性を考えればごく真っ当な反応であると も言えた。  「オウムに関しちや、おまえの方が詳しいだろ う」  「まだオウムの犯行と決まったわけじやありませ んよ」  「そうだったな。捜査に予断は禁物だ。肝に銘じ とくよ。でもな……」  矢島はただでさえ暗い表情をさらに曇らせ、  「上はオウムに違いないって息巻いてるぞ。南千 特捜はオウムの線だけ追ってればいい、他の線は 捨てろとまで言ってる」  〈南千特捜〉とは、南千住署に設置された『警察 庁長官狙撃事件特別捜査本部』のことである。  「上って、どっちの上ですか」  「俺達の上に決まってるだろ」  そう言って彼は掌で自分の頭を叩いた。つまり は公安ということだ。  「ジ(刑事部)の連中は全体の地取をちゃんとや るべきだって反発してる」  「でしようね。事件捜査ならやっぱり刑事部です よ」  反射的にそう応じてから、砂田は驚いて聞き返 した。  「やってないんですか、そんな基本的なことも」  相手は苦い顔で頷いた。  「オウムの岐部に似た男が自転車でここから南東 方面に向かったという目撃情報があってな。地取 はそっちに集中させろと指示されてる」  言葉を失う。刑事部が反発するのも当然である。  協力者を獲得し運営する。そして行確(行動確 認)や視察によって情報を集め、犯罪を未然に抑 止する。それが公安部の手法である。また警察内 でエリート視されているだけに、上層部の意向や 命令を絶対視する気風が厳然として存在する。  対して刑事部では、すでに発生した事件を前提 に、敷鑑(人間関係の洗い出し)、地取など役割 を細分化しつつ、昔ほどではないにせよ個々の職 人的技術を重視する。上層部の捜査方針に噛みつ く年季の入っだ反骨の捜査員も多い。  「それでなくても「ムとジをまとめるのは大変 だってのになあ」  すでに矢島は、公安部と刑事部との板挟みに なっているようだった。  悪い兆候だ。公安の人間は、上層部が描いた筋 の通りにしか動けるものではない。現場を担当す る矢島が、上層部の方針に疑問を持ったとしたら、 それは途轍もない葛藤となるだろう。  「しかし、これでロシアルートもおおっぴらに調 べられるようになるでしょう。そちらにつながり そうなネタが出てきたらすぐにお知らせします」  砂田は彼を励ますように力を込めて言った。  「分かってる。こっちからも何か出たら連絡する。 心配するな。俺はできるだけのことをやるつもり だ。なにしろ全警察官の親分が撃たれたんだ。こ こで一つになれないでどうする」  持ち前の豪快さを示してから、矢島はふと思い 出したように、  「そうだ、現場の遺留物については聞いてるか」  「昨日実物を見ましたが……」  アクロシティの現場からは、ある奇妙な遺留物 が発見されていた。  北朝鮮のものと思われるバッジと、韓国の十 ウォン硬貨である。  「神原さんはその情報を警察庁の事務方には上げ てないらしい」  「えっ」  「どうやら単なる攪乱と考えてるようなんだ。日 朝の関係正常化に反対する勢力の犯行と見せかけ るためのな」  長官が狙撃された三十日は、日朝国交正常化を 目指す与党訪朝団の帰国予定日でもあった。  「それは確かにあり得ますが、どうでしようかね。 また公安の秘密主義だって言われかねませんよ」  「ああ。現場がややこしくなるばかりだよ」  矢島がため息をつく。やはり相当な重圧を感じ ているのだ。  「オウムはロシアから武器を買ってたんだってな。 そのビジネスに北朝鮮も噛んでたとしたらどう だ」  「自分もそれを考えてました。現時点ではなんの 証拠もありませんが、その線も追ってみるつもり です」  離れた場所から、私服警官が呼びかけてきた。  「矢島主任官、ちょっと来て下さい」  「分かった、すぐ行く」  大声で応じた矢島は、「じやあ、頑張ってな」 と言い残し、その場を走り去っていった。  先輩こそ頑張って下さいI砂田がそう答える 暇さえ与えずに。  國松長官に撃ち込まれた三発の弾丸は、凄まじ い威力を発揮して長官の肉体を破壊していた。に もかかわらず、長官は一命を取り留めた。奇跡と しか言いようのない生還であった。  その報に胸を撫で下ろしつつ、砂田は与えられ た任務を続行した。  棟こそ違うが、國松長官とゼレーニンは同じア クロシテイに住んでいた。そんな偶然が果たして あり得るのだろうか。  常識的にはまずないと言っていい。  ゼレーニンの住むDポートニ階の部屋の所有者 は渋谷に本社のある消費者金融会社『日徳ファイ ナンス』。賃貸契約を交わしていた名義人は、ゼ レーニンと交友関係にあることが確認されている 財界人の岸辺。彼は社団法人全日本原子力干不ル ギー開発機構の有力委員でもあった。  岸辺は総理府や文部省と関係が深く、迂闊に接 触すると不測の事態を招くことが予想される。砂 田は慎重に捜査を進めることにした。  並行してオウム建設省大臣である早川の捜査状 況について絶えず警察内の情報を集める。  なんと言ってもロシアとの交渉を担当していた 当事者である。狡猾にも早川は地下鉄サリン事件 が実行された時期にはロシアに渡航している。自 己保身のためのアリバイ作りを兼ねていた可能性 も考えられた。  また同様にオウム科学技術省大臣の村井秀夫に も目を配る。サリン製造は村井の指揮下で行なわ れたと見られており、オウムによる犯罪の全貌を 知り得る最重要容疑者の一人でもあった。  四月二十日。午前零時過ぎ、早川はオウム真理 教富士山総本部に踏み込んだ静岡県警によって逮 捕された。容疑は住居侵入罪たった。  早川逮捕からわずか三日後の四月二十三日。午 後八時三十分過ぎ、砂田は公安部の大っている警 視庁庁舎十四階の廊下にいた。そこで幹部との打 ち合わせに来ていた矢島をつかまえ、情報交換を  していると、フロアの方から悲鳴とも思える叫び  声と怒鳴り声が聞こえた。  何事かと駆けつけたところ、入れ違いに数人の 捜査員が二人を押しのけるようにして部屋から飛 び出していった。  「どうしたっ」  矢島が質すと、室内に残っていた何人かが蒼ざ めた顔で振り返った。  「村井が剌されましたっ」  「なんだとI」  身を翻した矢島がどこかへ走り出していく。  ひっきりなしに電話が鳴り続けるフロアに、砂 田は独り立ち尽くし、ぼんやりと想った。  何かが動いたのだ。個人には抗いようもない、 大きな黒い手のような〈何か〉が、真実につなが る細い糸を力任せに引きちぎったのだと。  その囗の午後八時三十五分、山梨県上九一色村 の教団施設から帰京した村井は、東京総本部前で 被疑者である自称右翼団体構成員によって左腕と 右脇腹を剌された。  現場に居合わせたテレビ局のクルーがその瞬間 の映像をテレビカメラで撮影している。周辺には 当然警備の赤坂署員もいた。衆人環視の下での犯 行であった。村井はただちに都立広尾病院に搬送 されたが、出血性ショックによる急性循環不全の ため、四月二十四日午前二時三十三分に死亡した。  普段村井は南青山の総本部に出入りする際には 地下通用口を使用していたが、その夜に限って通 用口はなぜか施錠されていた。外階段を引き返し て一階出入口に向かおうとした状況で剌されたの である。  実行犯の男は、当初右翼団体の構成員であると 称し、犯行の動機を「義憤に駆られて殺ろうと 思った。幹部なら誰でもよかった」と供述してい た。しかしその団体が事実上休眠状態にあること を指摘されると、広域暴力団傘下の暴力団組員で あり、若頭に命じられて犯行に及んだと供述を変 えた。  こうしたことから、マスコミは「オウム自身に よる口封じ」「闇勢力の関与」といった憶測をI 斉に書き立てた。  実行犯は在日韓国人だが元々は朝鮮籍で、昭和 四十三年に韓国籍へ変更していた。中途で転校し ているものの、東京朝鮮第四初中級学校で思想教 育を受けている。二十代前半には朝鮮総連足立区 支部で政治活動をしていたらしい。右翼を標榜し てはいるか、その政治信条は不可解の一語に尽き る。  ささくれだつた魚の骨でも丸呑みしたような 引つ掛かりを感じた。  この線は追うべきだI  砂田はまず男の基礎調査から開始した。もちろ んオウム捜査を担当する他の部署には気取られな いよう注意している。  男は世田谷区上祖師谷の貸家で朝鮮学校時代か らの友人である鈴木という人物と共同生活を送っ ており、住民票までこの家に移していた。  最初にこの家を借りた鈴木は所有者であるコリ アンークラブ経営者の女性の知人であったが、女 性は同居人の存在を把握しておらず、会ったこと もないと供述した。おそらくは鈴木が入居後に連 れてきたのではないかと推測された。  思案ののち、砂田は警視庁外事第二課第六係に 電話を入れた。  「頼みがある。照会事項だ。それも内々に。でき るか」  外事二課六係は主に北朝鮮のスパイについて調 査、情報収集を行なう部署である。 〈分かりました。少しお待ち下さい〉  係長の和泉警部は、何も詮索せず引き受けてく れた。そういうところは以前と少しも変わってい ない。  公衆電話のボックス内でしばらく待つ。  〈お待たせしました。鈴木にはルイがあります。 後見人が朝鮮総連の幹部でした〉  『ルイ』とは諜報機関との接点を意味する公安関 係の隠語で、「係累」「親類」の累もしくは類に由 来するらしいが、必ずしも血縁を指すとは隕らな い。  「やはりそうか……」  〈もっとも、現職じやありませんがね。それより 砂田さん……〉  電話の向こうで和泉が声を潜めるのが分かった。  「なんだ」  〈クラブ経営の女……そっちの方がウチにとって は重大です〉  「どういうことだ」  〈辛光洙の愛人だった女の妹です〉  声も出せずに呻いていた。 『背乗り』。外国人工作員が拉致した囗本人にな りすまし、日本国内で非合法活動を行なうことを 公安ではそう呼んでいる。昭和六十年にソウルで 韓国当局に逮捕された辛光洙こそ、この背乗りに よって日本人拉致を実行したまぎれもない北朝鮮 工作員の一人であった。  アクロシティの現場に落ちていた北朝鮮のバッ ジと韓国のウォン硬貨。あれは単なる攪乱ではな かったのかもしれない。もしそうだとすると、神 原参事官はとんでもない誤りを犯していることに なる。  だがそのことを面と向かって参事官に言える捜 査員など公安部にはいない。この自分を含めて。  受話器を戻してボックスを出た砂田は、悄然と、 また決然と歩き出した。  やるしかないI  オウム。ロシア。北朝鮮。この三つの点を結ぶ 線をつなげたその先に、真実がある。  國松長官の狙撃も、村井の暗殺も、その線上に 位置している。  確証は何もない。だが北朝鮮の関与を示す状況 証拠があまりにも多すぎる。単なる偶然として見 過ごすわけにはいかなかった。  やるしかないI  ゆっくりと歩きながら、砂田はもう一度同じ言 葉を独りごちた。  新橋の居酒屋『棋八郎』に入って周囲を見回し ていると、「宮田ちゃん、こっちこっち」と声が した。  混雑した店内の一隅から、春川と小村が手を 振っていた。  テしフルの合間を縫うようにして近づき、二人 の向かいに腰を下ろす。  「春川さん、先日はありがとうございました」  注文もそこそこに、年長の春川に礼を述べる。 春川も小村もベテランのライターであり、ことに 春川は、〈加藤〉こと逢沢の葬儀に尽力してくれ たのだった。彼は逢沢が加藤という別名を使って いたことを、単なるペンネームだと理解して疑っ てもいなかった。  「いやあ、加藤ちゃん、ほんとに残念だったなあ。 せっかく釣りライターとして認められたところ だったのに、よりによって阪神大震災の日に神戸 で取材中とは、ツイてないにもほどがあるよ」  日本酒の徳利を傾けながら春川がしみじみとい 「宮田ちゃんも寂しいだろう。昔はよく加藤ちゃ んとつるんでたもんな」  「ええ……」  春川も小村も、砂田が逢沢と組んでいた頃を 知っている。彼らのような古参のライターや ジャーナリストは業界でもめっきり減ってしまっ た。  「そうだ、二人とも聞いた? ウワシンで書いて た岡本さん、去年亡くなったんだって」  小村の話に、砂田も春川も「えっ」と驚き、  「いやあ、俺、全然知らなかった。宮田ちゃん は」  「初耳です。ウワシンの岡留さんと合わなくなっ て切られたって話はだいぶ前に聞きましだけど」  「岡本さん、すっかり仕事がなくなっちやって、 雄琴にある知人の店で雑用とかやってたんだって。 何日も顔を出さないから、店の関係者がアパート に様子を見に行ったら……親類とかの連絡先も分 からなくて、店の人と自治体の方で火葬にしたっ て」  「そうかあ、オカモつちやんがねえ……」  春川は感慨深そうに煤けた天井を仰いだ。  「加藤ちゃんといいオカモつちゃんといい、昔の 仲間がいなくなるってのはたまらないねえ」  砂田も小村も頷きながら杯を口に運ぶ。  「宮田ちゃんは賢明だよ。まだ若いうちにこんな 稼業から足を洗ってさ」  「いえ、それがやっぱり……取材中に亡くなった 加藤さんを思うと、居ても立ってもいられなく なって」  嘘ではなかった。決して嘘では。  「それで業界復帰ってわけか。いやあ、重畳重 畳。トップ屋、ルポライター、ジャーナリスト、 呼び名は変われど俺達の雑草魂は不変てわけだ」  「さすが春川さん、いいこと言いますねえ。伊達 にトシはとってない」  「馬鹿野郎、トシはよけいだ」  小村の軽口に春川がむくれてみせ、三人は和や かに酒を酌み交わした。  春川が手洗いに立った隙に、小村がさりげなく 囁いた。  「北とロシアをつなぐ線なら何本か把握してい る」  小村はかつて砂田が逢沢から継承したSであっ た。  「もっともソ連崩壊のどさくさでだいぶ断ち切れ ちまったが、俺の知ってる限り、一本だけ残って る。ただし、それもほとんど切れかけと言ってい い状態だ」  「結構です。教えて下さい」  そう言うと、小村は足許に置いてあったショル ダーバッグから文芸誌『鳰よ’・』を取り出し、  「この雑誌、なかなかいいよ。宮田ちゃんもたま には現代詩を読んだらどう」  「勉強させて頂きます」  札の入った封筒と交換に雑誌を受け取り、すば やく自分の鞄にしまう。  やがて席へ戻ってきた春川を交え歓談を続ける。  三十分後、二人と別れて山手線に乗り込んだ砂 田は、車内で『鳰よ’・』を開いた。中に一枚の紙 片が挟まれている。  そこには走り書きのような文字でこう記されて いた。  【民衆日報 盧仁植 S】  民衆日報は足立区に本社を置く北朝鮮系の新聞 社である。しかし盧という人物は在籍していな かった。一年ほど前に解雇されていたのだ。解雇 の理由は「業務怠慢」。要するにだらしない性格 で遅刻や欠勤が多かったためで、背後に特別な事 情はないらしい。  小村の言った通り、盧は本国からもほとんど見 捨てられた状態にあったようだ。何かの必要が生 じて非合法活動を手伝わせていたのだろうが、役 に立だないので放置しているといったところか。  砂田はさほどの苦労もなく盧の所在を突き止め た。鶯谷の風俗店に勤める彼は、東長崎のア パート『黎明『ウス』で在日朝鮮人の仲間数大と 暮らしていた。老朽物件の六畳間を二、三人で シェアしているから家賃も安く済む。大家も北朝 鮮系の人物だから大概のことには目をつぶってく れるし話も早い。何より最大のメリットは、日本 で生き抜くために必要な情報交換を同胞間で頻繁 に行なえるという点にあった。そこでやり取りさ れる情報の大半はそれこそ生活感にまみれたもの だろうが、中には極めてセンシティブな筋がまぎ れ込んでいることも想像に難くない。  黎明(ウスの全居住者に関する基調データを和 泉から入手した砂田は、そこに筋の先端を見出し た。村井刺殺の実行犯を世田谷の貸家に引き入れ た『鈴木』。その従兄弟に当たる許という男が盧 の隣室に居住していたのである。  この筋は果たしてどこにつながっているのか I  砂田は慮への接触を試みることにした。  仕事帰りを狙って接近する。入念にチェックし た。監視者はいない。  あらゆるものに惓み果てたような様子で歩いて いる慮に、すれ違いざま囁きかける。 「小村から紹介された。話がしたい」  そして掌に隠し持っていた小村のメモをすばや く見せる。  盧は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに 小さく頷いてちょうど目の前にあった牛丼屋に 入った。  店内に他の客はいなかった。カウンターに並ん で座ると、盧は牛丼の大盛りと卵、それに味噌汁 を注文した。砂田はビールとコップニつを頼む。  注文の品はすぐに来た。盧の前に置かれたコッ プにビールを注いでやると、彼は一息で飲み干し た。  「許を知ってるな。あんたの隣に住んでる男だ」  自分のコップにビールを注ぎながら、店員にも 聞き取れない小声で尋ねる。  盧は割り箸に手を伸ばし、動揺した様子もなく 答えた。  「知ってるけど……あいつはあんたらの商売と関 係があるような奴じゃないよ」  下請けの工作員でもないということか。  牛丼を勢いよく頬張っている男の横顔は、嘘を ついているようには見えなかった。  軽い失望を覚えつつビールを口に運んでいると、 盧は空のコップをこちらに押し出しながら言った。  「三号庁舎の指令を受けているのは、一階に住ん でた高って奴だ」  『三号庁舎』とは、朝鮮労働党統一戦線部をはじ めとする党情報機関の総称である。  黙ってビールを注いでやる。  「何か知りたい」  「全部だ。高について知ってること」  「金を取れるほど知ってることはない」  「良心的だな」  「ガセネタを売ると後が怖いだけだ」  「心配するな。もう二度と接触する気はない」  「あんたらに関わりのありそうなネタが一つだけ ある」  味噌汁をじっくりと味わうように啜って、盧は それきり口を閉ざした。  痺れを切らして先を促す。  「続きは」  「あんたが信用できるって保証は」  砂田はカウンターの下から封筒を渡した。  受け取った盧は、封筒の厚みだけで金額が判別 できたらしい。納得した様子でポケットに突っ込 み、  「立派な保証書だ」  「それで」  「重要度は保証しないぞ。まったくの無関係かも しれないし」  「構わない」  「地下鉄サリン事件の翌囗だったかな。俺が夜中 に高の部屋でテレビを見ていたときだった。零時 ちょうどに高に電話がかかってきた。俺はぎよっ として高と顔を見合わせた。電話は三回鳴って切 れた。きっかり四分後、もう一度かかってきた。 深夜零時の電話は『特務連絡網』である可能性が 高い。だからすぐに出てはいけない。三回嗚って 切れたなら、四分間待つ。それでもう一度かかっ てきたら即応答する決まりになっている。そのと きも高は規則通り二回目の電話にはすぐに出た。 俺はもう任務からは外れていたが、立場としては まだ仲間には違いない。だから黙って高が話して いるのを聞いていた。高はもう真っ青になってい て、『まさか』とか『本当にやるのか』とか繰り 返していた。そうだな、『まさか』つてのを三回 は言ってたな。『FSK』つてのも聞こえた。そ れで電話を切ったあと、俺に向かってこう言った。 『俺は今すぐに姿を消す。おまえとももう会うこ とはないだろう』つて。『帰国するのか』つて聞 いたら、『あるいはな』とだけ答えた。俺は『分 かった。元気でな』と言って、自分の部屋に戻っ て寝た。こんなときにあれこれ詮索したら、こっ ちの命が危ないからな。次の囗の朝には、高はも ういなくなってたよ。しみったれだ家具や荷物は そのまんまほったらかしてさ。それも大家がすぐ に処分しちまって、高なんて奴がそこに住んでた 痕跡すらもうどこにも残ってない」  ビールを注ぐ手が震えているのが自分でも分 かった。  「他には。他には何か言ってなかったか」  「言っただろ、それだけだって」 「頼む、どんなことでもいい、思い出してくれ」 「そう言われてもな」 「相手の声は聞こえなかったか」 「聞こえなかった。高が話してる声だけだ」  ビールの残りを飲み干した盧は、何かを思い出 したらしく、「ああ、そうだ」と続けた。  「うん、確か高は『万景峰号』とか『ヨーシフ』 とか言ってたな。万景峰号はともかく、ヨーシ フつてなんのことか分からなかったんで気になっ たんだ。他にも何か言ってたかもしれないが、思 い出せるのはそれで全部だ」  ヨーシフだとIまさか、あのI  脳が、心臓が、凍りついたように動きを止める。  高が繰り返していたという言葉を、砂田もまた 胸の内で繰り返すI『まさか』。  盧がそのまま席を立って去る。  店員が隣の食器を片づけに来た。気がつくと何 人かの客が近くの席に座っている。  砂田は二人分の代金を払い、牛丼屋を後にした。  ヨーシフ。逢沢が神戸まで出向いて捜し当てた 旧KGBの工作員。  生きていた、生きていたのだI  なんということだ。ヨーシフは死んではいな かった。  あの囗、住居であった神戸市長田区のアパート から外出していたのか。それとも、燃え盛る炎を かいくぐって逃げ延びたのか。詳細など知るすべ もないが、KGB工作員ヨーシフは、阪神大震災 のもたらした地獄の中から亡霊の如く甦った。  まさに旧ソ連の亡霊だ。  さまざまなヒースがこんな形でつながろうとは。  厳密に言うと、まだつながってはいない。断ち 切れた線の合間ごとに、いくつかの妖星が蜃気楼 のように漂っているだけだ。  砂田は今こそ理解していた。妖気めいた霧を払 い、すべての点を証拠という線でつなぐ。ヨーシ フこそがその最大の目印なのだと。  「至急会いたい。この事案は明らかに外二の管轄 に引っ掛かってる」  砂田はすぐさま和泉と連絡を取った。今後の捜 査には外二の協力が不可欠となってくる。  〈高がそこまで重要度の高い機関員だとは把握し ていませんでした。外二の一員としてお恥ずかし い限りです〉  電話の向こうで、和泉も驚いているようだった。  「恥じることはない。北朝鮮とロシアだ。この線 は外一と外二にまたがってる。馬越さんの睨んだ 通り、戦後最大の外事事案だ」 〈分かりました。どこで会いましようか〉  「本部はまずい。この段階で俺達の動きを知られ ると、どこから撃たれるか分からんからな。それ こそ國松長官のように」  〈変な冗談はやめて下さいよ〉  「あながち冗談じゃないかもしれないぞ。加倉井 さんや尾ヶ瀬さんの動き一つ取ってみても、警察 内部はどうにもおかしい。万が一にも、南千特捜 で頑張ってる矢島さんの足を引っ張るような結果 になったら本末転倒だ」  〈おっしゃる通りだと思います〉  聡明な和泉は、即座に状況を再認識してくれた。 「明日の午前九時、神田の『エース』はどうだ」  エースは神田駅からも近い老舗の喫茶店で、平 日は朝の七時から営業している。  〈エースですね。了解しました〉  商店街の外れにある公衆電話の受話器を戻し、 残り度数の少なくなったテレホンカードをくたび れたスーツの胸ポケットにしまう。  唐突に強い疲労感を覚えた。ヨーシフの衝撃が それだけ大きかったのだ。  すべては明日だI和泉と外二が動いてくれれ ば、捜査もだいぶ楽になるI  強いて心を奮い立たせ、砂田は東長崎駅へ向 かって歩き出した。  翌日、午前九時十五分。  砂田は先に注文したモーニングセットのトース トをかじりながら和泉を待った。  遅いI  外事の人間は何があろうと絶対に時間を厳守す る。それどころか、指定された時間の三十分前に は到着して周辺をチェックするのが習性になって いる。ことに和泉は、機械の如く誰よりも厳密に 動く男だ。その和泉が約束の時間に遅れるとは。  何かあったなI  嫌な予感がする。そうした悪い予感に限って、 外れることは滅多にない。それどころか、想像し たよりはるかに悪い事態であることが多いのを、 砂田は経験的に知っている。  「お待たせしました」  入店してきた客が砂田に向かって声をかける。 和泉ではなかった。  「どうして……」  どうしておまえが。たったそれだけの言葉さえ 出てこない。  職業上の経験則は、どうやら今回も正しかった らしい。  目の前に立っているのは、警備局警備企画課係 長−圭子だった。  「和泉係長は来ません。代わりに私か伺います」  向かいに座った圭子が、近寄ってきたウエイト レスにコーヒーを注文する。  「どういうことだ」  「説明しろとでも?」  圭子が嘲笑うように聞き返す。  階級は同じ警部でも、圭子はチョダだ。資料の 整理係でしかない自分とは組織における重要度が 違う。そしてその差は、警察では絶対だ。  だがI自分にも意地がある。  「説明がなければこっちにも言うことはない」  「あなたには報告の義務があります」  「あるよ。でもそれはおまえに対してのものじゃ ない」  「それはどうかしら。あなたも公安なら分かって いるはずでしょう」  「分かっているさ。だから言わない」  圭子は呆れたようなため息をつき、  「相変わらすね。だからあなたはI」  「捨てられた。警察にも、おまえにも」  「そんな話をしに来たんじゃないわ」  「このままじゃ、そんな話でもするしかない」  コーヒーが運ばれてきた。圭子の前に置かれた カップからは、淹れたての湯気が立ち上っている。  「和泉係長はあなたより賢明だった。それだけの ことよ」  やはり和泉が裏切ったのかI  「裏切ったとか、そういうふうな発想は考え違い というものよ」  まるでこちらの思考を読まれているかのように 先回りされてしまった。  「彼は状況を正しく分析し、取るべき行動を取っ た」  「強者につくという行動をな。その結果、奴の出 世は一段と早まるというわけだ」  和泉の上昇志向は知っていた。だが、よりに よってこんな局面でI  「説明はしたわ。次はあなたの番よ」  「和泉から聞いてるんなら、もう必要ないだろ う」  「分かりました。では、高の調査についてはこち らが引き継ぎます。ヨーシフについてはこの場で 忘れて下さい」  眼前の圭子を凝視する。別れた元妻の顔を。  「なぜだ。ヨーシフこそがすべてをつなぐ鍵なん だぞ」  「根拠が曖昧です。そんなことに労力を割く余裕 はないわ」  「俺が単独でやってることだ」  「どれだけ非常識なことを言っているのか分かっ てるの。公安は命令通りに動けばいい。情報を集 約し判断するのは上層部であって、個々の捜査員 が勝手に動くなどあってはならない。それくらい I」  「悪いが俺は馬越さんの命令で動いてるんだ」  「あの人には上も手を焼いているわ。こうしてい る間にも、馬越参事官にはなんらかの〈連絡〉が 届いていることでしょう」  なんだってI  「では、これで」  圭子は(ンドバッグから千円札を取り出し、 テーブルの上に置いて立ち上がった。  「待て」  そのまま立ち去ろうとした圭子を呼び止める。  「高の件は分かる。外二の管轄でもあるしな。だ がヨーシフを忘れろとはどういうことだ。奴に触 るとまずい理由でもあるのか」  こちらを憐れむような視線を投げかけ、何も言 わずに圭子は去った。  自分と彼女は、かつて夫婦であったはずだ。だ がそれも、儚い夢であったようにさえ思えてくる。 束の間の甘い夢であり、長すぎる苦い夢だ。  呆然として圭子の座っていた椅子を見つめる。 彼女はコーヒーに手をつけもしなかった。  −トーストくらい食べていったら? コー ヒーもすぐに淹れるわ。  ぼんやりと、そしてはっきりと思い出す。結婚 してどれくらい経った頃だろう。慌ただしく家を 出ようとした自分に、圭子が台所から声をかけて きた。いつもならそのまま出かけるのだが、その ときはダイニングに引き返してトーストを食べ、 コーヒーを飲んだ。  うまかった。香りがよくてほろ苦く、とてもう まいコーヒーだった。  あのとき自分は、圭子に「うまい」と伝えただ ろうか。「こんなうまいコーヒーは初めてだ」と。  何もかもが遅すぎた。妻に対する気遣いの欠如 に気づくのも。壊れつつあった夫婦関係への対処 も。  いや、遅すぎたのではない。自分は何もしてこ なかった。何も見てはいなかった。  その結果がこれだ。妻のことではない。己のこ とだ。みじめな己のありさまだ。  自分との破局が今の圭子に影響しているなどと 言えば、激怒するか、あるいは冷たく嗤うかのど ちらかだろう。  だが今はI  圭子の残していった千円札と伝票をつかんで立 ち上がる。  一刻も早く手を打たねば。  圭子は、チョダは、ヨーシフをどう処理しよう としているのか。馬越参事官にどんな圧力をかけ ようとしているのか。  今度こそ、遅れてはならない。見過ごしてはな らない。あらゆる兆候を。あらゆる危機を。  桜田通りを見下ろす警視庁本部庁舎十四階の執 務室で、馬越参事官は砂田の報告を黙って聞いて いた。  「圧力か」  しばしの沈黙ののち、馬越がいかにも重そうな 口を開いた。  「そうかもしれん。おまえの話を聞いて合点が いったこともあるし、よけいに分からなくなった こともある。派閥など俺の知ったことじゃない。 しかし、これで俺達が動きにくくなったことも確 かだ」  「はい」  砂田としては、ただ頷いているよりない。  馬越は粛然と姿勢を正すようにして告げた。 「今から判明している限りの事実関係を話す。お まえの頭の中にだけ入れておけ」  何についての〈事実関係〉なのか、見当もつか なかった。  「地下鉄サリンの三日後、つまり三月二十三日の ことだ。滋賀県警がオウム信者の車から一枚の光 ディスクを押収した。中身は約四千人分のオウム 機関誌購読者の名前。つまり在家信者のリストだ。 これは俺も知らなかったことだが、察庁が滋賀県 警からリストを受け取っだのが二十四日。その分 析に当たっだのは備局の備企(警備企画課)だっ た」  備局の備企。悪い予感が蛞蝓のように足許から 這い上かってくる。  「その結果、リストに現役警察官の名前が複数含 まれていることが判明した。中でも小松という巡 査長は、本富士署に所属する警察官、それも警備 課の公安だった」  蛞蝓の感触が一瞬にして毒蛇の牙へと変わった。  「備局はオウム信者であると疑われる警察官の所 属する県警に対し、調査を指示した。特に小松巡 査長に関しては備企の理事官から直接尾ヶ瀬に連 絡が行った」  「待って下さい」  聞き返さずにはいられなかった。  「これは警務部の人事が所管すべき問題でしょう。 なのにどうして公安総務課長にI」  途中でくある事〉に気づき、砂田はそれ以上何 も発することができなくなってしまった。  分かっている、と言わんばかりの顔で頷いた馬 越が先を続ける。  「尾ヶ瀬が備企から通報を受けた二十五日は土曜 日だった。だが週明けの二十七日になっても尾ヶ 瀬は何もしなかった。そこで備企の理事官はウチ の神原参事官に連絡した。実を言うと、俺もつい さっき神原さんから聞かされたばかりなんだ。ま あそれは措くとして、神原さんは内々で警務部の 犬坂人事一課長に伝えた」  警視庁内部にオウムの在家信者がいるという情 報は、最後まで正式な人事ルートではなく、非公 式な形で伝達されたということだ。  砂田はいよいよ己の直感が正鵠を射ていたのを 感じ、またそれを恐怖した。  「ともあれ、人一 (人事一課)が小松オウム情報 を把握したのは二十七日。その同じ日に、神原さ んは念のため加倉井部長と面談し、『尾ヶ瀬には 犬坂に連絡するようすでに命じてある』との回答 を得たと言うんだ。にもかかわらず、二十九日に なっても尾ヶ瀬からの連絡はない。犬坂は尾ヶ瀬 に電話し、『明日の三十日、午前中に自分の部屋 へ来い』と命じたそうだ」  そこで馬越は一旦言葉を切って目を閉じた。  三月三十日−まさにその日の午前八時三十一 分、國松長官は狙撃された。  尾ヶ瀬と犬坂の面談予定など粉微塵に吹っ飛ん だことは想像に難くない。  砂田もまた沈黙する。〈ある事〉に思いを馳せ て。  組織上、備企の理事官は一人ということになっ ているが、実は二人いる。警察関係者の多くが 知っている公然の秘密である。組織図に存在しな いもう一人の理事官−『裏』と呼ばれるこの理 事官こそ、チョダを統括する司令塔なのである。  正規のルートではなく、あえて非公式な迂回 ルートを使って公安総務課長に連絡した備企の理 事官。間違いなく彼はチョダの裏理事官であった に違いない。  「本当の問題はここからだ」  馬越が充血した目を見開く。  想像すらできないIこれ以上どんな問題があ るというのか。  「三十一日、小松の視察を開始した人一の監察は、 小松が本富士署にいないことを知った。それどこ ろか、地下鉄サリンの応援のため二十一日から築 地署に行っているという。信じられるか。オウム 信者の公安警察官が、地下鉄サリンの現場で捜査 をやってたんだぞ」  蛇の毒が全身に回っていくのを感じる。自分の 体だけではない。警察組織を構成する細胞の一つ 一つに浸透し、際限なく汚染していく。 「犬坂はすぐに本富士署の署長に電話し、小松を 築地の現場から戻させた。だがもう手遅れだ。こ の事実は消しようがない。必然的にこの件は警察 のトップシークレットになってしまった。それも 長官が狙撃されたという重大事案の真っ最中にだ。 神原さんでさえ、今まで俺にも隠していた。なぜ 今になってと疑問を抱いたが、それはどうやら、 砂田、おまえの動きに関係していたようだな」  「チョダは……小松という警察官の存在を、どう 言ったらいいのか……そう、なかったことにでも したかったんでしょうか」  そうとしか考えられない。またそう考えれば納 得がいく。圭子というチョダが接触してきた理由 が。  「分からん」  馬越はその太い猪首を左右に振って、  「本当に分からんことだらけだ。地下鉄サリン、 長官狙撃と警察の存亡に関わる大事件が起こって いるというのに、警察はまるで事件を解決したく ないようにも思える」  同感ですIそう言いかけて、寸前で口をつぐ む。  言葉にするとあまりに軽く、事態の本質から遠 ざかるような気がしたからだ。  「砂田警部、改めて頼みたい」  厳めしくも険しい馬越の表情に打たれ、反射的 に背筋を伸ばす。  「おまえはどこまでもヨーシフを追ってくれ。チ ョダが釘を剌してきたということは、そこに何か があるということだ。責任は俺が持つ。やってく れるか」  「はい、なんとかやってみます」  我ながら意気の上がらぬ返答であったが、馬越 は満足そうに破顔して、  「責任を持つと言っても、俺ができるのはおまえ が警察から放り出されんようにかばうくらいだ。 昇進や昇給は保証できん」  「充分です」  「もっとも、俺自身が警察から追放されるような 事態だってあり得るかもしれんがな」  「そうなったら、我々で何か商売でも始めましよ うか」  「武士の商法という奴か。すぐに破産というオチ まで見えるようだな」  二人して笑った。久々の笑いであったが、それ はかつてのようなものではなく、どこか自虐的な 虚無を含んだ笑いであった。  五月十五囗、教団諜報省長官で特別指名手配さ れていた井上嘉浩が公務執行妨害の容疑で現行犯 逮捕される。  翌十六囗、山梨県西八代郡上九一色村の教団施 設に潜伏していた教祖麻原彰晃が地下鉄サリン事 件の主犯として逮捕される。  世間では麻原逮捕を事件の大きな節目として捉 えているようだった。  だが、事件捜査はむしろこれからが本番だ。さ まざまな謎は依然として残されている。長官狙撃 事件にしても、オウムの犯行であるとまだ決まっ たわけではない。村井の暗殺を許してしまったの はかえすがえすも痛恨の出来事だった。  警察内部の動きはやはり不透明な部分が多すぎ るが、今やオウム捜査は警察最大の使命となって いる。事態の変化に応じて、砂田の目的も変化し た。  今はともかくヨーシフを追うことだI  ロシアと北朝鮮。そしてヨーシフ。これらをつ なぐ線を解明しなければ、オウムという虚妄の背 後に在る真実を暴くことはできないだろう。また なんとしてもそれをやり遂げねば、亡くなった逢 沢にあの世で合わす顔がない。砂田はそう思い定 めた。  麻原の逮捕からおよそ一か月後の六月十五囗、 一時は生死の境をさまよった國松長官が公務に復 帰した。  大勢のSPに警護されながら笑顔で登庁する長 官の様子を資料課のテレビで観た砂田は、警視庁 を出て南千住署へと赴いた。  当初は講堂に設けられた南千特捜の本部も、事 件の長期化に従い、署の屋上に特設されたプレ( ブに移動していた。  屋上へ上がると、ちょうど捜査本部から顔見知 りの公安捜査員が出てくるところだった。丁寧に 挨拶し、矢島の居場所を尋ねる。  相手が答える前に、矢島の声が聞こえてきた。  「−だから俺がなんとかするって言ってるだろ うっ」  振り返った砂田は、苦笑する相手に目礼し、声 のした方へと向かう。プレ(ブとは言え、れっき とした捜査本部である。設備も相応に揃っている し、造りもしっかりしたものだ。  フロアを見渡すと、数人の捜査員が矢島を取り 囲んでいるのが目に大った。公安ならばあり得な い光景だ。  「納得できません。主任官もしよせん公安じゃな いですか。上にだけいい顔してるようじゃ捜査も 何もあったもんじゃない」  顔を真っ赤にして抗議しているのは刑事部の捜 査員達だろう。  「貴様、言っていいことと悪いことがあるぞ」  それに対し傲然と反論しているのは公安部の連 中だ。こちらの顔ぶれは見知った者が多かった。  「そもそも捜査の主体は公安と決まったんだ。貴 様も警察官なら黙って従え」  「黙ってられないから言ってるんだ。あんたらの やり方はI体なんだ。捜査のイロ「も知らないシ ロウトじやないか」  「貴様’・」  つかみ合いになりかけた双方を矢島が強引に引 き離す。  「いいかげんにしろっ」  文字通りの板挟みになっている矢島の顔色は、 土気色を通り越してさながら土塊と化した木乃伊 のようだった。  割って入るべきか、砂田は迷った。  捜査方針を巡って刑事部と公安部が対立してい るのは一目瞭然だが、あの矢島でさえ抑えられな いとは、想像以上の深刻さであった。  かつてのI自分が馬越班の新人だった頃の阿 久津のように、絶妙な助け船が出せればいいのだ が、仮にも公安部の人間が口を出せば、かえって 刑事部の捜査員達を刺激することになりかねない。  躊躇している間に、矢島の方がこちらに気づい た。  「客が来ている。この件は後でゆっくり話し合お う」  部下達にそう言い残して歩き出した矢島に、誰 かが聞こえよがしに言ったI逃げんで下さいよ、 主任官殿。  そんな侮蔑を背中に受けて、矢島はまっすぐに こちらへと歩いてくる。  「外で話そう」  すれ違いざまに呟き、そのまま出ロヘと向かう。 いつもの豪快さは微塵も残っていなかった。  砂田は無言で後に従う。背後を振り返ると、フ ロアにいる全員がこちらを冷たい目で睨んでいた。  南千住署に近い『喫茶千々松』に入った矢島は、 アイスコーヒーを二人前注文してから冷たいおし ぼりで顔を拭った。  「大丈夫ですか、矢島さん」  砂田の問いに、矢島はしばらく答えなかった。 そんなところも、砂田の知る矢島像からはかけ離 れたものだった。  「『タテガキも知らないクセに』」  疲弊し切った様子で、唐突に矢島が漏らした。  「え、なんですって?」  「ジの連中がそう言ってるそうだ、『『ムはヨコ ガキばかりでタテガキを知らないからこうなるん だ』つてな」  タテガキとは正式な司法警察員面前調書、いわ ゆる供述調書のことで、刑事達は日頃から刑事訴 訟法に基づいたその作成手続きに習熟している。 対して、ヨコガキとは公安捜査員が集めた情報を 上司に上げる報告書を意味する。  南千特捜の刑事達は、公安捜査員を「まともな 調書の書き方さえ知らない素人」であると罵倒し ているのだ。  「もっとも、俺が直接言われたわけじやないが な」  顔の脂で黒ずんだおしぼりを投げ出し、矢島は 虚無的に嗤っだ。  言葉もない砂田に対し、彼は無理に作ったよう な笑顔を向けて、  「恥ずかしいところを見せちまったな」  「いえ……」  「いつもあんな調子でな。もう参ってる」  矢島がそんな弱音を吐くのは、砂田の知る限り 初めてだった。  「ジが頑固なだけなら、ここまで苦労はしない。 「ムの俺にも、連中の方が正しいと思えるからど うしようもない」  彼の苦衷は察するにあまりある。捜一出身であ りながら早い段階で公安畑に移った矢島には、捜 査経験が決定的に不足している。管理職として、 刑事部の刑事達から舐められるという屈辱に耐え ながら現場を回していかねばならないのだ。  それだけではない。公安は狙撃犯の特徴に似た 外見を持つオウム防衛庁長官の岐部哲也を曖昧な 目撃情報のみで立件しようとし、検察に拒否され ていた。  「分かります」  砂田にはそんな凡庸な相槌しか打てなかった。  「分かってねえよ」  にわかに怒りを滲ませた矢島に、ストローの袋 を破こうとしていた砂田は驚いて顔を上げた。  「えっ?」  「南千にはな、岐部をはっきり見たというふうに マル目(目撃者)の調書を書き換えろって言われ た奴だっているんだ。上は何がなんでもオウムが やったってことにしたいらしい」  組織が硬直化すると、下の者は上司に気に入ら れるような報告しか上げなくなる。公安において その傾向が特に顕著であることは否定できない事 実であった。それでも、報告書の改竄を強制され るとは一線を越えている。  「なあ砂田、上は本気で解決する気があるのか? 長官が殺られかけたんだぞ?」  死人のような目付きでこちらを覗き込んでくる。  その視線が耐えられず、砂田はストローをグラ スに突っ込んでアイスコーヒーを口に含んだ。  「すまん、俺としたことが……」  我に返ったように、矢島は自分のグラスを手に 取った。  「そっちには何か進展があったようだな。それで こっちに来たんだろう?」  「ええ、まだ全貌は皆目といったところです が……」  北朝鮮情報機関とFSB、そしてヨーシフー それらについて打ち明けたが、チョダの奇怪な動 きについては伝えなかった。迂闊に話すと、それ でなくても懊悩している矢島をどんなトラブルに 巻き込むことになるか、予測すらできなかったか らだ。  「やはりロシアと北朝鮮か……」  矢島はなんとなく腑に落ちるといった様子で、  「現場の遺留品、覚えてるか。韓国の硬貨と北朝 鮮のバッジだ」  「もちろんです」  「砂田、おまえはどこまでもその線を追ってくれ。 俺は南千を抑えるだけで手一杯だ。おまえが確証 をつかんでくれれば、こっちだって少しはまとも な捜査ができるようになるかもしれん」  矢島の顔には、悲壮としか言いようのない切迫 感が浮かんでいる。  「やってみます」  力強く頷いてみせる。そんな小芝居じみた仕草 を見せねばならぬほどの危機感を覚えていた。  早くしなければ矢島はもう保だないI  砂田は再び神戸へと赴いた。  〈神戸市長田区御蔵通五丁目、神蔵荘四号室。長 身で痩せ型。見た目は三十代半ばくらい。『島原 正』の偽名を使っている〉  逢沢が命と引き換えに伝えてくれた最後の情報 だ。  今は存在しない御蔵通五丁目の安アパートに 『島原正』と名乗る男が住んでいた。その男が ヨーシフだ。  仕事は。交友関係は。年齢は。知っている者は どこかにいないか。  あの大災害から生き残った被災者を訪ねて歩く。 簡単にいくとは思っていなかったが、予想以上に 困難な仕事となった。なにしろ未だ行方不明者は 数知れず、近親者と連絡の取れない被災者も少な くない。  市内の仮設住宅を片端から訪ねて回り、関係す る各自治体の仮庁舎や分室に日参する。十日あま りを神戸で過ごしたが、収穫は皆無であった。  「五丁目の神蔵荘なら知ってるよ」  その老人と出会っだのは、神戸に来て十三囗目 のことだった。御蔵通五丁目に住んでいた老人が いると聞き、西区の仮設住宅を訪れたのだ。  老人の名は富山と言い、同地で雑貨屋を営んで いたという。  「近所のもんは震災でほとんど死んでもうた…… 中には生きとるもんもおるかもしれへんけど、今 頃どこでどうしとるやら……わしの嫁はんは幸せ やったわ、わしより六つも年上の姉さん女房でな あ、一昨年ぽっくりと死によった。あんな地獄を 見んで済んだんやから幸せや。意地汚い婆さん やっだけど、前世でどんな徳を積んどったやら。 けど、一足先に地獄に落ちとるだけやったら笑う わなあ」  繰り言のように老人は続けた。「笑う」と言い ながら、放心したようなその顔は、少しも笑って いなかった。  「震災の朝、わしは水笠通りの方に新しゆうでけ た居酒屋で寝とったんや。夜通し飲みすぎてもて な。それで助かった。えらい揺れやったわ。慌て て家に戻ろうとしたんやけど、あたり一面、火の 海ちゅうやっちや。近づくこともでけんかった」  「それで、神蔵荘のことなんですが……」  気を遣いつつ、いつ終わるとも知れぬ老人の話 を遮るように尋ねると、  「ああ、そやったな。神蔵荘て、わしの店の真ん 前に建っとっだボロアパートや」  「すると、出入りする人の様子なんかも」  「そらもう一日中丸見えやがな」  動悸が高まる。 「もしかして、住民の方をご存じでしたか」 「まあ、知っとるかな」  恬淡と老人は答えた。  「神蔵荘て、わしが婆さんと一緒になった頃にで けたアパートでな、ほんまにボロやってん。大家 のよっちやん、こいつも震災で死んでもうだけど、 このよっちやんかて、金さえあったらはよ解体し たいてよう言うとっだわ。そやからあの頃はもう 三人しか住んでへんかった。よう覚えとるで」  「では、『島原正』という人については。神蔵荘 の住民だった男です」  期待しすぎるなI自らをたしなめつつも訊い てみる。  「島原正? そうか、そんな名前やったんか」  得心したように頷いている富山老人に、  「どういうことです」  「三人の店子のうち、二人はわしの店でよう買い 物してくれとってん。山本ちゅうおっさんとタエ 子ちゅうおばはんや。もう一人の若い男は中に入 りもせんかった。そやから、そいつが島原ゆう名 前やと今初めて知ったちゅうわけや」  なるほどI  「その若い男について他に何か知っていることは ありませんか。ちょっとしたことでもいいんです。 例えば、どんな仕事をしていたかとか」  「そうやなあ……」  老人は遠くを眺めるように背伸びをし、  「無愛想で、なんや影の薄い男やったわ。挨拶一 つしよらへん。近所付き合いもなかったし。なに しろウチで買い物してくれんかったさかい、わし も興味なかったから仕事も何も全然知らんわ」  「来客はどうです? もしくは決まった時間に出 かける習慣があったとか」  「客かい。少なくとも、わしは見たことないな あ」  「外出の時間帯は」  「さあなあ。特に決まってへんかったんちやうか なあ」  なんとか手がかりを得ようと質問の切り口を探 していたとき、なにげない口調で老人が言った。  「外出言うたら、あいつ、よう電話かけに出とっ たで」  「電話?」  「表の通りに公衆電話があってな。わしも店の前 に置いとってんけど、あいつはわしの店のは使わ んくせに、わざわざ表通りまで電話しに行っとっ たんや。わしも何回か見かけたで。そこの電話 ボックスがふさがっとるときだけ、わしの店のを 使とったみたいや。そうや、わしが聞いてへんか、 いちいち確かめたりしとったなあ。こっちは人の 電話なんかに興味ないさかい、知らんふりして背 中向けとっだわ。テレビ観たり、新聞読んだりし てな」  「電話の内容は? どういうことを話していたか、 覚えていませんか」  勢い込んで訊く。  「そんなもん、覚えとるかいな」  「話し方に特徴は。どこかの方言があったとか」  「方言なんか知らへんけど、あいつ、時々韓国語 使とったで。聞かれたら困る話なんやな思だのを 覚えとる」  韓国語をI  「ひよつとしたら朝鮮語やったかもしれん。ほと んど同じようなもんやけど、ちよつとだけ違うん やろ、韓国語と朝鮮語て。その違いまでは分から んけど、死んだわしの連れ合い、韓国人やってん。 それでわしもちよつとはでけるんや、韓国語。そ んなこと、あの男は知らんかったやろなあ。そや、 思い出した。『万景峰』とか『チェビムヨク』と か言うてんのも聞いたわ」  「チェビムヨク?」  「日本語で言うたら、『ツバメ貿易』かなあ。字 で書いたらこうや」  富山老人は手近にあった分譲マンションのチラ シを手に取ってあたりを見回す。すばやくボール ペンを渡すと、チラシの余白部分に「刈川早図「」 と書いてくれた。  「これ、頂いてよろしいですか」  「ああ、ええで。こんなチラシ、なんぼでもある さかい。まったく、仮設住宅におる人間にマン ション売りつけようやて、つくづく世の中はえげ つないもんやなあ」  被災者の境遇に対する慨嘆とも取れる笑みを漏 らし、老人は自らの左腕全体に残る凄惨な火傷の 跡をむずがゆそうに眺めた。  その夜、砂田は独り御蔵地区に赴いた。明日は 帰京の予定である。その前に、震災の爪痕を、逢 沢の没した地を、もう一度だけ見ておきたいと 思ったのだ。  ちぎれ雲が風に流れる暗い夜たった。かつて古 い木造住宅が密集していた上地は、今は見渡す限 り闇に沈んで、ただの無と化している。  人々の営みの声とはほど遠い、ひたすらに虚ろ な風の音が、耳に軋んで悪寒が募る。  ここまで来たかいは充分にあった。  『万景峰』。そして『チェビムヨク』。  ヨーシフにつながる重大な手がかりである。旧 ソ連の工作員は、やはり北朝鮮となんらかの形で 関わっていたのだ。  風が冷たさを増した。そろそろ引き上げようと したとき、一際強い風が吹き、それまで隠れてい た月が顔を覗かせた。  一面の闇に月光が降り注ぎ、空漠とした更地と、 一部に依然として残る焼け跡を浮かび上がらせる。  その中に、砂田は見た。  月の光を映してなびく金色の髪を。  焼け焦げた廃材の陰だ。  反射的に走り出していた。  黄金色の光は積み上げられた廃材の合間を縫う ようにして逃れ去ろうとする。  まさかIあれはI  心臓が痛い。月の銀と地の金とに刺し貫かれた ように。  待てI待ってくれI  懸命に追う。呼びかけようとしても声が出ない。  こぼれ散る金の光は、砂田を嘲笑うかのように 闇を流れ遠のいていく。  風が吹き、月は再び雲に隠れた。  立ち止まり、荒い息をつきながら周囲を見回す。  金色は漆黒に溶け崩れてすでになかった。  幻かIいや違うI  滴り落ちる汗を拭うことさえできず、砂田は被 災地の闇の中に立ち尽くす。  闇に隠れて立っていた金髪の持ち主。  クラーラだった。  あれは夢であったのか。  帰りの新幹線の車中で、脂汗を浮かべて考えた。 何度も、何度も、記憶を反芻するように。  夢ではない。クラーラは生きていた。  そのことを自分は喜んでいるのだろうか。ある いは怖れているのだろうか。  ただそれだけが分からなかった。  確固とした事実は、夜の神戸に旧ソ連の機関員 がいたということである。しかも阪神淡路大震災 の被災地に。  ヨーシフと無関係であるとは考えられない。ま た彼女がいずれかの情報機関と無関係であるとも 想定できない。  なんらかの目的があって彼女はあそこにいた。 自分と同じく、ヨーシフの手がかりを探していた のか。もしくは、ヨーシフを追う自分に何か警告 でも与えようとしたのか。  風が吹いて雲が流れさえしなければ、自分は彼 女が潜んでいることに気づかなかっただろう。だ が、隠れていると見せかけてタイミングを計り、 あえて身を哂すつもりであった可能性も考慮に入 れる必要がある。  新幹線の振動に身を任せ、砂田は静かに目を閉 じる。  月明かりの中に立つクラーラの影。どこまでも 毅然として立っていた。  その姿はまた幻影のように朦朧として、砂田を 際限のない混乱に突き落とすのだった。  帰京した砂田は、一旦自宅に戻ってから、休む 間もなく警視庁庁舎へと赴いた。  公安部のフロアに目当ての男はいた。  「顔を貸せ」  振り向いた相手−外事二課の和泉係長は何も 言わず立ち上がった。  和泉を伴い、カフェレストラン『ほっと』のあ る十七階に向かう。ランチタイムにはまだ間が あったが、すでに多くの職員が利用している。  やむなく同じ階にある武道場に入っだ。幸い誰 も使用していなかった。  奥へと進み、おもむろに振り返る。 「おまえはチョダか」 「違います」  前置きは抜きで問うと、和泉は即座に否定した。 「しかし圭子に報告した」 「当然でしょう」  臆する様子もなく、かつての部下が自分を直視 する。  「そんなに出世がしたいのか。チョダに擦り寄っ てまで」  「そういう発想だから、あなたは弾かれたんです よ」  もはや己を抑えられなかった。和泉の胸倉をつ かみ、力任せに引き寄せる。  「おまえはそれでも警察官か。こんなときに I」  「こんなときだからこそです。スタンドプレイで はなく、チームプレイが公安の鉄則でしょう」  「俺は馬越さんの特命で動いてる。おまえも知っ ているはずだ」  「私はもっと上からの指令に従っているだけで す」  「その上が間違っていたとしたら」  「関係ありません」  胸を衝かれて相手を見つめる。  こいつは本当に和泉なのかI  彼は憐れみに近い笑みさえ浮かべている。  「馬越参事官はよほど信頼できる上司だったよう ですね。しかし、私にとってあなたはそうではな かった。それだけのことです」  相手の体を突き放し。  「否定はしない。間抜けな上司のせいでおまえも 危うく出世コースから外れるところだった。だが な、この事案だけは別だ。長官狙撃を迷宮入りさ せたりしたら、警察全体の致命傷になりかねない。 そうなったら出世もへったくれもないぞ」  和泉の無表情が崩れ、わずかに狼狽の色が覗い た。  「俺も外事の人間だ。おまえの判断に文句をつけ る気はない。だが一つだけ教えてくれ」  ポケットからマンションのチラシを取り出し、 富山老人の書いてくれた(ングルを見せる。  「『チェビムヨク』。あるいは『ツバメ貿易』。何 か知っていることはないか」  (ングルに視線を走らせた和泉は、一瞬躊躇し た後、意を定めたように答えた。  「偵察局(朝鮮人民軍総参謀部偵察局)特殊処の カバーです」  やはりそうかI  さらに詳しく訊こうとしたとき、背後から声が した。  「やあ、こんな所にいたのか」  同時に振り返る。ドアの側に阿久津が立ってい た。  今は警察庁長官官房会計課長のはずだ。会計課 長は総務課長や人事課長と並ぶ長官官房の主要課 長であり、警備企画課長以上の重みを誇る役職で ある。それは取りも直さず、阿久津が警察官僚と して出世レースの有力候補であることを意味して いる。  その阿久津がどうしてI  「所用でこっちに顔を出したら、砂田君が来て るって聞いてね。搜してたんだ」  ゆっくりと近寄ってきた阿久津は、和泉に向か い、険しい表情で告げた。  「君は職務に戻りたまえ」  よけいなことを言うなと咎めるような口調で あったが、タイミングとしては助け船を出したよ うな恰好でもあった。   一礼した和泉は、足早に武道場から出ていった。  「さて、と」  阿久津が大儀そうにこちらへと向き直る。  さすがに老けてはいるか、それでも砂田とは比 較にならぬほど若々しい。年をとって円熟味を増 した二枚目俳優のようだった。  「相変わらず馬鹿なことをしているな、砂田」  いきなり呼び捨てになった。うわべの親しさも 消えている。  「馬鹿なことではありません。捜査です」  阿久津の額に癇筋が浮き上がった。 「それに、会計課長が本件についてI」 「私は忠告をしてやってるんだぞ、貴様のために なっ」  ついに怒鳴りつけてきた。  「まったく、女房に愛想を尽かされるわけだ。い まだに警察にいられるのが不思議なくらいだ。少 しは眉墨君を見習いたまえ。彼女は察するという ことができる。それに比べて、なんだ貴様は」  心を抉られるような侮辱であった。それでも 黙って耐えるよりない。  若い頃には見られなかった阿久津の傲慢さだっ た。当時は温厚な笑顔の下にその本性を隠してい たのか。それとも、キャリアとして警察で過ごし た年月が彼を変貌させたのか。  「眉墨君は本当に優秀だよ。女らしく細やかに気 がつくだけじゃなくて、変に出しやばったりしな いからな」  阿久津が言葉を重ねる。「女らしく」という部 分に微かな引っ掛かりを覚えた。砂田の記憶する 限り、これまで阿久津がそういう言い方をしたこ とはなかったはずだ。  「いいか、これ以上全体の和を乱すようなことが あったら、今度こそ警察から放り出してやるから そう思え」  「申しわけありませんでした」  深々と頭を下げてみせる。  ふん、と分かりやすく鼻を鳴らして阿久津は 去った。  低頭した姿勢のまま、目だけを上げてその後ろ 姿を眺める。  −これをなんとかしようと思ったら、少しず つでも僕らが力をつけていくしかない。またそう しなければ、近い将来、警察は取り返しのつかな い道を歩むことになる。  そう言ったのはどこの誰だと罵ってやりたい。 あんたの言った通り、警察は取り返しのつかない 道に踏み込んだぞと。  その衝動を抑えることができたのは、理性でも 分別でもない、ただ厭わしいだけの諦念ゆえだっ た。  阿久津の出現は予想外だったが、収穫はあった。  会計課長さえも、警察内部の異常な動きを知り つつ黙認しているか、もしくはそれに荷担してい るということだ。  その足で馬越参事官の執務室へ直行した。  在室していた馬越に、神戸行きの成果と、たっ た今体験したことについて報告する。  「クラ圭フがどの機関に属しているのか、現時点 では知る由もありませんが、いずれにしてもヨー シフが長官狙撃に関わっていることは間違いあり ません。いや……」  まだ言うべきではない、ただの推論だ、しかし I  「自分はヨーシフこそが実行犯ではないかと考え ます。『長身で痩せ型、三十代半ばくらい』。ヨー シフを確認した逢沢さんは最後の電話で確かにそ う言っていました。アクロシティの現場から逃走 した男の特徴と一致します。犯人は大型拳銃によ る狙撃を成功させられるほどの訓練を受けた真の プロです。オウム信者がいくら射撃訓練を積んで いたとしても、そこまでのレベルに到達できるも のではありません。しかしヨーシフならば」  たまらず口にしてしまった。阿久津の下劣な恫 喝が腹に据えかねたせいかもしれない。  「実はさっきまで矢島が来てたんだ」  黙って聞いていた馬越が唐突に口を開いた。  「矢島さんが?」  「だいぶ参ってるようだったな。散々文句を言わ れたよ。ビデオテープの件だ」  「なんですか、それは」  「國松長官の自宅前には、平成五年の十月から監 視カメラが設置されていた。『画像警戒伝送シス テム』とかいう代物で、センサーが不審者を感知 するとNTT回線を通じて南千に連絡が行き、手 動で録画することもできるそうだ。南千の警備課 が設置した」  そんな情報は聞いていない。まったくの初耳で あった。  「南千特捜がその存在を知ったのが五月下旬。調 べてみると、長官が撃たれる二十日前、三月十日 の夜にシステムが作動していたことが分かった。 そのときは署員が急行したが不審者は発見できな かったという」  「待って下さい、五月下旬ということは……事件 発生は三月ですから、二か月も放置されてたって ことですか」  「そうだ」  「当該時刻の録画は」  「されていない。それどころか、レコーダーに 人っていたはずのテープも廃棄されたとかで消え ていた」  あまりに荒唐無稽でありすぎて、お伽噺でも聞 かされているような気がしてきた。  「警備課の言い分はこうだ。『カメラを設置した 後、担当者が異動になったので録画機能について 知っている者はいなかった』」  「テープを廃棄したのは」  「『テープが機械に巻き込まれてもう使えないと 思ったから』だとさ」  そんな子供の言いわけにもならない戯言が通る ものなのか。  「矢島が三月分のNTT回線使用料を確認したと ころ、他の月の二倍に跳ね上がっていたことが判 明した。三月にはそれだけカメラが何度も不審者 を検知してたってことだ」  「現場付近の防犯カメラは残らず調べられたと聞 いています。なのに最優先でチェックされるべき 警察のカメラが……とても信じられません」  「俺もだよ」  馬越は嗤っだ。だがそれは何に対しての嗤いで あっだろうか。  「警察は何か隠してるんじやないかI矢島はそ れを訊きに来たんだ。だが誓って言うが、俺も知 らなかった。近頃は現場で警察内部の陰謀論まで 噂されてるらしいが、矢島もすっかリノイローゼ 気味だ」  「ノイローゼで済めばいいでしょう。しかしこの 件は」  馬越がデスクに肘をついて大きな顔を突き出し てくる。  「おまえの話を聞いて合点がいった。そうか。会 計課長まで出てきたか。チョダとその周辺−い や、もっと上の方かIそいつらは何か知ってい る。知っていて隠そうとしている。どうやら俺達 はかなリヤバい橋を渡っているようだぞ。一歩間 違えたら真っ逆さまだ。俺もおまえも」  「そのようですね」  「どうする、退くか」  「言うまでもないでしょう」  「俺はいい。来年には退官だ。しかしおまえは」  「そのときはそのときということで。外事以外、 他になんの特技もありませんので、自分から辞め るつもりはありませんが」  馬越はデスクの引き出しを開け、涼やかな葛饅 頭を取り出した。  「食え」  砂田はツバメ貿易について調査を開始した。  外二の応援は望むべくもない。それどころか、 妨害される可能性の方が大きい。最悪の場合、拘 束される危険すらある。  だとしてもやるしかない。逢沢が、富山老人が、 せっかく与えてくれた手がかりなのだ。  表向きはプラスチック製品の輸出入を営むツバ メ貿易は、江東区亀戸の雑居ビルニ階に事務所を 構えていた。京葉道路と旧千葉街道に挟まれた地 域である。  その斜向かいにある単身者用のワンルームマン ションを借り、出入りする者を監視する。  三階にあるその部屋のベランダからは、外廊下 に面したツバメ貿易のドアがかろうじて視認でき た。  ツバメ貿易の代表は通名を山田政『本名崔巳 文。国籍は韓国。社員は五名から十名だが、入れ 替わりが激しく、全容は不明である。  和泉の教えてくれた通り、朝鮮人民軍総参謀部 偵察局のカバーであることに疑いの余地はない。 外二なら彼らのデータをかなりの程度把握してい るだろうが、外一でもっぱらロシアの機関員を相 手にしてきた砂田には専門外であるとしか言いよ うはない。  日中の監視拠点をワンルームの部屋に置いたま ま、砂田は対象を崔一人に絞ることにした。  午後八時二十六分、ツバメ貿易を出た崔は、い つものように亀戸駅の方へと歩き出した。新小岩 に住んでいる崔は、通勤に総武本線を使っている。  砂田はすぐにマンションを出た。追尾はしない。 単身での定期的な追尾は発見してくれと頼んでい るようなものである。しかも相手は北朝鮮情報機 関の一員だ。  タクシーを使って崔の自宅周辺に先回りし、事 務所同様に監視するのが精一杯であった。  崔とは正反対の方向に向かい旧千葉街道に出た 砂田は、例によってタクシーを拾おうと左右を見 た。  そのときに気づいたI尾行されている。  自分が監視していることなど、とっくに察知さ れていたのだ。  両手をコートのポケットに突っ込み、車道に 沿って歩き出す。  尾行者は依然としてついてくる。若い男だ。  なにげない素振りで五〇メートルほど歩く。そ の間に何台ものタクシーをやり過ごしてから、道 路へ飛び出すようにして来合わせたタクシーを止 め、急いで乗り込む。  「新宿まで」  「危ないですよ、お客さん」  迷惑そうに言いながら車を出す運転手に構わず、 車内から後方を振り返る。  尾行者が悔しそうにこちらを睨んでいる。  その顔を見て、砂田は愕然とした。  アジア人ではなかった。白人であった。  ありふれたジャケットを着ていたが、肩から襟 にかけてのラインがあからさまに古く、どうにも 野暮ったいのがほんの一瞬で見て取れた。CIA などアメリカの機関員ならもっと自然で垢抜けた 恰好をしている。明らかにロシア人だ。  FSBか、それともSVRか。そこまでは分か らない。しかし、ツバメ貿易の監視を始めた途端、 ロシアの尾行がついた。  間違いない。ロシアと北朝鮮はつなかっている。  今になって冷たい汗が噴き出してきた。動き方 を誤れば、自分など簡単に消されてしまう。  (ンカチを取り出して汗を拭っていると、タク シーの運転手が気怠げに訊いてきた。  「エアコン、入れましようか。今夜は冷えると 思ったんですけど」  タクシーを三回も乗り換えて帰宅した砂田は、 束ねた新聞紙の合間に隠してあるノートを取り出 して、これまでの捜査方針を点検する。  自らの手による記入事項を追っていた視線が、 ある文言で止まったI『日徳ファイナンス』。  アレクセイーゼレーニンの居住するアクロシ ティDポートニ階の部屋を所有する消費者金融の 会社である。  これだI  翌日、亀戸のワンルームマンションを解約した 砂田は、ツバメ貿易の監視業務から一切の手を引 いた。尾行がついた以上、ツバメ貿易に近づくの は危険であった。  代わりに持てるノウ(ウを駆使して囗徳ファイ ナンス関係者を洗い直す。北朝鮮、ことにツバメ 貿易との接点を持ち得る人物をチェックしていく。  やがて対象者が何人かに絞られた。交友関係を 中心に彼らの身辺をさらに洗う。  その結果、『黄金松地所』なる会社に出入りす る大畑という人物が浮上した。ツバメ貿易代表の 崔とも親交がある。  黄金松地所の登記簿を調べると、監査役として 岸辺の名前が記されていた。ゼレーニンがアクロ シテイの二階に部屋を借りる際の名義人となった 人物である。  砂田は行動確認の対象を大畑に絞ることにした。  大畑の住所は世田谷区代田の比較的小ぎれいな マンションであった。三十八歳。独身。一応は囗 徳ファイナンスの社員だが、黄金松地所の他にも、 暴力団のフロント企業に出入りしている。明らか に堅気ではないが、さりとてクロと言えるほどで もない。せいぜいがグレーの不良社員だ。北朝鮮 の機関員である鈴木や高らとのつながりは今のと ころ見出せない。  その間に年が変わり、平成八年になった。  単独での監視にはどうしても限界が生じる。大 畑はそのわずかな隙を衝いて囗徳ファイナンスを 辞め、マンションも引き払っていた。  驚いてマンションの管理人室を訪ねた。  「転居先? さあ、聞いてませんねえ」  午前中だけのパートタイムだという管理人の中 年女性は、砂田を胡散臭そうに眺めながら答えた。  「なにしろ突然だったもんですから。退去の通告 は一か月前までってのが普通なんですけど、違約 金はちゃんと払ってくれたしねえ。無愛想で、あ んまり話もしませんでしたよ。そうそう、荷物は 全部残してって、金は出すからそっちで勝手に処 分してくれって。迷惑な話ですよ、まったく…… え、その荷物ですか? そんなの、すぐに捨てま したよ、全部。まあ、ろくに家具もなくて布団と ゴミだけでしたけどね」  大畑に身寄りがないことはすでに判明している。 次に砂田は、大畑が時折通っていたスナックを訪 ねた。路地裏に入口のある、うらぶれた店だった。  「大畑さん? ああ、いつも一人で飲んでたね」  おそらくは六十過ぎのマスターが開店の準備を しながら応対してくれた。  行確開始後に大畑がその店に行くときはいつも 一人であった。店内が狭いことは分かっていたの で、砂田は中へ入らないようにしていたのだ。  「特に親しい人とかはいませんでしたか。常連の お客さんとか」  「いや、むしろ常連とは話さないようにしてたみ たいだなあ。どの店にもいるんですよ、ああいう 一人で飲むのが好きってお客さん」  礼を言って引き上げようとしたとき、テーブル を拭いていたマスターが「ああ、そうだ」と顔を 上げた。  「いっとき、友達を連れてきてたことがありまし たね。いや、友達って感じじゃなかったな。仕事 仲間ってふうでもなかったし、なんだろうな、二 人とも暗い顔でぼそぼそと……ま、いいや、三、 四回くらいでしたかね、いつもおんなじ人でし た」  「それはいつ頃の話ですか」  「え? いつだったかなあ……」  しばし考え込んでから、マスターは明快に答え た。  「そうだ、去年の二月か三貝頃です。ええ、そう です、阪神大震災のちょい後だったから」  「その男の特徴を覚えてますか。どんな些細なこ とでも構いませんから」  「さあ、そこまでは……あんまり目立だない人 だつたから。気配がないっていうか、目立だない のが特徴つていうか……」  「でも、暗い顔をしてたのは覚えてるんでしよ う?」  「いや、ちよつと待つてよ」  マスターは腕組みをして懸命に思い出そうとし ている。  「暗い顔してたのは大畑さんだけだつたな。連れ の方は暗くも明るくもなくて、なんか表情がな いって感じでした」  「体型はどうです? 年齢は?」  「歳は大畑さんとおんなじくらいだったけど、痩 せてて、大畑さんより背が高かったかな」  大畑は三十八歳で、身長は一七〇センチ以上は あった。  砂田は直感したIヨーシフだ。  「ワタナベさんのこと?」  突然しゃがれ声がして、砂田は開けっ放しに なっていた入口の方を振り返った。  買い物帰りらしく、スーパーのレジ袋を提げた 夫人が入ってきた。マスターと二人で店を切り盛 りしている老女だ。  「ご存じなんですか」  勢い込んで訊くと、酒のせいだろう、塩辛いカ ラカラ声で答えてくれた。  「あたしがグラスを下げに行ったとき、大畑さん が連れの男に言ってるのが聞こえたの、『なあ、 ワタナベ』つて。大畑さんが誰かと来るのは珍し かったから、よく覚えてんのよ、あたし」 〈ワタナベ〉−それがヨーシフの今の名か。  いや、今も同じであるとは隕らないが、少なく とも犯行直前まではそう名乗っていたのだ。  警視庁庁舎に戻った砂田は、馬越に報告すべく エレベーターに乗り込んだ。他に人はいない。ド アが閉じる寸前、男が隙間をこじ開けるようにし て滑り込んできた。  「青野……」  驚いて声を上げる。  愛知県警の警備課を経て、今は警視庁公安部総 務課の係長心得を務めているはずだ。  「話があります。付き合って下さい」  二階のボタンを押しながら、こちらの質問を遮 るように青野は早口で言った。  尋常な様子ではない。砂田は無言で頷いた。  すぐに開いたドアから、青野が先に立って降り る。向かった先は警察参考室だった。  見学コースに含まれていて、警視庁創設以来の さまざまな資料が展示されている。  ちょうど見学に来ていた小学生の一団が女性職 員の案内で中に入るところであった。青野と砂田 もその後に続いて入室する。  「妙な噂を聞きました」  立ち騒ぐ子供達の列を眺めながら、青野が囁く ように言う。  「いや、妙と言うよりとんでもない話です。公安 にオウム信者がいたって話、ご存じですよね」  「ああ、小松って巡査長だろ。だいぶ前に聞いた。 酷い話だが、人事がとっくに処分したはずだ」  「それが、まだ処分してないとしたらどうです」  「どういうことだ」  「巡査長のままたってことです」  「だからどういうことなんだ、それは」  「公安一課が小松を軟禁して聴取してるそうで す」  「軟禁?」  意味が分からない。  「オウムの井上嘉浩が、長官狙撃の実行犯が小松 だと示唆するような供述をしたらしいんです。そ れで捜査員が小松と一緒に都内のビジネスホテル に泊まり込んで、ずっと聴取を続けてるとか」  「まさか」  相手の顔を凝然として見る。  いかに秘匿を第二の天性とする公安であっても、 常軌を逸したあり得ない暴挙である。  「証拠でも出たのか」  「出てたら南千特捜でやってますよ」  「いつからだ」  「今年の四月からのようです」  現在は九月三十日。もう半年近くも軟禁してい ることになる。  目の前を行き交う子供達の歓声が、急速に遠の いていくようだった。  「任意なのか。本当に小松は聴取に同意してるの か」  「分かりません」  同じ警察官とは言え、証拠もなしに行動の自由 を長期間束縛することは法的に問題があるだけで なく、人権にも抵触してくる。  「自供は」  「とにかく一切が曖昧で、撃ったような気がする とかしないとか、そんなことの繰り返しらしいで す」  「なんだそれは。まるでシロウトじやないか」  あまりのことに声を荒らげてしまった。  案内役の女性職員が不審そうにこちらを見る。  「完全秘匿の案件ですから、内部でも知らない人 がほとんどです。南千どころか、察庁にも報告し てません」  察庁に報告してないだとI  児童が笑っている。男の子も。女の子も。ゆっ くりと、大きく口を開けて、声を立てずに嘲笑し ている。  「砂田さんは馬越参事官の特命で動いてると聞き ました」  「そうだ」  「このまま放置すれば警察は取り返しのつかない ことに……」 「それで俺に話したのか」 「はい。信用できる人は他にいません」  嬉しいことを言ってくれるI  「みんな知らないふりをしてますから……でも砂 田さんなら……」  「できるだけのことはする。だがその話が事実な ら、決定したのは雲の上である可能性が高い。そ うなると俺なんかにはもう……」  「構いません」  それまで強張った表情を見せていた青野が、 ほっと息をつくように俯いた。  一人で抱えるにはあまりに重すぎる秘密である。 彼にとっては、誰かに伝えるだけでよかったのだ ろう。  児童達が入ってきたときと同じく列を作って退 室していく。  後には墓場のような静寂が残された。大久保利 通暗殺時の凶器をはじめとする展示品は、警察の 栄光よりも暗黒を示しているようにさえ思われる。  俯いたままでいる青野の肩を叩き、砂田は無言 で歩き出した。  馬越参事官の執務室へと向かいながら考える。  こんなことが果たしてあり得るだろうか。南千 特捜が懸命になって狙撃犯を追っているというさ なかに、公安がマル被を軟禁しているなど。しか もマル被は現職の警察官だ。  まず第一に、裏を取らねばならない。このすべ てが夢ではなく、現実だということの裏付けを。  それこそ悪夢にうなされているような思いで馬 越参事官の執務室をノックする。  執務中たった馬越は、ペンを置いて砂田の話に じっと耳を傾けていたが、聞き終えるや否や、椅 子を蹴倒すような勢いで立ち上がった。  「神原さんのところへ行ってくる。おまえはここ で待て」  足音荒く部屋を出ていった。  ソファに座ったまま、砂田はじっと参事官の帰 りを待ち続けた。  青野はおそらく、総務での仕事を通してその噂 を察知したのだろう。馬越には青野の名は伏せた が、危険を冒して自分に話してくれた彼の立場も 懸念される。   一時間あまりが過ぎた頃、ようやく馬越が戻っ てきた。  出ていったときの勢いとは対照的に、憔悴し 切ったような、それでいてどこか呆けたような表 情だった。  「さっきの話は本当だ。神原さんが認めた」  「神原参事官は知っていて黙っていたということ ですか」  「そうだ」  覚悟はしていた。しかし、理性と常識がどこか でその覚悟を嗤っていた。そんな馬鹿なことがあ るはずはないと。  理性と常識。結局、その二つは警察にはなかっ た。  馬越は崩れ落ちるようにソファに腰を落とし、  「俺も外されてたんだ、〈御前会議〉からな」  「御前会議?」  「これは総監がお決めになったことだそうだ」  総監がI  雲上人の合議だろうとは予想していた。しかし、 その頂点に立つ人の決定であったとは。  「最上級の箝口令が敷かれている。俺もおまえも 例外ではない。誰かは知らんが、おまえの情報源 にも念を押しておけ」  気力を振り絞って、問うた。  「すると、チョダは」  「分からん。しかし連中ならどこから情報を得て いてもおかしくはない。それどころか隠蔽を放置 してるんだ。警視庁の思惑とは無関係にな」  圭子−本当にいいのか、おまえはそれでI  「小松の聴取は公安一課が担当している。南千特 捜からも一課の係長が密かに参加しているそう だ」  ソファにもたれて天井を仰いだ馬越は、心を固 めたように言った。  「俺が外されていたのは、おまえに独自捜査を命 じていることを嫌う連中がいるせいだ。危険分子 だとでも思ってやがるんだろう。今に始まったこ とじやない。はっきりと警告されたこともあった しな」  圭子の言っていた〈連絡〉、すなわち圧力とは それか。  「つまりだ、俺達もまた口を閉ざして傍観するし かないってこった」  憤然として半身を乗り出す。 「早合点するな」  天井を仰いだまま馬越が続ける。 「どのみち小松なんて野郎は俺達には関係ない。 砂田、おまえは知らん顔してヨーシフを追って りやいい。それが当たりなら俺達の勝ちだ」  違います、とは言えなかった。この捜査にはも う勝ちも負けもないのだとは。  もはやチョダの圧力やロシアによる監視など気 にしている場合ではない。砂田はそう肚を決めた。  かつて親友をKGBに殺された伴の顔が脳裏を よぎる。業務中に〈失踪〉したり〈事故〉に遭っ たりする者は、公安では決して珍しくない。  構うものかIもとより自分には失うものなど 何もないのだ。  十月二十四日。本来の職場である四課のデスク で、砂田はこれまでの捜査資料を再点検し、報告 書を作成した。一人きりの残業である。静謐その ものといった深夜のフロアは、錯綜する考えをま とめるには最適だった。  犯行に使用されたのはコルト社製パイソン型の 長銃身拳銃。弾丸は殺傷力を高めた357マグナ ムのホローポイント弾で、未確認だがかなり特殊 なタイプであるらしい。たとえ現職の警察官で あっても、二〇・九ニメートルも離れた距離から 移動中の標的に四発中三発も命中させられるもの かどうか。しかも大口径の拳銃で。どう考えても 無理だ。  軟禁されている小松巡査長が射撃に関して特に 優れていたという記録はどこを探しても残ってい ない。  実行犯はやはリョーシフだI  ペンを置き、大きく伸びをしてシチズンの腕時 計を見る。午前一時二十分。日付はすでに変わっ て二十五日になっている。  自販機で飲み物でも買うかI  立ち上がって廊下に出る。ゆっくりと肩を回し ながら歩き、自販機に硬貨を投入する。コーヒー も甘い物も飲み飽きた。グレープフルーツジュー スを選んでボタンを押す。  ゴトリと落下してきた缶を取り出していると、 背後から時ならぬ足音が聞こえてきた。驚いて振 り返る。階段の方だ。   急いで様子を見に行くと、大勢の男達が血相を 変えて階段を駆け上がっていくところだった。  警察官ではない。記者クラブに属するマスコミ 各社の記者達だ。宿直勤務で九階の記者クラブに 詰めていたのだろう。  「おい、一体何事だ」  缶ジュースを手にしたまま大声で質す。答える 者はなかったが、誰かが叫ぶ声が聞こえたI  「加倉井さんはまだ部長室だ’・ 急げ’・」  なんのことか分からない。記者達の後を追って 階段を上る。  エレベーターも待てなかったのか、記者達は十 四階まで一気に駆け上がり、公安部の部長室へ殺 到した。  「共同の配信記事は本当ですか’・」「事実なんで すか、部長’・」「あの告発文は本当だったんです ね’・」「もう共同が配信してるんですよ’・」  告発文? なんのことだ?  どうやら共同通信が何かのスクープ記事を配信 したらしい。今ならまだ朝刊に間に合うと、記者 クラブの男達がたまたま居残っていた加倉井部長 のもとへ押しかけたのだ。  殺気立った記者達の背後に立って、懸命に耳を 澄ます。  怒声と言った方がふさわしい質疑の声にかき消 され、加倉井部長の応答は聞こえない。  またドア周辺をふさぐ記者達の背中に隠されて、 外からは部長の姿どころか室内の様子さえも見え なかった。  周囲を見回すと、困惑したような、あるいは放 心したような、曖昧な表情を浮かべた警察官達が 何人も立っていた。  彼らに事の詳細を聞こうとしたとき、決定的な 質問が耳に入った。  「『公安部は國松長官狙撃の容疑者である警察官 を拘束、長期間にわたって聴取を続けている』、 それで間違いありませんね?」  不意打ちと呼ぶには重すぎる衝撃に、砂田は背 後を振り返った。  公安部長室の入口はあまりに遠く、夢魔の手で 握り潰されたかのように歪んで見えた。   國松警察庁長官狙撃の犯人は警  視庁警察官(オーム信者)。  既に某施設に長期間監禁して取り  調べた結果、犯行を自供している。  しかし、警視庁と警察庁最高幹部  の命令により捜査は凍結され、隠  蔽されている。警察官は犯罪を捜  査し、真実を糾明すべきもの。  それが、十月十四日に警視庁記者クラブ加盟の マスコミ全社に匿名で郵送されてきた〈告発文〉 の全文であった。ワープロ打ちで、『オウム』を 『オーム』と記している部分や、改行箇所等も原 文のママであるという。  だがその告発を、毎日新聞と共同通信を除くほ とんどのマスコミは相手にしなかった。荒唐無稽 としか言いようのない内容に、よくあるイタズラ だと思い込んだらしい。  マスコミの無反応ぶりに業を煮やしたのか、十 日後の二十四日、二通目の告発文が前回と同じマ スコミ各社をはじめ、東京地検検事、警察幹部、 一般警察官ら宛てに郵送されてきた。  最初に反応した毎日と共同の動きを知り、各社 も雪崩を打って追随した。  一回目の告発文は封書であったが、二回目は葉 書であった。同じワープロで、前回の数倍もの文 章がびっしりと印字されている。そこには、警察 関係者しか知り得ない情報がいくつも盛り込まれ ていた。明らかな内部告発である。  [心あるマスコミと警察庁、警視庁、検察庁の幹 部の皆様の勇気と正義が最後の拠り所です。匿名 をお許しください】  最後の二行にはそう記されていた。  最初の告発文を手に取材を進めていた毎日と共 同に対し、加倉井部長は当初「そんな事実は絶対 にない」と頑なに言い張っていたという。しかし 二回目の告発文を突きつけられ、ついに言い逃れ さえできなくなったのだ。  警視庁の威信は地に墜ちて、二度と拭えぬ汚泥 にまみれた。  事の次第を知った砂田は、馬越と二人、感情を 持たぬ案山子のように立ち尽くすよりなかった。  二十五日の各紙朝刊では、唯一特オチした読売 新聞を除き、一面でこの件が報じられている。  その日、登庁してきたすべての警察官は、憤怒 と恥辱で一様に虚脱状態を呈していた。大半の公 安部員もまた例外ではなかった。  虚脱や放心ならまだいい方だ。意味不明の罵声 を上げながら机や壁を蹴り飛ばしている者もいれ ば、床にうずくまって嗚咽している者もいる。  当然だろう。  自分達が人生を捧げた「警察」とはこんな場所 であったのか。「現実」はここまで腐ったもので あったのか。誰しもが気づいてはいても、決して 口にしなかった事実を、最悪且つ決定的な形で突 きつけられたのだ。  「今頃、矢島は……」  呻くように馬越が漏らした。  警視庁でもこのありさまである。長官狙撃の捜 査を担当していた南千特捜では、捜査員達の怒り が公安側の主任官である矢島に向けられているに 違いない。その非難と追及の苛烈さは想像するだ に寒気がする。  なにしろ彼らは、すでに容疑者が拘束され、自 供までしているという事実を知らされず、連日身 を粉にして捜査に従事してきたのだ。それも公安 の理不尽な命令に従って。  警察組織が自分達を欺いていたと知った彼らは、 心底から激怒するだろう。そして公安を死ぬまで 恨み続けるだろう。  自分なら耐えられない、きっとI矢島さん I  「上は告発者の追及はしないと公表するつもりら しい」  馬越は嫌悪と自虐の入り混じる苦い面持ちで 言った。  「もちろん大嘘もいいところだ。俺の把握してい る範囲でも、すでに差出人の特定に動いている。 『裏切り者は誰だ』つてな」  裏切り者? それは誰に対する裏切りなのか。  警察が全力を挙げて搜索すべきは狙撃犯であっ て、内部告発者ではないはずだ。この期に及んで 唾棄すべき本末転倒ぶりと言えた。  だが、砂田もさすがに内部告発者の正体につい ての興味を抑えることはできなかった。  第二の告発文の中で、差出人はこうも述べてい るI[組織を守るためとして、この事件を迷宮 入りさせ法の裁きを受けさせなくするため被疑者 の口を封じようとする有資格者の動きは恐ろしく これを見逃すことは著しく正義に反すると思いま す】  有資格者。キャリアのことだ。するとこの文章 を綴った人間はノンキャリアか。  読めば読むほど、小松の軟禁と聴取を知ってし まった現場捜査員の誰かが、義憤に駆られて内部 告発に走ったとしか思えない。  「なあ砂田、おまえはどう思う」  馬越の唐突な質問に、砂田は力なく顔を上げた。  「何をですか」  我ながら間抜けな声で聞き返す。  「告発者の正体さ」  それは現場のIと言いかけて、後の言葉を呑 み込んだ。  自分を見つめる馬越の、熱を帯びたような異様 な光に気づいたからだ。  もしかして、馬越さんはI  この告発の裏に、何かきな臭い、不穏な気配を 嗅ぎ取っているのだろうか。  「参事官……」  しかし馬越は砂田に質問の暇を与えず、自らの 執務室から退室していった。  報道各社は一斉に後追い報道に走り、公安によ る隠蔽疑惑の徹底追及態勢に入った。  全国に暴露されてしまった今、小松の存在を秘 匿する意味はない。報道から二日後の十月二十七 日、警察は開き直ったように神田川で大々的な捜 索を開始した。小松の供述に基づき、大勢のダイ バーや浚渫船を動員して川をさらい、凶器の拳銃 を探し始めたのである。  しかし小松の供述は青野の情報通り、極めて曖 昧で不正確なものであったらしく、拳銃は一向に 発見されなかった。  そもそも、事件の発生した当日に小松はどこに いたのか。勤務中の警察官なのだから特定は容易 であると思われたが、アリバイの有無さえもはっ きりしなかった。オウム信者である警察官の存在 が最初に発覚したとき、非公式なルートによらず、 正式なルートで情報を上げてさえいれば、その時 点で小松の行動確認が行なわれていたはずである。 結果として事件当日の小松のアリバイ確認は不可 能となった。  しかも、軟禁中に寝起きをともにして聴取に当 たった公安の担当官が、あろうことか小松を現場 近辺の散歩に連れ出していたことも判明した。刑 事部の捜査員ならそのような行為は絶対に行なわ ない。たとえ被疑者が現場の様子を供述しても、 犯行当日に見たものなのか、拘束後に見たものな のか、判別できないからである。これで小松供述 の証拠としての価値はほぼ消滅したと言っていい。  またそうした一部始終を、マスコミはこぞって 批判的に報道した。  十月二十九日、加倉井公安部長が左遷された。 その人事は、辞任を頑なに拒否し続ける警視総監 の身代わりであると囁かれた。  世間の騒ぎを横目に見ながら、砂田は独りヨー シフの捜索に取り組んだ。  小松はオウムに洗脳され、続けて公安に操られ た不運な羊だ。主体性を完全に喪失している。狙 撃の実行犯は強い意志と高い能力を持った冷静な プロだ。決して小松のような人間ではない。  十一月一日、終電で最寄りの有楽町線豊洲駅に 降り立った砂田は、自宅マンションに帰宅しよう と豊洲運河の方へ向かった。いつものように途中 で左折し、まっすぐに歩道を進む。  連日の捜査に疲労が蓄積し、肩が異様に重かっ た。歩きながら首を軽く回していると、左側面の 路地から突然強力な(イビームが浴びせられた。  そのまぶしさに思わず足を止めて目を覆う。同 時に急発進した車が突っ込んできた。  咄嗟に身を翻して逃げようとしたが間に合わな い。  殺られるI  すぐ後ろで何かが激突したような甲高い轟音が した。タイヤが軋み、金属が砕ける衝撃。  振り返ると、後方の車道を走ってきた別の車が、 襲撃者の車に横から体当たりする形で停正してい た。  襲ってきたアウディ・A4を間一髪で食い止め たトヨターカローラワゴンは、一旦バックしてか らエンジンを切らずに停止する。そのドアが開き、 中から目出し帽で顔を隠した三人の男が飛び出し てきた。  反射的に逃げようとしたが、男達の動きは素早 かった。砂田の体をつかみ、カローラワゴンの車 内へと引きずり込もうとする。  「やめろ’・ 誰か’・」  大声を上げて必死にあがき、抵抗する。  そのとき車内で声がした。  「早く乗って’・ 砂田’・」  驚いて凝視する。暗がりの中に金色の髪が見え た。  「クラーラか!・」  全身の力が抜けた瞬間、砂田は車内へと押し込 まれていた。  すぐに発進したカローラワゴンが、全速で現場 から離脱する。  A4が反対方向へ逃走するのを確認し、男達が 覆面を脱ぐ。運転手を含め、全員が白人だった。  すると、こいつらはI  荒い息をつきながら車内を見回す。  車窓を流れゆく街灯の光を受けて、隣に座るク ラ圭フが艶然と微笑んだ。  車内が薄暗いためはっきりとは分からないが、 五年ぶりに見るクラーラは、幾分ふくよかさを増 し、若い頃とは別種の色香を身につけたようだっ た。  清楚でも優美でもなく、匂い立つ妖艶。  その香気に咽せるばかりで、咄嗟に言葉が出て こない。  いや、香気のせいだけではあるまい。胸に込み 上げてくる感情の塊は、そう簡単に解きほぐせる ものではなかった。  「襲ってきたのは偵察局の下請けよ」  北朝鮮かI  こちらの状態を見透かしたのか、クラーラが口 火を切った。一段と磨きのかかった日本語で。心 蕩かすような甘い声で。だがその内容は、甘さに はほど遠い。  「君は……SVRか」  やっとの思いでそう問うと、クラーラはおかし そうに笑った。  「FSBよ」  その答えに混乱する。ロシアの情報機関が、な ぜ朝鮮人民軍総参謀部の邪魔をするのか。なぜ日 本人の警察官を助けるのか。  「どうして……」  砂田はそれだけしか発することができなかった。 危ういところで死を免れたという恐怖が、今頃に なって全身を震わせていた。  「私達が最も怖れていたのは、ヨーシフを操って いるのがSVRの一部過激派じやないかってこと だったの」  またもこちらの疑問を察したように、クラーラ が先回りして答えてくれた。  他の男達は匸冐も喋らない。運転手も含め、 まっすぐに前方を見つめている。  「ソ連崩壊の混乱でヨーシフは祖国のコントロー ルから切り離された。KGBもその後継組織も、 みんなそれどころじやなかったから。それくらい は把握してるわね? 九三年当時、SVRの一部 勢力は北朝鮮と組んでビジネスを展開していた。 オウムはその得意先の一つでしかない。武器を欲 しがる顧客は世界中にいるものね。その頃よ、 ヨーシフが活動を再開したらしいって情報が入っ てきたのは。クライアントは不明。そしてオウム が暴走を始めた。オウムとの関係を知られたら国 際的な非難は免れないわ。SVRも北朝鮮も慌て て撤収にかかった。あらゆる証拠を隠滅してね」  「ヨーシフが國松長官を狙撃した理由はそれか」  「誤解しないで。彼が実行犯だとは明言してない わ」  クラーラは慎重に付け加える。  「誰かに國松狙撃の実行を命じた者達はオウムの 捜査を攪乱しようとしたのか、それとも他に理由 があったのか、そこまでは私達にも分からない。 SVRがやってたビジネスは武器の密売だけじゃ なかったしね。でも上層部の関心はもっと別のこ とにあったの。ヨーシフのクライアントがSVR かどうか。私達に与えられた任務は、それを確か めること」  「だからヨーシフを搜してたんだな」  国は違っても各部局の秘密主義と派閥争いは変 わらぬらしい。SVRの真意をFSBが懸命に 探っていたとは。  「ええ。だけど、どうしても行方をつかめなかっ た。まるで幽霊みたい。もっと早く押さえられて れば、日本警察のボスが狙撃されるなんてことは なかったかもしれない。もちろん、それも仮定の 話よ。いずれにしても、現在の状況下でロシアに とって一番の安全策は、ヨーシフを完全に消去す ること」  「あの晩、神戸の被災地にいたのも、俺と同じく ヨーシフの手がかりを搜すためだったのか」  クラ圭フは何も答えず、ただ静かに微笑んだ。 その効果を確信しているからだ。  認めよう。「自分に逢いたかったから」という 可能性を残してくれたというだけで、心がわずか に慰められる。逃げ出しだのは「逢うのが怖かっ た」、もしくは「やっぱり逢わない方がいいと 思った」か。実際には「FSBの活動を知られる わけにはいかなかった」というところだろうが。  「亀戸で俺を追尾していたのは君達か、それとも SVRか」 「ウチよ。すでにあなたは北朝鮮に目をつけられ ていた」  「ガードしてくれていたというわけか、俺を」  「ええ。それでもさっきは間一髪だったわ。連中 が何か仕掛けようとしていることをつかんだから、 先回りして待機してたの」  「囗本の一警察官を助けてFSBになんのメリッ トがあるって言うんだ」  「取引をしたいの」  「取引だと?」  そのとき運転手がブレーキを踏み、(ンドルを 切った。有明のあたりだった。  ビルとビルの隙間に設けられたコインパーキン グにカローラワゴンを入れた運転手は、率先して 車を捨て、隣に駐められていた日産ローレルに乗 り込んだ。他の男達も俊敏な動きでそれに続く。  車を乗り換えるため、あらかじめ周到に用意し ていたのだ。  男達を乗せたローレルはすぐさま発進し、いず こへともなく去った。 「私達はこっちよ」  クラーラは奥に駐められていたセフイーロの運 転席のドアを開ける。  「何をしてるの、早く乗って」  鋭い声で促され、砂田は意を決して助手席に乗 り込んだ。  セフイーロを発進させたクラ圭フに問いかける。  「どこへ行くつもりだ」  「さあ、どこか話の続きができるところ。それと もこのままドライブを続ける?」  「何かの検問やネズミ取りに引っ掛かったら面倒 だ」  「そうね」  「続きを話してくれ。取引とは」  「簡単よ。國松の狙撃にロシアは無関係。そう報 告してくれればいい。この件に関する担当者はあ なた一人なのだから」  涼しい顔でクラ圭フは言った。  「それが本当ならな」  「本当よ」  「だとしてもヨーシフはもともと旧ソ連の工作員 だ」  「立証はできないわ」  「そんなことは関係ない」  「なんらかの利権が絡んでいるのかもしれないけ ど、少なくとも彼はSVRの指示で動いていたわ けじゃなかった。彼のクライアントは北朝鮮だっ た。それがこちらの結論。私はそう報告するつも りよ」  さっき自分を轢き殺そうとしたアウディに乗っ  ていたのが本当に北朝鮮人民軍偵察局の機関員な ら、クラーラの言っていることは信用できる。  だが、襲撃自体が見せかけの謀略だとしたら。  思考が堂々巡りし始めた。  信ずるべきか、どうかI  どこの国に属していようと、およそ諜報活動に 携わる者なら、まず信じない。  だが自分は信じたい。かつて彼女を信じられな かった分だけ。  (ンドルを握るクラーラがちらりとこちらを見 た。  どうせそんな葛藤など、手に取るように見透か しているのだろう。その点に関しては、いつもな がらクラーラも圭子も大したものだ。自分など到 底敵わない。  左右にひとけのない倉庫の建ち並ぶ道に入った クラーラは、東京港に臨む位置でセフィーロを停 めた。  「夜の海も素敵よね」  そう呟いて車から降りる。  砂田もドアを開けて外に出た。  海から微風が吹きつけているが、予想したほど 寒くはなかった。  一年前にできたばかりのビッグサイトが間近に 見える。逆さまにしたピラミッドをいくつも連結 させたようなその奇異な外観は、砂田にとっては 不安定な違和感を煽るものでしかなかったが、ク ラ圭フは一種奇怪な夜景をそれなりに愉しんでい るようだった。  あ、と小さく声を上げたクラーラが近くにあっ た倉庫の方へ小走りに駆け出した。  慌てて後を追おうとしたが、彼女は自販機に駆 け寄っただけだった。  硬貨を何枚か投入し、温かいミルクティーを二 本買って戻ってきた。  「はい」  差し出された一本をつい受け取ってしまった。  プルトップを押し開けながら、「ありがとう」 と言うべきだったかと少し後悔する。  「日本はいいわね。どこにでもあんなのがあっ て」  楽しそうにミルクティーに口をつけたクラーラ が、しみじみと呟いた。どうやら自販機のことを 言っているらしい。  「許してね、旧都庁から逃げたこと」  またも先制攻撃を食らった。  「あのときは仕方なかったの」  「分かってる」  「私はなんとか祖国へ帰還することができたけど、 それからが大変だった。地獄と言っても足りない くらい。ヤロシェンコ少将の犯罪事実と八月クー デターに関する情報。私の武器はその二つだけ だった。それだけであの時代を乗り切らなければ ならなかったのよ。その苦労は、とても匸冐では 言い尽くせない」  分かるよIその後のロシアが歩んだ道を思え ばI  「でも、私はまだ武器があっただけ幸運だったわ。 なんとか接触することのできた相手が改革派の有 力者だったの。おかげで私は新体制の中で生き延 びることができたってわけ。〈専門職〉としてね」  ライトアップされたビッグサイトが、異郷にそ びえるロシア正教の大聖堂のように思えてきた。 似ている箇所など一つもないのに。  「取引はできない」  心の中とは関係ない。口はまったく違う言葉を 発していた。  「警察官として、俺はあくまで事実を報告するだ けだ。ヨーシフを動かしていたのが北朝鮮だとい う証拠かっかめたら、そのときははっきりと報告 しよう。ロシアは少なくとも長官狙撃には無関係 だったと……」  どこまで間抜けなのだ。話している途中で気が ついた。  「取引はただの口実だな。公安はとんでもない事 態に陥っている。狙撃の実行犯が誰であるかなん て、囗本の警察は知りたくないってのが本音のよ うだ。そんな状況を君が把握していないはずがな い」  闇の中、ミルクティーを飲むクラ圭フの髪が風 になびいた。  「そうか、だからだな……君は俺が手探りで崖っ ぷちを歩いていることを誰よりも理解していた。 だから俺を助けてくれたんだ」  神秘的にさえ見える微笑みを浮かべ、クラ圭フ は柢い声で囁いた。  「。。『いHptp画』}()ひ〇}‘y}‘のt}’{p}‘の e號。」  その言葉は前にも聞いた。青野の運転するカ ローラの中で。ゴーベールをおびき出すため、ク ラーラを帝国劇場に送り届けるときだ。  意味は、確かI『古い愛は錆びない』。  「やめてくれ」  苦心して喉から声を絞り出す。  「俺は囗本の警察官で、君は……」  意志に反して、足がクラーラに向かっていた。  彼女もまた、こちらへと歩み寄る。そしてとも に両手を広げる。相手を強く抱き締めるために。  だがI  二人とも片手にミルクティーの缶を持っていた。  なんとも間の悪い体勢だ。幸か不幸か、その間 が砂田の思考を明瞭にした。  「映画みたいにはいかないってことだな、現実 は」  「そうかもね」  缶を手にしたクラーラが、まさに映画のように 肩をすくめる。  [君が俺を助けたのはそんな甘い感傷からだけ じゃない。宣]の狙いは、あくまでヨーシフの確保 だ。そのためにはまだ俺を生かしておいた方がい い。少なくとも利用価値はある。違うか」 「違ってないわ」  風はいつの間にかやんでいた。靄が薄れ去った ように、海辺の淡い情感も消えている。  そうだIまたしても機は去ったのだI  ロシアの機関員は、ある意味アメリカの機関員 以上にプラグマティズムが身についている。何事 もシビアに計算し、メリットのない行為は決して やらない。と言うより、そもそも理解できないの だ。それこそが簡単には超えることのできない文 化の違いというものである。  作戦行動に感情を挟む者が、たとえ小隊規模で あっても指揮を任されることなどあり得ない。ソ 連崩壊時の混乱期を生き延びて、FSBから囗本 に派遣されるほどの〈専門職〉ならなおさらだ。  クラーラはセフィーロの運転席に戻り、ドアを 閉める前に言った。  「悪いわね、送ってあげるわけにはいかないの。 少し歩けば東雲駅があるわ。始発まではだいぶ時 間があるけど、運がよければタクシーを拾えるか も」 「気にしないでくれ。命を拾っただけで充分だ」  そのままドアを閉じようとしたクラーラが、ふ と思いついたように再び半身を覗かせた。  「。。(いt o 51 h a 51 Bona r h h e號。)  そう言い残し、今度こそ音を立ててドアを閉め る。セフイーロは夜の向こうへとまっすぐに走り 去って見えなくなった。  『溜まり水は腐る』かI  日本警察の現状を皮肉ったつもりだろうか。そ れともロシアの官僚支配のことを言ったのだろう か。  どちらも当て嵌まりすぎていて、にわかには判 じ難い。  どちらであっても構わない。  自分達はお互いに、腐った水の中で生きる者だ から。  残ったミルクティーを一口で飲み干し、砂田は ぶらぶらと歩き出した。  空き缶を手にしたまま、先の見えぬ闇に向かっ て。  十一月二十八日、小松巡査長が懲戒免職となっ た。  同日、警視庁前副総監、現副総監、前公安部長、 刑事部長、警務部参事官兼人事一課長、本富士署 署長、本富士署地域課長、本富士署警備課長らに も訓戒や減給等の処分が下された。  十二月三日、オウム真理教科学技術省次官林泰 男が殺人容疑で逮捕される。  同日、警視総監辞任。  平成九年一月十日、小松元巡査長が地方公務員 法違反で書類送検された。  公安部は小松の長官狙撃容疑を立証することが できなかったのだ。  凶器の拳銃も発見されていない。東京地検も、 供述の信憑性と捜査の適法性に重大な疑問がある として、小松の殺人未遂での立件については同意 しようとしなかった。  公安の完全な敗北である。警察内のある者は恥 辱と憤怒に震え、ある者は侮蔑の笑みを浮かべて 唾を吐き捨てた。  その翌日、砂田は霞が関の合同庁舎第2号館に 足を運んだ。至急会いたいと阿久津から内々に呼 び出されたのである。  警察庁会計課長が警視庁公安四課の自分にI体 なんの用があるというのか。  怪訝に思いながら会計課の課長室に顔を出すと、 阿久津が満面の笑みで出迎えてくれた。  「やあ砂田君。よく来てくれた」  もう一人、ドアに背を向ける恰好で応接用のソ ファに座っていたずんぐりとした人物が振り返っ た。警視庁警務部人事第一課の諏訪課長であった。 黄色く濁った目でこちらを一瞥する。  「実にいいタイミングだ。ちょうど諏訪さんが挨 拶に寄ってくれてね、世間話をしてたところなん だよ」  世間話、かI  「何をしてる、そんなとこに突っ立ってないで、 まあ座ってくれ」  ソファの下座を勧められ、腰を下ろす。  「失礼します」  「聞いてるよ。君、國松長官の件では孤立無援の 大活躍だそうじやないか」  警察組織で「孤立無援」とは、褒め言葉ではあ り得ない。  「それで君を再認識したというわけだ。僕の右腕 になってくれるのはやっぱり君しかいないってね。 諏訪さんに相談してみたら、次の人事でなんとか できそうだって言ってくれてさ。いやあ、ついて るよ、君は」  「待って下さい」  軽い失望を覚えながら発言するI阿久津がこ んな見え透いた手で来ようとは。  「自分は現在の職責に満足しております。せっか くのお誘いですが、自分にはどうも荷が重すぎる とI」  「職責とは、資料整理のことかな。それとも馬越 さんの使い走りのことかな」  一転して本性を見せてきた。  腹に力を込めて答える。  「両方です」  阿久津は諏訪と目を見交わす。二人の目は「予 想通りだ」と言っていた。  「なあ砂田君。君とは大塚署以来の長い付き合い だ。私は本当に君のことを買っているんだ。どう だろう、考え直してみる気はないかね」  「そう言って頂けるのはありかたい限りです。し かし、私は心底から今の仕事をI」  「分かった、もういい」  阿久津がこちらの言葉を遮ると同時に、諏訪が 横に置いてあったブリーフケースから数枚の書類 を出してきた。  【辞職願】と書かれている。  「ここに署名をお願いします。捺印は後日で結構 ですから。退職後の仕事にはいいのをお世話しま す。本来ならもっと上位の方が座る席ですが、阿 久津さんの推薦もあって、特別に用意しました。 きっと満足してもらえると思いますよ」  つまりは天下りというわけである。  「いいお話ですね。しかし、今後の人生に関わる 大事なお話なので、少し考える時間を頂けません か」  受ける気など毛頭ないが、無下に断るわけには いかない。今は少しでも時間を稼いで先延ばしに するしかなかった。  「それは困ります。今ここで署名して下さい。で ないと、せっかく用意した再就職先を別の方に回 さねばならなくなります。それでもいいんですか。 こんないい話、もう二度とありませんよ」  恩着せがましく言いながら諏訪が執拗にサイン を迫ってくる。  「やむを得ないと思います。ご厚意に背くようで 申しわけないのですが」  「本気で言ってるんですか、それ」  信じられないといった顔で諏訪がこちらを凝視 する。  「もういいよ、諏訪さん。彼はね、昔からこうい う奴なんだ。私はそこを評価してたんだけどね」  立ち上がった阿久津が、自分のデスクの上に置 かれていたファイルから数葉の写真を抜き出し、 テーブルの上に広げた。  これはI  驚かなかったと言えば嘘になる。それは、ビル の合間の小さなコインパーキングに放置されたト ヨターカローラワゴンの写真であった。事故に 遭ったように前面が大きく破損している。  「去年の十一月二日未明、君の自宅近くで派手な 衝突事故があった。ぶつかった車は二台とも逃走 した。だがそれは事故じゃない。砂田君、どうや ら君はロシアとの不適切な関係を絶てずにいるよ うだな」  写真の出元はチョダかI圭子−  「その件についてはすでに馬越参事官に報告して おります」  「馬越さんはあと二か月ほどで定年だ。今さらあ の人に尽くしたってなんの得もないよ」  「お言葉ですが、警察官でありながら損得で動い た結果が、今の警察の現状を招いたと認識してお ります」  言ってしまったI  諏訪は無言で薄笑いを浮かべている。自ら墓穴 を掘った愚か者に対する嘲笑だ。  「君の考えはよく分かった。下がっていいよ」  立ち上がって阿久津と諏訪に一礼し、踵を返す。  「砂田君」  ドアノブに手を掛けたとき、阿久津に呼び止め られた。  「君が変わらずにいてくれて私は嬉しい。眉墨君 もきっとそう思うことだろう」  ろくな返事さえできずに課長室を出た。  逃げるような早足でエレベーターヘと向かう。 最後にかけられた言葉の意味を考えながら。  馬越参事官退職の囗は目前に迫っている。  自分は馬越の期待に応えられなかったばかりか、 人事課長の前で自ら警察での居場所をなくすよう な言辞を弄してしまった。それがどういう結果を 招くか、大方の見当はつく。  警察に未練はない。とっくに覚悟はできている。 だが警察官である限り、少なくとも最後まで責務 を全うしようと思う。  すなわち、ヨーシフの発見。それだけが、自分 にできる馬越への唯一のはなむけだ。  高田馬場駅の高架下で立ち食い蕎麦を啜りなが らそんなことを考えていると、右側に立った客が 小声で話しかけてきた。  「お話ししたいことがあります。一緒に来て下さ い」  和泉であった。何食わぬ顔でかけ蕎麦を口に運 んでいる。  「拒否すれば逮捕か。なんの容疑だ」  精一杯の皮肉を言うと、今度は左側から思いも かけぬ声がした。  「そうツンケンしなさんなって。そんなんじやな いのはあたしが保証しますよ」 「串田さん……」  驚きのあまり丼を取り落としそうになった。  かつて外事一課四係砂田班の最年長者であった 串田は、七年前に早期退職し、今は民間の調査会 社で顧問を務めていると聞いていた。  その串田と和泉が連れ立って現われるとはI  「寒い囗はこれが一番ですな」  声を失っている砂田に構わず、ずるずると大き な音を立てて蕎麦を食べ終えた串田が丼を置いて 言った。  「さて、行きましようか……あれ、もう食べない んですか、せっかくの蕎麦なのに」  高田馬場駅前でタクシーを拾った。助手席に乗 り込んだ和泉は、運転手に「新宿駅東口まで」と だけ告げた。  ごく当たり障りのない世間話の他は、車中では 三人ともほとんど口をきかなかった。公安の現役 捜査員とOBの組み合わせだから当然であるが、 外二係長の和泉とはチョダ絡みのI件でわだかま りが残っている。状況を把握するまで、迂闊なこ とは言うべきではない。  タクシーを二回乗り換え、三人は一昨年に開業 したばかりのホテルインターコンチネンタル東京 ベイに入った。  「先方がここを指定してきたものでしてね」  串田が先に立って一階にある『ニューヨークラ ウンジ』の個室へと入る。そのモダンな内装は、 先ほどの立ち食い蕎麦屋とは世界が違うとしか言 いようはない。  「約束よりも三十分ほど早く来ましたんで、先方 が着くまでまだ時間があります」  「誰です、先方って」  「その前に……和泉」  串田に促され、和泉が話し始めた。  「自分は外事の人間として、チョダには無条件で 従うべきだと考えています。それは今でも変わっ ていません。しかし、同時に外二の捜査員である ことも事実です。北朝鮮機関員の行確は自分の管 轄であり、職分です」  (Iブティーを運んできたウエイトレスが去る のを待ち、和泉が続ける。  「平成七年の三月十六囗、万景峰92号が新潟港 に入港しています。このとき北朝鮮籍の六名が入 国。ドック入りした万景峰号は十八日に出港。ご 承知の通り、國松長官が狙撃されたのはその十二 日後です。入国した朝鮮人のうち五名は身許や所 在が確認されていますが、問題は残る一名で、こ の人物は偵察局の機関員である可能性が高い」  「和泉、もしかしておまえは、その男が犯行に使 用された銃や弾丸を持ち込んだと考えているの か」  口に運びかけたティーカップをソーサーに戻し て問う。  「現場には朝鮮人民軍のバッジなんてのもありま したね。しかし、それは単なる想像にすぎません。 立証は不可能です」  和泉はどこまでも冷静だった。  「とは言え放置するわけにもいかない。なんとか 追及する手立てはないか。コネやパイプは。情報 源は。あれこれ考えていたときに思い出しだのが 串田さんです」  砂田もまた、東芝COCOM違反を捜査してい た際に知った串田の意外な人脈を思い出していた。  「そういうわけで、一肌脱かせてもらったってわ けですよ」  現役時代より皺が増えた分、柔和さの増した串 田がにこやかに言う。  「アメリカ人てのは意外に碁打ちが多いんですよ。 ご存じでした?」  「いえ、全然」  「退職後も連中とプライベートの付き合いは続い てましてね。お互い引退した身ですから気楽なも んです。暇を見ては昔の思い出話をしながら、こ う、パチリ、パチリと」  串田が囲碁をやることさえ初めて知った。もし かしたら囲碁というのは半ば口実で、アメリカ側 とのパイプ維持が主目的なのかもしれない。  「誰に頼まれたわけでなし、ほとんど自分の道楽 みたいなもんで、それがお役に立つってんなら何 よりです」  「すると、先方というのは……」  「おや、おいでなさったようだ」  ドアの方を見て串田が立ち上がった。砂田と和 泉もそれにならう。  人ってきたのは、案の定大柄な白人だった。  「はじめまして、串田さん。あなたのことはパ ターソンから引き継ぎを受けています」  串田と握手しながら東部訛りの残る英語で言う。 どうやら串田とも初対面らしい。  「はじめまして、スレーターさん。こちらは日本 警察の砂田に和泉です」  「はじめまして。NSAのトッドースレーターで す」  互いに自己紹介をして握手する。  「まず最初に確認しておきます。今日あなた方と お会いしたのは、もちろん本件が我が国の戦略的 利害と一致したからでもありますが、基本的には あくまで私の個人的な〈厚意〉です。そしてそれ はいずれ返してもらえるものと信じています」  「お約束します、スレーターさん」  返答したのは和泉であった。 「私どもはあなたのご厚意を忘れることはないで しよう」  「結構です」  頷いたスレーターは、スーツの内ポケットから 灰色の手帳を取り出した。  「九五年三月三十日以降の万景峰92号の乗船客 を判明している限りリストアップしてきました。 お尋ねのヨーシフですが、それはあくまでコード ネームですから、当然別名義を使用しているはず です。彼の別名を把握していますか」  和泉の視線がこちらへと向けられた。  砂田は初めて彼が接触してきた目的を理解した。  「島原正です」  スレーターに向かってはっきりと答える。  しばらく手帳を繰っていたスレーターは、申し わけなさそうに言った。  「その名前はありませんね」  「そうですか」  和泉が落胆したように肩を落とす。  「では、ワタナベは」  砂田はもう一つの名前を口にした。ヨーシフが 使っていたと思われる最も新しい偽名だ。  「ワタナベですか……ああ、ありますね。『渡辺 健二という人物が新潟から乗船し、北朝鮮の元 山で下船している。こちらの資料でも、渡辺は要 注意人物と特記されています」  今度は砂田が落胆する番だった。落胆と言うよ り絶望か。  辿るべき線は唐突に途切れた。ヨーシフはすで に囗本にいない。万景峰号で北朝鮮へと脱出した のだ。  実行犯は本当にヨーシフだったのか。  仮にそうであったとしても、クライアントは本 当に北朝鮮だったのか。何を意図して國松長官の 暗殺を謀ったのか。  すべての謎は日本海の彼方へと消えてしまった I  スレーターとの面談を終えた三人は、インター コンチネンタル東京ベイから時間を空けてばらば らに散会した。  終わったI完全にI  四課の自席で、砂田は放心したようにある種の 感慨に耽った。  結局、ヨーシフに関する捜査の一切は徒労に帰 した。  だが、やるだけのことはやったのだ。少なくと も、馬越参事官に報告することはできる。餞別に もならなかっだのは無念と言うよりなかったが。  不意にデスクの上の電話が鳴っだ。内線だ。  とりとめのない想いから解き放たれて、すぐに 受話器を取り上げる。  「公安四課、砂田です」  〈矢島が死んだ〉  馬越の声たった。言っていることの意味が分か らない。  〈自殺だ。矢島が自殺したんだ〉  馬越が同じことを繰り返す。どうしても理解で きない。頭が理解するのを拒んでいる。  電話の向こうで馬越は苛立ったように叫んだ。  〈遺書があった。小松の軟禁をマスコミにバラし たのは矢島だったんだ〉  受話器を叩きつけるようにして置き、フロアを 飛び出す。エレベーターなど待ってはいられない。 階段を一気に十四階まで駆け上がり、ノックもせ ずに馬越の執務室へと飛び込んだ。  それを待ち構えていたかのように、馬越はデス クの前に立っていた。  どういうことですかI  荒い呼吸に邪魔されて、言葉がすぐに出てこな い。  馬越にはこちらの言いたいことなど聞くまでも なかったに違いない。  「四時間前、自宅で首を吊っているのが発見され た。体調が悪いと言って欠勤してたんだ。部屋か ら出てこないのを不審に思った奥さんが発見した。 俺も直接現場に行った。自殺に間違いない。矢島 は去年から様子がおかしかった。それについては 奥さんと南千の話は一致している。俺もおまえも よく知っている通りだ。現場の主任捜査官たった 矢島は公安と刑事部との板挟みになって苦しんで いた」  「遺書は……遺書があったと……」  歯を堅く食いしばった形相で馬越は唸るように 言った。  「現物は警備局が押さえた。察庁からは厳重な箝 口令が敷かれている。奥さんにも遺書の存在は伏 せられたくらいだ。警備局が持ち去ろうとする寸 前に俺は中身を見た。そこにはっきりと書かれて いた。自分があの告発文を書いたってな。矢島が 愛用していたワープロも押収された。インクリボ ンには告発文の文章がそのまま残っていたよ」  「矢島さんは……そこまで苦しんで……現場のた めにあんな告発を……」  馬越がゆっくりと首を振る。  「違うんだ」  「え……冫・」  「搜一出身であったにもかかわらず、矢島は体の 芯から公安だった。俺がそう仕込んだんだ。そん な矢島に、警備局が目をつけた。奴はその命令に 従っただけだ。犬よりも忠実にな」  なんてことだI  「俺のせいだ」  見開かれた馬越の両眼から大粒の涙が縊れ出し た。  『俺が矢島を南千の主任捜査官に推したりしなけ れば……y』んなことには……俺が矢島を……」  そして馬越は、仁王立ちの体勢のまま号泣した。  深夜、日付が変わるまで自由が丘のマンション を張り込んだ。午前一時近くになってタクシーが 停まり、降りてきた女がマンションのエントラン スに入る。販売中の建売住宅の隙間から走り出た 砂田は、オートロックを解除した女の後からマン ション内に滑り込んだ。  「あなたには住所を教えてなかったはずだけど」  驚いた様子も見せず、圭子は平然と言った。  「俺だって公安だ。その気になればすぐに割り出 せる」  「そう。でも部屋まで招待する気はないわ」  「元亭主だ。お茶くらい出してくれてもいいん じやないかな。それに……」  スーツの襟を開いて内ポケットから覗く紙片の 端を示し、  「遺書のコピーだと言えば分かるだろう。これに ついて話そうじやないか」  「しようがないわね」  圭子は踵を返してエレベーターに向かう。砂田 は黙ってその後に続いた。  四階で降りた圭子は、鍵を取り出し、内廊下の すぐ手前にある部屋に入った。急に閉められない ように用心しながら、砂田も中に入る。  内部に漂う懐かしい元妻の匂いが鼻腔をくすぐ る。こざっぱりとした感じのいい部屋だった。自 分の侘しい住まいとは大違いだ。  圭子はリビングのソファにもたれ込み、気怠そ うに言った。  「手っ取り早く話を片づけましよう」  元妻の向かいに腰を下ろし、内ポケットに入っ ていた紙片を投げ渡す。  圭子が折り畳まれた紙を開く。白紙だ。 「そうだろうと思ったわ」  嘲笑を浮かべて真っ白な紙を放り出した圭子に。  「だが中身は知っている。警視庁が小松を軟禁し ていることを察知した警備局は、それを利用して 総監とその一派を一掃することを思いついた。総 監はオウム捜査と長官狙撃事件に関する無数のミ スを挽回しようと焦るあまり、オウム信者狙撃犯 説に固執した。その結果、察庁にも秘密で小松を 軟禁するという暴挙に出た。途中でとんだ見込み 違いだと気づいたが、もう引き返すわけにはいか ない。なんとしても小松を犯人に仕立てなければ ならなくなった。完全なドツボつて奴だ。それで いよいよ察庁の総監一派に対する怒りは頂点に達 した。小松の件がここまでこじれたのは、もとも と察庁側にも責任がある。公安、いやチョダ最優 先ルールのせいだ。不幸にもチョダの連絡ルート にいた公安総務課長の尾ヶ瀬は、公安畑の人間 じゃなかった。ルールを知らなかったんだ。オウ ムの強制捜査があんなに遅れたのも、小松の情報 が共有されなかったのも、もとはと言えば尾ヶ瀬 が真剣に対応しなかったからだ。この間抜けの尻 拭いも含めて、自分達のミスを隠蔽するとともに 総監人脈の徹底排除に動いたのがチョダだ」  そこまで一息に言ってから、真正面から圭子の 様子を窺う。  だがチョダ所属の元妻は、昨日の天気予報でも 聞かされたように吐き捨てた。  「それがどうしたって言うの」  「どうもしないさ。今のはほとんどが俺の推測だ しな。遺書にもそこまでは書かれてなかったろう。 つまるところは最大規模の派閥抗争だ。オウムも 國松長官も関係ない。憎い身内を叩き潰すことさ えできれば、事件の真相なんかどうでもいいとい うわけだ。むしろ真相は知られない方がいい。自 分達の失態の数々が明らかになるだけだからな」  圭子はじっとこちらを見つめている。照明のせ いだろうか、砂田にはその目が青みがかったガラ ス玉のようにも映った。あらゆる感情を遮断した 目だ。  「問題はだ、その道具に矢島さんを使ったことだ。 矢島さんは命じられた通り暴露文書を作成してマ スコミにばらまいた。それでなくても精神的に追 いつめられていた矢島さんは、これで決定的に壊 れたんだ。分かるか。おまえ達が殺したんだ」  「その指摘は当たらない。何もかも合意の上の作 戦だった」  「なに?」  「矢島警視への見返りは保証されていた。昇進と 新しい役職も具体的に提示されてたし、総監一派 の排除は警察組織にとって必要不可欠な措置だと 理解してくれたわ。もちろん捜査の現場にとって も。彼は納得してオペレーションに参加したのよ。 なのに自殺という形で自ら契約を破棄した」  どこまでも冷静な口調。冷静で、論理的で、且 つ合理的。  「圭子、おまえ、いつからそんな話し方をするよ うになったんだ。まるでKGBの機関員だな」  期せずしてその匸冐は思った以上に効いたよう だった。  「あなた、まだあの女に執着してるのね」  圭子の眉根に情念らしきものが浮かび上がる。  「あの女?」  「とぼけないで。クラーラールシーノワと接触し たことは把握してるわ」  「さすがはチョダだ」  「それが国家に対する裏切りだって認識はある の?」  「ますますKGBみたいじやないか」  「あなたにしては面白い冗談ね」  ようやく気づいた。  圭子という人間が、いつの間にかクラーラとい う人間に限りなく接近していたことに。まるで表 裏一体の鏡像の如く。  「おまえ……」  何か言おうとしたとき、これまで意識して聞き 流していた阿久津の言葉の断片が不意に頭をよ ぎった。  −眉墨君は本当に優秀だよ。女らしく細やか に気がつくだけじゃなくて、変に出しやばったり しないからな。  −君が変わらずにいてくれて私は嬉しい。眉 墨君もきっとそう思うことだろう。  「いつからなんだ、阿久津とは」  なんの根拠もないまったくの勘であり、ブラフ であった。  「あなたと別れた後よ。しかもとっくに切れてる わ。何か問題でも?」  そっけない態度で圭子が応じる。  ただの思いつきで言ってみた自分の当て推量は、 まさに的中していたのだ。  圭子がI阿久津とI  「チョダを利用しようと擦り寄ってきただけのつ まらない男よ。噂ほど大したこともなかったし。 本人は二枚目気取りだけに救いようがないわ」  阿久津に対する手厳しい言葉の数々が、かえっ て砂田の胸を剌した。  「……すまなかった」  「どうしてあなたが謝るの’・」  それまで表面的には冷静さを保っていた圭子が、 突如激昂した。  「俺がもっとおまえをI」  「やめて’・ 私は自分の人生を生きてるの’・ 今 さらあなたなんか関係ない’・」  圭子はまた、チョダ特有の冷笑を浮かべ、  「それが男の思い上がりというものよ。長年外事 にいながら、少しも学んでないようね。だから囗 本のインテリジェンスは三流だって言われるの。 ロシアの女にいいように操られるはずだわ」  愕然とする。圭子が浮かべているのは冷笑では ない。憐れみであったのだ。  沈黙が訪れた。互いにどうしようもない悔恨と、 癒やし難い痛みとを持てあますばかりの沈黙が。  「帰って」  圭子が柢い声で呟いた。  「帰って、早く」  無言で立ち上がり、玄関へと向かう。  靴を履きながら振り返ると、圭子は疲れ果てた ように目を閉じてソファに沈み込んでいた。はれ ぼったい両眼の下に黒ずんだ隈。頬や顎の弛みが 目立つ。二の腕やふくらはぎの脂肪は昔はなかっ た。普段は毅然として庁内を闊歩している圭子の、 年相応に老け込んだ姿であった。  マンションを出て夜の底を歩き出す。  改めて思う。圭子とはもっと話すべきことが山 ほどあった。しかし胸中の言葉はすべて虚しく宙 に消え、今はもうその欠片さえ思い出せない。  住宅街の夜道の先は、ヨーシフやオウムの謎を 呑み込んだ闇に通じているようで、その実、どこ にも通じていないのだ。  平成九年三月三十一日、馬越参事官は警察を 去った。誰にも何も言い残さずに。最後の登庁日 に激励の言葉をかけようとした警察幹部は、生気 のない馬越の顔貌を見て一様に声を失ったという。  馬越は警察の用意した再就職先をすべて断り、 郷里の福島に帰って農業を始めるとのことだった。 馬越らしい身の処し方であると皆が評した。  同日、國松長官勇退。馬越とは対照的に、皆か ら讃えられ、祝福されての新たな門出であった。  一方砂田は、竹の塚署の警備課長に異動となっ た。事実上の左遷である。クビにならなかったの は、要するに〈知りすぎている〉からだと砂田は 理解した。警察から放り出すより、内部で飼い殺 しにしておく方が安全だということだろう。  同年六月九日、東京地検は小松元巡査長を起訴 猶予とした。  それでも警視庁は、あくまで國松長官狙撃事件 はオウムの犯行であるとして、小松元巡査長の取 り調べをその後も執拗に繰り返した。  チョダのオペレーションは完遂された。前警視 総監の人脈は本流から外され、國松長官狙撃の真 相は解明されぬまま、歳月だけが過ぎていく。  竹の塚署の自席に座り、砂田は時折考える。  飄々とした笑みを浮かべた逢沢。療養所で海を 眺めていた塩崎。警察参考室で震えていた青野。 とぼけた顔で立ち食い蕎麦を啜る串田。自ら死を 選んだ矢島。  そして圭子とクラーラのこと。  圭子は阿久津と関係していた。気にならないと 言えば嘘になる。だが自分には圭子を責める資格 はない。離婚する直前のとげとげしい空気も、投 げかけられた失望の視線も、すべて自分のせいな のだと今は分かる。  すまなかったI  誰に言うともなくそう呟く。  クラーラとはそういう関係ではなかったIそ れはなんの言いわけにもならないだろう。圭子に 対しても。自分自身に対しても。またクラーラ本 人に対しても。  クラーラはすでに出国したのだろうか。それと もまだ日本にいるのだろうか。  それだけは分からない。FSBが現在日本でど ういう活動をしているのか、古巣の外事一課に問 い合わせても、体よくあしらわれるのがオチだろ  諦念とともに目を閉じる。  挫折感には慣れている。その強烈な苦さこそが、 唯一の旧友であるようにさえ思われた。  平成十年八月七日、第一四三回臨時国会におい て、ある質問主意書が衆議院に提出された。  それに対し、九月四日、主に警察庁が案文を作 成し、閣議決定を経て内閣総理大臣小測恵三名で 提出された答弁書では以下のように回答されてい る。なお、質問部分は質問主意書の抜粋である。  【巡査長の取り調べは「完全なる違法逮捕状態 (よくいって軟禁状態)」で続けられたとあるが、 事実か]  御質問のような事実はないものと承知している。  【警察官僚の人事を巡る陰湿な力学は(中略)オ ウム真理教事件の捜査の最中、そうした人事抗争 があったのか]  御質問のような「人事抗争」については承知し ていない。  【警察庁警備局警備企画課には「裏理事官」と呼 ばれるポストがあり(中略)名前の挙がった六氏 の警察庁人庁以来の経歴を明らかにされたい]  警察庁警備局警備企画課には、「裏理事官」と 呼ばれるポストはない。  【政府は七月十七日付けで「『チョダ』というも のを承知していない」と答弁した。「承知してい ない」とは、「チョダ」という組織はないという ことか]  警察庁には、「チョダ」という組織はない。    I  空港ターミナルはいずれも予想された以上の大 混雑だということだった。しかしその喧噪もここ までは届かない。大型連休前半の五月一日にして は実に静かなものである。  空港警備隊総務室調査官の砂田は、三里塚の隊 舎内にある自席で欠伸を噛み殺しながら書類仕事 をこなしていた。階級は警部のままで、警視庁か ら千葉県警への出向である。  県警警備部内に設置された成田国際空港警備隊 は空港警備を担当する執行部隊だが、総務室が扱 うのは、人事、総務、会計関連の業務であり、砂 田にとってはまったくの閑職でしかない。加えて、 課長ポストに比べ「中二階ポスト」とでも称すべ き調査官というポジションの曖昧さが、不遇感を 倍増させていた。  午後一時五十五分、遅めの昼飯でも食べに出よ うと立ち上がったとき、デスクの警察電話が鳴っ た。  〈あっ、よかった、砂田さん〉  受話器から早口で流れてきたのは成田国際空港 署副署長である米倉警視の声たった。  〈急で悪いんですけど、今すぐ署の方に来てもら えませんか〉  「それは構いませんが……どういうご用件でしょ うか」 〈ちょっと電話では話せませんので……ともかく 大至急お願いします〉  こちらに斷る隙を与えぬような勢いで電話は切 られた。  副署長が直々に呼び出しの電話をかけてくるな ど、就任以来初めてのことだった。  いぶかしく思いつつも、昼食をあきらめた砂田 は公用車のアコードで空港敷地内にある空港署へ と赴いた。  「こっち、こっちです、砂田さん」  署に入るなり、待ち構えていたように飛び出し てきた小太りの米倉が、自ら先に立って応接室へ と案内した。奇矯とも言えるその行動に、空港署 の署員達も怪訝そうに振り返っている。  ドアを閉めながら米倉はソファを指差した。  「まあ、座って下さい」  「はあ」  なんでしようかIそう問う前に、米倉の方か ら慌ただしく切り出してきた。  「砂田さん、確か公安で、しかも外事の出身でし たよね」 「ええ、まあ……」 「聞くところによると相当のベテランだとか」 「いや、長くやってたと言えばやってましたけど、 ベテランかどうかまでは……」  曖昧に語尾を濁す。左遷された身で、過去の経 歴自慢ほど見苦しいものはない。  だが米倉はこちらの内心などまるで斟酌する様 子もなく、  「実はですね、ついさっき警視庁から連絡があっ て、シンガポール発日本航空712便で金正男 がこっちに向かってるらしいと」  「誰ですって?」  聞き返しだのは、名前が聞こえなかったせいで はない。我が耳を疑うとはまさにこのことだった。  金正男。北朝鮮の独裁者である金正日の長男 であり、後継者の第一候補とも目される『北の王 子』だ。  「金正男です」  「冗談でしょう」  米倉は脂を塗りたくったような顔を(ンカチで 拭い。  「冗談だったらどんなにいいか。わざわざ連絡し てきて、公安の担当者が今こっちに急行中だって 言うんですよ。入管にも連絡済みだそうです。ま あ、ガセである可能性も大いにあると私も署長も 思っとるんですけど」  北朝鮮なら外事二課の担当だ。信頼できる〈回 線〉から緊急連絡でも入ったか。  「しかも712便はあと一時間ほどで到着します。 あ、言うまでもありませんけど、これ、全部極秘 中の極秘ですから、そのつもりでお願いします ね」  「もちろんです」  「それでね、署長とも話したんですけど、事が事 だけに、ウチがどう対処すればいいのか見当もつ かないってのが正直なところなんですよ。そこで 砂田さん、あなたのことを思い出しまして」  署長の長谷川警視は定年間近で、厄介ごとだけ はなんとしても避けたいというのが本音だろう。  「外事と言っても私は一課でしたから、もっぱら 対ロシアが専門で……北朝鮮はちょっと……」  「それでも国際外交とか、そっち方面にはウチの 誰より詳しいでしょう。三課の鳰井課長も言って ましたよ、砂田さんは外国の諜報機関と散々やり 合ってきた人だって」  三課とは空港警備隊第三課のことで、公安関係 を担当している。  「お願いしますよ砂田さん。署員の現場指揮、い やいや、立ち会ってくれるだけでもいいんです」  万一不測の事態が起こった場合、空港署として の責任を自分一人に押し付けようという肚かもし れない。だが目の前でしきりと汗を拭いている米 倉の面上には、純粋な困惑と狼狽しかなかった。  金正男がいきなり来ると言われて動揺しない 人間はいないだろう。ましてやその対応となると、 長谷川や米倉にとってお手上げとなるのも無理は ない。  「分かりました。署を代表して公安と人管の審査 に立ち会えばいいんですね」  「ありがとうございます、砂田さん。いやあ、元 外事の人がいてくれて本当によかった。署長も喜 んでくれます。では早速」  米倉は喜色を露わにして立ち上がった。  時刻は午後二時二十分を過ぎようとしていた。  空港警備隊の総務室に連絡を入れてから、空港 署署員六名を連れて出発した。目立たぬようパト カーではなく捜査車輛のカローラに分乗して 712便が到着するエプロン(駐機場)へ向かう。 時間がないので打ち合わせは直接現場で行ないた いというのが公安からの要望であるという。  空港敷地内を全速で飛ばす。集合場所のエプロ ンには、見慣れたフォークリフトや貨物運搬車以 外に、バンやセダンなど数台の車輛が集まってい た。すでに公安が到着しているようだ。  東京入国管理局成田空港支局の柳下審査管理官、 安藤入国審査官、それに新堀入国警備官の姿も見 える。彼らと話し込んでいるのは外事二課の関係 者だろう。  カローラを降りて歩み寄ると、振り返った男が 驚いたように目を見開いた。  「砂田さんじやないですか」  軽く手を挙げて挨拶する。  「ご無沙汰してます、和泉課長」  かつて部下であった和泉は、今では警視庁公安 部外事二課の課長を務めていた。階級も砂田より 上の警視である。  「成田に出向中とは伺ってましたが、どうしてこ の件に……」  「押し付けられたんですよ、いろいろと。それよ り状況をお願いします」  面倒な話などしたくない。もっと面倒な昔の話 も。砂田は事務的な口調で促した。  和泉もただちに厳しい顔へと戻り、  「ある〈回線〉を通じてタレコミがありました。 北朝鮮籍を持つ四人の男女が不法入国しようとし ていて、その中には金正男も含まれると」  「確度は」  「我々がここにいることで察してほしいとしか言 えません」  「なるほど」  周囲に立つ男達を見回す砂田に、和泉が手早く 紹介する。  「こちらから六係の兼平班長、佐竹、市川、小栗 です」  男達が視線を逸らさずに目礼する。  公安部外事二課第六係は、班長の兼平以下、精 鋭揃いと聞いていた。  他の面々も六係の捜査員達だろう。人管の職員 や先行した空港署の署員達もいる。  無駄口を叩く者はI人もいない。和泉の指揮の 下、早速打ち合わせに入った。  「砂田さん、到着した機体からマル対が脱出しよ うとした場合、考えられる逃走経路をすべて教え て下さい」  詳細な空港見取り図を広げた和泉に対し、知る 限りの情報を伝える。  三時十分。それぞれの持ち場を決め、空港の各 所へと散る。  砂田は和泉や柳下らとともにボーディングーブ リッジ(搭乗橋)の出口を固めた。  「712便、間もなく到着するそうです」  兼平が上司の和泉に管制塔からの最新情報を伝 える。  配置についた全員が、息を詰めて到着を待つ。  三時十五分。  本当に来るのか、金正男がI  正直に言って、未だに信じられない。冷静に考 えると、信じられる方がどうかしている。  一体どの〈回線〉からのネタなんだI  砂田は疑わずにはいられなかった。北朝鮮とい う名の黒い小さな基板について。配線が複雑すぎ て、〈回線〉が狂っているということも充分にあ り得る。  「来ました、あれです」  外が見える位置に待機していた小栗が声を上げ る。  三時二十一分。712便が成田空港に着陸した。  やがて、搭乗橋を通ってきた乗客が次々と砂田 達の前を通り過ぎ始めた。ある者は弾む心を抑え かねたように明るく微笑み、またある者は疲れた 仕草でネクタイを締め直しながら。  問題の〈対象者〉は呆気なく判別できた。  知られている写真通りの顔と体型。無精髭を 伸ばし、起毛した茶色のベストを羽織っているた め、山から下りてきたばかりの猟師を思わせる。 いや、猟師と言うより狩られる側の熊に近い。  それでもまだ、砂田は信じられない思いであっ た。  この男が本当に金正男なのかI  それは他の捜査員や入管職員も同じであったろ  情報通り、同行者は三人たった。若い女性が二 人、そして五、六歳くらいの男児が一人。  「お客様、申しわけありませんが、こちらへお越 し願えませんか。お尋ねしたいことがございまし て」  安藤入国審査官が対象者に声をかける。同時に 男達が四人全員を取り囲んだ。  「なんですか、これは。一体どういうことです か」  髭面の対象者は多少イントネーションのおかし い日本語で抗議した。  「私達とご同行をお願いします。さあ、どうぞ」  緊張のせいか、強張った表情で安藤が頑なに繰 り返す。その態度と、周囲を取り巻く男達の強烈 な視線に、対象者はあっさりと抵抗をやめ、ふて 腐れたような、それでいてどこか他人事のような 態度で安藤の先導に従った。三人の同行者も不安 そうな面持ちで後に続く。  外事と入管の面々が四人を厳重に囲み、手筈通 りひとかたまりとなって素早く移動した。  午後四時前後のことである。時を移さずして、 法務省入国管理局に第一報が送られた。  四人が案内されたのは空港内にある取調室− 通称『特別審査室』である。警察署の取調室に似 ているが、椅子などの調度品はほんの少しだけ上 等だった。職分からして砂田も入室することは滅 多にない。  そこで一人ずつ、個別に取り調べが行なわれる のだ。  全員がドミニカ共和国のパスポートを所持して いた。拘束から一時間と経たぬうちに、それらが 偽造であると判明している。  偽造パスポートに記されていた対象者の名前は 『胖熊 PANG XIONG』。つまり〈太った 熊〉の意である。見た目そのままの偽名で、何か の冗談とさえ思える。生年月日は金正男と同じ 一九七一年五月十日。まだ二十九歳ということに なるが、体型のせいか、若々しさはほとんど感じ られない。  砂田は和泉、兼平、柳下、安藤らとともに髭の 男の聴取に立ち会った。  まず安藤入国審査官が代表して尋ねる。  「あなたが所持していたパスポート、これは偽造 ですね」 「まさか。本当ですか」 「はい」 「信じられない。ずっと本物だと思っていたの に」  「どこで入手されたのですか」  「ドミニカ共和国。私達は騙されたんだ」  「旅行の目的は」  「世界一周です」  「目的をはっきりお願いします」  「観光です」  振り返った安藤は、柳下審査管理官が頷くのを 確認し、核心に切り込んだ。  「本当のお名前を正直にお答え下さい」  さすがにすぐには答えない。  「お答え頂けない場合、あなたとお連れの方々の 処遇について、我々としては大変遺憾ながら I」  「金正男」  開き直ったように男は言った。  すかさず安藤が畳み込む。  「金正男。朝鮮民主主義人民共和国最高指導者、 金正日総書記の御子息である金正男さんに間違 いありませんね」 「そうです」  そっぽを向いた男の態度は、さながら悪戯を咎 められた小学生のようだった。  人物特定−  室内に興奮と、一種の感動が満ちるのを、砂田 は文字通り全身で体感していた。  ことに外二課長である和泉の歓喜は格別であっ たに違いない。秘密の土塀に囲まれた北朝鮮につ いて、最高の情報源が得られたのだから。  同行者の女は第二夫人の李恵慶、男児は息子の 金漢率と判明した。もう一人の女は徐英羅。夫人 と息子の世話係であるという。世話係にしては派 手な身なりで、サングラスを掛け、高級ブランド のバッグを提げていた。  午後七時三十分、「成田国際空港において金正 男を入管難民法違反の容疑で拘束」との第一報が 森山眞弓法務大臣に秘書官経由で届けられた。  午後八時三十五分、新堀入国警備官による金正 男の違反調査開始。  午後九時頃、小泉純一郎総理に第一報。  午後九時五十分頃、警察庁と外務省に法務省よ り第一報。  そして四人の身柄は、その夜のうちに茨城県牛 久市の法務省入国者収容所東日本入国管理セン ターに移送された。  入所に際しては、徹底した所持品検査と身体検 査が規則によって定められている。そのとき、金 正男の背中に虎の刺青が彫られていることが発覚、 速やかに記録された。  空港警備隊長の了承を取りつけた空港署長の要 請により、砂田も牛久への移送に同行することと なった。和泉もそれを当然のように受け入れてい る。言わばなし崩しに国家的大事案のまっただ中 に放り込まれた恰好だ。  外二の和泉や兼平達はいいだろう。彼らは若い。 長年の宿敵に対し、正面から戦いを挑む闘志と気 概に縊れている。  だが、そんなものは自分にはない。とうの昔に 失ってしまった。  牛久市内のビジネスホテルに入った砂田は、和 泉の言葉を思い出して暗澹たる想いに耽る。  金正男の拘束後、和泉は自分にこう囁いた I「金正男の入国を知らせてきた〈回線〉の発 信源は、どうやら高英姫らしいんです。金正哲 と金正雲の母親の」  金正日三番目の妻と言われる高英姫には、次男 の正哲、三男の正雲という二人の男子がいるが、 祖父の金日成に愛されているという長男の正男が いる限り、自分の子が後継者となる可能性は柢い。 しかも彼女には出自を巡る謎があって、実は在日 朝鮮人の子女なのではないかと外交筋で噂されて いた。それが本当なら、正哲もしくは正雲が総書 記の座に就く望みは絶望的なまでに薄くなる。  だが、もしここで正男が国際的な話題となるよ うな失態を演じたなら。  高英姫、もしくは側近の誰かが、それを狙って 情報をリーグしたという推測は充分に成立する。  初夏であるにもかかわらず、砂田はうそ寒い想 いに身を震わせた。夜の冷気のせいかもしれない。 昼間からの疲れが出たせいかもしれない。しかし ロシアの闇ともまた違う、骨肉の確執と怨念に満 ちた北朝鮮の闇は、できれば踏み込みたくもない 領域であった。  二枚明けた五月二日も、入国管理センターで四 人の厳重な取り調べが行なわれた。  昨日に続き、主に安藤入国審査官が中心になっ て聴取する。砂田も和泉、兼平らとともに立ち 会った。  金正男一行は北朝鮮から中国、ロシアを経て オーストラリアに滞在。その後インド、シンガ ポールを経由して日本に入ったらしい。和泉の話 では、北朝鮮の機関員や政府関係者がよく使う ルートだということだった。  「この偽造パスポートには、二〇〇〇年十月三日 から六日、十二月二日から九日、同じく十二月二 十五日から二十九日の計十七日間、日本に滞在し たとの記載がありますね。一体なんの目的で入国 したのですか」  「それは……」  安藤の質問に、金正男は明らかな狼狽を見せた。  「どうしたんですか。答えて下さい」  「すぐには思い出せません」  「変ですね。半年前に三回も来日してるんです よ」  「外国にはあちこち行っているから……」 「落ち着いてよく思い出して下さい」 「いや、ええと、どうも記憶が混乱して……」  懸命に何かを隠そうとしている。  和泉の目配せで、いかつい顔の兼平が即座に部 屋を出ていった。金正男の当該期間における日本 での行動を探ろうというのだろう。外事としては 当然の反応だ。   昼になり、一旦休憩となった。   昼食もそこそこに、砂田は和泉と二人、別室で 供述内容の検討を行なった。  「夫人の方は『息子をディズニーランドに連れて いくつもりだった』とか言ってるそうですよ」  李恵慶らの聴取に立ち会っていた部下の報告を 手短に告げ、和泉は失笑するように言った。それ からテーブルに広げられた写真と書類のうち、徐 英羅のものを指差して、  「私はむしろ、この女に注目しています」  「同感です」  理屈ではない。目付きや身のこなし、それに全 身から漂う空気で分かる。この女は機関員だ。  「夫人と息子の世話係だと言っていますが、監視 役も兼ねているのでしょう」  次いで和泉は、数枚の紙片を差し出した。いず れも金正男が拘束時に所持していたメモ類のコ ピーである。そこには英語と(ングルで、いくつ かの単語と数字が記されていた。中には線でつな がれた言葉や、大きく丸で囲まれた数字もある。  「砂田さん、これについてどう思われますか」  「さあ、ロシア語なら分かりますが、(ングルは 専門外ですし……」  言葉を濁すと、和泉はじっとこちらを見つめて 食い下がってきた。  「お願いします。思いつきで結構ですので」  「何か言えるとすれば、勘でしかありませんよ」  「構いません」  和泉がこの重大事案の聴取に、わざわざ自分を 参加させた理由が分かった。己の能力がそれほど 信頼されているとは正直に言って意外であった。  「判読できる英語部分に『マレーシア』とあり、 別の地名らしき単語と線でつながれています。お そらくこれは密売ルートを示しているのでしょ う」  「やはりそう思われますか」  「それと、国名や地名の下に書かれている複数の 「ングルは、私には読めませんが、人名じやない ですか」  「その通りです」  「だとすると、それぞれの国で仲介役を務める機 関員かフリーの工作員、もしくは民間の業者であ る可能性が高い。旧ソ連の事例ですが、八〇年代 に似たようなメモや文書を山ほど見た」  和泉は大きく頷いて紙片を手許に戻した。  「ありがとうございます」  諜報関係者の間では、マレーシアが不正取引の 迂回地として利用されていることは常識と言って いい。マレーシア政府もその見返りとして海外か らの投資を促進するため、税制優遇などの措置を 取っている。  それだけではない。砂田自身、九〇年代に旧ソ 連の工作員『ヨーシフ』を追う過程で、北朝鮮に よる武器密売の事実を常に肌身で感じていた。  「NSAから密かに提供された情報があります」  改まった口調で和泉が切り出す。NSAのネタ か。かつて串田がつないでくれたアメリカとのパ イプを今日まで維持してきたということだろう。  「金正男が39号室の幹部もしくは責任者だという のです」  その名称は砂田も耳にしていた。朝鮮労働党 『39号室』。北朝鮮の外貨獲得機関で、武器、麻薬、 偽札から水産物や農産物まで、あらゆる物資の不 正取引に関与している。そのコードネームは3号 庁舎の9号室に由来するという。  「それが本当なら、来日の目的は……」  砂田の言葉を遮るように、和泉は腕時計に目を 走らせて立ち上がった。  「午後の聴取が始まります」  砂田も立ち上がって書類を片づけにかかる。  「二時から関係省庁の会議があると聞いています。 なんとしても今日中に供述を引き出したい」  集めた書類をブリーフケースにしまいながら、 和泉は自らに言い聞かせるように呟いた。  廊下を移動しながら、砂田は傍らを歩む和泉に 話しかけた。金正男の名を聞いたときから、 ずっと心に思っていたことを。  「和泉課長」  「なんでしょう」  「金正男をこのまま日本で収監することができれ ば、拉致被害者の救出にもつながるんじやないで しょうか」  北朝鮮工作員による日本人の拉致被害者がいる I平成九年頃から表面化した大問題だ。しかし 北朝鮮は未だ認めてはいない。  平穏に暮らしていた市民が、ある日突然見知ら ぬ国へと拉致される。そして長い年月が過ぎる。 想像するだに恐ろしい国家犯罪だ。絶対に許すわ けにはいかない。拉致された被害者の救出は、警 察官としての、いや同じ日本人としての義務であ ると思う。  わずかな間があってから、和泉は言葉を選ぶよ うに言った。  「少なくとも、私はそうあってほしいと願ってい ます」  午後の取り調べで、金正男は昨年の十月と十二 月に宿泊していた東京のホテル名を供述した。  和泉がすぐに室外へ出る。ホテル名を携帯で六 係の部下に伝えるためだ。  午後五時三十分を過ぎた頃、取調室のドアが ノックされ、兼平が顔を出した。目でこちらを招 いている。砂田は和泉と一緒に退室した。  廊下に出てドアを閉めると、兼平が小声で報告 する。  「小栗と佐竹から連絡がありました。マル被はこ れまでの来日時、ホテルから大阪に何度も電話し ています。相手は同じで、実業家の全相吉。大阪 府警も前々から目をつけていた男です。篠ノ目組 や関帝会の幹部ともつながってて、闇金、売春、 それにパチンコのアガリも一旦こいつの会社を経 由する仕組みになってるとか」  室内に戻った和泉は、安藤に代わって金正男の 正面に座った。  「全相吉という人物を知っていますね」  正男の顔色がはっきりと変わった。  「知りません」  「東京のホテルからあなたが何度も電話した相手 です。彼は関西における北朝鮮の協力者だ」  「知りません。なんのことですか」  「全氏の口座を洗いざらい調べてみてもいいんで すよ。秘密口座も大阪府警が把握しているでしよ う」            ゛  髭だらけの大きな顔に、蝦蟇の油のような汗が 噴き出した。  和泉は容赦なく畳みかける。  「来日の本当の目的は不正取引による秘密資金の 決済だ。全を引っ張れば証拠もすぐに揃うでしょ う。あなたも一国の要人なら潔くお認めになって はいかがですか。もしこのまま拒否なされるなら、 あなたもご家族も、単なる不法入国の外国人犯罪 者としていつまでもここに収容され続けるだけで すよ」  「それは、困る」  「では、一刻も早くお認めになるべきです」  落ちるI  砂田がそう確信したとき、入国管理センターの 係官が告げた。  「規定の時間が過ぎています。本日の聴取はここ まででお願いします」  その場にいた者全員で取調室を後にする。安藤 は携帯を取り出して上司の柳下審査管理官に報告 している。  「この様子なら、明日はきっと吐いてくれるで しょう」  明るい口調で和泉が言った。砂田も同意見であ り、重い疲労にもかかわらず、足取りだけは軽 かった。  和泉、それに六係の男達三人とホテルに引き揚 げ、一階にあるレストランで夕食をとる。前祝い に全員がビールを飲んだ。  その最中に、和泉の携帯が振動した。  「はい、和泉です……」  箸を置いて応答しながら立ち上がった和泉は、 テーブルから数歩も離れぬうちに大声を上げてい た。  「なんですって」  砂田は驚いて顔を上げる。  何かあったI  『そんな……どうして……金正男は必ず……い え、ですが……y』再考を……いえ、決してそのよ うな……」  席にいた全員が箸を止めて和泉の背中を見つめ ている。  「はい……承知致しました……では、そのよう に……は、失礼します」  電話を切った和泉の背中に、兼平班長が問いか ける。  「どうしたんですか」  「ここでは話せない。私の部屋に集まってくれ」  振り向いた和泉の顔は蒼白だった。いや、憤怒 の朱が混じっていたかもしれない。いずれにして も、以前は彼の上司であった砂田さえも、初めて 見る表情だった。  全員が無言で和泉の部屋に移動する。最後に 入った市川がドアに施錠するのを確認し、和泉が 話し始めた。  「さっきの電話は阿久津総審からだ」  阿久津だったのかI  だとすれば、いい話であるはずがない。  順調に出世を続けた阿久津は、警視監に昇進し、 警察庁長官官房総括審議官に納まっている。将来 の長官候補との呼び声も高いと聞く。  「福田官房長官臨席のもと、外務省、法務省、警 察庁など関係省庁が協議した結果、成田で拘束さ れた四人の不法入国者は早期国外退去との方針が 確認された」  男達の間から声が上がった。悲鳴とも怒号とも つかぬ声が。  「本来なら公安部長を通すところ、事態の緊急性 と重大性を慮って、極めて異例ながら総審が直 接現場にお電話を下さった」  「自分は納得できません」  兼平が赤鬼のようになって上司の胸倉をつかん だ。  「私もだ」  いつもの冷静な口調で和泉が応じる。だがその まなじりには、悔し涙が滲んでいた。  それに気づいた兼平が、はっとしたように手を 放して後ずさる。  「総審の話では、田中外務大臣が強硬に主張した そうだ。『そんな厄介者はさっさと北朝鮮へ送り 返せ』とな」  眞紀子さんがI  「それじゃ拉致被害者はどうなるんですか。せっ かく手に入れた最大の外交カードなのに、みすみ す手放すんですか」  「私か決めたことじゃない」  声を詰まらせながらも、和泉は抑制された態度 を保って続けた。  「外務大臣はこうも言ったそうだ、『北朝鮮から テポドンが飛んできたらどうするの』つてな。 もっとも、阿久津さんの話だからどこまで本当か 分からんがな」  本当かもしれないし、そうでないかもしれない。  あの眞紀子さんがI  和泉と兼平達とのやり取りを遠いものと聞きな がら、砂田は一人、過ぎ去った日々を思い出して いた。  警視庁に人庁し、大塚署地域課員として田中角 栄邸の詰所で勤務していた青年の頃。  国会へと赴く角栄の車を毎日のように最敬礼で 見送った。「お嬢様」はすでに婿養子を迎えてい たが、それでも一身をなげうって警護すべき人 たった。  あの頃の「お嬢様」は、父の角栄さえたじろが せるほど奔放な物言いの片鱗は見せていたものの、 周囲を包み込むような愛嬌と温かい干不ルギーに 満ちていた。  自分にとって、あの頃のことは生涯忘れられる ものではない。だが「お嬢様」にとっては、詰所 勤務の一警察官など路傍の雑草にも等しい存在 だったろう。  すべての責任が外務大臣の発言にあるのかどう か、自分如きには知るすべもない。  だがあの眞紀子さんが、今になって、外事の足 を引っ張ることになろうとは。  田中眞紀子は平成五年七月の衆院選に立候補し て見事当選した。同年十二月には脳梗塞で倒れて 以来リ(ビリを続けていた角栄がごくなっている。  翌年には一年生議員であるにもかかわらず村山 内閣の科学技術庁長官として初入閣を果たした。 陰ながら「お嬢様」の躍進を応援していた砂田は、 さすが角栄の娘と頼もしく思ったものだ。  今年四月二十六日に成立したばかりの小泉内閣 では、外務大臣として入閣している。  大胆に過ぎる言動から国民に人気のあった「眞 紀子さん」は、小泉内閣成立の功労者と言ってい い。そのため、小泉純一郎も彼女の処遇に配慮せ ざるを得ず、外務大臣という有力ポストを与えた のだという話をどこかで聞いた。  それが、就任してほんの一週間足らずで「金 正男不法入国」という予測不可能な事案に直面 したわけである。一般人ならパニックを起こして 正常な判断能力を失ったとしても当然の状況だが、 砂田は依然心のどこかで、角栄の血を引く眞紀子 に対して大いに期待し、肩入れしていた。それだ けに、彼女の発したという言葉−あるいは承認 した決断−には、何か大切な心の支柱をすっと 外されたような、喪失感にも似たもの寂しい落胆 を覚えた。  本当にそれでいいとお考えなのですか、眞紀子 さんI  明けて三日。入管は成田で拘束された四人を 「入国違反審査の結果、退去強制事由に該当する」 と結論づけた。  すべては政府の決定通りに進行している。  だが午後五時を過ぎて、テレビが「金正男氏と 見られる男性ら四人の身柄拘束」と報道し始め、 瞬く間に世間の耳目を集めた。マスコミも一気に 沸き立ち、中には「金正男がディズニーランドに 行きたかったと供述」と報道した媒体もあって、 それが人々の興味を一層かき立てた。  「官邸か察庁か、とにかく上層部から漏れたん だ」  テレビを眺めながら、和泉は冷笑とともに呟い た。  上層部の保秘の甘さは今に始まったことではな いが、これで世論が動くかもしれない。砂田は密 かにそう考えた。拉致被害者の『家族会』も『救 う会』も黙ってはいないだろう。  砂田や和泉の期待に反し、政府は常になく迅速 −と言うより拙速−に対処した。  その夜のうちに、法務省が退去強制令書を発付 したのである。もはや手の打ちようはなかった。  四日未明、警察庁から千葉県警に対し、四人の 送還に伴う警戒要請が出された。これにより、砂 田は改めて県警側担当者の一人として現場での対 応を命じられた。  同日午前七時三十五分。茨城県警が厳重に警護 を固める中、金正男一行は入国管理センターを出 た。砂田も六係兼平班の面々と同乗し、警護車列 に加わった。  八時二十五分、成田国際空港に到着。  十時四十五分、金正男らが搭乗した北京行き の全日空905便が成田空港を飛び立った。  これらの一部始終はマスコミによって繰り返し 報道され、金正男の特徴的な風貌を日本人の記憶 に刻み込んだ。『ディズニ圭フンド』という脱力 感に満ちたキーワードとともに。  これで拉致被害者奪還の機会はまた遠のいた −  失望という感情を、眼前の光景としてこれほど 痛切に見せつけられる局面はそうあるものではな い。砂田はその感情を、己の無力感と併せて噛み 締めるしかなかった。  和泉達と並んで、空の彼方へ消えていく旅客機 を眺めていたとき、兼平の携帯に着信があった。  すぐに応答した兼平は、通話を終えるなり顔色 を変えて和泉に報告した。  「課長、大阪府警より連絡、全相吉をロスト」  「なんだと」  「また全の片腕と見られていた卓一洙が轢き逃げ に遭い死亡。ナンバープレートを見た目撃者の証 言から、逃亡した車の所有者は自称ビジネスコン サルタントの甘地竜夫と判明、現在行方を追って いるとのことです」  甘地−その名前なら知っている。  砂田は和泉に向かって言った。  「甘地はKGBのダブルだった男です」  「本当ですか、砂田さん」  「ええ。覚えているでしょう、東芝COCOM違 反。あのときに小手先の工作を仕掛けてきた。最 終的に担当を任せた圭子、いや、眉墨管理官が報 告書にまとめているはずです」  黙り込んだ和泉に畳みかける。  「卓の殺しにはロシア、おそらくはFSBが噛ん でいる。しかしいくらロシアでもよっぽどのこと がなけりやここまではやらない。全は正男と何度 も連絡を取っていて、しかも正男来日の目的は不 正資金の決済だった疑いが濃厚だ。もし仮にです よ、資金決済以外にも何か重要な目的があったと したらどうです? 金正男は政府の決定通り北へ 帰り、我々はそれを見送った。でもここからは 我々の通常業務だ。違いますか」  和泉は慎重な姿勢を崩さず答えない。  「その線を追いましよう。対ロシアなら私の専門 だ。私も捜査に加えて下さい。今ならまだ残務処 理という名目で動ける」  「あなたはもう外一じゃない。今は丸橋課長が I」  「今の外一じゃ駄目だ。私は当時を知っている。 甘地という人間を知ってるんだ。お願いします、 課長」  二、三秒だったか。こちらを見つめ、考え込ん でいた和泉が口を開いた。  「今この場で、外一担当の眉墨管理官に連絡し、 甘地について確認します。その上で、管理官経由 で外一の了承を得られるかどうか、訊いてみま す」  圭子にだとI  「了承が得られれば、砂田さん、あなたにお任せ します。それでいいですね?」  頷くしかない。反対のしようがなかった。  携帯を取り出した和泉が、番号を呼び出して発 信する。  「……和泉です。緊急を要する案件がありまして 電話しました。よろしいでしょうか」  そして今の状況と砂田の話を伝える。  和泉が話し終えてから、長い沈黙があった。相 手の返答を待っているのだ。  砂田だけでなく、兼平班の捜査員達も無言で和 泉を注視している。  携帯を耳に当てたまま、和泉は凝固したように 立ち尽くす。  五月の陽光が照りつける下、離着陸する飛行機 の轟音がやけにうるさい。  誰もが呼吸することさえ忘れたかのような時間 が流れた。  やがてI  「そうですか……は、ありがとうございます…… はい、もちろんです……では」  通話を終えた和泉は、汗の浮いた顔で砂田に向 き直った。  「外一が了承してくれました。空港警備隊や丸橋 課長にも話を通してくれるということです。ただ し、名目はあくまで外二通常業務への捜査協力。 外一への配慮も怠らぬようにと」  「了解しました」  感謝するよ、圭子− 「聞いた通りだ、我々はこれより全相吉とその周 辺の北朝鮮諜報網を全力で追う」  和泉はただちに部下達へ指示を下した。  「兼平班長は何人か連れてすぐに大阪へ飛んでく れ。府警と連携しつつ、全相吉の行方をなんとし ても突き止めるんだ。並行して卓一洙殺しについ ても徹底的に捜査。頼んだぞ」  「はっ」  「砂田さんは甘地の線をお願いします。私は急い で各所との調整に当たらねばなりません。連絡は 随時私の方へ」 「はい、ありがとうございます」  各員がその場から散っていく。  砂田も急ぎ足で捜査車輛の方へ向かいながら、 心の中で別れた元妻を想った。  越権としか言いようのない自分の捜査を認めて くれた彼女の内心は窺い知る由もないが、それで も、湧き起こる感慨を押しとどめることができな かった。  外事一課担当管理官として辣腕を振るう現在の 圭子。そして、代々木公園の野外ステージ前で甘 地を監視していた若き囗の圭子。  まるで別人のようであり、それでいて、少しも 変わらぬ眉墨圭子だ。  一時は期待の新人とも称されたフリージャーナ リストの甘地は、立件こそ免れたものの、KGB との関係を当局に把握されて以来、スパイ行為か らもマスコミ稼業からも足を洗ったはずだった。  それがそうではなかったのだ。  昔の伝手を頼って何本か電話をかけただけで、 その後の甘地の凋落ぶりが手に取るように分かっ た。  家庭を捨てて何人かの愛人と同時に付き合って いた甘地は、さまざまな事業に手を出しては失敗 を繰り返し、ついには多額の借金を抱えるに至っ た。女達にも見放され、完全に行き詰まっていた 甘地に接触してきたのがFSBであったというわ けた。  もちろん、重要な情報を求めてのことではない。 旧ソ連崩壊の打撃からまだ完全に立ち直っていな いロシアの諜報機関が、使い捨てにできる〈道 具〉を一個確保したにすぎない。その道具が卓一 洙暗殺に利用できたのなら、FSBにとっては予 想以上のよい買い物であったに違いない。  甘地の現住所は大阪市此花区。東京にいられな くなって地方都市を転々とした挙句、二年前に大 阪に流れ着いたらしい。それでFSBは暗殺の実 行犯として目をつけたのだ。  そうだI甘地はずっと弱い人間だった。そし て自分は、彼のそんな弱さを利用してきた。  最新情報によると、甘地の車は大阪駅前に乗り 捨てられていたらしい。大阪府警が駅周辺の地取 を行なっている最中だが、有力な情報は未だ得ら れずにいるという。言うまでもなく大阪駅は関西 最大のターミナル駅だ。また広大な地下街にもつ ながっている。どこへ向かったのか、推測するこ とは難しい。  砂田は考えた。殺人を犯したIしかも自分の 車でI甘地がどこへ行こうとするだろうかと。  大阪市内ではない。またこれまで暮らした地方 都市でもない。洒落者だった甘地は大久保の生ま れで、十代の頃は新宿で遊んだと聞いたことがあ る。甘地は大阪駅から新大阪駅に向かい、東海道 新幹線に飛び乗ったに違いない。  そして向かうのはIあそこだ。  それもまた勘でしかない。だが自分にしか備 わっていない勘だ。  午後十時すぎ、代々木に直行した砂田は、記憶 を頼りに、建ち並ぶ古いビルを一軒一軒調べて 回った。老眼が始まっているのか、暗い夜は字を 読むのが辛い。  あった。五階建ての古いビル。エントランスの 集合ポストを見ると、四匸一号室『現論舎 現代 自由論壇編集部』の表示がある。チラシ類が溜 まっていないところからすると、少なくとも誰か が今も入居しているのだ。  かつて現論舎の発行していた『現代自由論壇』 は、六〇年代から七〇年代にかけてマスコミ志望 の若者の間で大いに評価されたミニマガジンで あった。休刊してからずいぶんになるが、将来的 な復刊を夢見ていたのか、経営者兼編集長は決し て廃刊とは言わなかった。  エレベーターはない。湿気の籠もる階段を使っ て四階まで上がる。昔は一気に駆け上がれたもの だが、この歳になるといいかげん動悸がする。  四匸一号室のドアをノックした。返事はない。 もう一度、立て続けに激しくノックする。  「やかましいっ」  いきなリドアが開いて、いかつい坊主頭の男が 顔を出した。現論舎ただ一人の社長兼社員だ。昔 と少しも変わっていなかった。  「……おまえ、もしかして宮田か」  金壷眼を見開いてまじまじとこちらを見ながら 言う。  「またえらく老けたもんだなあ。どこのジジイか と思ったぜ」  「よくそう言われます」  自分より二十以上も年上の相手からジジイ呼ば わりと来た。  「突然ですみません」  「分かってる。入れ」  「お邪魔します」  中に入ると、一気に時代が七〇年代まで逆行し たような錯覚を覚えた。柱時計。黒電話。旧式の 大きなコピー機とファクシミリは八〇年代に据え られた物か。   埃の溜まった六畳の編集部に、甘地はいた。  壁際の編集机に突っ伏している。  「甘地君、宮田君だ」  編集長に声をかけられ、甘地がゆっくりと顔を 上げる。  「早かったな」  鼻声だった。どうやら泣いていたらしい。  砂田は編集長を振り向いて言った。  「申しわけありませんが、しばらく二人だけにし てくれませんか」  「やたらと図々しい客だな」 「すみません」 「いいよ。ちょうど銭湯に行こうと思ってたとこ ろなんだ」  そう言って手前の机の上に置かれていた洗面器 とタオルを取り上げた。どうやらここに住んでい るらしい。  『現代自由論壇』が最盛期を迎えていた頃、出入 りしていた学生が甘地であった。編集長に気に入 られた甘地は記事執筆のチャンスを与えられ、 華々しいデビューを果たした。甘地は編集長を父  のように慕い、編集長もまた甘地の成功を我が事  のように小さい目を細めて喜んだ。その関係が  『現代自由論壇』休刊後も変わらなかったことに、  砂田だけが気づいていた。  洗面器を小脇に抱え、ドアを閉めようとした編 集長は、ふと思いついたような口振りで言った。  「宮田、おまえ、やっぱリポリ公だったんだな」  「はい」  頷くと、彼は悲しげにドアを閉めて姿を消した。 「久しぶりに聞いたな、ポリ公なんて呼び方」  そう言うと、甘地は泣き濡れた顔に笑みを浮か べ、  「官憲てのも聞かないよな。最近はどう呼ばれる んだい」  「そうだな、デコスケとか、単にデコとか」  「デカじゃないのか」  「あれはテレビだけさ。少なくとも今は」  砂田は手近にあった椅子を取って、甘地に向き 合うように腰を下ろした。  「警告したはずだぞ、二度と狸の巣に近寄るな と」  「向こうから寄ってきたんだ、今になってさ。 知っててここへ来たんじやないのか」   匸冐もなかった。  「編集長には話したのか」  「何も。ずっと音信不通だったのに、黙って俺を 受け入れてくれた。そういう人なんだ。下手に話 して迷惑をかけたくない」  「じやあ、このまま姿を消すのが一番だな」  「それからどうなるんだ、俺は」  確か昔も同じことを訊かれた。だが今は、あの ときとは違う。  「警察でありのままに話せ。保護してもらわねば、 FSBに消されるだけだ」  「そうか……そうだな……」  力なく立ち上がった甘地に、それとなく話しか ける。  「卓一洙の殺しを命じられたとき、奴らは何か 言ってなかったか」  「さあ、ただ殺せと言われただけだ……金を渡さ れて……俺には必要だつたんだ、その金が……」  ドアに向かおうとした甘地が足を止める。  「そう言えば……」  「どうかしたか」  「うん、ミサイルがどうとか言つてたな」  「ミサイルだと?」  驚いて甘地の両肩をつかむ。  「もう少し詳しく話してくれ」  「分からない……そのときは頭がぼうつとして て……」  「薬でも打たれたのか」  「そうかもしれない……でも、あいつがそう言つ てた……仲間に、小声で……」  「あいつ? あいつって誰だ」  両手に我知らず力がこもる。  その手を払いのけながら、甘地は最も衝撃的な 名前を口にした。  「クラーラだ……クラーラールシーノワ」  「本当か? 間違いないな?」  反射的に質していたが、考えてみるとわざわざ 問うまでもなかった。  暗殺という重大事案だ。これはどの作戦を指揮 できる立場にある大物機関員となると、砂田の把 握する限り自ずと限られてくる。  「ああ……」  「クラーラがミサイルと言ったんだな?」  「これでもFSBの使い走りなんだぜ、ロシア語 くらい分かる……ほんの少しだけだがな……確か にp a k e t aと言っていた……」  t叫内のり叫−ラケータ。ロシア語で「ミサ イル」の意味だ。  携帯を取り出し、和泉に連絡する。  「砂田です。甘地を確保しました。すぐに代々木 署の警備課に連絡して代々木三丁目善台ビルにP C(パトカー)を回して下さい。FSBに暗殺さ れるおそれがあります……そうです、大変危険な 状況です。詳細は代々木署で」  通話を切り、ドアに鍵を掛けてパトカーの到着 を待った。  甘地を代々木署で保護し、和泉を待つ。間もな く駆けつけてきた和泉を伴い、代々木署警備課長 である鴨居警部の案内で会議室に入った。  「私は席を外した方がよさそうですね」  事の重大性を察知した鴨居は、自ら退室した。 賢明な判断と言えた。  和泉と二人きりになった砂田は、手短に事のあ らましを報告する。  「こちらにも新しい情報があります」  血の気を失ったような和泉が口を開く。  「大阪に入った兼平の報告によると、全相吉周辺 のビジネス関係者がことごとく姿を消していまし た。その中には北朝鮮の機関員と見られる人物も 多数含まれている模様です。長い時間をかけて築 き上げたはずの諜報網を放棄してまで逃亡しなけ ればならなかった理由も、これで説明がつきます。 金正日の秘密資金を管理する39号室の責任者が 金正男だとすると、来日の目的はやはり武器密 売の資金決済だった。それもただの武器じゃない。 ミサイルだ」  なんてことだI  むざむざ金正男を帰してしまった政府の判断が 改めて悔やまれる。  和泉はスーツの内ポケットから折り畳んだ紙片 を取り出した。  そこに書かれている文字には見覚えがある。  「成田で押収した金正男のメモですね」  「コピーですがね。ここに記されている名前の一 つに、『叫見片早呈』、つまり伊藤三郎というのが あります。外二の資料を当たってみたら、足立区  にある『金陽運送』の社員でした。同社は朝鮮労  働党対外情報調査部のカバーで、伊藤三郎もすで  に行方をくらましています。しかも兼平の報告で  は、殺された卓一洙の通信記録に伊藤の名前が頻  出するそうです。この二人が武器の密売に直接関  与していた可能性が高い」  「だとすると、伊藤ももう殺されてますね」  「おそらく」  「金陽運送の他の社員は」  「全力を挙げて追っているところです。しかし砂 田さん」  「なんでしょう」  「分からないのは、ロシアがこの件にどう関わっ ているかです。いえ、武器の密売絡みだろうとは 思いますが、卓を殺させた意味が分からない」  正直に答えるしかなかった。  「見当もつきません。それについては甘地の聴取 に期待するしかないでしょう」  彼の聴取は、大阪府警の担当官の到着を待って 翌日から開始されることになっていた。  深夜に帰宅した砂田は、疲労のあまり風呂にも 入らず布団に潜り込んだ。  みじめに泣いていた甘地の涙。現実に対する一 切の希望を捨てたような編集長の眼差し。そして 有明で最後に見たクラーラの姿。疲れていたにも かかわらず、それらが頭の中で渦巻いてなかなか 寝つけなかった。  ようやくまどろみかけた頃、枕元に置いた携帯 電話が鳴り出した。  反射的につかみ取る。 「砂田です」 〈和泉です。甘地が死にました〉  起床時間になっても起きないため、留置管理課 員が様子を見たところ、布団の中ですでに死亡し ていたという。  自殺でも他殺でもない。死因は虚血性心疾患。 所持していた病院の診察券から、甘地は糖尿病を 恣っていたことが判明した。おそらくは極度のス トレスが血栓の肥厚を促したものと推測された。  検視を終えた甘地の死顔を見つめ、砂田は絶望 と悲哀の入り混じる無力感にさいなまれた。たと え自分が捕らえずとも、ロシアや北朝鮮の手にか からずとも、甘地は遠からず死を迎えていたこと だろう。  誰のせいでもない。自業自得だ。若き囗に将来 を嘱望されたジャーナリストの、あまりに儚い最 期であった。  だが、と思う。本当に自業自得なのかと。彼を 擽った自分やクラーラに罪はないのか。北朝鮮に 責任はないのか。  あるはずはない。そう呟いて踵を返す。外事の 発想がそうさせる。操る者と操られる者。人間に はこの二種類しかいない。そして双方は絶えず入 れ替わる。好むと好まざるとにかかわらず。それ が世界だ。  「砂田さん」  いつの間にか和泉が傍らに立っていた。振り向 くと、折り畳んだ携帯をポケットにしまうところ だった。  「全相吉の潜伏場所が判明しました。埼玉県の川 越市内です」  全相吉は以前から取引のあった指定暴力団篠ノ 目組の世話で川越市南台のマンションに潜伏して いた。大阪府警警備部と警視庁外事二課は暴力団 関係の線を洗い、その事実を突き止めたのだ。  別件の詐欺容疑で逮捕状を取り、マンションの 周囲を固める。  「ごめん下さい、お届け物です」 「なんやねん」  宅配業者を装った捜査員の呼びかけに、パジャ マ姿の男が顔を覗かせる。全相吉だ。  「判子お願いします」  「判子? そんなんないわ」  「じやあサインで結構です」  「要らんわ。持って帰ってくれ」  男が用心深くドアを閉めようとしたとき、大き な鉄筋カッターが差し込まれ、ドアチェーンを鋏 んだ。三秒後、チェーンが切断されると同時に捜 査員達が雪崩れ込む。  彼らに続いて部屋へ踏み込んだ砂田が見だのは、 ガラステーブルの上に置かれた書類に全がライ ターで火を点けているところだった。  炎がたちまち書類を包む。  「この野郎っ」  兼平班の佐竹と市川が左右から全を押さえつけ る。全は必死にそれを振り払い、なおもライター を書類に向けようとする。  慌てて前に回った砂田は、夢中で火を消そうと したが間に合わなかった。  焼失する寸前、砂田は見た。書類に記された 「9K310」という文字を。  全の聴取は川越署内で行なわれた。  被疑事案の詐欺については認めたが、それ以外 は完全否認か黙秘であった。  「9K310.文字通り目に焼き付いてる。間違 いない。9、K、3、I、Oだ。それがI体なん なのか、最初はさっぱり分からなかった。俺に知 識がなかったせいだ。無理もないよな。9K 310イクラ。NATOでの名称はSA16。SA はサーフェスートウーエアーミサイルの略だ。携 帯式地対空ミサイルのことなんて、知ってる奴の 方が珍しい」  机を挟んで向かいに座る全の目を見つめ、砂田 はゆっくりと言った。  取調補助者の小栗は無言でメモを取っている。 本来ならば外二が聴取を担当するところだが、口 シアの関与が疑われる微妙な案件であるため、和 泉の判断で小栗が補助に回ったのだ。  「金正男は北朝鮮がイラクに輸出したミサイル の代金を回収するために日本に来た。イラクは代 金をスイス、香港、シドニー、東京の四か所に分 散して預けた。巨額の資金を一か所に集めると国 際的な監視網に引っ掛かる危険がある。資金の移 動についてもそうだ。だから金正男が直接集金し て回っていた。何人もの腹心に裏切られて、金 正日はもう肉親しか信じられなくなってたんだ な。その送金ルートにおける東京の窓口が、全さ ん、あんただっだ」  「なんの話か分かりまへんな」  全は滑らかな関西弁で答えた。  「大阪府警はあんたの口座を全部押さえてる。地 対空ミサイル三百基。金額も一致する。送金元も 判明してる」  「そやったら、卓と、なんちゅうたかな、金陽運 送の、そう、伊藤や。あの二人が勝手にやったん ちやうか。わしはややこしい仕事はみんな卓に任 せとっだし。あいつ、伊藤と組んでなんやごちや ごちややっとったみたいやしなあ」  「死人に口なしってわけか」  「早い話が、そういうこっちやな」  「ふざけるなよ」  「そやったら証拠出してや。9K310? 燃え てもうたんやろ、全部。そもそもこれ、別件ちや うんか」  「その通りだよ」  「なんや、認めるんかい。ほなこれ不当逮捕か い」  「違法性はない」  「出たで。警察はいつもそれや。とぼけとらんで はよ釈放せんかい。わしかて顧問弁護士くらいお んねんど」  「いいよ。釈放してやる。だが、卓一洙のように ロシアに殺されても文句は言うなよ」  全が黙った。  「命が惜しけりや吐いてしまえ。ロシアがどうし ておまえ達を狙うんだ。ロシアも武器密売に噛ん でたのか」  だがそれ以上、全は匸冐も喋らなくなった。完 全黙秘の態勢だ。  「いいだろう。持久戦で行くか」  背後でノックの音がした。  「しばらく一人でアタマ冷やしてろ」  取調室を出ると、待っていたのは川越署の警備 課長であった。  「砂田さんに電話が入っています」  「電話?」  「総括審議官からです」  阿久津か。内容は聞かなくても想像できる。中 止命令と叱責だ。  「なんで総審が現場に電話なんか……」  あまりの異様さに首を傾げている警備課長に、  「あいつはそういう奴なんですよ」  警備課長と小栗が唖然としたように口を開ける。 当然だ。一警部が総括審議官を「あいつ」呼ばわ りしたのだから。  「それと……俺達のやってることがやっぱり目障 りだったんだろうな。政府にとって」  全相吉は最後まで黙秘を貫いた。  詐欺容疑については多額の慰謝料とともに金を 返却したことなどが考慮され、不起訴となった。 弁護士の力もあるのだろうが、背後でどういう力 が働いていたのか、砂田は知らない。  釈放後、事業をすべて清算した全は香港経由で 北朝鮮へ帰国した。報道はされなかったが、聞く ところによると辛光洙並みの英雄として特別待遇 を受けているという。  北朝鮮による武器密売の捜査は立ち消えとなっ た。容疑は明白なのだが、いずれも状況証拠であ り、決定的な決め手に欠けたため異議を唱える余 地すらなかった。  和泉は粛々とそれを受け入れ、今も外二の課長 職にある。年々無表情になる彼の面上からは、も はや覇気も精気も、まして野心など、見出すこと は困難だった。  そんなものを欠片も覗かせないのが外事の誇り だ。ひたすらに己を殺して使命に殉ずる。和泉は その本義に対して忠実に生きているようにも見え るし、同時に、何か別の境地に至ったようにも見 える。  どちらでもいいI砂田はそう独りごつ。警察 官の人生はさまざまだ。それが和泉の選んだ道な らば、自分が言うべきことは何もない。  日本政府は、公式には最後まで金正男を本人 とは認めなかった。  また、拘束の経緯はいつの間にか「人管職員が 偽造パスポートに気づいたため」ということに なっていて、マスコミを通じて盛んに報道された。  和泉が言った通り、〈回線〉の発信源が本当に 高英姫たったとしたら、彼女は見事に目的を達成 したことになる。今度の来日騒動で、金正男は完 全に金正日の後継者レースから脱落したと見る のが外交筋の一致した見解であったからだ。  いずれにしても、一度定着したイメージは簡単 には拭えない。金正男には「ディズニーランド好 き」という間抜けなキャッチコピーが生涯ついて 回るだろう。本人がそれをどう思っているかは窺 い知る由もなかったが。  珍しく定時に上がった砂田は、豊洲の自宅マン ションでビールを飲みながらナイター中継を眺め ていた。野球に興味はなかったが、たまたまス イッチを入れたら放映していた。  何も考えずに時間を潰すにはちょうどいい。そ れは思わぬ発見であった。  振り返れば奉職以来、常に何かを考え、追い、 突き詰めるばかりの毎日だった。やりがいを感じ ていなかったと言えば嘘になるが、その大半は徒 労どころか、手痛い敗北に終わった。  長年の古傷に、体と心がぎしぎしと痛む。夜中 に痛みで目が覚める。もう充分に働いた。これか らは定年まで静かに勤めていたかった。  釣りに行くのもいいかもしれない。押し入れの 奥には、紐で束ねた『釣り人マガジン』のバック ナンバーが今も残っている。  かつて逢沢と約束した通り、砂田は同誌を定期 購読していた。だがそれもごく短い期間で、逢沢 の死からしばらくして解約した。彼のコラムだけ が載っていない誌面を開くことに耐えられなく なったからだ。  あれから何年も経つが、砂田は結局一度も釣り に行くことはなかった。もし逢沢が生きていたら、 少しは違っていただろうか。忙しい仕事の合間を 縫って、逢沢と渓流で魚を追ったりしていただろ うか。  気がつくと、グラウンドから選手の姿が消えて いた。アナウンサーが雨による試合の中止を伝え ている。  缶ビールを手にしたまま窓に目を遣る。細かい 雨粒が窓を叩いていた。  こっちでも降り出したかI  腰を上げかけて、思い直す。窓は閉まっている し、洗濯物など干してはいない。すべて洗濯機の 横に溜め込んだままだ。  そのとき、来客を示すチャイムが鳴った。  誰だろうI  今度こそビールの缶を置いて立ち上がる。  それでなくてもこの部屋に来訪者は珍しい。こ んな時間に来るとしたら、隣の爺さんか、管理人 か。  玄関に行き、用心のためドアスコープから客の 顔を確認する。  次の瞬間、砂田は思わず声を上げて後ずさって いた。  魚眼レンズを通して、外廊下の照明に浮かび上 がる女の顔。  クラーラたった。  どうしてここヘー  蒸し暑かったはずなのに、全身の汗がいつの間 にか蒸発していた。  クラ圭フは身じろぎもせずドアの外でじっと 立っている。チャイムをもう一度押す気配もない。 こちらが室内にいると知っているのだ。  ドアを開けるべきか、それともI  外事の捜査員がFSBの機関員を自宅に招き人 れるなど絶対にあってはならない。そうかと言っ て、このままでは他の住民にクラ圭フの姿を目撃 される可能性がある。  自宅ドアの前に白人女性が立っていたIそれ だけで確実に監察の対象になってしまう。監察の 連中は女の正体をたちどころに割り出すだろう。  すべて計算の上で、クラーラはドアの外に立っ ているのだ。  やむなく解錠し、ドアを開ける。クラーラが素 早く滑り込んできた。同時に再びドアを閉める。 外廊下の左右を確認している余裕はない。  「心配しないで。誰にも見られてないはずよ。少 なくともあなたは監視されてないわ」  平然と言う。そして親しい友人の家を訪れたか のように、室内のあちこちを興味深そうに見回し ている。  「日本人の家は狭いんだ。これでも独り暮らしに は贅沢なくらいだよ」  先回りして言ったつもりが、返ってきたのは失 笑とも自嘲ともつかぬ寂しげな笑みだった。  「モスクワの団地も大して変わらないわ。広いア パートに住んでいるのは、政府の高官かオリガル ヒだけよ。もしくは犯罪組織の幹部クラス。もっ とも、その三者はほとんど同じようなものだけ ど」  「君はどうなんだ」  「私はただの公務員」  「だが日本では大物機関員だ。少なくとも外事は そう評価している」  「過大評価ね」  「本当にそうかな」  クラーラは二人用のダイニングセットに目を止 めた。入居時に量販店のバーゲンセールで買った ものだ。  「あら、かわいい……座っていい?」  「ああ」  気がつけばすでにクラ圭フのベースに乗せられ ている。これ以上は危険だ。  「何を考えている」  クラ圭フの向かいに座り、職業的習慣で相手の 人着を頭に入れる。オフホワイトのブラウスチュ ニックに、グレンチェック柄のワイドパンツ。 チュニックはノースリーブだが、ボディラインの 出にくいデザインだ。体型を隠そうとしているの か。数年ぶりに会ったクラ圭フは、確かに記憶の 中の姿とはかなり違っていた。  「驚いた? 太ったでしよ、あたし」  一瞬にも満たない視線の意味を察して、クラー ラが微笑んだ。  「ロシアの女は年をとるとこうなるの」  「知ってる。だが君は別の美しさを身につけたん じゃないかな」  クラーラが驚いたように目を見張る。  「あなたがそんなにお上手だったなんて、FSB のファイルに書き加えとかなきや」  「やめよう。それより用件を頼む」  「少しのお喋りもできないの?」  「俺達はそんな仲じゃない。この場から通報して もいいんだぞ。ロシアのスパイがいるってな」  クラーラが笑みを浮かべる。それもまた、以前 にはなかった円熟と老獪さとを含んでいた。  「金正男の件について話したかったの」  いきなり本題を切り出してきた。そういう手法 だけは変わっていない。  「話すことはない。ロシアが北朝鮮の武器密売に 噛んでいたことは判明している」  (ツタリだ。相手から新たな情報を引き出す際 の常套手段である。〈戦い〉はすでに始まってい るのだ。  「否定はしないわ。ロシアはEUの東方拡大に神 経質だけど、極東と欧州の二正面作戦を避けるた め、囗米中を引きつける不安定要素として北朝鮮 は存続してくれた方が都合がいいの」  「卓一洙を殺したのもそのためだな」  「ええ。工作員の摘発による対北国際世論の悪化 を未然に防止する必要があった」  「そんなことはどうでもいい」  ずっと抱えていた感情が、ついに抑え切れなく なった。  「問題はだ、君達が甘地を利用したことだ」 「もしかして、怒ってるの?」 「当然だ」  クラーラは心底意外そうに、 「彼はダブルだったのよ?」 「昔はな」 「一度足を突っ込んだ者は死ぬまで抜けられな い」  「それはロシアだけで通用する話だ」  「違うわ。この世界のどこでも通用する、ごく標 準的なルールよ。あなたが許せないのは、彼の死 を悼む自分の感情よ」  自己欺瞞を鋭く衝かれ、砂田は黙った。  ロシアが甘地を殺したなら、矢島を死に追い やっだのは誰だ。誰が敵で、誰が味方か。分かっ ている。敵しかいない。この世界で、味方の存在 を信じられる方がどうかしている。  クラ圭フも口を閉じて視線を逸らした。  蒸し暑いキッチンに、テレビの音声だけが流れ 続ける。砂田はダイニングテーブルの上にあった リモコンを取り上げ、テレビの電源を切った。  「今さらだけど、おくつろぎのところをごめんな さい」  「別にくつろいでいたわけじゃない」  「でも、あなたのその恰好……」  そう言われて初めて、自分が短パンにランニン グシャツ一枚であったことに気がついた。  「ご婦人を迎える服装じゃなかったな」  「気にしないで。とってもチャーミングだわ」  「やめてくれ」  柄にもなく動揺した心の隙を衝くかのように、 クラーラは予想もしていなかったことを話し出し た。  「北朝鮮はKEDO(朝鮮半島干不ルギー開発機 構)の米朝枠組み合意に反して、核開発のための ウラン濃縮を続けているわ」  「なんだって」  事実だとすれば最上級の極秘情報だ。  「信じるかどうかはあなたの自由よ。でも、それ がせめてものお詫び」  「お詫びにしてはモノが大きすぎる。お得意の攪 乱でないとしたら、FSBがそれを俺に教えるメ リットはなんだ」  「ロシアの国力はまだまだ回復したとは言えない。 もし米朝対決が本格化したら、少々まずいことに なるの。それに、ロシアが北朝鮮にエンジン技術 を渡したって疑われても困るし。まだあるわ。平 壌とモスクワの距離は六四〇〇キロ。地理的に見 ても、北朝鮮が強力な弾道ミサイルを保有するこ とはロシアの安全保障上、好ましいことじゃな い」 「なるほど、そのあたりが本題か」  窓の外で雨が激しさを増した。 「証拠は」 「あるわ」  クラーラは手にしていた(ンドバッグから一枚 のコピーを取り出し、テーブルに置いた。  (ングルは読めないが、末尾に記された「爿句 魁」の署名は分かった。「金正日」だ。  衝撃と興奮を隠し、努めて冷静に問う。  「これ一枚か」  「ええ。充分でしょう。全文はとても渡せない。 第一、私も持っているどころか見たことさえない しね」  「本物である証拠は」  軽やかな声を上げてクラーラは笑った。  「そんなもの、必要ないわ。大事なのは日本が 〈事実〉を知っていて〈証拠〉を持っているとい う〈情報〉だけ。もし将来的に日朝交渉の機会が あれば、それは日本にとって極めて有効なカード になるはずよ。ただしその効力は、どのタイミン グでどう切るか、使い方のセンスにだいぶ左右さ れるでしょうけど」  たまらなく喉が渇くI  砂田は立ち上がって冷蔵庫を開け、ビールに手 を伸ばしかけて、やめた。代わりにペットボトル の麦茶をつかみ出す。  二つのコップに麦茶を注ぎ、一つをクラーラの 前に置いた。  「頂くわ」  コップを取ったクラーラはすぐに口をつけた。  「……おいしい」  そう呟いて、残りを一息に飲み干した。汗一つ かいていないような顔をしているクラ圭フも、そ こまで喉が渇いていたのだ。  砂田は無言で二杯目を注いでやった。  「ありがとう。囗本の飲み物や食べ物は最高ね」  「それは君が長年囗本にいるせいだろう」  「そうかもね。でも、それももう終わり」  自分のコップを口に運ぼうとしていた砂田は、 その言葉の意味が分からず視線を上げた。  「私、明日には帰国するの。本国へ召還よ。配置 換えになったの。それもおそらくは現場じゃなく て、事務職に」  混乱する。なんと応じるべきか分からなかった。  「つまり、お別れ。もう二度と会うことはない わ」  二度とI会うことはないI  「だからそのコピーは、私の置き土産でもあるの。 私から、あなたへのプレゼント」  「どうして……君ほどの人材を……」  「まあ、嬉しいことを言ってくれるのね。やっぱ リフアイルには加筆しておかなくちや。『砂田修 作は少しは女心が分かるようになった』つて」  「俺は真面目に訊いてるんだ」  「理由は特に聞かされてない。単に年をとったっ てことかもしれないし。誰かが私の失脚を狙って 密告したのかも。昔から日本は赴任地として一番 人気が高いから。ルビヤンカではそれでなくても 情実人事がまかり通っているし。あ、そういうと ころは日本も同じだったわね」  「クラーラ……」  「やめてちょうだい」  険しく発して彼女は立ち上がった。呆れるほど に優秀な機関員だ。こちらが何か言い出す前に機 先を制した。  「私達はお互い最後まで祖国に対して恥じること はなかった。それでよかったと思っているの」  そうだろうかI本当にそれでI  「さようなら、砂田」  クラーラはそのまま玄関に向かい、ドアを開け て出ていった。ダイニングテーブルに一枚の紙片 を残して。  雨の音はもう聞こえない。砂田の耳には、ク ラーラの最後の言葉だけがいつまでも響いていた。  −さようなら、砂田。  平成十四年一月二十九日、外務省との確執の末、 田中眞紀子外務大臣が更迭された。  同年九月十七日に北朝鮮を訪問した内閣総理大 臣小泉純一郎は、金正日との初の日朝首脳会談 を実現させた。このとき金正日は北朝鮮による日 本人拉致を初めて公式に認めた。  しかし、それにより帰国できた拉致被害者はわ ずか五名にすぎなかった。外事ルートからいち早 くそのことを知った砂田は、両の拳で机を叩いて 激昂したIカードの切り方を誤ったのだと。  平成十六年三月十四囗、ロシアではプーチンが 大統領再選を果たし、その権力をますます盤石の ものとした。  ウラジーミルーウラジーミロヴィツチープーチ ン。  忘れもしない、旧ソ連八月クーデターの裏に見 え隠れしていたあの男だ。  砂田はある種の感慨を抱かずにはいられなかっ た。  何かというと筋肉質のボディを披露したがる現 在のプーチンには、当時不鮮明な写真で見た小 鼠のような蒼白い若僧の面影はほとんど残ってい ない。ただどこまでも昏い、チェーカー特有の眼 光だけが共通している。  KGBの栄光は不滅であると、自分がそれを取 り戻すのだと、その目がはっきりと宣言していた。  平成十七年、小泉総理は長年の悲願であった郵 政民営化法案を成立させた。  小泉は「構造改革の構造とは、田中角栄が作っ た政治構造のことである」と語っていた。つまり、 自民党の派閥体質、政官の癒着、それらはすべて 田中角栄を根源とする腐敗であって、そうしたも の一切を否定し、一点突破を図るのが郵政民営化 であるというのだ。  そしてその主張は、熱狂的な歓呼を伴って大衆 に支持された。  世間が郵政民営化で沸き立っていた頃、砂田は 各署をたらい回しにされた挙句、池上署の警備課 長に納まっていた。  その囗、公務で管内の仲池上二丁目を訪れた砂 田は、呑川沿いに建つ『仲池土木』の看板を見つ け、懐かしさのあまり思わず通用口のインター フォンを押していた。  同社を経営しているのは同郷の後輩である。上 京したばかりの頃は、よく一緒に飲んだものだ。 彼は仲池土木に就職し、社長令嬢に見初められて 養子に入った。その後義父の跡を継いで社長に なったのだ。ずいぶん羽振りがいいと聞いていた が、よくあるパターンで段々と疎遠になって、池 上署管内たったことさえすっかり忘れていた。  あいつは今でも変わらずにやっているだろうか I奥さんは、子供達はI  しかし何度インターフォンを押しても、一向に 返事がない。不審に思っていると、背後から声を かけられた。  「そちらにはもうどなたもいらっしやいません よ」  振り返ると、近隣の住民らしい老婆が立ってい た。  「そうだったんですか。どちらへ越されたか、ご 存じありませんか」  「さあねえ。半年ほど前に会社が潰れて、かわい そうに、一家で夜逃げしちやったんですよ。どこ へ越したんだか、あたしらにも……」  半年前なら自分が赴任してくるより前だ。  「多いんですよ、最近は。嫌な世の中ですよね え」  そんなことを呟きながら、老婆はよちよちと歩 み去った。  改めて周辺を見回すと、確かにシャッターを閉 ざしたままの店舗や事業所が異様に目につく。活 気に満ちた昔日の面影はまるで残っていなかった。  やりきれない思いで砂田は署への帰途に就いた。 どこまでも続くシャッターの列を見渡して考える。  確かに田中角栄は「列島改造」で地方への公共 事業誘致を優先した。その結果、現在に続く腐敗 の原因を作ったことは認めざるを得ない。  対して小泉純一郎は「構造改革」で公共投資抑 制を重視し、地方や中小企業の衰退を放置した。  囗本中で〈角栄的なるもの〉が敗北し、〈角栄 の遺産〉が破壊されていく。勝利したのは小泉純 一郎に象徴される、目に見えない大きな流れのよ うなものだ。  もう何も分からないI果たしてどちらが正し かったのか。  夕陽に伸びる己の影を見つめながら、砂田は靴 底から伝わってくるアスファルトの冷たい熱をこ らえて歩き続けた。    1  平成三十年五月十一囗、砂田は越後交通のバス に揺られていた。上越新幹線の始発で東京を発ち、 長岡駅前から柏崎駅前線に乗車したのだ。  その囗は朝からよく晴れた上天気であった。警 視庁を退職して以来、遠出するのは久々であった から、柄にもなく気分が浮き立った。  退職勧奨に逆らい、定年まで居座った砂田に再 就職先はなかった。以来今日まで年金暮らしが続 いている。それでも時折、昔の知人に頼まれて相 談事に乗ったりするので、結構な臨時収入があっ たりする。元警察官という肩書は、話し合いの場 に立ち会うだけでも効くものらしい。  民間の警備会社や興信所に天下った警察官仲間 は、トラブル仲裁の場に善意のボランティアとし て顔を出す砂田の存在を苦々しく思っているよう だったが、筋道だった正論しか吐かない砂田に対 し文句をつけられずにいる。それでなくても定年 間近の頃には、警察内でよくも悪くも半ばアン タッチャブルな存在となっていたのでなおさら目 障りなのだろうが、こちらの知ったことではない。  七〇をとうに過ぎて、最近は近所を散歩するの も億劫なくらい足腰の衰えた砂田が、こうして旅 に出る気になったのにはわけがある。「田中角榮 記念館」が角栄の生家と墓所を期間限定で一般公 開するとの新聞記事を目にしたからだ。つまり、 角栄の墓参りに来たのである。  十一年前の新潟県中越沖地震で角栄の墓も倒壊 する被害に遭ったという。以来、田中家の敷地内 にある墓所は非公開の状態が続いていた。  今年は角栄生誕百周年に当たり、田中角榮記念 館でも各種の催しを企画している。その一環で、 五月から十一月の第二金土日曜のみ墓所が公開さ れるという。五月十一日は一般公開の初日に当た る。角栄の命日は十二月十六日だが、その日は身 内や関係者だけでゆっくりと故人を銛んでいるの であろうから仕方がない。無職の身には平日の金 曜であっても問題はなかった。  ほとんどの乗客と同じく小坂下バス停で降車し、 田中角榮記念館に向かう。そこでチケットを購入 し、バス停まで引き返す形で生家へと足を運んだ。  門を潜ると、左手に角栄の胸像が建てられてい た。毅然として力強く、それでいて木訥なあの顔 だ。歳のせいか涙もろくなった身には、もうそれ だけで感無量としか言いようはない。強いてその 場を離れ、生家の方へと歩き出す。生家の内部は 非公開ということだった。その右側から長い階段 を上る。五十段以上はあるだろうか。しかし気持 ちが昂ぶっているせいか、思ったより苦にならな い。  客が多いのは好天のせいだけではないだろう。 一昨年頃から、世間ではにわかに角栄ブームが起 こっていた。所用のついでに八重洲の大型書店に 入っだ砂田は、一面に平積みされた角栄本の山に 仰天したものだ。そのうちの何幵かを買って読ん だが、良い本もあればそう思えない本もあった。 警察にいた砂田も知らなかったような新事実が記 されているかと思えば、明らかな誤りがもっとも らしく述べられていたりもする。  ただ、どの本にも角栄の懐かしい写真が載って いて、それらを眺めているだけでも胸が一杯に なった。万年床の上で拾い読みしながら、考えず にはいられなかった。なぜ今になってこんなブー ムがと。これまでにも角栄再評価の波は何度か あった。それでも今回は今までと違う、どこか切 実で根源的な渇望を伴っているように感じられた。  そんなことを想っているうちに階段を上り終え た。  そこに、角栄の墓があった。  押しかけた客達がすでに列を作っている。順番 を待って持参した花を供えた砂田は、静かに手を 合わせて暝目した。  目白台の角栄邸に侵入しようとした暴漢を夢中 で取り押さえた巡査時代の夜。  入院中の病室に突然見舞いに来てくれた角栄の 底抜けの笑顔。  その明るさに、病院中に花が咲いた。  そして、金脈問題での内閣総辞職と、それに続 くロッキード事件の発生。  角栄の逮捕を最初に知らせてくれたのは、外事 課のフロアに駆け込んできた先輩の矢島だった I  そうした記憶が一度に甦ってきて、思いも寄ら ぬ混乱に陥った。  いけない、こんなIだが、どうしてもI 「ちょっと、早くして下さらない」  背後からの声で我に返った。振り返ると、後ろ に並んでいた中年の婦人が薄いサングラス越しに 目を見開くのが分かった。まさか泣いているとは 思わなかったのだろう。  「すみません……」  頭を下げて早々に立ち去る。善男善女の不審そ うな視線を背中に感じたが、どうでもいい。(ン カチを取り出して急ぎ顔全体を拭う。それでも涙 は止まらなかった。  田中角榮記念館もゆっくり見学していくつもり だったが、もうそれどころではない。早足でバス 停に向かう。  うららかな陽光の下、砂田は顔を伏せるように して上りのバスを待った。  一度縊れ出した想念は、帰りの上越新幹線の車 中でも尽きることがなかった。  かつての部下だった伴は、砂田が退職した三か 月後、海に転落して死亡した。警察は事故として 早々に捜査を打ち切った。北海道警の警備部で口 シアのスパイ事案を追っている最中だったらしい。  同僚の死に囚われ続けた伴は、自らもまた友と 同じく、インテリジェンスの狭間で謀殺されたの だ。友を失った深い悲しみと、友を奪った者への 深い憎悪とが、彼の人生を支配しただけでなく、 結局は不幸な運命を呼び寄せたように思えてなら ない。  圭子は中央署の署長としてキャリアを終え、大 手商社のコンプライアンス部門に天下った。そっ ちの世界でもやり手で通っているそうで、自分の 境遇との落差にはもう笑うしかなかった。  だが嫉妬はない。そもそも羨ましさを感じない からだ。自分にはできないし、やりたくもない。 圭子は自ら望んで、堂々とやり遂げた。元妻を讃 えても、貶める気はまったくない。  彼女自身が言ったではないかI「私は自分の 人生を生きてるの」と。  圭子は強い人間だった。自分よりもずっと。  微かな振動に身を任せて目を閉じる。  久我山の新築マンション。エプロンをして、台 所に立つ圭子。儚く潰えた結婚生活。  彼女と暮らした日々は、互いに傷つけ合ってい るようでいて、その実、二度とない輝きの中にい た。少なくとも自分にとっては。  それから、阿久津。  彼は結局、警視総監にも警察庁長官にもなれな かった。順当に行けばいずれかの地位は確実と見 られていたのだが、次長時代に女性スキャンダル を週刊誌にすっぱ抜かれて辞職を余儀なくされた。  だがそこからが本領発揮と言うべきか、かねて より時の政権に擦り寄っていた阿久津は、まんま と政治家への転身を果たした。今では内閣官房副 長官の要職を務めている。  阿久津という男には、最初から理想も使命感も なかったのだ。持っていたのはただの野心だ。若 い頃の自分はそんなことも見抜けなかった。いま いましいが、今さら嘆いても仕方がない。彼もま た、官僚としての本能に忠実であっただけとも言 えた。阿久津以上の厚顔の持ち主などいくらでも いる。警察にも政府にも。砂田は自らにそう言い 聞かせる。他にできることはない。  やがて新幹線は東京駅に着いた。宿泊予定だっ た旅行は、予定外の日帰り旅行に終わった。  退職と同時に引っ越してきた武蔵関の安アパー トに帰宅し、旅行鞄を下ろす。豊洲のマンション もILDKにしては決して家賃が高いわけではな かったが、いかんせん無職である。用心のため、 より家賃の安い木造アパートに移ったのだ。それ でも風呂は付いていて日当たりがいい。老人の独 り暮らしには充分だった。  着替えながらテレビをつけると、いきなり阿久 津の顔が大写しになった。  総白髪となった自分と違い、髪は黒々として 若々しさを保っている。さすがに老けたが、それ でもまだ往年の容色が残っていて、本人もそのこ とを意識しているのが見て取れた。  なんだろうと思ってしばらく眺めていると、政 治資金規正法に引っ掛かったということが分かっ た。昼間に撮影されたVTRでは、逃げるように 足を速めながら「秘書が勝手にやった」とお決ま りのフレーズを連発している。  風呂に入ってからビール片手にもう一度テレビ をつけると、阿久津の記者会見が始まろうとして いた。どうやら言い逃れのできぬ証拠が出てきて、 官邸にも見放されたようだった。  この期に及んでなお、尊大な態度をまるで隠し 切れていないところが阿久津らしい。  〈このたびは私の監督が至らず、秘書の手違いか ら関係者の皆様に誤解を与えたり、ご迷惑をおか けしてしまったとしたら、それについては大変申 しわけなく思う次第です〉  反省どころか、「みんなやっていることなのに 自分一人だけこんな理不尽な目に遭わされている ことが悔しくてならない」という正直な心があり ありと感じ取れる文言のオンパレードだ。それも また実に阿久津らしい。  次いで、そっくり返っているようにさえ見える 姿勢から、いかにも不本意そうに頭を下げた。  「申しわけありませんでした」  砂田はぽかんと口を開けた。  まったく謝罪に聞こえない、ふて腐れたような 口吻に対してではない。一瞬ではあるが、カメラ に向かって下げられた阿久津の頭頂部が、スダレ よりもまばらに禿げ上かっているのがモニター全 体に大写しになったからである。  あんなに二枚目ぶっていたのにI  人は誰しも年をとる。歳月とともに老いていく。 当たり前のことではあるが、唐突に全国ネットで 哂された阿久津の頭頂部は、奇妙な衝撃を伴って 砂田の網膜に焼き付いた。  その夜はなかなか寝つかれなかった。  一昨年八月、天皇陛下のビデオメッセージが放 映され、生前退位のお気持ちが表明された。それ はさまざまな論議を呼び、紆余曲折を経て、昨 年十二月には退位の日を来年の四月三十日とする ことが閣議決定された。  平成がまもなく終わろうとしている。  自分が人庁したのは昭和四十五年で二十二歳の ときだった。長い警察官人生の前半が昭和、後半 が平成だったことになる。どちらの時代にも大事 件があった。にもかかわらず、印象としては圧倒 的に昭和の方が強い。阪神淡路大震災、オウム、 アメリカ同時多発テロ、東日本大震災、福島第一 原発事故。いずれも平成の出来事であったという のに。しかもそれらの事件のいくつかには、多か れ少なかれ、警察官として自分も関わってきたと いうのに。  なぜだろう。平成が終わるというより、昭和と いう時代の残照がいよいよ薄れ、真に終わろうと しているかのような気分がある。  寝返りを打つと、枕元に積んであった角栄本の 山が目に入っだ。  思い切って起き上がり、明かりを点けて読み耽 る。  当時あそこまで角栄を叩いた日本人が、なぜ今 になって持ち上げるのか。  個人的な出来事から角栄に思い入れのある自分 でさえ、金権体質については口を濁さざるを得な いし、ロッキードの金を受け取ったかどうかと訊 かれれば、たぶん受け取っだのではないかと思う。  だが政治家の金権体質は角栄に始まったわけで もないし、角栄で途絶えたわけでもない。政治と は無制限に金を使うものであって、問題はその使 い方なのだ。そう言って悪ければ金を動かすとき の志なのだ。なのに日本人は、角栄だけを口を極 めて罵った。  そもそも日本人はどうしてあのとき、それまで 持てはやしていた角栄を、掌を返したように攻撃 し始めたのか。  本のページを静かにめくりながら考える。  福田赳夫や三木武夫との確執。アメリカの思惑。 著者ごとに各人各様の説が唱えられている。それ らのうち、アメリカの謀略らしきことに関しては 外事一課五係時代の砂田もその一端に触れている。 元ロッキード社社員ヘンリー・ワイズをいずこか へと移送していったCIAの男達。だがそれはあ くまでも〈一端〉であって全貌を明らかにするも のでは決してない。  問題はそんな細部ではないのではないかI  五係時代の忘れ難い体験を踏まえた上で、砂田 はようやく思い至った。  同世代の人々と言うと大げさだが、主に警察学 校で同期たった連中を思い浮かべるだけでいい。 もちろん例外もいるが、彼らの大部分に共通して いたのは、高度経済成長の波に乗れなかったとい う無意識の鬱屈だ。  待てI似たようなことがあったI  そうだ、『バブル景気』だ。そんなものがいつ、 どこであったのか、どうにも判然としない。浮か れ騒いでいたような世相であったことは漠然と覚 えている。自分は確かにあの時代を生きていたの に、バブルという言葉だけが自分の頭の上を知ら ないうちに通り過ぎていったような感覚だ。  高度経済成長もバブル景気も、その残骸だけが 悪夢の爪痕の如くに今も在るという点が共通して いる。経済的恩恵に浴することのなかった自分達 は、囗本の発展を謳歌している特権的な金持ち連 中を心の中で嫉んでいたはずだ。そんな心の澱が、 ほとんど限界まで蓄積されていた。  多数の本の中で、角栄のことを身近にいた人達 は一様に「オヤジさん」と呼んでいる。日本にお いて親分、もしくは親分肌の人物はごく普通にそ う呼ばれるため、今まで当たり前のように聞いて きたが、こうして振り返ってみると、そのことが 特別な意味を持つかのように思えてくる。  それらの本が指摘している通り、角栄が天性の 「人たらし」であったことは疑いを容れない。大 きすぎる包容力を持っていたがゆえに、日本人は どこかで角栄を自分達の〈父〉として認識し、甘 えていたのではなかったか。かくして蓄積された 憤懣は、最も身近で象徴的な〈父〉へと向けられ た。折から金権政治を批判されていた角栄に。  つまり、あのときの熱に浮かされたような角栄 叩きとは、日本人全体による〈父殺し〉であった のだ。  その後ろめたさが今になって角栄を懐かしみ、 過剰に持ち上げる精神状態につなかった。それこ そが角栄ブームの正体だ。  バカバカしいI  本を投げ出し、砂田は再び布団に潜り込む。  自分は評論家でもなんでもない、ただの老いぼ れた元警察官だ。  しかしそんな考えを頭の中から追い払おうとす ればするほど、よけいに考えてしまう。  角栄邸の門前で勤務して以来、自分はどこかで 角栄という人を〈父〉と思っていなかったと言い 切れるか。  退職してから知人の頼み事に何度も力を貸して きたが、それらのトラブルの中には、中国人との ものが少なくなかった。尖閣諸島を巡る問題が激 化してからは特にそうだ。  そんなヶIスに遭遇するたび、砂田は日中関係 の悪化を肌で実感したものである。そしてそのつ ど「角栄がいてくれたら」と思わずにはいられな かった。  かつて日中関係の改善に尽くした田中角栄は、 中国でも偉大な政治家として今も尊敬されている という。角栄による当時の対中政策は、もちろん 政治的な狙いもあってのことだったろうが、それ でも昨今の深刻な状況を見るにつけ、繰り返し思 うのだI「角栄がいてくれたら」と。  アメリカでは、マイノリテイヘのヘイトを主張 するトランプ政権が誕生した。常にアメリカに追 随する日本でも、あからさまな差別を煽る輩がい つの間にか跋扈している。  〈戦争を知っている世代が社会の中核にある間は いいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本 は怖いことになる〉  角栄の言った通りになってしまった。  自分の角栄贔屓は百も承知で、砂田はやはり心 に呟く。  アメリカも日本も情けないほどの小物ばかりだ I今こそ角栄がいてくれたらI  気がつけば空か白み始めてもいい時間になって いた。だが冷たい布団の中から見る窓の外は、未 だに明けぬ夜のただ中でしかなかった。  その囗の昼食は冷や麦にしようと決めた。さっ と茹でて水道の水で冷やす。薬味は刻んだネギと ミョウガがあれば充分だ。年寄りには量は要らな い。ゆっくりと時間をかけて食べ終える。食器を 丁寧に洗ってから、砂田は身支度を整え、アパー トを出て武蔵関駅に向かった。  途中で新しいコンビニを見つけ、人ってみた。 蒸し暑い囗で、何か冷たいものでも買っていこう と思ったのだ。冷房の効いた店内に入ってすぐ、 アイスクリームの並べられた冷凍庫が目についた。  そうだ、久しぶりにダブルソーダを食べてみよ  思いついた途端、なんだか少し嬉しくなった。 子供の頃に戻ったような、ちょっとした高揚感だ。  しかし、各種のアイスが整然と並べられた平型 冷凍庫をいくら眺め渡しても、ダブルソーダは見 つからなかった。  困惑して店内を見回す。しかしレジにいるのも、 商品を補充しているのも、みな外国人の店員だ。 ダブルソーダと言って通じるだろうか。  声をかけようか迷っていると、ちょうど傍らを 若い女性店員が通り過ぎた。名札を見ると日本人 だ。  「あの、すみません」  「はい?」  振り返った女性店員に、  「ダブルソーダはありませんか」  「ダブルソーダ? ドリンクですか」  「いえ、棒が二本ついてて、真ん中から二つに割 れるアイスです」  「さあ……ちょっとお待ち下さい」  面倒臭そうにそう言うと、女性は奥へと引っ込 んだ。  後に残された砂田は呆然となって視線を冷凍庫 の中へと戻す。  もしかして、今の子はダブルソーダを知らない のか? 信じられない、あのダブルソーダをI  「あ、お待たせしました」  顔を上げると、眼鏡を掛けた中年男性が立って いた。素早く名札に視線を走らせると「店長」の 表記がある。  「ダブルソーダは製造中止になりまして、今はも うどの店舗でも扱ってないんですよ」  「えっ」  心底驚いた。製造中止だって?  「ちょうど一年くらい前でしたかねえ。私も子供 の頃はよく食べたものですから、残念なんですけ ど……どうもすみません」  「いえ、ありがとうございました」  礼を述べて店を出る。  班長だった馬越と、ダブルソーダを分け合って 食べたのはいつだったか。  新人だった圭子とコンビニに入り、ダブルソー ダを買ったのは、確か東芝COCOMの頃だI  そうした思い出の数々が、ダブルソーダととも に忘却の淵へと押し流されていくようだった。  ただし東芝の件だけは、忘れたくとも向こうが それを許してくれそうにない。  平成二十一年と二十三年の所得隠し。不祥事が 絶えず、常に世間を騒がせ続けたこの名門企業で、 平成二十七年に致命的とも言える超巨額粉飾決算 が発覚した。無定見な原子力発電所事業の不振に より悪化した財務体質を隠蔽するため、粉飾に手 を染めていたのである。  技術立国日本を代表する企業であったはずの東 芝は、主力のパソコン事業も半導体事業も手放す ことを余儀なくされた。かろうじて倒産は回避し たものの、今や昔日の栄光も消え失せて、落魄の 無惨な姿を哂すのみである。  東芝はCOCOM違反事件の教訓を何一つとし て活かそうとはしなかったのだ。  芝公園の高級フレンチ『クレツセント』でク ラ圭フの誘いに乗り優雅な会食にうつつを抜かし ていた東芝の重役達を思い出す。COCOM違反 の自覚も反省もなく、自分達だけが特権階級であ るかのようにふるまっていた。  途方もない脱力感に襲われる。東芝の歴代社長、 歴代役員は、問題を隠し、先送りにし、自身の責 任を回避することしか頭になかった。苦しむのは 東芝の看板を支え続けた一般の社員や技術者達だ。  COCOM違反当時と何も変わらない。それど ころか、昨今の政治状況と符合するようで、薄ら 寒い思いばかりが募っていく。  国有地払い下げ問題に関する政治家や官僚の相 次ぐ虚偽答弁や公文書の改竄。徹頭徹尾、すべて が最初の愚かしい誤りの辻褄合わせだ。  どこを見ても嘘しかない。日本はいつの間にか 嘘がまかり通る国になってしまった。  毒々しい嘘の花は、COCOM違反が発覚した ときすでに発芽し、その粘つく蔓を日本中に伸ば しつつあったのだ。  自分達は、そのことについてもっともっと考え てみるべきだったI  沈んだ気分で武蔵関駅の改札を通り、西武新宿 線に乗る。高田馬場で東西線に乗り換え、日本橋 へ。  知人と会う約束があって出向いたのだが、その 前に少し歩きたくて早めに来た。  地上へと上がると、記憶にない光景が広かって いた。それでも方向くらいは分かる。ためらわず に歩き出した。  千疋屋の方へは行かない。クラ圭フの嘘は極上 の甘口だったが、嘘であったことには違いない。  まだ五月だというのに嫌になるほど蒸し暑い。 東京は年々暑く不快になっていく。クラ圭フと歩 いた頃の東京は、どこも清涼の気配に満ちていた。 もっとも、あのときの季節は秋であったが。  老いてすっかり肉の落ちた足を止め、日本橋の 上の首都高を見上げる。東京オリンピックの前後 に完成したという都心環状線だ。再来年には、ま た東京でオリンピックをやるという。自分も年を とるはずだ。  首都高を地下化して日本橋に再び日を当てると いう計画があるそうだが、詳しくは知らない。こ こがどんな光景になるのか、想像すらできなかっ た。自分の記憶にある日本橋は、すでに首都高に 覆われた暗い場所でしかない。その記憶は、まだ 少女のようだったクラ圭フと分かち難く結びつい ているところが哀しくもあり、懐かしくもあった。  オリンピックかI  間もなく平成が終わり、オリンピックが挙行さ れる。それは新しい時代の始まりとなるのだろう か。それとも終焉となるのだろうか。  前のオリンピックはよく覚えている。高校生の 頃だから当然だ。  オリンピックを巡る空気は、当時と今とではま るで違う。あのときは、日本中がオリンピックに 向けて盛り上かっていた。復興のシンボルである と誰もが信じて疑わなかった。  しかし今の日本にそんな熱気はまったくない。 日々露呈する運営の欺瞞に、誰もが不信感を抱き、 冷ややかな視線を投げかけるのみである。マスコ ミは盛んにオリンピックを喧伝しているが、CM 一つにも巨額の税金が投入されていることを誰も が知っているからだ。国民を欺き、途轍もない犠 牲を強いてまでオリンピックを強行しようとして いるのは、日本人なら当時のように熱狂するはず だと信じて疑わぬ老人だけだろう。さもなくば利 権に群がる財界人か。自分はまさに前者と同じか 少し下の世代に当たる老人だが、幸いにも恥とい うものを知っている。老人の無知と頑迷の害も分 かるし、若者の絶望も理解できる。これも長年外 事にいて、世間を突き放して眺める客観的な視点 が身についたせいだろうか。  いいや、と己で首を振る。自分は外事にいなが ら外事に染まれなかったはぐれ者だ。いばれるよ うな特技は何も持だない。  約束の午後三時、日本橋三越本店の新館四階に ある『宮越屋珈琲』に入る。相手はすでに待って いた。  「ご無沙汰してます、砂田さん」  白髪というよりは、見事な銀髪となった青野が 窓際のテーブルから手を挙げる。  「どうかしましたか」  こちらの視線を不審に思ったのか、ロマンスグ レーの青野が首を傾げる。  「誰かに似ていると思ってな。思い出したよ、塩 崎だ」  「塩崎?」  「写真は見たことがあるはずだ。六星インフォ メーションの塩崎だよ」  ああ、と青野が頷く。  「自分では考えたこともありませんでした」  定年を待たず、九〇年代の終わりに退職した青 野は、ネットーセキュリティーを中心としたベン チャー企業を起ち上げ、それなりの成功を収めて いた。実を言うと、砂田は退職時に青野から会社 の顧問になってくれないかと誘われたのだが、考 えた末、結局応じなかった。インターネットどこ ろかパソコン自体に疎いことが理由の一つ。もう 一つの理由は、自分がいると警察に目をつけられ てどんな嫌がらせを受けるか分からないと思った からだ。  それどころか、自分と交流があるというだけで 新会社が不利益を被るおそれがある。青野とも今 日まであえて距離を置いていたのだが、さすがに もういいかという気になってきて、再会に応じた のである。  「お酒でもご一緒できればよかったんですけど、 医者に止められてまして……」  「それはもう電話で聞いた。気にするな。俺だっ てこの歳だ、酒なんか控えた方がいいに決まって る」  退職を決意するに至った警察時代のストレスに 加え、新ビジネスを軌道に乗せる苦労も相当なも のだったに違いない。酒だけでなく、厳しい食事 制限を余儀なくされているということだった。  「で、どうなんだ、体の方は」  「おかげさまで、食事に気をつけてさえいれば問 題ないそうで……後は適度な運動を心掛けろって 言われましたね」  「そうか、じやあせいぜいジムにでも通うんだ な」  「入会はしてるんですけど、なかなか行く暇がな くて」  砂田はコーヒー、青野はアイスティーを注文し、 積もる話に時を過ごした。  「おまえ、本当は和泉も会社に誘いたかったん じやないのか」  機を見て尋ねてみると、青野は照れたような笑 みを浮かべ、  「どうしてそう思われたんですか」  「俺の下にいた頃、おまえ達は息がぴったりの名 コンビだったからさ。仲もよかったし。おかげで ずいぶん助けられたもんだ。俺は部下に恵まれた よ」  「いやあ、和泉はあっという間に偉くなったか ら……それに、あいつとは段々話が合わなくなり ましたし……」  それだけ言って語尾を濁した。  青野が警察を辞めた最大の要因は、國松長官狙 撃を巡る警察内の暗闘に深い幻滅を覚えたことに ある。その際に和泉の選択した態度が、青野を失 望させたとしても不思議ではない。  話は自ずと長官狙撃事件へと流れていった。  八年前、同事案は殺人未遂罪の公訴時効を迎え た。それと同時に警視庁公安部長が記者会見を開 き、同事案はオウム真理教の計画的犯行であると 述べ、警視庁のホームページ上に同一の内容を掲 載し公表した。  常軌も憲法も逸したその行為は、当然の如く激 しい批判に哂されたが、それが分かっていながら なお子供じみた自己弁護を展開し、体面に固執す る警察組織の妄念に、砂田は恐怖さえ覚えたもの である。  あのときの警察の強弁もまた、現代の政治状況 につながっていくI【すべてが最初の愚かしい 誤りの辻褄合わせ】。  「ご存じですか、尾ヶ瀬さんも加倉井さんも日本 オリンピック委員会の理事をやってるって」 「ああ、知ってる」  もはや笑うしかない。國松長官狙撃事件を迷宮 入りさせた張本人達は、いわゆる〈渡り〉の天下 りを繰り返して巨額の報酬を手に入れたばかりか、 各種団体の名誉顧問や理事職に納まっていた。 尾ヶ瀬に至っては、大学や企業等で〈危機管理に ついて〉の講演会まで頻繁に行なっている。開い た口がふさがらないとはこのことだ。  そんな連中を理事に押し戴いて開催されるオリ ンピックだ。到底まともなものとは思えないが、 虚飾と不誠実にまみれた平成の、次なる時代の幕 開けを飾ると考えれば、案外相応の腐れ具合と言 えるかもしれない。  日頃の気晴らしにそんな毒を吐き合って青野と 別れた。  暮れなずむ街に消えるかつての部下の背中は、 心なしか昔より幾分曲がって、ずいぷんと小さく 見えた。  とうとう言えなかったなI  青野の後ろ姿が完全に見えなくなってから、己 の弱さを責めつつ踵を返す。  昔使っていた〈情報卸業者〉から〈閉店サービ ス〉として三日前に聞いた話だ。退職後、大手保 険会社の役員に天下った和泉は、半年前病気療養 のため辞任した。病名は知らない。それが闘病の 甲斐なく、二週間前に亡くなった。病を得てから 警察関係者とは一切の連絡を斷っていたらしいの で、知っている者はほとんどいないという。  そのことを青野に告げようと思っていたのだが、 できなかった。寂しげな翳りをまとった青野の顔 を眺めていると、どうしても言えなくなってし まったのだ。  意気盛んだった頃の二人を思い浮かべ、砂田は 一層俯いた。  互いに競い合い、高め合う、信頼に結ばれた二 人。ともに前途洋々の若者だった。和泉と青野だ けではない。盛岡も、そして伴も。みんな優秀で、 自分には過ぎた部下達だった。  奴らも俺も、警察なんかに入っだばっかりに I  六月十二日、シンガポールでトランプ大統領と 金正恩が史上初の米朝首脳会談を行なった。  その様子をテレビで観ながら、砂田は北朝鮮に 関するさまざまな出来事を振り返らずにはいられ なかった。  平成二十三年に金正日が死去したとき、後継 者として世界の表舞台に浮上したのが『金正恩』 であった。  退職した身ではあっても、それでも警察関係者 の声はさまざまな経路から砂田の耳にも入ってく る。  曰く、「なんだよ、ジョンウンて正雲じゃなく て正恩と書くのかよ」。  そうなのだ。北朝鮮の情報が徹底的に遮断され ていたため、当時は金正恩の存在は把握されてい ても、漢字表記は『正雲』とされていた。それゆ え警察や外務省をはじめとする公的機関も、民間 の軍事アナリストも、みな『金正雲』だと思い込 んでいたのだ。  後継者問題を巡る金一族の複雑怪奇な関係につ いては公安でも情報の収集に余念がなかった。そ れでも重大な遺漏があった反面、金正恩なる若い 男の性格は極めて冷酷且つ狷介であることが判明 していた。  昨年二月、金正男がマレーシアのクアラルン プール国際空港でVXガスにより暗殺された。  その第一報に接したとき、砂田の頭をよぎっだ のは「やはり……」という感慨であった。  例の〈ディズニーランド〉の一件があるだけに、 砂田も意識して情報を集めた。  実行犯である女性二人は現地調達の素人だが、 中心となったのは朝鮮人民軍偵察総局19課。国家 保衛省も支援したと見られている。命令者はもち ろん最高指導者の正恩だ。十七年前の密告が彼の 母である高英姫によるものであったとするならば、 その凄まじい執念が長い時を経てこういう結果を もたらしたということになる。  だが、何より砂田の目を惹いたのは、金正男が 直前まで一緒に暮らしていたという愛人の名前で あった。  金正男不法入国事件のとき、和泉の漏らした 言葉が鮮明に甦る。  −私はむしろ、この女に注目していますI 夫人と息子の世話係だと言っていますが、監視役 も兼ねているのでしょう。  和泉の意見は砂田と一致するものだった。  女の名は、徐英羅。  金正男一家とともに不法入国した機関員である。 高麗航空のキヤビンーアテンダントを経て朝鮮労 働党第126連絡所の職員となる。この『126 連絡所』とは、対韓国工作部署の別名として知ら れている。  その後、正男と愛人関係になっていたが、暗殺 の直前に姿を消している。なんらかの形で暗殺計 画に関与していたと見るのがインテリジェンスの 常識だ。  やはり帰すべきではなかったのだI  あのとき金正男を拘束していれば、北朝鮮の歴 史も、正男自身の人生も、もっと違うものになっ ていたはずだ。そして日本人拉致被害者達の運命 も。  平成三十年の現在、北朝鮮で数多く存命してい ると見られる残りの拉致被害者は、未だ一人も帰 還していない。  七月六日、麻原彰晃以下、早川紀代秀、井上嘉 浩、新実智光ら七人のオウム真理教幹部の死刑が 執行された。七人同時の執行はまさに特例と言う はかない。  オウムによる一連の犯罪はまぎれもなく平成初 期を代表する重大事件であるが、彼らの死を以て 平成が締めくくられるのかと思うといよいよ暗澹 たる気分になる。  改めて想うI平成とはなんだったのか。  砂田にとって、厳密な答えはもはや必要ではな かった。そんなものは後世の歴史学者がどうとで もしてくれればいい。  自分が体感する答えはただ一つI平成などな かったということだ。  高度経済成長が永遠に続くわけもない。だが一 瞬のバブルよりは充実していた。たとえ時流に乗 れなかった身であっても。  経済的には『失われた十年』とよく言われた。 あるいは『失われた二十年』か。そんな言葉を耳 にするたび問い質したくなった。ならば今はもう 失われていないのかと。  冗談ではない。今もずっと失われたままだ。自 分達はないはずの時間の中を、あると言い聞かさ れるままにさまよい歩いているだけなのだ。それ が平成という名の幻だ。  折から、西日本では未曾有の豪雨が降り続いて いるさなかであった。平成三十年七月豪雨である。 気象庁では五日午後二時に異例の警告を発してい たにもかかわらず、政府が非常災害対策本部を設 置したのはそれから六十六時間後のことだった。 その時点で、取り返しのつかない時間が空費され ている。  報道される被災地の悲惨さにいたたまれず、砂 田は衝動的に炎天下の街へ出た。目的地もなく電 車に乗り、やみくもに乗り換えを繰り返し、ター ミナル駅で降りる。  自分は一体何をやっているのだ?  その自問は、頭の中で勝手にこう変換される I「自分は一体何をやってきたのか」と。  ずっと読み耽っていた本のせいだろうか。あの 懐かしいだみ声が聞こえてくる。  −いい政治というのは、国民生活の片隅にあ るものだ。目立たず慎ましく、国民の後ろに控え ている。吹きすぎていく風。政治はそれでよい。  もちろん実際に聞いたものではない。角栄の名 言集か何かに含まれていたものだろう。しかし今 の砂田には、目の前に角栄が立っていて、直接言 い聞かせてくれているように思えた。場所はもち ろん目白台の門前だ。着任したばかりの砂田巡査 は、直立不動の姿勢でそれを聞く。  その言葉は、何から何まで今の政治と正反対 だった。  角栄は巨額の金を受け取り、動かしたかもしれ ない。だがそれは、自分と自分の周辺にいる者達 のためにではない。国民のための金だったのだ。  なのに日本人はIあんなにも角栄をI  「お爺さん、どうかしましたか」  気がつくと、目の前に制服警官が立っていた。 若い頃の矢島に似た精悍な面差しだった。  我に返って立ち止まる。いつの間にか泣いてい たようだ。縊れ出た涙でシャツの襟元まで濡れて いた。  「え……いや、なんでもありません」  慌てて(ンカチを取り出し、涙を拭う。  「年をとるとね、目も言うことを聞かなくなるよ うで」  「そうですか。暑いですから、熱中症には気をつ けて下さいよ」  「ありがとうございます」  「いえ、では」  礼を言うと、若い警官は会釈して立ち去った。  ふう、と息を吐いて再び歩き出す。  熱中症か。自分の若い頃はなかった言葉だ。実 はあったのかもしれないが、少なくとも自分が耳 にしたことはなかった。  ひたすらに歩き続けていると、大きな書店が見 えてきた。いつか入ったことのある店だ。迷わず 入店し、角栄コーナーに直行する。  だが、なかった。  あれほど並んでいた角栄関連の本が、いくら探 しても見つからない。  もうブームが過ぎたのかI  いつもそうだ。いなくなってから懐かしみ、そ して忘れる。同じ過ちを繰り返す。  店頭から消えた角栄コーナーは、昭和の名残が ついに消滅する、その象徴であるかのように思わ れた。  七月の連休は記録的な猛暑であった。  できればアパートでじっとしていたかったが、 外せない所用があって横浜まで出かけた。  帰途、思い立って横浜駅とつながっているジョ イナスの地下一階にあるクイーンズ伊勢丹横浜店 に寄ってみた。夕食を作るのが面倒だったので、 弁当でも買って帰ろうと思ったのだ。近所の飯屋 はもう飽きた。コンビニ弁当はなおさらだ。ここ ならば、何か珍しいものがあるかもしれない。  色とりどりの高級食材が並んだ棚を見て回る。 値段は高めだが、さすがに品揃えが豊富だった。  ぶらぶらと歩いていた砂田は、前方の人影に気 づいて足を止めた。  輸入食品の棚の前。キャビアの瓶詰を手に取っ て、ためつすがめつしている老婆がいる。  外国人で、身なりはお世辞にも上等とは言えな い。スーパーの衣料品コーナーで売られているよ うな安物のワンピースだ。押しているカードには、 タイムセールの赤いシールが貼られた食品ばかり が入っている。  息が止まった。  クラーラー  髪は黄金の輝きをすっかり失い、錆びた銅線の ように垂れ下がっている。一度太ってから萎びた 肌は、老いの惨さを露わにしていた。白内障の兆 候を示す濁った双眸も、その下の隈も、顎の下の 弛みも、何もかもが別人のような変貌ぶりだった。 かつては誰もが振り返る美貌であったのに、今は 誰も振り返らない。それどころか、みな視線を逸 らして避けるように通り過ぎる。  しかし、分かる。自分には。自分の目には。  囗本に住んでいたのかI  彼女の資料は今でも外事のファイルにあるはず だ。FSBの機関員であったことは判明している。 しかし逮捕できる容疑はない。証拠のある事案に 関してはすべて時効となっている。  さりげなく周囲を見回す。監視はない。外事も 放置しているということか。  チェーカーは死ぬまでチェーカーだ。しかし彼 女は豊洲での別れ際に「事務職に異動させられ る」と言っていた。現在の外見からしても現役で はあり得ない。それどころか、本国から支援を受 けているとも思えない。やはり外事も問題なしと 見ているのだろう。  値段のシールをしげしげと見てから、クラーラ は首を振ってキャビアの瓶を棚に戻した。高価す ぎてあきらめたようだ。  カードを押して移動しようとしたクラーラが、 こちらに気づいて目を見開く。  店内からすべての音が消えた。  代わりに聴こえてきたのは、繊細で、華麗で、 歓喜に満ちたクラシックだった。  曲名までは分からない。しかし聴いていると、 異なる旋律を挟みながら、同じ旋律を何度も繰り 返していることが分かる。  クラ圭フが、一歩踏み出す。  こちらも、一歩。  クラーラが、また一歩。  そして、こちらも。  ついに、互いの顔が間近に寄った。  クラ圭フの目が、わずかに輝きを取り戻す。  −会えるとは思わなかった、あなたに、砂田。  −囗本にいたのか。  −ええ。  もちろん言葉には出していない。出さずとも分 かる。互いの瞳を見ているだけで。  −よく分かったわね。私、こんなに変わっだ のに。  −分かるよ。第一、変わったと言ってもほん の少しだ。  −墟。  −嘘じゃない。君は今も美しい。  −相変わらずお世辞が下手ね。  −出世できなかっだのはそのせいかな。  −そうかもね。でも、私はあなたのそういう ところが好きだった。  −分かってた。だが俺は、それに応えること ができなかった。  −しようがないわ。だって、あなたと私は ずっと敵同士たったもの。  −本当にそうだったんだろうか。俺達は二人 とも、敵とすべき相手を間違えていただけじゃな いのか。  −考えても無駄よ、そんなこと。あなたは囗 本の外事で、私はKGB。選択肢なんてあるはず ない。お互い全力で戦った。それが私達の人生 だった。楽しかったわ、正直に言うとね。  −そう思えるところが、君の魅力なのかもな。  −今のは、お上手。  思い切って、おずむずと。  クラーラに手を差し伸べる。  微笑んだクラ圭フが、チャーミングに一礼して その手を取った。  音楽が高まる。  砂田はクラーラと踊り出した。鮮やかな円を描 くように回りながら。  クラシックで踊ったことなど一度もないし、そ もそも踊り方などまるで知らない。  しかし踊った。クラーラと。一つになって。  周囲を行き交っていた買い物客達も、全員が互 いに手を取って踊り始める。  クイーンズ伊勢丹の食品売場が、今は些麗な王 宮のダンスホールヘと変わっている。  踊るにつれ、回るにつれ、クラーラの光が増し ていく。目にも眩い黄金色だ。  肌からは黒ずんだくすみが消え、背筋もいつの 間にか伸びている。手足は小鳥のようにしなやか になった。何よりも青い瞳の澄んだ深さだ。  淡いオレンジ色のワンピース。東陽三丁目の倉 庫で初めて会ったときに着ていた服だ。それがす ぐに、水色のカーディガンに変わった。  −千疋屋で着ていた服だね。  −覚えていてくれたのね。  −忘れられるものか。九月たった。日本橋ま で二人で歩いた。  −素敵だったわ、あのときは。  −でも君は俺を騙していた。  −それがゲームよ。引っ掛かったときのあな たの顔と言ったら。  −こんな間抜け面だったかい。  −そうよ、その顔。あのときのままだわ。  着古したYシャツだけだった自分の恰好も、気 がつけば真新しいスーツ姿に変わっている。ただ しデザインは古い。七〇年代のものだからだ。ク ラ圭フの手を握る自分の手指からも、皺や染みが きれいに消えている。  −若かったな、あの頃は。  −あら、今でも若いじゃない。知ってた? あなたって、とってもかっこいいのよ。エキゾ チックで、スマートで、優しそうで。  −ロシア人にはそう見えるだけだろう。  −そうかしら。男らしくて、私は好きよ。  −でもこれは、現実じゃない。  −いいじやない。みんな楽しそうよ。  彼女の言う通りだった。主婦も、サラリーマン も、学生も、みんな優雅に踊っている。  −これでいいの、人生は。だってI度きりだ から、泣いても悔やんでもしようがない。やるだ けやったのなら、後はすべてを受け入れるだけ。  こうして時代が回っていくのか。皆が夢中で踊 る輪舞のように。  何度も出会い、そのつど踊り、また別れる。  クラ圭フと何度出会ったことだろう。  ロッキード、東芝、ソ連崩壊、長官狙撃。  それらの出来事を縫うように、クラ圭フはくる くると踊り続ける。伸びやかに、しなやかに。全 身で人生の喜びを表現しながら。  踊っている客達の中に、逢沢や伴の姿も見えた ように思ったが、気のせいか。  あそこで身を寄せ合っているのは、塩崎と秘書 の結野か。しかし自分は、結野と面識などなかっ たはずだ。  馬越は誰と踊っているのだろう。確か夫人と娘 さんがいた。  フード付きのコートで顔を隠しているのはヨー シフか。こんなところで無粋な奴だ。  久しぶりだなあ、盛岡。おまえの消息だけは俺 も知らないというのに、そっちから顔を見せてく れたのか。  −ねえ、あたしだけを見て。  −見てるさ。  −また嘘が下手になったわね。  少女だったクラーラが、魅惑的な大人の女性へ と変わった。それから豊満な女性へと。  −そうだ、君はいつだって美しかった。最初 に会ったときから、俺はずっと君に惹かれていた。  今だから言える。だが、もっと早くに言うべき だった。  −ありがとう、会えてよかった。  −え?  オフホワイトのブラウスチュニック。豊洲のマ ンションを単身訪ねてきたときの服装だ。  −もう行かなくちや。これ以上踊っていると、 お互いに傷つくだけ。私達は同じ時代を生きた。 もう充分。最後にこうして会えだのは、きっと神 様の贈り物ね。  −神様の贈り物とは、腕利きのスパイらしく もない言葉だね。いや、お得意の謎かけかな。あ れは君ならではのテクニックだった。  −最高の褒め言葉だわ。ありがとう、砂田。  演奏が終わった。優美な音楽は消え薄れて味気 ない店内放送が流れ出し、踊っていたはずの客達 は思い思いの方向へと散っていく。  無言でこちらを見つめていた老婆は、何も言わ ずに視線を逸らした。無表情のままカートを押し て砂田の脇を抜け、レジの方へと去っていった。  砂田もまた、最初から最後まで声をかけたりは しなかった。  老婆とすれ違うように、反対方向へと痛む足を 動かして歩き出す。  ふと立ち止まり、振り返る。  陳列棚の合間を進んでいたクラーラの後ろ姿が、 人混みにまぎれて見えなくなった。  同時に、昭和と平成の幕が下りる。  幻影であるとは分かっていても、砂田にははっ きりとそう見えた。    読者の胸をまさ。る小包と’vnかを月ヽ了 側孀。21‥‘。い。伺                    杉江松恋                     (書評家)  まさに人こそが小説の幹なのである。  物語に出てくるものはすべて虚構だ。だが、そ こには人の心が描かれている。ゆえに絵空事であ るにもかかわらず、ページをめくる者の気持ちを ざわめかせる。読み手によっては、登場人物に自 身を重ね合わせてしまうことさえある。すべては 現実の似姿として作り出された空中楼閣に過ぎな いが、そこには人の影があり、息吹を感じる。  『東京輪舞』を読み終え、改めて小説という表現 形式の奥深さに思いを馳せた。本作は月村了衛が 「週刊ポスト」二〇一七年二十一号から二〇一八 年三十号に連載した長篇である。単行本の奥付は 二〇一八年十月三十日初版第一刷発行となってい る。今回が初の文庫化だ。  これは、警察一筋に生きた砂田修作という男 を主人公とする作品である。昇進試験を受けて巡 査部長になったとき、彼が配属された部署は警視 庁公安部の外事一課だった。警察小説の流行によ り、その制度についても一般に知られるように なっている。念のために書いておくと、警察組織 は一般犯罪を取り締まる刑事部と、治安維持を行 う警備部に二分される。後者に属する公安部外事 一課はスパイ案件も視野に含めた国際案件を担当 するのである。砂田がそこに配属された一九七六 年に世間を騒がせたのが、旅客機発注を巡って起 きた大規模な汚職事件だ。いわゆる「ロッキード 事件」であり、時の内閣総理大臣であった田中角 栄が受託収賄罪他の容疑で逮捕されるという衝撃 的な事態が出来した。新米の公安警察官である砂 田は、渦中のロッキード社の元社員だという男性 の現況調査と身柄確保を命じられる。それが第一 章「1976 ロッキードの機影」の発端だ。  砂田が警察になったのは世界が二極に分かれて いた冷戦の時代である。アメリカ陣営に属する日 本は、当然ながらソヴイェト連邦を中心とした共 産圏を仮想敵としていた。第二章「1986 東 芝COCOM違反」で言及されるのは、共産主義 諸国への軍事技術や戦略物資の輸出を禁じた協定 を私企業が破っていたことが発覚した事件である。 しかし、永遠に続くかと思われていた東西対立の 構造は、ソヴイェト連邦の相対的な弱体化から崩 れていく。第三章「1991 崩壊前夜」は、日 本国内にいる砂田にもわかる形でその動乱が伝 わってくるという内容である。同国の瓦解によっ て冷戦体制は無化されるが、明確な対立構造がな くなった代わりに、別の形で秩序紊乱を目論む者 たちが現れる。第四章「1994 オウムという 名の敵」以降は、そうした暗黒の事態が描かれて いく。  このように各章で、実際に起きた出来事につい ての言及が行われる。砂田は一人の警察官の立場 から、あるときは担当者として深く関わり、また あるときは部外者として遠くから眺めるという形 で、それらに関わっていくのである。いや、どの 場合でも本質的に砂田は傍観者だと言っていい。 事態を見守ることしかできない男が主人公なのだ。  これは砂田が公安の警察官だからでもある。刑 事部の警察官は犯人を逮捕し、事件を解決する。 だが警備部に求められることは違う。彼らの任務 はあくまで治安維持、つまり国家という体制が揺 るがないようにすることなのだ。極論すれば、現 状を保てるのであれば、事件解決は必要がないと さえ言える。砂田が傍観者となるのは、職業上の 必然なのである。  ここに『東京輪舞』という物語の妙味がある。 いくつもの事件、事態を間近で見聞きしながら、 本質的には何も手を出すことが許されていない男。 それが砂田だ。この構図は、歴史と個人、あるい は社会と個人という関係の縮図でもある。人間が 精一杯に努力をしても、触れられるのは腕の届く 範囲にすぎない。拠って立つ大地を自分の力で動 かせる者はおらず、大いなるものの変化には従う しかない。そうした個人の卑小さを砂田の立場と して表現しつつ、一方で彼が胸に抱く激しい思い を作者は描いていく。警察官としての理想が彼に はあり、自分なりの正義を貫こうとするのだ。明 確な職分が存在して行動は制限されるが、縛られ れば縛られるほど読者は彼の中に渦巻く熱情を知 りたくなる。砂田は決して賢い人間ではなく、私 生活の失敗や職業上の挫折も体験する。愚かさか ら逃れられない、まさしく一個の人間であること を作者は強調し、そんな人間の内奥に掘り下げる に値する精神が存在することを印象づけていくの である。それゆえ、事態の傍観者に過ぎない人物 に読者はたまらなく惹きつけられていく。  砂田はスーパーヒーローではなく、逆に無力な 個人であることによって主人公だりえている男だ。 そうした特性を際立たせるために、作者は入念に 人間関係を作り上げている。彼にとって大きな意 味を持つのが、クラーラ・子フストヴナールシー ノワという女性だ。彼女はKGB(ソ連国家保安 委員会)機関員であり、砂田を利用しようと幾度 も接触を図ってくる。危険と知りつつも、なぜか 関わってしまう。クラ圭フと出会ったことで砂田 の警察官人生は大きく歪んでいくのである。彼女 はフアムーフアタール、つまり男の運命を狂わせ る女だ。単なる魔性の持ち主ではなく、ソ連とい う国の底知れない闇、複雑に入り組んだ利害関係 といったものを背負った登場人物として描かれる 点にご注意されたい。  もう一人重要なのは、阿久津武彦という警察官 だ。阿久津は砂田とは違いキャリア、すなわち国 家試験に合格した警察官僚である。警察組織の動 向全体を見る役割であるキャリアと、実働部隊と して働くノンキャリアは、見ているものも進む方 向もまったく異なる。この阿久津を配置すること で、砂田の立場が強調されることになるのだ。第 一章では、巡査時代の砂田が時の総理大臣であっ た田中角栄に言葉を掛けられて感激する場面が出 てくる。ロッキード事件で失脚する前の田中は庶 民宰相として人気があり、彼の唱えた日本列島改 造論は右肩上がりの成長を保証するような、高度 成長期の日本人が見た夢そのものだった。それを 信じた砂田は昭和という時代の幻影を見たのだと 言ってもいい。阿久津という怜悧な官僚と彼が体 現するものは、砂田の甘い夢を破ることになるだ ろう。  月村了衛の小説家デビュー作は、二〇一〇年発 表の『機龍警察』(現・(ヤカワ文庫JA)だ。 この物語の中では市街地での近接戦闘を目的とし た有人操縦型の兵器が普及しており、配備された 部署があるという設定だ。同作はシリーズ化され、 第二作『機龍警察 自爆条項』(二〇一一年。同) が第三十三回日本SF大賞、第三作『機龍警察 暗黒市場』(二〇匸一年。同)が第三十四回吉川 英治文学新人賞をそれぞれ受賞している。設定が 魅力的であるだけに読み手としては戦闘場面につ い目を惹かれてしまうが、作者の狙いは兵器を描 くこと自体にはない。特殊な技術が存在すれば、 情報を巡る争いがさまざまな位相で発生する。作 者が目指しだのはそうした群像劇なのであり、非 情な諜報戦のありようを描いた英国型スパイ小説 が念頭にあったモデルなのではないかと思われる。  月村は欧米のスパイ∴目険小説を吸収して育っ た世代の作家である。二〇一四年に発表した『土 漠の花』(現・幻冬舎文庫)で第六十八回日本推 理作家協会賞長編及び連作短篇集部門を受賞して いる。国際連合平和維持活動(PKO)でソマリ アに派遣された自衛隊が現地で戦闘に巻き込まれ てしまうという内容で、絶体絶命の危機をかいく ぐって主人公が生還を果たすという冒険小説の基 本形に徹した長篇たった。法律によって交戦を禁 止されている自衛隊員が、闘わなければ自らは死 ぬという二律背反の状態に追い込まれる点が同作 の肝である。活劇という「動き」を見せることを 主目的とした小説においても、登場人物は単なる 駒でいいわけではなく、人間らしい内面を備えて いる必要がある。そのことに月村は作家生活の初 期段階から自覚的であった。  もちろん活劇そのもの、登場人物を止まらずに 動かし続けることに長けた作家であることは、第 十七回大薮春彦賞を授与された『コルトM 1851残月』(二〇匸一年。現・文春文庫)な どの作品を見れば明白だ。そうした冒険小説を書 きながら月村は、どのようにして次の段階に行く かを考えていたのではないかと思われる。主人公 の動きで見せるだけではなく、大きな状況の中に 投げ込まれた人間がどのように翻弄され、流れに 抗っていくか。社会と個人の関係を描いた小説に 挑戦するというのがその答えであった。『東京輪 舞』を書くことによって、月村は作家として新た な境地へ踏み出したのである。  『東京輪舞』のあとに月村は、同趣向の長篇を続 けざまに放っている。二〇一九年の『悪の五輪』 (講談社)は、アンソロジー『激動/東京五輪 1964』(二〇一五年。講談社)に掲載された 「連環」を原型とする長篇で、東京五輪の記録映 画制作を巡る暗闘の物語である。その次の『欺す 衆生』(二〇一九年。新潮社)は、戦後犯罪史に 残る豊田商事事件に材を取った作品だ。ペーパー 商法で多くの犠牲者を出した豊田商事は、暴漢に よって会長が刺殺されるという衝撃的な事件に よって解散に追い込まれる。その残党は四方に散 らばり、同社で培ったノウ(ウを活かして新たな 詐欺事件を生み出したのである。『欺す衆生』は そうした残党たちの物語であり、第十回山田風太 郎賞を授与されるなど高い評価を集めた。  事実や事件に因んだ作品が続いてはいるか、こ こまで書いてきたように題材に寄り添うことが作 者の目的ではない。物語の構造を見るとそのこと はわかりやすく、これらの長篇で月村は、古典的 なプロットを採用してむしろ筋書きを単純化しよ うとしている。たとえば『欺す衆生』で採用され ているのは、悪魔に魂を売った人間が破滅に向 かって進んでいくというファウスト伝説のプロッ トだ。どんでん返しなど、入り組んだ話の運びで 読者を驚かすことよりも、単純だが剛直で、その 中で登場人物たちが動き回ることに適した物語を 月村は選んでいる。砂田のような主人公を活かす ためには、広く弾力性のある舞台が必要となった のである。これは第二期月村了衛の特徴である。 『東京輪舞』から『欺す衆生』、さらに二〇二〇 年の『白日』(KADOKAWA)と見ていくと、 もう一つの変化が起きていることがわかる。社会 の中に孤独に立つ個人を描くという基本の構えは 同じだが、主人公が一人ではなく、家族を持つ存 在に設定されているのである。『欺す衆生』の主 人公・隠岐が犯罪だと承知しつつも詐欺を続けた のは、養うべき家族がいたからであった。守るべ き家族がいる人間が、他人を食い物にし続けると いう皮肉な構図が同作の肝である。個としての人 間は、一人ではあるが家族という最小の社会集団 の一員でもある。その点に月村は着目したのだろ う。『白日』では、主人公が職業人として直面し なければならない事態と、家族として解決すべき 課題とが同等の重みで描かれる。人の心を掘り下 げていくという作家の試みは、そうした物語へと 到達したのである。  月村は挑戦を続ける作家であり、作品の形もこ の先どんどん変わっていくはずだ。重要なのはデ ビュー作の『機龍警察』から転換点となる『東京 輪舞』、そして最新作と外観はまったく異なるが、 すべての作品に同じ志が貫かれている点である。 小説は人間の読むものだから、その人間の心を動 かすものでなければならない。作家は貪欲に作品 のありようを追究し続けるだろう。追いかけて読 み、月村の向かおうとするところを知らねばなら ない。どこへでも行け、月村了衛。その理想とす る境地へと。       本書のプロフィール 本書は、二〇一八年十月に小学館から刊行された 単行本を文庫化したものです。 ※この作品はフィクションです。 月村了衛 冲yoμQHxμrヨ∃μ 一九六三年、大阪府生まれ。早稲田大学第一文学 部文芸学科卒。二〇一〇年『機龍警察』で小説家 デビュー。匸一年『機龍警察自爆条項』で日本 sF大賞、匸一年『機龍警察暗黒市場』で吉川 英治文学新人賞、一五年に『コルトM1851残 月』で大薮春彦賞、『土漠の花』で日本推理作家 協会賞、一九年『欺す衆生』で山田風太郎賞を受