永遠についての証明_岩井圭也  すぐには信じてもらえないだろうが、しかたない。  熊沢勇一は話をどう切り出すべきか迷っていた。 にわかには信じられない話だ。妄想と一蹴されても おかしくない。説得するには、心情に訴えかけるし かなかった。  中庭に面した壁は一面ガラス張りで、赤く咲き乱 れるツツジが見えた。残りの三方は純白の壁に囲ま れている。無菌室。そんな言葉が似合う部屋だった。  「国数研はきれいでうらやましいですよ」  熊沢がつぶやくと、テーブルをはさんで向かいに 座る小沼は穏やかな表情で前髪をかき上げた。いつ もの癖だ。  小沼とは昨年の年会で会って以来だ。この数年で 白髪の割合が急に増し、頬の肉もこけ落ちた。五十 代もなかばに差しかかり、老いの輪郭がはっきりと 見えている。それでも貧相にならず、むしろ品性を 備えているように見えるのが、熊沢にはずるく思え た。  「最近、改築したからね。前はびっくりするほど古 い建屋だったけど。ここ何年か行ってないけど、理 学部棟は今でもあのまま?」  「壁なんかもう、元が何色だったのかわからなく なってます」  「私立大学であそこまで建物が古いのもめすらしい よねえ」  穏やかな顔つきとは裏腹に、瞳に宿った切迫感は 隠しきれない。明らかに小沼は焦れていた。  「クマと会うのも久しぶりだから色々話したいけど、 こっちもそんなに時間はない。まさか准教授の就任 挨拶のためだけに来たわけじゃないんだろう?」  小沼は数学の才能だけでなく、人間を見抜く目に も長けていた。研究者として優秀なだけでは国数研 のフェローは務まらない。それでなくとも熊沢は小 沼の教え子だ。考えていることなど、おおかた見破 られている。熊沢は腹を決めた。  「先日、部屋を整理していたら変わったものが出て きまして」  「埋蔵金でも出てきたかな」  ある意味では埋蔵金に違いない。もしくはガラク タかもしれないが。  「踪司の……一一一ツ矢踪司の研究ノートです」  小沼はわずかに顔をしかめた。六年も前に亡く なった教え子の名だ。不審に思うのは当然だろう。 しかし、すぐに平静に戻って話をうながした。  「研究室に置いていったのか」  「いえ。個人的に家族から譲り受けたものです。帰 国やら移動やらでハタハタしていて、目を通せな かったんですが」  それにしても六年は長すぎる。熊沢は自分の言い 訳に恥じ入っだ。  「それで?」  「そのノートがこれです」  熊沢は紙袋から分厚い大学ノートを取り出した。 三百ページ以上に及ぶ冊子は、ちょっとした辞典ほ どの重量がある。無地の表紙には茶色い染みや折れ 曲がった跡があり、長年使われていたことがうかが える。熊沢が表紙を開くと、記号と英単語でびっし りと埋めつくされたページが現れた。癖のある右上 がりの字体。余白にまでメモや走り書きがあふれ、 手垢やインクでところどころ汚れている。  小沼は手渡されたノートを幾度かめくっただけで 閉じてしまった。急速に興味を失ったらしい。悲し げに首を振る。  「申し訳ないが、私には意味がわからない。彼の晩 年については、熊沢君もよく知ってるだろう」  暸司の晩年。熊沢にとっては思い出すのもつらい。 変わり果てた彼の姿が痛ましいからというより、自 分の言動を後悔するからだ。しかしこのノートを見 つけたことで、当時の記憶は嫌でもよみがえる。  「元はといえば私か推薦したせいだからね。悪いこ とをしたと思っている」  「そんなことを話したいんじやありません。ここを 見てください」  熊沢はあらかじめ付箋を貼っておいたページを広 げ、文頭を指さした。 〈以下にコラツツ予想の肯定的証明を示す〉  小沼は身を乗り出し、食い入るようにノートを見 つめた。そこに記述された記号は、ほとんどが現代 数学に存在しないものだった。未知の言語で記され たノートをたっぷりと凝視し、やがて小沼は顔を上 げた。  「本当か」落ち着きを失った小沼は泡を食って詰め 寄った。今度は熊沢が首を振る。  「残念ですが、私にもここに書いてある証明の意味 は理解できません」  熊沢はこの一文を最初に読んだ瞬間を、鮮明に記 憶している。部屋の整理中に発見したノートを開く と、最初に飛びこんできたのがその一文だった。証 明の意味がわからないにもかかわらず、それが誤り ではないと直感した。  暸司にコラツツ予想の証明をみせられるのは二度 目だった。あの薄暗いマンガ喫茶で手渡された証明 とはまったく違う。今度こそ成功したのだ。十七年 の時を隔てて。  コラツツ予想は名高い未解決問題のひとつである。 一九三〇年代にドイツの数学者コラツツが提示した 問題で、数学を研究したことのある者なら誰もが耳 にしたことがある難問。問題そのものは子供でも理 解できるほど平易だが、いまだ証明の手がかりすら 見いたされていない。  −数学はまだこの種の問題に対する準備ができ ていない。  そう言ったのは二〇世紀の伝説的数学者、ポー ルーエルデシュだった。破格の数学者にそう思わせ るほど、この問いの壁は高い。  小沼は躊躇しつつ、勢いを失った声でつぶやいた。  「暸司を疑うわけじやないが、その証明は……その、 正しいんだろうか」  熊沢はそれには答えず、ふたたびノートを開いた。  「コラツツ予想の証明にたどり着く前に、二百ペー ジ以上も使って理論が構築されています。証明を理 解するには、先に理論そのものを理解しなければな りません」  「つまり、理論が妄想なら、証明も妄想だというこ とか」  小沼は眉をひそめた。落胆の色が濃い。 「たしかに、彼は長いこと新しい理論に取り組んで いるようだった。たしか……」  「プルビス理論。そう呼んでいたようです」  口にするだけで胸が苦しくなる。  紙上に残された暸司の筆跡を見ると、若かった日 の記憶が生々しくフラッシュバックする。学生時代 に住んでいたアパート。ままならない難問を相手に 格闘した日々。恋人との甘く苦い記憶。それらが瑰 となって正面から襲いかかってくる。  暸司を殺しだのは俺だ。熊沢は奥歯を強く噛んだ。  「小沼先生」熊沢の声に、小沼の視線が引きつけら れる。  「本当に、この証明が妄想だと思いますか。暸司が 死ぬ直前まで研究していた理論が妄想だと、本気で 思っているんですか」  小沼は答えを選んでいた。腕を組み、中庭を見や る。  「検討してみないことには何も言えないよ。クマは どう思う」  「証明に間違いはないと思います」  「根拠は?」  数学的な裏付けなどない。根拠と呼べるものはひ とつだけだ。  「これを書いたのが、三ツ矢暸司だからです」  小沼はこめかみの辺りを掻き、ふたたび窓の外に 視線を逃がした。  この反応は予期していたが、実際に目の当たりに すると少なからずショックではあった。赤の他人な らいざ知らず、暸司の恩師までもがこんな反応をす ることが。  気まずさをとりなすように、小沼は一転して明る い口調で尋ねた。  「それで、これからどうするんだ」  「解読して論文にします」  「この分厚いノートをすべて?」  「数百ページならどうにかなります」  不安はあるが、熊沢は本気だった。それが暸司に 対する責任であり、せめてもの償いだと確信してい た。  「気持ちはわかる。本当にコラッツ予想の証明に成 功しているなら、とてつもないビッグニュースだ。 世界中がひっくり返る。だが、そんなことが本当 に……」  「先生もご存じでしょう。暸司は並の数学者じやあ りません。証明は正しいはずです」  これまでに、熊沢はおびただしい数の天才だちと 会ってきた。アメリカ時代には目がくらむような才 能だちと交流し、帰国してからも日本が誇る頭脳と 呼ばれる人々と出会った。それでも、暸司以上に 〈数覚〉に恵まれ、明確に数の世界を見ることがで きた人間はいない。いつかマスメディアが名付けた 〈二十一世紀のガロア〉というレッテルは、決して 過剰な誉め言葉ではなかった。  暸司は普通の天才とは違う。数理の子とでも呼ぶ べき存在だった。  熊沢にも、一流の数学者だという自負はあった。 恩師のおかげとはいえ、三十代なかばという早さで 准教授に就任し、数論幾何の分野では若手の筆頭格 と称されている。それでも、不世出の天才が作り上 げた理論にたったひとりで挑むのは怖かった。  「小沼先生にも協力していただきたいんです。私ひ とりでは太刀打ちできないかもしれない。先生の力 を貸してください」  小沼の視線は室内をさまよっている。演技ではな く、本当に迷っているようだった。熊沢はひたすら 返答を待った。小沼は戸惑いを隠さなかった。  「これが現役最後の仕事になるかもしれないと思う と、さすがに躊躇するな」  熊沢が出会った時には若き教授だった小沼も、す でに還暦が見えている。この年齢で論文を量産する 鉄人ですら、老化には抗えない。それは数学者に とって永遠に克服することのできない敵たった。  愛着のあるテーマを脇に置いて、得体の知れない 新理論を研究しろと迫るのは、熊沢にとっても心苦 しいことだった。小沼の岩澤理論への思い入れを 知っているだけに、なおのことつらかった。  しかし頼れるのは小沼しかいない。家族にも同僚 にも学生にも相談できず、この数週間、孤独に思い 悩んでいたのだ。普段は思わないが、この時ばかり は妻が数学者だったらと思わずにいられなかった。  「この歳になって先生に甘えるのは申し訳ないと 思っています。でも、学生や他の数学者ではきっと 手に負えません。暸司と正面から向き合いたいんで す。部分的にでもいい。それだけの価値があるんで す」  熊沢は椅子を引いて立ち上がった。直角に腰を折 り、深々と頭を下げる。「お願いします」  その頭に小沼の声が降る。  「価値があるというのは、数学界にとって? それ とも、熊沢勇一個人にとって?」  わがままに付き合わされるのはごめんだというこ とか。耳が痛い質問だった。  「両方です」  偽りではない。プルビス理論によってコラツツ予 想を証明できれば、数学の風景は一変するはずだ。 もっとも、本当に理論として成立していればの話だ が。小沼はまだためらっているのか、返事をしない。  「先生。本当に暸司の死に責任を感じているのなら、 協力してください」  このひと言が切り札になった。小沼は長いため息 を吐いてノートの表紙を見下ろした。 「わかる箇所から読み解いていくしかないな」 「協力していただけるんですか」 「趣味として。こんな意味不明の研究じゃ、予算申 請もできないし。それよリクマはどうするつもりだ。 数論幾何の範疇に入るのか、このテーマが」  「解決の目処が立ち次第、大学に相談してみます。 世紀の未解決問題の証明と言えば、予算も融通して くれるかも」  妙な沈黙が流れた。その解決の目処はいつ立つの か。小沼から、そう言われているような気がした。  お互い、次の予定が近づいている。ろくに世間話 もできないまま、熊沢はノートのコピーを送る約束 をして部屋を去ろうとした。ガラス窓を背にした小 沼が、ふと思い出したように言った。  「そういえば、斎藤さんには声をかけたのか」  熊沢は動揺が表に出ないよう、慎重に答えた。  「彼女はもう数学を離れて長いですから」  触れられたくないという熊沢の気配を察したのか、 小沼はもう詮索しなかった。  斎藤佐那と最後に会ったのは六年前。暸司が亡く なった直後だった。友人の死に打ちひしがれる彼女 の横顔を、不謹慎ながら、熊沢は美しいと思った。  中庭のツツジが風にそよいでいた。色濃い花が密 集して咲いている光景は、目の裏に焼きつくような 鮮やかさだった。  春はまだはじまったばかりだ。    2 特別推薦生  四月の陽を浴びながら、三ツ矢暸司は協和大学の 正門をくぐっだ。茶色がかった頭髪が陽光にきらめ いている。  バックパックを背負ってあたりを落ち着きなく見 渡す姿は、中学生にしか見えない。童顔はコンプ レックスだったが、叔母さんからは「二十年後には 親に感謝するよ」と言われていた。  門を抜けてすぐの場所に、キャンパスの案内図が 掲げられていた。協和大学は理系の名門として知ら れるだけあって、理系学部が充実している。キャン パスには医学部、薬学部、工学部、農学部の各棟が 建ち並び、中央には学内でのヒエラルキーを体現す るかのように、理学部棟が傲然とそびえている。  暸司は案内図で立ち止まり、道筋を確認する。こ こに来るのは昨秋の入試面接以来、二度目だった。 その時も理学部棟を訪れたはずだが、道はすっかり 忘れている。  入学式当日だというのに、学生たちの姿はまばら だった。それもそのはずで、この時間まだ入学式は 終わっていないし、会場は学外のコンベンションセ ンターだった。部活やサークルの勧誘部隊も入学式 の会場に集結している。暸司はそんなことも知らず、 人気のないキャンパスを歩きはしめた。  広々としたキャンパスでは、風が吹くと住宅街よ りも寒く感じる。ジャンパーでも着て来ればよかっ た、と後悔した。地元では四月になれば誰も上着な んか着ていないが、東京は長袖のトレーナー一枚で は寒い。せめて中にシャツでも着るべきだった。  関係のない工学部棟や厚生棟を行ったり来たりし ながら、ようやく理学部棟にたどりついた。歴史あ る建造物らしく、外壁には長年の風雨に耐えた痕跡 が刻まれている。今度はここから研究室の場所を探 し当てなければならない。面接で来た時はとにかく あわただしかったせいで、ほとんど記憶に残ってい ない。  入口の脇に警備員の詰所があり、還暦を超えてい るであろう警備員がいた。小沼の研究室の場所を訪 ねると、口の端から息をもらしながら場所を教えて くれた。中央の階段で二階に上がり、西側に曲かっ てすぐの部屋。  教えられた通りに行くと、たしかに学生たちの居 室らしき部屋があった。隣接する教授室には小沼の 名前が書かれた札が下かっている。閉ざされたドア をノックしたが、室内からの反応はない。ノブを引 いたが鍵がかかっていた。小沼は不在らしい。  仕方なく学生居室を訪ねた。ドアは開け放されて いたので、すいません、と言いながら足を踏み入れ た。デスクに向かって何か読んでいたふたりの男が 同時に振り向く。ひとりは小柄な長髪で、もうひと りは背の高い坊主頭。顔はそろって無精ひげにまみ れている。年齢は二十代にも見えるし、四十代にも 見える。長髪のほうが口を開いた。  「え、誰」  人と話すのは苦手だが、侮られるのも嫌だった。  「僕、小沼先生に呼ばれてるんですけど、どこにい るか知ってますか」  変声期前の名残りがある、かすれた高い声。今度 は坊主頭が言う。  「入学式じゃないの。まだ十一時だし、終わってな いでしよ」  「それより、きみ誰? 新入生? 高校生? 中学 生じゃないよね?」  長髪のうわずった声は、明らかに動揺していた。  「あ、新入生です」  「入学式、出なくていいの」  「親には出とけって言われたんですけど、場所がよ くわからなくて。面倒だし」 「面倒って……」  絶句した長髪に代わって、坊主頭が尋ねた。「も しかして特推の新入生?」  「トクスイ?」  意味がわからないまま反復すると、教えてくれた。  「特別推薦生のこと。小沼先生、今年度の指導教官 だから」  それなら聞き覚えがある。はい、と答えると、二 人そろって感嘆の声をあげた。  暸司には特別推薦生という立場が今ひとつわかっ ていない。ただ、小沼に勧められたから従っただけ だ。  もともと大学の格になど興味はなかった。数学と 英語以外で点数を取れる自信はなかったから、試験 が面接だけなのは好都合だった。それに、特別推薦 生は四年間の学費が全額免除される。暸司にとって はちょっとした親孝行のつもりだった。  「特推って、実績ないと合格できないんだろ。数オ リとか」  「なんですか、それ」  「数学オリンピック、知らんの」  「あ、聞いたことあります。でも僕、そういうの出 たことないんです」  「じやあ何も実績ないの」  思い当たることはあまりない。暸司は面接で聞か れたことを思い出した。「論文の内容は色々聞かれ ました」  「論文? きみが?」  「はい。ムーンシャインの別解について」  「高校生で論文書いたってこと」 「嘘でしよ」  二人の先輩は目を剥いた。暸司はあわてて手を振 る。  「でもまだ受理されてないんです。もう半年も経つ のに。国内の雑誌に投稿しとけばよかった、つて小 沼先生は言ってるけど」  論文を投稿したのは昨秋、面接の直前だった。面 接官のなかにトポロジーの専門家がいて、重箱の隅 を突くような質問をいくつもされたせいで疲れてし まった。  おそるおそるといった様子で、長髪が問う。「名 前は?」  「え1つと。『ジャーナルーオブーマセマティッ ク……』」  「いや、雑誌じゃなくて。あなたの名前」  「あ、三ツ矢暸司です。先生が来るまで待ってても いいですか」  どうぞ、と言いかけた坊主頭を長髪が制正した。  「あの空き部屋がいいんじゃない。俺だちと一緒だ と気まずいでしよ。ほら、教授室の逆側に使ってな い小会議室があるから。あそこ鍵かかってないし。 物置きみたいになってるけど、気にしないで。先生 が来たら呼ぶから」  長髪の手元をのぞくと、論文のコピーの下に派手 な表紙の雑誌が隠れていた。パチンコ、の文字が見 える。なるほど。新入生かいないほうがサボるには 好都合というわけか。暸司は二人に礼を言って居室 を出た。  教授室をはさんで逆側の部屋には〈小会議室〉と いう札が下がっていて、教えられた通り施錠されて いなかった。正面の壁は腰から上が窓で、残りの壁 は本棚で埋まっていた。古い書籍や雑誌、卒業論文 などが押しこまれている。たしかに物置きらしい。 部屋の中央には円卓があり、パイプ椅子が無造作に 散らかっていた。  暸司はパイプ椅子を引き寄せ、腰をおろした。入 学式はたしか十時開始だから、正午までには終わる だろう。家を出る前に菓子パンを食べたから、昼ま では腹も持つ。  本棚に収められているのは、数学に関する書籍や 雑誌ばかりだった。この部屋なら何日でも時間をつ ぶすことができそうだ。暸司は目についた整数論の テキストを手に取り、目を通した。  退屈な公式の羅列が続く。緊張がほぐれたことも あって暸司は眠気をもよおした。しかし別の本に移 ろうとした寸前、視線がある問題に釘付けになった。  コラツツ予想。数論の未解決問題として名高い難 問である。暸司も問題の内容は知っていたが、真剣 に検討したことはなかった。  予想の内容は、足し算、掛け算、割り算ができれ ば理解できる。  〈任意の正の整数nを選ぶ。nが偶数の場合は2で 割り、nが奇数の場合は3をかけてIを足す。この 操作を繰り返すと、どのようなnからばしめても有 限回の操作のうちにIに到達する〉  仮に最初の数が21、24、29だとすると、次のよう な操作を経てIに至る。   21↓64↓32↓16↓8↓4↓2↓I   24↓12↓6↓3↓10↓5↓16↓8↓4↓  29↓88↓44↓22↓H↓34↓17↓52↓26↓ 13↓40↓20↓10↓5↓16↓8↓4↓2↓ I  現在までに、コンピュータで約7000兆の正の 整数まで成り立つことが確認できている。しかしそ れ以上の数で反例が存在しないとも隕らない。つま り計算を繰り返すだけでは、証明までたどりつくこ とは永遠にできない。  暸司は筆記用具を探したが、見つからないので学 生居室に戻った。長髪の男はパチンコ雑誌を隠す暇 もなく、「なんだ、なんだ」とあわてた。  「紙とペン、借りてもいいですか」  坊主頭の男からコピー用紙の束とボールペンを受 け取り、暸司はさっそくコラツツ予想の証明に取り かかった。退屈しのぎにはちょうどいい。手はじめ に、得意の群論への拡張を試みる。分野が異なって も、骨格は共通しているというのは数学ではよくあ ることだ。  しばし、暸司は時計を見ることも忘れてペンを走 らせ続けた。3n+Iの操作を半群へ変換し、ここ からどう料理しようかと考えこんでいたところ、背 後から声をかける者がいた。それでも気にせずペン を走らせようとしたが、肩を揺さぶられ、暸司はよ うやく我に返った。振り向くと小沼が立っていた。  「ああ、先生」  「何やってんだ」  小沼が前髪をかき上げた。壁の掛け時計は二時を 示している。暸司にはほんの数分に感じられたが、 しっかりと腹ば減っている。  「コラツツ予想を検討してました」  「コラツツ予想? また面倒くさそうなところに足 を突っこんでるな」  小沼の背後には、スーツ姿の新人生がふたり立っ ていた。ファンデーションで真っ自い顔になった女 子と、眼鏡をかけた痩せ型の男子。ふたりは緊張し た面持ちで、暸司と小沼のやりとりを見守っていた。  「なんでこの部屋がうちの研究室だってわかっ た?」 「髪の長い人と、坊主の人に教えてもらいました」 「田中と木下か」 「あのふたりは何歳ですか」 「君らの三年先輩だ。ふたりとも老けてるけどな」  自い顔の女子が後ろから割って入っだ。 「あの、お知り合いですか。小沼先生」 「知り合いというか……きみたちと同じ特推生だ」  質問した本人は、えっ、と言ったきり二の句が継 げないでいる。男子のほうは意に介さず、関心がな さそうな顔で突っ立っていた。  小沼は新人生たちを円卓に座らせ、自分は窓を背 にしてパイプ椅子に腰をおろした。暸司は未練がま しく検討を続けようとしたが、注意されて渋々手を 止めた。男女は小声で会話をしている。もともと知 り合いなのかもしれない。  「熊沢君、三人目がいるって知ってた?」  「知らない」  「数オリでも見たことないけど」  暸司は頭の片隅に居座るコラツツ予想の影を追い やり、小沼の配る封筒を受け取った。  「では、これから特推生向けのガイダンスをばしめ ます。改めて指導教官の小沼です。どこの学部学科 でも特推生には担当の指導教官がつくことになって いて、理学部数学科では今年度は私か務めることに なっています。研究室配属のある三年までは、研究 でわからないことがあったら私に聞いてください」  生返事をしながら、暸司は封筒から冊子を抜き 取った。特別推薦生のみなさんへ、と表紙に印字さ れている。空腹を紛らわせるために目を通す。特推 生はゼミや研究室への配属まで、必要に応じて担当 の指導教官に指導を仰ぐことができる。そうだった んだ、と暸司はようやくこの制度を理解した。  協和大学が特別推薦制度を導入したのは七年前。 理系の名門として質の高い学生を確保するため、実 績ある学生を集めている。見返りは学費免除と研究 環境の提供。  「まあ特推といっても大学生だから、たいてい『 二年はサークルやバイトで忙しくて指導教官の出番 はないらしいけど。別に研究することは強制じゃな いし、遊びたければ好きなように遊んでくれ。冊子 は家で読んでおいてくれればいいから。じやあ、一 応自己紹介しとこうか。熊沢君から」  退屈そうに眼鏡の男子が口を開いた。「熊沢勇一 です」  「彼は数学オリンピックの囗本代表なんだ」小沼が 暸司に向かって付け加えた。  「メダルは取れませんでしたけど」  自嘲的に言うと、熊沢は笑いもせずに暸司へ視線 を向けた。  「三ツ矢君だったよね。コラッツ予想、解けた の?」  素直に首を振る。「いや、まだ解けてない」  「だろうね」熊沢は片頬を持ち上げて、皮肉な笑み をみせた。  「解けるわけない。エルデシュが、今の数学じゃ絶 対解けないって言ったんだよ」  「でもいつか解けるかもしれない」  「百年経っても無理だね」  それきり熊沢は口をつぐんだ。眼鏡の奥の目が、 冷ややかに暸司を見ている。喧嘩を売られたような 気がしたが、暸司には心当たりがなかった。小沼は あっさりと熊沢の紹介を終えた。  「次、斎藤さん」  「斎藤佐那です。私も熊沢君と同じ、数オリの日本 代表でした」  「斎藤さんは銅メダリスト」  ふたりが知り合いだった理由はわかったが、メダ ルの意味はわからない。  「銅メダルつて、どのくらいすごいんですか」  「え、知らないの。特推生でしよ」  佐那は珍獣でも見るような目をしていた。居室に いた先輩だちと同じ反応だ。やはり知っていて当た り前のことらしい。無愛想を決めこんでいた熊沢は 眉をひそめている。暸司は戸惑った。知らないもの は知らないのだ。  「僕は数学の大会とか出たことないから」  「でも、特推生には卓越した実績が必要でしよ。だ から数学科の特推はほとんど数オリの日本代表か予 選上位だって聞いたけど。そうですよね、先生」  食ってかかる佐那に、小沼は苦笑しながら答えた。  「三ツ矢君は論文を投稿してるからね。それも卓越 した実績ってこと」  小沼は教授室から数枚の紙片を持ってきて、佐那 の前にすべらせた。暸司が書いた論文のコピーだっ た。  「群論の重要な問題に別解を与えた。まだ受理はさ れていないけど、非常に画期的な手法だ」  佐那はコピーにさっと目を通すと、悔しさを押し 殺すようにつぶやいた。  「納得しました」  熊沢はひと言も発しないまま、音を立てて冊子を 閉じた。  「え、じやあ何、先生と会うのは入学式が三回目? それであのなれなれしさ?」  田中は顔だけでなく、首から手の甲まで赤く染 まっていた。身体を揺らすたびに長い前髪も一緒に 揺れる。暸司が入学前に小沼と会っだのは高校二年 生の頃が一度目、入試面接が二度目だった。そんな 話をすると、田中は指を折って数えはしめた。 「高二ってことはいつだ。三年前?」 「二年前だろ。数学科のくせに引き算もできないの かよ」  田中を諭す木下の顔色は素面の時と変わらない。 体格のいい木下が持つと、ビールジョッキもコー ヒーカップくらいに見える。  特推生の歓迎会に小沼の姿はなかった。二日前に なって海外出張が決まり、とるものもとりあえず小 沼は出国した。やたらと忙しなく見えるのは彼自身 の問題なのか、教授という立場のせいなのかはわか らない。  教員の不在をいいことに熊沢も佐那も酒を注文し ているが、暸司はウーロン茶を飲んでいた。暸司に とって、アルコールは美しい数学の世界を曇らせる ものでしかなかった。かつて、おひたしに入ってい た料理酒に酔い、検討していた問題のことがまとも に考えられなくなったことがある。宴会中も問題の ことを考えている暸司にとって、飲酒は思考の邪魔 でしかなかった。  田中と木下は学部四年生だった。暸司がいつ研究 室を訪ねても、だいたいこの二人がいる。博士課程 の学生をさしおいて、居室の主のような風格を醸し 出していた。  木下はカプチーノでも飲むような仕草でジョッキ を干した。  「手紙のやりとりだけでよく論文が書けたね」  「でも、電話より手紙のほうが検討内容を共有しや すいんで」  「俺らとは住む世界が違うな」  田中は唇をとがらせながら、お猪口に冷酒を注い だ。  「ボーダーギリギリで合格した俺が、特推生と一緒 に酒飲んでるなんてなあ。何か不思議な気分だよ。 あ、三ツ矢は飲んでないか」  暸司はウーロン茶を喉に流しこむ。  「なんでボーダーギリギリつて知ってるんですか」  「開示請求したら教えてくれんだよ。お前らは面接 しかやってないから知らないのか。でもこれ自慢だ けど、数学は満点だった」  暸司は隣に座る熊沢を横目で見たが、黙ってビー ルを口に運んでいるだけだった。ヘー、と試しに 言ってみたが、白々しさがただようだけだった。  「田中、昔は神童って呼ばれてたんだろ」  木下がとりなしたが、田中は空しそうに冷酒の水 面を見つめている。  「親戚にな。でも俺みたいなエセ神童と違って、こ いつらマジの神童だろ。まあ、せいぜい俺らは一般 人らしく生きるさ。な、木下」  「同類かよ。勘弁してくれ」  別のテーブルからは斎藤佐那の嬌声が聞こえる。 男たちの視線は自然とそちらに吸い寄せられた。た だでさえ女っ気の少ないこの研究室では、女子とい うだけで人目を引く。田中はいじらしく日本酒をす すった。  「俺も佐那ちゃんのテーブル行こうかな」  「露骨だろ」  「そういえば熊沢って、数オリで佐那ちゃんとI緒 だったんだろ。どんな子なの」  熊沢は両手を振ってはしゃぐ佐那を冷ややかに見 やり、顔色を変えずに言った。 「別に。あんな感じですよ」 「だから、どんな感じ」 「初対面でも自分からどんどん話しかけてくるんで す。社交的つていうか、臆面がないっていうか。ま あ、いい時もあるけど、そういうのが嫌いな人もい るじやないですか。だから苦手に感じてる人もいま した」  「……お前、本当に十八歳? 冷静すぎじやな い?」  冷静というより、関心がない。熊沢のそっけない 横顔を観察しているうちに、暸司の思考はいつの間 にか群論の世界へ飛んでいた。  暸司の意識は四六時中、数の世界とつなかってい る。ひとりで検討に集中している時だけではない。 歩いている間も、食事をしている間も、関係のない 話をしている間も、意識の片隅で途切れることなく 問題を考えている。飲み会の最中も例外ではない。  高校の頃から考えている問題のひとつが、急に頭 をよぎった。一本の紐が自在に形を変えながら、何 もない空間を泳いでいる。じきに紐は輪となり、多 角形に変化する。折り、ねじり、重ね、ずらし、ほ どいては別の場所を結んでみる。紐の動きを次々と 試しているうち、意識がとらわれていた。  「おい、三ツ矢」  気づくと、田中の顔がすぐ目の前にあった。肩が 前後に揺さぶられ、酒臭い息が暸司の顔に吹き付け られる。  「あ、はい。なんですか」  「なんですか、じやねえよ。お前、急に意識飛んだ からどうしたのかと思った」  田中の隣で、木下も心配そうに様子をうかがって いる。暸司は平然と答えた。  「ムーンシャインの一般化について考えてました」  熊沢は我関せずといった調子でから揚げを食べて いる。一瞬の沈黙の後、田中と木下はゆっくりと顔 を見合わせ、苦笑した。木下が愛想のない熊沢に話 を振った。  「熊沢は知ってるか、ムーンシャインとかなんと か」  「知りません。聞いたこともない」  その返事を聞いて、暸司は無邪気に言った。  「へえ。じやあ、数学オリンピックには出てこない んだね」  熊沢は勢いよく箸を皿に叩きつけて暸司をにらむ。 陶器が鳴る高い音がした。  「仲良くしなさいよ」  諭す木下の隣では、田中がにやにや笑っていた。  飲み会は最後まで他愛のない話をして終わった。 居酒屋を出ると、田中が率先して「二次会行きまI す」と叫んだ。木下は携帯電話で別の居酒屋に予約 を入れている。田中が新入生のほうを振り向いた。  「お前らも二次会行くか」  「すぐに問題の続きをやりたいんで、今日は帰りま す」  暸司の答えに怒るどころか、田中は胸を張った。  「気にせず帰れ。俺は飲みたくない人間に無理強い はしないタイプだからな」  熊沢も二次会の誘いを躊躇なく断り、その場を去 ろうとしていた。佐那は迷っていたが、同期がいな いのを見てひるんだのか、一緒に帰ることになった。 参加者のおよそ半数が次の店に消え、暸司たちは何 となく並んで歩きだした。三人とも途中までは帰り 道が同じだった。  学生街の夜道は人気が少なく、明かりといえばア パートや民家から漏れる照明の光くらいだった。垢 抜けない暸司や熊沢と並んで歩いていると、佐那の しやれっ気が際立つ。淡い黄色のワンピースにデニ ムジャケットを羽織り、手指の爪は控えめな桃色の ネイルで彩られている。宴会の余韻か、佐那は高い 声を張りあげた。  「二人ともバイトとかするの」  たぶんしない、と暸司が答え、考え中、と熊沢が 答えた。佐那はサークルや研究室選びについても尋 ねたが、男たちが似たような反応を示すのを見て質 問の角度を変えた。  「小沼先生、カッコよくない? 独身らしいよ」  あ、そう。熊沢が気のない返事をした。暸司はま た頭のなかで紐を動かすことに夢中になり、黙って 足を動かしていた。佐那は急に無口になった暸司の 顔をのぞきこむ。  「どうかしたの」  「ううん。ちょっと気になる問題があって、考えて ただけ」  「飲み会の後まで数学のこと考えてるなんて、筋金 入りだね。あたしには真似できない」  熊沢が棘のある声で口をはさんだ。  「三ツ矢君さ、自分が才能あるって自覚してるんだ ろ」  え、と言うのが暸司には精一杯だった。関心のな さそうだった熊沢の目に、いつの間にか嫉妬の火が 灯されている。  「入学式サボつたり、ガイダンスにもスーツじゃな くて私服で来たりさ。飲み会の最中もこれみよがし に先輩のこと無視したり。自由奔放な天才のアピー ルかもしれないけど、そういうの鼻につくよ」  「なに、能{沢君酔ってる?}  佐那が割って入っだ。熊沢は横目で佐那を見て、 鼻を鳴らした。磨かれた眼鏡のレンズが街灯の光を 反射している。  「俺はもう真面目に数学やる気ないから」  十字路に差しかかると、熊沢は右手に方向を変え た。こっちだから、じやあ。それだけ言い残し、熊 沢の背中は遠ざかっていった。取り残された暸司と 佐那は直進する。  「熊沢君って、高校の時に何かあっだの?」  佐那は不機嫌そうに返す。  「さあ。でも、前からああいうところあったね。何 考えてるのかわかんないっていうか。数オリの合宿 でもみんなと距離置いてたし。気にしないほうがい いよ」  じきに佐那が住む十二階建てマンションの前に来 た。彼女の部屋は最上階にあり、大学のキャンパス が一望できるという。暸司の部屋からは隣家の植木 しか見えない。  「斎藤さんも、三年までは数学やらないつもり?」  自動ドアをくぐろうとしていた佐那は首をかしげ た。  「わかんない。これから考える」  暸司はエレベーターに消えた佐那を見送り、歩き 出した。  佐那のマンションからアパートまではすぐだった。 大学の正門からも歩いて十分とかからない。理学部 棟に負けず劣らず古びた二階建てで、外廊下の蛍光 灯は大半が切れている。家賃はこのあたりでも特に 安い。鍵を差しこみ、固い感触に抵抗して手首をひ ねると、がちやりと大きな音がして解錠される。い つか鍵が折れるのではないかと心配だった。  暸司の部屋は二階の角部屋だった。玄関のすぐ脇 に背の柢い冷蔵庫が押しこめられ、おもちやのよう なコンロと流し台がある。六畳半の狭苦しい和室に は実家から送られた布団が敷いてあった。枕元の座 布団と座卓の周囲には、計算用紙の束や教科書、論 文の類が散乱している。まだ引っ越してひと月と 経っていないというのに、何もかもが無秩序に散ら ばっていた。  服を部屋の片隅に脱ぎ捨て、ユニットバスでシャ ワーを浴びる。出の悪い湯水がシャワーカーテンを 濡らした。居酒屋に行っだのは初めてだったが、あ んなに煙草臭い場所だとは思わなかった。薬品の匂 いがするシャンプーを手のひらに取って、頭髪にこ すりつける。ドラッグストアの店頭で一番安かった ものだ。  何となく、熊沢のことが気にかかった。熊沢は暸 司のことを天才のアピールをしていると言ったが、 暸司にはそういう熊沢こそ傷ついた数学少年を演じ ているように見えて仕方なかった。ふてくされた態 度で不満を訴え、関心を惹こうとしている。  怒りや軽蔑より、もったいない、という感想が先 に立った。  国際コンテストの日本代表になるくらいなのだか ら、熊沢も優れた〈数覚〉の持ち主のはずだった。 その彼が数学を放棄することは大きな損失だ。もっ たいない。  泡立てたシャンプーを洗い流した。細かい泡が渦 を巻いて排水口に流れていく。目をつぶって温かい 湯を浴びていると、ふと、目の前を何かがよぎった。 目を閉じているのだから網膜が像を結ぶはずはない のだが、確かに何かを見た。  暸司は顔を上げ、先ほど見えたものをふたたび呼 び戻そうとした。湯を浴びたまま、注意深く思い出 し、真剣に考える。あれはひらめきの予感だった。  脳裏に浮かぶのは、幾重にも絡みあう紐。鏡映群 の紐だ。複雑に踊る紐たちは、やがて結晶構造を形 成する。カッティングされたダイヤモンドのように うつくしい結晶が、突如として暸司の眼前に出現し た。  あわててシャワーを止め、素っ裸のままユニット バスを飛び出した。もしかしたら、例の問題の手が かりをつかんだかもしれない。ムーンシャインの一 般化。頭のなかはそのことで一杯だった。  身体から水を滴らせながら暸司は座卓に取りつい た。バスタオルで乱暴に手を拭き、ボールペンを握 りしめる。左側に積み上げられた計算用紙を抜き取 り、思いつくままにペンを走らせる。ペン先が座卓 を叩く音だけが部屋に響き、五分としないうちに白 紙が記号と数字で埋められた。隙間は英語のメモで 埋められる。  肌に浮いていた水分が蒸発しきる頃には、手の親 指の付け根が痛んできた。いつものことだ。爆発的 に拡散するイメージに身体が追いつかない。暸司が 英語を学んだのは、少しでも書くスピードを速くす るためだ。日本語で書けばどうしても漢字で時間を 食う。ちまちまと線を引いているうちに、ひらめき に靄がかかってしまう。  痛みに耐えかねてわずかに手を止めると、急に寒 気を感じた。四月中旬の夜はまだ全裸で過ごすには 気温が柢すぎた。下着と寝間着をまとい、毛布をか ぶって座卓に向かう。  実在しないはずの抽象的なイメージなのに、触れ るような現実感を伴っていた。  まだ日付も変わっていない。暸司の前には長い夜 が残されている。  熊沢のこともコラツツ予想のことも、きれいに頭 から消えていた。  小会議室の窓から差す朝日を浴びながら、暸司は T心にペンを動かしていた。円卓には図書館で借り た素粒子物理の専門書が積みあげられている。時お り専門書のページをめくりながら、暸司は計算用紙 を黒々と埋めつくしていた。  インクがかすれてきた。暸司はペンを投げ捨て、 新しい一本を手に取る。五本百円でまとめ買いした 安物だから、使い捨てても財布はたいして痛まない。  午前八時をまわっだ頃、ドアがそろそろと静かに 開けられた。  「げっ、いるよ」  ドアを開けたのは田中と木下だった。そろって朝 食の入っだレジ袋を提げている。自分の世界に没入 している暸司は振り向きもせず、ペンを動かし続け ていた。田中たちもこの反応には慣れている。パイ プ椅子を引き寄せて腰をおろし、田中は卓上の専門 書を手に取ってぱらぱらとページをめくった。木下 は携帯をいじっている。  やがて、切りのいいところで暸司が手を止めた。 ペンが走る音が止むと、部屋は静寂に包まれる。暸 司は顔を上げ、かすれた声で言った。「おはようご ざいます」  「お前、いつからここにいんの」  「昨日の夕方からです」  「寝ずに?」  「……そういえば、寝てない」  「お前の集中力つてどうなつてんの。腹とか空かな いの」  田中に問われると、今まで忘れていた空腹感が急 激に押し寄せてくる。  「空きました」  レジ袋からコンビニのおにぎりが転がり出てきた。 田中はそのひとつを無造作につかみ、暸司に突き出 した。  「とりあえず、これ食え」 「いいんですか。すいません」 「これもやるよ」  木下はクリームパンをくれた。紙コップに注いだ 水道水で流しこむ。おにぎりをかじりながら田中が 尋ねた。  「ムーンシャインは解決できそうなんか」  「ゴールは見えてるけど、説明するためのうまい言 葉が見つからないんです」  暸司には到達すべき点がはっきりと見えている。 しかしそれを理論的に説明する言葉がまだ見つかつ ていなかった。上空から悪天候の迷路を見下ろして いるような気分だった。ゴールの位置はわかるが、 そこに至るルートにところどころ霧がかかっている。 霧を追い払うには、暸司ひとりの力では限界があっ た。  「ところで、なんで素粒子なんよ」  「素粒子の言葉で説明できるかなと思って。コクセ ター群は理論物理でも使われるし、この感覚に当て はまる言葉が物理学のどこかにあるような気がする んですよね」   暸司は問題解決に物理の理論を導入するのが得意 だった。ある種の潔癖症ともいえる数学者は純粋数 学を愛するあまり物理の言葉を嫌うが、暸司はその 真逆で、数学の問題解決のため積極的に理論物理を 勉強していた。  田中はペットボトルの緑茶を飲み、包装のフィル ムを丸めた。  「素粒子までいっちやうと、俺にはもうついていけ ないな」  「最初からついていけてないだろ」  木下が呆れたように指摘し、ついでに暸司にも 言った。  「俺だちより研究室にいる時間が長い学生なんて、 三ツ矢しかいないよ」  またたく間に食べ物をたいらげた暸司は、卓上の 専門書を積み直した。  「先輩たちの研究はどうですか」  「三ツ矢に心配されなくても進んでる。木下はどう か知らんけどな」  「はいはい。神童には負けるよ」   田中と木下の研究テーマは岩澤理論の一般化だっ た。田中は保型形式、木下は楕円曲線が専門である。 岩澤理論は小沼が最も得意とする分野であり、この 研究室の主要な研究テーマだった。  大口を開けてあくびをした木下の目尻に涙が浮い た。  「そういえばこの間、能{沢見たぞ}  「どこでですか」  歓迎会以来、研究室を訪れている特推生は暸司だ けだった。熊沢や佐那が何をしているかは小沼も知 らない。暸司のように入学早々研究に取りかかる者 はごく一部で、大部分の特推生は周囲に流されるま ま遊びやアルバイトで忙しい生活を送っていた。  「駅前のマンガ喫茶。深夜に働いてるらしい」  「特推生か時給千円ちょいとはな。数学オリンピッ ク日本代表だぞ」  田中が茶々を入れる。木下は大柄な身体を縮こめ た。  「話しかけたけどそっけなくてさ。関わり持ちたく なそうな感じだったんだよな」  「別にうちの研究室の学生じやないからな。指導教 官が小沼先生ってだけで」  「そうだけど。でも露骨に嫌がられるのも悲しい な」  俺はもう真面目に数学やる気ないから。暸司は宴 会の夜に聞いた、熊沢の芝居がかった台詞を思い出 した。彼が本心から数学を捨てたとは思えない。本 当に嫌になっだのなら、そんな捨て台詞を残さず そっと去ればいい。数学科を選んだことといい、熊 沢の行動はどこかちぐはぐだった。 「何時から働いてるんですか」 「わからんけど、俺が行っだのは十一時くらい」 「行くつもりか」田中の反応はやめておけと言わん ばかりだった。  「僕、マンガ喫茶って行ったことないんです。興味 あって」  木下が教えてくれた店名をメモに取った。  暸司はそのまま検討を続けて夕方にアパートへ帰 り、仮眠をとっだ。目が覚めるとちょうど夜十一時 を同ったところだった。財布と鍵を入れたバック パックを背負い、駅前へ向かう。  駅前はチェーン居酒屋とコンビニのネオンサイン でまぶしいほどだった。木下に教えてもらったマン ガ喫茶は雑居ビルにあり、ダイニングバーとファミ レスに上下を挟まれていた。五階の受付までエレ ベーターで昇る。エレベーターの室内には芳香剤の 匂いが充満し、壁にはテープの跡やガムのような汚 れがへばりついていた。  両側に開いた扉の正面が受付だった。カウンター は無人だったが、暸司が歩み出ると右手のカーテン からさっと店員が現れた。裏手で監視カメラでも見 ているのだろうか。  黒い制服を着た店員は生気のない顔でカウンター に入っだ。店員は胸元にくくまざわ〉という名札を つけている。暸司の顔を見るなり、セルフレームの 眼鏡が鼻の上で躍った。  「やっぱり、ここでバイトしてるんだ」  「……だから?」  「木下さんが教えてくれた」  「あの坊主の先輩か? それで、わざわざ俺をバカ にしに来たのか」  熊沢はホワイトボードの座席表を指さした。「早 く席選べよ」  「また研究室に来てほしい」  視線を手元に落としたまま、苛立った調子で熊沢 は応じる。  「何冐ってんの、お前。俺は数学やらないから。バ イト先で邪魔するのやめてくれ」  「一緒に解いてほしい問題があるんだ。僕にはもう ゴールは見えてる」  「だったらひとりでやれよ。ほら、席。勝手に決め るからな」  熊沢は〈在室中〉のマグネットを13番の座席に くっつけ、暸司を残してカーテンの奥へ消えた。暸 司はしばし考えたのち、カウンターに転かっていた ボールペンを拝借し、コピー機からA4用紙の束を 勝手につかみとっだ。  マンガが隙間なく詰めこまれた本棚の間を抜け、 13番の座席にたどりつく。およそ一畳の個室はデス クトップのパソコンとリクライニングチェアに占領 されていた。暸司は身体をねじこみ、チェアに身体 を横たえた。  パソコンのキーボードを除けてコピー用紙を置く。 ペンを握り、思うまま紙束に数式を書き連ねた。二 十四時間数学のことを考えている人間にとっては、 意識する必要もない作業だった。検討すべき問題は 決まっている。熊沢はムーンシャインについては知 らないようだったが、コラツツ予想なら知っていた。 暸司は入学式の囗の続きを見せてやるつもりだった。 脳裏には、ダイヤモンドダストのようにきらめく粒 が舞い散っている。頭に浮かんでは消える事象を、 片端から紙の上につなぎとめる。マンガ喫茶の個室 でも、理学部棟の小会議室でも、やることは変わら ない。  どんなに息苦しい空間でも、いったん数学の世界 に没頭してしまえば関係ない。デスクライトを頼り に、暸司は白紙を記号で埋め続けた。熊沢を説得す るには、幾千の言葉よりも数式のほうがずっと力が あるはずだ。  二枚を費やして、暸司は五十枚の白紙に数理の幻 想世界を描きだした。数覚に優れた者なら惹きつけ られずにはいられない光を放っている。暸司にとっ ては一瞬の出来事だったが、すでに時刻は午前五時 を過ぎていた。  ひどく喉が渇いている。六時間飲まず食わずでい たのだから当然だった。暸司はドリンクバーでメロ ンソーダを立て続けに三杯飲んだ。四杯目を注ぎ、 口に運びながら席に戻った。安っぽい香料が妙にく せになる。  エレベーター前に戻ると、ふたたび熊沢が無言で 出てきた。暸司は二枚かけてつむいだ数式の物語を、 カウンターに静かに置いた。  「続きが読みたくなったら、研究室に来て」  熊沢は一瞥すると、わざとらしく紙束を横にずら して料金を受け取った。ひと言も交わさず、ふたた び背中を見せて力上アンの奥へ消える。  暸司が雑居ビルを出ると、吸殻まみれの路上に朝 日が降りそそいでいた。壁に窓がなかったせいで時 間の感覚がない。目をしょぼつかせながらキヤンパ スヘ足を向ける。もしかしたら、今日にも熊沢は研 究室に来るかもしれない。いや、きっと来る。勝算 はあった。  しばらく歩いたところで、暸司はマンガ喫茶の コップを持つたまま出てきてしまったことにようや く気づいた。引き返すのも気恥ずかしく、仕方なく 中身を飲みはしたコップをバックパックにしまった。 熊沢には後で謝っておこう。  研究室にはまだ誰も来ていなかった。暸司は小会 議室にこもり、いつものようにムーンシャインの検 討をはしめた。専門書を見比べながら数式を書き起 こす、地味な作業が続く。  今までずっと、暸司はひとりきりで数式と向き 合ってきた。小沼と手紙のやりとりはしていたが、 伴走者というよりは道標のような存在だった。同級 生に数学の話ができる相手がいるはずもない。一緒 に走る仲間をつくることは、暸司にとって目標のひ とつだった。同じ特推生なら数学の実力は申し分な いはずだ。わざわざ東京に来てまで、ひとりで研究 を続けるのは寂しかった。  一限目の時刻が近づくと、理学部棟に少しずつ活 気が満ちてくる。今日は何か授業があった気がする が、目の前の検討のほうが大事だった。暸司は手を 休めることなく、T心に素粒子の世界へ没人した。  じきに二限目の開始時刻が訪れ、唐突に小会議室 のドアが開いた。驚いて暸司が振り向くと、佐那が 立っていた。  「斎藤さん」  「三ツ矢君、授業出てないでしよ。特推生か線形代 数の単位落としたら笑われるよ」  佐那はごく自然な動きでパイプ椅子に腰かけ、 ジーンズをはいた細い足を組んだ。  「なんで居室じゃなくてここでやってるの」  「一年生はまだ研究室の所属じゃないから。席もな いし」  「そっか。じゃあ、あたしもこっちだ」  暸司には意味がわからなかった。佐那は打ち明け 話をするように、声のトーンを落とす。  「入学してから学生団体とか入ってみたんだけど、 あんまり面白くなくてさ。飲み会やって、わ1つと 騒いで終わりだもん。どうしよっかなあと思ってた ら、小沼先生に三ツ矢君が面白そうなことやって るって聞いたから」  「僕はここで数学やってるだけだよ」  「結局、数学やってる時が一番面白いの」  「じやあ一緒に検討してくれるの」  まあね、と言って佐那は物理の専門書を手に取り、 不思議そうにページをめくった。  「それで、どんな問題やってるの」  暸司は取り組んでいる問題について、嬉々として 説明をはしめた。  生物が光に接近する性質を、正の走光性という。 蛾やある種の微生物は明るい場所を好み、暗い場所 を忌避するため、正の走光性を持つといわれている。  暸司は、人間には生まれつき数学への正の走性が 備わっていると信じていた。特に感覚の発達した一 部の人間は、数学が放つまばゆさに否が応でも引き 寄せられてしまう。本人の意思とは無関係に、本能 的に魅了されてしまうものなのだ。暸司も佐那も、 本能的に数学を欲している。  そして熊沢の数覚が本物なら、彼も必ずここに来 るはずだった。もうひとりの仲間が集まるのを、暸 司は待った。  窓から入る日差しが一段と強まる正午前、ひとつ の足音が小会議室の前で止まった。暸司は気づいて いたがドアを開けには行かなかった。無理にやらせ ても意味がない。本人の意思で開けることが大事だ。  やがて、ためらいがちにドアが開いた。わずかな 隙間から男が顔を見せる。あ、と佐那が声をあげた。 ドアはさらに開き、熊沢は部屋へ足を踏み入れる。  「あれ、コラツツ予想だろう」  徹夜明けの疲れた熊沢の顔を見て、暸司は頬から こぼれ落ちる笑みを我慢することができなかった。 「よくわかったね」 「馬鹿にするなよ。もしかして、解けたのか」 「これから解くんだよ」  暸司はパイプ椅子の座面を手でたたいた。 「さあ、座って」    3 塵  万年筆のインクが切れた。  計算用紙の余白で試し書きしてみたが、ペン先は 何の軌跡も残さない。この万年筆は、昨年の誕生日 に妻の聡美から贈られたものだった。替えのカート リッジを買い置きしておかなかったことを後悔する。  小会議室を出て准教授室へ移動する。かつて小沼 が使っていた部屋は、今では熊沢の居室となってい る。文房具人れを探してみるが、ボールペンの一本 すら見つからない。こういう時、秘書を雇っていれ ば、と思わずにはいられなかった。しかしそれだけ の予算を獲得する術は若手の熊沢にはない。すでに 夜十時を過ぎ、学生は誰もいなかった。  念のためデスクも探ってみる。ここになければ今 夜は諦めて帰ろう。そう思いながら引き出しを見て みると、書類の下に濃紺色のボールペンがあるのを 発見した。軸には〈Y. Kuヨazawa〉と彫られている。 もらっだのは修士一年だからもう十三年も経ってい る。試しにメモ用紙の上を滑らせると、まだインク が残っていた。  嫌でも佐那の顔がよぎる。熊沢は躊躇したが、雑 用を片付けてようやく確保した時間を無駄にしたく はなかった。終電まで一時間ほど残されている。熊 沢はペンを手に、小会議室に戻った。  帰国して協和大の助教として働きはじめてからは、 小会議室は熊沢専用の作業部屋たった。准教授に昇 進した今でも、どうしても集中したいときは小会議 室を使う。この部屋に内線はないから、鍵をかけて 携帯の電源を切れば、容易に外部との連絡を斷つこ とができる。  円卓の上には暸司のノートが広げられている。熊 沢は埃をかぶっていたペンを手に、検討を再開した。  ノートを再発見してから二か月経つが、解読の糸 口はつかめていない。准教授になってからというも の、日々の雑務に忙殺され、まとまった時間を取る ことができなかった。熊沢の研究室には他の教員は 所属していない。学生の指導も、事務も、交渉も、 予算申請も、何もかもを熊沢がやらなければならな かった。  暸司が愛用していた専門書を脇に置き、ノートを 幾度も見比べては試算する。新しい定理が前触れな く登場し、論旨が説明されないまま証明がはじまり、 複雑な図形が唐突に出現する。熊沢は足りない説明 を補足しつつ整理するのが精一杯で、まだ論理の正 確さを検討する段階まで踏みこめていない。  何度も登場する〈プルビス〉という言葉は、ラテ ン語で〈塵〉を意味する。この概念こそが理論の根 幹を成しているはずだった。しかし熊沢には〈プル ビス〉の正体が一向につかめない。  独自の造語を整理し、理解するだけでもひと苦労 だった。聞き覚えのない言葉が登場すれば、関係の ありそうな専門書を片端から読みあさる。しかしそ の言葉が見つかることは稀で、大抵は暸司の手によ る造語なのだった。そんなことを続けているから、 二か月経ってもまだIパーセントすらまともに理解 できていない。  一時間はあっという間だった。参考書を卓上に広 げたままあわただしく戸締まりを済ませ、熊沢は駅 に向かった。  キャンパス最寄りの駅から私鉄で二十分。ベッド タウンのただなかに熊沢の自宅はある。結婚してす ぐにローンを組んで買ったマンションの一室。戸建 ては手入れが大変だからマンションにしよう、と主 張したのは聡美だった。  ダイニングではパジャマ姿の聡美がテレビを見て いた。  「おかえり」  昇任してから、平日はいつも帰りが終電近くなる。 今日は遅いね、とも言われなくなった。起きている 娘の顔が見られるのは上日だけだ。  部屋でジャケットを脱いでダイニングに戻ると、 テレビは消えていた。肉じゃがと味噌汁を温め直し ていた聡美が熊沢の胸元に目を留めた。  「そんなボールペン、持ってたっけ」  無意識のうちに、胸ポケットにボールペンを差し ていた。熊沢は、聡美の何気ない口調の裏にある疑 念を感じ取った。ポケットからペンを出してテーブ ルに置く。 「昔、友達からもらった。誕生日プレゼントで」 「名前まで彫ってある」 「もらっだの、十何年も前だよ。聡美にもらった万 年筆のインクが切れちやったから、代わりにこのペ ン使ったんだ」  「そう。何でもいいけど」  聡美は鍋に向き直った。「ビール飲むなら、冷蔵 庫から出して」  毎日暸司の遺品と向き合っていると、あの室内に  こもっだ、むせるようなアルコールの臭いを思い出 す。熊沢は冷蔵庫の扉にかけた手をひっこめた。 「今日はやめとく」  「最近飲まないんだね」  「疲れちやって。悪酔いしそうだから」  四歳下の聡美と知り合っだのは、助教になった頃 だった。理学部の教務課で働いていた聡美とは顔を 合わせることが多く、教職員の懇親会で話しだのが きっかけだった。会話の端々ににじむ好意を感じ取 り、熊沢のほうからアプローチした。そこから交際 がはじまり、結婚に至るまで長くはかからなかった。  やや几帳面な聡美の性格を窮屈に感じることも あったが、結婚生活は順調と言ってよかった。娘が 生まれてからは父としての使命感も芽生えた。娘の 成長に比べれば、数学などどうでもいいと思えるこ とすらある。  それでも、どこかに寂しさはあった。  准教授の仕事はいわゆる管理職だ。ペンを握って 計算用紙と向き合う時間は極端に減った。気が狂う ほど研究に没頭し、精根尽きるまで数理に没頭した あの日々が、懐かしくないと言えば嘘だった。  温められた味噌汁をすすると、昆布だしの風味が 口のなかにひろがった。一からだしを取るのは聡美 のこだわりだ。  椀から立ち上る湯気を眺めていても、思い出すの はあのノートのことだった。当然のように登場する プルビスという言葉。その言葉が指し示すものはま だ見えない。  「どうしたの」気づけば、聡美に顔をのぞきこまれ ていた。  「え?」 「話、聞いてなかったでしよ」 「ああ、ごめん。何」 「保険のこと。変えようかと思ってるんだけど」  機嫌を損ねないよう、妻の話に意識を集中する。 聡美は最近勉強しているというネット保険について 十分ほど話すと、ふいに黙りこんだ。娘が眠る寝室 に視線を送っている。  「准教授になってから、ずっと帰り遅いよね」  妻にこういうことを言われるのは初めてだった。 胸元のボールペンが尾を引いているのかもしれない。  「雑用増えたからね」  「それだけなの」  「俺がやましいことしてると思ってる?」  「そんなこと思ってないけど。隠し事してほしくな いだけ」  暸司のノートの件はまだ話していない。話せば機 嫌が直るというものでもないが、熊沢は観念した。  「三ツ矢暸司の話、覚えてる?」  「学生時代の友達でしよ。何年か前に亡くなった」  聡美の口調に、わずかだが嫉妬が混じった。文学 部を卒業した聡美は数学が大の苦手で、夫の研究内 容は端から理解する気がない。その割に、熊沢が数 学者仲間の話をすると嫉妬するところがあった。特 に学生時代の話はそうだ。明かしたことはないが、 佐那との関係についても勘づいている節がある。  熊沢は暸司のノートを再発見した経緯を簡単に説 明し、解読のために夜遅くまで大学に残っているこ とも明かした。  「そのコラツツ予想を証明するのは、そんなにすご いことなんだ」 「本当ならものすごいことだよ。新聞記事になる」 「その三ツ矢さんも、わかるように書いてくれれば よかったのに」  これ以上わかりやすくは書けなかっただろう、と 熊沢は感じていた。  暸司は緻密に論理を積みあげて証明するやり方を とらない。最初にゴールが見え、その後に現在地か らゴールまでの距離を埋めるのだ。証明を急ぐあま り、論理が飛躍することはよくあった。それに晩年 の状態を考えれば、まともに数学をやっていたこと 自体が奇跡に近い。  「学生さんにやってもらうわけにはいかないの」  「学生には無理だ。難解すぎる。それに、この問題 が解決できれば数学界全体、社会全体のためになる かもしれない。それくらい重要な証明なんだよ」  「……本当は、自分かやりたいだけでしょう」  諭すような声音だった。熊沢は、勇ましく振り上 げた拳を背後からそっと包みこまれたような気がし た。  「教務課で働いててさ、たまに科研費の申請書類読 むと、この研究は社会の役に立ちます、つてみんな 書いてくるんだよね。この研究は情報セキュリティ に応用できるとか、あの研究は自動車の制御に応用 できるとか。それも嘘じやないんだろうけど。でも、 本当の本当の理由は違うんでしよ。ただ、やりたい からやってるだけなんでしよ」  内心、熊沢はうなずいた。数学者の道を選んだの は、数学に歓びを見出しているからだ。社会のため とか何とか言っても、結局、楽しいから数学をやっ ているだけだ。きっと、研究者と呼ばれる人種には 多かれ少なかれそういう側面がある。  「それじゃいけない?」  「いけなくないよ。でも、そのことは認めてほしい。 科研費の書類に書く建前と、自分の本当の気持ちく らいちゃんと区別してほしい」  聡美は目をこすった。家事と育児に疲れたせいか、 顔がやつれた気がする。  「もう寝るね。食器、流しに置いといて」  パジャマの背中が寝室に消えた。椀の底の冷えた 豆腐をすすりこむ。  もう一時近い。すぐにシャワーを浴びて眠らなけ れば、朝がつらい。わかっていても、熊沢はまだ眠 れる気分ではなかった。ついさっきまで検討してい たせいか頭が冴えている。ダイニングの照明を消し、 自室に移った。  四畳半の洋室は本棚とデスクでほとんど一杯だっ た。卓上のライトを点灯し、本棚から青いファイル を抜き取った。論文の別刷りを収めたファイルだ。 熊沢が著者として名を連ねた論文はすべて記録して ある。全部で三十篇あまり。  熊沢は最初のページに収められた論文を抜き取っ た。筆頭著者は暸司で、熊沢は二番目。その後に佐 那、小沼と続く。これが初めて熊沢の名前が載った 論文であり、いまだに最も被引用回数が多い論文 だった。群論の歴史をひもとく総説では、今でも必 ずと言っていいほど引用されている。  暸司と別の道に挑むことを決心した仕事。  内容は暗唱できるほど読み返した。大学に入学し てから一年あまり、ほとんどこの研究にかかりきり だった。論文が受理された囗のことは今でもはっき りと記憶している。五月下旬、爽やかに晴れた囗 だった。  思い返すまでもなく、熊沢のそばには暸司や佐那 がいた。    4 狂気の証明  風が吹き抜け、Tシャツの裾をはためかせた。  正午前の太陽は高い位置から熱を放射している。 梅雨はまだはじまってもいないのに、気の早い夏が 訪れようとしていた。  暸司はアパートの階段を三階まで上がり、正面に ある部屋のドアホンを迷いなく押した。反応はない。 ドアノブを同して引いてみると、鍵はかかっていな かった。室内をのぞくと、部屋で熊沢が本を読んで いる。暸司は勝手に靴を脱いで上がった。熊沢は振 り向きもしない。  「いないかと思った。呼び鈴押しだのに反応ないか ら」  「いつもそうだろ」  暸司は慣れた手つきで冷蔵庫を開けた。いつ来て も、熊沢の家の冷蔵庫には作り置きの麦茶がある。 水出しパックを入れるだけとは言え、暸司には真似 できないことだ。ビール会社の社名が入っだグラス に麦茶を注ぎ、一気に半分ほど飲んだ。  「俺の分も」  別のグラスに麦茶を入れて手渡し、フローリング にあぐらをかいた。熊沢は唇を濡らす程度に麦茶を すすった。  「お前、何日連続で俺んちの麦茶飲んでるの」  暸司は少なくとも一週間は前から、欠かさずこの ワンルームで麦茶を飲んでいる。それより以前のこ とは覚えていない。  「僕からも言いたいことあるんだけど」  「何だよ」  「冬場になったらほうじ茶にしてはしいんだけど。 あったかいやつ」  「アホ。勝手に飲んでるやつが言うな」  熊沢はリモコンで冷房のスイッチを入れた。  「あっついな、今日。五月でこれなら、八月とかど んだけ暑いの」  東北出身の熊沢は暑さに弱い。昨年初めて東京の 夏を経験し、すっかり夏バテを起こしていた。自腹 でエアコンを買って部屋に設置した学生は、暸司の 数少ない知人のなかでは熊沢だけだった。  熊沢は座卓にのしかかるようにして本を読んでい る。暸司は背後から熊沢の手元をのぞきこんだ。  開かれたページにはリーマン予想の解説が掲載さ れている。リーマン予想は最も重要な未解決問題の ひとつとして、百数十年にわたって数学の世界に君 臨している。この予想が解決すれば、その他の多く の問題も同時に解決されるといわれていた。  「次のテーマ、素数分布にしてみる?」  素数は、Iとその数以外に約数がない正の整数の ことである。暸司は2、3、5、7、H、13……と 素数を小さい順に暗唱した。227まで数えたとこ ろで暗唱は終わった。  「規則性はないなあ」  リーマン予想は素数の分布にかかわっている。順 番に出現する素数には一定の規則性があるように見 えながら、はっきりとそれが証明されたことはない。  素数という捉えどころのない数字はいつの時代も 数学者を魅了し、絶望させてきた。リーマン予想に 挑む数学者はプロアマ問わず無数に現れ、いくつも の証明が提示されてきたが、いまだに正しいと認め られたものは存在しない。  「なあ、予想解決したら百万ドルもらえるんだって。 一億円だよ。一億」  い、ち、お、く、と熊沢は一語ずつ区切って言っ た。  「そんな大金、誰がくれるの」  「さあ。外国の研究機関とか?」  内容に飽きたのか、熊沢は本を閉じて仰向けに寝 転んだ。眼鏡のツルがかちやりと音を立てる。 「読む?」 「読まない」 「あ、そう……なあ、俺らの論文っていつになった ら受理されんのかね」  ムーンシャインの一般化に関する成果を投稿して から、三か月が経とうとしている。エディターから 小沼の元に連絡が来るはずだが、まだ何の音沙汰も ないという。熊沢は、初めて名前の入っだ論文が受 理される日を待ちわびているようだ。  この一年は、暸司にとって最も密度の濃い日々 だった。毎日のように熊沢や佐那と顔を突き合わせ ては互いの進捗を披露しあい、小会議室で意見をぶ つけあった。ばしめたばかりの頃は熊沢も佐那も ムーンシャインどころかモンスター群すら知らな かったが、数学オリンピックの日本代表だけあって、 勉強をばしめると吸収は早かった。  証明の骨格を暸司が作りあげ、熊沢たちは論理の 肉付けを担当した。時おり小沼が顔を出し、二、三 アドバイスを与えてくれた。最初に証明が完成した 日は興奮のあまり一睡もできなかった。ひとりきり で証明を書きあげるよりも、ずっと達成感があった。  東京に出てきたのは間違いではなかったのだ。  「わかんないよ。僕の論文なんか、受理まで一年半 かかったし」  高校生の頃に書いた論文がようやく受理されたの は、大学二年へ進級する寸前の三月だった。査読者 から何度も指摘が入り、そのたびに小沼と顔を突き 合わせて対応を考えた。ただ、苦労に見合うだけの 反響もあった。最近、小沼は同業者と顔を合わせる たびにその話をされるという。  熊沢は身体を起こして座卓に頬杖をつき、ため息 を吐いた。  「ムーンシャインの一般化ってどれくらいすごいの かな。リーマン予想には負けるよな」  暸司にはどちらのほうがすごいのか、よくわから なかった。未解決という意味ではどちらも同じだ。  「まあでも、実質的に仕事したの暸司だもんな」  「そんなことないよ」  つい大きな声が出た。熊沢は振り向き、眼鏡を押 しあげた。 「どうしたよ、急に」 「いや。だって本当にそうだから。僕だけじゃ、あ の論文は書けない」  「俺たちは暸司に言われた通りに調べた結果を書い ただけだよ」  億劫そうに立ちあがり、熊沢はグラスを台所の流 しに置いた。  「昼飯、行くか」  暸司と熊沢はどこに行くとも相談せずに部屋を出 た。熊沢との昼飯といえば、大学の学食かコンビニ だ。話し合う必要もない。  キャンパスまでの道のりをだらだらと歩く。周辺 を歩くのは学生らしき人影ばかりだった。ホッケー のスティックをかついだ女子。リクルートスーツに 身を固めた先輩。どういうつながりかわからないが、 道路の幅いっぱいに並んで歩く若者の集団。  「ガロアつて二十歳で死んだんだよな」  熊沢のつぶやきの意味がわからず、暸司は首をか しげた。  「俺らもう、二十歳だよ。ガロアは十代でガロア理 論構築してたんだぞ」  「僕らはガロアじゃないよ」  「そうだけど、ちょっと憧れるんだよな。短命って、 いかにも天才って感じしない?」  暸司は、熊沢が才能に対して過剰な憧れとコンプ レックスを抱いていることを知っていた。みずから も数学の才能に恵まれていながら、より恵まれた人 間に嫉妬している。そしてその矛先が自分自身に向 けられていることも、暸司は承知していた。   行く手から突風が吹いた。向かい風に手をかざす と、指の間から熊沢の冷静な横顔が見えた。通行人 がみな足を止めるなか、熊沢だけは髪を風になびか せながら歩いていた。  突風がやむと、唐突に熊沢は尋ねた。  「暸司って、挫折したことあるか」  「挫折って?」  「いやたとえば、どうしても解けない問題とか、ぶ ち当たったことないの」  「あるよ。いくらでもある。でも死ぬまでに解けれ ばいいんだから、挫折じゃない。今解けなくても、 死ぬまでに何回でもチャレンジすればいい。それに 僕が解けなくても、他の誰かが解いてもいい。だか らそもそも、問題を解くことに挫折はない」  顔の高さに蚊柱が浮いていた。熊沢は不愉快そう にそれを振り払う。図に乗っていたつもりはないが、 暸司の答えはプライドを剌激したようだった。  「テストで解けなかった問題とかないのか」  「テストなら、ないよ」  「本当に、たった一問もない?」  「ない」間髪を容れず、暸司は答えた。  「僕、テストつて嫌いだけどね。テストの問題って 答えがあるでしよ。答えがあるってことは、すでに 誰かが解いてるってことだよね。他の誰かが解決済 みの問題なのに僕が解く必要あるのかなっていつも 思う」  熊沢は口をつぐんだ。今の返答がなぜ友人を不快 にさせたのか、暸司には理解できない。日頃考えて いることを素直に話しただけだった。 「ごめん。何か変なこと言ったかな」 「ん? いや、特に。ちょっと別のこと考えてた」  作り笑いの裏にあるものについて、暸司は考えな いことにした。  熊沢は入学したばかりの頃、数学はやらないと 言っていた。毎日顔を合わせる今も、その理由は知 らない。佐那に聞いたこともあるが、彼女も知らな いようだった。  ちょうど昼休みの時間に訪れたせいで、学食は人 であふれかえっていた。二人とも人混みは大の苦手 だ。購買部でパンと飲み物を買い、理学部棟へ向 かった。  居室にはいつもの通り、田中と木下がたむろして いた。彼らの同級生たちは就職活動に忙しく大学か ら出払っていたが、博士課程への進学を希望するふ たりは研究室で数学三昧の日々を送っている。  パンをかじりながら読んだばかりのリーマン予想 について話していると、小沼が居室に飛びこんでき た。いつになく表情が緊張している。  「暸司、クマ」  つられるように二人は立ち上がり、はい、と揃っ た声で答えた。  「論文、受理されたぞ」  「本当ですか’・」  叫んだのは熊沢だった。一方、暸司には喜びより も困惑のほうが大きかった。  「リバイスなしで?」  「一発アクセプトだ」  興奮した小沼の声と同期するように、田中もは しやいでいた。  「すげえな、お前ら’・」木下は拍手で祝福してくれ る。  「斎藤にも連絡しないと」  熊沢はさっそく携帯電話で佐那の番号にかけてい た。暸司ひとりが、興奮の渦から取り残されている。  論文が掲載されることは嬉しい。しかし、そこが ゴールであるかのように喜ぶことには違和感があっ た。論文が雑誌に掲載されようがされまいが、暸司 たちが導いた結論は何ひとつ変わらない。数学者だ ちからの反響がほしいわけではない。暸司が喜びを 覚えるのは、亶]つ自な新雪に足を踏み入れるように、 未解明の領域へ踏みこむ瞬間だけだった。  佐那への連絡を終えた熊沢はまだ笑っていた。 「暸司」 「うん」 「ありがとう。暸司がいなかったら俺、たぶんまだ あのマンガ喫茶でバイトしてたよ」  そのひと言で胸に温かな火が灯った。そうか。そ ういうことか。  暸司にとって、世間という知らない人間の集団に 認められることはどうでもいい。こうして、身近な 人が受け入れてくれることが重要だった。この場に いる誰もが自分を受け入れてくれている。そのこと のほうが、論文の受理よりもずっと、暸司に多幸感 をもたらしていた。  家の背後に広がる森は、幼い暸司にとって庭も同 然だった。  集落の住人はわずかで、木造二階建ての一軒家は 両隣と数十メートル離れていた。裏庭はそのまま森 とつなかっていて、縁側から少し歩けば深い樹々に 取り囲まれる。森は延々と続き、やがて険しい崖や 谷に突き当たる。どこからどこまでが自宅の敷地な のか定かでなかったし、明らかにする必要もなかっ た。  深い森は幼い暸司にとって唯一の遊び場だったが、 どれだけ長い時間遊んでいても飽きることはなかっ た。気温や風、光の具合が変化するたび、森は異な る姿を披露する。他の遊び場は必要なかった。  暸司は生い茂る樹々やそこに棲む生き物の姿に心 を奪われた。クヌギの葉に走る脈や、カナブンの節 くれだった足、下草に隠れた石くれの模様。そのど れもが、誰かが巧妙にデザインしたかのように美し かった。森は広大な天然の美術館だった。  学校にその美しさを共有できる友人はいなかった。 一度、家の裏の森を友人だちと探検したことがあっ た。暸司は先頭に立ち、誰よりも積極的に森の奥へ 突き進んだ。雑草を踏みならし、小川を越えて、気 が付けば背後には誰もいなくなっていた。皆、飽き て勝手に解散してしまったのだ。  同級生は皆、集落の風景に飽き飽きしていた。一 刻も早く都会に出たいと公言する者も多かった。  暸司に都会への憧れはなかった。それよりも、森 の美しさの奥に潜んでいるものの正体を突き止める ことを望んだ。樹にも虫にも石にも、得体の知れな い何かが宿っていることを本能的に察知していた。  時おり、森を散策していると遭遇することがあっ た。目の裏で火花が散るような感覚。同時に視界の すべてがうっすらと光りはじめる。それまでわから なかったことを理解した時にだけ得られる、あの爽 快感。  生物学に今ひとつ興味をひかれなかっだのは、生 き物たちの種類が細かく分類されているせいだ。暸 司が知りたいのは、植物や動物や昆虫に共通する美 しさだった。細分化することはその逆を行く。暸司 の探し求める〈得体の知れない何か〉は、生物学の 言葉では表現することができなかった。  だから数学と出会った時の感動はひとしおだった。  きっかけば、歳の離れた兄の教科書だった。居間 のテーブルに放置された教科書を何気なく開いたと きの感動は、二十歳になっても忘れられない。学校 ではまだ四則演算しか習っていなかったが、微分積 分、行列、ベクトルといった概念は、一度読んだだ けで自然と染みこんでいった。まるで旧知の友人で あるかのように親しみを感じた。  これこそが、森に潜む〈得体の知れない何か〉を 表現する言葉だと直感した。  マンガを読むように兄の教科書を読破し、みずか ら問題集を解くようになった。家族は一心不乱に数 学の問題を解きはしめた暸司に仰天した。算数は割 合得意だったが、学校の成績が特別いいわけではな かったからだ。  しかし、誰かのつくった問題をいくら解いても、 〈得体の知れない何か〉の正体は明らかにならな かった。その先にある、まだ見たことのない領域に 触れたい。願いに突き動かされるように、暸司は貪 欲に知識を求めた。  中学に進んだ暸司は公立図書館に通いはしめた。 自転車で片道一時間の道のりを毎日のように往復し、 分厚い専門書を借り出して独学で知識を身につけた。 専門書を読むことは一向に苦にならない。同級生が 雑誌を読むのと同じ感覚で、数式でつむがれた物語 に夢中になった。ほしい本はリクエストすれば他の 図書館から取り寄せてくれる。手元に置いておきた いと思う本もあったが、定価数千円の本を親にねた るのは気が引けた。代わりに、その内容を脳裏に焼 きつけた。  学校の授業はまったく退屈なものになった。問題 を見れば、答えは書いてあるに等しい。同級生がご く初歩的な代数や幾何の問題に手こずるのが心の底 から不思議だった。  数学教師は暸司をたたえるどころか、異端視した。 たまに職員室まで足を運んで質問をしても、誰も答 えることができない。暸司の興味は普通の中学教師 の手にはおえないものになっていた。プライドを傷 つけられた教師のなかには、暸司を無視する者さえ いた。  一度、試験後に呼び出されたことがあった。呼ん だのは五十代の女性教師で、生活指導も担当してい て、校則違反にはとりわけ厳しかった。  夕暮れ時の職員室で暸司は教師と二人きりで対面 した。  「どうして途中式を書かないの」  室内に夕日が差し、教師の顔の半分を照らしてい た。暸司は素直に答えた。  「わかるからです」  「わかるってどういうこと」  「途中式を書かなくてもわかるんです。問題を見れ ば答えはわかります」  「式を間違えてたらどうするの。答えも間違ってし まうでしょう」  「僕、答えを間違えたことありますか」  挑発するつもりはなかった。単に事実を確認した だけだった。しかしそのひと言が逆鱗に触れたらし く、教師は声色を変えた。  「間違えないからおかしいんでしようが」  「何かおかしいんですか」  「あなた、証拠がないからって居直るつもり」  「証拠ってなんですか。僕が問題を解いたという証 拠ですか」  教師はひと際声を高くした。  「カンニングは最悪、停学処分もありうるんです よ」  疑惑をかけられていることに、暸司はようやく気 付いた。反論する気にはなれなかった。証拠もなく 疑念を抱いている相手には弁解のしようがない。暸 司は無言でうなだれてその場をやり過ごした。教師 はその態度を反省と受け取ったのか、じきに解放し た。以後、暸司は数学の試験で必ず途中式を書くよ うになった。  同じ時期、校内の掲示で数学のコンテストがある と知ったが、出場する意欲は湧かなかった。コンテ ストも所詮は試験と同じだ。また不正の疑惑をかけ られてはたまらない。  小学生までの友達とは、年を追うごとに疎遠に なった。顔を合わせるたびに暸司が数学の話をする せいだ。嫌味のつもりはなかった。ただ、自分が好 きだと思うものを友達にも知ってもらいたかった。 それなのに、数学というだけで誰もが顔をそむける。 暸司にも、普通の中学生より多少は数学のことを 知っているという自覚はあった。だからできるだけ わかりやすい話し方を選んだつもりだったが、反応 は変わらなかった。  社会科見学の帰り道だった。バスのなかで、暸司 は家が近い男子に懸命に話しかけていた。何を話し ていたかは忘れてしまったが、相手の退屈そうな表 情は覚えている。彼は長いこと沈黙していたが、つ いにこう言った。 「面白くないんだよ」  暸司は口をつぐんだ。 「お前といても、つまらない」  そう言って彼は目を閉じ、学校に到着するまで二 度と目を開かなかった。それでも暸司の頭に浮かぶ のは、やはり数式だった。  それからは教室で話すことを諦めた。自分の興味 と同級生の興味の間には、絶望的に深い溝がある。 退屈という名の溝を埋める術を暸司は持っていな かった。寂しいときは、数を友人に見立てた。数の 世界では誰もが暸司に好意を示してくれる。こうし て、ますます数学にのめりこむことになった。  受験勉強は人並みにこなし、中くらいの偏差値の 高校に進んだ。もはや学校には何も期待していない。 数学者という職業につくにはどうすればいいのか、 ということばかり考えるようになった。数学をやり ながら金を稼ぐには、さしあたり大学の教員になる しかない。教員は暸司がもっとも嫌いな職業だった が、他に手がないなら仕方がなかった。  高校に進学すると暸司の才能はますます際立った。 授業についていけなくなる生徒たちが相次ぐなか、 試験で満点を取り続けた。物理の試験でもほぼ毎回、 満点だった。友達は教室にはひとりもいなかったが、 数の世界でならいくらでも遊ぶことができた。  孤独には慣れたが、時おり強烈な劣等感にさいな まれた。呼吸をするように友達をつくることのでき る同級生たちが異星人に見え、そのただなかで孤立 する自分が哀れだった。暸司には空気や間と呼ばれ るものがよく理解できない。臆病だと思われるのも 嫌だから、無理に話してまた傷つく。その繰り返し だった。  中学と違ったのは、暸司の才能に気づいた教師が いたことだった。  その数学教師はかつて研究者を目指していた。博 士課程を経てポスドクを経験したが、どこにも本採 用されず、挫折して高校の教師になったのだった。 彼は最初の試験で、暸司がとてつもない才能の持ち 主であると見抜いた。  この先生は違う、という直感は暸司にもあった。 数学者特有の、信仰に近いひたむきさをその教師は 持っていた。本を読んでいてわからないことがあれ ば、ふたたび職員室を訪ねて質問するようになった。  大学図書館に行くことを勧めてくれたのもこの教 師だった。英語さえ読めれば、収蔵された貴重な論 文がいくらでも読める。暸司は興味の赴くまま、英 和辞典を片手に論文を読みはしめた。図書館のテー ブルに夜までかじりつき、むさぼるように知識を吸 収した。一年もしないうちに、暸司は自分で検討す るときも英語を使うようになった。そのほうが日本 語よりもずっと速い。  教師はじきに暸司の質問に答えられなくなった。 数学コンテストヘの出場を提案したが、暸司は頑と して出場を拒んだ。しかし教師は、とてつもない才 能が埋もれてしまうことを忍びなく感じた。どうに かして暸司の存在を世に知らしめたかった。  放課後、一目散に大学図書館へ行こうとする暸司 を教師は呼びとめた。  「三ツ矢に紹介したい人がいる」  「先生の知り合いですか」  暸司はあどけない顔をまっすぐに向けた。 「大学の教授だよ」  教師には心当たりがあるようだった。 「小沼という名前だ」 暸司は教えられた宛先に長大な手紙を書き送った。 計算用紙五十枚に綴られたのは、ムーンシャイン予 想に対する別解だった。  ムーンシャイン予想は、群論と数論という一見異 なる分野に架けられた橋のようなものだ。数学者た ちが〈∃O呂を罵=狂気〉と言い表しただけあって、 その奇妙な関係性は彼らの好奇心をそそった。予想 はすでに証明されていたが、暸司は新たにトポロ ジーと呼ばれる別手法での証明を編み出した。  暸司は図書館で読んだ数学雑誌で、この予想と遭 遇した。すぐに証明の掲載された論文を探し、その アクロバティックな解法を楽しんだ。  証明を読み終わり、ふと誌面から目を上げた瞬間、 もうひとつ解法があることに気付いた。  よく使われる喩えとして、トポロジーの世界では、 ドーナツとコーヒーカップが〈穴のひとつ開いたも の〉という同値であるとして扱われる。暸司の頭の なかでいくつもの幾何模様が姿形を変え、ある時ぴ たりと一致した。思いつくまま計算用紙の上でペン を走らせ、何日かかったのか定かでないが、ある日 唐突に証明はゴールに到達した。穴もいくつかあっ たが、あまり気にしなかった。  その証明を眺めてしばし達成感を味わい、勉強机 の引き出しへ無造作にしまった。それは暸司にとっ ては日常的な出来事だった。  小沼にムーンシャインの別解を書き送っだのは、 それがたまたま検討済みの紙束の一番上にあったか らだ。数学者に手紙を書くのならば、何らかの数学 的知見を提供しなければ失礼にあたると思った。そ れが第一級の数学者しか理解できない内容であると は考えもしないまま、暸司は分厚い封筒を投函した。  小沼からの返信は一週間もしないうちに届いた。 便箋一枚きりの手紙には、小沼の焦りを表すように つんのめった文字が綴られていた。証明に対するい くつかのアドバイス。加えて、近日中にそちらへ訪 問するから、ぜひ会ってほしい、とも書かれている。 短い文面には動揺がにじんでいた。  約束通り、小沼は東京から四国までやってきた。 JRのターミナル駅に現れた小沼は、例の教師と同 じ年齢ながらいくらか若く見えた。麻のジャケット に細身のコットンパンツをはき、首元にはニットタ イを締めていた。浮世離れした仙人のような人物を 想像していた暸司には意外な風貌だった。社交的で 良識のある大人という感じがする。  自動改札の前で待っていた暸司に近づくと、小沼 はほほえみかけた。  「はじめまして。小沼です」  周囲には他にも人待ち顔の少年がいた。しかし初 対面にもかかわらず、小沼は迷いなく暸司に近づい てきた。  「僕のこと知ってたんですか」  「いいや。でも、何となくきみだとわかった」  不思議な人だ。しかし暸司にとっては居心地のよ い不思議さだった。  ふたりは連れ立って、駅前のカフェに入っだ。個 人経営の狭い店は半分ほど席が埋まっている。奥 まったソファ席に落ち着くなり、小沼が切り出した。  「感動したよ」  ムーンシャイン予想のことだとすぐにわかった。  「高校生があの問題を正確に理解しているだけでも すごいことなのに……不完全ではあるけれど、それ でもあれは大学の研究者がやるような仕事だ。三ツ 矢君がひとりで考えたの」  「はあ、まあ」  「今は何をやってるの」  「いろいろ。ムーンシャインの一般化とか」  「へえ’・ 進捗は?」  ふたりは注文したコーヒーを飲むのも忘れて会話 に夢中になった。小沼と話していると、暸司は自然 にふるまうことができた。ありのままの自分でいて も疎まれず、拒絶されない。日頃無意識に抑えつけ ている感覚を、包み隠さず差し出すことができた。 暸司の言葉が素直に届く初めての相手だった。そん な相手はこの世にひとりもいないと思っていたのに、 今、確かに目の前にいる。話せば話すほど気分はた かぶった。  会話は三時間あまりも続いた。さすがに話し疲れ たあたりで、次の予定があるから、と小沼は席を 立った。名残り惜しかったが、引き止めるほどの勇 気は暸司にはない。会計を済ませながら小沼がさり げなく口にした。  「うちの大学に来ないか」  協和大学の名前には暸司も聞き覚えがあった。理 学部の有名な名門私立大学。存在は知っていても、 故郷を離れて大学に通うことなど、一度も考えたこ とがなかった。  「高校在学中に一本、論文を投稿すれば特別推薦で 入学できるだろう。まずは別解の証明をきっちりと 完成させよう。進捗があったら、また連絡してほし い」  暸司が戸惑っている間に、小沼は風のように去っ てしまった。  上京など想像もしていなかったが、あの小沼とい う教授は信頼できそうだ。暸司の言葉を理解してく れる数少ない人間だし、何より暸司のことを拒絶し ない。  論文。特別推薦。今までの生活には無縁だった言 葉が、急に現実味を帯びてきた。  その囗からムーンシャインの別解に集中した。ど うすれば論文を書けるのかもわからないまま、証明 の穴を埋めるため、がむしゃらにペンを走らせた。 検討の経緯を記した紙束が溜まると、まとめて小沼 に送った。戻ってきたアドバイスを参考にふたたび ペンを走らせる。その繰り返しが一年ほども続いた。  もう孤独ではなかった。自分には対等に話すこと ができる人がいる。そう思うだけで、黒い雲が割れ て視界が開けるようだった。劣等感に襲われること もなくなった。  次第に論文は形になり、いつの間にか暸司は故郷 を発っていた。あの広大な森から遠く離れた場所で、 仲間とともに思う存分数学に打ちこむ日々を手に人 れた。  不思議なのは、どれだけ深みに入りこんでも、い まだにあの森の美しさを表現する言葉が見つからな いことだった。  居室の前を通りかかると、田中に呼びとめられた。  「よっ、二十一世紀のガロア’・」  暸司は最初それが自分のことだとわからず通り過 ぎようとした。田中があわてて居室から飛び出して くる。 「お前だよ、お前。ガロア君」 「はい?」  田中の後ろから木下がのっそりと現れた。手には 新聞を持っている。  「これ。この間、教授室でインタビュー受けてただ ろ」  渡された紙面には暸司と小沼のツーショット写真 が掲載されていた。Tシャツを着て口を半開きにし ている暸司は、とても二十歳に見えないほど幼い。 写真の横には先日のインタビューで答えた内容が記 されている。大半が小沼のコメントだ。話すのが苦 手な暸司に代わって、質問にはほとんど小沼が応対 してくれた。  田中が記事の一節を指さす。  「ここ見てみろ。群論において次々と画期的な成果 を生み出す姿は、まさに〈二十一世紀のガロア〉と 呼ぶにふさわしい……ほらな」  インタビューを受けたのは三度目だった。それま での二件は学会誌と数学専門誌だったから、まだ混 み入った話もできた。しかし全国紙の記者は群論や  モジュラー関数にはさして興味を示さず、暸司のエ  ピソードを集めることに腐心していた。宴会中も数  学のことを考えていると話せば、やっぱり天才は違  うんですねえ、と記者はことさら興味深そうに応じ  る。不快感を思い出して暸司は鼻を鳴らした。  「そうですか」  「それだけかよ、反応。お前さ、やったことのすご さをもっと自覚したほうがいいぞ」  「僕ひとりで解決したわけじやないですから」  「だとしても、メインで仕事したのは三ツ矢だろ。 もっと誇りに思えよ」  木下が口を挟む。「先生、呼んでたぞ。教授室に いるから」  まだ絡みたりない様子の田中を置いて、暸司は教 授室に向かった。ちょうど室内から出てきた小沼と 鉢合わせする。  「おお、いたいた。ちょっと今から一緒に来てくれ るか」  「どこに行くんですか」  「学部長のところ」  急かされるまま、暸司は学部長のもとへ向かった。  理学部長は物理学科の教授が務めている。物理学 科には専門書を借りるために何度か訪れたことが あったが、学部長と会うのは初めてだ。早足で歩く 小沼の横顔に尋ねる。  「何の用事ですか」  「さっき急に呼び出された。だいたい察しはついて るけどな」  学部長の居室に到着すると、小沼は呼吸を整え、 ノックしてからドアを開いた。  恰幅のいい男性が正面に座っていた。小沼よりふ た回りほど年長に見える。  「小沼先生か。そっちか三ツ矢君? 悪いね急に。 そこに掛けて」  頭はきれいに禿げ、口を開閉するたびに白い顎ひ げが上下に動く。小沼と暸司は学部長と対面する形 でソファに腰をおろした。  「さっき教授会があってね。今回は議題も議題だけ にめすらしく出席率もよくて、学部長としてもこれ だけ興味があるんだ、というね。感慨深いものが あった」  長々と前置きを話した後で、学部長は暸司のほう に身を乗り出した。押入れの奥に長年しまっておい た礼服のような、こもっだ匂いが鼻先に漂った。  「きみは特別推薦生だったね」  「はい」  「特別推薦は才能のある学生を確保するための制度 だ。ただ、なかなかうまくいかないものでね。高校 まで輝かしい経歴を持っている学生でも、大学に入 ると期待外れのことがよくあるんだよ。はっきり言 えばほとんどがそうだ。しかし三ツ矢君は素晴らし い。大学二年ですでに論文が二本。しかも学会への インパクトも大きい。最近はよくマスコミも来てい るし。実は学長や副学長も、君には興味を持ってい るんだよ」  暸司は横目で小沼をうかがった。身を固くして 黙っている。  「そこで提案したいことがふたつ。きみには優秀学 生として学長賞を授与したいということ。そしても うひとつ。二年早いが、飛び級での卒業を認める」  飛び級卒業。そんな制度が協和大学にあるとは知 らなかった。学部長はおもむろに一枚の書類を応接 テーブルに載せた。何かの会議の議事録だった。  「海外では普通のことだが、囗本の大学ではあまり 例がない。三ツ矢君にはぜひ、協和大の飛び級卒業 第一号になってはしいんだ。ただし協和大学の大学 院に進学すること。それさえ守ってくれれば、二年 での卒業を認めようということで学長も合意してい る。後は三ツ矢君の気持ち次第だ」  学部長の話す言葉は、暸司の鼓膜の上っ面を滑る ばかりだった。どうしてこっちが希望もしていない のに、飛び級卒業を許可されなければならないのか。 心を占めるのは戸惑いばかりだった。  「困ります」  気づけば、暸司は答えていた。  「僕の実家はそんなにお金がありません。だから、 学費免除がなくなるのは困ります」  禿頭をなでながら、学部長は口の端をつりあげた。  「博士号を取得するまで学費免除は継続する。だか らこの飛び級卒業は名誉なことなんだ。学部生の身 分では、不自由なこともあるだろうからな」  不自由な思いをした記憶はない。暸司の知らない ところで、何事かが勝手に進行している感じがした。 口を開こうとしない小沼が、急に他人のように思え た。暸司は学部長の目を見据えて言った。「僕から もお願いがあるんですが」  「何かな」  「あの論文は僕だけで書いたんじやありません。共 同研究者の二人にも飛び級卒業を認めてくれません か」  学部長は暸司の目をのぞきこんで、首を横に振っ た。  「飛び級はひとりだけだ。それに論文の筆頭著者は きみだろう」  「それなら僕もお断りします」  暸司、とすかさず言っだのは小沼だった。  「そんな簡単に決めるもんじやない。学部長もこの ために奔走してくださったんだ。考えてから返事し ろ」  「でも、僕にはそんなことする理由がありません」  学部長の目が細められた。ソファから立ち上がる と、腕組みをして暸司を見下ろす。  「ちょっと急すぎたかな。まだ少し時間はあるから 考えてみなさい。ただ、大学院入試の出願締め切り までには答えがほしいな。頼むよ」  頼むよ、という言葉は暸司ではなく小沼に向けら れたようだった。  部屋を出て廊下を引き返している間、小沼はひと 言も発しなかった。無精ひげの目立つ自い頬ば、疲 労のせいか艶を失っている。教授室へ戻ろうとする 小沼に問いかけた。  「先生は知ってたんですか」  「……ちゃんと聞いたのは初めてだ」  薄々は知っていたということか。暸司は捉えどこ ろのない気味悪さを覚えた。  居室では田中や木下が待ちかまえていた。いつの 間にか佐那も来ている。あいかわらず完璧なメイク で、初夏になっても化粧崩れの気配すらない。  まっさきに田中が尋ねた。「学部長のところに 行ってたんだろ。何の話だった? 取材?」  暸司は学部長との会話の内容をかいつまんで説明 した。飛び級卒業、という単語に佐那は興奮して手 を叩く。  「えI、すごい’・ 飛び級なんてカッコいいじや ん!・」  木下も身体をのけぞらせた。 「聞いたことないな。しかも二年で」 「でも迷ってて」 「迷う必要あるのか」 「だって、僕だけなんておかしい。それならクマも 佐那も飛び級を認められないと不平等です。あの論 文はみんなで書いたのに」  慌てた様子で佐那が両手を振った。ブラウスの裾 がはためく。  「私は別に気にしないよ。だって誰が見たって、暸 司のほうが実力あるんだから」  「でも、なんで僕だけが」  「大学の広告塔だな」  田中は会話を断ち切るように、あっさりと言い 放った。  「三ツ矢が飛び級卒業すること自体、ニュースにな る。しかも論文が出てお前に注目が集まってるこの タイミングは絶好だ」  「そんなことが宣伝になるんですか」  「なるさ。自分の置かれてる立場、自覚したほうが いいぞ。お前が思っている以上に、みんなお前に注 目してる」  徐々に早口になっている。田中の苛立ちが伝わっ てきた。  「どうしてですか。僕に注目するなんて、みんな よっぽど退屈なんですね」  長髪に覆われた田中の顔が赤く染まる。  「いい加減にしろよ。バカにしてんのか」  不快感を隠そうともせず、声を荒らげた。佐那が 肩をすくめる。  室内が緊張と沈黙で満たされる。暸司だけがその 理由に気づけず、皆の顔を順番に見ていた。悪い、 と口のなかでつぶやき、田中は居室を去った。長髪 が垂れ下がる背中を見送った暸司は木下に尋ねた。  「僕は田中さんに嫌われたんですか」  違う、と木下は答えた。大きな身体を窮屈そうに 縮めている。  「田中も俺も、暸司のことは好きだよ。いい後輩だ と思ってる。でも暸司の無邪気なところが、ときど き俺たちみたいな一般人には嫌味に聞こえるんだよ。 あいつの言う通り、もう少し自分がどう見られてる か考えてみたらどうかな」  慣れ親しんだはずの学生居室に居場所がないよう な気がした。暸司はひとり小会議室へ向かった。い つも一緒にたむろしている佐那もついてこない。  円卓に肘をついて、組んだ両腕に顔を埋めた。こ の微妙な違和感はなんだろう。普通の学生生活が遠 ざかっていく気がした。まぶたを閉じて、目の前に ちらつく光の跡をじっと見ていた。このまま眠って しまいたかった。  誰かがドアを開ける音がする。顔をあげると、熊 沢がいた。  「クマ。さっきね」  「木下さんに聞いたよ。飛び級卒業するか迷ってる んだろ」  暸司の説明をさえぎり、熊沢はパイプ椅子に腰を おろした。眼鏡のレンズが蛍光灯の光を受け、永の ように冷たく輝いている。先ほどの田中と似た雰囲 気を感じた。  「暸司は十年後、何がしたい?」  十年後といえばもう三十歳になっている。  「数学ができれば、それでいいよ」  「真剣に考えろ」  嘘を言っているつもりはない。それが暸司の本心 だった。  熊沢は部屋の隅に置かれた段ボールを見やった。 計算用紙の束であふれている。一年かけて、暸司、 熊沢、佐那の三人で何千枚もの紙を計算に費やした。  「部屋にこもって問題解いてるだけじゃ、誰も生活 費なんかくれない。論文書いて学生の指導しないと、 数学者としては認めてもらえない。実績が必要なん だ。飛び級卒業ってのは実績のひとつだろ。大学が 優秀たって認めた証だ。論文何本書いても足りない くらいだよ」  「でも普通に大学卒業したって、数学者にはなれる。 僕は何かおかしな感じがするんだよ。だって僕が望 んでないのに、どうしてそんな話が降ってくるの」  「……正直に言う」  熊沢の瞳が揺れた。  「俺は暸司がうらやましい。嫉妬してる。お前みた いな才能が手に入るんなら、なんだってする。その 才能売ってくれるっていうんなら、百万でも一千万 でも買う。一億だっていい。親に土下座してでも、 借金してでも払う。寿命が十年や二十年、短くなっ たっていい」  ふたりの目の縁から涙があふれて落ちた。先に泣 いたのがどちらか、暸司にはわからなかった。  「暸司は一流の数学者になる。そう決まってるんだ よ。運命なんだ。わかってくれ」  運命など考えたことはない。暸司はただ、美しさ に導かれるまま生きてきただけだ。仲間とともに研 究する日常を送りたいだけだ。  熊沢の目尻からは泉のように涙が湧き出ている。  「俺はこれから死ぬほど努力する。暸司のアシスタ ントをしているだけじゃ、一生、嫉妬することにな る。だから俺は自分だけのテーマを見つける。暸司 と同じようにはできないし、暸司と肩を並べられる かどうかわからないけど。でも、どれだけ時間がか かっても、一人前の数学者になるから。だからお前 は遠慮なく突っ走ってくれよ」  暸司にはろうそくの火が見えていた。青白く、ひ と際激しく燃える火。その火は永遠には続かない。 ろうそくはいずれ尽きる。燃える勢いが激しいほど、 尽きるのも早い。暸司の目の前に差しだされた火は、 さらに勢いを増そうとしていた。    5 数覚  解答用紙は真っ白たった。  問題文を何度読み返しても、見知らぬ言語で書か れたかのように意味が頭に入ってこない。両隣の少 年たちはすらすらとペンを走らせている。この室内 で自分だけが取り残されていた。秒針が時を刻む音 がいやに大きく響き渡る。  焦りが募り、でたらめに解答用紙にペンを走らせ るが、インクが切れているのか紙には線を引くこと すらできない。予備のペンを手に取るがこちらも書 くことができない。今度は鉛筆を握りなおすが、や はり紙には一本の線も残らない。おかしい。こんな ことが起きるはずがない。誰かにはめられたのだ。  改めて左右を見まわすと、誰もが怪しく思えてく る。誰だ。敵ほどいつだ。疑念にさいなまれている 間も時は過ぎていく。足元から沼に引きずりこまれ るような感覚。走馬灯のように、短い半生の記憶が よぎる。  物心ついてからずっと、神童と呼ばれて育った。 数学をやるために生まれたのだと本気で信じていた。 いずれは歴史に名を残す数学者になれると真剣に 思っていた。夢ではなく、確実にそうなる未来とし て。その神童が今、問題の意味すら把握できないま ま試験時間を終えようとしている。  喉はからからに渇き、吐き気がこみあげてくる。 視界がゆがんで転回し、同級生たちの笑い声が耳を 覆う。あんな偉そうなこと言ってたくせにO点かよ。 だっせえな。あいつから数学取ったら何も残らない よ。  そうだ。俺から数学を取ったら何も残らない。  衝動に駆られ、発作的に問題文が印刷された用紙 を破る。何度も破る。紙片が雪のようにあたりに舞 い散る。それを拾い集めてさらに細かく破る。何度 も何度も繰り返す。文字のひとつひとつがバラバラ に分散し、塵になるまで細かい紙をちぎり続けた。  目覚めると、顔にじっとりと脂汗がにじんでいた。 七月の夜は蒸し暑い。  視界に靄がかかっている。目をこすれば見慣れた 小会議室の本棚が現れた。おかしな体勢で眠ったせ いか、関節がところどころ痛む。眼鏡のツルが少し ゆがんでいた。  すでに終電の時刻は過ぎている。結婚してから、 終電を逃したのは初めてだった。  携帯電話には聡美からの着信が残されている。か け直すと最初のコールで聡美が出た。寝落ちした、 と正直に話すと、聡美は安堵の息を漏らした。  「すぐタクシー呼べば、いつもの時間に帰れるん じゃない」  「いや、今日は朝までいる。仕事片付けておくよ。 明日休みだし」  聡美は何か言いたそうだったが、気をつけてね、 とだけ言い残して通話は切れた。  冷蔵庫で冷やしていたアイスコーヒーを飲んだ。 深夜の大学は静寂に支配されている。警備員の足音 だけが時おり耳に届く。久しぶりの感覚たった。二 十代までは徹夜で研究することもざらだったが、三 十を超えると身体が追いつかなくなってきた。  大学教員になった今でも、熊沢はたびたびあの夢 を見る。  日本代表として出場した国際数学オリンピックで かつてない屈辱を味わった。二日間にわたって出題 された計六問のうち、一問もまともに解答すること ができなかったのだ。二十年近く経過した今なら、 それが実力のせいではなく精神状態によるものだっ たと納得できる。日本代表という肩書きに舞いあ かっていたのだ。しかし、当時は実力のなさを突き つけられたような気がしてひどく落ちこんだ。  結果発表までの三日間は地獄たった。観光やレク リエーションを楽しむ余裕はなく、ひと言も話さな かった。何を食べてどこに行ったか、いっさい記憶 にない。ただ、コンテストが終了した解放感のせい か、佐那がしきりにはしやいでいたことは覚えてい る。自覚はなかったが、当時から彼女のことは気に なっていたのかもしれない。  佐那は銅メダルを授与された。当然ながら熊沢に メダルは与えられなかった。  帰国してから、熊沢は数学に触れることなく高校 卒業までの時間を過ごした。協和大学の特別推薦入 試を利用したのは筆記試験が必要なかったからだ。 あんなに得意だった数学の試験は、熊沢にとって耐 えがたい苦痛になっていた。  大学に入ってからは、どこか適当な学部に転部す るつもりだった。できれば数学と縁遠い文系学部が いい。いいかげんに授業をやり過ごし、アルバイト にでも励もうと思っていた。そこに現れたのが暸司 だった。  やつはアルバイト先のマンガ喫茶にやってきて、 数字と記号で埋めつくされた紙の束を置いていった。 熊沢にはそれが数学の言葉だとすぐにわかった。意 味はほとんどわからなかっだけれど、強い磁力を感 じた。試験の問題を解くこととはまるで性質が違っ た。ここに書いてあることの意味を知りたい、と切 実に思った。  暸司の思惑通り、熊沢は研究室に出向いた。そこ に佐那が居合わせたのは偶然ではない。彼女もまた、 暸司が放つ強烈な磁力に引き寄せられたのだ。  暸司は、自分の才能がある種の人間を引き付ける ことを知っていた。彼は無邪気な数学の妖精ではな い。プライドも打算も持ち合わせた人間だ。そして 人間であるばかりに、苦しむことになった。  回想に浸っている間にも始発は刻々と近づいてく る。すぐにでも検討を再開したいが、雑用も溜まっ ている。先にメールを片付けておくことにした。  二杯目のコーヒーを飲みながら、パソコンと向き 合う。大学の事務課、共同研究先、学会の事務局。 退屈なメールの群れに、見知った教授の名前を見つ けた。学会でたまに挨拶する程度の仲で、用件もく だらないものだった。熊沢の目を引いたのは最後の 一文だ。  −来年は熊沢先生が受賞できるよう、私も尽力 します。  恩着せがましい物言いに舌打ちが出た。この一文 を書きたいがためにメールを送ってきたような気が してならない。  その教授とは春先の学会で顔を合わせた。懇親会 で、熊沢がひとりになったタイミングを狙ったかの ように声をかけてきた。 「春華賞、残念たったね」  熊沢には発言の意味がわからなかった。 「何のことですか」 「あれ、知らなかったか」  相手はわざとらしく、グラスを持っていないほう の手を広い額に置いた。  「熊沢先生、春華賞の候補に挙かっていたよ」  春華賞は囗本数学会から四十歳未満の数学者に贈 られる賞であり、国内の賞では最も権威を持つもの のひとつだ。若手が獲得できる最上の勲章である。 「私か、ですか」 「日本では弦理論といえば熊沢先生というくらいな のに、名前が今まで挙がっていなかったのがむしろ 不思議だ」  数学者コミュニティで、熊沢は弦理論の専門家と して認識されている。あえて暸司とは違う分野を選 んだのだ。最初のきっかけはムーンシャインの一般 化だった。あの仕事を通じて、同じ領域では絶対に 暸司に敵わないと確信した。   二十も年上の教授はだらだらと話を続けた。  「来年こそは本命だと思いますよ。まあ、アメリカ にいた頃の成果が主だから、それを気にしている先 生もいるみたいだね。私はぜひ授賞すべきだと推し たんだけど」  「先生、選考委員を務められたんですか」  相手は肯定も否定もせず、にやりと笑ってビール を飲んだ。  「その辺の事情は疎いんだね」  下品な笑みがよみがえる。春華賞をちらつかせて、 厄介な頼み事でもするつもりなのか。バカバカしい。 だいたい、ただのパッタリかもしれない。具体的な ことは何ひとつ口にしていないのだから。  メールを削除しようとして手を止めた。数秒考え て、受信ボックスに残したまま次のメールに移った。  熊沢にも名誉欲はある。仮に例の教授が本当に選 考委員のひとりなら、仲良くしておいて損はない。 少なくともメールを削除するのは待ったほうがいい。 みずからの俗っぽさに嫌気がさしたが、結局は春華 賞への憧れが勝った。  プルビス理論の解明を試みたのも、元はと言えば コラツツ予想の証明が目的だった。証明に成功すれ ば、国内はおろか世界に名を知らしめることも夢で はない。功名心が原動力の一部であることは認めざ るを得なかった。  もし暸司が同じ状況に置かれたなら、余計なこと に悩まず、気持ちの赴くまま問題と向き合っていた だろう。熊沢にはどうしてもそれができない。  この数か月、本業の研究はまったく進んでいな かった。ただでさえ雑用に忙殺されているのに、プ ルビス理論と並行して別の研究を進めるのは無理が ある。どちらもそんなに生易しいテーマではなかっ た。  今なら、国数研に移った小沼の気持ちがよくわか る。落ち着いた環境で研究に没頭できることがいか に幸せだったか、准教授になってからしみじみと感 じていた。小沼には年齢への焦りもあった。教育者 としてではなく、数学者としてもうひと花咲かせた いと考えていた。ただ、小沼の焦りが年齢のせいだ けではないことも熊沢は知っていた。  初対面の小沼には、すでに数学者として半分降り ているところがあった。才能を見出し、育てること が仕事だと割り切っていた。だからこそ、まだ高校 生の暸司と文通を続け、論文執筆を助けた。  小沼の心にふたたび火がついたのは、暸司の飛び 級卒業のあたりからだ。  要するに、小沼も三ツ矢暸司の才能に嫉妬してい たのだ。  熊沢には確信があった。直前まで暸司に飛び級卒 業の話をしなかったことも、それなら納得できる。 総説やコラムばかり書いていた小沼が、ふたたび本 格的に論文を書きはじめたのはその翌年からだ。  改めて、暸司が皆の人生に与えた影響を思い知っ た。暸司がいなければ熊沢は数学者になっていな かった。佐那はもっと早く数学に見切りをつけてい ただろうし、小沼は協和大に残っていたかもしれな い。  未読メールをすべて片付けたのは、パソコンに向 かってから二時間も経ったころだった。熊沢はグラ スにアイスコーヒーを注ぎ足し、小会議室に戻った。  部屋の中央のパイプ椅子に腰をおろし、首を同す。 これまで肩こりとは縁がなかったが、最近ついに肩 の張りを覚えるようになった。  円卓に広げられたノートに目を通す。円卓は熊沢 が学生の間だけでも、三度買い替えた。暸司が計算 用紙越しに何万回、何億回とボールペンの先端を叩 きつけるせいで、天板に無数の溝ができてしまうせ いだ。買って数日のうちに、丸い天板に真新しい溝 が幾筋もできるのが常だった。  ノートの上の文字が躍っている。僕を見て、と暸 司が叫んでいる気がした。  熊沢は使命感と無力感の狭間で押しつぶされる寸 前だった。もはやひとりでは、このあまりにも巨大 な置き土産を受け止めきれない。このままではいず れ自滅する。  ノートを公開するしかない。心中で決意が固まり つつあった。  通常、論文は専門家の査読を受けた後に公開され る。しかしプレプリントーサーバと呼ばれるウェブ サイトでは、査読を受けることなくスピーディに論 文を公開することができる。熊沢は暸司のノートを サーバにアップし、誰もがアクセス可能な状態にす るつもりだった。三ツ矢暸司のネームバリューはま だ生きているはずだ。暸司の書いたコラッツ予想の 証明なら、世界中の数学者が躍起になって解読しよ うとするだろう。解決のためにはそれしか手はない ように思えた。  この大学ノートはいわば、長い時間をかけて書か れた暸司の遺書だ。その遺書を公開することには躊 躇もある。しかし研究室の片隅で埃をかぶっている よりは、ずっとましに思えた。  ごめんな暸司。お前の遺書、俺には読めなかった よ。  音のない深更の研究室で、熊沢は祈るように両手 を組んだ。謝れば許されるとは思っていない。むし ろ後悔が深まるばかりだった。なぜあんな別れ方を したのか。三十歳の冬のことを思い出すと、熊沢は 身もすくむような後悔にとらわれる。  熊沢はアメリカで暸司の死を知った。渡米後の成 果をまとめるのに必死だった。執筆中の論文をかか えていたため、すぐに大学を離れることはできな かった。  ようやく一時帰国したのは暸司が亡くなった翌月 だ。熊沢は四国にある暸司の実家を訪ねた。東京か ら飛行機とバスを乗り継いで五時間。平坦な道をひ たすら歩いてたどりついたのは、深い森を背にして 建つ木造の二階屋だった。  仏間は裏庭に面していた。庭は森と境目なく続い ている。都会の公園にはない濃密な緑色。手が加え られていない分、何か潜んでいるかわからない得体 の知れなさがあった。  遺影の暸司はずいぶん若かった。学生の頃に撮っ た写真らしい。線香を上げ、手を合わせている間は 何も考えられなかった。  「こんな辺鄙な場所まですいません」  暸司の母親は恐縮しながらお茶を出してくれた。 父親は外出中だった。兄はとうに家を出て、遠方で 暮らしているという。  「熊沢さんのことはよく暸司から聞いていました」  「なんて言ってましたか」  「とても頭のいい友達がいる、と。自分の感覚を共 有できる仲間だと言っていました。小沼先生や斎藤 さんにもよくしてもらったみたいで。葬儀に来てい ただいた時に色々とうかがいました」  母親は憔悴のにじんだ表情で語った。  「平賀先生は来ていなかったんですか」  「……ああ、いらしてましたね。私は話していませ んけど」  それ以上は尋ねなかった。彼女にとって話して楽 しい相手ではないだろう。  熊沢は、暸司の母が息子の最期について説明して くれるのを黙って聞いた。  部屋の隅に段ボールの箱が積みあげられていた。 本棚、とマジックペンで表に書いてある。のぞきこ むと、専門書や計算用紙の束がぎっしり詰めこまれ ている。その隅に見覚えのない大学ノートが挟まっ ていた。いやに分厚いせいか、妙に目につく。  「暸司の部屋にあったんです」  了解を取ってからノートを開くと、そこには数式 と記号の海が広かっていた。どのページを開いても、 懐かしい暸司の筆跡で満たされている。最後に会っ た囗の記憶が鮮明によみがえっだ。  「よかったらコピーを取らせてもらえませんか」  熊沢が言うと、暸司の母は小さく笑った。  「差し上げます。持って行ってください」  「いいんですか」  「どうせ私らには読めませんし。意味がわかる人に 読んでもらったほうがいい。暸司の思い出なら他に もたくさんありますから」  森のにおいをまとったノートを、熊沢はアメリカ ヘ持ち帰った。そこに書き残された数式の意味を解 読し、かつて暸司が見た景色を再現することが、せ めてもの弔いだと思っていた。  それにもかかわらず、熊沢は六年もの間ノートを 放置した。弦理論の分野で頭角を現しはしめた熊沢 は研究に忙殺され、ボスの意向もあって、立て続け に論文を発表した。熊沢の名は米国内の数学者コ ミュニティに広まり、若手の有望株として注目を集 めた。研究と交流に忙しい毎日を送る熊沢に、旧友 のノートを振り返る余裕はなかった。帰国してから も日本のコミュニティになかなかなじめず、彼らに 実力を認めさせるため躍起になって論文を書き続け た。聡美との結婚や出産でプライベートも忙しかっ た。  すべては言い訳に過ぎない。要するに、熊沢は目 の前の現実を優先した。それは普通の人間である熊 沢にとって当たり前のことだった。  暸司が同じ状況なら、どうしただろう。考えるま でもない。暸司は数理の世界の住人だ。くだらない 現実に惑わされることなく、〈見える〉ものを追い かける。熊沢には見えないものが、彼の視界には はっきりと映る。  日本人で初めてフィールズ賞を受賞した数学者、 小平邦彦は随筆でこう書いている。  −数学が分かるとは、その数学的現象を『見 る』ことである。『見る』とは或る種の感覚によっ て知覚することであり、私はこれを数覚と呼ぶ。  数覚について教えてくれたのは暸司だった。熊沢 がこの随筆を読んだのは、彼がごくなった後だ。  暸司ほど数覚に恵まれた人間を、熊沢は他に知ら ない。彼はこの世ではなく、数理の世界に生きてい た。それなのに、熊沢には表層しか見えていなかっ た。奥底にたぎるマグマのような感情のうねりに、 最後まで気づくことができなかった。  墨のような空の色が濃紺へ変わり、徐々に明度を 高めていく。始発の時刻が近づいていた。結局、プ ルビス理論のほうはこのひと晩で何の進捗もなかっ た。  身支度を整えた熊沢は、理学部棟を出て夜明けの キャンパスへ足を踏み出した。  濃青色の空にいびつな雲が浮かんでいる。吹く風 に緑の木々が揺れる。世界のすべてはフラクタルで 語られる、と暸司は言った。それが真実かどうか確 かめる術を、熊沢は持っていない。    6 燃えあがる船  夜明けのキャンパスでは何もかもが輝いていた。 暸司は全速力で走りながら、視界を流れていく光を 目で追った。腕を振るたびバックパックが背中を叩 く。すぐにでも叫びだしたい興奮を抑えて、正門か ら公道へ飛び出した。傍からは、学校への道のりを 走る中学生にしか見えないだろう。  とうとう見つけた。ついに、この世界を語る言葉 を発見した。  胸のうちで何度も雄叫びをあげながら、スーツを 着た勤め人や制服の高校生を追い越し、暸司は一目 散に熊沢のアパートを目指した。  ドアホンを続けて二度、押す。足りないような気 がしてもう一度押した。待っているとドアが開き、 寝ぼけ眼の熊沢が顔を出した。以前は早朝に押しか けると必ず「何時だと思ってんだ」などと小言を言 われたが、最近ではもう何も言われない。  「合い鍵作ったほうがいいかもな」   ぼやきながら、半ズボン姿の熊沢は座布団に座り なおした。後頭部では派手に寝ぐせがはね、頬には 枕カバーの跡がついている。暸司は勝手に冷蔵庫を 開け、グラスに麦茶を注いで熊沢に差しだした。ワ ンルームには実家から送られてきたブドウの香りが 漂っている。  「それにしても早すぎない? また徹夜したのか」  「昨日、昼に寝ちやったから」  「まだ六時だぞ」  「一限がはじまる前に話したいんだ」  「今日は二隕からなの。あI、つらい。昨日二時ま で起きてたんだって」  熊沢は指で眼鏡を押し上げて目をこすっている。 本や書類で雑然とした座卓の上に、清書した書類が 置いてあった。  「教職のレポート。見るなよ、恥ずかしいから」  グラスを干すと、ようやく熊沢の顔に生気が宿っ た。「今日は何?」  「フラクタルだよ。世界は全部、それで語られる」  「フラクタルつて……聞いたことはあるけど。岩澤 理論とは関係ないんだろう」  ムーンシャインの一般化に成功して以降、熊沢と 佐那は小沼研究室のメインテーマである岩澤理論を 研究している。  「お前もう院生なんだからさ、同期とはいえ、学部 生に意見求めるのやめろよ。田中さんとか木下さん に相談しろって」  「最初にクマと話したいんだよ」  熊沢は少し笑った。空のグラスをフローリングに 直に置く。 「それで?」  フラクタルは〈自己相似〉ともいわれる。自己相 似な図形では、一部が全体と同じ形であり、どれだ け拡大しても同じ構造が出現する。たとえば、シダ の葉を拡大して見れば、細部も葉全体と同じ形をし た小さい葉で構成されている。さらに拡大して見れ ば、その小さい葉もより微小な葉で構成され、その 微小な葉もまた極小の葉で構成される。  無限に続く同じ図形。それがフラクタルだ。  自然界に存在するものはたいてい複雑な構造を持 つ。遠い山の稜線も、夏空の入道雲も、天から降る 稲妻も、複雑に入り組んだ形であり、自己相似な構 造を持っている。  これこそがこの世のすべてを語る言葉だと、暸司 は確信していた。  「自然界を語るために最適な言葉は、フラクタル だったんだ」  熊沢は台所からもってきたブドウを皮のついたま ま数粒口に放りこんだ。  「急にどうしたんだよ。今までそんなこと言ってな かっだのに」  「見てよ。バーニングシップーフラクタルつていう んだ」  暸司はバックパックから論文を取り出し、図を指 さした。描かれているモノクロの図形はその名の通 り、燃えあがる船に似ている。舳先をこちらに向け た船の甲板には、塔のような火柱が幾本も立ってい た。  「これがどうかしたか」  「きれいだと思わないの」  「思うけど。きれいな図形だとは思う」  「この図形はマンデルブロ集合と式がそっくりなん だよ」  暸司はもう一編の論文を突き出した。今度は〈マ ンデルブロ集合〉と名付けられた図を指す。大小の 円か連なった模様は、バーニングシップーフラクタ ルとは似ても似つかない。  「二つの図形の違いは、実数部と虚数部が絶対値に なっているかどうかだけ。でも導かれる構造はこん なに違う」  暸司は歌うように言った。  「自然界でも同じようなことが起こってるかもしれ ないんだよ。雲を表す式を応用すれば、波になるか もしれない。雪を表す式を変形すれば、森になるか もしれない。ひとつの基本式からすべてが導かれる かもしれない。ああ、なんで今まで気づかなかった んだろう」  学部生のころに読んだ本の内容を思い出す。リー マン予想について書かれた文章に、素数の分布には フラクタル性があると記されていた。このテーマは いずれ、整数論にまで広がるかもしれない。  「落ちつけよ」  「僕はこれからフラクタルをやる。決めたんだ」  「今やってる研究はどうするんだよ」  「並行して、やる」  熊沢は呆れつつも、「本当にやりそうだな」と 言った。  空腹を覚えたふたりは家を出て、最近できた チェーンの牛丼屋で朝食を済ませた。学食と変わら ない値段で牛肉が食べられるのは、貧乏学生にはあ りがたい。食事を済ませた後はそのまま大学へ行き、 研究室で時間をつぶすことにした。  暸司は飛び級卒業で大学院に入学し、修士課程に 在籍している。熊沢や佐那は順調に三年へ進級し、 第一希望の小沼研究室へ配属された。三人は名実と もに小沼の研究室の学生となっていたが、狭苦しい 学生居室には三人分のデスクを置く空間がないため、 いまだに小会議室にたむろしている。  田中や木下はまだ来ていない。小会議室をのぞく と、佐那が円卓に頬杖をついて本を読んでいた。 ショートカットの髪が小ぶりな顔の輪郭を際立たせ ている。最近短くしたばかりだ。振り向くと、毛先 が繊細なモビールのように揺れた。「おはよう」  「いつもこんな早いっけ?」  熊沢が何気ない調子で尋ねた。  「あたし今日一限あるから」  「マジ? 教職、一限からだっけ」  「違う。工学部の選択科目。興味あるから取つてる だけ」  「何取つてんの」 「情報処理概論」 「興味なし」  熊沢はパイプ椅子にどっかりと座って携帯電話を いじりはじめたが、暸司は好奇心をみなぎらせて身 を乗り出した。  「面白そうだなあ。僕も聴きに行こうかな」  「もしかして、画像の符号化とかニューラルネット ワークとか興味ある?」  暸司は考えこんだ末に「あんまりないかも」とつ ぶやいた。  「だよね」佐那は苦笑した。  その時、佐那の頬にそばかすが浮いていることに 暸司は気づいた。濃かった化粧がいくらか薄くなっ ているような気がする。  暸司は改めて佐那を観察した。入学からずっと明 るい茶色に染めていた髪も、いつの間にか黒くなっ ている。いつからだろう。先週か、先月か。半年前 のような気もする。女性の外見について考えたのは これが初めてだった。  「ねえ。クマと暸司ってさ、もしかして付き合って る?」  「アホか」熊沢は一蹴したが、佐那はにやにや笑っ ている。  「だって二人とも全然彼女できる気配ないし、いっ つも一緒にいるから」  「こいつが朝から押しかけてくるんだよ。ほら、佐 那にもフラクタルの話してやれよ」  暸司はふたたび美しく燃える船を披露しようとし たが、佐那は申し訳なさそうにそれをさえぎった。  「ごめん、もう行かないと。あとクマ、めっちや寝 ぐせついてるよ」  最初に言えよ、とぼやきながら熊沢はどこか嬉し そうだった。他人の感情に疎いことを自覚している 暸司でも、それはわかった。佐那と一緒に部屋を出 た熊沢は、トイレで寝ぐせを押しつけて戻ってくる とさりげない風を装って言った。  「佐那、男できたのかな」  「なんで」  「化粧の感じ変わったんだよ。薄くなった」  「僕も何となく感じた」 「絶対そうだって。暸司、今度聞いてみろよ」 「クマが気づいたんだから、クマが聞きなよ」 「お前の方が教習所でよく会うだろ」 「あっちはとっくに卒業してるよ」  暸司は佐那に誘われ、三か月前から自動車教習所 に通っていた。その教習所は友人と一緒に入学すれ ば割引きになるのが売りで、たいていの学生は友人 を誘っていた。熊沢も佐那に誘われたが、入学早々 に免許を取ってしまっていた。暸司は親から再三勧 められ、気が進まないものの教習所に通っている。   自分で予想していた通り、暸司には運転センスが  皆無だった。暸司にとって自動車の運転は苦行でし  かない。佐那は一か月前にあっさり免許を取ったが、  彼女がまだ教習所に通っていた頃はたびたびロビー  で顔を合わせていた。  「あ」ふいに暸司が口を開いた。  「何だよ。どうした」  「思い出した。別にたいしたことじやないんだけ ど」  「いやいや、教えろよ。何か知ってるのか」  「知ってるっていうか、見たんだよ」  わずかに沈黙を置いてから、熊沢は尋ねた。「誰 を」  「佐那の付き合ってる人」  とたんに熊沢はうなだれ、つむじを見せたままし ばらく動かなかった。  佐那の恋人と遭遇したのは教習所のバス停だった。 教習所と最寄り駅を往復するシャトルバスが出てい て、常に教習所に通う学生たちがけだるそうに停留 所で時間をつぶしている。いつものように教官から さんざん叱責された暸司は、疲れた身体をプラス チックのベンチに預けていた。空いていた隣のベン チに誰かが腰をおろした。  「おつかれさま」  見ると、佐那が座っていた。見知らぬ男と一緒に いる。何となく会釈をしながら、暸司は男のほうに 視線を向けた。背の高い一重の男で、佐那よりもい くつか年上に見えた。顔は小さく、デニムのジャ ケットをすっきりと着こなし、初対面の暸司にも愛 想よくほほえんでみせた。  「三ツ矢君」  いつもなら暸司と呼ぶはずだったが、この時は 違った。  「この人、彼氏なんだ。サークルの先輩」  へえ、と言ったきり言葉が続かなかった。関心が ないわけではないが、友人の恋人と会った時にどう 対応するのが正しいのかわからなかった。とりあえ ず暸司は佐那の恋人と互いに名乗りあったが、相手 の名前はすぐに忘れてしまった。   熊沢はうなだれたまま、地の底から響くような柢 い声で言った。  「いつから付き合ってんのかな」  「知らない。クマも教習所行ってみたら」  暸司の軽口に返ってくる言葉はない。  斎藤佐那は自分に素直な女性だった。  何かに固執することがなく、感性のおもむくまま に動く。数学に触れたくなれば研究室を訪れ、他の ことに興味がひかれればそちらへ顔を突っこんでみ る。熊沢にただようある種の悲壮感は、彼女には無 縁だった。あたしは数学で食べていくかどうかわか らない、というのが佐那の口癖だった。  三人で議論をしていると、それぞれの性格がよく 表れる。  たいてい、問題提起をするのは暸司だった。それ に対して最初に意見するのが佐那で、彼女はその場 で感じたままを口にする。一方、熊沢は暸司にいく つか質問を投げかけ、周辺情報を集めたうえで自説 を述べる。佐那がまたそれについて何かコメントを する。それをきっかけに暸司や熊沢が意見を述べ、 徐々に暸司が提起した問題が共有されていく。  佐那の存在は議論を活性化させる触媒であり、ヒ ントを与える羅針盤だった。  暸司は数学者としても友人としても、佐那を信頼 していた。だから熊沢が佐那に対して特別な感情を 抱いたことには、内心戸惑った。その感情が原因で 仲違いするようなことがあれば、三人での時間を失 うことになる。だから佐那に恋人ができたことは、 ある意味では喜ばしい。  熊沢には言っていないが、暸司は佐那とふたりで 星を見に行ったことがある。  晴れた真夏の深夜たった。暸司がひとり研究室に 残って検討を続けていると、ふらりと現れたのが佐 那たった。いきなり小会議室のドアが開き、黒髪の 佐那が顔を出したのだ。すでに午後十一時を回って いた。  「みんな、帰っちやった?」  突然声をかけられて慌てる暸司に構わず、佐那は 部屋へ入ってきた。  「今から暇ある?」  「どうしたの」  「これから星見に行くんだけど。一緒に行く?」  そう誘われて、どうして即座に行こうと思ったの か、暸司にはうまく説明できない。ただ、楽しそう だと思った。どこに行くか、いつ頃帰ってこられる のか、何もわからないまま暸司は佐那の誘いに乗る ことを決めた。  佐那は学部棟の駐車場に車を停めていた。  「車、どうしたの」  「急に星見たくなって、レンタカー借りてきた。免 許取ってから運転するの初めてだったから緊張した よ」  後部座席には小さいショルダーバッグがひとつ置 いてあるだけだった。  「望遠鏡は?」  「持ってない。あたし望遠鏡で見るより、肉眼で見 るほうが好きだから」  佐那は一年生から天文サークルに入っている。理 系学部を売りにする大学だけあって、天文サークル も本格的たった。メンバーが各自で天体望遠鏡を持 ち寄り、週末を使って夜通し星を観察する。そんな 話を佐那から何度も聞いていたから、てっきり望遠 鏡を持っているのだと思った。  佐那が(ンドルを握り、暸司は助手席に座った。 冷房を入れるとカビ臭さがほのかに漂う。オートマ の自動車は静かに滑り出し、公道に出てからも順調 に走り続けた。郊外の道路は思いのほか空いている。  「一緒に行く相手が僕でいいの」  佐那はフロントガラスを見つめたまま答えた。 「どうして」  「サークルの人じゃなくていいの。僕、星とか全然 詳しくないよ」  「もちろん。そのほうがいいくらい」  対向車のヘッドライトを浴びて、佐那の頬ば青白 く輝いていた。  「疲れるんだよね。みんな色々知ってるから。ただ 星見て綺麗だね、でいいのに」  佐那の横顔は真剣だった。運転に集中していたせ いかもしれない。  二年前に会った頃と比べて、見た目の印象は変 わっだ。化粧は薄くなり、服装の雰囲気も違ってい る。しかし彼女の底に沈んでいる孤高な部分は何ひ とつ変わっていない。  車はじきに、人気の少ない住宅街へ入りこんで いった。誰も歩いていない窓の外は暗く、時おり街 灯がぼんやりと浮かびあがる。暸司はガラス窓に顔 を寄せて、流れる夜の家々を眺めていた。水槽に閉 じこめられた魚の気分たった。  車が行きついたのは広大な公園だった。  「免許取り立ての運転、なかなかスリルあったで しよ」  佐那はレンタカーを入口の近くに停めた。他にも 数台の車があり、暸司たちの他にも公園の訪問者が いることを示していた。冷房の効いた車内を出ると、 肌が湿気の膜に覆われた。  順路通りに公園を進むと右手に大きな池が現れ、 左手には草むらが広かっていた。そこここにいる先 客が、均等に距離をとって空を見上げている。望遠 鏡をのぞいている家族連れや、ひとりで寝転んで空 を見つめているスーツの男がいた。頭上には光る砂 粒をばらまいたように星がきらめいている。  「こんな場所よく知ってたね」  「そこは一応、天文サークルだから」  ふたりは先客たちの隙間に陣取り、草むらの上に 直に腰をおろした。  「ビニールシートくらい持って来ればよかったね」  佐那はジーンズの足であぐらをかいた。暸司が足 を伸ばすと、下草の夜露が太ももの裏をじっとりと 濡らす。後ろに手をついて空を見た。限りなく黒に 近い紺色を背景に、星が瞬いている。ひとつひとつ が呼吸をしているようだった。こんなに星を見るこ とに集中したのは、故郷を離れてから初めてだった。  夜空の濃淡に、広葉樹の黒々としたシルエットが 浮かびあかっている。数百の人間が一斉に手を挙げ ているようだ。怖いとは思わなかった。彼らは襲う ために手を挙げているのではない。皆、暸司を守る ために手をかざし、包みこんでくれているのだ。  星を見ている間、佐那はひと言も発しなかった。 彼女の身体からは誰も近づけないほどの孤独が発散 されていた。どれだけ多くの友人に囲まれていても、 どこかで他人を拒絶する線を引いている。きっと恋 人でも家族でも踏みこむことのできない領域が佐那 にはある。その領域に静かに浸るため、こうして夜 空を見上げているのだ。網膜に映るのは星空だが、 佐那の心が見ているのは彼女自身だった。  一時間ほどすると、佐那は唐突に言った。「帰ろ うか」  暸司は夜明けまででも見ていたかったが、帰る手 段がなくなるのでおとなしく従った。  帰路、佐那は暸司を大学まで送った。また明日、 と手を振る佐那からは、もう孤独は発散されていな かった。  ふたりは同じ場所で同じ夜空を見たが、心に残っ だのは異なる風景たった。  暸司はすでに、佐那がいつか数学の世界から離れ ていくことを直感していた。  斜面をのぼっている間も、田中のおしゃべりはや まない。汗水流して引いているキャリーバッグは二 泊三日の荷物とは思えないほど巨大だった。  「そんで、その母親も最初は喜んでたのよ。大学院 の、しかもマスターの方に家庭教師してもらえるな んて光栄です、とか言って。すげえ愛想よかっだの。 おい、暸司聞いてるか」  「マスターですよね」  「そう。でも話してるとなんか噛み合わないんだよ な。よくよく聞くと、実はその母親、ドクターの後 にマスターがあると思ってたんだよ。マスターつて いうとすべてを極めてる、みたいなイメージがあっ たらしくて。いやいやそれは逆ですよ、修士課程の 後に博士課程があるんですよ、つて説明したらもう 急に不機嫌になって。騙すなんてひどいじゃないで すか、とか言い出して。もう勘弁してよって」  勘弁してほしいのは暸司のほうだった。東京を出 発して伊豆高原に到着するまで、二時間も田中のお しゃべりに付き合っている。新幹線に乗っている間 はまだよかったが、さすがに飽きてきた。それに、 相槌を打っている間は数学のことを考えられない。 これが三日も続くとさすがにつらい。  「田中、はしゃぎすぎ」  うんざりしたのか、前を歩いていた木下が振り向 いて諭した。しかし田中は興奮した様子でまくした てる。  「合宿の時くらい、はしやいでも許してくれよ」  「暸司がげっそりしてるぞ」  「え、そう? 面白くなかった? 別の話にしよう か」  新幹線で同じボックス席に座っていた熊沢は、い つの間にか離脱している。小沼と何事か話しこみ、 すぐそばを歩いている佐那には視線を向けようとも しない。佐那は佐那で、女性の先輩と声高に雑談を している。旅装の研究室メンバーたちは、どこか浮 き足立っていた。  小沼研究室怛例の夏の合宿は、毎年、伊豆高原で 開かれる。二泊三日で、研究室のメンバー全員が研 究テーマの中間報告をする。暸司たちが参加するの は初めてだった。昨年までは正式に研究室に所属し ていないという理由から遠慮していたが、今年から は胸を張って参加できる。  研修センターに到着すると、幹事の木下がロビー で部屋の鍵を配った。暸司は熊沢とふたりの相部屋 だった。鍵を渡しながら木下は小声で言う。  「田中は暸司たちのこと大好きだからさ。許して やって」  二泊三日の間、研修センターは貸し切りだった。 二階建ての宿舎の周囲には森と山が広がるばかりで、 コンビニもない。二階の部屋は八畳より少し小さい くらいで、ベッドふだつとデスクひと組、クロー ゼットひとつがあるだけの簡素な部屋だった。一泊 三千円なのだから贅沢はいえない。荷物を置き、暸 司はすぐにベッドヘ寝転んだ。  熊沢が窓を開けた。生い茂る木々の間、遠くに民 家が見える。鳥の鳴き声が聞こえた。  「思った以上に何もないな」  つぶやいて、熊沢はもうひとつのベッドに腰をお ろす。「準備してきたか」  「何の?」  「中間報告」  「もちろん。クマは準備してないの」  学生たちは皆、この中間報告のために一週間以上 前から準備をしていた。今日は昼食後に修士二年以 上の学生が、明日は修士一年以下の学生が発表する。  「終わらなかった。夜にまたやる」  熊沢らしくなかった。生活態度はともかく、研究 に関しては几帳面な性格の熊沢が、発表前日になっ ても準備が終わっていないのは珍しい。  窓の外から女性の嬌声が聞こえる。佐那の声だと すぐにわかった。熊沢は振り向きもせず、旅行カバ ンを整理していた。分厚い専門書がベッドに積みあ げられる。  暸司は誰かに恋心を抱いたことがなかった。きれ いな女性を見てときめくような感覚は、何となくわ かる。しかし特定の人に固執する感情を持ったこと はなかった。誰かに恋い焦がれたことも、恋人を欲 しいと思ったこともない。だから佐那に恋人がいる ことで熊沢が距離を置く理由も、本当のところはよ くわかっていなかった。  食堂での昼食が終わるとすぐに報告がはじまる。 学生たちはセミナー室に集合した。コの字型にテー ブルが並べられ、発表者は全員に囲まれるような配 置で話す。  最初に小沼が登壇し、簡単な説明をした。各人が 紙の資料のほかにホワイトボードを使って検討内容 を十五分で発表し、その後は小沼の気が済むまで質 疑応答が続く。学部生や修士の学生は計三十分ほど で終わるが、博士の学生は一時間以上かかることも ざらにある。昨年は二時間かかった先輩もいて、夕 食の時刻が三時間も遅れた、という田中のぼやきを 暸司は何度も耳にしていた。  小沼は最初の学生に演壇を譲るのかと思いきや、 そのままマーカーを手に取った。  「じやあ今回も俺から。後は学年の順番に」  暸司は隣に座る木下に小声で尋ねた。  「先生も発表するんですか」  「毎年そうだよ。あの人は手を動かすのが好きだか ら。論文は書かなくても、合宿での発表は毎年やっ てる」  小沼は資料も配らず、いきなり数式をホワイト ボードに書きはしめた。  その内容はこの場にいるメンバーにとってはなじ み深いものだった。岩澤理論の一般化。メンバーが 理解している前置きは飛ばして、いきなり本題に入 る。最初は噛んで含めるようだった丁寧な話しぶり も、次第にピートアップしていく。唾を飛ばし、殴 るように数式を書きながら、空いている片腕を踊る ように動かす。途中の証明を飛ばし、最後は強引に 結論へ着地した。  小沼の本領はこの豪腕ぶりにある。細かい枝道を なぎ払いながら結論へ突き進むところは、暸司とよ く似ている。  発表が終わると、小沼は憑き物が落ちたように穏 やかな様子で一同を見渡した。  「何か、質問は?」  学生たちはそのパフォーマンスに圧倒されていた。 特にこの後発表する博士課程の面々は一様にこわ ばった表情をしている。小沼の于不ルギーに満ちた 発表を目の当たりにすれば、大抵の学生は自信を喪 失するだろう。  暸司にも小沼の気迫はひしひしと感じられた。気 迫の裏には焦りがある。数学者のピークは早い者で 十代、遅くとも三十代までという通説を聞いたこと があった。四十を過ぎた小沼がプレーヤーとしての 焦りを感じるのも無理はない。  学生たちの発表がはしまった。博士課程の学生と いえば数学のプロも同然だが、小沼の後ではどうし てもかすむ。しかし、誰もが懸命にみずからの研究 について話した。  博士の学生たちが無事に発表を終え、残るは修士 二年の田中と木下だけになった。先に木下が楕円曲 線の離散対数と岩澤理論の関係についての進捗を報 告し、きっちり一時間で終了した。最後に登壇した のは田中だ。時刻は五時。田中が一時間で終われば、 予定通り六時から夕食が食べられる。  「それじやあ、私か今日の大トリを飾らせてもらい ます」  田中は長い前髪をかきあげ、意気揚々と語りはし めた。  その田中の顔色がどんどん悪くなっていく様を、 暸司はまざまざと見せられることになった。発表が 終わった直後こそ元気に受け答えをしていたが、質 問する小沼のほうが高揚してくると徐々に答えがし どろもどろになってくる。さらに博士課程の先輩ま でが質問者側に回ったため、田中は猫に囲まれた鼠 のようにあちこちへ逃げ惑う羽目になった。  佐那は途中から船をこぎはじめ、居眠りから目覚 めてもまだ議論が続いていることにひとりで驚いて いた。六時半を過ぎたあたりで、木下が無念の表情 で額に手を置いた。 「今年は定時で飯が食えると思ったのに……」  結局、田中の質疑応答は七時まで続いた。げっそ りした顔つきの田中は終了から三分で気持ちを切り 替えて、勇んで食堂へ向かった。  「よっしや、飯、飯’・」  切り替えの早さだけは、田中に敵う者はいない。  暸司たちは先程聞いたばかりの発表内容について 話しながら、土地の食材を使った夕食を食べた。宿 舎が用意してくれた食卓には刺身や煮魚、貝の酒蒸 しが並んだ。山の中にあるのに、出てくるのは海産 物ばかりだった。  「ここ、遠いけど飯は本当にうまいんだよなあ」   田中がムツの煮付けを箸でほぐしながら、しみじ みと言った。暸司は久しぶりに白飯を二杯食べた。 周囲には何もなく、食事はおいしい。何かに集中す るには最適の環境たった。  「飯終わったら、俺たちの部屋来いよ」田中は木下 と相部屋だった。  「飲み会やるから」  「打ち上げは明日じやないんですか」  「明日まで待ってられるかよ。俺らで酒持ってきた から、宴会だ。他のやつらにも声かけとくから、お 前はクマと佐那ちゃん誘って」  これで、田中のキャリーバッグが異様に巨大たっ た理由が判明した。  「麻雀セットもあるぞ。牌混ぜてもうるさくないよ うに、マットも持ってきた」  田中が品のない笑い声をあげた。しかし八畳弱の 部屋にそれほど大勢の人を呼べるだろうか。若干の 不安を覚えつつ、暸司は田中の誘いを快諾した。  佐那は喜んで誘いに応じた。退屈を持て余してい たらしく、同室の先輩を連れてすぐに田中たちの部 屋へ向かった。  暸司が自分の部屋に戻ると、熊沢がデスクに参考 書を積んで明日の原稿を作っていた。ベッドに腰を おろすとデスクに積まれた本の背表紙が目に入る。 暸司も使ったことのある弦理論の専門書だった。  「田中さんたちの部屋で飲み会やるけど、クマも来 ない?」  返事の代わりに、熊沢は横目で暸司を一瞥した。  「昼に言っただろ。明日の準備しないといけないん だって」  「クマなら大丈夫だよ。僕、原稿なんか作ってない もん」  熊沢は開きかけた口をつぐんで言い直した。  「お前はそうでも、俺は違うんたって」  「違わない」  「違うんだよ」  「クマにも数覚がある。僕にはわかる」  「数覚?」  小平邦彦が随筆に書いている。数覚は『見る』感 覚だと。図書館に通っていた中学時代、暸司はその 随筆を読んだ。そのときおぼろげながら、自分に見 えているものが何か、理解したような気がした。  話を聞いた熊沢は鼻で笑った。嘲笑といってもい い笑い方たった。  「見えてるのはお前だけだよ」  そう言うと、すっと笑いをひっこめる。悲壮な雰 囲気が漂っていた。  「とにかく俺は行かないから。田中さん、待ってる んだろ。早く行けよ」  仕方なく暸司は部屋を出た。あの様子では、てこ でも動かないだろう。  田中の部屋に行こうと歩き出したところで佐那と 鉢合わせした。  「どうしたの」  「部屋からお菓子取ってくる。クマは?」  「明日の準備だって」  そう、と言って佐那は扉を見た。その奥では熊沢 が悲壮な闘いを繰り広げている。暸司は自然とわき あがってきた質問を投げた。  「佐那は自分に数学の才能があると思う?」  佐那は視線を暸司に戻して苦笑した。 「暸司に聞かれると、ある、とは言いにくいなあ」  壁にもたれかかり、佐那はスリッパを履いた足先 を見つめた。  「あたしたちが何の才能を持ってるかなんて、やっ てみるまでわからないじやん。たとえば、あたしに 数学の才能があるとしても、それ以上にカンフーの 才能があるかもしれない。暸司はやったことがない だけで、もしかしたらサーフィンの天才かもしれな い」 「それはないよ」 「たとえばの話。つまり、生まれてきた瞬間あなた にはこれこれの才能があります、つて誰かが教えて くれるならいいけど、そうじやないじやん。だった ら興味のあること片っ端からやってみて、どれが得 意か確かめるしかないよね。あたしにとっては数学 もその過程のひとつってこと」  暸司はそんな風に考えたことがなかった。考える のは数学のことばかりだ。同じ歳の佐那が大人びて 見えた。 「自分の可能性は殺したくないから」  言い残して、佐那は廊下を歩いて行った。  熊沢は苦行のように数学と向きあっている。佐那 にとって数学は選択肢のひとつでしかない。田中や 木下は数学を愛する一方で、どこかおびえているよ うなところがある。  皆、好きだから、楽しいから数学をやっていると 思っていたが、どうやらそうではないらしい。暸司 はそのことにようやく気付きはしめた。割り切れな い思いを抱えたまま、暸司は先輩たちが待つ部屋の ドアを開けた。  即席の宴会は盛りあがっだ。発表が終わった学生 たちは、解放感からか始終声高に話していた。その うち暸司は眠りに落ち、目覚めた時には二つのベッ ドの間に身体を押しこめていた。寝ぼけ眼をこすっ て身を起こすと、かたわらで田中が歯を磨いていた。  「いつまで寝てんだよ。もうすぐ朝飯だぞ」  二日酔いのいがらっぽい声で言われ、慌てて暸司 は部屋に戻った。  朝食が済むと、全員が昨日と同じセミナー室に集 合した。二日目は修士一年の学生から順に登壇する。  暸司の出番は昼食前だった。ホワイトボードに マーカーを走らせ、右上がりの癖のある字を書いた。  〈d次元掛谷集合の(ウスドルフ次元はdである〉  暸司が大学院の研究テーマに選んだ、掛谷予想で ある。  数分のうちにホワイトボードは記号と図で埋めら れた。暸司は書いた端から消しては、また新しい記 号を書く。縦横に数式が出現しては消える。湖面に 落ちた雨粒が円を描いて消え、また別の雨粒が落ち ては跡を残す。一瞬のまたたきのようだった。  フラクタル幾何では整数以外の次元が頻繁に登場 する。I・5次元や2・7次元の不可思議な図形が 幅を利かせ、数学者の想像力を試そうとする。掛谷 予想が他の解析学の問題とも密接に関係しているこ とはわかっているものの、証明の糸口はまだ見つ かっていない。  聞きなれない言葉を連発する暸司の話を、学生た ちは狐につままれたような顔で聞いていた。充血し た目をぎらつかせていた熊沢までが、唖然と口を開 けている。  暸司が話を終えると同時に、小沼が口を開いた。  「ムーンシャインの一般化より難問かもな」  「どっちか上でどっちか下か、僕にはわかりませ ん」  「それもそうだ。ところで、さっき方針を示してく れたけれど、「ムサンドイッチの定理に執着するの が得策なのか、それとも……」  小沼は引きこまれたように質問を繰り出し、暸司 は淀みなく答える。台本を読みあげているかのよう に、二人の会話はなめらかだった。他の学生は呆気 に取られていたが、そんなことには構っていられな い。こういう時間こそが暸司にとって至福だった。  続く学部生たちは皆、無難に発表をまとめた。や や退屈ではあったが、それでも暸司は数学の話なら 楽しく聞くことができた。佐那の発表は非可換ガロ ア群の岩澤理論について。彼女にしては面自みのな い内容、というのが本音だった。  最後に、学部三年の熊沢が登壇した。すでに午後 六時を過ぎ、窓の外は藍色に変わろうとしている。 室内の空気は淀み、疲労感が沈殿していた。ほとん どの学生はけだるそうに椅子にもたれかかり、気持 ちはこの後の宴会へひと足先に行っている。  熊沢は深く息を吸いこみ、沈んだ空気を吹き飛ば すように第一声を発した。  「みなさんは〈弦理論〉を知っていますか」  そのひと言で室内に違和感が広がった。これまで の報告とは異なる分野だ。居眠りしていた学生まで が目を覚まし、柢い声で言葉を交わしあう。発表者 である熊沢だけが泰然としていた。 「これから、アーベル多様体のミラー対称性につい て報告します」  木下が珍しく、不機嫌そうにつぶやく。  「岩澤理論じやないのかよ」  熊沢のテーマは岩澤理論のp進表現たったはずだ。 この研究合宿の発表内容として小沼に伝えていたの もそうだった。だから、予定とは違う異分野の用語 が飛び出してきたことは、その場にいた誰にとって も意外だった。  ざわつきを気にも留めず、熊沢は語りはしめた。 小沼の表情は読めない。顔の下半分を手で覆い、熊 沢の高揚した口ぶりにじっと耳を傾けている。腕を 組んだ木下が誰に言うともなくひとりごちた。  「先生、怒ってるんじやないか」  この研究室に弦理論の研究者はいない。その分野 について研究することは、ラボでの存在意義を問わ れかねない行為だった。ましてや中間報告という場 で、小沼にとって思い入れの深い岩澤理論を放棄し、 前触れなく別の分野の報告をばしめたのだ。喧嘩を 売っているとも取れる行為たった。それでも小沼は 熊沢の発表を止めさせなかった。  熊沢がつむぎだす言葉はひとつの物語だった。弦 理論から生まれた信じがたい予想と、その予想が 徐々に制圧されていく模様。しかし予想の制圧は一 筋縄ではいかない。肩を押さえれば足が逃げ、腰を 捕まえれば上下に分裂する。それでも忍耐強く釘を 打つことで、ミラー対称性という不可思議な現象が 少しずつ数学者の手に落ちていく。そして熊沢の研 究は、その下腹に決定的な杭を打ちこむ可能性を秘 めている。  十五分を大幅に超えた発表が終わると、小沼は顔 を覆っていた手をおろした。口元はゆがんでいる。 不快感のせいではなく、笑みを我慢しているせいだ。 それを見た暸司は安堵した。なぜなら、暸司も口角 が上がるのを止められなくなっていたからだった。  クマも小沼先生も、数理の世界の住人だ。僕だけ じゃない。僕は孤独じゃない。  学生たちは皆、口を閉ざした。そもそも内容を理 解できたのは、熊沢を除けば小沼と暸司だけだった。 小沼はにやついたまま、緊張した面持ちの熊沢とに らみ合った。  「岩澤理論はもうやめるということか」  「そうさせてほしいと思っています」  「今までうちでやっていた分野とは離れているよう だが」  「暸司のフラクタルなんて実解析じやないですか。 岩澤理論とは無関係でしょう。それとも暸司は特別 扱いってことですか」  おいおい、と言っだのは木下たった。しかし熊沢 も小沼も見向きもしない。  「ひとりでやりきれるのか? 俺には指導できない かもしれない」  「絶対にやりきります」  「絶対、なんてあまり言わないほうがいい」  もう一度、小沼はホワイトボードに記述された物 語を眺めた。独力でここまで研究を進めるのは並大 抵の努力ではできない。熊沢の執念を感じたのは暸 司だけではなかった。  「わかった。気が済むまでやればいい。数論幾何に は違いないしな。ただし、結果が出ない限り卒業は 認めない。それでもやるか」  「やります」即答だった。マーカーを握りしめる熊 沢の手は力みのせいで白くなっている。小沼は真顔 に戻って言った。  「頑張れよ」  ただの励ましではない。それは小沼から熊沢への、 決別の宣言に聞こえた。  暸司はふたりのやりとりを遠い世界の出来事のよ うに眺めていた。皆がセミナー室を退出してからも、 暸司はしばらく残っていた。田中が呼びに来るまで、 暸司はじっと椅子に座ったまま、熊沢の報告を振り 返っていた。  夜が訪れ、何事もなかったかのように打ち上げが はしまった。誰もが達成感に満ちた表情をしている。 小沼は学部生と一緒になって恋愛話に花を咲かせて いた。例によって田中にからまれていた暸司は、解 放されるとすぐに熊沢と佐那を搜した。三人で話し ておくべきことがあるような気がする。  しかし、ふたりはとっくに宴から姿を消していた。  その夜、ついにふたりと会うことはできなかった。  酒がかなり入ってきた頃、幹事の木下が買ってき た花火で遊んだ。炎が弧を描き、煙が立ちこめるた だなかで、暸司はほほえんだ。  僕らは数学という燃えあがる船に乗り合わせてい る。船から振り落とされる者がいれば、みずから下 船を選ぶ者もいる。炎が勢いを増すほど船は進む。 若き才能という燃料を消費しながら、船はどこまで も進んでいく。  暸司はこの船に乗っていることを誇りに思った。 そして、船が終着点にたどりつくためなら喜んで灰 になるつもりだった。    7 佐那  予約の時刻より十分も早く入店した。当然、佐那 はまだ来ていない。  熊沢は案内された窓際の席に腰をおろした。ガラ ス越しに見える夜のキャンパスには人の気配がない。 体育会やサークルの部室が離れた場所にあるせいか、 夜になるとキャンパスの中心部からは潮が引くよう に大がいなくなる。  何気なく店内を見まわす。天井からは控えめに光 るシャンデリアが吊り下げられ、テーブルは季節の 花々で彩られていた。学生時代にはだだっ広いだけ の講堂だった場所は、今では立派なフレンチレスト ランに生まれ変わっている。  このレストランは学外からの来賓との会食で使っ たことがある。しかし個人的な知り合いとの食事の ために来るのは初めてだった。  聡美には、大学でお客さんと食事して帰る、と伝 えていた。嘘はついていないし、実際、後ろめたい ところもない。十年以上も前に別れた相手だ。恋愛 感情はとっくに終わっている。今さらどうこうしよ うというつもりもないのに、どこか罪悪感があった。  約束の時刻を五分過ぎても、十分過ぎても佐那は 現れなかった。入口に女性のシルエットが見えるた び、心臓が跳ねた。それも何度か繰り返すと空しく なり、熊沢は窓の外に意識を集中してみた。  研究室に電話がかかってきたのは先週たった。学 生が転送した電話を取ると、懐かしい声が流れ出し た。  「もしもし。あの、斎藤佐那といいますが」  弾むような声。喉の渇きを覚えて、唾を飲みこむ。 言葉を交わすのは六年ぶりだった。シャーロットで 受けた国際電話もこんな切り出し方たった。熊沢は 唇をなめて答えた。  「熊沢ですが」  「あ、久しぶり……あたしのこと、覚えてるよ ね?」  「もちろん。何、どうかした」  佐那はネットニュースを見て、驚いて電話をかけ たと言った。  暸司のノートをすべてスキャンし、サーバにアッ プしたのはひと月前。予想をはるかに超える反響が 寄せられ、熊沢はこの一か月、対応に追われていた。 テレビや新聞、週刊誌が雪崩を打って研究室に押し 寄せた。コラッツ予想解決のインパクトを物語るよ うな勢いだった。  「あたし、知らなかった。暸司が研究ノート残して たなんて」  「あいつの実家で見つけた」  「意味、わかった?」  「全然。まだ一割もまともに読めてない。説明も すっ飛ばしてるから何か書かれてるかよくわからな いし」  「暸司の証明っていつもそうだったもんね。先に答 えありきでさ」  佐那は照れ臭そうに言った。「ねえ。そのノート の現物、見られたりする?」   旧友として、断る理由はなかった。その場で日に ちを調整し、今使っているメールアドレスも教え あった。  約束の時刻を十五分過ぎた頃、佐那のアドレスか らメールが来た。短い詫びの言葉と、あと十五分で 到着する、という内容が記されていた。熊沢はウェ イターを呼び、開始時刻を遅らせてもらうよう告げ た。  それからきっかり十五分後に佐那は現れた。ベー ジュのノースリーブから伸びる腕を(ンカチで拭き ながら、熊沢のもとへ歩いてくる。その顔があまり にも汗にまみれていたので、思わず熊沢は噴き出し た。佐那は構わず首筋を拭っている。  「ごめん、遅れて。仕事終わらなくて」  「走ってきたの」  「駅からダッシュ。あI、暑い」  「よくその靴で走れたな」  五センチはあるヒールを佐那は履いていた。学生 時代、スニーカーとサンダルしか履いているのを見 たことがない熊沢にとっては新鮮だった。黒いワイ ドパンツの裾をひらつかせて、佐那は向かいの椅子 に腰をおろした。後れ毛を頭の後ろでまとめなおす。 ひとつひとつの振る舞いにこなれた印象を受けた。  「顔、汗まみれだけど」  「ぽんと? やだ、もう」  そういえば佐那は汗かきだった。夏場に外を出歩 く時は制汗スプレーをこれでもかと噴射し、寝ると きは真冬でも毛布を使わなかった。いくつかの思い 出が熊沢の脳裏をよぎってはすぐに消えた。  「飲み物、どうする」  「水でいいよ。こんな高級なところじゃなくてよ かったのに」  ウェイターが前菜をテーブルに運ぶ。それに構わ ず、佐那は身を乗り出した。  「それで、ノートは?」  「ここにはない。研究室にある」  拍子抜けしたように、佐那は身を引いた。  「そうなの。じやあ、早く研究室行こう」  早くも佐那は中腰になる。  「食事終わってからでいいだろう」  「購買でおにぎりでも買えばいいでしよ。ご飯食べ てから研究室行ったら何時になるかわからないし。 今日はそのために来たんだから」  佐那は勝手にウェイターを呼び、会計を頼んだ。 ウェイターのほうは遅刻したうえに、前菜も食べず に会計を済ませようとする客に唖然としていたが、 そんなことは毛ほども気にしていない。  付き合っていた頃もこうだった。何事も佐那の ペースで進み、熊沢はそれに黙って付き従う。しか し不快には感じなかった。数学に関することでなけ れば、大抵のことは妥協できる。  レストランの食事代は熊沢が支払った。勝手に予 約したのだから熊沢にしてみれば当然だったし、佐 那も特に気にしている風ではなかった。熊沢は佐那 のこういう性格が好きであり、嫌いでもあった。  ふたりは購買部に立ち寄り、二割引きになった売 れ残りのおにぎりを買った。肩を並べて研究室まで の道のりを歩いていると、学生時代に戻ったような 気分になる。熊沢はさりげなく、佐那の左手の薬指 に指輪がないことを確認した。  「何してるの、仕事」  「SE。プログラム組んでる」  ソフトウェア企業でのグループウェア開発が佐那 の仕事だった。熊沢にはよくわからない世界だが、 彼女が自分で選択した道ならそれでよかった。  「メデイアアートは?」  「続けてるよ。仕事の外でね。知り合いのエンジニ アと組んで、いろいろやってる。やっぱり、お金儲 けにはならないけど」  佐那が工学部の博士課程に進みたいと言い出しだ のは、修士二年の春たった。プログラミングに興味 があることは知っていたから、熊沢も反対しなかっ た。しかし結果的には、それが疎遠になるきっかけ となった。数学という仲介者がいなくなったとたん、 いとも簡単に関係は破れた。付き合っていたのは三 年と少しだった。  数学の世界の住人である暸司もまた、工学部へ進 んだ佐那とは縁遠くなった。振り返れば、そのこと は暸司にとってきわめて不幸だった。自分を受け入 れてくれる人々がひとりまたひとりと去っていくな か、大事な同期が去っていくことで、彼は孤独の谷 へとさらに近づくことになってしまった。  熊沢と佐那は夜の理学部棟を歩いた。佐那は目を 細めて廊下を眺め、生物学科の研究室をのぞきこん でいる。雑然とした部屋では留学生か居眠りをして いた。  「この建物だけは全然、変わってないね」  「ボロボロだろ」  「あ、ここのラボ、いつも古い仮面飾ってたよね。 教授のアフリカ土産。あれ、夜見るとめちやくちや 怖かったんだよね」  「あった、あった。三年くらい前に退官したけど」  思い出話をしていると、どうしても付き合ってい た頃のことを思い出す。不思議と熊沢の記憶に残っ ているのは、ふたりきりではなく暸司と三人でいる 風景、それも夜ばかりだった。朝まで喧嘩のように 議論した夜や、三人であてもなくドライブした夜。  今、この夜のどこかにも暸司がいるような気がし た。熊沢の隣には佐那がいて、暸司がいなければな らない。感傷をふりほどくように、熊沢は腕時計に 目をやった。針は午後八時を示していた。  佐那を小会議室に案内してから、学生居室の照明 が落とされているのを確認し、熊沢は胸をなでおろ した。妙な噂を立てられてはたまらない。  小会議室に戻ると、佐那は円卓に座っておにぎり を頬張っていた。米粒が唇の端についている。薄桃 色のリップが目についた。  「この部屋もあの頃と一緒だね」  「コーヒー飲むなら、そこのポットで沸かして。粉 はその下にあるから」  アイスコーヒーは切らしていた。 「あたし一応、お客なんだけど」  「よく言うよ。六年もこの部屋通ってたくせに」  結局、湯を沸かしたのは熊沢だった。コーヒーを 円卓に置いた熊沢に、佐那はネットニュースのプリ ントアウトを差し出した。制汗スプレーの柑橘の香 りが漂う。  〈数学の難問「コラッツ予想」解決か 数学者の遺 品から証明を発見〉  熊沢は記事にざっと目を通した。これまで答えた 内容を継ぎはぎしたような記事だ。夏が訪れてから、 熊沢は数え切れないほど取材を受けている。  「これ見た時、絶対暸司のことだ、つて思った」  佐那の顔からは汗が引いていた。昨年設置した冷 房が静かに部屋を冷やしている。  熊沢はデスクに置いてあったノートを渡した。佐 那はそれを適当に開いて流し読みする。ぱらぱらと ページをめくる音が部屋の本棚に吸いこまれていく。  「サーバにアップしたノート、読んでないのか」  「軽く目は通しだけど。現物が見られるなら、そっ ちで読んだほうがいいでしよ」  ノートを閉じた佐那がつぶやいた。  「それにしても字、汚いよね」  暸司の書く字はお世辞にも読みやすいとはいえな い。調子が出てくると、ますます文字の形が崩れて 他人には読めなくなる。それでも暸司自身が読めな いことはなかった。  「それを清書するところからなんだよ」  「暸司って昔から文字に癖あったもんね」  そう言いながらも、佐那は書かれている内容を解 読しようと奮闘しはしめた。ノートと計算用紙を並 べ、数式を書き写しては首の後ろに手をやって考え こむ。それは十代からの佐那の癖たった。顎や頬に 手を置くとニキビができるから首の後ろなのだと 言っていた。  熊沢はその間、ノートパソコンで雑用を片付けた。 溜まったメールを処理し、学生から頼まれている論 文の草稿をチェックする。しばらくはペンの走る音 と紙の擦れる音、マウスやキーボードを操作する音 だけが部屋に響いた。  同じ円卓を囲んでいると、生々しい記憶がよみが えってくる。三人で検討をしている最中も、たびた び彼女の横顔を盗み見ていたこと。付き合いはじめ てからも佐那は熊沢に依存せず、興味の赴くまま行 動していたこと。熊沢の自宅で彼女から別れを切り 出されたこと。  佐那は会うたび、別人のように変化する。自身の 核を大切にしながら、柔軟に変わり続ける。熊沢は そんな佐那に憧れていた。しかしこの歳になれば、 自分には同じ生き方はできないとわかる。やはり熊 沢は数学の世界で生きていくしかなかった。  気づけば、腕時計の針は十時まで進んでいた。佐 那はノースリーブの腋が見えるのも構わず、両手を 挙げて思い切り身体を反らせた。計算用紙にびっし りと文字が書きこまれていることに熊沢は驚いた。 その集中力からはブランクを感じさせない。  「この感じ、すごい久しぶり。学生時代に戻ったみ たい」  「ちょっとはわかった?」  「雰囲気だけ。ねえ、コラツツ予想ってフラクタル になるんじやなかったっけ。何かそのへんに鍵があ るんじやないの」  コラツツーフラクタルと呼ばれるその図形の存在 は熊沢も知っていた。コラツツ予想の数式を複素数 平面に展開すると、フラクタルな図形になる。暸司 がフラクタル研究を専門にしていたことを踏まえれ ば、何らかの関係があると考えるのが妥当だ。しか し熊沢には、両者の関係はつかめていなかった。  「どうだろうな」  今はまだ、そうとしか答えられない。冷めたコー ヒーをすすった佐那は、透き通った瞳を熊沢に向け た。  「コラッツ予想って、暸司にとってそんなに大事 だったのかな」  暸司が亡くなった今、本当の目的は永遠にわから ない。ただ、コラッツ予想を選んだことには特別な 意味を感じていた。熊沢を数学の世界へ連れ戻した きっかけ。狭いマンガ喫茶のロッカーで読んだ大量 の書き置き。これから解くんだよ、と大学一年の暸 司は言った。  熊沢は湯が沸騰する音で我に返った。温かいコー ヒーを入れるため、佐那がポットで湯を沸かしてい た。カップに熱湯を注ぎながら佐那が言う。  「暸司のノート、公開してよかったの」  「どうして」  「他の数学者に解読されちやうかもしれないよ」  今朝もアメリカにいた頃の同僚からメールが来た。 世界中の解析、数論、幾何の専門家たちが膝を突き 合わせて〈ミツヤノート〉の解読に取り組んでいる という。イギリスの研究機関ではプロジェクトチー ムを組むらしい。凡庸な数学者ならいざ知らず、群 論やフラクタルで数学史に刻まれる業績を残した三 ツ矢暸司の証明なら信憑性は柢くない。  「俺じゃ読めなかったんだから仕方ない。コラッツ 予想の証明だぞ。数学界全体のこと考えたら、誰か が理解してくれればそれでいい」  佐那は湯気の立つカップを手に円卓へ戻ってきた。  「暸司はクマにわかってほしかったんだと思うよ、 きっと」  「だとしたら、あいつの買いかぶりだ」  心の底から欲しても熊沢には手に入らなかった才 能を抱いて、暸司は死んだ。あの証明の真偽も、暸 司の気持ちも、今となってはわからない。  ただ、佐那の物言いは暸司の遺志を自分ひとりに 押しつけているように聞こえた。あのとき暸司に寄 り添ってやれたのは、熊沢だけではないはずだ。か つてはこの研究室に小沼も佐那もいた。つい剣呑な 台詞が口を突いて出る。  「なあ。どうして数学やめたんだ」  熊沢は直後に質問したことを悔やんだ。あまりに 恨みがましく、情けない問いだった。佐那はコー ヒーをすすり、真剣な顔で答えた。  「やめたっていうか、ここだけが世界じゃないって 思っただけ」  気まずさをごまかすように、熊沢は真っ黒に塗り つぶされた窓のほうへ視線を移した。 「終電は? 遅くなったら家の人が心配しないか」 「ひとり暮らしだから」  恋人は、と言いかけて熊沢は口をつぐんだ。  佐那は軽やかに立ちあがり、ヒールを鳴らした。  「もう帰るね。おにぎり、ごちそうさま」  「駅まで送る」  「大丈夫。駅近いし。クマもそういう気配りできる ようになったんだね」  佐那はさりげなく、期待のこもっだ視線で熊沢を 見た。  「そういえば、あたしがあげたペンまだ使って る?」  「……いや、もう使ってない」  例のボールペンはあれから使うあてもなく、捨て ることもできないまま、デスクの奥深くにしまいこ まれていた。きっと使うことは二度とない。  「だよね。じゃ、今後よろしく」  熊沢には、ふたりの関係に今後があるとは思えな かった。  佐那は踵を返し、さっきまで手を置いていたうな じを見せた。そのまま振り返らずに廊下を歩いてい く。熊沢は佐那の笑顔の残像を振り切り、部屋へ 戻った。  そろそろ帰る、と聡美にメールを送る。壁紙に設 定している娘の写真は満面の笑みを見せていた。数 学者は一般人と同じ発想では商売にならない。だか らといって、それは生活者としての道を踏み外すこ とへの免罪符にはならない。  窓の外を見下ろすと、キャンパスを大股で歩く佐 那が見えた。ガラス窓には肌のくすんだ中年男が 映っている。三十六歳か、と熊沢は改めて思った。    8 正しいひと  目を覚ました暸司の視界に飛びこんできたのは、 朝日を浴びるカップラーメンの容器だった。夜食に 食べたせいで、腹が膨れて眠ってしまったらしい。 小会議室に化学調味料の匂いが満ちていた。  計算用紙が雑然と広げられた円卓から身を起こし、 教授室の流しにスープを捨てた。視線がついデスク へと引き寄せられる。いつも書類が山と積みあげら れていたのに、今はきれいに片付けられている。デ スクだけではない。小沼の持ち物は跡形もなく部屋 から消えていた。  この部屋は、明日から別の人間のものになる。  小沼が国立数理科学研究所へ転籍すると知ったの は、ふた月前たった。隔週で開かれる進捗ゼミの後 で暸司は小沼に呼び出された。教授室に入るなり、 小沼は切り出した。  「来年からのことなんだけどな」  そのことについては春から何度も話していた。予 定通りにいけば、来年の春には暸司は博士号を取得 する。学部は二年、修士は一年で修了したが、博士 の修了には人並みに苦戦していた。テーマに選んだ 掛谷予想の手強さが最大の要因だったが、どうにか ねじ伏せ、成果をまとめあげた。論文はつい先日受 理されたばかりだ。  暸司の元には国内のみならず、世界中からポスト のオファーが届いている。特に幾何の研究者たちは、 暸司の卒業を手ぐすね引いて待っていた。大学でも 企業でも、暸司が望めば大方のところは受け入れて くれるだろう。  しかし暸司の意思はすでに固まっていた。  「僕はこの研究室に残りたいです」  以前から何度も言っていることだ。出鼻をくじか れた、という感じで小沼は頭を掻いた。  「暸司の気持ちはよくわかってる。でも外の世界を 経験しておくのも悪くないぞ。いずれ協和大に戻っ てくればいい」  「外の世界に何かあるんですか。僕はここがいいん です」  暸司にとって、この研究室は初めて自分を受け入 れてくれた場所だった。自分のいるべき世界が、こ こにはある。数学の世界に生きる瞭司にとって、あ まりにも居心地がよすぎた。  応接ソファに腰をおろした小沼は言った。  「俺は九月いっぱいで国数研に移る」  すぐには発言の意味が理解できず、暸司は身を固 くした。  「ここから、いなくなるってことですか」  「そうだ。十月からは国数研のフェローになる。も う後任の教授も決まってる」  「あと二か月しかないじやないですか」  「合宿が終わったら、後始末に入る」  「急にどうしてですか。何かあったんですか」  「まだ四十代なんだよ、俺は」  小沼の目には哀れみが混じっていた。暸司とは視 線を合わせず、本棚に整理された卒業論文の背表紙 を見ている。ここに暸司を誘っだのは小沼だった。 その小沼が、こんなにもあっけなく目の前から消え るはずがない。  「もう少し現役で頑張ってみたい」  国立数理科学研究所は教育の機能をもたない。学 生は受け入れず、職員たちは文字通りみずからの手 で研究成果を生み出すしかない。よほど昇進しない 限り、給与は私立大学の教授より柢い。厳しい環境 だが、学生の教育や雑務からは解放され、数学に没 頭できる。国数研では五十代、六十代の数学者が最 前線で手を動かすのが当たり前だった。ある意味で、 数学者にとっては楽園のような場所である。  「この間、母親が亡くなった。食道がんだったよ。 母親の母親がごくなっだのもがんだった。家系なの かもな。これで血縁はいなくなった。嫁さんも、子 供もいない。もし仕事で食いっほぐれても、家族に 迷惑はかからない」  小沼は独り言のようにぶつぶつとつぶやいていた が、突然声を荒らげた。  「改めて人生振り返ってみたら、俺が生きてきた痕 跡は数学にしかないんだよ。自分なりに頑張ってき たと思う。でも数学に人生賭けるなら、ちゃんと賭 けたいんだ。俺は大学教授で終わりたくない。わ かってくれ」  「先生は成果を出してるじやないですか」  「こんなもんじやない。もっとやれる。とにかく時 間がないんだ」  「小沼先生を必要としている学生はたくさんいま す」  「俺はもうピークを過ぎてる。猶予はない。頼むか ら、俺を数学者として死なせてくれ」  師と教え子ではなく、対等な立場としてふたりは 顔を突き合わせていた。小沼の説得が難しいことは 暸司にも何となくわかっている。しかし納得はでき ない。  小沼は暸司にとって、言葉が通じる初めての相手 たった。その小沼と引き離されることは、己の身体 を引き裂かれるのと同じくらいの痛みをもたらす。  喉から絞り出すようなうめき声が出た。  「なんで、もっと早く言ってくれなかったんです か」  答えはない。暸司は頭を垂れるしかなかった。小 沼の声が降ってくる。  「暸司を呼んだのは俺だ。博士を取るまでは面倒見 てやりたかったが、国数研からは十月に来られない なら次はいつになるかわからないと言われた。俺も このチャンスを逃したら、退官するまで教授を続け る羽目になるかもしれない」  そんなに嫌なら、最初からならなければよかった のに。小沼が教授になっていなければ、暸司がこん な惨めさを感じることもなかった。  胸に渦巻く恨み言は口にしたくない。それを言え ば、暸司がこの場にいることすら否定することにな りそうだった。  「教授になった時点で、第一線に立つのは諦めたつ もりだった。でもな、暸司たちがムーンシャインの 一般化を完成させた時、俺は喜ぶより先にお前を妬 んだよ。妬んで、後悔した。なんで俺はこんなに早 く諦めてしまったんだって。だからもう一度、挑戦 する。きっと生まれつき、監督よリプレーヤーが向 いているんだろうな」  小沼は穏やかな声で言った。  「俺がいなくなっても、ここに残るか」  「残ります」  この研究室もまた、暸司の身体の一部だ。小沼が 去ってもそれは変わらない。  返答を聞いた小沼は、今後の進路については後任 教授に相談しておくと告げた。ただし、暸司が希望 すれば協和大はポストを用意するはずだ、とも言っ た。メディアに頻繁に取り上げられる暸司は、この 大学では有数の著名人である。その暸司をみすみす 手放すような真似はしない。それが小沼の読みだっ た。  「後任はどんな人なんですか」  「アメリカ生活が長かった人だ。今度、就任のため に帰国する。数論幾何では俺よりずっと有名な先生 だよ。平賀寿彦って聞いたことあるだろう」  熊沢の部屋で見た覚えのある名前たった。確か弦 理論の総説の著者だ。熊沢の研究テーマと関連が深 い。暸司の表情の陰りを察知したのか、小沼が付け 加えた。  「心配しなくてもいい。岩澤理論や群論にも精通し た人だから、学生の面倒はしっかり見てくれるはず だ。暸司のことも伝えてある」  小沼は何を伝えたのだろう。新しい教授は、同じ 世界の住人だろうか。うつむいた暸司の肩を小沼が つかんだ。「すまない」  暸司には暸司の人生があり、小沼には小沼の人生 がある。そんなことはわかっているつもりだった。  小沼の気配が消えた教授室は見知らぬ部屋のよう だった。暸司は窓を背にして、キャスター付きの椅 子に腰をおろしてみた。小沼がいつも見ていた風景。 僕はずっと、この席を目指していた。ここに座れば、 数学者として認められるはずだと思っていた。しか し小沼はこの席をみずから捨てた。僕はこれから何 を目指していけばいい?  明日には平賀という男が着任する。  暸司は椅子に身体を預けて、しばらくの間、小沼 のことを考えていた。  全身が白っぽい男たった。  頭には総白髪をいただき、口のまわりには白い芝 のような髭を生やしている。皺だらけのボタンダウ ンシャツはくすんだ白で、着古したチノパンは色落 ちしたベージュだった。枯れたたたずまいや小柄な 体格のせいか、五十六歳という年齢以上に老成して 見えた。  教授室に学生たちを集めた平賀は、穏やかな声で 呼びかけた。  「平賀といいます。二十年以上、海外で研究生活を 送っていました。日本で働くのは本当に久しぶりで す」  米国南部にあるシャーロット大学は理系の名門大 学として名高い。平賀はその大学で十年間、教授を 務めてきた。学生たちのなかには、平賀の経歴を聞 いただけで萎縮する者もいた。  「三ツ矢というのは誰かな」  暸司が歩み出ると、平賀はにこりともせずに右手 を差し出した。「よろしく」  「どうも」暸司が曖昧に右手を出すと、平賀が先に 手を握った。思いがけず強い力だった。  「噂は色々と聞いてるよ。ずいぶん活躍しているそ うだね。ムーンシャインの一般化とか、フラクタル の難問を解決したとか」  「ムーンシャインは僕だけで解いたわけじやありま せん」  平賀は表情を変えるかわりに、髭をわずかに動か した。  「フアーストオーサーは君だろう」  「証明できたのはクマや佐那の協力があったからで す」  暸司が振り向くと、熊沢と佐那はそろって身を固 くした。平賀の視線が一瞬そちらに向いて、すぐに 暸司の顔の上に戻った。  「つまり君が言いたいのは、こういうことだ。問題 を解決したのは自分ひとりの手柄ではない。共同研 究者たちの貢献があって初めてできたものだと」  「そういうことです」  「君の気持ちはわかった。しかし世間はそう見な い」  平賀はゆっくりと歩き出した。暸司だけでなく学 生全員に語りかけるように、手ぶりを交える。まる で講義を受けているようだった。  「なぜなら論文の筆頭著者が君だからだ。論文の読 者には、二番目以下の著者がどれくらい貢献したか わからない。しかし筆頭著者の貢献度が最も大きい だろうということはわかる。だから君がどう思おう と、ムーンシャインの一般化は三ツ矢踪司の業績だ。 アカデミアで生きていくのなら、それくらいは理解 しておきなさい」  平賀は歩みを止めない。  「もうひとつ言っておく。数学の世界では、完全な 証明を示した者だけが解決者として認められる。つ まり、少しでも証明に穴があれば解決者とはみなさ れない。それを修正して完全な証明を作り上げた者 だけが解決者になれる」  暸司の前に戻ってきた平賀は、ようやく立ち止 まった。くぼんだ目を暸司に近づける。  「ところで、きみの証明には穴がある」  冷徹な視線にたじろぎ、暸司は半歩後ろに下がっ た。ガラス玉のように透明で揺らぎのないふたつの 目が、動揺を見透かそうとしている。  「三次元の掛谷予想。論文を読ませてもらったが、 あれはすばらしい。私も読み進めながら非常に興奮 した。この一年でも有数の成果だと感じた。しかし 不完全だ」  平賀はホワイトボードの前に立った。小沼がいた 頃は学会やセミナーの案内で埋めつくされていたが、 今は真っ白だ。マーカーを手に取った平賀は、いき なり猛烈な勢いで数式を書きはしめた。  瞬く間に、暸司の書いた証明の一部が正確に再現 される。手を止めた平賀は勝ち誇る様子もなく、 淡々と言った。  「証明のなかでこれは自明だとしているが、正しく は自明ではない」  暸司は反論しようとしたが、身体が前のめりにな るばかりで声が出ない。平賀からの指摘は完全に意 識の外にあった。当然、自明なものだと思っていた 一文が、急に高い壁となって眼前にそびえ立つ。堤 防に小さな穴が開けば、そこから全体が崩壊する。 暸司の顔は火照り、口のなかが渇ききっていた。  「暸司」  佐那が隣から声をかけた。言い返せ、という合図 に違いない。しかし返すべき言葉が見つからなかっ た。平賀は反論がないとみると、透明な目をぐるり と動かした。  「レビュアーも三ツ矢暸司という名前に引っ張られ たのかもしれん。まあ、論文に掲載された証明に穴 があったなんて話は特に珍しくない。私か言いたい のは、このままでは別の誰かが三次元の掛谷予想の 解決者になってしまうということだ。おそらく、私 以外にもこの欠陥に気づいている研究者はいる」  嘆かわしそうに平賀は首を振る。  「今すぐ修正に取りかかれ。そうでないと、君は最 高のパスを出した選手になる。ゴールしなければ何 の意味もない」  解散した学生たちは皆、どこか不安げな気配をま とっていた。意図したかはともかく、平賀は有無を 言わせない圧倒的な正しさで暸司をねじ伏せた。そ れは小沼のやり方とはまったく異なっている。皆、 鋭利な〈正しさ〉の刃にたじろいでいた。  「何なの、あの人」小会議室に戻った佐那は憤慨し た。大学院生になっても、暸司たち三人はまだ小会 議室を根城にしていた。暸司は叱られた子供のよう にうなだれている。  「あれがアメリカ流ってこと?」  「ああいうやり方もあるんじゃない。あと、アメリ カは関係ないだろ。あの人のやり方」  熊沢はとりなすように言った。  「勇ちゃん、そっち側につくの。暸司がボロボロに 言われたのに」  佐那は人前でも平然と、勇ちゃん、と熊沢を呼ぶ。 当初は田中がずいぶん囃したが、今は周囲もすっか り慣れていた。ふたりの交際ももうすぐ三年になる。  「どっちにつくとかは違うだろ。ただ、平賀先生は 平賀先生で間違ってないじやん」  「言い方があるでしよ。初対面でいきなりあんな言 い方」  「それだけ暸司のこと気にしてるんだよ。冷静に考 えたらあの人すごいよ。他人の論文の内容、丸暗記 してるんだから」  ふたりが話している間も、暸司は黙りこんでいた。 まるで見えない力によって、喉を締め上げられてい るようだった。佐那が暸司の顔をのぞきこむ。「大 丈夫?」  暸司は佐那のほうを見て、続いて熊沢の顔を見た。 ふたりを元気づけるようにうなずくと、安物のボー ルペンを力強く握りしめた。  「すぐに修正しないと」  計算用紙にいびつな文字を書き連ねる暸司の背中 を、熊沢はじっと見守っていた。見ていられない、 とでも言いたげに、佐那は小会議室を出ていく。  数学の世界では〈正しさ〉に勝るものはない。ど れだけ鮮やかな解法も、斬新な着眼点も、〈正しさ〉 には勝てない。だからあの時、ひと言も反論するこ とができなかった。あの、針穴に糸を通すような緻 密さを、暸司は持ち合わせていない。  熊沢は励ましも慰めもせず、暸司がペンを走らせ るがりがりという音をじっと聞いていた。  行きつけの大衆居酒屋は、十月だというのに若者 たちの熱気で暑いほどだった。金のない学生は安い 店に集まり、薄い酒を浴びるように飲んで騒いでい る。暸司はシャツの袖をまくりあげ、おしぼりで腕 を拭った。  熊沢がテーブルの向かいに座る木下に尋ねた。  「就活中もずっと坊主だったんですか」  「そうだよ」  「何か言われませんでした?」  「気合い入ってるねえ、つて言われたことはある」  笑いながら、木下は焼酎のグラスをあおった。今 度は佐那が問う。  「コンサルタントつて何やるんですか」  「金融工学の視点から、経営のアドバイスをす る……つて俺もあんまりわかってないけど」  今日飲んでいるのは、木下の内定祝いという名目 たった。長かった就職活動に終止符が打たれ、木下 の表情には余裕が生まれている。とっくに進路が決 まっている田中までもが浮かれていた。田中のト レードマークだった長髪は短く整えられ、前髪に隠 れていた広い額が露わになっている。  「木下は昔からそういうの興味あったもんな」  「数学は役に立だない、つて決めつけが嫌いなんだ よ」  また焼酎のグラスをかたむける。木下はずいぶん 酔っていた。  「ITにも建築にも機械にも数学は使われてるのに。 無知な高校生とか、数学なんか勉強して意味あるん ですか、みたいなこと言うだろ。俺もよく言われた んだよ。数学科の、しかもドクターなんか行ったら 就職先ないぞ、つて。そういう連中を見返してやり たいって気持ちはあるんだよな」  赤ら顔の田中が大仰に胸を叩いてみせる。  「そういう無知な高校生は俺が叩き直せばいいんだ な」  「頼むぞ、田中先生」  田中はさんざん悩んだ末に、研究者の道を諦めた。 来年からは故郷の北陸で公立高校の教師をやること が決まっている。教科はもちろん数学だった。  佐那は自分の梅酒ロックだけ注文して、屈託のな い笑みで振り向いた。  「あたし、先輩たちの卒業を見届けられてよかった です」  「斎藤、マジで工学部行くんだな」  田中がしんみりとつぶやいた。  「そんな暗い感じにならないでくださいよ。他の大 学行くわけじゃないし」  佐那は博士課程で工学部に進学する。すでに院試 は終わっていた。数学科のドクターに進む熊沢とは、 来年春からは別々の研究室になる。木下が素朴な口 調で尋ねる。  「斎藤さんは芸術家目指すの」  「いやいや。アートはあくまで趣味なんで」  佐那は学部卒業と同時に天文サークルを抜けて、 今度はメディアアートの製作に取り組むようになっ た。工学部に進学することを決意したのも、それが きっかけらしい。情報科学と美術の融合した分野が メディアアートだという説明を何度も聞いたが、暸 司にはいまだに何をやっているのか想像できない。  「熊沢は斎藤さんの作品、見たことあるの」  「ないです。情報科学も美術も興味ないですし」  それでも彼氏か、などと木下がけなすが、熊沢は びくともしない。  「勇ちゃんはさ、かわいい彼女が他学部に進学して もいいの? それでいいわけ?」  今度は田中が茶化す口調で言った。  「全然いいですよ。反対する理由ないし」  「むしろ反対されたら、別れてたかも」  あっけらかんと笑う佐那を見て、田中も呆れた。  「心配して損したな。こら暸司、どうした。元気な いぞ」  テーブルを囲む五人のうち、暸司だけ口数が少な い。もともとおしゃべりなタイプではないが、ずつ と黙ってコ圭フを飲んでいる姿は異様たった。  「平賀先生にガツンとやられてから、ずっとこんな 調子ですよ」  熊沢が言うと、田中は暸司の肩を叩いた。  「数学のことで言い負けるなんてお前にしては珍し いけどさ、そう落ちこむなよ。大した欠点じやな かったんだろ。ちやっちやと片付けて、次のテーマ に移ればいいじやねえか」  暸司は田中の励ましにも反応せず、コ圭フの炭酸 が弾けるのを眺めていた。 「え、何。難しいの」  動揺した田中が佐那に助けを求めた。みたいです、 と佐那が応じる。  暸司の頭の片隅では、いつも例の問題がとぐろを 巻いていた。高い壁は殴っても、叩いても、剌して も破ってもひねっても、びくともしない。跳ぼうと しても越えられず、回りこもうとしても果てしなく、 地中に潜っても壁は続いている。この壁を越えない 限り、陰鬱な気分は消えそうになかった。   こんな経験は初めてだった。いつもなら、解決で きない課題は後回しにすればよかった。死ぬまでに はまだ何度かチャレンジできる。しかしこの問題だ けは、すぐに解かなければならない。焦りがさらに 暸司を追い詰めていた。  木下がグラスの中身をぐっと喉に流しこんだ。む せかえるようなアルコールの匂い。こういう時、他 の人は強い酒でも飲んで気を紛らすのだろうか。避 けるべきものだったはずのアルコールに、頼ってみ てもいいような気がした。  木下が熊沢の研究へと話題を変えた。熊沢は同じ 研究テーマで博士へ進学することになっている。  「最初はどうなるかと思っだけど、何とかなってる もんな。俺、最近あんまリゼミ出てないけど順調な んだろ」  「一進一退って感じです。論文の投稿も博士にずれ こみそうだし。どうにか修論は書けそうですけど」  熊沢は含み笑いを浮かべた。  「暸司に比べたら、俺なんかカスですから」  それを聞いた田中が、今度は嘆息した。あIあ、 と声にまで出していた。  「クマのそういうところが嫌いなんだよな」  ぼそりと発したひと言で、座は静まりかえった。 熊沢は呆気にとられた表情で田中を見ている。冗談 めかした調子はない。  「皆の前では謙虚にふるまってるけど、お前本当は 死ぬほど負けず嫌いだろう。テスト勉強してないっ て言いながら陰でめちゃくちゃ勉強してるタイプだ よ。言えばいいじゃねえか、俺は暸司にも誰にも負 けたくないって」  おとなしく聞いていた熊沢の目の色が、徐々に攻 撃性を帯びてくる。  「別にそんなこと言う必要ないですから。田中さん、 自分が諦めたからってアカデミア目指してる人間に 嫉妬するのやめてくださいよ」  「おい、待て。今の、それがお前の本心か。そう やって見下してたのか、俺のこと」  すかさず木下が口をはさんだ。  「お前ら、俺の内定を祝ってくれるんじやなかった のか」  その一語で田中も熊沢も黙りこんだ。とりなすよ うに、佐那が同級生の噂話を披露する。  宴会はどこか盛り上がりを欠いたまま、お開きと なった。暸司は頭の片隅でちらつく問題に気を取ら れ、最後まで会話に参加できなかった。  途中で田中や木下と別れ、三人で並んで歩いた。 しばらく誰も口を開かなかった。  「来年からどうするんだ」  そう言っだのは熊沢だった。わからない、と暸司 は素直に答えた。暸司にとっては来春のことよりも、 目の前にそびえ立つ問題のほうが重要たった。  「もしかしたら協和大の教員になれるかもしれない けど、平賀先生とは何も話してない」  「協和にこだわる必要ないだろ。暸司が行きたいっ て言えば、どこでも行けるよ」  小沼も同じようなことを言っていた。  「気にしすぎないほうがいいよ。皆、暸司のこと心 配してるからね」  佐那の励ましは嬉しかったが、研究室のメンバー を心配させるのも心苦しい。やはり、一日も早く掛 谷予想の証明を完成させなければならない。  十字路に来ると、熊沢と佐那はそろって右へ折れ た。  「じやあな」「おやすみ」  ふたりはぴったりと並んで、熊沢のアパートのほ うへ歩いていった。少し歩いたところで、街灯の下、 佐那が熊沢にもたれかかるように腕をまわした。暸 司はその後ろ姿を見送ってから、十字路をまっすぐ 進んだ。  夜道の街灯の下にいくつかの顔が浮かぶ。小沼は もういない。田中と木下は卒業と同時に就職する。 佐那は工学部に進学する。暸司とこの世界をつなぎ とめていたロープが次々と切れていく。これから先、 そばにいるのは熊沢だけだ。たったひとつ残された ロープだけは、絶対に手放したくなかった。  街灯が途切れ、夜道の闇が濃くなる。  黒い海で、漂流する船が燃えていた。見覚えのあ る船だ。陸地につながれていたロープはすべて切ら れ、潮に流されるまま、海を漂っていた。激しい勢 いで燃えあがる船の上には、自分自身がいる。  この船を動かすための燃料が必要だった。今のま ま続けていても、いずれ海の底へ沈んでしまう。 きっかけがほしかった。一歩先へ踏み出すきっかけ が。  アパートの前を通り過ぎ、少し先のコンビニまで 歩く。若い男の店員が、いらっしやいませも言わず にレジ前でぼんやりしている。  暸司は冷えたアルコールが並んだショーケースの 前に立ち、目についたビールの缶を手に取った。ア ルミ缶は指の腹に張り付くように冷たい。やる気の なさそうな店員に差し出すと、有料のレジ袋に入れ てくれた。  缶一本だけ入った袋を提げてアパートヘ引き返す。 万年床の上であぐらをかき、プルタブを引いた。噴 き出した泡が散乱した論文や計算用紙に飛ぶ。鼻を 近づけただけで頭がくらくらしそうだった。  おそるおそる口を近づけ、なめるようにビールを すすりこむ。ホップの苦みが舌に残る。それを洗い 流すように、今度は勢いよく缶を傾けた。炭酸が喉 の奥ヘー気に流れこみ、思わず咳きこんだ。肺のな かが酒臭くなったような気がする。今度は缶の口に 唇をぴったりとつけ、喉を鳴らしてアルコールを送 りこむ。缶の中身はたちまち空になった。  浮遊感はすぐにやってきた。全身が熱を持ち、暑 くてたまらない。目の前を点滅する光が行き交う。 何気なく、かたわらにあった論文を手に取った。暸 司自身が書いた、三次元掛谷予想の証明。例の箇所 は嫌でも目に入る。  あっ、と暸司は叫んだ。唐突に、壁を打ち破る方 法をひらめいたのだ。あわてて紙とペンを引き寄せ、 思いついたまま書きつける。こんな簡単なことに、 今までどうして気づかなかったんだろう。満面の笑 みで暸司はペンを走らせた。  万能感が暸司を包んでいた。今ならどんな問題 だって解ける。何だって見える。  猛烈な吐き気に襲われたのは数分後だった。トイ レヘ駆けこみ、胃のなかのものを吐き出すと、今度 は頭が締め付けられるように痛んだ。口を水でゆす ごうとしたが、頭痛で立ちあがることもできない。  いつの間にか暸司は意識を失っていた。気がつけ ば、開け放したカーテンから朝日が差しこんでいた。 昨夜とは別種の間欠的な頭痛があり、胸は焼けるよ うな不快感に覆われている。少しだけ吐いてから口 を洗い、トイレを這い出た。  布団にくるまりながら、昨夜ほんの数分だけおり てきた万能感を反芻した。手を伸ばして数式を書き つけた計算用紙を拾いあげる。自分で書いたのに、 その内容を書いた記憶がまったくない。まるで別人 が暸司の身体に憑依して書いたようだ。そんな経験 は初めてだった。  肝心の内容は、今まで考えてきたこととさほど変 わらない。ただし書いてあるのはほんの冒頭だけだ。 その先の展開を見てみたかった。  ビールを買っだのは、軽い憂さ晴らしのつもり だった。できることならもう酒は飲みたくない。強 烈な吐き気、頭痛、倦怠感。二度と味わいたくはな い。ただ、それらと引きかえにあの万能感が得られ るのなら。掛谷予想の証明を完成させられるのなら。 アルコールを浴びる覚悟があった。  体調が戻ったらまた試してみよう。脳を割るよう な頭痛に襲われながら、暸司はひそかに決心した。    9 天分  理学部の教授会がはじまって二時間が経つ。  出入口に最も近い席についた熊沢は、しきりに腕 時計の盤面へ視線を送っていた。約束の時刻が近づ いている。余裕をもって出発するつもりだったが、 この調子では定時到着は微妙だ。財布だけは懐に入 れてきた。  最上座には学部長が陣取り、かたわらには事務局 長が、両側の長机には臣下のごとく教員たちが並ん でいる。欠席者もかなりいるが、それでも会議室に は四十名近いメンバーが出席していた。教授会とい う名目だが、各研究室の代表者が出席することに なっている。准教授の熊沢がこの場にいるのもその ためだった。大半の者は持ちこんだノートパソコン で内職をしているか、虚ろな目であらぬ方を見てい る。  議題は学部生の飛び級卒業についてたった。  暸司を最初の例として、これまでに何名かが飛び 級で学部を卒業し、大学院へ進学した。しかしたい ていの学生は院修了と同時に他の組織へ移り、二度 と協和大には戻ってこない。優秀な学生をつなぎと める、という目的が果たされていないことから、制 度の存続に反対する教員も少なくなかった。  そもそも、飛び級制度をつくったのは暸司がきっ かけだったといわれている。当時、学部生でありな がら数学史に残る成果を収めた暸司は〈二十一世紀 のガロア〉ともてはやされ、メデイアの注目を浴び ていた。それを大学の広報活動に利用するため、急 ごしらえで用意されたのが飛び級制度だという噂だ。 しかしすでに当時の学長も、学部長を務めていた教 授も、退官して大学には残っていない。今となって は事実の確認は不可能だった。  不毛な議論はかれこれ一時間以上も続いている。 ピートアップしているのは一部の教員だけで、あと の面子は興味のなさそうな顔をしていた。熊沢は議 論を聞き流しながら、論文草稿の手直しをしている。  「熊沢先生はどう思いますか」  唐突に水を向けられ、えっ、と声が漏れた。反対 派の教員が剣呑な声で言う。  「先生だって、飛び級制度とは無関係じやないで しょう。三ツ矢暸司の親友なんだから」  親友。自分にそう名乗る権利があるだろうか。  あのころI博士課程の学生だったころ、熊沢は 暸司を見捨てた。その意識がなくとも、結果的には そうなった。佐那とも別れ、自分のテーマに没頭し、 平賀についていくことを選んだ。  考えているふりをしてごまかそうとしたが、例の 教員はまだにらんでいる。仕方なく、無難な答えを 返した。  「親友云々はともかく、これは学部だけではなく全 学的に話し合うべきテーマだと思いますよ」  「先生、今の議論を聞いてましたか。理学部として の総意をまとめて、学長への提言をしようという話 だったじやないですか。いきなり全学的に話して も……」  相手はますます激高する。事務局長が同情的な視 線で熊沢を見ていた。学部長は我関せずという風情 で手の甲を掻いている。熊沢は真剣な顔で相槌を打 つふりをした。  思えば、あの飛び級卒業が暸司にとっての不幸の はじまりだったのかもしれない。  あのころに戻ってやり直せるとしたら、今とは 違った結末になっていただろうか。  暸司が証明を発表した三次元の掛谷予想は、ロシ アの数学者によって完成された。平賀が不備を指摘 した二か月後だった。その直後の進捗ゼミで、平賀 は暸司を演壇に立たせ、他人がっくりあげた〈完全 な証明〉について解説させた。自分の証明のどこに 穴があり、どう埋められたのか。それを語るのは身 が焼かれるほどの屈辱だっただろう。  話し終えた暸司に、最前列に座る平賀は言った。  「数学をやるっていうのはこういうことだ。正しく なければ何の意味もない」  暸司の顔をのぞきこみ、平賀は不完全な証明の記 された論文を手に取った。  「きみがここに書いたのは数学ではない。単なるア イデアだ」  うつむく暸司に熊沢は同情しつつも、どこか冷淡 な気持ちで見ていた。長年抱いていた幻想が、音を 立てて崩れたような気がした。  それでも博士課程の修了には十分すぎるほどの実 績である。暸司にはフラクタルでの研究成果もあり、 依然として数学界での評価は柢くなかった。修了後 はそのまま研究室の助教に就任し、研究生活を続け ることになった。  その間、熊沢は平賀へ傾倒していった。  弦理論の第一人者である平賀は、熊沢のテーマで あるミラー対称性にも詳しい。自然と研究の内容に ついて相談する機会が増えた。平賀の指導は懇切丁 寧とは言いがたいが、いつも具体的だった。常に数 式を動かして検討の妥当性を説明する。数学者同士 の会話では、言葉よりも数式のほうがずっと雄弁だ。 その場で理解できなくても、ノートを読み返して 後々気づくこともあった。  平賀はいつも正しかった。たとえ研究を後退させ るような指摘であっても、平賀は決して躊躇しない。 正しさ以上に優先するべきものはないからだ。  暸司や小沼はどちらかといえば、厳密さよりも本 質をつかむことを重視するタイプだった。一方、平 賀は寸分も瑕疵がないよう注意しながら、緻密に論 理を組み立てることを優先する。華やかさには欠け るが手堅いやり方だ。  いつしか着実に実績を積み上げていく平賀を、己 と重ね合わせていた。暸司のような数学者になれな いことは、学部生のころからわかっていた。自分は 暸司のように〈見える〉人間ではない。しかし平賀 のようになら、なれるかもしれない。  小沼がつくった研究室の仕組みに、平賀は少しず つ手を加えていった。隔週で開かれていた進捗ゼミ は毎週になった。コアタイムとして、学生が研究室 にいなければならない時間が設けられた。夏怛例の 研究合宿は二年目までは開かれたが、その後は廃止 された。  赴任一年目の合宿で、暸司への失望はさらに深 まった。  例年通り、伊豆高原の研修センターで研究報告が はじめられた。前年までは教授の小沼がトップバツ ターを務めていたが、端からこのイベントに疑問を 抱いていた平賀は報告を拒んだ。  最初に登壇したのは、助教の暸司たった。向き合 う格好になった平賀は退屈そうに白い髭をなでてい る。ホワイトボードの前に立った暸司の顔は青ざめ ていた。  「では、僕からはじめさせてもらいます」  語尾が震えている。熊沢は博士論文の発表会を思 い出した。あのときも、暸司の声は緊張で震えてい た。聞いている側か哀れに思わずにはいられないほ どたった。  自分の報告の準備に追われていたこともあり、熊 沢は久しぶりに暸司の研究成果を聞くことになった。 フラクタルの規則性に着目した、新たな解析手法。 配られたプリントには見覚えのある模様が描かれて いた。燃えあがる船。暸司がフラクタルの虜になっ たきっかけた。  無理に自分を奮い立たせているのか、暸司の声は なかば悲鳴のように聞こえた。まるで、燃える船の 上で助けを求めているようだった。船に残ることに 固執し、逃げ遅れた乗客。  暸司は自己相似の図形に共通する数式の存在を証 明しようとしていた。その数式が実在すれば、あら ゆるフラクタルが自在に解析できるという。熊沢に はほとんど理解できなかった。それ以前に、理解し ようとする意思を失っていた。  暸司が発表を終えると同時に、学生たちの視線は 平賀に集まった。  「非常に魅力的な結論だな」  ゆるみかけた空気を締め上げるように、しかし、 と平賀は続ける。  「この短い時間で私はこの論理に二つの大きな穴を 発見した。それは自覚してやっているのか、それと も本当に気づいていないのか」  返答の代わりに、暸司は力なく首を横に振った。  「たしかに、きみほど才能に恵まれた人間は他にい ないかもしれない」  平賀の言うことが世辞やごまかしでないことは、 普段の態度からわかる。  「きみには経過を飛ばして、いきなり結論に至る癖 がある。まるで予言者だ。実際、高等な知性は予言 に近い。しかし、その予言が正しいことをどうやっ て他人に説明する? それができない限り、その理 論は憶測でしかない。答えを言うだけなら誰だって できる」  褒めた後に批判するのは、平賀の常套手段だった。 暸司はしばらく悔しさを噛みしめるように足元を見 つめていた。だが、握りしめていた黒のマーカーを トレイに置き、青ざめた顔のまま、平賀に充血した 目を向けた。  「しかし、実例に当てはめれば予想は正しいと確認 できるはずです」  暸司が反論するのはめすらしい。少しでも己への 反感を感じれば、暸司は心を閉ざしてしまう。暸司 が平賀に何かを言い返すのを目にするのは初めて だった。  「物理屋ならそれでもいいかもしれないが、我々は 数学者だ。数学者なら、正確であることをもって存 在意義としなければならない」  平然と言い返す平賀に焦りは微塵もない。  「これが正しくないと、どうして言えるんですか」  「では逆に教えてくれ。君は何をもって、この理論 が正しいというんだ」  「僕には見えるんです。それが何よりの証拠です」  「だったら私たちにも見せてくれ。今すぐに」  あからさまに、平賀は冷笑してみせた。暸司の顔 色が蒼白から赤へと変わる。  「真実を誰にもわかるような形にすることこそが、 数学じゃないのか。証明できない妄想の垂れ流しは 数学ではない。それを妄信する人間も、数学者では ない」  議論の勝敗は誰の目にもはっきりしていた。赤黒 い顔をした暸司は、強く下唇を噛んでいる。犬歯が 食いこみ、今にも血が流れだしそうだった。血走っ た視線が熊沢に向けられた。助けを求めている。  できるだけさりげなく見えるよう、熊沢は頬杖を つくふりをして視線を逸らした。  相手は平賀だ。助けられるわけがない。そもそも、 暸司が皆に理解できるよう説明していれば、恥をか くこともなかった。妄想の垂れ流しではなく、〈数 学〉の言葉で話していれば。  セミナー室の壁を見つめているうち、黒い想念に 覆われていく。急速に拡大する蔑みの感情は、もう 熊沢自身にも止められなかった。  こいつは数学者じゃないんだ。  どうして今まで、こいつを天才だと思っていたん だろう。  演壇に視線を戻したとき、すでに暸司の姿はな かった。部屋の隅で寒さをこらえるように身を縮め ている暸司を、熊沢は温度のない目で見た。  佐那とはひどい別れ方たった。しかし元の関係に 戻る気はなかったし、別れ方が悪いからと言って、 もう一度〈別れ〉をやり直すことはできない。  博士に進学してからは会う間隔が広かっていたが、 それでも佐那の態度は変わらなかった。会えばマイ ペースに話して、食べて、眠る。以前は気にならな かった奔放さに、徐々に熊沢は苛立ちを覚えるよう になった。佐那がどう思っていたかは知らない。  その夜、ふたりは熊沢の部屋にいた。佐那は自分 の作品を見に来てほしい、と繰り返し熊沢を誘った。 パンフレットを目の前に突き付けられ、仕方なく見 てみた。暗い部屋で極彩色のライトが灯っている写 真。天井から垂れ下がった紐には無数のガラス球が まとわりついていた。松ぼっくりのようなオブジェ が所狭しと置かれ、説明を読むとそれらはスピー カーのようだった。  「興味ない」  熊沢はパンフレットをフローリングに投げ捨てた。 佐那は拾ってテーブルの上に戻す。いつもはそれで 諦めるのだが、虫の居所が悪かったのか、佐那は 食ってかかった。  「今、なんでパンフレット投げたの」  「アートなんかわからない」  「なんでパンフレットを投げたのかって聞いてる の」  佐那の視線から強い意志を感じた。先に目をそら したのは熊沢たった。  「どうせ、それもすぐ飽きるんだろ。数学と同じ で」  しまった、と思ったが、吐き出した言葉はもう戻 らない。  「どういう意味」  佐那の唇はかさついていた。怒ると興奮して唾液 が減るという話を聞いたことがある。今ごろ佐那の 口のなかはからからだろう、と熊沢は場違いなこと を思った。  「あたし、別に数学に飽きたわけじやないから」  「だったらなんでやめた」  「工学部のほうが自分のやりたいことができると 思ったから」  「だから、飽きたんだろ。要するに。それなら最初 から工学部行ってればよかったのに」  飽き性なんだよ、と熊沢は言った。佐那の目に涙 はなかった。ただ、軽蔑の色が浮かんでいるだけ だった。  「わかってくれてると思っだのに」  「わかるかよ、他人のことなんか」  決定打たった。佐那の目が知らない人間を見るも のに変わっていく。熊沢も退くに退けなかった。子 供じみた悪態が口をつく。  「メディアアートか何か知らないけど、二度と数学 やるなよ」  壁に話しかけているように手ごたえがない。ああ、 もう、ダメだ。  「バカじゃないの」  佐那には涙を流す気配すらなかった。前触れなく、 彼女はカバンや紙袋に自分の持ち物を詰めはじめた。 部屋着や下着、歯ブラシ、化粧道具。パソコンにつ なげていたイヤフォンを勢いよく抜き取ってポケッ トに押しこむ。マグカップの水滴を拭いてタオルで 包む。熊沢はその一部始終を、黙ってながめていた。 自分の部屋だというのに、所在なさを感じてベッド の上であぐらをかいていた。諦念にくるまれ、言葉 を発するのも億劫だった。  じきに荷造りは終わった。両手に紙袋を提げた佐 那は玄関の手前で仁王立ちした。  「もうここ、来ないから」  熊沢は振り向きもしない。ベッドの上から壁紙を ながめていた。反応がないとみるや、佐那は靴をは いてドアノブをひねった。 「あたしのことが好きだったんじゃなくて、数学の できる女が好きだったんだね」  そういう意味じゃない。熊沢が顔を向けると、す でに佐那の姿はそこになかった。拒絶するように音 を立ててドアが閉まる。去り際に佐那がどんな表情 をしていたのか、熊沢は知らない。  それからは、キャンパスで顔を合わせても互いに 見て見ぬふりをした。暸司が亡くなるまで、ふたり は一度も言葉を交わさなかった。  熊沢は大学の正門前に停まっていた、客待ちの夕 クシーに乗りこんだ。店の名前を告げると、はい、 とだけ答えて運転手は車を発進した。  約束の時刻に間に合うか、ギリギリのところだ。 平賀は時間にルーズな人間を嫌う。幸い、道は空い ているようだった。頼むから間に合ってくれ、と祈 る。  囗が落ちるのが早くなった。六時前だというのに、 もう暗闇に包まれている。熊沢は後部座席で朝読ん だメールの内容を反芻していた。  ドイツの数学者チームが〈ミツヤノート〉の完全 解明に成功した、という噂だった。アメリカ時代の 同僚から送られてきたメールだ。にわかには信じら れない。こういう噂はたいていデマであったり、本 人たちの思いこみに過ぎない。完全解明、という大 仰な言い方もいかにも怪しい。それでも、心中は不 安の雲で覆いつくされていた。  飴屋に到着したのは約束の時刻ちょうどだった。 急いで代金を支払い、転げるように店の戸を開ける。 カウンターでは平賀がすでにお猪口を傾けていた。 隣に座った熊沢をゆったりと振り向く。「一応、 セーフだね」  「すいません。教授会が長引いて」  いつもと同じ白のシャツにベージュのズボン。年 代物の紺のジャケットを椅子の背にかけていた。い つ見ても、この人の服装は変わらない。平賀は小鉢 をつつきながら言った。  「いちいち出席する必要があるのかい。私は出席し た記憶ないな」  平賀くらい名が売れていればいいだろうが、三十 代の若手がそれをやるには度胸がいる。ましてや熊 沢は今、暸司のノートを公表した件で学内中から注 目を浴びている。教授会をすっぽかせば何を噂され るかわからない。  注文を取りに来た店員に、熊沢は緑茶を頼んだ。  「酒は飲まないのか。きみ、好きだったろう」  「今日はちょっと。この後、用事があって」  嘘だった。春にプルビス理論の検討をはじめてか らというもの、身体がアルコールを受け付けなく なっている。習慣になっていた晩酌もやめた。先日、 付き合いでグラス一杯だけビールを飲んだがすぐに 吐いてしまった。アルコールを口に含むと、あの部 屋のこもっだ臭いがよみかえってくる。土色のひか らびた肌。黄色に濁った目。  そうか、と平賀は軽く流した。  それからしばらく、平賀の新しい生活について話 した。教授を退官したこの春、平賀はイギリスヘ移 住した。海外生活が長かったせいか、囗本のコミュ ニティは肌に合わないらしい。学生時代を過ごした イギリスへ移住し、どこにも所属せずに知人の職場 を転々としているという。  「移動が多くて大変じやないですか」  「いやあ、楽しいよ。根無し草って言うのかね。ト ランクひとつでふらふら歩きまわって。今日はケン ブリッジ、明日はUCLつて具合だね。食べ物も昔 よりずいぶんうまくなったが、バリエーションがな いのだけはかなわん」  心なしか、日本にいた頃よりも平賀の表情は豊か になっていた。協和大で教授をやっていた頃は常に 雑草を噛むような表情だったが、今はしがらみから 解放されたように安らかな顔をしている。  「そっちはどうだ。娘は元気か」  「おかげさまで。昇任してからこっち、平日は寝顔 しか見られませんけど」  「そんなもんだよ。雑用ばっかりやらされて、割に 合わない仕事だ。しかも家族は数学なんて理解して くれないからな。他の数学者にすら理解されないの に、奥さんが数学やらない人間ならなおさらだ」  平賀は若い時分に離婚していた。理由を聞いたこ とはなかったが、人並み外れた数学への執着のせい だということは察しがついた。  目の前に鯛の握りが出された。平賀は握りを頬張 り、相好を崩した。  「うまい。囗本の飴はやっぱり違う。空気のせいか な」  そろそろ例の話を切り出さなければならない。く つろいだ雰囲気を壊すのはしのびなかったが、避け るわけにはいかなかった。  「来年の囗本数学会で、講演を頼まれているんで す」  平賀は真顔に戻り、髭をさすった。「三ツ矢の件 か」  〈ミツヤノート〉について、ヨーロッパではどんな 議論がされているのか、少しでも知りたかった。ド イツのチームが解明に成功したという噂の真偽も確 かめたい。一時帰国中の平賀をつかまえて食事に 誘ったのはそのためだ。熊沢は固唾を飲んで返答を 待ったが、返ってきたのは拍子抜けするような言葉 だった。  「興味ないな」  そう言うと、平賀は黒目だけで熊沢をにらんだ。 詰問するような口調だった。  「あれはもう、きみの仕事ではないだろう。ノート を公開した時点で役目は終わった。熊沢には熊沢に しかできない仕事がある。自分でもわかっているん じやないか」  他人に言われるまでもなく、弦理論においては第 一人者だという自負はある。他の誰かではできない 仕事をしてきた。  しかし、プルビス理論を明らかにすることもまた、 自分の仕事ではないのか。  説教したいわけじやないが。そう前置きしてから 平賀は言った。  「自分の実力を過信するなよ。私の後任じやなけれ ば、きみはまだ助教止まりだ。弦理論をやっている から、今の地位にいるんだ」  熊沢は反論の言葉を飲みこんだ。普通、准教授に なれるのは早くとも四十代だ。三十代中盤という若 さで昇進できたのは、紛れもなく平賀のおかげだっ た。彼の直弟子であり、後任として推薦されたから こそ准教授に昇任し、研究室の代表になれた。平賀 は恩に着せようとしているわけではない。事実を述 べているだけだ。  「人間には天分がある。何をやるために数学者に なったのか、もう一度じっくり考えてみるんだな」  正論だった。年長者として、平賀の意見は間違っ ていない。この場では感情を抑えて、やり過ごすこ ともできた。しかし結局、熊沢はそうしなかった。  「私の天分は暸司の跡を継ぐことです」一息で言っ た。  暸司が雑居ビルのマンガ喫茶を訪れたあの夜、熊 沢の天分は決まった。暸司がいなければ、協和大学 准教授の熊沢勇一は存在しなかった。天分に従うべ きだと言うのなら、熊沢にはやはりそうするのが自 然に思えた。  「今までやってきた研究はどうする」  平賀はあくまで静かに話す。激高する気配はない が、心の底でふつふつと感情がたぎっているのが熊 沢には透けて見えた。  「続けます」  「自分の研究を続けながら、三ツ矢の研究の続きま でやるつもりか。彼はフラクタルの専門家だろう。 弦理論とは関係ない」  猪口を干し、平賀は新しい冷酒を注文した。さら に饒舌になっていく。  「勘違いしているのかもしれんが、私は三ツ矢が無 能な数学者だとは思っていない。むしろ、怖いくら いに感覚の鋭い人間たった。それは認める。だから こそ、片手間で太刀打ちできるようなものではない。 リーマン予想やホッジ予想にとり憑かれて、一生を 棒に振った数学者を何十人も見てきた。そうなる覚 悟があるのか」  聡美や娘の顔がよぎった。傾きかけた心をどうに か立て直す。  「三ツ矢が親友だというのは知っている。気持ちは わからないでもない。しかし私はそんなつもりでき みを育ててきたんじやない。熊沢の能力はそんなこ とに使うべきじやない。きみが本気でやれば囗本の 数論幾何はあと三十年、世界で戦える」  アメリカヘの留学も、帰国してからのポジション も、すべて平賀のはからいによるものだった。自分 を見こんでくれているのはわかる。言いつくせない ほど感謝もしている。  熊沢は黙って、湯のみの底に沈む茶葉を見つめて いた。  「呆れたな」平賀は冷酒をあおった。細い首のうえ で喉仏が上下に動く。  「先生にも、焦ることはありませんか」  熊沢は空の猪口に冷酒を注いだ。 「歳をとるたびに才能の残量が減っていく不安とか、 手が届かないくらいまぶしい才能への嫉妬とか、先 生でも感じることはありませんか」  こんな質問をするのは初めてだった。平賀はじっ と熊沢の目を見て、言った。  「焦りを感じるのは、自信がない人間だけだ」  熊沢は苦笑した。そうだ。この人はこういう人 だった。尋ねるだけ無駄だ。  食後、平賀とは店の前で別れた。タクシーに乗ろ うとした平賀は、いったん丸めた背中をまっすぐに 伸ばし、熊沢の目を見て言った。  「後悔しないよう、よく考えろよ。あとはきみ次第 だ」  タクシーを見送った熊沢は、駅とは逆方向に歩き 出した。まだもう少しひとりでいたい。頭上には晩 秋の星座がぽつりぽつりと光っていた。  飲食店の並ぶ通りを外れると、川沿いの歩道に出 た。幅ニメートルほどの小さい川が流れている。  そういえば、暸司とこの道を歩いたことがあった。 いつだったか。  懸命に記憶を探ったが、正確な時期は思い出せな かった。     10 プルビス  暸司の右手には小川が流れていた。手すりにつか まって眼下をのぞきこむ。コンクリートで固められ た岸には緑の藻が密生し、街灯を受けてぬらぬらと 光っていた。川は少し先で蛇行し、下流は見えない。  十二月の風が頬をなでた。火照った顔には冬の冷 気が心地いい。  「大丈夫か。歩けるか」   背後からの熊沢の声に、暸司は作り笑いを浮かべ  て振り向く。「平気、平気」   いつもの吐き気と頭痛。本当は歩くのも億劫だっ たが、酔い覚ましに付き合ってくれている熊沢には 気を遣って言い出せなかった。暸司が手すりを離れ ると、ふたりはゆっくりと歩き出した。頭上は厚い 雲に覆われ、月も星も見えない。  「昔、こんなに飲まなかったよな」  「そう?」  「そうだよ。コーラとかウーロン茶ばっかり飲んで たのに。今日はウイスキーなんか飲んだろう。しか もロックで。五、六杯はいったんじやないか」  何杯飲んだか記憶になかった。酒を飲むときはい つもそうだ。ただ、酔うまでのリードタイムが年々 長くなっているような気がする。てっとり早く万能 感を得るためには、強い酒を一気に飲むしかない。  「学生に合わせて飲む必要なんかないからな。あい つら、ただ騒ぎたいだけなんだから」  熊沢は勘違いしているようだった。暸司は訂正せ ず、そうだね、と応じた。  暸司が協和大学の助教として迎える三度目の冬 だった。小沼の約束のおかげか、平賀の手配か、と もかく暸司は数学専業で食べていくことができてい る。他大学からは今でも直接連絡を受ける。助教な んてとんでもない、うちは教授として迎え入れます。 そう誘う者もいたが、職位や収入への興味はなかっ た。それ以上に、見知らぬ土地や人間関係のただな かに飛びこむのが恐ろしかった。  あまり飲んでいないのか、熊沢の横顔は涼しげ だった。  「よかっだの、二次会行かなくて」  冷たい向かい風が吹いた。熊沢はマフラーに顎を うすめる。  「ちょっと疲れた。最近、学生のノリについていけ なくなっちやったよ」  眼鏡のレンズが呼気で曇った。  「クマだって学生でしよ」  「来年の三月までな」  博士課程修了を目前に控えた熊沢は、このところ 後輩だちと距離をとりはじめていた。だからといっ て暸司とふたりで検討する機会が増えたかというと、 そうではない。むしろこの数か月は、博士論文の執 筆に追われて連日忙しそうにしている。  今、あの小会議室を使っているのは暸司だけだっ た。熊沢は博士への進学をきっかけに学生居室へ移 り、小会議室は暸司専用の部屋になった。自然と会 話は減り、暸司はひとりで数理の世界へ没入するこ とが多くなった。  平賀は暸司に学生をつけなかった。それが気遣い なのか、不信感のせいかはわからない。  ふたたび、川を渡る風が吹いた。暸司はダウン ジャケットに包まれた肩をすくめる。大学一年から ずっと着ているものだった。  「シャーロットつて寒いの」  「そうでもない。ノースカロライナの気候は日本と 似てるらしい」  ノースカロライナ、という響きから暸司は行った ことのないシャーロット大学を想像してみた。しか しどうしても、いつもの理学部棟が脳裏に浮かんで くる。暸司にとっては大学といえば協和大学であり、 キャンパスといえばあの古びた建屋なのだ。  ふたりは駅とは逆の方向へ歩いていた。どこかで 折り返して駅へ行くつもりだったが、ふと気づくと かなりの距離を過ぎていた。戻るのが面倒になり、 このまま自宅まで歩くことにした。徒歩でも三十分 はかからない。  「じやあ、このままクマの家に行こうかな」  言いながら顔色をうかがう。熊沢は仏頂面で前を 見ていた。  「今日は勘弁してくれ」  もう半年ほど、熊沢のアパートを訪ねていない。  「迷惑かけないよ。部屋の隅で本でも読んでるから。 あ、そうだ。フラクタルの解析法開発で、少し進展 があってね。だいぶ形になってきたんだ。平賀先生 はああいうけど、やっぱリフラクタルでは物理学の 視点も動員するべきなんだよ。クマの意見も聞いて みたいな。きっと、弦理論でも強い武器になると思 うんだけど」  目の前に餌をぶらさげたつもりだったが、熊沢は なびく素振りも見せない。ふたりの間を冷たい風が 吹きすぎ、熊沢はさらに深くマフラーに顔をうずめ た。  「だめだよね」  つぶやきは寒風に乗り、どこかへ飛び散ってし まった。  熊沢に迷惑をかけるつもりはない。ただ、ほんの 数年前のように、一緒に同じ問題を検討したり、暇 を持て余してキャンパスをぶらついたりしたいだけ だった。いつの間にか熊沢には熊沢の世界ができて いた。そこに暸司の居場所はない。半透明の膜に覆 われたその世界を、外側から指をくわえて見ている しかなかった。  「もう教員なんだからさ。少しはそれらしくしろ よ」  熊沢はおだやかに諭した。友人を思っての発言だ ということは理解している。しかし暸司には、その 言葉がやわらかい拒絶に思えて仕方なかった。ふい に熊沢がコートのポケットに手をつっこんだ。携帯 を取り出してディスプレイを見る。  歩きながら、熊沢は応答した。すぐに調子はずれ の怒鳴り声が漏れてくる。クマさあん、なんで帰っ ちゃったんですかあ、寂しいじゃないですかあ。研 究室の学部生の声たった。熊沢は苦笑いしながらそ れに応じる。  「今日は疲れたから帰る。また今度な」  アメリカ行っちゃったら飲めないじゃないですか あ、もうちょっとだけ飲みましようよう。未練がま しい声はやまない。暸司は念のため携帯を確認した が、着信はなかった。熊沢は酔った後輩のおしゃべ りを聞き流し、通話を切った。 「行ってやればいいのに」  自然と冷たい声になった。  「だから疲れてるんだって。あいつらとはいつでも 飲めるし」  最後に熊沢とふたりで食事をしたのはいつだろう。 こうして並んで歩くことすら久しぶりだった。二十 歳くらいの頃は、毎日のように学食や牛丼屋で一緒 に飯をかきこんでいた。それがはるか昔のことのよ うだった。   帰路をたどるふたりは川を離れ、住宅街のただな かに来ていた。そろそろアパートが近い。見知らぬ 家のリビングの明かりが、道の端を照らしていた。  「ちゃんとメシ食ってるか。最近、だるそうにして るだろ」  暸司の顔はくすみ、目の下には墨のように黒い隈 がこびりついていた。吹き出物が増え、肌は水分を 失っている。  「徹夜が多いから。僕も疲れてるのかもしれない」  「そうか。まあ、俺も人のこと言えないけどな」  自宅近くのコンビニが見えてきた。 「僕、買うものあるから。ここで」 「ああ。じやあ」  熊沢は軽い調子で応じ、道の先の角を折れた。  コンビニに入った暸司はまっすぐ酒類の棚へ向か う。角張ったウイスキーの瓶をつかんで、レジヘ 持っていく。買い置きが昨夜切れたばかりだった。 とうに顔なじみになった男の店員は無言でバーコー ドを読み取った。暸司が紙幣を出せば、黙って釣銭 を寄越す。ふたりの他には店員も客もいない。   給料はほとんど、実家への仕送りと酒代に消えて いた。それ以外に金の使い道が思いつかない。  レジ袋を提げて自宅へ帰りつく。玄関を入ってす ぐの台所には空の酒瓶やアルミ缶が所狭しと積みあ げられ、むせるようなアルコール臭を漂わせていた。 冬だというのに、小さい羽虫がちよこまかと飛んで いる。暸司は瓶の山を注意深く避けながら、奥の部 屋へたどりついた。すきま風のせいで外と変わらな いほど寒い。ダウンジャケットを脱ぎ捨て、電気毛 布にくるまった。  酔いはほとんど醒めている。ここからが暸司に とっての本番だ。宴会では人目を気にして存分に飲 めなかったが、ひとりなら何も気にする必要はない。  プラスチックのコップを水で洗い、買ったばかり のウイスキーをなみなみと注ぐ。大学一年の春、熊 沢のアルバイト先からくすねたコップだった。中身 を一気にあおると、たちまち胃袋が琥珀色の液体で 満たされる。胸が焼けるように熱い。こめかみを殴 打されたようにくらくらする。  じきに押しつぶされそうな不安が消え、暸司は深 い安堵とともに息を吐いた。温かい毛布に包まれて 酒を飲んでいるときだけが、一日のなかで唯一落ち 着く時間だった。  さらに飲み続けると、くらくらした感じがやや鎮 まり、代わりにおそろしく感覚が冴えてくる。昼間 なら考えつかないような発想が次々と浮かんでくる。 暸司は毛布から上半身を出し、計算用紙を引き寄せ て思いついたまま書きつけた。  今、暸司の目に映るのは暗闇できらめく〈塵〉 だった。無限の空間に、無限の粒子が降りそそぐ。 ひとつひとつの粒子は目には見えないが、確かに存 在している。粒子の集合は暸司が念じる通りに形を 変える。ある時は魚になり、ある時は大樹となる。 ほうき星のように視界を流れ去り、花火のように美 しく散る。より微小な、分子や原子といった単位で さえも〈塵〉は構成できる。形作ることができない ものはない。暸司は紙の上で、夢中で戯れた。  今のところ、この〈塵〉の存在に気付いているの は世界中で暸司だけだ。これを発表すれば、数学界 は大きく揺れる。ムーンシャインや掛谷予想どころ ではない。あまりの激震に、足腰の弱い数学者や物 理学者は振り落とされてしまうだろう。その様を想 像するだけで、暸司は心から楽しくなる。  しかし発表は慎重にやらねばならない。博士の修 了直前にふりかかった出来事は、暸司の記憶から消 えることはない。  「きみがここに書いたのは数学ではない。単なるア イデアだ」  しわがれた声が反響する。とっさにウイスキーを 流しこみ、記憶をかき消そうとした。  塵の理論は、穴ひとつなく完璧に作り上げなけれ ばならない。発表するのはその後だ。平賀の指摘す る余地がない〈正しさ〉が、この理論には必要だっ た。  ふいに胃のなかで何かが暴れだす。腫れた食道が かっと熱くなる。毛布を蹴飛ばした暸司はトイレに 駆けこみ、便器に酒を吐き出した。胃酸や消化物と まじりあい、鼻を覆いたくなる異臭が立ち上る。頭 痛がふたたび波のように寄せてくる。これもいつも のことだった。吐いた物を流し、水で口をゆすぐ。  身体はつらいがこうするしかない。  暸司は水気を失った髪をかきむしり、ふたたび数 の世界へ没入した。  小会議室のドアがノックもせず開けられた。円卓 に向かったまま振り向きもしない暸司に、教務課の 女性職員が声をかけた。  「三ツ矢先生。数学特論の講義、とっくに時間過ぎ てますよ」  のんびりと振り返る暸司の目は、下まぶたが垂れ 下がったせいで白目の主張が強い。赤い血管がくつ きりと浮かんでいる。  「今日、僕だったっけ」  「そうですよ。早く支度してください」  職員が突き出した冊子には、数学特論の担当教員 が記されていた。今日の担当は確かに暸司になって いる。手帳を開くと、数学特論、という言葉と一緒 に開始時刻が書きつけられていた。十三時。もう一 時間も過ぎている。朝確認したはずだが、頭から消 えていた。  「ごめんなさい。すっかり忘れてて」  暸司の酒臭い息を避けるように、職員は顔をそむ けた。  「早く行ってください。まだ待ってる学生もいます から」  講義をすっぽかすのは初めてではなかった。遅刻 で済むならまだいいほうだ。今年度だけでもう五、 六回は無断休講をやっている。生活力がないことは 自覚していたが、以前にも増して注意力が散漫に なった。  職員に急かされるまま、教えられた教室へ向かっ た。三十組ほど椅子と机が並べられているが、着席 している学生は片手の指にも満たない。携帯をい じっていた前列の女子学生が顔をあげた。  「あ、来た」  退屈を持て余していた学生の視線が一斉に集まる。 暸司は演壇に立ち、遅刻を詫びたうえで授業をはじ めようとした。学部生向けの講義など、目をつぶっ ていてもできる。いつものように教科書の適当な ページを開かせ、そこに書いてある内容を丸写しし ようとした。  しかしチョークを手にしたところで、あの、と男 子学生が声をあげた。顔を向けると、眼鏡をかけた 背の高い学生が立ちあかっていた。憤然とした顔で 暸司を見ている。  「先生は、まともに講義をやる気があるんですか」  暸司は彼の顔をまじまじと観察した。レンズの奥 の目はすぼめたように小さく、頭には白髪が交じっ ている。見た目は暸司よりも年上に見えた。  「僕らは学費を払って大学に通っているんです。 ちゃんとそれに見合った教育を提供してもらわない と、困ります。他の授業も勝手に休講にしてるで しよう。真剣に勉強しようとしている学生に不誠実 じやないですか」  今時めすらしい学生だと思った。求められてもい ないのに、人前で意見を言う態度は嫌いではない。 ただ、誰かに教えてもらおうという心構えが気に食 わなかった。本当に学びたければ、勝手に専門書や 論文を読んで勉強すればいい。少なくとも、暸司に はそうしてきたという自負がある。  最近、苛立つことが増えた。自分のせいだとは思 わなかった。環境が変わったせいだ。自分は何も変 わっていないのに、周りの人間はどんどん変わって いく。皆、ころころと居場所を変えてしまうのが不 思議だった。  「不誠実だったら、何?」  機嫌の悪さを隠さずに言った。男子学生がひるん だのがわかる。  「受け身で勉強しているから、そういう意見が出る んだよね。不誠実な教員が許せないなら、自分で勝 手に勉強すればいい。帰りたければ帰ればいい。学 費を払いたくなければ、払わなければいい」  暸司は演壇を降りて教室を出た。追いかける者も なく、声すらなかった。  あんな授業、僕がやる必要はない。大学院生でも できるような内容だ。それよりも、僕にはやらなけ ればならないことがある。教科書レベルの講義に浪 費する時間はない。  小会議室に戻った暸司は鍵をかけた。また教務課 の職員に乱入されてはたまらない。  本棚の下の段に入れたカラーボックスを引きだす と、買い置きのウイスキーが現れる。暸司は躊躇な く瓶を取ると、グラスに注いで半分ほど飲んだ。さ さくれ立った心が鎮まり、焦りが消える。長い息を 吐いた。  瓶とグラスをそばに置いて、検討を再開した。数 の拡張という難事業に立ち向かうには、アルコール の力が不可欠だった。  例の〈塵〉を的確に言い表す言葉は、数学にも物 理学にも存在しない。それならば、自身で作りだす だけだ。  浅い眠りを繰り返しながら、暸司は何度も新しい 数の地平へ潜りこんだ。息が続く限り深く沈み、ま どろみから覚めればまた沈む。光が差しこまない深 海のなかを手探りで泳いだ。先が見えず、時には行 き止まりで引き返すこともあった。同じ通路をぐる ぐると回っている時もあった。そうして少しずつ地 図を広げながら、直感を頼りに水を掻く。  どのくらいそうしていたかわからない。気づけば 夜が明けていた。苛立ちにまかせて教室を飛び出し だのが昨日のことだとは思えなかった。もう何年も ひとりきりで、この小会議室にいるような気がする。  窓から見下ろすキャンパスには学生が群れている。 もう一限の時間は過ぎている。かつてこの部屋にい た者の顔を思い浮かべた。小沼は国数研に移ってか ら会っていない。熊沢は博士論文のことで頭が一杯 で、暸司の話に耳を傾けようともしない。  佐那はどうしているだろう。  工学部の院に進学してからは、キャンパスで会え ば立ち話をする程度だった。最後に会ったのは夏だ。 佐那は幾人かの友人と、にぎやかに話しながら歩い ていた。佐那が気づいて手を振り、暸司も手を振り 返した。それで終わりだった。  留年していなければ、彼女も来年の春で大学院を 修了する。気になると、いてもたってもいられな かった。  起き上がるとまた激しい頭痛が走った。むき出し の脳みそを掻きまわされるような痛み。とっさにウ イスキーをあおる。部屋を出ようとして、迷った末 にバックパックにウイスキーの瓶を潛ませた。空腹 は感じなかった。  工学部に立ち入るのは初めてだった。理学部より も学生数の多い工学部は玄関ホールもはるかに広く、 暸司はだだっ広い空間に立ちつくした。どちらに行 けば佐那に会えるのか。ホールを行き交う学生は暸 司の存在を気にも留めない。  かろうじて学科名だけは記憶していた。案内図か ら情報科学科の研究室を探すと、玄関ホールとは異 なる建屋にあるようだった。  一歩踏み出すたび、ちやぽん、とバッグのなかで ウイスキーが音を立てる。それが暸司の耳にはアル コールからの誘惑に聞こえた。廊下は学生たちでに ぎわっている。すぐにでも酒を流しこみたい衝動を 堪えて、暸司は歩いた。  ようやくたどりついたのは真新しい棟たった。塗 料の匂いが薄く漂う建屋を歩きまわり、研究室ごと に名札を確認する。佐那の名前を見つけたのは五つ 目の研究室だった。札の表示は〈不在〉になってい る。躊躇しつつ、暸司はドアを開けた。  雑然とした室内では、パソコンとモニターが存在 を主張している。室内で作業をしていた学生たちが そろって振り向いた。皆、正体を探るような目つき をしている。  「あ、すいません。理学部数学科の三ツ矢といいま す」  近くのデスクにいた男が、ああ、と思い当たった ような声をあげた。暸司の名前は工学部でも知られ ているらしい。  「斎藤さんに何か用事ですか」  暸司は鶏のように激しくうなずいた。 「どこにいるか、わかりますか」  どうですかねえ、と誰にともなく言いながら、男 は居室を見まわす。  「あれじゃない。美術館。この間、チラシ配って た」  部屋の奥から出てきた別の男が一枚のチラシを暸 司に渡してくれた。白抜きのゴシック体で記された 〈「光と音」展〉という文字が視界に飛びこんでくる。 裏面には会場の美術館への道筋が記載されていた。 最寄り駅はここから数駅離れている。上質紙にカ ラーで印刷したチラシは、学生の手作りには見えな い。  「ここにいるかわかんないですけど。携帯に電話す るのが一番早いと思いますよ」  痩せた男は早口で言った。暸司は佐那の電話番号 を知らない。  「この美術館にいるんですか」  「斎藤さん、アートとかやるらしくて。よくこうい う展示会って言うんですかね、出品してるみたいで すよ。よく知らないですけど」  男は逃げるように部屋の奥へ引っこみ、モニター に向き直った。これ以上は情報を得られそうにない。 暸司は礼を言って部屋を出た。  駅まで歩いたところで我慢できなくなり、トイレ の個室でウイスキーを飲んだ。煙草の匂いが染みつ いたトイレで、暸司は心が落ち着きを取り戻すのを 待った。  電車に乗るのは久しぶりだった。最近は学会もサ ボつているから、大学と自宅とコンビニ以外の場所 に行くことは滅多にない。午前中の電車は混んでい た。見知らぬ人たちに囲まれていると、急に口臭が 気になった。暸司は目的の駅に到着するまで口に手 を当て、鼻で息をしてやり過ごした。  駅を出ると、眼前に無機質な白い建屋がそびえて いた。それが目当ての美術館であることをチラシと 見比べて確認し、暸司は正門へまわっだ。退屈を持 て余したスタッフからチケットを買って入館すると、 広いロビーからつながる道は二手に分かれていた。 左手は常設展、右手は企画展へ続いている。暸司は 案内に従って右手へ進んだ。  展示の入口には洋館のような扉が据えられていた。 重厚な両開きの扉は、打ちっぱなしのコンクリート に不釣り合いだった。そこだけが、唐突に現れた異 世界への通路のようだ。暸司はおそるおそる、扉を 押し開けた。  足を踏み入れると、そこは夜空たった。  濃淡のないのっぺりとした黒が四方に広がる。 点々と輝くのは星の群れだった。数え切れないほど の星。個々の光の明滅は、星の瞬きとしか形容のし ようがない。扉は音を立てて閉まり、暸司はひとり 天体のなかへ閉じこめられた。  不覚にも、混乱していた。漆黒の空間で距離感を 失い、唯一の光源である星々へと手を伸ばした。す ぐそこにあるように思えたのに、星には手が届かな い。宇宙を遊泳しているかのような浮遊感が暸司を 包んだ。  もしかしたら、僕は本当に夜の星空を漂っている のかもしれない。  いつか、佐那と見た星空を思い返した。同時に、 孤独を抱えた佐那の瞳がよみがえる。彼女はきっと 今でも、他人には踏みこめない領域を持っている。   酒を飲むよりも強烈な陶酔感に包まれ、思わず しやがみこむ。扉が外側から開かれたのはその時 たった。太陽の光が勢いよく差しこみ、星々は幻の ように消えた。人影が逆光のなかにたたずんでいる。  「暸司でしよ」  高い声がまっすぐ耳に届いた。歩み寄ってきた佐 那はダウンコートの裾をひらつかせて近づいてきた。 暸司はまだ目がくらんで立ちあがれない。  「どうしたの。具合悪いの」  「平気。まぶしくて」  扉はストッパーでも噛ませたのか、開け放された ままだっだ。室内をよく見ると、星のひとつひとつ は極小の照明だった。細かく明滅を繰り返す人工の 光は、白日の下で見れば何ということはない。演出 だけでこれほど印象が変わるものかと感じ入っだ。  「僕、企画展に入っだつもりだったんだけど」  よろめきながら立ちあがると、佐那がほほえんで いた。髪は入学したばかりの頃のように、長く伸ば している。  「そうだよ。ここが企画展の入口。これ、あたしが 作ったんだ」  佐那は両手を広げて天井を見上げた。  「照明も背景も、プログラムで制御してるんだ。プ ラネタリウムみたいにきれいじやないけど、浮遊感 があるでしょう。どうだった。面白かった?」  「……すごいよ、本当に」  本音だった。ここから先も展示が続いているらし かったが、暸司は踵を返した。ここに来だのは佐那 に会うためで、展示を楽しむためではない。一緒に ロビーヘ引き返しながら、佐那は照れ隠しのように おどけて言った。  「今さらだけど、久しぶり」  「僕がここにいるって知ってたの」  研究室から電話が来た、と佐那は答えた。さっき の痩せた男が連絡を取ってくれたらしい。冷たく見 えたが、案外親切なのかもしれない。  佐那は併設のカフェに入ろうとしたが、暸司が 斷った。長居すれば、どこかでボロが出そうだった。 暸司の身体はすでに自分の意思ではなくアルコール に支配されている。ふたりはロビーのベンチに腰を おろした。  暸司がここにたどりついた経緯を話すと、佐那は 堪えきれず笑った。  「皆いい人なんだけど、ちょっと人見知りだから。 連絡くれればよかったのに」  「だって連絡先知らないから」  「そっか。後で教えてよ」  平静を保っているうちに、暸司は最も聞きたかっ たことを尋ねた。  「もう数学はやらないの」  「今は、それ以外のこともやってみたいの。数学だ けが世界じやないでしよ」  「クマと別れたから?」  佐那は口を開けて笑った。その仕草がやや大げさ に見える。  「全然、関係ない。あたし就職するんだ。ソフト会 社のエンジニアになる」   エンジニアというのはどんな仕事だろう。数学は やらないのだろうか。きっとやらないのだろう。暸 司は自分のなかで勝手に結論を出した。  会話が途切れ、次に佐那が発した言葉は不穏な気 配を帯びていた。  「ねえ。もしかして、お酒飲んでる?」  暸司は目を伏せた。佐那の怪訝そうな視線を感じ る。  「ちょっとね」  「大丈夫なの。平日の昼間だよ。講義とかあるん じやないの」  黙って膝の上のバックパックを見つめた。ここに ウイスキーを入れて持ち歩いていると言ったら、ど んな顔をするだろう。佐那は暸司の肩をつかんだ。 指が肩に食いこむ。  「お酒、飲まないようにしてたよね。どうしちやっ たの。何かあっだの」  胸の奥からざわつきが聞こえた。耳を澄ませると、 それは暸司自身が助けを求める声だった。助けてほ しい。今すぐに、誰か僕のそばに戻ってきてほしい。 そう叫ぶ声を、暸司は握りつぶした。上京してから 身に付いた思いやりがそうさせた。  「久しぶりに佐那と話したかっただけ。元気でよ かった」  挨拶も言わずに暸司は立ちあがり、出入ロヘ歩き 出した。ちょっと、と佐那が呼びとめる声が聞こえ るが、構わず歩き続ける。振り向かずに美術館を出 て駅へ向かう。ホームに並び、電車に乗ったところ でようやく後ろを見た。佐那はいなかった。  いったん握りつぶした叫び声は戻らない。もう人 目も気にならなかった。混みあう車内で暸司はウイ スキーの瓶を取り出し、口をつけて飲んだ。周囲の 乗客が暸司をにらみ、あからさまに距離を取る。何 あれ、お酒? やめてほしいよね、こんな場所で。 誰かのささやきが聞こえたが、気にせず飲みはした。  いっそ、このまま終点まで行ってしまおうか。そ んな考えがよぎるが、大学の最寄り駅に近づけば足 がドアヘ向かう。たとえ形式上だとしても、自分の 居場所はここにしかない。駅を出た暸司は、コンビ ニで新しいウイスキーを買った。  年末の町並みは晴れていたが、どこかくすんで見 える。視界を覆う塵は初雪と見まがうほどに美しく きらめいていた。  暸司は視界を舞う塵を〈プルビス〉とラテン語で 呼ぶことにした。学術の世界にはラテン語を尊重す る文化がある。フラクタルという言葉の由来もラテ ン語だ。暸司は本気で、この新しい概念をアカデミ アに認めさせるつもりだった。  プルビス。プルビス。口にしてみると、それが実 体を伴うように思えてくる。異臭の漂うアパートの 一室で、機嫌よく何度もつぶやいてみた。いずれ、 世界中の数学者がこの言葉を口にするようになる。 二十一世紀の数学を代表する成果になるだろう。そ う信じて疑わなかった。もはや平賀も怖くなかった。  暸司が恐れるのはただひとつ、酔いが醒める間際 の深い絶望たった。万能感が薄れ、不安や焦燥が頭 をもたげる。さっきまでの強気が嘘のように、絶望 へ突き落とされる。こんな幼稚な理論、受け入れら れるわけがない。もう何年も論文を出していないの に、信用されるはずがない。視界を覆う塵をかき消 そうともがいてみるが、一向に消えない。  そんな時、酒は暸司を救ってくれる。アルコール が血中へ移るまでのタイムラグも待てず、水のよう に焼酎を飲む。頭痛と吐き気はつらいが、それより も絶望から解放されたいという欲求が勝った。  沈んでいた気持ちが勢いよく高まり、踊りだした いような喜びが湧きあかってくる。さっきまで落ち こんでいたのが嘘のように楽しくなる。  いてもたってもいられず、暸司は自宅を飛び出し た。外に出て、ようやく今が夜なのだと気づいた。 今日は確か休日だったと思うが、平日かもしれない。 そんなことはどうでもいい。とにかく、熊沢に聞い てほしかった。  プルビス。プルビス。プルビス。  つぶやきながら暸司は駆け出し、一目散に熊沢の アパートを目指した。ダウンジャケットには腐った 雑草のような匂いが染みついている。  すぐに息が切れ、スウェットの内側が汗で湿って きた。構わず走り続け、アパートの階段を一気に三 階まで駆け上る。いつかも同じように、熊沢の自宅 へ駆けてきた。大学に入ってからは、何か重大な発 見があればずっとそうしている。最初に耳に入れる 相手は、いつだって熊沢なのだ。  ドアホンを押す。二度、三度。扉の裏は静まりか えっている。留守にしているのかもしれない。もう 二度、ドアホンを押した。室内からかすかに物音が 聞こえたような気がした。  「クマ。ねえ、クマ。開けてよ。ちょっと話したい ことがあるんだけど。人れてよ。ねえ、いないの。 クマ。僕だよ、僕」  廊下に暸司の声が響き渡る。酒のせいでひどく荒 れた喉からは、老人のようなしゃがれた声しか出な い。  解錠される音がして、熊沢が顔を出した。暸司は 歓びを隠そうともせず玄関へ入っだが、熊沢は部屋 の奥へ戻ろうとはしなかった。暸司が後ろ手にドア を閉めても、玄関に立つたまま腕を組んで暸司を見 つめている。  「クマ、そっち行ってよ。靴が脱げないから」  「お前、うるさいよ」  暸司は肩越しに部屋の様子をのぞき見た。玄関の 照明はついているが、部屋の明かりは落ちている。 眠っていたのかもしれない。言われてみれば、熊沢 の顔は妙にむくんでいる。  「ごめん。でも、クマに聞いてほしかったんだ。本 当、すごいこと見つけたんだ」  「論文になったら読むから。今日は帰ってくれ」  熊沢は目の縁をこすって、大きなあくびをしてみ せた。  「ダメだよ。クマと一緒に検討しないと。また穴が あったら困るから」  「それも含めて自分でやるんだよ。俺も疲れてるん だって。寝てたんだ、今。平賀先生に博士論文の修 正させられて、さっきやっと終わった」  「じやあ、今から検討できるね」  熊沢は呆れたように長いため息を吐いた。  「帰れよ。論文になるまでは、暸司の言ってること はただの妄想だよ」  そう言われても、暸司にはピンとこなかった。妄 想ではない。なぜなら、今もプルビスは目の前を 漂っているのだから。  「どうして信じてくれないの。僕には見えるんだよ。 何もかも」  「信じてる。俺は信じてるけど、他の人間は論文見 るまで何も言えないんだよ。とりあえず、平賀先生 を納得させる論文ができるまで、俺のところにはも う来るな」  また平賀か。あの、どこまでも〈正しさ〉を求め る男。  熊沢は無理やり暸司の肩を押して、部屋の外に押 し出した。よろめいた暸司は危うく階段から足を踏 み外しそうになる。  「帰ってくれ、頼むから」  返事も待たず、熊沢は音を立ててドアを閉めた。 施錠の音が外廊下に響く。  暸司はその場に立ちつくした。ここを動こうにも、 どこへ行けばいいのかわからない。いよいよ、暸司 には居場所がなかった。  隣室の住人が階段を上がってきて、犯罪者を警戒 するように暸司を見た。視線をちらりと向けると、 あわただしく室内へ姿を消す。暸司は踵を返し、階 段を下った。  マンションを出たところにビールの自販機があっ た。暸司は迷わずロング缶を買った。度数が柢いか ら好きではないが、今は酒なら何でもよかった。口 にすると、麦の香りが鼻を抜ける。ビールを片手に 家路を歩く。  他大学からの誘いは今でも来ているが、協和大を 離れる勇気がなかった。それにここではない場所に 移っても、居場所がないのは同じことだ。実家に帰 ろうかとも思うが、あの辺鄙な土地では数学で身を 立てられそうにない。熊沢のように教職課程を取っ ておけばよかった。数学以外の仕事なら、探せばあ るだろうか。しかし固い貝のように貼りついたプラ イドが、それを許さなかった。  それに、プルビスの理論を構築しなければならな い。あと五年、いや三年あれば完成できる。すべて の数学者がひれ伏す、完全なる理論が。苦しくても、 それまではここで踏ん張らなければならない。平賀 を見返すまでは。  ロング缶はすぐ空になった。目についた自販機の 脇のゴミ箱に捨てる。  頭上を見ると、晴れた夜空に点々と星が浮いてい た。こんなにきれいだったかな、と思いながら、暸 司は星に両手を伸ばした。星に手が届くはずもなく、 指先は何度も宙を掻いた。しかしそうやって何度も 指を動かしていると、次第に星空が近づいてくるよ うな気がしてきた。  夜空は見る間に接近してくる。今度はコンピュー タ制御された照明ではない。本物の光る星々が、暸 司を包みこんでいる。  いつの間にか、身体は宙に浮いていた。急に目が くらんで瞼を閉じ、ふたたび開くともうそこに星は なかった。ただ、水中にいるかのように暸司の身体 がたゆたっていた。周囲には無色透明の空間がどこ までも続いている。黒でも白でもない、透明な空間。 あえて名前をつけるなら、それは光の色たった。鋭 利な音が耳鳴りのように聞こえる。本当に耳鳴り だったのかもしれない。  そこは暸司だけの世界だった。他には誰もいない。 膝をかかえこんで身体を丸める。暸司にとって、こ れほど居心地のいい場所はなかった。これが、プル ビスの正体なんだ。僕はずっと招かれていたんだ。  僕は永遠にここにいたい。死んでも、ずっと。  鐘のような耳鳴りを聞きながら、暸司は浅い眠り に落ちた。     11 数の地平  目覚めると、誰かが窓から外を見下ろしていた。  肩の後ろまで伸びた髪。振り向いた顔は聡美だっ た。  円卓にしがみつくようにして身を起こし、外して いた眼鏡をかける。興奮のなごりか、手のひらが熱 い。  「雪が降ってる」  聡美につられて外を見ると、確かに白い小片が 舞っていた。灰色の雲から純白の雪が生まれ落ちて いる。  「起こしてくれてよかったのに」  「熟睡してたから。よくそんな格好で寝られるよ ね」  もう八時を過ぎている。円卓に突っ伏して三十分 ほど仮眠を取るつもりが、二時間も眠りこんでいた。 体力は学生時代とそう変わらないつもりだったが、 ずいぶん衰えているらしい。脂っぽい顔をなでると、 伸びはじめた髭が手のひらに引っかかった。  「それ、着替え。あと朝ごはん」  パイプ椅子の上に畳まれた洋服とバスタオル、コ ンビニのレジ袋が載っていた。ペットボトルの緑茶 をつかみ出し、喉を潤す。おにぎりも入っていた。 先日、佐那とこの小会議室でおにぎりを食べたこと を思い出し、後ろめたい気分になる。  「こんなことまでさせてごめん」  「別にいいよ。私も久しぶりに研究室来てみたかっ たから」  「今日の夜も遅くなると思うけど。お義母さんにも 伝えて。帰れなくてすみませんつて」  「もう、いいって」  研究室に泊まりこむことを決めたのは昨夜だった。 いつものように検討をしていた熊沢の脳裏に、突如、 ひらめきが生まれた。雷が落ちたような衝撃。ひと りきりの小会議室に熊沢の叫び声が響いた。世界が 反転したようだった。  すでに終電が近かったが、興奮に急き立てられる ように、電話で聡美に研究室に泊まることを伝えた。 翌朝は小沼が研究室へやってくる約束だったから、 自宅に帰る時間はない。着替えを持ってきてくれる よう頼むと、聡美は何も言わずに引き受けてくれた。 外出している間、娘は近くに住む聡美の母親が面倒 を見ることになった。  「せっかくだから、小沼先生に挨拶して帰ろうか な」  聡美が小沼と会うのは結婚式以来だ。熊沢はおに ぎりをたいらげると、バスタオルと着替えを手にし た。「さっと浴びてくる」  化学科の実験室にはシャワールームが備わってい る。薬品が付着してしまった場合に洗い流すため、 という名目だったが、実態は泊まりこみの研究者が シャワーを浴びるために使われている。誰が補充し ているのかわからないが、いつもボディソープや シャンプーが置いてあった。熊沢がここを使うのは、 教員になってからは初めてだ。  目が覚めてからもずっと、プルビスのことを考え ていた。当初考えていた以上に、とんでもない発見 になるかもしれない。コラツツ予想の証明がかすむ くらいの、もっと大変なことが起こる予感があった。  新しい洋服を着て小会議室に戻ると、聡美が窓際 で暸司のノートを開いていた。  「ちょっと」  思いがけず、大きな声が出る。聡美がはっとした 表情で振り向いた。熊沢は着替えやタオルを丸めて 乱雑に置くと、聡美の手元からノートを取り上げて 円卓に置いた。気まずい空気に耐えかね、熊沢は言 い訳がましい台詞を口にする。  「これは一冊しかないから。気安く触っていいわけ じゃない」  そのひと言で余計に気まずさが増した。聡美は寂 しげに、握りしめた拳を見つめている。固く握られ た手に彼女の本心が閉じこめられているようだった。 熊沢はバスタオルで髪を拭くふりをして、視線を隠 した。  「そのノートの解読は、今やらないといけないこと なの」  肩にタオルをかけて視線を上げると、聡美が正面 から見つめていた。熊沢は答える。  「絶対に、今やらないといけない」  聡美はまだ何か言いたげだったが、廊下から聞こ えてきた足音へ意識をそらせた。じきにドアが開き、 小沼が顔を見せる。コートの肩に白い雪の粒がつい ていた。  「こっちにいたか。居室にいないと思ったら」  気まずい空気が立ち消えたことに、内心安堵した。 聡美が立ちあかって頭を下げる。  「お久しぶりです」  「おや、聡美さん。変わりないですか」  小沼と聡美が立ち話をしている間に、熊沢は散乱 した計算用紙やゴミを片付けた。雑談に区切りがつ くと、コートを脱いだ小沼は薄く笑って言った。  「よかったな、例の噂が間違いで」  「ドイツの件ですか」  やはりというべきか、〈ミツヤノート〉解明の噂 はデマだった。噂の的になったドイツの数学者チー ムがみずから、そのような事実はないと否定したの だ。  「しかし、火のないところに煙は立ちませんから」  彼らがプルビス理論の研究に乗り出していること は事実だった。まだ解明には至っていないとはいえ、 それなりの進捗があるからこそ噂が流れたのかもし れない。他にも〈ミツヤノート〉の謎を解き明かし、 コラッツ予想解決の栄誉を手に入れようと目論む数 学者は少なくない。  「それでは、私は失礼します」  聡美は熊沢の脱いだ衣服やタオルをバッグにしま い、足早に出て行った。ありがとう、と言ってみる が聡美の返事はない。小沼は微笑とともに彼女を送 りだし、すぐに数学者の顔になって言った。  「じやあさっそくやろうか」  四月に国数研を訪れてから、何度かふたりで話し た。しかし多忙のせいでまとまった時間が取れず、 簡単な進捗の報告に留まっている。年明けのこの日 は、ようやくふたりの休暇がまる一日重なった貴重 な日だった。  熊沢は脳裏にこびりついた聡美の寂しげな表情を 引きはがした。今はノートの解読が先だ。聡美に見 得を切った以上、半端なことは許されない。  「まずはこれを見てください」  円卓をはさんで向かいに座った小沼に論文のコ ピーを差し出す。  「コラッツーフラクタルです」  無限に同じ構造をもつ、不可思議な図形。小沼は たいして面白くもなさそうな顔で熊沢の説明を聞い た。  「コラッツ予想とフラクタルの関係なら知っている。 少しネットで調べれば出てくる」  熊沢は構わず続ける。  「私はプルビスという言葉が、特定の関係や現象を 示しているのだと思っていました。でも、それは勘 違いだったんです」  小沼は説明を求める代わりに沈黙していた。急に 話題が転換したため、話すべき言葉を失っている。 熊沢は話しながら、みずからの予想が確信に変わる のを感じた。ひと際声を高くする。  「プルビスというのは、〈新しい数〉なんです」  数学の歴史は、数の概念が拡張されてきた歴史で もある。自然数から整数が生まれ、さらに有理数が、 実数が、複素数が生まれてきた。新しい数の概念が 生まれるたび、暗闇と思われていた箇所に光が当た る。数学者たちはそうして少しずつ、数学の領域を 拡大してきた。  プルビスはそれに連なる、新しい数の概念だ。熊 沢には、プルビスが数学の地平を切り拓く予感が あった。  「この概念には物理学が深く関係しています」  熊沢はかたわらに積みあげられた書籍の山から専 門書を抜き取った。  「ノートには、物理の言葉は登場しないんじやな かったか」  「ええ。ただ、暸司がどんな仕事をしてきたか、も う一度考え直したんです」  〈塵〉という言葉が重要なヒントだった。いや、ヒ ントというよりもほとんど答えだった。抜き取った 専門書を小沼に手渡す。表紙を目にした小沼が叫ん だ。  「〈超弦理論〉’・」  熊沢の専門である弦理論をさらに拡張したのが、 超弦理論である。  物質を構成する最小単位は、先端機器でも観測で きないほど小さい。砂粒よりも分子は小さく、分子 よりも原子は小さく、原子よりも素粒子は小さい。 それら微小なものの挙動を説明するために生み出さ れたのが超弦理論だった。  「プルビス理論に登場するいくつかの造語は、超弦 理論の言葉に置き換えられます」  熊沢は二枚を費やして書きあげた検証結果を差し 出した。紙束を一瞥するなり、小沼はうなった。暸 司のノートに使われた言葉をそれらに置き換えれば、 辻褄が合うのだ。  「そして、おそらくプルビス理論を用いることで、 コラツツーフラクタルだけでなく、フラクタル全般 を扱うことができるんです。コラツツ予想の証明が 本物なら、他の未解決問題にも応用できるかもしれ ない」  まだ思いついてから一日と経っていないのに、熊 沢ははっきりと確信していた。  「フラクタルになるものなら、何でも?」 「その通りです」 「なら、素数分布にも応用できるのか。リーマン予 想にも?」  小沼はかすれた声でつぶやいた。  リーマン予想の鍵となる素数分布は、コラツツ予 想の操作と同様、フラクタルを導くことが知られて いる。プルビス理論がフラクタル現象全般へ応用で きるならば、三世紀にまたがる素数分布の謎が解か れる可能性がある。すなわち、数学者と素数の戦い に終止符が打たれるかもしれないのだ。  熊沢は昨夜、天啓のようにそのことに気づいたの だった。暸司の仕事は正真正銘、数学史に名を残す ものになる。静かに語る小沼の口調には熱がこもっ ていた。  「この理論は、数学者にとって最高の武器になる」  高揚感と同時に、深い後悔が熊沢を襲っていた。 あの時、少しだけでも暸司の話を聞いていれば。 もっと早く気づいていたのに。  小沼は頭の後ろに手を置き、笑顔とも渋面ともつ かない顔をした。「しかし超弦理論とはな」  「弦理論をやっている私かすぐに気づけなかったの が残念です」  「無理もない。このノートを一読しただけでは、数 学かどうかもわからない」  冗談ではなかったらしく、小沼は真顔でノートを めくっている。  「しかし、まだ検証が完了したわけではないんだろ う」  「実は昨夜気がついたところです」  攻略の手がかりはつかんだが、暸司が見た風景に はほど遠い。いったいどれほどの時間をかければ暸 司に追いつけるのか。熊沢はひらめきの喜びも忘れ て、途方に暮れかけた。  「問題を解くことに挫折はない」  小沼がぽつりとこぼしたひと言は、熊沢の記憶を 剌激した。聞き覚えのある台詞だった。うつむき加 減になると小沼の鼻の高さが目立つ。端整な顔立ち をゆがませて言う。  「いつ聞いたか忘れたけど、暸司が言ってたよ」  「その台詞、私も聞いたことあります」  「そうか。口癖だったのかな」  今解けなくても、死ぬまでに解けばいい。自分に 解けなければ、他の誰かが解けばいい。だから問題 を解くことに挫折はない。この部屋のどこかに暸司 がいて、熊沢たちに語りかけているような気がした。  「私たちは、暸司の何を知ってたんですかね」  若い暸司の顔と、亡くなる直前の老けこんだ暸司 の顔が交互に浮かぶ。すっかり別人になってしまっ たように思えたが、本当は何ひとつ変わっていな かったのかもしれない。変わっだのは、小沼や、佐 那や、熊沢のほうだっだのかもしれない。  「何も知らなかったんだろうな」  小沼は回想に終止符を打つように、はっきりと 言った。ここに集まっだのは、感傷に浸るためでは ない。数学をやるためだ。  「さあ、はじめるか」小沼は円卓の向こうから腕を 伸ばして熊沢の肩を叩いた。  そうだ。小沼先生はこういう人だ。前向きで、学 生たちには平等で、鈍感で、自分勝手で、やや強引。 その強引さが今は頼もしかった。  熊沢と小沼は日暮れまで検討を続けた。熊沢の着 想をもとにすべてのページを通読し、課題をリスト アップした。細かい点をふくめれば課題は数百にも 及んだが、絶望感にはさいなまれなかった。高校生 のころ、数学オリンピックの会場でたった数問の問 いを前に絶望していたのが嘘のようだった。  夢中になるあまり、ふたりは昼食を抜いて検討を 続けた。木下が研究室に来だのは、空腹に耐えかね て集中を切らした頃たった。  「先生、ご無沙汰しています」  木下はブランドもののトレンチコートに積もっだ 雪を廊下で払い、部屋に入っだ。オーダーメイドの スーツは大柄な木下の身体にぴたりと合っている。 就職先の実入りがかなりいいということは、木下本 人から聞いていた。  都内で就職した木下とは、教員になってからもた びたび会っている。小沼が大学に来ると伝えると、 木下は仕事を切り上げて遊びに行くと約束した。  「今でも坊主なんだね」  小沼に言われると、楽なんで、と木下が学生のよ うに笑った。  「雪、まだ降ってるんですか」  「知らないのか。今、すごい雪だぞ。電車遅延して るし」  いつの間にか窓一面に雪の粒がはりつき、外の様 子がうかがえなくなっていた。そういえば、最後に 暸司と会ったのも大雪の囗だった。  夕食に出前を取ることにした。大学近くの中華料 理屋に電話を入れた木下は、円卓に広げられた暸司 のノートをのぞきこむ。 「これが例のノート? 汚い字だなあ」  小沼が笑って返す。「海外の研究者がこれを解読 できるのか、不安になるね」  「意味を理解する前に、なんて書いてあるかがわか らないですよね」  暸司のノートを再発見してからというもの、懐か しい人々と再会することが増えた。皆、暸司の放つ 光に吸い寄せられるようにノートの周りへ集まって くる。発見者である熊沢も、そのひとりに過ぎない。  「あ、そうだ。クマ」木下が懐から取り出した手帳 のページを破り、熊沢に手渡した。電話番号らしき 数字が走り書きされている。  「電話でクマと会うって田中に言ったら、その番号 伝えといてくれって」  田中とは今でも連絡を取り合っているらしい。  「なんですか、これ」  「田中からのプレゼント、らしい。電話かければわ かるってさ」  直接言えばいいのに、あいかわらず面倒な人だ。 ふっ、と笑いが漏れた。  「なんか田中君らしいね、その伝え方」  小沼も噴き出した。変なやつでしよ、と木下が言  時が十年以上も巻き戻されたような気がした。熊 沢は落ち着かない気分で周囲を見回したが、どこに も暸司のほほえみは見つからなかった。  そうか、暸司は死んだんだな。  その瞬間、初めて熊沢は暸司の死を事実として認 識した。     12 不滅の命  視界には四六時中プルビスが舞っている。  両手でペットボトル入りの焼酎をつかみ、抱える ようにしてスーパーの店内を歩く。四リットルもあ る酒は懐でむやみに重量を主張していた。膝が痛む せいで、ゆっくりとしか歩くことができない。通り かかると、買い物客は皆通路を空ける。暸司は彼ら をにらみつけながらレジヘ進む。避けられている理 由が思い当たらない。風呂には隔日で入っているし、 服も洗剤は使っていないが水で洗っている。多少は 匂うかもしれないが、見た目にはごく普通のはず だった。  ようやくたどりついたレジで会計を済ませ、焼酎 を抱いて店を出た。近所にあったコンビニがつぶれ てからは、もっぱらこのスーパーマーケットで酒を 買っている。少し歩くが、値段が安いのは助かる。  すぐにでも家に帰って飲みだいが、関節の痛みで 思うように歩けない。アパートにたどりつくまでま だ十五分はかかる。立ち止まると、忘れかけていた 脇腹の痛みがよみがえってきた。このところ、剌す ような腹痛にたびたび襲われている。通院する経済 的余裕はなかった。  「燃料補給だ」  言い訳めいた口調でつぶやくと、暸司は買ったば かりのボトルの蓋を開けた。ガードレールにもたれ、 口をつけて慎重に傾ける。二十五度のアルコールが 一気に体内へ流入する。久々に飲む濃い酒だった。 満足したところで蓋を閉めると、ああ、とうめき声 が漏れた。  通りの逆側を、女子学生の集団が暸司に目もくれ ず歩いていくのが見えた。ぼんやり見ていると、い きなり二人組の警官に声をかけられた。  「あなた。ちょっと、いい」  職務質問には慣れている。質問に答え、おとなし く免許証を見せる。免許を取ってから一度も(ンド ルは握っていない。握る機会があったとしても、こ の状態では運転できないだろうが。 「仕事は」  「無職です。少し前まで、協和大学で教員をやって ました」  「協和って、そこの?」  二人組のうち若いほうが驚いてみせた。  「去年の三月まで。数学科の助教でした。これのせ いでクビになっちやったけど」  暸司は焼酎のペットボトルを指さしてみせる。お どけたつもりだったが、年かさの警官は顔色を変え ない。端から信じていないようだった。  「家あるんでしょう。お酒飲むなら、家で飲んでよ。 ここはみんなが使う道路だからさ。あなたがお酒飲 む場所じゃないわけ」  頭の片隅では絶えずプルビスが飛んでいた。くど くどと説教する警官の顔に紗がかかったように見え る。獣Jつて説教を聞き、すいません、と謝る。それ で終わりだ。背を向けた警官たちを見送り、暸司は ふたたび歩き出した。  時間をかけてアパートにたどりつき、二階の角部 屋に入る。ドアを開け閉てするたび、大型のポリ袋 に詰めこんだ瓶やプラスチックが音を立てる。行き 場をなくしたゴミは浴室やトイレにまであふれてい た。片付けなければいけないと思いつつ、関節の痛 みやけだるさに負けて、結局は寝て過ごす。室内も 野外と変わらず寒いから、ダウンジャケットを着た まま毛布をかぶった。  焼酎をグラスに注ぎ、水道水で倍に薄める。まず いが節約のためだ。  敷きっぱなしの布団は雑巾のように平たくなって いる。酒をこぼしたところにカビが生えていた。 ティッシュで拭っても落ちないから、そのままにし ている。  焼酎をちびちびロヘ運ぶ。実家への仕送りはずい ぶん前にやめてしまった。貯金を切り崩す生活では、 親へ渡す金どころか自分の生活すらままならない。 アパートの家賃と酒代だけは削れない。酒はウイス キーから安焼酎に代わり、飲み方はストレートから 水割りに変わった。  しかし大学をクビになって、いいこともあった。 数学に使える時間がずっと増えた。頻繁にサボつて いたとはいえ、大学教員として雑用に使う時間は馬 鹿にならなかった。仕事をやめると、そのことがよ くわかる。  プルビス理論の構築は佳境に入っている。曇った グラスを片手に、暸司は大学ノートを開いた。ここ には、数年間にわたる研究成果のエッセンスを記録 している。このノートをもとに論文を発表すれば、 瞬く間に世間の注目が暸司に集まるはずだ。世界中 の数学者がこのアパートに詰めかけて教えを乞う。 構わずとも金は入ってくる。そうなれば、またスト レートで酒が飲める。気が大きくなった暸司はグラ スの焼酎を飲みはした。  次の瞬間、暸司は昏倒するように意識を失った。  目が覚めると夕暮れだった。  ああ、今回も生きていた。目覚めるたびにそう思 う。もうずっと、まともな睡眠をとっていない。常 に起きているようで、常に眠っているような状態 だった。時おり前触れなく意識を失い、数時間経つ と目が覚める。焦点の定まらない意識で過ごし、そ のうちまた電池が切れたように昏倒するのだ。  酔いが醒めかけている。あわてて水割りをつくり、 また少しずつ口に運ぶ。  真冬の夕暮れは赤みがかっていた。クマは今ごろ、 どうしているだろう。海を隔て、はるか遠方で過ご しているであろう熊沢のことを思った。  熊沢には、出立の間際まで拒絶されたままたった。 無事に博士論文を提出した熊沢は、三月にアメリカ 南部へ飛び立った。平賀がかつて教授をしていた大 学に、研究員として採用されると聞いた。最低でも 三年はそこで過ごすらしい。  研究室の学生から引っ越しの日付を聞きつけ、そ の囗は朝からアパートの前で引っ越し業者を待った。 昼過ぎに業者のトラックが停まり、熊沢の部屋から 家財道具を運び出す。そのタイミングを狙って、暸 司は部屋のドアホンを押した。  躊躇なく開いた扉から顔を出した熊沢は、うんざ りした顔を見せた。  「なんだよ」  「そこ通りかかったら、引っ越ししてたから。あれ、 アメリカに送るの」  暸司は階下を見下ろした。若い男たちが冷蔵庫を トラックに積んでいる。  「実家に送る。アメリカでは寮生活するつもりだか ら」  「へえ、そうなんだ。いいね。アメリカにはいつ行 くの」  「あさって。悪い、忙しいから」  奥に引っこもうとした熊沢の腕をつかんだ。熊沢 は疎ましそうに、暸司の顔と手を見比べる。  「いいかげんにしろ」  「なんでそんなに避けるの」  「だから、別に暸司のこと嫌いになったわけじやな いんだって。ただ、そろそろお互いに、自分の生活 を大事にしたほうがいいって思ってるだけ」  今さら何を語ったところで、熊沢は去ってしまう。 あさってになれば日本からいなくなる。周りにいた 人たちは、ひとり残らず消えてしまう。暸司には耐 えられなかった。せめて、次にいつ会えるのか知り たかった。つかんだ手を離さずに言う。  「じやあ、日本に戻ってきたら連絡してよ」  熊沢は、自分の腕をつかむ暸司の手を見下ろした。 枯れた爪がひび割れている。  「わかった。絶対に連絡する」  真剣な声音だった。少なくとも、期待することが できるくらいには真剣に聞こえた。暸司が手を離す と、じやあ、と言い残して熊沢は部屋の奥へ消えた。 閉まったドアはふたりの関係を斷つ壁に見えた。  あれからもうすぐ三年になるが、熊沢とは一度も 会っていない。  落胆はなかった。別れ際に言われたことを百パー セント信用していたわけではない。それに最低三年 はアメリカにいる予定だったのだ。単に帰国してい ないだけかもしれない。もしくは、連絡しようにも できないのか。  どう考えようが、会っていないという事実は変わ らないのだから空しいだけだった。  解雇を言い渡されたのは昨年の一月だ。暸司を呼 び出しだのは平賀だった。教授室の応接ソファで向 き合った平賀は、他人事のようにため息をついた。  「どうして、こうなったんだろうな」  平賀にしてはめすらしく、言い淀んだ様子だった。 古びたジャケットの裾を払ったり、シャツの皺を伸 ばしたりして時間を稼いでいる。  「実家は四国だったか」  「はい。田舎ですけど」  「いいところなんだろうな」  家の裏にある広大な森を思い起こした。ここに来 て、少しはあの森の美しさを表現する術を身に付け られただろうか。平賀が身を乗り出した。  「今年度限りで、大学はきみを解雇することに決め た」  暸司は驚かなかった。飛び級卒業を伝えるのは学 部長なのに、解雇を告げるのは教授なんだな、と呑 気なことを考えていた。平然とした暸司の態度に、 平賀のほうが肩透かしを食ったようだった。  「……わかっていたのか」  「いつかはそうなるだろうと思っていました」  熊沢がアメリカに発ってからは、輪をかけて人づ きあいがなくなった。朝夜を問わず、鍵をかけた小 会議室で酒を飲みながらプルビスについて考えた。 気が向いた時だけ講義に出て、勝手な内容を話す。 暸司のアルコール依存症は公然の秘密と化していた。 大学は飛び級卒業を認めた手前、何かとかばってく れたものの、それも限界に達したらしい。  「わかっていたなら、どうして酒をやめなかった」  つい失笑した。また〈正しさ〉だ。平賀はどこま でも正しい。この人はきっと、何かに依存するとい うことを知らない。平賀の強さが暸司には心底うら やましかった。  「やめられるものなら、やめたいんです」  目の縁からこぼれ落ちる涙まで、酒の匂いがした。  小沼からの手紙が来だのは二月の頭たった。  玄関ドアに備え付けの郵便受けには、常にビラが 押しこまれている。ずいぶん前から捨てていないせ いで紙が詰まっていた。しかしその封筒は折り目を つけず、うまい具合に郵便受けに挟まれていた。 スーパーから帰宅した暸司は不自然に突き出た封筒 に目をやり、手書きで自分の名前が書かれているの に気づいて引き抜いた。差出人は小沼繁行。かつて 故郷に住んでいた頃、小沼と文通していたのを思い 出した。  開封すると、便箋が一枚だけ入っていた。  久しぶりに研究室を訪ねたら、大学を辞めたと聞 いて驚いた。近いうちに食事に行こう。よかったら この番号に電話がほしい。そんなことが書いてあっ た。  三度繰り返し読んだ後、便箋を元通りに折りたた んで封筒へ戻した。それから立ちあがり、自宅を出 た。小沼に電話をかけるためだ。携帯電話はとっく に解約していた。  公衆電話はずいぶん減ったが、大学の生協前にあ るのを覚えていた。暸司は足を引きずるようにして、 キャンパスまでの道のりを歩いた。  かつては十分とかからなかった距離が倍以上もか かる。正門を入ろうとしたところで警備員ににらま れたが、呼びとめられはしなかった。  年度末の大学にはよそよそしい雰囲気が漂ってい た。卒業を控えた学生たちの、行き場のない寂しさ があふれているせいかもしれない。中央にそびえ立 つ理学部棟はキャンパスのどこからでも見える。あ の小会議室はどうなっているのだろう。気になった が、研究室を訪れることははばかられた。  生協前の公衆電話はまだ残っていた。小銭を投じ てボタンを押すと、コールがI度鳴っただけで女性 が出た。国立数理科学研究所です、といやに早口で 言う。暸司が名を告げると、今度は電話口で少し待 だされた。四枚目の小銭を投じるころにようやく小 沼が出た。  「もしもし、暸司か」懐かしい声に、思わず暸司は はしやいだ。  「小沼先生。手紙、ありがとうございました」  「ああ。大学辞めたんだろう。どうした? 平賀先 生に聞いてもよくわからないし」  「……色々あって」  「一度、会って話そう。暸司は居酒屋よりも喫茶店 のほうがいいか」  小沼はまだ、暸司が酒を飲んでいることを知らな いようだった。平賀はそのことを黙っているのかも しれない。  「居酒屋でいいですよ。僕もお酒飲むようになった んです」 「そうか。無理するなよ」  小沼は国数研の近くにあるというビアレストラン の名前を口にした。  通話を終え、浮かれた気分で帰宅した。すれ違い ざまに目が合った学生は、野良犬を見るような目を していた。  その囗が来るのを、暸司は指折り数えて待った。 博士を修了した時の指導教官は平賀だが、暸司に とっては小沼こそが本当の意味での恩師だった。田 舎の高校生だった暸司を導き、一人前の数学者に育 てあげてくれた小沼。暸司の数学者人生の集大成と もいえるこのプルビス理論を披露し、あっと言わせ たい。よくやったな、と褒めてほしい。  当日、シャワーを念入りに浴びてから、何を着る べきか迷った。  人と会うのはおよそ一年ぶりだ。スウェットとダ ウンジャケットではさすがにまずいだろう。衣装 ケースをひっくり返し、クリーニングに出したまま 埃をかぶっているスーツを出した。入学式で出番の なかったスーツは、その後数えるほどしか着ていな い。これなら少しはまともに見えるはずだ。  シャツとズボンに身体を通して違和感に気づいた。 腹や腿のあたりで生地が余ってだぶついている。痩 せたせいだ。ベルトの穴の一番細いところで締め上 げ、固定する。  暸司はあらためてユニットバスの鏡の前に立った。 そこにいるのは、痩せこけてトカゲのような顔をし た男だった。肌は樹皮のようにかさつき、黒ずんで いる。白目が黄色く濁り、肩まで伸びた髪は作り物 のように艶がない。口角や目尻に刻まれた皺のせい で、三十歳よりはるかに老けて見えた。  電車に乗るのもひと苦労だった。国数研の最寄り 駅へは乗り換えが必要だったが、どこでどう乗り換 えればよいかわからない。駅員をつかまえて十五分 ほども話をして、ようやく道順を把握した。説明し てくれた駅員は疲弊していた。  店に到着すると、奥の個室へ案内された。調度品 は木製で統一され、橙色の明かりが淡く店内を照 らしている。個室には長いテーブルに十脚も椅子が あった。ふたりで会うのだと思っていた暸司は店員 に確認したが、確かに小沼の名で予約されていた。  やがて小沼を先頭に、数人の男女がにぎやかに個 室へ大ってきた。小沼は朗らかに笑いながら、暸司 の隣に腰をおろす。「悪い、待つたか」  「いや、あの、この大たちは?」  見知らぬ人々も各々テーブルについた。薄暗い店 内のせいで、顔がよく見えないのも気味が悪かった。 だいたい小沼と同じくらいの年代らしい。  「俺の職場の同僚。暸司に会うこと話したら、皆会 いたいって言うから。ちょうど席も空いてたし連れ  てきたんだ。なんたって、あの三ツ矢踪司だからな。  群論、フラクタル、その他もろもろ。掛谷予想も  な」  彼らが向ける視線は期待に満ちていた。その期待 感に押しつぶされそうになる。酒が切れかかってい たこともあり、踪司はすっかり萎縮していた。  小沼はビールや料理を注文すると、ふと踪司の顔 をまじまじと観察した。  「ずいぶん痩せたな」  「そうですか。体重計持ってないんで」 「体調悪いのか」 「ちやんとごはん食べてないせいかな。生活リズム も最近パラパラで」  苦しいごまかしたったが、小沼はそれ以上聞かな かった。何かに勘づいたのか、神妙な顔で暸司の顔 を眺めるだけだった。早く酒がほしい。ビールが運 ばれてくるまでの数分間が、数時間にも感じられた。  乾杯するなり、暸司は一気にジョッキの半分を飲 みはした。味など感じない。酔えれば何でもよかっ た。アルコールが回ると、目の前がちかちかと点滅 する。視界を舞うプルビスと相まって、美しい光景 だった。  小沼と交替で隣の席に座った年上の女性が、目を 輝かせて尋ねた。  「三ツ矢さん、今はどんな問題に取り組んでいるん ですか」  酒が回ってきた暸司は、やや口がなめらかになっ ていた。  「ここ最近はずっと、新しい理論の構築をやってい ます」  「やっぱリフラクタルの分野ですか。それか、小沼 さん直伝の岩澤理論?」  「いや、今はプルビスです」  「プルビス?」  ジョッキを空にしてから、暸司は応じる。  「そう。プルビスはすべての数をふくむ。だから僕 は塵という名前をつけたんですね。最小単位であり、 最大の集合であるという……ふワもほら、ここにある んですよ」   暸司は目の前を漂う空間を指さした。話し相手は ぽかんと口を開けている。  「僕はね、クォークの先を説明できると思っている んです。だってそうじゃないと、辻褄が合わないん ですよ。実験的に証明できないからってそれをない ものとして扱うのはおかしいでしょう。僕はあの実 験主義というのかな、そういうのが好きじゃないん です。あなたも数学をやる人ならわかるでしょう」  戸惑いの表情を浮かべたまま、彼女は別の話題へ 転じた。  「三次元の掛谷予想に貢献したあの仕事は、感動し ました。あれが博士の学生の仕事だというのが信じ られなくて……」  「あんなもの」二杯目のビールを胃袋に流しこむ。 おなじみの頭痛が襲ってくる。  「僕は数学者じゃない。ただのアイデアマンです。 あなたもそう思ってるんでしょう。僕に〈正しさ〉 が欠けていることを、心の底では馬鹿にしているん でしょう」  女性は引きつっだ表情で、黙って席を立った。  暸司の周囲に次々集まってくる数学者たちは誰も が期待に満ちていたが、やがて幻滅して離れていっ た。暸司の言葉を理解できる者はひとりもいなかっ た。  最後に近づいてきた男は、すでに泥酔していた。  「大学、どうして辞めちやったんですか」  赤ら顔の男は、なれなれしく暸司に身体をすり寄 せた。  「協和大はさすがだなあ、と思いましたよ。同じ研 究室に平賀先生と三ツ矢先生かそろってるんだから、 学生は幸せですよねえ」 「僕は不幸せでした」  え、と男が聞き返した。暸司は苛立ちまぎれに絶 叫した。  「僕は不幸せでした。小沼先生に捨てられて、皆い なくなった。僕の周りにいた人たちは、僕の知らな いところでそう決めたみたいに、皆一斉にいなく なった。僕は寂しかったですよ。ずっと寂しかった。 ひとりぼっちなら研究室にいる意味はない。だから 大学なんか辞めてやったんだ」   テーブル全体が静まりかえった。様子を見に来た 店員は目が合うとおびえたように顔をひっこめた。  「出よう」端の席にいた小沼が歩いてきて、暸司の 肩にやさしく手を置いた。数学者たちが暸司を見送 る視線には、もう期待はこめられていなかった。  小沼に連れられたのは、裏通りにある個人経営の 居酒屋だった。引き戸を開けると戸車がきゆるきゆ ると鳴る。かきいれ時だというのに客はまばらで、 辛気臭い男ばかりがカウンターで静かに飲んでいた。 ふたりはテーブル席につき、焼酎を頼んだ。  「ちょっと汚いけど、静かで落ち着くだろう」   運ばれてきた焼酎のロックを、小沼はうまそうに 飲んだ。暸司の目の前にも同じものが置かれる。手 をつけていいものか迷い、じっと見ていたが、じき に我慢できなくなった。グラスを満たしていた液体 を胃のなかに収めると、暸司はぼそりと告げた。  「アル中なんです、僕」  その言葉にカウンターの客が振り向いたが、すぐ 前に向き直った。  「あんなにアルコール避けてたやつがな」  アル中、と噛みしめるように反復して、小沼は前 髪をかき上げた。  「大学クビになったのも酒のせいなんです。講義も できなくなって、何もかもダメになったんです。 きっと小沼先生は悲しむと思っだけど、どうにもで きなくて」  「もういいよ。わかった」  制止する小沼の声は穏やかだった。あまりに穏や かで、よそよそしく感じられるくらいだった。いっ そ、叱り飛ばしてほしかった。  「いきなり彼らを連れてきて、悪かった」  「ごめんなさい。あんなことを言いたかったんじや ないんです」  「いや。俺は暸司やクマを捨てた。そう言われても しようがない」  かなり飲んでいるはずだが、小沼の口調からは酔 いが感じられなかった。暸司も頭痛ばかりがひどく、 高揚感とはほど遠い。気分が暗いのは、この店の落 ちくぼんだような雰囲気のせいだけではなかった。  「先生は数学者のまま死ねそうですか」  「数学者のまま?」 「言っていたじやないですか。数学者として死なせ てくれって」  二杯目の焼酎を口にすると、急に視界がねじ曲げ られた。小沼の顔が蛇行した川のように細長くなり、 耳鳴りが響きだす。あの耳鳴りだ。ぱっと目の前で 火花が散り、暸司はテーブルに突っ伏した。グラス が転がって床に落ち、派手な音を立てて割れた。カ ウンターの客がふたたび振り向き、おいおい、と口 走った。小沼が肩を揺さぶる。「大丈夫か」  暸司は腕の間から目だけで小沼を見た。  「先生は、僕を連れてきたこと、後悔しています か」  小沼は激しく首を振った。  「後悔はない」  そう言ってから、小沼は視線をそらした。  「……ただ、暸司がいなければきっと国数研には来 なかった」  暸司は頭に血がのぼる音を聞いた。僕のせいだっ ていうのか。叫んで暴れだしたい気分だったが、身 体が重いせいで上体を起こすのが精一杯だった。  小沼はまだ何か言い足りないようだったが、黙っ て後片付けをしていた。店主から受け取ったバヶツ にガラスの破片を集めて、雑巾で床を拭く。後片付 けが終わる頃、暸司の感情はようやく平静を取り戻 した。ただし、目の前で散った火花の跡はまだ消え ていない。閃光の向こうに小沼の顔がかすんで見え た。  「数学はまだやってるのか」  ふふっ、と暸司は笑った。その質問をずっと待っ ていたのだ。 「僕の視界にはいつでもプルビスが飛んでいます」  自信たっぷりに言う暸司の顔を見て、小沼は力な くほほえんだ。  水気をたっぷりとふくんだ、重い雪たった。骨の 折れた傘では雪を防ぎきれず、暸司の足や腕を濡ら している。破れたスニーカーに染みこんだ水は皮膚 を切るように冷たい。四リットルの焼酎を後生大事 に抱えて、暸司は家路をゆっくりと歩いた。  積もった雪の重さに耐えかね、暸司は傘を道端に 捨てた。空から降りしきる雪の粒が、じかに暸司の 顔や手を濡らす。頭上には濃灰色の雲が広がってい る。  目の前で光が炸裂した。耳鳴りが響き、全身に力 が入らなくなる。下腹部が焦がされるようにじりじ りと痛む。ペットボトルを抱えたまま、暸司は道端 にしやがみこんだ。小沼と会ったあの囗以来、たび たびこの現象に襲われている。いったん起こると、 しばらくは何もできない。痛みが去るのをじっと待 つしかなかった。凍えるような寒さのなかで、暸司 は額に脂汗を浮かべていた。  最近、考えるのは死ぬ時のことばかりだ。  今ここで死んだとして、プルビス理論はどうなる だろう。論文の草稿は大学ノートにまとめているが、 遺品として処分されれば、プルビス理論も暸司の遺 体とともに永遠に葬られることになる。  それだけは避けなければ。肉体が消えたとしても、 暸司は理論として生き続けなければならない。数学 者はいつか死ぬが、数学者のつくった理論は何百年 と生き続ける。プルビス理論は何世代先までも存続 し、数学の版図に組みこまれなければならない。誰 かに託されなければならないのだ。  託すべき相手はひとりしかいない。  しかし、果たして彼が跡を継いでくれるだろうか。 彼には彼の世界があり、やるべき仕事がある。得体 の知れないひとりよがりの理論が、彼の目に留まる とは思えない。  せめて会えれば。会って、伝えられれば。  いくらか回復すると、暸司はふたたび歩き出した。 横殴りの風と一緒に大粒の雪が全身を濡らす。  アパートの前に立つ人影を認識したのは、かなり 近づいてからだった。コートを着た背の高い男が、 階段の下で傘をさしている。革の手袋をはめた指で 眼鏡を押しあげ、男は酒を抱えた暸司に歩み寄った。 暸司の目からもう涙がこぼれていた。  「クマ」涙と雪がいっしよくたになって、暸司の顔 を濡らした。  「約束、守ってくれたんだね。もう囗本に戻ってき たの」  熊沢は呆れたように言う。  「一時帰国。電話くらい持っとけよ。誰もお前の連 絡先知らないから、アパートで待つしかなかったん だぞ。この寒いなか」  「ごめん。本当にごめん」  暸司は子供のように泣きじゃくりながら謝った。 その痩せこけた身体や、腕のなかに抱えた焼酎のボ トルに視線を移しながら、熊沢は何も言わず、暸司 の後ろについて階段を上った。  しかし部屋のドアを開けると、耐えきれないよう に鼻を手で覆った。  「どうしたんだよ、この部屋」  真冬だというのに大量の羽虫が足元を飛び、玄関 の隅にはウジがわいていた。積みあげられた瓶やボ トル、食べ残しのゴミのせいだ。アルコールと嘔吐 物の匂いが鼻をつき、熊沢は部屋に入るのを躊躇し た。「一日中ここで酒飲んでるのか」  暸司は聞こえないふりをして、部屋の奥へと入っ ていった。  「靴、脱がなきやだめか」  「そのままでもいいよ。気になるなら」  熊沢は迷いつつ、革靴をはいたまま足を踏み入れ た。コートの裾が部屋のものに触れないよう注意し ながら、慎重に一歩ずつ進む。  部屋の奥も似たような状況だった。敷きっぱなし の布団の上だけが空白地帯で、あとは床が見えない ほどゴミに囲まれている。そのほとんどが酒瓶や ペットボトルだった。暸司は布団の上で平然とあぐ らをかいている。枕元の座卓には論文や専門書が散 乱していた。  熊沢は立つたまま、話しだした。  「アルコール依存症なんだろ。小沼先生に聞いた」  言葉の端々に軽蔑の色がにじんでいる。部屋にま で入れて隠すつもりはなかったが、それでも暸司は 傷つかないわけではなかった。熊沢はうつむいた暸 司の表情よりも、部屋の隅で舞う羽虫を気にしてい た。  「しかしここまでとは思ってなかった。ゴミ屋敷だ ろ、これ。もう酒飲むのはやめろ。まずは家族に相 談しろ。難しいならどこか施設でも入れよ」  「施設なんて、病気みたいだ」 「病気だよ、お前は」  こんな話がしたいわけではない。熊沢にはプルビ ス理論を受け継いでもらわなければならないのだ。 暸司は大学ノートを突き出した。この数年間の研究 成果をまとめた一冊。  「ねえ、これ見てよ。このノート。僕の集大成なん だよ」  熊沢はノートを受け取らなかった。ただ腕を組ん で、関心の薄い目で見下ろすだけだった。仕方なく、 暸司は差し出した手を引っこめた。  「俺に見せるんじやなくて、論文にしたほうがい い」  「論文にするにはもう少し清書しないと」  「なら、受理されてから見せてくれ。数学者が論文 書かなくなったら終わりだぞ」  こんな説教をするために、熊沢は大雪のなかを 待っていたのだろうか。そんなはずはない。暸司は すがるような目で見上げたが、熊沢の口から出てく るのは小言ばかりだった。  「いいかげん、実家に帰ったらどうだ」 「実家には数学の仕事なんかないよ」 「数学なんかやってなくたっていい、生きてるだけ でいいんだよ。全人類の何パーセントが数学で食っ てると思う? 暸司の人生に数学がなくたって、 ちゃんと生きているだけで立派なんだよ。それで十 分だよ」  誰が聞いても納得する正論たった。だからこそ、 その言葉は暸司には何の引っかかりも残さない。そ れどころか、目の前にいるのが見知らぬ男のように 思えた。姿形を熊沢に似せた、常識の瑰。  こいつは誰だ。そんな言葉で、本当に僕が実家に 帰ると思っているのか。  「数学を捨てろってこと?」  熊沢は気まずそうに目を逸らした。  「病気で身体壊すくらいなら、数学から離れたほう がいいって意味だ」  「クマは本当にそう思ってるの。僕が数学なしで生 きていけるって本気で言ってるの」  革靴の先が細かく上下していた。苛立ちが暸司に も伝わる。  「僕はただ、数学をやって暮らしたいだけなんだ よ」  熊沢はまだ沈黙していた。あと少し。あと少しで 元に戻る。あの頃の熊沢に戻ってくれる。暸司は嗄 れた声で言った。  「僕は間違っているのかな」  それを聞いた熊沢は、鼻白んだ表情で答えた。  「自分で考えろ」  暸司の顔がゆがんだ。心のうちで固い柱がぐにゃ りとゆがんだような感覚。何も伝わらなかった。こ んなに近くにいるのに、発した言葉は何ひとつ熊沢 の心を揺さぶらなかった。ただひたすらに空虚だっ た。  熊沢はわざとらしく腕時計を見た。「もう行かな いといけないから」  暸司はあわてて手を伸ばす。どんなに空虚でも、 つい引き止める自分が悲しかった。  「もう? さっき来たばかりなのに」  「アパートの前で長いこと待ってたんだよ。もう行 かないと、次の約束に遅れる」 「約束つて」 「これから平賀先生と会う。あの人、約束に遅れる の大嫌いだから」  ここで別れれば、二度と会えない気がした。しか し暸司にはもう引き止めるだけ無駄だとわかってい た。熊沢はしゃがみこみ、暸司と目の高さを合わせ た。異臭を放つダウンジャケットの腕を素手で強く つかんだ。  「いいか。もう酒はやめて、病気を治せ。暸司の身 体を心配してるから言つてるんだぞ。数学もいいけ ど、まずは家族に相談しろ。わかったな」  返事を聞かずに熊沢は玄関へ向かった。ドアを開 けた先には雲と雪だけが見える。  「じやあな」  最後に一度だけ振り返り、熊沢はドアを閉めた。 屋外から吹きこんだ冷気が暸司の乾いた頬をなでた。 結局、プルビス理論の話はできなかった。それどこ ろか、数学らしい話は何ひとつ。  暸司はのろのろと身を横たえ、改めてノートを開 いた。微小な塵が無数にわきあがり、アメーバのよ うに自在に形を変える。煙となり、霧となり、泥と なる。世にも美しい光景だった。現実世界には決し て存在しない、数学的秩序で成立する世界。  ああ、そうだった。他の誰にも僕の風景は見えな いんだ。クマにも小沼先生にも、プルビスは見えな い。だからこの理論のすばらしさがわからない。  以前、何気なく〈暸〉という字の意味を調べたこ とがある。辞書にはくあきらかであること。はっき りしていること〉と記されていた。こんなにあきら かで、はっきりと見えている風景が共有できないの は不幸なことだった。  焼酎のボトルをかたむけてプラスチックのコップ に注ぎ、一気にあおる。暸司は右手につかんだ空の コップをまじまじと見つめた。すっかり曇りきって いる。熊沢のアルバイト先たったマンガ喫茶では、 もっと透き通って見えた。  ふっ、とあの頃の記憶がよみがえっだ。あの囗、 数学の世界から離れようとしていた熊沢を引き戻し たのはコラッツ予想たった。だとしたら、コラッツ 予想を解決すれば熊沢はまたここに戻ってくるかも しれない。  暸司は大学ノートを開いた。これまで数学者が束 になっても解決の糸口すらつかめなかった難問。熊 沢の興味をふたたび引きつけるためだけに、暸司は この問題を解くことにした。証明は瞬く間に完了し、 わずか見開きニページで終わった。プルビスが見え ていれば、こんな問題は赤子の手をひねるより易し い。文頭に一文を書き加えた。 〈以下にコラツツ予想の肯定的証明を示す〉  暸司は胸のうちでつぶやいた。ほら、言った通り でしょう。今解けなければ、死ぬまでに解ければい い。僕が解けなければ、他の誰かが解けばいい。プ ルビス理論が生きている限り、僕は死なない。肉体 が滅びても、僕は理論として生まれ変わる。  二杯目の焼酎を飲んだ。めすらしく頭痛も吐き気 もなかった。ここではないどこかにいるような陶酔 だけがあった。  眼前に深い森が立ち現れた。あの広大で美しい森。 暸司はその森に一歩、二歩と踏み出した。そうか。 とうとう、この森の美しさを語る言葉を手に入れた んだ。濃緑色の樹々を見渡し、暸司は興奮を抑えき れずに駆け出した。関節の痛みは感じない。身体は 少年に戻ったかのように軽かった。  どれだけ奥に駆けても、森は尽きることがなかっ た。目に見えるすべてを暸司は語ることができた。 森は暸司に鮮やかな情景を惜しげもなく披露してく れる。草むらを抜けると渓流が現れ、川を飛び越え れば岩肌が立ちはだかる。坂道を登りきれば深い谷 が開け、暗い洞窟を抜ければ星空の下に出る。  手を伸ばせば、暸司はどこまでも空高く昇ること ができる。やがて星々に包まれた暸司はまばゆい光 のなかへ取りこまれる。胎内にいるかのように、心 は安らかたった。  これが不滅の命なんだ。もう、何を恐れる必要も ない。  視界を覆うのは光の色だけだった。永遠の時が暸 司に訪れようとしていた。     13 見える者  熊沢はノースカロライナで暸司の死を知った。  三月、シャーロットはひどく寒かった。国際電話 を受けたのは下宿で眠っている最中たった。暖房の 効きが悪い部屋で、分厚い毛布を頭からかぶってい た。二度目の着信で、携帯電話が鳴っているのに気 づいた。毛布から腕だけ出して番号も確認せずに出 る。はい、と日本でもアメリカでも通じる返事をし た。  「く、能{沢さんですか}  一瞬で目が覚めた。声の主はどこか緊張している。  「佐那?」  返事はそれだけで通じた。佐那は震える声を抑え つけるように、柢く言った。  「暸司が死んじやった」  水の針で貫かれたように、熊沢の身体の芯が冷た くなった。  毛布を払って飛び起きる。暸司が死んだ? 一か 月前に会ったばかりなのに。変わり果てた姿だった が、確かに暸司は生きていた。生きて、数学をやっ ていた。  佐那は我慢できずに嗚咽を漏らした。感情の波に 飲みこまれ、泣きながらぶつぎりの言葉を発する。  「死んじやったよ。部屋で。肝硬変だって。ねえ、 あたし知ってたんだよ。暸司がアルコール依存症 だって知ってたよ。知ってだのに、何にもしなかっ た。何にもできなかったんじやなくて、しなかった。 怖くて。どうやったら止められるかもわからなくて。 もう別人みたいになっちやって、怖かった。でもそ んなの、理由にならない。あたし、暸司のこと見捨 てちやった」  熊沢は最後に会った囗のことを話すべきか迷った。 見捨てたどころではない。手を下したようなものだ。  「つい先月、会った」  「どうだったの」  どうもこうもない。暸司は安焼酎の臭いをまき 散らし、ゴミに埋もれていた。そのことを佐那に話 すのははばかられた。  告別式はあさってだと佐那が教えてくれた。  「お通夜は無理でも、今から出れば告別式には間に 合うんじやない」  「……(ワは行けない。どうしても離れられない)  遅れている論文の投稿を今月中に終わらせなけれ ばならなかった。ボスからは昨年末からノイローゼ になるほどプレッシャーをかけられている。翌日も ボスと顔を突き合わせて最終稿の確認をする予定 だった。今月中にできなければ、このラボに熊沢の 居場所はない。佐那はいらだたしげに言った。  「ねえ、わかってる? 暸司がいなくなっちやった んだよ」  今だけはどうしても無理だ。来月には時間が作れ るから、帰国して線香をあげる。そんなことを言い 訳がましく述べたが、佐那は沈黙を返すだけだった。  「もういい」  唐突に通話は切れた。  急に、早朝の冷えこみを感じた。全身が汗みどろ だった。毛布をかぶっていたせいか、別の理由かは わからない。暖房の設定温度をあげて、シャワーを 浴びた。  目を閉じて熱湯を浴びる。僕は間違っているのか な、と問われたあの時、熊沢は「お前は正しい」と 言えなかった。たったひと言でよかった。暸司にも 平賀にも、それぞれの〈正しさ〉がある。それは数 理とは別の、生き方という意味での〈正しさ〉なの だ。誰かがそれを教えてやらなければならなかった。 それができたのは熊沢だけだ。  なぜ言えなかったのか、理由はわかっている。酒 に溺れた暸司に対して、自業自得だ、とどこかで 思っていたせいだ。暸司は憎らしいほど数覚に恵ま れていた。その男が、名誉も地位も失って泥のなか で這いまわる姿に、熊沢は溜飲を下げていた。  認めたくはないし、誰にも言えない。それでも、 醜い感情に駆られ、苦しむ友人を突き落とした過去 は消えない。そんなつもりじゃなかった、と言い訳 するのはたやすい。しかしどれだけ言葉を重ねても、 罪悪感はいっこうに薄れなかった。  暸司を殺しだのは俺だ。俺はその事実を誰にも打 ち明けられないまま、生き続けなければならない。 不快な手触りを記憶したまま死んでいかなければな らない。  自分が殺した、と佐那には言えなかった。言葉に すれば、罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。 できれば忘れてしまいたかった。  まぶたの裏から熱いものが流れていく。涙は熱い 湯に混じって身体を濡らし、排水ロヘ吸いこまれて いった。嗚咽がユニットバスの室内に響いた。全身 の皮膚がふやけるまで、熊沢はそうしていた。暸司 の死を思って泣いたのは、それが最初で最後だった。  翌月、一時帰国した熊沢は暸司の生家へ向かった。 アルコール依存疱の暸司は肝硬変を発疱し、それが 原因で静脈瘤の破裂を起こして、大量の吐血と下血 の末に亡くなった。暸司の遺体はアパートで血まみ れになっていたという。ノートが汚れるのを避ける ように、遺体はユニットバスの浴槽に横たわってい たらしい。暸司の母から引き継いだノートはそれか ら六年間、一度も開かれることはなかった。  次に佐那と会った。工学部を卒業した彼女はエン ジニアとして就職していた。熊沢は佐那の勤め先の 近くまで出向いた。駅ビルのコンコースで待ち合わ せてカフェに入ろうとしたが、ここでいい、と佐那 が言い張った。帰宅ラッシュの最中、雑踏のただな か、並んでベンチに腰をおろした。  「お葬式、たくさん人が来てた」  みんな泣いていたという。熊沢はシャワーを浴び てひとり泣いたことを思い出した。  たとえ暸司が死んだとしても、この世界から完全 に暸司が消滅したとは思えなかった。友人が死んだ という悲しみはあった。それとは別の感覚として、 暸司はまだどこかにいるのではないかとも思えて仕 方なかった。  「暸司、本当にいなくなったのかな」  熊沢の噛み合わない返事に、佐那はいらだつ様子 もなくうなずいた。  「たまに、あたしも信じられなくなる。でも死ん じやったんだよ」  違う。死んだことと、いなくなったことは別だ。 そう思ったが口にはしなかった。噛み合わない会話 が延々と続くだけだ。  佐那は消耗していた。青白い横顔を見て、美しい、 と熊沢は思った。しかしそれは、愛しいというのと はまた違う感情だった。  「あたしたち、暸司にとって何だったんだろう」  ふたりの前を、無数の人が通り過ぎていく。こん なに人がいるのか、と驚くほどにコンコースはにぎ やかたった。目がくらみ、ゆっくり悲しむ余裕もな い。だから佐那は、ここでいい、と言っだのかもし れない。  どちらが先にベンチを立ったのか、熊沢は忘れて しまった。  日本数学会年会、最終日。  協和大学の熊沢勇一が〈ミツヤノート〉の部分的 解読に成功したという噂は、学会初日から流れてい た。どうも統計数学が深く関連していたらしい。い や、実際は手がかりひとつつかめていないようだ。 本当は自作自演で、ノートは熊沢の作ったでたらめ だと聞いた。根拠のない流言が飛び交い、何か真実 なのか誰にも判別できなくなっていた。当の熊沢は ここまでの年会に姿を現さず、沈黙を守っている。 それがさらに憶測を呼んだ。  すべては特別講演で明らかになる。最終日、数学 者たちの期待は頂点に達していた。  会場となった大学の講堂は聴衆で埋めつくされて いた。二百人収容の座席は人で埋まり、窓際まで二 重、三重に立ち見が出る始末だった。室内には群衆 の体温と期待感が満ち、蒸し風呂のように暑い。  「立ち見の方は、無理して入らないようにしてくだ さい。危ないですから」  座長の呼びかけも空しく、定刻が近づくにつれて 聴衆の数は増える一方だった。パンフレットには 〈コラッツ予想の肯定的証明について〉という簡素 な演題タイトルが記されている。プロジェクターの スイッチが切られていることは、登壇者が発表資料 を使わず、黒板だけで語ることを意味していた。  最前列には解析や数論の大物が顔をそろえている。 そこには小沼繁行の顔もあった。後ろに座る男から 声をかけられ、小沼は振り向く。協和大にいた頃の 同僚だった。  「この件、先生も一枚噛んでいるんでしょう」  あわてて手を振る。「熊沢君と少し話したくらい で。私は何も」  口にしかけた否定の言葉を、小沼は途中で飲みこ んだ。  「……そうですね。私も関係していないわけじゃな い」  「へえ、やっぱりそうですか」  「ただ、私は三ツ矢暸司を連れてきただけです。後 はすべて彼らの仕事です」  小沼の隣では、大物だちとは違う雰囲気の女性が 静かに発表を待っていた。熊沢の妻、聡美だ。彼女 はこの講演を聞くために、初めて年会を訪れた。小 沼はいくつかの研究発表を一緒に聞いてその内容を 説明したが、理解している様子はない。夫の研究内 容を理解できるとは端から思っていないらしい。そ れでも、夫が夢中になっているプルビス理論という ものの、雰囲気だけでも感じてみたいのだと切実な 表情で言っていた。  定刻の間近になっても、聴衆は集まり続けた。音 漏れ防止のために扉を閉めるのが決まりだが、立ち 見が多すぎるせいで閉めることができず、開け放し ておくしかなかった。学会スタッフのアルバイトが 合図を送ると、座長が呼びかけた。  「えI、では、定刻になりましたので、特別講演を 開始いたします。お話しいただくのは協和大学の熊 沢勇一先生です。よろしくお願いします」  聴衆から拍手とどよめきが起こり、小沼は居住ま いを正した。  演壇に登場した熊沢の右手には手垢にまみれた ノートがあった。左手でマイクを握り、聴衆をひと 渡り見まわしてから言った。  「三ツ矢暸司は六年前に亡くなりました」  第一声で会場は静まった。  「彼ほど数学的感覚に恵まれた人間を、私は知りま せん。彼を失ったことは友人として悲しいだけでな く、数学界にとっても巨大な損失でした。恥ずかし いことですが、私かそれに気づいたのはつい最近の ことです。私はずっと、自分のことしか考えていな かった」  熊沢はノートをかざしてみせた。  「彼が遺した研究ノートがここにあります。生前、 膨大な時間と労力を費やして構築した理論がここに 記されています。彼はそれをプルビス理論と名付け、 コラツツ予想を証明してみせました。しかし彼がご くなり、証明を理解する者はいなくなりました」  壇上の熊沢は妻と目が合った。聡美は息を詰めて 見つめている。  「残念ながら私はまだ理論の全容を理解していませ ん。しかし今日は、そのアウトラインだけでも皆さ んにお伝えしたいと思います」  長大な黒板に向き合った熊沢は、チョークを板上 に走らせる。滑りだしは淀みない。序盤はさんざん 考えてきた。フラクタルの基本公式と、プルビス理 論特有の造語の定義づけ。  超弦理論の解釈に入ると、聴講者は戸惑いを隠せ ないように雑談をはじめた。大御所のなかにはあか らさまに顔をしかめている者もいる。拒絶するなら、 すればいい。この理論は今後百年の数学を変える。 ついていけないなら置いていくだけだ。  熊沢は勢いを落とさず、プルビス理論の深みへと 分け入っていく。中盤以降に何を話すのかは、その 場で考えることにしていた。もう不安はない。暸司 が導くままに突き進むだけだ。枝葉をすっ飛ばし、 本筋だけを一気に駆け上がる。足を踏み外さないよ う注意しながら、しかし一足跳びに走り続ける。  会場のざわめきは次第に落ち着きはじめた。やが て散発的に声が聞こえる程度になり、ついに群衆は ふたたび静まりかえった。最前列に座る数学者たち は神妙な顔で行方を見守っている。座長はどうにか ついていこうと身を乗り出し、黒板に視線を注いだ。  もはや熊沢の心はちっぽけな講堂を離れていた。  目の前にあるのは、暸司の生家の裏手に広がる森 たった。ここに暸司がいるはずだという確信が、熊 沢にはある。  雑木林を抜けると、果てのない草原があった。方 向感覚を失いそうになりながら、でたらめに熊沢は 走る。疲労も忘れて、暸司の名を叫びながら駆けま わっだ。暸司。いるのなら俺を呼んでくれ。六年も 経ち、今さらと思うだろうが、それでも来た。もう 一度だけ、俺にチャンスをくれ。あと一度だけ。  いつの間にか周囲は岩場に変わっていた。激しく 流れる水のなかに躊躇なく足を踏み入れる。川底を 一歩ずつ踏みしめながら、熊沢は進んだ。バランス を失って手をつきながら、それでも進むことをやめ なかった。  岩壁に取りつき、窪みに指をこじ入れて身体を引 き上げる。突起があれば足を乗せ、重力に抗って上 を目指す。力尽きるどころか、身のうちにはますま す力が湧いてきた。  上りきった先に見える谷の底へ全速力で駆け下り る。口を開ける穴のなかへ滑りこみ、手探りで出口 を探す。あと少し。  洞穴を抜け、たどりついた星空の下に暸司はいな かった。途方に暮れかけた熊沢の頭上に光るものが あった。懸命に手を伸ばしても、跳びあがっても、 光は指先に届かない。  だから自然と地面から浮き上がった時、熊沢には 何か起こっているのかわからなかった。身体が勝手 に動いている感覚。何者かが憑いたように、進むべ き道が見える。熊沢の身体は見る間に地上を離れて 星空へ吸いこまれ、目の前で閃光が炸裂した。  光のなかで、熊沢ははっきりと暸司の存在を感じ た。  ここにいたのか。  ここには暸司がいる。しばし熊沢は呆然とした。 包みこむ空気が温かい。自制がきかず、涙をこらえ きれなかった。悲しみのせいではない。暸司は亡く なった後もずっとここで待っていた。そして永遠に、 この理論のなかで生き続ける。  遅くなってごめん。熊沢はようやく、素直にそう 告げることができた。  シャツの袖で涙を拭き、咳払いをする。講堂に集 う人々はひとり残らず、その瞬間を見逃すまいと目 を凝らし、事の推移を見守っていた。内容を理解し ていない者でさえ、ただ事ではない何かが起こって いることはわかった。  最後の一行を丁寧に黒板に書きつけ、二時間の特 別講演は終わった。広い大地を駆けまわったような 疲労感が熊沢の全身を浸していた。  大きく上がった打球がスタンドに入るのを見守る ような緊張感。  熊沢は一拍置いてから、静かに言った。  「以上です」  一瞬の沈黙の後、窓ガラスが震えるほどの拍手と 歓声が起こった。  熊沢の立っている場所からは、最前列の聴衆がよ く見えた。居並ぶ大物たちは、承認の合図代わりに 手を叩いている。端の席には小沼と聡美がいた。小 沼は壮大な壁画を見るように、呆然と黒板の数式を 眺めている。聡美は(ンカチで口元を覆い、嗚咽を こらえていた。  聴衆は手が痺れるまで拍手を続けた。拍手が収ま るのを待って、座長はマイクを握ったが、何を話せ ばいいのか戸惑っていた。  「いや、どうも……初めて聞くことばかりで、どう コメントすればよいか……」  予定時間を三十分も超過していたが、座長をはじ め、それを咎める者は誰もいなかった。質疑応答は 省略され、熊沢はふたたび沸き起こった拍手に送ら れながら演壇を降りた。  廊下に出た熊沢は壁によりかかり、うずくまった。 しばらくは起き上がれそうにない。こんな膨大なエ ネルギーが、あのノートに詰めこまれていたとは。 廊下を歩く人たちは、異様な気配に声もかけられず 素通りしていく。  熊沢の視界にパンプスが現れた。視線を上げると、 泣きはらした聡美の顔があった。  「どうして泣いてるんだ」  「わからない。あと、何言ってるかも全然わからな かった。だから余計に、なんで泣いてるのかわから ない。でも、何かうねるみたいな感じがして、それ はきっとあそこにいた人全員が感じていて、そのせ いで感動しちやって」  聡美は口を引き結んで、またこぼれそうになる涙 をこらえて言った。  「結婚したのがあなたでよかった」  熊沢は気力をふり絞って答えた。「俺もそうだ」  ずいぶん遅くなったけど、やっとここまでたどり ついた。でも、まだまだ終わりじゃない。やること はいくらでも残っている。アカデミアの合意を形成 して、数学の一分野として認めさせる。今日の発表 で事の重大さに気づいた数学者もいるだろう。海外 の研究者だちとも協力して、プルビス理論を世界に 広げなければならない。  そういう仕事は俺のほうが得意だ。暸司が播いた 種を育て、芽吹かせるのが俺の役目だ。  暸司と最後に会った日の不快な手触りはまだ残っ ている。しかし今は、光に包まれて感じたあの温か さのほうが、現実感を伴っていた。  猫背の少年は、ふてくされたような顔で窓の外を 見ている。熊沢は精一杯、威厳のある声を出して 言った。こういうのは最初が肝心だ。  「入学式はどうした」  「会場に行ったんですけど、迷っちゃって。わかん ないからこっち来ちゃいました。だってものすごく 人が多いから」  「そりゃ、入学式だからだよ」  「先生だって、式サボつてここで仕事してたんで しよう。おあいこですよ」  返す言葉がない。何か教員らしいことを言おうと したが思いつかず、あきらめた。  この小生意気な少年が、田中からの〈プレゼン ト〉だった。  木下に番号を渡された翌日、熊沢は教えられた番 号へ電話をかけた。通話に出た少年は「電話じゃな くてメールにしてって言ったのになあ」とぼやいた。 軽い苛立ちを覚えつつ、何かプレゼントなのかわか らないまま会話を続けると、少年の口調が熱を帯び てきた。  「もしかして、あなたが熊沢さんですか」  鈍いやつたな、と思いながら、熊沢は「ああ」と 答えた。少年は嬉々として話し続ける。  「田中さんが、あいつは俺の舎弟だから何でも教え てもらえ、つて言ってました」  舎弟になった記憶はないが。思わず苦笑した熊沢 は、続くひと言を聞いて表情を変えた。  「僕、〈ミツヤノート〉が解読できるかもしれませ ん」  思いがけない台詞だった。「はっ?」  「熊沢さんがネットにあげたあのノート、読みまし た。見た瞬間、目の前でぶわっと光が飛び散るよう な感じがあって。見えないくらいちっちやい粒がた くさん舞ってて、うねるように弾けて」  愕然とした。ひとりだけ、同じことを言っていた 人間がいた。この少年には暸司と同じ風景が〈見え る〉のかもしれない。  田中が猫背の少年を連れて、熊沢の研究室へやっ て来だのは翌週だった。顔を合わせるなり、田中は 言った。「クマもずいぶん所帯じみたなあ」  「そちらには負けますよ」  頭頂部へ視線をやる。大幅に額の後退した田中が 苦笑した。  「お前って本当、何歳になっても生意気だな」  少年は幼い顔つきをしていた。白いつるりとした 顔で、落ち着きなく部屋を見まわしている。その風 貌は嫌でも暸司を思い出させた。  「こいつはな、俺の生徒ってわけじゃないんだ。住 んでるのも東京」  田中の言葉に、熊沢は首をひねった。てっきり田 中の高校の教え子だと思っていた。聞けば、田中の 住む北陸から一緒に来たわけではなく、最寄り駅で 待ち合わせてここまで来たらしい。  「俺はコンテストに出場する手続きと、当日の引率 をしてやっただけだ。教師の推薦が必要だっていう から」  「この子、十八歳だって言ってませんでしたか」  「そうだ。でも高校には通っていない」  「……一一一一にってることがよくわからないんですけど」  口ごもる田中の横で、出し抜けに少年が問いかけ た。  「熊沢さんつて、佐那さんとは知り合いじやないん ですか」  佐那。なぜ今、その名前が出てくるのだろう。田 中の顔がこわばる。  「お前、それ黙ってろってさっき言っただろ」  「え、なんで?」  「いろいろ事情があるんだよ、大人には」  邪気のない少年の横顔に、熊沢は尋ねた。 「斎藤佐那のことかな」 「あ。やっぱり知り合いだったんだ」  少年の顔に笑みが弾ける。その表情からは佐那へ の親しみが感じられた。この少年は佐那のことを 知っている。田中が両手を広げて場を取りなそうと した。  「いや、タイミングを見計らって説明しようと思っ てたんだって。物事には順序ってもんがあるか ら……」 「佐那さんは、僕の先生なんです」  田中の言い訳をさえぎって、少年が言う。  彼は二年前に高校を中退していた。あまりにも退 屈だったせいだという。高校で習う微分積分や行列 は、小学生のころに通過した場所だった。高卒とい う学歴の必要性も感じないし、学校には友人もいな い。通学する意味を見出せなかった彼は、うるさい 親を黙らせるために独学で高認に合格し、以降は自 宅で数学に没頭する毎日を送っていた。ネットには 数学を通じて知り合った友人が大勢いる。家を出る ことはほとんどなく、引きこもり同然の生活だった という。  そんなときに出会っだのが佐那たった。  「僕はSNSとかブログで知り合った人だちと、グ ループウェアでファイルを共有しているんです。今 取り組んでいる内容とか、各自の進捗とかを報告し あうんですけど。そのグループウェアを開発したの が佐那さんでした」  熊沢は去年の夏の記憶をたどった。仕事の話に なったとき、佐那は確かエンジニアになったと言っ ていた。  「メンバーの紹介で、佐那さんは僕らのグループに 参加しました。最初は伏せてましたけど、開発者と していろんなグループに顔を出していたみたいで す」  へえ、と田中がつぶやいた。説明を諦め、すっか り聞き手にまわっている。  「佐那さんは本名で参加していて、そのうちメン バーが気づいたんです。もしかしたら、ムーンシャ インの一般化を証明した論文の著者じやないかって。 聞いてみたら、その通りでした。熊沢さんもそのひ とりですよね」  ああ、と答える声はため息に似ていた。暸司が 〈二十一世紀のガロア〉と呼ばれるきっかけになっ た成果。最も幸せな時期の思い出たった。  「恥ずかしいですけど、有名人だってことがわかる とみんな興奮しちやって。それからは佐那さんが議 論の中心になりました」  出場からずいぶん時間が経っているとはいえ、彼 女は数学オリンピック銅メダリストだ。それよりも、 熊沢には気になることがあった。  「ちょっと確認させて。佐那は、斎藤佐那は、今で も数学をやってるのか」  「ただの趣味だって言ってましたけど。でも、学生 時代から今まで、ずっと続けてはいるみたいです よ」  夏に佐那と会ったときのことを思いだす。数学科 を離れてから十年以上経っているにもかかわらず、 暸司のノートと向き合う姿はブランクを感じさせな かった。あのとき、気づくべきだったのだ。彼女が まだ数学を捨てていないことに。  他の学部に移ったからといって、数学をやめたわ けではなかった。別の道に進んだからと言って、縁 が切れたわけでもない。彼女はずっと続けていた。 研究者だけが数学者の姿ではなかった。教師になっ た田中も、ビジネスマンになった木下も、エンジニ アとして働く佐那も、立派な数学者だ。  俺は、佐那のことを何も見ていなかった。  熊沢は後悔を押しつぶすように拳を固く握りしめ、 少年に先をうながした。  「ごめん。それで?」  「佐那さんは、ネットも含めて、それまでに会った 誰よりも僕に感覚が近い人でした。年齢を明かして、 いろんなことを教えてもらいました。群論も、岩澤 理論も。プログラミングもです。学校の先生は誰も そんなことを教えてくれませんでした。佐那さんは 僕が唯一、先生だと思う人なんです」  田中が少しだけ、いじけたように口をとがらせた。  「コラッツ予想の証明が発見されたことは、グルー プでも話題にはなっていたけど、最初、僕は興味を 持っていませんでした。どうせ何かの間違いだろ うって。でも佐那さんが勧めるから、熊沢さんが ネットにあげた〈ミツヤノート〉を読んでみました。 そうしたら、あの景色がぶわっと目の前で弾けたん です」  「これ、見ろよ。こいつが年末に書いたんだ」  田中が差し出したコピー用紙は、記号と数式で びっしりと埋めつくされていた。随所に現れる独自 の記号は、暸司のノートで見たものと同じだ。プル ビス理論を検討したメモ書きらしい。熊沢は注意深 く目を通す。  思わず目を見開いた。  小さい文字で書き連ねられているのは超弦理論の 公式だった。暸司のノートにはその言葉は登場しな い。気づいたのは熊沢だけだと思っていた。少年は 胸を張って言う。  「初めて見た時に、これは超弦理論のもうひとつの 姿だな、とピンときました。だって、見える風景が まったく同じだから。佐那さんにそう話したら、協 和大学に入学することを勧められました。僕もプル ビス理論の研究ができるなら、大学に行ってもいい かなって思ったんです」  少年の赤らんだ顔が、暸司の童顔と重なった。  この子は本物だ。  田中が勝ち誇った顔で、少年と熊沢の顔を見比べ ている。 「来年度は誰が特推生の指導教官なんだ」  熊沢のほころんだ口元から言葉が漏れた。 「私です」  締め切りは間近だった。その囗のうちに、急いで 特別推薦生の手続きをとっだ。幸い国内の数学コン テストで入賞していたおかげで、話はすんなりまと まった。少年は暸司と同じくコンテストの類が肌に 合わないらしいが、佐那が田中の力を借りて、無理 やり参加させたらしい。成績は申し分なく、晴れて この春から数学科の学生となった。  後日、何度か佐那に電話をかけたが応答はなかっ た。  昨夏研究室を訪れた佐那は、別れ際に「今後よろ しく」と言い残した。あれは佐那のことではなかっ たのだろう。あのときすでに、この少年が熊沢の教 え子になることを予感していたのかもしれない。  猫背の少年は今、応接ソファに寝転んで素粒子物 理の解説書を読んでいる。大学生になったばかりだ というのに、知識はもう大学院生に引けを取らない。 これからどこまで伸びるのか、想像もつかなかった。  仰向けで支えるのがつらくなったのか、テーブル に本を置いてソファに座りなおす。  「特別推薦って、ひとりだけ?」  モニターに向かう熊沢に構わず、少年はソファの 上で声を張りあげた。  「あとふたり。入学式が終われば来る」  少年は太ももの下に両手を入れて足をばたつかせ る。大学一年生にしては幼稚な仕草だが、彼にはそ れが似合っていた。  「どんな人だちかな」  「じきにわかる」  熊沢は盾も賞状もない准教授室を見渡した。今年 も春華賞には選ばれなかった。しかし以前ほど悔し さは感じない。春華賞など意識の外に弾き出してし まうような、鮮烈な経験をしたせいだった。森を駆 け抜けて暸司と再会したあの囗から、べったりと背 中に貼りついていたものが流れ落ちた。  これから先、メダルはもらえなくたって構わない。 あの風景がまた見られれば。  新しい理論が生まれた時、人は数学者が理論を創 造したと思いこむ。しかし数学者がそこにいようが いまいが、理論は厳然と存在する。創造するのでは なく、見出すのだ。  英語で〈理論〉を意味する〈tneory〉は、ラテン 語で〈見る〉という言葉に由来する。たったひとり の天才が目撃することでしか、理論はこの世界に姿 を現さない。事実を積み重ねるだけではたどりつけ ない場所が、確かに存在する。  もしかしたら、暸司にはあの先の光景が見えてい たのだろうか。熊沢には想像もつかない、世界の果 てにある永遠の景色が。  窓の隙間から吹きこんだ風で、デスクの書類が宙 を舞った。視界を舞う記号のひとつひとつが、光の 粒のように見えた。その向こうにいる背中を丸めた 少年の姿に、熊沢は目を凝らす。  春はまだはじまったばかりだ。 〈主要参考文献〉 小平邦彦『怠け数学者の記』岩波書店 加藤文元『数学する精神−正しさの創造、美しさ の発見』中央公論新社 加藤文元『ガロアー天才数学者の生涯』中央公論 新社 芳沢光雄『群論入門 対称性をはかる数学』講談社 B・マンデルブロ、広中平祐監訳『フラクタル幾何 学』(上下)筑摩書房 マーシヤーガッセン、青木薫訳  『完全なる証明 一〇〇万ドルを拒否した天才数学 者』文語春秋 J.C.」agarias(芯s) H冨叩+1 problem and its genei邑izations. The American Matheヨatical Monthly。 vol.92「No. 1 pp. 3-23’ 解説            森見登美彦(作家) 『永遠についての証明』は岩井圭也氏のデビュー作 である。  私は野性時代フロンティア文学賞(現在「小説野 性時代新人賞」に改称)の選考委員として、最終候 補に残った応募原稿を読んだのだが、そのとき心に 残っだのが次の一節だった。  「自然界でも同じようなことが起こってるかもしれ ないんだよ。雲を表す式を応用すれば、波になるか もしれない。雪を表す式を変形すれば、森になるか もしれない。ひとつの基本式からすべてが導かれる かもしれない。ああ、なんで今まで気づかなかった んだろう」  数学することの喜びというか、興奮というか、そ ういうものをたいへん美しく表現した言葉で、思わ ずノートに抜き書きしたことをおぼえている。  もちろん私には本当の数学者の気持ちは分からな いが、「きっとこんな感じにちがいない」と思わせ る説得力が本作にはある。  この一節の「森になるかもしれない」という言葉 は、主人公の一人である暸司の生家の裏手に広がる 森のイメージと響き合っており、それはまっすぐに この物語のクライマックスヘとつながっている。暸 司の遺志を継いでコラツツ予想の証明を発表する場 で、もう一人の主人公・熊沢がとき友との精神的な 再会を果たすのは深い森なのである。この「森」は、 数学者の心の奥底に広がる領域であると同時に、こ の自然の根底にある真理をあらわしているのだろう。  暸司の生家の「庭」と「森」がシームレスにつな がっていることは象徴的だ。庭は日常的かつ個人的 な領域だが、森はそれを超えた自然の領域である。 「庭で遊ぶこと」がシームレスに「森で遊ぶこと」 へつなかっていく暸司の少年時代は、彼にとって数 学がどんなものであったかを示している。彼の心は 数学を通して、自然の根底にある永遠の真理とつな かっている。  真理とつながることの素晴らしさと恐ろしさ。そ れが本作の根底にある。  本作では「数覚」と表現されているが、暸司の飛 び抜けた数学的才能は、彼に素晴らしい世界を垣間 見せ、より広い世界へと連れだしてくれる。しかし また、その才能が彼を深い孤独へと追いやりもする のだ。飛び抜けた才能とはそういうものだが、暸司 の数学的才能は自然の真理に触れるものであるだけ に、その才能が連れだしてくれる世界の広さも、そ の才能の持ち主が余儀なくされる孤独の深さも絶対 的なものだ。暸司が人とのつながりを切実に求める のは、その世界の広さを知っているからであり、深 い孤独を知っているからでもある。  本作の前半では、暸司はその数学的才能によって 人とのつながりを作っていく。小沼教授に見いたさ れ、大学へ入り、研究室の仲間だちと出会う。彼が 仲間たちに影響を与え、数学の情熱を呼びさますこ とができるのは、彼が自然の真理とつながっている からだ。彼はそのことを疑いもしない。森で遊んで いた少年時代のままなのである。  しかし本作の後半では、その才能が人とのつなが りを破壊していく。  暸司の転落のきっかけとなる平賀教授は興味深い 人物である。数学者として社会で生きていくことの 困難を長く味わってきた彼にとって、暸司のような 人間は現実知らずの甘えた人間に見えるだろう。彼 にとって暸司という人物は、社会に適応するために 自分が抑圧してきたもの、「そうあることを許され なかった自分」なのであり、だからこそ暸司へ投げ かけられる言葉は苛烈になるのだ。平賀教授に指摘 された「証明の欠陥」によって、暸司の幸福な青春 時代は終わりを告げる。  これまで暸司は自分が真理とつながっていること を信じていた。中学校時代の教師とのエピソードが 象徴しているように、自分の頭に浮かんだことの正 しさは、たとえくだくだと説明しなくても正しいは ずなのだと感じている。証明できるから信じるので はない。信じているから証明できるのだ。しかし平 賀教授の言うとおり、証明できなければアイデアに すぎない。いくら暸司が正しいと感じても、証明し なければ社会に受け容れてもらえない。このとき初 めて暸司は、「数学的証明」が「社会とのつながり の証明」でもあることを思い知ったにちがいない。 それだけでなく、もしも数学的証明ができなければ、 それは自分と真理のつながりが斷たれることを意味 する。そのつながりを無邪気に信じてきた暸司に とって、それはいわば信仰の喪失に近いものである。  真理とのつながりと、他人とのつながり。  ここで暸司は、いわば二重の危機に直面したのだ と私は思う。  もしも熊沢のように数学者として生きていくため に上手く立ちまわることができれば、あるいは佐那 のように数学以外の分野に活路を見いだすことがで きれば、暸司の末路もちかっていたかもしれない。 しかし彼はその数学的才能ゆえに、数学から身を引 き離すことができない。「かつて真理とつながって いた」という実感がここでは睨いとして働いている。 他の生き方を想像することができないからこそ、唯 一の希望である「証明」にすがりつく。そのことが 尚更、他の人間を遠ざけていく。本作の後半、まる ですべてが裏目に出ていくような展開は痛ましいも のだ。森で遊んでいるうちに友人たちが帰ってし まった、という少年時代のエピソードを思いだすべ きだろう。  最終的に暸司は真理とのつながりを回復する。他 人とのつながりを代償として。  暸司亡きあと、彼の見つけた真理を社会へ伝える ために尽力するのは、熊沢をはじめとする彼の友人 や恩師たちである。本作の根底には、真理とのつな がりが人とのつながりを生み、それを破壊し、そし てふたたび結ぶという大きな流れがある。  本作の素晴らしいところは、数学者たちの青春群 像や天才の苦悩といったおなじみの人間ドラマを描 きながら、「真理とつながることの素晴らしさと恐 ろしさ」から目をはなさなかった点にある。登場人 物たちのドラマはすべてこの核心をめぐって展開し、 よけいなことは書かれていない。いささかあっさり した印象はそのストイックさが原因でもあるが、一 方で、そのことが本作に数学的証明のような鮮やか さを与えている。  「この世界の真理を掴みたい」  意識するしないにかかわらず、私たちはみんなそ う願っている。たとえそれが自然の根底にある数学 的真理ではなく、自分なりの「真理」にすぎないと しても。  本作は数学的真理をめぐって格闘する数学者たち を描きながら、自分なりの「真理」を求めて生きる 私たちのありようを照らしだす。暸司や熊沢、佐那 のような人々は、私たちの周囲に見いだせるだろう し、それどころか彼らは私たち一人一人の胸の内に 共存している。私たちは暸司のようにすべてを投げ 捨てて「真理」を求めることもあれば、熊沢のよう に苦悩しつつ社会との妥協点を探ることもあり、佐 那のようにもっと広い世界へ出ようとすることもあ るのだ。彼らの葛藤は私たちの葛藤であり、その葛 藤なくして「真理」はない。 本書は、二〇一八年八月に小社より刊行された単行本 を加筆修正のうえ、文庫化したものです。