独学の地図_荒木博行 序文 学ぶことは生きること  「これからのキャリアを考えた時、何を学ぶべき なのか?」  「どういう場所で学べばいいのか?」  私か20年以上ビジネスパーソンの学びや教育に携 わリ続け、そして自分が立ち上げた会社を「学びデ ザイン」と名づけたから、ということもあるので しょう。  このような相談を受け続けてきました。  「何を学ぶか」、もしくは「どこで学ぶか」という 問いは確かに気になります。  特に、これだけビジネス環境の変化が起こり、そ れをメディアが「これからは○○の時代」と煽る時 代に生きていれば、「だったら、その内容を学ばな きや」「誰の解説がわかりやすい?」といった考え が頭の中を支配していくのは必然でしょう。  しかし、そこでちょっと冷静になりましょう。こ れらの「何を?」「どこで?」の問いよりも遥かに 重要な問いがあるのです。それは「どう学ぶか」で す。 なぜ、同じことを学んでも大きな差がつくの か  私は大学やビジネススクールの場でも教えている のですが、同じことを伝えながらも、学びの結果に 大きな差が出てくる現実を目の当たりにしています。  ある人は何を学んだのかと問うても記憶にすら 残っていない。一方で、その場をきっかけに、新た な発見をして行動に移し、人生を具体的に変えてい く人もいる。  一コマの授業では微々たる差であっても、この差 は、積み重なっていけば大きな差となるのです。  この本で向き合う「どう学ぶか」という問いは、 学校のような「限定された空間における学び方」だ けの話ではありません。  学びというのは、非日常的な場所やコンテンツの 中だけで発生するものではなく、何気ない日々の中 に転がっているからです。だからこそ、「良い学び 方」は、「良い生き方」につながっていきます。  そして、その「学び方」の本質を理解すれば、先 ほどまで頭の中を支配していた「何を学ぶか」や 「どこで学ぶか」という問いは消え去っているで しょう。  なぜならば、「どう学ぶか」に対する手がかりを 得たならば、目の前にある日常そのものが学びの場 になるからです。  特別な場所に行かなくても、魅力的なタイトルが 付けられた講座を受けなくても、見方を変えるだけ で、新たな学びの扉は開いていくのです。  本書のタイトルは『独学の地図』ですが、あえて 「独学」という言葉を使っている意図も、その「学 び方」を強調するためです。私たちは、日々独りで 生き、そして独りで学んでいるのです。  もちろん、誰かと机を横に並べて学んでいること もあるでしょう。誰かに直接教えを乞うこともある。 その行為は一般的には独学とは言わないかもしれな い。しかし、教室でみんなと一緒に学んでいようが、 その内容を自分の世界の中に取り込み、内省して、 学びへと転換していくのは他ならぬ「自分独り」で ある以上、全ては「独学」なのです。  「地図」という言葉が意味するところもお伝えし ておきましょう。  一般的な地図は、他者が描くもの。しかし、「独 学の地図」は「自分だけのオリジナルの知の体系」 という意味で使っています。  立派な先人たちが描いた知の体系は至るところに 存在しています。たとえば、大学にある学部や学科 というのは、体系化された知の姿と言えるでしょう。  しかし、知というものは抽象概念であり形のない ものです。自分がこう考えると言えば、それもあり なのです。  大事なことは、自分が生きてきた足跡を振り返り、 何を学んできたのかを言語化すること。同じ人生を 歩んだ人などI人もいないからこそ、あなたしか描 けない地図が生まれてくるのです。  その「地図描き」に関する思想と技術を、本書で は「ラーニングパレツト」という名前で表現してお り、その作り方も持ち帰ってもらいたいと思います。  「なぜ学ぶのか」を最初に考えない理由  ここで、勘の鋭い方ならば、こういう疑問をお持 ちかもしれません。  「どう学ぶのかよりも、なぜ学ぶのかの方が重要 なのではないか?」と。  経営の文脈でも、「ギ耳」の重要性は常に語られ ることです。もちろん学びにおいても「なぜ私は学 ぶのか」という問いの重要性は語るまでもありませ ん。  しかし、「ギ耳」の問いは最初に意識しない方が いい、というのが私の持論です。「’ヽ’−i」の問いを 最初に追求すると、必然性のある学びしか目に入ら なくなる危険性があるからです。  たとえば、なぜかわからないけれど「デザイン領 域」に興味を持ったとしましょう。  そこで「ギ耳」の問いかけをすれば、学ぶ根拠の 希薄さを自覚して、行動を抑制してしまう可能性が あります。そんな問いかけを繰り返していると、ど うなるか?  それは、短期的かつ実務的に必要のあること以外 を学ばなくなることにつなかってしまうのです。  もちろん、必要のないことなら学ばなくたってい い、と思う人もいるでしょう。しかし、本質的に何 が必要になるか、ということすら私たちにはわから ないのです。  これだけ変化の激しい世の中で、「これから何を 学ぶべきか」という問いほど難しいものはありませ ん。だから、極端な話、理由は何だっていいのです。  面白そうだから学ぶ以上の理由は必要ありません。  そして、学んでいる過程で、「ひょっとして、自 分がデザイン領域を学んでいるのは、こういうこと を実現するためなのかもしれない」と後付けで気づ いていけば良いのです。  私か「良い学び方」は「良い生き方」につながっ ていく、と言うのも、ここに理由があります。  「なぜ生きるのか」という理由を最初に問うたと しても、それがわかる人は稀でしょう。多くの人は、 人生の終盤になってからようやく答えが見えてくる ものなのだと思います。  「ギ耳」がわからないステージで、無理にそれら しい理由を捻り出すのも一つのやり方かもしれませ ん。しかし、まずは自分の心が動くところに意識を 集中して、「ギ耳」が立ち現れることを辛抱強く待 つ。これが、本書の基本スタンスです。 20年間「人の学び」に携わってきた  では、私がなぜ学び方を語るのか、その背景を説 明しておきましよう。  私か「学び」や「人材育成」に携わるようになっ てから、二十数年が経ちます。  スタートは、新卒で入社した住友商事で人事部に 配属されたことにさかのぼります。  2000年当時、後述する「コーポレートユニ バーシティ」というコンセプトが流行り始め、住友 商事も「住商ビジネスカレッジ」を立ち上げること となりました。  その企画に現場担当者として携わっていた、とい うのが私の人材育成への最初の関わりです。  多くの育成現場を目の当たりにし、人が育つ、人 が変わる、という可能性に惹かれ、急成長中のク ロービスに転職したのが2003年のこと。ビジネ ススクールの教員という立場から多くのビジネス パーソンの成長に直接関与する機会を得て、「どう いう人が成長するのか」「学びの本質は何か」とい うセオリーの探索を、在籍15年の間行ってきました。  2018年には独立し、「学びの裾野を広げる」 というミツションのもと「学びデザイン」という会 社を立ち上げ、学びの場の設立や後方支援などを実 践しています。  2018年からスタートしたvoicy「荒木博行の book cafe」というチャンネルでは、読んだ本やゲス 卜対談を通した学びを日々、言語化して配信してい ます。  毎日30分程度、チャンネル開設から一日も休むこ となく4年以上継続してきました。この経験は、私 か「学び」を語る上で一つのベースになっています。  サービスとしての学びの場づくりという観点では、 株式会社フライヤーの「宍qgOΣSO」というコ ミュニティの存在があります。2019年の企画当 初から関わっていることもあり、読書を通じた学び のあり方を追求する貴重な実践機会となっています。  また、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部で 教えている経験も、本書の背景の一つになっていま す。  本学部は伊藤羊一氏が中心となって2021年4 月に設置された新設学部です。  ティーンエージャーである学生たちをいかにして 起業家精神を持つ人材に育てていくか。正解の型が ない中で、授業や学外活動を通じて試行錯誤を繰り 返す過程は、私にとって教育のあり方を探る一つの 実践機会となっています。  こうしてみると、私の20年を超えるキャリアは、 立場こそ変われど一貫して「人の学び」に携わって きたと言えます。  本書は、「大が学ぶとはどういうことか」という 長年の問いへの蓄積された暗黙知を、多くの方に役 立つように形式知化するための一つのチャレンジで もあるのです。 独学には3つの階層がある  それでは、その独学の全体像をここで紹介してお きましよう。  本書では、「どう学ぶか」の大きな問いに、独学 のための「行為」「能力」「土台」という3階層の構 造で答えていきます。  第1階層は、独学のための「行為」です。  具体的には、学びを深めていくために必要な行為 を「疑問」「差分」「他者」という3つのキーワード に集約しています。  この「独学のトライアングル」は、私か日々実践 しているものです。  そして第2階層は、その行為を支える「能力」で す。  この「独学のトライアングル」の行為を継続的に 実践していくためには、特定の力が必要になります。  本書はこの能力を「筋肉」というメタファーに置 き換え、「自己批判筋」「保留筋」「抽象化筋」「具体 化筋」「表現筋」という5つの筋肉として表現しま した。  「独学のトライアングル」の行為を続けていくた めには、これらの筋肉を鍛えるための「筋トレ」を 欠かすことができません。  最後の第3階層は、それらを下支えする「土台」 となるものです。  学びを継続的に行っていくためには、自分が何を 学んだのかを整理し、そして今後自分が何を学んで いくのかを定めていく「地図」が必要になります。  その地図を、本書では「ラーニングパレツト」と 表現しました。  この「ラーニングパレツト」の概念を通して、 ゴールに到達するための「手段としての学び」だけ でなく、ゴールを設定しない「目的としての学び」 の可能性を考察していきます(なぜ「ラーニングパ レツト」と命名したのかについては、第6章で説明 します)。  この3階層が、『独学の地図』の全体像です。  この「行為」から「土台」に至るまでの3階層を 理解し、実践できれば、身の回りにあるもの全てが 学びへと徐々に転換していくはずです。 既存の知識体系をあえて無視する  さて、序文の最後に、この「学ぶことは生きるこ と」を実践したロールモデルとして、レオナルドー ダーヴィンチを紹介します。  彼の突出した才能について、異論を挟む人はいな いでしょう。しかし、彼は丁寧な教育を受けて育っ てきたわけではありません。15世紀のイタリアの中 流家庭の非嫡出子として生まれたダーヴィンチは、 ほぼ独学で若き日々を過ごしたのです。彼のノート にはこんな文字が残されています。  私か教育を受けていないために、一部の口さがな い人々が「教養のない男」と批判するのはよくわ かっている。愚かなやつらだ’・(中略)彼らは尊人 な態度で闊歩するが、その知識は自らの努力で得た ものではなく、借り物にすぎない。(中略)私か書 物から学んでいないので、表現すべきことを的確に 述べる能力がないと言うのだろう。しかし私の専門 分野に必要なのは他者の言葉ではなく経験であるこ とを、彼らはわかっていないのだ。  『レオナルドーダーヴィンチ(上)』ウォルター・アイザックソ               ン著、土方奈美訳/文藝春秋  この文章からは、ダーヴィンチの悔しさとともに、 新たな学び方を自ら発見した自負を感じることがで きます。  彼は、当時のメインストリームであった中世の教 義やスコラ哲学を学ぶことがなかったために、「教 養のない男」と蔑まれました。しかしその代わりに 彼は、存分に「人生から学ぶ」という能力を磨くこ とができたのです。  もし彼が若き日に既存の知識に浸かっていたとし たら、彼のクリエイティビテイの才覚は花開かな かったかもしれません。既存の知識を効率的に習得 することは、必ずしも「良い学び」に結びつくわけ ではないのです。  特にこの変化の時代、既存の知識体系をあえて無 視して、ダーヴインチのように「体系なき人生から 学んでいく」ことにこそ、成長への道が開かれてい る可能性は大きいでしょう。  既存の知識をただコレクションしているだけの物 知りは、新たな変化に弱いのです。それよりも、今、 目の前にある出来事に対して五感をフルに開放して 経験してみることの方が良質な学びにつながるので す。  立派な場所で、立派な先生から教えを受けること だけが学びではありません。他者が設計し、わかり やすくパッケージングされた学習プロセスをたどる ことでもない。  学びは、極めて日常的なこと。私たちが生きるこ とと同義なのです。  だからこそ、もっと学び方、ひいては生き方を自 分なりに考えて、自分らしく生きていこう。そんな メッセージを本書で伝えられればと思っています。  では、学びの旅へようこそ。   その学びに 絃「問い」はあるか?  それでは、第1部の独学のための「行為」への理 解を深めていきましよう。  この本を手に取っているあなたは、資格取得や学 位取得を目指して、あるいは社内の選抜試験に向け て勉強しているかもしれません。  資格やテスト対策としての勉強には明確な目的が あります。それは、一定以上の得点を取る、もしく は単位を取る、ということ。この文脈で語られる勉 強は、「他者が定めた要件を満たすための手段」と して位置づけられます。  しかし学びには、忘れてはならない根源的な役割 があります。それは、自分の内なる疑問に答えるた めに学ぶ、知りたいことがあるから学ぶ、というこ とです。  あなたが今何かを学んでいるとして、その出発地 点には、答えを出したい「問い」があるでしょうか。 その「問い」は他者が定義したものではなく、自分 の内側から出たものでしょうか。  ここで自信を持って「べa」と言い切れないのな ら、その学び方にはまだポテンシャルがあると言え ます。  本章では、学びのスタート地点に「問い」を置く ことを考える独学法について、理解を深めていきま す。その中心にある「問い」とは、どういうものな のでしょうか。  そして、なぜ私たちは「問い」を忘れたり、疎か にしたりしてしまうのでしょうか。  その手がかりを得るために、まずは夏休みの「自 由研究」の振り返りから始めてみましょう。 自由研究が持つ本質的な意味  「自由研究」という言葉を聞いて、ポジティブな 印象を持つ人はそれほど多くないでしょう。振り返 れば、私も自由研究は避けたい宿題ナンバーワンで した。  40年前の遠い記憶をたどれば、小学生向けの雑誌 の付録にある「自由研究特集」のようなものを参考 にしながら、リトマス紙の実験を適当にした思い出 がかすかに残っています。  今でも書店に行くと、かつての私のように救いを 求める子どもたちのために「自由研究キット」のよ うな簡易ツールが販売されています。電気回路がわ かる豆電球のセットとか、液体と固体の違いがわか る実験セットとか、バラエティに富んだお手軽な ツールの数々が陳列されているのです。  なぜこんな虎の巻が生まれてしまうのでしょうか。  その答えはシンプルです。  それは、問いを立てることに慣れていないからで す。数ある宿題の中で、自由研究が異彩を放ってい たのは、「自ら問いを立てる」という点にあります。  読書感想文は、本を読む面倒臭さはあるけれど 「自分はこの本を読んでどう感じたか」という問い に答えれば良い。算数の宿題は、「3+5=?」「辺 ABは何センチか」という問いがあらかじめ立って いる。  夏休みの宿題に限らず、学校での授業や宿題は、 ほとんど先生によって考えるべき問いが決められて いて、期限内に答えを出しさえすれば良かったので す。問いを立てるのは先生の役割。自分はそれに答 える、という癖がついていたのです。  そのような中で、年に一度、夏に出される自由研 究の宿題は、最初に問いを立てなくては先に進めな い、という点で、明らかに使う筋肉が異なる種目で す。  「他者が立てた問いに答えを出す」という構図は、 大人になっても継続しています。  たとえば資格の勉強などはその典型ですが、問い そのものを立てる権利は自分にはないという意味で、 多くのビジネスパーソン向けの学びは「非自由研究 型」の範疇のものが圧倒的多数です。  しかし、問いの設定権を奪われた非自由研究型学 習は、言葉を選ばずに言えば、正直面自くありませ ん。私たちは与えられた問いに対して、賢く答えを 出すマシーンではないのです。  私たち以上に賢いスマートフォンというマシーン が手元にある今、他者が立てた問いの答えを素早く 的確に出すことにどんな意味があるのか。  そのようなことが頭にちらつき、問いがあらかじ め設定された学習へのモチベーションはますます湧 きにくくなっています。   一般論で考えても 絃’問ごの答えは出な゛  息子が小学校低学年の頃、「サッカーでベストな シューズは何か冫・」という問いの自由研究にチャレ ンジしました。  サッカー少年だった息子は、スポーツ用品店に 行ってばシューズを眺めているほどで、どのシュー ズがベストなのか、という問いは、当時の彼にとっ て人生最大のテーマでした。その興味・関心を宿題 の成果に転換できるのであれば一石二鳥ということ で、このテーマで自由研究に取り組んだのです。  しかし、まず、サッカーにおける「ベストな シューズ」つて何だろう? という壁にぶつかりま す。それって速く走れること? ドリブルがうまく できること冫………実は「ベスト」という言葉の定義 が難しいことに気づきます。  そして、「速く走れる」ことに注目するならば、 どういう条件で比較すると良いのか? という検証 方法の壁が新たにそびえ立ちます。実際にシューズ を履き分けても、50mを普通に走るだけではタイム に大きな違いは出ません。  だったらどうやって「速く走れる」シューズを評 価できるのか?  実際に売り場ではシューズの違いをどう表現して いるのだろうか?  ということで、店頭で話を聞きます。なるほど、 蹴ったボールの回転数ということも「ベストな シューズ」の条件になるのか。  これだけの要件があるということは、「一般論と してのベスト」というより、「自分にとってのベス ト」を明確にすることが、この研究の答えを出すポ イントだと思い至るのです。  ここからの学びは、たとえば将来的に訪れるであ ろう「ベストな大学はどこか?」「ベストな会社は どこか?」という選択にも生きることに気づかせま す。  これらの問いも、一般論で考えても永遠に答えは 出せません。  世の中にある多くの選択肢から選ぶという行為は、 自分の内側を深く理解しない限り、答えは出せな い……。  これも自由研究の思わぬ副産物です。入り口は単 なるシューズ選びだったのが、その先には人生論が 広かっていたのです。  このような試行錯誤を繰り返して仕上げた自由研 究は、彼にとって新たな「勉強体験」になったはず です。  他者に問いを立てられている電気回路のキットよ り、算数の宿題や漢字の書き取り課題より、よっぽ ど「時を忘れて楽しむことができた」という意味に おいて。  自分が知りたいと思うことを他者に干渉されず探 究できるというのは、何よりのエンタ上アインメン トになるのです。  独学を考えた時に大事になってくるのは、自由研 究のように「最初に自分で問いを立てる」というこ とです。  自ら良い問いを立てることができれば、探究欲求 が刺激され、外からのインセンティブや強制力に関 係なく追究し始められるからです。 問いはイシユーではなく、「疑問」で良い  この学習法を深めるために、「良い問いとは何 か?」ということを考えてみましよう。独学におい て良い問いの条件は、ズバリニ言。「その問いの答 えを本気で知りたいか?」ということです。  それさえ満たすことができれば、それは独学にお いては合格です。  私にとっての独学における問いの例をランダムに 羅列してみましよう。 ・ルネサンス時代にヨーロッパに生きていたら、ど  んな思考モデルを持っていただろうか? ・情報の消費スピードが速まる中で、スローな熟考  型の社会を作るためには何をしたら良いか? ・私か死んだ後、世界は存在するのか?  お気づきの通り、これらはビジネスや研究で立て る問い(=イシユー)とは異なります。イシユーは、 こんな緩くぼんやりとした問いの形のままでは許さ れません。  たとえば、問いに含まれている言葉をもっと具体 化させながら、「その問いに答えることに社会的意 義はあるか」「その問いは世の中にとって新しいか」 「その問いに答えを出すことは可能か」といった条 件は最低限満たす必要があるでしょう。  その視点で考えれば、私の独学の問いはツツコミ どころが満載です。  ”ルネサンス時代に生きていたら? 自分が死ん だ後の世界?  そんな問いに社会的意義はない’・ そもそもそん な問いは検証不能であり、答えを出すことはできな いIIj  。情報の消費スピードが速まる……冫・ それは本 当か? 何をもって速まると言っているのかっIと いった批判から逃れることはできないでしょう。  しかし、独学の際に立てる問いは、このような要 件を満たした「イシュー」ではなく「疑問」という 日本語がふさわしい。つまり、素朴に知りたい気持 ちくらいがスタートでいいのです。  独学という名の通り、自分だけで学ぶのですから、 誰にも迷惑はかけません。  余計なことを考えず、自分が知りたいかどうかに 素直になる。たとえそれが取るに足らない問いで あっても、すでに他の誰かが答えを出したもので あったとしても、自分の興味・関心を反映したもの であれば最初は何でも良いのです。   「疑問がない」状況を 絃   いかに打破するか  「イシューでなく、疑問レベルで良い」というこ とを伝えれば、「そこまで大袈裟に考えなくても良 いのか」と救われる人もいるかもしれません。  しかし、問いが立たないという問題は意外に根強 いものがあります。長らく問いの主導権を奪われて いた状態で過ごしていれば、「やっぱり自分には疑 問がない。独学に値するレベルの疑問が何なのかが わからない」と思いかねないということです。  いや待って、それも十分立派な疑問ですよね?  「独学に値する疑問とは何か?」という立派な疑 問が……。  このように、私たちの周りには常に目に見えない 疑問が浮かんでいます。周囲に空気があることに気 づかないように、疑問は意識しないと捕まえること ができません。  よく目を凝らせば、知識の周囲に面白い疑問がつ いていることに気づくはずです。  日頃私か意識しているちょっとしたコツを具体的 にお伝えしましよう。  まず真ん中に知っていることを置いてみます。そ してタテ軸は「対象」と「自分」、ヨコ軸は「過去」 と「未来」と定義します。そうすると4つのゾーン が出来上がります。 ソーンー(対象×過去)一それはどうしてこうなっ  たのか? なぜこうなった? ゾーン2(対象×未来)一それはこれからどうな  る? どうすべき? ゾーン3(自分×過去)一自分はどうしていたか?  なぜそうしていた? ゾーン4(自分×未来)一自分はどうなる? どう  すべき?  これらの4つのゾーンを踏まえて、真ん中に知り 得た知識を入れてみましよう。  たとえば、スポーツ用品店に行ったらサッカー シューズがいっぱい並んでいた、という状況があっ たとしましよう。普通は「ヘー、シューズがいっぱ い’・」と思って、それで終わってしまうはずです。  その時に、この知識をまずソーンー(対象×過 去)に入れてみると、たとえば「なんでこれだけの 種類のシューズが出ているのだろうか?」という問 いが立ちます。  ゾーン2(対象×未来)であれば、「今後、こう いうシューズのバラエティは増えていくのだろう か?」という問いが立つでしょう。  ゾーン3(自分×過去)では、「自分はなぜ今ま でこれだけの種類のシューズがあることに気づかな かったのか?」という問いになります。  最後に、ゾーン4(自分×未来)では、「自分は これだけある種類のシューズをどう選んでいくべき なのか?」という問いが立つでしょう(息子の自由 研究の問いは、ゾーン4の問いの延長になります)。  どんな平凡な知識であっても、その周りにはたく さんの疑問がくっついているのです。知り得た知識 からちょっとだけ右に左に、もしくは上や下に視線 をずらしてみる。  それだけで、自分にとって面白そうな疑問が見つ かる可能性は高まるのです。 それでも疑問が見つからなければ……動け!  しかし、このフレームはかなり概念的です。  「わかったようでわからない」と感じられたかも しれません。  もしそうであれば、残るアドバイスは一つ。それ は、まずは余計なことを考えずに動くこと。そして、 その後に振り返って自分の心が何に動いたのかを探 すこと。これ以外にありません。手足が動いていな いところに、疑問は生まれないのです。  その一例として、私か教鞭を執っている武蔵野大 学アントレプレナーシップ学部での授業をご紹介し ましよう。  ここでの教育的なチャレンジの一つは、学生たち に、自分の人生で追求していく問いを発見してもら うことにあります。  アントレプレナーシップ学部という名称の通り、 大事なのは「起業家精神」という精神性です。自分 でビジネスを立ち上げるという「起業家」だけを目 指すのではありません。  つまり、他者が出す問いに支配されることなく、 問いそのものを自分で定義し、自分なりのやり方で 問いを追求していく。  そのような世の中との向き合い方にこそ本質があ ります。  だからこそ、一つの授業に対するアプローチも異 なります。  たとえば、私は大学1年生向けに、「領域別テク ノロジー」という授業を担当しています。この授業 は、「教育業界」や「ヘルスケア業界」など、個別 の業界におけるテクノロジーの可能性に対する理解 を深めることが目的です。  本来であればそれぞれの業界のトレントや特性を 教員から生徒に教えることが期待されるでしょう。 しかし、私はほぼ教えることはしません。  では何をするのか? それは簡単なリサーチスキ ルと資料作成方法を伝えた上で、後は学生に自分で その業界を調べてもらい、その課題と可能性をプレ ゼンしてもらうだけ。リサーチとプレゼンの繰り返 しを重ねていくのです。  プレゼンの内容そのものは、それほど深いものに はなりません。まだビジネスが何たるかも十分に理 解していない大学1年生ですから、そこは仕方ない でしょう。本来であれば、そこは教員が教えた方が 早いのかもしれませんが、あえてそこは教えずに、 手を動かしてもらうのです。  ここで、教員である私の存在意義は、学生たちの 「疑問の発見」を手伝うことにあります。調べてい くと否が応でもいろいろな事実に触れることになる。  そうすれば、「これって何だろう?」「なぜこう なっちやっているのだろう?」「何でこんな簡単な 問題が解決されていないの?」という素朴な疑問が 湧いてくるのです。  意識しないとすぐに日常のノイズの中で消え去っ てしまうくらいのか弱い疑問です。  そんな弱い疑問が浮かび上がった時にしっかり言 葉にしてもらい、ちょっと形を整えて、その疑問を 承認して後押しする。これが教員である私の役割で す。 素朴な疑問は「壊れもの注意」  このようなシチュエーションで気をつけなくては ならないのは、いきなり「イシュー」を求めない、 ということです。  先ほど述べた通り、良い問いの条件は「その問い の答えを本気で知りたいか?」のみ。これを満たし ていればいいのです。  素朴な疑問でスタートしたとしても、その疑問に 本気で向き合っていけば、疑問はやがて「イ シュー」のように具体化され、社会性を帯び、先行 研究を踏まえ、そして検証可能な形に着地していく でしょう。  想像してみてください。子どもが「サッカーでベ ストなシューズは何かを調べたい’・」と言った時に、 「それをやるなら、その前にベストという言葉を具 体化しなきやダメだね」あるいは、「その前に、同 じ自由研究がなかったかどうかを調べてみようか」 と言われたら……。  おそらく大多数の子どもはそこで考えが止まり、 やがて自発的な探究が止まってしまうでしょう。 「難しそうだから、その問いはやめとくか」と思い、 「何かいい感じで答えられそうな適当な問いはない か教えて」と求めてくるのです。  私たちは自ら問いを立てるということに慣れてい ません。だから、素朴な疑問が頭に浮かんだとして も、それを外に出すことに躊躇してしまいます。  「この問いは、はたして良いものなのか?」  「この問いを追究することに意味はあるのか?」  「こんなレベルの問いを掲げるのは恥ずかしいこ とではないのか?」  「こんな問いは誰かが知っていることではないの か?」  疑問が浮かんだ時に、多くの人の頭の中ではこの ようなノイズが渦巻いているはずです。そんなノイ ズを追い出すためにも、素朴な疑問は「壊れもの注 意」として慎重に扱うべきなのです。  つまり、「興味さえあれば、それだけで良いの だ!・」と、無条件でそのまま受け入れるのです。  実際に大学の授業の現場でも、学生が主体となっ て、こういった疑問の発見作業を繰り返していくと、 やがて「あ、ひょっとしたら、これは面白いか も!」という疑問にぶつかります。そうすればしめ たもの。あとは猛烈に動き始めます。  「これを知るためには、何を調べればいいです か?」「このテーマでおすすめの本を教えてくださ い」。このように、自らオーナーシップを持って動 き始めるのです。まさにこれこそが、「独学のス イッチ」が入った瞬間でしょう。  つまり、何も疑問がない時は、とにかく手を動か し、体を動かしていくのです。  そして振り返りをしながら、疑問が自分の中で育 つのを待つ。これ以外に「疑問不在」の状況を解決 する方法はありません。 即今いる場を 崕白由研究の場に変える  しかし、この「疑問が見つからない」という悩み の本質は、残念ながら「疑問の見つけ方」を伝えた ところで解消しない場合の方が多いのが実情です。  この問題の本質は、どれだけ疑問を持とうとして も、それを打ち消してしまうだけの課題が上からど んどん降ってきてしまう、ということにあります。  平たく言えば、みんな忙しすぎるのです。  だから思うように手足を動かすことができず、素 朴な疑問はかき消され、イシューまで育だない。  そして、この状況で「人生100年時代だ’・」 「スキルアップだ’・」と大きな声で言われてしまえ ば、疑問なんてそっちのけで、「これからの時代は どの資格、どのスクールがいいのでしょう?」とい う学生時代に逆戻りしたような「疑問不在のお勉強 モード」に入ってしまうのです。  この根本的な状況を解消しない限り、本章で提言 する「疑問主導型の独学」は絵に描いた餅になって しまいます。  ではどう解決していくか。それは、今その場に 降ってくる課題の中に、自分が知りたい疑問がない かを探す、ということです。  つまり、「やらなくてはならないこと」の中に、 どうにも不思議に感じることを探していくのです。  イメージが湧きにくいかもしれませんので、具体 例として、多忙を極めていた社会人4年目の頃の私 のストーリーを紹介しましよう。  社会人4年目当時、私は最初に入社した総合商社 で、人事部にて人材育成を担当していました。3年 間担当した人事考課(評価)業務から部内異動した 直後の話です。  異動直後、私はいきなり「コーポレートユニバー シティ構想」に巻き込まれました。平たく言えば、 「会社内に学校を作れ」という大きな課題がいきな り私に降ってきたのです。  当時の社員教育といえばOJT(実務を通じた教 育)か、入社年次別研修などの階層研修くらいのも の。後は選抜したごく一部の社員の、海外ビジネス スクール留学や海外トレーニー(実地研修)制度な どの極端な施策しか用意されていませんでした。  しかし、徐々に転職市場が整ってきて、社員の キャリア意識が高まってくる中で、会社自身も、こ の会社でも十分スキルアップできるぞ、とわかりや すく社員育成の形を示す必要があった。その文脈で 持ち上がっだのが、この「コーポレートユニバーシ ティ構想」というものだったのです。  もちろん、そういう会社側のストーリーがあろう とも、私にとっては急に上から降ってきたタスクで す。そもそも異動自体が会社主導であったこともあ り、「意味不明な大きな仕事が降ってきてしまった なあ」という受け身の印象以外の何ものでもありま せんでした。  そんなモチベーションだからこそ、自ずと仕事は 「こなす」という姿勢になります。  研修講師のアテンドとか研修のスケジュール調整 とか、研修現場での司会とか……y』ゝついった数々の 細かなタスクをいかにそつなくこなしていくか。当 時の私はそれしか考えていませんでした。 こうして私は疑問の主導権を取り戻した  転機が訪れたのはその後まもなく、上級管理職の 経営戦略の研修現場に立ち会った時のことでした。 その研修現場の光景にちょっとした衝撃を受けまし た。  それは、講師からの「御社の強みは何だと思いま すか?」「その強みは戦略にどう活用されています か?」というようなシンプルな問いかけに対して、 参加者が一様にしっかり地に足のついた回答ができ なかったのです。  自分にとっては憧れの大先輩ともいうべき立場の 人たちが、まともに回答できない状況にショックを 受けました。  しかも、答えられないことに対して、ボヶながら 笑いに転換してごまかすような態度の人がいたこと は、さらなる追い討ちをかけました。亶]正面から学 びに向き合わず、決して真剣に取り組もうとしてい るようには見えない態度に、言いようのない違和感 を覚えたのです。  この人たちには知的好奇心がないのか? こんな 人たちが指導的な立場なのであれば、この会社に未 来はないのでは? と。  そして、その怒りに似た感情によって、「はたし て人は変化できるのか?」「知的好奇心を持って学 び続けるためには何か必要なのか?」という大いな る「疑問」が生まれました。  今から考えれば、かなり失礼で僭越な疑問だと思 います。必ずしも参加者に知的好奇心がなかったわ けではないでしようし、変わることや成長すること を放棄していたはずもないと思います。たまたま当 時の私の目にはそう映ってしまっただけのこと。  ただ、その認識の正否は置いておいて、若かりし 囗の私は、そのような疑問を持ったのです。  「どうすれば、人は変われるのか?」という 自由研究の課題  そこから社会人4年目、5年目の期間、私はコー ポレートユニバーシティの創設と運営に関する多忙 な業務をこなしながらも、その大きな疑問を追いか ける独学を続けていました。どうすれば人は変わる ことができるのか? という自由研究の課題を考え ることが仕事になったのです。  私はその2年間、寝食を忘れてこのテーマに打ち 込み、求められてもいないリサーチや社外ヒアリン グなどを行い、社内提案を行うようになったのでし た。  大袈裟に言えば、他者から疑問を与えられ続けて いた人生から、自分で疑問を定めて、その疑問に答 えるために必死に学ぶ、という「疑問の主導権」を 取り戻した象徴的なターニングポイントでもあった のです。  ちなみにこの話には後日談があります。私は結局 その「求められていない社内提案」においてことご とく失敗し(つまり社内で承認されず)、大いなる 挫折を味わいます。  今から考えれば、疑問の風呂敷を広げすぎてそれ を畳む実力が伴っていなかっただけのことなのです が、「この疑問の答えを出すためには、この場所は 適切ではない」と考え、社会人5年目が終わった夕 イミングで総合商社を飛び出したのです。  処遇などに一切の不満がなかった(むしろ恵まれ すぎていた)環境を捨てても、その自由研究を仕上 げたいと思ったわけです(実際に、次のキャリアは、 環境面では大いに劣るベンチャー企業のクロービス でした)。恐るべし、「疑問」の力。  さて、あらためてこの事例から私か伝えたかった ことは、自分が追いかけたい「疑問」は、意外と目 の前にある、ということです。  無理して遠くを見つめなくても良いし、キョロ キョロする必要もない。目の前に降り積もる「やら なくてはならないこと」をこなしているうちに不意 に訪れる怒りや驚き、悲しみといった強い感情の裏 側に、疑問は落ちているかもしれないのです。  そこに疑問を発見できれば、私たちは仕事をしな がら、自由研究的に独学に励むことができます。 か弱き疑問に囲まれながら過ごす  さて、この章の最後に、ちょっとばかり軽い話を しておきましよう。  時は経ち、疑問の主導権を取り戻した私は大きな 副作用に直面しています。  それは、追いかけたい疑問が多すぎる、という問 題です。おそらく自分が死ぬまでに、自分の疑問に いくつ答えを出せるのだろうかと考え、毎日絶望し ています。  だからといって、それらの疑問を忘れたくない。 その矛盾を克服するために、私はささやかな抵抗手 段として、本棚を利用しています。  つまり、何か疑問が浮かんだら、それに関係する 書籍を購入し、本棚に差しておくのです。そして、 余裕ができたタイミングでその本を手に取り、疑問 に向き合っています。  つまり、本棚を「疑問の一時保管場所」として活 用するのです。  そのおかげで大変な量の書籍に囲まれた生活をし ていますが、本棚から見える書籍の背表紙という、 疑問の物理的リマインダー効果のために、疑問その ものを忘れることはありません(電子書籍の場合は、 意図を持ってデバイスの中を見に行かなくてはなら ないので、リマインダー効果は薄れてしまいます。 なので、私は疑問の一時保管としては、紙の書籍に こだわっています)。  忙しい日々の中で、疑問というのは吹けば飛んで しまう、か弱き存在です。  何かのタスクが降ってくれば、後回しにされ、忘 れられてしまう不安定なもの。だからこそ、私たち は「疑問」が湧き上がってきたタイミングで、何ら かの手段を通じて形にして見える状態に保つ必要が あるのです。  多忙な状態を抜け出して、一息ついた時に、周り には追いかけたい疑問が多く視野に入っている。そ んな環境を意図を持って作ることも、独学を追求し ていく上では大切なことです。  さて、次章に進む前に、あらためて自分に問い返 してみましよう。  今、自分には答えを発見したい疑問はあるのか? と。  その疑問に、意味や価値を求める必要はありませ ん。自分が知りたいと思う。それだけでいいのです。  その疑問を中心に置き、その疑問に導かれるまま に調べてみる。  それほど幸せな勉強体験はないはずですから。 回多くの学びは単なる 崕’感想」に過ぎな゛  「学び」というのは、「誰かが設計してパッケージ 化したものばかりではない」、ということを序文で お伝えしました。では、「学び」の本質とは何なの でしょうか?  それは、匸冐で言えば「経験の前後の差分」です。  とある経験をする前の自分(A)と、その後の自 分(B)の差分(B‐A)こそが「学び」の正体に 他なりません。  そのような定義に対して、多くの人はそれほど驚 くことはないと思います。何かを学んだということ は、その前後で知識や実技の習得など、何らかの変 化があったということだと直感的に理解できるから です。  しかし、この新鮮味のない学びの定義も、実践の 現場ではそれほど当たり前ではありません。多くの ケースでは、前後の差分のないものを「学び」と 言ってしまっているからです。  私は企業内研修で講師として呼ばれる機会がある のですが、その研修が複数日程からなるシリーズも のだった場合、2日目以降で必ずやることがありま す。  それは、前回のセッションの学びが何だったか? という振り返りです。  「前回学んだことを発表してください」、そのよう な指示のもとに、実際に出てきた対話例を紹介しま しよう。  「前回のセッションからの最大の学びは、もう少 し自分に素直にならなきやいけないということでし た。いくつかワークをやりましたが、どうも自分を 取り繕おうとしてしまって、なかなか良いフィード バックをもらうことができませんでした。変に誤魔 化さずに、自分ができていないことはできていない、 という自己開示をしっかりやることは重要なのだと 理解しました」  さて、これは「学び」と言えるでしょうか?  参加者が、前回のセッションで刺激を受けたのは 事実でしょう。  しかし、先ほどの「経験の前後の差分」(B‐A) という定義に照らし合わせれば、このアウトプット は「学び」ではない可能性が高い。なぜならば、お そらく「自分に素直になった方がいい」とか、「自 己開示は重要だ」というコメントは単なるA、つま りこのセッションを受ける前から知っていたことの はずだからです。 既知の一般論で、学びの蓋を閉じるな  その発表内容は、言ってしまえば単なる「感想」 に過ぎません。  私の役割は、その感想を受け止めつつ、「経験の 前後の差分」を削り出していくことにあります。  したがって、「前回のセッションで初めて知り得 たことは何ですか。前回のセッションを受けていな かったら気づけなかったことは何なのでしょう か?」という問いかけをしていくのです。  発表者はその問いを受けて、驚いたような表情を 浮かべつつ、頭をフル回転させ始めます。  「そうですね。確かに素直になった方がいいとい うことは、一般論としては知っていました。今回の ワークでの差分は、自分がコンプレックスを感じて いるところでは意地を張ってしまう、ということで す。たとえば、業績のことを聞かれると、やっぱり どこか虚勢を張ってしまうんですね」  いい感じです。徐々にキーワードが加わって、差 分に近づいてきました。もうI押し。  「なるほど。ただ、コンプレックスを感じている ところは素直になれない、ということも、一般論と して知っていそうなことですよね。本当はもっと重 要な気づきがあったはずなのに、既知の一般論で上 書きしてはいませんか。今回のワークでの対話を思 い出してみてください。  業績について対話した時に、取り繕ってしまった のですよね。その時に何を考えていたのですか?」  発表者は思わぬ再々質問に戸惑いつつも、瞬間的 にその時の対話を振り返ります。  「そうですね。確かに、コンプレックスという言 葉で片付ける話ではなかったかもしれません。業績 の質問を受けた時に内心考えていたのは、業績が上 がらなかったのは自分のせいではない、ということ でした。確かに担当者は私でしたが、そのタイミン グで不可避な事故が起きてしまったのです。それに もかかわらず不当に上司から評価を下げられてし まって、それが悔しくて……」  あらためて発表者は振り返りながら、何かに思い 至ったような表情で、言葉をつなぎます。  「私にとって業績の件は、まだ気持ちの整理がつ いていないということだったのか。自分の中では、 過ぎたことだから忘れようと思っていたのですが、 根強く残っていたんですね。だから、その件に触れ られた瞬間、思考が定まらなくなってしまった。業 績の責任の件については、ちゃんと上司を交えて整 理をつけた方がいいですね」  この「自分は業績問題について、上司に対する感 情的なしこりが根強く残ってしまっている」という 気づきは、ワーク本来に期待された学びではないか もしれません。  しかし、本人にとって、ワークの前後の差分は明 確にそこにあった。だとしたら、それこそが貴重な 学びになるのです。  他方で、研修参加者の冒頭の発言にあった「自分 に素直にならなきやいけない」という言葉は、とて も響きが良いですし、ワークから期待されるような 学びの言葉なのかもしれませんが、それは単に知っ ていたことを語った表面的な「感想」に過ぎません。  こういう「それっぽい一般論」は、私たちの本来 の学びに蓋をしてしまうのです。  私たちが本気で学ぼうと思うのであれば、すぐに 忘れ去られてしまうような「それっぽい一般論」を そのまま放置してはなりません。  そういうきれいな言葉を排除して、知的な負荷を かけながら、裏側に隠れている「経験の前後の差 分」を削り出していかなくてはならないのです。   差分削り出しのための 絃「3ステップ」  この事例は、他者と一緒に学びを削り出していく 過程でしたが、本来はこれを一人の頭の中で行う必 要があります。たとえば、書籍を読んだ後など、私 は実際に一人でこの削り出し作業を行います。その ステップを整理してみましよう。 STEPI 素直に感じたこと(=感想)をアウトプット してみる  まずは、感じたことをそのまま吐き出してみます。 ここではどれだけアバウトな言葉であっても構いま せん。  刺激を受けたことを言葉に落とし込んでみましよ STEP2  「それっぽい一般論」がないかチェックする  そのアウトプットの中に、どこかで聞いたことの あるような「それっぽい一般論」はないか、確認し ましよう。「努力が大事」とか「自己開示が必要」 など、誰でも語ることのできる言葉です。  「それっぽい一般論」はたいてい、既知のもので あるため差分にはなりません。  何よりも「学んだつもり」にさせてしまう危険性 の高い言葉なので、しっかり認識しましよう。 STEP3  「自分だけの具体論」に変換する  「それっぽい一般論」を軸足に定めながら、それ は「自分にとって」何か新しい発見だったのか、と いうことを突き詰めていきましよう。  他の人が絶対語れないこと、昨日の自分でも語れ ないこと、つまり先はどの経験を経て、今この瞬間 の自分だけしか語れない具体論は何か、ということ を考えるのです。  この「自分だけの具体論」というのは、いろいろ な前提条件がついた形となり、それほどキヤツチー でもなく、無骨な言葉になるはずです。でもそれで いいのです。  それこそが、経験から抽出される学びの本質なの です。 日常の何気ない会話からの学び  具体例として、私の直近のちょっとした失敗事例 から、学びを考察していきたいと思います。  先日、プロジェクトを一緒にやっているクライア ントのとあるリーダーから、ふとした拍子に「私、 荒木さんから褒められたことがないんですよね。 やっぱり私はまだダメなのでしょうか」と自信なげ に言われた時のことです。  「またやってしまった……」。私はそう思いました。 私はあまり人を褒めることをせず、それがゆえにメ ンバーの自信を奪ってきたことを今までにも経験し てきたのです。  褒めようとするものの、どうもうまくいかない。 組織に所属していた頃は、360度評価で「自分に 厳しいが他者にも厳しい人」という評価を何度も受 けてきました。  もちろん他者を認めていないわけではありません。 この方も、とても素晴らしいリーダーで、私なりに それを伝えてきたつもりでした。  しかし、受け手がどう感じたかが全てです。私は、 知らず知らずのうちにダメ出しをしていたのです。  さて、ここからの学びは何か?  「他者を褒めることが大事」というのは、「それっ ぽい一般論」です。ここから抜け出す必要がありま す。  そこで思い至ったことがありました。  それは、私はポテンシャルを感じる人に接すると、 その人が将来的にどうなっているのだろうと勝手に 想像し、自分の中で像を作り上げてしまうのです。 そして、現在との差分に気づき、どうしたら良いの かを善意でフィードバックしてしまう。  この構図になると、言われた当人はずっと認めて もらえず、ダメ出しをされ続けているように感じる だろうなと気づきました。  つまり、私か見ていたのは、その人の「現在」で はなく「未来」の姿だったのです。  さらに、もう一つ気づいたことがあります。  それは、「そのリーダー自身がどう成長するか」 という属人的な観点よりも、「そういう『類』の人 がどう成長するか」という構造的な観点で見ていた、 ということです。  これは私の職業病的な側面もあるのですが、成長 の再現性を考えてしまうのです。  だからこそ、受け手は「この人は私という個人に は興味がないのでは?」と敏感に感じ取っていたの です。  その二つに思い至った時、冷や汗が出ました。  私は他者の「現在」にも、それから「具体的な個 大」にも興味がない大として、その人の目に映って いたかもしれないからです。  そういう大と一緒に仕事をしたいと思う大はいる でしょうか。  少なくとも私は嫌だと思いました。  しかし、私は、そういう振る舞いをしていたわけ です。  「未来や構造ではなく、かけがえのない個人の今 の瞬間を見つめること。そして、そこに興味の軸足 を持ってくること」  これが、この経験における私にとっての学び=差 分です。  これはまさに「自分だけの具体論」に他なりませ ん。  他者にとっての学びになるかどうかはわかりませ んが、それはどうでも良いこと。自分にとって、そ れが経験からの差分であるかどうかが何よりも重要 なのです。 学びの発見こそが成長である  この三段階のステップを、面倒くさいと感じた人 もいるでしょう。「学び」を得るのはそんなに簡単 ではありません。  しかし、このプロセスは時間にして10分程度です。 そして、その10分という時間の中で、自分の経験を 否が応でも振り返ることになります。  「あの出来事は自分にとってどんな意味があった のか?」  「あの経験をしなかった自分と、経験をした自分 の違いは一体何なのか?」  そんな問いに向き合うことを通じて、その経験の 意味をあらためて味わうことになるのです。  その後の効果の違いは言うまでもありません。  アバウトに「自分に素直になった方がいい」とい う感想で経験を終わらせた人と、10分かけて「業績 責任について上司と整理をすべし」という状態まで 言語化できた人。二人の間では、一つの研修参加と いう経験の意味も大きく異なることは想像ができる と思います。  この「差分の削り出し」の力が鍛えられている人 は、イベントや研修のアンケートコメントを見れば 一目瞭然です。  アンケートにある「何を学びましたか?」や「登 壇者へ匸冐あればお願いします」などの欄に書かれ ている言葉が、「今日はとても勉強になりました’・」 「刺激を受けました」のような「それっぽい一般論」 で終わってしまうのか。  それともその人しか語れない「自分だけの具体 論」まで行き着いているのか。  その違いは明確に出るのです。   些細な2ミリの 倥学びを削り出せ  この過程を丁寧に重ねていくことで理解できるの は、「大きな学び」というものはたいてい幻想に過 ぎない、ということです。  あなたが新入社員で、職場に配属された初日だっ たとしたら、目にするもの全てが学びになるでしょ う。初日はその学びの大きさに圧倒され、疲労困憊 したはずです。しかし、同じ仕事を10年続けていた としたら、一日の学びはどれくらいでしょうか。  ここまで長い人生経験を積んできた人にとっては、 真に新たなことを経験できる機会は少なく、ほとん どの瞬間が既知の枠内ということも言えるのです。  どんなに素晴らしい経験をしても、所詮は誤差の 範囲。「前後の差分」という意味における学びとい うのは大きくなりようがないのです。  しかし、それが「大きくならない」とか「誤差の 範囲」であっても、「全くない」ということではあ りません。  一日一日は異なり、一瞬一瞬のその経験には必ず 何かの変化があります。全く同じ経験があり得ない 以上、小さくとも学びを生み出す「差分」を見出す ことはできるのです。  私はそのニュアンスを伝えるために、「2ミリの 学びを削り出せ」という言葉を使いたいと思います。  「2ミリ」というのは当然比喩ですが、本質的な 学びというのは、それくらい些細なことなのです。 大仰な言葉で既知の感想を並べるのではなく、些細 だけど具体的な学びを重ねていく。成長とは、この ように「塵も積もれば山となる」という慣用句のご とく、日々の2ミリ程度の学びを積み重ねていくこ とに他ならないのです。 「負の感情」が起きた時は、学びを保留する  しかし、いつでも「2ミリの学び」を削り出せる わけではありません。学びを拒否してしまう心境と いうのは誰にでもあります。  そういう時は、無理して言葉にして取り繕うので はなく、一時の感情によって学びを変質させないた めの行動が必要です。その点を補足しておきましょ  皆さんは、感情がネガティブに振れる経験をした ことが少なからずあるでしょう。  たとえば、参加したイベントがつまらなかった、 とか、観た映画のクオリティが柢かった、とか、あ るいはライバルと思っていた人のプレゼンテーショ ンがとても良くて嫉妬の感情が湧き上がった、と いった経験もあるかもしれません。本来、このよう な経験こそ、「前後の差分」をしっかり削り出して、 次につなげたい場面です。  しかし、そのような経験は、「あんなプレゼンは 大したことない」とか、「自分はなんでダメなん だ’・」といったように感情論に終始し、示唆が得ら れなくなる可能性があります。  感情が高ぶるような経験、特にネガティブな感情 に囚われるような大きな経験は、「前後の差分」の 宝庫です。  しかし、心のあり方としては学びを得るのにふさ わしくありません。  感情が学ぶことを拒否してしまい、2ミリ単位の 微妙で繊細な「前後の差分」を削り出すことまで至 らないからです。  常に余計な感情を取り除いて、クリアな頭で学び に向き合うことができればそれに越したことはない のですが、人間はそんなに器用ではありません。  そのような中で、少しでもノイズを低減させるた めには、経験と学びの間にインターバルを作ること が重要です。つまり、経験をした後にすぐに学びに せず、あえて一拍(もしくは数拍)置くのです。  これには、もう一つの意味があります。ここまで、 「全ての経験は学びにできる」というニュアンスで お伝えしてきましたが、皆さんうっすらとお気づき の通り、実際にはそんなことはできません。  なぜならば、私たちの心と脳の間にはギャップが あるからです。  たとえば、何らかの経験をしたその直後には「何 かわかったようなわからないような、モヤモヤする 心境」だったことがあるはずです。特に、自分自身 の価値観を揺るがすような経験をした際には、「語 るべき言葉を持だない」という状態に陥ることもあ るはずです。  しかし、それなりの時間を経て「あの時の経験は こういう意味があったのか」と気づく。これは、心 にまだ頭が追いついていないからです。  そのようなケースにおいても、経験と学びの間に インターバルを設ける、ということは必要なのです。  ただ、インターバルをあければ、その分、経験の 瑞々しい記憶が薄れてしまいます。そこで、私かお すすめしたいのは、その経験についての事実をただ 描写して残しておく、ということです。  たとえば、イベントに参加したのなら、その時の 出来事を丁寧に描写するだけにとどめる。本を読ん だのだとしたら、そこで重要だと思った箇所を抜き 出すまでにしておくのです。  そこからの「経験前後の差分」という解釈は、そ の時点では保留状態にしておく。  そして、その経験の意味を深く考えられるような 環境になった時、もしくはその経験に意味づけでき るだけの言葉を獲得できた段階(多くの場合は、不 意に訪れるその瞬間)で、言葉にすればいいのです。 まずは、起きた事実だけをアウトプットする  学びの言語化の前に、起きた事実だけを書き残し ておく、ということは、自身の経験に対する観察力 を高めることにもつながります。  大きな衝撃を受けた経験の後は、たいてい感情と 思考がぐるぐると絡まり、その経験そのものをちゃ んと認識・定義することができていないからです。  たとえば、私は2018年に15年勤めていた会社 (クロービス)を辞め、それまでの立場を捨てて、 自分で新しい会社を立ち上げ、キャリアをリスター トしたのですが、その経験からの学びの言語化かで きたのはだいぶ経った後でした。  長らく会社勤めだった自分にとって、全てが一変 した環境について、当時は自分で語る言葉を持って いなかったのです。しかし、その時に実際に私の身 に何か起きていたのか、何を感じていたのか、とい う事実は欠かさず記録していました。  だからこそ、キャリア転換という経験が、時間を 経て差分としての「学び」という形に昇華されたの です。  また、私か毎日配信しているvoicy「荒木博行の book catejというチャンネルでも、経験と学びの間 のインターバルは意識的に設けるようにしています。  つまり、どれだけ感動した読書体験があったとし ても、すぐには収録せず、読後数日はあけるのです。 「すぐにこの感動を音声に吹き込みたい」という欲 求が湧き上がりますが、たいていその時には頭が心 に追いついておらず、繊細な「2ミリの学び」が大 雑把になってしまうからです。  したがって、読後の段階では、書籍の印象に残っ た箇所を丁寧に書き残すだけにとどめておく。そし て、読後数日経ったタイミングで、多くのノイズが 抜け落ちた時を見計らって収録に臨むのです。  この手法は、アート鑑賞の一つの手段である「ア ウトプット鑑賞」にも通じるところがあると思いま す。美術教師である末永幸歩氏が書いた『13歳から のアート思考』に、この「アウトプット鑑賞」につ いて書かれています。  自分の感覚器官を駆使して作品と向き合うことは、 「自分なりの答え」を取り戻すための第一歩です。 しかし、プロローグでもお伝えしましたが、「作品 をよく見る」ことは、意外と難しいのです。美術館 に行っても、タイトルや解説文だけに「答え」を見 つけ出そうとしてしまう人がほとんどです。(中略) 「アウトプット鑑賞」のやり方は至って簡単。作品 を見て、気がついたことや感じたことを声に出した り、紙に書き出したりして「アウトプット」すれば いいのです。     『13歳からのアート思考』末永幸歩/ダイヤモンド社  曰く、アートを見た時に、解釈して答えを出す前 に、まずそのアートを観察して事実をアウトプット せよ、と。  このメッセージにはとても示唆深いものを感じま す。  この言葉を今の文脈になぞらえて考えるならば、 「私たちは経験を十分理解しないまま、急いで答え としての学びを語ろうとしてしまう」ということで もあります。  だからこそ、いったん「学び」という要素は置い ておいて、しっかり経験そのものを見つめ直す必要 があるのです。学びに転換できない感情が湧き起 こってしまった時は、安易な「それっぽい一般論」 に逃げず、いったん経験を描写するだけにとどめて おく。  その姿勢が「自分だけの具体論」に近づくための 手段と言えるのかもしれません。  さて、本章では、独学のための行為として「差 分」というキーワードをお伝えしました。皆さんも、 この章を読む前と読んだ後で、「2ミリの差分」が 生まれているはずです。それを「自分だけの具体 論」で表現してみましよう。  そうすれば、この「差分」を通じた学習の意味が より理解できるはずです。   学びの本質に 絃触れた20分間  突然ですが、皆さんは本一冊を未読の状態からス タートして、どれくらいの時間で他者に語れるレベ ルまで落とし込めると思いますか?  この答えはもちろんその書籍の内容に事前にどれ くらい精通していたかなどの条件によって異なるで しょう。長くかかるものであれば平気で一年単位、 哲学領域にいたっては読み始めてから数年経っても 未だ言語化できないものもあります。  では最短時間は……冫・  私にとってはわずか20分でした。  それは今から十数年前。当時私か所属していた組 織のプロジェクトのボスは(囗本通の)外国人だっ たのですが、彼から「スタジオジブリのクリェイ ティビティの仕組みを知りたい。ついては、ジブリ について書かれた日本語の本はいっぱいあるだろう から、その中からピックアップして内容を報告して くれ」という依頼を受けた時のことです。  私はその依頼を踏まえて、すぐ鈴木敏夫氏の書か れた『仕事道楽 スタジオジブリの現場』という本 を購入しました。  しかし、私は大切なことを忘れていたのです。そ のボスが限りなくせっかちだということを。  私はその報告をI週間後くらいと見積もっていた のですが、3日後の朝、9時40分に彼から一通の メッセージが届きました。  「例の件、どうなった? 今朝10時からなら予定 が空いているので、すぐに報告しに来てくれない か?」  その時、私は出社途中で、ちょうど池袋駅から有 楽町線に乗ったところ。目的地である麹町までは約 15分。駅を降りてボスのフロアまで5分。つまり、 残りの通勤時間20分で、本の内容をまとめることに なったのです。  そこから、私の頭は急回転し始めます。  ボスがジブリをどこまで理解し、何に関心がある のか、ということをプロファイルしながら、何をど のような順番で報告するかということを考えます。 その時間、約2分。そして、有楽町線内の残り13分 を使って、『仕事道楽』に目を通し、語るべきポイ ントをピックアップし、自分の言葉に変換します。 気づけば麹町。慌てて降りて、フロアまでの5分で 頭を整理。そしてオンタイムで依頼内容をボスに報 告しました。  彼の反応は「なるほど、よくわかった。しっかり 調べてくれてありがとう」。  ボスの部屋から解放されたその時、時計は10時20 分を指していました。  ボスからのメッセージをもらってからわずか数十 分間。私は朝の短い時間の中で、学び方の本質に触 れた気がしたのです。 「独学」でも他者の力を積極的に借りる  その学び方の本質とは何か? それは「他者」が 持つ力です。  それまでは、いかに良い知恵を探し出すか、そし て探し出した知恵をいかに効果的に整理するか、と いうことが学び方の本質だと考えていました。しか し、それは本質ではありませんでした。  「他者」という存在が、学びを新たな次元に進化 させてくれるのです。  まず他者に伝えようとする時、私たちは少なから ず緊張感を覚えるはずです。  その緊張感が、自分のメッセージに磨きをかける ことになります。他者を意識するからこそ、短時間 で私たちの学びの内容は高度に編集され、結晶化さ れていくのです。  そして、アウトプットに対する他者からの質問も 大きな学びの材料です。  「ちょっと待て、その本ではクリェイティビティ をどういう意味で使っているのか?」  これは、その場でのボスからのシンプルすぎる質 問でした。こうした大事だけど当たり前すぎて見過 ごしてしまう「重要な盲点」を確認できるのも、他 者の存在あってこそです。  そして、他者が関わることには、必ずスケジュー ルが設定されます。  私のケースのように「あと20分」という極端なも のもあれば、「来週10時から」という時間軸のもの もあるでしょう。  いったんスケジュールが設定されると、私たちの 頭はその残り時間を逆算して、その時間内でつかみ 取れるギリギリの学びを得ようと働き始めます。  残りI週間だったらI週間なりの学びの総量を意 識して、そこに最適化した学びの獲得作業に入るわ けです。  冒頭の事例では、残り20分というタイムリミット を意識した時、直感的にこの時間内でつかみ取れる キーワードは2つが限界だと判断しました。  だからこそ、有楽町線の中でいきなりIページ目 から読むようなことはせず、目次にパッと目を通し、 (ボスにとって)重要そうな項目のトップ2は何か と考え、当該キーワードが書かれているページの内 容を頭に叩き込むという行動を取ったのです。  裏を返せば、スケジュールが設定されないという ことは、学びの総量が定まらないため「あれも、こ れも」と散漫になってしまう可能性があるというこ とでもあります。  他者が介在することで、スケジュールが設定され るからこそ、その逆算で学びの総量が定義される。 だからこそ、その総量を踏まえたメリ(リのある学 びを獲得する、という思考スタイルになるのです。 綰学びの囚果を   逆転させる  よく「学びたいけど、時間がない」という言葉を 聞きます。  先の経験をしてからというもの、私にとってこの 言葉はタブーとなりました。どれだけ短い時間で あっても、他者ヘアウトプットする機会さえ設定す れば「逆回転」の思考が動き出すのです。  こうして、新たな持論を獲得した私は、今度は意 図を持って他者との時間を設定するようになってい きます。  新しい疑問を持った時には、教えてもらったり調 べたりする前に、自分が主催する勉強会やプレゼン テーションの場などを設定してしまうのです。  つまり、まず真っ先に他者を巻き込むスケジュー ルを確定させる。そして、その場に向けて逆回転の 思考を同す。そして、他者からの質疑応答で出てく る「素朴な質問」に一個ずつ向き合っていく。  このプロセスを通じて、多くの知見は血肉化され ていきました。  今の私をご存知の方は、この経験こそが、 voicy「荒木博行のgO丁診」での音声配信につな がっていることをご理解いただけると思います。私 は、読んだ本からの学びは、必ずvoicyでリスナー に向けて配信し、いただいたコメントには全件返信 しています。  これはまさにリスナーという他者に向けたアウト プットの場を設けることで、頭を逆回転させ、コメ ントをもらうことによって「素朴な質問」を顕在化 させているとも言えます。私はこのような他者を巻 き込んだ独学法によって、本の内容を頭に刻み込ん でいるのです。  「なぜ4年もの間、毎日放送を続けられるのです か?」という質問をいただくこともありますが、そ の答えは「他者」の存在にあります。具体的に言う と、リスナーという他者からの期待値に、良い意味 で引っ張られているのです。  そして、それを自覚するからこそ、放送の中でリ スナーからの相談に応える場など、リスナー巻き込 み型のコンテンツを作り、継続できる仕組みを強化 しています。  このようなプロセスに他者を巻き込むからこそ、 自分の実力を超えた継続力を発揮できているのだと 思います。 語る覚悟をするからこそ、経験は学びへと転 換される  他者を巻き込んだ場を設定することに、常に怖さ を覚える人もいるでしょう。  「他者に話せるレベルではない……」  「他者に教えられることは何もない……」 という言葉が出てきてしまうかもしれません。  しかし、そこは認識をちょっと変えてみましょう。 理解したから他者に語るのではなく、他者に語るか らこそ理解するのです。  語る内容が浅くても、完成されていなくてもいい。 それは学びの過程に過ぎないのです。  この「他者」を通じた独学は、このように通常の プロセスを逆転させることで学びを加速させるやり 方なのです。  理解したから他者に語るのではない。理解するた めに、他者に語る。  この因果の逆転は確実に私自身を成長させてきま した。その力に気づいた私の別の経験を紹介しま しよう。  それは、私か社会人3年目にして初めて社内研修 で「講師」として登壇した時のことでした。  その研修は、配属前の新人向けの「文書実務講 座」であり、毎年人事部の若手が講師として登壇す ることになっていたもの。  人前で話すことに苦手意識があった当時の私に とって、1時間半の講座で話すのは大変な重荷でし た。何としてでも避けたかったのですが、「これは お前の仕事だ」と言われてしまっては仕方ありませ ん。渋々ながらも挑戦してみたのです。  結果は、我ながら酷いものでした。最初から緊張 してうまく喋れなかったのですが、質疑応答で辻褄 の合わない回答をしてしまってからは完全にペース を崩します。  「参加者はきっとつまらない研修だと思っている のだろう……」と妄想が膨らんで、言葉に力が入ら なくなったのです。壇上にいる時間は公開処刑のよ うな心持ちでした。  「一刻も早くここから逃げたい」という気持ちは 当然参加者にも伝わったことでしょう。そして、そ の研修は登壇者、参加者双方にとって、苦痛の時間 として終わったのです。  昨日まで先輩社員として偉そうに振る舞っていた 新人たちの前だったからこそ、余計に恥ずかしく、 悲しい経験となりました。  今振り返れば大したことのない話なのですが、い まだに記憶に鮮明に残っている、当時の私にとって はちょっとした事件だったのです。  本題はここからです。  どうも私は諦めの悪い人間のようで、その経験を 放置しておくことができませんでした。  そのまま黙っておけば何事もなく流れていく話を、 私は許すことができなかった。正直に言えば、誰か に陰で「文書実務講座はうまくいかなかったらし い」と言われることが嫌だったのです。  だから、これを「失敗事例」と位置づけ、部内の 定例会での新人研修の報告の際、「失敗経験から学 ぶ講師の極意」として伝えることにしたのです。 転んでもタダでは起きない  もちろん一度しか人前に立って教えたことがない 私か「講師の極意」なんて伝えることはできません。  しかし、こんな悔しい思いをしたからこそ、単な る失敗報告にとどめずに、何か新しい知恵をつかむ キッカケにできるかもしれない……。そんな思いで、 失敗経験を棚卸ししました。  もう20年以上前のことなので、私かそこで何を話 したのか、詳細は覚えていません。  しかし、明確に覚えていることは、「先輩が作っ た資料をそのまま使用するな」というメッセージで す。  なぜかと言えば、振り返った時に、私の最大の失 敗要因はそこにあったと気づいたからです。  当初、失敗の要因は、緊張して話し方がたどたど しくなってしまったから、とか、質疑応答がうまく いかずにベースを崩したから、と考えていたのです が、振り返って考えると本質はそこではありません でした。  では何かと言えば、先輩が作った資料の引力に負 けて、参加者のことをほとんど考えていなかったこ とにあったのです。  新人たちの参加前の状態も、終了時のゴールの状 態も考えていなかった。だから、配属前の実務経験 のない新人に、細かい文書実務的なルールのあれこ れを事細かに教えてしまったわけです。  当然、参加者の反応は鈍くなり、空気は重くなり ます。ここからバッドサイクルが始まっていきまし た。  その空気の重さに気づいて、慌てる。慌てて余計 なことを言う。余計なことに予想外の質問が入る。 その質問が予想外で、自分でもさらに予想外の答え をしてしまう。自分でも話しながらその答えのおか しさに気づく。慌てる……。という負のループに 入っていったのです。  このループに入ってしまったのは、喋り方が下手 だとか質疑応答の対応がイヶていない、ということ が理由ではありません。  全ては事前に思考投入すべきところを間違ってい た、ということなのです。先輩の資料を完コピして、 流暢に喋る練習をしている場合ではなく、もっと参 加者について想像しなくてはならなかったのです。  私は、このように報告のアウトプットを考える過 程で、人前に立つ前には「資料から考えるな。参加 者の終了後と開始前の差分から考えろ」という(超 当たり前なのですが忘れられがちな)学びに自らた どり着きました。  それは、定例会という緊張感のある場において、 ただの失敗報告ではなく意味のある報告をするため に知恵を絞り出したからに他なりません。  定例会の場での「他者」の存在を想像し、下手な ことは言えないという緊張感こそが、登壇までのプ ロセスを丁寧に振り返るという行為に導いたのだと 思います。  ちなみに、当時の私は知るよしもないですが、そ のわずか3年後にクロービスにて研修講師としてデ ビューを果たします。そして、その後も大学やビジ ネススクールで「教える」ということがライフワー クになっていったのです。  今振り返れば、あの研修講師の失敗、そして定例 会での報告というのは、私の人生を変えた大きな ターニングポイントだったのかもしれません。 綰他者が介在するがゆえの   「学びの創作」の危険性  この「他者」を通じた学び方のポイントには、他 者が介在するからこそ気をつけなくてはならないこ とがあります。その点を補足しておきましょう。  「他者の存在」の本質的な意味は何でしょうか?  その正体をもう少し具体的に定義するならば、 「他者の期待値」と言えるでしょう。他者が自分に 対して抱く「この人は何か重要なことを言ってくれ るのではないか?」という勝手な期待。  この期待を認知すると、私たちはそれを満たした いという欲求と、それを裏切るわけにはいかないと いう恐怖心が駆動し、結果、自分一人では到達する ことのできない場所に行くことができるのです。  これは、言ってしまえばモーターのようなもの。 だから、気をつけなければスピードコントロールが できずに、主導権を失って事故となってしまうこと もあります。  もし他者からの高い期待値をアウトプットによっ て満たすことができれば、それは自分の学びにもな り、そして他者からの評価にもつながるでしょう。 ここまでは良い話。しかし、たいていこれはI同だ けの話では終わりません。  この経験を経て、他者はより高いアウトプットを 期待することになり、自分もそれを満たそうと頑張 る。この期待値とアウトプットの交換サイクルは、 途中までは良き原動力となりますが、次第に人を蝕 む事態にもなり得ます。  当初は自分の学びのために始めたアウトプットも、 いつの間にか他者からの承認のためとなり、「自分 不在」の学びになってしまうのです。  自分が走っているのではなく、モーターによって 走らされている感覚。こうなってしまうと、学びの 質は劣化し始めます。  これは、私自身の経験に基づいた話でもあります。  20代後半の私には、社外にメンター的な存在の方 がいました。仕事の関係でお会いした方で、年齢的 にもキャリア的にも大先輩の方。そんな方がまだ経 験の浅い私をかわいがってくれたのです。  「お前、面白いことに気づくな」  たまに返ってくるその言葉を求めて、仕事上で気 づいた発見を嬉々としてアウトプットしていました。  しかし、そのメンターには一つの特徴がありまし た。それは人当たりがとても厳しく、そして口が悪 いのです。  大半のフィードバックは、「で、何か言いたい の? それをやって、気づきはたったそれだけ? ふIん、君がそれでいいんだったらいいんじやな い?」という突き放し。私はその言葉に焦り、どん なアウトプットを出せばこの人に認めてもらえるか ばかりを考えるようになっていったのです。  お気づきの通り、このモデルは途中までは成長に つながるものの、ある段階まで来ると破綻を迎えま す。プレッシャーから、メンターが気に入るような 学びを創作したり、自分の心にもないような言葉遊 びをしたりしてしまったのです。  こんなことをやってもプラスになるはずがありま せん。  メンターに会うことが苦痛になっていることに気 づいた私は、意を決してそのメンターの方から距離 を置くことにしたのです。  この時期、私はこのメンターの存在によって、一 人では手に入れることのできない大きな学びを得た かもしれません。  しかし、その一方で、承認欲求に操られてバラン スを失い、学びを創作するなど自分で自分に嘘をつ くことまでしてしまった。これは、自分に対する不 信感として、しばらく自らにダメージを与えました。  先ほど申し上げたように、学びとは2ミリ程度の 些細で繊細なものです。だからこそ、他者との関係 性には十分注意しなくてはなりません。  その他者が過度に自分より大きな存在だったり、 もしくは逆に過度に自分にへりくだってくる存在で も、良い学びは生み出しにくくなります。  それなりの緊張感がありつつも、いざという時に はしっかり言いたいことが言える、聞きたいことを 聞ける関係性にある人が、自分の学びに介在する他 者としてふさわしいのだと思います。 日常の些細な学びをアウトプットする「小さ な構え」を作る  幸いなことに、そんな学びのパートナーと言えそ うな人が身の回りにいたら、10111の定期的な ミーティングをやってみましょう。  学びをもたらす経験というのは、日々起きている ことです。だからこそ、定期的に対話できることが 望ましく、週一回、少なくとも月一回は繰り返して いくことが理想です。  もちろん、10111の関係にこだわる必要はあり ません。組織の中で定例勉強会などを開催する、と いうことも考えられるでしょう。もしくは、私か毎 日行っているvoicyのように、バーチャルの場にそ のような「他者的」な役割を期待することもあり得 ると思います。  大事なことは、最初はあまり大きく構えないこと です。  「海外出張へ行った」とか「事業でうまくいった」 といったような非日常的で大きなイベントではなく、 「本を読んだ」とか、「コミュニケーションで失敗し た」などの些細な日常的体験からの学びに対する受 け皿となる「小さな構え」の方が重要です。  いきなり大きな学びを生み出そうとすると、たい ていは息切れして長続きしません。何よりも、小さ な学びの場にすることは、学びは日常の些細なこと に隠れているのだ、というメッセージにもなるので す。  本章の冒頭では、私か当時のボスに対して鈴木敏 夫氏の『仕事道楽』のエッセンスを伝える場面を紹 介しました。  その時、私か当時のボスに報告したことの一つは、 「クリェイティビティは、ディテールから始まる」 ということでした。この本には、宮崎駿氏がどんな 大きな作品であっても、小さなディテールから作り 始めて想像を広げていく様子が描かれているのです。  作品作りは極端に具体的な細部から始まる。たと えば、それは、作品の人筋が見えないうちから、脚 本がまだ完成していないうちから、主人公が着る洋 服のデザインにこだわり、ヒロインの髪型にこだわ り、彼らの住む世界観にこだわる。そして、その類 と脚本は相互に影響を受ける。というか、作品の テーマは、作りながら見えてくるのだ。           『仕事道楽新版』鈴木敏夫/岩波新書  これは学びを生み出す過程でも同じなのかもしれ ません。日々の小さな事柄に学びの種を見出し、 「他者」と共有する過程でその種を育てていくこと。 それこそが、大きな学びとして実を結ぶのです。   行為のトライアンタルを 縷回していく  第1部では、「疑問」「差分」「他者」というキー ワードをベースに、3つの具体的な独学の行為につ いてお伝えしてきました。  ここまで読んだ方は、この3つの行為は決してバ ラバラに捉えることではなく、組み合わせて使うこ とにより効果が高まるということに気づかれたと思 います。  つまり、日常の中に何かの「疑問」を見つけてみ る。その「疑問」に答えるべく動いてみたら、その 動きの前後の「差分」を丁寧に抽出してみる。そし て、その差分について「他者」と対話してみる。そ の対話からまた新しい「疑問」が生まれる……。  このように、これらの行為のトライアングル中で サイクルを同していくことで、私たちの学びは高 まっていくのです。  3つのうちの最初の行為が定まっているわけでは ありません。  特段の「疑問」を持たずに仕事に励んでいること もあるでしょう。しかし、何かに失敗したような夕 イミングで、「この経験から自分が学んだことは何 だろう」と問い返してみて、そこで発見した「差 分」をきっかけにトライアングルを同していくこと もありだと思います。  重要なのは、学びは何か特別なコンテンツを視聴 することでも、お金を払ってどこかのカリキュラム を受けることでもない、ということです。  今、皆さんの目の前に展開されている時間や空間。 それらをこのトライアングルを回すことを通じて、 学びという形に変えていくだけのことなのです。  この視点で考えてみると、日常的な職場、そして ルーティン的に回っている業務であっても、学びに 縊れていることに気づくでしょう。  是非、この「独学のトライアングル」を実践して みてください。  最初は月一回くらいの頻度でいいので、一時間ほ ど自分だけのスケジュールを確保しましよう。そし て、一ヵ月のスケジュールを眺めながら、「この一 ヵ月で学んだことは何か?」という「差分」の問い を差し向けてみるのです。  慣れないうちは最初に自分から出てくる答えは 「それっぽい一般論」かもしれません。それでいい のです。そこから10分くらい時間をかけて自分の経 験に真正面に向き合えば、経験を経た自分にしか語 れない「2ミリの学び」が浮き出てくるはずです。  そして、徐々にその「差分」の感覚がついてきた ら、今度は勇気を出して「他者」を巻き込んでみる。 たとえば、同僚とランチの約束をして、その学びを 話してみるくらいの一歩でもいいでしょう。  その先には、もう少し仲間を集めて、自主的な勉 強会をやってみてもいいかもしれません。ここで 「他者」の数を増やすことで、学びは飛躍的に高 まっていくはずです。  そして、勉強会が終わったら、そのタイミングで 「今、自分が手間をかけてでも知りたいことって何 だろう?」と自問してみてください。勉強会でうま くいっていたとしても、うまくいっていなかったと しても、おそらくこの準備の過程で新たな「疑問」 がうっすらと浮かんできているはずです。  時間を取って内省しながら、その疑問が消えない うちに言葉に残しておくのです。そうすれば、やが てはその「疑問」をベースにして、「書籍を購入し てみよう」とか「あの人は何か知っていそうだから 聞いてみよう」というような自発的な自由研究がス タートしていくでしょう。 「独学のトライアングル」を日常に組み込む  このように「独学のトライアングル」を同すこと ができれば、それに優る学びはありません。心が ちっとも動いていないのに、焦って何かを学んだと ころで、それは苦痛でしかありません。  焦りを燃料にモーターを動かすのではなく、この 「独学のトライアングル」の初動を意識的に丁寧に 同していくのです。自転車の車輪のように、最初の 数回転ば力がいるかもしれませんが、回り始めたら、 後は慣性の法則で動いていくはずです。  それこそが、「学ぶことは生きること」になって いる状態です。つまり、「学ぶ」ということが日常 となり、学ぶことと生きることの垣根がなくなって いるのです。  そこには先生もカリキュラムも教材もありません。 授業料も不要。この「独学のトライアングル」を実 践するだけで、私たちの日常が、最高の学校になっ ていくのです。  しかし、実際にやってみるとわかりますが、この 行為はそれほど簡単なものではありません。ある特 定の「能力」が必要なのです。  そこで、第2部では、この行為を支える能力につ いて焦点を当てていきましよう。 ご時間をかけて「独学」に ミフィットした体を作る  第1部では、「独学のトライアングル」として、 学びに必要な具体的な3つの行為をお伝えしてきま した。しかし、行為を行うためには、ある能力が必 要になります。  たとえば、「差分」ということを意識して実践し てみようとしても、意外にその2ミリの差分を削り 出すことの難易度が高いことに気づくと思います。  概念としては理解できても、その実践は難しく、 さらに継続することはもっと難しい。この事実に気 づき、挫折する人もいるかもしれません。  「独学」の実践に対する簡単なソリューションは 存在しません。  少年野球で、なかなかボールが遠くに飛ばずに悩 んでいる子どもがいたとしたら、最も効果的で実践 的なアドバイスは究極的には「素振りをしろ」とい うようなことなのかもしれません。  もちろん、理屈も大事です。しかし、時間をかけ てその行為にフィットした体を作っていくこと抜き に、良い結果を生み出し続けることはできないので す。  そこで、第2部では「独学のトライアングル」に 求められる5つの能力をご紹介します。  これらの能力は、意識して反復トレーニングをす れば確実に力が伸びる、という意味で、筋肉に喩え ています。  そして、代表的な5つの能力は、腹筋や背筋のよ うに、どのような運動をするにおいても鍛えておく 必要がある大きな筋肉です。  では、これらの「独学筋」への理解を一緒に深め ていきましよう。 じ1−一間聞醐舉 し自分の中に他者を飼え  自己批判は、全ての行為において重要な筋力であ り、特に「差分」型の学び、及び「疑問」型の学び に求められる筋力です。  この筋力は、考えを深めるために必要なもの。考 えが深まるというのは、自己批判を重ねるというこ とと同義です。裏を返せば、浅い考えというのは、 この自己批判筋が頭の中で十分に機能していないた めに、出てきてしまいます。  もう少し具体的に説明しましよう。  仕事の効率を上げるために早起きすることが重要 だ、という意見があるとしましよう。  これに対して、「早起きすればいいのはわかって いるが、起きられない場合はどうするのか?」とい う対論を自ら挟んでみるのです。そうすると、「早 起きするために、早く寝るべき」という意見に到達 できるでしょう。  しかし、これに対しても「夜には約束が入ってい る関係で寝る時間をコントロールできない場合はど うするか?」という対論が可能です。  「夜の約束は遅くとも21時には切り上げる、とい うルールを同時にセットする」という意見になるか もしれません。  もちろん、これに対してもまだまだ対論は可能で しよう。ここで感じ取っていただきたいのは、初め に出した意見から対論を挟むことで徐々に実践的で 具体的な意見に変化していくということです。  Aに対してBという対論からCという意見。  そのCに対して対論Dを挟んでEという意見。  Eに対してFという対論でGという意見……。  というように、自己批判を通じてどこまでも掘り 下げることが可能なのです。  「差分」や「疑問」を通じた独学は、この自己批 判筋を最大限使うことによって、初めて意味のある 学習となります。  形式的に言葉を書けば良いというものではなく、 常に自分の考えはまだ深めることができるという意 識を持ち、批判的に向き合うことによって実現する のです。  では、この自己批判筋はどうやって鍛えるのか?  私かおすすめしたいことは、「自分の中に他者を 飼う」ということです。  自分が師と仰ぐ大、ちょっと変わった意見を言う 大など、自分にない視点を持つ人の発言をストック しておくのです。  そして自己批判の際、「あの大だったら何と言う だろうか?」という問いを向け、その発言を記憶の 中から引っ張り出してくるのです。  そこで登場する他者は、自分との関係が遠ければ 遠いほど良いでしょう。自分の中から異論を生み出 すためには、日常的に接している大ではなく、 ちょっと縁遠いくらいの関係が意味を持つのです。  ニーチェは『ツァラトゥストラ』でこう語ります。  俺が君たちに「隣人愛」をすすめる? いや、む しろ俺がすすめるのは、隣人から逃げることであり、 遠くの人を愛することだ’・(中略)  未来や、一番遠いものを、君の今日にとっての原 因とせよ。友だちのなかにいる超人を、君の原因と して愛することだ。  兄弟よ、隣人愛はすすめない。俺がすすめるのは 遠人愛だ。  『ツァラトゥストラ(上)』ニーチェ著、丘沢静也訳/光文社古                      典新訳文庫  自分とは価値観や距離感が遠い人たちの言葉をス トックしておく。それは友だちである必要はありま せん。過去の偉人でも、好きなユーチューバーでも、 場合によっては、実在しない小説の登場人物でもい いかもしれません。   いざという時に、自分の意見に真っ向から対論を 挟めるくらい、その他者が明確に存在していればい いのです。  裏を返せば、自分の中を覗いても、自分しかいな いという状態であれば、自己批判をすることはほぼ 無理だということです。日頃から自分とは異なる視 点や知見を持つ人を内部に積極的に取り込んでおく 努力が必要なのです。 ジー圜−』 い意味不明に向き合え  保留筋とは、物事の判断をあえて決着させず、宙 ぶらりんの状態に維持しておくのに使う力です。  これも全ての行為において共通ですが、特に「差 分」型の学びや「疑問」型の学びにおいて、活用す る筋力です。  何か問いを出されればすぐに答えを出す方が優秀 だし、その答えは黒白明快な方がベターである。そ ういう価値観は存在しますし、一面においてそれが 正しいこともあります。  しかし、その一方で、忘れてはならないことがあ ります。それは、学びは、後から少しずつ気づく ヶIスが多い、ということ。  その瞬間は何か学びだったかわからないものでも、 時を経て「あれはそういうことだったのか’・」と気 づいた経験は少なからずあるでしょう。  また、その時に持っていた感情が学びを阻害する こともあります。その瞬間でパツと学べることは、 実はそれほど多くはないのかもしれません。  それにもかかわらず、「すぐに明快な学びを導き 出さなくては」と焦ってしまうと、「ダメだ、何も 学べなかった」と考え、「意味のなかった経験」と いうタグづけをしてその経験のファイルを閉じてし まいかねません。それはあまりにももったいない。  だからこそ、「時間差」で発生する学びをやがて 迎え入れるために、保留筋を使って「まだ意味がわ からない状態」のままに記憶にとどめ続けることが 必要になるのです。  しかし、保留筋を弱めかねない学習ツールがあり ます。それは、短時間でわかりやすく加工された学 習コンテンツです。  今や多くの学習用動画コンテンツや音声コンテン ツが無料で気兼ねなく享受できるようになり、独学 でも何ら不自由のない状態になりました。  それらのコンテンツの便利さは言うまでもありま せん。  しかし、インスタント食品ばかり食べていては健 康を害するように、学びにおいても他者がわかりや すく加工・編集したものばかりを摂取することには 副作用もあります。  それは、消化に時間がかかる加工されていない題 材や複雑な事象を学びの対象として受け取る力がな くなってしまうことです。  保留筋を鍛えるための方法は、「複雑で意味不明 なコンテンツに向き合うこと」に尽きます。わかり やすさへの欲求から目を背け、あえて複雑で難解な コンテンツに身を投じる時間を作るのです。  今の時代に最適化されていない古典文学、わざと 難しい言葉を使っているのではないかと感じるよう な哲学書、何を描いているのかわからない抽象絵画、 非常に曖昧な詩……。  それらの意味不明さに向き合い、すぐに答えを求 めず、解説などを見ることもなく、自分の内側に抱 えてみるのです。おそらく、時を経て、予想もつか なかったタイミングで答えに巡り合うことになるで しょう。  その長い時間をかけてつかむ学びの経験が、保留 筋を形作るのです。  その鍛え抜かれた保留筋は、やがて独学の最難関 コンテンツの理解に役立つことでしょう。そのコン テンツとは、「自分の人生」です。  ご承知の通り、人生において、学びやすく教訓に 縊れた瞬間というのはそれほど多くありません。人 生は時に理不尽で、無味乾燥で、悲劇的です。しか し、それだからこそ、保留筋が求められるのです。  たとえば、長らく目指していた企業に就職するこ とができなかった時。受験に合格できなかった時。 そんな失意のタイミングに、「自分の人生はダメ だった」と総括するのは、あまりにも答えを早く出 しすぎでしよう。  そういう時こそ、日頃鍛えた保留筋を最大限活用 して、その答えをしばらく抱えておくのです。  そして、やがてふとした瞬間に、その辛い経験に 意味を見出すことができれば、それは他では得られ ないほどの大きな学びに転換していくのです。  卜1幽麗舉  レ ー見似ていない「似たもの同士」を探せ  「極楽浄土」と「船旅の道中」、そして「人間関 係」。この3つの共通項は何だと思いますか。  『枕草子』において、清少納言は、こう語ります。  遠くて近きもの 極楽。舟の道。人の中。       『枕草子』清少納言著、池田亀鑑校訂/岩波文庫  つまり、このランダムに並んでいるような3つの 事象でも、「遠いようで意外に近い」という本質部 分は同じということです。  極楽浄土は遥か彼方にあるように思えますが、南 無阿弥陀仏を念ずれば近い存在になる。足を使った 旅路はいつも遠いけれど、船を使えば思ったよりも 早く着く。そして男女の仲も、遠いようで知らぬ間 に恋に落ちている、と思えば遠くて近いものなので しょう。  このように、抽象化とは、物事の本質部分を捉え、 それ以外の部分は捨てることです。  言葉にすればこれだけのシンプルなこと。しかし、 この抽象化筋こそが全ての学びの手法において中心 的に使われる筋肉です。  たとえば一冊10万字の本を読んだとしましょう。 人の記憶のキャパシティには限りがあるので、その 本からの学びを、多くても1000字レベルまで凝 縮する必要があるでしょう。枝葉と思われる部分を 大胆に切り落とし、本当に必要な幹の部分のみを ピックアップすることになります。  これはまさに抽象化筋を使わなければできない芸 当です。  「差分」型の学びでも、「疑問」型の学びにおいて も然り。もっと言えば、私たちが日常生活を送るた めに、抽象化は不可欠な筋力です。  もしこの筋力がなければ、「雨が降ったら布団を 入れておいて」というメッセージすら伝えることが できないでしょう。  「雨が降る」「布団」「入れる」という言葉、全て 取っても、かなり抽象化された単語です。本来は 「雨が降りそうな雲行きになったら、降り始める前 に、ベランダに干している布団、枕、タオルケット、 毛布など寝具一式を、部屋の中にしまって軽く畳ん でおいてね」というくらいの具体的な言葉を使わな くてはいけないかもしれません(これでもまだ抽象 的)。  しかし、抽象化筋があるからこそ、大胆に枝葉部 分を切り落として、「雨が降ったら布団を入れてお いて」で済ませることができる。  タオルケットも毛布も「布団」という匸冐で乱暴 にまとめてしまっていながらも、それで違和感なく コミュニケーションしてしまっているのです。 「共通項発見ゲーム」で見かけに惑わされな い  このように、私たちの日常的なコミュニケーショ ンは、常に抽象化の要素が含まれています。そして、 私たちの日々の学びの現場では、無意識で使ってい たこの抽象化筋を意識的に活用する必要があります。  たとえば、自分が営業担当者だとします。とある 営業先で、商品説明に失敗して、残念ながら失注し てしまったとしましよう。そして、今度別の営業先 では、顧客の要望を誤解して失注してしまった。  それぞれの失注の理由は、商品説明の失敗と、顧 客の要望の誤解ということで異なります。しかし、 その2つの異なる失敗を「事前の準備不足という意 味で、同じ失敗を繰り返している」と見立てること ができれば、その学びの範囲は大きく広がります。  それぞれの失敗についての個別対策ではなく、 「本来営業で良い成績を残すためのあるべき準備と は何か?」という抽象度の高い問いが立ち、事前準 備を根本から考え直すきっかけにつながるからです。  よく飲み込みが早い人のことを「一を聞いて十を 知る」と表現しますが、それはこの事例のように数 少ない事例から、抽象化筋を使ってその本質を読み 取り、行動につなげることを指すのです。  では、この抽象化筋を鍛えるにはどうすればいい のでしょうか?  それは、一見違うもの同士の裏側に隠れた本質的 な共通項を見つけることを日常的に行うこと。これ に尽きます。  たとえば今、私は弓乱でこの文章を入力してい るのですが、「弓乱」と、その横にある「水筒」の 本質部分での共通項は何か。それは、持ち運びにく いものを持ち運ぶ、ということが挙げられます。  水筒は、液体という持ち運びにくいものを運ぶも のであり、弓乱は、データというこれまた持ち運 びにくいものを運ぶことができるツールであるとい うことです。  そう考えれば、一見全く異なるカテゴリーにある これら二種類の存在も、抽象化すれば「似たもの同 士」と言うことができる。  「ホテルのビジネス」と、「サッカーのビジネス」 であれば、同じ部屋や座席であっても、日付や時刻 が変わると全く価値が変わってしまうものを売って いるという意味では「似たもの同士」になります。  このように、パツと目に映ったものや頭に浮かん だランダムな2つのものの間に流れる共通項を無理 やりでもいいので考えてみてください。  この「共通項発見ゲーム」は、抽象化筋を鍛える 良いトレーニングになります。  そして、抽象化筋を身につけると、見かけに惑わ されなくなります。  たとえば、職場に年配男性の田中さんと、20代女 性の山田さんがいたとします。この二人を見た時、 私たちは見かけに気を取られて、根本から違うもの だというレンズで見てしまいます。  しかし、たとえば「成果に対する高いコミットメ ント」という本質部分では「似たもの同士」かもし れないのです。  裏を返せば、本質部分がしっかり合意できていれ ば、細部には多くの違いが出た方が、組織として面 白くなるでしょう。「パーパス」と「ダイバーシ ティ」という昨今よく耳にする言葉の真意はそこに あります。  つまり、「組織の存在意義」という抽象レベルで 共通項を確認し合うことが「パーパス」であり、そ して共通項があるという前提で、具体レベルで多様 性を広げていくことが「ダイバーシティ」なのです。  このように抽象化筋は、独学という範囲を超えて、 これからの社会を生きるための欠かすことのできな い筋力と言えるでしょう。 よy1闥一−― 仁繊細な違いにアンテナを立てろ  先はどの抽象化筋がつけばつくほど重要になるの が具体化筋です。抽象化筋が腹筋だとすれば具体化 筋は背筋のような筋肉。双方バランス良く鍛えるこ とが重要です。  行為で言えば、具体化筋は特に「差分」型の学び に関係があります。  「差分」においては、「2ミリの学びを削り出せ」 というキーワードをお伝えしましたが、この「2ミ リ」という些細な差分を見出すのに必要なのが具体 化筋です。  抽象化筋では「一見違うもの同士の見えない共通 項を探り出す」という内容の表現をしましたが、具 体化筋はその逆で、「一見同じもの同士でもその違 いを明確にする力」と表現できるでしょう。  たとえば、先ほどの営業の事例では「事前準備を 入念に行う」ということが抽象化された学びでした。  しかし、この学びを次の営業先に活かそうと思っ ても、そのまま100%同じ形で使うことはできま せん。一般的な事前準備のフォーマットを踏まえな がらも、その営業先に即した個別対応が必要になる はずです。  顧客の検討ステージによって、最初の会話の切り 出し方も違うはずですし、顧客の経営状況によって 質問内容も変わってくるでしょう。どんな営業先で も使える汎用化されたテンプレートも必要ですが、 一方でその場に応じた異なる対応も必要になってき ます。  このように「その瞬間だけの違い」を明確に見極 めて、その瞬間ごとの適切な対応をすることこそが、 具体化筋の役割です。  「瞬間ごと」という表現をしましたが、この表現 は具体化筋を考える上でとても大事なことです。  つまり、「同じ瞬間」は二度とないわけで、昨日 の学びは今日もそのまま使える状態ではない、とい う前提に立つということ。だからこそ、昨日との微 妙な差分にアンテナが立つわけです。  鈴木忠平氏の『嫌われた監督』という書籍の中に、 プロ野球中日ドラゴンズの監督時代の落合博満氏が、 番記者にこう語る場面があります。  ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所か ら、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめ て、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わ かるはずだ。           『嫌われた監督』鈴木忠平/文藝春秋  この観察を通じて微妙な違いを見出そうとする行 為。これこそが具体化筋の本質と言えるでしょう。  抽象化筋ばかり鍛えてしまうことの弊害は、世の 中の全てが同じように見えてしまうことにあります。 確かに同じホモーサピエンスであれば、ある視点で 括ってしまえば同じと言うことができるでしょう。  しかし、一方で一人ひとり全く異なる個体であり、 さらに言えば一日経てば昨日とはまた異なる個体に なっているとも言えます。この違いを見出すことは 具体化筋なくしてはできません。  抽象化筋と具体化筋は「バランスが大事」という ことを言いましたが、その真意はここにあります。 つまり、どちらかが過度に発達しては、ものの見方 が偏ってしまうのです。  では、この具体化筋はどう鍛えたら良いでしょう か?  それは、抽象化筋トレとは逆に、同じ、あるいは 似ていると見られるものの二者の間にある本質的な 違いを見つけることです。  手っ取り早いやり方としては、落合氏にならって、 ある人の変化を発見すること。  さすがに「昨日と今日の違い」レベルは難しいで しょうが、1ヵ月もあれば人間は内面のどこかが変 化をしているものです。  たとえば、自分の組織のメンバーなど、仕事に深 く関わる特定の人物に焦点を当ててやってみること は、その大物の理解にもつながり、一石二鳥になる はずです(私は抽象化筋が強すぎるのか、このワー クは本当に苦手で、いつも具体的な変化を見逃して しまいます)。  「同じように見えて、この世に同じものは何一つ 存在しない」。この前提で世の中を見直してみると、 世の中はより具体的に見えてくるはずです。 卜− 卜心動かされる表現を模倣せよ  学びに必要な最後の代表的な筋肉は、表現筋です。  これも全ての行為に関係しますが、特に「差分」 型の学び、「他者」型の学びに多用する筋肉です。  誰もが自分の内面に、モヤモヤした状態の感情や 考えなどを抱えているはずです。しかし、それをう まく表現する術がないために、他者と心の底からの 意思疎通ができない。  それがゆえに不安や不満を抱えている人も多いの ではないでしょうか。  この書籍の中で言う「表現」とは、主にテキスト ベースで書くこと、もしくは音声を通じて話すこと を前提にしていますが、イラストや絵、音楽、踊り などの身体表現などもこの表現筋には含まれます。  たとえば、人生の目標を見失って、心ここにあら ずでただぼうっとした時を過ごしたことは誰にでも あると思います。その時の心に穴が空いたような心 境をどのように表現するでしょうか。  かの『金閣寺』で三島由紀夫は次の表現で主人公、 溝口の心境を表現します。  草に坐って、数時間も、こまかい赤土を運ぶ蟻の 巣の営みを眺めていたこともある。蟻が私の興味を 惹いたのではない。学校の裏手の工場の煙突があげ る薄い煙を、永いこと見呆けていたこともある。煙 が私の感興をそそったのではない。……私は自分と いう存在に首までどっぷり浸っているような気がし た。外界のところどころが冷え、また熱していた。 そうだ、何と云ったらいいか、外界が斑らをなし、 又、縞目をなしていた。自分の内部と外界とが不規 則にゆるやかに交代し、まわりの無意味な風景が私 の目に映るままに、風景は私の中へ闖入し、しかも 闖入しない部分が彼方に溌剌と煌めいていた。             『金閣寺』三島由紀夫/新潮文庫  表面的な動作は全くない状態であっても、心の内 面はとてもせわしなく動いている。一方でその姿を 他者から見れば、単に虚ろであり病的にすら感じら れる……。そのような状態を、三島由紀夫は「内部 と外界」が「ゆるやかに交代」と絶妙な表現をして いるのです。  どうやったらこのような表現に行き着けるのか私 にはわかりませんが、しかしこの時の溝口の不安定 で繊細な心境を、手に取るように感じられるように 読者に伝えるのです。これこそが、表現筋の真骨頂 です。  「他者」を通じた学習法の成果は、この表現筋の 鍛錬度合いが大きく影響を与えます。  自分が考えていることを適切に表現できれば、他 者からも良いフィードバックをもらうことができま す。  しかし、どれだけ内面で深く考えていたとしても、 それを表に出すことができなければ、学びにつなが るようなリアクションを期待できないでしょう。  たとえば「あなたはどんな仕事をやりたいの か?」という問いがあった時に、「すごい仕事をし たい」という程度の表現しかアウトプットとして出 せなければ、どん詰まりになる可能性があります。 表現が粗すぎて、手がかりが少なく、対話する気を 失わせる可能性があるからです。  そこに、「レオナルドーダーヴィンチのように複 数領域にまたがって成果を上げるくらいのすごい仕 事をしたい」という表現が加わったとしたら、少し だけ対話が深まるかもしれません(相手次第ではあ りますが)。  これはやや極端な例ですが、最初にどれくらいの 言葉を添えることができるかによって、私たちの思 考の深まり方は変わってくるのです。  では、このような表現筋はどのようにして鍛える のでしょうか。  一つは、他者の優れた表現を徹底的にストックす ることです。もし自分にお気に入りの書き手がいる ならば、その人がどんな表現をしているのかしっか り記録しましょう。  テキストベースで残っているならば、その表現を 書き残すことをおすすめします。私は「これは’・」 という表現に出会った時は、常にその表現をタイピ ングをしながら記録しています。  書籍の該当箇所の写真をデータとして撮るという ことも可能ですが、あえてタイピングしているのは、 ちょっと面倒な作業をすることにより、いざという 時に引用できるように脳内に引っかかりを作るため であり、後から検索可能な状態にするためです。  そしてもう一つ大事なことは、ストックした表現 を使ってみる、ということです。  気に入っだ表現を引用する、もしくはちょっとア レンジして使ってみる。そのようなことを繰り返す ことにより、徐々に自分の内面の感情と表現をつな ぐ線が太くなっていきます。  この感情と表現をつなぐ太い線の数が増えれば増 えるほど、自由な表現が可能になり、自分ならでは のユニークな表現も可能になるのです。 独学筋を鍛えるのに「遅い」ということはな い  さて、今のあなたの「5つの独学筋」は、どれく らい発達していると思ったでしょうか。  おそらく、今までどんな環境にいたかによって、 鍛えられてきた筋力は異なり、そのバランスも人に よってそれぞれでしょう。  大事なことは、自分の中でバランスが悪く弱い筋 力は何かを見定めることにあります(たとえば、私 は「具体化筋」が欠けていると認識しています)。  そして、その筋力に狙いを定めて、日々意識的に 鍛えることです。いきなり全部を鍛えようとせず、 特定の筋肉に絞って、一歩ずつで良いのです。  第2部では、求められる能力を「筋肉」というメ タファーを使用して、お伝えしてきましたが、筋肉 と違うところは、その能力のピークはかなり遅い時 期に来るということ。  肉体的な筋力であれば20代がピークかもしれませ んが、この「独学筋」のピークは50代、60代、はた またそれ以降なのかもしれません(少なくとも40代 の私は、確実に成長実感があります)。  トレーニングを始めるのに遅いということはあり ません。スポーツは若いうちに始めていないと厳し い競技が多いですが、独学筋のトレーニングはあな たが何歳でも大丈夫です。  この機会に、一緒に筋トレを始めましよう。 ゜゛「Jフーニンダ。(レ″卜) ぐとは何か  本書では、第1部ですぐに実践できる独学の「行 為」、そして第2部ではより長い時間軸で鍛えてい く「能力」をお伝えしてきました。  そして第3部では、中長期的視点で整備していく 「土台」について考察を深めていきます。  ここで言う「土台」とは、自分が今まで何を学び、 そしてこれから何を学んでいくかを整理するための 「モノの見方」です。  さて、そのための大事なキーワードとして、 「ラーニングパレツト」を最初にお伝えしておきま す。  パレツトつて、あの絵の具を混ぜるやつ? と 思った方、正解です。私たちが学んできたことを、 パレットに乗った絵の具のようなものと見立てるの です。  そうすれば、多くの学びを揃えていく意義や、そ の学び同士をミックスしていくことのイメージがし やすくなるでしょう。パレット上に豊かな色彩を取 り揃えることができれば、必要なタイミングで、繊 細でピンポイントな色合いを生み出すことができる のです。  私たちのパレットには、過去の学びを通じて、す でに多くの絵の具が揃っています。しかし、残念な がら現時点で何色の絵の具があるのか、どんな配色 の傾向があるのか、多くの人は無自覚です。  だから、まずは過去を振り返ることで、このパ レット上の絵の具のラインナップを理解することか ら始めるのです。  そして、そのバランスを見ながら、パレットに足 していきたい色を考えていく。つまり、過去を踏ま えて、自分がこれからどんな学びが必要なのか、と いうことを考えるのです。  これこそが、この第3部で語る独学の「土台」に 対する答えになります。 キャリア像の賞味期限が日に日に短くなって いる  このパレットという概念は、西山圭太著、冨山和 彦解説『DXの思考法』(文藝春秋)にヒントをも らっています。  同書籍によれば、かの伝説のレストランのエルブ ジは、食材とテクニック、そしてソースの組み合わ せを「メンタルパレット」と呼んだそうです。  エルブジでは、いきなり具体的な料理を考えるこ とをせず、まずは食材やテクニック、ソースをそれ ぞれ独自に磨き上げ、最終的にそれをその場の状況 に応じて組み合わせていき、クリエイティブなメ ニューを生み出していたのです。  メニューに関係なく、素材を整理して用意してお き、状況に応じてそれを組み合わせていく。  エルブジの「メンタルパレット」の概念について 読みながら、これが私の表現したかったことだと膝 を打ちました。  ビジネスパーソンが何を学ぶべきかを考える際に 必ず聞かれる問いは、「あなたは将来何になりたい のですか?」「あなたの志は何ですか?」というも のです。  まずは自分が行き着きたいキャリアビジョンを明 確にすることから始まり、そして現状を比較するこ とで、必要な学習項目を明らかにしていく。  この「あるべきキャリア像」‐「現状の能力」= 「学ぶべきターゲット」という構造は、ビジネス教 育の現場でよく語られることです。  しかし、このアプローチはもはや厳しいと言わざ るを得ません。  なぜならば、そのロジックの出発点となる「キャ リア像」の賞味期限が日に日に短くなっているから です。  かつてのキャリアステップは、ヒエラルキー型の 組織構造に入り、徐々に上を目指していくというこ とが典型でした。  まずは係長、課長に。やがて部長になり、その次 は、というわかりやすいモデルがありました。  だからこそ、課長を目指す人は、課長になるため の要素をブレイクダウンし、自分にはまだ会計知識 が不足しているから会計を学ぼう、というように、 欠けているものを補っていくわけです。  そのように学習項目を決めていくことは、わかり やすいし理にかなっていました。  しかし、今やその考え方の根幹がいくつかの理由 で揺らいできています。  一つ大きな要因を挙げるとすれば、それは「D X」という言葉に代表されるようなビジネスモデル そのものの構造的変化にあります。  もしビジネスモデルが変わってしまえば、言うま でもなくその組織の切り方、括り方も変わり、今ま であった「××課」という組織も消滅します。 流動的な社会に適応できる「ラーニングパ レツト」  このようなダイナミックな変化を目の当たりにし た時、今までのように課長を目指し、その能力要件 をブレイクダウンして、その欠けた能力を長期間に わたって補っていく、という時間軸は、キャリアプ ランを考える上でリアリティを失っているのです。  数年先のあるべきキャリア像から逆算して学ぶべ き内容を考えるアプローチは、ビジネスが安定的で あり、組織が固定的であれば通用する考え方でした。  社会がそうでなくなったのであれば、そのアプ ローチそのものを変えなくてはなりません。  では、どうするか?  その答えが、先ほど申し上げた「パレット」の概 念なのです。パレットがしっかり整理されているか らこそ、後付けでクリエイティブなメニューが生ま れてくる。  これがエルブジにおけるメンタルパレットの本質 だとすれば、学びをわかりやすく整理しておくこと こそが、その後のキャリアを後付けでクリエイティ ブにしていくことにつながるのです。  最初にキャリア像を決めて、逆算で学ぶべき内容 を調達するのではありません。そのスタイルはこの 流動的な社会には適応しにくい。  なるべきもの、なりたいものは後からひらめいて きます。だから、その時のために、今はパレットを 整えておく。  これが、メンタルパレットという概念からヒント を得た「ラーニングパレット」のコンセプトです。  「パレット」として見るW冫【のテクノロジー プラットフォーム  ちなみに、この「ラーニングパレツト」という概 念を経営戦略レベルで実現しているのが、ポストー イットGノートでおなじみの、J?[です。  J?[は自社のテクノロジーを材料・プロセス・機 能・デジタルーアプリケーションという5つのカテ ゴリーに分類し、それを「3Mテクノロジープラツ トフォーム」として定義しています。  このプラットフォーム上のテクノロジーを自由に 組み合わせることで、社会や人々の課題を状況に応 じてユニークかつ迅速に解決ができるのです。  このテクノロジープラットフォームによって、要 素の組み合わせが可視化され、自在にクリエイティ ブなソリューションを生み出すことができるように なります。  素材を整理し、柔軟にクリエイティビティを発揮 する。次の図そのものからも「パレット」的なニュ アンスを感じるのではないでしょうか。  私たちも、このような形で学んできたことの要素 を整理することができれば、ユニークなキャリアを 生み出せるようになるのです。 首経歴は「名詞」ではなく 匸「動詞」で理解せよ  しかし、過去の学びをラーニングパレット化する 工程は、それほど簡単ではありません。  多くの人は、今まで自分が何を学んできたのかを 構造的に整理しておらず、そもそも何を学んできた かに自覚的でもないからです。  実際、もし面接の場面で「あなたは人生から何を 学んできましたか?」と質問を受けたら、まともに 答えられる人は少ないでしょう(むろん、この抽象 度の質問は誰にとってもきついですが)。  もちろん、経歴書に記載する所属や肩書きの推移 はありますが、その推移は決して自分自身の学びを 正しく表すものではありません。  特に、肩書きはその言葉から想起されるメッセー ジが強すぎるため、パレットに落とし込む際にミス リードになることすらあります。  そのような難しさを踏まえながら、過去の経験を パレット化するアプローチについて順を追って説明 したいと思います。  「この3年間で、私は何も経歴として語れること がないのですが、何を書いたら良いのでしょう か?」  これは、とあるセッションで、「過去3年間を振 り返って、その経験を棚卸ししてきてください」と いう課題を出した時に出てきた質問です。  もし経歴を書くことを考えるならば、所属や立場 が変わらなければ、書くことがないというのはその 通りかもしれません。  しかし、学びを棚卸しする上で大事なのは、肩書 きではなく、経験です。  肩書きを「名詞」とするならば、経験は「動詞」。  もし肩書きが何一つ変わらなかったとしても、 日々その肩書きの下で多くの経験を積んでいるはず です。  この「動詞」という言葉は、故クレイトンークリ ステンセン教授の『イノベーションーオブーライ フ』でこのように出てきます。  履歴書を比べれば、A氏の圧勝だった。彼には 「正しい資質」があった。彼の経歴を形容する言葉 は、B氏の比ではないほど華々しかった。しかしそ れだけをもって、彼を適材と判断することはできな い。もしわたしたちが二人の履歴書の過去形の動詞 に注目していたなら、B氏が圧勝していたはずだ。 なぜなら彼が経験の学校で適切な「講座」をとって きたことが、履歴書に歴然と示されていたからだ。  『イノベーションーオブーライフ』クレイトンーM・クリステ    ンセン、ジェームズーアルワース、カレンーディロン著。                   櫻井祐子訳/翔泳社  ここでクリステンセン教授が語っているのは、自 分自身の採用時の失敗談です。つまり、過去の肩書 きが立派なA氏と、実は経験豊富だが肩書きの見栄 えはそれほどでもないB氏から一人を選ぶ際、肩書 きという名詞に目が眩んで失敗してしまった……と いう話です。  経験というのは、何らかの課題意識に基づき解決 策を考察し、他者を巻き込みながら実行に移し、結 果を踏まえて次の課題意識を形成していく、という 一連の動きです。  これをクリステンセン教授は「動詞」と表現した わけですが、たとえば「執行役員○○部長」という 「名詞」の下にはこの「動詞」が数百も数子も存在 するはずです。  しかし、名詞の力は強く、そして動詞は無数に定 義できるので、多くの人は、わかりやすさを求めて 過去を名詞的に意味づけしてしまうのです。  こう考えると、先述した「語れる経歴がない」と いうメッセージの裏側には、名詞的なモノの見方の 強さを感じるでしょう。つまり、履歴書に書くよう な「名詞」がない、ということなのです。  言うまでもなく、ラーニングパレットで必要にな るのは、動詞的に語る経験です。  どんな課題にどうチャレンジしたか。そう考えれ ば、今日一日だけでも、目を凝らして見れば動詞的 経験に縊れていることに気づくでしょう。  たとえば、「営業担当者」という肩書きを元に、 営業先にITツールを提案しに行くという日常的な 行動は、社会的課題をテクノロジーによって解決す るための仮説検証をしている行動と意味づけられる かもしれません。  名詞的肩書きは「営業担当者」と平面的に固定化 されたものですが、動詞的経験とは「どんな課題に 向き合い、どう足掻いたのか」という動態的な情報 なのです。  「考課担当者」という名詞の裏側にある、動 詞的経験  名詞から動詞化する、ということをもう少し具体 的に考えてみましよう。  その事例として、私か社会人になった時の最初の 名詞である「人事部考課(評価)担当」を動詞的経 験として深めてみます。  考課担当とは、5000〜6000人いる全社員 の人事評価を取りまとめて、正しく反映していくこ とが役割です。その作業によって、全社員の給与や 賞与額が決定し、給与担当の作業によってそれが各 自に支払われるというフローでした。  この「考課担当」という名詞から、私かどんな動 詞的経験をしていたと想像するでしょうか。  人事制度を具体的に運用すること? 人の評価の 全体最適化を行うこと? もちろん大きく見ればそ ういう側面がなかったわけではありませんが、本質 はもっと異なる活動でした。  考課業務は、担当者が私を含めてわずか2人。そ して各現場から手書きによる5000〜6000人 分の評価を、全社調整を経てデータベースに入力す るまでのリードタイムはわずか2週間程度しかあり ませんでした。  隕られたリソースと時間の中で、いかにしてミス をせずに評価を正しく入力できるか、考課業務の勝 負はその点にありました。  当然のことながら、その期間は問答無用の長時間 労働となります。会社に寝泊まりしながら、手書き の評価を操作性が劣悪な入力専用のPCを通じて データベースに打ち込み、一人ずつミスがないか チェックするのです。  今となっては信じられないレベルの生産性の悪さ ですが、時代は1998年4月、まだ2000年に 入る前のことです。多くの作業で人力を前提としな がら、その一方で「人の一生を決めるかもしれない 評価なので、一件でも人カミスがあっては一大事」 というプレツシャーのもと、仕事に向き合っていた のです。  さて、あらためてそこでの動詞的経験は何だった のか?  つまり、1998年4月当時、私は何に足掻いて いたのか?  それは、「ミスなく入力を完遂するために、いか にしてメンタルコンディションを安定維持するか」 ということでした。 社会人一年目の洗礼、「仕事ができない」に直 面した時  社会人になりたての私は、電話やメールの作法に も慣れず、一つの作業をこなすだけでも人一倍時間 がかかる始末。周囲の皆さんにも迷惑をかけ、お叱 りを頂戴し、迫り来る入力期限を前に精神的にも追 い詰められていきました。  実際に当時私は、ネクタイを外しているにもかか わらず、まるでネクタイをし続けているような首へ の違和感が消えないという心身不調を覚え、精神科 に通院するほど心のバランスは崩れていたのです。  私は学生時代からラグビーをやっていたこともあ り、体力や精神力には自信があったのですが、それ とは全く異なる疲労感、焦燥感でした。  そして、そこで感じたことは、「人は簡単に無能 になる」ということです。  そんなメンタルコンディションだから、集中力も 続かず、信じられないようなケアレスミスを連発す るようになります。  自分がチェックしたはずの箇所から、ミスがボロ ボロと見つかってくるという我ながら不思議な状態 でした。つまり、普段では当たり前のことすらでき なくなっていたのです。  そうなってから、精神的な厳しさは一層強くなり ました。社内で誰かと誰かがこちらの方を見ながら 立ち話をしている姿を見ると、「あ、これは自分が 仕事ができないことを噂しているのだ」という被害 妄想を持つようにすらなっていたのです。  環境が変わるだけで、人間はかくもダメになるの か。そして「仕事ができない」と自己認識した当事 者の視点から見える世界というのはこれほどまでに きついのか……。  後から冷静になって振り返って、その残酷な事実 にソツとしました。  今考えれば全ては些細なことであり、「何を大袈 裟な」というレベルのことなのですが、当時はそれ が世界の全て。  幸いなことに、仕事中におかしな言動をし始めた 私の危うさに気づいた先輩にフォローに入ってもら えたことで、最初の考課担当としての山場を乗り切 ることができたのですが、あの4月の配属からゴー ルデンウィークが明けた5月中旬までの密度の濃い 経験はいまだに忘れることがありません。 経験を棚卸しし、言語化する  さて、私かその経験から学んだことをあらためて 整理するならば、こういうことが言えるでしょう。  「どれだけ体力や精神力に自信があったとしても、 環境が変われば私という人間は些細なことで崩れ る」  「メンタルが崩れていくと、私は自分のことを客 観視できなくなってくる。だから、自分がどれだけ 危ないのか、正しい判断ができなくなる」  これらの「メンタルマネジメント」的な学びは、 決して「考課担当者」という名詞からは直接は想像 できないでしょう。しかし、この苦しい経験を経て 獲得した学びは、私のパレット上に乗っかった最初 の「絵の具」だったのです。  もちろん、「考課担当者」として、評価に関する 人物観も学びました。それも参考までに記載してお きましょう。  当時、評価については同じ部署の同等級者内での 相対評価で決定していました。  管理職I級ではAIという最高評価が付けられる のは(たとえば)5%まで、というような枠が決め られているのです。だとすると、どれだけ結果を残 した大がいたとしても、同等級者内でもっと良い業 績を上げた大がいれば相対的にAIは取れない、と いうことになります。  そして、その業績も本来は統一的な基準で比較で きるものではありません。新規事業を立ち上げて1 億円売上を上げた大と、既存の取引で100億円の 売上を上げた人のどちらの業績の方が素晴らしいで しようか。最終的には評価者の主観に委ねるしかあ りません。  つまり、その人が何をどういうプロセスでやった かという複雑な情報はごっそりと抜け落ち、「AI」 という記号だけが絶対視され、その記号によりその 後の異動や昇格などの人事施策が決まっていってし まうのです。  「人にはそれぞれの良さがある」といったリベラ ルな人物観を持っていた私でしたが、不思議なもの で、入社後すぐにその評価の現場に立ち会い、評価 の会議で記号的な人物評を見聞きしていると、あっ という間に記号的な人物の見方に染まっていきまし た。  そして、人事として社員の評価を知り得る立場だ からこそ、その人物と接する前から「この山田さん はこんな評価を得てきた人だから素晴らしい人に違 いない」と考えたり、逆に「この人はこの程度の評 価歴だから、大した人ではない」と思ってしまう自 分がいたのです。  我ながらとても貧相な視野だと思います。この自 分自身の人物観の貧しさに気づき、それが学びとし て昇華されるのはこの環境を脱してからのこと。  裏を返せば、環境が変わらなければ私はこの見方 を根本から変えることができなかったということで す。  この経験から私か学んだことは、「他者に明確な 記号が貼られている時は、どうしてもそれに引っ張 られてしまう。だからこそ、記号から人を見ないよ うにすべき」ということであり、そして「記号を見 る際は、その記号が決まる組織内のプロセスも併せ て理解すべし」ということでした。  これは考課担当業務という人の評価に関わる仕事 だったからこそ、パレット上に加わった絵の具だっ たと思います。 ういざ経験をパンツトに 匸落とし込んでみょう  さて、ここまでの事例で、動詞的に経験を捉える ということのイメージは湧いたでしょうか。  実際にやってみるとわかりますが、経験はすぐに ラーニングパレットに乗る「絵の具」になるわけで はありません。経験と向き合うためのコツがありま す。  本章の最後に、そのポイントについて整理してお きましよう。 POINTO 経験の前後の「差分」を考える  まず大前提として、第1部でも伝えた「差分」を ベースに考えてみましよう。  パレットに揃えるものは、きれいな表現で整理さ れた「それっぽい一般論」ではなく、本当にその経 験をしたからこそ伝えることができる「無骨で生々 しい具体論」です。 POINTI 経験の具体的な日時・期間を定義する  差分を意識しながら経験を振り返る際に大事なこ とは、過去を抽象的に捉えるのではなく、具体的に 考えることです。  具体的にとは、日時を設定して、その時点にさか のぼる、言い換えるならば、ぼんやりと過去を後ろ 向きに眺めるのではなく、その経験をする前の具体 的な時点に立ち返って、もう一度前を向いて経験に 臨む、ということです。  先ほど紹介した私の経験で言えば、「考課担当時 代」とぼんやり定義するのではなく、「1998年 4月下旬〜5月中旬までの経験」と具体的に区切っ たところから経験の棚卸しはスタートしています。  具体的に日時を区切れば、たとえ二十数年以上前 のことであっても、うっすらとその時点の景色に立 ち戻ることができる。もしその景色に立ち戻ること ができれば、その当時、自分が何に足掻いていたか、 何に追われていたか、何に苦しんでいたか、という ことを思い出せるはずだからです。  しかし、期間の具体性がない経験の振り返りは、 漠然となり、「あの頃は辛かった」程度の印象論に なりがちです。その手の印象論からは、輪郭のはっ きりとした学びにつなげることは難しいのです。  ちなみに、この時に役に立つのが日記やメモの存 在です。  私か今でも学生時代や二十数年前の過去の学びを 明確に定義できるのは、メモを残しているから、と いうこともあります。無理に日記をつけろとは言い ません(私もつけていません)。  しかし、印象的な事件やイベントがあった時は、 第2章の「アウトプット鑑賞」でもお伝えした通り 将来の学びのために、何か起きたのか、ということ を具体的に書き残しておくことは重要です。  今からでも遅くはありません。将来の自分に向け て、起きた事実を書き残しておく習慣をつけておく ようにおすすめします。 POINT2 大胆にノイズを削り落とす  私か最初に具体的に設定した考課担当の期間は、 1998年4月下旬〜5月中旬でしたが、その間で 学んだことはもっと他にもあったはずです。  そして、それ以降の期間の学びもあったはずです が、そこまで振り返ると時間がどれほどあっても足 りません。私かこの期間に定めたのは、配属後間も ないタイミングで、多くの「差分」があったからで す。  ちなみに次の「差分」を生んだ経験は、そこから 1年以上経過した1999年6月のこと。  「評価をフィードバックすべきでない人にフィー ドバックをしてしまった事件」についての経験です。  そこまでの1年間、多くのイベントがありました が、「差分」として明確な学びが切り出せるものだ けに大胆に絞り込んでいます。  その絞り込んだ経験から、当時の立場に戻り、具 体的な学びを抽出していくのです。  そうすることで、不純物の含まれない、ビビッド な色合いの「絵の具」が生まれてくるはずです。 POINT3 学びに正解はなく、変化するものだと考える  もう一つ大事なことは、経験からの学びに単一の 正解はないという認識を持つことです。  過去をどう意味づけるのかによってその学びはい かようにも変化します。  こういう経験をしたのであれば、こういう学びが あるはずだ、という固定的なものはありません。  そして、今はこれを学んだと思っていても、また 別の経験を経ることによって、その学びの意味は変 化するのです。  たとえば、私の1994年2月の経験を振り返っ てみましよう。  私は当時高校3年生。そして、入学から3年間続 けたラグビー部を引退していたタイミングでした。 そんな時に、校内でラグビー部顧問の先生とばった り出会ったのです。  この先生は、(当時は標準的な、でもとても過酷 な)スパルタ指導をされる方であり、ラグビー部に 在籍していた3年間はとても厳しく辛い指導を受け てきました。しかし、最後の大会では期待以上の戦 績を残すことができたという、まさに体育会的青春 ストーリーで引退していたわけです。  そんな怖かった先生が、会うなりこう話しかけて きました。  「新チームは相当やばいんだよなあ。今年は弱い かもしれない。特に、荒木みたいな気が利く選手が いないのはきついんだよなあ。お前、もう一年やら ないか?」  現役時代、面と向かって褒められたことがなかっ た私は、その匸冐をもらって有頂天になりました。  「僕は気が利く選手として見られていたんだ’・」 と。そして、その先生の発言を受けて得た「苦しい 思いを乗り越えようとする姿は、言葉には出さなく ても誰かが見ていてくれるのだ」という学びは、こ の高校生活の苦難の結果として手に入れた勲章とし て、その後の私を支え続けてきました。  しかし、この学びは十数年の時を経て変質します。 きっかけは、いつも組織内の権力者の顔色をうか がって、その権力者からの評価こそが全てだと認識 している自分に気づいたことです。  そんな自分の姿に嫌気がさし、そしてそのルーツ には高校時代のこの学びがあったことに思い至るの です。当時の私は、先生の言葉により、自分のそれ までの行為が認められたという充足感と達成感を覚 えましたが、それは他者によって自分の価植が決め られる、ということでもありました。  私は、そこから他者主体の価値観になってしまっ たことに気づかずに、その学びを踏まえて、その後 のキャリアにおいても「権力者からの承認」を求め 続けるようになっていたのです。  長い時を経て、あらためてあの1994年2月の 学びを振り返るならば、「強い権力者からの想定外 の高い評価は病みつきになり、その後の価値観を狂 わせる可能性がある」と意味づけられるでしょう。  パレット上に乗っかった絵の具の色は、別の経験 を経て大きく変わったのです。  このように、その後の経験によって学びの色は柔 軟に変わっていきます。色彩は時間とともに変化し ていく。そういうものなのです。  さて、本章では、これから何を学ぶべきかを考え るために、過去の経験を学びに変えていくことの意 義をお伝えしました。  次章では、パレットに散乱した絵の具たちをどう やってぃ冫{のテクノロジープラットフォームのよう に、構造的に整理していくか、ということへの理解 を深めていきます。  この整理ができれば、やがて自分がどの色を欲し ているのか、つまり、自分がこれから何を学ほうと 思っているのかが見えるようになるでしょう。 シ構造は ≪思想を表す  私は10年以上の期間、ビジネススクールの運営に 携わっていました。  その中で一つ学んだことがあります。それは、 「カリキュラムマップ」というのは、競争戦略上の 最大の武器である、ということです。  カリキュラムマップという表現形態は、複雑に入 り組んでいるビジネススキルやナレッジを、どのよ うに捉えているのか、そして人がどう成長していく と考えているのか、という根幹の思想が明確にわか るからです。  たとえば、ナレッジを「ヒトーモノーカネ・情 報」といった獲得できるナレッジ視点での切り口で 整理することも可能ですし、「知る・深める・やっ てみる」というようにその定着プロセスで見ること も可能です。その軸の取り方は無限にあります。  しかし、平面的な二次元のマップとして表現する ならば、その無限にある軸の取り方のうち、タテと ヨコというたった2つの軸しか示すことはできませ ん。  だからこそ、その学校が何を優先しているのか、 ということが浮き彫りになるのです。  もちろん、このことはビジネススクールに限りま せん。  たとえば新人研修や新任管理職研修の全体像など も同じ。  ナレッジというものは無形であり捉え難いからこ そ、どうタテ軸とヨコ軸で作る構造を定めるのか、 その組織の思想が如実に表れるのです。  その観点で、とても知的刺激を与えてくれる一冊 があります。  それは、松岡正剛氏が監修された『情報の歴史』 シリーズ。紀元前7000万年からスタートし、初 版『情報の歴史』は1995年まで、新版『情報の 歴史21』は2020年までの歴史が、「情報」とい う切り口で編集された歴史年表です。  ここで注目すべきは、軸の取り方です。タテ軸は、 歴史年表として当然ながら時系列。一方でヨコ軸は 何かというと、その年代で特筆すべきテーマを5つ に絞り、その5つのブロックをベースにして、時代 の流れを描いているのです。  たとえば1945年はどういうブロックに分かれ ているかというと、「世界大戦の終結」「オートメー ション」「生命にひそむ意味」「システムとその敵」 「未来への皮肉」の5つ。  直近の2020年は「米中対立」「データ経済の 攻防」「Huヨ弓J‐つ」「ポストートウルース」「混交と 消滅」という5つのブロックです。  この見方そのものを批評できる能力を私は持ち合 わせていませんが、複雑極まりない世界の流れを大 胆に5つのカテゴリーに分けるからこそ、浮き上 がってくるストーリーがあるのです。  このカテゴリー分けこそ、『情報の歴史』の価値 と魅力の一つと言えるでしょう。  松岡正剛氏は、新版あとがきでこう語ります。  青年時代のころから、そういう「旅をする年表」 をつくりたいとおもってきた。実際にも人学ノート 6冊ぶんをつぶし、少しずつ年表づくりをしていた。 本を読んだりするたびに事項を記入するという方法 だ。当時は、ノートの項目区分を「空間と時間」 「戦争と革命」「資本と市場」「科学と技術」「都市と 人間」「運動と表現」「言葉と身体」「光と音」「媒体 と事件」というふうに分けた。ただし、世界の現象 も日本の現象もともかく一緒に書きこんだ。世界史 と日本史を分けることだけはしたくなかったのであ る。  ところが、自分の関心のある時代ばかりに記入事 項が集中して、そこはたちまち真っ黒になるのに、 いつまでも空欄のままのところが目立ってきた。空 欄を埋めるための作業、すなわち、ただ年表をつく るための作業をする気にはなれなかったので、この 傾向はますます強まるばかりだった。やがてはっき りしてきたことは、自分がいかにバランスの悪い歴 史の見方をしているのかということである。  『情報の歴史21』松岡正剛監修、編集工学研究所、イシス編集                学校編著/編集工学研究所  このメッセージでは、モノの見方を決める「レン ズ」を自分で定義することの重要性が語られていま す。  何も考えなければ、与えられるのは「世界と日 本」や「西洋とそれ以外」という使い古された陳腐 なレンズだけです。私も含めて多くの人はこのレン ズで世界の潮流を見ていたことでしょう。  しかし、松岡氏はその一方的に付与されるレンズ を嫌った。そして、レンズそのものに本質的な価値 が宿ると考え、自分ならではのオリジナルのレンズ を作ったのです。  そして松岡氏の語りからのもう一つの示唆は、レ ンズを通すと普段は意識しないと見えないものが見 えてくるということ。  「空欄のままのところが目立ってきた」という記 述がありますが、そもそも「空欄があることに気づ く」のは、欄という仕切りがあるからなのです。  欄さえなければ、その「空欄」は存在すらしな かった。つまり、普段は見えていないものの存在を あからさまにすること。これがレンズを定義するこ とのもう一つの意義です。 最初に「基本カラー」を定めて、簡易パレッ トを作る  さて、少々回り道をしましたが、私はビジネスス クールのカリキュラムマップの作り方や、『情報の 歴史』の魅力を伝えようというわけではありません。  前章でお伝えした「ラーニングパレット」のタテ 軸、ヨコ軸をどう決めるか、ここに最大の価値があ る、というメッセージを強調したいのです。  無限に存在する切り口の中で、二軸に何を選ぶべ きか? ここに私たちそれぞれの思想が表れます。  だからこそ、何を学ぶかを考えるにあたり、まず は私たちそれぞれが持つ思想を表すパレットを作っ てみよう、ということがこの章の本題です。  しかし、いざ手を動かそうとすると、おそらく多 くの人は手が止まってしまうはずです。実際にワー クショップでやってみても、スムーズに軸を決めら れる人はほとんどいません。  うまくいかない典型的なパターンは、いきなり細 かく精密なパレットを作ろうとして、手が止まって しまうというものです。それを防ぐために、最初の パレットはとても簡単でシンプルなものを目指すこ とを心がけるのが良いと思います。  具体的には、まず手元にある「2ミリの学び」の リストを見ながら、「今自分が中心的に学んでいる ことは何か」ということをたった匸言で表現してみ るのです。  そして、そこから浮かび上がってきたキーワード を「基本カラー」と呼ぶことにしましよう。  この「基本カラー」を軸足にして、その対極に位 置づけられる色(=概念)をタテに、ヨコに置いて いけば、パレットの簡易的な構造化はひとまず完成 するのです。  これだけではイメージが湧かないと思いますので、 具体例を示しながら理解を深めていきましょう。鍜 6章で示した私の考課担当者時代のことを思い出し てください。  そして、その時の私か、パレットを作ったら、と いう想定で考えてみましょう。  1998年4月下旬当時の荒木博行君は、どんな パレットを作るのでしょうか。  その当時は、社会人になりたての頃。見るもの全 てが新しく、学びの対象でした。そんな当時の私は、 何を学んでいたのか? あえて匸冐で言うならば、 それは「仕事の進め方」でした。  名刺交換をどうするか。メールはどう書くか。電 話にどう対応するか。決裁書類をどう書くか。私か 当時必死になって学んでいたこれらの項目は、全て 「仕事の進め方」として括ることができます。  では、この「仕事の進め方」を基本カラーとして 左下にプロットしましよう。そして、ここから構造 を組み立てていきます。 「対極カラー」を置いてみる  この構造化で大事なことは、基本カラーに対して できるだけ遠い概念、つまり「対極カラー」を考え ることです。  たとえば、当時の私にとっての「仕事の進め方を 学ぶ」ということの対極にあったのは、「人事業務 のあり方を学ぶ」ことです。  つまり、その時必死に学んでいた「仕事の進め 方」というのは川の流れで言えば「下流」の話。  一方で、その自分の業務に影響を与える「上流」 の人事業務については、遥か遠方にうっすらと見え ていただけでした。ということで、まずヨコ軸は 「下流−上流」という対比として、「仕事の進め方」 の基本カラーに対して、「人事業務のあり方」が対 極カラーとして位置づけられます。  さて、もう一つ、自分の中で遥か遠方にうっすら と見えていたのは、将来のことについてです。  「仕事の進め方」が現在についてのことであれば、 将来、この仕事はどうなっていくのか、どうあるべ きなのかということは、視野の片隅にうっすらと 入っていました。  先ほどお伝えした通り、自分が担当していた業務 は、極めてアナログで生産性の柢いオペレーション だったわけです。  私は何も知らない新人だったからこそ、「こんな やり方でいいのか?」という疑問をうっすらと抱い ていました。  そんな意味において、「将来の仕事の進め方」に  かり理解する要性をじてい 一一  ということで、タテ軸は、「現在−将来」という 対比で、「現在の仕事の進め方」に対して「将来の 仕事の進め方」を対極カラーと位置づけることがで きます。  こうして、左下の「現在の仕事の進め方」を基本 カラーとして、2×2のパレットが出来上がりまし た。  これでヨコ軸は業務の流れ、タテ軸は時間軸とい う2軸の構造ができました。  まだ「簡易ラーニングパレツト」のような段階で すが、これだけでも今自分が学んでいることと、 うっすら学び始めていることの構造を理解すること ができます。 言「基本カラー」の 。。、解像度を高める  この簡易版で終えても良いのですが、もう少し現 在学んでいることの構造を理解するために、基本カ ラーである「現在の仕事の進め方」の解像度を高く しておきましよう。  あらためて、目の前の「2ミリの学び」のリスト を見ながら、「今、自分は仕事の進め方として何を 学んでいるのか?」という問いを立ててみます。そ こで出てくるのは、当然のことながら、業務推進に 必要な制度理解やプロセス理解などがあります。  私自身は、当時「考課業務」だけでなく、「社員 健康管理」や「慶弔関係」も担当業務だったので、 それらのルールの理解は必須の学習項目でした。  しかし、学んでいた内容はそれだけではありませ ん。組織内の暗黙の文化の中で、語られていないが 重要なメッセージを読み取ること、メールや文書を ちゃんと書くこと、そして自分の考えを他者にちゃ んと伝えること。社会人の基本動作である、「読む、 書く、話す」というコミュニケーションカについて、 当時の私は壊滅的に酷かったため、基礎から学ぶ必 要があったのです。  また、それ以外に大事な学習項目として、自分自 身の心の問題がありました。                        −  社会人になるという大きな環境変化に直面し、第 6章でお話しした通り、私のメンタルは危機的な状 況に陥りました。それを機に、自分自身のことを もっと理解しなくてはならない、そして理解した上 で適切に対処していかなくてはならない、と思った のです。  その意味で、この「心の問題」というのは、社会 人になった当初において外すことのできない重要な 学習項目でした。  これらの学びを、「心技体」というフレームワー クで整理すると、次の図のように「現在の仕事の進 め方」という領域において何を学んでいるのか、が よリクリアに理解できるようになります。   亠一一 口呷  では、右や上の領域の中身はどうなっているので しよヽつか?  当時の私には、ここはほぼ何も見えていませんで したが、それでもうっすらと学ぶ項目は認識してい ました。  たとえば、上流の人事全般のことであれば、少な くとも国内人事と海外人事という大きな括りがある ことは理解していました。  私は主に国内人事担当でしたが、当時は徐々に現 地スタッフの採用などを推進しており、海外支店は また国内とは違った論点があることは認識していま した。  また上側の「将来の仕事の進め方」に関して言え ば、「担当業務の付加価値をどう高めるか」「担当業 務の工数をどう削減すべきか」という問題意識は常 にありました。  その関係で、たとえば生産性を高めるITツール の使い方などは、そのうち学ぶ必要性がある、とい うことを認識していたのです。  さて、その認識に基づき、当時の状況をもう一度 整理すると、次の図のような構造になります。これ がいったん、1998年4月下旬段階での私のラー こングパレットの完成形です。 厂 」‘−。   圜。。  一回。‐ ]丁回  右上の「将来の人事業務のあり方」は、自分に とっては未開の地。そのため、そこだけはそのまま 白地で残っています。  そして、ここから日々実務をこなし、多くの動詞 的経験を経ることで、このパレットの解像度は高く なり、より緻密になっていくのです。 パレットを通じて、「深化と探索」を志す  さて、ここであらためてこのようにラーニングパ レットを整理することの意義に立ち返ってみたいと 思います。  まず一つは、自分が何を理解していないのかを意 識できるようになる、ということです。  たとえば、私の事例で言えば、このパレットの解 像度を見れば、左下の「現在の仕事の進め方」の習 得に意識が向いていることはわかると思います。  それはある意味で当然なのですが、一方で自分の 理解が不足している領域に対して自覚的な人はそれ ほど多くはないでしょう。  パレットは、「対極カラー」をベースにして学び を構造化するもの。だからこそ、自分に何か欠けて いるのかをしっかり理解することができるのです。  これは、経営戦略の領域では、「深化と探索」と 呼ばれます。無自覚でいると、企業はどうしても慣 れ親しんだビジネスモデルの中でビジネスを磨き上 げようと、「深化」の方向に舵を切ってしまう。  しかし、新たな事業機会を求めて、「探索」する ことも同時に重要なのです。その概念を世に広めた 『両利きの経営』から引用しましよう。  もともと人間の認知には限界がある。人間である 以上、これは避けられない本質だ。広い世界の中で、 人間が認知できるのは目の前の一定範囲に限られ、 そこにあるものだけで世界が構成されているように 考える傾向があるのだ(専門用語では、 ∃yopia〈近視眼化〉と呼ばれる)。  しかし、現実の世の中には、認知の範囲外にもっ と多くのより良い選択肢があるかもしれない。特に 環境変化が起きたり、新しいことを試みようという ときには、狭い範囲の考え方から脱してそれらの新 しい知見に触れない限り、イノベーションを起こす ことはできないのだ。  そこで、なるべく自身・自社の既存の認知の範囲 を超えて、遠くに認知を広げていこうという行為が 「探索」である。探索によって認知の範囲が広がり、 やがて新しいアイディアにつながるのだ。   『両利きの経営』チャールズーA・オライリー、マイケルー                   L・タッシュマン著、  入山章栄監訳・解説、冨山和彦解説、渡部典子訳/東洋経済新                          報社  まさに、ここにある通り、「認知の限界」を意識 して、それを乗り越え「探索」する工夫が企業には 求められます。  そして、その構造は私たち個人も同様です。必ず しも直近では必要ではない遠くにある概念は、認知 の枠からすぐに外れてしまいます。  可視化することによって認知の枠内に確保してお く。それは、地図があるからこそ、未踏の地への欲 求が増すようなもの。地図に記載されていなければ 存在すら認識できず、そこに行きたいという欲求す ら湧いてきません。  たとえ今は手が届かなくても、存在そのものを認 知しておくことが、やがて「探索」の旅へとつな がっていくのです。 シアン″卜の組み合わせで 卜匸広がる可能性  そして、もう一つの意義は、このように学びを整 理しておくことで、「学びの組み合わせ」のアイデ アが浮かびやすいということです。  たとえば、1998年4月当時のラーニングパ レッドにあった「書く」ということに関する学びと、 「自己理解」の学びは極めて相性が良く、この学び 同士を掛け合わせることで、新たな可能性を見出す ことができます。  「書く」という行為は、その時の状況や心境をフ リーズドライして保存できる手段です。  私は若い頃にこのフリーズドライ技術を習得した からこそ、自分の状態を後日客観的な立場で振り返 ることができるようになりました。そして、自己理 解が進むことで、より細かく心情描写をできるよう になったのです。  今、執筆が仕事の一部になっているのも、「書く」 ことに対する学び、そして「自己理解」に対する学 びの蓄積が掛け合わされていることがベースにあり ます。 アップデートされた2023年版パレット  さて、ではもう一つのサンプルとして、2023 年時点の私のラーニングパレツトを共有しましよう。 ∩@@難言ぷ づ抽→度→71らに上がったことがわかると思います。 ‐  パレットの中に多くの学びが入ると、その軸の表 現は自ずと抽象度が上がっていくのです。  左下の基準項目はスピードアップ×個人という 「スキルアップ」領域。つまり、個人の仕事のス ピードをどう速めるか、ということに関して多くの 学びを得てきました。  ビジネススクールで教員として登壇したり、書籍 を執筆したりしていたのはここの領域における解像 度を高める活動とも言えます。  また、1998年頃のパレットは全てこの枠内に 吸収されます。  「いかにして、速く・強く・大きくなるか?」と いうことは、私にとって長期にわたって追い続けて きた最重要課題であったわけです。  そして、この枠はやがて上の「マネジメント」領 域に広がります。  自分自身が経営に携わり、経営戦略領域の研究を 行い、そして他社の経営課題に対して第三者的に関 わる経験を経ることで、「いかに経営において効率 的に売上や利益を上げていくか」ということに、学 びの対象が広がったわけです。  拙著『世界「倒産」図鑑』や『世界「失敗」製品 図鑑』などで、失敗を通じてマネジメントをアップ デートさせていくコンセプトを見出したのも、この 領域の学びを深めた過程の産物です。  その後、ビジネススクールのマネジメントの立場 から、独立という道を選んだ私は、自分の内なる好 奇心に引っ張られるように、歴史・文学・哲学・科 学など、リベラルアーツと呼ばれる分野に知見を求 めていきました。  その時、ふとしたタイミングで「自分は何を学ん でいるのか?」と自問した結果として出てきたのが、 「自分は、この加速する社会の中において、スロー ダウンの術を学んでいるのではないか?」というこ とでした。  つまり、いかに効率よく個人も組織も成長するか、 という問いを抱えて全速力で走ってきたのですが、 そのスピード感では景色がどうしても単調に見えて しまうわけです。売上、効率、成果、生産性、成 長……。  しかし、本当に重要なことは、これらのキーワー ドにはなかった脇道部分にあるのではないか。そこ に重要なことが眠っているのではないかと直感的に 感じ取っていました。  具体的には、人間の内面にある認知や感覚、思考、 思想をもっと具体的に理解したいし、一方でもっと 幅広い視野で政治や経済、社会などの仕組みの理解 を深めたい。  また、人間かたどってきた長き道の過程を知りた いし、それがどこへ向かうのか、その行き先も理解 したい。今まで見落としてきたミクロやマクロの視 点の往復、もしくは過去や未来の視点の往復によっ て、人間という存在を深く理解したいと思うように なったのです。  これが、パレットの右下に「個人×スローダウ ン」領域が加わった背景です。  そして当然、この視界は「経営」にも広がってい きます。個人だけでなく、経営も同じベースで走り 続けることはできない。長い距離を走り続けるため にも、ペースを意図を持って変えていく、という知 恵が求められているのです。  それには、地球環境の視点も必要になるし、人々 の持続可能な働き方も視野に入れなくてはならない。 当然ながら、利益を生み出すというバランス感覚も 必要です。  単に短期的に利益を上げるということではなく、 スピード感を調整しながら、どうやって地球を含め たステークホルダーだちと調整していくのか。この 問いに対する答えは、各企業がこれから出していか なくてはならない宿題です。  この企業の利益(竚O印)、地球環境(笘回忌、働 く人たち(爾Oрp)というトリプルボトムラインと 呼ばれる「3つのP」の論点を私は「経営×スロー ダウン」という文脈で学んでいく必要を認識してい ます。  これらのことをパレット上に表現すると、次の図 の通りとなります。 づ「JW  ン {   二千石 一  匚『  ゜“  ゛ フ   r  心理 ルー・一・II 乱 七 ブL   气 作 バ√づ匸』 句  環境分析    ゛匹  ぐ に ?………`  比較的最近加わった右側の「スローダウン」のパ レットは、まだ色彩の解像度が粗いですが、これか ら多くの試行錯誤を通じて、学びを蓄積していくこ とで、より視界が広がっていくのだと思います。 パレットの中身の組み合わせによって可能性 は広がる  先にお伝えした通り、ラーニングパレットの効果 は「組み合わせ」にあります。  このように整理・構造化されたパレットは、私に どのような可能性を見せてくれるのでしょうか。  たとえば、左上のマネジメント領域に関する学び と、右下のリベラルアーツ領域における学びは大き な可能性を含んでいると考えています。スピーディ な意思決定を志せば、前提を置きながら、考える範 囲を狭めてシステマティックに物事を決めていく、 という形になっていきます。  余計なことはできるだけ排除して、経営はパター ン認識だと割り切り、素早く決めて、素早くやりき る。この回転に入っていくと、企業は速さを求めて、 次第にその前提を疑わなくなっていきます。しかし、 言うまでもなく、そのモデルの大きなリスクファク ターは、本来は不確定な前提を疑うことのないまま、 その前提が変質してしまうことです。  では、ここで右下のリベラルアーツ領域の知恵は どう生きるのか? それは、「問いを立てる」とい う技術です。  この領域には、過去の先人たちが、さらに現在の 研究者たちが、人類が「当たり前」だと思っていた ことに鋭くメスを入れて開拓した知恵が詰まってい ます。  この知恵を持ってくることができれば、何をどう 疑うべきか、具体的な道筋を描くことにつながって いくでしょう。その問いに答えようとする結果とし て、スピードは自然なレベルに戻っていくはずです。  たとえば、スピーディで形式上合理的に進んでい た定例会議に、「そもそも論」レベルの問いが参加 者から投げかけられるようになる。その結果、今ま で30分で終わっていた形式的な会議が、本質的な議 論の場として卯分になる。  これは、スピードアップという価値観からすれば、 3倍の時間がかかってしまうという忌避すべきこと かもしれませんが、経営の本質を考えながら進めて いく、という意味では、スピードの適正化と言える のかもしれません。  このように、「速く・強く・大きく」という価値 観が善とされる中で、それに反した学びを組み合わ せることで、本質を追求する。このパレットからは、 その可能性を見出すことができるのです。  今現在、私のパレットには多くの繊細な色合いが 準備されています。  そして、意図などしなくても、毎日パレットには 色が加わっていきます。そのパレットには、さらに 自分の興味・関心に基づいて、色のバリエーション を意図的に増やしていくことになるでしょう。  しかし、どれだけ色が増えても、その先にこんな キャリア像を目指していく、というキャリアゴール は全く想定していません。  何かきっかけがあった時に、もしくは誰かが困っ て私に依頼してきた時に、自分だったらこういう組 み合わせで他にはない色を、そして絵を生み出すこ とができるのかもしれない。あるのはそのような 「具体性のない希望」だけです。  パレットを整理するからこそ、自分が何を学びた いのか、ということが明確になる。そして、パレッ トが充実すればするほど、キャリアの可能性も開か れていくのです。  特定のキャリア像を目指して、今を犠牲にしなが ら歯を食いしばって学ぶスタイルではありません。 今を十分楽しんで学んでいくからこそ、学びに彩り が増え、その結果後付けでキャリアの可能性は豊か になっていくのです。  パレットの構造化は、その扉を開いてくれるはず です。 首純粋知的欲求を ぐ駆動させよyフ  前章では、過去に学んだことをいかにラーニング パレット上に構造的に整理するか、ということをお 伝えしてきました。  このパレットを踏まえれば、私たちがこれから何 を学ぶか、ということを考えることができます。  まず、パレットが整理されたからこそ、立つ問い があります。  それは、パレットの解像度をより高めていくのか 1深化型学習)、それとも新しい色を探しに行くの か(=探索型学習)、という問いです。  一般論として言うならば、まずは専門性を高める べく、最初は既存のパレットの区分をより細かくす る深化型の方向へと進むことになるでしょう。  そして、ある程度見通しが効く段階で、既存のパ レッドの外側の世界へと舵を切る探索型になるのだ と思います。  しかし、何をどんな順番で学ぶべきか、ここに統 一的なルールは存在しません。何を学んでも良いし、 何から始めてもいいのです。  あえて一つ言うならば、頭で考えた「学ぶべきこ と」ではなく、心が求める「学びたいこと」に焦点 を定める、ということです。  おそらく、多くの人は、構造化されたパレットを 目の前にして、頭でいろいろなことを考えるでしよ  「自分は3年後、どんなポジションについている だろうか?」  「これからの仕事に何か求められるだろうか?」  「○○技術はやはり学んでおくべきだろうか?」  これらの問いは、全て「頭の中」から湧き出てき た合理的な考えです。つまり、あるべき姿と現状を 考え、そのギャップを埋めるために何を「学ぶべ き」か、という論理で考えようとしている。  やるべきこと(多目E)や、やる必要があること (ヨ灰{}で考え、心がやりたいこと(ギ弓{}に耳を 傾けようとしていないのです。  でも、学ぶことを決めるために大事なことは、最 初に好奇心を駆動させるということ。大人の学びは 受験勉強ではありません。次は弱点である古文を学 ばなきや、というようなスタイルでは持続しないの です。  知の巨人と言われた立花隆氏は『ぼくはこんな本 を読んできた』において知的欲求を「実用的な知的 欲求」と「純粋知的欲求」という2つに分類します。  そういう人間が持つ知的欲求について考える場合、 これを二つのカテゴリーに分けて考えることができ ます。それは実用的な知的欲求と、純粋知的欲求と いう分け方で、この二つには明らかに質的な違いが あります。実用的な知的欲求というのは、何か目的 があって、そのために知りたいという欲求ですね。 これが分かればこういうことができる、ああいうこ とができる。それを知ることによって、こういった 利便ないし利益、実用性が得られるという欲求です。 一方、それに対して、とにかく知りたいから知りた い、そうとしか言えないような純粋な知的欲求とい うのが、人間にはあるわけですね。      『ぼくはこんな本を読んできた』立花隆/文春文庫  ひょっとしたら多くの人は、「実用的な知的欲求」 という単一モーターで「学び」を駆動させてきたの かもしれません。しかし、そのモーターは少々疲労 気味かもしれない。  受験勉強からスタートし、昇格試験、キャリア アップに必要な知識習得。こういった「必要に迫ら れた学び」ばかりを繰り返していけば、「学び疲れ」 のような状態に陥っても不思議ではありません。  私自身も振り返ると、キャリアの途中まではその ような状態にあったような気がします。人前に立つ なら学んでおかないと、組織のリーダーとして恥ず かしくない知識を身につけておかなくては、と……。  こういう焦燥感が自分を成長させてきたことは事 実です。そして、それに伴い戦闘能力は高まったか もしれませんが、その一方で学ぶ楽しさというもの を忘れかけていました。  独立後に、私かビジネス領域ではなく人文科学方 面の知見を貪るように求め始めたのは、そのような 「実用性」というモーターをいったん停止させ、パ レットを見つめながらもう一つのモーターである 「純粋知的欲求」を駆動させたからなのです。 福沢諭吉、ダーヴィンチの「必然から発生し ない」学び方  そして、純粋知的欲求は、学び疲れを防止するだ けではなく、より深い学びに到達できる、という点 も考慮すべきでしょう。  福沢諭吉の自伝である『福翁自伝』には、「実用 的な知的欲求」と「純粋知的欲求」の対比に当たる ような描写があります。  自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身 が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだ ろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、 如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろう か、というようなことにばかり心を引かれて、齷齪 勉強するということでは、決して真の勉強は出来な いだろうと思う。    『麺訂福翁自伝』福沢諭吉著、富田正文校訂/岩波文庫  ちょっと前後の文脈の補足をしましょう。  20代前半だった頃、福沢諭吉は、緒方洪庵の開設 した適塾(大坂)で学んでいたのですが、大坂は江 戸と違って、勉強したところですぐにお金になるわ けでもなく、何かの仕事に就ける環境でもありませ んでした。  福沢は、そういう学ぶ目的の見えにくい大坂だっ たからこそ真の学びを深めることができ、結果的に 大成することができたと振り返っているのです。  「学ぶ必然性がないからこそ、より深く学べる」 という経験談は、必然性が駆動力の人は違和感を覚 えるかもしれません。  しかし、本来は内発的な行為なのに、外発的な動 機を与えると内発性が失われていく、ということは、 誰もが身に覚えがあることだと思います。  たとえば、家庭内で自発的にやっていたお手伝い に、お小遣いを紐づけてしまうと、お小遣いがなく なった途端に今まで自発的にやっていたお手伝いを やらなくなってしまう、というパターンです。  内発で駆動するものは、内発に任せた方が良いの は学びの世界においても同じ。つまり、学びを必要 性だけから考えてしまうと、必要最低限の枠内にと どまりがちであり、必要性がなくなった途端に終 わってしまう、そういう悲しい性があるのです。  だからこそ、ここまで「実用的な知的欲求」だけ がモーターだった人こそ、「純粋知的欲求」の駆動 法を早いうちに体感として知っておいた方がいいの です。  純粋知的欲求の重要性を深めるために、巻頭でも 引用したウォルター・アイザックソンの『レオナル ドーダーヴィンチ』にも触れておきましよう。  この一冊では、ダーヴィンチがいかにしてモナリ ザに行き着いたのか、という壮大なライフヒスト リーが描かれています。以下は巻末のアイザックソ ンの示唆を引用したものです。  あらゆる知識が役に立つとは限らない。ときには 知る喜びのためだけに知識を追い求めよう。レオナ ルドは『モナリザ』を描くために心臓の弁の仕組み を知る必要はなかったし、『岩窟の聖母』を描くの に山頂に化石がある理由を調べる必要もなかった。 しかし純粋な好奇心の赴くままに探究することで、 同時代の誰よりも幅広い領域に知識を広げ、そのあ いたの結びつきを発見することができた。  『レオナルドーダーヴィンチ(下)』ウォルター・アイザックソ               ン著、土方奈美訳/文藝春秋  晩年の51歳から着手した作品であるモナリザには、 大変多くの技術が使われています。  たとえば、光学の研究。曲面に当たった光はどの ように反射するのか。目の瞳孔に光が当たった時に、 人間はどう反応するのか。かつてのダーヴィンチの 研究の成果があのモナリザの微妙な視線に詰め込ま れています。  そしてあの特徴的な微笑みには、彼が死体保管所 にこもって、筋肉や神経を徹底的に調べた経験が活 きています。さらに、神秘的な背景には、彼がそれ までに得てきた深い地質学的な知識が反映されてい るのです。  ダーヴィンチの遺したノートには、このような記 述が残っているようです。  「キツツキの舌を描写せよ」  「ワニの顎を描写せよ」  これは、本書のこの文脈に転換すれば、パレット において、新しく自分が学びたいことを見出した瞬 間なのでしょう。  「動物の舌や顎の動きを観察・描写することで、 筋肉の動き方の本質に迫りたい」と、ダーヴィンチ の心が動いた。その探究の結果、新たな色彩がパ レットに加わった。そして、その新たな色彩は、や がてモナリザの口元にある絶妙な微笑の表現へと昇 華されていったのです。  彼は好奇心の赴くままに多くのことを学んできま した。そこには必然性はありません。当然モナリザ のような作品を作ることを考えて、逆算的に学んで きたわけでもない。  しかし、全てのことが結果的に晩年のあの傑作へ と回収されていったのです。  必然性で仕方なく学んでいたのではなく、好奇心 を原動力に学んでいたからこそ、結果的にあの傑作 は生まれたのかもしれません。  モナリザは、純粋知的欲求の産物なのです。 無自覚な矛盾状態に気づく  ここまで純粋知的欲求の重要さを強調してきまし た。では、どうやったら純粋知的欲求は起動するの か。つまり、「その領域を学びたい’・」というス イッチはどうやって入れるのか、という点について も触れておきたいと思います。  ズバリ、その答えは、自分の中に無自覚に存在す る「矛盾」に気づくということです。  ある時にはAと言っていながら、文脈が変わると Bと言っている。冷静に考えればこの二つは決して 両立しない。こんな自分の中にある分裂した主張は、 冷静に自分のことを見つめると気づくことができま す。ある時には「成長が重要だ」と言っているのに 違う場面では「脱成長という概念を考慮すべき」と 考えている。  もしくは、自らの主張ではなくとも、そういう矛 盾したメッセージに、別の場面でそれぞれに共感し てしまっている。あれ、自分はどっちなんだ? そ もそもどちらかを選ぶことが正しいことなのか?  人間は常に一貫性を望む存在です。だからこそ、 この矛盾は大きな探究の干不ルギーを生み出すので す。  哲学者である野矢茂樹氏は『哲学な日々』でこう 語ります。  その哲学的運動の力が、二つの相反する極によっ て導かれていること。一見矛盾する二つのことを同 時に抱え込み、それがその人の哲学を動かしていく。  例えば、後期ウィトゲンシュタインであれば、 「自然と規範」という相反する極、あるいは「私と 共同体」といった相反する極を抱え込み、その関係 は容易に整理を許すものではなかった。そのことが、 『哲学探究』の独特の対話的スタイル(あるいはす べての考察が宙ぶらりんのままじわりじわりと進ん でいくスタイル)を生み出したと考えられる。             『哲学な日々』野矢茂樹/講談社  自分の中の「二つの相反する極」に気づき、そこ に導かれることで、モーターは駆動していくのです。  たとえば、私にとっての最近の学習テーマは、 「意思決定」です。  これは、経営における意思決定の「矛盾」を自覚 してしまったからなのです。  経営の意思決定とは、経営者が環境を把握して覚 悟を決めて行うもの。だからこそ、経営者は環境分 析をし、責任を持って意思決定をしなくてはならな い。  かつては当たり前のようにそう考えていました。  しかし、もう一方では、自動的に「決められてい る」「決まっていく」という側面もあります。  つまり、この瞬間にも、経営者に関係なく、各現 場で見えない意思決定の連鎖が続いている。そして、 それらの小さな意思決定まで経営者はコントロール することができません。  とするならば、経営の意思決定とは、今まで考え ていたような「経営者が自覚する大きな単体の決 断」として捉えるのではなく、それぞれの社員が行 う、表立って見えない小さな意思決定の連鎖と創発 として捉えた方が良いのではないか。  こう考えれば、経営者にとって、意思決定は「決 めるもの」という強いナラティブではなく、「決め られてしまっているもの」という弱さから捉えた方 が良いのかもしれません。  私はこの手の意思決定論をそれぞれ違う場面で話 し、その矛盾に後から気づきました。この矛盾は、 経営の意思決定を別の角度から照らし出しているだ けとも言えますが、まだ自分の中では体系的に統合 されておらず、矛盾として対立してしまっているの です。  この矛盾を自覚した時に、「何とか整理したい」 という私の欲求が駆動し、私の学習テーマが定義さ れたのです。  このように、無自覚のうちに内在していた自分の 中の矛盾を発見した時、純粋知的欲求は立ち上がり、 そして探究へと駆り立てていくのです。 首意図と結果は ぐ常に異なる  しかし、どれだけ緻密に学ぶ内容を定めたところ で、期待通りの学びを得られないことが、大人の学 びの難しさでもあリ楽しさでもあります。  私の「意思決定」というテーマも、着地としての 学びは意思決定とは関係のない内容になっている可 能性が高いのです。なぜなら、学びには「意図と結 果は常に異なる」という黄金律があるからです。  実際に自分の過去を振り返れば、当初に意図した ことをその通りに学べたことはほとんどなかったこ とに気づきます。  経営戦略に関する専門性やコミュニケーションカ を高めようと海外留学した時、実際に手に入れたの は、自分のキャリアに対する方向性の気づきでした。  今でも自分の中で生きているのは、ジャック・ ウッドという担当教授からのキャリアアドバイスで す。  ジャックと10111で交わしたたった30分のミー ティングは、私の人生の進行方向を変える力があっ た。事前に全く期待したわけではなかったのですが、 最後に残っだのは”Hiro「 what are y呂doing when you're sixty? Who will you be with and what will you be seeing?” (ヒロ、お前が60歳の時、何をしている? 誰と一緒にいて、どんな光景を見ている?)という ジャックの問いかけでした。  少々補足すると、当時の私には3つくらいキャリ アオプションがあり、どの道に進むべきかを悩んで いました。その質問をジャックにぶつけたところ、 彼はしばらく考えた後に、その問いに直接答えるこ となく、この問いかけを返したのでした。  その問いかけをもらった時、60歳の時の自分の光 景が急に視界に降りてきた。その瞬間、3つのキャ リアオプションの悩みはあっさり解決してしまった のです。授業の内容はほとんど忘れていますが、あ の光景はいまだに忘れることはありません。  哲学を学ぶために日本アスペン研究所の門を叩い た時も、実際に学んだことは「思考を深める対話の あり方」でした。もちろん、意図通りの学びを得ら れなかったわけではありません。  しかし、事前の意図などちっぽけなものだと痛感 させられるくらいの未知の学びが必ず待っている。  そんな中で、「これを学ばなきやいけない」と計 画に固執してしまうのは、その道の周辺にある宝物 を見落としてしまうことになってしまうのです。  では、なぜ学びは意図通りに進まないのか。  それは「知識の構成主義」にヒントを見出すこと が可能です。『私たちはどう学んでいるのか』とい う書籍において、認知科学の専門家である鈴木宏昭 氏は構成主義について、こう語ります。  相手からの情報、その記憶が知識となるためには、 それらの素材を用いて知識として構成していかなけ ればならないのだ。構成するのはもちろんあなただ。 あなたのこれまでの経験は人と異なるだろうし、こ れから出会いそうな場面も異なるだろうから、構成 される知識は大によって少しずつ異なってくる。よ り多くの関連した知識と結びつきを作ったり、その 知識がカバーする事柄をたくさん経験した大が構成 する知識は、単にクイズのように覚えた人のそれと はまったく異なったものとなる。難しい言葉で言え ば、知識というものは「属人的」なものなのだ。  『私たちはどう学んでいるのか』鈴木宏昭/ちくまプリマー新                         書  つまり、ある知識を他者に伝えたとしても、受け 取った側はその知識を自分の中の経験や他の知識と 組み合わせて再構成してしまう、ということです。  だから、マーケティングのことを教えたとしても、 受け取る側はその内容を勝手に再構成して、たとえ ば「恋愛テクニックを学んだ」とか「キャリアにつ いての気づきを得た」というように変質させてしま うのです。  そういう意味では、みんな同じものを見ながら、 違う世界を見ているとも言えるでしょう。つまり、 各自が勝手に構成した「属人的」な世界の住人なの です。  その視点から考えれば、固定的で普遍的な知識や 学びは存在しないと言えるのだと思います。学びと いうのは、個人の中にある過去の記憶や経験、知識 のランダムな作用によって勝手に構成されてしまう 極めて流動的で属人的なものなのです。  私か、学びにおいて、あるべき姿からの逆算に基 づいた過度な設計主義から距離を置くのは、ここに 理由があります。残念ながら、私たちは、事前に自 分が期待し、計画していたことを、事後になって受 け取ることができないのです。  そうだとするならば、学習計画や意図を持った学 びというものを手放し、遊び心を持ち、より柔軟な 姿勢で構えておく方が結果的に豊かな学びにつな がっていくのかもしれません。 大事な学びは、結果的に気づいてしまうもの  人生において、事前に何か無駄なのか、というこ との判断をつけることはできません。無駄のように 見えて、事後的にその意味がわかることもある。そ れが生きることの楽しさとも言えるでしょう。  だとしたら、今見えていることだけで「必要性が ある」ということを学んでもつまらない。  その一方で、必要性が全くなく、単なる好奇心や 好きといった感情が動くことを突き詰めていくこと が、知らぬ間に実用的な学びに変わることもありま す。  たとえば、Twitterで連載された漫画『ちいかわ』 (ナガノ著、講談社)。私は連載初期段階からその愛 くるしいキャラクターの描写にはまり、漫画を全巻 揃え、アニメも欠かさず見ています。  当然この漫画から何かを学ぼうという意図があっ たわけではなく、実務的に必要性があったわけでも ありません。単に可愛くて瘧されるから見ていただ けなのですが、今やこの漫画から得られる示唆の多 さに驚いています。  たとえば、言葉を話すことができない「ちいか わ」と饒舌な「「チワレ」という2つのキャラク ターが交わすコミュニケーションから、対話の本質 に気づくことができます。  自分の感情や意志を完全に言語化できない私たち にとって、本来対話というのは相手と一緒に作り上 げていくもののはずです。しかし、いつしかコミュ ニケーションの作法において「伝え手の責任」ばか りが注目され、受け手を動かせないのは伝え手側の 問題である、という一方向のスタンスばかりが強調 されるようになっていました。  私自身も、コミュニケーションのトレーニングと して、伝える側の論理性に着目してきました。しか し、コミュニケーションというのはそれだけではな いはずです。  受け手側か、相手が言葉にできていない、もしく はあえて言葉にしない秘めた思いをすくい取り、そ してその思いに歩み寄り、言葉をあてがうという行 為があってこそ、対話は深い部分へと到達していく。  そんな「話し手と受け手の双方が共同的に成立さ せるコミュニケーション」ということに光を当てた 世界観を描き出している『ちいかわ』は、自分が見 失っていたことをあらためて学ばせてくれたのです。  まさか『ちいかわ』からコミュニケーションを学 ほうと事前に意図する人はいないでしょう。  しかし、このように、大事な学びというのは結果 的に気づいてしまうもの。構成主義的な観点に立て ば、学びは後から勝手に構成されてしまうものなの です。  だとすれば、私たちにはもう少し目的や計画、意 図のような肩肘張った要素を手放して、好奇心や偶 然に身を委ねる意識があってもいいはずです。 ゛ダ゛y」れから白分か学ぶ 匸内容を決める「3つの問い」  しかし、いくら純粋知的欲求の重要性を訴えたと ころで、「管理職昇格にはこれが必要」とか、「異動 のためにこれを学んでおかなきや」という実用的な 知的欲求は、これからも私たちに必ずついて回るで しよう。  ビジネスの最前線に立ち続ける限り、「何を学ぶ べきか?」という問いは常に立ち、考えなくても私 たちを駆り立てていくのです。  言わば、自動追尾で追いかけてくる問いと言える でしょう。  一方で、もう片方には手動でないと起動しない厄 介な「何を学びたいのか?」という問いがあります。 こちらの問いも起動させないと、いつしか学びが実 用性だけに埋められていきます。  本棚は実用書、ビジネス書ばかり。スケジュール は、近視眼的な予定ばかり。そして、「もっと学ば なきや’・」という焦りに支配されていく……。  そういう実用性に駆り立てられた問いに追いかけ られている状態が、学ぶ行為をつまらなくさせてい るのかもしれません。  したがって、ここで伝えたいのは、こういうこと です。 ・外から降りかかってくる「何を学ぶべきか?」と  いう問いに真摯に向き合いつつも、それが全てだ  と認識しないこと ・その上で、「何を学びたいのか?」という問いを  意識的に駆動し、時間をかけて向き合っていくこ ・そして、その後に「何を学んだのか?」という振  り返りを行い、その差分をラーニングパレツトに  落とし込むこと  このように、実用的な知的欲求に基づく「何を学 ぶべきか」という問い、純粋知的欲求に基づく「何 を学びたいのか」という問い、そして事後に差分を 明確にするための「何を学んだのか」という問 い……という3つの問いを意識し、過度な計画主義、 実用主義に陥ることなくバランス良く付き合ってい くことが大事なのです。  ダーヴィンチが「キツツキの舌」や「ワニの顎」 を学んでいる時はどんな気持ちだったのでしょう。  今となっては知る術はありませんが、「必要に迫 られて」とか「学ばなくてはならない」というスタ ンスではなかったはずです。それよりも、「知りた い」という気持ちが勝っていたことでしょう。  それがやがて偉大な作品の一部につながる、とい うことすらどうでも良かったはずです。  もちろん、楽しさを追求したところで、モナリザ のような人生終盤の偉大なアウトプットヘとつな がっていく保証はどこにもありません。  しかし、「キャリアアップ」とか「成果向上」な どの必要性だけに駆り立てられて、受験生のように 燃え尽きてしまうより、よっぽど健全なはずです。  学びは本来楽しいことなのです。生きることに必 ずしも必要じやないけど、今まで知らなかったこと を知ることができる。そんなことは、誰にとっても 最高のエンターテインメントのはずです。  「リカレント教育」や「リスキリング」という言 葉に注目が集まる中、「人生100年時代、だから 私たちは学び続けなくてはならない」という文脈で、 学びが「べき論」で語られることが増えてきたよう な気がします。  でも、その必然性の世界から一歩外に出て、パ レットを土台にしながら、自分が心動く方へ進んで みてはどうか。最終章となる本章はその誘いです。  そして意図とは全く異なる発見と出会い、その発 見を組み合わせてみると、いつの間にか不思議な作 品ができている。  もしあなたが学ぶことに疲れやマンネリを感じる ことがあるなら、そんな学び方を試してみるタイミ ングなのかもしれません。 おわりに 私たちは生涯学び続けることができる  さて、この本もそろそろ終わりに近づいてきまし た。  ここまで、独学のための「行為」「能力」「土台」 という3層構造の話をしてきました。  お伝えしたかったことを端的にまとめるならば、 ・学びというのは非日常的な空間で義務的にやる苦  しい作業ではなく、生きている限り、日々そこに  ある日常的な営みである ・その営みを継続していくためには、トレーニング  が不可欠である ・日常的に発生する結果を構造的に整理することで、  結果的に新たなキャリアにつながる ということです。  これらのメッセージは、目新しいことではありま せん。しかし、学びが「効率」や「効果」「必然性」 「最短距離」といったキーワードとセットで語られ るようになった結果、忘れられがちなことでもあり ます。  この「学びの効率化」の流れはますます加速して いくでしょう。  もちろん、それそのものは決して残念なことでも、 悪いことでもありません。無自覚に非効率的になっ ているのであれば、効率化の技術を学ぶことは間 違っていません。しかし、効率的な学びだけが全て ではない、ということがこの本の最大のメッセージ です。 つらい登り坂の脇道にある楽しげな学びの広 場  つらい坂道を登り切って行き止まりのように見え た一本道。しかし、その横にあった脇道をちょっと 入ってみたら、そこには楽しそうな学びの広場が広 がっていた。  そんなイメージを想像していただけると良いのか もしれません。  先日、私かアドバイザーとして関わっている株式 会社フライヤーのイベントで、ご町Qヨの渡邉康太 郎さん、哲学研究者の近内悠太さんと「弱さ」とい うキーワードをベースに対談した際も、似たような 対話になりました。  単一的な価値観の中で生きていると、その中で強 弱関係がはっきりとしてきます。  たとえばどれだけ売上を上げることができるか、 もしくはコストを下げることができるか。こういっ た単一的な価値基準の下にいれば、簡単に人の強弱 のレベル感が可視化されていきます。  だからこそ、弱き者は一段上の強さを求め、そし て強き者はさらなる強さを求めて上に登ろうとする。 そして、その一直線上の強弱関係は、やがて「居心 地の悪さ」「息苦しさ」につながっていくのです。  その時に意味を持つのが、「遊び」です。弱さか ら強さを求めるのではなく、その価値基準に乗らな い「遊び」という第三の扉を開けてみるのです。  画一的な出世レースから外れて、会社を自己実現 の器として使ってみる、という生き方は、その一例 かもしれません。  この「弱さから遊びへ」という話と、先ほどの坂 の脇道のメタファーは、強い価値体系から逃れたと ころに、実は本質的なものが眠っている、という意 味で同じことと言えるでしょう。  そして、大事なことは、その脇道の広場、もしく は「遊び」という第三の扉は、あなたが何歳であっ ても見つけることができる、ということです。  昭和10年生まれで80歳を過ぎてからプログラミン グを学び、今や世界最高齢プログラマーとしてリス ペクトされている若宮正子さんはこう語ります。  私は今、世界最高齢プログラマーなどといってに わかに注目を集めるようになりましたが、プログラ ミングを学び始めたのは80歳を過ぎてから。高校を 卒業してから60歳で退職するまで銀行員として働い て、定年後に超我流でつくったゲームアプリ 「hinadanjが米マイクロソフトや米アップルの目に 留まり、国際的な大きな会議に招かれたり、政府の 「人生100年時代構想会議」の最年長有識者メン バーにも選ばれたりして、82歳から人生が激変しま した。けれど、これらはいってみれば、すべて頑張 らない「独学」から始まったこと。楽しいこと、好 きなことに飛び込めば世界は変わります。         『独学のススメ』若宮正子/中公新書ラクレ  これこそ、「人生100年時代」の学び方と言え るでしょう。  そこには、「学ばなくてはならない」という悲壮 感や使命感はありません。楽しいこと、好きなこと に飛び込み続けて、80歳を過ぎて人生がさらに面白 く展開していく。  長寿時代の学び方として、これほど説得力のある 言葉を私は知りません。  私たちは、いくつになっても、どんな立場であっ ても、学びの楽しさを見出すことができるのです。 最初に地図があるのではなく、後に地図を生 み出す  そして、忘れてはならないのは、脇道の先にある 広場には、体系化された「地図」がないということ です。既存の価値基準は上下関係がしっかりしてい るため、どうやって上に行けばいいのか、その学び の手順やステップが明確に整理されています。  まずは入門編から入り、基礎編を経て、応用編、 そして実践編へ……。  こうやって体系化された地図を手に、疑問を挟む ことなく一歩ずつ登っていればよかった。しかし、 広場にはそうした体系化は似つかわしくありません。 だって遊び場ですから。  遊びに体系という要素が入り込むと、その体系は 「こう進むべき」という暗黙のメッセージとなり、 それを受け取った側は「こなす」という意識が出て くる。かくして、学びは作業化されていくのです。  たとえば、何かの資格取得のためのオンライン講 座を受講する時を想像してみましよう。  最初は未知の学びに対する期待に満ち縊れている かもしれません。しかし、いったん講座に入れば、 そこにはしっかりと体系化されたカリキュラムがあ り、それぞれのコンテンツには体系に基づいた明確 なメッセージがあります。  そして最後には「そのメッセージをちゃんと学ん だか?」という確認テストまでセットされている。 この予定調和の世界観の中に入れば、自ずと一つ一 つのコンテンツは作業的に「こなしていく」という マインドセットになってしまいかねません。  このように、あらかじめ体系化された「地図」と いう存在は、無駄なく合理的な振る舞いをサポート してくれる一方で、遊びとは対極の窮屈感が出てき てしまいがちなのです。  では、この広場には地図が全く存在しないので しよヽつか?  それは、必ずしもそういうことではありません。 本文中にも書いた通り、振り返って自分なりに地図 を生み出せば良いのです。  もし最初に他者が定義した地図があったとしても、 その地図に込められた意味を剥がして、自らが地図 を生み出していく。つまり、最初に地図があるので はなく、自分が歩んだ後に地図を生み出していくこ とに本質がある、ということです。  この思想と技術を、本文中では「ラーニングパ レツト」という名前で表現しました。このラーニン グパレツトとは、やや大げさに言えば、他者から 「何を学ぶべきか」を定義される生き方を放棄する、 という宣言でもあるのです。 あなたは今何を学んでいるのか?  さて、それではこの本の最後に、皆さんに問いを 投げかけたいと思います。  「あなたは今、何を学んでいますか?」  おそらく、ここまでの道行きをともに歩んできた 皆さんは、その答えの多様さに気づいているのでは ないでしょうか。  それは、たとえばビジネススクールに通っている とか、料理教室へ行っている、またはプログラミン グを学んでいる、といった類のことだけではありま せん。  生きている限り、この瞬間にも学びは生成されて います。  だからこそ、「自分はこの平凡にも見える瞬間か ら自分は何を学んでいるのだろうか?」という問い が意味を持つのです。  誰かが名づけた立派な科目名などなくて良い。テ キストも教員も、単位も評価も存在しない。  些細な日常の事柄を「学び」と認識することがで きるのならば、私たちは生涯学び続けることができ るはずです。  そのような視点で考えると、この本を執筆してい た半年くらいの過程は、私自身にとって「学ぶとは 何か?」ということを学び直す過程でした。  この執筆のために、直接誰かに教えを受けたわけ ではありません。この「学びを学ぶ」という独学の 旅路で頼りにしたのは、先人たちが書いた数々の著 作と自分の経験のみ。  他者の経験や自分の過去を振り返り、その意味を 問い返し、そして新たな「学ぶことの意味」を再発 見する。その過程は、私自身かたどってきた道を振 り返りながら、後付けでその地図を制作することと も言えると思います。  魯迅は『故郷』という作品の最後に、こう語りま した。  希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言え ない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は 地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道が できるのだ。  『故郷/阿Q正伝』魯迅著、藤井省三訳/光文社古典麺訳文庫  このことは「学び」においても同じことだと言え るでしょう。  つまり、「独学の地図」は、最初からは存在しな いということです。しかし、意思を決めて、自由に 歩き出せば、やがてその道行きは地図になっていく。  私たちには、この先の独学の地図は見えません。 何を学ぶべきかを教えてくれる存在はいないのです。  だからこそ、好奇心という灯りを唯一の手がかり にして、足が向かう方向に歩みを進めていきましよ う。その後に、独学の地図は生まれているはずです。  この書籍は、東洋経済新報社の編集者である宮崎 奈津子さんと二人三脚で仕上げたものです。  実は、宮崎さんとは、2014年に前職で『27歳 からのMBAクロービス流ビジネス基礎力10』を 執筆した時からのお付き合いでした。私の中の当時 の宮崎さんの記憶は、空気を読まずに素朴で深い問 いかけを投げ込んでくる人。そして、今回の久しぶ りの共同作業では、その特徴にさらなる磨きがか かっていました。  執筆期間、月一回の頻度で打ち合わせをさせてい ただいていましたが、  「荒木さんは、どんなタイミングで思い出される 存在なのでしょうか」  「荒木さんにとって、学びとは何ですか」  「学びの定義は荒木さんの若い頃とどんな変化が あったのでしょうか」 というようなシンプルながら哲学的な問いを差し挟 んでいただいたおかげで、私の思考はぐっと深まり ました。宮崎さんからの問いかけがなければ、この 本は出来上がっていなかったはずです。  独学というテーマで私に白羽の矢を立てていただ いたこと、そして鋭い問いに対する答えを辛抱強く 待っていただいたことにあらためて感謝します。  また、毎日4年以上も継続放送しているvoicyも、 この執筆の原点にあります。  放送回数は2000回を超えますが、毎回書籍や 対談から「2ミリの学び」を抽出することを継続し てきました。このチャンネルこそ、私の「学びの広 場」を体現している場です。  そういう意味で、voicyの場は、執筆を進める上 での「力強い根拠」となってくれました。voicy社 の皆さん、対談していただいたゲストの方、そして 毎日聴いてくれているリスナーの皆さんにこの場を お借りして感謝します。  そして、「超相対性理論」というPodcastを一緒 にやっている渡邉康太郎さんと深井龍之介さんにも 感謝申し上げます。  彼らと学びを楽しむ道中をともにできて幸せです。  最後に、執筆する姿を応援してくれた妻の昌子と、 息子の創至、大志にも感謝しています。子どもたち がこれからどんな独学の地図を創り出すのか、とて も楽しみでなりません。