現代思想入門_千葉雅也 はじめに 今なぜ現代思想か 今なぜ現代思想を学ぶのか  この本は現代思想に入門する本です。  ここで言う「現代思想」とは、一九六〇年代から 九〇年代を中心に、主にフランスで展開された「ポ スト構造主義」の哲学を指しています。フランスを 中心としたものなのですが、日本ではしばしば、そ れが「現代思想」と呼ばれてきました。  本書では、その代表者として三人を挙げたいと思 います。  ジヤツクーデリダ、ジルードゥルーズ、ミシェ ルーフーコーです。  他にジヤツクーラカンやカンタンーメイヤスーな どにも触れることになりますが、この本ではとにか くデリダ、ドゥルーズ、フーコーという三つ巴を ざっくり押さえます。この三人で現代思想のイメー ジがつかめる’・ それが本書の方針です。  では、今なぜ現代思想を学ぶのか。  どんなメリットがあるのか?  現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで 考えられるようになります。単純化できない現実の 難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるよ うになるでしょう。  −と言うと、「いや、複雑なことを単純化でき るのが知性なんじやないのか?」とツッコミが入る かもしれません。ですが、それに対しては、「世の 中には、単純化したら台無しになってしまうリアリ ティがあり、それを尊重する必要がある」という価 値観あるいは倫理を、まず提示しておきたいと思い ます。そう聞いて、「ふむふむ、そうだよな」と 思ってくださるならいいのですが、「なんじやそれ は」とイラつく人もいるかもしれない。ともかく読 み進めてみて、役に立つものかどうかご判断いただ ければ幸いです。  もう少し、この冒頭で、今なぜ現代思想なのかを 説明させてください。  大きく言って、現代では「きちんとする」方向へ といろんな改革が進んでいます。これは僕の意見で すが、それによって生活がより窮屈になっていると 感じます。  きちんとする、ちゃんとしなければならない。す なわち、秩序化です。  秩序から外れるもの、だらしないもの、逸脱を取 り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くよう にしたい。企業では「コンプライアンス」を意識す るようになりました。のみならず、我々は個人の生 活においても、広い意味でコンプライアンス的な意 識を持つようになったというか、何かと文句を言わ れないようにピクピクする生き方になってきていな いでしょうか。今よりも「雑」だった時代の習慣を 切り捨てることが必要な面もあるでしょう。しかし 改革の刃は、自分たちを傷つけることにもなってい ないでしょうか。  こうした現代の捉え方を、ここではごく大ざっぱ に言うだけにします。じやあ具体的にどういう問題 があるかと例を挙げると、その例だけに注目して拒 絶されI「それをきちんとするべきなのは当然 だ」と問答無用の反発を受けてI、話を聞いても らえないかもしれないからです。  ですから時代の大きな傾向として言います。現代 は、いっそうの秩序化、クリーン化に向かっていて、 そのときに、必ずしもルールに収まらないケース、 ルールの境界線が問題となるような難しいケースが 無視されることがしばしばである、と僕は考えてい ます。何か問題が起きたときに再発防止策を立てる ような場合、その問題の例外性や複雑さは無視され。 一律に規制を増やす方向に行くのが常です。それが 単純化なのです。世界の細かな凹凸が、ブルドー ザーで均されてしまうのです。  物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、 個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはい ないでしようか。  そこで、現代思想なのです。  現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持 ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目 する。それが今、人生の多様性を守るために必要だ と思うのです。  人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、 ノイズを排除して、純粋で正しいものを目指してい くという道を歩んできました。そのなかで、二〇世 紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエ イティブなものとして肯定したことです。  第四章で説明しますが、遡ると、その原点は一九 世紀のニーチェの哲学にあります。ニーチェは『悲 劇の誕生』において、コアイオニュソス的なもの」 という言い方で、荒ぶる逸脱の干不ルギーをクリエ イティブなものとして肯定しました。  逸脱にクリエイティブなものが宿るという考え方 は、二〇世紀を通してポピュラーになりました。芸 術家にはハチャメチャなところがある、みたいなイ メージですね(それも「昭和的」になり、今では品行 方正な人が好まれるのかもしれません)。  予定を超えて朝まで飲んでしまうとか、突然「今 から海に行くか」となってレンタカーでドライブに 出かけてしまうとか、そのくらいなら日常起こりう る軽い逸脱で、青春映画みたいな爽やかさです。 「勢い」ですね。その一方で、最も極端には、犯罪 という逸脱がある。では、激しい社会運動で、法的 にギリギリであるような行動などはどうなのか。法 の隙をつく狡猾なビジネスはどうなのか。逸脱には 実にさまざまな様態があります。考えてみてほしい のですが、ナチスードイツによるユダヤ人迫害は法 によって遂行されたのであり、抵抗するには違法行 為=逸脱が必要だったのです。  そもそも、ルールに則っている状態とはどういう ことなのか。法的にセーフかアウトかというのは解 釈が必要で、だから法曹の仕事があるのであって、 ボタンを押したら答えが出るのではありません。こ こには、ソールークリプキというアメリカの哲学者 が考えた「規則のパラドックス」という有名な問題 が潜んでいます。詳しく知りたい方は、飯田隆『規 則と意味のパラドックス』(ちくま学芸文庫)を読ん でみてください。  僕は一九七八年生まれで、九〇年代から二〇〇〇 年代にかけて精神形成をした人間なので、二〇世紀 的なものをずっと背負っているのですが、デジタ ルーネイティブの世代からすると、逸脱をポジティ ブに考えるというのは違和感があるかもしれません。  有名な「盗んだバイクで走り出す」という歌詞が ありますが、あれはかつて、がんじ搦めの社会秩序 の「外」に出ていくという解放的なイメージで捉え られていました。ところが今日では、「他人に迷惑 をかけるなんてありえない」という捉え方がけっこ う本気で言われているようです。そういう解釈は当 初は冗談だったのですが。  今日では、秩序維持、安心・安全の確保が主な関 心になっていて、以前のように「外」に向かってい く運動がそう単純には言祝がれなくなっています。  そういう状況に対して僕は、さまざまな管理を強 化していくことで、誰も傷つかず、安心・安全に暮 らせるというのが本当にユートピアなのかという疑 いを持ってもらいたいと思っています。というのも、 それは戦時中のファシズムに似ているからです。  僕は祖父母が戦争を経験しているので、皆が一丸 となってひとつの方向を向くことへの警戒心をギリ ギリ教えられてきた世代です。そういう昭和の記憶 があるからこそ、一人の人間が逃げ延びられる可能 性が倫理的につねに擁護されるべきだと考えるので す。犯罪の抑止は必要だとしても、過剰な管理社会 が広がることへの警戒は言わねばならないし、現代 思想はまさにその点に関わっており、人が自由に生 きることの困難について語っている思想だと思うの です。  秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しか し他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブ ルシステムで考えてもらいたいのです。  たとえば机の上がめちゃくちゃだったら気分が悪 いわけで、整理整頓したい。ところが、知人のアー ティストから聞いた話ですが、机の上がキッチリ整 理整頓されすぎていると、絵が「硬く」なってしま う。なので、むしろいい加減にしているのだと。こ の感覚は僕にもわかります。人間が人工的につくり 出す秩序ではない、何かもっと有機的なノイズみた いなものがないと、思考が硬直化してしまいます。  僕は机の上に植物を置いています。植物は自然の 秩序ですが、同時に、人間の言語的な秩序からは逃 れる外部を示している。植物は思い通りに管理でき ません。勝手な方向に延び、増殖もする。そういう 「他者」としての植物にときどき目をやると、物事 を言葉でがんじ搦めにしようとしてしまう傾向に風 穴を空けるような効果があります。  動物を飼うのもそうですね。他者が自分の管理欲 望を攪乱することに、むしろ人は安らぎを見出す。 ここが逆説的なのです。すべてを管理しようとすれ ばするほど、わずかな逸脱可能性が気になって不安 に駆られるのです。むしろ秩序の攪乱を拒否しない ことで不安は鎮まっていく。だから人は恋愛をした り、結婚したりもするのです。それは秩序をつくる ためというより、攪乱要因とともに生きていくこと が必要だからでしょう。 入門のための入門  それにしても「現代」思想とは言いますが、もう 古くなってしまったことは否めません。それは二〇 世紀後半の思想であり、現代世界はその頃からだい ぶ変わっています。それに、インターネットが登場 する以前の思想なわけです。  今、現代思想の本を読むのはかなり難しいと思い ます。  デリダを読もうと思ったら、その前段階である 「構造主義」の理解が少しは必要だし、ラカンの精 神分析(フランス現代思想における精神分析の重要性に ついては、後で詳しく触れたいと思います)の知識が前 提になっていたり、暗黙の前提が多いのです。  ニー世紀になってから、第一線の研究者によるわ かりやすい入門書がたくさん出るようになりました。 そういう出版状況になってから読書を始めた世代か らすると、二〇世紀後半に書かれた学問的文章はあ まりに不親切で、暗号文みたいで衝撃を受けるで しょう。怒りすら感じる人がいてもおかしくないと 思います(ですが、昔は読者に一定以上の教養を求め、 読めないなら読めない方が悪いと突き放すのは普通でし た。それでも読者はついていこうとしたのです)。  たとえば、LGBTQの権利に関して決定的な仕 事をしたジュディスーバトラーというアメリカの思 想家がいますが、彼女の『ジェンダー・トラブル』 二九九〇)は、人間の欲望においては必ずしも異性 愛か基本ではないということを独特の論法で示した 本です。『ジェンダー・トラブル』は、ジェンダー、 セクシュアリティについて勉強しようと思ったら一 度は通らなければならない本なのですが、本書で説 明するデリダの脱構築的な考え方と、精神分析の知 識が前提になっていますIしかも何の断りもなく そうなんです。おそらく、これを必読書だと聞いて 読もうとしても、その一冊だけで読めるものではあ りません。バトラーは現代思想の応用編みたいな仕 事をしているのです。ともかく、現代思想全体が今 では解けない暗号文みたいになってしまい、どうい う周辺知識が必要かも含めて説明しないと読めない ものになってしまっています。  ですが、本書を読めば、バトラーの『ジェン ダー・トラブル』にも一歩近づくことができます。 まったく歯が立たなくはなくなります。すぐには読 めません。本書から出発して、さらに詳しい入門書 に手を伸ばしてください。後ほど本の紹介もします。 デリダについても良い入門書があるし、囗本には東 浩紀さんの『存在論的、郵便的−ジャックーデリ ダについて』(新潮社)という大変重要な研究書も あります。これは本格的な研究書ですが、推理小説 のようにも読めるエキサイティングな本で、デリダ に興味を持ったらぜひ読んでもらいたいですね。本 書はそういう段階へ進むための第一歩、つまり「入 門のための入門」、「入門書のための入門書」なので す。ですから、かなリラフな記述になる部分もあり ますが、その点は専門家の方々もご容赦をいただけ れば幸いです。  専門家であっても、いきなり素手で読んだのでは なく、大学の先生や先輩との会話のなかでコアリダ とかってだいたいこういうもんだ」というある種の 常識を聞かされて、「そういうもんか」と読み始め たはずなのです。しかし、一般読者にはそういう機 会がありません。ですから本書では、プロの世界で ここ三〇年くらい「そういうもんだ」と思われてき たところの現代思想の基礎を一般に開放したいと思 います。 ポスト構造主義とポストモダン  先ほど説明なしに使った「ポスト構造主義」とい う言い方ですが、これはデリダやドゥルーズらをひ と括りにして言うときに使われるものです。「ポス 卜」とは「後」という意味で、「構造主義の後に続 く思想」ということになります。ただ、本人たちが そう自称したわけではなく、この呼称に対しては批 判もあります。ここではとりあえず、デリダらを括 るためのフォルダとして、中立的に使うことにさせ てください。  ポスト構造主義については、「ポストモダニズム」、 「ポストモダン思想」という言い方もされたりしま すが、こちらは悪い意味で言われることもあるので、 あまり積極的に使いたくないものです。ポストモダ ン、すなわち「近代の後」と言われるときには、一 九七〇、八〇年代以降が想定されることが多く、そ の時期がポスト構造主義の時代です。  このポストモダンという時代区分について説明し ておきます。  ポストモダンとは「近代の後」です。そもそもの 「近代」とは、今日我々が生きる社会の基本ができ た時代で、一七から一九世紀あたりを指します(学 問分野によって範囲が異なります)。近代とは、市民社 会や進歩主義、科学主義などが組み合わさったもの です。  大まかに言って、近代は、民主化が進み、機械化 が進み、古い習慣が捨てられてより自由に生きられ るようになり、「人間は進歩していくんだ」と皆が 信じている時代です。皆が同じように未来を向いて いる。  その後、世界経済が、つまり資本主義が発展して いくなかで、価値観が多様化し、共通の理想が失わ れたのではないか、というのがポストモダンの段階 です。このことを、「大きな物語」が失われた、と 表現します(この「大きな物語」という概念はシャン‥ フランソワーリオタールというやはリポスト構造主義の 哲学者によるものです)。  そうした状況は、九〇年代後半からのインター ネットの普及によってさらにはっきりしました。今、 SNSを眺めてみれば、細かに異なる無数の主義主 張が言われているわけですが、そういう多様性に よって世界がより幸福なものになったかというと、 むしろ、いざこざの可能性が増えて世界はよリスト レスフルになってしまったと思います。僕にはその ように現状に対するネガティブな思いがありますが、 それはともかくとして、今でもなお誰もが進歩を信 じて未来を向いている近代なのだろうか? という 疑問を持つのはそう変なことではないでしょう。  ポストモダンの状態を良しとするポストモダン思 想、ポストモダニズムは、「目指すべき正しいもの なんてない」、「すべては相対的だ」、という「相対 主義」だとよく言われます。そして、デリダやドゥ ルーズらがその首領なのだと言われたりする。  相対主義批判=ポストモダン批判=現代思想批判、 というわけです。  なぜ相対主義はダメなのか。何でもありになるか らです。事実にもとづかない陰謀論や、人を抑圧し 暴力を肯定するような主張にも余地を与えかねない。 ドナルドートランプが大統領になった時期には、ウ ソを事実のようにごり押しすることを「ポストー トゥルース」と呼ぶようになりましたが、そういう 「世の乱れ」の原因はかつてのポストモダン的現代 思想にある、と批判する人も出てきた。  これは不当だと思います。真理の存在が揺らぎ、 人々がバラバラになるのは世界史のやむをえない成 り行きなのであり、かつて現代思想はその始まりに 反応して、それはいかなることなのかと理論化を試 みたのです。  確かに現代思想には相対主義的な面があります。 後で詳しく述べるように、二項対立を脱構築するこ とがそうなのですが、それはきちんと理解するなら ば、「どんな主義主張でも好きに選んでOK」なの ではありません。そこには、他者に向き合ってその 他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、ま た、共に生きるための秩序を仮に維持するというこ とが裏テーマとして存在しています。みんなバラバ ラでいいと言っているのではありません。いったん 徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに 「共」の可能性を考え直すことができるのだ、とい うのが現代思想のスタンスなのです。 構造主義  次に、「構造主義」について説明します。  これは一九六〇年代にフランスで大ブームとなっ た思想、というか学問の方法論で、事典を引くと難 しそうな定義が載っていると思いますが、そんなに 難しくもないのです。感覚的に捉えてもらいたい。 たとえば、「Aという映画と、Bというマンガと、 Cというテレビドラマでストーリーが同じ構造に なっている」、と言うとき、ここでの「構造」とい う言葉の使い方はある程度通じるでしょう。構造主 義というのはそういう話です。構造とは、おおよそ 「パターン」と同じ意味だと思ってください。  具体的には異なってはいても、別の作品やシャン ルで、抽象的に同じパターンが繰り返されていると いう見方は、今日ではよく見られるものです。物語 のパターンを意識して新しい作品をつくるI「鉄 板」のパターンを使ったり、あるいはパターンをズ ラしてみたりIというのは、構造主義的な方法で す。大塚英志の物語論はその代表で、ぜひ『ストー リーメーカーー創作のための物語論』(星海社新 書)を読んでみてください。そうした見方を最初に 展開したのが構造主義なんです。逆に言えば、驚く かもしれませんが、以前には何でもパターンとして 考えられるというのは自明ではなかったのです。  その時代、偉大な文学作品と週刊誌のマンガが同 じ構造をしていると言ってのけることは、権威主義 に挑戦する大胆な態度だったのです。そういう意味 で、構造主義は「割り切っている」感じが現代的で、 ドライで、ひじように新鮮だったのです(本書の第 六章では、それこそ構造主義的に、現代思想の「つくリ 方」のパターンを分析します)。  こうした考え方がいろんな分野で出てきたのです が、とくにその起源に位置するものとして重要なの が、クロードーレヴィHストロースの文化人類学で す。レヴィHストロースは「構造人類学」と呼称し て、人類の親族関係はどういうパターンで成り立っ ているかという研究から始め、最終的には、世界中 の神話をパターン分類し、その解釈を行いました。 構造主義には、人類文明全体に及ぶパターンを発見 するぞ、というモチベーションがあり、ある種の普 遍学を目指していました。  しかし、それに対して、パターンの変化や、パ ターンから外れるもの、逸脱を問題にし、ダイナ ミックに変化していく世界を論じようとしたのがポ スト構造主義だと言えるでしょう。比べると、構造 主義はもっとスタティック、静的で、世界をパター ンの反復として割り切れると思っていたところが あった。 二項対立の脱構築  さて、では、現代思想の代表的三人、デリダ、 ドゥルーズ、フーコーをどう扱うか。  三者には共通の問題があったと捉えることにしま す。異論もあるかもしれませんが、デリダに主導権 を持たせると話の見通しがよくなると思うので、そ うしてみます。  とくにデリダのテーマなのですが、三人に共通す ることとして言えるのは「二項対立の脱構築」だと 思います。本書を通して、読者の皆さんには「脱構 築的」な考え方を身につけてもらうことになります。 脱構築は、英語ではディコンストラクション (にg目脊苣百)という単語です。フランス語では deconstructi呂とアクセント記号がついて、デコン ストルクシオンと発音します。これはデリダの用語 であり、ドゥルーズとフーコーはこの言葉を使って いませんが、本書ではドゥルーズとフーコーにも 「脱構築的な考え方がある」というふうに解釈する ことにします。  脱構築とはどういうものかは第▽草で説明します が、ここで簡単に言っておくなら、物事を「二項対 立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、 良し悪しを言おうとするのをいったん留保するとい うことです。  とにかく我々は物事を対立で捉えざるをえません。 善と悪、安心と不安、健康と不健康、本質的なもの と非本質的なもの(どうでもいいもの)……などなど。 私たちが何かを決めるときは、何か二項対立を当て はめ、その「良い」方を選ぼうとするものです。  とはいえ、善と悪という対立で善を選ぶ、健康と 不健康の対立で健康を選ぶのは当たり前だと思うか もしれません。これらはプラス/マイナスが常識的 に明らかな対立ですが、もっと曖昧なものもありま す。自然と文化、身体と精神のような二項対立は、 どちらがプラスとも決められないでしょう。ですが、 しばしば、どちらかに優位性を与える価値観が主張 されます。どちらをとるかで主義が分かれるのです。 こうしたケースは第一章で説明します(自然と文化 を例にします)。  さて、たとえば、お昼にカツカレーを食べるかど うか迷っているとしましよう。言うまでもなくカツ カレーはひじように高カロリーです。カレーは脂質 が多く、ほとんど脂の塊を食べているようなもので す!・ そのとき、カツカレーはうまいだろうなあと いう素朴な欲望をとるか、それともダイエットをと るか、のような二者択一が生じる。  背景には、痩せた体の方がよいか気にしないか、 健康か不健康か、といった二項対立が走っています。 欲望のままに生きると不健康になり、それは悪だが、 我慢すれば健康になり、善である(話を簡単にする ため、体型の問題は省略)。このように、何かを判断 するときには、はっきり意識せずとも二項対立の計 算をしているわけです。  悩んだ末、今日はカツカレーを食べることにする。 しかも最近はダイエットを意識していたのにそうし たとすると、むしろ不健康であっても欲望を、ある いは快楽をとる判断をしたことになります。よくあ ることです。人間はわかっていても正しさを維持し て生きることはできず、ときには良がらぬことをし てしまうものです。  私たちは日常、必ずしも二項対立を厳密に運用し ていないというか、実にテキトーです。しかし、そ れは一貫性がなくてダメなのかというと、それだけ ではありません。もっと原理的な問題があるのです。 そもそも、二項対立のどちらがプラスなのかは、絶 対的には決定できないからなのです。以上の場合な ら、不健康が悪だと一概には言えないのです。長生 きだけが人生ではない。不健康な生活になってでも、 太く短く生きるという人生だって、なかなか世間は 許そうとしないでしょうが、自由ではないでしょう か?  さらに言えば、どう生きるかを自分で勝手に決め てよいのか、自由はどこまで可能なのか、といった 問題がここで生じるでしょう(たとえば、不健康にな らないよう努めないのは、皆で分担する健康保険料を他 人から多く「奪う」ことになるからダメだ、などと言う 人も出てくる)。自由叺社会への適応、自律叺他律と いった二項対立をどうするかで議論になる。  二項対立は、ある価値観を背景にすることで、一 方がプラスで他方がマイナスになる。  もうひとつ、秩序と逸脱という例を考えてみま しよう。  基本的に、秩序に対して逸脱はマイナスだと見な される。ですが、私たちは羽目を外して朝まで飲ん でしまったりすることがあります(今はコロナ禍で 難しいですが)。そういうとき、すごく楽しくて、人 間関係が深まったりすることがありますね。ですか ら、逸脱が一概に悪いとも言えない。では逸脱が犯 罪的なものにまでなってしまったらどうか。法との 関係で逸脱がどこまで許容されるのか、何を犯罪と して捉えるかということまで含めて考えると、その 線引きは難しい問題になります。  このように、二項対立のプラス/マイナスは、あ らかじめ絶対的なものとして決まっているわけでは なく、ひじように厄介な線引きの問題を伴うのです。 その線引きの揺らぎに注目していくのが脱構築の思 考であると、まずは言えると思います。  本書では、デリダは「概念の脱構築」、トゥルー ズは「存在の脱構築」、フーコーは「社会の脱構築」 という分担で説明します。 グレーゾーンにこそ人生のリアリティがある  秩序からの逸脱というと、暴走する人を褒め称え ているみたいに聞こえるかもしれませんが、ちょっ とイメージを変えていただきたいのです。それは自 分の秩序に従わない他者を迎え入れることを意味し ます。それにはトラブルがつきもので、人と人が傷 つけ合うことがまったくないなんてことはありえま せん。多かれ少なかれ、自分が乱される、あるいは 自分が受動的な立場に置かれてしまうということに も人生の魅力はあるのです。  このことからして、すでに話は脱構築的になって きています。  自分で自分の行動をきっちリコントロールでき、 主体的・能動的であるべきだ、受け身になるのはよ くない、という考え方が世間には強くあるし、自己 啓発でもよく言われます。だけれど、我々は他者と ともに生きている。他者に主導権があり、それに振 り回されることがしばしばある。そのことがイヤな ようでもあり、そこにこそ楽しさがあるようでもあ る。この両義性が重要です。能動的であればよいと いうわけではないのです。かといって、受動的にな りきってしまい、他人の言いなりになってしまうの はそれはそれで困ったことです。だから、能動性と 受動性についても、どちらがプラスでどちらがマイ ナスかということを単純に決定できないのです。  このように、能動性と受動性が互いを押し合いへ し合いしながら、絡み合いながら展開されるグレー ゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがあ る。  イントロダクションはこのくらいにしましよう。 まずはデリダからです。脱構築とはどういう論理な のかを最初に理解していただきたいと思います。 第一章 デリダー概念の脱構築 独特なデリダのスタイル  「はじめに」では、二項対立のどちらをとるべきか、 では捉えられない具体性に向き合うものとして現代 思想を理解してほしいと述べました。それが二項対 立の「脱構築」であり、その考え方を打ち出した哲 学者がジャックーデリダ(一九三〇〜二〇〇四)です。  なお、一応注意ですが、デリダは「二項対立」を 考え出した人ではありません。二項対立を「脱構 築」する、という新たな思考法を示しだのがデリダ です。  意識的に二項対立を使ってものを考えること自体 を新鮮に感じる読者もたぶんいて、大学の授業でも デリダの話をすると、デリダは二項対立の人、とい う誤解を受けるときがあるのですが、二項対立とい うもの自体は昔からあるわけで、論理的に考えよう とすると出てくるものです。  まず「二項対立」の意味をネットで調べてみます。 コアジタル大辞泉」(小学館)なら標準的な辞書だと 言えるでしょう。次のようにあります。  二項対立皀ichotom亀  論理学で、二つの概念が矛盾または対立の関係に  あること。また、概念をそのように二分すること。  内側と外側、男と女、主体と客体、西洋と非西洋  など。二分法。  シンプルな定義ですね。「はじめに」で挙げた例 は、健康と不健康、安心と不安、自然と文化、など でした。もうちよっと哲学的な例を足すと、能動と 受動、必然と偶然、などもそうです。こういう反対 の関係になっているペアを二項対立と呼びます。  では、まずプロフィールの紹介から。デリダは一 九三〇年に生まれ、二〇〇四年に亡くなりました。 「脱構築」や「エクリチュール」といった概念に よって知られる哲学者で、ポスト構造主義の代表的 な一人と見なされています。デリダはアルジェリア 出身のユダヤ系フランス人で、哲学を志してパリに 出てきた人です。ですからヨーロッパにおけるマイ ノリティとしての、他者としての立場を持っており、 そこが彼の哲学に関わってきます。  デリダの基本的な考え方は、『声と現象』二九六 七)、『グラマトロジーについて』(一九六七)で明確 に示されています。この二つに加えて論文集『エク リチュールと差異』二九六七)が初期の代表作です (六七年に自分のオリジナルな立場を示す三幵をまとめて 出すのがデリダの計画だったようです)。その後、デリ ダの文体はより実験的、アクロバット的で、人を試 すようなものになっていきます。『散種』(一九七二) や『弔鐘』(一九七四)、『絵葉書』(一九八〇)などが 有名です。しかし後期になると、『法の力』(一九九 四)などより読みやすいものになります。  『声と現象』は短いのですが、フッサールの現象学 に対する脱構築なので、まず現象学についてざっと 知っておく必要があります。『グラマトロジーにつ いて』は、前半の基礎理論のところはそれほど予備 知識なしでも読めるかもしれない。『エクリチュー ルと差異』はフロイトとかレヴィナスとか、いろん な対象について論じているので、その対象を知らな いと難しいでしょう。  通常の論理では、AとBを対比して一方をとる、 というのが基本的な進み方ですが、AとBどっちつ かすのところを巧みに書いていこうとするデリダの 文体は、かつてなく独特の、一見はっきりしないよ うな大変読みにくいものになっています。今日こん な書き方をする人はいないでしょう。よくよく読む とひじょうに精密なものであるのですが、とにかく 読むにはかなり慣れが必要です。デリダの書いた本 をいきなり読むのは難しいです。大江健三郎のよう な癖の強い作家の本を読むような意識で取り組む必 要があり、普通のビジネス書を読む感覚で情報がス イスイ入ってくるのを期待すると、およそ何か書い てあるんだかさっぱりわからないでしょう。  入門書は、まず高橋哲哉コアリダー脱構築と正 義』(講談社学術文庫)をお勧めします。それは、 『散種』の第一論文「プラトンのパルマケイアー」 の解説から始まるのですが、このテクスト選定には なるほどと思いました。「プラトンのパルマケイ アー」はエクリチュールの問題をプラトンから引き 出してくるデリダ独特の手つきがよくわかるもので、 かつ比較的読みやすい。デリダは、過去の哲学者の 文章をひじように繊細に読解します。とにかく読み の達人なのです。読むとはこういうことなのか、こ こまで読むものなのか、と圧倒されると思います。  余談ですが、デリダの著作を読むと、最近強まっ ている「わかりやすく書かない方が悪い」という読 者中心の態度がいかに浅はかであるか、思い知るこ とになります。デリダはひじように複雑なものを書 きますが、それはデリダ自身がまず他人のテクスト をきわめて高解像度に読む人だからで、そもそも 「読むって、これくらい読みますよね?」というデ フォルトの基準がパンパなく高いのです。 二項対立からズレていく差異  大きくフランス現代思想を捉えるには、「差異」 というのが最も重要なキーワードです。ポスト構造 主義=現代思想とは「差異の哲学」であると、ひと ことで言ってよいと思います。差異は、英語では ディフアレンス谷渟「ag」、フランス語ではディ フ子フンス谷fference)です。  現代思想とは、差異の哲学である。  「差異」は、「同一性」すなわち「アイデンティ ティ」と対立しています。同一性とは、物事を「こ れはこういうものである」とする固定的な定義です。 逆に、差異の哲学とは、必ずしも定義に当てはまら ないようなズレや変化を重視する思考です。とくに これを強く打ち出しだのは、次章で扱うドゥルーズ です。ドゥルーズの主著は『差異と反復』二九六 八)というタイトルで、それはまさに差異の哲学の 代表作と言えるものですが、一方でデリダもまた差 異の哲学のもう一人の巨人です。  今、同一性と差異が二項対立をなすと言いました が、その二項対立において差異の方を強調し、ひと つの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だと 考えるのが現代思想の大方針なのです。  こうした考え方に対し、「物事の同一性を定義す ることを批判して、何か微妙なところばかりを言え ばいいと思っているのか」、「同一性を崩せばいいの か」といった批判が出てくる可能性があります。 「そんなこと言ったって、一定の安定性がなければ 社会が成り立だないではないか」と。  それに対しては、これは僕の解釈という面が強い のですが、デリダはべつに脱構築によって全部を破 壊しろと言っているわけではないと、まずは答えた い。あくまでも脱構築は「介入」であって、すべて が崩れるなんていうことは考えられていません。で すから、何か「仮固定的」な状態とその脱構築が繰 り返されていくようなイメージでデリダの世界観を 捉えてほしいのです。  むしろ、現代思想的な発想を徹底するならば、 「同一性と差異の二項対立も脱構築する」ことが必 要です。  どういうことか。それはつまり、とにかく差異が 大事だと言うだけではなく、物事には一定の状態を とるという面もあるということです。ただし、その 一定の状態は絶対ではなく、仮のものです。ここで 「仮固定」という言い方をしてみたいのです(これ は僕白身の概念です)。物事はいわば「仮固定的」な 同一性と、ズレや変化が混じり合って展開していく のですが、こうした仮固定的同一性と差異のあいだ のリズミカルな行き来が現代思想の本当の醍醐味で ある、ということになるでしょう。  同一性というのはもちろん悪いものではなく、必 要なのです。ただし、同一性は絶対ではないという マインドを持つことが大事なのです。というのも、 常識的な世界においては、同一性をガッチリ固める ことを強いるような価値観があるからです。「大人 はしっかりしなきやいけない」、「ひとつ考えを決め たら一貫性を持たなければいけない」、「定義はでき るだけ純粋なものでなければいけない」とか、「男 らしくあれ」、「親らしくあれ」、「管理職らしくあ れ」とかですね。 パロールとエクリチュール  デリダの議論は、何を考えるにせよ、思考するこ と全般に関わるものです。一種の思考術ですね。だ からいろいろ応用が利きます。  二項対立においては、しばしば、一方が優位、他 方が劣位なものとして規定されます。ですが、優劣 が反転することもあります。たとえば、文化を自然 よりも高められた状態として扱うIつまり「自然 一/文化十」−ことがありますが、反対に文化は 自然を汚染する、悪くて二次的なものと見なすこと もある。この場合は「自然十/文化一」ですね。そ うして、自然を支配するのが大事だという立場の人 と、自然に帰れという立場の人とでイデオロギー闘 争が起きることになる。  さて、ここでグッと抽象度が高い話になるのです が、デリダにおいては、「話し言葉」(または「声」) と「書かれたもの」という二項対立がすべての二項 対立の根本に置かれます。「話し言葉」はフランス 語で「パロール」、「書かれたもの」は「エクリ チュール」と言います。パロール/エクリチュール という対立です。  古代から、書かれたものよりも実際に聞いた話の 方が真理の基準である、とする考え方があります。 たとえばツイッターのやりとりは誤解を生みやすい。 短くしか書けないし、人によって言葉のどこに注目 するかが違うので、悪いように解釈されたりする。 そんなとき、実際に対面してしゃべると意外に誤解 が解けたりする。目の前で語られることに真理性が あるというのは昔からある考え方なんです。  それに対し、書かれたものは解釈がさまざまに可 能で、別の文脈のなかに持っていけば価値が変わっ てしまう。エクリチュールは、ひとつの同じ場所に 留まっておらず、いろんなところに流れ出して、解 釈というか誤解を生み出していくのです。  そのようなエクリチュールの性質をデリダは悪い ものと捉えず、そもそもコミュニケーションでは、 そういう誤解、あるいは間違って配達される「誤 配」の可能性をなしにすることはできないし、その 前提で人と付き合う必要がある、ということを考え ました。実際、目の前でしゃべっていたって、本当 にひとつの真理を言っているとは限りません。しゃ べっていることにだってエクリチュール性はあるの です。 二項対立の分析  次のような例を見てみましよう。  優柔不断なのはいけない。責任をもって決断しな  ければいけない。どっちつかすの態度でいると、  人に振り回されることになる。大人になるという  のは、決断の重さを引き受けることだ。  こんなツイードが流れてきたとします。これは人 がどうあるべきかを言っているもので、はっきり価 値を示している主張です。二項対立を複数使って組 み立てられています。  デリダが念頭にあれば、次のように分析できます。  まず、「優柔不断壁貝任ある決断」という対立。 優柔不断はマイナス、責任ある決断はプラスです。 次に、「どっちつかず」は「優柔不断」とイコール で、「人に振り回される」というのは、そうは書い ていませんが、概念的に言えば「受動的になる」と いうことですね。「受動的」の対立概念は「能動的」 ですから、「優柔不断=受動的壁貝任ある決断=能 動的」となります。そして最後に「大人」が出てき て、「責任ある決断=能動的=大人」という等式を つくります。逆に言うと、「優柔不断=受動的=子 供」となります。加えて「決断の重さ」とも言って いますから、決断しないのは「軽い」ということに なる。これがこの文に含まれる二項対立の分析です。  そうすると、最終的に次のような結論になる。ま ずマイナスなのは、「優柔不断=受動的=子供=軽 い」です。そしてプラスなのは、「責任ある決断= 能動的=大人=重い」です。  イヤな感じがするかもしれませんが、人が何かを 主張するときには、基本的に、そこに含まれている 二項対立をこんなふうに分析することが可能なので す。  まずこの発想をとった上で、ここでマイナスの側 に置かれているものをマイナスと捉えるのは本当に 絶対だろうか? という疑問を向けるのが、脱構築 の基本的発想です。デリダを学ぶと、日常生活ある いは仕事などで自分に向けられる二項対立について、 この種のツッコミを入れることが可能になるのです。 いつでもこういうツッコミを入れていたら、生活も 仕事も成り立だなくなりますが(笑)。このマイナ スの側に注目するというのが、デリダが次の引用で 言っている「転倒」です。 (……)古典的哲学におけるような対立において は、われわれはなんらかの差し向かいといった平 和的共存にかかわりあっているのではなく、ある 暴力的な位階序列づけにかかわっている(……)。 当該の二項のうち一方が他方を(価値論的に、論 理的に、等々)支配し、高位を占めているのです。 そういう対立を脱構築するとは、まずある一定の 時点で、そうした位階序列を転倒させることです。    (ジヤツクーデリダ『ポジシオン』高橋允昭訳、    青土社二言○○年、六〇頁)  脱構築の手続きは次のように進みます。  @まず、二項対立において一方をマイナスとして いる暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味 方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転 させるわけではありません。  A対立する項が相互に依存し、どちらが主導権を とるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き 出す。  Bそのときに、プラスでもマイナスでもあるよう な、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第 三の概念を使うこともある。デリダにおいて有名な のは、先に紹介した「プラトンのパルマケイアー」 に出てくる、「パルマコン」というものです。これ は古代ギリシア語で、「薬」でもあり「毒」でもあ るという両義性を持っています。実際、薬というの は使い方によっては毒にもなりますよね。ここから、 二項対立を脱構築する第三項を「パルマコン的なも の」と呼ぶことができます。文学の脱構築的な読み 方では、作品中のある要素が、物語における大きな 二項対立(善なのか悪なのかといった)のどちらか一 方に属するのではなくパルマコン的なものとして機 能している、という読みをするのが定番です。 ちょっとだけ引用しますが、デリダは、プラトンの 『パイドロス』におけるパルマコンという語の両義 性に注目することで、テクストの論理を脱構築して いきます。  そのすぐ先のところでソクラテスは、パイドロス  が携えてきた書かれたテクストを一種の薬物  (pharmakon)に喩える。治療薬であると同時に毒  薬でもあるこのパルマコン、この「医薬」、この  媚薬は、その両義性全体をもって、この言説の本  体のなかにすでに忍び込んでいる。この魔力、こ  の魅惑する力、この呪縛する力はI代わるがわ  る、あるいは同時にI有益でも有害でもありう  る。   (デリダ「プラトンのパルマヶイアー」、『散種』藤本   一勇・立花史・郷原佳以訳、法政大学出版局、二〇一  三年、一〇四頁) 非本質的なものの重要性  どんな内容であれ、何か主張をするときには必ず A匹Bという二項対立を使っているわけですが、通 常はあまり意識していません。ほとんど無意識で 使っている。  たとえば「ゲームばっかりしてないで、勉強しな さい」という文を考えてみましょう。そこには勉強 とゲームの対立があるわけですが、ちょっと抽象化 するなら、「真面目なこと/遊び」、「本質的/非本 質的」といった二項対立が背後にあるわけです。  本質的/非本質的という対立で考えてみると、本 質的なことが非本質的なことよりも大事なのは当た り前ですよね。だってそれが本質的という言葉の定 義じやないですか。  しかし、「本質的なことが大事だ」という常識を デリダは本気で掘り崩そうとするのです。これこそ デリダが画期的だったところです。「非本質的なも のの重要性」つて、ちょっと言葉として変ですよね。 でも、デリダはそこを考えようとするのです。デリ ダは、ふざけたものを徹底的に真面目に擁護しよう とした人なのです。  そう言うと、真面目よりも遊びという非本質的な ものを褒めるなんて、「不真面目礼賛、テキトー礼 賛というわけか。けしがらん!」と怒る人もいるか もしれない。でもそんなに単純な話でもないのです。 まさに本質を崩すことによって、世の中をより解放 的にすることができるのです。  ちょっと例を考えてみましょう。男性中心的な社 会は、強さを基準にしていると言えると思いますが、 弱さや受動性を割り当てられてきた女性の側から社 会を見直すことで、たとえば、男性的には自分の論 理を主張することが重視されがちなところに、まず 人の話をよく聴いて細かいところに注目する、とい うような姿勢で対抗することができる。  こういうデリダの「本質主義批判」のおかげで、 ジュディスーバトラーは『ジェンダー・トラブル』 という本を書き、同性愛を名誉回復するための原理 論を書くことができたのです。また、西洋文明に対 して遅れていると見なされていた諸地域の名誉回復 をする「ポストコロニアリズム」という議論も、デ リダ的発想によって可能となりました。 近いか遠いか  ここで深掘りしたいのですが、「本質的=重要」 とはどういう意味でしょうか。  というのは異様な問いかもしれません。つまり、 重要であるとはどういうことかですが、普通そんな ことは考えないわけです。しかしデリダはこれを深 掘りするのです。デリダによれば、二項対立におけ るプラスの項は、「本来のもの」、「本物」、「オリジ ナル」であり、さらに言うと「直接的なもの」を意 味するということになります。  偽物よりも本物の方がよいというのは常識でしょ う。本物の絵というのは、作者が直接描いたもので ある。対して、その贋作は他人が描いたもので、作 者という基準点から離れていて、間接的でしかない。 本質的で重要なものというのは、ある基準点にとっ て直接的なものであると言えます。  これが根本的な二項対立で、ありありと目の前に 本物があるということを、哲学においては「現前 性」と呼びます。そしてそうした現前性に対して 劣っているという「再現前」との対立がある。「直 接的な現前性∇間接的な再現前」ですね。この二項 対立が本物と偽物、本質的と非本質的という対立の 根っこなのだというのがデリダの主張です。  要は、「近いか遠いか」ということです。たとえ ば「自然なものの方がよく、人工的なものはよくな い」という価値観はよくあるものだと思います。 「有機農法はよく、農薬や人工肥料はよくない」と か。これも地球にもともと備わる自然のプロセスが よく、そこから離れていくとよくないという発想か ら来ているものです。人工的なものというのは、こ こでは大地から離れていくということであるわけで す。  ここからデリダ独特のアイデアに進みます。デリ ダによれば、あらゆる二項対立は、話し言葉と書か れたものの対立と言い換えることができるのでした。 すなわち、パロール匹エクリチュールですね。パ ロールは現前的であり、それに対しエクリチュール は、元のものから離れてしまっているから誤解を招 く、ということになります。  直接的な現前性、本質的なものIパロール  間接的な再現前、非本質的なものIエクリ  チュール  次に挙げるのは『グラマトロジーについて』から の引用ですが、ここではエクリチュールがパロール に対して二次的で、邪魔な存在だと見なされてきた ことが言われています(言語学者のソシュールにもそ ういう考えがあった、という説明です)。  文字言語。感覚的物質にして人為的外面性、つま り一つの「衣裳」。人々は、音声言語が思惟に とっての衣裳であるということにたいしてはしば しば異議を唱えてきた。フッサール、ソシュール、 ラヴェルもその例外ではなかった。だが、 エクリチュール パロール 文字言語が音声言語の衣裳であるということがか つて疑われたことがあるだろうか。それはソ シュールにとっては、まさに頽廃と堕落の衣裳、 腐敗と仮装の衣であり、祓わるべき、つまり善き 音声言語によって追い払わるべき祭りの仮面なの  である。     (デリダ『根源の彼方にIグラマトロジーにつ    いて』上、足立和浩訳、現代思潮社、一九七二年、    七六頁)  このパロールとエクリチュールというのは、あら ゆるものに当てはめられる抽象的な二項対立だと捉 えてください。パ囗−ルはじかに真意を伝える、エ クリチュールは間接的だから誤読される。このこと を、先はどの自然と人工または文化の対立にも当て はまる「寓話」のように捉えてもらいたいのです。 そうすると、どうなるか。自然なものはパロールの 側で、人工的、文化的なものはエクリチュールの側 だと言えます。実際、「自然の声に耳を傾ける」な んていう言い方がありますね。他方、人工物はエク リチュールであり、食品添加物などはまさに化学式 にもとづいて書くようにして物質を合成するわけで す。 ここで前に挙げた例に戻ってみましよう。 優柔不断なのはいけない。責任をもって決断しな ければいけない。どっちつかすの態度でいると、 人に振り回されることになる。大人になるという のは、決断の重さを引き受けることだ。 というツイードでした。 ここで「人に振り回される」とは受動的になるこ とですが、それは言ってみれば、自分が自分自身か ら引き離される=間接化されることだと言えます。 自分であって自分でなくなる。極端に言えば、自分              丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 が偽物になる。つまり、自分がエクリチュールにな るということです。  それに対して、「自分で責任をもって決断する」 というのは、人の言うことではなく、自分の声を自 分で聞いて行動することだと言えます。自分の声、 つまり意志に、あいだに余計なものを挟まないで向 き合うべきだというわけです。  いかがでしょう、こんなふうにパロール匹エクリ チュール(声匹書かれたもの)という対立は、寓話と して、いろんな場合に当てはめることができるので す。 脱構築の倫理  ここまでがデリダの考え方についての概念的な説 明でした。ここからはもう少し砕けたかたちで、デ リダの考え方を人生に引き受けるような話をしてい きましよう。  大きく言って、二項対立でマイナスだとされる側 は、「他者」の側です。脱構築の発想は、余計な他 者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたい という思いに介入するのです。自分が自分に最も近 い状態でありたいということを揺さぶるのです。  「自分が自分に最も近い状態である」というのは哲 学的な言い回しかもしれませんが、それがつまり同 一性です。それは自分の内部を守ることです。それ に対して、デリダの脱構築は、外部の力に身を開こ う、「自分は変わらないんだ。このままなんだ」と いう鎧を破って他者のいる世界の方に身を開こう、 ということを言っているのです。  このように、「他者の方へ」という大きな方向性 は、ユダヤの思想にしばしば見られるものです。デ リダとも関係があったエマニュエルーレヴイナス ニ九〇六〜一九九五)は二〇世紀を代表するユダヤ の哲学者で、彼もそういう方向性を持っています。 レヴィナスは、差異というよりまさに「他者の哲 学」を展開した人です。その主著『全体性と無限』 二九六匸は、自己−自己を中心にすべてを取り 込んでいく「全体性」−とは無限に異なるものと しての「他者」に向き合うことの倫理性を論じるも のです。  レヴィナスとデリダの違いを簡単に言っておくと、 レヴィナスの場合、他者の隔絶した絶対的な遠さが 強調されるのですが、デリダの場合は、日常のなか に他者性が泡立っているようなイメージだと僕は思 います。日常を、いわば他者性のサイダーのような ものとして捉える感覚です。一切の波立ちのない、 透明で安定したものとして自己や世界を捉えるので はなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある 種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世 界として世界を捉えるのがデリダのビジョンである と言えると思います(レヴィナスだってそういう世界 像である、という専門的なツッコミもありうるのですが、 まあそれは上級編なので今はいいとします)。  自然と文化に関する例で言ってみるなら、たとえ ばオーガニック製品がよいといっても、それだけで 生活を組み立てるなんて無理ですよね。逆に、自然 を徹底的にコントロールしきるぞ、なんてことも無 理です。自然の力は人間の予想を裏切ることがしば しばで、土砂崩れが起きたり、地震が起きたり、原 発事故が起きたりするわけです。だから我々は自然 の猛威をコントロールすることで安心を得ると同時 に、都市生活の決まりきったパターンにうんざりし て海に出かけて突然波をかぶったり、色鮮やかな生 き物が岩場の陰から出現するのに驚いたりすること で、生の輝きを回復しようとする。都市生活と海辺 の旅行を行ったり来たりするのです。そういうこと なのであって、そのどちらかではないのです。  文明を批判して山に籠って思索に耽るような純粋 主義にもならなければ、自然のロマンティシズムを 馬鹿にして都市生活でひたすら金稼ぎに邁進するこ とに居直るのでもなく、自然と文化が入れ子状に なっているような、互いに対して泡立つような状況 のなかで、我々は生きていかざるをえない。リアリ ティとはそういうものだと思うんです。  自然と文化は相互に依存し合っており、主従が入 れ替わり続ける。その意味で、自然にせよ文化にせ よ、パルマコン的に両義的なものだと捉えることが できます。確認ですが、古代ギリシア語のパルマコ ンとは、「薬でも毒でもあるもの」でした。  しかし、人間はやはり秩序を求めて、何か一方的 な価値観を主張する場面が出てきます。それに対し、 別の他者的な観点があり、押したり押し返されたり というのを繰り返すような状態になります。デリダ 的な脱構築的世界像だけを徹底して生きようとする ことは、それはそれでできない。我々には何かを決 断する必要がやはりあります。  先はどのツイードを思い出すなら、決断すること が大人の責任だと言っていたわけですが、問題は、 とにかく決断することばかりを強調しているところ です。  確かに人は、物事を先に進めるために、他の可能 性を切り捨ててひとつのことを選び取らなければな りません。しかしそのとき、何かを切り捨ててし まった、考慮から排除してしまったということへの 忸怩たる思いが残るはずです。そしてまた、そのと き切り捨てたものを別の機会に回復しようとしたり することもある。  ここでまた仮固定と差異の話を思い出していただ きたいのですが、すべての決断はそれでもう何の未 練もなく完了だということではなく、つねに未練を 伴っているのであって、そうした未練こそが、まさ に他者性への配慮なのです。我々は決断を繰り返し ながら、未練の泡立ちに別の機会にどう応えるかと いうことを考え続ける必要があるのです。  脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしな くて済むようになるのではなく、我々は偏った決断 をつねにせざるをえないのだけれど、そこにヴァー チャルなオーラのように他者性への未練が伴ってい るのだということに意識を向けよう、ということに なる。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさ にそうした意識を持つ人には優しさがあるというこ となのだと思います。 未練込みでの決断をなす者こそ「大人」  二項対立はつねに非対称的に他者を排除していて、 何らかの二項対立が背後にある決断をすることはつ ねに他者を傷つけることになっているのではないか、 という意識を持つと、何もできなくなってしまうか もしれません。しばしばそういうものとして、つま り行動不能に陥らせるものであるかのようにデリダ やレヴィナスの思想を捉える人がいます。  ここは僕の解釈になりますが、彼らの思想は。 「そもそも人間は何も言われなくたってまず行動し ますよね」というのを暗黙の前提にしているのだと 捉えた方がよいと思います。人間は生きていく以上、 広い意味で暴力的であらざるをえないし、純粋に非 暴力的に生きることは不可能であるということは、 言わずもがなの前提なのです。だからこそ、ここが 誤解を招くところだと思うのですが、この言わずも がなの前提の上で、そこにいかに他者の倫理を織り 込んでいくかということが問題になっているのです。  しかもその織り込みにも限度がある。何かひとつ イベントを企画するとして、誰もが満足して何も批 判されないようなものなんてたぶんできないでしょ う。時間的にも物資的にも制約があって、有限なわ けですから。にもかかわらず、できるだけのことは 考えるし、もし批判があったらそれはそれで対応す る。  ですからもうひとつのポイントは、この立場から 言うと、人が何かを決断したり行ったりしていると き、こういう他者への配慮が足りないという批判を 起こすことはつねに可能だということです。その意 味で言うと、言葉は悪いですが、ひとつの決断をデ リダ的・レヴィナス的観点から「潰そう」とするこ とはいつでも任意に可能なんです。  逆に言うと、人が何らかの決断をせざるをえない ということは「赦す」しかないのです。決断の許諾 とそれが排除しているものへの批判は、仕事をし、 社会を動かしていかざるをえないという現実性にお いてバランスを考えるしかない。そしてそのバラン スをどうするかに原理的な解決法はないのです。 ケースーバイーケースで考えるしかない。  人は決断せざるをえません。先のツイードのケー スでは、「大人は責任をもって決断するのだ」とい うことがある種の強さのように言われていました。 それを言うなら、未練込みでの決断という倫理性を 帯びた決断をできる者こそが本当の「大人」だとい うことになるでしょう。  このように本書では、差異や他者からの訴えの重 要性を説明した上で、しかし決断や同一化はそれは それでせざるをえないものなのであって、それと他 者性との向き合いが拮抗するなかで生きていくしか ないのだ、ということを強調します。そのことを はっきり言う現代思想の入門書であるということが、 大きな特徴だと思います。 第二章 ドゥルーズー存在の脱構築 ドゥルーズの時代  ジルードゥルーズ(一九二五〜一九九五)という哲 学者を大まかに言うと、固定的な秩序から逃れ、よ り自由な外部で新たな関係性を広げていくこと、自 分の殼を破って飛び出していくことIを励ます メッセージを発した哲学者、ということになるで しょう。  一九八〇年代の日本では、ベストセラーになった 浅田彰『構造と力』(勁草書房)の影響もあり、ドゥ ルーズ、およびドゥルーズ十ガタリが注目されまし た。ドゥルーズは七〇年代から精神分析家・政治活 動家のフェリックスーガタリと共著を書くようにな り、二人を合わせてドゥルーズ+ガタリと呼びます (僕は「十」記号を使っていますが、二人組の名前の書き 方は決まっているわけではなく、他にもあります)。  八〇年代、バブル期の囗本におけるドゥルーズの 紹介は、旧来の縦割りの秩序が壊れ、資本主義・消 費社会の発達、マスメディアの発達によって、新し い活動の可能性がどんどん広がっていった時代の雰 囲気とマッチしていました。それまでの時代のよう に、支配層・資本家と抑圧された労働者が対立する という二項対立ではなく、より多方向的に、二項対 立的ではないような社会への介入の仕方が言われる ようになり、単純に資本主義を敵視してそれを打ち 倒すよりも、資本主義が可能にしていく新たな関係 性を活用して、資本主義を内側から変えていくとい う可能性が言われた時代です(それが有効かどうかは 脇に置くとして)。  その後九〇年代に入り、日本ではバブルが崩壊し、 不況になり、イケイケドンドン的な空気は終わりま す。それと軌を一にするかのようにドゥルーズの ブームも収まり、楽観的に新たな外部を目指すとい うよりも、微細な対立や衝突を発見し、二項対立の ジレンマを言うような思考、すなわち第一章で扱っ たデリダ的な思考が前面化するようになりました。 そんな九〇年代を代表する著作として、東浩紀『存 在論的、郵便的』というデリダ論がある、と流れを つけることができるでしょう。あまり浅田‐束とい うラインを強調するのもどうかと思いますが、囗本 における現代思想の受容ではドゥルーズからデリダ ヘという流れがあったことは押さえておくとわかり やすくなると思います。  デリダの時代には同時にレヴィナスも読まれるよ うになり、より倫理や正義が問題にされるようにな りました。まあ、言ってみれば九〇年代の現代思想 は辛気くさくなったのです。八〇年代はもっと楽観 的で、いろいろ混ぜこぜにすれば面白いことが起き て、何かと良くなるに違いない、という感じがあっ た。もっと細かなコンフリクトが問題になってくる のは九〇年代以降のことです。  その後、インターネットの普及によって、時代は 再びドゥルーズ的になってきます。有名な概念です が、横につながっていく多方向的な関係性のことを、 ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びました。 リゾームとは植物学の用語で「根茎」のことですが、 横にどんどん広がっていく芝みたいな植物をイメー ジしてください。ニー世紀に入り、まさにリゾーム 的関係性がネットによって文字通りに実現されてい くわけです。  リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接  合されうるし、接合されるべきものである。これ  は一つの点、一つの秩序を固定する樹木ないし根  とはたいへん違うところだ。     (ジルードウルーズ十フェリックスーガタリ『千    のプラトー』上、宇野邦一ほか訳、河出文庫、二    ○一〇年、二三頁)  しかし、インターネットで関係性が新たに開かれ、 旧来の秩序体制が脱構築され、すべてが良くなって いったかといったら、全然そんなことはなかった。 むしろあらゆるものが細やかに接続されて相互監視 が強まり、データがどこかに保存され、個人のプラ イバシーが実は誰かに握られているという時代に なったのです。ネットによって皆が発言権を持つよ うになったのは確かです。だが、それは管理社会の 到来でもあった。ドゥルーズは管理社会について鋭 く予言していました。それは本章の最後で説明しま す。 差異は同一性に先立つ  まず、著作を紹介しましよう。  ドゥルーズの主著は、博士論文である『差異と反 復』二九六八)と、その翌年に出た『意味の論理 学』(一九六九)です。この二つはひじように高密度 なもので、今でも研究が続いています。どのように これを読むかで研究者にいろんな立場がある。どん な哲学書でもそうですが、哲学書には「普通に読 む」ということがありません。哲学書はどれもこれ も暗号化されたファイルみたいなもので、どうやっ て鍵を外してある程度理解可能にするかで、研究者 がさまざまな読みのアプローチを試みているのです。  初期ドゥルーズは、一冊で一人の哲学者を扱うか たちで研究書を書いていました。その最初はヒュー ムに関する『経験論と主体性』二九五三)です。ベ ルクソン解釈に新風を送り込んだ『ベルグソニス ム』二九六六)も名高いものです。ニーチェとスピ ノザの研究もあり、いずれも哲学史研究において重 要な仕事と見なされています。  『差異と反復』と『意味の論理学』以後、七〇−八 〇年代には、ドゥルーズ十ガタリとしての共著の時 期になります。その第一作が『アンチーオイディプ ス』二九七二)、そしてその第二巻である『千のプ ラトー』二九八〇)。二人で書いたカフカ論もあり ます。  その後、ドゥルーズはまた一人での仕事に戻り、 映画の哲学である『シネマー・2』(一九八三/一九 八五)を書きました。これも映画批評の歴史におい てひじように重要なものです。とにかくドゥルーズ の著作はどれひとつをとっても、各分野で重要な位 置を占める文献になっています。  ドゥルーズは長年、肺の障害で苦しんでおり、最 後は呼吸器をつけて寝たきりの状態になっていまし た。息苦しさから解放されるためだったのか、一九 九五年、自分で呼吸器を外し、傍らの窓から飛び下 りて亡くなりました。  入門書の紹介ですが、まず、芳川泰久・堀千晶 『ドゥルーズ キーワード89』(せりか書房)をパラ パラ見て、気になる概念を見つけるのがいいでしょ う。その上で、代表的な研究者のものを比較するこ とをお勧めします。檜垣立哉『ドゥルーズー解け ない問いを生きる』(ちくま学芸文庫)、国分功一郎 『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)、宇野邦一 『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社学術文庫)など。  僕がドゥルーズの本を初めて「読める’・」と思っ たのは、コアイアローグ』二九七七)です。これは 『千のプラトー』のダイジェストみたいな本で、後 半は精神分析のややこしい話になるのですが、前半 はひじようにキャッチーで、「ドゥルーズ主義」が どういうものかわかると思います。  では、説明を始めます。  ドゥルーズの哲学と言ったとき、ひとつキーワー ドを最初に挙げるなら、やはり「差異」です。差異 という言葉は硬い言葉ですし、日常的にはあまり使 わないと思いますが、これを哲学の概念としてはっ きり打ち出しだのがドゥルーズなのです。  世界は差異でできている。  というのがドゥルーズが示した世界観です。  それは主著の『差異と反復』で論じられているの ですが、この本はひじように抽象的で複雑な本で、 準備なしに体当たりしてもほとんどわからないと思 います。僕もたくさんの参考文献を読みながら何度 もアタックして読み通し、同級生や先輩と議論をす るなかでポイントをつかんできました。  まずは、同一性よりも差異の方が先だ、という考 え方。重要なのは、大きな二項対立として同一性/ 差異という対立があることです。これに関する部分 を、主著『差異と反復』から引用してみましよう。  同一性は最初のものではないということ、同一性 はなるほど原理として存在するが、ただし二次的 な原理として、生成した原理として存在するとい うこと、要するに同一性は《異なるもの》の回り をまわっているということ、これこそが、差異に それ本来の概念の可能性を開いてやるコペルニク ス的転回の本性なのであって、この転回からすれ ば、差異は、あらかじめ同一的なものとして定立 された概念一般の支配下にとどまっているわけが ないのである。    (ドゥルーズ『差異と反復』上、財津理訳、河出    文庫、二〇〇七年、匸一一−匸匸一頁)  「同一性は最初のものではない」と言われています。 同一性は「二次的」な位置に置かれるのです。でも それは、事物が一瞬たりとも同一性を持たないとい うような、めちゃくちゃの状態を言っているのでは ありません。二次的にでも、同一性は「原理として 存在する」のです。僕はこのことを「仮固定」とい う言い方で捉えています。 ヴァーチャルな関係の絡まり合い  たとえば、「私か自転車に乗る」という事態を考 えてみましよう。  そこには「私」というひとつの存在と「自転車」 というもうひとつの存在がある。大ざっぱには、 「私か/自転車に乗る」というかたちで、「私」と 「自転車」は主語‐目的語の関係として、二つの独立 したものと捉えられることになります。  しかし、現実をよく考えてみると、「私」と「自 転車」は複雑に絡み合っているのではないでしよう か。倒れないように、体のバランスは複雑に制御さ れています。右に傾けば左にバランスをとろうとし ますし、道の状態などの環境も関わってきます。自 分と自転車が独立したものとしてあるというより、 ひとつのハイブリッドな、サイボーグ的に一体化し たような状態になっていて、そこでは複雑で多方向 的な関係性がさまざまにコントロールされ、「自転 車に乗る」というプロセスが起こるわけです。その プロセスの細かいところを我々は意識していません。 意識のレベルでは、「私か自転車に乗る」という主 語‐目的語の関係でしか捉えていない。ところがそ のなかでは、複雑な線がいたるところに伸びていて、 関係の糸の絡まり合いのようになっている。それは 意識下で処理されている。  このように、AとBという同一的なものが並んで いる次元のことを、ドゥルーズは「アクチュアル」 (現働的)と呼びます。それに対して、その背後に あってうごめいている諸々の関係性の次元のことを 「ヴァーチャル」(潜在的)と呼びます。我々が経験 している世界は、通常は、A、B、C……という独 立したものが現働的に存在していると認識している わけですが、実はありとあらゆる方向に、すべての ものが複雑に絡まり合っているヴァーチャルな次元 があって、それこそが世界の本当のあり方なのだ、 というのがドゥルーズの世界観なのです。  アクチュアルな次元においては、Aとそれ以外の 非Aという独立したものがあるわけですが、ヴァー チャルな次元ではAと非Aという対立が崩れ、すべ てが関係の絡まり合いとして捉えられる。このよう な意味で、ものの存在をある同一性とそれ以外とい う対立関係から解放し、普遍的な接続可能性として 捉えるところが、「はじめに」で予告した「存在の 脱構築」の核心です。  一見バラバラに存在しているものでも実は背後で は見えない糸によって絡み合っているIという世 界観は、一九六〇−七〇年代に世界中に広かって いった世界観だと思いますが、これを哲学的に最も はっきり提示しだのがドゥルーズだと言えると思い ます。ドゥルーズには他にも論点が多数ありますが、 まずはこうしたイメージで十分でしょう。  すべてが絡み合っているというのは、仏教の縁起 説にも似ているし、スピリチュアルみたいに思うか もしれません。しかし、べつにトンデモというわけ ではなく、量子力学でも、離れた物質の絡み合いを 認めているし(エンタングルメントと言います)、現代 の科学的世界像にも関わることだと思います。 すべての同一性は仮固定である  一般的に差異というと、Aというひとつの同一性 が固まったものと、Bというまた別の同一性が固 まったもののあいだの差異、つまり「二つの同一性 のあいだの差異」を意味することが多いと思います が、ドゥルーズはそうではなく、そもそもA、Bと いう同一性よりも手前においてさまざまな方向に多 種多様なシーソーが揺れ動いている、とでも言うか、 いたるところにバランスの変動がある、という微細 で多様なダイナミズムのことを差異と呼んでいるの です。世界は、無数の多種多様なシーソーである。  一方、同一的だと思われているものは、永遠不変 にひとつに固まっているのではなく、諸関係のなか で一時的にそのかたちをとっている、という捉え方 になります。先はども言ったように、このことを僕 は「仮固定」と呼んでいます。ちなみにドゥルーズ 自身はそのことを「準安定状態」と呼びます(これ は科学の用語で、これを哲学に応用したのはジルベー ルーシモンドンという哲学者であり、ドゥルーズはその 議論を参照している)。同一性を、準安定状態=仮固 定として捉え直すのです。  生物のことを考えるとわかりやすいでしょう。一 人の人間、たとえば僕自身の同一性といっても、そ れは開かれたものであって、絶えず身体は変化して いるし、細菌などの他者によって住まわれており、 生命プロセスのさまざまなバランスによって一定の 姿かたちをかろうじて維持しています。そのバラン スが崩れてしまうと、病気になったり死んでしまっ たりする。というか、純粋な「健康」というのはあ りません。身体はつねに多少病んでいるし、生と死 は混じっていると見るべきなのです。あるいは、ひ じように大きなタイムスケールをとってみれば、た とえばエジプトのピラミッドだっていつかは崩壊す るわけで、地球の重力やさまざまな気候条件との無 数のシーソーゲームのなかであのかたちが仮固定さ れているわけです。 プロセスはつねに途中である  重要な前提は、世界は時間的であって、すべては 運動のただなかにあるということです。ものを概念 的に、抽象的に、まるで永遠に存在するかのように 取り扱うことはおかしいというか、リアルではあり ません。リアルにものを考えるというのは、すべて は運動のなかに、そして変化のなかにあると考える ことです。  こうしてまたキーワードが出てきます。「生成変 化」と「出来事」です。  生成変化は、英語ではビカミング(g8ヨ冨)、フ ランス語ではドウヴニール(devenir)です。この動 詞は、何かに「なる」という意味です。ドゥルーズ によれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」 途中である。事物は、多方向の差異「化」のプロセ スそのものとして存在しているのです。事物は時間 的であり、だから変化していくのであり、その意味 で一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」 なのです。プロセスはつねに途中であって、決定的 な始まりも終わりもありません。  世界をこのように捉えるとどうなるか。たとえば、 我々は仕事を始めるのがダルいなあとか、仕事を終 わらせるのが大変だというようなことを日々思うわ けですが、すべては途中だし、本当の始まりや本当 の終わりはないのだと考えることができます。こう 言うと、何やらビジネス自己啓発的に応用できる気 がしてきませんか?  実際僕は、ある時期からこの考え方を応用してい ます。原稿を書かなければならないとき、「よい しょ」と重い腰を上げて気合いを入れて作業するの は大変なので、とりあえずパソコンを開いて、ツ イッターを見て、その流れでメールを見て、ひとつ 返事でもするみたいな感じで、ハードルが低いこと から始めてみます。そうすると、何かが流れ出すと いうか、プロセスが始まります。そのついでに ちょっと思いついたことをメモしたりするのですが、 そのメモをもう原稿の一部にしてしまってよいと考 えるのです。つまり、「ここから本格的に書き始め たぞ」という始まりをちゃんと設定しなければなら ないという規範意識を捨て、なんとなくついでに取 りかかって書いてしまったものを、もうそれで本番 として捉えてOKなんだ、と考えるのです。そうし ているうちに、なんとなく思いついたことをただ書 いていけば、文章になるのです。  結果、最後の仕上げも、究極の完成形を目指さな くてよくなります。どこまで行ったってプロセスな んですから、それをある程度のところで「まあいい や」と終わりにする。このようなことを『ライティ ングの哲学−書けない悩みのための執筆論』(星 海社新書)という本で説明しました。  こういうことも実はドゥルーズの思想とつながっ ているのです。すべては生成変化の途中であると考 えたとき、すべてを「ついで」でこなしていくとい うライフパックになる。すべての仕事をついでにや るIこれがドゥルーズ的仕事術ですね。 家族の物語ではなく、多様な実践へ  以上が、おおよそのドゥルーズ入門です。まずは このくらいの理解から始めてみてください。次に ドゥルーズ十ガタリについて説明したいと思います。  ドゥルーズ十ガタリという二人組は、一九七二年 に『アンチーオイディプス』というひじように挑発 的な精神分析批判の大著を書き、センセーションを 巻き起こしました。これは後の章で説明しますが、 フランス国内では精神分析の実践が、日本などとは 違って、かなり強い力を持っていたという背景が あったからこそです。日本では精神分析を受けるな んてまったくポピュラーではないので、実感が湧か ないと思いますが。  精神分析とは、ごく大ざっぱに言うと、今の自分 の人間関係のトラブルや不安の根源には幼少期の家 族関係の問題があるのだという仮説を立て、自由連 想で記憶を手繰っていくことで、がっての自分のな かにあるトラウマに向き合う、そうすると現在の問 題が解消されるという実践です。「トラウマ」は、 大変つらい事故に遭ったとか、被害を受けたとか、 重大な場合に使われることが多いと思いますが、こ こではすごく広く、「何らかの意味での心の引っか かり」くらいの意味でとってください。そういう意 味でのトラウマを中心に、雪だるま式に心のなかの 構築物が積み重なることによって、今の自分の心的 傾向ができあかっているのだ、と考えるのが精神分 析です。  それに対してドゥルーズ十ガタリが行った批判は、 すごく簡単に言えば、人間の振る舞いはそんな小さ い頃の家族のことだけで決まってるわけじゃない、 ということです。自分自身をごく狭い範囲H家族に おける同一性だけで考えるのはリアルじゃない、と いうのです。  世界は多方向の関係性に開かれていて、しかもそ れは変動しているはずであって、自分自身の心ある いは身体をそのような変動のなかにある仮固定のも のと捉えるなら、昔からずっとあるトラウマを想起 するなんてそもそもおかしな話ではないか。むしろ それは、そのような基準点があると仮説を立てて、 そこに向けて自分自身を固めていくような運動で、 自分をむしろ硬直化させて治ったような気にさせる まやかしの技法だ、と。  これに関しては、第五章でピエールールジヤンド ルという思想家を取り上げるときに述べますが、人 間と動物の違いという話につながってきます。動物 は本能的にとれる行動のバリエーションがかなり定 まっていて、何を食べるかが決まっている種もある し、繁殖期も決まっているわけです。ところが人間 は、脳神経が過剰に発達しているので、本能から自 由に、より多様な行動がとれるように進化してし まった。そしてその自由度に対して何らかの制約を 加えないと、何をしていいかわからなくなってしま うのです。これが人間がさまざまなレベルで感じる 不安の根源です。僕は精神分析をベースに、人間を このように捉えています。  だから、自己啓発的なアドバイスには、人間にあ る種の決めつけを提供することで安心させるものが 多いのではないでしようか。「ああではなくこうい う生き方をしなさい」と言われると人は安心する。 ところがそれは長く効力を持だないので、またその 手のアドバイスが必要になる。そうであるがゆえに、 自己啓発本は似たようなものがたくさん刊行されて いるわけです。「朝五時に起きると得をする」とか、 「ノートをマメにとるようにすると人生に開眼する」 とか、行動を規定する。だけどそれは早晩効果が切 れてしまうので、また別の本を買わなければいけな くなる。  精神分析はそうした自己啓発よりもずっと深く無 意識に介入する実践ですが、その精神分析にしても、 家族を中心とした物語によって、決めつけ的にI 言葉は悪いですがI自己の安定化をはかるものと 言える面があります。ドゥルーズ十ガタリはそれを 批判したのです。これと類似した仕方でフーコーも 精神分析に対して距離をとりました。  ドゥルーズ十ガタリの思想は、外から半ば強制的 に与えられるモデルに身を預けるのではなく、多様 な関係のなかでいろんなチャレンジをして自分で準 安定状態を作り出していけ、ということだと言える でしょう。  これはなかなか厳しい要求です。難しいことだと 思います。ドゥルーズ十ガタリが考えているのは、 ある種の芸術的、準芸術的な実践です。自分自身の 生活のなかで独自の居場所となるような、自分独自 の安定性を確保するための活動をいろいろ作り出し ていこう、と。絵を描くのでもいいし、観葉植物を 育てるのでもいいし、社会活動に取り組むのでもい い。そういう新しい活動をさまざまに組織化するこ とで人生を準安定化させていけばよいのであって、 「本当の自分のあり方」を探求する必要なんてない のだ、だからいろんなことをやろうじやないか、い ろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、と いうわけです。ドゥルーズ十ガタリの思想は、その ように楽観的で、人を行動へと後押ししてくれる思 想なんです。 ダブルで考える  ただ、ここで千葉流に多少ツッコミを入れておく と、やっぱり私たち現代人は、近代から続いている 社会システムのなかで生きていて、とくにそのなか でも家族というのは強い意味を持っています。しば しば「毒親」問題が言われるし、幼少期の虐待の問 題などもある。そういう意味では、自分の家族関係 をそう軽く見ることはできないと思います。  僕自身は、精神分析的な家族関係の解きほぐしが 無意味だとは思いません。ただ、それだけですべて が解決する、そこにすべてが集約されているともま たトゥルーシアンとしては思いません。ここはダブ ルで考えていて、まず家族関係の分析は、それはそ れでやったらいい。と同時に、そこにすべてを集約 させないで、より多様な関係性に自分を開いていく のです。それはつまり、自分が小さい頃にどんなも のを外で見てきたか、どんな人間関係が家族の外に 広がっていたか、といったことです。たとえば僕の 小さい頃はファミコンが初めて登場した時代ですが、 そうしたゲーム的世界観が広がっていったことは、 精神形成上すごく重要な意味を持っていたりします。 そのことと家族関係の問題はどちらも重要なことだ と思うのです。  僕の『勉強の哲学−来たるべきバカのために』 (文春文庫)の第三章では、「欲望年表」をつくろう と書いています。自分の好きだったものとか、影響 を受けたものとか、気になったことなどを年表にす ることで、自分の人生の文脈を自覚してみようとい う試みです。これは精神分析とドゥルーズ十ガタリ をミックスした考え方の実践のひとつです。  このように、『アンチーオイディプス』という著 作は、今でも心のトラブルを考えるときに示唆を与 えてくれるものです。もちろんこれだけで解決する とは思いませんし、思わない方がよいのですが。  たとえばひどい抑うつ状態になったときには、病 院での薬物療法が効果を持ちます。だけれど、そこ からもう一度、生き生きした生活を取り戻していく 際には、こうしたドゥルーズ十ガタリ的な、自分を 多様な活動に開いていくという思想は役に立つので はないでしようか。たとえば、坂口恭平さんの『自 分の薬をつくる』(晶文社)という本はまさにそう いう思想を体現しているものです。うつ状態になっ たときに「何か活動しよう’・」と無理に頑張るとよ くないので、そこは注意する必要があると思います が、こうじゃなきやいけないんだという枠組みが息 苦しくさせているのであって、その外側にもっと別 の活動の可能性があるかもしれない、ということを 念頭に置くことは、きっと助けになると思います。 「すぎない」ことの必要性  その後ドゥルーズ十ガタリは『千のプラトー』と いう本を一九八〇年に刊行します。精神分析批判よ りもさらに先へ進んで、世界全体をより解放的なも のとして捉えるための新たな考え方や概念を提示し ている本です。  その最初に置かれている章が「リゾーム」です。 リゾームとは、本章の冒頭で言ったように、多方向 に広がっていく中心のない関係性のことです。そし て重要なのは、リゾームはあちこちに広がっていく と同時に、あちこちで途切れることもある、と言わ れていることです。それを「非意味的切断」と言い ます。つまり、すべてがつながり合うと同時に、す べてが無関係でもありうる、と。  一見矛盾するように感じられるかと思いますが、 ここがドゥルーズ十ガタリのミソなんです。ここを どう捉えるかは読み方にもよると思うのですが、こ こを僕の『動きすぎてはいけないIジルードゥ ルーズと生成変化の哲学』(河出文庫)では重視し。 「すべてが関係している」という発想は、ややもす ると「すべてのことに責任をとらなければならな い」という重苦しい発想につなかっていくけれど、 そうではなく、ドゥルーズ十ガタリは根本的に、す なわち存在論的な意味で「無関係性」を肯定してお り、それは根本的な存在の「無責任」を意味してい るのだ、としました。  こういうふうに無責任の重要性なんて言うと、そ んなことがなぜ重要なのかわからないという批判が あるかもしれませんが、たとえば誰かを介護しなけ ればいけないとして、そのときその人に自分の全生 活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなく なってしまいます。あるいは、介護される側からし ても、援助は必要だけれど、それが過剰になると監 視されていると感じるようになってしまいます。た とえ人間関係においてつながりが必要だとしても、 そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性が なければ、我々は互いの自律性を維持できないので す。つまり、無関係性こそが存在の自律性を可能に しているのです。関わる必要があっても、関わりす ぎないという按配が問われるわけです。  見捨てられ、不幸な目に遭っている人たちが多い という社会批判的な認識から、より関わりが必要だ ということが言われるのは、その通りだと思います。 だけれど、関わりばかりを言いすぎると、それに よって監視や支配に転化してしまうという危険性が あって、それに対するバランスとして、関わりすぎ ないということを言う必要もある、というのが僕が ドゥルーズから引き出している重要なテーマなので す。  ただ、この「関わりすぎない」というのを「関わ らなくてよい」ととってしまうと、社会が冷淡なも のになってしまう。それは僕が言いたいことではあ りません。むしろ、より温かい社会を目指すがらこ そ、「すぎない」ことが必要とされるのだ、という のが僕が言いたいことなのです。 ノマドのデタッチメント  ドゥルーズおよびドゥルーズ十ガタリでは、ひと つの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場 面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがク リエイティブであると言うのと同時に、その関係は 自由であるからこそ全体化されず、つねに断片的で つくり替え可能であるということが強調されます。 もしそれが全体化されてしまうと、新たな「内」を つくり出すことになってしまうからです。全体性か ら逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。  大きく言って、『千のプラトー』では、求心的な 全体性は「国家」に対応し、その外部に「ノマド」 (遊牧民)の世界が広がっているという世界史のひ とつのビジョンが提示されます。ノマドのことは 「戦争機械」とも呼ばれます。  (……)戦争機械は遊牧民の発明したものだった。 なぜなら、戦争機械はその本質において、平滑空 間の構成要素であり、したがって、この空間の占 拠、この空間での移動、またこの空間に対応する 人間の編成の構成要素であるからである。このこ とこそ、戦争機械の唯一の真の積極的目標(ノモ ス)である。すなわち砂漠や草原を増大させるこ とであって、そこに人が住めなくすることでは まったくない。戦争機械から戦争が必然的に導か れるのは、戦争機械はそれ自身の積極的目標に対 立する(条里化の)勢力としての国家と都市に衝 突するからである。いったん衝突してからは戦争 機械は国家と都市、国家的都市的現象を敵と見な し、それらの撃滅を目標にする。まさにこのとき 戦争機械は戦争となって、国家の力を撃滅させ、 国家形式を破壊しようとする。アッチラやチンギ スーハーンの冒険は積極的目標と消極的目標のこ うした継起を見事に示している。     (ドゥルーズ十ガタリ『千のプラトー』下、宇野    邦一ほか訳、河出文庫、二〇一〇年、一三九頁)  ノマドは、自由に放っておかれたいからこそ、そ れを取り込んで組織化しようとする国家的・領土的 力に対しては、激烈な攻撃性で対抗する。ここが面 白いところです。自由に生きるということにはその ような攻撃性が含まれていて、秩序に従わないで外 で怪しい関係をつくっているやつら、というような イメージがあるのです。戦争機械たるノマドは不良 的、ヤンキー的なものです。しかし、よく言われる ようにヤンキーや暴走族には強固な上下関係があっ て、それは「ミニ国家」でしかありません。ドゥ ルーズ十ガタリの戦争機械論においてはそれより もっと流動的な群れがイメージされている。  九〇年代には、インターネットがそういう解放的 な人間関係を可能にするという理想論がありました。 ですが結局、その後のネット社会は、道徳の小競り 合いばかりになってしまった。それは戦争機械的で あるよりはミニ国家的なものです。  むしろ重要なのは、そういう価値観の争いからデ タッチH遊離して、だけれども互いに対する気遣い を持ち、しかもその気遣いが他者の管理にならない ようにする、というひじょうに難しい按配を維持で きるかどうかです。  そのようなデタッチメント=遊離の態度をとると、 今日ではしばしば「冷笑系」などと言われてしまい ますが、しかしそれは状況に対してただ俯瞰的に冷 笑しているのではなく、関係するのだが関係しすぎ ないという対人援助のバランスと同じ意味で真剣に 他者との共存を考えるならば、必要な距離のとり方 だということになるはずです。そしてそのような距 離のとり方を否定する動きに対しては、強い抵抗を せざるをえないのです。 管理社会批判  既成の秩序の外に広がる関係性がクリエイティブ だというポジティブなメッセージがある一方で、そ れが新たな管理体制に転化しないように、というと ころにもドゥルーズの強調点がありました。  そのことがはっきりわかるのが、晩年のドゥルー ズの管理社会論です。『記号と事件』(一九九〇)に 収録されている「管理と生成変化」という、イタリ アの左翼思想家アントニオーネグリによるインタ ビューがそれです。ネグリは、コミュニケーション 社会によって新たなコミュニズムを考える可能性に ついて尋ねるのですが、ドゥルーズは悲観的です。 ドゥルーズによれば、コミュニケーションは金銭に 毒され、腐りきっている。そしてむしろ必要なのは 「非=コミュニケーションの空洞」や「断続器」だ と言うのです。 さきほどの御質問は、管理社会やコミュニケー ション社会の時代になると、新たな抵抗の形態が 生まれるのではないか、そうなれば、「自由な個 人による横断的な組織」として構想されたコミュ ニズムが実現する可能性も出てくるだろう、とい うものでした。どうでしようか。あるいはおっ しゃるとおりになるのかもしれません。しかしそ のことと、マイノリティが発言しはじめる可能性 とは無関係なのではないでしようか。言論も、コ ミュニケーションも、すでに腐りきっているかも しれないのです。言論とコミュニケーションはす みずみまで金銭に侵食されている。しかも偶然そ うなったのではなく、もともと金銭に毒されてい たのです。だから言論の方向転換が必要なのです。 創造するということは、これまでも常にコミュニ ケーションとは異なる活動でした。そこで重要に なってくるのは、非=コミュニケーションの空洞 や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をここ  ろみることだろうと思います。    (ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳、河出文庫、    二〇〇七年、三五二頁)  この箇所はまさに今日の事態を予言していると思 います。まさしくツイッターの話じやないですか! 確かにインターネットによって人々が多様な声を上 げられるようになりました。たとえば「権力者がこ んなズルいことをした」とか、「有名人がこんな失 言をした」とか、そういうニュースが流れると、み んなが怒りの声を上げるわけですが、結局それはメ ディアの商売になってしまう。つまり、人々は道徳 感情によってひじように強く刺激されるので、そこ を刺激すればメディアは簡単に商売ができる。まさ にコミュニケーションは金銭に毒されきっているわ けです。  そこで必要なのは、そのような一見したところの 正しさで人々を釣るようなビジネスに巻き込まれず、 理性的に社会の問題に向き合うことだと思います。 そのためにドゥルーズはむしろ非‐コミュニケー ションが必要だと言ったわけです。 接続と切断のバランス  だけれども一方でドゥルーズにはリゾームの思想 がある。ということは、クリエイティブな関係性を 広げながら、なおかつ非‐コミュニケーションが必 要だという主張をしている、ということになります。 これは矛盾しているようですが、しかしその二つの 命題が理想的に両立することは当然ないわけで、そ れはケースーバイーケースでバランスをつねに変動 させていくしかない、ということになると思います。 あるときは関係性を広げ、あるときは関係性を抑制 し、といったことです。  まさにこれは、一人の人間にどう関わればそれが 必要な愛になり支配にならないかというケースーバ イーケースの判断が問われるということに他なりま せん。そしてそれこそが本当に人間に対して、ある いは人間以外のあらゆる存在者に対して、真剣に向 き合うということ、具体性に真剣に向き合うという ことだと思います。あらかじめ「これが最も正しい 関係性のあり方だ」という答えが決まっているわけ ではありません。すべての関係性は生成変化の途上 にあるのです。  そういう意味で、接続と切断のバランスをケー スーバイーケースで判断するという、一見とても当 たり前で世俗的な問題が、ドゥルーズにおいては真 剣に、世界とあるいは存在とどう向き合うかという 根本問題として問われているのです。 第三章 フーコーー社会の脱構築 権力の二項対立的図式を揺さぶる  脱構築をキーワードとしてデリダ、ドゥルーズ、 フーコーの三人を取り上げるということでここまで やってきましたが、本章で三人目です。哲学者・歴 史家であるミシェルーフーコー(一九三(〜一九八 四)は、いわば「社会の脱構築」を行ったと言えま す。  確認ですが、本書においては、デリダに「概念の 脱構築」、ドゥルーズに「存在の脱構築」を見て、 最後のフーコーが「社会の脱構築」なのでした。  脱構築とは「二項対立を揺さぶる」ことですが、 それが社会においてどういう問題になるのか。フー コーは、「権力」の分析を展開しました。他にも主 題がありますが、権力論として扱うのが初心者には 入りやすいので、そうしてみようと思います。  権力と聞いて、どういうイメージでしようか?  普通、権力というと、王様のような強い権力者・ 支配者がいて、それに弱い人民が抑圧され支配され ているという一方的、非対称な関係がイメージされ るでしょう。強いやつに抑えつけられていて、黙っ ているしかないとか、それに抵抗するとか、そうい う二項対立的構図です。この二項対立では、支配者 の方に能動が、被支配者の方に受動が割り振られて います。  我々の多くは被支配者の立場にあるわけですが、 その受け身の立場から、自分たちを支配する能動の 立場を「悪いやつら」として括り、それと闘うんだ という明快な構図が描けます。弱い者を守るヒー ローが出現して悪と闘うというイメージですね。こ ういうイメージは子供っぽいものですが、一般に政 治批判や社会運動について抱かれているものではな いでしようか。ヒーローもののようなイメージが権 力の二項対立的図式だということなのですが、フー コーはそれを揺さぶるのです。  それを揺さぶるとはどういうことか。支配を受け ている我々は、実はただ受け身なのではなく、むし ろ「支配されることを積極的に望んでしまう」よう な構造があるということを明らかにするのです。  そう言うと、「いや、そんなことはない。自分は 望まずに支配されているんだ」と意識的には思うか もしれませんが、実は意識しにくいレベルで、自分 で自分のことを長いものに巻かれるように「自己従 順化」するような仕組みが世の中には蔓延している のです。  つまり、権力は、上から押しつけられるだけでは なく、下からそれを支える構造もあって、本当の悪 玉を見つけるという発想自体が間違いなんです。権 力は上と下が絡まり合いながら複雑な循環構造とし て作用している。『性の歴史I 知への意志』の第 四章、その初めのところは、こうした権力論の比較 的わかりやすい要約になっています。  権力は下から来るということ。すなわち、権力の 関係の原理には、一般的な母型として、支配する 者と支配される者という二項的かつ総体的な対立 はない。その二項対立が上から下へ、ますます局 限された集団へと及んで、ついに社会体の深部に まで至るといった運動もないのである。むしろ次 のように想定すべきなのだ、すなわち生産の機関、 家族、局限された集団、諸制度の中で形成され作 動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層 の広大な効果に対して支えとなっているのだと。     (ミシェルーフーコー『性の歴史I 知への意    志』渡辺守章訳、新潮社、一九八六年、匸一一−     匸匸一頁)  ひとことで言えば、権力とは「無数の力関係」な のです(同書、一一九頁)。  こんなふうに言うとさっそく、「闘うべき悪を名 指すことが難しくなる。立ち上がるべき人民にも悪 いところがあるなんていう話になってしまうと、そ もそも政治運動ができなくなってしまう。どっちに も悪いところがあるというような「どっちもどっち 論」は、必要な闘いから目を逸らし、状況をただ俯 瞰しているだけの「冷笑系」だ」などと批判される かもしれません。先ほど述べたようなフーコー的視 点に対し、そういう反応が向けられることが増えて きた気がします。  しかしそれは誤っていると思います。そういう抵 抗運動が実は大きな権力構造の手のひらの上で踊ら されている、ということもありうるからです。重要 なのは、いったいどのような権力の回路が作動して いるかをクールに分析することです。これがフー コーから得られる教えです。  ところで、支配する者/される者が相互依存的に なっているのだとしたら、フーコーはそういう構造 の外に逃れることはできない、とでも言いたいので しよ’つか?  そうではありません。フーコーの思想につねにあ るのは、権力構造、あるいはフーコーの言葉で言う と、「統治」のシステムの外を考えるという意識で す。ドゥルーズの用語で言えば、秩序の外部への 「逃走線」を引くということがフーコーの狙いなん です。  ここでは、単なる二項対立的構図での抵抗運動で は、逃走線を引くことになるどころかむしろシステ ムに囚われたままになる、という穿った見方をして いるところがポイントです。本当の逃走線は難しい のです。逃走線を引けないのではなくて、あなたた ちが思っているより一段難しいのだ、というのが フーコーのメツセージなんです。  ここで、フーコーの著作をざっと紹介しておきま しよう。  博士論文をベースにした『狂気の歴史』二九六 匸が最初の重要な著作で、その後、一九六〇年代 半ばの『言葉と物』二九六六)はフランスで大変話 題になりました。こんな難解な本が売れるのがフラ ンスという国のすごいところであり、六〇年代とい う時代のすごいところでもあります。方法論的な本 である『知の考古学』二九六九)も、そのタイトル のカッコよさもあって有名ですが、とくに難解な本 なので今回は触れません。  初心者が取り組みやすいのは『監獄の誕生』二 九七五)でしょう。これは具体的に権力の歴史を論 じた本です。そして『性の歴史I 知への意志』 二九七六)は、世界中でセクシュアリティの研究に 巨大なインパクトを与えます。その七〇−八〇年代 の時期にフーコーはコレージュードーフランスとい う場所で講義を行い、その講義録が刊行されていま す。『性の歴史H 快楽の活用』(一九八四)、『性の 歴史V 自己への配慮』二九八四)を出したその年、 予定されていた第四巻は出せないまま、フーコーは AIDSで亡くなってしまいます。  その『性の歴史W 肉の告白』(二〇一八)は実際 には校正の段階まで来ていて、死後出版は禁じられ ていたのですが、最近になって権利継承者の許可に より出版され、翻訳もされました。本書では、その 『性の歴史W』によって明らかになったことを考慮 した解説を行います。  入門書は、慎改康之『ミシェルーフーコーー自 己から脱け出すための哲学』(岩波新書)がまずお勧 めです。コンパクトな本ですが、初期から後期まで バランスよく説明されています。 「正常」と「異常」の脱構築  さて、最初の『狂気の歴史』でなされているのは、 すごくラフに言うと、「正常」と「異常」の脱構築 です。  これが正常でこれが異常という分割線は、どうい う文脈で見るかによって違い、それはつねにつくら れたものです。その背後には政治的な事情がありま す。というのは、「正常なもの」というのは基本的 には多数派、マジョリティのことであって、社会で 中心的な位置を占めているものです。それに対して、 厄介なもの、邪魔なものが「異常」だと取りまとめ られるのです。その存在が取り扱いにくいと、社会 的にマイナスのラベリングがされて、差別される。 逆に、寛大な処遇として、それを社会に「包摂」す る場合でも、マジョリティの価値観に寄せてそうす ることになります。 『狂気の歴史』のタイトルに含まれる「狂気」は強 い言葉に聞こえるかもしれません。しかし、昔のそ れはひじように意味が広く、多種多様な逸脱行動を 含めて言われていました。とにかく何か人々がマズ いと思うもの、ヤバいと思うものを括った概念です。  フーコーは、「正しい側」と「おかしい側」に括 られ、その二つの括りが複雑なもたれ合いをしてい る状態を社会の基本構図として考えています。近代 という時代は、その二項対立を強化した時代です。 まあいろいろ変なことをする人はいるわけです。そ ういう大たちを括って病院や刑務所に閉じ込めたり しないで、普通に共存しているという状態、それこ そをフーコーは社会の本来のデフォルトとして考え ています。そして、近代以後、世の中がいかにそう いう状態でなくなっていくかを考えるのです。  現代ならば、発達障害を考えるとわかりやすいで しょう。昔だったら「風変わりな子」とか「こだわ りがある子」と思われていた大たちが、「コミュニ ケーションの障害がある」、「人の心をうまく先読み できない」などと捉えられるようになりました。つ まり、マジョリティの社会のなかでうまくサバイブ できないと価値づけされ、括られるわけです。  そうなって初めて、受けられるべきケアが受けら れるようになったのだからよかったと多くの人は思 うのかもしれませんが、しかしそれは、主流派の世 界のなかで主流派のやり方に合わせて生きていくこ とが前提になっている。ここに注意するべきです。 マジョリティとは異質な人をマイナスに見る価値観 が前提になっているのに、マジョリティに合わせる ためのケアが受けられてよかったねというのは倫理 的におかしい気がしませんか? 現に社会には規範 があるのだから、適応のためのサポートは事実上必 要と言わざるをえないにせよ、もっと多様にバラバ ラに生きて構わないのだったら、発達障害と言われ る状態はそんなに問題視するものだろうかとも思え ないでしようか。  このように、今日不利だとされるカテゴリーが不 利なのは、そもそも有利なカテゴリーが前提として あるからです。こういう構造について批判する道具 を、フーコーは与えてくれます。  フーコーの見立てによれば、一七世紀中頃に監獄 というシステムができて、犯罪者の隔離が始まるの ですが、その時期に、狂気の隔離も起こり始めたと いうのです。それ以前は、言ってみればもっとワイ ルドな、ワチヤワチヤした世界でした。その後、監 獄あるいは監獄的な空間−病院などの施設のこと ですIにノイズを集約することによって、主流派 世界をクリーン化していくことになった。  こういうクリーン化こそ、まさに近代化と言うべ きものです。  そして近代化には、ある意味、隔離よりも重要な 側面があります。古い時代には隔離していた者たち を、だんだんと、「治療」して社会のなかに戻す動 きが出てきます。しかし、それは人に優しい世の中 に変わったということなのかといったら、そんなこ とはありません。フーコー的観点からすると、統治 がより巧妙になったと捉えるべきなんです。つまり、 ただ排除しておくのだったらコストがかかるばかり だけれど、そういう人たちを主流派の価値観で洗脳 し、多少でも役立つ人間に変化させることができる のであれば、統治する側からすればより都合がいい わけですから。  こういうかたちで、統治は人に優しくなっていく ようでいて、より強まっていくのです。そんなふう に言うと、なんて意地悪な見方なんだと思うかもし れませんが、フーコーから得られるのはこういう見 方なんです。  その上で、フーコーには、正常と異常がはっきり 区別されないで、曖昧に互いに対して寛容であるよ うな状態をよしとするような、そういう価値観が全 体的にあると捉えたらよいと思います。 権力の三つのあり方  次に、フーコーにおける権力の三つのあり方を整 理しましよう。まず王様がいた時代、そこから近代 へ、そして現代へ、という展開です。おおよそこの 三段階で考えるのですが、この話は『監獄の誕生』 と『性の歴史I』を併せることで成立します。  フーコーは、近代化の最も重要な時期を一七−一 八世紀に置いているのですが、その変化の前は、王 権の時代です。その時代の権力のあり方は、たとえ ば何か悪いことをすると広場で残酷な刑罰を与えて 見世物にしたりするものでした。日本だったら、市 中引き回しでさらし首なんてありましたよね。そう いう感じで見せしめにして脅すのがメインだったの です。何かやらかすとこういう目に遭うぞ、それだ け王様というのはすごいんだぞ、というわけです。  ただ、逆に言えば、バレなきやいいわけです。何 かやらかして見つかってしまった場合は罰せられる というわけで、対処がアドホック(その都度)なわ けだから、逆に、見えないところにさまざまな逸脱 の可能性が広がっていたとも言えるのです。 規律訓練−自己監視する心の誕生  それに対して、一七−一八世紀を通して成立して いく権力のあり方を、フーコーは「規律訓練」 (ディシプリンdiscipline)と呼びます。もっと柔らか い日本語だと「しつけ」ですね。これは簡単に言う と、誰に見られていなくても自分で進んで悪いこと をしないように心がける人々をつくり出すことです。 しつけってそういうものですよね。  フーコーは規律訓練を、「パノプティコン」とい う監獄のシステムを例として説明しました。この監 獄はベンサムというイギリスの哲学者が考えたもの です一図一。  囚人が入れられる独房が並んだドーナッツ状の建 物があって、その真ん中の穴のところに塔が建って いる。塔には監視室があり、そこからぐるりと見渡 すように円周のすべての独房を監視できるように なっている。これがパノプティコン、「一望監視」 ができる監獄です。  一方、独房の方からは、塔に看守がいるかは十分 確認できないようにされている(窓に鎧戸をつけ、内 部に仕切りを設けたりすることで)。つまり、囚人は自 分が監視されているかどうかを確かめられない。そ してそのためにかえって、つねに監視されていると いう意識を植えつけられることになるのです。  このシステムがすごいのは、塔に実は誰もいなく ても、囚人にはそのことがわからないというところ です。ここで脱獄を考えるとしても、もし看守が見 ていたら処罰されることになるからと、行動を控え ることになる。しかし実際にはいないかもしれない。 そうすると、監視されていなくても、自分で自分の ことを自己監視するという状態に置かれることにな るわけです。  これをモデルとして、近代のさまざまな制度− 学校、軍隊、病院、家族などIにおけるしつけを 一般的に捉えることができるようになります。つま り、昔は王様の強烈な存在感が重要だったわけです が、近代社会のポイントは、支配者が不可視化され るということです。そして逆に、人々はつねに監視 されているかもしれないという不安を抱くことにな る。今日的な言い方で言うと、人々が何に忖度して いるのかわからないけど忖度しているという状態で すね。それによって天下泰平になる。これが近代で す。こういう権力構造が今日までずっと続いている のです。少し長くなりますが、『監獄の誕生』から 詳しい部分を引用しましよう。  今や各人は、然るべき場所におかれ、独房内に閉  じ込められ、しかもそこでは監視者に正面から見 られているが、独房の側面の壁のせいで同輩と接 触をもつわけにはいかない。見られてはいても。 こちらには見えないのであり、ある情報のための 客体ではあっても、ある情報伝達をおこなう主体 にはけっしてなれないのだ。中央の塔に向きあう 自分の個室の配置によって、各人は中心部からの 可視性を押しつけられるが、しかし円環状の建物 の内部区分たる、きちんと分離された例の独房は 側面での不可視性を予想させる。しかもその不可 視性は秩序によって保証されるのである。で、閉 じ込められる者が受刑者であっても、隠謀や集団 脱獄の企てや将来の新しい犯罪計画や相互の悪い 感化などが生じる懸念はない。病者を閉じ込めて も感染の心配はなく、狂人の場合でも相互に狂暴 になる危険はないし、子供の閉じ込めであっても、 他人の宿題などをひき写す不正行為も、騒ぎも、 おしゃべりも、浪費や放心も起こらない。労働者 の場合でも、殴りあいも、盗みも、共同謀議も、 仕事の遅れや不完全な仕上がりや偶発事故をまね く不注意も起こらない。密集せる多人数、多種多 様な交換の場、互いに依存し共同するさまざまな 個人、集団的な効果たる、こうした群衆が解消さ れて、そのかわりに、区分された個々人の集まり の効果が生じるわけである。看守の観点に立てば、 そうした群衆にかわって、計算調査が可能で取締 りやすい多様性が現われ、閉じ込められる者の観 点に立てば、隔離され見つめられる孤立性が現わ  れるのだ。     (フーコー『監獄の誕生−監視と処罰』田村俶    訳、新潮社、一九七七年二言ニーニ○三頁)  以上はパノプティコンの説明ですが、これは二 般化か可能な一つの作用モデル」として捉える必要 があります(同書二言七頁)。すなわち、実際に閉 じ込められていなくても、ある程度それに類する経 験をすれば、こうした監視は内面化されるだろう、 ということです。以上では、実際に独房にいて隣と 接触できない状態について書かれていますが、重要 なのは、そのような「孤立性」が、たとえ自由の身 でも、近代的な精神のあり方として成立していくと いうことです。どこかで見られているかもしれない からちゃんとしなければならないという「個人」の 心がけが成立するのです。自分が何かをするとき、 自分で自分を見張る。自分は何か悪いことをしよう としてるんじゃないか、何かやってしまうんじゃな いかと行動の先取りをして、前もって自分を抑える ようになっていきます。  こうして、体が動くより前に踏みとどまる空間が 自分のなかにできていく。だから近代的個人は、本 当に監視者がいるかどうかがわからないのに、不正 行為を、殴り合いを、共同謀議をしなくなるのです。 自発的に「大人しく」なっていく。  これが個人的な心の発生だとも言えます。今日の プライバシー、個人的なものというのは、そういっ た自己抑制と共に成立したのです。  逆に言えば、それ以前の時代には、そういうふう に自分の行動を前もって管理するという力はもっと 弱かっただろうと推測されるのです。つまり、人々 はもっと行動的であって、マズいことをやらかした ら、その都度に罰せられるだけ、という面がもっと 強かっだのではないか。  しかし、キリスト教社会においては、自分の内心 をどうするかという問題が昔からあっだので、その ことと近代における規律訓練の成立はつながってい ます。実はフーコーは、『性の歴史W 肉の告白』 でそこまで遡った議論を展開しているのですが、こ こでは簡単に触れるに留めます。とにかく、近代に おいて、はっきりそういう自己抑制する心が成立す るのですが、それ以前には人々はもっと行動的だっ たのではないか、というくらいに捉えてよいと思い ます。 生政治−即物的コントロールの強まり  個人に働きかける権力の技術が規律訓練ですが、 他方で一八世紀を通して、もっと大規模に人々を集 団、人口として扱うような統治が成立していきます。 こちらの側面をフーコーは「生政治」(zo‐IHa) と呼びます。生政治については『性の歴史I』で説 明されています。生政治は内面の問題ではなく、 もっと即物的なレベルで機能するものです。たとえ ば病気の発生率をどう抑えるかとが、出生率をどう するかとか、人口密度を考えて都市をどのように設 計するかとか、そういうレベルで人々に働きかける 統治の仕方です。  新型コロナ問題を例にしてみると、「感染拡大を 抑えるために、出歩くのを控えましよう」といった 心がけを訴えるのが規律訓練で、「そうは言ったっ て出歩くやつはいるんだから、とにかく物理的に病 気が悪くならないようにするために、ワクチン接種 をできるかぎり一律にやろう」というのが生政治で す。  世の中にはワクチン反対派もいて、それを批判す る人もいますが、しかし反対派にも一理あるのです。 どういうことか。ワクチン政策は生政治であって、 人々が自分の人生をどう意味づけるかにかかわらず、 一方的にただ生き物としてだけ扱って、死なないよ うにするという権力行使です。ここで「死なないよ うにする」というのは、働いて税金を納めて国家と いう巨大なモンスターを生き延びさせていくための 歯車にするという意味ですから、そういう統治に巻 き込まれたくない=自由でいたいという抵抗の気持 ちがI無意識的にIそこにはあるのです。他方、 「自粛なんぞ知らん、飲みに行くぞ」というのは、 規律訓練に対する抵抗ということになります。  ですから、近現代社会においては、規律訓練と生 政治が両輪で動いていると捉えてください。その上 で、今日では、心の問題、あるいは意識の持ち方に 訴えかけてもしようがないので、ただもう即物的に コントロールするしかないのだという傾向がより強 まっていると言えると思います。つまり、生政治の 部分が強くなってきている。  たとえばタバコの問題にしても、「タバコは健康 に悪い」と言ったって吸う人がいるなら、もう単純 に吸える場所を減らしてしまえばよい、ということ になる。これは即物的働きかけですから、生政治だ と言えます。あるいは、心の問題に関しても、昔 だったら、もっと話を聞くことが重視されていたと ころ、それでは時間もかかるし薬で解決すればよい、 ということになっていく。「心から脳へ」という最 近の精神医学の転換も、大きく言えば、生政治の強 まりだととることができます。  これがおおよそフーコーの権力論の三段階です。 そうすると皆さん、「良かれ」と思ってやっている 心がけや社会政策が、いかに主流派の価値観を護持 するための「長いものに巻かれろ」になっているか ということに気づかざるをえないのではないでしょ うか。そのようになんとも苦い思いをさせるのが フーコーの仕事なわけです。  そういう状況において、人生の自由とは何なのか というのはひじょうに難しい問題です。今説明した ような統治技術をすべてなくしてしまうのが自由な のでしょうか? 雑多な人々がともに生きていく以 上、関係の調整は必要で、ただ放っておくわけには いきません。ただそこで何か調整が始まると、それ がたちどころに規律訓練や生政治に変貌していくの です。おそらくいかなる権力関係もないユートピア は無理なのです。 人間の多様性を泳がせておく  このように、本章では、社会の脱構築ということ で、悪い支配者がいるから闘うんだというヒーロー 的図式で捉えるのでは単純すぎるということ、自分 たちが知らず知らずのうちに統治を下支えする位置 に置かれているということ、その自覚が重要だとい うことをご理解いただけたかと思います。  フーコーは、かつてない深さで人間の多様性を論 じたのです。  我々は二項対立で「これは正常」、「これは異常」 と割り振ったり、あるいはさまざまに分類して秩序 づけようとしたりします。しかし、はっきりそれが 何だかわからないような「ちょっと変わっている」 とか「なんか個性的だ」というあり方を、ただそれ だけで泳がせておくような倫理があるのです。  人はものを管理するとスッキリして安心します。 しかし、あまり机を片づけすぎない方がいいという アーティストの話に「はじめに」で触れました。机 の上がある程度適当な方がクリエイティブになれる というわけでした。似たことが社会についても言え るのではないでしょうか。片づけをするとスッキリ する。では、いわば「社会の片づけ」をしてもよい ものでしようか? ここで倫理が問われているので す。  人間は他の動物とは違い、過剰さを持っています。 本能的な行動をはみ出した行動の柔軟性を持ちます。 だからこそ逸脱が生じるわけなのですが、それを可 能な限り一定方向に整序して行動のパターンを減ら すことで安心・安全な社会を実現していくというの は、言ってみれば人間が疑似的に動物に戻るという ことに他なりません。今日における社会のクリーン 化は、人間の再動物化という面を持っているのです。  フーコーは、人間がその過剰さゆえに持ちうる多 様性を整理しすぎずに、つまりちゃんとしようとし すぎずに泳がせておくような社会の余裕を言おうと している。ドゥルーズの言う逃走線なるものを、具 体的に社会のあり方として提示しているのです。 「新たなる古代人」になること  ここからはやや上級編の話をしてみます。  フーコーの大胆なところは、我々が今当然だと 思っている「個人」というあり方は、歴史のなかで つくられた結果であって、そもそも「個人が個人で あるとはどういうことか」自体が歴史のなかで変 わってきたのだ、と考えるところです。  そう言われてもピンと来ないかもしれません。 けっこう難しい話になります。  先はどの話を振り返りながら言うと、近代以前に は、ときによってはマズがったりOKだったりする 行動がその都度取り締まられていたのが、「狂気」 や「異常」や「倒錯」として取りまとめられ、ある いは、たとえば「同性愛者」というアイデンティ ティがつくられ、それが個人の特質にされていきま した。そして個人が我が身をつねに監視してマズい ことをしないようにする、異常なものに自分がなら ないようにするという心がけで自己統治していくこ とになる。そういうものとして近代的個人は成立し たのです。つまり、自分は異常「者」なのではない かというアイデンティティの不安を抱くようになっ た。  それ以前にはもっと行動的な世界があって、自分 のアイデンティティの問題というものが十分に成立 していなかった、と考えてみてほしいのです。  近代において初めて、良いアイデンティティと悪 いアイデンティティが成立した……そして、ここは 理解が少し難しいところだと思うのですが、アイデ ンティティなるものが成立するそのときに、良いア イデンティティと悪いアイデンティティという二項 対立が同時に成立したのです。それ以前の人間の人 生はもっとバラバラだった。ただし、根本にはキリ スト教的な、自分は罪を犯してしまうのではないか という反省性があり、それが後に近代において本格 的に統治に利用されるようになっていくわけです。  フーコーによれば、性的なアイデンティティ、た とえば「同性愛者」というアイデンティティである とか、自分をどういう性的欲望を持つ人格として捉 えるかというのも、この近代化の過程で成立してい きました。ですからそれ以前には、誇張して言えば、 同性愛「者」はいなかった。同性愛行動はありまし たが、それはまだアイデンティティではなかった。 そして、性の逸脱を排除していく動きによって同性 愛者というアイデンティティが成立したのだとした ら、今日のLGBTQ支持の運動は、そう単純なも のではないということがわかるはずです。つまり、 そもそも排除によって成立しているアイデンティ ティなのだから、そのことを単純には擁護できない はずなんです。むしろそれ以前の、良いアイデン ティティも悪いアイデンティティも不成立だった時 代の、多様な同性愛行動を肯定し直すということが 何らかのかたちで伴わなければならないはずなんで す。そうした近代批判が伴わなければ、たんに近代 という構造をこじらせているだけになるかもしれな い。  後期のフーコーは古代ギリシアーローマヘと向か いました。  『性の歴史』の第一巻は近代論ですが、その後計画 が変わり、第二巻・第三巻で古代の話をするという 一見わかりにくい展開をとります。これは、「つね に反省し続けなければならない主体」よりも前の段 階に戻るということなのです。  かなリラフに言いますが、古代人だって「あれは マズかった」とか「あれはやりすぎだった」とか、 反省はします。もちろん性に関しても、不倫も問題 視されたし、同性との関係に対する問題視もありま したが、それは何か無限に続く罪のようなものでは なく、その都度注意するものだったのです。古代の 世界はもっと有限的だった。自己との終わりなき闘 いをするというよりは、その都度注意をし、適宜自 分の人生をコントロールしていく。このことを、古 代では「自己への配慮」と呼んでいました。  最近やっと出版された『性の歴史W』でフーコー の考えていたことがようやくわかったのですが、そ の後それに決定的な転換をもたらしたのはキリスト 教であり、とくにアウグスティヌスだったというこ となんです。フーコーいわく、アウグスティヌスは、 聖書の原罪についての解釈をある種の心の問題とし て捉え直し、人間は、やってはいけないことをやっ てしまうかもしれないという闇を抱えているから、 つねに自分で自分に注意していなければならない、 という心の体制を打ち立てた人です。  ここで重要なのは、それ以前の古代においては、 やってはいけないことは個別具体的なことであって、 「やってはいけないこと」として大括りにはされて いなかったということです。ケースーバイーケース だったんです。  ところが、その後キリスト教世界では、「やって はいけないこと」を大括りにする罪の概念が生まれ ます。人々はつねに罪責感を心に抱くことになりま した。つまり、諸々のパラパラな行動かひとつに包 まれ、そこに闇の部分がある、ということになるの です。こうして、原初的な意味での「個人」が成立 し、その個人は闇を抱え込むということになったの です。これ以後、人間は個人化かつ心理化されまし た。そしてそれが長い時間を経て、近代の規律訓練 的主体へと発展していく、というのがフーコーの歴 史観です。  ただ、つねに同時に、人間にはただ個々具体的に 行動的である面があって、どうもフーコーはそこに 興味を向けているようなのです。それこそがよいと 言っているとまでは言えないのですが、とにかく興 味を向けていることは確かです。ここがフーコー解 釈の難しいところです。  さらに応用的なことを言うと、個人の心のコント ロールでは人をうまく統治できないので、即物的に 管理すればよいだろうという世の中の大きな動きと、 古代の、そもそも心の問題として自分を捉えていな かったということはちょっと似ているといえば似て います。ある意味、古代における「自己への配慮」 も、即物的とも言えるからです。しかし何か違うか といえば、まさに即物的に人々を群れとして支配す るのが近代以後の生政治であるのに対して、フー コーがどうもポジティブに捉えているらしい古代の 「自己への配慮」は、あくまでも自己本位で罪責性 には至らないような自己管理をするということなの です。  ここからは千葉流のフーコー読解になりますが、 現代社会において大規模な生政治と、依然として続 く心理的規律訓練がどちらも働いているのだとする と、ある種の「新たなる古代人」になるやり方とし て、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対して 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 マテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な 生政治への抵抗としてそうする、というやり方があ りうるのだと思います。  それは新たに世俗的に生きることであり、日常生 活のごく即物的な、しかし過剰ではないような個人 的秩序づけを楽しみ、それを本位として、世間の規 範からときにはみ出してしまっても、「それが自分 の人生なのだから」と構わずにいるような、そうい う世俗的自由だと思うのです。後期フーコーが見て いた独特の古代的あり方をそのようにポストモダン 状況に対する逃走線として捉え直すこともできるの ではないでしようか。  というのは要するに、変に深く反省しすぎず、で も健康に気を遣うには遣って、その上で「別に飲み に行きたきや行けばいいじやん」みたいなのが一番 フーコー的なんだという話です。こういう世俗性こ そがフーコーにおける「古代的」あり方なのです。 ここまでのまとめ  最初の三章が終わりました。これでデリダ、 ドゥルーズ、フーコーのポイントはつかんだこ とになります。もし時間がなければ、ここで いったん閉じてもらっても大丈夫です。また気 が向いたときに続きを読んでください。  まとめておきましよう。  @本書では、デリダの概念である「脱構築」 をキーとして現代思想の大きなイメージを示し ました。まず、前提として、思考の論理は「二 項対立」で組み立てられています。真面目なも の/遊び、大人/子供、秩序/逸脱、健康/不 健康……などが二項対立で、その一方をプラス、 他方をマイナスとする価値観があり、通常はプ ラス側を支持するように何かが主張される。そ のときに、二項対立のむしろマイナスの側、劣 位の側に味方できるようなロジックを考え、主 張されている価値観に対抗する。そして対立の 両側が互いに依存し合う、いわば「宙づり」の 状態に持ち込む。そういう論法が「二項対立の 脱構築」です。デリダはそれを原理的に考えた 哲学者で、デリダが行ったことは「概念の脱構 築」だ、というのが本書の整理なのでした。  というわけで、デリダを論じる第▽草は原理 編です。脱構築というのは思考術であり、論法 だと思ってください。言葉で考えて議論すると きのワザです。  Aドゥルーズは、「存在の脱構築」を行った 哲学者です。ドゥルーズが提示するのは大きな 世界観、あるいはもっと大きく言って「存在 観」のようなもの。通常の認識では、AとBが バラバラに、区別されて存在すると捉えていま す。Bとは、Aではないもの=非Aなので、区 別されて存在するというのは、対立関係である と言えます。しかしドゥルーズの見方では、も のごとは実は、多方向に超複雑に関係し合って いる。その関係性が「リゾーム」と呼ばれるの でした。つまり、A匹非Aという二項対立を超 えて=脱構築して関係し合っているということ で、その意味で、リゾーム的に物事を見るのは 「存在の脱構築」だと言えるのです。  そうすると、すべては関係している=世界に 無関係はない、ということになりそうですが、 そこで改めて無関係が問題になる。AはBでは ない、という大ざっぱな無関係ではなく、リ 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶  丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 ソームのなかに多数の、多方向の無関係がある のです。あらゆるものが多方向に接続され、切 断されているのです。この見方によって、Aは Aだ、BはBだ、という硬直化した見方から逃 れることができます。AはBではないという区 別を超えて、AがBに「なる」−AがBに 「似る」と言ってもいいでしょうIような、 区別を横断する新たな関係性を発見すると同時 に、AとBが同一にならないような、区別を横 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 丶 断する新たな無関係もまた発見する、というの がクリエイティブな意識なのです。  Bフーコーの場合は「社会の脱構築」だと言 えます。ドゥルーズ的な世界観、存在観を、社 会的関係に適用してみましよう。権力がフー コーの主題なのでした。通常、権力という言葉 は、強い者が一方的に弱い者を抑えつけ、支配 するというイメージです。ところがフーコーは、 「権力は下から来る」と言い、弱い者がむしろ 支配されることを無意識的に望んでしまうメカ ニズムを分析し、実は権力の開始点は明確では なく、それこそドゥルーズ的な意味で、多方向 の関係性(と無関係)として権力が展開してい るという見方を示しました。この考え方によっ て、社会問題を形成している背景の複雑さをよ り高い解像度で見ることができるようになりま す。  権力は、逸脱した存在を排除し、あるいはマ ジョリティに「適応」させることで社会を安定 させる。近代という時代は、そういう権力の作 動に気づきにくくなるような仕組みを発達させ ました。この歴史的観点が、今の管理社会を批 判するために必要なのです。逸脱を細かく取り 締まることに抵抗し、人間の雑多なあり方をゆ るやかに「泳がせておく」ような倫理、フー コーはそれを示唆していると言えるでしょう。  まず、二項対立の脱構築というデリダの論法 に匿れる。  それを存在すべてに拡大し、「コップはコッ プ、猫は猫、あの人はあの人、自分は自分」と いう区別を超えて、ものごとはダイナミックに 横断的なつながりを展開している、というドゥ ルーズ的ビジョンへと向かう。だが同時に、い たるところに無関係もあり、すべてがつながっ てこんがらかって「ダマ」になってしまうわけ ではない。ソーダ水のように泡立つ世界といっ たイメージ。これが存在の脱構築。  そこから社会問題の具体性へ。「あれはまと もな生き方ではない、逸脱だ」と排除する権力 関係をまず認識する。そしてそれはたんに強制 されているのではなく、人々がみすがらの不安 から無意識的につくり出した体制であると認識 する。そこから逃れようとする管理社会批判が 社会の脱構築である。二項対立のどちらかに振 り分けることなく、雑多な生き方を「泳がせて おく」ような曖昧さにこそ、他者性を尊重する 倫理がある。 第四章 現代思想の源流−ニーチェ、 フロイト、マルクス 秩序の外部、非理性的なものへ  本章では、現代思想の先駆者として、一九世紀の 三人の思想家を取り上げたいと思います。ニーチェ ニハ四四〜一九〇〇)、フロイト(一八五六〜一九三 九)、マルクス(一八一八〜一八八三)です。  この三人がどういう意味で前提として重要かとい うと、いずれも秩序の外部、あるいは非理性的なも のを取り扱った人物だと言えるからです。マルクス についてそう言うと、知識のある人は変に思うかも しれませんが、それは後ほどフォローします。  「はじめに」で言ったことですが、現代思想は権威 的な秩序を批判し、外部に逃げ出し逸脱することを クリエイティブだとする大きな傾向があります。そ ういう反秩序的性格については、人によってはけし がらんと思うかもしれません。しかし、逸脱という ものは少なくとも遊び的なものならば誰しも経験す るし、社会にはそういう余地が必要であるというこ とは多くの人が認めるだろうと思います。すべてが ガチガチに秩序化され統制されているべきだと本気 で考える人は少ないでしょう。  秩序の外ヘーこの方向性は、一九六八年という 特別な年と結びついています。六八年五月には学生 がパリ大学を占拠し、労働者のストライキと連帯し て従来の社会を批判し、より対等な関係性を求める 異議申し立てがなされました。世界同時に起きた左 翼学生運動と、現代思想は時代の空気を共有してい ます(もっとも、この後紹介するルジャンドルは、六八 年五月を幼稚なものとして批判する保守派なのですが)。 そうした政治活動とともに前衛芸術やカウンターカ ルチャーが盛り上がったのが六〇−七〇年代で、現 代思想もそういう時代に生まれ育ったわけです。  そこから遡って、一九世紀。秩序から逃れるもの に注目する新しい知のかたちが提起されたのが一九 世紀なんです。それまでは基本的に、知の課題とは いかに世界を理性的な秩序にきちんと捕捉するか だった。しかし、むしろ非理性的なものの側に真の 問題があるという方向転換がなされるのです。その 代表者がニーチェであり、フロイトであり、そして ある意味でマルクスなのだということです。  すごく雑に言ってしまえば、「ヤバいものこそク リエイティブだ」という二〇世紀的感覚、あれを遡 るとこの三人になるということです。  インターネットの普及後、世の中の相互監視が強 まり、クリーン化か進んでいくなかで、ヤバさのク リエイテイビティヘの警戒心が高まってきて、世の 中はより安心・安全な秩序を求める傾向が強くなっ ている、と「はじめに」で述べました。今後、二〇 世紀的な自由の感覚は、歴史的に勉強しないとわか らないものになるかもしれません。 ニーチェーディオニュソスとアポロンの拮抗  哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとするこ とでした。世界のなかに混乱を見つけて喜ぶような 哲学は、あるとしても異端。そういう意味で、混乱 つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初に はっきりと打ち出しだのは、やはリニーチェだと思 います。  『悲劇の誕生』二八七二)という著作において、 ニーチェは、秩序の側とその外部、つまリヤバいも の、カオス的なもののダブルパイントを提示したと 言えます。古代ギリシアにおいて秩序を志向するの は「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバ いものはコアイオニュソス的なもの」であるという ⊇兀論です。  ギリシアには酒の神であるディオニュソスを奉じ る狂乱の祭があったのですが、それが抑圧され、 もっと調和のとれたかたちに収められていった。ア ポロン的なものというのは形式あるいはカタであっ て、そのなかにヤバい干不ルギーが押し込められ、 カタと縊れ出そうとする干不ルギーとが拮抗し合う ような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシ アの「悲劇」という芸術だ、というわけです。  こういう暴れ出そうとする干不ルギーとそれを抑 えつける秩序との闘いに劇的なものを見る、言い換 えれば、善と悪、光と闇の対立があるところに、ど ちらかをとるのではなく、その拮抗状態にこそ真の ドラマを見る、なんていうのは今日のコンテンツで はよくあるもので、みんなそういうドラマ性を当た り前だと思っていると思いますが、それをはっきり 形式化したのはニーチエなんです。  まずディオニュソス的エネルギーが大事であって、 しかしそれだけでは物事は成り立たず、アポロン的 形式との拮抗において何かが成立する。僕のドゥ ルーズ論である『動きすぎてはいけない』という本 のタイトルも、動くというのが干不ルギーの流動性 を表しているとするなら、そこにある抑制がかかる ことで何事かが成り立つという意味であって、そう いう意味では、ニーチェ的なダブルパイントが僕の 仕事にも、あるいはドゥルーズにも継承されている ということになります。  ここで重要なのは、「秩序あるいは同一性はいら ない、すべてが混乱状態になればいい」と言ってい るわけではないということです。しばしば現代思想 はそういうアウトローを志向するもののように勘違 いされることがありますが、そうではないのです。 確かに混乱こそが生成の源なのですが、それと秩序 H形式性とのパワーバランスこそが問題なのです。 ですからここでも二項対立のどちらかをとるのでは なく、つねにグレーゾーンが問題であるという脱構 築的発想が働いているわけです。  ニーチェは古典文献学者として、二四歳の若さで バーゼル大学教授に就くのですが、その後、『悲劇 の誕生』によって学者たちの不興を買うことになり ます。ニーチェは、堅実な研究者として生きるので は満足できなかった。『悲劇の誕生』は、本来なら 丹念な歴史研究をすべきところ、大ざっぱな図式を 打ち出し、かつギリシア悲劇を当時ニーチェが入れ あげていたワーグナーの音楽に結びつけ、ワーグ ナーの革新性を謳うもので、研究というより今日風 に言えば「批評」的な著作でした。当時の文化状況 に一石を投じたいという野心があったのです。こい つは学者の道を踏み外した、と思われたことでしよ  批評的な仕事が、大学=アカデミアの学者から、 いわば「出すぎた」ものとして反発を受けるという のは今もあって、批評の世界すなわち論壇と大学に はときに対立が生じます。ニーチェはそういう対立 を生きたパイオニアだと言えるでしょう。 下部構造の方ヘ  アポロンとディオニュソスという対立は、同一性 と差異という対立に対応します。後者、つまり脱秩 序的で混乱したヤバいものの側か、秩序の下に押し 込められているという「下部構造」のイメージがこ こでは重要です。  この図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質 料」という対立に行き着きます。これは古代ギリシ アでアリストテレスが示した対立ですが、要するに かたちと素材ですね。かたちは秩序を付与するもの であり、素材はそれを受け入れる変化可能なもので す。  この形相と質料の区別がアリストテレスにおいて まず理論化されました。さらに遡ると、「理想的な かたち」、「真の秩序」を追求するというのが、アリ ストテレスの師であるプラトンの哲学だったのです が、そこにアリストテレスによって質料との二重構 造が導入されたわけです。あくまでも質料は形相の 支配下にあります。  ところが、ずっと時代を飛ばしますが、ニーチェ あたりになると、秩序づけられる質料の側か、何か 暴れ出すようなものになってきて、その暴発するエ ネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つ まり、形相と質料の主導権が逆転するのです。  プラトンからアリストテレスへの道行きも、言っ てみれば「天上の秩序から地上の混乱へ」という展 開であるわけですが、アリストテレスの哲学はまだ、 全体として秩序志向でした。そこからどんどん地上 の混乱が増大していく方向に哲学史は進んだと、大 まかには言えるでしょう。  質料すなわち物質や身体の側が要するにディオ ニュソス的でヤバいものであり、それを形相すなわ ち力夕が抑えつけている。  ニーチェのこうした図式は、ショーペンハウアー ニ七八八〜一八六〇)の影響を受けています。 ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』 二八一九)において、世界が秩序立った「表象」と して見えている一方で、世界とは本当はひたすら邁 進していく「盲目的な意志」でありI自然の運動 もすべて「意志」だと呼ぶのが特徴的ですI、 我々はそれに振り回されるという議論を展開してい ます。そのどうにもできない力に対して、人間が向 かうべき「涅槃」、「無」の思想が語られることにな る(ショーペンハウアーはヨーロッパで初の、本格的に 仏教思想を念頭に置いた哲学者でした)。  ショーペンハウアーの思想は初めは理解されな かったのですが、晩年に再評価が起こり、ワーグ ナーやニーチェにも影響を与えました。この普遍的 な意志概念、しかも「何かをしたい」という目的的 なものではない、ただの力、非合理的な意志という ものをはっきり概念化したのがショーペンハウアー のすごいところで、ニーチェのディオニュソス的な ものも、あるいはフロイトにおける無意識の概念も その影響下にあるのです。  ですが、ショーペンハウアーは一種のペシミズム の人でありI生を苦であるとする悲観主義、だが それを通してこそ生か改めて肯定される、という逆 説がショーペンハウアーの魅力ですI、それに対 してニーチェの場合は、もっと明るい方向で、「盲 目的な意志」をクリエイティブなものとして捉え、 力が次々に変形されて何かを実現していくといった 世界観になるのです。わけのわからない干不ルギー に衝き動かされて何かすごいものをつくってしまう、 という今でもポピュラーなアーティスト像が、 ショーペンハウアーからニーチェへの引き継ぎに よって成立することになります。 フロイトー無意識  さて、今度はフロイトです。  フロイトは精神分析の発明者ですが、精神分析と 哲学の関係は実に奥深いものです。精神分析は「神 経症」(今日では「不安障害」や「強迫性障害」などに 細分化されているもの)の治療のために考案されたも ので、今でも世界各地で実践されているし、心理学 や精神医学の展開に多大な影響を与えましたが、 もっと大きく言えば、人類のものの考え方を根底か ら変えてしまった前代未聞の理論なのです。  今日、自分がはっきり意識できない、よくわから ない理由で何かやってしまったというようなことは。 「無意識だった」と言われますが、そもそもそうい う使い方で無意識と言うこと自体がフロイトの発明 ですから、二〇世紀以後の我々はフロイトの思考の 影響下から逃れられなくなっていると言えます。人 間は自分のことすべてをコントロールできてはおら ず、何か「やってしまう」という、いわば自分のな かに別の自分かいるというか、意識を裏切る「盲目 的な意志」(ショーペンハウアー)に動かされている 面があるわけです。  さっそくニーチェにつなぐと、つまり自分のなか にはコントロールの利かないディオニュソス的なも のがあるということになります。ここでディオニュ ソス的なものH無意識というつながりをつけてくだ さい。  そして有名なことですが、フロイトは人間の思考 は性的なものだと考えました。無意識には何か性的 なエネルギーのわだかまりがあって、それが外見上 性的に思えない行動を動機づけている、というので す。これは「汎性欲論」だと言われ、当時も今も反 発があって、フロイトの弟子の一部はそれを手放す 方向に向かったのですが、以下ではあくまでもフロ イトの洞察にもとづいて説明します。  精神分析と聞いて、どういうものかイメージが湧 く人は少ないでしょう。「エディプスーコンプレク ス」という父殺しのテーマが有名ですが、最近はそ れもあまり言われなくなりましたし、若い世代に とっては馴染みがないと思います。  精神分析家は医者ではなく(同時に精神科医である 場合もありますが)、医療の制度とは独立に、精神分 析という独自の実践として行われているものです。 それがフランスでは今でも盛んですし、実は囗本に も精神分析家はいます。  ひとことで言って、精神分析的な考え方にコミッ トするということは、人間には無意識があるという 人間観を持つことです。この無意識とは何なのか、 自然科学的な脳研究ではまだ結論が出ていません。 ですから否定も肯定もされていない仮説です。  無意識とは、自分自身が意識的に「こういう理由 でカツカレーを食べたい」とか、「こういう理由で 誰かと付き合いたい」と思っていることの背後にあ るとされる、はっきりそう言語化して捉えることが できないような深いロジックの次元を指しています。  たとえば、誰かをいじめている人がいるとして、 嫌いだからいじめているというのが表面的な次元で すが、実はその人物のことが気になっていて、好意 があるからこそいじめている、というのがひとつの 解釈としてありうる。こうしたことは同意してくれ る読者も多いと思います。こんなちよっとした例が すでにして精神分析的です。つまり、愛と憎しみが 裏腹の関係にあって、愛するからこそ憎むとか、ま た逆に愛の背後に憎しみがあるとか、そういうのが 無意識の作用なのです。  そもそも自分のなかに逆説があるなんて認めたく ない、という人もいると思うし、実際それは自己の コントロールに疑いを向けることですから、イヤな わけです。ところが、ひじように重要なことに、精 神分析とは、自分自身でそれを引き受けて考えるの がイヤなものだ、というところがポイントなんです。 ひじように不愉快な考え方なんです。  そういうこともあって、精神分析には多くの反発 が寄せられます。たとえば「そんなものは科学的に 証明されていない」というのは中立的な反発に聞こ えるかもしれませんが、そのなかにはそもそも精神 分析的な裏腹の心理を自分自身で引き受けたくない という反発−これを精神分析の用語で「抵抗」と 言いますIが含まれている面もあるのです。精神 分析に対する批判を百パーセント抵抗だとは言いま せんが、抵抗の部分もある程度あるだろうと言える と思います。 精神分析の実践と作用  精神分析の実践とは、自分のなかのコントロール から逃れるような欲望のあり方を発見していくこと です。  しかし、自分が自分のことを意識的にこうだと 思っているような自己認識を続けていては、自分の 心の本当のダイナミズムには届きません。そこで使 われるのが、「自由連想法」という方法です。  精神分析家のオフィスには、分析家が座る椅子が あり、その前にカウチという長椅子があって、クラ イアントはそこに寝そべります。そうすると、自分 の頭の後ろに分析家が座っているかたちになり、視 線が合わず、お互いの顔が見えないようになってい ます。自分の目の前は何もない空間ですが、あたか もそこにスクリーンがあるかのように、そこに向け てただ思いつくことをペラペラしゃべるのです。今 自分は恋愛関係のトラブルで困っているとか、自分 はいつも浮気を繰り返してしまうとか、直近の自分 の問題を語ることからしゃべり始めると、昔中学校 の先生に言われたイヤなこととか、夏休みの午後に 家族と冷やし中華を食べた場面とか、そういうこと がだんだん思い出されてきます。そういうことを思 いつくままにしゃべり続けるのです。  そのあいだ分析家は何をするかというと、あまり 大したことはしません。頷きながら話を聞いていて、 あるいは無言になったりし、ときどき「今出てきた この部分はあれとつながりますね」といった解釈を 言うくらいです。  そうやって即興演奏さながら昔のことを思い出し ていくと、自分は今、恋愛関係にある人にある種の 恐れを抱いているらしい、みたいなことが自覚され てきて、実はその恐れが中学校のある先生に対して 抱いていた恐れと何か関係していると気づいたりし ます。そして典型的に精神分析的には、その恐れは 親との関係に結びついていったりするわけです。  ただ、今の恋人との関係が親との関係につながる なんていうのはいかにもな話で、そういうのをまさ に「玉アイブズ的」と言うわけですが、そんなこと を認識したところで何か変わるんだという話でもあ るわけです。実際、ちょっと意識的に考えてみれば、 そういうつなぎ方は多少連想力がある人だったらで きるかもしれない。  精神分析の本当のところは、記憶のつながりを何 かの枠組みに当てはめることではなく、ありとあら ゆることを芋づる式に引きずり出して、時間をかけ てしゃべっていく過程を経て、徐々に、自分が総体 として変わっていくことなのです。どう変わるかは わかりません。ただ、これはやはり一種の治療であ り、何とも言いにくいかたちで、自分のあり方がよ り「しっかり」していくのだと言えると思います。 精神分析は時間を節約してパッパと済ませることが できません。精神分析経験とは、ひじように時間を かけて自分の記憶の総体を洗い直していく作業なの です。 無意識と偶然性  これは「自分でコントロールしきれないものが大 事だ」という現代思想の基本的な発想につながって きます。つまり、自分のなかの無意識的な言葉とイ メージの連鎖は、自分のなかの「他者」であるとい うことになります。  この「他者」とは他人ということではなく、「他 なるもの」という広い意味でとっていただきたいの ですが、とにかく自分のなかには自分で取り扱い方 がよくわかっていないような「他者」がたくさんひ しめいていて、それによって踊らされるようにして 意志的な行動を行っているのです。  こういう意味において、フロイト的な無意識の概 念は、自分のなかには他者がいるのだということと して言い換えられ、そしてそのことが現代思想にお ける脱秩序的な方向性とつながってくることになり ます。  その上で、無意識の何かポイントなのでしょうか。 これは僕の解釈ですが、「偶然性」というキーワー ドをここで出してみたいと思います。  精神分析で明らかになるのは、自分の過去のいろ んな要素が絡み合い、ところどころ固い結び目がで きてしまい、それが今の行動に傾向を与えていると いうことです。ただしそれは、「人間はこういう経 験をしたらこういう人間になる」などと一般法則の ように言えるものではありません。精神分析はその 意味で、個別の経験を大事にするのです。似たよう な交通事故に遭ったとして、そのことが大きなトラ ウマになる人もいれば、ならない人もいるでしょう。  つまり、無意識とはいろんな過去の出来事が偶然 的にある構造をかたちづくっているもので、自分の 人生のわからなさは、過去の諸々のつながりの偶然 性なのです。  今自分にとってこれが大事だとか、これが怖いと かがあり、それについて物語を持っているとして、 「それはあのときにああいう出会いがあったからだ」 と振り返るときのその出会いは、たまたまそうだっ たというだけ、そしてそのことが深く体に刻まれて しまったというだけであって、その「運命」に意味 はありません。たまたまです。  でも人間はまったくわけもわがらずに自分の人生 が方向づけられているとは思いたくない。我々は意 識の表側で必ず意味づけをし、物語化することで生 きているわけですが、その裏側には、それ自体でし かない出来事の連鎖があるのです。  ただそのことに直面するのが通常は怖いので、人 はさまざまな物語的理由づけをします。しかし精神 分析の知見によれば、まさにそのような物語的理由 づけによって症状が固定化されているのです。むし ろ、無意識のなかで要素同士がどういう関係づけに あるかを脱意味的に構造分析することで初めて、症 状が解きほぐされることになるのです。 物語的意味の下でうごめくリズミカルな構造  ここでニーチェにつなぐなら、ディオニュソス的 なものの混乱も、煎じ詰めれば偶然性のことだと言 えます。  秩序とは一般に、偶然性を馴致する、手懐けるも のです。偶然を必然化する。「こうだったからこう だ」とわかるかたちにされているのが表の世界です。 それに対して、わけもわからず要素がただ野放図に 四方八方につながりうる世界が下に潜在している。  二項対立、どちらか一方が優位で他方が劣位であ る二項対立によって物事をさばいていくのが表の思 考ですが、それは言い換えれば、世界の物語化です。 善と悪を分け、有用と無駄を分け、清潔と不潔を分 け、愛と憎しみを分け、そこでの選択の迷いや希望 や後悔をあれこれ語るのが「物語」であり、典型的 な近代的小説の構造です。  しかし現代思想は、そういった物語の水準に留 まっていては見えないリアリティが世界にはあると いうことを教えてくれます。無意味なつながり、あ るいは無意味という言葉が強ければ、物語的意味と は別のタイプの意味、とも言えるでしょう。なかな かこれを考えるのは難しいかもしれませんが。  たとえば、セザンヌの絵画を例として挙げてみま しょう(セザンヌもニーチェらと同時代の人です)。セ ザンヌはサンドHヴィクトワール山という山を何度 も描いています。ただ、確かに山を描いているのだ けれど、その絵には具象と抽象のあいだのようなと ころがあって、山をリアルに描くというより、さま ざまな色のタッチ、配置、リズムの方に主眼がある とも言えるものです。このとき、「山の絵だね」、 「夏の山だね」という理解が物語的意味に相当しま す。ところがその同じ絵を、「ここに黄緑の四角っ ぽいタッチがあって、それに対して絶妙な角度で隣 により青っぽいタッチがあり、そしてその隣 に……」というふうに、山という意味の手前におい て展開している要素の関係性に意識を向け、それを 楽しみ、山の絵であるというより、それらタッチの 集まりによる「そういう絵」なんだと鑑賞する視線 もありえます。絵画鑑賞のいわば上級編とはそうい うものです。  これを自分自身の記憶や世界のあり方に適用する ことが、二項対立から離れて現代思想的にものを見 ることだとも言えます。物語的意味ではない意味を 世界に、自分自身に見る。それが「構造」を見ると いうことであり、しかもその構造は動的でリズミカ ルなものです。構造とは、諸々の偶然的な出来事の 集まりなのです。  まとめるならば、ディオニュソス的なものとは抑 圧された無意識であり、それは物語的意味の下でう ごめいているリズミカルな出来事の群れだというこ とです。それが、下部構造なのです。 近代的有限性  ここで、やや脱線的になりますが、ショーペンハ ウアーからカントに遡ってみます。  まず、カント超入門です。時代は一八世紀末、カ ントは『純粋理性批判』(第一版、一七八一/第二版、 一七八七)において、哲学とは「世界がどういうも のか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう 経験しているか」、「人間には世界がどう見えている か」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めま した。哲学者も含めて我々は人間であり、人間が分 析できるのは人間が認識していることだけだからで す。  人間に認識されているものを「現象」と言います。 現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうである か」はわからない。この、それ自体としての存在を、 カントは「物自体」と呼びました。人間にはフィル ターみたいなものが備わっていて、それを通ったも のしか見えない。フィルターを外して世界がどう なっているかはわからない。ちょっと言葉が難しい ですが、このフィルターをカントは「超越論的なも の」と呼びました。別の喩えをすると、超越論的な ものとは、思考のOS(Wi乱Cwsや式gRなど)み たいなものです。  人間はまず、いろんな刺激を「感性」で受け取っ て知覚し、それを「悟性」=概念を使って意味づけ る。この感性十悟性によって成り立っている現象の 認識では、物自体は捉えていません。しかしそれで も物自体を目指そうとするのが「理性」である(し かし物自体には到達できない、ゆえに理性に関する難問 が生じるのですが、それは省略します)。感性、悟性、 理性という三つが絡み合うのがカントOSです。  人間に考えられるのは「考えていること」だけだ、 とするなら、世界は本当はどうなっているのか? 今見えているのは「自分に見えているだけのもの」 なのだから、すべては幻で、自分一人しか存在しな いんじやないのか? といったいかにも哲学っぽい 問いを聞いたことがある人もいるでしょう。これこ そザ・近代なのです。  近代が本格化する転換期が一八世紀末です。それ 以前には、世界の事物がどうであるかをじかに語る ことができるような空間がありました。この対比を フーコーの『言葉と物』という本が論じています。  以下、『言葉と物』の説明です。この部分はフー コー論の続きだと思ってください。  一七から一八世紀、フーコーの言い方では「古典 主義時代」は、思考に対する事物の現れ、すなわち 「表象」と、事物それ自体とを区別することはなく、 事物を思考によってじかに分類整理できる、という 時代でした(古典主義時代より前はルネサンスで、フー コーはそれにも説明を与えていますが、ここでは省略)。 このときには、表象と事物は一致しているのかズレ ているのかという問題意識はなかったのです。  ところがその後、近代化の進展につれて、表象の 背後には、事物がそのようにできている深い原因が ある、表象を見るだけではわからない原因を解明し よう、という知の運動が始まります。たとえば、生 物学ができる以前に、古典主義時代には「博物学」 がありましたが、それは動植物の特徴を分類整理す るだけでした。その後、今の我々も知っている生物 学の段階に入っていくと、生命という抽象的なもの を想定して、生命の「機能」がさまざまな身体器官 でどう実現されているかを研究するようになる。機 能とは、目に見えるものではありません。機能自体 は表象としては見えない、抽象的に考えるものです。 そのように、表象の背後に抽象的なレベルでの原因 を探ることで、原因がそこに位置する事物「それ自 体」が、表象から分離されていくのです。  ここ、かなり難しい話だと思います。ですが、次 の第五章で紹介する、囗本の現代思想における「否 定神学批判」と合わさることで理解できると思いま すので、今の段階ではざっと読んでいただければ大 丈夫です。  思考(表象)と現実(事物)がズレているかも、 という疑問は現代人にとっては当たり前ではないで しようか。昔はそのズレがなかったのです。そこか ら、表象と事物が分離され、今度は二つをどうつな ぐかが問われるわけですが、その過程を明らかにす るという、実に繊細でスケールの大きな課題に取り 組んだのだからフーコーはとんでもない人です(こ のように、哲学を学ぶときには歴史の観点が必要です。 人間の思考システムがどう変化していったかを意識する 必要があります)。  そして表象と事物という二元性は、自分自身つま り人間にも跳ね返ってきます。  ここのロジックはひじように重要ですが、かなり 難解なので、専門家による整理を参照したいと思い ます。フーコー研究者の慎改康之は次のようにまと めています。 表象空間から解放され、自身の謎めいた厚みのな かに引きこもることによって、事物は、認識に対 して決して完全には与えられないものとなる。そ して、そのように表象から一歩退いた場所に措定 された事物が、まさにそのことによって、ありと あらゆる認識の可能性の条件として自らを差し出 すことになる。自らを示すと同時に隠す客体、決 して完全には客体化されえぬ客体こそが、「自ら を表象の統一性の基礎として示す」ということで  あり、ここから、我々は、そうした基礎への到達  を目指す「終わりのない任務」へと呼び求められ  るのである。     (慎改康之『ミシェルーフーコーー自己から脱    け出すための哲学』岩波新書二言一九年、七五    頁)  隠されたものとしての事物の謎の追求は、「終わ りのない任務」になる、つまり、キリがないのだけ れど続けるしかない。ここには、かつてなかった無 限性が生じている。古典主義時代には、神の秩序た る世界をたとえば博物学で記述することは、それも 際限ない仕事でしたが、その終わらなさ=無限性は、 たんに量が多いだけだった。  しかし今や、探求するほどに「かえって謎が深ま る」ようになったのです。これが新たな無限性です。 思考(表象)と事物を隔てるどうしようもない奈落 を埋めようとして埋められない、というのが近代的 な無限性です。世界そのもの、物自体には到達でき ない。この意味で、人間という存在が「有限」なも のとして発見されます。かつて、人間が有限だとい うのは、神に対して矮小なものというくらいの意味 でした。近代において有限性の意味がより深まるの です。思考(表象)によって世界(事物)に一致し ようと際限なく試みるが、結局はできない、という のが近代的な有限性なのです。 そしてフーコーによれば、見えないものの力、ネ ガティヴなものの力がそのようにして承認される とともに、そうした力によって魅惑される者、そ うした力によって絶えず呼び求められる者の存在 が浮上してくることになる。真理を常に取り逃す という点において自らの有限性を示すと同時に、 まさしくその有限性ゆえにその真理に向かって不 断に歩み続ける者としての人間、根源的に有限な 存在としての人間が、ここに登場するのである。                  [同書、七六百])  カントの『純粋理性批判』は、新たなる有限者= 近代的人間のあり方を、初めてクリアに分析した画 期的な仕事でした。そして、カントも含めて知の近 代化とは有限性の主題化にほかならない、というこ とを明示しだのがフーコーの『言葉と物』なのです。  いささか脱線的になりましたが、改めて本章全体 とつなぎ直しましよう。  近代において、人間の思考は、見えないもの、決 して届かないもの、闇のようなものに向かって、あ るいはそれをめぐって展開されることになる。思考 は不可能性を運命づけられる。先の引用に「真理に 向かって不断に歩み続ける」とありましたが、これ はよリネガティブに言い換えれば、「真理に向かお うとするが、真理への到達不可能性によって牽引さ れ続ける」ということです。人間の思考は、つねに 闇を抱え込むようになった。思考において思考を逃 れるものが生じた。それが、広い意味での下部構造 の発見です。ディオニュソス的なもの(ニーチェ)、 盲目的な意志(ショーペンハウアー)、無意識(フロ イト)といった近代的概念は、人間自身が内に含む ようになったその闇の別名なのだ、とまとめること もできるでしょう。遠く遡ればその闇とは、形相な いしイデアに必ずしも従わないような質料、マテリ アルの転身した姿なのです。 マルクスーカと経済  さて、そこからマルクスにつなぎましよう。  先はどから言っている「下部構造」というのはマ ルクスの用語で、マルクスにおいては、社会の経済 的な成り立ちのことを指しています(先ほどまでは、 マルクスの使い方より広く、隠されたもののことを下部 構造と呼んでいましたが、ここからは元々の意味になり ます)。マルクスは、政治でも文化でもなく、もっ ぱら経済こそが、要するにカネの問題こそが人間を 方向づけてきたのだと喝破した人です。そして経済 は、資本と労働の二項対立で動いていると考えまし た。カネの問題が下部構造と呼ばれるのは、表面的 な社会の状況、すなわち上部構造に覆われて見えに くくなっているからです。  フロイトにおける、無意識が抑圧されて意識が成 立しているという二重構造に似ていると思いますが、 マルクスは「労働力」とそこからの「搾取」という メカニズムを発見しました。労働者は自分の労働力 に対して賃金をもらい、それは生活に必要な金額だ ということなのですが、結果的に、賃金に見合う以 上の生産を行うこととなり、その余剰の利益、すな わち「剰余価値」を使用者H資本家にピン(ネされ る、というメカニズムです。  ここで重要なのは、力の存在です。労働力とは、 身体と頭脳の力であり、その力が押さえつけられ、 コントロールされ、搾取されている。  搾取される側と人を使う側に分かれるのは、結局 は、どういう立場に生まれ育つかの偶然性によりま す。たまたま土地を持っている家に生まれたら、そ こに工場を建てたりできるし、とにかく最初から有 利なわけです。それに対して、何も持だない立場の 人は、雇ってもらって労働力を提供するしかない。 自分の「労働力商品」を売るしかない。  人間には本来、好きに使えるはずの力があるのに、 偶然的な立場の違いによって、搾取されている。誇 張的に言えば、誰にだってアナーキーでディオニュ ソス的とも言える力がそもそもあるのに、制約され ているのです。  そう考えることで見えてくるのは、労働者は自分 自身の力を取り戻し、より自律化するべきだという 労働運動の方向性です。その力は、ときにストライ キやその他の抵抗運動によって搾取に対抗する力と もなるわけです。 すべての人が自分自身の力を取り戻すには  ここでフロイト的な発想とつなぎつつ現代的な例 を出してみます。  よリキャリアアップするために自己啓発本を読ん でやる気を出すとか、職場の環境をよくするために LGBTQへの差別をなくす運動に取り組むとか、 そういう活動は「意識が高い」とされるものでしょ う。しかし、仕事の効率を上げ、職場をよりよくす るという善意は、剰余価値をピンハネされ続けると いう下部構造の問題から目を背けることではないで しようか。意地悪に言えば、搾取されていても快適 であるために、みずから進んで工夫をしているので はないか、ということです。  このとき、本当に意識を高く持つというのは、搾 取されている自分自身の力をより自律的に用いるこ とができないかを考える、ということになります。  もっとも、自分は使われている人間だということ を自覚した上で、独立を決意するべきだという自己 啓発はたくさんあります。それが意味しているのは、 労働者から資本家になれということです。そうする と結局、誰かを搾取する立場に変わるだけです。  だからマルクス主義では、「あなたも資本家にな れる」ではなく、すべての人がこの構造から解放さ れるにはどうするか、すべての人が自分自身に力を 取り戻すにはどうするかを考えようとするのです。 それが「共産主義」と呼ばれるものなのですが、い まだそれは実現されていません(歴史上の社会主義国 家はそれを試みて失敗しました)。  「意識が高い」と通常言われるような意識の下に抑 圧され、無意識レベルに留まっている自分本来の力、 いわばディオニュソス的なものをいかに取り戻し、 それにどうやって搾取構造とは異なる独白の秩序を 与えるか。これが後期フーコーにおける自分で自分 のことを秩序化するという「自己への配慮」の話に つながります。  通常、意識のレベルでは、身体の偶然性を無視し、 誰もがみんなと同じように仕事のスキルを高め、競 争し、同じ基準で成功しようと頑張ってしまう。成 功できないのは努力が足りないからだと思い、思わ され、それによってさまざまな自己啓発やトレーニ ングを強いられる(強いられていることに気づかず、 自分の意志で努力しているっもりでそういうことをさせ られてい亘。努力の面はもちろんありますが、根本 的に、経済的立場の違いは偶然的な条件の違いも大 きいのであって、社長になっている人は努力したか らだけでなくいろんな意味で条件がラッキーだった わけです。まずはその偶然性に気づくことが重要で、 自分が置かれた状況を必然的なものと捉えないとい うことが、「自分自身に帰る」ための最初の重要な 思考の転換です。  その上で、自分には何かできるのか。人はそれぞ れ得意なことや苦手なことを持ち、それには偶然性 があります。努力によって変われる部分もあれば、 変われない部分もある。ここもダブルで考える必要 があります。生まれ育ちの条件でどういう人間にな るかが決まっているわけではないが、後の努力は決 して平等な競争ではなく、努力次第であらゆる初期 条件をリセットできるわけではない。ですから、お そらく目指すべき社会とは、いわばそれぞれの「存 在の偏り」−いかにも明るく「個性」とか言うよ りも、精神分析的な意味も込めつつ人間の特徴をい くらかネガティブに表現する方が、むしろ多様性を 肯定する姿勢だと僕は思いますIを活かすかたち でそれぞれが力を取り戻し、自分にふさわしい努力 ができる社会ということになるでしょう。平均化さ れたツルツルした社会を目指すのではなく、デコボ コしていてもなんとか回る社会を目指す。  そしてそれは自分がなぜ今このような人間なのか ということを精神分析的に追求し、偶然の出会いへ と遡っていくことにつながっています。すなわち、 同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなけ ればという強迫観念から逃れるには、自分自身の成 り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこ のように存在しているものとしての自分になしうる ことを再発見することだと思うのです。こうして、 みすがらの力を取り戻すという実践的課題において、 ニーチェとフロイトとマルクスが合流することにな るのです。 第五章 精神分析と現代思想−ラカ ン、ルジャンドル 現代思想の前提としての精神分析  この章では改めて、精神分析と現代思想の関わり を詳しく説明したいと思います。現代思想がわかり にくい原因のひとつは、ジヤツクーラカン(一九〇 一〜一九八匸の精神分析がしばしば暗黙の前提に なっていて、しかもラカンが大変難しいからです。  僕が学生時代には、ラカンの入門書もまだ少なく、 その大枠を捉えるのでも困難なことでした。ラカン に関する文献はずいぶんいろいろ読んできました。 本章によってごく大ざっぱにはわかると思いますが、 この後、ぜひ複数の入門書を読んでください。ラカ ンの場合はとくに、入門書を複数読んで、いくつか の解説を合算するのが重要です。後ほど、本を紹介 します。  さて、デリダには名高いラカン批判の論文「真理 の配達人」というものがあり(『現代思想』一九八二 年二月臨時増刊号「デリダ読本」に翻訳が掲載)、その 批判があってこそ、日本では東浩紀の『存在論的、 郵便的』が書かれました。また、ドゥルーズ十ガタ リの『アンチーオイディプス』は、精神分析批判に よって欲望の新たな捉え方を打ち出したのでした。 そのように、精神分析批判というか、精神分析の胸 を借りるようなかたちで自分の思想を形成している という面が現代思想にはあるのです。  僕は若い頃、デリダやドゥルーズ十ガタリの精神 分析批判を十分に消化できず、精神分析はダメなの だと単純に反発していました。しかし、だんだんと、 精神分析は侮れないぞ、精神分析的な家族の問題は そう簡単にはスルーできないぞ、と思うようになっ たのです。それは年齢を重ね、人間の見方が変わっ てきたのかもしれません。結果として、精神分析の 意義をある程度認めながら、しかしその外部を目指 すような欲望理論も持つ、という姿勢をとるように なったのです。そのように、この本では、精神分析 と精神分析批判のダブルシステムをお勧めしたいと 思っています。 人間は過剰な動物である  というわけで、本章はラカンの超入門です。ラカ ンの理論はひじように複雑です。ここでは本当に省 略して、最小限のことだけを説明します。  精神分析が基本的にどういうものかは第四章のフ ロイトのところで説明したので、忘れてしまった人 は読み返しておいてください。以下では、その総説 は繰り返さず、ラカン独自の理論についてだけ説明 します。  精神分析なんてオカルトでは? という懐疑的な 人に向けて一応の弁護なのですが、精神分析とは人 間精神についてのひとつの仮説であり、少なくとも 実践的には意味がある、効果があることが当事者に よって報告されているものです。「仮説」だと言う のは、フロイトやラカンの理論が現代の自然科学と どう対応づけられるのかまだはっきりしていないか らです。近年、脳科学の新しい理論であるイギリス のフリストンらの「自由子不ルギー原理」が注目さ れていますが、これは精神分析とも親和性が高いも ので、その観点からフロイトを再検討する論文も書 かれています。  精神分析の言うことをすべて真に受ける必要があ るとは思いません。  たとえば、精神分析では眠っているときの夢を重 視し、無意識を間接的に表しているものとして解釈 しますが、夢がそれほど深い意味を持つものなのか も疑問があります。たんに最近の出来事の断片がラ ンダムに出てきているだけだろうという捉え方もあ りえます。夢が細部まですべて自分のコンプレクス に関わっているという読みは「意味化しすぎ」だと 思います。だけれども他方で、全部ランダムだとい うのもおかしいと思うんですね。何か気になってい ること、昔から引きずっていることが夢に象徴化さ れて出てきているというのは、経験的に言ってある と思います。なおかつ、大して意味がない部分も当 然あると思う。それは両方混じっていると考えるの が、まあ穏当な考え方だろうと思います。  さて、そうした精神分析がどういうふうに現代思 想とつながっているのか。  改めて言うなら、現代思想は精神分析批判を行い ますが、そもそもは精神分析からインスピレーショ ンを得ているわけです。前の章でニーチェ、フロイ ト、マルクスを通して見てきたように、一九世紀に おいて、表面の秩序の下に隠されている力の次元が 発見され、二〇世紀になってそういう脱秩序的なも ののクリェイティビティが言われるようになった。 表面の秩序というのは二項対立的な組み立てです。 そこから逃れるものは、デリダであれば脱構築に よって問われるグレーゾーンであり、ドゥルーズ だったら逃走線の先の外部ということになります。 人間の思考や行為には整序されたものだけでなく、 不合理な力の流れに任せている面があって、本当の 人間理解に至るには、秩序をはみ出すようなディオ ニュソス的で禍々しいものを人間に見出すのでなけ ればならないのです。  精神分析は、ひとつの人間の定義を与えます。そ れは、「人間は過剰な動物だ」ということです。過 剰さ、あるいは秩序からの逸脱性。僕はよく「人間 は干不ルギーを余している」と言っています(これ は方言っぽいですが、「余らせている」より「余してい る」というI.一白い方がなんとなく僕には自然です)。  これは、他の動物と対比して言っています。最近 の研究では、人間と動物の境界線をどんどんぼかし て、グラデーションにして、人間にしかできないと 思っていたことは実は動物もできるのだ、という方 向性が流行りですが、ここではあえて保守的に、や はり人間は自然界において特別な存在なのだという 立場をまずはとりたいと思います。その特別さとは、 何より言語です。とりあえずそういう人間観にお付 き合いいただきたい。そう考えることで見えてくる ものがあるからです。 本能と制度  ドゥルーズが若いときに編集した『本能と制度』 二九五三)という引用集の序文では、人間はたんに 本能的な必要性で生きているだけではない、という ことを強調しています。  動物は、本能的必要性、すなわち栄養摂取や繁殖 などのためにとれる行動の幅が人間よりずっと狭い。 単純化して言うと、本能的必要性とそれを達成する 手段がかなり一対一対応的になっている(完全に決 まってはいません。動物にも行動の多様性があります)。 それに対し人間は、ひじように多様な仕方で必要に 応える。人間は料理をひじように複雑に発達させて おり、そこには栄養摂取を超えた過剰な快楽がある と言えます。動物の場合は、ある種のウミウシは決 まったカイメンしか食べないとか、すごく狭い食性 のものもいます。あるいは、人間の性行動は必要以 上に楽しみのために行われるし、同性愛やトランス ジェンダーといった「別の」可能性を生きることも あります。  ただ必要なだけの栄養摂取に対し、料理というの は「制度」です。フランス料理、トルコ料理といっ たいろんな制度的「お約束」があって、伝統が形成 されている。性関係のあり方も一通りではなく、本 能的には異性間での繁殖行動かペースですが、その 干不ルギーは、多様なかたち=制度によって充足さ れる。ドゥルーズはこう書いています。 本能と呼ばれるもの、制度と呼ばれるもの、これ らは本質的には、満足を得るための異なった手段 を示している。あるときには有機体は、その本性 に合った外部刺激に反応しながら、外部世界から、 自己の傾向性や欲求を充足させるためのさまざま な要素をとり出してくる。これらの要素は、動物 の種に応じて、それに特有の世界をつくりあげる のだ。また、あるときには主体は、みずからの傾 向性と外界との間に、独自の世界を確立すること によって、数々の人為的な充足手段をつくりあげ る。これらの手段は、有機体を自然状態から解放 し、別の事象にしたがわせ、傾向性そのものを、 新たな環境にもたらすことによって変形してしま    (ドゥルーズ「本能と制度」、『哲学の教科書』加   賀野井秀一訳、河出文庫、二〇一〇年、七五頁) 本能とは「第一の自然」であり、動物においてそ れはかなり自由度が低いのだが、人間はそれを「第 二の自然」であるところの制度によって変形するの です。ここでの「制度」には、「別様でありうるも の」という意味を込めています。逆に、本能とは固 定的で、そうでしかありえないものです。制度は別 様でありうる、しかし、いくらでも好きに別様に変 えられるわけでもない、というところが重要です。 人間は多様なあり方をとりうるわけですが、好きな タイミングでどうにでも変われるわけではありませ ん。  人間の過剰さは、脳神経の発達のためだというの がよくなされる説明です。だから他の動物より認識 の多様性を持っているのだ、と。他の動物は成体に 近いかたちで生まれてきますが、人間は未完成な状 態で生まれてきます。人間の子供は、神経系的にま だまとまっていないため、生まれてしばらくは嵐の なかにいるような状態なのです。そしてだんだん、 成長しながら教えられることで、事物を一対一対応 的に認識できるようになっていく。ノイジーな状態 から固まっていく。これは経験的に納得していただ けるだろうと思います。そもそも過剰であり、まと まっていない認知のエネルギーをなんとか制限し、 整流していくというのが人間の発達過程なのです。 教育とはまず、制限なのです。その最初にして最大 の行為が、自分が名前で呼ばれ、そして周りのもの の名前を教えられることです。「これは何々である、 それ以外ではない」というのはまさしく制限です。 欲動の可塑性  ひとつのテーゼとして言いましょうI人間は認 知エネルギーを余している。  自由に流動する認知子不ルギーのことを、精神分 析では、本能と区別して「欲動」と呼びます。人間 の根底には、哺乳類としての本能的次元があるには あるでしょう。だけれど、それが実際にどう発動す るかといえばひじょうに多様であって、欲動という 流動的なかたちに変換されているのです(……とい う仮説なのです)。  これはフロイトが言っていることですが、欲動の 向かう先は一対一対応ではなく、自由で定まってい ません。だからこそ、性的な対象も最初の段階では 定まっておらず、異性を欲望するようになるという 大多数の傾向は、もともと本能的にあるにはあって も、人間の場合は欲動のレベルでそれを固め直すこ とになります。本能のレベルに異性愛の大きな傾向 があるにしても、欲動が流動的だから、欲動のレベ ルにおいてたとえば同性愛という別の接続が成立す ることがありうるのです。性愛のことだけでなく、 何か特定のものに強い好みを持ったりとか、そうい う自由な配線が欲動の次元で起こるのです。  本能的・進化論的な大傾向はあるにせよ、欲動の 可塑性こそが人間性なのです。  欲動において成立する生・性のあり方は、たとえ それが異性愛のようなマジョリティの形式と一致す るにしても、すべては欲動として再形成されたもの だから、その意味においてすべてが本能からの逸脱 です。つまり、極論的ですが、本能において異性間 での生殖が大傾向として指定されていても、それは 欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成され ることによって初めて正常化されることになるので す。  そのように欲動のレベルで成立するすべての対象 との接続を、精神分析では「倒錯」と呼びます。し たがって、人間は本能のままに生きているというこ とはなく、欲動の可塑性をつねに持っているという 意味で、人間がやっていることはすべて倒錯的なの だということになります。こういう発想は、正常と 異常=逸脱という二項対立を脱構築しているわけで す。我々が正常と思っているものも「正常という逸 脱」、「正常という倒錯」です。本能的傾向と欲動の 可塑性のダブルシステムを考えるというのがここで 言いたいことです。すべての人間を倒錯的なものと して捉える発想は、ジヤンーラプランシュという精 神分析家が示しています。『精神分析における生と 死』二九七〇)がその文献ですが、全部読むのは大 変なので、第二早だけでも読んでもらえれば、今の 話がより専門的に説明されています。 ラカンー主体化と享楽  以上、人間というものの基本的な定義をしたわけ ですが、その上で、いかに人間が「人間になって」 いくか、すなわち「主体化」していくか、という話 に移りましよう。これをラカンによる、子供の成長 をどう捉えるかという発達論をモデルにして説明し たいと思います。ただ、ラカンの理論は複雑なので、 かなり省略することになります。  まず言っておくと、とにかく、人間がいかに限定 され、いわば「有限化」されるかということがここ からの主題になります。つまり、有限化か主体化な んです。  子供は当初、まだ自己が独立しておらず、母と一 体的な状態にあります。いわゆる母子一体の状態で す。なお、「母」と言っているのはここでは、その 存在なしでは生き延びられない他者、という意味で す(女性の生みの親には限られないということです)。 そのような広い意味での母が必要なわけですが、そ の存在はつねに自分のそばにいてくれるわけではな く、自分を置いて台所やトイレに行ってしまったり します。子供はそのような分離を少しずつ経験する わけですが、そうすると、ひじように不安な状態に 耐えなければならない。母の欠如を穴のようなもの だとすると、まさに心にひとつの穴が空くのです。  理想的な状態から弾き出されることを「疎外」と 言います。精神分析的には、母が必ずしもずっとそ ばにいてくれないということが最初にして最大の疎 外です。そしてそれがすべての自立の始まりなので す。この疎外は、母がいたりいなかったりするとい うランダムさによるものです(子供には母の行動の理 由がわからない)。ここで根本的な不安を引き起こし ているのは、偶然性です。母なる偶然性です。  どうなるかわからない。母が消えた。強烈な不安 で緊張する。その後母が戻ってきて抱かれ、お乳を くれるというのは、極端なマイナスからプラスへの 逆転で、不安が大きいほど、引き換えに途方もない 快が得られるでしょう。  ここには「快」の二つの様相があります。第一に は、緊張が解けて弛緩すること。安心です。しかし もうひとつ見逃せないものがある。第二に、偶然に 振り回され、死ぬかもしれないというギリギリのと ころで安全地帯へ戻ってくるというスリルであり、 これは不快と快が混じったようなもので、こちらの 方が第一の快の定義よりも根本的だと言うべきでは ないでしようか。第一の定義が、普通の意味での 「快楽」です。それに対し、第二の方では、むしろ 死を求めているようですらあるわけで、ここにフロ イトの「死の欲動」という概念が当てはまります。 死の偶然性と隣り合わせであるような快を、ラカン は「享楽」(jouissaコce)と呼びました。  子供は泣き叫び、母を呼びます。泣くことが、不 可欠なものを呼び寄せる最初のアクションです。進 化的にはそれは、母乳をもらいたいから、つまり生 命維持のためですが、これが欲望の根源なのです。 子供はそのうち、おもちやなどで遊ぶようになって いくわけですが、そういった対象には、母の代理物 という面がある。根本的な「欲しさ」の対象は母乳 であって、おもちやの欲しさなど、何か外的対象に 向かう志向性は、母との関係の変奏として展開して いくことになる。成長してからの欲望には、かつて 母との関係において安心・安全(H快楽)を求めな がら、不安が突如解消される激しい喜び(H享楽) を味わったことの残響があるのです。 去勢とは何か  さて、そこにもう一人の人物が介入してくる。父 です。この「父」とは、密接な二人の世界を邪魔す るものです。これも実の父でなくともよく、概念的 に言えば「第三者」の存在を意味します。子供に とって外的対象との関係は母との関係の変奏だと言 いましたが、そこから離れて、第三者的な外部、す なわち「社会的なもの」を導入するのが、この 「二」の外部にいる「三」の人物です。それは母子 の一体化を邪魔=禁止するのです。  この禁止は、「ダメー」と囗に出すようなもので はありません。母が子供のそばからいなくなってし まうことがある、それと、二人の外部=第三者の領 域があるらしいという認識がつながってくる。母に は母の事情があって、ずっと子供だけを構っている わけにはいかない。そこで、自分以外の誰かH第三 者との関わりのために母がいなくなってしまう、つ まり、母がその誰かによって自分から奪われる、と いう「感じ」が成立してくる。父=第三者は、ゆえ に憎むべき存在であり、母を奪い返さねばならない ということになる。これがいわゆる「父殺し」の物 語であり、以上のプロセスを精神分析では「玉アイ プスーコンプレクス」と呼びます。そのようにして、 「外部がある」ということが子供において成立して くる。外部の客観的認識には、本来の母子一体を邪 魔されたがゆえの憎しみが伴っています(精神分析 的に言えば、客観性には憎しみが伴っているのです)。  こうした父の介入を、精神分析では「去勢」と呼 びます。ずっと母がそばにいてくれるという安心・ 安全は、母の気まぐれ=偶然性によって崩れるわけ ですが、その理由は、父=第三者が世界には存在す るからである。端折った言い方になりますが、「客 観世界は思い通りにはならない、だからもう母子一 体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさ せられることが去勢です。  去勢という言葉は性的なものです。お乳を飲むと か抱かれて安心するといった快、そしてその欠如と しての不快、それが根本にあるわけですが、精神分 析ではそうした快/不快がすでに性的であると考え ます。後々、通常そう言われるような性的な快/不 快が、食欲や安心したいといったことから分化して くる(が、根本ではつながっています)。ゆえに、快/ 不快の最初の段階に介入する禁止を、性的意味を含 めて「去勢」と呼ぶのです。 欠如の哲学  母の欠如を埋めようとするのが人生です。しかし それは決して埋められない。絶対的な安心・安全は ありえないのであり、不安と共に生きていくしかな い。だがそう悟っても、穴を埋めようとするIそ れが人生です。根本的な欠如を埋めようとすること が、ラカンにおける「欲望」です。その意味でラカ ンには「欠如の哲学」があるのです。  たとえば「限定品のスニーカーが欲しい」とか、 特別なアイテムに心惹かれるというとき、自分が欲 しているものの背後には幼少期の根本的な疎外との 複雑なつながりがあります。これを手に入れなけれ ばと思うような特別な対象や社会的地位などのこと をラカンの用語で「対象a」と言います。人は対象 aを求め続けます。  ラカン理論はひじように意地悪で、何らかの対象 aを仮に手に入れたとしても、本当の満足には至ら ないということを強調します。対象aというのはあ る種の見せかけであって、それを手に入れたら幻滅 を同時に味わうことになり、また次の「本当に欲し いもの」を探すことになる。そうやって人生は続い ていく。  そう言うと人生は虚しい感じがしますが、でもそ れでいいんです。もし何か手に入って、「よし、こ れで人生の目標が達成されたぞ」となったら、その 後生きていく気力がなくなってしまいます。結局、 何らかの対象aに憧れては裏切られるということを 繰り返すことによって人生は動いていくのです。こ ういうロジック自体をメタに捉えることによって、 欲望を「滅却する」方向に向かうのが仏教的な悟り なのでしょう。 つながるイメージの世界と言語による区別  おおよそ以上がラカンの発達論で、一応エディプ スーコンプレクスの基本的な理解を得たことになり ます。その上で、ラカンの有名な三つ組みの概念、 「想像界・象徴界・現実界」について説明しましょ  ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。 第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴 界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが 合わさって認識を成り立たせている。ものがイメー ジとして知覚され(視聴覚的に、また触覚的に)、そ れが言語によって区別されるわけです。このことを 認識と呼びましよう。第三の「現実界」は、イメー ジでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れ る領域です。お気づきかもしれませんが、この区別 はカントの『純粋理性批判』に似ていないでしよう か。後に「否定神学批判」のところで説明しますが、 実はラカンの理論はカントOSの現代版と言えるも のなのです(想像界↓感性、象徴界↓悟性、現実界↓物 自休という対応になっている)。  人間の発達では、まずイメージの世界が形成され ていきます。まだ自己がはっきりせず、刺激の嵐に さらされている生まれたばかりの子供は、対象を十 分区別できず、すべては境目が曖昧で、ぼんやりつ なかっている。知覚には強弱の差があり、強い部分 に注意が向くとしても、それはまだ他から明確には 区別されないでしょう。  そこに言語が介入するのですが、言語が行うのは 「分ける」ことです。名前を与え、イメージのつな がりを切断し、すべてがごちゃごちゃにならないよ う制限する。一定の形態を指差しながら言葉を言う ことで、世界が対象に分けられていく。  その過程で、子供は自分自身の姿を初めて見るこ とにもなる。鏡によってです。そして名前を呼ばれ、 そのひとまとまりのイメージを自分のものとして引 き受けるようになる。このことをラカンは「鏡像段 階」と呼びます。  鏡像段階を通して自己イメージができる。それは 想像界と象徴界の交わりによって可能となるわけで す。人間は自分自身の全体像を見ることはできませ ん。鏡によって間接的に(しかも反転した像で)見る しかない。自己イメージはつねに外から与えられる、 というのがラカンの重要な教えです。鏡像というの は、鏡に映った姿だけではなく、自分について人か ら言われることや、有名人やアニメのギャラをモデ ルにして自分のあり方を調整するといったときの外 的なものすべてを指します。大人になっても我々は 日々、鏡像的な自己イメージの作成を続けています (だから、「自分探し」は決して終わらないのです)。端 的に言って、自己イメージとは他者なのです。  そして、先に説明した去勢によって、想像界に対 し、象徴界が優位になります。混乱したつながりの 世界が言語によって区切られ、区切りの方から世界 を見るようになる。よくわからない色や音の洪水の なかで、動く何かを見て「ワンワン?」と名前を探 るのではなく、最初から「犬」という区切り=フィ ルターに当てはまるかどうかでものを見るようにな る。象徴界の優位とは、世界が客観化されることで す。ですがそれは、原初のあの幸福と不安がダイナ ミックに渦巻いていた享楽を禁じることを意味する のです。  ところで、小さい頃はただ好きに線を走らせて、 前衛的にも見えるような絵を描いたりしますよね。 成長してくると「おうち」とか「パパ」とかを描く ようになり、しかも、丸を二つと横棒を描いて 「顔」だとするような記号的で一対一対応的な表象 によって覆い尽くされていきます。象徴界によって 想像的干不ルギーの爆発が抑圧されてしまうのです。  想像力はいろんなものを区別せずにつなげていく。 想像力という言葉は倫理的な意味でも使われますね。 たとえば「地球の裏側の貧しい人のことにも想像力 を広げよう」みたいに。そこでは、今日本で生活し ている自分とまったく境遇が違う大を分身のように 捉えてみなさい、ということが言われている。言い 換えるなら、まさに区別を超えたつながり、あるい は区別の手前のつながりに戻ってみましようと言っ ているのです。  ところが、言語は分別ができるようにするもので、 「こっちはこっち、向こうは向こう」ということに なります。ですから、言語習得というのはある意味 世界を貧しくすることなのです。だけれど、言葉を 習得しなければ、人間は道具をまともに操作するこ とすらできません。おそらく体もまともに動かせな いでしょう。動物の場合なら、言語を習得すること なしに一定の行動をとることができますが、動物が 本能的に物事を区別し分節化して捉えられているの に対して、人間は言語習得との関係で世界を分節化 し直すという「第二の自然」を作り出さなければ、 そのなかで目的的な行動をとることができないので す。言語とは、ドゥルーズの言い方を使えば「制 度」の一種です。  目的的、実利的にものを区別して行動する「ちゃ んとした」人間になっていく過程で、境界を超えて いろんな物事を接続するような想像力は弱まること になります。  だけど、なくなりはしない。想像力のリゾーム的 展開と言語的分節性は人間において並立しています。 だからとくに芸術を教育するときには、たんに「こ れはコップだから」とか、「あの人は自分とは全然 違う人生だから」とかいうことで切り離さないで、 さまざまなものを近づけて化学反応させるような思 考が重要なのです。およそ縁遠いものが実は分身的 につながるとしたら、と考えてみること。「芸術と は子供になることだ」とよく言われますが、精神分 析的にはそれは以上のような意味なのです。 現実界、捉えられない「本当のもの」  そして三番目の現実界です。  イメージと言語によって認識が成立し、意味が生 じているわけですが、まったく意味以前的にそこに あるだけ、というのが現実界です。現実界に直接向 き合うことはできません。そういう「認識の向こう 側」があると仮に想定してみましよう。疲れていた りして、見慣れているものが何かよくわからなく なったりするときは、そういう外部にちょっと近づ く瞬間です。しかし通常、現実界に向き合うことは ありません。  では、意味以前の現実界とは何か。それは成長す る前の、あの原初の時です。刺激の嵐にさらされ、 母の気まぐれに振り回されていた不安の時、不安ゆ えの享楽の時です。それが認識の向こう側にずっと あるのです。  ここでラカン理論の変遷について述べておきます。 「想像界から象徴界優位へ」という話は五〇年代の 初期ラカンで、その後、六〇年代に現実界の位置づ けが問題になります。ラカンは六〇年代=中期以後 に現実界を重視するようになった、と覚えてくださ い。  これこそが欲しかったものだ、と何か対象aを求 め、手に入れては幻滅するのが人生だという話をし ましたが、人はつねに、これこそという「本当のも の」を求め続けているわけです。これが「本当のも の」かと思って何か=対象aを得ても、「本当のも の」はまた遠ざかってしまう。対象aを転々とする ことで、到達できない「本当のもの」HXの周りを めぐっていることになる。このXが、イメージにも 言語にもできない「いわく言いがたいアレ」として の現実界なのです。あの原初の享楽’。  それは成長し、認識が成立していく過程で失われ たものです。幼少期に原初的な満足を喪失したとい うことがつねに世界の影として残り続けているので す。  ラカンに関してはこのくらいの理解の上で、入門 書を読み比べてください。  僕の研究におけるラカン解釈は、原和之『ラカン ー哲学空間のエクソダス』(講談社選書メチエ)と、 向井雅明『ラカン入門』(ちくま学芸文庫)から影響 を受けています。  現在、最初に読むのにお勧めなのは、片岡一竹 『疾風怒濤精神分析入門−ジヤツクーラカン的生 き方のススメ』(誠信書房)です。この著者は実際に 精神分析を受けており、精神分析実践の様子も具体 的に描かれています。また、新世代のラカン研究者 である松本卓也の説明は際立って明晰なもので、 『人はみな妄想するIジヤツクーラカンと鑑別診 断の思想』(青土社)は必読書です。これには索引 があり、用語事典のようにも使えます。 ルジャンドルードグマ人類学  ここまで、人間は過剰な存在である、認知子不ル ギーを余しているということから、精神分析的な人 間像を発達論的に説明してきましたが、今度はこれ を逆方向から、つまり大人の立場から見てみたいと 思います。  ピエールールジャンドル(一九三〇〜)という思 想家を紹介します。ルジャンドルはラカン派の精神 分析を取り入れながら法の歴史に関する独自の理論 を打ち立てた人です。ルジャンドルは自分の理論を 「ドグマ人類学」と呼んでいます。  ドグマという言葉は、普通、良い意味では使わな いものですよね。融通の利かない、いかなる批判も 許さない決めっけみたいなものをドグマと言うわけ ですから。哲学史でも、「世界の本質はこうだ」と いうドグマ的=独断的な決めっけをやめ、人間はど ういうふうに世界を捉えているのか、言い換えれば、 「人間のOS」を分析しよう、というカントの哲学 に転換した歴史があって(それが哲学における近代化 です)、我々はカント以後にいる。カント以前の、 世界はこうだという思弁を行う哲学を「独断的形而 上学」と呼びます(この「独断的」というのは「ドグ マディック」の翻訳です)。ですから、今さらドグマ という言葉を復活させるなんて、と奇妙な感じがす るわけです。ルジャンドルは一種の保守の人で、社 会秩序を守ろうとする思想の持ち主です。だからこ そドグマ人類学は、世界の進展から距離をとって、 現代的欲望を分析するのに役立つのです。  今日我々は、物事を決めつけるのではなく、合理 的・理性的に説明し、合意形成をして世の中を運営 していると思っています。しかし、本当にそうで しよ’つか?  実は今日の、つまり近代以後の啓蒙された世界で も、根本には、絶対にこうでなければならないとい う「異論を許さない決めつけ」がいろいろあって、 それで社会はなんとか成り立っています。そのこと がドグマ人類学によって見えてきます。  これは、実は原理的な話です。たとえばAという 主張をするとして、それには理由aがある、と言わ れる。それに対して批判が起こると、その理由aを さらに根拠づける、より掘り下げた理由bを言わざ るをえなくなる。理由bは「理由の理由」ですね。 さて、さらに批判が続けば、理由の理由の理由…… という掘り下げにはキリがありません。原理的には 無限に続きます。このことを僕の『勉強の哲学』で はアイロニーと呼びました。  だけれど現実には、批判や反論はあるところで止 めざるをえなくなります。時間に限りがあるからで す。そうすると、ある段階で、事実上そこで行き止 まりの「こうだからこうだ」としか言いようがない 命題に突き当たることになる。原理的にはさらに遡 れますが、そこで「手打ち」にするしかなくなる。 その命題をドグマと呼ぶのです。  こうだからこうだ、というどうしようもなさは、 すべての人が個人的に経験しています。それはすな わち、成長する過程での去勢です。母から引き離さ れ、物事を切り分けるようになる。名前とはドグマ です。自分で勝手にものに名前をつけることはでき ません。「これはこう呼ぶのだ」と指定され、かつ その名前には結局は根拠がありません。そのことと の関わりで、たとえば「スプーンはこう使いなさ い」とか、「食べ物で遊んではいけない」とか、さ まざまなしつけ、決めつけがなされます。そこで子 供は多少逆らっても従うしかない。嫌がるけれど、 強制されるわけです。  子供がまだ一人では生きられない段階で、明らか に力の差がある状況で、制限が課される。それで、 トイレはこうするとか、朝起きたら服を着替えると か、一定の生活のルーティンができあかっていく。 つまり、去勢によって秩序が組み立てられていくの です。  なぜそうするのかをいちいち、それこそ「リベラ ル」に説明しようとしてもキリがないでしょう。人 間の生活の根本には、非合理的なルーティンがあっ て、それが早い時期に成立するからこそ、後に目的 的な行動がとれるようになるのです。 儀礼による有限化  ルーティン作成としての秩序化、それは人間が 「本能で動く動物になり直すこと」だとも言えます。 動物の場合、何も強制されなくても最初から決まっ た行動がとれますが、人間の場合には外からの「構 築」が必要なのです。第二の自然をつくるわけです。  人間はルーティンを複雑化させていきました。学 校で制服を着るとか、教室では黙って先生の話を聞 いているとか、体育の時間に整列するとか、みんな で行進するとか、音楽の時間にみんなで同じ歌を歌 うとか、我々はそういうなんでそんなことをやらな きやいけないのかというような共通行動をさせられ、 それを嫌々ながらも受け入れる。しかもそういうこ とをたんにイヤだと思っているのではなく、たとえ ば合唱コンクールで一糸乱れぬパフォーマンスを行 うことに青春の感動があったりする。  ここはフーコーが規律訓練という概念によって批 判的に問題にしたところです。ですが、今はそのこ とのポジティブな面を言おうとしています。  人は規律訓練を求める。なぜか。認知エネルギー が溢れてどうしたらいいかわからないような状態は 不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させ ることに快があるからです。しかし一方では、ルー ルから外れてエネルギーを爆発させたいときもある。  たとえば暴走族はルールを破って駆け回るわけで す。ところが、暴走族には厳しい上下関係があった りします。ですから、干不ルギーを解放する方向と 干不ルギーを制限し有限化する方向の両方が見られ るわけです。これは人間のあらゆる組織的活動に言 えることで、また個人的に生活を律するときでもそ うです。  ここで「儀礼」というキーワードを出したいと思 います。あるいは「儀式」でもよいですが、儀礼の 方がより抽象的ですね。ルーティンというのは儀礼 です。なんでそんなことをやっているのかその根本 の理由が説明できない、たんにドグマ的でしかない ような一連の行為や言葉のセットのことです。  人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動も あるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで 安心して快を得ているという二重性がある。そのジ レンマがまさに人間的ドラマだということになるわ けです。どんなことでも干不ルギーの解放と有限化 の二重のプロセスが起きている儀礼である、という 見方をすることで、ファッションでも芸能でも政治 でも、いろんなことがメタに分析できるようになり ます(こうした見方は文化人類学的なものであると言え るでしよう)。そして、儀礼とは去勢の反復だと言え ます。 否定神学批判  母親がいなくなるときがあるという欠如の刻印を 経て、その永遠に埋められない欠如を埋めるために 人間はいろんな試みをするわけですが、このラカン 的な欠如の哲学が現代思想においてしばしば批判さ れました。  とはいえ、ここも話は複雑で、捉えられない「本 当のもの」=Xというのは、実はデリダやトゥルー ズにもあったと言えるし、同時にそこから離れる運 動も彼らのなかにはあったのです。この捉えられな いXというのは、二項対立を逃れる何か、グレーで、 いわく言いがたいものです。人間はなんとかそれを 捉えるために新たな二項対立を設定して、だがまた 取り逃し……というように生きていく。  このようなXに牽引される構造について、日本の 現代思想では「否定神学的」という言い方をします。 否定神学とは、「神とは何々である」と積極的に特 徴づけるのではなく、神を「神は何々ではないし、 何々でもなく……」と、決して捉えられない絶対的 なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義 するような神学です。まさにそうした神の定義と、 このXのあり方は似ている。我々は否定神学的なX を追い続けては失敗することを繰り返して生きてい るわけです。  カントまで遡るなら、否定神学的なXは「物自 体」に相当すると言えます。  カントについては第四章で紹介しました。カント は、人間が経験しているのは現象であり、現象は感 覚的なインプットと概念の組み合わせでできていて、 その向こう側に本当の物自体があるのだが、物自体 にはアクセスできない、という図式を『純粋理性批 判』で提示したのでした。これがラカンの三つの界 とだいたい対応するのです。  カントが現象と呼んでいるのは想像界と象徴界の 組み合わせです。人間はイメージ(感性)と言語 (悟性)によって世界を現象として捉えている。し かし、その向こう側に現実界(物自体)があり、そ れにはアクセスできない。にもかかわらず、それに アクセスしようと思っては失敗し続ける。  この捉えきれないものを捉えようとして失敗し続 ける人間という「空回り的人間像」のようなものが 成立したのが近代です。やってもやってもキリがな いという無限性。このことは、たとえばカフカの小 説を想起するとよいでしょう。際限のない事務手続 きに巻き込まれ、埒が明かない迷宮のようなところ に迷い込む……そんな世界観です。カフカはそれを 誇張的に滑稽なものとして描いている。  こうした近代的人間のあり方を示しだのがフー コーの『言葉と物』なのでした。第四章で説明しま したが、もう一度、別の仕方で言い直します。  フーコーによれば、近代以前には、人間の思考は 無限に謎を掘り進めていくようなものではなかった。 まず神の秩序が揺るぎなくあって、神はとにかく無 限の存在であり、神がつくった世界はすべて隈なく 秩序的であって、人間はそのなかに含まれている。 人間は神には及ばない有限なものなので、自分にわ かる範囲で世界の秩序をできるだけ発見しようとす る。人間は有限であり、有限にできることをやるし かなかった。  しかしそれ以後、有限性の意味が変わります。神 と比べて人間は有限、なのではなく、人間自身に限 界があるために世界には見えないところがある、と いう自己分析的な思考が立ち上がってくる。人間に わかっていることの背後には何か見えないもの、暗 いものがあって、人間はそこに向かって突き進んで いくのだ、というような人間像になっていきます。  否定神学という言い方で近現代の思想を捉えたの は、東浩紀の『存在論的、郵便的』です。東におい て、「否定神学システム」の代表と見なされるのが ラカンの理論です。ラカンにおける、現実界が認識 から逃れ続けるということが、否定神学システムの 一番明らかな例なのです。東はそれと同等のものが デリダの初期にもあるとした上で、デリダは後にそ こから離脱する方向に向かったという読解を示しま した。かつ、同時代のドゥルーズなどにも似た展開 が見られるというのです。  いかに否定神学システムから逃れるかという考察 を、「否定神学批判」と呼ぶことにしましょう。こ れが問題にされたのが日本現代思想の特徴です。  その前提にあるのは、フーコーの『言葉と物』で す。否定神学システムとは、事物「それ自体」に到 達したくてもできない、という近代的有限性の別名 なのです。  しかしどうやったら近代的有限性から逃れられる のか?  東がデリダにおいてそれをどう論じたかは、ひ じようにスリリングな『存在論的、郵便的』をぜひ 読んでもらいたいのですが、第七章で少し触れま しよう(実際に読むのが面白くなくならないくらいに)。  ここではドゥルーズ十ガタリの場合について、僕 なりの解釈を示しておきます。  ドゥルーズ十ガタリは、家族の謎を追求するので はなく、絵を描くでも社会活動でも何でも、具体的 にアクションをしてみなさいと励ます思想だと説明 しましたが、そこで重要なのは、それが無限のXに 向かっていく、つねに欲求不満な活動として行われ るのではなく、さまざまな活動がそれぞれに有限に、 それなりの満足を与えてくれる、それなりに完結す るものだということです。無限の負債を背負い、返 しきれないもののために悲劇的な人生を送るのでは なく、さまざまな事柄を「それはそれ」として切断 し、それなりにタスクを完了させていく。ドゥルー ズ十ガタリはそういう気楽な人生を推奨していると 僕は思います。いわば有限的喜劇です。  ひとつのXをめぐる人生というのは、いわば単数 的な悲劇ですが、そうではなく、人生のあり方を もつと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認 めようということです。後に説明しますが、東は、 単数のXから「複数的な超越論性へ」という転換を デリダにおいて強調しました。  このように、無限の謎に向かっていくのではなく、 有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向 性は、ある意味、近代以前に新たな価値を与えるこ とだとも言えます。フーコーが晩年、古代に発見し たような自己との関わり方がここにつながってくる。  そして、上級編として言えば、実はラカンは後期 になると、空回り的人間像というよリドゥルーズ十 ガタリに近いような立場へと向かいました。見せか けである対象aを求めては幻滅するのを繰り返して いるのを自覚するだけでなく、その自覚によっても 結局消えることがない根本的な享楽を見つけ、享楽 的なものとしての、そこに自分の存在がかかってい るような「症状」を社会生活と両立させてうまくや りくりできるようにする、という精神分析になって いく。その人の特異性−先の言い方なら「存在の 偏り」−であるような症状を、ラカンは「サン トーム」と呼びます。サントームについては松本卓 也『人はみな妄想する』を参照してください。 第六章 現代思想のつくり方 新たな現代思想家になるために  ここまでフランス現代思想について、ポスト構造 主義の代表者たるデリダ、ドゥルーズ、フーコーを 中心に、精神分析との関係も含めて説明してきまし た。これで現代思想の基本的なイメージはつかめた だろうと思います。  この後は、ニー世紀に入ってからの最近の展開、 ポスト構造主義の後なので「ポストーポスト構造主 義」と呼べるような展開についても少し説明したい と思います。そこではカトリーヌーマラブーやカン タンーメイヤスーという新世代の思想家を紹介しま すが、その前に、僕なりの総まとめとして、これま で紹介してきたフランス現代思想の面々がどういう ふうに理論を組み立てているのか、いわば「フラン ス現代思想のつくり方」について、あえて図式的に 考えてみたいと思います。  それを説明することで、読者の皆さんは、現代思 想を踏まえて新たな問題提起を行うことができるか もしれません。つまり、自分で現代思想的に問いを 立てるための原理、さらに大胆に言えば、新たな現 代思想家になるための原理を説明したいと思います。 おそらくこういうかたちで現代思想を説明する入門 書は他にないでしょう。  ちなみにこの説明は、以前一橋大学で行われた哲 学の方法論に関するシンポジウム(第一九回一橋大 学哲学・社会思想学会シンポジウム「哲学研究の比較 −方法・評価・教育の観点から」)で発表したことを ベースにしています。その会は、分析哲学、哲学史、 現代思想と、各分野の専門家がその方法的特徴を説 明するもので、そこで僕は「フランス現代思想にお ける議論の新規性とは何か」というタイトルで発表 しました。  たとえばデリダが登場したとき、彼はどうやって 自分の仕事を新しいものとして提示したのか。さら に、後で説明するようにマラブーはデリダの弟子な のですが、デリダに対してどうやって自分を差別化 しようとしたのか。ただでさえ斬新な理論家として 出てきたデリダに対し、マラブーがさらにみずから の新規性を主張するなんて、いったいどのように やっているのか。  新規性とか差別化といった言い方はビジネスライ クであまりよくないかもしれませんが、とはいえ、 自分には他の人とは違う独自性があると主張しなけ れば学者だってやっていけないわけで、そこにはビ ジネス的な部分が実際あるわけです。 現代思想をつくる四つの原則  僕の仮説ですが、フランス現代思想をどうつくる かというとき、三つあるいは四つの原則を立てられ ると思います。それは、@他者性の原則、A超越論 性の原則、B極端化の原則、C反常識の原則、です。 四番目はやや付け足し的かもしれません。  順に説明しましよう。  @他者性の原則 基本的に、現代思想において新 しい仕事が登場するときは、まず、その時点で前提 となっている前の時代の思想、先行する大きな理論 あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除さ れている、取りこぼされている、ということを発見 するのです。これまでの前提から排除されている何 かXがある。こういう言い方も品がないですが、 「他者探し」をするのです。詳しくは後ほど具体例 で説明します。  A超越論性の原則 広い意味で「超越論的」と言 えるような議論のレベルを想定する。それは「根本 的な前提のレベル」くらいに思ってください。第四 章で説明したように、超越論的なものとはカントの 概念です。復習しておきます。カントは、人間がも のを認識し思考するときの前提として、人間の精神 にはあるシステム、いわばOSがあり、それによっ て情報処理しているのだというようなことを『純粋 理性批判』で論じました。そのOSをカントは「超 越論的」と形容したのでした。カントにおけるこの 意味をふまえて、何かある事柄を成り立たせている 前提をシステマティックに想定するとき、それを超 越論的なものと呼ぶのです。  現代思想では、先行する理論に対してさらに根本 的に掘り下げた超越論的なものを提示する、という かたちで新しい議論を立てるのですが、その掘り下 げは、第一の「他者性の原則」によってなされます。 先行する理論では、ある他者性Xが排除されている、 ゆえに、他者性Xを排除しないようなより根本的な 超越論的レベル日前提を提示する、というふうに新 たな理論をつくるのです。  B極端化の原則 これはとくにフランス的特徴と 言えますが、現代思想ではしばしば、新たな主張を とにかく極端にまで押し進めます。主張の核は、排 除されていた他者性に向き合うことですが、それを ひじように極端なかたちで提示する。排除されてい た他者性Xが極端化した状態として新たな超越論的 レベルを設定するのです。  C反常識の原則 そのようにある種の他者性を極 端化することで、常識的な世界観とはぶつかるよう な、いささか受け入れにくい帰結が出てくる。しか し、それこそが実は常識の世界の背後にある、とい うかむしろ常識の世界はその反常識によって支えら れているのだ、反常識的なものが超越論的な前提と してあるのだ、という転倒に至ります。 デリダー原エクリチュール  その上で具体的に説明してみます。まずはデリダ です。  デリダの場合、先行するものが言っていることに 対し、いわば「逆張り」をする。ここで先行するも のというのは、一方が優位、他方が劣位とされてい る二項対立で組み立てられた思考です。できる限り 劣位の側を排除して優位の側で物事を組み立ててい く、プラスを増やしていくことを目指すような思考 です。デリダはそれに対し、プラスとマイナスの区 別が本当に一貫して成り立つのか? という疑問を 向けます。そのとき、むしろマイナスの方に注目す る。だから「逆張り」なんです。これが脱構築なの でした。そこで排除されていたのは「エクリチュー ル」という概念で言われる他者性です。  第二早の繰り返しになりますが、エクリチュール とは、真理から遠ざかり、ズレて誤解されるものの ことですが、多くの場合、ズレや誤解をなくし、真 理に近づいていくことが目指されるわけです。だけ れど、どれほど努力しても、我々はズレや誤解、す なわち差異を排除することはできません。そうする と、そうであるにもかかわらず、それが排除できる かのように無理を言っていることになります。  このように、実は世界は、根本的にはエクリ チュール的な差異がいたるところにあるのにそれを 否認している、ということを世界の超越論的な前提 として発見する。そしてそれはいたるところにある のだ、というかたちで極端化する。  デリダはパロール(話し言葉)とエクリチュール (書かれたもの)を対立させ、人々がパロール的だと、 つまり真理に近いと見なしているものであっても、 決して純粋な真理ではありえず、つねにそこにはズ レや誤解の可能性がある、すなわちあらゆるものに は「原エクリチュール」という面がある、とします。  そうすると、たいていの場合、すべてを真理に近 い関係にしていきたいという強い欲望が働いている のだけれど、それに対して、ズレや誤解、さらに言 えば墟や虚偽をなしにはできないということを受け 入れ、多少なり濁った水で生きていくことこそがむ しろ倫理的なのだ、という反常識的な帰結が出てく ることになります。 ドゥルーズー差異それ自体へ  続いてドゥルーズです。  ドゥルーズの場合、先行するのは、物事が同一性 を持ち、これはこういうものだと定まっている世界 です。さらにそこがプラス/マイナスによってヒエ ラルキー化されているという特徴づけを加えるとデ リダつぽくなりますね。  そこから排除されているのは、デリダと共通する ことですが、ズレ、差異、生成変化です。そしてそ ういった同一性の崩れこそが世界の超越論的な条件 であるとする。しかもそれを極端化し、同一的なA とBのあいだの差異ではなく、「差異それ自体」が 世界をつくっているのだ、という存在論が出てくる ことになります。  デリダの場合は極端化によって原エクリチュール、 ドゥルーズの場合は極端化によって差異それ自体に 至るわけです(デリダにおける原エクリチュールと ドゥルーズにおける差異それ自体というのは、ほとんど 同じような概念だと言えます)。 レヴィナスー存在するとは別の仕方で  第二早でデリダと比較したエマニュエルーレヴィ ナスの哲学にも触れておきましよう。フランス現代 思想の図式はレヴィナスにおいて一番明確かもしれ ません。  レヴィナスも大きく言って差異の哲学を提示した 人ですが、差異よりも「他者」というキーワードで 知られています。レヴィナスの哲学は「他者の哲 学」です。ちなみに、補足しておくと、レヴィナス といえば他者、とあまりに言われすぎたので、それ こそ逆張り的に、最近の研究者はレヴィナスのそう ではない側面に光を当てる解釈を出すようになりま した。とはいえ、それは上級の話で、まずはレヴィ ナスといえば他者と押さえておけばいいと思います。  レヴィナスはリトアニア出身のユダヤ人哲学者で す。母国語はフランス語ではないのですが、フラン スに住んでフランス語で哲学をしました。だから彼 の使うフランス語はちょっと独特のものがあります。 レヴィナスの主著は『全体性と無限』二九六匸で、 これはひじょうに内容豊富なのですが、ここではそ のマクロな立場だけに注目します。それは、哲学史 は他者の問題を排除してきた、だから他者の方へ向 かう哲学を考えなければならない、という立場です。  最大の仮想敵は、ハイデガーの存在論です。ハイ デガーは、物事がただ「ある」という、その「存在 そのもの」をいかに思考するか、という極端に基礎 的で、きわめて展開が難しい問題に集中した人です。 そういう意味でハイデガーは哲学史の極みなのです が、ハイデガーは一時期ナチに加担したという事実 があり、それとの関係で、ハイデガー存在論、ひい ては西洋哲学史の道行き全体が帯びているある種の 危険性を、ユダヤ人であるレヴィナスは告発するこ とになります(レヴィナスはフランス軍に属し、ドイ ツに捕虜として捕らえられたのですが、そのため絶滅収 容所に送られることは免れました)。  存在論は哲学の極みであり、存在することそれ自 体を考えるというところまで極まったら、それ以上 の根本なんて考えようがない感じがするじやないで すか。だけれど、レヴィナスは、そこでなお、他者 が排除されていると言うのです。というのは、すべ て「ただある」という根本的な共通地平にすべての 存在者が載せられてしまうことによって、抽象的な 意味での共同性のなかにすべてが回収されてしまう からです。そこから逃れる術がもはやないような強 制的な地平にすべてが載せられてしまう。このこと とファシズムがつながってくるという話です。それ は、存在論的ファシズムとでも言うべきものです。  もちろんこれはきわめて抽象的な意味でのことで す。ただ、哲学者がすごいのは、このような超抽象 的なレベルにおける政治性を考えるところです。存 在論という極端な抽象性に抵抗する、ラディカルな 意味での他者性を考えなければならない。そこでレ ヴィナスは、存在から始めるのではなく、他者との 向き合い、他者との距離からすべてを始め直さなけ ればならないという立場をとります。レヴィナスは 「無限」であるような他者を超越論的な次元に置き ます。これはひとつの極端化です。他者を「無限」 と捉え、そして存在の地平を「全体性」と捉えるの です。  これはひじように強力な二項対立です。これに対 してデリダは、純粋に絶対的な他者性というものは ありえず、他者性は、同一性へと回収されていく運 動との緊張関係においてしか問えないのだ、という 脱構築的介入を行うことになります。これは『エク リチュールと差異』というデリダの論文集に入って いるレヴィナス論、「暴力と形而上学」です。  その後、レヴィナスはもうひとつの大著で、ひ じように大胆なキーワードを出してきます。それは 著作のタイトルなのですが、「存在するとは別の仕 方で」というものです。フランス語では 「y肓Q∃a公示ぼ」、英語では「〇therwise than bemgjです。『存在するとは別の仕方で あるいは 存在することの彼方へ』二九七四)という著作です。  存在という超抽象的な全体性の地平から、なお外 れるような他者−ドゥルーズ的に言えば、存在の 全体性から逃走線を引くことIを考えたとき、そ の他者はいったいどのように「ある」のかが問われ ています。それはもはや「ある」とは言えない。な ぜなら、「ある」と言ってしまったら、ただちに存 在論に引き戻されることになるからです。  そこで、言葉に無理をさせる必要が出てきます。 というか、こういうときに言葉に無理をさせるのが 哲学者の面白いところです。「ある」というのは 我々にとって根本的ですが、さらにそこから外れる ものをかろうじてすくいとるために、存在するとは 「別の仕方で」、「別様に」というふうに、もはや副 詞でしか言えないことを言おうとするんです。結果、 「存在するとは別の仕方で」で止める、という無理 やりの表現がつくられた。  こう言っては間違いなのですが、言ってみれば 「オルタナティブな存在」みたいなものではある。 だけれどもそれをオルタナティブな存在と言ってし まうと、存在論に回収されてしまうからダメで、 「別の仕方で」と言うしかないのです。  こうなると哲学はほとんど、詩が行おうとするよ うな、常識的な言葉遣いでは表現できないものを表 現するという領域に踏み込んでいます。ただ、それ はたんに曖昧なイメージ的なものではなく、確実に ひとつの論理によって導き出された、概念としての 表現なのです。通常の言葉の用法では表現できない 抽象性の概念なのです。ここが、哲学が数学とは違 う仕方で到達する独特の抽象性の世界です。厳密に 論理的に確定された概念なのだけれど、それを表現 するには言葉に無理をさせなければならないという ことがある。  というわけで、簡潔ですが、本書でのレヴィナス の紹介はこのくらいに留めます。 四原則の連携  今の三人の紹介によって、四つの原則が実際どの ように適用されるかがおおよそ理解できたでしよう か。こんなふうにまとめてみましよう。  @先行する議論は、安定的なものとして構造81を 示しているが、そこからは他者性Xが陰に陽に排除 されている。まずこのことに気づく。(他者性の原 則)  Aそこから、81は実は根本的な構造ではない、と いう問題提起へと向かう。81は根本的でなかったか らXを排除せざるをえなかったのである。そこで81 を条件づける構造82を考える。82においてようやく Xが肯定される。(超越論性の原則)  B81にとってXは従属的、付随的だった。だが今 や、Xが極端化され、Xこそが原理となるような82 を考え、それが81を条件づけると考えるのである。 82を定式化するために、慣例を破って新たな概念を つくることもある。(極端化の原則)  C82を前面に押し出すと、常識と齟齬をきたすよ うな帰結を生む。(反常識の原則) ポストーポスト構造主義への展開  ここから先はより現代的な展開について説明しま す。「ポストーポスト構造主義」と言えるような段 階です。代表的な二人として、カトリーヌーマラ ブー(一九五九〜)とカンタンーメイヤスー(一九六 七上を取り上げましよう。  ポスト構造主義は、諸々の二項対立を脱構築する 一方、同一性と差異というより大きな二項対立を設 定して、差異の側を支持するものでした。しかし、 この本で強調してきたのは、その同一性と差異の大 きな二項対立にもさらに脱構築がかけられていて、 必ずしも「差異バンザイ」なのではなく、差異と 「仮固定的な同一性」の共存が事実上問題にされて いるということです。ただ、そのように読まない人 もいます。どちらかというと「差異バンザイだった からダメなんだ」というような批判をする人もいる のです。  ニー世紀に入ってからの、西洋におけるポストー ポスト構造主義の展開は、ポスト構造主義的な同一 性と差異の二項対立をさらに脱構築するというかた ちで展開していくものだと言えるでしょう。だけれ ど、僕の考えでは、日本現代思想には先駆的にそう した問題意識があって、独自の展開を遂げていまし た。ただ、西洋の人たちはその文脈を知りませんし、 それとは別にさらなる脱構築を進めているというこ とになります。 マラブーー形態の可塑性  この言い方には反感を持つ方もいるかもしれませ んが、ポストーポスト構造主義の段階を説明するに は、やはり「逆張り」という言葉が便利です。これ までの現代思想で是とされてきた「差異の方へ」と いう方向づけに対して、逆張りをする。つまり、同 一性の側に何らかの肯定的な意味を持たせるという ことです。ただし、それは差異が重要ではないと言 いたいのではなく、差異の思考をより押し進めるた めにこそ同一性の側にもう一度注意を向けるという 展開をとるのです。  その図式が一番明確に出ているのがマラブーで しょう。マラブーはデリダの指導によってヘーゲル に関する博士論文を書いた人で、マラブーにとって の主な先行議論はデリダです。デリダにおける、す べてはエクリチュール的であり、ズレ続けており、 差異の運動である、ということが前提であり、それ に対して、むしろ同一性を持つもの、マラブーの場 合それを「形態」(フォルム)と言うのですが、形態 の概念を改めて重視する必要がある、というふうに 逆張りをするのです。  これは僕の解釈では、同一性の側にちょっと揺り 戻しをかけるということだと思います。ただ、だか らといって同一性こそが大事だというわけではなく、 「形態を持ちつつの変化」を言おうとするのです。  マラブーは、それこそがデリダやドゥルーズの世 代の議論よりも根本的な超越論的構造である、とい うふうに議論を展開します。そしてそこで「すべて は仮固定的に形態を持ちながらも差異化し変化して いく」というようなタイプの差異概念を提出するこ とになり、それを「可塑性」(プラスティシテ ーl・ぼ)と呼ぶことになります。可塑性の概念に ついては、『わたしたちの脳をどうするかI ユユーロサイエンスとグローバル資本主義』(二〇 〇四)がわかりやすいと思います。他の著作でもこ の概念がつねに念頭に置かれています。  本書全体を通して、同一性と差異の大きな二項対 立自体の脱構築ということで、「仮固定的な」とい う言い方をうまく使おうとしたわけですが、それは もともと僕の体質的な発想であると同時に、マラ ブーさんから学んだ面があると思います。というの は、僕はパリに留学してマラブーさんに師事したか らです(パリ第十大学)。本書は、多少マラブー的な 筋で全体的に説明しているところがあるかもしれま せん。 メイヤスーー絶対的な実在とその変化可能性  次にメイヤスーです。  メイヤスーについては次の章で改めて詳しく説明 しようと思いますが、メイヤスーの場合もマラブー 同様、すべてはエクリチュール的であり、差異であ るというポスト構造主義の前提を相手取って、そこ からの新たな展開を試みている哲学者です。そのと き、マラブーの場合には、可塑的な形態という、一 種の「柔らかさの原理」を出してくるわけですが、 メイヤスーの場合は、これまでの議論では考えられ てこなかったような、より徹底的な同一性に向かう、 という明らかな逆張りの立論なのです。  メイヤスーの場合、排除されていたものとは、人 間の解釈に左右されないただ端的に同一的に存在し ている物自体としての実在です。その意味を人間が どう考えるかとまったく無関係に、ただそうあるよ うにある存在。ハイデガーにおける存在もやはり人 間の意味理解との関係で問われていたところがあり ますが(詳細は略しますが)、それよりもさらにドラ イに残酷に切り離された端的な存在というのを言お うとするのがメイヤスーです。  それで、説明を端折りますが、そのような絶対的 に同一的な実在を考えると、それはまったく無意味 にただあるだけであって、なぜそのように存在して いるかという理由がまったくないもの、ということ になる。理由なしに存在する、というのは偶然的だ ということです。絶対的な実在は絶対的であるから こそ偶然的であり、ならば、そのままのあり方で存 在し続ける必然性はない。端的な実在は、ただの偶 然で、いつでもまったく別のものに変化するかもし れない、という帰結に至るのです。  これがメイヤスーの主著『有限性の後で』(二〇 〇六)において言われていることなのですが、この 図式だけで言うと、興味深いのは、すべては差異だ という議論に対する逆張りとして絶対的同一性を持 ち出すとき、その絶対的同一性を本当に絶対的に非 人間的なものとして考えるがゆえに、同一的であり ながら突然まったく別のものに変化するかもしれな いという帰結になり、差異の哲学の新たな徹底とい う様相を呈するところです。  ですからメイヤスーの道行きは、ポスト構造主義 の流れに反しているものでは全然ないのです。むし ろポスト構造主義の前提に強烈な逆張りをかけるこ とによって、ポスト構造主義のある種滑稽な反転像 のようなものを打ち出しているのです。  今挙げたマラブー、メイヤスーという二人の例は、 先はどの四原則によって成り立っていたポスト構造 主義の議論に対し、再び四原則を徹底的に適用する ことによって、新たな段階を生み出すものだと捉え られます。  このように本章では、とにかく肉をすべて取り 払って骨格だけで現代思想のつくり方を説明してみ ました。これを応用することによって、何か新たな 視点をつくることができるかもしれません。  補足すると、現代思想の研究では、自分自身が新 たなメイヤスーになるようなことをする人はなかな かおらず、デリダなリレヴィナスなりのテクストの 意味を再解釈するというのが通常です。ただそのと きも、この図式に近いアプローチで研究がなされて います。  先ほど少し言いましたが、レヴィナスはとにかく 他者の哲学だと言われるわけですが、それに対して むしろそうではない部分、つまりある種の同一性の 問題に注目する部分に光を当ててみるというような 逆張り的なアプローチが可能です。  また、ドゥルーズに関しては、すべては差異であ リ、その差異がリゾーム的につながっているという ことが広く言われたわけですが、それに対し、より 差異を徹底的に考えるならば「切断」や「無関係」 が問題になる、というのが僕の『動きすぎてはいけ ない』での立論でした。それもこれまでのドゥルー ズ像に対して先はどの四原則を適用することで、別 のドゥルーズ像を打ち出すというアプローチなので す(とはいえ、この四原則は後で整理したわけで、当初 それを使って研究計画を立てたわけではありません)。 第七章 ポストーポスト構造主義 ニー世紀における現代思想  最後に、ニー世紀に入ってから二〇一〇年代まで の展開について、一章を設けたいと思います。  ドゥルーズが亡くなっだのが一九九五年、その後 デリダは二〇〇四年に亡くなりましたが、デリダの 死をもってフランス現代思想の黄金時代は幕を閉じ たと言ってよいのではないかと思います。それ以後、 次世代の時代になりました。デリダの弟子であるマ ラブーはその一人ですが、なかでも有名になっだの はメイヤスーで、その主著『有限性の後で』はニー 世紀のフランス現代思想で最も議論を呼んでいる著 作だろうと思います。  もう少し状況を説明すると、デリダ、ドゥルーズ らと同世代でありながら、後になって再評価され、 改めて読まれるようになった人たちもいます。  一人はアラン≒ハディウ(一九三七〜)です。バ ディウはとくにドゥルーズに対決姿勢をとり、この 本で紹介したフランス現代思想の面々に対しては斜 めに構える立ち位置だったのですが、数学の哲学と マルクス主義にもとづく独特の仕事が改めて注目さ れています。主著は『存在と出来事』(一九八八)と いう、集合論をペースにして存在論とそこからの逸 脱−レヴイナス的に言えば、全体性を囲い込む存 在論とその外部の他者性−を論じるものです。こ れは最近ようやく邦訳が出されました。  他には、フランソワーラリュエル(一九三七〜) やジヤツクーランシエール(一九四〇〜)などです。 ランシエールもバデイウのように左翼の哲学者。ラ リュエルは凝った文体を駆使して、「非哲学」(口呂‐ ly召可)なるものを掲げた人です。この後、ラ リュエルの非哲学も紹介しましよう。その論理は日 本での否定神学批判に似ているのです。  ただ、やや皮肉な言い方をすれば、がってのスー パースターの陰に隠れていた人たちを引っ張り出し ているわけで、それはフランス現代思想の研究業界 を延命するためであって、多少いかがなものかとい う感じはしますが。  ついでに言えば、今日の大学では、ドゥルーズや デリダといった、かつてはアカデミズムからはみ出 して「これは学問なのか」と人を当惑させるような 最前線を切り開いていた人たちがすっかり古典化さ れてしまいました。デリダやドゥルーズをいかに 「正しく」読むかという再アカデミズム化か大いに 進行し、彼らを主題にした博士論文がごく真面目に 書かれるようになっています。それがはたして現代 思想の受け止め方、引き継ぎ方としてよいのかどう かは疑問なしとはしません。 思弁的実在論の登場  さて、ニー世紀にはひとつ大きなムーブメントが 起きました。それは「思弁的実在論」(Speculative Realism)というものです。その火つけ役がメイヤ スーの『有限性の後で』で、フランスでの出版が二 〇〇六年(デリダの死後ですね)、英訳が二〇〇八年 に出ています。英語圈で爆発的に読まれたことが大 きかった。  メイヤスー、レイーブラシエ、イアンーハミルト ンーグラント、グレアムーハーマンという四人が、 二〇〇七年にロンドン大学ゴールドスミスーカレッ ジで「思弁的実在論」と題したワークショップを開 き、それによってポスト構造主義以後のひとつの方 向づけが示されることとなりました。  四人の仕事は異なりますが、思弁的実在論という ものは大きく言えば、人間による意味づけとは関係 なく、ただ端的にそれ自体として存在している事物 の方へ向かう、という方向づけです。意味よりも、 それ自体としてあるものを問題にする新種の実在論 が登場した。  その代表者がメイヤスーであることはすでに述べ ましたが、もうひとつ、「オブジェクト指向存在論」 (Object Oriented On巨O?OOO)と呼ばれる潮流をつ くったのがハーマンです。ハーマンは、あらゆる存 在者Hオブジェクトは根本的にパラパラであり、絶 対的に無関係に存在していて、関係は二次的なもの であるという主張をしています。 意味づけの外にある客観性  メイヤスーに関しては前章で大枠を示しましたが、 改めて説明しましよう。  メイヤスーは、人間がどう意味づけるかに関係な く、ただ端的に存在している事物があり、そしてそ れは一義的に何であるかを言える、つまり、唯一の 真理として「これはこういうものだ」と言える、と いう主張をします。このとき、メイヤスーは数学を 持ち出すことになります。数理的思考こそが、事物 が何であるかを直接に言えるのだ、というのです。 このように数学を持ち出すことが妥当かどうかは本 書の範囲を超えますので、ここではメイヤスーはそ う論じているのだというだけに留めさせてください。  自然言語(日本語や英語など通常の言語)による意 味づけの外にあるような客観性は、数学的なもので ある。  このようなメイヤスーのポジションを現代思想の 展開のなかで捉え直してみましよう。先はどから出 ている言葉ですが、「意味づけ」というのがキー ワードです。  デリダ、ドゥルーズ、フーコーにおいて共通して 問題とされているのは、「これが正しい意味だ」と 確定できず、つねに視点のとり方によって意味づけ が変動するという、意味の決定不可能性、あるいは 相対性です。  ただし、これが言わんとするのは、決定不可能だ から何も言えないということではなく、「物事は複 雑だ」ということです。多義的、両義的だというこ とです。  たとえばフーコーだったら、誰かが一方的に支配 を受けているのではなく、むしろ被支配者が支配に 加担している面があり、だから単純にどちらが悪い とも言いきれないような力学が複雑にある、という ふうに、現実の複雑さを言っているのです。これは、 どっちもどっちだから「どちらも悪くない」という ことではありません。  ただ、こういう現代思想の傾向は単純化され、素 朴な相対主義として捉えられることがよくあります。 「物事はどうにでも捉えられる」とか、「そういう立 場をとっていると歴史修正主義になる」とか、「「ポ ストートゥルース」と言われるような勝手な事実認 識の押しつけや陰謀論を許容することになるのでは ないか」と言われたりするのです。  確かに現代思想は、そういった現代の困った現象 を一刀両断に批判するものではありません。そうで はなく、人間の思考・言語には、たとえば陰謀論に も至るような可能性がそもそもあるということをま ず冷静に認めることから始めなければならないので す。だから「そういうものはよくないからなくしま しよう」と単純には言えません。  人間はそもそも精神分析的に言っても「過剰」な 存在であって、一定の意味の枠組みを離れて物事を 別様に意味づけようとする傾向があるので、それが 突拍子もないような妄想に展開することは人間の基 本設定としてありうるわけです。 実在それ自体の相対主義  「人間は過剰である」という人間像が現代思想にお いてデフォルトなのだけれど、それに対して一部の 常識的な批判者が、「ファクトが大事だ」、「どうに でも解釈できるのではない揺るがぬ客観的事実があ る」という批判を向けるようになっています。そし てこれらと同時代的な、似たような批判として、メ イヤスーらの実在論がある。  しかし、メイヤスーの議論はそういった「常識的 に考えて歴史的事実はちゃんとある」というような 話よりもっと深いところまで到達しています。  揺るぎない客観性は数学的だとされるわけですが、 メイヤスーの場合は、事物を数学的に記述すれば世 界の真理がわかるという話には留まりません。前章 で述べたように、メイヤスーによれば、この世界が このようにある、ということには必然性がなく、世 界はたまたま、偶然的にこうなっているのであって、 だから世界は突然別ものに変わるかもしれない。客 観的世界は根本的な偶然性の下にある、という主張 にまで進むのです。その極論によって初めて、世界 がただ単なる事実としてある、ということが深く捉 えられる。  この世界がこうであるということに必然性がある なら、世界には隠された存在理由があることになり ますが、それ(「充足理由」と言います)をメイヤ スーは消去し、完全に乾き切った「ただあるだけ」 のこの世界を捉えるのです。そしてそれこそが自然 科学的世界像を根本的に正当化する哲学的態度であ る、と考えるのです。  世界の意味を言おうとするのではなく、世界の今 そうである限りでの設計をただ記述するのが数理で ある。かつ、記述される世界は何らそれを保証する 根源的意味がなく、いつ何時、まったく別のあり方 に変化してしまってもおかしくない。  自然科学の徹底的なドライさをちゃんと認めよう とするがゆえに、世界の(自然法則のレベルでの)変 化可能性という突拍子もない主張を同時に認めるよ う求めるのがメイヤスーの面白いところです。この 意味でメイヤスーは反常識的なのです。  フランス現代思想、あるいは悪い意味でのポスト モダン思想は、「物事は相対的で、どうにでも言え ると言っているから陰謀論を招き寄せてしまう。だ から客観的事実をちゃんと追求しよう」などと言わ れるわけですが、メイヤスーにおいては、「確かに 客観的事実というものはあるのだが、客観的事実の 客観性を突き詰めるならば、客観的事実は根本的に 偶然的なものであり、いくらでも変化しうる」とい う、より高次の、実在それ自体に及ぶ相対主義のよ うなものが出てくることになります。  現代思想では、物事の意味をひとつに固定せず、 意味が逸脱し多様化することを論じるわけですが、 それはメイヤスーにおいてさらに実在のレベルで徹 底されているのです。メイヤスーは、ポスト構造主 義の相対主義に対する逆張りによって、かえってよ り深い相対主義を提示している、とも言えるでしよ 内在性の徹底−(Iマン、ラリュエル  他方、意味づけを逃れる「それ自体」を、個々バ ラバラのオブジェクトというあり方で言おうとする のが、ハーマンのオブジェクト指向存在論です。日 本語では、『四方対象』(二〇一〇)でその立場を知 ることができます。  ハーマンによれば、事物はひとつひとつ絶対的に 孤独であり、それ自体に引きこもっている=退隠し ている。それが本来の、第一次的なもののあり方で、 関係というのは二次的で、現象的なものである。哲 学では、それ自体の内にあるということを「内在 性」と言いますが、ハーマンは、オブジェクトひと つひとつの内在性を徹底するのです。人間も、犬で も洗濯機でも、ひとつひとつが他からアクセスでき ない孤独な闇なのです。世界は闇だらけ。一面闇な のではなく、複数の異質な闇だらけなのです。これ はいくらかレヴイナス的でもあると思います。  それ自体であること=客観性へと向かうことが、 世界はいつ変化するかわからないという主張になる メイヤスーの場合は時間的ですが、それに対しハー マンは、同時的に複数の引きこもったオブジェクト が散在している、という空間的な話になっている。 あるいは、メイヤスーは垂直的、ハーマンは水平的、 とも言えるでしょう。  ここでもう一人の人物を挙げたいと思います。最 近再評価されているラリュエルです。  ラリュエルは「非哲学」というプロジェクトを一 九八〇−九〇年代に展開しました。非哲学とは何か。 それは、これまでの哲学すべてに対して外部的であ ろうとする理論です。自然科学とも違います。独特 の抽象理論です(ラリュエル白身は非哲学を「科学」 と呼んでいるのですが、それは経験科学ではなく、いわ ば「思弁科学」でしょう)。  以下の主張がなされている著作は、まだ日本語訳 がありません。フランス語および英語のPhilosophie et non-philosophie(『哲学と非哲学』、一九八九)など を参照して説明します。  ラリュエルは、哲学は「実在」を捉え損なってい ると考えました。実在、それをラリュエルは二 者」と呼びます。哲学は、一者=実在を捉えようと するのだが捉え損ねる。そのとき、無限遠点として のXが想定され、それは「物自体」だったり「存在 それ自体」だったりするわけだが、この「捉えよう とするのだが捉え損ねる」という構造の外に、その Xとは区別されたものとして「一者」を置くのがラ リユエルの独自性なのです。  すぐさま言えば、これは囗本の観点から見れば、 否定神学批判です。哲学はつねに否定神学的Xを必 要としてきたのだが、そういうものとしての哲学全 体の外にみずからを位置づけるのがラリユエル、ノ ンフイロソフアーなのです。  ちょっと上級編のコメント。古代ギリシア以来、 「存在」と「一者」の関係づけはいろいろ議論に なってきたのですが、二つを切り離すのがポイント。 ラリュエル的には、「存在論」より二者論」が先 に立つ、というわけです。  一者とは実在であり、ただそれ自体に内在的であ るとされます。  従来の哲学者は、内在を、超越との対立において 語っているが、ラリュエルは「あらゆる二項対立の 外部」という意味で、自分は絶対的な内在性を考え ているのだ、と主張します。ラリュエルの一者は、 内在匹超越よりも手前にある。  ラリュエルは、哲学というものを、二項対立の組 み合わせによって物事を論理的に意味づけることだ と見ています(これはデリダと共通ですね)。そして その外部に、ただただ内在的で、論理から逃れる一 者=実在を置く。一者=実在とは、「秘密」なのだ とも言われます。  しかし結局、ラリュエルはまた大きな二項対立を つくっているのではないでしようか? 次のような 区別が導入されます。哲学的な二項対立、二元論は dualismと呼ばれ、それとは区別して、哲学全体と その外部の一者との対立は{冨汢巴と呼ばれます。  うIん、どうでしよう。これは結局「哲学」なの では……冫・  ここにも、第六章での「現代思想のつくり方」の 分析を適用できます。先の原則をラリュエルに適用 してみましよう(四番目は省略します)。  @他者性の原則 ラリュエルは、哲学全体が二項 対立によって一者=実在という他者性を排除してい る、と考える。  A超越論性の原則 二項対立に依拠する哲学全体 に対し、それを条件づける新たな超越論的レベルと して一者=実在を置く。  B極端化の原則 一者=実在は徹底的に内在的で あり、そのことを理論化するのは、哲学の外部に出 ることだから「非哲学」なのだ、とまで極端に言う。 それを表現するために、二項対立から逃走するよう な文体を開発する(ゆえにラリュエルの文章はかなり 読みにくい)。また、その内在性は「秘密」と言い換 えられる。  この図式にきれいに収まっていると思います。  ともかく、二項対立による意味づけの外部を形式 的にピュアに考えようとしたという点で、ラリュエ ルの仕事は思弁的実在論の先駆と言えると思います。 メイヤスーの場合の、それ自体として偶然的にある だけの世界、その「それ自体」というステータスは ラリュエル的内在性であり、まさに「秘密」だと言 えるでしょうし、ハーマンにおける互いに無関係な オブジェクトについても同様に言えるでしょう。 複数性の問題と日本現代思想  ここでデリダに戻ってみます。  一方で、二項対立を組み立てることでひとつの意 味を固定しようとするのが常識的思考です。たとえ ば「大人は優柔不断であってはいけない」といった もの。そこでは暗に子供的なあり方や、決断が揺ら ぐことが排除されています。そこに揺さぶりをかけ ると、「いや、別に優柔不断でもいい」、「必ずしも 強い決断をすることがプラスとは限らない」といっ たことが出てくる。そういう揺さぶりをかけるのが 脱構築的思考なのでした。  思考は二項対立を操作しますが、結局、物事は絶 対的には捉えきれないので、つねに我々はそれ以外 にない結論には達することができず、空回りのよう に議論を続けることになります。このとき、意味づ け=解釈が多様でありうるために、我々はつねに捉 えられないXの周りをめぐり続けている、という描 像が浮上してきます。  つまり、第五章で説明した否定神学的Xですね。 人間の思考は二項対立をいろいろ使って、否定神学 的Xの周りをめぐり、それを捉え損ない続けている という、コミュニケーションの実態が浮かんできま す。デリダはそのように、つねに誤解されズレ続け るものとしてコミュニケーションを捉えていました。  デリダや、一時期のドゥルーズもそうなのですが、 そのように否定神学的Xをめぐって意味づけが失敗 し続けるということ自体を図式的に取り出しだのが 現代思想の重要な仕事なのです。それに対しメイヤ スーは、「いや、一義的な意味づけは可能であって、 それは数学によって可能なのだ」と、次なる一歩を 踏み出すことになります。メイヤスーが行っている ことも一種の否定神学批判だと見ることができます。  現代思想には、六〇年代後半に否定神学システム が意識される段階があり、その後、ひとつのXをめ ぐるのではなく、より分散的で複数的に諸関係を展 開していくという向きに、デリダやドゥルーズは議 論を展開することになりました。  繰り返すならば、ひとつのXをめぐる空回りを人 間の運命として最も強く言ったのはラカンです。現 代思想において、ラカンは否定神学的思考の王であ ると言える。捉えられない何かを捉えようとすると いうのは、発達論的には、母親が自分のもとからい なくなってしまうという根源的な欠如を埋めようと することです。それに対し、親子関係にすべてを集 約するのではなく、より広大な社会や事物との関係 へと思考を開いていこうとしたのがドゥルーズ十ガ タリなのでした。デリダもドゥルーズ十ガタリも、 ラカンに対してどう距離をとるかが大きな課題で、 ひとつの欠如をめぐって意味作用が展開するという のではない方向に向かいました。東浩紀の『存在論 的、郵便的』はそのことを明確化しています。そし て東は、単数の否定神学的Xから「複数的な超越論 性」へ向かう、という方向づけを示しました。  ここで「超越論性」という概念は、人間のあり方 を条件づける抽象的なレベルという意味で、それが 単数の欠如なのかIひとつの穴をめぐって人生が 展開されるI、そうではなく複数的なものなのか、 ということです。では、複数的なものというのをど う考えるべきかというのは、開かれた問題だと思い ます。  他方で、メイヤスーやマラブーは、デリダやドゥ ルーズがラカン批判を通して複数的なものを問題に したということを重視していません。複数性への着 目は、日本現代思想に特徴的なことです。フランス における新世代は、デリダやドゥルーズを否定神学 システムに寄せて捉え、複数性が言われる文脈もそ こに含めてしまい、それに対して自分独自の新たな 外部性を提示する、というかたちになっていると思 います。 有限性の後での新たな有限性  そうすると、日本現代思想における複数性という 論点と、思弁的実在論における解釈の相対性を超え た実在という話はつながりうるのか、という問いが 出てきます。これはひじように難しい問いです。そ れに直接答えられるかどうかはともかく、最後にも う一段話を展開してみたいと思います。  メイヤスーの本は『有限性の後で』というタイト ルですが、そこで言われている有限性というのは、 フーコーが『言葉と物』で問題にした近代的有限性 であり、ということは、東が言うところの否定神学 システムです。すなわち、人間は神に比べてできる ことに限度があるという意味ではなく、人間は、本 質的に捉えきれない何か=否定神学的Xをめぐって 翻弄され続けるという意味での有限性です。その上 でメイヤスーは、数学によって、事物を客観的に捉 えられると言った。Xをめぐる思考の空回り、それ は、意味づけの無限化を運命づけられるという有限 性であり、メイヤスーが言おうとしているのは、そ うした有限性からの脱却です。すなわち、一定の事 実認識が成立するということですが、その事実自体 がいくらでも変化しうるというかたちで新たな無限 性が提示される。  ここで僕が論じたいのは、近代的有限性の後に再 登場するもうひとつの有限性です。  再びフーコーに登場してもらいましよう。フー コーはなぜ古代に回帰したのか。  第三章で説明したように、『性の歴史W』によれ ば、アウグスティヌスが人間の心に解消しきれない 罪責感をインストールすることで無限に反省を強い られる主体を定立したのでした。この罪責感、つま り原罪とは、まさしく否定神学的Xです。キリスト 教の主体化は、まさしく否定神学的主体化です。そ こでフーコーは、それ以前の、言ってみれば無限に は反省しなかった時代の人たちに一種の可能性を見 ることになる。  セネカのようなローマの賢人たちは、何か過ちを 犯してもそれを根源的な罪としては捉えず、一日の 終わりに日記を書いて反省して、「もうやらないよ うにしよう」と自分に言うだけだった。フーコーは 『性の歴史W』で次のように書いています。 それは、彼が毎晩、ひとたびすべての明かりが消 えた後で、眠りにつく前に行う検討である。ここ で問題となるのは、その日一日の調査を、起こっ たことの全体を「精査」しつつ行うことである。 彼は、自分の行為と自分の言葉をとり上げ直し、 それらに評価を下す。(……)しかし、そうした 調査が、断罪や罰へと導くわけではないことに注 目する必要がある。懲罰もなければ悔恨さえもな い。したがって畏れもなく、何であろうと自己自 身に対して隠すことを望んでもいない。実際、自 分を検討する者は、自分に対してただ単に次のよ うに言うだけである。「私は今、君を許す」、「二 度と繰り返さぬよう気をつけよ」、と。つまり、 モデルとなっているのはおそらく、司法というよ りもむしろ行政なのだ。テクストに潜むイメージ は、法廷よりもむしろ監査を思わせる。精査、検 討、探知、再評価がなされるのである。    (フーコー『性の歴史W 肉の告白』フレデリツ    クーグロ編、慎改康之訳、新潮社、二〇二〇年。    一五八−一五九頁)  こうしたローマの思想については『主体の解釈 学』(二〇〇コというコレージュードーフランス講 義で集中的に論じられていて、大変面白いのでぜひ 参照してみてください。  ここに興味深い有限性があると思うのです。法的 なものではなく、行政的であり監査的であるとされ る反省の形態は、無限に深まって泥沼になることが ない。そのような意味での無限批判がここにはある。 すなわち、謎のXを突き詰めず、生活のなかでタス クがひとつひとつ完了していくというそんなイメー ジの、淡々とした有限性です。主体とはまず行動の 主体なのであって、アイデンティティに悩む者では ないのです。 複数的な問題に有限に取り組む  フーコーが示すこのような古代的あり方を、僕は、 否定神学システムから複数性の方へと向かうとはど ういうことかの解釈として捉えています。  日々我々は問題解決を行っているわけですが、そ れは何か巨大な、運命的な謎なのではなく、その都 度のアドホックな「問題」です。ここで言葉選びが 悩ましいところなのですが、仮に「問題」と言おう と思います。問題というキーワードはドゥルーズも 『差異と反復』において重視しているもので、ドゥ ルーズが肯定するような生成変化し続ける人生も、 つねに問題と出会い続ける過程として捉えられてい ます。  問題は、複数的なのです。  ここで重要なのは、諸々の問題は必ずしもひとつ につながるわけではない、ということです。もちろ ん関連する問題はあるけれど、すべての問題がつな がってダマになってしまうとき、人は途方もないア イデンティティの悩みで閉塞状態に陥り、何もでき なくなってしまう。問題は分割してI個一個解決し なければならないというのはデカルトも言うところ ですが、まさにその巨大な謎、巨悪が立ち上がらな いように、個別に物事にアプローチするということ こそが、複数性へという方向づけの意味なのではな いでしようか。  単数の否定神学的なXへと集約せずに、複数的な 問題にひとつひとつ有限に取り組むことになる。以 上のようにフーコーを援用して考えるなら、このよ うな有限性はポストモダンであるというより、近代 的有限性よりも手前の、古代的なものです。あるい はそれでもポストモダンという言葉を使うなら、い わば「古代的ポストモダン」なのです。 世俗性の新たな深さ  僕は『ライティングの哲学』などで、ある種の夕 スク処理や仕事の哲学を語っています。それは、神 経症的な完璧主義にがんじ搦めになって仕事が進ま ないのをどうするかという話なのですが、大げさに 言えば、これは近代的有限性、あるいは否定神学的 な心のあり方をどうするかという問題なのです。必 要なのは、個別の問題に向き合うことです。『ライ ティングの哲学』では、アウトラインープロセッサ による箇条書きでどんどん切断的に思いつくことを 書いていって、全体を統合しようとせず部分部分で 物事に対応していく、といったライフパックを説明 しています。これは一例にすぎず、これがベストだ というわけではありませんが、僕ならばこうした方 法で古代的ポストモダンを生活に実装しようとして きたわけです。  これはひじように世俗的な話です。できる限り悩 まないというわけですから。  どうしようもなく悩むことが深い生き方であるか のような人間観が近代によって成立し、それがさま ざまな芸術を生み出したわけですが、そこから距離 をとり、世俗的に物事に取り組んでいくことは、人 間が平板になってしまうことなのでしょうか? そ うではありません。むしろそのような世俗性にこそ、 巨大な悩みを抱えるのではない別の人生の深さ、喜 劇的と言えるだろう深さがあるのではないでしょう か。  問題に取り組むというのは、ただ解釈をこねくり 回しているのではなく、実際にアクションをし、ほ んの少しでも世界を動かそうとすることです。そこ で動いているのは何か。思考だけではありません。 身体が、事物が、物質が動いているのです。個々の 問題にはもちろん困難なものがあり、それはストレ スを強いるわけですが、その苦しみを無限の悩みか ら区別する。  そういう意味において、メイヤスーが示した、無 限の解釈ではなく事物それ自体へという方向性は、 僕がフーコーから抽出した、古代的な=オルタナ ティブな有限性を生きるという生き方と関係してき ます。  オルタナティブな有限性とは、行動の有限性、身 体の有限性に他なりません。  こうして、ただそれ自体であるものへと向かうポ ストーポスト構造主義の議論は、複数的なものへと 向かう日本現代思想と合流することになります。  ひとつの身体が実在する。そのことに深い意味は ないIメイヤスーの絶対的偶然性の哲学は、おの れの謎=Xをめぐるアウグスティヌス的無限反省の その手前へ、というフーコーの方向性と密かに共鳴 している。メイヤスー的に言えば、この身体はいつ まったく別のものになるかもわかりません。古代中 国で荘子が夢に見たように蝶になるかもしれない。 身体は故障するし、病むし、老いていき、いつか崩 壊して他の物質と混じり合う。メイヤスーはその生 成変化よりもラディカルに、突然蝶になったってお かしくないとまで考えた(そのときには、今の世界か ら、私か蝶であるような世界へと、世界全休が変化する)。 そうだとしても、というかだからこそ、今ここを生 きるしかないのです。私かこのようであることの必 然性を求め、それを正当化する物語をいくらひねり 出してもキリがありません。今ここで、何をするか です。今ここで、身体=脳が、どう動くかなのです。  身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、 無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り 組むことである。  世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。  底なし沼のような奥行きではない別の深さがある。 それは世俗性の新たな深さであり、今ここに内在す ることの深さです。そのとき世界は、近代的有限性 から見たときとは異なる、別種の謎を獲得するので す。我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく 晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。 付録 現代思想の読み方 読書はすべて不完全である  本章は、付録として、「いかにも現代思想的 な文章」をどのように読むか、そのコツをレク チャーしたいと思います。  専門家の立場としては、現代思想の細やかな レトリック(文章の技法)を楽しみ、深く読め るようになってほしいのですが、でもそれより、 徹底的にハードルを下げることが最優先だと思 います。  細かいところは飛ばす。一冊を最後まで通読 しなくてもいい。読書というのは、必ずしも通 読ではありません。哲学書を一回通読して理解 するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗 りするように、「欠け」がある読みを何度も 行って理解を厚くしていきます。プ囗もそう やって読んできました。  そもそも、一冊の本を完璧に読むなどという ことはありません。改めて考えてみると「本を 読んだ」という経験は、実に不完全なものであ ると気づきます。たとえ最後まで通読しても、 細部に至るまで覚えている人はいません。強く 言えば、大部分を忘れてしまっていると言って も過言ではない。どんな本でしたかと言われて、 思い出して言えるのは大きな「骨組み」であり、 あるいは印象に残った細部です。これはプロで も同じことです。不完全な読書であっても読書 である、というか、読書はすべて不完全なので す。こうしたことが、ピエールーバイヤール 『読んでいない本について堂々と語る方法』(ち くま学芸文庫)で真面目に論じられているので、 ぜひ読んでみてください。  また、たくさん本を読まなければならないと いうプレッシャーから、速読に憧れるかもしれ ませんが、速読法は意味がないと思っていいで す。自分に無理のないスピードで読書の経験を 積んでいくことで、読むのは自然と速くなるの です。超人的なスピードにはなりません。月に 何百冊などと豪語するものがありますが、あり えません。ありえないというか、その冊数は飛 ばし読みだということで、ポイントだけつまみ 食いするのなら百冊も可能かもしれない。です が、ある程度ちゃんと読むなら、人間の生物的 限界としてそれは無理だと思ってください。 現代思想を読むための四つのポイント  というわけで、現代思想をどう読むかですが、 いくつかポイントがあります。  @概念の二項対立を意識する。  A固有名詞や豆知識的なものは無視して読み、 必要なら後で調べる。  B「格調高い」レトリックに振り回されない。  C原典はフランス語、西洋の言語だというこ とで、英語と似たものだとして文法構造を多少 意識する。  今回はとりあえずこの四つを挙げたいと思い ます。 原文の構造を英語だと思って推測する  まず、大前提の問題であるCから説明させて ください。  大前提として、フランス現代思想の文章は本 来フランス語です。僕のような研究者はフラン ス語を学んでおり、原文が文法的にどうなって いるかを日本語の翻訳文から透かし見ることが できるため、「この訳し方はどうもな」とか思 いながら、オリジナルを予測し、「予測的な訳 し直し」をしながら読むことができます。  のっけからハードルを上げてしまうようで恐 縮ですが、現代思想に限らず、翻訳ものを読む ときには言語の知識があるとひじように役立ち ます。翻訳された文章が読みにくい場合、それ は元の言語の特徴が出ている場合がある。なに やら難解そうなので深読みしたくなるような部 分でも、実はたんに「フランス語的な書き癖」 にすぎず、深い意味はない、ということが多々 あるのです。  フランス語を学ぶのは大変なわけですが、そ の必要はありません。日本で育った人なら英語 教育は受けています。フランス語の構造は英語 によく似ています(ドイツ語よりも英語に近い)。 英語と日本語の違いは、たとえば英語には必ず 主語と動詞があるとか、関係代名詞節があると か、そういうのはわかりますよね。フランス語 でも基本的にそうなっているので、原文の構造 を英語だと思って推測してください。  その上で、フランス語の特徴をひとつだけ 言っておきます。フランス語は、英語に比べて、 運用するために最小限必要な語彙の数がやや少 ないと言われています(また、英語とフランス語 よりも日本語の方が多い)。そのため、一単語の 多義性を駆使する傾向があるようです。どこか 抽象性が高いようなフランス語文のカッコよさ は、相対的に少ない語彙でいろんなことを言お うとするから生じる効果だと思われます。  かつ、哲学思想の文章は、日常的な文章より さらに語彙が限定されます。抽象的に見えるの は、深遠な内容だからというより、語彙の限定 のせいでそうなっている面もあるというのを 知っておくといくらか気楽になるかもしれませ ん。 レトリックに振り回されず、必要な情報だけを 取り出す  次にB、「格調高い」レトリックに振り回さ れない、ということ。まず今言ったことですが、 フランス語では大した内容でなくても語彙の抽 象性のせいで格調高く聞こえるときがあります。 なので、大きな方針として、もっと日本語的に 「俗っぽく」読んでしまおう、というスタンス で臨むとよいでしょう。  格調高いというのは「形式張っている」とい うこと。古典を意識した文章にはお決まりのレ トリックがいろいろあり、何を言うかより、ま ずその古臭い「力夕」があって、力夕にはめる かたちで言いたいことを出していく、というか 力夕にはめるために言いたいことをわざと大げ さに膨らませたり、大して本質的でないお飾り 的な文を増やしたりすることがあります。これ は「科学」とは大いに異なります。必要な情報 だけを伝えるのが科学的な文章ですが、人文系 の文章は古くは「弁論術」に由来し、人を説得 するための技術がいろいろ含まれた文章なので す。  弁論のレトリックとは、たとえば、言いたい ことを強く押し出すためにそれと対照的に何か をわざと否定してみせたり、雰囲気を盛り上げ るために同じことを違う言い方で繰り返した り……などです。人文系の本というのは、昔の ものになるほどそういう傾向が強いということ を知っておいてください。ですので、必要な情 報だけを「科学的」に取り出してしまう、とい う読み方をお勧めします。とはいえ、上級の読 み方としては、水増し的なレトリックにも深読 みすべきニュアンスがあったりするので、本当 はそこも無視はできないのですが(デリダのよ うな人は微細なレトリックを分析する読み手なので す)、初心者においては略して読んでしまって いいと思います。 固有名詞や豆知識を無視する  そしてA、固有名詞や豆知識的なものは無視 して読む。昔の知識人は、教養を自慢するみた いに固有名詞をあれこれ出しながら話を展開し ます。そういう知識を「当然、知ってますよ ね」という「教養の共同体」が前提になってい て、昔は、読書によってその暗黙の前提がプ レッシャーになり、もっといろいろ勉強しなけ れば、と思わせられたのです。しかし、初心者 においては、細かい固有名詞は無視してかまい ません。  重要なのは、主なストーリーと、それを補う サブの部分を区別して読むことです。いろいろ 固有名詞を出して複雑そうな話をしているとこ ろが大事なのではなく、たいがいそういう部分 はサブです。主なストーリーの方はシンプルな のです。 概念の二項対立を意識する  そして、一番大事なこと。それが@で、概念 の二項対立を意識することです。主なストー リーは二項対立で組み立てられています。枝葉 末節をあまり気にしないで、著者は対立するA の側とBの側にどういう言葉を割り振り、その 両側の関係をどう説明しているのかを捉えるの です。それが主なストーリーの読解です。  ここで補足ですが、本書は、デリダの思考法 である「二項対立の脱構築」を紹介し、ぜひ応 用してみようという話だったわけです。しかし、 読書をするときには、まずは二項対立の脱構築 はしないでください。著者が設定している二項 対立をただなぞる。概念の地図を描く。つまり、 読みながらツッコミを入れないということです。 途中でツツコミを入れ始めると、端的に言って、 読めません。たんにデータをまるごとダウン ロードするような意識で読んで、脱構築的な ツッコミをするならそれは後の段階です。これ は人の話を聞くときでもそうで、まずは、ただ 聞くのです。脱構築はその後。 ケースー ‥「なんかカッコつけてるな」  よろしいでしようか。以上がポイントです。 では、具体例を見ていきましよう。 まず、第二章で引用したドゥルーズの文章。 同一性は最初のものではないということ、同 一性はなるほど原理として存在するが、ただ し二次的な原理として、生成した原理として 存在するということ、要するに同一性は《異 なるもの》の回りをまわっているということ、 これこそが、差異にそれ本来の概念の可能性  を開いてやるコペルニクス的転回の本性なの  であって、この転回からすれば、差異は、あ  らかじめ同一的なものとして定立された概念  一般の支配下にとどまっているわけがないの  である。  これをどう読むか。 「同一性は最初のものではない」、これはまあ いいでしようね。「最初のもの」というのは、 たとえば「第ごとかに頭のなかで置き換えて しまうとスッキリします。「同一性が第一なの ではない」と。そして次の文は、こんなふうに 簡単にする。「同一性は確かに原理ではあるが、 二次的な原理であり、派生した原理である」。 ここの「生成した原理」には傍点が付いている こともあって、「生成って何よ?」と疑問が生 じるかもしれない。僕の考えでは、そんなに深 い意味はないです。たとえばここで、「むむ、 これはドゥルーズのいわゆる「生成変化」のこ とか?」とか思っちやったりするのがビギナー で、そういう深読みを始めると迷宮入りします。 ここでは、「生成した↓生じた」くらいだな、 「最初のものではない、生じた」ということは、 「後でできたもの」くらいだな、と読むべきな のです。「同一性とは後でできたもの、第一で はない=第二の、つまり二次的な、派生的な原 理である」というふうに読めることになります。  そして「要するに同一性は《異なるもの》の 回りをまわっている」ですが、こういうのは。 「ああ、なんかカッコつけてるな」という第一 印象を持つのが大事。ここでは「同一性」と 「異なるもの」(差異)という抽象概念を扱って いますが、抽象概念が抽象概念の「回りをまわ る」なんてことはないので、それは喩え的、イ メージ喚起的な表現であって、つまリレトリッ クだ、と理解すべきです。何かが中心にあり、 その「回りをまわって」いるというのは、後者 が二次的、派生的だということで、そういう主 従関係を言っているだけです。ですからここは、 「同一性は差異に従属している」と読めばよい のです。差異∇同一性、という主従関係で考え ることが、「差異にそれ本来の概念の可能性を 開いてやる」ことなのだ、と。  その後「コペルニクス的転回」というのが出 てきますが、これは哲学史の豆知識で、カント の哲学は「コペルニクス的転回」だと言われる のですが、そのことを知っていないとわかりま せん。「ああ、なんか豆知識だろうな」と思っ て飛ばしてください。ともかく、何かそれは 「転回」であって、考え方の転回? 考え方を 変えること? であって、そうすると「この転 回からすれば、差異は、あらかじめ同一的なも のとして定立された概念一般の支配下にとど まっているわけがない」というのが結論。  さてこの文はすごく硬質です。この部分には、 初心者向けの切り抜け方と、上級者向けのちや んとした理解のニパターンがあると思います。  初心者向けなら、まあ細かいことは抜きにし て、「差異は、同一性の支配にはとどまってい ない」くらいでまあいいや、にしてしまいま しよう。要するに、差異∇同一性だということ です。  しかし上級者なら、ここにはやや難しい思考 があることがわかる。この文を切り詰めると。 「差異は、概念一般の支配下にとどまっている わけがない」となります。言い換えるとこれは。 「差異は概念では捉えられない」ということで す。しかし条件があります。ここでの「概念」 には、「あらかじめ同一的なものとして定立さ れた」という条件が付いている。ひとつの同じ ものとして固定されたI「定立」は「固定」 くらいにしてしまいましようI概念では差異 は捉えられない、ということになる。しかし、 概念というのを「ひとつの同じものとして固 定」しないなら、そんな概念を思考することは できるだろうか? もはやそれは理性的な思考 の範囲外ではないのか? 差異は、概念的に 「差異とは何々だ」とは言えないものなのだ、 という話なのですが、ここでは、通常の概念的 思考の外部を思考する、という無茶に思えるこ とが要求されているのです。  ともかく、ここでの主なストーリーは、同一 性は二次的、派生的であり、差異∇同一性だ、 ということです。それがつかめれば十分です。  以上、ごく短い引用箇所ですが、けっこう読 み方をいろいろ言えるわけです。 ケース2 ‥「カマし」のレトリックにツッコま ない  別の例を挙げましよう。同じくドゥルーズで、 これは本書では挙げていませんが、『批評と臨 床』の第一章「文学と生」からの引用。  書くことは、生きられた素材にある形態(表  現の)を押しつけることではもちろんない。  文学とは、ゴンブロヴィッチが言いかつ実践  したように、むしろ不定形なるものの側、あ  るいは未完成の側にある。書くことは、つね  に未完成でつねにみずからを生み出しつつあ る生成変化にかかわる事柄であり、それはあ らゆる生き得るあるいは生きられた素材から 縊れ出す。それは一つのプロセス、つまり、 生き得るものと生きられたものを横断する 〈生〉の移行なのである。エクリチュールは 生成変化と分かち得ない。書くことによって、 人は女にIなり、動物あるいは植物にIなり、 分子にIなり、知覚し得ぬものにIなるに至る。   (ドゥルーズ『批評と臨床』守中高明・谷昌親    訳、河出文庫二言一〇年、匸一頁)  これは書き出しの部分で、この冒頭でいきな リゴンブロヴィッチという固有名詞が出てくる と構えてしまう人もいると思うのですが、これ も豆知識であり、サブの部分で、無視すればい いのです。簡単に書き換えてみましよう。  書くことは、人生で経験することに無理にか たちを押しつけることではない。文学とは、 不定形、かたちが定まらないもの、未完成な ものなのだ。書くことは、つねに未完成で、 起きている途中の生成変化に関わるのであり、 それはあらゆる素材から縊れ出す。それは一 つのプロセス、つまり、あらゆる経験を通り 抜ける「生の移行」なのである。エクリ チュール=書くことは生成変化である。書く ことによって、人は女にIなり、動物あるい  は植物にIなり、分子にIなり、知覚し得ぬも  のにIなる(ここでの「なる」というのは生成変  化のこと)。  だいたいこんな感じに読むことになります。 細かいことですが、最初の文に見られる「もち ろんない」の「もちろん」はただの強調で、こ こから話が始まるのにいきなり「もちろん」と 言われても前提を共有してないし、と思うかも しれませんが、こういうのはまあ、格調高い文 章によくある「カマし」のレトリックであって、 自分が主張したいことを「もちろん」とか「当 然」とか「他ならない」とか言うことに深い意 味はありません。そこにいちいちツッコまない のが大事です。で、次のゴンブロヴィッチは小 説家で、知っていればいろいろ連想するかもし れませんが、まあ無視。  「つねにみずからを生み出しつつある生成変 化」というのは、日本語では普通言わない「再 帰表現」です。英語だと「動詞O罵邑「」とい う形式で(これを中学高校の英語から推測できて ほしいのですが)、文字通りに読むと小難しく思 えますが、「それ自身が発生している途中」 ↓「起きている途中」という感じです。この部 分のように、日本語に翻訳された文ではありま すが、理解するにはやはり西洋語の文法感覚が ある程度必要です。  「生き得るあるいは生きられた」という表現で すが、こういう対になる表現(対句的表現)は、 格調高い、古典を意識した文章ではよく見られ るので、こういうものを難しく考えないのが大 事。「生き得る」の「得る」というのは、可能 性としてそれを生きることがあるかもしれない、 という意味で、可能性のことです。「生きられ た」は、可能性ではなく、現実に、実際に生き た、ということ。ですからここでの対は、可能 性/現実です。可能性と現実を合算したら、要 するに「全部」です。何かを生きるというのは 「経験する」ことで、ならば、言いたいのは 「あらゆる経験」ぐらいのことです。  主なストーリーは、だいたい次のような感じ です。  書くこと、文学とは、つねに未完成な生成変  化だ。それは生のプロセスである。書くこと  によって、人は女にIなり、動物あるいは植  物にIなり、分子にIなり、知覚し得ぬもの  にIなる。  ここにはひとつの文学観が出ていますね。完 成を目指さない文学。すべてが途中であり、プ ロセスをそのまま書いてしまう文学……という のは僕も影響を受けているのですが、この部分 だけでも、何かを書こうとするときにヒントに なると思います。もしゴンブロヴィッチが気に なるとしたら、以上のような理解の上で、その 作品を調べればいいのです。 ケース3‥お飾りを切り詰めて骨組みだけを 取り出す  さらに抽象度の高いものを見てみましよう。 抽象概念が連続で出てきたら、二項対立を意識 する。以下は『差異と反復』の結論部の冒頭で す。  差異は、表象=再現前化の諸要請に服従させ  られているかぎり、それ自身において思考さ  れていないし、それ自身において思考される  可能性もない。〈差異は「つねに」それらの  要請に服従させられていたのか、そうだとす  ればどのような理由で〉という疑問は、当然  注意深く検討してみるべきものである。しか し、純然たる齟齬するものたちが、わたした ちの表象=再現前化的な思考には近づくこと のできない或る神的な知性の天上の彼岸を、 あるいは非類似の《大洋》の、わたしたちに は測深できない手前にある冥府を形成してい るということも明らかである。いずれにせよ、 それ自身における差異は、その差異を思考さ れうるものに仕立てあげてしまうような、異 なるものと異なるものとのあらゆる関係を拒 絶するように思われる。まさしく思考されう るものへと、それ自身における差異が生成す るのは、飼い馴らされる場合、すなわち、表 象=再現前化の四重の首枷−概念における 同一性、述語における対立、判断における類 比、知覚における類似−に服従させられる 場合でしかないと思われる。フーコーがかく も鮮やかに指摘したように、表象=再現前化  の古典主義的世界が存在するのであれば、そ  の世界は、それの尺度となりそれの座標軸と  なるそれら四つの次元によって定義されるこ  とになる。    (ドゥルーズ『差異と反復』下、財津理訳、河    出文庫二言○七年、二四六−二四七頁)  いかがでしようか。これは『差異と反復』で は比較的難しくない方なのですが(とI河ってど うぉ感じになるかわかりませんが)、かなりお飾り が多く、言っていること自体はシンプルです。 要するにこうです。  差異は、表象=再現前化に服従されられてい  る状態では、それ自身において思考されてい  ない。表象=再現前化する思考の向こう側に、  それ自身における差異がある。差異が思考さ  れるのは、表象=再現前化の四つの条件に  よって縛られる場合だ。フーコーは「表象=  再現前化の古典主義的世界」を説明した。  ここで重要なのは、差異それ自身匹表象=再 現前化という二項対立が設定されていることで、 この後出てくる語彙は、そのどちらかのサイド に振り分けられます。なお、「表象=再現前化」 のようなイコールの表記は、単語の多義性を表 しているもので、「表象」か「再現前化」のど ちらかをネットで検索すれば、representationで あることがわかります。そのくらいは調べる必 要がありますね。  次の、「〈差異は「つねに」それらの要請に服 従されられていたのか……」というのは、まあ、 飛ばします。ここは、「確かに(なるほど)Aで ある、しかしB」というレトリックで、このA の疑問文は、疑問として本質的なものではなく、 Bを強調するためのお飾り的意味合いが強いも のです。「確かに(なるほど)Aである、しかし B」のようなものも西洋の格調高い文章で頻出 するスタイルです。したがって、重要なのは 「しかし」以下の文なのですが、それもほとん ど全体がお飾りです。改めて挙げてみましよう。  しかし、純然たる齟齬するものたちが、わた  したちの表象=再現前化的な思考には近づく  ことのできない或る神的な知性の天上の彼岸  を、あるいは非類似の《大洋》の、わたした  ちには測深できない手前にある冥府を形成し  ているということも明らかである。  こういうのは豪華絢爛とも言うべき文ですが、 一貫して同じ二項対立が走っています。つまり、 それ自身における差異匹表象=再現前化、です。 「表象=再現前化的な思考には近づくことので きない或る神的な知性の天上の彼岸」とありま すが、「表象=再現前化的な思考には近づくこ とのできない」なのだから、これは差異それ自 身サイドのことで、それを「或る神的な知性の 天上の彼岸」と豪華に表現している。で、この 文の主語は「純然たる齟齬するものたち」で、 なんじゃそりゃと思うかもしれませんが、機械 的に言ってそれは「表象=再現前化的な思考」 と対立するポジションなのだから、イコール差 異それ自身です。「純然たる齟齬するものたち」 =差異それ自身、です。工夫して言い換えてい るわけですね。これも西洋的レトリックだと言 えます。  たとえば、「おっちよこちょいで髭があるパ ン屋のフレデリック」という人物が登場すると して、最初「フレデリックは」と主語を立てた ら、二回目では「髭のパン屋は」としたり、 「そのおっちよこちょいは」としたり、またひ と言で「その髭は」としたりするようなもので す。昔の小説っぽい技法ですね。表現の豊かさ の問題として、繰り返しを避けたい、というの があるのです。論理的な文章で同じ言葉を使わ ずにコロコロ変えられたら困ると思うかもしれ ませんが、昔の人文的な書き物では、学問で あっても格調が求められていたので、そういう 言い換えも珍しくありません。「非類似の《大 洋》」というのも、差異それ自身の側というこ とです。大げさに詩人のように表現しているわ けです。「わたしたちには測深できない手前に ある冥府」というのも言い換えているだけ。  ともかく、二項対立を意識し、お飾りを切り 詰めて骨組みだけを取り出してシンプルに理解 します。ただ、そのお飾りに重要なニュアンス が含まれる場合もある(デリダ的にはそう考える べきです)、というのを一応付け加えておきま す。ですがそこまで読み取るのは上級の読みな ので、まずは骨組みだけで十分なのです。 ケース4‥言い訳の高度な不良性  さて、もうひとつ。今度はデリダです。以下 に挙げるのは、『哲学の余白』に含まれている 「差延」の書き出し部分。  この最後のレッスンはここまでよりも難しい と思います。十分理解できなくても気にしない でください。以上のドゥルーズを題材とした説 明でひとまず十分。ここからのデリダ読解は、 中上級編です。  ドゥルーズの場合、またフーコーの場合、レ トリックはそれほど本質的ではなく、主なス トーリーをシンプルに取り出せる場合が多いと 思います。ですがデリダは特別で、レトリック が内容と深く結びついています。だから最後に 説明することにしました。  「差延」とはデリダ独自の概念で、差異= differenceの二つ目の「e」を「a」に書き換 えた、一見、綴りを間違っているように見える 造語、differenceです。「e」を「a」にしても フランス語では発音が変わりません。なので、 話し言葉・声としては区別がつかないが、書か れたものとしては異なる、差異を持つ、という 「差異に対するエクリチュール的差異」を示そ うとする、ひじようにアクロバット的な概念で す。以下の文章は、それについて説明し始める 冒頭部です。  それゆえに、私は一つの文字について話そ  アルファベットを信用しなくてはならない のなら、そしてアルファベットをめぐって冒 険を試みたさまざまな思弁の大多数の言うと ころを信じるのなら、それは第一番目の文字 である。  それゆえに私はaという文字について、す なわちdifference荼異】という語を書くに際 して、そこかしこで導入する必要があると思 われたこの第一番目の文字について話そう。 しかもそのように思われたのは、エクリ チュールについての或るエクリチュールを、 そしてまたエクリチュールのなかで或るエク リチュールを書いている最中でのことである。 したがってこのようなエクリチュールかたど るさまざまな行程はいずれもみな、いくつか のきわめて限定された地点ではがらずも 正書法上の一種のひどい過失を経由すること になる。すなわちエクリチュールを規制する 正統性に対する違反、書かれたものを規制し それを正しい礼節のうちに抑制する法に対す る違反を、その行程ははがらずも経由するこ とになる。   (デリダ「差延」、『哲学の余白』上匸咼橋允   昭・藤本一勇訳、法政大学出版局二言○七年、    三三頁)  実に面白いと思うのですが、いきなり「それ ゆえに」から始まります。フランス語では doneで、英語だとthereforeです。何も前提が ないのに、意味不明ですよね。しかしこの後を 読んでいくと、いきなり途中から始まるという この仕立てが、差異の思考には絶対的な開始点 がない、というような内容と関わっていること がわかってきます。このようにデリダなどは、 言いたい内容を、書き方のレベルで一種のパ フォーマンスとして示すということをやったり します。いきなり「カマして」くるわけです!  「差延」谷fferance)という造語について説明す るわけですが、問題はその「a」なので、「私 は一つの文字について話そう」なのです。その 後の展開は、異常なまでに神経質に進みます。 単純に、「differenceは次のように定義される」 ではないんですね。  まず、「a」というのが、アルファベットの 一番目の文字であること、これは常識ですが、 そこから疑った上で、まあそういうことにして おく、と仮固定する。「アルファベットを信用 しなくてはならないのなら」、「そしてアルファ ベットをめぐって冒険を試みたさまざまな思弁 の大多数の言うところを信じるのなら」という 条件付きで、「a」が一番目であると仮に認め るのです。なんでそんなことから「仮」にしな いといけないのか’・ と激しく苛立つかもしれ ません。ですがこれがデリダなのです。徹底的 に、論理を構成する要素をいちいち疑って、 「一応仮固定しますが」という体裁で論じてい  ちょっと飛ばして、differanceという造語が たんに綴りの間違い=「正書法上の一種のひど い過失」に見える、ということの説明を見てみ ます。  したがってこのようなエクリチュールかたど  るさまざまな行程はいずれもみな、いくつか  のきわめて限定された地点ではがらずも  正書法上の一種のひどい過失を経由すること  になる。すなわちエクリチュールを規制する  正統性に対する違反、書かれたものを規制し  それを正しい礼節のうちに抑制する法に対す  る違反を、その行程ははがらずも経由するこ  とになる。  「このようなエクリチュール」というのは差延、 differanceのこと。それが「さまざまな行程」 を「たどる」というのは、移動するというわけ で、これはエクリチュールがオリジナルから離 れて誤解を生んでいくという話を暗示していま す(この解釈にピンと来なければ、第一章をもうI 度読んでみてください)。デリダのようにレト リックが本質的な役割を持つ書き手だと、ある 程度の深読みが必要になります。  さて、移動するうちに、「いくつかのきわめ て限定された地点」では、「正書法上の一種の ひどい過失」になるという。つまり、 differanceは綴りの間違いだと見なされる。こ こも微妙な表現で、ゴチャゴチャ言ってるけど 綴り間違いでこんな単語ないでしよ? という 雑なツツコミをひじように丁寧に退けているの です。というのは、ある単語の綴りが正しいか どうかを問題にするのは、それを問題にする観 点がある場合=「きわめて限定された地点」に おいてであって、たとえ綴りが間違っているよ うに見えても、そういう造語として取り扱われ る場合もありうるからです。  いや、単語の間違いは常識の話で、常識はど こでも常識だろ’・ と言われるかもしれない。 そうではない。常識が作動する地点とそうでは ない地点、言い換えれば、異なる「文脈」があ るのです。綴りの常識が通用する地点を「きわ めて」限定された、と強調しているのはとびき りの嫌味ですね。常識が通用する世界は、ごく 局所的に成立しているものでしかないというわ けです。  differenceがあちこちを移動する。そのとき に、それがたんに綴り間違いになる文脈もあれ ば、独特の概念として作動する文脈もある。綴 り間違いになる文脈は普遍的ではなく、「経由」 されるだけなのです。常識というのはときどき 経由されるものであって、絶対ではなく、仮固 定されるものだ、ということになります。  書かれたものを規制しそれを正しい礼節のう  ちに抑制する法に対する違反を、その行程は  はがらずも経由することになる。  正しい綴り、正しい書き方、真理を言う正し いエクリチュールとはこうである、というのは 「礼節」の問題で、つまリマナーを押しつけて いるのであり、ところがエクリチュールは誤解 を生み、真理と虚偽の境目を混乱させ、マナー 違反をするのだが、それはマナーを強制される 文脈をたまたま「経由」するときなのであって、 それは「はがらずも」であって、べつに違反し たいからするのではなくそう「なってしまう」 ときがあるだけで……いやはや、すいません ね! というわけです。そしてこのことが、 「それゆえに」から始まるというこの文章全体 のマナー違反と結びついている。なんという高 度な言い訳、なんという高度な不良性。  このように、綴り間違いに見える言葉を新概 念として提示することの自己正当化、つまりは 言い訳を繊細に書くことで、みんなが信じてい るものへのひじように嫌味ったらしい挑発が行 われるのです。僕は、これこそが知性だと思い ますね。  以上、基本的な四つのポイントを説明した上 で、デリダにおける内容とレトリックを巧みに 絡み合わせる例も見ました。デリダのケースは 中上級です。  まずはレトリックにあまり足をとられないで 骨組みを読む、という姿勢でいろいろ読んでみ てほしいと思います。読書は積み重ねです。通 読しなくても、可能な範囲で理解することを繰 り返してください。いつか読みは深くなってい き、デリダのようなものも気がついたら読める ようになっているでしょう。 おわりに 秩序と逸脱  こうして『現代思想入門』をお届けすることがで き、ほっとしています。いつかこういう本を書きた いと願っていました。講談社現代新書からこれを出 していただけるというのは本当に感慨深いことです。 かつて僕は、講談社現代新書の今村仁司編『現代思 想を読む事典』を拾い読みして、実に軽薄なことで すが、いつかここにあるようなカッコいい概念を使 えるようになったらなあ……と憧れていたのでした。 『現代思想を読む事典』は一九八八年の本ですが、 今こそ読まれるべき一冊だと思います。  本書は、立命館大学文学部の授業「ヨーロッパ現 代思想」をペースにしています。授業に参加してく れた学生の皆さん、ありがとうございました。デリ ダ、ドゥルーズ、フーコーの三人、ラカンの精神分 析、そしてポストーポスト構造主義というのが授業 でも中心で、その説明を試行錯誤するなかで本書の 構想ができてきました。  それにしても、こういう本は三〇代では書けな かった。四〇代になって、人生の折り返し地点に なってやっと、もう書くしかないや、と思えた。そ れは一種の諦めです。今の状態で、僕の現代思想理 解はいわば「飽和」している。もうこの先大きく変 わることはない。意図的に変えようとしなければ変 わらないだろう理解がもう固まっていて、それは限 界でもあり、それをどうするかを考えなければなら ないのですが、ともかくその理解を外部化する=書 いてしまう必要がある、と思ったのです。もっと他 の読み方もあるかもしれないけれど、僕にとって現 代思想はこうで、もうこうなってしまったので仕方 ないからそれを客観視しよう、という諦めなのです。  重要な事項が欠落していたり、解釈の誤りがあり ましたら、ご指摘をよろしくお願い致します。  「はじめに」でも述べたように、本書は、九〇年代 末から二〇〇〇年代の大学生活を通して経験した現 代思想のある種の読み方をアレンジしたものです。 僕が学んだのは東京大学大学院総合文化研究科、い わゆる「駒場」で、本書の説明は駒場での現代思想 観の一例だとも言えます。過ぎ去った一時代と場所 の記憶が本書に染み渡っていることは確かです。し かしそのことは無視してください。僕としては、こ こで示した解釈は十分一般性があるものだと自負し ています。ですが……矛盾するようだけれども、こ の背景に過去の残像があることもまた、こうして最 後に付記したくなるのです。  現代思想はもはや「二〇世紀遺産」であり、伝統 芸能のようになっていて、読み方を継承する必要が あります。などという意識を持つようになるとは、 かつては想像もしませんでした。僕が二〇代半ばま では現代思想は確かに「現代」で、その先端を切り 開く研究者になるんだと気張っていましたが、当時 であればそれは自然なことでした。ところが三〇代 になり、メイヤスーら思弁的実在論の紹介も行い、 さらに時が流れて二〇二〇年代というSF的ですら ある時代に四〇代となり、気づけばあの「現代」は 過ぎてしまっていた。本書では「現代思想のつくり 方」の形式化も試みましたが、今の思想状況にはマ ンネリ感があるし、誰かが打破してくれないかとい う思いもあってのことです。  僕白身の感覚としては、本書は、専門家としてと いうより、一〇代からフランス現代思想に憧れ、リ ソームだの脱構築だのと言ってみたい’・ という 「カッコつけ」から出発した現代思想ファンの総決 算として書いたのかもしれません。これは青春の総 括であり、憧れへの終幕なのです。  振り返ってみると、現代思想を通して僕が格闘し てきたのは、おそらく「秩序と逸脱」というテーマ でした。本書は入門書ではありますが、「秩序と逸 脱」という二極のドラマとして現代思想を描き直し た研究書でもあります。現代思想は、秩序を小馬鹿 にし、後先考えずに逸脱的なものを称揚する思想の ように批判されるときがありますが、それは違う、 もっと難しいことを考えているのだ、というのが僕 がずっと思ってきたことです。現代思想は、秩序を 仮固定的なものと見なし、たえず逸脱が起きながら も諸要素がなんとか共存する状態を考察している、 というのが僕の見方なのです。そのような秩序と逸 脱の関係は、僕にとっては芸術の問題、「芸術的に 生きるとはどういうことか」という問題であり、そ れが子供のときからのテーマなのだと思います。  これは精神分析的ですが、僕はつねに、「頑固な 法がある、そこからの逸脱が起きる、そこで逸脱を どう弁護するか」ということばかり考えてきました。  高校二年のとき、父に、法学部へ行って弁護士に なれと言われたのですが、法律には興味がなく、や はり批評や思想をやりたいということになりました。 しかし、それで現代思想を学ぶなかで見出されたの は、ある種の弁護術でした。囗本の法律という特殊 具体的な文脈における弁護ではなく、もっと広い範 囲で、いや、存在全体という最大の範囲において、 逸脱的で芸術へと向かう生き方をいかに弁護するか という問題に取り組むことになったIと、今なら 振り返ることができます。  個人的な話ですいません。本書は、「こうでなけ ればならない」という枠から外れていく干不ルギー を自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感 じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、 と励ますために書かれたのでしょう。  本書が、人生をより活力あるものにするために少 しでも役立つことを願います。  最初の構想から予想以上に時間がかかり、本書は 長期間にわたる講談社の栗原一樹さんとの共同作業 によって成立しました。大変な編集の労をとってく ださったことに深く御礼申し上げます。栗原さんが 青土社の『現代思想』編集長を務めておられた時期 に、同誌にてたびたび思弁的実在論の動向を紹介す る機会をいただきました。その栗原さんとタッグを 組めたことをとても嬉しく思います。また、フー コーおよび精神分析に関する記述を検討してくだ さった柵瀬宏平さん、デリダからの引用の取り扱い について相談に乗ってくださった宮崎裕助さん、お 忙しいなかご協力をいただき誠にありがとうござい ました。 二〇二二年一目丿 昨年より寒く感じる大阪にて