真人生の創造_中村天風 −中村天風講演録              中村天風   まえがき  中村天風先生が説かれた「心身統一法」は、 匸冐でやさしく言えば「積極精神をつくる」方 法です。この「積極精神」というのは、よく言 われる「前向き」とか「プラス思考」というよ うなものとは少し趣を異にしています。  天風先生が言われる「積極」とは、人生にど んなことが起ころうとまた同じことの繰り返し の毎囗であろうと、心を動揺させたり焦燥感を もつことなく、常に誠と愛と調和を以て、穏や かな冷静な心の状態でいるということなのです。 つまり、何かに張り合おうとか負けまいという ような対抗する心ではなく、先入観や偏見をも たず、怒りや怖れや悲しみなどにとらわれない、 澄み切った静かな心の状態で物事に対応するこ とです。  この真の積極精神を身につけることができれ ば、どんな人でも、世の中を動かす重責を担っ たりIダーであろうが、競争原理に巻き込まれ がちな企業経営者であろうが、世間や家庭内の 人間関係に心をくだく主婦であろうが、そして 将来のことが定まらず不安を抱える若者であろ うが、人生の問題を解決し、幸福で価値高い人 生を送ることができるのです。  天風先生は「人生は心一つの置きどころ」と も言われました。病にも不運にも何ものにも奪 われない真の幸福を得ようと思うならば、物事 に対する価値を自分の心で決めよということで す。そしてこの積極精神をどのように作るかと いう具体的方法を、教えてくださったのです。  天風先生の教えは、本来、大宇宙を作り出し た根源の孑孑ルギーとそこから同じように創り 出された人間との関係を考察し、人間が人間本 来の充実した人生を送るための真理を悟ること が根幹の哲学ではありますが、一方、現実の世 の中に具体的に生きる身でもある人間としての 生き方も、お教えくださっているのです。  この『真人生の創造』は、自分の生き方を検 証し、積極精神へ導く手引き書ともいえるもの で、天風先生が愛情とユーモアに謚れた、親し みさえ感じる口調で説いてくださっています。  本書は「CD中村天風講話録・真人生の創 造」を活字化したものですが、音質等の問題か らCDに収録できなかった部分も活字として再 現させてありますので、また読み応えも増して いることと思います。さらに具体的な詳細につ きましては、天風先生の「心身統一法」講義録 である、既刊書籍『幸福なる人生』を読んでい ただくことをお勧めいたします。  いずれにせよ、本書がより一層天風哲学を学 ぶきっかけとなれば、誠に幸いと存じます。 平成二十七年三月  公益財団法人天風会理事長 宮田興子 真人生の創造 t 目次      まえがきI宮田興子 第一章 理想的人生のあり方      強さと長さと広さと深さ      人間とは感情を統御できる生物      感情をコントロールできない人々      消極的な感情は抵抗力を弱める 第一章理想的人生のあり方  一強さと長さと広さと深さ  理想的な人生というようなことを詛い出せば、 非常に漠然として抽象的で掴みどころがありや しません。人々によって人生に対する考え方は みんな違っておられるから、端的に言えば、現 在病を患ってる人は、何をおいてもまず第一番 に丈夫になりたいことがその理想でしょう。  健康な人は、何とかもっと金が欲しいとか、 何とかもっと地位が欲しいとか、金や地位は第 二としても、丈夫にはなったにはなっだけど、 もっと長生きがしたいとか、いろいろな考え方 が人々によって違いますから、ただ漠然と理想 的な人生なんて言ったところで、これは文字の 上から考えた考え方じゃ、正しいヒントを得ら れません。  しかし、どういう人生というものが人として 生まれたお互いに、まず第一番に考えられなけ ればならないかということは、これは世界共通 の人生理念で決定してありますから、それをま ず第一番に申し上げましよう。  人間の命というものは大事なもんです。何が さて、一遍縁があってこの世の中に人として生 まれても、どんなに学問しようが、どんなに努 力しようが、またどんなに金ができようが、一 生は断然一生で二生ないんであります。一遍死 んじまえば、二度味わえないこの人生、これは 尊いもんです。  ところが、この尊い人生を現在生きていなが ら、しかも相当の理知教養を受けてるはずの文 化人が、本当に徹底的に命の尊さを考えてるか 否かと思うと、あにはからんや、さにあらざる 場合が多かないでしょうか。ただいたずらに食 うことや寝ることや着ることや儲けること、人 生のただ一部分的な事柄だけを本能や感情の欲 するがままにこれを欲して、それでそれを得ら れて満足して、得られないで悩みを感じてると いうような、極めて浅い考え方でもって人生に 生きてる人が、むしろ数においてすこぶる多い んであります。  つつましやかに人生を本当に尊く考えて、生 きる日日を人間として恥ずかしくない生き方を していかなきやいけないという心掛けでもって、 この再び取り返すことのできない一日を過ごし てる大などというものは、滅多に見られない。 跪いて手を合わせたいような尊さを感じるよ うな大は、それこそ暁の星より少ないのであり ます。  たいていは人の形をしていて、見てくれだけ が人間でいて、生きているすべてのことをじ いっと見てみると、人間以下の動物さえ恥じら うようなことを平気でやってる大がかなり多か ないですか。ですから、人の命の尊さをまんざ ら考えないじやありますまいけれども、考えて もその命、いかなる状態に生かすことが人間と しての高い通念かということは考えないんであ ります。  言われりや、すぐおわかりになります。一旦 生まれて死んでしまえば、二度味わえない命。 おまけにこの命の意識的感覚をしているこんに ちが、どんどんどんどん過去に行ってしまって、 どんなに努力したって、再び現在あり得るがご とき現実は再び味わえないのであります。よし んば明日私かここへ立ったところで、今日ただ 今味わってる味わいというものは味わうことは できません。  さあ、そうすると、瞬間、瞬間が誠になおざ りにならざる考え方で生きなきやならないんだ が、いかがでしょう、あなた方。この一年間の 毎日毎日のことはっきり覚えていらっしやいま すか? ぽお1つとして、なんとまあ、月日の 経つことの早いことよ。一月何日だろう、二月 何日だろう、三月何日だろう。よっぽどどえら い喜びか悲しみだけは覚えてる。平凡に暮らし た日が多いために、その平凡に暮らした日は覚 えていませんよ。  だから一年は三百六十五日とはいえ、そうい う記憶の中のトータルを総合してみると、中に ひどいのなんて一週間ぐらいじやないかな? 指折り数えてみて、それも喜びにエクスタシー を感じた日が多けりやいいけれど、どういたし まして、今の人々、本当に喜ぶときなんていう ものは滅多にありやしない。喜んでも瞬間の喜 びですもの。その代わり煩悶だ、悶えだ、苦労 だというやつは、もう念に念を入れてやってま すからね。  そしてぽんとから言うとね、そういう状態の 人生に生きてる人には、「光陰矢の如し」とか 「月日に関守なし」なんていうことは当てはま らないんですよ。心朗らかに何も心にわだかま りなく、楽しい、うれしい、朗らかたというと きを味わってるときというものは、時というも の、空間というものを超越してしまう。  ご経験がありましよ? 好きな人と物語って りや、時の経つことを忘れる。「おや、もうこ んなに経つだの?」。往来歩いてたってねえ、 一里や二里平気で、相当遠道したってくたびれ やしねえ。私も昔、覚えがある。今覚えがある と言うと怒られますから。反対に嫌いな奴と歩 くと、道の半町も歩かないうちにくたびれちま  もう一年経つだのかいというのは、本当に快 く人生に生きてる人の言うことで、悶えがあっ たり迷いがあったり苦しみがあったら、とても そりゃ、一日が長いですよ。百人一首だって 歌ってあるでしよ。「嘆きつつひとり寝る夜の 明くる間はいかに久しきものとかは知る」。女 の方なんか痛切にこれは、そうだわあと思し召 すでしょう。  夜寝られないときなんかに、これは天風会員 には覚えがないことでしょうけど、いかに夜明 けの待ち遠しさよ。痛みあり苦しみあった日は より一層、その一瞬一瞬が長く感じられるんで すから、月日が早く経つのを感じるのは、おお らかに人生を生きてる人だけですが、そのおお らかに人生を生きてる人というのは、世界人類 の通念になってる、これが理想だという人生に 生きてる人なんであります。それは何だと言う と、四つのことが必要なんです。  第一に「日日の人生がどんな場合があっても 強いこと」、第二は「できるだけ長生きをして いること」、それから第三は「できるだけ広さ を十分に広く生きること」、それから同時に 「深さを深く生きること」。  ところが、人類の通念となってる理想への標 準とも言うべきか、憧れとも言うべきか、また まさにそうあらねばならないことの四つの条件 が、はたして人々に味わわれているか否かを、 これはお互いに考えなきやならない。よく考え てください。いわんや、かるが故に、強さを 失った人生じや、生きて生き甲斐ないでしよ。  お集まりの中にも病をお持ちになってるお顔 が見えますが、私も八年間辛い病に侵された経 験を持ってる持ち主ですが、病んでるとき、そ こに少しも華やかな人生はないんであります。 健康を考えないときが一番人間は幸福なんだ。  西洋の言葉に。。Health is not valued until sickness comes. "(健康の価値は病気になるま でわからない)という言葉があります。この言 葉を静かに考えてみると、「丈夫なときは丈夫 なことを考えない」ですよ。どこも痛くもない ときに痛いという奴はないもん。どこもどうも ないのに、どっかどうあると思うものないで しよ? だから本当に丈夫な奴は健康ってこと を考えませんよ、どうもないんだから。お金た んまり持ってるときは、貧乏なこと考えないで すな。  人生再び繰り返すことのできない世の中、ど うしたってこの四つが完全であってこそ、ほん とだと思し召すでしよ? しかもそうするのに は、多くの人々のように、肉体ばかり考えてい てもいけなければ、心ばかり考えていてもいけ ないんであります。  生命というものは、物質方面から言ったらば、 この肉体は細胞の集積であります。同時に心の 方面からいけば、心の働きをこの神経系統の全 体が孑孑ルギーの表現をするのであります。そ れで二つが一つになって、我々の生命が生かさ れている。この二つが一つになって生かされて いるという、この動かすべからざる現実を忘れ て生きたら、この四つのことは目的達せられな いんですよ。  もしも我々が肉体だけを本位として、それ注 射だ、それ薬だ、それ栄養だっていって、豊富 な肉体生活をしていることによって丈夫になれ るとしたら、人生このぐらい気楽なものはあ りやしませんわ。第一、医者ならびに医者の家 族がみんな丈夫なはずだよ。  ところがどういうものか、お医者さんそれ自 身があんまり強くないのが多いですな。医者の 強くないのは「紺屋の白袴」(他人のためにば かり働いて、自分のことに手がまわらないこ と)ですよ。  しかしこれは、医者が悪いんじやない。医学 に欠点があるんでも何でもない。生命というも のが肉体だけの処理では、これ完全に解決つか ない存在であるからなんです。マテリアルの方 面だけをいくら考えても、一方そのマテリアル の生きているのは、孑孑ルギーがあって生命活 動という現象が出てるんだから、心と肉体の両 方をぴた1つと一緒にしなきやいけない。それ はちょうど夫婦があくまでもぴた1つと一つ心 でなきや、その家の繁盛しないのと同じ。そこ でぴた1つと合わせるのに必要な方法を私はお 話ししてる。  一人間とは感情を統御できる生物  今日初めてお越しになった方に、これからい よいよ話を進めていきたいと思いますが、まず 第一番に必要なのは、人生に生きゆく刹那に、 「体よりも大事に心というものを積極的に生か さなきやいけない」ということ。これはほんと ですよ。説かんがために説いてるんでもなけれ ば、理論の組織の上に必要であるがためにそう 言ってるんでなくして、これが本当に真剣に考 えられないと、何としても本当に、もう何遍も 本当と言いたいくらいにこの人類通念となって るところの最高の人間理想というものを貫徹す ることはできない。  ところが、あれだけ懇切丁寧に話を聴いてる 人の中にも、時によると心の中に消極的の波を 起こす。これが悪いってことは、知らない当時 と違ってからに、教わった以上知ってるはずな んだ。知ってるはずだけど、そういう大は理屈 つけてますよ。「理屈はそこにあるかもしれな いけれども、あのとおりきちんとなかなか行く もんじやない」なんて。  それで一時、自分だけはそれでもって納得す るかもしれないが、真理というものはあなた方 の理屈に同情はしないんですよ。自然界に存在 する人間への掟はまことに厳しい。しかもこれ は千古変わらず。久遠のその昔から永遠の将来 まで実存してる。  「お前はそういう場合だから特別にいいよ。ま あとにかく、今度機嫌の良いときに、教わった ようにおしよ」、というようなことにはなりま せん。どんな身分の人だってダメなんですぜ、 真理に背いちゃつたら。  そこでだ、一番我々が注意にも注意をしな きゃならないことは、怒っていけないことと、 悲しんでいけないことと、怖れていけないこと なんだ。これはのべつ幕なし、ひっくり返し、 ひっくり返しあなた方が日日やっている日課だ もん。変なことがデイリーレースになってます よ。  「人間だから怒るの当たり前だ」つて言う人が あるんだけども、どういうわけで人間なら怒る のが当たり前? いえ、世のおおむね多くの 人々は「怒ったり泣いたり怖れたりするのは、 人間だからできるんだ」と、こういうふうに 思ってる。「それは犬や猫や豚や馬でもやるか もしれないけれども、人間ほどデリヶIトなも のは持だないじやないか」と、こう言うんです よ。  それで、そういう人に限って間違ったことを 言っていて、間違ったことを言ってないと思っ てるの。人間は感情の動物なり、とね。「感情 の動物だからこそ、怒ったり泣いたり怖れるの は当たり前じやねえか」とこう言う。屁理屈の 出発点間違えて、結論、やっぱり間違いで、正 当なとこへ到着しようはずがないんですよ。人 間が感情の動物なりつて、人間を動物の仲間に しちやつてる。万物の霊長として、生きとし生 ける生命を与えられたものの中の一番尊い存在 であるはずの人間を、馬や猫と同じにしてる人 がある。  「それはあれですか。四本足の動物ですか」  「いや、二本足です」  「鳥ですか」  「いや、違います」  「それじゃ人間だ」つてね。  動くものは動物たというんならば、それじゃ あ、自動車も動物だな、こりゃ。だから「動」 の字が書いてあるつて、いや、理屈ですが。そ う考えてるもんなら、人間それ自身の評価が、 値踏みが、我知らずグーンと低くなってる。  現象界に存在するものというものの中で、一 番何ものよりも尊いのが人間だよ。もつとも、 正しい科学文化思想に目覚めてない人は、「そ の上に神様がいるよ」とおっしやるでしょうが、 いますか?  私は神仏というものの存在を、第二義的に人 生を考えるものには必要かもしれないが、自分 自身を真理に沿って正しく生かすものに対して は、既成宗教は何ら顧みる必要のない存在だと いう、大きな確信の下に人生を生きてるもんで あります。ですからいまさら「来るんじやな かった。あの人、神様も仏様も考えないのか」 と思し召したら、もう今囗っきり御縁のないも のと思し召して、再び私の目の前にはお出にな らないほうがいい。  それは私も先祖は敬いますよ。けれど私は科 学文化の先端に、常に自分の人生に対する理解 を求めてるものであります。したがって私の眼 中には、見えもしない抽象的な、何だか訳のわ からない考え方で考える神なんていうものや仏 というものはありません。あるものは、ただ宇 宙の実際を支配する孑孑ルギーの根本である 「フリル(庄))」だけであります。これが自然 界を支配し、ありとあらゆる一切の宇宙に存在 するものというものを支配してるのであります。  「宗教はアヘンなり」という言葉に対して、私 は別にこれに対して議論持ちません。時代は常 に日進月歩、正しい人生理念の許諾を与えるも のをもって、人生はこれを生きる場合における 杖・柱として頼んでいかなきやいけない。自分 の理念が正しく許諾を与えないようなものを、 なんか人があると言うからあるんじやなかろう か、いるんだと言うからいるんじやないかとい うような気持ちでもって、しかも曖昧な自己欺 瞞な、独自の断定でもって考えてるような神 仏、それが何になるんです?  いえ、そういうもの考えてるから、あなた方 が人生を生きる場合に少しもそこに決定した生 き方ができないんで、少しも人生に対する自覚 を自分自身の心に植え付けようとしないで、苦 しいときの神頼み、病でも治りが遅いとか運命 が悪いといっては、「ねえ、神様、仏様」つて 言えば治してもらえると思う。  普段それほど親しくもしてないとか、考えて るというだけの、あっさりした薄情な気持ち 持ってる人間に、いざさらばのときに「お助 け」つたって、助けるかいな。それとも助けら れた人があるかいな。あるとしたら、その人は 自己催眠にかかってる人だ。神とか仏とかと名 をつけるほど、安っぽいものじゃないんだ、こ の宇宙に存在する偉大な根本孑孑ルギーは。  ただ科学が今ほど進歩しなかった時代の人間 が考えると、不思議に見えたんでしょうなあ、 この宇宙の一切の運行の事実が。いえ、ちょい と花一つ咲くの見たって、不思議だと思や不思 議だもの。昼が来て夜が来て、夜が来て昼が来 て、これも不思議だよ。晴れ渡る明澄の一夜、 表に出る。空見りやもう、すぐ不思議な感じに ぐうっと包まれますわな。煌々として大千世界 をほくそ笑みかけて照る月、この月がまた毎日 毎日大きくなったり細くなったりするんですか らね。それで十五日の間御無沙汰になって、十 五日経つとまたやってくる。  どこが果てたか果てがわからない、見渡す限 り無極無辺際の大空にらんかんとして煌めく星。 子どものときから不思議だと思った、わたしや。 そうして春が来りや花が咲いて、秋が来りや 紅葉して、冬が来りや木が葉っぱを落としちま う。昼があって夜があって、朝があって午後が あって、水があってお湯があって、火があって 煙があって、不思議だなあと子どものときも考 えた。森羅万象の様々な変化変転。「染めいだ す人はなけれど春来れば、柳は緑、花は紅」、 よく坊主が使うこれはお説教の言葉で、真似し たわけじやありません。このわずかな文句の中 にも宇宙の変化変転は歌われてるが、これを考 えようによるとね、すぐ神仏に持ってっちまう んだよ。  こはこれ、自然の現象だ。この自然の現象に 対して、原動力的要素というものを科学的な知 識の進まなかった時代はわからなかったんだよ。 ぼやぼやしちやいけませんよ。人工衛星が飛ん でるとき、難儀が来るとすぐに神棚の前で手合 せたり、仏様の前行ってからに、お線香あげた りして、自分自身を自分自身が正しく統御しな ければ、いわゆるセルフコントロールというの が正しくなければ、なんでそういう人間に正し い結果が来ましよう。昔の人の歌にもある。 「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神 やまもらむ」。誠の道というのは宇宙真理に即 した、寸分間違いない、本当の正確さの意味だ。  ところが不思議ですよね。神仏、神仏と言う 大に限って、生きてる生き方見るてえと、てん から神仏なんかに相手にされないような、犬や 猫よりまだ劣ったような生き方してるんだから。  神仏を私か存在認めてないことを不満の方、 お帰りください。私は別にそういう方に聴いて もらう気持ち一つもないんでありますから。そ れは私だって自分が皇族講演の講師であります から、どうしても行かなきやならん場合には、 伊勢神宮に参拝はします。けど私はあの伊勢神 宮に頭下げるとき、これ天皇陛下の御先祖をと にかく思い出すためにここに祀ってあるのかと、 それだけで行って頭下げてる。知ってる人に 会って「こんにちは」と言うのと同じような気 持ちだ。先祖は敬うけれども、なんだか訳のわ からねえもんに一生懸命頭を下げる必要ないも の、わたしや。  この自然現象を、科学的な知識から考えてご らん。この孑孑ルギーを働かす根本があって、 その根本がそれ自身自体のつくったさまざまな エレメントによって、この現象界に変化変転が 現われてる。このエネルギーの根本要素を「フ リル」と名付けております。もっとも新しい、 これは精神科学が発展した言葉。  フリルの収受量、言い換えれば根本孑孑ル ギーである大きな力、これは科学で言うと微粒 子的存在としてますが、あらゆるすべてのアト ムの先祖であります、原子のね。この受け入れ 量が生命を強く長く広く深く生かす、一番の大 根となるの。そうなるのに、さっきも言ったと おり、人間を感情の動物だなんて思っちゃいけ ないの。そう思う人は、人間それ自身を値踏み する上に大きな誤算を持ってる人なの。  じゃ、人間とは何だろう。正しい真理の上か ら厳粛に言えば、「人間とは、感情を統御し得 る生物なり」、これが本当の人間の姿。しかる に、この本当の人間の姿だという真理の上から、 厳しくあなた方の人生生活を考えてごらんなさ い。感情を統御するどころか、しょっちゅう感 情に追い回されてるんだろ? のべつ自分の心 が怒ってるか、泣いてるか、怖れてるか、悶え てるか、迷ってるか、苦しんでるか、憎んでる か、妬んでるか、嫉んでるか、このどれかしら に当たるわね。心に一切の邪悪邪念なく、怒り も悲しみも怖れも憎みも妬みも嫉みも悶えも苦 しみも悩みもないで生きてる人、千人に一人。  天風会員になりや、みんないざという場合の 心の取り扱い方を知ってます。けれども失礼だ が、たとえどんなに宗教を信仰してる人であろ うと、また他の修養法をおやりになってる人で も、断然御存じないということを私ははっきり 言い切ります。なぜならば、天風以外の教えは 。。now to say。。に重きを置いて、。。回ミ{oao4 に重きを置いてないからであります。  一感情をコント囗−ルできない人々  ぽんと言うてえと、十二月の五日に私は、ア メリカへ連れて行かれることになってたんであ ります。とにかくカネがあるからではあるかも しれないけど、ロックフェラーという人、四〇 ○人からの生物学者を集めてからに、人類福祉 のために二十年間営々としてロックフェラー生 物学研究所では、主として人間の健康建設への 努力をしてます。  それだけ立派な学者のいるところで、少なく とも人間が人間として生きる生き方に対する正 しい発見や正しい理論理解を持つてる人がいる だろうと思うに、一人もいないんですな。いな いから私みたいな、しかも彼らから見りや敗戦 国の一学究にしかすぎない者を、ここにいる人 がI生かかってもできないようなカネを最初の 条件として持ち出してるのです。あれ持ち出さ なければ、あるいは私ひょっと行ったかもしれ ない。あれ持ち出されて、あいよって行ったら、 カネが欲しいから行ったと必ず多くの人が思い ますわね。  もし私かロックフェラーの求めに応じて行っ てごらん。ああ、あの人間は二五億を礼金とし て出すというんでもって、アメリカ人になった なんて。アメリカへ行くと、アメリカに帰化さ せられるらしいんです。だから帰化したら二五 億。しかし帰化しなかったら三年間、一年間を 一〇万ドルのお礼で、帰るときにもう一遍その 一〇万ドルをダブルにすると。一〇万ドル、囗 本のカネにするといくらになるんだ? 三六〇 〇万円(当時一ドル=三六〇円)。そいつを三 年くれる。一億円以上だ。そいつを帰るときま たそれだけくれるっていうんですから、二億円 以上が手に入るわけだね、三年で。一生アメリ 力人になったら二五億やるって。あんた方なら どっちにする?  天風、どっちも要らない。そんな二五億なん てカネもらったらどないします? 私。いえ、 三六〇〇万円だって要りやせんがな。ここに 立ってるとき、そんなもの要らん。何も要らん。 手ぬぐいがありやいいだけ。それをやっぱリア メリカ式ですわなあ。報酬を先に詛い出しだの。 カネやりや来るだろと思って。だからカネくれ るって言うから行かんのやと、こういうんだか ら私。アメリカ人としては、人をただ使うこと できないっていう。そりゃそっちの勝手や。行 かんだけの話。  しかしここなんですよ、聞いてもらいたいの は。そんなことはどうでもいいんだよ。それだ けの犠牲を払っても私を呼びたいというのは、 知らないんだよ、いかにすれば感情をコント ロールする正しい人間になれるかということ。 フィーリングに対するコントロールということ を知らない。しかしアメリカ人ばかりじゃない。 あなた方だってご存じない人多かないか?  よく言うんだけどもねえ、お医者さんが患者 のとこへ行ってからに、帰りがけに「お大事 に」つて言いますね。あれ、どういうことかと 聞かないからそれなりでもって無事に済んでる んだけど、よく考えてみりゃ、言っているほう も言われているほうも、わかってないですよ。  「お大事に、また明日」  「ちょっとお待ちください、先生」  待ちます、医者。なんかくれると思って。そ のときに聞くんだ。  「お大事にとおっしゃいましだけど、どこをど う大事にいたしますの?」  柔らかく聞きなさい、喧嘩になるから。  「それは困るね。そりゃ大事だよ」  「ですから、どういうふうにいたしますれば大 事になりましよう」  「あんたも変なこと言う人だな。夜も十分寝か して食べ物も暴飲暴食させないで、何おいても 第一番に必要なのは病を気にしないこっちやな。 さようなら」  「先生、ちょっとお待ち。その暴飲暴食だけは 看護のほうで気をつけますけど、夜よく寝ろと いっても、あの病人寝てられません。夜になる てえと意地悪く目覚まします。まるで泥棒猫み たいに。それで気遣うな言うけど、あの病人ぐ らい、まあそれは病を気にする者いませんよ。 どうします? そういうときに」  「そりやあ、その、そこが大事にする」  「どうすりや大事に?」  「それはその……ゝつゝつ1ん、それは、僕のこつ ちやない。それは病人のこつたから病人に言い なさい。よく寝なさいと」  あんまり問い詰められると自分が困るもんだ から、「さよなら、また来ますわ」  「そんなこと言ったら、先生、ダメですわ」  「そうか。じゃ、ま、しようがない。鎮静剤で もあげようか」  たいていもう臭素カリぐらいでごまかしてね、 「これ貴重なもんですぞ」と。そんなもの効き やしないのに。  他人事としてからに、我に関係なしというよ うな気持ちで聴いちゃいけませんよ、あんた方。 御婦人なんかが子どもに小言冐うとき、親がわ からないでもって、小言冐われてる奴もわから ないで、両方ともわからない。まるで「こん にやく問答」みてえ。それをしかつめらしい顔 してからにね、小言冐ってる人があるよ。  「ここへ座んなさい。あんたね、お母さんの気 持ちわかるんでしよ?」  「うん」  「高等学校行ってるのね、あんた」  「へえ」  「なんで学校行かないの? 聞くところによる と、あなた学校行ってまいりますっていうから、 学校行ってるのかと思ったら、パチンコばっか りやってる」  「ええ」  「あんたパチンコやって出世できる? あんた 学生でしよ? 学生っていうのは学問するもん でしよ」 「それ知ってる」 「知ってるなら行ったらどう」 「それねえ、一遍折があったらお母さんに聞い てみようと思って」  「何を?」  「お母さん、私よりも先に生まれて私を産んだ 人だから、私よりも苦労をよけいしてるから 知ってるだろうと思うんだけど、そういうとき どうすりやいい?」  「何を?」  「学校へ行くつもりで出るのは出る、確かに。 今日は行こうと。それであのパチンコ屋の前を 通らなきや行かれねえ、学校へ。他を周つてっ たら学校行くの一時間もかかる。それでパチン コ屋の前に来ると、そうすると、すうつと気が つくとあそこへ人つてる。これ、お母さんに聞 いてみたい。悪いということは知つてるんだ。 ところがパチンコ屋の前を通るとすうつと人つ てしまうんだ、これが。それでついついパチン コやってるんだ。これどうすれば治る?」  「何言つてるの。お母さんがおまえに聞きたい、 それ」  「それお母さんも知らんないんだろ? それで 悪いことはわかってる。それがわかっててどう してもそうせずにはいられない。これに効く薬 あるか?」  「アホ」  これでたいてい参っちまうよ。お母さんに聞 かないからいいんだあれ、子どもがな。親孝行 や、聞かない奴は。  感慨無量な顔して私の顔見てる人がいるよ。 「うちの息子がそうや」なんてね。学校の先生 が生徒に小言冐うときだってそうだ。  つまり、我々が今まで人生に生きる際に、心 の中に得た人生統御の方法たるやです。できな い相談をできるかの如くに考えて教え込まれた、 ここに過ちがある。我々が教わった方法は、抑 制禁止。そういう心が出たら抑えなさい。そう なったらば出さないようにやりなさい、これ。 これで抑えられる、止められるなら人生何も苦 労しやしない。そうでしよ?  坊さんのほうではよくこう言います。「人間 が極楽行かないまでも、日日をもって安楽に生 きたかったら、何においてもまず欲を捨てなさ れ、欲を。欲捨てなされ」。捨てなされって 言ってからに坊主、欲の深いことね。だからつ いでに言ってくれりゃいい。「あなた方は欲を 捨てなきやいけない。在家の方に欲は禁物じゃ。 欲ば私たち沙門の身だけ」なんて言やいいんだ けど、言わねえ。その証拠には、お布施よけい 持っていきゃ、お経の調子が違ってくるからな。 坊さん言いやしねえ。  「欲を捨てろって和尚さんおっしゃいますけど も、どうすれば欲というもの捨てられま す?」つて聞くとたいてい、これはもうお説教 の紋切型。  「それはなあ、諦めがついてないからだ。一切 合切、諸事万事因縁づくじやと諦めなされ。大 津絵節にも歌ってある。『使い果たして二分残 る。金より大事の忠兵衛さん、咎人になりや しやんしたも……因縁づくじやと諦めくだしや んせ』と」  「諦めろよ」と言われて「あ、そうか。諦め る」とすぐ諦められりや、何も人生苦労しやし ない。諦めろと言われりや言われるほど、諦め られられられられられられない。これが抑制禁 止です。  実は私なんかもねえ、三五歳ぐらいまで、我 慢して生きてたんじやない、知らないから、余 儀なく。あなた方と同じだったんです。それが これじやああかんと思ったそもそもの動機は、 それまでついぞ経験しないことを病になって経 験しちやうんだよ。  それはなんだっていうと、なんと俺、病に対 してこんなに弱い気を持ってるとこみると、俺 は卑怯者だなということを発見したんだよ。そ れまでは命懸けの仕事をして、今の人が全然想 像もできないような、いつ殺されるかわからな いような軍事密偵に、日清・日露の両役を通じ てご奉公していた。その過去の私の強かった心 なんていうものは、病になって病が重篤に陥っ てから、全然どこの隅に行っちやったんだかわ からなくなっちやった。  これねえ、一週間ばかりでやめましたけども、 お恥ずかしいことしちやったんだ、私。あると きひょいと気がついたら、一生懸命に自分の脈 取ってるんだ。かりそめにも医学を知ってる人 間、自分の脈を自分の手で取って何かわかる? これまさに、神経が過敏だから取ったんや。 取ったって何もないやね、これ。今まさに死ぬ という脈打つたからっていったって、ああ、脈 が死にそうになってるから生きようと思ったっ て生きられやしねえ。  そうして、これも病がだいたい結核病だった から、熱がしょっちゅう絶え間ない。それをま あねえ、熱があるのが結核病だということは 知ってながら、暇がありやガラスでこしらえた 体温計という得手物をね、これが気になるんで。 そしてね、「もっとあるはずだがなあ、これ。 七度五分ってことはあるか。もう一遍やれ」。 こういう人いるらしいな。仲間がいるんでいく らか私も安心してるが、しかしねえ、我ながら なんという浅ましい、弱い気持ちになったんだ ろうと思いましたよ。  人にも誇り、自らも許したあの強かったその 昔の俺は、どこ行っちやったんだ。これはいく らあなた方に申し上げても、実地見たんでない からおわかりになりますまいけど。浪花節や新 国劇(天風の軍事探偵生活をモデルにした劇 『満州秘聞』)でよく私のことやってくれますが、 思い起こせばもう五十年も昔、明治三十七年の 三月、ちょうど今囗みたいなうららかな天気の 囗でした。  死刑の宣告を受け、朝の七時に刑場に引かれ まして、後ろ手にこういうふうに縛られて立た せられた、そういう運命を持ってる私でありま す。そのときの助けられた状況を新国劇や浪花 節は謳ってくれてるんですが、そのとき私は死 に対する恐怖、全然ない。軍事密偵を志願して 採用されたときから、「再び囗本には帰れない という、おまえは尊い御国のために人柱になる 人だ。靖国神社で会おう」。川村元帥(川村景 明)に言われた言葉を誇りに持って出発したく らいですから、今の青年の考えられないような 気持ちを、その時分の青年は持ってたんや。  今の青年から見たら、「アホかい、ほんとに。 もう何か国のためや。何か天皇のためや」と思 うだろ。その時分には一生懸命思っとっだ。い や、笑いごとじゃない。ぽんとよ。もうね、 『君が代』が歌われると、涙がポロポロ、ポロ ポロ。天皇が通るときに、何も自分を見たわけ じゃないんだけど、自分のほうを見りゃ、「「 ハア」つとこう言ったもんだよ。  その後ずうっとアメリカ行ってね、まだその 時分には今のような日本人は少なかった。みん なやっぱり天皇陛下が一番偉いものと思ってる。  「おまえも、あれかい? やっぱり天皇陛下の ためには死ぬかい?」つて訊く奴、アメリカの、 スウェットーマーデン(『How to get what you want』の著者。天風はこの本を読んで感動し、 アメリカに訪ねていった)が。  「オフコース」つて言ったら、  「一遍でも、なんかもらったか」と言うから、  「ううん」 「握手でもしてもらったか」 「ううん」 「握手もしないの?」 「うん」 「何ももらわない?」 「うん」つて言ったら、 「ふ1ん、それで死ぬの? おまえ、精神に異 常ないか」つて言われた。  今の若いもんにはこれピーンと来るわね。で もその時分には、「アンチクショー、ヤンキー だなんたってモンキーの風情じやねえか、こい つは」、なんてなふうに考えたもんよ。  それですから死刑の宣告受けて、今何秒かの 後にはこの世を去るという土壇場に立っても、 それも今の若い人全然わからない気持ちで、古 い人はわかるでしよ。軍国に志した青年が今ま   みくに      こ さ さに御国のために、胡砂吹く風の満州の人もい ないこの原っぱの真ん中で、たった三人のロシ ア兵と一人のロシアの将校と一人の満州の通訳 と、五人に俺の死出の門出は見守られていくの か。ああ、この勇ましい俺の姿、せめて産みの 親に見せてやりたい。  母は、私か軍事探偵になって命懸けでもって 国のために尽くすという、これを聞いたときに、 さあもう躍り上かつて喜んだんですよ。「万歳、 万歳、万歳。それでこそ初めて、男の子を産ん だ私の本当の甲斐があったよ。もうその気持ち が出たら、あんたの体はお母さんやお父さんの 体じゃない。お国の体、天皇の体」、それをま た喜んで聞いたもんだ、私。  今のおっかさんなんかにそう言ってごらん。  「お母さん、行って帰れないところへ行くこと にした」  「何? 帰れない? それは死にに行って、そ れいくらもらえるの?」すぐ聞くでしよ。  「カネなんかもらえやしないよ」  「おカネもらえないのにおまえ、死んじまうの かい? お母さんはどうなるの?」  「どうなるったって、お母さんはしようがねえ。 いっしよに連れていくわけにいかない」  「あんた、ここへ座りなさい。あんたなあ、私、 あんた一人が杖よ。柱よ」なんて泣き出しやせ んか。  とにかく、そういう強さを持っていた私の心 が病になった。死ぬのは恐ろしかないけれども、 あの病から来る苦痛に耐えかねてやっちゃった、 えらいみすぼらしい憐れな心。人に侮辱を受け たより、自分自身が自分自身の心の中の憐れさ を感じたときぐらい悔しいことありません。  ここが違うんだ、あんた方と私と。あんた方 は人に馬鹿にされると怒る。馬鹿でもないのに 「馬鹿」なんて言われて、すぐ怒る奴がある。 「馬鹿!」「何か馬鹿や」。自分で馬鹿だと思わ なかったら聞かなくたっていい。馬鹿じゃない 証拠だろ。それをあなた方は馬鹿だから怒るん だろうね、あれ「馬鹿」つて言われると。「ぽ んと言うな」つて。  そういうような状態だから早い話が、少しで も正当の自覚を持って生きてないという場合の ほうが多いんだけど、とにもかくにも強いと思 い込んで自惚れもあったその自惚れの鼻がぴ し1つと折られるような恥ずかしいことを自分 でやって、自分の心の惨めな虐げられた弱さを 感じたとき、本当に「クソ、コンチキショー、 死んじまおうか」と思ったぐらい恥じらいを感 じたよ。それが、私か人生というものを考える ようになったそもそもの動機。  ところが、人生てえものを考え出して驚い ちやったよ。八十三のこんにちになってなおか つ、これでいいわってほどまだわからねえ。わ からないこといくらもあるんですよ。わかった ことだけ教えりやいいんだから、あんた方に。 けれどそのわかった事柄の中で感情の統御、こ れがわかったことが今言ったとおり、ロック フェラーが憧れの気持ちで私にアメリカに来い と言って。幸か不幸か私はまた、日本語の演説 と同じように英語の演説も上手だもんですから、 それでよけい重宝に思われるのかもしれません けれど。  だから「自慢じやないけど」ということをよ く人が言いますが、私は大きな自慢で、世界で たった一人っかない、。。回1{oao4説いてる の。いかにすれば我が身、我が命の心でありな がら自分の思うとおりにこれをコントロールで きるかという方法を知ってるもの。観念要素の 更改、神経反射の調節、同時に積極観念の養成、 クンバ(カ密法やプラナヤマ法、養動法、いろ んなことを教えてるんだもん。  精巧なる機械を、一目見ちやどうしていいん だかわからないような機械でも、十分それをよ く知ってる技師ならば手足のように動かすと同 じように、今まではどうにもならん、何だか我 が身、我が命の心ながらも、感情や本能の狂っ てきたときには、どうにもしやあないやと思っ てた人間が、今度は快刀を持って乱麻を断つよ り以上、右旋回、左旋回、自由だ。  一消極的な感情は抵抗力を弱める  この節、「よろめき」という言葉が流行って ます。私の講演は巧んだ講演じやありません。 こうやってしやべりながら皆様見てるうちに、 すらすらすらすら言わんと欲することを言わし てくださる、私の魂が。よろめきという言葉。 いい言葉ですねこれ、天風会員には。初めての 人は目丸くして見てるけど、何かいいねん、こ れ。天風会員はね、よろめきにはちやんと自分 自身を統御する力を持ってるからね。ここから 以上よろめいちやいけないというときは、よろ めかない、ピサの塔みたいに。もっとも、ピサ の塔このごろひびが入ってるそう。ところがあ なた方が、万が万一よろめき出すてえと、線路 のないところにまで飛び込んでいっちまうから ね。これが危ない。  つまり人生は、よろめきかけたところで止 まってるとこにいいとこがあるね。そして向こ う向く心に、「こっち向け」つて向け得るよう にならなきやあかん。それを「これを怒らずに いられるか」とかね、「これを怖れないで、ど ないするねん」なんて。中にはもつと変な理屈 言つてる。「俺はなあ、怒りたかねえぜ。怒り たかねえや」。怒りたくないなら怒らなきやい いじやねえか。「怒りたくはないけれども、こ れでも怒らずにいられるかというふうにするか ら堪忍容易なく怒るのや」、それは付き合いで 怒つてるんだ。  怒ったり悲しんだり怖れたり悶えたり憎んだ り、ねえ、迷ったり悩んだりすると、一番先に 血が汚くなる。アシドーシス(血液の酸性度が 高くなりすぎた状態)。一番、肉体健康を丈夫 に生かそうとするところの血液が濁っちまうん だ。今日これ少し学術的な話ですが、しておき ます。  とにかく、今言ったような消極的な感情がふ わ1つと出るでしよ。それをコントロールしな いとね、いきなり先どんな結果が来るかという と、交感神経系統がふうっと異常興奮を起こす。 そうすると同時に、よろしいか。腎臓の上にあ る副腎の中からアドレナリンという化学性物質 が発生するんであります。アドレナリン、慌て て言うと舌噛むようだ。  これは何のために発生するかというと、はっ と驚いたり、ぎやあ1つと怒ったりしたときに、 各種の破壊作用が知らない間に細胞組織の中に 生じますから、その生じる破壊作用を防ごうが ための自然現象なんだが、ここなんだ注意すべ き問題は。そういういい目的を持ったものでも、 分量が増えちまうといけないの。どんないいこ とでも、例えば栄養物が大変これいいからとい うんで「お食べ」つてから「それじやあ」つて いって、そいつを仰向いて歩けないほど食って ごらん。すぐ胃カタル起こすもの。  このアドレナリンがいわゆる発生過剰の状態 になると、あれは恐ろしいんだ。いろんな結果 が来るが、一番先には末梢動脈がぴい1つと収 縮するんであります。収縮すると同時に、血液 の循環障害というものが起こってくる。円満に 血液が循環しなくなる。そして恐るべき問題は、 血圧が上昇する。同時にしばしばそれを繰り返 してやってると、血管硬化が早く来る。  この間大阪で、おそばとうどんのすき焼きを するところへ連れていかれた。今、ご馳走する がために言ってるんじやないんですよ。広告頼 まれたんでも何でもない。中年以上の紳士がわ んさ来てる。うまくもなんともないんだ。連れ てってくれた人があそこにいて、こんなこと 言っちや相すまんけど、二度行きたくないから、 何言ってもかまへん。あんまりうまいもんじや ありませんわ。江戸っ子の囗にはちょっと合わ んわ。こんなまずいものようまあ、どっさり食 うわと思ったらね、来てる人はなんで来てるの かと思ったら、  「うどんが食いたい、そばが食いたいで来てる んじやないんだ」  「なんだ?」  「血圧が下がるといって来てる」  「そうか」つて言ってるときに、  「なんで早う持ってこんねん、おい、もう、こ れから東京行くねん」なんて言って怒ってる奴 があるんだ。あれ? そば食って血圧下げて、 怒って血圧上げてるわ。  食べ物からも来ようけれど、一番恐ろしいの はこれだ。末梢動脈を収縮して、毒薬を一生懸 命製造してるんだよ。  それから二番目には、アドレナリンが生産過 剰になると、糖分がどうかしてからに、血液が 酸性化しちまう。この血液の酸性化というのは おっかないんで、血液というものは弱アルカリ 性、学問で言うと純正アルカローシスというの が理想なんであります。  どういうわけで糖分増加するかというと、か あ1つと怒ったり、はあ1つと驚いたりするで しよ。そうすると肝臓の中の糖原質がブドウ糖 に変化しちまうんであります。ブドウ糖に変化 してからに、このブドウ糖が必要なところに流 れててくれりやいいけど、組織の中に入ってく る、このブドウ糖が。よろしいかい? そして 血液をバクテリアに抵抗する抵抗力の弱1いも のにしちまう。  さあ、ここだ。近来、特に戦が終わってから 後、国民のほとんど八割、九割を冒してるとい うあの結核菌。これが憐れ、明日ある将来を持 つ若人をこの世からどんどん帳消しにしてる。 ぽんと言ったら若い者は、血は炎と燃えてるは ずだが、燃えてる血がばい菌に抵抗する力の弱 い血や。「あら、こんなに燃えてるわよ」つて ダメだ、その燃え方はね。何の力もない火が燃 えてるんだもん。絵に描いた火事みてえなもん だ。  しかも、そういう人間の多いのをじいっと見 てごらん。何かゆえにと思うと、病原菌が放射 作用でもって天下に瀰漫したからじゃないんだ よ。何か瀰漫しようが、ばい菌を束で食おうが、 抵抗力があったら冒されやしねえ。  結局要するに、抵抗力の薄弱な人間になっ ちゃってるから、その原因はそもいずこにあり やって言や、心の使い方。結核菌なんかに冒さ れる人間、見てみな。みんな神経が過敏で、気 が弱くて、やたらに怒って、やたらに怖れて、 やたらに悲しんで、憎んで、嫉んで、妬んで、 悶えて、悩んでるわ。そうするとまたね、そば についてる人間、特に親馬鹿ちやんりんの場合 は、変なこと言っちやったけども、他人ならと もかくも親というやつは親馬鹿ちやんりんにな るからね。怒ったり泣いたりするてえと、看護 の人に弁解する。「勘弁してやってください。 病人ですからね。ああ、怒りたいときはお怒り、 お怒り」、何や、これ?  丈夫になりたい、達者で生きたい、長生きし たいという請い願う心がありながら、やってる こと、することなすことすべてのことが、短命 で病が治らないようにすることばかりやってる。 東京に行こうと、代わりに三宮に行って九州行 きの汽車に乗ってるんだ。これ行けるはずがあ りません。いくらカネを山と積もうと、天下の 名医を呼んでこようとダメ。私のところに来て からに、どんな重い病でも、私か引き受けたら へいちゃらで治しちまうのは、正しい道を歩ま せるからなんで。  こんな話がある。神戸から電話かかってきた、 ある奥さんから。その前に結核のひどいのにか かって、肋骨を治療した人が会員になって治っ て、非常に健気になって、この人がもう盛んに 活動してからに、オートバイで乗り回してると いう。それが、親友が東京から久し振りに戻っ てきたてえんで、夜の夜中までいっしよに食っ たり飲んだりしたんでしよ。その挙句、この オートバイに乗って帰る途中に、トラックと衝 突して往来へおっぽり出されて、それで脳底骨 折で病院に入っだ。「もう今夜危ない。先生、 お願いする」、こう言う。  脳底骨折をしたものの、普段の修行は尊いな あ。医者もびっくらこいたっていうんだ。うん うん唸っていても、ここで教わった教義を囗ず さんでいて治っちやったんだから。ねえ。  それなのに、つまんねえ、このごろ風邪引い て死んじまう奴あるぜ。死ぬんならもう少し派 手なことで死になさいよ。つまんねえ、ほんと にもう。馬鹿な奴だと言われるだけじやねえか。 風邪なんかおっかながるなよ。  風が吹いたり囗が出てたりするから、この人 生だよ。風も吹かず日も照らなかったら、いっ たいどうなる。風邪を防ぐ一番の根本的な秘訣 は、風邪をおっかながらないことだよ。「引く んなら引きやがれ、チクショーめ。風邪なんか 引かされたって、こっちは引かねえから」つて、 こういう気持ちでいりやいいんで、おっかな びっくりやってるとすぐ来るぜ。  さ、どうぞ、こういう意味で今日聴いた笑い 話の中にも悟らなきやならないことがあったと 思し召したら、晩にいらっしやい。そしてこの 四日間の講習会で、来る年を颯爽として、新し い面目をI新した生き甲斐のある人間に成り変 わるいい計画です。  ■「六つの力」とは何か  健康も精神力も、また安心立命感も、もっと わかりやすく言えば、健康法の求めるところも、 精神修養の求めるところも、宗教の求めるとこ ろも、打って一丸としたものを自分のものにし て生きている人間というものをつくらない限り、 いわゆる人生幸福を高いところに置くだけで もって、高嶺の花として手に取ることあたわず。 一生涯をただ己の影法師を追っかけて生きるよ うな人生で生き終わらなきやならない人間ばか りが増える。そういう人間ばかり増えたときに は、個人的に言えば、個人の不幸であると同時 に、これが大きな意味における人間の集団であ る国家社会というものを不幸にする。  この点、私、考えざるを得なくなったのであ ります。それが、四十年前の私の気持ちを、事 実としてこういう仕事を行なわせる、第一の動 機にさせたのであります。  ですから、私か組み立てた心身統一法、また 明日からあなた方の理解に正しいお導きを与え る心身統一法は、健康になり得て、さらにまた 精神修養を完膚なく自分のものに成し得て、そ して、いつ省みても盤石不動の安心立命感で人 生に生きられる人間になり得る、資格をつくる 要素を完膚なきまでお教えする計画であります。 これが、心身統一法の人生に対する考証の全体 として組織した、私のイデオロギーであります。  一体全体、たった一つの方法、しかもわずか な日数で、小さなお金で、どういうわけで健康 法の求めるところ、修養法の求めるところ、ま た宗教の志すところが打って一丸として自分の 人生に現実な姿でもって掴めるのか。それは、 そうした事実をわが物に成し得る資格条件とい うものが、この心身統一法を教えられるがまま に無邪気にやっていると、ひとりでに生まれ変 わったような人間のように感じるほど、生命の 中に出てくるのであります。  その資格条件とは何か? いわく「生命の 力」であります。といっても抽象的でおわかり になるまい。分類すると六つに分けられる。  第一が体力、  第二が胆力、  第三が判断力、  第四が断行力、  第五が精力、  第六が能力。  この力、どれ一つとしてなくちやならない大 事な力ですよ。人間がこの世に生まれて、寿命 尽きるその囗まで、この六つの力が完全であ りや完全であるほど、そして自分の生命の内容 に豊富でありや豊富であるほど、我々の人生と いうものは、いつ省みても春風駘蕩たる状態で 生きられるのであります。  そうでしょう? 第一、体力が完全でなけれ ば、この病的刺激の多い人生に生きていくとき に、健康で長寿を全うすることができるか否か 考えてください。今の世の中の人の、いかに弱 い人の多いことか。どうもないというふうに羨 ましいほどの健康美を発揮して生きている大、 百人にI大ありやしません。千人に一人どうや らこうやらか、まあまあ、一万人に一人二人で しようね。何という病はないとしても、やあ、 肩が凝るの、腰が痛いの、やあ、頭が痛いの、 目まいがするの、やあ、胃が痛いの、腹が調子 よくないの……などと言ってなきや生きられな いような、憐れな奴が多くない?  そうしてまた、早死にの人の多いことね。六 十まで生きるのがもうようやくだという人間が、 今の人間には多いんだもの。七十を超すと古来 稀だって言うんですってね。これは何千年前か ら言っている。八十を超した人間は極めて少な く、九十を超した人間はほとんど数えられるぐ らいしかいない。百を超えた人間は囗本中だけ でもって十三人しかいない。  二度も三度も生まれ変わりのきく人生なら、 こりゃいつ死んでもかまわないかもしれない。 しかし、一遍死んだら二度出てこれないのが人 生で、どんな時代でも二度生まれてきた人が あったためしを聞かない。である以上は、生き られるだけ長く生きなきや嘘でしょう?  こう言うと、「そりゃそうや。誰だって長く 生きたいわ。けど、生きられへんがな、こんな 世の中。生きるのにしょっちゅう生存競争の負 担は多いし、おまけに人間という人間は、みん な病人ばかりじやないか。そんな中で生きてい るんだもの。始終この病的刺激でもって苦しめ られていりや、やっぱり巻き添えを食うわな」 なんて間違った議論を少しも間違えていないよ うに考えてる。  天風哲学は厳かに宣言する。私は、確信を 持って、絶対の責任を持って、はっきり申し上 げておく。私の教える心身統一法を無条件に受 け入れて、無邪気にひたぶる心に鞭打ちながら 実行に勤しめば、九十までは必ず生きられると いうことを私は断言するのであります。  私のような、医者がちょいと診てもすぐ「も うあかんわ」と匙を投げる、普通の肺病と違っ た奔馬性の肺結核。原語ではギャロップ性の肺 結核と言います。馬が駆け足するような激しさ で悪くなっちまう、それで肺がどんどんどんど ん崩れていく肺病なの、私のは。ロウソクの蝋 が火でもって溶けるようにね。  その肺病にかかって八年間、三十八回も大き な喀血をして、「この病人が治ったら、煎り豆 に花が咲くぞ」と当時の天皇の侍医頭をしてい た医者が公然と言ったくらい、見込みのなかっ た私か、あなた方に教える方法を行なっている ばかりに、現在ただいま非常に弱そうに見えま す? なんとなくやつれていて、話するのも 痛々しげな、気息奄々としてお気の毒だと見え る?「なんて小憎らしい爺だろう」と思うだろ う? これ、この方法のおかげであります。ま だ私は九十になっていませんから、九十まで生 きられるなんて偉そうなことを言うのは、少し 僭越だと思し召すかもしれないが、私の教えた 著名な人がみんな九十まで生きている。  私のこの体で、右肺の五分の二はほとんど役 をしない肺であります。それが、ありかたいか な、真理に即して人生に生きるという方法を行 なうと、我ながらあきれるほど強いものが、体 力の中に漲り謚れてくるんですよ。  それを、若い人間でありながら、少しでも普 段やりつけない仕事をすると、「おお、しんど」。 ありゃよくない言葉だよ。半分以上はあの言葉 で自分が疲れている。わがままな放縦な贅沢な 気持ちが、そんな弱音を吐かせるのでしょうけ れども。また、そんなことを言っている奴に 限ってからに、ちょっとしたことも原因になっ てすぐ体を悪くする。それじゃ長生きできませ んよ。  のみならず、油断もできない人生。のべつ 我々を病に陥れようとする病的刺激が、手を変 え品を変えて、我々の生命の隙をじっと見てい るんですから。それをただポーツと空気の圧迫 で、ついでに生きているような生き方で生きて いたんじや、これは長生きなんかできやしませ ん。  それから、仮にどうかこうか、まあ、ある程 度まで寿命長く生きられても、胆力なき世界に 生きたらどうだろう? 近来、嫌な言葉がは やっているね。昔の神経衰弱、今のノイローゼ。 ノイローゼという言葉ばかりかと思ったら、サ ラリーマンのおかみさんの月末はナイローゼ だってね(笑)。これは、神経過敏で気が弱く なっちやったから生じる現象だ。  胆力ある者は、容易にものに驚きやしません。 気の小さいのを自慢にしている奴があるだろ う? 恐ろしく飛び離れた馬鹿だと思う、私。 剛健、容易に物に動じない胆力、これは欲しい もんです。ちょいとしたことでもすぐにビクツ として、胸がドキドキツ、これじゃ長生きでき るはずがない。体の中の調子を全然狂わせちま う。どんな精巧なスイス一等の時計だって、の べつ金槌で引っぱたいてしまえば狂っちまう。  人間の体だってそうだもの。できている人と いうものは、容易に消極的な怒りだとか怖れた とか悲しみというものに動かされないんです、 心が。だから、できている人間を傍から見てい ると無神経か馬鹿に見えるでしょう。慌てて急 いで、周章狼狽(うろたえて騒ぐこと)、懇切 丁寧に驚いたり泣いたり怖れたりしないもの。  と言っている間にも、少し大きな地震でもあ ると、すぐわかるんだがね。たいてい私の話な んか聞かないで飛び出しちまうぜ。見えない地 震とかけっこを始めやがる。残るのは私ひとり だ、たいてい。もっとも「先生と一緒に死んじ まおう」なんて奴は、私のところへ来るかもし れないけどもね。  あなた方が人生に生きる場合、心のできてい             ふうせいかくれいしゅんじゅんじくじ ない人は、形容すれば「風声鶴唳、逡巡忸怩」、 薄い氷の上をおっかなびっくり渡って歩いてい ると同じような、少しも心の安んじている状態 のない人生に生きていやしません? そういう 人生に生きて、しょっちゅう心臓をはじめ、神 経系統の生活機能に乱調子をつくつて生きてい る人間。生きる力が衰えるばかりじゃない、仮 にある程度長生きができても、毎日一日が楽し くないでしょう? どうです?  そうしてこの胆力のできていない奴は、赤ん 坊に対しても恥ずかしい。夜の寝つきが悪くて 熟睡ができない。赤ん坊に少し教われ。まだ物 心のつかない時分からすやすやと寝ます、催眠 剤を飲まずに。それを、いい年をしやかつて、 物心ついて色気が出て、赤ん坊より利口になっ ていながら夜寝られないなんて、それなら広場 にでも行きやいいんだけれども、床の中でごろ んごろんしているだけ。これ「胆力なきが故な り」ということを結論的に言っておきますぜ。 つまらないことに気を引っかからせて、それと 取っ組み合って関わり合いつけて、ああでもな いこうでもない、滑った転んだで寝ないじやな いか。「寝られない」つて言ってんだ、そして。 寝られないんじやない、寝ないんだよ。  ネガティブとポジティブとは違うんだぜ。寝 られないというのは、他力的な原因があって寝 られない場合。寝ないで寝られないというのは 贅沢だがな。そうして、おどおどせかせか落ち 着かない。歩く姿を見たって、何を追っかけて 歩いているんだか、何に追っかけられて歩いて いるのか、落ち着きのない人間の歩く姿が街に、 もうそこにもここにもだ。だから、そういう人 間なんかが、少し自分の尊敬するような人間や 医者なんかに嘘でも驚かされると、びっくりし て上がっちまうのよ。  「あんた、どこか悪くないのかな?」  「いいえ」  「いいえって、のんきだな。よく考えてこらん。 どこか悪くはないかい。気持ちは?」  「どうもありません」  [どうもないはずはないだろう、亘]つ青だが な」  「えっ、そうですかM」……それでもういけな くなっちゃう、胆力のない奴はね。  たった今まで元気で働いていた奴が、医者に 行ってからに、医者が少し首を傾げてからに 「用心しなきやだめだな、こりゃ。素人はだか らおっかないよ」なんて言われると、もう一遍 でペシヤツとなっちまいますもんね。何のこと はない、医者にこしらえてもらった体のように 思って、気を落としてしまう奴がある。  それから、第三の判断力、これがいかに今の 世の中の大に少ないか。考えの足らないばっか りにやり損なっちや、後で後悔している大が多 かないかい? 同時に、相呼応して断行力がま た極めて乏しい。だからこの世の中に、大とい う人の数は多くはあれど、成功しない奴のいか に多いことよ。  世間を見てごらん。男四十ともなりや、もう 立派に成功してなきやならない人間が、数にお いて多くあるべきはず。ところが、五十になっ ても六十になっても一向に花の咲かない「わた しや河原の枯れすすき」というような奴が多い ぜ。  「今年俺も五十八だが、なんにも今までいいこ とはなかった。せめて連れ添う女房に春夏秋冬 一枚ずつも着物を着せてやって、夏冬には山な り海になりに連れて行ってやりたい気持ちで最 初は夫婦になったんだが、なんにもしてやれな かった。来年はひとつ」……ダメ、そんなのは。 ただの空元気で立っていたって、人生解決つき やしない。これすなわち、判断力と断行力と兼 ね備わざるがためなり。  それから精力。これもまた、はち切れるよう な旺盛さを持っていなきやだめだ。精力には二 色ある。肉体精力と精神精力。肉体精力が衰え ちまえば、相撲じやないけれども、年が若くて 年寄になつちまう、「若年寄」。人間、生きてる 間、精力を衰えさせちやだめよ。これは男も女 も共通的なのよ。たいていもう六十を超しちま うと、男も女もすっかりそれにはご用がなく なつちまう。何を楽しみに生きてらつしやる の? 精力の衰えた体、ひびの人つだコップよ りまだ情けないわ。  それから、精神的精力が落ちるとどうなる? 克己心と忍耐力がなくなつちまう。よく年をと ると気が短くなるとか、根が続かないとか、や たら癇癪を起こすなんていうのは、精神的孑孑 ルギーが減退した結果だ。もつとも、この頃は 若い奴でも減退し切つちやつてる奴があるね。 やたらに怒りっぽい奴がいる。妻君なんていう ものは、まるで怒る相手のように考えている奴 がある。  それから能力、これにも二色。肉体能力、精 神能力。これも減退したら、実に人間というも のは憐れ惨憺、この世を生きる範囲が狭いもの になつちまう。  人生は、やせ我慢や空威張りや独り決めのド グマ(教義)の断定では、なんとしても解決は つかないんであります。なぜならば、生きてい るということが既に現実なんです。  人生とは、現実の命が生きている瞬間瞬間を 指して言うんでしょう? もつとわかりやすく 言えば、切りや赤い血の出るこの肉体を、生か しているという意識感覚を持っているIコマー コマが人生なんだ。この現実の人生を生きてい るお互いが、夢のようなかりそめな空想や独り 決めの断定で解決がつくと思ったら大違い。現 実の世界は、あくまでも現実の理解を実行に移 さなきや。どんなに学問をしても経験を積んで も、こうした事柄を解決する方法や手段という ものは、専門に何十年か生命をぶつけて研究し た者でなきや、わかっていないのが事実であり ます。  世界にいる学者が説いている方法は。。回1{o ’々。。に重きを置いてあるのであります。人生 の本当に念願し、求むるところのものは、もう 一つ上じやないか? 百万年理論を費やしても、 現実の会得を教えてくれないものはなんにもな りません。我らの生きている生命が求めている ものは。。回1{oao4だ。  一六つの力を自己批判せよ  今日のこの集まりは、まだ天風会というもの をご存じない、言い換えれば今晩初めてこの席 に会員のお導きでおいでになった方々に、はっ きり天風会のあり方とそれから天風会の教義の 「心身統一法」というものの目的、同時に人生 のどんな考証が組織の内容になってるかという ことを、はっきりわかっていただくための催し であります。  天風会で教えることごとくのすべては、生き がいのある人生に生きられる資格条件として一 番必要な、この生命の内容の力を増やすのがそ の目的の全部だと。そこで私は、結論的にあな た方に、重複にわたる怖れがあるかもしれませ んが、私としては、初めての方々にですよ、六 つの力が自分で考えて本当に安心のできる程度 あるかないかを、ひとつ今晩、寝際にとつくり と考えていただきたいんであります。  「我に頑健鉄のごとき体力ありや否や?」  「剛健、容易にものに動じない胆力があるかし ら?」  「判断力は入念か?」  「断行力は颯爽としているか?」  「精力は絶倫か?」  「能力は優秀か?」と。  その場合に、どんな場合があっても自己批判 に対して、身贔屓や痩せ我慢や空威張りがあっ ちやいけないんですよ。自己を批判する場合は、 あくまでも秋霜烈日であれ。かりそめにも手加 減があっちやいけない。  というのはなぜかと言うと、生きてるという ことは現実であります。切れば赤い血がピッと 出るこの肉体を、意識的に感覚する瞬間瞬間を 名付けて人生と言う。夢でもなければ幻でもな い。さらば、夢でなく幻でない人生を考える場 合は、今言ったとおり、痩せ我慢や屁理屈や身 贔屓や手加減があってはいけないことはもちろ んですな。他人事じゃない、自分の生命の直接 の問題です。  真剣にお考えなさいよ。いささかといえども、 体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力のこ の六つの力の中にマイナスを感じる人は、明日 からおいでになりやいいわけだ。常識が豊かで あれば、人生いかなる場合があろうとも、この 六つの力の内容量が現実的に豊富でなきやいけ ないぐらいのことは、多く言わずもがな、皆さ んよくご承知であります。ご承知でありながら、 大という人の数のみいたずらに多くして、この 六つの力が完全に備わってる大が、なんと暁の 星よりも少ないのはなぜかということを、一つ 考えてほしいのであります。  結局、結論は簡単です。その必要を知りなが ら、現代人がこの力の現実の所有者でない人の 多いのは、この六つの力が何か金でもごっそり できりやできるように思ったり、さもなくんば、 名誉か地位でも勝ち得りやできるかのごとく、 極めて皮相的な軽率な判断でそれを考えている ということが、結局大きなエラーであり嘘であ るために、現実のものを完全に知り得ずにいる のであります。  私なんかも、こういう尊いことを悟らせてい ただくまでは、お恥ずかしいが、やっぱりそう いう考え方を大した間違いだとは思っていない という間違いを、平気で間違って生きてたもの であります。  私も医学を研究した人間でありますだけに、 どうしてもその病というものに対する処置の考 え方は、医学的知識の外に出て気づかないので、 情けないほど医学というものの殼の中に閉じこ もって、そしてその医学という殼の中に閉じこ もって考える考え方によって、それ以外には病 を治す手段はないと考えた考え方に、間違いが ないと思っていたのであります。これが大きな 間違いだったということに気がつかないんです から。  と申し上げてもわからないくらい、素人諸君 は病になったら医者にかかって、医者の処置で もって治す以外に方法がないじやないかと、こ う言うでしよ? 私も当然そう思ってたの。け ど、それがそうでない証拠にすぐ私自身が気づ いたのは、医学を研究していながら、自分の病 をその医学的知識で治せなかったという現実は、 自分の持つてるいわゆる医学というものの内容 のあまりにも力弱さを感じないではいられない という事実だけがトータルに残るからです。  また、そういう難しい言い回しをしなくても、 世にある事柄であなた方がすぐ悟れるはず。と いうのは、医学を私は中傷してるのでもなけれ ば、悪口を言ってるのでもないんですよ。本当 のことを本当だと言ってるだけなんで。もしも、 医学が万病のことごとくを治し得る力があると すればですよ、これだけ病院が増えて、これだ け医者の数が余計いて、そのうえに薬屋の数の 多いことは、驚くなかれ、世界で我が日本が一 番。  外国へ行ったことのない人は、どこにでも やっぱりこういう病院の数が多くあって、医者 の数が多くいてからに、そして薬屋の数が多い と思つていらつしゃるでしよ? どういたしま して、世界で一番日本が、薬屋の数と病院の数 と医者の数は多いんだ。それじゃ、健康者もま た世界で一番多いかと思うと、あにはからんや、 矛盾の事実は悲しむべし。そこに現実に存在し てる病人の多いこと。これをいったい、どうい う論理で正しく結論づけられますか?  これはまさに医学、万病に対してことごとく これを快復せしめ得る力なきを、あまりにも証 明して明瞭じやないでしょうか。非常に言い回 しが遠回しですから、インスタントはやりの現 代人の理解にピタッとくるように、もつと率直、 簡明に言つちまえば、医学の効き目が思うよう に頼りにならないことを、一番よく知つてるの は医者だと申し上げましょう。  医者それ自身と同時に、もう一つ知つてる人 間がいる。それはなんだと言うと、医者の家族 であります。他人に「おたくの旦那さんは、こ ういう病をお治しくださるでしようか」と言え ば、連れ添う女房として「いや、うちの亭主な んかそんなことできませんよ」とは言いません よ。「まあ、おいであそばせ。一遍診てさしあ げますから」ときますよ。それは、一つは収入 の問題にも関係するから。  若いときの私の竹馬の友に、しまいには日本 一の医者だとまで評判を上げた男がいたのであ ります。まだ今上天皇の侍医長になる前でして、 私の今の本郷の家のちょうど真上に住んでたの で、学生時代からの友だちで、奥さんとも非常 に心安いんですがね。  もう相当名が売れ出してからのある日。  「ねえ、天風先生、変なことを聞くようですけ ども、うちの主人を今度は天子様のお脈をとる お医者にという宮内省からのお話があって、何 か日本で一番うちの主人が上手な医者だって評 判だそうですけれども、本当にうちのはそんな に上手いんですか?」  と聞くからね、  「さあ、そういう答えをはっきり僕に言わせる のは少し残酷だよ。あんたはどう考える?」  と言ったら、  「私、うちの主人なんか、何か名医だと思うん ですよ。だって、うちの子供や私の風邪引き一 つ治せないんだから。自分の神経痛さえ、長い 間治せずに困つてるんです。あんなの何か名人 なんです?」  と言うんだな、(((ツ。  「いや、そう言われると、俺もちよつと言う言 葉ないがね。しかしあれ、偉いとこがあるで」  「そう? 長年連れ添つてるけど、私、あの男 の偉いと思うとこはあまり認めないんですけど、 どんなとこが偉いの?」と言うから、  「連れ添う女房でわからないはずはないだろう。 たった一つ偉いとこがあるわ」  「何さ?」  「金儲けが上手じゃないか」  「それは認めてるわ、私。結婚以来、一遍もお 金じゃ不自由させられてないから。だから私 だって、辛抱してこうやって一緒にいるんじゃ ないの」とこう言うわけ。  しかし、一遍笑い話でその医者に、「おい、  おまえ、うちの女房ぐらいには信用されろよ」 と言ったら「ああ、嘆かわしいかな、預言者郷 里に容れられず(すぐれた人物は故郷に受け入 れられないことが多いというたとえ)」つて そっくり返りやがっだ。((ツ。これは笑い話 としてお聞かせしてるけれども、本当の医学の 持つ力です。もっと詳しく言っちまえば、医学 の持つ力が人間の期待を完全に満足させるほど、 まだいわゆる理想通りの進歩をしていないがた めなの。  千年、万年、経ったらば、あるいは万病こと ごとく人間の研究した医学で治し得るときもき ましよう。けど、たとえ世はいたずらに文化の クライマックスに達しているかのごときに見え る今でも、その方面はまだまだまだ。それは昔 の医学と現代の医学とを比較すれば、いわゆる 外科的方面の手術の方法とか、あるいは結核的 なばい菌性の病に対しての治療の方法手段は、 十年前と今とは比較にならんほど進歩してます けれど、循環器障害や内臓臓器の障害に対して のほうの治療法は、今も昔も牛歩なお遅々とし て進まざることおびただしいのであります。  これを知ってるのは医者ですよ。だから一生 懸命研究して、毎年医学大会を開いちや、その 方面に関するところの自分たちの研究を話し 合って、その進歩を一日も早くと努力してるん だ。もっとわかりやすく言えば、例えば循環器 障害ですから脳溢血だとか血管の硬化だとか、 内臓臓器の障害ですから心臓だとか肝臓だとか 腎臓だとか膵臓だとか脾臓だとかというような 方面の、要するに体の中にある五臓六腑のほう の障害に対しては、治す治さんは今も昔も同じ こと。完治させられないほうが多いんでありま す。  これだけ医学が進んでるんですから、せめて は胃がんや胃潰瘍のようなものが、人間の世界 からなくなってほしいことは誰でも念願として ましょうが、やがて医科学方面の研究の進歩が 現実化すれば、千年、二千年の後の人類の社会 には、がんというものはなくなるでしょうけれ ど、今まだいけませんわ。なくそうがための努 力はしてることは確かでありますが。努力をし てるということは、その目的をまだ達していな いということなんですから。  ■人生に対する正しい理解  だがしかし、今でこそこういうことを私か はっきり言い得る研究はしましたものの、私か 病になった当時はですよ、全然そんなことは考 えてませんから。私か医者の学問をしたのは、 自分の病を自分で治そうがために研究したんで すから。それが一向に自分の会得した医学的知 識じゃ、私の病は治せなかった。それは、はじ め治ると思ったよ。  そしてまた、今から考えてみりゃ、おかしな ことをまじめに考えちゃうんだ。金でもうんと こしらえて、その金の力でもって思いつ切り体 のためになる薬を飲んだり、注射したり、そし てまた体の栄養、滋養になる食い物を、お金の 力でうんと食ったら丈夫になるだろう。今どき の子供でも考えないようなことを、その時分の 私は考えていたんですから。時代の進歩とはい え、いわゆるこういうのが文字通り「笑えない 滑稽」つて言うんでしようなあ。  それがために、虚しく私は病にかかって八ヵ 年、そしてこういう人生に悟りを開くまで十数 年かかったんであります  ですから、はっきり最初に申し上げときます よ。体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力 という、人生を本当に生きがいあるものにする のに必要な条件つていうものは、よろしいか、 金の力や、あるいは名誉や地位の力や、あるい は物質の力じゃ、どうしてもできつこないんで あります。また、それでできるとしたら、貧乏 人にはこういう力がないはずだが、皮肉なるか な皮肉なるかなI。  ついこの間の老人の囗、東京の一番長命な奴 はどこにいると探したら、下谷の金杉の裏町に ルンペンのおじさんで百三歳。ニュースを取り に行ったジャーナリストがあきれ返ったそうだ。 コンクリートの上にアンペラ(むしろ)引いて る上に、これが一年三百六十五日の俺の住み家 だと。  「夜もおじさん、ここに寝るのかい?」  「ここへ寝るよ、ほかに行くとこねえじやねえ の」  共同便所の脇のゴミ捨て小屋の脇の、半坪ば かりのコンクリートの上に薄っぺらなアンペラ を引いただけなの。  「夜具も布団もねえけども」つて、  「夜具や布団があってたまるかい、俺たちみた いな人間に」  「おじさん、風邪引かないのかい?」つて、  「夜具や布団を着るから風邪引くんだよ。俺は このまま寝るよ」  「ふえ1.食い物はどんなものを食ってる の?」  「食い物は、おめえたちが食えるようなものは 食ってやしねえ」  「どんなもの食ってるんだよ」と言ったら、  「さあ、たいていオカラかな。さもなきやあれ だ、八百屋で捨てるような菜っ葉のくずや、ゴ ボウやイモの切れっ端を食ってるだけだよ」  「米の飯は?」  「そんな贅沢なもの食えるかい。第一、米の飯 食うと患う、俺たちは」 「ええっ? ぽんとかよ」 「そうだよ。米の飯食うっていうと、すぐ腹具 合を悪くするんでもって、たとえ炊きたての飯 を持ってきても、飯だけなら断るから。どうし ても受け取らしたかったら、銭をつけてくれ。 銭だけもらって米のほうは返してもいい。返す のがいけねえって言うんなら、それは他の奴に やるから」つてこう言ったわけよ。   医学的から言ったら、カロリーやビタミンも カルシウムも、もちろんホルモンも足らない貧 弱なものを食つてて、しかも、ぶち殺しても死 なないような強さを持つてたと言うんですから。 耳が少し遠いそうです。けど、目は確かで、歯 は両方ともみんな上下ないんだそうです。入れ 歯はもちろん入れやしません。入れ歯入れるぐ らいの金がありや、食い物のほうに変えちまう で。土手(歯ぐき)でかじつてるんだね。それ でも、土手がもう硬くコンクリートみたいに なっちやってるんでしょ、長い間の慣れでねえ。 ほいで、ニュースを取りに行ったジャーナリス トに私は、「弱ってる?」「ああ、あの爺、下手 すると百十ぐらいまで平気で生きますよ」つて 言うんだ。  これに引きかえて、金にあかせて養生だ、栄 養だ、そしてしょっちゅう有名な医者を二人、 三人、まるでおそば付きの医者みたいに使って る金持ちが、しょっちゅう肩が痛いの、頭が痛 いの、目が回るの、やれどこが痛いのここが 突っ張ってるのって、一日一分といえど「ああ、 今日はどこもどうもない」というような日日を 送ってる奴が極めて少ないのは何ゆえぞ、とい うことを考えませんか?  結局、この六つの力は、なんとしても金や地 位や名誉や物質じゃできない証拠なの。それが できりゃ、私も何も毎晩この年になるまでこう いうとこへ立って講演なんかしないでもって、 要領よく大きな病院で、もうこのぐらいの年に なったら自分で診察しませんよ。弟子の医学博 士に診察させといて、手に余る奴だけはとにか く容態だけを診といて「これは、こういうふう にしたらいいだろう」「これにはもう少しこう いう薬を混ぜたらよかろう」ぐらいのことを 言ってね。熱海か別府にでも行って、のんきに 毎日をぶらぶら生きてますよ。  しかしそれじゃ、人類が救えないから、やむ にやまれず今もってこういうことを、しかもあ りかたく楽しく尊くさせていただいてます。私 は大正八年にこれを始めたんです。そのときは 私も若かった。今から四十三年前、「水もした たる」とは言わないけれども、芳紀まさに四十 三歳のとき。あったんですよ、そういうこと。  四十三で始めるときに、私はこう思っだの。 どんどん目まぐるしいほどの進歩をもって文化 が進みつつあるこの現代は、やがて二十年も経 つと、人々が人生に対する常識を、今私か持っ てるようなこの程度までは必ず一様に申し合わ せたように、持つときが来るに違いないと。で、 六十になったら、それじゃみんなそういうこと を知ってる時代が来るんだから、そうなったら またほかのことで人の世のために尽くそうと。  つまり、「心身統一法」と言ったって、「ああ、 それ知ってる」つていう奴が多かったら、言う 張り合いもなきや、第一来やしませんからね、 誰も。時はまたたく間に経って、早くも昭和の 十年。ちょうど始めて二十年目、昭和の十年頃 はどうだっていうと、始めた大正八年よりもっ と変てこな奴が増えちやった。変てこな奴とい うのは、結局、人生に対して正しい理解を持だ ない奴。  人生が何やら、生きてるのがどういうわけで 生きてるのやら、人間の生命の中にいかなる。。 Reserved Power(潜在勢力)。。があるのやら知 らずに、ぽお1つと空気の圧迫で生きてる奴が だんだん数が多くなっちやったんで、「少し違 うぞこれは。六十になったら俺はほかの仕事を しなきやならないことになるかと思ったら、ど ういたしまして、ますますもってからに、この 方面に対し努力をせざるべからず」と、こう感 じてね。  せめてもう十年と思って昭和の二十年になっ たら、なんと予期もせざりし、囗本の大きな百 八十度でのコンパーション(り呂片邑呂)、ガタ ン、ピシャーンというんで日本はひっくり返 ちやったんだ。そうしたら同時に、その国に住 む日本人−あなた方のことを言ってるんだぜ I終戦前の日本人と全然打って変わったよう な人間が、一夜にしてできたと言っても言いす ぎでないほど。  世界でも大義名分を重んずる国民、これより 以上の国民はなかろうとまで言われた日本国民 が、あろうことかあるまいことか、世界でも一 番みっともねえ国民になっちまったというよう な状態になっちやったんであります。言いたか ないよ、日本人が日本人同士のことをね。  二人でいるとき、一つしかないもんだったら 二つに分ける。一つのものを四人の人間に行き 渡らせるように四つに分けるぐらいの心持ちを 持ってた日本人が、どうです今は。親子の間で 責め合い、兄弟の間でもって争い合い、師弟の 間も主従の間もありやしない。己一人あるだけ の人生というような考え方でもって、道義も廃 れていれば、人類愛もほとんど枯れきってるよ うな状態になってる。  あの昭和二十年の終戦直後の有り様を見たと きに、私は、すべての私の計算が裏切られたこ とに直感的な大きな自覚を促されて、「これは 一生、たとえ幾つまで生きようと、息の止まる その刹那まで、現代の人の魂にもっと本当に焼 きを入れずんばあるべからず」とこう考えて、 もう何十年経ったらなんて、そんな当てになら ん望みは捨てたのであります。  そうして始めて以来四十三年、空には人間の こしらえた衛星が飛んでる、どんな草深き田舎 に行ってもテレビがある、電気洗濯機があると いうような文化の時代でありながら、人間とい うものはどうだと言うと、その文化の実際的設 備に反比例したような、人に生まれながら人と しての本当の生き方も知らずして、その結果、 やれ病だの、やれ運命だのと、かりそめならず 生きてる生物の中の一番の霊長たる人間ともあ るものが、一番生きがいのない状態で生きてる 人の多いのが、現在この目に映る姿、なんとし ても私はやむにやまれない。  ですから、こうやって一晩も休まず、次から 次へとこの尊いお仕事をして歩くことももちろ ん、それは自分の責任ですから。この決心牢固 として、私の心の中には抜くべからざるものに なり得たのも、世相の実際がそうさせたからな のですから。  しかも、今言ったような驚くべき文化の時代 でありながら、なおかつ人生を考えない人が多 いから、それは。その人生を完全に生きがいの あるものにする、必要な根本条件とも言うべき 六つの力を、どうすりやつくれるということを 知らずして生きてる人が、事実において多い。 その人たちに明日から、簡単明瞭にこういう正 しい自覚を根本として、こういう方法を行ない さえすりゃ、ぐんぐん力が増えてくるよ、とい うことをお教えしようとしてるのであります。  ですから、そうかと思ってそれじゃ、どうし ても現在のマイナスの生命の状態をプラスのも のにしなきやいけないと思う人、それはもう万 障繰り合わせていらっしゃい。しかし今夜寝が けに考えてね、「まあいいや、このぐらいで。 あまりよくなっても近所隣にもすまねえし。今 でさえ少し飯食いすぎるって怒られるんだから、 これ以上また丈夫になっておん出されてもつま んねえから」と思うような、妙な気持ちを持つ んなら来ないほうがいい。お寒い晩でもありま すからね。  たとえ何か何あろうとも一遍生まれてI遍死 んじまえば、二度と生まれてこられない人生に 今日生きてる以上、たとえ明日死ぬとせよ、 「ああ、本当に生きがいのある」という人生を 味わって死なずんばあるべからず。  それじゃ、今のこの体の力じゃだめだと。こ の心の力じゃだめだと。生命の内容に存在する 一切のマイナスをプラスにしようという気持ち のある方だけ、二度繰り返す、一切の万障をな げうって明日の晩からいらっしゃい。たった四 日だもの、あと。さすれば、私のこれまでの人 生体験を結晶した心身統一法を、惜しげもなく お教えして、本当の幸福の人生に生きられる幸 いをお分かちしましよう。  さあ、右にする左にするは、今夜寝がけにあ なた方の心とあなた方が対決してからの結果だ。 そうして、行かずんばあるべからずという気持 ちを出した人こそ、まことに尊いかな、階級の 高い人生理念に目覚められた方でありますから、 その人々を喜んで私、お導きしましよう。   一潜在勢力の煥発  心身統一法の結論的な目的は、潜在勢力を煥 発して、ここに書いた六つの力を完全に生命の 表面に発現せしめようとするのが、終始一貫し た目的なのであります。  「潜在勢力」、英語で言うと。。Reserved Power 440  ところが、この潜在勢力という言葉すら初 めて聞いたというような人が、現代には相当多 いんじやないんでしょうか? 自分が生まれな がら自分の生命の中に、それが男であれ女であ れ、老人であれ青年であれ、皆平均して万物の 霊長たる資格を発揮するために、生まれたとき 既にこの潜在勢力(Reserved Power)というも のは、生命の中に与えられてあるのであります けれども、残念ながら現代の物質文化に生きる 人々の多くは、その力の存在すらをも全然考え ないというよりは、むしろ知らない人のほうが 多いんであります。せいぜいまあ、全体生命の 三割を使ってるのが普通人でしようなあ。よっ ぽどI生懸命使ってる大で、四割内外。五割ま で使う大は滅多にないんです。  だから、この文化の現代に、やたらと不健康 者や不運命者が増加してるのは、それが原因な のであります。しかし、今も言ったとおり、こ の潜在勢力というのは、お互いが万物の霊長だ る真価を発現するシンボル、いわゆるこれが象 徴なんですから、したがって、出す出し方さえ 知っていりや、極めて容易に簡単に出てくるの であります。  ところが、出し方を知らないために、憐れ宝 の持ち腐れ。一生こういう力を与えられている のも知らずして、一生を終わってる方が随分こ の世の中に多くはないでしょうか? しかし、 ここで真剣に考えていただきたいのは、人間っ ていうものは、一遍生まれて一遍死んだら、二 度出てこられないんだよ。  すると、これ今生の現在刹那の人生は、まこ とに何ものにも代えがたい貴重なものでしょう。 である以上は、でき得るだけ自分の人生を、運 命的にも健康的にも完全な状態で生かさなきや 嘘であります。しかも、それが難しいことかと いうと、かえって不健康で不運命で生きるほう が難しいんだ。  やがて明日から、科学性の合理的な方法をあ なた方が教わってやり出すと、事実が最後の証 明者ですから、すぐおわかりになるの。こんな にもやさしく健康になれ、こんなにも簡単に運 命というものを挽回することができるものかと いうふうに、必ず思いあたられる事実が、あな た方に一切を証拠立てましよう。  ですからね、人生はどこまで行っても現実の 世界ですから、やせ我慢や空威張りでは解決し ないのであります。現実の世界は、あくまでも 現実の理解を現実に実行してのみ、それは解決 がつけられるんですから。今ここに書いた六つ の力の一つでも、まだもう少し欲しいと思われ る方は、遠慮なく明日からいらっしやいませ。  エマーソンという哲学者が言った言葉に「人 間の一生の運不運というものは、その人の一生 に会った大によって定まる」と言っている。そ れぞれ違った動機やご因縁で、この席においで になっだのではありましょうけれども、来られ たという事実はもう一つでありますから、この 来られたチャンス、おそらくはそういう方法を 教えてくれると思わず来られた人は、いわゆる (プニングであります。  しかし、来られたというこの事実を善用せら れて、自分の生命を本当に生きがいのある状態 に生かすことは、自分が人間に生まれた、こ りゃ当然の義務でしょう。ですから、再び繰り 返して申し上げる。ご自分自身、ここに書いた 六つの力が完全か完全でないかを厳格に批判せ られて、少しでも足らなかったと思ったら、明 日からいらっしやいませ。 第二章生きがいについて  一なぜ幸福に生きられないのか  多くの場合、人々の常識は、人間というもの は幸福を求めることがその生涯の人生念願であ ると、こういうふうに考えてる考え方を、少し も間違っていないように考えてるというのが百 人が百人、千人が千人でしょう。それは日本人 ばかりじゃない。人としてこの世に生きてる者 が、彼らが勉強するのも努力するのも、結局は、 自己の人生をできるだけ幸福にあらしめたいた めの念願だと、こういうふうにもちろん誰でも が思ってやってるらしいのですが。  ここに私か、私自身の哲学のうえから、そう 思う考え方よりももっと一段優れた考え方を人 生に持って生きるほうが、本当の恵まれた人生 に生き得る秘訣だということをお話ししてみた いと。もちろん私も、こういう方面の研究をし なかった当時は、おおむね多くの人が共通的に 持っている幸福に対する考え方と同じだった。 人間というのは結局、幸福を求めることを生涯 の念願として生きてるものだと。  しかし、だんだんとこの人生というものを研 究していくにつれて、こういうことを私は、特 にインド哲学を研究してから気がついた。それ は何かというと、人間というものは万物の霊長 であるだけにそれだけに、生まれながらに健康 であり得るようにできてるんだと、このことで す。  ところが、真理は厳粛にそう結論されている にかかわらず、さて事実はというと、この人生 に生きてる大という人の多くが、本当に健康に 生きてる大は極めて数が少ない。これはどうい うわけだろう。どういうわけだろうということ を考える前に、結局、幸福に生きてる大が少な いから「幸福を、幸福を」と念願する気持ちが、 人々の人生に求める心の中に発動してるんだと 言い得るので。これを、ほかのことで考えてみ ればすぐわかるんですな。  例えば、このごろの世界の民族意識のスロー ガンは「平和」であります。どこの国の人でも 「平和、平和」と。この平和というのは、結局、 平和でない現在情勢下に各国共にあるがために、 結局、かくある時代を経過させたくないという 念願から「平和、平和」と、その声が民族意識 のスローガンになった、否、なってると言って いい。もう世の中がすっかり理想どおりの平和 になっちまえば、誰も「平和」ということを囗 にする者はいなくなるんであります。  幸福もまたしかり。「幸福になりたい、幸福 になりたい」というのは、幸福でない者が言っ てることなんで、本当に幸福になってる者はも うそこに安住してるんですから、それより以上 のものを求める気持ちは出ない。だから会う人 ごとに幸福を念願してるという心の状態がうか がわれるのは、結局、幸福に生きてる人が極め て少ないからだということが考えられると同時 に、もう一つ、また一歩進んだ高いところから の考え方によると、今私の言ったとおり、人間 というのは生まれながら幸福であり得るように できているんだということが、結局でき得るこ とだから、人々はそう考えてるに違いない。  どんなことをしても幸福になれないという、 幸福というものが絶対的に人生にどんな努力を しても、どんな工夫をしても、与えられぬもの だとしたらば、誰も「幸福」ということを囗に する者さえなかろう。  例えば、このごろ流行る百万円、二百万円、 四百万円の富くじだってそうでしよ? 誰か当 たる者があるから、俺も当たるだろうと思って 買うんで、誰が買ったって誰も当たらないと 思ったら、誰も買いやしねえ。  ただ、当たる者の数が少なく、当たらない者 の数が多いということがより一層射幸心という ものを駆り立てるんだろう。「誰でもが買った、 みんな当たった」としたらば、ああいうものに 対する射幸心というものは、射幸心でなくなる んであります。幸福がこれと同様のデフイニ ション(定義)で考えられると、私は思う。  そこでさっきの、なぜ人々は、得能うはずの 幸福を念願しながら、得能わざる人のほうが多 く、我がものとして生きているという恵まれた 人の少ないのはどういうわけかと言うと、それ はこういうわけだ。人々の多くの生き方が、幸 福を得られる正しい生き方をしてないからだと いうことに結論されるのであります。  だから、これを逆にひっくり返して考えると、 人間が人間の生きる真理に即した生き方をして いりや、何も非常にそんなに一生懸命に求めな くても、自然と幸福な人生が与えられるように できてるというのが、これが本当の人生に与え られた動かすべからざる、私は約束だと思う。 それが結局、要するに人生を幸福に生かす基礎 的条件というものなの。  ところが、これが普通のただ平面的な論理思 索で考えていったらば、なかなかここまで考え られないんです。いったいこの論理思索に、い つも我々が自分で考えてることの善し悪しがわ からないでもって、ただ論理思索の向くがまま に物事を考えるというと、どうしても結局落ち 着くところは、自分が承認し得る理論だけで、 それ以外のものを取り入れないという非常に遺 憾な結果が来るものなの。  ■本心の煥発  いつも私は、「本心の煥発」ということを非 常にやかましく言つてるでしよ? 本心が煥発 しないと、ものそのものの真理というものを、 立体的に深さを深めて考えるという考え方が行 なわれないという事実が生じてくるものなの。 本然として目覚めたとか、廓然として大悟した というのは、結局、あれは本心の出た刹那のこ とを言うんです。  したがって、人生に対する特に論理思索のご ときは、この本心の煥発ということがまずその 根底に決定されないと、どんなやさしい人生問 題でも解決はされないんです。これはしばしば 私か言ってるとおり、人間の本心が煥発される と、その刹那、宗教家の言う言葉を借りて言え ば、宇宙を造った造り主である神の命の中にあ る無限で普遍の、そして建設的で創造の働きを 行なう力というものが、人間の生命の中に入っ てきて、そしてそういう力と不可分の結合が 我々の命にできる。すると、仏教で言う「一切 知」というあの絶対的な知恵が、我々の心の中 に入ってくる。  そうすると、あらゆる真理を極めて、たやす く考え出すことができるということになるんで あります。これは、私はいろんな学問を研究し ていながらも、一向に人生を悟り得ず、最後に インド哲学によって、今申し上げたようなこと をわからせてもらって「なるほどな」と、実際 深く感じたわけだが。  だから、人生を幸福に生かす基礎的条件とい うようなものもだ、本心を出して考えりや、今 言ったように、人間は誰でも幸福に生きられる ようにできてるんだと。幸福に生きようとする のには、人生に絡まる真理というものをそのま まそれに順応して生きりやいいんだというよう な、偉大な事実をすぐ悟れるんですが、さあ、 おおむね多くの場合、遺憾ながら人々の多くは、 ものを考えるときにいつでも理性の方面からの み考えることが少しも間違っていないというよ うな気持ちで考えるために、またそういう考え 方をするのが当然だというふうに我々は教育を 受けているために、どうしても、ものそのもの の上っ面に存在する相対現象だけが研究の対象 になるから、深さが深められない。  だから本当の真理というものを、もう少し深 めて考えりやわかる場合でも、そこまで到達し ないで、その考えを上滑りさせてしまう。だか ら、この人生に対する根本的に重大な消息をも、 多くの人が捉え得ないもんですから、ただいた ずらに「幸福になりたい、幸福になりたい」と、 なりたい念願だけでもって、いわゆるアプリ ケーション(出願)だけでもって、少しもそれ を現実に自分のものにしていないという人が多 いのであります。  我々の魂というものは、学問をしようがしま いが、そんなことは別問題。人生への真理とい うものをことごとくよく知ってるんですよ。本 心を煥発するということは、その知つてる魂か ら一切を心へと引き出すということと同じこと になる。  ところが、魂が一切知、いわゆる神の無限知 と相通じてるということはたいてい普通の場合、 特にこの科学教育を受けてる人には、これは考 えられない。考えられないというよりも、むし ろ考えようともしやしない。  だから、いつも自分がただ理性だけで考えて、 その理性の考えたことで幸福を我がものにしよ うとするから、これはむしろ努力むなしく、九 仞の功を一簣に虧く(長い間の努力も終わり際 のわずかな失敗一つで完成しないの意)の憾み がしばしば出てくる。あの『青い鳥』の詩で誰 でもが知ってるメーテルリンクという人が言っ た言葉の中にこういうのがありましたね。「本 当の幸福というものは、自分の外にあるもの じゃないんだぞ」と。「自己人生の中にちゃん と存在してるもんだ」と。それを本当につかま えた者が、亘]の幸福になれるんだと、こう言っ ています。  この言葉を静かに考えてみると、私か今まで 言ったことが「なるほど、そうだ」とすぐ諸君 は頷けるだろうと思う。もちろん多く言うまで もなく、私の説いてるこの心身統一法という方 法は、極言すればこの本心を煥発せしめること が、その主眼になってる方法だとも言える。病 の者が、しかも医者に見捨てられたような重い 病の者でも、まったく驚くような快復をして、 運命のごときも阻まれて恵まれない人がどんど ん南風吹きそよぐような満ち足りを感じるよう になるのは、煎じ詰めれば、心身統一法という 方法の行なわれた結論の、本心の煥発という大 事なことを現実化した結果であります。だから、 この点は私は、特に新しい人にお勧めしたい。  あなた方も今までいろいろな宗教や修養法に おいでになっだろう。しかし、おいでになって、 その立派な教義や教えにあなた方は本当に救わ れているかいないか。  もちろん、説いてる教義はみんな立派なもん です。けれどそれは立派たというだけでもって、 本当にあなた方をその教義の尊い力の中に包み 込んでいるかいないか。包み込まれれば必ず救 われたものになりますけれども、どうもおおむ ね多くの場合、救われたような気持ちは感じる 場合があるかもしれないけど、本当に救われた という喜びを感じている人は少ないんじやない でしょうか。  これはあなた方がご自身で考えてみるのが一 番いい。もっと本当に救われていたら、何もほ かに道を求める必要はないはずですからな。い いえ、ほかに道を求めるとか求めないというこ とは第二にして、あれもやり、これもやってみ たがどうも思うような運命が来ない。健康も思 うように立て直しができないと。挙げ句に幸福 を請い願いながら幸福になれないというふうに 考えてる人は、結局まだ救われていない証拠だ。  ですから、人生というものは痩せ我慢や屁理 屈や、独り決めの贔屓目で考えちゃいけないん であります。現在の自分の人生がこれでいいと いう人は、そうたくさんもいないだろうけれど も、いるんならその人はもう私の話なんて聞か なくたっていい人なんだ。まだこれじゃダメだ と。傍から見て幸福そうに見えるかもしれない けど、自分自身は少しも恵まれた幸福に安住し ているとは思えないと。これがたとえ健康的に でも運命的にでも、どっちでもいいんですよ。 そういう人はとにかく、やがてまた講習会が開 かれますから、そのときはどうぞおいでになっ て、とっくりと五日間、私の言うことを聞いて ください。そうすると必ず「ああ、そうか。そ こまで深さを深めて人間を考えたことは一遍も ない」と、きっと感じられるに違いない。  そして同時に、この五日間をきっとあなた方 は自分の人生の一大転機として、歓喜と光明の 世界に幸福に生まれ変わらさせてもらう、第二 の誕生期が与えられたと感謝することになると いうことを、決して私は自惚れでなく確信を 持って断言しておきたいのであります。  一原因と結果とは、常に相等しきI  線の上にある  もっともそういったことに対してお疑いが あったら、あなた方の右に左にいる、私の教え によって正しい人生に生きてる先輩がいくらも いますから、その人々にはたして私の言葉を信 じていいか悪いかということを質すがいいと思  よく考えてください。人生、生まれてこの世 に人として生きていく刹那刹那、生きがいのな い人生に生きるとなると、よしんば仮に何百年 この世に生きていても、死んでるのと同様だと 言えましよう。いや、死んでるよりまだ始末が 悪いわ。死んでる人間は、あまり人に迷惑はか けない。生きてるばっかりにいろんな迷惑をか ける。  これに反して生きがいのある人生に生きてる 人は、仮に現象界にいる時間がよしや短くとも、 真実の生命の喜び、いわゆる生きてるうれしさ というものを味わえるんだから、精神的方面か ら言えば、極めて有意義な長生きをしてる人だ と言えるでしょう。そこなんですよ。孔子が二 千年のその昔、「朝に道を聞かば夕べに死すと も可なり」と言つだのはね。  だからいずれにしても、こうした見地から厳 かに人生を考えるとき、正しい順序と正しい方 法を自分の人生を生かすうえに知って、そして 生きていかなきや。病になったり、運命が悪い というのは、結局、要するに人間でありながら 人間としての生き方に対する順序七方法も知ら ずに生きてるという、大きな粗忽があるからで すよ。これは、私がしょっちゅう講習会で、こ ういう無準備な、無反省な生き方をしてる人の ことを「空気の圧迫でついでに生きてる大だ」 と悪口を言つてるんですが。  人間、この世に患いに来たとか、不運になり に来だのならばともかくも、そうじゃないんで すもん。人間というものは、もつと大きな仕事 をしに来た。何遍も言うようですけど、人生と いうものは負け惜しみや屁理屈じゃ解決がつか ない。生きてることは現実なんです。だから、 現実の人生を良くするも悪くするも、それは自 分の義務にあるんだから。  また、一面から考えりや、良くし、悪くする ということに対する自分の権利も与えられた。 ちよつと難しい言葉ですが、こういう言葉を、 あなた方は深く考えてみていただきたい。「原 因と結果とは、常に相等しき一線の上にある」 という、これはちよつと難しいんですがね、イ ンド哲学の論ずるとこの宇宙真理なんです。  もう一遍言いますよ。原因と結果とは、常に 相等しき一線の上にある。これは難しいけれど も、人生はこの原則の示すとおりで、生き方一 つがその人の人生を幸福にもすりや不幸にもす る。「世の中が悪いから幸福が来ない」とか、 「世間が幸福になれないような大で埋まってる から自然、俺もそのとばっちりを食ってるん だ」というようなことを言ってたら、もうそれ は甚だお気の毒だが、時代遅れの極めて低級な 人生思想を持ってる大だと言わなきやなりませ ん。  ですから、どうかこういう言葉の中に、少な くともあなた方は考えさせられるものをお備え になったと信じますから、「なるほど、これは 何かこの教えの中には奥深いものがあるぞ」と こうお感じになったら、次の講習会においでを 願いたいんであります。何もそこにいいものの ない、尊い現実収穫のない会がそう長く続くは ずがない。天風会は優に三十年以上、なんの広 告もしなきや宣伝もしないでこうして続いてい る事実をなんと考えられるかということも、こ の方法の批判の対象にしてほしいのであります。  つまり結論は簡単です。人生の生きる生き方 を知って生きるが本当か嘘か。どんなに設計巧 妙にされてる速力の優秀な機関車でも、レール がなきや走らない。万物の霊長たる人間が「俺 は万物の霊長だ!」と言ったって、生きる生き 方を全然考えられなきや、レールの外でもって レールの上で出せる能力を出そうとする無謀な 計画と同じことになります。ということもしつ かり考えていただいて。  まあ、とにかく人間というものはI現在病 んでる、あるいは不運な人に特に私は声高く言 いたいI幸せに生きられるんですよ、幸福に ね。そういうふうにできてるんだから!・ だか ら幸福に生きるほうが、どうせ人生五十年、一 回は死ぬんだ。ね? どうせ一回は死ぬんだと 考えたら、二度とこの世の中へ出てこられない ということを考えたならば、幸福に生きましよ う。生きられる方法を知つてる者が、その生き られる方法を教えてあげる集まりなんだから。  ただあなた方が来て、一生懸命に聞いて実行 しさえすれば、「ああ、こんなにも幸せになれ たか」と感謝せずにはいられない事実が来るん ですから。もうくどくは申し上げません。これ より以上のことは、あなたの厳正なる判断と、 その判断を助けるために、この会におられる先 輩たちにいろいろと聞かれる言葉を、あなた方 の考えの中に組み入れられることを願います。 それでは講習会でお待ちしております。  ■苦悩の中に人生の幸福がある  さて今日、私の言いたいと思う言葉は、かり そめにも真理に順応して完全な人生に生きよう とする我々は、どんな場合にもですよ、人生の 幸福というものを安易な世界に求めてはいけな いということ。言い換えれば、無事平穏を幸福 の目標としないこと。  だからしたがって、苦悩を嫌い、それから逃 れたところに幸福があると思ってば断然いけな い。というのは、そういうところに本当の幸福 というものは絶対ないからなの。  それを、ややもするとそう考えないで、「健 康なら幸福だろう」とか「運命がよきや幸福だ ろう」と、こういうふうに考えるのは、いわゆ る小成に安んじようとする凡人の気持ちと言う べきなんだ。したがって、我々天風会員の断じ てこれは取るべきところじゃないのです。なぜ と言うと、本当の幸福というものは、健康や運 命の中にある苦悩というものを乗り越えて、そ れを突き抜けたところにあるんだ。  第二考えてみりゃすぐわかることだが、厳 密に言えば、およそ苦悩から離れた人生という ものは断じてあり得るものじゃないのです。苦 悩というものは、いわば人生に付いてるものな んだ。どんな身分になろうが、苦悩のない人生 というものを味わうことはできない。だから、 それを嫌い、それから逃れて幸福を得ようとし ても、そこにないんだから得られるはずはない。  本当の幸福というものはね、なんぞ図らん、 凡人の多くが忌み嫌う苦悩というものの中にあ る。すなわちその苦悩を、わかりやすく言えば、 むしろ楽しみに振りかえるというところにある。  もっとも普通の人は、苦悩を楽しみに振りか えるなどと言うと、「そりゃとてもたやすくで きるもんじゃない」と言うでしょう。しかしで す、我々は「観念要素の更改法」というのを 知ってる。したがって、苦悩を楽しみに振りか えるということをさして難しいこととは思いま せんわ。  それは、苦悩を楽しみに振りかえるというの は、健康や運命の中に存在する苦悩を乗り越え て、突き抜ける強さを心に持たせることだとい うことを知っているから。しかも、その頼もし い心を、自己の意志でつくる方法を我々は知っ てるんだ。それは例えば、あの夏の暑い耐えら れない日盛りに、涼しい風を自分でつくって楽 しむ心構えと同様なんですから。  だから常に、怠りなくお互いは「観念要素の 更改法」を励行して、どんな場合にも自分の心 の中にすばらしい幸福感を持てる人間になるこ とを心がけなきやいけない。そうすりや、苦悩 の世界にいて、しかも苦悩を感じない人間で生 きられるという本当の幸福を味わえるからだ。 そうなると、何も苦悩を克服する困難な努力を しないでも、常に運命的にもまた健康的にも、 断然なんとも言えない荘厳に、雄大に人生に生 きられる、いわゆる自己人生の勝利者となれる。  「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」とい うのは、結局そういう気持ちを言うんですよ。  だから、今日の私の言葉にあるとおりの人間 になるのが、我々天風会員の人生理想であると 同時に、そうなるのが格別困難でない方法を、 既に講習会で諸君は会得しているのだから、大 いにたゆまず、飽きず、尊さに慣れないで、毎 日毎日、「今日教わった」という気持ちで、真 剣に純真な気持ちでこれを実行しましよう。そ うすれば、どんな場合があっても、今も言った とおり、すばらしい幸福感で人生に生きられる、 恵まれた人間になれるから。よろしいか?  さあ、そこで、最後に今日の言葉の誦句を言  「そも人生の真の幸福は、あらゆる苦悩を苦悩 とせざる心の中に存在する。而して、この信念 こそ人をして最も価値ある生きがいを感ぜせし める、ただ一つの要訣である」。  ■積極的思考について  光が照らされれば闇は消える。夜の暗いとき に明かりをつけりや、その闇を防げる。同じこ とだ。だから、第一に我々はそのとき、その消 極的な思考の発生してきたことに、いたずらに 悶えることをしないで、言い換えると、断然そ んなことに関わり合いをつけない。そして、反 対にただ一心に積極的思考のみを心の中に持ち 込む努力をするんだ。ね? きのう怒ってたら、 反対のことを考えりやいいだけだ。ね? 気が 落っこちてたら、反対のことを考えりやいいだ けだもの。ね? そうすると、その反対のこと を考えた、いわゆる消極的に対する反対は積極 的だから、積極的なことを考えただけで、その 心の中に燦然たる光−闇を消す明かりだな Iが出てくる。  こう言うと、「大変それは立派な教えで、ま さに確かにそうなんだけど、この前そういうよ うなお話を承ったときに、一生懸命それを やってみようと思ったんだけども、思う気持ち だけがいたずらに盛んに燃えてて、ひょいっと 気がつくと、やっぱり相変わらず心が消極的で 困るんです」と。  これはね、修練会でやった人はよく知ってる ことなんだけど、修練会をやらない人はわかる まいと思うんだが、それは人生に生きるときね、 こういうことを忘れちやつてるんですよ。「現 象の背後に必ず実在がある」という真理を忘れ ちやつてるからなの。これちよつと、初めての 人の耳には不思議に聞こえるかもしれないけど、 これはこういうわけなんだ。  目に見える現象の世界は、目に見えない一つ の大きな孑孑ルギーがこれをつくつたんだと。 その孑孑ルギー、それが実在だ。普段講習会で 言つてる「フリル(庄))」ね、それなんですよ。 哲学のほうで言う「自然」「造物主」、宗教で言 う「神」「仏」、インド哲学はこれを「宇宙霊」 と言つてるがね。要するに造物主、宇宙霊、い わゆる神というものは、あらゆるものを完全な 姿であらしめようとする尊いもの。これは、誰 でも知つてることだ。特に人間はこの尊い造物 主から与えられた生きる力を、もつとも多量に 命の中に持つてるんだから。  だから、こういう点から考えてみるとだ、人 間は当然、本来的には完全であるようにできて るということが考えられるでしよ? 第一、こ れは「我とはなんぞや」という研修科のときに 話しておいたんだが、人間の本当の正体は身体 でもなきや心でもない。霊魂という一つの気体 だと。この気体が結局、すべての生命を動かし ている原動力になってるんだと。ちょうど見え ない電気が闇を照らし、汽車、電車を動かすの と同じように。この気というものはなんの気で あろうと不滅不朽、なくならないもの。つまり 哲学的に言えば、絶対に完全なもの。  そこでだ、この絶対に完全な霊魂という気は どんな場合にも不完全なものや不完全のことを 感じるはずないんですから。だから、今自分の 心の中に感じてる、思つてる消極的な心持ちは、 これは本当の自分が考えてるんじやないと、こ ういうふうに否定しちまえばいいんだよ。  これをインド哲学では、「悪魔が尊い心の宮 殿に踏み込んできたのと同じだ」と、こう言っ てる。ね? だから、今言ったとおり、どこま でも人間のこの生命の背後には純一無雑な、一 切のものを完全に造り上げようとする宇宙霊、 いわゆるフリルという実在があるんだという真 理を考えると、そう考えただけで、その考え方 を間違いなく続けていけば、たとえ一時的に心 の中に闇をつくる消極的な気持ちがふ1つと出 ても、ちょうど時間の短い停電と同様、たちま ち光の輝く積極的な思考がそれに代わる。輝き 出すと言おうか、そうなるようにできてる。  ただ感覚してる世界だけを考えて生きてるか らいけない。感覚しない世界、すなわち自分の 生命の後ろ、見えないところにちゃんと完全で あらしめようとする自己、どこまで行っても自 分を完全たらしめるという力がちゃんと用意さ れてるんだということを考えたら、なんにも悶 えることも悲しむことも、怒ることもないだ ろ? これは奇跡でもなきや、不思議でもない んだよ。尊厳な真理なんだから。これを始終心 してごらんなさい。  そうすると、長くその消極的な思考と絡み 合ってる愚かなことをしなくなっちまうんだよ。 出ることは出ますよ。こう言ってる私だって、 時によるとひょいっと消極的な思想が出てくる ことがある。それがパッと消えるんだ。ありか たいかな、今も言ったとおり瞬間停電が消えち まう。だから、そうした心がけで生きてごらん。 そうすると真理の中で尊厳に自分自身を生かし ていこうとする努力と同じ結果が来る。ね?  だから、今も言ったとおり、忘れちゃいけま せんよ。仮に煩悶や悲しみや恐怖や怒りやとい うような消極的なものが発生したときには、こ れは自分の本来の心じゃないんだと。だから、 こんな心を承認して自分の心の宮殿の中におら しめることは絶対にできないでしょう。自分の 心の中に厳然として我と我が心に宣言しなさい よ。慣れてごらん、訳ないから。おもしろおか しいように、消極的を積極的に(イツと切り替 えられる。ね?  消極的な思考というものが修行すると同時に 消えてなくなつちまうというんなら、こういう ことを教えない、私はあんた方に。ところが、 いくら観念要素の更改をして、積極観念の集中 力を養成しても、後から後から消極的な思考と なるべきような観念要素が随分油断なく警戒し てても、どこの隙間からか潜在意識の中へひょ いっと入るように、できてると言うとおかしい が、入っちまうんだよ、事実において。  だから、自分がこれでいいと思っても、ひょ いとその消極的な気持ちがいつか実在意識を侵 してくる。だから油断なくいつもそれを感じ、 「あっ、また実在意識が暗くなりかけてるぞ」 と思ったら、パッと今言ったとおり、現象の背 後に実在ありと。自分じゃ気がつかないけれど も、公正にものを完全にしようとする大きな力 が生命を守ってじっとしてるのを、そいつを妨 げちゃいけないと。  変な気持ち、心持ちを感じたら、「これは自 分の本来の心でないんだと。俺の心の宮殿の中 はあくまでも尊いものでもって、ほかのものを おらしめないぞ」と。これも何遍でも戦うつも りで努力していってごらん。それは一遍や二度 や三度や五度や十度や百遍や千度でもって成功 しやしないんだから。  こりゃもう、「倒れたら起きろ」「転んだら跳 び上がれ」というようなふうにやってると、あ りかたいことには習慣性能という特殊な性能が 人間の心にあるので、そうすると今度は、ほと んどなんにも困難を感じないで、次第次第に 我々の心を常に正当な状態に成長せしめていけ るという、ありかたい働きが我々の心にある。  そうなると、同じ消極的な思考が出ても、瞬 間に消えちまうんだから、実在意識領というの は常に積極的な考え方で満ち満ちてくるだろ? そうすると、一切合切がすべて尊く美しいもの につくり替えられるようにできちまうんだから。 そうすると明け暮れ、自分自身を強い世界の中 で生きていかれるような、頼もしい人間にして くれるから。  だから、たった今までの過去の一切のすべて の失敗なんていうことは考える必要ないんだよ。 ね? 今日から今日の教えに基づいて、ちょい とでも心が暗くなったらピシーツと一鞭当てる つもりでもって、ふっと積極的な方面へ心を振 り替えていくために、「俺の見えない生命の後 ろには、俺を完全ならしめようとして守ってく れる力があるんだ」と。その力を妨げるような 気持ち、心持ちを「持つな11・」と言って、自 分の気持ちの中に、さっきも言ったとおり、 「俺の心の宮殿の神聖は俺が保つ’・」というふ うに思っただけでも、どれだけ大きな効果があ るかわからない。  まあ、やってごらんなさい。やって必ず悪い 結果は来やへん。それを「難しいからやらね え」とか、「面倒くさいからやらねえ」。面倒く さかったら死んじまうほうがいいんだけど。新 しい年の甦りを現実化するには、まず自分の気 持ちの持ち方から甦らす。よろしいかい?  ■怒らず、怖れず、悲しまず  よく世間では、新年になると、年頭感とか、 あるいは新年に際してという特別な何か言葉と か文章とかを発表するということが、まま習わ しになっています。  しかし考えてみると、お互い天風会員は、今 さら新年だからといって新しい考え方を出す必 要もなく、さて年末になったからとて、改めて 今年一年をしみじみと回顧してみて、そして新 しい年に対して、古い年の中の悔い改めを再び 繰り返さないようにしよう、などというような、 月並みな心の持ち方をする必要は少しもない、 と私は思う。  というのは、普段の講習会であなた方が聴い ておられること、なかんずく夏の修練会であな た方の、もう既に心の中には十分に染み込むほ ど「心身統一法」の真理の真髄が入っています。 言い換えれば、正しい理想的な、合理化された 「自己統御法」というものを知っておられて、 生きておられるんだから。その人々に対して、 何も改めて「新年だからこんな気持ちになれ」 「歳末だからこんなふうな回顧をしろ」という ような俗世間的なことは、もう必要はないと思  というのは、もう諸君は毎日毎日、内省検討 を寝がけにしているんだ。ね? 内省検討をし てる以上は、要するに「日々に新たなり」とい うことを、事実において具体化した人生生活を 営まれておる。その人々が、今さら事新しく、 何も年頭に際してからに特別な考え方をしなく たっていい。  ただ我々として、この際考えてみなきやなら ないことはたった一つ。それはますます「吾等 の誓い」ですね、「今日一日、怒らず、怖れず、 悲しまず、正直、親切、愉快に、力と勇気と信 念とをもって、自己の人生に対する責務を果た し、怛に平和と愛とを失わざる立派な人間とし て生きることを厳かに自分自身の誓いとしよ う」というあの誓いを、完膚無きまで日日実行 に移していくという心がけをより一層拍車をか け、より一層鞭撻していくという、この心がけ を毎日毎日怠らずやることです。それ以上にな んにも我々が、要するに天風会員としての我々 が、我々の人生に心がけることはないんだから。  ただ、内省検討をするときにですね、くれぐ れも注意したいことは、我執から離れられない ことがある。我執、つまり自己本位ですな。公 平に考えりや、もっと正しい思慮分別のできる ようなときでもですね、たまの場合は、どうも 悲しまずにはいられなかったとか、腹立たずに いられなかったとか。あるいはまた、どうし ちやったという場合には怖れるよというような ことを、理屈をつけて自分の考え方に同情する という気持ち、我執があると。  だから、内省検討に一番いい標準は、たった 今私か申し上げた「吾等の誓い」ね。この「吾 等の誓い」が標準になりやいいんですよ。つま り、理屈の如何を問わず、怒らないこと、悲し まないこと、怖れないこと。この理屈を問わな いというところに非常にこの統一道の重点があ るので、理屈をつけていたら際限がないんです。 ね? 理屈をつけていくと、ついそれは、人間 には一面、動物性の感情というものがあるから、 その動物性の感情がすぐ飛び出してきて、自分 じゃ自己本位に身贔屓してるつもりはなくても ですな、知らず知らざる間にそうなってしまう べく余儀なくされてるのよ。  だから、とにかく一旦誓ったことは破らない。 「怒らず、怖れず、悲しまず、正直、親切、愉 快」と、この「三勿三行」は、最もよい感情、 言い換えれば、すべて融通性を持つ円満具足的 な値の高い感情。その感情を、自然と自分の心 の中から常に湧き出させしめようとするために も、大変に必要なことなの。  理屈なしに、ただもう「怒らず、怖れず、悲 しまず、正直、親切、愉快」、これを実行に移 さなきやだめですよ。この実行に移すというと きに、内省検討しながらそいつを忘れちまつた ら、もう実行に移したんじやないんだから。消 極的の感情というのは、これは悪い感情なんだ。 これは常に健康や運命によくない破綻を発生せ しめ、知らざる間に自分の幸福や健康というも のを破壊しちまう。  ところが積極的な感情というのは、これはも う非常によい感情、いわゆる。。Go乱Wil气。な の。このよい感情は何にも勝つたすばらしい良 薬になる。良薬という言葉に語弊があれば、命 を守る立派な糧になり、そしてまた衰えようと するところの生命、もっと内面的にこれを分析 的に言えば、幸福や健康の方面をもぐんぐん盛 り直していこう、立て直していこうという本当 の自然の力がこの中にこもってきて、そして、 これはあえて求めなくたって、それが要するに 今も言ったとおり自然現象なんだから、ぐんぐ ん我々の健康や幸福も挽回されることはわかり 切ったことなの。  今までのこういう真理を知らなかった自分の やっていた心の使い方というのは、あるいは持 ち方というのは、全然真理以外に走っていたと。 朝から晩まであなた方は、怒ったり怖れたり悲 しんだり、あるいは心にもなく不正直になった り不親切になったり不愉快になったりするとい うことを、しかも人生これは逃れあたわざるこ とのように考え違いしていて、やってたことが しょっちゅう諸君の健康や運命のほうによくな い兆候で現われたということは、もう諸君自身 が一番よく経験して知っていることなんだから。  だから、どんな場合があろうとも今後は、も う一層、「吾等の誓い」を厳重に実行するとい うことを、自分自身の人生生活の規範とし、 モットーとすると。規範としモットーとした以 上は、この線路から外れないということが、最 も大切な注意。また、そうして生きることが、 真人としての価値の高いプライドなんです。  とにかく我々は、人生に生きる場合の刹那刹 那に、自分が自分の感情の荒波に巻き込まれて、 そしてのだ打ち回って生きる人生に生きるぐら い、恥辱なことはない。これは自己冒涜です。  だからどんな場合においても、感情を乗り越 えていったというところに、人間の尊い生命の 価値があるんだと、普段、私か言ってるでしよ。 「人間は感情の動物だ」なんていうような、価 値のない思想を重大視した過去をI切捨てて、 人間というものは始終感情というものを乗り越 えて感情を統御しうるところに、本当の人間の 価値があるんだと。これは統一道の、かりそめ にも主張であると同時に、天風会員のまたこれ が誇るべき、ラショナリスティック(合理的) なセルフコントロールだということを、どんな 場合があっても忘れないように。  く1つと悲しかったり、はっと腹が立ってき たり、あっとびっくりするようなときに、すぐ 「吾等の誓い」に自分の心をはっと立ち返らせ なきやいけませんよ。そしてどんな場合でも正 直に、そしてどんな場合にも親切に、どんな場 合でも愉快であるということにしましよう。そ して始終、人の欠点は見ないでもって、大をほ めることを心がけ、そして自分は最善を尽くそ うということに努力しましよう。ね?  大を批判する間には、自分も批判されるとい うことを考えなきやいけないから、だから人の 落ち度を発見したらば、それはもう頭から許し ちまわなきや。ね? そういうふうにしてい きや、今日一日の誓いは、完全に実行ができま すから。  ■世のため人のために生きる  心身統一の根本義として必要な心の持ち方と 使い方、これを教えられたままに一生懸命にや ると同時に、さらに肉体生活のほうを本でお読 みになって、そして一生懸命行なってくだされ ば、やるに従い、行なうにつれてどんどんあな た方の人生の全体が、今までと打って変わった 状態によりよく変わっていきます。これは当た り前のことですが。  それにつけても、特に私かあなた方にお勧め したいのは、どんな場合があっても、一旦こう いう修養道に志した以上は、それを緩めたり、 あるいは元に戻したりするようなことがあって は、これは甚だしい自己冒涜であります。  もちろん、そんな気持ちを持たれた人はここ にはひとりもいないだろうけども、どうも人間 というものはね、一面慎ましやかな方面がある と同時に、また一面、自分でもあきれるような 横着な気持ちがあるものなので、慣れるに従っ て、はじめのような熱心さが、ときにたまたま 失われることなきにあらず、なんであります。 いわゆる尊さに慣れるという恐ろしい事実が、 我々の人生にはある。  それと、心身統一法というものは、いちいち 人の前でもって誰かに見せてやってることじや ありませんから、日常の実際生活の中に組み入 れてやれることだけに、ひょっと心が揺れると、 もとの間違ってた生き方のほうへと逆戻りをす る恐れが多分にある。俗に言う「焼けぼっくい に火」だ。  ですからどうぞ、それを戒めるのは自分なん ですから、ほかに監督官がいるわけじゃないん だから、常に自分の怠る心に鞭打ちながら、今 までの無軌道的な人生に生きることなしに、教 わったままの人生を無条件にものにする気持ち でもって行ない続けていったならば、本当に自 分でびっくりするぐらい自分というのは変わっ てきますよ。  いわんや、年に一回必ず催される修練会にお 越しになってやっていけば、三年、五年経つう ちに、今までの自分と比べて、自分ではっきり わかるような自分の優れた人生を感じます。そ のときだ。いや、そのときと言うと少し時期が 遅い。今から、これは真理に一旦足を踏み入れ た以上、自己の人生のためだけに生きるという ことをやめてはしいんであります。  人々は、最初に道を求めに来たときには、自 分のことが本位で来てたに違いない。もっと丈 夫になりたいとか、もっとよき運命の持ち主に なりたいとか、煎じ詰めれば、どれもこれもみ んな自分だけを目当てで来た。けれど、よく考 えてごらん。人生というものは自分一人で生き られる世界じゃない。大、大というものの中に いる自分であるから、生きがいを感じる。  世界一の金持ちになって、世界一のあなた方 が頼もしい能力を持つ人間になったからとて、 人のいない無人島へ行ったら、はたして生きが いを感じます? 隠遁を請い願う者なら、さも あらばあれだが。そういうことを考えたときに 我々が忘れちゃならないことは、こうした真理 を知って人生に生きる以上は当然、今までの凡 人生活じゃない人生が生まれてくるのは必定だ ということ。  と同時に、我々の生きる場合の念願は、なん の仕事をしてる大でも、人の世のため、人の喜 びのため、人の幸福のためということを考える ことを忘れない生活を営んでもらいたい。同じ 商売をするんでも、今までは儲けよう、儲けて 金持ちになって、宗族に美味いものを食わせた り、いいものを着せたり、また場合によっちや、 おかしな奴になると、細君に知れないように女 でもこしらえてみようなんていうのがたいてい の人の気持ち、心持ち。  それをいちいち私、監督はしないけれどもだ、 それより大事なことは、自分の存在は人の中に いる存在である以上、できるだけ人の喜ぶ、人 の幸福も考えてあげよう。同じ商売をするんで も、この品物を売って儲けようということより も、こういう品物を大よりも安くその大に売っ てあげて、その人の生活の中で少しでも幸福を 多分に味わわせてあげようと。そういう気持ち で自分も利益をいただこう。こういう気持ちで やってばしいんであります。  これは人の幸福、人の喜びを考えてやる仕事 なんです。ですからその気持ち、心持ちを完全 なものにしようと思ったら、人生に生きる刹那 刹那も、決して人の嫌がることをしちやいけな い。人の迷惑になることをしちやいけない。そ うして常に大に嫌われない、大に愛される大間 にならなきやいけませんよ。  世の中の、今まであった修養法をやってる大 は、一種、型にはまっちまうんです、妙に堅苦 しい、陽気のない。これはもう修養ぽかりでな く信仰に入ってる人でも、なんとなく臭みのあ る、それは我々の欲するとこじやないの。だか らどうか、とらわれた気持ちでなく、広い意味 における人生生活の模範生となるような尊い気 持ちでもって人生に生きられることを希望いた します。  我々会員たちは毎日、朝起きて人生生活に向 かうとき、今日の生き方を天に向かって約束す る誓いの言葉があります。それを今あなた方に お聞かせするから、明日の朝からその言葉を自 分の魂に誓って人生に生きられたらよろしい。 それでは。  「今日一日、怒らず、怖れず、悲しまず、正直、 親切、愉快に、力と勇気と信念とをもって自己 の人生に対する責務を果たし、怛に平和と愛と を失わざる立派な人間として活きることを、厳 かに誓います」  くどくど説明する必要もないわけです。この 誓いの言葉のとおりに生きれば、価値高い人生 に生きられてる自己を見出すことができるで しょう。今日一日、怒らず、怖れず、悲しまず、 これは事情のいかんを問わず、怒らず、怖れず、 悲しまず。当然感情の奴隷にならない、自分は あくまでも自己の生命の主人であるということ を実行に移したいためであります。  間違って怒ったり、怖れたり悲しめば、もう その人は感情の奴隷になってる人だ。そうして 人生に生きる場合の自分の心の態度は、あくま で正直に親切に愉快に、そして自分の生命の力 というものを正しく信念的に持って、そして気 をくじかないで勇気凛々として、常に自分の人 生に対する責務を果たせと。  自己の人生に対する責務を果たすということ は、食うことの問題ばかりでなく、今申し上げ たような「我あるのは、我あるためにあるにあ らず。人の世にある我は、ひたすらに人の世の ためにある我なり」と。こういうように考えて 生きることが、自己の人生に対する責務を果た すことになる。そして常に平和と愛を失わない、 立派な人間として生きることを厳かに自分自身 の誓いとしようと。  誓いという言葉は、天に向かって背くべから ざる約束をしたということが誓いなんですよ。 大と大との間でもって、「これをこうしましよ う」「忘れずに行ないましよう」というのは、 これは約束だよ。人間同士の間に取り交わされ る実行を、お互いに言い交わすのが約束で、誓 いとは絶対に侵すべからざるものを天と約束す ることであります。だから、どんな無鉄砲な人 間だって、天と約束してからにこれに背く奴は なかろうと思うが。  約束しない人は背くかもしれないから、朝起 きたら、簡単な言葉ですから必ずこれを小さな 声で口ずさみなさい。そして、一日をきわめて 生きがいのある、後悔しないような人生に生き る日の毎日であるように心がける心がけこそ、 かりそめにも修養道を志した人間の心構えであ ると同時に、天風会員としての汚すべからざる 大きな誇りであることをどうぞ、厳として自分 の心に常に把持されたることを希望します。  ■自責の念を排す  釈迦に説法をするようですが、あなた方の 「心身統一法」の実行に際し、わかり切ったこ とでも、とかくわかってるはずのことが実行で きずにいる人が随分あるのを、私は自分の経験 の中から、いつも遺憾だと思って眺めているん です。それはほかのことでもないんです、心身 統一法の一番根本義として大事な「心の態度を 崩してはならない」ということ。  これがですな、言われたときだけはみんな (ツと気がついて、心の態度のとり直しに努力 するにはするんですけれども、少し私から遠ざ かって、講習会が終わって、まあまあ保ててる 人が一月ぐらい、あとの一月ぐらいはどうにも 自分でもしようがないっていうような心がだら しなくなってる人も、ときにたまたまあるん じやなかろうかと思われるんですがな。  もう多く説明するまでもなく、人間、何事か 事あるときに、この心の態度が崩れて消極的に なつちまえば、その消極的のとおりに人生とい うものはたちまちその生活力を衰えさせてしま うがために、お互いの人間の生きる毎日の世界 というものは、どんなに光あらしめたいとして も、暗黒にならざるを得ないという結果が来る のであります。  ということは、もうわかり切ったことで、今 さら申し上げる必要もないほど、あなた方は百 も二百も合点承知なんだが、この合点承知のは ずのことが、なんでもないときはいいんですよ。 病があるとか、運命が悪くなるとかっていうと、 いつかひょいと気がついてみると自分の心が消 極的になってる。  そして、もちろん知り抜いてることです、積 極的な思考こそは人生への光で、消極的な思考 こそは人生を闇に成す事柄だっていうことは 知ってるんですよ。知っていながら、悶えたり、 悲しんだり怒ってみたり、苦しんでいる。心な らずも自分の人生を闇にしちやってる。ね? だからいつも講習会でも言ってるとおり、一番 この努力してもう死ぬまで怠っちやならないの は、でき得る限りの努力で人間の心の態度を積 極的にすること。これはもう、ちょっとの油斷 もなくやらなきやいけないんですよ。  いわんや、人生、事多きが当然なんですから、 その事の多い人の世の中に生きてるお互いが、 それをですよ、完全に修養ができてしまつてい りや、まあその点は、いささか安心とまではい かなくても、そこまで厳重にしなくてもいいと いうことになるかもしれないけれども、完全に 修養ができない限りは、人の世の事多い中で生 きてるために、どうしても事のほうから自分の 心を崩しに来ることを防ぐことができない場合 がある。ね? それを考えないで、講習会に何 遍も来てからに「言うことがわかってる」と。 もうすっかり、「俺は、あの次はあれで、あの 次はあれだっていうことがわかってんだ」とい うような人も随分あるんだが。そういう人は、 もうわかっているから「俺はできている」と、 こう思うんですよ。  で、できている俺が、こういうときにこうい うふうな心の態度を積極的に持ち直すことがで きないというのは、こりゃ、こういう場合は 「どうしたって積極的に持てないことなんだか ら持てないんだろう」と、こういうふうに思う。 これは随分考えてみると屁理屈なんですけれど もね。それというのは、結局、要するに心身統 一法の教義の内容が理解的にわかっているだけ なのを、できたこととI緒にしちゃってるんで す。いつも言ってるでしよう、「理解、すなわ ち完成じゃない」と。  証拠はすぐわかることでもって、自分がはっ きり了解できるんだけどなあ。つまり、理屈は よくわかっていても、なかなかその理屈どおり に心が持ち直していけないという、自分の姿を 見りやすぐわかるんだが。いつもそこに注意を 振り向けないで、「俺はわかってるんだ」と。 私にははっきり言わないけども、もう既に「卒 業してると同じことだ」と、卒業したのと同じ ような人間が考えてることに間違いないと、こ ういうふうに自惚れちやっていてるんです。  そうすると卒業した心でもって考えて、どう もこの場合は積極的になれないんだから、さっ きも言ったとおり消極的に考えるのが悪いん じやなくして、この場合どうしてもそう考える よりほかに手段がない事柄なんだからこう考え てるんだって、こういうふうに随分ややこしい。 これはこじつけですがねえ。そうなったらもう ど がた   おびただ 度し難しこと夥しい。そういう人はあまりたん とはいないと思いますけれども。  中にはこういう人がありやしないか? せっ かく講習会を聞いてからに心晴れ晴れと、なん か生まれ変わったような、悟りが開けたような 気持ちになってからに、当座は人生の諸事万事 に対して非常に心が積極的にすべてを応接して くれて、まったく変わった世界のように自分が 感じてきて、それがまあまあ保ててることがわ ずかな間で。いつかひょいと気がついてみると、 自分の思ってることや考えてることが、みんな それが消極的な観念で、そいつが頭の中に所狭 きまではびこって充満してるということを発見 することがある。これはあるに決まってる。  ところが、そのときに、真理を知っていない ときには別にそんなことは気にかけやしないん ですがね、もう何遍も講習会へ来て、聞いてい てからに、そういうことは悪いんだっていうこ とがわかると、大変な特別な悶えを感じるんで すな。  一種の真理に対する自責の悶えと言っていい んだろうと思います。こういうときに、たいて いの人は「しまった……」と落胆するんですよ。 心が非常にひねくれてない限りはですよ、純真 な人間なら。これがね、真理からいくっていう とあまりいい気持ちの持ち方じゃないんだよ。 純真だからそういう場合に自責の念がよけいに 心の中に起こるから、今言ったとおり「ああ、 やり損なった。しまった……。教えを何のため に聞いてるんだ」とこういうふうに自分が考え るのは、これはね、ちょっと考えると大変いい 考え方のようなんだけれど、天風哲学はそうい う考え方を持つことはあまり賛成しなんだ。  そうかといって反対に「まあいいや、このぐ らいの考え方は、まだできてないんだか ら……」なんていうふうに思うことは、なおさ らいけませんがね。例えば簡単なことだけども、 「クンバ(カ(神経反射の調節法)」ですな。ク ンバ(カの第一の準備として「尻の穴を締め ろ」つていうことを言ってる。肛門を締めると いうことの重大性を、一番先に熟練していつ顧 みても肛門の締まってる人間にならなきやいけ ないと私か言った言葉を、ただもう、まともか らこいつを一本気で考えちやってね。それで、 いつ気が付いても肛門が締まっていない自分を 見るともう情けなくなっちやってからに、「俺 はだめなんだ、俺は。このぐらいのことができ ないんじや、もう俺なんていうものは、真理か ら遠ざかって生きなきやならない憐れな人間 だ」と、こういうふうに思うんですよ、純真な 者はね。  よく聞く人があるの、私に。「先生、あれ難 しいですな、教わったときには易しいと思った んですけど、ひょいと気がつくといつも尻の穴 があいてるんです」。そういうときに私は必ず  一列平等、誰にでも同じ返事をしてる。  「それはね、おまえ、そういうときにしまっ たあ’・ また締まってないと思うのは、普通の 人間の考え方じやねえか。修養してる人間は、 もう一段上のことを考えろよ」と。  「へえ、考え方はもう一段上にあるんですか」  「あるっていうことだ」  「どういうことを考えりやいいんです?」  「そういうときは締めちまえばいいんだよ。 なあ? 締まってないと言ってからに悔やむよ りも、締まってなかったら締めりやいい。これ だよ」と。  「ああ、そうでしたか」と言って、わかり切っ たことなんですけど、言われないとわからない らしいんだな。  心がそうなのよ。消極的になったときに「あ あ、しまった……」と。「一体何のために自分 は修養してるんだ? 何のために一生懸命講習 会を聞いてたんだ?」というふうに思つちやい けないんだよ。そう思い出すっていうと、ただ ますます心が暗くなるとも明るくなりやしない。 ね? 自責の念に堪えかねるということは、よ り一層心を暗くするとも明るくしやしねえもの。  だからそういうときには、それを悔やむこと の代わりにだ、そいつを相手にしないで、ハツ と気持ちを積極的のほうへ取り替えちまえばい いんだ。消極的の思想がたまたま生じてきても だよ、もう一遍言うけれども、そのとき決して 悶えたり驚いたり悲しんだり悩んだりしちやい けないんだ。そのときなんだよ。  1日常の刹那刹那が修行  ただ、そこで私はあなた方に、少し痛い言葉 になってくるかもしれませんけど、これは本当 に必要な教訓としてお話をしたいことが一つあ るので、それをお耳に入れときたいと思うんだ けど。どうもね、朝ああいうことだけしてさえ すりや、もうそれで何か私の教義である「心身 統ごというような人生に必要な修行が自然と できあがり、かつまた、それで何か自分は完全 な修行をしてるように思つてる人も中にはある んじやなかろうかと思うことを私、非常に懸念 するんです。  もつとはっきり言いましよう。朝とにかく今 までよりも早く起きて、各々集まるとこへ集 まって、そして「誓いの言葉」や「甦えりの誦 句」を言ったり、言われたり、そしてとにかく 「統一式運動法」や「積極体操」をやると。そ して三十分、一時間、これにはとにかく尊く時 間を費やし、それから別れると。そうすると、 各々みんな違った方面ではありますけど自分の 進む人生生活の方面へと行きますね。  すると、それでもう朝集まってそれだけのこ とをしてりや、もうほかのことはなんにもしな くてもいいんだと。こういうふうに思っちまう という、知らず知らずの間に「朝もうやったか らいいんだ」というような気分でもって一日を 過ごす人がないともかぎらん。むしろそうする 人、多いんじやなかろうかと、私、それを非常 に懸念するんですよ。  それは、些細なことから私はそう感ぜせしめ られることがしばしばある。それはね、この修 行というものを何か特別な時間に、ある規則 立ったことだけをすることで全部の目的が達せ られると思っているためか、他にまた原因があ るのかとにかく、そのときだけは立派にこの心 身統一法をやってる人であるのにかかわらずだ、 普通の人生生活に鞅掌(暇がないほどせわしく 働くこと)しているとき「どうもこの人、心身 統一法をまじめに……、こういうときに実行し なきやならないのに実行しないのはなぜだろ う」と思うようなことがあるんですよ。  いえね、他人には「本心良心ですべて正義の 実行をしろ」なんていうようなことを偉そうな 顔して言ってる人間にかぎって、自分はちっと もこの本心良心で人生に生きてない。まあ、本 心良心のときばかりでなく、積極観念の集中力 の養成に必要な内省検討なんていうことも、人 には非常に厳格に要求しといて、自分はちっと もしてない。  つまり、人のことをいいとか悪いとかってい う批判をして「反省しろ」の「いや、それは気 をつけろ」の「あそこがいけないんだ」とか 「どうもかりそめにも天風会員としてなすべき 行ないじやなかろう」とか。あるいはいたずら にただ天風会員であるばかりで、少しも「自分 さえよきやいい」というような気持ちでもって、 いわゆる功徳の布施なんてことに努力しないと いうふうに。  とにかく批判的に人の行動をかれこれと言う 大、かなり多いけど、それじゃ自分じゃ、はた してそのとおり何もかも人の模範となるような 完全なことをやってるかというと、案外そうい うことを言う大にかぎってですな、自分のほう は非常に隙間だらけ。もしも、もう一人の自分 と同じような人間が脇に立ってたら、きっと 「他人のことなんか、かれこれ言う資格はない じゃないか」と思われるほどの散漫、放縦な、 無反省な、無自覚な生き方をしてる人、事実に おいてあるんですよ。これを私、懸念するんで す。  修行というものは、何も特別な時間に特別な ことをすることじゃないんだ。心身統一法はそ れ、多く言うまでもなく、日常の人生を行なう 刹那刹那に、これを行なうようにできてる方法 であり、かつまた修行のそれが本来の面目。つ まり「修行」と言うからなんか特別に考えさせ られるんだけど、いつか私、「行」ということ についての解釈をしといたでしよ? 何と書い てあるか。つまりこうして生きてる瞬間瞬間、 何をするときでも、「我ありI俺は生きてる」 という自覚意識のあるときに、それはどんな場 合でもみんなそれが修行のときだ。  よく私、講習会のときに言うでしよ? 昔、 禅の有名なお坊さんに檀家のある男が。  「禅というのはいったい何だね? 怖ろしく難 しいもんのように俺たちは考えるんだが、あん た方も難しいからこそ一生をかけて難行苦行し てるんだろうと思うんだけど、この禅つていう ものはどうです、私たちのような全然もののわ からない人間に一口でわかるように、それを講 釈して聞かせることはできないもんかねえ」  とこう聞いたときに、坊さんが笑いながら。  「できるできる。一口で禅はなんだっていうこ とが言えるよ」  「ああ、そうかね。それじゃ一つ、その一口で わかることを聞かせてくださいな」  と言ったら、禅の坊さんが、  「わけないことさ、水を飲むときには水を飲み、 飯を食うときには飯を食い、歩くときには歩き、 笑うときは笑えばいいんだよ」  「えっ、それが禅?」  「そうだ」  「馬鹿馬鹿しいことを言うもんだな。何か怖ろ しい難しいもんだと思ったら、なんですそれは。 そんなら、俺たちだって禅はできてるわけだ ねえ?」  「いやいやできてない。あんたあれかい、水飲 むときには水を飲んで飯を食うときには飯を 食って、歩いてるときには歩いてて、笑ってる ときには笑ってるかい?」  「ああ、そのとおり、そうですよ。笑うときに 怒ったり、飯を食うときに慌てて茶を飲んだり、 歩こうと思うときに座っちまうなんてことはし ませんよ」  「ははっ、なるほどなあ。しかし、私の今言っ た言葉とあんたの言ってる言葉とに少し違いが あるんだがね」  「へえ1、少しも違いはねえと思うんだけど、 どこが違うんだ?」  「私の言うのにはね、水を飲むときには水を飲 めと言うんだよ」  「私だって、そのとおりだ」  「違う違う、おまえさんのはね、水を飲みなが らほかのことを考え、飯を食いながらほかのこ とを考え、歩きながらほかのことを考え、笑う ときにもほかのことを考えるというふうに、一 心になってそのことにぶつかってないだろ、あ んた方の心。ねえ?」  「なるほど。そう言われてみると、そうです なあ」  「そうだろ? それだよ。ちょいと考えるとわ けないことだがね、こいつが難しい。難しいか ら私たちは一生をかけて、つまり修行というも のをするんだ。そして修行のできたことにもう 安心だという状態になれるときは、もう本当に どんな場合があっても一心でそのことをやれる ようになったときなんだがね。それがなかなか どうして、十年や二十年や三十年の修行じやな れないので、いえ、まんざら誰もなれないとは 言わないけれども、多くの坊主の中でもそうな れる者がさ、百人に一人あるか、千人に一人あ るか、危なくするっていうと、一万人に一人よ うやくっていうような状態なんだ。そのぐらい、 そりゃ、囗じゃ言ってわけないことだけど、事 実に行なうとなるとなかなか難しいもんだ」  とにかく「禅の訳はそれでわかりましたか」 と言われて、質問した人間も初めて「囗で言っ てやさしいが、それが本当のものになるのが難 しいんだ」ということがわかったという昔の話 を講習会でちょいちょいするから、覚えてる人 はいつも省みておられることを信ずるが。  心身統一法は、結局それと同じ意味があるん で、こうしてあなた方が今私の話を聞いておら れるときも、よく考えてください、あなた方の 耳に流れ込んでくる話の中にあなた方の全生命 を打ち込んであるかないか。ね? 表を通る自 動車の響きに心をひょいと奪われたり、なんに もそのほうに心を移す必要もないような物音に ふらりと心が誘われていったり。ただ単にそう いう感覚的な誘惑ばかりでなく、感情的な気持 ちさえ、現在のただ今の気持ちをなんとなく一 心の状態から散らばった状態にしてるような人 もいやあしないか。ね?  だからここなんですよ。朝、よしんば、どん なに早く起きて毎朝体操をしたからって、それ だけで修行ができると思ったら大間違いよ。そ りや体操が上手になるというだけの話なの。 ね? 要するに体操をするという気持ちの中か ら、今日一日が、この今、現在体操をしてると きと同じような気持ちでもって立派に、晩寝る までは心身統一法の一つひとつその条件に背か ない人生に生きていこう、いや、生きていくん だというこの心がけを実行に移せなかったらば、 これはもうむしろ朝の修行、やらずもがなに なっちまう。ね? そりややらないよりやった らいいというだけのことに終わったんじや、お もしろくないでしよ?  現在のこうした刹那刹那が厳かに心身が統一 されていなきやならないというところに、あな た方が正しい自覚を持だなきやだめですよ。た だ朝の間の一時だけ心身統一のできる人間に なって、それ以外が元の木阿弥になったんじや、 せっかく真理を聞いた人間としての甲斐がない ということだ。  現に、今さらならず、私かこういうことを言 うことが非常に事新しい人生への教えでもなん でもないわけでね。もう優れた人の頭の中には、 誰でもがいつも同じようなことを考えられてい る。  いつか私、これはたしか『リーダーズーダイ ジェスト』というアメリカの雑誌に書いてあっ たのを私か翻訳したんだ。「あなたの生涯最も 幸福な囗を楽しむには」という演題でね。 6れ How to Enjoy the Happiest Day of Your 」ife " ^) ういう題目で書いてあった文章を読んで非常に 私、心身統一法と意味相通ずるものがあると 思って、これを天風流に翻訳したのがあります のを、これをここでもう一遍繰り返してみたい と。  我々は一日だけならどんなことでもできる じやないか。今日だけでいいから。  命のことを怖れないで考えろ。生命の影にす ぎない死を怖れないでいようじやないか。  それから、幸福であることも何も怖がらなく てもいい。  なんでもいいから美しいことを楽しむことと、 最上のものを信ずることに勇敢に努力しよう じやないか。今日だけでいいから。昨日と明日 を忘れて。  人生のすべての問題を一挙に解決しようなど と考えないで、ただ一日だけを楽しく生きよう よ。  昔の哲人が言ったじやないか、人間というも のは自分の決心一つでもってどの程度にでも幸 せになれるもんだと。  だから、今日だけ幸福になることを思おう じやないか。  そうして現実の事柄、例えば家庭だとか仕事、 それから運命なんていうものには、逃げないで もってこっちから飛び込んでいって、即応しな がら生きていくようにしようじやないか。  自分に都合のいいようにしようなんていうこ とは大変な恐ろしい注文だ。  だが、もし我々が自分の欲するところのもの を持つことができなかったならば、それで悩む よりも、自分の持ってるものを好きになること、 なれるんだからそうしようじやないか。  ただ、今日だけでいいんだ。今日だけでいい から気持ちよく、それでものわかりよく、快活 に、そして情け深い人間になろうじやないか。  自分の最善を尽くして。穏やかにきれいな服 装で行動して、人々のすることを褒めて、どん なことがあっても、人々のなさったことを支配 しないようにしようじやないか。  そうしてもしも、人々に落ち度があったらば、 それを許すことよりも先に忘れてやろうじやな いか。  いい言葉だな。どうです?  ■天風会デクラレーション  ところがさっきも言ったとおり、人のするこ とだって言うと、すぐ目に映って、すぐ支配し たくなる。許すどころか、忘れることなんて夢 にも思えず、のべつ年中、人のことばっかり批 評する気持ちで、己のことを忘れちまって己の ことだけ許してる。ね? これじゃ、かりそめ にも天風会員としての正しい面目を保つてる人 とは言えないと私は思うんだなあ。  天風会のイデオロギーをデクラレーション (宣言)として私か発表した言葉を、あなた方、 忘れちゃいないだろうね。私はこう言つてるだ ろ?  「天風会の目的と目標は、どんな場合にも誠と 愛とで互いに思いやりのある助け合いを行なう 兄弟姉妹という者の数を増やすことだと。そう しないと真の世界平和というものは立てられな いから」というのが私のデクラレーション。そ の教えによって育てられ、その教えによって修 行してたはずのあなた方の仲間に、他ばかり批 評してからに、自分を省みないような大があっ たとしたならば、それはデクラレーションヘの 反逆者だと言わなきやならないね。  この教えの中にもあるとおり、人の一切の過 失は許す前に忘れてやれ。それで己の修行上の 怠りや過失に対しては、あくまでも秋霜烈日、 忘れちやいけない、許しちやいけない。あくま でも厳格に自分というものを自分でもって反省 しながら鞭打ってからに、たった今、今日初め て真理を聞いたような気分になる。すなわち、 まじめな気分になって、匸一昌几談を言うときで も、あははと笑って踊ったり、歌ってるときで も、心身の統一をおろそかにしないように。  例えば、小さなようなことながら大きなこと だが、クンバ(カのごときだって、何年も来て いてからに、「クンバ「カ」と言えばするかも しれないけど、そうでないときにひょいと横目 で見たりなんかする目に映るあなた方の、全然 クンバ(カが抜けてる姿なんかをしばしば私は 見る。そういうときに「ああ、この大は都合の いいときだけ教わった法をやってんだな」と思 うと、なんとなくその人の、広い意味における 人格まで私は蔑みたいような気になる。ね?  できるできないは第二ですよ。やってるうち には自然とできるようになるんだ。だから、な んでもいいから、一つの過失を感じたら、その 過失を再びしないような心がけで、結局、朝起 きてから寝るまで、いえいえ、もつと広い意味 において、三寸息絶え万事休す、その囗まで、 病があろうとなかろうと、運がよかろうと悪か ろうと、いえいえ、むしろ露骨に言つちまえば、 無事平穏のときはさもあらばあれ、健康が悪く なったり運が悪くなったときこそ、より一層心 身の統一を現実に実行するという、これが精進 の気持ちと言う。  いいかい? 肉類食わないで野菜ばかり食っ てるのは精進じやねえ。もちろん、それも精進 として必要な心がけだが、体にばかり精進の飲 食を与えて、それで心に少しもその糧を与えな かったら、その人は真の慎ましやかな人生に自 覚を持って生きてる大とは言わせません。  どうも、とかく「私は天風会員ですよ」とい うだけを誇りに持って、少しも天風会員として の本質的な現実実行という麗しい人生生活を営 んでる人の数の少ないのじやなかろうかという ことを感じるがために、私はそれを非常に遺憾 に思う以上に懸念してる次第で。  どうぞこの例会も、だからただ集まった場合 に、さも懇親会同様の目的で集まるもよし、そ れぞれの体験、経験談を座談的に感激とともに 語るも非常にけつこうですがね、自分が語ると きも人のを聞くときも、非常にそれは大きな参 考にはなろうけれども、そのときだけのただ淡 い感激や淡い興奮じゃだめなの。  月に一回あるいは二回会うことは、緩まんと する心のネジを締め直しに来たんだというつも りで、「もう俺はこれでいいんだ」なんていう ことは絶対に思つちゃならん。油断は大敵。常 に常に、もつともつとという、心身統一の現実 実行ということに心がけてくださいよ。 第三章「心」とは  一私は宗教では救われなかった  今日の問題は「心とは」。極めて哲学的な謎 のような演題ですが、要するに我々天風会員の 人生教義とする「心身統一法」の根本義となっ ている心というものに対する理解を正確にして、 そして自己統御を完全にするためにまず一番先 に必要なのは、心の操縦であります。自己統御 をいかに完全にしようと思っても、一番先に必 要な心の操縦が完全にならないと、自己統御で きません。そこでその心の操縦を過ちなからし めんために、心に関する理解を説こうとするの が今日の演題。  人々の多くは心、心とみんな囗じゃ言ってる けど、その心というものがいったいどんなもの かと、はっきり心の正体をわかって心というこ とを言ってる人は少ない。今でさえそうですか ら、およそその大昔は、全然何か何だかちっと もわからなかったという方、無理はないでしよ。  これは何遍か私かあなた方に言ってることだ から、おわかりになってると思うけども、昔は 心という言葉はなかったんであります。大昔の 心を表現することは「ころころ」と言った。大 化の改新以前の人々は心のことを「ころころ」 と言ったんであります。  それから神様って言葉がその時分まではな かった。その時分には神様を表現する言葉は惟 神という言葉を使った。惟神というのは大和言 葉でもって自然ということになる。英語でいう 回耳・。だから今神様と言ってる人は、なんだ か知らないけども人間のようなかっこうをして いるものが、なんか人間より優れた力を持って 一人いるかの如き考え方を持ってるが、その点 はまだ文化が現在のように至らなかった大化の 改新前の人間のほうが、ほんとのことを知って たんですね。  彼らの考えてた惟神という言葉は「ひとりで に」ということを「かみながら」とこう言って たんだ。だからその「かみながら」の「なが ら」を取っちやって神にしちやってからのちも、 ひとりでにということを神というんだと思って る人もないじやないけども、それは百人に一人 はありませんな、千人に一人。  だから西洋の{}乱という言葉ももう、やっ ぱり日本人が日本人の常識の中に伝統的に抽象 的な、ほんというとよく訳のわからない神とい う名前をそのまま西洋人の言う{}乱に付け ちやつてる。キリストのいう{}乱というのは、 天に一人の父がいるとか思つたんでしょうね。 これも一つの形容でしかない。宗教というもの はすべてcalculationですから。calculationとい うのは一つの想定ということです。  クリスチヤンもどつさりおいででしょうが、 それじゃクリスチャンに「天にまします父って な、どんな顔してるんだい」つて聞いたって、 そりゃ、こういうふうな鼻つきでこんな目元 でって説明できないでしょう。できる人、手挙 げてごらん。いやしませんよ。ただ、とにかく キリスト教で天に一人の父がいると、こう思え という、この思えといったことが想定観念。私 も随分キリスト教を深く研究しましたが、母親 どこにいるんだろうと思うんだけどもね。天に 父ばかりいて、天に母がいねえが、母親どこ 行つちゃつたんだ? どこかにいるんだろうけ ど、どうもキリストのほうじゃ「天にまします 我らの父。どっかにまします我らの母」とは言 わないから。  また仏教にも考えさせられる欠点があります。 回教(イスラム教)にもありますが、一番常識 的だと言われているキリスト教にそういう訳の わからないことが教義の中に存在していて、別 に私、今キリスト教をけなしてるわけじゃない んだよ。まじめに考えさせられる点を言ってる わけで。  「まあ、もったいない。まあ、キリスト様を」 とクリスチャンはおっしゃるだろうけど、私、 もったいないとも何とも思わない。私はキリス ト教で救われなかった。心の問題に悩み悩んで、 もう世界の三分の二を歩いて、キリスト教はも ちろん、仏教ももちろん、回教までやって救わ れなかった。それは私の心が極めてこれはもう 極度に穢れて汚れていたから救われなかったと おっしやるでしょう、クリスチャンや仏教家は。 しかし盗人にも三分の理ありで、洗い清められ るものは洗ってやるけれども、洗い清められざ るものは洗わないじや、ちょっと宗教の本旨に 違ったところが出てこやしないかと思う。  私は仏教の如きでも、「縁なき衆生は度し難 し」と釈迦はじめとしてからに、現在の仏教家 みんな言ってます。そうでしょ。「信ぜざれば 救うあたわず、縁なき衆生は度し難し」。  しかし私、人を救うという建前で考えつかれ た宗教である以上は、縁なき者にも縁を付けて やって救ってこそ、本当の慈悲じゃなかろうか、 情けじゃなかろうかと思うがいかがでしょう。 迷ってる、苦しんでるってのは、全然何にも頼 る気持ちがなくなってる奴の陥った心のもつれ ですもんね。まだ何かに頼れる人間だったら、 迷いも悶えもそれだけ大きかないもん。でも、 どん底に陥ってる人間に対して、あいつは救え ないからって救わないのが宗教だとしたら、宗 教なんていうものはもう絵に描いたぼた餅より もまだ頼りないもんだと言わなきやならないと 思うが、いかがでしょう。  いや、私も最初は宗教にすがったんだから。 もう切羽詰まって理屈も何もあるかと。迷信と 言われようが邪心と言われようが、そんなこと はかまわねえ。もう宗教に頼って救われなきや と思って、散々苦労した挙句、宗教に行ってか えって私の失望と落胆はよけい倍加されただけ でもって救われなかったんです。もちろん教会 に行ってる人、お寺をお参りしている人、みん なあれ救われたいから行ってるんですからね、 きっと。  それともあれですか、日曜のたんびに教会に 行き、また節会の折々にお寺にお参りしている 人は、俺が行つてひとつキリストを救つてやろ うとか、俺が行つてひとつ釈迦を得度させてや ろうとかというつもりで行つてるんですか? そうじやないでしよ。死ぬまでお通いになって らしても、なんか救われるだろうと思う、いわ ゆる望みなきにあらざる気持ちで行つてらつ しやるので。  宗教的に私の心の中に生じてる疑念が、精神 科学や心理学の中から宗教と照り合わせてから に、どうにも割り切れないものが宗教のほうで、 割り切れないものを割り切れたような顔をして 説いてて、しかも結果において割り切れないこ とを平気で言ってるのが、バイブルにも経文に もありますわね。  これも別にけなす意味じゃないんですよ。で きれば教えてもらいたいから言うんだけども、 「マタイ伝」にもありますね。「人もしもわが右 の頬を叩かば、笑って左の頬を出せ」つて。こ れはいい言葉のようですけれども、これ為しが たき計画じやないかと思う。ちょうど囗本にあ る「なる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍、するが 堪忍」と同じようなことで。クリスチャン一つ 引っ叩かしてくれませんか。力道山のパンチほ どは効かないかもしれないけど、かなり効くパ ンチ私持ってますから。そして右引っ叩いて、 「さあ、どうぞ、左七」とお出しくだされたら ば、その心持を伺ってみたいと思う。まして頼 んだら出すかもしれないけど、いきなり往来歩 いてる奴ら、これクリスチャンだなと思って ペーンつて引っ叩いたとき笑ってからに、「お 手痛みませんか。こちらもどうぞ、おついで に」つて出す人いないでしょう。  アメリカに笑えない滑稽な漫談がある。ある 日曜の日。教壇に立って宣教師の人がキリスト の愛を説いて、そして今の「右のほっぺた、左 のほっぺた」言ったらしい。そしたらそのお説 教が終わるとまもなく、一人の少年がお集まり の中から飛び出してきて、いきなりその宣教師 の右のほっぺたをぴえ1つて叩いた。そしたら 今言ったばかりですから、みんなどうするかと 思っていたら、宣教師が笑いながら、左のほっ ぺたを出した。じゃ、また少年がぺぺ1つとこ う叩いた。それでみんながやっぱり偉いなあ、 あの宣教師。キリスト教を説くだけあって、な んと尊いことだと思っだのが束の間、右を叩か せて左を叩かせてるまではにこにこ笑ってたが、 それからすぐその少年をいきなり首根っこを掴 んでホカホカ拳固で殴っだの。  それから少年が怒っちやって、「なんでい、 チクショウー・ 最初だけバイブルに書いてある ようにしやかつてからに、あとなんだ。あと 殴っちやったら何もならねえだろ」つて言った ら、宣教師が厳かな顔して「右の頬を叩かれた ら左の頬を出せとは『聖書』に書いてあるが、 それから後のことは何とも書いてない。だから ぶん殴った」へへへ、クリスチャン、わが意を 得たかな。  とにかく、そういうような状態であるのは結 局、要するに心、心と囗では言えど、その心な るものが何か何だかさっぱりわからないで、心、 心と言ってるからなんだよ。だからものは試し だから、あなた方ね、たいへん偉いなあと思っ てるような宣教師や牧師に、今日ここで聴いて いった心の分解を、もちろん聞けばわかるから、 そのわかった理解でもって聞いてごらん。  「いったい心、心と言いますが、イエス様のほ うでもってつくってくださるところの愛の心っ ていうのはどれから出てくる心で、その愛を妨 げるっていう心はどこから出てくる心でしょ う」  つて聞いてごらん。偉そうなこと言ったり、 いろんなことやってる奴だって一遍で参っちま うから。  ■心とはなんぞや?  第一に心というもの、心、心と言いながら、 分類すると二つに分けられる。絶えず何事かを 思つてる、考えてる、同じ冗談囗言つてる場合 に心に思い浮かべるときでも、その思い浮かべ る事柄を厳密に分析すると、二色のどつちかか ら生まれた心であります。  二色とはどういう心か。一方は肉体について る心。それから一方は精神についてる心。この どっちかの心が心の働きを行なう、実在意識領 へ出てきていろんなことを思ったり考えさせた りしてるんだよ。  肉体のほうについてる心を「肉性心」といい ます。いいかい?「肉性心」。これが三つにな る。一つ、二つ、三つと。  第一が「物質心」、物質の心。  第二が「植物心」、植物の心。  第三が「動物心」、勣物の心。  精神のほうが「心性心」といって、これが二 つある。  一方が「理性心」、  第二が「霊性心」。  ■二色の心−@「肉性心」〜肉体  生命に付随する心〜  ただしこの肉体についてる「肉性心」の一と 二だけは、実在意識領に直接的に飛び出して働 かない。  この「物質心」というのは一番先の、あらゆ る物質を形成する根本中心になっている心。だ から、どんなものにでもあるわけだな。メタル にだって、メタルというものを作った根本中心 がある。白墨一本の中にも、根本中心がその物 質の存在を確保してる。  これはあなた方の中学時代に教わった物理学 を考えるとわかる、ね。すべての量的存在は、 つまり量的存在というのは物質ね、物質という ものは素粒子が原子となり、原子がさらに分子 となったものの形成に他ならないと言ってるで しよ。そのいわゆる素粒子のもう一つ根本にあ るものを物質心だと言って差し支えないんであ る。  近代科学は、普通の常識じゃ考えられない、 ちっちゃいとも、ちっちゃいとも、ちっちゃい とも、これは考え方の上だけでもって考えられ ることでもって、おそらくはこんなちいちゃな ものを見る顕微鏡なんていうものは、永久に人 類の世界にはないだろうとまで言われている小 ささだな。素粒子の一個の大きさはI〇兆分の 一センチつていうんですから。物理学の方程式 から行くと、一〇のマイナス匸二乗センチメー トルであります。一センチというのがもう既に 小さなものだもんね。そのIセンチのI〇兆分 の一だよ。もう天文学的数字と言っていいで しょう。  そのまたI〇兆分のIセンチというちいちや いものをつくり上げる芯になってるのが物質心。 目には見えなくても小さくてもあるものなんだ から。いまだに物理学者のほうでは、それが気 体なんだか固体なんだかわからないという、ま だ決定のつかずにいるもの。だから湯川博士も、 素粒子の背後に来たるものは現代の科学者に よっては発見されないだろうとまで言ってるん だぜ。  とにかくある以上はあるんですから、ないと ころからあるものは出てこないんで。あるから こそあるんだから、わかるかい? 非常に学問 的な言葉ですけども。  それから次の「植物心」というのは、一切の 植物以上の生物に共通している心。これは石や なんかにありません。鉱物にはないと見ていい と心理学者は言つてますが、私はこの心理学者 の説にいささか反対はしないけども、共鳴され ない点があるのは、存在するものがなくならな い以上は、この存在を確保する力が働いている ということで、何かなしその生命を保存すると 同時に成長は行なわれているに違いない。成長 が止まったときは、もうそのものの存在がやが て崩壊する過程に入っだと見ていい。  しかしこういう難しい議論はともかくとして、 常識的に言えば、生きてると思われるものの中 に植物心はみんなあるわけだ。だからちょいと 見ると、草や木には心がないと思ってるが、歌 なんかじや「しず心なく咲く花の」と言ってま すが、美しく咲いてる花見てからに、この花は 人間を楽しませたいために咲き出したんだなん てことは考えられないというんで、しず心なく。 花のほうは何もそんな目的も何もなく、自分の 与えられたそのまんまの自然をそこで咲かせて るだけで、その見てた人間のほうが喜ぶだけな んだから、花それ自身には心はないぞと、こう いうふうに言うところから「しず心なく」と言 うんでしょうけど。  いずれにしてもこの「物質心」と「植物心」 は、さっきも言ったとおり、実在意識領に出て 働かないで、心のお蔵の中である潜在意識の奥 深くに潜んで働いてる心といいましよう、影も 形も見せずに。  肉にくっついて働いてる心の中で心の表面に 表われて盛んに活動する心は、第三の「動物 心」。これが俗に言う「本能心」というやつな んですよ。「ああ、もう本能が」というあの本 能心が動物心のことね。わかるかい? これは もう一切のすべての動物が、その動物の肉体の 生命の生存と生活を保つために必要とする一切 の作用を司つてる心。  詳しく言えば、例えば肉体生命に存在する五 官の感覚をはじめ、目だ、鼻だ、耳だ、舌だ、 体だというものの持つてるそれぞれの異なる感 覚をも支配して、だから動物心があるから、 「あ、いい匂いがするな」とか「あ、痛えな」 とか「あ、痒いな」とか「あ、きれいだな」と かね、「あ、うめえな」とかというふうに感じ るんで、本能心がなかったらどんな御馳走食べ たってちっともうまいとも感じず、どんなきれ いなもの見たって、目がたとえそれ見ていても、 本能心がキャッチしないときれいな景色を自分 の実在意識の中にふうっと映さない。  ちょうど早い話が、いくらカメラのシャッ ターを切っても、フィルムに感光しなかったら 何も写らないと同じ。ところが人間のほうは、 フイルムに感光を受けるときの自然作用と同じ ようなものが心にある。それが生理科学で言う と知覚、「知覚作用」という。それから心理学 でいうと「感応性能」とこういう。あんまり詳 しく説明すると、あなた方その方面に対する研 究知識がない人にはわからないから、ざっと話 をしてるんですが。  それからさらに動物に共通的に存在する「原 始欲望」というものもこの動物心である、本能 心が支配している。動物に共通する原始欲望と いうものは三つある。これはもうコオロギ、 バックに至るまで、いやもつと、顕微鏡で見な きやわからないバクテリアにもあります、ばい 菌なんかにも。動いてるものを動物という。動 けるものを動物という。  ■動物に共通する三つの欲望  その動物に共通してる欲望が三つある。第一 が「食欲」であります。つまりその生命を存続 せしめるために、命の火を燃やす薪、それが必 要とせられる。火を燃やすのに薪が欲しいと思 うのが食欲なんだよ。腹が減ったから食いたく なるのが食欲じゃないんだよ。腹が減ったとい うのは、つまり命を燃やす薪が欠乏したよとい う感じなんだよ。そうすると「俺はしょっちゅ う欠乏してる」つてな人があるかもしれないけ ど、食欲、わかったか?  それから第二が「睡眠欲」。眠いってやつ、 寝たいなあってやつ。これは消耗せられた孑孑 ルギーを復活せしめるために、宇宙孑孑ルギー を取り入れるために生命が行なう生命それ自体 の方法、これが睡眠であります。あれは眠いか ら寝るんだとあなた方思ってるが、むろん眠い から寝るんだけど、とにかく眠いという感じは 生命の中でこのまま起きてちや生きられない、 活力が足らなくなったから、その活力を仕入れ ようとする、その気持ちが出たときが眠いんだ よ。だからよ1く寝る人間というものは非常に 丈夫だろ。始終活力が復活してきてるから。  その点ちょっと匸言注意しときたいけど、よ く寝られないと言ってからに、催眠剤を飲む人 がある。あれは、傍から見ると寝てるように見 えてるけれども、厳密な意味から行くと、自然 に眠気を催して寝た睡眠とはおよそ内容に天地 の隔たりがある。自然に寝た睡眠は足らなく なってる活力を宇宙孑孑ルギーから、その生命 の持ってる尊い働きでもってどんどん、どんど んまた取り入れます、命の中にね。だからよく 寝ると前の囗疲れていても、明くる囗、またも う捲土重来働くだけの勢いが出てくんだろ。 催眠薬のほうは、傍から見ると寝たように見え てるけれども、この活力を復活するという自然 作用が働いてないんであります。  もっとはっきり言っちまうってえと、足らな くなった活力を十分に再び元の分量に取り戻そ うとする、宇宙孑孑ルギーから活力を取り入れ るという尊い働きが行なわれてない。なぜたと いうと、自然の睡眠のときは同化作用てえのが 全神経系統に生じてる。ところが催眠薬で寝た ときには、この同化作用というものが働かない で、異化作用というのが働くんです。異化作用 が働くってえと、よろしいか、受取主のバルブ が塞がれてるのと同じと言っていい、何も受け 取れない。  それはなんでそうなっちまうかというと、催 眠薬飲んだときは大脳の知覚作用がただ麻痺す るだけのことなんで、外観だけ見るといかにも 寝たように思いますわ。知覚作用が麻痺してる から、寝たのと同じような状態にしか見えない もの。  だから、催眠薬で寝た人間を自然に寝てる人 間だと思い違いするのは、デパートの着物着て 立ってるあの人形を本当の人間だと思うと同じ たっていうんだ。デパートで着物着て立ってる 人形というものは、確かにみんな人間よりきれ いな状態で立ってるわね。もっともあれがあん まりきれいすぎるもんですから、騙されて着物 買うんでしようなあ。自分の顔はちっとも考え ないで、あら、まあ、よく似合うわ。似合うは ずだね、顔がとてもきれいなんだ。それで自分 が買ってきて着てみると、人形が着てるほど似 合わないよ。お面が違う。  いずれにしろ、本当に寝てた人間は大脳の中 が痺れてないわけよ。薬で寝た人間は大脳が痺 れてしまう。だからそれはとにかくよけい分量 飲めば死んじまうぐらいな反応がでるような、 生命に危険を及ぼすもので存在してる催眠薬を 飲んで、ほんとに寝たと思ってるような考え方 してる奴は大馬鹿の大間抜けだよ。「そんなこ と言ったって、寝られなかったら疲れる」と言 うけども、それじやあ、催眠薬飲んで寝たら明 くる日疲れがすっかり治るか? 治りやしませ んよ。催眠薬で寝たときには前後の時間、長い 時間寝たように思っても、明くる日頭が重い じやないか。睡眠は自然こそよけれ。だから催 眠薬飲んで寝てる癖つけてる奴は、どんなこと しても長生きしやしません。  それから一番おっかないのは、いざ大病にか かったときに、その体の中に神が与えてくれた と言っていいような「自然良能」、英語で言う とnatu邑healing powerというものがなくなっ ちやう。つまりひとりでに治す力の火の手が衰 えちまう。だから催眠薬なんていうのは用いる べきものでないんです。  「と言っても寝られません」つて言うけども、 寝られなかったら起きてろよ。きっと寝られる から、どんな野郎でも、どんな強情な女でも。 「寝られないで死んじやったらどうしよう?」 そんなら勝手に死にやがれ、そんなの。そんな 人間生きてたってしようがねえじやねえか。寝 るまで待ってろっていうのに、寝れるまで待て ねえでもって、それで死んじやったらどうしよ うなんて思ってる人間、これもう度し難き人間 だもん。  それから第三の欲望は、これもやっぱりコオ ロギ、バックからアメーバまである「性欲」。 性欲というと、その方面にもう現在関係がなく て生きてるおばあちゃんやおじいちゃん、難し い顔して私の顔を見るんだが、そのおじいちゃ ん、おばあちゃん、みんな私の子どもぐらい若 く、年を取ってないでいながら、もう衰え ちゃってるんだねえ。かりそめならず卑しきに 似たりといえども、こはこれまさに人倫の大本 なり、といって難しい顔して言っていいくらい なもんなんだ、性欲。  これを汚い気持ちで聞くのは、結局要するに 動物心で聴いてるから。もっとも動物心で聴く どころじゃねえ、動物心でしょっちゅう男女の 営みやってる奴が多いんだからねえ。あの男女 の営みというのは動物心で営むもんじゃありゃ しない。それをあなた方はもう犬猫と同じよう な気持ちでもってメンとオンとが営んでるから、 できるガキがろくなものできねえの当たり前だ よ、これ。ことかりそめながら、最も神聖な気 分でやらなきやならない。  熊沢蕃山という人は夫婦の営みをするときは、 しめ縄を張ってるお座敷に入って営んだそうだ ぜ。人間の持ってる一番麗しい純正な愛情の交 換をする行為が、要するに性欲遂行の実際現象 だ。それを犬や猫がシーズンに盛りがついたと 同じような気分で男女の営みをするというのは、 これはかりそめにも野蛮時代の人間ならともあ れ、いわんやまして天地偉業の真理によって人 生を生きることをしてる天風会員のなすべから ざる計画だ。  幸いに、しかしながら古い会員がみんなこう いう講演を聴くたびごとに、二号句卑しくも せず、まったくそうだと思い改めてから後にで きた子は、これはもう本当に天風っ子ってもの は育ちが育てやすいために順調で、健康も申し 分なく、その上非常に聡明でしよ。学校のでき はいいし、みんな出世するわね。それは要する に性欲の遂行のときの心持が動物的でなくなっ てるからだよ。  しかしながら、元来がこれは動物に特有な子 孫を繁栄せしめ、系統を相伝するというのが目 的でもって人間に与えられた心だから、これが 要するに動物心となって、動物心の中に入って るんですよ。だからその行為を欲する場合は動 物心で、その行為を欲する念慮を起こして、実 行の場合は一番最後に説く霊性心でこれを行な わなきやいけないんだよ。こんなことを教えて くれるのは天風先生だけだぜ。またそこまで研 究してないもん、他の学者はね。  それからその他のいろいろの欲望や感情情念、 それもこの動物心が支配してるんだよ。  さて、感情情念と一口に言うが、あなた方は 特にこの消極的な感情情念、動物心の中にある 己の心を極度に弱くする消極的の感情情念がお よそ幾通りあると思つてる? それは微から細 に渡るてえと、仏教のほうで言うと毛穴と同じ 数あると言つてますね。「焦熱地獄は八万六千 の煩悩より生ずる」つて八万六千つていうのは 毛穴をたとえた。暇な奴が勘定したのかね、毛 穴が八万六千あるつていうの。  だいたいにおいて消極心となるものが、およ そ結合すると二十数種類あります。つまり心を 消極的にして人間の心を価値のないものにする 劣悪な感情の素因を成すもの。  第一が「怒ること」だ。  第二が「怖れること」だ。  第三が「悲観すること」だ。  第四が「煩悶すること」だ。  第五は「苦労すること」。  第六番目が「悩むこと」。  七番目が「憂うること」。  それから「迷うこと」、八番目が。  九番目が「心配すること」。  十番目が「憎むこと」。みんなあんた方の得 意なことばっかり書いてるね。  十一番目が「恨むこと」。  十二番目が「やきもちを焼くこと」。  十三番目があれが好きだ、これが嫌だって 「排他すること」。(イタつて歯が痛いんじやね えよ。  十四番目が「嫌うこと」。  十五番目が「復讐を思い立つこと」、仕返し してやろうって。  十六番目が「人をあしざまに悪く言うこと」。 女が三人寄るとたいてい笑い興じてるときにど んな話だと思えば、たいていこの悪口ばっかり。  それからやたらに「ものを疑うこと」。  十八番目が自分の心の鬼でもってすべてのこ とを「邪推すること」。  十九番目が心の落ち着き失って焦ること、 「焦慮」。  二十番目が「不平」。  二十一番目が「不満」。これは私か書くより、 あんた方がみんな知ってることなんだよ。  それから「自暴、やけくそ」、「自棄、捨て 鉢」、これだけ。これはみんな動物心の中にあ るの。  まだこの他にあなた方で、私の知らない動物 心が折々時々心の中に飛んでくる人がありま しようけど、それも分割するとみんなこの二十 三種類の中から生まれてくる心です。この中で 第一の憤怒、それから第二の恐怖、第三の悲観 と、それからずうつと向こうへ行つてやきもち を焼く心と敵討ちをするぞという気持ちと、そ れから好き嫌いを盛んに起こす心と、それから ものを疑う心は、これは人間以外の動物にも共 通してある心であります。  いいかい? それから煩悶だとか、苦労だと か、悩むとか、憂うるとか、迷うとか、心配す るとか、憎むとか、恨むとか、悪口を言うとか、 嫌うとか、焦るとか、不平をするとか、不満を 言うとか、自暴自棄に陥るのは、これは人間だ けの持つてる動物心。だから現在何か自分の心 の中に楽しからざる気分を感じている人は、こ の中のどれか知らんが、その心の中で去来して るからだ。  だからとにかく自分の心を暗くし、さわやか なものにしない思い方や考え方が心の中で浮か んでいたら、それはもう、とりもなおさず人間 以外の他の動物が持ってる心と同じ心に今自分 がなってるんだと。しかも区役所行くてえと、 ちゃんと人間としての戸籍が登録してあるのに、 区役所の帳簿だけが人間で、思ったり考えてる ことは王子の動物園へ入ってるものと五十歩百 歩だということを考えなきやダメだ。  ■二色の心−A「心性心」〜精神  生命に付随する心〜  それから次は精神生命についてる心。  第一が「理性心」だと言ったね。この理性 心って心は人間だけしかない特別な心。人間以 外の他の動物には絶対にないと言っていい。こ の理性心という心の作用の特徴は、人事世事一 切の人間生活に関係する事柄に対して、「推理」 と「考察」を行なうという働きを持ってる。こ れどういうわけだろう、こういう理屈じゃねえ かな、いやあ、こうじゃねえかというふうにね。 それからさらにまた物事の「批判」を施すとい う心の働きがある。いいとか悪いとか、厳密に 言えば善悪、邪正、曲直、是非というような 「判断」を行なう働きを持ってる。  それから同じ心の中に存在する心で、最後の 「霊性心」。この心は人間の心の中で最も高級な もの。厳密に言うと、この心あればこそ、我々 人間が万物の霊長といわれるのであります。詳 しく言うと、別に学問しなくても経験しなくて も、学問した人よりも経験のある人よりも、尊 い思い方や考え方のできる、いわゆる霊感だと か霊智の作用だとか、霊能力というような特殊 な心理現象、すべてこの霊性心から発動するん だ。だから神秘的な思想やあるいは優れた論理 思索、または悟りを開くとか、確固不抜の信念 牢固として抜くべからずというような状態など が出るのも、この尊い階級の霊性心という心か ら出る心理現象。  ところが天風会以外の人はと言うと、天風会 員以外の人は怒るかもしれないけれども、ここ にはいないからかまやしないけど、そういう 人々はいろんな難しい理屈や議論をかれこれと 筆や囗にややこしくする割合に、この霊性心と いうようなものについてあまりにも知らなさす ぎるぐらい知らないのであります。知らない証 拠には、正しい理解持ってないもん。  もっともこれは無理もない訳もある。その無 理もない訳というのは、この霊性心という尊い 心は特別な生まれつきの人か、あるいはまた生 まれつきはそうでもなくても、正しい方法で天 風会の夏の修練会でやらせるような、あの正し い方法で秩序を乱さない精神訓練を施さないと、 容易に随時随所心の表面に出てくれない心。そ のために普通一般の人は、この心は自分たちに はないものだと思い込んじやつてるんだ。たま さか霊能力のある人を見ると、あれは特別な人 だろうと。自分が経験しない人を見ると、「は あ1、不思議だなこの人は」と思う。  世の中によく時々予言が的中するとか言い当 てるとかという人見ると、自分と全然かけ離れ た人間のように思うだろ。とんでもねえことだ。 同じ人間だもん。頭の中が、脳みそが別に向こ うのほうが塩気が多くて、こっちのほうが砂糖 気が多いわけでも何でもねえんだ。ただ彼らは 先天的かあるいは何かのことによって、そうい う力が啓発されただけ、訓練されただけなんだ。 だからあなた方だって訓練すりや出てくる、そ の証拠には、夏の修練会わずか十日間でもう、 後ろに立った人が何を思ってるってことはすぐ わかるようになるじやねえの。もうついこの間 それを経験した人が、この中にいくらもいるだ ろ。  だから厳密な意味からいくと、この心は人間 誰でもできるという信念がなきやならないんだ けども、今言ったとおり、平素人生に生きると き、知らないために多くの人が使ってる心とい うのは、その大部分が動物心ばかりなんだ。そ れで時々あれがいいとか悪いとか、あるいはこ うじゃねえか、ああじゃねえかっていう理屈で もってものを考える理性心が働いてるだけなん だ。  したがってこの霊性心なんていう尊いものを ほとんど使うことなしに、貴重な人生を、再び 繰り返すことのできないのにIページ終わっち まう奴も随分あるんだぜ。その点だけ考えただ けでも、恩を売るに似たりといえども売ってい いと思う。天風会員になった幸せを考えなさい よ。  多くの人は、人間の心の中に霊性心というま ことに優れた驚くべき特殊の作用を持つ、あり がた1い心があるということは気づかずにいる んであります。だから修練会十日間終わるてえ と、みんな涙なくしては帰れない感激でしよ。 「はあ1、こんな、こんな心持があったのかと いうことを知らなかった。それをとにかく知ら させていただいて、まあ、なんとうれしいこと だ」つてみんなそれはもうね。  もっともそれは、そういう心があるだろうと 気のついてる大もないじやないんですよ。それ は数において少ないけども、よほど心を研究し た人のそれは心持ちですけれども、しかし前に 言ったような理由で、この心はとうてい我々み てえな凡俗には発現ができないと、こう思って るから。  だからよく「これからの景気はどうなるで しょう」とか、「この仕事の将来性をみてくだ さい」とか「この先どうすればいいでしょ う」つて僕のとこへ聞きにくると、僕に怒られ るだろ。  「何のためにおまえ天風会員になってるんだよ。 自分でもってそのぐらいのことは感づくように、 おまえは修練会やったのか?」  「はい」 「何度やったんだ」 「はい、二度やりました」 「二度やったら、おまえ、一遍教わってるじや ねえか。あの安定打坐(天風式坐禅法)をや れ。もっとやれ」  「やっちやいるんですけど、先生、なかなか出 ません」  「バカヤロウめ。出るときが来りやぱっと出る から、自分で自分のこと考えろ。俺は人のこと 考えるどころじゃない。他の人々の幸福を考え なきやならない忙しいときだ。第一、俺がそれ 考えてやったら、おまえ、いいことにして今後 とてもしよっちゅう俺に考えをしてくれ考えし てくれってくるだろ。おまえだけをたった一人 会員にしてるんじゃないからいけない。いつま でも人に頼る心があっちやいけない。天は自ら 助くるもの助く。自分でやれ」  そうすると情けなさそうな顔して帰っていく 奴があるけど、私は「天は自ら助くるものを助 く」。Heaven helps them who help themselves.こ れがもう千古偽らざる真理であることを信じて ますから、どこまでも自分で自分を守ってけ。 人に頼っちやいけない。いわんやまして神仏に。 そのために自分で生きられる方法を教えてる じやないかって言って、また小言冐うでしよ。  つまり要するに、この力が発現しない人とい うのは、我々天風会員のように霊性心の発現に 必要な精神訓練法やあるいは自己統御法、the meth乱Of the self-control'それを知らないから。 もつとはっきり言うんなら、一般の世間の人と いうものは、あなた方の知つてるような、要す るに修練会をした人々が知つてるような精神生 命の生かし方とか、あるいは精神生命の統御法 という人生を有意義に生かす大切な方法という ものを知らない。ただ、その囗その囗の出来心 で生きてる人ばかりが多いんであります。そう してそういう人の心の中は、雑念妄念が常にも うもうとして、心の花園は雑念妄念という雑草 で生い茂つてる。それを整理することを知りま せん。  ところが、あなた方はこの雑念妄念を制御し て、心の鏡を研ぎあげる「安定打坐法」という 貴重な方法を修練会で教わってるけれども、世 間の大はそんなこと知りやしねえもん。いわゆ る安定打坐法という即座に無念無想になれる方 法などは、普通の人間は知らないんですよ。 知ってると思ったら大違いよ。現在あなた方、 修練会に参加して初めてあれ聞いてびっくりし たんでしよ? だから夢にも知らないから、当 然この霊性心というものをどうしても自分らの 手の届かないものに思い込んじやってる。  だから修練会をまだしてない人は、来年もう すぐです。来年のことを言うと鬼が笑うという が、鬼なんか笑ったってかまわねえ。鬼なんか いくらでも笑わせとけ。これで来年はもう万障 を投げ打って修練会に来てごらんよ。一遍味を 占めると、どんな人も毎年夏の十日間だけは、 どんなにしてもこの修練会やらずにはいられな いということになりますから。そうすると、来 りや来るほど、ますますもって心の鏡が研ぎあ げられる、拭いあげられますからね。  とにかく煎じ詰めると、天風会で教えるよう な精神生命に関係する貴重な方法を知らない人 というものは、心というものの本当の大きさ、 同時に心というものの本当の霊妙な働きという ものを極めて小さくせま1く憐れなものに考え てる。それを思うと、天風会員になったお方々、 何遍言っても恩を着せるに似たりといえども恩 着せていいと思う。幸せだなあと思うぜ、私は。  現在、私かインド行ってから二、三年の間苦 労してそのまま一生懸命こういうことを研究し て、なんとも形容できない本当にありかたい幸 福を味わってることを考えるてえと、ああ、よ くぞ八年の間もあんな大きな業病に神様、俺を かからせてくだされたわ。あれにかかったばっ かりに悟りを開く気持ちになったんだと思うと ね、与えられた大きな事実に対して、それが私 の人生を本当に尊くコンパーション(転換)さ せた契機だと思って、もう涙も出るほどの感謝 をいつも感じてるのであります。  とにかく諸君が講習会や研修科やまたは修練 会で、大昔からこれはもう地球上の人間という 人間が思いもつかなかった方法や手段というも のを教わって、すぐ応用できる結構な方法で会 得せしめられて、そしてその結果、心というも のは人間の生命はもちろん、人生の一切を現在 よりも遥かに遥かに価値高くする、偉大にして 霊妙な作用を持つものであるということが自覚 し得て、その上のみならず、常にその作用を人 生に正しく応用すれば、その人の人生はその生 涯を通じて極めて有意義に生き甲斐のあるもの になるということを、それはもう実際的に信念 づけられちやってる。  それで万物の霊長たるほんとの幸福というも のはここにあるんだということを、あなた方は 日々味わっていけるという幸福な人間になって るでしよ。またそうしたいのが、私のこうやっ て御奉公してる努力の中心なんだ。  とにかく、ないことをあるように言ってる教 えじやありません。人間の心というものをその 働きの上から見るてえと、以上説明したような、 これはもう実にありかたい分類と差別を持って る。だからしっかりそういうことを心に置いと かないといけない。  ■心に使われて生きてはならない  とにかく、以上のいずれの心がいったい人間 に一番必要かというと、霊性心が常により多く 発動してることが必要なんだが、しかし肉体に ついている動物心も、心についてる理性心も。 これ不必要だからやめちまえというんじやない よ。必要だから与えられているんだから、とに かく必要なときに実在意識領にその必要なもの を引き出して、いろんなことを思わせたり考え させたりしなきやいけない。そうでないと、も う心の状態が乱調子に陥って、泣かなくてもい いときに泣いたり、怖れなくていいときに怖れ たり、またさっき書いた二十数力条の心を思わ なくてもいいのに思ってくるような場合がしば しば出てくる。それで自分がしょっちゅう苦し まなきやならない。  そうだろ。どんな物好きな人間でも、あんま り毎日暢気でさわやかでもって人に羨まれても いけないから、今日あたりはひとつ悲しんでや ろうか、今日あたりはひとつ怖れてやろうかっ て思って怖れたり悲しんでる奴はねえだろ。秋 の空とちっとも変らず、今まで別に腹も立って なかったんだけど、急になんだか変なことが気 になって腹が立ってきたというようなことに なって、あなた方がぷりぷりし出すんだろ。  だからこれを考えてみたとき、人生を有意義 に生きていこうと思うならば、どんな場合にも 忘れてならないことは、いいか、いったいどの 種類の心も、使って生きていかなきやいけない、 使われて生きちやいけないということなんだ。  これ大切なことだぜ。あなた方は心に使われ ちまうからいけないんですよ。心と体というも のは使って生きていくように必要なものだから、 この命に与えられてある。それを何事ぞ、特に この心というものがしょっちゅう価値のないこ とばかり思ったり考えたりしてるのは、心に使 われてるからだぜ。  心というものは厳粛に言うと、生きるために 使うので、使われるためにあるんじやないんだ から、これ忘れちやダメだよ。それをあなた方 はいくらなんぼ言っても、いざとなるてえと使 われてるような状態になってるぜ。心に使われ たら心配も煩悶も、もうとめどもなく心の中を 暗くするだけだ。同じ物事に接触してる場合で も、その接触してるものと心との関係が、その 心がその接触してるものを対象としていない、 自分自身の生命を使い出したら、もうおしまい だから。  ところが、この忽せにすることのできないこ とが、はっきりわかってない人が多いんだなあ。 心に使われたら最後、人生はたちまちその価値 を失う。その価値を失うのをたいていの人は、 滑稽にも自分じゃ使つてるつもりで、なんと反 対に心に使われてる場合のほうが多いんだぜ。 これよ1くその判断しなきやダメよ、自分自身 が。  私かこういうことを言うのは、いかに今の世 の中に文化が多くの人の人生を恵んでるはずで ありながら、恵まれてる奴が少ないだろ? 非 文化時代になかったようなノイローゼだとか神 経衰弱だなんて愚にもつかねえ病が、まるでそ れはもう文化民族として当然の病のように思っ て、煩悶や悩みや悲観や苦労やあるいは怒りや 怖れやという、さっき言ったあの二十数種類の 消極的な感情どもを、もうのべつまくなし、あ れこれあれこれと心に感じて生きる人がいかに 多いかを見てみりやすぐわかる。これすなわち、 心に使われてるから。  だからそういう人は、どんな場合にも本当に 明るく朗らかにいきいきとして勇ましく生きた いだろうけれども、生きられない。その反対の 状態で生きてる。ということは、実際的に目に 見える事実でもって感じると、前にも言ったと おり、「ああ、気の毒なこの人、使うべき心に 反対に使われて生きてるからだ」ということが すぐ、これ私ばかりじゃなく、あなた方だって 少し注意してみりゃすぐわかる。いや、他人事 じゃない。自分がそうかもしれないことに気が つくぜ。  もっともそれは、心の統御法を知らない、ま た知ろうとしても心掛けなきや漫然として人生 に生きることになっちまうから、どうしても 使って生きなきやならない心に使われるのは致 し方ないといえば言えるけども、しかしそれ じやあ、人生生きてる地獄だもん。そうだろ。 煩悶だ、悲しみだ、怖れた、迷いだってものが あるとき、心さわやかに感ずる奴はなかろう じやないか。それともあれかね?「いや、何で もねえときは俺ちっともおもしろくねえんだよ。 腹が立ったりよう、心配があったり悲観するよ うなことがあるってえと、なんとも言えねえ生 き甲斐感じるんだ」という人があったら帰って くれ。ここにいたってしようがねえから。  とにかく、人生を暗くするような消極的な価 値のない感情が心に浮かび上がったときに、そ れを非常に喜びを持って迎える人ないでしよ。 神経過敏だとかノイローゼなんていうのは、結 局それがとどのつまり散り積もっだ状態を言う んだぜ。だからそういう人というものは、心と いうものが、人間がその人生を完全に生きるた めに使う生命の道具として造物主が与えてくれ たという大切なことをまじめに考えてないもん。  中には「心があるばっかりに人生苦労するん だ。嫌だ、嫌だ」なんて思ってる人がある。そ うだろ? だから、そういう人に限って煎じ詰 めると肉体、この体を自分だとこう考えてます ね。さもなきや少し気の利いた人間でも、心と いうものが自分の生命の支配権を持ってるよう に考え違いしちまうんであります。両方とも考 え方は間違いであることは、六月の講演(研修 科「我とはなんぞや」)を聴いた人は知ってる わね。体が自分でもなければ、さりとて心とい うものが自分でもないんだから、心に支配権な いんだよと。  けれども、そういうことを言ってもわからな いほど、その方面に対する理解のない人は、な んのことはない、やっちやいけない自己の生命 の支配権を、その資格のない心というものに無 条件で与えてしまってるのであります。知らな いでやってるんですよ。  女中が縁もゆかりもなく赤の他人で、自分の うちに縁があって奉公に来た。そしたら来ると 同時に、その一軒のすべての支配権をその女中 にやっちやって、それが当たり前だというふう に思って、それで御主人が女中にあべこべに使 われていて、それが間違ってないと思うと同じ 思い方が、その心に生命の全支配権を与えて生 きてる人のことを言う。女中の話で言うてえと、 「わたしやそんなことしてない」と、また「す る気遣いもない」と思ってるかもしれない。  女中の場合だけだよ。生命に対しては、どう してもそういうことをやってること気がつかね えんですから、ね。そうするとどうなるかとい うと、とどのつまり、のべつ心に自己というも のを使われちまうんですよ。使われたくなくて も。多くの人が迷ったり悟れない苦しみを感じ るのは、その理由はこの点にあるんですよ。自 己の生命の支配権なるものは、心にあるんじゃ ないのをあるように思うからだ。  ■万物の霊長たる生き方  自己の生命の支配権というものは、じゃ誰に あるんだ。哲学的な言葉だから、二日じゃわか らないかもしれないけど、自己の生命の支配権 は自己にある。哲学研究してる人なら、「ああ、 そうだ」と思うけど、「その自己がわからねえ から、こんにやく問答じやねえか。支配権は心 にあるにあらずして、自己を支配するものは自 己にある。その自己がわからねえのに自己にあ るったって、さっぱりわからんわ」と、こう 思ってるんだ。  しかし、おいおいわかるように説明するが、 自己以外に自己の生命の支配を行なう権利を 持ってるのは絶対にない。それで、その自己と はなんだってことを考えてごらん。自己とは何 だ。自己とは学問的な言葉を使えば「真我」と 言います。本当の我。亘]我とは何たというと、 生命の根本要素を成すところの霊魂と称する一 つの気体が真我の本当の姿だ。形はないんだよ、 本当の自分というものには。一つの気が自分な んですよ。それを、ただ現象界にその気を活動 せしめるために一つの道具として与えられた肉 体をなんと自分だと思つちやつてるんだ。  扇風機でわかるじゃないか。扇風機だけで もって形は扇風機と言えるけども、扇風機とし ての生命はないじゃないか。電気が通じなきや ダメじゃねえか。してみりゃ、扇風機の本質は 電気にあるじゃないか。人間の場合だってそう だよ。いくら肉体だけあったって、その霊魂と いう気が肉体から離れりゃ、人間の肉体はその まましゃっちよこぽっちゃって血が循環しなく なっちゃって息が止まっちゃって、うっちゃっ ときや腐つちやつて、そのまま消えちまうじや ねえか。  だから、自分の生命の支配権は、この目に見 えない気体である霊魂にあるんですよ。自己の 本体は形ある肉体でもなきや、あの微妙な働き をかなう心でもなく、その一切を働かせる一番 元の原動力的な存在として、目には見えないが 実際的にあるところの霊魂という気体。  しかし、ここに特に諸君に注意しておきたい ことは何かというと、在来の精神を説く学者や 識者または宗教家の多くは、洋の東西を問わず、 この心というものの神秘な点だけを重く考えて、 心というものが人間の生命全体に対する支配権 を持つものであるかのごとく説いてるという傾 向が顕著にあるということ。これが現代人を迷 いに陥れる元だとも言っていい。  第一、はっきり言おう。キリスト教でも仏教 でもあるいは回教でも、彼らのお説教やパイプ ルやお経の本見りや、みんな心が一切の生命の 主宰権であるように説いているだろ。いや、説 いてるつもりでなく、説かれてる。しかも、こ の間違った斷定か何千年という長い間、もっと も人間の知識がそこまで発達してなかったから でもありますけれども、少しも違いがないとい うふうに考えられて、正しい論議の如くに堂々 と誤りを伝えて主張されてることは、現代の人 間が文化かくのごとくクライマックスに達して も、いまだに心の方面だけが幼稚だという結果 を来してる一番の素因だと言っていいんだよ。  それがために学者や識者がそう思ってるんだ から、これに間違いないんだろうと。何か学者 や識者というものが言ってることが、匸一に寸分 間違いがないかのように思い込んじまうところ に大きな誤りがある。学者や識者の言ってるこ とに間違いがなかったら、一人の学者の言った ことが永久に訂正されないはずであります。  しかし、学者や識者が必ずしも正論を言つて ないから、しばしば学者や識者の議論が訂正さ れる。第一、医学者の毎年開かれる医学大会見 てごらん。立派な議論で確定して間違いないこ と言つてるものとしたら、医学大会なんか開く 必要ないもんね。みんなほんとのこと言つ ちやつたんだから。けれど「どうもあの医者あ あ言つてるけども、この点が少し疑わしい」と か、「この点に対してここの研究が足らねえ」 とかということをみんな他の学者が、またその 学説を根拠として研究したことを発表するのが、 次から次へ毎年開かれる医学大会の発表でしよ。 これ考えてごらん。  数学の公式のようにピターツと決まったもの は別だけども、こと人生に関する限りは、あの 高等数学のdefinition(定義)のようなものは、 多く世にある心や人生を考える学者や識者の間 には、まだ一定したもので存在してないという のが事実であります。相変わらず、人生を考え るのに、いや肉体が本位だとか、やれ心が本位 だとかといって、霊魂を中心として考えようと する学者があまりにも数において少ないという のが、もう既にそれをそうだと考えさせられや しませんか。  しかし、だから今七言っだとおり、学者や識 者がどんなことを言おうと、それをそのまま絶 対真理だと思うミステイクから、あなた方解脱 しなきやダメだぜ。私は多年、学者や識者に迷 わされた。そうしてさらに私は、独自の哲学を 自ら立ち上げて、こういう教えをあなた方に引 き出したんだ。学者や識者の言うことがみんな 本当だったら、何も別に私苦労しないでもって、 もっともっと早く悟りを開いてたはずでありま す。  とにかく心というものには、断然自己及び自 己の生命に対して支配権が与えられてあるんで ありませんよ。いいかい? それを支配権が与 えられてあるように学者や識者が言うからと いって、あなた方も思い込むととんでもないこ とだ。  いったい、学者や識者がそういうミステイク を敢えてしてるのは結局、肉体を自分だと思う がためなんです。肉体を自分だと思うと、どう しても心が自己の生命全体に対する支配者であ るような気持ちになるんですよ、自然と。もっ と詳しく言うと、おわかりになると思うが、今 言ったとおり肉体を自分だと思うと、すぐさま 肉体生命を本位にして働いてる動物心という心 が、無制限に心の表面に暴れ出してくるんであ ります。  学問的に言えば、実在意識領域に動物心識が 発動してくると言いましようか。そしてこの心 の働き場所である実在意識領を、我がもの顔に 動物心のみが占領してしまうんであります。そ してその動物心、いわゆる本能心が生命全体の 支配者であるが如くに無遠慮に振る舞い出す。 いいかい? すると、どうしても心が生命全体 の支配者であるような気持ちにならせられてし まうんですよ。わかるだろ?  しかし、そんな気持ちになったら人生憐れ千 万。気の毒以上の惨めなものになってしまう。 なぜかというと、本能心だけで人生に生きると いうことになりやしません? そうだろ? 本 能心だけで人生に生きるものは、人間以外の他 の動物の生き方とまったく同然の生き方だもん。 犬や猫や猿や豚と同じことになっちまう。かり そめにも万物の霊長たる人間の心には、さっき から何遍も言ってるとおり、本能心以外に理性 心と霊性心とがある。それを本能心のみに実在 意識領という心を働かせる場所を占領させちま うと、いきおい心が持つ融通性というものがな くなる。  仏教の上でも「無碍にして自在なるを 得……」と言ってるでしよ。この無碍自在とい うのは本能心だけ働かせちやいけないぞという ことなんだ。本能心だけを心の全体として働か させてると、今言ったとおり融通性がなくなる と。極めてせま1い範囲とひく1い限度に拘束 されてしまうんです。そうすると、もうとても それは惨めな惨めな人間ができちまうがな。  もう少しその理由を詳しく言って聞かせます が、本能心が実在意識領を占領すると、本能心 の特有な本能的欲求という心理現象のみが、や たらに無制限に沸騰するように実在意識領を暴 れ回るんであります。これ、現在のあなた方の 多くがそうなんだぜ。他人事のように聴いてる とバチが当たるぞ。  しかもこの本能心、本能的欲求というものは、 満たされない場合が多いんであります。あれが 欲しい、これが欲しいという本能的な欲望が心 に燃え出しても、それは満たされない場合のほ うが多いんですよ。すべてが満たされりや、人 間には不平も不満もありやしないわね。しかし、 それは満たされないことのほうが多い。そうす ると心の中に、自暴自棄だとか、ヤケクソや捨 て鉢になる気持ちや不平不満、この心持ちがも うまたどんどん心の中をかき混ぜし出してきて、 少しも感謝も喜びも人生に感じられないという 気持ちになつちまう。  だからご覧なさい。不平や不満や自暴自棄に 陥つてる奴は、何見ても何聞いてもおもしろく もなきやうれしくもなく、ありかたくもない。 生きてるのが辛いわというような気持ちを持つ てる場合のほうが多いだろ。そうするとその当 然の反動で、心の平静が失われます。心の力が 極度に鈍るのであります、平静が失われると。  そうするとその結果、心と体とが離れない相 関という関係にあるから当然の帰結で、やれ病 で候の、やれ不運で候のと、なんと貴重なこの 人生がやたら価値なくメチヤメチヤに汚くさせ られちゃって、のべつひっきりなく心配だ苦労 だ煩悶だ悲観だって、思っても嫌なものの虜と なって生きなきやならない。  しかしこれじゃ、人間何しにこの世に来たん だかわからねえ。そうでしよ? そうして生き ることが人間の目的で生まれてきたんならとも かく、そうじゃないんですもん。もっともっと 意義の尊い、進化向上という宇宙本来の目的を 助成するために、この世に男であり女であり生 まれてきたんだ、お互いにね。贅沢しに来たん でもなきや、うまいもの食いに来たんでもな きや、名を売るために来たんでもなきや、金儲 けしに来たんでもなく、いわんやまして病み患 いをするために来たんでもなけりや、心配や煩 悶するために来たんじやねえじやねえか。  Evolution(進化)と皿evation(向上)とい う尊いことを実行するために、男も女も万物の 霊長として犬や猫に優った働きを体にも心にも 与えられて出てきたんだ。である以上は、万物 に霊長たるの真価をあとう限り発揮して生きね ばなりませんよ。それが本当だよ。  一雑念、妄念が消える  そこで、それがまさしく最も間違いのない真 理だと気がついたら、諸君の今までの考え方を 切り替えなきや。今さっき教えたどの種類の心 であろうと、いいかい? 肉体本位に作用する 本能心であろうと、また精神本位に作用する理 性心であろうと、はたまた霊性心であろうと、 すべての心を自分の生命の付属物、生きるがた めに必要な道具として、熟練した技師が精巧な 機械を使うと同じように、自由にそれを使って 生きる人間にならなきやいけないんであります。 わかるだろ? そうして初めて万物の霊長たる 人間の本来の面目が立派に発揮できるわけなん だ。  そうなるのにはだ、何をおいてもまず第一番 に肉体を自己と思うような大間違いを厳格に訂 正しなきやダメです。この訂正が完全にできる と、その正しい人生観が、自然と心に使われな いようになってくるんだ。自己が肉体だと思っ てる限りは、この人生観がいつもそれはコンマ 以下にいますから。どういうわけで肉体が自己 じゃないと思う心が出ると、心に使われなくな るかというと、肉体を自己だと思わなくなると、 本当の自我、真我というものが目に見えない霊 魂という、水にも火にも侵されないところの尊 厳な気体だということが次第に分明してきます。  それは、朝晩やっぱりこの気体の命令で動い てる場合がある。朝起きた。何も目的なく起き たけども、今日はあそこ行ってみようかなと思 うの、これは気が動いてあなた方を行かせてる んだろ。何も思わないのに体がさっさとそこへ 行ったかい? 朝起きてどこにも行くつもりが ねえのに気がついたらデパート行って、また気 がついたら買いもしない品物持って帰ろうとし てたなんていうのは危ないよ、これ。  とにかく自分の正体が肉体でもない、心でも ない、一つの気だということが次第に分明して くるのが不思議なんですよ。そうして同時に生 命の支配権も、霊魂という気にあるんだなあと いうことがはっきり悟れるようになりますぜ。 そしてまた、そうなってくるというとありかた いことには、今まで知らないこととはいいなが ら、なんとのべつまくなしに消極的な観念や思 想の虜となって夜もろくろく安眠できず、その ため活力を減退し、心ならずも健康や運命を悪 くしていたという愚かな生き方をしていたこと が、我ながら実におかしくもあり、またくだら なくもあるように気がついてくる。  そしてまったく打って変ったように、心の中 に雑念や妄念、邪念が発生しなくなるんです。 ありかたいもんですぜ。それでまた発生してき ても、それを思うように取捨分別することがで きるようになる。あっと、これいけないよ、出 ちや。例えばここに乗っけちやいけないもの、 こっち置いといて、あ、これ出ておいでという ふうに取捨分別ができるようになる。  そして常に、人生のいかなる出来事に直面し ても、正々堂々と大手を振って、荘厳に雄大に 人生の荒波の中を泳ぎ抜いていくことができる ようになる。実際、この霊魂という一つの絶対 的な力のある気が生命のI切に対して支配権を 持つものだという真理を正しく自覚されると、 そうなる。  さらにそれが信念になるてえと、もうこれは 自分で自分のあり方に対し、跪きたいような尊 敬を感じるような尊い事実をしばしば直感でき ますよ。そうすると過去、まあ、こういうこと をしなかった自分の生き方が、あまりにもデタ ラメで無謀でムチャクチヤだったなということ をつくづく感じる。  つまりこういうことを知らないで人生に生き てる人は、何のことはない、持たずといいもの を誰にも頼まれもしないのに一生懸命持って、 重い、重いと困ってるのと同様なことなんで しようね。そういう人間がいたら、あなた方褒 めるか笑うか。いつ見ても重いカバン提げてる 奴見てからにだね、  「あなた、いつお目にかかってもその重いカバ ンをお持ちになってらつしやいますが、そのカ バンの中に何か人つてるんです」つて。  「いやあ、別に何も人つちやいませんけどもね、 もう石ころ同様のものが人つてるんで」  「それ、始終お要り用なの?」  「いや、要りゃあしませんけどもね。それがま た妙なんですよ、私。これを持だないとなんだ か気にかかってね、提げてるようなわけで」つ ていうときに、聞いてる人がそれ聞きながら 「感心な人だね、こりゃま、とにかくよ、誰に も頼まれてないで役にも立たないものを持って なきや気が済まねえって。俺にはできねえこっ た。ああ、見上げたもんだ」と思うかい? い くらどんな至らない人でも、それ聞いてからに 「アホかいな、こいつ」と、こう思うだろうが。  人がしてるとそう思いながら、あなた方が やってる場合には、ちっとも気がつかない。ど うだい? あなた方どうしても今それを思わな きや、また考えなきや、もう一分といえども現 在が過ごせないというような大事なことを現在 思ったり考えたりしてるかい? たいていあん た方の腹を立てることや悲しいことや煩悶して ることは、考えなくても考えてもどうでもいい ようなことで、また考えても考えきれないこと か、考えりや考えるほど自分の気持ちを悪くし て、果ては健康や運命を悪くするようなことば かりじやねえか。  それでもなおかつそう言っても、「それは先 生、先生から見りやそうかもしれないけど、も う我々凡夫としてだ、これ考えずにいられない から考えてるんですよ。人のこっちやあるまい し、自分のことだから」。変な言いぐさ。そん な自己弁護を真理が同情するか?「そうか、そ うか、よしよし。じゃ、おまえの場合は特別だ から考えろ、考えろ」といって、考えさせて何 も結果が悪くならなきやいいけれども。考えろ、 考えろと煽てるように考えさせといて、結果 きっと悪くなっちまう。  それをしも考えないで、人間がこういうこと を思ったりこういうことを考えて、煩悶したり 腹が立ったり悲観するのが、これは逃れること のできない、いわゆる人間の業だと、こういう ふうに思つてる人があるんですよ。こりやあ笑 えない、けつこう滑稽ですよ。それをやって たっていうことが気がつくときが来ますぜ。も う私なんかもインドで、何遍かほんとに冷や汗 の出るような、誰もいなくても恥ずかしい思い を自分で感じたよ。本当に悔い改めるときは、 誰もいなくても恥ずかしい気持ちになるのよ。  こういう話は、言わんがために言つてる話 じゃないんですよ。事実において人生苦という ものの九割九分は、よろしいか、入念に分析し てみると、心を己の生命の生きるための道具と して使わないで、反対にそれに使われているが ためであるんですよ。生命に対する支配権を心 が持つものと誤解しているからなんだ。もつと はっきり言うと、自分というものを知らず知ら ず、心の奴隷にしているために、年がら年じゅ う煩悶苦悩というものに苦しめられているんで すよ。  私は始終普通の大よりたくさんの大に会いま す。この中にいる人のなかでは一番私はよけい 知己持ってるでしよう。なぜかって、私の教え ている大、もう既に数万人以上に達しています が、こっちは忘れてる大でも、みんな向こう じゃ覚えてますもんね。何十年も会わずにいた 大が、私を見ると「あ、天風先生」、すぐ言う んだ。それ何がなし自分の心の中を明るくさせ られた、うれしいインスピレーションを与えて くれた人を忘れるはずない。  ですから私はいろんなたくさん知己を持って て、いろんなたくさんの人にしよっちゆう会っ てますが、しかしその人々の中に、自分の心を 自分の生命の道具として使って生きてるという 本当の人間には、天風会以外の人間で本当に 会ったことがないということが、誇張した言葉 じやないですよ。世間的には、「かあ1、もう 生き神様だ」とか「生き仏様だ」とか、「は あ1、この人はもう生きながら人間でない偉い 人だ」なんて言われる人に随分会いますよ。 会っても五分経たないうち、「なんでえ、評判 倒れじやねえか」と思うような奴が多い。  この間東京で、ある政治界で有名な奴が、国 会問題でもって自分のちょっと考えが足らない からっていって僕のところへ質問しに来てたと きに、通りで大きなバスかあるいはトラックの 大きなタイヤが破裂したんでバーンといったね。 そうすると、電車道から程遠からないところに 私の屋敷がある。それで後ろが大きな崖山に なってますから、それに反響して往来の音は随 分大きく響く。そうしたらその政治家、もう一 生懸命に私の説明聞きながら、バツと驚きや がったから。  「どうしたい?」つて言ったら。  「ああ、びっくりした」  「なんでびっくりしたの? 俺別におめえ、 びっくりさせるようなことしなかった」  「あの音、先生聞こえないのか」  「バカヤロウ。音が聞こえないほど俺はツンボ じゃねえや」  「あれで先生びくともしないのか」  「バカヤロウ。音聞いてびっくりしたら、少し 腹具合の悪い奴の脇に座ってられっか」つてそ う言ってやった。そしたら、  「やっぱりできてる人は違うなあ」と言うから、  「できてる人が違うんじやねえや。できねえ人 が違ってるんだ」、そう言ってやった。  「まったくそういうふうに度胸もねえ人間だか ら、見ろ、こんなつまらねえことも俺のとこへ 聞きに来るんじやねえか」つて笑ってやったん だけども。   それで「びっくりするのは、なぜいけないん  です?」つてあなた方言うけど、びっくりする のは私だってするよ。私ね、心身統一法を徹底 的に知ってるから、ものを感じなくなってるん じゃないんですよ。御冗談でしよ。軍事探偵し たぐらいの人間ですもん、多情多恨だ。あなた 方と違ってからに、感じでも何でも、もっと微 細に感じますよ。  それでいて感情の虜にならないのはどういう わけだって言うと、そいつと心とを結びつけな いだけなんだ。そりゃドカンと音がすりゃ、聞 こえますよ。怒ること悲しいことやっぱり感じ ます。感じなきや石塔と同じこっちやね。そん な人間になりたかったら心身統一法なんかやら ないで、死んじまいな。そうすりや何も感じな いで生きていかれっから。  ただ私のあなた方と違うところは、ばあ1ん と来たやつをあなた方、きゅ1つと抱きしめる からいけねえ。私は必要のないことは雲煙過眼 (物事に執着しないこと)、太刀風三寸身をかわ す。必要ないものはすう1つとこうしてかわし てしまえばそれでいい。例えば急行列車のよう な勢いのいいもんでも、ば1つと飛んできても そいつに触れさえしなかったら、どうもねえだ ろ。それをあなた方はだ、小さな蠅が飛んでき てもこっちから突き当たるからいけないんで、 ね。だからほら、いろんな理屈を知ってそうに 見える奴でも、客観的には偉そうに見えたりす る奴はいるけれど、本当に主観的に幸せで主観 的にほんとにできてる奴というのは、ほとんど いないと言っていいような状態。天風会員は別 ですよ。  だから私は、人間の肩書には頭下げないで しよ。例えば、「先生、ちょっとご紹介します。 これ今有名な何々大臣です」なんて名刺出して きても、「あ、そう。まあ、これが御縁だ。私 の話聞きたかったらお聞き」、こういう態度で す。その代わり学生でも天風会員が来ると、 「よく来たな。まあ、ゆっくり遊んでいけ」つ て言うんだ。だからよく大臣やあるいは皇族な んかを、これは紹介するほうも名誉に思って連 れてきて、私かさぞかし敬意を払うだろうと、 「俺の前には平伏させることできねえけど、一 遍ぐらい先生を偉い奴に平伏させてやれ」なん て思って紹介する奴あるんだよ、バカヤロウめ。  ■御前講演  私はね、天皇にお話を申し上げるときでも、 決してあなた方に話しするときと、よろしいか、 殊更に態度を乱しやしない。  一番最初、私か御前講演の大命を降下された ときに、その当時は今と違いますぜ、皇室と 言ったらもう非常な、とにかく生殺与奪の権を 持ってたのだからね、その時分は。日本の陸海 軍総数を動かす権力を持たれ、人間の命も罪な くしても天皇が殺せって言ったら殺していいだ けの権利を持っておられる時代の天皇から、こ の講演の大命を降下されたときに、どんな学者 でも日本国民である以上は無上の光栄名誉とし てこれをお受けしたものであります。  当時の風習はそうだったんだ。今の若い者よ く聞け。天皇をまともに見たら目がつぶれると いうぐらいな気持ちをみんな持ってた。した がって天皇から匸言何も言われなくても、露の 命を天皇のために捧げることは男子一代の名誉 だと、こういうふうに思ってた。今の青年が考 えるてえと、まったくそれは腹抱えて笑うよう なこと、まじめに考えてたんだぜ。  その時分にその大命を降下されると、学者は たいていもうかちんかちんに、まるで燻製の シヤケみてえになっちまうんですよ、畏れかし こんで。一代の言論家・新渡戸博士、それも慣 れきってるはずなんだ、天皇のお側付きの学者 なんだから、折あるごと時あるごとに天皇から いろいろの御質問があって、もう講演は慣れて るはずでいながら……。言葉で簡単な質問のあ るときはさほどでもないのかもしれないけども、 毎年の年初めのこの御講義初めのときなどはそ うなんだ。  御前講演というのはだいたい普通は四十分と 制限されてるんだ。四十分経つてえと、おとめ の鈴というのが鳴ります。おとめの鈴というの は女の鈴じゃないんだよ。講演をそこでやめろ という鈴がジュジュジュジュジューと金の鈴が 鳴る。私の場合は二時間半「続けて、続けて」 とおっしゃって、まことに光栄でしたが。  そして、そのとき講演の第一回が終わってか ら、帝国ホテルでひょいっと廊下で新渡戸さん に会った。もちろん最初の講演もそのそばにい て聴かれたんですが、  「いや、この間は御名誉なことです」  「いや、ありがとう存じました」  「しかし、驚きましたなあ。普通四十分でさえ 御奉公満足にできるものがないのに、続けて、 続けてという御命令に先生二時間半淀みもなく おやりになったんだ。一番最初びっくりしまし たよ、私は」つて。  「何を?」  「だってあんなことを陛下に向かって言う人な い」つて言うから、  「どんなことを?」  「お言いになったことお忘れになった?」  「いや、知ってますよ、自分で言ったことは。 しかし別に大して私、変わったこと言ったつも りないけどね」  「いや、おっしやった」つて言うから  「ああ、あれですか」  これはこう言ったんだ、私。今まさにこれか ら御前講演をお聞かせする前に、儀式があるん です。今日のようなこういう講演の仕方ならこ れ易しいけどね。差し渡し五尺ぐらいの丸テー ブルがありまして、こっち側に陛下、こっち側 に私というふうに、しかもその椅子が普通の椅 子でなく、両端の高いソファであります。腰掛 けるとドクーンと体が隠れちまうような椅子。  最初、侍従長が「陛下の御入御になります までは、椅子の右側にお立ちでお待ち受けを願 います」とこう言う。つまり椅子の脇に立つて てくれ。そして侍従長が「ただいまおなりでご ざいます」と言うと、まもなく「しい1、し い1」という先払いの声であります。そうする と、侍従長が先導し参らせて、そのあと陛下が 人つてくる、しずしずと。そうするとその満場 に参列してる各位みんな起立、最敬礼でありま す。  それでこの丸テーブルの五間ばかり隔てたと ころの正面にお椅子を賜つてるのは各皇族並び に御連枝、そしてその各皇族御連枝の後ろに侍 従、武官が立つてる。だから間ぽか1んと五間 ばかりの空き場なんです。あなた方もそれは青 年諸君絶えずこの御名誉に接する場合もあるか ら、御参考にお話ししとく。  そして侍従長から前もつてのおことわり。 「陛下がお入りになると最敬礼で、それで人に よって違いますが、黙って陛下が椅子にお腰掛 けになってから無言のまま手をお出しになりま したら、そのままお椅子をちょうだいしなさい。 お椅子ちょうだいのときに必ずお腰を八分目掛 けるだけで御講義にお入りください。御講義に 入るときに私から『ただいまから』ということ を申し上げますから」。ややこしいことだと 思ってね、この深々とした椅子に八分目腰掛け てろと言う。もっと硬い椅子くれりやいいけど も、硬い椅子たというと陛下を見下ろすように なるからいけないと、こういうんでしよ。それ なら椅子くれないで立って話しさせりやいいの に、陛下のほうから言うてえと、かりそめにも 教えを受ける師に対する礼として、師を立たせ といちやいけないというのがまた思し召しだっ ていうけど、こいつは痛し痒しだよ、ね。  ところが私の場合は、これも新渡戸さんが 言っだけど、「ああいうことは今までなかった んです」とおっしやったようなお取り扱いが あった。右に立っておりまして頭下げておりま すと、もっともそれはあとから承ったら、陛下 の摂政宮時代の天皇学の講演は杉浦重剛翁と東 郷平八郎元帥がなすってらっしやった。  ところが、その杉浦重剛翁も東郷元帥も私の 弟子でしょ。それでしょっちゅう「私の恩師の 天風先生が」ということを言ってるのが動機で お召し被ってるんですから、つまり自分の恩師 の恩師と思し召されていたがためでしょうけど も、それで椅子の脇に立ってからに、陛下がお 入りになってらしたから最敬礼し、そしたらま だ御自分が椅子に召されない先に「どうぞ」、 丁寧に匸言おっしやったんだよ。  それをもっとも侍従長から言われてるんです。 いきなり手を出されてもお声がかかっても、い きなり腰掛けちやいけないっていう。三遍おっ しゃるまで控えてくれ。もうややこしいもんな んだよ。だから「どうぞ」と言つだの、また頭 を下げると、「どうぞ」。それでもまた頭下げた ら三遍目に御自分が腰掛けられながら「どう ぞ」。それから「ちょうだいします」。そして八 分目というけど、八分目というやつは馬鹿に腰 掛けにくいから、六分目にした。  そうしたら侍従長が来て、「ただいまから」 とおつしやいましたから、それから私、「講演 に入りますに先立ち一部をお断り申し上げます。 講演中、言語を改めます。さようお許しを」つ て。嫌だよ、「ござりたてまつる」「そうあそば して」「こうあそばして」なんて言ってるん じや、講演に時間がほかどらない。だから教え る者は先生であり、教わる者は何であろうと弟 子なんだから、「講演中、言語を改めます」と。 これが新渡戸さんが初めて聞いた言葉だ。陛下 のお召しを被って尊いお方に話をするのを、ま あ、なんとどこに心臓があるか知らねえが、こ れから話をするときは言葉改めるからそう思え なんて、そんなこと言う奴はねえっていうんだ よ。  それで新渡戸さんでさえ、四十分の講演のと き陛下からご質問があると一遍でどぎまぎとし ちやって、あとが言えなくなっちまうんたって。 私の場合にはいくら質問しても、質問がないと きはこっちから「おわかりになりましたでござ いましようか」つて必ずこっちから聞いてやる。 それから見てて字の間違っだのお書きになると、 「あ、その字はちょっとお間違え……」。だから 極めて始めから打ち解けた気分でもってお教え することができたんですが。  つまり、それもこれも結局、要するに私は心 に使われないもん。私は私の心を使いながら人 生の消息を説くので、身分なんかに打たれやし ませんよ。尊敬すべき点は疎かにしませんけれ ども、ねえ。私はできてる人の前だったら学生 にたって頭下げ、できねえ奴はどんな身分の人 だったって私の弟子だから、結局要するに教え ようとして取り扱いますもん。  とにかくいろんな人に会うけども、本当にこ の人はと思って一遍で頭下げていいような人に 会ったことないんだよ。「これはおまえの自惚 れだろう」と言うけど、自惚れでない証拠には、 会員には随分頭下げるだろ。会員には「先生、 そんなにもったいないご挨拶受けちや痛み入り ます」なんて会員がいるじやねえか。  とにかく偉い人の少ないのは、絶対に霊魂と いう気が自分だなんて思っていない人の多い証 拠だ。  だから今も言ったとおり、人生その生活を尊 い意義あるものにしようと思うんなら、肉体は 自己と思うような大間違いを訂正しなきやいか んぜ。そして自己というものは心より超越した 心の主人であり、決して心の奴隷でも従者でも ないと。したがって心に使われるべきでなく、 いかなる場合にも心を立派に使って生きると。 これが完全な人間、これが真人だ。そういう人 間をつくりたいがために、私はこうやって一生 懸命講演してるんだもんね。  ■心を使いこなすのは「理性」では  なく「意志」  しからばです。そういう完全な人、心を生命 の道具として立派に使いこなしていく人となる のにはどうすりやいいか。私はいつでも回1{O こOまで教えなきや気が済まない男だ。たいて いの人はここでやめちまうんですよ。「わかり ましたね。ですから今日から心を入れ替えて、 肉体を自分と思わないようにして生きなさい」、 それでわがこと終われりというような顔してと くとくと下かつていくのが学者です。私はそれ じゃ気が済まないもん。わかってる人もあるだ ろうけど、わからない人が一人でもあっちやい けないと思うから。  どうすりゃいいんだろう、心を生命の道具と して使いこなしていける人間になるのには? そういう人間になるのには、心を道具として 使っていく権能のあるものを心に呼び出さな きやいけないんだ。権能のあるものを呼び出さ ないで、心だけを動くに任せていると、ちょう ど、たとえて言えば野球のチームに監督がいな いで、コーチもいないで、それでやたらにただ 強いチーム作ろうったって作れないでしよ。そ れと同じようなことになっちまう。つまり、い くら心を思うように使おうと思っても、実在意 識領に心を使いこなしていける権能のあるもの が呼び出されない限りはダメですよ。  たった今耳にされたとおり、各種の心の中で も特にこの動物心というやつが、本能心のこと だね、こいつが実在意識領を占領して我がもの いっぱいに振る舞い出すんですから、今この心 出ろ、この心は出るなというふうに指揮命令を 行なう権能のあるものが心の表面に呼び出され ないてえと、害を振るう横着なわがままな奴だ けがいきなり飛び出してからに、心の尊い花園 を暴れ回り出す。そうして肉体の要求に対して はほとんど無制限、それで無自覚にそれを要求 しようとする。何のことはない、山から捕まえ たての訓練施さない子猿が、きれいなお座敷へ 放たれたと同じ結果が来ちまう。あなた方の心 だよ、それが。  だから、こうした重大な事実を考えるとき、 何を置いてもそうしたことのないように、よろ しいか、必要なために置いてある本能心だけれ ど、必要以上に働かせちやいけない。絶対に働 かせちやいけないというんじやないよ。本能心 が絶対に働かなかったら、死んじまうぜ。腹 減っても腹減ったと言わない、もの食いたくて も食いたいという気持ちが起こらなかったら死 んじまうがな。  だから必要な、ある制限の限界を超えない状 態に本能心を使って、本能心のみだりの跋扈を 許さないようにするには、要するに権能を呼び 出さなきやいけない。立派に心を使いこなして いく、権能というとわからなきや権力のあるも のをね、力あるものと言ったら余計わかるか。  それじやあ、その心を使いこなしていく力の あるものは何だと言うと、霊魂についてる「意 志」というものを呼び出さなきやいけないんで す。西洋の「知・情・意」じやありませんよ、 この意志は。霊魂についてる霊魂付属の固有性 能なんだ。  この意志というもの以外に心を立派に使いこ なしていける力あるものは絶対に他にないんだ。 だから結局要するに「心こそ心迷わす心なれ。 心に心、心許すな」と言って、心にしよっちゅ う自分が使われてる奴は、この力ある意志とい うものが心の表面に呼び出されていないがため なんだよ。  ところが学者や識者はここに論点を置かない で、なんとねえ、心というものを支配する力が あるのは「理性」というものだというふうに考 えてる人がある。理性というのはものの善し悪 しを分別することができても、使いこなしてい く力はない。ちょうど何のことはない、わがま まないたずら小僧を理屈ばっかり言って、子ど もが言うことを聞かない、貫禄のない、囗やか ましい先生に預けたようなもんだ。理性という やつはただ人間だけにあって、動物にはない心 ではあるけれど、それはいいとか悪いとか、あ れがこうだとかああだとかということを考える だけの力だけで、そう考えたからこうしなきや いけない、ああ考えたからこうしなきやいけな いという、この抑えつける権利はない、力は。  ところが学者っていうものはわからねえから でしょうけれども、ただ机の上だけの議論で もって自分の考え方をまとめてるから、本能心 のような肉体本位の無反省の乱暴な心は、この 理性心でもってちゃんと制御していけっていう んですが、こいつはできないよ。  だから、私の言ってるようなことをわからな い人は、何かそれが大変いい教え方のように 思って、彼は子どもや生徒や使用人を訓戒する ときでもねえ、「いいと悪いがわかったら、な ぜ悪いことしないでもって、いいことしないん だ」なんてこと言って小言言ってる人があるだ ろ。「無教育の人間じやなし、教育受けてなが らなんだ!」つてなこと言ってるけど、それは 親が小言言うまでもなく、先生が小言言うまで もなく、ぽんとは大して学問しなくたって、い い悪いは誰だって知ってるもん。そうだろ。嘘 ついていいとか、泥棒していいとかって思う奴 は一人もいやしねえ。  泥棒だって本心良心があっていい悪いがわか るからこそ、夜中来るんだもん。いい悪いがわ からなかったら、泥棒はもう昼間公然と来ます よ。「俺は食うに困ってるんで、だから俺は商 売替えして泥棒になったんだ。名剌にちやんと 書いてあるだろ。こうやって株式会社で泥棒 やってるんだ。だからおい、今日、なんか持つ ていくぜ」つて持っていくがな。いい悪いがわ かってるから夜中に抜き足差し足で来るんじや ねえか。  だから、もうそんな馬鹿馬鹿しい考え方をほ んとのように思ってる考え方は、私は断然反対 するぜ。そんなことで人間の心がやり直せるも んかい。それを親でも教師でも先輩でも、「悪 いと思ったことする奴あるか。君の常識はどこ にあるんだ」なんてなこと言ってるが、小言言 う奴より言われる奴のほうが、もっと優れた常 識持ってるかもしれん。自分でも悪いと思いな がら、どうしても悪いこと思ったり考えたりし たりするんだって困ってる奴が多いんだ。  理性心というものは、それは人間だけに与え られた物事の善し悪しを判別する働きを持って るから、これは尊いに違いありませんよ。尊い には違いないけども、しかしですよ、理性心と いうものには心を統御する力というものは少し もない。反省を促すだけでもって、また促し切 れないものなんだ。理性心の持つ力はいい悪い だけだ。人生に生ずる事柄を対象に論理的に施 して、それはいいよ、悪いよとかということだ けなんだ。限定された働きしかない。だから哲 学的な言葉を使うと、理性心というものの持つ 力は相対的なんだ。絶対的じゃない。  したがって、本能心を統御し支配し得る絶対 的な力は全然ない。それをそう考えないで、学 者はあるように言うんだから、今も言ったとお りできない相談。だから結局はダメですよ。理 屈知ってる人間が本能心を立派に統御できたら、 学者や識者はみんな気楽にできてるはずだが、 どっこいそうじやねえじやねえか。  心を完全に操縦し、又これを完全に支配する 威力を有するものは、実に意志なるものよりほ かには絶対にない。意志なるものが、心の働き の一切を統率する最高なる統率者なんです。  そもそも意志というものは、元来真我の属性 なんですから、意志そのものは非常に強いもの で、俗に意志が強いとか弱いとかいうのは、こ れは意志そのものの強弱をいうのではなくして、 意志の力の発現の強いか弱いかを指していって るんだよ。  ですから我々が第一に当面の急務として知ら なきやならないことは、意志の力をもって完全 に自己の心を操縦するべく、如何にすれば意志 の力を発現させることが出来るかという実際的 な手段です。それはどういうことかというと、 第一に意志の集中ということを現実にする修練 をして、意志の力の発現を容易にする習慣をつ けるということ。  これに関する実際の理解は「精神統一の実修 に関する理解と注意力の訓練」ということを述 べるときにお話しいたしますが、いずれにして も、意志の力は意志の集中を実現するべく習慣 づけると、極めて自由にそして極めて強固に発 現するようになる。そして意志の力が一度完全 に発現すれば、心は自由にこの命令に服従し、 又自由に支配されることが出来るようになり、 任意の操縦ができるようになるんだ。  ただし、くれぐれも注意しなければならない ことは、決して急ぐなかれということです。こ のことはすこぶる重要なことなんで、一朝一 夕、目的の彼岸に達することは容易ではない。 くたびれたら休み、進歩を焦るのではなく、む しろ一歩一歩を堅実に進むことをお奨めする。  梅花の馥郁たるや蓋し、霜、雪、霰の寒苦を 経たるが故であることを悟って、徐々として堅 実なれ、と敢えて申し上げる。 第四章生きる心構え  J・一・t夲4Kr忿Iず   ‘i親劼偸愀に?脅& ″ね釘抖aに の そ’?奮Ii?ぐ一洫 謦tん躅ゝ・池l!   嵐そやに誉い4彳   艮iん 瓦叺素胎咽            一  ■生きる心構え  本日の演題は「生きる心構え」。極めて何や らこう意味ありげな言葉であるかのごとく感じ られもし、また、考えようによると、極めて何 かこうあなた方の知りきっていることを特に 麗々しく演題に出したようにもお感じになるか もしれませんが。  遠慮ない言葉で申し上げると、あなた方は確 かに現在、人生に生きておられる、生きておら れるけれども、はたして「生きる心構え」とい うものが正しく用意されて、日日の人生に生き ておられるや否や?  ご自分でこれはお考えになっても、あるいは わからないかもしれません。どんな人間にも身 贔屓と自惚れがあります。そして自分自身省み て、大して筋道の間違っているように思えない 生き方をしているであろうように思っている人 たちは、こういう演題を見られた刹那といえど も、自分には別に大して必要ない演題のように お考えになるかもしれません。  もっとも、お集まりの中に相当人生を研究し た人だとか、あるいは人生苦楽幾十年の尊い歴 史を苦い味わいで味わってきた人だとか、また 年は若くても、生まれつき不幸にして病弱で、 いつまで経っても丈夫な人生を味わい得ずに生 きてきた人などは、大なり小なり、はっきりヒ ントをお掴みにならなくても、なにか自分の生 きる上への心構えの落ち度がありやしないかと いうふうな、要するに自己自身に対する反省を 厳かにされる傾向を持つていますが、そうでな い人は、どうも自己の人生に対する反省という ものを全然持だないではありますまいが、持た れても、それが非常に厳格には持たないんです ね。  特に暮らすのに別にたいして困らない、生活 に豊かさを持ってる人であるとか、あるいは健 康も相当恵まれているというような人は、真理 の上から見ると、この真理に対する反逆者とま では言わないまでも、かなり真理の外で生きて いることがしばしばあると言っていいような生 き方をしておられる人が多いのであります。  でもそれは、ご自分じゃ気がつかない場合が 多いでしょう。けれど真理は峻厳にして犯すべ からず。万が一にでも間違った生き方に対する 心構えが用意されないと、たちまち事実があな た方に反省を促しているんだが、その事実が自 分の人生の中に発生しても、反省を促している 造物主の無言の啓示だというふうに考える人は 極めて少ないんであります。  その反省を促す事実とはいかにと言えば、病 なり不運なりであります。どうも現代の文化教 養を受けている理知階級は、人生に犯すべかざ る「コンベンセーション(報償)の法則」があ るということに対して、正しい自覚を持つてい ないかのような傾向があると、私はしばしば事 実で感じせしめられるんですよ。  いかに時代が進もうと、もつともつと文化は 深さの知れない進歩をしてくるに違いありませ ん。ここのところわずか二十年ばかりの最近の 世の中の移り変わり、あるいは世の中の進歩の 事実を見ても、これは実際驚くべきものがある。 ことほどさように将来においても、この趨勢は 無論繰り返されながらいくに違いない。  いかに驚くべき事実があるかということは、 静かにあなた方がわずか二十年前からこんにち までを考えてごらんなさい。お若いお方はあま りそういう方面に味わうべき時間が少なかった から、二十年前に生れた人は今年二十歳ですか ら、千ぐらいまでの十年間というものはそうし みじみと、その前を知らないから比較の対象が ありませんけれども。御年配はみんなよくおわ かりになりますでしようね。  今我々のどこの家庭にでもあるであろうラジ オなんていうものも、御年配は考えてごらんな さい、いつからあったかということを。文化の 進歩というものは実に驚くべき事実を我々に見 せているんですが、尊さに慣れちまうと、この 変化の非常に恵まれてきたあとを振り返ること は、あまり容易にしないんですな。  我々、あなた方よりも一日の長を成して長生 きをしております人間には、このたったわずか 八十年間の人生の中に、思い半ばに過ぎるなん ていう言葉で形容のできないような移り変わり があるのであります。  こんなことお話しするてえと、あなた方の世 界になかったことだから、興味が薄いかもしれ ないけど、我々の学生時代に勉強したときには、 お皿の中に入れた菜種の油に灯心を二本入れて、 それに明かりを点けたので勉強したもんです。 そうなんですよ。私は明治九年に生れた人間で すから。そして頭山満先生のもとで書生をして おりました。新米は二本だけ灯心がある。一年 以上経過すると灯心が一本増える。もちろんこ の灯心を四本以上にはしないが、四本の灯心と いうと灯心という言葉は使わなくても、「あの 人は四本さんだから」とこう言うんですよ。こ んな言葉、今考えても吹き出したいような思い 出の滑稽ですが。  それがまもなく、豆ランプというものができ るようになった。もう御年配みんな御承知で しような。あれで勉強したときに、なんて明る いもんだろうなあと思ったんですよ。今ごろ豆 ランプなんか見せたって、あなた方「こんなも の、明かりになるかい」とおっしやるだろう。 豆ランプも使っだのは一年ぐらいかなあ。まも なく今度は二分芯のランプというの、これは明 るかった。もう二分芯以上のランプは学生は使 うことできなかった。その時分には家庭が三分 芯あるいは五分芯、贅沢な家行くてえと、空気 入りランプなんて昼間のように明るかった。  明治二十三年に上野で内国博覧会が開けたと きに、アークライトというのができた。  「なんだい、そのアークライトつていうのは」  「下で新聞が読めるんだよ」  「へえ1、じゃ、行ってみようか」つてんで、 上野の博物館の前です。  ガスから今度は電気灯というのができた。今 の電灯の初歩時代、電気灯と言ったもんです、 だから剥げた頭の人をよくその時分に「あれは 電気灯だよ」と言って、その時分には今みたい なあんな明るい電灯じゃなかった。それでも明 るかった、ランプよりはね。  それが今ともなるとどうです。学生が本読む んだって、「暗いじゃないか、おい。もう一つ 点けてくれよ」つて、勉強してて。それでもう はっきり見えるから目も丈夫かと思えば、みん な目がダメになっちやう。我々みたいに灯心で もって勉強した奴は、子どものとき目なんか悪 くないですよ。「だって、おまえ、今メガネか けてるじやないか」。八十になりやメガネかけ ますよ。おまけに右の目は見えないんだから。  日露戦争の折、軍事探偵として、(ルビン郊 外で死刑の宣告を受けましたときに、不思議な 運命によって救われたその刹那に、爆弾の爆風 のあおりを受けまして。不思議なもんですな、 左のほうから来た爆風で人間の体というものは、 体じゃなく物理の一つのこれはアイロニックな 現象じゃないんでしょうか、左から爆風が来だ のに左側は何もないんですよ。体のみんな右側 が悪くなっちゃった。目は右側が見えなくなっ て、歯がまた右側だけ上下みんな最初ダメに なっちゃった。それでも左の目が確かですから、 いまだに不自由なくやってますが。それから体 の内部がそれも原因だろうと思いますが、右の 肺が侵されまして、それで今でも五分の二ぐら い空洞があるのであります。  脱線したようですが、明かりの暗いときには みんな目がよくて、明かりが明るくなるとみん な目が悪くなる。かつて私インドの山の中にい ましたとき、インドの山の中では全然、灯火と いうものが使えません。夜が明けりや目覚ませ、 囗が暮れたらすぐ寝ちまえって、これがその自 然の生活でしょうかね。そこの人間は、それは もう恐ろしいヒョウやトラと同じように闇でも こうやって目が見えるんですよ。  もっとも私も片目ではあったけれども、軍事 探偵している時分に満州や蒙古の山奥では電気 もガスもランプもありやしません。慣れという ものは恐ろしいもので、闇でも目が見えるよう になるんですな。  ですから文化生活というもの、ある意味にお いて非常に不自由ですわ。おかげ様で今でも ぱっと電灯でも切れるとき、みんなが、[あ、 真っ暗だ、亘]つ暗だ」つてやってるとき、 ひょっと目つぶってひょいっと目開けると、昔 取った杵柄で「マッチそこにあるじやねえか」。 これだけはたいへん便利を得てます。  とにかく明かりの方面だけを考えてみても、 驚くべき進歩がここのところ来てるでしょ。ま してや今言ったラジオ。大正十二、三年ごろ関 東の震災時分には、お医者の聴診器みたいのを 耳に当てて、鉱石ラジオつてやつを聴いてたん だ。「今、義太夫やってる、義太夫やってる」 「俺にも貸せよ」つて言って、一人だけっきや 聞かれないですから。  それがもうこのごろともなるてえと、 「どこだい、うるせえの」 「ラジオよう」  「なに? 横丁の金物屋かい? 行って頼んで こいよ。うちに病人があるからもう少し音を小 さくしてくれ」なんてね。  半町も先のラジオさえうるさく聞こえるよう な、世の中になっちやったでしよ。  それでまあ、ねえ、そんなことができるのか いなんて、あのテレビジョンの話なんかを昔、 終戦の直前でしたよ。今に映画を小さくしたよ うなものを座敷で座って見られるんだってさ。 その時分にぼちぼちと電送写真というものの話 はあったんですがね、こんなにも早くこのテレ ビジョンというものが見られるとは思やしない。  ですから今にこれで十年も経ったら、空想 じゃない本当の現実としてからに、電灯の如き ものも「昔はあれだってねえ。電球が上から吊 るされてたっていうじゃねえか。今みたいに夜 になりや、ちゃんと壁が光って明るくなるなん てことはなかったんだな」なんていうような話 になりやしないかと思うほどね、考えてみると 世の中どんどん、どんどん進歩してますわな。  一運命の種は自分で蒔いている  ところが、人間それ自身の生活状態からず うっと考えてみると、今言ったコンペンセー ションに対する自覚の如きは進歩もしなきや退 歩もしないで、昔ながらの、さながらそのまま の有り様であるのじやなかろうかと思わせるよ うな形跡を、私、顕著な事実としていつも認め てるんですよ。  それは病になったり運命が悪くなった場合、 己が蒔いた種に花が咲き実が成って、かくある んだということは気がつかすにいますよ。いか がです? 病になったり不運になったりしたと き、おおむね多くのあなた方の考え方は、「罪 は自分にあるんじやない。かくなった責任は私 じゃない」と、こういうふうに考えていやしま せんか? 風邪一つ引くんだって、自分が蒔い た種に花が咲いた。でもそういう場合に、自分 に種蒔いた覚えがないというてえと、これは自 分に何の責任もないと思う。  「風邪引いたのか。どうして?」「どうしてっ てわかるかい。知つてて風邪引きゃあ、おまえ、 もの好きじゃねえか。目が覚めたら風邪引いて たんだよ」なんてなことを平気で言う人があり ますね。それが文化の教養を受けた大間なんだ。 ましていわんや事業に失敗したり商売をうまく やれなかった人間なんかは、決して自分にその 責めを負って考えようとする大はいませんぜ。  「汗水垂らして、おまえさん、人の寝る間も寝 ないで働いてたってね、時勢だよ。こういう時 代だ、おまえ、儲からねえのが当たりめえじゃ ねえか。ああ、やだ、やだ、こんな世の中」な んてね。それじゃ、みんな嫌がってるかと思う と、中には成功してる奴もある。そういう人間 をとっ捕まえて「あんな奴なんていうものは運 だよ。結局要するに勧業債券(今の宝くじ)の 当たるようなもんだ。あんちくしようたって成 功するつもりで成功したんじやないよ。気がつ いたら成功してたんだ。ま、万人の中で一人成 功して、あとの九九九九人は失敗するんだよ。 それが当たり前だ」なんて変な、まったくそれ も間違ってないことのように考えてる大がいや しませんか。  どんなことであろうと、事の大小は問いませ ん。自分が知る知らざるとも問わない。すべて の人生の出来事は偶然に生じたもんじやありま せん。アクシデントというものは必ず自己が知 る知らざるとを問わず、自己が蒔いた種に花が 咲き、実が成った。それが今日の演題にぴった り合ってるのであります。「生きる心構え」と いうものに、正しい自覚が、そして反省が常に 油断なく行なわれていないで生きてると、全然 自分が気のつかないような種を健康的や運命的 な方面へと蒔いちまうんだ。  エマーソンという哲学者が言いました。 「もつとも優れた人間は、常に自分の人生の出 来事を自分がいつか知らない間に自分の心で求 めていたんだと思わなきやいかんぞ」と。これ は非常に意味の深い、そして厳しい反省を我々 の、ともすれば無頓着に生きようとする心へ促 してる音の大きな警鐘だと考えざるを得ないん である。  よく考えてみなさい。誰でもが人生どんな場 合になろうと、病になりたいとか不運になりた いとかって請い願う者ありやしないでしよ。た まにはどうです? 患つてみたいなんていうよ うな気持ちになられますか。「ここんとこ二、 三年、薬飲まないねえ。近所に医者がいるんだ けど、気の毒だなあ。付き合いもしてないで。 誰か患わねえか」なんていって患う家庭はなか ろうと思うがどうです? 不運においてもしか りであります。  それほど嫌いな不健康や不運命を、嫌いなら ば自分の人生に招き寄せなきやいいんだが、な んと招き寄せるつもりなくして招き寄せて、あ たら何ものにも換えがたい貴重な人生をスポイ ル(台無しに)している人がどれだけあるかわ からないということを、事実においてあなた方 感じませんか。いや、それは他人のことじゃな い。ご自分で考えてほしい。  私もお恥ずかしいが、こんにちかようなこと を偉そうに言っておりますが、中年にして八年 間、しかも私のはもういつ何どき死んでしまう かわからない重体を続けた八年。喀血は実に三 十八回やりまして、しかもその量はいつでも丼 に一杯ぐらいの血が吐かれてたと思う。そして 苦患の試練を受けておりますから、より一層そ れから今の現在までは日日が反省、反省の繰り 返しで、生きる努力で毎日を生活しております ために、おかげ様で医者が診るとびっくりする 体なんであります。  少し旧聞に属しますが、昭和の二十五年に北 海道へ行きまして、札幌の医科大学の先生三人 が、「一つ我々の医学上の参考に、先生のお体 を診せていただきたい」と言うから、「さあさ、 ご覧なさい」と。札幌へ行ってからにレントゲ ンにかけたりいろんなことをして、半日ばかり 医者のオモチヤみたいにされちやって、もちろ ん晩に御馳走になったから、あんまり苦情も言 えませんから。  それから小樽で講演会やったんですよ。そう したら五日ばかり経ちまして小樽へその三人、 レントゲンの写真持ってやってきた。そして写 真見せる前に、一番先輩の医者だったが。  「先生、医者として遠慮のないことを申し上げ ますので、御無礼なことを申し上げるかもしれ ませんがお許しを願います」  「ああ、いやいや、もう何も御心配なく」  「先生、無理してやしませんか」とこう言う。  「何?」  「いやあ、やせ我慢でおやりになってちや長生 きできませんぜ。驚いた、レントゲン見ちやっ て、三人とも、あれじやいつ死んじまうかわか らないから、いっそ無理な講演なんかお止めし ようじゃないかと今日やってきたようなわけな んで。先生、何も先生が演壇に出なくても、お 弟子で先生ぐらいしゃべれる者あるだろうから、 先生はただしゃべるネタだけを書いて渡してお おきになるぐらいにして、あんまりおしゃべり にならんほうがいいだろう。釈迦に説法するよ うですが、先生の肺は先生御存じでしような、 右のほうがほとんど役に立たずにいるのは」  「知ってるよ」  「堅固な肺を持っててさえ、数時間に渡る講演、 水も飲まずにまくし立ててからに、呼吸に非常 に良くない刺激を与えるような環境をつくれば、 きっと肺臓と臓器はその影響を被ってる。そっ としときなされ。せっかくの御修養によって得 た体力でもって長生きもできようと思うのに、 惜しいと思うからお止めしに来ました」つて言 うから。  「長生きというのはいったいおまえたち、いく つぐらいまで生きるのを長生きだと言ってるん だ」と言ったら  「いや、七十を越さなきや、先生」つて、  「俺もう七十越してるよ」  「え! ぽんとですか」つて言うから、  「おめえ、歳ばかりはできるだけ若く言いたい んだけど、どうしようもねえ。嘘つけない。七 十五だ」つて言ったらそのときで五年前。  「ええ11 わたくしたちは先生はまだ六十を 越しても一つか二つ、ひょいとするてえと頭 しょっちゅう使う人だから歳よりは老けてみえ るんじやねえか。あるいは五十八、九じやない かって噂したんですがね。そうですか」つて言  「なんだ、弟子になって俺の歳知らなかった の?」  「へえ、今月人ったんでわからないんですけ ど」  そのぐらい言われてる。早い話が、医者から 見れば、極めて危なっかしいと思われるような 体を持ちながら、自己自身は少しも「疲れた」 とか「くたびれた」とか「おお、しんどい」な んていう、そういう気分を感じたことのない日 日を極めて朗らかに勇ましくいきいきとして生 きております。それは結局要するに、八年間の 病弱の苦患の味をもう再び繰り返したくない、 私は。それいつも笑いながら話す。「世界中の カネやるから、もう一遍あの患いをちょいとひ と月でいいからやらねえか」つて言われて、 「それはもうとんでもねえ。御免被る」と。  ■ロックフェラーが示した関心  終戦後、私はアメリカのロックフェラーから もうこんにちまで数回の招聘を受けておるので あります。これはあまりにも世の中に知れ渡っ た事実ですから、皆さんもお聞きになったこと がありましよう。  ロックフェラーという人は、非常に人生の幸 福を建設することを一番先にすることが、世界 の秩序を回復し、同時に世界の平和を建設する 何よりの一番先の大事な問題だということを、 特にまだまだ世の中がこういうふうな変てこに 世界的にならない前から気がついてたという、 極めて尊い篤志家であります。  世界の生物学者といいますからもう東洋も西 洋もありません。生物学者として一国において 権威を持っている学者を集めて、もう現在で四 〇〇名からいるんですよ。それで人類の福祉増 進のためという研究所を持っております。四〇 〇人の学者がお互いにその尊い知能を絞って、 健康や運命の上へ常に福音置かれたしという事 柄を事実に顕現せしめんがための研究を継続し ているということは世界著名な事実ですが、そ の四〇〇人の学者がいる研究所を持ちながら、 何のために、しかも敗戦国の一老学究を首に縄 付けても引つ張つてきたいような熱心さで「ア メリカに来てくれ、アメリカに来てくれ」と言 うその理由は、極めて簡単なとこから出発して るんですが、この簡単なことが決して簡単な事 実じやないことも、考え出したらすぐおわかり になるでしょうが。  今世界にいる学者には、これは今とばかり言 いますまい、古来からという言葉のほうが大袈 裟でなく事実ですから。人生を考えるという学 者は、もう昔から幾人もいたんですよ。しかし、 これだけ文化がクライマックスに達したかの如 く見える現代でも、こと人生に関する限りは、 肝心要なことがまだ本当に彼らの研究の努力に よってそのキーを掴まれていないんであります。  その肝心要なこととは何たというと、ぎ肖{O こOということなんです。生命や人生に関する ところの統御だとか、あるいは生き方というよ うなことに対するところの理論的方面は、ほと んど完膚なきまで彼らの研究の努力によって成 し遂げられているという言葉は決してお追従 じゃない言葉。  だが肝心要なことが、今言ったhow to do° これが誰にでも知らされて、誰にでも行なわれ るような、要するに組織で発見されてない。も うこれは、こう言ってる言葉のうちに、あなた 方も確かにそうだと頷ける人がありやしません か?  特に精神的方面、now to sayという方面には 非常に深さを深めて、いろいろと脚色せられた 言葉も学者によって発見せられ、また発明せら れてます。さりながら、その言葉どおりのそれ じやあ、精神生命をつくるにはどうするかとい うことが、一番これは肝心な問題だが、こいつ が解決つけられてない。  卑近な例が、心を正しく麗しく清く尊く持て というぐらいのことは、今さらながら新しい人 間の心に対する念願でもなければ、また希望で もありませんな。洋の東西を問わず、時の古今 と言わず、宗教と言わず、また修養法と言わず。 一様に皆その次第は心を本位としてつくられて、 心を度外視してつくられた宗教もなければ、ま た修養法もあろうはずありません。そして説き 方こそ違え、教義の組織も違うかもしれないが、 結局conclusion(結論)は、心を正しく麗しく 強く尊く持てというところにみんな帰結されて るでしよ。  もう既に何千年も前からキリストも言ってる、 マホメットも言ってる、釈迦も言ってる、孔子 も言ってる、孟子も言ってる。皆あらゆる学者 識者は一様に囗を揃えて、これは正しいことな んだから同じことを言ってる。しかし、その尊 い心の在り方に対する希望だけはあっても、 「こうすればそうなれるよ」という言葉で教え てる教えが、この世界のどこに一つでもあるで しょうか。  いささか自慢を申し上げるようだが、それが 天風会の誇りであり、またそれが天風会のプリ ンシプル(原則・信条)であり、そのプリンシ プルを常に教義のイデオロギーとしているとい う点にロックフェラーは一番大きな関心を持っ た。  私かスターズーアンドーストライプス(米軍 新聞)の記者を集めて講演をしたときに、その 会にロックフェラー三世も来て聴いてた。まさ か、あんな貧弱なふうをしてる人が世界一の金 持ちだとは見受けられないような質素ななりで した。日本人の一番貧乏人が着るような服着て るんですからね。こんにちあたり拝見するてえ と、この服着てからに今英国やアメリカ行った ら、そりやあもうどんな紳士に会っても負けな いような立派な服着てる人がお集まりの中にか なりよけいいらっしゃるが、皮肉を申し上げて るわけじゃござんせんけど。  その後、私帝国ホテルでいっしよに飯を食っ てるときに、彼が「おまえの着てる服はいった い何年ごろ前にこさえたんだ」と尋ねるから、 「さあ、これ六年ぐらいかな。流行を追いたく ないから」と言ったら、「流行なんていうもの は飛び離れた慌て者のすることなんで、流行を 追わなくても寒さ暑さにこれで差し支えない よ」と。  「自家用の自動車は?」と言ったら、「私はね え、全世界に自動車会社を何百と持ってる。各 社でこしらえる自動車をみんな持ったら大変 たっていうんだ、私。クルマを置くところだけ こしらえて、私の住むとこなくなっちまうじや ないか。それよりは一本表に出て手を挙げりや、 すぐカネさえ出しやあ、誰でも乗せてくれる自 動車が来る。いわゆる「イヤーに乗ってるんで すよ」。自家用持ってない。体裁をつくって、 うちのなか火の車回すようにして、自動車なん か持ってる奴もなきにあらすでしょう。  ニューヨークの彼の本宅はというと、アパー トを二、三室ただ借りてる。もっとも自分たち 夫婦と子どもはみんな別居させてます。そして 女中が二人いるっきりだ。それで本人に聞くと、 「俺のことを世界一の金持ちだって言うけど、 俺は俺のカネがいくらあるかわからないんだ」。 そしたらマダムが、「私たちの一番不幸なこと は、私たちの自由になし得るパース(財布)の 中にいくらあるかということを知らないことで あります」。粋な答えですね。自分の収支がわ からねえんだ。なってみたくない? そして笑 いながら「おそらく世界中の税務署の役人が調 べても、私の収入も支出もわからないでしよ」 とこう言ったよ。  ことほどさように、驚くなんていう言葉で形 容できないでしよ。びっくりするって言葉もダ メでしよ。訳のわからない、とにかく茫然たる 状態で考えなきやならないほどにカネも持ちす ぎると、あんまり嬉しかありませんな、これ。 お互いそこいくと楽じやねえか。たったいま空 でも覚えてるもん、自分の懐の中。  ■一〇〇万人の付和雷同者よりも、  ただ一人のリアリストを  最初に私かIいろいろ話がまちまちになり ますけれどIスターズーアンドーストライプ スの記者クラブの招聘を受けました原因からお 話ししましよう。これも今日の演題の何かに当 たっていくかと思います。これはもう世間周知 の事実ですが、ただ曲解されないように、何か 自己を宣伝せんがためにというような気持ちで 言うように聴いておられると、どうもすべてが みんなそういうふうに解釈されますから。  私は宣伝嫌いの男で、私の会というのはです からどんな場合があっても宣伝しないでしよ? ただ救われた人々の喜びのご紹介で集まる人が 次から次へ私のお弟子になるというような状態 で、地味な時代遅れのやり方やってるの。私は 「一〇〇万人の付和雷同者よりも、ただ一人の リアリストを希望する」というのが、私のこの 道を説く始めからの念願だ。  ですから、広告的な意味で言ってるんじやあ りませんよ。ありのままの事実をそのまま率直 に申し上げるんです。  私は昭和十六年十二月八日、「朕、米英に戦 いを宣す」というあの詔勅の下ったとき、あ、 これで日本が危なくすると滅亡するぞと、刹那 に私のインスピレーションは感じたんでありま す。  あのとき以来、私は声を放って泣いたことは ありません。囗本に正しい自覚を持つ政治家が いないのか。本当に世界の趨勢を見破る軍人は いないのか。これで戦いを開いたらいったいど うなる。勝てると思ってやってるかもしれない けど、勝てっこない戦いだ。いわんやまして正 義に名を借りてからに、「東洋平和を名として 戦いを開く」と軍閥も政治家も言ってるけど、 何か平和だ。いったい何か正義なんだ。  そうして盧溝橋事件が起きると、総理大臣 の近衛が、この事変は事変にとどめて拡大しな いとラジオで放送したんですが、我々のような 政治に関係のない人間でも、これは拡大しない ではいられないだろうと思いますよ。いえ、自 然の趨勢がこれ拡大しちまうわ。石油でもって 火を付けて、石油を片付けないでこの火事は大 きくなりませんと言っているようなものだ。  これは黙して止むべけんやと思ったから、早 速あくる囗、青山の青山会館を借りて、「総理 大臣、近衛文麿は嘘つき」と言って講演したら、 一週間勾留くっちやった。その時知らないで勾 留しといてからに、私か皇族講演の講師ってこ とが分かったら、今度はもう警察幹部が来て謝 るんだ、どうもこのたびの勾留は内緒にしてく れって。  とにかく、それからの四ヵ年間、この四ヵ年 間が私の人生の歴史の中で、それこそもう非常 に苦難の毎日でした。なぜかといえば、あくま でもこの戦争に反対しなきゃいられない私の気 分は、どんな場合があっても、この戦争に少し でも賛成するような言葉吐けません。もしや演 壇に立ったら、もう囗を極めて時の政府や軍閥 の悪囗言ってるもんですから、こりゃしょっ ちゅう私に憲兵が二人ずつ付いてる。  もっとも憲兵っていってもかわいいもんで、 もう二年目ぐらいから友だちになっちまってね、 友だちになるよりはもう「先生、先生」つて 言って。もっとも、どこの料理屋へも同行し、 御馳走に何度も連れていくもんですから、もう 私に、ちょうどサメにくっついてるあの小さい 魚みてえなもんで、何も私のために不利益にな ることは報告しなくなっちやったんですが。し かし、もう手を変え晶を変えて弾圧を受けまし たぜ。  ですからおかげ様で、戦争が終わってから、 言論家の中でたった一人私だけでしよ、パージ 受けないの。私は受けておりません。徳富蘇峰、 これは言論界の先輩であります。戦争が終わっ てまもなく、徳富蘇峰が一番先に電話かけてき ました。「軍人より政治家よりも、この戦争に 関していろいろ国家に協調した言論家のほうが 先に捕まるらしい。あなたはつとに日本主義の 忠君愛国を唱えてた人だ。おそらくあなたが一 番先だろうぜ」と、こう言うんですよ。「だか ら御用心を」。  ちょうど私あのときに宮中におりまして、昭 和二十年の一月から特に侍従次長の官舎に「お まえは当分いるほうがよかろう」という思し召 しで、外に出りやとにかく憲兵がつきまとつて るんですから。  しかし、不思議な国家ですなあ。戦争に反対 している人間が宮中でもって、直接天皇の御保 護を受けるなんて。考えてごらん、天皇は始め からこの戦争に実はご賛成なさらなかったとい うこともうかがい知ることができよう。  そして徳富蘇峰が忠告すると同時に、今度は 広田弘毅が、これは私の同郷の後輩であります。 これがわざわざ宮内省の官舎へ来て、玄関のと ころへ来て、「何人がもうお耳に入れてるかも しれませんが、どうも言論家が一番先にやられ るらしいので、ご注意を願いたい。宗教家でも もう見境がなくアメリカはとつ捕まえるらしい ですから」。  勝てば官軍、負ければこれが、普段各々が 持つてた信念や主張は、こういう場合に知る人 ぞ知る。それでいいじやねえか。すべては天に 任せなさい。お互いに用心すればいいんだ。用 心なら別に何の用心もありません。来いっちや 行けばいいだけなんですからね。  そしたら世の中妙なもんじやないか。まもな く広田が連れていかれちやった。注意しに来た 奴が一番先行って死んじまうなんてね。そうす るとまもなく、また徳富蘇峰が連れていかれて、 これは無事に命だけは助かってあとで釈放され ましたが。以来こんにち既に千有余年、いっこ うまだ呼びに来ないとこみると、もう行かない でしょう。  笑えない滑稽な話がある。昭和二十年のちょ うど今月の初めで、「明日は天長節だな昔の」 と言ってる十一月の二日。けたたましく電話の ベルが鳴った、その日ちょうど私は、大谷とい う元の皇宮警察部長の官舎に碁を打ちに行って た。そうすると「なんだか英語でもってテンプ ウ、テンプウつて声が聞こえるんですが」つて 取次の人が言ってきたから、大谷君が「じゃ、 俺出よう」つて言って大谷君出た。そしてなん か二言三言言ってるうちに、顔の色真っ青にし てきて、  「先生、いよいよ来た、いよいよ。いよいよ来 たよ」つて言うから、  「何か来たんだよ」  「今ねえ、GHQから電話だ。それで『そこに 天風って人いるか。宮内省のほうに電話かけた らこの官舎へ来てるっていうので、今電話をか けてるんだが、いるんなら電話口に出てく れ』つて言ってますぜ」  「そうか。じゃ、出ようか」  別に私なんとも思わないで出た。  それから出ると、流暢なアメリカ語で「あん たがクレーター・テンプウか」つて言うから、 「そうだ」  そしたら「今非常にお忙しいか」と言うから、  「いや、この頃は毎日暇だ」  「お忙しくないんならお差し支えのない限り、 明日でよければ明日にしてはしいんだ。しか し、御都合悪けりや明後日でもいい。朝九時に お迎えを出すからGHQまで来てくれんか」と。  「用事はそれだけか」  「それだけだ」  電話切つちやつた。  「なんだおまえ、なんだかGHQからな、朝九 時までに来てくれってだけのことだよ。別にお まえ、顔色変えることはねえんだ」  「いや、それですよ。先生気がつかないけれど も、いよいよ先生やられる」とこう言うんだ。  「たっておまえ、巣鴨行く奴はたいていあれだ ぜ、MPが来てジープつてやつ持ってきてよ、 それで警察の署長がたいてい呼びに来て一緒に 行くらしいじやないか。GHQで呼ぶってえの はおかしいや」  「それが大物だからGHQで呼ぶ」  それもそうかいなとは思ったものの、半信半 疑だよ。  そうすると明くる囗の朝、時間どおりに、ア イケルバーガー中将の旗下の大佐が清らかな制 服着て、そのとき初めてね、久し振りにという よりむしろ生まれて初めて新しいアメリカのモ ダンな車に乗った。  連れて行かれてGHQの、今でも覚えてる二 階の第一公式応接所に通された。そして、うま いお菓子とうまいコーヒー。今は別にあんなも のあったって、うまいとは思わないけど、何し ろ、昭和二十年の暮っていったらね、一番物の ないときで何もありやしないもん。  「中将はちょっと今急な用事ができまして、失 礼ですが三十分ばかりお待たせすることをお許 しを願いたいと言っておりますから」と言って、 迎えに来た大佐が非常に何くれとなくサービス。 囗本の軍人の横柄な態度とは大違いだ。  別にアメリカ褒めたかないけれどもね、事実 だ。しようがない。実にそのサービスが痒いと ころに手が届くのよ。それでやがて三十分ばか り経って、二コニコニコニコ、日本贔屓の中将 ではありますけどもね、もうそれは軍人のよう な態度じゃないんですよ、愛嬌たっぷりでね。 「お忙しいところをわざわざお出で願って。こ ちらからね、メッセンジャーあげても片づく用 ではありますけど、一遍あなたというお方にお 目にかかりたくてお出でを願った」と言う。ば かにこれは、パージ受けるにしちゃ少し風向き が違う。  そして「さ、どうぞ、私の部屋へ」。それか ら部屋へ行ったら、いきなり免状みたいな紙出 して、「御迷惑でしょうけども、少しの間でも およろしいですから、ひとつ」と言いながら出 しだの。これひょいと見るてえと、CPC(民 間財産管理局)のコミッションアドバイザーを お願いしたいという辞令のようなもんでしょう な。その時分には、英語と日本語のわかる担当 がいない、というところからだと思ったんです が、「それの理由じゃない」つて言ってました、 あとで。もう一つ大きな、「アメリカの受けた、 あなたからの大きな恩義に対する御恩報じた」 というようなことを言ってくれましたね。これ もあとで説明しますが。  それから「私はパージにかかる戦犯者じゃな いんですか?」と言ったら、「いや、囗本の言 論界中あなただけは、むしろ我々は非常に正し い道を歩まれた人として尊敬するものでありま す」と言って、笑いながら「Look over there J  ひょいと見ると、そこにうず高い書類が積ん である。囗本の憲兵司令部から押収してきたも のらしい。その一番上に、私に見せるためにも う用意してあるんで、それ取って見せるてえと、 囗本の憲兵司令部が、この中村天風をアメリカ のスパイであり国賊であるという。囗に正義を 唱えながら、アメリカに款を通じている。一番 卑近な証拠には、というのはそれが吹き出すよ うな証拠なの、「B29が東京の空に飛んでくる と、彼は宗族一同と物干しの上に上かつて、し きりに「ンケチを振るってB29の航路を指示 した」という。よういわんわ。囗本の役人なん ていうものは、頭どうかしてやがるんじやねえ かと思うんだよ。  それはお説のとおり、私をはじめうちの者み んなB29が来るてえと、二階の一番てっぺん にこさえてある物干し櫓の上にみんなで上かつ て眺めてた。しかし、いくらアメリカにどんな 望遠鏡があるか知らないが、二里も上の上空か ら、下のほうの物干しの櫓のとこで(ンケチ 振つてる人間なんかの指図を受けなきや飛べな いと思つてるところに、浅はかなとこがあるん だ、日本人。  しかし妙なことがスパイだと言われるもとで すなあ。そしてもう囗を極めて日本を悪く言い、 もう折あるごとに時あるごとに非戦論を唱え、 国家が戦争の意思を持って結合しようとすると きに、彼一人はこれはもう何の恨みがあるのか、 日本を悪く言って、そして巧みに皇室に取り 入って陛下をさえ欺瞞してるっていうんですか ら、恐ろしい悪人になっちやったよ、私。これ が、戦争が無事に勝ったとするでしよ。そうす ると今月こんにち、お目にかかる機会なんかな かったかもしれん。一番先にやられちやうんで すから。  ところが私は、最初から何もかくあることも 予感して、政府に向かって盾ついたんじやない。 戦いはあくまでも正義で行なうべし。そして同 時に勝つべき場合に戦わなかったら、いたずら に損失を国民に与えやせんかと。同時に国体を 護持する上にも大きな支障が来ると、こう思つ たから私反対したんだ。  ところがこれだけの人間がいながら、表立っ て反対する大は本当に少なかった。あとになっ て俺も反対した、俺も反対したなんて変なこと 言う奴があるけど、本当に反対したの私の知る 限り六人しかいないんですよ。元の内閣総理大 臣であった若槻禮次郎と、それから岡田啓介。 二・二六で剌されようとした。それから米内海 軍大将(米内光政)。それから民間では私の恩 師・頭山満翁に、私の弟分の中野正剛、それか ら私きりだ。他に誰がいったい反対した? こ の戦争に。あとになって俺も反対したって言う けども、嘘つきやがれ。みんなパージ受けてる じやねえか。  八千万か一億か知りませんけども、これだけ の数多くの日本人がいても、真に日本というも のを考えた人間がたった六人しかいなかったか と思うときに、なるほど、この戦争が勝てない のは当たり前ですよ。頭から勝てない戦争を勝 とうとしてる戦争なんですから、勝てないのは 当たり前の上に、本当に国家の将来を見破って る人間がいなかったことが、また大きな、これ はもう行なうべからざる場合に変なこと行なっ ちやったという過失を敢えてしたんであります。  ですから頭から私は、もうこの戦争というの を折あるごとに時あるごとに非難してきた。だ から会員のなかには、非常に私を思うもんだか ら、「それはまあ、先生の思うこと、考えるこ とに嘘はない、偽りはなかろうけども、とにか く国家がこういうような状態になってるときに、 あんまり多くおっしゃりすぎるてえことは、先 生のためによくなかろうから、ある程度の加減 なすったほうがいい」と。これは師を思う気持 ちで言うんでしょうが、「いや、バカこけ。た とえ今舌引っこ抜かれても、俺は言うべきこと は言う。それはなぜかというと、私は死んだ後 に天風という奴はそのときの都合によってから に、自分の利害得失でもって言葉変えたなんて 言われたら、弟子がかわいそうだ。このまま殺 されてもいいから、俺は言うんだ」と。  古い会員みんな御承知でしょ?「勝った、 勝ったなんて煽てられて喜ぶな。今にどえらい ことが起きるぞ、囗本っていう国は」としょっ ちゅう言っていた。誰もそのときにそのどえら いことを負けることだと思いやしねえ。暢気な こと言ってる奴は、「今に南洋を征服すると、 往来がみんなゴムになるよ」つて。よう言わん わ、ほんとに。  ■天風ならではの人類愛  そうして戦争もだんだん過熱になってからに、 東京が五月二十五日の大空爆によって全滅。そ の晩ちょうど私は、茨城県に妻や子を疎開させ ていましたので、土曜日から日曜にかけてそこ へ行くことになって行った夜、明け方にB29 の搭乗員である飛行中尉が、私の家族の疎開し てるすぐ脇の田んぼへ不時着した。これも結局 は何かの因縁でしょう。  それをお百姓が発見して、寄ってたかって袋 叩きにしちやったんですがね。日本人ってのは 野蛮だねえ。戦闘力を失って不時着した、何ら の戦意のない人間を寄ってたかって袋叩きにし たんですよ。日本人のお互いの仲間の中では、 そういう鬼みてえな奴がいるということを忘れ ちやいかん。  だいたい寄ってたかって一人の人間をあんた ねえ、二、三〇人の人間で袋叩きにすりや、へ とへとになっちまう。こいつを荒縄で縛りや かつて、交番所へ連れてきたところへ私か通り かかった。  「なんだ、この大ごみは」と言ったところ、 「今ね、飛行機で降りた捕虜が捕まったんで す」つて。村の駐在所ですからね。荒縄で後ろ 手に縛られて目隠しをした中尉が立ってる前に、 傲然と巡査部長が椅子に腰かけて、その横に普 通の巡査が一人と。そして日本語で盛んに怒 鳴ってるんだよ。だって通じやしねえもの。飛 行機で降りたばかり。  それで私、いきなり入ってってね、巡査部長 をよく知ってますから。それで交番に入ってか ら巡査部長に、  「おい、縄を解いてあげろ」  「いや、そんなことしたら大変です。憲兵隊か らの命令で、すべて捕虜はこういうふうにしろ ということです」  「よろしい。憲兵隊の隊長は俺の弟子だ。俺が 許す。解け」  躊躇して解かんですよ、おつかなかつてね。  それだから、私か解いちやつた。  「よござんすか、先生」  「黙っとれ。責任は俺が負うから」、それから 目隠し取った。  「それはやめてください」つて言うんだ、巡査 は。  「なぜ?」  「いや、その目を開けたら様子がわかる」つて 言うから、  「アホ、どんな目のいい奴だってね、生まれて 初めてのとこへ来て、目隠しを取られてキョロ キョロしたったって何かわかるんだって、駐在 所の狭い部屋の中で」  そして「とにかく椅子へ腰掛けなさい」。  田舎の村の中でもって、とにかく英語を流暢 に話す奴にあったんですから、向こうは喜ばし く、それから、  「疲れてるようだが、なんか食べたい物ある か」つて言ったら、  「落下傘で降りてから見つかるまでの間に携帯 口糧をすっかり食べたからお腹はいい。ただ喉 が渇いてるから、水でも茶でもいいから飲ませ てくれ」  「おい、そこのとこに一番いい茶があったろ、 茶立てろ」  「先生、よござんすか」  「いいっては。俺が飲みてえと言ったらどうす る?」  「先生には差し上げます」  「じやあ、俺によこせ。俺のをやるから同じこ とだ」  それから今度は交番所の前で。  「おお、何を騒いでるんだ、おまえたちは。今 聞いてるてえと、中に人つてる人を出せという が、中に人つてる人はね、アメリカの飛行中尉 だ。士官なんだ、おまえたちわからんかもしれ んけども。そしてもう一つおまえたちに言いた いのは、ここを出せばおまえたちが半殺しの目 に遭わせてしまうだろうけども、そしたらおま えたちも懲役に行くぞ。こういう人の身柄を自 由にする権利は軍隊にあるだけだ。なお私はあ んた方に聞きたい。あんた方の仲間でもって息 子が戦争に行ってる者があるなら手挙げろ」  みんな手挙げたよ。  「何言ってるんだ。それじやあ俺ねえ、その今 手挙げた大に聞くが、おまえたちの息子が戦地 でアメリカの大々にとっ捕まってこういう目に 遭ったとき、いいか、アメリカの人間がそこに わんさと集まってきて袋叩きにする、半殺しに すると言ったら、それをあとで聞いたらおまえ たちうれしいか」  さすがに、わかったと見えて黙ってやがる。  「それがうれしいと思ったら今この人をここに 出すから、どうでもしろ。けどそれがのちに世 界に伝わったときに、日本人は鬼よりも無慈悲 だと言われたときに、名誉な話じゃないという ことを考えないか。引き取りなさい。忙しいお 百姓の仕事をしてる人間が、おまえさんたちが そこでわ1わ1騒いだからってこの戦争勝てる もんじやない。帰りなさい」  それから中へ入ってきてすぐ私、県知事に電 話かけた。  「今ここでな、飛行機から降りたこういう人が いる。こいつを憲兵隊に渡そうと思うんだけど、 この巡査の言うのには、憲兵隊に渡すとき卜 ラックで送るって言ってるんだがね。トラック で送るなんていうのはかわいそうだよ。そこで 君の使ってる自動車出しなさい。もしも差し支 えがあったら憲兵隊のほうの隊長に言って、隊 長の自動車よこしなさい」  そしたら「あ、それじゃ、早速出します」つ て二台来たよ。それから知事の乗る自動車へ 「どうぞ」。それから私も乗って憲兵隊に行った。 それで憲兵隊の隊長に、  「囗本の武士道は敵を愛するところにあるもの なり、ぐらいのことは知ってるな」  「存じております」  「たとえ本部からどういう命令が来ようとも、 おまえの手元にある間だけは不自由なくお客様 扱いにしてからに、一生のこの人の良い思い出 をつくっておやり」   そして中尉に「私はまた宮中に帰らなきやな  りませんから。それからいずれまた縁があった らお目にかかるときの恵まれることを楽しみに、 今日はお別れしよう」つて手出した。そしたら、  「失礼だが、あなたのお名前は?」と。  「さっきから私は、あんたとこうやって長い時 間お付き合いしてるけども、匸一にも私はあんた の名前聞かないだろ。私、あんたの名誉のため にあんたの名前聞かない。国と国とが不幸にし て戦ってるが、人間同士に何のここに恩も恨み もないぞ。それで今私かあなたの名前を聞くと いうことは、私の心の中でもってジェントルマ ンライクじゃないと思うから、あんたも私の名 前聞くな。お互いに会った事実は一生忘れるっ たって忘れられるこっちやないんだから、この 今日の日起こったこのアクシデントをあなたの 記憶のページの中にはっきりしたためとけばよ ろしい。私ももちろんそうする。そしてまた長 い月日の間、再び会う機会が与えられたときに、 大いに今日を昔語りとしようじゃないか。それ まで元気でおれ。さよなら」そう言って帰って きた。  これは、私の始終持っている人類愛でありま す。ところが、これがやがて後にCPCのコ ミッションアドバイザーになり、そして、やが てロックフェラーから招かれる動機をつくった んですから、不思議なもんですな。  さ、囗本人ならこれはなんとも思わずに、 「ただありかたかった、あんなこともあったっ け。やっぱり日本人の中に珍しい親切な奴もあ るもんだ」ぐらいで済ませちまうかもしれない が、そこがまたアメリカ大を褒めるわけじやな いけど、アメリカ人の中にだってそれはいけね え奴もいますけども、こんな人間もいるのかと 思って感心したのは、飛行中尉は一旦国へ帰っ た、戦争が終ってね。そしてどうしてもこの事 実を忘れられない。また会う機会を自分でつく らなきやつくれないと思ったんでしょう、彼は。  そこでスターズーアンドーストライプスの日 本特派記者を志願して、これ大学出た人ですか ら、そして日本に来て、その日の事実をそのま まにアイケルバーガー中将に具申して、それで GHQの力で調べた。調べりやすぐわかるよ。  それで私か、アイケルバーガー中将に感謝の 意味で呼ばれたわけなんだな。そしてせめては、 この生活に非常に苦しみ与えられるであろう日 本民族の中におられるんなら、自由な天地に生 きられるようにしてあげようという気持ちも あって、特にアメリカ政府が頼んだ役人の一人 にしてくれたんでしょうけど。ところがそのと きだ、  「いったいあなたは何をする人だ」と言うんだ よ。「クリスチャンか」つて言ったよ、いきな 「それはなぜ?」つて言ったら、 「いや、そういうふうな敵を愛する気持ちを持 つ者はクリスチャンだけだ」  「囗本のクリスチャンにはこんなのいません」 そう言った、遠慮なく、私。  「日本のクリスチャンは後難を考えて、後難恐 るべしと思うことには決して愛を向けません」 とそう言った。「その証拠には、あの村にだっ て教会が一つあったんだから、キリスト教の牧 師もいたんだから。私かする前に来て率先して 救うだろうと思ったが、来ませんことを思って みると、どうもあそこにいるクリスチャンは本 当のクリスチャンじゃないと思う」  「クリスチャンでないとすると、どういうお気 持ちでもって敵の将校をお救いなすったか」と 言うから、「人間の気持ち」とそう言ったんだ、 私。そしたらぱっと手を出して、そして「そう いう言葉を日本人の囗から聞いたのは初めて だ」つて。長い間日本贔屓でいるアイケルバー ガー中将さん、「本当の人間の気持ち」つたら、 ぱっと手出した。そしてまた笑いながら、「そ の本当の人間の気持ちというのは、生まれてか らずうっと持っていたか」と言った。おもしれ えね、これ。それからね、「生まれてから不幸 にして途中でもって何遍かロストした。ここの ところ約三十五、六年持ってる」と、そう言っ たら、「それはどういうわけで」つて、それか ら私はこういう哲学をやった人間だと話したら。 「その哲学ならば、我々アメリカ人が今非常に 待ち焦がれてる哲学だ」つて。ヨーガの哲学。 「それは、ぜひとも一つ講演で聴かせてくれ」 というのが元でもって、その時分には日比谷の 毎日新聞のホールが、あれが記者クラブで、そ こでもってヨーガ哲学のレクチャー始めた。  ところがヨーガ哲学というのは、知ってる人 はご存じのとおり、理論理解に重点を置いて、 肝心要な要するにプロセスの方面というものは 「悟り」なんであります。ですからヨーガの哲 学の真理は、まことに深遠にして敬うべき価値 が多いとなれど、それは真実の人生に如実に実 行しようとする気持ちを持つ者に対しては、あ まりにも雲の上の存在であります。なぜかって 言えば、悟らなきやいけないから。  それを二ヵ年数力月、幸か不幸か不思議な運 命に伴われて、私かカンチェンジュンガの麓で このヨーガの哲学を研究いたしました結果、得 られましたものを基として自分でもって創意し ました方法。これをヨーガの哲学に結びつけて、 この記者たちに話す。そうしたところが、それ がロックフェラーの気に入っちやったわけだ。 特にロックフェラーが感激極まって、私に即座 に来てくれという気持ちを起こしたのは、イン ドのヨーガの哲学の中に「クンバ「カ密法」と いうのがあります。これは、ヨーガの哲学を研 究した人はみんな知ってますよ。  ■教理は教えても、方法は教えない  インドの師  それで、戦後アメリカに二千からのヨーガの 学校ができた。実にアメリカ、その点は偉いと 思うんだ。精神文化を求めて物質文化の行き詰 まりを知ったアメリカ人が、西暦一九四五年を 契機として精神文化の高揚へと採用したのが、 五千三百年の長い歴史を系統的に伝えて研究を 重ねてきたヨーガの哲学。六つの主張を内容に 持ってるヨーガの哲学を精神高揚のためにアベ イル(採用)しようというんで、それでもう本 場のインドから本場のインド人を先生に呼んだ。  ところが、これが一つの失敗ですよ。なぜか というてえと、本場のインドの先生、来ても教 理は教えるが、方法は教えません。己の国の秘 法を滅多やたらと安っぽく教えやしねえ。「ど うすりゃいいんです?」と言うと、「悟れ」と 言う。それですから、せっかくヨーガの学校い くつも建ったけれども、いざ肝心なところへ行 くてえと、「そこから先は悟りだよ」と言われ ちまうんで。そうかといってそれじゃ、インド 人以外の者呼んだってこれは無論わかりゃしな い。  それによって相当苦しい憧れを持ってる人間 は、新聞記者の中にも随分いたんでしょう。そ れに私はもう片つ端から、こうするんだよとい う実際方法で教えますから、それがもう何より うれしかったんでしようね。たいていのヨーガ の研究者がクンバ(カ密法を知つてますが、ア メリカあたりで説いてる方法はこうして説明し てるんですよ。  。。啅o巳n a breath「 Holding the b乱y just the water bottle inteヨally a乱externally. Which is 邑led as Kumvaphacca.  こういうふうに教えてる。これ、英語のわか る人聞いてて意味わかりました?「特別の体の 持ち方というべきクンバ(カ法は、息の出し入 れの合間合間、体は水を入れた徳利のように 持って、瞬間息を止める。それがクンバ「カ だ」とこう書いてあるわけで、また教えられて るだけだ。これじゃわかりっこないですよ。わ が賢明なるアジア市民諸君といえども、おわか りになりや結構だけど、私の教えを聞いた者以 外にはわからないでしよ。  それは現に昭和二十二年でした。やはり今申 し上げたような記者クラブで講演したとき、そ の中に一人のアメリカの女性の少佐がいまして、 これがもう、かつてニューヨークにいる時分に ヨーガの哲学を研究したんだけど、そこでは実 際方法一つも教えてくれないでしよ。求めて求 めて求め抜いて、考えて考えて考え抜いた揚句、 囗本に来た。それでまさか、私のその集まりで 実際的な方法を教えてくれるなんていうことは 夢にも考えてなかったんだって。ただ日本人が、 自分たちアメリカ人には耳慣れないロンドンな まりの英語でレクチャーをするというんだから、 その話をひとつ聴いてみることも一興というよ うな、あわ1い気持ちで来たらしい。  そうして来た日に幸いなるかな、このクンバ (カ法の回1{oaoを私か説いてるときだ。そ うしたらアメリカの女性だから興奮するんで しようね。レクチャー終わると同時にいきなり 立ち上かつてからに、「クレーターー」と言う と同時に駆け上がってきた、演壇に。そうして 片っ方に小さな手帳持ちながら。  そうして私の顔にキスをすること、キスする こと。鏡見なかったが、あれはさぞかし顔中 「二の字」だらけになったろうと思う、亘]つ赤。 感極まって涙ポロポロ流してね。そうしてよう やくするだけして、その間辛抱してました、私。 世界の三分の二歩いてきた人間ですから、キス の仕方も十六種類あること知っております。な んならそれもついでにお教えしてもいいんです けど、しかし驚いたよ、まっだくね。キスは aimlessだもん。目的なきキッスというものは 情愛も何も感じないですよ。鼻の頭だろうが瞼 だろうが耳たぶだろうが、ところ構わずなんだ。 メガネの上まで来るんだ。  それから出した手帳を見るてえと、さっきの 英語の文句が書いてあるんだ。長年の間もうこ ればっかり明け暮れ見ていて、いったい水を入 れた徳利のように体をするというのはどうする んだろうと思ってね。この大ほんとに純真な大 だね。ビール瓶いっぱい水入れといちや、こう やって見てたっていうんだけど。  そういう方法もあけすけ、何でもかんでも全 部教えるのを聴いて、三世ロックフェラー、こ れは四〇〇人の生物学者に研究させてる事柄の すべては、この一人の先生で解決して得られる とか思っちやったんでしような。多少偉さを買 い被ったかもしれません。ああ、それからとい うものはもうね、惚れた女を口説くより以上の 熱心さ。首に縄付けても引っ張っていこうとす るんです。  ところが、私は名聞を好まず、またカネの力 でもって自由になる男じやありません。それは 条件は馬鹿にいいんですよ。「三年間来てくれ。 三年間の間の報酬は三〇万ドル差し上げて、 月々の生活は現在のあなたの月々にお要りよう の費用のI〇倍は払おう。それで従者はI〇人 まで差し支えない。それだけの用意しておきま す」  これ囗本のカネの三〇万円なら屁みたいなも んでしようけど、これを三六〇倍してごらん。 それで一番しまいにそれをノータックスでくれ るんだよ。税金取られないの。アメリカのカネ でもらってくる。そのとき私、冗談半分に、 「それもらってきても、半分囗本の税務署へ取 られちやう」つたら、「いや、それ税務署に取 られないようにします。もちろん強いて囗本の 国家が税を取るったら、税金だけアメリカで出 します」という。「だから来なさい」という。 もっともロックフェラーの懐からいきや、我々 が五円札出すぐらいなもんでしようね、これ。  それでも行かないの。私、お金欲しくない。 こうやって立ってる限りにおいては、一文も要 らない。  とにかくそういったような状態で、私は傍か ら見るとアンチクショウ欲がねえんだろうと思 われるが、欲はあるんですよ、相当。私の欲は あなた方の欲よりは大きな欲なんだ。世界を明 るい世界にして、世界の民族に平和ということ を言わずに、明るく暮らせるような世界つくろ うというのが私の欲なんで、それ以外に何の欲 もありやしない。だからこの欲ですから、なか なかそれは衰えもしなきや死にもしませんわ。  だってねえ皆さん、よく考えてごらん。例え ば、自分がいくら財産こしらえて銀行の預金帳 増やしてみたとこで、それがいったいどうな る? ただ観念の上でいくらか安心が行くだけ でしよ。なんかの拍子でもって自分がくたばっ てごらん。そのカネがあったばかりにこりや、 家族でもってお互いに諍いを始めて大騒動が起 こるぜ。  だからカネなんか貯めるなというんじやない んですけど、差し支えのないだけ以外貯めたっ て何もなりませんよ。使わないカネならば、銀 行へ持っていくよりは、一番安全なのはカネに しないでそれは使っちまいなさい。そして新聞 紙に一億円と書いといて壁に貼っとくんだ。破 れたらまた貼っとけばいい。どうせ使わないカ ネなんだ。  こう言うと、「暢気なこと言うじゃねえか。 それできるかい、今日のたばこ銭に困つてるの に」つて。たばこ銭に困るようじゃ、これはま あ、人間として生きる張り合いがないでしょう。  それというのも生きる心構えが徹底してない からなんです。結論は簡単なんですよ。生きる 心構えとはどんな心構えか。詳しく説明すれば 非常に長くなりますが、天風それ自身がまたそ の心構えで生きてるんだということの見本を見  ■正直、親切、愉快に  天風会員は、毎朝目が覚めますと、厳かに天 に向かって白分のこんにち一日の生き方を「誓 いの言葉」でもって毎朝言います。  今から弟子の青年に言わせます。 (青年)「吾等の誓いを申し上げます。今日一 日怒らず、怖れず、悲しまず、正直、親切、愉 快に、力と勇気と信念とをもって、自己の人生 に対する責務を果たし、怛に平和と愛とを失わ ざる立派な人間として生きることを厳かに誓い ます」  聞いてしまえば何でもない当たり前のこと じやないかというが、この当たり前のことがI つでも本当に実行のできてる大が、これだけの 多くの紳士淑女の中におありでしようか。方法 がわからないとこれは実行できないんですよ。 どれもこれもご無理ごもっともと思うようなこ とばかりでしよ。怒らず、怖れず、悲しまず、 正直、親切、愉快に。これだけが立派に守れて、 そして自己の人生に対する責務というのは、人 の世のためにひたすらなることのみを考えると いう自己存在に対するところの極めて崇高な観 念。そうして恒に平和と愛とを失わざる立派な 人間として生きることを自分白身の誓いにする ということは、言わんがための言葉じやありま せん。これを実行に移すということを厳かに天 に向かって誓ってるんですよ。  聞いてりやまったく耳に快く響くこれだけの 言葉が、実行に移すとなると、なかなかもって、 例えば簡単な話が怒らずということだって、す ぐあなた方怒っちまう。あとから考えりや、何 も怒ることじゃなかっだのを怒って、今度は 怒った人間に謝ってるわね。「この間はねえ、 あとから考えたら怒るこっちゃなかったんだけ ど、ついカアーつとしちゃったんで、ごめん ね」なんて言ってるでしよ。  そうしてもう怖れるべきことでないものを怖 れてピクピクピクピク、神経を過敏にして胸を ドッキンドッキンさせながら、ねえ。中にひど いのになると、来もしない台風を一生懸命怖れ てる奴がある。  あなた方は、まだ見ぬ世の化け物を怖れるよ うなことやってるもんね。よ1く考えてごらん、 あなた方。ですから俺は紳士だ、私は淑女たっ てな顔してる人でも、それは見てくれだけよ。 内心解剖してみると、みんななんだか言い知れ ない怖れと言おうか慄きと言おうか、なんか変 わったことができてくると、これがどんなんな るやろうなんて思ってね、もう落ち着きすぐ 失つちやつて、魂でんぐり返してる大がいやし ないか。  そうして悲しますなんて言葉なんていうもの は、ほとんどあなた方の世界では通用しません。 すぐ悲しんじまうんだから。それでその点だけ は義理堅いのか、そそつかしいのか、慌ててる のか知らないが、人のことまで悲しんでる。 「聞けば聞くほど涙が出るわ。よくご辛抱な すって、泣けてくる」なんて言うと、また片つ 方では喜んでる。「わかってくれたの? あり がとう」なんて。何ですか? いったい。まじ めに漫才やってるの?  そうして正直、親切、愉快なんていうことは、 どっかの国の人の話で、囗をついて出る言葉の 言葉のすべてのすべてが、親子の間でも夫婦の 間でも嘘ばっかり。「毎晩毎晩遅いのね。どう あそばして?」「いや、このごろおまえ、会社 がねえ、順調にいきやいいけどもね、このデフ レだろ。だもんだからおめえ、もう赤字続きで 重役、青息吐息よ。そんな、ヤダよ、引つ張り 回されてお茶屋行くのはよお。けど行かなきや ご機嫌が悪いしよ、また俺つてえものはねえ、 とても重役大事にするんだよ。俺がいるだけで あの会社もつているなんていうんで、しようが ねえから、毎晩遅くなる」。嘘つけ。  また奥さんのほうは奥さんのほうでね、いか に夫を巧みに言いくるめてやろうかという事柄 を日夜、肝胆砕いて工夫してる。  正直どころか、已に利益のある相手なら親切 にするが、已に利益のない相手なら、全然それ は親切なんてどっかの国の人の寝言のように考 えてるんですよ。  そうして、人生は生きてる時間が極めて短い ということは気がつかないでもって、朝から晩 までねえ、閻魔様が塩舐めたような顔して、 ちっとも愉快な気持ちを出しやしねえ。そんな にあれですぜ、変な顔してからに世の中暗く生 きてると、その内にぽか1つと気のついたとき に、もう再びこの世の中に出てこられない死の 墓場へ入っちまうんですよ。しかも、長く生き てられやしない。どんなにあなた方が頑張った ところで、百年と生きてられないという短い生 命。それも百年が百年、正味そのまま生きてら れりやいいけども、四分の一なり三分の一は寝 なきやならねえ。それでI遍死んじまうと再び 来られないの。いくら天風会の講習会へ来た いったってダメ。嘘と思ったら今から五十年 経って来てごらんなさい。もう私はいないから。 あんた方だって来られやしねえ。  そして現在ただ今、どんどんどんどん過去へ とスピードフルにリールは回ってるんだ。それ 考えてみたらば、すぐ怒ることがあるから怒る んだ、悲しいことがあるから悲しむんだ、怖れ ることは怖れるんだっていうようなことを言っ てたんじや、人生に極楽は来ないぜ。怒りや怖 れや悲しみに虐げられない心構えが必要じやな いんですか。たとえ、それが矢でも鉄砲でも 持って来いというほどの強気が出ないまでもさ、 人事世事に絡みつけられて、それに組み伏せら れるような弱い心でない人間で生きなきや。そ の生き方は、いよいよ明日から私教えるけどね。 それだけの心構えができたら、今日からでもし なさいよ。そうしてどんな場合があろうとも、 正直、親切、愉快を人間のモットーとし、人間 以外の他の動物にはこれだけの自覚ができない んですから。  そうして自己の生きてる世界には、他人がい ることを忘れちやいけない。それで他人がいる から自己が生きてられるんだ、ということも忘 れちやいけない。ただもう自己本位に自己本位 に生きることがいいと思つてる人、よく考えな さい。  それじゃあなた方、自分さえよけりやいいっ ていうんたったら、傍にいる奴はみんなね、あ なた方の要らない人間なら、ねえ、この傍に人 間のいないとこ連れてってあげるからって無人 島行ってごらん。無人島でいくらカネができて も、いくら別嬪でも、いくら学問があっても、 よしんばその無人島の王様になったって、たっ た一人じゃ、おもしろくもおかしくもなんとも ないでしよ。昔の歌に「箱根山、籠に乗る人、 担ぐ大、してまたその草鞋を作る大」という歌 があるけど、世の中は大、大、人の持ち合いた。  偉そうな顔して私かここでもっていろんなこ と言ったって、あなた方のようなお方々のお集 まりがあるから、申すのにも甲斐があろうとい うもの。誰もいないんだったら、ここでもって しやべりやしません。そうかといってあなた方 も、ここへ来て誰も出てこなかったらどうす る? こんな演壇を見てたってしようがねえ。 そうするとお互いに助け合いがこの世の中の本 来の姿だということがわかったらば、どんな場 合があろうとも、常にこれはもう正直、親切、 愉快を忘れないで、常に平和と愛を失わない。  愛というものはあなた方は、非常に偏頗な考 え方でもって用いてる場合のほうが多いだろ。 いや、それはクリスチャンでありながら、なお かつこの消息のわからない人がいやしないか。 仏教信者もいるだろうけども、すべてがみんな 宗教は愛か根本中心を成してる。あなた方は自 分の身内か、黙つてても愛を感じるものだけに は愛を捧げますが、そうして自分の心の中を静 かに自分自身を考えなさい。今、私の心の中の どっかに憎んでる人がいやしないか。嫉んでる 人がいやしないか、恨んでる人間がいやしない か。そういうものが少しでもあなた方の心の中 にたとえ一人でもいるような心を持つてる人は、 さもしい、卑しむべき下等な人だ。  今まで憎いと思っていた人間をも、本当に愛 せる人間にならなきや。憎い人間があろうはず がないもん。同じ時代に同じ生命をお互いが生 きて、それで相知り合いとなってる人間に憎む 相手があってたまりますか。それはあなた方の 心構えが、何となく憎らしいようなことだけを 考えてるからだ。知らない人間を憎みやしない だろ、あなた方。見たことも聞いたこともない 人間を恨んだり憎んだりしますか? 相手がわ からなきやどうにもしようがねえ。だいたいあ なた方憎んでる人間というのは、手近の知って る人間ばかり。「だってあの人間憎らしいんで すもん」つていうこと言ってるのは、向こうが 憎らしいんじやねえ。あなた方の心が憎んでる からだ。  どうぞ、時代はますます複雑に多端に、もっ ともっと住みにくい時代になるに決まっている のが、これはもう古今を通じてたとえどんな事 情があろうとも、戦いに敗れた国の経過しな きやならない当然の過程であります。  あなた方、ここ十年や二十年は、ありしその 昔のようなあの桃源郷の花の香に酔ったような 暮らしよい時代は来ない。そのときにだ、時代 がそうだからあなた方も頑なになるというの じゃ、万物の霊長たる人間と生まれた資格がな かろうじゃありませんか。他人はさもあらばあ れ、自分だけはどんなことがあろうとも始終、 磨き立ての真珠を薄絹に包んだような清らかな 心で生きてこうと。何のために自覚を与えられ、 何のために理性を与えられてあるかということ を考えられたとき、感情の虜になり、本能の奴 隷になることは、人間として一番の恥辱だとい うことぐらいのことは、何も特別の話聞かなく たっておわかりになるべきはずであります。  一村、一市、一国の繁栄は一番先に正しい自 覚をした先覚者によって、その基礎を固められ るというのは古今の例でありますから、ただ、 一席の講演を聞いて面白かった、おかしかった でもって、この貴重なチャンスを逃がさないよ うに。  自分をもっと一大飛躍的なプラスの人間にし ようと思し召したら、明日からのお集まりにど うぞお出でください。  ■和の精神  今日の私の話は、お互いの人生生活に基本的 に極めて大切な「平和」ということについてで あります。皆さんも既にご承知のとおり、平和 ということは、こんにちの世の中の正しい常識 を持つ者の人生スローガンになってるものであ ります。  しかし、こんにちの世の中の正しい常識を持 つ者の人生スローガンとなっている「平和」と いうことが、残念ながら事実はというと、この 人間相互の生活や、また組織の維持に極めて必 要な平和という大事なことがいまだもって、 人々の満足するほど完全に実現されていないと いう事情であるんであります。  そもそもこれはどういうわけでしょう。それ も、人間というものが平和を好まないで争いを のみ好むという、ちょうど野山に棲む鳥や獣と 同様のものなら、これはまあ何をか言わんやで す。けれども今七言つだとおり、正しい常識を 持つまともな人間ならば、誰でもがこの平和と いうことを、心の底から念願しているはずであ ります。それなのにです、それがなんとなかな か個人生活にも、また集団生活にも現実化され ないというのはどういうわけでしょう。  私は、これは結局、人々の一人ひとりの気持 ちの中に、人間として何よりも大切な「和の気 持ち」というものが欠けている、不足している からだと言わなきやならないと思うのでありま す。そもそもこの「和の気持ち」というのはど ういう気持ちかと言えば、これは多く言うまで もなくご存じのことと思いますが、「穏やかに 親しみ溶け合う」という気持ちです。穏やかに 親しみ溶け合うという気持ち、この気持ちが。 つまり平和ということを実際的に実現する、た だ一つの根本要素なのであります。  多く言うまでもありませんことで、世界とい い、国家といい、社会というのもです、煎じ詰 めれば、一人ひとりの人間の集まりからできた ものであります。ですから、お互い人間の一人 ひとりの心の中に、この今申し上げた和の気持 ち、すなわち、穏やかに親しみ溶け合うという 気持ちというものが欠けて不足すればです、ど んなに平和でありたいと念願しても、またそれ を声高くスローガンとして叫んでみてもです、 結局は、残念ながら空太鼓に終わることになる のであります。これはなんのことはない、土台 の不完全なところに堅固な建物は建てられない のと同様なのであるからであります。  ところがですよ、遺憾ながらこの重大な事実 が、平和を唱え平和を希望する人々に正しく気 がつかれていないという傾向がありやしません かしら? それは、この世の中にあるいろいろ の出来事を見てみると、それが何よりもよい実 例として参考になるのであります。そうで しょ? 例えば、のべつ繰り返されている政党 政派の間に生ずる政争の状態を見てみてもです。  あるいはまた、労使の問題にいざこざが生じ た場合などを傍から見てみると、もうただ自分 のほうの利益関係のみを重大視して、決して相 手方の気持ちを考えようとしない。したがって、 ちょいとでも譲り合おうとしないのであります。 ですからご覧なさい、なかなかもって容易に溶 け合わないのがいつもの状態でしょ?  しかし考えてみなきやならないのは、この点 じやないでしょうか。そうした公の問題ばかり でなく、個人の場合でもそうですよ。お互いの 心の中に和の気持ちという、すなわち親しみ穏 やかに溶け合おうという気持ちがあるならば、 その心の中から「思いやり」という階級の高い 尊い心持ちが出てきて、自分にだけ都合のよい ことを考えるというような自己本位という階級 の低い卑しい心は、自然とその階級の高い尊い 心持ちで抑制されるか、または中和されて、 さっきも申し上げた譲り合い、溶け合おうとい う気高い心持ちが出てくるのであります。  そして自然と文字どおり、和気藹々たる人間 の相互生活ができることになるんであります。 ところが、なんと情けないかなです。相当の理 知教養を受けている文化民族ともある者がです、 いざとなるとなかなかもって、てんから和の気 持ちなどという尊い人間のみの持ちうる気持ち を、少しも心の中に持たせないで、ただもう獣 同様、争わんがために争うという、浅ましい低 級な、悲しむべき感情のみをひたむきにむき出 して、溶け合いも譲り合いも全然しないという のは、現代人の多くの実際の有り様ではないで しょうか。ね? これじゃ、人生なんとしても 平和でありうるはずがありません。  いえいえ、ただ単に平和でありえないばかり じゃないのです。そうした気持ちが原因となっ て、いろいろと人生の不幸というものがですよ、 知らず知らずにその人の大生につくられてしま うという愚かな結果が来ることになる。  そして、実際において、これもまた多くの大 が気がついてないようですが、人生成功の秘訣 もまた、この和の気持ちに非常に関係があるの であります。すなわち、簡単に言うと、和の気 持ちがやはり成功の原動力となるからでありま す。  これは論より証拠でね、成功者を見てごらん なさい。いずれもその周囲と親しみ穏やかに溶 け合つていますから。周囲とのべつ争いを繰り 返して成功している人間なんていうものはいや しません。  さあ、そこでどうでしよう、あなた方は? 何か家庭的にあるいは一身上に出来事の生じた ときですな、それをまずもって和の気持ちで応 対しているでしょうか、あるいはそうでないで しょうか。  もちろん、私は信じます。あなた方は宇宙真 理に順応して、人生に生きるということを実行 してる天風会員である以上、なんにも知らずに ただ生きてるから生きてるという無知な人とは、 断然その点は違ってるということを、私は信じ てはいますけれども、しかし、あえて私か強く 言いたいのは、正しい理解はどこまでも徹底的 に実行するべきだということなんです。  ですから、平素、常に心身統一法の講習会の ときにも、折に触れ時に臨んで言つてる通り、 まず、何よりも必要なことは、日日の人生生活 を、どんな場合、またどんな事情があろうとき でも、常に和の気持ちで終始応接するというこ と。このことの実行を、より一層今日以後真剣 に徹底されたいのであります。  言い換えればですね、事の如何を問わず、事 情のなんたるを言わずです、断然自分の心に争 いの気持ちを起こさないことなんです。常に親 しみ穏やかに溶け合うという和の気持ちを心に 堅く持つこと。第二この争う気持ちというの は、厳格に言うと、自己の存在とその周囲関係 の貴重な因縁というものをないがしろにし、そ れを無視没却しているから起こる、極めて蔑む べき心持ちなのであります。  考えてみましよう。この大、大という多い人 の中で、なんと不思議なるかな、求めざるに親 子となり、兄弟姉妹となり夫婦となり、あるい は親族となり、あるいは親しく知り合う間柄に なるというこの事実を、これを不思議と思いま せんか? これを不思議と思わない大こそ不思 議なのであります。  考えてください。今も言ったとおり、これ求 めてできたものじゃないんであります。求めざ るにできたもの、すなわち、人間の理知では到 底解決のできない幽玄微妙な作用でありましよ う? だから、この不思議な作用でできてる因 縁というものを本当に重大に考えたなら、争う なんていう気持ちはこの幽玄微妙な因縁を破壊 するものなんですから、人間の気持ちに出よう はずはないんであります。  そして和の気持ちこそ、まこと天の摂理に順 応した尊い人間としての本当の気持ちなんです からな、これは。多く言うまでもなく、あなた 方が和の気持ちを心に持ったときと、その反対 の争いの気持ちを心に持ったときと、どっちか 本当に心持ちがいいかということを考えてみ りやすぐわかるでしよ?「争うことのほうが心 持ちがいい。和する気持ち、親しむ気持ちぐら い嫌な気持ちはない」なんていうような、間 違ったことを言う人はないはずであります。  第一、この和ということは宇宙摂理の本来の ものなの。もつと詳しく言うと、このお互いの 住む宇宙に存在する、いつも言うあの「進化」 と「向上」ですね、エボリューション {qO}三目)とエレベーション呈9肚目)とい うあの事実は、宇宙の完全融和を現実化さそう がため、つまり宇宙の全体を和でっくり上げよ うがために存在する事実なんで、宇宙の完全融 和を破壊せんがために存在する作用じゃないの であります。  ですから、お互い天風会員はますます真剣に、 この和の気持ちを常にお互いの心の中に堅く持 たせて、そして日日の実際生活を、その和の気 持ちで行なうということをまず自己が率先して 実行するよう心がけましよう。その心がけがや がて平和の実行者である要素をなすものである からであります。  ですからどうぞ、十分よくおわかりになって おられることとは信じてはおりますけれども、 なおより一層、さらにこの和の気持ちを豊かに 持つ大となられて、自己生活の基盤を完全にさ れるよう、常に心に心して、自分の心を統御な されることを、本当に心からお勧めする次第で あります。  そして、そういう大こそですよ、人の世の模 範になろうと思わなくとも模範となれてる大な んで。つまり、知らざるに自分に立派な指導者 としての資格ができてしまってる大なんであり ます。また、そういう大こそ、匸言一行、すべ てが人の世のためになることを言ったりしてい る大なんであります。  私か、かように切々として一生懸命、天風教 義を東奔西走、席あたたかな暇なきをも、心か ら喜んでお話しさせていただいておりますのも、 要するに、宇宙真理に順応して生きる本当の人 間を一人でも多く増やして、いわゆる本当の幸 福な人の世の中を現実につくりたいがためなん であります。  ですから、どうぞどうぞ、何度も何度も繰り 返して申し上げる。より一層のご努力を精進さ れて、完全に和の気持ちを豊かに持つ人となら れんことを、切に切に熱望する次第であります。  一波乱の人生に鹿島立つ  大事なのはこれからです。船はドックに人つ て、ドックに入りきりが船のこしらえられた目 的でない。荒海の航海に入るためへのリベアリ ング(修理)をするためのドックであります。  修練会も同じ意味で、修練会をするために諸 君の人生が与えられたんじやなく、要するに波 瀾万丈の人生に生きるときの強い力−精神 的・肉体的にこれを乗り越えていく力をつくり 上げるのが目的の修練会であっだのだから、い わば、今まさに今日という今日は、船がドック から出て新たな艤装を施して、そして荒海めが けて鹿島立とうとするのと同じで、本当の修練 はこれからなの。  ですから、どうか来る朝来る朝、今までの朝 と違って修練会の朝と同じような、日々に新た な自分の人生を建設する自分の修行が、自分の 人生に対する義務だと、こう心得られて、そし てどんな場合があっても、怯まず、怖れず、脅 かされず、健気な人生に生きていかなきやいけ ない。  いいかい? 誰でもが幸福になれる資格を与 えられ、誰でもが幸福に生きられる権利を与え られてある。それを今まで、その権利を発揮す ることも知らなきや、資格を本当につくり上げ ることも知らずに生きていたために、憐れ不幸 な病だとか運命に脅かされてた。  これからは、病が来ようが運命が悪くなろう がびくともしない。むしろ進んで「病よ来たれ。 不運よ来たれ」と喜んで迎えて、これを乗り越 えていくという絶倫の勇気ができたことを信じ ます。だから、どんな場合があっても、修練会 をやった人間は、病や運命に屈服されちゃいけ ない。  そりゃもう、何遍修練会をやったからとて、 全然病まない人間にはなれやしない。また、ど んな場合でも、よい運命ばかりが自分の人生に は来やしない。そんな自儘な勝手な希望という ものは貫徹できないんだから。こりゃもう、生 きゆく刹那刹那に油断も隙もできないほど、病 的刺激や運命的刺激がお互いの、広き意味にお ける生命の隙を狙ってるから。  いつも講習会で言ってるだろ。見えないあや かしの目は、黒いベールをかぶりながら、あな た方の心の隙、肉体の隙をじっと見てる。そし て隙があると、サツと遠慮なく、あなた方を彼 らの魔の手の中に掴み入れちまおうとしてるん だから。どんな場合があっても、これからは、 要するに心に隙を与えない、肉体に隙を与えな いという覚悟を、教わった方法で実行していく。  そして、人々への模範的な存在としての自分 を傷つけないように。ね? だから、どんな場 合があっても、自惚れは禁物だが、真理を知る 自分というものに対して、己の尊さを傷つける な。  今日一日の「誓いの言葉」にもあるとおり、 かりそめにも怒ったり、あるいは怖れたり悲し んだりするという惨めな状態を心に持たせたら ば、こりゃもう教えを傷つけ、そして真人とし ての自己の価値を裏切ったことになるよ。  いつも言うとおり、大義名分に関するかぎり は、泣くもよし、怒るもいい。しかし、区々た る私情に拘泥して、みだりに怒り、悲しみ、怖 れを心に持たせないように。いつも本当に、力 と勇気と信念というものを自分の生命の中から、 もう火花と散らし閃かせて生きていくというふ うに、どうぞお願いします。  残念ながら、勝ちを外国に譲ってから以後の 日本が、まったく思いもかけないほど上辺も中 身も腐りかかってる今日、天なるかな、諸君が 選ばれし人でこの真理を授けられて。そして今 まさに、全然今までとは違った武装が、精神生 命にも肉体生命にもできたんだから、それを手 本に、迷える人、泣いてる人、苦しんでる人に 救いの慈悲の手を差し伸べてやって、始終自分 の存在を光りあらしめられたいことを、本当に 心から世の中のためにお願いします。  これだけが、私のあなた方に、今まさに万丈 たる波乱の人生に鹿島立とうするあなた方の魂 に対して、天風が心の底からお餞する言葉であ ります。                    (完)   あとがき  本書は、天風先生が、ご生前に国内各地でご 講演なさった折りに録音を許された貴重なテー プの中から十三編ほど選んで、新たに章立てし たものです。五十年以上前の「話し言葉」を、 できるだけ現代風の「書き言葉」に改めたので 相当に読みやすいものになっているはずですが、 しかし、実際にお読みいただいた皆さんの読後 感としては、率直にいって、「必ずしも、判り やすくなっているとは言えない……」という戸 惑いに似た感想をお持ちの方が、少なからずい らっしゃるのではないかと懸念されますので、 その点について匸言触れさせていただきます。  天風先生の人生論は、いつも、先生ご自身の 「深いお悟り」から出発して展開されます。最 初にご講演の結論を明示なさいます。今流行り の言い方でいうならば、『出口からの論法』を 用いられます。聞き手に向かって、まず最初に 「お悟り」‥「出口」を明示する。そして、こ の「出口」に到達するためには、その手前(前 提条件)として○○○が必要だろう?しかも その○○○を用意するには、もう一つ手前の △△△が出来ていなきやいけないよネーもち ろん、それには、他人から理屈を聞いて、いく ら、「分かった!」とか、「理解した!」と いったところで、それだけでは、決して「でき た!」とは言えやしないだろう?(とおっしゃ りながら、ジロリと鋭い眼差しでコチラを見詰 めて……)「いくら分かったってネエ。自分で 実践しなくちや……一歩一歩自分の脚で歩かね ば『できたり』と言えないよね冫・・・・・・・到底無理 な話だよね冫・・・・・・・というふうに。  そのための、〈一歩一歩の歩き方〉、つまり 〈}(0w to do)を、説いてくださる……「オイ、 ここに確実な途があるぞ……」と、わたくした ち聞き手をお諭し下さるわけです。  しかも、お集まりの大勢の聞き手の気持ちが 〈一つになれるように〉誰にも分かりやすい例 え話を持ち出されるのです。  ……「秋においしい果物を食べたいとおもっ たら、夏に、小さな実への陽当たりが邪魔され ないように周りの葉っぱの手いれを怠らず…… もう一つ前に、春に立派な花を咲かせなきやい けないし、第一、良い種を蒔かなきやいけない だろう?種も蒔かずに、いきなり、おいしい 果物を食べたいといっても、そりゃ1無理と言 うものだよね!」……という具合に。  誰にでも判りやすい例え話を挙げながら問題 提起をして話をはじめて、次次と話の核心に導 いて下さる。そんな例をもう一つご紹介しま しよう。  天風先生は、人生を長途の航海に例えてお話 なさるのが得意でした。ある時の天風青年会の お集まりで「考えてみると、どうだろう。人生 というのは、大海原を越えて長途の航海をする ようなものだと、君は思わないかい?」「若い 君たちは、これから人生丸という名前の自分の 船に乗って、長途の航海に旅立つ船長だと言え るよ!」という風に……「長途の航海であれば、 どんなに綿密に計画を立て、どんなに周到に準 備し、しかもその上に安全祈願までしたとして もだヨ、航海の最後まで順風満帆の囗が続くと は言えないだろう」「避けようのない大嵐に遭 遇してしまい、君の船が、大波に呑み込まれた 一枚の木の葉のように航路を見失うことが起こ るかもしれない。そんな場面に遭遇しても、君 が熟練した船長として立派に船を港まで導くこ とができるようになるためには、船長たる君に 何か要求されているとおもうかナ?」「いった い、熟練した船長って、どんな人間だとおも う?」と、畳み掛けるように問いかけられる。  一呼吸入れて先生は、「熟練した船長とは、 つまり自己統御のできる人間のことだよ」と結 論を示される。それを聞いて「そうか’・」とお もってホッとする私たちを見ながら、「じゃ、 その自己統御とは、いったい何だい?」と切り 返して問い直される口  「自己統御できるというのは、判りやすく言え ば、随時随所で、自分の感情をコントロールで きるということだよ、つまり、そういう能力を 自ら鍛えることだよ」と、『出口』を示してか ら本論に入られる。  本論に人つて、感情のコントロールができる ようになるためには、大事な前提条件があり、 それは他でもない、確固たる人生観を確立する こと。そして、その人生観が確固としたものに なる程度に応じて、それが内的誘導力となって、 消極感情をコントロールできるような人間に なっていくのだと……。  ともすると、物質的な豊かさを求めて生きる ことに慣れてしまった今日の我々の生活態度と しては、物質的豊かさを生み出す原動力となっ た科学的な思考が、普遍的に正当なものたとい う態度で暮らすことに慣れている。ところが、 その科学的思考の論法は、基本的に、因果論で すから、原因から辿って結果を説明する論法で 成立しているわけです。つまり「入り目」から 入って、どこに「出口」があるかと、手探りし て探そうとする方法です。逆方向です。  問題は、そういう生活に慣れた人が、突然、 病や不運に見舞われて救いを求めるようによう やく辿り着いた「入口」として天風哲学に飛び 込んだ場合に、どうなるかです。それも、天風 先生の説かれる心身統一法を、力づくで読破し ようとすると、天風先生の説かれる〈How to do)を、逆方向に追つかけることになるはずで、 ついつい、肝心の実践をすつ飛ばして読み進む ことになり兼ねないわけです。  つまり、天風先生が「心身統一法に入門はな い。だから、決して名文句に酔うなよ」と言い 切られるそのお言葉に、うっかりすると「蒔か ぬ種は生えぬ」という名句が警句として篭めら れているのを取り違える可能性があると言うべ きじやないでしょうか。  公益財団法人天風会 教務委員会委員長 御                 橋広眞 本書は弊社が刊行する『CD真人生の創造』 を再編集し書籍化したものです。 本文中、現代の観点からは適切と思われない箇 所がありますが、講演が行われた時代背景、当 時の学説等にかんがみ、原文(講演)のまま用 いたことをお断りしておきます。  [著者紹介] 中村天風(なかむら てんぷう) 1876年(明治9年)7月30日、東京府豊島 郡(現東京都北区王子)で生まれる。本名、中 村三郎。1904年(明治37年)、日露戦争の 軍事探偵として満洲で活躍。帰国後、当時死病 であった奔馬性肺結核を発病したことから人生 を深く考え、真理を求めて欧米を遍歴する。そ の帰路、ヒマラヤの麓でヨガの聖者カリアッパ 師の指導を受け、病を克服。 帰国後は実業界で活躍するも、1919年(大 正8年)、突如感ずるところがあり、社会的地 位、財産を放棄し、「心身統一法」として、真 に生きがいのある人生を活きるための実践哲学 についての講演活動を始める。同年、「統一哲 医学会」を創設。政財界の有力者をはじめ数多 くの人々の支持を受け、天風哲学として広く世 間に認められるようになる。1940年(昭和 15年)、統一哲医学会を天風会と改称。 1962年(昭和37年)、財団法人の設立許可 を受ける。2011年(平成23年)、公益財団 法人へ移行。 1968年(昭和43年)12月1囗逝去、享年92。 著書『真人生の探究』『研心抄』『錬身抄』(以 上、天風会)他。 公益財団法人天風会 cR」:http:/ywww.tempukai.or.jp 真人生の創造 −中村天風講演録 著 者一中村天風 ○公益財団法人天風会 この電子書籍は『真人生の創造』二〇一五年四 月一日第一版第一刷発行を底本としています。 電子書籍版 発行者一清水卓智     発行所一株式会社PHP研究所     東京都江東区豊洲五丁目六番五二号     〒←UJ&}Uり     ぼ{ミWWW.DhD.CO..へqFR 製作日一二〇一七年二月十日