自分を鍛える!_ジョン・トッド 訳者序文   −今、読んでおくと必ず「得     をする」本                 渡部昇一  すぐれた「修養書」が生まれる時期というのは、 ある特定の時代に限られているように思われる。ギ リシアのある時代、ローマのある時代、イギリスの ある時代−そして、この本の著者ジョンートッド が活躍した頃のアメリカが、まさにその選ばれた時 代といえる。  さて、ドットは、今から約200年前、アメリカ のニューイングランドに生まれた。そこで主に青年 向けの修養書を数多く書き、それらは高い評価を得 て、実際に多くの人に読まれた。  その頃のアメリカ、特にニューイングランドは、 たとえば後に札幌農学校で「少年よ、大志を抱け」 と言って有為の青年を鼓舞したクラーク博士と相通 ずる精神的干不ルギーに満ち満ちた土地であり、か つ時代であった。つまり、新しい希望に満ちた国と して伸びようとしている進取の気分と、宗教的・道 徳的に不動の信念がいちばん支配的だった土壌の中 で本書は書かれたのだ。  当時、このドットの本によって、多くの有能な人 が自らを鍛える術を知り、社会で活躍したのである。 〔先人の。いいところ”を学ぶI  それが一番簡単な自己実現法  ドットの勉強法および健康法など、自分の鍛え 方・磨き方で面白いのは、前述したように、それが 一番いい時代のアメリカのいいところが表現されて いる点である。  ニューイングランドを開発し、そこにハーバード 大学やイェール大学やプリンストン大学を建てて、 そこで人材をつくった頃の人たちの気力、生活の送 り方というものには、さすがと思えるよさがある。  きわめて深い哲学的な思考をも示した、アメリカ の心理学者エイブラハムーマズローの言葉で、私か いつも思い出すものにこういう話がある。それはマ ズローが観察したニワトリの話である。  彼の観察によると、多くのヒナを飼った場合、あ るニワトリは他のニワトリに比べてきわだって大き くなる。どういうニワトリがきわだって大きくなる かとよく観察してみると、エサの食べ方が他のニワ トリよりも合理的なニワトリである。だから逆に、 そのきわだって大きくなるニワトリの食べているも のを綿密に調べて、それと同じものを他のニワトリ にも食べさせるようにすると、他のニワトリも大き くなるという。  これは、きわめて示唆に富む観察である。という のは、手本がよくて、それをまねると、ニワトリで も体の大きさが変わるぐらい影響を受けるというこ となのである。  日本人は敗戦後、アメリカ人のような体格を持ち たいと思い、食べ物の種類を変えた。その結果、少 なくとも平均身長などにおいては、われわれの祖父 母の世代に比べて見違えるほど大きくなった。背の 大きくなること自体がよいか悪いかは別として、こ れは背の高い人間と同じものを食べれば同じように 大きくなるということを示すものである。  それならば、宗教の自由を求めて新大陸に渡り、 そこに新しい文明をつくろうとした人たちの知力の 鍛練の仕方や健康保持法の実例を見せてもらって参 考にすることは、ハーバードやイェールやプリンス トンを建てた頃の人だちと同じ精神的干不ルギーと 活力を得る一つの方法なのではないかと思う。  価値あるものは常に価値がある。アメリカの土地 に新文明をつくった人たちの勉強の仕方、しかも ドットのように恵まれない幼少期や病身を見事に克 服して干不ルギーにあふれた活動をし、長寿をまっ とうした人間の生き方、ゆるぎなき人生観などは、 依然として読者に対して貴重な示唆を与えてくれる ものだと思うのである。  本書は、ロンドンだけでも15万部売られたが、こ の数字はその約25年後に出た、かの世紀のベストセ ラー、サミュエルースマイルズの『自助論』 (1859)の最初の三十数年分の出版部数にも匹 敵する、驚異的な数字といわねばならない。  今読み返してみても、囗本の学生やビジネスマン をはじめ、前向きに、賢明に人生を生きたい人が自 らを鍛えるにあたって、やはり最良の本だろう。今 囗のわれわれにとって、きわめて重要かつ有用な具 体的教訓を含んでいると思われる。  「充実した人生」を希求する人の価値ある座右の書 として、ぜひ、おすすめしたい。 〔自分という大理石に、どう。のみ”  を入れるか  この本を読んでいる読者の多くは、程度の差こそ あれ、自分はより有能な人間になりたいという願望 を抱いていることだろう。  ただ、実際いかにしたらよいか、その最善の方法 がわからない。  人生というのは誘惑や危険でいっぱいである。や やもすると勇気はくじけてしまう。そして心は、希 望と不安、決断と落胆の間を揺れ動いている。  誰でもいいから話を聞いてみたまえ。どんなに抜 きん出た学識の持ち主でも、勤勉そのものの人でも、 あるいは自らの知識をうまく応用する才のある人で あっても、過去を振り返って、ため息まじりに言う ことだろう。  これまで、なんと多くの時間を無駄にしてしまっ たことか、二度と再びめぐってこないチャンスを、 なんと多くむざむざつぶしてしまったことか、と。  自分の思った通りに、あるいは然るべき通りに、 完全にものごとを成し遂げられるという者はまずい ないだろう。それは、一つには、われわれが必要な 経験を身につけるには膨大な時間がかかるからだ。  私自身を振り返ってみても、ある時は道を間違え、 ある時は選択を誤った。ある時は絶好のチャンスを 逃し、ある時は悪しき習慣に染まった。偏見にとら われたこともある。やりなおせるものなら、現在身 につけているこの経験をもとに、もう一度人生をや りなおしてみたいものだと、つくづく嘆息している しだいである。  もしめぐりめぐってきたチャンスをしっかりとつ かんで自分のものとし、きれぎれの時間も無駄にせ ず利用していたら、自分の研究を新しい分野にまで おしひろげ、不朽の名声を博したベーコンのように、 膨大な量の知識を蓄積していたかもしれない。  すでに過去の人となった偉人たちは、われわれへ の遺産として「知識」という宝物を残してくれた。 しかし、その中でも最も貴重な知識は、金塊同様、 自らの手で掘り出さなければ手に入れることはでき ないのだ。  われわれの頭脳は大理石の石柱みたいなものだ。 美しい彫像を彫りだすには、そこに。のみ”が入れ られなければ存在することのないものなのだ。  あらゆる人間の頭脳が生まれつき同質かどうかと いう問題は別として、誰しも生まれつき何か一つは 抜きん出た才能をそなえているのではないか。  あなたは、数学においては、あるいは作家や演説 家としては秀でていないかもしれない。しかし、あ なた方の一人ひとりには何らかの分野で秀でる能力 があり、素直に自分自身の力を引き出せば、必ず伸 びることができると、私は心から信じている。  一所懸命に学ぶ目的とは、自分の頭脳がことさら 人よりもすぐれていることを発見するためでなく、 その頭脳を活発に、しかも明確に役立つようにする ことである。  天才の誉れほど若者が憧れるものはない。しかも、 たゆまぬ努力や掘り下げた研究を行なうのに忍耐力 がいらず、何の苦もなくできるところが天才の特性 だと思っている者が少なくない。  ところが、たとえばアイザックーニュートンのよ うな真の天才は、自分と他人の知力の大きな、そし て唯一の違いは、自分にはより強い忍耐力があるだ けのことだ、と言っている。  あなたにはすぐれた頭脳と健全な判断力、生き生 きとした想像力や幅広くものを見たり考えたりする 力があるかもしれない。しかし、確信を持って言う のだが、あなたは恐らく天才ではあるまい。した がって、ひたすら努力することをせずして、けっし て人より抜きん出ることはできないのだ。 〔〃ささやかな努力”のとてつもな  い力  あなたが今後、手に入れるものは、すべて努力 −懸命なたゆまぬ努力−の成果であるはずだ。  あなたには、励ましてくれる友人や助けとなる書 物、そして師がいる。  他にもさまざまな援助がある。しかし、自分の知 力を鍛え養っていくのは、結局あなた自身でなけれ ばならない。誰も、あなたに代わってこれをやって はくれない。そして、この世で価値のあるものには 何であれ、すべて努力という対価が支払われている のだ。  真にすぐれたものには、必ず辛抱強い研究がつき ものである。頭脳を鍛えることも、広く知識を身に つけることもなく、何かの偶然で世の中にのしあ がったような人物は、一時的にあやしげな光を発し ただけのことである。  とにかく、われわれがものを手に入れるには必ず 努力をせねばならないのであり、いやしくも自分が 所有したり他人に提供したりする価値のあるものに は、すべて努力という対価が必要なのだ。この事実 には、いっさい例外はない。  太平洋を美しく飾っている島々を上空から見ると、 いまだ罪を知らぬエデンの園がいくつも集まってい るかのように見える。しかし、それらの島々は、小 さなサンゴ虫が1粒1粒堆積してうずたかく盛り上 がり、海底からそびえ上がるまでになったものだと 言われている。  人間の努力というのも、まさにこうしたものなの だ。人間の偉大な業績というのは、ささやかな、し かし継続した努力の賜物なのである。 〔使えば使うほど回転がよくなる  Iそれが頭脳というものだ  世の中に影響を及ぼす偉大なる道具、それは頭脳 である。そして、頭脳ほど訓練し使用することに よって、決定的に、しかも絶えず進歩する道具は他 にない。  自分の能力を一時にすべて使うのはまずいことだ とでも思っているらしい人が大勢いる。力は一大事 のときに備えて、たくわえておかねばならないとい うわけだIちょうど馬を、ふだんはゆっくりと注 意深く走らせるが、火急の際は拍車をかけるのと同 じように。  なるほど、もし頭脳が馬の筋肉や骨のようなもの だとすれば、これはもっともなことかもしれない。  弓は張り過ぎても折れてしまわないように、半分 だけたわむようにできている。しかし、あなたには そんな心配は無用だ。  さっそく今日にでも頭を極限まで働かせ、その能 力を最大限に活用してみたまえ。そのほうがあなた にとっていいことなのだ。そうすれば、頭はますま す活発に働くようになるだろう。  明日もまたそれをやってみる。回を重ねるごとに 頭はあなたの求めに応じて一段とすばやく反応する ようになるだろう。頭脳は、時々まとめて働かすよ り、常に働かすほうが本当の意味の鍛練になること を忘れないでもらいたい。  もし徹底的に頭脳を鍛え抜きたいと思うなら、勉 強中の数時間は休みなしに頭脳を使うことだ。徹底 的に鍛え抜かれた頭脳というのは、ふとしたはずみ で調子よく働いたり、大きな能力を発揮したりする 頭脳ではなく、一定の時間があれば必ず一定の成果 を引き出す態勢が常に整っている頭脳のことである。  アイザックーニュートンの頭脳のすぐれていた点 は、まさにこの点である。  刺激がないと働かないような頭脳の持ち主は、何 をするにしてもその刺激を待っていなければならず、 生涯ほとんど何一つ達成することはできない。 〔自分の「預金」以上の能力を引き  出そうとしていないか  自分自身を知ることもまた、一つの重要な勉学で ある。  世の中には長い知的訓練を経ないで高い地位まで のしあがり、その地位を保ち続けた人も何人かいる。 しかし、繰り返し、正確に他人から自己の能力を評 価されていないと、知識をひけらかすうぬぼれ屋に なりかねない。  自分にはいったい何ができないのかを心得ている ことは、できることを心得ていることと同様、きわ めて大切なことである。他人の知性にふれることに よって自分の知性が磨かれたり、頭脳がいっそう明 晰になったりするだけでなく、思考力が鍛えられ、 自分の能力に関して謙虚になれるのである。  ところで人は、なぜ自分自身を正確に知る必要が あるのだろうか。  自己を過大評価するとどうなるか。私の答えは、 たとえていえば、預金以上の金額を引き出そうとし ても、ふつうは絶対にできない、ということだ。  誰の心にも少なからず虚栄心があるし、他人の価 値に関しては、どうしても認めざるを得ない最小限 の価値しか認めようとしないものだ。したがって、 あなたがもし自分の学識や価値を過大評価している 連中の中に名を連ねだりすれば、あなたの価値にけ ちがつけられ、不愉快な思いをさせられることにな る。  同じ学識の持ち主なら、謙虚な人のほうが、生意 気な人間よりも、同胞からはるかに思いやりや善意 を受けやすいものである。その謙虚さがゆるぎない ものであるためには、それは正しい自己認識に基づ いていなければならない。そして、これこそ勉学の 成果であろう。 〔先人の知恵に自分の知恵を重ねる  こよ  ’V’l  われわれは、ややもすると「記憶力」を馬鹿にし がちである。「理解力」のほうが能力として上だ、 ととらえるからだ。  しかし、記憶力はすこぶる重要なものであり、軽 んずるべきではない。というのは、記憶力のおかげ で驚嘆するようなことが成し遂げられることがある からである。  一つひとつの言葉はともかく、自分の読んだ本の 内容や思想をしっかりと把握し脳裏に刻み込む記憶 力と、比較検討する判断力を持っている人物が、頭 角をあらわさないということはまずあり得ない。  記憶力がよすぎると、独創的なアイデアを生み出 すきっかけや能力が駄目にされやしまいかと恐れる あまり、記憶力を伸ばすことに危惧を抱く人が大勢 いる。借りものの発想しかできなくなるのではない かと恐れるのである。  しかし、私にはさほど恐るるに足る危険はないよ うに思われる。なぜならば、すぐれた記憶力を持つ ことに危惧を抱いているような人間で、うらやむべ き独創性を持っているような人間は見あたらないか らである。  多くの先達によって書物の中につづられている膨 大な量の思想や観察、経験も、もしわれわれがそれ らを踏み台として利用し、高い地点に立ち、知識の 限界や領域をさらに拡大していくのでなければ、 いったい何の意味があるだろうか。  それに、われわれの住んでいるような暗い世界で は、たとえ借りものの光にすぎなくても、とにかく 光を投げかけてくれる惑星が姿を見せてくれるとい うことは実にありかたいことではないだろうか。何 だかんだといっても、一人の人間の頭に浮かぶ独創 的なアイデアというのは、思ったよりずっと少ない ものなのである。  若い時の読書には、心が躍るような新鮮さがある ことを知らない者はいまい。若者にとって世界は未 知のことでいっぱいである。真新しく魅惑的な大地 へ足を踏み入れているのだ。  分別盛りの年齢に達した人間が、若い頃のように 新鮮な感動を持って本を読めたらなあ、とつぶやく のを耳にしたことがある。どうしてそうできないの だろうか。それは、新しく手にとる本がもはや新し くないからである。すでに同じ考えや似たような考 えを何度も目にしてきたし、それに、それぞれの本 が次に読む本の独創性を減じてしまうからである。  では、最初に思っていたほど多くの独創性が人間 にも書物にもないのであれば、人から人へと知識を 伝えていく手段である記憶力は、きわめて大切なも のであるということになる。記憶力を伸ばすことも、 はなはだ重要だということになる。ここでこの点に ふれたのは、今その具体的な方法を示すためではな く、ただその計り知れない重要性を述べておきだ かったからである。  以上、述べてきたことからおわかりいただけるだ ろうが、勉学の目的は、あらゆる面において頭脳を 鍛えることである。道具のありかを知り、その利用 の仕方を知ることである。  われわれの頭にある知識の量は、膨大である必要 はない。いかにすぐれたポンプでも、もしそれが尽 きることなく水の湧く水源に達していなければ、あ るいはカラになってもすぐにいっぱいにする装置が 備わっていなければ、たちまち使いものにならなく なってしまう。それと同じことだ。  たとえ今持っている知識が蒸発してしまったとし ても、それは海からのぼる水蒸気のように、他の経 路からきっとまた勤勉な人間のもとに戻ってくるは ずである。 「」れが「第二の天性」になればし  めたもの  人となりというのは、その人が身につけているも ろもろの「習慣」のことであるといえるかもしれな い。「人間とはすなわち、いろいろな習慣のかたま りである」といってもよさそうだ。  習慣というのは、簡単に身についてしまう。特に 悪い習慣ほど、そうである。今日たいしたことでも ないと思っていたことが、たちまち固定化され、太 綱のような力でがんじがらめにしばられてしまう。  ご承知のように、太綱というのは1本ずつ細い糸 をより合わせてつくるのだが、いったんできあがれ ば、堂々たる船でさえ引き寄せ、思いのままに引き 同すことができるのである。  ある種の習慣は、若いときに身についてしまうも のだ。まず、時間の使い方や仕事の仕方、考え方や 感情に、ある特定のパターンが生ずるようになる。 すると、良くも悪くも、それはやがてその人の一部、 いわゆる第二の天性になってしまうのだ。  住み慣れた家の古ぼけた暖炉の前のある決まった 場所に、60年間いつも座を占めてきた老人が、その 場を移されたら嘆き悲しむであろうことは容易に察 しがつく。  人間、40歳にもなれば、自ら悔やんだり、他人か らの評価を落とさせるような習慣をいくつか持って いるものである。断ち切ろうにも、それらの習慣が 自分のすべてとなるほど深く身にしみついていて、 断ち切れないのだ。少なくともそうしようとする気 力を失くしている。  だから、できるだけ若いうちに、ぜひよい習慣を 身につけていただきたい。心から、そう願っている。 しかし、中年から新しい習慣を身につけることも、 もちろん重要なことである。  ただし、私か望むのは、「正しい」習慣である。 それによって刻一刻、一日一日がより快適に、より 意義深くなるような習慣を身につけてほしいという ことである。  もし職人が、これから選ぶ斧を一生使うのだと言 われれば、彼は手頃で丈夫なものを慎重に選ぶであ ろう。あるいは、もし一生同じ服を着なければなら ないと言われれば、材質や型の選択にあれこれ気を 配るのではあるまいか。  しかし、これら慎重を期すべきことも、精神活動 の習慣を選ぶのに比べれば、たいしたことではない。 自分の魂を他人の習慣にゆだねて何か立派なことが やれないものかと期待するのは、囚人の着るような 拘束服に身を包んで、すんなり気持ちよく、てきぱ きと体を動かせないものかと期待するようなもので 〔まずは「同じ仕事」を「同じ時間」  にひたすら繰り返してみよ  どんなことにせよ、好ましい習慣を身につけられ るかどうかを案ずる必要はない。必ず身につけられ るからである。  しかも、はじめに思っていたよりはずっとたやす く身につけられる。同じこと、同じ仕事を、毎日同 じ時間に繰り返すようにするのである。そうすると、 それは間もなく楽にやれるようになる。  はじめのうちは、どんなに面倒くさいものでもか まわない。どんなに面倒くさくても、ただひたすら 毎日、例外なく規則的に繰り返していれば、間違い なく楽しいものになる。  すべて習慣とは、このようにして形成されていく ものである。あなたが9時間も10時間も机に向かっ て平気で勉強することができたとしても、運動の習 慣しか身につけていない人間が同じことをやろうと したら、そうは簡単にいかないだろう。  だが、不可能ではない。  かつて私は、ある男がごちそうのいっぱい並べら れたテーブルについたとき、他の食べ物には手をつ けないで船員用のクラッカーをおいしそうに食べる のを見たことがある。この男の場合、健康上、やむ なくそうした生活を強いられたのであるが、ついに はこの節食が楽しい習慣になってしまったのである。 しかし、こうなる以前は、この男は美食家として知 られた男だったのである。  あなた方にとって望ましいと思う習慣をあげ、ま た、どうやってそれらを身につけたらよいか、その 具体的な方策を次に示してみたいと思う。 〔よく練った計画であれば大騒ぎせ  ずとも粛々とはかどる  計画は、前の晩にじっくり練っておき、朝起きて もう一度確認したら、すぐに実行に移さなければな らない。  前もって計画を立てておくことで、そうしない場 合よりも、驚くほど多くのことが一日で成し遂げら れるのである(人生は何よりも一日一日の積み重ね なのだ)。これはあらゆることについていえる。  私も自分の経験から、計画を立てなかった日は、 立てた囗の半分ぐらいしか満足に事が運ばないこと を知っている。やり方に最大の注意を払ったときに 最大の成果があがるということは、誰もが経験して いるところである。  このように、計画を立ててやれば、仕事というの は大騒ぎせずとも粛々とはかどるものである。満々 たる水を海へ運ぶ川ほど、流れは深く静かなものだ。  はじめは自分が計画しただけのことがやれなくて、 がっかりするかもしれない。しかし、囗を追うにつ れてだんだんと多くのことができるようになり、そ のうちに、こんなにやれるものなのか、と自分でも びっくりするようになることだろう。 〔「勤勉」こそが立派な仕事を成し  遂げる  不幸にも、あなたが自分の才能について一人で決 め込み、「待てば海路の日和あり」と考えているの なら、そんな心得違いはさっさとやめたほうがよい。 勤勉という代償を払わずには何も得られないと肝に 銘じ、すぐに努力し始めなさい。大きな成果を期待 せず、こつこつと努力を積み重ねていくことが、立 派な仕事を成し遂げるための何よりも確実な第一歩 なのだ。  努力そのものによって成し遂げられた業績には、 実際、目をみはるものがある。昔の人は驚くほど分 厚い書物をよく書いたが、その秘訣は何よりも「勤 勉」にある。  二日3時間せっせと歩けば、7年間で地球をひと まわり歩いたことになる」  われわれにとって、怠惰ほど有害で致命的な習慣 はない。にもかかわらず、これほど身につきやすく、 断ち難い習慣もない。怠け者はだんだん尻が重くな る。  怠け者に誰より同調できるのは、一番の怠け者だ ろう。なぜなら、狂人にしかわからない狂気の楽し さがあるといわれるように、怠け者にしかわからな い怠け者の快楽が必ずあるに違いないからである。 〔「勤勉な人」ほど疲れない、あせ  らない!  勤勉な人のほうがかえって時間に余裕を持ってい るというのは、まぎれもない事実である。時間を きっちりと割りふって、それぞれの時間にやること を決めておくので、仕事が片づけば暇な時間ができ るからである。  それに引き換え、怠惰な人間の生活は、活気のな い、よどんだような生活である。  川の水もゆったりとしすぎて全然流れないより、 幅は狭くとも勢いよく流れていたほうがいい。誰 だって、ないだ海に何週間も帆船をつなぎ止めてお くより、たとえ嵐でも強風を帆に受けて沖へ乗り出 したくなるだろう。  ルキウスーアンナエウスーセネカ(前1−65。古 代ローマの政治家で、ストア派の哲学者、詩人)は友人 に宛てた手紙の中で「何も書かなかったり、すぐれ た本を読み概要をまとめなかった日は、一日たりと もない」と言いきっている。  人より抜きん出ようとするなら、まず努力を惜し んではならないというのは、昔から衆目の一致する ところだからこそ、怠惰な人間は「フール(道化 役)」ならざる「フール(本物の愚か者)」と呼ばれ てきたのである。計画を立てて勤勉に努力をしない と、あっという間に多くの時間が流れ去り、いずれ はそれに気がついて愕然とすることになる。  すぐれた人物であったサミユエルーラザフオード (1600−61.スコットランドの神学者)は、次の ようであったといわれている。  「彼は疲れを知らぬ勤勉さで、常に祈り、常に説教 をし、常に教義問答を教え、また病める人の家々を 訪れては励ましの言葉をかけた。学校では、まるで 隠居でもした大物のように、あらん限りの時間を割 いて学生や若い大に学問を教え、聖職者への道を説 き明かした。さらにそのうえに、終日書斎に引き込 もっている大に負けないぐらい多くの執筆も行なっ た」  たとえばあなたが仕事や勉強の立派な計画を立て たり、日課の予定を立て、それらをこと細かく1枚 の紙に書き込むことは、造作ないことだ。しかし、 それを机上のことにせず実行に移すのは容易なこと でない。逐一計画した通りにはなかなか実行できな いので、辛抱強く努力することをすぐにあきらめて しまう。  ルターが旅をし、精力的に活動していながら、そ の間に聖書の完訳を成し遂げたというのは、ヨー ロツパの人々にとってまさに驚異であった。しかし、 それは要するに、ルターが断固たる決意のもとに毎 日一歩一歩自らの計画を実行していった、まさにそ の成果にほかならない。  ルター自身、この点に関する質問に答えて次のよ うに言っている、「1節も訳さない日は、一日もな い」と。こうした勤勉さがあったからこそ、数年の うちに聖書を完訳することができたのである。  すぐれた諺が二つある。一つはトルコの、もう一 つはスペインの諺なのだが、両方とも実によく的を 射ている。  「多忙な人間は一人の悪魔にわずらわされ、怠け者 は1000人の悪魔にわずらわされる」  「人は悪魔に誘惑されるものだが、怠け者は自分の ほうから悪魔を誘惑する」  堕落したつきあいや悪への誘惑、人格をそこね、 友情をこわすような危機は無数にあるが、毎日断固 (乱ご努力する習慣があれば、これらは避けられる 〔「明日でいいだろう」−この積  み重ねほど恐ろしいものはない  私のいう忍耐力とは、同じ課題を、毎週同じ計画 にしたがって、じっくりと着実に進めていくことで ある。  誰かがある計画を立派に成し遂げたと読んだり聞 いたりするとすぐに、よし、自分もそれをやってみ よう、と決心する人がいる。よく検討もせずにそう いった計画をとりいれ、それを自慢げに吹聴したか と思うと、もう2、3日後には他のことに心を奪わ れて投げ出してしまう。  かの偉人はこうやった、ああやった、だから自分 もやってみよう、というのでは意気込みだけで終 わってしまう。面倒になってくると、他の新しい習 慣同様、さっさと投げ出してしまう。  二つのうち、どちらを先にやろうかと絶えず迷っ ている人間は、どちらもやらずに終わるものだ。決 心はしたものの、友人の反対意見を聞くたびに自分 の決意がぐらつく人間−一つの意見から他の意見 へ、ある計画から別の計画へとふらふらし、まるで 気まぐれなそよ風が吹くたびにくるくると向きを変 える風見鶏のように、自分の進路を変える人間− こんな人間はけっして何一つ立派にやり遂げること はできない。進歩するどころか、せいぜい現状維持 がいいところで、むしろ後退する場合のほうが多い。  何事にせよ頭角をあらわす人物というのは、最初 に慎重に検討を重ね、それからしっかりと決意を固 めるや、断固たる忍耐心を持っておのれの目標に邁 進し、脆弱な精神力の持ち主ならくじけてしまうよ うなちょっとした難問にも、少しも動揺しない人間 だけである。  何よりもまずいのは、優柔不断が習慣になってし まうことである。そうなると、せっかくの有望な未 来も台なしになってしまう。  とんでもない話である。自分の進む道は慎重に、 しかもきっぱりと選ぶことである。そしていったん 選んだら、何か何でもそれに食らいついて離れない ことだ。  今日できることを明日に延ばすのが習慣になると、 せっかくの将来性あるすぐれた計画を台なしにして しまう危険がある。  「あの手紙の返事は明日書けばいい。あの友人の頼 み事は明日聞いてやればいいさ。そうしたって、彼 が敗北するわけでもあるまい」  なるほど。だが、あなたは敗北者となる。  なぜなら、そういった一つの誘惑に負けるという のは、すべての要塞を敵方に明け渡す導火線に他な らないからだ。  根気強く、1分1秒を充実させる、それも計画に そって充実させていくことが必要である。前もって 立てた計画通りに過ごした充実した一日は、無計画 に過ごした1週間分にも相当するのだ。 〔「時間厳守」には2倍の。得と満  足”がついてまわる  全然時間を守らないで生きている人はいないだろ うが、それでも然るべくきちんと時間を守れる人は 少ない。何をやるにしても、少しばかり遅れるほう がはるかに簡単だからだ。  時間をきちんと守る性格を身につけるのは、容易 なことでない。しかし、時間をきちんと守る性格は、 あなた自身にとっても、また世の中にとっても、す こぶる重要である。時間を守る人はそうでない人の 2倍のことを、しかも2倍も楽に行なうことができ、 自分に、また他人にも、2倍の満足を与えることが できる。  誰しも生まれつき、あるいは習慣的に、たいへん 不精になってしまっているので、間違いなくきちん と時間を守る人に出会うと、なんという僥倖かと感 激する。そういう人物を頼りにしたくなる。どんな 代償をなげうってでも、その人物をスタッフとして 迎えたくなるものである。  人によっては、時間厳守の習慣を身につけると平 凡な人間になってしまいはしないかと恐れている。 偉大な精神の持ち主が抱く大望としてはあまりに ちっぽけなものだし、並みはずれた人徳をそなえた 人間が心をくだくようなことではないのではないか、 と考えているらしい。  それでは、ブラックストンは月並みな人間だった というのだろうか。ブラックストンは他にこれと いった取り得がなかったから、時間を守るように努 めたというのか。彼は例の名講義を行なうときです ら、1分たりとも聴講生を待たせることはなかった そうだが、だからといって、そうした彼の性格が彼 を駄目にしているなどと考える者はいまい。  われわれはふだんの日常生活の中では、ややもす ると時間を守らないことのほうが多い。  「もう間に合わないな。まあ1回ぐらいはいいだろ う。今日は計画したことを時間通りにやれなかった けれど、今日限りの1回だけのことなんだから」  これはやるべきことを先延ばしにする際の言い訳 にすぎない。  何事にせよ、時間を厳守することである。  朝、何時に起きると決めたら、ぴったりその時間 に起床しなければならない。朝食前にやると決めた ことは必ずやりなさい。  集まりや集会に出席する際には、時間通りにその 場にあらわれること。  いろいろな会合に出席する場合、特に他にやるこ とがあるときなど、どうしてもぐずぐずしてなかな か腰が上がらないものだ。  やることが二つあって、一つはやらなければなら ないことで、もう一つはどうしてもやりたいことで あった場合、迷わず前者からとりかかることだ。こ の鉄則を忘れると、やるべきことを時間内に片づけ ることは、まずできはしない。 〔朝の遅い人間で志を叶えた者はI  人もいない’・  早起きを習慣としなかった人で長生きした人は少 なく、まして有名になった人となるとさらに少ない。 起きるのが遅くなると、当然仕事にとりかかるのも 遅くなり、結局、その日全体が狂ってしまう。  ペンジヤミンーフランクリン(1706−90.ア メリカ合衆国の政治家、著述家、物理学者。〃アメリカ建 国の父”とされる)は言っている。「寝坊しがちな人 間は、一日中あたふたし、夜になってもまだ仕事が 山積みになっている」。 『ガリヴァー旅行記』の著者スウィフトは、「朝寝 をする人間でひとかどの人物になった者などI人も いない」と断言している。  現代はいろいろな点で堕落しているが、寝坊がそ の最たるものであることは、他の堕落とともに、歴 史が証明してくれるものと思う。  ジョルジュ=ルイールクレールードービュフオン (1707−88.フランスの博物学者)は自分の著作 活動を振り返って、次のように語っている。  「若い頃、私は寝ることが大好きだった。そのため 時間をずいぶん無駄にした。しかし、召使いのジョ ウゼフが一所懸命やってくれたおかげで、私は寝坊 を克服できた。  私はジョウゼフに、もし6時に起こしてくれれば、 そのつどクラウン銀貨を1枚やろうと約束した。  翌朝、約束通り彼は私を起こそうとして、さんざ ん私を苦しめ、そのお返しに受け取ったものは、私 のののしりだけだった。  次の囗も彼は同じようにやってくれたが、うまく いかなかった。私としては結局、昼になってまた時 間を無駄にしてしまったと思い知るはめになったわ けだ。  私は彼に、『おまえは、自分の言いつけられたこ とを守れないらしいね。私のののしりなど気にせず、 言いつけたことだけを考えなくては駄目じやない か』と言った。  次の囗、彼はとうとう力ずくで私を起こしにか かった。私は『頼むから勘弁してくれ。ええい、 ほっといてくれ』と怒り狂ったが、ジョウゼフは手 をゆるめようとはしなかった。  で、私はやむなく彼にしたがい、彼のほうは、私 か起きるときにあびせかけるののしりのかわりに、 毎日約1時間後には、感謝の言葉とクラウン銀貨に よって報われたのである。そう、私の著書のうち10 ないし12冊は、気の毒なジョウゼフのおかげででき あがったのだ」  早起きするためには、早く就寝することをすすめ たい。その理由はいろいろあるが、まず目にも健康 にもよいということである。われわれの創造主はよ くお考えになって、人間は夜は早く床につくように 創られたのである。  ドワイト博士(アメリカの外科医、解剖学者)は 人々に対して常に「夜の12時以前の1時間の睡眠は、 それを過ぎた後の2時間分以上に相当する」と言っ ていた。  あなたも夜10時までには消灯することにして、き ちんとそれを守るようにしなさい。それで朝5時に 起床すれば7時間の睡眠がとれるわけで、これがま さに自然の理にかなったことなのである。  では、いったいどうすればそんなに早く起床する 習慣を身につけられるだろうか。  たとえば、今夜10時に床につくと仮定してみよう。 夜更かしをするのがあたりまえになっているあなた は、1時間ぐらいは寝つくことができず、そのため 時計が翌朝5時を打つ頃はまだぐっすり寝込んでい るだろう。  だが、繰り返し言うが、いやしくもこの世で何か を成し遂げたいと思うならば、この習慣を身につけ ることが絶対必要なのだ。  それも、できるだけ早い時期に身につけるにこし たことはない。もしそれがお金で買えるものならば、 いくら払っても高すぎることはないぐらいである。 起きるのに小さな目覚まし時計を使用し、間もなく それに強い愛着を覚えるようになる人もいる。この ような方法で、規則正しく早起きができるようにな るだろう。  一度目が覚めたら、まず意識的に寝床を離れるよ うにすることである。ちょっとでもぐずぐずしてい ると、睡魔が武装兵士のごとくあなたに襲いかかり、 せっかくの決断は水の泡となり、希望は打ち砕かれ、 習慣はくずれてしまうことになる。  ここでまたあらためて思い出していただく必要も あるまいが、早起きの習慣のある者は早寝の習慣が あるはずで、またそうしなければならない。  もちろん、真夜中のベールに隠れて忍びよる誘惑 や危険も避けなければならない。  若い時から早起きの習慣をつけている人は長生き するという傾向があり、そういう人は卓越した有能 な人物になる場合が多い。そして何よりも、おだや かな楽しい人生を送れるものだ。  私かこの点を強調するのは、寝床を恋しがるとい うのは特に若い人がおちいりやすい過ちであり、 いったんこの癖がつくと容易なことでは抜け出せな くなってしまうからである。 〔「何かを学びとってやろう」とい  う意気込みで人と接する  この習慣を身につけているのといないのとでは、 40歳になるはるか以前から、人格に顕著な違いが出 てくる。  人は多かれ少なかれ他人から学びとったものに基 づいて行動するものだが、そうすることは自分のた めだと意識して習慣にしている人はきわめて少ない。 大部分の人はその場限りの興味や好奇心からそうし ているにすぎない。問題は、年をとってから意識し 始めても、役に立つ知識を増やすことはできないと いう点である。  ウォルター・スコット卿(1771−1832.英 国の詩人、小説家)は、相手の職業のいかんにかか わらず、数分話すだけでどんな人間からも何かしら 自分の知らない有意義なことを必ず学べるものだと 語っている。このことからも、スコット卿の博識ぶ りが察せられる。  この世で経験を積んでいくには、目を見開いてい るのと同様に、注意深く耳を傾けていることも非常 に大切なことである。  自分の専門としている学問や本職以外のことは、 何も学ぶ必要がないという考えは間違っている。接 するすべての人々から役立つ知識を得たからといっ て、自分の専門に傷がつくなどということはありは しない。それに、誰しも専門とすることについては、 人の知らないことを知っているのだから、あなたが それについて教わることは必ず価値があるはずだ。  何から何まですべてを吸収しなさいとすすめてい るのではない。けっしてそうではないが、しかし、 一つの大きな問題を考えているときでも、それに関 連した別の事柄に注目することができないはずはな い、と言っているまでだ。  たとえば、あなたが今どこか遠く離れた場所へ緊 急な用事で使いに出されたとする。いちばん大切な ことは間違いなく迅速に使いを果たすことであるが、 行く道筋にあるいろいろな景色やものごとを、通り すがりにしっかり観察することも必要なのではない だろうか。  耳をすまして、どんな情報や逸話や事実をもでき るだけ聞き漏らさないようにして、いちだんと賢く なって戻るべきではないだろうか。  こんなことが妨げになるだろうか。このようにし ていろいろなことを習得していけば、いちだんと面 白味のある、博識で有能な人物になれるのではない だろうか。 〔「一期一会」の精神で事にあたる  すぐれた学者は、一つひとつの単語をしっかりと 記憶に刻み込もうと努力するので、再び同じ単語が 出てきても辞書に頼る必要はない。  われわれは、何事に対してもこのようにあるべき だ。問題を調べる場合、おおざっぱな概念だけをつ かんでおこうという態度で調べてはいけない。急い でいるとしても、徹底的に調べられるまで待つべき だ。  重要性の大小にかかわらず、たとえそれが何であ ろうと、少なくとも調べる価値があるのなら徹底的 に調べるべきであるI二度と調べる必要のないく らいに。そうすれば、いつまたその問題が持ち上 がっても、考えは決まっているので慌てふだめかな いですむ。  確固たる信念を持つことが、すなわち毅然とした 人格をつくりあげるのである。そうした信念は、善 悪の判断はもとより、バランスのとれた判断が要求 されるすべてのものに関係している。  ヒューニフテイマー師(1485頃−1555.英 国の宗教改革者)が長年抱き続けてきた信念を、最 後まで曲げずに殉教した話を読むたびに、私はいつ も涙ぐむほどの感動を覚える。  まわりの人々はラティマー師に、師の信仰のほう が正しく、カトリック教徒こそ間違っているのだと 異論を唱え、それを証明すべきだ、としきりにすす めた。  しかし、師は、自分が年老いていて、精神力もい ささか衰えていることを自覚していたので、どうし ても異議を唱えようとはしなかった。そのようなこ とは若く精力的な人々にゆだねることに決め、自分 は自分の信じることのみを繰り返して世を去った。  その問題に関しては、すでに自分のあらん限りの 知力を傾注して検討し尽くしたと思っていたので、 今さら自分の信念が間違っていないことをあらため て証明する気などなかったのである。  こうした確固たる信念に基づいた態度や、かくも 深く根を張り、微動だにしない人格があってはじめ て、いかなる苛酷な審問にも耐え、どんな攻撃に あっても超然としていられるのである。 〔その他もろもろの。実生活に役立  つ”こと  服装は簡素で清潔であること、上着も帽子も靴も 肌着に至るまできちんとしていること。  しかし、これが人生の一大事だなどと考えてはな らない。肉体は魂の器にすぎないのだから、容姿を あまり重要視しすぎてはいけない。  服は上質のものを着ることをすすめる。いつまで も長持ちさせて着たいと思うだろうし、長持ちさせ ることによって自分がいかに物を大切にしているか、 示したくなるだろう。  軽い運動をするときでも別の服に着替えなさい。 仕事をするときや勉強するときも、運動するときと 同じ服装では、仕事も運動も思う存分できない。  足は必ずいつも乾燥させ、温かくしていること。 それには、毎日歩いて足を使うことである。  歯には特に注意を払うこと。なに、別にたいした ことではない。夜、床につく前に塩を溶かした水と やわらかい歯ブラシを使って磨くだけのことだ。こ んな簡単なことでも忠実に守っていれば、年をとる まで立派な歯を保つことができるのだ。  とにかく、すぐ実行してほしい。これを怠ると、 吐く息は虫歯のせいで必ずいやな臭いを発し、始終 歯痛に悩まされ、食物がちゃんと咀嚼されないから 健康も害されることになる。そして、将来かなりの 歯を駄目にしてしまうことになるだろう。  今はこんなことは取るに足らないことのように思 えるかもしれないが、歯磨きを怠けていると、し まったと気づいたときはすでに遅く、必ずたいへん な苦しみを味わわなければならなくなる。  若い人同士のつきあいでも、常に紳士的な態度と 気持ちを忘れてはならない。  けっして、おどけ者やのらくら者のような振る舞 いをしてはならない。この点に関しては、若い頃身 につけた立居振る舞いが一生のあいだ続くことにな りやすいからだ。  誰だって、母親や姉が訪ねてくることになれば、 部屋をきちんと片づけ、紳士として振る舞うだろう。 ならば、常日頃から部屋をそのように整頓し、人と 接しなさい。  清潔感というのは、人となりを示す言葉である。 〔「速く行なう」より「入念に行な  う」クセをつけよ  よく知られていることだが、サミュエルージョン ソン博士(1709−84.英国の文人。『英語辞典』 を独力で完成)は自分の書いた原稿を出版社に送る とき、見直しをすることがなかったという。これは まさに習慣の賜物だった。ジョンソン博士は、まず ゆっくりと、しかも正確な構想を練ってから書き始 めたので、出来上がった文章に後から手を加える必 要など、まったくなかったのである。  生来、人間は自分を抑える忍耐心に欠けており、 思い通りに辛抱強く事を運ぶことができないもので ある。だから、一所懸命、入念に何かをやっている 人にはなかなかお目にかかれない。  ふつう若者は、何かやらねばならない仕事がある と、急いで終わらせたいと思うようだ。若い人同士 の話を聞いていると、いかに速くやったかというこ とは耳にしても、いかに入念にやったかと話してい るのはまず聞いたことがない。  これは、はなはだよくない習慣である。やる価値 がある以上は入念にやるべきである。もしこの習慣 がないなら、他にどんな知的訓練を充分に受けてい てもまだ不充分である。  一つひとつに入念に取り組まねばならない。そし て、繰り返しこれを実行していれば、自然と速くや れるようになる。  この習慣がないばかりに、読み方が下手で、しか もつまらないものしか読まない読者がなんと多いこ とか。貧弱な内容のものをたどたどしく書いている 作家たちがなんと多いことか。  エウリピデス(前485頃−前406頃。ギリシア の悲劇詩人)がわずか3行の詩を書く間に、ある流 行詩人は300行も書いた。しかし、前者は永遠に 残る詩を書き、後者は1囗経ては消え去ってしまう ような詩を書いたにすぎない。  読書であれ、会話であれ、作文であれ、量は少な くても入念に行なったほうがよい。「性急すぎる」 人間は、得てして人生の取るに足らないことに忙し くかけずり回りながら、それでいて、できるだけ多 くのことを成し遂げるという人生の大目標を果たさ ずに終わるものである。  ある偉大な人物の努力と業績に驚いた人が、「ど うしたらそんなにたくさんのことを成し遂げられる のですか」とたずねた。  「なに、一度に一つのことだけしかやらず、それだ けをまず断固としてやり遂げるように努力するので すよ」  だから、あなたもぜひこれを肝に銘じておいても らいたい。慌てて乱筆乱文の手紙を書き、急いでい たのであしからず、などという弁解を書かないこと だ。そんなに慌てる理由などないはずである。自分 をごまかしているにすぎない。5年も経ては何を書 いたのか、丸っきりわからなくなるようないい加減 なメモなら、しないほうがいい。 〔「心の猛獣」を自由に扱える人こ  そ本物の英雄なのだ  著述や学問に関して、しばしば引用されるソロモ ンの言葉は、実生活にもあてはまる。つまり「肉体 的に参る」ほどの仕事や勉強は必ずといっていいほ ど神経にさわり、多かれ少なかれ人をイライラしや すくする。  あの優雅なオリバー・ゴールドスミス(1730 頃−74.英国の詩人、小説家、劇作家)は、書斎に 引き込もっているときには気むずかしく怒りっぽい 人物であった。  いったい誰が想像するだろうか、しかし、それは 事実なのだ。  『世界の市民』や『廃村』や『ウェイクフイールド の牧師』を書いた彼は、たぶん自分の作品の中で思 いやりのある気持ちのよい人物であろうと努めるあ まり神経が参ってしまい、現実の世界に戻ったとき には、もはや愛想よくしようにもできなかったので はあるまいか。  ともあれ、ペンを握っているときや外出している ときには思いやりのある気持ちのよい人物が、書斎 に込もると意地悪く怒りっぽくなるケースは不幸に してままあることなのである。  われわれの中にも、「非常に感じがいいときもあ るのに、時によってこのうえもなく不愉快になって しまう」人間が時々いるものである。自分の感情を コントロールするには少なからざる努力が必要だが、 それができる人こそ、本物の英雄なのである。  他人とうわべだけの会話をする習慣ほど、放って おくとあっという間に身についてしまうものはない。 たちまち不動の習慣となり、一生改めることができ なくなってしまう。  それを避けるには、人間らしい心を養うことであ る。隠しだてをせず率直な人間になることである。 それも、他人の目にそう見えるというだけではなく、 事実、そうあらねばならない。なかには率直で高潔 な人柄が傍目にもすぐにそれとわかり、高く評価さ れる人もいるのである。  自分のおかれている境遇に満足するようにしなさ い。不平不満ほど、たちどころにその人間を不愉快 な人間にし、本人自身の心の平安をも乱すものはな い。  徹底した完全な教養を身につけようとする際には、 言語をマスターするにせよ、数学をものにするにせ よ、おびただしい難問を解決するにせよ、心をくじ けさせるような障害に必ず出合うことを覚悟しなけ ればならない。  広大な地域を探検した人で、灼けつく太陽、冷た い雨、もうもうたるほこり、ハエの大群に出くわさ なかった人がいただろうか。 〔なぜ自分のこととなると「バラン  ス」が働かなくなるのか  たった今出会ったばかりの人間の性格を、ほとん ど直観的に判断することができる人がいる。本につ いてもそういう人がいる。本をパラパラとめくり、 あるページの一部分を読み、他のページの一つか二 つの文章に目を通しただけで、何のためらいもなく その本の価値を決めてしまう。  しかし、ある人間や作家に対して、一度不利な偏 見を抱いてしまうと、なかなかそこから脱すること ができなくなる。それが昂じると、判断力よりも偏 見に左右されて行動するのが習慣となってしまう。  すこぶる公正に、片寄らずにものを考え、判断で きる頭脳というのはたいへん貴重だが、そうした頭 脳を授かっている人はきわめて少ない。そして、た とえそうした頭脳の持ち主といえども、まったく偏 見を持たずにすべての行為を行なうことはさらに難 しい。ましてどんな時でも完全に偏見から解放され ている人となると皆無である。  自分自身の評価になると、誰もが必ずと言ってい いぐらい過大評価してしまうものだ。これは忘れな いでもらいたい。友人に持ち上げられると、ますま すいい気になってしまう。友人同士の場合は、お互 いに欠点を見過ごしてしまうし、たとえ見抜いても 大目に見たりあやふやにしてしまう。一方、敵対関 係にある人間の批判は、厳しく身にこたえるが得て してそれが正鵠を射ている場合が多い。少なくとも 彼らは、われわれがけっして見ようとしない欠点を 目の前につきつけてくる。 〔ものごとはそのヱ畏側”をこそ  じっくりと検討せよ  もう一つ、注意しなければならないことがある。 あなたのやることを世間はあれこれ誉めてくれるが、 よく調べてみるとそのかげには不純な、あるいはよ こしまな動機が隠れていたりすることがあるものだ。  だとしたら、そんな人たちの評価を基準にして判 断しているあなたの自己評価は、正しいといえるだ ろうか。そもそもわれわれの長所などというものは、 胡乱なものである。にもかかわらず、危険なことに、 われわれはそれらに全幅の信頼をおいているのであ る。  すぐれた人格をそなえたある陸軍将校から、次の ような話を聞いたことがあった。  彼は昔、アルコール度数の高い酒を全面的に禁止 すべしという方針をじっくり検討し、立場上それを 受け入れるのが自分の義務であるかどうか決断を下 そうとしたそうだ。彼は大きな用紙を準備して、全 面禁酒の方針が広まってはならない理由を順番に並 べ始めた。そのリストはかなり長いものとなり、説 得力のあるものとなった。彼はこちらの見解をとっ たほうが正しいのではないかと、強く感じるように なっていった。  しかし、この確信をもっと完全なものにするため に、今度は別の用紙に、これとは反対の立場の理由 を並べ始めた。と、それはみるみるうちにどんどん 数が増え、彼はついにその数の多さと重要性に愕然 とするほどになった。そこで、ついにはまだいくつ か残っていた禁酒反対の理由も、彼は全部ペンで消 してしまった。  これが、私の言う公正な判断力を養うということ である。これは一気に結論に至るよりもずっと手間 がかかるが、はるかに得心のいく結論が得られるや り方であるし、公正に慎重に判断する習慣が身につ くやり方である。 〔こんな。友人”なら、つきあって  失敗はない  友人の選択とつきあい方については、すでにいろ いろな書物に書かれているので、私は簡単にふれる だけにしたい。誰にも単なる知人よりはずっと親し い間柄の友人が何人かは必要だし、またそういう友 人ができるものだ。  友人をつくる場合、特に難しいことが2点ある。 第一は、本物の友人を得ることの難かしさであり、 第二は、その友人と交友を続けることの難かしさで ある。そして、後者のほうがずっと難しい。  あとになるほど深まっていく友情に限って、はじ めの出会いというのはさりげないものである。それ に引き換え、はじめから両手を広げて抱きしめてく れるような人との友情というのは、めったに長続き しないものである。  友人は慎重に選ぶことである。先のことを充分考 え、無二の親友だからお互いの考えも秘密も分かち 合おうなどという言葉は、そう簡単に言わせないよ うにしたい。  友人を選ぶ際に覚えておくべきことは、お互いが お互いの習慣、性質、考え方、ものの言い方などを 吸収し合うことになるのだから、単に美点をそなえ ているだけでなく、できるだけ欠点の少ない友人を 慎重に選ぶよう心掛けることだ。  ある者は友人を頼りきって、彼らが自分から離れ ていくはずもなく、心変わりするはずもないと考え ている。そうかと思えば、その両方を経験して、友 情なんて「名ばかり」で何の意味もない、と言う者 もいる。  しかし、どちらの両極端もけっして正しくない。 次の文章には、充分な知恵と分別が含まれている。  「やさしい言葉は友を倍にし、思いやりのある話し 方は親愛の情を倍にするものである。多くの人と仲 よくしなさい。だが、相談相手はそのうちの一人で 充分である。  友を欲するなら、まずその人間を把握しなさい。 評価を急いで、その人を買いかぶってはならない。  なぜなら、自分の都合のよいときにのみ友になり すまし、あなたが困難にあっているときには立ち 去ってしまうような人間もいるからである。  あなたの敵に近寄ってはならない。この手の友に 用心しなさい。  忠実な友は、強き味方であり、このような友を得 ている者は宝を得ていることと同じである。  忠実な友は人生の妙薬である。古き友をすてては ならない。なぜならば、新しき友で古き友に及ぶ者 はいないからである。  新しき友は囗浅き若きワインのようなもので、成 熟したあかつきに心より賞味すればよい。石を投げ 小鳥たちをおどし散らすように友を厳しくとがめる 者は、友情も破壊するだろう。とがめられればいか なる友も自尊心は傷つき、秘密は暴露され、裏切り に傷つき、あなたのもとを立ち去るからである」  深い尊敬の念を抱いていない相手に対する友情は、 長続きしない。尊敬の念があれば、友人の気持ちを もてあそぶなどということはできない。もちろん相 手にも同じことがいえる。度を超えた馴れ馴れしさ と永続的な友情とは、相容れないものである。 〔相手の欠占を注意するのが友情と  思ったら大間違い  友人同士の間では、思慮分別こそ最も大切な資質 である。熱意や多弁が、必ずしも相手に対して尽く したいという願望や能力のあらわれになるとは限ら ない。しかし、真の友を得るためには、友人に対し てこうあってほしいと望むように、自分もまた友人 に対してそうあらねばならない。  私は若者の一人ひとりに、ウィリアムークーパー のみごとな詩「友情」をすべて暗記してもらいたい と思っているのだが、なかでも次の一節に込められ た感慨を特にしっかりと記憶にとどめてもらいたい。   友がはしければ   その友が友人に求めるようなやさしさと美質を   自らすすんで精いっぱい示すことだ   なぜならば、前もってお互いに誠意を示し合う   ことこそ   友情に他ならないから  申し分のない長続きする友情にとって、双方が同 じような精神的傾向を持つことはけっして本質的な ことではない。われわれは自分にない資質をそなえ た人に敬服する。自分に欠けている資質を、それを そなえている友人によって補うことができるような 気がするからである。  相手の欠点を見出し注意してやることも、友情の 一つの大きな役目だと考えられているが、これは危 険をはらんだ役目である。それを行なうには非常に 繊細な心づかいとやさしさが必要であるし、あまり 頻繁にやってはいけない。  私は概して欠点を見つけ出し注意することが、友 人たる者の務めだとは信じていない。なぜかといえ ば、相手が高貴な目標に立ち向かうのを支え、奮起 を促し、さらに一所懸命、努力を重ねていく勇気を 与えるのが友情だと思うからである。  家族の一人ひとりが互いに絶えず欠点をあげつら い責め立て合って、果たしてその家族が幸福だとい えるだろうか。  そうはいえまい。もし友人の成功を願っているな ら、その友人が苦しんだり悩んだりしているときに 勇気づけ、激励してやることこそ大切である。 〔少しでも誠意を疑いたくなる人は、  最初から相手にしない  古い友人とのつきあいを大切にするのと同時に、 新しい友人も探し求めなさい。なぜならば、われわ れの境遇は転地や死によってしばしば変化するから、 今新しい友人をつくっておかないと、そのうちに一 人の友人もいなくなってしまうからである。  今さら言うまでもないが、友人を持つうえで何に もまして大切なのは、確固たる信頼感である。ほん のわずかでも誠意を疑いたくなるような人物とはつ きあいたくない。もし言葉が嘘を伝えるための手段 として用いられるならば、人間はみなばらばらに離 れて一人で洞穴に住み、自分だけのために獲物を探 さなければならない。そして、友人を探し求めるこ ともむなしいことに違いない。  いささかくどく述べてきたが、私の言いたいこと は、すべての読者諸君が友人、それも選りすぐった 私心のない友人を持ってほしいということである。 そして、もし自分の心を磨き、愛される値打ちのあ る人間になるよう努めることを日々の日課としない なら、そうした友人は得られないであろうというこ とである。  どんな木でも充分な世話をしてやらなければ、生 きることも生い茂ることもできない。しかし、そう した世話を惜しまなければ、木は長年にわたってた わわな実を結んでくれる。読者諸君は、「君のお父 さんとは友だちだったんだよ」という心温まる挨拶 に感激した経験が、少なからずあるのではないだろ うか。  友情は、分かち合う者がいるからといって減るも のではない。友情は誰の心をも晴れやかにする。ま た同時に、苦しみを分かち合うことによって、友情 はさまざまな悲しみをやわらげてくれる。   汝友ありI汝まさに   豊かで尽きぬ宝庫を持てり   いかなる汝の必要をも満たす宝庫   汝の命尽くるまで大切にすべし 〔毎日の小さな「スランプ」を打ち  破る法  勉強の仕方に関して、ヒントとなるようなことを いくつかあげてみよう。本当に重要なものだけを書 き漏らさないよう努めたつもりなので、順番にはこ だわらず、ぜひ実際に試してみてほしい。  何時間勉強しなければならない、というようなこ とは絶対にない。それは、個人個人の資質によって 異なるべきである。頭の回転の遅い人は人より多く の勉強時間を必要とし、またそれを辛抱するもので ある。  私の経験では、それほど意識を集中させずに長時 間勉強するより、意識を精いっぱい集中して短時間 みっちり勉強したほうがはるかにいいと思われる。  1囗6時間、全意識を集中して勉強できる人間は、 出世すること間違いなしと思っていい。しかし断 わっておくが、それは、精神がくたくたになってし まうほどの激しい勉強になるに違いない。  全意識と全思考力を集中して勉強している対象と 取り組まなければならないIちょうど、太陽の光 で火をおこすとき、光線をレンズの焦点に凝集する ように。  単なる乱読多読を、あるいは、何であれ息抜きや 娯楽としてやるようなことを勉強だと称してはなら ない。それらは勉強ではない。  勉強はできるだけ午前中にやること。午前中のほ うが頭もよく働くからだ。 〔10冊をななめ読みするより、1冊  の本を徹底的にマスターする  一つの学問をものにするのは、一つの国を征服す るのと実によく似ている。もし砦や要塞を片っ端か ら徹底的に征服していくなら次々に勝利を得られる だろうが、もしあちこちの砦や要塞を征服し残して おくと自分の背後に敵を迎えることになり、すぐに もう一度征服しなおさなければならなくなる。  ものごとをうわべだけいい加減にやるのが癖にな ると、このように必ず屈辱感を味わうことになり、 自尊心が傷つくことになる。したがって、たとえ自 己満足にすぎなかろうとも、何事も徹底してやるべ きである。はじめのうちはたいした進歩は望めない だろうI進歩といっても微々たるものであろう。 が、これからの長い人生のうちには勝利を手にする ことができるだろう。  どこかであいまいに仕入れた一知半解の知識がた くさんあるよりも、量は少なくても、きちんとした 知識−自分が確実に身につけている知識−があ るほうがはるかにましである。一つの授業、あるい は1冊の本を完全に徹底的に理解しているほうが、 10の授業、あるいは10冊の本を生半可に理解してい るよりずっとためになる。  一つの考えをより深めたい、あるいはある特定の 問題点を明確にしたいと思ったら、それを完全にや り遂げるまでは中途で投げ出さないことである。  あらゆる観点から検討してみなさい。それを表現 する方法が幾通りあるか、またどれが最も簡潔で最 も適当であるか試してみなさい。  それについて詳しく述べたければ、いろいろな著 者の意見にもあだってみることである。その中には およそ自分が今まで考えもつかなかったようなヒン トを与えてくれるものもあるだろう。そして、いか なる微細な点をも充分に考慮してみるのである。  こうして自分の取り組んでいる問題を一歩一歩、 徹底的にマスターしていくことによって、たとえ勉 強する本の数はあまり増えなくとも、実際に役立つ 知識のほうはどんどん増えていく。  勉強しているものの中に中途半端なことがらや納 得のいかない点をそのまま残しておくことは、いい 加減で生半可な知識が倍増し、混乱を招くことにな り、学者どころか衒学者への道を歩むことになる。 〔やり遂げた人だけが手にできるか  物の「知的興奮」  ある人にとっては骨の折れる勉強が、別の人に とってはたやすい場合もある。それだけでなく、今 日はやさしく思えた勉強が、あるときは耐え難いほ どいまいましく思えることもある。これは、集中力 をコントロールすることが難しいためである。健康 状態がいつもと変わらないなら、一定の集中力さえ うまくコントロールできれば、いつも同じように快 適に勉強できるものである。  しかしながら、ちょっと試してみればわかること だが、暖かく明るい日差しの降り注ぐ春の一日、自 然が戸外へ出てきなさいと誘いかけているような一 日、むりやり勉強するのがバカらしくいやになるよ うな一日−そんな日よりも、戸外で何かをやろう などという気が全然起こらないほど、寒い吹雪の冬 の日に勉強するほうが、ずっと集中できそうに思え るということがある。  勉強というのは、たとえどんなに調子の悪いとき でも、ぼんやりして全然頭が働かず、体もけだるく、 痛みさえ感じているようなときでも、何時間も何年 間もひたすら続けていかなければならないものだと いうことを頭に入れておくべきだ。  「およその物は権力で手に入れたりお金で買えたり するが、知識だけは勉強して手に入れる以外に方法 はない」  しかし、あなたは、ある傑出した人物を引き合い に出してこう言うかもしれない。  「誰それの若い頃は学校の勉強にしろ何にしろ、評 判になるほど成績はよくなかったではないか。大学 に地位を得ることもなかったし、学者として評価を 受けることもなかったではないか」と。  そういうこともあるだろう。しかし、一つだけ はっきり言っておきたいのは、そういった人物も、 もしある期間に味気ない骨の折れる勉強をやり通さ なかったとしたら、けっしてそれほど傑出した人物 になれたはずがないということである。  厳しい勉強によって精神を鍛え、厳密に考え抜く 習慣によって頭脳を鍛えあげたいと思っているのな ら、自分の勉強している対象について不満を言うは ずがないということである。 〔一日15分あれば進歩は保てる  記憶についてはすでに述べた。ここでは、緻密な 学習をする場合にそれをどう利用したらよいかとい うことだけ述べてみたい。  あなたは、今までに、ある考えや一連の知識を記 憶から消し去ろうとしてそれができなかったという 経験は一度もないだろうか。あるいは、あるアイデ アや一連の思考の流れを思い出そうとすればするほ ど、ますます思い出せなかったという経験は一度も ないだろうか。  それは、記憶というものが自由を愛し、強いられ ることを嫌うからである。記憶は自発的に自分の力 を試したいのだ。したがって、強制によって記憶を 弱めないようにしながら、できるだけ多くのことを 正確に記憶するのが正しいやり方ということになる。  小さな子供たちは、ラテン語やギリシア語の単語 の長いリストを他人が読んでいるのを繰り返し聞く うちに、覚えるつもりがないのに覚えてしまうこと がよくある。また言葉を覚えるのがうまい人は一様 に、覚えようと思うものを繰り返し繰り返し読むこ とによって、それを記愴にとどめているのだ。  たとえば文法を覚えようとする場合、文法だけを まとめて長時間だらだらやるよりも、短時間でよい から全神経を集中して勉強し、それを何度も繰り返 してやるべきである。目と同様、耳を通しても頭に 入るように、まず勉強する箇所を大声で読む。  次に教科書をわきにおいて、ペンで全部書き出し てみるのだ。このやり方だと、目も耳も働き、同時 にすべての文字、音節、音までしっかり頭に入れる ことができる。このやり方は最初の間は進みが遅い かもしれないが、効果的なやり方であって、完全に マスターできる。したがって、すぐに自信が湧いて くる。どんな新しい知識が出てきても悠々としてい られるようになる。  文法を覚える際にやっかいなのは、同じようなこ とがらや単語がかたまって出てくることである。類 似は頭を混乱させる。  仮に貴金属店へ行き、そこで20個の時計が入った ヶIスを見たとしよう。20個の時計にそれぞれ異 なった名前がついていても、あくる日には、もうあ なたはどれがどれだが区別できまい。しかし、たと えば5日間毎日通って、1日4個ずつ注意深く調べ るとしたらどうだろう。  店員は、それぞれの違いを詳しく説明してくれる。 これはふつうの時計です、と言って、そのメカニズ ムと部品を全部見せてくれる。こちらは新案特許の レヴァーで、従来のふつうの時計とはこんなふうに 異なっています、と説明してくれる。3番めはレバ イン、その部品もまた特徴かある。次は高精度時計、 今まで見たうちのどれとも大きく異なる。店員はそ れぞれの特性を説明し、互いを比較して見せてくれ る。  翌日は、彼に教わったことを全部おさらいして記 憶を新たにし、それぞれの名前と特徴や特性をしっ かりと記憶に刻み込む。  それからさらに、次の4つの時計へと進んでいく。 同じようにして、前の囗に教わったことを欠かさず 次の囗に復習する。そうすれば5囗めの終わりには、 記憶を頼りに個々の時計の名前と性能を復唱できる ようになる。  この方法をとりいれる前は、数が20個であるとい うことと、5列に並んでいたということしか覚えら れなかったのに’・  さて、文法もこれと同じような緻密なやり方で勉 強すればいいのだ。そうすれば、記憶が混乱すると か覚えられないとかいった不満はなくなる。 〔とにかく根気よく反復すること  疲れを知らぬ努力家ヴイツテンバッハ(1726 −1806.デンマークの古典学者)は言っている (自らの経験に照らして彼ほどきっぱりと言いきる ことのできる者はまずいまい)、復習の積み重ねは 「信じられないほど効果的な進歩を生み出す」と。  しかし、加えて彼はこうも言っている。  「それは本当に徹底的な復習でなければならない。 すなわち、何度も何度も繰り返し復習しなければな らないということだ。  つまり私か言いたいのは、毎日、前の日に学習し たことを復習し、週の終わりごとにその週の1週間 分を、月の終わりにその月の1ヵ月分を復習すると いうことである。さらに休暇中にも、全部を再び何 度も繰り返して復習するのである」  この偉大なる学者は、ある時、自分の生徒に向 かってこうも言っている。  「私の言った通りの計画にしたがえば、毎日1時間、 あるいは少なくとも1時間近くは、必ず勉強を続け られるはずだ。なぜなら、子供のうちは毎日少しず つでも勉強に時間を費やそうとの気持ちがあるなら、 それを妨げるような仕事をする必要などないから だ」  つけ加えさせてもらえば、毎日15分間でも復習に 専念するようにすれば、復習してきたすべてのもの をいつも記憶の中に新鮮に保つことができるばかり でなく、難しい古典語の勉強もおおいに進歩するは ずだ。まずこの習慣を身につけるまでは、完璧な学 者になろうと望んだところで無理である。はじめの うちはやっかいだろう。が、それも最初のうちだけ だ。  「クセノフォンの『ソクラテスの思い出』を読んで 勉強したとき、私は必ず前の節を読み返してから次 の節に進むようにしていた。章や巻も二度読んでか らでないと次へ進まなかった。このようにして読み あげたあと、最後にもう一度全体を通して読み返し た。  おかげで3ヵ月にも及ぶ大仕事となったが、そう した繰り返しが自分にとってたいへん有益だという ことがよくわかった。繰り返し読んでよかったと思 うのは、二度読んだ節や章から新しいところに進む 際、どんなに難解な点が出てきても読み通せるだけ のはずみがついたことである。キケロのたとえを借 りるなら、『一度はずみがつくと、オールで漕ぐの をやめても舟が前に進むように』」  たいていの人のやり方は、これとはまったく違っ ている。彼らの通り過ぎてきた行程は濃い霧でおお われているようなもので、振り返っても、霧以外は 何も見えない。前方をながめても、おそらくもっと ぼんやりとかすんでいることだろう。道のりはどこ までも続くように思え、現在、自分がどこにいるの かさえはっきりしない。その時々の心の支えや確信 がなければ、そして将来思い出せるような鮮烈な記 憶がなければ、誰しももやの中を歩き回るようなこ とになるのは致し方ない。 〔頭の。鮮度”を抜群に高める気分  転換の技術  一度に何時間も続けざまに難しい問題を考えたり、 一つの課題だけに長時間頭を使うことのできる人は まずいない。たいていの人は途中で休憩することに なり、するとせっかくまとまりかけていた考えもば らばらになってしまう。せっかく集中させた思考を 維持しようと努力しない。  たとえば、ホメロスか、あるいは代数を勉強して いると仮定しよう。  一度に2、3時間勉強しているとする。肉体は疲 労し、頭はこれ以上ものを考えられない状態になる。 そこで勉強を中止し、教科書を放り出し、勉強して いたのと同じぐらいの時間、休憩する。そうすると、 それまでの時間はすべて無駄になる。あるいは、ほ とんどそれに等しいことになる。  頭の鮮度を再びよみがえらせるのは、ぶらぶら休 息するのと同じく、勉強する対象に変化を持たせる だけでも可能なのだということをわれわれは忘れて いる。  代数を中止したら、リビウス(紀元前57−紀元後17。 ローマの歴史家)やタキトゥス(55頃−115頃。 ローマの歴史家)を手にとってみるといい。習った ばかりの講義を振り返るみたいに、それが新鮮に感 じられて驚くはずだ。  あるいは、最近読んだ本の覚え書きをつくったり、 頭を切り替えて次の文章の主題を考えてみるのもよ い。このようにすれば、大量の時間を節約できるわ けだ。  われわれの父親や今日のドイツ人たちが一日に16 時間も勉強に専念できたということは、驚きに堪え ない。  頭が疲労するまで一つの勉強をし、それから他の、 頭が休まると同時に活力が湧いてくるような勉強に 取り組むというふうにしない限りは、誰だってこん なに勉強できるはずはない。これが時間を無駄づか いしない人間と、そうでない人間との違いなのだ。 〔「多才人間」の秘密をさぐる  人生で多くの業績をあげる人間は、前述のやり方 を採用している。だから、一人の人間が一見両立し 難いように見える能力や努力を必要とするいくつか の役目にたずさわり、しかもてきぱきと仕事を片づ けるようなことが実際に起こるわけだ。そういう人 は、いわば絶えず仕事をしながら、絶えず休憩して いるということになる。  高名なグッド博士は、激しく神経を使う医師とい う自分の専門の仕事をこなしながら、40歳になる ずっと以前に、エッセイで賞を受け、少なくともH の言語をものにし、『ユニバーサルーデイクショナ リー』12巻の編纂にたずさわり、有名な『医学の研 究』を書き、なおかつ常に詩を書き、詩の翻訳を行 なったのである。彼の『自然論』を読めば、その業 績がいかに幅広く多様で緻密であったかがわかるだ ろう。仕事を進めていくうえでその多様性や重圧で 混乱してしまうどころか、彼はすべてを同時に進行 させ、どれ一つとしておろそかにせず、また中途半 端で放り出したものもなかったのだ。  クラーク博士(1817−80。英国の医師)いわく、 「『火の中にたくさんの鉄器を入れるな(虻蜂とら ず)』という昔の諺は大きな間違いである。火かき 棒であれ、火ばしであれ、いくらたくさん入れても 入れすぎることはない。全部いっぺんに入れてお け」  いつもこのように頭を使っていれば、とりとめの ない妄想にふけってなどいられなくなる。妄想が入 り込む余地のないほど頭を使っていれば、たとえ仕 事に変化を持たせることで何一つ得るところがなく とも、くだらないことに頭を使っていないという満 足感は得られるのだ。       法     を書  一   頭読 り4J  なの  ゛  密め     緻た       る       く       つ       法     を書  一   頭読 り4J  なの  ゛  密め     緻た       る       く       つ 〔知識の「消化不良」ほど、たちの  悪いものはない  古来、傑出した人物は誰もが、注意深く読書する 習慣があった。そして、この習慣をそなえずして、 ひとかどの人物になることは不可能である。ベーコ ンいわく、「読書は充実した人間をつくり、会話は 機転の利く人間をつくり、執筆は緻密な人間をつく る」と。  ベーコンの言う「充実した人間」には、広範囲な 徹底した読書をしない限り、なかなかなれるもので はない。いくら天才的才能があっても、いくら発明 創造の才知があっても、この点の埋め合わせにはな らない。めったにないすぐれた才能の持ち主であれ ば、おそらくあちこちに自ら堂々たる道をつくって いけることだろう。しかし、先人たちが英知を結集 して道をつけてくれているのに、誰がわざわざ新米 に小道を探したりつくったりしてもらいたいと望む だろうか。  公平で正しい判断を下すためには、まず他の時代 の歴史を振り返り、過去と現在の比較ができなけれ ばならない。活発な精神を持つためには、後世に不 滅の思想を残していったすぐれた先人の精神に絶え ずふれて、自分の精神をリフレッシュし、強化しな ければならない。絶えず思考の領域を広げ新しい考 えを生み出す精神、少なくとも立派な思想を、常に 吸収する精神を持ちたいものである。  食物が血管を循環する血液の糧であるように、読 書は精神の糧である。読書に熱中しないような人間 は、立派な精神活動ができる見込みもない。読書を しないでベーコンの言う「充実した人間」をめざす のは、新鮮な食物をとらないで健康かつ干不ルギッ シュでありたいと望むようなものだ。それはちょう ど、ミシシッピ川は支流を全部断ち切られても雨さ え降れば大量の水を海へ運ぶだろう、と考えるぐら い理屈に合わないことである。  堅苦しい思想の詰まった本はわずらわしいといっ て、物語やいわゆる軽い現代物の文学ばかりを読む 人がいる。特に若い人々はとかく娯楽のためにだけ 本を読む傾向があるし、絶えずその誘惑に駆られる。  読書の目的は、いくつかの分野に分けられるだろ う。ある者は、もっと厳しい勉学の骨休めに本を読 む。そうして、気分を爽快にし、精神に活力を与え る。またある者は、人類の歴史や経験の中に確固と した現実を読みとり、さまざまな状況下でいかに人 間が生き、行動してきたかを知る。そして、そうし た現実から結論を導き出す。  つまり、自分の視野が広がり、判断は是正され、 歴史上のあらゆる時代の経験が自分自身の経験とな るのだ。  ある者は、多分に情報のために読書する。将来役 立つように知識をたくわえ、いつでも使えるように それを分類し、整理しようとする。  またある者は、文体のために読書をするI力強 い、あるいは繊細な感性を持ったすぐれた作家が、 自分をどう表現しているかを学ぶために。  娯楽のための読書は別として、こうした目的を達 成するためには、言うまでもなく読書はゆっくりと あるいは慎重になされるべきである。膨大な数の本 を読んでいる人間が、価値のある知識はわずかしか 持っていないということがよくある。昔からいみじ くも、膨大な蔵書は知的な贅沢だといわれている。 速読家は概して漫然たる読書家であることが多い。 数だけは読んでいるが、何も知ってはいないのだ。  漫然と速読する読書家と、真の学者とは、まった く異なるタイプの人間である。人間の本質を見抜い ているある人は、こう言ったものである。自分は膨 大な蔵書を持った人間と議論をやりあうことになっ ても、けっして恐ろしいとは思わない、と。こうい う人は、たとえ蔵書はわずかでも、ものごとをよく 考え、自分の頭脳を知的活動に最適な状態に整えて いる人である。  以上のことにはまったく例外がないなどと言うつ もりはないが、それにしても、これから人生を始め ようという若者には例外なくいえることである。  読書によって成長しようと考えているなら、まず 丁寧に読むことである。カツカツと飲み下された食 物を、胃は受け入れて消化し、肉体のための栄養分 を吸収するだろうか。そんな食物は、体を素通りす るだけだ。頭脳も同じで、慌しく詰め込まれるもの からは何も吸収できはしない。 〔貴重な「知識源」を最大限に利用  し、自分の血肉とすること  昔の人は、本が少なかったために、その少数の本 をどうしても徹底して読まざるを得なかった。その 点で昔の人には、本の少なさという不利な面を充分 補ってあまりあるものがあったといえる。  当時、本を所有するには手で書き写すしかなかっ た。そして、所有したいばかりに本を書き写した人 が、その本の中身をも自分のものとすることが往々 にしてあった。印刷術のない時代には、本の数はき わめて少なかったので、キケロの『弁論家につい て』やクインティリアヌスの『弁論術教程』などの 写本を請うために、使節がフランスからローマへ派 遣されたものである。これらの本の完全な写本がフ ランスのどこにもなかったからである。  ジェムブルー修道院長のアルベールは、信じ難い ほどの労力と費用を投下して、150冊のありとあ らゆる蔵書を収集した。当時、これは実に驚くべき ことだったのである。  1494年、ウィンチェスターの司教の書斎には、 種々の分野の書物が断片的に17冊あるにすぎなかっ た。司教が聖スィジン修道院から1冊の聖書を借り たときは、必ず傷一つつけずに返却するという、 仰々しい誓約書を提出しなければならなかった。  かつては本を購入するというのは重大事だったの で、その場合は然るべき人に保証人として立ち会っ てもらわねばならなかった。1300年以前のオッ クスフォード大学の蔵書は数冊の小冊子があるだけ で、しかも、なくならないようにと小さな箱に厳重 に保管されているか、あるいは、鎖をかけられてい た。  また、14世紀初頭のフランス王室の蔵書は、たっ た4幵の古典と数冊の祈祷書しかなかったのである。  昔は、数冊の本でもあればまだましだったであろ う。知識は四方八方に分散しており、真実は深く埋 もれていたのだから。  リュクルゴス(伝説的なスパルタの立法者)やピタ ゴラスは、霊魂再生の教義を理解するためにエジプ 卜やペルシアやインドまで旅して回らなければなら なかった。  ソロンやプラトンは、自分の知りたい知識を得る ためにエジプトまで出向いていかねばならなかった。  ヘロドトスやストラボンは史実を採集するために 旅をし、旅をしながら地図も製作しなければならな かった。一般大衆は蔵書を持つことなど考えもしな かったし、一方、6冊も本を持っていると、それだ けで尊敬された。  それほど書物が稀少だったにもかかわらず、当時 の学者たちの知識はわれわれをはるかにしのいでい た。われわれは、ホメロスのように詩を書くことも、 ツキディデスのように歴史を書くこともできない。 われわれは、アリストテレスやプラトンのような天 才でもなく、デモステネスのように周囲の人間を魅 了する弁論術も持だない。  古人は絵画や彫刻でも、われわれをはるかにしの いでいた。それでも、彼らの所有する本はきわめて わずかであった。しかし、その少数の本は繰り返し 熟読されたのである。彼らは自分たちの持てる知識 源を最大限に利用し、それで間に合わない場合は、 求める知識源を貸してくれそうな人間を探し求めた のだった。  われわれのおかれている状況とは、雲泥の違いが ある。われわれは見境なしに多読するが、得るとこ ろはほとんどないのだ。「量より質」というのは、 まさに読書にぴったりの言葉である。 〔どうやって「読むべき本」を見分  ければよいのか  では、読むべき本を知るにはどうしたらよいのか。 これは、たいへん重要な問題である。というのは、 たとえ破滅させてしまわないまでも、確実にあなた に害を及ぼす本もあるからである。また、これと いってたいしてためにならない本もある。しかし、 つきあった人間から必ず何か影響を受けるように、 どんな本にせよ、何らかの影響を残すものである。  現代のように書物があふれている時代に、出版さ れる本を、あるいは推薦される本を、片っ端から全 部あるいはその一部でも読めるなどとは思わないこ とだ。まず1冊の本を手にとって、1章だけ読んで みるとよい。全部を読まずに、果たしてその本が読 むに値するものかどうかわかるだろうかとお思いだ ろうが、わかるのである。樽の中のワインの良しあ しを判断するのと同じである。グラスに1、2杯飲 んでみて、まずければ、そのワインはすべて駄目な のであって、それを判断するために樽の中身を全部 飲む必要はあるまい。  二日は短いのだから、義理で書いたような本を読 むぐらいなら、私には他にやるべきことがある。読 むなら読んだだけのことがあるものを読みたい。な かには、ざっと見ただけで筆者が一番主張したいら しい内容とは矛盾している本がある。『そんな本で も無理して読む』という人はまずいないだろう。も しある人が2+2は5だということを証明する念の 入った理論の解説をしようと言うなら、そんな議論 につきあうより、私には他にやることがある」  しかし、もっと簡単で、しかも確実な見分け方が ある。本も薬と同じように扱うのだ。つまり、他の 人が試して、その効用が実証されてから手を出すの だ。立派な本だと定評のある本が必ず身近にあるは ずで、そういう本は概して内容がしっかりしている ものである。  ことごとくすべての本を読むことはできないので あり、たとえできたとしても、それで賢くなるわけ ではない。がらくたというのは、あなたがたくわえ てきた価値あるものをおおい尽くし、台なしにして しまうものだ。  読み進むうちに何かためになることが書いてある だろうと期待して、つまらぬ著者や、うわべだけを 浅薄な美辞麗句でかためるような著者の作品もむり やり読まなければならないなどとは、絶対に思わな いでいただきたい。失望するのがおちである。  一番内容のある部分を最後のページまで隠してお く著者もいるかもしれないが、もし読者をオアシス がまったくない砂漠を延々と旅させるような著者な らば、それは、はなはだ才能の乏しい著者なのだ。 そんな本は読まぬことだ。他にもっとすぐれた本が 見つかるはずだ。 〔1冊の本を120パーセント活用  し吸収する方法  書物はどうやって読み始めたらよいか。食事をす るときには、必ずその料理をながめてから味わうも のだ。机に向かったらまず表紙をよく見ることであ る。著者は誰か、どこの人間か、その著者について 知っていることがあるかどうか。どこから、誰に よって出版されているか。その出版社から出ている 本の一般的な傾向について知っているかどうか。そ して、その本について耳にしていることを思い出す のである。  それから前書きを読み始め、著者はどのような口 上を述べ、自分自身や自分の作品についてどう考え ているか、また著者はなぜあえて公に自分の考えを 問いかけようとしているのかを読みとるのだ。  次に目次に移り、どのように主題を分割して表現 しようとしているか、全体のプランにざっと目を通 すのである。それから一つの章なり節なりをとりあ げて、どう組み立てられ、どうまとめあげられてい るかをつかむ。  さて、目次をさらに検討する前に中身を味わって みたくなったら、重要な主題が述べられている箇所 をひらいて、それがどう展開されているか見てみる のだ。そうしてためしに読んでみた結果、もしその 著者は面白味がなく、衒学的で浅薄だと感じたら、 何もそれ以上読む価値はない。とても得るところは ないだろうし、あったとしてもささやかなものにす ぎないだろう。  しかし、もしその著者の主張が傾聴に値すると 思ったら、もう一度目次に戻ること。各章ごとに検 討したら、今度は本を閉じて、その本の全体のプラ ンが完全にはっきりと自分の頭に入っているか確認 するのである。  これを終えるまでは、先へ進んではいけない。全 体のプランを頭に鮮明に刻み込んでから、新鮮な気 持ちで第1章にとりかかるのだ。あとは、中身があ なたを惹きつける限り読んでいけばよい。  さて、読み進めていくわけだが、一文ごとに「自 分は理解しているかどうか。真実かどうか。重要で あるかどうか。あるいは当を得たことかどうか。覚 えておくべき価値のある点があるかどうか」と自問 しなさい。そして、段落の終わりごとにも同じこと を自問しなさい。段落の要点をきちんと把握するま では、次の段落へ進まないことである。  こうして一つの章を終えたら、そこでもう一度振 り返って、その章で著者が言わんとしていることは 何か、述べ尽くしていることは何かを考えてみるの である。 〔読みながら考え、読み終えてから  も考えること  こうして読み進んでいく過程で、それぞれの段落 や文章で自分が最も大切と思う部分に、鉛筆で空白 の部分を利用してしるしを書き込むこと。わかりや すく説明するために、私自身、非常に役に立つと 思っているいくつかのしるしをあげておこう。これ らのしるし、あるいはそれに類したものは、便利な ものである。  H この段落で、この章の中心的問題、もしくは    その一つが証明されたり詳しく説明されてい   ることを示す。つまり、要点ないしは一連の   要点の一つを示す。 Λ 述べられている趣旨が正しく、今後さらに無   限に広く展開されるであろうことを示す。 V 実証できないこと、したがって正しくないこ   とを示す。 ?・  論旨に疑問があることを示す。 りI 事実としては疑わしいことを示す。 S すぐれた指摘で、事実がそれを証明するだろ   うことを示す。 00 まずい指摘で、事実がそれを証明できないだ   ろうことを示す。 φ 主題と関係がなく、省いたほうがよいことを   示す。 Θ 繰り返しにすぎず、著者が堂々めぐりしてい   ることを示す。 △ 適当な箇所に挿入されていないことを示す。 ○ 見識のあることを示す。  萋 見識のないことを示す。  こうしたしるしは、楽しみながら増やしていける だろう。私自身はこれだけで充分、間に合っている。 右にあげたしるしをそのまま使わなくても、自分な りのものをそれぞれ考案すればいい。  さて、このような読み方は時間がかかるのではな いだろうか。  その通り。なかなかはかどらないものだ。  しかし、それでも非常に効果があるのである。こ の方法で1幵の本を読むことは、走り読みで20冊読 むのと同じだけの値打ちがある。  これなら読むと同時に考え、判断し、識別し、選 別せざるを得ない。自分なりの考え方が要求され、 それが脳裏に刻み込まれることになるので、将来い つでも役立つことになる。読んだものを自分のもの にするには、まず読みながら考え、読み終えてから も考えることである。 〔「人に語る」ことで、その本の  エッセンスは確実にものにできる  自分が読んでいる主題について友人と話し合うこ ともまた、非常に大切だ。だが率直に、そのことに ついて現在読書中であることを打ち明けておかなけ ればならない。そうすれば友人も、そのことをあな たが自分の意見として主張しているのではないこと をわかってくれるだろう。  自分が読んだ本の内容を、他の人と話し合うこと で確実にものにしたい、という意欲のある人間が何 人か集まってサークルができれば、さらにいい。  「思想もまた、人に語ることによって、より確実に 自分のものになる。すなわち、教えることは学ぶこ とであり、与えることは与えられることなのだ」  友人があなたと同じ本を読んでいたり、他人に本 を読んでやっている場合は、対話はさらにいっそう 有効なものになるだろう。 〔読書にかけた時間の4分の1を考  察に充てる  読んだ本の内容については、振り返って考えるこ とにかなりの時間を費やすべきである。最もすぐれ た学者たちは、読書に費やされる時間の4分の1を それに充てるべきだと考えている。これはけっして、 多すぎるとは思われない。  だが、先に述べたように、鉛筆で余白にしるしを 書き込んでいけば、明らかに短時間で著者の考えを 反芻し、自分なりの判断も下せるのではないだろう か。  一見しただけで、それぞれの段落の特徴がわかる だろう。どこに知るべき情報があり、それがどのよ うな情報であるかがわかる。そして、即座にそれを 自分のものとすることができる。 〔索引をつくり分類する「読書術」  読書に関して、非常に重要なことがもう一つある。 それは「分類」である。  われわれは、人類が大きく進化しない限り、今の われわれに欠けているある能力を必要としている。 すなわち、何であれ、われわれの頭の中を通過して いく重要なことがらを、すべて脳裏にとどめておく 能力である。  われわれは、読んだものをすべて書き出したり、 そっくり写したりはできない。そして、われわれが 思い出せるのはほんの一部だけだ。  どうしたらいいだろうか。  一つの手段として、私は読んだ本の索引をつくる ようにしている。そうやって本の内容を分類してあ るので、読んだ本の内容にすぐに言及できるし、ど の本の何ページに何か書いてあるかもすぐわかる。  おかげで覚え書きをつくる手間が省け、しかも、 可能な限り多くの情報を埋もれさせずに維持するこ とができる。  数年間これを続けると、計り知れないほど重宝な 索引ができあがる。たった1年続けるだけで、あな たもその便利さを放棄できなくなることだろう。 〔頭に浮かんだ考えは、書き留めな  ければすぐ消えてしまう  もう一つ覚えておいてもらいたい大切なことは、 読書をするときは必ずそばにペンとメモを用意して おくことである。それは索引づくりをするためだけ でなく、自分の頭に浮かんだ考えを書き留めておく ためでもある。  読書中は頭が非常に活発に働くので、新しい大胆 な考え、書き留めておくに値する考えが、次々に生 まれてくる。しかし、それらはその場で書き留めて おかなければ、すぐに消えてしまうものであること に気づいておられるだろうか。  賢明な人間とは、先人だちから受け継いだものと 同様、自分の生み出したそうした宝物も注意深くた くわえる人間である。われわれも、そうであらねば ならない。それは若い人々にとって、何にもまして 重要なことである。 〔読書はその人の文体をつくる  ここで読書における3つの大切な目的と思われる ものを述べて、この章を終わりにしたい。  ある人から精神的影響をずっと受けていれば、人 は否応なしに、言葉づかいや考え方までその人に影 響されるものである。  崇高で整然とした気品ある文体で書きたかったら、 まず1ヵ月間じっくりとジョンソンを読めば、それ はさほど難しいことではないだろう。  高潔で素朴な、外来語の混ざらない純粋な英語の 文体で書きたいと思ったら、ジョンーバニヤンの 『天路歴程』を何回も通して読むことである。そう すれば、書けるようになるだろう。  大と腕を組んで何日も歩くとき、相手の歩調や足 どりに合わせないでそれができるだろうか。われわ れの精神が、交わる人の色に無意識のうちに染まる のは自然の法則である。生きた大間とじかに接する 場合であれ、活字を通して接する場合であれ、同じ ことである。だからこそ、すぐれた作品を読むこと が大切なのである。いろいろな点でよい影響を受け るからである。  何よりも若者の知性や道徳観に影響を与えるのは、 書物であろう。たった一冊の本が、考え方にしろ、 言葉づかいにしろ、一生涯続くような傾向や偏見を 与えてしまうことがよくある。  傑出した人物であったポーター学長(1811− 92.会衆派教会の牧師、教育家、イェール大学学長) の言葉を聞いていただきたい。  「神学生たった頃の私自身の経験を述べさせてもら うならば、私は、他のいかなる書物よりも、ジョナ サンーエドワーズの『自由意志論』に大きな影響を 受けました。私はこれを牧師になる前に何回も読み、 それ以後も折りにふれては読み返しております。こ の本から私の得た恩恵は、とても言葉で言い尽くせ るものではありません」  時々韻文を書いている、ある女性が言うには、他 人の詩を書き写す仕事をしばらくしたあと、はじめ て自分に韻文を創る才能があることに気づいたのだ そうである。別に意識せず何気なく模倣しただけで もこのようなことがあるからこそ、ジョゼフーア ディソンなどの作家が若い人たちに常にすすめられ ているのである。  自分の生活様式を堕落させるような友だちとはつ きあわないようにするのと同じく、自分の文体を損 なうような本は、読まないようにすることである。 〔心を海のように知恵でいっぱいに  満たす法  書物から人生の知恵をくみ続けること、これが読 書の大きな目的である。  われわれは、何も知らずに生まれてくる。歴史、 すなわち他の人間や世代によって積み重ねられた経 験を自分のものにするには、読書によるしか方法は ない。  いつの時代にあっても、人間の本質は変わらない。 精神や物質を支配する法則は、変わるものではない。  だから、われわれは書物を利用することによって、 自分の体験以外に導きの光がないまま何世紀も生き ることによって得られるのと同じだけの知識を、短 い人生の間に得ることができ、同様に、正しくもの ごとを判断できるのである。  本で読めば2時間程度で知り得るような知識を求 めて、大西洋を横断しなければならないとしたら、 無限の歳月がかかるだろうし、果ては無知のままで 死んでしまうことになるだろう。  奇人ではあるが情熱家であったバーツリン (1585−1629.デンマークの医学者)は言う、 「この世に書物が存在しなければ、神は沈黙し、正 義は眠り、自然科学は行き詰まり、哲学は不完全で、 文字は語らず、すべては漆黒の闇に包まれてしまう ことになる」と。  本を読み、それを知識の源泉とするだけでなく、 その泉から生涯を通じて知識をくみ出さなければな らない。今日読んで得た知識は、すぐに消えたり、 使い果たされたり、忘れられたりすることだろう。  だから常に、新しい知識の流れを導き、満たし続 けなければならない。常に海へ注ぎ込んでいる川が すべて断ち切られたら、海の水でさえ干上がってし まうだろう。  精神をいっぱいに満たすほど読書をしている人の、 なんと少ないことだろうか。「富をつくるのは勤勉 な人の手」なのである。 〔頭の働きを剌激し活発化する喜び  に優るものはない  良書を精読すれば、必ず何らかの刺激を受けるも のだ。効果的な読書の仕方を知っていれば、ちょう ど電流が動物の組織をけいれんさせるように、必ず 自分の思考にそれを応用することができる。  本を読んで、すぐれた人物の精神の働きにふれて も、興奮も感動もせず、自分にも何かできる、何か をやろう、という気にもならない人は、自分の身の まわりにいかなる人生の喜びが存在しているかとい うことにまだ気づいていないのだ。そんな人は、学 問をする喜びをこれから知る必要がある。  最後にもう一度繰り返しておきたい。  読もうと思った本は精読しなさい。読んだ本の内 容はしっかりと自分のものにすること。そうすれば、 やがて知性豊かな人間になれるし、価値ある知識を 絶えず増やし続けていくことができる。 〔時間に強欲になることは一番の美  恵  時間の有効利用についてはぜひとも述べておきた いのだが、これほど述べるのが難しいものはない。  美しい言葉で時の短さや時の経つ速さを述べるこ とはやさしいが、そのより有効的な利用法について 具体的なルールをあげるとなると、これは時が飛び 去っていくほど簡単なことではない。だが、それで も時間を最大限に活用しようとする気質や決断力を 授けることに比べればずっとやさしいことだ。  けちんぼうが得てして金持ちになるのは、収入が 多いからではなく、必死に貯め、用心に用心を重ね て使うからである。以下に述べるのは、小さい頃に 時間について教えられる教訓だが、その本当の意味 は晩年になるまで悟れないのがふつうである。  「われわれが自由に使ってよいことになっている天 からの授かり物の中で、時間ほど貴重なものはない のに、一方で無頓着に浪費されているものもない。 考えるとまことに不思議なことである。実際、他の ものだったらことごとくけちる人でさえ、最も大切 な収入である時間だけは極端に無駄づかいしてしま う。セネカはいみじくも言っている。『時間に強欲 になることは美徳である』と。うまく使えば、驚く ほど多くの時間を得することができるのである」  誰であれ、その必要性を痛感しなければ、時間を 有効に使おうとはしないものである。いくら多く見 積もっても、一生の間にわれわれに与えられている 時間というのはたかが知れている。その短い時間の 中でできる限り多くを学び、多くの成果をあげなけ ればならないということを忘れないでほしい。  寝るまでに何をどれだけやり遂げたいのかIこ れを、一日のはじめに確認したら、計画と実行の間 に少しも無駄な時間が生じないように即座に実行に 移すことである。一日が終わったら、公正かつ徹底 的にその日を反省し、できなかったことを確認して おきなさい。  インドの裸行者の弟子教育法を伝えるほほえまし い話には、おおいに学ぶところがある。それは2世 紀のプラトン学派の哲学者アプレイウスの伝える話 である。  「正餐の準備ができると食べ物が給仕される前に、 教師たちが一人ひとりの学生に、太陽が昇ってから どのように。時間”を活用したかたずねるのである。  何人かは、二人の人間の仲裁役になって意見のく い違いを正し、仲直りをさせました、と答える。あ る者は、親の用事をいたしましたと答え、またある 者は、自分の力で、あるいは仲間に教わりながら、 新しいことを発見しましたと答える。  しかし、もし彼らの中に午前中の時間を有効に過 ごさなかった者がいたりすれば、その者は即刻仲間 からはずされ、他の者が食事をしている間、勉強を することになるのだった」 〔充分すぎる睡眠は頭と体の機能を  低下させる  一日24時間のうち、8時間から10時間も睡眠をと らないと体がついていかなくなるような習慣を身に つけるのは、至極簡単なことである。  ふつう医者は、健康を保つには6時間の睡眠をと れば充分だと言う。確かに、枕に頭をのせると同時 に眠れるなら、床についている時間は6時間で充分 だろう。  そこで、たとえば睡眠時間を7時間なら7時間と 決めてそれをきちんと守るとしたらどうだろうか。 今よりずっと時間に余裕ができるのではないだろう か。  現在とっている睡眠時間のうち7時間を超える部 分を勉強にあてたら、もっとずっと勉強がはかどる のではないだろうか。  過度の睡眠は、時間の浪費になるだけではない。 体全体の機能も余分な睡眠で低下するし、9時間も 10時間も寝たあとでは、食べすぎたときと同じよう に厳しい勉強はできない。  そこで、睡眠時間を2時間減らすようおすすめす る。減らした2時間分だけ頭脳をより活発に働かせ れば、その2時間はより有意義に使われたことにな る。間違いなく得をしたことになる。  夕食後すぐに床につくことについては、くどくど 言うまでもないだろう。物憂い倦怠感、無気力、脱 力感、ひどい頭痛、おまけに主人の命令通りに働こ うとしない胃袋をお望みなら、腹いっぱい食べて即 刻寝たらいいだろう。夕食のたびに、そういう状態 が繰り返されることになるだろう。しかし、そんな ことを続けていれば、間違いなくあなたの将来はな くなってしまう。 〔魂のサビともいうべき「ものぐさ  病」について  親と子供が違うように、怠惰はものぐさや遊び癖 とは違う。怠惰というのは、今やるべきことをあと へ延ばそうとする無気力な性向を少しも直そうとし ないことだ。信念としっかりした責任感を持って行 動しない限り、怠惰は朝に夕にあなたにつきまとう ものだ。  怠惰に抵抗し、打ち勝つには、勉学を楽しみとす るよりは、むしろ義務づけてしまうしかない。楽し く感じられるときがあっても、常に義務と心得なけ ればならない。  高名なクエーカー教徒の医者フォザジル博士 (1732−1813.英国の医者、著述家)いわく、 「私は必死になって自分の仕事を果たそうと努めま す。それは自分の利益のためというより、私の義務 だからです。義務を果たさずして利益はあり得ませ ん。しかし、利益は常に最後に考えるようにしてい ます」。  ものぐさはいみじくも魂のサビだとよく言われる。 この癖はすぐ身につく。というよりむしろ、われわ れが生まれつき持っている性質の怠惰な一部分なの である。放っておくとこのサビは、みるみる広がっ てしまい、魂をぼろぼろにしてしまう。  ある特定のことだけに専念できるまとまった時間 が与えられない限り、立派なことなどできないよう な気がするのは、われわれの大きな誤りのようであ る。  「何日も何週間も毎日机に向かって、あの問題を検 討し、執筆する時間さえあれば、何がしかの成果を あげられるのに……」  しかし、現実には夜遅くまで起きていたり、早起 きをして断片的な時間を何とか集めるしかないわけ だが、そういうこまぎれの時間で、あなたは何かで きるだろうか。そういう時間を、うまく利用するこ とができるだろうか。  いや、あなたはできないのだ。まとまった暇な時 間ができるまで待っているに違いない。現在の環境 が大きく変わるのを待っているに違いない。だが、 それは大きな心得違いというものだ。  シャンリース夫人はフランス王妃のお相手役を務 めていた頃、いつもきっちり15分前に夕食のテーブ ルについて王妃が来るのを待たなければならなかっ たそうだ。  そして、夕食のたびのこの15分間を活用して、夫 人は結局1、2冊の本を書きあげたのである。  何か新しい有意義なことを成し遂げるのに、ふだ んの生活を大きく、あるいは目立って変える必要は ない。ただ現在、無駄にしている時間を残らず活用 しさえすればよいのである。そうすれば、たやすく 成果があがるのである。  どんな人でも自分の務めを果たすのに忙しい間は、 空き時間などほとんどない。あれば、当面の仕事を 離れて休息に使う。  しかし、そうした空き時間にも、何かやることが 一番効果的な頭の休め方なのである。手まわしオル ガンは、鍵を変え、違う旋律にしても、ハンドルを 回さなければやがて音はやんでしまう。しかし、頭 脳は手まわしオルガンとは違うのだ。  博学で知られるデジテリウスーエラスムス (1466−1536.オランダの人文主義者)は、パ トロンになってやるとの約束を信じて(それらの約 束は結局彼をだますために差し出されたようなもの だったが)、人生の半分以上を国から国へと旅した。  この哀れな学者は貧乏で、身分の高い人に頭を下 げて回らなければならなかったが、それでもそうし た苦労のあいまに常に時間を見出し、それを怠りな く生かして、ふつうの人はそんな状況では読むだけ でもたいへんだと思われるほど多くのすぐれた書物 を書き続けたのである。 〔当面の目標と直接関係があること  にエネルギーを絞り込む  第2章ですでに述べたことから学ぶことの意味が おわかりいただけたと思うし、気持ちよく学ぶため のいくつかの習慣を身につけていただけたことと思  役に立たないようなことや自分の目標とは直接関 係ないことから学び始める人が多いが、そうした勉 強は役に立たず、まずいやり方である。そうした勉 強をみごとやり通したところで、いったい何の役に 立つのか。  音楽や絵画やデザインなどは、それ自体は必要で もあり望ましいものでもある。しかし、なんと多く の者がそれらに時間を浪費し、しっかりとした知識 を身につける機会を放棄していることか。そればか りか、一生つきまとう誤った習慣さえ身につけてし まっている。  頭が疲れているときに勉強するのは、時間の無駄 である。  こう言うと、頭脳の鍛練のし始めに決まって経験 するあの不安感やイライラと、本当の疲れを混同し てしまうおそれがある。  しかし、肉体と同じく、頭脳も確かに疲労するの である。疲れているときには、馬にさえ拍車をかけ てはならないのだ。  頭脳を休め、活力を早く取り戻すには、他の勉強 にとりかかることである。 〔スケジュールの立て方は。箱に物  を詰め込む要領”で  予定に追いまくられていたのでは、落ち着いて自 由にものを考えることはできない。ぎりぎりになる までとりかからないのでは、自分自身をコントロー ルしているとはいえない。  午後になってからその日一日分の仕事をする人が いるが、午後まで仕事を引き延ばせば、午前中は気 持ちがすっきりしないし、午後は猛烈に仕事をしな ければならず、夜はそのためにぐったりしてしまう ことだろう。たとえどんなにすぐれた能力のある人 でも、慌ててやれば立派な仕事はできないものであ る。  たとえば今日、私は30分ばかり馬で遠乗りすると する。晩の食事がすんでからでも、この遠乗りがで きないことはない。しかし、それは賢明な計画とは いえないし、私にとっても馬にとっても残酷である。  午前中を無駄にぶらぶら過ごしてはならない。夜 になったら、午前中の怠けた分を埋め合わせしなけ ればならなくなるのだから。先へ延ばさず、きちん と計画をこなしていくことが、まず何よりも大切な ことである。  「それはちょうど、箱に物を詰め込むのと同じであ る。上手い大は、下手な人の半分以上もよけいに詰 め込めるものだ。心にゆとりが生まれるのも、もの ごとをきちんきちんと片づけていくことのもう一つ の利点だ。几帳面にものごとを処理しない大は、い つもせかせかしている。あなたと囗をきくひまもな い。よそへ行く途中だからだ。そこへ着けば着いた で仕事に間に合わなかったり、仕事を片づける前に またすぐによそへ飛び出していかねばならない。  几帳面さは人格に重みを与える。『あの人は約束 したら必ず守りますよ』、こうした信頼感がますま すその人を几帳面にする。なぜなら他の美徳と同様、 几帳面さが几帳面さを生むからだ。確かに約束は負 担になる。約束した以上は厳守しなければならない からだ。たとえ自分の時間は割いても、相手の時間 を無駄にするわけにはいかないからだ」 〔「器用貧乏」が結局なにも手にで  きない、これだけの理由  手をつけてはおしまいまで完全にやり遂げないよ うな習慣を小さい時に身につけてしまうと、その害 は一生を通じてますますひどくなる。  天才との評判が高かった人物が書いた原稿を友人 から手渡されたことがある。  「出版する値打ちがあるだろうか」と友人は私にた ずねた。正直に言って、答えは「ノー」だった。  何一つ完成されたものがなかったからだ。  書きかけの詩があるかと思えば、ほとんど仕上 がったソネットがあったり、3分の2程度終わった 日食のみごとな計算があったり、作曲の書き出しが あるかと思えば、半分書き終わった書簡があったり で、確かに彼の能力あるいは天才的才能さえも充分 にうかがわれるものだった。しかし、こんな中途半 端にしかものごとをやらない習慣を持っていたので は、傑出した人物になることはできないであろう。  道徳心や信念を犠牲にしなければならないのなら 話は別だが、そうでない限りは断じて、ものごとを 中途半端で終わらせないことである。これはいつで も常に守るべき鉄則である。途中で投げてしまう人 間は、せっかくの労力を水の泡にするばかりか、そ れが悪い癖となってしまう。  知りたいことや明らかにしたいことに自分の全時 間を捧げることが、必ずしも大切なのではない。毎 日少しずつやることが大切なのである。最初のうち どんなにむずかしそうに見えることでも、そのうち に必ずやり遂げられるものである。  時間を適切に配分し、有効に利用するには、決め たことを規則正しく実行しなければならない。一度 もそうした努力をしたことのない人間は、日々の仕 事がいかに種類が多くつらいものであっても、毎日 きちんと決まった時間にそれらに向かうことによっ て必ず得られる、心の落ち着きや喜びを知ることが できない。規則正しさを破ることも息抜きになり、 刺激になるかもしれないが、できるだけきちんと規 則正しくやるべきである。  歯車の歯がすべて完全にかみ合っていれば、絶え ず一定に回転する歯車は大きな力を発揮する。しか し、うまくかみ合わない箇所があちこちにあれば、 機械全体が狂ってしまい、最後にはばらばらにこわ れてしまう。だから、計画を整然と規則正しく実行 しようとしても、一つ狂いが生じ始めると、計画通 りに実行するのが難しくなる。要は、そこで投げ出 して狂うにまかせるか、あるいは断固として全力を あげてそれ以上狂いが大きくならないようにし、も と通りの計画をつらぬくかが問題なのだ。 〔こんな意味のないところに時間を  かけていないか?  時間を大切にしたかったら、低俗でつまらないこ とはしないように注意すべきである。自分に少しで も恥じるようなことは、今もこの先もいっさいやら ないことだ。  身だしなみを整えることに相当の時間を浪費して いる人が大勢いる。ひげを剃ったり着替えをするの に、1、2時間もかけるのだ。  こうした人たちは、一生の間に何を成し遂げられ るだろう。あごはすべすべして、身だしなみはきち んとしている。だが、大切なことも立派なこともや れはしない。服装や身だしなみがきちんとしている ことは感心なことではあるが、重い荷物をのせて山 を越えるのに、ピカピカに磨きあげられたマホガ ニー製の荷車では駄目なのだ。  運動については第6章で述べるが、それにしても、 活力を与え気分を爽快にするためでなく、自分のは とんどの時間をスポーツに費やしておいて、それを 気晴らしと称している人のなんと多いことか。  夕食にはソースがつきものだが、それだけで生き 延びようとすればたちまちやせ衰えるだろう。テキ ラー(1613−67.英国の聖職者と推測される)は そういった娯楽を称して、着心地の悪い、しかも似 合わない「ふさ飾りだらけの衣服」と呼んでいる。  大好きな気晴らしには要注意である。なぜなら人 は、自分の大好きなものには惜し気もなく時間を割 いてしまうものだからである。  若い時に無思慮にも独善にはしり、人生をめちゃ めちゃにするような過ちを犯し、深く後悔しなけれ ばならなくなる人がいる。  ところが、時間を浪費するという過ちは、若い時、 いや実際には生涯を通して、とりわけ犯しやすい過 ちである。まるまる一晩が雑談や酒を飲むことに費 やされる。一晩ぐらいなら短い時間のように思える。 しかし人生を終え、永遠へ旅立つときに、それらの 積もり積もった時間がなんともったいなく思えるこ とか。悔い改めるに遅すぎることはないにしても、 失ったものはもう取り戻せないのだ。  時間ほど、若者が無駄づかいしているものはない。 例外はあるだろうが、もし若者たちが他のものもそ んなふうに無駄づかいしたら、世間の人々はあきれ てしまうだろう。  われわれは公私ともに義務を怠り、時間がないか ら仕方がないじやないかと、自分に言い聞かせてし まいがちだ。しかし、無駄にされた時間のほうは、 「嘘だ」と大声で叫んでいる。  情けないことに、実に多くの人がこの貴重な贈り 物を無駄にし、死ぬ間際になってから、言葉ではと ても言い尽くせないような激しい後悔と自己嫌悪で 苦しんでいるのである。  栄耀栄華をきわめたある女王は、死ぬ間際に「わ ずかの時間と引き換えに何百万のお金を与えてもよ い」と叫んだと言われている。そうしたわずかの時 間を、彼女はいったいどれだけ無駄にしたことか。 痛切なこの叫びもすでに遅すぎたのである。 〔どこへ行っても。歓待される人”  の共通点  会話の才能を磨くことほど、われわれがなおざり にしているものはない。しかし、これほど楽しさを 増してくれる有益なものは他にない。会話の仕方を 明確に心得ている人は、おおいに活用できる道具を 持っているわけであり、それがあればどんなグルー プに入っても歓迎されるのである。  初対面の人でもよく注意していれば、すぐに面白 い人だとわかる。たとえば、乗り合い馬車に乗って いるとしよう。相手の話に耳を傾けているうちに時 を忘れ、あっという間に目的地へ着いてしまう。ど うして、その人はそんなに面白いのか。それは、そ の人の話術のせいである。  会話によって考えを伝え合うことがどんなにすば らしいことか、今さら述べるまでもあるまい。それ は、いかなる境遇にある大も楽しく暮らせるように と、神が考案してくださった手段なのだ。教えたり 教えられたりする、最もすぐれた手段である。それ は神のすべての御業と同じく、簡単なものだ。  大と大との会話のやりとりは、考えを伝達するた めの万人に共通の手段であり、これ以上すばらしい ものはない。  さて、どうやってこの手段を最高に磨きあげ、活 用したらいいのか、そこが知りたいところだ。これ を知ることは誰もが大切だと思っている。 〔「生きた教養」とはこのことをい  忠告したいとか自分を強く印象づけたいと思う友 人がいる場合、一番よい方法は直接会って話すこと だ。  まず彼の立場や望むこと、いやがることをよく考 え合わせる。何に心を惹かれているか、どんな弁明 だったら納得してもらえるか、自分なりに何をやろ うとしているのかを考える。それから相手に印象を 与えるような話題について考える。  そうして、その友人のところへ行き、声や口調に 注意しながら自分は彼の友だちだと確信させるよう に努める。あらかじめ考えておいた通りに、選び抜 いたやさしい言葉で自分の気づかいを述べ、自分の 心を打ち明けるのだ。  会話による説得に全力を使いきったとき、あなた は自分の持てる最善の手段を存分に使いきったので ある。それでも相手の心や良心に通じなければ、断 念するしかない。  あなたがある特定の問題について情報を得たいと する。そして、それについてことごとく書き尽くし た本と、それを完全に理解している友人がいるとす る。その場合、本よりもむしろ友人のところへ出掛 けていって話を聞こうと思うのはなぜだろうか。  それは、情報を得るのに最も興味深く、手っとり 早い手段は、書物ではないとわかっているからであ る。  友人のところへ行けば、その特定の問題だけにつ いて情報を求められるし、自分の反論も述べられる。 自分の知っていることと友人の言うことを比較でき、 友人の知識をことごとく自分のものにすることがで きるのである。それから改めて、その問題を理解す るために勉強するのだ。誤解していたところを正す だけではなく、それを完全にものにして自分の教養 の一部にするのだ。  自分の生活している集団、あるいは自分がその中 でより進歩できるかもしれない集団の人々の心を しっかりととらえるのに、会話以上の手段はまずな い。  会話では、誰もが相手からできるだけ多くを引き 出し、それを自分のものにしてもよいのである。そ して、今まで一度も書物に書かれたこともなければ 将来も書かれることのない莫大な量のアイデアや情 報が、教養ある大勢の人々の集まりの中にはあふれ ているのだ。  絶えず友人と率直に心から接していれば、その人 の感情は柔和な洗練されたものになっていくものだ。 すなわち、よい友人を持っている大は、その大自身 も洗練された礼儀正しい人物であり、その人の使う 言葉は、成熟した考えや感情をあらわしているよう に思われるのである。 〔よい本・よい友人にめぐり会える  ような努力をしているか  われわれは着ている服がもつ雰囲気に、感情その ものも無意識に合わせてしまうものだ。都会の人間 やそれと似たような環境にいる人間が、おちいりが ちな危険が二つある。  一つは、自分の本当の感情に反して、やさしく洗 練された言葉を使う習慣が身についているので、他 人を欺き、自分自身をも欺いてしまうということだ。 偽善は、実行しているうちにいつの間にか借りもの ではなく自分の本性のようになってしまう。いずれ にしても礼儀作法のことばかりに心をくだいている と、肝心の心がこもらなくなる。  もう一つの危険は、会話だけによって集められた 情報は、正しいとはいえないかもしれないというこ とだ。なのに、権威のある人が語ったというだけで、 その情報がありがたがられることがある。そうした 情報は、信頼できないものだ。  本だけが事実をありのままに伝えるものであるが、 その本ですら、時には事実を捏造したり、歴史を勝 手にでっちあげることがある。  知識の吸収を会話や社交だけに頼っている人間は、 たいへん頭の回転の速い人間ではあろうが、ずさん な頭の持ち主であるとも言える。そういう人は他人 を楽しませたり、相手の興味を惹きつけたり、新し いものの見方を教えたりすることはできても、その 判断の公正さとなるとあてにならないのである。  会話というのは一種の取引だから、一人ひとりが 自分の持ち前を提供しなければならない。もし自分 に充分な持ち前がなければ、取引の厳粛な法則を犯 すことになる。自分に役立ちそうな情報や精神的な 糧を他の人から得たいと思うなら、相手もあなたか ら利益を得られるように、まず自分の才能や力を磨 かねばならない。さもなければ、あなたは公平な取 引をしているとはいえない。  私のいわんとするところを、もっと具体的に述べ よう。よい忠告は常に、具体的であればあるほど、 よりためになるものだから。 〔つまらぬ雑談で自分や相手の時間  を無駄にしないこと  っまらぬ馬鹿げた会話を聞かされると、教養のあ る人はたまらないぐらいうんざりしてしまい、あい そをつかしてしまう。  ついにはその仲間から遠ざかり、社交のよさを味 わおうともしなくなる。つまらない議論を聞くため に、自分の大切な時間を何時間もみすみす浪費して などいられないのだ。そんな議論に首をつっこむ趣 味は持ち合わせておらず、いとまごいをするまで 黙って座っている。  つまらないことを聞かされるとすぐイライラして くる気難しさや、何事も精巧な凝ったものでないと 我慢できないという趣味はあまり誉められたもので ないが、一方、それと同時に、社交界でくだらない 話に花を咲かせている人たちにぜひご一考願いたい のは、つまらない会話のために知的な人たちは社交 界へ足を向けなくなってしまっている、ということ である。  しかし、知的な人たちもそこで逃げ出してはいけ ないのである。形勢を変えるぐらいの勇気を持だな ければならない。他の連中が馬鹿なことをしゃべっ ているからといって、なにも黙って座っていること はない。  どんな集まりの中にも、一人ぐらいはためになる ことを話したがっている、またそれができる人間が いるものである。  そんな人間を探し出して質問をし、必要な情報を 得ようと真剣に努力するのだ。このようにすれば、 誰だって何かを学べるはずである。ためになる会話 をする人間が少なくとも二人いなかったら、それは あなたの責任でもある。だから、退屈でつまらない 会話しかできなかったなどと不平を言うべきではな い。  すぐれた頭脳や才能の持ち主も、人の集まりでは 馬鹿げた話に加わるしかないというのは残念なこと である。  本来ならそうした頭脳や才能の持ち主は、会話を 正しい方向へ導き、その場にいる人を話に引き込ん で感銘を与えるべきなのだ。常に意識して役に立と うとする態度がなければならない。こうした態度の 欠如は、大きな欠陥である。  厳しい勉強や難しい思想に取り組んでいる人が、 特におちいりやすい危険がある。  それは、人の集まりに出ると、今までやっていた 勉強のことや考え事などすっかり忘れて、快活にな るだけではなく、時としてすっかりわれを忘れて興 奮してしまうことだ。自分の知識や才能で集まって いる仲間を教え導き、啓蒙しなければならないのに、 そういうことはついついすっかり忘れたくなってし まうのだ。そうした機会を上手に利用しなければ、 自分の人格が誤って判断されてしまうということも 忘れてしまう。  なにも私は、自分の人格、才能、学識を目立たせ るために会話を独占せよと言っているわけではない。  とんでもない。ただ、最後まで相も変わらぬこと をペチャペチヤしゃべり続けて、自分の時間や親切 に耳を傾けてくれる人の時間を無駄にするなという ことを言いたいのだ。そうしなければ、いつまで 経っても人間は賢くもならなければ進歩もしない。  威張っていると思われるようなことを、してはい けない。しかし、人の輪で重宝がられたり好かれた りするには、口数が少ないのが一番だと思い込んで いる大は、人間の本質をかなり誤解している。  確かに見ていて気持ちよく、好ましいかもしれな いが、そんな人を毎回ごちそうに招待してよかった と思う人はいまい。  集いを去るときは、来たときよりもいちだんと賢 くなっているか、あるいは他の人を賢くしていなけ ればおかしいのだ。 〔「中傷」は必ず白分のもとへ返つ  てくる  たとえその集まりが多人数の集まりであれ、少人 数の集まりであれ、そこにいない人の悪口を言えば、 間違いなく相手の耳に全部とどくものである。そし て、間違ったことをすれば、仕返しを受けるもので ある。  自分の友人をもてなしたテーブルに聖アウグス ティヌスが刻んだといわれている警句は、さすがだ と思う。   友人の陰口をきく者は何人も   同じ陰口をきかれることになる  中傷し合ったり、あるいは少なくとも相手を利す ることになりそうな場合には、割り引いたことしか 言わないのは、どうやら人間の普遍的性癖のようで ある。他人の悪口を言う人間は、他でもない自分自 身を一番欺いているのだ。自分では、名誉という椅 子からそれにふさわしくない人間を追い払うという 慈善を行なっているつもりなのだ。  ディオドロスーシクルス(紀元前1世紀頃。ギリシ アの歴史家)の本で、ある非常に活動的な小動物に ついて読んだことを思い出す。  確かシグルズはその動物をイクヌーモンと呼んで いたと思うが、この動物はいつもワニの卵を探し求 めてはそれを割ることに忙しい。この本能のさらに 変わっている点は、割った卵をけっして食べず、何 の目的もなくただ割るだけという点である。  シグルズが言うには、もしもこの勤勉な動物が ひっきりなしにワニの卵を割らなかったら、エジプ トはワニでいっぱいになっていただろう、というこ とである。というのは、エジプト人はワニを神のよ うにあがめており、自分たちの手ではけっして殺さ なかったからである。  悪口を言う人間は、この小さな動物のように公平 無私で、人類のために恩恵を施しているのだと自画 自讃しているのではあるまいか。そうやって自分は ごまかせても、他人はごまかされはしない。 〔悪口を言う人間を他人はどう見て  いるか  ずばぬけた才能や技芸を持った人間を、ことごと く殺そうとする民族がいると聞いたことがある。そ れは、いかにすぐれた才能の持ち主であれ、高い地 位の人間であれ、その人間を殺してしまえば、その 才能や技芸は殺した人間のものになると信じている からだそうだ。世間の人々は、悪口を言う人間もこ れとまったく同じ理由で悪口を言うのだということ を知っている。  もしもこの説が正しいとすれば、陰口をきく人間 にもそれなりの言い分はあるわけだ。つまり他人の すぐれた資質を自分のものにしたいから陰口をきく のだ、というわけである。  陰口は言われた本人の耳にとどくばかりでなく、 居合わせた大に偏見を抱かせることにもなる。われ われは、人の悪口となると目の色を変えて聞くもの である。だから、たとえ10箇所、誉めたところでそ れらは忘れられ、二、三の悪口のほうが人の記憶に 残ることになる。  それだけではすまない。人を悪く言えば良心が痛 む。良心は必ずはっきりととがめる、おまえは間 違ったことをしたのだ、おまえも同じように人から 悪口を言われるようになる、と。  友だちのちよっとした欠点や弱点をあざける人間 は、遠からずすべての人を敵にまわすことになる。 他人が目の前であざ笑われていると、そのときは一 緒になってあざ笑っても、冷静に考えてみれば自分 も同じような目にあわないとは限らない、と思いあ たる。しかし、そうした危険を察知できなくとも、 人間としての尊敬があれば、あざ笑われている人の 人間としての優秀性を主張せずには、いられなくな る。  注意していないと、いかに多くの陰口がたたかれ ているか気づかないものである。 〔ぐ心にもないこと”を言うことは  自分白身を駄目にする  友人や知り合いにおべんちやらを言う習慣は、自 分自身の人格を害してしまう。それは、他人より自 分自身を駄目にしてしまう。  始終お世辞を言う人間は、お世辞を言えば相手か らもそれ以上のお世辞が返ってくるだろうと期待し ているのだ。お世辞を言うことと、友人が本当に立 派に努力していけるよう個人的に激励してやること とは大違いだ。  お世辞は、人前で言われるのがふつうである。お そらく証人が必要なのだろう。人前で誉められれば、 その友人は否応なしにお返しせざるを得なくなるか らである。しかし、本当に分別に富んだ激励という のは、ひっそりとなされるのが常である。  お世辞を言われれば、相手にもお世辞でお返しし なければならなくなる。事実、人はそうするものだ。 それ以外にその恩に報いる方法がないことをよく 知っているからだ。つまり、それ以外に相手を満足 させる方法がないのである。こうして人は、うまく 他人を利用して、自分のささやかな長所を針小棒大 に誉めそやさせるのである。  したがって、お世辞を言われていい気になっては いけないのは、わかりきったことである。ましてそ れを期待するのはもってのほかである。お世辞を期 待していると、必ずその下心が見えすいてくるもの である。  われわれがいかに称讃されることに貪欲であるか Iそれはあきれるほどである。たとえそれが嘘で 只こい匸且特曷翼谷げ 〔。知性のごちそう”で人をもてな  大によっては、ごく限られた領域だけにしか関心 がないということがある。考え方が非常にせまく、 そういった人々と話をしても、あらかじめ話の行き 着く先がわかってしまう。同じ話を繰り返し聞かさ れるはめになるのだ。自分の大好きな話題があると、 どうしても無意識にそうなってしまう。  そんな人の話を聞くことほど、うんざりするもの はない。同じ話の連続、同じ称讃の繰り返し、同じ 冗談の連発なのだ。  なかには、人をことさら愉快にするような話題に ばかりふれ、その人が喜びそうなことを言ってはご まをする人間がいる。  ちょうどこれは、夕食に何人かを招待し、その人 だけが好きで他の連中が大嫌いな、あやしげなごち そうを皿に山盛りにするようなものだ。  これは侮辱されるよりもひどい。  ある男は、自分の知り合いは旧約聖書に出てくる 人物のことをことさら話題にしたがると思ったので、 いつもそれを話題にのせようとした。あるとき、彼 は「サムソンほどの力持ちはいまだかつてI人もい ないし、これからもいないだろうね」と言った。す ると相手は言った。  「そんなことはない。君のほうがサムソンより強い さ」  「まさか」  「だって、君はまたサムソンをむりやり力ずくで話 題に引きずり出してきたじやないか」  会話は、いわば知性のごちそうである。すみっこ の小さなテーブルで一人で食べるのではなく、みん なで楽しく味わいたいものだ。  だから、自分が愉快でないものは他の人も愉快な はずがないということを忘れてはならない。ありき たりで、うんざりするような話題は、努めて避けな ければならない。 〔。自画自讃”は聞いている人の心  を逆撫でする  自分自身のことは、できるだけ話題にしないこと である。誰もがそうしたがる危険があるのだが、年 をとるといっそうその危険が増す。  エイブラハムーカウリー(1818−67.英国の 詩人、随筆家)は言っている。  「自分のことを話すのはなかなか難しく、やっかい である。不面目なことを言うのは自分の心が逆撫で されるようだし、自画自讃は聞いている人の心を逆 撫ですることにもなるからだ」  どんなことであれ、人に援助を請わなければなら ない立場にある場合には、特に注意して自分のこと を話す必要がある。物乞いが本当に困窮しており、 それがはっきりわかる場合は援助してもらえるが、 必要以上に憐れみを請う態度を見せつけられれば、 せっかく手を差し伸べようと思っていた人でさえ、 うんざりして背を向けてしまう。  自分のことや自分の友だちのことや自分の業績の ことは、できるだけ口にしないことである。さもな ければ、誉めてほしいのか憐れんでほしいのか、そ のいずれかを期待しているのだと人は解釈する。  あるすぐれた文筆家は、世の中に大きく貢献しな い限り自分については語らないようにすべきだ、と 提案している。  確かに、そうでない場合もあることはある。ただ しそれは、自分の意見を述べれば必ず何らかのかた ちで話題に貢献することになる場合である。 〔いかにも”とってつけたような”  言葉を使っていないか  うっかりしていると、使い古された冗談を新しい 冗談であるかのように言ったり、はるか昔に誰かが 言った文句を自分が初めて考え出したことのように 言ってしまう場合がある。どこでそのしやれた名文 句を耳にしたのか、読んだのか、それは記憶になく、 名文句だけが頭に残っているのである。  日常会話ではむしろ、さりげなく話すほうがよい。 頭が切れる振りをしたり人を笑わそうと無理をして も、どうせ長続きはしないのだから。  背伸びした会話をしようとすれば、そのための話 題をどうしてもよそから借りてこなければならなく なる。借りものの話題ばかりで話していると、その うちにそれが借りものだということをすっかり忘れ てしまい、平気で口にするようになる。  ユーモアや機知を発揮したいという誘惑に駆られ ているのなら、充分気をつけないと失敗しやすい。  機知やしやれた文句を考え出す能力は、ある程度 培うことができるものだ。そして、とっさの機転が 利いたひと言に、一座の者全員が突然笑いのうずに 巻き込まれてしまった体験は誰にでもあるだろう。 しかし、もしそれがあらかじめこっそり計算された ものだとわかってしまうようなものだったら、座は しらけてしまったはずだ。  しやれた文句には、多かれ少なかれ、この手のこ とがいえるに違いない。すぐれた才知に富んだ言い 回しには、あたかもその場で思いついたかのように 思わせるものがあるのである。 〔肖葉使いが巧みな人は、ここに一  番こだわっている’・  機知を利かそうとばかりしていると、二つの危険 が生じる。  一つは、あまり武器を鋭くすると必ず誰かを傷つ けることになるということだ。いくらそうならない ようにしても、最高の冗談や鋭い警句は、必ず他人 を傷つける。敵をつくり、恨みを買うことになる。 機知を利かそうとする者は必ずといっていいほど敵 をつくることになるのだ。「友だちよりも冗談をと る」人間は、間違いなく友情からくるおせっかいに 悩まされることはなくなるだろう。  誰もが自分に一風変わった癖や弱みがあることを 自覚している。しかし、それは自分という人間の一 部分なのである。だから、それらをやりだまにあげ て傷つけるような人間を好きになることはできない し、好きになるつもりもない。そうした弱点は、誰 もが持っている。  人によっては、「貧乏な親戚」を恥ずかしく思う 者がいるが、同じように自分の弱点を恥ずかしくは 思っても、からかわれるのは好まないものである。  自分の優秀性を意識するあまり他人をあざけるよ うな人間には、誰しも反発を感ずる。そういう人間 は笑いを巻き起こし、人々にちやほやされるだろう が、ちやほやしてくれる人間は笑いものにされない、 という暗黙の了解があるからちやほやするのだ。  機知を利かそうとする場合の第二の危険は、自分 の頭脳の働きを不健全なものにしてしまうというこ とだ。  機知を利かそうとすれば、どうしても風変わりな 片寄った連想をするようになる。ふつうの人が思い つかないような考え方をするようになる。見るもの すべてが今までとは変わったふうに見えてきて、そ のうち風変わりな連想から抜け出せなくなるのだ。 結果として、頭脳は知識を得たり交換したりする、 まともな釣り合いのとれた機能を果たさなくなって しまう。そして、せいぜい二流どころの人間になる のがおちで、変わった連想をする以外、何の取り得 もない人間になってしまうだろう。 〔「メイソン11の法則」−人間関  係を好転させるルール  ねたみを買うような話は避けること。それには素 直な気持ちが大切である。  人と話をするときは、明るく振る舞うこと。それ が習慣になれば、いつも人に気持ちよく迎えられる。  人はそれぞれ多くの欠点や憂鬱な問題をたくさん 抱えているから、ほがらかな友だちと接するとほっ とするものである。  どんなに気難しい人間でも、あるいはひねくれた 人間でも、子供たちの楽しげな片言や歓声が聞こえ れば、足を止め、ほっと心がなごむものである。陽 気な声でほがらかに話すようにすれば、自分自身も まわりの人々も気持ちがいい。  繊細な心の持ち主たったクーパーの夕方のよき話 し相手は、彼が飼っていたウサギたちだった。彼は、 ウサギが陽気にはね回るのを見て、自分の悲しみを しばし忘れたものだと述べている。  次にあげたのは、賢明なメイソンがわれわれに与 えた会話に関する規則の要約である。  (1)本と同じく、利益を得られる仲間を選ぶこと。 自分を向上させ、楽しませてくれるものは、最良の 本と最良の仲間である。仲間が少しもためにならず 楽しくもない人たちばかりだったら、自分が仲間た ちのためにそうなるべく努力すればいい。利益を引 き出すことも与えることもできなければ、そんな仲 間からはすぐ立ち去ることである。  (2)仲間の人格を学ぶこと。自分よりすぐれてい れば質問をして、熱心な聞き役にまわること。自分 より劣っていれば彼らの力になってやること。  (3)座が沈んだら、誰もが何かしら発言できるよ うな幅広い話題を提供して、場を盛り上げること。 前もって適当な話の種を仕込んでおくことも必要だ ろう。  (4)新しく重要なことやためになることを聞いた ら、すぐメモ帳に書き留めておくこと。そして、 とっておく価値があるものはすべて残し、つまらな いものは全部捨ててしまうこと。  (5)仲間の間で、いてもいなくてもいいような存 在にならないこと。楽しくするように努めれば、何 か受け入れられるような話題が見つかるものである。 黙っているのは間違っている。思いきって発言して みれば、たとえありふれたことであっても、完全に おし黙っているよりは喜ばれるはずだ。ありふれた ことがかえって何かを生み出すきっかけとなること もよくあるものだ。静まりかえってしまったら、な んとしても沈黙を破ることである。みんながほっと して、あなたに感謝することになるだろう。  (6)慌てて騒がしく発言しないこと。話がどんど ん進んでいっても、異なる観点からながめて自分で 問題を明確に把握するまで待つこと。そうすれば自 信を持って発言できる。立派なことであっても、決 して同じ仲間に二度も繰り返さないこと。  (7)人それぞれが自分の欠点や過ちに対して、あ なたとは違った観点を持っているということを頭に 入れておくべきである。したがって、仲間の前で しょっちゅう気安く人に反論したり批判しないよう に注意すること。  (8)仲間が陰口をたたいたり非常識なことを言っ たりしたら、囗で注意できる場合は注意し、それで 駄目な場合は口をつぐみ、それでも続くようだった らその場を立ち去ること。  (9)自分はその道の専門家であるかのごとく、あ るいは自分だけが人よりすぐれた才能をそなえてい るかのごとくふるまって、仲間の注目をあびようと しないこと。  (10)馬鹿馬鹿しく思える話にも辛抱すること。ま るつきりそうだとは限らないはずだし、何かしら学 べることがあるかもしれない。  (11)のびのびと気楽な気分を保ち、他の人もそう させること。そうすればもつとためになる考えが浮 かぶかもしれない。 〔刃は冷たいほどよく切れる  もう一つ加えたいことがある。それは仲間の間で けっして感情をむき出しにしないことだ。たとえ意 地悪をされたり怒らされたりしても、そこで興奮し てはならない。どんなに大声で怒りを爆発させたく とも、完全に冷静を保ちなさい。  「冷たい刃ほど切れる」のだから、必ず論争に勝て るはずである。  挑発に対して冷静に立ち向かう人のほうが、必ず 仲間の支持や尊敬を集める。  「すぐカッとなって喧嘩腰になるような人間は、 放っておけばいい。そういう人間の喧嘩相手はすぐ に見つかる。彼以上に強い者があらわれて、あなた よりもうまくやっつけてくれる。口論好きな人間は、 一生決闘をし続けなければならない」  論争は通常、自分の意見を強く押し出し、勝利を めざして争われるものであり、仲間の間で行なわれ るべきものではない。どちらかが傷つかなくてはす まない。議論がそこまで昂じたら、すぐにやめるべ きである。  そしてこの章を終える前に、読者諸君にぜひとも もう一度思い出していただきたい。考えや意見を対 話によって交換し合えるということほど、人間に与 えられたすばらしい贈り物はないのだ。これは永遠 の慰めでもあり、たいへん役に立つ道具でもある。  また同様に、口はわざわいのもとともなり得る。 良くも悪くもなり得る道具である。したがって、わ れわれの責任は重大である。  言葉ににじみ出る感情は、多かれ少なかれ他の人 に影響を与える。それが正しい影響なら結構だが、 そうでなければとんでもないことになる。  この贈り物の使い方には重大な責任が負わされて いることを、一日でも忘れてはならない。  章   を.7 6  力叨  一   気番     淞一 〔未来を棒にふりたくなければ運動  をせよ  薬は、必要に迫られるまで飲まないものである。 しかし、運動はわれわれにとって絶やしてはならな い薬のようなものだ。  今のあなたは、食欲も旺盛で体力もあり、健康そ のものであるとしよう。気力も充実している。しか も、時間は矢のように過ぎ去る。  だったら何も、わざわざむりやり毎日運動をやる 必要などないではないかということになる。それは、 誰にも負けないぐらいしっかり歩ける足があるのに、 重い松葉杖をついて歩くようなものだからだ。  痛風や胃の不調に苦しみやすい人には食養生をさ せればよいのだが、あなたはその必要性を少しも感 じてはいない。それどころか、養生しても回復しな いぐらいにひどくなってしまうまで、その必要性を 感じないのではないだろうか。  この点に関しては今のあなたの状態をすでに経験 し、それがよくわかっている人々の証言に耳を傾け なければならない。  彼らは言うだろう。運動するとかしないとかは、 あなたが勝手に決めることではない。運動はしなけ ればならないのだ、さもなくば未来を棒にふること 〔運動に費やす時間は。能率”で十  二分にカバーできる  仕事や勉強をしなければならないというあせりを 感じるので、あるいは何か不利な条件のもとでそれ をしているので、とても運動する時間などない、と あなたは言うかもしれない。  私にいわせれば、あなたは重要な点を計算違いし ている。ためしに、規則正しく活発な運動を毎日、 1ヵ月間実行してみるとよい。そうすれば、運動を しないときと同じ量の仕事を、そして同じ量の勉強 を、はるかにたやすくできるということに気づくは ずだ。その差には自分でも驚くことだろう。  こうして肉体に活気を与えるために使われた時間 は、それだけ頭脳の働きがよくなり仕事や勉強が快 適にはかどることによって、埋め合わせられるので ある。 〔肉体の機能すべてを満たし、頭脳  の働きを活発にする最高の方法  私の経験から言って、最もいい運動は、何よりも 歩くことだと思う。バカン(1729−1805.ス コットランドの医学者)も、最も推薦できる運動は歩 くことだと主張している。というのは、歩くことに よって、他の軽い運動に比べて多くの筋肉を使うこ とになるからである。  散歩の利点は、手軽で道具などは一切いらないと いうことである。戸外で行なわれるから、肺は新鮮 な空気を吸い、目は丘や谷や木や花など、生命のあ るものないものを観察できる。目にするもの耳にす るものすべてが頭の働きを活発にし、意欲を湧かせ る。  もう一つ散歩の利点は、友人と一緒に歩くことが できるということであり、楽しい会話で心がくつろ ぎ、はつらつとした気分になれるという点である。 これはたいへん重要な利点であり、散歩以外からは 得られないものである。同じ音を聞き、同じものを 見、そのことを語り合って歩けば、散歩も楽しくな り疲れも軽減される。  だから、散歩はできるだけ誰かと一緒にするよう にすべきだ。2、3週間、誰かと一緒に規則的に散 歩してみれば、その効果に驚くだろう。仕事や勉強 が一段落したらできるだけ長い散歩をするようにし て、健康な体をつくるように心掛けることである。  こうした運動習慣に、体はすぐ慣れるものである。 そして、まだ散歩の時間が来ないかと、じきに待ち 遠しくなるだろう。 〔たとえ少しでも。くり返し”に優  る自己鍛錬法はない  わざわざ医者のところへ行って、どうしてふだん 体を使わずにいると、運動することを考えただけで も大儀になってしまうのか、などとたずねるには及 ばない。  答えは明らかだ。  書物を相手に何週間も自分の部屋に閉じ込もって いれば、2、3キロ歩くと考えただけでも疲れてし まうものだ。体を動かさなければならないと思った だけで、筋肉や関節がちぢこまってしまうのだ。手 足がすぐに痛みだし、それ以上無理をしてまで運動 をしようという気にはならなくなる。  運動を毎日する習慣は、先へ延ばすと日ましに実 行するのが難しくなる。したがって、毎日きちんと 一定の時間運動しない者は、やがてまったくやらな くなってしまう。運動を楽しく、あるいは少なくと も苦痛と感じないでやるには、毎日欠かさずやるし かないのである。  雑誌はその時々に、気の向くままに手にとって読 んでも面白いことがあるが、運動はそのようなわけ にはいかない。運動は一種の負荷だからである。  わずかばかりの運動をやってみて、これではやら なかったほうがよかったと思う者が大勢いる。事実、 わずかの運動で気分が悪くなり、やはり運動は自分 に合わないのだと、分別顔をして結論を下してしま う者がいる。  そういう人間は、どうしてみんなは毎日運動がで きるのだろうと不思議がるのだ。  運動が楽しくなるかならないかは、運動自体の軽 さや激しさで決まるのではなく、毎日やるかやらな いかで決まるのである。  精神、そして特に肉体は、規則的に運動しないと 一生涯、充分な力を発揮せずに終わってしまうこと になりかねない。この点をよく考えてみれば、運動 嫌いの者も運動しないではいられなくなるだろう。 〔こんな「毎日のルール」で、不幸  は駆け足で逃げていく  運動を有益なものにするには、次の点を守らなけ ればならない。 @毎日規則的に実行すること。  自然の女神はわれわれに空腹感を感じさせること によって、体力の消耗に見合うだけの食物を毎囗と るようにご配慮くださっている。しかし、運動しな ければそれらの食物を栄養となるように適切に分解 吸収することができない。食事と同じく、規則的な 運動をすることである。いかなるもっともな口実を あげようとも、運動できないはずはない。 A気持ちよく楽しんでできるものでなければなら ない。  ペダルを踏むことは規則正しく体を動かし、体力 を必要とする運動だろうが、退屈きわまるもので、 とても長続きするものではあるまい。それでたとえ 鉄のような筋骨がつくられても、心はふさいでやり きれない気持ちになってしまう。  運動に喜びを見出すことが、まず第一の条件であ る。散歩はいい運動だが、ひきうすを回転させる馬 のように歩くのでは駄目だ。乗馬はいい。だが、乗 るのが木馬では駄目だ。運動は必ず楽しんでやるこ とである。どの時代の作家も、楽しみは娯楽の対象 物の中にあるのではなく、自分の心の中にあるもの だ、といっている。心が楽しいと感じれば、すべて のものが娯楽の対象となるのである。 B精神をリラックスさせるものでなければならな い。  哲学は不幸がおそっても動揺せず堂々としている ことを教え、信仰はそれらを諦観し耐える力を与え てくれる。しかし、健全な精神と肉体の持ち主は、 不幸のほうで避けていく。われわれは精神も肉体も 健全に保ち、自分の境遇を現在も将来も何の恐れも ない好ましい状態にすべく努めなければならない。 しかし、精神が弦楽器の弦のように常に張り詰めて いたのでは、そうはいかない。勉強のことや心配事 などぱっと忘れてすぐにリラックスできる人間だけ が、本当に有意義な知識を自分のものにできる。 〔自分の「生き方のルール」にもっ  とこだわりを持て’・  人の評判を気にし、また求めてばかりいると、そ こには悩みの種や失望が出現する。それらは実際、 わが身にふりかかってくるまではわからないが、ひ とたびそれがふりかかってくると、本当にみじめな ことになる。有名になりたいという欲望にそそのか され、そのうち熱にうかされたようになり、称讃や 名声に対する欲望はますます大きくふくらんでいく。 そして、その欲望が強ければ強いほど、それが得ら れない場合の苦悩もよけいに腹立たしく感じられる。  人に誉められて有頂天になっていると、それが消 えた時には、それだけよけいに落胆もひどく、やり きれなくなるものなのである。  要するに、フットボールのように他人に運命をも てあそばれることになるのだ。  人はその気になれば他人の幸せを奪うものだし、 称讃をあびせるよりは非難をあびせるほうを好むも のだからである。  さらにもう1点。他人の称讃というのは、たとえ それが得られても、必ずしも幸せをもたらすもので あるとは限らないし、一方、それがなくなったとき には必ず、不幸をもたらすものだということである。  野望を砕かれた人間は、みじめなものである。 失ったものが本当にすばらしいものだからではなく、 それがすばらしいものだと長年幻想を抱いてきたか ら、よけいにみじめなのである。  ここに、将来を非常に嘱望されていたある人物が、 栄光だけを追い求めて生きたためにたどった人生の 哀れな末路がある。  この人がまず目標にしたのは、社会的な地位を築 くことだった。そのために日夜、骨身を削った。彼 はすべてぬかりなくやっていた。が、あと1歩で成 功たというときに、彼をそのまま昇進させたら自分 の身が危うくなると考えた彼の親友が邪魔にはいり、 彼が昇進できないような手段を講じた。  この哀れな男はすっかり落胆し、深く傷ついてし まった。もちろん、その昇進の選定にもれたことが それほど重要なことであるはずはなかったのだが、 彼自身はそのことを恐ろしく深刻に受け止め、気に 病んだのである。その影響で彼は健康を著しく害し、 1年後には失意のうちに死んでしまったのである。  こんな人生が、果たして生きがいのある人生だろ うか。いったいこんなことが、人生の最終的な目標 といえるだろうか。 〔常に満ち足りて大きな。ゆとり”  がある人生を’・ 「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでい かなければならない。うわべだけ光るものか、ある いは内から本当に光を発するものをI人の世の称 讃か、あるいは神の称讃をI求めて」  われわれが魂を「ふくらませて」目ざさればなら ないこの「何か大きなもの」とは、本当に「大きな もの」なのかもしれないし、あるいはわれわれが勝 手に「大きなもの」と思い込んでいるだけにすぎな いのかもしれない。  しかし、いずれにしても、何を本当に人生の目標 にすべきであるかは、たいへん難しい問題であると いうことである。そして、キリスト教の精神や教え は、人がその能力を発揮する目標を持たずに生きよ、 とはけっして言っていないということである。  快楽や富や人々の称讃に対する欲望を抱くなとい うことは、心を冷たくわびしい状態にしておけとい うことではない。心をほがらかに温かくするものを 取り除き、温かく気高く他人を思いやることのでき ない心を持てと言っているのではない。  とんでもない。私か願うのは、計画を立て目標を めざして進む間は、常に満ち足りて安らかな気持ち を保ち、自分は無為に生きているのではないのだと はっきり自覚するようであってほしいということだ。 そうすれば、魂は崇高で本当に質の高いものへと成 長し、あなたが清らかな光に照らされた運命をた どっていることがわかるのである。                      (ず) 訳者解説   −私の一生を決定づけたすばら    しい出会い                 渡部昇一  ジョンートッド『自分を鍛える’・』(Todd's Student's Manual SE)F-IMP」OVEMENT)の翻訳を 世に送るにあたって、この本を私に紹介し、かつ、 本自体を私に贈ってくださった上智大学の故神藤克 彦教授(教育学)の記憶から始めたいと思う。  ちょうど私か上智大学に入学した頃、東京はまだ 焼野原で、今の上智大学ソフィア会館のあるあたり にはカマボコ型兵舎の寮と教員宿舎が10棟ぐらい 立っていた。そこに何人かの先生方が住んでおられ たのであるが、神藤先生も戦後間もなく関西から上 京されてそこに住んでおられた。学生寮の生徒たち は、夕食後よく同じキャンパスの中にある神藤先生 のお宅をお訪ねしたものである。先生はいつでも快 くわれわれを迎えてくださった。  田舎にいたときは、私は英語の恩師である故佐藤 順太先生のところにしよっちゅう出入りしていたが、 東京ではそれと同じように神藤先生のお宅にお伺い していた。神藤先生は佐藤先生と同様、いわゆる旧 制中学から旧制高校、旧制大学というスムーズな コースをとらずに、独学の期間を有するコースを とって教職に就かれた方であった。  今から考えると、ひと囗に先生といっても、ス ムーズに、いわゆる規定のコースを通った先生方の 人生の悩みというものは、どこか私の持っている悩 みと波長が合わないところがあったように思われる。  ところが、佐藤先生にしても神藤先生にしても、 独力で学び、独力で道を切り開くというプロセスを 持たれた方々であったので、私か悩むようなことを かつて悩みとされたご経験があり、そのさり気ない 片言隻語が、若い私にとって天来の指針となる思い のすることがしばしばあった。  神藤先生のお宅には多くの学生が押しかけていた から、私一人が特に親しくしていただいたとはいえ ないと思うけれど、やはり何か特別な共感あるいは 親和性が働いていたのではないかと思う。  たとえば私か大学3年生の時(昭和27年頃)、 ビーリー教授という方が、パブリックースピーキン グのコースをお持ちになった頃のことである。この 方はアメリカでは学長も務められた偉い先生とのこ とであった。その授業でビーリー先生は、デールー カーネギーの『How to Win Friends and Influence People J』(『人を動かす』創元社刊)を参考書として 紹介され、この1冊さえよく読み、理解できればそ れで充分であると言われた。  デールーカーネギーは、どちらかといえば通俗的 な本である。戦前の大学のアカデミックな気位の名 残りをとどめていた当時の大学の雰囲気においては、 参考文献として出されるような種類の本ではなかっ たと思うが、そこは本場のアメリカ人の先生だけ あって、パブリックースピーキングはこれに限る、 とわれわれにすすめてくださったのである。  私はさっそくその古本を神田で見つけて読んでみ たのだが、非常に面白かった。それで神藤先生を訪 ねた折に、こういう面白い本があるということを話 題にした。  すると、学部の学生と教授という関係を離れて、 神藤先生は目を輝かせて「その本は面白そうだな」 とおっしやった。そして、しばらく経ってからまた お会いしたとき、先生は「私もあの本を買って読ん だけれども、実にいい本たった」と言われた。それ から先生と私の間ではデールーカーネギーとその人 生観、またアメリカのこうした本のよさなどを称え るような会話がよく交わされたものである。  当時、日本で出版されていたカーネギーの翻訳は 簡約版であって、全訳ではなかった。そこである時、 神藤先生と私の間で、「こんないい本が全訳でない のは惜しいですね」というような話になり、「ひと つわれわれで全訳を出しましよう」ということに なった。  私は先生の代理としてデールーカーネギーに手紙 を書いた。すると、さっそく返事がきた。それによ ると、翻訳権はカーネギーと昔から個人的関係のあ る某氏に与えてあるので、その方と交渉されたい、 ということであった。そこで先生が出版社にその旨 を問い合わせたところ、出版社のほうでは、確かに その人と関係があるので簡約版を出しているわけだ が、今のところは全訳を考えていないと答えてきた ので、そのままになってしまった。  しかしその数年後、カーネギーの全訳が出て、今 でも広く読まれているようである。カーネギーの本 は、それを最初にすすめてくださったビーリー先生、 および一学生から名前を聞いたその本をさっそく取 り寄せて読み、一緒になって訳そうかとおっしやっ てくださった神藤先生とともに、懐かしい思い出で ある。  また神藤先生には幸田露伴の『努力論』(『運が味 方につく人 つかない人』)や『修省論』(『得する 生き方、損する生き方』〈共に渡部昇一編述、三笠 晝房〉)の価値を教えていただいた。先生が「面白 い」とか「これはよい本だ」というものは、私はた いていすぐに読んで、次にお訪ねするときはそれを 話題にした。このようにしていつの間にか、先生の 愛読書の多くは私の愛読書にもなった。まことにあ りかたい個人的な読書指導であった。  そのようなわけで学部の頃から大学院を通じ、神 藤先生およびそのご家族とは、単なる教師と生徒の 関係を越えて親しくしていただいていたと思う。 〔そのまま知的活力となる「生き方」  実践の書  大学院に人つたばかりのある時、「勉強の仕方の 本としては、私はこれが一番よいものだと思う」と 言って、先生が1冊の本をご紹介くださった。それ が本書『自分を鍛える’・』であった。  それは、ドウォデシモ判(文庫判ぐらいの大き さ)のabridged版、つまり簡約版で、出版社はロン ドンのThe Religious Tract Societyとなっていた。扉 には「自己改善」(Self-Improvement)と書かれてあ り、その下に書評らしきものが抜き出してあった。  そこには「本書は、長きにわたってアメリカおよ びイギリスの読書子の前に置かれてきたのであるが、 それは、健全なる常識・賢明な知的生活術・穏健な 宗教的教えに満ち満ちているので、さらに続けて販 売されるに値するものだと思う」とある。この「健 全なる常識」冫呂乱common sense)というのは、 あとで読んでみると、まことにその通りなのであっ た。  先生はその小型の本を取り出し、「これは君向き の本だからあげよう」とおっしやった。私はそれを ありかたく頂戴し、さっそく寮に持ち帰って読み始 めた。それは、実に簡潔で、具体的で、そのまま役 立つ教訓に満ちていた。しかもその健全さは間違い なく伝わるものであって、なるほどたいした本だと 感心したことは今でも記憶に鮮やかである。  人生論を説いた本として、私はカールーヒルティ (1833−1909.スイスの法学者。『幸福論』『眠ら れぬ夜のために』などの一般的著書もある)とかアレク シスーカレル(1873−1944.フランス生まれ の外科医、生理学者。ノーベル生理学医学賞受賞。主著 に『人間−この未知なるもの』『人生の考察』〈共に渡 部昇一訳・三笠書房刊〉)を高く評価するが、それは あくまで人生観に関するものであった。  対してドットのこの本はそれのみならず、勉強の 仕方から体の鍛え方、目の健康保持に至るまで、き わめて具体的であるのが特色である。これは、私に もおおいに役に立ったが、何かを学ぼうとするすべ ての人にたいへん参考になるだろうと思われる。  また、ハマトンの『知的生活』(渡部昇一、下谷 和幸訳)においても、その第1章に肉体的基礎につ いて具体的なことが掲げてあるなど、形而下的な面 についての参考になる点が多いが、ドットのほうは そうした実践的な面がさらに強く打ち出されている。 たとえば語学習得法を一つとりあげても、『知的生 活』の技術的な面をさらに明解に、細部にわたって 具体的に述べているのがきわだった特色である。 〔不幸な生い立ち・環境で鍛えられ  た不屈の精神  同じ大学の教壇に立ち、私にこの本を与えてくだ さったときの神藤先生とちょうど同じ立場になった 者として振り返ってみると、もし人生について真面 目に考えている人がいて、私に生き方、勉強の仕方 に対する忠告を求めてきたとするならば、やはり ドットは、ぜひすすめたい大事な本の1冊になると 思う。  では、ジョンートッドとはどういう人物で、その 著書はどのようなものであったろうか。まず伝記的 な側面を、フレデリック・T・パーソンズの伝記に したがって簡単に述べてみよう。  ジョンートッドは1800年10月9囗に、アメリ カのニューイングランド地方に生まれた。彼の先祖 は、17世紀初頭にボストン地方に入植したカルビン 派牧師クリストファー・ドットであり、そのI家は ニューヘイブンの植民地の最初の頃の入植者であっ た。したがって、「名門」という言い方が適当かど うかはわからないが、当時としてはニューイングラ ンドにおける草分け的な一種の名門といえる家柄で あった。  ドットは家庭的には恵まれず、彼の父は彼が6歳 の時に亡くなり、母親は彼を産むとすぐに精神異常 を起こし、長い間正気に回復することがなかった。 そのためドット少年は、幼い頃、さまざまなところ を転々としている。詳しいことはわかっていないが、 おそらく親戚をたらい回しにされていたのではない かと推測される。  牧師の子であったのでたぶん教会から奨学金を得 てのことと思われるが、彼は18歳でイェール大学に 入った。イェール大学は当時、牧師の後継者を育て ることを主たる目的としてつくられた大学という色 彩が濃かったのである。すでに述べたような家庭の 状況のために、入学の準備も充分にできず、またお 金もなく、しかも絶えず病気に悩まされながらも、 彼は22歳の時に大学を優等で卒業した。  それから、アンドーヴァーで神学を学び、次にマ サチューセッツ州グロートンで説教を始めた。そし てカルビン派の組合教会の正統派から牧師になるよ うに呼び掛けられたが、教区に受け入れられなかっ たため、新しい教会をつくり、1827年1月、27 歳の時に牧師に任命されたのであった。彼はここで 33年まで働いたが、それからマサチューセッツ州 ノーサンプトンに移り、そこで新しくできた教会の 牧師になった。  彼は新しい教区の人々を説得して、その教会の名 前を、彼の尊敬するニューイングランドの有名な神 学者ジョナサンーエドワーズからとってエドワーズ 教会とした。  エドワーズはドットより約100年前に生まれ、 イェール大学の卒業生で、しかもプリンストン大学 の学長になる前は、このノーサンプトンで牧師をし ていたことがあるから、特に親近感があったのであ ろう。このことからも、彼が新しい哲学を考慮した 知的なカルビン主義を保持していたことがわかるで あろう。  エドワーズ教会で3年間牧師をしたのち、彼はそ の頃できたばかりのフィラデルフィアのクリント ンーストリートにある組合教会に呼ばれた。これは、 その町ではその宗派の最初の教会であった。その教 会が設立された時に行なわれた彼の説教は、『組合 主義の原理と結果』というタイトルで出版されたが、 他の宗派をかなり厳しく批判していたので、いろい ろ反感を買うということもあったようである。  この新しい仕事は、はじめはうまくいっていたの だが、しかし意見の対立が生じたり、当時の経済的 な不景気などのために失敗し、ドットは1842年 にマサチューセッツ州のピッツフィールドにある第 1組合教会に着任することになり、そのまま生涯そ こにとどまることとなった。  彼がピッツフィールドにおいていかに重要な人物 であったかは、たとえばブリタニカ百科事典第H版 の「ピッツフィールド」の項目を引けばわかる。そ こには、こう書かれている。  「1842年から72年までの30年間、ピツツフイー ルドには、多数の本の著作家であるジョンートッド 師の住居があった。彼の主著には『子供への説教』 ()ectures to Children乙834;2nd series( 1858)'『自分を 鍛える’・』(Todd's Student's Manua二835)などがあ り、広く読まれている」  アメリカの田舎の小都市の項目に4行にもわたっ て名前が出てくること自体、いかに彼がニューイン グランドの名士であったか、またその著作が、当時 いかに広く読まれ、影響力を持っていたかを示すも のと言ってよいだろう。  ピッツフイールドにおもむいた時、彼はまさに脂 ののった盛りであって、ただちに西部マサチュー セッツの指導的な地位に就き、その影響力は自分の 教会の内外に広く及んだのであった。  宗教的な立場からいえば、彼はジョナサンーエド ワーズの知的カルビン主義から少しもはずれること はなかったが、教義にこだわることはまずなく、そ の説教には生き生きとした想像力、適切な比喩が数 多く含まれ、話し方には奇妙な熱が込もっていて、 非常に魅力的なものだったと伝えられている。彼が 熱心に推進した多くの改革を経て、教会の信者数は 増した。絶えず節制・禁酒をすすめ、また海外への 布教をも熱心に支持した。  バークシャー医学教会は彼を名誉会員とした。ま た、彼はマウントーホーリオーク神学校設立者のI 人でもあり、長年にわたリウィリアムズーカレッジ の理事だった。 〔「人生論」を書くに最もふさわし  い、著者の経歴と体験  ドットを有名にしたのは、なんといっても彼の数 多い著書である。その中の主なものを二、三あげて みよう。  彼は学生の頃からすでに雑誌のためにいろいろ書 いていたし、アンドーヴァーにいた時も、雑誌の編 集者になれと2回も誘われている。  彼が最初に名をなした本は、『子供への説教』 (1834)であるが、これはただちに成功をおさ めた。20万部も出版され、しかも5力国語に翻訳さ れた。当時のアメリカの人口の少なさ、読書階層の 少なさを思えば、この20万部という数は、今でいう なら500万部の大ベストセラーに匹敵すると言っ ても過言ではないであろう。  そしてその翌年出版された本書、つまり『自分を 鍛える’・』は、翻訳も広く行なわれ、売れゆきもよ く、前作以上に彼を有名にした。序文でもふれたが、 本書はロンドンだけでも15万部売られ、彼の本の中 で最も影響力のあった1冊である。  彼はたゆまずいろいろな雑誌に寄稿し、多くのス ケッチ、物語、質疑応答書、バイブルを学ぶ学生の ために書いた。  彼は説教壇においてはいたって厳粛であったが、 その他の場所では稀に見るほど社交的な才能もあっ て、テープルーズビーチなどもしばしば頼まれてい たようである。  家族関係では、1827年3月H囗に結婚し、9 人の子をもうけた。そのうちの一人は同じく牧師と なり、二、三の著作を残した。  前述したように、ドットほど不幸な幼少年期を過 ごした子供というのは、ちょっと考えることが難し いぐらいである。  父親はわずか6歳で亡くなっており、母親は自分 か生まれた時から精神疾患を患っていた。そのため 彼は、他人の家を転々として育ち、しかも病弱で あった。栄養状態はよくなく、少年期は勉強の機会 も恵まれたものではなかった。  こんな彼を支えたものは、親譲りのキリスト教的 な精神と、人生に対する明るい建設的な態度である。 これによって彼は、開拓時代の厳しい環境にありな がら、信望ある牧師として活躍するかたわら広く 人々に読まれるような有益な著書を数多く著わし、 70歳に及ぶまで不断の著作活動を続け得たのである。  これから見ても、彼こそば、人生論を書くに最も ふさわしい資格の持ち主の一人ではないかと思われ てならない。前述したように、私自身の青年時代の 印象から言っても、スムーズに学校生活を通り抜け たような先生の話は、苦しんでいる人間にはあまり ぴんとこないものであった。しかしドットの書いて いることは、直接自分の人生を語っているわけでは ないけれども、ものの見方や感じ方が、悩める者に もいつの間にか参考になるような発想になっている ことが特徴である。  たとえば彼の本に、知力の鍛え方のみならず、健 康の保持の仕方についてもこまやかな配慮がなされ ているのは、彼自身が病弱でありながらもそれを克 服してきわめて活発な著作活動をし、長寿をまっと うしたという事実の裏づけを考えるときに、それは 単なる健康論ではなく、実証された健康術としてわ れわれが参考にしてもいいものであると思う。  今日、心理学、生理学のさまざまな新しい発達に 基づき、知力の開発の仕方、健康の増進の仕方につ いていろいろ言われることが多いが、ここには素朴 でありながら強力、しかもどこを参考にしても必ず 読者に好影響を与えるという、危なげのない人生の 知恵が示されているのである。  さてここで、参考のために、『アリボン著作大事 典』によるドットの主著一覧をあげておこう。 Iジョンートッド 著作リストー 」ectures to Children『子供への説教』 Serpents in the Dove's Nest『鳩の巣のヘビ』 Index Rerun『諸事指針』 Woman's Rights『女性の権利』 Sabbath School Teacher『日曜学校の先生』 弍c目tain Flowers『山の花』 卜白s弍匕QI甘包Q『真理明解』 The Sunset 」and『日の沈む国』 Great Cities『大都市』 Si目mer uleanings『夏の落ち穂集』 べ呂ngMan『青年』 The Angel of the Iceberg『氷山の天使』 Simple Sketches『素描集』 The Bible Compani呂『聖書の友』 Future Punishment IT未来の罰』 Daughter at School『女生徒』 次C目Et9甘X『山の宝石』 Nuts for Boys to Crack『少年たちの大問題』 The Water Dove『ウォーター・ダブ』 Polished Diam目吩『磨かれたダイヤ』 Sketches and Incidents『素描と小事件』 」ost Sister of Wyoming『ワイオミングの迷える娘』 Stories Illustrating the Shorter Catechism『小教理問答 物語』 Questi呂s on the 」ife of Moses『モーゼの生涯に関す る論点』 Hints and Thoughts for Christians『キリスト者のため の助言と考察』 つ罵卮呂s on the Books of Joshua a乱Judges『ヨシュア 記と土師に関する論点』 つ罵卮呂s on the 」ives of the Patri.archs『イスラエル十 二支族の先祖の生涯に関する論点』  以上がドットの主な著作であるが、私自身、若 かった頃にドットの本を読んでどれほど多くのヒン トを受けたか計り知れないことを思うとき、ドット の名は、故神藤克彦教授に対する感謝の念と重なる のである。  がっての私に、学問に対する意欲と精神的干不ル ギーを与えてくれ、どちらかといえば病弱な体を強 くすることに関心を向けさせた本は、今の読者に とっても同じような効果があるのではないだろうか。  そして、この名著を今の読者に贈ることは、故神 藤教授の教育的なお考えを、教授を知る機会のない 方々に紹介するよすがとなるものと期待しているし だいである。そのようなわけで、本訳書を先生の霊 に捧げたいと思う。  なお、翻訳をすすめるにあたっては、下谷和幸氏 の協力を得た。厚く御礼申しあげるしだいである。 本書は、小社より刊行した単行本を、再編集したものです。 ジョンートッド(John Todd) アメリカに生まれる。実践的かつ深い哲学的示唆に満ちた[人 生案内]で知られる牧師・著作家。その卓越した発想は、自己 実現を目指すすべての人々に知的活力Iカ強い励ましを与え続 けている。本書『自分を鍛える!』は、アメリカで若い人や一 般社会人のための自己啓発書として大ベストセラーとなった。 渡部昇一 (わたなべ・しよういち) 上智大学名誉教授。英語学者。深い学識と鋭い評論で知られる。 著書に『自分の品格』(三笠書房《知的生きかた文庫》)、『ロー マ人の知恵』(集英社インターナショナル)など。また、訳書と して『自分の時間』『人生をもっと賢く生きる 頭の鍛え方』 (アーノルドーベネット、三笠書房)や、『[頭のいい大]はシン プルに生きる』(ウェイン・W・ダイアー。三笠書房)など多数。 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