起業家の思考と実践術_山川恭弘  この作品は、2020年10月に東洋経済新報社より刊 行された書籍に基づいて制作しています。  電子書籍化に際しては、仕様上の都合により適宜編集 を加えています。  また、本書のコピー、スキャン、デジタル化等の無断 複製は、著作権法上での例外である私的利用を除き禁じ られています。本書を代行業者等の第三者に依頼してコ ピー、スキャンやデジタル化することは、たとえ個人や 家庭内での利用であっても一切認められておりません。     序章 世界を変える起業家になる  「今、世界はこれまでにない先行き不透明な状態 にある。そんな時代を生き抜くカギは、自分のした いことを意識して行動できるかどうかや。自分が自 分らしく問題に取り組むことで、変化に翻弄される ことなく、自ら変化を創ることができる。世界をよ り豊かな社会へと変えることができるんや。『やり たいことをやる』−それがこれからの時代、会社 が倒産したとしても、リストラにあったとしても、 どんな逆境に遭遇したとしても、独自に生きていけ る力になるんや」  Dr. F乱ureなる男からはじめてこれを聞かされた ときに、新田一歩は思った。  やりたいことをやることが、生き抜く力になる?  そんなうまい話があるもんか。  だがそれから一年後、一歩は世界を変える起業家 の仲間入りを果たすこととなった。  職なし、金なし、アイデアなし、人脈もなければ、 才能もなかった一歩。  一年前は、そんな自分が起業するなんて思いもし なかった。  もっとも、Dr. Failureのいう「やりたいことを やって世界を変える」というのは、なにも起業をし なければ実現できないことではない。会社員であっ ても、公務員であっても、専業主婦であっても、ど んな職業であっても、実現は可能なのだ。  一歩がDr. Failureと出会っだのは、都内のある場 所でのことだった。のちに知っだのだが、そのDr. Failureは、アメリカは東部、マサチューセッツ州 ボストン郊外にある「バブソン大学」という知る人 ぞ知る大学の教授だった。  バブソン大学(汐7日College)とは、起業家・ 経営学者ロジャー・バブソンによって一九一九年に 創立された、起業家教育に特化した大学だ。  その分野では、世界的に高い評価を受けていて、 実に二十七年連続、アントレプレナーシップ教育 (MBA)のランキングで全米一位石.S. News & World Report)に輝いているという。  ファミリービジネスにも強みをもち、世界中の有 名企業家や大富豪が卒業生に名を連ねている。  一歩は知らなかったが、実は日本の名だたる実業 家、たとえば、村田機械会長の村田純一、イオン社 長の岡田元也、スパークスーグループ創業者の阿部 修平、トヨタ自動車社長の豊田章男、佐藤製薬社長 の佐藤誠一なども、そこで学んでいた。  最近では、京都和束町の日本茶を世界ブランドに すべく起業した{}‐∃EF剔業者の田中大貴。アパ レル業界の人材マッチングサービスを提供する MESHWell創業者の窪田光平。肌にも環境にも優し いナチュラルスキンケアブランドの展開に加え、障 害児サポート等のソーシャルビジネスにも力を入れ るMS Inc.の共同創業者である鈴木美貴子。イノ ベーション剔出コミュニティ事業としてベンチャー             こむらりゅうすけうるしはらたくぉ カフェ東京を立ち上げた小村隆祐と漆原琢雄など、 世に新たな価値を生み出そうとする起業家たちが卒 業している。  ちなみにDr. Failureは、この大学で「Failure is Go乱(失敗は素晴らしい)」という講義をはじめと して起業学・失敗学を中心に教えている。  「失敗=悪(避けるべきもの)」という考えが刷り 込まれていた一歩には、にわかに信じがたいこと だったが、Dr. Failureの講義もしかり、バブソン大 学では、失敗を必然として歓迎し、そこからなにを どう実践的に学ぶかが重要視されているようだ。そ のため、学生は、失敗に遭遇すれば、それをチャン スとして受け入れ、さらに進んだ挑戦が繰り返せる ようになるのだ。  そうして卒業したバブソン大学の卒業生は、ス タートアップの起業家として、企業内起業家として、 社会起業家として、または非営利団体の代表として、 業界のゲームチェンジャーとして、今もなお、大学 で培った「宝物」ともいえる力をもとに世界中で活 躍している。  そしてなぜか、バブソン大学の卒業生でもなく、 起業や学問とは無縁だったはずの一歩も、思いがけ ず、その「宝物」を手にすることになったのだ。  「『こうしたい』という思いで踏み出す一歩。それ が世界を変えていくんや」  Dr. Failureは、その宝物ともいえる力を「世界を 変える力」だといっていた。  独自に生きていける力とは、すなわち、世界を変 える力なのだと。  そしてその「世界を変える力」は誰にでもあるの だと。  一歩はDr. Failureのその言葉を思い出しながら、 「不思議な巡り合わせもあるもんだ」とあらためて、 これまでの奇妙な出会いや出来事を振り返ってみる ことにした。 第一章 起業家のように考え、行       動する  (Change the world!  Entrepreneurship is ab()ut changing the  world to better the world. You can  always start with changing you「world.  世界を変える!      起業道とは、世界を変えることだ。まず      は、身のまわり、あなたの世界(家族、      友人、同僚、コミュニティ、社会)から      始めよう。あなた自身なら今すぐにでも      変えられるはず。  {}「・恂乱耳・と出会う少し前、新田一歩は、スポー ツ専門商社「とどろきスポーツ」の営業マンだった。  「よし’・ 結婚しよう’・」  一歩は、力強くそういった。  すると、先ほどまでにこやかな表情だった女性が、 急に顔をこわばらせ、そばにいる警備員に目をやっ た。  警備員も怪訝な顔をして、一歩を見た。  「あ。すみません、なんでもないです」  一歩は慌てて、その受付の女性と警備員に頭を下 げ、受付前の長椅子から逃げるように立ち去った。  ここは東京は虎ノ門の、とあるオフィスビル。  一歩は、とどろきスポーツの二代目社長、轟光 太郎のお供として、このビルにある食品研究所を訪 れていた。  研究所との打ち合わせはとうに済ませたのだが、 同行した社長から、「このビルに知り合いの会社が 入っててね。挨拶してくるから、ちょっと待って て」といわれて待っているうちに、考えごとに没頭 しすぎたようだ。たった今、決心したことが思わず 口からもれ出した。  「いや待て。受付で待つようにといわれたから、 帰るわけにもいかないし」  引き返してきた一歩が、先ほどの受付嬢と警備員 からの視線に、なすすべなくうろたえていると、後 ろから声がした。  「おIい。新田君、悪い。待たせたね」  振り返ると、階段を下りてきた轟かいた。  「轟社長、遅いですよ’・」  「どうかしたの?」  「いえ別に。さ、行きましよう’・」  一歩は、轟を急き立てるようにしてそこを出た。  「はは、そりやあ、変な奴だと思うよね」  歩きながら一歩から事情を聞いた轟は笑った。  「ですよねI」  「でもまた、急に決めたもんだね、結婚なんて」  「え? まあ。同期の軽部も結婚しましたし、僕 もそろそろって」  軽部というのは、一歩と同じ寮に住んでいた同僚 のことだ。一歩はとどろきスポーツに入社すると同 時に、埼玉の実家を出て、東京の本社近くの寮に住 み始めた。もう三年になる。営業部の一歩とシステ ム部の軽部とは、仕事ではまったく接点はなかった が、不思議と気が合って親しくしていた。その軽部 がひと月前に結婚をして寮を出た途端、一歩には急 に寮生活がわびしく感じられるようになったのだ。  「なんだかこのままではいけないと思って。僕も ちやんと家庭をもって、気を引き締めて、働こうっ て」  それに一歩には大学時代から交際している白石美 月という恋人がいる。もし、結婚するなら、美月以 外には考えられないし、仕事にも慣れてきた今が一 番、いいタイミングに思えてきたのだ。考えれば考 えるほど、「結婚するなら今しかない’・」と勇んで 思わずつぶやいてしまったのだ。  「なるほど、『ちゃんと』……ねえ」  轟は、一歩を連れて甘味処に入っていった。街中 には多くのカフェがあるのに、轟は決まって甘味処 を選ぶ。それは轟か無類のあんこ好きだからだ。  「おはぎ、ふたつね」と轟は注文した。  その轟は、登山とスキーを愛し、多忙でも毎朝十 キロのジョギングを欠かさないスポーツマン。だが、 見た目は溌剌とした体育会系というよりは、頑固で ストイックな職人といった風だ。普段は四十七歳と いう年齢に比べて若くも見えるが、眼鏡をかけて静 かにこうして甘味をたしなんでいるときなどは、年 寄りくさくも見える。  それでいて新しいことには目がない。轟は、五年 前に社長に就任してから新規事業を次々と立ち上げ ている。次は、「アスリートのためのスイーツ事業」 を立ち上げるつもりでいて、その主力食品を「ス ポーツおはぎ」にしようというのだ。「おはぎはい いぞ。ラグビー選手の勝負飯ともいわれているから な。この和の温もりある菓子が、選手の心と身体に 干不ルギーを与えるんだ」と轟は力説する。ちなみ に社内でのこの事業への賛同者は、まだいない。だ が、着々とプロジェクトは進められている。先ほど、 食品研究所を訪れていたのも試作品の成分調査結果 をもらうためだ。一歩はなぜか、轟に気に入られ、 こうして新規事業チームのメンバーとして同行して いる。チームといってもメンバーは、轟社長と、一 歩のふたりきりだが……。  おはぎがふたりの前に運ばれてきた。  轟は、そのおはぎを皿ごと恭しく持ち上げ、愛で るようにしげしげと見つめていた。  「いいねえ。実にいい艶だ。この輝きがたまらな いね。なあ、新田君」  「え? あ、そうですね」  一歩は食べかけのおはぎを、慌てて置いた。  「あれ、もう食べちやってるの?」  「や。すいません。つい」  だって、社長がおはぎを眺め出すと長いんだもの。  「君ねえ、これもリサーチのうちなんだから。真 剣にやってくれないと困るよ’・」  「す、すみません。味のほうは、これ、甘くない 分、小豆の素朴な美味しさがしっかり伝わってうま いです!・」  「うん。小豆に自信があっての製法なんだろうな。 その年々の第一級品の大納言小豆を、わざわざ仕入 れているそうだからね」  それでも轟は、一歩の感想に満足そうにうなずい た。  「社長、スポーツおはぎの小豆は、やっぱり一級 品を使うんですか?」  「当たり前じやないか」  「今日、社長と会社を出ようとしていたときに徳 川常務にいわれましたよ、その……『おまえら、こ れ以上、会社を食いつぶすな』つて」  「気にするな。彼はなにをやっても反対するんだ。 『前例がない』『成功するわけがない』、そんな意見 を聞いていてはなにもできやしない。妥協はしない。 なにかひとつでも新事業を軌道に乗せないとダメな んだ。できるできないじやなくて、やるかやらない か、だ」  「それはまあ……はい」  一歩はこの轟社長が好きだ。  頑固で不愛想だが、チャレンジ精神旺盛で、実は 面倒見もいい。一歩のような新人社員の意見にも耳 を傾けてくれるし、希望する仕事も可能な限り任せ てくれる。  だが、社内では、この轟をよく思っていない社員 が少なくない。その大半は、古くからいる社員だ。 とどろきスポーツは、従業員数七十人の小さな会社 で、創業五十年の歴史がある。先代社長が創業者で、 もとは野球用品を中心に全国のスポーツ用品店に広 く品物を卸していたが、近頃は大型量販店の攻勢に より、町のスポーツ用品店が激減し、とどろきス ポーツは何度も経営危機に陥った。それでも現在は 先代社長のコネクションを活かした、人気ブランド の独占販売契約などで、経営を維持している。  轟は、その先代社長のひとり息子で、先代の死後、 勤めていた大手商社を退社し、二代目社長となって いた。だが、先代のつくった慣習を「非効率だ」と 廃正してしまったり、独断で新規事業に手を出して は失敗してばかりのため、古参社員だちから「アホ ぼん」「ダメ社長」と陰口を叩かれている。  とはいえ、新規事業なしには、会社がジリ貧にな る一方であることは、社歴の浅い一歩でもわかる。 そして、一歩にできることといえば、今、目前にあ る仕事を一生懸命にやることくらいだ。  ただ困るのは、最近、聞く耳をもたない轟社長を 攻撃しても仕方がないと思ってか、古参の徳川常務 らが、一歩に「おい、ダメ社長の腰巾着、社長を黙 らせろ」とか「アホぼんのいうことにしたがうな」 などと無茶ぶりをしてくることだ。まったく嫌にな る。  「うIん。じやあ、次は半殺しにしてみようか」 と轟がいった。  「ええ? 常務をですか」  「おはぎだよ。試作品第二弾の」  「ああ……そっちですか」  一歩は理解して、うなずいた。  「半殺し」というのは、おはぎの中の米の状態を いう。米を完全に滑らかな餅の状態にまで潰すこと を「皆殺し」、つぶつぶが残る程度に潰すのを「半 殺し」というのだ。試作品第一号は完全な餅の状態 「皆殺し」でつくっていた。  「わかりました。次は『半殺し』でつくってみま す」  おはぎの試作品をつくるのは、一歩の仕事だ。  「頼むよ」と轟は笑みを浮かべていった。  店を出ると、轟は一歩にいった。  「君は、先に会社に戻るといいよ。僕はまだ同る ところがあるからね」  「あ、はい」と一歩は応じた。  轟のスケジュールは過密だ。今日は、轟の起こし た新規事業のひとつである輸入雑貨店の様子を見に 行くのだという。それ以外でも、轟はほとんど会社 にいることはない。社内のことは徳川常務らに任せ て、改革のヒントがないかと飛び同っている。それ がまた、常務らにしてみれば「身勝手だ」「本業を おろそかにしている」と不満の種になっているのだ が……。  「そこの角まで一緒に行こう」と歩き出した轟は、 一歩に尋ねた。  「それはそうと新田君。さっきの結婚の話だけど」  「え? はい」  「新田君は将来、どうなりたいんだい?」  「え? 将来、ですか」  「将来、どんな仕事をしていたいとか、どういう 働き方をしたいとか、あるだろ?」  一歩は言葉に詰まった。  どんな仕事? 働き方? 意味がわからない。  今どきひとつの会社に長く勤めるということもな いと、思ってはいるか……。  「えっと。普通に働いて、普通に結婚して、普通 の家庭がもてればなあって。あんまり先のことは、 深く考えたことないです」  先行きが不透明なこの時代に、あまり先のことを 考えても仕方がない、その囗その囗を楽しんだほう がいいじやないか、と一歩は思っていた。  特別な才能もスキルもない自分にできることとい えば、会社という船に乗って、ひたすら漕ぐしかな いのだ。いわれるままに、行き先もはっきりと知る こともなく……。  それでも、自分は恵まれているほうだと思ってい る。社長の轟を尊敬しているし、轟か舵をとる船で 働くのは嫌ではない。とどろきスポーツの「人々の 健康を支える」という会社理念も嫌いではないし、 やりがいもそこそこ感じている。  「おいおい。そんなことではガッカリだよ、新田 君’・」  「え?」  「会社という船に乗ったら先のことを考えなく なってしまうのか。それじゃ、せっかくの君の良い ところが死んでしまうじゃないか」  「え? どういうことですか」  「だいたい、僕が、なぜ君を採用したと思う?」  「ええ……と。面接でサッカー談義が盛り上がっ たから?」  「じゃないよ。はは、ポンドにわかってないんだ な」  「ええ……冫・」  「採用試験の囗、君、遅刻したろ?」  「ええ? はい、まあ……」  採用試験の囗、一歩はたしかに遅刻した。駅から 会社に向かう途中で、ちょっとした人助けをしたか らだ。朝のラッシュ時に道に倒れていた妊婦に、一 歩が気づいて救急車を呼んだのだ。大事にはいたら ず、妊婦は助かった。  だが、そのため一歩は、採用試験に一時間半遅刻 し、危うく試験が受けられないところだった。一歩 には、ここを逃すと受験できる会社は、もう残って いなかった。そこで、「一生のお願いです。なんと か試験を受けさせてください’・」と一歩は会社の受 付で、べそをかきながら、必死に土下座したのだっ た。  「今、思い返しても恥ずかしい……」  「『人助けをして遅れた』と毅然といえばよかった んだ」  「でも、妊婦さんの名前も聞かなかったし、そう いえば、証拠もなにもないと気がついて。ただの 嘘っぽい言い訳になるかなって」  結局、その採用試験については、偶然、一歩が救 急車を呼んだのを目撃していた社員がいたおかげで、 一歩は試験を受けることができた。  「人助けをしたから採用してもらえたんですか?」  「というより僕が注目したのは、君はきっと大事 なときに、ルールや常識に惑わされずに、正しい判 断をする人間じやないかと思えたことかな」  「えっ」  「あのとき、君は『ここを逃すと就職ができない かもしれない』というほどの大事な予定を抱えてい たんだ。一生を左右するかもしれないほどの予定を ね。にもかかわらず、君はあっさりと目前の妊婦を 助けた。多くの場合、それほど大事な予定を抱えて いるときは、『ほかの人が助けるだろう』『命には別 状がないはずだ』と都合よく考えて見過ごすところ をね」  「あIでもそれは」  一歩は少し居心地が悪くなった。それは単に、一 歩には、ああいうときに目前の人を放っておけない 特殊な事情があるからだ。  「買いかぶりです。結局、僕も『試験を受けられ ないのは困る’・』つて、あれだけ焦って取り乱した んですから。僕だって相手があそこまで苦しそうで なかったら見過ごしてたかも」  「ははは。いいんだよ。自分の行動に自信をもて。 できればこっちのことも信頼して『人助けのほうを 優先すべきだから遅れたんだ’・』と堂々と主張して ほしかったね。きっと本心ではそう思っていたのだ ろうから。でも、そういうところも君らしいな。君 は、きっといわれたことを盲目的に守る人間じゃな い。会社に染まると、どうしても会社の常識を世の 中の常識より優先させてしまう人が多くなる。だけ ど君なら、正しい判断ができる人になってくれるん じゃないかと思ってね」  「そうだったんですか」  「だからこそ、僕は君には、自分で考えて行動す ることを止めてほしくないんだよ。型どおりの指示 やルールにしたがうことだけに一生懸命になってほ しくない。なぜそのルールや指示があるのか、ちゃ んと本質を見て、正しく動ける人であってほしい」  「はあ……」  「これからもよろしく頼むよ。じやあ、僕はこっ ちだから」と轟は去っていった。  一歩は嬉しかった。自分を認めてくれる轟のため に、一層、この新規事業の実現に向けてがんばろう と決心した。だが、その事業は結局、囗の目を見る ことはなかった。  二週間後、事件が起きた。  「え? 倒産’・」  一歩が朝、出社すると、急遽、社員集会が開かれ、 とどろきスポーツが破産申し立てをしたことが知ら された。社員は全員解雇になるという。  「ええII」  思わず一歩は、轟を見ようとしたが、その場に轟 の姿はなく、常務である徳川がいつもの渋い表情で 淡々と説明を続けていた。  「万策尽きて資金繰りがどうにもならなくなった。 まさに断腸の思いだ」  悪いことが重なった。もともと業績が芳しくない 中、轟か手掛けていた新規事業のうち、インストラ クター育成事業について、提携先の倒産で二億円の 赤字という打撃を受け、さらに、とどろきスポーツ の売り上げの四割を占めていた主力のアウトドアブ ランド「やまき」の販売代理店のライセンス契約が 来期以降、更新されないことになったのだ。  「おかしいじやないか’・ なぜ長いつき合いの 『やまき』が契約更新しないなんてことになるんだ よ。なぜ許したんだ’・」  「先代からのつき合いだぞ’・ そんなことがあっ てたまるか!・」  社員らが怒号をあげると、徳川が答えた。  「これについては、何度も再考を願い出たが、先 方の判断は変わらなかった。聞いたところによると、 今後はうちの競合会社の豊臣商会が、『やまき』の 独占販売を行うという話だ」  「なんだって? 豊臣なんかに出し抜かれたって ことか」  「社長は? 社長はどこ行ったんだ’・」  社員たちは次々に声を荒らげた。  「社長は不在だ」と答える徳川に、「社長、逃げた のか’・」と社員たちは怒鳴った。  徳川がそれを否定せず、  「いいたくはないが、社長が本業を軽んじて余計 なことばかりするから、こんな顛末になったんだ’・ あの男が潰したんだ。私たちが先代社長と必死につ くり上げた、このとどろきスポーツを!・」  と吐き捨てるようにいったため、社員たちは次々 に、「逃げやかってあの野郎’・」「卑怯だ」「俺たち に謝れ’・」と轟のことを罵り始めた。  徳川は、とどろきスポーツの創業時から先代社長 の右腕となって会社を支えてきたという自負もあり、 二代目轟とは、犬猿の仲だった。日ごろは社員の手 前、轟を遠回しに皮肉るのが常だったが、今日は 「破綻の責任はあの二代目にある’・」と轟のことを 徹底的に非難していた。  「……轟社長だけが悪いのかな」と一歩がボソリ というと、隣にいた軽部が、「そりゃ、そうじゃな い? 大体、この場にいないなんて、無責任すぎる だろ」と答えた。  「でも轟社長がなにもしなかったら、いずれにし ても会社は死に体だったんだろ? 『やまき』の販 売だけに頼っていてはいけないという認識はあった わけで」  「でも新規事業に失敗したうえに、足をすくわれ てライバル会社に『やまき』をとられたのも、やっ ぱり悪いのは社長だろ?」  「ええ? ライバル会社に奪われたのは、社長の せいだけじゃないだろ。現場だって、一体なにやっ てんだって話じゃない?」  「でも社長自ら逃げてんじゃん。自分が悪いって わかってるからだろ?」  「それは……。ちえっ。なんだよI、なんでいな いんだよ、轟社長’・」  一歩には、この一大事に、轟か姿を見せないこと が腑に落ちなかっだ。このようなときに「知らぬふ リ」をするような轟だとは思えないし、思いたくな かった。轟だって誰よりもこの会社のことを必死に 守ろうとしていたように思う。  「逃げるだろ。だって、徳川常務たちが反対した 事業に、轟社長は個人的に借金してまで投資してい たと聞くぞ? あいつ、人生詰んだな。最低だ。今 頃、借金取りから逃げ同ってんじやない? 一家離 散か、もしくは今頃、東京湾に沈められてんじや ね?」  「まさか」  社員集会が終わると、一歩ら若手社員は早々に会 社を追い出された。  一歩と軽部は会社を出た。  ふたりは割と冷静だった。  「どうすんだ? 俺たち」と一歩。  「就活するしかなくない? あI。嫁、ビックリ するだろうな」  軽部はスマートフォンを取り出し、早速、妻に連 絡をしている。  一歩も思わず恋人の美月に連絡をしかけるが、 「待て待て」と思い止まる。  美月は、民間シンクタンクに勤める真面目な研究 員。実は一歩より学歴も高く、優秀で、今は出張続 きで忙しいといっていた。  「……」と一歩は考え直し、とりあえず母に知ら せることにした。  「倒産? どこの会社が?」とのん気に尋ねる母 に、「うちの会社」と一歩は答えた。  「あらあ……」、さすがの母も電話口で絶句してい た。  「そのうち寮も追い出されるからさ。近いうちに、 そっちに帰る。うん、まあボチボチ就活するよ。大 丈夫だから」  なるべく明るくいって、一歩は電話を切った。  一歩は、早くに父を病で亡くしており、家族は埼 玉の実家にいる母の妙子と、すでに結婚して家を出 た姉の尚美のみ。家族を頼るわけにもいかず、早く 再就職しなければならない。  「また就活か」と一歩は凹んだ。  「俺、もう転職サイトにエントリーした」と軽部 はスマートフォンを操作しながらいった。  「早っ’・」  新卒のとき、売り手市場といわれていた就職市場 だったが、大した学歴も資格も取り柄もない一歩は、 それなりに苦労したので、気が重い。  「そういえば、一歩、あれ、どうしたの? 指輪」  一歩は婚約指輪を買うにあたって、軽部に相談し ていた。  「まだ買ってない。月末に美月に会うからそれま でにって思ってたけど。……もう、プロポーズどこ ろじゃなくなったな」  一歩はSNSで美月にメッセージを送った。「ご めん。月末の約束、延期にしていい? 仕事、人っ だ」と送信する一歩。  「倒産のこと、いわないんだ?」と軽部が突っ込 んだ。  「うん。……転職、決まってからにする」  「まあ、わからなくもないけどね」  しばらくして、「了解。お仕事、がんばって」と 美月から返信があった。  「はい。……仕事、ね」と一歩は、ため息をつい た。  一歩は、翌日から、就職活動を開始した。  「またこんなに履歴書を書く羽目になるとは思っ てなかった」とぼやきながら、次の面接までの待ち 時間に、履歴書を書く場所を求めてファーストフー ド店を訪れる。だが、満席で入れない。  仕方なく、その店の前の公園を訪れると、そこで はB級グルメのイベント「ご当地フードフェスティ バル」が開かれていた。  一歩が、空いているテーブルで、会社ごとに志望 動機を書き分けるのに四苦八苦していると、風で履 歴書が飛んでしまった。慌ててそれを追いかけた。  その履歴書は、そばのベンチに座る、ある中年紳 士の顔を直撃した。「あ’・」と一歩が見ると、その 男は顔をしかめて、飛んできた履歴書に目を落とし た。  男は仕立てのいいスーツに身を包み、一見、品の いい紳士にも見えるが、その顔つきやガタイに、独 特の迫力がある。  「……なんや、これは」  予想以上にドスの利いた男の声に、一歩は、思わ ずドキリと、身を引いた。  「す、すみません’・」  まずい。これは目を合わせたらダメなやつ。  一歩は、とっさに男から目を逸らし、手早く履歴 書を拾い集めた。だが、男の手にある履歴書は同収 しきれない。  「君はなんや。仕事探しをしとんのか」と男は、 履歴書を、ジツと見ていた。  「ええ、まあ」  「ふうん。こっちの履歴書では、『家電の未来にか けたい』、こっちでは『マンション販売にロマンを 感じる』。ホンマ? これ。なんやねん。君は一体、 なにがしたいねん」  「えっと、なんでもいいからとりあえず営業の仕 事を」  「とりあえずやと?」  男は、ジロリと一歩を睨みつけた。  「は? はい!・ だ、だって」  一歩は、慌てて説明した。  「会社が倒産して、貯金もないし、早く職に就き たいんです’・ それに自分には特に取り柄もないし、 仕事をえり好みしている場合じゃないんです」  一歩がそう叫ぶと、男は、はじめて笑みを浮かべ て、  「ほう、会社が潰れた? そらおめでとう’・」と、 一歩の履歴書を放り投げた。  「え? なにがおめでたいんすか。つか、なにす るんですか!・」  「結構なことやないかい’・ 人生を見直すチャン スや、青年’・ 『なんでもええ』つちゅう仕事なん かしてたらアカン。今こそ『やりたいこと』をやる チャンスや」  「ええ?」  「よう考ええ。人生100年時代や。あんたいく つや。あと八十年は生きなあかんねんで。今日明日 を急いで、『とりあえず』なんて仕事についてどな いすんねん!・」  男はベンチから立ち上がり、一歩の前に立ちはだ かった。  「り」と一歩は思わず救いを求めて周りを見た。  だが誰もこちらを気にしている様子はないし、助 けてくれる気配もない。  仕方なく、一歩は、男に向き直った。  「『やりたいこと』?」  一歩はその言葉に引っかかった。  一歩の友人・知人にも「今の自分は自分じゃな い」とばかりに、「自分探し」のため、職に就かず にぶらぶら放浪し、一体なにをしているのかわから ない人がいる。そんな経済的余裕と時間的余裕のあ ることを羨ましく思いながらも、そんな余裕のかけ らもない一歩にしてみれば、ただの甘えや現実逃避 にしか思えない。  「あの……、僕そんな『自分探し』をする余裕も 興味もないんで……とりあえず、仕事に就きたいん です! では、失礼しまI」  「待て。『自分探し』? そんなんとちやう。それ よりなんや、さっきから、なんべんもなんべんもそ の『とりあえず』つちゅうんは。そんなんでホンマ にええと思っとんか」  「ええ? だって……」  「仕事っちゅうのは四六時中やることやろ? そ こで『人生をかけてどうしてもやりたいこと』『好 きなこと』をしないで、どないすんねん。人生の大 半をその『とりあえず』の仕事でムダにするつもり か」  「ええII」  「ええか。大事なんは『できそうなこと』をやる んやない。『やりたいこと・ワクワクすること』を やることや。それがこの人生という大海原に漕ぎ出 す強固な指針になる。この先行き不透明な時代を生 き抜く力となるんや」  「……はあ」  「そしてそれが、不便・不条理な世の中を変えて いく力、世界を変えていく力になるんや。未来を創 るんは誰でもないオノレ自身やからな」  「え1つと」  困惑する一歩。こっそりその場を去ろうとするが、 「待て」と男にしっかり首根っこをつかまれる。  「青年。これから必要なんは『こうしたい』とい う指針をもって生きることや。コンパスの示す方向 が定まらんとなにも始まらん。重要なのはオノレが なにをしたいかや」  「……(なに、この人川)」  一歩が声にならない悲鳴を飲み込むと、  「ええか? よう考ええ」と男は、一歩から手を 離した。  「助かった!」  一歩が逃げようとすると、「待て」と再び男の声。  「まだなにかり」  「これ、やる」と男は一歩に、名刺を渡した。そ こには「カフェーカオス」オーナー、矢弦恭一と あった.あらためて一歩はその矢弦を見た.  カフェのオーナー?冫.冫.   ヤヅル?冫.冫.  そんな人に、なぜ、こんな説教を受けなきやいけ ないんだ?冫.冫.  この人、ポンド何者冫.冫.冫.  などと思っていると、グルメイベントの会場のほ うから、軽い身のこなしの東南アジア系の男が走っ てきた.  「矢弦さん、お待たせしました.行きましよう」  と男は矢弦に頭を下げた。  その男の目つきが鋭く、一歩はまた、「誰?」と 身構えた。  「おう」と、矢弦はその男に応じながら、一歩に いった。  「もし、君が『やらねばならないこと』より『や りたいこと』に挑戦するっちゅうなら、相談にのる で。まあ、気が向いたら遊びにきてや」  矢弦はそういって、去っていった。  「変なおっさん」  一歩はポカンとそれを見送った。  一歩は就職活動を続けた。だが、なかなか決まら ず、選択肢は安月給に長時間労働を強いられるとの 噂のブラック企業ばかりになる。  「安月給に長時間労働? IT業界は、そんなの ザラだけどね。ブラックでもとりあえず入ってみて、 本当にダメならじっくり行き先を選び直せばいい じやん? 人ってみたら、ほかよりずいぶんマシつ てこともあるかもしれないしさ」  いち早く、中堅システム会社に転職を決めた軽部 がI歩にいった。  「いいなあ。SEはわかりやすいスキルがあって。 営業の俺なんて……」  一歩は、仕方なくブラック企業と悪名高い会社の 面接を受けに行ってみた。  面接は圧迫面接を想像していたが、予想に反して フランクなものだった。  「うちの会社で一緒に夢を叶えよう’・ うちでは 未経験の君でもすぐ責任者になれる。活躍の場はた くさんあるし、やる気さえあれば高収入も可能だか らね」  面接官はあからさまなつくり笑顔でいった。だが、 その目は笑っていなかった。  悪くない話のようだが、元社員のロコミでは、す ぐに責任の重い仕事をさせられ、想像以上の長時間 労働を強いられ、残業代は「役職付だから」「君の 仕事が遅いだけだから」という理由で支払われない とのことだった。  「はあ……」と一歩は、ひと通りの面談を終えて、 その場を後にした。  だが、途中で入館証を返し忘れたことに気づいて 引き返すと、先ほどのつくり笑いの面接官が、部下 と思しき青年を、「コラー てめえ! 契約もとれ ねえ分際で休むんじやねえ。このボケが!」と蹴り 飛ばしているのが目に入った。  「……」と一歩は、そっとその場を立ち去った。  そして、そこで休みなくこき使われる自分の姿を 想像してゲンナリしてしまった。  −どうせ長時間、安く働くなら、好きなことが したい。  一歩はふと、先日の矢弦の「もし、君が『やらね ばならないこと』より、『やりたいこと』に挑戦す るっちゅうなら、相談にのるで」という言葉を思い 出す。  「『やらねばならないこと』より『やりたいこと』 ……か」  一歩は、半信半疑ながら、にわかに気になって、 矢弦に会いに行こうとも思うが、  「いや、でもあの妙な威圧感−もしかしたら、 ヤバいヤクザかもしれないしな。外国人の手下みた いなのも連れてたし」  目つきの鋭い東南アジア人のことを思い出しさら に迷う。  「うIん。いいや。めんどくさい! 考えない、 考えない!」  と一歩は、矢弦や「カフェーカオス」のことを考 えるのはよそうと決めた。  だが、その翌日、一歩は思いがけず、そこを訪れ る羽目となった。  その囗、就活帰りの一歩は、オフィス街に、バイ ンミーのイラストの描かれたキッチンカーが停まっ ているのを見かけた。  「お。バインミーだ。うまいんだよなI、あれ」  バインミーとはベトナム風サンドイッチで、一歩 の好きな食べ物のひとつでもある。  「営業してないのかな? 配達用の車なのかな?」  一歩が見ていると、運転席から男が出てきた。  見覚えのある、目つきの鋭い東南アジア風の男だ。  「ええり あのおっさんの手下!」  一歩は公園での矢弦との出来事を思い出し、思わ ず身構えた。  だが、男は一歩に気づくでもなく、バインミーの 入っだケースをもって、そのオフィスビルの一角に あるカフェの中に入っていった。  そのカフェには「カフェーカオス」という看板が 掲げられていた。  「『カフェーカオス』?」と一歩は思わずつぶやい た。  それはガラス張りの明るい店だった。  賑やかになにかのイベントが開かれているのが外 からでも見える。  そっと一歩は入ってみた。  中央に小さな演壇が設けられていて、若者や年配 の大たちが入れ代わり立ち代わり演壇に立ち、 ショートスピーチをしていた。  「私はファッションで、子どもを貧困から救いま す。それを実現するのはこのアジア原産の素材で I」  「僕はアートで、目の見えない人の生活を支援し てみせる。そのアートとはどういうものか。それは I」  その人たちは、夢を語り、その夢をどう実現する かを説明しているようだった。  一歩が見ていると、眼鏡をかけた小柄な年配の女 性、光代が声をかけてきた。  「あんたも参加すんの? やるならさっさと演壇、 立ってんか」  進行役の光代は、一歩を演壇のほうにうながした。  「いや、僕は(関係ないので)」  答えきらないうちに一歩は、演壇に押し出された。  「はい’・ 実現したいアイデアを簡潔に’・ 三分 で」  「え? 僕り」  「はい、スタート」  光代は時間をばかり出した。  「実現したいこと? いや、別に、そんなのない です。フツーに働いて、フツーに家族をもって、フ ツーに生きられればそれで……いいです」  夢や志あるプレゼンターたちの中で、ひどく浮い てしまった一歩のその発言に、シンと静まり返る会 場。  「なんや、それ」と光代も呆れている。  「だから僕はいいって、いったじやないですか’・」  一歩が演壇を降りると、先ほどからプレゼンター たちに惜しみない拍手を送っていた男、矢弦がニヤ ニヤと笑みを浮かべて一歩を見ていた。  「あのときの!・」  「ようきたな、自分、名前は?」  『新田一歩です……y』れはなんですか。なんの集 まりですか」  「ここは、起業家や起業したい大、彼らを支援し たい人の集まる交流場所や」  「起業家……冫・」  起業家といっても、そこにいるのは一歩の想像し ていた天才起業家といった風の大ばかりではなかっ た。週末だけ起業しているという普通の会社員やO L風の大もいれば、六十歳で塾を開いたおばあちゃ ん、大学を中退して通販サイトを立ち上げたフリー ター、留学中に起業したアジア人学生、自宅で料理 教室を開いた主婦など、さまざまな大がいた。また、 公園で矢弦といた東南アジア大は、ベトナム人の ファンという、自国の食文化を囗本に紹介し浸透さ せたいという起業家だった。  「それでバインミー……手下じゃなかったのか」  一歩はそこにいる一見「普通」の人々の姿に驚く。 普通の主婦でも、お年寄りでも、大学生の若者でも 起業をしている。  また、そんなこと以上に一歩が驚いたのは、みな が一様に、イキイキとしていることだった。  プレゼンテーションの後は懇親会となり、一歩は 矢弦に誘われるままにその場に居残った。一歩は、 矢弦にもう少し質問をしたかったが、矢弦は他の参 加者たちに囲まれ、一歩の入り込む余地はなかった。  そこにいる人々に少し興味の湧いた一歩は、先ほ どの光代に、  「ここは会員制? どうやったら参加できるんで すか?」と尋ねてみた。  「会員制ちやう。起業したい人、起業家のような 生き方を実践したい人なら、いつでも誰でも来てか めへん」  「起業したい人、か。起業はさすがに無理だしな あ」  すると、矢弦が一歩のその言葉を聞き逃さなかっ た。  「なんでや? 一歩。できないなんて誰が決めて ん?」  「いや、でも、無理でしよ、普通。起業なんて」  「普通ってなんや。なにかやりたいと思って、来 たんとちやうんか。こうしたい、ああしたいと思う なら、なんでも、やったらええねん。行動ありきや、 一歩」  「はあ、でも常識的に考えて」  「『普通』『常識』なんてものを言い訳にすな。で きないというなら、なぜできないのか、疑問をもて。 考えたらいくらでも乗り越える方法はあるのに、な にもせえへん奴ほど『普通』『常識』を言い訳に動 こうとせん」  「えI……」  「大体、会社にいたって明日はどうなるかわから んつちゅうことを、君は身をもって知ったんとちや うんか。今、世界はこれまでになく変化の激しい、 予測不能な状況にある。そのうえ、医療や技術の進 歩で多くの人は百歳まで生きる勢いや。そんな時代 を長く生きていくのに起業家も会社員も関係あれへ ん。肝心なのは、自分のしたいことを意識して行動 してるかどうかや。ビジョンをもって自分のやりた いことを実践して生きる。それは、会社でやっても いいし、会社でできへんかったら、起業したらええ。 手段が違うだけや。自分の人生は自分で決められる のに、人のせい、環境のせいにするな。それに、変 化を拒んでいてはアカン。変化を自ら創っていくん や」  「とはいっても」  「『やりたいことをやる』。それは、会社が倒産し ても、リストラにあったとしても、自ら辞表を出す ことになるとしても、これからの時代、どんな逆境 のもとでも独自に生きていける術になる」  「生きていく術?」  「それだけやない。自分が自分らしく、さまざま な問題に取り組むことで、自分も(ツピーになるし、 より豊かな社会をつくり上げることだってできる。 Acti〇コtruヨps everything! Change the world! Change your world!や、まず自分の世界を変えて いく。そうして一歩踏み出すことで世界を変えてい くんや」  その矢弦を囲む、夢や志を実現した人、またこれ から実現しようとしている人々。  「うIん……」  一歩は圧倒されて帰っていった。  「つていうか、あのおっさん、何者なんだ?」  数日後、一歩は、寮を引き払い、埼玉の実家に帰 省していた。  その日は、結婚して近くに住む姉の尚美が、小学 生と幼稚園児の息子たちを連れて、母、妙子の様子 を見に来ていた。母は今でも近くの建設会社の事務 員として働いているので、留守番の一歩と姉が夕食 をつくりながら、母の帰りを待っていた。  一歩が、作業の手を止めてスマートフォンで、矢 弦のことをWEB検索していると、姉が話しかけて きた。  「一歩。会社、倒産したんだって、大変ね。ちゃ んと再就職できそう?」  「うん、まあ、まあ」  「全然うまくいってない返事よね。それ」  「ね。起業家ってどう思う?」  一歩は話を逸らした。  「なに? 唐突に」  「起業って、俺でもできるかな」  「え? いや、絶1つっっ対、無理でしよ。あん たなんて、職なし、金なし、才能なし、学歴なし、 資格なし、アイデアなし、人脈なし、なにもないの に、起業なんてできるわけないじやない」  「でも普通の人だって、起業してるだろ? 高卒 とかでもさ」  「そういうのは普通の高卒じやないでしよ? ど うせ、大学中退とかで、ビルーゲイツみたいな天才 のことでしよ?」  「いや、そんな人ばっかしやなくて」  一歩は「カフェーカオス」で会った起業家たちの 話をするが、  「そういうのって、たまたま成功した人が集まっ てるだけじゃないの? そうしたサクラで気を引く、 起業セミナー風の詐欺もあるって聞くよ」  「そんなんじゃねえし。あれ? え?」  一歩は、スマートフォンに表示された矢弦と「カ フェーカオス」の検索結果を見ていた。  矢弦は、アメリカ、ボストンにある起業家教育で 有名な大学の教授のようだ。  そして、「カフェーカオス」は、イノベーション を支援するために設けられた米国発のコミュニティ プログラムだとのことだ。  「え? あれが教授? ないない、あり得ないで しよ」  「なにが? なに、あんた、ブツブツいってん の?」  「別に? ええつと? ええI?」  あの得体の知れないヤクザ風のおつさんが起業家 教育の先生だと?  「……調子狂う」と一歩は脱力して、スマート フォンをテーブルに軽く放り投げた。  「ちょっとお。ちゃんとやってよ。料理するの? しないの?」  「あ。ごめん。……ゝ凡Iと。なにすんだっけ? 野菜、切るんだっけ?」  「あのさ。就職がなかなか決まらなくて不安なの はわかるけど。変なことに惑わされないでよ。どう すんのよ、美月ちゃんとのこれからのことだって」  「失業してんのに、結婚もなにもないでしょ!」  投げやりに一歩はいった。  「おお、わかってるじやん。じやあ起業なんてと ぼけたこといってないで、さっさと就職しよう’・ 凡人は凡人らしく。サラリーマンとして清く正しく 賢く生きよう!・」  「凡人は凡人らしくって。なんだよ」  文句をいいつつ、一歩は翌日から再び就活へと向 かった。  その日は、建築関係の出版社、「現代建築社」を 受けに行ってみた。そこはホテル、レストラン、 ファッションストアなどの経営者向けに『商空間』 という空間・店舗デザインの月刊誌などをつくって いる会社だ。そのほかにもリフォーム雑誌など、建 築情報誌や書籍を幅広く取り扱っている。  普段は目を向けない業界だが、「広告営業部員、 急募’・」とあったので受けに行ってみた。  店舗デザインの情報誌を発行している会社なだけ あって、現代建築社は、瀟洒な内装のオフィスだっ た。受付後、すぐに面談となったが、業界研究も甘 く、一歩の自己PRは空回りに終わろうとしていた。  あまりの手ごたえのなさに、一歩が凹んでいると、 人事部長の茶谷と名乗っていた男性が、「ほかに、 なにかいっておきたいことなどありますか。たとえ ば、わが社の既存業務にかかわらず、あなたが新し くやってみたいこととか」と尋ねて、一歩の個性を 引き出そうとしてくれた。だが、その質問に一歩は 戸惑った。  「『やりたいこと』ですか……」  一歩は、矢弦と出会ってから、「やりたいこと」 という言葉に敏感になっていた。そのとき、一歩の 脳裏に、「カフェーカオス」で見た起業家たちの姿 が蘇った。  「そりゃできることなら、世界を変えるようなす ごいことをやってみたいです。どうせやるなら、多 くの人に役立って、多くの人に喜んでもらえるよう なことを生涯かけてやってみたいです’・」と答えて みる。  するとシン、とその場が静まり返った。  ハツと一歩が我に返ったとき、「ヘー、どうやっ て?」と冷ややかな声が返ってきた。広告営業部長 の黒田と名乗っていた男だ。  「え?」  「そのためになにができるっていうんだ? 君に どんな能力がある? ぜひ、それを聞かせてほしい ね」  「はあ……(ですよね)」  黒田は、苛立った様子で、一歩を睨みつけていた。  「まったく話にならないね。そもそも君、会社っ てのは君らのやりたいことをやる場所だと思って る?」  「え……冫・」  空気を読む一歩。  「違うと……田心います」  すると、人事の茶谷が、「いや、そんなことはな いよ」と口を挟もうとするが、黒田がそれをさえ ぎって、  「だよな? やりたいことをやるっていうならよ そでやってくれ。君はこの会社から給料をもらうん だよな? それに対して君はなにをする? なにを してくれる? なにができる?」  「えつと。できる限りのことを」  黒田がパンツと机を叩いた。  「バカか’・ それをはっきりさせろつていってる んだよ」  「あ……はい、すみません」  「ここで働く以上、君の義務はこの会社の利益に 貢献することだ。違うか。君がこの会社に対して、 どんな貢献ができるか。それをはっきりさせなくて どうすんだ。あんた、なにしに来たんだ」  「は、はい。そういうことなら、自分は前職で 培った営業のI」  「それは聞いた’・ それ以外になんかあるかって 聞いてんだ’・ 何度も同じこといわせるな’・」  「すみません」  「だいたいその程度にしか自分を売り込めないよ うじゃ、あんたの営業能力なんてしれてるよ」  「はい……」  「もういい。次(の人)」  黒田は吐き捨てるようにいい、一歩は静かに退室 した。  部屋を出た後に、黒田が「こんな奴、書類見てダ メだってわかるだろ。大した学歴も職歴も資格もな い、無能に決まってる’・ おまえもくだらん質問す んな’・ 時間の無駄だ」と茶谷に文句をいっている のが一歩の耳まで届いた。  「……なにやってんだ、俺」と一歩は、現代建築 社を出てため息をついた。  やりたいことI。あの質問は、会社研究をどれ だけやってきたかを試すためのものだ。会社の特性 を踏まえて、こんな事業をしてみたい、今この会社 で取り組んでいるこのプロジェクトに加わりたい、 そういうことを答えるのだ。  あんなふうに、個人的な漠然とした希望や夢を答 えるところじゃない。  「ああII、バカだ。失敗した’・ ポンド、バカ だ。俺、どうかしてる」  一歩が凹んでいると、後ろから「別にいいじゃん。 あんな会社落ちたって」と声がした。振り返ると、 一歩と一緒に面接を受けていた青木という青年がい た。わけあって転職活動中だという青木は、そうは いいながらも、一歩の何倍も理路整然とした志望動 機や自己PRを語っていた。  「あの黒田とかいう奴、超うざかったなI。あい つが欲しいのは結局、いうなりに動く『兵隊』なん だよ。でも、ここって、給料は大したことないし、 休みも少ないし。出版なんて将来性もどうなんだっ て話だよ。そのくせ偉そうに。正直、受かってもウ ンザリだよな」と青木がこぼすと、  「そうなんだ。にしても『会社は君らのやりたい ことをやる場所じゃない』か。じゃあ、なんのため に働くんだ、俺たち。金のためか、会社のためか」 と一歩もぼやいた。  そのとき、一歩にまた、矢弦の言葉が蘇った。  「青年。これから必要なんは『こうしたい』とい う指針をもって生きることや。コンパスの示す方向 が定まらんとなにも始まらん。重要なのはオノレが なにがしたいかや」  矢弦はこうもいっていた。  「起業家のように考えて起業家のように行動する Iこれを仮に『起業道』としよう。それは、特別 な人だけのものじゃない。誰だって『あれ? これ はこれでいいのかな?』『俺はこうしたいのに』『こ うすればもっといいのに』と思うことがある。それ を起業家のように実践する。これを日常生活や日々 の仕事に使えば、誰もが世の中を変えられる。そし てその力は、自分たちが世の中を生き抜く力の源に もなる」と。  その起業道(起業家的思考と行動法則の習得)と いうマインドセットは、起業することに役立つのみ ならず、大企業で働いていたとしても、中小企業、 非営利団体にいても、あるいは学校や部活動であっ ても、つまり日々、さまざまに日常生活を送るうえ でも役立つものだ、と矢弦はいっていた。  「『世の中を生き抜く力』というのは、『世界を変 える力』のことや。そしてその『世界を変える力』 というんは誰にでもあるねん」  「『起業道』−独自に生きていける力−世界を 変える力、か」  一歩は、その足で「カフェーカオス」へと向かっ た。  すると、その囗の「カフェーカオス」では、矢弦 が、起業家志望の若者たちに、「ビジョン」の大切 さについて語っていた。  「イソップ童話の三人のレンガ職人の話、知って る?」と矢弦は尋ねた。  「?」と一歩も混じって聞き入っだ。  「ここでは、説明のために四人にするで。……あ る旅人が街を歩いていると、レンガを積んでいる四 人の職人に出会いました。旅人は尋ねました。『あ なたはなにをしているんですか』と」  職人の答えは、 職人I「レンガを積んでいるんだよ」     今、なんの作業をしているかということし     か見えていない 職人2「壁をつくっているんだよ」     完成図に向けての意識があるも、そこまで     の道のりでしかない 職人3「教会をつくっているんだよ」     完成図そのものに言及しているが、そもそ     もの目的を理解していない 職人4「苦しんでいる人たちを救うための場所をつ     くっているんだよ」     問題を主体としたビジョンが明らかになり、     レンガは方法論に過ぎない  矢弦は、ホワイトボードに書いた職人4を指し、 「大事なんは、このビジョンをもつっちゅうことや」 と解説した。  「えII俺、たぶん、職人Iだ。めっちや楽しく、 レンガを積んでそう……」  「一歩? よう来たな」  「はい。でも、たとえば職人Iであっても、楽し く仕事をしてたらそれでいいんじやないんですか。 レンガを積むこと自体が楽しいって人もいるで しよ?」  「ホンマにそれでええと思うんか」  「え? はい。・……自分は、がんばってせいぜい、 職人3の『教会できるぜ、よっしやI』つて思うく らいですよ。でも、みんなそんなもんじやないです か。それくらいの考え方では、なぜダメなんです か」  「『なぜ?』か。ええ質問や、一歩。『なぜ?』と 問いかけることを忘れるな。せやな、たとえば、こ の場合、このレンガを積み上げた結果としてできる 建物が、人を救う教会でなく、ひどい公害を招く工 場であったり、大量虐殺をするための施設であった りしても、ホンマにええか」  「え? いや、それは嫌ですよ!」  「せやろ? 大事なんは、この教会をつくって 『苦しんでいるものたちを救う』つちゅうビジョン のほうや。自分の行動の結果が、世の中にどう影響 を与えるか。そこまで考えなあかんやろ? 重要な んはビジョン。自分はなんのために行動するのか。 自分の生涯をかけてなにを成し遂げるんか。そうい う『ビジョン』を描くことが一番大切なんや」  「なるほど!」  「楽しくレンガを積むんもええ。けど、そこにビ ジョンがなかったら、あかん。仕事っちゅうのは、 与えられたことを漫然とやってたらええっちゅうも んとちゃうやろ? 自分の人生や。自分が人生をか けてなにを成し遂げるのか、ちゃんとビジョンを もって働くことや」  「へえI」  「そして、より良い世界を創っていく。未来を 創っていくんは他の誰でもないあんた自身」  矢弦の言葉に、一歩は心打たれた。  矢弦の話を聞き終えた参加者たちが帰っていく中、 一歩は矢弦のもとに駆け寄った。  「矢弦さん! 僕も『やりたいこと』を実践して 生きたいです! 僕にも起業、できますか」  「『できる』『できない』やない。『やる』か『やら ん』かや、一歩。自分が『どう生きるか』『なにを して生きたいか』、それを考え、実践していくのは、 すべてオノレ自身や」  「どう生きるかI。自分もやります! 僕に起 業道を教えてください!」  「よっしや。一歩。Action trumps every巨ng! 行 動ありき。とにかくやってみよう。Change the world! Change your world! 世界を変えていこう。ま ずは自分の世界から変えていくんや」  「はい!」  そして今度は矢弦が、一歩に尋ねた。  「起業をしたいっちゅうのは、わかった。ところ で、自分、起業してなにがしたいねん?」  早速、一歩は最初の難問にぶち当たった。   【解説】VUCAの時代に新しい世界を創      る「起業道」    先行き不透明な時代を生きるヒント  今の私たちはヽまさに「‰Uとかの時代」にいま す。  VUCAとは、くo一歐一Q(不安定)、 cコcertain(不確実)、∩oヨpieχ(複雑)、 Ambiguous(不明瞭)の四つの単語の頭文字を組み 合わせた言葉で、変化が激しく先行きが不透明な社 会・経済情勢のことを示します。  その中で成長を続け、生き残るために対応を迫ら れるのは企業だけではありません。個人についても 同じです。パンデミックなどによる世界的な混乱、 日本の終身雇用一年功序列制度の崩壊、「人生10 o年時代」を想定したキャリア形成など、多くの課 題を抱えたうえで、働き方や生き方を模索しなけれ ばなりません。  そうした不安定で不確実、複雑で混沌としたvu cAの時代においてこそ、本書を、自身の生き方を 考えるためのヒントとして活用していただきたいと 思います。    ChangeをChanceにするマインドセット  変化のめまぐるしい先行き不透明な時代だからと いって、悲観することはありません。  (change(チェンジ)と(‥gコce(チャンス)と ではたった一文字、異なるだけ。予測不能な時代こ そ、世界をより良く変えるチャンスでもあります。  VUCAという言葉の頭文字を、く11sion(ビジョ ンをもって)、Understandiコg(理解し合い)、 ∩一arity(明快に)、冫皀尽(迅速に行動する)と読み 替える。それだけで、予測不能な世界がチャンスに 見えてきます。あとは、あなたが行動を起こせば、 世界は変わる、あなたと身近な人を幸せにすること につながっていきます。そうしたマインドセットを 醸成してほしいと思います。    起業道とは起業家の思考と行動法則の獲得  本書では、アントレプレナーシップ教育(起業家 教育)の名門として全米ナンバーワン(C・い・ZQをい &World Reportの世界大学ランキング)であり続 けるバブソン大学で教えている、世界を変える力、 アントレプレナーシップを、起業のみならず、会社 での業務や日常生活でも使えるように伝授していき ます。  バブソン大学では「起業家精神 (mコtrepreコeurship)とはなにか」や「起業家 (m耳名「Qコ皀『』とはどういう人?」と考えていく のではなく、「mコtrepreコeurialjという形容詞に のっとって「mコtrepreコeurial Thought & Acti〇コI 「m爿冫冫J一どうしたら起業家的な思考と行動法則 が獲得できるのか」というアプローチで学びを深め ていきます。  これによって誰でも起業家の「思考」と「行動法 則」を得ることができる。これがバブソンの考え方 です。  この起業家の「思考」と「行動法則」を両輪にも つ「起業道」を実践する。それが、混沌とした変化 の激しい現代で、あなたの個としての自立をうなが し、真の強さと信念をもってさまざまな問題を乗り 越えて生き抜いていく力、新しくより良い世界を 創ってゆく力になることと期待します。  では「起業道」(起業家のように考えて起業家の ように行動する)とは具体的にどのようなことなの か。次章から解説していきます。 第二章 「己を知る」ことこそが成       功への第一歩  Entrepreneurship is ab()ut exploring one's  self. Self-understanding is the primary driver  for successful and sustainable  entrepreneurship’  起業道とは、自己の探求・模索である。      己を知ることこそが持続的な成功に向け      ての第一歩・原動力である。  「起業して、あんたは、なにがしたいねん?」  矢弦に問われて、一歩は、言葉に詰まった。  なにがしたい? したいこと?  「い、いきなりそういわれても。そもそも僕には 起業できるような、才能とか、専門的な知識や技術 なんてないですし」  「ちやう。わしが聞いたんぽそんなんとちやう。 あんたが『やりたいこと』や。なんかないんか。世 界一おもろい街をつくりたい、ロケットを飛ばした い、人を感動させる音楽をつくりたい。なんでもえ え。夢中になれること、明けても暮れてもやれるこ と、長い時間やり続けても苦にならないこと、ある やろ?」  「……ないです」  「ないんかい」  「あらためて考えたこともないですし」  「まず、それを探すんや。特に起業家になるつ ちゅうなら、二十四時間三百六十五日、四六時中、 事業のことを考えることになる。だから、好きなこ とじゃないと続かへん」  「やりたいこと……」  一歩は、就活に必要で、場当たり的に「やりたい こと」を考えたことはあるが、四六時中やりたいこ と、寝食を忘れて無我夢中になれるようなことを考 えたことがない。  「ぜひ『夢中になれること・ワクワクすること』 を追求して、行動を起こしてほしいね。世界を変え るにはまず己を知ること。それがすべてのスタート や。自分がなにをしたいのか。社会にどのようなイ ンパクトを与えたいのか。その欲望を知ること。そ れがわからんと、なんも始まらん」  そして矢弦は、あらためていった。  「自分を知る。自分はどう生きたいのか、一体な にをして生きたいのか。まずそれを知る。なにより はじめに『やりたいこと』を明確にする」  「やりたいことを明確に……」  一歩は矢弦のその言葉にあらためて頭を悩ませた。  「子どもの頃、なんでもできると思ってたやろ? 朝から晩までやりたくて自然とやっていたことがあ るやろ? できる、できへん、なんの疑いもなく、 お金のことも関係なく、自然とやっていたことが」  「子どもの頃……」  「もしくは、世の中の仕事が、すべて給料一律や としたら、なにがしたい?」  「うIん」  一歩は目を閉じて考えてみた。  「どや?」  なにも思いつかない。  「あの、『できること』より、『好きなこと』。ポン ドに、そんなのでいいんですか。夢中になれること なら、たとえば、ただゲームしたいとか、カラオケ が好きとか……でもいいってことですか?」  「ゲームにカラオケな」  顎をなでる矢弦を見て、一歩は、やっぱり、と思 いながら尋ねた。  「ダメですよね?」  「いや。ええねん。それがホンマに四六時中夢中 になれるほど『好き』なことやったらな」  「え?」  「『好き』は特技になる。人は、好きで好きでしや あないことのためなら、自然と努力ができる。時間 を忘れるほど没頭することができる。好きが高じて 知識も増え、マスターにもなれる。なにより行動の 原動力になる」  「でもそれって結局、プロのゲーマーとか、歌手 になれるほどずば抜けて歌がうまいとか、その分野 ですごく『才能のある人』『デキる人』しか、それ を仕事にすることはできないってことですよね?」  「そんなことあれへん。野球が好きならプロ野球 選手になる以外に、スポーツ記者や評論家、トレー ナーになったり、道具をつくる人になったり、草野 球チームをもったり、関わり方はいろいろあるや ろ?」  「ああ、なるほど」  「せやな。ここで、もうひとつ、大事なことをい うと」  Entrepreneurship is probleヨdriven. Be aware of  probleヨs around you. Appreciate the probleヨs around  you. Engage in probleヨーsolving!  起業道、そのすべての道は問題から。問題を意識  し、感謝し、解決に向けて尽力する。  「ぷろぶれむ……」とI歩はかろうじて聞き取れ た言葉を口に出す。  「なにがしたいのかというのと同時に、『一体どん な問題を解決したいか』というのがとても重要なん や。『ゲームが好き』というんは、ええ。ゲームが 好きなら、ゲームで生きていくことを考えてみよう。 ただ、それを仕事にするなら、ビジョンがいる。 ゲームが楽しい。それは結構。だが、ゲームをする ことでなにを成し遂げる? 好きなことで起業した い、行動を起こしたいといっても、なんの問題に取 り組んでいるかが明確でない限り、社会に貢献する ものも、それに対する対価もなんも生まれへんし、 その意志は継続せえへん」  「はあ」  「だから、起業したいという人に、わしは必ず尋 ねる。『君はなんの問題を解決したいんや?』とね」  「解決したい問題?」  「せや。日本やと、やりたい仕事を考えるときに、 『なにになりたいか?』、弁護士とか医者とかいう職 業を考えてしまうやろ? だが、そうやなくて『な んの問題を解決するプロになりたいか?』『なんの 問題を解決して経済的対価を得たいのか』というふ うに考えるんや」  「問題を解決するプロ?」  一歩が首を傾げると、  「たとえばI」  矢弦は解説を続ける。  マイクロソフトの創業者ビルーゲイツは、世界一 のソフトウェア帝国を築いて巨万の富を得たが、現 在は、マラリア撲滅という問題に取り組むために、 第四世代原子炉による発電に大規模投資をしている。  「マラリア撲滅を達成するとひとくちにいっても、 その関わり方はひとつやない。医者になる、新薬を 開発する研究者になる、病院をつくる建設者にな る……など、さまざまにある。実際に、いろいろな 取り組みが行われているが、ブレイクスルーできな かったのが電気の問題」  「電気? どういうことですか?」  「なにをするにも電気は必要やろ? 病院施設の 建設にも、医療機器の使用にも、上下水道の整備に も電気がいる。世界で当たり前に使われている電気 が、発展途上国では安定供給されてへん」  「ああ、そうか」  「で、ビルーゲイツが考えたのは、まずは干不ル ギー(電気)を供給することや。電気の安定供給が ない発展途上国に、最新技術を駆使して安心安全安 価な電力を供給する。それには第四世代の原子炉が 必要やったというわけや」  「へえ。なるほど!」  「『マラリアを撲滅したい!』という問題意識を もつだ人間には、これらさまざまな職業が選択肢と してあるんや」  「そうか。そういうふうに考えると、ビジョンが ひとつでも、なりたいものの幅はどんどん広がるつ てことですね」  「せや。だから『なにになりたい?』よりも『な んの問題解決に従事したい?』と考える。そうした ほうが、しっかりとした理念があるし、一貫性も あって、持続性も出る。選択肢も広がる。共感を呼 んで人もついてくる。手段としても、なにも起業に こだわることもない。ボランティアで関わる、会社 員のまま関わる、出資する、などやり方はいろいろ や」  「なるほど、そういうことですか」  「わかったか」  「ええ、でもなんだか難しそうですね。その『問 題』を探すのが」  「そんなことあれへん。問題はそこらしゅう、い ろんな形で、それこそ世界中に存在する。貧困を救 う、戦争を止めさせる、地球温暖化を防ぐ……もっ と身近な問題で、ゴミのポイ捨てを止めさせる、雨 漏りを止める、なんぼでもあるがな」  「なるほど」  「大切なんは、その問題を意識することや。今は 便利な社会で、なんでも簡単に手に入るし、なんで も簡単にできる。それを便利で当たり前やと思って しまうと、問題っちゅうもんが見えなくなる。便利 なことを当たり前やと思うんやなくて、『なぜ便利 なのか』『どうしてこんなことができるのか?』と 考える習慣をつけるんや。『なぜ』『どうして』と物 事に対して疑問をもつ、好奇心をもつ。常識につい ても鵜呑みにせずに『本当にこれでええんか?』と 疑ってみる。そういう姿勢が大事なんや」  「そうか……『なぜ』と問い続ける」  「せや。それに、『できること』より『やりたいこ と』がなぜ重要かといえば、『やりたいこと』、つま り自分の欲望、夢や志がすべての原動力になるから や。たとえば、あそこにいるふたり」  矢弦は、カフエにきていた男女ふたりの起業家を 呼び寄せた。  男性のほうは、カジュアルなシャツを着こなした 三十代前半くらいの青年だ。  「こちらの高橋君。彼はまさに、『ゲーム』が好き すぎて『ゲームをすること』を仕事にするために起 業したんや」  「ええ?」  半信半疑の一歩に矢弦がいうには、その高橋は、 ゲームが好きすぎて公務員を辞めて起業したそうだ。 今では故郷のN県F市でeスポーツのイベントを企 画・運営する会社を経営している。eスポーツとは、 「エレクトロニックースポーツ」の略で、コン ピューターゲームやビデオゲームを使ったスポーツ 競技だ。  「好きなゲームを使って、高橋君は、町おこしを している。F市でeスポーツの祭典を開催すること で、若者や観光客を呼び寄せ、『過疎化』という問 題を解決しているんや。好きなことに、そうした問 題解決を組み合わせることで、世界をより良くする ことができるし、好きなことを継続してやることが できるようになるんや」  そういえば、一歩もF市がeスポーツで有名な 「ゲームの町」ということは知っていた。それが、 この高橋が起こした行動の結果だということを知っ て、「へえ’・」と驚いた。その一歩に高橋は笑って いった。  「矢弦さんに出会うまで、僕も、『好きなことをや るためには、収入を別に確保しないといけない』と 思っていたんだ。ゲームを存分にしたいなら、その 金を稼ぐために仕事をやる、とかね。だって、プロ のゲーマーになれるほどゲームがうまかったわけで はなかったから。それにゲームを『つくる』ことに はあまり興味はないから、今あるゲーム会社に就職 する、ということにもあまり惹かれなくてね」  「そうなんですか」  「それでも矢弦さんは、そんなに好きなら、『ゲー ムをすること』自体を仕事にしてみろっていうんだ。 無茶だろ? 『そんな仕事はありません』つていっ たら、『ないなら創ればいい』つていうんだ。ばし めは、『なにいってんだ?』つて思ってたんだけど」  矢弦が口を挟む。  「日本人は、すぐ、仕事と好きなことを分けよる。 好きなら、まずそれを仕事にすることを考えて、動 けばええのに、そう考えることすら、放棄してるん や、サボタージュや」  高橋は苦笑して、一歩にいった。  「だって好きなことを仕事にできる人なんて、そ うそういないし。でも、そういわれて、僕も思い直 して……はじめは、公務員をやりながら、ゲームの 実況中継をYoutubeで配信して小遣い稼ぎをしてい たんだ。でも、次第にそれでは物足りなくなって、 『世の中の役に立ちたい』『囗本にもプロのゲーマー を定着させる』と結局、起業することにしたんだ」  「お、思い切りましたね」  「うん。そのとき、もともと勤めていた市役所の あるF市の過疎化の問題にeスポーツを絡めれば、 うまくいくんじゃないかと思いついてね。いい町な んだけど、目玉がなくて。eスポーツなら、人を呼 びたいという町のニーズにも応えられるし、場所も 使い放題だし、これはいけるかもしれないって」  「でもそれって、公務員のままじゃできなかった んですか」  「僕の場合は、辞めたほうが、思いっきり好きな ようにできると思ったんだ。実際、公務員のまま じゃ、ここまで機動的には動けなかっただろうしね。 それに、僕はなにもF市だけにとどまるつもりもな いし。囗本中にeスポーツを定着させることが僕の 夢なんだ」  「そうか。そういうことですか。なるほど、そう いうふうにしていけば、好きなことを仕事として実 現できるし、拡大していけるわけですね?」  「せや。そうして好きなことと問題解決とを関連 づけることで、自分もワクワクするし、周りもワク ワクする。自分も周りの世界も、少しずつよくなる やろ? そうして世界を変えていく」  「なるほど」  「で、こちらの林さんは」  矢弦は、高橋の隣にいた、優しそうな女性に目を 向けた。  「彼女は、好きなことというより、先に問題にぶ ち当たって、その問題解決のために動いたんや」  「林です。今、ハウスキーパー派遣のマッチング サイトをやってます」  林の運営するサイトは一歩も聞いたことのある、 家事代行・家政婦のマッチングサービスだった。林 は、にこやかに自分の事業のことを話してくれた。  「もとは、経営のケの字も知らないシステムエン ジニアだったんです。結婚・出産後もあるメーカー で働いてたんですが、子どもがいるからといって仕 事を減らすことも、働く時間を選ぶこともできなく て。それで残業や休日出勤に振り同された挙句に身 体まで壊してしまって。そのとき『今の社会は、な んて育児と仕事の両立がしにくいんだ』つて我慢で きなくなって!・」  「は、はあ」  一歩は、力説する林に圧倒される。  「それで『会社にいては仕事と育児をうまく両立 できない。それなら、自分で両立できる環境をつく る’・』と起業したんです」  「すごいですね」  そして林は、同じ問題を抱える働くママを集めて 会社を興したそうだ。これまで一般的に高価格で利 用しにくかったハウスキーピングサービスに『短時 間』で『格安』のサービスを設けた。そうすること で、働くママにとって、気軽に利用しやすいサービ スになり、また一方で、隙間時間を活かして働きた い専業主婦に、気軽にハウスキーパーとして働ける 場所を提供したのだった。  「それはいい方法ですね’・ でも、やっぱり起 業ってそうした頭の良さとか知恵がないと、難しそ うですね」と一歩が不安げにいうと、林は首を振っ て、いった。  「必要に迫られた仲間で欲しいものを突き詰めて いった結果、そうなったって感じです。それに、で きないことまで、自分で抱え込む必要もないしね。 できる人の知恵や手を借りたっていいんだから」  矢弦がうなずいていう。  「林さんは『働くママにとって働きにくい環境』 という問題にぶち当たって、その問題を解決するた めに立ち上がった。結果として、彼女の会社は、働 くママと、働きたくても働く場所のなかった専業主 婦にとっても、ハッピーな結果を生んだんや」  「今は、念願通り、家族との時間を十分にとれて いるし、そのうえ、自分の好きなシステムの仕事で 女性の働きにくい環境を変えることができて、とて も幸せです」  「すごい」  一歩が、高橋と林の話に感じ入っていると、矢弦 がいった。  「ええやろ? 誰にでも、世界を変える力はある ねん。その原動力は『こうしたい』『こうあってほ しい』という自分の欲求や。だから『できること』 より、『やりたいこと』が重要になってくる」  「なるほど。そういうことですか」  「そうした『やりたいこと』に気づくためにも、 納得がいかないことや、腹が立つことにぶち当たっ たときに、その不条理に心が動いたのはなぜなのか を、キチンと考えることや。考えることを止めたら あかん。腹が立つんは、『こうあってほしい』とい う世界があるからやろ? 『こんな世界おかしい』 と思ったら、自分の思い描くビジョンの実現に向け て自分が動く。林さんのように、『働きやすい世界 をつくる』と志を抱いて、自分で世界をよくしてい けばええねん」  「はあ」  「与えられるのを待つのではなく、自分の欲しい ものを手に入れる、なければつくる、という発想に 変えていくんや。やれることは無限にある。高橋君 のように、好きなことになにか問題解決をくっつけ てもええ。林さんのように、問題にぶち当たって、 その憤りを志に変えて、問題解決に働きかけるんで もええ。『これが不便』『おかしい』と文句や愚痴 ばっかりいってないで、それを夢や志に変えて自分 の思うように世界を変えていくんや」  「文句や愚痴……そっか、そういうときにこそ、 問題がそこにあるってことか」  一歩は目から鱗が落ちる思いがした。  「わかってきたやないか」  「まずは、そうした問題が身近にあることに気づ く。そうしてやりたいことを見つけられれば、どん どん実現できると」  「せや。いずれにしても、成功する起業アイデ アつちゅうのは、リアルな問題を解決しているもん や。それだけやない。成功する起業アイデアは、 往々にして世の中に新しい価値観を生み出している もんや。この高橋君や、林さんのようにな。だから、 昔からの常識、業界のしきたり、型、思い込みにと らわれず、それをぶち破ることを恐れるな。『違和 感』を大事にするんや。Coヨfort zone is a wonderful place but nothing grows there.恵まれ た安心の境地、心地良さからはなにも生まれへんか ら、一歩を踏み出してみる!・」  「はい!・」  一歩はワクワクしてきた。  そんな働き方があったのか。  「まあ、まずは、『自分はどのような人間なのか』 『なにをしたいのか』を自問し、己を理解すること。 自分の欲求をはっきりさせる。それがすべてのはじ まりや」  「はい!・」  一歩に希望が芽生えた。  自分はなにをしたい? なんの問題を解決した い?  解決したい問題さえ見つければ、自分は好きに生 きられる。  「よし! やるぞ!」  一歩はやる気に満ちあふれて、カフェを飛び出し た。  その数日後、意気消沈してここに戻って来るとは これっぽっちも思わずにI。   【解説】「できる」より「やりたい」を突       き詰めよう       起業家精神はあなたにも宿つてい       る バブソンでは次の問いから起業道が始まります。 一f you could so一くQoコe wo「一d probleヨ「 what would it be? 世界中にある問題のうち、あなた自身がひとつ を解決できるとすれば、それはなんですか? 「なんの問題に取り組むか」の決心が固まったと き、すなわち欲望が確定したとき、自己理解が深ま り、起業道の大きな第一歩を進み始めた、というこ とです。  そしてこの言葉と対になるのが次のフレーズです。  一。here is aコeコtrepreneur in all of us.  起業家精神はみんなに宿っている(あなたに  も)。  起業道というのは特別な人のものではありません。  誰にでも世界は変えられるのです。  「あなたは誰?」−この問いこそが、行動を始 めるのに必要不可欠な質問、起業道の出発点です。 すべての起点は「なにをしなければならないか」 「なにならできるのか」ではなく、「私は誰か」「な にをしたいのか」「なにを知っているのか」「誰を 知っているのか」です。  この自らの欲望を明らかにすることが、起業活動 を円滑に進め、動機を持続させ、事業を成功と繁栄 に導くための気力I体力I行動力I瞬発力I持久 カー忍耐力I回復力などの原動力を大きく左右しま す。     「やりたい」「好き」が「すべき」「できる」    よりも優先  やりたいことを追求しても、実践することは現実 的に難しいI日本のビジネスパーソンはそう考え るかもしれません。終身雇用の慣習がいまだに根強 く、転職や起業に馴染みも薄いため、彼らには「自 分がなにをしたいのか」「社会にどんなインパクト を与えたいのか」を自分自身に問う習慣がありませ ん。ぜひこれを機に、「自分がI体なにをしたいの か」、そして「それが現実として叶っているか」を、 自問自答していただきたいと思います。  そして、自身の幸せのために働く。それがこの予 測困難な時代に生き抜く手段となります。  会社都合や、転職、起業などによって、より過酷 な労働条件を強いられることがあっても、人は「好 きなこと」「やりたいこと」をやっている限り、不 平不満を口にすることはほぼありません。決して脱 サラを勧めているわけではありません。目的意識が キチンとあり、社会に役立っている自負や日々の充 実感があるのであれば、現在お勤めの組織でのさら なる飛躍を目指していただきたいと思います。  ただ、近年は、ひとつの企業で勤め上げるという 意識が薄れてきています。副業規制も緩和され、転 職率も高く、起業に対するインフラも強化されつつ あります。そうした環境を活かして、「やりたいこ と」を実行し、その先を、世の中に蔓延する問題の 解決につなげていくことも可能です。そうすれば、 仕事が大好きな人間が増え、生産性も上がり、社会 が活気にあふれ、世の問題の多くが解決されること でしょう。  これが、「世界が変わる」ということです。  起業の世界では「∩hange the world!(チェンジー ザーワールド)」あるいは「Better the world!(ベ ター・ザーワールド)」というフレーズをスローガ ンとして使うことが多いのですが、その茨の道もI 歩から。世界を変えるには、まず己を知ることが大 切です。     第三章 自問自答と多聞多答  「あああIII。困った」  数日ぶりに「カフェーカオス」を訪れた一歩は、 入り口のテーブルで、しかめっ面をしていた。  「ちょっと。そんな辛気くさい顔して入り口に居 座るの、止めてんか。お客さんが気味悪がるやろ」  スタッフの光代が来て、文句をいう。  「はあああああII。困った困った」  頭を抱える一歩。  「その変な鼻息に独り言、なんやねん、さっきか ら」  「ため息です。ああああああ。もう’・」  そのとき、外での講演を終えた矢弦が店に入って きた。  「矢弦さん’・」  「なんや」  一歩は矢弦のもとに駆け寄った。  「困りました。『なにをしたいか』『なんの問題を 解決したいか』、なかなかこれといったものが見つ からなくて」  「囗本のビジネスパーソンつちゅうんは、『自分の やりたいこと』を考える習慣がないというからな」  「そもそもですけど、『己を理解する』−自己理 解って、なんですか。どういうことですか」  「『自分がなにをしたいか』『自分はなにが好きか』 『なにをしているときが幸せか』『なにが得意か』。 自分自身の性格や気質、好き嫌い、得意不得意、強 みや弱み、特有の考え方や価値観を知ることや」  「ええ、ええ。なんとなくはわかります。でも、 なんとなく好きなものはあっても、そんなに強固な 『これがしたい’・』『これが好き’・』なんていうもの、 みんなもってるもんですか」  「ないわけない。意識しているか、していないか の違いや。大人になると当たり前に諦めていること が多いからな。いずれにしても、自分のしたいこと、 夢中になれることは、自分自身にしかわからんこと や」  「そうはいっても、世の中、『好きなこと』『やり たいこと』をはっきりともっていない人が大半だと も聞きますよ?」  「そら残念な世の中やな。わしにいわせれば、そ れは『なりうる自分』にフタをしてるも同然や」  「なりうる自分?」  「せや。せっかくやから、自己理解の方法をひと つ、教えとく」  矢弦は、ある方法を一歩に伝授してくれた。  「これはこれから起業道を実践するうえで、いろ いろな局面で何度も使うことになる方法や」  それは「リフレクション」と「フィードバック」。  〈リフレクション〉振り返る、顧みる作業。自分 の決断や行動について振り返る方法  〈フィードバック〉他人からの批評。知人、友人、 家族から、意見を求めてみる方法  「リフレクションは、自問自答といってもええな。 自分にしかわからない主観的な自己理解や。たとえ ば欲望について、とかな。フィードバックは、いわ ば多聞多答や。他人との対話からしかできない客観 的な自己理解や。自分にも他人にも知り得なかった 自分を見つける」  「はい」  「ひとつずつ見ていこう。まずはリフレクション。 これは内省、内観という言い方もある。マクロ的に は自分の人生を振り返ってみるんでもいい。ミクロ では自分の行為ひとつひとつを振り返る。これは、 これから起業道を実践していくうえで、折に触れて、 自分の失敗を振り返ったり反省したりして次に活か すためにも使える」  「はい」  「たとえば、自分がどういうふうに生きてきて、 なににワクワクするのか、どういうことに充実感を 抱くのか、夢中になれるのか。また、他人と比べて、 どんなことがうまくできて、なぜそれが人よりよく できたのか、自分の強みを紙に書き出してみるなり、 とにかく言語化してみる」  「はい」  「それで、考察をしていく。リフレクションは、 そうした自由な切り口で、自分に問いかけてみる。 たとえば『人生において最も印象的な出来事』を考 えてみる。大きな辛いことや、大きな失敗、逆に大 きな成功や喜びから強い動機が生まれることもある からな。『家族を病気で亡くしたから病気をなくす 仕事に就きたい』とか、『貧乏でお金に困ったから お金に困らない世の中にしたい』とか、『スポーツ で優勝したからもっと極めてみたい』とかあるや ろ」  「なるほど、人生において最も印象的な出来事」  「思い当たることがあるか」  「あるといえばあるような、ないような……」  一歩は、幼いときに、父を亡くし、その後、自分 を母とともに育て上げてくれた祖母も亡くしている。 身近にいた大切な家族を亡くす経験が続いたせいか、 「目前の人や家族、仲間を大事にしたい」「今、家族 や仲間と一緒にいる時間を大切にしたい」という思 いが人一倍ある。だが、それがどう『志』や『やり たいこと』につなげられるのか、よくわからないで いる。  返事に窮していると、矢弦が別の提案をした。  「ここでは、自分の『強み』も理解するために、 切り口はこれでいこう」  矢弦は、ホワイトボードに「功績」と書いた。  「功績?」  「せや。まずは、@功績を五つ、リスト化する。 それをプライオリティ順にランクづけする」  「えIと。功績っていわれても。大したことはな にも。俺、普通のことしかやってないし」  「またそれや」  「どれです?」  「あんたのいう、それ。その『普通』つてなんや ねん」  「……どうつてことのない、『平凡な』つて意味で す」  「あのな、起業は、学歴が高いからとか、特殊な 才能があるから成功するつちゅうわけじゃないね ん」  「え? そうなんですか」  「もつというと、『起業家に向いてる性格』つちゆ うのもない。ひとりひとリバラバラ。多種多様や。 でも必ずその人なりの強みがある。『普通』という 言葉でフタをするな。自分の個性とちゃんと向き合 おう。個性は武器や。自分の個性を活かすも殺すも 自分次第や」  「はあ。でも功績っていってもなあ」  ホワイトボードに向かう一歩。  「自分なりに達成感のある行動でもええねん。 さっさと出していこう」  「えI」  「なんやねん、歯切れ悪いなあ。ここで、謙遜し てもしやあないねん。ここは、自雨自賛劇場でええ ねんで?」  「自雨自賛劇場?」  「俺めっちやすごい’・ こんなんできた’・ 大な り小なり、パンパン出していこ」  「つていわれても」  一歩は、考えて、功績を書き出す。  ・高校のサッカー部で、弱小高だったが、その高  校初の全国大会出場をはたした ・大学時代、居酒屋のアルバイトで、店舗別奨励  賞をもらった ・大学時代、ボランティア活動で、児童養護施設  から感謝状をもらった ・前職のとどろきスポーツで、社員で唯一、新規  事業の担当に抜擢された ・子どもの頃、道に迷って帰れなくなったお年寄  りを助けて感謝状をもらった  我ながら、しょぼい、と一歩が思っていると矢弦 がいった。  「ちゃんと、あるやんけ。では、これで進めてい こう。次に、Aそれぞれの功績のもととなった自分 の資質についてリスト化していく。たとえば、知識 とかスキルとか、経験とか」  「知識とかスキル?」  「『なぜ』それができたのかを考えて、その要素を 書き出してみる。それぞれの功績について、あんた は『なぜそれを成し遂げられたか』、どんな能力が 役立ってどんな貢献をしたか。あるいは、『なぜ、 それをやったか』という動機でもええ。とにかくそ こには、あんたの強みや性質や、自己理解の要素が 詰まってるんや」  「ああ、なるほど」 ・高校のサッカー部で、弱小高だったが、その高校  初の全国大会に出場をはたした  [なぜできたか、なぜやったか] 先輩後輩、監督、チームに恵まれた 守備が得意。ムードメーカーとして監督に重宝さ れた 入部動機は、サッカーが好きだから  [活かされた能力]  小回りが利く身体能力、しぶとい体力・忍耐力、  普段から他人のことをよく見ている観察・分析力、  みんなをまとめる協調性 ・大学時代、居酒屋のアルバイトで、店舗別奨励賞 をもらった  [なぜできたか、なぜやったか] アルバイトとしての日々の努力が店舗売り上げに 貢献したと評価された(メニューの開発を手伝っ たり、クレーマー対策をしたり、アルバイトの連 携をよくしたり) アルバイトの動機は、料理が好きだから。仲間と わいわい働きたかったから  [活かされた能力] 料理が得意なこと、周りをよく見ている観察・分  析力、誰とでも仲良くなる協調性、仲間うちでの  調整役、怒ったお客さんをなだめる交渉力 ・大学時代、ボランティア活動で、児童養護施設か  ら感謝状をもらった  [なぜできたか、なぜやったか]  災害地域の窮状をテレビで見て、ジツとしてられ  ずに復興ボランティアに参加  崩壊した施設の一部を、学生チームの知恵と体力  を結集して建て直した ボランティアの動機は、なにか役に立つことがや りたかったから  [活かされた能力]  夏の暑さに負けない粘り強さ・体力、どこでも寝  られる図太さ、苛立つ仲間を励ましなだめる協調  性、どんな環境でも、あるものだけで工夫ができ  る柔軟性 ・前職のとどろきスポーツで、社員で唯一、新規事  業の担当に抜擢された  [なぜできたか、なぜやったか] 積極的に仕事のアイデアを出していた姿勢が評価 された? 独身寮で、料理をつくつていたのが、食品開発を したい社長の目にとまつた 営業成績の良さや、部門間の調整能力も評価され ていた?(と思いたい)  [活かされた能力] 積極的に課題に取り組む行動力、対立する人同士 を調整する能力、料理好き、正直にものをいう  力? ・子どもの頃、道に迷って帰れなくなったお年寄り  を助けて感謝状をもらった  [なぜできたか、なぜやったか]  同じ道を行き来するお年寄りに違和感を抱いて声  をかけ、認知症で家に帰れないのだと察して、近  所の人と警察に連絡した。迎えが来るまで一緒に  待機した  近所の大人たちにも助けられ、無事対応できた   [活かされた能力]  人見知りしない、物おじしない、適切な判断力と  行動力  「こんな感じですかね……」と一歩。  「ふうん。なるほど。次は、B共通項を探す」  「共通項?」  「せや。それで、Cそれらを統合して、自分とい う人間を表現するテーマを三つ見つける」  「自分という人間を表現するテーマ?」  「せや。たとえば、これから自分自身を表現する 機会がなんぼでもある。自分の事業を紹介したいと き、仲間を得たいとき、事業資金を調達するとき、 そんなときに自分ってどんな奴か、短く紹介できる ようにしとくねん。そのための自分を表す三つの特 性や」  一歩は、いわれた通りに、まとめてみようとホワ イトボードを見直す。  「なるほど三つ……。『協調性』が多いな。どんな ときも盛り上げ役、調整役というか」  「出てきた数で決めんでも、自分の特性として強 いと思うものをピックアップしてええねんで? 自 分が自己紹介するときに『自分はこんな人間』とワ クワク紹介できる内容になるとええ」  「たとえば、僕、チームをまとめる力があります。 自分勝手な人間がいても、おとなしすぎて意思のわ かりにくい人がいてもうまく意見を吸い上げて、メ ンバーの士気を高めて、チームで居酒屋の売り上げ を過去最高に上げたり、ボランティアで壊れた設備 を改修して感謝状をもらったり、お年寄りを助けた りしたんですIとかそういうことですか」  「ええやん。そうやって具体的にあげていこう」  「三つですよね? あとふたつ。たとえば料理が 得意です。これは母が忙しくて昔から祖母とI緒に つくっていたので、肉じゃが、きんぴら、ぶり大根、 渋いものが得意です。昔ながらの文化も知ってます。 それに、今ある材料だけで工夫してつくることがで きます。ああ、そういえば、料理をすることで、創 意工夫をする力があります。中身だけでなく見栄え をよくするこだわりももってます。見栄えで味は もっと美味しく感じられますからね。相乗効果をよ く理解しています」  「ええやん!」  「残りひとつ……。うIん。観察眼・分析力があ るほうだと思います。人をジツと見る癖があるから だと思います。だから、相手の思っていること、特 にこうしてほしいということを割と当てます。なの で営業でも対面販売とか訪問販売が得意でした。そ れはチームメンバーの気持ちを汲んでチームをまと める力にもつながってます。あれ、はじめの特性に 戻っちやった」  「ええねん。そうしてどんどん、磨いていくんや。 自分がどういう人間でどういう特徴や特技をもって いるか端的に説明する。相手によってアピールした くなるポイントも違うからな。たとえばエレベー ター内でばったり、イーロンーマスクに出くわした、 隕られた時間内で自己紹介するときに、どれを選ぶ べきか」  「イーロンーマスク……なるほど」  一歩には、今ひとつ、ピンときていない。  「別に就活や合コンでもええけどな。あるやろ、 短時間の自己PR」  「なるほど’・ たしかに端的に、かつ印象に残る ようにしないといけないですね!・」  「せや。で、自分のことを表現する三つのテーマ が定まったら、次は自分のやりたいことを表現する 三つのテーマや」  「やりたいこと、ですか。それが難しいです。結 局、僕、料理以外は、体力や忍耐力を活かした営業 のようなことが得意なんですよね。好きというより は、それしかないというか。でも結局、それが好 きってことなんすかね」  「それも強みのうちやけど、もう少し蝠り下げて みよか。それでも、夢中になってきたことはあるみ だいやん。部活にバイトに仕事に」  「ええ、まあ」  「たとえば、このサッカーをやっていたというの はサッカーが好きということ以外に、『仲間とひと つのことに打ち込みたかった』という理由も考えら れるやろ?」  「あ!・ たしかに」  思えば、一歩にとって部活に夢中になれるポイン トは「仲間と汗を流す」「仲間と喜びと苦しみを分 かち合う」ことだった。サッカーはたしかに好きだ が、それができれば、野球やバスケットボールやほ かのスポーツでもよかっだのかもしれない。  「なるほど、そうやって自己理解を深めていくん ですね」  「せや。ひとくちにサッカーが好きといっても、 サッカーのどういうところが、なぜ好きかと深める だけでも、『負けず嫌い』とか『戦術を考えるのが 好き』とか個性が出てくる。そうやって、『なぜ』 『どうして』と掘り下げることで、自分のやりたい ことがクリアになってくる。自分を知ることは、こ れから自分のやろうとすることにどれだけ熱意を注 げるかを見極めるためにも重要なんや。チームワー クが好きなのに、ひとりでなにかを成し遂げるフ リーランスの仕事をし続けるのはしんどいやろ?」  「なるほど!・ そうですね」  「たとえばここでひとつ、『仲間とI緒になにかを したい』というのがわかった。じやあ、仲間と『な にが』やりたい?」  「人の役に立つことがしたいです。『ありがとう』 といってもらえるような仕事がいいというか」  「ふうん」  「まあ、解決したい問題を見つけて、その問題を 解決するってことは、結果的に人の役に立ちそうで すけど」  「社会貢献をしたいんか?」  「そんな聖人君子なことをしたいわけではないで すけど……」  「じやあ、たとえばどんなイメージ?」  「はあ。まあたとえば僕が、前職のとどろきス ポーツの新規事業の仕事にやりがいを感じたのは 『アスリートの健康に役立つものをつくる』という コンセプトがあつたからで」  「ふうん。なるほどな。でも、ボランティアも やってるな?」  「……ゝ凡ゝ凡、なんだかんだ長くやってましたけど」  でもそれは、美月がいたからかもしれない、とI 歩は思った。一歩は他大学の美月と、ボランティア を通じて出会ったのだった。  「まあ『人の役に立つ』というのがキーとして、 あとは夢中になれそうなジャンルがあれば、そこで 人の役に立つことを探すっちゅう手もあるけどな」  「夢中になれるジャンル……冫・」  一歩はホワイトボードを見直す。  「スポーツとか料理とかですかね。スポーツはア ウトドアなことが好きですけど、最近は観るばっか りかなあ。今は料理のほうがやっているかも。僕は 味にうるさいっていわれるせいか、大より少しうま くつくれます」  「ええやないか」  一歩は、やりたいことを表す三つのテーマをまと めてみる。  「『人の役に立つことをする』『スポーツ』『食、料 理』『チームで実現する』……あ、四つになった。 うIん」  一歩は考えて、「人の役に立つこと」「食を活か す」「チームでなにかを実現する」の三つにまとめ てみた。  「じやあ、それをとつかかりにして動いてみよう。 『食』の分野についてやりたい課題がないか探して みる、あるいは、人の役に立つことをしている企業 をたくさん見て参考にしてみてもええし。できるこ とから進めていく」  「はい!・」  「あと、自己理解のもうひとつの方法はフィード バック」  「フィードバック……」  「フィードバックは、第三者からの意見や。第三 者から一歩がどういう人か語ってもらう。そうする と自分で見えなかったものが見えてくる。あんたを よく知る身近な人に、『どんな人か』『なにがうまく できるか』など特徴、長所、短所をフィードバック してもらうと、自分で気づかんかった自分のことが 見えてくる。『人を説得するのがうまい』とか『絵 がうまい』でもなんでも、第三者からのコメントを もらうと、自分では意識していないが人より自然に うまくできてしまっていること、得意なことに気づ くことがある。人よりできることは達成感もあり、 好きなことにもつながりやすいんや」  「へえ。なるほど」  「ちなみに、注意点としては」  「?」  「フィードバックつちゅうのは慣れていないと、 時にケンカになることもあるからな。フィードバッ クを与える側、受け取る側にもマナーが必要や。 フィードバックを与える側は単に『批評する』ので なく、受け手側の人間が実践しやすいように、建設 的な助言・提案をする。そして、フィードバックを 受けるほうも、フィードバックは己の敵でなく友だ ちやと思って受け止める。たとえ聞きたくないこと でも、歓迎し、長くおつき合いをし、感謝するべき ものとしてポジティブにとらえて学習するんや。 フィードバックには『愛』があるんや」  「わかりました!・ やってみます!・」  その週末、一歩は、母と姉とで、父と祖母の墓参 りに出かけた。その帰りに立ち寄ったフアミリーレ ストランで、一歩はふたりに自分についてのフィー ドバックを求めてみた。  「『俺のことをどう思う?』つて、なに? 急に」 と姉はいった。  「就活で必要なんだ。自己分析っていうやつ。で、 なんでもいいから、思いつくままにいってよ。俺っ てどんな奴? なにをするのに向いてると思う?」  「つてか、まだ就職決まってなかったの?」  「ひとこと多いんだよ、姉ちゃんは」  「まあまあ。ふたりともケンカしないの。いいの よ、一歩はそんなに焦って決めなくても。幸い、住 むところだってあるんだし。じっくり、いい就職先 を探すのよ」  「母さん、またそうやって一歩を甘やかす」  「ねえ、母さんも、どう思う? 僕のこと」  「どうって……」  一歩は、母と姉の意見を聞いて驚いた。ふたりは、 一歩の思っていた自分の印象とまったく違うことを いうのだ。  「え? 僕が頑固? どこがだよ。いつだって姉 ちゃんの横暴にしたがってきただろ? おかげで従 順すぎるくらいだ」  「はあ、なにいってんの。私のいうことなんて全 然聞かないじゃん。昔っから、母さんに『黙って て』つてことは全部バラすし」  「そりゃ、姉ちゃんが悪いんだろ? 嘘ついて学 校サボつたり、母さんに頼まれた用事を俺に押しつ けたり」  「こっちにもいろいろ事情があんだって。ポント 昔っから融通がきかない’・」  「どんな事情だよ」  「まあまあ。でもまあ、一歩は頑固よねえ」  「母さんまで’・」  「だって。筋の通らないことは嫌いだし」  「たしかにときどき『それはおかしい』『嘘つく な』とか頑固じじいみたいなこといい出す」  「そうだっけ?」  「そうよ。でも、その割には、嘘に騙されるよね。 毎年エイプリルフールに騙されてんのあんたくらい よ」  「うっさいなあ」  「ぽんとバカだよねI」  「姉ちゃん、『フィードバック』にはマナーが必要 なんだよ!・ もつと言い方、あるだろ? 『バカ』 じゃなくて『大がいい』とかさ」  「なにが『大がいい』よ。それが大にものを頼む 態度か」  「ちえ。もういいよ」  「一歩はいい子よ。昔からよく人のことを見てい て、気配りのできる子だし」  「母さん’・ もっといって’・ フィードバックつ て、具体的な行動に基づいてコメントするのがいい んだって’・ ただ誹謗中傷するだけじゃダメ’・ 根 拠がないと」  「じゃあ、ただ『最高だね』つて褒めるのも無意 味なフィードバックなわけね」  「はい、褒めるときも、建設的、具体的な意見で お願いしやす’・」  「具体的にっていってもねえ、それより母さんが 心配なのは、あなたが細かいことを気にしすぎると ころ、心配性なところかなあ」  「心配性? 僕が?」  「そうそう、母さんが少し仕事で疲れて顔色が悪 いと、ムダに騒いだり」  「お姉ちゃんが、ヶがするとすぐ、病院行け行け と」  「ああI……そういうやっか」  それなら心当たりがある。というのもそれにはわ けがあるからだ。  一歩は小学校二年生のとき、一緒に公園に遊びに 出ていた父親が、目前で突然倒れ、そのまま救急車 で運ばれ、亡くなった。急性心筋梗塞たった。  さっきまで、一緒に話していた父親が、急に帰ら ぬ大になったということが衝撃で、大はこんなに あっけなくいなくなるものかと、それ以来、一歩は 目前の人の体調の変化に敏感になってしまった。と どろきスポーツの面接前に、妊婦が倒れているのを 見たときも、このまま放っておくとヤバいという恐 怖に襲われた。それで、その場を離れられなくなっ たのだ。  「でも一歩にはずいぶん助けられた。私もおばあ ちゃんも。一歩は小さい頃から家のことを、よく手 伝ってくれたから」  「だよね’・ 姉ちゃんより、俺、思いやりあるし、 家事うまいし」  「でもねえ。進んで手伝ってくれるのはいいけど、 こちらから頼むとダメなのよねえ」  「そうそう。ふたつ頼むとひとつ忘れるね。昔は 嫌がらせでやってんのかと思ってたけど」  「え? そう?」  「単にキャパシティの問題だった」  「途中でほかのことに気をとられると、忘れてし まうのよねえ。あとのことを」  「ええ? それってなに? 記憶力が悪いってこ と? 注意力散漫ってこと? なんかポジティブな 言い方にならない?」  「はい、無理」  「なんだよ」  「こんなのが就活に役立つわけ?」  「さあ……冫・」  そのとき、一歩のスマートフォンに着信があった。  美月からの電話だった。  「あ……」  「なに? 誰から? 出ないの?」と姉。  「……ゝ凡1つと、どうすりやいいんだ? まだ失 業中だし……」と一歩はスマートフォンを手に、そ の場を立って、店の玄関に向かった。  外に出ると、着信音は鳴りやんだ。  「……」と一歩は、ただその場に立ち尽くした。   【解説】リフレクション&フィードバック       を上手に取り入れる  あなたは誰? なにがしたいの? なにが欲しい の?  己を知ること、自己理解がなにをするにも重要な 第一歩であることは前述した通りです。それでは、 どのようにすれば自己の探求・模索ができるのか。 ここではその一助となる手法を紹介しましょう。    リフレクションー振り返る、顧みる作業  自らの欲望を把握するふたつの方法のうち、ひと つはリフレクション。つまり「振り返る」「顧みる」 作業です。自分の決断や行動について立ち返り、反 省をし、学ぶこと。内省とも内観ともいいます。な にをどこで間違えたかを学習し、次に活かすことが 重要です。  Self-reflectioコallows you to analyze where you  came froヨ(past) .where you are (present) 「  ana wnere you waコttogo (future) and how.  リフレクションは過去の自分、現在の自分、こ  れからなりたい自分とその方法を教えてくれる。  バブソン大学の授業では、リフレクションを y5(アート)としてとらえています。それは必ず 目的意識と美的感覚をもって臨むべきプロセスであ り、そのセンスも問われます。その過程で過去の自 分を顧み、現在の自分と直面し、そして未来の自分 の方向性を軌道修正していきます。  より良い(理想の)自分へ、より良い未来へ。将 来のことを悩み心配しすぎる前に、自分の決断や行 動について振り返る・顧みることが大切です。そし て学んだことをより良く次に活かしましょう。    フィードバッター他人からの批評  己を知るもうひとつの方法はフィードバック、つ まり他人からの批評です。フィードバックの定義は、 単に「批評すること」でなく、それによって受け手 側の人間が行動修正することができ(実践的で)、 最終的には本人のためになる(建設的な)助言・提 案をすることです。  バブソンでは、フィードバックは己の敵でなく友 だちだと教えます。それから逃げず、反撃せず、真 摯に受けとめることが大切です。たとえ聞きたくな いことでも、歓迎し、長くおつき合いをし、感謝す るべきものとしてポジティブにとらえ、そこから学 習するように促します。自分の言動の後、周囲の人 間に「どうだった?」と聞く習慣をもつこと。そこ から正直なフィードバックをもらうこと。それを受 け止めて上達すること。いかなる行動に対しても フィードバックなくして改善はありません。なぜな ら結果が良いか悪いか判断できなければ、上達の余 地があるかどうかもわからないからです。  Feedback is your friend「 not your enemy。  フィードバックは己の敵ではなく、友である。  リフレクションによって自分にしかわからない自 分がいることがわかり、フィードバックによって他 人からしか見えない自分もいることがわかります。 自分のことを過大評価、あるいは過少評価している 場合が往々にしてあるからです。自分だけにしかで きないリフレクションという殼に閉じ籠もってしま うと見えないものがあります。フィードバックなく して十分な自己理解はあり得ません。内省・内観す ることで自分にも他人にも見えていなかった新たな 自分の発見につながることが多々あります。  ただ厄介なのは、日本特有のカルチャーとして、 フィードバックを批判・攻撃としてとらえ、結果的 に防衛本能が働き、受け手側がバリアを張る傾向が あることです。結果、聞く耳をもたない、変わらな い、上達しないIこれは悪い癖です。フィード バックは受け止めなければ意味がありません。    ジョハリの窓−対人関係における気づきの    モデル  ジヨ(リの窓というコンセプトがあります。 臣0.....471肩巾m畷 E       卜. 四つの窓とは、次のようなカテゴリを意味します。 開放の自己 自他ともに認知している領域 盲点の自己 自分は気がついていないが、他人か       ら見えている領域 隠れた自己 自分だけが知っている秘密の領域 未知の自己 誰からもまだ知られていない領域 これらを図のように配置し、理解の度合いに応じ て、窓の境界線となる格子を上下、左右に移動でき るものと考えると、「開放の自己(自他ともに認知 している領域)」が大きくなれば、それは自己をう まく開示できているととることができますし、「盲 点の自己(自分は気がついていないが、他人から見 えている自己)」が小さくなれば、それは自分の気 づかなかったところを他人からうまくフィードバッ クしてもらえているということになります。  自己理解の一助として、こうしたフレームワーク も、ぜひ活用していただきたいと思います。  自分の思い描いている自分像と、他人が受け取る 印象は、必ずしも一致はしません。往々にして多少 なりとも過大評価・過少評価が伴います。意識でき ている自分の言動と無意識のうちに出てしまってい る言動、他人にはその両方が見えています。  それらすべてがホーリスティック(全体的)な意 味で本来の自身の姿です。自己理解を深めるという ことは実はとても奥深く、難しいものです。だから こそ、意識していただきたい。起業道のみならず、 日々生活する中でもとても重要なコンセプトです。     第四章 「変態」を五人集めて、組         織文化をつくる  「会社がクツソつまんない!」  赤井眷奈はそういって、ことのほか大きな声を出 してしまったことに気がついた。  正面の美月も、眷奈の声にちょっと驚いた顔を見 せた。  丸の内のカフ壬アラスでのランチタイム。大学時 代からの友人の眷奈と美月は、それぞれ別の会社に 勤務しているが、オフィスが近いので、こうしてと きどき一緒にランチをとる。  「ごめん、ちょっと声がデカくなった」  「うん、大丈夫。ビックリしたけど」  眷奈と美月は気を取り直して、食事を続けるも、 眷奈のぼやきは止まらない。  「あIあ。つまんないし、やる気が出ないし、転 職しようかなあ。WEBメディアとか、もっとクリ エイテイブな仕事に」  「いいじゃない。それ」  「簡単にいうね」  「『クツソつまんない』より断然いいと思うよ」  「そりゃそうだけど」  「けど?」  「あのね。美月は好きな仕事に就いてるからわか んないかもしれないけど。普通、仕事つてのは、面 白いことばかりじゃないじゃん。クツソつまんなく ても、転職するより今の会社のほうがず1つとよ かったってことも十分考えられるわけで」  眷奈の目前の美月は、某シンクタンクのリサー チャーをしている。勉強が好きで好奇心旺盛な美月 にはピッタリの職業だといえる。  一方の眷奈は、現代建築社という出版社に、コン テンツづくりの編集職を希望して入社したのだが、 実際に配属されたのはシステム部だったのだ。  「眷奈だって就職が決まったときは、『いい会社 だ』つて喜んでたじやん」  「……はあ。そんなこともありましたっけね」  たしかに入社した三年前はそんな浮かれたことを いっていたかもしれない。でもそんな思いは働くう ちに消えてしまった。  とはいえ、今でも眷奈は、自社の発行する『商空 間』という雑誌が嫌いではない。超一流建築家やデ ザイナーの作品を店舗経営者に紹介する雑誌だが、 出てくる建築物やインテリアはすべて斬新で美しく、 見ていてまったく飽きない。自分も一度は編集部に 所属して、毎日ああした世界観に浸って仕事をして みたいと思っていた。  だが、眷奈は入社時に、当時の常務や編集局長か らいわれてしまったのだ。  「君は編集には向いていない」と。  上層部にそう断言されてしまい、眷奈には編集部 行きの望みが絶たれたように思えた。そして実際、 眷奈はシステム部に配属となったのだ。  希望が叶う見込みもなく、即、辞めてしまおうか とも思ったが、偏差値高めの有名私大卒の眷奈は、 迷っている間に配属先の仕事を覚えてしまった。 やってみると、ことのほか自分の性分に合っていた ようで、先輩のつくったしよぼいプログラムをどん どん書き換え、あっという間にデキるSEとして、 周りから一目置かれるようにもなった。……ただひ とりだけ、眷奈のことを絶対に認めない人物がいる にはいるけれど。  評価されているからといって、今の仕事に満足し ているわけでもない。時折、「こんなはずじゃな かったのに」という思いがブツブツと湧き立つとき もある。  それでも出版業界の中ではお給料もいいほうだし、 楽だし、休みもとりやすいし、人に話すと「超ホワ イト企業じやん」「できることで評価されてるのに なにが不満?」などといわれるので、転職する踏ん 切りもつかない。  近頃は、自ら「会社員である限り、好きなことば かりやるわけにはいかない」「与えられた仕事を楽 しくやるのが大人」「他社に行くよリマシかも」と 自分に言い聞かせるようにもなってきた。それでも なお、モヤモヤするときは「超絶つまらない!」と 愚痴をこぼしてやり過ごすことにしている。  だが、美月のように、「好き」を仕事にするのが 当然だと思っている人間に、この手の愚痴は理解さ れない。適当に相槌を打って受け流してくれればい いのに、そうした忖度もない。  でも今日の美月の様子はいつもと少し違っていた。  「興味深い発言ね。ねえ、『社員エングージメン ト』つて知ってる? こないだレポートで読んだの だけど」と美月はいい出した。  「ええ? なに、ランチタイムに小難しい話され るの嫌なんだけど」  「じゃ、止めとく」  「……一応、聞いとく。なに? それ」  眷奈が尋ねると美月は説明した。  「社員エングージメント」とは、会社に対して自 主的に貢献しようとする社員の意欲のことをいうそ うだ。「エングージメント」が愛着や絆や思い入れ を表すことから、会社に対して、どれだけ信頼して いるか、どれだけ貢献したいと考えているかという 愛着を表す概念ともいわれる。  「日本は、その会社への愛着・熱意ともいえる 『社員エングージメント』が世界最低レペルなん だって」  「ふうん」  「日本は、離職率が柢いから会社への愛着や忠誠 心が高いと思われがちなんだけど、実際には、会社 への忠誠心なんてほとんどない、やる気なんてない んだって。離職しないのは、ただ変化を拒んで動か ないだけだろうって」  「へえ! わかるI。別にないもん、忠誠心とか 愛着とか熱意とか。会社なんて、どこ行っても所詮 同じって思って転職しないだけだし」  「うん。それに会社の『社員を活かす環境』も世 界最低レベルだって。だから、多くの人が辞めない とはいえ、優秀な社員は進んで辞めていくって。そ れが、会社にとっては大きな問題だって」  「え? そうなの。やだな、なんだか『無能だか ら辞めない』みたいないわれ方で。でもその『社員 を活かす環境』がないって話もわかるなあ。だから 社員のモチベーションは下がる一方」  「会社にとっても社員にとってもなんだか不幸よ ね。とにかく『社員エングージメントを高める』と いうのがこれからの課題みたい」  「はあ……。高めてほしいね。モチベーション上 がるものなら上げたいねI」  眷奈はため息をついた。  なおもモヤモヤしてきて、なにか明るい話題に変 えようとした瞬間、ふと思い出した。  「あれ、そういえば、美月、なにか相談したいこ とがあるっていってなかった?」  「うん? それね。……別に大したことじゃない んだけど」  いつも冷静で淡々としている美月が相談なんて珍 しい。  眷奈は身を乗り出して、美月の話に耳を傾けたが、 聞いた途端に拍子抜けした。  「彼氏と連絡がとれない? 彼氏つてあの…… 『新田一歩』つて人?」  眷奈は、目前でうなずく美月を、あらためて見て みた。  長い髪をキチンとまとめて姿勢も良い美月は、人 目を引く美人だ。大学時代からとてもモテだし、勉 強もできたし、今では好きな仕事にも就き、日々目 標への努力を欠かさない。普段はほとんど悩みや愚 痴もこぼさないし、なにもかもがキチンとしていて、 「ほどほど」「適当」がモットーの眷奈にはまぶしい くらいの存在だ。  その美月が、彼氏がひと月電話にも出てくれない、 会ってくれない、くらいのことで悩んでいる。しか もその相手というのは、新田一歩とかいう、どこか らどう見ても、平々凡々のどうってことのない青年 なのだ。  「彼のなにがいいんだろう?」というのがずっと 眷奈の抱いている疑問でもある。  特別にかっこいいわけでもなく、中肉中背、平凡 な顔立ち、特別な才覚を感じさせるわけでもなく、 しゃべりも普通。あえて特徴をあげるとすると「人 畜無害」「いい人」といったところか……。眷奈か ら見れば、少々頼りなくも思え、いくらでも代わり はいそうに思うのに。  「そんなに悩むこと? そんな彼氏、もう別れ ちやえばいいじやん」と軽くいいたくもなるが、美 月は人のアドバイスを深読みし、しかも記憶力もい いので、いつ誰がどんな状況でどんなアドバイスを したか、ずっと覚えているのだ。迂闊なことをいう と、「なぜあなたは、あのときあんなことをいった のか」と後々しつこく聞かれたりして面倒だ。そう、 美月は少々面倒な変わり者なのだ。眷奈はつい、大 学時代を思い出していた。  大学時代の美月は、「美人の白石美月さん」とし て有名だった。その美月と眷奈は、女子の少ない学 部に所属していたため、入学以来、一緒に行動する ことが多かった。その縁で、今でも親しくしている が、正直、はじめはあまりそばに寄りたくなかった。 美月といると、見た目十人並みのこちらが、どうし ても引き立て役になってしまうからだ。  だが、結局、大学四年間のみならず、卒業後もつ き合いが続いている。というのも、美月は、少し人 と変わっていて、その行為や振る舞いに「え? な にこの人?」と春奈が何度も目を奪われるうちに、 近くにいるのが普通になってしまったからだ。  今も昔も、美月は変人だ。  出会ったときの趣味は『写経』だった。出会って 間もなく、「一緒に鎌倉に遊びに行かない?」と誘 われたので、春奈は、インスタ映えのする観光ス ポットや美味しいものに出会えることを期待して一 緒に出かけたのだが、美月が春奈を連れていっだの は某お寺の、写経会場たった。  「写経?」と春奈は驚きつつも、ばしめは「そん なのあるんだ」と好奇心から快く応じたのだが、辟 易したのは、美月が続けて「写経」のはしごをしよ うとしたことだ。  「写経はもういいよ’・ 何件行くのよ’・ 美味し いもの食べようよ’・ あじさい見ようよ’・」と眷奈 が文句をいうと、「……では、ここからは別行動に しましようか」と写経にすっかリテンションの上 かっていた美月は、あっさり眷奈を見捨てて、次の 写経道場へと向かってしまったのだ。  「絶対、あの子とは友達になれない」と眷奈はそ の後、美月とは距離をおくようにしていたが、忘れ た頃に、「みんなでハイキングに行こうって話に なったんだけど」と誘われ、「ほかの子もいるなら」 とまたうっかり、同行してしまったのだ。  ハイキングで眷奈が友人だちとランチを食べてい ると、美月の姿が見えなくなった。  「あれ? 白石さんは?」と、眷奈が心配して探 しに行くと、美月は昆虫採集をしていた。そのとき、 美月は「昆虫食」に興味をもっていたようだ。  「これ、生で食べられるんだって」と、亶]面目な 顔でセミをかじる美月を、眷奈は慌てて止めた。美 人がセミにかみつく姿は、まるでB級ホラーだ。  「止めなさいって’・」  「良質のたんぱく質よ。世界の飢餓を救うかもし れないんですって、昆虫って」  「それでもとりあえず、人前でそれを食べるのは やめよっか。引くし」  「そうなの?」  「……白石さんつて、相当ヤバいよね」  眷奈は呆れて、美月を仲間のもとに連れ帰った。  その後、美月から再び声をかけられたのは、男子 学生から飲み会に誘われて困っている、と相談され たときだった。「あたしが斷ってやろうか?」と春 奈は、その男子学生たちに直談判したが、逆に美月 をどうしても連れてきてほしいと懇願され、行きた かったライブのチケットと引き換えに、引き受けて しまった。  「たまには、男子との交流も必要だって」と美月 を強引に飲み会に連れていった。  美月の登場に、はじめははしやいでいた男子たち も、美月の「般若心経を聞いていると心が落ち着 く」「オオカマキリとハラビロカマキリの違いのわ からない人に幻滅する」「セミは幼虫が美味しい」 というクセの強い会話に、次第にシラけていった。  その後も、たびたび美月は、請われて合コンに参 加することがあったが、ばしめは美月狙いだった男 性陣も、美月の変人ぶりがわかってくるや否や、普 通の会話ができる眷奈のほうに流れてきて、おかげ で眷奈の人脈は豊かになった。認めたくはないが、 そうして出会った眷奈の元カレも元々カレも、おそ らくはじめは美月狙いだったに違いない。  たまに美月の特異な話に対応できるオタク男子や 意識高い系男子が、果敢に交際を申し込んではいた が、美月が恋愛に興味がないせいか、ことごとく玉 砕していた。  「普通の男子じゃ、とても美月の相手は務まらな いんだって」と眷奈が達観していたところ、美月の 前にある男性が現れたのだ。  新田一歩。  災害地にボランティアに行ったときのことだ。  学生たちがテントを張って野宿していたところ、 「見て、こんなに’・」と美月は、いつの間にかたく さんのコオロギを集めてきた。焼いて食べようとい うのだが、もちろん斷っだ。だが、その一歩という 子が、「ちょっと貸して」とそのコオロギを持って 行ってしまった。  「なんだあいつ?」  春奈たちがそう思っていると、一歩は、炊き出し の道具でラーメンをつくって持ってきた。  「せっかく麺があるのに出汁をとるものがなくて」  コオロギで出汁をとつたというのだ。  「そんなの食べろつていうのり」と眷奈が見ると、 ゴマやショウガも人つていて、香りは美味しそうだ。 とはいえ、コオロギがまんまの形で人つている。  「うえ〜……」  眷奈は遠慮したが、美月は早速、喜んで食べ始め た。  「美味しい’・」  「でしよ」  美月は普段あまり見せない笑顔で楽しそうに、そ の一歩と仲良くコオロギラーメンを食べていた。  その一歩という子は、実は眷奈たちの大学の近く の、別の大学に通っているとのことだった。聞いた こともない大学たった。  だが、ボランティアを終えた後も、美月は、その 一歩と会っているようだった。なにより、眷奈が驚 いたのは、一歩と会っているときの美月が女の子ら しく見えることだ。  「胃袋をつかまれました」  そう美月から一歩とつき合い始めたことを聞かさ れたのは間もなくのことだった。  あれから五年もつき合ってることを思えば、よっ ぽど相性がいいようにも思う。  なにより衝撃なのはあの変人美月が、その一歩と つき合い始めたことで、「クリスマスプレゼントど うしよう」とか「夏休みどこ行こう」とか普通の会 話もするようになったことだった。  「そういう意味では彼ほど、美月に合う人はいな いのかもしれない」と丸の内のカフェテラスの眷奈 は考え直した。  そこで、眷奈は美月に向き直り、  「よくわかんないけど、彼、忙しいだけじゃな い? 会って話せないからヤキモキするのもわかる けど。美月だって、今、ジタバタしても仕方ないっ て思ってるから、なにもしないわけでしよ?」  「うん」  「じゃ、もう少し待ってみれば? そのうち連絡 あるかもしんないし、不安ならまた愚痴くらい聞く しさ」  眷奈はそういった。  「うん。ありかと。そうする」  美月は笑みを見せた。  ふたりはカフェテラスを出た。  「じゃ、また、連絡するね」と眷奈がいうと、  「うん。またね。眷奈も仕事がんばって」と美月 は応じて去っていった。  「……はい。さて、私もがんばりますか」と眷奈 も、大手町にある自分の会社へと向かった。  自社ビルに入ると、ロビーで、同じくランチから 戻ってきた上司の涼子に出くわした。  「赤井さん、ちょうどよかった。話があるの」  そのまま眷奈は会議室に連れていかれた。  「なんですか?」  「赤井さんに、経理システムのリニューアルの担 当を任せたいんだけど。だから今の編集システムの 仕事は後藤君に引き継いじやって」  「ええ、嫌ですよ’・ 冗談じやない」  眷奈にとって、編集システムを通じて編集部と関 わることが、好きでもない仕事を続ける中での唯一 の救いだったのだ。  実際、編集システムは、部内で人気の仕事でもあ る。  「でも、赤井さんにはいろいろなことを経験して もらいたいのよ。それに、あなたなら安心して任せ られるし」  「そんなの’・ ひどいです’・ それこそそんなの 後藤先輩がやればいいじやないですか’・」  「後藤君は残業が多くて問題になってるから。リ ニューアルの仕事でこれ以上負荷をかけるわけには いかないの」  「それは後藤先輩の仕事が遅いだけでしょうり そんな采配じゃ、仕事の早い人が損じゃないです か’・ 今の編集システムの仕事が楽になったのも、 私かずいぶん編集システムを改善したからですよ。 がんばって成果を出しだのに嫌な仕事をさせるなん て!・」  「そりゃ、あなたの力には感謝してるけど、編集 システムの改善はあなたの力だけで成し遂げたわけ じゃないでしょう?」  「ええ? ■■■■■■ でも」  「たしかに、あなたのプログラミングカは評価し てる。でもシステムの仕事ってそれだけじやないか ら。コミュニケーションカや交渉力や問題解決力や いろんなものが必要になるの。そうした力をぜひ、 新しい仕事から学んでほしいわね」  システム部でこの涼子だけは、「与えられたこと を早くこなすことだけが、『仕事ができる』という ことではない」「自分だけで仕事が成り立ってると 思うな」といって、めったに眷奈のことを褒めたり しないのだ。  そのため眷奈はこの上司が好きではない。  「嫌です’・ 絶対に’・」  眷奈は会議室を飛び出した。  翌朝、眷奈は二日酔いで、丸の内のカフェでの朝 活に参加していた。  昨日は、涼子からいわれた担当変更に腹が立って、 別の部署の同僚とで居酒屋に行き、「バカにして る’・ 社員のモチベーション下げるなっつうの」と さんざん愚痴って飲んで騒いだのだった。  朝活というのは、ビジネス書を読んで意見交換を するという読書会だ。自分の知らない書籍にも出会 えるし、丸の内界隈の会社員が多く通うため、異業 種交流もできるのが楽しく、半年前から通っている。  だが今日は、睡魔が勝って、なにも頭に入ってこ ない。  読書会が終わると、春奈は  「ダメだ、眠い’・ 十分だけ寝る’・」  と小さなテーブルに突っ伏した。  だが、寝ようとすると落ち着かなくて、眠れない。  「あI。嫌だ……ふ二社行きたくない」  眷奈は思わずつぶやいた。  すると隣から「そらアカン」と声がした。  「はい?」  眷奈が頭を上げると、妙に「圧」のある中年紳士 が足を組んでタブレットPCを見ていた。男は、夕 ブレットを置き、眷奈の持つスティーブージョブズ の本を指差した。  「その著者もいうてたで、『毎朝起きて出勤する際、 その日一日待ち受けている仕事に対してワクワクで きるかを自問自答し、ノーという回答が続く場合は 転職を考えたほうがいい』つてな」  「はあ……冫・」  「そんなにつまらん仕事なら、会社なんか辞めて 好きなことをやればええやん」  ……なに、このおっさん。  眷奈がそう思っているとその男は畳みかけてきた。  「どないやねん」  「安易に会社を辞めてどうすんの? つて感じ。 無責任なこといわないでください。好きなことをや るっていったって、食えずに失敗するのがオチで しよ」  「人生最大の失敗は、『好きなことをしない』つて ことやと思うけどな」  「はあ?」  『もっというとやな。……y』れ知ってる?」  男は、タブレットを差し出した。  春奈が受け取って見ると、それは、ホスピスで死 に直面している人々と接してきた看護婦が書き綴っ た「最も後悔していること」というリストだった。  眷奈はそれを読む。  「『他人の期待に応える人生ではなく、自分に正直 に生きればよかった』『好きなものは好き、もっと 感情表現すればよかった』『もっと家族や友人と過 ごす時間を大切にすればよかった』『幸せになると はどういうことか、という尺度で生きればよかっ た』『失敗を恐れず行動を起こせばよかった』」  「すなわち、自分のI度きりの人生で、一体なに がしたいのかを追求すること。それこそが、後悔な き人生に近づくカギである。なにをしているときが 一番幸せなのか。なにがそれを実現させないのか。 人は、自問自答・内省・内観すべき、ということ や」  「ちよつとよくわかんない」  眷奈はタブレットを男に返した。  男は立ち上かって去り際に、「これ、やる」と名 刺を差し出した。  「いえ、いいです」  眷奈は斷つだが、男は名刺をテーブルに置いた。  見ると、「カフェーカオス」とあった。男の名は、 矢弦恭一というらしい。  「そこなら、ここよりもっと、ええ刺激を受けら れるでえ〜」  と矢弦は去っていった。  「……変なおっさん」  春奈は首を傾げた。  春奈が出社すると、デスク前に涼子が仁王立ちに なって立っていた。  「おはよう。赤井さん。待ってたわ」  「何度いわれても嫌です」  「そうじゃなくて。人事部に行ってきて。茶谷部 長がお呼びよ」  「えり」  眷奈は青くなった。  経理システムの担当を拒否したからって人事で問 題にしなくてもいいのに’・  眷奈は、去っていく涼子の後ろ姿を思わず睨んだ。  足取り重く人事部に行くと、人事部長の茶谷が笑 顔で眷奈を迎えた。  「おめでとう。君の希望が通って、新規事業プロ ジェクトのメンバーに選抜されたよ」  「え?」  「あれ? 部長から聞かなかった?」  「いえなにも。ただ、涼子先輩から経理システム をやれってことだけ」  「ああ。それとは別の話で、新規事業プロジェク トのチームにも入ってもらうことになったんだ」  「えI……冫・」  突然すぎて眷奈は喜んでいいのかどうか、よくわ からなかった。  同じ頃、社長室では、新規事業プロジェクトの りIダーとなる経営企画室の黄島が、経営企画室長 の灰田専務とともに、社長の金原の前に立っていた。  「黄島君は、前職で、新規事業を成功させたんだ ね?」  「はい、カマタ電機で、システムキッチンの販 売・リフォーム事業を立ち上げまして……」  「今ではカマタといえば、システムキッチンとい うイメージだもんな」  社長は満足そうにうなずいた。  黄島は、つい先月、そのカマタ電機から転職して きたところだ。  四十を前に、まだ経験したことのない業界に挑戦 してみたいと、現代建築社を受けてみたところ、新 規事業を成功させたいと思っていた社長に、黄島の 成功体験が買われたのだった。  「うちもこれまで、新たな収益の仕組みができな いかと新規事業に取り組んできたのだが、なかなか うまくいかなくてね。やってみてもせいぜい新雑誌 の刊行程度で既存事業の枠を超えるものが生まれな い。今回、君に入ってもらう新規事業プロジェクト には大いに期待しているよ」と社長はいった。  「はい。ぜひ期待に応えたいと思います」と黄島 も意気揚々と答えた。  そばで灰田専務も二コニコと笑みをたたえていた。  「とにかく、一刻も早く新たな収益モデルを打ち 立ててもらいたい。そして、ぜひ会社の将来を担う 人材も育ててもらいたいね。近頃の社員には、どう も情熱や覇気といったものが感じられない。あんな 受け身でやる気のない仕事の仕方で彼らは満足なの かねえ。僕らの時代には考えられなかったよ」と社 長はいう。  「なるほど、今回の新規事業プロジェクトには、 社員のモチベーションを上げていくという目的もあ るわけですね。であればぜひ提案したいのが……」  黄島が、早速進言しようとすると、  「まあ、よろしくやってくれ」と社長はそれをさ えぎっていった。  「え? あ」と黄島が戸惑っていると、横から灰 田専務が「ええ。それはもう」と揉み手で愛想よく 後を引き継いだ。  社長室を辞して、灰田と黄島は経営企画室に向 かった。  「……新規事業プロジェクトで、どう社員のモチ ベーションを上げていくか、そこを考えていくのが 大切だと思うのですが、そこは金原社長、なにも おっしやらないんですね」  黄島がいうと、  「まあ、丸投げといっていいよ。僕も君に一任す るから、よろしく頼むよ」  灰田は黄島の肩をポンと叩いた。  「ええ……冫・」と困惑する黄島に、灰田は続けて いった。  「新規事業なんて、どうせ千に三つしか成功しや しないだろう? 社長だってそれは承知だ。だがこ のご時世、なにもしないわけにはいかないからね。 カマタ電機だって、たまたま、システムキッチンが 当たっただけだろう? ほかの新規事業は鳴かず飛 ばずに終わったと聞いてるよ。あんなもの数撃って 当たっただけだ」と笑う灰田に、「そんなことあり ませんよ’・」と思わず黄島はムツとした。  「大きな期待はしないが、大きな失敗をして僕の 顔に泥を塗るようなことはしないでくれたまえ」  「ええ……冫・」  灰田の言葉に、黄島は他の社員から聞いた灰田の 評判を思い出した。  灰田は、時に「ミスターしようがない」と異名を とるほどの「事なかれ主義」だという。灰田は、前 例のないことを拒み、⊇言目には「しようがないだ ろ。とにかく問題を起こさないのが一番だ」となに もしないのが常だというのだ。  「まあ、なにもしなくても時間が過ぎればプロ ジェクトは解散になる。大きな失敗をおかすよりは、 時間が解決するのを待つのでもいいぞ。必要以上に がんばったところでしょうがないからな。では頼ん だよ」  灰田は笑って去っていった。  「あんなのが新規事業の統括部長なんて」  黄島は、続く言葉を失ってその場に立ち尽くした。  そして、プロジェクト発足の囗、会議室にプロ ジェクトメンバーが集められた。  メンバーは黄島を含めて四人だ。  年長の黄島のほかには、入社三年目、システム部 の赤井春奈。先月入社したばかりで社会人歴五年目、 広告営業部の青木丈博、入社八年目、経理部の緑川 弘人。  「自己紹介をしてもらえるかな。自分の性格とか、 得意なこととか、なにに興味があるか、教えてくれ ると嬉しいけど」  黄島の言葉に、眷奈らは順に自己紹介を始めた。  「赤井眷奈です。性格はせっかちでおしやべり だっていわれます。得意なこと? 部での仕事はま あまあこなせているほうだと思います。あとスノボ とかウィンタースポーツが得意です。一流建築家の 建築物を見るのが好きです」  「青木です。仕事に関係ないことはいわなくてい いと思うので省きます。前職はIT企業の営業でし た。データ分析を踏まえた営業が得意です。効率の 悪いことは嫌いです。とりあえず今の広告営業の仕 事に注力したいです」  「緑川です。この中では社歴が一番長いです。僕 のいる経理は年齢層が高いので会社の古い事情にも くわしいです。なんでも聞いてください。性格は、 え1つと、そうですね、穏やかなほうです。現在、 絶賛子育て中なこともあって、ワークライフバラン スの推進に興味あります。特技は……フーフツシュ暗 算ですかね」  「いや、どうもありがとう」  黄島はメンバーを見まわした。黄島は人事の茶谷 から聞いた前評判を思い出していた。赤井眷奈は、 システム部でよくできると評判らしい。言葉が過ぎ て同僚と衝突することがあるが、仕事は早いし正確 だと聞いている。それを聞いて黄島は、「部署の エースを新規事業に出すなんて珍しいですね」と思 わず茶谷に尋ねてしまったくらいだ。というのも、 通常、「エース級の社員に現場を抜けられては困る」 「エースにそんな事業で失敗させて傷をつけるわけ にはいかない」と現場が新規事業にエースを出すこ とを渋るケースが多いからだ。「ええ。これは、彼 女の上司からの要望です。彼女のモチベーションを 下げないように、やりたいことをやらせようと考え たようですよ」と茶谷はいっていた。  黄島は、青木を見る。青木は、ずっとスマート フォンをいじっている。彼はデキる営業マンだとい うことだが……。  「青木君、君の前職のIT会社って具体的にどん な会社だったんだい?」  黄島は尋ねるが、  「ソフトウェア開発や中小企業向けのネットワー ク構築が主でした。すいません。三十分後には部に 戻りたいんで、本題いってもらえませんか」  青木はそっけない。  「……ゝ凡、と」  黄島が青木の態度にあっけにとられていると、緑 川がいった。  「しかし、たったこれだけの人数で、新規事業を しようなんて。会社はあまり力を入れる気ないんで すね?」  「いや、そんなことはないよ。そもそも、これま でも新規事業プロジェクトが何度か立ち上かってい たんだよね。なぜダメになったと思う?」  「結局毎回決め手に欠けるというか……。冒険的 で画期的な事業案は、『前例がない』『根拠が乏し い』と上層部の反対にあって潰されますし、かと いって既存事業に似た案をあげたところで、あまり 意味がないと却下されますし……」  「そうらしいね。まあこれまでの反省も踏まえて、 今度こそは画期的な案をつくっていこうじやないか。 ばしめは少人数で十分だよ。新規事業には当事者意 識が大事だからね。僕たちで『こうしたい’・』とい う強い共通認識をもって、それから仲間をどんどん 巻き込んでいけばいいんだ」  黄島は、熱意を込めて語ったが、眷奈も青木も緑 川もピンときていないようだった。  その夜、決起会と称して黄島は三人を飲み会に誘 うが、青木は「自分、そういうのはいいんで」と さっさと帰ってしまった。  去っていく青木を、黄島は唖然として見送った。  「まあ、いいんじやないですか。彼、普段からあ んな感じですし」という緑川のフォローにも、「そ うなの?」と黄島はなおも納得がいかなかった。  結局黄島たちは、青木抜きで居酒屋へ行き、決起 会を開くこととなった。  「彼、前職ではデキる営業マンだったんだよね? 今どきの営業マンつてあんなに愛想ないんだ?」  黄島がいうと緑川が答えた。  「彼、前職では過労で身体を壊したそうですよ。 で、うちでは『最低限の労力』しか使いたくないっ て」  「へえ。青木さん、ブラック企業からの転職なん だ? あの人なんか暗いよね」  眷奈がそういうと、黄島は仕切り直すように、  「まあ、彼のことはおいておこう。ところで、赤 井君と緑川君は、なにがやりたくて会社に入った の?」  と話題を変えた。  「自分は別に。行きたい会社に落ちて、ここしか なかったからかなあ」  緑川はボソリといった。  「またまた。謙遜するなよ。緑川君は優秀な経理 部員だと聞いたよ」  「いや、あの部署は若手社員がいないので、みん な僕を持ち上げてくれるんですよ。吸収力はそりゃ そこそこあるとは思いますが。そうですね。やりた かった仕事というより、まあ、経理の仕事だったら、 今後も潰しが利くかなとも思ったというのがありま す」  「……そうなんだ。赤井さんは?」  「私はI」  眷奈が真面目な顔をしてなにかをいいかけたので、 黄島は耳を傾けたが、  「特にないです」  「え、そんなことないんじやない?」  「ないです」  眷奈は、話を避けるように、店員を呼んで、追加 オーダーをした。  「ないってことないでしよ? なにかいおうとし なかった?」  黄島がめげずに聞いてみると、  「とりあえず、『なにか』したいです。今の仕事は 超絶つまらないんで」  眷奈はそっけなくいった。  「……なんだか、みんなテンションが柢いなあ」  黄島が思わずぼやくと、  「結局みんな、人事評価が心配っていうか」  緑川が答えた。  「人事評価?」  『はい、だって……y』れまで、新規プロジェクト で失敗した人たちはみんな『無能野郎』みたいにい われているじやないですか。成果が出せなかったこ とで悪目立ちしているというか。実際、査定も悪く なると聞いてますし」  「そうなんだ。それは会社が悪いね」  「僕、たしかに新しい仕事に挑戦してみたいとは いいましたけど、派手にやって派手に失敗して、あ んな扱いになるのはごめんだな、つて正直思ってま す」  「……ゝ凡ゝ凡? そんな感じなの?」と黄島が呆れ たようにいうと、  「えI? そんなのどIでもよくない?」と眷奈 がいった。  「えり」  黄島と緑川が眷奈を見た。  「いいじやん。いいたい奴にはいわせとけば。会 社に私のなにがわかんのよ’・」  「……赤井さん、酔ってる?」  黄島がいうと緑川もいった。  「そりゃ君は人目や評価なんて気にしないんだろ うけど。でも青木君だってたぶん同じ思いだよ。下 手に手間暇かけてマイナス評価だけ受けるんじゃバ カバカしいって。彼は転職してきたばかりだし様子 見って感じで、ほとんど関わる気ないと思うよ」  黄島は、そのとき、ふと灰田の言葉を思い出した。  灰田が、「広告営業部の青木という男には気をつ けろ。あれは広告営業部長の黒田が、偵察のために 送り込んできてるんだ。なにかミスをでっち上げて、 僕の足を引っ張ろうって魂胆かもしれない」と警戒 していた。  緑川はなおも、不安を語っていた。  「大体、僕たちプロジェクト専業じゃないしさ。 兼業で仕事が増えて、がんばってマイナス査定って どうなのさ。これって、貧乏クジつて気がしな い?」  「貧乏クジつていわれちゃうとなあ。あたしも、 結局、うまく経理システムの仕事を押しつけられた だけじゃん!・」  愚痴ばかりの緑川と春奈を見て、  「……ダメだこりゃ」と黄島はため息をついた。  「君たちに見せたいものがある’・」  居酒屋を出ると、黄島が「ついてこい」と春奈と 緑川をある場所に連れていった。  「なに? 酔っだのかな? 黄島さん。ちょっと うざいかも」  春奈が見ると、そこは、「カフェーカオス」だっ た。  「カフェーカオス? 聞いたことあるような」  春奈は中に入って、思わず、あ、と驚いた。  矢弦が、勉強会を開いていたからだ。  「え? あれって、こないだ名刺をくれたおじさ ん??」  春奈たちは、勉強会に参加している人たちの最後 列に加わった。  ひとりの学生が、矢弦に尋ねた。  「大学を卒業してやりたいことをやるのに、起業 するのと、会社に行くのとでどちらがいいでしょう か? 迷っています。やはり起業したほうがいいん でしょうか?」  「それは、なにをやりたいか、なにをするか、に よるな。別に無理に起業を勧めるわけやないで。会 社に入って、やりたいことがやれそうなら、会社に 入るのも、もちろんええ。会社に入って経験を積ん だらええ。ただ、仮に会社に入ったとしても、社会 人というのは、社会に対して貢献をするもので、会 社を目的とするものではないということを覚えてお いてほしい。『会社人』になるな、『社会人』たれ、 や。会社はあくまでも個人が社会に貢献するための 『乗り物』や。会社ありきじやなくて、まず自分あ りき。『自分がこういうことをしたいから』『自分が 社会のこういう問題を解決したいから』会社を使う。 そういう働き方を選択する。会社のリソースを使え ば、個人ではできないこともできる。『会社人』に なるのでなく、『社会人』として会社を使って仕事 をするようであってほしい。会社人になってただ盲 目的に会社に使われたらあかん」  「……へゝ凡」  眷奈は感嘆して見ていた。  「なにをするにも大切なんはビジョン。理想像を イメージすること、目的意識をもつことや。自分は なんのために働くか、を考える。会社にいるからと いって、いわれた通りに仕事を右から左にこなすだ けでは、ただの会社人や。社会人やあれへん」  「ふむ」と緑川も聞き入っていた。  「それに、や。この先行き不透明な時代、会社が いつ危機的状況に陥るかもわからん。そんな折、君 らは突然、解雇されるという憂き目にあうかもしれ ん、一気に収入が激減するという窮地に陥るかもし れん。そうしたとき、受け身の『会社人』やと身動 きできん。しかし、自分の意思で動く『社会人』な ら、会社に関係なく自らやるべき仕事を新たにつく りだすこともできるし、会社を乗り換えて新たに働 く場を確保することもできる。もしくは、君らが、 画期的な行動を起こすことで、会社を救うかもしれ ん」  「……」と眷奈と緑川はいつの間にか身を乗り出 して矢弦の話に聞き入っていた。  「そもそも、日本人は、積極的に社会を変えてい こうという起業家精神に乏しい。日本の起業活動率 は世界最低レベルや」  矢弦は、そういって日本の起業活動に関する指標 について解説を始めた。  矢弦は正面のスクリーンに、「グローバルーアン トレプレナーシップーモニター(GEM)レポー ト」のスライドを映した。  「このGEMの項目に、各国の起業活動の活発さ を示す指標、総合起業活動指数TEA、Total early- stage Entrepreneurial Activityというものがある」  矢弦は説明する。TEAは「起業活動をしている 人十創業42ヵ月までの経営者」の十八〜六十四歳人 口に占める割合を示す値だ。この起業活動の活発さ を表す指標で、日本は四十九力国中下から五番目と 世界最低水準にあるというのだ。  「こうして、日本において、起業活動の活発さが 世界最低水準になっている理由はなんやと思う?」  矢弦は尋ねた。  生徒たちはシンと静まり返った。  「説明しよう。ここに起業に関する三つの指標が ある」  矢弦はさらに新たなスライドを正面に映し出した。  「ひとつは、『今、仕事をしている間に、なにかビ ジネスのアイデアとなるものが浮かびますか? 探 していますか?』という指標。これは、毎日の仕事 の中で、ビジネスの種となりうるようなものを見つ けようとしているかどうかを示すもんや」と矢弦が いうと、  「仕事をしている間に、ビジネスのアイデアを? どういう意味?」と春奈が首を傾げた。  「この指標、ちなみに日本は世界で何位やと思 う?」という矢弦の問いに、  「ビジネスの種か……考えたこともないや」と緑 川もつぶやいた。  すると、矢弦がその言葉を拾った。  「そう、日本人の多くには、ビジネスの種を探す 習慣がない。『機会に対する認識』のこの指標で日 本は(四十九力国中)世界最下位や」  「へえ」  眷奈と緑川は食いついた。  「なんでビジネスチャンスに目がいかないか。そ こで、次の問い。『自分は起業するだけの器かどう か、自信がありますか?』という指標について…… 日本は世界何位やと思う?」  「……もしかして、それも世界最下位?」  眷奈はいった。  「正解! 『起業に対する自信』についても日本は (四十九力国中)世界最下位。みんな、これだけい ろんな全般的な知識をもっていて、ビジネスについ て、ある程度知っているにもかかわらずビリや」  「へえ……」  「最後にもうひとつ、起業について日本が世界 ワーストの指標がある。なんやと思う?」  「え……冫・」  眷奈と緑川は、答えられなかった。  矢弦が答えを明かす。  「失敗に対する恐怖、や。『失敗することが嫌だか ら、起業とか、新しいものにチャレンジしたくな い』。『失敗を恐れる』という指標でも日本は世界の ワーストーグループ。日本人は、世界一失敗を恐れ ている国民なんや」  「そうなの??」  「……なるほど」  春奈と緑川の反応を、黄島が満足そうに見ていた。  矢弦は説明を続ける。  「『機会を認識していない』『自信がない』『失敗を 恐れる』、この起業の文化のなさが、日本を起業小 国にしてるんや。−チャンスの種を見つける。仕 事をしているときに、もっと、『あっ、こんなチャ ンスがある』『こんなことやったらどうか』と考え ればええのに、そんな機会すらもとうとしない。 −自信がない? いや、起業に必要な共感力、忍 耐力、達成する力、それらは日本人の得意とすると ころや。絶対にできるはず。−失敗を恐れる? 失敗する、なんて当たり前のことや。失敗しないで 成功するなんてことは絶対にない。失敗はしてもえ えんや。大切なのはそれを成功につなげることや。 すべては考え方ひとつで変わる。『こんなことやっ てみたら面白いかもしれない、やってみよう』『自 分は絶対できる』『失敗なんて成功するためには当 たり前』、そう考え方を変えるだけで、普通の人 だって世界を変えることができるんや」  「へえ……」  春奈と緑川はその矢弦の説明にジッと耳を傾けて いた。  勉強会の後、黄島は春奈と緑川を連れて、矢弦の もとへ行った。黄島は「カフェーカオス」の常連の ようだった。  「矢弦さん、こんばんは。こちら、今度転職した 現代建築社の新規事業の仲間たちです」  「ようきたな、大歓迎や。どうや? その後」  「ええ。いろいろと問題が。そもそも会社が本気 で新規事業をやろうとしているのか疑問ですし。で も、そんなことより今一番の問題は、こちらのメン バーのモチベーションが柢いことですかねえ……」  「わざわざそんなこといわなくても」と黄島の言 葉に眷奈と緑川が不服そうに口を挟んだ。黄島は気 にせず続けた。  「モチベーションを上げるのって難しいですよね。 矢弦さん、以前に『たとえば、チャレンジしたこと が評価されるような人事評価、失敗を減点対象とし ない制度にするといい』つておっしゃってましたよ ね? でも、うちはまだとてもそんなことが認めら れるような状況でなくて」  「人事評価を変える?」眷奈はいった。  「現実的には無理だろうな。うちの会社じゃ」緑 川も応じた。  「まあ、それでも、評価をされることを待たずに、 会社を自分のために使うことやな」と矢弦はいった。  「え?」と黄島たちは答えた。  「自分のやりたいことをやるために、会社を使う。 やりたいことに挑戦して、経験積んで、人生の糧に する。会社の評価なんて、そこでしか通用せんもん や。気にせんと、会社の中でやりたいことをやった らええねん。会社の看板や資産を使えば個人では到 底できない大きなことができたりもする。会えない 人に会えたりもする」  「……でも。評価を下げたら会社にいづらくなる じやないですか」と緑川がおずおずといった。  「会社の評価か。それより、自分かやりたいこと を実践しているかどうかに目を向けたほうがええと 思うけどな。もう終身雇用が保証されているわけで もない。さっきもいうたけど、このご時世、会社が いつどんな逆境に陥るかわからん。そんなとき、会 社に使われる受け身の働き方では、すべてが会社次 第で、自分自身では身動きできんやろ? リストラ されても減給されても文句はいえん。それでええん か? それよりも、社会人として、自ら意志をもっ て動けるようにしておくんや。そうすれば自ら仕事 をつくることだってできる、自分で思うように事態 に対処することができるんや。そのためにも、会社 ありきじやなくて、まず自分ありきとして行動する 習慣をつけることや」  「……」と眷奈と緑川は再び矢弦の言葉に聞き 入っていた。  「わしは、自分のいきたいところにいきつくまで、 会社は何度も乗り換えたってええと思ってる。自分 のやりたいことを実践する。それが万が一、リスト ラや倒産で、会社を放り出されたとしても、生き抜 く力になってくれるからな」  「僕、今のところ会社辞める気はないですが……、 なるほど、そういうふうに考えたことはありません でした」と緑川は感銘を受けたように答えた。  「私もなるほど……とは思いますけど。でもそん な急に『やりたいことをやれ』といわれても。会社 じゃ『やりたいこと』なんてやらせてくれないで しよ? ほとんどの人が別にやりたくもないことを、 やらされてるのが現実で」と眷奈もいった。  「なに情けないこといってんだ。会社でたって、 やりたいことをやっている人はいる。君らだってな にかをしたいと思って、手をあげたんだろ? だか ら会社は君らを新規事業に推薦したんだ」と黄島は 眷奈と緑川を励ました。  「うIん……」と眷奈と緑川は自信なさげに言葉 を濁した。  「まず新規事業に手をあげてみた。そうした一歩 が大切なんや。やりたいことは、なにかをやりなが ら考えたってええ。これから、働きながら、さまざ まに行動しながら、ビジネスの種、自分のやりたい こと、ワクワクすることを見つけていったらええん や」  「ワクワクすること……」  ワクワクしながらイキイキと働くこと、それは春 奈や緑川にとっても理想の働き方でもあった。  「ところで、矢弦さん。特に今回のような保守的 な会社で、新規事業をうまくいかせるコツはないで しょうかね?」  黄島がそういうと、矢弦は奇妙なことをいい出し た。  「新しいことを進めるのにいいのは」  「はい」  「『変態』を五人集めることやな」  「変態?冫・ ?」  黄島と春奈、緑川が声をそろえていった。  『変態』とは、強い志と行動力をもっだ多くの起 業家たちが、『自分は変態ですから』と自虐的に、 かつ『人とは異なる』という誉れとしてポジティブ に使っている言葉たった。  「変態とは『変化を常(常態)とする人間』とい うてもええ」  「変化を常とする大?」  「そうや、変化を常に創っていく人のことや。こ の変化の激しい時代に、生き抜いていくには、自ら 変化を創っていくことが不可欠や。そうして環境に 適応したものが生き残っていくんや」  「はあ……。環境に適応? なんだかダーウィン の進化論みたいですね」  「ダーウィンの進化論では、『自然選択によって環 境に適応したものが結果として生き残る』とされて いる。やが、そうして漫然となにもせずに自然淘汰 されるのを待つのでなく、自ら環境に適応すべく変 化していくんや」  「……なるほど。そういうことか」  「未来を生きるには、変化に対応すること、変わ ることを常とすることが必要不可欠や。企業が生き 残るためにもしかり。常に変わっていかなあかん。 そうした変化を創っていける人を確保せなあかん。 せやから、自分を含めて変態を五人。(黄島に)あ んたと、(眷奈に)あんたと(緑川に)あんた。あ とふたりの変態。変態が五人そろえば、カルチャー ができる」  「えIIIり」と黄島たち三人は顔を見合わせた。  「カフェーカオス」からの帰り道。  黄島と眷奈と緑川は思わず笑った。  「五人の変態ね。参つたな」  「変態が必要だなんて。変なの。そういわれてみ れば矢弦さんも変なおっさんだし、相当な変態です よね?」  春奈がいうと、緑川もうんうんとうなずいた。  「変態だ。間違いない」  「たしかに、変態中の変態かもしれないな」  黄島も笑った。  春奈は、あらためて先ほどの矢弦の話を振り返っ た。  「やりたいこと、か……」  春奈には、過去に「君は編集に向いていない」と いわれたことが思い返された。  「やりたいことねえ」  緑川もまた、同様に、考えている様子たった。  「ふたりとも、やる気になったり」  黄島が期待を込めて眷奈と緑川を見る。だが……、  「なんつにも思いつかないんですけど’・」  「そうだよ。会社でやれることなんて、所詮限ら れてるし’・」  「えII……大丈夫かな」  眷奈と緑川の叫びに、黄島は思わず苦笑した。   【解説】失敗は必然と受け入れる       厄介こそビッグチャンス     「失敗に対する恐怖」は世界ワースト’・  世界最大の起業に関する統計レポートであるグ ローバルーアントレプレナーシップーモニター(G EM)レポートによると、一九九九年の統計開始以 来、日本の起業指標は先進国・発展途上国を含めた 中で最低水準であり続けています(図表4‐1、4‐ 2、4‐3)。 心                一 に           ’y      f   ” 阿  こ。こi.こ。     。  嘆回帽万万石子百嘩白太三  匚  匚’゜゛い。、一`゛‐`゛ 汁・い EjQ!g一Q4『l『丐甬に『jhip Mロコ一き『SiS一二Q一gi一i丁a. ≒・i……fll」〜………J’・ヽ”・’y‘」’ 公選遭瘋凉   一`’χ丶§`冫y`。             帥l加−囗丶、″                 Q哺丶气y‐』び’t‐』ゞ  ‘.I』ひ *obbal Ent-eo『l li一η‐gコg『6g`丁S心rδg1151 囚浙`―`「和胥冫S印荼」噸醂rl劭琲噸汨r4吮舛卜冫S鬯茆 刪・―’‐…………―’。’……」’ ヨ ご‐こE一  一  石子三 ∃  X f 匸   !l‘一NゞN             ゛一uL口ξ″                 111k‐`u‘a‐`寸一回       哥一‘j‐丁4 ・EIQrg一m‐4n口『q‐n’一『17‐でIIコーa『S一呎丁XuQごg一刀tc1.  日本はもちろん、世界にも問題は山積みです。に もかかわらず、起業活動率が低迷し続けている国と いうのは、イノベーションによる問題解決が起こら ない/起こせない国ということになります。新たな 解決策となりうるアイデアを生む認識が低い(起業 機会の認識)、自らが未来を創り上げる主体者とな る自信をもてない(起業に対する自信)、失敗を恐 れる(起業に伴う失敗への恐怖)、日本人はなんと ナイーブなのでしょうか。これでは世界を変えられ ません。  ここで特に注目すべきは「失敗に対する恐怖」の 割合の多さが世界ワーストーグループであること。 日本は、失敗を恐れて起業を思い止まる傾向が強い ということです。  起業した場合、失敗するリスクは高い。脱サラ起 業で失敗したら戻る場所がありません。起業を考え る日本人が頻繁に直面する「親ブロック」や「嫁ブ ロック」や近年では「子ブロック」(親や、嫁や子 どもに反対されること)も、失敗の寛容度の低さに よる副産物とも考えられます。  企業の中でも同様。失敗をすると将来のキャリア がたたれてしまいます。だから失敗の確率が高い新 規事業には手を出さない。結果として(イリスクー (イリターンよりもローリスクーローリターン志向 になります。外的環境の動きに柔軟に反応できない、 新しい領域に出ていかないということならば、企業 の成長は当然阻まれてしまいます。  起業家が投資家から資金調達する際に、過去に失 敗経験があるかを問われますが、日本とそれ以外で は失敗の受け止め方に違いがあります。  アメリカでは失敗経験はポジティブに働くことが 多い(学習効果を期待される)ので、起業家は胸を 張って失敗経験について語ります。  しかし日本ではネガティブなイメージが強い(ま た失敗するのではという疑心をもたれる)ため、二 度目のチャンスが与えられにくくなっています。起 業には失敗がつきものなのに、失敗経験によって資 金調達が困難になるというのであれば、これは明ら かに起業を阻害してしまいます。  失敗を許さない社会は「失敗を責める」「失敗を 恐れる」「失敗をしたら隠す」「失敗からの学びがな い」「失敗には良いことがない」……だからますま す「失敗を責める」という負のスパイラルしか生み ません。  失敗を必然と受け入れる。まずはその意識の改革 が必要となります。     「社員エングージメント」も世界最下位  日本の離職率の低さを海外から見ると、「なんて 日本人は会社に対して忠誠心があるんだ!」という 印象を受けます。  しかし、実情は異なります。  会社への愛着を示す「社員エングージメント」指 数を見ると、日本は世界最下位です。また、「社員 を活かす環境」についても最下位です(図表4‐4)。   ←〕Iレ」いI目幸    y」卜`l」X」1日本      −胛     −圉 四    岨。。    ヅ 皿         オランダ         香雇       し 門一   田广−   川上 か ゲ ー            アイルランド   活一             アメリカ     M T  ヅー @コ 丿  一       アメリカ         一       ノルウェー    づ 万       ぷ丁霖       一ドド詐{ 一   円    ダ } 匹 釦一乃加5印5Sギリシヤ      劭乃加心印  :三。 ]  この結果を見る限り、実は日本の会社員は、会社 への忠誠心もなければ、やる気もないようです。会 社には自分の能力を活かす環境もなければ、能力を 活かされているという意識もありません。でも、会 社を辞めない。会社や環境を変える気がありません。 一方で、優秀な人材は辞めていくという傾向があり ます。  会社が優秀な人材を確保するためには、社員エン グージメントを高めていくことが肝要になります。 社員エングージメントが高く、社員を活かす環境の 整った会社であれば、社員はモチベーション高く誇 りをもって仕事をすることができます。仕事のパ フォーマンスも高まります。  そのためにも、会社は目指す方向性(ビジョン) や、自社が提供する社会的価値を明確に示すことで す。社員もまた、その会社を使ってなにをしたいの か、欲求を明らかにして取り組むことです。そして、 会社は社員の取り組みに人事評価などのフィード バックで応じていくことです。社員は「正当に評価 されている」と感じることができれば、さらにモチ ベーションをあげ、また、会社への信頼、貢献度も 高めていくことでしょう。  私が起業教育について講演をする際、日本での受 講者は起業志望者より、多くは企業内起業担当者 (イントラプレナー)です。  新商品の開発であったり、新規事業の推進であっ たり、コーポレートーベンチャー・キャピタルの運 用であったり、その多くの担当者は、経営トップか らの十分なガイダンスがない中で、さまざまなミッ ションを背負っています。収益(新規、短期、長期 的収益源の獲得)、新事業開発・推進部門の存在意 義の模索から、戦略の策定、(短・中・長期)目標 設定、組織文化の革命まで、それは広範囲にわたり、 「なんとかしたい」と受講する人がほとんどです。  とても厄介なタスクですが、ここで平穏無事に済 まそう、ではなく、これこそビッグチャンスだとと らえて果敢に取り組んでいただきたいと思います。     第五章 生涯をかけて情熱をもち         続けられる問題を探せ  「うまい! やっぱり、世の中で一番うまい飯っ て、家のご飯じゃない?」  実家にいた一歩は、母のつくった食事を元気よく 平らげた。  「あら、やだ。今日は手抜きなのに」  「そりゃ、愛情がこもってるからじゃない? あ んたちょっと寂しくなってんじゃないの? 早く結 婚したら? あ、そIか、就職がまだだったか」  姉が口を挟む。  「うっさいな。てか姉ちゃん、なんでいつもいる んだよ」  「だってウチすぐ裏だし、子どもたちも勝手にこ こで遊んでるし。母さんだってひとりで食事するよ り、一緒がいいでしよ」  「母さんだって働いてんだから、負担かけんなよ。 大変じゃないか」  「はあ? 居候の分際で、どの口がいう?」  「まあまあ、ケンカしないの。母さんはいいのよ。 食べる人が多いほうがっくりがいあるし、尚美がつ くってくれることも多いんだから」  「姉ちゃんの飯は、大味だからなI」  「どういう意味よ」  「にしても、ばあちゃんの料理は絶品だったなあ。 子どもの頃の卵焼き、唐揚げ、じゃがいものグラタ ン、具だくさんカレー、なんでも美味しかった」  「あんたね。昔つから味にうるさいけど。結婚し てもそんなふうじゃ、間違いなく嫁に嫌われるから ね」  「うっさいなあ。あ、そういえば」  「なに?」  「俺が味にうるさい理由がわかったんだ」  「どういうこと?」  矢弦のもとで、自己理解を深めた一歩は、「食で 人の役に立つことをする」をテーマに、解決したい 問題を探していた。  幸い「カフェーカオス」では、スタートアップの ためのさまざまなイベントが開かれていて、あらゆ る分野の課題を学ぶことができた。「食」に関して も、さまざまな社会課題を知ることができた。たと えば、世界には食料があふれているにもかかわらず、 九人に一人が飢えに苦しんでいることや、その一方 で、先進国では、食べられるはずの食品が廃棄され るという「食品ロス」の問題があることを知った。 特に囗本の「食品ロス」が世界でも高水準にあるこ となどを知って一歩は驚いた。  また、あるときなどは、とても興味深い「食」の エキスパートの話を聞く機会を得た。それは「食品 添加物」に関するセミナーだった。  食品添加物の専門家である講師は語った。  「食品添加物というのは、加工食品の安さ、手軽 さ、便利さという大きなメリットを支える一方で、 とりすぎが問題視されています」  一歩は熱心に聞いていた。  「中でも『味覚を壊す黄金トリオ』と呼ばれるも のがあります。それは『塩』『化学調味料』『たん自 加水分解物』。これらは特に子どもに安易に与えて ほしくない三大添加物です。ただ近頃では、世間で もこの『化学調味料』を問題視するようになったこ とから、メーカーはこれを省く努力をし始めました。 ですが、驅されてはいけません。メーカーはこれを 省いただけで安全性がさも改善されたかのように、 『天然だしを使用』『お子さまにも安全』などとう たって商品を売ろうとしています。しかし、実際に は別の添加物、『たん自加水分解物』や『人工甘味 料』などが含まれていて安全とはいい切れない食品 が多いのです。『天然と書いてあるから大丈夫』な んて安易に信じちやいけません」  「え? そうなんだ」一歩は驚く。  「それに、食品添加物は、加工食品のみならず、 安価な家庭用調味料にも多く使われています。ご家 庭で『うちは加工食品を使わずに、手作りにしてい るから大丈夫』と思っていても、材料や調味料にそ うした食品添加物が多く含まれていれば、大量摂取 から逃れられません」  「ふうん」  「ちなみに私たちの祖父母の世代、食品添加物の ない時代に育った人たちは、これらに慣れていない せいか、『変な味が残って気持ちが悪い』『たくさん は食べれない』と敏感です。ですが、子どもの頃か ら食品添加物に慣れてしまうと味覚が壊れてしまっ て、そうした違和感を感じなくなってしまいます。 安全でない食品を食べていてもその危険性に気づく ことができなくなるのです」  「そっか、なるほど」  一歩の祖母もインスタント食品やスナック菓子を 「味が濃い」「気持ちが悪くなる」といっていた。一 歩自身もそう感じるほうで、一歩はそれを遺伝だと 思っていた。  「僕の味覚は、おばあちゃんの手料理のおかげで 壊れなかったんだな」と思いながら一歩は講義を聞 いていた。  「とはいえ、安さと便利さが重宝される現在では、 添加物は不可避です。ただ、安易に『みんなが使っ ているから大丈夫だ』『大手メーカーの商品だから 信用できる』と盲目的に頼るのでなく、メリットー デメリットを知ったうえで、上手に利用しましよ う」  講師はそういってセミナーを締めくくった。  そんな一歩の話を、姉は「へえ」と聞いていた。  「おばあちゃんが冷凍食品や添加物を使わない料 理をつくってくれたおかげで、僕の味覚は守られ たってわけ」  一歩が得意げにいい終えると、母がうなずいてい た。  「そりゃあね。おばあちゃんは、母さんが会社で 働いている間、あんたたちが寂しい思いをしないで 美味しくご飯を食べられるように、一生懸命つくっ てくれてたわけだから。あんたたちの好みや身体の ことも考えてね」  「たしかにI歩じゃないけど、大人になって外の ご飯と食べ比べてみても、おばあちゃんのご飯は美 味しかったんだって思うわね」  姉もそういった。  「そうなんだよ。手作りの素朴な味。余計な添加 物が入ってない。健康に配慮されてる。愛情がある。 家族、親しい人と安心できる場所で食べられる。 −こうした点で、うちで食べるご飯が最高にうま いってわけ」  「ふうん。でもまた、急に語るね。なんかあった わけ?」  「いや、別に」  就活を休んで「カフェーカオス」に通って起業を 考えていることは家族には内緒だ。  「怪しい……。そんなに家族に媚びを売らなくて も、仕事のないあんたを家から追い出すような非情 なことはしないわよ」  「うっさい。俺はただ『食』の大切さについて 語ってんだ。当たり前と思ってる食事でも、いろん な事情や問題をはらんでるんだなって」  一歩は「食」について学んだことを振り返ってみ た。世界的に飢餓や栄養失調が解消されていないと いう大きな問題のほかに、身近な問題としても、飽 食による生活習慣病が増加していることや、子ども や若者が朝食をとらなくなっているという欠食の問 題、安さ便利さを求めての食品添加物への依存など 実にさまざまだ。  そうした問題を探るうちに、一歩は自身の姿勢を 見直すことにもなった。  祖母の食事で育って、美味しいものにはそれなり の手間と時間がかかると知っていた一歩でさえ、 ファーストフードが浸透した現代で、「安くて早く てうまい」をいつの間にか当たり前のことだと思っ ていた。そのため、安く提供する背景で、化学調味 料や添加物に依存しすぎたり、人件費の大幅カット で働く人が虐げられていたりというような歪みが生 じていることにまったく考えが及ばなかったのだ。  「なんでも当たり前と思わんことや。教科書に だって間違いはあるんや。物事を当然のこととして 見るな。『なぜ?』『どうして?』『なにかおかしい』 という違和感を大切にするんや」との矢弦の言葉が 思い返される。  たしかに、「そういうものだ」と物事に対して深 く考えるのを止めてしまうと、問題というものは見 えなくなってしまう。今さらながら、一歩は、「自 分はこれまで、なにも考えず、ぼうっと生きてきた んだな……」と実感していた。  数日後、一歩は「カフェーカオス」に行った。  なおも問題が見つけきれない一歩に、  「どんな問題を選択するかにあたって、持続可能 性についても考慮したほうがええな」と矢弦はいっ た。  「持続可能性?」  「将来にわたって長く続けられるかということや。 どんなビジネスでも持続性を維持することは重要な ことや。そのためには、社会や自然環境に配慮して 良好な関係・状態を保つ必要がある。自分たちが豊 かになりたいからといって、それらを侵害するよう では、持続性は得られへん」  「……なるほど」  「イケてる起業のアイデア、そして起業における 成功とは、問題を解決し、利益のみならず世のため 人のためになるものや」  矢弦は四つのPが必要だと説いた。  「四つのP?」  「Problem「 Profit「 People「 Planetや」  Entrepreneurship begins with a probleヨ「 and aiヨs for  the triple bottoヨline: profit「 people「 and planet.  起業道とは、問題から始まり、利益の追求のみな  らず、世の大、地球環境に配慮するものである。  「へえ……」  「起業活動の目的は、まずは解決したい問題から 始まり、次に利益の追求、さらに関係する人と、地 球環境にも配慮するものでないとあかん。そうでな いと持続性は確保できん。大事なのは、プロブレム (問題)、プロフィット(利益)、ピープル(人々)、 そしてプラネット(地球環境)、この四つを同時に 追求することや」  ここでいう「人々」とは、お客様のみならず、社 員、投資家、サプライヤー、政策担当者、地域社会 の住民、コミュニティに至るまですべてのステーク ホルダーのことだ。  「起業っちゅうのは、人が集まって、リソースを 集めて新しいことをすることや。ただ、それが世の ためになることもあれば、世のためにならない破壊 行為になったりもする。そこでそんな悪質な行為に せずに、いかに世の中にとって質のいい社会貢献に していけるか。世界にとって望ましい貢献、地球環 境に優しい貢献をするようであってほしい。経済的 価値と社会貢献を両立させてもらいたいね」  「なるほど。そうありたいですね」  そして矢弦は続けた。  「時に、SDGSつて知ってる?」  「エスディージーズ……冫・いえ、なんですか?」  「起業でも事業でも、社会問題に向き合うにあ たって、よく引き合いに出される世界の課題や」  矢弦は正面のスクリーンに、「SDGS」のスラ イドを映し出した。  そこには、カラフルな「SDGS」のマークが印 字されていた。  「あ、あのマークのバッジ……。ここに来る起業 家の人もよくつけてますよね?」  「せや。SDGSの達成を念頭において、起業し たり、新事業を立ち上げる人は多いんや」  「SDGS」とは、「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称のことで、国 連で決められた国際社会共通の目標課題のことをい  具体的には、「17の目標」として次のような二十 一世紀の世界が抱える課題を包括的にあげている。  I 貧困をなくそう  2 飢餓をゼロに  3 すべての人に健康と福祉を  4 質の高い教育をみんなに  5 ジェンダー平等を実現しよう  6 安全な水とトイレを世界中に  7 干不ルギーをみんなに そしてクリーンに  8 働きがいも経済成長も 9 産業と技術革新の基盤をつくろう 10 人や国の不平等をなくそう H 住み続けられるまちづくりを 12 つくる責任 つかう責任 13 気候変動に具体的な対策を 14 海の豊かさを守ろう 15 陸の豊かさも守ろう 16 平和と公正をすべての人に 17 パートナーシップで目標を達成しよう  「へえ」と一歩はそれらを眺めた。  「たとえば『貧困をなくそう』のために、貧困地 域に工場をつくって事業を起こしたり、『干不ル ギーをみんなに そしてクリーンに』を達成すべく 電気のない地域に電気を通す事業を展開したりな。 貧困や不平等、気候変動、環境保護、平和と公正、 そうしたグローバルな諸問題の解決を図る起業家は 多いんや」  「なるほど。すごいですね」  「なにも大げさに構えなくてもええねんで? こ れらを身近なところで取り組むこともできる。たと えば海洋を守るためにプラスチック類の安易な廃棄 を避けるとか、ジェンダーの問題を自分の住む身近 なところから変えていくというんでもええんや。大 切なのは動き始めた後も、『自分はなにをしたいの か』と問い続けることや」  「ああ、そっか、なるほど」  「できることからやっていく。とにかく行動や」  「はい」と一歩は深くうなずいた。  それでも一歩は、うIんと考え込んでいる。  「身近なところから始めようとは思うんですけ ど……それでも、なかなか『これ』と定めるのは大 変ですね」  「『あなたは何をなしたいか』−急に聞かれても、 即答はできへんかもしれん。それでも心配はあれへ ん。別に、最初から情熱的である必要はないねん。 最初はちょっとしたきっかけから始めるんでもええ。 むしろ大切なのは、その後も『自分はなにをしたい のか』と問い続けることや」  「……なるほど。ちなみに、今気になってるのは 身近な問題で『孤食』とか『地域のコミュニテイづ くり』なんですけどね」と一歩がいうと、  「ほう。ええがな」と矢弦は答えた。  「孤食」というのは、ひとりで食事をとることで、 子ども、若者、高齢者に見られる問題だ。孤食は、 コミュニケーション能力の低下や、好きなものばか りを食べるという栄養の偏りやO、OL(精神的健康 度)を低くすることなどが懸念されているらしい。  一歩自身、この「孤食=ひとりぼっちのご飯」と いうのが、伝え聞くだけでも、なんともやりきれな い気分になるのだ。  一歩のその言葉に矢弦はうなずいていった。  「そうか。興味のあることが見つかったなら、次 は、それをより深めていく。より具体化していくん や。いっぱいリサーチして、いろんな人に聞く。研 ぎ澄ます。問題の質は高ければ高いほどええから な」  「問題の質?」  「そうや。たとえば食の問題とひとくちにいって も、その孤食とか飢餓を救うのか、食品ロスをなく すのか、食品アレルギーを解決するのか、いろいろ あるやろ? 問題は深刻であるほど解決する価値が あるといわれる。人命にかかわる、痛みを伴うよう な問題は、単に不便、めんどくさくてできないとい うような問題より、ニーズに強みがある。ニーズが 高く、万人が抱えている問題であれば、広がりと深 みが出るんや」  「命に関わるような問題、万人に関わるような問 題が、いいってことですか」  「いや、だからといって、身近な問題の質がアカ ンつちゅうわけでも決してないねん。せやな。大事 なんは、その個人がいかにその問題に『当事者意 識』をもって解決に情熱をもち続けることができる か、ということやな」  「当事者意識?」  「せや。『いかに自分の問題としてとらえられる か』や。自分がどうしても解決したい問題でないと あかん。質の高い問題、とは主観的な部分もあるか ら、究極をいうと『あなたにとって生涯かけて情熱 をもち続けられる問題』なのかもしれん」  「なるほど。それは面白そうです。生涯かけてや れることがいいです」  「問題の質を高めて、それに対する解決策を考え る。解決する問題の質が起業の成否を決定づける。 問題意識を強くもった起業家ほど成功者が多い。逆 に起業の失敗の最大原因も、解決する問題の質にあ るといってもええんや。起業で失敗する一番の理由 は、soluti〇コwithout a problem、問題なき解決と いって、解決策はできたけど、もともとなんの問題 を解決するためのものだったのかが、不明なものが 多い。だからこそ、やっぱり問題はなんなのか、そ こをじっくり見極めることが大切や」  「なるほど」  「それに、誰の問題を解決したいかによって、そ の対応も変わってくるからな」  「誰の問題か? それで、どう変わるんですか?」  矢弦は靴ベラの例で説明する。  通常の靴ベラは家庭用で、家族のみんなが「靴を 履きやすいように」使用するもの。しかし、これが 年配者、身体の不自由な人のためのものとなると。 「かがむ」という問題が加わり、この問題に対処す るために、特別に長い靴ベラがつくられる。また、 反対に、「長いと持ち運べない」という旅行者の問 題を解決するために、特別に短い靴ベラ、というも のも存在する。それぞれが異なる問題に対する解決 法であり、ただ単に既存商品のサイズを変えただけ なのに、こうして新たなニーズに基づく商品のマー ケットができる。これも立派な起業アイデアの発想 方法のひとつだ。  「『食』も、誰に食べてもらうか、どういうシチュ エーションで出すかによって、やり方は変わってく るやろ?」  「なるほど。そうですね。たしかに孤食も子ども と僕と高齢者とでは事情が違ってくるかも」  「まあ、アイデアはゆっくり練るとしても、まず は問題をクリアにすることや。誰のどういう問題を、 どういうふうに解決したいか。よくリサーチして、 研ぎ澄ましていくんや。問題を研ぎ澄ませば研ぎ澄 ますほど、それだけ解決策もクリアになって、ええ アイデアになっていく」  「はい!・」  「解決方法は、課題が見つかってから。それから、 ワクワクする解決策を見つけるんや。特に、アイデ アを考えるときには、huヨ弓centeredという視点が 有効や」  「ヒューマンセンタード? なんですかそれ」  「人間を中心によく観察する。人間がどうやって なにに迷って、なんでそんな行動をとるのか、人間 をよく観察して知り、アイデアを考え出す」  矢弦はそしてイノベーション剔出会社のIDEO が開発した「デザイン思考」という手法を紹介して くれた。  「デザイン思考?」  「アイデアを剔出、実現していくための方法や」  矢弦は、ホワイトボードに、次のように記載した。  @Inspiration 問題はなに? 誰の問題? どの   程度の痛みなの? 人間を観察する  AIdeation どのように解決するの? ユニーク   な方法を見出す  BImpleヨ回tation できるの? プロトタイプを   つくって仮説検証、試行錯誤し、改善する  「まずは問題を理解するために、ひたすら人を観 察する。現場に出て、よく観察して、いろんな人に 聞き込む。そうすることで、問題を発見したり、よ り問題をクリアにしたりする」  たとえば、「未来型のショッピングカードをつく ろう」というイノベーション系プロジェクトがある。 チームを構成するさまざまなプロフェッショナル (経済学者、精神科医、エンジニア、弁護士など) がそれぞれ問題点を聞き込み、観察する。  するとカードが急スロープを時速六十キロで暴走 した、子どもがカートに足を挟んだ、などの問題が あることがわかった。  「次に、アイデア、問題を解決する方法を考える」  カードが暴走しないよう工夫をする、子どもが足 を挟まないようにつくるなど、アイデアのブレーン ストーミングを行う。  「アイデアができたら、また外に出て聞き込む。 試作品をつくってそれを持ち出し、お客にデモをし て、聞き込む。そして改善するんや」  アイデアを実現させたショッピングカードの試作 品をつくって小売店舗に持っていき、実際に使って もらう。さらに観察をし、さらなる問題点を次々に 洗い出していく。そうして何度も、観察する、聞く、 改善する、と繰り返して製品を完成させていく。  「こうして、とにかく徹底してヒューマンセン タードで考える。『人』のためのイノベーションを 剔出するんやから、人間を観察することがとにかく 重要になる。人を中心として洞察力・共感力をフル 回転させるんや。そしてプロトタイプをつくってと にかく形にして検証してみる。これは、新規事業の 検討や、アイデアを実現させるのにとても有効な方 法や」  「なるほど、へえ。面白いですね。行動しないの がもったいないって気がしてきました」  「ええな。ワクワク、楽しんでやることも大切や。 楽しさは伝播するからな」  一歩はワクワクと、自分の課題に取り組むことに した。   【解説】解決する問題の質がベンチャーの       成否を決定づける  「『ネイチャー』誌や『サイエンス』誌に出た研究 だって、十年後にはそのうち九割が嘘だとわかる。 ……教科書にだって間違いはある。うのみにしては いけない。常に疑いをもって、本当はどうなってい るのか、自分の目で物を見、納得することが大切 だ」とは、ノーベル生理学・医学賞の本庶佑氏の談。    問題を発見する能力、姿勢が人切  私たちは魔法の国に住んでいます。夏暑ければ冷 房があり、冬寒ければ暖房があり、スマートフォン でいつでもどこでも話せて、L−NEでチャットも できて、インターネットでなんでも検索できます。  お店の前に立てば自動でドアが開閉し、移動手段 は自転車、バイク、自動車、電車、飛行機、ロケッ トまであります。でもこれらの便利なことを、当た り前だと思わないで、「なぜ」「どうしてできている のか」と疑問をもってみることが大切です。「物事 を当然のものとして見ない」ことです。  「どうして、こうなっているのか?」という現状 の仕組みを理解してはじめて、改善が可能になりま す。好奇心をもって、「なぜ?」と探求すること、 そして、自分を必ず当事者として、「自分だったら」 と考察する癖をつけることです。  このように、考える習慣をつけることは、ビジネ スチャンスにもつながります。便利な商品やサービ スが世にあふれ、魔法の国に生きる私たちは、漫然 と受け身になっているだけではチャンスをつかむこ とはできません。世の中がどのように動いているの か、現状の仕組みを理解し、分析し、改善策を考え て実践することで、ようやくなんらかの道が開拓で きるのです。  この魔法の国をさらに便利な国にできるかどうか は、その好奇心と改善を提案していく姿勢にかかっ ています。あるものを使うだけの側でなく、新しい ものを創造して利用してもらう側になりましょう。 現状の世界を把握しているからこそ、次の世界を自 らが創っていける、未来の世界を変えることができ るのです。    問題の本質「根本的になにを解決したいの    か」を見極める  「なにがしたいのか」という欲求の「なにが」の 部分に着目してみましょう。  たとえば起業のアイデアとして「なに」が、最も 成功と成長と繁栄と持続につながるのか。答えはシ ンプル。大切なのは解決に値する「問題の質」です。  なんの問題を解決したいのか。問題の明確化がま さに出発点で、問題の本質、とらえ方によって解決 策もさまざまです。解決方法を考えるのは問題の本 質が明らかになってからでも遅くはありません。  根本的に、解決すべき問題はなにか。あなたは答 えられますか。たとえば、今の仕事はなんのために しているのか、と突き詰めたことはありますか。  キチンと突き詰めると、あなたの仕事は必ず誰か の問題を解決していると思います。だからこそ仕 事・職業として成立しているのです。でもそのよう に意識する人は少ないと思います。  自分の仕事に社会貢献としての意義を見出せた者 は、強い意思と、一貫性と持続性を手に入れること ができます。問題意識を強くもった起業家ほど成功 者が多いのは、おそらくそれが要因です。  解決する問題の質がベンチャーの成否を決定づけ る。また、ベンチャーが失敗する最大の原因も、そ のアイデアが解決する問題の質にあるのです。 第六章 分厚い事業計画書はいら      ない、A4一枚のロンチ      プランで動き始めよう  Entrepreneurship is ab()ut taking action.  AL1 because Action Changes。「yF躱巴  起業道とは、とにかく「やってみるこ  と」である。      行動をすることでなにかが変わる、なに      かを変える’・  「大切なのは、とにかく行動することや」  数日後、再び「カフェーカオス」を訪れた一歩に、 矢弦はいった。  「慎重に時間をかけて考えているだけでは、知識 の量は増えるかもしれんが、実際のところそのアイ デアがうまくいくという根拠はなにも得られへん。 そのアイデアが実際にうまくいくかどうかは、やっ てみないとわからんことや。『行動』のいいところ は、実行することで、なにを修正すべきかすぐに検 証できることや」  一歩はうなずきながらおとなしく聞いていた。  「新たな事業に取り組む際の思考一行動様式に、 プレディクション(Prediction :予測)とクリア クション(Creaction :創造的行動)というのが ある」  矢弦は解説する。  プレディクションとは、これまでの経験や知見か ら将来を予測する考え方や行動のこと。つまり因果 関係が明らかであり、過去、現在から未来が予測可 能である、未来が現在や過去の延長にあると考えて のアプローチ方法だ。  これに対して、クリアクションとは、とにかくま ず実行してみて、その結果から繰り返し学んでいく 方法だ。アイデアを思いつくと行動を起こして実社 会での反応を見る、そして学ぶ、そしてそこから軌 道修正をしていく、という、未知の状況に挑む起業 家が好んで用いる方法だ。  「たとえば、パン屋を開業するとしよう。プレ ディクションでは、『どういうパンが売れるか』『立 地はどこがいいか』『どれほどの収益が見込めるか』 など、調査や推計や準備にじっくり時間をかけて、 慎重に計画を練り上げる。そしてひとたび計画を決 めたら、ひたすら計画通りに実行する。仮にうまく いかないことが生じても、簡単に計画を変更せずに 計画に沿って努力を続けようとする」  「あ。はい、それはなんだか……『事業を起こす ならそれくらいやらなきや』つてみんながやりそう な方法ですね」  「一方、クリアクションのほうは、たとえば『夕 べの残り物の寄せ集めでたまたま創作したパンがう まかった。だからちょっと売ってみよう’・』と、と りあえず手近な人に売ってみて反応を見る。反応が よければ、今度は立地を考えて、売れそうな町で小 商いをしてみる。で、またその反応から学んで改良 する。そうして、行動の結果から学んで、どんどん 先に進めていく。もし、思った結果を得られなかっ た場合には、計画を練り直して、軌道修正して進め ていくんや」  「なんと。へえ、なるほど。フットワークがいい ですね。でも、どちらかというと、プレデイクショ ンのほうが、馴染みがあるというか……信用してし まう方法ですね」  一歩がいうと、矢弦が答えた。  「せやな。プレデイクションは、多くの人や組織 が、従来そういう教育を受けて実践してきた方法や からな。でもなにも、プレデイクションを否定して いるわけやないで。十分予測が可能なところ、因果 関係で推測できるところは、もちろんプレデイク ションが必要なんや。ただ、今の世の中、これだけ では対応できへんから、クリアクションと併用す る」  「なるほど」  「予測可能な未来に対してなら、たしかにこのプ レデイクションは有効や。けど、予測不能なこと、 想定外なことが数多く起きる世の中では、これだけ では不十分や。前例や過去からの知見にこだわるこ の方法では、予想外の失敗や想定外の事態を受け人 れることができへん。プレデイクションでは、決め られた計画や道筋から外れたものは、ただの邪魔も のでしかないからな。想定外のサプライズは嫌われ る、せっかくの学習機会やのに」  「たしかに、そうですね」  「一方、クリアクションのほうは、そうした想定 外の失敗をうまく活かすことができる。たとえば 『試しに売ってみたけど売れへんかった』という失 敗も、行動したからこそわかった現実や。そこで失 敗を検証して、『ここをこう、ちょっと改良してく れたら買うんやけどな』という客のニーズでも拾え れば、それはチャンスに変わる。クリアクションの 場合は、小回りが利いて、失敗をチャンスとして、 そこから学び、アイデアを改良し、さらに次のス テージに進むことができる。そうした小さな改善を 積み上げることで、大きな改善へと結びつけていけ るんや。そこでは予期せぬサプライズこそ大歓迎 や」  「へえ……面白い。それでとにかく行動してみ ろってわけですね」  「せや。将来が予測できないときほど、また、大 きなゴールを目指すときほど、小さく細分化して、 ゴツゴツと行動を起こす。小さな失敗と改善を繰り 返して、目標達成につなげていく。そういうプロセ スが有効になるんや」  「そっか、小さくゴツゴツと、一歩一歩積み重ね る」  「せや、だから、考えてばかりいないで、まず動 いてみることや」  「はい’・ といっても、僕のアイデアはまだまだ 浅いというか……」  「それでも、やりたいことが見えてきたなら、A 4用紙一枚にでも書き出してみたらええねん」  「紙一枚に?」  「四コマ漫画でもええで」  「四コマ漫画?」  「『こういう問題がある』『こういう解決策があっ て』『こういう流れになって』最後に『こうしたい、 これをしてくれ』と書いたりする」  「へえII・」  「とにかく簡単に形にして動くことやな。ロンチ プラン(F目胚低回)を書いてみてもええし」  「ロンチプラン? あ。事業計画書、ビジネスプ ランみたいなもんですか?」  「いや、今の起業の世界では、分厚いビジネスプ ランなんて、まず書かへん。大体、ビジネスプラン なんて死語や。無駄に量があって、誰も読まへんし、 意味がない。そうでなくて、つくるのはロンチプラ ン。ロケットの発射や。せいぜいエグゼクティブサ マリー『二枚のもんや』  「え? そんな短くていいんですか」  「十分や。そこには、どんな問題に取り組んでい るのか、誰のためのどれほど大変な問題か、その ニーズの大きさ、市場規模、現存する解決方法との 差異要素、集結した個とチームの力、そういう根幹 を書くねん。それに伴って必要なリソース、つまり ヒトーモノーカネについての懇願。それですぐにス タートしてまう」  「へえ」  「ロンチプランは早く問題にぶち当たってこそ生 きてくる。問題が起きれば起きるほど正解に近づく。 とにかく、今あるもので、はじめていくんや」  「なるほど……」  一歩はいわれた通り、書き出してみる。  「僕、『おばあちゃんの食堂』をつくろうかと思う んですよね。『おばあちゃんの味』をみんなで分か ち合うような」  一歩は説明しながらロンチプランを作成していっ た。  一歩の住む街は、のんびりとした住宅街で独居老 人が多く、孤食になる高齢者が多い。また、一歩の ような独身男性で、外食に飽きながらも牛丼やラー メン、コンビニ飯などを食べ続ける者もいれば、塾 に行く前に栄養バランスの偏ったコンビニおにぎり やパンを食べる子どもたちもたくさんいる。  一方で、料理はつくれるが、自分のためだけにつ くろうという気持ちがわかないひとり暮らしのおば あちゃんや、小遣い稼ぎはしたいけれど、短い労働 時間しか提供できない専業主婦の人たちもいる。  そこで、一歩のつくる「おばあちゃんの食堂」に みんなが集まって、おばあちやんや専業主婦の人た ちが料理をつくり、近所の単身生活の高齢者や若者、 親の帰りが遅い子どもたちが集まって食べ、「孤食」 をなくそうというのだ。それは「助け合い」の場づ くりでもある。  「近所のおばちやんたちが、シロウト料理人と なって、食堂をやるんです。なにより僕が食べたい んです。おばあちやんたちの普通の『ウチご飯』を。 料理は無添加で健康に配慮したものを出します」  一歩はそれをプランに書き出した。 @ タイトル(アイデア名)/なにをやるのかひ   とことで   「おばあちゃんの食堂」  無添加・柢農薬の健康的で美味しいおばあちゃ  んの手料理を出す食堂 A 解決したい課題/誰のためにやるか?ノニー   ズの大きさ  地域の高齢者・若者・子どもの孤食をなくす B ソリユーションノ現存する方法との差異  地元の専業主婦たちでつくる手料理を提供。つ  ながりの場所をつくる C 今なにがある?/集結した個とチームの力  資金一 ××万円(これから計算する)  人一近所のおばちゃん、家庭料理歴十〜五十  年 D 市場規模は?  不明(これから調べる) E あとなにが必要? なにが欲しい?  不明(これから調べる)  そのとき、脇のほうから声がした。  「そんなレベルで、本当にやる気か? それに 『孤食』つてそんなにたいそうな問題か。おひとり 様で食事できる店が流行ってる時代だぞ。ホントに ニーズがあるのか」  一歩が見ると、それは隼人と呼ばれている「カ フェーカオス」の常連だった。  おそらく年は一歩より二、三歳上で、外資系コン サルティング会社に勤めている高学歴の超エリート だと聞いている。  その隼人も起業家を目指しているという。ただし、 同じ「起業」といっても、一歩のように「身の丈に あった」起業は「しょぼい起業」と切り捨て、「自 分は、テクノロジーで世界を変える」と売上高数百 億円規模のビジネスを興し、早々に新規株式公開 (IPO)することを目指しているようだ。  はじめに会ったときから、自信家の彼とは合いそ うにない、と一歩は、極力近寄らないようにしてい たのだが、なぜか隼人のほうから、こうして時折絡 んでくるのだ。  「つまりは、よくある『子ども食堂』つてやつだ ろ?」  隼人はいった。  「違うよ。『子ども食堂』つてのは、子どもの貧困 を救うことを目的にしたやつだろ? そうじゃない、 誰でも気軽に『普通のうちのご飯』が食べられる場 所をつくるんだ」  「シロウトがボランティアでやるんだろ?」  「いや、ちゃんとした食堂にしたいんだ。人を 雇って有料の食事を出す。俺みたいなひとり暮らし の大人も客にして」  「ああ。ただの定食屋か」  「……それよりもっと、コミュニティとしての機 能を強めたいっていうか。人が集うことを目的にし てるっていうか」  「じやあ、やっぱ『子ども食堂』みたいなもん じやないか」  「そうか。いや、違うよ。いや、まあ『子ども、 単身若者、高齢者食堂』つてとこか。ここに集まっ てみんなで食べようつていう」  「なんだよそれ。だいたい、プロの料理人がつく らない食堂なんて、やだな。ないだろ」  「だから、それをつくつてみるんだつて」  「大体、誰がそんなシロウト料理にカネ払うんだ よ。だいたい、おたく、食品衛生の資格とか調理師 免許とかもつてるわけ?」  「ないよ」  「え? 飲食店経営の経験とかは」  「……。バイトなら」  「はあ?」  一歩に絡んでヶチをつける隼人を見かねて矢弦が 声をかける。  「隼人、そういう自分はなにしてんや?」  「は?」と隼人は矢弦を振り返った。  隼人は、いつも勉強会を傍観してヶチをつけてい るだけで、実際に動いたり参加したりはしないのだ。  「『聞くだけ』『見るだけ』は行動を起こしたうち に入らんで。参加せんでどないすんねん。見てない で『やる』。質問するなり感想をいうなり、行動す る。頭でっかちになるな。学習はそれを活かしてな んぼや」  「余計なお世話です。それに、これくらいのこと、 すでに俺は知ってるし」と隼人はムツとした。  一方の一歩は、プランを書き出したおかげで、な にができていないのかということも、わかってきた。  「そうか、店を開くには営業許可もいるのか。ほ かに必要なものI店舗や人も確保しなきやいけな いのか。結構やることいっぱいじやないか、大変だ な。それに、たしかにこんなプランでそもそも大丈 夫なのかな……」と不安になってくる。  「一歩。そこから、どんどんブラッシュアップし ていこう。人に会ってどんどん意見を聞いて、アイ デアを磨く。『意味のない出会いを求めよ』、や」  「意味のない出会いを求めよ?」  「せや。たとえ一見、なんの意味があるのかわか らない出会いであっても、積極的に会っていく。結 果として、無駄な出会いなどないからな」  「はい!・」  一歩は素直に聞き入れ、動き出した。  その頃、出版社の現代建築社では、黄島たち新規 事業チームがプロジェクトのテーマを考えるために 会議室に集まっていた。  「自分のやりたいこと、社会から必要とされてい ること、それを会社の資産(ヒトーモノーカネーチ エ)でできないか、考えてみよう。なにかアイデア とか意見とかある?」  黄島は、眷奈と緑川と青木に尋ねた。  だが、シンと静まり返る会議室。  「……まあね。せっかくだし、まずは、ひとりひ とり、やりたいことを明確にしていこうか。そのた めに課題を出すよ。ひとり、三つ以上の雑誌企画を 考えてみよう。それをそれぞれA4一枚に書いてき て」  「雑誌企画?」と春奈。  「そんなんじや、既存と変わらないってまたいわ れますよ?」と緑川。  「いいんだよ。これはそれぞれのやりたいテー マーアイデアを出すためのものだからさ。だって、 僕だって、君らがなにに興味があるのか、なにをし たいのか、会社のどういう資産に注目しているのか、 さっぱりわからないんだもん。いい? 三つ以上だ よ」  「えI?」と、めんどくさそうな眷奈。  「なるほど。そういうことなら」とうなずく緑川。  「青木君、君もだよ。一応、期限は来週までね」 と黄島は、スマートフォンしか見ていない青木にも 声をかけた。  「はあ」と青木は黄島を見ることもなく答えた。  「じやよろしく」と黄島が答えると、眷奈が青木 をとがめるように、  「ちょっと。人が話してるときくらい、スマホ止 めたら?」とチクリといった。  「は? 今の話のメモをとってただけですが?」 と青木は顔を上げることなくいった。  「はい、絶対ウソ。今、メモとるような大した話 してないじやん」と眷奈が怒ると、  「赤井さん、それはそれで黄島さんに失礼かも」 と緑川も口を挟んだ。  「いや、僕は大丈夫だけど……」と黄島。  「あIあ。ポンド、こんなメンバーで新規事業な んかできるんですかね?」と春奈がいうと、  「それは大丈夫だよ’・ 先日の矢弦さんの話覚え てる?」と黄島は自信ありげに答えた。  「え?」と春奈と緑川。  「五人の変態の話だよ。僕さっき、ふと気づい ちやってさ」と黄島は、ホワイトボードに、新規事 業メンバーの名前を書き出した。  赤井  青木  緑川  黄島  灰田専務  「見て’・ ここに赤、青、緑、黄、灰の五色の戦 隊カラーがそろってるんだよ’・ これで僕はピンと 来たね。僕ら新規事業チームは、まさに会社を変え る五人のスーパー変態(戦隊)ヒーローだ’・ つて ね。僕らは絶対に会社を変えちやうよ」と黄島は意 気揚々と振り返るが、パラパラと会議室を出ていく メンバーたち。  「ねえ! ちょっと! すごいと思わないり ね え!」と黄島はさらに声をかけるが、  「あIあ。不安しかないんですけど……」と眷奈 はつぶやいて去っていった。   【解説】起業道とは、とにかく「やってみ       ること」       行動を起こすことで才能は開花す       る     「考える」より「はじめの一歩」  自分がなにをしたいのか、だんだんわかってきた。  しかし、考えているだけではなにも進まない。計 画を立てたのであればいかに実行するか、実際に行 動を起こせるかが重要になります。  起業の世界では「なにかやってみる」が大原則。 行動はいかなるものにも勝ります。これが当たり前 のようで、実は難しかったりします。賢い人ほど罠 に陥りやすい。物事(業界の知識)を知っていれば 知っているほど、うまくいかない理由が次々と浮か んでしまうからです。  しかし、起業の世界は往々にして実行したものが 称賛を浴びます。いかに画期的なアイデアでも思い 浮かべているだけでは世界を変えることはできませ ん。  なにごとも、始めるために偉大である必要はあり ませんが、偉大になるためにはなにかを始めなけれ ばならないのです。    スマートな行動とはスモールに始めること  でもせっかく行動を起こすのであれば、スマート に行きたい。今わかっていること、今あるものを活 用して、小さなことからゴツゴツと始めることが肝 要です。ひとつひとつのアクションについて、失う もの(リスク)を最小限に、得る学習(ラーニン グ)効果を最大限に。どんな結果になろうと現実を 直視する。うまくいったことも、失敗したことも、 次にまた活かせられるように取り入れるのです。次 の一手がいかに勝利や敗北につながるかではなく、 いかに学びを最大化できるかと考えるのです。  なにかをしかけたことで賛同してくれる者、助け てくれる人が現れるかもしれませんし、今後役に立 つ資源が見つかるかもしれません。これらを取り込 みうまく活用する。そしてまた次の行動を起こす。 その繰り返しです。塵も積もれば山となる。小さな こともゴツゴツと積み重ねることで大きな目標を果 たすことにつながります。    事業計画は「構想」より「行動」でよくなる  あれこれ時間かけて計画を作成し、何度も念入り に編集を重ねるという「構想」よりも、プロトタイ プをもって人に聞いて回る「行動」が成功への近道 です。そこからフィードバックを得て、改善する。 改善を加えたものでまた行動する。その繰り返しが 大切です。  完璧主義では物事が進まないことがよくあります。 起こりがちなこととしては、起業家が完全なプロト タイプをつくるために時間をかけすぎるパターンで す。たとえば、投資家から資金調達をするために、 ソフトウェアの試作品を持参してデモンストレー ションをしたい、しかしその完成度にこだわりすぎ ると、実際に見せる時期がどんどん遅くなってしま うのです。  考えることばかりで行動がともなわない。結果と して機会を失う。開発中にバグの出ないソフトウェ アなど聞いたことがありません。バグーフリーなど という完璧な状態など期待せず、とにかくクライア ントに会って話をする、行動を起こして、なにかし らを学ぶ、学んだことを取り入れてさらに改善する のが、最も健全な方法です。  試作品は四コマ漫画でもいいくらいです。現物で なくても、人は有意義なフィードバックをくれます。 購入意思があるならば対価としていくら支払うのか、 ダメならどこが悪いのか、興味があって一緒に働い てくれるのか、誰かにつなげてくれるのか。限りな く低予算で、かつスピードを重視するプロトタイピ ングはビジネスアイデアをかたちづくるのに大変役 立ちます。    ロンチプランで、機動的に動く  ちなみに、バブソン大学では「ビジネスプラン」 という用語はほぼ死語です。分厚い計画書を作成す ることも、端から端まで読むこともナンセンスであ るのは、起業家も投資家も知っています。そもそも ビジネスプランの是非については学問の世界の中で も議論が尽きません。意味があるのか? それは起 業家の頭の中を整理するためなのか? 資金調達の ためなのか? 実際に資金調達にどれほど役立って いるのか? 新事業に対して五年後、十年後正確な 予測ができるはずがない。数字だってシナリオだっ て瞬時に操作することができるのだから。  バブソンのみならず多くのビジネススクールでは、 ビジネスプランならずロンチプランと呼んでいます ()aunch =発射)。起業時に適切なのは、いかに飛 び立つか。必要最低限の情報をより現実的に描き上 げることが求められます。ロンチプランはワード文 書よりプレゼンテーションができるスライドーデッ ク(スライド資料集)であるケースが多く、それを 持っていつでもどこでもピッチ(短い形のプレゼン テーション)をする、行動に活かしていくことが大 切です。    過去から未来を予測する力、予測できない未    来に対応する力  「過去の経験や知見にそって、地道に堅実にやれ ば成果があがる」と考えてきた人ほど、今の世の中 で戸惑いを感じているのではないでしょうか。  不確実性の高まった今の世界では、これまで教 わってきた考え方や経験にしたがって、未来を予測 して備えても、対応できないことが多くなってきて いるからです。  ですが、それは、その人の能力や推計の精度が下 がったせいではありません。これまでは未来は過去 の延長、未来は過去とさほど変わらないという前提 だったのが、未来は予測不能、「不確実」で「先行 き不透明」だという前提に変わってきたからです。 そうした不確実な世の中では、プレディクション、 つまり予測に基づく推論だけでは対応できない、思 いがけない事業的リスクや飛躍が生じてしまいます。  そこで必要となるのが、起業家的思考に基づくク リアクションです。  クリアクションとは、未知の状況に対処する方法 で、「創造(クリエイション)」と「行動(アクショ ン)」を併せた造語です。未来が予測可能であって もそうでなくても、自分で一歩踏み出すことで、未 来を築けば(創造すれば)、その未来がどうなるか を、即、知ることができる。そこから今に近い未来 を学ぶことができる、といった方法です。  プレディクションは、思考と因果関係と分析を重 視した方法で、クリアクションは、行動と創造と学 習に基づいた方法です。    日本企業の意思決定システムはプレデイク    ションに依存しがち  プレディクションもクリアクションも、ともに重 要ですが、日本企業の意思決定システムはプレディ クションに依存しすぎているように感じます。  たとえば新規事業を始める際に、精緻な計画を立 てるのに時間がかかりすぎてしまい、準備している 間に、当初の目的が世の中の動向とずれてしまう可 能性もあります。そのズレに気づいても必死に当初 の目的に寄与する軌道修正をしようとします。ズレ から方向転換することに価値を見出したり、新たな 展開に結びつけることができないのです。  一方、クリアクションは、行動から学習した結果 に基づき方向転換しやすいので、こうしたズレや歪 みをうまく活かすことができます。変化に対して柔 軟な対応ができるのです。  日本企業においては、過去に成功を収めてきた中 堅・シニア層ほどプレディクションに依存しがちの ように思います。クリアクションに長けた若い世代 がいても、プレディクションに依存する中堅層がボ トルネックになって、企業内イノベーションにつな がらないという話もよく耳にします。  企業内のイノベーションに際しては、両者を対立 させることなく、優れたプレディクションを補完す るものとしてクリアクションを位置づけ、それぞれ を併用すれば、これほど強力なタッグはありません。 クリアクションをうまく取り込むことこそが、大き な成功に導く秘訣です。  そのためには、挑戦や失敗への寛容度を上げてい くことです。  その挑戦や失敗を評価する礎になるものがビジョ ン。理想の社会をどう描き、理想に対して企業の ミッションやパーパスをどう設定するか。そうした ことが、肝要になります。  頭で考えるより身体を動かせ! 思い悩む暇が あったら、とにかくやってみよう! 考えてばかり いないで、立ち止まらないで、目の前にあるできる ことをやるべきです。なにかすることで、なにかが 見えてくるのだから。行動こそが起業活動の基礎で す。 第七章 創造力の源は想像力と人      とつながる力から  Entrepreneurship is about creativity「 which  can be as simple as looking at things from a  different angle. Creativity often spawns froヨ  imagination and from connecting with  people.      起業道にともなう創造性とは、単純に      違った見方をするだけだったりする。創      造力とは想像力であったり、人とのコネ      クションから生まれる。  「うまい’・ これ、最高だね’・ ……にしても、 ファンさんはなぜ、日本で起業しようと思っだ の?」  一歩は、「カフェーカオス」で、ファンが差し入 れたバインミーの新作を食べながら尋ねた。  「なぜって? 囗本に来たはじめの頃は、起業す るつもりなんてなかったよ」とベトナム人のファン は答えた。  鋭いまなざしで一見おっかない印象のファンだが、 話してみると、親切でとても礼儀正しい青年だった。 そのファンは、現在、ベトナムスイーツ「チェー」 の専門店や、エッグコーヒー店、フォーやバイン ミーの専門店など母国ベトナムに関する飲食店を複 数経営する会社の経営者だ。  ファンは、数年前に囗本に留学してきた当初は、 ゆくゆくは、ベトナムにある日系企業に就職して、 生涯、会社員として働くつもりでいたという。その ために、日本語学校、専門学校を経て、ベトナムに も拠点をもつ日本企業に一度就職したのだそうだ。  「日本で仕事を学びつつ、ベトナムに派遣される ことを期待していたのだけど、任された仕事は、東 京とベトナムとの連絡係・通訳としての仕事ばかり だった。ほかの日本人社員が普通にやっているメ ジャーな仕事をなにもやらせてもらえないうえに、 残業も多くて信じられないくらい忙しかった」と ファンはいう。そして、同じ不満を抱える同郷の仲 間だちと交流するうちに、自分たちが集うためのベ トナムコーヒーの店をつくろう、という話になった そうだ。そこで自分たちの好物でもあるチェーを、 日本人にも合うようにアレンジして出すうちに、そ れが瞬く間に人気になったのだそうだ。今ではその 店は若者が行列するほどの人気スイーツ店として有 名だ。一歩も、メディアで見たことがあるが、ファ ンたちのチェーは、美味しいと評判のうえに、見た 目もとても洒落ていてかわいらしくプロデュースさ れてある。それには、彼らが専門学校時代に、日本 の飲食店でアルバイトをしていた経験が存分に活か されているという。  「バイト経験が? それポンド?」  「本当だ。文化の違いを学んだり、『こうしたら もっとウヶるんじやないか』とヒントを得たりね。 多くの日本人は、ただぼうっとバイトしてるだけだ ろうけど」  「……はい、ぼうっとバイトしてたかも」  そして、在日外国人としての開業の(ンデをもの ともせず、スイーツ店を成功させたのちは、自国の 食文化をさらに広げようと、さまざまな料理店を展 開しているのだ。  「すごい行動力だね’・」と一歩が思わず称賛する と、  「僕らにしてみれば、起業のチャンスに恵まれな がら、行動を起こさない日本人のほうが不思議だ よ」とファンはいった。  「そ、そう?」  「日本人は文句はいうけど、自分でなんとかしよ うとはしないよね? 僕らは不満があって、起業し て、やりたい仕事に就けた。スタッフも、残業のな い働きやすい環境で働いている。みんな「ツピーに なって、次、なにしようって、さらにワクワクして るよ」というファンに、  「いいなあ……すごいなあ」と一歩は感嘆した。  「一歩もやればいい」  「そうだけど、まだ「Iドルが高いなあ……」  かくいう一歩は、今、起業のプランに行き詰まっ ていた。  というのも、「おばあちゃんの食堂」プランにつ いて、何人かに意見を求めてみたものの、いい反応 を得られず、自信を失っていたのだ。  隼人からいわれた「『孤食』つてそんなにたいそ うな問題か」「誰がそんなシロウト料理にカネ払う んだよ」という言葉が、今さらながらI歩にはこた えていた。  「『おばあちゃんの料理が食べたい’・』なんていっ てるのは、俺くらいなのかな……」  考えれば考えるほど弱気になってきた。ニーズに 不安がある一方で、もしやるとすれば、やらなけれ ばならないことは山ほどあるのだ。  食堂を開くには、飲食店の営業許可がいる。また、 食品衛生責任者などの資格もいる。店舗も借りなけ ればならないし、開業資金や運転資金もいる。日々 の経費や売り上げの計算もできないといけない……。 (Iドルが高すぎる。  「『やりたい』よりも『しんどい』が勝つ’・」と一 歩。  「なんだよ、情けない。まずはできることから、 小さく始めればいいじゃないか」とファン。  「そうはいっても……。ファンさんは、店を始め るとき迷いはなかったの? 絶対に『チェー』の店 がやりたいと思ってたの?」  「絶対『チェー』じゃないとダメということはな かったよ。まず僕らは、僕らの居場所が欲しかった んだ。同郷の仲間が気軽に集える場所がね。それで、 僕ら自身でカフェをつくった。そこで、仲間たちの リクェストで、故郷の『チェー』を出すうちに、た またま訪れた囗本人たちが『これ美味しい、面白 い』つていい出して。そこで日本人に、より楽しん でもらえるように『チェー』の見栄えや味を工夫し たんだ。それが、すごくウケだ。その後は、そこか らまた、『故郷の美味しいものをもっと広めたい』 『成功したい』と思うようにはなっだけどね」  「うIん。なるほど。そうやって変化していった んだね。僕はまだ最初の『解決したい問題』がはっ きりしなくてつまずいてる感じだ。これでポンドに いいのかなって迷ってる。ああ’・ なにかが足りな い」と一歩は、頭を掻きむしった。  その日、矢弦は「起業のアイデア」について勉強 会を開いていた。  一歩もそれに参加した。  「世界を変えるような革新的なアイデアつちゅう んは、天才の発明によるものだと思われてきた。し かし、起業のアイデアが、すべて奇抜で斬新な発明 であるとは隕らへん。少し頭をひねるだけで、ビジ ネスのアイデアが浮かんだりもするもんや。事実、 多くのイノベーションは、革新的な技術よりも、既 存技術の新規の組み合わせでできてたりする」  「へえ、面白い」と一歩は、最前列に進み出て聞 き入っだ。  「たとえば、単に色を変えただけで需要を伸ばし た綿棒。従来の白い綿棒では、汚れがついても見え にくく、きれいに掃除できたかどうかの判断が難し かった。それが、黒色に変えたことで、汚れが可視 化されて、どれだけ掃除できたかが明確にわかるよ うになった。これがヒットに結びついた」  「へえ」  「ほかにも、単に形を変えただけで売れるように なったペットボトル。たとえば、東京タワー型、ス カイツリー型、新幹線型などがあって、人っている のはみんな同じ水、百円で売られている水や。それ やのに、形を変形するだけで十倍の値段で売れるよ うになった。これらに革新技術がともなっていたか というとそれは違う。ものは考えようや。少し見方 を変えるだけでもイノベーションは生まれる。イノ ベーションの多くは革新的技術よりも想像力から生 まれるんや」  「へええ。なるほど」と一歩は聞き入っていた。  「肝心なのは、ニーズに合わせたソリューション をつくること。すべての起業の成功例というんは、 既存商品・サービスでは満たされていなかったニー ズに対する解決策になってるもんや。商品・サービ スには、それ特有のバリュー・プロポジション、つ まり提供価値っちゅうもんがある。ビジネスが成立 するというんは、お客がその提供価値に対価を支払 うっちゅうことや。それは、この提供価値とお客の ニーズが合致するからや。つまり、客にとって、問 題解決の最善策になっているかどうか、そして既存 の解決策と比べていかに優れているか、が大事なん や」  「なるほど」  「せやから起業家にとって、欲求に合わせた解決 策をつくる想像力が、知識よりも大事になってく る」  「想像力か……」  あまり自信がないな、と一歩が思っていると、  「想像力は誰にでもある」  矢弦はトリックアートの絵をいくつか取り出した。  一枚目は、一見するときれいな女性像に見えるが、 別の視点で見ると、おばあさんにも見えるものだ。 また、もう一枚は、一見するとアヒルの絵だが、見 ようによっては、ウサギに見えるものだ。  「同じ絵でも、見る人によって見えるものが違う やろ? そしてもうひとつ」  大蛇と風呂桶の中で水遊びをする子どもの写真を、 矢弦は見せた。  「子どもが蛇に襲われる’・」と一歩は思ったが、 ファンは「風呂、ちっちゃ’・」とつぶやいた。  「この写真を見て『蛇に食われる’・』と恐怖を感 じる者もいれば、単に微笑ましいと感じる者もお る」と矢弦はいった。  「微笑ましい?」  「そう思う者は、大蛇は子どものペット、大蛇と、 この子どもが一緒にお風呂に入るのが日常茶飯事と 感じているからや。そうした人にとって、この写真 からつかむ問題点っちゅうんは『大蛇といると危 険’・』というのではなくて、『風呂桶の建てつけや 水質は大丈夫かな?』といったもんになる。つまり、 ここでいいたいんは、見る者の経歴や、価値観に よって、物事のとらえ方はさまざまに変わるっちゅ うことや。創造力とは想像力がものをいう。その想 像力は、すべての人が、多種多様にもっているもん なんや」  「へえ」  「だから、想像力を高めるには、多種多様な価値 観・趣味をもっだチームメイトを集めて知恵を絞る のもええ。またそうして皆が集まる場所で、情報・ 知識を交換し、教え合ったり学んだり、異業種・異 文化の知見をコネクトすることで、新たな価値を創 造していくのでもええねん」  「なるほどね、チームメイトを集めて……か。俺 も仲間が欲しい’・」  一歩はつぶやいた。  翌日、一歩は家で、健康食の提供に向けてのアイ デアを考えていた。  「不健康な外食続きの人に、健康的な食事を提供 する!・」  と一歩は紙に書いてみた。  「硬いな。それに、なんか漠然としてるんだよな。 それに、実際、なにを提供するってんだよ」  一歩が、自分に突っ込みながら考えていると、そ こに姉が現れた。  「ねえ。一歩。今日、子どもたちの面倒見てくれ ない?」  「え?」  「夕方から近所で道路建設の説明会があってさI。 母さんに行ってもらうつもりが、母さん、残業に なったって。だから私か行くことになっちゃった。 近所の子どもも遊びに来るけど、まとめて面倒見て てよ。どうせ、暇でしよ? 夕食も適当につくって 食べさせといて」  「暇でしよ? つて、俺だって、忙しいんだけど」  「忙しそうに見えないんだけど。じゃ、よろし く’・」と姉は出ていった。  「ちぇっ」と一歩がぼやいていると、夕方を待つ までもなく、甥っ子の浩太と昇太が、近所の子ども たちを連れて現れた。  「あれ? ママいないの? 一歩、コーラ飲みた い!・ コーラある?」  「わかったわかった、うるさいから、あっちの広 い部屋で遊べ」  小学四年生の浩太に、残りの子どもたちを仕切ら せ、移動させた。  幼稚園児の昇太を除けばほとんどが小学生のよう だ。  「うん?」  一歩が、飲み物を運んでやり、ついでに子どもだ ちの様子を見ると、騒いでいる子どもたちの中に、 ひとリマンガ雑誌を広げて読んでいる小さな力士の ような少年がいた。その太鼓腹といい風格といい、 まるでおじさんだ。  一歩はこっそり浩太に尋ねた。  「……あの貫録ある子、誰?」  「ああ、親方?」  「オヤカタ?」  「うん。オレと同じクラス。みんなそう呼んでる」  本名は星矢というらしいが、みんなその名を忘れ てしまうくらい「オヤカタ」というあだ名が浸透し ているそうだ。  「なるほど、オヤカタ、ね。……ところで、みん な、今日、なんか食いたいもんある?」と一歩は、 夕食のリクエストを聞いてみた。  「カレーー・」「からあげ!・」「ラーメンー・」「オムラ イス’・」という子どもたちの声があがるなか、  「コロッケニ十個」という柢いかすれた声がした。  オヤカタだった。  「二十個?」と一歩がキョトンと見ると、  「うん、『さとう』のでいいよ」とオヤカタはマン ガ雑誌に視線を戻して答えた。  オヤカタは商店街の精肉屋「さとう」のコロッケ が大好きで、よく買いに行くのだという。「さとう」 のコロッケは、一個三十円だ。  「二十個買っても六百円だし」とオヤカタはそれ をひとりで食べるのだという。  え? 食いすぎじやない? という言葉を飲み込 んで、  「ひとりで二十個って、そんなに食える? だい たい飽きない?」と一歩は尋ねた。  「大丈夫。お母さんが帰ってから別にご飯を食べ るから」  「また別に食べるの?」  大丈夫、の意味がわからない。  栄養といい、嗜好といい、明らかにいろんなもの が偏っている。  「うん。お母さん、トンカツ屋で働いてるから、 トンカツとかポテトサラダとか、毎日持って帰って くるから」  「毎晩、トンカツとポテトサラダを食べるのか」  それはアカン気がする。  オヤカタは、そうして、夕方、一度、ひとりきり で買ってきた夕食をとっだ後、深夜に母親が帰宅し てからもう一度、母子で食事をとるらしい。オヤカ タの母親は忙しいシングルマザーだ。  「リクエストは、コロッケに、カレーに、からあ げ、ラーメン、オムライスか。うIIん。じやあ間 をとって、「ンバーグにしよう」と一歩が答えると、  「なんでだよ!・」  「どう間をとったら、「ンバーグになるんだよ’・」  「バカじゃないのり」  浩太らが口々にいう。  「全部は無理だし、どれかひとつにすると不公平 だろ? 「ンバーグはみんな好きなはず」と一歩。  「なんだよそれ’・ じゃあ聞くなよ」と浩太が 突っ込むと、  「「ンバーグ、好きだよ。おっきいやつがいい」 とオヤカタはいった。  「僕も「ンバーグがいい’・」と年少の昇太もいっ た。  「ほら」と一歩。  「いいけどさあ」と浩太。  「じゃ、そゆことで」  一歩はキッチンに戻った。  「「ンバーグが一番、簡単ヘルシーにつくれる自 信があるからな」  一歩には、余計なお世話とは思いつつも、オヤカ タにヘルシーなものを食べさせたいという気がにわ かにわいたのだ。それで(ンバーグをつくることに した。  (ンバーグにはオヤカタが大量に食べることを想 定して、かさ増しにたくさんの野菜のみじん切りを 投人した。  祖母直伝の野菜たっぷリ(ンバーグだ。  「げ、今、ニンジンとピーマン、入れたな?」「入 れたな?」とキッチンをのぞいた浩太と昇太が目ざ とくいった。浩太と昇太には何度かつくってやった ことがある。  「そうだよ。浩太の嫌いなニンジン、いっぱい 人ってる」と一歩。  「ちえ。いいけど。「ンバーグならわかんないし」 と浩太。  「そうそう。安心しろ、味は保証付き」と一歩は、 みそ汁や副菜も手早く整えた。  子どもたちにも配膳を手伝ってもらい、みんなに (ンバーグを振る舞った。  「いただきます’・」と、子どもたちは勢いよく食 べた。  オヤカタも、めいっぱいほおばって食べていた。  「よしよし」と一歩は子どもたちの食べっぷりを、 満足そうに眺めた。  そうして、みんなで食事をとっていると、浩太が。  「オヤカタ、YouTuberになるんだってさ」といい 出した。他の子どもたちも「すげえ’・ 金持ちにな れんじやん’・」「え? いつからやってんの?」と 口々に騒ぎ出した。オヤカタは「まあ、これから やってみるってだけ」と得意げに鼻を膨らました。 「どんなことをやるのさ? ゲーム? おもちや?」 と浩太が聞くと、「大食い」とオヤカタは答えた。 「大食い’・」と子どもたちは笑い出した。  「大食い? ■■■■■■やめとけって」と思わず一歩は 口を出した。  それ以上、食って太ってどうする。  だが、大食いYouTuberは子どもたちにも人気の ようで、一歩は彼らから「なんでだよ’・」「大食い、 面白いじやん’・」と口々に反論された。浩太や昇太 からも「一歩ってわかってないなI、つまんね え’・」「つまんない’・」とさんざんないわれようだ。  「悪かったな」とI歩はふてくされた。  ふと見ると、昇太がつけ合わせのブロッコリーを 食べ残している。  「昇太、ブロッコリー、ちゃんと食べな」と一歩。  「ブロッコリー、いや」と首を振る昇太。  「美味しいよ。ほれ」と一歩が昇太のフォークで 食べさせようとするが、昇太は口を真一文字に結ん で断固拒否。  「だいたい、ブロッコリーを美味しいと思う子ど もなんていないよ。どうせなら、なんで「ンバーグ に入れなかったんだよ」と浩太も文句をいっている。  「料理には見栄えも大事なんだよ。この緑がきれ いだろ」と一歩。  「ブロッコリーを食べるいい方法があるぜ」とオ ヤカタがいう。  「な。オヤカタを見習え」と一歩。  一歩が見ると、オヤカタはブロッコリーにマヨ ネーズを山盛りにかけた。  「え?」と一歩。  「マヨネーズまみれじやん’・」と浩太。  「これでブロッコリーの味は消える’・」とほおば るオヤカタ。  「なんじゃそりゃ」と一歩が見ると、オヤカタの (ンバーグの上にも山盛りのマヨネーズが波打って いた。  「ええ?」と一歩。  「うわ、すっげ、マヨネーズの海じゃん」と浩太。  せっかく健康的につくっても、そんなにマヨネー ズまみれにしたら、台なしじゃねえか’・ と一歩は 唖然とした。  「それじゃマヨネーズ食ってるだけじゃん’・」と いう一歩を尻目に、  「マヨ最強’・」とオヤカタはヒースサインで、マ ヨネーズ(ンバーグを美味しそうに平らげた。  「むむむ。……一筋縄ではいかない奴だな」  子どもたちが帰った後、一歩は、インターネット で子どもの肥満の問題を調べていた。  余計なお世話だと思いつつ、オヤカタの食いっぷ り、大人顔負けのメタボぶりに、「子どもの肥満」 がにわかに気になってしまったのだ。  「たしか、『食の問題』のひとつとして、あったは ず」  インターネットで見てみると、食生活やライフス タイルの変化で子どもの肥満は増えていて、現在で は、子どもの一割以上が肥満とのことだ。そして、 その子どもの肥満の七割は、そのまま大人の肥満に 移行するといわれ、高度な肥満を放置しておくと、 大人になって、高血圧・糖尿病・脂質異常疱などの 生活習慣病を発疱してしまうそうだ。  「……危険しやないか」と、一歩は、それらの情 報をさらに読み込んだ。  子どもの肥満の原因は、家庭にあることがほとん どだそうだ。  かつては豊かさの象徴でもあった肥満だが、今で は貧困家庭に多いといわれる。世帯年収が低いと、 低価格でお腹を満たす高カロリーな米や小麦といっ た炭水化物、ジャンクフードなどに依存しがちにな るためだ。  また、朝食を食べなかったり、夕食をひとりで食 べたりする「欠食」「孤食」も肥満を加速させると いわれている。  「そうだよな。子どもの孤食もよくないんだよな」 と一歩はつぶやいた。  だが、両親が共働きである家庭が増え、子どもの 習い事・塾通いが増え続けている現代で、「子ども の孤食」は避けられない。  また、孤食ゆえ、加工食品に頼りがちになり、濃 い味に慣れた子どもたちが味を正常に認識できなく なるという問題もある。  一歩は、嬉しそうにマヨネーズをほおばるオヤカ 夕のことを思い出していた。  「味が正常に認識できない。……たしかに」  あの少年は、今後も、コロッケニ十個を食べ続け るのだろうか。  「たしかに『さとう』のコロッケは、安くてうま いけどさI」  ちゃんと身体のことを考えて、バランスよく食え よと、お節介にも気になってしまう。そのとき、 キッチンのほうからにぎやかな声がした。  「母さん、帰ってきたのかな」  一歩が、キッチンに行ってみると、母と姉が、 クッパーから惣菜を皿に移し替えているところだっ た。  「あら、一歩、今日はありかと。あんたも食べ る? 幸代さんがつくって差し入れてくれたのよ」 と姉はいった。  「へえ。幸代さんがなんでまた」  幸代さん、というのは、母と同じくらいの年代の 近所に住むおばさんだ。  「つくりすぎたんだって。旦那さんも亡くなって、 息子さんたちも独立してるでしよ? もう、ほとん ど料理をつくる必要がないんだけど、料理が好きだ からつくるときはつくりすぎちやうんだって」  「へえ。俺、腹減ってないんだけど。……といい つつ、これなに?」  一歩は、見慣れない惣菜に手を出した。  「ささみの香り揚げだって」と姉。  「へえ……なにこれ、うまIい’・」と一歩は食べ て感嘆した。  「幸代さん、上手だからねえ。普段食べる人がい ないのがもったいないわよね」と母もいう。  「こっちは?」と一歩は、味見を続ける。  「「ツシュドポテトのミートロープだって」  「ミートロープなのに「ツシュドポテト? どゆ こと」  「だってそういってたもん」  一歩は食べてみる。  「うまIい。なるほど。ポテトで肉を挟んだのか、 子どもが好きそう」  「そうそう、お孫さんが好きな料理だって」と母。  「こっちの和え物も美味しい。お酒に合う」と姉。  一歩は、並べられた幸代の惣菜をあらためて見た。 幸代の料理は、和洋折衷で、家族のために工夫され た温かみある手料理だ。  「いいね。そうだよ、こういうのを食べたいんだ よな、俺。外食やスーパー・コンビニの飯とかじや なくって。こういう美味しいのを、気軽に買えるよ うにしてほしいのに。幸代さんも、これ、商売にす ればいいのに」  一歩は自分の健康食のプランのことを思い出しつ ついった。  「ないない。趣味でつくるから楽しいんじやない」  「そうよ。商売なんて大げさなこと考えたらしん どいじやない」  との姉と母の意見に、  「でも時々、つくりたくてつくりすぎちやうんだ ろ? それなら売ればいいのに」  「なにいってんの。めんどくさいじやない」  「まあ、そっか。……もし売ってほしいなら」  そういう場所を、俺がつくればいいんだよな、と 一歩はあらためて思った。  数日後、一歩が母に頼まれた買い物から戻ってく ると、家の中からにぎやかな子どもたちの笑い声が した。  「ん?」  一歩が居間をのぞくと、浩太が友だちを連れてき ていた。  オヤカタもいる。  浩太が嬉しそうにはしやいでいった。  「オヤカタが大食いにチャレンジするってよ’・ オヤカタ、スマートフォン、買ってもらったんだ。 これからべ呂ぎ冨乙アビューするんだ’・」  オヤカタの前には「さとう」のコロッケが三十個 並べられていた。  「つたく、なにやってんだ?」と一歩が呆れたよ うにいうと、  「いいからいいから」と浩太がオヤカタのスマー トフォンを構えた。  オヤカタはコロッケをのせた皿に手を添え、「こ れからコロッケ三十個、早食いしまIす」と浩太の 構えるスマートフォンに丸い笑顔を向けた。  「はい、スタート’・」という浩太の合図とともに、 オヤカタは元気よく食べ始めた。  それを浩太が撮る。  ワクワクして子どもたちが見守っている。  一歩も気になり、いつの間にか子どもたちに交 じって見ている。  だが……。  数分後、「ギブ」と、オヤカタは音をあげた。  オヤカタは十個を超えたあたりから急激に食べる スピードが衰え、十三個目を食べたあたりで、コ ロッケを手放し、コロリと横になった。  「ん?」と一歩も思わず、前のめりでいった。  「なんだよ’・ まだ大して食ってねえじゃん’・」 という浩太の突っ込みに、  「……ムリ」と死んだふりをするオヤカタ。  「『ムリ』じゃねえし’・ これじゃ、ぜんつぜん面 白くない’・」「早食いでもねえし’・ ただのデブの 食事じゃん’・」「小食か’・」と子どもらが騒然とし た。  「だって、ムリだもん」と膨れ上がった腹を抱え ながら、オヤカタは口をとがらせた。  「……いつも二十個食ぺてんじゃなかったの?」 と一歩も拍子抜けして聞いてしまった。  「いつも半分は、お母さんが食べる」とオヤカタ。  「……そうなんだ」と一歩。  「オヤカタ’・ 食えよ’・ 食わなきや’・」と、な おもはやし立てる子どもたちに、  「ムリー・」とキレるオヤカタ。  結局、その囗のオヤカタのべ呂ざ冨乙アビューは 失敗に終わってしまったようだ。  「だからやめとけっていったじやん」と一歩など はあらためていうのだが、その後も何度か、オヤカ タや浩太たちは、ドーナツでやってみたり、ハン バーガーでやってみたり、いろいろ挑戦していたよ うだ。  だが、結果は同じようなものだった。  ある囗の一歩は見かねていった。  「懲りないなI。まだやるの? つてか、オヤカ 夕は、別に大食いなんかじやないんじやないの?」  「ええり なにいってんの?」と浩太。  「……」とオヤカタは黙って聞いている。  「ただ、高カロリーなものが好きで、ちょっと多 めに食べるっていうだけでさ。オヤカタに大食い YouTuberなんて無理なんだよ」と一歩。  「そんなわけない’・ オヤカタは大食いだから 太ってんだぞ’・」と浩太。  「いや、実際、そんなに食べれてないじやん。そ れに食べるの遅いし、苦しそうだし。たぶん、いわ ゆる大食いってのとは違うんだよ」  「そんなわけないだろ’・」と浩太。  そのとき、ぼちぼち自覚はしていたのか、オヤカ タが泣き出した。  「え? 泣く?」と一歩はうろたえた。  「え?」と浩太ら子どもたちもオヤカタを見た。  太い腕で、悔し涙をぬぐうオヤカタ。  「泣くな’・ 泣くくらいなら、なぜ食わない’・」 「そうだ’・ 食うんだ’・ 食うんだオヤカタ’・」と 熱く励ます浩太たち。  「やめろって」と一歩。  「帰る」というオヤカタ。  「ええ〜」と浩太たちはがっかりしたようにいっ た。  場は白けて、一歩や浩太たちは、オヤカタを見送 ることにした。  玄関で窮屈そうに靴をはくオヤカタに、  「いいじやん、大食いじやなくたってYouTuber はできるだろ?」と一歩は励ますつもりで声をかけ るが、  「そんなに簡単なことじゃない」とオヤカタはす ねていた。  「はあ。でも、なんでそんなにYouTuberになり たいの?」と一歩は尋ねた。  横から浩太らが、「有名になりたいからに決まっ てんじゃん’・」「違うよ’・ 金持ちになれるから だ’・」と口々にいう、オヤカタはふてくされて黙っ たままだ。  「有名になるとか、金持ちになるってのは、手段 だろ? 本当にしたいことはなんだよ。YouTuber になるとなにが嬉しいの? 有名になったリカネに なったりするとなにが嬉しいの? 大切なのはこう したいっていうビジョンだろ」  一歩は、どこかの受け売りのようなことを聞いて みた。すると、  「お金があったら、お母さんが喜ぶ」とオヤカタ はボソリと答えた。  「まあ……そうだね。それが目的?」と一歩。  「それに、大食いYouTuberつてほかのYouTuber と違って見ててすごく楽しいし」  「なんで?」  「ご飯をいっぱい、美味しそうに食べてるから。 あれを見てると、みんな幸せになれる。みんな笑顔 で見てるだろ?」  「え? あ、そう? そうかもね」  「大食いYouTuberになると、みんなを幸せにで きるんだ」  「……へゝ凡」  そういって、オヤカタは帰っていった。  密かに一歩は、オヤカタの言葉に打たれていた。  「みんなを幸せに……か。そうか。それが食の力 だよ!・」  一歩はにわかに、やる気を取り戻した。  一歩は再び「カフェーカオス」を訪れた。  矢弦と隼人がいたので、  「新たなプランを立てました’・ 子ども向けのお 弁当屋です’・」  と声をかけてみた。  「は? 子ども向け弁当? しょぼい食堂じやな かったのかよ」と隼人はいった。  「見直しました’・ 僕が解決したい問題は、子ど もの食の乱れです’・」  一歩は新たなロンチプランを取り出してふたりに 見せた。  「僕は、食で人を笑顔にします’・」  「ムダにデカい声出すなよ。十分聞こえてっから」  「ふうん。ええやないか。聞こう」  一歩は続けた。  「実は最近、近所の子どもたちの食生活に疑問を もって、子どもたちを観察してみたんです。そした ら塾通いをする子どもたちはみんな、夕食代わりに コンビニの菓子パンとかファーストフードを食べて いて」  「そんなの、前もいってなかったか? まあ、子 どもというより、老人や若者が主体だったと思うけ ど」と隼人。  「いいました。でも、実際にそうした子どもたち を目の当たりにして、それがより切迫した問題に感 じられてきたんです。栄養バランスも悪いし、味覚 を育てる時期の子どもの食事がこのままじゃ、まず いんじゃないかって」  「そりゃまずいかもしれないけど。そんなの親の 責任だろ?」  「近頃は働く母親が増えとるからな。働いとった ら、そら子どもの夜食の用意も難しくなるんやろ」  「そうなんです’・ 母親たちだって、子どもたち の健康を考えると、ポンドはあまりコンビニご飯や ジャンクフードに頼りたくないはずでしよ? でも、 ほかに選択肢がない」  「ふん。それで?」と矢弦。  「そう、そこで、無添加、無着色、柢農薬、栄養 バランスの整えられたお手頃な食事という選択肢が あったら、きっと利用すると思うんです’・」  そう思って、一歩は、子どもたちの保護者にもヒ アリングをしてみたのだ。  すると、子どもの食事について「なんとかした い」と考えている人が多く、「無添加、栄養バラン スのいい食事」が簡単に買えるのであれば「ぜひ利 用したい」と答える人が多くいた。ヒアリングをし ている最中に「いつからやるの?」と熱心に聞いて くる保護者もいたくらいだ。  「特に、夏休みとか、学校給食のない時期のニー ズが高いこともわかって。働く母親たちは、毎年 『夏休みの子どものお昼ごはんをどうしよう』つて 悩むそうなんです。だから、僕がその課題を解決す る’・ うちの近所には塾と学童保育が多いんで、こ れはやるしかないって’・」  「ええやないか」  「まあ、これまでいってた、しょぼい食堂よりは マシかもな」  「やります。これならぜひやってみたいと思いま す!・」  「でもさI。そうした保護者こそ、食の安全性と かブランドにこだわるんじゃないの? 結局あんた の提供するしょぼい料理がどんだけ信頼してもらえ るか疑問だな?」と隼人。  「しょぼいしょぼいってイチイチうるさいよ。 ちゃんとやるし」と今日の一歩は、隼人の否定的な 意見にもひるまない。  「一応、メニューも子どもたちや保護者の意見を 踏まえながら設定する予定」と一歩がロンチプラン に記載したメニュー例を見せると、  「はあ……、この『肉野菜弁当』つてのはいいけ ど、なんだよ、この『たくさん食べても絶対太らな いコロッケ』つて。そんなもん、あるわけないだ ろ」と隼人は指さした。  「あ。これ? これは、そういうのが欲しいって いう子どもがいるんだよ」  オヤカタのことだ。  「それに、なんだよ、このマーク、不細工な…… クマ?」  一歩のロンチプランには、「食で人を笑顔にす る’・」とのキャッチコピーの横に、下手くそな動物 の笑顔が描かれていた。  「クマじゃないよ!・ クアッガワラビーー・」と一 歩。  「クアッカワラビ?」と隼人。  「世界一幸せだっていわれているオーストラリア の生き物だよ。いつも笑顔に満ちていて周りを幸せ にするつていう」  一歩はそれを店のマークにしようかと考えている のだ。  「小動物? 絵が下手すぎてよくわかんないけど、 ネズミの一種か?」と隼人が首を傾げた。  「違うよ’・ カンガルー科の……なんかちっちや いかわいい動物だよ’・ もう’・ そういうツツコミ はいいから’・」と一歩はロンチプランに描いた絵を 隼人のもとから引つ込めた。  「面白そうやないか、一歩。なにより、これまで 以上の熱意が見える。どんどん進めていこう’・ 楽 しくやろう」と矢弦はいった。  「はい’・」と一歩。  その頃、現代建築社では新規事業チームがミー ティングを開いていた。  「黄島さん、厳しい〜」と春奈が早速、愚痴をこ ぼしていた。  「厳しくないよ。ポンドにこれが君たちのやりた いことかなって、確認をしているだけだよ」と黄島 は答えた。  「にしても、厳しいツッコミばかり」と春奈。  その日のチームメンバーは、つくりたい雑誌の企 画をひとり三点ずつ提出し、それぞれプレゼンを済 ませたところだ。  建物好きの春奈は、日本をはじめとした世界中の 個性的な「工場」を紹介する雑誌、風情ある古民家 のリノベーションを提案する雑誌、マニアックな間 取りを紹介する雑誌を提案していた。  緑川は、子育て中の事情を活かして、子育てのし やすい住まいづくりをテーマにした雑誌や、DIY 専門誌、動植物と暮らす住まいづくりの雑誌を提案 していた。  青木は、文句をいいながらも、地方にサテライト オフィスを誘致するための宣伝誌、セカンドライフ の家づくりを紹介する雑誌、高級物件やレストラン のシェアリングについての情報誌の案をあげていた。  黄島がいう。  「みんなのアイデア、とても面白いと思うよ。み んながどういうことに興味があるのか少しわかって きた。でもここからだよ。ここから、やりたいこと と、解決したい問題を研ぎ澄ませてはしいんだ」  「やりたいことと、解決したい問題?」と春奈は 問い返した。  「そうだよ。僕らはこれから、新規事業を成功さ せるにあたって、あの矢弦さんもいっていた通り、 『起業家のように考え、起業家のように行動』して いくんだ。そのためには……、あ、ごめん、青木君 は矢弦さんをまだ知らないよね? 今度紹介する よ」  「おかまいなく。自分はまったく興味ないんで結 構です」と青木は即座に断った。  「え? いや、でもねえ……」  「黄島さん、続けましよう。続きが気になります」 と春奈。  「あ、うん。……結局、新規事業を進めるにも、 くじけることのない熱意や思いがないと続かない。 これから、企画案を通すだけでも大変だし、その後、 実行に至っても思わぬ障害が何重にもあるからね。 そのたびに知恵を働かせたり、人の協力を仰いだり、 本当に大変だから、当事者感をもって取り組める課 題でないと厳しいんだ」  「……それで、やりたいことが大事ってわけです か」と眷奈。  「なかなか、厳しいっすね」と緑川。  「だから、まず僕らの『やりたいこと』『解決した い問題』をよく考えてブラッシュアップする。『や れそう』『ウケそう』というものや、人から与えら れた課題を実行するのでなく、当事者感をもって 『やりたい’・』『絶対やらねば’・』と自分たちを突き 動かすものにしたいね」  「なるほど……」と眷奈。  「で、今日のチームメンバーの意見を受けて、み んなはどう思う? こうしたい、こんなのやりた いってのがあれば、どんどん意見を出しちやって」  「うIん……」と眷奈と緑川は考える。  「ここからは雑誌や紙媒体に限らなくていいよ。 僕なんかは、みんな共通して、生活の多様化に合わ せたリフォームやカスタマイズの必要性を感じてい るのかなと思ったりしたけど。住まいも多様化しよ うということだね?」  「ああ、なるほど。僕の子育ての家づくりや、赤 井さんの古民家の再利用、青木君のセカンドライフ の家づくりも、リフォームが大きく関わってきます もんね」と緑川。  「企画を考えるときにちょっと思っだのは、雑誌 でなくて、マッチングサイトがあるといいなって。 個人が、リフォーム業者を手軽に探せるようなのが あるといいなって」と眷奈。  「マッチングサイト?」と黄島。  「リフォームをしたいときに、WEBかアプリで リフォーム会社を簡単に探せるようにするんです。 ロコミを参照したり、相見積もりが簡単にとれたり して。で、申し込みから支払いまで、できるとか」 と春奈。  「ああ、なるほど」と緑川。  「うちの雑誌『リフォーム空間』のブランドカを 活かして、『リフォームの施工会社と、利用したい 人をつなぐマッチングサイト』をつくるとか」と春 奈。  そのとき、青木が口を挟んだ。  「リフォームのマッチングサイトなんて、既存の サイトがいくらでもあるだろ。今さらそれをやる必 要がある?」  眷奈はムツとした。  「既存のサイトがあることはもちろん知ってます。 それでも、『子育て』とか『セカンドライフ』とか テーマに合わせて使いやすいものはあまりないと思 います」  「なるほど、いいね。テーマや目的が大事だもん な」と、黄島は眷奈の意見にうなずいた。  「あI……、でもI」と緑川がいいにくそうに いった。  「なに?」と黄島と眷奈は緑川を見た。  「たしかにリフォーム市場は、まだ伸びそうでい い気がするんですけど、マッチングサイトつてのは 前に一度失敗してるから、どうかなあ? 反対され そう」  「え? 失敗? そうなの?」と眷奈。  緑川がいうには、以前も雑誌『商空間』で同じア イデアが出て、カフェーレストランなどの店舗経営 者と、デザイン・建築施工会社とをつなぐマッチン グサイトをつくるという計画があった。  「なんでダメになったかというと、そこに関して うちはコンサル業務もやってるでしよう? 青木君 とか黒田部長のいる広告営業部で。利用者が、直接 建築業者の人を探し出すような仕組みをつくると、 コンサル業務と食い合うって社内の強い反発があっ て」  現代建築社では、店舗経営者向けに、建築業者を 紹介するイベントやコンサルティングを行ったりし ている。それは今では会社の一大事業になっていた。  「……カニバリズムか」と黄島。  「なんですか? それ」と春奈。  「本業・既存事業と新たにやる事業とが競合して しまって、自社で市場を食い合ったりと、共食いの 現象が起こることだよ」  「共食い?」  「うん。既存事業を破壊させて非効率なことだと 警戒されるけど、警戒してばかりじゃね。コンサル よリマッチングサイトが便利だというなら、いずれ どこかがサイトをつくるだろうから、自社でやって しまうのもいいと思うけどね。他社にやられるより、 いっそ、自分たちで打って出て、市場の未来像をい ち早く押さえてしまうんだ」  「なるほど」と眷奈。  緑川が、以前の失敗事例について補足した。  「一応、前回はそれでも、プロジェクトチームに マッチングサイトを手早くつくり上げる行動力ある メンバーがいたので、とりあえず枠組みはつくって みたようですけどね。でも結局、デザイン・建築会 社の情報を載せようにも、営業の協力などが得られ なくて登録情報が集まらず、目も当てられない結果 に終わったとか。結果、『しょぼいサイトにムダな カネと時間を使った』とプロジェクトチームは、さ んざんな評価たったとも」  「ええ? なにそれ、ひどいいわれ方」と春奈が いうと、  「まったくだ」と黄島も応じた。  「また同じことになるのはごめんだな」と青木は 淡々とスマートフォンに目を落としながらいった。  「……ポンド、ネガティブなことしかいわないね」 と眷奈。  「大丈夫だよ。同じ失敗は繰り返さないように今、 話し合ってるんだから」と黄島。  「だいたい、会社が評価しないってのに、社員に 熱意ややる気を求めるってのは、ブラック企業の常 套手段じやないですか。……。フーフック企業にたしか にいますよね、そういうバカな社員。柢賃金・休み なしなのに、やたらやる気を出して働く奴」と青木。  「は?」と眷奈。  「……なるほど。そういう考え方もあるのか」と 緑川。  「自分はそうやって、安く使われるのはごめんで す」と青木。  「いや、そんなことないよ。与えられた仕事を頑 張るのでなく、『こうしたい』という意志をもって 会社を使うんだ。会社のためでなく、自分のために 会社を使って新しいことをやるんだよ」と黄島。  「詭弁だと思います」と青木。  「あのねえ」と憤る春奈の言葉を遮り、  「そんなにやりたきや、みなさんで勝手にどうぞ。 自分は、もう帰っていいすかね」と青木は立ち上 がった。  「ええ? まだ話、終わってないし’・」と春奈。  「もう時間だろ? タラタラやるのは勘弁してほ しい」と青木はスマートフォンの時間を見せて出て いった。  「なんなのり もう、感じ悪ツ’・」とイライラす る春奈に、  「……ぶれないねえ、彼も」と青木を見送る黄島 と緑川だった。  その夜、白石美月は、待ち合わせのレストランに 早くついてしまった。仕事が早く片づいたせいでも あったが、いち早く誰かと話をしたかったからだ。  美月はスマートフォンを取り出し一歩に電話をか けてみた。一歩が出るのを待つが、すぐに留守番電 話に切り替わってしまった。  「……」と諦めて電話を切ると、  「ごめん’・ 待った?」と春奈がハタハタとやっ てきた。  「ううん。今、来たとこ」と美月が答えると、ス マートフォンにメールの着信があった。見ると、 「ごめん’・ 今忙しいから、また連絡する’・ 一歩」 とあった。  「『また』つていつよ」と美月が思わずスマート フォンに怒ると、  「え? なに?」と春奈が向かいでメニューを開 きながらいった。  「ううん、なんでもない」と美月はスマートフォ ンを置いた。  「いや、遅れてごめん。今、会社にすっごいムカ つく人がいてさI。そいつの文句をタラタラ愚痴っ てたら、遅れちゃった’・」  「いいよ、こっちこそ、忙しいのにつき合わせて、 ごめんなさい」  「いやいや、つてか、ビックリした!・ なに? ニューヨーク転勤って」  「まだ決まったわけじゃないよ。来年ひとり欠員 になるからどうかって、打診されて」  「ええ? 行くの? 美月、海外勤務なんて希望 してたっけ?」  「入社のとき、面白そうだから行ってみたい、と はたしかにいってたんだけど。今はちょっと」と美 月。ちょうど今、やりたいことがあるので、正直、 あまり嬉しくないのだ。  美月は会社で、あるクライアントから「香害」に 関する調査を依頼されたことから、「香害」の問題 に興味をもち始めていた。  「香害」とは、香りがついた洗剤・柔軟剤などの 香料に含まれる成分から、頭痛やアレルギーなどの 健康被害が引き起こされることだ。化学物質からア レルギー反応などが起きる化学物質過敏症の一種と いえる。  調査をするうちに、美月は、香害のために学校に 通えない子どもたちや、就業できない若者たちに出 会った。そのとき、美月は、彼らの健康被害の切実 さを目の当たりにし、彼らのためになにかをしたい と強く心を動かされたのだ。  美月は、それまで漠然と「社会に役立つ研究がし たい」と思ってはいたが、なにをしていいのかわか らないまま過ごしていた。そんな美月がようやく 「これだ’・」と思えるものに出会えたのだ。  なので、今、美月は、「香害を含めた化学物質過 敏症の人たちの支援」をしたいと考えている。具体 的には、彼らの就労場所をつくるような仕事をした いと思っているのだ。  「そこまで『やりたい’・』と思えることがあって ポンド羨ましい」と眷奈はいうが、  「でもね。そう考えて調べてるだけで、まだ具体 的なことはなにもできてないんだよね。そんなとき に、海外転勤しちゃうとますます、このことから遠 のきそうで……」  「まあ、でも長く行くわけじゃないんでしよ? とりあえず行って帰って来てからチャレンジしても よくない?」  「行くのは三年とかだけど。今の三年って大きく ない?」  「うIん。でも海外転勤、面白そうだけどなあ。 なにか新たなやりたいことが見つかるかもしれない し」  「うん……」  「……もしかして、新田君のことが引っかかって る?」  「別に」  まったく引っかかってないといえば、嘘になるけ ど、と続く言葉は飲み込んだ。  「海外転勤したいと思ってるのに、新田君のこと が気になって行けないっていうなら、私は全力で海 外転勤をお勧めするけど」  「違うって。だから」  「……それもそうだよね。美月は、『行きたい』と 思ったら、迷わず行くもんね。ごめんごめん。やり たいって思って引っかかっているのは、香害の話の ほうたよね」  「うん」  「であれば、実はいいもの持ってきた」  春奈はYNLI(Yamato Nadeshiko's )eadership Initiative)と書かれたパンフレットを美月に差し出 した。  「YNLI?」  「こないだ起業家の集まる『カフェーカオス』つ てのがあるって話したじやん? そこのボスでもあ る変態おじさんに『世界を変える日本人女性リー ダーにお勧めのプログラムや』つていわれて」  「変態おじさん? 日本人女性リーダー?」  「これ、アメリカのすごい財団の女性慈善事業家 が主催している『日本人女性向け』のプログラムな んだって。変わってるでしよ? NPOとか、社会 起業家とか、『世界を変えたい』という日本人女性 を手厚くサポートしてくれるみたい。起業のフレー ムワークの指導あり、実地研修あり、と、すごく充 実した内容で、主催者も参加者もすごく干不ルギッ シユ。ヘタレの私には「Iドルが高いけど、志ある 変態の美月には合いそう」  「誰が変態よ」  「十分変態でしょうよ。まあ、起業家がいう変 態ってのは、『世の中に変革をもたらす人』のこと みたいだけど。YNLI、興味あったら受けてみな よ。毎年春と秋に四週間、ボストンで研修があるら しくって、今年の秋の参加者の選抜がそろそろ行わ れるはずだからさ。美月なら受かるかも」  「へえ」と美月は興味深げにパンフレットに目を 落とした。  春奈と楽しく食事を終えた後、美月は、ひとり暮 らしをするマンションヘと電車で向かった。一歩の ことで気持ちがふさかっていたが、春奈のおかげで 少し気分が明るくなっていた。  電車の中で、美月は、ふと、隣でつり革を持つ女 性のエングージリングに目がいった。  前に一歩に会ったとき、一歩がこっそりエングー ジリングのことを調べたりしていたので、結婚を意 識しているのだと気がついた。本人は隠しているつ もりなのかもしれないが、一歩は隙だらけで、だい たいのことはバレバレだ。  だがその後、突然会うのを避けられるようになっ てしまった。  あのタイミングで、避けるようになったというこ とは、なにか結婚に迷いや支障が生じたのかもしれ ない、と美月は思っていた。  もしくは、美月自身に結婚に迷いがあったことに 鋭く気づいて、結婚自体をやめようと思ったのかも しれない。  そんなことを考えているとまた美月の気持ちは沈 んできた。  気を取り直して、美月は顔を上げて外の景色に目 をやった。なにも考えないようにしても、まだ悶々 と同じことを思い出してしまう。  最後に一歩に会ったとき、美月は、香害への興味 が強まっていた頃だったので、正直、「このまま結 婚していいのかな。ちゃんとやりたいことと両立で きるかな」と(夕と不安を感じてしまったのだった。 ふと、この先自分は、どういう生き方をしていくの だろうという思いがよぎり、「このままプロポーズ されても困る」と思ってしまったのだ。  当時はちょうど、会社の女性の先輩たちを見て、 キャリアと結婚の両立は難しそうだと感じていた時 期でもあった。比較的キャリア志向の強い女性が多 い職場であるものの、夫の転勤に合わせて仕事を辞 めてしまう先輩も多く、育児・出産を機に、キャリ アが断絶されてしまった先輩も少なくない。やはり 女性はそうした点で(ンデがあるように感じてしま うのだ。もし自分がキャリアと育児などを両立させ たいなら、パートナーの理解と協力が不可欠だ。  そう思うとともに、「一歩はこれから先のことを どう考えているんだろう?」という疑問もわいた。 美月は、一歩が、人生でなにをやりたいと考えてい るのか、今ひとつ理解できないでいた。  大学時代に一歩と出会ったとき、一歩は「学校の 先生になろうかな」と話していた。それを聞いた当 時、美月は、一歩ならきっといい先生になるだろう なと、思っていた。  実際、一歩は、ボランティア先でも、子どもたち の面倒をよく見るし、子どもだちからよく慕われた。 美月と違って、人見知りもしないので、誰とでも気 さくに話すし、それでいて、多少の人間関係のいざ こざでは動じない強さがあったりもする。一見、頼 りないようでいて、自分がこうだと思ったことは、 頑固に貫くところがある。  そんなところを、美月は素直にいいなと思ってい たのだが、一歩は、結局、教師にはならずに会社員 になった。  「人に教える前に、自分がものを知らないから。 とりあえず普通に働いてみようかなって」というの がその理由たった。  で、その「とりあえず普通に」のまま、三年が 経っている。  最後に一歩に会った囗に、美月は「一歩はこの先、 どうしたいとか考えてる?」と聞いていた。  美月の言葉に、「この先?」と一歩がキョトンと 問い返すので、「五年後とか、十年後とか、一歩は なにしてる? やりたいこととか、ある?」と美月 は尋ねた。  一歩は、う〜ん、と考えたのち、「二児の父’・」 といった。  今度は美月がその言葉にキョトンとした。  「はい? 二児の父?」と美月。  「うん」と一歩。  一歩の中では、仕事や生き方うんぬんはさておき、 家庭をもつことだけが確定しているらしかった。  「そういうんじやなくって、仕事とかどうして る? つてつもりで聞いたんだけど。人生でやりた いこととかないの? 学校の先生になりたいって話 は?」  「学校の先生は、もういいかなあ。会社もそこそ こ楽しいし。普通に会社員やるよ」  「普通に会社員って」と美月は拍子抜けした。  「会社員でなにをしたいかって話を、聞きたかっ たんだけど?」と美月には急に一歩が頼りなく思え てきた。  だが、そのときの一歩にそれ以上聞いても仕方が ない気がしたし、自分だって普通の会社員だ。やり たいことが見えてきたとはいえ、まだなにもやって いない。それ以上ははっきりと聞けないものの、そ のときの美月は確信めいて思ったものだった。  「結婚には、ビジョンがいる」と。  ふたりがどう生きていきたいか、果たして一歩の ビジョンの中に自分はいるのか、自分はどう生きた いのか、結婚を考えるなら、そういうことを話した いのに……。  そのとき、美月はたしかに、一歩との将来に不安 と不満を覚えた。  もしかするとそれが一歩にしっかり伝わってし まっだのかもしれない。  「お互い、不満や不安があるなら話し合おうよ」  美月はそう思うが、なぜか今、一歩は美月と話を したくないようだ。  (ツキリと「相談したいことがある」とメールし ても軽くはぐらかされてしまう。  それが、別れたいためか、別れたくないためか、 よくわからない。ただ、美月は不安になると悪い可 能性のほうを信じて、鬱になりがちだ。  最寄り駅で電車を降り、美月は、改札を出た。  時々、一歩が予告なしにここで待っているときが ある。  つい目が、一歩を探してしまう。  だが、一歩はいない。  「……。「ツカみたい」  美月は、自分に対してか、一歩に対してか、どち らかわからない文句をつぶやいて、家へと向かった。   【解説】「これはなんだ?」より「これは      なにになる?」と考える       「知」のコネクトがイノベーショ       ンを生む    「決めつけ・正解」より「新しさ・可能性」    を探る  創造力とは想像力がものをいいます。その想像力 は、すべての人が、多種多様にもっているものです。 想像力は誰にでもあります。  では、想像力を高めるにはどうすればいいか。子 どもの頃を思い出す? それもいいかもしれません。 子どもだからこそ、できないことがたくさんあった はず。あれがないとダメ、これがないとダメ、と制 限があるからこれは無理だ、ではなくて、想像力を たくましく膨らませて、なにかしらの形で実現させ たはずです。  ここに、面白いエクササイズがあります。バブソ ン大学では、図面を題材に新しい商品開発をする授 業があります。パワーポイントのスライドを用いて、 既存の商品の図面だけを学生たちに見せるのです。 「これをもとに一時間でロンチプランを作成しなさ い」。チームごとに新商品開発をすることになりま す。  たとえば、特許事務所のWEBサイトから参照し た「ペイントーローラー」。本来登録されていた内 容は、手の届かないところも自分で日焼け止めが塗 れるようにというアイデア商品ですが、過去十年間、 この内容と合致するロンチプランをつくったチーム はいません。「マシュマロを焼く棒」「マッサージ 機」「ガーデン耕耘機」など答えはさまざま。当た り前といえば当たり前。図面だけでは、その材質も 大きさも不明だから、想像力が掻き立てられます。 ひとりでなく多種多様な価値観・趣味をもったチー ムメイト全員が知恵を絞り出すから、いろいろなア イデアが出ます。それでいい。それがいいのです。  (Ireatiく11ty is less about "what is this?” andヨOre  about "what can this be"?  創造力は「これはなんだ?」より「これはなに  になる?」で生まれる。  それが想像力をともなう創造力です。正解はあり ません。それぞれの人のアイデアがオリジナルなア イデア。新しいものの探求には「これはなんだ?」 ではなく、「これはなにになる?」なのです。答え は無限大。     「知見」のコネクトで想像力が高まる  固定観念を揺さぶる質問についてみんなで考えて 想像力を高めるという方法以外に、創造性を高める のにはどのような方法があるのか?  つながることです。コネクトすることです。英語 でいうところのネットワーキング。  従来のイノベーションは隔離された離島でマッド サイエンティストが天才的な発明をする、というイ メージでした。そこまでいわないまでも、「孤立」 している状態でした。二コラーテスラの研究所、 ウォルドーディズニー、ウィリアムーヒューレット とデビッドーパッカード、スティーブージョブズの 家のガレージや作業部屋は有名です。  しかし、今日のイノベーションは違います。「知」 がコネクトすることで生まれる。知は人が持ち込む。 よって「人」がコネクトすることでイノベーション が生まれるのです。  さまざまな人が集まり、情報・知識が折り重なる ようにたまっていく集積地、イノベーションー(ブ というコンセプトがあります。  イノベーションー(ブでは、さまざまな組織から イノベーション関係者(起業家、投資家、企業R& D担当者、政策関係者、教育者等)が集い、情報・ 知識を交換し、教え合い、学び合う。そこでは皆が アメーバのように形を変えながら混ざり合います。 創造、すなわち新しいものの発見は特に異業種間あ るいは異文化交流から起こります。異分野・異業種 での知見をコネクトすることでイノベーションが起 きるのです。  なぜか。学説的な説明をするのであれば、グラノ ベターが提唱するstrength of weak ties(弱い紐 帯の強さ)、普段よく話をする相手(結びつきの強 い同士)よりも普段あまり会話をしない相手(結び つきの弱い同士)のほうが新しい情報が伝達される という概念です。さらにいうと、パートが提唱する structural holes(構造的空隙)、ネットワークの構 造上、穴が空いたところこそ重要な情報が隠れてい るという概念です。  いずれにしても、人的ネットワークの中から今ま で考えられていない方法を見出すことができるとい うことです。多様性・複雑性にこそ新たな創造があ ります。だからこそ、コネクトすることで新たな価 値を創造できるのです。  事実、プロキシミディ(接近度・近接度)に関す る学術論文の中には、違うビルよりも同じビル内、 違うフロアよりも同じフロア、離れたオフィスより も廊下を挟んだ場所など、近ければ近いほどコネク トしやすく、コラボレーションそしてイノベーショ ンが生まれるという研究が多く存在します。 第八章 失敗は必然、柔軟な方向      転換が必要  Entrepreneurship is about taking calculated  risk and thriving under uncertainty.  起業道とは、計算されたリスクをとるこ  とであり、不確実性を味方につけること  である。  「子ども向けの弁当屋だけど、イートインスペー スは確保したいな。子どもたちがそこでも食べられ るように」  一歩が、「カフェーカオス」で、ロンチプランを 見直していると、  「結局、しょぼい食堂に戻ったりして」と隼人が 茶々を入れた。  「そんなことない」と一歩は反論した。  「どうだか。結局、いろいろ欲張って、結局、老 人にも若者にもって対象を広げて、普通の弁当屋や 食堂と変わんなくなるんじやないの?」  「……ヽつIん。そんなことない’………はず」  「ほら、自信ないんじやないか。結局、売れなく て、カレーとかラーメンとかジャンキーなメニュー に頼ってたりして」  「万が一そうなってもヘルシーなカレーやラーメ ンにするから大丈夫!・」  「けツ。ヘルシーなカレーとかラーメンとか、ま ずそう」  「てか、なんすか、さっきから。暇なんすか」  「プランを磨くの、手伝ってやってんじやん」  「『手伝う』の意味がわからないし」  「しょぼいメニューで売れない弁当屋になったら 困るだろ?」  そのとき、ふたりの会話を聞いていた矢弦が口を 挟んだ。  「ほな、ここで問題」  「?」  一歩と隼人は矢弦を振り返った。  「君らが、仮に、起業してレストランを経営する としよう」  「……はい」  「その場合、@「ンバーガーショップ、A創作料 理、どちらがええか」  「「ンバーガーショップと創作料理?」  一歩は復唱した。  「そりゃ、出す地域にもよるでしよ? どこで出 すっていうんです? どんな地域で? 住民がどん なふうだとか、その土地がどんな環境だとか、判断 するにはもっとデータが必要ですよね?」  隼人は問題に物言いをつけた。  「僕は、創作料理かなあ。面白そうだし」  「は? おまえ、ポンド、バカだな。立地も客層 も考えないで、なぜ決められる? それに創作料理 にしたって、内容次第で当たり外れあるだろ。早計 すぎる」  「で? 結局、隼人はどっちやねん」  矢弦は尋ねた。  「こんなので正解なんて選べるわけないですよ ね? 情報がなさすぎる。強いていうなら、まだ需 要があるとわかっている「ンバーガーショップです けど」  「ふうん。なるほどな」  矢弦は笑っている。  「え? 俺、間違えました?」  一歩は不安になる。  「いや。一歩、正解や」  「え? んなわけないり なんで「ンバーガー ショップが間違いなんですか’・」  隼人は異を唱える。  「隼人、「ンバーガーショップも正解や」  「えり」  矢弦の回答に思わず、キョトンとする一歩と隼人。  「なにが『えり』や。正解はなにもひとつとは隕 らへん。特に起業の世界で『正解かひとつ』なんて 思わんことや」  「正解はひとつじゃない?」  「せや。この問題の本質は、両方正解であるとい うことと、それぞれリスクの感覚が違うということ や」  「どういう意味ですか?」  隼人が腑に落ちない様子で尋ねる。  「つまり」  矢弦は説明する。  「(ンバーガーショップを選んだ人は、そこに需 要があることを理解していて、つくれば必ず客は来 るとわかっている。そこで勝負をすることを好む人 や」  「ああ、なるほど」一歩は思わずうなずく。  「その選択のリスクは、熾烈な競争環境。成功す るためには、競合他社が多い市場で、どうやって差 別化するか、どうやってしのぎを削るか。ビジネス のネタを既存の市場の中から探すことになる」  「たしかに(ンバーガーショップはすでに世の中 にあふれていますもんね。どうやって勝ち残るかは、 そこでの工夫次第というか」  「一方、創作料理を選んだ人は、クリエイティブ に自分の好きな食材で、変わった料理をつくって、 客に提供することを好む人。その選択のリスクは、 そこに需要があるかどうか、やってみないとわから んことや。自分がどれだけうまいと思っていても、 誰もが好きになるとは隕らへん。やってみても客が つくとは隕らんし、ビジネスのネタも、既存のもの から探すのでなく、新規に創造することになる」  「な、る、ほ、ど。まさに今、僕がしようとして いることは、それかも」  「たしかに需要があるかどうか、微妙だしな」  一歩が答えると隼人が畳みかけてきた。  「ちなみに、(ンバーガーショップを選んだのは、 Causationというロジックに基づくアプローチ。 Causationつちゅうのは、因果関係を重視して 『なにをすればなにが起こる』というように過去の データから順に予測を立てて進めるロジックや」  「……コーゼーション? 過去のデータから順 に??」  「せや。まず、ハンバーガーというニーズが存在 する。そして、そのニーズを客層によってセグメン ト化(どういう客層にどういう形態のハンバーガー がよいかなどを考案)したうえで、ある層をター デッドと設定する。たとえば子ども向けと決めた場 合は、サイズを小さくするなり、おもちゃをつける なり、そのターゲットのニーズに対してビジネスア イデア(商品、価格、プロモーション、販売手法な ど)を効果的にポジショニングするんや」  「はあ……」  「一方、創作料理のほうは、mffectuati〇コという ロジック。mffectuati〇コは、今あるものでとにか くなにか始めて、そこに新しい資源(ヒトーモノー カネ)を加えることで最適化・変化・進化させると いうロジックになる。ヒトーモノーカネを組み合わ せることでニーズ自体を剔出するというものや」  「エフェクチュエーション……」  「たとえば、一歩が今もっている資源を使って、 最適なものを提供してみる。たとえば、一歩の料理 の力を使って、一歩の考える料理を子どもたちに提 供してみて、その反応を見る、とかな。その客の反 応によってまた内容や提供方法を変えていく。意見 を聞いてメニューを変えたり、人手が足りなければ、 ビジョンに賛同してくれるおばちやんたちに手伝っ てもらう、とかな。既存のネタに頼るのでなく、そ うして新しいものをつくっていくんや」  「なるほど。どちらも『正解』というのは、僕と 隼人さんとで、考え方、リスクのとらえ方が違うか らってことですね? 僕には僕の、隼人さんには隼 人さんなりの正解があって……」  「その通りや、一歩。リスクは相対的な概念や。 人によって、経験によって、価値観によって、また、 得意不得意によって、リスクの度合いは変わるねん。 他人がどういおうと、大事なんは、自分自身にとっ て、リスクが低いと感じられるかどうかや」  「……自分にとってリスクが柢いかどうか?」  「せや。リスクは最終的には自分で判断するもの。 本人の情熱、リスクの認識、イケるという感覚と不 確実性をどこに感じているかによって、正解が変 わってくるんや」  「正解が変わるっていわれてもなあ……」  隼人はまだ不服そうな顔をしている。  「なるほど。正解はひとつじゃない。だから、僕 は僕の選択で進めるしかないってことですね」  「フン。おまえはいいよな。単純で。深く考えな いから簡単にやれるんだ」  「ダメならまたそのとき考えればいいってだけ じゃん」  「そんな無鉄砲な奴ばかりじゃないんだよ。リス クに対して慎重になるのが普通だろ?」  その隼人は、失敗を恐れてなかなか行動に出られ ずにいるようだ。  「隼人。それでも『最大のリスクは、行動して失 敗することより、行動をしないこと』や。どんなに ロジカルに準備しても、失敗は避けられへん。まず は行動。失敗しても、そこから学んで味方にすれば ええんや。不平不満、批評ばっかりせんと、身体を 動かせ。やってみんかい」  「俺は、世界を動かすようなビッグなことをした いんです。そのために準備に時間がかかるのは当然 でしょう?」  「『なにごとも、始めるために偉大である必要はな いが、偉大になるためにはなにかを始めなければな らない』や」  矢弦の言葉に、フンと鼻白む隼人。  「起業に最も重要なことは、特殊な知識やテク ニックやない。機会を見つけ、失敗を恐れずどんど ん行動して、ベストフィットの方法を模索していく という考え方と姿勢や。生きている情報とフィード バック。それを活かして、アイデアをブラッシュ アップする。だから行動しないとなにも始まらん」  「ちえ」  「はい!・」  矢弦の言葉を受け、不機嫌そうな隼人と、素直に 納得した一歩は、それぞれその場を後にした。  一歩はその後も「子ども向けの弁当屋」の構想を 練り続けていた。  一歩が家でメニューの試作品をつくろうとしてい ると、ふと冷蔵庫のカレンダーが目に入った。  「あ」  再来週は美月の誕生日だ。  「あれ? もう晩御飯の準備してるの?」  姉が現れたので、一歩は慌ててカレンダーから目 を逸らした。  「なに? カレンダーがなにか?」  「別に」  姉はカレンダーに目をやる。  「ああ。もうすぐ美月ちゃんの誕生日か」  「な、なぜそれを’・」  「だって、あんたたちそろって誕生日がソロ目な んでしよ? 半年おきの。知りたくもないけどあん たがいってたじゃん。あんたが十二月十二日で美月 ちゃんがたしか六月六日」  「……ふん」  「なに? 悩んでることあったら、お姉さまが相 談に乗ろうか?」  「謹んでお断りします」  「まあ、お金もないし仕事もないんじゃ、会いに くいよねえ」  「あっち行ってください」  「てか、あんたバイトしてるの? ベトナム料理 店で。あのさあ。当座のお金なら私と母さんが手当 てしてあげるから、ちゃんと就活に集中しなよ」  一歩は近頃、起業を想定して、ファンの店でバイ トしつつ飲食業の経営を学ばせてもらっているの だった。  「うっさいなあ。俺たってちゃんと考えてんだよ」  「だから。余計な心配しないで、就活に専念して いいって、いってるんじゃん」  「余計なお世話です。だいたい、俺……就職しな いから」  「は?」  「俺、起業する」  「はい?」  一歩は、「美月ともちやんと話さないとな」と考 えていた。そう思いながらも、会わないまま、気づ けばずいぷんと時間が経っている。  美月とは社会人になってからも、月に数回、会う のが常だった。会社帰りに食事に行ったり、週末は ひとり暮らしの美月の家に転がり込んだり、一緒に マラソン大会に参加したり、一歩の会社の社員向け イベントに参加してもらったこともある。  だが今は、メールやSNSで当たり障りのない メッセージのやり取りだけになっている。電話は、 美月に嘘をつくのが嫌なので、極力避けている。  「別に、失業中なのがバレちやいけないってわけ じやないけどさあ……」  カッコ悪いだろ。  たしか、最後に会ったとき、美月は、会社で書い た環境アレルギーについての論文がどこかの財団か ら表彰されたといっていた。よくわからないけど美 月はすごい奴なのだ。なんだか、今は、化学物質過 敏症を訴える人たちの就労問題に取り組みたいとい う、高い志をもっているらしい。どこでどう過ごせ ばそんな高い志が生まれるのか一歩にはよくわから ないが、一歩は素直に、そんな美月が誇らしい。美 月は志が高いだけでなくて、懸命に努力もする。そ の頑張っている姿を一歩も見知っていたので、美月 が表彰されたりするのは純粋に嬉しい。ただ難点は、 時に自分が小さく思えてしまうことだ。  それでも、とどろきスポーツで轟社長と新規事業 に取り組んでいたときは、仕事にやりがいもあった し、楽しかったし、日々充実感を得ていた。そのた め、自分のしよぼさなど、気にも留めなかった。そ れが、今や……。  職なし、カネなし、取り柄なし。  輝かしい美月に対してなんという体たらく。  「なんとかしないとな、俺」  おそらく失業したと伝えると、優しい美月は、一 歩を突き放すことなく、全力で励まし支えてくれる ことだろう。再就職に向けて建設的な意見をよこし てくるかもしれない。だが、それが今の一歩には、 なんとなくわずらわしいのだ。  「俺だって、絶対にこのままじゃ終わらない’・」  その一歩を突き動かしているのは、あのとき、矢 弦にいわれた言葉だ。   ほう、会社が潰れた? そらおめでとう’・   人生を見直すチャンスや’・ 青年’・   今こそ「やりたいこと」をやるチャンスや。    「やりたいこと・ワクワクすること」をやるこ   とや。   この先行き不透明な時代を生き抜く力となる。   そしてそれが、不便・不条理な世の中を変えて   いく力、世界を変えていく力になるんや。  「世界を変える? こんな俺でもI?」  半信半疑ながらも、一歩は何度その矢弦の言葉を 反芻したかわからない。  「俺はやる。やりたいことをやって、世界をより 良くしてみせる’・」  そして、その輝かしい未来で、きっと自分は美月 とイキイキと生きている!・  「……はず、だよね」と一歩は料理をしながらつ ぶやいた。  「ぜえええええったいに無理だから’・」  姉は、怒った顔で一歩にいった。  夕飯の時刻になっても、食卓に皿は並べられない。  姉が「食事どころじゃない、緊急会議よ’・」と いって、母を呼び、姉の旦那も呼び、「就職しない」 という一歩を説得するために集まったのだ。  「起業なんて、絶対ありえないから’・ なにバカ なこと考えてるの?」  トゲのある姉の言葉に、  「まあまあ、一歩君だって就活か大変なんだよ。 『就職したくない』つてぼやきたくなる気持ちもわ かる。イチイチそんなに目くじら立てることない じやないか。なあ、一歩君」  義理の兄がなだめるようにいった。  「いや。俺、ポンドに起業するから。というか弁 当屋をやる」  「はあ? バッカじゃないのり」  「一体、どうしたの? なんで就職じゃダメな の?」  母も口を挟んだ。  「やりたいことがあるから」  「はあ? なんで弁当屋なのよ? あんた飲食業 の厳しさを絶対にわかってないって’・ 一度、飲食 店のワンオペ店長でもやってみろっての’・ あんた なんかすぐ尻尾巻いて逃げ出すって’・」  姉の口撃は止まらない。  「飲食業ならなんでもいいって話じゃないんだよ。 やりたいことが先にあって、それには弁当屋がい いってだけ!・」  「なにいってんの? ああ。なんとかいう起業カ フェでおかしなことを吹き込まれたか’・ 起業なん てあんたなんかの手に負えるもんじゃない。あんた の好きなあの轟社長だって、挙句の果てはどうなっ たのよ? 失敗して、一家離散で首吊ったか、海に 沈められたかしてんでしようが’・」  「轟社長は関係ないだろ’・」  「起業するってそういうことよ’・ 経営がうまく いかなきや、借金背負って周りに迷惑かけて、収拾 がつかなくなるのよ’・」  「あのさあ、起業ってそんなのばかりじやないか ら。できることをできる範囲で少しずつ始めていく 人だっているんだから」  「はあ?」と姉は一歩をにらみつけた。  「一歩、起業なんか無理よ。うちはお金ないし。 あんたが失敗しても誰も支えられないよ」と母も、 困ったような顔をしていった。  「そうよ’・ 一歩。あんた、これからは、私たち が、母さんを支えていくことも考えないといけない んだから」  「お金はこれからなんとかするし」  「甘い!・ なんとかなりやしないって!・」  「ムリつて決めつけるなよ’・」  「一歩。会社に就職するのが一番、安全よ。母さ んだって、父さんが亡くなって困ってるところを父 さんの会社が雇用してくれたわけだからね。会社員 であることで守られてきたことがたくさんあるわ」  「でも、父さんや母さんの時代と違って、今は、 会社が社員を守ってくれるわけじゃないよ」  「そりゃ、とどろきスポーツの件が特別だっただ けで。そんな会社ばっかりじゃないと思うわよ。そ んな悲観することないわ」  母は一歩をなだめるようにいった。  「そうだよ。一歩君。よければ、僕も知り合いの 会社に聞いてみるし、落ち着いて就職の線で考え直 そう。起業なんてものは半分以上が失敗するんだか らね。まず現実的な話じゃないよ」  義兄もいい添えた。  最終的に、一歩の「起業する」という言葉は「就 活できないストレスからくる、ただの迷いごと」と とられたようだ。  翌日、一歩は「カフェーカオス」を訪れた。  一歩が、昨日の出来事を矢弦に話すと、  「親ブロックつちゅうやつやな」と矢弦はいった。  「親ブロック?」  「あんたもか。親ブロックちゅうのは根深いねえ」 と光代までが来て説明してくれた。  ・「親ブロック」子どもが起業するといえば親が   猛反対する  ・「嫁ブロック」夫が起業するといえば嫁が猛反   対する  ・「子ブロック」親が起業するといえば子どもが   猛反対する  「『子ブロック』なんてものまで、あるんですか」  「実は日本ではシニア起業も多いからな」  「家族はみんな、反対するんですね?」  「それは、日本が失敗っちゅうもんに寛容じやな いからや」  「しやあないわね。日本は『みんなと同じ』から 外れて失敗したらなかなかはい上がれないような社 会になってるし。一度踏み外したらもうまっとうな 道に戻れんかもしれん。そんな中で、家族は手放し で『やってみろ』とはなかなかいえんわね」  「家族に賛同してもらえないのは、凹みますけど ね……」  「家族はあんたのことが心配でいうてはるんやろ けどな。日本は失敗するとみんなから袋叩きにされ る文化やし」  光代のその言葉に矢弦が反応し、  「なんで失敗を叩くねん。挑戦したら失敗はつき ものや。失敗はいくらでも成功に導いてくれるのに、 失敗を許さない文化、社会の仕組みはナンセンス や」  「そうはいっても、日本ではあんたのいう『失敗 なんてラッキー』つてことになるには、あと百年は かかるかもしれんで」  「バカげとる」  「うちの家なんか、特に心配性で。『起業なんても のは半分以上が失敗するんだからね』とかいってき ましたね」と一歩がいうと、  「まあ、それはそうやな」と矢弦は応じた。  「え? そうなんですか」  「新事業会社に限って見ると、新規登録の五年後 には約半分(五十パーセント)の会社がなんらかの 形で消えていく。起業の世界ではこれを5‐50ルー ルと呼ぶ。つまり、起業家ひとりひとりが成功を目 指しても、残念ながらその大半は失敗してしまうね ん」  「そんな!・ ダメじやないですか!・」  「なんでや。あかんかったら、またやり直せばえ えだけや。いうとくけど、倒産したから終わりっ ちゅうことではないで。逆に聞くけど、失敗したか らって、なんでそれで終わりやと思うねん」  「ええり そう思うでしよ、普通……」  「あのな」  「はい」  「なにか新しいことをしようというときに、失敗 は絶対に避けられへん。大事なんは、その失敗をど う乗り越え、その後の成功にどう活かしていくか、 や。これからの時代、想定外のこと、未知のことは いっぱい出てくる。そうした答えのない困難にぶち 当たったときに、その問題をどう解決していくか。 そうした力が必要になってくるねん」  「……はい」  「失敗は必然。それを成功に導いていく力が大切 や。社会も、ただミスを否定するのでなく、ミスを 許し、共有して再発を防ぐ、というふうに変わって いかんと」  「はあ、そうですね」  そうはいうものの、当面どうすればいいものか、 と考えあぐねる一歩。  「それはそうと、矢弦さんは、なんでこんな仕事 をしようと思ったんですか?」  「わしか? わしは、生まれてン十年、自分の好 きなことしかしてこんかった。自分のことばっかり で。そのせいで三度死にかけて」  「はい?」  「それで、それまでの行いをあらためて、生き直 すことにしたんや。世の中には、やりたいこと、情 熱があってもうまく実行できへん人たちがようさん いる。それを知って、今度は、そういう人たちを応 援するような生き方をしようと思たんや」  「むむ……一一一度死にかけた話のほうが気になって 後の話が入ってこないんですけど。なにがあったん ですか」  光代が代わりに答えた。  「そら、昔から、行ったらアカンというとこに行 くし、食べたらアカンというもんを食べるし、話し たらアカンということを話してまうからや。やった らアカンといわれるものにことごとく手を出すねん から、自業自得やね」  「なにいうてんねん。だからこそ、他人とは違う 質の経験・学習を重ねられるんやないかい。『経験 に勝るものなし』や。特に不確実性の高い起業の世 界ではな。なあ、一歩」と矢弦。  「はあ……ていわれても」とあっけにとられてい る一歩。  「別に、これは自分に対してだけやないで、他人 にも勧めてる。『人が選ぶであろう選択肢を避けて、 なるべくタフなもの、挑戦の難易度が高いものに チャレンジする』つてことをな」  「簡単にいいますけど」という一歩に、  「アカン、これはまだまだやらかす気やな」と呆 れている光代。  「起業の世界にショートカットなどないねん。簡 単なほうばかりに向かっていてはみんなと同じや。 あえて困難な道を選ぶのもあり。より学習機会が増 えるし、達成感も蓄積される。経験値・自信も高く なる」と矢弦。  「はあ……」  「死なへん程度にやりや」と光代。  「……。そういう光代さんは一体(何者?)」  「わてか? 芦屋のお嬢や」  「自分でお嬢とかいいます?」  光代は、関西の高級住宅街、芦屋に住む資産家の 一族で、本家が矢弦の行う事業のいくつかに投資を しているので、監視役として派遣されているという。  「矢弦さんの見張り番ってことですか? え? てか、矢弦さん、現役の起業家なんですね? てか、 光代さん、ホントにめっちや金持ちなんすね??」 と驚く一歩。  「まあ最近は監視役を放棄して、好きにここで起 業家のサポートをしてるだけやけど」と光代。  「……へゝ凡ゝ尺。知らなかった」と一歩があっけに とられていると、  「せや、一歩、せっかくやし、今日は『失敗につ いて』の勉強会をしよか」  矢弦はいった。  その日のカフェでは「失敗について」の勉強会が 開かれた。  一歩のほかに隼人も参加していた。  「失敗とはなんぞや。失敗の定義というのは、ひ とりひとり違う」  矢弦は説明する。  「なにもむやみに失敗せいといってるんとちやう で。まずは、自分にとっての失敗をあらかじめ定義 することや。なにをもって失敗とし、どこまでなら 失敗しても大丈夫、ということを明確にする」  「失敗しても大丈夫、なんてことあるかね、普通」  ボソリと隼人がいう。  「ある程度のミスはありきとして許容するという ことや。これをAcceptableyAffordable lossと呼 ぶ。直訳すると許容可能な損失。失敗してもええ範 囲、どこまでなら許容できるか、を前もって設定し ておくんや。それは使える資金の限度額だったり、 費やせる時間だったり、信用だったりする。そう やって自分にとって失敗がなにかを定義づけし、失 敗を事前に予期し、認識することによって、リスク を支配するんや」  「なるほど」  一歩は熱心に聞き入る。  「たとえば、カジノに行くとしよう。その際、現 金のみを持参する。自分で決めた額、たとえば五百 ドル、ここまでなら負けてもOKとする。あるいは 時間を制限する、三時間は自由に遊ぶ、とかな。そ うしてリスクを管理することで、より楽しくギャン ブルを堪能することができる。失ったときがリフレ クションのタイミング。振り返り、なにがうまくい かなかったのか、内省し、学び、それを次に活か す」  「なるほどなるほど」と納得する一歩に。  「そんなことは、わかってんだ」とケチをつける 隼人。  「ちなみに、そこにいる先輩諸君」  矢弦は、カフェに遊びに来ていた起業家たちに尋 ねる。  「過去になにか大きな失敗をしましたか?」  矢弦の問いに、  「別に」  「俺たちは特にないかな」  答える起業家たち。  だが、より突っ込んで聞くと、成功までに、二億 円の借金を背負っていたり、共同経営者に逃げられ て破産しかけたりと、さまざまな危機があったよう だ。  「ええり 二億円の借金とか破産とかって……結 構な失敗ですよねり」  一歩は思わず引いた。  「いやあ、失敗というか、それがあったから、事 業をピボットさせたり、今の成功があるわけだから。 ねえ、矢弦さん」  あっけらかんとしている起業家たち。  「ピボット?」  一歩は、気持ちがまるでついていけないが、尋ね た。  「事業の方向転換つてやつだろ」  隼人がいう。  「せや。失敗したら柔軟に対応して方向転換する のがピボット。それが成長の秘訣や。トライアル& エラーして、検証一分析して、ピボットを何回も繰 り返して、結果的に成功につなげていく。それこそ が起業の真髄や」  矢弦は説明する。  たとえば世界最大の動画共有サービスYouTube も、当初は動画を使ったデート相手を探すサービス だった。それが思ったほどの成果を生まず、デート とは関係のない動画がアップされ、単なる「動画共 有」としてのニーズが強いことがわかって、今の サービスヘとピボットしたのだ。  また、YouTubeと並んで世界的人気のSNSの instagraヨも、当初は、現在地や写真を共有できる ソーシャルチェックインアプリだったのが、写真共 有機能だけに人気が集中したため、他の機能を排除 し、今のサービスにピボットしたという。  「失敗を機に、『絶対こうでなければならない』と いう固定観念を崩して、軌道修正をしていく。進化 すること、学ぶことこそが大事なんや」  「へえ……」  「あともうひとつ。失敗を事前に検証する『プ レーモータム』、検死前検証というフレームワーク がある」  「検死前検証?」  それは、まさに「失敗ありき」というコンセプト を活かした手法だ。  新しいプロジェクトを開始する前に、チーム全員 が集結し、そのプロジェクトが失敗した(死んだ) という前提のもと、「なぜ失敗したのか?」と、要 因を、出尽くすまで、リストアップするというもの だ。  「抽出した要因をひとつひとつ分析し、それを回 避する。これをプロジェクト開始前に行うというの がミソや。これの最大のリスクは、あまりにも重箱 の隅をつつきすぎると、プロジェクト自体が消滅し てしまうことや。あまリブレーキ機能を備えすぎて も、次の行動につながらへん。ある程度の検証を終 えたら、一歩、踏み出すことや。大失敗なくして大 成功なし、究極の失敗は挑戦しないこと、や」  「大失敗ねえ……」  一歩と隼人はつぶやいた。  その頃、現代建築社では、青木が広告営業部の部 長である黒田から、「話がある。今日の夜、ちょっ とつき合え」と飲みに誘われていた。  「……飲みニケーションはNGつていったはずな んすけど」といいたいのを抑えて、渋々、青木は黒 田につき合った。  現代建築社は、青木が以前いた会社よりも、ずい ぷんと上下関係のゆるい会社ではあるが、飲みに誘 うときの黒田には、逆らいがたい押しの強さがあっ た。  「で、新規事業とかいうやつのほうはどうだ」  黒田はさんざん、仕事のうんちくを語り尽くした 後にそう切り出した。  「はあ、いや、別にどうってことはないですけど」  内心「帰りたい」と思っていた青木は、手早く話 を片づけようとした。  「だろうな。だいたい、あんなメンツじゃ、ろく な案も出やしないだろう。白黒つけない日和見専務 (灰田)に、えせインテリ(黄島)、KY女(眷奈) に、ヘタレイクメン(緑川)。関わるだけ、時間の ムダだ。おまえも時間をかけるな。あれに関わらな くても査定に影響が出ないように俺が配慮してや る」  「……ありがとうございます」  それでも黒田が、新規事業のことを少なからず気 にしていて、なんらかの情報を聞き出そうとしてい ることに気づいて、青木はいった。  「リフォーム業者と個人のマッチングサイトをつ くろうって案が出てましたけどね」  「マッチングサイト? まだそんなバカなこと いってるのか」  黒田は安心したように鼻で笑った。  「前にもそんなバカなことをいう奴がいたから、 俺が潰してやったんだ」  「え? そうなんですか?」  そこから黒田は武勇伝を延々と語り出した。  「今のコンサル事業をつくったのは俺だからな」  黒田は、現代建築社の生え抜き社員ではなく、中 途採用組だ。もとは大手ゼネコン、立川建設の営業 マンで、現代建築社に転職してきて、社内に建築コ ンサル事業を立ち上げる際の中心メンバーとして活 躍したという。十数年前の話だが、その後、そのコ ンサル事業が現代建築社の主要事業のひとつにまで 成長したため、いまだに黒田の自慢のタネだ。  延々とそのことを語り、新規事業チームを敵視し ている様子の黒田。青木の目には、黒田が自分の功 績を上回るような事業が生まれないことを、心から 願っているようにも見えた。  老害ってやつだな。  青木はそう思いながらも、黒田の話が尽きるまで、 やり過ごした。  「まあ、なんでも困ったら、俺に相談してこい」  「はあ。ありがとうございます」  誰があんたなんかに相談するんだよ。  青木はそう思いながら、居酒屋を出て、黒田から ようやく解放されると、深いため息をついた。  このまま帰るのも気分が悪い。  青木はそう思って、周りを見回すと「カフェーカ オス」という看板が目に入っだ。「……少し、勉強 でもして帰るか」と青木はカバンにタブレット端末 があることを確認しながら、カフェに入っていった。  店の中には妙にマフィアつぽい中年男性と、小柄 なおかっはメガネの老女がいるだけだった。  「いらっしやい!・」  おかっはメガネに促されて青木は端の席についた。  注文を済ませると青木は、不動産投資の勉強をす るために、タブレット端末に目を落とした。そこに は、不動産投資についての電子書籍が入れてある。 青木の目下の目標は、会社の給与とは別に、安定し た不労所得を手に入れることだ。そうすれば、不毛 な会社員生活を続けなくてもよくなるかもしれない。  青木の前職は、年収が比較的高いことで知られる ソフトウェア会社の営業部員だった。ノルマも上下 関係も厳しい会社だったが、青木自身、もともと負 けず嫌いの体育会系だったこともあり、当初はさほ ど苦には思っていなかった。同じ大学のOBである 熱血漢の上司が異動してきたときは、頼もしく思っ たくらいだ。  だが、その上司が来て、半年くらいで調子が狂い 出した。自分の評価を上げたい上司が、青木たちの ノルマを引き上げてきたのだ。「青木、おまえは特 に優秀だから期待してるぞ」と毎日その上司から発 破をかけられた。青木はすでに部内でもトップレベ ルの成績だったこともあり、自分に対する会社の期 待が大きいのは仕方がない、と自負してひたすら頑 張った。結果、営業成績は上かっていったが、成果 を上げても「まだまだ期待してるぞ’・」と上司はさ らに青木に追い打ちをかけてきた。  その頃から次第に身体の調子がおかしくなってき た。身体がとても疲れているのに眠れないことが多 くなった。その一方で日中突然、睡魔に襲われて仕 事に支障が出るようになった。そのつど、上司にひ どく責められた。失態を挽回するために、さらにノ ルマをこなすべく頑張った。頭痛や胃痛は当たり前、 だが、そのうち、出社しようとするとめまいや吐き 気で動けなくなることがあり、あるときなどは、出 社途中の駅のホームで「なにしてるんだ’・」と見知 らぬ会社員に腕をつかまれたりもした。青木が線路 に飛び込もうとしていたというのだ。  「すみません、そんなつもりはありません」  青木はそう答えたが、気づけば目から涙が流れて いて、前後の記憶はなかった。  青木は会社を休職することにした。その際、上司 から返ってきた言葉は「おまえにはがっかりした よ」というものだった。  青木は会社を辞めた。  しばらく休息期間をとっだ後、給料は多少低いが、 社風がぬるい現代建築社に就職することにした。  ここでは、偉そうな上司、黒田にしたって、かの 熱血上司に比べれば、口ほどにもない。大した仕事 もできない間抜けであるから、くみしやすい。会社 の仕事は最低限の労力で済ませて、コスパよくやり 過ごそう。余計なことはしたくない。そして、今の うちに英気を養って、不労所得を得られるようにし て、悠々自適の暮らしを手に入れるんだ……。  そう青木が思っていると、マフィア風の変な中年 男から声をかけられた。  「そんなカネを稼いで、あんたはなにがしたいね ん」  「は?」  男は、青木のタブレット端末をのぞいていた。  「なにするんすか’・ つてか、誰り」  「『不労所得』なあ。見たとこあんた、会社員やな。 そんなカネを得て、なにをするねん」  「そんなの、あなたに関係ないでしよ」  「『やりたいこと』をやるんやったら、『将来』『い つか』とかいうてないで、『今』やりや」  「は?」  「もったいないやんけ。今のあんた、会社で過ご してる時間が長いんやろ? その時間に好きなこと をせな」  「会社で好きなことって」  鼻で笑う青木。  「時間とカネとどっちか大事やねん。カネなんか ただの手段や。カネを貯めて将来やりたいことある んか?」  「……ヵヽ不が貯まつたら考えます」  「『今』考えたらええやん。なんで先延ばしにする ねん」  「はい?」  「『今』できへんことが、なぜ『将来』できると思 うんや? この先行き不透明な時代に」  「はあ?」  「それに、会社にいる間、あんたはなにしてるね ん。なんのために働いてるねん? 会社のためか。 カネのためか」  「それは……」  会社のためになんか働きたくない’・  「『会社人になるな、社会人たれ』や。会社やカネ のために働くんやない。会社はあくまでも個人が社 会に貢献するための『乗り物』にすぎへん。『こう いうことをしたい』『こういう問題に取り組みたい』 という自分を活かすため、自分のために働く場所に せなあかん」  「……」  「そうでないと、ただ会社に使われるだけになる で。会社に使われるんとちやう。あんたが、会社を 使うんや」  「……」  「やりたいことをやる。そのために会社を使う。 それがこの社会を生き抜く力、未来を自ら創る力に なるんやで」  「……」と、青木は黙ってタブレットを片づけ、 席を立った。  「あれ? もうお帰り?」  おかっはメガネが声をかけてきた。  青木の去り際に、男がまた声をかけてきた。  「やりたいことをやるっちゅうなら、また来たら ええ。いつでも相談乗るで」  「……tEt味がわからない」  青木はカフェを後にした。  「なんだ、あの変なおっさん」  調子が狂う。  『会社でやりたいことをやる』だと? 本気でそ んなことを思っていってるのか。  そう反発しながらも、心に残った言葉がある。   会社人になるな、社会人たれ。   会社に使われるんとちやう。あんたが、会社を   使うんや。  青木は、「会社に使われる」ことを当たり前だと 思っていた。  「『こういうことをしたい』という自分を活かすた めに働く場所……か」  自分は、なにがしたいのだろうか。そういえばあ らためて考えたこともない。  「……」  青木は去ろうとして、ふと振り返った。  そして、「カフェーカオス」の場所をしっかりと 記憶に刻みっけた。   【解説】リスクは相対的なものでコント       ロール可能       最大のリスクは失敗を恐れて行動       しないこと    5‐50ルール「創業五年で五十パーセントの    会社がなくなる」  起業や経営には失敗がつきもの。統計的に見ても ここ十数年間、日本では一日当たり約四十社が、ア メリカでは約百十社が倒産しています(ともに年平 均、図表8‐1)。割合にして、日米ともに約〇一三 パーセントの事業会社が毎年倒産していることにな ります。            皿        }  a            5 16        へ   14 1       ………   2 13     ………    11 1     …………   7 08        丶4   0       ゛……一一、い『  匸 `   功      工 作   侃  匹 E‥ E°゜匸y°゜:’宍 匸印万作JJJ E 四    倒産件歌           作  これを新事業会社に限って見ると、新規登録の五 年後には約半分(五十パーセント)の会社が登録抹 消になっています(吸収合併含む)。起業の世界で はこれを5‐50ルールと呼んでいます。つまり、起 業家ひとりひとりが成功を目指しても、残念ながら その大半は失敗してしまう。失敗は語らざるを得な い不可欠な要素なのです。    リスクは挑戦につきものだが、相対的なもの  起業は挑戦の繰り返しであり、リスクはつきもの。 そんなリスクという概念ですが、実は相対的な概念 だったりします。本文中では、ふたつのアプローチ を紹介しています。  ひとつは「(Causation(コーゼーション)」とい うロジック。これは物事が因果関係に基づいている という論理を前提とします。  ビジネスを始めようというときに、(ンバーガー 屋さんあるいは今流行している飲食店など、とにか くすでにマーケットのニーズがあるものを選びます。 そして、それに対してセグメント化し(どのような タイプのものがどの客層に好まれるかなど)、自ら の強みを活かせるターゲットを選定し、そこに向け てポジショニングをとっていく(商品・価格・プロ モーションー販売手法等を固めていく)というアプ ローチです。これは、ビジネスのネタを既存の市場 の中から「探す」ということになります。STPモ デル(Seament-Tarqet-Position)とも呼ばれます。 この場合、需要があるのがわかっているので、ライ バルもすでに参入しているか、あるいは後から参入 してきます。熾烈な競争環境がリスクになります。  もうひとつは、「mffectuati〇コ(エフェクチュ エーション)」というロジックです。これは、ニー ズを「探す」に対して「創る」というコンセプトで す。決まった結論に固執することなく、実験により 改善を重ねるという論理を主とします。  (ンバーガー屋などを興すという例と比較するの であれば、自分の好きな食べ物を、今あるもので創 作して提供していくようなアプローチです。  自分のもっている材料から取捨選択し、そのとき の感覚で最適なものをつくり上げて提供する。そし て客の反応を見て内容を変更していく。やってみな いと需要があるかどうかわからないというのがこの 場合のリスクです。他社との差別化は、もちろんユ ニークな商品そのものです。つまりビジネスのネタ を既存のものから探すのでなく新規に創造すること になります。  このように、リスクは相対的な概念です。人に よって、リスクの度合いは変わります。大切なのは、 誰がなんといおうと、自分自身にとってリスクが低 いと感じられるか否かです。リスクは最終的には自 分で判断するものです。自分のもっている知識、経 験に基づく直感、個人的な見方、判断基準。だから こそ計算されたリスクと呼べるのです。  他人が「リスク高いなあ!」と思ってくれること に実は感謝していいくらいです。なぜならば、あな たのほかに「これはイケる!」と考える人が多けれ ば多いほど競争が激しくなるからです。他人の口か ら出るリスクという言葉、これは感謝すべきフィー ドバックなのです。    行動しないこと、つまり学ばないことが最人    のリスク  今の時代、変化のスピードが以前よりはるかに速 くなっています。このような状況では、他大がつ くったルールに追従するよりも、自らルールをつ くっていくほうがリスクは低い。受け身ではなく、 能動的に自らが混沌の中に身を投じていく、自らが 身をもって感じ、自らがなにかをやってみることが 大切です。新しいものの中に、自ら飛び込んでいか ないほうが、リスクは高いのです。  起業の世界では「最大のリスクは行動して失敗す ることより、行動をしないことだ」という考え方が 主流です。  たとえば、大好きな女性に対して、告白しないで ウジウジしているくらいなら、告白するべし。もし かしたら成就するかもしれませんし、ふられたとし てもその後、ふられた経験を活かして誰かとおつき 合いできる可能性も高まります。同様に、事業に投 資するほうが、なにもしない現状維持よりも、少な くとも収益が見込まれる可能性があります。失敗し て損失が出たとしても、経験値が高まり、見込まれ る学習効果が損益を上回る可能性だってあります。  大事なのは学び。私はROLと名づけています。 投資利益率を意味するRO−(Return oコ 一コvestmeコt)ならぬROL (Return on )eaヨ11ng) です。起業道とは学びのネバーエンディングース トーリー。そして行動なくして学びはありません。 その意味でも、やらないことこそが最大のリスクで す。やってみることでなにかがわかる。朗報ばかり ではありません。でも、バッドーニュースほど役立 つものなのです。    人成功の裏には人失敗あり、究極の失敗は挑    戦しないこと  成功を保証する起業のバイブルなどありません。  バブソンの教える方法論は、誰しも必ず成功する という前提でなく、失敗は必然とし、その失敗をど のようにすれば効果的によきものとできるか、正し く理解を深め、着実に学ぶことです。失敗が成功に つながる、という強い信念に基づいています。最終 的には成功する確率が上がり、成功が早まり、社会 全体として成功する起業家が増えて、良い経済効果 をもたらすことが期待されます。  たとえば、バネを想像していただきたい。より高 く跳ねるために、より小さくなる。そこからバネの 力が発揮されます。飛躍力を生むのは反発力、はね のける力、です。大失敗なくして大成功なし。個人 であっても、社会であっても、リスクをとらずして、 失敗を受け入れずして、大いなる成長はありません。  」ife is either a daring adくenture or nothing at all.  −エelen Keller  人生とはパラパラする大冒険か、なにもなしか。  ワクワクするリスクをとって生きましょう。               ヘレンーケラーの言葉  起業道とは、果敢に挑戦し、失敗をありきとし、 失敗を恐れず、ときには進んで失敗をし、そこから 多くを学ぶ、ということの繰り返しです。  失敗の数より学びの大きさを重視します。繰り返 しになりますが、人生の最大のリスクとは、失敗を することより、むしろ失敗を恐れて行動をしないこ と。だからこそ、果敢に攻める。挑戦する。失敗を する。そして多くを学ぶ。そうした姿勢が大切です。  ZOpain「コOgaiコ一  痛みなくして飛躍はない!     第九章 ピツチー事業アイデアは          短時間で簡潔に売り込め  「ピッチつてなんですか。プレゼンとは違うんで すか」  一歩は尋ねた。  その日、「カフェーカオス」では、ピッチの勉強 会が行われていた。  ピッチとは、短い形のプレゼンテーションで、自 分や自分のアイデアを、短時間で簡潔に、投資家や 新規顧客に対して売り込む方法だ。もとは、シリコ ンバレーでスタートアップを目指す若者が投資家に 対して事業アイデアなどを売り込むことを「ピッ チ」と呼んでいたのが、今では囗本のビジネスシー ンにも浸透してきている。  「普通のプレゼンとなにが違うんです?」  一歩が尋ねると矢弦が答えた。  「伝える相手も伝え方もまったく違うな。一歩の いうてるプレゼンと別ものと考えてもええ。プレゼ ンつちゅうのは、会議室かなにか用意された場所で、 特定の相手、クライアントや上司や、その内容をよ りくわしく知りたい人のためにやるものやろ? じっくり聞いてもらえるから、長々とデータや口 ジックで説明する。一方、ピッチは、初対面の大。 これから伝える内容をはじめて聞く大、時には、 まったくこちらに興味のない大に対してやるんや。 だから、短時間で簡潔に、難しい専門用語も使わず、 直感で理解してもらえるくらいにわかりやすく伝え なあかん。心に訴えて共感を得るんや」  「心に訴えて、共感を得る?」  「せや。起業家にとって、ピッチは必要不可欠な 技能や。ピッチの出来次第で資金調達ができたりで きなかったりするからな。洗練されてるかどうかで 調達は大きく左右される。伝える技能がないと、 せっかくええアイデアがあっても、投資家から門前 払いを食らう羽目になったりもするしな」  「ええ?」  「それに、ピッチは会議室でなく、もっとカジュ アルに、さまざまな状況で実施されることになる。 ピッチが許されるその時間によって、エレベー ター・ピッチ、ロケットーピッチと呼ばれたりする。 よくあるのが『三十秒バージョン』『一分バージョ ン』『三分バージョン』や。だいたいこの三つのパ ターン用意しておくことが多い」  「三十秒? というか、どれも短いっすね’・」  「せや。たとえば三十秒のエレベーター・ピッチ で、『僕こんなこと考えてます』と手早く訴えて、 向こうが『もう少し聞かせてくれ』と興味をもった ら、相手のくれる時間に応じてより長い説明をすれ ばええんや。ピッチの目的は、自分や自分のアイデ アにとりあえず興味をもってもらって、次のミー ティングにつなげることやからな。ただ、それでも 勝負はせいぜい三分や。三分のピッチで相手の関心 を引けなかったら、それ以上長くやってもほとんど 変わらん」  「ええI……冫・」  「いかに端的に情熱をもってピッチするか、いか に投資家に意気投合させるか、事業の将来性を説得 できるか。それらは、自分がどれほど自分と自分の ビジネスについて知り尽くしているかにかかってる んや」  「……つていわれても。具体的にどうすればいい んですか?」  「せやな。ピッチの場合、まず『伝える相手は誰 か』『最終的に(相手から)なにを手に入れたいの か』を事前に押さえておく」  「はい」  「そして、どのような構成にすれば相手に共感し てもらえるかを考えて、魅力的な内容に磨いてお く」  「構成? 内容を磨くっていっても具体的にどん なふうに……冫・」  「構成については、たとえばフック。つまり、最 初になにをいうか、『釣り(ツカミ)』を意識する。 そして、内容については、@どういった問題をどの ように解決しようとしているか、Aその解決策がい かに競争力に優れているか(差別化)、Bターゲッ ト(ユーザー)は誰で、どの程度存在し、今後将来 規模的にどう推移・成長するのか、Cそれにともな う収支計画は? D創業チームーボードの構成メン バーは? これらの点をはっきりさせる」  「あ、はい」  「そして重要なのは、Eそのためになにが欲しい のか(カネがいくらいるのか、ヒトがいるのか)を はっきり伝える。単刀直入にカジュアルに、かつ、 それをストーリーとして語るんや」  「ストーリー?」  「物語として語って、感情で相手の心をつかむん や。どうして自分がこの問題に取り組むことになっ たか、そのへんがイメージしやすいようにな。そん な工夫が必要になる」  「うわ。難しそうですね……」  「まあ、せっかくやから、やってみよう」  「はい」  一歩は早速、ピッチの内容を考えてみる。  そういえば、カフェに集う起業家だちから、ピッ チコンテストやピッチイベントなどがあることは聞 いていた。  ピッチコンテストとは、起業したばかりの会社が、 投資家や金融機関のみならず自分だちと同じ立場の 企業といった不特定多数の参加者に対して、ピッチ を行い、優勝を競い合うものだ。そうしたイベント はメディアでも紹介され、スタートアップ企業に とっては自社のサービスを多くの人に知ってもらう ことのできる絶好の機会だという。起業家たちはそ こで多くの仲間をつくったり、アイデアを得たり、 サービスのPRをするそうだ。  「じやあ、実際にやってみよう。一歩、やるか?」  「ええツり あ、はい」  一歩は勉強会の参加者の前で、ピッチに挑戦する こととなった。  緊張しつつ、正面に用意された演壇に立つ一歩。  「最初はフックか……ツカミつていってもなあ」  ブツブツつぶやいていると矢弦から声がかかる。  「なにゴニョゴニヨいうてんねん。ピッチで大事 なんは、第一印象やったりするねんぞ。そもそも第 一印象って、何秒で決まるか知ってるか?」  「ええ? 一分とか二分とか?」  「〇・一秒や’・ 一秒もかからへんねん。その人 物が信頼できるかは瞬きする間に決まってまうん や」  「ええ〜?冫。冫。・・・・・・ つていわれても」  うろたえる一歩に、矢弦は続ける。  「もとい。投資家は一体、なにを見ているか? もちろんビジネスの内容も大事やが、彼らはあんた という『大』を見てるんや。それは、その人のもつ 干不ルギーやったり、着ている服やったり、どんな ふうに座っていたか、たたずまいや身体の動きだっ たりする。そうした第一印象で判断されることも多 い。そしてそれは、あとでどれだけ挽回しようと 思っても、覆すことはできへん。とにかく、第一印 象から、『もう少し会いたい』と思わせていくこと が肝心や。自信もって堂々とやれ」  「は、はい」  一歩は、「子ども向けの弁当屋」について、三分 間のピッチをすることになった。  一歩は客席のほうを向いて、こう切り出した。  「みなさんは、今、子どもたちの味覚がマヒして いたり、肥満が増えていることをご存知ですか」  一歩は観客を見同してみた。  「その背景には『子どもの食の乱れ』があります。 子どもたちの夕食がコンビニ弁当やファーストフー ドに偏りがちになっています。それには、核家族化 か進んだこと、共働きの家庭が増えたこと、子ども たちの習い事や塾通いが多くなったことなどが原因 としてあげられます。働く親は帰宅が遅く、子ども たちの夕食も用意する時間的余裕がなく、外食、特 にファーストフード店やコンビニなどの加工食品に 頼ってしまいがちです」 −自分事としてストーリーで伝える。一歩は考え ながら続けた。  「僕は、つい最近、近所の子どもたちが、塾や習 い事に行く前の食事として、コンビニのお弁当や菓 子パン、ファーストフードを買って食べているのを 見ました。子どもたちに聞くと、それが『いつもの こと』なのだそうです。おそらく、子どもに食事代 を渡した親は、栄養のバランスを考えて食事をして ほしいとは思っているのでしょうが、子どもたちは 好きなものを買ってしまいます。それに店の選択肢 も、コンビニやファーストフード店以外にないのが 現実です。僕はそうした子どもたちの食事に違和感 を覚えました。成長期の子どもたちの食事が、果た してこれでいいのだろうか、と」 −どういった問題を解決したいのか。  「僕はこの『子どもたちの食の乱れ』の問題を解 決したいと思っています。実際、子どもたちのこれ らの食の乱れは、先ほどもいった通り、子どもの肥 満や、味覚のマヒをもたらします。栄養バランスの 偏りは肥満など健康に支障を与えます。ジャンク フードや加工食品のとりすぎは、化学調味料など食 品添加物のとりすぎにつながり、添加物の濃い味に 慣れてしまうと、さらに濃い味を求めてしまいます。 天然、自然の繊細な旨味を美味しいと感じられずに、 偏った嗜好になってしまいます。子どもたちの健全 な成長が阻害されてしまいます」 −どのように解決しようとしているか。  「具体的な解決方法は、子ども向けのお弁当を提 供します。そのための弁当屋をつくることです。子 どもたちの夕食の選択肢に、コンビニ弁当、ファー ストフードのほかに『手づくり弁当』を加えること です。どんなお弁当を提供するかというと、栄養バ ランスに配慮した、無添加、柢農薬、健康的な家庭 料理を提供します」 −その解決法がいかに優れているか。  「提供するお弁当には、化学調味料や食品添加物 を一切使いません。コンビニやスーパーで提供する 食事は、安価につくるため、また保存性を担保する ためにも食品添加物は不可欠です。ですが、我々は、 その囗に食べていただくことを前提に提供するので、 これらの食品添加物は使いません。添加物を入れな いことで、子どもたちの健康や健全な味覚の成長に 貢献できると思います。また、お弁当も毎週利用す る子どもが飽きないように、週代わりのメニューを 用意するつもりです」  客席はシンと静まり返っている。 −ターゲットは誰? どの程度存在する? 将来 的な展望は?  「弁当屋の出店予定地は、ファミリー層が多く住 むN駅周辺です。駅から距離はありますが、周囲に は塾やスイミングスクール、学童保育など子どもが 利用する施設が固まっています。ターゲットは主に、 それらの施設に通い、お弁当を必要とする小、中学 校の子どもたちです。弁当は配達も行い、現状、N 駅周辺の数件の塾などでの利用販売を見込んでおり。 一日百食販売の予定です。軌道に乗れば、受注を広 げていきたいと思っています。N駅周辺はファミ リー層の移住が増えてきているので将来的にも需要 増が望めると考えています」 −収支計画は?  「一日百食、一食五百円での販売予定で、年開平 二百万円の売り上げを想定しています……」  静かすぎる観客に不安を覚える一歩。 −構成メンバーは? ピッチの目的はなにか。カ ネかヒトか、なにが欲しいのか。  「創業チームは僕と、町内にたくさんいる家庭料 理のプロ、専業主婦のお母さんやおばあちやんたち です。そうした人たちに集まってもらい、お腹を満 たすだけではない、心も満たす食事をつくりたいと 思っています。この弁当屋をつくるのに、初期費用 として合計五百万円が必要で、うち二百万円が自己 資金で、あと三百万円を必要としています」  一歩は、そう言い終えて、ふうっと一息ついた。  そのとき、隼人が遅れて勉強会に入ってきたのが 見えた。  「以上か?」矢弦が尋ねた。  「はい」一歩が答えた。  「よし、一歩。じやあ、ここからは質問タイムや。 質問のある人、どうぞ」  矢弦は客席を振り返っていった。  ひとりの観客が手をあげた。  「どうぞ」と矢弦が促すと、  一歩は緊張の面持ちで、その質問者を見た。  「無添加、手づくりの料理が身体によさそうとい うのはわかりますが、それだけで利用しますかね? 添加物は保存や安全性のために必要なんでしよ? 保護者が子どもの食事について、まず気にするのは 安全性じやないかと思うんですが」  質問者の質問に、一歩は答えた。  「食品の保存の安全性については、そのための添 加物を使わないので、もちろん長期保存はききませ ん。ただ提供までの温度管理、衛生管理などについ ては、保健所の指導のもと万全の対策をします。そ の囗に消費していただくようお願いして提供するつ もりなので、安全性に支障はないと思います。また、 長期的に見ても、本来は使う必要のない保存添加物 を摂取するより、添加物を摂取しないほうが、健康 に対する安全性は高いのではないかと僕は思ってい ます」  次に、別の人が質問した。  「近所の主婦が家庭料理のプロといいますが、所 詮、味がシロウトの域を出ないのでは? 人が外食 にお金を払うのは、美味しいから、なにか家のご飯 とは違う価値があるからではありませんか? 添加 物を否定されているようですが、添加物は安価でわ かりやすい味をつくり出せるうえ、見た目、食感な ど美味しさの演出には欠かせない気がします。美味 しさや値段で「ンデはありませんか?」  「美味しさという点では、僕は余計な添加物はな いほうが美味しいと思ってます。これは僕だけでな く正確な味覚をもっている人は、そうじやないかと 思います。添加物の味に違和感を覚える人は少なく ないです。たしかに、添加物は、食品の触感や見栄 えにも必要なのは知っています。ですが、僕はそれ を使わずに自然の味で提供します。そしてそれが本 来の美味しさであり、子どもたちの健全な味覚の発 達に貢献すると信じています」  「実際に子どもたちが美味しいと思うかどうかは、 二の次だと?」と質問者は尋ねた。  「いえ、もちろん、子どもたちに美味しく食べて もらいたいという思いがあるので、時に試食会をし て、子どもたちの意見は聞くつもりです」  「価格についてはどうです? 割高になるので は?」と質問者は重ねて聞いた。  「いえ、価格については、添加物を使わないから コストがかかるというわけではありません。たしか に、丁寧に出汁をとったりという手間は発生します が、それがコスト高に直結するわけでもありませ ん」  質問者がうなずいてくれたので、一歩はホッとし た。  そのとき、別の質問者が問いかけた。  「でも、なぜ、それをあなたがやる必要があるで しょうか」  「え?」と一歩は身構えた。  「今、大手の弁当屋でもヘルシー弁当を販売して いるところがありますよね? 子ども向け弁当を販 売しているところだってある。そうしたところに任 せてはどうですか? なぜあなたがやるんです? あなたのやろうとしているものとそれら大手のもの とはどう違うんです? あなたのほうが優れている という根拠は?」  「ええっと……ちなみに、実際、塾などに聞いて みると、子どもたちの食事を確保するために、塾で もいろんな弁当屋さんやファーストフード店に依頼 したことがあるそうです。ですが、結局、ひとつの 店に定まることはなかったそうです。値段や、量や 内容について、『子どものため』になる決め手に欠 けたとか。大抵の弁当屋の弁当は、大人向け弁当が あくまで優先ですので、サイズの融通が利かないし、 カロリーも高いし、栄養バランスにも偏りがありま す」  「現状で、子どもたちに適切な弁当がないと?」  「はい、僕は、そう思っています。本当に子ども の健康のことを考えてつくられているお弁当が入手 しにくいというのが現状だと思います。ないから、 僕がやるんです。僕なら、無添加、柢農薬の手づく り家庭料理を愛する僕なら、彼らのために、美味し く健康に配慮した適切なお弁当がつくれると思いま す。そうした点で強みがあると思っています」  一歩の答えに、質問者は納得したようだった。  「質問は以上でしょうか?」  矢弦は会場を見回した。  質問が一通り済んだようで、一歩はホッとして演 壇を降りた。  「ああ〜、緊張した」  と一歩が、ヘロヘロにくたびれて、光代や隼人の もとに来ると、  「お疲れさん。はじめてにしては堂々としたもん や」と光代がねぎらった。  「ほかにやりたい奴は、おるか?」  矢弦が会場に尋ねた。  「じゃあ、僕が」  隼人が自信ありげに手をあげた。  「じゃあ、隼人」  隼人は、矢弦に促され壇上に上がった。  「珍し。今日は、ちゃんと参加するんだな」と一 歩が、隼人の姿に思わずつぶやくと、  「『一歩にやれるなら俺も』つていうてはったで」 と光代。  「まったく。……そういうことか」と呆れる一歩。  隼人は手際よく機材を操作し、スライドをスク リーンに映し出した。  「僕はAIを使って世の中をよくしたいと思って います」  スクリーンに「AIを利用した『スマート管理 人』で、マンションの管理人不足を解消’・」と出る。  「AIによるマンション管理人システム『スマー 卜管理人』を全国のマンションに導入させたいと 思っています。解決したいのは、『マンションの管 理人の人手不足』です。管理人というと、以前は、 定年後の仕事の定番中の定番でしたが、ゴミ捨てや マンション共有部および周辺地域の清掃、設備の点 検、住民からのクレーム処理、などキツイ、汚い、 危険の『3K』のイメージがつきまとっていまし た」  隼人は、スラスラとよどみなく話し、事情背景の データをスクリーンで見せた。  「ここ十年来、企業が継鱚雇用・定年延長を打ち 出し、高齢者の就業率が上がってくると、3Kのマ ンション管理人はだんだん敬遠される仕事になって きました。マンション管理会社も採用年齢を六十歳 から六十五歳に、定年を六十八歳から七十歳に引き 上げたり、努力していますが、高齢化に拍車がか かっているだけです。時給を上げてもなかなか人は 集まりません。ある大手管理会社が、都心の大型夕 ワーマンションの入札に参加できなかったといわれ ていますが、それもこの人手不足とそれにともなう 人件費高騰が原因のひとつだそうです。この問題を 放置すれば、管理人不在でスラム化するマンション が出てくるかもしれません」  静かに聞いている観客たち。  スライドを進める隼人。解決策が図で示されてい る。  「それを『スマート管理人』で解決したいと思い ます。ロボットではなく、音声対応AI、対話AI、 認識AIを搭載したデジタルサイネージ(電子掲示 板)です。一階の共用部、あるいは、各階に一台設 置するという方法も考えられます。顔認証により住 民ひとりひとりの顔を認識し、住人か部外者かを瞬 時に判断します。住人からの問い合わせには音声で も、テキスト表示でも対応可能です。もちろん、英 語、中国語にもゆくゆくは対応させたいと思います。 今まで掲示板に載せてきたような情報は、すべてこ のスマート管理人に聞けばわかるようになります」  「へえ……」  一歩は明快で堂々とした隼人のピッチを、感心し て見ている。  「ターゲットですが、これから主要都市で完成予 定の高層マンションは十万戸超といわれています。 それらの大手マンション管理会社に売り込みます。 マンションひとつ当たりに年間六十万〜七十万円で レンタル。これは人間の管理人の給料のおよそ三分 の一です。すでに完成している高層マンションにも、 管理会社を通じ、レンタルサイネージをお試し価格 でレンタルし、採用の可否を決めてもらいます。今 後の展望としては、マンション建設は再び増加傾向 にありますし、既存マンションヘの導入も考えると 需要は高まる一方と思っています」  隼人は、最後に、チーム紹介のスライドを出した。  そこには、そうそうたるメンバーのプロフィール が全面に打ち出されていた。  「開発には十億円か必要です。営業は私か担当し ます。あとはこちらのAIの専門家、データサイェ ンティストが二名、サイネージを設計する技術者二 名。製造はEMS(電子機器製造受託サービス)に 依頼します。資金の半分は彼らの三年分の給料、半 分は開発費です。三年以内に開発を完了させたいと 思っています」  隼人は堂々とピッチを終わらせた。  一歩は思わず拍手する。  「さすが。僕のピッチなんかと全然スケールが違 うな」と一歩。  だが客席はシンと静まり返っている。  「よし、ここからは質問タイムや。どうですか。 参加されている投資家のみなさんも」  矢弦は客席を振り返った。  誰も手をあげないので、矢弦が、ひとりの参加者 に声をかけた。  「どうです? 質問などは」  「……じやあ」とその参加者は、立って質問した。  「質問はひとつだけ。あなたは『なぜ』このビジ ネスを始めようと思ったのでしょうか?」  「なぜ? それは僕がAIの技術に興味をもって、 この技術をより効果的に使えないかなと思ったのが きっかけです」  「課題よりも技術ありき、ですか」  なんだ、と興味を失ったようにいう質問者。  「なにか問題でも?」と隼人。  「あなたの解決したい課題は、自分が実際に困っ た、自分の周りが困っている、というわけじやない んですね? 世の中にそういう課題があるかもしれ ないという想像や妄想でいっているわけだ」  「は? 妄想しやありませんよ」  ムツとして隼人はいった。  「実際に大手ゼネコンで、自社マンションにAI で管理員を備えつけようという話も出ているそうで す。僕らはそれらよりもサービス面、たとえば警備 機能を強化するなどの拡充でリードしようと思って います」  そう隼人がいうと、質問者もいった。  「当事者意識のない問題の解決策を打ち出したっ て、そりゃたしかに『あったら便利』かもしれない が、『なくてもいい』となりかねないよね」  「は? そんなことありません’・ 先ほどいった 通り、大手ゼネコンも注目している分野ですから」  「それこそ、その大企業が本格的にやり始めたら、 君らに勝ち目なんてないんじゃないのか? どうし てあんたたちがやったら成功するといえるんだ。そ の根拠は?」  別の質問者がそう尋ねた。  「は? それは、今のチームの中に、最先端の技 術をもつ技術者がいるからですよ。僕らが特に強み にしたい認識AIには彼の技術が必要なんです。こ こは大手だってそうそう簡単に真似はできないと思 います」  「彼と同じような技術者を、大手が絶対確保でき ないと?」  「絶対とはいいませんけど……なかなか難しいと 思います」  「その認識AIというのはこの課題解決に絶対な いといけないものなのか」  「そういうわけではないですが」  そのやり取りを「なかなか質問者も手厳しい な……」と一歩は唖然として見ていた。  質問者は続ける。  「じゃあ、そのメンバーがいるから勝てるという わけじゃないよね? それに彼がチームから抜けて 大手にいかないという保証は?」  「それは……」  言葉に詰まる隼人に畳みかける質問者。  「もしくはもう導入見込みの大手クライアントで もいるっていうのかい?」  「それは、えI」  壬兀の資料を探って答えようとする隼人。  だが明確な答えがなかなか出ずに、回りくどい説 明が続くだけになってきた。  「……あれ? なんだかクタクタになってきたな」  一歩がそう思っていると、矢弦が隼人に声をかけ た。  「隼人。別にここは相手を無理に論破せんでもえ えねんで。知らんことは知らん、考えてへんことは 考えてへんと、素直に、正直に、認めてかまへん。 なにも、こっちも意地悪しようと思って質問してい るわけとちやう。起業家のピッチに対して、そんな いいアイデアやサービスというなら『なんで今まで なかったのか』『なぜ今なのか』『なぜあなたがやる のか』『どうやってビジネスにするのか』『なぜあな たたちなら成功させられるのか』なんて質問はよく あることや」  「はあ」  それでも不満げな表情を見せる隼人。  「逆にそうした質問を、聞かれた側は活かしてい くんや。自分のアイデアの不備に気づいてブラッ シュアップしてもええ、相手の意見を受けてアイデ アを変えてもええ。いずれにしても、スタートアッ プにとって一番大切で、また投資家が一番注目して いるのは、『どんな問題を解決するのか』や。『お金 が欲しい』『これは儲かる』という理由だけで成功 することはほとんどないからな」  「え? 『お金儲け』が目的ではダメなんです か?」  思わず一歩が聞いた。  同じ疑問を抱いているようで隼人も矢弦を見た。  「起業家は『カネが欲しい』『有名になりたい』 『名誉を得たい』という外部からの報酬や賞罰など を動機とした外的な動機(口圧臥・∃O牙阯呂)より、 『自分のために解決したい』『自立したい』というよ うな内部から湧き上がる動機(FRl・ヨO牙肚呂) のほうが、成功につながりやすいといわれているか らな」  「……そうなんですか?」と一歩がいうと、  「でも『お金を儲けたい』というのも大事な動機 じやないんですか」  隼人も不服そうに尋ねた。  「なにも金儲けが悪いというてるんちやう。それ を上回って、情熱をもって自分が解決したい問題は なにか、が大切やというてんねん」  矢弦は、そこでも、個々の起業家にとっての「質 の高い問題」が必要だといった。  すなわち、情熱を絶やさず諦めることなく追求で きる問題が大切だと。  「……なるほど」  一歩が壇上のほうを見ると、  「僕のピッチは以上です……」  と隼人はピッチを終え、壇上から仏頂面で降りて きた。  矢弦がまとめる。  「ピッチの決め手として重要なのは、@解決した い問題に対しての知見に加えて、当事者意識がある かどうか。データ上で『大変だ』と訴えるのみなら ず、自分事としていかに重要な問題であるかを訴え ることや。そして、Aなにをしてほしいかが明確で あること。欲しいのはいくらの金か、どういう人か、 どういった物流か、など要求をはっきりさせる。あ と、B手段として重要なのは、エネルギー感。どれ だけのパッションをもっているか、言葉の抑揚の有 無、目線と気配りなどで伝えていく。そして、C ピッチの後の質疑応答や。これがピッチよりも何倍 も大事だったりする。質疑応答に対しては、知った かぶりをしないこと。聞く耳をもっているか、など がチェックされる。ピッチは一発勝負のようでそう ではない。最も大事なのは信頼関係を築くことや。 ピッチでさんざんな結果に終わったと思っていても ここで挽回してしまうこともあるくらいや」  「聞く耳をもつ?」  一歩が尋ねると、矢弦が答えた。  「ピッチに対して、ベンチャーキャピタル側かひ らめいて、『こういうアイデアに変えるなら資金を 出すよ』『このメンバーはいらんな』などと、こう しろああしろといい出すことが往々にしてある。そ こで、ピッチをした側は、当事者意識をもちつつも、 頑なに自分のアイデアや手法に固執せずに、意見を 聞いて変化させていったほうがうまくいく。……そ んなことが世界ではしょっちゅう起きてるねん。 ピッチをするというのはそうした化学反応が起きる 場でもある。ピッチする側は、そうしていかに早く 市場に合った形で方向転換をできるか、ピボットで きるが勝負になるねん」  「へえ……」  「ちなみに日本の場合は、こうしたピボットとい う考え方がない。日本は、ガチガチの事業計画書を 作って、ゴールをしっかりと固めてしまうからな。 一度決めたゴールにひたすら真っすぐ走ろうとする。 うまくいかなくても、時代遅れになっていても、は じめに設定したゴールにこだわるねん。だから、 Airbnbやべ呂ざg、instagraヨのように、ピボット で成功するといったことが起こりにくい」  「ああ、なるほど」  「そうではなく、ロンチプランからスタートして、 一歩歩いてピボットする。当初目指していたゴール はあるけど、やっぱりこっちかええ、あっちにしよ う、なにかあるごとに変化していくんや。最終的に 全然違うゴールにたどり着いてもええ。そうするこ とが早く成功に近づいていく鍵や」  「なるほど」と一歩はうなずいた。  「フン」とそばで声がするので見ると、気がつけ ば隼人が近くに立っていた。  「それと、最後にもうひとつ」  矢弦は、人を説得するには三つの手段があると いった。  「相手を説得するポイントは次の三点。@正面か らの正論、A横からの情、B背後からの恐怖、や」  「正論? 情? 恐怖?」  「せや。まずは@正面きって論理的に納得させる 必要がある。問題はなに? 質は高いか? 解決策 は秀でているか? 持続的か? チームの能力・経 験値は? ただ、この正論だけでは説得は難しい。 そこで次に、A情に訴える物語が効果的になる。身 の回りの話、親近感のある話、逼迫感のある話など で納得させる。そしてそれでもダメな場合、B脅迫 ではないが、これをしなかった場合にどんな悪いこ とが起こりうるかを共有する。やるとよい、ばかり でなく、やらないとヤバいという理論や」  「説得の三ポイント。ああ、なるほど」一歩がい  「ポンドにわかってんのかよ」と隼人がいう。  「うん。……ゝつちの姉ちゃんがよくやってるヤツ だ」 −一歩は、今朝の姉とのやり取りを思い出す。  「一歩、今日の晩御飯の買い物、あんたがやっと いてくんない? ついでにクリーニング取ってくる のと、幸代さんのところへの差し入れと」  「また俺?」  「だって、あんたが一番暇だし、家にお金いれて ないし、労働で返すしかないでしよ[正論]」  「はあ」  「あんたがそう渋い顔すると、母さんが気にして 全部自分でやろうとするでしょ? 母さんに負担を かけたくないでしょう?[情]」  「ちえっ」  「あI、あと、夜、出かけるなら帰りに『潮屋』 のプリン買ってきて」  「なんでだよ。ちょいちょい母さんに関係ない仕 事も入れてくるよね? 昨日は姉ちゃんの車、洗わ されたし。なんだよ、プリンて。姉ちゃんが食べた いだけだろ? 『潮屋』なんて帰り道じゃないんだ よ。わざわざ電車乗り換えろっての?」  「あIあ。育児、家事ってのも重労働で疲れるな あ。文句あるなら、あんたの壊したギターも、コー ヒーぶっかけて汚したマンガ四十巻も、今すぐ弁償 してくれていいんだよ? 姉さんの大事な宝物だっ たんだけど、同じものが手に入るかなあ[脅迫]」  「……承知しました」 −ということで一歩は今日、帰りにプリンを買っ て帰らなければならない。  「−みたいなことだろ?」  「おまえんち、姉ちゃんものん気なんだな」  隼人がいった。  「隼人、一歩。ピッチでどんどん自分のアイデア を披露して、ブラッシュアップしていくんやで。 ジッと考えこむより、そうして行動して成功につな げていく」  そういって、矢弦は別の参加者だちから声をかけ られ、その場を去っていった。  「ちえっ」とぼやく隼人に、  「僕はすごいと思っだけど。隼人さんのプラン。 AIとか。さすがだなあって」  「うるさいよ。ヘタレに慰められるのが一番こた える」  「あ、そ」  「つか、腹立つ。おまえのピッチのほうがよかっ たってことだろ? 俺は途中からしか聞いてないけ どな。たしかにおまえは、質問に、知ったかぶりも してないし、誠実には答えてた。当事者感があるっ つうのは、ああいうことをいうんだろ」  「ええ?」と引く一歩。  「なんだよ?」  「……人を褒めるなんて珍しい。よっぽどさっき のピッチがこたえたんだね」  「うるさいな」  「でも僕が質問に答えられたのは、普段、隼人さ んが僕のプランにうるさくケチをつけてくれたおか げだけどね。相当、鍛えられてたから。隼人さんの ケチに比べれば、質問者の質問は優しいもんだよ。 ポンド助かった」  「ケチつてなんだよ、感謝するなら、もっとちゃ んと感謝しゃがれ」  「へへ」と一歩は隼人に笑つてみせた。  「うIん?」  その一歩と隼人のピッチを、現代建築社の春奈が 遠目に見ていた。  「赤井さん? ぼちぼち、帰ろうか」  緑川がその春奈に声をかけると、春奈はまだ一歩 のほうを見ていた。  「どうしたの?」  「さっきピッチをしてた人、知つてる人かも」  「え? そうなの? 声かける?」  「いえ、いいです。知り合いの知り合いってだけ なんで」  春奈はくるりと背を向けて歩き出した。  「……相変わらずマイペース」  緑川は春奈にしたがい、「カフェーカオス」を後 にした。  「じゃ、僕こっちなんで、また明日」  「あ、はい。あ’・ 新規事業チームの次のミー ティングつていつでしたっけ?」  「明日だよ。会議室の都合で前倒しに。また『解 決したい問題』を話し合うって」  「了解です’・ ではまた」  春奈と別れて緑川は、家へと走った。  緑川には一歳の娘と三歳の息子がいる。テレビ局 の広報に勤める妻が昨年、育児休業から復帰を果た したため、緑川は一時期、妻に代わって育休や時短 勤務をとっていたこともある。今は、通常勤務に 戻っているが、なるべく早く帰宅するようにしてい る。  今日は、妻が代休をとって家にいるので、会社帰 りに「カフェーカオス」に寄ってみたのだ。  というのも近頃、緑川もキャリアプランに対する 悩みが尽きないからだ。  緑川が、ひとたび育休を申し出てからというもの、 その後どう挽回しようと思っても「あいつはキャリ アを諦めた」という空気を払拭できないのだ。  「諦めた覚えはないんだけど」  緑川にはそれが不満だ。  育休明けに、やむなく時短勤務を会社に申し出た ときも、ひと悶着あった。取得の許可は得られたも のの、「妻を説得もできないのか」、「俺らの時代は、 家庭を振り返る暇なく働いたもんだぞ」「キャリア を捨てるってことか?」と上司や先輩、他部署の人 からいわれることは少なくなかった。  今でも、子どもが熱を出すと、仕事を抜けられな い妻に変わって、緑川が仕事を切り上げて帰ったり することがある。早く帰るだけならまだしも、やむ を得ず「会社を休みます」などといった場合には、 その報告時や出社後、ちょっとした洗礼を受ける羽 目になる。  「子どもが熱を出したくらいで休むなんて」  「嫁にやらせろよ。情けない」  「仕事をなめるな」  直接的でなくとも遠回しにいわれたり、態度で匂 わされたりする。  そのたびに緑川は、  「専業主婦が当たり前の時代でもあるまいし」  と内心思いながら、やり過ごしている。  というのも、育休をとる男性会社員が全国で七 パーセント程度しかいないという現状では、まだま だ緑川はマイノリティでしかなく、主張は認められ にくい。亶]つ向から反論しようものならますます働 きにくくなるからだ。  「夫婦ふたりの子どもなのに、妻のほうだけ育児 の負担を担って、キャリアを犠牲にするのはおかし い」といい出しだのは妻のほうだった。だが、そう いわれて、緑川のほうにも特に異論はなかった。  夫が外で働き、妻が家を守るなんて構図は、自分 たち夫婦には当てはまらないし、会社でも男女平等 に仕事を与えられているのだから、育児の負担も平 等でいいと思う。  緑川自身、実家は畳屋だったのだが、父親の仕事 場と家庭の距離が近く、幼稚園の送り迎えも父親の 軽トラックだったし、遊び場も父親の作業場のそば だったりと、育児の現場に父親が常にいた。父が特 別に子煩悩たったせいでもあるが、母も専業主婦と いうわけでなく、店には必要な人材だったので、父 と母とで育児を分担していたように思う。そのため、 緑川自身は、子育てというものは、父親と母親とふ たりでやるものだと思っている。  だが、会社員となると、そう簡単にはいかない。 自分が休むとほかの人にしわ寄せがいってしまうよ うな体制のため、常に休みづらい雰囲気があるし、 迷惑もかけてしまう。いつも後ろめたさと罪悪感が つきまとう。  その一方で、育児に時間と精神を費やしすぎて、 仕事上、自分の思うパフォーマンスを発揮できなく なっていることにも苛立ちを覚えてしまったりもす る。  育児とキャリアの両立がこんなに難しいこととは 思わなかった。  そんなこちらの気も知らず、  「経理なんて楽だからそんなのん気に休めるんだ。 編集や、クライアントを相手にする営業じゃそうは いかない」  といわれることもある。  「育休で休むようなヘタレイクメンなんか首にし て、AIをいれりゃあいいんだ。経理なんて、人間 がやるよりAIのほうがよっぽど優秀だろうから な」  といっだのは広告営業の黒田部長だったか……。  おそらく彼はAIのことも経理のこともほとんど わかっていない。経理は思っているほど、ルールや マニュアル通りに進められるルーティンワークばか りではない。AIが苦手とするような煩雑でそのつ ど判断が必要となる例外処理が山ほどあるのだ。  まあ、黒田のようにバックオフィスの仕事をバカ にする人間は一定数いる。そして、間違いなくその 手の人間が、経理書類の提出期限を守らなかったり、 アバウトな支出報告をして、さらにこちらの手間を 増やすのだ。自分の仕事だけが大変だと思っている、 ただの想像力のない人間だ。それなのになぜか自分 のことを「デキる人間」だと思っているからタチが 悪い。  「こっちはあんたの頭じゃ理解できない高度で緻 密な作業をしてるんです」  といってやりたいが、この手のオヤジは物分かり が悪いうえに執念深いのでやめておく。  近頃緑川は、こういう人間こそ、育児をやるべき ではないかと思ったりもする。完璧、予定通りに進 む、なんてことは決してない。長期的な見通しはあ るものの、常に優先順位を判断しなければならない。 不測の事態に効率的に対処しなければならない。忍 耐強くならなければならない。想像力と創造力を駆 使しなければならない。  これらのことは、ルーティンワークや与えられた 仕事をこなすだけでは得られないスキルである。そ れなのに……。  「育児がキャリアのマイナス要因になるなんてバ カげてる!・」  と思ってもいえないのが現実だ。会社は短期的な 成果でしか人を評価しない。  そんな中で新規事業という報われない業務に手を あげた自分がばかばかしくなることもある。  ただ、経理の仕事をしていると会社の状況が真っ 先に、かつ直接的に、客観的にわかってくる。この ままではダメだ、なにか新しい事業をやらなければ、 そして新しい事業ができるならそれに関わって見届 けたい、と思ってつい手をあげてしまった。もちろ ん育児と普段の仕事をしながらだ。  「失敗したかなあ」  そんなに頑張っても、どうせ会社はそんな努力を 認めたりはしない。  だが、希望がないわけでもない。    「会社人」になるな、「社会人」たれ。  「カフェーカオス」で聞いた言葉で緑川の迷いが 吹っ切れた。  もはや会社のために働くんじやない、自分のため にやるんだ。  「僕は社会人として、やりたいようにやるまでだ」  翌日、緑川は、新規事業チームのミーティングの 前に、青木を捕まえていこうと思っていた。ミー ティングの日時が前倒しになっだのだが、新規事業 にあまり乗り気でない青木なら、「知らなかった」 とさぼってしまうのではないかと気になったからだ。 普段なら、他人が仕事をさぼろうと特に気にしない タチだが、なんといっても今回は、人数の少ない チームだ。メンバーは大事にしたい。  そう思っていると、意外なことに、青木のほうか ら、経理部まで緑川を迎えに来た。  「ええ? どうしたの?」と思わず、緑川は驚い た。  「今日に前倒しですよね? ミーティング」と青 木は確認しに来たのだ。  「あ、うん。今日だよ」と緑川は応じた。  珍しいこともあるもんだ。  そう思って緑川は青木と共に会議室に向かった。  会議室に入ると、春奈と黄島がすでに、待ってい た。  「さ。座って」と黄島は促した。  ホワイトボードには、各自が事前にメールで送っ た「解決したい問題」案が列記されていた。  「みんな、事前にそれぞれが気になっている『問 題』を送ってくれてありがとう。どう? 課題探し、 大変だった?」と黄島。  「いやまあ。でも勉強になりました」と緑川。  「ポンドにそうかも。ここ数日で、『やりたいこ と』、『自分の解決したい問題』を意識して探すって、 とてもいいことだと実感しました」と春奈。  「そう? よかった。青木君は?」と黄島が青木 を見ると、青木も渋々うなずいていた。春奈は続け ていった。  「与えられた仕事をやってるだけだと、うっかり、 社会の仕組みを知らずにやり過ごすとこでした。受 け身で仕事をするのと、自ら『なにか解決すべき問 題があるんじやないか』と思って仕事をするのとで は全然、違いますね。受け身でいると、すぐそこに ある問題が、見えないもんだなあって、思いまし た」と春奈。  「それは同感」と緑川。  「へえ。そういう赤井さんが、あげてくれた問題 は……『建設職人の待遇の悪さ』だね」と黄島。  「はい。そうです。前回、リフォームのマッチン グサイトのアイデアを出したんですけど、需要があ るのにできないのは残念だなと思って。なにかでき ないかと、リフォーム会社の人や職人さんたちに話 を聞いていたら、興味深い話が聞けて」と春奈。  「せっかくだから、説明してもらえるかな」と黄 島。  「私か解決したいと思っている問題は『建設職人 の待遇の悪さ』です。先にちょっと質問です。人手 不足といわれる建設業界ですけど、実際、職人を集 めるときって、どういうふうにしてるか知ってます か」  春奈は三人に尋ねた。  「……人手不足といいつつ、ロコミとか紹介とか、 非効率な人集めをしてるっていうんだろ?」と青木。  「えり 知ってるの?」と驚く春奈。  「俺だって、まず建築業界の問題から洗い直した からな」  「ウソお。音t外」  「え? ねえ、続きが気になるんだけど」と緑川。  「えっと。そう、建築業界って人手不足といいな がら、雇い手である業者は広く人を募集したりしな いんですよ。実際には、抱えている職人を使うだけ で、それ以外でも、その職人の仲間を紹介してもら うだけなんですって。職人も仕事をくれる下請け会 社を超えて、他の会社に仕事をとりにいくこともな いので、かなり閉鎖的な受注形態なんです」  「へえ」と緑川。  「しかも連絡手段は電話。建設業界はびっくりす るくらいICT化か遅れてます」  今日の青木は珍しく、スマートフォンをいじらず 聞いている。  「……tEt外」と緑川はその青木を見ていった。  「こうした構造の結果、囗本の優秀な職人は不当 に安く使われているんです。たとえば、顧客が外装 を大手施工会社に発注すると、四割をその大手が マージンとしてとって、下請けが二割をとって、職 人は残り四割で受注するんです。実際には下請け会 社がもうひとつやふたつ入るので、もっと柢い場合 もあります」  「へえ。そりゃひどいね」と黄島。  「それだけじゃありません。この川下にいる職人 にとっては、支払い遅延や、未払い残業、長時間労 働は当たり前。そのくせ、工事が終わると逆に次の 仕事の声がかかるまで暇で収入が不安定。ひどくな いですか」  「職人自身は声をあげないの?」と緑川が尋ねた。  「それが、職人は、下請け企業から声がかからな かったら仕事にあぶれてしまうので、下請け企業に 対して文句もいわないし、下請けの顔を立てて、よ そで仕事をとろうともしません。不透明な請負業務 や過剰な下請け構造のせいで、声をあげようにも、 発注元や元受けの力が強いし、何層にもなる下請け 構造に抵抗しても無駄だと、あきらめてしまってる みたいなんです」  「……それを解決したいってことだね?」と黄島。  「そうです。私か解決すべきだと考える問題は、 きつい、汚い、危険の3Kのうえに、不当に安く使 われている職人の環境を改善することです。解決手 段としては、利用したい顧客と職人をつなぐマッチ ングサイトをつくります」  「またマッチングサイト?」と緑川はいった。  「はい。『建設現場』と『職人』をつなぐマッチン グサイト。サイトというより、実際はスマートフォ ンのアプリがいいかも、と思ってます。マッチング サイトで、希望する条件が明確になって、それに直 接応じられるような仕組みになれば、職人の待遇も 改善していくと思うんで。マッチングサイトづくり は職人を正当に評価してもらうための仕組みづくり です」  「なるほど」と黄島。  「……それはご立派だけど」と聞いている青木。  「……ゝつん」と緑川。  「なによ? 緑川さんまで反応が鈍い」と春奈。  「いやあ、なんていうか、素晴らしいとは思うけ ど、壮大すぎて、イマイチ当事者感がないっていう か」と緑川。  「なんでですか? これが今、私たち現代建築社 の足元を揺るがしかねない問題でしよ? そもそも こんな状態を放置してるから、建設現場に若者が来 ないんですよ。大工の数は、一九九五年の七十八万 人からずっと減り続けていて二〇二〇年には三十万 人、二〇三〇年には二十万人になるともいわれてい ます。なり手がいないこの現状をどう思います? 私たちが建築雑誌で食べていけるのも、この職人た ちが建築現場を支えてくれてるからでしよ? 若い 人が働きたいと思う現場に変えていかないと、建築 雑誌に未来はないんじゃないですか?」  「まあ理屈じゃそうかもしれないけど」と緑川。  「囗本には世界に誇れる職人がたくさんいるのに、 そうした人が認められない、不当に企業に搾取され ているというのは残念なことです。頑張ったって報 われない。そんなところで、誰だって働くのが嫌に なると思いません?」  春奈はさらにいう。  「建設業界に未来がないと、うちの会社にだって 未来はないです。衰退の一途をたどるしかないです よ!・」  「……」と黙り込む青木と緑川。  「このサービスで、建築業界の未来をつくってい こうと。そういうことだね」と黄島。  「でもさ、そんなに素晴らしいことたっていうな ら、他社はやってないの? そうしたサイトの前例 は?」と緑川。  「前例? 出た。なに、それ。『ミスターしようが ない』みたいな」と春奈。  「どうせ聞かれるんだから準備しといたほうがよ くない? そんなに需要があるならどうして他の企 業はやらないんだって話になるじやん」と緑川。  春奈が説明する前に青木がいった。  「すでにやっている企業はいくつかありますよ」 と青木。  「あるのり」と緑川が驚いた。  「今いおうと思ったのに’・ ええ、どこが一番っ てわけではないですけど、市場が大きいから伸びて るみたいです」と春奈。  「なんだ、じやあ、ただの後追いじやん。ダメ じやん」と緑川。  「そんなことない。職人の種類が一体どれくらい あると思ってるんですか? 優に七十は超えるんで すよ。まだまだ攻めるところはあります」と春奈。  「だからこそ、もう少し絞り込みが必要なんじや ないか。特徴づけというのが」と青木。  「そうそう……つて、あれ? 青木君、賛成な の?」と緑川。  「なるほど。絞り込みね」と黄島。  「たとえば手軽なリフォームに特化して、『商空 間』の読者層、店舗オーナーやこれから店舗をもと うという創業者向けに、リフォーム職人を紹介する ようなマッチングサイトをつくるだけでいいと思う けど」と青木。  「あ、なるほど」と春奈。  「いや、だめじやない? それこそコンサル業と かぶるし、マッチングサイトだし」と緑川。  「いやもう、マッチングサイトなんて、他社がい くらでもやりそうなことだし、反対すること自体が もうナンセンスじゃない?」と春奈。  「そうだね。ここまでくると、ポンドに他社にや られてしまう前に、自分たちで市場をつかんでしま うことだね。『店舗オーナー』と『リフォーム職人』 のマッチングサイト、か。いいね。テーマを絞るの は、当事者感が出ていい。いっそ、前回の打ち合わ せで出たような、住まいの多様化に合わせて、個人 と、リフォームの職人とをマッチングさせてみるの はどうだろう」と黄島。  「あ、いいですね’・」と春奈と緑川。青木も顔を 上げた。  「たしかに。子育て、セカンドライフ、それぞれ のテーマに合わせて、リフォーム職人を気軽に頼め るっていいですね」と春奈。  「たしかに。イメージがクリアにわいてきまし た’・ じやあ、その線で収益予測や市場規模の数字 を積み上げてみましようか」と緑川。  「ああ、頼むよ」と黄島。  「じゃあ、俺は、ビジネスモデルと競合他社を洗 い出しておきましようか」と青木もいった。  「ええり」と春奈は青木を見た。  「なんだよ」と青木。  「意外」と春奈。  「……じゃ、そういうことで。時間なので、僕は 失礼します」と青木は去っていった。  「ええ〜? 帰った。でもいいのか。なんか調子 狂う」  春奈と黄島と緑川は青木の去った後を眺めていた。  「青木さん、やる気じやん。なんかあったの?」 と春奈。  「さあ……」と緑川。  「いいことじやないか。よし!・ じやあ、どんど ん進めていこう’・」  黄島がいい、春奈たちの新規事業は動き出すこと になった。  黄島と青木が去った後、緑川もいこうとすると、  「緑川さん、すみません’・ このプロジェクター とスクリーン、上の階に返しにいくの手伝っても らっていいですか?」と春奈に声をかけられた。  「あ、うん、いいけど」と緑川は手を貸すことに した。  そのとき、春奈のスマートフォンが鳴った。着信 履歴を見て「やべ」と春奈がいうので、「なに? システムトラブル? なら、あと、やっとこう か?」と緑川は尋ねた。  「いえ、私用で。昨日、『カフェーカオス』で知り 合いを見たかもっていったじやないですか? あれ、 実は友だちの彼氏なんですよね。それでちよつと、 友だちに連絡したら、『別れたほうがいいかな』と か『別れないほうがいいかな』とか、ちよつとめん どくさいこといい出して。なんか『超』情緒不安定 で参つちやうんですよねI」と春奈。  「へえ、思いっきり私用だね」  「ということで。すみません、ちよつと友だちヤ バいんで。あと、よろしくお願いしまIす」  「ええ〜り」  唖然とする緑川を尻目に、春奈はスマートフォン で「あ、美月? どうした?」と話しながら、会議 室の外へと出ていった。  「相変わらずマイペース」と緑川はぼやきながら も、後始末を引き受けた。  翌日、「カフェーカオス」には再び一歩と隼人が 来ていた。  矢弦がおらず、気楽に先日のピッチの反省をして いる一歩と隼人。  「なるほど、ピッチの内容って、クラウドフアン ディングや、銀行にお金を借りるときの事業アピー ルにも使えそうだね」  一歩がのん気にピッチ内容を直しながら、隼人に いった。  「なに? クラウドフアンディングやんの?」と 隼人が尋ねると、  「いや、うIん。でも、三百万円も集めるのは難 しそうだし」と一歩。  「なんだよ」  「借金したくないなあ」  「はあ? じやあ、どうすんだよ。おまえの資金 なんかじや、店をもつなんて絶対無理だぞ」  一歩の手元の資金は、これまでの貯金と、退職金 とファンの店で働いたお金を合わせて合計二百万円 ほど。  隼人はいう。  「個人開業の小さな飲食店でも七百万円〜千二百 万円はかかるというぞ。店の場合は、物件取得に数 力月分の保証金や厨房機器の設置費用もいるし、開 業から半年〜一年分の運転資金と生活費も見ておか ないと危ないからな。二百万円なんかで、店をもて るかよ」  「むむむ。わかってるよ」  「ちなみに、銀行の創業支援融資だって、カネの あるうちにしか貸してくれないぞ。開業資金の三分 の一から二分の一を自費で賄うのが基本だからな。 それに、ベンチャーキャピタルは、そんなしょぼい 起業にお金出さないし」  「ちえっ」  「それか補助金や助成金でも使えよ。補助金はと れるかどうかわからないけど、助成金は申請すれば とれるだろ」  「でも受け取れるのはどっちも一年後たっていう んだろ? 何度も聞いたよ」  「それかいっそ一年働いて、カネ貯めるか」  「むむ。一年か。うIん。まあそれくらいはかか るよね」  「なんだよ。歯切れの悪い。開業を諦めるか?」  「いや、開業はする’・」  一歩は、先日、母に頼まれ幸代に差し入れに行っ た際に、「子ども向けの弁当屋」について語ってみ たのだった。すると、幸代はひどく興味をもって、 そのまま近所の友人らを呼んできて、彼女だちとと もに「社会の役に立つことなら関わりたい」「私た ちもまだまだ活躍したい」「短時間のシフトなら働 きやすい」と意欲を見せたのだった。  そのうえ、彼女だちからも、スーパーやコンビニ の惣菜について「時々利用するならいいけど、毎日 はちょっとね」「味が濃い」「飽きる」「身体にいい 気はしない」との不満があることも聞くことができ た。それらを聞いて、一歩はますます「子ども向け の弁当屋」を町に開きたいと考えた。  「なんとか開業費を抑えて開業する’・」  「なんとかってなんだよ。ああ。店舗をもたな いってことか? デリバリー専門とか、キッチン カーとか? おお、キッチンカーつてどうよ」  「それがさあ。子ども用弁当って、同じ地区内で 似たような時間帯で同時多発的に必要になるからさ、 デリバリーも機敏でないとダメなわけ。キッチン カーだと拠点も定まらないし、停める場所も難しい からなあ。それに俺、やっぱリイートインスペース は譲りたくない」  「ふうん。じやあ店舗にするわけ?」  「そうなんだよ。で……店を間借りしようか なあって」  「間借り?」  「今、バルとかバーとか、夜だけ営業するレスト ランとかが、昼の空いている時間だけ、店を貸して たりするだろ?」  「ああ。そういうことか。おまえにしちや、考え たな」  「うん、まあ……」  これは、飲食店経営をしているファンの受け売り だ。実際ファンも、最初のカフェは、深夜営業のバ ルのスペースを、日中、格安で借りてオープンさせ たそうだ。それを参考に、一歩も今、地元で間借り できる店を探している。  「うまく見つかるといいけど。隼人さんのほうは どうなの? スマート管理人は?」  「『隼人』でいいよ。仕切り直すよ。時間はまだあ るからな。俺、起業前に勉強したいし、人脈つくり たいから留学するし」  隼人は、アメリカ、ボストンにMBA留学するこ とが決まったのだという。  「えり そうなの? すごいね’・ また急に」  「急じゃねえし。ずっと準備してたし。俺は、本 気で世界を変える起業家になりたいから。どうせな ら世界一になりたいし」  「世界一? すごい’・ じゃ、俺も俺も’・」  「黙れ、凡人。なにが俺も俺も、だ。『ついでに』 みたいに軽くいうんじやねえ」  一歩と隼人が話していると、カフェに思わぬ人物 が入ってきた。  美月だった。  「えり」と一歩。  「なんだ?」と隼人。  「え? どうして」  一歩は驚いて立ち上がった。  隼人も、一歩の視線の先を振り返って、美月を見 た。  「誰?」と隼人。  「えっと、彼女……」  「は? 嘘つけ」  そのとき、店内を見回していた美月も、一歩に気 づいたようで、静かに歩み寄ってきた。相変わらず 姿勢がいい。顔立ちもいいので、みんなが美月を見 ている。  美月が一歩の前まで来て、立ち止まった。  「……」と互いに黙り込む美月と一歩。  「……冫・」と隼人が距離を起きながら、ふたりを 盗み見ている。  「……ゝ凡ゝ凡っと。久しぶり」  一歩が沈黙を破り、なにから説明しようかとうろ たえていると、美月はいった。  「春奈に聞いたの。一歩をここで見たって」  「え? そうなんだ。来てたんだ、彼女ここに」  「うん。春奈もびっくりしてた。起業家になるっ て、ピッチをしてたんだって?」  「え? ああ、あのときか。へ、へえ。気づかな かったなあ……と。えIと……」  なにから話せばいいんだっけ?  一歩が話の接ぎ穂を探していると、美月がいった。  「とどろきスポーツ、辞めたんだね」  「ああ、そうそう!・」  そうだった。  「辞めたっていうか、倒産しちやってさI」  明るく自嘲気味に一歩はいった。  「知ってる」  「え、ええ? なんで? いつから??」  「昨日。なんでとどろきスポーツ辞めたのか不思 議に思って春奈と話してたら、春奈が検索してくれ てわかったの」  「そ。そっか」  「……話してくれたらよかったのに」  美月は笑うこともなく一歩を見ていた。  「いやあ、はは」  「……。なにがおかしいの?」  「……いや別に、おかしくないです」  「……いってくれてもよかったじやん」  「そうだけど」  美月が少し責めるような口ぶりになっだので、一 歩は思わずはぐらかしたくなった。  「まあ、いっても、仕方ないかなって思って」  だって、そのあと、起業するとかしないとか、 もっと大騒ぎすることになって、失業とか倒産とか、 そういえば、そんなことどうでもよくなっていたし。  「仕方ない?」  美月は少しだけ表情をゆがめた。  「だって、そうじやん。まあまあ、そうそう、そ れに、俺、最近やりたいことが見つかったっていう かさI、それでここんとこバタバタしちゃって」  違う、こんなチャラい説明をするはずじゃない。  たしか、もっと話すべきことがあったはず。  「でもまあ、そんな感じで元気にやってるよ。 そっちは?」  一歩がそういうと、美月はいった。  「あのさ、一歩」  「うん」  「私、なにか手伝えることあるかな」  「え?」  「小さなことでも、別になんでもいいけど」  美月はいった。  一歩は美月の思わぬ提案に戸惑った。  「いやI、別に……」  美月が真面目な顔で返事を待っているので、一歩 もふと真面目に正直に考えた。  「うIん。……別になにもない。うん。なIんに もないよ。てか、今自分のことで手いっぱいって感 じかなあ」  「……そう」  「うん」  「そっか。だよね」  「うん、ぜんつぜん、大丈夫。俺のことなんて、 心配しなくていいから’・」  そのとき、にわかに一歩は、近々、美月の誕生日 であることを思い出し、急にお祝いをしようと思い 立った。  「そうだ’・ 美月、来週さ’・」  「あのさ、一歩」 「うん」 「……私たち、別れよっか」 「え?」 一歩は驚いて美月を見た。 美月は真顔だった。 「なんで?」と一歩。 「別れよ。そのほうがいいよね」 「え? えり どういうこと?」 一歩はうろたえた。 不穏な空気に、隼人は数人の野次馬をふたりから 遠ざけ、追い払っていた。  「えI……冫・」と一歩が二の句をつげずにいると、 うつむき加減だった美月が、  「じやあ」と、背を向けて歩き出した。  「え、ちょっと待って’・」  といいつつ、追いかけられない一歩。  美月の背中が、一歩のことを頑なに拒否している ように見えたからだ。  「え? 怒ってる? 怒ってる? 俺なんかまず いこといった?」  逡巡する一歩が、追いかけられずにいると、  「おい。追いかけるなら、さっさと行けよ」  と隼人が、一歩の背を押した。  「でも……」  美月は頑固だ。  特に、ああいういい方をしたときはちょっとや そっとでは機嫌が直らない。  なにがあったんだ?  「早くしろよ。行っちやうぞ」  隼人がせかすが、動けない一歩。  美月の姿は外へと消えていった。  「あIあ」と、隼人。  「……どうして」と唖然としながらも一歩は、ふ と気づいた。  美月の誕生日は一週間前で、とうにすぎていたこ とに。  「……あれ。なにやってんだ? 俺。なんかいろ いろしくじってる?」  と、一歩はただその場に呆然とたたずんだ。   【解説】「これを解決したいから、カネ、      ヒトが欲しい」      ストーリーを明確にするのは必要      不可欠    ピッチも「構想」よりも「行動」でよくなる  起業家にとって、ピッチは必要不可欠な技能です。 その技能の優劣によって、資金調達に成功したり失 敗したり、結果が左右されます。さまざまな状況下 で、チャンスを逃さず対処できるよう準備をしてお きましょう。  第六章で「事業計画は『構想』より『行動』でよ くなる」と述べました。計画を、時間をかけて何度 も頭の中で練り直す「構想」よりも、プロトタイプ を持って人に聞いて回る「行動」こそが成功への近 道だと。ピッチも同様です。ぜひ、自分のアイデア をもって、いつでもどこでもピッチをし、フィード バックから学び、成功につなげていきましょう。  ところで、投資家というのは起業家のピッチのな にを見ているのでしょうか?  一番はビジネスモデル。次に、「その起業家が本 当に信頼できる大なのかどうか?」、また、「聞く耳 をもっている大かどうか」ということです。  そして同時に、第一印象が重要だったりします。 その人のもつエネルギー、動き、服装……といった ことから得られる第一印象は〇一一秒で決まります。 第一印象の九十三パーセントはノンバーバル、すな わち言葉以外の行動(姿勢、立ち方、握手の仕方、 アイコンタクトの取り方)で決まります(バブソン 大学アクセラレーター。プログラムのリサーチデー タより)。こうしたことをもとに、投資家たちは意 思決定をしていくことが多いのです。     「なにが欲しいか」を明示する  また、ピッチの最大の失敗は、∩弘To Actionが ないこと。素晴らしいピッチでも、最後に求めるも のがないと意味がありません。「私たちのビジネス はこんなものです、すごいでしょう」といって終わ るパターンほど無駄なものはありません。そうでは なくて、「本当に困っているので、ここの部分をな んとかしたいから資金をください」「この点を解決 したいので、誰かを紹介してください」というなど、 必要なことを必ず明示する。なにかしてほしいとい う訴えを抜いてしまうピッチというのは、なにも起 きませんし、意味がありません。起業とは潮流を創 ること、すなわちファンを増やすこと、人をどんど ん巻き込んでいくことです。ですから、「なにをし てほしいか」を具体的に明らかにして、人にしっか りと伝えることが大切です。    起業のモチベーション  起業家は、「金持ちになりたい」「有名になりた い」という物欲、エクストリンジックなモチベー ション(extrinsic motivatioコ)よりも、「自分自身の ために」「自立したい」「他人の指図を受けたくな い」など、インドリンジックなモチベーション (intrinsic motivatioコ)のほうが成長するというリ サーチがあります。起業の際のみならず、失敗から 再起をはかる際も、インドリンジックなモチベー ションの傾向をもつ起業家たちがその後成長を遂げ ています(”Risiコg froヨthe Ashes: Cognitiくe Deterヨ11コaコts ofくeコture Growth after mコtrepreコeurial Failure." ET&P. 3Q (‥四): 209-236 より)。  「お金」というのはひとつの手段であり、本来の 目的は、「お金が欲しい」ではなく、「お金を使って これをしたい」というところにあるのではないで しょうか。  まず、自分ありき。そして、「自分がこういうこ とをしたいから」、また、「自分が社会のこういう問 題を解決したいから」、だからこそお金が欲しい、 というように、まずは「自分がどうありたい」とい う動機、欲望、そしてビジョンを明確にさせること が大切です。    ロジックの使い分けが重要  過去のデータや参考になるものが不確実な場合、 「因果関係に基づく理論」(Prediction〇『∩ausati〇コ』 より、「今あるもので始めるアイデアに肉づけをし ていく」(QSaoコo『mffectuation』がより効果的 です。ただし、場面・局面によって前者と後者の口 シックを使い分けることこそが起業的思考です。  日本では論理的思考や、統計データをとること、 確率を考えることの重要性が尊重されがちですが、 「まずはやってみること」です。    説得の3モード  人を説得するには、エトス(Ethos :倫理/信 頼)、ロゴス()ogos :論理)、パトス(Pathos : 情熱)の3モードが有効だといわれています。  エトス(倫理/信頼)とは「相手が倫理的に信用 できるかどうか」、ロゴス(論理)は、「理屈や論理 的に正しいことをいっているかどうか」、パトス (情熱)は「相手に共感できるかどうか」というこ とです。  人は説得されるとき、「倫理的に正しい」という 理由だけや、「筋が通っている」ということだけ、 「相手に共感できる」だけでも、なかなか動きませ ん。  エトス(倫理/信頼)、ロゴス(論理)、パトス (情熱)の三つが組み合わさったときにこそ、最も 人が動くとされています。説得力を高めるために、 ぜひ踏まえておきたい技術です。 第十章 「進んで失敗する」という      余裕が新しい価値を生む      突破口  Entrepreneurship is about anticipating  failure「 accepting failure「 learning froヨ  failure「 and making use of the lessons      起業道とは、失敗を必然として受け入れ、      そこから学び、次に役立てることの繰り      返しである。  「起業をしたら、ミスを犯すなんてことは日常茶 飯事や。ビジネスに失敗はつきものやからな」  矢弦が淡々とそういうと、  「え〜〜’・ もう、そんな脅されても」と一歩は 文句をいった。  一歩が「カフェーカオス」で、自分の起業プラン を「果たしてこれで失敗しないでやっていけるだろ うか」と不安げに見直していたときのことだ。  「脅してるんとちやう。失敗は必然のことや。事 前にどんなに心構えや準備をしていたって、想定外 のミスは起きる。せやから、必要以上に不安に思っ たり、警戒せんと、前向きなつき合い方をせえっ ちゅうてるねん」  「ええ? うIん……でも、とれないリスクはと らないほうがいいに決まってるじやないですか。事 前に『許容しうる失敗』を見極めておけっていって たじやないですか」  「それはそうや。以前、説明した通り、事前に 『いくらまでだったら失ってもいい』『いつまでなら 続けてもいい』『どこまでなら評判を落としてもい い』、そうした許容できる失敗の範囲はあらかじめ 定めておく必要はある」  「でしよ?」  「そうした範囲で小さな失敗を重ねて、失敗に慣 れて、より大きな挑戦、大きな成功へと導いていけ れば、それでええ。だが、それでも、や」  「ええ? まだなにか?」  「失敗というんは、想定の範囲内で起きるもんば かりやない。どれだけ準備していても、事故が起き たり、資金繰りに困ったり、仲間に裏切られたり、 さまざまな想定外の失敗が往々にして起こりうる」  「ええI……嫌だなあ」  「なにが『嫌だなあ』や。日本人は失敗を否定的 に考えすぎや。そりゃ、失敗というても千差万別、 いろんなものがある。たわいのないミスから、人の 生死にかかわる重大なものまでさまざまや。そうし た致命的な失敗は、もちろん、全力、全知識をもっ て避ける努力をするべきや。それでも、新しいこと をやると、思い通りにいかないことがなんぼでも起 きる。ただ、最善の努力のうえにおける失敗は、決 して『害』ではない。『悪』でもない。学びの機会 であり、飛躍のチャンスや」  「む、む」  「だいたい、『失敗しない人』なんてものを、わし は見たことない。成功の影に失敗あり、や」  「はあ……」  「失敗は必然。だからこそ、失敗に対しての姿勢、 失敗とのつき合い方が大事になるんや。起業の成否 を左右するというてもええ。大切なのは、失敗は起 きるもの、必然やと受け入れ、それを成功につなげ ていくことや。失敗には必ず学習効果やチャンスが 潜んでいると前向きにとらえて、学び、次に活かし ていくことや」  「簡単にいいますけど」  「それに、や。『失敗』というその困難な状況にど う立ち向かったか、どう乗り越えたか。そうした力 こそが、この不透明、不確実な時代を生き抜く力に なっていくんや。これからの時代、未知の状況、前 例のない状況に遭遇することはなんぼでもある。そ んなとき、どういう大学を出たかとか、どういう肩 書をもっているかとか、そういうことが事態を解決 してくれるわけとちやう。自分で考えて、行動して、 乗り切るしかない。知恵や人脈や粘り強さやいろん なものを駆使して、とにかく、良い方向へ、前へと 進めていくことや。そうした力は、行動、経験でし か培えへん。ひとつひとつの失敗を乗り越えて身に つけていくしかない」  「はあ……。なんか大変そうだな」  「失敗を恐れず、その失敗をどう活かすかに注力 する。考えもしなかった失敗は、それこそ思いがけ ない新たな価値を生む突破口になってくれたりする んや。だから『失敗はラッキー』なんや。『失敗で 遊ぶ』くらいの余裕をもて」  「遊ぶ〜? 無理、無理」  「なにが『無理、無理』や。すべては、あんたの 『これをやりたい’・』『こうなりたい』という力強い 志や信念がそれを可能にするねん。だからこそ、 しっかりその原動力となる『やりたいこと』、ビ ジョンをしっかりもてっちゅうことや」  「はあ……」  「……とはいえ。うIん……」と自宅に戻った一 歩は深いため息をついた。  自室の机の上には、描きかけの弁当屋のイメージ 図が置いてあった。  プランを具体的に進めていきたいところではある が、今の一歩は心が折れている。どうにもやる気が 出ないのだ。  「カフェーカオス」で美月に「別れよう」といわ れてから、十日ほどが経っていた。  一歩はあの後すぐに「ちゃんと話し合おう」と連 絡をとろうとしたが、美月は電話にも出ず、メール に返信をくれることもなかった。  「……欸tつてるよなあ」と一歩は、返信のないス マートフォンを片手によくよく考えると、とどろき スポーツが倒産してからというもの、美月と会って いない期間は三ヵ月にもなっていたことに気がつい た。そのうえ、一歩は、美月の誕生日をすっかり忘 れていたのだ。誕生日は、毎年、お互いに大切にし てきたにもかかわらず、だ。「まずいよなあ。なに やってんだ、俺」と一歩は自分に呆れ、嘆いた。矢 弦のもとで、「自分のやりたいこと」を追求するの に夢中になっていたあまり、時間が経つのもすっか り忘れていたのだ。  「とにかく一度きちんと話さなきや」と、一歩は その後も何度か美月のマンションにも行ってみたが、 美月の不在が続いて会えないままたった。訪れるた びに、郵便受けには郵便がたまっていて、どうやら 不在は一日二日のことではないらしい。  「どこに行ったんだ?」と一歩は首を傾げた。  美月のことが気になりつつ過ごしていると、つい 先日「カフェーカオス」で見覚えのある顔を見つけ た。春奈という美月の友だちだ。一歩は思い切って 声をかけてみた。  「ああ。美月のこと? 今、ルートヴイヒス「I フェンーアムーライン」と春奈はいった。  「え? ルートヴィヒ……な、なに?」  「世界最大の化学メーカーのドイツ本社があるん だって」  「ドイツ? え? でも、なんで?」  「出張だって。学会に参加するとかいってた。会 社から派遣されて勉強しに行ってる」  「そ、そうなんだ。いつ戻ってくるんだろ」  「さあ? 帰りに会いたい昆虫博士がいるとか いってたから、時間かかるんじやないかな」  「昆虫博士?」  「環境愽士だったかな? なんか忘れちゃった」  そうだよな。オタクすぎる美月は、好奇心が旺盛 でやりたいことが多く、常に忙しい。仕事や趣味に 没頭してしばらく会えないなんてことはこれまでも あった。ここしばらく会わなかったことは、さして 問題じゃないのかもしれない。  「あの……、美月、俺のことなにかいってなかっ た」  恐る恐る一歩は、春奈に尋ねてみた。  「なにかって? 美月の誕生日を無視したこと? プロポーズをほのめかして止めたこと? 『相談し たいことがある』つていったのに会わずに済ませよ うとしたこと? 失業とか倒産とか大事なことをひ とことも相談しなかったこと? 数力月会おうとし なかったこと? えIと、ほかにもあった気がする けど……まだいる?」  「えIと……。いえ、十分です……。ありかと。 ……帰ってきたら話してみる」  春奈の匸冐一句がこたえて、一歩は凹んだ。  「帰ってきたら、か。戻ってきたら、また忙しい と思うけどな。ボストン行く準備とかで」  春奈は意味深にいった。  「ボストン? ええ? そんな出張ばっかりな の?」  「出張とは隕らないわよ。ニューヨーク転勤の話 もあるみたいだし」  「ええ? ニューヨークり え? どうなってん の?」  「ポンド、なんも知らないんだね」  「……はあ」  「美月、最近いろいろあったんだよ。プロポーズ はなかったことにされるし、ほかにも転勤話とか、 やりたい仕事のこととか、人生の転機っていうか、 相当悩んでたし。そういうの、『彼氏』がいるなら その『彼氏』と相談したかったんじやないのかな」  「いってくれたらよかったのに’・」  「つてか、そっちか全然、聞こうとしなかったん でしよ?」  「え? ■■■■■■ いや」  思い返す一歩。そういえば、少し前に「時間があ れば相談したいことがある」というメッセージは来 ていたように思う。でも前にあったとき美月は、合 気道を習うかテコンドーを習うかで迷っていたから、 てっきりそのことだと思って、軽くスルーしてし まった。  「そんな大切なことで悩んでいるなら、ちゃんと いってくれないと’・」  と一歩はいうも、「……と、どの口がいうよ」と すぐに自分に跳ね返ってきた。  自分だって、いわなかったじゃないか。  「じやあね、私、行かなくちや」  春奈は一緒に来ていた仲間だちと去っていった。  「……はあ。転勤って」  一歩はその場にたたずんだ。  ……美月は、アメリカに行くのか。  そんな遠距離で自分たちの関係は続けられるのだ ろうか。  「つて’・ 続けられるもなにも、続いてないじや ん’・ 終わってんじやん」  自宅で考えにふけっていた一歩に、美月の「別れ よう」という言葉が再び胸に刺さった。  「最悪だ」と一歩の気持ちは、ますます沈んでき た。  「そのうえに、だ」と一歩はつぶやいた。  美月にフラれた自分には、「もう仕事しかない」 「起業するしかない」と思って、弁当屋のプランを 切実に考えていたのだが、そこに姉や母が、例のご とく、追い打ちをかけてくる。  「弁当屋なんてバカなこといってないで、さっさ と就職しなさい’・」と姉は前にも増して口うるさく なったし、母も、「一歩、母さんの知り合いのやっ てる会社で人手が足りないっていってるんだけど」 とまめに就職先を薦めてくるようになったのだ。  「だから。そういうんじやないんだって」と一歩 は日々抵抗するが、あまり効果はない。気が滅入っ てばかりで、さらなる一歩が踏み出せずにいた。  そんなある日、一歩は、気晴らしと、姉の「郵便 出してきて」という使い走りのために、商店街に立 ち寄った。  そのとき、ふと精肉屋「さとう」の前に、学校帰 りのオヤカタの姿が見えた。  「オヤカタ、またコロッケを?」と一歩が見てい ると、オヤカタも一歩に気がついた。  「おす」とオヤカタ。  「おす。またコロッケ?」と一歩がいうと、  「違うし」と、オヤカタはため息をついて、「さと う」を通り過ぎた。  「なんだよ? 元気ないな」  一歩が尋ねると、オヤカタはコロッケを買わない 理由を説明した。  「健康指導? 学校で?」と一歩。  オヤカタは、学校で、肥満改善のための健康指導 を受けているのだという。  「そ。だから、お母さんが、しばらくコロツケ 買っちやダメつて」とオヤカタ。  「なるほど」と一歩。  それはいいことかもしれない、と思っていると、 オヤカタは別の惣菜屋の店先で、  「フランクフルトか」と立ち止まった。  「やめとけやめとけ、健康指導中だろ?」と一歩 が行こうとすると、  「フランクフルト十本ください」とオヤカタが、 背後で注文していた。  「待て待て’・」と一歩は戻って、それを止めた。  「なんだよ。コロッケじゃないし」  「そういうことじゃないんじゃない? うIん。 ……よし。おまえ、うちで食え」  「ええ?」  「俺がうまい飯つくってやる。来いよ」  「嫌だよ。なんで人んちで食べなきやいけないん だよ」  「じやあ……」  一歩が、その足でオヤカタの家に行くことになっ た。  オヤカタはシングルマザーの母親と古いアパート に暮らしている。  「お邪魔しまIす……」  一歩がオヤカタの後に続いてアパートの部屋に入 ると、そこにはまず台所があって、その奥に六畳二 間の部屋があった。本棚に入りきらないマンガや ゲームなどで散らかっているその奥の部屋にオヤカ タはランドセルを置きにいった。  「……。オヤカタ、さっき、なに食べたいって いってたっけ?」  一歩は台所のテーブルに、買ってきた食材を広げ ながらいった。  「カレー」とオヤカタが答えると、  「……そうか。じゃあ、肉じゃがにしよう」  「なんでだよ。なんで聞いたんだよ」  「同じ材料で、普段、オヤカタが食べないものつ くつてみる」  「意味わかんないし」  一歩が料理を始めると、オヤカタはテレビをつけ て、ゲームを始めようとした。  「そういや、肉じやがってさ。失敗から生まれた 料理つて知つてた?」と一歩は話しかけた。  「失敗から生まれた料理?」と、オヤカタは答え た。  「そ。明治時代のえらい軍人さんがさ、『ヨーロツ パで食べたビーフシチューがうまかったから、同じ ものをつくってくれ』つて、軍のコックに命令して 再現させようとしたんだ。けど、コックは、ビーフ シチューなんて食ったことも見たこともないわけ。 で、聞きかじりでつくろうとするんだけど、ドミグ ラスソースつてやつがどうにもつくれなくて、結局、 醤油と砂糖で味つけしてつくっちやったのが、この 肉じやがってわけ」  「へえ。ビーフシチューのなりそこない?」  「うん。再現に失敗したわけだけど、今や囗本の 家庭料理の代表だもんな。俺も失敗からこんな名作 を生んでみたい」  「ふうん」とオヤカタはいいつつ、おもむろにベ ランダを開け、洗濯物を取り込んだ。  「えらいな。ちゃんと家事を手伝うんだ」  「これやらないと、お母さんが怒るから」  照れ隠しにムスツとしながら、オヤカタは邪険に 部屋の隅に洗濯物を押しやった。  その後、何度かここを訪れるうちに一歩は知るこ とになるのだが、オヤカタはいつもは洗濯物を取り 込んだら簡単なものだけは自分でたたんで片づけて いる。ご飯を食べたら後片づけは自分でやるし、彼 なりに母親の手伝いをしようとしているようだ。  そうして片づけた後は、マンガやゲームに囲まれ てオヤカタはひとりで時間を過ごす。オヤカタの母 親は、トンカツ屋で働いているそうで、帰りは遅い。 オヤカタが習い事や塾に通ったりしないのは、教育 方針というよりおそらく経済的事情だろうと思われ る。それでもオヤカタがひとりで過ごすのに困らな いよう、母親は塾代には及ばないなけなしの小遣い をオヤカタに与えているようだ。それが、マンガや ゲームやコロッケに費やされているのだな、と一歩 は思った。  一歩は、オヤカタと同じ年ごろだったときの自分 のことを思い返す。一歩の母もまたシングルマザー だった。一歩の家も決して裕福ではなかったが、オ ヤカタと違うのは、一歩は家に帰ると祖母がいた。 祖母がいて、食事をつくってくれて一緒に食事を とったりしていた。一歩も他のみんなのように塾に は行けなかったが、祖母が宿題をしろと口うるさく 面倒を見てくれた。宿題を見てくれる祖母に甘えて 「おばあちゃん、こんなこともわからないの?」と バカにして悪態をついたりもしたものだったが、祖 母のおかげで、自分はさみしい思いもしなかったし、 健康や勉強や生活の心配をすることなく無邪気に過 ごすことができたのだ。  「できたぞI」  一歩はゲームにふけっているオヤカタを呼んだ。  メニューは、栄養バランスを考えた和食だ。  肉じゃがに、ほうれん草の白和えなどの副菜に具 沢山のおみそ汁。白身魚のチーズ焼きはマヨネーズ 好きのオヤカタの嗜好に合わせたつもりだ。  「ほうれん草って、必要?」とオヤカタは不服そ うにいった。  「コロッケや肉だけで腹を満たすより、いろんな 野菜で腹を満たしたほうがいいんだよ。ほうれん草 は身体にもいいからな」  「どういいんだよ?」  「それはだな……」  一歩にもわからないから、スマートフォンで検索 した。  「知らないんじゃん」  「pカロチンつてのがあって、髪や目の健康維持 に役立つんだってよ。それにビタミン、ミネラルが 豊富で……つて、あ、おまえ’・」  オヤカタは、一歩の見ていない隙に、マヨネーズ をかけようとする。  「なんでもかんでも、マヨに頼るな。俺がしっか りつくったんだから、ちゃんと味わって食ってよ」  一歩はオヤカタからマヨネーズを取り上げた。  「ええI? ちえツ」  それでも、オヤカタは、もりもりと満足そうに食 べ始めた。  「……」と一歩はそのオヤカタを眺めて思ってい た。  一歩の家に祖母がいたように、オヤカタの家に だってこういうおせっかいな人間がいてもいいはず だ。今の母親たちはみんな忙しいのだ。  毎日、オヤカタの身体のことを考え、食事を提供 してくれる人がいれば、オヤカタだって、肥満を防 げるかもしれない。  やっぱり、弁当屋は必要だ。  とりあえずは、オヤカタに食べてもらいたい。  「……オヤカタ、そういえば、べ呂H呑りどうなっ たの?」  「……ヽ不夕切れ」  「……ダイエットをテーマにべ呂H呑りするってど う?」  「どういうこと?」  「ダイエットを頑張るオヤカタを配信するとか」  「ええ?」  オヤカタは、今ひとつ、イメージがつかめないよ うだ。  「ダイェットつて具体的になにするの?」  「こういう、バランスのいい食事を食べたり、運 動したり、かな」  「それって面白いの?」  「面白くすればいいじやん。運動だって、ひと工 夫して、オヤカタが変顔、変ダンスをしてもいい し」  「ええ? なんだよ、変ダンスつて。えI、俺、 ダイエットするのか〜」  「オヤカタ、YouTubeはお母さんのためでもあ るっていってたじやん。オヤカタが健康だと、お母 さん安心するよ?」  「む」  「それに今よリモテるかもだしな」  「むむ」  「俺、運動だってメシだって、なんだって協力で きるから。その代わりっていっちやなんだけど、俺、 『子ども向けの弁当屋』やりたいんだ。オヤカタは 俺の『やりたいこと』にも協力してよ」  「ほう。『交換条件』つてやつか。協力ってなにす んの?」  「そうだな。弁当の試作品の味見して、意見をく れるとか」  「え? そんなのでいいの?」  悪くない、と思っていることが、オヤカタの鼻の 膨らませ具合からうかがえた。  「やろうよ。面白いじやん」と一歩はいった。  「やるしかないね」  帰宅した一歩は、「子ども向けの弁当屋」のやる 気を取り戻した。取り戻したというより、以前より 確固たる意志になってきた。  翌日、一歩は、姉から、浩太と昇太の夕飯の世話 を頼まれた。その日は、母の帰りが遅く、姉も夕方 から仕事に出るというのだ。  「それそれ、それだよ、姉ちゃん’・」  「なによ?」  「姉ちゃんだって、忙しくて、子どもたちのご飯 を用意できないことってあるだろ? そのとき、俺 のご飯があったら便利だろ? コンビニ飯やファー ストフードを食べさせるより、料理上手な俺の料理 がさ」  「別にあんたがいなけりや、スーパーの惣菜で済 ませるけど」  「そりゃ、一日二日はいいけどさ。ずっとはやっ ぱ嫌だろ? 俺の手づくり料理のほうがいいだろ? 添加物いっぱいのできあいの料理よりさ」  「なんなの? もしかして、タダではやりたくな いっていってる?」  「うIん。たとえば一食五百円、二人分で千円」  「高ッ’・」と口を尖らす姉。  「ええ? じゃあ、一食三百五十円、二人で七百 円」  「まあいいわ。材料費込みなら五百円でも」  「さすが、細かい」  「じゃ、お願いね」と行こうとする姉を一歩が追 いかける。  「姉ちゃん。今働く親が増えてるだろ? 子ども の夕飯が用意できない、つてことがちょくちょく起 きる。そのとき、毎日コンビニやファーストフード じゃ、ポンドは嫌だろ? そういうとき、あるとう れしいよね? 手づくりの健康的なお弁当がある と」  「しつこいなあ」  「ね? 選択肢としてあるといいだろ? だから、 俺が、つくって提供するんだよ’・ 子ども向けの弁 当屋で’・」  一歩の訴えを、姉はあっさり却下した。  「別にあんたがやることないじやない」  「ええ? ほかに誰がやるんだよ。誰もやってな いじやん」  「あのさあ。仕事ってのは食べていかないといけ ないの’・ 家族を擅っていかないといけないの’・ そんな弁当屋でなんで食べていけるのよ’・」  「食べていけるよ’・ というか、誰より、俺が今、 その必要性を感じているんだ。俺しか今、ここでそ れを実現できる人はいないからね」  「はあ? あんたどうかしちやったの?」  「どうもしてない。俺はやる。姉ちゃんだって、 きっと利用するよ。必要だからね’・」  一歩は、いい切った。  そして、一歩は、具体的にプランを進めていくこ とにした。  それには姉の数々の指摘が役に立った。  「姉ちゃんは、プレーモータム、失敗の事前検証 の天才だな。うまくいかない想定ばっかりいってく る」と一歩は、姉の指摘を整理して弁当屋のプラン を練り直していた。  たとえば、一歩は、姉の「弁当屋でどうやって食 べていくんだ」という意見に対して、収支計画を見 直してみた。  「数字なんてなんとでもつくれる」という姉の言 葉に反論すべく、一歩は実際に、近所の塾やコンビ ニにはりついて、弁当やおにぎりを購入する子ども たちを調査してみた。そして「このI〜三割が弁当 を購入してくれた場合……」などとシミュレーショ ンをいろいろやってみた。少し望みと自信が湧いて きた。  そうした新たな計画にも姉は「仮に売上目標を達 成したって、粗利二十万? こんなのバイトの月給 じやん。バイトのほうが何倍も楽じやん」と指摘し てきた。それには、「そっか、そのくらいの利益し か出ないのか……」とあらためて、それで続けてい けるのか自身に問い直したり、収支計画を見直した りした。  ほかにも、「子どもの食事って簡単にいうけど、 あんたみたいなの、保護者は信用しないからね’・ 実績なし’・ 経験なし’・ それに親が心配するのは 栄養より先に、衛生面’・ 食中毒でも出したらどう すんの’・」という指摘に対しては、「そっか。食中 毒か」と、一歩は、開業に必要な食品衛生責任者の 資格をとる一方で、食中毒について、別途研修を受 けたりもした。そうして予防策と、起きてしまった ときの対策を講じることにした。  残る問題は、特に姉がしつこくいってきたお金の ことだ。  「だいたい、開業資金五百万円? つて、こんな お金どこにあんのよ。負えない借金を負って、結局 家族に泣きつくとかやめてよね’・ うち、ビンボー だから」と姉にいわれ、「なんとかする’・」と答え たが、まだ具体的なメドは立っていない。  当初はお金を借りることに躊躇していた一歩だっ たが、結局、お金が貯まるのを待つのでなく、今や るべきだと思って、開業資金に足りない三百万円を 借りることにした。  三百万円であれば、もし失敗しても店をたたんで 必死に働けば返せるのではないかと思ったからだ。  お金を調達する方法は、クラウドフアンディング、 自治体の制度融資、補助金・助成金なども考えた。 補助金や助成金なら金融機関と違って返済義務がな いのが魅力だが、基本的にこれらは、お金を受け取 るのに一年ほどかかってしまう。それに審査に通る かどうかも定かでない。  開業資金の不足分三百万円を確実に、かつ一番早 く借りられそうな日本政策金融公庫に申し込んでみ ることにした。起業する人が金融機関からの借り入 れを考えるときにまず候補にあげるのが、この日本 政策金融公庫からの借り入れた。特に「新創業融 資」は、これから事業を始めようとする人や事業を 開始して間もない人が無担保・無保証人で借りられ る制度で、金利が柢く、返済期間も長い。  民間金融機関より融資が通りやすいという公庫だ が、自分の起業プランが融資に値するものか客観的 に見直すいい機会だとも思った。  その申し込みのために、一歩は物件の仮押さえも した。  物件はいろいろ思案した結果、間借り物件だと昼 と夕方に稼働しにくいため、一歩が少し前から目を つけていた、地元の小さな元ビアバルの居抜き物件 に狙いを絞った。  駅から遠く、二等地の物件で比較的賃料が安い。 デリバリーが主体になると思われるので、駅が遠い などの立地は問題ではない。それどころか、そこは 周辺に、学校や塾など、子どもたちが集まる場所が たくさんある。それに、通りに面した扉がガラス張 りで中が明るく見通せるのが心を惹いた。仮にイー トインスペースを設けた場合、子どもが入りやすく 集まりやすい気がしたのだ。  融資審査の面談は、少々身構えたが、ピッチの練 習や姉の反対などで、質疑応答に慣れていたことも あり、割と落ち着いて答えることができた。  「そうですか。子ども向けのお弁当を。でも、そ の近辺に競合店などはないのですか」担当者は一歩 に尋ねた。  「はい、惣菜の競合店はコンビニしかありません。 コンビニとは差別化できます」  「お弁当屋といっても……イートイン形式なんで すね?」  「食べる場所に困った場合はそこで食べられるよ うにしたいんです。ゆくゆくは、そこを「ブにして 食育のコミュニティをつくっていければと」  「なるほど。しかし、そうした市場があるという なら、なぜ他社が参人しないのでしようね?」  ピッチで聞かれたような質問が続き、一歩は難な く熱意をもって答えることができた。  「そうですか。しっかりお考えのようですね。た だ、この資金計画のほうは本当に問題なく回りそう ですか? 運転資金の使い道についてもう少し説明 いただけますか」  担当者は事細かに質問してきたが、真摯に答える と、比較的好意的に計画に対してアドバイスもして くれた。  その後、審査の結果が来るまで、二週間もかから なかった。  無事融資を受けることが決まったので、一歩は物 件を本契約することにした。それでようやく起業す ることが確定した。  一歩はその日の夜、実家で姉と母に起業のことを 打ち明けた。  「ええり お金を借りた?」と案の定、姉は怒っ た。  「お金なんて、どうやって借りたの? 保証人 は?」と母も驚いて尋ねた。  「日本政策金融公庫の創業者向け融資だから、担 保とか保証人はいらないんだ」と一歩。  「そういう問題じゃない’・ バカじゃないの? なんで借金してまで起業すんの’・」と姉。  「別にバカじゃないよ」  「借金返せなくなったらどうすんのよ。母さんや あたしじゃ面倒見れないよ’・」  一歩は返済プランを描いたノートを見せて、  「姉ちゃんや母さんに迷惑かけないよ。返済計画 については、ここの時点で予定通りに返せなくなっ たら、閉店して就職する。三、四年かけて残りの借 金を返済する」  「はあ?」  「この時点でやめても俺、まだ二十代だし。それ に、今、起業経験者を優遇する会社もある。ほら」  一歩は、起業経験者を積極採用している企業一覧 を見せる。  「呆れた。頭イタ」と姉。  「もう。止めても無駄ってことね」と母も深いた め息をついた。  「絶対、迷惑かけないから’・」と一歩。  「……」と姉も母も黙り込んだ。  「なに?」と一歩。  「あんたバカなの? そんな言葉どうやって信用 しろと?」  「きっと姉ちゃんだって、わかるよ。この事業の 必要性がさ」  「バッカ、ぽんとバカ」  姉は返済計画ノートに目をやった。  「気になってんじゃん」と一歩。  「家族に迷惑かけられたら困るからよ’・ ……て か、この返済計画、なに? あんた、閉店するのに もお金かかるでしよ? それはどうするつもり」  「え?」と一歩、返済プランを見る。  「退去する建物の原状回復に百万、二百万、吹っ 飛ぶとも聞くわよ」と姉。  「えIと……。そういうのは、計算に入れてませ ん」  姉は怒りにまかせて一歩のノートを放り投げた。  「なにすんだよ!・」  「甘いのよ’・ そういうとこが’・」  「てか、姉ちゃん、なんでそんなにくわしいんだ よ。すげえな」  「ちょっと調べりゃわかるじゃん’・」  「あ、そうか、姉ちゃんの友だち、タピオカドリ ンク店を出店して失敗したっていってたな」  「決して他人事じゃないからね’・」  「はい、すみません」  「それに、よ。あんた家族を巻き込まないで済む と思ってたら大間違いだからね。すでに巻き込まれ てるし’・ こんな甘々の計画、絶対予定通りにいか ないに決まってる」  「母さんも心配だわ。飲食店はどう考えたって厳 しいわよ。お弁当屋さんを一生懸命やったって、利 が薄いじやない。わずかな利益を出すためにあんた、 ずっと店に縛られることになるのよ。それでもいい の? そんな辛く厳しい生活を一生続けていく 気?」と母の顔色もさえない。  「店に縛られるんじやないよ。俺はやりたいこと をやるんだし、普通のサラリーマンくらいの利益は 出るはず。同じ働くなら、自分のやりたいことをや りたい!・」  「ああ。バカになにをいっても、もう無駄」と姉 は嘆き、母も黙り込んだ。  そのまま沈黙だけが続いたので、一歩は、姉の投 げたノートを回収して、  「そういうことなので……」といってその場を退 こうとすると、  「一歩。返済計画に無理が生じたらすぐにやめな さいね。約束よ」と母は力なくいった。姉はもうな にもいわなかった。  「……はい。覚悟を決めてやります」と一歩は部 屋を立ち去った。  そんなに俺って信用がないのかな、と少しさみし く思いながら、翌日から、再び一歩は開業に向けて 動き出した。  その頃、現代建築社では、新規事業チームのミー ティングが行われていた。  「なにも専務が、ホントになにもしない’・」と、 むくれている春奈。  「灰田専務のこと?」と緑川が聞いた。  「そ’・」と春奈。  春奈たち新規事業チームの「リフォーム職人と個 人ユーザーのマッチングサイト」の案を、黄島と春 奈は、二週間ほど前に経営企画室長の灰田に提出し ていたのだが、それが灰田のもとで無意味にとん挫 しているというのだ。  「ポンド信じられない’・」と春奈。  春奈は悔しそうに、先ほどの灰田とのやり取りを 青木と緑川に報告した。  つい数分前のこと、黄島と春奈は、灰田のもとに 行き、新規事業案の進捗を確認したのだった。  「灰田専務。新規事業の件、どうなりましたか」 と尋ねる黄島と春奈に、  「うん?」と灰田はポカンとした顔を向けた。  「新規事業の件です。社長に話してくださいまし たよね?」  「ああ、その件ね。話しとくよ。そのうち」  「え? まだ話をされてないんですか」と黄島。  「二週間前に出したやつですよ?」と春奈も驚い ていった。  「うんうん。そのうち、話しとくから。そのうち ね」と灰田。  「そのうちって……’・」と不服気な春奈。  「いいんだ、いいんだ、君たちは気にしなくて。 物事にはタイミングつてのがあるからね」とのん気 な声でいう灰田。  「新規事業は社長肝いりのことじやないんですか。 社長は待ってるのでは?」と春奈。  「肝いり? ふふん」と灰田は笑っていた。  ムツとする春奈。  「灰田専務。あまり寝かせるのも意味がないと思 うんですが」と黄島。  「まあ、そう焦るな」と二コニコと灰田。  「でも’・」と春奈。  「さ、もう仕事に戻っていいよ。忙しいんだろ? 君たち」と灰田。  「いや、でも」と黄島もいった。  「いいから。黄島君、うちにはうちのやり方があ るんだよ。君らは心配しなくていい。さ、行きたま え」  灰田はそういって、黄島と春奈を追い払った。  その話を春奈から聞かされた青木と緑川は、  「なんだそりゃ」と呆れる。  「ノラリクラリの繰り返し。なんなのあれ。ボヶ てんの?」と春奈。  「なんだろうね。ひどいよね。あれは」と黄島も いう。  「さすが、なにもしないことで有名な、灰田専務 だな。ホントになにもしないんだね」と緑川。  「結局、『新規事業をやる』つてのも建前だけなん じゃないの?」と青木がいった。  「そんなわけないと思うけど。人もこうして配置 してるわけだし」と黄島。  「対外的なアピールなだけでは? どうせ失敗す ると思ってるんだ、あの人たちは。灰田も社長のプ ロジェクトで失敗したくないから、ノラリクラリと、 なかったことにしたいんじやないですか」と青木。  「でも、社長の『新規事業をやりたい』という言 葉にウソはなかったと思うけどな」と黄島。  「まあ、灰田専務の『なにもしない』『責任もとら ない』つてのは今に始まったことじやないですしね。 仕方ないのかなあ」と緑川。  「そんなのになんで新規事業を統括させてんだよ」 と青木。  「そうだよな。なぜ、そんな大が専務なんだろう ね?」と黄島。  「若い頃は僕も知りませんが、……あの大、基本 デキる人の腰巾着やコバンザメになるのがうまいっ ていうか。デキる大と一緒に成果を上げるんですよ ね。一応もとは編集部の出身でその時代も優秀な部 員がいて成果を出したんですけど、優秀な大は会社 を去っちゃって、残った灰田専務が評価を独り占め したっていうか。そんなことの繰り返しですよ。今 の社長が『商空間』の編集長で苦労した時代にも、 太鼓持ちとして下支えしたわけで。だから今、社長 に重用されてるんです」と緑川。  「なんだそりゃ」と黄島。  「なんちゅう処世術。でも、そんななにもしない 上司が、いつまでもそう評価されるのは、さすがに おかしくない?」と春奈もいう。  「そりゃ、会社がチームの結果しか見てないから だろ」と青木は吐き捨てるようにいった。  「え? どういうこと?」と眷奈。  「結果しか見ない会社にとっては、その部門の利 益を、部下が出そうが、上司が出そうが関係ないん だ。成果を出すために誰がどんな行動を起こしたか なんてことは気にしない。チームの結果さえよけれ ばいいんだから、そりゃ、上司はなにもしなくなる よな。失敗すれば評価を下げられるから、自分はな にもしないで、部下にやらせて、失敗の責任は部下 に押しつけたほうがいいに決まってるし、万が『 うまく行けばチームの成果は自然と自分のものにな るんだしな」と青木がいった。  「そうそう、それもある。青木君、プロパーでも ないのによくわかってるね」と緑川。  「どこの会社も似たような仕組みだよ。特に金原 社長みたいに『しのごのいわず黙って結果を出 せ』つていう侍タイプは結果しか見ないよな」と青 木。  「なるほど。潔いようだけど、そういう姿勢が、 あんななにもしない上司を生み出してるとは社長も 思ってないだろうね」と黄島。  「もう。最低」と眷奈。  「まあ特に、経営企画室長は、もうすぐ田中常務 に変わるって噂だから。それまで灰田専務は動きた くないんじやないですかね。なにもしない、なにも 失敗しないのが出世する秘訣だって、このまま突き 通すんだろうな」と緑川。  「なによそれ’・ いっそ灰田が室長の間に、派手 に失敗してやろうぜ’・」と眷奈。  「おまえバカなの? だから失敗しても、それは 俺らの責任になるだけだって話」と青木。  「ええ? そっか。もう’・ 腹立つ’・」  「とはいえ室長がGOを出さなければ、僕たち動 けないしね。困ったもんだ」と黄島。  「どうしても動かしたいなら、根回しするしかな いんじやない?」と青木。  「根回し?」と黄島。  「根回し? 令和の時代に? そんなの平成で終 わったんじやないの?」と眷奈。  数日後、突如、新規事業案は、動き出すことに なった。  広告営業部長の黒田が、部長会で、  「新規事業案『リフォーム職人のマッチングサイ ト』が進んでるらしいですね。いや、画期的ないい アイデアじやないですか」とほめちぎって持ち上げ、 それが社長の耳にも入ったからだ。  新規事業チームのミーティングのために会議室で 待機していた春奈はそれを緑川から聞き、  「黒田部長が褒めてた? まさか」と耳を疑った。  「青木君が進言したらしいよ。『新規事業チームが またしょぼいマッチングサイトを立ち上げようとし ています』つて。『黄島を失墜させるなら今で す』つて」と緑川。  「なに? その二枚舌’・」と春奈。  「そういうと黒田部長が動くと思って、やってく れたんだ。黒田部長は、黄島さんのこと、ポンド毛 嫌いしてるみたいだから」と緑川。  「それが根回し?」  「みたいだね」  「変なの……」  などと、春奈たちが話していると、黄島と青木が 遅れてやってきた。  「待たせたね」と黄島。  「どうしたんです?」と春奈。  「マッチングサイトのシステムの外注先について ちょっとな」と青木。  「黒田部長がぜひに、つて広告営業で懇意にして るシステム会社を斡旋してきて。断れなくなっ ちやって」と黄島。  「ええ? 黒田部長が?」と春奈。  「うん。どう思う? この会社」と会社案内を見 せる黄島。  春奈はそれを見る。  「なんだ。6システムズじやん。てか、ここがど うこういうより、斡旋してきた人が気になるんです けど。黒田部長って」と悪意を疑う春奈。  「うIん。そうだけど。でもまずは冷静に検討し てみる? 赤井さん知ってるの? この会社」と緑 川はいった。  「えI? 業界では名の通った老舗ですよ。シス テム部でも一部作業を委託してますけど、正直、印 象はあんまりよくないですよ」  「そうなの?」  「ここの社員、えらそうにうんちくは垂れるけど、 実働は大したことないっていうか。そのくせプライ ドも値段も無駄に高いし」  「いうねえ」と緑川。  「昔からつき合いがあるってだけじやないです か? 老舗に仰々しく頼むよりも、いっそマッチン グサイトの制作で実績ある新進のところに頼んだほ うがフットワークもよくていいと思いますけど」と 春奈。  「フン。いずれにせよ、これは斷れないよ」と青 木。  「どうして?」と春奈。  「黒田部長の進言で、社長がもう認めちやったか ら」と青木。  「ええり 大事なところを事情のわかってない人 がなんで決めるの?」と春奈。  「まあ、老舗でつくれるってなら問題ないかもし れないしさ」と黄島。  「いやいやいや、老舗だからいいってわけじやな いですよ。フットワークの悪い会社とやると、検証 や修正指示やらでこちらの手間が増えるだけです よ?」と春奈。  「そう? 黒田部長が強硬に薦めてくるんだけ ど……、代替案があるっていうならそっちを推して みようか」と黄島。  その黄島を「甘いな」というふうに見ている青木。  「そんなことできますかね? よくわかんないけ ど社長、承認しちやってるんでしよ?」と緑川も心 配そうにいう。  「社長がなによ。そんなのおかしいじやない’・ デメリットのほうが大きければ断りましようよ、仕 方ないですよ」と春奈は黄島に加勢する。  「やれるもんなら……」と青木は春奈を見下した ようにいうが、  「やってみましようよ’・ ここからの作業効率に もかかわってくる大事なところです。直談判してみ ましよう’・」と睨み返す眷奈。  そして眷奈と黄島は、社長の金原のもとに行った。 すると慌てて灰田がついてきた。  「君たち’・ 何事だ’・」と灰田が小声で叱責する のを無視して、眷奈は、システム会社の代替案を進 言した。  「マッチングサイトの作成を依頼するシステム会 社については、WEBシステム開発で近頃評判のい い、aテックがいいと思います。創立間もない会社 ですが、別件で仕事を依頼したことがあり、若手社 員が多く、熱意もあってフットワークがよく仕事も 早いです。コストと期間のことを考えても、ここが 絶対にいいと思います」  と春奈と黄島は、熱心に報告した。  「前例がないっておっしやるかもしれませんが、 ここは、今、実は大手サイトの決済システムなども やっていて、実力のある会社です。一方、今、黒田 部長の薦められているpシステムズはたしかに名の あるシステム会社ですが……とにかく、フットワー クが悪いです。システム部ではpシステムズとも一 緒に仕事をしていますが、打ち合わせや手続きが多 くて、なかなか動きが遅いです。しかもコストも割 高のように思えます」と春奈。  黄島と春奈は懸命にaテックを薦めた。どう考え ても安くて早くて臨機応変な開発会社のほうがいい と春奈と黄島は訴えた。だが……。  「ダメだ」  と、金原社長は黄島と春奈の提案を一蹴した。  「ええ?」と春奈。  「そんな得体の知れない会社にうちの一大事業を 任せられないだろ」と社長。  「得体の知れない?」と春奈と黄島は社長の発言 に驚いた。  「信用がないってことだよ。老舗のpシステムズ なら安心じやないか」と灰田が補足した。  「ええ? でも6システムズは高いし遅いし。 マッチングサイトに特別強いわけでもないですし」 と春奈。  「ダメだ。老舗で信用のある会社にしか任せられ ない。ここで失敗するわけにはいかないからな」と 社長はいった。  「ええ? 老舗だったら失敗しないってわけじゃ ないと思いますけど?」と眷奈が反論すると、  「なんだ、その口のきき方は’・」と灰田が咎めた。  「すみません」  「いや、でも彼女のいうことはもっともです。新 規開発には失敗がつきものです。だからこそ、軌道 修正がしやすいよう、フットワークのいい会社がい いと」と黄島がいうと、  「なにをいってるんだ君は’・」と社長は怒鳴った。  「ええ?」と眷奈と黄島。  灰田は「見ろ」とばかりに、ほくそ笑んでいた。  「やるからには失敗は許さん!・ 業界の笑いもの になるようなことは絶対にするな’・」と社長。  「はあ?」と眷奈。  「あの、でも新規事業には想定外のことがつきも ので」と黄島がいった。  新しいことをやるのに、失敗が起きないわけない じやないですか、と、黄島はいいたかったのだが、  「やる前からなんだ、おまえたちは’・ 情けな い’・ はじめから失敗するなんて弱気なことでどう する’・ 失敗など決して許さん’・ 失敗など、恥と 思え’・」  その社長の言葉に、春奈と黄島は唖然とするとと もに、内心ガッカリした。  そして新規事業についての発注先は、黒田の薦め るpシステムズに決まったのだった。  「『どすこい弁当』ひとつください。ここで食べま す」  ある囗の夕方、オヤカタが、カウンター越しに注 文した。  「『どすこい』ですね、承知しました」と一歩が応 じてレジを打つと、オヤカタは手慣れたように、ス マートフォンで支払いを済ませた。  そこは、十坪ばかりの「にこにこ弁当」という小 さな弁当屋。  一歩がオープンさせた店だ。  子ども向けの弁当屋のため、動物や花のイラスト など明るい装飾が施されていて、レジの後ろの壁に 貼った紙には大きく「にこにこ弁当」という店名が 記され、その横には、クアッガワラビーの笑顔のイ ラストがトレードマークとして描かれていた。  弁当屋だが、店内でも食事をとれるよう、六席ば かりのテーブルも用意されている。  どすこい弁当が用意されるのを待つ間に、オヤカ タはテーブルにランドセルを置き、お茶をいれる。 お茶は無料のセルフサービスだ。  「にこにこ弁当」のお弁当のメニューは、囗替わ りで、給食のように今月一ヵ月分のメニューがあら かじめ決められている。その囗に提供されるのは一 種類だけだ。ただし、サイズは三種類ある。やや小 さいのが「あっさり弁当」、標準サイズが「しっか り弁当」、大人用とみまがう大きめサイズが「どす こい弁当」だ。  ちなみに、このネーミングはオヤカタによるもの だ。オヤカタはネーミングのみならず、開業前のお 弁当メニュー開発で大いに活躍を見せていた。また、 店のトレードマークのクアッガワラビーのイラスト もオヤカタの描いた絵がもとになっている。一歩が 描くのよりよっぽど愛嬌があって見るものを和ませ る。オヤカタの「にこにこ弁当」開業にあだっての 貢献度は大きい。それを自負しているのか、オヤカ タはこの弁当屋では我が物顔で堂々と振る舞ってい る。そのオヤカタも近頃は、ダイエットの効果も出 て、「ぽっちゃり」から、「少しぽっちゃり」に変貌 を遂げていた。  「はい。どすこい弁当、お待ちどうさま」  店の厨房から、チーフスタッフでもある幸代が、 お弁当を運んできた。現在、店は、スタッフ二人体 制で、短時間でも働けるよう、勤務時間はIコマニ 時間のシフト制にしている。幸代ら近所の主婦たち が数人、交代で入ってくれるようになっている。  一歩は、幸代から受け取った弁当をオヤカタのも とに運んだ。  「はい。どすこい弁当お待たせしました。ブロッ コリー、おまけしといたから」  「えり なんでり バッカじゃないの’・」  「冗談だよ。今日は、オヤカタの好きなものばっ かり」  「フン。もう手伝ってやんないぞ’・」  オヤカタは憎まれ口を利いた。  オヤカタをからかった後、一歩は配達のための準 備にとりかかった。  弁当の配達は、すべて一歩がやっている。  弁当屋を始めて二週間ばかりだが、いまだ心休ま る暇がない。  開業準備には大わらわで、結局、「迷惑をかけな い」といっていた舌の根の乾かぬうちに、母と姉の 力を大いに借りることにもなってしまった。  開業費用を少しでも節約するため、厨房機器を ファンの知り合いなどからタダ同然で手に入れたり、 改装は極力自分でやるなどしたが、時間がかかりす ぎてなにもしないうちに家賃などの費用がかさんだ り、保健所の指摘で追加工事が必要になったりと、 てんてこまいの状況に陥ってしまったからだ。やむ なく、母が知り合いの大工に助言を求めたり、不器 用に経理処理をする一歩を見かねて、姉が「バカで もできるように」と経理ソフト一式を使いやすいよ う整えてくれたりした。  その際、姉からは「『家族に迷惑をかけない』な んて無理だっていったでしよ。やりたいことをやる ときは、家族に『やらせてください』と断りを入れ るのが筋よ」と怒られた。  「おっしやる通りでございます……」と一歩は頭 が上がらなかった。  その間に、スタッフになってくれることになって いた幸代とオヤカタが、積極的にメニューの開発を 進めてくれていたりと、ずいぷんと周りに助けられ ての開業となった。  すでに、この店は一歩の店というより、そうした みんなの力の結晶といった感じだ。  弁当の配達は、直接営業して仕事をもらった進学 塾向けの数件と学童保育向けの一件だ。配達は主に 夕方に集中し、一歩は配達用の車で弁当を運ぶ。曜 日によって配達する塾が違うし、時間も異なる。お 弁当の数の変更も、突然にあるので注意が必要だ。  順調な滑り出しのように見えて、そうでもない。 一日当たりの販売数にすると、まだ目標に届いてい ないのだ。  順々にリピーターが増えると思っていたのだが、 それも思うように確保できていない。ここにきて、 強敵が現れたからだ。  つい先日、大手弁当チェーン店が子ども向けブラ ンドとして「わくわくキッス弁当」という子ども用 弁当屋を始めたのだ。子どもに人気のキャラクター を宣伝に起用し、お弁当の種類も数種類から選ぶこ とができ、みんなの興味がそちらに向いてしまって いるのだ。  「まずいな。これは」と一歩もさすがに焦ってい た。  そのうえに、一歩はもうひとつ悩みを抱えていた。  ライバルが出てきたときこそ、メニューが大切な のだが、今、メニューづくりで、モメている。「に こにこ弁当」のキッチンスタッフは今、幸代を含め 六人の主婦が入れ替わりで調理にかかわってくれて いる。囗替わり弁当は、一ヵ月のメニューを決めて つくっていて、一歩は、来月分から「家庭の味」を 活かすべく、主婦のみんなにメニューづくりに参加 してもらいたいと思っているのだが、この連携がう まくいっていないのだ。  一歩は、極力、みんなの得意料理を活かしたいの に、どうしても、自己主張の強い人の意見に流れが ちなのだ。特に温和な幸代は、スタッフの中に入る と、意見を控えてしまう。一方、自己主張の強い大 は、主張するものの意見がコロコロ変わってまとま らない。一歩はチームをまとめるのに苦戦していた。  一歩は、休日に、久々に「カフェーカオス」を訪 れてみた。  スタッフを統率するのに、いい方法はないか、意 見を聞いてみたいと思ったからだ。  「おう、一歩。久しぶりやな」  矢弦が一歩に声をかけた。  「矢弦さん’・」  「どうや。その後。うまくいってるか」  矢弦は尋ねた。  「それが……」と一歩は、スタッフの事情につい て話した。  すると矢弦は、「人はそれぞれに行動スタイルが あるからな。人になにかをしてもらおう、人を動か そうと思ったら、その特性を踏まえたほうがええ」 といった。  「行動スタイル? 特性?」  「せや。DISC理論って知ってる?」  矢弦はホワイトボードを使って説明し出した。 (Iバード大学のウィリアムーモールトンーマース トン博士が提唱した理論だという。  人はその行動特性により、主導型({}o∃F弓g)、 感化型(F?・コ・・)、安定型(曽・乱F・邑、慎重型 (Conscientiousness)の四つのタイプに分けることが できるというのだ。  @主導傾向の強いタイプ(D一{}o∃F弓・・)    [特徴]   意志が強く、直接的で決断が早い   行動力があり強引、結果をすぐに求める   勝ち気でチャレンジ精神に富む   [接し方のコツ]  適宜、主導権をもたせる、任せる  細かい指示・命令をしない  型にはめない A感化傾向の強いタイプ(I一Influence)   [特徴]  楽観的、社交的、情熱的、活発  グループ活動が好き  人々を励まし楽しませる   [接し方のコツ]  フレンドリーに接する  人前で褒める  業務の指示は書面で B安定傾向の強いタイプ(S一Steadiness)   [特徴]  人助けが好き、表立つことなく働く  謙虚で穏やか、忍耐力があり、聞き上手  変化を嫌い、安定を好む   [接し方のコツ]  感謝を伝える  漠然とした指示を出さない  役割を明確に示す C慎重傾向の強いタイプ(c一  (い()nscientiousness)   [特徴]  緻密で正確、質を重視  規範と基準を重視、分析的   慎重で控えめ、納得しないと動かない    [接し方のコツ]   データや事実をもとに褒める   正確性を尊重する   感情的にならない  「タイプによって考え方、受け止め方が違うんや。 たとえば、主導型の人間と、主導型の人間が、共同 創業者になると、衝突しがちになる。主導型の人間 には主導権を渡してやるとか、感化型にはフレンド リーに接してやるなど、その特性を踏まえて接し方 を変えていくとええ」と矢弦。  「なるほど。こんな分類ができるんですね」と一 歩。  「せや。注意したほうがええんは、メンバーがひ とつの型に偏ってしまうと、うまくいかないことが 多いねん」  「え? そうなんですか?」  「だから創業メンバーにはまんべんなく、いろん な型の人間が入るようにしたほうがええんや」  「なるほど。そっか……それは意識してなかった ですね」  そのとき、矢弦と一歩に「やあ、DISC理論で すね」と話しかけてくる男がいた。男は、現代建築 社に勤める黄島だと一歩に名乗った。  「うちの新規事業メンバーはうまく、いろんな型 に分かれてますよ。赤井君が主導型だな、で、僕が 感化型、緑川君が安定型で、青木君が慎重型だ。い いチームですよ」と黄島。  「それはええチームやな」と矢弦。  「ただ、うちの場合は、それぞれの個性が強すぎ て、よくメンバー同士、小競り合いをするんですよ ね」と苦笑する黄島。  「へえ……」と一歩。  「どうしても事業が進んでいくと、ストレスやプ レッシャーによって、それぞれの個性が強く出てし まうからな」と矢弦。  「え? そうなんですか」と一歩。  「たとえば、主導型はストレスやプレッシャーが 強くなると、独裁的になったりするねん。感化型は、 ストレスで他人を攻撃するようになったりな」  「へえ……」と一歩。  「安定型では、やりたくないのに賛同してしまっ たり、慎重型はタスクをボイコットしたり、とか な」  「あ、なるほど」と一歩は、やりたくなくても周 囲に賛同している、安定型の幸代のことを思い浮か べた。  「大切なのは、他人のそうしたスタイル、尊重す る価値観を理解して、それに合わせることや。相手 のスタイルに柔軟に対応することはできるやろ? なにも利き手が右手だからといって、左手でなにも できないわけではないやろ? 自分が多少心地よく なくとも、自分のスタイルを柔軟に変えて、チーム のパフォーマンスを上げることも、時には大切なこ とや」  「そっか」と一歩はうなずいた。  「実際にタイプ分けをするワークシートがさまざ まに手に入るようですよ。それをメンバーで確認し 合ってみるのも面白いですよ」と黄島はI歩にいっ た。  「はい。ありがとうございます」  一歩は店に戻ってメンバーの特性を把握し、適切 なコミュニケーションを図ろうと決心した。  「あと、それはそうと、弁当屋に強敵が現れまし て。大手チェーン店が子ども向けの弁当屋を始め ちやって」  「おお。いきなリピンチやないかい」  「困ってるんですよ」  「へえ。どう強敵なんや? どんな点で負けてる んや?」  「ええ? なんだろう。あっちのほうが宣伝効果 も強くて華やかだし、キャラクター人気にあやかっ てるし、こっちは一日一種類だけど、あっちのライ ンナップは豊富だし……。今人気はあっちに流れて いる感じで。まあこれからよく調べてみますけ ど。つてか客も結局あんな見栄えに騙されるんです ねって、ちょっとやるせない感じです。てか、こん なタイミングであんなのができるなんて普通ない じやないですか。つたくなんか、ここにきて運に見 放された気がします」  「あのな。こういうとき、『客のせい、天気のせい、 運がないから』と失敗を他人のせいにしとったら成 長はないで。まあ、よく研究してみることやな。い ずれにしてもピンチはチャンスや。相手と見比べて、 より今の強みを増すのがいいのか、はたまた改良を 加えるのか、とんでもない転換をするのか、あるい は、撤収も視野に入れるのか」  「撤収〜? それはまだ考えてませんけど’・」  「いずれにしても学びのチャンスや。よく見てよ く考え、よく学ぶ。正解はひとつでないので、その 時点でベストな選択をして、良い結果につなげてい くんやで」  その帰り、一歩は、偵察のため、自分の店に一番 近い「わくわくキッス弁当」の店に立ち寄ってみた。 そこには子どもの好きな、唐揚げ弁当、(ンバーグ 弁当、カレー弁当、牛丼などのラインナップがあっ た。ジャンキーなメニューではあるが、野菜は無農 薬をうたっていた。また、お弁当の包み紙に食にま つわるクイズがあって、それに解答すると抽選でプ レゼントが当たるお楽しみもあった。  「うちとはコンセプトが違うようだけどな」  と一歩は内心、安心したものの、一歩が店にいる 間にも次々と親子連れの客が入ってくる。  「うIん……」と一歩。  それは一歩の店では見られない光景だ。  一歩は調査のために、「わくわくキッス弁当」全 種類の弁当を買って帰った。  「ただいま」と家に帰ると、姉や母が、居間にい た。  「あれ?」と一歩が見ると、テーブルの上には、 一歩が買ってきたのと同じ「わくわくキッス弁当」 の弁当があった。  「あら? あんたも?」と姉は一歩の手にある、 キッス弁当の手提げ袋を見た。  「遅いから、食べちやったわよ。さっきまで幸代 さんもいたのよ」と母もいった。  「姉ちやんたち、買ったんだ。その弁当。……俺 の敵なのに」と一歩。  浩太や昇太も来た。  「キッス弁当うまかった’・」と浩太。  「「ンバーグ美味しかった’・」と昇太。  「……ちえ。そっか。うまかったか」と一歩。  浩太と昇太ははしやぎながら、キッス弁当のクイ ズの用紙をもって遊び部屋へと去っていった。  「なにしよげてんのよ」と姉。  「子どもにはこっちのほうがうれしいのかなあ」 と一歩は、キッス弁当の(ンバーグ弁当を開けて食 べてみた。  「うIIん。……それでもやっぱり俺の弁当のほ うがうまいと思うんだけど」  「なら、いいじゃない」  「え?」  「母さんたちも、同じ意見よ。これじゃコンビニ 弁当とあんまり変わんないねって」  「ええ? じゃあ、母さんも姉ちゃんも『にこに こ弁当』のほうがいいと思ってる?」  「中身はね」と姉。  「あ、ありがとう’・ え? どういうところがい い? 具体的にいって’・」と一歩。  「……調子に乗るねえ」と姉。  「一歩のお弁当のほうが、美味しくて味が自然よ。 子どもに食べさせたいお弁当だわ。これは、ザ・化 学調味料ってとこね。包装はかわいいけど、肝心の 中身がイマイチ。子どものことを本当に考えている とは思えない」と母もいった。  「え? ポンド? そう思う? 俺の弁当のほう がいいってことだよね? よっしやI’・ 俺もそう 思う’・ 俺のほうが子どものことを考えてるうえに、 うまいし!・」  「フン。まあ、キッス弁当が明らかに主婦の支持 を受けそうなら、あんたにさっさと閉店させようっ て魂胆だったんだけどね」と姉はいった。  「はあ?」  「でも、いくら『にこにこ弁当』がいいっていっ ても、お客さんが来ないんじやねえ……」と母が心 配そうにいった。  「それはなんとかする’・」と一歩。  「なんとかって?」と姉。  「要は、知られてないんだよ’・ 俺の弁当の良さ がさ’・」と強気になる一歩。  「いっとくけど、返済計画に無理が生じたら閉 店って約束は忘れてないからね。そのために経理ソ フトもしっかり入れて管理してんだから。客が入ら なければ、問題解決にはならないからね」と姉は釘 をさした。  「はい。なんとかします’・ ありがとう’・」と一 歩。  「商品を知ってもらえさえすれば、きっと支持し てもらえる」と一歩は、販促・宣伝に力を入れるこ とにした。  実際に試食用のお弁当を、塾や学童保育に無料で 配布してみたりもした。  保護者や子どもたちに、無添加、旬の素材を使っ たお弁当の良さをわかってもらうために、お弁当の 包装紙に、イラスト付きの解説を加えたりもした。 イラストはオヤカタに手伝ってもらった。  一歩の弁当の良いところがよくわかるよう、お店 のホームページも充実させた。  お店専用のSNSアカウントで「今日のにこにこ 弁当」と食べたくなるような情報発信も毎日まめに 行った。  やれることはなんでも丁寧にやった。  お店の幸代たちスタッフや、姉や母も手伝ってく れた。  「自分たちのお弁当をよく知ってもらおう」とい うことにみんなで一丸となって動くうちに、お店に も活気が出てきた。  スタッフ同士もうまく打ち解けてきたように思う。  そのうち、お弁当を気に入って繰り返し注文をし てくれる保護者も増えてきた。親子連れでお店を訪 れてくれる人も増えた。  「リピーターさんが、SNSで、うちのお弁当を 褒めてくれてるよ〜’・」といった会話がスタッフの 間で頻繁に交わされるようになった頃、一歩たちの 日々のお弁当の販売は、軽く目標数を上回るように なっていた。   【解説】真の原因はなんであれ、自分に帰      属する要因を      認識する者ほど学びが多い    歴史的な三人失敗  ひとことで失敗といっても、千差万別、いろいろ なタイプがあります。たわいもないミスから発生す る無害なものから、人の生死にかかわる重大なもの まで、さまざまです。たとえばエンジニアリングの 世界で、「歴史的三大失敗」と呼ばれる次の三つを 見てみましょう。 ・タコマブリッジの崩壊   一九四〇年、アメリカーワシントン州の海峡タコ マナローズに架かる吊り橋、タコマナローズ橋が、 架橋後四ヵ月も経たないうちに強風のため落橋した (死者はなし)。 ・リバティシップの沈没  リバティシップは、第二次世界大戦中にアメリカ で大量に建造された輸送船の総称で、実際に就航す ると沈没事故が多発し、大きな問題となった。 ・コメットジェットの連続墜落  一九五三〜一九五四年、世界初のジェット旅客機 であったイギリスの「コメット」機について、空中 分解して墜落するという航空事故が多発した。  それぞれが生死にかかわるような大惨事を引き起 こした失敗例です。このように、失敗は時に悪をも たらします。全力I全知識をもって避ける努力を 怠ってはなりません。    失敗からの学び  一方で、失敗は成功のもとでもあります。失敗が あることで学びがある。学びがあることで改善があ る。改善があることで進歩がある。先の三大失敗も そうです。実験室では解明できなかった現象がそこ にありました。 ・タコマブリッジの崩壊  当時の最新理論で設計され、想定の範囲内の強風 だったにもかかわらず、橋が落ちてしまったのは、 当時未知の現象だった自励振動のためといわれてい る。 ・リバティシップの沈没  溶接用の鋼鉄が使われず、また応力への見識不足 から船体の一部に負荷がかかる設計であり、ここか ら溶接割れが生じて破断に至った。鋼の低温脆性の 発見につながった。 ・コメットジェットの連続墜落  機体胴体への与圧の繰返しによる金属疲労が原因。 設計当初、疲労破壊についての実験方法が未熟であ り、正しい見積もりができていなかった。  それぞれの原因が特定されたことで、技術的進歩 があり、その先の技術革新につながりました。過去、 特に技術革新におけるさまざまな発展は、失敗から 学ぶことから、生まれてきました。失敗は進化の源 です。ぜひ失敗を、より効果的に活かしていただき たいものです。    失敗作を人ヒット商品に進化させた3M  ビジネスにおいても失敗を成功の源にする。  世界有数の化学企業として有名な3Mの接着剤開 発担当の科学者スペンスーシルバー博士は、接着力 の強い接着剤をつくるはずが、簡単に剥がれてしま う接着剤をつくってしまった。その時点では明らか な失敗です。  しかしシルバー博士は、その失敗作を捨てること ができずに他の使い道を模索しました。それが付箋 「ポストーイット」という、これまでになかった画 期的な商品を生み、世界的な大ヒットとなりました。 今では、家庭、学校(教育)、会社(ビジネス)、病 院(医療)などなど、さまざまな現場での必需品と なっています。  このように、些細なミスからでも世界を変える商 品が生まれるのです。これは「失敗は成功のもと」 であることを示す数々の事例のひとつです。  mくQコωいヨ竺ヨ11い9万QnQコblossoヨ11コto a big  wonder!  小さなミスからでも世界を変えることができ  る!  ちなみに3Mという会社は、「果敢に挑戦し、進 んで失敗し、そこから学び、商品開発に活かす」と いう組織構造と、それを支える企業文化があること で有名です。それゆえ、ポストーイットのサクセス ストーリーは、単なる偶然ではありません。3Mに すれば必然の結果、当然の成功なのです。    失敗を責めても、なにも生まれない  実際に失敗が起こった際に、責任の追及をするこ とよりも原因究明に焦点を移す文化が必要です。失 敗が起こった場合、反射的に、感情的に、非難し罰 する。そして責任の所在を明らかにすることに注力 するような文化であれば、そんな環境では誰もが失 敗を隠蔽したくなります。罰則を強くするほどその 情報は深く埋もれてしまう。すると失敗から学ぶ機 会を失います。そして同じ失敗が繰り返されるので す。  企業トップが「失敗に厳しく対処する」という メッセージを社員に送ると、失敗は減るでしょうか。  答えは否、です。実際、減るのは失敗の報告の数 に過ぎません。失敗を責め立てられるのがわかって いる中で、誰が進んで自分の失敗を報告すると思い ますか。  たとえば、ある銀行でシステム障害が起きました。 その際、銀行は、安易に現場に一番近いシステム担 当者をクビにしました。世間に対して責任の所在を 明らかにしなければならないという事情で、特に悪 くもない担当者が処罰されたのです。一方で、真の 原因は究明されていません。結果として、その後も 大規模システムトラブルが多発し、誰も解決できな い状態が続きました。  そうした環境や文化では、失敗の報告を避けてし まううえに、状況の改善のために進んで意見を出す こともしなくなります。その結果、業務の責任も果 たさなくなります。  相手を訴えたり裁判にかけたりすれば人々は責任 感を強くもつようになる、というのも誤った思い込 みです。それで責任感が強化されたという証拠は、 いまだひとつもありません。誰かに責任をとらせる のは、安易なことです。会社にとって、都合がいい かもしれませんし、政治的にも利用できるかもしれ ません。しかし、それは一時的な措置に過ぎず、根 本的な改善にはなりません。  失敗を悪とすると、そこから学ぶことができませ ん。犯人をつるしあげてもダメです。どんな失敗も あらゆる角度から検討して、出来事の裏表を検証し て、問題の真の原因を把握するべきです。  重要なのは犯人探しではなくて要因分析。どんな 失敗が、どんな状況で、なぜ起こったか、が大切で す。「誰のせいだ」と後ろ向きに犯人を探し、非難 し、責任を問うよりも、前向きに、くわしく調査、 検証、という行動をとるほうが、実際の改善につな がっていきます。    失敗の原因は自分にあると認識する人ほど学    びが多い  ミスを認めること、そのミスをいい出しやすい環 境をつくること、みなでミスを共有する習慣をつく ること。それには、なによりも失敗に対しては必ず 進んで聞く耳をもつこと。そして最終的に失敗を許 す心をもち、実践することです。  ここに、二百人以上の失敗経験者をサンプルとし た分析結果があります(図表10‐1)。     4  5 6 一   2  3 一卩      !              S‐咄  扣 次に葉の威心 ‐5 」  それによると、起業家が失敗した際、真の原因が なんであれ、失敗を自分の責任ととらえる人ほど (一コーヨQ一Attributioコ一工11兮)、失敗から学ぶことが多 く、次の起業に役立てることが多く、実際に二度目 の事業の成長度は一度目よりも高くなることがわか ります。  たとえば、自社が倒産した際に、景気が悪かった から、商習慣が変わったから、というような外部要 因のせいにしないで、ファイナンスの数字が自分の 見込み違いだったとか、プロモーションのメディア 選択を誤ったとか、自分のミスととらえる。本当の 原因はどうであれ(現実的には真の原因の多くは自 分に起因するものと他人に起因するものが混在した ものである)、そうして自分のせいだと認められる 傾向のある人は、その要因を自らコントロールし、 よく学ぶことができ、なおかつ、次にそれを活かす ことができるのです(”Risiコg froヨthe Ashes: (lognitiくe Deterヨ11コaコts ofくenture Growth after mコtrepreコeurial Failure." ET&P. 39 (2) : より)  失敗を認めることの意義は、こうして次の成長に つなげることにあります。ぜひ、失敗を成功に進化 させる教訓として活用していただきたいものです。     第十一章 とにかく行動し、失敗          から学び、仲間を増や          せ  「え冫・ まずい、もうこんな時間か」  教授の部屋を出た隼人は、時計を見て思わずつぶ やいた。  隼人は、目下、アメリカのマサチューセッツ州ボ ストン郊外にあるバブソン大学に留学している。バ ブソン大学は、起業家教育に特化した大学で、その 分野では「U.S. News & World Report Jの大学ランキ ングでも、長きにわたり全米ナンバーワン(MBA で二十七年連続、学部で二十四年連続)を誇るとい う世界的に評価の高い大学だ。  「やばつ。あいつ、もう、着いてるかな?」  隼人はスマートフォンでメールをチェックした。  ある事情で教授に泣きついているうちに、すっか り時間のことを忘れていた。  「よし」  まだ到着したという連絡はないようだ。  隼人はあらためて駆け出した。  バブソン大学は、世界中から起業を志す学生が集 まり、教員もほぼ全員が現役の実務家だという起業 教育の名門だ。だが、なにも起業家を輩出すること だけを目的としているわけではない。  バブソン大学では、起業教育に「Entrepreneurial Thought & ActionR(MH陬七J(起業家的思考と行 動法則)」という特有の方法論を用いており、この 「起業家のように考えて起業家のように行動する」 方法を、起業家に隕らず誰もが習得できるとしてい る。起業・新規事業の創設のみならず、日常の仕事 や生活、社会・文化活動など、あらゆる分野で新し いものを生み出したり、変革を起こしたりするのに 活用できるアントレプレナーシップ教育を行ってい るのだ。  「イノベーションを起こして世界を変える起業家 になりたい’・」と願う隼人は、早くから、この世界 的に名高いバブソン大学の起業家育成プログラムを 受けたいと思っていた。  魅力的であるのはプログラムだけではない、  ここ、バブソン大学であれば世界の起業家との ネットワークを築くことができ、将来のグローバル 展開にも役立つのだ。  バブソン大学は、MBAの学生の六割(学部は四 割)強が留学生という多国籍な環境で、かつ、約四 割がファミリービジネス経営者の子息という珍しい 環境だ。そのため、卒業後自国で経営者としての道 が用意されている学生が多くいて、豊かなネット ワークを築くことができる。  「……あっちの扉から出たほうが早いかな」  隼人が勢いこんで、外に出ようと振り返ると、 ホールの天井からぶら下がった巨大なオブジェに頭 をゴツンと派手に打ちつけた。  「イッテー・」  思わず隼人は痛みに、のだうち回った。  この教授陣のオフィスのあるArthur M. Blank Centerの天井からは、バブソンの起業家たちの会社 のロゴや商品をかたどった大きな像が多数ぶら下 かっている。巨大なギャラウェイのゴルフクラブ、 巨大な鶏……、それらは実に多様な起業家が生まれ ていったことを物語っている。  「なんだよ’・ 痛いけど、行く’・ 俺は約束を守 る真面目な日本人だからな’・」  と気を取り直して隼人は起き上がり、外へ飛び出 していった。  隼人がボストン市内の、とあるバス停まで走って 来ると、そこにバックパックを背負って、ジッとそ ばの広告塔を眺めている青年がいた。  一歩だ。  「一歩’・」  隼人は声をかけた。  「やあ!・」  一歩も隼人に気づいて手をあげた。  とかく他人に警戒心を抱かせない一歩だが、その 姿はまるでまだ学生のように見えた。  「いや、学生っていうより、万年浪人生ってとこ か」といって、隼人は駆け寄った。  一歩は、隼人に誘われ、日本からはるばるバブソ ン大学の見学に来たのだ。  「なんだよ、浪人生って」  「気にすんな。なに、熱心に見てたんだ?」と隼 人が尋ねると、  「これ」と一歩は広告塔を指差した。  「?」と隼人もそれを見た。  それはバブソン大学の広告で、次のふたつのフ レーズが掲げられていた。 If you could solve one world probleヨ「 what would it be? 世界中にある問題のうち、あなた自身がひとつを 解決できるとすれば、それはなんですか? There is an entrepreneur in all of us’ 起業家精神はみんなに宿っている(あなたにも)。 「ああ、これか」と隼人。 「うん」と一歩。 一歩は妙に真面目な顔で、それを見ていた。  「こっちは、『あなたが解決したい問題はなに か?』つてやつだろ? こっちは?」と一歩。  「『誰もが、起業家精神をもっている』。誰もが世 界を変えられるってやつだよ」と隼人。  「ああ。そっか。なるほど」と一歩。  隼人は、一歩と「カフェーカオス」でそのフレー ズを矢弦から教わったときのことを思い出していた。  一歩も同じことを考えていたようで、  「『あんたのやりたいことはなにか?』『それを起 業家のように考えて、行動する』『それを日常生活 や日々の仕事で活かせば誰もが世の中を変えられる んや』つてやつだ」とつぶやいた。  「うん」と隼人。  「『そして、その力は、不確実性の高い世の中を生 き抜く力にもなるんや’・ 未来を創る力になるん や’・』つていう」と一歩。  「へえ。ちゃんと覚えてるんだな」  「何度も聞いたからね。『カフェーカオス』で」  「そうだな。さて。行くか」  隼人は一歩を連れてバブソン大学に向かった。  バブソン大学は、ボストンから車で三十分ほどの ウェルズリーの閑静な高級住宅街にある。歩いてい るうちに、林立した木々の隙間から品のいい落ち着 いた建物が見えてくる。  隼人が一歩にキャンパス内を案内する。 IThe Babson Globeと呼ばれる巨大な地球儀。 −アントレプレナーシップで世界トップであるこ とをうたう垂れ幕。 −冬は雪に覆われるという屋外キャンパスで、輪 になって座り、議論している学生たち。  一歩が珍しそうに、それらを見ている。  「じやあ、Dr. Failureの授業でものぞきに行くか」 と隼人。  「ドクターフェイリュアー?」  「矢弦さんのことだ」  「むむ。ポンドに先生なんだね」  「もうここで十年以上、教鞭をとってるらしいよ。 Dr. Failure'または、failure Ouyつて呼ばれてるこ ともあるな。なんだか、みんな、キャンパス内で矢 弦さんを見かけると、『こんな失敗したぜ’・』て、 やたらうれしそうに報告にいくんだよ」  「失敗を? なんだそりゃ」  「ここでは、『Failure is Go乱』なんだ」  「『Failure is Go乱』? 失敗がいいってこと?」  「『Failure is Go乱(失敗は素晴らしい)』は、矢弦 さんのつくった授業のひとつでもあるんだ。矢弦さ んは失敗学を教える教授で、失敗博士ってニック ネームで呼ばれてる」  「へえ」  隼人と一歩は講義棟に入っていった。  矢弦の授業をのぞきに行くふたり。  「あ、矢弦さんだ」と一歩は見る。  そこには、矢弦と、起業家を目指して世界から集 まった学生たちがいた。  「Action trumps every巨品一」  矢弦の授業中、学生たちは声を張り上げた。  バブソン大学は、「学んでからやってみよう」で はなく、「やってから学ぼう」でもなく、「やりなが ら学ぼう」という教育だ。  たとえば、バブソンの学生は、もれなく「実際に 起業を体験する」授業を受けることになる。MBA では、六ヵ月の期間内に、学生数人に分けられた チームで、プランニングだけでなく、実際に校内や 近くの地域でそのビジネスを立ち上げ、収益をあげ ることまで実行するのだ。  学部では前期・後期の一年間のFou乱ations of Management a乱Entrepreneurship(FME)と呼ばれ る一年生の必須コースがあり、それは数々のアワー ドを受賞した、バブソン大学の看板授業として知ら れている。  学生同士で、アイデアの発掘から事業の設立をす る。社長など役職を創出したうえで一社当たり三十 万円程度の運営資金を大学から資金調達し事業を回 していく。学期末には必ず会社をたたみ、収益を寄 付するので、学生はエントリーからエグジットまで のビジネスサイクルすべてを経験することができる のだ。費用は大学が負担するので破産する心配もな い。知識を得るだけでなく、実践で体得させるバブ ソン大学ならではの、ユニークな教育プログラムだ。  しかも、そのチームメンバーは、ご丁寧にも「文 化的な衝突が多くなるように」、多国籍のメンバー がそろうよう調整されていたりもする。  隼人などは、積極的に学びたいと、果敢にプラン を通し、リーダーを買って出だのだが、「けど、ホ ンツトに大変なんだな、これが」と、ぼやく隼人。  「そうなの?」と一歩が尋ねた。  「まず、英語でチームをまとめるのが至難の業」 と隼人。  ヨーロッパや南米、アジア系の非ネイティブの学 生たちの話す英語が、隼人には聞き取りづらい。発 音の癖や訛りがわからないし、しかも早口だ。しか し、これはお互い様で、隼人の話す英語が伝わらな いこともある。  そのうえ、文化や価値観の違いからくる衝突もあ る。  ミ上アイングに来ない。三十分の遅れは日常茶飯 事。自分のやりたいことしかやらない。遠慮や配慮 がない。調子はいいが、約束を守らない。  「へええ。大変そうだね」  「うん。毎日が試行錯誤の連続だ」  矢弦の授業で起業・経営を学ぶにあたっても、学 生たちは、実践に重点をおいている。試行錯誤しな がらアイデアの剔出や資金調達について、あるいは マーケティングやオペレーションについて、生きた 事例や経営者から直接学んだりするのだ。理論は 「こういう経営理論がある」と示唆する羅針盤であ り、解決策を与えられることはない。答えはひとつ ではないからだ。実際にどう解決するかは自分たち で考え、実行し、体得していくのだ。  隼人にそう解説され、「へえ」と一歩は感嘆して 見ていた。  「『起業には失敗はつきものや』つて。Dr. Failure は、『どうやってスマートに失敗し、どうやって失 敗から学び、どうやってその学びを最大化するの か』ということを教えているんだ」  たとえば、その囗の矢弦の授業では、チームでエ ベレストの登頂を目指すシミュレーションが行われ ていた。五人のチームで、それぞれ医師、写真家、 環境保護団体の一員、アスリートなどの役割を演じ る。それぞれ、上手に情報交換をしないと、天候を 見誤ったり、酸素ボンベが足りなくなったり、トラ ブルも多発する。時にはチームの仲間の救助を余儀 なくされたり、シミュレーション内で死亡もする。 それらのトラブルをどう解決するか、どう救助して いくか、など、コミュニケーションカやリーダー シップ、心理的安全性などについて、試験的に学ん でいくのだ。  矢弦が、学生たちチームに  「○ft-" soy呂failed?(失敗したんだね?)」となじ ると、  日Ow lucky we are!(なんてラッキーなんだ’・)」 とクラスのすべての学生が叫んだ。  すかさず矢弦は彼らに問う。  「So why is that?(なぜラッキーなんだ?)」  すると、学生たちは、なぜ失敗したことがラッ キーなのか、その理由を誇らしくクラス全体に説明 し出すのだ。  「なに、あれ? 彼女は『私、こんな失敗したの よ!・ すごいでしよ』的なことをいってるわけ?」  と一歩が隼人に尋ねると、  「うん。まあ、『こんなに失敗したけど、こんなこ とが学べたのよ’・』的なことかな」  と隼人は答えた。  「なるほど」と一歩は見ていた。  矢弦は、学生たちがミスするたびに、「失敗した なんて、ラッキーや’・ なぜかわかるか?」と、失 敗からなにを学んだかを引き出すのだ。  そして「成功」ではなく「失敗」を評価する。  事実、バブソン大学の起業の授業は、「いくら儲 けたか」で成績が決まるのでなく、「どれだけ学ん だか」、すなわち「失敗から、なにを、どれだけ、 学んだか」で成績が決まる。失敗から繰り返し学ぶ ことの重要性を学ばせるためだ。そうすることで学 生たちの失敗に対する不安や負担が軽減され、許容 できる失敗の範囲も広がっていく。そのため学生た ちは、彼を「{}「・恂乱耳・」と呼び、失敗を犯したと きでも笑顔で報告に行くようになるのだ。  「ええ? いいなあ。失敗したら褒めてくれる の?」と一歩。  「うん。矢弦さんはいっていた。『失敗を評価する ことが重要なんや。そうすることで失敗を恐れず、 多くの新しいチャレンジができ、その失敗から多く を学ぶことができる。そのうえ、成績・評価も上が る、という好循環が生まれる』つてね」と隼人。  日本では考えにくいが、失敗に寛容な環境をつく り出すことで、学生たちは失敗で遊ぶ余裕を身につ けているのだ。だから、大小多くの失敗を進んです ることができ、それを深掘りして多くを学ぶことが できる。  「そういや『失敗はオーケー、でも失敗を恐れる ことはノットオーケーや』つていつもいってたもん な」と一歩。  成功ばかりしていても成績に直結しない。  成績を上げる一番の近道は、どんどん新しいこと にチャレンジし、普通では考えられない道を選び、 たくさんの失敗をすることだ。そしてたくさんの経 験を積んでその失敗を誇らしげにレポートすること だ。  無謀なリスクテイカーになれと指導しているので はない。  とれないリスクはとらない。むしろとれるリスク を見極め、行動し、その失敗から学ぶ。その繰り返 しでリスクを掌握し、前に進めと教えているのだ。  こうした挑戦を促す環境で、学生は、起業の三原 則『行動ありき』『失敗ありき』『人を巻き込む』を 実践してどんどん習得していくのだ。  「いいなあ’・ 羨ましい環境だ」と一歩はつぶや いた。  そのとき、矢弦が声をあげた。  「一歩? よう来たな’・ そんな隅におらんと こっちに来い’・」  「ええ?」  矢弦は、一歩を学生たちに紹介する。  「一歩は、日本で起業をしている起業家でもある。 どうや、その後」  「ええ……まあ失敗なら、僕もいっぱい」と一歩。  「はい」と隼人。  「また、そうやって失敗を経験すると、起業もう まくなっていく」  矢弦の言葉に一歩も隼人もうなずく。  矢弦は続ける。  「起業を実践するための方法論としては、まず、 『{}la一自分がなにをしたいのか、どんなインパ クトをもたらしたいのか』が原点。そして、起業の 三原則『行動ありき』『失敗ありき』『人を巻き込 む』。これの繰り返し」  起業の三原則  Act quickly with the means at hand!  行動ありき  必要なものをリストアップする前に、今、現実に もっているもので始める。何事もやってみないとわ からない。  Pay only what you can acceptyafford to I〇S  失敗ありき  失敗は必然。起業すればミスを犯すことは日常茶 飯事。メンバーと失敗の定義や許容範囲を共有して おく(それ以上のリスクはとらない)。  Bring others al〇コg to your journey  人を巻き込む  さまざまな人(ステークホルダー)を巻き込む。 課題やソリューションが大きければ大きいほど、ひ とりでは実現できない。時には人に頼る強さをもつ。 潮流を生む。  「あとは、Act「 」ea日「 Build「 a乱Repeat.『yEと にかくやってみて、フィードバックを得て、 戸a日』なにかを学び、それを『啣sE』する。そ してまた『呻召氛』するためにDesireに戻る。『こ れって、やりたいことだったっけ?』と考えて、軌 道修正して、動いて学ぶ。そうして体得していく。 とはいえ、これはなにも起業においてだけのことや ない、一般化できるんや。趣味や日常生活を送るう えでも役に立つ。そうやって、自分を変える、自分 の周りを変える、そうやって世界を変えていくん や」と矢弦。  授業を終えた後も、矢弦とI歩たちは話が尽きな かった。  「失敗をすればするほど成績が上がるっていうの が面白いですね」と一歩。  「アメリカと日本ではそもそも、失敗に対する寛 容度が違うからな。アメリカでは『失敗したことが ない』という起業家は逆にネガティブなイメージを もたれてしまう」  「なるほど。そうなんですね」  「失敗していれば、そこからどうやって挽回した のか。失敗から学んでいれば、成功する確率も上が るという考え方やからな」  「へえ」  「かたや、日本人は失敗をタブーだと感じている から、『失敗したことがある』とはいいたがらない。 アメリカでは、失敗を表す言葉にもいろいろあって 『恂乱耳・』『』ossJ [fMistakeJ [fPivoこの順に軽くな る。それに、欧米人は日本人に比べて『失敗』を客 観的にとらえていて『個人の評価』とは結びつけへ ん。だが、日本人にとっては、『失敗』は英語にお ける『恂乱耳・』と同じで、個人の評価と一緒にして しまうんや」  「なるほど。たしかに」  「日本は失敗を『恥』ととらえるところがあるや ろ? だから『失敗するのが嫌だ』『誰かにバカに されたくない』『責められたくもない』『笑われたく もない』という思いも強い。だから、プランもガチ ガチに固めて、失敗を恐れて思い切ったピボットも できへん」  「そうですね」  「アメリカで投資家にピッチをすると必ずといっ ていいほど、失敗体験を聞かれる。そこで自分はこ うして失敗して学習してカムバックした、と話すと、 起業家としてたくましく見えるねん。でも、日本人 の多くは、ちやう。失敗したことを聞くと『うっ』 と警戒するし、社会も『また失敗するんじやない か』とネガティブにとらえる」  「それはありますね」  「いわば、日本は、みんな最初は百点をもってい て、それが失敗で減点されていくような世界や。失 敗したら二度と這い上がれないと思い込んでる人も いる。一方、アメリカは最初O点から始まって、な にかをしないと点が得られない文化。だからみんな チャレンジするんや」  「なるほど。へえ」と一歩。  「ああ、それは俺もこっちにきてすごく実感して ます……」と隼人もいった。  というのも、隼人が本日、教授の部屋に泣きつき にいったのは、ここでは授業中に発言しないと出席 したことにならず、評価がどんどん下がってしまう からだ。授業中は黙って板書を書き写すだけの日本 教育とはまったく文化が違うのだ。隼人は、あまり に発言できず、成績が不安で、とうとう教授に泣き ついてしまったのだ。  「え? 隼人でも? 日本じゃ、あんなに思った ことをズバズバいうのに」  「それとは次元が違うよな。つたない英語で『な にいってんだ?』と笑われるのも恥ずかしいし、英 語でなくたって、今いわれたことに対して、即、 『自分はこう思う』と主張することにそこまで慣れ てない。それに受け身の学習に慣れているから、 『え? なんで?』『それポンド?』と疑う習慣もな いから、質問も湧き出てこない。自分がいかに受け 身に学んできたかを思い知ったよ」  「だ、大変なんだね。え? で評価上げてくれた の?」と一歩。  「いや。もう一度、挑戦するチャンスをくれただ けだ。だからさI。日本とここでは行動を起こす、 挑戦する、ということの頻度やとらえ方が全然違う んだよ。日本では挑戦する頻度が少ないから失敗が 普通のことだとの認識もされにくい。やらない人ほ ど批判するし文句も多くて挑戦しにくい文化」と隼 人。  「そうかもしれんな」と矢弦は笑って説明を続け た。  「日本でも、『失敗』はその大自身の問題でなく、 その行動自体が失敗だというマインドセットに変え て広げていくことが大切や。個人を否定されるもの ではない。そして人の失敗を社会で共有して再発を 防ぐという意識が必要や。自分のミスを認め、大の ミスを許すことができれば社会は大きく変わってく る。失敗は失敗でも、最善を尽くしたうえでの失敗 なら、それは素晴らしいことのはずや」  「とはいえ、日本のビジネス社会だと、まだまだ 難しいでしようね」と隼人。  「日本の大企業でも、挑戦をたたえる人事評価が 導入されることを祈りたい。日本は『失敗から学 ぶ』仕組みづくりや『失敗の成功例』がもっと必要 や」と矢弦。  「日本では『責任の所在を明らかにすることが第 二という文化が根強いですからね。失敗について 世間から受ける制裁もきついですし」と隼人。  「せやな。けど、そんな環境では誰もが失敗を隠 蔽したくなる。罰則を強くするほどその情報は深く 埋もれてしまう。企業トップが失敗に厳しく対処す るというメッセージを社員に送ると失敗が減ると思 うか? そんなわけあれへん。実際減るのは、『失 敗の報告の数』や」  「そうなんですか」と一歩。  「せや。失敗を責められるとわかってて、誰が進 んで自分の失敗を報告する? 失敗を悪とすると、 人は失敗を隠す。だから、そこから学ぶことなんか できへん」  「そっか」  「大事なんは、犯人をつるしあげることやなくて、 失敗を受け入れることや。どんな失敗もあらゆる角 度から検討して、出来事の裏表を検証する。そして、 問題の真の原因を把握する。大事なんは、失敗から 学んで今後に生かすことや」  「そうですね」と一歩。  「そして、ここでの学びにおいて、大切なのは 『どんな人間とつながることができたか』や。プロ ジェクトやグループワークを通じて良い人間関係づ くりを能動的に学んでほしいと思ってる。大きな失 敗を共に経験することで絆が深まる。信頼関係がよ りいっそう構築される。人は失敗しているときこそ 本性が現れるんや。そんな窮地に追い込まれて真っ 裸になっている自分に、手を差し伸べてくれる人は 誰かを知ることも大事なんや。一歩にもいい出会い があることを祈ってるで。『意味のない出会いを求 めよ』や」  「はい!」と、一歩と隼人はうなずいた。  「ほかの日本人留学生にも会ってみる?」と隼人 は、一歩を、カフェテラスにいた日本人留学生に引 き合わせた。  彼は、日本の大企業から派遣されてきた垣内とい う男性で、年は「隼人より少し上」といっていた。 日本では企業内起業家として、新規事業を担当して いるらしい。  「ここにきて一番、衝撃を受けたこととか、影響 を受けたこととかってあります?」  と一歩が尋ねると、「もう、衝撃ははじめからだ よ」と垣内は笑った。  垣内は、まず、学期が始まる前のオリエンテー ションから印象的だったという。  「もう早速、PredictionとQaR呂、チームワーク の重要性を実感させるんだ」と垣内はいった。  オリエンテーションのワークショップでは、学生 が六人一組のチームに分けられて、@ジグソーパズ ルを完成させるワークと、Aたくさんの布や毛糸の 素材から自由にギルドをつくり上げるワークをやっ たという。  「へえ」と一歩。  「@のパズルは、『正解』のあるものだろ? ひと つの正解=完成図に向けて予測、つまりPrediction で解決しうるもので、日本人の得意とするところだ。 でもAのギルドの作成が問題だ。これには『正解』 がないだろ? 自分たちで自由に正解をつくり出さ なければならない。こちらは、創造的行動、つまり Creactionだ。日本人学生の多くがこれには困惑す るよね。慣れてないからさ」と垣内。  「わかるわかる。それぞれに求められるチーム ワークも違ってくるし、ちなみにあれで僕は、自分 は、『答えのあるもの』『目的があらかじめ決まって いるもの』へのアプローチは得意でも、『答えがひ とつでないもの』『目的がメンバーや資源によって 変化するようなプロセス』は超苦手なんだなってよ くわかった。起業には両方のアプローチが必要なん だけど」と隼人。  「へえ。面白いね」と一歩。  「あと、なんだろうな。とにかく学生の姿勢が日 本と全然違うよね。学生はもうず1つと、『俺こん な面白いこと思いついたんだけど、どう思う?』と かって、聞いてくるよね」と垣内。  「そうそう。常にアイデアを転がしてる。なんで も思いついたら人に話して、フィードバックを得て、 絶え間なく高速でアイデアを磨き続けてる。囗本の 企業とかだと、あっけなく却下されそうな粗いアイ デアでも、どんどん転がすうちに、すごいアイデア になってたりするもんな。またそうしたことができ る環境がここにはある」と隼人。  「へえ」と一歩。  「だいたい、入学前に矢弦さんに『どんな準備を したらいいですか?』と聞いたとき、『真剣にイケ る’・ と思える新しいビジネスアイデアを十個は考 えとく』といわれたんだ。ポンドそう。そういうの をどんどん転がしていくんだよな」と隼人。  「とにかく、みんな絶えずアクションを起こして る。もう誰にどう思われるかというより、『俺はこ れをやりたい’・』というパッションに正直で、大学 もそういうところを尊重するし、しょっちゅう『自 分のことを一分でピッチしなさい』みたいなことが あるし」と垣内。  「へえええ。そんなに自分自身のことを考えたり する機会なんてないけどね」と一歩。  「囗本の大企業なんかにいると、新規事業を検討 するとき、市場調査でも調査会社に依頼してよくよ く調べて予算もしっかり立ててからやることが多い だろ? いわゆる、PDCAでいうとP(計画)に 時間をかけすぎるけど、もう、俺、次に新規事業や るときは、なによりもとにかく、自分の欲求を大事 にして、アイデアを転がしながら進めるね。とにか く小さな一歩を繰り返して動き続けることが大事だ なと」  「面白いね」と一歩。  「うん、ここにいると、ビジネスアイデアを考え 続けるのが習慣になってくる。授業の中で、実際に 投資家にピッチをすることもあるんだけど、いいプ ロダクトをつくる以上に、いかにいいストーリーを 創るかが大事だと認識したよ。人の心を動かさない となにも始まらないんだなってね。だから自分も パッションがぐっと湧き出てくるまで、アイデアを 考え続けなきやいけないんだなって」と隼人もいっ た。  「へええ」と一歩は感嘆して聞き入っていた。  同じ頃、囗本の現代建築社では、会議室に、新規 事業のメンバーが集まっていた。春奈が仏頂面でい  「だからいっだのに」  pシステムズからマッチングサイトの試作品が出 てきたのだが、納期が遅れたうえに、こちらの意図 が伝わっていないのか、思わぬ不備が多々ある欠陥 サイトになっていた。  「ボロボロじやん」  春奈は、パソコンでその試作サイトをいじりなが らぼやいた。  「ひどいね。あんだけ督促したのに、こんなに納 期が遅れたうえに、この出来」  緑川ものぞいていう。  「『やってます、やってます』つてのは嘘で、散々 待たせた挙句、全然やってなかったんだと思う。で、 さすがに納期やばいってので、やっつけでやったん でしようね。だってこれまでプロトタイプが一回も 出てこないなんて絶対おかしいし。やっぱ、pシス テムズの担当者、私たちのことを舐めてんのよ。で しよ?」  春奈は、青木に尋ねる。  「そうかもな」  青木も否定はしない。  「どうするかなあ。これで修正するとなると」と 黄島もいう。  「『追加見積もりを』つていってくるんでしようね。 またお金と時間がかかる。あIあ。やっぱり黒田の 嫌がらせだったんですよ。このシステム会社を、私 たちにあてがってきたのは」と春奈。  「で、どうするの?」と緑川。  「とりあえず修正指示はするけど、このベースだ と大分時間とコストがかかりそう」と春奈。  そのとき、黒田が広告営業部員たちを連れてやっ てきた。  「おい、この会議室。俺たちが押さえていると思 うんだが」と黒田。  「……すみません。もう終わります」と黄島たち が、出ていこうとすると、黒田が春奈にいった。  「ああ、おまえ。新規事業のマッチングサイトの 発注に失敗したらしいな」  「はい? なにがですか」と春奈。  「発注の仕方が悪くて、つくりにくいって、pシ ステムズの担当者も愚痴ってたぞ。結局失敗したん だろ?」  「はあ? こちらはちゃんと発注しました’・ そ れなのに、こんなサイトが仕上がったんです’・」  「それは、おまえ、もしくは、おまえらの責任だ ろ?」と黒田。  「黒田さん?」と黄島が咎める。  「システム依頼の担当はおまえだろ? だったら、 結果がダメなのはおまえのせいだ。違うのか? 結 果がすべてだろ? まったく。仕事には責任感って ものをもってほしいね」  「はあ? つてか、おまえでなくて、赤井です’・」 と春奈は怒った。  「はっ? はいはい、赤井さん。じゃ、出てって くれるかなI?」  と黒田が退場を促す。  春奈がムッとしていると、緑川が「行こう」と声 をかける。  青木はそのまま広告営業部の会議のためにその場 に残り、黄島、春奈、緑川が外に出ていった。  「なによ、あいつ’・ あいつのせいじゃん’・ 変 な会社押しつけやかって’・」と春奈。  「ポンドだよ」と緑川。  「私ちゃんと、発注しましたよ’・ 進捗確認たっ てちゃんと’・」と春奈。  「わかってる。赤井さんが悪いんじゃない」と黄 島。  「しかし、困りましたね……。なんだか、数年前 の新規事業の失敗のことを思い出してきた。ああ やって黒田に士気を奪われて……」と緑川。  「そんなことしてなにが楽しいんだろうな、彼は」 と黄島。  「ああいう大は、昔とっだ杵柄に頼るしかないん ですよ。だから人の足を引っ張る。青木君もいって ました。黒田部長は、部下に仕事を教えない、得意 先も絶対に部下に譲らないって。あれでいて自分の ポジション守るのに必死みたいです」と緑川。  「やだな、既得権益にしがみつく系の人間は。な にも新しいことに挑戦できないくせに文句ぽっかり いうんだ」と黄島。  「で。どうします?」と緑川。  「もう、新規事業なんて、やめちやいましようよ。 バカバカしい。この会社にはロクな上司がいない。 こんな会社、潰れりやいいじやん」と眷奈。  「おいおい」と緑川。  「潰れても別に転職すりやいいじやん。会社なん て乗り物なんでしよ?」と眷奈。  「あのさ。まあ、腹ば立つけど、まだ始まったば かりだよ? 新規事業って、どんなことでもそんな 簡単にはいかないんだけどな」と黄島。  「ええI?」と眷奈。  「僕なんかは、障害が多いほうがやりがいを感じ るんだけどね」と黄島。  「ええ? 黄島さん、ちょっとキモイ」と眷奈。  「スムーズにいかないほうが大は成長するんだよ。 君だって、このままでいいの? やりたいことが あったんじやないの?」と黄島。  「だって頑張ったって報われないじやないですか。 失敗を認めないタコ社長に、なにも専務に、人の足 を引っ張る腹黒野郎がいる限り」と眷奈。  「前に新規事業で頑張ってた大も、結局出世コー スから外れたままたしな」と緑川はため息をつく。  「そうだ。ちなみに、ずっと気になってたんです けど」と眷奈。  「うん?」と黄島。  「矢弦さんは、会社に変革を起こすには、変態が 五人いればいいといってましたよね?」  「いってたね」とうなずく黄島。  「黄島さん、緑川さん、青木さん、私。今、四人 しかいません。灰田が五人目の変態なわけありませ んから。あれは変化を徹底的に避ける真逆の生き物 でしよ?」  「うん。そうだね」  「もうひとり、本当の変態がいたら変わりますか ね?」  「もうひとり?」  「もうひとりって? でも、どっから連れてくる の?」と緑川。  「それなんですけど。緑川さん、ちなみにその、 前の新規事業で失敗して飛ばされて出世コースから 外れた入って誰ですか?」  「え? 知らなかったの? 赤井さんのよく知っ てる人だけど」と緑川。  「え?」と春奈は首を傾げる。  一歩は、数日間、バブソン大学やボストンを観光 したのち、日本に帰っていった。  一歩がバブソン大学から刺激を受けたのと同時に、 隼人も一歩の弁当屋の話を聞いて、その着実にやり たいことを実現している姿に刺激を受けた。たった 数カ月間のうちに、一歩はずいぷんとたくましく なっていた。  隼人も早く、自分の解決したい課題を見つけなけ れば、と焦った。  「自分は本当になにがしたいんだろう?」  その隼人に矢弦が、「COヨfort zone vs. ”un” comfort z呂・」について話をしてくれた。  「Coヨfort zoneからUncoヨfort zoneに飛びでてみ ることや。Coヨfort zoneちゅうんは、自分の居やす い場所。心地のいい、安住の楽園や。そこを目指し て頑張り抜くっちゅうのはええけど、そこにいつま でも浸っていてはアカン。成長はない。一方、 IにJncoヨfort zoneちゅうのは、居心地の悪い環境。慣 れない環境や。成長のためにそこに飛び出すんや。 なんでもええ、右利きなのに左手を使ってみる、海 外留学をして異文化・価値観に触れるんでもええ。 自分の領域を知り、そこから抜け出す。気づきがた くさんあって、それこそが成長の糧になる」と矢弦 はいった。  (いoヨfort zone is a wo乱erful place.。.but no巨ng grows there.  (jet out ot your coヨfort zone and grow!  居心地の良さにひたっていては成長しない。安住 地から抜け出すことで成長しよう’・  「Uncoヨfort zoneね」と隼人は矢弦の言葉を思い 出しつつつぶやいた。  そういえばI歩もいっていた。  一歩が起業道を学ぶことにしたきっかけは、会社 が倒産したこともひとつの理由としてあるが、当時 の彼女との結婚を意識し始めたことも理由のひとつ だったそうだ。  「俺の彼女には常に熱中していることがあるんだ けど、俺にはそんなもの、なくてさ。俺もひとつ、 『自分はこれだ’・』つてものをつかんで結婚しよう と思ってたんだけどな」  と一歩はいっていた。それで『起業』というこれ までの自分とは無縁の世界に飛び込んでみたのだと いう。  ……で、肝心の彼女と別れてしまっだのだから、 あいつはトコトン不憫な奴だ。  「飯でも食って帰るか」  隼人は、大学のカフェテリアヘと向かった。  そのとき、向かいから歩いてくる日本人っぽい女 性たちにふと目がいった。  「こんなところで日本人女性が四人も固まって歩 いてるなんて珍しいな」と思って何気なく見ている と、そのうちのひとりのキリリとした顔立ちの女性 と目が合った。  背の高い、姿勢のいい、髪の長い女性。どこかで 見たような。  「あ!」と隼人が思わず声をあげると、その女性 も、「?」と隼人から視線をそらさずに立ち止まっ た。 −間違いない。彼女は、一歩の元恋人だ。  「あの……」と思わず隼人は美月に話しかけた。   【解説】学びの仕掛けは組織の(Iド&ソ       フトの両面で    「正解」「不正解」で成績が決まらないバブ    ソン人学  バブソン大学は、世界ではじめて起業家教育を学 部・MBAに導入した先駆者であり、現在では、起 業家教育の指導者のための教育シンポジウムやイノ ベーションセンターなどの場づくりにも積極的に取 り組んでいます。  かつてはベンチャーなどの起業家を対象としてい ましたが、現在では「全種類のアントレプレナー シップの教育者でありたい」と大企業からファミ リービジネス、NPOの組織に至るまで、すべてに おけるアントレプレナーシップの教育者であり、牽 引者であることを目指しています。  そのバブソン大学では、失敗を通じて学ぶことの 大切さを教えています。  失敗についてオープンに語れる雰囲気をつくり、 失敗を認め、それについてみなで話し合う環境づく りをしているのです(心理的安全性の確保)。起業 の授業でも、会社の売上・利益で成績をつけるので なく、起業体験を通じ、なにを学んだかで成績をつ ける。つまり、成功か失敗かよりも、学生が「なに を学んだのか」ということを重視するのです。  日本では「正しい解答」をしたかどうかで学生の 成績が決まりますが、バブソンの試験問題の正解は ひとつではありません。考え方がテストされるので す。「自らの力でなにをどう学んだか」によって正 解が変わってくるのです。    失敗の定義には個人差がある  バブソン大学では、起業学と同様、失敗学も失敗 ありきの方法論として教えます。  まず、そもそも、人それぞれ「失敗の定義」が異 なることを認識させます。  エグゼクティブープログラムで起業における失敗 学を教える狙いは、失敗からいかに学び、次の成功 に結びつけるかをケースースタディー(実例)を用 いて体得してもらうことにあります。  その講義のはじまりの質問が「失敗ってなに?」 です。  議論はゆうに三十分を超えます。  なぜか。  みながみな、違う定義をもっているからです。ち なみに欧米とアジアの受講者ではウオームーアップ に要する時間が異なってきます。  往々にして、講義のタイトルは当日まで明らかに されません。失敗という言葉を使うとみなが身構え るからです。アジアの受講者の場合はなおさら。私 が登壇し、「今日一日は失敗について討論する」と 発表すると、いったん部屋が静まり返ります。重苦 しい空気に包まれます。ここから「失敗ってな に?」を引き出すのは少々困難です。  一方で、欧米の受講者の場合、テーマを明らかに した瞬間、顔がほころんだりします。笑い声も聞こ えます。惜しみなく自分の経験を語り、「失敗とは なんぞや」という持論を展開します。人によって、 失敗は形あるものであったり、ないものであったり (前者は失敗作・欠陥品といったもの、後者は不名 誉など)、客観的であったり主観的であったり(前 者は成績・評価といったもの、後者は満足度など)、 自分が失敗したと思っていても他人から見たら失敗 でもなんでもないこともあります。  それゆえに、大事なのは、「自分にとって、失敗 はなにか?」ということを、前もって理解しておく ことです。  特に会社といった組織内であればなおさらチーム メンバーで、「なにをプロジェクトの失敗とするか」 を、あらかじめ同意しておくことが大切です。そう でなければ、成功に向けた最善策など検討できるわ けがありません。  同じビジネスに取り組む経営者とチームメンバー との間で、認識に大きな差があるのも、この失敗の 定義だったりします。  その失敗の定義を共有するためにも、理想の社会 をどう描き、理想に対して企業の目的やミッション をどう設定するか、そうしたビジョンの浸透・共有 が不可欠になります。    失敗から「学習する組織」をつくる  イントラプレナーシップを推進する際には、いか なる場合でも、まず組織内で失敗を活かすインフラ をつくり上げることをお勧めします。必ず失敗はつ きものですし、それをいちいち恐れていては、大義 を果たすことなどできません。  そのためには、(Iド面(組織構造・システム) と、ソフト面(企業文化)の両方から攻めていく必 要があります。  失敗から学ぶことを奨励し、実際にその学びから 新たな価値を創造するインフラをつくる。失敗から なにかしらを得て、後につなげる。それは、学びか ら得た知識による再発防止、負の連鎖を止めること に伴うコストダウン、業務改善、新たな知見から生 まれる革新・イノベーションであったりします。  それにはまず、組織内にストラクチャー、システ ム、ルーティンをつくることです。具体的には、た とえばまず、原因究明・失敗分析(なぜ? どうし て?)のための部署や部隊をつくる。次に、軌道修 正や検証(では、どうすれば?)を行う部署一部隊 をつくる。そして、情報共有するためのシステムを 構築し、運用する、そのためのCLO(∩丿叺 」eaヨ11コgofficer)を立てる、などです。  あなたの組織で失敗が起きた場合、原因究明・失 敗分析を担当する部署はどこですか。改善策を検証 する部署はどこですか。特定できますか。外部機関 に頼るはめになりそうですか。責任の追及と謝罪で 精一杯になりそうですか。今までの失敗について蓄 積されたデータベースはありますか。それとも、あ なたの会社は失敗しないから、そんなものは必要な いですか。  いくら(Iド面を充実させても、それを円滑に運 用するためには、企業文化などのソフト面がなけれ ば十分ではありません。「失敗は学習のチャンスー」 というような、失敗に寛容な組織文化を醸成しなけ ればなりません。  情報共有システムで、いくら素晴らしいものが構 築されていても、人がそもそもミスを共有しなけれ ば宝の持ち腐れに終わります。  つまり、失敗を認める、失敗を語れる、失敗を共 有できる心理的安全性の高い環境をつくらなければ ならないのです。失敗を認めるのは簡単なことでは ありません。  リサーチによると、頭脳明晰、あるいは権威のあ る人ほど、自分の犯したミスを認めない。自尊感情 が高いほど、成功体験をより強く認識しており、自 分をより肯定する傾向にある。大きな失敗を犯した 企業ほど、その上層部ほどミスを認めず正当化・隠 蔽する傾向があるという。  自社にとって都合よく失敗の解釈を塗り替えるの では、そこに学びはありません。エリートほど(名 誉・知識があるほど)頑なに自分のミスを認めない。 自分の信念と事実のギャップを埋めるため、事実を 捻じ曲げて、自己正当化・自己防衛に入り、失敗か ら学ばない。  失敗は単なる人的ミスに起因するものもあるが、 複雑な要因から生まれることが多い。原因そのもの が明白でない場合も多い。曖昧でわかりにくいほう がずっと多い。だからこそ認めづらい。自らが認め なくとも他にも理由があるから、周りのせいにでき るからです。  そもそも失敗かどうかはっきりしなければ、そこ から学ぶこともできません。なので、はっきりと明 白な原因がわからない場合でも、自分に問題があっ たかもしれないと認める勇気が大事です。  起業家が失敗した際、真の原因がなんであれ、失 敗を自分の責任と考える人ほど(Internal Attribution:工11写)、失敗から学ぶことが多く、次の 起業に役立てることが多く、実際に二度目の事業の 成長度は一度目よりも高くなります(第十章の章末 解説を参照)。  失敗を自分の責任にできる人、自分の問題だと認 められる傾向のある人ほど深く学び、その要因を自 らコントロールし、よく学ぶことができ、なおかつ、 次にそれを活かすことができるのです。  自らが失敗を認められるカルチャー、みなが失敗 を共有できるカルチャー、他人の失敗を許すことが できるカルチャー。それこそが、学習する組織をつ くるための出発点です。そこがなくてはシステムも なにもありません。日本発、「失敗の成功例」が増 えることを願っています。 第十二章 多くの人を巻き込めば。        推進力が生まれる  Entrepreneurship is about enrolling others. It  is about creating a movement and  ∃o∃entuヨby c目necting at the emotional  level.  起業道とは、人を惹きつけ巻き込んでい      くこと。人と感情的に結びつくことで潮      流を生むことである。  「『人と人とのつながり』こそが大切や」  バブソン大学で矢弦は一歩にそういっていた。  帰国後、一歩は、バブソン大学での出来事を思い 返していた。矢弦は一歩に「人を巻き込むこと」の 重要さを解説してくれていた。  「起業道とは、人を惹きつけ巻き込んでいくこと や。成し遂げたいこと、アイデアが大きければ大き いほど、人ひとりの手には負えへん。人と感情的に 結びつくことで、ムーブメントが起こり、より大き なモメンタム(推進力)が生まれる。絶大な干不ル ギーを生むんや」  「人を巻き込む? 絶大な干不ルギー?」  キョトンとする一歩に、矢弦は重ねていった。  「せや。人を巻き込むんや。良い起業家というの は頼り上手でもあるねん。多くの仲間が集まれば、 新たな発想も湧いてくる。広げた人脈から大きな チャンスを得ることだってある。共感や信頼あるつ ながりから、資金調達ができることもある。今ある ものだけで始められるのも、大とつながることで、 さまざまなものを外から調達することができるから や」  「なるほど」  「大は、大とつながることで、ひとりではできへ んかったことができるようになる。大とのつながり は重要な『資産』になるんや」  矢弦は知識や技術といった人の能力を資本とする 「ヒューマンキャピタル」のみならず、大と大との つながり「ソーシャルキャピタル」こそが大切だと いう。  そして矢弦は、多様なイノベーターたちがつなが る場所として、囗本に「カフェーカオス」を設けて いる。そこには多くの起業家や起業を志す人、企業 の新規事業担当者や投資家、研究者などが、社会に 対してこれまでにないイノベーションを生み出そう と集まっているのだ。  「そこでの出会いや学びから、さまざまな変革の りIダーが生まれたり、良きイノベーションの輪が どんどん広がるようであってはしいんや」と矢弦は いう。  そうして、矢弦はボストンに居ながらにして、そ こにとどまらず、イノベーションの拠点を日本にも 広げるべく、時折来日して、コミュニティを牽引し ているのだ。一歩たちの集う「カフェーカオス」と いうのは、そうしたイノベーション剔出のためにつ くられた場所だったのだ。  「なるほど。でも人を巻き込むといっても、それ はどの求心力が自分にあるかっていうと……かなり 疑問ですけどね」  一歩が不安を口にすると、  「そうか? 人を惹きつけるにも『自分のやりた いこと』つまり『ビジョン』が基本や」と矢弦は いった。  「ああ、自分の思いに共感してくれる仲間を地道 につくっていくわけですね?」  一歩は、「にこにこ弁当」開店時に助けてくれた 幸代やオヤカタや母や姉のことを思い出す。  「せや。それに、潮流を生むにはコツがある。今 までは自己理解、自己欲望、当事者意識と、自分を センターにおいてきた。けど、ここでは考え方をシ フトさせる」  「え? 自分がセンターじやないんですか?」  「多くの人を惹きつけ、潮流を生むには、『自分の こと』よりも大事なもの、それは、『やろうとして いること・ビジョンという名の理想郷』を第一に考 えることや。潮流を生むことに焦点をおいて、とき には自分というエゴを消す。それがフォロワーシッ プにつながる。潮流をつくるにはフォロワーが必要 なんや」  「フォロワー、ですか?」  「せや。人を動かすには、リーダーの存在こそが すべてだと考えがちや。けど、起業の世界ではいか にフォロワーを増やすかということの方が、潮流を つくるのに大切なことなんや」  矢弦は、空いていた教室で、一歩に「裸で踊る 男」という動画を見せてくれた。  動画の内容は、次のようなものだった。  ある晴れた日の丘の斜面に、大勢の人々が日光浴 に集まっていた。  そこで、ひとりの男が、にわかに上半身裸になっ て、音楽にあわせて踊り始めた。  とてもこっけいな踊りで、誰もが近寄りがたく 思って遠巻きに見ている。  だが、その踊りを見ていたひとりの男が、踊る男 に近づいていった。  最初のフオロワーだ。  そして、そのフオロワーは、おもむろに踊る男の 振りつけを見ながら踊り始めた。  踊る男は、そのフオロワーを快く受け入れ、一緒 に踊りまくる。  ふたりの動きは妙だが、とてもシンプルで真似し やすい。  するとどうだろう。  最初のフオロワーを真似て、さらに人が数人集 まってきた。  そして、彼らもその妙な踊りを真似て踊り出した。  フオロワーがフオロワーを呼び、さらに人が増え ていく。  気づくと十数人もの人々が、斜面をつたって集 まってきた。  そして、みるみるうちに大きな群衆となって踊り 始めた。  もはや踊りに参加していないほうが仲間はずれだ と、違和感を抱かれるほどの勢いだ。  「へえ」  一歩は感嘆してそれを見た。  「つまり、ムーブメントを生むにはまず、バカげ たことでも堂々とやってのける勇気ある人物が必要 となる。そして次に、この一風変わった振る舞いを する人物をフォローする、これもまた極めて勇気あ る人物が必要となるんや」  「なるほど!・」  「フォロワーなくしてムーブメントーモメンタム は生まれへん。大事なんは、フォロワーが現れたと き、最初の男がフォロワーに対して上から目線でな く、公平な立場で対応することや」  「公平な立場?」  「せや。フォロワーを拒むことなく受け入れる。 さらにいえば、なるべく簡単に追随しやすいように することや。なるべく多くのフォロワーがついてこ れるようにな。そうすることによって、より効果的 に、効率的に、求心力を発揮できるんや」  「そうか、なるほど」  「これまでは、『リーダーこそが唯一完全な存在』 と教育されてきたかもしれん。たしかにチームに りIダーは必要や。しかし、みながみなリーダーで はチームはうまく機能せん。特に起業という場面で は、リーダーよりもむしろフォロワーの役割が重要 なんや。フォロワーなしでは潮流は起こらんから な」  「なるほど、そういうことですか」とうなずく一 歩。  「いかにして一風変わった発明者をフォローし、 さらにフォロワーを増やすことができるか。それこ そが最大のポイントや。起業的リーダーシップとは、 フォロワーシップであったりするんや」  そんなことも教わりつつ、帰国した一歩だった。  今の一歩は「にこにこ弁当」の店内で、次なるプ ランを考えていた。  「弁当を提供するだけでなくて、子どもたちの居 場所をつくりたい」と一歩は漠然と考えていた。オ ヤカタが「にこにこ弁当」に来るときのように、食 事ついでに宿題をしたり、なにか困ったことがあれ ば気軽に相談したりする場所を提供したいのだ。  するとそこに学校帰りのオヤカタが現れた。  久々に見るオヤカタは、また”ぽっちゃり”に 戻ったように見える。  「あれ? オヤカタ……冫・」  太った? と、一歩がいいかけると、  「最近、ちょっと食べすぎちやって」とオヤカタ は、指摘される前に憮然と答えた。  「ちょっと、ね」と一歩は、まるまると膨らんだ オヤカタのお腹を見た。  「うん」と、オヤカタは涼しい顔でそのお腹をな でた。  「まあいいけど」  一歩がいない間、オヤカタは、ちょっとばかり暴 走したらしい。  「白いご飯が食べたい’・」と、日ごろダイエット にと「にこにこ弁当」の雑穀まじりのご飯を食べて いたオヤカタは、にわかに自宅で白いご飯を炊き、 炊飯器いっぱい、まるごとひとりで食べたらしい。  「なんじゃそりゃ」と一歩。  それ以外にも「唐揚げ百個食べたい」「ラーメン 十杯杯食べたい」と、欲望のおもむくままに食べて いたらしい。  「別に俺に隠れてやんなくても」  「別に隠れてない」  オヤカタはその様子をそのつどYouTubeにあげ ていたといって、スマートフォンでその動画を見せ た。  「ほう」と一歩はそれを見る。  オヤカタがいつものダイエット動画をあげている チャンネルに、オヤカタが白いご飯や唐揚げを爆食 いしている動画が並んでいた。  「な」  「なんと。いつもより再生数がいいじゃん」  これまでは、ぽっちゃりしたオヤカタが、ダイ エットのために、一生懸命に走ったり、鉄棒をした り、変なダンスを踊ったり、という運動シリーズの 再生数が比較的よかっだのだが、ここにきて暴飲暴 食動画がそれをはるかに上回る再生数となっている。  「うん……。はじめはよかったんだけどね」  ため息をつく、オヤカタ。  「ん?」  オヤカタがいうには、白ご飯の動画をあげた当初 は、「気持ちはわかる」「ダイエット少年の暴走 (笑)」と反響がよかったらしいが、例のごとく、オ ヤカタは、食べ物をたくさん用意するものの、結局 思うほどは食べられず、何度か食べ残す(メになっ てしまって、不評を買ったらしい。  「食べ残しするなって、炎上してさ」とオヤカタ。  「え?」  一歩がコメント欄を見ると、ばしめは「暴飲暴食 オヤカタ、かわいい」とのコメントも見られたのだ が、たしかに最近のコメントでは、「食ベモノを粗 末にするな’・」「親はなにしてる’・」との批判が殺 到していた。  「あらま」と一歩。  「どうしよう」と凹んでいるオヤカタ。  「つていうか。反動で大食い? 今までそんなに つらかった?」  「別に。でも、たまに山盛りご飯って、食べたく なるでしよ?」  「別になんない」  「ええり つまんないなI’・ 一歩’・」  「まあ、たまにジャンキーなものが食べたくなる ことはあるけどさ。しかしまあ、そんなに食べた いっていうなら」  一歩は、大きなご飯をつくることを提案する。  「つくる? 食べるじやなくて?」とオヤカタ。  「つくって、食べるんだ。オヤカタがつくるんだ よ。月に一回か数回か、週末にオヤカタキッチンつ て料理ショーを開くんだ。オヤカタが巨大な飯をつ くって配信する」  「ええ?」  「どう? 俺や幸代さんも裏方で手伝うし」  「でも、そんなおっきいのつくっても、また、食 べ残すだけじやん。炎上するじやん。炎上商法って こと? 炎上で再生数あげるってこと? 僕はみん なを怒らせたいんじやなくて、楽しんでもらいたい んだよ?」  「わかってる。だから批判されないように、楽し んでもらえるようにするんだよ。オヤカタは好きな だけ食べていいし、残ったご飯はみんなでシェアす るとか。美味しくつくるし、最後にはみんなで美味 しくちやんといただくんだ。観客を呼んでやっても いいし、観客が来なきや、配信を見てくれた人のも とに配りにいってもいいし」  「ほう」とオヤカタは興味深げに話に聞き入って いた。  「見せ場は、料理をやったことないオヤカタが、 どんどん美味しい料理のつくり方を覚えていくこと かな。巨大メシができ上がるから見ごたえもあると 思うよ?」  「ほっほう。それはいい」とオヤカタの顔がほこ ろんだ。  「だろ? 俺たちのミッションは『食でみんなを 笑顔にすること』だ。俺はみんなを健康にしたいと か、オヤカタは動画で楽しませたい、とか、重視す るポイントが多少違うけど、目指すところはおんな じだ。楽しく一緒にやろうぜ」  「おう!・」  一歩とオヤカタは(イタッチした。  現代建築社では、春奈が、デスクで忙しそうに仕 事する桃瀬涼子の前に突っ立っていた。  「まさか、涼子先輩が新規事業に失敗して干され た張本人だったとは」  春奈が小声でつぶやくと、涼子がチラリと見て、  「なに? なにか用?」といった。  「いえ」と春奈。  春奈は涼子の様子をうかがいながら、  「……たしかに変といえば変かも」  と腕を組んで考えた。  涼子は、春奈の仕事ぶりを褒めてくれないので、 春奈自身は彼女を敬遠しているが、考えてみれば、 部内で一番、技術と人望のある社員かもしれない。  春奈ですらも万一、技術について困ったときは、 真っ先に涼子に相談しようと思う。涼子は新しい技 術についてもくわしいし、なにより部下への指示が 的確だ。技術的な指示に長けているだけでなく、部 下がなにに困っているか、なぜ混乱しているかなど、 いち早く理解してくれる。部下どころか社外の協力 会社からの信頼も厚いのだ。  だがたしかにいわれてみると、出世コースから外 れている気がしないでもない。  今のシステム部の部長は、涼子より年も若いし、 能力だって人望だって涼子より優れているとはいい がたい。その一方で、涼子は、大した肩書も与えら れていない。  それについて緑川などは、  「まあ、桃瀬さんは、新規事業に失敗したときに 編集部からシステム部に飛ばされた人だからさ。今 のシステム部の部長のほうが、部歴だけは長いか ら。つていうか桃瀬さんはやっぱり部内では、他部 署から来た本流じゃない入って感覚があるんじゃな い?」といっていた。  「なにそれ。変なの。私のことを褒めてくれない のが難点だけど、涼子先輩はもっと認められていい はず’・」と春奈は緑川の言葉を思い出して腹が立ち、 思わずつぶやいた。  すると涼子とふと目があった。  「なんなの、さっきから? 用があるならさっさ といえば?」  涼子が早くも帰り支度をしながらいう。  「あれ? 先輩、もう帰るんですか」  「あなたと同じ。私だって、仕事が終わればさっ さと帰る人」  「ええ? 先輩っててっきり、仕事の鬼だと思っ てましたけど? 会社の仕事が趣味なのかと」  「ポンドに、なんなの?」  「すみません。ちょっと待ってください。私たち、 実は今、新規事業の件で、黒田部長に邪魔されそう なんです」  「黒田部長? 広告の黒田君のこと?」  「黒田”くん”?冫・ ?」  「だって、同じ年だから」  「……あ。そうすか」  「なんで彼が邪魔するのよ?」  春奈は、新規事業で協力を仰ぎたかったWEB開 発会社のaテックを使えず、黒田の推すシステム会 社のpシステムズを使うことになり、そのせいでう まくいっていないことなどを話した。  「あI、その二社じゃ、機動力が全然違うもんね」  「そうなんですよ’・ さすが先輩、わかってくれ ますね」  「でも、社長が決めたならしようがないじやない。 pシステムズも使いようでなんとかなるんじやな い?」  「それが全然、埒があかなくて。ちょっと意見す ると追加見積もりばっかり出されちやって。絶対、 黒田部長、あの融通の利かなさをわかってて推薦し たんですよ。なんであんな足を引っ張ろうとするん ですかね? 先輩だって邪魔されたんですよね?」  「私か? なに? なんの話?」  「昔、涼子先輩たちのやっていた新規事業のとき も、黒田部長は、姑息にメンバーのモチベーション 奪ったりしてたって」  「そうだっけ?」  「覚えてないんですか?」  「覚えてないし。それに彼にそんな影響力あっ たっけ?」  「ええ、結構なクセモノですよ’・ 私は嫌です’・ 足引っ張られて新規事業に挑戦して失敗して、評価 もされずに干されるなんて’・」  「は?」  「先輩だって、本当は悔しいでしょう? 新規事 業に失敗して飛ばされて’・ 出世コースから外され て!・」  「はあ? いうわねえ」  「頑張ったって評価されない’・ たくさん挑戦し たら、たくさん失敗して当たり前なのに、認めても らえない’・ 結果重視で『失敗』つてレッテルだけ いつまでも残される’・ こんな会社で誰が頑張れる んですか’・ 頑張っただけ損じやないですか’・ 結 局、会社っていわれることだけをおとなしくやって ればいいってことですか’・」  「あら。へえI」  「へえってなんですか?」  「私は、赤井さんつていわれた通りのことしかや らない、つまらない子だな1つて思ってたんだけど。 新規事業にかかわって成長したじやない? よかっ た、よかった」  「ええ?」  「会社の評価ってそんなに大事?」  「大事ですよ’・ 仕事したら評価してほしいです。 当たり前です’・」  「ああそう」  「逆に先輩はなんでそんな無頓着なんですか?」  「ええ? うちの会社なんてもともと役職が少な いんだから、なれる人はそもそも隕られてるじやな い。そんなの気にしたって仕方ないし。それに黒田 君はあの役職に就くためにそれはまめに社内外で根 回しだのゴマすりだの営業だの頑張ってるし。あん な不毛なこと、私には到底できない。役職より、私 は好きなことだけしてるほうがいいかなあ」  「……割り切ってますね。先輩はそんな状況で、 なぜそこまで仕事が好きになれるんですか?」と春 奈。  「私は私なりに会社を使ってるし」  「会社を使ってる?」  春奈は(ツと矢弦の「会社人になるな、社会人た れ。会社はやりたいことをやるための乗り物や。会 社を使うんや」との言葉を思い出す。  「私は会社のおかげで自分の好きなことができて るってとこがあるから。給料に不満があるわけでも ないし、安定してるし、まあ多少のことをあきらめ たら会社ってポンドいいとこよ」と涼子。  「ええ……冫・あきらめっていわれても」  腑に落ちない風の春奈に、涼子はいった。  「そうだ。今から、行くとこあるんだけど、よけ れば来る? aテックと仕事したいっていうなら、 なおのこといいかもしれないわよ?」  その半月後。  春奈たち新規事業チームは、社長たち役員の前で プロジェクトの進捗を報告することになっていた。  春奈たちはpシステムズのつくったサイトでプレ ゼンテーションを行うことになる。  「このポンドにイケてないマッチングサイトです が……」  と春奈は、試作サイトの欠陥を赤裸々に報告する。  「フン。『イケてない』か。失敗を自ら認めるわけ か。バカというか潔いというか」  黒田は、スクリーンに映し出されたマッチングサ イトを見て、鼻で笑っている。  金原社長は、苦い顔でサイトを見ている。  灰田専務は、気配を消すようにして部屋の隅に居 座っている。  「以上が6システムズと作成したマッチングサイ トの説明です」と春奈。  すると黒田がいった。  「いやあ。これはひどいですね。6システムズか らも内々に話を聞いてましたが」  「6システムズが悪いんですよ。あの会社と組ん だことが本プロジェクトの失敗です」と春奈はいっ た。  その春奈の態度にカチンときだ黒田が、  「なんだと? 自分の仕事に責任感をもてと先囗 もいっただろ’・ 他人のせいにするんじゃない’・ pシステムズから泣きつかれたぞ’・ おまえらの発 注の仕方が悪いってな’・ 向こうは『ちゃんと相談 してくれればいくらでも対応できたのに』と残念そ うにいってたぞ」と怒鳴る。  「そうでしょうか?」と春奈はいった。  「なんだと? なんだその責任感のなさと、いい 加減な仕事ぶりは’・ 社長、このチームは一体、ど うなってるんです?」と黒田は社長を見る。  「もういい」と社長は、呆れて春奈を見て。  「ただ君は、もう少し仕事に対して真摯に向き合 うべきだ。システム部員だからといってパソコンに 向かっていればいいってもんじやないだろう? 会 社にいる限り人と仕事をするわけだから『人を動か す』つてことを学ぶべきだ。人を動かすということ はたしかに難しい。君はそれができていなかったこ とを素直に反省しなければならない」といった。  「はあ?冫・ ?」と、春奈が反論しかけると、  「まあまあ」と緑川がそれを抑える。  「でも’・」と春奈。  「またた。反論すべきはここじゃないだろ?」と 青木もそれを制する。  「……ゝつゝつ」と渋々黙る春奈。  「?」と不審げにそのやり取りを見ていた黒田が、 「いずれにせよ、残念ながら本プロジェクトは失 敗ってとこですかね?」と社長にいう。  「失敗か……」と不快な表情を浮かべて社長は いった。  そのとき、  「ちょっと待ってください。ここで、もうひとつ のサイトをご紹介させてください」  と黄島がいい、青木と緑川が、別のサイトをスク リーンに映し出した。  「うん?」と社長と黒田。  「ではあらためまして、こちらの説明をしたいと 思います」  春奈が姿勢を正して解説を続ける。  「もうひとつ、試作品をつくってみました。こち らは、非常にイケてるサイトです」  「なんだ? どういうことだ?」と社長と黒田は、 表示されたサイトを見る。  「これは、ユーザーとなる職人にも試しに見ても らいましたが非常に高い評価を受けました」  春奈はそのサイトの優れている点を次々に報告す る。  「……いいじやないか」と社長はサイトに見人っ ている。  「どういうことだ? どうなってるんだ?」と黒 田は落ち着かない様子。  隅で縮こまっていた灰田はキョトンとサイトを見 ている。春奈だちからなにも聞かされていないのだ。  「これは、あるシステム会社と共同で試験的につ くってみたサイトです。その会社というのが先日却 下されたaテックです。同じ発注条件でしたが、作 成期間も半月ほどで、pシステムズに依頼したとき の八分の一のスピードで、このクオリティです」  「なんだと?」と黒田。  「aテック?」と社長。  「創業五年程度の会社ですが、非常にフットワー クもよく、ものづくりに熱い会社です。pシステム ズほどの老舗ではないので、信用はいただけないの かもしれませんが」  「社長が却下した会社を使ったというのか?」と 黒田。  ヒヤヒヤして見ている灰田。  「事実、6システムズは老舗で中堅かもしれませ んが、本プロジェクトに関しては同社にしては金額 の小さい仕事だったせいか、あまり積極的な対応を してもらえず、数力月ほど私たちは放置されてしま いました。それにpシステムズは、こちらの発注に 対して、『そんな機能は聞いたことない』『こんなこ とに責任はもてない』とできない言い訳ばかりでし た。なにも積極的な姿勢を見せなかったくせに、今 になって『相談してくれたらよかったのに』ですっ て? 冗談じやない。『相談してくれなかった、 そっちか悪いんだ』つて我々に責任を押しつけたい だけでしよ?」  「なんだとり」と黒田。  「pシステムズに信頼があるっていうのは、失敗 しないからですか? pシステムズが失敗しないの はこうして、失敗を恐れて動かないからだと思いま すよ? 『失敗したら、こっちが責任を負わされる。 損をする』とあの会社は、いちいちこちらが手取り 足取り、細かい指示を与えないと動いてくれません。 そのくせ、些細な修正指示にも、費用だけはしっか りととろうとします」  「なにをいうんだ’・」と黒田はチラリと社長の顔 色をうかがう。  社長はジツと話を聞いている。  「社長のおっしゃる通り、システム開発ってのは、 パソコンに向かっていればいいってもんじゃありま せん’・ どうやってこれをユーザーに役立ててもら うか、そのゴールに向かって、創意工夫を重ねるん です。当初の思惑通りにいかないことが多々ありま す。想定外のエラーがたくさん起きます。そのバグ を何度も何度も検証しながら私たちは修正していく んです。新しいものをつくろうと思ったら、決して 受け身でいてはうまくいきません。あれこれ議論も 必要になります。なのにpシステムズの担当者たち はこちらがいうまでず1つと、ただのん気に待って るだけなんです。失敗したくないし、めんどくさい から動かない。そのくせ、文句やえらそうなうんち くや知識だけは無駄にひけらかす。ポンド、pシス テムズは使えないオッサン集団です’・」  「おまえな’・ 口を慎め’・」と黒田。  「一方、aテックは素晴らしいチームです’・ フットワークが素晴らしい’・ ビジョンを説明すれ ば、『こんなこともできる』『こういう機能はどう か?』と積極的に提案してくれました。見てくださ い、このセンス’・ ものづくりに対する姿勢がpシ ステムズとまったく違います。受け身で文句ばっか りのpシステムズに比べて、積極的に『いいものを つくろう』という熱い志と姿勢が、この結果に反映 されています’・ 彼らからは決して『相談してくれ たらよかったのに』なんてのん気なセリフも出てき ません’・ おかげで、たくさんの挑戦ができて私だ ちも多くを学んでいます」  「そんなものいいがかりだ’・ なんでも後だしで つくったもののほうがうまく行くに決まってるだ ろ’・」と黒田。  「……ふうむ」と社長はうなずいて聞いている。  パラパラと灰田が様子をうかがっている。  黒田が慌てて、さらにいう。  「それに、勝手にaテックに頼むなんて’・ それ は情報漏洩じゃないのか’・ 新規事業という守秘す べき情報を他社に漏らしたんだ。由々しき問題だ ぞ!・」  灰田が(ツとして、固まっている。  「仕事としてお願いするつもりですが?」と春奈。  「会社はそんなこと認めてないだろ’・ 勝手に進 めて事後報告で済むものか’・ 費用はどうするつも りだ’・ そんな勝手なことに会社はカネを出さん ぞ’・」と黒田。  黄島が答える。  「勝手に進めて申し訳ございません。費用につい ては、新規事業の開発費の一部をaテックでの試作 品作成費に回しました。明細はこれから緑川君が配 る資料にあります。aテックヘの支払い費用は、実 は、pシステムズに追加修正の費用として支払う予 定のものでしたが、6システムズへの追加修正依頼 をいったん保留にし、aテックに試験的に依頼する ことにしました」  「なんだとり」と黒田。  資料を配り終えた緑川が、今後の費用の見積もり をスクリーンにも映し出す。  黄島が解説を続ける。  「もちろん、ここから進めるためには、別途費用 がかかります。今後の見積もりは、ここに掲載した 通りです。今後の維持費なども考えてみても、現状 ではaテックのほうが有効だと思われます。勝手に 進めたことは大変申し訳ないと思っています。です が、我々のつくろうとしているものをつくるにはこ この協力が必要だと思い、試すことが必要でした。 今後はこのaテックと進めていきたいと思っていま す。いかがでしょうか?」  「おまえらは社長が、会社が決めたことに逆らう 気か’・」と激しく怒鳴る黒田。  「ふむ」と社長。  不安げな顔で見ている灰田。  「試行錯誤の結果、あらためて提案をしたいとい うまでです」と春奈。  「おまえは黙れ’・ 生意気な口きくな’・」と黒田。  「……ふうむ。6システムズがそういう結果なら ば仕方がないな」と社長はいった。  「え?」と黄島、春奈、緑川、青木は社長を見る。  「社長?」と黒田。  「たしかにこれを見るとaテックのほうが費用対 効果も高そうだ。すまなかったな。当初の君らの提 案に反対したのは私の間違いだったかもしれない。 悪かった」と社長。  「いいえ’・」と黄島。  「ありがとうございます’・」と春奈、青木、緑川 もいう。  「社長’・ それでいいんですか? aテックなん てベンチャーごときに任せては、いつどうなるかわ かりませんよ?」と真っ赤になって食い下がる黒田。  「こうした結果を見せられたら斷る理由がない じやないか。とりあえず失敗したままに済ませるわ けにはいかないからな」と笑みを見せる社長。  「社長’・ こんなものに騙されないでください’・ プレゼンなんて、やりようによって、どうにでもで きるんです’・ こんなの必要以上に脚色してるに決 まってる’・」と黒田は、春奈たちのプレゼンテー ション資料を叩きつけた。  社長は、立ち上がって、スーツの襟を正した。  「進めてくれたまえ。予算も君らがいう通りに出 そう」と社長。  「ありがとうございます’・」と黄島。  黄島や春奈たちが頭を下げようとすると、  「やあ、社長’・ ありがとうございます’・」と、 隅にいた灰田が、意気揚々と歩み出てきた。  「は?」と春奈。  「ん?」と黄島たちも灰田を見る。  「いや、まあ新規事業というのは本当に一筋縄で はいかないものでしてねえ」  と灰田は、とうとうと語りながら、退出していく 社長につきそうようにして出ていった。  「はあり 専務、なにもしてないよね?」と春奈。  「いたんだ。忘れてたよ」と黄島、青木、緑川も 呆れて灰田を見送った。  プレゼンテーションを終えた新規事業チームの四 人は会議室に残って次の作戦を練っている。  青木は、会議室を出る黒田から、「青木、後で話 がある」と声をかけられたことに少し気が滅入って いた。  「大丈夫? 黒田部長、なんか文句いってきそう だけど」と春奈が尋ねるが、  「別に。大したことないよ」と答える青木。  「なんかあったらいってくれよ」と黄島もいう。  「ええ、大丈夫です」と青木。  「にしても、うまくいってよかったね」と緑川。  「ですね」と春奈。  「みんなよく頑張ったよ。赤井君がaテックと道 筋をつけてくれたのも大きいし、緑川君の予算推計 や青木君のプロジェクト遂行の段取りも素晴らし かった」と黄島。  「aテックとの道筋をつけられたのは、涼子先輩 のおかげですけどね」と春奈はいう。  「結局、五人目の変態は、涼子先輩だったってこ と?」と緑川が尋ねると、  「ええ。間違いない。涼子先輩は超変態ですから」 と春奈は答えた。  春奈は半月前に、涼子に連れられて、涼子の通う 社外交流会に参加した。  それはシステムエンジニアだちとの交流会で、定 期的に都内の居酒屋に有志が集まって親睦会を開い ているそうだ。その囗はaテックの若い取締役も参 加していた。  「『認めてくれない』とか『理解してくれない』と か周りに期待しないで、さっさとつくりたいものを つくっちやえばいいのよ」との涼子の後押しもあっ て、その場でaテックとの試作品づくりの話が進ん だのだった。  「既成事実をさっさとつくれっていったのも先輩 です。会社で了承をいちいちとってたらなにもでき ないって。涼子先輩は、まあ、ポンド好きにやって るんだって、そのときよくわかりました」と眷奈は 緑川たちに語る。  涼子の人脈は豊かだ。  社外のシステムエンジニアとの交流会を通じて、 無理なく自己研鑚をしたり、困ったときは仲間から 知恵を借りたりするため、会社での仕事も自然とう まくいくようだ。  そのうえ、会社の名刺を使って会いたい建築デザ イナーや職人に会ったりもするのだという。そのお かげで格安で家のリフォームができたとも聞く。  また、それらの人脈や、かつて編集にいたこと、 現在システムエンジニアであることなども存分に活 かして、WEBライターの副業で月に十数万稼いで いるらしい。  「ポンドに楽しそうなんですよ。あの人、基本的 に『ものづくり』が好きで、システムの仕事が自分 の性にあつてるつていってて。そういいつつ今じゃ ライティングもやってるわけだし。好きなことをか なり欲張つてやってんですよね」と春奈は素直に羨 ましくなったのだった。  「そりゃ、頼もしい」と緑川もいった。  「なるほどな。桃色変態の桃瀬さんは、『ヒューマ ンキャピタル』という意味でも、『ソーシャルキャ ピタル』という意味でも、重要な存在だね」と黄島。  「ちょっとなにいってるか、わかんないんですけ ど?」と春奈。  「同じく。てか、戦隊シリーズにこだわりますね」 と緑川。  「戦隊はともかく、とりあえず、その『ピューマ ンキャピタル』『ソーシャルキャピタル』つてなん ですか?」と春奈。  「『ヒューマンキャピタル』は、知識やスキルと いった個人の能力を資本ととらえることだ。それに 対して、『ソーシャルキャピタル』は、人と人との つながり、信頼関係やネットワークを資本と考える んだ。「なにを知っているか」よりも「誰を知って いるか」がより重要になってくるんだ。イノベー ションを推進するにはこの両方が大切たって」  「へえ。なるほど。たしかに涼子先輩は、スキル もあるし、社内外にネットワークもありますし」  「すごいね」と緑川。  「……ふ六社からの評価は柢いけど」と眷奈。  「でもそこは、本人は割り切ってるわけだ」と緑 川。  「そう。涼子先輩は、『会社員だからこそ、リスク も少なく、会社の力も借りて好きにやれるのよ。評 価なんて気にしなければ会社っていいものよ』とか いってるけど」と眷奈。  「そういえば、前の会社で新規事業をしていたと き、矢弦さんにいわれたけどな。『新規事業におい て、ショートタームで利益を出すのは無理な話。む しろ良質な失敗をたくさんするべき、そしてそれを 成功につなげるべきだ。また、会社は、フアイナン シャルリターンだけでなく、ヒューマンキャピタル やソーシャルキャピタルなどのお金では換算できな い価値で、新しい挑戦を評価すべきだ』つてね。会 社もそういう評価ができるようになれば、桃瀬さん みたいな人も正当な評価を受けられるんだろうね」  「なるほど。そっか。……にしても」と春奈。  「なに?」と黄島。  「あのなにも専務の、なにもしないでうまくいっ たときだけ乗っかってくる感じが。やっぱり妙に腹 立ちます’・」と春奈。  「ポンドにあの専務、どうかしてるよね」と緑川 もいう。  「まあさ。せっかく楽しくやろうっていうんだか ら、ああいうのは極力気にしないことだよ」と黄島。  「でも上司なら本来、部下が困ってるときは助け てくれて、部下が頑張ったときはちゃんと評価して くれるもんじやないんですか。あの人、部下が困っ てるときは気配を消して、部下が成功したときは自 分の成果だとしやしやり出て」と春奈。  「俗に『手柄は上司のもの、失敗は部下の責 任』つていうからな」と青木が淡々と口を挟んだ。  「……相変わらず冷めてるね。まあ否定はできな いけど」と緑川。  「なにそれり おかしいじやない’・」と春奈。  「まあまあ。この仕事に隕らず『あいつはなにも しない』『成果だけもっていきやかって』なんてこ と、よくあるんだけど、気にしたってプラスになる ことはないよ。基本『相手に期待しないこと』だ」 と黄島。  「相手に期待しない?」と春奈。  「こうあってほしいとか、こうして欲しいとか期 待するから腹が立つんだよ」  「えI?」  「人は変えられないからね。こう変わってほしい、 認めてほしい、と相手に望むからいざこざが起きる んだ。だから、『期待しない。自分のやるべきこと をやるまでだ』つて。まあこれも矢弦さんの受け売 りなんだけど」  「ええI。ちぇっ。そんなにすぐに割り切れない」 と地団太を踏む春奈。  「残念な上司をもったもんだなI」と同じく不満 げにいう緑川だった。  一歩の「にこにこ弁当」の週末は、平日とは別の 忙しさがある。  毎週土曜は、オヤカタのYouTube用に、子ども 向けの料理イベントを開くのだ。目下、オヤカタの YouTubeは絶好調だ。  だが、そのテーマは当初想定していた「巨大メ シ」でなくて、今は、オヤカタが「野菜王子」とし て、旬の野菜を紹介し、調理をするというものに なっている。  というのも、当初は、巨大料理をつくり、オヤカ タの大食い企画をしたいという欲求を満たしながら も、残りのご飯をみんなでシェアする、という趣旨 だったのだが、途中でオヤカタの考えが変わり、別 の企画になったのだ。  一歩とオヤカタは、幸代の協力のもと、一度は、 巨大な野菜ピザを焼き上げた。  見栄えもよく、これをオヤカタが大食いしつつ、 ギャラリーに浩太や昇太やオヤカタの友人たちを呼 んで食べる予定だった。  「え? これ、健康にもいいの?」と、そのとき オヤカタは、はじめてつくった料理を、会心の出来 だといわんばかりに満足そうにじっくり眺めていた。  そしてしばらく考えていたかと思うと、「……お 母さんに食べさせたいな」とオヤカタはつぶやいた のだった。  それを聞いて一歩と幸代は、「いいんじやない?」 と、急遽、オヤカタの母親を店に招くことにした。  巨大メシの第一回目は、そうして、オヤカタの大 食いでなく、オヤカタのお母さんや、浩太や昇太や みんなを招いて、和気あいあいと仲良くシェアをす る会に終わったのだった。  それ以来、オヤカタのクッキングの目的が変わっ てしまったのだ。  「再生数を稼げないかもしれないけど、大食いと 巨大メシをやめて、お母さんの身体にいい料理をつ くりたい」とオヤカタはいい出した。  オヤカタの母親はシングルマザーでいつも忙しい うえ、食生活が偏りがちでオヤカタ同様ぽっちゃり している。そして、高血圧で脂質異常症だそうだ。 オヤカタはそんな母親のことが大好きなのだが、と きどきしんどそうにしている姿が心配なのだ。  そして、オヤカタは、「お母さんのために晩御飯 をつくる」チャンネルを開設した。そこでは、オヤ カタが、材料も自分で買ってきて、料理をつくるの だ。レシピは一歩や幸代が考え、動画を見た子ども が真似てつくる際の安全を考えて、極力火を使わず 電子レンジで調理ができるように工夫をしたりもし た。  材料を切り間違えたり、焼きすぎたり煮すぎたり、 見栄えが悪かったり、毎回、(プニングが起こるが、 それが好評で、順調に視聴者を増やしている。  オヤカタにも大きな変化が起きた。料理をつくる ようになってオヤカタは、好き嫌いのわがままをい わないで食べるようになったし、「これなんていう 野菜?」と素材に興味をもつようにもなった。あれ ほどぽっちゃりしていた体形もだいぶ健康体になっ てきている。  一歩は、オヤカタの変化に驚き、「これが食育っ てやつかもしれない」と感動した。  その後も、「にこにこ弁当」でオヤカタのべO5 呑・番組を支えるうちに、オヤカタは野菜料理にく わしい「野菜王子」と称するまでになった。  オヤカタが、旬の野菜を紹介して調理をし、お母 さんやオヤカタの仲間たちに料理を振る舞うことに なっている。  これが、子どもたちや保護者たちに好評で、ある ときなどは、地方紙の取材も来た。それをきっかけ に、さらに反響を呼び、最近は協力したいといって くれる農家もあって、子どもたちが、自ら野菜の収 穫を手伝って調理をするというイベントができるま でになっている。  おかげで「にこにこ弁当」の評判も上がり、注文 は受けきれないほどに増えていた。  それよりもなによりも一歩は「自分は、人が集ま る場所をつくりたいのだ」と自覚した。  「俺、やろうかな。子どもたちの集まる『子ども カフェ』を本当につくろうかな」と一歩はますます 士気を高めていた。  同じ頃、現代建築社では、青木が広告営業部に戻 ると、黒田が待ち構えていた。  「青木、ちょっと来い」と黒田は青木を会議室に 連れて行った。  ウンザリと座る青木を見据えて、  「まずいだろ、あれは。非常にまずい。おまえな らわかるよな?」と黒田はいった。  「いえ……なにがですか」と、青木は答えた。  「pシステムズを解約するって話だよ。今さらそ ういうわけにもいかないだろ」  「どうしてですか? pシステムズの試作サイト に対する支払いは済んでいますし、これ以上追加修 正をしないというだけのことです。契約上も特に問 題ありません」  「そういう問題じゃないだろ’・ 向こうのメンツ もあるっていってんだ’・ こっちの信用にもかかわ る’・ pシステムズはうちに広告だって入れてるん だぞ’・」と黒田。  「……それはそれ、とおっしゃってたのは部長 じゃないですか」  黄島が、事前に、pシステムズを使うことに関し て、「取引先のしがらみを新規事業に持ち込むこと は避けたい。なにかと制約が生じるのは困る」と会 社に対して念を押していたのだ。それに対して黒田 は「pシステムズは、つき合いがあるといっても、 そうした配慮はいらない。新規事業は新規事業とし て、広告は広告として適正に取引をすればいいだけ のことだ」と社長の前で答えていた。  「実際はそうは済まないことは、おまえたってこ こにいればわかるだろ’・ わかっているくせにわか らないふりするんじやねえ’・」と黒田はガンツと椅 子を蹴飛ばした。  「……」と青木は黙り込んで考えていた。  pシステムズを推したあんたが悪いんじやない か!・  向こうのメンツが立だないんじやなくてあんたの メンツが立たないだけだろ’・  pシステムズに便宜を図ったつもりでいたのが、 中倒れになったんだからな’・  pシステムズの仕事ぶりが悪いんだから、解約が 当然じやないか’・  それで広告がとれなくなるって今さらいわれても 知ったことか’・  青木がそんなことを考えていると黒田が怒鳴った。  「どうなんだよ!・」  青木は小さくため息をついた。  赤井春奈なら、自分が今考えたようなことを、相 手が上司でも誰であってもかまわずそのまま口に出 すんだろうな。  自分は、つい空気を読んで、先を読んで、もめる のもめんどくさいと思って、言葉を飲み込んでしま  声の大きいもの、力の強いものにしたがってうま くやり過ごすのが得策だと思って、上司の望む通り につい動いてしまう。一から十までいわれなくても、 自分には動ける能力がある。そこに自分の存在意義 を見出していたくらいだ。  でもそれじゃダメなんだ。  兵隊から卒業できない。  会社人になるな、社会人たれ。  「おまえには、ガッカリだな」と黒田はいった。  「そうですか」  「そうですか? なんだその態度は’・」と怒鳴る 黒田。  「私には、黒田部長のおっしやる意味がまったく わかりません」と青木。  「はあ? なんだと?」  「失礼します」  「待て’・ 話は終わってない’・」  止める黒田を無視して、青木は会議室を出ていっ た。  席に戻ると、黒田もほどなくして戻ってきた。  「おい、一ノ瀬、ニノ宮、三田村、今日の夜、開 けておけ」  と黒田は青木をにらみつけながら部員に声をかけ た。  「……」と青木は黙って席に着いた。  おそらく、自分にとってよくないことが、その飲 み会で話されるんだろう。  青木には、黒田が同僚たちに「青木という男は、 まったく無能で使えない奴だ」と散々にこき下ろし ているところが容易に想像できた。  だが、同僚たちの反応は違っていた。  「あ、すみません、今日、得意先から声かけられ てて」  「すみません、僕も、嫁が体調崩してて、子ども の面倒見なきやならなくて」  「すみません、自分も受けたいセミナーがあって」  と次々に黒田の誘いを断り出した。  「なんだ? じやあ四ツ谷は?」  「あ、すみません、俺もちょっと、明日のプレゼ ン資料がまだできてなくて」  「なんだ、そろいもそろって!・ もういい!・」  黒田は不機嫌そうに席を立って出ていった。  「? 今日はみなさん、忙しいんですね」と青木 が隣のIノ瀬に尋ねると、  「そうじゃない。みんな行きたくないだけだ。黒 田部長との飲み会に。どうせpシステムズの件をお まえが潰したって文句を聞かされるだけだろ? で、 おまえをつまはじきにするための姑息な手段を聞か されるんだ」  「そうだよ、バカバカしくて時間がもったいない」  「おまえが飲みにいきたいならつき合ってやって もいいぞ? 黒田をやり込めた武勇伝なら聞いてみ たいからな」  とIノ瀬やニノ宮たちはニヤニヤといった。  「あ、そういうことですか?」  青木は安堵して笑う。  「それより、今週末の練習場所決まったから。あ とでメールする’・」と三田村がいい、「あ、了解で す’・」と青木は答えた。  青木は近頃、この同僚だちと地元の草野球チーム に参加している。  青木はあの後も何度か「カフェーカオス」を訪れ て、矢弦から「人を巻き込め。仲間をつくれ」とい われていた。それで好きなことでつながるコミュニ ティに積極的に参加することにしたのだ。草野球 チームもそのひとつだ。それが思わぬ功を奏したら しい。仲間がいると思えば仕事も心強い。   漫然と仕事をするな。   社会の役に立っているか?   目的はあるか?   仕事は好きか?   恥をかけ、   汗をかけ、   同士をつくるんや。  青木は矢弦からかけられた言葉を思い出していた。  そして、「面白くなってきたな」と自然と気持ち が明るくなっていた。   【解説】ムーブメントーモメンタムを創ろ       起業のリーダーシップとは追随す       る勇気  起業には、人を惹きつけ、巻き込むことが重要で す。  起業のアイデアの規模が大きければ大きいほど、 その事業化は、起業家ひとりの手では難しいからで す。無の状態から新しくムーブメントを生むにはエ ネルギーがいります。そういうときこそ、人と人が つながることでより大きなモメンタム(推進力)を 生み出すことが有効になります。いかに多くの人を 惹きつけるか、巻き込めるかが事業立ち上げの成功 要因となります。  これこそ、起業においての最も重要なりIダー シップの本質です。    良いリーダーとは?  良いリーダーの資質とはなにか?  尊敬されるリーダーの条件をあげてみると、多く の場合、特殊な知識の質や量、優れた知性・技能と いうよりもむしろ、ピープルースキル、すなわち対 人折衝力、人を思いやる心や態度、誠意、人間的な 温かさ、などといった、人間性に起因するものが多 く見受けられます。  端的にいうと、−Q(知能指数)よりもEQ(感 情指数)が重視されるのです。  EQは心の知能指数とも呼ばれてきました。いか に自分や他人の感情を理解し活用できるか。EQが 高い人は、自分と社会の両方に対する自覚意識が高 く、自分自身を律することや、他人との関係を制御 することに優れています。  そのため、人と感情レベルで結びつき、目的を統 合し、進むべく方向に勢いをつけることに適してい ます。これこそ潮流づくりに欠かせない要素、まさ にムーブメントーモメンタムを創り出す資質といえ ます。    起業的リーダーシップとはフォロワーシップ  実際に、ムーブメントーモメンタムはどのように して形成されるのか? 本文で、「裸で踊る男」の 動画について紹介しました。  最初に、こっけいに踊るひとりの男がいる。  そしてそれに追随する、最初のフォロワーが現れ る。  さらに、そのフォロワーに刺激され、続々と多く のフォロワーが生まれる。  踊らないほうがもったいない、といった潮流が起 こる。  このように、ムーブメントーモメンタムを生むに はまず、バカを承知でも表に飛び出すリーダーが必 要となります。次に、この奇妙な振る舞いをする リーダーに追随するフォロワーが不可欠となります。  そしてこの勇気ある最初のフォロワーこそが、次 なるフォロワーを誘発し、潮流を生むのです。  」eaders!・三D is 0くer-gl〇『11fied.工aくe tne courage  to follow「 theコ∃ake it siヨpie and easy to allow  for more followers to join「 if you really care!  リーダーという立場は美化されすぎている。  リーダーが勇気をもってフォローすれば、多く  のフォロワーが生まれ、潮流ができる。  我々は無意識のうちに、「リーダーこそが唯一完 全な存在である」と教育されています。たしかに チームにリーダーは必要です。しかし、起業という 状況では、リーダーよりもむしろフォロワーの役割 が重要になります。フォロワーなしでは潮流は起こ らないからです。  いかにして一風変わった発明者をフォローし、さ らにフォロワーを増やすことができるか。それこそ が最大のカギとなります。  起業的リーダーシップとは、フォロワーシップで あったりするのです。    人切なのは最初の火種と火付け役  この現象はイノベーションにも似ています。  革新技術のインベンターは、多くの場合、発明時 点で変人扱いされるものです。  しかし、真のイノベーションは、その後汎用性が 高まり、一気に世間一般に普及します。その時点で は、もはやそれを知らないことのほうが恥ずかしく なります。  非常識が常識にとって代わるのです。  「こんなことやるの?」から「これ知らないの?」 に、変化するのです。起業におけるムーブメントー モメンタムの創造とは、真のイノベーション同様、 「当たり前」という価値観をつくり出すことなので す。  EQというコンセプト自体、空気を読むことに普 段慣れ親しんでいる日本人が得意とする分野かもし れません。  自分を律し、他人の呼吸を感じながら最適な言動 を起こす。大変気をつかう作業です。日常生活や業 務をするうえで、おそらく日本人ほど、他人に気を つかう国民はいないのではないでしょうか。  長所か短所かは別として、これはチャンスです。 潮流を生むのに適した人材が多いということです。  問題は最初の火種と火付け役。みなの前で一風変 わったことをできる人間が出てくること。その一風 変わった人物に対して勇気をもってフォローするこ とです。  おそらくそこからフォロワーを「増やす」という 作業は心配無用でしょう。いったん火がつくととて つもなく増加する日本での商品・サービスの成長傾 向は、歴史的に見て明らかです。  大きな潮流がいくらでも生み出せる環境が整って います。  恥ずかしがらないで、変わったことでもなんでも、 自分が信念をもって取り組んでいることを、みんな の前でやってみよう。  自信をもって披露してみよう。  あるいは勇気をもって変わったヒトーモノをフォ ローしよう。  人と感情レベルでコネクトしよう。  ムーブメントはそこから始まる。一点突破すれば フォロワーは必ず増える。モメンタムも加速するの です。     第十三章 世界を変える日本の女           性リーダーたち  「日本女性の特徴は、細やかで粘り強いところ。 そして知識も実力もある。それなのにあまりに控え めで行動を起こせていない。それは大変もったいな いことです。決して『教養ある傍観者』にならない でください。日本社会に変革を起こすリーダーとな リ、ぜひその夢や目標を実行に移してください」  YNLI (Yamato Nadeshiko's )eadership Initiative)の代表で女性慈善事業家である大和薫は、 みなへのエールとして笑顔でそういった。  そこは、アメリカのボストン市内のとあるミー ティングルーム。日本から到着したばかりの美月、 佐枝子、アズサ、夕貴の日本人女性四人が耳を傾け ていた。  YNLIとは、「社会に変革をもたらす日本人女 性リーダーを育成・支援する」という目的で、ボス トン在住の薫代表が、日本人女性に向けて二十年ほ ど前に立ち上げた研修フェローシップだ。現在はバ ブソン大学との連携のもと、その支援プログラムが 運営されている。  美月たちは、目下、そのYNLIのメインでもあ る四週間のボストンプログラムに、フェロー(参加 者)として、参加しているところだ。  薫代表は、日本からアメリカに移り住み、長きに わたり発展途上国や移民、柢所得者の支援などの社 会貢献活動を続けてきたとあって、快活でバイタリ ティにあふれている。美月などは、薫そのものから 干不ルギーを与えられている気がするほどだ。  「お金中心で物事がうまくいっていたのはふた昔 前の話です。今やそれは時代遅れでやってはいけな いことと思います。世界中が不安定な中、今こそ女 性の底力を発揮するときです。日本ではまだ残念な がら、女性、子ども、お年寄り、また、メンタルや フィジカルに(ンディキャップのある方たちの権利 が、置き去りになっています。そうした日本という 国の弱い立場の暮らしを、今までは、さまざまに女 性たちが『縁の下の力持ち』として支援してきまし た。ですが、もはや『縁の下の力持ち』でいてはな らないのです。社会に良い変革をもたらす『女性 リーダー』として、より良い世界を築いていってく ださい」  薫代表のその言葉が、美月らフェローたちの心に 響いた。  フェローたちは、このボストンの地で、これから 実地研修を受け、今後、囗本の女性リーダーとなる ことを期待されているのだ。  彼女たちは、年齢も、それぞれに解決したい課題 も、バラバラだ。三十代のジャーナリストのアズサ は、DV被害者の支援活動をしている。四十代の佐 枝子は、NPOの代表で、長年、貧困家庭、中卒・ 高卒の若者たちの就職支援をしている。美月より少 し年上の三十歳でエンジニアの夕貴は、AIで学習 障害の子どもたちの教育支援をしようとしている。 そして、美月は、化学物質過敏症を抱える人たちの 支援活動をしたいと思っている。四人は、年に二回 実施されるYNLIの参加者募集の機会に、数十名 の応募者の中から選ばれたメンバーだ。  彼女らは、これから「四週間のボストン研修」で、 リーダーとなるための実地研修を受けるとともに、 自身が実現したい日本社会のイノベーションについ て、そのアクションプランを磨き上げていくことに なっている。  薫代表の挨拶が終わった。  『……y』れから四週間、楽しみというかドキドキ するね」  とアズサや美月らが会話していると、そばに控え ていたスタッフの綾音も声をかけた。  「しっかりリーダーとしての自信やスキル、知識 を身につけていってくださいね’・」  綾音は、まだ三十代そこそこの溌刺とした女性で、 ともすると美月らと同じフェローかと見まかってし まうが、実はこのYNLIのプログラムマネー ジャーとして、フェローをサポートしているのだ。  美月たちはあらためて、事前に配布されていたス ケジュールを眺める。研修の主な内容は、次のよう なものだ。 @YNLIのエグゼクティブーコーチでもあるバ  ブソン大学の矢弦恭一教授からコーチングを受  け、実現したいプランを立案し、起業家的マイ  ンドセットや行動法則について学んでいく。 Aボストン地域で実際に成功しているNPOや社  会起業家やインキュベーターのもとを訪れ、実  地で組織運営やフアンドレイジングの手法を学  ぶ。 Bバブソン大学で、女性向けに特化された五日間  の「女性リーダー育成コース」を受講する。  ちなみに、それぞれのメンバーが構築するアク ションプランは、矢弦からコーチングを受けるだけ でなく、訪問先でもそのつど、ピッチで披露するこ とになっている。現場のプロフェッショナルから 直々にフィードバックを受けブラッシュアップをし ていくのだ。そうしてプランをしっかり練り上げて、 日本に帰国した後は、研修生ひとりひとりにメン ターがつけられ、二年のうちに日本社会でそのプラ ンを実現していくことになっている。  YNLIというのは、そうして手厚く、日本社会 をより良く変える女性たちを、エンパワーしている のだ。  「ようこそ、ボストンヘ’・ ここでのプログラム や、最先端の成功事例から、リーダーとしての自信 や自覚を身につけ、ぜひ自分たちのビジョンの実現 に向けて、行動を起こしていってほしい」  翌日には、早速、本プログラムのエグゼクテイ ブーコーチであるバブソン大学の矢弦教授から、オ リエンチーションがあった。  「みなさんがやろうとしている社会変革では、い きなり大きく世界を変えるような偉業を果たすのは 難しい。それよりも、ひとりひとりが少しずつ行動 を起こして、失敗から学んで状況を変えていく。そ うしたことを、どんどん積み重ねていく。いわば、 小さな一歩を繰り返し、動き続けるんや」  美月たちはうなずいて聞いている。  「『これはおかしい』『これはこうしたほうがいい』、 みなさんは、いろんな不条理・不公平を目にし、自 分の心が動いたことを見逃さずに、しっかりとつか んできたのだと思う。次は、小さな一歩を踏み出す。 とにかく、より良い方向に小さく動いてみる。そう してまずは小さなさざ波を起こす。そうして起こし たさざ波が、次第に他のさざ波と交わって、大きな 潮流になっていくんや。自分たちの気づきで踏み出 した一歩が、より良い世界をつくり上げていくこと になるんや。世界に大きな変革を起こす前に、まず 動いてみる。Change the Worldの前に、Change Your World。まずは自分に近いところから変えていこう。 そうすれば世界も変わる」  矢弦はいった。  「Change the Worldの前に、nlコaeべoc「 くくo「一a」  美月はつぶやいた。  「とにかく大切なのは『行動すること』。この不確 かな世界で活躍していくにあたり、一番ロジカルな 手段は『行動すること』や。失敗を恐れず、行動す る。そして行動とともに大切なのが学び。行動を起 こしたら必ず振り返る。なにも学ばず、なにも改善 せず、なんてことになれば、起こしたアクション自 体の意味がなくなりかねない。学びの質を高めるこ とができるかどうかが成功のカギを握る。行動、そ して学習、改善、その繰り返し。それで世界を変え ていこう!・」  「はい!・」  美月、アズサらは一気にやる気に満ちてきた。  本プログラムは、その手厚さゆえにスケジュール 的にも、とても(Iドだ。  矢弦からのコーチングを受けた後、美月たちは、 早速、ボストン地域で実際に成功しているNPOや 社会起業家のもとを訪れる。訪問先は、ホームレス や低所得の女性のための支援機関、公衆衛生の非営 利組織、干不ルギー・環境問題の起業家など、実に さまざまだ。  それらの場所で、美月らは、実地で組織運営や資 金調達の手法やさまざまなことを吸収していくのだ。  そして、それは連日、朝から晩まで続く。  おのおのの現場で、自分のプランについてピッチ をするのが特に(Iドな行程だ。  「……死にそう’・」と、みなの前でAIでの学習 支援事業のピッチをしていた夕貴が、ピッチを終え、 涙ぐんで、美月たちフェローのもとへ戻ってきた。 「わかる、わかる」「私もおんなじ」とみな口々に夕 貴を励ました。  現場のプロから直々にフィードバックを得られる のは、自分たちのプランをブラッシュアップするの に、これ以上にない恵まれた機会といえるのだが、 長年の経験に裏打ちされた彼らのフィードバックは、 とても厳しい。時に、辛辣すぎる批評を受けて、自 分の無力さやプレッシャーや悔しさに苛まれて、泣 きそうになったり本当に泣いてしまったりもする。 研修生にとっては、とても身になるが本当に(Iド だ。  連日、そうして目まぐるしく、美月たちはボスト ンの非営利組織の経営や運営のベストプラクティス を学び続けた。  慌ただしく日々が過ぎ、三週目に入ると、今度は、 バブソン大学で、女性向けに特化された五日間の 「女性リーダー育成コース」を受講することになっ ていた。  そこでは、アメリカ各地から集まった女性リー ダーだちと、Women's 」eadership Programを受講す るのだ。  「男子禁制やねん」と矢弦もいっていた通り、全 員女性という環境の中で、コーチングやプレゼン テーションなどの実用的なスキルを学ぶとともに、 それらの女性リーダーだちと、自分たちそれぞれの 課題や悩み、葛藤をシェアした。そうすることで、 美月たちは、自分たちひとりひとり、誰もが才能に 満ちあふれていて、その強みを解放していくことが 大切なのだと学び、自信を得ていった。  連日、女性リーダーとなるべく邁進するメンバー だが、あまりの(Iドさに「大変なところに来てし まった……’・」と思うときもある。  ある夜など、ホテルで、まだ寝るわけにはいかな いと、「うわI。もう……盆J理’・」といいながらみ んなで必死にピッチを見直したり、相談し合ったり しているところに、薫代表と綾音が現れて、ほがら かに発破をかけてくれた。  「大丈夫よ、みなさん。まだ笑顔が見えるもの。 まだまだ頑張れる’・」と明るく励ます代表に「まだ まだですかり」と美月たちは悲鳴をあげながらも、 結局のところ、誰もくじけたりはしない。  そこに貴重な学びがあると実感しているからだ。  「まあまあ。でもちょっと休憩しましょうよ’・」 と綾音が、みんなにコーヒーを差し入れてくれた。  美月たちはつかの間のリラックスタイムを楽しみ、 話に花を咲かせる。  美月は、日本の被災地の支援活動もしているとい う薫に、  「どうして、代表はそう日本への社会貢献活動に 熱心なんですか?」と聞いてみた。  「これはみなさんと同じかもしれないけれど、『自 分の居場所』を探してるのだと思うわ」と薫はいっ た。  「世の中には、自分自身や家族に問題を抱え、そ のトラウマを乗り越えるべく、自分やその家族、友 人たちを救おうと活動している人がいる。そうした 人は結局、そうした活動を通して、自分の居場所を 探しているのだと思うのね。そうして自分の居場所 を探していることが自然と社会貢献活動につながっ ている。私もそう。ボストンで仕事や家庭を築いて きたけど、やっぱり生まれ故郷の囗本に熱い思いが あるのね。だからだと思う」  「……自分の居場所を探している。たしかに」  美月はその言葉に(ツとした。  「それはそうかもしれませんね」とアズサや佐枝 子、夕貴もうなずいている。  「私か、中卒・高卒の子どもたちの就職支援をす るのも、やっぱり自分も貧困家庭で、貧困で学べな い、就職もできない、ワーキングプアに陥ってしま う、というループから抜け出せない、そんな社会に 対してやるせない、と思っていたから。息子が同じ 目にあうのは辛い。なら、変えればいいんだ、自分 で、と。そう、息子のためであり、自分のトラウマ の克服であり、自分の居場所はここ’・ という気が します」と佐枝子。  美月も、自身は過敏症ではないが、幼い頃、身体 が弱く匂いや音に敏感だったことがある。他人に理 解してもらえず、環境も改善せず、生きづらさを抱 えていたことがあった。その後、その体質を乗り越 えたが、仕事で化学物質過敏症の患者たちに遭遇し、 かつての自分のトラウマを重ね「自分がやる課題」 だと運命的に思ったのだった。  「この分野に、シングルマザーが多い気がするの もそういうことですかねえ。実際、自分事として、 社会問題にぶち当たる人が多いというか」と自身も シングルマザーのアズサがいった。  「当事者感が強くなりますよね。いろいろ「ンデ があって」と学習障害の子をもつ夕貴がいった。夕 貴もまたシングルマザーだ。  「なるほど」と美月はうなずいた。  「当事者感といえばさあ……。飛行機で聞いた美 月さんの元カレの話、面白かったんだけど」と夕貴。  「ええ? なになに?」とアズサ。  「いやいやここではいいです。恥ずかしいんで」 と美月。  「いってよ。面白いから」と夕貴。  「ええ? 私も聞きたい’・」と綾音。  「……い‘凡、実はここに来る前、家に泥棒が入っ たかと思って」と美月は話し出した。  「泥棒?」と女性たちは驚いた。  美月がある囗仕事から戻ると、家の中が信じられ ないくらいに散らかっていた。  なぜか化粧品のキャップも空いていて、洗濯物も あさられた跡があった。  「変態が入ったんだと思って……」と通報しかけ て(夕と気がついた。  犯人は自分だ、と。  「ええ? どういうこと?」とアズサ。  「私、レポートとか、調査に夢中になると、いろ んなことを後回しにするんですよね。でも今までこ んなにひどくなることはなかったっていうか」と美 月。  「その理由が、ね」とクスクス笑っている夕貴。  「おそらく、彼氏がたまに家にいたからだと思う んですよ。私か開けっ放しにした化粧品のキャップ、 出しっぱなしの調味料、彼がなんとなく習慣でつど つど片づけてたんだと思うんですよ。……お恥ずか しい」  「えええええ、美月さん、ひどい’・ てか、彼氏 もまめ’・ よく怒らないね’・」  「……どう思われてたのかなあって。あIあ」と ため息をつく美月。  「そう。家事に当事者感のある男を逃したのは残 念だね1つて。なかなかいないよお。男の人でそん な」と笑う夕貴。  「たしかにねえ」とアズサ。  「そんなこといわれつつ、傷口に塩を塗られてこ こに来ました」と美月。  「おかしい’・」と笑う女性たち。  「ごめんごめん。傷つけて」と謝りつつも笑って しまう夕貴。  「きっとまたいい人見つかるわよ。私なんて結婚 三度目だし」と佐枝子。  「ですかねI」と美月。  「え、だって、今日も、美月さん、バブソン大学 で、シユツとした男の人に話しかけられてたじやん。 あれ、誰?」と夕貴。  「そうねそうね。まだ聞いてなかったわ」と佐枝 子。  「違います違います、単に知り合いです。あのカ フェーカオスでちょっと会ったことがあるっていう だけで」  「独身? 独身?」とアズサ。  「知りませIん」と美月。  「チャンスは、つかんでいかないと〜」と綾音も いった。  「もう……だから違いますって」  と美月は、日中、バブソン大学で、隼人に会った ときのことを思い出していた。  その日の昼。バブソン大学で、女性向けプログラ ムを受けた後、みんなで次の訪問先に移動しようと、 カフェテリアのそばを通っていた美月は、見覚えの ある日本人男性に声をかけられたのだ。  「あのI。もしかして、『カフェーカオス』にい た?」  と、その男性、隼人はいった。  美月も彼のことを覚えていた。「カフェーカオス」 で一歩に別れ話をしたときにそばにいたコンサル風 の男性だ。一歩と親しい友人のように見えたが、美 月の知らない顔だった。  「なぜ、ここに? 君も留学してたんだ?」  と隼人がいうので、「え?」と美月はYNLIの 説明をした。  「YNLI? そうなんだ。四週間、へえ〜、そ んなのあるの知らなかった」  と隼人はうなずいていた。  気づくと、佐枝子たち三人は美月に手を振って 「先に行って待ってるね’・」と気を利かせたふうに 去っていった。  「偶然だなあ。一歩もここに来てたんだ。昨日、 帰っだけど」  「え? 一歩がここに? どうして?」  驚いて、今度は美月が尋ねた。  「俺が呼んだの。遊びに来いって。あ、なに? 気になる?」  「……いゝ凡、別に。そういうわけじやないですけ ど」  正直、気にならないわけでもないが、別れようと いったのはこちらだし、その後追いかけても来ない、 ちょっと連絡を拒否したくらいですぐに連絡をあき らめるような一歩に、いつまでもこだわっていると 思われたくない。  「そっか」  隼人が、一歩のことを勝手に話してくれるなら聞 かないでもないけど、と美月は思ったが、隼人は特 にくわしく話す気もないらしい。美月はちょっと ガッカリした。  だが、隼人にしても、会ったばかりの美月に、立 ち入っだことはいいにくいだろうし、高みを目指し ているインテリは他人のことにさほど興味もないだ ろうし、「なんで別れたの?」なんて下世話なこと、 聞いたりもしないんだろうな、と美月が思っている と。  「ところで、なんで別れたの? あんたたち」  と隼人はいった。  「え? 聞くんだ。それ」  「最近、知りたいことは単刀直入に聞くようにし てんだ。ピッチで習慣づいてない? 口11 To Action.要望は明確に。結局、なんで別れたのか、 一歩のほうもよくわかってないみたいだしさ」  「なんでっていわれても……いろいろです」  そんなに簡単に説明できる気がしない。  だいたい、自分でもこれでよかったのかよくわ かっていないし。  「倒産も起業もなにも説明してなかったから?」  「それも……あるかも」  美月は、「カフェーカオス」で、一歩が、こちら の不安をよそに、元気そうに、楽し気に隼人と話し ていたことを思い出して少し腹が立った。私のこと なんてどうでもいいのね、とイラツとした。  美月を目前にして、一歩は突然のことで慌てふた めいたようになった。  美月が倒産のことを尋ねると、「まあ、いっても、 仕方ないかなって思って」とのん気にいっていたこ とも気に食わない。なにか私に手伝えることがある かと尋ねると、「ない。なIんにもないよ。俺のこ となんて、心配しなくていいから’・」と突っぱねた こともムカつく。  私なんて、必要ないってことね。  一歩のそばに、私の居場所なんてない。  と、美月は怒りにまかせ、別れるといってしまっ た。で、一歩は追いかけてこなかった。それだけの ことだ。  そうしたことを思い返していると、  「一歩が連絡とれないっていってたけど?」  目前の隼人がいった。  「……私も忙しくって」  「そうなんだ。そうだよな」  「ええ、まあ」  話が途絶えてしまい、美月は「じゃ、また」と隼 人に挨拶をして去ろうとすると、「なんか落ちた よ?」と隼人が、かがんでなにかを拾った。  隼人の手に、美月のクアッガワラビーのキーホル ダーがあった。ペンケースのチャックの金具から外 れて滑り落ちたらしい。  「あ。それ」  「あれ? この飾り、どっかでみた。一歩のキー ホルダーと同じじゃない? この変なキャラクター、 クアッガワラビー」  「クアッガワラビー知ってるんだ」  「一歩から聞いたから。あいつの好きな、笑顔で 幸せを伝播させる生き物」  『そう……y』れ、私か大学でアメリカに短期留学 するときにつくってくれたんです。クアッカワラ ビーの幸せが伝播するようにって。元気が出るよう にって」  「手づくりか。だからどうも不細工なわけだ」  隼人は美月にキーホルダーを返した。  「にしてもさあ……」と隼人は、クスクスと笑っ た。  「なんです?」  「いや、こんなガラクタみたいなの、今も大事に もってるってことはさ」  「?」  「まだ好きだよね? 一歩のこと」  「!・ 別にそんなんじやないです」  「いいからいいから。そうだ」と、隼人は、ポ ケットからなにかを取り出した。  「?」と美月が見ると、  「あいつ、ここにいるよ」  と隼人は一歩にもらったという「にこにこ弁当」 の名刺を差し出した。  そこにもトレードマークのクアッガワラビーが 笑っていた。  「ちゃんと話してみなよ」  そういって隼人は去っていった。  「簡単にいうけど」  ……一歩のそばに、「自分の居場所」はあるのだ ろうか。  確認するには、もう少し勇気がいる。  ホテルのフェローたちは明日に備え、各自の部屋 に戻ることとなった。  美月はふと思い出したように、ペンケースからク アッカワラビーのキーホルダーを取り出した。その 美月に、夕貴が声をかけた。  「自分の夢を実現して、いいパートナーとも、一 緒になれるといいね」と夕貴。  「ですね」  その美月の手元で、「みんなを笑顔にする」ク アッガワラビーが微笑みかけていた。   【解説】女性リーダー育成プログラム亅W    We canヨake a diffe「sコn巾一 本文中で、YNL−という女性リーダー育成プロ グラムを仮に設定して紹介しましたが、実際には、 JwL− (Japanese Women's )eadership 一コ一tiative :日本女性リーダー育成支援事業)とい す(−)  日本女性をエンパワーし、日本社会に変革とイノ ベーションを起こすことを目指しています。  JWL−は、社会に変革をもたらす女性リーダー を育成・支援するプロジェクトとして、二〇〇六年、 ボストンのフィッシューフアミリー財団のフィラン ソロピスト(慈善事業家)、厚子・東光・フィッ シュ氏により、母国日本の女性のために立ち上げら れた研修フェローシップです。二〇一七年より、バ ブソン大学の協力のもと、プログラムが運営されて います。  例年、春と秋の二回、研修生の募集があり、選ば れたフェロー研修生たちは、ボストンで行われる四 週間の強化プログラムを受け、その後、日本に帰国 してから二年間にわたる研修を通じ、リーダーとな る自信とマネジメントに関するスキルや知識を身に つけることができます。  二〇一九年からは、プログラムのコアである四週 間のボストン研修を、三日間の合宿型研修「ブート ー 日本語で提供するコースも発足。JWL−のスピ リットである’ヽVe canヨake a difference!を体感で きる三日間の研修が、名古屋市、石巻市で開催され ました。 第十四章 一歩、踏み出そう、踏        み外そう、はみ出そう  Entrepreneurship is no snap shot. It is ab()ut  iteration and continuous iヨprovement. It is a  process of act「 learn「 build「 and repeat.  起業道とは、反復演習一行動(試行錯  誤)十学習(仮説検証)十改善(軌道修      正)の繰り返しである。  「起業を成功に導くために必要なのは、『行動あり き』『失敗ありき』『人を巻き込む』の三原則を、ひ たすら繰り返すことや。三原則をもとに、行動(試 行錯誤)し、そこから学習(仮説検証)し、改善 (軌道修正)する。その反復演習や」  矢弦はいった。  一歩は、その矢弦の言葉を反芻するようにつぶや いた。  「『行動ありき』『失敗ありき』『人を巻き込む』の 繰り返し……ですね」  「せや。起業はスナップショットではないからな。 常に変化をし続ける持続的なものや。『今あるもの でやってみる』、『許容できる失敗を定めてその範囲 内で精一杯やり抜く』、『さまざまな人を巻き込む』、 この三原則をもとに、グルグル回す。とにかく一歩 踏み出して試行錯誤して、うまくいったか、いかな かったか、その結果から学ぶ(仮説を検証する)、 そして、それを踏まえて改善する(軌道修正する)。 そしてまた次の一歩を踏み出す。Act「 」earn「 Build「 a乱Repeat!行動↓学習↓改善の繰り返しで成功につ なげていくんや。一巡したのち、使える資源が増え ているかもしれん、許容できる失敗の範囲が広がっ ているかもしれん。はたまた、仲間が増えてるかも しれん。それを踏まえて、再び次の一歩を踏み出す んや」  「ふむ。一巡したのち、資源や仲間が減ってるっ てことはないんですか?」  「たしかに、ヒトやモノやカネが減っていること があるかもしれん。それでも一巡したあとには、必 ず、行動から得られたプラスの『なにか』がある。 それは、目に見える資源とは隕らへん。情報や知見、 スキルの向上だったり、『これが本当にやりたかっ たことか』という自己の欲求に対する気づきだった り、『あと少しお金を出せば目的が達成できるので 出そう』という失敗の許容範囲が広がることかもし れん。あるいは、人と築きあげた信頼かもしれん。 それも、成功に至るまでに必要なプロセスや」  「なるほど。そういうことですか」  「大切なのは、とにかく行動すること。慎重に時 間をかけて考えているだけでは、知識の量は増える かもしれんが、その事業が実際にうまくいくという 根拠はなにも得られへん。そのアイデアがうまくい くかどうかは、やってみないとわからんことや。 『行動』のいいところは、実行することで、それが 正しいかどうかすぐに検証できることや。小さな一 歩で動き続けることが大切なんや」  ふんふんと一歩がうなずいていると。  「さらに、や」  「はい」  「もつというとやな」  「カフェーカオス」のホワイトボードに、矢弦は 何やら書き出した。  一歩、踏み出そう。  一歩、踏み外してみよう。  一歩、はみ出してみよう。  矢弦はそう記した。  「一歩って俺のこと? じゃ、ないすね。はい」 と一歩。  「あんたにも、ぜひ踏み出して、踏み外して、は み出してほしいけどな。……(ワまではAction truヨps every巨品(行動ありき)といってきた。つまり 『一歩、踏み出す』や」  「はい」  「そこからさらに、『一歩、踏み外してみよう』や。 さらに進んだ挑戦や。失敗してみよう。質のよい学 習(実践)をしてみよう。案外、失敗してみようと いっても失敗できんもんなんや」  「失敗してみようり へえ」  「そしてその先に、『一歩、はみ出してみよう』や。 違ったものの見方や、変わった人たち、つまり変態、 変化をすることを常態とした人だちと出会える。こ こからあんたの世界をもっと変えることができるん や」  「なるほど。一歩、踏み出そう。一歩、踏み外し てみよう。一歩、はみ出してみよう、ですか。面白 いですね」  「ぜひ、試みて、さらなる飛躍を遂げてほしいね」  矢弦は笑みを浮かべていった。  だが、その数力月後、一歩は「にこにこ弁当」の 店内で、頭を悩ましていた。  「まずい。非常にまずい……」  「野菜王子」ことオヤカタとのYouTube効果で一 時期にぎわいを見せた一歩の店だったが、このとこ ろしっかりと経営不振というやつに陥っている。  「わくわくキッス弁当」がリニューアルして、無 添加・無農薬に適度にこだわり「家庭らしい美味し さ」を売りにした、「今日のマキベン」に変わった のだ。  「マキベン」という名は、家庭の食材で絶品料理 をつくることでカリスマ的人気を誇る伝説の家政婦、 「マキさん」がプロデュースをしていることによる。 マキさん人気で大人にも子どもにも大評判だ。価格 も一歩の「にこにこ弁当」より少し安い。  「うIん。これは負けたかもなあ……」  実際、「マキベン」が始まってから、確実に受注 は減り続けていた。  折悪しく、「マキベン」がオープンする前に、も らいものだった厨房機器が故障してしまい、そのと き、受注が増えていたことに調子づいていた一歩は、 厨房機器を買い替えたうえに、イベントで頻繁に使 うようになった客用トイレも、使い勝手が悪い、と プロの手を借り、工事をしてしまったのだ。  そのときの費用も重くのしかかっている。  「バカバカだバカだ。まずい、ひじよIに、まず い!・」  以前のように、「自分の商品のほうが勝ってる’・」 気もしない。  週末のオヤカタのYouTubeのイベントは、相変 わらず続いているが、それ自体が一歩の店の収益に なっているわけではない。  『……y』のまま減り続けるとなると」  あと、二、三ヵ月で完全に終わりとなる。  「あ、ダメだ。それじゃ、閉店のコストが出ない のか。ええっと……冫・」  隅のテーブルで計算する一歩。  「……なんだよ、終わってんじやん’・ どうすん だよ!・」  イライラして、思わずコップをひっくり返した。  「あ。ダメだダメだ。うIん……」  なにより、自分のお弁当に自信がもてなくなった。 いいお弁当だとは思うが、自分も「マキベン」を ちょっと買いたくなるのだ。というか、買ってみた。  美味しかった。  非常に美味しかった。  マキベン、明日も食べたい’・ と思ってしまった のだ。  「完敗じやないか」と一歩。  姉も、母も、おそらくそのことに気づいてる。だ が、触れてこない。  一歩を哀れむかのように、なにもいわないのだ。  「……泣く」  一歩は、テーブルに突っ伏した。  閉めるしかないのか。  オヤカタには悪いが、ここでのイベント開催は中 止だ。  ここがダメでもオヤカタのYouTubeは外でもオ ヤカタの家でもできるかもしれない、それで勘弁し てもらおう。  そんなことより、俺だ。俺はどうすんだ。  少し前は、「子ども向けのカフェ」をつくりたい と思っていた。だが、それは「にこにこ弁当」あり きの計画だった。子ども向けカフェがイケてるかど うか、正直、自信はない。  「……E‘mんだな」  一歩は矢弦の言葉を思い出す。   起業の三原則は、『行動ありき』『失敗ありき』   『人を巻き込む』の繰り返し。一巡したのち、   使える資源が増えているかもしれん、許容でき   る失敗の範囲が広がっているかもしれん。はた   また、仲間が増えてるかもしれん。それを踏ま   えて、再び次の一歩を踏み出すんや。  「……増えてる資源? なに?」  一歩は突っ伏していた顔を横に向け、店内を見ま わした。  「……」  もう少し広かったらな、と一歩は思う。  子どもたちが、気軽に立ち寄って、勉強や相談が でき、食事もできる。そうした、たまり場のような 場所をつくれるのに、と一歩は考えていた。  「いやいや、だからそれだけで収益性はどうよっ て話……」  もう少しカネがあったら可能かもしれないが……、 いや待て、結果が出るまでの運転資金などを考える と新たな開業と変わらない。  「うI……」  一歩は頬を膨らました。  壁に貼ったクアッガワラビーのイラストが目に 入っだ。  「……」  ふと美月の「学校の先生になりたいんじやなかっ たの?」という言葉を思い出した。  そういえば、以前、学校の先生になろうとしてい たときもあった。  が、学校の先生よりも、今のほうが楽しい。「野 菜王子」のオヤカタや子どもたちを連れて農園を訪 れたときは、本当に楽しいと思った。自由に子ども だちとやりたいことをやっていることを、とてもう れしく思っていた。  なので、一歩は今になって、自分が学校の先生に ならなかった理由がよくわかってきた。学校の先生 だと、どうしても「模範的」でいないといけないと いうプレッシャーがある。それが自分には窮屈だ。 自分はもっと(メを外したいし、冒険もしてみたい のだ。現にこうしていろいろ試してやってみるのが 楽しくて仕方がない。  「……ダメだ」  美月のことを考えると、まだ心が痛む。  「一歩は、やりたいこととかないの?」といって いた美月に、今だったら、「人が笑顔で集う場所を つくりたい」といえる。もとはといえば、起業道の 実践も、美月との結婚を考えて、一歩踏み出したこ とだったのに。  「世界一幸せになれますように、笑顔が伝播しま すように」とかつて美月にクアッガワラビーのキー ホルダーをつくったことを思い出していた。  一歩は、もう一度壁のクアッガワラビーに目を やった。  一歩のクアッカワラビーのそばには、美月がいる はずだ。  クアッカワラビーのそばでは、幸せの笑顔が伝播 するはずだ。  一歩も美月も笑顔になっているはずだった。  だけど……。  「いねIし。誰もいねIし」  それを思うと「イテ、テ……」と気持ちが凹んで きた。  「ダメだダメだ’・ 明日のことを考えないと」  一歩は自分の頬を張り、気合を入れた。  「よし。どうしよう……」  そういったまま一歩はフリーズしてしまった。  逆立ちしても走り回っても息を止めてもなんも思 いつかない。  「ええ’・ もう誰か助けてくださIい’・ 店が潰 れそうです’・」  やけっぱちになって一歩は思わず、SNSでつぶ やいてしまった。  「……」  つぶやいたものの、SNSでつぶやくのはやぽ かったかな、と思い直して、一歩はすぐにそのメッ セージを削除することにした。  だが、すでに一件のダイレクトメッセージが来て いた。  「わかった。明日そっちへ行く」とあった。  メッセージの主、(ンドルネーム「KOU」には 覚えがなかった。  「……冷やかし? 誰?」  一歩は首を傾げた。  現代建築社では、黄島が金原社長の前に憮然とし て立っていた。  そばには灰田専務もいる。  「失敗は絶対に許さんといっただろう?」と社長 はもっていた新聞をデスクの上にポンと投げた。  新規事業チームのマッチングサイトが正式リリー スに向けて進行している中、大手人材派遣会社のA スタッフが、建築現場と建築職人とを結ぶ似たよう なマッチングサービスを始めたことが記事になって いた。  「あの……まだなにも失敗してませんが」と黄島 はいった。  「大手に先を越されて勝ち目などあるか」と社長。  「ありますよ。うちは個人とリフォーム職人の マッチングサイトですし、企業と職人とのマッチン グサービスは、Aスタッフだけでなく、すでにやっ ている会社はいくつかあります。まあ、ここほど大 手のものではありませんが……、それでも競合はし ません」  「そんなのん気なかまえでは困る。ここに、『Aス タッフは、職人のマッチングについては、ゆくゆく は個人ユーザー向けにも拡大していきたいとしてい る』とあるじやないか」  「そういう意味では、うちが先行です。それにう ちは、『子育て』『介護用』『在宅ワーク』など暮ら しの多様化をテーマに特化しているのが強みです」  「そんなもの、結果が出てなきや意味がないだろ うっておっしゃってるんだ、社長は。カネにならな きや意味ないだろう? と」と灰田。  「そりゃそんなにすぐは出ませんよ。だいたい、 負けたなんて結果も出てません’・」  「勝ち目もないじゃないか。だいたい、事前の調 査が足りなかった証拠じゃないかね」と社長。  「申し訳ございません、社長。私かよくよく調査 をしろと申したのですが」と灰田。  「……そりゃ、調査に半年もかけてられませんよ。 バカバカしい。一応それでも、しかるべき調査はし ました」と黄島。  「漏れてるじゃないか。この通り。その拙速が失 敗を招いたんじゃないのか、と社長はおっしゃって る」と灰田。  「そりゃ予測不能なこともあります。失敗とおっ しゃいますけど、失敗というわけじゃありません。 少しずつですがベーダ版のサイトで良い反応が出て います」  黄島たちのマッチングサイトは、aテックの協力 のもと、ベーダ版を試験的にリリースし、そのモニ タリングによる検証も着実に進んでいた。  「それに、拙速に結果を求めるより、チャレンジ したことやそれがどう活かされているかで評価すべ きでは? そうでないと失敗を恐れて社員は動かな くなる」と黄島。  「なにをいっている。結果を出さないで評価でき るものか。それに失敗したら責任をとるのは当たり 前のことだ」と社長。  「ええ……冫・挑戦すれば普通に失敗は起こりえ ますし、失敗は必ず『悪』とも限りません」  「……」と社長は呆れたように黄島をにらみつけ た。  「バカげたことをいうと、社長がお叱りになる。 というよリバカげて言葉も出ない」と灰田。  「もっとも、なにもしない方にはわからないこと かもしれませんけどね」と黄島。  「そうかな? 私などはきっちり結果を出してき たけどね」と灰田。  「あなたは……(他人に乗っかっただけで しよ’・)」と黄島。  社長が再び口を開いた。  「だいたい、結果で評価しなければ誰も必死にや るわけがない。私だってそれこそ昔は結果を出すた めにそれはそれは死ぬ気でやったものだ。食うのも 寝るのも忘れてね。今の社員にはそうした気概がな い」  「そりゃ必死にやっても、大して評価されない、 報われないことをみんな知ってるからですよ。それ に、万が一、行動して失敗したら評価されないので は、社員は挑戦しなくなります。失敗に寛容な環境 が必要です’・」  「君とはどうも話がかみ合わないようだ」と社長。  「はあ……」と黄島。  「失敗を前提にした行動など愚かだ。失敗しない ように、人は努力するんだ」と社長。  「ごもっともです」と手をもむ灰田。  「それじゃ挑戦する社員がいなくなるじゃないで すか!・」  「結果を出さない挑戦に評価なんてできるわけな いだろう!・」  「ええ? ■■■■■■社長は」  「なんだ」  「会社をイェスマンでそろえたいんですか? イ エスマンと挑戦する社員とどっちを評価するんです か?」  「何度もいわせるな。私は結果を出す社員しか評 価しない。イエスマンでも挑戦する社員でも、結果 を出せない奴はダメだ。今のところ君のチームは評 価に値しない」と社長。  「……ゝつIむ」と黄島。  「申し訳ございません。至急、善処します」と灰 田は、黄島とともに頭を下げた。  「マッチングサイトを縮小しろ? それ本気で いってます?」  春奈は、黄島に問い返した。  会議室にはほかに、青木、緑川の新規事業チーム と涼子が集まっていた。  涼子には、副業ライターの経験を活かして、マツ チンクサイト内のブログ記事のアドバイザーになっ てもらうべく、打ち合わせに参加してもらっていた。  「灰田専務が、どうしても正式リリースするなら、 うちの雑誌『商空間』に合わせた店舗リフォームの マッチングに特化しろって。であれば、『失敗して もまだ言い訳が利く』だと」  「なんのための新規事業なんですか? 既存に毛 が生えただけじやないですか」と緑川もいう。  「そうですよ。このところようやく『在宅ワーク』 『子育て』『介護用』の感触がよくなって来てるのに。 もうひとつテーマをつくろうかといってたくらいで すよ? 今止めるなんて」と春奈。  「僕もそういったよ」と黄島。  「でなんて?」と春奈。  「『しようがないだろ』だって」  「出た’・ 必殺『しようがない』」  「ついでに、『余計なことはするな』『なにもしな いのが得策』ともいわれたよ。はっきりとね」  「もう’・」と春奈。  「じやあ、なにも専務のいう通り、なにもしない のがいいんじやないですか?」と青木。  「また? やる気なしモードに戻る気?」と春奈。  「専務の許可なく進められるんだっけ?」と青木。  「そうなんだよな。社長も灰田専務に一任する、 勝手に動くなといってて」と黄島。  「マジですか」と緑川。  「じやあ……」と青木。  「だから。やる気なし男に戻んないでって」と春 奈は青木にいう。  「一歩、踏み外しますか」と青木。  「え?」と黄島、春奈、緑川。  「矢弦さんがそういってましたよ。『一歩踏み出 す』の次は、『一歩踏み外す』、あえて失敗してみる もいいって」と青木。  「え? 矢弦さんのこと知ってるの? なんで、 なんで?」と春奈。  「それね。『一歩はみ出そう』も、あるよね?」と 黄島。  「はみ出したくはないですね、まだ」と青木。  「てか、私の話は無視? ま、いいや、そうだ。 灰田専務なんてほつといて、やっちまおうぜ。失敗 して、奴を引きずりおろそう’・」と眷奈。  「目的そこじやないでしよ」と緑川。  「わかってます’・ 灰田専務の許可を得なくても なにかやりましよう。有志で’・ 人とのつながりつ てやつです!・ ね!・ やりましようよ!・ みんなで やれば怖くない’・ 涼子先輩も’・」と眷奈。  「なんで私も?」と涼子。  「いいじやないですか’・ 五人の変態が会社を変 えるんです!・」  春奈たちはイベントを開催することを考えた。  失敗上等、極力予算をかけないで、サイトに関す るイベントを行うことにした。  具体的には「在宅ワーク」などテーマに沿い、リ フォーム大相談会を行うのだ。  「人が集まるかしらねI」と涼子。  「集まるメリットはなんだろう」と青木。  「職人の技を実際に見たりしたいけどね。リ フォームビフォー・アフターとか」と緑川。  「それには、場所やセッティングが大掛かりに なってしまうね」と黄島。  「そうですね。それだと予算も厳しいし、リ フォーム会社のやる相談会や展示会のほうがいいか もしれないですしね」と緑川。  「これならでは、のメリットがないとな……」と 青木。  「うIん。じやあ『お困りごと』の解決ってのは どうでしよう。『それが知りたかった’・』がわかる ような情報が得られる、とか。ベーダ版ユーザーの 意見によると、在宅ワーク用に家の環境を変えるっ ていってもいろいろあるみたいで。道路が近いので 車の音をなんとかしたいとか、セミの声がうるさく てリモート会議に邪魔、とか、照明も仕事によって さまざまだし。あと、古民家をリフォームしてみた 失敗談とか結構来てます。意外な落とし穴があると か、そういう情報をわかち合えたりするってのはど うでしよう」と春奈。  「なるほど、そういうリフォームよもやま話、裏 話が聞ける会は面白いね」と黄島。  「そういう講演をして、職人とユーザーが語り合 う懇親会もつけて」と緑川。  「なるほど」と青木。  イベントの告知は、リフォームサイトのほか、新 規事業チームの公式SNSで発信し、参加してくれ る職人やユーザーを募集することにした。  「ちょっと面白くなってきたから、社員にも積極 的に参加してもらってもいいんじやない? 『建築 業界の未来に資する』うちの会社の社員なら参加し たほうがいいっていって」と涼子。  「なんですか?『建築業界の未来に……』?」と 春奈。  「うちの社訓。知らなかった?」と涼子。  「知りませんでした’・ そんなのあったんですね」 と春奈。  「ちなみに、仲間を誘うときはビジョンがあった ほうがいいわよ。もっと魅力的なキャッチにしても いいし。『みんなでリフォーム業界を盛り上げよう』 でもなんでも。単に『手伝って』というと『なん で?』つて向こうは思うから。参加して楽しいって 思ってもらわないと」と涼子。  「なるほど。はい!・」  ある囗、広告営業部の黒田は、業界誌に、大手人 材派遣会社Aスタッフの運営する建築職人マッチン グサイトの広告が掲載されているのを見て、「ふふ ん。向こうは調子がいいようじやないか。ざまあみ ろ」と笑っていた。  「知名度にしろ、人材の扱い方にしろ、大手企業 の向こうのほうが上だ’・ 実績のない分野でうちが 勝てるわけないんだ」  黒田は顔を上げ、青木を尻目に部下たちに「そう いや、明日の土曜のゴルフコンペは誰が来るん だ?」と話しかけた。  すると部下たちは一様に、「え? 明日はちょっ と」といって顔を見合わせた。  「なんだ、クライアントとのゴルフも大事な仕事 だぞ」という黒田に、青木が「部長もどうですか。 明日、やるんです。これ」とチラシを黒田に見せた。  それは、明日開催される「リフォーム大相談会」 イベントのチラシだった。  「は? なんだこれは?」  「有志でリフォーム相談会をやるんです。気軽に リフォームしたい個人と職人が実際に会場で相談し 合えるっていうか。僕らはそれに行こうかって」  「なんだ? だいたい、こんなイベント聞いてな いぞ」と黒田。  「有志でやるので。仕事でなくて、やりたい人が 集まります」と青木。  「こんなものにおまえら参加するのか?」と黒田 はIノ瀬を見ていった。  「ええ。まあ、実はクライアントの中にもうちの マッチングサイトを気にしてる人がいて。最新事情 をキャッチしておいたほうがいいかなって」とIノ 瀬。  「遊びに行くならコンペに来い。おまえはいつも、 あと一歩の押しが足りないんだ。取引先に食い込ん で挽回するくらいの努力をしろ」と黒田。  「……」と黙り込むIノ瀬。  「おまえもだ、ニノ宮」と黒田。  「……すみません、自分は明日、都合が悪くて」 とニノ宮。  「ニノ宮、ひとりだけズルいぞ’・ おまえもイベ ント行くんだろ?」とIノ瀬。  「おまえなI」と舌打ちするニノ宮。  「なんだおまえら’・ 舐めてるのか’・ 三田村、 四ツ谷、おまえらもだ’・ わかってるな’・」と黒田。  「……自分は……といいますか、休日に、ゴルフ とかしたくありません」と一番若い四ツ谷はいった。  「おおり」とIノ瀬、ニノ宮、三田村は四ツ谷を 見た。  「一ノ瀬先輩だってニノ宮先輩だって、三田村さ んだって、青木さんだって、そんなゴルフコンペ、 今どきナンセンスだといってました’・ そんなこと より平日に頑張って仕事をとるべきだって」と四ツ 谷。  「ええり 四ツ谷’・ おまえ’・ 俺を巻き込む な’・」とIノ瀬。  「五人でやれば文化が変わるっていっだのはIノ 瀬先輩ですツ’・」と四ツ谷。  「俺じゃねえ。青木がいったんだ’・」とIノ瀬。  「いいじゃないか。あの、部長、自分もそう思い ますし、実はみんな……休日返上のゴルフは正直参 加したくないと思っています。な、三田村」とニノ 宮。  「あ。あ、はい……まあ、そうっすね」と三田村。  「おまえら’・ 腰抜けが’・ 会社で仕事してるだ けじゃできないことだってある’・ コンペでの人脈 づくりだって大事なことだぞ’・」と黒田。  こっちのイベントだって大事だぞ、と青木は思い つつ、やり過ごす。  「人脈づくりが大切だってことはわかります。で もゴルフが好きならまだしも自分は興味ないですし、 好きでもないことに休日を返上しろと強制されるの は……t尨ゝつかと」と四ツ谷はいう。  「……いゝつね」と見ているIノ瀬たちに、「……つ てIノ瀬先輩と、ニノ宮先輩と、三田村さんと青木 さんもいってました’・ 五人の意見です’・」と四ツ 谷。  「ふざけたこといってんじやない’・ そろいもそ ろってヘタレか!・」  黒田は怒って、机を激しく叩いた。  その週末、春奈たち新規事業チームと涼子は、 「カフェーカオス」を借り切って、「リフォーム大相 談会」のイベントを開いていた。  『リフォーム裏話』という著書で有名なリフォー ム専門家を招待し、講演してもらうこともあって、 現代建築社の社員も多く来ていた。  講演の後は、テストサイトの相談窓口によせられ た「リフォーム失敗あるある」を、パネルディス カッションする予定だ。  その間ずっと、リフォーム職人と参加者は自由に 歓談できる。  春奈は「在宅ワーク」、緑川は「子育て」、青木は 「古民家再生」というように特化したそれぞれの相 談ブースを担当して、全体を黄島と涼子が回してい ると、社員も自然と手伝ってくれるようになった。  「おIい。俺たち、なんかやることある?」とI ノ瀬たち広告営業部の四人が青木のもとに来たりし た。  「あ、飲み物が足りないみたいで、ちょっと裏に 確認してもらっていいですか。あとは適当に楽しん でください’・」と青木。  「はIい。なんか、『建築新聞』の記者が来てるみ たいだぜ」とIノ瀬はいう。  「え? そう?」と青木。  会場は、事前の告知を頑張ったためか、にぎわっ ていた。  事前の告知には、コンテンツづくりを以前からや りたかった春奈が、マッチングサイト宣伝用の instagraヨやTwitterなど各種SNSのアカウントを 駆使し、どんどん情報発信をしていった。  大手人材派遣会社が建築職人マッチングサイトを 始めた影響か、そうしたサイトや建築業界の人手不 足の問題などに関心をもつ業界記者も来ていた。黄 島と涼子がそれに対応していた。  子育て担当の緑川も、古民家担当の青木も自分の 関心分野のリフォーム相談を生き生きとこなしてい た。  春奈は、青木が「地方創生」に異常に熱意がある ことに驚いた。青木自身、自然豊かだが過疎化の進 む地方の出身で、地方でのリモートワークを推進し たいらしい。  「やる気なし男とかいって悪かったかな」と春奈 は反省したりした。  そしてイベントは、延べ五百人が集まり、盛況の うちに終了した。  月曜日、春奈が出社すると、涼子のもとで、黄島 や青木、緑川が集まって業界紙に目を通していた。 春奈たちのマッチングサイトとイベントのことが、 業界新聞に掲載されたのだ。  「いい感じにニュースになってますね」と緑川。  「業界紙だけじゃないぞ。一般紙の地域欄にもだ。 見て」と黄島。  「あI、やだ、これ私? もっと見栄えよく載せ てほしかったなI」と涼子がいったりと盛り上かっ ていた。  イベントの反響を受け、サイトの評判も上々だ。  「ね、ね、またやりましようよ’・ なにか」と春 奈がいっていると、そこに黒田が現れた。  「ここにいたか。まったくあんたたちは」と黒田。  「なに?」と涼子。  「新規事業のおかげで、こっちは、6システムズ の広告がダメになっていい迷惑してるんだ」と黒田。  「知らないけど。私、新規事業チームじゃないし」 と涼子。  「知らないですけど。私のせいじゃないし」と春 奈。  「まあまあ。それとこれとは、ね。みなさん、穏 やかに」と黄島。  黒田は五人を睨み、舌打ちして去っていった。  ある囗、外出から戻った涼子が、システム部に戻 ろうとすると、廊下で灰田と黒田が見合っていた。  「……なにやってんのかしら」と涼子が様子を見 ていると、  「いやI、おかげさまで。正式リリースしたうち の新規事業のサイトのことが、各新聞で報じられた りとことのほか評判で。社長が『いいぞ。よくやっ た』としつこくて、たまりませんよ」と灰田はホク ホクと笑って黒田にいった。  春奈たち新規事業チームのマッチングサイトは、 イベントの成功を受け、加速度的に評判を増し、正 式リリースヘと至ったのだった。  「それはよかったですね。おかげでこちらは6シ ステムズから広告を引き上げられて今期は大いに困 惑しているところです」と黒田は忌々しく灰田を睨 んでいた。  「おやおや。うちの事業は影響しないと社長の前 でお聞きしたように思いますが?」と灰田。  「経験豊富な専務なら、このくらいのことは見通 せていたと思いますがね」と黒田。  「ふふふ。君ね」と灰田は黒田に顔を近づける。  「わかっていたとも。余計なことをするからだよ。 だから足をすくわれるんだ。では、ご機嫌よう」と 灰田は笑って、去っていった。  「くそツ。なにも専務め’・」と黒田は吐き捨てる ようにいった。  「なにあれ?」と涼子が呆れていると、  「桃瀬さん、こんにちは、6システムズの軽部で す」と声がかかった。  「あら、どうもどうも。サーバーの件ね。こっち、 会議室で話しましよ」  軽部を会議室に案内する涼子。  「今のあれですね? 広告営業部の黒田部長です ね?」  「あI。御社からの広告取り下げられたんだって ね」  「まあ、はい、そうらしいですね」  「それって、うちの新規事業の発注がなくなった せい?」  「と思いますけどね。まあもともと縮小しようっ ていってたのを、黒田さんが、新規事業で儲けさせ るからって大見得切って一度解約を避けたんですが。 ダメになったってことで」  「だよね」  「でもそれだけじゃなくて」  「はい?」  「こちらの新規事業案件を担当していた先輩に聞 いたんですけど、黒田さん、うちの関連のPR会社 に転職しようと思っていたみたいですよ。それもダ メになって」  「なあに、それ。彼はそんなことまで企んでた の?」  と呆れる涼子と軽部は会議室に入った。  「はい、これ仕様書です」と軽部。  「ありがとうございます。最後までわざわざごめ んなさいね。転職するの今週だっけ? 引継ぎ大変 なんじやない?」  「いや、大したことないっすよ」  「でもなんでまた、自分たちで会社を興してみよ うなんて」  「なんていうか、刺激を受けたんすよね。これ、 俺の元同僚なんですけど」  軽部がスマートフォンの画像を見せる。そこには、 一歩が、小学生YouTuberの「野菜王子」と野菜農 家を訪問したことを取り上げたニュース記事があっ た。  「ふうん。社会起業家的な人?」  「まあ子どもの食育とか子ども向けの弁当屋とか やってるみたいで」  「へえ。子ども好きなんだ」  「それは知らなかったんですけどね。料理はうま かったすよ。倒産した会社に一緒に勤めてたんです けど、そのときは、『二代目ダメ社長の腰巾着』つ ていわれて、いい奴だけど、お人好しでどうってこ とないなって感じだったんですけど、なんか知らな いうちに会社も興して『子どもの食育を支える』と かってメデイアにも取り上げられて、なんかすげI なって。俺もなんかやってみようかなって」  「へえ。面白いね。いいじやない。うまくいくと いいね。また仕事で一緒にできることあったら連絡 してよ」  「はい。ぜひ」と軽部は笑った。  「僕と世界を変えるビジネスをしませんか’・」  隼人は、医療研究者の桜井に食い下がっていた。  隼人は起業のパートナーとして、世界最先端の技 術者をスカウトしようと、アメリカであるセミナー に参加していた。そこで医療研究者の桜井のプレゼ ンテーションを見て、桜井の人となりに「これ だ’・」と強烈な興味を抱いたのだった。  「一緒に医療の未来をつくりましよう’・」  隼人はセミナーを終えたばかりの桜井を早速捕ま えて、パートナーになってもらえないかと口説いた。 桜井の周りには同じ考えを抱いた人間が数人集まっ てきていたが、隼人が一番先に、桜井の前に躍り出 た。  「ちよ、ビックリした。君、声が大きいね」  と隼人より一回り年上でおっとりとした桜井は いった。  会場にいた人々が、奇妙なものでも見るように、 隼人と桜井を見ていた。  隼人は、先月、父親が病気で倒れるという(プニ ングに遭遇した。  それで、急遽囗本に帰国し、父のもとに駆けつけ た隼人は、そのときの検査ではじめて父が二十年来、 脳に病気を抱えていたことを知ったのだった。  「こんなに(イテク化か進んでる世の中で、二十 年も病気が見つからないなんてことあるり」  隼人は衝撃を受けるとともに、医療界は想像以上 にlOT/AI化か遅れていることを知ったのだっ た。隼人の父は無事、治癒の見込みとなったが、そ の出来事が、もともと「テクノロジーで社会問題を 解決したい」と思っていた隼人に火をつけた。  その隼人は、早速矢弦のもとに相談に行った。  「AIで、病気の早期発見を目指したいんです。 医療界のAI化は相当に遅れていて、ただ……」  隼人は迷っていた。調べてみたところ、医療界の 改革には、必ずしも起業でなくてもよさそうだ。政 治家や法律家になって、法律から変えていくという 手もある。  「政治家でも法律家でもええ。結局は、自己理解 や。行動してみて、やっぱりやりたいのは起業家 じゃない、自分は大きな会社で腕を振るうほうがい い、法律をつくる側に回りたい、アートで世界に訴 える、というのでもOKや」  そこで隼人は、政治家になることも構想してみた が、二転三転して、結局、起業の道を選んだ。再び 隼人は矢弦に相談しに行った。  「テクノロジーで脳疾患の超早期発見を目指す企 業を立ち上げたいんです。でも資金は五億円くらい かかりそうです。そんな事業を展開したい場合、踏 み出す第一歩ってどうしたらいいんですか。資金調 達はどうしたらいいんですか」  「ちなみに、誰とやるんや?」  「いえ、それはまだ」  「投資家が起業家に投資をするとき、アイデアも 大事やが、見ているのは『人』や。『アイデア』が あるなら、『人』を探してみたらどうや」  「そっか。そうですね」  と、隼人は仲間探しを始めた。とにかく「テクノ ロジーで世界を変える’・ 脳疾患の超早期発見を目 指す’・」という思いで、優秀なエンジニア、リサー チャー、研究者に会い、ビジョンを共にできそうな 人を探していった。  そこで出会ったのが、桜井だった。  「あなたとなら、きっとすごい未来が築ける’・」 と隼人は桜井に短いピッチで自己紹介をし、堅い握 手をした。  「お、おう。わかった、また連絡してよ。くわし く話を聞こうじやないか」と桜井。  「はい’・ 必ず」と満面の笑みの隼人。  隼人は軽やかな足取りでセミナー会場を後にした。  「よし、俺はやるぞ」と隼人は駆け出した。  隼人は街中で、一歩に背格好がよく似た、日本人 のバックハッカーを見かける。  「ビックリした。一歩かと思った」と隼人。  その隼人は、ふと思い出したようにつぶやいた。  「あいつ、そういや、彼女と会えだのかな」  一歩は、早朝から「にこにこ弁当」でソワソワし ていた。  「まあ、普通、いたずらだよな」  昨日、一歩がSNSで「ええ’・ もう誰か助けて くださIい’・ 店が潰れそうです’・」と血迷って一 瞬つぶやいてしまった後、「わかった。明日そっち へ行く」というダイレクトメッセージが来ていたの だ。  「……来ないよね?」  一歩は店内を片づけながら、それでもちょっと外 に目をやったりしていた。  だいたい、今日は日曜だし。  「そうだよ。店、休みなんだし。絶対いたずらだ。 バカだな、俺」  そのとき、店先に人の気配がした。  「誰?」  一歩は、入り口のほうを見た。  するとガラスの向こうに見覚えのある顔があった。  「え冫。!・    ええり」  一歩は駆け寄り、驚いて扉を開けると、その男が 店内に入ってきた。  「やあ。新田君。久しぶり」  それは、轟だった。  「轟社長り」  一歩の驚きに、とどろきスポーツの元社長、轟光 太郎は、片手をあげて応じた。  「ど、どうして? 今まで、なにやってたんです か? どうしてここに?」  矢継ぎ早な一歩の質問に、  「ええっと……なにから答えたらいい?」  轟こそが、一歩の昨日のつぶやきに返信した本人 だった。  「大丈夫? 君の店のことが気になってさ」  「ええ。それより僕は、轟さんのことが気になっ て’・ 倒産してからどうしてたんですか? という か、倒産したとき、なんで逃げたんですか?」  「逃げた……そういわれるとつらいな。そんなつ もりじやなかったんだけど」  「でも轟さん、会社にいなかったじやないです か!・」  「うん。僕は、徳川常務をはじめ、古参社員から 大いに嫌われてしまってね。僕だって、社員に対し て申し訳ないと思って心から詫びる機会が欲しかっ たよ。だが、徳川常務たちが、わざわざ僕の不在を 狙って、最後の社員集会を開いてね。『おまえには 詫びる資格もない』といいたかったんだろうな」  「そんな……。そうだったんですか」  「親父と一緒にあの会社を立ち上げた徳川さんた ちにとっては、僕は会社を食いつぶすだけのただの 害虫でしかなかっただろうからね」  「そんな。会社を立て直そうと頑張ってたんじや ないですか!・」  「結果が出なかったんだから仕方ないよ。徳川さ んたちはあの後、豊臣商会に移ったよ」  「ええ? あの徳川常務が? まさか」  「倒産のきっかけとなった『やまき』の販売代理 店契約をうちから豊臣商会に切り替えるように画策 したのも、実は徳川さんたちだったんだ」  「ええ? 圉策って……’・ 徳川常務たち、あん なに敵対視していた豊臣商会に……大事な『やま き』の代理店契約ごと移ったってことですか」  「だな。それだけ嫌われたってことだな、俺は。 経営者失格だよ」  「でも、社長は会社を存続させるためにいろいろ 新しいことに挑戦していたわけだし。それに、新規 事業なんてそんな簡単に結果が出るもんじやないっ ていうじやないですか」  「いや。結果というより、彼らを巻き込めなかっ たのが悪いんだな。僕は、リスクは無理してでも 買って、一発逆転しようという気でやっていた。と れないリスクも、なんとかなるとかいってさ。ビ ジョンもなく、儲かると思ってやって、結果、借金 を抱えてしまうんだ。それじゃ、さすがにみんな信 用できないよな。危なくてついていけないよ」  「はあ……。それで轟さん、今はなにを」  「そう、それだ。俺ね、今、ここの社長」  轟は名刺を差し出した。そこには、「三島製餡所 代表取締役社長 轟光太郎」とあった。  「ええ? 社長?」と一歩は驚いた。  「老舗のあんこメーカーに、後継ぎがいないので 来てくれないかと誘われてね。ある人の口利きで」 と轟。  「ええI? 僕はてっきり、社長は会社を倒産さ せた後、海に沈められたとか、首を吊ったとかいう 噂が立っていたくらいだから、さぞ大変な生活をし ているのだと……」  「今や多くの老舗企業は、後継者がいなくて困っ ているみたいでね。なにも会社を倒産させたからっ て人生が終わるわけじゃないよ。経営経験がないよ り、失敗していても経験があるほうがまだいいって、 行き先は意外にあるもんなんだ。もっとも、俺もも う、同じ失敗をするつもりはないけどね」  「それはよかったですけど。……しかしあんこ好 きの轟社長には出来すぎた再就職先ですね」  「ああ。倒産後、ある人に出会って、『ビジョン』 の大切さを教えられてね。これからは、好きなあん こを通じて、社会を豊かにしていくつもりだ」  「へえ」  「それに、その人が『リスクは許容できる範囲に 抑えるんや。いきなリホームランを狙うのでなく、 一歩踏み出し、学び、そこからさらに一歩踏み出す んや』というんだ。だから、俺は、もう同じ失敗は しない」  「……『踏み出すんや?』 その人、関西弁なんで すね」  「うん。倒産後、俺がしょぼくれていたら、その 人が『会社が潰れた? そらおめでとう’・ ピンチ はチャンスや’・ 失敗を生かすんや’・』というんだ。 起業やイノベーションの支援をしている人なんだけ どさ。まあ、その人が、この三島製餡所を紹介して くれたってわけ」  「む、む。気のせいかな。その口調とセリフ、聞 き覚えがあるような……」  一歩の脳裏に矢弦の姿がよぎる。  「新田君、僕はあんこで世界を変えるよ’・ 海外 では『甘い豆なんてありえない』なんていわれがち だけど、そんな言葉、俺がくつがえす’・ あんこは 囗本の魂’・ 最高の健康食だからね’・」  「はあ……」  一歩が、あっけにとられていると、  「と、僕の話ばっかりしてる場合じゃなかった。 問題は君のほうだ」  「あ。そうなんです。思い出してくださいまし た? つぶやきに気づいてくださってありがとうご ざいます」  「実はずっと見てたからね。君の活躍を」  「ええ’・ 声をかけてくれたらよかったのに」  「いや、僕も必死だったんだよ。うちの製餡所に 慣れるのにね。落ち着いたら君に連絡するつもり だった」  「そうだったんですね」  「で、どうなんだい?」  「ええ……と」  一歩は事情を轟に説明した。  「なるほど。そっか、弁当屋はやめてしまうのか」  「……ですね。なにか別の形で残したいとは思う んですけど。子どもが集えるカフェとか」  「子どものカフェ?」  「ええ。子どもがここで食事をとったり、勉強し たり、習い事の後に迎えにくる親との待ち合わせに 使ったり、ときどき、子ども料理教室といった食育 イベントをやったりとか。やりたいですが、でもそ れでやっていけるのかどうか」  「なるほど’・ それはいいね」  「え?」  「一緒にやらないか? 実はね。僕も新しい商品 を開発して甘味処をつくろうと思ってたんだ。でも ただの甘味処じゃつまらないと思っててね。そうか。 子どもが集うカフェ。実は僕は、七色レインボーカ ラーの七種のあんこをつくっているんだ。これを世 界に売りだしたいんだよ。でも、まずは日本から発 信しないとなって。いや、子どもはいいね。ぜひ、 食べてもらおう。合成着色料や添加物は使ってない し、コンセプトは合うと思うよ。どうだい? 一緒 にやらないか? 当面の資金繰りはわかったよ。で きる限りのことはする」  「え? ポンドですか!・」  一歩の頭に、明るい「子どもカフェ」の光景が思 い浮かんだ。  七色レインボーあんこを食べたり、勉強をしたり、 食事をとりながら一歩らスタッフとおしゃべりをし たりする子どもたち。  「超、やってみたいです’・」と一歩。  そのとき、「あれ?」と轟か入り口のほうを見た。  「?」と一歩。  「お客さんだよ。あ、彼女はたしか……」という 轟の言葉に振り返る一歩。  「え?」と思わず一歩は声をあげた。  そこにいたのは美月たった。  「ええ? どうして?」と一歩。  「……来ちやいけなかった?」と美月。  「そんなことないけど。ないけど、なんで? な んで?」と一歩。  「……昨日、見たから。お店のSNS。助けてっ てやつ」  「ええ? 見てくれたの’・」と一歩。  「たまたま、ね」と美月。  「……僕は失礼したほうがいいかな」と轟。  「いえ、轟社長ですよね? お久しぶりです。と どろきスポーツのイベントで一度お会いしました」  「うん。そうだよね。そっか君たちは、結婚……」  「してません」ときっぱりと美月が答えた。  「……はい」と一歩。  「あれえ? あ? れ? あI。もしかして倒産 のせい?」と轟。  「そ’・」と一歩はうなずきかけるが、  「いえ、いろいろとありまして」と美月。  「……」と黙り込む一歩。  「お店、大丈夫なの?」と美月。  「見てくれてたんだ。で、心配してきてくれたん だ。ウソお」と心に染みる一歩。  「……僕はひとまず退散しようかな。君らも話し たいことあるだろうし。これ、お土産。さっきいっ たうちのレインボーあんこ、食べてみて。また連絡 するから」  と轟はいって、帰っていった。  「……」と一歩と美月は黙り込んだ。  「……あ、轟さんのあんこ食べてみる?」と一歩。  「え。うん」と美月。  美月と一歩はレインボーあんこを挟んで座った。  「クアッカワラビーなんだね。お店のトレード マークは」と美月は壁のロゴを見ていった。  「そう。みんな笑顔にって思って」  「そっか」  「……美月はどうしてだの? アメリカに行くと かって」  「行ってきた」  「行ってきた?」  「仕事は、今も、シンクタンクにいるよ。シンク タンクにいながら、化学物質過敏症の人の働きやす い環境づくりをしてる。近いうち、NPO法人にす る」  「えええええ? すごいね」  「……ゝつん。で、一歩のほうは、お店はどうする の?」  「そうそう。それは」  一歩は、今、犇と話していたプランを美月に話す。  「へえ……それはよかったね」  美月はなぜか浮かない顔をしていた。  「え。うん。まあ」  一歩はまた迷い出した。こんなことを、まったり と話している場合じゃない。  なんかいわなきや。なにをいうべきなんだ?  「なに、うろたえてんの?」  「ううん。なんでもない。来てくれてうれしいし」  「今日は確かめに来たんだ。気になってたから」  「確かめる? なにを?」  「一歩のそばに自分の居場所はあるのかなって」  「居場所?」  「うん。自分で勝手に決めちゃダメかなって思っ て。ちゃんと聞こうって。でもなんか、大丈夫そう だね。これ、美味しいし、きっとうまくいくよ」と 美月はレインボーあんこを平らげていった。  「じゃ、私行くね」と美月は立ち上がった。  「待て待て待て。ちょっと待って。尋ねたなら答 えをちゃんと聞いていけよ’・ まったく勝手だ な’・」と一歩は美月の腕をつかんでいった  「……ゝつん。ごめんなさい」と美月。  「居場所ってことなら」  「うん」  「あるよ!・ めっちやあるよ!・ 空けてるよ!・ 美月のために、特等席をね’・」  と一歩は美月に面と向かっていった。  「……」と美月は一歩を見た。  「……特等席っつっても、今は大したことないけ ど。てか、今、俺はなにももってないし……」  そのとき、一歩の目にまだ残っている轟のレイン ボーあんこが目に入る。  「俺にあるのは……、轟さんと」  そのとき、スマートフォンに着信がある。  「?」と一歩は、美月と話し中なので切ろうとす るが間違って出てしまう。  オヤカタからのビデオ通話だった。  「おIい。一歩。大丈夫? 昨日、変なことつぶ やいてたな? すぐ消えてなくなったけど」  「……オヤカタ?」  「励ましてやろうと思ったけど、今日、お母さん 風邪引いてて行けない」  「いいよ、いいよ。もう大丈夫だから。なんとか なりそうだから」  「そっか。ならいいや。またね!・」  オヤカタはプツリと通話を切った。  一歩はつぶやいた。  「……俺には仲間がいる、轟さんとか、オヤカタ とか、姉や母とか幸代さんとか」  「……そうだね」と美月。  一歩は、あらためて美月に向き直った。  「それと夢がある’・ ビジョンがある’・ 俺は子 どもたちが食で笑顔でいられる居場所をつくる’・ 子どもの笑顔が伝播し、みんなの未来が明るくなる ような居場所を。で、そこには絶対美月もいる’・ 絶対にね。だから」と一歩。  「……ゝつん」という美月の手をとり、  「結婚しよう’・」と一歩はいった。   【解説】起業は行動↓学習↓改善の反復活       動       小さな失敗から大きな成功をつか       もう    行動から得た知見で修正を繰り返す  起業道とは、「行動ありき」「失敗ありき」「人を 巻き込む」、この三原則をもとに反復演習すること、 行動(試行錯誤)↓学習(仮説検証)↓改善(軌道 修正)の繰り返しです。  三原則のひとつ目は、「今あるものでとにかく やってみる」。物事を始めるにあたって、「なにが必 要なのか」という発想は抜きにして、「なにがある のか」、その時点で自分がもっているもの、知って いること、知っている人を使ってとにかくやってみ る。行動はすべてに勝ります。  このとき、「なにがしたいのか」が明確でなくて も「こうしたい」という、ちょっとした思いで始め てもかまいません。走りながら「なにをしたいの か」を問い続けていけばいいのです。  ふたつ目は、「失敗ありき」。自分にとって失敗と はなんぞや? なにをどこまでなら失っても大丈夫 か? 失敗の許容範囲、すなわちリスクを指定する ことです。  そして三つ目に、「同志を集める」こと。人を惹 きつけて賛同させること。人に上手に頼ること。こ こから新たな潮流、ムーブメントーモメンタムが生 まれます。  この三原則をもとに、行動↓学習↓改善を繰り返 す。  一巡後、己の欲望に変化があるかもしれない。こ れが本当に自分のしたかったことなのか。社会に与 えたいインパクトだったのか。やりたいことを再確 認します。一巡後、資源が増えているかもしれない。 許容できるリスクの範囲が広がったかもしれない。 もう少し投資額を増やそうか、もう一年頑張ってみ ようか。事業に賛同する同志が増えたかもしれない。 一巡後、ここからどんな人材が必要になるかも明ら かになります。  それをもってさらに行動↓学習↓改善を繰り返す。  起業活動とはこの反復演習です。コアにあるのは 「試行錯誤と仮説検証と軌道修正」による選択と淘 汰。とにかく試行錯誤してやってみる。そこからい くつか仮説を立てさらに行動することで検証する。 その結果をもって軌道を修正する。数ある選択肢の 中からうまくいかないものを排除し、うまくいくも のを残していく。そうして淘汰する、研ぎ澄ますの です。  起業道はスナップショットではありません。  常に変化し続ける持続的なものです。「ロンチプ ランを書き上げたから、はい終了! あとは成功す るのを待つのみだ」などというのは勘違いです。行 動から得た知見をもって何度も何度も修正を加えて いかなければなりません。決して終わりはないので す。  だからこそ、情熱が大切です。やりたいこと、好 きなことをすることが大事になります。これは成功 しやすそうだから、という理由で事業を選ぶべから ず。情熱をもって寝る間も惜しんで没頭できるもの はなにか、で選ぶべきです。「いてもたってもいら れない!」こそが起業家的マインドセットなのです。    マージナルーゲイン「小さな失敗から大きな    成功を導く」  千里の道も一歩から。大きなゴールほど小さく細 分化して、そのひとつひとつを改善し、それを積み 重ねれば、大きなゴールへと前進できます。  これが、マージナルーゲインというコンセプトで す。  小さいこともゴツゴツと積み重ねることで大きな 目標を果たすことにつながります。ポイントは改善 を繰り返すことです。  たとえば、あらゆる小さな失敗を故意的に繰り返 し、そこからの学びを積み重ねることで少しずつ大 きな目標を達成していく。そのつど、厳密に、綿密 に仮説検証と軌道修正を繰り返す。さらに試行錯誤 する。  やってみなければわからない。だから、やる。そ して良い知らせも悪い知らせも歓迎して、そこから 学び、軌道修正して、再び行動する。  そのプロセスの繰り返しこそが起業道の基本作業 です。  ある一手が成功するか失敗するかにばかり気をと られず、このI手でなにを学べるか? 常にフォー カスすべきなのは、その「学び」と「改善」なので す。    新しいことに挑戦していこう’・  新しいことに挑戦しよう。  みんなそう思っているのに、なぜできないので  「ねば、ならぬ」が多すぎるからでしょうか? 他人の思考に振り回されすぎているからでしょうか。 和と(Iモニーを重んじるから? 協調性の副産 物?  こうした日本の美徳がことごとく足かせとなり、 競争環境を生き抜くことを難しくしているように思 います。  失敗への寛容度をあげて、マインドシフトしてい きましょう。 BEFORE             AFTE R しょうがない(理由なき進行)  ↓ なにがい けないのか(根本)? めんどくさい(サボタージュ)  ↓ やってみ なきやわからない!・ 前例がない(組織的サボタージュ)↓ つくれば いい!・ ないからこそやるのだ 想定外は起こるべからず     ↓ サプライ ズこそグッドニュースー・  みんなと同じに前にならえでなく、ユニークであ れ、独創的であれ。  他人軸ではなく自分軸で、自分の目標に向かって 挑戦する気持ちを醸成しよう。  人の価値観を押しつけられて生きるのでなく、自 分のゲーム(人生)は自分がルールを創造しよう!     第十五章 トコトン楽しむ。  矢弦は、かつていっていた。  「未曽有の大災害が起きたとき、人は必死に元の 通りに戻ろうとする。だがそれはもったいない。予 測不能な事態が起きたのち、最ももったいないのは、 そうして元の世界に戻ることや。そこにイノベー ションはない。そうでなく、未曽有の事態のあと は、"Back toqQZmW Future"0より良い未来へ 戻る。新しい世界を創造するんや」  ある大安吉日の早朝。  一歩と美月はその日が結婚式のはずだが、三島製 餡所の工場で、慌ただしく惣菜のパッキングと出荷 作業を行っていた。三島製餡所の社員たちもいる。  そこに轟か現れ、  「あれ、一歩と美月ちゃん、なにやってんの? 君ら今日の主役だろ?」  「三ヵ所送り先が増えたんです’・ 社長も手伝っ てください’・」と美月。  「え? そうなの? 参つたな」  半月前、ある地域で大地震が起こり、目下、一歩 たちは被災地支援をしている。  避難所にもある程度食事は配布されたのだが、お にぎりやパンなどの主食に偏り、たんぱく源や野菜 がないのだとニュース報道されていた。  それを聞いた一歩や轟らは、これは「俺らでやろ う」と支援のために動き出したのだ。惣菜は、幸代 をはじめとした元「にこにこ弁当」のスタッフや三 島製餡所の有志でつくった。パッキングは三島製餡 所の機器を使わせてもらった。  「でもさ。あと俺らでやっとくからいいよ。俺も 後から行くから、とりあえず君らは支度に行きな」 と轟。  「一応、時間気にしてます。あと少し」と一歩。  そのとき、惣菜パックの箱詰めをしていた幸代か ら声がかかった。  「美月さIん。美月さんのNPOから発送する品、 これでいいか確認してもらえるかしらI?」  「あ、はIい’・ ありがとうございます’・ 今行 きます!・」  美月が慌てて、幸代のほうへと向かった。  轟かそれを見ていて、  「えらいよねえ。彼女、昨晩まで現地の自治体と 交渉してたんだって?」というと、  「ええ。『化学物質過敏症の人は、体質的に、自治 体の用意する避難所にいられないから』つて。『専 用の場所を確保しなきや生きられないんだ』つて懸 命に電話で訴えてました。自治体だけでなく、学校 とか公民館とかいろんなところに」と一歩は答えた。  「それで立派に場所が確保できたんだから、大し たもんだ。頼もしいよ」  美月は今、化学物質過敏症の人の生活支援をする ためのNPOの代表を務めている。この災害に際し ても、現地の化学物質過敏症の大たちは、その体質 のせいで、自治体の提供する環境や食べ物が利用で きないため、美月たちがその解決に向けて動いてい るのだ。具体的には、専用の避難所の確保と食事の サポートだ。食事は、一歩たちのつくる無添加の食 事が役に立つようで、それを活用することになって いる。  「いやあ、若い人たちがこうして立派に立ち上 がって助け合っているのを見ると、おじさん、なん だかグッとくる。囗本の未来は安泰だな」  「……なんすかそれ」  「……それはそうと、さすがにそろそろ行ったほ うがいいんじやないか?」と轟がいっていると、社 員のひとりが轟に声をかけてきた。  「ほら。迎えがきたようたぞ」と轟。  「迎え?」と一歩。  一歩と美月は慌てて外に出る。  「急げ。たしかに時間がない」と一歩。  三島製餡所から出てきたその一歩と美月の目前に 高級外車が停まった。  見ると運転席に隼人。  「隼人’・」  「なんで、俺のほうが先に式場に着いてんだよ。 みんなに迎えに行けっていわれるし。乗って、早 く」  「あ、うん」と乗り込む一歩と美月。  「すごいな、なんでフェラーリ?」  「借りたの。周りが金持ちばっかりで」  「ふうん。いいなあ。でも俺、エコカーとかのほ うが乗ってみたい」  「文句いうなら降ろすよ」  その数日前、現代建築社では、  「わたしたちに、できることをやろう」  と春奈たち新規事業チームは、リフォーム職人の サイトで災害ボランティアを希望する大工や職人と、 派遣先災害地とのマッチング作業を行っていた。  派遣先の情報は、あらゆる手段を駆使して入手し、 テキパキと作業を進めていた。また、その様子を涼 子が宣伝用のブログに載せ、支援の必要な人、また 支援したい人に向けて、さらなる周知を図った。涼 子は新聞・テレビ局にも自分たちの活動を知らせた。 必要な人に情報が届くようにするためだ。  社長の金原は、社長室のテレビのニュースでそれ を知った。  「このサイトはうちの会社じやないか……」と驚 いた。  流された映像には取材を受けている涼子の姿も あった。  その社長のもとに、灰田がメロンを抱えてきた。  「おお、灰田君、ちよ、ちょうどよかったサイト のことだが」  「そうなんです社長、サイトの協力会社のaテッ クから社屋移転のお知らせにメロンがついてきまし て、変な会社ですね。どうします? 一応、祝い花 でも送ってやりますか?」とへらへらと笑っている 灰田。  「メロン? なにのん気なこといってるんだ!・ サイトのことだ!・」  「へ? サイトがどうかしましたか?」  「どうかって。リフォーム職人のマッチングサイ トだよ」  「はあ……」  「なにも知らないのか? なぜ知らないんだ’・」 と怒鳴る社長。  「え、ええ?」と灰田。  「君じゃ話にならん’・ 黄島君を呼べ’・」  「お呼びでしょうか」  社長の金原が灰田と待っていると、黄島が社長室 に現れた。  縮こまっていた灰田が、待っていたとばかりに、  「君だけか? 赤井くんたちも連れてくるように といっただろう?」と小声で黄島を叱責するが、  「いいんだ。彼女たちはそれどころじゃないだろ うからね」と社長はいった。  『あの……y』用件は?」と黄島。  「君たちのこのたびの災害支援の活躍は、非常に 頼もしく感じている。よくやってくれたと、とても 感謝している。素晴らしいと思う」  「あ。……ありがとうございます」と頭を下げる 黄島。  「しかし、わからないんだ」と社長。  「……ゝ凡ゝ凡っと。なにがでしょう?」と黄島。  「君たちは、他の社員となにが違うのだろうか。 他の社員が受け身、指示待ち、無気力でいるのに、 どうして君ら……君のチームは自主的にこれはどの 行動を起こせるのだろうか。新規事業への取り組み もしかり、今度の災害支援活動においてもしかり、 だ」  「ああ、そういうことですか」と黄島は眉をかい た。  社長と灰田は黄島の答えを待つ。  「私たちは、会社人として働いているわけでなく、 社会人として働いています。会社の指示や評価を気 にする前に、自分で考え、自分で行動し、社会に貢 献したいと思っています。僕のチームは残念ながら 会社の評価基準には合わないメンバーです。とにか く行動するメンバーですから失敗もたくさんします。 批判もたくさん受けます。でも、そうした失敗や不 当な評価を恐れて世間に迎合するよりも、自分のや りたいことを実現することが大切だと、うちのメン バーは気づいたのです」  「失敗や評価を恐れないたと?」  「そうです。ある意味、私たちは会社に大きな期 待もしていないのです。会社が自分を認めてくれな ければ、認めてくれるところにいけばいい。自分の やりたいことがやれる場所に行けばいいと思ってい るところがあります」  「なんていいざまだ。君はそもそも転職気質だか らな。会社の資産を使いながら、会社への忠誠心な どないんだ」と灰田がいう。  「君は黙ってろ’・」と社長。  「……はい」と灰田。  「もちろん、私たちも自分たちのビジョンが会社 のビジョンと一致して、会社に貢献できればとも 思っています。でも自分が評価されない、活かされ ない環境ではいつまでここで活動を維持できるかわ かりません。なので、できれば私はチームに正当な 評価をお願いしたいと常々思っています。失敗の努 力を認めず、結果だけをもっていく会社に、彼らが 魅力を感じると思いますか?」  「……ゝつIむ」と社長。  「特に、今は、変化が激しく、『これだけをやって いればいい』という仕事はありません。常に変化に 対応し、試行錯誤が必要とされる時代です。会社は、 その試行錯誤をしやすい環境であってほしいと我々 は思います。そうすれば私たちも安心してチャレン ジできるのですが」  「失敗を認めろと簡単にいうが……果たしてそれ でうまく人が動くだろうか。前代未聞のことだ」と 社長。  「前代未聞? そうはおっしやいますが社長」  「うん?」  「社長は一年前、私かここに来たときと同じこと をおっしやってます。社員に覇気がない。受け身で やる気がない。そんな社員に変わってほしい。でも、 変わっていないのは社長も同じではないですか?」 と黄島。  「……なんだと?」と社長。  「黄島君’・ 失礼じやないか’・」と灰田が慌てて いう。  「前代未聞。でもやってみるしかないんじやない ですか? なぜやらないか? うまくいかないと 思ってるからですか? 失敗は恥だからですか?」 と黄島。  「……なにを」と社長。  「黄島君’・」と灰田。  「失礼しました。社員が動かない、やる気がない 理由を、社長は実はご存知なのではと思いまして」  「……」と渋い顔で黄島を見る社長。  「失敗を恐れる文化だと、行動を起こしにくくな ります。それは社長だって実感なさってるのではな いかと」と黄島。  「黄島君’・ 立場をわきまえたまえ’・」と灰田。  「失礼いたしました。ぜひ、失敗を前向きにとら えていただきたいと思っています。もし、失敗を評 価する仕組みを検討されるというのであれば、私は いくつか方法を提案させていただきます。……すみ ません、では、私はこれで」  と黄島は去っていった。  「なんでしようね。あの態度は」と灰田は社長の 機嫌をとろうするが、  「君は少し黙っててくれないかね’・」と社長に怒 鳴られてしまった。  「す、すいません……」とシユンとす  る灰田を尻目に、社長はジツとその場で考え込ん でいた。  数日後、現代建築社では、社長の肝いりで、MV Fなる賞が設置されることになった。部長会でそれ を知った黒田は、  「MVF?」と訝った。  「Most Valuable Failureというんだ。最も価値のあ る、良い失敗をした人を表彰する制度だ」と社長が いった。  そのそばに黄島と人事部の茶谷が立っていた。  「失敗? は? どういうことです?」と黒田は 黄島を睨みながらいった。  「良い失敗をするということは、それだけたくさ んの挑戦をし、失敗からよく学んでいるということ だ」と社長。  「社長? どうしたんです?」と黒田。  「これからはそういう挑戦に対して評価をするこ とにした。減点主義でなく加点主義だ。行動を起こ して学ぶことで、評価する。社員には、自分の考え で、より会社のため、社会のためになることを、創 意工夫して動ける人間になってもらいたいからな」  「……」と黙る黒田が灰田に目をやると、灰田は 気配を消して、隅で固まっていた。  「イノベーションにつながる行動の芽を摘んでは いけないと思って、わが社も考えをあらためること にした。わが社もトライ&エラーを推奨する会社に したい。そして会社に貢献する良い失敗をした社員 には、ちゃんと評価して報いたい」と社長。  「……黄島が余計な口出しをしたのか? 社長、 しかし、結果がないことには会社はうまく立ちいか ないのでは」と黒田。  「黙れ’・」と社長。  「は、はあ」と黒田。  「行動を起こす人間は失敗する。大事なのはその 後だ。どう活かすかだ」と社長。  「いや、社長だって『結果がすべて』とおっ しゃってたのでは」と黒田。  「よく考え直してみたのだ。私はこれまで『失敗 を許さない』という考えできた。だが、ここにきて、 それは果たして正しかったのだろうか、という疑念 がわいてきたのだ」と社長。  「え?」と黒田。  「失敗を罰する。それは失敗を失敗のまま、終わ らせてしまうということだった。失敗というものは、 それで終わりでなく、その後に活かすことができる のだ。そのことをこのたび、社員の働きから、私は あらためて教えられた。そして自分自身を振り返っ てもみた。思えば私とて、良い結果を出すまで試行 錯誤の苦難がさまざまにあったように思う。それに、 私のかつての仲間には、失敗を敗北として会社を 去ったものもいた。それで実のところ、彼らのほう が私より劣っていたかというと、答えは否、だ。一 時の失敗で、そうした未来の芽を摘んではならない。 そう思い直したのだ」  「はあ……」と里{田。  「そこで、ここにいる黄島君、および人事とでよ くよく検討した。たしかにこの先行き不透明な時代 に、試行錯誤なしに、いい結果を生むことは難しい。 ただ狙いを定めてひたすら努力すればうまくいって いた時代とは違うのだ。時代に合わせて会社も考え 方をあらためなければならない、とね」と社長。  「はあ」とポカンとする黒田。  そして第一回の表彰を受ける栄誉ある社員は、春 奈たち新規事業チームとシステム部の涼子だという。  「あのチームですかり でもあいつらの成果はま だ売上の数字になってないじやないですか?」と黒 田。  「今の話、聞いてなかったのかね? 評価基準は 売上数字ではない。売上でいえば、競合他社の台頭 に予断を許さず、まだ成功ともいえない。ただの失 敗に終わるかもしれない。だが、良い失敗をしたか どうか、だ。彼らは周囲の批判をものともせず、住 まいの多様性というニーズに気づいて新たなサービ スを生み出そうと、ここまで思い切って行動を起こ してきたのだ。そんな彼らを正当に評価するととも に、今後も頑張ってもらうべく期待したい。同じよ うに、今後は毎期の人事評価で、今期どういう挑戦 をし、うまくいったか、あるいはうまくいかなかっ たか、またそこからなにを学んだかをヒアリングし、 評価対象としていきたい」  「ええ……と?」と戸惑う黒田。  「これからは、慣例、前例、そんなものに縛られ ず、画期的なトライをしてくれることを望みたい ね」と社長。  「社長……’・ そうはいっても、保守本流で慣例 にしたがうしかない現場も多いです。そうしたこと に従事する社員の立場はどうなるんですり」と黒田。  「それはそれで従来通り頑張ってくれたまえ。別 にそれを評価していないというわけではない」  「え? ええ、そうですか」  「ただ、従来通り、だけでなく、一歩外した挑戦 も評価したい。たとえば今回、新規事業チームは、 我々役員が決定したシステム会社を使って、失敗を した。そしてこのままではいけないと、大胆にも 我々に反旗を翻し、システム会社を選別し直した。 実際にaテックと仕事をし、プロジェクトを良い方 向に進展させた。そして、そのaテックとの仕事で、 人を巻き込む重要性に気づいた。それがマッチング サイトのコミュニティづくりにも活かされている。 そしてあの災害時のマッチングサイトの華々しい活 躍は、会社の知名度と評価を上げた。今期のうちの 新規採用には、これまでにないほどの応募が殺到し ている。これを評価しないという理由がないから な」  「はあ……」  「今後ますます、そうした挑戦や、良い失敗が増 えることを期待する。そうだ、茶谷君、失敗の指標 化を人事グループでプロジェクト化してみないか? 黄島君も協力してほしい」  と社長はふたりに話しかけた。  「はい。ぜひやりましよう’・」と黄島と茶谷。  「くそっ……では、願わくば、新規事業の対応が 癇に障って広告取引を止めたpシステムズによる収 入減について、責任を私に負わせるのは止めていた だけませんか」と黒田は面白くなさそうにむくれた。  黒田は次の人事で、広告営業部長を外れ、肩書だ けの専任部長となることが決まっていた。  「ふむ。君ほどの人間なら、すぐに挽回してまだ まだ上に行けると思うが。これからはどんどん挑戦 しやすい文化にしていくつもりだからね。部下の成 功は上司のもの、上司の失敗は部下のもの、といわ れないようにしたい」  「……ゝつゝつ」と黒田が苛立ちを隠せずにいると、 隅にいた灰田がニヤニヤ笑っていた。  黒田がキッとその灰田を睨むと、  「灰田君、君も降格人事としたいところだよ」と 社長はいった。  「えり」と灰田は社長を見た。  「黄島君や新規事業のメンバーに聞いたよ。一体 君の活躍はどこにあったのかね」  「あの。その……部下たちを温かく、見守っ て……」  「まあ。これからの活躍に期待するよ。『なにもし ない』なんて知恵を部下たちにまき散らさないよう に注視しているからな」と社長。  声を出さず笑っている黒田と灰田の目があった。  「くそツ’・」と灰田。  昼下がりのカフェテラスに正装した子どもたちが 集まっている。  蝶ネクタイをしたオヤカタもいて、テラスの椅子 に腰かけていた矢弦が、野菜王子だというそのオヤ カタに、嫌いな野菜を聞かれて答えていた。  「らっきよが嫌い?」とオヤカタがいった。  「存在意義がわからん。でも自己主張が強い。ど ういうことやねん」  ただ食べられないだけだが。  「へええ。ちょっとついてきて、いいものつくる から」  オヤカタはカフェの店内へと矢弦を招いた。  オヤカタは手慣れたように、店の冷蔵庫から卵や ラッキョウを取り出した。  そこは一歩と美月の結婚披露パーティの場。  カフェでのカジュアルな立食パーティだ。  囗当たりがよく、店の奥まで広々と見通しのいい 空間が広がっている。店の中央がイベントスペース として広く使えるようになっていたり、小さな机や 柢い椅子があったりするのは、そのカフェが実は、 一歩と轟か子ども向けにオープンさせたコミュニ ティスペースでもあるからだ。  以前の「にこにこ弁当」から移転し、普段は、元 「にこにこ弁当」のスタッフだちと、お弁当や簡単 な軽食をつくって提供したり、テーブル席を自習や 待ち合わせ場所として開放したりしている。休日は 子ども向け料理教室やYouTubeの収録会などのイ ベントを開催している。  カフェタイムには、三島製餡所のラムネーレモ ン・さくら・チョコなどの七色レインボーあんこが 大人気で、客足が絶えない。最近は観光の外国人客 も多い。また、次なる新作をと狙う轟自ら、「実験 だ」と、ちょくちょく開発中の変わり種あんこの試 食イベントを開催するのも、人気の理由のひとつだ。  時には、子ども向けになにかを教えたい、子ども 向け商品を販売したいという人たちの実験スペース として、貸し出すこともある。子ども向けサービス で起業したい人たちが小商いできるようになってい た。  オヤカタはI生懸命になにかをつくりながら、  「なにか面白い話してよ」と矢弦にいった。  「おもろい話? せやな。ウサギとカメの話、 知ってる?」  「ウサギとカメ? のろいカメと足の速いウサギ が競争をする話?」とオヤカタ。  「せやせや」  「知ってるよ。足の速いウサギが油断してカメに 負けるんだろ? でも、現実じゃ、足の速いウサギ はそんなにバカじゃないよね? カメはどうやっ たってウサギに勝てなくない?」とオヤカタ。  「カメがウサギに勝てたんは、なにもウサギが余 裕かましてたせいとちやうで」  「え? 違うの?」  「ウサギとカメではビジョンが違うんや」  矢弦は説明する。  「ウサギはなぜカメに負けたのか。そしてカメは なぜウサギに勝てたのか。スタート地点に立ったウ サギとカメ。ウサギに引き離される中、カメはなぜ あきらめず歩み続けたのか? なんでやと思う?」  「うIん。え? なんでなんで?」とオヤカタ。  「ビジョンが違うんや」  「ビジョン? ビジョンつてなに?」  「ウサギが見てたんは、カメや。のろいカメの姿。 ウサギの関心はコンペディジョン、競争にしか興味 がなかった。だから『絶対負けへん’・』とか思うけ ど、カメより早く行くとか遅く行くとか、結局はす べて、カメ次第やねん」  「ふうん」  「一方、カメは違う。カメが見てるのはゴール、 自分の行き先だけや。実はウサギに競争を仕掛けた んはカメのほうや。カメは自らのビジョンに向かっ て挑んでいた。カメはウサギと競争したほうが、自 分は早く目的地に着ける、そう思ったから、ウサギ に競争をけしかけてん。カメにとってウサギに負け ることとか、そんなことは関係あれへん。ウサギと の競争に負けたって、かめへんねん。自分の目標、 望ましい未来像に到達できれば、カメはそれでええ ねん」  「カメつて意外に考えてるんだね」  「せや。それに、そんな競争のことしか考えてな いウサギと、目標に向かってひたすら挑んでいるカ メやったら、人はどっちを応援すると思う? そら、 勝ち負けにこだわるウサギより、人は目標に向けて 頑張ってるカメの方を応援してしまうねん。だから な。誰かに勝つとか負けるとか考える前に、ビジョ ンをもったもん勝ちや。競争とか、周りを気にせず、 自分の好きなことをやる。そのビジョン、こうある べき姿、というものに対して自分の価値観をピッタ リ一致させた人こそ、真の威力を発揮するんや。成 功者になったり、みんなに応援してもらえたり、コ ミュニテイをつくれたりするんや」  「へええ」  「現状を嘆いているばかりじゃなく解決に向けて 動き出す」  「解決に向けてって、なにをすればいいの?」  「それは自分で探す」  「ええI?」  「生きることにも、起業にも、ビジネスにも正解 はない。人から教わったり、論理的に正しいと推論 できることでもない。でもそう難しいことでもない。 自分が夢中になれる、好きになることを見つけるだ け。そして、そこに課題を見つけ出して、解いてい くことや」  「課題ってなに?」とオヤカタ。  「『もっとこうしたらいいのに』とあんたが好きに 解決したい問題のことや。今の世の中、めっちや便 利やろ? まるで魔法の国や。あっという間に移動 できたり、簡単にモノが買えたり。そんな便利な世 界で、なにかする、学ぶ、ということを意識的にす る人がほんまに少ない。なぜ? どうして? 当た り前のことを受け身じゃなくて、なぜつくられたん か、どうやってつくられたんか、どうしてできない んか、疑問をもつことを忘れたらあかん」  「ふIん。ちなみに、好きなことならやってる よ?」とオヤカタ。  「そら頼もしいな! ええことや。これから生き るのに大事なんは、自分がなにをしたいか、自分の ことをよく知ることや。なにをしたいか、その欲望 がすべてのスタート。そして好奇心をもつこと。そ こにある問題を解決して未来を創っていくんは自分。 あとは行動あるのみ。そして内省、つまり、自分自 身をみつめ直すこと。行動と内省を繰り返すことで 自分の価値観とビジョンの解像度を高めていく。 Act「 」earn「 Build and Repeat.そしてトコトン楽し む!・」  「アクト、ラーン、ビルドウ、アンド、リピート、 そしてトコトン楽しむ!」とオヤカタは矢弦を真似 ていった。  そのとき、矢弦の後ろから声がした。  「お話中、恐縮ですが」  そこに白いタキシード姿の一歩がいた。  「おう。一歩」  「すみません。ちょっと珍しい組み合わせで、声 をかけずにはいられませんでした」  「君らの登場をみんなで、ず1つと待ってたんや」  「できたよ。野菜王子特製クルクルマヨネーズ」  オヤカタはそういって、矢弦に差し出した。  「これでどんなまずい野菜やフライもすっごく美 味しくなる。オヤカタスペシャル。ちょっとこのフ ライにつけて食べてみて」  と矢弦を促すオヤカタ。  「……ゝつん。普通にうまい」  「ヘヘん。そのタルタルマヨにらっきよがたくさ ん人つてるよ」  「え? そうなん。マジで? ■■■■■■食えるな」  「でしよ」  「……なんかいつの間にか親しくなつてますね」  一歩が矢弦と話していると、ウェディングケーキ が運ばれてきた。  「うわあ、素敵’・」と周囲から歓声があがっだ。  「あ、いけない」とオヤカタはケーキに向かって 走り出した。  その幸代の運んでくれた華やかなケーキは、オヤ カタと幸代がつくった特製の巨大レモンケーキだ。  オヤカタは慌てて幸代の手伝いにいき、  「僕がパティシエです」とケーキのそばに立って 宣伝していた。  「面白い子やな」  「ええ。料理とイラストが好きで、今、あんこを 世界に普及させるために『レインボーあんこマ ン』つてマンガを描いてもらっていて」  「へえ。面白いチームやな」  一歩が、会場の中央に来ると、隼人と轟か話して いた。  「こっちも、珍しい組み合わせ’・」と一歩。  轟は隼人のたたずまいを見て、  「君、いいスーツを着てるね? それに、なにか 見たことある人だ」といっていた。  「おととい見せた新聞に載ってた人です」と一歩 がフォローする。  隼人は、脳科学とAIで認知症をはじめとする脳 疾患の早期発見のためのグラウトサービスを提供す る企業を立ち上げ、先日、ライフサイエンス企業へ の投資を行っているベンチャーキャピタルから五億 円の融資を受けることに成功したのだ。  「すごいね。よかったね」と一歩がいうと、  「いや、俺もピッタリだ。ピッチで五分もしない うちに『わかりました。やりましよう』ていうんだ もん」  そして、隼人は、そのベンチャーキャピタルの医 療系ネットワークも駆使して、都内の病院でグラウ トサービスの運用を始めるらしい。  そのとき、会場の奥から声がした。  「花嫁、登場〜’・」と春奈の声が響き渡る。  一歩たちが振り返る。  ウェディングドレスの美月が、春奈に先導されて 現れた。  白いドレスの美月が周りをいっそう華やがせる。  「あら、やっぱりきれいねI’・」  一歩の母や姉たちもいて、大人や子どもが入り混 じった会場は拍手でにぎわう。  「あれI? 新郎どこ行ったI?」と司会の春奈。  「やばい、ここここ’・ すいません’・」  慌てて一歩は新婦のもとに駆けつける。  一歩は美月の手をとり、新郎新婦に用意された席 へと向かった。  「あれ、ちょっと緊張してきた」と一歩。  一歩は、会場に集まってくれた仲間たちの笑顔を 見まわす。  あらためて思う。奇妙なめぐりあわせだな、と。  ついI、二年前まで、自分がこういうふうに、や りたいことを仕事にしたり、実社会に自らなにかを 働きかけることができるなんて思いもしなかった。  「未来を自分で創る」なんてこと、考えもしな かった。  それができたのは、思い切って小さな一歩を踏み 出したことと、ここにいる仲間と出会えたおかげた。  やろうと思えばいろんなことが実現できるのだ。  「一歩、もう少し顔を上げたら? なにか考え事 してる?」と隣の美月がいった。  「あ。ごめんごめん」と一歩は姿勢を正した。  最後に、忘れないように起業道を通して得られた 信条を、記録しておこうと思う。そして、これから も繰り返し、読み返してみようと思う。  それは、起業だけでなく、会社の仕事や、日常生 活や部活やいろんな場面で役立ってくれるものだか ら’・ もしかすると、これからの結婚生活でも’・  ぜひ自分の仲間たちにも広げていきたい。わかち 合える幸せに感謝して!  [信条五ヵ条] 1 」isten to others「 and try new things!  他人の言葉にちやんと耳を傾けよう。あなたを 思っていってくれている。愛がある。客観的に自己 理解ができるチャンス。新しい自分になれると意識 して、新しいことをやってみよう。 2 Zoshort cut. Don't go easy「 or give up easily!  起業の世界、夢をかなえること、志を果たすこと に近道などないのだ。そこでは瞬発力だけでなく持 久力が必要になる。なにをどれだけ知っているかと いう知識の量より、やり抜く力が必要になる。忍耐 力が試される。簡単なほうばかりに向かっていては、 みんなと同じ、いつもと同じ、なにも変わらない。 あえて困難な道を選ぶのもアリだ。より学ぶ機会が 増えるし、達成感も増してくる。何事にも代えがた いたくさんの経験を積めるし、自信も高まる。簡単 にあきらめるな! 3 zoexpectati〇n「 do it for you!  周りに、期待しないこと。仕事も人間関係もしか り。相手に期待すると不満が出る。こうして欲しい、 こうなってほしい、こう変わってほしい、認めてほ しい、相手に望むからこそいざこざが生じる。よか れと思ってしたことが余計なことに巻き込まれてし まう。だからこそ、なにも期待しない。やることを やるだけだ。 4 Secure mentors「 don't hesitate to ask for help!  困ったときに相談できる助言者、メンターをもと う。迷い、行き詰まったときに自分の弱さを見せる 相手がいることで、安心して学び、成長することが できる。誰にも相談しないほどバカなことはない。 弱さは裏返せば強さになるのだ。 5 mコjoy doing it「 and make it fun!  楽しくやる’・  楽しくやることも能力のひとつ。  人を巻き込んで大きなことをするなら、楽しさを 伝染させること’・  そして、未来への第一歩を踏み出そう’・    おわりに    roro{rx冖爿g{肓al新たな未来    を創造する  未曽有の出来事(百年に一度のパンデミツクな ど)、不確実性の高い状態、予測不能な事態に陥っ た後、最ももったいないのは、元の世界に戻ること です。  そこにイノベーションはありません。  大切なのは「Back to the NEW Future(バックー トウーザ・ニュー・フューチャー)」。  より良い未来に戻ること、新しい未来に戻ること、 すなわち新しい世界を創造することです。  そのためには、常に未来に生きる、どういう世界 に生きたいかという想像力を高めることと、何事も 挑戦してみることです。  誰かが助けてくれるだろうと受け身になるのでは なく、自らが解決策を見出すんだというマインド セットを醸成してほしいです。  未来を創るのは他の誰でもない、あなたです。    楽しめば、白分か変わり、周りが変わり、社    会が変わり、世界が変わる  起業道の本質とは、常に学び、そして変化し続け ること。  その出発点は己を知ること。やりたいことがわ かったら、行動を起こし、試行錯誤すること。仮説 検証し、ときには失敗しつつ、より多くを学ぶこと。 失敗を克服し、軌道修正し、改善し続けること。そ の繰り返し。そして、その過程をトコトン楽しむこ  経営学の学術論文を書く際に、その骨となるのが、 セオリー(学説)です。  学説から仮説を導き、データを用いてその仮説を 検証する、それが典型的な学術論文です。起業学や 経営学の分野で起こっている現象を科学的に解析・ 証明する。その数ある学説の中で、最も好きなもの があります。  それが、フアンーセオリー(tun theory)です。  「楽しさがつまった商品・サービスは売れる’・」、 あるいは、「楽しいと思ってやっていることはやが て周りの人に好影響を与え、やがて世界を変え る!・」というものです。  楽しいことをするということは、好きなこと・ワ クワクすることをやるということ。  子どもの頃を思い出してほしい。好きだから、い つまで経っても続けられる。子どものように、やり たいことに没頭し、遊び続ける。当たり前のように、 誰かに止められない限りやり続ける。  そこで起こる学びは無意識的。学ぼうという意識 なんてものはありません。好きこそものの上手なれ。 純真であった頃に戻って、自分のやりたかったこと を思い出してほしい。人が、「楽しい’・」「好き だ’・」と感じながらやっている想いは伝染します。  どんなに退屈な作業でも、楽しくなるように工夫 することで効率が上がります。どんなに退屈な仕事 でも、楽しくできる人は素晴らしい能力の持ち主で す。  忙しさに関しても同じことがいえます。忙しさを むしろ楽しめるようになるとよい。忙しい、忙しい と、なにかと不平不満を口に出す人がいます。でも 好きなことをやっている人にしてみれば、うれしい 悲鳴です。忙しいことは良いことです。忙しいのは 実はポジティブなのです。好きなことをやっていれ ば、当然のこと。このようなポジティブ思考を成長 型マインドセットといいます。    もう一度、問う「無我夢中になることは?」  好きなことはどれほどやっても退屈しない、楽し いからです。そして前述した通り楽しさは伝染する。 伝染した楽しさは感動となって、人々の思考・行動 に影響する。世界を変える。  好きなことはなんですか? たとえ無給でも、寝 ずにもできることはなにか? あなたはなにに情熱 をもっていますか? 考えてみてほしい。  思い当たるものがない? 今なくても構わない。 好奇心をもって探してほしい。  情熱をもてるものを探すということは難しい、と 一見思われがちだか、実は簡単だったりします。幼 少、子どもの頃、無垢な頃を思い出して。物事の良 し悪し、損得、出来るか出来ないかがわからなくて も、大好きでしていたことがあるはず。思い出し て!・  What do you really「 really「 really want to do?  あなたが本当に、真剣に、心の底から、やりた  いことはなにか。  再び原点に戻ります。  己を知ることから始まり、己を知ることに戻る。  起業道同様、本書もこれで終わりでなく、繰り返 し読むことで新たな価値を見出してもらえればと願 います。  本書で、「カフェーカオス」という起業コミュニ ティがたびたび登場します。  これのモデルとなったのが、Venture Cafe Tokyo(ベンチャーカフェ東京)というイノベー ションを支援するコミュニティです。  Venture Cafeとは、世界最大級のイノベーション 剔出機構であるcIc(ロヨbridge Innovation Center ケンブリッジイノベーションセンター、起業家ゴヨ 智万〈ティムーロウ〉が設立)の姉妹組織、NP oパートナーとして二〇〇九年ボストンに設立され ました。以来、世界十都市に展開されています。 Venture Cafe Tokyo(ベンチャーカフェ東京) (https: //venturecafetoky o. org/)はその拡大するグ ローバルネットワークの中で、アジア初の拠点とし て二〇一八年三月にロンチしました。  東京は虎ノ門に本拠地を置き、起業家や起業家を 志す者、投資家、研究者、学生など、多様な人たち が集い、これまでにない価値観を社会に対して生み 出すことを目的としたコミュニティを運営していま す。毎週木曜日に開催されるフラグシップープログ ラムThursday Gathering(サースデー・ギヤザリン グ)を中心に、国内では名古屋やつくばでの Connectプログラム等、それぞれの地域でイノベー ションを加速させるさまざまなプログラムを提供し ています。  」earn「 Connect「 Share(学び、つながり、共有する こと)をモットーとして、誰もが無料で気軽に参加 できる交流イベントを定期的に(毎週)行うことで、 参加者同士の交流を促し、より多くの人たちが、学 びや刺激、あるいは出会いを得て、良きイノベー ションの輪を広げていくことを願っています。  」et's change the world together! ともに世界を変えましよう!・  参考文献  《第二章》 東京都創業NETインタビュー「第五回株式会社タスカ  ジ 和田幸子氏一方決めされていない」(https/  ww.tokyo-sogyo-neご覧intervie w/1712_01 .html)  《第三章》 Joseph 」uft and Harry Inghaヨ气The Johari Window「 A Graphic  Model of Interpersonal Awareness." Proceedings of the