てん ぷう   天風小伝−まえがきに代えて                      財団法人天風会会長医学博士杉山彦一  人は、自分の体験と学問の範囲でものをいう。範囲を超えたことに遭遇すると人は、うそ (否定)、ほんと?(疑惑)、信じられない(不信)と、拒絶的態度に出る。  中村天風という人物は、われわれの日常的な体験や学校で教える学問の領域を、はるかに超 えている。  中村天風と遭遇した時、あなたは、どんな態度に出るか。拒否か、それとも信服か、私は関 心をもつ。  一人の人物やその思想を理解しようとするならば、まずその人の性格、その生きてきた環 境、そしてそこでの、その人の反応態度を見つめてゆかなければならない。  性格というと、まず両親に触れなければなるまい。  父、中村祐興は、九州、旧柳川藩士、性は剛毅。若くして長崎に遊学、新しい学問を身につ け、新聞やカメラにも興味を示すなど、新文明に進んで接触し、とりこんだ人物である。  維新後は、明治政府に仕官し、紙幣に使う紙の研究と開発に尽した。  従来和紙の主要原料として使われていた三穣や楮に、絹の襤褸切れを交えて、強靭な紙幣用 紙を開発した。「中村紙卜名付ク」と記録にある。  その方面の第一人者であった祐興は、大蔵省、紙幣寮の抄紙局長となった。  母、長子は、江戸は神田、小川町の生れ、性は気丈、顔立ちも言葉も、態度も、さわやかな 女性であったという。  当時、紙幣用紙の製紙工場は王子にあった。江戸の頃から桜の名所であった飛鳥山に続く王 子のあたりを、音無川は勢いよく流れていた。祐興は、工場長を兼ねていた。  工場の官舎で、明治九年、三番目の男子が出生した。三郎と名づけられた。  中村も、三郎も、日本のどこにでもみられるありふれた姓であり、名である。だが、その生 涯は、誰の追随も許さない苛酷、波乱の半生となり、後年は、中村天風という迫力ある指導者 として、世の人々の敬慕してやまない大人物になるという特異な人生を生きることになるので ある。  三郎の性格は、父、祐興の九州男子の剛毅さと、母、長子の江戸女の気丈さとが結合して、 激しい負けず嫌いという性格を形成した。  「くそ一番、負けるものか」という激しい気性は、三郎が生涯で遭遇する幾多の生命の極限状 態を、つきぬけさせるのである。  「徹底的に、とことんまでつきつめる」という三郎のもう一つの性格は、生命に対する哲学 的、科学的な徹底的研究に三郎をかり立て、ついには、整々たる体系をもつ心身統一法を創見 するという偉業を成しとげさせてしまうのである。  また「優位に立たねば気がすまぬ」という気性は、それだけの創意と工夫と努力を三郎に強 制し、ついに剣も書も画も、事実上優位に立たせてしまうのである。  負けん気も、徹底性も、実は三郎の生命力の激しいほとばしりであったのである。  生命力の激しいほとばしりは、俊敏な身のこなしと、素早い頭脳の回転となって表現され た。  身体と頭脳の俊敏性は、年少の三郎には、まず激しい悪戯として噴出した。  三郎が喧嘩をすると、相手の指をへし折るか、耳をひきちぎる程の徹底ぶりであった。  両親の手に負えぬ程の悪戯を重ねた三郎は小学校を耻えるとすぐ、福岡にある父の知人の家 に預けられ、中学は修猷館に通学した。そこでも、三郎の粗暴な行動は続いた。  中学三年の時、柔道試合の遺恨から、出刃包丁をもった中学生ともみ合ううちに、出刃包丁 は相手の腹に突き刺さった。中学生は死亡した。取調べの結果、三郎は正当防衛で釈放された が、修猷館は退学となった。  ここで三郎は、福岡の壮士の集団である玄洋社に預けられるのである。  荒くれ男のぶつかりあう玄洋社の気風は、激しい気性の三郎には、程よい環境であった。  三郎はここで、巨大な人物、頭山満に出会うのである。人生は、誰とめぐりあうかによっ て、決まるといってよい。  誰のいうこともきかぬ激しい気性の三郎が心から心服し、尊敬した人物が、頭山満であっ た。三郎は終生、頭山満を師と仰いだ。  ある日のこと、河野金吉という陸軍中佐が玄洋社を訪れてきた。  「日本と清国(中国)との間に、戦が起る気配がある。今のうちに遼東半島の視察旅行(実は スパイ)をしたい。鞄持ちが一人欲しい。命知らずの若い者は居ないか」という。即座に、 武術ができて、俊敏な三郎が選ばれた。三郎十七歳の頃である。  河野中佐につれられて三郎は、遼東半島の錦州城、九連城の探索に当った。知らん顔をし て、人眼を盗み、城の地形や兵の配備を探ることに、快感をおぼえた三郎の血は湧き、心は勇 み立った。  日清戦争では、事実このあたりが、主戦場となった。  これから約十年程して、日本とロシヤとの国交は急に緊迫してきた。  参謀本部は秘密裡に、軍事探偵を募集した。かつて河野中佐から、軍事探偵の手ほどきをう けた三郎は、その時の快感が忘れられず応募した。いの一番で採用された。  探偵としての訓練をうけた三郎は、明治三十六年には、(ルビン方面を担当する、スパイ活 動に入った。  旧満洲(現・中国東北部)生れ、旧満洲育ちの、満洲人さながらの風貌の橋爪という探偵と コンビを組んだ。  鉄橋を爆破し、夜間行軍する砲兵部隊に斬り込み、司令部に秘密文書を盗みに入るなど中村 探偵の豪胆と俊敏さは、スパイ活動の中で存分に発揮された。  だがついに、黒竜江軍の竜騎兵に捕えられ、死刑の宣告をうけ、銃火一発、銃殺の瞬間、橋 爪の投げた手榴弾の爆発により、助かるのである。  中村探偵のすさまじい程の活躍は、三郎の実弟、浦路耕之助(筆名)が「ある特務機関の 話」(博文館発行)として書いた。これを劇作家竹田敏彦が脚色し、「満洲秘聞」と題して、昭 和七年五月、新国劇一座により、京都南座で上演され、続いて秋、東京及び大阪でも上演され た。  ちなみに中村探偵を、島田正吾が演じている。これを見た頭山満は「天風、お前の方がよか 男じゃ、舞台に出て、やれ」といったという。  中村探偵の旧満洲での生活は、苛酷なものであった。腐った畿を口にし、ぼうふらのわいた 水を飲んだという。  日露戦争は、勝利のうちに幕を閉じたが、三郎は、しきりに咳をするようになり、ついに血 を盻いた。無双性結核と診断された。症状が派手で、馬が疾走するように速く病状が進行し、 死に至るという、悪性の肺結核であった。後にいう急性の粟粒結核である。  当時の肺結核は、死病ともいわれ、的確な治療薬はなかった。  名医といわれた北里袈裟三郎先生の指導をうけたが病状は好転しなかった。  宗教に救いを求めるかということで、父の伺fで、キリスト教の名のある牧師が訪れてきた が、ただ「祈れ」というだけであった。続いて著名な禅の指導者が、ツカツカと病室へ大って きて、いきなり「肺病やみの若い者は、お前か。馬鹿めH‥」と罵倒して帰って行った。  世問で著名といわれる人の指導には、理論もなければ、方法もなく、愛情のこもった説明も なかった。三郎は、腹が立った。  後に三郎が天風となり、理論も方法も整然とした心身統一法を創見し、その大説法者とな り、温かく、多くの人々を救ったのは、この時の、病む者の苦悩の体験があったからにちがい ない。  大は病いとなれば故郷に帰るのに、三郎は、救いの道を求めて、アメリカに渡るのである。  病床で読み感動した本の著者を、アメリカに訪ねたが、的確な返事は得られなかった。  フィラデルフィアでうけた人間改造の講習会は、心理学と神経の初歩的知識が語られるだけ で、期待した成果は得られなかった。  老哲学者カーリントンは「若くして人生を求めることは尊い」と、三郎を賣めるだけで何も 教えてくれなかった。  一つだけよかったことは、香港の華僑の息子の身代りに、コロンビア大学に通い、医学を学 ぶことができたことであった。  三郎の生れた王子の工場に、イギリス人の技師がいた。三郎は、技師に可愛がられているう ちに、英語をおぼえた。三郎にとって英語は、彼方の言葉ではなかった。  中国語は、軍事探偵として身につけた。英語と中国語がここで役立つのである。  医学を学んだが、三郎の結核は治らなかった。だが華僑から、身代り受講に、多額の謝礼を もらったことは、三郎の希望を続けさせた。  憧れてきたアメリカ大陸は、三郎を救ってくれなかった。三郎はアメリカを後にした。  秋の大西洋は荒れた。乗客は、ひどい船酔いに悩まされた。船の食堂に食事をとりに来たの は、三郎とイギリスの退役の海軍大佐の二人だけであった。大佐は三郎に近づいて来て「自分 は世界の海を乗り廻した海軍大佐である。どんな時化でも酔うことはない。あなたは、丈夫そ うにも見えないが、船に酔わぬ秘訣は」ときいた。「秘訣なんかありやしませんよ。脈は速く なるし、血は喀きそうになる。今にも死ぬかと思うと、とても酔ってるひまはありませんよ」 と三郎はいった。  荒れた航海で、衰弱し、フラフラになった三郎は、やっとロンドンにたどりついた。  しばし休養した三郎は、「神経療法」のセミナーに参加した。勿体ぶった先生が、心理学と 神経学を話すだけで、三郎に新知見を加えるものは一つもなかった。  ただ一つの魅力は、最後の講義で「病いを治す秘訣を教える」ということであった。  いよいよ最後の講義になった。彼の先生は威厳を正して「これから病いを治す秘訣を教え る」といった。  三郎は、これさえ掴めばよいと、息をつめて聞き耳を立てた。  彼の先生は、声を大にして「忘れよ、これのみ。病いを忘れよ。これが秘訣だ」と叫んだ。 三郎はすぐさま控室にその先生を訪ねていった。  「病を忘れたいのはやまやまです。忘れたくても、忘れられないで困っています。忘れる方法 を教えてください」 「そんなことをいっていたら、いつまでたっても忘れられない」 「忘れる方法を教えてくれなければ、忘れられない」  押し問答をくりかえしていたが、らちはあかなかった。三郎は腹立たしさに、ドアを蹴立て て去った。  「:::::OS’OXSは易し。されどHow to doがなければ人は救えない」。高い講習料を払って三 郎が得たものは、これであった。  失意の三郎を訪ねてきた友人が「お前の求めているものは、心理、精神、命だろ。それなら フランスへ行けよ。フランスは心理の国、芸術の国。洒落た学問があるよ」とすすめてくれ、 紹介状まで書いてくれた。  宛名を見ると、マドモアゼルーサラーペルナールと書いてある。  「俺、オペラを習いに来たんじゃないよ」  「芸術の国フランスには、幅広い芸術家がいる。この人は、唯のオペラ女優ではない。哲学を もっている人だ。教えられることが多いよ。訪ねて行けよ」とすすめてくれた。  パリの邸に、三郎はサラーペルナールを訪ねた。相当な年齢だと聞いていたが、サラ・ベル ナールは、二十七か八にしか見えなかった。  「お若いですな」と三郎がいうと、「女優には年齢はありません」と、サラーペルナールはに っこり、ほほえんだ。  三郎は、この人の美しさと、粋な喋り方に魅せられてしまった。  三郎は、サラの邸にしばらく厄介になることになった。サラの邸には、オペラ女優が花の上 うに集い、笑いさざめいていた。  それまで笑いを、さげすんでいた三郎だが彼女達の笑いを、こよなく美しいものと思った。 それから「笑いのある人生」を願う三郎になった。  ある日のこと、サラは「カントの自叙伝」を三郎にすすめた。読み進むうちに三郎の表情け 変ってきた。  カントは、胸に奇型的な痼疾をもっていたという。時に訪れてくる巡回医師は、少年カント に向って「この病いは一生治らないだろう。だがあなたの心は病んではいない。これからは、 辛い、苦しいといわずに、自分のやりたいことをやりなさい」とさとした。  それから少年カントは哲学を志し、大カントといわれる程の哲学者になったという。  三郎の眼はうるんだ。自分は朝から夜まで病いを苦しみ、恨み続けていた。自分の生き方の 誤りを三郎は痛烈に感じた。  後に三郎が天風となり、心身統一法を開く時、この体験は、「たとえ身に病いがあっても心 まで病ますまい」という鮮烈な叫びとなって表現されるのである。  サラの邸での三郎の生活は、何一つ不自由はなかった。  だが、三郎のもっている年来のこだわりは何一つ解決されてはいなかった。  さし当り、胸を病むことの苦しさから、解放されたい。  病いになってから、三郎の命への関心は高まった。  人間は、どこから来て、どこに去ってゆくのか。  人間はこの地球上に、何をするために生まれてきたのか。  命とは一体何か。心とは何か。身の役割は。そして心と身の関係は。  三郎の心の中で、いくつかのテーマが交錯していた。  サラの紹介で三郎は、ドイツの著名な哲学者ドリーシュに会うことになった。ドリーシュ は、動物学者であり、哲学者であった。生命の知見の深さは、当時第一といわれていた。三郎 にとってドリーシュは最後の望みであった。ドリーシュの前で三郎は、 「自分は、日露戦争の時、軍事探偵として満蒙の曠野で活躍した快男児であった。それが、ひ とたび結核菌に冒されると、身はおろか心まで弱くなってしまいました。心と身とは、如何な る関係にありましょうか。心を強くするには、どうしたらよろしいのでしょうか」と、英語と 独語とを交えてやっと、吐き出すように述べた。  眼をつぶって聴いていたドリーシュは、やがて眼を開いて、つぶやくように、  「それは人類千古の謎じゃ。西洋では私がこの問題に気づいて研究している。東洋ではそなた が関心をもって探究している。どちらが先に解決法を発見しても、世界人類の幸福になる。お 互いに、しっかりやりましょう」といって応接室を出ていった。  この扉を開けたら、百花繚乱たる花園があると思ってとぴこんだら、千尋の谷底であった。 三郎の最後の望みは音を立てて崩れた。  失意のどん底に落ちた時、心をよぎるものは、母の顔であった。三郎は、無性に毋に会いた かった。日本に帰ろう。三郎はやみくもに日本に帰りたかった。  サラーペルナールの引き止めるのをふり切って、三郎は、マルセーユの港を後にした。  客船が出るのが待てずに三郎は、貨物船に乗った。一刻も早く日本に帰りたかったのであ る。欧州大陸にも、三郎の求めるものは、ついに発見できなかったのである。  インド洋のあたりで、血を喀いて死ぬかも知れない船旅であった。  「だが天、我を見捨て給わず。天は不思議な脚本を擶くものである」と、このあたりに話が及 ぶと、天風はいつも、眼を潤ませた。 「イタリアの砲艦がスエズ運河で故障して動けず。荷船はアレクサンドリアの港で数日間待機  せよ」との知らせにより、荷船は、ナイルの河口の港、アレクサンドリアに入港した。   三郎の乗った貨物船に、フィリッピン人の缶焚き人夫がいた。「この船で、束洋人は俺とお  前だけだ」と、航海中にも三郎に食事を運んできてくれた。   かのフィリッピン大が「港で、たぶりたぶりと船にゆられていても仕方がない。ピラミッド  見物でもしよう」と誘ってくれた。   「閣魔様へのみやげ話にでもするか」と三郎は承知した。   カイロに着いた翌日、ピラミッド見物に行こうとした朝、三郎は大喀血をした。船旅の無理  が重なってのことであろう。三郎はめまいがひどく立つこともできなかった。   三郎は、ベッドで死んだように、横たわっていた。   三時を過ぎた頃、ホテルのボーイが「何か食べなければ」と親切に誘ってくれた。   三郎は、ふらつく体をひきずるようにして食堂に足を運んだ。注文したスープもサラダも砂 ・ を噛むように味気なかった。   苦虫をかみつぶしたような顔の三郎の眼に、テーブル五つ、六つ隔てた向うに、年のころ、  六十がらみの、色の浅黒い人物が居るのが映った。後ろに立った従者が、大きな羽根の団扇で  風を送っている。   「どこかの酋長かな」と三郎は、その人物を見た。するとその人物も三郎を見て、にっこり笑 つた。笑える状況ではなかったが、思わず三郎も、ひきこまれるように笑った。  すぐさま「こちらにおいで」とその大は、ロンドン訛りでいった。「承知致しました」と、 鉄片が磁石に引きよせられるように、三郎はその人の前に立った。  その大は、じっと三郎を見つめていた。「お前は右の胸に、大きな疾患がある。お前は祖国 へ墓穴を掘りに行こうとしている。お前は死ぬ必要はない。お前は助かる。わたしについて来 なさい」。その大は厳かにいった。思わず三郎は「承知致しました」といってしまった。  フィリッピン大は「あの男は奴隷買いだ。売りとばされるぞ」と、三郎のついて行くのを泣 いて止めた。  「あの大は奴隷買いではない。見ず知らずの、肺病やみのこの俺に向って、にっこり笑いかけ てくれた。たとえお世辞でも、助かるといってくれた。俺はあの大が好きだ。どうせインド洋 あたりで死ぬ命だ。好きなことをやらせてくれ」と、三郎の決意は変らなかった。  翌朝、いわれた通りにホテルの裏に行って見ると、ナイルの河に、三本マストの白い船が浮 んでいた。三郎は勇んで舷側の階段を上って行った。そこにその大は立っていた。そしていっ た。「お前は救われた」と。  「あなたは、どなたさまですか、私をどこへ連れて行くのですか。どのようにして私を救って くださるのですか」、三郎はひとことも訊こうとはしなかった。   それから三ヵ月の後、三郎を連れた一行はヒマラヤの第三の高峰、カンチェンジュンガの麓  の村に到着したのである。   この村こそ、古い歴史を誇るヨガの修行の根拠地であった。三郎がカイロで出会った不思議  な人物は、ヨガの聖者カリアッパ師であった。イギリスの国王に会った帰り道の師に、エジプ  ト、カイロで三郎はめぐりあったのである。   私はこのであいを、世紀のめぐりあいと呼ぶ。このめぐりあいを契機として、結核の一青年  が救われただけではない。三郎は後に天風となり、多くの人々を救うのである。偉大なめぐり  あいは、春の湖の波紋のように次々と、人々を救うのである。 `  ヨガとは俗語で、結びつけるという意味である。ヨガ修行では、統御を意味する。ヨガ哲学 y では、宇宙と人間との冥合を意味する。そのためにヨガは、八つの階梯をもって修行をすすめ 一 てゆく。 一  倫理的な戒律の行。様々のポーズをとる肉体的な行。呼吸を強め、整える呼吸の行。感覚を 。統御する行―精神を集中する行―集中し尽す行・そして無念無想の行がある・ 一  三郎は、生理学や心理学の素養があったから、行のもつ意味や効果を納得の上で修行ができ 一 た。他のヨギ(ヨガ修行をする者達)よりも早く三郎は、ヨガの核心に触れることができた。   三郎のヨガ修行の詳細は他に書いているから、ここでは省略して、先に進もう。  三郎の激しい心的訓練は続けられた。轟々と耳を聾する程の音を立てて落ちる滝壺で、坐り 続けた三郎の耳は、鳥の声や地虫の声を聴く程に集中しきった。激しい修行の中で、三郎の魂 の夜明けは近かった。  ついに三郎は、大地を叩き、涙、滂沱として流る大感動の中で、聖なる体験に到達するので ある。  三郎は、感動的な聖なる体験の中で「わが生命は、大宇宙の生命と通じている」と直観すろ のである。  生命は、生きて、生きて、ひたむきに生きぬくものである。  生きぬくために生命は、強い力とすばらしい智恵を保有している。  生命は、力と智恵を行使して、絶妙な創造活動をする。そして生物は進化し人間は向上すろ ものであると、三郎の澄んだ眼に宇宙の様相が明確に見えてきた。  かつて三郎がいだいていたこだわりは氷解し、宇宙には目的があり、その方向性と法則性の 中に、人間は生きねばならないと、すんなりと三郎は了解した。  この聖なる体験を契機として、肺患の青年三郎は、哲人天風に飛躍するのである。  三郎を悩まし続けていた結核は、いつしかその活動を休め、レントゲンの上に、ただその疸 跡を留めるだけになった。  天風は、すさまじい程の迫力で多くの人々を救い、導いた。  かつて天風の教えに感動した東郷平八郎元帥は、自ら筆を執って、    東海に哲人出で扶桑の霊界を開く    英雄児女とともに都法門に入り来る(読み下し)  と称讃した。  財界、政界、官界、法曹界はもとより、芸術家、芸能人、スポーツマンなど、多くの人々が 入門し、喜んで天風の薫陶をうけた。  天風は人々を教化すること五十年。九十二歳でその劇的な生涯を閉じるのである。  此の書に収められている語は、天風が命がけで把握した哲理である。匸言一句に天風の血潮 と汗がにじんでいる。おろそかに読むものではない。  松下幸之助氏は「自分は運がよい」と確信している者を登用したという。事実、そのように 確信して努力する者の運命は拓けてゆくものである。  現在、何も確信するものを持たない人問にとって、この書は驚異の書であるが、また人間に 信念を与える書でもある。  この哲学の理想を実現するために天風は、整々たる体系をもって展開される心身統一法を創 見されている。 天風哲学と心身統一法が一体化して成立したのは、大正八年のことである。 この書の熱読をお揶めし、倣せて心身統一法を行じられることを熱奨するものである。 運命を拓く1天風瞑想録  目 次  天風小伝・まえがきに代えて::…●●・●11・・一●●●●●●I・杉山彦一 1  真理瞑想行にっいfい丶●令1111111参令●s一一一一・・一一・・一・●●●●一●111s1111一昏四(Xw 序章 朝日一mW匹辞●e●●●●―一・●●●●●●・一・一一s1111111e一●●●●一一●lsls一・・●・●elm川に皿心 第四章生命の力e11一●・・●・s●11一一Ilss・●●一I・一e●●●sllllss一ee参一・●●・一魯E心lw 第二章人生を支配する法則一一一一一・・●・●・・・一一一●・一一一●一一1一・一一一111 S 第三章潜在意識とその性能・・・●●●一●●●一一一●●●●●s●sss9一・●・一s一sI 餡 第 四 章  ijiin葉Fw一にl人生 e●●・●●・●●令一・・一一一一一●●●●・一e・●一一一一一●●11一一一一一・一一・匹EJ 第 五 章  大 い なJい{W悟り I一一一・●●一●●●●一11一一一一一・●一一一一―・・・・●●・一●e9●ee一115 第ぶ「章人生F」y一ににw運命●●●中●●一一s一一・・●一●●一一e●●●Is11●●●一●●一一●1ゆ●・一一一●・宍mW 第七章人間のふti命a*来の面i‐ ‐‐ ‐四1 111 111e●●●●●●●leゆ・sle●●●ee・・●・ ・ ■ £3 第八章人生のWl作針盤・・・・一●・・●一II・●・・一一一一e●●・●一一・・・・●●●●一一一一一一昏Wm四 第九章第J華Wi的&活いSぺi方●●sseee一一●一111els●1●●●●●111●e●s一s9・一匹四 第十章恐怖への戒め・・一一●一一一sss一●●●●●111一●●●一●一●●一e一一111111ee●mm四 第十`章勇気Fyに}不幸福撃退e・・●●●e・●●・・一1●一●ls11111●●●●●一一●1●●●257 第十`皿章理想FwEに)想像一一一今・●●●・●一●一●―一一s一一se・●1●1・一●ese一1一●●III一s・一WmJ 第十゛皿章 1不動●●・●11一一●●●●・一一一一●●一●●●e●●●●1ゆ●●●一●●一●●●1・・●一一●lW心心  ^ AJ ^●一・●●●・一一e●●一11s●一●一●●●s・●1一一●●●e・・e一Xm{田保夫305 装幀  芦澤泰偉     真理瞑想行について   真理瞑想行とは、人生に対する自覚と反省とをうながし、現在ある命をよりよく有意義に活  かすのに必要な基礎的考えを、正確につくりあげることを目的としている。   心身統一法の根本原則の中で、最も重要なことは、心を絶対的に積極化し、精神態度を本来  ありうるべき姿に即応させることである。心を絶対的に積極化するには、その基礎的考えを正  しくつくりあげることが必要である。そのために、人間の持っている暗示感受習性というもの 一 を応用しヽ独特の教え方で正しい悟りを開かせようとするのである・すなわちヽ万物の霊長た 一 る人間の真の本領を発揮し、本当に生き甲斐のある人生を活きるのに必要な悟りを開かせるの 」 が、この真理瞑想行の目的である。 一  したがってヽ真理瞑想行ではヽ人間の生命に与えられている法則というヽ普通の人の知らな 。い貴重な人生案内が主眼とされている・厳密にいうと本来の真理瞑想行はヽ与えられた問題 を、誰にも教えられず、自分なりに考えて、それが正しい真理に合致するまで何年でも考えさ せる、というのが本当の方法である。  私は、インドの山の中でその修行をしてきたが、その問に与えられた問題は、たとえば、 「心とは何だ。お前の現在の心はお前の本当の心か」あるいは「人間とは何だ」ということを 考えていくというものだった。日頃そのような研究をしている人でも、一つの問題に三月や半 年はかかるものである。しかし、現在そんなことをしていたのでは、一つの問題を解くどころ か半分も解決することができないであろう。そこでこのように変則的な方法ではあるが、あな た方が悟る代りに私からお伝えするのである。 ゛、、ただこの方法は、苦心してみずから悟るものでないために、いいなあと思いながらも、時と してせっかく得たものが無に化すおそれがある。ですからあなた方も私のように、自分の肉体 に重い病を持ち、その病と闘いながら、親からも国からも離れてただ一人、ヒマラヤの山奥で 端座暝目して真理と取り組んでいるのだというおごそかな気持ちで聞いていただければ、それ は、天風から自分に告げ知らされたのではなく、あなた方の魂が、あなた方の心にそれを悟ら せているのだと考えていいでしょう。そうすれば、自分が苦心して悟りを開いたのと、その結 果は五十歩百歩、たいして違わないことになる。  悟りというの、自分の心が真理を感じたときの心の状態をいうのである。したがって、湎 J 理t、自分の努力で自分の心で感じるのも、人の悟りを耳から聞いて自分の心に受け入れるの も、受け入れ方に相違があるだけである。受け取ってしまえばその結果は同じである。真理を                              从酘缸幻剌丿 受け入れるときの心の態度が、悟りを開く上に密接な関係があるからこそ、乙安定打坐で心をき                              I れいにさせているのである。  本来人間は、改めて真理をいろいろ説き聞かされるまでもなく、この世に生まれ出た時か ら、絶えず真理に接し、真理の中で生きているのである。しかし、ちょうど魚が水の中で生き ていながらそれを知らないのと同様に、真理の中にいながら、この真理をなかなか自覚するこ とができないのは、要するに心の中に雑念妄念があるため’であり、本当に心が清い状態であれ ば、真理はすぐに発見できる。ちょうど頭の上から帽子をかぶせられているように、きれいな 心の上に雑念妄念がおおいかぶさっているために、真理の中に生きていながらその真理を悟る ことができない。  ところが、安定打坐という特殊な方法を行なうと、雑念妄念がたちどころに消え去ってい く。たちまち、とまでいかなくとも次第に心の中から雑念がなくなっていく。そうすれば、し いてたいした努力や、いわゆる難行苦行などをしなくても、心が真理と取り組んでいこうとす る傾向に自然になるので、真理瞑想の内容が、心の中に正しい悟りとなって現われてくる。悟 りが開けてくればその結果、心が自然に即応して、疑いも迷いもなくなり、磨きたての鏡のよ  うにきれいなものになる。 う同じように修行しても悟りの非常に早い人と時間のかかる人があるのは、この安定打坐を真 一剣にやるか否かによって区別されるのであるから、真剣な安定打坐で行なうことが大切であ 7・   私の体験によれば、小・中学生の方がすなおにそれを自分のものにして、人生苦楽の歴史を  くりかえしているが、いわば酸いも甘いも噛みわけているはずの年配者の方が悟りが遅いとい  う傾向がある。それは結局、子どもは批判するにしても、その範囲がせまく内容にも複雑さが  ないが、中年以上の人達は余計なこだわりが多くあるため、無邪気に純真に受け取ろうとする  気持ちがおろそかになってくるからである。  形だけは安定打坐で、心が安定打坐になっていないと、せっかく真理瞑想をじゅんじゅんと 自分の魂の中に注ぎこまれても、涙の出るような感激を感じることが少ないかもしれない。で あるから、疑う気持ちや批判を乗り越え、ただ無念無想の状態で、内容をわかろうとするので なく、ただ受け入れていくという気持ちで行なうことが何よりも大切である。そうすれば、無 条件で悟りの花を開かせてくれることになるのである。     ちようたんげじ                             曲朝旦偈辞−朝旦はあさ、 ″章朝旦褐辞           偈辞は真理のことぱの意。    ●  人としてこの世に生まれ、万物の霊長たる人間として人生を活きるために、第一に知らねば ならぬことは、人間の。いのち”に、生まれながらに与えられた、活きる力に対する法則であ る。  自分の命の中に与えられた、力の法則というものを、正しく理解して人生に活きる人は、限 りない強さと、歓喜と、沈着と、平和とを、作ろうと思わなくても出来上がるようになってい るのである。  一番先に我々はそれを知らなければならない。  ただ、はっきりと気がつかなくても、我々の多くは、こうしたことを求めていたに違いない のである。求めても、どうしても自分の心に正しくキャッチすることが出来なかったのは、 我々の今まで受けた教育教養が、科学的な方面にのみ片寄ったものであったからなのである。 一プラスーは二という、この算数的やり方で教育された結果として、論理思索を進めていこう とする計画に、いつも失敗しているのである。我々の心が、あることを考え始めたときに、ど こまでが考えている心で、どこまでが考えられている心かという区別がつかない。  匸百でいえば、哲学的思索に馴れていない。そのために自分の生まれながら与えられた生命 の力に対する法則のごときは、本能的に知っているべきはずの事柄であるにもかかわらず、そ れをわからずにいるのである。  哲学という言葉の意味は、たいていの人が本当に理解していないようであるが、多くをいう までもなく、哲学は、我々が今見るところのもの、すなわち、現象を溯りその原因を探究す る学問である。詳しくいえば、哲学とは、自然界に存在する、今、在るような物質的な形に、 その現象を現わした力の法則と、その究極的原因とを探ろうとするものである。  そこで、あなたがたが、第一に知っていなければならないこと、それは、この宇宙というも のは人間が創ったものではない、ということであり、同時に、我々人間ならびにすべての生物 は、宇宙が出来てから後に宇宙が創ったのではないIということである。はっきりと、これ がわからなければいけない。  宗教には、唯神論と汎神論というのがある。唯抻論というのは、初めに神がいて、神がこの 宇宙を創ったのだということである。汎神論は、宇宙が出来てから、その中に神が現われたの だということである。  いずれも、神を相手に考えようとする考え方で、これは、今のように、まだ科学が発達して いなかったときの人間としては、無理のない考え方である。私がいつもいっているとおり、今 から千年二千年経つと、今あるような宗教という宗教は、地上から姿を消してしまうでしょ  それは、人間の理智が、既成宗教などに頼らなければ活きられないような、哀れで無自覚な ものではなくなるからである。  純粋哲学の立場から観察すると、この宇宙というものは、形ある宇宙以前に、すでに形のな い宇宙が在った、という真理の探究というものが、行なわれなければならないのだ。  神とか仏とかいうのは、人間が便宜上、付けた名前だから、このようなものに捉われてはい けない。  あなたがたは、抽象的で、あまりにも漠然としたものを、やれ、神だ、仏だ、と思っている が、では「神とはどんなものか」と聞かれたら、何と説明するか。「仏とはいかなるものか」 と聞かれたら、どう説明するか。見たことも聞いたこともないものに、説明の与えられるはず はない。そう思うと、何となく安心が出来るといったような、同時に、自分が一種の信仰とい うようなものを、何となく気高いと感じる、という感じで考えられるだけではないだろうか。 だから、私からいわせれば、やれ神だ仏だ、といっている者は、安直な気休めを人生に求めて いる哀れな人だといわざるをえないのだ。  第一、もし、あなた方が考えているような神や仏が、この世の中に存在したら、この世界に 戦争などあろうはずがないではないか。キリスト教の人間達が、地球をも破壊するかもしれな いような原爆や水爆を、考え出す必要もないじやないか。もしも本当に、あなた方が思うよう な神や仏があり、それに信仰を捧げたなら、即座に、神や仏のような綺麗な気持ちになれそう なものではないか。この中には、クリスチャンもいるだろう。また仏教信者もいるだろう。信 者という名前だけで、その人達は、相変らず、怒ったり、悲しんだり、怖れたり、という繰り 返しの日々を送っていはしないか。ここに集まっている多数の会員の諸君を目の前にして、じ っと見つめているときに、後光のさすような尊い人がI人もいないことを遺憾とする。それ は、あなた方の体から出る、オーラの一切が証明している。  ともかく、安定打坐が、少しの間、出来たときだけは、綺麗なオーラが見えるけれども、そ うでないときには、もう、見えない、濛々たる毒ガスが、あなた方の体から出ている、といっ てもいい過ぎではないほど、あなた方の心は汚れている。そして、醢い、弱々しさを持ってい る。それというのも、当てにならないものを当てにして、救われようとか、助かろうとか、極 めて、さもしい、気の弱い、哀れな、依頼心の強い気持ちで、それを信仰と名づけているから である。  本当の真理から論断すれば、何も神だの仏だのと頼らなくてもよろしい。むかしからの歌に もある。   心だに 誠の道に かないなば     祈らずとても 神や守らん  先祖を敬い、先祖を忘れないための、追善供養は必要である。だが、あなた方の神仏に対す る信仰は、いつも自己本位な自分の生命や、自分の運命の安全ばかりをこいねがうだけが、目 的になっていはしないか。  これを第二義的信仰というのであるが、そのような信仰を持っている人間は、何となく神が あり、仏があるように思い、その神や仏がこの宇宙を創っているように思っているが、それは 違う。  さきほど、形のある宇宙が出来る前に、すでに、形のない宇宙があったのだ、といったが、 形のない宇宙とは何か、まず科学的に考えてみよう。この宇宙の中に、我々が感覚できるいろ いろな森羅万象がある。この森羅万象も、一番初めはいったい、何から出来たんだろうという ことを、つきつめて考えるという方法で考えてみよう。  鷄は卵から出来、卵は鶏が産む。つきつめていかない限りは、いつまで経っても堂々巡りで ある。哲学的思想でつきつめていくと、一番初めは卵でもないし、鷄でもないということがわ かる。  一番根本は何か、というと、ただ一つの実在から産み出されたものである。その実在とは何 であろうか。  哲学では、。根本的本源実在”と呼び、科学では、これを、極微粒子的なものとして、。エー テル”と名づけている。  哲学の方では、人間の感覚では、捉えることの出来ない、茫漠たる、見えざる、一つの  ”気”であるといっている。  これを中国では。霊気”と呼び、日本の儒学者は。正気”といっている。中国の宋代の儒教 哲学では、これを。先天の一気”といっている。そして電気や、磁気や、その他の火気とか、 水蒸気とかいうものは、”後天の気”といっている。  いずれにしても、このただ一つのエネルギーを産み出す元が、宇宙を創り出したのである。  だから、哲学的な論理からいくと、そのエネルギーを産み出す元が、今あるような宇宙の鋳 型をなしていたのだ、ということが考えられるのである。  とかく、一番いけないのは、我々の五感が感覚しないものは、存在していても、ない、と思 うことである。空気や電波は、誰も感覚しない。けれども、ないのだろうか。ないと否定でき るだろうか。もちろん、否定できないであろう。否定しない理由は何か、と問われたら、あな た方は、何と答えますか。必ず、第二義的な言葉を用いて、「在るから人間が生きていられる じやないか。あらゆる生物が生きていられるじやないか……」と、「電気があるから、ラジオ が聞かれ、電球が光るんじやないか……」というように、第二義的な結果現象を元にして、こ れを証明しようとデータに頼るが、それは、あくまで、第二義的な証明なのである。  まさか地球が、昔は、太陽を中心として、自ら回転しているとは思わなかった。地球は止ま っていて、その周りを、太陽や、月が、回っていると思った。しかし、我々は、子供のときか ら、「地球は、太陽系の中で、太陽を中心として回っているのだよ」と、学校の先生に教わっ ただけで、証拠を見たわけではないが、無条件で「そうだ」と思っている。その「そうだ」と 思う気持ちで考えなければいけない。  これが、哲学的考え方を決定する基盤の要素なのである。これを、天風哲学は、。宇宙本体” あるいは、。宇宙霊”という。これを指していうのなら、神でも仏でもいい。が、しかし、あ なた方が、今まで、神や仏と呼んでいた同じ気分で、この宇宙本源を、考えては駄目である。  とにかく、たった一つの、宇宙の本体が産み出したものが、森羅万象である。したがって、 森羅万象を包含している宇宙も哲学的に究極していくと、現象界に存在する一切の物質もこの 宇宙本体から産み出されたものなのである。と同時に、科学的に考えてみると、一切の森羅万 象と称するものは、宇宙本体の干不ルギーの分派によって創られている。形が、つまり目の前 にあるというのは、宇宙本体の力が、まだ籠っているからである。その力が抜けてしまえば、 形を現象界から消して、根元要素に還元しなければならない。  人間の死というのも、そういうことなのである。  そして、ここが一番大事なことであるが、特に忘れてはならないことは、人間は、万物の中 で、この宇宙本体の分派分量を最も多く頂戴しているということである。人間以外の生物が真 似することの出来ないほど、まことに多くの分量をいただいている。このことが、人間が霊長 といわれる所以なのである。  もう一つ重大なことがある。それは、普通の人には、なかなか考えられないことであるが、 すべて、。気”というものは動かなければならない、ということである。。気”というものは、 一定一ヵ所に静かにしている気遣いはない。。気”が動くと、動いた。気”によって、物が創 られるようになっている。  エレクトロンだって、プロトンだって、そのままいたんじや何の役にも立たないが、このエ レクトロン、プロトンを、ダイナモに集約し、ワイヤーに伝え、あるいは線がなくても空気を 伝って、これを受け入れる受信装置のあるところへ移せば、そこに、恐るべき力、熱、光が出 てくる、つまり、あの電気というものである。これも、。気”が動いたからの結果である。  。気”が動いたときの、。気”の元を、哲学では4fと言っている。4fというと、すぐ魂 を思い浮かべるが、それはいけない。  霊というのは、極めてスーパーな、見えない。気”に対する名称なのだから。  この。気”が動こうとするときに、現われる現象を「アイディア」という。人間でいうと  ″心″ということになる。  英語で、。アイディア”というと、すぐ、人間の動かす心と思う人がいるが、それは大違い だ。。アイディア”というのは、。気”の動く場合における、現象事実に対する名詞である。元 の発音は、ギリシア語で。イデア”といったのだ。だからI少というものは、気の能動を指 して名付けた名称である。  あなた方は、jyといっても、j少とは、少しも解らずにいたかもしれない、しかしこの 峻厳なる事実を厳かに断定すると、jyというものは、一切の生命の中核をなし、ぶ牙とい う。気”の働きを行なうために、与えられている、ということがすぐ断定できるであろう。  そして、jyというものが、jfという一つの”気”の働きを行なうとき、どんな現象事 実を行なうかというと、心の活動は、思うことと考えること以外にはないのである。  つまり、いい換えれば、思考によってのみ、j少の活動は行なわれる、ということである。  それから、あなた方が、もう一つ覚えておかなければならないのは、この思ったり考えたり することは、意識的に思ったり考えたりすることと、無意識的に思ったり考えたりすることと の、二種類があるということである。  そこで私は、長い間この偉大なる真理に立脚して、考え抜いた結果、こういうヒントを得た のである。  いってしまえば、極めて簡単なことであるが、何十年もかかった。  一番最初に考えたことは、今、いった原理を考えてみると、人間は、日頃、人生に活きる刹 那刹那、いかに心を運用することが適当なのだろうか、ということである。いい換えるなら ば、心の運用を良くしたり、悪くしたりすることによって、人間の人生は、良くもなり、悪く もなるのだ、ということだ。  長い間、病に苦しめられて、どんなことをしても、助かり得なかった私は、結局、最後に、 苦しみ悩み本当に、生命がけで取っ組み、漸く考えついたことが、いつか、あなた方の幸せに もなる、ということである。つまり、人間の日々の人生に活きる刹那刹那、ちょっと笑うこ と、冗談言うこと、その刹那にも、その心の思い方、考え方が、やがて、我々の生命を、完全 になしあたうか、なしあたわざるかという事実が、産み出されるのである。  もっと解りやすくいえば、我々の生命の中にある肉体はもちろん、精神生命も、一切の広い 意味における人生の事柄を、心の運用いかんによって、決定することが出来る、という真理 を、私は悟り得たのである。  それを悟り得たばかりに、医者という医者が、片っ端から匙を投げた私の病が、本当に驚く ような経過で治り、しかも、いまあるがごとき長い寿命を、堅固に活きているという幸せを味 わっているわけである。もしも私が、あなた方のように、少しのことでも気にかけて、心の運 用を誤っていたら、六十までも生きられなかったことは当然である。  というような悟りは、こういうことから開けたのである。  「人間の心で行なう思考は、人生の一切を創る」  これが数十年来かかって考えて、苦心の末、ようやく悟り出した、人間の生命に絡まる宇宙 真理であった。これは簡単なことで、さっきいった真理を、逆に考えればすぐ解ることであ る。  人間の、思ったり考えたりするI少の作用というものは、jfの働きで動いているとす ると、その霊という気は、宇宙を創っている創り主である宇宙本体が霊なのだから、やはりそ れに通じている、ということである。  電灯に抵抗の強いものを当てると、ショックはたちまち変圧器にきて、すぐヒューズが飛 ぶ。それは結局、つながっているからである。そうすると、この宇宙霊という気の元が、一切 の万物を創る力があるということである。この当然である連結関係を繰っていくと、人間の心 で思ったり考えたりするということが、あだや疎かに出来ないのだということに、すぐ気が付 くはずである。  まことに、峻厳侵すべからざる宇宙真理である。だから、どんな場合があっても、消極的な 方面から、物事を思ったり考えたりしてはいけないのである。  この法則を厳として自覚し、常に、この法則を乱さないように活きるならば、人生は、期せ ずして、大きな調和のもとに満たされる。そして、無限の強さと、生命の無限の自由というも のが、自然的に出てくる。これが、仏教でいう。無礙自在”である。  だから、どんな場合にも、心の思考作用と、宇宙を司る宇宙本体の創造作用卜物を産み出 す力−とは、別々に分れているのではなく、本質的に、一つのものであるということを忘れ てはならない。  だんだんと講演が進むに従って、どんなに心の思い方、考え方が重大であるかということ が、自然に解ってくる。しかし、今日は、ただ、人間というものは、人間自身の心の中の思わ せ方、考えさせ方が、自分の生命の全体を、強くも、弱くもするのだということを、厳格に悟 ろう。また悟らなければならない。  人間の心に、何かの観念が出ると、その観念の型のとおりに宇宙本体から微妙な力が働き出 し、その観念の型が、良ければ良いように、悪ければ悪いようにIわかりやすくいえばI 思い方や考え方が積極的であれば、積極的なものが出来、消極的なら消極的なものが出来る。 そういうように真理が出来ている。人間の境遇だとか、その人の現在に同情するということは ないのである。真理というものには同情はない。峻厳侵すべからずである。  どんなことがあっても忘れてならないのは、心というものは、万物を産み出す宇宙本体の有 する無限の力を、自分の生命の中へ受け入れるパイプと同様である、ということである。パイ プに穴が開いていたら、洩れてしまう。だから、そっぽを向いていたら何もならない。パイプ でわからない大は、光を通す窓だと思いなさい。電流を通ずるワイヤーだと思えばよい。  今まで気付かずにいたかもしれないけれども、人生の一切は、健康であろうと運命であろう と、肉体も、心も、また環境も、すべてが人の心によって創られているものである。科学研究 の人間には、このことがわからなかったのである。現在でも、わかってない。ようやくわかり かけてはいるが、どうすればその心を処置することが出来るかということが、わからずにい る。  とにかく、人間として生まれた以上、健康的にも運命的にも、理想通りの正しい人生を建設 しなければならない。だから、怠らず注意深く、自分の心の中の思い方や考え方を積極的にす ることに努力しよう。そのために、観念要素の更改とか、神経反射の調節とか、積極観念の養 成とか、修練会(黔詣翳陥兮Jに来て、安定打坐で、雑念妄念を綺麗に洗い浄める方法を 教わったわけである。  なおかつ、心の中で、消極的なことを、思ったり考えたり、神経を過敏にしたりする人間が いたら、その人間は、真理を冒漬するIチ当り″だと遠盧なくいおう。  みずから、尊い宇宙本体の力を拒否し、否定している人だ。尊い慈悲の力を、自分で踏みに じっている人だといおう。  神経過敏な人間は、現在の苦しさから逃れたい、死ぬのが恐ろしいという。それじゃ、生ま れる前が恐ろしかったか……。死ぬことは、生まれる前と同じ境涯に入るだけのことじゃない ですかφee一e9○  いわゆる、安定打坐の無念無想の状態は、死と一歩の境ではないか。大死一番の境涯であ る。もっと、人生を、余裕のある心の状態で活かしなさい。  そこで、毎朝眼が覚めたら、甦りの誦句というのを、厳かに、自分の心に、自分自身で、 口誦んで植えつけていく。  ”甦りの誦句%これは修練会で毎朝、私が朝のご挨拶のときに、あなた方の耳に入れるけれ ども、これは極めて大事な誦句である。  本当に、これを自分の心のものにしなければいけない。  もっと理想からいえば、この誦句のとおりの心でなければならない。そうすれば、いま、  。いのち”がなくなるような、健康上の危急に直面しようと、運命がどうなろうと、即座に、 その運命が開かれ、その健康が回復される。  さあ解りましたね。それでは誦句を唱えよう!      ちようたÅげじ よみがえ   しようく      朝旦偈辞(甦りの誦句)  我は今、力と勇気と信念とをもって甦り、新しき元気をもって、 正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向わんとする のである。  我はまた、我が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。  我はまた、欣びと感謝に満たされて進み行かん。  一切の希望、一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準どし て定めよう。  そして、恒に明るく朗らかに統一道を実践し、ひたむきに、人の 世のために役だつ自己を完成することに、努力しよう。 第一章生命の力  およそ人間として完全な活き方をするには、本当に心を積極的にしなければいけない。いか なる場合にも、心を清く、尊く、強く、正しく持たねばならない。この先決的に必要なこと が、何をおいても完全にできなければいけない。その何よりも大切である積極的な心を作るた めには、まず第一に何が必要であるかを悟ることにしよう。  現代の人間は、肉体が自分であると思っている人が多いのではないか。しかし人間というも のは、その正体をつきつめていくと、何も見えない、また感じない、霊魂という気である。そ の霊魂が、現象界に命を活動させるために、その活動を表現する道具として肉体と心が与えら れている。いわば画家の持つ絵筆、大工の持つ鉋と同じようなものが、命に対する肉体であり 心である。  これを正しく理解し、正しく応用した人にのみ、その命に、限りない強さと、喜びと、安心 と、平和とが与えられる。しかしこのありがたい事実が我々の生命の中にあるのに、多くの人 は、命というとすぐ肉体を考えるために、そこで大変な間違いを犯してしまうことになる。  そもそも生きているという不思議な命の力は、肉体にあるのではなく、霊魂という気の中に  霊妙な働きを行なう力があり、それはあたかも回っている扇風機にそれを回す力があるのでは  なく、電気がこれを回しているのと同様である。この例でも人間の命の力を正しく理解できる  はずだが、人間だけは、肉体それ自身に活きる力があるように思うところに大変な間違いがあ  る。   肉体が生きているのは、霊魂という気の力が肉体を活かしている、というのが本当の悟りで  あるにもかかわらず、この本当の悟りを正しく自分の心に持って活きている人が極めて少ない  ために、ともすれば、わずかの不健康な状態が肉体に生じてもすぐ心配する。それというの  も、霊魂という気から送りこまれる微妙な力が量多くありさえすれば、不健康な状態は直ちに  健康状態に回復するという原理を知らないからである。   考え方が全然違うために、もっともっと尊く活きられる人生を、尊く活きていない人が多  い。おそらく、ほとんどの人がそうであったろうと思う。したがって人間はまず第一に、 ” 「人間の生命に与えられた活きる力というものは、肉体に在るのではなく、霊魂という気の中 一 にある」 {  ということを、正しく、はっきりと理解する必要がある。これが最も正当な自己認証であ f る゜ ’ ところがヽこの自己認証が確立していないためにヽくしゃみ一つしてもヽせき一つしても神 経を過敏にしてしまう。心が肉体に消極的に注がれると、肉体の生きる力の受け入れ態勢が妨 げられ、本来の強さを発揮することができない。したがって可能なかぎり、消極的な気持ちで 肉体を考えないようにすることが何よりも大切である。特に病のときは病を忘れる努力をすべ きである。匸一言でいうならぱ、  「人間の健康も、運命も、心一つの置きどころ」  心が積極的方向に動くのと、消極的方向に動くのとでは、天地の相違がある。ヨガ哲学では これを、「心の思考が人生を創る」という言葉で表現している。  私は、はじめてこの文字を見たときちょっと理解ができなかった。しかし、自分の病を考え の基礎において人生や生命を研究するにつれ、この重大なことが次第にわかってきた。それ以 後の私は、自分でも驚くほど丈夫な体になったばかりでなく、思いもよらない長生きを重ねて いく幸福を味わっているのである。  しかし、世の中を眺めてみると、物質文化の非常に進歩している現代、なんと病人や不運の 人が多いことか。これはみな、心の置きどころが積極的か、消極的かということで、その肉体 の生きる力の受け入れ態勢が左右されるということを知らないからである。  この点をもう少し詳しく考えることにしよう。いかなる理由で、心の行なう思い方や考え方 が、生命を強くもし弱くもするのかというと、それは精神生命に、命を活かす力となる宇宙エ  ネルギーを受け入れる第一機能があるからである。   宇宙エネルギーは、まず、心の働く場である脳髄で受け入れられ、それが神経系統に送ら  れ、命を活かす力となる。宇宙エネルギーには建設の法則を行なう力と、破壊の法則を行なう  力がある、いわゆるプラスとマイナスである。この建設と破壊の比例配合が常にプラスが勝つ  ているときは建設の作用が現実に行なわれる。あの人は丈夫だ、あの人は運がいいというの  は、宇宙エネルギーの受け入れた結果にプラスの多いときである。マイナスの要素が多く働く  と、破壊の作用が行なわれ、運が悪くなり、健康も悪くなる。   この宇宙エネルギーの名称を、哲学では精気、霊気、先天の一気などという。すなわち、こ  れがこの世の中で、あらゆる気の元であり、他方、電気、磁気、水蒸気などは後天の気であ  る。この宇宙創造の源の気を、私の哲学では仮に”宇宙霊”と名付けている。これを人々は神  といい、天之御中主神と名付け、あるいは如来と呼び、アラーというように、いわゆる神・仏 ” という名を付けたのである。 一  名前の詮議は第二とし、根本的、実在的なものこそ一切のものを生み出す中枢の力であっ J て` この現象界に存在するもののすべては、みなこの根源的実在物、いわゆる私の名付けた ’ ″宇宙霊”から生み出されたものである。この世のすべてが造物主の分派であるというのは、 ’f ’このためである・宇宙エネルギーの受け入れ過程はヽ脳髄から神経系統に受け入れられてヽそ れから肉体に伝えられ、我々が現象界にその命を活かす道具として与えられている肉体を活動 させているのである。  また他面、人間が生きるためのエネルギーを受け入れる物質として、昔から五つのものをあ げている。第一が空気。これが人間の肉体を活かす要素の大部分を占めている。第二に食物、 第三に水、次に土と太陽光線の中の活力。これは私が医学生時代に教えられたことである。  しかしながら、考えねばならないことは、これらが肉体を活かす作用を行なう原動力にはな っていないということである。  自動車のエンジンで考えてみよう。エンジンを回すには燃料が必要である。これ£電気的発 火装置があってはじめて、・エンジンは快適に回り始める。もし油だけでエンジンが回るなら、 人間の体も、空気を吸い、食物をとって、水を飲み、土の上で生活をし、日光があれば、いつ まででも生きていることになる。しかし、それだけでは人間は生きていけない。それと同時 に、その生命を活動させる一つの作用を起こすものが肉体になければならない。  それを我々の習った医学では全然考えていなかった。もし我々の習った医学のいうとおりで 生きているなら、胃が悪ければ胃の薬、肺が悪ければ肺の薬を飲めば、病はみな治るはずであ る。ところが、これは医者のよく知るところであるが、文献やデータでは、この薬を使えば必 ず効果があると思われる場合でも、患者によっては少しの効果もない、効いたかと思うと、か えって薬の副作用が出たりすることがある。私がまだ今のように真理を知らないときは、何度 か、自分の処置の間違いではないか、それとも薬のデータの間違いかと、ずいぶん考えさせら れたものである。  しかしそうではなく、その原因はあらゆる活動の原動力的要素となるべきものが完全でない からである。モーターだけをいくら立派に造っても、電圧が低ければ回らないのと同様に、健 康と運命とを正しく保持し、生き甲斐のある人間として人生を活きたいと欲する者は、何をお いても、人間の活きる命の力を豊富にし、受け入れられる活き方を考えなければいけない。  命の力を豊富に受け入れられる活き方とは、いかなる場合にも心の態度を積極的に保つこと であって、どんな場合にも最高度に引き上げられた自己認証をゆるがせにしないことである。 というと、何か非常に難しいことのように考えるかもしれないが、要するに消極的にものごと を考えなければそれでよいのであり、そうすれば、最高度まで引き上げられた自己認証ができ たことになる。  わかりやすくいえば、どんな場合にも、人間というものの生命は、一切の生命をしのいでい る力の結晶だ、と正しく思いこんでしまうことである。そしてこれを、いかなる場合にも、心 にしっかりと堅持することである。  この悟りこそ、理想的人生建設の何よりも大切な先決問題であり、人生の本当の幸福の宝庫 を開く鍵のようなものである。たとえどんなに宝の充満している金庫があっても、これを開く 鍵がなければ、中の宝は結局ないのと同じことである。つまり、心一つの置きどころ、積極か 消極かというだけで、人生の幸福の宝庫が開かれるかどうかが決まってしまう。  ところで「心とは何か」ということを考えてみよう。心というものは、人間の生命の本質で あり、絶対に眼に見えない霊魂という気の働きに対する名称である。気の働きがないかぎり心 という現象は生じてこない。さらにわかりやすくいえば、心というものは、霊魂という気の働 きを行なうための存在であり、心が思ったり考えたりすることによって霊魂の活動が表現され る。そして心の行なう思考は、すべて個人の命の原動力となっている霊魂を通じて、その霊の 本源たる。宇宙霊”に通じている。しかもこの。宇宙霊”は一切の万物を創造するエネルギー の本源である。この絶対関係を真剣に考えると、思考は人生を創る、ということに断然結論さ れる。  この絶対関係を揺るぎないものにすれば、宇宙エネルギーの受入量が多くなり、人間は期せ ずして生命の強さを自由に獲得することができる。これはただ単に肉体の生きる力のみではな い。このような理解が深くなれば、思考作用の運用方法が、どれだけすばらしいものであるか がわかると同時に、宇宙霊の創造作用と人間の思考作用とが決して別々のものでなく、むしろ 本質的に一つのものであるということが必ず明らかになってくる。   この偉大な事実が正確に悟れると、人間自体の生命の力の認証を最高度に引き上げた考え方  を心に堅持することができるようになる。そうすれば、自分の命を欲するままに力強く活かす  ことができ、今までとは全然違った、自己に対する新しい考え方が、本当に力強く組み立てら  れる。   ありがたいことに、万物の霊長たる人間は、その心の態度によって、。宇宙霊”がこれに順  応して働きだす。したがって、運命や健康も、自己の欲するままに完全に造り得るようにな  る。心が積極か、消極かという態度に応じて、。宇宙霊”はそれに順応して働き出し、その人  生を良くも悪くもするのである。   この悟りが、本当に正確なものになればなるほど、健康も運命も、何も特別な手段を施すま  でもなく、完全になるのが自然の作用であり、宇宙の真理である。とにかく、人間に生まれて  きた本当のありがたさ、これを正しく認識しなければならないということである。そして、き ] ようからは、たとえ人生にどんなことがあっても、自分は力の結晶だ、という正しい悟りで健  康上の問題や運命上の問題を乗り越えていかなければならない。この悟りが終始心の中に満ち 一 満ちていれば、何もたいした努力をしなくても、いつも元気一杯な状態で人生を活きていくこ 寸  とができる。 。 日頃私が「元気か」というのはこれである・中には「元気です」という人もあれば「「イ」 と答える人もあるが、時には「元気だといいたいが、元気といえる状態でないから俺はいわか い」というような顔をしている人もあるが、健康や運命に関係なく、いつも元気でいられるの が人間である。  今後はこの真理を絶対に貴重な悟りとして、たとえ我が身に何事が生じようと、またいかか る事態に会おうとも、完全に活きるための根本基礎となる心の態度を、断然消極的にしてはか らない。いつも、「清く、尊く、強く、正しく」という積極的態度で終始しなければならない。 そうすれば、自分でも不思議なほど、元気というものが湧き出してくる。そしてその元気つ今 り元の気が、ただちに「先天の一気」を呼びよせ、つまり原動力となり、健康的にも、運命的 にも、すべてのことが完全に解決されてくる。  元気という気が出たときに、人間と宇宙霊とが完全に結びついたことになるからである。虫 実、元気が出たときには、何ともいえない爽快さを感じるものである。とにかく、元気はつ戉 つたる状態で活きることこそ、最も必要かつ大事なのであるから、心の置きどころを常に積錙 的にするために、「自分は力だ」ということを、断じて忘れてはいけない。  そこで、事あるごとに、時あるごとに、自分が力の結晶であることを忘れないために、暗示 の誦句を与える。      力の誦句 私は、力だ。 力の結晶だ。 何ものにも打ちかつ力の結晶だ。 だから何ものにも負けないのだ。 病にも、運命にも、 否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。 強い、強い、力の結晶だ。 潴二章人生を支配する法則  およそ人間として、ひとたびこの世に生をうけたからには誰でも人生というものを活きなけ ればならない。この大事な人生を活きるのに、人生がいかなる法則により支配されているかを 知らずに活きている人がいかに多いことか。もっとも「哲学的思索」の経験や、知識も少ない ので無理からぬところではある。しかも現代の教育は、いわゆる科学教育であり、大事な人生 に対する案内に関しては、よく理解させられていない傾向がある。  まして今から半世紀も前に、人生を考えようと思っても、何をきっかけに自分の人生に対す る思索を進めてよいか、そのきっかけを見いだすだけでも、長い長い間苦心をしたものであ る。  人間の心というものは、一方においては、人間の運命や健康その他人生の一切をよりよく建 設する力があると同時に、またこれと反対に人生をより悪く破壊する力もある。すなわち積 極、消極の両方面の作用が心にはあるのである。しかしそれを理解しただけではいけない。形 容のできない、強烈な心の作用を正しく理解すると同時に、これを正しく応用しないと、いか に完全な人生を活きることを望んでも、それは不可能なことである。そこで人生を支配する法 則について、正しく理解する必要がある。  この世のすべてのものというものは、動物、植物、鉱物の三つに分けられるが、これらはす べて一つのものから生み出されている。すなわち万物創造の根源であり、絶大な力を持つ「霊 妙」な気がこの一切を作る根拠をなしているのである。その気が作ったもの一切を包んでい る。というよりむしろ、その気の中に作られたものが存在しているという方がよいであろう。 すべてのものが、この霊妙な気の中に終始いかなるときでも存在しているのである。これを忘 れてはいけない。  ちょうど、水の中に住む魚のように、水がなければ魚は生きていけないが、魚自身は水の中 にいることを忘れているであろう。人間も、この霊妙な気の持つ力の中にいるからこそ生きて いられるのである。空気の中にいるから生きているのではない。万物創造の霊妙な働きをなす 気が空気を作り、この気の中に空気が作られているのである。そして空気の中にある酸素、窒 素などが我々の肉体生命の新陳代謝を行なうために命の火を燃やしているのである。空気の中 に気があるのではない。作られたものが、作ったものではないことを忘れてはいけない。  この。気″を哲学では、「精気」、「霊気」あるいは「先天の一気」などと呼んでいる。天風 哲学では。宇宙`fと呼ぶが、それは「真理瞑想行」を説明するときに、いわゆる大自然に対 する我々の修行上の尊敬念を、よりいっそう深くするために、仮に”宇宙霊”と名付けたので ある。宇宙の一番おおもとの気という意味であり、ただ便宜上、。宇宙霊”という言葉を使う のであると考えればよい。神、仏、天之御中主神、天にまします我らの父、何でもよい。  呼び方はどうでもよい。神韻縹渺たる働きを持つこの霊妙なる気は、いわゆる超極微粒子 で、形容のできない小さなものである。しかも普通の場合絶対に感覚的に認識できない。しか し感覚できないからないとはいえない。一切の、ものというものが作られ、存在し、この雄大 な宇宙が作られている厳粛な事実を考えると、自分に感覚的に感じないからないという議論は 成り立たない。  ただ、無邪気、無条件に、観念的に確かにそうだと認定する、つまり思いこむ以外に認定の 方法はないのである。もし我々が無批判、無条件な、純真な気持ちで観念的にその想定ができ ると、この世界、宇宙というものは、目に見える物質的存在は第二義的なものであり、本源は 詮じつめると精神的なものであると気が付くのである。  「観念的に想定するより、認定の方法はない」  これを思索の根本点において、この宇宙というものを考えてみよう。これをインドの山の中 で、ひとり静かに座って考えたのである。  いわゆる科学教育を受けた者は、それを証明する事実なりデータがないと、いかに理論的に 説明されても、それを無邪気に信ずることができない。一に一をたして二にならないと承知で きない。しかし、心を澄まし、山の中で考えていくうちに次第に魂の夜明けがきたのである。  「自分が生きているこの周囲に、目には見えないが、一切の存在を確保している、しかも認識 できない気が存在しているな」  と、証拠はつかめないが、観念的にこれを想定することはできる。また観念的に想定しなく ても、あるものはあるので、そのあるものがある以上、自分の観念で想定できないからといっ てこれを否定するという乱暴なことはできない。だからこれは、無邪気、無条件に、観念的に 想定する以外に考えるしかないのではないか。さらに一歩進んで、  コ切の事物の根底に横たわるただ一つのものは、この霊妙な神韻縹渺たる気である。そし て、宇宙の一切が、この気から作られている事実を考えると、所詮は純精神的なものだといわ ねばならない」  と思ったのである。目に見えない、証拠をつかむこともできないものである以上、ただそう 思うより仕方がないのである。またこの気の持つ働きをよく考えてみると、全智全能の漲って いることに気が付いたのである。そこに気が付けば、人生は非常に優れた進歩の階段をI歩の ぼったことになる。  この精神的な宇宙の根本主体の気の中に働かされている計り知れない霊智、まさに全智全 能、本当に幽玄微妙、形容のできない霊智、現象界の一切を見るときに「なるほど」と思うに 違いない。  眼前の草、そして樹、青く澄んだ空、流れ行く白い雲、また落ちる滝の水、どれを見ても、 人間の力で作られたものは何一つない。  陽が西に落ちれば夜になり、夜が明ければ朝が来る。春から夏、夏が去れば秋、やがて寒い 冬が来る。この整然たる秩序、一糸乱れぬ自然の状態を想い、またその自然の法則を考えたと きに、その気の持つ働き、全智全能のあらわれは、人間の知識などでは、到底計り知れない広 大無辺なものである、と気が付いたのである。またそのいいようのない微妙な霊智の尊さを感 じたのである。  幽玄微妙というか、神韻縹渺というか、現象界の一切を見れば見るほどなんとも形容の言葉 がない。生きとし生ける生物にしても、小さな虫に至るまで、生きるに必要な器官、機構が完 全な組織のもとに存在している。そして、  「何とありがたいかな、山の中に今座っている自分は、この霊智の力、いわゆる全智全能の働 きを持つ気とともにいるのではないか。いや気に包まれているではないか。そしてここに座っ ている。だから自分は生きているのだ」  ここまで思いついたとき、誰もいないヒマラヤの山奥にただひとり座っていながら、何の淋 しさも感じない。何とも形容のできない心強さを感じたのである。同時にその霊妙な万物創造 の力ある気と、その気の持つ幽玄微妙な霊智とは、なんと、  「人間の心の態度で、これを受け入れる分量が、非常に相違してくる」  ということを私の心が考えてくれたのである。  人間の心が、病や運命を気にしないという積極的状態であるとき、すなわち心が無念無想に 近い状態であれば、宇宙に隈なく遍満存在している、幽玄微妙な気の持つ霊智を受け入れる分 量が多くなるが、肉体や、肉体から発生する本能とか感覚に心が縛られて、心の融通性の極め て狹い消極的な心になると、その受け入れ態勢を妨害することになり、この尊い力も、働きも 十分に生命の中に受け入れることができない。事実をもって、これを自分の体で経験したので ある。  それまでは、何をしてもいっこうに丈夫にならず自分が学位を持っている医者でありなが ら、その知識は自分の病を治すのに何の役にも立たない。ただ死を待つばかりの哀れな運命の 上に立つ自分としか思えなかった。それが、薬も頼れない、特に栄養の補給もできない絶対的 境地に入れられ、ただ山へ行って座って考える毎日が繰り返されているうちに、事実が自然 に、誰に教えられるともなく私にこの悟りを開かせてくれたのである。  それまでは、刹那刹那を、哀れな、心細い、か弱い心で生きてきたのに、中へはいってから は、病や、肉体のことばかり考えていられなくなってしまった。にもかかわらず肉体は自然 に、より良い方向へ変化していることに気付いたのである。結局、自分の心の態度が、今まで の消極から、積極に振り替えられただけで、このようになったのだと、何となく感じられたの である。  もちろん、当時はまだ無学な人間で、深くわかろうはずがないが、ただ事実によっておぼろ げながらも日一日と感じてきたのである。そして、人間の運命も健康も、それを完全なものに するには、結局心の持ち方だと思った。そして、目に見えないが、宇宙の一切を支配する不思 議なエネルギーを我々の生命に受け入れるのも、またそのエネルギーを全生命に分配するの も、これは神経が行なっている。そして、その神経は肉体の中にあるが、肉体の中に存在する だけで、肉体から受ける影響も全然ないことはないが、それは相対的であり、心から受ける影 響の方が絶対的である、ということがわかってきたのである。  そこでこの厳粛な事実から、今までのように証拠を見なければ安心できないというのは大変 な間違いであり、所詮、この大宇宙というものは、物質的に考えようとするから失敗するの で、大宇宙の根源にさかのぽって考えれば、非物質的なものではないか。見ることも出来な い、感じることも出来ないものから生まれてきている。一番の大もとは達磨大師ではないが、 廓然無想、自然というものだけではないか。ひとりでに発生したという、自然というものでは ないか。  世界の本質が自然から作られ、自然の中に計り知れない働きを行なう霊智があり、その霊智 が見えない人間の生命の中にある心というものの態度で、その受け入れ方が違ってくるなら、 自分を完全に活かすには、心の態度を取り替えるのが先決問題ではないか。また考えようによ れば、このまま山の中で死んでしまっても、心配しながら死ぬよりは、死ぬまであの満州で捕 えられ死刑の宣告を受けて刑場に立たされたときのような勇ましい気持ちでいた方が、いい換 えるなら、「死」から自分の心を遠ざけて活きている方が、同じ死ぬにしても死ぬ刹那まで気 楽ではないか。  これは、当時の無学な頭で考えた方法であるが、現在のように相当人生に関する研究をし て、人生に関する学問、知識を豊富に持つようになった今日考えても、当時の考え方は少しも 間違っていなかったことを、いつも感じるのである。  所詮、人生は心一つの置きどころ。人間の心で行なう思い方、考え方が、人生の一切を良く もし、悪くもする、というのが人生支配の根本原則である。自然の法則は、まことに峻厳侵す べからず。  幸い医学を研究していたので、心と神経との関係に気付いたが、でなければそこまで考えつ かなかったかもしれない。また研究したのが臨床医学でなく基礎医学であったことも、よりい つそうそれに早く気付いた原因だろうと思う。自分の病を、自分の医学知識で治そうと思うこ とがすでに不思議であるし、そのようなことを考えそうもない私がさらに医学を手がける気に なったのも、後になると自分で不思議で仕方がない。  すべてが、今日かくあるために、それこそ思いつきでなく、宇宙根本主体の霊智の働きが、 私の心の中に反映したのだと思わざるを得ない。  しかし、不思議な因縁でこの悟りを簡単に与えられると、自分自身が苦労していないので、 価値の認識を誤るおそれがある。  「簡単に得たものは、失いやすい」  これは最近のことであるが、東京のある婦人が、  「先生、けさ、富士山に登ってきました」  というので、突然でもあり、妙な話でもあると思っていると、  「本当ですよ先生、今は五合目までバスで行けますから箱根より楽なんです」  と答えた。我々が学生時代には、麓から三日三晩歩いて登った。一合目まで登るのでも大変 であったし、またその眺めもすばらしいと思った。それを冷房のはいったバスで、数時間で行 って帰ってくる。それで富士山に登ったと思っている。富士登山の苦しさ、楽しさは全然味わ っていない。実は、それと同じではないかと懸念するのである。  将来人生を完全なものにしようとする若い人達は、特に、およそ心で行なう思考ぐらい人生 に対して重大な影響をもつものはない、ということを常に念頭におかなければいけない。知る 知らざるを問わず、宇宙には、このような事実が厳として存在していることを決して忘れては ならない。  何事においても、そのときの心の態度が、成功を生み、また失敗にも追いやる。ちょっとし たことでも例外ではない。紙に一本の線を引くにも、丸を画くにも、心の在り方いかんですぐ 乱れがきてしまうのである。  人間は誰でも、大した経験や学問をしなくても、完全な人間生活、いわゆる心身を統一でき る人間であれば、男でも、女でも、誰でもひとかどの成功ができるようになっているのであ る。心身を統一し、人間本来の面目に即した活き方、どんなときも、「清く、尊く、強く、正 しい積極的な心」であれば、万物創造の力ある神韻縹渺たる気と、計り知れない幽玄微妙な働 きを持つ霊智が、量多く人間の生命の中に送りこまれてくるからである。人間はあくまで人間 である、という考え方で、人間を本当に考え得るようになると、心の態度も自然と清く、尊 く、強く、正しくなってくる。ところが、このようなありがたい条件があるにもかかわらず、 この世の中には運命的にも、健康的にも落伍している人が多いのは、この真理の逆をいってい るからである。日常生活が、感覚の世界にばかり活きているからにほかならない。つまり折あ るごとに、心を感覚の世界から遠く離して、感覚の世界を作った大もとの宇宙の真実相の世界 に心を預け入れ、静かな気持ちになり得る方法を知らずに生きているからである。  朝から晩まで、欲と感情と感覚に追い回されて、せかせかあたふたと落ち着かない生活ばか り送っている人間に、良い運命や健康が得られるはずがない。ところが、「ひかれ者の小唄」 とはよくいったもので、体が丈夫にならない、また良い運命に恵まれないという人は、生まれ つき体が弱いからとか、人が自分を認めないからとか、何か罪が他にあるかのように考えて、 いっこうに自分を反省しないという傾向がある。このような人間は、一生うだつのあがらない 哀れな、虐げられた生涯を送ってしまうことになる。  だから、今まさに鯲だとして悟られたに違いないこの宇宙真理を心に据えて、運命や健康を 完全にする万物創造の建設的作用を行なうプラスの気を、何をおいても、自分の生命に常に分 量を多く受け入れるようにしなければならない。そのためには、いかなるときにも、心の思い 方、考え方を積極的にし、仮にもその反対であらしめないことである。  「悟れば、一瞬にして幸来たる」  この真理が心の中に輝くと、健康も運命も、ともに求めずとも完全になるようにできている のが人間なのである。それは、心と神経との関係を考えればすぐ実証される。そして、この宇 宙エネルギーを自分の生命に受け入れるのも、またその宇宙エネルギーを全身に分配するのも 神経系統が行なっていて、その神経系統が直接、または間接に心の支配を受けているためであ るとわかれば、どんな人間でも、この厳粛な事実のうえから、自分の心に立派な論定ができる に違いない。  「この現象界に存在する一切の事物の根底は、科学的にのみ見れば、物質的なものであるが、 哲学的に観察すれば、どこまでいっても非物質的な、精神的なものである」  すなわち、眼にも見えないし、観念で想定しなければ想定できない。宇宙霊”という一つの 気が、全宇宙を支配し、それが宇宙の本質になっている、ということである。とすれば運命 も、健康も、自分の心の思い方、考え方で、良くも悪くもなるのだということがすぐわかるは ずである。これが私はわからなかった。医学博士が自分の体も治せず、体の悪いのは親譲りで あると思っていた。しかし本当は自分の心の態度が、自分の運命と健康を悪くしていたのであ る。  「病は治らないのではないか、きっと治らないに違いない。戦争で死ぬべき運命を、神はいた ずらに戦争で殺さず、今頃になって、病でのたれ死にするように苦しめているに違いない」  と、神も仏もあるものかと思った。考えてみれば、自分の心の行なう思考が、運命や健康を 急速に悪化させていたことに気付いていなかったのである。  ニカ年のヨーロッパの旅で何も得られず帰る途中、どこに見どころがあったのか、私を連れ ていってくれた哲学者の導きによって、私の汚れた魂は根こそぎ洗い清められてしまったので ある。本当にありがたいというより形容のできないほど、偶然の機会でインドへ行ったのであ るが、それまでは人間の心の行なう思い方考え方が、人生の万事を良くも悪くもするのだとい うことを知らなかった。知らないのも無理はない。人間の心こそ、宇宙一切の造り主である宇 宙大霊と自分の生命の本体たる霊魂とを、交流結合させる回路であるということを知らなかっ たからである。これを正しく心のものとするために、「真理瞑想行」を行なっているのである。  天風哲学の根本的な考え方は、  「この世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。この世は、本質的に楽しい、嬉し い、そして調和した美しい世界なのである」  ということである。ところが、多くの人は、これを信じないどころか思おうともしないで、 苦痛と、苦難と、失望と、煩悶に満たされているのが、この世界であると考えている。  「ああ、幸せだなあ、と思うようなことは、運命的にも、健康的にも、一度も味わったことが ない。だからそう簡単には思えない」  という人がいるならば、それは結局、心の態度が変わっていないからで、心の態度を変えな いかぎり、思いたくとも思えない。第一、思おうとする気持ちが出てこないのである。さびつ いた車は、回そうとして油を注いでも回らない。まず、さびを取ることである。そうしない と、苦痛や苦難をそのままいきなり自分の心のものにしてしまう。天風哲学は、たとえ人生に 苦難や苦痛はあろうとも、それを心の力で喜びと感謝に振り替えていくのである。心が積極的 になれば、振り替えることが出来るのである。振り替える方法をいつも教えているではない か。  天風哲学が、世界的にユニークであるというのはここであり、同時にここが最も重要な点で ある。であるから天風哲学は、神秘的な宗教的な信仰で導くような、価値のない教え方を断じ てしないのである。どこまでも真理そのもので導いていく努力をしているのである。  「いかなる場合にも、常に積極的な心構えを保持して、堂々と人生を活きる」  ここに天風哲学の最も重点が置かれていることを忘れてはいけない。さらにわかりやすくい えば、腕に自信のある船乗りは、静かな海より、荒波を乗り切る航海の方が張り合いがあると いう。これと同じく、病や苦難から逃げたり、避けたりせず、「矢でも鉄砲でも持ってこい」 と、苦しみ、悲しみに挑戦し乗り越えていき、自分の力でこれを打ち砕いていく気持ちにな れ、というのが、天風哲学の真髄である。そのような心を作るための方便の第一として、人間 らしい自己認証をしなければならない。  すなわち、人間はそれ自身を宇宙の創造を司る偉大な力を持つ宇宙霊と自由に交流、結合し 得る資格をもっている。資格があるから、同時にこれと共同活動を行なわせることもできるの は当然のことであり、そうすることによって万事を想うままに成就できるのである。  その資格は、身分でもなく、学問のあるなしでもなく、器量の良し悪しでもなく、人間であ ればどんな人間でも持っている。だから本当に生き甲斐のある人生を活きるには、これと共同 活動をすればいいわけである。これを悟れば、実に堂々とした人生を活きられることになる。 このことが正しく理解され実行されてはじめて、人間としての本当の生き甲斐ある人生が築け るのである。これを忘れてしまうからいけない。離れ離れになってしまうので自分だけ放り出 されたような気持ちになる。それはとんでもない誤りである。生きていることが、人間が宇宙 霊の力に抱かれている証拠である。この荘厳なる事実を絶対に忘れてはいけない。  私かインドで、病のためにすっかり体が弱ったときに先生が、  「お前は、世界一の幸せ者だなあ」  と私の顔を見ながら、しみじみといわれた。しかし、その時は腹が立った。いくら偉いとい っても、やはり山の中で一生暮している大だから、人の気分を損じるということを知らないの だろうか。いつ死ぬかわからない重い病を持っている人間に対して、世界一の幸せ者とはいっ たいどういう気持ちなんだろう。冷やかすにもほどがあると思って、 「その意味が私にはわかりません」  と不満な顔をすると、 「それがわからないかなあ、お前は。それじゃあ不幸だと思ってるのか」 「そりゃ、私は世界一不幸だと思っています。今まで何も大して悪いこともしないのに、こん な病に取りつかれて苦しんでるんですから」  「おい、よく考えろ、もっと奥を。苦しい病に虐げられながらも死なずに生きているじゃない か。その生きているという荘厳な事実を、なぜ本当に幸せだと思わないのだ。苦しいとか、情 ないとか思えるのも、生きていればこそではないか。生きているのは、造物主がまだ殺す意志 がないから、守ってくだされているのだ。それを幸せと思わないのか。お前は罰当りだ」  この言葉に声も出なかった。それまでは知らないこととはいいながら、自分の蒔いたとおり の花を咲かせ、実を実らせていたのである。いわゆる因果の律をそのまま行なっていたのであ る。  およそ人生には、人生を厳格に支配している一つの法則がある。それは原因結果の法則であ る。そして人生というものは、その人が自覚するかしないかを問わず、この法則を応用する度 合に比例する。すなわち、  「蒔いた種のとおり花が咲く」  という法則なのである。俗にいう善因善果、悪因悪果の法則である。人間の運命の中に地獄 を作り、また極楽を作るのも、この法則があるからである。それは人生におけるあらゆる悲 劇、あらゆる喜劇を生み出す秘密の手箱である。であるから、それを知って巧みに使う者の人 生は、自由と自在とを得て、いつも理想的な生き甲斐のあるものになる。  二度と生まれ変わることのできない人生を活きているこの刹那刹那は、自分というものがい つも、自分の人生の完全な主人公でなければならない。それには心が積極的でなければいけな いが、そうなり得ると、運命や境遇以上の力が出てくるのである。  この原因結果の法則の内容に関する第一の自覚は、  「宇宙霊なるものは、霊智ある大生命である」  ということを正しく考えることである。自然界と称するところの眼に見える宇宙ができあが るまでには、眼に見えない宇宙が、その以前からすでに厳として存在していたに相違ないので ある。これを考えなければいけない。なぜならば無から有は生じないからである。この目に見 えないものから、目に見えるものを作った、幽玄微妙な事実こそ、宇宙霊が偉大なる霊智的大 生命を持つ証拠である。であるから宇宙の最初は、ただこの宇宙霊のみであったといえる。  否、その外に何ものもなかったのである。そして、次第に現在あるような世界が、その無限 の霊智によって造られたのである。だから、この一切を考えたとき、世界を作った一切の材料 も、また宇宙霊の中から生まれたものといわねばならない。特に宇宙霊の分派分量を一番多く 与えられている人間の生命と、宇宙霊の持つ生命とは、その内容において、まったく不可分、 同一なものである。したがって、その霊智も同じ程度に到達し得るものであると断定できるの である。このような様子を結合して、考察を結論するなら、  「この宇宙ならびに世界の本質は、実に宇宙霊なるものだけである」  といえる。そしてこの宇宙霊なるものに、無限の霊智が存在しているのは、宇宙霊そのもの の創造的本性を完遂するため、いい換えるなら、  「あらゆる、すべてのものを創り出さんがため」  である。だから宇宙霊は、休むことなく働いている。創造に瞬時の休みもなくいそしんでい る活動体である。だからこそ、この宇宙は常に更新し、常に進化し、向上しつつあるのであ る。このような見地から考えると、この宇宙は驚くべき生ける世界なのである。常に創造的活 動をしている、霊智と心の体系を持つ生命体である。  真理がそうある以上、それをまず正しく信念しなければならない。それは、心が何かを思っ たり、考えたりすると、ただちに宇宙霊が、その心の状態のとおりに働きだすということであ る。人間が真理を思うとき、宇宙霊は人間の心を通じて、その正しい思考を表面に現わそうと する。反対に人間が悪を思えば、宇宙霊はやはり、そのとおりの事実を人生に作り出そうとす る。宇宙霊のもつ創造の力は、その心にきざまれる思考、観念に従って、積極方面にも消極方 面にも活動する。  特にその思考、観念が強烈であればあるほど、よりその活動力を増す。人間はその本質が霊 であるため、その本源である宇宙霊を呼び寄せる働きを持っているのは当然の事実である。だ から、これを確固たる信念として心に植えつけねばならない。  「人間が、ものを考えるとき、その心の背後には、宇宙霊、およびそれより発生する力が、十 分な用意をして控えている」  さらに詳しくいうなら、  「人間の背後には、人間が何を欲するにも、また何を人知れず思うにも、その一切を現実の形 として現わそうと待ち構えている宇宙霊が控えている」  ということである。そして人間が心に思い浮かべたことを鋳型として、いろいろのものを作 り出すという創造能力を活動させる。これが実に天風哲学の尊い発見であり、それを応用する と同時に、人々の反省と自覚とを現実にしようとするものなのである。  常に心の中に積極的な思考や観念をえがくことに努力し、それを宇宙霊の心に反映させ、こ れを見える形に変化させることに心掛けねばならない。そうすれば健康も運命も、否、人生の 一切が美化善化してくるのである。  要するに、この『真理瞑想行』の重点は、この尊い法則の活動と応用を会得させ、人生を人 間として最高の、また最も豊かな現実生活に到達させることにある。  人生はただ食べて、寝て、起きて、何十年か過ごすために人間として生まれてきたのではな い。何のために万物の霊長たる人間として生まれてきたのかは、私も知らなかった。知らなか ったというより誰にも聞いたことがなかった。アメリカにも、ヨーロッパにも長くいて、世界 的に有名な学者、高名な識者にも数多く会ったが、この大事な質問をしてくれた人はひとりも いなかった。それがインドの山の中へ行ってはじめて、  「お前はこの世に何をしにきたか知っているか」  と聞かれた。  この先生というのは、我々が常識的に考えていないようなことを時折いうのである。しか も、その言葉は悟りを開いた人でないとわからないという極めて階級の高いものであるが、聞 く方の程度が低いので、つまらないことをいっているようにしか思えない。このときも、口に は出さないが、心中思ったのは、  「この世の中に自分で注文して出てきた奴はいないじやないか。誰でも、そのようなくだらな いことを考えるわけがない」  ということであった。  ところが、本当はそれを考えなければいけないのである。しかし当時は自分の人生の目的な ど考えたこともないし、また質問されたこともないので答えようがない。仕方がなく負け惜し みに、  「わかってはいますが、言葉ではいえません」  と答える。すると先生は、  「私が今まで考えていたより、お前は馬鹿なんだな。それにしても、ここへ来てよかったね。 もし来なければ、そのおま病と取り組んで、病と組打ちしてそのままこの世を終わるだけだ」  とおっしやった。  なにしろ知識としてあるのは医学だけであり、哲学的なものがないので、なかなか考えられ なかった。人間が万物の霊長であるというのも、人間が自分で付けたのだから、結局、我田引 水ではないか。犬や猫や猿が寄り合って人間が一番優れていそうだから、万物の霊長に推薦し ようといったのならまだしも、人間が勝手に決めただけのことではないか。また、名ばかりは 大変結構だが、見るかぎり、知るかぎり、他人はいざ知らず、自分は今まで万物の霊長たるあ りがたい思いをしたことは一度もない。いつも人生に味わうのは不幸な面ばかり。万物の霊長 どころか、人間というものは、この世の中にさいなまれ、苦しみにきたのではないか、と思っ たのである。   だから、平気な顔をして先生にそのように答えたところ、一月ほど首の廻らないぐらい張り  倒されたのである。   禅の問答と同じように、答えが違うとだまってなぐるのである。それからまた考えた。   「我、いずこよりきたり、いずこに行かんとす。何のためにこの現象世界に人間として、生ま  れ来しや」   考えて、考えて、考えつくまで半年かかった。しかし考えていくうちにだんだん魂の夜明け  がきた。そしてようやく、宇宙の根本主体の持っている働きの方から人間を考えてみようとい  う考え方が出てきたのである。   人間それ自身の存在だけを考えると、いかにも哀れな、不幸なものに感ずることもあるが、 一 宇宙の根本主体の持つ幽玄微妙な働きと、人間の生命との関係を考えると、これは大変な見当 ] 違いから生み出された間違いだと気付いたのである・ 一  秩序と均整のとれた、宇宙根本主体の働きによって支配されたこの現象界に、生み出された ] ものの中で、一番優れた存在である人間が、この世の中に苦しみにきたと思うのが間違ってい 。る・人間は万物の霊長といわれるが、その優れた点は何か。 一 「ぜいたくをしにきたのでもないし、病をわずらうために出てきたのでもない。何か人間以外 一 にできないことを人間にさせるために、他の生物にない力を与えられている。その力があるか ら万物の霊長なのだなあ」  と思った。  結局、この世界に存在する進化と向上が宇宙の根本主体の意志であるのをみると、  「人間は進化と向上に順応するために生まれてきたのではないか」  と思った。  もちろんそのとき、確固たる信念はない。そうではないかなあと思っただけである。半信半 疑ながら、  「まあいいや、間違えたらまたなぐられるだけだ」  と、ちょうど不勉強な学生が試験場にはいるような気持ちで、先生のところへ行ったのであ る。  「きょうは人間が何しにこの世にきたか、という質問の答えを持ってきました」  なぐられるのを覚悟だから一間ばかり距離をおいて、手が挙がったら逃げだそうと思ってい た。  「人間は、宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきたのだと思います」  すると先生が二コツと笑って、 「うん、よく出来た」   このときは嬉しかった。   つまり人間はそれ自身、この宇宙の創造を司る造物主と称する宇宙根本主体である宇宙霊と  自由に結合し得る資格を持っている。と同時に、共同活動を行なう一切の力が与えられてい  る。これを理解して活きる者が、生き甲斐のある人生を造り得るのである。   この悟りが開けて以後は、人生は「天馬空を行く」状態である。他の追従を許さない幸福で  毎日を活きているのである。だから、いかなるときでも忘れてはいけない。   「不孤」   自分というものは、ひとりでいるのではない。常に宇宙霊というものに包まれていて、しか  も宇宙霊は全智全能の力を持っている。それと結び付いている生命を自分が持っているのであ  る。   つまり自己というものを無限大に考えてよい。霊智によって作られ、宇宙の中に最も優れた ‐‐‐ ものとして、自分は造られたのだという事実を、断固として信念しなければいけないのであ  る。   それだけのことが心の中にしっかり決められれば、何も大した努力をしなくても、恵まれた  幸せな人生を造りあげることができる。大変難しいようだが、よく考えてみれば易しいことな  のである。人間の心のあり方が、結局人生を支配する法則の根本である。  人生を、あまり難しく考えない方が良い。難しく考えるとわからなくなる。真理は足もとに ある。高遠な学理の中にあるのではない。もとより軽率な考え方ではいけないが、なまじ学問 をした人は、真理は遠く大海の底、深山幽谷の奥山にあるような思い違いをすることが多い。 人間それ自体の生命存在を、思索の中心において考えれば、大きな的はずれをしないですむは ずである。  何はさておき、人生を支配する法則にのっとり、自分の心を断然消極的にしない覚悟を堅持 しなければならない。そのために、緩もうとする心、乱れようとする心をしっかり押さえつけ てくれる暗示の誦句を与える。  この誦句は、黒豹の群がるインドの山の中で、あちらこちらにある大理石に、悟りを開いた 人達の言葉がサンスクリットで彫りこまれてあった。その言葉をもとに作ったものである。あ の偉大なヨガ哲学を学んだ人々が、こうした真理で彼らの人生を守り抜いてきたに違いない。 当時、まだサンスクリットを深く理解する語学力はなかったが、このときには脇に立っていた 先生が、英語でその意味を説いてくれたのである。それまでは、朝に晩に病を気にし、運命の 非を嘆き。  「何と皮肉な運命だろう、戦地で死ぬならまだしも、こんな名もないインドの山奥で死ぬの か」  と、来る日も来る日も、暗い重い気持ちでいた。汚れたきたない魂に、大きな鉄槌を加えら れたような目覚めがきたのである。通りいっぺんの言葉として覚えているだけではいけない。 毎日の人生に活きる瞬間、瞬間の心の鏡にするために、苦心して日本語に作り直した誦句であ る。  匸言、匸冨を魂に明確に刻みこむように口にするがよい。      思考作用の誦句  我は今、宇宙霊の中にいる。  我はまた、霊智の力とともにいる。  そもそも宇宙霊なるものこそは、万物の一切をより良く作り更え ることに、常に公平なる態度を採る。  そして、人間の正しい心、勇気ある心、明るい心、朗らかな心と いう積極的の心持ちで思考した事柄にのみ、その建設的なる全能の 力を注ぎかける。しかりしこうして、かくのごとくにしてその力を 受け入れしものこそは、またまさしく力そのものになり得るのであ る。               1 第三章潜在意識とその性能           鶚  さて、この現象世界に存在する一切のものというものを造り出す「創作の力」というものの 様子については、いままでの「真理瞑想行」の講演で相当明瞭に理解されたことと思う。そこ で、今日は宇宙生命と人間の生命とがいかなる関係をもっているかということを、科学的に謚 いて、諸君の人生に対する理解を一段進めて正当にしたいと思う。  人間の生命と宇宙生命とは、いかなる関係を有するか。それは「一すじの流れの中にある」 のである。  その理由として、まず第一に、人間の心というものの内容を正しく理解しなければならな い。  最近の精神科学や実験心理学の研究で、人間の心のもつ性能や本質の様子はかなり奥深くま でわかってきて、特に人生というものを正しく研究しようとする者には、相当価値のある豊富 な発見と参考とを提供している。そしてその発見を土台として推論を進めていくと、心という ものの内容を随分と広汎なる範囲にわたって知ることができる。  そしてその結果、人間の心というものは、実は二つの異なる作用を行なう意識の領域のある  ことが明らかになる。   その異なる意識の領域とは、そもそもいかなるものかというと、いつも講習会のときにいっ  ている、「潜在意識」と「実在意識」という二つの意識である。   この二つの意識も厳密に議論するなら、結局、結合された相互作用をもつ一体のものなの  で、詳しくいえば、この二つの意識は名目の上からは別々のもののように考えられても、実は  全然別個のものではなく、一個の精神を本としてただその働きの上で二つに分れているものな  のである。   すなわち実在意識は、形と感覚の世界に、人間を不自由なく生活させるために働いているも  ので、しかも、この意識は常にその周囲の事物と接触することによって、間断なく切々として 一 発達しているのである。   だから生まれたての赤ん坊のときには、その実在意識なるものは、むしろ全然有るか無きか 一 のごとく、なんら役立つ仕事を行なえない。否、極言すれば、赤ん坊は潜在意識でのみ生存し 一 ているといってよい状態である。だから赤ん坊なるものは、第三者との交渉を開くことが出来  るまでは、その実在意識は殆んど働かしていない。働かすことが出来ないでいる。がしかし、  実在意識は生まれ出でたその瞬間から少しの休みなく発達し始めている。そして赤ん坊が年長 ・ 者達の活動、音声、表情などを見たり聞いたりするたびに、実在意識は次第に発達する。だか ら厳格にいうと、人間の嬰児期や幼児期においては、環境が児童を作り、それから児童期に入 ると、児童それ自身が児童を作るというのが一番正しい考え方である。  なお、次に知っておくべき大事なことは、実在意識が直接に行なった動作は、そのいかなる ことも問わず、それを数多く繰り返していると、いつかその動作が、今度は潜在意識の支配で 行なわれるようになる。するとその後その動作は半意識的にか、または、無意識的に行なえる ようになり、実在意識は、以前のように直接監督の努力をしなくて済むようになる。  たとえば、何か慣れないことをするとき、最初の間は、実在意識で終始これを支配して、少 しも心を離すことが出来ないが、だんだん慣れてくると、今度はたいして実在意識を使わなく とも、極めて容易にそのことを行なえるようになるのが何よりの証拠である。だから習慣的動 作というものは、自分の潜在意識に働かされてなすところの行ないなのである。  この事実によって考察を進めると、潜在意識なるものは、肉体の随意なる動作のみでなく、 不随意なる動作をも支配するものであることが分明する。すなわち心臓の鼓動、肺臓の伸縮運 動、胃腸の消化作用などは、いずれもみな潜在意識の働きによって行なわれているのである。 こうした方面の作用は、意識的にこれを行なおうと考えるに及ばない。それはみな無意識の中 に行なわれているのである。  なお特に潜在意識について記憶すべき重大なる真理は、潜在意識こそは、肉体の建設者で、 また広い意味においての人生の建設者であるということである。  言い換えると、創造の働きを司る心であるということである。だから我々の肉体は、この潜 在意識の支配の下に間断なく新しい細胞を生みだし、創り出しているといえるのである。  たとえば、人間の指が鋼鉄のようなもので造られていたとすれば、それは短時日に磨滅して 使えなくなるに相違ない。しかし幸いなるかな、潜在意識の支配の下に生み出された細胞の結 合した、いわゆる、細胞の集積した肉で作られているために、日々刻々、肉体の建設者である 潜在意識によって、修繕され、補給され、そのために擦り減るということがないのである。  しかも、このような不思議な働きは、寝ても、覚めても、間断なく我々の生命の中において 行なわれているのである。だがこの不思議な働きを、実在意識なるものは全然意識しない。  けれども、組織を形造る無数の新しい細胞は、常に潜在意識の支配で生み出され、それはあ たかも勤勉なる労働者のように、刻々命じられた場所へと疾走しているのである。  それゆえに、真理の上から形容すれば、「日々我々は新しく生まれいで、朝ごとに甦って いる」といってよいのである。  いつも講演のときに説いているとおり、このようにして我々の肉体生命の全器官と全組織 は、一年ないし数年の間に全部新しく更生しているといってよいほどに、日々、新たになるの が真理なのである。   しかし、世の中にはこれと反対に、何年も何年も同じ病で苦しんでいる大がいる。それは詮 じつめると、肉体を更生する「再生力」という力が、「心の態度=精神状態」に、著しく関係 しているという重大な事実を正しく自覚していないからである。   すなわち潜在意識の中にある再生力が実在意識の邪魔、悪同化によって充分働かない結果で 。ある。   たとえば、人間の血液の中にはバクテリアを殺してしまうある要素がある。この要素はバイ キンが襲ってくると直ちにこれを取り囲み、特殊な液体を注いで殺してしまうように自然に出 来ている。  ところが、その人の心が、消極的で、ひ弱く、決断力もなくぐずぐずしていて、引っ込み思 案的なものになると、その心持ちがすぐ潜在意識を同化して、潜在意識の再生力の発動を萎縮 させてしまう。  だから、こうした事実のうえから考えても、  「潜在意識はそのうえに映された印象のままに作用するものである」                                 なぷ  ということが、はっきりと分かる。そして、神経過敏の人の病の癒りが遅い理由もこの点に あるのである。  それからさらに諸君はこういう経験を持っていることと思う。例えば数学の公式は教わった が、応用問題をどうしても解くことが出来ない。ところが眠りについて、夜中ふと眼が覚めた とき、はからずもその問題を解決する考えが心に浮かんだというようなことを……。これは潜 在意識の微妙なる作用の結果なのである。  したがってこうした真理を聴いている場合でも、わかる、わからないは第二で、心を打ち込 んで聴いていると、潜在意識がそれを受け入れて、必要なときに実在意識によい合図を与えて くれる。そして正しい自覚や悟りを促してくれる。  というのは、心を打ち込んで聴いていると、その心の態度が潜在意識に同化的に反映する。 すなわち、その実在意識の態度が自然に潜在意識にはっきりと反映して、それはちょうどカメ ラのシヤッターを切ったと同様、実在意識に接触した一切のものが、潜在意識に印象されるか らである。ゆえに潜在意識というものは、肉体にも精神にも驚くべき影響を与えている。それ は建設と破壊との二方面に、ちょうど、ものの声がするように、深甚なる影響を有しているも のなのである。どういうわけで、このように潜在意識に、いろいろの効果や特徴があるかとい うと、それは潜在意識は、実在意識を通じて、宇宙大霊と結ばれているからにほかならない。  すなわち潜在意識は、宇宙霊と同様、一切のものを作り出し産み出す創造力を有しているわ けである。  そして同時に、われら人間は、この意識を完全に整理することによってのみ、宇宙の究極的 真理を知ることが出来るという偉大なる事実を悟らなければならない。  だからこそ、正しい自覚を人生にもとうとするには、この宇宙霊から、霊智の分与を受けて いる潜在意識なるものの一切の作用が、「実在意識の態度」というものに同化して、その作用 を、あるいは良くもし、あるいは悪くもするということを決して忘れてはならない。  これはまさに重大な人生への理解である。元来、潜在意識というものは、宇宙霊と直結して 高い程度の作用を固有しているが、さらに実在意識の態度に同化的に活動するという自然傾向 があるためである。  否、こうした事実があるからこそ、昔から洋の東西を問わず、哲学も宗教も修養法も、すべ てが「心のもち方」「心がけ」ということを人生の一番重要なものとしているのである。  心理学では、これを暗示の無条件感化といっている。  われらぜひとも真人たらんと欲する者は、何人といえども、潜在勢力という驚くべき絶大な 力が与えられているのである。  生まれながらにして宇宙霊から分与されているこの偉大な力は、人間の潜在意識の中に充満 しているからこそ、この偉大なる力を発動させて人生を雄大に荘厳に活きねば嘘である。  そのためには、この力の発動を邪魔しているものをコントロールしなければいけない。  すなわちいかなる場合にも虚心平気の気持ちになれるように、実在意識の態度を入念に心が け、訓練しなければならないのである。      人間本質自覚の誦句  人は万物の霊長として、宇宙霊のもっ無限の力と結び得る奇しき 働きをもっものを、我が心の奥に保有す。  かるがゆえに、  かりにも真人たらんには、いたずらに他に力を求むるなかれであ る。  人の心の奥には、潜在勢力という驚くべき絶大なる力が、常に人 の一切を建設せんと、その潜在意識の中に待ち構えているがゆえ に、いかなる場合においても心を虚に、気を平にして、一意専心こ の力の躍動を促進せざるべからず。 S;言葉と人生  今日は、普通の人が、心の態度とか、ひいては人生や生命に大きな影響を与えることはない だろうと思って、さほど大きな注意を払わない事柄に対して注意を促したい。  何でもないと、自分が思っていて、それが直接的には自分の心の態度を、そして結果におい て自分の人生や生命に大きな影響を与えるものとは、それはいったい何であろう……。  それは諸君が日常便利に使っている「言葉」というものである。  私はこの「言葉」というものを、そんなにも重大な影響を持っているものとは少しも知らな かった。  そして人生に関する学問をもう相当研究した後、しかもインドの山の中で、およそ文化から ほど遠い民族の住まっている、あのヒマラヤの第三ピークのカンチェンジェンガの麓に住む、 ヘプチヤ人種の一人から(もちろん、それは私の先生であったけれども)ある朝、  「お前は毎朝、朝の挨拶のあと、俺はお前にズ‐7日はどうだい”。’How do you do「 today?"と 聞くと、必ずお前は。41 am not quite well."というなあ。それをいってそのとき楽しいかい」  と、いわれた。  「いや楽しくはありませんけれども、真実こういう病を持っていますから、朝目が覚めますけ れども快い気持ちでは覚めません。やっぱり何となく、こう、熱があるように感じ、体の全体 がけだるく感じまして、頭は重いし、つまり快適な気分を感じません」  と答えると、  「そういうことをいってお前は気持ちが良いか」  といわれました。  「気持ちは良くはありませんが真実そうでありますから」  と再びいうと、  「そうかねえ、お前は相当アメリカやヨーロッパで学問をしてきた人間だと聞いていたが、そ ういう方面に対する知識は全然ゼロだなあ」  という。  「それはどういう意味ですか」  「お前は自分の使っている言葉によって自分の気持ちが駄目にされたり、あるいは非常に鼓舞 奨励されたりする直接的な事実を少しも考えていないなあ」  といわれました。  それは本当に考えていなかったから黙って顔を見ていたが、  「造物主によって便利な言葉を我々人間だけに与えられているが、言葉というものが、積極的 に表現されたときと、消極的に表現されたときとでは、直接的にその実在意識が受ける影響は 非常に大きな相違がある。先ほどのように、今日は不愉快ですとか、頭が痛いとか、熱があり ますとか、気分が良くない、とかいっているときには、愉快を感じないだろう。今日は嬉しい です、楽しいです、ありがたいです、という言葉をいったときには、なんともいえない快さ を、その気持ちの上に感じるだろう。その感じるということは何が感じるか、お前はわかる か。実在意識が感じているんじやないか。そして実在意識が感じたものが、直ちに潜在意識に 直接的に影響して、そして潜在意識が実在意識と同じような気持ちになると同時に、神経系統 の生活機能も同じように良くも悪くもなるのだ。そうすると結局、お前の生きる力が、その言 葉の良し悪しによって、やはり良くも悪くもなるじやないか」  「しかし本当に具合が悪いとき、具合が悪いといっちゃいけないんですか」  「具合が悪いとき、具合が悪いといって癒るか」  「いや、癒りはしませんけれど、やはり痛いときは痛いといいます」  「いや、痛いとき痛いというのがいけないんじやないんだ。痛いときは痛い、痒いときは痒い という、それは当り前のこと。だからいってもいい。だが重要なのはそういったときにそれか ら後を自分が考えなければよい」  「それはどういう意味ですか」  とい’つと、  「お前は今日はどうも頭が痛いとか、今日はどうも熱がありますとかいっている言葉の後に、 愉快だとは思わない、実に不愉快だ、たとえ言葉に出さなくても心の中で思っているだろう。 何ともいえないいやな気持ちだなあ……と。そして普段とちがって、よくない状態が体に現わ れてくれば、それを元にして痛いとか痒いとかいいながら、それが元でもっと悪くなりはしな いだろうか、死にやしないだろうかというふうに、現実よりも過大に神経をつかいはしてない か。それがいけないのだ。寒いとか暑いとか痛いとか痒いとかいうことは構わない。それは現 実に対する表現だから。それに対してお前はつけ加えなくてもよいことをしょっちゅう、つけ 加えているじゃないか」  「いやしかし、それは普通の人間は皆そうでしょう」  と答えました。すると、  「普通の人間のことをいっているんじゃない! 俺のところに来てこういうふうに毎日毎日真 理を探究している以上は普通の人間じゃないんだ! まだ自分は普通の人間だと思っているの か、お前はI・ 普通の人間はお前のように毎日毎日真理と取り組んで貴重な時間を過ごしちゃ いない。毎日毎日くだらない人事、世事にせわしく働き、やたらとその言葉を汚し、実に、自 分ならびに他人をも悪くするような言葉のみを終始使っているのだ。それは凡大のいうこと だ。真理を探究している人間がそういう考え方を持つことは、非常に愧ずかしいことで、結 局、極端に自己を侮辱していることになるじゃないか! もう少し俺はお前を賢明だと思った が、あんまり賢明でないなあ……」  といわれたときに、私は本当に恥ずかしい思いをした。  いろんな理屈をさかんにいって、卑近な学問を研究したために、普通の大よりも人生に関す る理屈をべらべらいうだけで、いっているそばから、自分のいっている理屈に自分が苦しめら れていた、ということを考えてみると、実際自分ながら、あんまり利口じゃないなあと思っ た。  さて、私のことばかりいっているが、あなた方も考えてごらん。  あなた方が四六時中使っている言葉……。  自分の言葉に自分が尊敬を感じるような言葉をいっているか1・  たとえていえば、暗示の誦句をいっているときのような厳かな気持ちになれるか!  自分のことをいうときに自分自身を知らないで、自分の生命を一寸刻み五分刻みに馬鹿馬鹿 しいことを平気でやっている。そういうことを悪いと考えないでやっている。悪いと考えない でさかんにおしゃべりしていると、自分自身ばかりでなく、それを聞いている人の生命にまで よくない影響を与えてしまう。  それはお互の精神生命の中の、実在意識と潜在意識と、それに繋がる神経系統の生活機能と いう、三角関係を考えると分る。人々の多くは生きている現在を忘れていて、生きているのは 神経系統の生活機能のおかげだということを忘れてしまっているから、肝心かなめの神経系統 の生活機能の働きを悪くするようなことを、知らないでやっている。それでいて、やれ健康が どうの、やれ運命がどうの、という。それでは健康だって運命だってよくなくなり、諸君を苦 しめるのが当然だ・……苦しむ方面へ自分の人生を振り向けているのだから。つまり暗示の無 条件同化を自分でやっている。  人間の精神生命の中には、暗示の感受習性というものがある。だから、たった匸言をいうの も、この暗示の感受習性というものが、必ず、自分が気がつかなくても、ものの声に応じたよ うに感じる。感じると同時に潜在意識に対して、そのとおりの状態が働き出すのである。  潜在意識の状態が実在意識の状態に同化してくるのである。そして、その結果が気高い言 葉、神聖な言葉であり、いい換えれば、積極的な言葉を表現した場合には、生命の一切が極め て状態の良い事実になって現われてくる。けれども、万が一、消極的な、怒り、悲しみ、悶 え、迷い、そして悩みが遠慮なく口から出されるという場合には、もう怖ろしい結果を神経系 統の生活機能に与えてしまうのである。  考えてみよう。たとえばここに極めて快適に回っているモーターがあるとする。このモータ ーの回転の一番の生命はモーターに捲かれているコイルである。つまり人間の生命にたとえれ ば神経系統である。そのコイル配列をちょっとでも乱すようなことをしたらどうなるか。百馬 力のモーターでも百馬力の性能が出なくなるだろう。  それと同じように、万物の霊長たる人間に生まれても、その人間の生命を完全に活かす一番 大切な神経系統の生活機能がアンバランスになったならば、万物の霊長とは名ばかりの存在に なってしまうではないか。私が、諸君に心の持ち方を常に積極的にしろというのも、この言葉 と相対関係があるからなのである。何気なく出てくる言葉というものはあるものではない。ど んな人の言葉ですら、その言葉になる前には、観念が言葉を創るのだから。  真剣に考えよう! 実際人間が日々便利に使っている言葉ほど、実在意識の態度を決定する うえに、直接に強烈な感化力をもつものはない。感化力というよりむしろ暗示力といおう。  このことを完全に理解し、かつこれを応用して活きる大は、もはや立派に人生哲学の第一原 則を会得した大だといえる。  何故か!・  それは人生というものは、言葉で哲学化され、科学化されているからである。すなわち言葉 は人生を左右する力があるからである。  この自覚こそ、人生を勝利に導く最良の武器である。われらはこの尊い人生の武器を巧みに 運用し応用して、自己の運命や健康を守る戦いに饗爽として、輝かしい希望に満ちた旗を翻 しつつ、勇敢に人生の難路を押し進んで行かねばならない。  そしてこの目的を実現するには、常に言葉に慎重な注意を払い、いかなるときにも、積極的 以外の言葉を使わぬように心がけることである。そうすると、それが人生哲学の第一原則であ る暗示の法則を立派に応用したことになり、期せずして健康も運命も完全になる。  この真理に従って人生を活きるには、  「その匸冨一語、その言葉のすべてが、人生に直接的に影響する暗示となる、という大事な宇 宙真理を絶対に忘れないこと」  であり、さらに努めて積極的の言葉を使う習慣を作ることである。そうすれば、それは取り も直さず宇宙霊に立派な力の合図を暗示で行なったことになるからである。  事業をしている人の参考になるために話そう。私が若い時に非常に可愛がってもらった日比 谷平左衛門という大が日本橋の堀留にいた。  横浜のボテ振りから始めてついには、その当時の金で五億円からの金を造ったという有名な 働き手だ。ちょうど私が知り合いになってから二年目であったと思う。インドから綿花を仕入 れて、その船が上海に停泊しているときに船火事を起こして綿花が丸焼けになった。そのため に兜町で綿花の相場が急に騰貴したくらいであったが、その火災による損失額が約二億円にな っていた。その当時の二億といえば今の二千億円にも当る大変な額で、もう一文なしになっ た。本人はどれだけがっかりしたかと思って、私が、  「とんだことが起きましたなあ」  といったところが、  「いやI(ツ(ツ「ツ、また儲けさせてもらう大きな動機が出来ましたよ」  という。  「えツ」といって「承れば二億からの損害だそうで」  「いや、私はそれを損害だとは思っていません。二億の元金を拵えないで、神がそれを拵えて くれて、今度はその倍数がまた戻ってくると思うと大きな楽しみです」  といった。やっぱり偉い人間はさすがだなあと思った。  たいして学問もないボテ振り。ボテ振りというのは、横浜の波止場で船に積み出す軽い荷物 を荷籠の中に入れて担いでいくという、まあ今はいないが、昔は軽子人足といった。それから 成り上がった人だがね、そういうたいへんなことに遭ってもビクともしない。  ところがどうだ。いまの事業家を見てみなさい。僅かの不渡りを受けても、すぐ青菜に塩み たいになり、少々の損害を受けても「もう駄目だ」といってしまう。だから戦後世の好景気に やたら焜られて高度成長した奴がバタバタバタと将棋倒しに倒れてしまうのは、欲の皮だけ突 っ張っていて、心にちっとも信念というものがないからなのである。  健康もまた同じことだ。これは日露戦争中の話であるが、あの璽霊山高地(二〇三高地)の 激戦のときの伝令の話をしよう。  当時、軍の命令の下達連絡などは皆伝令によって行なった。特に状況が急を要するときは、 三人の伝令を同時に使ったものだ。今は無線電信とか電気的通信器械があるからよいが、その 当時は通信器械はなかった。だからすべての報告は、生きた人間が使われた。  ちょうど私も満蒙方面の偵察を終えてしばらく体に暇が出来たので、乃木さんのあの璽霊山 高地の戦いを見ようとやって来た。  ちょうど乃木さんの司令部に伝令が、  「報告!」  といいながら馬をとばして来た。そして馬から降りようとしたときにプスッとその伝令の太 腿に銃弾が当り、どっとばかりに落ちてしまった。そして伝令はひっくりかえったまま次の言 葉が出ない。ただ痛い痛いと叫ぶばかりだ。  すると次の伝令がやって来て、これもまた「報告!」といって馬から降りようとするときに 今度は胸に銃弾が当った。これもひっくりかえって人事不省になった。  三人目の伝令のみが、弾丸に当らずに報告を立派に終えたので、その報告は司令部に完全に 届いたのであるが。しかし、その時のことだ。  大腿をやられた伝令と肺を撃ち貫かれた伝令とが看護兵に担架に乗せられて、野戦病院に送 られた。  私は軍人ではないから、眼の前で倒れた人間に多少の気持ちを動かされたので、その晩の夕 食後野戦病院に行ってみた。そして、看護兵に尋ねた。  「昼間司令部で重傷を負った伝令がいるだろう」  「一人は死んでしまいました」  という返事なので、そうだろうなあ、肺臓をぶち貫かれたら死んでしまうだろうなあ、と思 って、 「二番目の伝令か」  と聞くと、 「いや一番最初のです」  と欠にえた。 「一番最初の伝令は大腿をやられただけではないか」 「これが弱い兵隊でしてねえ、痛い痛い痛い痛いといい続けて出血多量で死んでしまいまし た」  「肺臓をぶち貫かれたのは」  「あれは元気ですよ!」  という。行ってみるとまっ青な顔で、息も絶え絶えのように見えたが、  「どうだ」  と聞くと、声に力はないけれども、  「大丈夫です」  と返事した。その時私はこれは助かる、と思った。すると二コツとうすら笑いして、  「これくらいのことでは死にませんよ」  と言った。本当にこの人は死ななかった。  私は後年ひどい肺病に罹ったときに、すぐその兵隊のことを思い出した。そしていまだに忘 れない。四国の愛媛の連隊の男で、橋田良平という男だ。七十いくつで死んだが……。  やっぱり人間の意志の強さ。これが現代の人なら肺でもぶち抜かれようものなら「ああもう 駄目だ」と弱音を吐くに違いない。とにかく、人間は造物主から、言語活動という、本当に考 えてみると考えきれないほどのありがたいお恵みを受けている。   この尊いありがたい恵みを乱暴に使ってはいけない。いつもいうことだが、今の人達は国を 護り、身を守る大切な宝刀を、めったやたら、台所で菜っ切り包丁として使うようなことをや っている。  「言葉」のことである。  やたらに消極的言葉を使うことが、造物主が特別に与えられているお恵みであるかのように 思っている大がいるが、とんでもないことである。仲間の群を抜く人の言葉というものは消極 的な言葉を決して出さない。しかし、あなた方ときたらもう始めから終りまで消極的なのだか ら。  たとえば、体の悪いときに、「ここが疲れた」とか、「ここが痛い」とか、「ここが悩ましい」 とかいう。いうのは構わないが、それは感じなのであるから、逆にいったら嘘になる。たとえ ば頭が痛いときに「頭が痛いか」、「いいえ痛くありません」。耳が痛いときに「痛くないか」、  「いいえ痛くありません」。これは嘘である。  痛いのは痛いでよろしい。けれどもそのあとがいけないのだ。あなた方は「痛くてしようが ない」とか、「どうにも死にそうだ」とか、「もう駄目だ」という。それがいけないのだ。  そしてそれをあなた方は、さらに理屈をつけて消極的言葉をわざわざいう。  「痛くてどうにもしようがないから、痛くてどうにもしようがないというんじやありません か」  という。  痛くてどうにもしようがない、といって、どうにかしようがあるか。よく考えてごらん。つ まらないことだ。  たとえば時候のようなものも、暑いときでも「暑いなあ、やりきれないなあ」これがいけな い。暑い寒いは感覚だからそれはいって悪いとはいわない。「暑いなあ」といったなら、あと にもっと積極的なことをいったらよいではないか。「暑いなあ、余計元気が出るなあ」と。  「丸い卵も切りようじゃ四角、ものもいいようじゃ角が立つ」というではないか。ところがあ なた方は「ものいえば唇さむし秋の風」で、いっているそばから自分を傷つけ、大を傷つけて いる。気がつかないからいっているんだろう。  しかし、廓爽溌刺として人生の難路を輝かしく突破して進んで行こうとする天風会員は、ど んな場合にも自分の言語や言葉で消極的な表現をして、そして自分の実在意識を通じて自分の 生命をそこない、なおかつそれを耳で聞いている他の人の心持ちまで悪くしないようにしよ  そうなると善人が悪大になるじゃないか。自分じゃ悪大にならないつもりでも他人に迷惑を かけていれば立派な悪人ではないか。その匸言一語が自分のみでなく、すべての人々にいい影 響も与えるし悪い影響も与える。  だから、かりそめにも天風会員は、常に積極的言葉を使う習慣をつくりなさい。習慣となれ ば、それはもうたいした努力をする必要はない。だから実際人生を活きる場合、常に善良な言 葉、勇気ある言葉、お互の気持ちを傷つけない言葉、お互に喜びを多く与える言葉を使おう。  私は、どんな人と会ったときでも、一番最初の挨拶は同じ挨拶である。  「先生今日は」  「やあ、元気か!」  とすぐいうでしょう。  「顔色が悪いようだが、どこか悪いか」なんてことはいったことはないでしょう。  顔色が悪かろうと、今死にそうであろうと、私は必ず、  「しっかりしろ、元気出せ1・」  と必ずその一点張りじやないか! それを親切なのか、それとも親切のはき違えをしている のか、 「おはよう。あんたどこか悪いことない?」 「どこも悪くないわよ」 「そう。気のせいか青いわ」  なんて、世間の凡人達はそんなことを平気でいう。いわれたら今度はこういってやりなさ  い。   「あんたの眼のせいじやないの? 青くてもさし支えないわよ。豆を見なさい。青いほどうま  いわよ!・」   相手のいった言葉にひっかからないようにしなさい。すぐひっかかってしまうんだから、わ  ざわざひっかかりにこっちから行くあわてものがいる。ただ使わなければよいのだ。どうして  も使いたかったらたった一人になったときに使いなさい。そうすれば人に迷惑をかけずにす  む。自分だけが損害を受けるだけだ。   とにかく一日の人生を活きるときに、お互の気持ちに勇気をつける言葉、喜びを頒ち合う言  葉、聞いても何となく嬉しい言葉をいい合おうではないか。   人間の気持ちは誠におそろしいものである。私は平素いくらも経験しているが、たとえ医学  上からみれば助からないような病人の枕元に行っても、こちらが元気で積極的態度のときに 一 は、その人間の状態がずうっと良くなってしまうものだ。私はそれで、どれほど危篤になって ] いる人間を助けてきたかわからない。 【 ‐1さあ心配するな1・ 俺が来たからもう大丈夫だから、いいか! 俺が駄目だといったら覚悟 一 【 しろ。俺が駄目だといわなければ大丈夫だから1・】   というとずうっと勇気が出てくるものです。  だから私はいつもいう。お互に勇気づける言葉、喜びを与える言葉というような積極的な言 葉を使う人が多くなれば、この世は期せずして、もっともっと美しい平和な世界になる。いわ ゆる理想的国家社会の改善が出来る。国家社会の改善は、設備や制度の改革のみでは相対的で ある。  絶対的なものは、人々の心でのみ創られる。すなわち一切を創り変える宇宙霊の力を、個人 の生命の中に受け入れ、その人々が立派な人間達の集りを作ってこそ、国家社会は如実に改善 されるのだ。平和もまたしかり。だからせめては天風会員だけは、どんな場合があっても、消 極的な言語表現をしないよう気をつけよう1・  考えてもみよう。人間は絶えず何事かを心で思っている。そしてその思考はどうして生まれ るのか。  それは万物の根元である「ただ一つの気」が、人間の心の中に入って「観念」となり、その 観念が「思考」となるのである。そしてその思考が、一方において行動となって現われ、一方 において言葉となって現われる。これが、人間のみが造物主から与えられた恩恵であり、他の 動物にはないのである。  この否定しがたい事実から推論すれば、言葉というものは、思考が結集し、それを表現する ために出来たものである。ただ単に、囗から出す言葉だけではなく、文字を書く場合もそうで  ある。人間の思考が結集し、それを表現するために与えられた恩恵なのだから’・ 思い方考え  方が、言葉となって現われて、あるいは文字、あるいは言語になったりして、人間同士がお互  いに気持ちを理解し合うようになっているのである。   もっとも天風会員の場合にはテレパシーがあるから、あんまりいわなくてもわかる場合が多  いけれども、その言葉の精神の態度が、切っても切れない密接な関係があるのである。さらに  それが、我々の生命に、直接的な影響を与えるということを考えたならば、言葉には人生を善  くも悪くもする力がある。創造の力というものが厳として存在しているのである!   だから言葉は、人生を左右する力のある哲学であり、科学であるということがいえる。だか  らどんなことがあっても、お互の言葉に注意をしなさい。それは、私の講演を注意して聞いて  いるとよくわかるはずである。仮にも「出来ません」とか、「うまくいきません」とか、「駄目  ですよ」とかいわないだろう。実験する場合でも「こうするから出来ないのだ」とはいわず 一 に、「こうすれば出来るよ」といおうじゃありませんか。 ]  結論が積極的断定で終わるように常に気をつけねばならない。   作家の作った文章でも消極的な文章は読まない。もっとも、今の作家の書く文章はたいてい 」 消極的なのが多いけれど。同じことをいうのに積極的にいい現わせるはずだ。 。 ’おお暑いヽますます元気が出るねえ」oこれは積極的・‐1おお寒いヽどうにもやり切れない≒ これは消極的。だから正確に前の積極的な方を善用しなさい。  最初はやり損うことがあっても、やり損ったら取り消しておきなさい。 「ああ暑い、どうにもやりきれない」 「と昔はいったけれど」  とすぐそこで打ち消しておけばよろしい。  我々がたった一人でいるときでも我々の背後には万物の造り主、万物の親である、宇宙霊と いう限りなき叡智を持ったものが控えている。  そして、またその宇宙霊が、感覚鋭い耳を持っているのだ。  いいか! 鋭敏な耳を持っているのだ。宇宙霊は1・  だからいやしくも人を傷つける言葉、勇気を挫くような言葉、あるいは人を失望させるよう な言葉、憎しみ、悲しみ、呶みの言葉を遠慮なくいっている人間は、悪魔の加勢をしているよ うなものだ! そういう人間は、哲学的にいえば、自他の運命を破壊していることを、平気で しゃべっている。だから何遍もいうように、人々の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言 葉、何とも言えず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互に話し合うようにしよう。  私は本心からつくづく思う。たとえば、天風会員のような人々がこの世に増えれば増えるほ ど、この世の中は、本当に理想化されていく。だからまず隗より始めよ。諸君がそう成らなけ  ればならない。   なかんずく次の時代の日本を建設しようとする青年男女は、特に注意するのだ。   年寄りも出来るだけ若いものの真似をしよう。せっかく六十、七十まで生きたのなら、もう  少し我慢して八十、九十まで生きよう。そしたらもっと我慢して百を越せ’・ そして人生世の  ために生きる自分を、輝かしく活かしていかなくては。   何とか銭を貯めて、老後を楽にしよう、なんて考え方をしようとすると、造物主は、苦労し  ないで楽が出来るように、すぐ墓場に持っていってしまうよ!   これだけいったらわかるだろう。これだけいってわからないものはいないだろう。特に修練  会に来るような人間は皆、一を聞いて百を知る人ばかりだから1・   さあ! 言葉の誦句を与えよう。   自分の人生を建設せんとする意気込みが、やがて世界中の人問の人生を建設することになる 一 のだ・ 一 【 一      言葉の誦句  私は今後かりそめにも、我が舌に悪を語らせまい。  否、一々我が言葉に注意しよう。  同時に今後私は もはや自分の境遇や仕事を、消極的な言語や、 悲観的な言語で、批判するような言葉は使うまい。  終始、楽観と歓喜と、輝く希望と溌刺たる勇気と、平和に満ちた 言葉でのみ活きよう。  そして、宇宙霊の有する無限の力を我が生命に受け入れて、その 無限の力で自分の人生を建設しよう。 ―;大いなる悟り  今日は人の心というものが、なんと、この世の何ものにも比べることが出来ない大きなもの であるということを正しく悟ることにしよう。  これがまた多くの大に悟られていないことなのである。極論すれば、人の心というものは、 何物にも比ぶべくもないほど偉大なものであると同時に、この偉大なものを人間にのみ与えた のはどういうわけか、ということを悟ることにしよう。  現代の人々は、物質文明という時代に生まれたおかげで、物質的方面の生活に対する便利さ は、昔と今とでは比較にならないほど、幸福に活きられている。しかし精神的方面の生活とい うものは、残念ながら、昔の精神主義で活きている人間に比べると、それは全くお粗末であ る。  それというのも、文化の状態が、精神文化をおきざりにしているからでもある。  これが万物の霊長かと、思わざるを得ないほど醜く汚らしい心を使っている大が多い。それ が紳士であり、淑女であるというのだから、紳士淑女というものの正体を発いてみると、随分 衒れたものであるといわざるを得ない。しかし、いずれにしても、このような事実が存在して  いるのは、心の偉大さも知らなければ、その偉大な心が、なぜ人間だけに与えられているかと  いうことなど、毛頭気が付かない、というよりむしろ、皆目わからずにいるからなのである。   こういうと、「私の心は、そんなに大きくはない」とか、「他の人の心はそんなに偉大なもの  かもしれないけれども、私の心は小さいものだ」などというのだろうけれども。   しかし、それは現代の人々が、心の動きを全部使わず、せいぜい使っても五割か四割しか使  っていないからである。そして、残っている何割かは、一生使うことなく人生を活きているか  ら、自分の現在まで使った心が、非常に小さく見えるのである。   自分がどういう心の使い方をしたにせよ、万物の霊長たる人間として生まれた以上、はかり  知れない偉大な心を与えられているということに、気が付かなければいけない。   それが本当に悟れると、どんな場合であっても、心の持ち方を消極的にしてはいけないん ’だ、ということをも自然と悟れるのである。 」  それでは、心は本当にどれだけ大きなものであろうか。 一  これはもうヽ考えればすぐに考えつくことである・それは何かというとヽこの広大無辺とい 。われる大宇宙を、人間が考えたときにすぐ考えられることである。 」  およそ、大宇宙というものは、この世の中の一番大きなものである、と誰でもが考えてい 。るO  たとえば、あの空にきらめく星の数は、人間の肉眼で見える数だけでも、ゆうに数千もあ る。しかし望遠鏡を用いると、そのレンズを通して眺め得る数は、実に数百万に達する。さら に精巧な天体撮影の写真機を用いると、百万倍という途轍もない、多くの星を見出し得るとの ことである。  そしてこれらの星一つ一つが、皆一個の立派な太陽であり、この中には我々の太陽よりも、 もっと遥かに大きいのが、たくさんあるとのことである。そしてさらに驚くべきことは、これ らの一つ一つの星の周囲には、やはり太陽系と同様、種々なる惑星や、衛星が、多数存在して いることである。  というようなことを考えても、この宇宙の広大さが推察できる。そして、空間に、所狭しと 密集しているように見える多数の星がなんと、決して衝突もせず、また追突も、接触もしない のである。それにひきかえ、人間の世界の交通事故を考えると、まことに笑止千万ではある。 宇宙は、形容の出来ない、微妙な調和をもって空間を秩序正しく運行しているのである。  もっと詳しくいうと、目に見えない一定のレールの外には、決してはみ出さないのである。  しかもこうした不可思議な内容をもつこの宇宙の広さはというと、一秒間に十八万六千三百 二十マイル(約三十万キロメートル)を走る光線の速力で飛んでいっても、その半分を行くの に五十億光年(一光年は約十兆キロメートル)かかると、アインシュタインがいっている。そ してさらにこれらの星(惑星、衛星、恒星)の中にも、一定の進化があるといっている。  だが、そういうことを知るとき、よりいっそう、宇宙の荘厳さにひとしお敬虔の思いを感じ るのである。そこで、真剣に気づかねばならないことは、人間の心の大きさである。果てしな い大宇宙よりも、人間の心の方が偉大であるということである。  月を見て佇めば、心は見つめられている月よりも、さらに大きいということを考えられはし ないか。星を見て佇んでいるときに、その星を見て考えている心の中は、大きなものを相手に 考えているんだから、それはもう、それだけで、星以上に大きなものではないか。星を見て、 その星よりもさらに洪大な様子を心は想像できる、という簡単なことを考えただけでも、いか に人の心が一切をしのいで広大であるか、ということが分かってくるはずだ。  ところが、それが現代の大は分かっていない。もう、古くから、仏教の方では、心の大きい ことを、あの有名な、「正法眼蔵」という、道元の書に書いてある。私はこの本で悟れたので ある。その中に、    大いなる哉 心や    天の高きや 極むべからず     而も心は 天の上に出ず    地の厚きや 測るべからず     而も心は 地の下に出ず    日月の光や 踰ゆべからず     而も心は 日月の明の外に出ず    天地 我を待ちて 覆載し     日月 我を待ちて 運行し    四時 我を待ちて 変化し     万物 我を待ちて 発生す     之を 最上道 と名づけ、     また 無上菩提 と名づけ、     また 正法眼蔵 と名づけ、     また 涅槃班心 と名づく  と、書いてある。  これを読んで私は、(ツと気がついたのである。  「広大無辺の大宇宙よりもさらに心は大きいじやないか……」  この幽玄微妙な神秘の数多い世界の中で、人間の心だけが、こうした尊い偉大な働きが与え られているのはなぜかということを、思いを深くしてさらに考えてみよう。  外観上では、いかに人間よりも遥かに大きいと思われる太陽にも、月にも、星にも、こうし た心というものはない。しかし人の心には、こうした不思議な働きが、与えられているという のは、そもそもどういうわけであろう。その点を断固として悟らねばならない。  ありがたくも、尊い、こうした偉大なものを頂戴していながら、それをわからずに、かえっ てその心を粗末にして、自分の健康や運命を悪くしている馬鹿者が、いくらも世の中にいやし ないか。いや遠慮なくいうと、諸君が天風会員になる前までは、そうした馬鹿者といわれて も、弁護の言葉のないほど、愚かな人生に生きていたことを考えてみなさい。  造物主の無限の力を正しく自覚し、同時にその無限の力を、心の働きと力で、人の命の中へ 受け入れ、万物の霊長たる資格を完全に発揮し、同時に、造物主の心持ちである進化向上に順 応し、大という人の間を睦まじく、造り上げていくために、こうした偉大な心が与えられてい るのである。  ところが地球上に生きている人間の多くは、この造物主の思し召しを逆に行ない、心の偉大 なことは忘れて、しょっちゅう自分の体のことばかりを考えて、神経を過敏にし、しかもその うえに、人間同士の間柄を睦まじくやっていこうなんて心はありはしない。  一方においては、愛を説く人間達が、大を殺し合っているじやないか’・ それというのも、 この心の本当の値打ちを知らないからだ。厳かに考えてみよう。  哲学的にいうなら、あなた方の自我の中には、造物主の無限の属性が、宿っている。そし て、自分および人の世のために、その尊いものを善用して、この世に生まれた人間達の幸福を 増進し、進化と向上とを現実化させようとする、造物主の意図に他ならないのである。そし て、こうした尊いものが、別に頂戴したいといって注文したわけでもないのに、生まれてみた らば人間であり、人間であるからこそ、生き甲斐を意義づけるために、その生命に、男も女も 公平に、この恵みを、造物主から与えられている。  よく考えてみよう。自分を貧弱な哀れな人間と思う考え方ほど、およそ値打ちがなく意味の ない人生はないのだということを。  どんな人間の生命の中にも、造物主の無限の属性というものが与えられているのである。果 して、自分の自我の中に、造物主の無限の属性が宿っているか、いないかは、簡単なことです ぐわかるはずである。  いつも私が言っているとおり、あの運河の水を考えてみよう。  運河だけ考えてみると、水量は極めて僅かしかないようにしか見えない。しかしあれが大海 と繋がって存在している現在の状態を考えてみるなら、運河は無限の水量と繋がっているの だ。そう考えてみると、運河の水も大海の水も、同じ本質なのです。  それと同じ意味で人間を考えてみよう。人間を、ただそれだけの存在で考えれば、極めて小 さい。ときには哀れで貧弱なものに考えられるかもしれない。しかし、その心を通じて、自分 の生命と造物主とが常に結びついている、という侵すべからざる事実に気付いたならば、どん な思慮の浅い人でも「ああそうだ1・ 自我の中に、造物主の無限の属性が存在しているのだ」 ということを悟れるはずである。それでもなお悟れない人は、形だけが人問であって、心は犬 猫にも劣っている人間であると遠慮なくいおう。  今もいったとおり、運河の水も大海の水も同じだ。そうしたら人間の生命の中に存在する  「この不思議な力(グリル)」というものは、造物主が持っている力と同じ力である。  さあ、そこで考えなければならないことがある。人間として考えなければならない一番必要 なことは、どんな場合があろうと、この造物主と自分の生命との結び目を堅固に確保すること である。  この結び目を堅固に保たないと、病が出たり、不運が来たりするのである。  病になったり、不運になったりすると、「自分には何も責任がない、その責任は他にあるの だ」と思うものだ。  たとえば、風邪を引いても、 「どうして風邪引いたの?」 「今朝起きたときから気持ちが悪かったんだ」  運命が悪くなったときでも、  「自分はI所懸命まじめにやっているのに、相手が不渡りを起こしたんだ」  というふうに自分には何の責任もないように思っているふしがあるが、それはとんでもない ことだ。  蒔いた種子のとおりに花が咲くのである。  むろん、自分は知らずにやったことであろうが、自分の心の持ち方が消極的であるがため に、この結び目を、思わず緩めてしまったからに他ならない。消極的な心になると、自分では そうしたつもりはなくても、造物主の心と自分の心とが離れ離れになってしまうのである。造 物主の心の中には、消極的な弱いものは、一つもないのである。  しからば、この結び目を堅固に保つにはどうしたらよいか。  それには、わが心を、造物主(宇宙霊)の心と同様の状態にして活きることが、秘訣の第一 である。造物主(宇宙霊)の心は絶対に積極である。  今日の世の中の大で、造物主(宇宙霊)に心がないと思うような愚かな大はいないと思う が、人の心の中に不思議な働きのあるのは、宇宙霊の心を分配されているからである。  されば、造物主の心とは「真」「善」「美」である。  「真」「善」「美」をもっとわかりやすくいえば、「真」とは「誠」である。「誠」とは一点の嘘 偽りもないことが「誠」である。筋道が少しも乱れてないのが「誠」である。  「善」とは「愛情」のことである。  「美」とは「調和」のことである。  ところで、あなた方にも愛情はあるのだけれども、あなた方の愛情は偏った愛情である。す なわち自分の気に入ったものだけ可愛がって、気に入らないものは可愛がりやしない。そうい うのは本当の愛情ではない。太陽の光線のように、あれこれと選ばないで普遍的な気持ちで愛 さねば駄目である。  太陽の光線は、美人の顔も照らせば、犬の糞も照らしている。「おれは犬の糞はいやだから 美人の顔だけ照らす」とはいわない。  ところが、あなた方は可愛いものだけを可愛がり、憎らしいものを憎む。第一、憎むという 気持ちは、悪魔の気持ちである。もし自分が人から憎まれたら、どんな気持ちになるかという ことを考えてごらんなさい。あなた方は人に憎まれるのが好きですか。それとも愛されるのが 好きですか。村八分にされるのを好きな人間はいないだろう。  だから、造物主と同様の心になるには、どんなことがあっても、心に誠と愛を満たし、和を 旨とした生活をすれば、造物主と自分との結び目が堅固に出来る。消極的な心になると、自分 では離れようと思わなくても、その造物主の大事な誠と愛と調和の気持ちから、離れてしまう のである。つまり、結び目を、ほぐしてしまうことになる。  ところが、ひとたぴ自分の心を、明るく朗らかに生々として勇ましく、どんな場合があろう と心の働きの状態を曇らせずにいくようにするなら、造物主の心と同様の心持ちになる準備を したことになるのだ。つまり、結び目を堅固に保つ用意をしたことになる。  その用意が完全になればなるほど、その造物主(宇宙霊)の無限の力が自然に自己の生命の 中へ、無条件に同化力を増加してくるのである。  これが人間の最も正しい活き方である。そして、このような活き方をするとき、生命の流れ は容易に涸れることがないのである。  そうした気持ちが推進力になる。心の持ち方を積極的にしたということが、引っぱる力に押 す力が加わるのと同じ結果になるのだ。そしてまた、それが人間の正しい心であるという証拠 に、そうした心で活きると、健康も運命も、どんどんよりよい状態になってくる。  反対に心を消極的にすればするほど、健康も悪くなり、運命も悪くなる。この事実が、あな たがたに、心の持ち方を教えているのにもかかわらず、そしてまた、そうしたことがわかって いる場合でも、自分で柄のないところに柄をすげて、これが悲しまずにいられるか、これが怒 らずにいられるか、これが心配せずにおられようか、というふうに悪いとは思わず弁護してい る。  いくら弁護しても、宇宙は裁判所じゃない。弁護の状態が上手だからといって、弁護の弁論 が上手で、脚色が上手だからといって、お前を無罪にしてやるとはいわない。  何遍でもいうが、健康が悪くなるのも、運命が悪くなるのも、もとは自分にあるのだ。  天に向って唾したのが降りかかってきたのだ。  多くの大は、自分よりも優れた大や、出世したり、成功したり、丈夫な大を見ると、そうい う大は特別な生まれつきだ、と思う。そこが大きな間違いなのだ。生まれつき、天才のように 見える人間でも、成育するにつれて、やりっ放しにしておけば、凡人になってしまう。凡人と いえども、立派な修養を積めば、驚くべき優れた人間になる。  それを多くの人々は、あれは生まれつきだから別の人間だと、決めつけてしまうところに、 大きなミスがあるのだ。  偉いといわれ、名を成し、業を全うし、あるいは容易に人の考えないような尊い真理を考え たりする大というのは、特別製のとても偉い大だと思うかもしれないが、そうではない。あな た方だって、それと同じような値打ちを持っているのだけれども、あなた方の方では、それを 心の方が運用していないからに他ならない。正宗の宝刀を台所に持っていって、菜っ切り包丁 として使っているからいけないのだ。  つまり、出世、成功、あるいは非常な健康に、また幸運に活きている大は、心の内容が極め て積極的であるからである。  諸君は、入会して五日間でその方法を教わってしまうではないか。もう三日目には、観念要 素の更改法、積極観念の養成法、四日目には神経反射の調節法、精神の使用法を教わってしま う。私が十数年かかって、一生懸命研究したことを、簡単明瞭に、三日か四日で、諸君は教わ ってしまうではないか。そうして、そうしたすぐれた働きをする心をつくる実際方法を、教わ ってしまうのだから、一様に皆、仲間の群を抜いて秀でた人間になれるに決まっている。  つまり結び目が堅固になっているから、造物主のもつ幽玄微妙な叡智が、積極的な心の中ヘ スーツと、通ってくるのだ。  哲学的にいうと、その生命が、宇宙エネルギーと結合してしまうからである。宗教的にいう と、無限の属性が、その生命に「アタッチ」したのだ。しかも、特殊な人間だけがそうなって いるのではない。  心を積極的にしてみなさい。論より証拠。事実がそれを証明するから。病める人は、その病 から心を放してしまいなさい。病のとき、病を一生懸命に大事に考えてないと、病が癒らぬよ うに思ってるとしたら、大間違いである。  船に乗っても、もう波が出やしないか、嵐になりはしないかしら、それともこの船は沈みは しないかしら、と考えていたならば、船旅の良さ、快適さは何もあるまい。人生もまたしか   ああなりはしないか。こうなりはしないか。すべったの、ころんだの、と考えていたら、人  間、一分一刻も、安心した刹那はないじやないか。船に乗ったら船頭まかせ。病になったら医  者任せ。という言葉が昔からあるではないか。病になったならば、こういうことを悟ろう。   「治る病ならば、ほうっておいても治るんだ1・」   これを医者が聞くと、そうだと思うけれども、素人は「治らない病でも、お医者にかかれば  治るでしょう」と思ってしまう。   医者にかかっても、治らない病は治らない。こういっても医者は決して侮辱されたとは思わ  ないはずだ。「そうだ1・」ときっと思うに違ない。なぜなら、治らない病は、一生に一遍しか  ないからだ。一生のうちに治らない病は二度も三度も四度もありはしない。もしあるなら、二 ’度も三度も死ななきやならない。寿命が尽きたときの病は、どんな名医が来ても治りはしな 一 い。しかし、それまでは、その度に死にはしないんだから安心しなさい。だから、病になった ・ らヽ医者にかかるもよし・医者にかかった以上は医者に任せなさい・医者にかかっていなが 。ら、医者よりも病のことを心配している患者がいやしないか。そういう患者が、心ある医者と 一 しては一番困るのだ。欲張りの、銭儲けの好きな医者にとっては、そういうのはいいお得意 。だ・神経過敏の患者だと半年薬を飲めばよいものを、一年も薬を飲んでくれるし、一年で治る 病も、三年もかかってくれる。医者としては銀行預金が増えて結構な患者だ。  しかし、よく考えてみよう。この世の中に、医者の預金を増やすために生まれてきたのでも なければ、売薬屋の株を大きく配当させるために生まれてきたのでもない。病になったなら ば、病をむしろ忘れるくらいな気持ちになりなさい。  病は忘れることによって治る。  病になろうと、不運になろうと心の態度は崩さぬことだ。どうせ人間生まれた以上死ぬとき が来れば死ぬのだ。いくらいやだといったって駄目。  だから、どんな場合にも、天風会員は、自分の自我の中に宿る無限我、要するに宇宙霊、い い換えれば造物主のもっているエネルギーの分派分量を、余計いただいていることを疎かにし ないことだ。  自分の心の持ち方さえ積極的であれば、その心の中にいただいた生命の力というものは逃げ やしない。消極的になったら、水を入れた桶に穴を開けたと同じようになってしまう。  人間だけには、自分の生命と宇宙霊とを結合することの出来るような、ありがたい働きを、 心の中に与えて下されているのにもかかわらず、罰当りどもはわからない。そしてもったいな くも棚上げしてしまって、病は病、運命は運命と、別々に考えることが、結果にきてしまうの だ。  世の中は公平に出来ているんだから、心を積極的にしさえすれば、健康もよくなり、運命も 立ち直るように出来ているのだ。だから、もっと自分の心をみがきなさい。  この暗示の誦句をゆるがせにしてはならない。暗示の誦句だけは、もう寝言にでもいえるく らいに、自分の心の中に始終、注ぎ込まなければいけない。  凡人の域を脱した天風会員は、要らないことはどんどん忘れて、要ることだけをどんどん覚 えりゃいいのだから。  心を積極的に持つようになると、要らないことはどんどん忘れて、要ることだけを覚えてく れる心になるのだ。  だから、諸君と座談すると、私は黙って聞いているだろ……。話すことないもの。あなた方 は、べらべら油紙に火のついたように、いろんな下らないことばかりをしゃべりだす。  演壇でこれだけしゃべるから、先生は、膝を交えて話したら、さぞ話すだろうと思ったら大 間違い。私も昔はそうであったが、それがだんだんと心を積極化してくるに従い、しなくなっ た。要らないことはしゃべる必要はない。  要らないものばかり持って歩く人があったら、諸君はそれを賢い人間だというだろうか。  大きなズダ袋提げて歩いている人を見て、 「何が入っているのですか」 「なあに、これ、くだらないものですよ」 「何か、お要り用の物ですか」 「いやあ、要るものじゃないんですよ」 「それを、なぜ提げるんで」 「いやあ、それが気になってねえ。これ家に置いとけないんで、こうやって持って歩いている のです」  といったら、諸君はどう思うか。  「これ阿呆かいなあ」と思うだろう。  これと同じような愚かなことをしていて、自分は愚かだと思わないでいる。  心の中に随分と要らないものをたくさん持っていると、肝心要のものを覚えようとするとき に、要らないものが詰まっているから、程よく覚えられない。そして、自分がそれほど粗忽で あることは気づかないで、「私は物覚えが悪いんで……」と平気でいっている馬鹿がいる。そ のくせ、自分のものだけは、どんなものでも、忘れない。どんなもの覚えの悪いという大で も、ときには人のものまで、持ってきてしまう。笑いごとではない。  人間活きている以上、物覚えが悪いなんてことはない。  今日からは、どんなことでも、心に心配ごとがあったら、クンバ(カ(駻″瑟昌翦黯認黔 擂一臂。)をしてひょいっと吹き消してしまいなさい。  どんな不美人でも、朝、鏡の前にくると、いろいろとお化粧をするじゃありませんか。それ と同様、心のお化粧もしたらどうでしょうか。  それなのに、心など、汚い糞溜めの中に漬けておくようにほうっておいて、一生懸命顔ばか りはたいたって、何になるでしょうか。  女性のことばかりいってしまったが、男性諸君も同じことです。  ダイヤモンドの原石は真っ黒な炭のようなもの、それを懸命に磨けば、ああなるということ を考えてみよう。  心には、もっともっと偉大な働きがあるのだから、どんな場合でも、病があったり、不運の ときには、より一層、心を積極的にするように努力しなさい1・  「人が何といおうと、そうするのだ1・」といわんばかりに、心を積極的にしなさい。  天風会員は、どんな場合にも、本当に、自我の中に、造物主の無限我が入っているというこ とを夢にも忘れてはいけない!・  誦句を与える!      たいげ      大偈の辞  ああそうだ凵‥  我が生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は無限であ る。  そして、不健康なるものや不運命なるものは、宇宙霊の生命の中 には絶対にない。そして、その尊い生命の流れを受けている我はま た、完全でそして人生のI切に対して絶対に強くあるべきだ。  だから、誡と愛と調和した気持ちと、安心と勇気とで、ますます 宇宙霊との結び目を堅固にしよう。                                      一 第六章人生と運命                            f  今日は、多くの人々が、とかく、誤解に陥りやすい、運命というものに対する正しい悟りを 開こ’つ。  こうした事実を知っているのと知らないのとでは、どのくらい人生を有意義にするか、また 無意義にするか分らないという、重大な関係が人生に存在しているのである。  ところが多くの人を見てみると、遺憾千万ながら、人生に対する大切な事柄を、意外にも無 自覚である。むしろ大部分の人は、貴重な人生を漫然として活きている。  今の人達は自分がある程度努力して、この努力が実らないと、それを運命だと思ってしま う。たとえば病のときでも、一所懸命手を尽くしても治りが遅いと、。運命”だと思ってしま う。あるいは、事業を盛り返そうと一所懸命努力しても、自分の思うとおりにならないと、こ れもまた”運命”だと思ってしまう。こうして何もかも運命だと、片付けてしまうのだけれど も、人間の力では、どうにもしようがない運命というものは、たくさんあるものではない。  自分の思慮が足りないか、あるいは力が足らないかの理由で運命が開けないことを、いわゆ るどうすることも出来ない運命だと決めてしまうのは軽率極まりない話である。運命には二種 類あることを知らないのだ。すなわち天命と宿命というものがある。  天命は絶対で、宿命は相対的なものである。もっと判りやすくいうなら、天命というものは どうすることも出来ない。女が女に生まれ、男が男に生まれたのを、女が男になり、男が女に なりたいといっても、どうしても、そうはいかない。これは天命だからである。この現代に生 まれるのも天命なら、昔に生まれたのも天命。また末の世に生まれるのも天命だ。これはどう ともすることは出来ない。  しかし、宿命というのは、人間の力で打ち開いて行くことが出来るものである。  ところが今の人は、打ち開くことの出来る宿命にぶつかったときでも、それを天命という。 自分の努力が足らないことは棚に上げ、どうにも仕様がない、というのである。  万国の人間の持っている、心の欠点だと思うのは、どこの国に行っても「どうにもしようが ない」という言葉がある。中国へ行ってすぐ、「メーファーズ」という言葉を聞いて何だろう と思ったら、「どうにも仕様がない」という言葉なのだ。漢字で書くと没有法子と書く。イギ リスへ行くと、「オブライジド」、フランスへ行くと、「セラプー」という。これらは、いかに 凡人凡夫が世界に多いかという証拠である。  繰り返していう。運命というものには二種類ある。どうにも仕様のない運命を天命といい、 人間の力で打ち開くことの出来るものを宿命というのである。  どうにもしようがないと思うようなことは、よく考えると、自分では仕様がないかもしれな い。しかしその時に、ひょいと自分の心の持ち方を考えてみなさい。「自分の心の持ち方が消 極的だったためなんだな」とわかると、「そうか、積極的な心に振り替えれば出来るんだ」と いうことに気付くのだ。それが天風会に入ったありがたさだ。ところが、こういうことを聞い たことのない人は、人生を活きるのに、安心と勇気と調和などという気持ちなど持っていな い。万事がびくびくと活きている。口では偉そうなことをいっているが、やたらと迷信に陥り やすく、ただ偶然ということのみを当てにして人生を活きている人が多い。  それでは、くだらない人生だけが結果に来るだけである。なぜかというと、自分でそういう くだらない状態を、選び出しているからである。そして結局は、医者のお得意になったり、薬 屋のお客になったりと、引き受けなくてもいいようなことを引き受けているのである。そして もちろん自分ではそれに気がつかない。  自己の無自覚−無自覚というのは人生に対するはなはだ低級の人間をいうがIと、それ から神経過敏の心1神経過敏というのは気の弱い人間のことをいうIこの二つが人生をく だらない、価値のない、哀れなものにしている。そして、自分だけが、非常によくない運命に 囲まれている人間のように思ってしまっているのだ。  世の中の人々をよく見てみると、よくわかる。あるいは自分もまた今までは、そのような仲 間の一人であったかもしれないということも考えてみよう。  毎日の人生を神経過敏になり、なんとなく不安な気持ちになり、何事に対しても、安心とい うものを持って、人生を活きている人が少ないという証拠に、文化の世の中に、いまだに易が どうだ、占いがどうだ、拝み屋がどうだ、八卦がどうだ、干支がどうだ……と、馬鹿馬鹿しく 下らないことをいっている者が、なんと多いことか。  そういうことをいっている者は自分の胸によく手を当てて少し考えなさい。文化民族なの か、野蛮人なのか。  アメリカにもこういう諺がある。  A superstitiousヨan is under below beast in season.  「迷信深い人間は、さかりのついた動物よりも下等だ」  このような人間は、人生うろちょろうろちょろ自分自身のことを自分自身で決定が出来ない 人間だ。自分よりも教養が少ない、自分よりも劣っている、拝み屋や易者のところに行き、運 勢や卦を占ってもらうなんて、恥ずかしいと思いなさい。  やれ東の方へ行ってはいけないとか、やれ西の方へ行ってはいけない、とか。第一、東とか 西だとかいったいどこを当てにして拵えているのか。東西南北いったいどこを起点としてやっ ているのか。自分のいるところから右か左か、前か後かを決める方便のために、ただ東西南北 があるだけじやないか。  地球の芯に行ってみなさい。南極や北極に行けば、磁石の針は南北を指さない。  また、やれ日が悪いの、やれすべったの、ころんだの、と。第一、一年が約三百六十五日四 分の一、それだけかかって、太陽を中心に廻っているこの地球に、日がいいとか悪いとかある わけがない。  科学的に、もっとスーパーな考え方で人生を考えなさい。  やれ大安がどうだ、友引がどうだ、やれ仏滅がどうだ、などと。  人間が、そんなものを当てにして活きていると思ったら、大違いだ。  日本人だけがそんな下らないことをいっているのだ。世界には三十五億からの人間がいて、 日本には一億しかいないのにだ。  やれ姓名判断がどうだとか、ここへ釘打ってはいけないだとか、やれ畳の数がどうだとか、 やれ東北の暗剣殺とか、北の方塞がりとか。馬鹿馬鹿しいかぎりだ。考えてみても吹き出すほ どおかしなことではないか。いいですか、ここにいる者はみんな私より若いんですよ。私がそ のようなことを鼻の先にもひっかけないのに、相当な教養を付けた人間がどうしたことか。  中には「科学的にいえぱそうかもしれませんが、昔からいっていることを良いとか悪いと か、何も逆らうことはないでしょう」と、変なことをいっている人がいる。これは迷信を自己 弁護している極めて卑劣な言葉である。  そのようなことを考えている人に遠慮なくいおう。日本人は、昔、頭に髷をつけていたから といって、今も、ちょん髷をつけた方がよいといって、髷つけて歩いたら何というだろうか。 あいつ、仮装行列のズグレ”じやないかと思うだろう。  時代遅れの、姿形をしている人があったら諸君は感心するだろうか。「あれ、クラシックな 古典的な人間だねえ」といって尊敬するか。「何とくだらない、馬鹿馬鹿しい」と思うだろう。  それなのに、肉体的には、そういう流行遅れなことをやらずに、モダンモダンと流行を追い ながら、心には、二千年も三千年も昔のことをしている。つまらないじやないか。くだらない じやないか。  若い人間には特にいっておく。これからの新しい社会を背負って立とうとする青年男女! 断じてそういう下らないことに陥るな。何が暗剣殺で、何が北の塞がりで、何が大安で、何が 友引だ。  やれ、お弔いは友引に出してはいけない。それなら、生まれるときに仏滅に生まれたらどう するのか。「今日は仏滅だから、明日は大安だから、生まれるのを明日まで待って下さい」と 頼んでも、そうはいかない。実際、そういうことにカプれている人間を見ると、姿形は人間だ けれども、心はチンパンジーにも劣っていると思う。  家へ帰れば、どんな家にも電気洗濯機や電気冷蔵庫があるじやないか。砒灯でなく電灯をつ けている。そのくせ、人間をつかまえて、牛だの、馬だの、犬だの、猿だのと。それでいて、 人からいわれたときは怒るくせに、自分でいうときは怒らない。  「あんた何の年?」  「あたし、へびI巳−よ」  「あんたは?」  「あたし、さる卜申−よ」  そのくせ、「この犬みたいな奴」と人からいわれると、  「何を!」と怒る。  人生は須く光明あらしめようではないか。  人生を光明あらしめんがためには、まず正しい運命を作れということである。そうするに は、第一に、宿命を統制して活き、天命に安住することである。宿命を統制するには、常に正 義を実行し、運命を選ぶ法則を自覚することである。  すなわち、正義を実行すると、それが自然と運命を選ぶ法則に合致する。そして、人間の生 命の本質である、霊魂という「気」を汚さぬことになる。すなわち、正義の実行、すなわち、 本心良心の命ずるままに活きることが、期せずして人間を霊の世界に活かすことになるのであ る。  この間もある会場で、十歳くらいの女の子が無邪気に、  「先生、家のお母さん困ったわ」というから、  「どうしたの」と尋ねたら、  「「今日は日が悪いから修練会に行かない」というの」と答える。  だから「修練会には。日”はないよ」といったら、  「お隣の拝み屋さんが「今日は修練会の方向は、方角が悪いから、行くのを止めたがよい」と いったから行かないんだって……」といったのです。  そして、その日がちょうど。運命”の日だった。皮肉だね。  考えてもみなさい。ここへ釘打っちゃいけないとか、ここへ畳敷いちゃいけないとか、赤の 他人の拝み屋などにいわれて、釘も打たず、畳も敷かずでは不自由を感じないだろうか。  人生は、もっと自由な世界に活かさねば、うそじゃないか。  宇宙真理がいったのならともかく、何とまあ、貴重な自分の人生を、他人にかきまわされ、 自分自身の自由を拘束されて活きているのだ。  とにかく、すべて自分の力では出来ないと思うから、そんな、へんなことになってしまう。  自分の心を、積極的にして活きるという方に自分の心を決定しなさい。そうすればもう、天 命なんてものは、極めて僅かしかない。  宿命は、すべて打開していくことが出来る、ということを聞くと、もうすっかりわかったつ もりになっているかもしれないけれども、囗では積極的といっているが、少しでも心の中に悲 しみを感じる心、怒りを感じる心を、長く滞らしている人があったら、その人は消極的なの だ。  静かに我が心に問うてみよう。それは人間だから、悲しいことも、腹の立つことも、憂いと きも、苦しいときもある。それを感じるなといっているのではないのだ。  今は会社の立派な社長になっている人が、入会して間もない学生時代に、  「一日も早く先生のように成りたいです」というから、  「成れるとも、わけないよ。一生懸命に心を積極的にして人生を活きなさい」というと、  「ああやっているうちに先生のように成れますか」  「ああ、なれるとも」  「そうですか、先生のように何も感じないように……」というから、  「ちょいと待ってくれよ。先生のようになれますかというから、なれるよ、といったが、今の お前の言葉は気に入らないねえ。何も感じなくなるという言葉、それは何かね」というと、 「いやあ、怒ることがあっても怒らない。悲しいことがあっても悲しまない。つまり喜怒哀楽 の情を、先生はご自分の心が少しも感じられないのでしょう」というから、 「冗談いっちゃいけない。俺はお前と同じ人間だぜ。裸にしてみれば臍は一つしかない。痛い ときは痛い。悲しいときは悲しい。腹の立つときは腹が立つよ」といったら、 「でも一遍もそういうふうに見えません」というから、 「俺はそれにこだわらないからだ。走る車の中で、窓外の景色を見ているのと同じで、列車が フルスピードで走っているときに、外の景色を気にしてはいないじやないか。外の景色がある と思っても眼に止まっただけで、スーツと行き過ぎてしまうじゃないか。それと同じようにす るんだ。  腹の立つことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬間に心から外してしまえばいいんだ。 心を積極的にすることを心がけて、自分の心を汚さないようにするには、気がついたらすぐそ れを拭いてしまえばいいじやないか。それをお前は、怒ったり、悲しんだり、痛いとか、憂い とかいう場合、それを感じると同時に、握ったら放さない。それがいけないのだ。。感じるな” というのではないのだ。  感じない人間になりたかったら、墓に入ってしまいなさい。そうすればもう何も感じない」 といった。  「よくわかりました。私は間違って解釈していました」といった。  実際に感じるからこそ、こういう教えを必要とする。諸君は、感じる時に自分の方からそれ に飛びついてしまうじやないか。  たとえば脈が少しでも早くなると、心臓麻痺じやないかと思っていきなり飛び込んでしま う。ただ単に、病のときだけでなく、麻雀の好きなものは麻雀に、酒の好きなものは酒に、女 が好きな者は女に、すぐ飛び込んでしまうからいけないのだ。  必要なものだけを取り入れればよいものを、不必要なものを取り入れているから、心が消極 的になるのだ。どんな場合があっても、心がいつまでも長くひっかかっているのを執着とい う。腕の秀でている剣客が、相手の斬り込んでくる大刀を、大刀風三寸、すっとかわしていく がごとく、心を汚さないようにするのだ。それを悲しまずにおられるか、これが怒らずにおら れるか、これが憎まずにおられるか、というように人々は理屈をつける。  第一、考えてみよう。怒ったり、悲しんだり、悶えたり、迷ったり、苦しんだりしていると きに、気持ちがいいか。気持ちがいいという人があったら、精神病院に入った方がよい。  私は、長く、そこへ滞っているのは嫌いだ。配給物を取り入れるように、何でも眼前に現わ れたものをすぐ心に取り入れてしまう。だから始終くだらない宿命を自分が招き寄せているこ とになるのだ。  静かに、我が心に「心に憎しみはないか、怒りは、悲しみは、嫉みは、悶えは……」と問う てみよう。  そして、少しでも消極的な気持ちが、心の中にあるならば、それは自分を宇宙霊の力から遠 ざけて、くだらぬ宿命を招き寄せる種を蒔いているのと同様の人だ。  宇宙には因果律という法則が厳として存在している。だから、そういう心持ちでいる人は、 いつまで経っても本当の安心立命は出来はしない。美しくしておくべき心の花園に、自分から 汚物を振り撒いて歩いているようなことをして、それを、「天命だ。あるいは逃げ能わざる、 せっぱつまった業だ」などと考えている人があるなら、結局その人は人生を、寸法違いの物指 しで測っているのと同じような結果を、作っているようなことになる。  だから、良い運命の主人公として活きていきたかったら、何を淤いてもまず、心を積極的に することに注意深くし、始終自分の心を監督して行かなければならない。  宿命統制にもう一つ必要なことがある。それは常に、心の中に感謝と歓喜の感情を、もたせ るよう心がけることである。  習慣として、何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。この心がけ が、宿命統制にすこぶる効果があるということがわかるなら、宿命統制ということが、さほど 困難でないと悟れることと思う。まことに、この真理こそ絶対である。  そこで、感謝と歓喜の心で人生を活きるのには、宇宙霊の心を、自己の心となさねばならな い。宇宙霊の心は、絶対積極であり、真と善と美のみである。  感謝と歓喜に満ちた善き言葉と行為は、人生の花園に善き幸福という実を結ぶ種子である。 そして我は今、宇宙霊の中にいるということを忘れないことは、とりもなおさず、神仏、我と ともに在りということと同じであるから、それを忘れずに生活するならば、決して心が消極に なるはずがない。  したがって宿命は自然に統制されて、我々はしばしば天来の啓示に接し、よく禍を転じて福 となすことを得る。  だから、常に最高の運命を招くべく、いかなるときにも、すべてを感謝と歓喜に振りかえる よう、積極的な態度を、心に命じて活きるよう努力しよう。これが宇宙法則に柔順に従うこと になり、またそうするなら、宇宙法則も当然、我々によき運命を与えてくれるに決まってい る。  由来、人の感情の中には、清いもの美しいものと、そうでないものとある。美しくない感情 は悪魔と思え。  だから我々はいかなるときにも、美しい純真な感情で、その心の思考を営むようにしなけれ ばならない。否、思考のみならず、言葉も常に美しく表現されるとき、よりいっそうよい結果 がくる。この真理があるから、感謝と歓喜の感情を常に、出来るだけ多く、心にもつように努 力しよう。  否、こうした、心持ちをもち、この心持ちで活きれば、大した努力を要せずにその生命によ い調和が与えられ、環境も運命も、期せずして良くなるに決まっている。  すなわち、卑劣な気持ち、弱い心持ち、憎み、嫉み、悔みの気持ちや、また怒り、悲しみ、 怖れ、という心持ちや言葉は、その人々の血液に毒素を生じ、生理的な不調和をきたす。この ことは、正科の講習会の講演を思い出してみればすぐわかることである。  これは実在意識と潜在意識を、肉体と神経との関係で考えると、当然だと合点されると信ず る。  「すべてのことを喜び、すべてのことを感謝して行く」こういうと、  「でも、この世の中に、感謝すべきものなんかありはしません」という人があるかもしれな い。今の人々は、感謝すべきことも、当り前のことだと考えている。家へ帰れば電気器具はあ り、冷暖房機があり、それが感謝すべきことなどとは思いもかけず、当然のことだと思ってい る。  けれども、少なくとも、昭和二十年に生きていた人は、あの白いお米さえ容易に食べられな かったころに、少しでも白いご飯を見ると、「ああ銀めし銀めし」と言って、飛びついたこと を忘れはしないだろう。しかし今、お昼に白い弁当を食べているときに、「ああ、あの時分に は、これを銀めしといったなあ」と思って食べているかどうか。そんなことを少しも感謝など しないで、昼がくれば飯を食うのが当り前と思っている。  けれども、食べるものがなかったらどうする? そのときに食物があったらどんなに嬉しい か。感謝に値するものがないのではない。感謝に値するものに気がつかないでいるのだ。  極論すれば、病になっても、不運になっても、感謝しなさいということだ。  「冗談じやない、何か貰うのならともかく、病を貰って感謝なんか出来るものか」という人が あるなら、その人は罰当りだ。宗教的に言えば神仏が、哲学的に言えば宇宙霊が、いわゆる大 自然が、もっと諸君を活かしてやりたいと思うからこそ、病をくだされるのだ。  「ええっ、もっと活かすために病をくだされる? そんな馬鹿なことがあるものか」と思うか もしれない。しかし、  天に囗無し! 事実をもって教えたまう!  「お前の活き方は、健康を確保する活き方ではない。第一、お前の心の持ち方を考えてみなさ い。消極的で、のべつ人生を、不安な心の持ち方で活きているではないか。そういう活き方を していると、それ、そんな具合に、肉体に故障が起こる。お前の現在の肉体の活き方は、天理 に悖っているじやないか。そういう活き方をしているから、そんなふうに成ったじやないか。 心を切り替えて、その人生に対する心の態度を改めろ」  という警戒警報を下されているのが、病だと思ったらどうか。  私がインドに行った時は、まだ、熱が八度五分くらいあって、ときどき、喀血していた時代 だった。毎朝毎朝、起きるのが物憂い。ある朝、  「おはようございます」  とインドの先生に挨拶すると、  "Hello! Happiest you are in the world."「おお!・ 世界一の幸福者よ1・」と言う。  私は腹が立ったので、  「あなたは、私を冷やかしているのですか」といった。すると、  「そうじゃない。俺は本当のことをいっているのだ。「頭が痛い、熱がある」といっても生き ているじゃないか。まず第一に、生きていることを、なぜ感謝しないのだ。そんな酷い病に罹 っていても、生きているお恵みを考えてみなさい。そして生きていればこそ、こういうところ へ来て、お前の心が、だんだん明るくなり、それにつれて、お前の活き方に対する、すべての 欠点が解ってくるじゃないか。そうしてみると、たとえどんな病があろうと生きているという ことは何とありがたいことじゃないか」  といわれたとき、ああ本当にそうであったなあ、今までは、何と、罰当りな自分だったな あ、とつくづく思った。  それまでは、ただ、他の人を見れば、皆丈夫で、  「何も悪いことをしないのに、俺ばっかり、こんな病に罹って、弱い人間になって、何という 不運な人間だろう。この世に神も仏もあるものか」  というような気持ちで、あろうことか、あるまいことか、感謝どころか、毎日生きているこ とが、憂いと思った。生きてることが憂うつなら、死んでしまえばよさそうなものの、死ぬ気 にはならない。  たとえば、事業に失敗したときでも考えなさい。  「俺は運が悪い」と思わないで、「事業をする場合の心構えなり、方法なりに、大きな間違い があったことを、天が教えてくれているんだなあ」と。そして、  「どこかに筋道の違っているところがあるんだ。ありがたいことだ。このままつぶれてしまっ ても仕方がないのに、生かしておいて下されば、盛り返すこともある」と思うことだ。  諸君はもう凡人じゃないんだから1おだてるわけではない。凡人は真理など聞きにこない から。もちろん優れた真人とはいわない。これから真人になるところだから。だから、心がけ を取り替えて、すべてのことに感謝しよう。そして、こうして生きていることに対する歓喜の 気持ちをもとう。  ただし歓喜といっても厳密にいうと、二種類ある。  肉体的歓喜と精神的歓喜である。  これは要するに、原因的事実からの名称である。肉体的歓喜も人生に必要なものではある が、本質的に比較すると精神的歓喜の方が遥かに遥かに高い価値をもつ。  だからこそ、一番よいのは、こうやって毎日毎日修練会で限りない法悦に咽んでいる気持ち である。これが日常でなければいけない。修練会が終わって、また元の凡人に返っては、何も ならない。これからの毎日を、修練会の毎日のように、喜びと感謝で活きるようにしよう。  実際、精神的歓喜こそは、自己の大本体に立ち帰り、宇宙霊と合致しようとする順序の第一 であり、そして宇宙霊は、歓喜に溢れる人々にのみ恵みを与えたまう。  そして精神的歓喜は、その最大最高なるものを。功徳の布施”という。。功徳の布施”とは  「喜びを頒つ行為」のことだ。もっと分りやすくいえば、親切と公平と歓喜の気持ちでの一切 の行為である。それがとりもなおさず。功徳の布施”である。  心というものは、人の生命と宇宙霊との(Iモニーという調子を合わせるダイヤルである。 そして、そのときの歓喜と感謝の情は、人生の平安を讃美する音楽である。要するに、造物主 と人間との一大調和を作る秘訣は、実にこういうところにあるのである。  この真理から考えると、感謝と歓喜の感情は、宇宙の創造作用と合流する神聖なものだとい える。反対に、汚い感情や、消極的な心持ちは、破壊を楽しむ悪魔の心持ちと同様と思うがよ い。感謝と歓喜の感情は、宇宙霊に正しい力を呼びかける、最高にして純なる合図ともいえ る。  否、それは、我々の運命や、健康や、成功などを建設し、または成就してくれる、造物主の 力の流れをヽ命の中へ導き入れる”餅戸のようなものである。だからこそ、何事にも感謝せ よ、歓喜せよというのである。  そうすることにより、新しく生命を更生する力を、宇宙霊の生命の中から、自己の生命の中 へ誘導することになる。  ところが、こういう真理を自覚していない人は、何事に対しても、常に不平や不満を心に持 って、自分の心持ちで、人生を陰鬱な暗い世界にしている。反対に、この大真理に目覚める と、常に恬淡明朗、溌刺獸爽として、何事も感謝と歓喜で応接し、人生を輝かしく光明化す る。  いったい、こういう貴重な真理に無自覚なのは、あまりにも人生を物質主義で活きているか らである。物質主義で活きると、自分では気がつかぬかもしれないが、どうしても人生が物質 的法則に縛られることを余儀なくされるものだ。すると、どうしても何事にも、足らぬ足らぬ の悩みをのべつ感じ、常に、いい知れぬ不平と不満とに心が燃える。同時に、そういう人はと かく、依頼心のみが熾んに燃え、価値のない迷信や陳腐な宿命論に自然と心酔し、果ては人生  の安定を失い、うろうろと少しも落ち着きを感じない人生に活きることになる。   「人生は心一つの置きどころ」   繰り返していう。どんなことがあっても、迷信に陥っちゃいけない。迷信というのは人間と  して恥ずかしいことだ。迷信という文字を見て、その文字を何となく気高く感じるだろうか。   真理を自覚している天風会員が、迷信に陥ったなら、仁義礼智信の道徳を説いている君子  が、泥棒をしたのと同様である。さあ、今日からは良き運命の主として活きていく準備とし  て、何事に対しても感謝し、歓びの気持ちをもって、人生に活きていこう。   それには、閻魔が塩をなめているような顔をしてはいけない。男も女も二コニコ微笑みを顔  にたたえよう。二コニコして馬鹿にされるのなら、馬鹿にさせとけばよい。女房が尻の下に敷  きにかかったら、自由に敷かせてやりなさい。そうすると女は敷かないものである。敷かせま  い敷かせまいと百方抵抗するから敷かれてしまうのだ。大山鳴動し来るとも、ニッコリ笑って 一 いられるような人間が欲しい。それくらいの強い心を持ちなさい。 一  私は天風会員の中から、必ずそういう人間が出ることを確信している。   一生は、何百年生きたとしても、二度とは来ない。   そう思ったならば、せめて生きている間だけは、どんなことがあっても、二コニコ笑って行  こうではないか。つらいこととか、悲しいこととか、苦しいこととかいうのは、自分の心で決 める評価なんだから。つらいことがあっても、  「ああ嬉しい! こうして生きていられる1・」  と思ったら、二コニコして暮していけるじやないか。殺されるよりいいじやないか。  私はそういうふうにして、自分自身を作り上げる序の囗とした。  「痛いといって、病が治るかい。つらいといって、つらさがなくなるかい」  と私はインドでいわれた。  「ああ今日は熱があると言って熱が下がったかい」  「なるほどそうだ」と思っていると、  「それを、自分が人に知らせて歩いて、人までそんな気持ちにさせて、いい気持ちなのか」  といわれた。  なるほど、よく考えてみれば、子供でも知っていることを、大人になった私はわからなかっ たのであった。  「自分の気持ちを、自分自身で、もっとにこやかにしたらどうだい」  といわれたのだ。  本当に、自分の気持ちの持ち方なんです。だから、毎晩の観念要素の更改は真剣にやりなさ い。そうすると、潜在意識の中の観念要素は、無条件に同化し暗示感受習性が働いて、連鎖反  応を起こしてくるはずだ。   ちょうど筆を洗った真っ黒なコップの水が、水道の蛇口のところに置いておくと、ポタリポ  タリと水が落ちて、一晩の内に綺麗になってしまうだろう。連鎖反応というのはあれと同じ  だ。   だから、難しいことではない。講習会のときに習った方法と、安定打坐法や、プラナヤマ法  (臂琵%)を、折にふれ時にふれ、実行しなさい。      為せば成る 為さねば成らぬ何事も         成らぬは おのが 為さぬためなり   やらなければ、出来やしない。   だから、折にふれ、ふっと安定打坐に心を向け、時あるごとに活力を吸収し、そして自分で  肉体を鍛えていって、心をしょっちゅう綺麗にする、このことを忘れないように心がけ、実行 一 しよyつ1・ 一   運命の誦句を与える1・   誦句の中から、耳に響いてくる言葉を、鯲の真似する烏みたいに、棒読みに読んだんでは駄 目だよ。よく聞きなさいよ1・   運命の誦句  およそ宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜どいう感情で、その通路を開かれるど同時に、人の 生命の上に。忠、り出でようど待ち構えている・  考えてみよう。  これを宗教の方でいえば、「神や仏は、人間が本当に現在を、あるがままに、感謝して活き ている人間には、限りなきお恵みを与えたまう」ということだ。  だから、平素できるだけ何事に対しても、感謝ど歓喜の感情をより多く持てば、宇宙霊の与 えたまう最高のものを受けることが出来るのである。  これは、あらゆるすべての宗教も、同じ主張をもっているのである。否、宗教がもっている んじやない。宇宙真理がそうなんだから、宗教がそういうふうにいっているのだ。   かるがゆえに、どんなことがあっても、私は喜びだ 感謝だ 笑いだ 雀躍だと、勇ましく  溌刺ど人生のI切に莠住ぎ耻しよう。   聞いていても、うずうずして来るはずだ。   この文字のとおりにすればいい。それを毎晩の観念要素の更改のときに、そういう気持ちに  なったらいいのだ。   私は毎晩の寝がけに、   「今日一日、本当にありがとうございました。本当に嬉しく、ありがたく、これからやすませ  ていただきます」   鏡を前に置いて、顔を写して、じいっと顔を見て、 } 「お前は信念が 強くなる!」 一  と匸言いって、床の中に入る。 。 そして、 」 「今日一日、。怒らず、怖れず、悲しまず”を実行したかどうか」 。フ正直ヽ親切ヽ愉快″に人生の責務を果したかどうか」  少しでも自ら省みるところがあったら、  「明日は、今日よりも、もっと立派な人間として活きるぞ」  ということを心に描く。  そして、いかなることがあっても、喜びを感じ、感謝を感じ、笑いを感じ、雀躍して喜ぶ気 持ちになって、その一刻を過ごすということが、何十年来の私の習慣である。  そして、朝起きると、まず、第一に、ニッコリと笑う。  もう、くせがついているから、眼が覚めるとニッコリと笑う。わざわざニッコリと笑わなく ても、ひとりでにニッコリと笑う。そして、  「今日一日、この笑顔を壊すまいぞ1・」  と自分自身に約束する。     ふたたびは 来らんものを 今日の日は        ただ ほがらかに 活きてぞ たのし     悲しくぱ、あす悲しまめ 今日の日は        光うるおしく 吾れを 照らすを  明日という日は、永久に来ないから、こういったのだ。  諸君は、今夜、寝て、起きれば、明日が来る、と思っているだろう。寝て、覚めて、明日に なってごらん。明日が、今日になるから……。  だから、明日という日は、日向の影法師と同じで、いくら追いかけても掴まらない。だか ら、悲しくぱ明日悲しまん……。明日悲しもうと思って、翌る日、目が覚めると今日になるか ら、また明日になる●・一◆一I○          さだめ     人おのおの運命に活きる人世なれば          心おおらかに 過ごさんものを  これを自分で、歌に作っているだけに、自分でこれを実行している。  これは、ほんの瞬間の自分の心の持ち方だ。瞬間、消極的なことは、心の中に入れないこと だ。しかし入れないように頑張ると、心の中で戦争しなきやならないから、ふっといなしてし まえばいいんだよ。  新幹線の列車に、まともにぶつかれば、粉々になるが、瞬間、ヒョイと、身をかわせば、列 車は、すうっと通り過ぎてしまうだけだ。  結局は、相手にしなければいいんだ。  さあ!・ どんなことがあっても喜びだ、雀躍だ、という人間になれるんだからなろうよ!  なれるという信念で甦ろう!・  さあ!・ 一緒に誦句を合唱しようI・      運命の誦句  およそ宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路 を開かれると同時に、人の生命の上に迸り出でようと待ち構えて いる。  だから、平素出来るだけ何事に対しても、感謝と歓喜の感情をよ り多くもてば、宇宙霊の与えたまう最高のものを受けることが出来 るのである。  かるがゆえに、どんなことがあっても、私は喜びだ、感謝だ、笑 いだ、雀躍だと、勇ましく溌刺と人生のI切に勇往邁進しよう。 で章人間の生命の本来の面目   おおむね多くの人々は、知っていなければならないことは知らなくて、知っていて何もなら ない余計なことは知っている。そのうえ、知っていると、かえって害になることまで、しっか りと覚えている。  たとえば、テレビでみる一部の企業のPRだとか、あるいはラジオの、ラジオドクターの衛 生講話だとか、あんなものは聞く必要はないのである。聞いても、何もなりはしないのだ。  「陽気の悪いとき、風邪を引かないようになさい」  「今年の風邪はホンコン風邪で、どんなウイルスか判らないから用心をしなさい」と。  この間もやっていたが、  「まだワクチンが発見出来てない。どの種類に属するウイルスか判らないから、大いに用心な さい。今年の風邪引きは命取りです」  そうすると、それを聞いている教育ママなんかは、もう何か一端わかったような顔をして、 「今年はホンコン風邪が流行して、それが命取りだそうですから、用心しましょうね」とい  どう用心するのか。一番肝心なのは、どう用心するかということ。用心する方法を知らない で、「用心しましょう」という。  こんなことは要らないことだ。  香港から風邪が流行してきて、ウイルスが判らなくても、それは医者の方の責任であり、こ ちらに責任はありはしない。医者が一所懸命それを探究しているということを、報告するのな らまだしも、  「なるべく、多くの人を病に罹らせないよう一所懸命努力しています」  というのならわかるが、  「皆さん、用心なさい」とか「風邪を引かないようにして下さい」とか、  そんな、無茶なことをいっても駄目だ。  用心に用心を重ねていても、風邪を引くことがあるということを考えなければならない。  だから、素人として、知らなくてもよいことは、知らなくてもいい。やれ心臓がどうで、肺 臓がどうで、肺臓がすべって、やれ腎臓がころんだ、なんてことは知る必要はない。  正直な話、私が病になりたてには、ちっとも神経が昂ぶらなかったのに、医学を研究してか ら、よりいっそう、弱くなったのである。つまり、知らなくてもいいことを知ってしまうから だ。  だから、医者がその仕事のために覚える医学は必要だから、ぜひ天職を奉仕するために覚え なくてはならないけれども、素人が知る必要はないのである。  中には、素人のくせに、医者よりも自分の病を詳しく知っている。馬鹿”がいる。こんなの は、私にいわせるならば、本当に。馬鹿野郎”だ。  現に、天風会副会長の安武貞雄が大学生の時代に、今から約五十年前になるが、私に対し て、ぬけぬけとこういった。  「こと、腎臓に関するかぎりは、私は博士にも負けません」  「なにしろ、私は幼少の折から、この病をわずらっているのだから、この病に関しては、トコ トン研究しています」と。  「偉いなあ、偉いけれども、お前、もう少し馬鹿になったらどうだ」  といったのである。 「いろんな知識を知っていて、それでいてちっとも治ってないじやないか。治ってもない知識 ならあらずもがな。止めてしまえ。お前、もう少し馬鹿になれ1・ すべて忘れてしまえ!」 とO  それで彼は、馬鹿になって忘れたから、立派に大学を出てこの年まで、元気で活きていて、 そして副会長をやっているじゃありませんか。あれが、利口になっていたら、駄目だ。  おおむね、多くの世の中の、オッチョコチョイども、女の方が教育ママになり、男の方が教 育パパになっていたんでは駄目だ。つまりそういうのは、知らなくてよいことを知っていて、 知らなければならないことは、ちっとも知らないのだ。  そこで今日は、”人間の生命の本来の面目”というものを、はっきりと知らせてあげよう。 こういう問題に対して、諸君らは、どこまで理解しているのだろうか。  そもそも、。人間の生命の本来の面目”なんていわれると、何か、坊さんなんかの問答のよ うに考えて、現在、自分が生きている、。いのち”を持っていながら、その生きている生命の、 もっている”本来の面目”というものを知らずに、生きている人が多くはないか。  。本来の面目”とは、本当の目的ということだ。そのままの”すがた”ということだ。  人間の生命の本来の面目は何だろう。少し考えてごらん。それは、。創造の生活”である。  これが、生まれたときから、お互の生命に与えられた、本来の面目なのである。  ところが多くの人々は、これを全然自分の念頭におかない生活をしていやしないか。ただも う、自分だけのことを本位として、食うこと、着ること、儲けること、楽しむこと、遊ぶこと  なぜ、人間の生命の本来の面目が、創造的に出来ているのか。  それは、進化と向上を現実化するために、人間に、この本来の面目が与えられているのであ る。  まだわからないか。ではこういうことを考えてみよう。それは、どんな人間でも、気が狂っ てないかぎりは、「何ものをも完全であらしめたい。完全につくり上げたい」という気持ちが、 誰にでもあるはずである。すなわち、ものの破壊や消滅を好まず、ものの成就や完成を好む片 いう気持ちには、共通的にいわゆる完全を喜ぶという気持ちが、その心の中にあるはずであ る。誰しも代償のない破壊を好むものは、ないはずである。  これもやはり、人間の生命の中にある、自然傾向であるからである。いわば自然に与えられ た活動的能力である。  だから、この自然傾向を確実に応用しさえすれば、健康なんてもう問題じゃない。もう死ぬ まで丈夫でいられるし、そのうえ自分のやっている仕事は、すべてみんな成功する。成功せず にはいられないのである。ところが、この自然傾向を確実に応用しないで、脱線すると、事壁 に失敗したり、あるいは不運に見舞われたりするのである。  よく考えてみよう。何人といえども、たとえ自分が美術家でなくても、創作家でなくても、 人間誰しも、何事をも完全であらしめたいという意欲、観念を、みんな共通に持っているので ある。  自分自身をよく考えてごらん。物事の、完全につくり上げられることを喜ぶ気持ちが、自4 にあるだろうか、それとも完全に出来上がると、それを叩き毀してしまいたくなるだろうか。  どんな人間でも、代償のない破壊や消滅を喜ぶものはないはずだ。  だから、ちょっと手元のものを粗忽に取り落してもすでに割れてしまってどうにも元の形に ならないということがわかっていても、それを拾い上げ継ぎ合わせ元の形にしてみようとする 心がありはしないか。そして何となく惜しい気持ちが起こるのは、つまり、完全を欲する意欲 が、心の中にあるからではないか。  そのことがとりもなおさず、人間の生命の本来の面目が創造的であるという証拠ではない か。  実際、女性ほどに着物に執着を持たない男でも、立派に仕上げられたものは、何となく嬉し く感ずるものだ。呉服屋が仕立おろしを持ってきたのに、それをいきなり泥水の中に漬けて、 喜んでいるものはないだろう。そうした簡単な事実を考えただけでも、「人間の生命の本来の 面目は、なるほど、創造的であるなあ」と、はっきり理解できるはずである。  特に、私が声高くしていいたいのは、どんな老年になっても、自分の心から、この意欲をピ ンボケにしてはいけないということである。若いうちは、こういうことを、たとえわかってい なくても、とにかく自分というものをもっと優れ、より秀でたものにしたいという意欲で、心 の中は相当に燃えている。しかし、もう五十が過ぎ、停年が気になり、六十を過ぎると、早く も生命の老い先の短さを感じて、そそっかしい人間になり、この創造の意欲が薄くなってく る。  昔の人は、そういうのが多かったと見えて、六十の手習いなんていうが、私は「六十から手 習いしなさい」というのである。  ところが、五十、六十になって、自分の、いままでの努力が実らない人になると、「もう、 俺はどうせ駄目なんだから……」といって、もう自己に見限りをつけてしまって、自己認証が できない、ずいぶん程度の低い人が多い。  自分の日々の生活が何となく希望のない、希望があったとしても、その希望がピンボケで、 ただ「生きているから生きているんだ」というような、だらしのない活き方をしている人間が 多くはないか。こんな人生は、無価値な、無意味な人生で、それ以外の何ものでもない。だか ら、こういう犯すべからざる事実から推定しても、どんなに年をとっていようと、自分の心の 中で創造の意欲という情熱の炎をえんえんと燃やしていなければいけないのだ。  ただし、だからといって、世の中の多くの人々のように、卑しい希望や汚れた欲望から出発 した創造意欲や創作意欲は、むしろ、あらずもがな、断固、排斥すべきものである。なぜなら ば、そうした気持ちでの希望や意欲というものは、満たされない場合が多く、よしんば満たさ れたとしても、結局、価値のない人生に陥る怖れがある。    思うこと 一つかなえば また二つ         三つ四つ五つ むつかしの世や   自分の。沢”を知らなけりや、卑しい希望や汚れた宿望を炎と燃やしていても、ろくな仕事  は出来ないし、不渡りを喰う結果がくるのだ。   五貫目の力しかないのに、十貫目のものを持ち上げると、どんな結果になるか、ということ  を考えることだ。自己認証ということは、自分の分を知るということ。これが本当の自己認証  である。   ところが諸君は、自分の分が、十あるのに四くらいしか知らないのである。そして、四くら 一 いしか使えない能力でもって、十のものを持ち上げようとするからいけない。自分の分を忘れ 一 た希望や、念願というものは、結局、満たされないものが多いのである。成功しない場合が多 一 いのである。そんな人達は、しらずしらずに、自分自身を葬る墓穴を掘っていることになるの 【 である。だから、自分の情熱から消してはいけないけれど、分に過ぎた考え方というのはもは 一 や創造意欲ではない、一つのアンビッションなのである。アンビッションは価値がない。そし 。て、自分の生命に貫禄や力量を度外視した度外れな考え方、これを欲望というのである。意欲 ・ の中でも、低級で自己本位な欲望である。   要するに、この生命の本来である創造意欲は、常に価値の高い目標で定めねばならない。も つと目標の高いものを標準として、自分の創造意欲に情熱の火を燃やさなければならない。そ れは、第一に、”自己向上”ということである。  自己向上を正しく念願しないでいて、仕事なり、運命なりを向上させようとすることは、今 もいったとおり、力足らずなのである。十貫目持ち上げる力しか出せないくせに、十五貫目の ものを持ち上げようとしているのと同様である。十五貫目のものを持ち上げたかったら、それ だけの力をつけなくてはならない。だからそうしないものは事業などで思わざる失敗をやって しまうのだ。  また年をとると、すぐ創造意欲も消えてしまって、引っ込み思案になり、「もう俺も、この 年じゃ……」というふうになる。年によって、創造意欲というものを上げたり下げたりするこ とはない。もし、そういう考え方をする人があったら、自分の人生の価値を、全然認識してい ない人だと、遠慮なくいおう。  第一、人間が年齢を考えて、うんぬんするということは滑稽極まる話ではないか。もう幾つ で余命があといくばくもないから、今更それをしたって仕様がないなどと、そういう考え方を 持っていたら、なおさら仕様のないことである。  そもそも出発点を間違えているから、へんてこな理屈になるのだ。そんな生き方をしている 生き方というのは、文字通り、酔生夢死だ。生きていられるから生きているという、あわれ恪  憺たる人生ではないか。そのような人は、自分で、自分の焼き場の扉を開きに行くのと同然  だ。人間、時が来れば、一度は死ぬけれども、しかし、生きている間は死んでないのだから、  生きていられれば、齢なんか関係ないではないか。   諸君が、少年のとき、壮年のとき、老年のとき、どれも同じ人間のはずじゃないか。それy   も、どこかで、取り替えてきたのか。「ああ、十年前、あの風呂屋で変った」なんてことはな   いだろう。同じ人間のはずである。    ただ変わったと思うのは、心の中の知恵分別や、体の発達の状態、あるいは身分などで、人   間そのものは、変りはないはずである。変りのない人間であったら、ますます研ぎ上げたらど E うだ!。 ″  そうすることが、つまり活きている間に、一日一刻といえども、完全に活きることが、この { 貴重なる生命を与えてくれた造物主への正当な義務である。 J  女の人も、孫が出来て、ひ孫でも出来ると、すっかりおばあちゃんになってしまって、何の 匹 意欲もなくなり、 ( ‐1ただもう、お寺参りでもするのが楽しみで:::)とかい゛つO W  何をいっている。いくつになっても、いかなる場合も、自己向上を怠らないようにするこ 栄 と` これが自分の生命の本来の理想的な活き方なのだ。  そういう気持ちを持っていると、いつまで年老いても、極めて壮健で元気よく、人並み以卜 の若さと溌剌さに満たされ、その生命というものは、活躍してくれるのである。  そしてまた、そうした活き方をする人の言葉や行ないというものは、何も自分で意識的にI なくても、期せずして、進化と向上に順応することになるのである。だから、自分の生命を芙 縮させることが断然ないのである。  我々の生命は、常に伸びよう伸びようとしているのだ。これを忘れてはいけない。創造的わ ものなのだから。その証拠に、諸君が、知らないことを一所懸命復習していれば、だんだん` かってくるようになる。そしてわかってくれば、どんどんと、熟練してくるじやないか。そお は、伸びよう伸びようとする自然傾向があるからである。やるに従ってだんだん下手になっヴ くるものは、伸びようとしない人間だが、そんなことはない。  だから、自己向上の意欲の薄くなった大は、どうしても老衰を早める。そうなる理由は、匹 物主から与えられる、生命を支える活力を受け入れる囗をわざわざ自分で塞いでいるからだ。  どんな時代が来ようと、どんなに齢をとろうと、我々は進化向上の自然法則の中で活きてぃ る。特に、現在、病のある大、あるいは運命のよくない大も、決して、その病や、運命に、( をこだわらせないことだ。  こだわれば、こだわるほど、病も癒りが遅いし、運命だって、挽回するときが遅いのだ。人  問というものは、浮き沈み、波の高低のあるところに活きている。晴天の日もあれば、雨の日  もあれば、風の日もある。そのたびに、自分の心を苦しめていたらどうなるか。病のときに、  病にこだわれば、病に負けてしまう。   運命のよくないとき、運命にこだわれば、運命に負けてしまうではないか。   だから、病でも運命でも、消極的な気持ちにしないこと。そうするのには、まず相手にしな   いようにすることが一番である。病は忘れることによって治る!   こういうと「忘れたら、どうなるだろう」という人があるが、忘れてしまえば、一番いいじ  やないか。それを、忘れたら大変なことのように思っているのだね。自分の持っているもの ‘ を、どこかへ忘れてきたと同じように思っているのだね。欲が深くて何でもかんでも欲しいん 一 だやら。 」  いいかI ズバリ匸言いおう。 J {人間は、健康でも、運命でも、心が、それを、断然乗り超えて行くところに、生命の価値が } あるのだ!」 。 私は、ヨガの聖者からこの言葉を聞いたときに、 」 「そうだ!」と思った。 ’ それまではヽ組み敷かれていたからヽ乗り超えられなかったのだ・  竹一つ切るんだって、そうだ。気持ちが乗り越えていれば、パサッと切れるじやないか。 「切れるかしら?」と思ったら、もうそれは駄目だ。 「断じて行なえば、鬼神もこれを避く」 「陽気の発するところ、金石もまた透る」  だから、心を、決して消極的にしてはいけない。若々しい、力強い精神状態を、常に、自4 の心に持たせるのだ。我が心を、常に戒め励ましていかなければいけない。それが、たのも卜 い精神活動をする要素なのだ。  もう、どんなに年をとっても、自分の生命からそれを失ってはいけない。その気持ちが、茴 くなってしまったら、もう戒名書いてもらって、さっさと焼き場へ行ってしまった方がいい。 そんな者は、居たって、何の役にも立ちはしない。この世の中に、造糞器は要らない。もうヵ 派に化学的肥料が出来ている。  とにかく、生きている間は、造物主からの力を受け入れる囗を、自分で広く、伸び伸びとす げなさい。そうするには、常に、自己向上を意欲として、健康や運命を完全にするという、尤 当に成功の人生を自分で創らなければいけない。常に正しい希望を、我が心の中に輝かせてい なければならない。  今日の誦句も、そのまま噛みしめていくと、なるほどと、その意味がとれる誦句だから、卜  く聞きなさい。          しんげん       統一箴言   人の生命は宇宙の創造を司る宇宙霊と一体である。そして人の心は、その宇宙霊の力を自己  の生命の中へ、思うがままに受け入れ能う働きをもつ。   噛みしめていくと、なるほどと、その意味がわかってくるだろう。 一   しかもこうした偉大な作用が人間に存在しているのは、人は進化の原則に従い、宇宙霊とど  もに創造の法則に順応する大使命を与えられているがためである。   私は心から喜ぼう、この幸いとこの恵みを!   多くの人は、知らないから、心から喜ばないよ。   私は今、人の世のために何事をか創造せんど欲する意欲に燃えている。  これは天風会員だけがいいうる言葉だ。  そしてかくのごとくに意欲を燃やしていれば、いつかは、宇宙霊は私に何をなすべきかを教 えたもうにきまっている。  私が事業家にいいたいのは、ここだ。宇宙霊から、これをしろといわれないのに、自分の欲 望でもって、しようとしたことは、そう滅多に成功するものではない。事業に成功するのは、 自分が欲望から離れて、何かを考えたときに、また、その考えたことを実行したときに成功す るのだ。  同じ事業家でも、欲の固まりでやる者と、「この仕事で、世の中の人のために、本当に役立 つものを提供しよう」という気持ちでやるのとでは、その結果が全然違うのである。  私は今、私の生命の中に、新しい力と新しい元気どを感じる。私は今、心も肉体も新生しつ つあるのである。同時に私は今、限りなき喜びと輝く希望とに雀躍する。それは、私は今、宇 宙霊の叡智を真実に自分の生命の中に受け入れる秘訣を会得したからである。それゆえに私の  創造の力は、最も旺盛でかつ完全である。したがって私の人生は、昨日までの人生でなく、溌  刺とした生気が溢れ、敢然とした勇気で漲っている。   そして何事をも怖れず、また何ものにも怯まず、人生の一切を完全に克服し、ただ一念宇宙  霊の心と一体化して、あまねく人類幸福のために、創造に勇ましく奮闘せんとするのみであ  る。   さあ、この暗示の誦句を聞いただけでも、こうやって、毎日諸君が尊い修練に志しているの  も、結局は、あまねく人類幸福のために、創造に勇ましく奮闘せんとする自分を、正しくつく 一 っているんだということに気が付いたであろう。ただ、利己的な考え方で、自分自身をつくっ  ているんじやないということに、標準を置かなければいけない。   自分だけ丈夫になって、もっとうまいものを食べようとか、もっといい着物を着ようとか、  もっと事業が成功したら、うんと別荘でも造って、いろんな遊びをしてみよう、なんていう考  えを持ったなら、とんでもないことだ。   修養ばかりでなく、何を志すときでも、自己向上を目的とする。そして、その目的とする自  己向上は、ただ単に自分の幸福だけのためにするんじやない。自他の幸福のためにするんだ、  という広い意味を忘れてはいけない。そうしてはじめて、自分の勉強にも努力にも、非常なぞ くぞくするような力が湧いてくるのだ。  学生なんかは、「いやだなあ。試験のために、しょっちゅう勉強しなければならない」とい うが、試験を受けるために勉強しているんじやない。自己を向上させるために、勉強するんだ から、試験は楽しいものでなくてはいけない。試験がなければ、自分が進歩したかどうかわか らないじやないか。それなのに試験が嫌いになった学生は、すでに学生としての資格を、自分 でスポイルしていることになる。  学生諸君も、自分自身で、よく考えなさい。俺は試験が好きか嫌いか。今までは試験が嫌い であったろう。しかし今日からはもう、試験が、あこがれの的であるくらいの人間にならなけ ればいけない。そうして初めて、自分自身というものが、どれだけのものであるかということ を、知り得る試金石になったことになる。  結局、「観念要素の更改」を毎晩毎晩やりなさい。そうするれば、ぐんぐんそういう人間に なれるものなのだから。健康をよくするのも、事業をよくするのも、常に、世のために、自分 と同じ幸福を手広く分けてあげようというつもりになることだ。  さあ!・ 一緒についてきなさい!・        しんげん      統一箴言  人の生命は宇宙の創造を司る宇宙霊(=神仏)と一体である。そ して人の心は、その宇宙霊の力を、自己の生命の中へ思うがままに 受け入れ能う働きをもつ。しかもこうした偉大な作用が人間に存在 しているのは、人は進化の原則に従い、宇宙霊とともに創造の法則 に順応する大使命を与えられているがためである。  私は心から喜ぼう、この幸いとこの恵みを!  私は今、人の世のために何事をか創造せんと欲する心に燃えてい る。そしてかくのごどくに心を燃やしていれば、いつかは、宇宙霊 は私に何をなすべきかを教えたもうにきまっている。  私は今、私の生命の中に、新しい力ど新しい元気どを感じる。  私は今、心も肉体も新生しつつあるのである。  同時に私は今、限りなき喜びど輝く希望とに雀躍する。  それは、私は今、宇宙霊の叡智を、真実に、自分の生命の中に受 け入れる秘訣を会得したからである。  それゆえに私の創造の力は、最も旺盛でかつ完全である。  したがって私の人生は、昨日までの人生でなく、溌刺とした生気 が溢れ、敢然どした勇気で漲っている。  そして何事をも怖れず、また何ものにも怯まず、人生の一切を完 全に克服し、ただ一念宇宙霊の心と一体化して、あまねく人類幸福 のために、創造に勇ましく奮闘せんとするのみである。 ―;人生の羅針盤  今日は、人間の心の力を、絶対的な強さにするに必要な根本要素ともなるべき、極めて重要 な事柄について悟ることにする。  厳格にいうと、今日の悟りが充分に現実化されているか否かで、その人の一生が決定されて しまうという、広い意味における人生の基礎を堅固にすると同じくらいに極めて価値高い問題 である。  このようにひとつひとつテーマを変えて、人生建設に必要な宇宙真理を説いているのも、結 局、諸君の迷いを覚まして、悟りを開かせ、真理に順応して活きる人間を創るためであり、ま た本当に諸君を、万物の霊長たる資格を持つ人間にしたいからである。そして人生を本当に有 意義に、幸福に活きられる大にしてあげたいのが目的である。  だから、かりそめにも、人間として理解し、悟らねばならない真理は、私の知るかぎりの全 部をもってお導きするということを、私の信条としているのである。  立派に万物の霊長たる資格を持って活きるには、いやしくも、大として理解しておかなけれ ばならない人生真理を、出来得るかぎり、自分の人生を考える中で、きちんと蓄えておかねば ならない。そうでないと、人生を完全に活かすことが不可能になる。いい換えれば、人生真理 を理解するということは、ちょうど、花園を汚す雑草を、片っ端から切れ味するどい鎌で苅り とるのと同様である。  考えてみよう。お互の心の中には、自分でも愛想が尽きるような、随分と悪い思想や、悪い 観念が、歉淤っているということを否定出来ないだろう。またそういうものが、自分の心の中 にないとしても、やたら、悲しんだり、怒ったり、怖れたりという、ともすれば心の光を暗く するような消極的な観念が、随分我々の観念の中には、自分でも困るくらい、時として愛想が 尽きるくらい発生する。  そこで、いままで聞いた正しい理解で、健康や運命を正しく建設して、人生を生き甲斐のあ る状態にしていくためには、こういうものを心から除き去らなければならないのである。どん なに学問をし、またどんなに経験を積もうとも、この真理瞑想によって得た悟りを現実に実行 していかなければ、本当の幸福というものは現実にならない。  ところが、おおむね世の多くの人々は、こうして真理瞑想を聞いているときは感謝し、「あ あ、そうだ」「まったくだ」というふうに考えていながら、他日、病が起こったり、あるいは 運命に悪いものが起こると、それから離れてしまう。何のために教えを聞いたのかわからない ような、哀れな状態を自分の生命につくってしまう人が多くはないだろうか。  そんなことでは、人生の真理を、悟ったというのではなくて、ただ理解したというだけのこ とだ。理解と自覚とはまったく違う。理解というのは、ただわかったというだけであり、自覚 というのは、本当に自分の魂に受け入れたことなのである。  どうも多くの人々は、理解ということだけで、感謝したり、あるいは非常に大きな法悦と感 じたりするような馬鹿馬鹿しいことを、大変価値のあるように考えている。一番先に必要なこ とは、諸君の心の中に存在して、悩ませ、迷わせ、悶えさせている雑念、妄念というものを除 き去らないかぎりは、どんなことを聞いても、わかったということが、直ちにわかったことに はならない。  自覚というのは、結局、その雑念妄念を払い除けて、自分の知識の中に受け納めたものでな ければならない。そうすれば、病が起ころうと、どんな運命に見舞われようと、決して自分の 心の強さというものを弱める気づかいはない。しかしただ上っ面だけ理解していて、相変らず 雑念妄念を潜在意識の中に溜めていたのでは、いつまで経っても、ものがわかったというだけ で実行に移されない。その結果、知らない方がかえって気易い人生を活きられるという、滑稽 な結果が人生におきてくる。  たとえば、夜眠れないときなんかに、何もわからず、「眠れないなあ、困ったなあ」と思う だけだけれども、睡眠を充分に取らないと、それが原因で生命に生ずる障碍が、どれだけ夥 しいかということがわかると、「眠らないと、自分の体の中に疲労素が余計増えて、尿素過剰 になり、それが原因で、肝硬変の素を作ったり、腎臓病の素を作る怖れがある」ということを 考えたりして、二重にも三重にも、その苦痛が自分を襲ってくることになる。  そのとき、正しい自覚を持っている人間は、雑念妄念を払い除けてあるから、心の態度が立 派に積極的になっているので、気高い心で一切を処理し、命を怯やかすようなひどい病が起こ ろうと、どんなひどい運命に襲われようと、巧みにその心の中で挽回してしまうのである。  このゆるがせにすることの出来ない重大な消息を、たいていの人が、ゆるがせにし過ぎてい るのである。そしてやたらと、怒り、悲しみ、怖れ、憎み、嫉み、悶え、迷い、苦しんでいる のである。  ひとたび人生真理に目覚めれば、そのように人生を心ならずも、不調和に陥れたり、ある いは根本的に破壊するような兇悪な、不必要な気持ち心持ちというものは、少なくとも、現在 より遥かに数を少なくしてしまうものである。またそうした消極的な感情や観念が、心の中か ら影を潜めないかぎり、宇宙霊の力を、よりよく自分の生命の中に集めることは到底出来な い。  だから、まことに人生真理の自覚ということは、人生を不調和に陥れたり、または、人生を 破壊する兇悪な運命から、魔の手を防ぐくろがねの楯のようなものである。  人生を悟るということは、宇宙霊の無限の力を、生命の中に受け入れる入れ物を用意したこ とになる、ということを考えると、けだし容易ならざる大切なことであり、人生を完全なもの として、活きていこうとするものにとっては、これはもう、真剣以上の真剣さで考えてみなけ ればならない、人生問題の中の最高のものである。  ところが、この私もわからなかったとはいえ、そのようなことを全然考えなかったという愚 かな人間の一人であった。だから、ただ生きていられるから生きているという惰性的な生き方 ばかりして生きていた結果が思いもよらない大きな病を身に引き受けたり、しなくてよい苦し みを、自分の生命に与えてしまったのである。しかし、幸いにも、自分を甦らせる真理を自 覚したおかげで、今日があるわけである。  自分の経験してきた苦い過去を諸君にはさせたくない。もちろん、そのようなことは全然考 えもしないで来た人も多いであろう。しかし、求める求めないにかかわらず、また知ろうとす る、しないにかかわらず、人間として生きている以上、多くいうまでもなく、自分の生命の全 体は自分が守らなければいけないのである。  いま何でもないと、そのような気持ちは起こらない。健康が完全で、運命が良いとなると、 人間は案外横着で、自分が何かそういう、特別な権利を与えられたと思ったり、あるいは自分 というものが、そういう良い運命の人間であるというふうに思い上がる。ところが、人間の生 命に、どんな嵐がいつなんどき吹いてこないともかぎらないというのが人生である。  何の嵐も吹かない、何の出来事もない、ノーアクシデントが人生の全部なら、我々は、何に もこういう方面のことを考える必要はなく、今までどおり、金だ、慾だ、食い物だ、着物だ、 色だ、恋だ、遊びだ、戯れだといって過ごせば、それで人生というものが万事OKだ。しか し、油断も隙もないというのが、文字通り人生の本当の面目である。考えてみればそら恐ろし い人生だ。  いつかも話したことであるが、人間というものは、虎に追いかけられて松の木に登り、松の 木に上がってみると、上から大きな蛇が来て、進退きわまって足元の聨ご伝って谷の底の方に 行こうとぶら下がっていると、その蔦葛をリスがぼりぼりかじっている、という状態の中で活 きているのが、人生の全体の。すがた”である。  ただ、自分が虎に追いかけられて逃げたら蛇に呑まれようとしている。そしてきわまって、 ぶら下がった蔦葛の根本をリスがかじっていると気が付かない人間は、ポーツとして生きてい るだけである。けれども、何の用意もなくそうした人生に生きていると、(ツと気が付いたと きには、まだその蔦葛がかじり切られないうちに、もう手を放して自分が落ちてしまう。  だから、こう考えてみると、実際、油断も隙もないのが、人生の本当の”すがた”なのであ る。  死ぬときに、一休禅師も何といったか。    昨日まで 人のことよと 思いしに     今日は我が身か こいつ たまらぬ  という辞世がある。  どうも諸君は、現在がどうもなければ、永久にどうもならない、と思うほど、極めて呑気と いう以上に緩んでいる気持ちを持っている。もしも金が出来て、地位が高くなったために、幸 福になれて、病に檻らず、悪い運命にもならず、また死にもしないというなら、まことにこれ は結構ずくめであるが、いくら金が出来ようが、地位が高くなろうが、何がどうしようが、そ ういかないのが人生である。  だからこそ、我々は、何を措いても、正しい人生に総まる真理だけは、自覚して活きねばな らないのである。  そこで、今まで数々の自覚が与えられたのであるが、人生を完全に活きようとする大たち が、一番根本的で、大事な心をたのもしいほど絶対的にし積極的にするのには、どんなことが 必要か。  諸君は、心は積極的にしなければいけないということは知っている。精神生命の固有する感 応性能を積極化させることが先決問題であることを毎月の講習会で学んでいる。そして、その 条件や条件解決の方法も会得した。尊く、強く、正しく、清く活きなければならないことが、 人間の真の活き方だということも知っている。そして出来るだけ、明るく、朗らかに、生々と して、勇ましく活きることを心掛けてはいるであろう。しかし、その心掛けていることが、い かなる場合にも、徹底しているかというと、そうはいかないだろう。  ともすれば明るいはずの心に暗やみが差し、朗らかであるべきはずの心が朗らかでなく、 生々とした勇ましさが、事があれば、すぐペシャンとなり、自分ながら考えると口惜しいとい うことが、たぴたぴありはしないか。まあ最初のI、二年は仕様がないが、三年、五年と熱心 にやっていれば、もう、我々が感心するほどの人間になるはずである。  それというのも、側からじいっとそういう人を観察してみると、これから悟ろうとする肝心 要のものが、抜けているのである。それはいったい、何か、というと、一言にして尽きる。  「信念」ということである。  つまり現代の人間は、良いことを聞いても、良いなあと思って感激はしても、それが、本当 に自分の心のものにならないのは、心の中に大事な信念というものが、知らず知らずのうち に、欠如しているからなのである。欠如しているというより、むしろ下積みになっているとい おう。ともあれ、信念の力というものは、実に諸事万事を完全にする根本的な要素なのであ る。  時の古今といわず、洋の東西を問わず、信念の重要性というものを、人生を説く大は、誰で もが力説している。紀元前に存在していた有名なヘブライの。ソロモン”も、その時代には、 まだ、科学も哲学も、今日とは比較にならぬほど、進歩していなかった時代だが、彼はすで に、「人の本当の値打ちというものは、宝石でもなければ、黄金でもない。いわんや地位でも なければ、名誉でもない。ただ、信念の二文字である」といっている。  また釈迦も、キリストも、マホメットも、孔子もいっている。  釈迦は、  「信ぜざれば救う能わず、縁なき衆生は度し黻し」といっている。  キリストは、  「まず、信ぜよ」といっている。  マホメットは、  「疑って、迷って、真理から遠ざかる者よりも、信じて欺かるる者、汝は幸いなり」といって いる。  しかしこれは逆説的な言葉である。信ずる者は欺かれないから、本当に信ずる気持ちを持っ ている者は、ものの本当か嘘かはパッとわかるものである。本当のもの以外は信じないからで ある。  それを諸君は疑いだらけだから、信じなくてはならないことを信じられないで、何でも頭か ら疑ってしまうというやり方なのである。  孔子は、  「信は万事のもと」といっている。  また、メーテルリンクは、  「能うべくんば、究むるもよし、さりながら究め能わざるものは、信ずるにしかず」といって いる。  いずれにしても、信念の重大性は早くから、人生を考える学者や、識者には、感じられてい たのである。  それほど重要なことが、さきほどもいったとおり、現代の人間は情ないほどそれをそうと考 えず、何でも、まず疑いから考えようとする。そうすることが、正しい考え方のように思って いる人が多い。疑いの方から考えようとするから、自分というものが、勢い、小さな存在にな ってしまっている。  ではなぜ疑いがいけないのか。それは疑い出したら、何事も安心が出来ないからである。  よく考えてみよう。我々が、こうやって、活きているのも、多少なりとも信念があるから活 きていられるのである。例えば、夜眠るのだって、疑ったら眠られない。 「今夜眠っている間に‘、死んでしまいはしないか」  と思ったら、うかうか寝られもしない。  不眠症に罹る人間は、みんな、そのような心持ちを持っているのだ。 「ちょっと眠っている間に、死んだらどうしよう」というふうにだ。  それから一所懸命に行をやっているときに、 「ボカンと大きな地震でもあって、地面に大きな穴でも空いたらどうしよう」  なんて疑い出したら、それはもう、安心出来はしない。  いつもいっているとおり、疑いがこうじたら、産んだ親まで疑いはしないだろうか。  生まれるときに誰も、産んだ親の顔を見て来ない。ただ自分の観念の中で、これは自分の親 だと思うから、親と考えているだけだ。それが信念である。  夜寝るとき、起きられないだろうとは思わないから寝るのだ。そうやって眼をつぶっていて も、また開けようと思えば開けられるから眼をつぶっているのであって、絶対に開かないと思 つたならぱ、眼をつぶりはしない。  このような、見やすい事実があるにもかかわらず、いったい、現代の人間、特に理知教養の ある人ほど、あさましいほど、諸事万端、他人事ばかりでなく、自分のことまで疑って人生を 活きる悪い心持ちを持っているのは、科学教育の余弊だといってもいい。幸か不幸か、お互は 科学の時代に生まれているからである。  なぜ科学の教育を受けると、そうなるかというと、科学はまず疑いの方面から、物を考えよ うとする。本当はいけないのだけれども、習慣で知らず知らずに陥っている。  「科学は疑い深い」というくらいである。しかし、もっと科学の求める結論を考えてごらんな さい。  科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾 しない、というのが科学の研究者の態度だ。すなわち、I十I=2というやり方。ところが、 この世の中の事柄が、すべて1+1囗2でわからなければ承諾しないという態度で応接する と、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。  もっとわかりやすくいえば、科学的にわかることと、どう研究してもわからぬこと、わかっ ていないこととがある。いくら、知らなければならないと思っても、それには限界がある。  科学は万能の学問ではない。それを、何事をも科学的態度で応接し、1十IH2でなければ 承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間にわからない事柄の多い人生の 中に、自分のいる姿を発見してしまう。そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少し も安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以 外には何物も人生になくなってしまう。 「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、自然に不可解な苦しみに悩ん で、不安な生涯を送ることになる」  といっている。  これはつまり、人生に対する信念が乏しいために他ならない。  実際、時の古今、洋の東西を問わず、仲間の群をしのいで名をなし、功を遂げた偉人や傑士 を見てみるがよい。誰も皆信念の人であったことを発見するに違いない。  以上のように、人生にとって一番大事なことは信念であるということはわかっているが、そ れほど重大な信念は、どうすれば確立され、どうすれば信念が強くなるか、という実際方法は 誰も解いてはいないのである。  さて、そうなら、どうすれば信念が確立され、どうすれば信念が強くなるのか。それにはま ず、「信念を煥発すること」である。  信念は煥発しなければ、強くはならないのである。信念は出たくてうずうずしているのに、 消極的な観念がそれに獄をしていて、諸君の心の底の底の底に、いつのまにか下積みにされて しまったのである。  だから、信念は煥発しなければいけない。信念が本当に煥発されると、「実際、これが本当 に自分の心か」と思うほど、驚くべきありがたさが自分の心に生じてくる。信念が煥発されて くると、くだらないことは考えないし、神経は過敏にならないし、ことあるも常にことなきの ようになれるのである。  信念という、この人生に重要性をもつ価値高いものを、煥発しなければいけない。だから、 (ツと思ったら、今夜からといわず、たった今からでも、信念の煥発をしなさい。  ここまで人生理解が進んでくると、たとえ偶然の因縁でも、天風会員になったならば、入会 以前には。信念の煥発”というような重要なことは、とっても困難なことで、特別な難行苦行 をするとか、長い間坐禅の修行とかをしないと出来ないと思っていたであろうけれど、諸君は もうすでに講習会で観念要素の更改法を教わっているではないか。  あの鏡を利用する自己暗示法を真剣に実行しさえすれば、信念はどんどん煥発されるはずで ある。ところが、上っ面だけ聞いて実行しない人が多いから、なかなか信念が煥発されないの だ。そのような人は、ちょうど、基礎工事をしっかりやらずに建築物を建てるのと同様なので ある。  もう旧聞に属するが、九州の八幡の製鉄所に講演に行ったときのことである。会員の野田工 学博士が海軍中将で退官後そこで技監をしていた。講演が終わって、夜は野田博士の官舎に泊 って翌朝の朝食のときであった。  「いやあ、まったく驚きました、実は先生の寝がけをのぞき見したんですよ」という。  「何のために」と尋ねると、  「先生が、寝がけに、どんな自己暗示をされるかと思って、抜き足、さし足、夫婦でもっての ぞき見したんです」  「それでどうだったかい」  「鏡を見られて、あんな真剣な態度でされるとは思いませんでした。先生ぐらいになられて も、まだおやりになるんですか」というから、  「ああ、一生やるよ!」と答えた。  すると、  「へえ、私どもは聞きっ放していましたね」といって、夫婦で顔を見合わせて、「いえね、や らないことはないんですけれど、一週間に一回か二回です」と。  まあ、やらないよりはいいが、中には古い会員には聞きっ放しで、  「ああ、あれは年一回くらいだなあ」とか、あるいは、  「プラナヤマ、はて何だっけ? あああの深呼吸することか。五年に一回くらいしかやらん」  といった、とぼけたのがいる。  そんなのは観念要素の更改なんて、本当に真剣にやってはいないのだ。石灯籠と同じで、た だ苔が生えているだけで、何の役にも立たない。新しい大は、そんな古い人の真似をしてはい けない。  どこまでも自分を作り変えていくという心で、真理を聞いた以上、真剣に実行していかなけ ればいけない。私の半分でもいいから実行したら素晴らしい立派な人間になれるんだと、もう 何回もいってきたはずだ。よいことは真似しなさい。たった一分か二分あれば出来ることでは ないか。  合理的な方法を知らないで、ただ信念信念というと、往々にして、正信念でなく、いわゆ る、盲信という価値のない精神状態になる。そうなると、哀れ千万にも、文化時代の人間とも あろうものが、迷信家となる怖れがある。  あの鏡を用いる合理的な方法で煥発された信念は、前述の正信念である。  正信念というものは、宇宙真理に自然に感応して、疑いの心が発動しないが、そうでない盲 信という精神状態になると、どうしても宇宙真理に感応しないで、ただもう雑念妄念のみで消 極的な心になるため、迷信に陥る。  「やれ、方角がどうで、やれ日がらがどうだの、やれ星廻りがどうだ、年廻りがどうだ」と、 変な理屈をつけて、まるで半分は精神異常者みたいなことをいっているのは、結局信念がない からだ。迷信ということは根も葉もないことなのだ。根も葉もないのに、根や葉をつけるから いけな’い。  迷信は文化民族の恥辱である。それは信念がなく、心が消極的になっているから、そのよう な迷信などに走るのだ。繰り返していうが、信念というものは、煥発しなければ断然出てこな いのだ。  自分の心の中に生まれながらにして、霊性意識の中に大っているものであるから、雑念妄念 を除いて、心の正体を出しさえすればぐんぐん出てくるのだ。  信念が出てこないと、人生は不可解なことがいっぱいなんだから、あっちヘウロウロこっち ヘウロウロとして、本当に安心立命の人生に活きることが出来ないという滑稽な結果だけにな ってしまう。信念を持つということを多くの大は、大変むずかしいことのように思っている が、決して難しくも何ともないんだよ。  鏡を見てやる自己暗示法なんか、やさしいことではないか。隣のオバさんの顔を借りてきて 写すわけではなし、長年持ちふるしている、自分の顔を写せばいいんだから。顔の眉間に向っ て、自分が精神統一してから、自己暗示法を注ぎ込みさえすれば、信念はぐんぐん出てくるの だ。  女の大なんかは、しょっちゅう信念の煥発が出来るようなコンパクトという道具を持ってい るじやないか。化粧というものは化け粧うんだから、蔭で化け粧えばいいのに、人の前であろ うと、電車の中であろうとはばからず、コンパクトというゲテものを出して、高くもない鼻を 懸命にヒッ叩いて、顔に白粉塗っている大がいる。これも、あながち悪いとはいわないが、同 時に、心にもお化粧したらどうだ。コンパクトを出して鼻ヒッ叩いているときに、ついでに出 来るじやないか。  嘶爽溌刺たる人生を活きたかったら、動かざること山のごとき、断固とした信念を造ってお かなければいけない。どんなに学問が出来ようが、どんなに金ができようが、信念がなけれ ば、その人の人生は、哀れ、惨憺たるものになる。  ちょうど、薄い氷の上に、立っているようなものである。いつなんどき底知れない湖の中に 落ち込んでしまうかもしれないような、危険な人生を活きているのが、信念のない人生だ。  自分自身で自分自身をよく考えてみよう。我は信念があるのかないのか、弱いか強いか。  信念というのは、頑張ることではない。煥発して来なければ駄目だ。自分の心の中から抉り 出さなければ駄目だ。信念の方は、出たくて出たくて、うずうずしているんだから。  わざわざそれを、雑念妄念の厚い壁を造って、出難いようにしている。霊性心の発現を、わ ざわざ妨げている。さらに夜の寝がけに暗示誦句集を出して、どこでもよいからパッと開い て、その開かれたところの誦句を見て、宇宙霊が今夜私に、この誦句を与えたもうたのだ、こ れこそ正に天の声だ、と信じて唱えるのだ。  そして、その気持ちを、どんなことがあっても絶対に失うまい、と心に堅く刻み込んで寝床 に入る。そうすれば必ず、牢固として抜く能わざる信念が確立されることは断然間違いない。  そのために、古い大も新しい大も、すべての天風教義を今日から改めて実行すると約束しよ yフO  宇宙霊に約束した以上、実行しないと詐欺になる。  諸君の一人一人が、健康も運命も、本当に幸福になり、そういう大が増えれば、その大たち の言葉や行いによって、多くの迷っている大が、美化善化してくる。  諸君の一人だけが、よくなるためだけに来ているんじやないのだから。「選ばれ大として、 ここに座ったのだ」という信念を持たなければいけない。  私みたいな人間が、こういう尊い仕事をする気になったのも。信念”だった。  私がこの仕事を最初にするとき、止めた人間が、誰あろう、田中智学という日蓮宗のその当 時の有名な坊さんだった。  「駄目だから、お止しなさい」といったが、私はこう思った。  「本当の気持ちで人のためを思ってする仕事が、駄目とはいかなる理由か。大によいことを奨 め、大を幸福にすることがなぜ駄目なのか。否、駄目とか、駄目でないとかは考えない。ただ 大を幸福にすれば良いのだ。それが自分に出来ないはずがないんだ’・」  という気持ちでこれを始めた。  だから私のその気持ちを信じてくれたのは、母親と家内だけであった。他の人々は、皆私が 気が狂ったと思った。それはそうかもしれない。たとえ何であろうと、銀行の頭取をしていた 人間が急に草鞋ばきになって、脚絆をつけて、焼きおむすぴ持って、大道講演すれば精神異常 者だと思うかもしれない。しかし私には私なりの信念があった。  尊い真理に国境はない。尊い因縁に恵まれて、こうして集ってきた以上、自然の摂理に従 い、ただ自分だけでなく、世の人々を幸福にするために活きてこそ、この世に生まれた生き甲 斐があるのだ。だから、どうぞ、人のため、世のために、本当に心の底からお願いしておく。 改めて今日から、古い大も心を入れ替えて。信念の大”に成りなさい!  誦句を与える。      信念の誦句  信念、それは人生を動かす羅針盤のごとき尊いものである。  したがって信念なき人生は、ちょうど長途の航海の出来ないボロ船のようなものである。か るがゆえに、私は真理に対してはいつも純真な気持ちで信じよう。  今の人々は、この真理に対しても、純真な気持ちで必ずしも信じてはいない。だから八卦に 見てもらったり、占いを見てもらったり、方角を見てもらったりというふうになってしまうの だ。この点を忘れてはいけない。  否、信ずることに努力しよう。  というのは、信念を煥発しようということである。  もしも疑うているような心持ちが少しでもあるならば、それは私の人生を汚そうとする悪魔 が、魔の手を延ばして。私の人生の土台石を盗もうとしているのだと、気をつけよう。   どんどん人生の土台石を盗もうとして来る悪魔を手伝って、一緒に運び出すような間抜けな  ことは、断じてなすまいぞ!・   さあ、ついて来なさい! 一 一 一 一      信念の誦句  信念、それは人生を動かす羅針盤のごとき尊いものである。  したがって、信念なき人生は、ちょうど長途の航海の出来ないボ ロ船のようなものである。かるがゆえに 私は真理に対してはいつ も純真な気持ちで信じよう。  否、信ずることに努力しよう。  もしも疑うているような心持ちが少しでもあるならば、それは私 の人生を游そうとする悪魔が、魔の手を延ばして、私の人生の土台 石を盗もうとしているのだと、気をつけよう。 第九章第一義的な活き方  眼を開き安定打坐!  理想的な安定打坐というのは、眼を開いていても、仕事をしていても、その刹那に、心耳を 澄まし、空の声を聞けば、安定打坐になれるのである。  眼を閉じて、印を組んで、座らなければ、出来ないと思ったら大間違いなのだ。何をしてい るときでも、どんな仕事をしているときでも、なれるのでなければならない。もう刹那咄嗟に 出来なければならない。その予行演習をしているはずだからだ。そのために、静かに坐禅を釦 み練習しているのだから。だがしかし、坐禅の本来の目的は、常住坐臥、人生を生活してい芯 刹那刹那に必要とするものなのだ。  急行列車の中で、窓に写るいろんな景色を、ブーツ、ブーツと雲烟過眼する気持ちが、とら われのない、執着解脱の心境なのである。  眼、これを見るといえどもこれをとらえず、耳、これを聞くといえどもこれにとらわれず、 いわゆる、不即不離、要らないことは、耳から入ってこようと、眼にふれようと、あるいは感 覚に感じようと、つかず、はなれずでなければならない。  ところが、あなた方は見るもの、聞くもの、触れるものを、皆自分の人生に交渉を持つよう にするからいけないのだ。できている大と、できていない人の相違は、ただこれだけの相違な のである。要らないことには、全然、心をおびやかされたり、関係させたりしないことであ る。  諸君でも、たまたま、そういう状況になることがある。ただ、意識的には出来ないのだ。無 意識的に出来たんでは駄目だ。意識的に出来なければいけない。自分の心なんだから、自分の 心を操縦出来なければならない。  ここに千人近く集まっているのに、深山幽谷にいるような状態を感じるのも、要するに、諸 君の安定打坐が徹底しているからなのである。静かで、気高さを感じさせる。この静けさが、 ふだんの心でなければならない。  心は常に「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山」、大山鳴動するといえども、心は常に微 動だにしない、というようでなければならない。自分のいのちを守る心は、しっかりとして、 本当に静かで、秋の池の水のような、澄み切ったものでなければいけない。  さあ、今日の真理瞑想は、第一義的な人生の活き方に対する最も重大なことを悟ろう。  講習会を聞いている大は、天風教義が第一義的な人生への活き方を教えるのが目的だと、毎 回の講習会でいっているから、覚えていると思うが、第一義的な生き方というのは、何だろ  天風教義の目的は、どんな場合にも、たとえば身に病があろうが、なかろうが、運命が良か ろうが、悪かろうが、その他の人生事情のいかんにかかわらず、いつもI切に対して、その心 の力で、苦を楽しむの境涯に活きる活き方をすることにある。これが第一義的の活き方なので ある。  そして、そういう活き方をするには、どうしたらよいか。  それには、何をおいてもまず第一に、人生に対する考え方を根本的に変えなければいけな い。その根本的に変える考え方というのが、積極的だということ。そして積極的とは尊く、強 く、正しく、清く、ということは、すでに何度もいった。  自分の住む現在の人生環境や、また世界を、いやらしいとか、いとわしいとか思うような 大、あるいは健康に快さを感じない大があったならば、その大くらい不幸を人生に感じている 大はないといえる。反対に、現在の自分の住む世界や環境が、たとえ他人から見てそう大した ものではないと思われるようなものでも、自分が心の底から本当に満足し、感謝して活きてい るとしたら、その大は終始一貫、幸福のるつぼの中で恵まれて活きている大である。  私は少年のころに、あの熊沢蕃山という人の作った歌を見たときに、ああ人間これでなけれ ばいけないなあと思った。    憂きことのなおこの上につもれかし       限りある身の ちから ためさん  。憂きことよ、なおこの上に、つもれつもれ。俺は、決して、それに負けはしないぞ”という 気持ちだ。  この人の有名な話の中で、私の心を打ったエピソードを話そう。蕃山は、山の上の一寒村に 貧しい暮しをしていた百姓の家に生まれた大なのだ。もっとも血筋は大変よかったらしいんだ が、落ちぶれて、結局は、山家住いの身になったんだが、やっぱり血筋がいいだけに、学問を 志して、自分の畠に出来た野菜を担いでは村々、町々に売って歩くかたわら勉学にいそしん だ。  山二つ越したところに、中江藤樹が住んでいた。中江藤樹というと、儒者で我が国陽明学派 の柤、その当時の優れた学者である。もちろん、身分のいやしい者は、武士の講義する席上に 入ることは許されないから、蕃山は講義の始まる時間に来て、垣根の外で、うずくまりなが ら、垣根越しに中江藤樹の講義を聞いていた。そうして暫く月日が過ぎたある日、門弟が気付 いて藤樹に話すと、  「そうか。それでは庭へ入れてやれ。下郎の身だから座敷へ上げることは出来ないけれども、 庭ならよいから入れてやりなさい。そして、廊下のところで聞かせなさい」  といって、講義を聞かせた。  そして講義が終わった後で中江藤樹が、 「そんなに私の話が聞きたいか」と聞くと、 「(イ、雨の日も、風の日も、こうして、先生のお話を聞くのが、私の何よりのっとめだと思 って参っております」 「そうか。お前の所は一体どこかね」 「二つ山越した向うでございます」 「そうか。すると歩いてくると四時間くらいはかかるねえ」 「「イ、四時間はかかります」 「どうだ、聞くところによると、年をとったおっずさんとお前だけだということだけれども、 うちの馬小屋が空いているので、馬小屋に来て住んではどうか。おふくろさんも、ここで、時 折の話を聞くということになれば、四時間も山を越えて来なくてもいいではないか」  このとき、蕃山は何と答えたか。  涙を流しながら、  「ご親切なお気持ちは、よくわかります。けれども、私は、山二つ越えてここへ来るからこ そ、辛抱甲斐があると思っております。お宅にご厄介になっては、たいして疲れも感じない で、いながらにして、お話を聞くなんてことは、もったいないことでございます。やっぱり、 いままでどおり、働いた揚句に、二つ山越えてここへまいり、お話を承る。これがもう一番、 私の気持ちの中に、励みが出ますので、どうぞそうさせて下さい」  といったという。  それを聞いて、私は、「パーツ、これだ、これだ」と思った。私がちょうど、十三歳のとき であった。当時贅沢三昧に暮していた私は、この物語が書いてある本を読んで、「これでは、 いけないぞ!・」と思った。  「今のこの境涯で、私がそのまま、いいわいいわで暮していることは、本当に罰当りだ」  と思った。  そうして、家を出る決心をしたのは、十五歳のときで、私は、  「糞! 男一匹、独立独歩だ。親のおかげで、こんな暮しをしていたって何になるか。よし、 飛び出してしまえ!・」  と思った。  それでも、いまの時代と違って、いきなり飛び出すわけにはいかないので、 「よし!・ 乱暴狼籍してやろう。そして親に愛想つかせてやれ!」  と思い、もう手に余る乱暴をしてやった。  よく、織田信長の少年時代さながらであったなと思う。  そうして、手がつ廿られなくなったものだから、父が、母の兄である当時農商務省の次官を していた前田正名に相談したら、「友人の頭山満のもとにやれ」といわれた。それがきっかけ で、私は頭山満先生のところへ、やられたのである。  そして、親のところを離れて、ものずきといえばそれまでだが、中年まで、満蒙で、自ら苦 労に苦労を重ねた。その苦労を喜びとして活きるような気持ちが出来てたことも、後年、病に 冒された後に、自分自身をそのまま捨てない気になったことも、若いときにちょっと読んで感 じた書物から受けたインスピレーションだと私は思う。  ところが、いまの人は、悠長に育っている場合が多いものだから、苦しみを楽しみとはなし 得ないのである。  楽しみは楽しみ、苦しみは苦しみ、と別にしてしまうものだから、今の世の中は、苦しいこ とばかり、楽しいことなんてあるかいという。その苦しみをなお、楽しみに振りかえる心持ち というものが、人間として、ぜひ必要だからこそ、天風教義がこの点に主力を注いでいるので ある。  だから、よくいうことであるが、三年四年経った人が私にお礼をいうとき、この人は、本当 に私のいうことを聞いていたな、と私が思うようなお礼をいう人は、まあ十人に一人いるか、 どうかである。  たいていの人は、  「ありがとうございます。何も知らずに生きておりましたが、ご縁がありまして、先生のお弟 子になって、いろいろと尊いことを教えていただいたお蔭で、この頃は、弱かった体も、すっ かり丈夫になりまして、そうして、家中が皆丈夫になり、商売も繁盛いたしまして、もう、何 という恵まれた幸せかと思って、本当に、明けても暮れても、先生に手を合わせて拝んでいる ような始末でございます。ありがとうございました」という。  こういう、お礼をいわれると私は、  「この人、一体、どんな聞き方をしていたんだろう」と思う。  そういうお礼を言う人は、もし、それが逆になったら、きっと私を恨むだろう。三年四年来 ていても、自分の努力が足らないために、一向に体も丈央にならなければ、運命もあまり開け てこないと、 「何が天風や。何が心身統一法や。笑わせるぜ、べら棒め。受講料ただ取られたようなもんや  というだろう。 「ああ、よくわかってくれたねえ。ありがとう」  と私が言うのは、  「この頃はもう、先生のお話を聞いてから、どんな苦しいことがあっても、憂いことがあって も、それに負けなくなりました。そりゃ、まあ、時には病の出ることもあります。けれども、 今までとは違います。病があれば、ああ、ありがたいなあ、自分の活き方が悪かったから、神 がそれを教えるために与えて下されたお慈悲だと、いつも先生がおっしゃっていらっしゃいま したが、私もそう思うようになりました。心が全然昔と違ってきまして、この頃では、憂いこ と、苦しいこと、こっちから引き受けてする気が出てきてるんです。ありがとうございます」  と、こういわれると、その人を抱き締めたいような気持ちになる。それが本当の目的だから である。  普通の考え方だと、運命が悪かったり、あるいは健康が悪かったりすれば、その感覚的なこ とを意識が感ずるのに、不愉快を感じないはずはないじゃないか、という理屈が成り立つけれ ども、お互い天風会員は、その理由は成り立たせないのだよ。  「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」だもの。  よしんば不快な感覚があっても、頭が痛いとか、腹が痛いとか、気が重いとか、脈が早いと か、あるいは熱があるとかというような場合があっても、それはそれとして、それに取り合わ ないような心を、持っていなければいけない。  もう多くいうまでもなく、人間の思ったり、考えたりする思考が、良きにつれ、悪しきにつ れ、深刻であればあるほど、その事柄を自分に引きつけるにふさわしい資格を、自分が作って しまうのである。心が積極的であれば、積極的なものを引きつけるし、心が消極的であれば、 消極的なものを引きつける。それにもかかわらず、凡人というものは、環境をやたらに呪い、 運命をやたらに悲観することのみを人生の毎日にしている人が多くはないか。そういう人間 は、たとえどんなに金が出来ようが、どんなに境遇がよくなろうが、どんなに自分が高まろう が本当の幸福は感じない。  本当の幸福とは、自分の心が感じている、平安の状態をいうのだ。いくら心身統一法を何十 年やっても、幸福は向うから飛び込んで来るのではない。自分の心が、幸福を呼ばなければ、 幸福は来やしない。  だから、現在の生活の状態、境遇、環境、職業、何もかも一切のすべてを、心の底から本当 に満足し、感謝して活きているとしたら、本当にその人は幸福なのである。  私の学生時代の友達で岩崎久弥という人がいた。男爵岩崎家の子供で、私と机を並べてい た。お伴が三人もついて、二頭立ての馬車で通っていた。この人が後継ぎになって、湯島のあ の広大な屋敷に行くと、二十畳の座敷の真ん中に自分がいて、十五畳と、十畳の間が次の間、 次の間になっていて、庭は東海道五十三次が造ってあるという途方もない広い庭であった。そ んな所に住んでいて気の毒だなあと思うのは、この男は表へ出られないのである。表へ出る と、金魚の糞みたいに、十人くらい従者が、ぞろぞろついて、好き勝手は出来ず、昔の皇族と 同じであった。だから私は、よく皇族の伏見宮様に申しあげるのですが、  「どうです。もう一遍、昔のような境遇になりたいですか」  「いいえツ。とんでもない。世界中のお金を貰ってもいやですツ」  とおっしやいます。とにかく自分の自由になる時間がないし、自分の思うようにならない。  そんなぐあいに岩崎久弥は、その広大な屋敷に住んでいて、部屋中の壁に株の上がり下がり を書いた紙を貼りつけてある。  「おまえ、株をやるのか」と聞くと、  「いや、やりはしないが、こうやって、今日は上がった、昨日は下がったと見ては楽しんでい るのだ」という。  「ほうツ。それ以外何も楽しみはないのか」と聞くと、  「うん。外に出れば十人もお伴がつくし、変なことすれば、すぐ新聞に書かれるし、こんな家 に生まれるもんじやないよ。あんたはしあわせだなあ。ここへ来るにも、書生一人連れて来る だけで、自由なことが出来て」というから、  「うらやましいだろう」というと、   「うん、うらやましい」というので、   「心を取り変えろ、心を1・ 金魚を見ろ。金魚は鉢の中に飼われて自由は利かない。そして不  平不満をいわない。あり余り、うなるほど金を持って、何の不自由も感じずに、ただ表へ出る  とき、お伴がついて来るだけじやないか。罰当り奴。考え方を変えろ、考え方を」   それからすっかり考え方を変えて、   「こういう話を、ちょいちょい聞かせてくれ」   というから、   「馬鹿いうな。俺んとこへ出て来いよ。俺んとこへ来るのなら、許されるだろう」   といってやった。   そうしたら、妻君が、   「先生のところへだけなら許すわ」といった。   また、この妻君たるや、日本一の金持ちの妻君なのに、普段家にいるときは、銘仙を着てい ・ る。そして英国の女王に次ぐ、大きなダイヤモンドの指輪を持っているというから、「そいつ  を見せて」というと、洋ダンスのような箱を家人が二人で提げて来て、開けてみると、ザクザ  クと出るわ出るわ、ダイヤの指輪だの、首飾りだの、首輪だの、腕輪から膝のところに嵌める  輪まで一杯。  「これ嵌めないの」と聞くと、  「こんな面倒なものするもんですか」という。  あんまり、あり過ぎると、そうなるものである。そんなに、あり余っていて、そうして幸福 を感じるかというと、ちっとも感じていやしないんだ。  感じるのは、心だ。だからあなた方も、自分の心で、すべてのことを幸福にしてしまいなさ い。  だから、忘れてはならない私の厳重な注意は、  「出来るだけ平素、幸福の方面から人生を考えよ」  ということである。  苦しいときでも楽しい思い。人間の幸福というのは、その人の人生に対する考え方というも のを切り替えないかぎりは、どんな境遇がきても、ああ、ありがたい、嬉しいと思いはしな い。だから英国の諺に、  It had better to pretend as very happy when you are blue."  。お前が、がっかりしたときに、ああ、俺は、とても幸福だなあ、と、嘘でもいいから、そう するがよい”  先代の松本幸四郎はこの会の会員であったが、あるとき私にこういった。   「芝居でも、殿様だとか、大将になると、いい気持ちですよ。下郎や乞食になったときは、み  じめだなあと思います」   だから、人が何といおうと、   「俺は幸福だ1・」   憂いことがあったら、   「ああ、楽しい!」   悲しいことがあったら、   「ああ、嬉しい!」   こうして心を振り替えてみなさい。 ’ そういうような気持ち、心持ちを持つように努力すると、本当の感情というものが出るよう 一 になるのである。あなた方の感情にはにっわり”がある。つまらないことに泣いたり、怒っ 一 たり、心配したりする。そうすると、’本当に泣かねばならないとき、本当に悲しまなければな ・ らないときにはヽ悲しまないのだ・修行を積み、本当の気持ちが出てくると、感情をいつわら 。なくなるのだ。 一  あなた方は、よくこういうことがありはしないか。さんざん怒ったり、泣いたりした後で、 。よく考えてみると、何もあんなに怒ったり泣いたりしなくても、済んだのに、と思うことが。  私なんかも、その昔、悟りの開けない時分にはよく怒ったもんだ。柄のないところに柄をつ けて、女房を怒鳴ったりしたもんだ。そうすると後味が悪いものなんだ。女房を怒って、出て いったりすると、仕事をしていても、「いわなくてもよかったのに、いってしまったなあ……」 と思う。家へ帰ってからも、謝るわけにいかないから、機嫌をとるような気持ちで、やさしく 言葉をかけると、女房も怒られているから、おもしろくないのだから、あんまりいい顔をしな い。そこでまた怒る。昔はそういう私であった。今、昔のことを考えると、人間の心というも のは、そら恐ろしいほど不思議なもんだなあと思う。  あなた方も楽しみだよ。今までの泥まみれの心を、綺麗な気持ちにするという。望み”があ るから。だから、環境を呪い、運命を悲しむことは止めなさい。  生きていることを、ただありがたく感謝しなさい! なかには、生きていることが憂いと思 う人がある。そういう人には、ちゃんと、造物主が、早く死ねるようにしてくれる。心が振り 替えられると、医者が四十まで生きられないという体が、九十まで生きていても平気なのだ。 もっとも、これで止めにするわけではなく、まだ生きているが。  まずこの前教えたとおり、一切を感謝と歓喜に振り替えていく、そして観念要素の更改を、 念を入れて一所懸命やって、心の中に巣喰うダニを追っ払ってしまうことである。そうすれば 自然と、その事柄が、宇宙霊と結合する努力をしているのと同じことになるのである。だか ら、幸福になるためにやるんだとか、もっとましな人生を活きるためにやるんだ、なんて当て 目拵えては駄目だ。  そうして活きることが、人間としての当然の活き方なのだ。報いを願うということは、甚 だ、さもしい気持ちである。これは英国に諺がある。  Emolument is not object to me.  。報酬は私の目的ではない”  つまり、すぐに報酬を望むからいけないのだ。  人の個性を活かす火花を閃めかして生きる活き方は、人間として、当然な活き方なのであ る。火花を他からひらめかせてもらっては駄目だ。自分自身がひらめかせなければならない。 それが、正真正銘の積極的な活き方というのだ。  当然なことをやっているのに、たとえば、あなた方が生きるために物を食べているときに、 いちいち誰かに礼をいってもらいたいだろうか。今までの活き方が間違った活き方なのだ。  だから、あなたがたに、人間としての活き方を話しているのだ。  こ’つい’つと、 「そういうように活きると、幸せが来ますか。お金が出来ますか」  となかにはいう大があるかもしれない。  そんなことあてにして、この教えを教えているのではない。また金が出来るとか、幸せにな るというのは人間として当然のことである。  とにかく、何遍もいっているとおり、造物主の無限智と、人間の潜在意識との冥合を重大に 考えなければならない。それをおろそかに考えているから、すぐ結合を邪魔してしまうのだ。 スイッチを切り離してしまうからいけない。もう耳にタコが出来てるだろうと思うけれども、 自分自身の心の中の思い方や考え方がよくも悪くも自分自身をつくり上げるのだ。「自然的活 動能力」である。これが絶対の宇宙真理である。  常に、感謝と歓喜とを心から失わないようにしよう。そして自分の心なのだから積極的に心 が変わっていくように真剣に自分の心を焼き直さなければいけない。  そうすると、自然に人生に光明がひらめいてくる。光が閃めけば闇は消える。真理は、まこ とに、当然すぎるぐらい当然である。歓喜の世界に悲哀はなく、感謝の世界に不満はない。同 時に反対のものが二つは出ない。  歓喜と悲哀が同時に出たら困るだろう。片方が出れば、片方が引っ込むようになっているの だ。その証拠に、諸君が座っているときに、座ると同時に立ってみろといっても、立てない。 立つときは座ることを止めなければならない。  ふだんからの心がけに注意しなければいけない。。真气。善气。美”以外には、心を使わな い、というように心をしてごらんなさい。これは、修行の結果によって、私自身が心を造り変 えた手段なのである。  哲学を研究し、考えて考え抜いたときに、やがて「宇宙霊の心には。真气。善气。美”以外 にはない」と悟った。  ″真″とは、いつわりのない″まこと″。  考えてみよう。一日中いつわり多き時間を送っているか、いつわりなき時間を送っている か。  たいていの人が、いつわり多き人生を生きている。実際私などは、自分の商売がらでもあっ たが、愛想の尽きるくらい、嘘つきであった。もっとも、軍事探偵の仕事の成績が、非常によ かったのもその嘘つきが非常に上手だったらしいけれど。  俺は嘘をついたことはない、というような顔をして私の顔を見ている人は、このくらい嘘つ きはない。いつか嘘の競技会のことを話したことがあるが、皆が一所懸命考えて、あれこれ嘘 をいっている。そしていよいよ決勝を決めようとするときに、幹事の一人が、  「あんたは、何も言わずに、朝からそこでうずくまっているけれど、ここは嘘つきの会なんだ から、何か嘘つきなさいよ。褒美の取れないまでも、黙ってただ聞いているのでは、来た甲斐 がないじやないか。何か一つ嘘を考えなさいよ」  といった。ところが、  「それがですね。朝から、皆さんの嘘をつくのを聞いていて、もう感心しているんですけれど も、私って人間はね、無器用なのか何かしらないけれども、生まれてから、一遍も嘘をついた ことがないんです」  といったら、  「ああ、この人が一等だ」ということになった。  第一、自分自身に嘘ついているものね。  あなた方は万物の霊長として生まれて、心の持ち方さえ変えれば、限りない力が自分の生命 の中から出てくるということを、まったく頭から否定している。嘘だろうこれは、というぐあ いに。何でも疑えばことが済むと思っている。しかしそれは「。真气”善气。美乙の。真”と はまるで逆のことだ。  私も昔はそうであった。自分のいうことが一番確かで、人のいうことは全然駄目だと思って いたのである。人のいうことなんか、聞く気などまったくなかった男であった。強情張りで、 皮肉屋で、唯我独尊的であった。しかしこれは私ばかりではないらしい。その、お仲間が大分 大勢いるようだ。  それから、次に、善なることを考えることを忘れてはいけない。  ″善″とは何だろう。  多くの人は、善いとか悪いとか、口ではいうが、しからぱ、”善”とはいかなることか、悪 とはいかなることか、と問われると、困るであろう。  昔、神戸で兵庫県の大学の学長ばかり集めて講演したときに、演壇の上に立つと私は、  「これから私はいわんとすることをいう前に、今日は、大学の先生ばかりだから、一つ私が質 問したい。つまり、誰でもが囗にする善悪というのは、いったい、どういう限界が、そこに在 るんですか」  と言ったら、皆黙ってしまった。これは大変な質問だと思ったんでしょう。恐らくここにお 集まりの大勢の中でも、私の話を聞いたことのある人以外の方は知らないと思う。  ”儼鈩なき愛をもって、ものに接する行為と言葉”が盜尸である。  ところが諸君は、自分の家族や、身内だけには、非常な愛情を持っているが、隣の者はどう あっても、ちっとも構わない。自己を本位として、自己の周囲だけに対して、愛情を持つだけ ではないか。自分の気持ちに、人を愛するという気持ちに、偏りがあったら、その人は、本当 の。善”を行なっている人ではない。  それから、。美”とは何かというと、”調和”ということである。  。調和”なきところに。美”はない。  どんなに名人が画いた絵でも、私が感心しないときは、調和がとれていない絵である場合で ある。どんな下手な人が画いた絵でも、調和がとれているものであったならば、これは本当の 美術である。  だから、この。真”。善”。美”の三つ以外には考えないことにしよう。  私が、あなた方と握手するときでも、必ず、  「私は、宇宙エネルギーを私の体に受け入れて、あり余るほどあるから、この力をこの人に伝 えてあげよう」  という気持ちで手を握るのである。  わずかなことであるがI心一つの置きどころ”である。  だから、この真理に正しく目覚めてごらんなさい。そうするとまったく人生が違ってくる。 第一、ふだん口癖のようにいっているとおり、人間というものは、いかなる場合があろうと も、自己が主でなければいけない。そして主となるには、人にも物にも、わずらわされない、 とらわれないことである。  私が、ヨガの哲学でこういうことを知ったとき、これがなかなか油断していては出来ない。 本当に、真剣に、絶えず、研ぎ上げなければ出来ないという、切磋琢磨の気持ちを起こさせた 動機になった。  自分の心が、環境か、運命か、健康か、何かにとらわれている場合が多くはないか。たいて いの人が、職業にとらわれたり、果ては利慾に迷って、名聞にとらわれて、その他の欲望にと らわれて自我の尊さを失ってしまう。酒飲みが酒に飲まれ、釣り道楽が魚に釣られ、ゴルファ ーがゴルフに釣られている。これは、自分を正しく活かす活き方を知らないで活きているから である。言い換えれば、自我の確立ということが、出来ていないからである。  ”自我の確立”こそ、人間生活の最も大切なことなのである。自我の確立が出来ていないとい うのは、。自己認証”が出来ていないからである。  ここに三島徳七という、この前、文化勲章と勲一等を貰った会員がいるが、貰ったときに  「先生を、文化勲章を貰えるように推薦します」というから、  「馬鹿野郎! 冗談をいうな。私が文化勲章や勲一等貰ったら、それ以上の人を教えることが 出来ないじやないか。俺は何も、そんなものは要らないのだよ!」  といった。  お互に、よりよき世界に住もうとするときに、そんなもの要りやしないのだ。  ところが、世の多くの人を見ると、名誉に迷ったり、利慾に迷ったりしてしまう。だから、 公明正大であるべきときに、公明正大であり得なくなってしまう。そうすると、どうしても自 分の心というものが、宇宙の本質に合流合体しなくなってしまい、ブーツと離れてしまう。  初歩の物理学の定義は、こういうことを我々に教えている。  。同じきものは、どこまで行っても、同じである‰  だから常に、宇宙霊と同じ気持ちになっていれば、よいのである。そうすると、日々の人生 が、どれだけ”生きがい”を感ずるかわからない。そして、何をするにも、もう報酬は求めな いことにしよう。ただ恵まれるものはありがたく頂戴しよう。けれども決してこっちからは要 求すまい。  だから、会員の人にも、よく覚えがあるであろう。  「先生、何かお好きなものありませんか」  「何かあるでしょう」  「そりゃ、たった一つある」  「それ、私が持ってきます」  「いや持ってくるもんじゃないんだ」  「何です? S・・φ一・それは・●●今・一」  「私の欲しいのは、私と同様に、お前が、健康も、運命も、本当にどんな場合があっても、楽 しんで活きられるような人間になること。それが望ましい。ただそれだけだよ……」  それが私の念願だ。それが私の教えを説いている目的なんだ。いまさら金が欲しいとか、地 位が欲しいとか、名誉が欲しい、とか思ったことはない。  あなた方も、心の中を本当に豊かにしなさい。そして、その豊かな心で人生を活きるという 気持ちを自分のものにしたときに初めて、本当の人間として活きられるのである。これを自分 の。座右銘”にしなければいけない。  もうI度いう。よく考えてみよ。事業をしている人、利慾に迷っていないか、名聞にとらわ れていないか、何となしに、野心的な欲望にとらわれていやしないか。それらを当り前だと思 っていやしないか。  それらを当り前だと思っている事業家は、立派な事業家だとはいえない。自我の尊さを自分 の心持ちでもって、濁らせてしまうような利慾に迷ったり、名誉にとらわれたりしているの は、立派な事業家ではない。否、政治家もそうだ。自分のしている事業で、世のために貢献を するというのが、最後の目的でなければならない。  私は、三世ロックフェラーと、飯を食いながら聞いた言葉が、忘れられない。  「私はね、ただ、世の中の人が、私の事業を通じて幸福になってくれれば、それでいいので す」といった。  なんで、そういう答えをしたかというと、  「あなたは、お邸はどこにあるのですか」と尋ねたら、  「私は、屋敷は持ちません。ニューヨークに大きなマンションを建てまして、その一隅を私の 部屋として三室使っています」と答えた。  「そんな、狹いところでいいんですか」  「だって私は、手伝いの秘書と、メイドと四人きりですから」  これが、アメリカ随一の金持ちだ。日本の富の約三十倍の富を持っている人がだ、自分の会 社を、五百六十余り持っている人。そして、自動車の会社を、アメリカにも、ヨーロッパに も、十いくつも持っていて、自分の自家用車を一台も持っていない。  「自家用車なんかもつ必要ありません。往来に出て手を挙げれば、タクシーが来ます」  といった。  「これが私の時計です」  と言って見せてくれたのは、お祖父さんが昔十五円で買ったという、その当時とび切り上等 の、日本の精工舎の時計で、ニッケルがもう剥げかかった時計であった。  「この時計ちっとも狂いません。時計は、狂わなければそれでいいんです」  だからあの人は、自分の仕事に、何も、とらわれていない。ただ自分の仕事を通じて、世界 の人が幸福になればいいんだ、という一念だけだ。   だから私は、日本に一人でもいいから、こういう気持ちを持った、事業家なり、政治家が出  て来たならば、日本という国ももっと輝かしい国になると思う。   この間も、会員で、大阪の元府知事の左藤義詮君と話したんだが、戦いに敗れた国で、これ  だけ経済的にも、国際的にも大きく発展した国は、有史以来日本のみである。しかも今、正  に、そういう状態の発展の趨勢に立たせられた状態では、日本が世界で一番だ。ただ諸君にい  いたいのは、恵まれた幸運にいい気になって、自己研磨を怠っては駄目だということだ。   私は次代を背負って立つ青年諸君にいいたいのは、やがて少なくとも二十一世紀が来たら、  日本が、思想的にも、アイディアの方面にも、また現実の事業の方面にも、必ずや、世界をり  Iドするだけの、権威が出来ると私は確信する。だから、青年諸君は、それを自分の。方針” ‘ として、今後の人生を研ぎ上げることに努力しなさい。 」  ただ自分だけがよくなればいいんだ。自分の仕事だけがよくなればいいんだという、小さな 」 慾望でなく、。世界一の日本を造るんだ!ぷ。そして、世界中すべて、日本の自覚した民族のよ 一 うなヽ平和な気持ちにするんだ”という、もっと、でっかい欲望を持ちなさい。 ″ 。 全人類からみれば人数は少ないけれども、天風会員、五十年間に教えた会員は少なくも百万 一 を超えでいる・だから、その半分でもいいからこの気持ちになってみなさい・   やがては、ちょうど、濁り水の中に、僅かな明礬を入れると、パーツと清くなるのと同じ で、そういう人間が、必ずや、世の中に、大きな光明を点じると、私は確信している1・ だか ら、その期待と抱負を持って、これからの天風会員は活きていかれることを熱涙をふるってお 願いするH  誦句を与えよう!      ざ ゆうしんげん      座右箴言  私はもはや何事をも怖れまい。それはこの世界ならびに人生には、いつも完全ということの 以外に、不完全というもののないよう宇宙真理が出来ているからである。  これを、第一に、真剣に考えなさい。最近のアメリカでは、ZDということを盛んにいっで いるが、私は六十年前にすでにいった。ZDとは、ゼローディフェクト(欠点をゼロに)とい ’つこと。  人間というのは、あれ出来ない、これ出来ないといってはいけない。人間は、誰でも、完仝 に出来るように出来ているんだから、完全に出来るという信念を持て、というのがZDの根太 的な原理だ。私は六十年前から、「自己認証せよ」ということを唱えている。どんなに、もう、 すっからかんの貧乏人になっても、それを実行しさえすれば、自然にちゃんと治ってくる。苓   のわずかの事柄だけ考えてみても、この宇宙の中には、すべてを完全にあらしめたいという力   が、働いているということが解るではないか。    それを、あなた方は、不完全にしてしまうからいけないのだ。この世界ならびに人生には、   いつも完全ということの以外に、不完全なるもののないよう宇宙真理が出来て、人間にその沓   格が与えられているのだ。    否、この真理を正しく信念して努力するならば、必ずや何事といえども成就する。    成就するように出来ているんだ。ある人は出来ない、ある人は出来る、というふうには出妛 ″てない。だから、正しい道を歩んで行けば、必ずや目的地に達する。 ″  私はこの仕事を始めるに当って、もう、四面楚歌のごとく、有名な人からいわれた。 匹 「この仕事をすることは、先ざき見込みがないからお止めなさい。せっかく、銀行の頭取をし 一 て、順風満帆の運命にいながら、何を好んで、この身分を捨てるのですか」 垳  はたから見れば、そう見えるかもしれないが、私は一切を捨ててしまった。 J  そして、はたの人からは、宿なしになるだろう、乞食になるだろうと思われるようなこと 垳 を`喜んでやりだした。しかし、自分では、俺は必ず成し遂げてみせるという自信があったか らだ。  この世の中に、正しいことを人に教えようとするのに、断じて、それが失敗するはずがか い。すなわち、私が、この真理を正しく信念して努力したからだ。  だから、今思うと、今日あるのは、焼きおむすぴを腰にして、雨が降ろうと、風が吹こら と、大道講演していたときから、五十年の間、結局、完全、完全ということをこの世の中にt めてきたおかげである。そりゃ、完全になるのが当り前、もっと私は大きな信念を持っていス のだ。  私が三寸息絶え、万事休した何百年か後、世界中が、皆、心身統一法の実行者に必ず成るシ いう確信を持っている!・ その先達となるべき青年諸君が、その信念を失っては駄目だ。  だから今日からはいかなるこどがあっても、また、いかなることに対しても、かりにも消蛆 的な否定的な言動を夢にも口にするまい、また行なうまい。そしていつも積極的で肯定的の能 度を崩さぬよう努力しよう。  同時に、常に心をして思考せしむることは、。人の強さ″と″真‘と″善”と。美”のみf あるよう心がけよう。    私はねえ、どうやらこうやら、こういう気持ちで活きられるようになったんで、今日あるを   いたしている。これだけ心がけていれば無事なはずだ。また、これだけ心がけていただけで、   十分に人生は幸福に活きられるんだから……。   フ人の強さ”と。真”と。善”と”美”のみ」である。    だから、私が、この気持ちを持っているから、したがって私は、自分の強さを知っている。   それだからこそこれだけの尊い仕事をしている私が、病なんかで、無開矢鱈とひっくりかえる   ものか、と思っている。そして私の心には、どんな場合にも、。真”。善””美”以外のものは、   考えさせないようにしている。    価値のないことを考えることもときにはある。しかし、パッとすぐ消してしまう。 “  だから、どんな場合でも、”人の強さ”と、。真”と。善”と。美”のみであるよう心がけよ ]」 う・ ` 町 ’ たとえ身に病があ゜てもヽ心までrますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで ’脳ますまい゜ ` ( `  しっかりここに、うたってあるんだけれども、古い会員の中にも、病のないときには、囗で は盛んにこれをいっておいて、ちょっとでも病に罹ると、狼狽え、騒いでしまって、もう心ど ころか、生命の全体を病ましてしまう者がいる。  わかりきったことを教えているんだけれども、わかり過ぎて、忘れてしまうんだ。  否、一切の苦しみをも、なお楽しみとなすの強さを心にもたせよう。  苦しいときでも、楽しいときをおもい。  宇宙霊と直接結ぶものは心である以上、その結び目は断然汚すまいことを、厳かに自分自身 に約束しよう。  およそ、世の中で、約束を破ることは、罪悪であるけれども、他人との約束を破ることより も、自分自身への約束を破るくらい、大きな罪悪はない。  なぜならば、自分自身への約束は、天と約束したことになるから……。      ざ ゆうしんげん      座右箴言  私はもはや何事をも怖れまい。それはこの世界ならびに人生に は、いつも完全ということの以外に、不完全というもののないよう 宇宙真理が出来ているからである。否、この真理を正しく信念して 努力するならば、必ずや何事といえども成就する。  だから今日からはいかなることがあっても、また、いかなること に対しても、かりにも消極的な否定的な言動を夢にも口にするま い、また行なうまい。そしていつも積極的で肯定的の態度を崩さぬ よう努力しよう。  同時に、常に心をして思考せしむることは、。人の強さ″と。真” と″善″と″美″のみであるよう心がけよう。  たどえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非な るものがあっても、心まで悩ますまい。否、一切の苦しみをも、な お楽しみとなすの強さを心にもたせよう。  宇宙霊と直接結ぶものは心である以上、その結び目は断然汚すま いことを、厳かに自分自身に約束しよう。 第+章恐怖へり戒め  今日は、人生、人として活きていくときに、何を措いても一番戒めなければならない重大か ことを悟ることにしよう。  ではいったい何を戒めなければならないか。  それは。恐怖”ということである。  恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるとい う気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。  ところが、今までのあなた方は、ちょっとでも体が悪いと、すぐ擶き、怖れている。わず九 な運命に見舞われても、それが、とてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。い いえ、毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。  このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。なぜかというと、恐怖すれぼ するほど、価値のない結果が人生にくるからである。なぜ物事を恐怖すると、人生に良くない 結果がくるかというと、ある因果律の法則というものを(ツキリと理解している人は、正に、 確かにそうだと肯かずにはいられないと思う。因果律の法則で、どうしても、そうなるように  宇宙真理が出来ているのである。   ベーコンという哲学者がいった言葉に、   「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」   というのがある。   これは正に、このコンペンセーション(報償)の法則を、必然的のものであるという信念  で、人生を考えている偉大な哲学者の言葉である。   何度も言っているとおり、宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思った  り、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中し、深刻な状態の時に、その観念が、その事柄  に注がれると、咄嗟にそれを現実の「すがた」に表現しようとする自然作用(natural opera-  tion)があるのである。 ″ 考えてみよう。どんな精神統一の下手な大でも、「おっかないなあ、怖ろしいなあ」と思っ 」 たときは、本人自身は気が付いていないかもしれないけれども、その恐怖の程度が深まれぱ深 ’まるほど、恐怖観念が発動して、その観念は知らず知らずの間に確実に集中されるのである。 ‘ だからヽ’おっかないなあ」と思った事柄はヽどんな物覚えの悪い人間でもヽたとえ思った時 」 間は瞬間であったとしても、終生忘れていないであろう。 ’ ざあ`そこで考えてみよう。                  `  一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとする と、それが宇宙霊の力を受け入れる”鋳型”が用意されたことになる。そのとき出来上がって いる”鋳型”というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な。すがた”が出来上がっ たことになる。そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。 否、むしろ、そうなることが当然である。  ゆるがせにすることの出来ない真理と、まったくもう油断も隙も出来ない事実を考えると、 何はさて附き、有意義な人生に活きるには、どんな場合があろうとも、恐怖観念で物事に応榕 しないようにすることが、本当に戒むべき人生の鉄則である。  いつもいっているとおり、立派な建築物を造るのにも、まず必要とするものは、完全な設計 である。これと同様、立派な人生を作るのには、まず、その人生設計の中から、恐怖というも のを取り除かねばならない。恐怖というものはまったく余計なものなのである。考えなくても いいことなのだ。心に犬小屋みたいな設計図を画いて、宏壮な邸宅などは出来るはずがない。  いずれにしても、感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体 や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。だから、常に感謝と歓喜とい う積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に積極的な、非常に大きな、良い影響を与えるけ れども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする、消極的な感情や情念は、実に悪い影 響を持ってくる。  中でも、この恐怖というものは、一番、恐ろしいほどの印象力をもっている。印象力を持っ ているのであるから、早晩、その怖れている事柄が、現実になって、形象化されるのが当然で ある。  嘘でない証拠に、回復のはかばかしくない病人や、不幸の大をジツと見ていると、誰も、思 ったり考えたりしている事柄が、すべて消極的である。いわゆる、逆動仮我境で活きている。  もうわずかなことにもピクピクして、戦々兢々、ちょうど、氷の上を、重い荷物を持って 歩いているような気持ちで活きている。  考えてみると、無自覚というものは、全く価値のないものである。ところが、人間は、どう も、こういう点が悟れない。右見ても、左見ても、自分と同じような人間が多くいるが、それ が人間の本当の。すがた”で、「だから俺は他の人間と同じような状態の心持ち気持ちで活き ているんだ」と思うところに大変な大きな間違いがあるのである。  今の世の中の人々が、文化の世の中に恵まれながら、おおむね十人に九人までが、否、百人 に九十九人までが、否、もっともっと大きな比率で、幸福でない人生に活きているのが多い原 因は、結局、そういう点にあるのである。  神経過敏な大などは、「到底一生、健康なんかになれるはずがない。一生こうして苦しめら れ続けて死んでしまうんだ」というふうに、人生を極めて消極的に独り決めし、何事に対して も、恐怖的な気持ちで、落ち着かず、少しも安心していない。  因果律の法則は、そういう考え方をしている人に、不健康や、不運命を、最も。苦y形で 作り上げてしまうのである。反対に順動仮我境、いわゆる、一切の雑念妄念を統制し、神経過 敏でなく、自分の人生を積極的に断定して活きる人は、よしや健康を損じたときでも、不運に 直面しても、その心の中に、そのことを恐怖で考えない。  だから、やはり、こうした心持ちをもっている人には、因果律の法則によって、いつも、よ り良い事柄が、現実に。すがた”を現わしてくれる。  だから、論より証拠、一切の事実がそれを確実に証明してくれるから、諸君が、まずそうい う心掛けで、やってみることだ。  また、人生、事業であろうと、日常生活の些細なことであろうと、何事に対しても、自分の 心の態度を、恐怖から、断然引き離しておかなければいけない。  本当のことをいうと、この世の中には恐ろしいということはないのだ! 怖ろしいなあと思 うときには、もうその事柄は過ぎ去っているのだ。原子爆弾が落ちたとき、「原爆は怖ろしい なあ」と思ったときはもう死んでしまっている。また空爆を受けている人は、この中に幾らも いるであろうから考えてごらんなさい。怖ろしかったか。活きている自分の、過ぎ去った。す がた”を観るときに経験の中に、繰り返して、それを考え出すくらいのものではないか。  私は、死生の巷を、もう飽きるほど、活き抜いてきた人間だ。しかし一遍も、「ああ怖ろし かったなあ」と思ったことはない。  結局、やたらと物事を、恐怖観念で考えるのは、宇宙霊と人間との関係を、強く信ずるとい う信念が欠けているからである。  だから、人間を弱い方面からのみ考えずに、もっともっと強い方面から考え直すことであ る。つまり「自分の生命の背後には、見えないけれども宇宙霊が、自分を抱き締めるように、 自分と共に在るんだ1・ 我は宇宙霊とともにいる1・」というふうにだ。  それから、平素人と交際する時にも心掛けて、神経過敏でない勢いの良い人と交際すること である。どうも、神経過敏の人は、時とすると、この恐怖の嵐に、随分誤った同情をする。  「これを怖れずにいられるか」というふうに。そして、これを大して悪いことと思わぬ傾向が ある。むしろこれが当然だと思っている。しかしこれは大変な間違いである。間違いは訂正し ないと、すべてが良い方に好転しなくなる。  だから、ちょっと何か恐怖的に物を考えるような観念が出たら、クンバ(カが一番、積極的 言葉で、そんなものは吹き消してしまいなさい!  「自分の尊い生命を守ってくれる心の王座には断然、恐怖というような悪魔は入れないの だ1・」しCO  いつも口癖にいうとおり、「己れを守るものは、己れだ!」  それを、ともすると、すぐに他人に守ってもらおうとしていやしないか。他人は守ってくれ はしないよ。骨がなければ一緒になりたいと思っているほど、どんなに思い合っている恋仲で も、自分が自分を思うほど、守ってはくれない。その証拠には、利害が相反したり、感情が互 いに相争えば、必ず愛情の中にひびが入ってくる。  さあ! 今日からは、断然1・ 自分はもう、恐怖なんて観念は自分の心の中にない人間にな らなけりや!  誦句を与える!      恐怖観念撃退の誦句  人の心霊が、宇宙の神霊と一致するどき、人の生命の力は驚嘆に値する強さをもつに至る。 しかもこの尊厳なる宇宙の神霊と一致するには、第一に必要なこどは心の安定を失ってはなら ないことである。  そして心の安定を失うことの中で。一番戒むべきものは恐怖観念である。そもこの恐怖なる ものこそは、価値なき消極的の考え方で描いているシミだらけな醜い一つの絵のようなもの だ。否、寸法違いで書いた設計である。  かるがゆえに、今日からは私は断然私の背後に、私を守りたもう、宇宙霊の力のあることを 信じて。何事をも怖れまい。  否、人が常にかくあるこどを心がけるならば、必然、人生に恐怖に値するものがなくなるか らである。  ゆえに健康はもちろん、運命の阻まりしどきといえども、本当に私は私の背後に、私を守り たもう宇宙霊の力のあることを信じて、何事をも怖れまい。  今日のこの暗示誦句が、本当に、諸君の正しい心になるならば、どんなことがあっても怖ろ しさを感じることはないはずである。  本当に、私は私の背後に私を守りたもう、宇宙霊の力のあることを信じて何事をも怖れま  これが忘れられずにいたならば、どんなことがあっても、ビクともするものではない。自分 が、掴まえて見えないものだから、いないと思ったらとんでもない。生きているということ は、すでに、その力が諸君を抱いてくれているから諸君が生きていられるのだ。  諸君の甲斐性で生きているんじやないじやないか。自分の生命を自分自身がどんどん自分の 甲斐性で守って、生きていかれる人間はこの中にはいない。こういうことを教えている私で も、このお力のお蔭で、こういうことがいえて、このお力のお蔭で、こうやって生きていられ るのだ。  しかも、そのお力のお蔭で生きていられる人間でありながら、ときどき、お力から離れてし まう必要はないじやないか。お力から離れるから、怖ろしくなるのだ。  この世の中にあるものの中で、一番怖ろしいものを教えてあげよう。  二つある。  真理が一番恐ろしい。  これはもう、どうすることも出来ない。  第二に恐ろしいのは、そういうことを考えないで、ただ無闇に怖れる自分の心が恐ろしい。  真理は恐れ畏まなければならない。  同時に、自分の心を、やたらに、自分の健康を悪くしたり、運命を悪くしたりしないように もう一つの正しい心で、監督しなければならない。  さあ1・ もう何も怖れない! 心の中に、恐怖なんていうものは全然ないという人間になっ て眼を覚まそう1・      恐怖観念撃退の誦句  人の心霊が宇宙の神霊と一致するとき、人の生命の力は驚嘆に値 する強さをもつに至る。しかもこの尊厳なる宇宙の神霊と一致する には、第一に必要なことは心の安定を失ってはならないことであ る。  そして心の安定を失うことの中で、一番戒むべきものは恐怖観念 である。そもこの恐怖なるものこそは、価値なき消極的の考え方で 描いているシミだらけな醜い一つの絵のようなものだ。否、寸法違 いで書いた設計である。  かるがゆえに、今日から私は断然私の背後に、私を守りたもう宇 宙霊の力のあることを信じて、何事をも怖れまい。  否、人が常にかくあるこどを心がけるならば、必然、人生に恐怖 に値するものがなくなるからである。  ゆえに健康はもちろん、運命の阻まりしときといえども、本当に 私は私の背後に、私を守りたもう宇宙霊の力のあることを信じて、 何事をも怖れまい。                                                                                                                                  −                                                                                                          S 第十一章 勇気と不幸福撃退  今日は人生を完全に活きるのに必要な各種の要項の中で、特に必要なことを悟ることにしよ  それは何かというと、第一に必要なことは、何事にもやたらに悲観したり心配したりして、 すべてのことを消極的に思ったり考えたりすることを止めることである。  今まで、常日頃、あなたがたが当り前のように思ったり考えていた心配や悲観、それが決し て当り前ではないということを悟ることにしよう。  あなたがたが、病なり運命なりに冒されると、やにわに、それを心配したり悲観したりす る。そして、そうすることが当り前の人間のように思っている。常識のある人間なら、そうあ るのが当然だと思っている。そして、その理由というのは、実に第二義的なことを麗々しく並 べたてる。。自分も含め周囲のすべてがそうであるから”というのである。ところが、真理の 上から正しく論断するなら、大変な間違いなのである。間違いを行なっている人が多いからと いって、その数で是非善悪を決定するということは、実に無鉄砲な乱暴な決定ではないだろう か。  考えてみよう、人間が病や不運に冒されたとき、それを心配したり悲観したりするのが、真 理だとしたら、人間なんて値打ちが少しもなく、人間ほど惨めなものはないと思わないだろう か。  心配したり悲観したりするとき、人生が明るく感じられるか、あるいは暗く感じられるか、 すぐ解ることだ。何ともいえぬ楽しみで心配や悲観の気持ち、心持ちを、もっている人があっ たら、そんな人は、人間が万物の霊長としてこの世に生まれてきた理由を考えないからであ る。万物の霊長として生まれてきた理由を考えるなら、心配したり悲観したりすることが寸法 違いだということをすぐ悟れるわけである。  考えてみよう。人間はこの世に悩むために来たのではないだろう。心配するために来たんで はなかろう。悲観するために来たのではないだろう。つまり、一生を暗く生きるために来たの では断じてない。まこと尊きかな、人間は進化と向上という偉大な尊厳な宇宙法則を現実化す るために、この世に生まれてきたのである。  このような見地に立脚して、人間というものを厳かに考えるなら、まったく、悲観や心配と いう心持ちが人間の共通性だという決定は、最初からまったく、とんでもない誤りから出発し た結論ではないだろうか。しかるに、この間違いを正しく悟ることができず、病だから心配す るのが当り前で、不運だから悲観するのが当然だというように、少しも間違いのない真理のよ うに考えるのなら、そういう人は、こういうことを考えてごらん。いや、そうしたことが、五 十歩百歩譲って、正しい真理であるとしたならば、病に罹って心配した者が早く治り、不運に 遭って悲観した者がたちまち幸運に運命を転換しているはずである。ところが事実は全然それ と反対ではないか。  病のとき、心配すればするほど回復は遅い。私は死亡広告を新聞で見るたびに、この人は、 本当の病で死んだのだろうかと考えてしまう。否、寿命で死んだのなら、さもあらばあれ、た いていは自殺じゃないのだろうか。自殺といっても、なにも青酸カリやブロバリンを大量に飲 んで死ぬのばかりが自殺ではない。病に罹ったときに神経を過敏にして、ああでもないこうで もないと、心配を重ねて、活きる力を自分で衰えさせて死んだのも自殺なのだ。私はそういう 者が多いのではないか、といつも思う。  また不運のとき、悲観すればするほど、よりいっそうよくない事実が現実にくる、という、 侵すべからざる事実があるのを何とするか。いかにr理屈を付けてみても、この厳然たる事実 を曲げたり、否定したりすることは出来ないだろう。  しかるに、この真理に正しく目覚めないで、やたらと何でも、人生のことを心配したり悲観 したりするのを人類の通有性と見るのは、随分飛び離れた、。あわてもの”といわねばならな い。そういうのも結局、生命に関する宇宙の法則や、心の持つ生命への偉大な働きかけ、とい うものに無自覚であるからだ。そして、その無自覚から、そういう。畆”を知らず知らずの間 に心につけてしまっているからだ。習慣は第二の天性というが、まことに怖るべきことではあ る。  心配や悲観をする癖がつくと、悪い習慣だけど何を考えるときでも、やたらと取越苦労をす る。取越苦労をすると、物事をやたらと消極的におおぎょうに考える。あれがああなってこう なって、こうなってああなって、ああペシヤンコだ、というふうにね。  人間は、この良くない癖と、伝統的に、慣習的に付き合っているといっても過言ではない。 重大に考えなければならないことは、心配したり悲観したりする習慣を、習慣とも気づかず、 悪い癖とも反省しないで、人間共通の通有性というように、間違えてますますやっていると、 人生の光明をどんどん闇にする哀れな気分だけが、人生を支配するようになってしまう。  ただ、それだけでも下らない惨めな人生なのに、そういう心配や悲観をしていると、その心 配や悲観したことが、なんと現実の事実となって、人生を惨めな状態にしてしまうのである。 なぜかというと、悲観したり心配したりすると、その心配や悲観が、人生に苦い形で現実の姿 を現わしてくるように、宇宙真理が出来ているからである。  これは絶対の真理である。これは自然の法則なのである。  だからかりそめにも、生まれ甲斐があり、生き甲斐のある人生を活きようと欲するならば、 何よりも一番戒めなければならない大切なことは、心配や悲観、これは断然、禁物だと思わね ばならないのだ。  もう、何回もいっているとおり、この大宇宙の中には精気というものがあって、その精気の 中には、積極の気と消極の気とが入り混って、遍満している。その気が人間の心の中の気分と 常に同化的に働いている。積極的なことを考えればプラス(正)の気が入ってくるし、消極的 の気分になればマイナス(負)の気が入ってくる。  我々は、千万の理論よりも、一つの事実を厳かに考えねばならない。真理というものは、事 情や情実で左右はされない。まして病や運命に対して、もっとより良い結果を望むのならばな おさら、一段と心配や悲観というものは絶対に無意味だと考えねばならない。否、無意味とい うより破壊に終わるのだ。  もう何遍もいっているとおり、宇宙の根本主体である、神仏と称せられるものの心の中に は、。真”ぶ尸。美”以外に心配や悲観というような心持ちは夢にもない。その神の心と通じ ている心を持つあなたがたが、この自覚を明瞭にしなければならない。そのことが明瞭になれ ば、下らないものを心配したり、悲観したりする必要は、さらになくなってしまうものだ。  人間というものは、人間である以上、人間としての面目を発揮しないと、人間としての面汚 しを自分でしているようなものである。人間は人間らしくあるときにのみ、人間の恵まれた幸 福というものが与えられる。だから、もっと神の心や仏の力に近寄りたかったら、心配や悲観 を断然しないようにしなくてはならない。  よく考えてみよう。人生には特に病が生じたり、運命が悪くなったときは、ひとしおその生 命の力をより強くする必要があるときなのである。何でもないときは、さもあらばあれ、病や 運命が悪くなったときには、そのときこそ、生命を守る戦いを開始しなければならないのだ。 そのときに、戦いに勝つものは、力なのだ。しかも、その力を強くするには何を措いても、第 一に心を積極的にしなければいけないのだ。それを、悲観したり心配したりして、心を消極的 にして、なおかつ、より価値高く活きようとする考え方は、火種なしに炭から火を熾そうとす るのと同じである。  もっととぼけた滑稽な人間になると、他人の言葉や行為にまで、自分の心が影響され、ある いは同情して、自分まで心配して不愉快になったり、悲観して不機嫌になってしまう馬鹿者が いる。  。同情”という気分は尊いが、自分というものを、これと同様の消極的な気分にして、自分の 生命まで腐らしてしまわねばならぬ、いささかの義務も責任もないはずだ。消極的な他人の気 分にまで、同化的環境を造る必要はない。  それから、中には、人に忠告したり勧告したりするとき、その忠告や勧告に応じてくれない と、やたらと胸くそを悪くする大がある。これも滑稽千万である。第一、無理な注文である。 あなたのその言葉に応じるか応じないかは、向うの勝手だ。人の意思は自由だから、こっちで 干渉する権利はない。  もっと滑稽な人間になると、大に親切にしてやって、相手がその親切に感じないと、盛んに 怒っている者がいる。  「何よ! あの大、恩知らず!」なんて・……  それからまた、愚にもつかないこういう人間もいる。  自分の仕事などが、うまく思うとおりにいかないと、とっても、がっかりして、へこたれ て、意気消沈してしまう。箸一つ切れなかったり、竹一つ切れなかったりすると、一日中意気 消沈しているような間抜けもいる。     一。  ただ、往生のときを早めるだけじやないか。この世の精算を早めるだけじやないか。他に、 何の効果も来やしない。人生は主観だ! 心一つのおきどころだ!  いったいなぜ人間はこういうふうなんだろうかということを考えてみよう。  たとえば、病のときなんか、「なにくそ!・ こんな病に負けてたまるか」と考えればいいん だけれど、考えられないのはなぜか、ということを考えてみよう。 自分の仕事だからこそ、「これが心配せずにいられるか。これが悲観せずにいられるか……」 と。しかし原因は何と、極めて簡単なところにあるのだ。どういうところにあるかというと、 結論的にずばり言えば。勇気”がないからなのだ。否! 勇気が欠けているからだ。勇気はあ るのに、出し方がわからないから、人生を活きる際に、非常に勇気が足りないものが出てくる のだ。  勇気が落ちたら、いくら積極的にしようと思っても、。いざ、さらば”というときに積極的 にならない。普段の習慣が大事なのである。勇気というものは、人生を統一する一切の根本基 礎なのだ。  繰り返していうが、人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。ちょっと考える と、形のある肉体であるかのごとく見えるが、実は形の見えない気の中にあるのである。  ちょうど、扇風機は、扇風機のモーターの力で回っているのではない、扇風機を回している 力の元は、エレクトロンとプロトンという”気”である。  よく考えてみれば、すぐ解ることだけれども、頑健な肉体を持たず、見るからに弱々しい体 であっても、相当に長生きをし、世の中のために仕事をなしている人が、昔から随分といる。 イマヌエルーカントや、ヘレンーケラーや平田篤繿、貝原益軒というような人は、その代表的 な人達だ。もちろん、肉体が強いに越したことはないけれども、いかに肉体が発達しても、そ れはただ単に、生命の物質的方面のみの発達だ。心の方面が積極でないかぎり、理想通りの最 高の生命の発達は出来ない。  というのは、いまいったとおり、人間の生命の本体は、精神生命の根元である無形の霊とい う。気”であるからである。  今の話のとおり、いかに立派な扇風機を拵えてみたところで、モーターの中のコイルの捲き 方が不完全であったら、充分にこの気を受け入れることが出来ない。形だけは立派でも少しも 回らない。だから、完全に、生命を活かす計画の成就は、生命の本体たる霊という気を、完全 なる姿で、この生命を確保しなければいけない。  その第一の先決問題は何か!・  それは、心を健全に活かすことである。  心を健全に活かすには、いかなる場合にも、心に積極的な態度をしっかりと持たねばならな い。そうして初めて、生命の源泉を確保したことになる。形ある肉体も、自ら、その力に導か れ、当然健全なものになるのである。  この真理を厳かに考えれば、たとえ、現在の体力が不完全であろうとも、病があろうとも、 心配することも、悲観することもない。自分の心さえ、積極的に健全にさえすれば、その肉体 は自然に強健なものに作りかえられる。そしてそのことが、宇宙真理であるということに気づ かねばならない。  心を積極的にする要点は何かというと、勇気の煥発だ! だから、すべからく何事に対して も、またいかなるときといえども、勇気、勇気で対応しなければならない。  力の暗示誦句を唱うときでも、体のどこかに穴が空いているのじやないかと思うようなのが ときどきいるが、勇気の抜けているのは力の誦句にならない。私は、勇気ひとすじな人間が大 好きなのだ。女でも、男でも、勇気のない人間は、いざというときに話相手にならない。ちょ つと一緒に往来を歩いていても、勇気のない人間というものは、戦々恐々と、びくびくして歩 いている。  まこと、人生修養の最彼岸点は、いつも勇気の溌刺たるものがなければいけない。  勇気溌刺たるものとはどんなものか。  わかりやすくいえば、どんな場合にも、虚心平気の状態でいるのが、溌刺たる勇気の状態な のだ。勇気を常に心から落さない心がけで人生を活きると、人生何事に直面した場合でも、虚 心平気の状態で、それに応接することが出来るようになるのである。つまり、勇気というもの が、虚心平気という大境涯に入る経路なのである。ところが、たいていの人は、この簡単な道 理に目覚めていないので、ものごとを怖れるとか、不安になるとか、神経過敏とかということ が、心を消極的にする原因のように考えているが、それらは原因でなく結果なのである。尻と 頭を間違えている。原因は勇気が欠けているからで、勇気が欠けているから、消極的な心や気 持ちが起こってくるのである。  以前話したことがあるが、平炭坑のストライキ調停のため、私が単身で炭坑の現地に赴い た。それまで陸軍の大迫将軍や、日蓮宗の田中智学らが調停に行っても鉄砲を撃ちかけられて 渡ることすら出来なかった炭坑の入口の橋を、警官が止めるのも聞かず、平気で渡っていった のも、この勇気が煥発されたからこそなのである。  女房や娘を売ってまでも、炭坑に立て籠って、長い間、経営者と戦い続けている悲惨な労働 者を救おうとしてやって来た自分に、弾丸なんか当ってたまるか、いや、当るはずがない。  この勇気が煥発されて虚心平気な気持ちになれたのである。だから橋に一歩足をかけた途 端、パンパンと撃ちかけてきたが、平気でドンドン渡って行った。そして、橋を渡った後に気 が付いたのであるが、身につけていた外套を六発の弾丸が打ち抜いていた。けれど身にはまっ たく、かすり傷一つ受けなかったのである。  だから、勇気さえ心から失わなければ、何事もこの世に怖るるものはないのである。  昔の諺にも。     勇気は常に勝利をもたらし     恐怖は常に敗北を招く  というのがある。    断じて行なえば、鬼神もこれを避く    陽気の発するところ 金石もまた透る  である。  だから、人間の心から勇気がなくなると哀れなものである。万物の霊長なんて名ばかりにな ってしまう。四六時中本当にやすらかな気持ちで人生を活きることが出来ない。  何か「事」があるとすぐに心の調和を失い、心の平和がかき乱される。  だから、理屈は抜きにして”たとえ、どんなことがあっても、断然、勇気を失うことなか れ”これがモットーなのである。  そうなるには、観念要素の更改を真剣に実行するとともに、普段から、出来るだけ勇気凛々 たる人間と交際するように心がけることである。  前にもいったとおり、この世の中や人生には、滅多矢鱈に恐ろしいということはありはしな い。怖ろしいと思っているのは、自分の心なのである。   、  今まで活きて来た過去を考えてみなさい。のべつそんなに怖ろしいことがあったか、なかっ たか。  生まれつき神経過敏な人間はいないといっただろう。生まれたときには白紙のごとし。  それが、いまのような状態になったのはなぜかというと、自分自身で生まれたときに持って きた勇気というものを影を薄くしてしまっているからだ。なくなっているのではない。その上 に消極的な弱い心が蓋をしているからなのである。  日本人であることを忘れるな1・  世界で二つとない富士山をもっている日本国民、燎乱三千年の歴史の中に燦として輝いてい た、日本人の勇気がいかに豊富であったか。それが、太平洋戦争で、滅茶滅茶に醜くなり、た とえI時的であろうとも勝を向うへやった。これは、当時の人間が、大言壮語しても、真の勇 気が欠けていたからだ。  今夜から寝ぎわの観念要素の更改には、毎日毎日こうして、魂に手ごたえを与えている真理 の瞑想によって開けた悟りのうち、どれでも良いから、寝がけの観念要素の更改の場合の魂を 綺麗に研ぎ上げる手段に使いなさい。それには、誦句集のどの章でもいいから、開けて読みな さい1・  読むだけでも非常に寝ぎわのときの気持ちの掃除が出来る。ただ、眠いからといって、ブー ツと寝るよりは、この誦句集のどのページでもいいから開いて、一章だけでいいから誦えなさ い’・ 二つも三つも重ねていう必要はない。そして、そのままの気持ちになる。信念のところ を唱えたら信念の気持ち。勇気のところを唱えたら勇気の気持ちになって、「夢むらさきと豊 けくけむれ」ばいいのだ。   そして、本当にけなげな勇気ある自分を作りなさい1・   さあ!・ 誦句を与える。 一      不幸福撃退の誦句  私はもう何事が自分の人生に発生しようと、決していたずらに心 配もせず、また悲観もしないように心がけよう。それはいたずらに 心配したり悲観したりするど、すればするほどその心配や悲観する 事柄が、やがていつかは事実となって具体化してくるがゆえであ る。  神仏と名づけられている宇宙霊なるものの心の中には、真善美以 外に、心配や悲観どいうような消極的な心持ちは、夢にもない。私 はその宇宙霊の心ど通じている心をもつ万物の霊長たる人間であ る。したがって私がこの自覚を明瞭にした以上は、下らぬことに心 配したり、悲観したりする必要はさらにない。  人はどこまでも人としての面目を発揮せぬと、人間の、第一つら よごしである。  人間が人間らしくあるときにのみ、人間の恵まれる幸福を享け得 る。  だから私は 宇宙霊の心と宇宙霊の力に近寄るために、心配や悲 観という価値なきことを断然しないこどにする。そして真理に則し た正しい人生に活きよう。      勇気の誦句  自分はこの世に作られたものの中で、一番優秀な霊長といわれる 人間ではないか。しかも人間の心の力は、勇気というものでその圧 力を高めるのが、人の生命に与えられた宇宙真理である。  だから今日からの自分は、いかなる場合にも断然勇気を失うこど なく、特に自己の本能や感情の中で、自他の人生を泥ぬるがごとき 価値なき低劣な情念が発生したら、それに立派に打克ち得る強い心 を作るために、大いに勇気を喚発することに努めよう。  そうだ。  終始一貫、勇気、勇気で押し切るのだ。 第十二章理想と想像  今日は、人間の心に描く。理想”というものの力についてはっきりと悟ることにしよう。  そこで第一に、。理想”とは何だろう。  誰でもが口でいいながら、本当にその意味を知っている人が少ないようだ。「それは理想的 でない」とか、「そういうことは自分の理想にない」という。  言葉は知っているがしかし、使っている言葉の本当の意味、正しい理解を持っている人がま た極めて少ないようである。  心理学の方では、理想とは「継続せる組織のある連想である」とこういうふうに定義づけて いる。いい換えれば、なかなか立派に組み立てられた考え方が、終始変わらず保たれている場 合、それが一つの理想と名づけられるものになる、と考えてよい。  哲学的にいうと、理想というものは立派な。宗教”である。もっとも、多くの人々は、宗教 というものの意味すら知らない。宗教のぷy、これは心という意味である。  今の若い人達は知らないが、昔、我々が青年時代に教わった教育勅語の中に、皇祖皇宗とい うのがある。皇祖とは肉体の繋がりの先祖であり、皇宗とは霊のつながりの一番水上であると いう意味である。その宗なるものは、つまり広い意味において、魂をつくり上げ、心をつくり 上げるという意味で、広く解釈しなければいけない。  そして、どうして理想が立派な宗教かというと、理想が楽しければ楽しいほど、何の神様、 仏様という信仰を求めなくても、自己自身の人格の全体が、極めて壮厳な事実でちりばめられ て、自然に立派なものにされるからなのである。これは、普通の、いわゆる宗教なるものを信 仰したときよりも、遥かに現実的な救われを自分自身が知らない間につくられてしまう。  第一、理想は階級が高く、積極的であればあるほど、その大は非常な生々とした勇ましさ で、人生を常に活きられるのである。いわんや、この理想に信念がつけば、万難を突破して も、その人の理想の完成、成就へと勇往邁進させ、そして、必ず成し遂げられるという尊い事 実がある。だから、こういうことを考えると、理想というものは、立派な宗教であるといって も毫も差支えない。  だから、いい換えると、何らの理想もなく、人生に漫然として生きている大は、哀れ惨憺た る人間である。たとえ、その大が、どんなに熱烈な信仰心を持って、神や仏を崇めていても、 結局は、極めて、はかない人生に生き終わるだけが、そのすべてである。  だから、立派な理想を持つ大は、神や仏という目標を定めて、信仰なんかする必要はない。 なぜかというと、もうすでに、その立派な理想の中に活きている活き方が、自分では気が付か なくても立派な宗教的な生活をしているからである。  もっとも、いわゆる現代人の信仰なるものは、いつもいうとおり、第二義的なものばかりで あるといっても決していい過ぎではないような、神や仏にすがりつき、依頼するというよう な、実に横着で、打算的な態度で信仰している。神詣でや仏参りをしても、まず頼むことは自 分のことである。「どうぞ丈夫でありますように。商売繁盛するように」と。無事息災、家内 安全、商売繁盛……他人のことなんかちっとも考えやしない。神詣でや仏参りに、自分を捨て て、他の人の幸福を希求するような祈りをしている大は、ほとんどいやしない。   神詣で 念願     われの ことならず  これは私の自作だが、神や仏の前で、もしも頼むことがあるとするならば、  「この世の中の多くの人々が、もっともっと幸福に活きられるように見守って下さい」という y」と。  これ以外私は頼むことはない。  が、しかし、いずれにもせよ、この見地から立脚して、厳かに考えなければならないのは、 人生を有意義に活きるためには何を措いても、自分の理想を、階級の高い気高さで、常に、心 の中に抱かなければいけない。  宇宙本体の力は、人間の心の状態を鋳型として、これを現実化させる自然現象を現わすの だ。だから、健康に対しても、運命に対しても、その理想が確実な姿で、階級の高い気高さを もって、描かれていなければいけないのだ。宇宙本体は、そのとおりに現実に造り出そうとす る自然傾向があるのだからである。そしてまた、それが峻厳なる宇宙法則なのだ。  そういうことを考えただけでも、今、私のいった言葉が、本当だと気が付くだろう。実際な んだ。真面目に考えなければ駄目だよ。理想はその人を偉大にも、はたまた極めて価値なくも する原動力を持っている。  昔の諺に、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」というのがある。  自分の人生を、気高い内容と、価値の高い標準で持つ人は、その理想が現実になる前から現 実になったと同じような、人生境涯で活きているのと同様である。だから、どんな場合があっ ても事情のいかんを問わず、理想は野心的であってはならない。野心的である場合には、成就 しない場合が多いばかりでなく、一つの力で心がまとめていられない結果がくる。野心的な理 想というのは、往々にして心の統一を破る。そしてそのために、結果を不良にするのである。  だから第一に、諸君が自分の心の中から除かなければならないのは、「人間というものは、 偶然の動機で此の世の中に生まれて来たんだ……」などという妄念である。これは非常に厳か なことなのである。  この世、このとき、我というものが生まれたのは、何万年も前から、我というものが、この 世、このときに生まれ出るような、元があったから出てきたのだ。ただ、自分が、自分という ものの存在を意識したのが、極めて短い時間であったというだけの条件で、この世に生まれた ものは偶然の動機だと考えたら、それはあまりにも、自己を観る観方が、大きな誤解で行なわ れているといわなければならない。  えてしてそういう人間は、活きることに対する苦しみや悩みを、まず感じるから、そのよう なことを、心の中に描くのだ。「人間というものは、生きてるかぎり、苦しい生存競争を到底 逃れられない」とか、「人間なんてものは、苦しみ多い娑婆で、生き死にということをやって いるのだから、楽しみなんて求める方が横着だ」というふうに余儀なく考えてしまうのであ る。  そういう人間は、はっきり、”ノイローゼ”という名をつけるに至らなくても、すでに、 我々の哲学でいえば、立派に。ノイローゼ”になっている人間だといいたい。なぜかという と、常に、人生を悩みと悶えの泥沼の中に叩き込み、自分で浮かび上がろうと努力していない からである。  考えてみなさい。宇宙を司る宇宙本体の力が、我々の心が取る態度と、まったく同じ態度で 我々に臨む、という事実がある。何遍もいっているこの事実、これは峻厳なる事実なのであ る。事情に同情して左右されない。これを考えれば、「まったくそうだ」とすぐ肯けるはずで ある。  「人間は万物の霊長だから、健康的にも、運命的にも、始終豊かな、感謝する生活が出来るよ うに作られている」  そうするには、何を措いても、まず、第一に、心の生活を豊かにすることに、自分の考えを おかなければならない。心の生活を豊かにするには、もちろん、心で思ったり、考えたりする ことが、功利的であってはいけない。終始宇宙本体と同じように、。真”j尸。美”であらし めると同時に、理想もまた、終始、気高いものを心に描いていなければいけない。  そして、宇宙を司る宇宙本体から、尊い力を、我が生命に受け入れる用意を、始終、疎かに しないようにしなければならない。  論より証拠、そういう心構えをしてみなさい。常に、優れた、恵まれた、人生を活きること ができる。否、それは当然のことなのである。  そこで、理想を気高いものにしようとするのには、第一に必要なことは、「我というものが 宇宙本体と常に一体である」ということを信念しなければならない。信念するのであって、た だ思っただけではいけないのだ。いい換えると、見えざる。力”との結合を決して忘れてはい けない。すぐ孤独になるからいけない。  川が流れるのは水源があるためだ。水源のない川はあり得ない。我々の存在は、我々の命の 持つ源がこれを保っている。その源が宇宙本体である。その宇宙本体と常に結ばれている自己 を、明瞭に意識して活きると活きないとでは、結果において、どれだけ大きな差が出来るかわ からない。  だから、理想は常に気高く、本当に価値の高いものでなければならない。と同時に、もう一 つ忘れてはならないことは、出来ない相談のもので、理想を心の中に描いてはいけない。そう すると、それは空想になる。人生に関することでも、運命に関することでも、健康に関するこ とでもだ。もっと卑近な例でいえば、職業上のことであろうと、現在の人生を活きる仕事のこ とであろうとだ。  だから、一番手っ取り早いのは、諸君が、何かしら不都合を感じたり、不満を感じる場合が あるならば、そういう方面から考えないで、それが完全に成就した姿を、自分の心に描きなさ い。ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ、という念願だけを、心に炎と燃やさない で、ああなったらいいなあというものが、すでに、成就してしまったときの気持ちや、姿を、 心に描くのだ。  これは、紙一重の相違だけれども、そこに微妙な相違があるのである。なりたいなあ、とい う気持ちよりも、なっている姿を、心に描いたときに、現実からほど遠いことでも、霊の世界  では、もうそれが、本当になっているのと同じことになるのである。   諸君らは、見える形のものにならないと、それを事実として承認しないという態度の中に、  非常な見当違いがあるのである。だから、理想の中に描く絵はもう、確実に、現実化したもの  でなければいけない。   字を書くのでも、絵を画くのでも、そうだ。一枚の紙を手にしたとき、そこにすでに、己れ  の描こうとするものが、形が紙面に現われていなければ、立派なものが描けないはずである。  ただ筆を持って、墨を付けて、いい加減に描いたのでは、碌なものは出来はしない。   だから、自分の理想は常に、現実のものと同じように、自分の心にはっきりと明瞭に描きな  さい。そして、その描いた絵は、決して取り替えないようにしなければいけない。昨日と今日  とでは、まったく、形が変わったものにしたのではいけない。   だから、そうした、たのもしい理想をつくるのには、常日頃の心の思い方、考え方、いい換 ・ えればヽ絶えず描かれている心の中の翩−像″というものをヽ上手にコントロールしなければ 一  `゛’ナ  丶’○  しIなし   ある意味からいうと、人間の心の中に、絶えず描かれている思い方、考え方から組み立てら  れている。想像”というものは、。人類進歩の源泉”だといってもいいのだ。。想像”が、やが  ては。理想”という立派なものを、心の中に形造るということが真理なのだ。  もしも人間に想像作用がなく、漫然として、ただ生きているとしたら、恐らく、芸術も、科 学も、哲学も、宗教も、否、あらゆる一切が、何らの進歩もしないといい得る。  だから、理想を創る原動力的な想像の作用は、非常に効果ある事実を、普遍的に、人生に働 きかけているといえるわけである。  その。想像”というのは、いかなるものかというと、心理学では、  「想像というのは、過去および現在の人生経験と、全観察とを土台として、それを組織的に、 合理化して考えるという考え方である」と定義している。  想像作用というものは、人間の観念活動の中に、何人にも存在する心理現象なのである。す なわち、我々はいつも、何事かをこの心で思い考える。そして、その思いや考えの中に、現在 の事実を中心として、それを、いろいろと心の中で脚色し、あるいは敷衍し、または現在、自 己の人生に全然存在していない事実をも、いろいろと、広く大きく思い考える。これを。想 像″という。  シェイクスピアの「真夏の夜の夢」という戯曲の中に「恋をもつ人、詩を思う人たちの胸の 中はあの噴火山の煙のように、種々の想像で一杯である」と書いてある。  が、しかし、人々に心というものがある以上、事実から遠く離れた世界や人生を、いろいろ と思い考える想像の作用は、誰にでもある。ところが、その想像の作用というものが、やが  て、組織的で、しかも現実味を多分にもつと、立派な理想の根帯をなし、さらに、その結果、  宇宙の創作の力と合体して、それを事実化するという実際の様子を、多くの大は余り知らな  い。   もっとも、哲学者や、精神科学者や、詩人や、文士、さらに、発明家などは、このことを心  得ているものがかなりある。   ゲーテも「想像の分量が豊富なときに書いたものは、期せずして、人の心を動かす力があ  る。そして、そういうものを、世間の大は、名篇とか傑作とかいう。だから文豪とは、想像力  を他の大よりも豊富にもつ人のことである」といっている。   要するに、詩人は詩的に、哲学者は哲学的に、普通の大よりも高級な組織で、その想像が組  み立てられる点と、その想像の内容が統一されている点に相違があるのである。   ところが、多くの人々が心の中で思ったり、考えたりすることは、こういう定義で決定出来 ・ ぬほどヽ散漫でヽ放縦なのだ・自分の欲念から希望する人生状態やヽその他の事柄をヽ無制限 ・ に、自己を本位として拡大し引き伸ばして、無鉄砲に、当てどもなく考えるという場合が多  い。こうなるともう、想像という立派な定義の中に入れて、論ずべきものでないほど、考え方  が滅茶滅茶になっている。そういう考え方を、想像だなんて思っていたら、もちろん運命は破  壊されるし、健康も良くなくなるしで、一切合切、人生の価値というものを、プチ毀しにして しまうのである。  いかに、観念の世界が絶対に自由とはいいながら、これに、ある程度の制約を与えないと、 至極、我がままの出来る点があるだけに、よほど慎重に自己監督を施さないと、心の中の想像 作用が奔放で放縦になる。  想像というものが理想を創る下絵なのだから、例えば、健康に関する想像のごときも、ただ 単に、体を丈夫にして、自由な肉体的享楽を、欲しいままにしようという第二義的なものであ ってはいけない。いつもいっているとおり、健康な体を作って、人の世のために、現実の貢献 をしようというような、非常に階級の高いものでなければいけない。  人生事業に対してもまたしかり。銀行の預金を増やして、妾や別荘をこしらえることばかり 考えては駄目だ。人の世のためになる自分として、充分に働けるようにしよう、という気持ち ならいいけれども、富や地位を作って、自我本位の人生欲望だけを充たすための、いわゆる  。欲望”から出発した富や地位であってはならない。そのような。向下的想像”は、断然、排 すべきである。  決して、第二義以下の想像は、正しい人生というものをもたらさない。モデルが完全であっ てこそ、作品もまた完全なものが出来る。想像は、つまるところ、人生経験のモデルである。 だから、健康に対しても、人生事業に対しても、常に気高い内容でもって、心にはっきりと描 かれなければいけない。どんな場合にも、自分の魂を汚さない、最高、最善のものを自分に、 正確に、保持しなければならない。  いうまでもなく、かりそめにも、怒りや、悲しみや、怖れが、その中に入ってはいけない。 憎しみや、獣みや、貪欲や、身のほどを忘れた不当、不正というものが入ってはいけない。そ れらのものは、羝れ訳載、自分の人生に、毒汁をプッ掛けることになる。取越苦労はいけな い、と正科の講習会のときに、積極観念の養成の講習でいった。もちろん、それもいけない。 結局、心配とか、病とか、煩悶とか、苦労とか、人生になくてよいものを、形を変えて、自分 の人生の中に引っ張り込むことになる。  要するに、こうした事実を考えると、自己の想像作用を、正確に、そして適当に使うことが 巧妙になればなるほど、理想も高級となり、自己の人生を、非常に値打ちのある、高い階級に する。これは決して、神秘でも、不思議でも、奇跡でもない。人類の生命本来の作用は、絶え 間なく、永遠に、伸びよう、広がろう、向上しようとするように、宇宙本体の意図のもとに作 られているのである。これが、厳として、動かすべからざる宇宙法則なのだ。  だから、考えてみれば、健康になるのも、幸運の持主になるのも、わけないことであると同 時に、それが、なんと、人間としての当然として与えられた感謝すべき権利であるということ がわかる。  だから、反対の人生、不健康や不運命に生きている人は、人間にのみ特権的に与えられた権 利を、自ら踏みにじっている人だといっていいだろう。  よく、これから耳にいれる、想像作用の暗示誦句を、寉みしめて味わってみよう。そうする と、なるほど、今までの自分に、大いなる誤解があったことに気が付くから。      想像力の誦句  私は今正に喜びと感謝に満たされている。それは宇宙霊は人間の心の中に、想像という特別 の作用を賦与して下されているからである。そして宇宙霊は、常に我々を我々の想像する観念 どおりの世界へと、真実に導き入れるべくその準備を尽されている。  だから心して想像の作用を正確に応用すれば、それほとりもなおさず、幸福の楽園へのよき 案内者を作ったのと同様である。  かるがゆえに、私は能うかぎり可能的で高級なる想像の絵を心に描こう、はっきりと明瞭に ●●・●・・ただしどんなことがあっても、夢にも自分の生命を腐らし泥ぬるような価値のないことは 想像するまい。  そして宇宙霊の定めた約束どおり、その想像の中から正しい人生設計を現実化する気高い理 想を作り上げよう。  自分というものが、こうやって、生きていることを常に感謝することが、一番大切だ。  「私は今まさに喜びと感謝に満たされている」  そうすると、現在が、病であることも、不運であることも、感謝して考えなければいけない ことになる。それなのに悪くなりはしないか、悪くなったらどうしよう、死んだらどうしよう とか、運命にしたがって、これ以上悪くなったらどうしよう。ああでもない、こうでもない、 と取越苦労を散々やって心の中を、汚く、自分の生命を腐らし、泥をぬるような、価値のない ことばかり想像していると、いい運命が来るはずがない。  暗示の誦句を、一言匸冨味わってごらんなさい。よく出来ているから。その文句を唱えてい るだけで、自分が救われてしまう。  それを、覚えようとしない。子供が覚えて大人が覚えない、こんなわけのわからない話があ るか。大人になればなるほど、覚えられるはずではないか。  私は、六十越してから、記憶力が非常に良くなった。記憶力が悪くなってる者は、結局、も 似黔胆耻に乗る用意をしている人間だ。使わなければ鈍る。鉄なお断つべき正宗の名刀といえ ども手入れをしなければ錆び朽ちる。人間の頭脳またしかり。「俺は齢をとったから覚えられ ない」なんてことをいっているかぎり、ますます覚えられやしない。齢をとったから覚えられ ないんじやない。齢をとり、胆纈になるから、覚えようとしない。ただそれだけだ。      為せば成り 為さねば成らぬものなるを            成らぬは おのが為さぬためなり  しっかりしなさい! おっさんやおばさん! さあ! 生きかえろう。       想像力の誦句   私は今正に喜びど感謝に満たされている。それは宇宙霊は人間の  心の中に、想像という特別の作用を賦与して下されているからであ  る。そして宇宙霊は、常に我々を我々の想像する観念どおりの世界  へど、真実に導き入れるべく、その準備を尽されている。   だから心して想像の作用を正確に応用すれば、それはとりもなお  さず、幸福の楽園へのよき案内者を作ったのと同様である。 ・  かるがゆえに、私は能うかぎり可能的で高級なる想像の絵を心に 「 描こう、はっきりと明瞭に、ただしどんなことがあっても、夢にも  自分の生命を腐らし泥ぬるような価値のないこどは想像するまい。  そして宇宙霊の定めた約束どおり、その想像の中から正しい人生 設計を現実化する気高い理想を作り上げよう。      理想の誦句  人の生命は常に見えざる宇宙霊の力に包まれている。  したがって、宇宙霊のもつ万能の力もまた、我が生命の中に当然 存在しているのである。  ゆえに、いかなる場合にも またいかなることにも、怖れること なく また失望する必要はない。  否、この真理と事実とを絶対に信じ、恒に高潔なる理想を心に抱 くことに努めよう。  さすれば、宇宙真理の当然の帰結どして、必ずや完全なる人生を 作為される。  今ここにこの天理を自覚した私は、何どいう恵まれた人間であろ  否、真実、至幸至福どいうべきである。  したがって、ただこの上は無限の感謝をもってこの真理の中に安 住するのみである。 第十=i一念不動  本日は運命や健康を完全にして、人生の真の幸福を獲得しようとする者にとって、特に特に 必要なことを述べる。  それは何かというと、人生を活きる際に、自分の運命や健康に対する心の態度として、真理 瞑想の始まった最初から今までの間に述べてきたことの中で、  思考=観念=想像=理想=成就  この関係をよく考えてみると、心の態度はあくまで積極的でなければならないのと同時に、 いかなる事情があろうとも、自分の一旦描いた理想は、一念不動の状態で、固く固く把持し て、変更しないことである。  否1・ このことくらい、人生を幸福にする原則の中で必要な原則は他にないのである。だか ら、今までしばしばいってきたとおり、我々は、まず第一に、はっきりと明瞭に自己の欲する 物事を決定することである。  そして第二には、一旦決定した以上は、その決定した事柄を、みだりに変更せぬことであ る。これは、次の例で考えるだけで明瞭になる。  すなわち、ここに発動機の機関を鋳造する鉄工場があると仮定する。機関を鋳造するには、 まず第一に、鋳型を確定せねばならない。そして、その鋳型は、どんなことがあっても、製作 しようとする機関の設計書のとおりのものでなければならない。その他の形であってはならな いのである。だから、もしも、鋳型を無頓着に拵えてしまうと、出来上がったものは到底完全 でないことを免れない。  これと同様の原理で、我々人類の心というものは、宇宙の霊が熔かした宇宙エネルギーの流 れを受け、それを形あるものに造る鋳型と同一のものである。だから、どうしても、今いった とおり、常に一定の決まった形のものを用意しておかなければならない。そうすると、この鋳 型の中へとエネルギーが流れ込み、予期した状態を作り出すのである。  否、こうした原則と経路で、我々は自分の念願や、受けたく思うところのものを、生命や運 命の中へと受け入れられるのである。だから、我々は、心の扉を開くと同時に、今いったとお りその内容も、充分準備しておかねばならないのである。  宇宙霊は、その開かれた心の扉から中へと入り、設けられたる座席に座る。そして、その準 備されたとおりの設備を完成することに、その力を注ぎ出す。  だから、我々は常に自己の欲する事物を、完備し、しかも、チャンと一定した形に積極的に 描かねばならない。そして、その求むるところのものを心に描き終ったならば、それを固く固 く心に守り、どんなことがあっても、決して変更させたり動揺させたりしてはならない。と同 時に、特に特に必要な事柄は、確実に自分のものにすることが出来るという。信念”を堅固に して、ゆるがせにしないことである。  もっと突っ込んでいえば、折あるごとに、自分の希望するところ、求むるところのものを、  「実現する! 実現する!」  と繰り返し自己自身にいう、すでに、その求むるところのものを、半ば以上、自分のものに したのと同様の道筋に入ったのである。  そしてその後は、ひたすらに信念を堅固にし、これを繰り返していると、宇宙霊は、自然的 な経路で、自動的にその求むることを実現してくるのである。  ありていにいうと、最初に、信念強く、その希望が「実現する!」と断定したときには、そ の事柄は、霊の世界においては、もはや実在となっているからである。ちょうど、花や実をも たせる種子と同様に……。だから結局は成育の法則に従って、やがて花や実が実現するのであ る。  だから、この論理的必然性を妨げるようなことは一切いけない。特に、求むることを変更し たり、モデルを不完全にするような、信念を欠如することは、もっとも戒むべきことである。 どこまでも、前後一貫して、同一の事柄を、固く固く心に刻みつけて行かねばならない。  かるがゆえに、どんなことがあっても我々は、断じて、恐怖することなしに、また変更する ことなしに、信念強く、その実現を待たねばならない。  そうすることによって、その思考することが、必ずや、成就実現されることは間違いないの である。      一念不動の誦句  私は、私の求むるところのものを、最も正しい事柄の中に定めよ  そして、それをどんなことがあっても、動かざること山のごとき 磐石の信念と、脈々として流れ尽きざる、あの長い川のごとく、一 貫不断の熱烈なる誡をもって、その事柄の実現するまで、いささか も変更することなしに、日々、刻々、はっきりと、心の中に怠りな く連想していこう。ちょうど、客観的に看察するがごとくに……。  私は、もはや、消極的の思想や観念やまたは暗示に感じない。ま た、そうしたものは、私を動かすこどは出来ない。  私は断然そうしたものより、より以上のものである。  私は、もはや、あらゆる人生の中の、弱さど小ささとを踏み越え ている。  そして、私の心は、今、絶対に積極的である。  おおそうだ、私の心は勇気と信念とで満ち満ちている。  したがって私の考え、私の言葉、それはいずれも颯爽とし、いつ も正義である。  だから、私には、人生のあらゆる場面に奮闘し得る、強い強い力 が溢れているのだ。  そして、私の人生は、どんな人の世の荒波に脅かされても、あの 大岩の上に屹然として立つ灯台のように、平静と、沈着と、平和 と、光明とに、輝き閃めいているのだ。      修道大悟の誦句  そもさん、われら、かりそめにも、天地の因縁に恵まれて、万物 の霊長たる人間として、この大宇宙の中に生まれし以上、まず、第 一に知らねばならぬことは、人生に絡まり存在する幽玄微妙なる宇 宙真理なり。  誡や、この自覚を正しく厳かになし得なば、敢えて求めずとて も、その身を健やかに、その運命を和やかにするを得ん。  これぞ、正に、千古昭どして耽存する、尊厳犯すべからざる人生 の鉄則にして、また、神ながらに定められたる、動かすべからざる の天理なり。  しかも心より喜ばんかな、われら、今や正に、雀躍する感激に咽 びつつ、この妙諦とその手段とを知れり。  ああこの幸い、この恵み! そも何をもってかたとえん。  顧みれば、転々として人生の悶えと悩みに苦しみしこと幾年月I・  今や、われ、ここに、豁然として無明の迷いより覚め、自覚更正 の大道に入るの関門に立ち、心眼すでに開けて行手に栄光繚乱たる 人生を望み得し今日、我が心はただ、ひたすらに、言い能わざる の、限りなき欣びに勇みたつ。  しかり! 世の人々の、すべてのすべて、よしや富貴栄達名門名 誉の人といえども、しょせん味わい得ぬ、この欣びと、この感激!  誡−・ 恵まれたる我よ、と思えば、などか、この尊き因縁を、ど こしえに忘れ能うべき。  されば、堅く、我ど我が心に、この欣びと、この幸いどを根強く 植えつけて、一意専心、黽勉努力、実践躬行、ふたたび人生無自覚 の過ちを繰り返さざらんがために、厳かに反省の鞭を手にし、ひた むきに向上の一路へど颯爽と邁進し、われらの住むこの世界に、誡 と、愛と、平和に活きんとする人の数を多からしむるべく、我ま ず、その模範の人とならんことを、自から、自からの心に、厳とし て誓わん。    あとがき                  輿口奨医学博士山田保夫 「安定打坐!・」という天風師のお声と共に、間髪を入れずブザーの鈍い快音が、五官感覚 の内の聴覚のみを穏やかに刺激する。多心より一心に誘導されるひとときである。それも 十数秒にして、ブザーの音がはたと止まるやその瞬間、無碍自在の境地が開けて来る。数 分前まで脳を占領していた雑念妄念があえなく氷解するのである。  その頃を見計らって師の厳粛なお声がある。 「真理の瞑想に入ろう」  そして本書に盛られた悟りの一章が、師のお囗から、いやお身体から諄々として迸り 出る。そのお声が我々門下生の全身に深く静かに染み込んでゆくのである。これが毎年、 夏に行われる修練会の午前中の行修のメインである。  天風師のお言葉を惜りるなれば、  「生き甲斐ある人生を生きるためには、人間の生命に与えられている法則を自分なりに考 えて、正しい真理に到達する、この悟りが必要である。それには難行苦行して尚、時日を 重ねるのが常である。しかしそれを体験した私が、その悟りの内容を手取り早くお伝えし よう。その内容を真剣に素直に会得すれば、あながち難行苦行せずとも結果は同じであ る」  といみじくも仰せられた。  さすれば本書はまさに、人生を解決する悟りと師の慈愛の集大成であると言い得る。換 言すれば、健康と幸福への門を開く鍵を蔵した玉手箱にも等しい。  何卒この玉手箱を飾り物として安置せず、韋編三たび絶つの古事に倣い、熟読玩味、ひ たすら実践躬行、偏に天風師のお心に応えられんことを乞い願うものである。  なお今回、本書の出版にあたっては、昭和六十三年に会員向けに発行された「天風瞑想 録」によっている。その際に編集に当たられた天風会員の堀尾正樹氏のひとかたならぬお 骨折りがなければ、この本もこのような形で日の目を見ることもかなわなかったであろ う。あらためて堀尾氏に深く感謝申し上げたい。                 運耐を拓くI双風瞑想録                     一九九四年一月二六日 第一刷発行   て欧悟取社医臥を軋           一九九四年三月一五日 第四刷発行   詐‰」%大勁      著 者 中村天風   悶昌‰t望    発行者 野間佐和子   ERU    発行所 株式会社講談社   で ヽに実歳吻創け3             東京都文京区音羽ニー匸一−ニー   雷雪い穴W  圖nJ」好碎一会土作・   日結の齔8J`会薫瓦               販売部○三−五三九五一三六二二   ・ が国正統風接人               製作部○三−五三九五−三六一五  」応駕言溜四      印刷所 豊国印刷株式会社  でご觝‐瑟裟     製本所 黒柳製本株式会社  ・まに出をでを財はよ  名生歳然地界産rをcTenpu Nakamura 1994「 Printed in Japan  陣京30偶天業財一一一嗄員          定価はカバーに表示してあります。本書の無断複写(コピー)は ″χび擂ぎ現丿       著作権法上での例外を除き、禁じられています。 者天9す渡生じ地上家る              落丁本・乱丁本は、小社書籍製作部宛にお送りください。送料小 著村治躍に転は的会業え             社負担にてお取り替えいたします・ ●中明活米入を会学事数            なお、この本についてのお問い合わせは、学芸図誉第三出版部あ                     てにお願いいたします。                              ISBN4-06-205352-7(啅V)